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[345] 題名:月影の武者 名前:コレクター 投稿日:2013年04月22日 (月) 02時02分

こんな経験ありませんか。ええ経験と言うにはどこか大仰でしょうけど、忘れかけた頃、ある日とつぜんに降ってわいたような意識の迷走です。ですからやはりそれは気がかりであったと思われます。
面倒くさいのでしょうか。そうですね、想い出そうとしても、色々調べあげても、あるいは季節の風物より先行していたりして結構もやもやを育んでしまいますので、なんだかんだで謎めいていることには違いありませんから。
それは映画の一場面であったり、テレビに映し出されたひとこまなのです。が、どうしてもその光景を含んだ題名は言い当てられません。ならどうすればいいのでしょう、、、
こころに眠れる断片として宝石めいた価値を保ち続けますか、それとも来るべき先にと輝きをそっと被い、日々の連鎖の下敷きにしておきますか、あるいは取り急がれるのでしょうか。まるで背中を押されたときみたいに、誰と振り返ることが、そのままめくるめく幻となって落下していくように、、、

月明かりの白砂、穏やかでひとけもない、孤高の波打ち際。喧噪が過ぎた気配は幽かに名残惜しく、ただ独りの鎧武者の陰を映し出している。たった一度だけの、したたり落ちる冷や汗は月光を受けて青ざめており、たぶんそれは私自身の心境であったと思われるので、増々胸がときめいてしまうのだったが、あんなに浮き世離れした場面に出会った試しがなかったから、こうしていつまでも単調で怠惰な日々のあたまに鉢巻き締めされているのだろう。
黒々とした甲冑には潮のしぶきが点綴しているのだが、私には月のひかりが意思を抱いて降り注いでいるとしか感じられなかった。結晶より無粋でありながら、水滴より尊い夜のしじまの輝き。辺りの山々の背景はずっと遠く、武者の頬当てだけが画面を支配している。ひげ飾りはなく、大魔神を彷彿させる異形であるのだけれど、しかし、不思議とのっぺりとした落ち着きがうかがわれ、不敵な笑みとも悲嘆の面とも、恍惚を得ようとしている矢先とも見受けられる。そして睥睨に至ったとき、私の記憶は途切れてしまった。

花凪源十朗はとても困惑していた。剛毅にして果敢な出立ち通り、武勇の誉れは高く此度の奇襲も満場一致で首肯され、主君より命を授かった。夜陰に乗じて敵将を討ち取ろうという策謀であったのだが、予期されたよう敵将の陣は容易く見定められなかった。松明のまばゆさだけでない、どれもこれもが標的に映しだされるふうに仕組まれていたのである。
源十朗らは隠密行動のゆえ、十数名を二手に分け、探りを入れたのだったが、それでは特攻の焦点が望めなく、が、このまま抜刀せず引き返すことなど出来ない。すでに向かい側には源十朗に加担すべく捨て身の撹乱兵たちが突撃の合図を待ちわびているのだ。昨夜の斥候からの報せでは斯様な情況ではなく、だからこそ勝機ありと見込んだのであったけれど、こうして裏をかかれた現状に狼狽するしかない己を否定するためにも、漏洩はどこで為されのかだの、内部に諜報が紛れていたのかだの、果ては日頃より反目とまではいかないが、快く思っていない側近にまんまとはめられたのかなどという思念を猛烈に働かせていた。。
しかし考えあぐねれるほどに、ときはじり貧への傾きを許さず、衝動的な無我はその掌に汗となって斬り込みを促していた。
源十朗は配下のものに低い声でこぼれ落ちるよう意を伝えた。
「もっとも燃え盛っている松明こそ本命と見た。却ってひっそりと夜気に包まれておろう姿は至当すぎようぞ。敵軍とて警護の厳重な陣なればとせせら笑っておるのじゃ」
独断とすれば妥当であったが、奇襲の道理はすでに霧散し、討ち死にを選びとるより仕方のない場面をひきつけたともいえる。鬨をつくるまでもなく、源十朗は夏の虫のごとく赤々とした松明に吸い寄せられ、目に入るすべての動きに対し剣を浴びせかけた、いや叩きつけたのだった。
忘我の境地であった。撹乱兵の勢いも相まって敵がたの周章ぶりは突風にあおられたすすきの穂を想起させ、次々と刃のしたへ戦意喪失者を横たわらせた。
実のところ、源十朗は悲願の首級を手にした攻防も経緯も失念していた。正気にかえったときには血まみれの布切れを抱え、独り戦場から遠のいていたのである。そこが山間から相当隔たった地なのは、血の香りに寄り添ってくる潮の匂いを覚えたからで、どうやら一山越えたと、そして武士の面目を守りきれたのだと、安堵した。広々とした白砂を踏みしめるやわらかな感触が、寄せては返す波の音と折り重なり、ひとときの平穏を得たのだったが、たった独り身で浜辺をさまよっている影を足もとにしかと見いだした際、不吉な念が月光とともに源十朗を冷ややかに照りつけた。
「影とな、、、」
一か八かの突撃はもはや戦略でもなかったし、知謀でもない。敵将の御身が話頭にのぼるとき、その明晰な頭脳もさることながら、恐ろしく警戒心の強い研ぎすまされた植物的な神経も取り沙汰された。左頬に小豆大ほどのほくろを授かったことを幸いに、幾人かも知れぬ影武者を周囲はむろん、鷹狩りの折や宴の幕内などにも周到にすげ替えては用心を怠らない。似た風貌とつけぼくろさえあれば、敵将は人前に姿を見せることなく、奥深い寝屋で好色に耽ったり、高いびきで天下泰平の夢に遊べるであろう。
源十朗は月明かりから逃れる足取りで己の身と首級の隠れ場所を物色した。甲斐あって小さな洞穴を波うち際に見出し、辺りを慎重にうかがいそっと影を忍ばせた。
とりあえず人目から消えることが出来たと胸をもう一度なでおろせるはずであったが、暗黒の洞穴は視界を奪い去り、念頭にたちこめている真意をただすのが不可能になってしまった。せめてものと、布をほどき首をなで頬に指さきが触れ、直ぐさまそれがほくろであるのを感じとったまではよかったのだが。
源十朗の長く熱い夜はここから始まった。灯火を求めずとも敵将である証左を得て、小躍りしたい気分は思いの他、蔦がからまった森に封じこめられたような不安に鎮められ、やがて疑心の暗雲にすっかり閉ざされてしまったのである。
もう体温を失っている生首のほくろに微熱すら感じないにもかかわらず、源十朗は卑猥な手つきでその証に触れ続けていた。めぐるものは生暖かい反復だけであった。
「偽物であったにしろ、すぐに剥げ落ちるはずもなかろう」
「人肉に付随していたとして、実によく出来た技巧である」
「見分けがつかないゆえの影ではないか」
「この感触は本物に相違ない」
当惑は真贋に帰結されるべきであったのだが、いつしか想いは、いかなる理由で隠遁の態を選択したのかという、現実に舞い戻っていた。
「でかしたぞ、源十朗、ほほう、さすがは花凪どの、あっぱれでござる」
「奇襲を悟らぬ敵将ではあるまい」
主君はじめ居並ぶ要職はもちろん、親族縁者の賛嘆を耳にした途端、あとは嘲笑の的であり続ける光景から逃れそうもない。影に擁護されている内実をつかんでいながら、夜襲の案に賛同した面々の心根が小憎らしいくらいよく分かる。おめおめと偽物を小脇に携えている格好を見とがめられたなら、どれほど恥じ入らなくてはならないのか。討ち死の覚悟が成果をあげたにせよ、失態は失態、むしろいとも簡単に首級を穫れたほうが怪しい。
源十朗の胸中は死線から脱し得た喜びを糊塗せんが為、自らの名誉に拘泥してしまい、どうあっても生き延びた我が身が情けなく思われるのだった。
一刻も早くこの首を始末しなければ、、、そして敗走の汚名をぬぐうには、、、いや、己だけの力で首を打ったのではあるまい。壮絶な斬り合いが一方的な戦果として、また散る火花を消滅させ、記憶を葬り去ったのは紛れもなくあの刹那、敵将だと信じて疑わなかった功名心であり、極点にまで舞い上がった勇猛という怯えであった。
言葉にすれば見苦しい葛藤に過ぎないけれど、この心持ちにいたる夜は決して短くはなかった。ふらふらと洞穴を抜け出たのは黎明を告げられる寸前であったように思われた。
まずは血まみれの布を波にさらわせ、同様に生首も海中に放り投げようと弱々しい力をふりしぼろうと努めた。そのときである。
「貴様には出来まいて」
信じがたいことだが、両の手にはさまれた首がそう口を開いた。腰を抜かさんばかりの場面であったけれど、源十朗は金縛りにあった様子と見え、微動だにしないからだに逆に操られるふうにして、首を砂のうえに置き、兜を脱ぎ捨て、魔術にかけられたふうなだらしない顔つきのまま、剣をゆっくり抜き、切っ先から棟に左手を滑らせて両肩に乗せ、そのまま一息に胴体より己の首を斬り落とした。
源十朗の哀れな表情が波間に消えゆくのを待っていたのか、砂上の首級は高貴な目配せを月影にしめし、虚脱したはずの胴体に生命を与えたのである。
両腕がのび、あろうことか生々しく血糊を垂れ流している斬り口へと、あたかも人形の首をすげ替えるごとくおさめてしまったのだ。
それからおもむろに兜と頬当てを被り、あきらかに人目を意識したまなざしでまわりを見据えた。夜明けにはまだまだ猶予があった。鎧武者はそれをよく心得ており、源十朗は知り得なかったのである。


[344] 題名:タンタラスの丘 名前:コレクター 投稿日:2013年04月14日 (日) 22時41分

実際の地であるはずはなく、又かの風景を模したのでも、あるいは似かよりとも無縁の、ただその名だけがひとり歩きしていたに過ぎないと思う。どこかで聞きかじった覚えもないところから、感性に疑いを抱く謙虚さは遠のき、自然にわいて出た単なる文字の羅列だと信頼を寄せてしまった。のちに丘であることが分かったとき、奇妙な符号に微熱がともなっていそうな気がしたけれども、今となってはどうでもいい。
ぼくのタンタラスは丘なんかじゃない。家のちいさな裏庭さ。ぼくはそこにたくさんの死骸を埋葬していた。
縁日で買ってきてすぐに死なしてしまった金魚や、捕獲することだけに専念して飼育を怠ったため、あっけなく動かなくなった蝉とかバッタ、蝶蝶にとんぼ、イモリにカタツムリ、おたまじゃくしやこおろぎ、まだまだあるけど、きりがないようで、思い返すとそこら中が墓だらけだらけだったろうし、何より罪つくりの意識に苛まれるので、唯一逃走して行方をくらませたミドリガメに喝采を送ってから、呪詛の話しへと跳躍しよう。
死骸を葬るとき、せいぜいスコップで土を掘り返す程度だったが、その手つきも目つきも儀式めいた心境に凝り固まっていた。はっきり言えば、彼らにうらみつらみを託していたわけなんだ。こどもこころにしては冷酷な行為だと非難されるだろうけど、ある意味、とても純粋な情念をみなぎらして、この世とあの世の架け橋を夢見たと不埒な考えを小声ではなく、明確な物言いでしておく。
前文には補足が入り用である。そう、きちんと世話をしなかったのは事実だが、えさも与えたし、暇さえあれば様子を見て微笑みをつくっていた。ただ虫かごやバケツのなかに閉じ込めた結果が死期を早めたと悔やんでいる。当時祖母は畑仕事をしていたので、孫かわいさからか、近所では余り見かけない昆虫をよく持ち帰ってきてくれた。両親も殺生には無頓着だったのだろう、温暖な季節の生き物を自然に解放する意見を口にしたこともなく、あたかも玩具と戯れているぼくに健全なすがたを見いだしていたようにも思える。だから、裏庭には死臭が漂うことがないまま、燦々とした陽光を浴び、新たな埋葬のたびに夜を切り抜いたふうな濃い陰がぼくと並んでいたのだ。
呪詛は単純であるがゆえに効力が発揮されると信じていた。瑣細なことであろうが、意地悪な同級生や口やかましい先生、別に危害を加えられたのでも、叱責を受けたわけのもないのに、見た目が薄気味悪かっただけのときたますれ違うひとなど、ぼくは皆の死を願った。
葬儀とは反対の儀式はこじんまりした孤独さを受け皿にして、昆虫らに呪詛を吹き込み土中に埋めた。

あれはのどかな春の日だった。裏庭には桜の木がつぼみを大事そうに抱え、隣の家の屋根にまで達する枝振りの勢いは攻撃的な緑に色づいていた。
右がわにはハナミズキという苗がすでにぼくの背丈に迫ろうとしていた。聞き慣れない名だったが、祖母が植えたらしく、こう語ったのをよく覚えている。
「この木が花咲く頃にばあちゃんはもういないよ」
桜を愛で感傷を泳がせるすべなど持ち得なかったあの頃、その言葉はずしりとぼくの胸に突き刺さったまま、そうあって欲しくないと、はっきりした願いになり逆巻き続けていた。祖母の面持ちは残念ながら記憶にない。
埋葬儀式を卒業したぼくは虫や金魚ではあきたらず、ひよこを飼っていた。冬場は温熱が不可欠だったので翌日には冷たくなっているという懲りない欲求の末、暖かな季節に飼育しなんとか成長が期待できそうになった。
ところが裏庭に放して遊ばせていたら、トタン塀の下の隙間からどら猫が顔をのぞかせ、目にも止まらない早さでくわえられてしまい、あとを追う余裕もなく、視界から消え去ってしまった。
それからぼくは玩具の空気銃でどら猫が来るのを待ち続けていた。確か一度だけふてぶてしく現れたことがあり、発砲したが命中せず、たまたま背後で様子を見ていた母親にこっぴどく叱られた。ひどい矛盾がそこにあるような心持ちがしたけど、それは母親に向けらたのではなく、ぼく自身のどこか空洞に鳴り響いている自覚があった。
しかし、気分におさまりはつかず、裏庭により着く猫という猫を見かけるたびにホースで水を浴びせかけていた。
悔しさはどこに行ってしまったんだろう。夏休みが終わり、普段とは違った愉快な遊びを含めた日がな一日が、とりとめもなさに埋もれてしまうよう、猫もひよこもほとんど意味をなさなくなっていた。

祖母の死に際には間に会わなかった。以前から様態が悪化しているは知らされていたし、連絡の時点で危篤だったから、老衰による大往生だったこともあり、思いのほか悲しみと近づきになれないまま、遺体と向き合った。
ミイラとまではいかないが、やせ細り、筋と骨ばかりが目立つなか、遠く夢見るような閉じた両目に決して出会うことない祖母の妙齢を感じた。生まれてすぐ老婆であったはずがない、当たり前すぎる考えが脅迫観念となって圧迫するうちに、不健康な自分にいたたまれなくなり、裏庭にかけおりた。
冬場だったのでハナミズキは花こそ咲かせてなかったれど、桜と似合いの樹木に見え、祖母の幻影をそこに求めたが、裏庭は少年の時分より狭苦しく感じるだけで日差しも透明すぎた。その反動だろうか、金魚を埋めた辺りがわずかに盛り土されたみたいに映ったのは。
丘なんかじゃないさ。葬儀も終わり、家にいた父と従兄弟とで祖母のたんすを壊し始めた。うすら寒い気がしたのだが、黙々と家具を解体する父と無言で従う従兄弟に問いただす熱意もなく、これは風習なのだろう、そうこころに言い聞かせたのだった。
たんすの板は積み上げられ、縄でしばられ、裏庭の隅に時代と関係なく置かれた。


[343] 題名:月曜サスペンダー劇場 名前:コレクター 投稿日:2013年04月08日 (月) 05時48分

「お久しぶり、もう一年以上になるかしら」
「そうだね、あっという間だ、一年なんて」
少女の澄んだ瞳をのぞきながら青年はため息まじりの声で答えた。
「また霊界テレビなの」
「その通り、よくわかった、えらい」
「相変わらず酔ってお家に帰ると使われていない端子の画面がひかりだしたのね。放送予定なんかどこにも記されていない、録画も出来ない番組、、、」
「ああ、そろそろかなって、待ち望んでいたんだ。そうした願いは一年に一度くらいかなうものさ」
青年の話し方には充足感というより、はかなげな幻が通過していった虚脱をまとっているふうで、語尾は微かに震えていた。
「そういうものなの」
少女の問いかけもまた、期待とは距離のある寂しげで消え入りそうな余韻そのものであった。だが表情自体に陰りはなく、むしろ妖精を想わせる無垢な快活さで青年の胸に華やぎを添えた。森の奥深いところに注がれる光線が木々を揺らしているように、そよ風がまぶたの裏を抜けていくように、透き通った情景がひろがる。
「そうだよ」
うなずいた声は葉擦れであり、未知への伝達が含まれていた。
「サスペンス劇場じゃないの」
「戻ってきたんだ」
青年は親愛を込め少女のくちびるをふさぎたく思ったが、それだけの言葉にすべてを託した。
にわかに目を細め、やや小首をかしげた少女の仕草はとても可憐であった。

昭和の映画によく見かけた端々が荒れ狂った勢いの書体、その真っ赤なタイトルにまず息をのんだ。画面全体からはみ出しかけている毒々しさの「崖っぷちの女」とは古い作品なのだろうか、それとも趣向を凝らしているつもりだろうか。たしか似たような名の韓国ドラマがあったはずだが、、、
紋切り型の大団円、岬に集った面々らの俯瞰からドラマは始まった。いきなりラストシーンとは如何に、と思いきや、わずか数秒で人々は離ればなれになってしまい、しかもフィルムを逆再生した様相で時間が反対方向に流れているみたいな技巧が見受けられた。すでに事件は解決してしまったのか、疑問をはさむ余地なく彼らは互いに背を向け誰ひとりの影も残さないまま岬をあとにしている。ひょっとしたら予告編かも知れない、ときめきにも至らない投げやりな予想を見事に裏切り、散開した登場人物らをカメラは雲にまで達する高所から捉え、蒼海の原色めいた輝きさえ、かすれてしまうほど昇りつめてしまったので、もう描写うんぬんを通りこして、成層圏を突き抜けかねない速さで、大陸と海洋がほこりをかぶった粘土みたいな色合いに映し出され、あとはこの惑星の気品ある丸みで絶頂を迎えうると想像していたところで、いきなり場面が切り替わった。
きらきらと映発する川沿いを若いふたりの男女がゆったりした足取りで歩いている。人物よりも水面に揺れ動くまわりの茂みや空模様に主眼を置いているのか、会話はなされず、ふたりの影はまるで添え物のごとく風景に配置されており、微風に乗って運ばれてくる小鳥の音やカエルの合唱が主役にとって代わろうと企んでいるふうにも思えてしまった。
映像が映像であることの証明は劇的効果を予感させる。それはわずかながらのひとこまで物語られた。軽やかな風が強く女の髪を吹き流し、その横顔を被い、鋭い眼光だけが川面に投げかけられた。殺意は青く、衝動の美学を謳っている。
ガードレールが途切れた箇所で狙い定めたのか、女はいきなり男を突き飛ばしてしまった。緊張は唐突に訪れ、ほとばしる寒気は晴天の空気に抵抗をしめし、視聴者のどよめきさえ耳にこだまするような幻聴を得た。
男は川中に投げ出され溺れかけたに見えたが、なにやら懐から取り出したものを左手で突き出し、もう片方はしっかり遊泳の構えに落ち着いた。手にしていたのは栄養ドリンクである。これはCMなのだろうか、「ファイト一発!」とか叫びそうな気合いがクローズアップされ、男は苦みばしった笑みを保持したまま対岸に泳ぎつき、悠然と土を踏みしめ女のほうをにこやかに見返した。そして両手を大きく振りながら、無言のうちに感情をばらまいている。
女の顔色は長い髪で隠され、その胸中をあらわにさせないまま同じ流れに身を投じた。ここではじめて男の表情は歪んで悲劇の調べを誘った。栄養ドリンクは飲まれずに、膝をおとし悲嘆にくれた姿態だけが陽気な日差しに照りつけられていた。

「それで終わりなの」
少女の目もとには別の方角からやってきたであろう驚きが、哀しみを駆逐していた。青年はあらかじめ予期していたかの口調で「残念ながら」とこころからそう返した。ドラマを見ていないものには理解してもらえない、至極まっとうな心持ちを前面にあらわし、次に出てくる言葉をのみこみかけて、しかし告白めいた口ぶりの常であるよう、さきほどの震えは持久力に支えられ、淡々とした声になりながらもこう語りおおせたのである。
「霊界ドラマだから仕方ない、ぼくは話しを長引かせることも潤色することも出来ないんだよ。だからお願いだ、もう少しだけここに居てくれないか、、、」
青年はドラマの男と同じく膝をおとし、天女を見上げるまなざしで、いつまでもかたまり続けていたいと願った。


[342] 題名:あんかけ焼きそば 名前:コレクター 投稿日:2013年04月02日 (火) 02時43分

夜が更ければなにかいいことがあるのだろうか、なんて普段あたまに思い浮かんではこない考えが、薄ぼんやりしながら静まりかえった深夜の気配にとけ込んでゆく。休日なので夕方近くまで目覚めつつもふたたび眠りおちるままでいたから、いつもに比べ遅く布団に入ったのだったが、時計の針が何故かしら殺気を秘めた危険な時刻をしめしているように感じられ、寝苦しさというより、案外サスペンス映画でもみたあとのような緊張で神経が昂っている。
態のいい思考が次第にはっきりしてきたのは、結局ぜんぜん眠くなくて、それは当たり前だろうし、また明日も休みなので身体のメカニズムなど機械じかけに縛られることなく、あべこべに深夜を特定している時計に挑む感覚がこじんまりした自由へと羽ばたかせくれているからだろう。意を決するなんて大仰に聞こえるかも知れないけど、連休といったって行楽や旅とも無縁、家でゴロゴロしてはわずかだけ心苦しさに逼迫されるのが段々腹立たしくもあり、しかし所詮は自分の内紛以外のなにものでもないから、小食で済ました夕飯のありきたりな現実が一気に風船みたいに、そう紙風船と呼ぶにはもっと意思をはらみ、ゴム風船というには宿り続けられない浅はかな欲を膨らませてしまったのだ。眠気に反抗していたのは夜食の段取りにほかならない。
冷蔵庫、華やかな霊安室、二階の寝室からだってその電源は静かに、まるで音を微かに立てるのが義務であるように階段から伝ってくる。ならこちらも記憶の貯蔵庫を探り当てよう。いや、もう先ほどから野菜室に収まっているものは明快であったし、材料に関しては思い間違いないと確信を得ていた。問題はなにをどうするかである。
それほどまでに空腹を覚えているわけでなかった。夜中の料理は寝静まっている家族らに迷惑を及ぼすだろう、そんな葛藤のうちに閃くのは、お茶漬けやどんべいであるのが至当なのだが、夜の思念はもっと重みを秘めており、本能にさっさと導かれ、まわりが静謐なだけに怨念めいた食欲は腹具合をうかがう責務から解き放たれ、冷蔵庫のひんやりした手触りと重量感に沈みこんでゆくしかなかった。
おぼろげなイメージは割と急速にまとまりを見せ、覚めた脳裡に描き出されるのは野菜と肉、それに炭水化物からなる一品に収斂された。少しためらいはあったけど、思いは重みに促され、ほぼ明確なかたちへと進展し我ながら生唾が出てきた頃には、むくりと上半身を起こしながら、白菜、長ネギ、ショウガ、にんじん、豚の細切れが眼前に泳ぎはじめるのを今にも手にする錯覚に溺れ、だが、これは悪夢なんかじゃない、証拠にこの瞬間の為にかねてより買い置きしておいた、うずらの卵とヤングコーンの水煮が攻撃的なまでに夜気をふり払い、おそらく健在であろうキクラゲの黒い影が台所の片隅でひたすら待ちわびている様子に憂いなく重なり合う。夜食は先週がどんべいであった既成事実に猛攻する勢いで、あんかけ焼きそばと決定された。

階段を降りる足つきに鈍さはない、反対にやはりひとり騒々しさを招いている気兼ねで猫足になった。段取りは自ら慮るよりか、向こうから訪れてくるように感じたので、いわば時間にとらわれず、ゆっくり調理にのぞめばいい、そう覚悟した。午前2時、素晴らしい時刻だ。
まずは確認作業のひやりとした焦りをもっともらしく装い、乾物類のしまわれている扉の奥に少量のキクラゲのすがたを見届けた後、おもむろに冷蔵庫の野菜らを手にし、まな板の脇に並べた。豚こまも忘れてはいない。
さて、換気扇ならびにフライパンの熱気が夜のしじまを破るのは一時だけだから、あわてず優雅に朗らかに、ワルツに調べに乗るごとく、下ごしらえをこなしてゆく。手始めはキクラゲを洗い湯でもどしておこう、手狭だから食卓に移し、出来上がりの歯ごたえをほんのり夢見つつ、とっておきの水煮たちにも準備してもらい、うずらは6個かあ、でもヤングコーンは量があり過ぎる、半分は明日サラダにでも使えば、などとうれしいため息をもらして、その隠れた実力を、あっぱれな脇役ぶりに期待を寄せ、香りづけとして重要なネギとショウガのみじん切りにとりかかる。多めに切るのはスープにも投入するわけだが、そう鶏ガラスープは本格的に取る作業が出来ないのでトップバリュの顆粒製品を用いる。これもあらかじめ小鍋の湯に溶いておき、微量の醤油と軽くコショウ、さきのネギらで味付けしておいて、炒めた具材にまわし入れ、残りはスープとしていただく。あんかけ、つまり半汁状の料理にスープは過剰だと陰口を叩かれようが、誰にも関知されない、なによりこの顆粒製品は使い切りサイズなので、どうしても量があり、というかけっこう塩分も効いているから、湯に溶いてみるとまわし入れだけでは余してしまう。なら醤油を足さなければと問われそうだが、風味、色合いからして醤油を外すことは到底できない。それどころか醤油の味わいこそが漆黒の意義をただし、儀式となるべく夜更けに過激な想いを募らせ、反面しんみりした情趣をひっそりした台所の底辺に漂わすのである。私たちは醤油の一滴に日本人たる血を想起させるのだ。
豚肉に日本酒をまぶしておく、これは加熱しても柔らかさを保とうという意地らしい行為である。ついでに電子レンジで袋が破裂する寸前まで温められた焼きそばめんにもふりかけておく、これはまじないのようなもの。
白菜を切る。先の青い箇所は大様に白いところは火の通りやすさと味がなじみやすいよう斜に包丁をいれ、かといって薄過ぎても困るので、これは歯ごたえを残したいがゆえの仏心に近く、慎重な作業は次の人参にも同様で、ここで不意にかすめた玉ねぎも使おうかという迷いに手元がとまり、歯ぎしりにも似た瞬時の葛藤を経て、具沢山であることの奢侈より甘みが強くはなりそうな気がし、断念した。
ガス台にはすでにスープの小鍋が湯気をたてており、隣では薄くサラダ油をひいたフライパンでめんが焼かれている。むろん味つけはされていない。あらかじめレンジで熱を加え酒をふってあるし、仕上げからしてみてもことさらほぐす必要はなく、かなり弱火の長期戦のこころ構えなのだが、何故か菜箸が勝手に火の加減をうかがってしまう。
それはさておき、換気扇をまわした限り、ひと思いに炒めに没入し、騒音を生み出しては後ろめたさに苛まれる意識さえ熱して忘我の境地に踊り出たいところであったけど、まだまだ匂い立つ戦場には至っておらず、ここは野火のような牧歌的な煙たさに包まれた雰囲気でしかなかった。
キクラゲは程よい食感に達しただろうか、豚こまの繊維にしみ入った酒のちからに願いを託し、まるで忘れさっていたかのように水溶き片栗を準備する。一対一、基本が口をついて出るがいくらまぜておいてもすぐに沈殿してしまう。それよりこの料理のかなめはオイスターソースの塩梅ととろみ加減に尽きるので、平和のひとときながら精神統一を怠れない。段取りはとどこおりなく行われ、いよいよ決戦のときが迫ってきた。焼きそばはまさに焼かれる為に調理される。じっくりと固焼きめんの面影さえ見え隠れしながら。
せわしない菜箸の動きが来るべき光景を撹乱するよう、不本意な意思に傾き、のぼりつめつつある儀式の頂点を破滅に向かわせ、夜食そのものを根底から覆そうと企んでいる。そんな怯懦が期待の裏返しであり、健気な影絵であることは、ゴマ油のふたを開けたときに香るふうにわかった。
こんがりとまでではないけど、いい焦げ目があらわれてきて、めんがサバサバしている様子が見てとれた。
小鍋のスープを煮えたぎらせ傍らに、フライパンの位置を交代させて本戦に突入する。弱火にてサラダ油とゴマ油を半々に注ぐのは火を止めてからもう一度ゴマ油を垂らすため。すぐさま長ネギとショウガを入れる、まだ火を知らないみじん切りらに試練が控えているのは気の毒だけど、傾けたフライパンにじりじりあぶられる様は被虐的な法悦にはじける幾多の面にも映り、目を伏せたくなるまさにその瞬間にこそ、豚こまが憎々しく叩きつけられ、強火に点じて白菜がどしりと覆い被さるのは天命であろう。
炒めることは炒めるのだが、とろみをつけるので水分を飛ばす要領は求められず、人参、キクラゲ、うずらの卵、ヤングゴーンが次々に放り込まれ、白菜がしんなりなるのを待たずに、鶏ガラ特製スープが床下浸水のごとくに充たされ、具材たちは加熱地獄に阿鼻叫喚ならず、本然を悟ると見るはいかがなものか。
豚肉の火加減に留意し、白菜に十分な慈愛のまなざしを降り注げば、ヤングコーンのつぶつぶにもスープがしみ込んでゆくようで口中にその味わいが飛びこんでくる錯誤を覚えてしまう。沈黙を守り通すのはキクラゲであった。もの言わぬ臓器を彷彿とさせるその姿勢は、反応をもたらさないがゆえに生半可な味覚を超越し、あらためて完成まで慎重を期さなくてはいけないと激励される。よくわかった、そんな感傷をはねのけながらも深い感動へと連なるであろう、こころ模様を彩る人参の赤みに更なる想いがしがみつく。
両手で受け取る仕草、子供のころの想い出が熱気にあぶられては眼前のうずらに焦点をあわせようとする対比の妙に胸がしめつけられ、白身をボールになぞらせた遊戯のうちに不動と歴史を思い知る。
様々な思惑を乗せ夜の時間は流れゆき、オイスターソースならびに醤油があたかも特攻零戦の第一出撃隊のごとく急降下の勢いで突入する。本来なら失敗ないようそろりと為されるところだが、ここで思い切らずどこで思い切るというのだろう。このはかなさ、いさぎよさ、なにより段取りに支えられた矜持が大胆かつ慎重を演じるのだ。とはいえ、どろりとしてもさっとしても実際には少量である。あくまで手つき並びに精神論を述べただけ。
ふつふつと煮たってくる様子は炒めものとは別種の趣があり、湯気ののぼりも煙とは当然異なる。隣のめんは一層こうばしさを増してきた。ついに出来上がりが間近となり、が、ここでも落ち着きを失わず、能のすり足の仕草で豆板醤を取り出し、少々加え、味見をし、ついでにコショウをし、胸に十字を切る猶予を得てからおもむろに火を弱め水溶き片栗をまわし入れる。さながら錬金術師の面持ちで。
そして再度火力を戻して、うっとりするような粘り気を確認すると、さきほどの味見に則ってやや濃いめに仕上げるよう醤油がとどめを刺し、はあっと息をとめてから火を落としてゴマ油が余興のように垂らされる。
めんにはいっさい味が施されてはいない。この濃いめに感じた八宝菜もどきの肉野菜炒めはいかに。
真っ白い大皿のうえでふたつは出会う。かつてデビッド・ボウイとイギー・ポップに出会ったと歌われたクラフトワークの一節のように。
えらく大げさになってしまったけど、スープは熱々だし、ショウガでからだはポカポカ、あんかけにいたっては火傷しそうなくらい。上あごの薄皮がはがれてきた。ゆっくり味わおう。暖房つけるかつけないの時候にあって、ほどよい汗が額ににじみ出る。あんかけは失敗なくとろみ加減とうま味を夜に捧げられれたと安心する。
ふと目をやると、皿のむこうから灰色のハエトリグモがきょとんとした格好でこちらを見つめていた。
「あんたには熱すぎるわよ」
ふーと息をかけたら焼きそばの湯気を敏感に感じとったのだろうか、それとも邪険にしたので気を悪くしたのか、すごすご退きかけたのだったが、ハエトリグモは食卓の端っこでまたじっととどまっていた。


[341] 題名:夢売人 名前:コレクター 投稿日:2013年03月26日 (火) 05時13分

ああ、いつかの男だった、まえにあれは夜間飛行だときみにお話したことがあったね。実直そうな面構えに隠された卑猥な笑みは、通りすがりの刹那に生まれる情感に近く、しっかり届けられなくて、あとからじんわりぼんやり思い出せる程度だったから、だからこそあの男に違いないと確信を得たわけなんだ。
卑猥であったのは実ははじめに接したときでじゃなく、のちに本性があらわになってのことだろう。まんまと一杯くわされけど、耳たぶが腫れたくらいで済んだんでことさら恨みめいた気分はしない。本音を言えば季節の風物詩みたいに毎年訪れてくれればなんてうっすら慕ってたところもあって、あれは春を迎えて暖かな夜にほがらな眠りが即すという絶好のときだったから、今度の来訪がいくぶんか早まった季節のようにも感じてね、だってあの夜にしても蚊が飛びまわるにはまだまだ熱気を帯びていなかったし、結局時候のずれにこだわる必要もないってことさ。男の顔かい、そうだね、ぼくの記憶が正しくとも正しくなくとも、やはり見知っていたのだと答えておこう。肝心なのは巡り合わせのようであったことかも知れないけど、戻ってきたのは意識ではなくて、夢のほうだからだよ。
軽く前ぶりをしておいたのは、男の登場と説明がやけに理屈ぽくてね、それは昼ひなかの明るみのなかだったせいもあり、どうにも枕頭に立たれている気がしなくて、こっちも言ったらなんだけど、けっこうまともに対応してしまった次第で、そうだよ、昼寝なんだろうがまだ寝入ってはいない、うつらうつらって感じだったから。
「さて今回の商品でございますが、まったく画期的な発明品と呼んでも誇張なんかでがありません。簡単に説明させていただきますと、もう窓の外に羽ばたいてなんて野蛮な行為は切り捨てられました。はい、崖っぷちに飛び込むスリルは映画にはつきものでしょうけど、私どもが開発いたしました新商品には配合されておりません」
男のセールスマンぶりに感心したと正直に告白したいところだが、眠りの入り口で足を引っ張られているふうな不快さがあって、画期的という言葉を残しあとは耳障りに聞こえたんだな、意識の底辺では夜が秘めている蒙昧とした浮遊感とは別の場面にいる心持ちがし、なんか叩き起こされる感覚さえ生じたので、実際よくあるように乱暴な口調でやり返してしまったんだ。寝起きの悪さを想像してほしい。
「あんた魔術師なんだろ、まったくひどい目にあった。おまけに吸血鬼じゃないか、いや蚊だ」
ここで男は咲きこぼれる笑顔とともに極めてまともな意見を口にするものだから、こっちは昼寝をあきらめた面持ちにならざるを得なくなってしまい、それでと、あくびする調子でのんびりした装いを醸し、
「夜間飛行をやめるのならどうした効果が出るっていうんだい」そう突っ込んでみた。
「さきほどから申し上げておりますように操作とか作用ではないわけですね。効果とおっしゃられるのでしたら、まさにそこに答えが眠っているのでして、あなた様はおぼつかない世界に足を踏み入れるのでも、未知なる時間にもみくちゃにされるのでもなく、鮮烈なる現実に立ち会われるわけでございます。ただし幾らかの成分が加味されていますけれど」
もったいぶった言い方に聞こえるだろうけど、その花のある目つきやら、右手で空気を柔らかに切る仕草やらが妙に真摯に感じられ、ついつい引き込まれてしまったんだ。
男の解説はこうだよ。夢見の催眠なんて二度手間はいらない、まして通過儀礼みたいな大げさな導入部も設けられておらず、眠りびとは夢であることを認識しつつ、もっとも望ましいと判断される世界像をいとも簡単に描くことが可能であり、また世界のほうでもこれより求めるものなど存在しない情景となり、眠りの意識は至上の調べに流れゆき、抱かれるものは自分であって自分でない、そこは無意識が彫琢される場所である。時間の解放に優雅な心意気で立ち会えるということらしい。
しかも容易く満たされてしまう懸念はなくて、常に刷新される穏やかでなおかつ魅惑による興奮がともなっており、飽きることがない。幾らかの成分というのは、日々にありがちな飽食にうんざりする回避機能であって、つまり有効成分を発揮するための特効薬がなんらかの副作用を合わせ持つのと同じく、眠気を誘う要素が施されている。夢見のなかで眠気というのはどうしたものだと反論したくなったのだが、男の言葉はあたかも眠りの精から託されたごとく、ぼくの為に入り用なものを最小最大もらさず的確に指し示してくれたのでうなずくより仕方なかった。
「あまりにありありとした光景は現実過ぎませんか。あなた様にとって心地よさとは、まどろみつつ風景にとけ込んでしまっているということではないでしょうか。でしたら、この成分は天使の涙と言えます」
カプセル一錠で効くそうだ。夜を待ちわびる想いはかき消され、皮肉にも花冷えの頃合い、窓を開けっ放しにしたままでは肌寒く、そのくせどこか遠くまで足を運びたい気分がこぼれだす。
すでに高揚していたぼくは、酩酊をおそれながらも酒場に向かう要領で、あたまによぎった懸念をすぐさま口にした。
「それでまた料金は寿命から差し引かれるんだね。たしか三十分と言ってたな」
すると夜露にぬれた花びらが風に震える優しげだけれど、厳しさのある口ぶりで男は答える。
「いえ、私どもはひとに幸せを捧げたいのです。幸せの代償はご本人が決められるべきでしょう。現金でも承ります。もちろん寿命でもけっこうでございます。選択肢を提供するのもされるのも幸福なすがたではないですか。しかも初回は無料にてご奉仕させていただき、是非とも効果のほどを確かめてもらいたいのです」
ふと我にかえりテレビをつけたままだったんだろうか、なんて考えてみたけど、だっていつもどこかで聞いているようなうたい文句だよ、これは。
とはいっても男の申し出を断る気は起らなかったし、不思議なことに以前の夜空を飛翔した記憶が官能的によみがえり、論理なのか幻覚なのか区別のつかない脳に反作用して、思いのほか鎮静効果が働いているなか鮮やかな色彩を見取ってしまった。了解の意向を表情にだすと、静かに念を押すふうにこう言った。
「理想郷でありながら理想郷ではないのです。あなた様が欲するものはそのつど変化するでしょう。そしてつかみとった時点で夢から覚めてしまう不具合さえあります。一年まえの欲望はすでに風化しており、十年さきに希望を託すとき、残念ながら欲望はその衝動を維持できぬとなしくずしになってしまいます。夢の一秒もまた劇的な要素で構成されていて、ご自身の視線はデザイン画を眺める具合で意匠を愛でるでしょうし、時間の隙間さえ味わい尽くして、不備を見受けたなら即座に格納が実行されます。ありとあらゆる事象はあなた様の衣服より身軽で、機能的で、洗練をまとっております。どうぞ不実の世界に遊ばれんことを願って」
「不実、、、」
最後の意味深な響きが遠のくのを余興にひたっていると想いなしたとき、ぼくは真っ暗なトンネルのなかを歩いていた。靴音の寂しい反響が気になったけれど、出口はもう近くにあって幸福感とやらが迫っているのをひりひり受け入れた。
ぼくはなにを願っているのだろうか。まばゆい光線が一気に瞳に差し込んできた。白銀の世界、そうだ、ここは冬の国なんだ。女人の影がひとつ、そばに寄るまでもなく、それがマネキン人形であるのがわかり、これはこれで懐かしい気持ちがこみ上げてきたけど、雪に紛れる潔癖な趣向で視界から消えさってしまった。ははあ、これが格納というのだな、寒さを感じないのも変だと思わず、どんどん進んでゆけば、胸に去来するものが外界に浮き出るのを期待している自分と出会ってしまったので、すぐに格納と叫んでみたけれど、ぼくのすがただけは変わらず、期待は吹雪で遠のいてしまった。こんなに激しく吹雪かなくてもいいのに、、、いつしか悲哀に彩られた模様こそ雪景色にふさわしく感じられ、見るからに凍てつきそうな小川の流れのほとり、ほんのり薄紅がかすんだような桜の枝を見つけ、爛漫と呼んでいいものやら、そのひとひらが雪とふれあうのをじっと眺めているうちに、絶景にめぐりあえた、そう言いながら意識はすっと埋もれていった。
随分と短かったな、初回サービスだからこんなものか、ふて寝の案配で寝返ると枕は暖かく濡れていた。


[340] 題名:ちび六の冒険 名前:コレクター 投稿日:2013年03月18日 (月) 20時31分

明るみと呼ぶには似つかわしくない場所、けれども明かりが必要とされる日々のありきたりな、気にとめることなんてほとんどないところ、例えば玄関の片隅や、寝室へと向かう階段の陰、そして寝室そのもの、醸し出されるのは柔らかな吸収力を秘めており、太陽光線を知りつくしながらも暖色のカーテンの襞の裏地はいつも仄暗さを提供してくれる。ベッドの脇に置かれたシェード、謎めく探偵小説にしおりをはさんだときにはもう瞳の照度は下がっていて、小さな灯火だけが取り残されるの待っているのだろうか。そう思いたくもあり、思いたくもない、眠りはすぐそこに来ているし、夢のエントランスからも呼び声が細くもれている。
眠り人を見守るものらをあげつらう無粋は抜きにして、子供の洋服のポッケよりもっと小さなお話をしよう、、、

ちび六がはじめてせかいを知ったのは、あとからすればですけど、やはりふろばだったと胸にきざまれるのでした。きざまれるといってもそんな、ぎしぎし、こんこん、とかとか、したものではなくて、もっとまろやかなかげんだったので、どうもへんだと感じていたのですが、せいちょうしてからはなんども目にしたからまちがいありません。あれはすいてきでした。生まれたばかりのちび六にはおおきさよりも、そうですね、じぶんのからだくらいあったのですから、とにかくきらきらと輝いているのがふしぎでたまらず、すいよせられてしまったのです。あのままちかづいていたら、どうなっていたことでしょう。
聞くところによれば、きれいなおねえさんがふーふーと息をかけてくれ、すいてきもちび六もはなればなれになって、たすかったそうなのです。おねえさんはくもが嫌いでなかったのでしょうね。
ちび六はあるひ、べんじょさまと呼ばれる老くもにいろいろおそわりました。六とつくならきっとおまえにもきょうだいがあったろうさ、ちび五郎とか、ちび子、ちび末、ちび次にちび和、ちびりにびびり、じぶりにそぶり、また驚いたことにいんすたんとらーめんにもそうした名のものがかつてあったというのですから、すでにいっぱしのらーめん通になっていたちび六のくちさきはむずむずってなりました。
だいどころのさんかくのあみめには、こまかくちぎれたらーめんのきれはしや、肉らしきぐがこびりついていることがよくあります。ほかのなかまたちは糸をはってえものをとらえるそうですけど、べんじょさまがいうには、しゅうせいにならうばかりが道ではないぞ、にんげんがこうしてさんかくあみをおいてくれているんじゃ、しかもわしらをつかまえるわけでもなし、ただのみずきりとたいまん、いや、べんりだよ、そこをじっとながめておるのが一番、たいまんだがなと。
だいどころにはしょうゆやみそ、しお、こしょうなどがありましから、らーめんにしみついたかおりでおおよその味くらべができるようになり、しだいにくちがこえてきます。なかでも、でまえいっちょう、きんちゃんぬーどる、ちゃるめら、かっぷすたー、しげきはちょっとつよいのですけど、かれーぬーどるが好みで、ときにはどんべいという白いめんや、どろりとしたふうみをもった、ぺやんぐそーすやきそばなどをありがたくいただきました。
このいえにはさまざまのしゅるいのなかまがいましたが、わけてもくも男爵とみなからいちもくおかれているりっぱなふんいきをしたものがおりまして、ちび六はわかげのいたりだったのでしょう、かっぷぬーどるのぐの肉をさいころすてーきだったとじまんげにはなしたところ、くも男爵はしがにもかけない顔をして、それならしーふーどぬーどるをしっているかとはんたいに聞かれてしまったのです。もちろんはじめての名でしるはずもなく、ちび六はおおいにどうようしていまいました。そんなあいてをさとすよう男爵はうみのさちをふんだんにとりいれたかっぷめんだといい、さらにはうみのゆうだいなふうけいを語りだしましたが、しばらくしてあっけにとられているようすに気づいたようで、ざんねんながらこのいえのひとらはしーふーどぬーどるを食べないみたいだけどな、だが、てれびでもりょうりにんがこのよで一番うまいといっていたから、そういい残してしゅーといなくなってしまいました。
その夜からちび六のあたまにはみっつのうずがまきだします。それがなにかは言うまでもないですね、しかし若さゆえでしょうか、さっそくけんしょうにでたのです。まずはてれびですけど、ひとけのあるにもかかわらずてんじょうのすみっこからおちついてよく見つめていれば、なるほどいろんなけしきやばめんが映っています。にんげんだけでなく、いぬやねこ、ねずみにとり、みしったどうぶつがいっぱいです。ぎゃくにけんとうもつかない生きものやふうけいがとうじょうして、どぎもをぬかれたり感心したり、もうくたくたになってしまいました。でもしゅうかくはちゃんとあったようです。
がんせいひろうをこらえながら、どあのすきまからねぐらにもどったとき、その影にまぎれてたずねてきたものからのように、でんごんを受けとったのでした。そうだ、おもいだしたぞ、べんじょさまがいつか大雨のふったひにそとのみちがまるでかわのようだなってつぶやいたことがめぐり、さっきのてれびでもそのかわらしい流れがおおきなみずたまりにむかっているのが、、、そう、あれがうみだ、あまりのひろさにくらくらとなりましたが、いがいやちび六はれいせいで、じぶんの棲むせかいとはかけはなれているからと、ふたたびしーふーどぬーどるのみかくにおもいはせるのでした。けれども男爵がいってたようにどうにもありつけることはなさそうで、こちらもきっぱりあきらめがついてしまい、するとあのてれび自体にいしきがかたむくばかりで、どうしていままで見おとしていたのだろう、あんなにたくさんのいろあいがつぎからつぎへとあらわれてくるのに、、、においも味もしないけれど、さわることもできないけれど、しんどうはつたわってきますし、そのしんどうにもさまざまなへんかがあって、いのちのおんじん、あのきれいなおねえさんを胸に描きそうになるばめんでは、どうやらねいろもやさしくなっているようなのです。ええ、ちび六はそれくらいはわかっていました。てれびに映るおねえさんはけっしてあのときのひとでなく、どうきばってみても触れるのはふかのうなことを。
はるのとうらいをつげるふゆのさむさに生をうけたちび六は、だれよりもげんきにそこらじゅうをはいまわり、らーめんいがいのたべものも味わいましたが、さいしょがそうであったのと、このいえのひとが夜食にほかのものをこしらえないありありとしたげんじつを知り、せかいのひろさとかぎりをみとめたころには、もうてれびのがめんからきょりをとれるようになっていました。そして、まったくわすれていたことに気づいたのです。
どうしてそんなみじかなくうきを感じられなかったのだろう、、、きれいなおねえさんはすぐそこにいて、そばによったりしたことも、かたにのせてもらったこともあったのです。ふーふーと息をかけてもらえなかったからわからなかったのでしょうか。そうかもしれませんね。ちび六はあわてものですから。


[339] 題名:回想 名前:コレクター 投稿日:2013年03月12日 (火) 08時20分

それはそうでしょう、あなたの目つきはまるで警戒心の強い猫のような感じがしたのですから、わたしだって夜行性の動物の身構えをもってしまいます。一瞬のことだったと言いたげなのはわかりますけど、ええ、確かにその後はすっかり快活な笑顔に返りましたよ、しかし、こうやって記憶の奥底をうかがわなくとも、つい先日まであなたに会うたび、まるで海と空の青みのように間違いない広がりで意識を占領していたのです。からだの解放より、いえ、身を寄せることのはかなげな情感より、もっとしっかり居座っていたのだと思います。
ようやく寝ついた子供の小さな呼吸さえ濃い霧みたいになって、その場から静かに後ずさりする自分の足もとが不確かだったのは、気が急いていたばかりじゃありません。それこそ一夜の逢瀬に向かわせる香しい恐れと忌まわしい悦びが、眼前にはだかりながらも車窓を流れゆく風景のように、去りつつあるのは不思議なものです。あなたは湯上がりの着替えを眺めているふうなさっぱりした目線でしたけど、そう隠しきれるものではありません。わたしは気恥ずかしさゆえに、ええ、こう言うといかにも弁明に聞こえるかも知れませんが、わざとぞんざいな素振りをしていたのです。どうしてって、あなたを引き止めておきたいのはやまやまでしたけど、短い期日でしかありません、あす一日、あさってまで、あともう少しだけ、、、想いの強さが勝るほどにわたしは哀しみも同時に引き受けなくてはいけないのです。そんなことくらい承知しているはずのに、いかにもって面持ちですましていましたね。あのときです、わたしの胸を去来していたもやもやが断ち切れたと感じたのは。
案外と単純なもの、あなたの控えめな口ぶりの裏がわにすっかり惚れ込んでしまったのですから。わたしの影をそこに託してみたのか、あるいは別種の影法師ですっぽり覆われてしまいたかったのか、その両方でもあったのでしょう、きっと。
あの夏はほんとうにうだる暑さでしたね。薄い生地に汗がへばりついてはその実、不快さはいつになく汚れであることに妙な期待を抱かせ、案の定わたしは熱したからだから染みだす、決してさらさらしたものではない情念を認めてしまいました。
三日目の夜でしたか、呼吸の乱れに忘我の余韻を乗せて、火照ったほほに羞恥とは異なった赤みがさしているのを愛おしく感じながら、うっとりと、かなうことならこのまま眠りつきたく願ったおり、ぽつりぽつり、そうちょうど熱帯夜の通り雨の幻聴のごとく、あなたは語りだしました。なんでも蚊帳を吊って待っている女がいたそうで、わたしは随分と古風な恋話しだと、腹のなかでは軽んじていたのですけど、聞けば夢の光景だったと言うじゃありませんか。どこか小馬鹿にされたみたいで他の女との色ごとなんて疎ましい、でも思いはさほど憎々しいとまででなく、むしろ軽んじていた気分と歩調がそろったようで、夢の最中であるのは今も同じではないだろうかって、ほくそ笑んでおりました。
で、わたしの方も負けず猫を玩具にした想い出を聞かせてあげたんでしたわ。それからどうしたと、えらく執心だったのが懐かしくもあり、少しばかり考えてみますとうら覚えだった話しに聞き入ったあなたの気持ちが、よい景観をのぞきこんでる望遠鏡となってよみがえってきて、結局わたしは恋におちたわけでも弄ばれただけでもなく、あなたという男を見物していたに過ぎないと思えてきたのでした。
郊外とはいえ、夜間の静まりは水を打ったという調子ではない、慣れた耳にだって車両の行き来は風はなくともしきりに届けられるし、人語ともざわめきとも区別のつかない気配に四方は囲まれています。
遠く離れた故郷と交わった感覚があなたを支配したのも無理はありませんけど、わたしにはどうしても田舎の景観と混同させようと努めているのが見抜けてしまい、しかも罪のない意識だけにこのからだを通過していった悦楽が却って虚しく、また切なく、一週間の日々が尽きてしまうのをあなたに不平等に分け与えたのでした。
反対にわたしの気概には誰もが触れることが出来そうで出来ないのです。奥義とか秘密なんて、高尚なもったいぶりなんかじゃありません。ただのひとりよがり、とでも言っておきましょうか。
面白がってよいものやら、これしか能がないというくらい昼夜を問わず肉体をむさぼったあなたは、ひとり散歩に行ってくると虚脱した声を残し、薮のなかに姿をくらませてしまうことが度々。ああ、わたしのせいだわ、偶然の出会い、ふたりにもたらした残像だけが現在でも鮮やかなごとく、あのときだって精魂を奪ってあげたと、高野聖を彷彿させる忌まわしげでしたたかな念は確かすぎるほどでしたもの。
あなたの幻影はわたしの操作、そうですわ、夢のからくり、大きな手のひらの上で戯れる些細な、けれどもいたわしい情愛。
わたしに追いつける道理がありません。常に脱皮を繰り返し姿かたちを決して同様に留めぬ蝶をいつまでも追い求める哀れなあなた、まだまだ脱ぎ捨てた抜け殻に執着している様子ですね。


[338] 題名:追憶 名前:コレクター 投稿日:2013年03月05日 (火) 06時18分

もう一週間が過ぎてしまった、でもあと一日こうして郊外の薮の小径を彷徨っていたい。面白いほどくねりにくねった道行きは新鮮だったけれど、時折忘れたころに木々をささやかせる風のなかにずっとまえから潜んでいただろうぼんやりした不快な、かといって気分を圧迫するまでもない感触がいやに軽やかに思われ、民在公吉はその手を胸にやった。
面白さと同時に大都市の外れがこうも田舎臭い、そうまるで生まれ故郷の山間に点在する家屋を思い起こさせるのが、気抜けとは質の異なる薄明るい視界と化していた。陽をさえぎった木立や草むらの仕業にしたいところだったが、残念ながら旅情を喚起しつつも、帰省を強制させている淡い意思が薮のなかに紛れこんでしまった。
「ちょっと待ってよう、そんなに早足で行かなくたっていいじゃない。子供が駄々をこねるのよ」
「おれのせいにするなよ」
公吉はさも迷惑そうな顔つきで振り返りざまにそう吐き捨ててみたものの、心中は言葉よりずっと距離があるのだろう、さながら駆け足で向かってくる女との隔たりを埋めるのに好都合な響きがあった。
「なによ、みん公。さっき嫌らしいことしようとした癖に」
女は切り札を持ち出したかの語調であったが、これまた公吉と同じく、光の乏しい山道に小気味よくこだましたに過ぎない。
早足を断念して見せたのも演技ならば、冷ややかな目つきを放っているその表情もいくらか芝居じみている。左手が山肌、その反対はちょっと見には谷底に滑り落ち込みそうな勢いだったが、くすんだ瓦屋根がほどよく見下ろせる景観は決してありきたりではない。むしろ曇天から降り注ぐ折の雨脚に涙を想い被せてしまうほど、ひっそりとした沈黙のなかにあり、公吉は目頭を熱くしてしまった。
「こんな場所が別れにふさわしいのかもしれない」
ふとそうよぎったのはわけもなく、ただ悲しみの中にうれしさが混ざっているみたいで、自分でもその深意にまで降りていかなかったのは、新しいパンツに履き替えた女の仕草がありありとよみがえってきたからであった。

今は夏なのだろうか。女はまだ幼い子を寝かしつけると、一仕事終えたふうな顔をし、見るからに汗ばんだからだへ迷惑気にまとわりついた薄い生地のワンピースのすそをめくりあげ、ぞんざいな手つきで下着を脱ぎだした。公吉は呆気にとられ目は釘付けになるところだったが、あまりにあっけらかんとした女の様子に却っていらぬ神経が働き、羞恥ともつきかねる変な気持ちに襲われてしまい、目線をそらしてみたものの、今度は着替えのパンツに見とれてしまったのだけれど、欲情をもよおしつつもとりあえず平静な面を崩すことはなかった。
この一週間のうちに何度おなじ光景に出会ったのだったか。
指折り数えてみるまでもない、公吉は下着の色柄や素材を好奇によりうかがうのではなく、それはあたかも洋品店の従業員が品揃えを確認するまなざしを模倣しており、いわば陳列された肉欲の近寄りがたさ、空無な衝動に支えられていたというのが適切ではなかろうか。女を抱いた記憶がないのが何よりの証拠、公吉はよりどころのない夏日の茂みにいた。
「第一、おれは痩せぎすな女は好みじゃないんだ。もっとむっちりしたふとももが恋しい」
自分の姓名を略して、みん公などと呼んだ女の無邪気さと、魅了されたという意識が眼前に立ち現れてこないにもかかわらず、奇妙な傾きを示している案山子の如く、どこか骨抜きされたような感じを打ち消したいが為の反撥をしめしてみても、こころの片隅では色香と親しみを分け隔てられず、ついつい悪態に堕してしまうのだった。現に今も肉付きはよいとはいえないが女のふくらはぎは、ちょうど出し殻の茶をすする案配で、以外やのどの渇きにほどよい加減を念頭に上らせることを忘れてしまったように、放擲された淫欲の陰になり忍び寄ってくるのだ。
女はからだつきに相応しく童顔で、しかも舌足らずであった。公吉からしてみれば、蔑視を含んだ色情でこと足りるところであろうが、それは記憶の操作が麻痺しているだけであり、おそらく欲を蔑もうとしている意思を相手に覚らせたい一心であったに違いない。公吉は女のからだを失念していた。が、寝物語にいつか夢のなかで蚊帳を吊って自分を待っている愛人の話しをしたことは忘れていなかった。とすれば、脱ぎ捨てられ履き替えられたパンツはどこに行ってしまったのだろう、そしてあの人気のない小径で自分を追ってきた顛末は、、、

公吉は十、七八のころ、友人の知人のそのまた知人の家に遊びに行って大い居心地の悪さを知ったことがある。細かい理由などいらないだろう、つまらぬ人見知りに過ぎない。そこで想い出すのが、幼年時代、遊び仲間と近所の知らない家を訪れた初々しい情景であった。
まったく面識のない公吉よりふたつほど下の女の子がひとりで猫と留守番していた。こういうとさぞかし物騒で訳ありな家庭に聞こえるかも知れない。確かにそこは初々しいさからはほど遠く一軒家ではない昔ながらの長屋であり、あたりまえのように一間しかなかったと思う。しかも布団は引きっぱなし、あきらかに荒んだ雰囲気を感じとったには間違いないであろうが、実際の有り様というよりもテレビドラマに出てくる場面が再現されている、そう受けとめたような気がしてならない。
風大左衛門はニャンコ先生から空中三回転を学んだのだ。つまり猫はどんなに放り投げられても必ず四つ足で降り立つのであり、誰が言い出したか、猫は公吉らの玩具と成り果てて、何よりも女の子が我さきに投げ技を披露し、いかにも自慢気だった。どれくらいの時間その遊びに熱中したのか定かでない、何回天井めがけ舞い上がらせても猫は野生の能力で見事に着地をきめ、ついには三人そろって抱えて天井に叩きつけてしまった。しかも力加減が揃わなかったので斜めに飛ばしてしまって、ゴロンとあきらかに痛々しい物音とともに布団の上に転がり、即座に小便を大量にたれたのである。
空中三回転の失敗より小便の方が遥かに衝撃だったのは公吉と友達ではなく、女の子だった。わぁっと泣き出したまま、かあちゃんに叱られる、叱られると連呼したのが今でも耳に残響し、というのも猫はどこにも怪我をした気配はなさそうで、問題なのは布団を汚してしまったという現実に行き着くのは理解できるのだったが、その懸念に同情することなく、女の子が早く泣きやむようなだめたのか、そうでなかったのか、疑問ももちろんそこにはない。泣きやむことがまるで布団をもとに戻すと願ってやまなかったのであって、しかも真意はここの母親の顔をなんとなく思い出したからで、ならこの布団は親子ふたりの大事な寝床であるわけだから、申しわけなさを補わなければいけないところだけれども、なぜかしら異性の魅惑になどまったく感心なかったはずの不遜な意識がうっすらと首をもたげてくるのだった。
数日後、あの親子が喪服姿で歩いているのを遠くから見かけた公吉は、背筋に熱いのか、冷たいのか、とにかく何かが走るのを覚え、それが夜更けになって股ぐらへと伝わってきた。

いや、微かだが見覚えがあるぞ、女はせわしなくパンツを履き替えながら、外出しようとしていたのだ。それでおれは、早めに家を出たのだった。ことによればもう一日、たぶんまだ数日、ひょっとしたらしばらく帰省しなかったかもしれない。
「おい、待ってくれよ、追いついたと思ったら先走りやがる」
これは夢は台詞である。


[337] 題名:おばけの妄太郎 名前:コレクター 投稿日:2013年02月19日 (火) 03時29分

そう、いつぞやのL博士にまつわる話しなんだがね、蛇女退治や、公開心霊実験みたいな雰囲気ではないんだ。心霊実験はさておき、蛇女事件はぼくが当事者といっても過言じゃないかったし、L博士の人物像というか、感性、少なからずも定置に据えたい性格、更に突っこむとだよ、嗜好や奇癖がどうした具合に眼前に展開しているのかってところまでは見切れていないわけだったんだ。が、今度の逸話は変人扱いなんてレッテルのだね、いわば表面の文様絵柄よりもその粘着性がよく了解できたと思う。というのは、人間の評価なんて一面だけもしくはごく控えめに反面を見聞して、しかも受け手側の独断に少なからず左右されるものだろう、客観的な認識なんて小難しいことを持ち出すまでもないさ、己の好都合が常に優先されているに過ぎないからであって、これは見方ではなく関係性をどう解釈するかって気分なわけだ。無論ぼくはそうしたあり方を非難するつもりなんか毛頭ないし、批判的態度を胸にため置くほど興味があるわけでもなければ、逆に世情人情と受け流す器量を持ち合わせているはずもないね。ところがだよ、張りつけられたレッテル、シールはだよ、はがれやすいとか、はがれにくいとかって問題じゃなくて、どうしてそうした粘着度を勝ち得たのかって疑問に滑り落ちるんだ。まるでゴキブリホイホイにでも飛び込んだ気分。例えはよくないけれど生死以前の感触だから、そう、勝ち得たのさ、誹謗中傷だの陰口だの、揶揄や軽蔑にしても、まれに賞されたり、感心されたりしても、黙殺よりかは遥かに存在意義ってものがあるような気がするからね、あくまで気だけだけど、、、前置きは短いほうがいいや、で、これまた老年にいたる以前のL博士の語りだから、おっとだからこそ、まっさらな白紙が最初から黄ばんでいたのか、うかがえるってもんさ。しかし粘り気だけだと片手落ち、話しの上っ面も必要なのはいうまでもないね。
若さゆえなぞと文句に一切合切ゆだねようなんて青臭い戯言を吐くほど、懐古趣味を引き寄せたつもりなんかない。フープルの「すべての若き野郎ども」で歌われているように伝えたいだけだ。

幻想の産物に関する感触、例をあげるなら入眠時幻覚におけるあのリアルな視覚像と、とてつもなくシリアスな幻聴耳鳴り、うらはらに浮き世から遠ざかったのだと恐ろしさが夢でコーティングされた心持ちは捨てがたく、それらが渾然となって我が身を異界に誘う、あのまさに微動だにならない金縛りの夜、はたまた、炎天下で髄液がやられたのか、沸騰にまでは至らないがかなり熱を持った影響で面前を覆う、鮮明な異形の群れと、死の世界で建築された気高き景観には恐れ入る。
ところがL博士の心地といえば、どうしたことか小遣い銭を握りしめて駄菓子を買いにゆくようだったというから、さほど実験精神を胸に抱いていたのではないのだろうね。だが、間違いなく博士は妙な場所へと足を踏み入れてしまったと思われても仕方ない。だって路地のさきに見かけない商店があって、地べたアスファルトにチョークで品書きされている、幸い車両が通れるほどの幅がないのをいいことに風変わりな営業をしているものだと、感心ともつかないけれどふと立ち止まってしまった。
コーヒー、コーラ、ジュース、三百円、ただし初回につきすべて三千円。さすがのL博士も怪訝な顔で見つめていたらしいけど、こう判断したらしい。「これはつまり入会金を意味している。ただの商店であるまい」とね。よほど太いチョークで書きつけたみたいで、内心投げやりなのと小馬鹿にした感じを居並べつつ、足底で踏みつけながら店内に向かったのだったが、品書きの白い文字はかすみこそすれ、灰色の地べたに消え入ることはなかった。
ドアの左側に窓があり三人の大人が睨みをきかせた目つきで博士をじっと品定めするふうに無言で立っている。好奇心が勝るよりも警戒心にとらわれるのが当たり前だったので、思わずひるんだけれど、何となく癪にさわり平然とした表情を作ったまま、棒立ちでいたんだと。やがて窓のなかのひとりが目配せをした。
見ればさながら道場の看板のごとく物々しい代物に「入らずんば速やかに、迷うことなくば軽快に」と墨書きされており、これには戸惑うより大いに発奮し、口を開くことなく店内へ吸い込まれれば、窓の三人とはうってかわってにこやかな気色をした若い女が「どうぞ、お好きなお召し物を選んで下さい」まるで貸衣装でも借りに来た客を扱うような物言いをする。
そこは薄暗く、貸衣装でもない、ごくありふれたシャツだのネクタイだの上着が無造作にハンガーに吊るされているだけである。しかも有料だというので仕方なく適当なジャケットを借り受け羽織ると「どうぞ、こちらへ」いかがわしさにあふれた気配をものともせず、その声のなんと冷涼で気品のあること。
L博士はこの時点でもはや日頃から抱いている怪しの領域を自ずと開拓した気分になってしまい、言われるがままに決して清潔とは呼べない廊下を抜ければ、そこは私設体育館とでも形容したい中々の広さを持った空間が待ち受けていて、はたと合点がいった。「やはり道場であったか」そこまでの眼力は間違ってはいなかったし、不信感を捨て突入を試みた気概は非難されるべきでもない、ただ、L博士の眼力の本質がこれほど鮮やかに受け入れられるほうが不思議さを通りこして、ぼくらにある種の感銘をあたえるのはあながち見込み違いでなかろう。
さて博士の両目に映ったのは先ほどのほこりがたかったような陰気くさい小部屋ではなく、煌々とした明かりの下、それぞれが、といっても若者以外の顔は存在せず、男女同人数が誰の指導を乞うている様子もいままに、好きな方向に目線を投げかけ、いや、宙に彷徨わせ、身体の動作もまばらなら、もたげた心情も様々らしく、どことなく共通に思われるのは目鼻立ちが表した恍惚と嘆き、喜悦と悲しみがちょうど紅葉の盛りに彩られた深山を訪れたような趣を呈していることであった。色彩の鮮烈さとくすみが折り重なり合いつつ、晩秋の冷気に反意をしめし、のち感謝の念に転じるであろう。
心もとなさがL博士の胸を打った。彼らは競技の準備体操をしているとも、自由連想に基づいた身体放出を演じているようにも感じられ、が、上着を貸しておきながら、なかにはほぼ裸身の入れ墨を施した坊主頭の青年が床を転げ回ったり、かと思えば、生真面目そうな事務服を着た女性が首をふりながらよだれをたらしており、しかも指導者らしき人物の影が目を凝らしてみても一向に見当たらなかったので、L博士は次第に尋常さを逸し始め、せっかくだからと明々と照り返す床に身を横たえ、どんぐりころころの歌なぞ小声にしながら、解放なのか、放縦なのか、さては無防備なのやら、脳裡に意味を求めることなくしばらく若者らに入り交じってみたのだった。
ぼくの理解できる範囲はせいぜいこれくらいであり、その後の博士の挙動には正直なところ同調は少々で、残りは不可解な凡庸でしかなかった。もっともこれは軽視でも失望でもない。ぼくがもうちょっと悪のりを好む人間だったら、別な意味で心底落胆していたに違いないだろう。
L博士はどんぐりの歌の長さを知っていたにもかかわらず、似たように床に寝そべったままの女性に何気に近づきその束ねを解かれた長い毛髪のかびのような匂いに魅せられ、次には一周してからまた接近するという軍事行動に走り、立ったまま首ふりしている人数も念頭にあったので、一層どんぐりの唱歌も高らかにスカートの奥に視線を送る方法も瞬時にして身につけたのだった。
関節に痛みを覚えた頃にはこの道場の生業がおぼろげにわかってきたらしく、さすがに立ち上がり辺りを冷静なまなざしで見回し、体育館に通じたあの廊下に向かおうとしていたひとりの女性のうしろに駆け寄り、声を出したまではよかったのだが、ここに来てどんぐりの歌以外、誰ひとり口をきいてないことにたじろでしまい、
「あのう、ここは何というところでしょうか」としどろもどろで尋ねたところ、恍惚とは無縁であるというふうないかにも利発で物怖じしない顔つきをした、それでいて愛嬌をうっすらした微笑のうちに潜ませた肌の透き通った奇麗な女性が、
「わたしも知りません」そう丁寧とつっけんどんの半ばくらいの口調で答えた。
「ならば」と言いかけたL博士の質問を見下すよう「数年前より通っていますけど」とこちらの腹を感知した様子で愛想笑いを艶やかに浮かべたのである。
ぼくが博士に同情の念を禁じ得ないのは、そんな凡俗な対応に、また無邪気さとは言い切れないぎこちなさにあって、もっと言えば、本人は十分気づいているはずなのに、余計な失態をあえて見せつけ、その見せつけもすでに若い女性の色香に対してではなく、我が身に返り血を浴びることの悦びを先取りしてしまった邪念に他ならなかったのでどうしようもない。
そつなくその場から立ち去ろうとする意思に逆らう気概が天性のものであるかのごとく博士は振る舞った。そうすることでより明確な自分の立場を知り、自嘲を恥じらいと切り離せるのでは、よぎったのは酔漢の反復意識に近かった。
「ところで、ここでは自由恋愛なんかもおおらかなんでしょうね」
これがL博士の捨て台詞であり、月夜に捧げた悲観であった。のどが渇いた。
「そうした欲望や身についた垢を払い落とすのがここの集いなのです。誤りのないよう願います」
女性は笑みを草花のいばらに変え、博士に背を向ける。
呆然と立ち尽くす時間も計算通りだったから、その目は遊戯に耽ったさきの食傷を予感しており、わざと重たげな足取りで帰ろうとしたとき、きっと見落としたのだろう、親戚の子が進学受験にと勉強部屋をあてがってもらった記憶が吹き寄せ、しかもそっくりそのまま室内が再現されていたので驚いてしまった。だが、積み上げられた参考書や文具の類いがやけに生き生きしているのに、そこは無人だった。


[336] 題名:閃光 名前:コレクター 投稿日:2013年02月12日 (火) 05時20分

寝静まった妻の微かな気息に耳を向けるまでもなく、山下昇は苦虫をつぶしたような微笑を浮かべている自分を思い、消え入りそうな予感に深く沈みこむのではなくて、反対に暗幕でさえぎってしまった。
だが、暗幕の内側に息づくものを映像が終了する案配で拭いとることは出来そうもない。無言の会話、、、眠りついた妻に問いかけようとしているのだろうか。それとも、子犬が飼い主の傍らで奮起し、大はしゃぎするのに似たような、しかし大人であるから意味合いはいくらか違っているかも知れない、そんな安堵が胸のなかにゆったり広がっていくのを感じていた。とすれば、問いかけというよりも、机を前にした沈着とも緊縛とも無縁でありそうな顔つきは遠い夜空を眺めていた、いつかの想い出に誘われ、ふとため息がもれたのが妙に愉快で、寝室続きの部屋の空気はやはり同じであるとうなずいてしまうのだった。
意想は独り身の頃、酒に火照った頬をなでてゆく寒風に始まり、銀河の果てから訪れた夜の支配人の幻覚に導かれ、夢と現実がないまぜになった仮想世界に足を踏み入れ、殺戮のあげく自らも惨たらしい仕打ちに至った経緯を叙事詩のごとくよみがえらせていた。
潤んだのはまなこではない、森閑とした真夜中の家屋に伝わるか伝わらない、耳鳴りに等しい潮騒の、そして遥かな海面が生み出す絶え間ない月光のきらびやかな艶にあった。昇はひとり小舟を漕ぎ出し、月明かりを追い求めたが、陸地から離れるほどに夜空にかかった暗雲に妨げられ、漆黒の海原を彷徨いはじめると、夜の深淵を眺め続けているおののきながらもどこか優美な心持ちが寄り添った殊勝な雰囲気に全霊を捧げた。櫂を手放した昇はまるで夜釣りの要領で決して海底まで届きそうにない錨を投げ込む。そして酔眼で仰いだ天空に再び夜の支配人を見出そうと努め、対話を願ったのだ。
揺れる小舟は波間にとどまり、陶酔感を伴った風景画が描かれ、鈍く垂れ込めた雲間は晦冥より解き放たれて、大いなる月輪のもと画はいよいよ色彩豊かに、諧調をも授かって無欠の夢に落ちていった。
苦笑はときに深刻さと切り離されたように、不敵でありながらそのくせ甘えん坊みたいな相反する気分を形成することがある。昇はその理由をなんとなく分かった気がしたけれど、それ以上深追いすることなく、夢の底に落ち入る愉楽の影に隠れた目のひかりを思い返していた。
姉の望美が見せた憎悪と呼んでも差し支えのない、激しく突発的な怒りが目の奥に灯った幼児の記憶。しかし、萎縮してしまい、あるいは咄嗟に泣き出したにもかかわらず、その感情に溺れるどころか、姉の同級生であった美代への不思議な憧憬が先んじてしまい、その後の顛末を聞き及んだ少年期の記憶がまざまざと胸元に這い上がってくるのだった。あのとき、美代はあきらかに昇から玩具のライフル銃で攻撃されたのだったが、生来の優しさからであろうか、意地らしくかばってくれた様子が幼子ながらに感じられ、また姉の叱責は鋭い刃物のようであったけれど、その裏に秘められた肉親の情は決して自分を傷つけたりしないだろうという瞬時のひらめきも、無垢なる神経が受け取ったのであって、大人としての成育が培ったものではなかった。昇の意想のゆらぎはすでに海辺より戻り、これは些細な褒美なのか、潮騒が耳元にまで達しているふうな聴覚を得たのである。
更には月のひかり、このまどろむには殺風景でありながら、狭苦しく、息苦しくさえ感じてしまうことのある部屋に満ちているのは紛れもない夜の希望だった。
「なに、ぶつぶつ言ってるの」
まだ十分に新婚と呼べる家庭にあふれているもの、、、欲を言い出せばきりがない、
「なんにも言ってないよ。もう寝るからさ」
「あ、そう」
ほとんど寝ぼけた口調であったが、昇には新妻がふと目覚めたことが奇跡であるように思え、あらためて己の居住まいに意識を傾け、まぶたをそっと閉じてみた。希望が信号機の点滅であるなら青から黄に、そして赤に変化してゆくのは間違いない。つまらない考えをと払拭しかけたのが仇になってしまった。閉じた目のなかに再度とりかえしのつかない暗黒を住まわせてしまったのである。
姉と美代の顔が当時のままめぐってきた。望美はともかく美代の顔がこれほど鮮明に舞い戻ってくるのは珍しい。確か美代はあまり前例のない吸血事件を起こして、もうひとりの姉である有理とその娘、つまり姪の砂理も何らか関わったらしいのだったが、住居に距離があったこともあり昇はその件に触れる機会を逸していた。当然それなりに興味をひかれたのだけれど、姉らは禁句のごとく口を閉ざそうといるのがうかがえたし、砂理に至ってはこころに傷を負ってしまったようなので、おおよその見当はついたものの好奇心を優先させてまで真意を探りだしたいとは思わなかった。第一身内の醜聞に近づく足取りは自身の墓穴を堀かねない、変なところで昇は望美の憎悪を反転させた童心を思い起こして、辻褄が合ったような納得に落ち着いた。
海上からたどって来た波のざわめきが静まり、深更の真っ只中に、ちょうど時計の針がその時刻で止まってしまったふうな錯覚を得たころ、美代の容姿は曖昧になり、ただ赤い洋服を着ていただけとしか認識できなくなってしまった。信号機はこうして昇に睡眠を促したと思われるのだが、当の本人は暗渠への転落を痛感し、救いようのない意識に目覚めてしまった。
夜風に乗ってゴミが路上をのたうちまわっているのだろう、カラコロとさほど不快でもない音をたてながら、窓の外を遠ざかってゆく。厳粛であるべき夜はいにしえより神事に相応しいと伝えられ、方や魑魅魍魎が跋扈する魔の刻でもある。静謐のなかで喧噪が演じられるといった矛盾を人々にしらしめながら、連綿とこころの中を例えようもない闇で覆ってきた。
昇は崇高な考えを排する調子で、それまでのしめやかな気配を急にかき乱したくなり、しかも素面で息をしていることの生真面目さとぎこちなさ、今から飲みだすほどの大胆さもない、今日は週末ではないし、いくら冬日だとしてもう夜明けは近かったので無性に神経がたかぶるのを抑えられなかったのだ。転落が痛手ならこみ上げてこよう欲情はひりつくばかりの、そう毛穴のひとつひとつまで見事に通過してゆく勢いであり、逆巻く生命である。
軽く寝息のする方を振り返りながら、新婚である現実を骨折より強く痛感し、一気にもたげた下半身を浄化させようと立ち上がった。毅然としているようで宙に浮いたふうな、酩酊した折の意思を置き忘れながら目的だけが根元に残っている枯れ木なのか、新緑の放埒さなのか、どちらとも判別つかないまま、昇は見慣れたとはまだ言葉に出来ない妻の寝顔をのぞけば、猛烈な淫欲に駆られている実態を今度は外部から見届けている錯誤にとらわれて、陵辱に値すると行為をためらってしまった。
「明日があるじゃないか」
妻にだって仕事はある、こんな時間に起こしてまで股間の充血を、いや脳裡の悶えを解放するまでもない。じっと寝姿を見つめているのさえ、気恥ずかしく感じられた。その仕草、挙動はさながら小用を足しにいきながらもしずくさえ出ないと聞かされた老人のそれを想起させ、増々やるせない気持ちが膨張したので、己の手で突起したものを慰めるしかなく、そうと決まれば、眠れる妻を脇に置き、余裕の精神で自慰に専念し始めた。これ以上の情愛はひとのこころに備わってはいない、なんという施しだろうか。
肉欲に突き上げられたはずが、早くも絶頂を迎えかければ、いつの間にやら白夜を彷徨しているふうな心境に達し、また夢幻であった去勢の記憶が降りてきて、実感はより切々とした血肉に絡まりあいながら、相変わらず苦笑を張りつけている面をまざまざと焼きつけるのだった。


[335] 題名:書き割り 名前:コレクター 投稿日:2013年01月29日 (火) 03時32分

そういやあ、最近コタツに当たったことがないね、いや、去年の今頃だったかな、知り合いの家でほんの申しわけ程度に足の先を入れたっていうのはあったけど、ほら、ぬくぬくと胸元までもぐりこむようなのは何十年もまえの記憶だよ。第一背丈が違うだろう、子供の時分はそれこそ頭まですっぽりで、赤外線らしき温熱を全身に浴びてたもんだ。目が悪くなるから首を出しなさいなんて親に叱られたけど、懲りずに赤く閉ざされた身を慈しんでいた。
なに、大した趣向なんかじゃない、どちらかと言えば馬鹿のひとつおぼえみたいに、とどまることを知らない満ちあふれた時間にどっぷり浸っているような、無邪気なのやら、想いを馳せないがゆえ透明感にのまれていたんだろう、外の景色が移ろうのと同じで家の中だってこたつの中だって、決して昨日も今日も一緒であるはずもなく、それは寒さをしのいでいるばかりじゃないからであり、退屈を覚える間があたえられてない縮こまった空気のよどみがただ新鮮だったのさ。
で、こないだ夏日の夢を見たんだがね、家中の戸が開けっぱなしにされていたから、今じゃなく、やはり小さな頃だ。自分の家なのかどうかも分からなかった。似ているとろこはそうだろうし、まったく記憶に跳ね返ってこない部屋や家具に取り囲まれていたんで、どっちでもなかろう、そう思っていたんだよ。ああ、これは目覚めの意識だけど。が、そんなことは問題ではないね、大事なのは真夏らしく、風鈴なんぞ、ちりりんと涼しげに鳴っているのに、汗ばむどころか、暑さを感じてなかったという事実だよ、そうだとも、うたた寝だろうが、疲労困憊だろうが、酔いどれの眠りのだろうが、意識とおさらばしたわけじゃないだろう、逆に普段見かけない隣人みたいな自分を見届けたり、その気になりきってみたりするんだから安閑なものさ、たとえ落武者が突然あらわれて槍で胸を突かれても、、、まあ、痛みはあるね、あれは凄まじい衝撃だった、、、でね、痛感にしろ温感にしろ、やはりやって来ない場合が多いな、風鈴の音もいつしか消え去り、書き割りの家に相応しいざわめきやら、反対にひっそりしたものやらが耳を通過していくんだ。
聞き覚えがあるからそれなりに納得していると思う、蝉らしき怪鳥であっても、花火をまねた鬼火であっても、金魚売りに化けた殺し屋であろうが一向にかまわないよ、風情に埋没している余裕がないのはこっちでも同じだろう、なら団子状になったつみれ汁を味わうときの気分さ、コタツの中でまるまっていた洟垂れ小僧は夏を夢見ていたのかも知れない。
そこでだよ、夕飯の時間がやってきた。むろん夏の陽は長いから夕刻でもまだ浮き浮きするくらい明るみにほだされていて、早く飯を食らって外に飛び出したい勢いなんだね。ああ、気分がだよ。
さて間違いなくあの金網のざるは見覚えがあった、銀色で新品のときはピカピカ輝いていたんだろうけど、水垢とかで鈍い色合いになっていたざる、それにそうめんがたんまり盛られているんだ。一家四人、水切りを兼ねたざるに箸をのばすって寸法で、こう言うとおおげさなようだが、あの光景こそ夏の夕暮れに現れ出た白い幻影で、しかも、そうめんだけだといけないからご飯も食べときなさいって言いつけまで、そっくりそのまま立ち戻ってきた。今からふり返れば炭水化物ばかりなんだけどね、ラーメンライスとか、お好み焼きに飯とかよりシンプルで、そうでしょうが、ラーメンには具あるしスープとして単品なりの味わいがあり、お好み焼きにいたっては肉に卵に野菜だから、断然比べてはならない、それに色合いや香りだって別ものだよね。
白い夏が幻影たる所以は、そうめんライスによる涼感で刹那に流れ去った味気なさにあるような気がする。誰かが言ってよ、一束に数本だけ色つきの麺がまるでご褒美のごとくあって、兄弟で取り合いしたんだとさ、まったくしみじみくる話しだ。どぎつい色ではなかったかな、そう感じただけか、淡い桃色に黄色、淡くもなかったか、しばらく色つきそうめん食べてないからね。今度確認しておくよ。
冬より夏がカラフルなのは太陽や海や草花のせいとは限らない、蒸し暑くてまさしくそうめんまみれでもよかろうはずなのに、色鮮やかなんだよな、ああ、そうだとも、色気も盛んだった、女は肌の露出が高まるし、男は下着でその辺をうろつきまわり、落とし物を拾うような心持ちで目をぎらつかせていたからね、あんな視線が日本中に飛び交い、増々肌はあらわになって小麦色に染まるし、悪意も敵意も混ぜこぜにしてしまい仕方なくなんて、不埒な思惑を隠しきる野暮は言いっこなしで、派手なパンツなんかちらりと見えたりすると、大喜びしてたんだから、やはりカラフルなんだろうね。ビー玉だって透ける色を無造作に見せてくれていたじゃないか。
白いパンツにこだわる輩もいることはいる、そうめんライスで食を満たしてからでも遅くないよ。いいや、これは皮肉なんかでなく、反作用としてなおさら白い幻影を追い求められ幸せだってことさ。とすれば、さしづめコタツは赤い幻影だ。よくぞ寒空のした、すきま風を遮断する心意気でちいさな太陽を演じてくれた、あっぱれだなあ。
曇り空からは白い粉雪、正月には餅つき、白髪のばあさんが梅干しをひとつまみ。隣の子供が窓の外に幽霊を見たと騒いでいた。で、夢はその後かき氷に向かうんだ。あの頼りなさそうで、その癖みずみずしい空色をしたプラスチックのスプーン、奮発したのか、パインやらマンゴーやらイチゴやらが乗っかったのをうれしそうに口に運んでいる。しかし、ちっとも冷たくない、さっき言い忘れたけど、そうめんもこれといった舌触りがなかった。いつかライスカレーをもぐもぐ食べながら、まったく異質の味覚に驚いたことがあってね、あれくらいだな、夢の味わいなんて。そもそも向こうに食感を求めるじたい間違っているし、強欲だ。
ところで強欲ついでにコタツのなかで耽っていたのは事実だから、去年あまり深々と足をのばせなかったなんて言うと、またぞろ深読みしすぎなんてそしりを受けそうで萎縮してしまうけど、乏しい想像力を赤く光らせたのは、コタツそのものより、これも思い出の彼方にあるのだがね、どこかの若夫婦の家の冬、生まれた赤子に頬ずりしながらコタツ布団に倒れこむように愛おしむ若妻の様子、その仕草、自然にわき起こったイノセントな情感を引きづりながらも、見つめている側には暗雲となって押し寄せてくる色欲をごまかせないんだ。どうしても夏の夕立のような趣を覚え、同時に乱れた姿態と思いなしている自分を責めては解放させようと気分がそわそわしてくるから、一気に洗い流されるふうに清められたい、そう願ったものさ。
コタツで寝ると風邪ひくというのは布団が短いからだと思っていた。だからベッドから上掛けと毛布を引っぱがしてみたんだ。予想してたより暑苦しくてね、あのときも夏の情景が夢にひろがったんじゃないだろうか。


[334] 題名:冬景色 名前:コレクター 投稿日:2013年01月22日 (火) 04時27分

「へびは冬になるとあまり見かけないわね、夏とか家と山の間にあるコンクリート部分にいる。コンクリは涼しいのかなあ、木陰の湿気った土のほうが涼しそう、かなへびみたいなのが多いかな、アオダイショウは何回かみた、マムシはみてない、赤い模様のきれいなのもいた。毒蛇かと思って調べたら毒のないやつだった」
「へえ、調べたのかい」
数矢の声がいつになく急ごしらえの生真面目な調子を帯びていたので、多津子は通りすがりの乳児に向かって目配せするときに似た、あの母親にも同様の気分を分けあたえたい朗らかな衝動にまかせ、
「そうよ、あなたに教えてあげようと思ってね」と、つんと鼻を上げ気味に返答した。
「おいおい、おれがいつ教えてくれなんて言ったんだよ」
「怖いものが好きだって話していたじゃない、幽霊や妖怪よりか自然界に棲息する変わった生き物がって」
「そうだったっけ、お化けの類いが信じられなくなったんだろうね、きっと」
口を開きながらも普段の快活な顔のなかに薄日が被さったふうな鈍さを現した。しかし太陽は遠い海原にあり、乳白の雲を透かして砂浜を照らしているような擦過するあこがれを香らせていた。
多津子は数矢の人見知りを知らない性格が好ましかったけれど、軽やかな抵抗をしめしているのか、さきほどの口調によって毛嫌いより深い感情をゆっくりと、まるでグラスのなかの液体に沈む紙切れみたいに、浮くことを忘れているまどろみに近い様相で、受け入れつつ目線を通し、どことない焦点に結ばせるのだった。逆の気質であることより、むしろ数矢に寄り添うかたちで、こころのうちに侵食しそうな悪意を甘酸っぱい情緒に置き替えてしまって、柔らかな感触だけに接する自分を両極から眺めていたかったのだ。
ひとりよがりとは決して呼ばせないところが多津子の持ち味であり、自らもそこに誠意を感じとっていたのだから、数矢の軽快な人当りがあまりに無垢であると見なす場合以外、首筋から肩にかけて不快な緊張を覚えることもなく、やや誇張ある加減の笑いに紛らわせていたのだ。で、その無垢である場合なのだが、多津子には明らかに嫉妬の念が生じているのは承知しており、なおかつ相手が女性であれば、むろん不本意な情感を押しつけられているとさえ思いながらも、極めて冷静に容姿を観察するこころがまえを放棄せず、美貌であればあるほどに自分の位置を確認してゆくのだった。
「数矢さんにはお似合いだけど、それはあくまでうわべだけ」
落ち着くさきはおおむねそんなふうであり、これは懐が深いというのではなく、情念による情念のための悲喜劇をあらかじめ鑑賞していた結果で、多津子の信念は常に過去形で運ばれていたのである。彼女の一年後はもう日記に書かれてしまっているし、五年後は祭典の記憶となってよみがえらせ、さらに十年さきには退色した木目の家具の肌触りを愛でていた。
信念が情愛に連なるのであれば、不確実で曖昧な現在の意識を認めるわけにはいかず、かといって先送りの実りを願うのは打算を解するくらい罪に感じられた。知り合って半年の間、多津子は恋とともに生き、自分と数矢の距離にとらわれていたけれど、性質の隔たりに嘆くほど愚かでないのは清く了解しており、反対に広がりゆく間合いにちから強く踏み込んでは、信念とは異なる足跡を残していった。
ふたりの道行きには降り積もった雪の気配が漂っていたし、ひとりきりのときには幼い頃、石油ストーブのうえで寒気にもの申す、やかんの湯気の直線的で、しかも神妙な息づかいが放たれ、まだ見ぬ粉雪が舞い降りてくる様を呼び寄せた。
またある日には、そう、ふと深夜に目覚めたとき、世界中が眠りの底に張りついてしまい、必ずしも我が身だけとは考えたくなのだけれども、しじまに促された秒針のオブラートで包まれたふうな鋭角さに耳を突かれながら、外の雨音を緩やかに聞き取った渇いた悦びの上質な感覚が捨てがたくて、自身の感受性に埋没してしまうのだった。
数矢は無駄口も多かったが、そんな一人芝居を懸命に演じているすがたを見逃したはしないであろう、きっと闊達な気性には似つかわしくないと察しているから、あえて言葉にせず、ありがたみのない笑みなんか浮かべてごまかしてしまって、いきなり手を握りしめたり、抱き寄せたりするのだと、、、
多津子の弱みは唯一ここにあった。四季折々の風景が却って自分の位置を定めてくれているような、あたりまえで律儀で、そのくせどこかしら心もとなく、逆恨みをまねてみる気持ちさえ顔をだし、寒暖のうつろいに敏感に反応するのだった。隠しきれない部分は領域である。多津子はすぐに衣服を脱がされるのを極力拒んだ。あたかも素肌が冷気に、熱気にさらわれるのを怖れるごとく。
胸の谷間をくだり、なだらかに忍び寄る指先の動きに反応しつつ、最後の一枚が剥がされたゆくのをまさに不安の目で見つめ、ぼんやりした恍惚と入れ違いになる感覚を、いつしか西日射す港で交差する漁船に重ねていた。方や夕陽を背負い、方や残照を待ち受ける格好ですれ違う、時間そのものが海面に波打ち、安定がおごそかに揺らぐひとときを。
下半身に被さった揺れに身をまかせつつ、多津子は数矢の張りつめたものを飲みこんで、影を想い、出航するからだと、寄港するからだを想像してみた。だが、男の勢いは悲哀さえ表情ににじませながら、激しく燃え上がり、脳裏に映じた北風にさすらうような淡くたゆたう景色を吹き流してしまい、転じてからだの芯に巻き起こった有無を言わさぬ快感につらぬかれ、落陽の赤みは乱れ、全体に全身に波紋となって大きくひろがった。思考が止まりかけたにもかかわらず、多津子はこれで数矢の八方美人を気高い気持ちで許せたと知り、のどからしぼりだすように鮮明なうめき声をあげ、一瞬たじろいだ相手に今度は自分が許しをこころのなかで乞うた。
気が遠のきかけたのは曙光のせいに違いない、真夜中に鳥が巣のなかで壮大な夢を見ている実感を今しみじみ悟り、逃げ去ってゆく信念に再び出会うだろう、そうかみしめるのだった。


[333] 題名:特急列車 名前:コレクター 投稿日:2013年01月14日 (月) 19時08分

長旅を期待しながら列車に乗りこむ風情は眺めるがわとて、ちょうど色づき始めた草花を愛でるふうに殊勝な心持ちへ傾くのだから、どうであろう、この身がすでに車窓のなかに座しているのであれば、それは景色が後方に流れゆくままにまかせた風の抵抗を関知しない、あの気取りを忘れた街ゆく視線をより優美に引き立たせてくれるに違いない。感じうるものはレールの惜しげもなくはじき出す暗算が、耳にしっかり届けられているという単調な、しかし、確実に空間と時間を蕩尽する意気込みが典雅に伝わるのであって、ことさら秘められた野心など持ち合わせる必要はなかった。
駅舎より旅立ったはずなのに、すでに二つめの陸橋を抜け平地へと勢いよく走りだす鳥瞰を得ているのが不思議といえば不思議だったが、旅情に納められた揺らぎはまるで水枕のような感触で後頭部や額を柔らかにし、湛えられた水の透ける様子は車窓のガラスに挑んだのか、実際の風景をこの目に映し出すよりも空へと舞い上がったのだから、これほど心地のよい出発はなかった。
新幹線に乗り換えた覚えはないのだけれども、いつしか私は九州まで運ばれており、それは冬空に願いをこめた想いがかなったのであろうか、北国を敬遠した理由を見いだせないまま、とにかく見知らぬ土地が物珍しくて仕方ない、意想に然うよりも南国の情趣を抱えたく、まさに今の空気を呼吸するのだった。
生来の方向音痴をかみしめるがごとく、ふらりと訪れたのは、こう言うといかにもひと事みたいだが、確かに旅なんて実感をもたらしてくれるよりか、絵空事に向き合っているのを緩急自在に試しているだけだろうから、まして私の意識は車窓の流れにまるで即していたかったので、今回は見物客なかの見物客を装い、ここが九州の何県であるのやら問うことなく、間口がやたらに広々とした湯治場らしき、かなりの年月を経た建物の玄関先をぶらついていた。
「ねえ、しばらく働かせてよ。経験ないけど、わたしこういうとこ好きなんだわ」
「今思いついたのですか」
私はどうやらこの湯治場の従業員に間違われている、が、臆することなくいやに甘ったるい声を出す若い女性にそう問うのだった。
「そうよ、気に入ったの」
若い女の顔が日常領域より迫ってくる。私はにせ従業員の仮面を隠れみのにし、ムズムズする緊迫をやんわり抑えつつ、ありもしない矜持を保つのが優れた才覚であるかのように、けれどもやや気恥ずかしい口ぶりは隠しきれず、
「わかりました、ではあちらの方で待っていて下さい」
と、沈着な面持ちの裏に留め置かれた情感を覚られることなくそう答えた。いや、覚られようが、されまいがこれは矜持の問題なので、湯上がりにしたたり落ちる汗を羞恥へ置き換えるほど気弱でなく、また複雑でもなかった。ただ、女が素直にうなずいて待ち合いの長椅子へ足を向けたとき、急な湯冷めに軽く身震いしてしまった。そう、私は湯上がりだったし、まだ宿泊の手続きも済ませてなかったので、帳場に人影がないの訝しながら、がらんとした広間を見まわし、旅のほどよい疲れとめまいを混同させ、ものの見事にこの空間に張りついている大きな振り子時計へ行きついた。
「3時20分」
私たちはすでに経験済みである。極めて似た状況とまったく同じ気持ちが絡み合いながら屹然と、あたかも鏡のなかの分身から指令される場面を、、、
「さあ、ここがあんたの部屋やで」
ふたたび勘違い、薄茶のえび色がかった割烹着にひと懐こそうな関西弁、私と同年代に見える。
ともあれ言葉のアクセントがもたらす効果は侮れず、勘違いをただす気力がなかば欠けていたのは事実で、先ほどの既視感はしりぞき、妙な気安さと、それは例えば、子供のころ山のふもとでドングリを拾い集めたときに覚えた熱中と、方や無性に殺風景な心持ちが同居しながら寒風に紛れ込んだ思い出であり、その手のあかぎれを見やる乾いて風化している心境に包まれていた。つまりほぼ遊戯に乗っかっている意識からはみ出すことがなかったのだ。
「ほかの先輩らはあとから来るさかい、あんじょう挨拶しときなはれ」
私は若い女性を面接したつもりであったけれど、なりすました仇がこの逆転劇を生んでしまったのか、見習いどころか住み込みの従業員に移り変わっている。そして部屋の様子をつぶさに見ているうち次第に、不穏な雲行きを知るはめにおちいり、それまでの見物客たる安楽さから隔たりを感じないわけにはならなくなってしまった。
廊下からの出入りはよしとして、開けっ放しの障子口が横一列、左右にそれぞれ三部屋はうかがえる安易な造作に閉口してしまい、いくら手違いとはいえ、借りにここで寝起きする身をさっと思い浮かべただけで、明らかに気が滅入ってきた。大部屋に雑魚寝する様相と大差なく、きっとプライバシーもないであろう。
一応幅狭いがベッドはあり、毛布も布団も用意されている。けれども部屋はいたって手狭く、物置き場とばかりに壊れたと思える机型のミシンや、薄汚れた食器類、なにに使われるのか判明しない長い木の棒などが、意味など無用といった有り様で放置されていた。極めつけは右となりの障子から便器が顔を出しており、これには瞬時にして不快な表情を示さなければならない。ところが左右ではなく、もう一方、廊下に向き合った外窓を開けてみると、河川に似た流れがこちらに通じていて、しかもほのかに湯気を立てている。
「ああ、これは温泉のあまり湯でんな、と言うても汚水ばかりとはちゃいますで。こんこんと湧いて出た自然の流れですがな」
この横一列の部屋部屋のしたが川筋なのか、男の話すよう冷気に水面を吹かれ湯気が消え去ると、底の細やかな砂地が透けて見え、それほど深さもなく、思わず「ここから飛び込んだら気分いいでしょうね」と言いかけたのだが口をつぐんでしまった。
もう絵空事ではなくなっていたからである。旅の情趣がこんな形で哀感に転じてしまう奇縁に胸がざわめきだし、両の川岸に少しだけ目線を送り、透明な流れをじっと眺め続けていた。
もう家には帰れないのか、これから何年ぐらい住み込むのだろう、、、あてどもない台詞にあえて抑揚をあたえるふうな技巧を用いた意識は拭いきれないまま、しかし吐いた台詞に痛切な思いが宿るのは否定できない。私は湯治場へやって来たのだ。
「早速やけどな、夕飯の支度や、自炊のお客さんもおりなさるし、わしらが調理せんならんこともある」
そう言うと男はベッドの脇に大きな白い発泡スチロールをどしりと置いた。ふたを開けた途端、私はすぐさま声をあげてしまった。
「イルカじゃありませんか」
「はいな、あんたさばけるか、今日のメイン料理や」
「いいえ、とても、、、」
もうかまわない、私にだって自由は残されている、宿った意識から逃れよう、私は働きに来たのではない、旅に出ただけなのだ。怒りでも悲しみでもなかった、むしろ関西弁の男に真実を告げるのが気の毒にさえ思えていたのだから、激しく重い感情なんて抱えていないのだろう。
だが事情は一変した。男がイルカのあたまをなでたら信じられないけれど、その色は赤茶けたふうに退色し、あまつさえアザラシを想起させる犬に変貌してしまったのだ。丸い目を見開き、両手を交互に舌でペロペロなめだした。私は恐る恐るその未知の動物に手をやったところ、わざとらしくなめていた舌でペロリとやられてしまい、背筋に電流が走り、凝り固まったまま、ひとことも発することが不可能になった。
イルカ犬は、そう私は勝手に名づけたのだが、じっと私の瞳をのぞきこみ、抱きつこうとしたけど、不可避なはずの身はたやすく一歩うしろに引かせられた。このまま、どんどん後退して行けばいい、廊下に戻り、だだっ広い玄関からも出て、特急列車に乗り込もう、そしてもと来た町に帰るのだ。
そんな意識とは無関係にイルカ犬は私と目を合わせたまま、静かに微笑んでいるのだった。


[332] 題名:新・探偵 名前:コレクター 投稿日:2012年12月31日 (月) 16時50分

出来れば259「探偵」268「続・探偵」、もしくはSTORY内「短編」の同タイトルにざっと目を通していただけるとありがたい。正統な続きものではないけれど、まるっきり無関係とも言い難くて、どうしてかというと、あなたがこちら側にいて自分がむこう側の橋から呼びかけているようなものだから、多少の意思疎通とか、了承事項の確認(そこまで面倒じゃないが)なぞ入用な気がしてこないわけでもなく、これは例えるなら、年末風習の年越しそばみたいなものであり、が、別に細く長くなんて縁起でもないし、取り立てて深意があるはずもなく、気楽に冷めないうちづるづっとすすってもらえば幸いなので、出汁に鰹節はもちろん、昆布も敷いておいたら、どうしたのやら、本来うまみ成分が交じりあって香しい味わいとなるところ、卑猥なことにその昆布の切り方が、つまり大変こころ苦しくて、気恥ずかしいけれど、女体の股間に繁茂する黒々しく、艶やかな形状となっていて、それは水だしした結果ぬめりが多いに貢献していると考えられるのだったが、自分としては毛頭そんな期待をしてそば汁を仕込んだつもりなどない、ましてなべに沈めてあった昆布が知らない間に、死せる黒衣のグリーン女史の股ぐらに張りついているなんて、夢にも思ってなかったし、斯様なリサイクル的行状にいたろうとは、いや、非日常的な按配になろうとはまったく予期できるはずもなかった。
あまつさえ真犯人の汚名を着せられ続け、不運の最期を遂げたこの女性に屈折した官能を求めようなど不届き千万、金田一探偵の名推理には感服するしかなかったけれど、三たびグリーン女史のすがたと出会うとはにわかに信じ難かった。しかし、どうやら劇中は収拾つかぬ事態に陥っているらしく、
「だいたいだよ、死人の着物のすそをめくりあげて昆布をだね、そのように扱うとはどうしたもんなんだ」
前回の役者とは違う見慣れない顔の中年男が、激昂しつつもどこかしらくすぐったそうな口ぶりで周囲にしきりに訴えている。まわりの連中にも見覚えはない、知り得るのは困惑気味の表情を浮かべ隅っこに佇んでいる金田一探偵だけである。
「あれは去年の事件でしたか」もの静かだが、腰のあるうどんみたいに芯をもった柔らかな、よく通る声が何故かしら自分の頭だけに響いてくる。おそらく、これは自分の劇中に対するわくわくした気分のなせるわざに違いない、それくらい認識できるよう。いくらなんでも思い上がりと焦燥だけで顔色は変えてはおらず、呼吸をしていない。
また、前回、前々回の失態を繰り返す懸念が相当あり、自分なりに沈着な意識は保っていて、無闇矢鱈に横やりを入れるなど大人げない行動は慎んでいたつもりだ。
さて読者諸氏に理解を促す意味で補足させてもらうと、もはや、自分はむこう側に橋渡しされているようなので、これは毎度のことでもあるのだが、今回こそ、透徹した洞察をもってことに臨もうと意気込んでいた次第であって、言わずもがな、金田一探偵に一歩もひけをとらぬという気概さえ胸裏に秘めていたのだ。結局、劇中であることの自在な不用意に甘んじており、焦りがせり出してしまい、しかも短命であるのを直感的、生理的に予測しいていたから、要は澄まし顔で成りゆきを傍観していれば、醜態をさらすなくて済むだろうし、薄ら寒い思いもしなくてよかったに違いない。
「毒殺だったのでしょう、では短剣をいっせいに投げつけた理由ですよ、あれは、つまり死後痙攣を不気味な甦生と見誤ったわけですな。警官隊のおののきも分からんではないが、早まってしまった、残酷です、冒涜です、更にこの有り様だ。わたしはそこの探偵さんに伺いたいですね、これもなんですか、古くから伝わる地唄とか、なにか由縁のある短歌とかによる、犯人の撹乱作戦というわけですかな」
まるで中年男のひとり芝居の態で台詞はよく行き渡り、他の面々は脇役というより小道具の存在と化してしまっている。増々したり顔になった男は身振り手振りも大仰に、
「あきらかにこの昆布はあるものを隠匿しておると推測されましょう、被害者には気の毒だが、犯人の意図するところは淫らで、他愛もない、児戯にも劣る、変態心理がありありと見通せます」
と、高らかに声を張り上げた。
なるほどと、自分の鼓動は強まってきた。探偵の出る幕ではない、この無名の中年男こそがこの劇の主役だのだ。金田一を脇の脇に添えることで斬新な手法とし、見るものに意外性を授ける。が、自分は慎重であった、裏の裏をかくというのもあり得るかも知れない。そこであえて探偵の表情を凝視することに専念したのだったが、困惑顔が色褪せてしまったとでもいえばいいのだろうか、微笑までにはいたらぬけれど、そのまなざしにはこれまでの名誉に相応しいひかりが備わっており、次第に隠微な面持ちへと変化してゆくのが見てとれた。
とはいえ、早鐘がつくのと意識を抑える葛藤に苛まれている自分が心地よく感じられたからには、幾ばくかの学習能力を身につけたと思われて、更なる事態を飽きずに眺めていた。もう便所に布団が敷かれている気色悪さも、這々の体で逃げ出したい恥辱を受けるはめもないだろう、肝心なのはこの演劇空間を見舞わすことでなく、むろん一点を熟視する執念でもない、それは刻一刻と経ってゆく時間をいかに見送るかに尽きよう。黙視はむしろ自尊心に似た、優雅な調べを奏でる無の音階であった、心の臓が脈打つのを数えているような限りなく無意味でありながら、至上の行為に連なる、神々しいまでの橋渡しであった。
自分の視線は探偵から逸れて、声の主にすべてを委ねるよう軽やかになった意識を向かわせると、中年男は犯行動機を理路整然と解き明かす大詰めを確信したのか、深く息を吸って浅く目もとを落とし、
「ところでグリーン女史が食べたのは、うどんでしたか、そばでしたか」そうおもむろに問うたところ、
菅井きん似の老女が「そばでございますよ」と即座に応えた。
自分はその刹那それまでの平穏な時間に亀裂が生じるのを感じざる得なくなってしまった。菅井きんはいつの間に現われたというのだ。不吉な思惑がもたげ、目が泳ぎだした頃、今度はあの真犯人であった岩下志摩似の奥さんが、
「わたしは申したはずです」とひとこと呟いた。
この場面は終わったはずだ、自分はついに我慢しきれずに劇中劇の階層を深めてしまった。
「いえ、奥さん、あなたはただ煙る線香を横顔に漂わせただけです、なにも話してはいません」
すると、あたかも自分の衝動に被さるよう金田一探偵が低い声色で言葉をつなげた。むろん知っている、探偵は自分の存在を無視、いや感じてはいない、つまりここにあり得ないことを、、、
だが、これで観念してしまえば、新探偵の面目が立たない、意味も意義も必要なかった、悪あがきだろうが、うめき声であろうがものは試しである。
「ちょっと待って下さい、グリーン女史は自分と心中しようとさえしたのでした。覚えているでしょう。昆布に毒薬が仕込まれていたなんて単純すぎるでしょうが、股間に張りつけることによってあえて他殺か自殺かの謎にしてしまった。どうです、古典的な犯行ですよ、もっとも目につきやすい箇所に凶器は転がっていた。が、その昆布を検視にまわせば一目でしょう、そこで裏の裏ですけどね。そばには天かすが入っていませんでしたか、奥さんは語らずとも自分にはそうとしか考えられない」
さきほどまで主役であった中年男、菅井きん、岩下志摩、そして金田一探偵、その他のとりまきらが、まるで夜空を彩る待望の花火を見上げるように自分のほうを振り向いた。夢なら覚めないでほしい。しかし同時に自分は悟っていた。黙って見送ればよいものを、、、またしても、、、いや悔やんだりはしていない、ただそうあるべきものが愛おしいのか、少し戸惑っただけであった。
もう目覚めだ。金田一探偵がわずかだが微笑んでくれたような気がする。菅井きんの言葉が耳もとから遠ざかるとき、これが初夢であればさぞかし愉快なのだが、そう思いつつ、しわがれた声が消え去っていった。
「あたしは見てましたけど、そばに天かすは最初から入ってはおりませんでしたよ」


[331] 題名:賛美歌 名前:コレクター 投稿日:2012年12月31日 (月) 16時48分

アンデルセン童話に「ゆきだるま」という一編があります。
あるうちのにわにゆきだるまがすわっていました。なんだかからだのなかがみしみしすると、ゆきだるまはいいます、おひさまがてっていたのですね。ぎらぎらてりつけるおひさまに、にらむのはよしてくれ、からだがやわらかくなってしょうがない、そううったえたのです。やがておひさまがにしにしずむと、まるいおつきさまがそらにのぼってきます。さっきのおひさまがまたでてきたとおもったのでしょう。でもおつきさまのひかりはよわいのでほっとしました。わんわん、そのときいっぴきのいぬがかけてきました。
ゆきだるまは、ぼくもあんなにかけたいな、うらやましくいうと、いぬはこうこたえます。「あす、またおひさまがぎらぎらひかって、きみをほりにすべりこませてくれるよ」
「いまそらにでてるじゃないか」
「ちがうよ、あれはおつきさまだよ、わんわん」
それからいぬはゆきだるまにこんなおはなしをしました。
「ぼくがチンコロだったころは、いつもへやのなかでかわれていたんだ。ほらまどのむこうにみえるだろう、あれはストーブといってふゆになくてはならないものなんだよ」
「ストーブっていいものかい」
「ああ、いまでもゆめにみるほどさ、そばにふかふかのふとんがおいてあって、ぼくはいつもそこにいたのさ」
「チンコロのときにだね」
あんのじょう、ゆきだるまはストーブをうらやましくおもいましたが、いぬは「だめだよ、きみはとけてしまうよ」
そのばん、ゆきだるまはどんなものかおもいめぐらせ、あさになってしまいました。ひがしのそらから、きのうとおなじおひさまがでてきてかがやきます、ぎらぎらと。
「やれやれ、いぬくんのいったとおりだ」
あたたかいひかりにしだいにやせてしまい、ついにはとけてほりのほうにながされてゆきました。
「さようなら、さようなら、また、らいねんのふゆにやっておいで、わん、わん、わん」
いぬはきのどくそうになきました。ゆきだるまのたっていたばしょにひかきぼうがころがっていました。からだのしんだったのです、こっかくだったのです。
「それであんなにストーブのそばにいきたかったんだね」
じょちゅうさんがきてひかきぼうをへやにもっていきました。
「よかったね、ねがいがかなって」


暮田静夫は教会系の幼稚園に一年間だけ通いました。どんな深い霧の彼方よりもいえ、宵闇の向こうにさえ覚束ない光景はほとんど曖昧です。ちいさな建物でした。幼児ながらそう感じていたのですから、こじんまりしていて、そのぶん園児も少なかったのも覚えています。それが静夫の持っている園内の目一杯の記憶でした。
数枚の写真を後年、見返すことがあり、懐かしさがこみあげてくるかと期待したのですが、幼少の意識はよくもわるくもぼんやりしているので、なにか別の場所を見ているような気がしてなりません。けれども遠足の風景、これは即座に思い出せました。なにせ自分の家のまえを通ってその場所に向かいましたから。
べつに恥ずかしがることないのに無性に照れてしまい、なぜか家族らが顔を出さないことを懸命に祈ってました。そんな心許なさも些少ですけどよみがえります。が、遊戯会でしょうか、しかもクリスマスでしょうか、ツリーやモールといったすっかり見慣れた飾りつけが背景に写っていますので、さぞかし楽しい雰囲気の一日だったかと記憶をたどるのですが、どうもしっくりきません、とはいってもよそよそしいわけではなく、どことなくそこに自分がいたと確信が持てない、それくらい時間は過ぎ去り逆戻りを嫌うのだろうか、、、
静夫は考えました。「やっぱり薄れているだけさ」結論とは投げやりな思惑を過分にはらんでいることがあります。ことさら重大な事件や、激烈な印象に裏付けされてない限り、過去から現在に至る(未来は別口ですね、この場合)現象は透けそうで見えにくい、あるいは気まぐれな邪魔者が鮮明な色合いをまるで枯れたふうに変質させているのです。そのわけはよく理解できませんけど、おそらく老人が青年であってはなにかしら困るのでしょうし、死人が生きてその辺をうろついたりしたらとても敵いません、ましてや好きで好きで仕方ない今は離れてしまった恋人が急に現われ微笑まれたりすれば、平静でいられるはずがないでしょう。
が、多津子さん、きみのことはよく覚えています。写真なんか見なくても時折ゆめになり、情景になり、言葉になります。アーメン
「吹き鳴らす角笛遠く、、、せめて来る悪魔を倒せ、神のちからを知るがいい、少年ダビデ、、、」
正確ではないでしょう、が多分こんな歌詞だったような気がします。いつ歌っていたのかも忘れてしまいました。華やかだったとこころ弾ませていたクリスマス会なのか、普段のお遊戯の時間だったのか、それもあやふやです。色褪せた白黒写真の静夫は三角の紙の帽子を被り、踊ろうとしています。きっと楽しかったのでしょう、ふて腐れながらはしゃいだりする子供はあまりいないです。それほど腹芸を会得などしているはずがありません。しかし、まったくといっていいほど光景と記憶は重なり合わないのです。困ったりあたまを抱えてはいませんよ、ただ困ったと他愛もなくひとごとみたいに感じているだけです。
うれしい想い出は一枚の絵はがきにありました。昭和の中頃です、小さな幼稚園です、豪華なプレゼントなんかもらえるなんてと、子供にしては鋭敏な予想が働いておりました。静夫のクラスは10人もいたかいないくらいの少人数、しかしはがきの種類はすべて異なっており、それはみんな見せっこしたからで、またこれは間違いなく現在からの遠望なのでしょうが、誰ひとり不平をもらす子がいなかった、そう思います。悪くはないでしょう、いえ、絵はがきの図柄です、ひとりひとり、別々な一枚。
大事にしまっておいたのですが、いつしかどこかにいってしまいました。静夫にしてみればかなりの失態です。いまだに小学時代のえんぴつやけしごむも(いくつか)引き出しにしまったあるくらいですから。
土団子は嫌いでしたね、多津子さん。反対に静夫は泥をまるめ細かい砂をまぶし、まるで宝石のように園の裏庭で熱心な遊びに興じていました。これまた不思議なのですけど、そんなに没頭し執心した土団子を決して家に持ち帰ろうとしなかった、いいえ、先生に禁止されたわけでもありませんし、逆にかばんに入れるなりして家の土間でもいいから保管しておいたほうが安全なわけです。いつ壊されるか、とられるか、しれたものでなかったはずです。しかし、静夫は土団子をまるめては裏庭の片隅や草むらの影にそっとひそませておきました。
後年の収集癖、物欲派としてみればおおいに首を傾げるところです。


[327] 題名:妖婆伝〜その四十七 完結 名前:コレクター 投稿日:2012年12月17日 (月) 15時55分

「夜明けにはちと早いようじゃが、あんた、眠れんかんったな、まあ、なかなかこんな夜話しを聞かされることもあるまいて。さてと、わしの物語もそろそろ終わりよ、もう酒はよいか、なら冷たい麦茶でもどうだい」
「はあ、もらえますか」
「舟虫や、よく冷えたのを頼む」
「で、なあ、阿可女はともかく古次が生きておったとはお釈迦さまでも知るまいて、もちろん間延びしたときを愛でたい心許なさが作用しておったに過ぎんがな。いうまでもない、黙念先生じゃよ、変幻自在、神がかり、清流の主にして厭世家、かと思いきや、罪つくりの天真爛漫、生きながら死に絶える賢者、愚人、悪鬼、どうしようもない惚け老人、くだらぬ気分屋、、、が、口答えする気力は尽きておったわ。面倒になった、馬鹿臭くはないが生真面目でいる必要もあるまい、別に空とぼけていたでないよ、ただ、旅の終わりに相応しかったんだろうな、中左衛門みたいに融通の効かぬ最期、まあ本人は救われたのかも知れんが、わしから言わすと、愚の骨頂じゃ、来世で会いましょうとな、勝手にどことなり行くがよいわ。
もろ助よ、とことんしらを切るつもりか、ええよ、ええよ、好きにすればよい、ところで阿可女さん、中左衛門にからだを許したとはまことでございますか、この観音さまには不届きな口を利くつもりはない、古次が化けて出るなら、このわしとて舞台から引き下がりはせんわ。阿可女は軽くうなずいたのみ、さほど大義でもなければ悔いも恥じらいも見当たらぬ、わしの思惑なぞ歯牙にもかけん典雅さよ。素晴らしきかな、金目流とやら、積もる話しは山ほどあれど、そっちも億劫になってきた。
さて湯浴みじゃ、垢まみれはごまかしようがないからの。想えば、妙をたぶらかしたのも湯けむりに紛れたほんのりした意想じゃった、嘘ではない、強欲めいたもの言いをしたから、いやせざるを得なかった故あんたには欲情の権化、捨て鉢の刹那と聞こえただろうが、そうでもないわな。毛穴にぬくもりがしみ入るごとく、股間に湯が浸透したまでのことよ。妙の初々しさは二度とめぐりはせぬ、いくら股間がゆるもうと、うなぎがもたげようともな。
道場とは借りの名、寒村の民家じゃ、湯船もこじんまりとして、懐かしい我が家に帰ってきたような感じさえよぎったわ。終わりが肝心というが何どうして、あっさり話しを締めくくろうぞ。
妙の面影やら小汚い湯船でそれなりの想いにひたっておると、古次が全裸で入って来ての、これにはさすがに戸惑った。お背中でも、冗談でない、そんな台詞なぞではないわ、こう言うた。小夢さまわたしと夫婦にそう申されましたな、しかと引き受けいたしましょう、嘘偽りありませぬと感じ入りました。さあ、閨にて契りを、そのまえにわたしも身を浄め、、、ああ、そうであった、あの夜、わしは古次に向かってどうして忍んでこなんだと詰問したのじゃ、よもや斯様なかたちで循環されるようとは、、、
古次の陰茎はいきり立ってはいないが、瑞々しい張りをしめしておった。のんびりでもないけれど、あえてこの場はゆったり湯に沈んでいたかったものを。
しかし悠長に構えているべきでないのは瞭然、今わしは人生最大の奇跡に立ち会っておるのだ、天に昇る心持ちが狭い了見に整然と収められているのなら、奇跡のときも大仰に振る舞うまでもなかったけれど、儀式こそひとを正す枠組みよ、遵守いたそうではないか。が、たとえ黙念先生の教えたろうと、素直に従えぬ、いいや、駄々をこねておるわけでないよ、いくら変幻とはいえ古次、いやもろ助と性交するのはちと抵抗がある、なんとかならぬか、、、よい知恵は絞りだせんかったが、こう思った。阿可女と瓜二つの顔立ち、先に問いかけたのはわしからじゃ、阿可女をくれるならとな、ならば古次には多少わしの言い分も聞き入れてもらわんと困る、黙念先生とて困っていただこう、なに、他愛もないことよ、これよりの契りはいわば祝言、が、そんじょそこらの婚姻とは破格の違いがあろう、でな、湯上がりを待ってわしは古次にあたまを下げたんじゃ、そりゃえらそうには言えんわな、事情が事情よ。
なあ、もろ助、せめて紅を引きおしろいをほどこし、おなごの装いにて枕をともには出来んだろうか、おれはおまえの女房になるんだよ、阿可女さんはもう諦めた、そんな調子のよい夫婦と兄妹なぞあり得んわな、おれは案外まともなんだよ、おまえや随門、金目、すべてまわりのせいになんてしたくはない、たとえ外がなにもかも狂っていようが、おれの狂いはやはり正しい、それでいいじゃないか、わかってくれ、まともだろう、だから頼むから阿可女に扮してくれないか、どうせ着物を脱げばふぐりも堅物もあらわになる、せめて小さな夢をあたえてもらえないか。切実な懇願、いや哀願、土下座寸前だったわ、ところが甲斐あって古次は快く願いをかなえてくれた。
三三九度も執り行ったとな、ああ、それはそうじゃろ、阿可女も参列じゃ、そのまえに初夜の様子を聞いてくれるか。わしだって浮き浮きとは思い返したくはないよ、しかしな、あんた、信じられんことが起きたんじゃ、そこだけでいい、実は話したくて仕方がないわ。
おそらく阿可女が細々と手伝ったと思われよう、それは見事なおんな振り、交わりに角隠しはどうかと訝ったけれども、上手い具合に、そうとも双子なのだからなあ、これが当たりまえなのだろうな、うなじまで白塗りの美貌は冴えに冴えて、一刻も早く夜具に押し倒したい情欲にかき立てられた。声は上げん、古次は心得ておる。帯に手をかけ裾をかきわける按配は躊躇われ、破れかぶれに胸もとを暴いたとろこ、わしは目を疑ってしもうた、たわわな乳房とまではいかぬが、おしろいの白さに導かれたふうな柔らかで優し気な隆起が胸に備わっている。ちくびさえ充血したよう膨らんで見えるのは錯覚でしかないのかや。見せてくれ、もっと見せてくれ、、、阿可女に扮した古次こそ錯覚と思いなそうと努める悲痛な欲情は、直ぐさま肌に触れることを拒み、かすれた声が次第に内なる響きとなってゆくのを粛然と悟り、ふせた左右の瞳に輝いているだろう鮮血をよみがえらせる、赤く艶やかな唇を吸いに吸った。もはや手先はおろか、足の指までじっと留まる意義を忘却している、わしは女体を演じた古次の胸をさすり、自らの衣を速やかにはだけると、そっとまぶたを閉じ古次を迎え入れた。興奮や快楽とは異なるが平たく浅い、けれども砂地の落ち着きを決して損なわない遠浅の白浜のような汚れを知らぬ悦びに溺れた。
海流に揉まれ、波濤に呑まれ、やがて潮溜まりに取り残されたふうな小さな甘えにも似た嘆息が閨を浜辺から遠ざける。小夢さま、、、古次の声色に異変はない、が、わしは毅然とこう応えた。小夢と呼んでくだされ、その夜は記憶を消し去ろうと躍起になっていたけど、自然の理はときに破れた。
祝言というてもほんのまねごとよな、金目なり黙念先生、古次の亡霊と来れば、あんたも期待しようが、形式なぞ終わってしまえば、あとかたも残らぬ。古次は、いや黙念先生はもっとも最高の幸せをあたえてくれたに違いない、そう知るまで幾年かかったことやら、、、
翌朝、庭先において古次はあの中左衛門が自決の際に用いた剣を手にし、抜刀するやいなや、有無を言わさず阿可女を袈裟斬りにした。ほぼ即死であった、崩れ落ちるより軽やかに女人は地に倒れこんだ。
わしにはもう何がどうしたのか皆目見当はつくはずもなく、叫ぶことさえ出来ず、無言のまま風に吹かれているしかない。
小夢よ、古次が死ぬとき、わしも死ぬ、とは申せ死んでばかりはおれん、阿可女の魂はこの身に宿ったぞ、おまえは女体を愛でたのか、それとも魂に恋したのか、まあいい、即答なぞ一番の方便に過ぎんからな。口外は無用よな、さあ、これよりわしは古次であり阿可女となる。おまえが腹の底で望んだことよ、現実とは厄介なものよなあ、断層のずれのごとくちぐはぐに即す、、、これが黙念先生が発した最期の、いいや最初かも知れんな、わしには割り切れん言葉であった。
阿可女の亡きがらは魂を失っておらぬという古次の確信ゆえ、鳥葬をもって別れとした。中左衛門は廃墟の片隅に葬られた。ああ、これは余談だが、ごん随の婿取りなあ、そうじゃよ、真意のほどは知らぬがわしの子息だそうだったが、気の毒なことよ、婚礼の日取りが決まって数日のちに急死したそうじゃ。連鎖かのう、随門師匠もほどなく病死、とはいえ流派はごん随がどうした仔細かは存ぜぬけど引き継ぎ、途絶えはせんかったそうな。ああ、そうじゃ、かなりの月日が経ってからだった、の毛子が一度、この地を訪ねてくれたことがあってな、お互い笑顔で向き合った想い出があるのう。
これから先は物語でない、だから特別に語るべきことはこれにておしまいじゃ、おっと舟虫はまちがいなくわしの孫娘よ、つまり古次との間に子が生まれ、その子が舟虫をという摂理だから秘密めいたことはそこにない。もし聞きたければ話してあげようが、あんた、峠を越えなきゃならんのだろ、残念だったのう、もう一息で舟虫はあんたとねんごろになれたかも知れぬわ、はははっ、ところで、あんた、どうして峠越えを急がれる、ほう、そうだったのかい、地質学者かいな、で、明日の研究会に代表として是が非でもと、、、その足でそのまた峠をなあ、少しでも横になって行きなさい、心配せんでええ、ちゃんと起こしてあげよう、わしはくたびれた年甲斐にもなく喋り過ぎてしもうたわ、どれ寝るとするか、明日は見送れんがな、代わりに舟虫が名残り惜しそうな顔で手を降ってくれようぞ、これはちいとばかり大袈裟かや、では達者でな」



[326] 題名:妖婆伝〜その四十六 名前:コレクター 投稿日:2012年12月17日 (月) 05時22分

開いた口がふさがらない、両の目も開いたままだし、鈍いというより金属をこすっているような鋭い耳鳴りもする。しかし、金切り声めいた異音のせいで、中左衛門が語った、家元、女史、阿可女、それに古次の言い分など粉々の散ってしまい、さながら旋盤で切り抜かれたちから強くも、不快な音響が山々にこだました。
「なんと、言われました」
小夢の声はあくびを逆さに流したふうな頼りなさでしかない。
「阿可女さまを抱いた、全裸にいたしてすべてをむさぼったのでございます」
「犯したと、、、」
「どうとなり解釈してくだされ、ただし阿可女さまは抵抗なさりませんでした」
「根図どの、わたしはいま激しいめまいと耳鳴りを覚えています。けれど、奇妙なことに申された男女の交わり、おふたかたのですね、ありありと眼前に浮かびあがって来ます」
「結構なことですな」
「そうでございますか」
根図と阿可女の裸体が明確に脳裡を支配した刹那、弓矢が射られるより迅速にふてぶてしい感情がわき上がった。
「密偵なる任務は役得があると言いた気でございましょうが、はて寝図どの、お気は確かでござりまするか」
「ほほう、それがしを気狂いあつかいされるわけですな。それは勝手が違いましょう」
「無礼な、貴殿こそくせ者、わたしはうなぎでございます、やんごとなきお方より暇を頂戴したとも知らされております、が、少なくとも目一杯、苦しんだつもりです、懊悩苦悶を逆手にずいぶんと無茶もしでかしました。でも、貴殿のような無頼漢ではありませぬ」
吐き捨てる勢いの小夢に向かって、中左衛門はこれ以上の慈しみがないといわんばかりの表情をしめし、
「問答と参りますか」
「馬鹿にされても結構、しかしお相手はいたしません」
「馬鹿も賢者もありますまい、それは金目全滅斎どのは賢人でありましょう、が、われらは如何なもの、小夢さまは転生されたそうでございますね、本来は雄うなぎとやら、で、あるとき奮起して妙齢のおなごに潜りこんだ。古次さまも左様なこと申されておりましたなあ」
「貴殿は知っておろう、意識の在り方の根源を、、、わたしはうなぎ男としてある日突然目覚めたわけでありません、あの清流の川底を知り、蛇のもろ助は知己でありました、転生の由縁は貴殿なぞに聞かせても仕方あるまい。でもこれだけは申しておきます、川底の顔炭のまじまい、やっと理解できましたぞ、随門流はあの奥義を求めておるのじゃ」
「さあ、それはどうしたことやら」
「とぼけなさるな、わたしはよく覚えています、随門師の怖れおののいた顔を」
「どのような顔でございました」
「ええい、もうよい、わたしは語らぬ、なにが金目流です、気狂いの正体が見たければ、今すぐここでわたしを斬りなさい」
「物騒ですぞ、小夢さま、それにそのように憤慨されては肝要の阿可女さまに会えませぬぞ」
さすがにその言葉は冷静にさせる効果を授けた。
「根図どの、なぜ阿可女さんと交わったのです」
「これは又、鏡に向かって問うておるみたいですな。あなたさまと同じ心持ちだからでございます。切に願ったからに他なりませぬ。たった一度、今生の願いとあたまを地べたにすりつけ一心に求め続けたのです」
「さすれば」
「わかりましたと帯をほどき、裸身をさらしてくださいました」
「阿可女さんが、、、」
「なにを不思議がっておられる、小夢さまとてご本人に申し上げたのではないのですか」
「わたしはそこまで、、、」
「阿可女さまの代わりはおられましたはず」
「それは、、、」
「別段、よろしい、さて、そろそろおいとま致しましょう」
「何処へ行かれるのでございます」
「聡明なお方とお見受けしておったつもりでしたが。小夢さまは来世を信じられますか」
「えっ、なんと申される、まさか、、、まさか、、、」
「そのまさかですから、致し方ありませぬ。少々腑に落ちませんが、、、もろ助とやら、古次さま、それがし、と来た、本来なら随門師が順次、この世にはまこと人智に及ばず事象だらけでございますな、阿可女さまをお抱きする時間だけは許されたようなので、これまた不可思議、では御免、来世でお会いいたしましょうぞ」
最期は雄叫びに近かった。密偵の役割とて分かったようでなにひとつ語れない、ただ中左衛門が武家であるのはなんとなく納得がいった気がした。あくまで気がしただけであり、武家が切腹する理由は知らない、根図中左衛門が自刃するその真意を知らない。
小夢の一帯に激しい血しぶきが舞い上がった。中左衛門はすでに正座したままの格好で前のめりの上体をかろうじて保っていたが、それが意志によるものか、尋常ではない出血をともなった激痛による昏迷か、はたまたもはや意識を喪失し、肉体のみが空騒ぎしているのか、判別つきかねた。認められたのは中左衛門は腹に刀剣を突き立てたのではなく、束を両手で下方に握りしめ、あごから首筋に添って深い傷あとを残していった紛れもない情景であった。見事なまでに直線に裂かれた傷口は、古びたのに真新しく感じる建具の亀裂を想起させた。双方のまなこは決して安らかではないが、眠りついたふうな静けさに囲まれている。のどぼとけに損傷が見られなかったので、小夢は中左衛門が遺言を呟きだすのではないかと目を凝らしたけど、見る見る間に蒼白の度合いを増してゆく顔面へさすがに期待は寄せられなかった。木枯らしめいた風がかすかに遺体の背を震わせたのが、亡魂らしくもあり、小夢の情感をからっぽにするのだった。
「根図どの」
ひとことだけささやきてはみたものの、底の底まで凍てついた水面の険しさが無言でひかりを放つよう、合図には無縁であり、指標とも関係なかった。しかし、小夢のこころは満ち足りていた。やっと到達することが出来たのだ。阿可女だって生きている、ほんの今しがた中左衛門はその肌のぬくもりを冥土へ持って行ったのだから。
金目流、、、随門があわてふためくはずよ、古次が取り乱すのも無理はない、、、黙念先生、大山椒魚の先生でなく、生身の人間としての先生、、、呪詛は必要だったのですか、これが奥義なのですか、ではどうしてこのわたしに効験が現われないのでしょう、随門にしても。
わたしはひとでなしでございます。うなぎなしでもあります、ひとの親として子なぞ可愛がった覚えもなければ、わたしを産み落としてくれた親に敬意を払った試しもありません。行き当たりばったりの情欲を仇と見なしつつ、裏ではそっと手をまわし、もう一方の手がいさめるのを待って罪として参りました。ほとんど無風に舞っている風車に時たま旋風が訪れると、盛んに意気立ち、生気を取り戻したような錯覚にとらわれるのをさわやかな生きがいと思いなしておりました。阿可女は悔やんだりしないでのしょうか、まだ、、、ああ、解けました、解けましたとも、、、黙念先生、阿可女こそ真の弟子だったのでございますね。わたしは気狂いなのですか、人間としての感性をほぼ欠落させているのでしょう、中左衛門や古次の気概がよくわかりました。先生と阿可女は人間ではないのですね、、、
そのとき聞き覚えのある声が小夢を呼んだ。もう振り返りたくはない、が、執拗に名を呼ぶ。ついには、
「いつまで茫然としているのです。さあ立ち上がりなさい、わたしを抱きたくはないのですか、わたしに会いに来たのでしょう、幻滅斎さまもご一緒でございます。しっかり見届けましたよ、中左衛門は黄泉の国に旅立ったのです、ああいう運命だったのです、しかし、あなたは違う、さあ、道場はすぐそこ、随門師の伝言、いやごん随女史のですか、承りましょうぞ」
逆光を背にまばゆく受けた阿可女は神々しいまでに清楚な微笑で佇んでいた。半歩下がる按配に人影が見えたが、強い光線のため判別がつかない。が、それも指折数える間もなかった、同じ顔、同じ笑み、古次ではないか。小夢は第一声が叫びや悲鳴やうなりでなく、言葉を選ぼうとして反対に言葉を見失っている滑稽な有り様を感じ、指先はいうに及ばず、脳天から尻の穴まで生気がゆったりと流れてゆくのが分かった。急にうれしさがあふれだして来た、涙がとめどもなくわき出し、わざとのろのろした足つきで両人のもとへと歩んでいった。そして古次の面をしみじみ見つめこう言い放った、
「なあ、もろ助や、阿可女さんをおれにくれよ、その代わりおまえと夫婦になってやるからさあ」
古次は目を細めるだけで返答がない、阿可女はおかしさを堪えているふうに見えた。
「駄目なのかい、駄目なのはおまえらだ、兄妹で祝言はあげれないんだぜ。神話の世界じゃあるまいし」と、言いかけたところではたと口を閉ざしてしまった。あとを継ぐよう阿可女が言った。
「それは名案ですね、三人仲良くってことでしょう」
まさに助け舟、だが、泥の船かも知れぬ。小夢は慎重を期する態度でこう返した。
「道中、疲れたました。湯船にゆったりつかりたいものです」
「ではご案内しましょう、小夢さん」
天にも昇る気分とは案外、こうした状況を指すのかも知れない、能天気など浮かれた情態でなく、この身震いがどこからやって来るのか確かめられないという感覚を如実に知る狭い了見のことである。陽が翳った。


[325] 題名:妖婆伝〜その四十五 名前:コレクター 投稿日:2012年12月17日 (月) 01時52分

山頂に近いのだろうけど、木枯らしが辻角を吹きすさんだふうな、そっと人影が退いたような、嫌に喧噪を押し静めている感じがして、小夢は周囲を思わず見渡した。もの言わぬ枯れ木の束が一様に迫ってくる不快な渇き以外、冴え切った冬空は思ったほど垂れ込めてない。
「どこからお話しいたしましょう、古次さまが幼少の頃、それがしの思い出、いかがお受けとりしましたのやら、阿可女さまとの婚礼なぞ子供騙しの支援、まことに陰険な計らいとさぞかし不審を募られておるでしょうな。次子どのにあたられる赤子は身分の高い大名の側室が旗本へ授けたに相違ありません、詳らかには出来ませぬが、それがしの使命はその赤子を暗殺すること、手違いとでも申しておきましょうか、一端手放した子息のお命を奪えとはただならぬ理由があったのでございますな。いえいえ、借りに詳細を把握していようともこればかりは口外いたせぬ。もとより小夢さまには関わりのないこと、双子の兄妹かたには運命の岐路と相成り申したが、いかんせん任務遂行にそむけるはずもなく、とはいえ、不幸中の幸いは古次さまの純愛とも廉潔とも称されましょう、あっぱれな心意気、年少の心持ちながらそれがし甚く感銘を受けました次第、口数こそすくなれど対する阿可女さまの心情もまた清かれし」
確かに古次からことの顛末を知らされていた小夢は、中左衛門の語り一辺倒でこと足りたのだったが、あやまちがあると言うからには齟齬をたださなくてはと、かねてより古次が口にした事情を逐一述べたのだった。すると、
「睨みの術でございましたな、それは熱心に励んでおられました。いやこれは不謹慎な言い様、とにかくでございます、古次さまの執心はそれがしのひとこと、そうです、邪魔が入り申したのひとことで堅く定まりました。しまいには早う首をはねてしまえ、おまえの正体は刺客であろう、さもなければ斯様な讒言をひそかに申すものか、もたもたしておれば、父上に言いつけるぞ、と、純朴な恋情が邪心に張りついている様は実に恐るべき、非情をもって任とする身にずしりと突き刺さった汚れない悪意、こちらが奮い立たされるありさま、取り急ぎえせ験者を探し出したのは実際でございました。さてお祓いの儀こそ、まさに格好の暗殺舞台、邪霊の仕業なりと吹き込んでおきもっともらしい因縁も言い聞かせておけば、験者は安直に利用しおって騒ぎだす始末、欲の皮が突っ張っていたのも機宜であった、あらかじめ過分な祈祷料を手渡し、大仰な振る舞いに越したことはないと、猛毒の入った御酒をあおらせていたのでござる。
首ですな、そうでございますとも、それがしが一刀にて。屋敷内の周章狼狽ぶりもさることながら、当主さまとて、それがしが忠言いたした折より怪訝な顔色もとに返ろうはずもなく、いわば不測の事態を予期おられたご様子ならば、そっと耳打ちを、お家の面目に結びつかれるは必至とみました、どうぞ、この場はそれがしにと、はなから下賜に似たる養子縁組、入り組んだ政情を呑んでこそ、なら当主さまの畏怖はごもっとも、こうして何者も寄せつけず、それがし堂々と屋内に足を踏み入れ、素早く一命をば頂戴いたし、懐から包みをひろげ首をば天上裏に忍んでいた手下に放り投げという経緯でございます。怪しきからくりとは存外このようなありふれた仕様、しばらくは町中ありとあらゆる憶測やらが飛び交いましたが、蓋を開けてみれば皆の大変な驚きこそまさに風聞でしたな。ただ古次さまは観察しておられたに相違ありませぬ、そうでありましょうぞ。ところでそれがしは裏門より配下が用意した駕篭にて退散、次子どの首級ははてどこに持ち運ばれたのやら、これは真実それがしの関与するものでござらん。その後の足取りは側室さま擁護の御仁のもとに赴き、遂行の次第を報告仕り、捜索の目をかいくぐる為、難所を抜け、山越えし、ときには変装しまして都の雑踏に紛れ込んだり、ほとぼりの冷めるのを待ってここ金目流へと身を寄せたのでございますが、それはすでに判明いたしておりますな。人相書きなぞも出回ったと聞きましたけれど、予断なき情勢、側室さまの急逝ならび御仁の失脚に伴いましてそれがしの立場も危うくなったというわけです。なんでも大名家はご安泰、派閥闘争の影も消え去り、忌み嫌われしも体面を保ちました旗本屋敷とて、怪事件を話頭にするものなぞいなくなり、当主さまは絶縁した兄妹の復帰を願っておるとの伝聞、が、体面が汚されたのも確かなら、いささか気弱な性情のお方、あたらに子息が誕生なされたことも重なり、ふたたび奇禍は避けたいのでしょう、たっての願望とまで相成っておらぬご様子、また、これは阿可女さまより近年うかがったのですが、形ばかりの申し入れが為されたのをいち早く察知した古次さまは、言下にこれを退けられたと申すのですな、武士に二言なし、父母の情を情として汲んでおらぬ身からしてみれば当然、二言もなにも、阿可女さまと離ればなれになることない暮らしぶり、復縁を望まれるなどもっての他、そのさきの模様については語るべくもあるまい。
次に金目流の趨勢について知っていただきたく存じます。さきほどの廃墟こそかつての大屋敷であったのは紛れもありません、ただし昔日の華美でございます。もともと南朝の流れを汲む流派として栄えておられたそうですが、世襲よる家元の君臨より、芸の奥を極めた達人のみが秘術を伝授され後嗣と任命されし流派、家元ともなれば余人のうかがうすべもない、それはそれは秘匿された芸風であったとか、ゆえにあまねく高名は知れ渡れど、門人は少数精鋭の結社のごとき呈をなし、これは随門流も同じくでございまするな、という次第でひとくちに華道と申しましても、凡常の技芸ではござらん、むしろ常軌を逸した光景にまみえるとさえ評されたといいますから、優雅や華飾とは無縁の道を切り開いていかれたと承っており、位の高いお方らにも疎まれ出した頃にはすっかり名誉は下り坂、反対に冗漫を廃し、毒舌的ながら芯だけを一輪残したふうな極めて禁欲とも見間違うであろう随門流は、その質素な様式ゆえにいたずらに晦渋さを擁せず、まるで座禅のひとときのような緊迫と安逸の雰囲気を醸していたそうでございます。もちろん解脱とか悟りには似ても似つかぬのですが、そうした気安さが連綿と生きながらえてきたのでしょうな、金目流の哲理の壁にさえぎられたふうな重圧は感じられませんでした。
さてではいかなる由縁にて金目が残存し、ひいては阿可女さまのこころを奪い、謀反と呼んで差し支えない所業に至ったのか、簡便に説明いたしますと、まず随門師は金目幻滅斎どのを非常に崇拝していた、師本人は決して言葉にする機会はありませんでしたれど、揺るぎない事実なのでございます。更にあわよくば金目の奥義を頂戴したいという隠れた非望があった、これは外部はおろか門弟たちにさえ勘づかれてはならぬ、、、もうお分かりでしょう、小夢さま、兄妹の情愛を知りながら身分の隔たりをつくり、不能でありながら阿可女さまを寵愛されていたのは、他でもありませぬ、双子でありながらですぞ、古次さまの凡庸な熱情に感心しながらですぞ、随門師は妹の才覚を鋭く見抜いておったのでござります。こやつなら金目の秘術を体得出来ると。小夢さまが家元に建前のうえでは招聘されたのはご存知ですな、そうです、蛇の一件でござる、古次が身を寄せたばかりの夜、自分はもろ助という名の蛇であるとの迷妄、随門師はあなたさまには古き記憶がめぐった、それで公暗和尚に願って身をあずかったと申されたようですが、それも一理ありましょう、けれど本意は双子として阿可女もまた転生を口走るかも知れぬという期待であったわけでして、此度のごん随女史の婿入れなぞ、一石二鳥をうたったいわばよそ目に向けさせがたいが撹乱、真意は阿可女さまの開眼にあったのです。それほどあの方の才覚を感じとっていたに相違ありません。
多分すべては話しておらぬでしょう、しかし家元は金目流への修行を強行しようと説得にかかった、阿可女さまの沈める希望とひきかえに、、、そうです、古次さまを跡目にしようという口約でございます。阿可女さまからこうお聞かせいただきました。束の間じゃ、おまえなら金目の秘術を簡単に会得できよう、金目と随門が今こそいにしえのときを経てひとつになるのじゃ、と。
兄妹の身分を隔てただけでは気が済まぬ随門師は、言葉を交わさぬとも意思の疎通が可能であったことも知っており、妾同様に閨にて女体をまさぐり続けていたです、阿可女愛しさに違いなかろうでしょうが、目的は古次さまの炎のごとく嫉妬と屈辱を欲したからでございます。耐えきれないのは古次さまより、あのお方、、、そこまで算段しておったのです。泣く泣く承知いたしたのはそれとなく気づかれたでござろう、阿可女さまとて都合よく兄が後嗣に治まると甘く考えてはいませんでした。そこで牽制するがごとく小夢さまを間に挟み、家元の腹の底を探ろうとしていたのでございます。だが、肝心の古次が情愛より、ひととしての矜持を最期に選びとってしまいました。それがしが古次さまの刃傷沙汰を自決と判じるのはそうしたわけでなのです。家元、女史、阿可女さま、それぞれの言い分をお聞きなり、ようやくその真髄が見えてきませぬか、わずか数日の狂おしい時間によって、、、
さて金目の秘技さえ持ち返ればですぞ、口約ながら古次は家元、おそらく流派が二分したなぞ屁理屈にてごん随女史の婿どのも家元と相成る、火急を要したのは小夢さまの身元調べを綿密に公安和尚を介し行なっており、いよいよ一石二鳥の慶福が近づいたからでございます。
それがしがこの地に参ったのは半月ほどまえ、とが人でしかなくなったからにはこの陋屋こそが相応しいというもの、おお、そうでござった、それがしの事情と申すか心情を開陳しておりませなんだ。ほんに短い逗留でしたが、思い返せばあの兄妹は監視下にあったも同然、いいえ、それがしは随門流には赴いてはおりませぬ。
こう申しておきましょう、小夢さま、それがし金目幻滅斎どのと会見出来ましたより、阿可女さまを抱いたことのほうが至高の幸せ、思い残すことはなにもありませぬ」


[324] 題名:妖婆伝〜その四十四 名前:コレクター 投稿日:2012年12月11日 (火) 06時07分

駕篭の中からもの言うことは自ずと躊躇われた。自然の理に逆らうふうであり、禁句同様にはしたなく、また悪あがきに似た見苦しさを承引していたからである。雲助と侮ったつもりはなかったけど、家元の手配した駕篭かきが慣れ慣れしく話してくれるはずもなかった。小夢の念いはくり返し、阿可女の面影へと沈潜していくしかない。
家元の言い分を額面通り受け取るなら、ここが思案の別れ道なのだが、傀儡としての役割を成し遂げれなかった処罰により憂き目をみているのやら、それとも随門の乱心を看破しており、善後策を講じる為さほど不遇の身におかれているわけでないのか、以外や金目流に救われた念が強く、おおらかな心持ちで過ごしているのやら、が、もっとも憂慮されるのは追手とは名ばかり、用済みとして送られてくる門弟をいかに迎えるべきなのか、更には古次の死をどう胸に収めて、いや収まりきろうはずがない、そう考えるのが至当、善きにつけ悪しきにつけ、小夢は阿可女に合わす顔がないにもかかわらず、この期に及んで尚おのれの命とひきかえになど、過剰な大義をふりまわし激しい情愛の炎を燃やし続けている、自身の熱病こそ鎮静されなければならかった。
小夢の意識はこれらを順繰りに反芻させてみたけど、希望と絶望の配分を覚えないまま撹拌されるだけだったので、所詮は憂いの域から脱することなく、血なまぐさい幻影に彩られるのが関の山、さっぱり埒があかなかった。熱病を引き起こしている当人にとって思案とは迷宮でしかない。
昼までには目的の地に着けると聞かされて言葉だけが頼りになった。そして激情と戦きで胸いっぱいになったあり様を笑い飛ばし、次なる冒険へと飛翔してゆく説話の王子さまの心意気に転じてみた。この意識変化は無謀でもなければ、笑止千万でもないであろう、思考が停止した限り、残された術は心身が待望している未知の領域へすべてを投げ出すより他になかった。
木々の間を駆け抜ける駕篭に注ぐ木漏れ日が密かな快感に変わるとき、すだれの編み目を通し、着物の紋様を小気味よく、優雅に明るく染め直すとき、半面に浴びた光線の点滅する加減はまたたきに準じて自在を得る。頬を黒髪を、矢継ぎ早に差すひかりに乗れば、夢幻はうつつに捕らわれ、山々の霊気を身にまとい、ひたすら狂女の面持ちでまだ見ぬ景色さえ睥睨していた。火急の折だからでもなかろう、小夢に去来する光輝な地平は極々ありふれた瞬間に現われていたような気がする。これは捨て身の覚醒であろうか、いや、阿可女の顔かたちまで薄らいでしまったからには本然と認めるが正しい、宙に浮いたこの感覚、まさに桃源郷に違いない。
こうして小夢は女々しい葛藤を経て、理性と狂気の境に立脚した。もっとも浮遊していたのでこの言い方は適切ではなかろうが。
「あねさま、到着しました」
えらく丁寧な響きで駕篭かきふたりが揃って声を出したのが不気味なくらい愉快だった。
「ご苦労でありました」
小夢の声音にも狂女の汚れない優しさがこもっている。だが、こころの底から湧いて出たような気持ちが純真無垢でなく、選ばれし演じられる表情をなぞったに過ぎないことを瞭然と思い知らされた。
冒険の果て、希望の地平、うつつの本山、、、眼前に映じているのが金目流に違いなかろう。駕篭かきに問う気力は抜け落ちていた。小夢の瞳の奥にまで確実に満たされているもの、それは廃墟に残された陋屋でしかなかった。
「あっしらはこれにて御免仕ります」
一礼に応えてはみたものの、又ふたりのうしろ姿を見つめていたけれど、切り開かれた山間の荒涼たる風景にたたずむ意識が遠のいてゆくのを放置したまま、目線を那辺に泳がせればよいのか判断つかず、茫然と立ち尽くすとはまさに現状を指し示すのであろう。
牢獄でも処刑場でなかった、、、では姥捨て山か、ふたたび狂女の笑いがこみあげて来たが、無垢と擬態の相違に悩まされ煩わされることはもうない。随門の悪巧みに関心する間も無用、の毛子の言葉は枯れ葉のごとく空を彷徨うけれど情感と切り離されている、阿可女の姿態が寒空に大きく広がったのも錯覚なら、金目流の栄華こそ、この寂寞とした枯れ野に眠っているのだろう。正午らしい天上に太陽が輝いている。木漏れ日には格子戸の向こうを想わせる隠微な陰り、そして奥床しいさがあったけれど、こうもありありと頭上を占領されてしまえば、だらしなく降参するのが似つかわしい。白日のもとに晒される気分は決して惨めではなく、却って清々しかった。朽ちた礎とまではいかないが、土中に半ば埋まった門柱らしき木片や梁の残骸が風雨に蝕まれ、土気色に同化しているのが侘しくもあり、ところどころ青みを帯びた雑草の意欲がよく映える。
背後に気配を察したのはどれくらいしてからであったろうか。失意の底を徘徊するのが任務であると思いなした小夢にとって、ひとの息づかいは同調によるものでなく、いにしえに文献を漁っているときなぞに感ずるものでしかないような気がしていたので、足音と同時に自分の名を呼ばれた刹那、夢幻の彼方からの、死神からの招き声だと肝を冷やした。おもむろに振り返る仕草こそが天上への忠誠であり、復讐である、懐剣にそっと手をやり、
「どなたでございます。わたしの名を知る、、、」
と言いかけたのだが、目を会わせた途端ほとんど忘れかけていた緊張の糸が少しだけゆるむのを感じ、あらかたの謎が解けたような奇妙な確信を抱いた。気抜けもあろうけど目尻がやや垂れるのが分かり、痴呆みたいに口を半開きにし声の主の風貌をまじまじと見つめた。
「怪しい者ではありません、小夢さま、それがし根図中左衛門と申します。すでにお聞き及びでござろう」
「あなたさまが、、、根図どの」
「いかにも、古次さまより仔細は承知されたし」
「では、わたしを討ち取りに参ったのですね。あなたさまの素性は知ってか知らぬか」
「早まってはいけませぬ、討ち取りなど、左様な物騒な」
「もう、たぶらかされませぬぞ、密偵として暗躍、旗本屋敷から随門流、そして荒廃の館、金目流」
目尻ははやつり上がっている。小夢は興奮と動揺の渦中にいた。が、激しい怒りに任せての忘我ではない、反対に激昂を眺めているふうな渇いた交誼を介し、疲弊したまなざしの回復を暗に願った発露であった。ゆえに中左衛門からの厚い慈愛と、流暢な言い開きに小夢は耳をしっかり傾けた。恰幅のよい威厳ある容姿で立ちはだかっていたけれど、若侍を偲ばせる雰囲気が幾ばくかその月代にかいま見える。
「古次さまより、いかが承ったかは存じませぬ。いえ、他の方々も同様でござる。さて小夢さまがこれまでの辛酸、それがし失礼ながらよく存じ上げております。不本意ながらの刃傷には察するところ余りあります、くれぐれも自責の念に執着されることなく、平静を保ち頂ければと願っている次第、はい、古次さまとて決してお恨みなぞいたしておりませんでしょう。随門師の申されるよう自害と裁定されうるべき所業、小夢さまもお察しくだされい。またそれがしの身上についてはあからさまに出来ぬところもありますゆえ、平にご容赦のほどを。
まずこの地についてひとこともふたことも述べなくては小夢さまには得心いただけまい、見てのとおり金目の本山に偽りはありません、が、昔日の名残りは連綿と今だ絶えることなく続いています。金目の家元、幻滅斎どのも高齢ながらご健在、第一の気がかりでありましょう、いや、これは失言、ごん随女史からの任務でありましたな、阿可女さまもご別状なく、ご安心くだされ。今すぐにでも韋駄天のごとくお連れしたいのですが、ほんの猶予を頂きたい。それというのもあなたさまの疑心を解きほぐすのが先決、随門流の甘言にはまってしまわれたのは災厄でございました、古次さまよりの言説にもあやまちあり、いえいえ、それがしの弁明ではありません、では絡まった糸をひも解く要領でお話いたしましょうぞ。むろんでござります、金目道場までさして遠くもありませぬゆえ、道々ながら」


[323] 題名:妖婆伝〜その四十三 名前:コレクター 投稿日:2012年12月10日 (月) 11時35分

いつぞやの駕篭かきに似た風体だと見いってしまったのは、いや、凝視のようでありその実さほど関心をしめしたのでもなく、ただ脳裡をよぎらす情景に意味合いを付与したかったと思える。ごん随女史は伴もつけると言っていたけれど、この実用のふたりが、既視感の到来が、まさに伴であるとは思ってもみなかった。しかし不平不満をこぼす身分ではなかろう。寡黙で実直な駕篭かきらは申し分なく頼もしく、道行きを安穏な旅程にまで引き上げてくれた。
もちろん険阻な道中が以前の比でない様子は瞭然であったし、一昼夜で辿った道程、二十里らしきを早駆けた緊迫のうちにも安楽さが連れ添っていた感じとはずいぶん異なる。案の定、日の入り間際にはなだらかな道筋へ達しており、すでに懐かしく耳へ届いてくる人の気配を知れば、そこが山間の宿坊であることにあらためて驚き、また、かなり山深いところに夢うつつかと見違える、より清澄な空気に包まれた黄昏いろに浮き出た宿屋の並びに、新鮮な想いを得るのだった。夕暮れの情景は何故この様にやわらかな美しさを醸すのであろう。沈める日輪はひとの息づかいに託言を残してゆくのか、まばゆい光線を闇に眠らせるから雄大な意思はぼんやりと明るみを発するのか、それとも、明日を約束したのでひとの恥じらいを先まわりして伝えてくれるやら、天空の主は何もかもお見通しに違いない。
溶けだしそうになる想念とはうらはらに、山中での宿泊の模様を実感することが出来ず、小夢の記憶にとどまったのはひかりを失った空間を飛び交う夜光虫の羽音のような小さな、しかし払いのけ難い観念であった。
垢染みた頁をめくるがごとき過ぎ去りしときに意識が傾いたのではない、多少の名残りはとあえて感傷の刻印を記してから、開き直り随門流より逃れた身である限り、一切はかつてのうなぎにまつわる煩悶と同じ轍を踏むわけにはいかず、とはいえ、島流しや獄中に連れゆかれる心情を糊塗することも難しく、行く先がもう決定されているよう小夢の想いはひたすら阿可女へと接近するしかなかった。
想像するには容易い、金目流とやら、これまで関わった一門とは別種の忌まわしさを放っておる、家元らの言葉通り阿可女が本当に野心を持っていたのなら、実行を決意していたのなら、背後で知恵を与え立ちまわり方を指示していたのは金目と見なし間違いなかろう、現に阿可女は匿われているとの報せ、これ以上の詮索は無用でしかない、勘ぐりだしたとて埒があかない、鑑みれば我が命をあわよくば亡きものにしようとした悪辣な眷属からの告知、金目の本山とは名目だけで実際には牢獄どころか処刑場かも知れぬ、だが、そうも言い切れなかった。の毛子は金目の存在を知りうる範囲、別れの朝小夢にこう語ってくれたのである。
「わたし前に、いいえ、ここではなくて、商家にいた頃ですけどね、華道を極め尽くした仙人みたいな老爺がいると小耳にはさんだことがあります。金目幻滅斎という名です。お師匠さまの口から聞かされのは先日始めてですの。よくは知らないけど裏華道では随門流と遜色ない、そういうことらしいから、大変でしょうが、、、」
と、少なくとも架空の人物でもなければ、獄門の場でもなさそうだ。小夢はそれがたとえ根拠のない噂であったとして、の毛子の話しを信じて疑わないつもりだった。信心とは決して威容や哲理にのみ込まれるばかりと限らず、儚い花びらに舞う蜜蜂の嗅覚が、花弁を魅惑の証明してみせるよう鮮やかな色づきに宿される場合がある。
ひとときの舞いと静止が映し出す光景は追随を許さないのであろうか。小夢は理性的な判断を捨てていた。すると暗中にささやく羽音にうっすら色調が施された心持ちがし、目の前の闇に封じられたひかりが一条、心身を駆け抜けていく感じがした。迷妄の口笛がうなぎの泳ぎを促して、雑念ない牛太郎が踊りだせば恋する男は、愛しの阿可女が待ちわびた顔でいるのだから、吸引力で流れをさかのぼりひとめ会うなり激しく接吻を交わすのだと強く胸に言い聞かせた。聞かすと同時にそれより先の艶かしさを放擲して、直ちに古次殺しをあがなう為、阿可女に懐剣を手渡し、おのれの心の臓を刺し貫いてもらう。言葉はいらぬ、かっと見開いた眼がこの世のすべてのひかりを反照されるとき、信心は成就され、夜と朝が入れ替わるのだ。
二泊目の宿における夢想であった。無駄な想念は排除して、何度も何度も終わることを知らず金目本山に待つ阿可女との接吻、そして死を夢見た。目覚めたとき冷たい夜気にもかかわらず寝汗が全身を濡らしており、火照った頬の色を手鏡で認めるまでもなく、寝巻きのすそをそっとかき分け、手淫を試みたけれどからだの反応は追って来なかった。小夢はたらいに張られた清水に指先を浸す、健気な波紋、底は微かに揺らめいていたが、はなから手の届く浅みだったので波紋が収まるのをぼんやり眺めていた。
翌朝、珍しく威勢のいい口調で駕篭かきのひとりがこう言った。
「あねさま、昼までには到着しますよ。もう少しの辛抱でさあ」
動揺した素振りをつくりだしたのが我ながらおかしく「あれま、東海道をゆくのではなかったのですか」などと戯れ言を返したりした。内心はたらいに浮いた枯れ葉でありたかったのかも知れない。相方の駕篭かきにも目配せしながら、感謝の気持ちはそのまま、剣呑な意想が夜に守護されていたことに抗うべきか、その揺らぎは彼らのきつく締められた帯をつかみ取りたい衝動に向かおうとして、はたと気がついた。阿可女が呼んでいる、、、感冒などとは異なる、いやどんな流行り病いとも別の熱病のさなかに小夢は生きていた。昨夜の寝汗が悪寒を招いたのか、ようやく本来の感覚を取り戻したらしく、いよいよ金目本山に近づいて来たという感慨も手伝って、無口な駕篭かき相手に饒舌になった。
「ではよろしくお願いしますぞ。ところで両人とは初見ではないような気がいたしますの、もしや随門師匠のところまで、そうです、あのときの」
ふたりが雲助根性でないのは直ぐさま返答した声色で分かった。やがてあれこれ尋ねてみれば、それどころか武士に通じる気概さえ感じられる。
「ごもっとも、この生業の風体なぞ似たりよったりでございます。たとえあねさまが見間違えようとも、あっしらには間違いはありません。此度が始めて」
「なるほど、そういうものなのですね。生業にそもそも尊卑はありません、わたしとて駕篭に乗せてもらう身分では、、、いらぬことを訊いてしまいました」
「滅相もありませんや、以前の思い出をあっしらに重ねてもらえるとはありがたいことです」
「あら、お上手ですこと」
「何をおっしゃいますやら、上手も下手もありません、ただ担がせてもらうだけでございます」
「ほほほ、これは参りました」
ここで小夢がふたりに感じたのは、無駄口を叩く暇を惜しんでいる、面をかすめたのはあくまでそつのない振りだったが、実情は受け答えそのものを頑なに拒む姿勢であり、これは的確な直感としかいいようがなかった。見落としたりしない、軽妙なやりとりに乗じながらも速やかに支度を整え、鋭利な目つきが道中を急ぐであろうわらじの上に落ちたのを。
が、小夢はここであたかも仕来りに従うあり様で喋りをやめようとしなかった。旅の恥はかき捨て、あまりこの場面に即したことわざでないけれど、ふと生のほむらが立ちのぼり、
「金目の本山ってやはり山奥なのでしょう」と何気なさを装い口にすれば「ええ、そうでございます」駕篭かきは不要なものを切り捨てるというよりか、要件に接するのは御法度である、そんな厳しい語気となる。
「由緒ある名門とうかがっていますけど、さぞかし立派な家屋敷、道場なのですか」
「よそ様の家屋をあれこれ評することは出来かねます」
「これは失言でした」
手厳しさに臆した弱々しい声音でいったん区切りながら、がらりと口調を変え「しかしながら、わたしは金目流に重大な任があるのです。是が非でもお聞きしたい、酒手ははずみましょう」
「されば、あっしらも同様、駕篭かきの重責がござります」
「わたしの身が重いと申すのですか、それとも努めが些細な口外を禁じているのですか」
それまで会話に加わらなかった相棒がいさめるふうなもの言いをした。
「両方でございますよ、あねさま、そろそろ表へ」
宿の主、女中の見送りもない。小夢は周到な道行きに感嘆と落胆を一緒に覚えるしかなかった。




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