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[357] 題名:鉄橋から来た少年 名前:コレクター 投稿日:2013年07月15日 (月) 08時32分
社会人になった夏のこと、そう記憶しているのは初々しくも溌剌とした心境と燃え上がった太陽が互いに認め合っていたという強引な解釈なんかではない。あの日の光景を振り返れば、自ずと勤務先の会社の窓ガラスに張りついた天候がまず一番にまぶた焼きつけられている。頼りない切なさで、だが有無を言わさぬひろがりで照りつける西日の赤み、今日も残業を懸命にこなすんだ、盆休みはもうすぐ、今年の帰郷は学生時代とはどことなく違っているだろう。
「この書類、急いで総務課に届けてくれる」
先輩の女性事務員が放つ冷ややかな口調に反感など覚える余裕はあり得ず、むしろ歪んだ憧れを飲み込む加減で的確な命令としてすぐさま立ち上がった。ただし手渡される際にあえて卑屈な目つきをしたのは、ちょっとしたいたずらであったような気がする。
慌てていたわけでなかった、決して。なのにたいして長い廊下でもない途中で足を滑らせ思い切り腹這いに転けてしまった。理由は一目瞭然だった。一面水びたし、誰か飲み物でもぶちまけたのか、いや量的には大きな花瓶の水かと疑うほうが似つかわしい、生成り色した固い廊下にひろがった水は憎らしいほど澄みきっている。そして書類も見事に被害を受け、文字はにじみだしていた。
気まぐれな夕立は形式的にひかえめな雷鳴を引き連れて先ほどまでの空模様を一変させた。外はにわか雨か、、、あの刹那のため息が忘れられない。
当時の夏期休暇は現在ほど日数を与えられていなかった。せいぜい三日、そして列車の混雑を嫌というくらい知っていたので、一日早く故郷をあとにしなくてはならない。僕の帰省は輝くような二日間に凝縮されるはずであった。
たとえ前の夜、アパートの隣部屋の学生が女を連れみ、興奮のあまり、声を抑えることさえ放擲してしまって、歓びにあふれた喘ぎをまき散らかしていようとも。そしてほとんど空っぽの押し入れにそっと身をひそめ、薄壁越しにもれてくる交わりの様子に聞き耳をたてている不甲斐ない自分の姿を知ろうとも。僕にだって同じ経験はある、ここよりもっと古い部屋で始めて女体に触れ、両隣の気配を意識しつつも鼻のあたまに大粒の汗を乗せながらうれしさに溺れていったのを。
あの少年が生家の玄関に佇みさえしなければ、、、
お盆はみんなそれぞれ忙しかったのか、父も母も祖母も誰も家に居らず、僕はのんびりとひとり、開け放たれたガラス戸やふすまから送られてくる生ぬるい微風の感触を寝転がったまま懐かしんでいた。玄関先はさすがに無防備でなかったと思われるのだが。
「ひさしぶり、あそびにきたよ」
突然の珍客に驚くと同時に、たぶん近所の人懐こい子供がなんの考えもなくふと飛び込んできたのだろう、ほぼ間違いない推測は僕を大仰な表情へと流し、猶予をたたえた胸のなかに案内した。大義そうに起き上がり、
「そうかい、なにして遊ぼうか」
とにこやかに言った。
「そとにいこうよ」
「なんだい、家に来たんじゃないの」
「うん」
無邪気さにほだされたのは確かだったろうけど、十歳くらいの男の子にこもった目の色を素直な気分で見つめてあげることが出来なかった。ささくれのような小さな痛感が走り、急に疎ましくなった恋人を前にしたときみたいな声がすっと吐かれた。
「またおいで。今日は用事があるんだ」
すると男の子はまるでいくつか歳が足されたふうな顔つきになって、
「ようじなんかない」そう、ぴしゃりと蚊を叩く調子で言い返す。
「えっ、どうして」
僕を包んでいた空気の匂いが少し変わるのを感じた。つまり動揺した。
「ようじはつくるものだよ。そのためにわざわざ、、、」
不意の続きの言葉をさえぎり、子供相手のもの言いを中止しようと思ったのは他でもない、不安がすぐそこに燻っていて、見過ごすにはわけにはいかなかったからだ。他愛のなさと打ち捨てる要因はすでに退いている。
「わざわざ来てくれた。で、誰の使いなの」
「そとにいこうよ。そうすればわかるから」
こうして僕は、日差しの衰えをまだまだ感じそうもない空の下、油蝉が電柱で高らかに鳴いている町なかへ少年と並んで歩きだした。すぐ先の陸橋を渡りかけたとき、少年の背丈がわずかに伸びた心持ちがした。そんな胸中を察したとでもいうのか、
「このずっと先さ、でもこのあたりでも遊んだことあるよね」と、さながら観光地を再訪したような静かだが、老成した情熱をかみしめているような口ぶりで話しだした。
「そこの市役所の駐車場でよく野球してただろ、ぼくも一度だけ仲間に入れてもらったことがある。この山もえらく削られてしまったね。きみらのあとを追っかけてのぼったもんだ。土俵はまだあるんだろう、祭りもあった。キンコンカンはここから鳴らすんだった、間近で聞くとけっこうな響きなんだよなあ。夕暮れ五時の音」
僕のくちびるは微かに震えていた。
「ほんとうに誰の使いなんだい、知らないひとじゃないよな」
「きみは知らないかもね、でもぼくは覚えている。きみらが喋っていたことを」
「なんて」
「いま言ったじゃないか、ぼくの家はまだ先だよ。だから実際にこの辺まで来たことはないんだ。うらやましかった、山にだって空想でのぼったんだ。きみらに話しをもとに」
横目で少年は促した。登り口がひっそり陽光を受けている。取り囲む緑の濃さは道ばたの比ではない、そう言いたげな瑞々しい茂りは光と影を一枚一枚の葉の裏表に宿し、風と戯れ、まばゆさを小刻みに投げかけて来る。応じるまばたきの裡へ暗黒を点滅させるために。
坂道を下る歩調に乱れはない。草いきれをあとにし、ついでに追い立てられた蝶のつがいがふわりと羽ばたく様相でふたりは軽やかに居並んだ。そして更に少年のからだつきは変貌し、面に張られた微笑は分別くささを香らせ、僕を馴化させた。
「もう大人なんだろうね。しかし思い出せないんだ」
「仕方ないよ、三年生のときだもの」
「ああ、途切れ途切れ、憶えているのは理想的な情景だけだよ。もちろん不快なものだってある、でも面白いね、乳白色のぼかしが嫌な記憶さえ意味を剥奪してくれている」
「そこを曲がろう」
右手の小径に足を踏み入れる。こんな場所あったのか、、、が、不思議と懐かしいような、あるいは怪訝な親しみが一歩さきに待ち構えていて、民家すれすれの道ゆきにはおそらく豊かな不安が沈みこんでいるのだろう、そんな思惑を足取りは警戒しない。うっすらだが少年の秘密をつかみ取れそうになっていた。
狭い小径を抜けた瞬間、ほとんど肩の位置が一緒であることに目を見張ったけれど、驚愕は不確かな夢の底で目覚めたのか、僕は黙って彼の言葉に耳を傾けた。
「ほらこの踏切、よく見てごらん。そうじゃない、ああ、言い方が適切ではなかったね、線路の光景だよ。もっと近づいてみよう。こんな距離でレールを見るのはひさしぶりじゃないか」
僕はすでに踏切の脇にしゃがみこんでいる。そしてもっと近くに、いや近すぎて見失うくらいの位置まで迫ろうとしていた。
うしろから少年はこの世の声とは思えない優しい響きでこう言った。
「線路は続くよどこまでも、、、この先の鉄橋は河口に架かっていて海を見晴らせるんだ。きみらが山やら市役所で遊んでいる頃、ぼくはひとりで鉄橋を渡っていた。そして時刻通りにやって来た列車にはねられ河口に落ちた。死んだからに落ちたのか、衝撃ではね飛ばされて水死したのか、どちらにしても僕はきみたちのすがたを学校で見ることが二度と出来なくなってしまったんだ」
ゆっくりと振り向く僕に対し、少年は冷たい笑顔で応じてくれた。釈明を従容として聞き入れる時間を保ちつつ。
「名前も忘れている。だって同じクラスじゃなかった。同じクラスの子だって憶えていないくらいだから。ごめん、言い訳だよな。全校集会で悲報とともに厳重な注意が話されたのは記憶にある。でもすぐに忘れてしまった。きみの名は、、、」
「いいんだ、言っても知らないと思うし、そんなことは重要なことでない」
「だったらなにが」
「線路だよ。鉄橋とは反対のところ、駅が見える場所さ。きみはぼくが死んだ頃、枕木の修理でくぼんだ穴に入っていた。格好の空間、危険な遊びだ、まったく。時刻表に罪はない、きみは発車の音に身をこわばらせてあんな小さなくぼみに命をあずけた。轟音は闇と共謀して頭上をふさぐ、時間に忠実に。ただ、きみの時間は恐怖に操られていたし、反対に恐怖は忠実な妄想をあたえていった。それから誰彼ではなく、信じてくれそうな子だけを選び、まことしやかに体験談を語りつくしていた。後年、きみは」
「そうだ、そうとも。あれは現実なんかじゃない、かと言って夢ではない、その中間なんだろうか、たぶん。違う、そんな簡単に割り切れるもんでもない。もしあんなこと実際に起っていたら大騒動だったろう。けどあの枕木と枕木の間のくぼみははっきり目にしていたよ。毎日、学校に通うとき陸橋のうえからいつも眺めていたんだ穴が開くほどに」
「さびしかったのかい」
「よくわからない。きみはどうなんだ、列車にはねられるなんて。さびしいのはそっちだろ」
「さあ、どうだろう。少なくともぼくは、広々とした海に臨み大きな潮風を受け優雅な足付きで楽しんでいたように思う」
「でも死んでしまったら終わりじゃないか」
「そうさ。なんとか認めている。それよりどうしてあんな遊びを想像したんだい。いつかきみは思い出すだろう、今日のことではないよ。ぼくが列車にはねられた痕跡を。微量だけど血痕とか毛髪とか、ひょっとしたら肉片なんかもこの踏切まで運ばれてきたかも知れない、線路は続くんだ、どこまでも、都会までも。これは紛れもない事実だろ、きみの好きなくぼみ辺りにも」
「まるで脅迫観念じゃないか、結局こういうことだろう、きみの死はぼくにとことんつきまとう、今まで封印してたのは僕が分別を持ち得てなかったからだ、でも社会人になって一丁前の悩みなんか抱え、自分のことと他人のことを区別して考えたりする。そこでようやく忘れ去っていた空想を掘り起こし、穴をふさぐためにきみはいきなり、なんのまえぶれもなく現れた、盆だから、関係ないね、取り憑く機会がいい具合に訪れたってわけなんだろう」
「補填作業員ってことか。だったらそれでいいよ。でもこれだけは言っておく、考えるのぼくじゃない、あくまできみの方だ」
「そうかも知れない。しかしきみのことはもう忘れないよ、ていうか、忘れようとしても無理だ、酷いよ、まったく。亡霊だろ、さっさと成仏してしまえばいいんだ」
「あんまり怒るなよ、哀しくなるじゃないか。そんな目で見ないでくれ」
あの時、僕は正直、悔しくてしかたなかった。線路と列車の織りなす想念なんて別段めずらしくもない、もっと危険で惨たらしい情景を想い描くのは子供の特権ともいえよう。どうして僕のところに化けて出たんだ。一緒に遊んだ記憶のかけらもなければ名前だっておそらく耳にしてもわかるまい。意味なんてあるのか、あるんだったら、中途半端に消えてしまわないでほしかった。哀しくなるのはこっちだ、捨て台詞だけ決まりごとみたいに残していきなりは勝手すぎる。どんな目で見たっていうんだ、その目の残像さえ霧散するよう、あいつはそれきり僕の前に現れはしない。
おかげで二日間の帰省は単純な輝きを含みきれず、それは好奇も手伝っていたので一概に憤懣だけに彩られていたわけではなかったのだが、近くに住む同級生にくだんの鉄橋事故を尋ねてみると、どうやら実際の出来事であったのが判明し、夏空に雨雲がかかるよう鉛色の心境は増々深まるばかりであった。
とはいうものの、亡霊の消える直前をよく思い返してみると、その顔かたちに年相応の輪郭と風合いが備わっていたのが妙に心安くもあり、そう、僕自身の面影なんか漂わせていたら目も当てれなかったのだろうが、見知らぬ他人ぶりが鮮やかだったのでなによりの救いとなった。
社会人らしい分別とは正反対の、垢が剥がれているふうな、元々あった汚れが段々と落ちて奇麗になってゆくような洒脱さが感じられた。これこそ生者と死者の分かれ目などと適当な意味をこじつけてながら故郷を離れた。なるほど線路は続く、しかし物語は短い。
そんな意想をあざ笑うごとく、幾度もトンネル内に飲み込まれた車窓に、ぼんやりと幻影らしく反映したあいつの顔はそれほど悩ましげでなかったから、僕はほっとしている。
[356] 題名:アラベスク 名前:コレクター 投稿日:2013年07月08日 (月) 03時17分
熱帯夜とつぶやいてみるといいなんて前にあなたから言われたことあったわ。そうすれば、魔法の呪文みたいに異国情緒を携えた時間が一瞬だけ訪れる、、、なるほど一瞬だけね、総天然色映画のワンシーン、南国の海と人気のない森林、暑気は払われているのかしら、たとえ一コマだとしても魔法には違いないようね。
長く夢想してはいけない、遠く望んではだめだ、すでに知り得ていることをあなたは、懇願でもするような口調で諭していたので、ついついわたしの方が聞き入れた素振りでもって冷ややかに微笑み返してあげたのよ。
あなたにとってそれは従順で素直な態度として感受された。なにものにも勝る、気持ちのつながりは引き延ばされようが、見失いかけようが、おかまいなくで、肉体の距離さえ忘れてしまいそうになった。ふと我に気づくあたり、憐れみが粉のスパイスみたいにまぶされているふうで、ふたたび、大事なことを甦らせた顔つきでわたしのからだを抱きしめたわ。忘れ物の場所はまえもって決められているんじゃないかって邪推が働くのも無理はないでしょう。なにものにも勝る、、、このわたしの肉体は。だとしたら偉大な陥穽なんだから、少しは大事にしなさいよ。ことが果てるのを快楽が通り過ぎるしきたりみたいに、自然ととらえるのはどうしたものかしら。わたしの快感とあなたのそれが比較できようもないと互いが気遣うの悪くないわよ、でも重ねたからだの言い分は数値的な意味をもたないし、疲労と一緒に余韻が流れゆく、気怠い失意を見逃し続けてしまうのは繊細さに欠けるわ。情欲が沸点を迎えた限り、ええ何度も何度も絶頂へとたどり着いた挙げ句は、虚無なのよ。時間がはじめて冷徹さを放棄してしまったかけがえのない深い空洞、わたしもあなたも果てた先は神秘の沈黙にゆだねるのが美しいと感じるわ。気怠い失意を養っているものは、互いの顔色にあるのでなくて、ましてや日々の怖れに裏打ちされているのでもない、たとえそんな思惑がもたげようとも、肉体が交じり合った際に立ち上った熱気はそのままにしておくのが懸命よ。
どうして昔話しなんかで火照りを冷まそうと躍起になるの、ええ、一見そうでもなかったわ、あなたは腕枕に沈んだわたしの横顔から得体の知れないものを感じとってしまったの、それとも新たな雰囲気にくるまれたかったの、腕枕に提供される意想は割と単純だと決めつけているのね、きっと。
わたしは無言のままで更に抱いてとは示していない、あなたはあなたで子供がおねだりするときの甘えた目もとをしっかり意識したうえでまた迫って来る。嫌とか不愉快ではではないの、色情のはけ口にされているなんてぞんざいな仕打ちは微塵も感じたりしない。むしろいたわり過ぎるくらいだったわ。一夜の交わりが翌日も行われても、常に新鮮な空気を送りこもうと努めていたように思う。わたしはあなたを愛してなんかいない、あなたもおそらく同じ、けど肉体の結びつきは決して見苦しさばかりに堕したりしなかった。奇麗な色をしたリボンは空箱を丁寧に結んでくれていたわ。それを振りほどく手つきは荒々しくもなく、かといって控えめでもない、律儀で慎重で、ところどころ頼りげなく、その分性急だったこともある。つまり様々な触れ合いが試され、繰り返され、忘我だけが理想と邁進したことになるわね。
なら、それでよかったじゃない。わたしはそれ以上でもそれ以下でもなかった。あらゆる感情なんて不必要で叶うことならたったひとつの想いに支配されて居続けたかったのよ。わたしから空洞を提示し、見届けるまなざしを要求した覚えはないわ。借りにそう顧みるなら、あなたの方がすすんで空洞に灯りを持ちこんだ。せっかく冷徹な響きが途絶えてくれたというのに、なにをとち狂ったのでしょう、大らかで包みこむ優雅と隣合わせの世界に探りを入れてしまった。それほど光源が厳粛だと信じているの、わたしは求めたりしなかった、そんな光源なんか、きらめく肉体のつながりはそれ自体で他を願うことなんかないというのに。
厳粛さはわたしに入り用でなかったわ。あなたはわたしの奥に入りこむたび、ことが済むと激烈な興奮を沈めるかのごとく、肉欲とはまったく無関係の話しをはじめた。解け合いつながり合った裸体の延長にあるべきだと、奇怪な神経を研ぎすませ、そうするのがまるで色香が淫らに放たれた寝床を清める儀式であるかのように、無駄なおしゃべりをした。分かっているでしょうけど、出来たら聞きたくもないし、それこそすべてを台無しにしてしまうほどくだらない愚痴だったのよ。そんなに欲情がうしろめたいの、どうして黙って抱きしめ愛撫だけに専念してくれなかったの。とってつけた理屈と勝手な事情に残念だけれど関心は即さなかったわ。
母性がくすぐられる、、、一度だけそう口にした記憶がある。まさかあのひとことにしがみついて来たわけでもないでしょう。だとしたら、あまりに悲惨だわ、くすぐりは一度で上等だったから。あなたからすれば、恥の上塗りは避けたく、しかしあまりに甘く切ない誘惑を持て余していたのか、どっちにしたってわたしは女神さまでも天女さまでもないわ。ただの女よ。
あなたに別の女性が居るのも承知していた。かといってわたしは情況を縛りつけようなんて考えもしなければ、特別な紋様によって飾りつけられて欲しいとも、そうありたいとも願わなかった。何回も言ってたわね、わたしのあそこをゆっくり、じっくり、もっともっと眺めさせてくれって。いいわよ、花びらなんて乙女な意識は奇麗に削除してたから、多少は恥じらい口ごもりつつ、存分にあなたの視線を受け止めてあげたわ。
ほんとう言えば、可笑しかったの。そんなに穴があくほど見つめてみたところで、あそこはあそこよ、わたしのあそこ。
それとも夜ごと、唐草模様やら市松模様やら、花柄や幾何学に構築されていたのかしら。海綿体みたいな場所よ。まさかシンメトリーの妙に関心してしたと思えないし。
一方的な視覚でいったい何をつかみ取りたかったの。局所からこころの奥底の図案まで覗き見しようとしていたの。
可哀想ね、さぞかし午後の空は蒸し蒸しするだけでなく、息をつまらせそうな後悔にあふれてるだろうし、夕暮れの悲哀は太陽がこれぽっちも考えていないにもかかわらず、とてつもなく重くのしかかっているのでしょう。そして沈黙はもっとも堪え難い試練となりあなたを空洞の底に張りつけてしまうのだわ。束の間の歓びから目をそむけたはずではなかったのにね。
[355] 題名:タペストリー 名前:コレクター 投稿日:2013年07月01日 (月) 07時30分
仮に私が感情表現を持ち合わせていなかったとすれば、当然ながら表現以前に感情さえあやふやであると考えてしまうところだが、それは確かな解釈といえるのであろうか。表現にとって感情は常に不可欠でなければならないと仮定してみると、喜怒哀楽がわき起こる刹那の身振りを経て、脱皮をより肉体的なものとしながら、その実ますます肉体とは本質的に反対の方向に突き進んではいるように感じられる。
感情は硬直した体躯に揺さぶりをかけ、ときに激しく、ときにたおやかで緩慢な動作を選択し、躍動へと羽ばたきもしよう。又その指先は既成の道具を巧みに操り、あるいは操られているという錯誤に導かれ、扇情的な音色を奏でることも可能であり、悲愁に満ちた調べを漂わせるすべを心得ている。さらには絵筆や彫刻刀が見せるあまりに細やかな時間への配分と埋没を忘れるはずもなく、鋏が断ち切る用布から毛髪にいたる手際のよさは日常に即しており、取り繕うためというより様式にそった機能を量産しつづける一本の針のひかりが無数の幻影に守護されているのは言うまでもない。
表現はすでに感情から見放されている。そんな冷笑的な意想をあえて述べてみるのは歴史性やら熟成やら、進化といった能動的な良心をただちに影絵と化してしまった「ラスコーの壁画」に想い馳せてみれば十分だからで、つまり表現のひとり歩きに対してあながち、警戒を秘めたまなざしは必要ないということになる。
だが、ここで結論を言いきるつもりはないし、その理由を説明する意思も持ち合わせていない。誤解なきよう、私はなにもひとり歩きを賛美しているわけでも擁護しているのでもなく、ただ精神の発展がなされたのは現在過去未来というシステムに委ねられた結果だけに限定されるべきではなくて、いささか神秘的に聞こえるかも知れないが、自動書記の手法が時間を傷つけ、逆巻かせ、夢の彩色に促されて、肉体に宿った血や汗や涙やもろもろの体液が凝固され、感情の発露を見いだしにくくなっているという危惧にうごめいているからで、それは反面から得るところ混沌と共存する歓びでもある。ここで使われる自動書記とは濃密なめまいと呼ばれるのがふさわしい。
網次郎にとって女体デッサンに関わっている学生らは羨望であると同時に、幾度も首をかしげなくてはいけない連中に思えて仕方なかった。ふとした縁で知り合いになった男から、ちょうど積年の疑問を今にも懇切丁寧に解説してくれそうになった矢先、網次郎はどうしたことか、気後れでもあるまい、だが、明らかにその経験を口にした男に性急な問いかけで迫れなかった。
「最初はそうだ、どきどきしたもんです。なんせあの頃まだあっちの経験もなかった」
このひとことが不思議と気分を萎えさえるよう、また待望の場面に目をつむってしまう怯懦を呼び覚ました。あれこれ心理状態を自分ながら顧みたところ、胸に仕舞われていた想念の不純さに年甲斐もなく照れている事実に行き当たった。引き出しから消しゴムを探し出すより容易に得た心持ちに半ばうかれてしまったのも、羞恥の織りなす仕業にあることに感じ入ったがゆえであり、さらに脳裡の片隅はなぜか空高く、よく晴れた日の飛行機雲みたいに遠く、のどかな情景を張りつけているので、羨望は直通電話ではなく、時代遅れの呼び出し電話を想起させる間合いを獲得し、好都合に糊塗されてしまった。
男の声が近づくほどに、こそばいゆい感覚がえらくもったいぶった価値を蔵しているふうにも思え、のどかさに敬礼したくなったりもした。しかし、幾日かした折には焦燥につき動かされている実際を、鼓動と発汗を知るに及んで、網次郎は時間を弄んでいたに過ぎない強欲を認めないわけにはいかず、先送りした余裕らきしものは気後れでも怯懦でもなく、男から耳にした途端まぶたの裏に焼きつけるだろう、あまりに固定された充足を勝ち取ってしまうのでつまらなさを感じてしまっているのだった。
列車を一本見送っただけ、そう悔しまぎれに言い聞かせてみるのもまんざら嘘ではなくて、旅ゆきの気分が延長されたと想像してみれば少しは気が楽になる。意識的な操作ではないのだと、思いこむわずかな努力で平常心に帰れたのだ。
で、当時美大生であった男が語るに、
「あなたの予想は見事にはずれますな。いや、自分だけではありませんよ、まわりの奴らだって誰ひとり官能に征服されてはいませんでした。股間を押さえてる図など思い浮かべてるでしょうが、それは間違いです、はい」と、これから観葉植物の名前でも並べたてそうな取り澄ました口調で通された。
「結局ですね、若いせいもあったんでしょうけど、けっこう人目が邪魔するもんです。教授の目線だって冷ややかでして、無言の威圧っていうのですかね、その雰囲気が教室全体にゆきわたってるんですよ。冷え過ぎの空調みたいに。モデルの女性はやはりそれなりに奇麗なからだつきですけど、決して卑猥な感じはまといっていない、ポーズにしたって椅子に沈鬱な表情で腰かけてみたり、どこかしら技巧的なんです。あの人らだって仕事でしょうし、場慣れもあります、乙女の恥じらいがにじみ出しているモデルに出会った試しはないですね。第一、多数のまえで真っ裸になるわけですから、同じ職業でもストリップとは大違いで、あちらは情欲をあおるのが目的でしょう、そりゃ素朴なものですよ。中には不埒な念を隠してる奴もいたそうですけどね、当人は公言なんかしません成績に響くとか、評判が悪くなるとか、あの頃は不真面目は罪ですし、あくまでうわさに過ぎません」
網次郎はほぼ了解したつもりではあったが、自分がその場に臨んでない以上、反論する意欲なんかあるはずもないのだったけれど、間延びした羨望のゆくえを最後まで確認したい変な律儀さが顔をのぞかせ、と同時にその相貌へ薄皮一枚でへばりついている頼みの綱、よこしまな願望をついでに洗い落としてもらいたくなった。
「裸体におおむね興奮はしない、そういうことですか」
「そうです」
「わかりました。裸にはですね。じゃあ、顔のつくりはどうでしょう。さっき沈鬱と言われましたけど、そんな暗い顔つきばかりなんですか。まあそうだとしても、あなたの好みだったらどうします」
男はおもむろに腕組みをしながら、
「ほう、なかなか突っ込みますねえ。ではこう考えてみて下さい。普通あれのとき以外は女体を拝む機会なんてありません。街角だって店屋のなかだって電車に乗っていても、人の集う場所に裸体は登場しないものです。そうあればいいと願っているひとはいるかも知れませんよ、人前において女性はきちんと服を着て過ごしているものです。けれど顔はある意味で裸の一部ですな。まあ化粧でごまかしたり、華やいだりしてますがね。肉体が隠されているから顔かたちが美しくみえたりするのではないでしょうか。唯一の裸だからです。ヌードモデルの場合は、全身がむきだしなんですよ。顔だけに集中するっていうのは難しい、いえ、これは全体像をデッサン、つまり描ききらなくていけない作業なんです。なかには半身とかもありましたが、せっかく素っ裸でいるわけでしょう、目に映る限りをなぞるだけなんです、淡々と」
そう応えると、少々蔑みをはらんだ眉根が網次郎の思惑に挑んだふうにみえたが、すぐに口角をあげてこう話しをつなげた。
「男子ばかりじゃない、教室には女子学生も数人はいまして、そのひとりとちょっとばかし懇意になりましたんでね、ある日、尋ねてみたことがありました。女性から眺めて同性のヌードってどう映るのかって。まともな返答だったから今まで忘れてたくらいですよ。いやあ、どうしてるかな、急に懐かしくなってきた」
「恐縮です」
「いやいや、いいんです。あとでゆっくり物思いに耽りますから。で、彼女が言うには、ああしたモデルのひとって意識屋さんね、男はもちろん女のわたしにだって性的なものを薫らすどころか、彫像になりきっているみたいな冷静さを崩したりしないわ。裸である恥じらいより、どう描かれるか、どう見つめられ、絵のなかにいかに収まるのか、素描が色づけをまだ欲しないように、ほんのわずかばかり肉感に目配りされた形骸だけを見せつけているんだわ。肉体をさらしているつもりなんかじゃなく、曖昧な意識を切り売りしているのよ。だからモデルは意識屋なの、そう思うわね、といさぎよい口ぶりでした」
「そうですか」
「女性はわたしらとは別の角度からものごとを判断しているんでしょう、ヌードに限らず。こんなもんでよかったでしょうか」
「ええ、ありがとうございました。以前にお話しましたように若い頃からどうも気がかりだったんです。でも分かっていたのかも知れません。興味は学生たちの色欲が立ち上る幻影に終始していたと思います。彼らの心境はあらかじめ官能に支配されていて、理性らしきものと傍目への気配りが拮抗している。そうあってもらいたい、しかし、おそらく現実はもっと素っ気ない空気を生み出しているのでしょう。あなたの吐く息とわたしの吸う息が時間の隙間に紛れこんで決して立ち会うはずのなかった場所にたどり着きました。呼吸は感情をさまたげているのでしょうか。薄々感じていながら念押しみたいに現場の様子をうかがいたかったのは、失望を先取りしている自分に居場所を提供するためだったようです。あふれる光景はつかみ取りつらいですけど、すでに終決した画面はどうにでも切り貼りできます。やけっぱちだろうが、奇抜な発想だろうが、そうですね、下手な料理と似てますよ、限られた食材にこれでもかって味つけを施して、創作料理なんて納得している。狭い食卓とこじんまりした冷蔵庫が割と性に合っているのでしょう。手狭が居心地のよさを醸していることってあるんです。発露より閉塞、例えば金魚鉢のなかを窮屈そうに泳いでいる景色ってわたしが考えこむより、当の金魚はさほど嘆いていないかも知れません」
「随分と内向的ですね。しかしヌードデッサンはそうかも知れない。彩色が加われば変幻すると期待してますけど」
「さっきの懐かしい懇意な方ですか」
「これはまいったな、それは別問題でしょう。あなただってそうでしょうが」
「失礼しました」
網次郎はそれより先へ話題を深めることなく、とりとめのない会話に流れゆくこころ模様を眠たげに紡いでいた。
[354] 題名:悪魔払い 名前:コレクター 投稿日:2013年06月24日 (月) 05時40分
あれは庭の桜が散りかけた肌寒い日のことだった。青みが押し殺されている曇天を見上げているうちに、反対に上空から見下ろされてる気がしてきて、空恐ろしさを覚えてしまった。ああいう時分は空想の産物が晩飯のおかずに紛れこんでみても別段、深く考えこんだりはしない。頭上高くにひろがる曖昧で晴れ晴れしない意識は、やかんのお茶にも、冷蔵庫の扉にも、階段の隅へと無造作に置かれた紙切れやら、ねじまわしやら、父の点鼻薬にやら、それらをまとめ納めている菓子の箱にも、ついでにしてはそうであるべき理由があったのか、小さなうさぎの人形にも棲みついており、実際の用途や眺めとは異なる空気にまとわれていた。
確かによく思案したわけではなかったのだが、不意に訪れるものは背後に忍びよっていたかも知れない、そんな恐れは劇的な効果をともなって、いつしかの夜、窓に映った幽霊の影を想起させ身震いしたものだ。半ば密かな期待を含みながら。
近所の無人の家、案外古くもなく、急ごしらえで建てられたふうな一間しかない、空き地にぽつんと置いてかれたその家に住人の気配がまったくみられないことから、まわりの子供らの間では、「あれは悪魔や妖怪がひそんでいるに違いない」などという、ごく短絡的で能天気な結論にたどり着いてしまうのは当然の成り行きであった。
ガラス戸に鍵はかけられていなく、玄関のすぐさきには手洗いが、その左が小さな座敷で決して朽ちた畳なんかじゃなくて、普段のどこにでもありがちなのっぺりした座敷に家具のすがたは見当たらず、ただ曇りガラスをくぐり抜けて注がれる穏やかすぎる日差しに、胸の奥が反応しているのは薄気味の悪さであったろうし、もっと厳密に言うなら狭いながらもくまなく不思議な陽光を受け入れている感じは、とても危険なものに思われた。
近くの仲間を誘って探検をしてみようと提案したのだったが、無論、探検とは道なき道をかき分けるのでも、奥深い草むらを手探りするわけでもない、ただ、人気があるとあるとしたなら、ちゃんとまっとうな訳でここが無人でない証しを得たかった。もちろん、それはそれではらはらする材料以外の何者でなく、裏返せばやましさを覆い隠そうとしている方便に過ぎなかったろうが。
ようは日暮れるまであの家に居座ろうと思いついたのである。食料なんかもいるな、おにぎりせんべいでいいか、台所の奥にしまわれている水筒に番茶をつめて持っていこう、懐中電灯も念のためになどと、まるで遠足気分と大差ない高揚した勢いは素晴らしく魅惑であったが、子供の性急な戯れは常に先行きが怪しい。準備段階で早くも破綻してしまった。他でもない、うれしさ余ったのか仲間のひとりが親に探検を打ち明けてしまって、ひどく叱られたというから話しにならない。あらかじめ秘密結社のような雰囲気をみんなが共有していたと信じ込んでしまって、口もとに人さし指を立て軽く添えてみる心意気を忘れていたのだった。
こうなったら仕方がない、自分ひとりで決行するよりないな。無人であることに疑いを挟みたくない願いはこんな大胆な決意を促すものだ。つまるところ肝試しめいた行為はひとりっこ特有の不遜な甘えに支えられ、なしくずしの幻想に委ねるしかすべがなかった。
とはいうものの所詮ひとりは心細い、そこでひらめいたのが、町内をうろついている犬を連れて乗りこもうとした。あの当時は飼い犬が日中放されている光景はさほど珍しくなくて、よく菓子をあげるので後ろを追いかけてきたクン助を相棒に仕立てあげた。本当はみんな食い助って呼んでいたのだけど、角を曲がったところに住む3つ4つ下の子が同じあだ名だった為、いや別に人間尊重なんかじゃなく、犬の食い助と子の食い助が一緒だとややこしいからであり、クン助になったのだろう。
菓子をあげていたのは実は明快なことで、なんでもかんでもではなく、仮面ライダースナックに限られていた。それはひとえに食傷気味であったのと、カルビー製菓であったのに何故あんなにおいしくなかったのか、せめてかっぱえびせんにしてくれたら残さず、ありがたく大事にかじっていたに違いなかった。不人気なのは後におまけのカード目当てで箱買いし、菓子を捨てる狼藉が発覚して社会問題となったから有名だろう。
まあ、ライダースナックをかっぱえびせんにしてしまえば、本家のそちらが売れなくなってしまうに違いあるまいという考えは当時として中々の推測だったと悦に入っているくらいだけど、そんなことより、子の食い助でさえあの菓子を欲しがらなかった事実は絶大で、だからこそクン助がよろこんでカリカリっと子気味のよい音をたてながら、そしてこころなしか笑顔を見せている様子がたまらなく可愛らしかった。自分の嫌いなものを与えておいて微笑ましげな情を抱くなんでどこか妙だろうけれども。
で、毎日のようカード手に入れたさにスナック菓子を買っていた結果、クン助はよき相棒になったわけだ。
実はこれから先の記憶がどうもあやふやで、それはたぶん何かしら思い返したなくない経緯が絡まりあって、探険本来の意義をねじ曲げたくない為、そして出来れば意気揚々と、あるいはおののきでさえ夢見の門口に佇ませておきたい心情からだと思う。
太陽はちっぽけな行動に目配りしてくれてのだろうか。くもり空なのはひょっとして目こぼしの合図だったのだろうか。とにかく無人の家にクン助と一緒にあがりこみ、薄ぼんやりしたひかりが畳に静かに吸い込まれてゆきそうない座敷に腰を据えた。犬のクン助にとっては初めての体験だっから、いつもより鼻息は荒く、いきなり妖怪をかぎ出してしまってえらいことになるのでは、そんな興奮に胸おどった。
がらんとした部屋の空気は相変わらず淀んでいたし、窓をあけるわけにもいかなかったので、代わりにこじんまりした押し入れを覗いてみたところ、見るからにケバケバしいエロ本が一冊、文句あるかって言いがかりをつけてきそうな調子で横たわっていた。これにはまいった。
「いったい誰が、、、」
すぐに念頭をよぎったのは親から叱責を受けたあの仲間だったが、あいつには自分の家にあったのを見せたことがあって、そのときの反応がいかにも罪深い様子だったから、ああ、そうだとも、あれは恥じらいとか遠慮じゃない、エロ本を手にすること自体に抵抗を感じていたんだ。だとすれば、ここで疑念が背筋から這い上がるようにしてあたまを支配し、動悸を早めるところなのだろうが、不思議と見知らぬ他者を思い描いてみても、今すぐ表からドヤドヤと複数の邪気にあふれた顔つきが現れそうな恐れにも尻込みしなかった。それより表紙をめくった手つきがふざけ半分のスカートめくりとは違って、見知らぬ世界から徐々にすがたを見せてはさっと消え入りそうな成熟した女性の下半身そのものに触れてしまった心地がし、ヌード写真のどぎつく色づいたふとももや、はちきれんばかりの尻の大きさにめまいを覚えてしまった。
ページをめくるたびに増々孤立感が遠のいてゆき、いきなり大人なってこの家で恋人を待ち受けている、そして目が合うなり押し倒し、まだまだ先のことであろう、裸体の重なりに想い馳せては、甘い香りを鼻先にまとわりつかせ、ふとクン助を見遣れば、わざとらしく脚で耳をかいたりしていたので、少しばかり冷静になってはみたももの、すでに股間のふくらみは痛いくらいで、漫画にある女体の核心が空白に扱われているのに憤慨するごとく、いきり立ったものをそのページにこすりこんでしまいたい衝動に駆られた。
仮面ライダーより早くウルトラマンの股間に欲情していた身だからこそ、もう悪魔妖怪すら逃げ出してしまったのか、エロ本の持ち主なんか知ったことじゃない、直線的に駆け上がるつめた想いに乗っ取られ、耽りだすところだった。
犬とはいえクン助の目もあるし、ここでは集中出来そうもない。いや、嘘だ、そんなことしようとは考えてはいなかった。おにぎりせんべいをかじってはお茶を飲み、小振りなのがいいと持ってきた水筒の絵柄が三匹の子豚だったのにあたらめて妙な懐かしさを感じ、大人しいクン助のあたまをなでていると、時間がどれくらい経ったのか分からなくなって来た。おそらく日没までにはかなりの間がある。
平和といえば平和だった。安心と呼ぶならそう呼べた。悪魔妖怪の気配に親しみを投げかける余裕を持つくらいに。そして座敷わらしにせよ、ぬらりひょんにせよ、牛鬼にせよ、サタンにせよ、個々の物の怪よりこの無人の家こそが不可思議な存在であるように思えて仕方なかった。膨張したものはいつしか払いのけられて、みじめさに彩られ底の浅い孤独をかみしていた。
張りつめながらも、しじまを保ち続け、局所的に発生した台風は見事にあっけなく終息したのである。
「こら、そこで何をしとるんじゃ」
厳めしい目つきの男が面前に立ちふさがっていた。怒気をはらんだ声に対しとっさにこう応えた。
「幽霊屋敷だと聞いたから犬を連れて見張りに来てたんだ。ほら水筒だって持ってるよ」
自分でも呆れるくらいとぼけた口ぶりであり、性根もびくついてなかった。ただ開かれたままになっているエロ本にあたりまえだろうと凍結した男の視線が落ちたとき、何ともいえないこそばゆさに襲われ、いたたまれなくなった。
「早く出てくんだ。もう勝手に入りこんだりしたらいけないぞ」
男の目には将来、迎えるべき、そうであって欲しいようなそうでないような、慈愛のひかりがほんのわずかだけ輝いていたので、大丈夫、こっぴどく吊るしあげられはしないだろう、そんな思惑に即しつつ、怯えをゆっくり手なずけかいくぐるようにして無人の家を後にした。
例の仲間たちにこの話しをしたことはある。が、どんな心持ちで、どんな説得力で言い聞かせたかはほとんど思い出せない。また忠犬であったに違いなかろうクン助の記憶は更にぼんやりしてしまっている。なるだけ意識を集中し、あの頃の景色全体を脳裡によみがえらせてみても、クン助がどの家で飼われていたのか、実際はなんという名を与えられていたのか、それから雑種であったのは確かだろうが、毛並みは白かったのやら茶色かったのやら、あの菓子をかじるときのうれしそうな顔だけが特別に切り取られた画面となって浮かぶけど、あとは一向に映像としてあぶり出ては来ないのだった。
[353] 題名:眠れぬ夜のために 名前:コレクター 投稿日:2013年06月17日 (月) 06時18分
一席おつきあいのほどを。なんでございますな、ちまたでは草食系などと申します男子が増殖しておりますそうで、どうにもあたしらにはピンときませんがね、色恋を避けているって風潮ですから、世も末なんでしょうか、はたまた少子化を担うために人類がとち狂いはじめたのか、食糧難を乗り切る配慮でありますやら、どうでも理由づけは勝手にしやがれってわけでございまして、そもそも男女の間の隙間が、いえいえ溝でごさいますな、えらく深い溝が出来ているってことは間違いありません。食欲性欲といわれた二大欲求の片方が欠落したわけでございます。姉さん事件です、と叫びたいところです。
「たこ八さんじゃねえか、どうした浮かない顔をして」
「ああ、くま吉さんかい、聞いてもらうも恥なんだけどさ、せがれの宗太なんだがね、あの件以来どうも妙になっちまって」
「お花さんのことかい」
「そうでさあ、あっしの口からいうのもなんだけど宗太は役者にしたくらいの色男、かかあに似たのでなし、むろんあっしはごらんの風貌で、もらいっ子にちげえねえだの、大工のせがれにしとくのは惜しいだの、いろいろ世間はやかましい。で、餓鬼のころから仕事を仕込んでみたものの、施主のところに娘がいたらこれまたどうにもならずでね」
「知ってるよ、娘どころかおかみさんやら女中、近所のおんなっておんなが頬を染めて、お茶をすすめるやら煎餅、饅頭をどうぞとやら、まあ一服なさいだの仕事にならねえって」
たこ八ここで冴えない顔を上気させ発するに、
「仕事は仕事なんだけどさ、背丈も伸び、一丁前に物憂い面なんぞ浮かべやがると、たこ八さんよ、日当はちゃんと出しますからね、宗さんをちょいと貸しておくなさいよ、と来たもんだ」
「それって」
乗りだすくま吉をいさめても仕方ない、平静な口ぶりに返り説明する。
「おいおい、枕役者じゃあないよ。他愛もなことさ、座敷に引き入れて喜んでいるさ」
するとくま吉は怪訝な顔で、
「本当かい、物持ちのおんながほっておくもんかい」と突っ込みます。
「さすがに昼日中からはあるめえ。こちとらも目を凝らしていらあ」
「どうなんだい、いっそのこと役者にしちまえばいいじゃないか」
「馬鹿言っちゃいけない、宗太はもう所帯を持っていてもおかしくない歳だよ。大工だって役者だって仕込みが肝心だ、生半可はいけねえ。とは言うものの、肝心の本業もあの通りからっきし駄目と来た。そりゃね、あっしらの育て方が悪かったんだ、かかあだってちゃんと認めてるよ、そこで能無しだけどあの器量に惚れ込んだ娘が是非ともなんて、甘い思惑をめぐらせるとだね」
「ほう」
「世の中ってのは持ちつ持たれつなんだねえ、反物問屋の次女が宗太のうわさを聞きつけ、一目見るなりあっと言う間の惚れ込みよう」
「お花さんだね」
「あんたも適当だねえ、お花さんは茶店の奉公人、反物問屋はおさよさん、まったくひとごとだと思って」
「そう怒りなさんな、悪かったよ。最近どうももの覚えがよくないもんで」
「なに言ってやがる。まあ仕方あるまい、あのふたりはすがたかたちがよく似てるからね。いやほんとに、双子みてえだよ」
したり顔で頷くくま吉を尻目にたこ八お天道様を仰ぐふうな様子で、
「それで向こうさまから縁談がもちこまれたって次第さ。棚からぼた餅てのはこういうことか、なんて喜んでいたわけなんだがね、宗太に話しを聞かせたところ、たこ八さんよ、なんとせがれの奴こんな台詞を吐きやがった。おとう、実はおらあ好いたひとがいるんだ。これにはあっしもかかあも仰天よ、ああしたときはおなごのほうが気丈だね、あんぐり口を開けたわが体たらくを押しのけると、かかあはすかさず言ったよ。どこの誰なんだ、これ宗太、隠し事はならんよ、きちんと話してごらん、とな」
はい、神妙な面で語り出したこの希代の色男、以前より通っておりました茶店の娘に懸想していたそうで、とはいっても宗太は案外うぶな性情でございまして、決してそれらしき態度は示さず、口にもしないとわけでして、あとは当のお花が勘づいているかってことになりますが、それは後々あらわになりますから、ひとまずたこ八の家へと話しを戻しましょう。そこで早速、両親ともども宗太と一緒に茶店へと赴いたのでございます。さほど遠い距離ではありませんでしたな。話しが持ち上がった折から反物問屋のおさよの容姿を見知っているたこ八、このときばかりは狐につままれた面持ちで、こうつぶやいたそうです。
「なんでえ、どうしてお嬢さんがここにいなさるんで」
ここは男親の威厳の見せどころ、考えあぐねるより先つかつか店内に踏み入り「もしや双子ではありませんか、おさよさんの」といきなり切り出した。これまた豆鉄砲を食らったようなお花の表情、世間話しがゆきわたっていたとしてかの反物問屋は五里ほど離れております、江戸市中はそう狭くはありません。まったく何が何やら分からぬ顔つき、泳ぐは両の目の色、更にはかかあもしゃしゃり出てきまして、これこれの問屋の娘と縁故があるのか、名はなんと言う、宗太を見知っているのか、もう矢継ぎ早の問いただしで、まわりの客も眉をひそめるものやら、立ち上がるものやら、不穏な雰囲気にあわてて駆けつけた茶店の主との話し合いに落ち着いた次第でございます。
「なるほど、そういう事情でございますか。うそいつわりなぞ申してどういたしましょう。お花は三年まえより手前どもで奉公しております。合点がいかれましたかな、まったく他人のそら似です。それよりそちらの子息とお花はどうしたわけで」
茶店の主の態度に揺るぎはないのですな。こうなるとあわてふためいたのは張本人の宗太、顔を赤らめしどろもどろ、やむなくたこ八がせがれの岡惚れを恐縮しつつ説明いたします。呆気にとられたのは言うまでもありません。幸い野次馬から逃れるよう奥座敷にての話し合いでしたので騒ぎにまでなりませんでしたが、どこやらから漏れるものでしょう、二三日もすればもう色男と双子の縁談とえらく尾ひれがつきまして、そのうち反物問屋の耳へ入りましたのでございますな。呼びだされた宗太と両親はあたかもとが人の態でうなだれております。無理もありません、数代続く問屋側からしてみれば、入り婿とはいえ破格の縁組、娘かわいさの決意です。それがこともあろうか双子などと下世話な風評が飛び交い、茶店の女中ふぜいを慕っておったとは甚だしき侮辱、おさよに傷がついたも同様、また本人も悲嘆に暮れたのは察してあまるところでございましょう。浮いた縁結びは木っ端みじんに吹き飛び、懸想されたお花もいたたまれなくなり茶店をやめてしまいました。それでも宗太はたこ八に泣きついたそうでございます。
「なんとかお花さんと一緒になれないもんか」
あとの祭りと知りながらも反物問屋のお嬢さんはお花さんと売りふたつ、どうして算段しなかったのかと詰め寄りたい気分だったけれど、聞くだけ野暮とすべてを諦めていたところ、いやはや風聞とはまことに恐ろしものでして、色男一世一代の恋などと格好の話題になっており、世評は宗太の肩を持ちだしたのです。暇人がいるものでございます。どこのつてをたどってか、ひっそりとある屋敷で女中奉公しておりましたお花を探しだし、おまけに屋敷の当主の上役までとりこんであれこれ吹き込む始末、もはや人情噺を地でゆく勢いですな。
当主は邪心こそありませんが、今評判の宗太の想いをかなえてやれば名声もたかまりましょうぞ、などと耳打ちする輩がおりまして、早速お花にその旨を言い渡したのでございます。ところが、
「滅相もございません。わたしはあのひとの目が気色悪くてたまらないのです。命と申されるのならお暇をいただきたく」と、えらい剣幕にて自害さえしかねない様相で訴えかけます。
好いた惚れたは互いの気持ちが通いあってのみ、まわりも納得するものでしょう。無理強いまでして名を上げようとしなかった当主はまだ人間味がありましょう。ことの次第を聞き入れざるしかない宗太の道は願いを運んではくれません。
失意のうちに次第に世間の噂も幾日とやらで、悲劇をしょった宗太に新たな機運は訪れず、反対に畏敬の目に近い危ういものでも眺めるふうな扱いに甘んじるしかありません。まったくもって不可思議なのはひとのこころでございます、憔悴したとはいえ、宗太の美貌は凄みを増し神々しくさえあったというのですから。
そのうちこの哀れな色男はおなごのすがたを見るだけで胸に痛みを感じたそうで、こうなりますと余計に女人と接する機会もなく、例の日当にもありつけません。たこ八を悩ますには十分の有り様であったわけでございます。
宗太はそれから何をするでもなく、日中は寝込んだまま一歩も外に出ようとはせず、夜な夜な人気もなく、灯火も見いだせない暗がりをそぞろ歩いていたそうで、なんでも辻斬りにばっさりやられたと人々の話頭にのぼったのも束の間、精々残されているのは早く寝ないと怖いものが来るぞという子供らへの戒めくらいですが、宗太という名もいつしか消えてなくなってしまいました。お後がよろしいようで。
[352] 題名:悪霊 名前:コレクター 投稿日:2013年06月17日 (月) 01時43分
しばらくぶりに知人と酒場で落ち合った遠藤久道は自分の髪が金色から銀髪に移ろっているのを指摘され、
「なに、新月の夜に染め直すから脱色してしまうんだろう」と、生真面目そうに語った。
常軌では計りがたい相変わらずのもの言いに知人は苦笑するしかなかろう。遠藤は機微を心得ているというより相手の横顔にさした歪みに、本質的な相違を重ねかけたのだったが、分別めいた咳払いとともに話題をかえ酒を飲みほした。
「ところで東京はどうなんだい。おれが住んでた頃とは随分かわったろうな」
「まあね、が、いちいち変化する町並みを見届けてなんかいないし、気にかけることもないよ。もっともこっちが取り残されているような気分をときたま感じるけどね。ときたまだよ」
惰性に近いとりとめのない会話、あの焼豚が特大だったラーメン屋はまだあるのだとか、駅のそばにあった花屋のかわいい娘はどうしただの、よく吠える割には尻尾をふってじゃれついた名も知らない近所の犬は元気か、住んでいたアパートは取り壊されてないかだの、懐かしさを喚起する質問が口をついてでるのだが、それほどひりついた感情はともなっていない。
知人は愛想のいい店員みたいな顔でそうした問いに応えてくれるので、確かに当時の景色や東京の空がまぶたの裏によみがえり、意識に羽が生えかけたのだったけど、遠藤のなかでは別の羽化しかけたちいさな昆虫のつたなく、危うげな動きが別の情景に移り変わっていくので、まるで真綿で包むように手を差し伸べ始めていた。
知人が小用で席を立ったのが切り口になったのか、静かに流れてくる音楽に誘われるふうにして、甘く切ない想い出が胸に去来した。ほんのわずかの意想がすべてを押し流すよう、遠藤の過去は逆巻いた。
「きみはぼくの腕のなか、微かに吐息、夢の果てあたえられるすべての愛、、、」
「それ、ひょっとしてわたしのこと歌ってるの」
大都会の夜に静寂はひろがっていたったけれど、彼女の澄んだ声で発せられた言葉は煩わしく聞こえた。
自分の朴訥な歌詞でさえ衣擦れに似た、柔らかな雰囲気に染まっているようで、相手の目を恥ずかしげに見つめた。あの陽気の到来をかみしめる心持ちでちや子と花見に出かけた記憶が鮮明に訪れる。
「きみのために桜は咲く、晴れた空にあざやかに咲く」
辺りに気遣って控えめに口ずさんだ歌の一節に微笑みを返してくれた感情が忘れられない。ちや子の感情、、、いや、そうではないはずだ。遠藤は微笑の奥にとどまっている、ちょうど真珠貝みたいな傷つきやすく、壊れてしまいそうな美しさにためらいを覚えていた。同じ職場でいつしか恋愛まで発展し、もうすぐ一年になろうとしていた。
遠藤の音楽に対するひたむきさに好感を持ってくれ、彼もまた更に意思を伝えたくちや子を歌にした。それはついにふたりして歩くことのなかった楽園に匹敵する青い渚への憧憬であり、一方では昼さがりの陰りに知る白いテラスのなかの時刻に、不穏な空気をまとわりつかせたりした。
「まるできみのうたが風のように通りすぎていくから、夏の日のスローな波のリズム、やしの木陰でぼくはあふれる肌に感じてる」
ちや子には届けられなかった曲だった。音としては捧げられたかも知れない、が、現実の響きは遠藤の躊躇で夢見の彼方に置き去りにされてしまった。
自分が感じている以上にちや子は遠藤に寄り添っていたに違いない。求婚の片鱗は声として振動しなかったが、その愛くるしい目もとが不意に曇るとき、おどけた表情に罰が下されたふうに眉間が険しくなったとき、彼女の願望は狂おしいほど遠藤を取り巻き、切迫した。
「ぼくはこれからもっと音楽を極めてみたいんだ」
若さゆえの意気盛んな欲望は引き裂かれる。その夜、遠藤はいつになく激しい息づかいと力でちや子のからだを求めた。互いに昇りつめた矢先、ちや子はそっと目を閉じ、こみあげてくるものを制しているかに見えた。そして髪が乱れたまま、東京の片隅での恋は終わった。
「かわす言葉はなにもなくて、、、」
虚しいフレーズだけは現在まで鳴り響いている。決して重荷を背負いこんだばかりでなく、どちらかと言えば、その後の遠藤の孤独の慰めとして役割を努めて来たであろう。
知人が席に戻ったとき、連鎖反応のごとく遠藤はトイレに向かった。用をたしながら切ない想い出が不浄な思惑にまみれていく感覚にとらわれ、首を軽く振った。
手洗い場の鏡に映った白髪に新月を呼び寄せたのだろうか。何故かしら気持ちが若返ったようで、さきほどまでの記憶はふたをされ、酔いにまかせた今この瞬間だけを愛でた。そうすることが償いであるべきだし、無用のしがらみから逃れるすべとも思ったりした。鏡の中には自分がいる。
トイレの扉を押し開けたとき、足もとがぐらついた。
「危ない、危ない、この間も堤防の先端から足を滑らすとこだった」
青い渚を想い、大海を眺望した健気な気分は夜に祝福されており、また呪詛されていた。
[351] 題名:日勝ロマン掘野 名前:コレクター 投稿日:2013年06月04日 (火) 04時27分
夕陽が染み込んだ感じはしなくもなかったけれど、この部屋とは無縁に、仕切られ、引かれた、ぞんざいな有り様だけでもカーテンは十分な役割を果たしていた。外のネオンに織物の優しさで呼応しているのでもない、あえて言うなら、これから交わろうとしている男女の裸身から発する、吐息や汗のなかに極々微量に含まれよう血の色彩をカメラは的確にとらえ、編集のない予告編を生み出そうとしていた。その背景としての赤みであった。
すでにふたりは上衣を脱ぎすて、見つめ合いが横滑りしていくようからだは下着一枚で密になっている。ときめきさえ無様に投げやった口内の熱が互いの唇や舌先に伝わって、見苦しいほど濃厚なキスとともにベッドに倒れこんだ。いったん離れた男の口許にはあんかけみたいなとろみのある唾液がまとわりつき、何故かとっさに顔を伏せた女の顔をわがものにする為、ちからまかせに振り向かせたのだが、驚いたことに情欲の炎を宿らせていたその目からは、そぐわない大粒の涙が今にもこぼれ落ちそうだったので、一瞬気高い歓びに包まれかけたのだが、涙をためた瞳の奥からやってくる冷たい輝きに説得されてしまい、それまでの熱気が上昇して、言うもやまれず驟雨になる情景とは縁遠く思われ、気分は萎えてしまうのだった。
「そのまま続けていこう」
監督の声は低く頼もしい。そしておもむろに近寄ると「もっとしょげた表情をしろ、無粋なくらいにな」
それだけ言ってからさっと元の位置まで引き返した。
女の目を執拗に見つめたカメラに促され、ついには嗚咽をもらし始めた。
「泣いてばかりじゃわからない、いったいどうしたっていうんだ」
男の台詞は台本に忠実であり、なおかつ監督の意匠を汲み取っている。「おまえは筋書きを考えなくていい」それで正しいのだ。
ここでカットされ、女の両目に大量の目薬を含ませてから、演技が再開された。
「どうしたもこうしたもないわ、最初から、部屋に入るまえからあんたの非常口は開いていたのよ、あたしおかしくて、おかしくて、、、」
女はあざとく「ひっひっひ」と声にし、涙を抑えようとはしない。男は不意に宣告を下されたときみたいに情況を素直に受け止めはしたものの、片意地からくる敵意からその響きを嬌笑とみなし、大仰な照れくささを肩で揺さぶり、仲間はずれにされた子供の心許なげな胸中を眉間にまで押し上げた。うっすらと曇ったその表情を女は待ち構えていたふうに、
「頬張ってあげようか」と薄笑いのまま男の堅物に手をさしのべた。「いいじゃない遠慮しないの、恥ずかしくなんかない、おかしいだけよ」
「だれが、、、」
「あんた、、、」
「お勝」
「カット、カット」今度の語気は荒い。
「だめじゃないか、萎れているぞ。ここは心境とはうらはらにだな、屹立してなくちゃいけないんだ。お勝さん、あんたはいいよ、問題のそこのふぐりだ。棒はあくまで形に過ぎんけどな、ちゃんとした色欲は根っこにぶら下がっているもんだ。簡単に言えばだよ、少々古くさいが精神主義で邁進しなくちゃならん。大体が、すぐにおっ立つって評判だから新規採用したんだぞ」
監督の勢いに圧されながらも言い訳自体が闘志のみなもとであるかのように男は、
「はい、すぐ立ちます」と勢いよく応えてみた。
掘野米吉25歳、大学の演劇部に加わったまではありきたりの青春だったけれど、意気投合したひとりの学友と奮起一発、中退して結成したお笑いコンビがなんの弾みか時勢を盛んに駆け抜け、あれよあれよという間にテレビラジオで好評を博し、風采も上がり寝る時間を削る日々も今となっては信じがたい、コンビの名が「賃ボーボーズ」という際どさだった為だろうか、相方の麦秋、京都出身の意気の見せどころと巡業の際こともあろうに金閣寺の庭内で全裸になってひとさわぎ、取り囲んだ野次馬や警備員に向かい「どなたかはんか、金隠し持ってきてくれなはれ」と頭痛を催さんばかりのベタなおちで周囲は沈黙を呼んでしまい本人の思惑は世態に相反して、情報社会の凄みをまざまざと知らされる体たらく、折しもファンによって撮影された動画は格好の話題提供に、若気の至りで済まされないと気づいてみたときすでに遅く、苦難を共にしたふたりは解散余儀なくされ、謹慎期間を耐え忍んだ米吉、所属事務所の計らいもあって独り立ちを目指したものの、もとより麦秋あっての笑い取りであったことを再確認するに過ぎず、鳴かず飛ばずの日々は流れゆき、縁故をたどって着いたさきがAV男優という名ばかりは人口に膾炙したなりわい、半ばやけくそ気分を傍観していたのはどこのだれより我が身に相違なしで、曲がりなりにもオーディションを受け、万年**の芸当を披露、鍋焼きうどんを食べてる最中やら、知恵の輪を手にしてやら、大声で歌唱しながら、果ては逆立ちしながら、腕立て伏せしながら、とどめはヌンチャクしながらと、およそ性欲をかき立てない情況下で無為な膨張を試みてきたけれど、いざ本番となれば緊張の神さまは決して見捨てず、余計な世話だとこぼしてみても、とば口ではや蹉跌をきたして憤懣やるかたない。
「長くやる仕事じゃないけど、やってればそれなりに声はかかるから潮時が見えないっていうが本当のところかな」
初日から薫陶とも叱責ともつかない妙な理屈を監督より含められた米吉をいたわるつもりであろうか、
「筋なんてないのよ、あたしらはやるだけ。まあ、どうやるかってくらいは意識するけどね」と投げやりだが、きちんと語尾を正したふうなもの言いをしている。
一回分の撮影が済み、打ち合わせを終えてから勝子は新人男優の肩をたたき遅い夕飯に誘った。監督から明日に備えておくよう釘をさされていたのが、早く帰って寝てしまえ程度に聞こえなかったと共感を覚え、深夜をとうにまわった時刻を確かめるたびに、まるで家出少女みたいな反抗心が芽生えて、撮影まえにけっこう食べ応えのある弁当を支給され空腹まで感じてなかったけれど、祝杯の意味合いもこめて駅はずれにひっそり赤提灯を下げている屋台に陣取っていたのである。
「ええ、そうですね。筋書きは考えなくていい、自分に言い聞かせてます」
米吉は年長であり斯界の美形女優に対し、こころから言葉を発した。
「まあ飲もうよ。ホルノくん」
「はい、日前勝子さんと共演ですもんね」
「なに言ってるの」
しなだれたついでにふっと息が米吉の首筋をかすめると、無性にうれしさがこみ上げてきて自分の名字はホリノというのだけど、そう微かに胸の片隅で反論してみた。勝子の吐息に吹き流される心地よさとして。
杯を重ねるうちに米吉は相当酔いがまわっているのを覚え、幾度も半身を傾けてくる勝子に淡い恋情を感じてしまい、目の焦点が合わなくなったのを好都合に先ほどまで演じていた交わりをじっくり、ちょうど地図をたどることに似せ、落ち度なくつぶさに絵柄と空間を一致させるよう努めた。
すぐ隣に座している女体のすべてを知り尽くしているという感覚は優先され、難なく道のりを誤らず目的地に到着できた実感をさずかった気がした。勝子の乳房から脇腹を這った舌の味わいがよみがえる。仕方なく唾液をこぼしながらではあったけど、濃密な唇の応酬はこの熱燗よりはるかに酩酊をもたらすだろう。手のひらに残された生々しい肉感はそう簡単には消えてしまわない。そして目に焼きついた女陰の湿りが茂みに隠されるとき、自らの股間も闇に包まれ、見つめた横顔から香る花園の匂いが脳裡に散乱するのだった。
果てたとき、地図は焦点を結ばせず、それは今ここで想い返してみても同じであり、思念は遠くに運ばれてしまっている。
米吉は部屋のカーテンに目を向け続けていたことを知り、はっとして勝子の顔を、今度は地図でも絵柄でもなく瞬きする瞳を見つめていた。
「ホルノくん、明日は楽しみ」
問いかけなのだろうか。それとも自分がこのひとに言わせてみたのか。都会の夜空に星はきらめかない。しかし、勝手に返答がついて出た。
「ええ、とても。でも今も素敵です。ぼくがあなたを知っているんじゃない、あなたがぼくを知っているんですね」
「そうなの、ならそうしときましょう。夢みたいだわ」
「ぼくは眠っているのですか」
「馬鹿ねえ」
女は男の手をしっかりつかんだ。
[350] 題名:夜霧のちび六 名前:コレクター 投稿日:2013年05月28日 (火) 02時18分
きょうもちび六はげんきにあちこち動きまわっています。あちこちといってもこのいえの中だけですから、けっこうおなじところをいったりきたりの、かくれてみたり飛びでてみたり、ふわりとちゅうになげだされたように感じたりしているだけなのですが、あさとよるのつなぎめをいしきすることなく、よふかしのおねえさんのへやからもれてくる明かりにはげまされるよう、すみずみまでたんけんしているのでした。
ただ以前とかわったのはてれびにうつしだされるこうけいにみいってしまうことで、べんじょさまやくも男爵からのちゅうこくを思いしりながらも、ついついみしらぬせかいをのぞきこんでいるのですね。こまったものだとひそひそばなしが聞こえてきそうなくらいに、しかしじっさいにはだれもちび六のことなどゆうりょしているわけでなかったのですけども。
そんな感じがしてくるのはみょうだったのでしょうが、ちいさなこころとからだをしはいしているもののしょうたいがつかめない限り、ちび六はみょうなかんかくと横ならびになってかべをのぼっては、ゆかやつくえのうえをはうしかなかったのです。くらがりばかり好むしゅうせいをせおってはいませんでしたから。
よくよくおもいおこせば、しんせきの子とよばれているぼうやがたびたびこのいえにやってきて、いつもの静かなふんいきがみだされるとかんじたのがことのはじまりでした。
ちび六はすこしばかりせいちょうしたせいだと言われたことがありまして、そうですね、くも男爵から「ほらみてごらん、ここの家族とは種類がちがうだろう、子供っていうのはああしたものなのさ」と、いかにもにんげんをけんぶんしつくしたふうなくちぶりでさとされたので、たしかに手あたりしだい、なんのもくてきもなく反対にけいかいもしないようすは、ちび六のかんさつでもじゅうぶんりかいできうるものでしたし、りかいとともにじぶんの行動もがらすどにへばりついているときのはっとするいしきをめばえさせて、なるほど似たようなふるまいですけど、ぼうやよりはすこしばかりしんちょうなところもあるとかんがえるのでした。
ぼうやはおもちゃといっしょにちゃわんやすぷーんも投げつけたりするので、よくしかられています。ちび六からながめてさえあぶなかっしく、むちゃにみえるのですから、そんなばめんを演じていないじぶんがいくらかましに思えたのでしょう。ほんとうはせいちょうなんて言葉をくも男爵はくちにしていませんでした。ただそうにんしきしたほうがときおりおとずれるこの暴君をいさめているようで、またむじゃきなうちにどこかまとまりのある方向がのぞけそうなきがし、かってにほめられたことにしてしまったのです。
そしておしとどめようにもしかたのない情にむねをこがしたのが、最大のげんいんであるのをちび六はよくこころえておりました。
きれいなおねえさんに恋してしまったのですね。つかみどころのないものなのですね。くもはにんげんに恋してはいけないのです。そうしますと、ぼうやのそんざいはちび六にとってとてもきちょうな現象になりだしました。なぜかしらあんしんできるのです。ぼうやをみていれば、、、
それよりさきはあまりかんがえないようにしました。かんがえてなやんでもどうにもなるものでなし、やるせなさはぼうやが引きうけてくれています。
ここまではまるでおとぎばなしのせかいでした。まほうのくにですね。じかんがとまっています。けれども非情なじかんをしることになってしまいました。
そわそわどきどき、あちらこちら、いまなんどき、ときめきをぼうやのやわらかいかみの毛にかぶしてみれば、そんなおちつきのなさは、てんかふんの甘いかおいといっしょにふわり空にうかびあがり、そっとしずみこみます。ちび六はおとなが覚えるせつなさをまねていたのでしょう。
そう気づいたのはあんなにやんちゃなぼうやでしたが、てれびのまえにすわると飼育がかりのせわをうけてるみたいにおとなしくなってしまうので、どうしたことかといぶかっておりますと、ふだんからここのいえはてれびをつけっぱなしにはしなのですけど、えらくしんみょうな顔つきででんぱとやらとにらめっこしはじめるのでおどろいてしまいました。こどもらしくあにめやひょっこりひょうたんじまで喜んでいるのなく、かといって、みとこうもんやらやけいじころんぼにかっこよさを感じているそぶりもありません。かいきだいさくせんやうるとらせぶんでもないようです。ようかいやかいじゅうではなさそうなのです。ちび六はちゅうい深くみつめていましたからまちがいありません。
「あらら、この子ったら」
「わかってなんかいないわよ」
「教育的にはどうなんだろうね」
「うちでもこうなよ」
おかあさん、おねえさん、おとうさん、それからぼうやをいつもつれてくるおばさんらははしゃぎたそうなのに、むかんしんなたいどで口々にそういいあって、あとはほったらかしです。なんでもほかのちゃんねるにかえたら、ないふとふぉーくをいっぺんにぶつけてきたそうで、どうせなら、おとなしくしてくれるのなら、べつにかまわないのでは、そんなことをもらしておりました。
それはれんあいどらまのいちばめんで、しかもいちばんいいしゅんかんなのでした。だんじょがだきあってきすをしながらよこになっています。ささやきはでんぱにのったわりにはよく聞こえ、ためいきはがさつなおとなを嘆いているようにも、ただたんにぼうやのねいきが未来におくられたようにもつたわってきます。
みいっているのはだだっこでしたけど、それをかんしょうしているちび六はからだのふるえがとまらず、生まれてはじめてかんどうしたのでした。てれびのばめんにではありません、といえばうそになります、しかしながら、それだけではなかったのはじじつで、つまり、だんじょのいとなみにくいいるよう目をこらしているぼうやにへいふくしてしまったのですね。ぼうやの目をとおしてちび六はせかいのふしぎをさらにかきわけたということになります。このひからちび六にとってぼうやはくも男爵よりとえらく、べんじょさまよりとおとい位へとおさまったのです。
またぼうやのいないとき、ひそかにがくしゅうをしました。とても偉大ながくしゅうでした。あのだんじょのどらまをいくどか目にしたせいもあって、いえのきれいなおねえさんをわすれかけたり、あいてのおとこにあこがれがつのりだしたやさき、そのふたりがまったくちがうばんぐみにしゅつえんしていたので、おおいにためらいましたけれど、なんでもばらえてぃとかいうおもしろ半分のほとんどえんぎのいらない、とりつかれたようなひょうじょうをもちいない、こころのなかを乱さない、かろやかなふんいきでしたから、こちらもあおられたちりのようにいっぺんに舞いあがり、ついでにがてんもいったのでした。
はいゆうじょゆう、に、な、れ、ば、いい。だきあってきすするだけでなく、ときにはこわいけしょうでおばけにだってなれるし、かいじゅうのきぐるみだってまとえる。せいぎのみかたにもあくのしゅりょうにもふんすることができる。
おわかりでしょう。こどもがせいちょうしていくすがたに意志をなげかけたのです。あわてものにふさわしいおこないですね。こうなるとちび六はじぶんのすがたかたちがすっかり人間になっているとおもいこんでしまいました。がらすどのくもりはひざしの意向だけにかぎりません。まえまえからしぜんのいじのわるさだと皮肉まじりでしかみあげてこなかったおおぞらにうかぶもの、ひるよるのさかいにまたをかけ明暗をつかさどるえたいのしれないふわふわしたとおいせかい、おなじ発音でよばれる、そらのくもをひとかけもちかえりたい、そうつよくねんじたのです。
しかしちび六のやくしゃせいかつはそうながくつづきませんでした。くもを手にいれることがふかのうであるより、よぎりへまぎれこんでいるじぶんのこころがなににもまして人間になりきっているとしってしまったからでした。
どの春だったのでしょう、いつの夏だったのでしょうか、ぼうやはいつしかききわけというえんぎを身につけ、てれびのちゃんねるをしきりにかえてはおとなじみた笑みをみせていました。それは陽光がよくにあうしろい歯とやくそくをかわしたふうにおもえ、ちび六はそっとてんじょうのかたすみへとすがたをよせてしまったのです。
いいえ、ひくつになったからではありませんよ。ここはどこよりながめがよいからです。きれいなおねえさんはあいかわらずよなかに起きだしてはめんるいをすすっています。
[349] 題名:さわ蟹 名前:コレクター 投稿日:2013年05月21日 (火) 03時00分
エドガー・アラン・ポー「モレラ」、そしてラフカディオ・ハーン「お貞の話し」、生家の裏庭に面した流しの下はちょうど水たまりに似て、心細げに類家の畑の溝へと通じており、春さきともなれば白や黄色い蝶蝶がふわふわ舞うさまは身近でありながら、陽光の届けられるまばゆさに名も覚えぬ草花が匂いたつようで、見遣る景色はなにやら遠く、逃げ去る子犬の愛らしさを想いだしては、ほんの少し胸を焦がしたふうな感覚に閉ざされて、ぼんやりした時間のさなかに夢見の恐怖を知るのだった。
蛇口から勢いよく落ちる水の冷ややかさと透明感に時折はっとさせられるのは、忘れてしまった去年の夏休みの出来事に重大な秘密をこじつけているかも知れなく、もしくはすぐ後ろに位置していた便所の臭みを洗い流したい思いなのだろうか。子供の領域だけに封じることは不遜でしかない。愁いを透き通らせる秋口の新鮮な空気は今でも健在だから。
桜の木に拾っておいた蝉の抜け殻をひっつけようとしたことも苦笑で終わらせたくはない。大切な手つきだと感じている。捕まえかけては気まぐれみたいに距離をとった蝶の羽が残像になりかけた頃、地虫などと勝手に呼んでいたこおろぎの類いが薄暮を讃えれば、空の深みを読みとってでもいるかの殊勝な顔つきを自身に要請する。静かな気分は心地よい肌寒さのせいに違いないだろうが、季節のうつろいに即した仮面の着脱は遊戯を決して軽んじないよう、唾液の粘りがどことなく卑猥な感じをもたらすよう、あるいはつまらぬ小細工に熱中した意気込みの影であるべく、玩具は数歩さきで常に冷めていた。
凍えたのはからだばかりでなかった。寒風にさらされた水道管もまた噴出する気概をせき止められ、洗顔を遅らせた真冬の日々はすっかり水たまりの初々しさを失い、漬け物石とセメントで適当に作られた流しの下らしく、わずかな湿気は滑らかであるよりみすぼらしい堅牢さを誇示していた。
日差しの加減であったのか、時期はずれの徘徊もしくはとち狂った目覚めなのか、幻覚なら仕方ない、爪と足に火傷を負ったふうな赤茶けたさわ蟹のすがたがちらり、凝視に結ばれる軌跡は案外のっそりしていた。
あれは草花ではなく野菜だったと振り返ってみる。土と葉は混じっていた。小学校の毎日はおそらく単調さにおいてというよりも制度を学ぶことで連鎖が育まれたから、途方もなく長い期間に感じられて、遡行するほどに未来を案じる錯誤を得た。
寛永通宝だと記憶しているが、どうして裏の畑から掘り出されるのか不思議でならない。不思議といえば、古くても貨幣なのだからもう少し弾んだ気分になればよいのに、誰かに吹きこまれたにせよ、土団子をこねている程度のうかれ具合でしかなく、とり尽くした感がやって来たのが分かる時分にはその辺に打ち捨てて家の中にしまわれなかった。
蝶蝶は今年もひらひら飛び交い、網が宙をなでつけ、朗らかな陽気に誘われ、自慰に耽った。早熟であるのは知り得なかったけれど、後ろめたさは正午の太陽に見咎める権限を無条件で譲り渡してあったから、雨戸に触れたくて仕方がなかった。夏の到来に振りまわされた覚えはない、ただ山積みの宿題や無理して通った早朝体操が疎ましく、かぶと虫がすいかに食いついて離れないのが微笑ましい。安物の花火が吐き出す鉄錆の酸っぱくなったような鼻をつく刺激を密かに好んだ。これは思い違いだろうけど、大岡越前の主題曲がテレビから聞こえる時刻、外はまだ薄明るくときめいたことがある。夜八時、宵闇はどっぷり家の中にも外にも押しよせ、祖母の白髪をそつなく愛で、祖父の肖像画に刻まれたしわに染み込んでゆくのに、テレビの画面には打ち勝てなかったとでもいうべきか、そんな記憶は妙に新鮮である。
運動会と金木犀が不可分であるのは緊張と解放の甘みが鼻先でまごつくからだろうし、開け放たれていたガラス戸が神妙に光線を受け入れている様子と映ったのは、目先がうつむき加減に同調していたのだろう。殊更かじかんだふうに両手を石油ストーブのまえでもむのはやはり寒かっただけ、それでいい。
正月にはお年玉がもらえたので初売りの玩具を買いに走った。なにをどう考え違いしたのか、間がさしたのか、平家物語ゲームという双六的な代物を抱えて帰ってきた。当時はすぐさま嘆いたものだったけれど、いつしか脳裡に常駐しはじめたところ最近オークションで再会した。一度だけでその後はない。残念ながら手元に戻ってくる幸運は弾かれたが、別段失意まで感じてはおらず速やかに怪獣へと立ち返った。
[348] 題名:ゆうれい座 名前:コレクター 投稿日:2013年05月13日 (月) 12時25分
不思議な色合いのまちなかにいる。
紙芝居みたいにこじんまりとしていそうで思いのほか、にぎやかさは収まりつかない気配を仰々しく伝えてくれるので、胸の奥に温かいものが湧き出て来て、辺りを一通り見回した頃にはじんわりとした感情に包み込まれてしまった。
立ち止まるのを拒まれているのだろうか、いや、斜め向こうの威勢のいい客引きは流暢な発声でもって巧みに見世物の面白さを語りだし、懸命に、前身全霊で、とても情熱的に、だがどことなくあらかじめ色褪せした絵柄のような物悲しさを底辺に残しつつ、私らの気をひこうとしている。
空は水ようかんであつらえられたふうにひんやり、行き交うひとの目は反対にそわそわ落ち着きがなく、やれ綿菓子売りだの、金魚すくいだの、団子屋だの、狐やひょっとこの面売りだの、香ばしい焼きいかを並べた店だのが居並ぶなか、地べたの感触も空の色が映りこんでいるようで、私はふわりと浮き足だってしまい、客引きの口上に聞き入っていた。
「いよいよ本日開演だよ、見なきゃ損とは言わないけど、無理してまで見物してもらうことねえや、えっ、どっしたわけだって、あたりきよ、あとの祭りだってことさ。そこの旦那も姉さんも学生さんもお嬢さんもお坊ちゃんも、うわさには追いつけやしないよ、天地が逆さになろうがこればかりは現物を目ん玉に刷り込んだもんが勝ちってもんだ。あれは信じられなかったなとか、ううっ、思い出しただけでも鳥肌がとかね、いくら人づてに聞いたところで話す本人だって狐につままれているんだ、根掘り葉掘りと望むところだがそうは問屋が卸さねえ、へへ、あっしの言うことは大げさかい、そんなはずはない、無理しなくてもよござんすって仏の教えみたいに諭してるんだよ、こちとらも商売だい、それがですぜ、皆々さまの冷静な判断を仰いでるって寸法だい、馬鹿丁寧にもほどがありゃしやせんか。そんじょそこらの出し物とは破格の違いがあるって証拠じゃござんせんか。で、その肝心かなめをこれから、つつっとお話いたしますよ、いいですかい、気が向いたなら木戸をくぐっておくなまし。
皆さんは満蔵一座って名くらいは知っておりやしょう、へい、蛇女やらろくろ首にミイラの類いをこれまでお披露目いたしやした、おっ、そこの坊ちゃん、うなずいてるね、影に隠れたお嬢さんも、そうでやす、怪奇一辺倒、おばけの一座でごぜえます。種も仕掛けもありませんとも、かといって妖怪変化とも申しませんよ、そんなほらを吹いてはいけない、正真正銘の奇形異形のね、哀れな宿命を背負ったものらのすがたかたちだ。ところが満蔵座長いわく、もうそうした宿命を売り歩くのは嫌気がさした、ここらでがらっと趣向を変えましょうと、が、これまでの名物はなんといっても異形の数々、憐憫はさておき中々めぼしい工夫が思いつかない。さあ、ここからが正念場だ、そう一気にすっとんだよ、端折りも端折って神髄を開陳する。いやね、あっしも最初は度肝を抜かれたってより、押し黙ってしまってね、いくらなんでもそんな無体な、罰あたりどころか夜と昼を反転さしたようなもんだ、そりゃあり得ん、どうあってもあり得ん、第一うす気味悪くていけねえ、そんな幽霊なんぞ、捕まえようなんざ。
もらしてしまった、そうなんで、あの世から見せ物を引っ張ってこようって魂胆でね、あっしが戸惑うの分かるってもんでしょうが。ところが座長の眼はぎんぎんぎらぎら、すでに幽冥界の主と掛け合って契約を取り交わして来たっていうから驚き桃ノ木山椒の木だい。
さあさあ、お立ち会い、あっしの言い分はもっともと同調してもらえましたかい、隅っこのしたり顔の学生さんよ、あんただって文明社会に幽霊が出るとは、しかも真っ昼間の見せ物小屋にだよ、大人しくどろどろひゅうって具合にお出ましすると考えられようか、そうだろう、どうせ手品かまやかしかってとこが関の山、あったりまえよ、坊ちゃん嬢ちゃんだってそれくらいの道理は心得てらあ、ねえ。と、まあ、たじたじな気分はここまでにしておいて、いよいよ本題だ。
なんだい、旦那、ひとが喋るまえから興奮しちまってよう、だがね、旦那の心中は大体いいとこを突いているんだな。幽霊の正体はいかに、なるほど違いはありやせんよ。見てのお楽しみなんぞ、けち臭いことも言いやせんよ。もったいなんかつけるもんで。ずばり予告しておきますよ、おんなの幽霊でさあ、しかもうら若い美形ときた、ああ、旦那、慌てなさんな、押さないで押さないで、あんたが一番乗りなのは確実でさあ、あっしが太鼓判押すよ。まだ説明すんでないからようく聞いておくんなさい。でね、その幽霊、ただ舞台に居ったってるだけじゃない、脱ぐんですな、そう着物の裾をちらっと、あとは語るに及ばず、あれま、お嬢さん、ずいぶん不服そうな顔色ですな、ああ、そうか、こりゃ、あっしとしたことが舌足らずでやした。大丈夫ですぜ、そんな不謹慎な代物じゃありません、下世話な女色とは次元が異なるってもんです、なんせあの世からの巡業でございやすよ、それはそれは幽玄な美しさにうっとりされること請け合い、お子様とて、魔法の絵本をめくるようなもんで、心配ご無用、世俗を離れた境地に遊ばれなされ。
と、いったところでおしまいじゃあないんだなあ。出し物はまだあるっていう大奮発よ。これは簡単に流しといてと、続きは木戸の奥でもって縷々と語られる案配だからね、隠れ里ってご承知だろう、不意に行方が知れなくなって数年たってから戻って来ればその時分とまったく変わりがない、歳をとってないって摩訶不思議だ。ここで腰を抜かしてはいけないよ、今から二百年まえに忽然とすがたを隠されたと伝わる上臈が、なんと一座と出会ったんだな。その気品ある面影は筆舌に尽くしがたい。座長の意向を酌んで本日限りの特別出演と相成った。これだけでない、更にやんごとなき上臈と幽霊の対面も実現されるというから、なんまいだ、アーメンそうめん冷やそうめんじゃないか。こんなことあっていいもんだろうか。ほんとはあっしだって恐れ多いんだ、それをあえて衆目の認めるところとし、文明の、いや、過ぎ去った幻影をいっときでも感取してもらえればこれに勝る癒しはないだろう、、、」
客引きの言葉が途切れるまえ、物珍しげに寄り集まった人々は、まるで三途の川を渡るような虚脱した面容で熱狂の気色もなく木戸へと吸い込まれていった。私も同様であった。ただ二の足を踏んだつもりはなかったはずなのに、まわりの顔つきに一層足を引きずられそうな心地がしたのが何故かしら幸いしたのであろう。
あと少しで暗闇に紛れるところ、いきなりうしろから肩を叩かれた。手まりが軽く弾むような、しだれ柳の束に触れたような、柔らかな手つきだった。
「ちょいと兄さん、あんなインチキに騙されてはいけないよ」
振り返れば、銀杏返しに色白の、はっと胸に染みる目もとの、退紅の着物すがたの、微笑みと目があった。
「やはりそういうものなのかね」
私の声は少しうわずっている。無理もない、幽冥界とやらに導かれる矢先だったのだ。しかし間を置くことなく面前の女性の思い詰めた一途な、それでいて憂いをまとっているかに見える表情にとらわれているのを知った。
「そうよ、決まっているでしょう。そんなことより、すぐそこなの」
憂いは気まぐれな鳥の鳴き声のようにほんのりしたときめきへと移ろいだ。手鏡をかざしたごとく。
そして突風にあおられる爽快な気持ちがわき起こると、ただちにそのししおき豊かな容姿に惑わされた。熱い血と冷たい血が交互に私のからだをめぐりだしている。渇きを癒すために生唾をのむ矛盾を忘れた。手招きより壮絶で饒舌な、うるんだ瞳にぼんやりとした影を見いだしたとき、空は雲がかかって湿気を呼んでいた。
[347] 題名:庭球譚 名前:コレクター 投稿日:2013年05月07日 (火) 12時00分
空は乾いていた。日差しは暮れがたのそれでありながら、のびやかな紅色にひろがって閑暇を持てあましていた。小鳥たちのさえずりが朝日を浴びてよく通るよう湿気は不服なく退き、木の葉を揺らしている。
広場に迷い込んだのは子供らであったのか、ぼくの視線はいうに及ばず、今朝と昨日を往復しているようで、しかし、もっと確かめたく近寄れば、随分と過ぎ去った日々から飛来して来たような手まりが広場を惑わせているのかも知れない。遠目に眺めている限りそう感じるしかなかった。
「こっちに放り投げて」
小さな男の子と女の子が口をそろえて言っている。中空をさまよっていたぼくの目は、足もとへ転がった手まりがテニスボールほどの大きさだったのに驚き、
「ああ、わかったよ」と返事はしたものの、不思議な感覚に頼りきったまま、何度も瞬きをするのみで腰を屈めはしなかった。不親切なわけでなく、ただ地面の雑草にさえ重みを悟らせまいとしているふうなボールに見とれていたのだ。
そよ風が抜けていく。ボールは動かない。柔らかな薄いゴムで作られた形状も然ることながら、気兼ねを知らない素振りをした、いたいけな、それでいて取り澄ました風情の生き物みたいな意志に共感してしまい、子供に対する媚を忘れてしまっただけである。それから忘れようと努めている情動もすんなり加担してくれたので、なんだかうれしくなって痴呆のような笑みが生まれた。同時にボールは丸みを残した薄紫色の花びらがいくらか散ったすがたに変容した。風に煽られそうになる手前でもとの花弁に戻り、ひっそりとした美しさを一瞬現して陽光にかき消された。
ボールをなくした二人は離ればなれになった恋人より深い哀しみの影を作り出している。また互いの手にしたラケットの編み目は一層と微風を呼び止め、辺りの吐息を一心に集めているかに映って仕方がない。
陽が傾いた錯覚に堕ちたとき、ぼくの影は短くなり、当たり前といった仕草でボールを拾って投げ返していた。
「ありがとう」
快活な声が届いたから哀しみは嘘のように拭われたのだろう、子供たちはバトミントンらしき遊びに返り咲いている。眼球が迷い込んだに違いない、そう確信を得たぼくは誘拐犯が忍ばす歩調をまねて距離を縮め、
「まぜてもらえないかなあ。少しでいいんだけど」媚ではなく懇願の顔つきでそう訊ねてみた。
二人は自分らの背丈を十分に脅かす雷鳴でも聞いた表情になり、こちらを凝視していたが、ぼくの目線が位置するところを感じとったのか、「いいよ」と応えてくれた。
確信を持つにはあまり四方に意識をめぐらせないことだ。運はごく身近に横たわっている。三本目のラケットを以前からの借り物みたいに手渡されたぼくは、ようやく空き地に抱かれ、興じれば興じるほどに吸い取り紙で肌を撫でられる具合に汗が引いていくのを覚えるのだった。
子供らは法則に準じるかの態度で交代にボールを打ち付けてくれた。ねずみのような素早さとせせこましさが微笑ましくて、打ち返すたびにぼくは子供に返るどころか米粒より小さな存在へと導かれ、しまいにはボールもそんな様相を見抜いたのか、本当に米粒になってしまった。
「これじゃあ、遊べない」
こころの底からそう不平をこぼしたので、ふたりは困った顔をしながらも「タイム」と律儀に声を張り上げてから内緒話しをしていたが、殊勝な口ぶりでこう提案したのである。
「ならテニスをしよう」
呆気にとられたぼくを尻目に二人は背中合わせになったと思うや、さっと真っすぐ遠ざかるふうにしながら片足でびっこを引く要領で地面に線を書き込んだ。
「これがネットってわけだね」
「そうさ」
したり顔でダブルスを組んだ二人と新たな遊びが始まれば、夢中なのはもちろんだったが、どこか意識に変化が起ったのか、段々と気の抜けてゆく風船のように浮いているのか、沈んでいるのか分からない心許なさにとらわれ出し、日暮れを認めたくない不断の意欲は低下するばかりであった。
一方では雨雲を嫌悪する情が羽ばたいて、「夕飯だよっ」と、遊び場近くまで呼びに来た母の面影がよぎり、ほのかな胸の痛みを感じた。空腹より遊戯に没頭していたあの時分、母の声を冷たくはね返しては黄昏れた空模様に遺恨を焼き付けていた。規律から少しでもはみ出すことに目覚め、意地らしく虚勢を張るのを知ったのもこのつたない胸だった。
刹那の想いではあるけど、向き合った二人をよくよく観察している自分に気づき、またもや日没間際を駆ける光景が早馬を操る時代劇に重なって現れた。溌剌とした動作は鈍りしないが、やや緩慢になっているのはぼくが勝手に成長した証しだろう、などと都合のいい解釈でなおざりにし、赤みがかった甘味の感情にすべてを託した。
大きな目をしたまつげの長い少女、方や細面に似合いのつり目の少年、きみらをぼくは知っている。いや、思い出そうとしないだけかも知れない。回想の最中もボールは間断なく往復された。そして日の入りが反転する情景を作り出し、はっと目覚めたとき、ラケットにみじんも手応えを感じていないのを理解した。ぼくは紛れもなく風船と戯れていただけなのだ。
悪夢とは呼ばせない。むしろ旅先での出会いに近い展開であったから。地獄坂という名を持つ土地は世界にどれだけあるのだろうか。
二人はいつの間にか両脇へ密着してぼくの耳もとにこうささやいた。
「今から死刑を見に行こう」
ぼくらは胸の高鳴りに見合うだけの急勾配に恵まれた坂を勢いよく下っていった。転がる石の気分を味わいつつ。
記憶にありそうで微妙に食い違っている意想を家屋として視覚化してみれば、こうした建物になり、部屋が出来上がる。わずかだがといいながら、実際にはまるで別ものになっているけれど先行した想いが勝ってしまい、眼前を占めている場面は肯定されるのだ。
死刑場に入ると視界から二人のすがたは見当たらなくなってしまった。これから処刑されようとしている顔にも見覚えがあったので、独りぼっちは堪え難いかったが、観念しきったその顔には負の磁力が相当働いているようで身動きが利かなくなった。今となっては他愛もないけれど、誰かれとなくいじめたあげく自らいじめの対象に成り下がった奴ではないか。図体だけは大きくなったようだけど、ぼくと似たふうな目をしている。
ガス処刑であるのが知れた。ヘルメットを被せらパイプから猛毒が送りこまれる仕掛けであるのは瞭然である。配慮なのからだろうか、電気椅子ならぬガス椅子はかなり座り心地のよさそうな豪華な造りで、憐憫を募らせておき、ついでに死を正当化させる企みとも見受けられる。
椅子にベルトで固定された死刑囚は予行演習さながらの面持ちを崩そうとはしていない。いよいよヘルメットが持ち上がったとき、神父もどきの立会人がなにやら唱え、まわりはさすがに静粛な気配を余儀なくされた。
ぼくは身震いしていた。空気が乾いている。震える舌さきでつぶやいたひとことに神経が反応した、誰の。
ふらふらと酩酊した足取りでぼくは椅子に歩み寄り、しゃがんで肘掛けに縛りつけられた右手を強く握りしめた。油分を含んだ生暖かくも芯が冷えている手のひらが涙を誘った。一目だけ表情をうかがい、ぼくは言葉を失った。
「このラケットは借りておくよ」
「いいよ」
[346] 題名:鏡面 名前:コレクター 投稿日:2013年04月30日 (火) 06時05分
「もう気がすんだでしょ」
開き直りに見えるが内心許しを乞うているふうな女の目つきに憐れみは生ずるどころか、憎しみを募らせるばかりであった。民在公吉は自分でも信じられない眼光が不敵な笑みをつくりだしているような気がし、
「冗談じゃない、夢のからくりなんて頼んだ覚えもなければ、操作されてたなんて戯言に耳をかすほどもうろくしてないよ。とにかく子供のせいにして、なんだかんだ逃げ口上ばかりで、散々な思いをしたのはもっともだと半ば了解していたけど、それすら欺瞞であったとは、、、結局おまえが望んだのは高見の見物だったにすぎないんだろう」
そう叩きつけるように言い放った。だが声色はどこか冷めた汁粉みたいな後味の悪い甘さを含んでいて、一瞬おんなの曇った表情がぱっと華やいだのだから、公吉のほうでも戸惑いを隠せず、それきり押し黙ってしまった。
沈黙を防壁に活かした女の態度は時宜にかなっていた。公吉の叱責をかわしただけでなく、言い分自体がまるで反射板ではね返えされたようで、みじめで見苦しい結末を認めてしまい、すべり落ちてしまっている。
女ははっきりそう口にしていたではないか、おれはつまり判決文を読み上げてみただけなんだ。公吉の憤懣はすでに吐き出すところを見失い、鏡面に向き合っている自虐的な冷たいひかりを浴びるばかりであった。
が、その月光を想わせるひかりは公吉に冷酷な意識を芽生えさせ、沈黙が長引くほどに血の気が引いていくようで、戦慄とは異なる、以外な感覚に支配され、冷静な面に立ち返ったかに見えた。
鏡の向こうにきらめく、決してまぶしくはないけれど、一点を凝固させるみたいな、鮮血のあの鋭くも甘美なひかりは畏友のごとくそばに居る。冷ややかさは意識という器から気体になって、そう地べたを怪しげに這うように白い狼煙を鎮め続けた。たかぶる感情なんて必要ない、あたかもフィルムノワールの主人公に成りすましたふうな面持ちでネオンライトと夜霧のなかに佇んでいたのだ。
急転劇とも見受けられる気分の変換を公吉は愛した。紅に染まる夕暮れどきをかけがえのないものとして慈しみ、過剰な陶酔を捧げつつ、見返りに不実をいただくという細やかそうではあるが、適度な心算を反映させた。
公吉は若さを願った。幼少期から育まれているに違いなかろうが、かなうことなら思春期の波にのみこまれては、反対に専制的なほど周囲に風を吹きつけたあの頃に立ち戻りたかった。が、おそらく年少の時分を義理立て程度にでものぞいておかなければ、すべては汚れでしかなくどんな修辞も成り立たない。
女体をめぐる思惑が若返りに不可分であると信じ込んでいたのは、おおむね誤っていないけれど、颯爽とした青年が薫らせる、華奢でありながらも背筋の伸びた華やかな笑みこそが、邪心を遠ざけあこがれへと誘うのだった。その憧憬こそが異性の魅惑、つまり対象としての欲情を解放してくれる。
公吉は女の微笑の裏に、日差しと濃霧を感じとり、曖昧な意思を供することで緊張がほどけてゆくのが分かった。
押し黙るのも媚態に通じているつもりなんだろうか、そんな意地の悪い勘ぐりさえ軽やかに押し返されるのを願いこう切り出す。
「おれはニャンコ先生を尊敬していたんだよ」
女は一瞬たじろいだ表情を見せたが、すぐに威厳をただし、
「別に悪いなんて言った覚えないわよ」と、半分くらい真摯な口調で答える。公吉は筋書きをおさらいする手間が省けたとにやり顔で思いこう言った。
「ならいいんだ、お互い様だからな、生真面目であるばかりが能じゃない、直線的でぶれがないのはいいことだけど、潔さの彼方は遥かでなく、刹那的なエンドレスを背負いこんでいると思う。つまりそれはだね、長く苦しい時間を指し示すよりも、案外ポキリと折れてしまいやすいという実際に向きあってるってことなんだ。ところが惹かれるんだよな、直情を体現しているすがたに。だからおれには物差しが必要なのさ。目盛りを計るばかりじゃない、時計のようにもうこんな時間か、あと少しだなとか、大体のめどがついた、思ったより長かったんだなとかって、振り返りつつ寝転がる頃合いをうかがう道具が」
すると女は、「それでわたしもおつきあいってわけなのね」と相変わらず見下すふうな、しかし幾ばくかの憐憫を相互に振り分けているかの目つきをし、回想の奥地に新たな追憶の茂みをのぞき見るまなざしへ移ろいでいった。
公吉は舞い上がったほこりのなかに粒子を発見するような心持ちを得て、女を引き寄せ抱きしめた。
明らかにこわばらせた女のからだを更に強く巻きつける勢いで両腕がまわり、雌猫のしなやかさは優雅をまとった肉欲なんだと言いかけたが、ふと無粋すぎると代わりにこんな言葉がついて出た。
「雄猫のすばしっこさは素晴らしい」
「ニャンコ先生」
「いや、すべての雄猫だよ。奴らは雌猫の色気も兼ね備えているじゃないか、特に若いうちは」
女は再び黙った。だが、さきほどの防壁とは異なってまるで落とし穴に足をとられたみたいな迷いであり、夜の鳥の羽ばたきにも似た暗い夢想だった。
柔肌のうえから骨組みが感じられそうな気がした公吉は、力加減を緩めてからだを放し、もっとも的確だと思われる間合いまで引き下がって女の目を見つめた。親和と憎悪がこの小さく歪んだ空間に溶け合う奇跡を信じて。
そして独語に埋没していった。女を落とし穴から引きだすのではなく、自らの沈黙を守護せんがために、ひかりを欲するがゆえに。語りかけはその後でもよいと考えられたからである。公吉の物差しは運まかせというより、鏡に映る世界を愛でる敬虔な気持ちで満たされていた。
股間に目が釘付けになるんじゃない、目が股間を描写するのだ。去勢の意味も知らなかったけど、おれはウルトラマンのあのすべすべした股に切ないものを感じたし、テレビで見たサーカス団の女人が身につけているぴったりした金銀のパンツに胸の高鳴りを覚えた。鍛えられたであろう、肉付きのいい太ももが先んじていたのではなく、なめらかな箇所がはじめにあったのだ。しかもそこは長年隠し通され、ものごころついた頃には純粋省察が形無しになってしまった。まさか、魅惑の球形に連なる秘所に亀裂が生じており、海の生き物のような形状であろうとは夢にも思わなかった。自分の軟体と軟骨を合わせ持つ現実は放擲されていながらも。
この無知が少年の好奇を鋭くさせ、触れ合いの場にと夢の障子紙を破り、近所の子供同士という好都合のなか、眼前より切迫した肉感へと至らせた。おれの顔のうえに座ってくれ、もっと体重をかけ、息が止まるくらいに、出来るだけ長く、物差しは学校に忘れて来た、異性なんか知らない、おれはそのつるりとした箇所がたまらなく好きなんだ、意味はない、腹も減ってない、玩具もいらない、頼むから強く尻で鼻先をつぶしてくれ、少々昆布臭かったり、土臭かったけど、それさえ癖になってゆく、ただそうしてくれれば人生は永遠なんだ、おれは子供のまま大人なんかにならず、真っ昼間、雨戸を締め切り酔いしれたいがためにこうして祈り続けていたかった。
つまらない大人になってしまったもんだ。せめてもの救いはあの頃、見るからに美しい中高生の男子とすれ違った際、鼻孔をつく甘酸っぱい匂いにあこがれたことだったが、ある日それがわきがであると知らされ、幻滅しなくてもいいのに、まるで罠にかかった小動物のように萎縮し、身震いし、絶望したという極めて良識を付与されたことであった。
そうしてこの良識が女体の神秘への船出となったのだから、増々気がすまなくなってしまった。
[345] 題名:月影の武者 名前:コレクター 投稿日:2013年04月22日 (月) 02時02分
こんな経験ありませんか。ええ経験と言うにはどこか大仰でしょうけど、忘れかけた頃、ある日とつぜんに降ってわいたような意識の迷走です。ですからやはりそれは気がかりであったと思われます。
面倒くさいのでしょうか。そうですね、想い出そうとしても、色々調べあげても、あるいは季節の風物より先行していたりして結構もやもやを育んでしまいますので、なんだかんだで謎めいていることには違いありませんから。
それは映画の一場面であったり、テレビに映し出されたひとこまなのです。が、どうしてもその光景を含んだ題名は言い当てられません。ならどうすればいいのでしょう、、、
こころに眠れる断片として宝石めいた価値を保ち続けますか、それとも来るべき先にと輝きをそっと被い、日々の連鎖の下敷きにしておきますか、あるいは取り急がれるのでしょうか。まるで背中を押されたときみたいに、誰と振り返ることが、そのままめくるめく幻となって落下していくように、、、
月明かりの白砂、穏やかでひとけもない、孤高の波打ち際。喧噪が過ぎた気配は幽かに名残惜しく、ただ独りの鎧武者の陰を映し出している。たった一度だけの、したたり落ちる冷や汗は月光を受けて青ざめており、たぶんそれは私自身の心境であったと思われるので、増々胸がときめいてしまうのだったが、あんなに浮き世離れした場面に出会った試しがなかったから、こうしていつまでも単調で怠惰な日々のあたまに鉢巻き締めされているのだろう。
黒々とした甲冑には潮のしぶきが点綴しているのだが、私には月のひかりが意思を抱いて降り注いでいるとしか感じられなかった。結晶より無粋でありながら、水滴より尊い夜のしじまの輝き。辺りの山々の背景はずっと遠く、武者の頬当てだけが画面を支配している。ひげ飾りはなく、大魔神を彷彿させる異形であるのだけれど、しかし、不思議とのっぺりとした落ち着きがうかがわれ、不敵な笑みとも悲嘆の面とも、恍惚を得ようとしている矢先とも見受けられる。そして睥睨に至ったとき、私の記憶は途切れてしまった。
花凪源十朗はとても困惑していた。剛毅にして果敢な出立ち通り、武勇の誉れは高く此度の奇襲も満場一致で首肯され、主君より命を授かった。夜陰に乗じて敵将を討ち取ろうという策謀であったのだが、予期されたよう敵将の陣は容易く見定められなかった。松明のまばゆさだけでない、どれもこれもが標的に映しだされるふうに仕組まれていたのである。
源十朗らは隠密行動のゆえ、十数名を二手に分け、探りを入れたのだったが、それでは特攻の焦点が望めなく、が、このまま抜刀せず引き返すことなど出来ない。すでに向かい側には源十朗に加担すべく捨て身の撹乱兵たちが突撃の合図を待ちわびているのだ。昨夜の斥候からの報せでは斯様な情況ではなく、だからこそ勝機ありと見込んだのであったけれど、こうして裏をかかれた現状に狼狽するしかない己を否定するためにも、漏洩はどこで為されのかだの、内部に諜報が紛れていたのかだの、果ては日頃より反目とまではいかないが、快く思っていない側近にまんまとはめられたのかなどという思念を猛烈に働かせていた。。
しかし考えあぐねれるほどに、ときはじり貧への傾きを許さず、衝動的な無我はその掌に汗となって斬り込みを促していた。
源十朗は配下のものに低い声でこぼれ落ちるよう意を伝えた。
「もっとも燃え盛っている松明こそ本命と見た。却ってひっそりと夜気に包まれておろう姿は至当すぎようぞ。敵軍とて警護の厳重な陣なればとせせら笑っておるのじゃ」
独断とすれば妥当であったが、奇襲の道理はすでに霧散し、討ち死にを選びとるより仕方のない場面をひきつけたともいえる。鬨をつくるまでもなく、源十朗は夏の虫のごとく赤々とした松明に吸い寄せられ、目に入るすべての動きに対し剣を浴びせかけた、いや叩きつけたのだった。
忘我の境地であった。撹乱兵の勢いも相まって敵がたの周章ぶりは突風にあおられたすすきの穂を想起させ、次々と刃のしたへ戦意喪失者を横たわらせた。
実のところ、源十朗は悲願の首級を手にした攻防も経緯も失念していた。正気にかえったときには血まみれの布切れを抱え、独り戦場から遠のいていたのである。そこが山間から相当隔たった地なのは、血の香りに寄り添ってくる潮の匂いを覚えたからで、どうやら一山越えたと、そして武士の面目を守りきれたのだと、安堵した。広々とした白砂を踏みしめるやわらかな感触が、寄せては返す波の音と折り重なり、ひとときの平穏を得たのだったが、たった独り身で浜辺をさまよっている影を足もとにしかと見いだした際、不吉な念が月光とともに源十朗を冷ややかに照りつけた。
「影とな、、、」
一か八かの突撃はもはや戦略でもなかったし、知謀でもない。敵将の御身が話頭にのぼるとき、その明晰な頭脳もさることながら、恐ろしく警戒心の強い研ぎすまされた植物的な神経も取り沙汰された。左頬に小豆大ほどのほくろを授かったことを幸いに、幾人かも知れぬ影武者を周囲はむろん、鷹狩りの折や宴の幕内などにも周到にすげ替えては用心を怠らない。似た風貌とつけぼくろさえあれば、敵将は人前に姿を見せることなく、奥深い寝屋で好色に耽ったり、高いびきで天下泰平の夢に遊べるであろう。
源十朗は月明かりから逃れる足取りで己の身と首級の隠れ場所を物色した。甲斐あって小さな洞穴を波うち際に見出し、辺りを慎重にうかがいそっと影を忍ばせた。
とりあえず人目から消えることが出来たと胸をもう一度なでおろせるはずであったが、暗黒の洞穴は視界を奪い去り、念頭にたちこめている真意をただすのが不可能になってしまった。せめてものと、布をほどき首をなで頬に指さきが触れ、直ぐさまそれがほくろであるのを感じとったまではよかったのだが。
源十朗の長く熱い夜はここから始まった。灯火を求めずとも敵将である証左を得て、小躍りしたい気分は思いの他、蔦がからまった森に封じこめられたような不安に鎮められ、やがて疑心の暗雲にすっかり閉ざされてしまったのである。
もう体温を失っている生首のほくろに微熱すら感じないにもかかわらず、源十朗は卑猥な手つきでその証に触れ続けていた。めぐるものは生暖かい反復だけであった。
「偽物であったにしろ、すぐに剥げ落ちるはずもなかろう」
「人肉に付随していたとして、実によく出来た技巧である」
「見分けがつかないゆえの影ではないか」
「この感触は本物に相違ない」
当惑は真贋に帰結されるべきであったのだが、いつしか想いは、いかなる理由で隠遁の態を選択したのかという、現実に舞い戻っていた。
「でかしたぞ、源十朗、ほほう、さすがは花凪どの、あっぱれでござる」
「奇襲を悟らぬ敵将ではあるまい」
主君はじめ居並ぶ要職はもちろん、親族縁者の賛嘆を耳にした途端、あとは嘲笑の的であり続ける光景から逃れそうもない。影に擁護されている内実をつかんでいながら、夜襲の案に賛同した面々の心根が小憎らしいくらいよく分かる。おめおめと偽物を小脇に携えている格好を見とがめられたなら、どれほど恥じ入らなくてはならないのか。討ち死の覚悟が成果をあげたにせよ、失態は失態、むしろいとも簡単に首級を穫れたほうが怪しい。
源十朗の胸中は死線から脱し得た喜びを糊塗せんが為、自らの名誉に拘泥してしまい、どうあっても生き延びた我が身が情けなく思われるのだった。
一刻も早くこの首を始末しなければ、、、そして敗走の汚名をぬぐうには、、、いや、己だけの力で首を打ったのではあるまい。壮絶な斬り合いが一方的な戦果として、また散る火花を消滅させ、記憶を葬り去ったのは紛れもなくあの刹那、敵将だと信じて疑わなかった功名心であり、極点にまで舞い上がった勇猛という怯えであった。
言葉にすれば見苦しい葛藤に過ぎないけれど、この心持ちにいたる夜は決して短くはなかった。ふらふらと洞穴を抜け出たのは黎明を告げられる寸前であったように思われた。
まずは血まみれの布を波にさらわせ、同様に生首も海中に放り投げようと弱々しい力をふりしぼろうと努めた。そのときである。
「貴様には出来まいて」
信じがたいことだが、両の手にはさまれた首がそう口を開いた。腰を抜かさんばかりの場面であったけれど、源十朗は金縛りにあった様子と見え、微動だにしないからだに逆に操られるふうにして、首を砂のうえに置き、兜を脱ぎ捨て、魔術にかけられたふうなだらしない顔つきのまま、剣をゆっくり抜き、切っ先から棟に左手を滑らせて両肩に乗せ、そのまま一息に胴体より己の首を斬り落とした。
源十朗の哀れな表情が波間に消えゆくのを待っていたのか、砂上の首級は高貴な目配せを月影にしめし、虚脱したはずの胴体に生命を与えたのである。
両腕がのび、あろうことか生々しく血糊を垂れ流している斬り口へと、あたかも人形の首をすげ替えるごとくおさめてしまったのだ。
それからおもむろに兜と頬当てを被り、あきらかに人目を意識したまなざしでまわりを見据えた。夜明けにはまだまだ猶予があった。鎧武者はそれをよく心得ており、源十朗は知り得なかったのである。
[344] 題名:タンタラスの丘 名前:コレクター 投稿日:2013年04月14日 (日) 22時41分
実際の地であるはずはなく、又かの風景を模したのでも、あるいは似かよりとも無縁の、ただその名だけがひとり歩きしていたに過ぎないと思う。どこかで聞きかじった覚えもないところから、感性に疑いを抱く謙虚さは遠のき、自然にわいて出た単なる文字の羅列だと信頼を寄せてしまった。のちに丘であることが分かったとき、奇妙な符号に微熱がともなっていそうな気がしたけれども、今となってはどうでもいい。
ぼくのタンタラスは丘なんかじゃない。家のちいさな裏庭さ。ぼくはそこにたくさんの死骸を埋葬していた。
縁日で買ってきてすぐに死なしてしまった金魚や、捕獲することだけに専念して飼育を怠ったため、あっけなく動かなくなった蝉とかバッタ、蝶蝶にとんぼ、イモリにカタツムリ、おたまじゃくしやこおろぎ、まだまだあるけど、きりがないようで、思い返すとそこら中が墓だらけだらけだったろうし、何より罪つくりの意識に苛まれるので、唯一逃走して行方をくらませたミドリガメに喝采を送ってから、呪詛の話しへと跳躍しよう。
死骸を葬るとき、せいぜいスコップで土を掘り返す程度だったが、その手つきも目つきも儀式めいた心境に凝り固まっていた。はっきり言えば、彼らにうらみつらみを託していたわけなんだ。こどもこころにしては冷酷な行為だと非難されるだろうけど、ある意味、とても純粋な情念をみなぎらして、この世とあの世の架け橋を夢見たと不埒な考えを小声ではなく、明確な物言いでしておく。
前文には補足が入り用である。そう、きちんと世話をしなかったのは事実だが、えさも与えたし、暇さえあれば様子を見て微笑みをつくっていた。ただ虫かごやバケツのなかに閉じ込めた結果が死期を早めたと悔やんでいる。当時祖母は畑仕事をしていたので、孫かわいさからか、近所では余り見かけない昆虫をよく持ち帰ってきてくれた。両親も殺生には無頓着だったのだろう、温暖な季節の生き物を自然に解放する意見を口にしたこともなく、あたかも玩具と戯れているぼくに健全なすがたを見いだしていたようにも思える。だから、裏庭には死臭が漂うことがないまま、燦々とした陽光を浴び、新たな埋葬のたびに夜を切り抜いたふうな濃い陰がぼくと並んでいたのだ。
呪詛は単純であるがゆえに効力が発揮されると信じていた。瑣細なことであろうが、意地悪な同級生や口やかましい先生、別に危害を加えられたのでも、叱責を受けたわけのもないのに、見た目が薄気味悪かっただけのときたますれ違うひとなど、ぼくは皆の死を願った。
葬儀とは反対の儀式はこじんまりした孤独さを受け皿にして、昆虫らに呪詛を吹き込み土中に埋めた。
あれはのどかな春の日だった。裏庭には桜の木がつぼみを大事そうに抱え、隣の家の屋根にまで達する枝振りの勢いは攻撃的な緑に色づいていた。
右がわにはハナミズキという苗がすでにぼくの背丈に迫ろうとしていた。聞き慣れない名だったが、祖母が植えたらしく、こう語ったのをよく覚えている。
「この木が花咲く頃にばあちゃんはもういないよ」
桜を愛で感傷を泳がせるすべなど持ち得なかったあの頃、その言葉はずしりとぼくの胸に突き刺さったまま、そうあって欲しくないと、はっきりした願いになり逆巻き続けていた。祖母の面持ちは残念ながら記憶にない。
埋葬儀式を卒業したぼくは虫や金魚ではあきたらず、ひよこを飼っていた。冬場は温熱が不可欠だったので翌日には冷たくなっているという懲りない欲求の末、暖かな季節に飼育しなんとか成長が期待できそうになった。
ところが裏庭に放して遊ばせていたら、トタン塀の下の隙間からどら猫が顔をのぞかせ、目にも止まらない早さでくわえられてしまい、あとを追う余裕もなく、視界から消え去ってしまった。
それからぼくは玩具の空気銃でどら猫が来るのを待ち続けていた。確か一度だけふてぶてしく現れたことがあり、発砲したが命中せず、たまたま背後で様子を見ていた母親にこっぴどく叱られた。ひどい矛盾がそこにあるような心持ちがしたけど、それは母親に向けらたのではなく、ぼく自身のどこか空洞に鳴り響いている自覚があった。
しかし、気分におさまりはつかず、裏庭により着く猫という猫を見かけるたびにホースで水を浴びせかけていた。
悔しさはどこに行ってしまったんだろう。夏休みが終わり、普段とは違った愉快な遊びを含めた日がな一日が、とりとめもなさに埋もれてしまうよう、猫もひよこもほとんど意味をなさなくなっていた。
祖母の死に際には間に会わなかった。以前から様態が悪化しているは知らされていたし、連絡の時点で危篤だったから、老衰による大往生だったこともあり、思いのほか悲しみと近づきになれないまま、遺体と向き合った。
ミイラとまではいかないが、やせ細り、筋と骨ばかりが目立つなか、遠く夢見るような閉じた両目に決して出会うことない祖母の妙齢を感じた。生まれてすぐ老婆であったはずがない、当たり前すぎる考えが脅迫観念となって圧迫するうちに、不健康な自分にいたたまれなくなり、裏庭にかけおりた。
冬場だったのでハナミズキは花こそ咲かせてなかったれど、桜と似合いの樹木に見え、祖母の幻影をそこに求めたが、裏庭は少年の時分より狭苦しく感じるだけで日差しも透明すぎた。その反動だろうか、金魚を埋めた辺りがわずかに盛り土されたみたいに映ったのは。
丘なんかじゃないさ。葬儀も終わり、家にいた父と従兄弟とで祖母のたんすを壊し始めた。うすら寒い気がしたのだが、黙々と家具を解体する父と無言で従う従兄弟に問いただす熱意もなく、これは風習なのだろう、そうこころに言い聞かせたのだった。
たんすの板は積み上げられ、縄でしばられ、裏庭の隅に時代と関係なく置かれた。
[343] 題名:月曜サスペンダー劇場 名前:コレクター 投稿日:2013年04月08日 (月) 05時48分
「お久しぶり、もう一年以上になるかしら」
「そうだね、あっという間だ、一年なんて」
少女の澄んだ瞳をのぞきながら青年はため息まじりの声で答えた。
「また霊界テレビなの」
「その通り、よくわかった、えらい」
「相変わらず酔ってお家に帰ると使われていない端子の画面がひかりだしたのね。放送予定なんかどこにも記されていない、録画も出来ない番組、、、」
「ああ、そろそろかなって、待ち望んでいたんだ。そうした願いは一年に一度くらいかなうものさ」
青年の話し方には充足感というより、はかなげな幻が通過していった虚脱をまとっているふうで、語尾は微かに震えていた。
「そういうものなの」
少女の問いかけもまた、期待とは距離のある寂しげで消え入りそうな余韻そのものであった。だが表情自体に陰りはなく、むしろ妖精を想わせる無垢な快活さで青年の胸に華やぎを添えた。森の奥深いところに注がれる光線が木々を揺らしているように、そよ風がまぶたの裏を抜けていくように、透き通った情景がひろがる。
「そうだよ」
うなずいた声は葉擦れであり、未知への伝達が含まれていた。
「サスペンス劇場じゃないの」
「戻ってきたんだ」
青年は親愛を込め少女のくちびるをふさぎたく思ったが、それだけの言葉にすべてを託した。
にわかに目を細め、やや小首をかしげた少女の仕草はとても可憐であった。
昭和の映画によく見かけた端々が荒れ狂った勢いの書体、その真っ赤なタイトルにまず息をのんだ。画面全体からはみ出しかけている毒々しさの「崖っぷちの女」とは古い作品なのだろうか、それとも趣向を凝らしているつもりだろうか。たしか似たような名の韓国ドラマがあったはずだが、、、
紋切り型の大団円、岬に集った面々らの俯瞰からドラマは始まった。いきなりラストシーンとは如何に、と思いきや、わずか数秒で人々は離ればなれになってしまい、しかもフィルムを逆再生した様相で時間が反対方向に流れているみたいな技巧が見受けられた。すでに事件は解決してしまったのか、疑問をはさむ余地なく彼らは互いに背を向け誰ひとりの影も残さないまま岬をあとにしている。ひょっとしたら予告編かも知れない、ときめきにも至らない投げやりな予想を見事に裏切り、散開した登場人物らをカメラは雲にまで達する高所から捉え、蒼海の原色めいた輝きさえ、かすれてしまうほど昇りつめてしまったので、もう描写うんぬんを通りこして、成層圏を突き抜けかねない速さで、大陸と海洋がほこりをかぶった粘土みたいな色合いに映し出され、あとはこの惑星の気品ある丸みで絶頂を迎えうると想像していたところで、いきなり場面が切り替わった。
きらきらと映発する川沿いを若いふたりの男女がゆったりした足取りで歩いている。人物よりも水面に揺れ動くまわりの茂みや空模様に主眼を置いているのか、会話はなされず、ふたりの影はまるで添え物のごとく風景に配置されており、微風に乗って運ばれてくる小鳥の音やカエルの合唱が主役にとって代わろうと企んでいるふうにも思えてしまった。
映像が映像であることの証明は劇的効果を予感させる。それはわずかながらのひとこまで物語られた。軽やかな風が強く女の髪を吹き流し、その横顔を被い、鋭い眼光だけが川面に投げかけられた。殺意は青く、衝動の美学を謳っている。
ガードレールが途切れた箇所で狙い定めたのか、女はいきなり男を突き飛ばしてしまった。緊張は唐突に訪れ、ほとばしる寒気は晴天の空気に抵抗をしめし、視聴者のどよめきさえ耳にこだまするような幻聴を得た。
男は川中に投げ出され溺れかけたに見えたが、なにやら懐から取り出したものを左手で突き出し、もう片方はしっかり遊泳の構えに落ち着いた。手にしていたのは栄養ドリンクである。これはCMなのだろうか、「ファイト一発!」とか叫びそうな気合いがクローズアップされ、男は苦みばしった笑みを保持したまま対岸に泳ぎつき、悠然と土を踏みしめ女のほうをにこやかに見返した。そして両手を大きく振りながら、無言のうちに感情をばらまいている。
女の顔色は長い髪で隠され、その胸中をあらわにさせないまま同じ流れに身を投じた。ここではじめて男の表情は歪んで悲劇の調べを誘った。栄養ドリンクは飲まれずに、膝をおとし悲嘆にくれた姿態だけが陽気な日差しに照りつけられていた。
「それで終わりなの」
少女の目もとには別の方角からやってきたであろう驚きが、哀しみを駆逐していた。青年はあらかじめ予期していたかの口調で「残念ながら」とこころからそう返した。ドラマを見ていないものには理解してもらえない、至極まっとうな心持ちを前面にあらわし、次に出てくる言葉をのみこみかけて、しかし告白めいた口ぶりの常であるよう、さきほどの震えは持久力に支えられ、淡々とした声になりながらもこう語りおおせたのである。
「霊界ドラマだから仕方ない、ぼくは話しを長引かせることも潤色することも出来ないんだよ。だからお願いだ、もう少しだけここに居てくれないか、、、」
青年はドラマの男と同じく膝をおとし、天女を見上げるまなざしで、いつまでもかたまり続けていたいと願った。
[342] 題名:あんかけ焼きそば 名前:コレクター 投稿日:2013年04月02日 (火) 02時43分
夜が更ければなにかいいことがあるのだろうか、なんて普段あたまに思い浮かんではこない考えが、薄ぼんやりしながら静まりかえった深夜の気配にとけ込んでゆく。休日なので夕方近くまで目覚めつつもふたたび眠りおちるままでいたから、いつもに比べ遅く布団に入ったのだったが、時計の針が何故かしら殺気を秘めた危険な時刻をしめしているように感じられ、寝苦しさというより、案外サスペンス映画でもみたあとのような緊張で神経が昂っている。
態のいい思考が次第にはっきりしてきたのは、結局ぜんぜん眠くなくて、それは当たり前だろうし、また明日も休みなので身体のメカニズムなど機械じかけに縛られることなく、あべこべに深夜を特定している時計に挑む感覚がこじんまりした自由へと羽ばたかせくれているからだろう。意を決するなんて大仰に聞こえるかも知れないけど、連休といったって行楽や旅とも無縁、家でゴロゴロしてはわずかだけ心苦しさに逼迫されるのが段々腹立たしくもあり、しかし所詮は自分の内紛以外のなにものでもないから、小食で済ました夕飯のありきたりな現実が一気に風船みたいに、そう紙風船と呼ぶにはもっと意思をはらみ、ゴム風船というには宿り続けられない浅はかな欲を膨らませてしまったのだ。眠気に反抗していたのは夜食の段取りにほかならない。
冷蔵庫、華やかな霊安室、二階の寝室からだってその電源は静かに、まるで音を微かに立てるのが義務であるように階段から伝ってくる。ならこちらも記憶の貯蔵庫を探り当てよう。いや、もう先ほどから野菜室に収まっているものは明快であったし、材料に関しては思い間違いないと確信を得ていた。問題はなにをどうするかである。
それほどまでに空腹を覚えているわけでなかった。夜中の料理は寝静まっている家族らに迷惑を及ぼすだろう、そんな葛藤のうちに閃くのは、お茶漬けやどんべいであるのが至当なのだが、夜の思念はもっと重みを秘めており、本能にさっさと導かれ、まわりが静謐なだけに怨念めいた食欲は腹具合をうかがう責務から解き放たれ、冷蔵庫のひんやりした手触りと重量感に沈みこんでゆくしかなかった。
おぼろげなイメージは割と急速にまとまりを見せ、覚めた脳裡に描き出されるのは野菜と肉、それに炭水化物からなる一品に収斂された。少しためらいはあったけど、思いは重みに促され、ほぼ明確なかたちへと進展し我ながら生唾が出てきた頃には、むくりと上半身を起こしながら、白菜、長ネギ、ショウガ、にんじん、豚の細切れが眼前に泳ぎはじめるのを今にも手にする錯覚に溺れ、だが、これは悪夢なんかじゃない、証拠にこの瞬間の為にかねてより買い置きしておいた、うずらの卵とヤングコーンの水煮が攻撃的なまでに夜気をふり払い、おそらく健在であろうキクラゲの黒い影が台所の片隅でひたすら待ちわびている様子に憂いなく重なり合う。夜食は先週がどんべいであった既成事実に猛攻する勢いで、あんかけ焼きそばと決定された。
階段を降りる足つきに鈍さはない、反対にやはりひとり騒々しさを招いている気兼ねで猫足になった。段取りは自ら慮るよりか、向こうから訪れてくるように感じたので、いわば時間にとらわれず、ゆっくり調理にのぞめばいい、そう覚悟した。午前2時、素晴らしい時刻だ。
まずは確認作業のひやりとした焦りをもっともらしく装い、乾物類のしまわれている扉の奥に少量のキクラゲのすがたを見届けた後、おもむろに冷蔵庫の野菜らを手にし、まな板の脇に並べた。豚こまも忘れてはいない。
さて、換気扇ならびにフライパンの熱気が夜のしじまを破るのは一時だけだから、あわてず優雅に朗らかに、ワルツに調べに乗るごとく、下ごしらえをこなしてゆく。手始めはキクラゲを洗い湯でもどしておこう、手狭だから食卓に移し、出来上がりの歯ごたえをほんのり夢見つつ、とっておきの水煮たちにも準備してもらい、うずらは6個かあ、でもヤングコーンは量があり過ぎる、半分は明日サラダにでも使えば、などとうれしいため息をもらして、その隠れた実力を、あっぱれな脇役ぶりに期待を寄せ、香りづけとして重要なネギとショウガのみじん切りにとりかかる。多めに切るのはスープにも投入するわけだが、そう鶏ガラスープは本格的に取る作業が出来ないのでトップバリュの顆粒製品を用いる。これもあらかじめ小鍋の湯に溶いておき、微量の醤油と軽くコショウ、さきのネギらで味付けしておいて、炒めた具材にまわし入れ、残りはスープとしていただく。あんかけ、つまり半汁状の料理にスープは過剰だと陰口を叩かれようが、誰にも関知されない、なによりこの顆粒製品は使い切りサイズなので、どうしても量があり、というかけっこう塩分も効いているから、湯に溶いてみるとまわし入れだけでは余してしまう。なら醤油を足さなければと問われそうだが、風味、色合いからして醤油を外すことは到底できない。それどころか醤油の味わいこそが漆黒の意義をただし、儀式となるべく夜更けに過激な想いを募らせ、反面しんみりした情趣をひっそりした台所の底辺に漂わすのである。私たちは醤油の一滴に日本人たる血を想起させるのだ。
豚肉に日本酒をまぶしておく、これは加熱しても柔らかさを保とうという意地らしい行為である。ついでに電子レンジで袋が破裂する寸前まで温められた焼きそばめんにもふりかけておく、これはまじないのようなもの。
白菜を切る。先の青い箇所は大様に白いところは火の通りやすさと味がなじみやすいよう斜に包丁をいれ、かといって薄過ぎても困るので、これは歯ごたえを残したいがゆえの仏心に近く、慎重な作業は次の人参にも同様で、ここで不意にかすめた玉ねぎも使おうかという迷いに手元がとまり、歯ぎしりにも似た瞬時の葛藤を経て、具沢山であることの奢侈より甘みが強くはなりそうな気がし、断念した。
ガス台にはすでにスープの小鍋が湯気をたてており、隣では薄くサラダ油をひいたフライパンでめんが焼かれている。むろん味つけはされていない。あらかじめレンジで熱を加え酒をふってあるし、仕上げからしてみてもことさらほぐす必要はなく、かなり弱火の長期戦のこころ構えなのだが、何故か菜箸が勝手に火の加減をうかがってしまう。
それはさておき、換気扇をまわした限り、ひと思いに炒めに没入し、騒音を生み出しては後ろめたさに苛まれる意識さえ熱して忘我の境地に踊り出たいところであったけど、まだまだ匂い立つ戦場には至っておらず、ここは野火のような牧歌的な煙たさに包まれた雰囲気でしかなかった。
キクラゲは程よい食感に達しただろうか、豚こまの繊維にしみ入った酒のちからに願いを託し、まるで忘れさっていたかのように水溶き片栗を準備する。一対一、基本が口をついて出るがいくらまぜておいてもすぐに沈殿してしまう。それよりこの料理のかなめはオイスターソースの塩梅ととろみ加減に尽きるので、平和のひとときながら精神統一を怠れない。段取りはとどこおりなく行われ、いよいよ決戦のときが迫ってきた。焼きそばはまさに焼かれる為に調理される。じっくりと固焼きめんの面影さえ見え隠れしながら。
せわしない菜箸の動きが来るべき光景を撹乱するよう、不本意な意思に傾き、のぼりつめつつある儀式の頂点を破滅に向かわせ、夜食そのものを根底から覆そうと企んでいる。そんな怯懦が期待の裏返しであり、健気な影絵であることは、ゴマ油のふたを開けたときに香るふうにわかった。
こんがりとまでではないけど、いい焦げ目があらわれてきて、めんがサバサバしている様子が見てとれた。
小鍋のスープを煮えたぎらせ傍らに、フライパンの位置を交代させて本戦に突入する。弱火にてサラダ油とゴマ油を半々に注ぐのは火を止めてからもう一度ゴマ油を垂らすため。すぐさま長ネギとショウガを入れる、まだ火を知らないみじん切りらに試練が控えているのは気の毒だけど、傾けたフライパンにじりじりあぶられる様は被虐的な法悦にはじける幾多の面にも映り、目を伏せたくなるまさにその瞬間にこそ、豚こまが憎々しく叩きつけられ、強火に点じて白菜がどしりと覆い被さるのは天命であろう。
炒めることは炒めるのだが、とろみをつけるので水分を飛ばす要領は求められず、人参、キクラゲ、うずらの卵、ヤングゴーンが次々に放り込まれ、白菜がしんなりなるのを待たずに、鶏ガラ特製スープが床下浸水のごとくに充たされ、具材たちは加熱地獄に阿鼻叫喚ならず、本然を悟ると見るはいかがなものか。
豚肉の火加減に留意し、白菜に十分な慈愛のまなざしを降り注げば、ヤングコーンのつぶつぶにもスープがしみ込んでゆくようで口中にその味わいが飛びこんでくる錯誤を覚えてしまう。沈黙を守り通すのはキクラゲであった。もの言わぬ臓器を彷彿とさせるその姿勢は、反応をもたらさないがゆえに生半可な味覚を超越し、あらためて完成まで慎重を期さなくてはいけないと激励される。よくわかった、そんな感傷をはねのけながらも深い感動へと連なるであろう、こころ模様を彩る人参の赤みに更なる想いがしがみつく。
両手で受け取る仕草、子供のころの想い出が熱気にあぶられては眼前のうずらに焦点をあわせようとする対比の妙に胸がしめつけられ、白身をボールになぞらせた遊戯のうちに不動と歴史を思い知る。
様々な思惑を乗せ夜の時間は流れゆき、オイスターソースならびに醤油があたかも特攻零戦の第一出撃隊のごとく急降下の勢いで突入する。本来なら失敗ないようそろりと為されるところだが、ここで思い切らずどこで思い切るというのだろう。このはかなさ、いさぎよさ、なにより段取りに支えられた矜持が大胆かつ慎重を演じるのだ。とはいえ、どろりとしてもさっとしても実際には少量である。あくまで手つき並びに精神論を述べただけ。
ふつふつと煮たってくる様子は炒めものとは別種の趣があり、湯気ののぼりも煙とは当然異なる。隣のめんは一層こうばしさを増してきた。ついに出来上がりが間近となり、が、ここでも落ち着きを失わず、能のすり足の仕草で豆板醤を取り出し、少々加え、味見をし、ついでにコショウをし、胸に十字を切る猶予を得てからおもむろに火を弱め水溶き片栗をまわし入れる。さながら錬金術師の面持ちで。
そして再度火力を戻して、うっとりするような粘り気を確認すると、さきほどの味見に則ってやや濃いめに仕上げるよう醤油がとどめを刺し、はあっと息をとめてから火を落としてゴマ油が余興のように垂らされる。
めんにはいっさい味が施されてはいない。この濃いめに感じた八宝菜もどきの肉野菜炒めはいかに。
真っ白い大皿のうえでふたつは出会う。かつてデビッド・ボウイとイギー・ポップに出会ったと歌われたクラフトワークの一節のように。
えらく大げさになってしまったけど、スープは熱々だし、ショウガでからだはポカポカ、あんかけにいたっては火傷しそうなくらい。上あごの薄皮がはがれてきた。ゆっくり味わおう。暖房つけるかつけないの時候にあって、ほどよい汗が額ににじみ出る。あんかけは失敗なくとろみ加減とうま味を夜に捧げられれたと安心する。
ふと目をやると、皿のむこうから灰色のハエトリグモがきょとんとした格好でこちらを見つめていた。
「あんたには熱すぎるわよ」
ふーと息をかけたら焼きそばの湯気を敏感に感じとったのだろうか、それとも邪険にしたので気を悪くしたのか、すごすご退きかけたのだったが、ハエトリグモは食卓の端っこでまたじっととどまっていた。
[341] 題名:夢売人 名前:コレクター 投稿日:2013年03月26日 (火) 05時13分
ああ、いつかの男だった、まえにあれは夜間飛行だときみにお話したことがあったね。実直そうな面構えに隠された卑猥な笑みは、通りすがりの刹那に生まれる情感に近く、しっかり届けられなくて、あとからじんわりぼんやり思い出せる程度だったから、だからこそあの男に違いないと確信を得たわけなんだ。
卑猥であったのは実ははじめに接したときでじゃなく、のちに本性があらわになってのことだろう。まんまと一杯くわされけど、耳たぶが腫れたくらいで済んだんでことさら恨みめいた気分はしない。本音を言えば季節の風物詩みたいに毎年訪れてくれればなんてうっすら慕ってたところもあって、あれは春を迎えて暖かな夜にほがらな眠りが即すという絶好のときだったから、今度の来訪がいくぶんか早まった季節のようにも感じてね、だってあの夜にしても蚊が飛びまわるにはまだまだ熱気を帯びていなかったし、結局時候のずれにこだわる必要もないってことさ。男の顔かい、そうだね、ぼくの記憶が正しくとも正しくなくとも、やはり見知っていたのだと答えておこう。肝心なのは巡り合わせのようであったことかも知れないけど、戻ってきたのは意識ではなくて、夢のほうだからだよ。
軽く前ぶりをしておいたのは、男の登場と説明がやけに理屈ぽくてね、それは昼ひなかの明るみのなかだったせいもあり、どうにも枕頭に立たれている気がしなくて、こっちも言ったらなんだけど、けっこうまともに対応してしまった次第で、そうだよ、昼寝なんだろうがまだ寝入ってはいない、うつらうつらって感じだったから。
「さて今回の商品でございますが、まったく画期的な発明品と呼んでも誇張なんかでがありません。簡単に説明させていただきますと、もう窓の外に羽ばたいてなんて野蛮な行為は切り捨てられました。はい、崖っぷちに飛び込むスリルは映画にはつきものでしょうけど、私どもが開発いたしました新商品には配合されておりません」
男のセールスマンぶりに感心したと正直に告白したいところだが、眠りの入り口で足を引っ張られているふうな不快さがあって、画期的という言葉を残しあとは耳障りに聞こえたんだな、意識の底辺では夜が秘めている蒙昧とした浮遊感とは別の場面にいる心持ちがし、なんか叩き起こされる感覚さえ生じたので、実際よくあるように乱暴な口調でやり返してしまったんだ。寝起きの悪さを想像してほしい。
「あんた魔術師なんだろ、まったくひどい目にあった。おまけに吸血鬼じゃないか、いや蚊だ」
ここで男は咲きこぼれる笑顔とともに極めてまともな意見を口にするものだから、こっちは昼寝をあきらめた面持ちにならざるを得なくなってしまい、それでと、あくびする調子でのんびりした装いを醸し、
「夜間飛行をやめるのならどうした効果が出るっていうんだい」そう突っ込んでみた。
「さきほどから申し上げておりますように操作とか作用ではないわけですね。効果とおっしゃられるのでしたら、まさにそこに答えが眠っているのでして、あなた様はおぼつかない世界に足を踏み入れるのでも、未知なる時間にもみくちゃにされるのでもなく、鮮烈なる現実に立ち会われるわけでございます。ただし幾らかの成分が加味されていますけれど」
もったいぶった言い方に聞こえるだろうけど、その花のある目つきやら、右手で空気を柔らかに切る仕草やらが妙に真摯に感じられ、ついつい引き込まれてしまったんだ。
男の解説はこうだよ。夢見の催眠なんて二度手間はいらない、まして通過儀礼みたいな大げさな導入部も設けられておらず、眠りびとは夢であることを認識しつつ、もっとも望ましいと判断される世界像をいとも簡単に描くことが可能であり、また世界のほうでもこれより求めるものなど存在しない情景となり、眠りの意識は至上の調べに流れゆき、抱かれるものは自分であって自分でない、そこは無意識が彫琢される場所である。時間の解放に優雅な心意気で立ち会えるということらしい。
しかも容易く満たされてしまう懸念はなくて、常に刷新される穏やかでなおかつ魅惑による興奮がともなっており、飽きることがない。幾らかの成分というのは、日々にありがちな飽食にうんざりする回避機能であって、つまり有効成分を発揮するための特効薬がなんらかの副作用を合わせ持つのと同じく、眠気を誘う要素が施されている。夢見のなかで眠気というのはどうしたものだと反論したくなったのだが、男の言葉はあたかも眠りの精から託されたごとく、ぼくの為に入り用なものを最小最大もらさず的確に指し示してくれたのでうなずくより仕方なかった。
「あまりにありありとした光景は現実過ぎませんか。あなた様にとって心地よさとは、まどろみつつ風景にとけ込んでしまっているということではないでしょうか。でしたら、この成分は天使の涙と言えます」
カプセル一錠で効くそうだ。夜を待ちわびる想いはかき消され、皮肉にも花冷えの頃合い、窓を開けっ放しにしたままでは肌寒く、そのくせどこか遠くまで足を運びたい気分がこぼれだす。
すでに高揚していたぼくは、酩酊をおそれながらも酒場に向かう要領で、あたまによぎった懸念をすぐさま口にした。
「それでまた料金は寿命から差し引かれるんだね。たしか三十分と言ってたな」
すると夜露にぬれた花びらが風に震える優しげだけれど、厳しさのある口ぶりで男は答える。
「いえ、私どもはひとに幸せを捧げたいのです。幸せの代償はご本人が決められるべきでしょう。現金でも承ります。もちろん寿命でもけっこうでございます。選択肢を提供するのもされるのも幸福なすがたではないですか。しかも初回は無料にてご奉仕させていただき、是非とも効果のほどを確かめてもらいたいのです」
ふと我にかえりテレビをつけたままだったんだろうか、なんて考えてみたけど、だっていつもどこかで聞いているようなうたい文句だよ、これは。
とはいっても男の申し出を断る気は起らなかったし、不思議なことに以前の夜空を飛翔した記憶が官能的によみがえり、論理なのか幻覚なのか区別のつかない脳に反作用して、思いのほか鎮静効果が働いているなか鮮やかな色彩を見取ってしまった。了解の意向を表情にだすと、静かに念を押すふうにこう言った。
「理想郷でありながら理想郷ではないのです。あなた様が欲するものはそのつど変化するでしょう。そしてつかみとった時点で夢から覚めてしまう不具合さえあります。一年まえの欲望はすでに風化しており、十年さきに希望を託すとき、残念ながら欲望はその衝動を維持できぬとなしくずしになってしまいます。夢の一秒もまた劇的な要素で構成されていて、ご自身の視線はデザイン画を眺める具合で意匠を愛でるでしょうし、時間の隙間さえ味わい尽くして、不備を見受けたなら即座に格納が実行されます。ありとあらゆる事象はあなた様の衣服より身軽で、機能的で、洗練をまとっております。どうぞ不実の世界に遊ばれんことを願って」
「不実、、、」
最後の意味深な響きが遠のくのを余興にひたっていると想いなしたとき、ぼくは真っ暗なトンネルのなかを歩いていた。靴音の寂しい反響が気になったけれど、出口はもう近くにあって幸福感とやらが迫っているのをひりひり受け入れた。
ぼくはなにを願っているのだろうか。まばゆい光線が一気に瞳に差し込んできた。白銀の世界、そうだ、ここは冬の国なんだ。女人の影がひとつ、そばに寄るまでもなく、それがマネキン人形であるのがわかり、これはこれで懐かしい気持ちがこみ上げてきたけど、雪に紛れる潔癖な趣向で視界から消えさってしまった。ははあ、これが格納というのだな、寒さを感じないのも変だと思わず、どんどん進んでゆけば、胸に去来するものが外界に浮き出るのを期待している自分と出会ってしまったので、すぐに格納と叫んでみたけれど、ぼくのすがただけは変わらず、期待は吹雪で遠のいてしまった。こんなに激しく吹雪かなくてもいいのに、、、いつしか悲哀に彩られた模様こそ雪景色にふさわしく感じられ、見るからに凍てつきそうな小川の流れのほとり、ほんのり薄紅がかすんだような桜の枝を見つけ、爛漫と呼んでいいものやら、そのひとひらが雪とふれあうのをじっと眺めているうちに、絶景にめぐりあえた、そう言いながら意識はすっと埋もれていった。
随分と短かったな、初回サービスだからこんなものか、ふて寝の案配で寝返ると枕は暖かく濡れていた。
[340] 題名:ちび六の冒険 名前:コレクター 投稿日:2013年03月18日 (月) 20時31分
明るみと呼ぶには似つかわしくない場所、けれども明かりが必要とされる日々のありきたりな、気にとめることなんてほとんどないところ、例えば玄関の片隅や、寝室へと向かう階段の陰、そして寝室そのもの、醸し出されるのは柔らかな吸収力を秘めており、太陽光線を知りつくしながらも暖色のカーテンの襞の裏地はいつも仄暗さを提供してくれる。ベッドの脇に置かれたシェード、謎めく探偵小説にしおりをはさんだときにはもう瞳の照度は下がっていて、小さな灯火だけが取り残されるの待っているのだろうか。そう思いたくもあり、思いたくもない、眠りはすぐそこに来ているし、夢のエントランスからも呼び声が細くもれている。
眠り人を見守るものらをあげつらう無粋は抜きにして、子供の洋服のポッケよりもっと小さなお話をしよう、、、
ちび六がはじめてせかいを知ったのは、あとからすればですけど、やはりふろばだったと胸にきざまれるのでした。きざまれるといってもそんな、ぎしぎし、こんこん、とかとか、したものではなくて、もっとまろやかなかげんだったので、どうもへんだと感じていたのですが、せいちょうしてからはなんども目にしたからまちがいありません。あれはすいてきでした。生まれたばかりのちび六にはおおきさよりも、そうですね、じぶんのからだくらいあったのですから、とにかくきらきらと輝いているのがふしぎでたまらず、すいよせられてしまったのです。あのままちかづいていたら、どうなっていたことでしょう。
聞くところによれば、きれいなおねえさんがふーふーと息をかけてくれ、すいてきもちび六もはなればなれになって、たすかったそうなのです。おねえさんはくもが嫌いでなかったのでしょうね。
ちび六はあるひ、べんじょさまと呼ばれる老くもにいろいろおそわりました。六とつくならきっとおまえにもきょうだいがあったろうさ、ちび五郎とか、ちび子、ちび末、ちび次にちび和、ちびりにびびり、じぶりにそぶり、また驚いたことにいんすたんとらーめんにもそうした名のものがかつてあったというのですから、すでにいっぱしのらーめん通になっていたちび六のくちさきはむずむずってなりました。
だいどころのさんかくのあみめには、こまかくちぎれたらーめんのきれはしや、肉らしきぐがこびりついていることがよくあります。ほかのなかまたちは糸をはってえものをとらえるそうですけど、べんじょさまがいうには、しゅうせいにならうばかりが道ではないぞ、にんげんがこうしてさんかくあみをおいてくれているんじゃ、しかもわしらをつかまえるわけでもなし、ただのみずきりとたいまん、いや、べんりだよ、そこをじっとながめておるのが一番、たいまんだがなと。
だいどころにはしょうゆやみそ、しお、こしょうなどがありましから、らーめんにしみついたかおりでおおよその味くらべができるようになり、しだいにくちがこえてきます。なかでも、でまえいっちょう、きんちゃんぬーどる、ちゃるめら、かっぷすたー、しげきはちょっとつよいのですけど、かれーぬーどるが好みで、ときにはどんべいという白いめんや、どろりとしたふうみをもった、ぺやんぐそーすやきそばなどをありがたくいただきました。
このいえにはさまざまのしゅるいのなかまがいましたが、わけてもくも男爵とみなからいちもくおかれているりっぱなふんいきをしたものがおりまして、ちび六はわかげのいたりだったのでしょう、かっぷぬーどるのぐの肉をさいころすてーきだったとじまんげにはなしたところ、くも男爵はしがにもかけない顔をして、それならしーふーどぬーどるをしっているかとはんたいに聞かれてしまったのです。もちろんはじめての名でしるはずもなく、ちび六はおおいにどうようしていまいました。そんなあいてをさとすよう男爵はうみのさちをふんだんにとりいれたかっぷめんだといい、さらにはうみのゆうだいなふうけいを語りだしましたが、しばらくしてあっけにとられているようすに気づいたようで、ざんねんながらこのいえのひとらはしーふーどぬーどるを食べないみたいだけどな、だが、てれびでもりょうりにんがこのよで一番うまいといっていたから、そういい残してしゅーといなくなってしまいました。
その夜からちび六のあたまにはみっつのうずがまきだします。それがなにかは言うまでもないですね、しかし若さゆえでしょうか、さっそくけんしょうにでたのです。まずはてれびですけど、ひとけのあるにもかかわらずてんじょうのすみっこからおちついてよく見つめていれば、なるほどいろんなけしきやばめんが映っています。にんげんだけでなく、いぬやねこ、ねずみにとり、みしったどうぶつがいっぱいです。ぎゃくにけんとうもつかない生きものやふうけいがとうじょうして、どぎもをぬかれたり感心したり、もうくたくたになってしまいました。でもしゅうかくはちゃんとあったようです。
がんせいひろうをこらえながら、どあのすきまからねぐらにもどったとき、その影にまぎれてたずねてきたものからのように、でんごんを受けとったのでした。そうだ、おもいだしたぞ、べんじょさまがいつか大雨のふったひにそとのみちがまるでかわのようだなってつぶやいたことがめぐり、さっきのてれびでもそのかわらしい流れがおおきなみずたまりにむかっているのが、、、そう、あれがうみだ、あまりのひろさにくらくらとなりましたが、いがいやちび六はれいせいで、じぶんの棲むせかいとはかけはなれているからと、ふたたびしーふーどぬーどるのみかくにおもいはせるのでした。けれども男爵がいってたようにどうにもありつけることはなさそうで、こちらもきっぱりあきらめがついてしまい、するとあのてれび自体にいしきがかたむくばかりで、どうしていままで見おとしていたのだろう、あんなにたくさんのいろあいがつぎからつぎへとあらわれてくるのに、、、においも味もしないけれど、さわることもできないけれど、しんどうはつたわってきますし、そのしんどうにもさまざまなへんかがあって、いのちのおんじん、あのきれいなおねえさんを胸に描きそうになるばめんでは、どうやらねいろもやさしくなっているようなのです。ええ、ちび六はそれくらいはわかっていました。てれびに映るおねえさんはけっしてあのときのひとでなく、どうきばってみても触れるのはふかのうなことを。
はるのとうらいをつげるふゆのさむさに生をうけたちび六は、だれよりもげんきにそこらじゅうをはいまわり、らーめんいがいのたべものも味わいましたが、さいしょがそうであったのと、このいえのひとが夜食にほかのものをこしらえないありありとしたげんじつを知り、せかいのひろさとかぎりをみとめたころには、もうてれびのがめんからきょりをとれるようになっていました。そして、まったくわすれていたことに気づいたのです。
どうしてそんなみじかなくうきを感じられなかったのだろう、、、きれいなおねえさんはすぐそこにいて、そばによったりしたことも、かたにのせてもらったこともあったのです。ふーふーと息をかけてもらえなかったからわからなかったのでしょうか。そうかもしれませんね。ちび六はあわてものですから。
[339] 題名:回想 名前:コレクター 投稿日:2013年03月12日 (火) 08時20分
それはそうでしょう、あなたの目つきはまるで警戒心の強い猫のような感じがしたのですから、わたしだって夜行性の動物の身構えをもってしまいます。一瞬のことだったと言いたげなのはわかりますけど、ええ、確かにその後はすっかり快活な笑顔に返りましたよ、しかし、こうやって記憶の奥底をうかがわなくとも、つい先日まであなたに会うたび、まるで海と空の青みのように間違いない広がりで意識を占領していたのです。からだの解放より、いえ、身を寄せることのはかなげな情感より、もっとしっかり居座っていたのだと思います。
ようやく寝ついた子供の小さな呼吸さえ濃い霧みたいになって、その場から静かに後ずさりする自分の足もとが不確かだったのは、気が急いていたばかりじゃありません。それこそ一夜の逢瀬に向かわせる香しい恐れと忌まわしい悦びが、眼前にはだかりながらも車窓を流れゆく風景のように、去りつつあるのは不思議なものです。あなたは湯上がりの着替えを眺めているふうなさっぱりした目線でしたけど、そう隠しきれるものではありません。わたしは気恥ずかしさゆえに、ええ、こう言うといかにも弁明に聞こえるかも知れませんが、わざとぞんざいな素振りをしていたのです。どうしてって、あなたを引き止めておきたいのはやまやまでしたけど、短い期日でしかありません、あす一日、あさってまで、あともう少しだけ、、、想いの強さが勝るほどにわたしは哀しみも同時に引き受けなくてはいけないのです。そんなことくらい承知しているはずのに、いかにもって面持ちですましていましたね。あのときです、わたしの胸を去来していたもやもやが断ち切れたと感じたのは。
案外と単純なもの、あなたの控えめな口ぶりの裏がわにすっかり惚れ込んでしまったのですから。わたしの影をそこに託してみたのか、あるいは別種の影法師ですっぽり覆われてしまいたかったのか、その両方でもあったのでしょう、きっと。
あの夏はほんとうにうだる暑さでしたね。薄い生地に汗がへばりついてはその実、不快さはいつになく汚れであることに妙な期待を抱かせ、案の定わたしは熱したからだから染みだす、決してさらさらしたものではない情念を認めてしまいました。
三日目の夜でしたか、呼吸の乱れに忘我の余韻を乗せて、火照ったほほに羞恥とは異なった赤みがさしているのを愛おしく感じながら、うっとりと、かなうことならこのまま眠りつきたく願ったおり、ぽつりぽつり、そうちょうど熱帯夜の通り雨の幻聴のごとく、あなたは語りだしました。なんでも蚊帳を吊って待っている女がいたそうで、わたしは随分と古風な恋話しだと、腹のなかでは軽んじていたのですけど、聞けば夢の光景だったと言うじゃありませんか。どこか小馬鹿にされたみたいで他の女との色ごとなんて疎ましい、でも思いはさほど憎々しいとまででなく、むしろ軽んじていた気分と歩調がそろったようで、夢の最中であるのは今も同じではないだろうかって、ほくそ笑んでおりました。
で、わたしの方も負けず猫を玩具にした想い出を聞かせてあげたんでしたわ。それからどうしたと、えらく執心だったのが懐かしくもあり、少しばかり考えてみますとうら覚えだった話しに聞き入ったあなたの気持ちが、よい景観をのぞきこんでる望遠鏡となってよみがえってきて、結局わたしは恋におちたわけでも弄ばれただけでもなく、あなたという男を見物していたに過ぎないと思えてきたのでした。
郊外とはいえ、夜間の静まりは水を打ったという調子ではない、慣れた耳にだって車両の行き来は風はなくともしきりに届けられるし、人語ともざわめきとも区別のつかない気配に四方は囲まれています。
遠く離れた故郷と交わった感覚があなたを支配したのも無理はありませんけど、わたしにはどうしても田舎の景観と混同させようと努めているのが見抜けてしまい、しかも罪のない意識だけにこのからだを通過していった悦楽が却って虚しく、また切なく、一週間の日々が尽きてしまうのをあなたに不平等に分け与えたのでした。
反対にわたしの気概には誰もが触れることが出来そうで出来ないのです。奥義とか秘密なんて、高尚なもったいぶりなんかじゃありません。ただのひとりよがり、とでも言っておきましょうか。
面白がってよいものやら、これしか能がないというくらい昼夜を問わず肉体をむさぼったあなたは、ひとり散歩に行ってくると虚脱した声を残し、薮のなかに姿をくらませてしまうことが度々。ああ、わたしのせいだわ、偶然の出会い、ふたりにもたらした残像だけが現在でも鮮やかなごとく、あのときだって精魂を奪ってあげたと、高野聖を彷彿させる忌まわしげでしたたかな念は確かすぎるほどでしたもの。
あなたの幻影はわたしの操作、そうですわ、夢のからくり、大きな手のひらの上で戯れる些細な、けれどもいたわしい情愛。
わたしに追いつける道理がありません。常に脱皮を繰り返し姿かたちを決して同様に留めぬ蝶をいつまでも追い求める哀れなあなた、まだまだ脱ぎ捨てた抜け殻に執着している様子ですね。
[338] 題名:追憶 名前:コレクター 投稿日:2013年03月05日 (火) 06時18分
もう一週間が過ぎてしまった、でもあと一日こうして郊外の薮の小径を彷徨っていたい。面白いほどくねりにくねった道行きは新鮮だったけれど、時折忘れたころに木々をささやかせる風のなかにずっとまえから潜んでいただろうぼんやりした不快な、かといって気分を圧迫するまでもない感触がいやに軽やかに思われ、民在公吉はその手を胸にやった。
面白さと同時に大都市の外れがこうも田舎臭い、そうまるで生まれ故郷の山間に点在する家屋を思い起こさせるのが、気抜けとは質の異なる薄明るい視界と化していた。陽をさえぎった木立や草むらの仕業にしたいところだったが、残念ながら旅情を喚起しつつも、帰省を強制させている淡い意思が薮のなかに紛れこんでしまった。
「ちょっと待ってよう、そんなに早足で行かなくたっていいじゃない。子供が駄々をこねるのよ」
「おれのせいにするなよ」
公吉はさも迷惑そうな顔つきで振り返りざまにそう吐き捨ててみたものの、心中は言葉よりずっと距離があるのだろう、さながら駆け足で向かってくる女との隔たりを埋めるのに好都合な響きがあった。
「なによ、みん公。さっき嫌らしいことしようとした癖に」
女は切り札を持ち出したかの語調であったが、これまた公吉と同じく、光の乏しい山道に小気味よくこだましたに過ぎない。
早足を断念して見せたのも演技ならば、冷ややかな目つきを放っているその表情もいくらか芝居じみている。左手が山肌、その反対はちょっと見には谷底に滑り落ち込みそうな勢いだったが、くすんだ瓦屋根がほどよく見下ろせる景観は決してありきたりではない。むしろ曇天から降り注ぐ折の雨脚に涙を想い被せてしまうほど、ひっそりとした沈黙のなかにあり、公吉は目頭を熱くしてしまった。
「こんな場所が別れにふさわしいのかもしれない」
ふとそうよぎったのはわけもなく、ただ悲しみの中にうれしさが混ざっているみたいで、自分でもその深意にまで降りていかなかったのは、新しいパンツに履き替えた女の仕草がありありとよみがえってきたからであった。
今は夏なのだろうか。女はまだ幼い子を寝かしつけると、一仕事終えたふうな顔をし、見るからに汗ばんだからだへ迷惑気にまとわりついた薄い生地のワンピースのすそをめくりあげ、ぞんざいな手つきで下着を脱ぎだした。公吉は呆気にとられ目は釘付けになるところだったが、あまりにあっけらかんとした女の様子に却っていらぬ神経が働き、羞恥ともつきかねる変な気持ちに襲われてしまい、目線をそらしてみたものの、今度は着替えのパンツに見とれてしまったのだけれど、欲情をもよおしつつもとりあえず平静な面を崩すことはなかった。
この一週間のうちに何度おなじ光景に出会ったのだったか。
指折り数えてみるまでもない、公吉は下着の色柄や素材を好奇によりうかがうのではなく、それはあたかも洋品店の従業員が品揃えを確認するまなざしを模倣しており、いわば陳列された肉欲の近寄りがたさ、空無な衝動に支えられていたというのが適切ではなかろうか。女を抱いた記憶がないのが何よりの証拠、公吉はよりどころのない夏日の茂みにいた。
「第一、おれは痩せぎすな女は好みじゃないんだ。もっとむっちりしたふとももが恋しい」
自分の姓名を略して、みん公などと呼んだ女の無邪気さと、魅了されたという意識が眼前に立ち現れてこないにもかかわらず、奇妙な傾きを示している案山子の如く、どこか骨抜きされたような感じを打ち消したいが為の反撥をしめしてみても、こころの片隅では色香と親しみを分け隔てられず、ついつい悪態に堕してしまうのだった。現に今も肉付きはよいとはいえないが女のふくらはぎは、ちょうど出し殻の茶をすする案配で、以外やのどの渇きにほどよい加減を念頭に上らせることを忘れてしまったように、放擲された淫欲の陰になり忍び寄ってくるのだ。
女はからだつきに相応しく童顔で、しかも舌足らずであった。公吉からしてみれば、蔑視を含んだ色情でこと足りるところであろうが、それは記憶の操作が麻痺しているだけであり、おそらく欲を蔑もうとしている意思を相手に覚らせたい一心であったに違いない。公吉は女のからだを失念していた。が、寝物語にいつか夢のなかで蚊帳を吊って自分を待っている愛人の話しをしたことは忘れていなかった。とすれば、脱ぎ捨てられ履き替えられたパンツはどこに行ってしまったのだろう、そしてあの人気のない小径で自分を追ってきた顛末は、、、
公吉は十、七八のころ、友人の知人のそのまた知人の家に遊びに行って大い居心地の悪さを知ったことがある。細かい理由などいらないだろう、つまらぬ人見知りに過ぎない。そこで想い出すのが、幼年時代、遊び仲間と近所の知らない家を訪れた初々しい情景であった。
まったく面識のない公吉よりふたつほど下の女の子がひとりで猫と留守番していた。こういうとさぞかし物騒で訳ありな家庭に聞こえるかも知れない。確かにそこは初々しいさからはほど遠く一軒家ではない昔ながらの長屋であり、あたりまえのように一間しかなかったと思う。しかも布団は引きっぱなし、あきらかに荒んだ雰囲気を感じとったには間違いないであろうが、実際の有り様というよりもテレビドラマに出てくる場面が再現されている、そう受けとめたような気がしてならない。
風大左衛門はニャンコ先生から空中三回転を学んだのだ。つまり猫はどんなに放り投げられても必ず四つ足で降り立つのであり、誰が言い出したか、猫は公吉らの玩具と成り果てて、何よりも女の子が我さきに投げ技を披露し、いかにも自慢気だった。どれくらいの時間その遊びに熱中したのか定かでない、何回天井めがけ舞い上がらせても猫は野生の能力で見事に着地をきめ、ついには三人そろって抱えて天井に叩きつけてしまった。しかも力加減が揃わなかったので斜めに飛ばしてしまって、ゴロンとあきらかに痛々しい物音とともに布団の上に転がり、即座に小便を大量にたれたのである。
空中三回転の失敗より小便の方が遥かに衝撃だったのは公吉と友達ではなく、女の子だった。わぁっと泣き出したまま、かあちゃんに叱られる、叱られると連呼したのが今でも耳に残響し、というのも猫はどこにも怪我をした気配はなさそうで、問題なのは布団を汚してしまったという現実に行き着くのは理解できるのだったが、その懸念に同情することなく、女の子が早く泣きやむようなだめたのか、そうでなかったのか、疑問ももちろんそこにはない。泣きやむことがまるで布団をもとに戻すと願ってやまなかったのであって、しかも真意はここの母親の顔をなんとなく思い出したからで、ならこの布団は親子ふたりの大事な寝床であるわけだから、申しわけなさを補わなければいけないところだけれども、なぜかしら異性の魅惑になどまったく感心なかったはずの不遜な意識がうっすらと首をもたげてくるのだった。
数日後、あの親子が喪服姿で歩いているのを遠くから見かけた公吉は、背筋に熱いのか、冷たいのか、とにかく何かが走るのを覚え、それが夜更けになって股ぐらへと伝わってきた。
いや、微かだが見覚えがあるぞ、女はせわしなくパンツを履き替えながら、外出しようとしていたのだ。それでおれは、早めに家を出たのだった。ことによればもう一日、たぶんまだ数日、ひょっとしたらしばらく帰省しなかったかもしれない。
「おい、待ってくれよ、追いついたと思ったら先走りやがる」
これは夢は台詞である。