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[301] 題名:妖婆伝〜その二十二 名前:コレクター 投稿日:2012年09月25日 (火) 03時04分

「険しかった山道に懐かしさを覚えてしもうたのは、木々が恭しく退いたよう一気に眺望が開け、西日を受けるまばゆい緑の残像によるもの。それは眼下にひろがった海原の深い碧さへと吸い込まれてしまう鮮烈な色の後退であり、ときめきにも似た惜別の情だった。
駕篭かきふたりはさして屈強な風体ではなかったけど、陽の落ちるまで二十里の道のりを辿ったのじゃから恐れ入ったわな。もっとも港町までの距離はまだまだありそうだし、地名すら聞き及んでおらんかったから、ひょっとしたら公暗和尚は適当な里程を口にしたのかも知れんわ、が、そんな疑心を持ったところで別段どうこうない、今この眼をきらきらと輝かせている波間の反照の遠さに意識は占領され、あたかも夜空に散らばった星の瞬きによって暗黒が至上の背景となるごとくに、こころの闇はのっぺりしていた。いずこまで連れて行かれるのやら、、、憂慮を抱えているにもかかわらず、目覚めを告げる鳥の声を半ば疎んじているような、それは時間の上澄みにも感じられ、たとえば納戸に入りこんだときのくすんだ色彩が漂う暗がりであったり、散策の道ばたに落ちるおのれの影に捕われし蟻一匹だったわ。
長閑な風情をたぐり寄せておったわけじゃない、悠久の夜空より初めて眼にする海を、陸地がすっきりと駆逐された広大さを、だが一層こころ揺らいだのはその計り知れない深さの底に棲息するであろう、魚介の類いに得もいわれぬ親しみが湧いてきたからだったのじゃ。うなぎの先祖帰りかや、説明つかねばそれでええ。
すっかり陽が沈んだ頃、とある門口に駕篭はその任を終えたとみえて優雅に、しかしながら地面の固さを重々に思い知ることで到着の合図がなされる。取り次ぎの声色もまた労をねぎらいつつ、暗黙の了解を得たふうに見知らぬ土地を伝えば、さっと身震い、すだれをおもむろに上げ、人影をうかがう。先入主の働きであったわ、駕篭かきを迎える図には警戒心のありそうな面構えが相応しいもの、それゆえに男衆の声と聞き及んでしもうたのは早計、提灯片手に夜を背負うておったのはわしと同じ年格好のおなご、しかも華道に従事しているせいか、いやいや、これは思い込みでなく、提灯ばかりか軒先に灯った明かりはその姿態を余すところなく照らし、実にたおやかな立ち居、うっとり見とれてしまいかけた。ああ、そうだとも、ことさら妙の面影を擁しているわけじゃない、なのに彷彿させるものはあの貝合わせ、生々しい想い出である一方、沈みゆく苦みを含んでいながら甘露であり続ける余韻が偲ばれる。女体同士の戯れなどまぼろしだったのでは、、、花咲く影がわしを迎えてくれた。駕篭を出てから挨拶するべきだとちょいとあわてたのがいけない、足がもつれつんのめり無様に転んでしまってな、それでも目線は相手からそらさず、あらまあ、と驚いた表情の、崩れかけてもなお気品ある美貌の虜になったようで、失態を恥じるよりか、道中にめぐった思惑にそそのかされ、地べたに横たわったまま軽く会釈したんじゃよ。
すると増々怪訝な顔つきになりかけて、涼し気な目もとが冷ややかな蔑みに至ろうかと観念すれば、さっと雲間から切れ味のよい陽が射すよう、にこやかにおじぎされる、内心おかしくて仕方なかったのかも知れんけど、わしには天女の微笑みにさえ映ったわ。それが随門師の内弟子のひとり、阿可女との出会いじゃった。すぐさま起き上がりかけたところ、手を差しのべられ、そのさきの細々した箇所は忘れてしまったわい、理由は簡明よ、気が動顛していたんだろうて、阿可女の出迎えもその一翼だったが、空想していた不穏な空気を感じとることなく、深みを怖れていたばかりに、そう海に対する感銘もただ雄大であるだけじゃない、底知れぬ不気味さを隠蔽しようとする努め、都合よく浅瀬につまずく失態を演じ、妙のまぼろし、面映げに浮き出てくるあたり、想像の産物とは所詮たかがしれたものであったかやと残念がって、最悪の推定を払い除けようと執心しておったのが露呈してきた。早い話し安堵したのじゃ、門口にたどり着いただけでと思うだろうがのう、右も左も、天も地も、人情も邪心も分からぬ身、たったひとつの口実を頼りに生きるしか能がなかった。こう言うと神仏祈願の原点に降り立ったみたいだがな、うなぎの化身からしてみればさほど奇異でもあるまいて、奇異なのはわしのこころに巣食う魔性よ、あくせく働いてみても空腹にならず、そよ風が心地よい部屋なぞで昼寝をしておると猛烈に腹が減る。
とまあ、今は内観でもあるまい、気は的確かつ好都合に動顛し、いよいよ随門師との対顔となった。夜分のこともあり、踏みしめた畳のへりにもろ助の亡霊がひそんでいるのでは、そんな取り留めもない考えがよぎった記憶はある。阿可女のうしろ姿も思い出せるわ、亜麻色の着物が灯火にやんわり染められておるようでなあ、そのほっそりした襟足の白さは際立つのでなく、同じ灯火のなかで肌がしめす変化を見せまいと耐えているふうな情趣があって、なぜかというに、肉眼には映らないだろう薄紫の細やかな血の管が首筋にそってしたたり、まるで阿可女の炎が透かして出ている、ぞっとするほど陰惨な雰囲気にのまれそうでな、それでいて化け物じみているわけでなく、あべこべにか細い筆先で描かれた水墨画の幽かな儚さを宿しておった。美しいが故に近寄り難い、今から振り返るとあのおなごの気性を現していたのかもな、そして何より真に近づくことの出来ない小夢の幻影でもあったと思うのじゃ。
随門師はなるほど、公暗和尚に通じる柔和で従容とした物腰だった。もっともふくよかな容貌でなく、痩せぎすな体躯に細面、双眸も鼻すじもそれにならえで、上唇の薄さに至っては冷酷無比を地でゆく面相だけれどな、還暦はとうに過ぎただろうが肩にかかるところで切り揃えられた黒髪の艶やかさ、存外しわの見当たらぬ美点と相まって表面上は狷介な性分までに留まり、老醜をさらしておらん。ときおり定まる眼光も片意地から来る鋭さと判断したら、年寄りの頑迷はごもっともで、尚かつ華道ひとすじに打ち込んできたであろう生き方、風貌の是非を問うまえに慮るべきぞ。
謡曲に準じた古老の声のかすれにとげとげしさを感ずることのないよう、随門師が醸すものは朽ちた生花の哀れであり、向後も生けられる草花と共に分かつ命だったから、わしにはおっとりした様子に見えたのだろうか、とにかく尻からうの字は出さんでも済みそうな予測を素早く呼びつけた。その夜の夢見はありありと憶えておるわ。
夢の導きは紛れもない潮騒じゃ、闇のなかに白紙がひらり、一文字大きく書かれているのだが墨汁の性、暗黒に即してなかなか読みとれん、おまけに風もないのにふわふわ舞っている。つかもうと足掻くほど白紙は逃げてしまう、そこで仕方なくふて寝したんじゃな、眼は開いておった、いや閉じていたかもな。そのうち顔のうえにひらひら頬に乗っかったから手にし、じっと見つめた。そうなんじゃ、文字がざわざわ動いておる、更に凝視すれば、なんと墨汁ではない、この漆黒は蟻の大群のひしめき、夢と書こうとしているのか、ほんに単純だわな。わしが最初に知った文字だった」


[300] 題名:妖婆伝〜その二十一 名前:コレクター 投稿日:2012年09月18日 (火) 01時43分

むき出しにされるべき情欲は何者かと取引を交わしたみたいにすまし顔であった。背徳と淫逸に彩られた小夢の境遇から目をそらすのは、絵空事だということを知り尽くしているような矛盾で成り立っており、それ故、割り切れない胸のうちに居座る影は赤みを帯びて、隠蔽されたものを羞恥に委ねていた。多少は心苦しく、何かの弾みによって空中分解してしまいそうな、弱々しくも大胆な思念を下敷きにして、、、自分の本心を見つめられないのでなく、その視線には歪みがあるのだと生真面目だが、とって付けたような口実を設けている。
列車を待ちくたびれた旅人が無聊を慰める為、辺りの草花を何気にむしったりする些細な歯痒さがあった。無頓着でいながら、途上にある焦りを軽減させる算段は、こうして旅情のふくらみの中にひっそり息づいて、ときおり新鮮な追い風が身を撫でてゆけば、そのこころは内側から針でやんわり突つかれるようなあくまで微弱な痛みを覚えるのだった。
峠を間近とするにもかかわらず、語りから抜け出てきた不逞の徒に足止めされているのが心地よい。しかし、この小さな秘密を面に出すわけにはいかなかった。夢が覚めてしまうのはつまらない。自分は今、夢を見ているのだ。寝言をもらしてしまう前にひたすら耳を澄ますとしよう。老婆の眼を覗くよりさき決意というほど芯は固くなかったが、おもむろに舟虫の横顔を見た。常に憂いと同居しているような冷たく美しい睫毛が静止している。瞬きを忘れてしまったのだろうか、、、

「ちっとは気分が落ち着いてのう、とは言うても休憩の折に見晴らした裾野や、夏の終わりを静かに告げている抜け切った末の空の深みに感じ入っておったわけでない、静かさを覚えたのは投げやりな心持ちが提案した妥協に過ぎん。いくらか景色もしみ入ったろうが、ほとんどその眺めがよみがえってこんところをみると、やはり引きずっていた不安に呑まれそうになるのを危ぶみ、その葛藤を経た意識が織りなした正絹じゃろうて。濾過される岩清水のように、不穏な境遇も時間が純化してくれるのじゃ。まあそうとでも思わんとやっておれんわな。
道中あれこれ巡ったなかで一番の妙案は、これからどうあれ、公暗和尚と随門師との繋がりにおいて、ようは隠匿なり保護だとしても、それはうわべの名分でしかなく、とてもじゃないけどよい展望が開けるとは思ってなかったからな、身売りでもされた傷心をなぞっていたのよ、ひとごとみたいに、すると面白いもんでな、どうあがいても不幸にさらわれてゆく道のりが、まるで脇道を早駆けするごとく先んじて見渡せ、どん底に手をついて跳ね上がったみたいな実感を得たんじゃ、そう、身もこころも。
愉快ではなかったけど気は紛れたわい。うなぎ時代からここまで実に変哲な生き様でやってきたわけだからのう、案外幸せなぞというものはこんなみすぼらしい空想のうちに芽生えるのかも知れん。だが、すでに出来上がっている、そうだねえ、浮世絵をまねて描いてみても最初は楽しいだろうけど、そのうちおのれの領分が逆に侵略されてしまったふうに感じてくるんじゃなかろうか。寸暇を惜しみ、手間ひまをかけ、精進した挙げ句に悟るのは先達の器量以外でしかない、模倣を修行と捉える向きもあろうが、わしには理解できん、写経もそうじゃ、もっともあの頃は文盲に近かったけど。
そんな馬力を出して何処へ行くのやら、、、天空を舞うのかい、それとも大地を徘徊するかのう、突風にあおられて居場所すらなくしてしまうのが関の山、で、わしの言いたいことはじゃ、生半可な空想ではいかんと、みすぼらしくともな、果たして空想に外見がありうるのかどうかは別にしても、とにかくこころの羽ばたきまで狭めるような、あるいは狭められる状況は打破せねばならん。たとえ侵蝕を免れない事実を想念として予期していても、その想念は同一でない、価値にこだわっているよう聞こえるだろうが、大事なのはそうでなく意義でもないわ、生まれ変わりの身分として傲慢であろうがこれだけは聞いて欲しい、如何にも自然をないがしろにした意志のもと挑んだ悪行であったけど、生命の自然な誕生と比較した場合、この意志はむろん重要な位置をなしておらず、かといって取り立てて下等な部類でもなかろう、誕生に善し悪しがあるなら、それは他者がそれぞれの思惑において勝手に決めつけているだけよ。想念のいわれも同じ、あらかじめ配備された仕掛けを滑り落ちてゆくしかないと嘆くなら、嘆けばよい。わしはそれを模倣と呼ばん、呼びたくないのじゃ、拒絶の態度こそ意想であり、出来上がりに対する挑戦よ。別にあんたの同意を求めておるんじゃないよ、これはわしによるわしの戦いだから、あんたや世間に声高に向かって訴える問題ではない、ああ、ついつい興奮してしもうた、勘弁じゃ。分かっておるとも、侵蝕も自然と歴史の一環だから。
さて、わしは最悪を推定しわい、もっとも半ば自虐の笑いを伴っておったがな。こうした設定じゃ、もろ助の死があぶりだした呪詛は、わしら河川に棲息していた一握りのみ知るところ、しかし、高僧と師匠やらがその秘密を嗅ぎつけていたならば、、、一理はありそうだわな。ただならぬ因縁があるからこそ春縁との関係に触れることなく、また駆け込みを決したわしの扱いにも慎重であった、そう解釈するなら自ずと奴らには目論見があっての裁断となろう。いやはや、恩人は舌先の渇かぬうちに敵方よ、それもふくよかな想像の産物、呆れるくらいの推量の道筋をたどるわ。
まだ見ぬ随門師の面影はわしの脳裡に浮き出ておった。公暗の知己とも配下ともその辺はよく分からないが、まったくの他人であろうはずはなし、目論見を共有する仲間とみなして間違いあるまい。そんな顔はすぐさま浮かび上がるわな。いや、容姿はどうでもええ、肝心なのはうなぎのうの字が、実物のくねった長さから寸断され、声として空間を伝わるのか、以心伝心に有無を言わさずもたらされるのか、いずれにせよ、押し殺したような雰囲気のかもす緊張に戦々恐々とした相手の顔色が待ち遠しかったわ。
随門師が黙念先生の呪詛を知っているとすれば、尚のこと事情は入り組んで来る。それとも先に話したようすべてがまやかしなのか。としたら、ただ単にわしの幻想に収斂するだけだろう、が、他者は絶対にそんな戯言で重い腰を上げたりしない、ここはひとつ確信であるという路線で行こう。
緊張はそのひりつきの快感を残し、あたかも昆虫が脱皮するごとく姿をくらました。ああ、そうとも半信半疑とはいえ、目の前でもろ助が頓死しておるのじゃ、迷妄であることに手を合わせたいくらいの怖れも残存して、ひりつきをより高次に仕上げてくれている。そして、わしの畏怖に間違いなければ、うの字を発するかも知れぬ随門師にも命の保証はない。痛快極まるところだがなあ、反対に一切そうした実情へ近づく素振りがなかったとしよう、あくまでこちらの出方を観察する腹づもり、息がつまりそうじゃ。なら、うの字の代わりにこう言ってやろうぞ。
長々と喋りだしそうな口ぶりをもって、おなごのしなをわざとらしく作り、わたしのお尻から出してみましょうか、お師匠さまの禍いと幸いとを、とな。面白半分、興醒めに至るわ」


[299] 題名:妖婆伝〜その二十 名前:コレクター 投稿日:2012年09月10日 (月) 16時14分

雨上がりの気配を宵の口に感じるのも悪くない。鉛色の空が青みがかる、何となく得をしたような、憂いの置いてかれたような風色と違って、夜空にはさながら寝入った幼児の夢見がひろがり、底辺に遊ぶ重しをなくした初々しくもしめやかな混乱があった。静けさだけを取り柄とした、そのお陰で別方向からやってくる侘しさの斉整を引き受けなければいけなかったが。
ひとり夕餉をいただき杯を煽る。最初は申し訳なく、気まずく、遠慮がちであったけれど、酔いの手助けもあり、客人という大義名分を鵜呑みにするのが酒の味わいだと、不敵な思いに駆られだして、老婆、舟虫と酌み交わしている情景のなかへ埋没し始めていた。少しの違和も生じないのが不思議といえば、不思議だったが、日中からのときの経過はあまりに間延びしていたのだと想いなし、奇妙な物語の変遷に現実の時間をはめこむ没意義に頷けば、ほろ酔い気分もまた小夢の語りに含まれている気がした。
「この分でしたら明日は晴れるでしょう」
停滞し続けよう努めている流れに逆らってみたくなったのは、いくらかの気恥ずかしさがあったのだろう。折角うつつを抜かしているにも関わらず、わずかの呵責を口にしてみせる小胆、自分から話題にするのは無粋であり、下手すれば二人のもてなしを損ねてしまいかねない。どうしてそんな早まったことを言ってしまったのか。
「どうかいな、この辺の天気は変わりやすいのじゃ」
「明日は明日よ」
案の定、苦々しく半分呆れているふうな返答が寄越された。
「はあ、そうですね」
実に情けない声で了解してみると、不意に異なった考えが横切った。先を急いだわけでない、峠越えに縛られているのでもない、あべこべにたゆたっているこの現況へ執着しているのだ。胸の片隅では明日も客人のまま留まっていたい、例えまやかしであろうと半睡の情態が恋しく、それはたなびく霞の向こうで悩まし気な顔をした舟虫であり、語りのなかに棲む小夢であり、つまり自分を取り囲むすべては決して色褪せてはならないのだった。村はずれに、山々の遠方に、鉄道のゆく先に、風の彼方に拡散する願いより、妖しい気流の渦巻いく辻に立ち、こじんまりした、けれども無限の謎をはらんだ四方を見据えていたい。
「ひとり酒もなんですから、ご一緒しませんか」
今度は卑下でも気詰まりでもなかった。沸々と体中の毛穴から立ちのぼってきた酒気は責務になって、素直な心持ちを後押しした。夢に呑まれていたとしても、自分はそこで出会った者らと触れ合いたかった。悪鬼であろうが、妖魔であろうが、ひとでなしであろうが、、、
「あれま、心遣い、それじゃ、相伴にあずかろうかねえ。舟虫や、杯を持ってきておくれ」
すくっと立ち上がった舟虫の姿勢は健気で、その足もとに落ちた影は濃く、畳の目を美しく覆い隠した。
「あんた、いける方だね」
老婆は舟虫の影から這い出したふうな、それでいて悪びれてない様子をまるで写し鏡にしてみせる声色を使ってくれた。駆け出しの気分を、夕焼けに染まった始まりの情趣を。宵の色は残照なしに見届けられない、生酔いが頬の赤みをともなうように。
「いえ、それほどでも。それに随門師匠でしたか、のちの経緯を聞きたいものです」
「そりゃ、殊勝な心掛けじゃわい、はははっ、酩酊してしもうたらいけんわな」
果たして老婆の昔話しは今夜中に終わるのだろうか。疑心を抱くことすら無駄であると思いつつ、あきらかに自分は百歳を過ぎてなお闊達な口調に委ねていたけれど、そのわけは念頭に上らせるまでもない。
「ばあ様は冷やでよかったわね、あたしも」
口のなかは熱を帯だしていたので自分も同じものを所望した。井戸水か湧き水にでもさらしておいたのだろうか、きりりと冷やされたその舌触りに驚いた。しかし、冷酒に感嘆した素振りはあえてなおざりするよう、神妙な顔つきでちゃぶ台を見つめていた。相伴とともに語りが再開されることを望んでいるふうな装いだったが、他でもない、先程まで右隣に座していた小夢のまぼろしに成り代り、あたかも前世からの約束事であったかのように舟虫が寄り添ったからである。自分の寡黙は早鐘をついたまま、幻影と隣合わせ、いや、交わった事実に圧倒されていたので、その戸惑いのさなかに凝固するしか能がなかったのだ。
女から徳利を受ける。正面の老婆の顔をうかがうのが照れ臭く、必要以上に目線を意識してしまい、うつむき加減が気弱で仕方なくなり、増々もって陰鬱な表情をしめしていた。
哀れなのか、奇特であるのか、それとも果報者なのか、香り立つ女の匂いは運ばれることで、新たな因果を生みだす。遠い過去の出来事が色鮮やかによみがえるとき、その眼の奥に眠る宝石の価値は無限大となる。どうした事情なのだろう、まぼろしが現実に即す場面から免れたいとは、、、
一時の狼狽と気軽にかわすことが出来ない、これでは初心な女学生と誹謗されても仕方あるまい。自分は港町の風景に、随門師匠の風貌に想い馳せることで、肩先さえすぐ触れそうな舟虫の存在を薄め、一刻も早く老婆が喋りだすのを待ち構えていた。
そんな焦りにも似た気後れを知ってか知らぬか、舟虫の体温は伝わって来そうなほど身近にありながら、表情を知るのがためらわれている自分と同じ気振りで通している。くらくら脱力しかけた身構えは、体をなしていなかったはずの小夢のまぼろしに支えられていた。そう、すでに老婆の口は開いており、陽光を浴びてなお、寂寞と駆けゆく夜の意想へ紛れこんでいた。至福にありながら、おいそれと境地を認められない頑迷が善くも悪くも堤防になって自分を遮断しているのだ。
小夢ならすぐに抱きしめただろうか。妙を攻略したように無益な情念をたぎらせられない。自分の横に舟虫がいる。ただそれだけ、、、満蔵だったら悪知恵を働かすに違いない、無邪気という隠れ蓑を用いて。


[298] 題名:妖婆伝〜その十九 名前:コレクター 投稿日:2012年09月04日 (火) 03時24分

「なんもないけど召し上がれ」
そう言われてようやく杯を置き、ちゃぶ台へ並んだ夕餉の品々に眼をやった。わだかまる濃厚な想いに遮断され、あまりに固く妨げられて、これら総菜の支度に当然ただよったはずの匂いすら嗅ぎとれなかった自分を恥ずかしく思った。
まず視線は鮎の塩焼きに落ちる。踊り串に炙られたのであろう三匹、緩やかにうねった身に程よい焦げ目、背びれから尾まで粗塩が散らばる様は無惨でありながら、死んだ魚の眼は無味乾燥に泳いでいるので、生臭さが取り払われ香ばしさだけが残される。もちろんのこと、牛太郎にも馴染みがあったと思われるところ、老婆の顔を窺えば、あの語りは遠く過ぎ去った念とともにすでに風化して、齢を重ねた証しの深いしわが微かに震えるあたり、慈しみの情を感じさせ、転じては食欲を平たくそそってしまった。
採れたてではなかろうが、実に鮮度のよい色あいは春先の土の香りを失ってはおらず、煮汁にひたされた加減が瑞々しい竹の子。隣の小鉢の夏野菜は、きゅうり、なす、酢の物に見えるけど添えられた、みょうが、大葉、千切りされた昆布から推測するに、その僅かとろみがかった按配から出汁かけの涼味が彷彿される。
あえて同色のくすんだ小皿のうえに油分をみなぎらせ、いかにも歯ごたえの小気味よさそうなのはこんにゃくの炒めもの。板状に素っ気なく切り揃えられているところなど、振られた七味唐辛子の刺激と相まって思わぬ味付けが待望されよう。
山菜にきのこ類の天ぷら、生唾ごと衣に吸い付いてしまいそうな見事な揚がり具合、おろし大根の山に交じりあえば、さながら雪融けの風味か、その食感、想像に即していると見た。天つゆが見当たらぬところを察するに生醤油でいただくのであろう。
椀ものには蓋がされているので一層の信頼が寄せられ、湯気を封じた様がそのまま豊かな香りであることを知らしめており、反対に半透明の薄みどりの器にこじんまり収まった桃の切り口からは、まだ熟しきっていない無骨が覗きながらも、若々しい水気も備わっていて果物の位置する落ち着きが偲ばれる。
更に食指を動かしたのが、最後に運ばれたざるうどんの抜けるような白さであった。茹であげられたあとのざぶりと冷水をくぐった、その如何にも腰のありそうな中太麺の艶やかさは来たるのどごしを折り目正しく強調してやまず、つけ汁に加味されよう小口切りのわけぎとおろししょうがの風味を優雅に控えさせている。夕餉はかくも美しい見た目を有し、その本来を映しだしているのか。
迷い箸に臆することなく、気の向くまま食するとしよう。が、これらはどう見ても一人前の膳に映る。酒の杯もそうであったし、箸置きも同様、まさか自分ひとりの為に料理されたのであるまい。
ためらいをすかさず看取った老婆に「遠慮はいらん、あんたは客人じゃさかい、これが習わしぞ、早う食べなされ」と、微笑みすすめられる。
こうなればまさに風土の語らいを受け入れるべきで、老婆と舟虫に対し神妙な目配せをしてから夏野菜をつまんでみた。酢の匂いはない、きゅうりの青臭さを残したまま昆布だしが染みこんでおり、焼きなすのとろけた旨味が舌に優しく、みょうが、大葉の芳香が颯爽と暑気を払ってくれる。続いてたけのこに箸をのばしたとき「春に掘ったものを塩漬けにしておいたんじゃが」明解な老婆の言が入り、得心がゆくと同時にこちらは若干の酸味を含んだかつおだしであるのが分かり、その相性のよさにおおいに頷く。
こんにゃくに至っては自分の方から「不思議な味わいですね、油加減がちょっと肉汁を思わせます」そう投げかけると「ごま油で炒めただけよ、仕上げに醤油を少し」今度は舟虫が眼を細めながら答えてくれた。
この瞬間、自分はこんにゃくがつるり手を滑ってゆく場面を想起させてしまい、何とも滑稽で他愛のない連鎖に結ばれたことに驚いているうち、ぴりりと舌へ走った七味の辛みに促され、不用意な肉感がこの簡単きわまるこんにゃく炒めの奥底に隠し味として横たわっているような錯誤を得て、思わず顔を赤らめてしまったのだが、じんわり酒が効いたせいにしておいたあたり、そろそろ夕餉の席に慣れきたのかも知れない。しかしながら、意思をしめす眼光で舟虫を見返すことは出来なかった。間合いは恐ろしく的確に距離を埋める。
「はい、どうぞ」
徳利をゆっくり傾ける舟虫の手つきにそつはない。まごつく気持ちと川底に流れるみたいな急いた勢いの両方を慰撫するごとく、酒は注がれた。ぐいっと煽るが粋、感情に溺れきらないつもりでも、ついつい体裁をつくりだしてしまっている。罰の悪さまでは感じなかったが、舟虫の主導のもとにいる自分が疎ましくもあり、反面好ましくもあった。こんな心情ではやはり夕餉の席からはみ出しているようとらえるかも知れないが、以外やそうとも確定出来ず、箸を持つ手にはちからがみなぎっていたし、舟虫の挙動、表情に細やかな注意をはらっている自分を見失ってはいない。女の出方にこそ呑まれた調子であったけど、内心は歩幅を合わせているふうな片意地があった。
思い出したようにお椀の蓋を開けてみると、漆塗りのなかには干し椎茸と湯葉が上品に浮いており、それぞれ芳醇な湯気を放っている。冷めないうちにひとくちすすれば、座敷全体が静まったような、女の色香を包みこんだような、得もいわれぬ滋味が温かく、のびやかにひろがり吐息とひとつになる。その有り様はさながら戦士の休息に似てときを覚えず、天ぷらを頬張り、おろし大根を口に運べば、山菜の名の知らぬを告げる老婆の声さえ先んじて耳にするようで仕方なく、充たされだした胃袋は好調で、ひとり膳の萎縮は何処へやら、からり揚った衣を大口にかじる。かじるついでにそれまでどうしたわけか手つかずにしておいた鮎の塩焼きもしみじみ味わう。岩苔と川水に育まれた野性の香味が口中に一条の流れをつくり、それが想念を越えて奈辺へ消えゆく。あくまで正確な残滓であり続けりことを天命として。
老婆に向かう気遣いを逸しているのが心地よかった。そのまま滑りこむようざるうどんを食す。箸に伝わってくる絶対の歯ごたえ、重み自体にはや存在感が充溢していて期待を裏切ることはないであろう。薬味のわけぎ、しょうがの主張を懐深く快諾している風味豊かなつけ汁もあっぱれながら、そのうどんの質感、主食の地位に泰然として怯む様子あるべくもない、何というのどごし、何という噛みごたえ、煮干しを基本に仕上がっているつけ汁へとからまる美味さ、一気に平らげる間、老婆のつぶやきも聞き流してしまっていた。
「どうかい、それは近所の人が打ったものじゃが、なかなか、いけるだろう」
返事をするのも億劫であったふうな余念のなさは至って無邪気であり、満腹へと向かう疾走は歓びそのものであったが、ゆき着くさきには微笑み返しとして虚無が迫っている。しかし、まだ重ねる酒杯はその空隙にかりそめの気分を吹きこんでくれるに違いない。
「あら、雨やんだみたいねえ」
単調ながら舟虫の声には艶がある。
屋根や戸板を叩きつけていた響きは治まっていた。代わりに夜のしじまにはこおろぎの音がちらほら聞こえだした。桃をひと切れ、熱狂のあとの寂し気な甘みにこころ静まる。その余韻を打ち消すよう、いや、決して新しくはないけれど白い木綿でちゃぶ台が拭かれるよう、深まる夜にもたれかかるため酒が汲まれた。
歓びと哀しみが交差する。これからが夏の盛りなのに、ここには秋の気配が漂っていた。


[297] 題名:妖婆伝〜その十八 名前:コレクター 投稿日:2012年09月03日 (月) 06時06分

「おっとりとした風貌から申し渡されたる以外な提案、あれこれ思いめぐらす猶予のあたえられておらんのは瞭然でな、やわらかな口ぶりのなかには厳命が籠っている、わしの耳はそう判じ、何故ならこれはひとつの沙汰であり、そうあるのを願っているのは紛れもないおのれの意志だったからよ。
つまり公暗和尚が妙策を講じてくれたと信じることにしか、賭けは成立しなかったわけじゃ。わしの発心はとにかく急いていたからのう、有無を言う間などもとより必要なかったし、相手の言い分にうなだれながらにしても決して軽やかでなく、遥かに重みのある首肯に違いなかった。事情をよく了承してもろうた限りは速やかな進退が望ましい。が、手筈を整えるとしてなんの身支度もない、そんな憂慮を見て取るよう和尚の言うには早朝に立たれよ、随門師の方は追ってゆえんを通達しておこう、鷹揚にそう諭された。含みのない言い様だったが、わしの脳裡を閃光の如く擦過してゆくのは推量するも不可能な、闇の伝令がただちに暗躍し始めるすがたに他ならなかったわ。春縁殺しの後始末の際にみせた鮮やかなる活動、その実態は疾風を捕らえるより難儀であろう、背筋が冷ややかになりかけたけれど、こうした不穏なところへ駆け込んだ自分はいかがなものか、あたかも猖獗をきわめる巣窟に立ち入ったに等しいぞよ。
公暗和尚に深々とあたまを下げ、窮状を救ってもらった礼を述べたのが最期の対顔になった。あとは若僧の案内に乞われるまま、夕餉をいただき、湯浴みし用意された床につき、なかなか寝つけぬ夜を過ごした。翌朝には港町まで早駕籠の行程、いやはや至れり尽くせりじゃわ。
寝不足の心持ちを更に虚ろに、かといって神経が休まっているわけでなく、ぼんやりと駕篭に揺られていたのでもない、ちょうど暗雲を見上げたときに生ずる、天空の不吉を占っているような遠い願掛けとも、近くの、そうあまりに身近な体調の些細な変化を嘆いてみせる愚痴ともいえよう、凡庸な不安に覆わせていたのは、ありきたりな懸念だった。いとも簡単に困苦が打開されたはいいが、随門師匠やらと公暗和尚を結ぶ接点にそうそう好ましい事態が待ち構えているようには思えん、ちらちらと駕篭のなかへ朝陽を浴びながら山道の木々の緑が鮮明に映えるのを眼にしつつ、その胸に去来するのは寝静まった民家を離れ、裏街道を寂寞と駆けゆく夜の意想だったんじゃ。
さてと、話しの段も区切りがついたところで夕餉にしようぞ。どれ舟虫、支度は出来たかいな。続きは飯のあとでまた」

外の雨はやみそうになかった。どしゃ降りというほどではないが、雨足は強く、気休め程度の思いはまたたく間に消え去った。いや反対のようだ。老婆の語りにつりこまれていた自分は、ようやく雨の音を取り戻したのだろう。そして空腹を覚えた。苦笑してみたかったのだが、何故かこの場の空気に対しそぐわぬ感じがして、平静な顔つきを保とうと努めた。別に怪訝な思いを拭いたいのでも、緊張によるものでもない、ましてや安閑な甘えであろうはずがない。しかし、この身は言い難い節度を欲しているような気がし、いつもの自分とは異なる心情に運ばれていた。
「あんた、酒は燗がええかい」
老婆の問いにはっとしていたのが我ながら不思議だった。「おかまいなく、、、」どちらでもいいと答えたかったのだろうが、その実、初夏の蒸し暑さを過分に体感したような発想のもと、舟虫という孫娘の白い手から熱燗の酌を受けている情景がゆらゆら浮き出してくる。形をとるより早く人肌の放つ親しみが、肉薄する容色が胸にあふれだせば、すきま風にゆらめく灯火のごとく心細気な影となり艶かしく寄り添う。娘の容姿は鮮やか過ぎるくらいだが、となりの自分は灯火には照らされず黒子みたいに塗りつぶされ煤を被ったようでしかない。そんな幻影をよぎらせながら、いそいそと飴色をしたちゃぶ台に小鉢やら椀を並べている舟虫を横目にし、酒の支度に余念がなさそうな老婆のさきほどの声を呼び戻す。するとほろ酔いの気楽さが無性に恋しくなった。だが「熱燗を願います」と実際に言い直すことは出来ない。もういい、分かった、確かに緊張している、自分で自分を堅苦しくしているだけだ。遠慮なく酒も夕餉もいただこう、そして語りの尽きるころには夜更けに至るかも知れないが、明日は空模様に関係なく峠を越えるのだ。それだけのことじゃないか、一夜くらい自意識から解放されてもいいだろう、何ともつかみどころのない怪しい雰囲気のなかへ。話しのなかの小夢の運命が決まりそうな眠れぬ夜に比べれば、安気であった。
「さあ、召し上がれ。酒はぬる燗にしたよ、さあ一杯やりなさい」
屈託ない老婆の陽気な発音と、何かしんみりしたなかにも張りつめたような眼をした舟虫にすすめられ、杯は透明な酒で充たされた。濁りを永久に忘れた美酒、掌に昔からなじみであったかのような感触の杯、煽ったのではない、一息に呑み干したのでない、渇きを癒したのとも違う、例えるなら清水が口中に湧いて出た。土と石と草に待ちわびた異変が、あまりに自然な異変が訪れるよう潤いを覚える。ぬる燗だと老婆は言っていたれど、自分にはひんやりとした刺激に感じ、まぶたの裏には水面が張られ、すぐさま夕陽を小窓から見つめたときの切ない熱気に転じた。一口の酒がもたらす酔いは古くからの伝承のごとく、それは必ずしも鮮明ではなかったが、薄絹にひたされた酩酊の露払いと思われ、胸に歓びを知るより手足の指先に安堵が伝わった。
「もうひとつ」
次は舟虫が徳利を傾ける。つい今しがた彷徨いだした情景は誰の手を借りずとも、まるで薄衣の風に吹かれた、そう、あらかじめ寄りかかる梢を心得ていたかのように、すんなり座敷に舞い降りた。脇にこそ身は近づいてなかったけれど、日中うしろから呼び止められた際のきびきびした、少しばかりぞんざいな面影は日没とともに退いてしまったのか、どことなく陰をおび、青みが鮮烈だった着物も夜に溶けこんで、一目惚れを軽やかに容認していた自分の願いは照度を下げながらすぐ傍らにある実感を得た。峠越えさえ遅疑してみた不意のきらめき、蒼穹と田畑に広がった想いはもう隠しきれない。この女が自分の足を留めたのだ。老婆の物語はいわば、認められず放置されようとした初夏の情念を糊塗せんがため時間が割かれたに過ぎない。強く念じるまでもなく、美酒を含んだ意想は灯火のゆらぎに映発する舟虫の容姿にとらわれていた。再度まやかしの覚醒を拒む。
茶をすすったときの心許なさとは別の、たおやかで、繊細な欲情がもたげてくる。通り掛かりの自分に対し一夜の宿をと誘いかけてくれたは風土そのものだと、冷徹に考えていたのだが、それは単に逡巡でしかなく、夢心地を破り捨てる小心に傾いていたに違いない。
どっぷり暮れた田園に守られ高揚する意識のさきには清澄な夜の空気しかない。美酒の酔いだけではないだろう、すると老婆の語りが果たした役割を無下にするわけにはいかなくなって、何故ならば小夢のまぼろしが右隣に座っているような気配を先程からうっすら感じており、そのまぼろしがあきらかに舟虫の魅惑に重なり合うのは、ひとえに昔話のもたらした恩恵となる。こんな拮抗する想念は増々怪しくなる一方、混濁したあたまを舞う光景は、枯れ野の果てまで追いかけて来よう安達ヶ原の鬼婆に他ならなかった。


[296] 題名:妖婆伝〜その十七 名前:コレクター 投稿日:2012年08月27日 (月) 07時40分

「先導されるままに薄暗き渡り廊下、足音しのばせることを忘れたような、こわばる心持ちはどこへやら、奥の間へと案内される実感をともなっているようで、そうでなく、例えていうなら夢の出来事に向き合っている、あの放心が常に胸の奥にも、まわりの空気にも薄い膜で覆われている感じがして、なんとも申し開き出来ないもどかしさ、けれど確実に歩を運んでいる証しかや、冷ややかに頬をなでる寺院の宵の口の気配、鼻孔をくすぐる抹香の刺激と調和され、さながら死人の嘆息に触れる思いがした。
この世になき魂ならば斯様な感覚で面と向かおうか、捕縛の危ぶみから除かれたとはいえ、魂魄に魅入られるとはやはり不安が拭われておらぬのだろう、しっかり浮かんだ考えではなかったが、それなら夢の雰囲気は怖れを紛らわせる手立て、意識の片隅に居続けるそんな憂慮も実は霧雨、混同する頼りなさに促され、けぶる実相の手綱を引き、その足取り幽玄の彼方へ消えゆくまで。
公暗和尚とまみえるまでの束の間、脳裡に逆巻いた細々した念をわしは今でもよく覚えておる。肝が座ったと申せ、あのとき心境を支配していたのは牛太郎の死であり、小夢の崩落であった。ゆえに朦朧とした夢幻をたぐり寄せようと努めておったのじゃ。仔細はこれまで話してきたから分かってもらえるだろうて、一見身を捨てたかのようだが、屋敷を這々の体で逃げだしたと同じ、和尚に対する信頼の大方は畏怖に傾いておるわな。畢竟するにここが風前の灯火、うなぎの本性をあばかれるまでもなく、おのれの犯した宿業があらわになり、かりそめと気安く、更には不遜な居直りの城楼から物見していた生き様が低地に引きずり降ろされる。これまでの意想や情感、色欲に、少しは殊勝であったふうな顔、その反面まったく無頓着でしかなかったことごとは嫌がうえにも露呈されてしまう。その割りには針の穴へ通されるような怯み、先端も縮こまり細々した挙げ句に、いざ通過してしまえば、さながら命乞いが実ったかの勝算すら待機していてのう、どうやら業はそう簡単に根絶やしにならんとみた。なら幽玄の真意を問うは雨風にこころを充当するに等しいわ、風雨の冷たさはおのれの皮膚の責任じゃ。夢を知り、夢に遊べば、それが即ち現実よ。死罪に処されし者はこんなことを思いめぐらせるのか、それとも一切を認めまいとするのだろうか。
おそらく生涯においてもっとも緊迫した瞬間を彩ったのは、霧のなかの幻影、その薄靄の一粒一粒にまで施されたひかりの反照、極彩色であるかどうかは知らぬ、細めた眼にはまばゆいばかりよ、色遣いの機微には及ばん。あとに香る死人の匂い、感覚はまたよく心得ておるもの。
そうした本能とも技巧ともつかない集中のお陰で、いざ公暗和尚に体面したときは思いのほか気分が静まってしもうた。とはいえ、そのふくよかな顔つきに温和な目もと、一瞥しただけで出来すぎた容貌に違和を覚えたのも無理はない、それほど一筋縄ではいかん風体に接している、ここでだがのう、あんた、わしは急に寂しさと哀しさとが仲良く胸にこみあがって来るのをこらえきれんかった。どうしたわけか詮索するのも億劫というか、それすら辛くてなあ、いやいや身を裂かれるほどの辛さでない、あえていうなら、うしろ姿を追っかけるときの侘しさだけを抜き出しているふうでな、未練や執着などのしがらみは見当たらんのじゃ、多分うしろ姿が遠過ぎて、なかば諦めが優先しておるからなのか、それ以上はあっさり悲愁にあずけてしもうた。さっきの割り切り方とは矛盾に聞こえようが、あの切ない気持ちは忘れられん。
で、和尚じゃ。いつまでも感傷にひたってはおれまい。切迫した問題は怪異な和尚にあり、わしのこころにある。その間合いにすべてを投じるまでよ。顔見知りでありながら、今まで会話を交わしたことはない、まして差し向かいの場などあり得なかった。落ち着きを失っておったのか、無邪気な心情を願うたのか、相手に見定められるより早く、わしの視線は懸念も動悸にも左右されず、まじまじとその風貌に吸い寄せられ、どこをどう品定めするわけでもなかったが、単に大きいなだけでなくぎょろりとしてやや垂れ気味である両の眼や、それが生まれもった本来と納得してしまう鼻孔のひろがり具合、まさに団子鼻じゃな、そして不釣り合いに映ろうけど、すぼまった唇が案外、笑みをこしらえる際に大仰な間口に変ずることなどを注視ともつかぬ程合いで眺めておった。そこに何らかの意向を汲みとりたいでもない、ただただ見入っていた、あたかもときの過ぎように軽く反撥している調子でな。
公暗和尚はわしの心許なさに寛容であろうとする表情を崩しはしなかった。それが至極当然なのを逆に知らしめられているような気さえわき起こっていたからのう。ふっくら顔は血色がよく、袈裟懸けに包まれた体躯もどっしりしておる。血の気の失せたわしに向き合う素振りにそつのないのは言うまでもなく、大作りな目鼻立ちは一様に会心の笑みを誘い、一層際立った何ともまあ立派な形の福耳は、すでにわしの弁明を聴き取っているようじゃ。まだ会釈のみ、声はのどをあがって来ない。だが和尚の双の耳朶には才人が会得する能力でこちらが委曲を尽くさぬとも、はや鮮明にことの成りゆきへ辿っていたと思われる。
何故なら、沈黙と称するには過分かも知れないけれど、わしの目線をやんわり掌にかすめとったふうな手つきとともにやや膝を乗り出した仕草が、ほんにしじまと感じられ、それは刹那でありながら東雲を覚える薄目の安らぎに似て、こころしめやかに、うたた寝の安息でもあったような、慰撫に内包されていたから。
小夢さん、そう名を呼ばれたときにはまるで術中におちたのやら、はらはら落涙してしもうとる始末、それきり和尚の声は伝わらず、ひたすら冷えた頬をこぼれ落ちる大粒の涙にわれを忘れかけ、波の引きと寄せが広々とした空間に閑寂に呼応しているごとく、悲しみの理由を探り当てようとも、そうしまいとも欲しているのか、今度はときの経過をとどめてしまいたくなり、涙の果てるまでひとときの感情に溺れ続けていたかった。そんな所作がこの場面に一番適しているのをもう一方の自分が黙って見つめておったのじゃ。静寂を破ったに違いはないが、とめどもない涕涙はゆくえ知れずを嘆いている情念であり、潮騒に耳を傾けつつ、そのわけなぞ突き放し、あべこべにわけを遠ざける浅慮にこそ、熱き想いが羽を休ませておるのじゃろうから、静けさは汚されたわけでない。
和尚のまなざしをうかがう余裕があったところをみれば、浄めの涙が許されたのもおのれの知慮に関わってない、あまねく光線に照らされたると同じ、つとに救済されていたのだった。
口のなかが塩っぱく感じたのが、もう悲愴な味覚でなく、字義どおり泣いた子が笑顔に移ろう一瞬の陽気に、風の温もりに、大地の火照りにあるのなら、杓子定規な告白めいたもの言いは簡略されよう。が、そうとはいえ露悪趣味にひたる心性が払拭されない限り、涙は飾りものでしかない。うなぎの正体までさらけ出す気を持ち得なかったのは、まだこころの片隅のうちでは奇跡と特権が迷妄に入り混じっていたからで、感情の発露にさきを譲ったのも沈滞した不可思議に固執した由縁だったわ。泣きはらしたあとの惨めさを担っていたのは、悔恨の情が甘くすげ替えられてゆく影絵の単調であり、その濃淡に含まれる微細な証言だったのよ。他者に対する言いでない、おのれの胸裏に眠れる本能的な証しぞや。
公暗和尚の寡黙を勝手に解釈し、駆け込んだ身は傷つき薄ら汚れたものではない、きれいさっぱり垢を洗い流し毅然とした態度で臨んでいる、わしは自分にそう言い聞かせた。それからのやりとりはあんたにも聞かせた数々だわな、まずは世間知らずのお人形であることから始まり、屋敷の異様な人間関係、徒然に倦むあまり不埒な情欲に流れ、、、和尚さまもご存知のこと、そう切り出し、こちらの若僧とのいきさつ包み隠さず、そのうえで妙や満蔵にまつわる秘事を一切打ち明けたのじゃ。女体の神秘は異分子によるものとは決して話せぬから、あくまでその傾向を抑えられない不甲斐なさと長嘆してみせ、虚偽を弄し色情をまっとうしようとした浅はかさも白状した。覗き見の段に至っては公暗和尚の額に不穏な色合いがかいま見え、その陰りに世情からの隔たりを、ありきたりでない別種のいわばあちらの趣きをしかと認めたわ。
想像していたより和尚は口数が少なでな、わしはぼろを出さんよう警戒しながら、この山寺の門を叩くまでを一気に、そこは細心を計ろう、女人がしめせる限界のしおらしさで語り尽くした。わしは性根から間違っておったのじゃろうか。いいや、そうとは思えん、公暗の眼底にひそむ怪しき動き、見とったうえには牛太郎の名乗りは剣呑、たとえ女体を弄ばれようともそれだけは律しておった。
さて、一通り話し終えたのち、向後どうなるものかと案じていたところ、これが肩透かしをくったような具合でな、覚悟さえ決めていた囲いの身上でも、慰み者の地位でもない、公暗が言うにはここより二十里ほど離れた港町にひとまず身を寄せてみよと対処を講じる。屋敷の思惑はそなたの疑念に近いであろう、ならば言い訳も取りつくろう。これにはさすがに震えが来るほど驚いたわ、うれしいのやら、空恐ろしいのやら。
落ち着くさきはくだんの港町にてひっそり華道に専念しておる随門師匠と申す御仁だそうな。これでこの村ともお別れじゃ」


[295] 題名:妖婆伝〜その十六 名前:コレクター 投稿日:2012年08月21日 (火) 00時49分

「日暮れどきの沈める明るみが遁走するに似つかわしい。着の身着のまま、ちょいと表まで、飾らぬ容姿に秘めた動悸がうまく糊塗されているのは自分でも信じ難いわ、そんな有り体な足並みはどこに向かっておるのやら。
脇の木戸から薪を運び入れようとしていた爺のきょとんとした目つき、お母さまと声に出すことも忘れてしもうた子供らの小さな影、重なり合う乳母の屈託ない笑み、それらの影を深々と覆い尽くすであろう屋敷の甍が迫れば、これまでの暮らしは遥か海上に消えゆく船出を思い起こさせ、曖昧な大洋に感情がひろがる。見果てぬ夢が逆にすぐそこまで近づいているような、投げやりで、そのくせ小心翼々とした爪先は夕陽を追い越そうと努めている。土地の呪縛から逃れたい一心は生まれ故郷かも知れぬ海原のまぼろしを描きだしていたのだろう、朱に染まる帆が強風にあおられる如く、この身は急いておるのか。姑や妙、満蔵の視線は水平線の彼方に運ばれ、累の及ぶことはあるまいて、大地を踏みしめる代わりに水没を欲しているのがはかなくも潔い。わしの影法師は誰にも怪しまれず、通い慣れた堤を渡り、時折ゆき交う村人の会釈を受け、鬱蒼とした夏の名残りの林を抜けてなお、浮き足立った調子と我武者らが入り込んだ歩幅を保っていた。増々日の陰った一本道を心細気に、だが、普段着ながら気に入りのかんざしひとつ、あるいは草履の鼻緒、真新しくすげられたような、片隅に留まってはやんわりとしたうれしさを噛みしめ、ほの暗い山寺の門をくぐろうとしておった。
夕景のしめすもっとも陰惨で哀切なひととき、闇の侵蝕に譲歩する静けさ、一日の死、もう二度と戻れぬ今日という空間、単調な連鎖ゆえに日々の途切れに身をゆだねてしまう安穏、不慮に際して、苦境に臨んではじめて感ずる灰色の世界、きらびやかでふくよかであった反映をこうも遠のかせ、明日という繋がりに託す、風のような無神経さにとりあえず感謝すべきであろうかや。
渦巻く所思は、さながら絵の具が溶けだした錦絵と成り果て収拾がつかず、色落ちする見苦しさに眼を伏せれば、心情は自ずと彩色以前の無味で、血の気のない下地に舞い戻ろうと躍起になり、墨絵のごとく淡白な境地に着地する。さりとて胸中の華やかさ、脳裡の憂愁を手軽に見届けるわけにもいかん。混濁した意識は耳鳴りの安直さで分明しようぞ。
ことの次第は、、、忌まわしい色欲、恥ずかしながら、わたくしめもなにを隠そう、いいえ、ご存知かと、こちらの修行僧とのいきさつ、、、それに屋敷の内情、和尚さまはよく見極めておいででありましょう、不都合は如何なる所存と申されますか、、、はい、すべてお話いたします、そのうえで裁断いただければ、、、
わしの出来うる口上は精々この程度、山寺に駆け込んだ限りはうなぎの本性、黙念先生、もろ助に関する一切合切を吐露すべきかや、この場に及んでまだ踏ん切りつかぬまま、そうよ、駆け引きなしで突き進んだにもかかわらず、最期の一線が越えられぬ。理由は簡単じゃ、いくら誉れが高かろうが公暗和尚に全幅の信頼を寄せてはおらん、反対に得体の知れない雰囲気にのまれ、情けないかな竦んでしもうとる。確かに清流の奇跡には触れながらも、人の世に通じるどころかまったく無縁で過ごして来たではないか、世のなりわいも無頓着、かろうじて意気を上げたのは色事、しかも児戯に等しい、いや戯れより低級な刹那の愉悦のみに執着した。人間の叡智を見くびり続けたというより、自然の洞穴に入り浸ったまま一歩なりとも外に踏み出そうとしなかった怯懦が、おのれを腑抜けにしてしもうたんじゃ。黙念先生は霊妙な業の持ち主であろう、しかし、霊長類の極めて進化した人間こそ、計り知れぬ才知と胆力を有しているのでは、さすれば山椒魚の奇跡を越え出ることも夢ではあるまい。井の中の蛙とはよく言うたものよ、これからまみえる人格者に向かい、果たしてわしは牛太郎と名乗れるだろうか。もろ助の頓死を因縁と信じている限り、呪縛からは逃れられん、逃走心の由縁が明快になるにつれ、おのれのとった行動が方策として如何に安易であったか顧みられた。
あんたみたいに峠を越えるとかじゃないわ、ほんの先の麓まで歩を進めたに過ぎん。わだかまるものは死の恐怖に裏打ちされた間延びした不安じゃ。そこに居座る快楽は湿った座布団のように厚かましいが、変に愛着を覚えてしまう、ちょうど情交のあとさきの気分があやふやなようにな。
湿気っていても、濡れていても居心地さえ悪くなければ、ずっと屋敷に留まったろうよ、けどあの乱れはわしの安閑な意識から遥かに飛び出しておる、色欲だけに治まらん、焼けつくに違いないもっともっと血なまぐさい事態が引き起こされるような気がして仕方なかった。で、あとは身の振り方、そろそろ牛太郎として生きるか、小夢になりきるか、混在したまま思考がめぐり、欲が沸騰し、かつ濾過されるのも所在ないではいたたまれん、これから齢も重ねるしのう、そこで黙念先生と公暗和尚のいわば腕比べを画策したわけじゃ。勝手な見物だとも、しかし繰り返すようだが、わしの取る道はこれしかあり得なかったし、あわよくば、法力で謎が解決出来れば幸いよ、もろ助がもらした奇妙な文句、三年の月日を三月だと言うておった、あの意味深な言葉、わし自体が転生を経た世にも不可思議な存在であるのは、実は借りのすがたやまやかしであって、つまり何かまじないみたいな作用を受けており、本当はうなぎの記憶も絵柄をつけるふうに施されたのでは、、、とすれば、海も川も山も地も支配している人間の知恵をもってまずは川底をさらう按配で、清流の秘密をあばいてもらいたい。
一か八かの心境であったけど、こうした秘事とともに生きている実感は決して捨てたもんじゃないわ、絶望の情況に映ろうとも、異常な取り巻きのなかに震える雛の神経が、即座に致命的な結末に堕ちゆくとは言い切れない、見渡す限り秘境であるなら、そのかよわい羽毛に包まれた生命はすべての気流に乗り、あらゆる可能性を体現するだろう、なにもかもが無理なのは百も承知よ、だがのう、たったひとつでもいいではないか、すべては転がっているのじゃ、なに動いておるとな、そりゃ、死んでないなら身動きしよう、死人の魂さえ浮遊しているやも知れんぞ、あんた、寝転がってなんぞ考えたりはせんか、それとて立派な作業だわな、か細い雛の神経とて何かに結びつこう。
日没の想いに浸っている間に山門を背にし、夕闇と慣れ親しみ始めた提灯ふたつを前にした。つい今しがたまでの空の色が技巧によりぽっと凝縮されたような灯火、辺りはまだ暗がりを地に這わせていなかったので、名入れのない提灯は宙に浮いた感じをあたえなかったが、黄金色に火照った表面には細かく横筋がひかれたよう黒ずんでいた。そもそもこの寺に表札はなく通称の山寺で通っておった。
法事の折に幾度か訪れた機会はあったものの、ひとり山門をくぐるのは初のこと、本堂の構えもいたって質素でな、両脇の提灯の反照にひっそり応える障子の風情、仏壇に灯されたろうそくが薄明るく透けていた。瓦屋根を守護する心算かと、いぶかし気でありながら野趣を賞賛しよう木々の枝垂れ、相当数な僧侶の起居する奥行きを一層せばめているので、ほんにこじんまりした印象は今日とて同じ。
こんな暮れどきを訪ねる女人は過分に煩悩を背負い込んでおるのか、はたまた、浄めに逆らう気配が濃く醸されとるのか、こちらから声を発するよりさきに、作務衣の僧ひとり、早速わしの風姿を認め、丁寧な口調でそっと様子を伺う。ためらい勝ちな表情を黄昏のなかにしんみり作って屋敷の名を告げれば、応対された僧きりりと声色がしまって、和尚さまにお伝えいたしますのでとの言を残し、にわかに奥へと身を返す。
不審の念を抱かれるどころか魚心はいとも容易く実ったわい。初手が肝要なのは心得ていたが、こうも滑らかに挙動が運ばれると小躍りしたい気分になってしまう。現に須臾にして取り次ぎがなされたことを鑑みれば、先行き明るく、思い煩った情勢は無下であるまい、屋敷からの通告なり追手なりが素早くまわっているのなら、いくら取り繕うろうと微妙な緊張が走るものよ。ましてや暮れどきゆえにこそ鼠の気振りが察知されよう、闇に紛れた眼光、忍ばせた息づかいは却って仇になる。ここまで臨めば、もはや肝は座り、物怖じは自若に転じておったわ。山寺の意向は捕縛にあらず、煩悶が導きだした図絵に彩りが添えられようとしていた」


[294] 題名:妖婆伝〜その十五 名前:コレクター 投稿日:2012年08月20日 (月) 03時58分

「遊び足りなさを悔やむ顔つきと仕草でもって、まさに子供らしい惜しげな様子で、満蔵はからだを離した。やや勢いを失った隆起が如実にそれを語っていたのだが、こんな予期せぬ情景のうちでは、すぐさま萎れることを知らない陽根に却って冷酷なものが根づいているよう思われる。現況把握できないのは、走馬灯を呼び寄せるまでもなく、とうの昔から分かっていたことであって、困惑のゆくえをたどる行為、たとえば乱れた敷き布団のうえにどちらから抜け落ちたのやら、何気に眼についた数本の**、汚らわしいとも、やりきれないとも、又はなんの感興を引き起こさなくとも、どこか注意深く見つめているふうな時間の滞りに、すべてを投げ出している感覚、直に打ち震えてしまう損傷を引き延す護身が働いているのだった。
ぼんやりとした懸念を先回りしたのであろう、唐突な妙の出現も、遊戯の延長を体現している満蔵にもその実、天地が逆さまになるほどの驚きを覚えておらず、あえて言うなら、驚きの形式におのれを当てはめてみたに過ぎん。あんた、忘れんでほしい、このわしだって小夢を乗っ取った痴れ者よ、そして立派な屋敷の住人じゃわい。戦きなり驚愕なり、ついてまわって当たりまえ、これは開き直りであろうな、処世術と呼ぶには大仰かや。とはいえ、あの悪戯な舞台では、そういくら舞台と心得ようとも簡単に気を落ち着けたりは出来ん、今は回顧ゆえに沈着な意見を吐けるが、あの刹那はやはり動顛していたろうよ。
妙への色目から始まったにしても、どうこうあれ、つまるところ陥穽にすすんで堕ちたと解釈してよかろう、魔物はわが身にしっかり棲みついておる。それをあたかも悲劇の姫君を装ってお人形さまになぞらえてみたり、屋敷全体に覆う気配を邪気と観て取ったりしたのは他でもない、おのれの生き様を都合よく認めたかったからじゃ。色事に準じたまでよ、こんな言い草をしたら、どうかな、あんた、侮蔑の念がふつふつとわき上がってくるかいな。ああ、ええ、それでええ、準じる即ち、道理でないか。見え透いた筋書きとて追ってみれば、情も動こう、涙も流そう、気もそぞろになろう、舞台狭しとありたけの気分を放ってみる、手足の自由がきく限り走りまわってみる、おのれの意識が遠のいてどこかに舞っていくよう願ってみる、ただ悲しいことに客席なき演芸場、燃え上がろうと、はかなく散ろうと、発した意識は、声は、言葉は、合わせ鏡のなかにしか躍動せん。わしのもっとも怖れた事態は、そうした有り様に照らし出されることじゃった。気抜けと同時にあたまをよぎった観念は、逃走しかない、わしはようやくお人形さまの不自由を、汚れなき停滞を疎んじたわ。
その夜の駆け引きは交情にあったのでなく、むき出しになった保身にあった。肉を交えたふたりにしても殊更うらみつらみを言うわけでない、びっくり箱を開けて見せただけに等しい淡白な感じがし、わしはふらふらと部屋を抜け出た。頼りない足取りに追従するよう、あるいは思惑が高じてわざとらしく、つまり悟られぬよう配慮したのかもな。姉弟の見事に決まった画策は間を置かず旦那の耳へ誇らし気に届けられるだろう、もしかして姑も承諾しているでは、、、ほぼ固まりつつあった逃走心を是認させる為には、危惧を豊かな想像で羽ばたかせなくてはならん。と、まあこの時点にめぐらせていた思惑には罪はなかった、案の定ことの成りゆきは適中したんじゃから。平穏なのはそこまででな、それより先は罰が待ち受けておった。
翌朝より旦那のすがたがふっつり消えた、なんでも所用でしばらく留守にするとな。とってつけたような振る舞いに疑念をはさむ猶予のなきまま、わしの胸中が筒抜けになっておるとしか考えられん仕打ちが始まった。もっとも無邪気で、もっとも陰湿な罰を受けるはめになったんじゃ。屋敷の一員であることを半ば軽んじていた不誠実な、しかし拠り所として気安く甘受していた意気をなじられたに違いない。わしはただの嫁であり、血縁に連なっておらん、おのれの悪心をこの家に紛れこまそうとした姑息さが仇になったか、それとも秘めたうなぎの本性を嘆きながら一方で陶然としている気構えを見抜かれたか、どう転んでみても鬼から仏から愛想つかされたのよ、更に穿てば、なんのことはない離縁を迫られている実相が浮かんで来こよう。これはわしの能動的な解釈でないわ、単なる書き割りでない、そんな芝居じみた演出ならさぞかし粋であろうよ。
家中を上げての儀礼、年中行事ならともかく、下半身の沸騰を日々鎮火する役目とは如何に。満蔵の奴、よほど味をしめたのか、次の日から恥じらう気色ひとつなく、慣れ慣れしいもの言いで、お義姉さま、昨夜はほんに中途半端でした、とぬけぬけ口にし、ふたたび相手を所望するではないか。妙との共謀には呆れていたけど、悪戯とも割り切ろう、儀礼なぞ最初で最後と楽観していたのが大間違い、色に目覚めた満蔵の眼は純粋に澄んでおり、手習いを授かるような真摯な態度で言い寄ってくる。逃げ出したい心持ちの予感がこんな形で圧迫するとはさすがに見当もつかなかった。正直言えば、頑なに拒むほど満蔵が憎らしいわけでなく、情交に嫌気がさしていたのでもない、妙に不届きな淫欲を覚えた手前、因果はめぐるではないが、仕置きの様相に見立て裸体を投げ出すくらいの覚悟はあったわ。麻痺した神経かも知れん、が、とにかく好悪に苛まれるまで至ってはおらん。仕方あるまい、、、これが本音じゃ。
旦那がしばらく家をあける機会に便乗したのだろうて、困ったものよ。妙はまた覗いたりするのだろうか、それも構わぬ、元はといえばわしの不埒に因を発しておる。で、その夜は秋の風も何処へやら、部屋中に充満する熱気、肌から噴きあふれる汗、声を忍ばす必要もない、鍛錬に集中するような掛け声も若々しく、満蔵は腰を振る。精がほとばしる。昨晩の意表をついた妙の言葉がまるでよき薫陶のように耳にこだまする。その辺でやめておきなさい、、、ああ、こんなに精を注がれたら孕んでしまうであろうな。格式かや、、、哀しいかな、女体は過敏に反応をしめしており、善悪は等閑に付され痺れる快感だけが身を貫いていた。
それから秘め事は日課となった。いいや、もはや秘められた行為ではない、昼も夜も暇さえあれば満蔵はそばに駆け寄りその手は肌を這う、薄々予覚していた怖れが実際に。乳母に預けたままだった子供らの世話をしていたら、背後より冷ややかな声色、温情に限りなく近いまなざし、姑の言うに、せがれの留守なればこそ、満蔵にはしっかり当主たる自負を育んでもらいたいものよ、精々奮闘されようぞ。
わしのこころはこれでやっと揺らぎから解放された、姑は満蔵の子を宿すことを奨励しておる。この屋敷には代々脈々と流れておるに違ない、近親による交情の血が、、、先に嫁いだ長女は果たして、妙は、満蔵は、、、
お義姉さま、小夢姉さま、いっぱしに精悍な言い様だが、薄皮に包まれた饅頭のごとく中身は甘く柔らかい、背伸びした素振りは無粋でもなかったが可愛くもないわ、股間を勢いよく突かれながら念頭をかすめるのは、血の緊縛から逃避せねばならぬという大義名分が立った勇みだった。ついに一条のひかりが差し込んだ、暗黒と闇をさまよい続けていた人形に血が通いだしたんじゃ。皮肉にも闇夜にふさわしい黒々とした血流と接することによって、真新しく新鮮な息吹を得た。お人形さんかい、あんた気になるかいな、そうよな、置き土産として藁人形にすげ替えたのよ。呪詛なぞ籠らさん、もぬけのからじゃ、一応はこの家に世話になったわけだからのう、飛ぶ鳥あとを濁さずだわな。そうと決まれば一日たりとも早いほうがよい、旦那の留守を幸いに。
当てなどない、刹那を生きてきた身上、閃きまかせだった。出奔するにも頼るべきところはあり得ず、生家に帰るわけにもいかん、そうした事情は話したわな。醜聞にとどまるものか、生き恥さらしと罵られ、下手をすれば命も危うい。そこで思案した、なるだけ穏便にすがたをくらませたかったのだが、向こうとて脅しめいた言い方で封じようと努めていたではないか、なら、飛ぶ鳥は遺憾ながら少々波紋を残すのも仕方あるまい。この広い国には夢もあろうな、偏狭な意識しか持たぬわしには広大な土地を駆け巡るなんて芸当は出来ん、閉じた性根のなかに潜りこむのも方策じゃて、夢を紡げんのなら、悪夢に飛びこんでやろうぞ、あんたならどうする、これは愚問じゃった、わしの問題よな。
この村にありながら他の土地に通じておるところ、それは山寺以外にない、春縁を死と追いやるという外道を一切とがめることなく、屋敷と何らかの疎通を計ったそこ知れない力量、衆道の本山などと陰口を叩かれながら、村人からは憧憬の的にさえなっておる不思議な魅惑、駆け込み寺という意義がもし活用しておるのなら、わしはそこに賭けてみたい。屋敷に連れ戻されるかも知れぬ不安をぬぐい去る要因は、離縁をものともしない家風であり、春縁の子をも素知らぬ振りで生ませた化けものじみた寛容さよ。そして何より我が子に愛着を抱きもしない、わしの人でなし加減が絶縁への保証となろう。卑しい打算だが刹那をかろうじて支えていた。
山寺の公暗和尚はどう対応するものやら。道は一本じゃ、残念ながら選択の余地はない、希望に通じた明るい道筋とはいい難い、どちらかと言えば絶望にひた走る直線だわな。しかしなあ、どんな道だろうと走るにおいて馬力はいるんじゃ、薄らぼんやりしておれん」


[293] 題名:妖婆伝〜その十四 名前:コレクター 投稿日:2012年08月13日 (月) 05時31分

「これは遥か昔の記憶なのだろうか、それとも人の世と自然が織りなす想像の産物、きらきらとした蒼海から遠のいては心地よく眠り入る瞬きの光景、日差しすら直接でなく、柔らかで、儚いまぼろしであるような揺りかごの安寧。満蔵の気息はこの肉体のいきれと混ざり、その一途で無骨な舐め方の感覚は、海水と肌がひとつになりつつあるのか、あたかも磯の浅瀬に面を潜らせているようじゃったわ。
満蔵は海草をかき分けていた。わしは寄せる波間に身を横たえ、薄日に隠れる貝のゆくえを他人事みたいにぼんやり考えていた。
冷淡な意識のなかには意地悪さがあったしなあ、それを補いながらも肉感がいそぎんちゃくのようにそよぎだしたのも、潮の満ち引きによるのなら、男女の隔たりが過分に現われ出たのじゃ、白々した気分とはうらはらに茫洋とした好意がもたげてくる。情愛を擬した高揚に吐息が紛れこんで、はっと気のついたときには陽光もまぶしく、光る水面のさざ波と同じ、潮の香りを含みながら、細めたまなざしの彼方へすべてが広がり、股間もろとも脳髄は大海におぼれゆく。満蔵は貝の実を知った。
うれしいのやら、戸惑っているのやら、それよりひたすらにたぎっておるのか、湿り気の帯びた感触が口辺にあることはすでに共通、夢中なのも仕方ないわな、わしとて気持ちが一新されたふうな、とりとめのない悦びを招いている、沈みかける悔恨とひきかえに。そして気取られぬよう横目を流す情念をかすめ取るに違いない、そうであるべき凝視、妙の念を片隅に追いやる。
ぞくぞくと背中を走る快い痺れが、秘所を探り当てた満蔵の幸せである事実は他でもないわ、弓なりにそらした上半身、まるで軋みを立てるごとくに声を吐かせる、あくまで押し殺しているのだが、潮騒に煽られた満蔵の熱気、義姉を泣かさんと欲したであろうな、これぞ男子の本懐、つい今しがた見つけたおっかなびっくりは早くも熟練の技巧となって、大胆に、大人びて、傲岸になり、執拗な愛撫へと変化していった。
呆れるほどに痛快じゃ、悔しいくらい感じる、舌の先端がおなごの道をなぞるよう行ったり来たり、わしの喉からもれるのは嗚咽、満蔵にいたぶられておるさまが嘘くさくも陽気な体温を生み出して、もう絶頂への距離がそれほどないのが分ると、かつてない猫なで声を使い、さあ、満蔵さん、ここに入るのです、熟しております、さあ早く、我ながら火照りきった音色、発した媚態のおもむくままむんずと小柄な上体に両腕をかければ、口は半開き、眼はうつろな表情が引き寄せられる。凛然たる態度を示せないのも無理ないことじゃ、女体の芯にかまけた放心状態の面構え、一言の猶予も見当たらん、ほんに無邪気なものよ、だが、本能の使いは放縦だのう、そのまま意志を表明することもなく、どしりと体重を被せてきた。乳房に横顔を乗せたまま得策など思いもよらぬ満蔵、両手をまわすことなくだらりと虚脱した風情よ、すかさず男子の証しをつかんでみれば、春先の突風に震えるようないたどりの若芽、とくとく脈打つは怯懦にあらず、出陣の勇みと覚えた。
そのまま、ゆっくり、方向を過たず、潮の香りと春の息吹の感ずるところへ導く。つつつっと、滑りゆく。腰まわりに連動をさずけずとも怒張しきったものには血気がこもっておろう、磯遊びに興じていたら、ふと深みに足をとられたような戦きが訪れる。そこに見いだす真珠貝の秘密、若芽は驟雨ならぬ、波濤に襲われ軟体動物の自在を知る。白濁した夢がほとばしるまで時間は努めを放擲した。一瞬の奔流に果てた。が、満蔵の勢いは衰えないまま、自らたこ壷に居座る不遜な心持ちで神秘のぬくもりを味わっておった。
わしにしてもここでからだを離すのは野暮かと、いいや、実を言えばたまゆらの交わり、興奮の度合いなど計れぬ触れ合いではあったけれど、まだ奥所に伝わってくる血脈の響きが何故かしら哀調を秘めて、それは純潔を捧げられた、そう例えてみても殊更に軽卒なわけでも、滑稽な意味でもなく、妙との結びつきが不純というより不可解な思惑にゆらめていた事情とは異なるが故に、受け身であることの許容と、緊縛されし女体の解放を得た晴れやかさが、下半身からすうっと立ちのぼってくるような気がしたんじゃ。
まだまだ少年の満蔵には交わりの濃厚さは知れぬだろう、しかし、こうも瞬時であるほどにその激情はぎゅっと凝縮され、快楽をむさぼる余裕を持てなかったが為、余韻であるべき持続は無念を宿した情欲の残滓となり、おそらく当人の思いとは別の息づかいを、心音を、鳴り響かせておる。山の遠方に妖魔を覚え、海の向こうの怪異にこころ踊らせた無碍と夢見が、女体の神秘をもって一蹴されたかもな。もちろん子供とていつかは肉欲と関わる、少年は老いやすいのじゃ、精の噴出を機に脳髄は計り知れない妄念を育むであろう、見果てぬ夢をたどりつつ、おなごの海を想い、浅瀬と深海に情を通わせ、おのれは風と化して白波の激しさに酔い、かつまた翻弄される。月影の仕業とはつゆしらず。
わしの体温になにを感じておるのか、張り出したままじっと動かぬ。それからしばらくして右手を乳房に、左手を侵入した辺りにし、春の嵐を再演しようと試みだした。そこでようやく腰をくねらせ若芽に刺激を伝授してみると、あの懐かしいうなぎの身体が思い起こされ、わしのなかを喜悦して泳ぎまわり、夢想は快感に促されて溢れるうれしさで一杯になったんよ。さっきよりもっと膝を折ってみせ内股を上向かせ、互いの繋がった場面を身近にしてあげたら、食い入るように眼を輝かせ、乳をわしづかみにして鼻息荒い、またもや、数度の往復で精を吐く。ぬめりやら出し切ったものやらの加減で屹立した状態を保ちながら、ぬっと反射をつけたよう外に飛び出した。糊にまみれた満蔵の持ち物はときを経ず、すぐにでも使用可能な猛々しさと瑞々しさが備わっており、しかもおなごを突いた自信はその胸中とは無縁の光沢に包まれ、満蔵も意気盛んな陽物に当惑しているようだわ。
そんな若さに対し言葉は無用じゃった。肉体の動きというよりも、衝動を温存している熱い核から伝播する緊張の度合いが毛穴を一気にひろげ、大粒の汗を浮き上がらせた。青ざめながら、馥郁たる色香に携わっている情景を知る顔全体に、喉の渇きすら忘れたことを嘆いているようにも、励ましてしるようにも見える首すじに、なだらかで華奢な成育の途上にある肩から胸に、そのうちへ生じているだろう、男女のからみが肉体以上に深遠な予感から、満蔵の情熱は涙の汗になった。おなごの哀感を欲の先鋒に見抜き、同時に噴き出す精のむなしさを重ね合わせる直感を覚えつつ。
わしは眼で話したつもりじゃった。もう一度いらっしゃい、、、あわてずに、しっかり抱いて、、、
満蔵には即座に通じたろうて、開け広げた箇所へすすんで没入しようとしている。そのときだった、部屋に舞うはとぎれとぎれの声色に、溶け合う裸身の音さえ幽か、耳を澄ませばふたりの生唾をのみこむような熱いしたたり、夜具の擦れるは秋の夜のしみじみひんやりした空気に同調している、それ以外はいわば静寂ぞ、が、その静けさを破るものあり、あんた、これはまったくの番狂わせじゃ、果たして斯様な成りゆき誰が描いておったか。
秘匿されたはずの妙のすがた、がたりと手をかけ思いきり解放されたふすまから登場したではないか。しかも摺り足などでない、まさにずかずか敢然と踏み込むばかりの有り様、開いた口がふさがらんとはこのことよ。申し合わせはどうなった、覗き見の遺恨、姉弟の境界を打ち破る気であろうか。その気に相違ない、不敵な笑みにすっかり身をこわばらせてしまって、見まいと念じておる妙のまなこから目線をそらせん、お陰で上体を起こしている満蔵の放った一声がしかと理解できなんだ。
あねさま、不人情ですよ、これから楽しみが増すというのに。そう平然と言ってのける。瞬間、脳裡をめぐったのは儀礼をあばかれた照れ隠しにしては太々しい口ぶりじゃと感じたんだが、闖入者の妙、一層まなじりに嫌なひかりを住まわせ、なにを申す、お義姉さまを孕ませるつもりか、その辺でやめておきなさい、との言い様で、満蔵にとってもあらかじめ承諾の旨であることが判明し驚愕してしもうた。
ああ、やはりこの屋敷には魔物がおる、影にひそんでなんかおらんわ、住人らが悪鬼そのもの、もはや茶番ですまされぬ、異常な事態にわしは取り囲まれている、、、、それより先を思案してみる気力はとうに失せていた。どうにかこうにか取り繕ってきた形勢はここに来てはぐらかしたくもそうは問屋が卸さない。あたまの中を走馬灯のようにまわっている幻影は覚束なかった」


[292] 題名:妖婆伝〜その十三 名前:コレクター 投稿日:2012年08月06日 (月) 07時36分

「さてと、その翌日からの満蔵のまなこ、童心あらわなのか、欲情のおもむくままなのか、見事なまでに爛々とした色目でのう、いくら容認されたとは言え、まあどこまで旦那から聞き及んでおるやら、果たして満蔵はどうとらえているのやら、ない物ねだりしてみせる面持ちには愉快なくらい飾り気がなく、妙がしめしたような羞恥は見いだせんわ。もっとも面と向かって色事を問うたりはせん、あくまでわしの側から誘いを待ち受けておる態度、そつがなく小憎たらしかったが、そのぶん主導権はこっちにあると思いなして、高見から見下げてやるふうな目つきで応対したものよ。
そうこうするうちに月夜の晩がやってきて、旦那は以前のあらくれた口調から一変、優し気なもの言いでな、格式とは本来こうした際に用いられるべき、あっぱれ満蔵をおとこの仲間入りをさせてやってくれ、これで妙の件は相殺されよう、さもないと満蔵の奴、純情を通り越し変な方向に鬱憤を吐き出すかも知れん、もし母上の耳に入ったらどうする、おまえも妙も増々罰が悪くなるぞ、回避するには彼奴の望みを叶えてあげるのが一等だろう、な、これで格式が保たれるではないか、などと如何にもまっとうな手引きであることをしきりに訴える。春縁の子に関しても姑には伏せてあると強調したうえで、満蔵の口封じに為にもひとはだ脱いでもらいたい、わずかに嫌みをはらませたその微笑、是非もないと念を押さん。
こうなってはわしの進退は定まったも同様、なにを姑こそ屋敷随一の古狸、すべて見通しておるに違いなかろう、と反抗すべき手立てもないので、そう胸のなかで叫んでみるしかなく、あとは旦那の指図に従って、いよいよ筆おろしとやらの儀礼と相成った。
すでに満蔵は湯浴みを済ませ自室に居る。夕暮れどきには今宵てほどきを致します、わざと冷ややかな言葉づかいでそう告げておいたんじゃ、これにはおおいに感奮したらしく、下手に媚びたような、艶かしい囁きよりよほど効果ありとみた、なあに他愛もないことよ、成熟したおなごの色香を間近すればするほどに閉口してしまうだろうし萎縮もしよう、冷淡なもの言いの方が満蔵の矜持がそこなわれず、来るべき色香をゆっくり想像できようぞ。肉欲を心待ちにするのは実際の交わりに匹敵しうる悦楽、純朴な精神には斯様な接近がふさわしい。
そこへ忍んでゆき裸身をさらして見せればものの一刻で昇天しよう、どれくらい精を吹くものか楽しみじゃ。難点は隣部屋にひそんで様子をうかがうと言っておる妙、どうやら悔しまぎれで口をついて出ただけでなく、意地でも実行に移す気構えでな、旦那からは、おまえにも満蔵にも遺恨があるのだろうよ、ちょいとやり辛いところだが我慢してくれ、こう開けっぴろげに頼まれては拒みきれんわな。
妙には妙の執念があるのじゃ、別にわしは屈辱とは思わなんだけれど、満蔵に気づかれないよう配慮せんと、まさか妙に向かって、くれぐも細心をはかって下され、などとは切り出せんし、そんな盟約めいた意志を共有するとも考えられん。が、それは杞憂でしかなかった、旦那は抜かりのない声色を発し、心配いらぬ、妙には重々に言い聞かせておる。覗きが発覚すると同時に満蔵め、おのれの試みた卑しさにおののき、逆上して何を仕出かすやら分からんからな、そうなると折角のてほどきが水泡に帰してしまうではないか、おまえとて知れることなく、ただただ、にんまりと眺めていたいのだろう、ならば、決して気配を覚られないよう注意を怠るな、とまあ、双方への配慮は入念に行き届いておった。さすがは血を分けた妹に弟よなあ、思わず感心してしもうたわい。ああ、何とも馬鹿らしい、、、ため息まじりに吐いてみたいが所詮わが身を素早く一巡するこだまでしかないように感じられ、さも大義そうな顔つきで頷くのが、せめてもの抵抗じゃった。
手順は以上、姑は早寝だし、わしの子供らも寝かしつけた、乳母や使用人らには適当な申しつけをしておいたらしく、しかも、その場に臨まずとも耳をそばだてておるわ、そう言って不敵な笑みをつくる。まことにこの屋敷のどこぞかには魔物がひかえているのでは、ぞっと身震いした。
ほんに月夜じゃ、雨戸の隙間より届けられたるほの白いあかり、冷気を含み始めた廊下をおびえた素振りで摺り足、幽かな音の反響が呼び戻される、月光のもとへとな。
秋口の夜に似合いの澄んだ空気はよどみを覚えん、なら、少年の寝息をうかがうことも真義を為さん、為すべきことはそっと忍び寄る影に包まれ、この冷えた廊下の感触、眠りを放擲した夜具まで運び、一気呵成に熱を発しようぞ。即ち、女体の火照りと少年の興奮をひとつにし、振り乱れし黒髪の流れに乗り、まなざしを錯乱させよう、たぎるものは何ぞや、枕も布団も発火寸前よ、月影の使者はここに来たり、青い鬼火となって、ふすまより眺めたる眼も焼き尽さん。
満蔵は確かに震えておる。なだめるように、さあ、わたしのはだかをごらんなさい、未熟な両肩に手をついてすくっと立ちあがり、はらはら帯をほどく。燭台の灯火が不安定に揺れ、部屋の明暗を曖昧にすると、満蔵の無垢な期待は淡く崩れかかって、替わりにおなごの芳香に占拠され、気恥ずかしさに近いぎこちなき呼吸に至る。着物がさらっと肌をすべり、薄暗い部屋に佇む透けるような裸身を茫然として見上げている。
その視線に挑むのでもなく、かといって情愛を結ぶのでもなく、恬然としてひかりを送れば満蔵の息は止まり、心音が無謀に騒ぎだす。吸気をさずける按配でくちづけ、見開いた眼を閉じたのは戸惑いか、あるいは咄嗟に悦びを隠そうと努めたのか、どちらにせよ紅の艶はこれより潤滑油になって、男女の綾にしみ込んでいこう。まだ骨格の出来上がっていない背を抱き、夜具に倒れこむ。満蔵の寝巻きをはぎ取れば、すでに張りつめた陽根、発達途上でありながら甲斐甲斐しく、包皮なかばにした色合い、薄桃を彷彿させて思わず掌に収めてみた。すると背筋を駆け抜けたであろう驚きに導かれし感覚、よく判じられ、迷わず指先にちからを、思いきった加減でなく、あからさまな触れあいでもない、我が子をあやすような、鮮明なのにぼんやりした、とりとめもないままに情がすくわれるような、夜風に紛れて始めて感じる発露。
用意しておいた手ぬぐいで軽く拭い、より赤みのさした先端を見遣る。身をこわばらせているのが微笑ましい、反り立ったものも同じ緊張を宿しているのか、いたずらにことを急く気はないけれど、早くも口に含み入れておる。遠い異国の地鳴りか、わが身を通過してゆく蠢動か、意識の有りようにかかわっている間はない、口中に吹き上がった生温かな奔流、満蔵の精、吐き出すよりのみこむが易し、驚嘆の顔をとどめたまま、眼も一点に集められていたわ。わしのへその下、黒々茂ったところにな。
満蔵は何か言いた気な様子じゃったが、とても言葉になりそうもない。そこで、沢山出ましたね、さあ、次はここに放って下さい、わたしに任せて、と、ここでようやく甘ったるい嬌声を用いれば、驚いたことに言下、お願いします、以外やきびきびした発音、精を噴出したばかりの股間棒は弛まることを知らず、かちかちに突起していたので、両脚を大きく広げてみせると、深く息を吸い、はあっと嘆声にも思われよう虚脱した仕草で、これは本能だろうかのう、いきなり股ぐらに顔を埋めおった。しかし割れた箇所に行きついたわけでない、ひたすら下の草むらに唇を押し当てておるだけじゃ、手引きというても情愛に囲まれた意識のなかで行なわれるものでなく、半分は意地の悪さに左右されよう、妙に施したときとは様相が異なる。
柔和な指導にて程よい愛撫の仕方を、温順な手つきで敏感な位置を知らしめることもあるまい、ここはひとつ見物じゃ、満蔵の奴どのようにこの肉体と戯れるものやら、、、妙も熟視しているだろうよ、その胸に去来するのは果たして如何なる紋様か。そもさん、屋敷に横溢した邪気、義妹の思惑をなぞるかや。
言うまでもないわ、今宵は壮大な儀式、家中あげてのお祭りよ、時間ならたっぷりある。まるで海草を食む勢い、ゆっくり味わうがよい。歯の浮く仏心のような文句をやんわり投げかける。満蔵さん、そこはおなごの大事な場所、優しくしてね、そうよ、そうよ、そうなのよ、精進して、、、
脇から枕を引き寄せ首を安定させ鷹揚にからだを横たえた。両のひざを立て更に秘部にたどれるよう道標だけはあきらかにしてやった。これこそ受け身一手、ときの過ぎゆきに委ねるは如菩薩の計らいぞ、さあ、働け満蔵、身を粉にして働け、我ながら置かれた情況が滑稽に思えて仕方なかったが、反面どこかしら虚しい気もしないわけでなかったわ。けど、隣から眼を凝らしている妙のすがたに憐れみが微塵も感じられんのは不思議じゃった。この不思議さは、あらかじめ確定された、ときの連鎖に絡まるよう算段された夢見であろう、夢の成就は寝て待てばよい、妙の突き刺さす視線を一身に浴びながら、鏡でそのひかりを反射させている。わしは決して鏡を置き忘れたりしなかった」


[291] 題名:妖婆伝〜その十二 名前:コレクター 投稿日:2012年07月31日 (火) 04時20分

「冷や水を浴びた心持ちとは申せ、もとより隣部屋に満蔵の寝ているのは承知、過敏な驚きはいわば念押しを拠り所としてみる几帳面さによるもの、覗き見されたとて頑是ないわ。
どうしたの満蔵さん、こっそり盗み見などはいけませんよ、もう夜更けです、早く寝ないと山からモウモウさんがつかまえに来ます、妙さんとわたしは按摩をしてからだをほぐしているのです、大人になればあちこち凝ったり痛んだりするものよ、はだかになってお互いの悪いところを指圧してるの、でもね、あまり大っぴらにすると、やれ嫁は気づかいも働きも足りん癖にようもなあ、なんて嫌みを言われるのです、満蔵さんはおとこの子だから、こんなこと分かりにくいかも知れないけど、、、と諭して聞かす光景がすでに先行していた。
妙の表情にも一抹の陰りが差しこんで、わしは反射するよう細く開いた闇に手をかけたんじゃ。日頃から恐がりで現にこうして妙の隣に寝起きしておる。声も殺し、音も立てまいと気はもんでいたけれど、物おじの満蔵には異変と感じたのか、ならばあたまから布団を被って震えておればよいものを、どうせ寝ぼけまなこの挙動ぞや、いやいや、小胆にも確かめるべく胸躍ったのなら捨ててはおけん、先の小言はその際の方便よ。
ぱっと怒気を放った手つきでふすまを開ければ、八畳間の隅に薄暗く敷かれた布団、その寝顔もどことなく陰気臭く、かといって嫌みのある面でない、無邪気なものよ、すやすや夢のなかじゃ、忍び足で近寄り寝息のかかる距離から顔を眺めた。わしとて微動だにせん、狸寝入りなら看破しようぞ、後ろから妙も摺り足で、ふたりして小さな邪魔者を睨みすえておったわい。襦袢を羽織っただけであったのと、いつまでも満蔵の表情に動きが見られないのが潮時、肉欲の炎はたち消えとなってしもうたわ、というのも廊下より旦那さまがお帰りでございます、そう下女が声をかけたのじゃった。又とない機会を逸したからには、潔く汗を拭い、浴衣の帯も凛々しく、微笑は涼し気に。
妙さん、いつの日か、、、それだけ言い残してわしは部屋をあとにした。呆気にとられているふうに映るのは義妹があらわにした精一杯の演技だろうし、その心身から急に冷めたりしない熱意のやり場に困ったからに違いない。断ち切られた肉欲は陽炎となり、行方を失った影をあおってみせる、淡い色情は深くつつましい願いのなかに消えてなくなってしまうのか。妙の失意は軽い火傷にも似た、ひりつきをその眼に余し、夏の夜を恨んでいるかのよう。
口惜しいなあ、妙の裸身の見納め、まったく、わしとしたことがしくじりおって、と自責の念にかられるところだったが、こればかりはどう慎重に臨んでみても結果は同じだったろうよ。満蔵を侮ったのがいけなかった、お化け幽霊なぞと稚気に流され、同じ年頃の子供らよりあどけないのを容易く引き受けとったわ。失態じゃ、大失態じゃ、あの世の不思議も山の怪異も、わし自身がよく心得るべき領域でないか、うなぎが人間のおなごになった、まわりにも数えきれんくらい奇妙なことばかり、それなのに、ついつい子供じゃと軽くあしらってしまい、それはこういうことだわ、人間の無心と変化の意識を同列に並べられん、何とも不愉快で、汚されるような、うしろめたく気乗りがしない、そんな心持ちがいつの間にか、満蔵を幼稚で未熟な人格とみなし封じこめていた。小夢に許しを乞い、哀切に打ちひしがれながらも決しておのれの意識を立ち切れんようにな。
あの夜以来、どうも気分が落ち着かなくてのう、そりゃ確かに不埒な色欲を抱いたのを悔やんだりしたわ、ふすまの隙間さえなければ、ことが成就したなどとも、更には隣の満蔵に注意を怠ったのが一番の汚点だったとか、愛撫もほどほどに素早く破瓜を実行すべきで、あのもさもさした、ねちねちした嫌らしさに溺れるんじゃなかったとか、しかも仕損じた挙げ句に待ち受けておったのは、果たして妙の**を破ったとしてどんな意義がある、何かこころを満たしてくれようか、単なる業腹としても、誰に向かっての憤りじゃ、さっぱり合点がいかん、これでは盲目に独り歩きした欲でしかないわ。
とまあ、悶々しておる次第で、それも意識の持ち方だけに徹底していて、実は小気味がよい。言うまでもないわなあ、それでこそお人形さんの面目躍如、ここに到ってどうして奈落になぞ落ちるものか。
わしのお花畑はそこで取り上げられてしもうた。つまり苦悩しようが、内省しようが、開き直ろうが、健気になろうが、ほくそ笑もうが、小夢の器量は歯牙にもかけられず、これまでの待遇が一気に逆転、はあっ、あんた、やっぱりだった、予期した通り、満蔵じゃよ、あのこわっぱめ、しっかり覗いておった、あの情景を食い入るように見届けておった、それをな、一部始終をな、旦那すなわち長兄に言いつけたのよ。
いや姑の耳には入っておらん様子、旦那には勘案あろうて。なぜと言おうに日輪の盛りが過ぎ、それとなく秋の気配が見慣れた庭先に感じられる頃、その晩、どうしたことやら執拗にからだを求めてくる、季節のめぐりみたいな優雅な趣きでなくてな、もっとこう、さばさばしていて、かと思うと陰湿な感じさえあって、いつぞやの真言立川流の興奮を彷彿させる勢い、あれから色事は遠のいていたので、わしも久しぶりにおなごの楽しみを堪能してしもうた。で、肌に余韻の消え去らないうちと案じたのか、こんなことを言い出したんじゃ。
あのときの身震いは忘れられん。のう小夢、おまえは相当の好きものだなあ、なに、今さら隠さんでもよい、春縁のこととて一言も口を挟んどらんだろ、しかしなあ、妙はいかがなものだろう、仮にも義妹ではないか、、、おまえにその方の気があるとは知らなんだ。まあ、いいさ、他所ではなかなか貝合わせも難しいしな、身内で済まそうとは見上げた性根よ、ところで格式って、あれはどうしたものなんだい、妙は素直に信じておったぞ。まったく酷いつくりごとしやがって、おまえは家の家風を茶化しているつもりだろう、そうだ、そうに決まっている、でなけりゃあんな馬鹿馬鹿しい戯言なんぞ出てこんわ、魂胆ないのも分かっておる、おまえの里にひとをやってよう詮索してみたけど、婚儀に及んだ際に調べた以外はなんもなかった。そうとも村一番の器量よしで気だても悪くない、発作持ちでもあるまいし、考えつくのは自虐の思念、これより他になかろう、家のなかの人気がなくなったからか、それで格式などと戯け、この家をこけにして、妙を好いておるのでもあるめえ、気がふれてないなら、おまえに相応しい役目をやらあ、といつもはおっとりした口ぶりの旦那、酩酊でもないのにべらんめえ調で。
更にまくしたてる、そうさ、いい役目だ、うれしくて涙を流すなよ、おっと、妙には指一本触れてはならん、可哀想に、すっかり格式に怖れをなして苦労したぞ。どうした鳩が豆鉄砲くらったみてえな面しやがって。そこでそっと耳を貸せとの仕草、胸騒ぎの波にさらわれるよう言われるがままに。
よくもあのおぼこを仕込んだもんだ、あとはすんなりだったわ、おまえから教わったとかいう手管もちゃんと知ってらあ、おれがおなごにしてやったのさ。どうだ、役者が違うだろう、、、
わしの脳みそが湯気を立てている。実の兄妹でありながらかや、おのれが犯した罪科はどこへやら、よくまあ妙も股を開いたものよ。おののきはめまいとなり、この家の住人の顔かたちを歪めたまま、一点を軸足にくるくるまわり出した。顔と顔の間に人とも獣ともつかぬ魔物がかすめて行く、得体の知れない恐怖じゃ、これは牛太郎の本能が察知したのか、とにかく身の危険を感じる。感じては逃げてゆく。
旦那の語気は甚だしく荒れる一方だった。これがわしのお役目とな、聞いてるはなから吹いてしまいそうだったわい。いわく、満蔵には目の毒よなあ、誰だってあんな場面を夜中に見てしもうたら救いようはない。妙はわしがけじめをつけてやった、とまあ、えらぶって尻拭いもしたのだから承知せいとな、異様なもの言いをする。それから妙には荒療治が相応しかろう、でもなあ、そこで唐突にやわらぐまなじり、満蔵はまだ子供、手をとるように介抱してあげんとな、何を知らしめるのかは瞭然だった。
ここまで来たら突き進むしかないわな、それにわしは別段不快な気持ちもせなんだ、反対にあのこわっぱのものをひんむいてやる、そう意気込んでおったくらいじゃ。この屋敷の家風なぞ痛くもかゆくもない、が、離縁されるのは困りもんで、わしは生計の術にはとんと疎い。なに、役目も果たせんのなら出て行ってもらう、里にも戻れんぞ、醜聞がついてまわるわ、と含められておる。おお、おお、居たたまれん、お人形さまに治まってしまおう、満蔵でも小僧でも持ってこい、たいらげてくれようぞ。
旦那の卑しい笑いすら日々の光明、妙に抱いていた恋慕も夜露と流れ、思いのほか晴れ晴れしい気分になった。少年をなぶるのってみるのも一興、しかも公認じゃ、姑や他には内緒だがな。
わしから切り出すのもどうかと渋面をつくっていたら、あの子の部屋でことに及べときた、これには裏があっての、妙はあれから顔には現さなんだが、実情を聞き及ぶに到って、内心ひどくわしを恨んだらしく、それは無理もないわな、さて兄妹の絆とやらは肉欲に通じたくらいだから、どうにも意趣返しを目論んでおるのが感じられてのう、で、案の定こんな思いつきを持ちかけたらしい。
お義姉さまは嘘つきです、わたしは許せません、けど、あにさま、満蔵は変な執心にとらわれいる様子、だったらいっそのこと、、、お義姉さまにおまかせしましょう、今度はわたしがふすまから覗いてやるの、満蔵にもいい薬よ、と申したそうな。若いおなごは怖いのう、これで段取りはついた、あとは月夜を待つとしようぞ」


[290] 題名:妖婆伝〜その十一 名前:コレクター 投稿日:2012年07月30日 (月) 15時35分

「ふすまの向こうでわしの名を呼ぶ声がする。待ちわびておったとな、それはそうじゃて無論のこと、だがな、ただのひと恋しさでもなければ、ありきたりの肉欲に焦がれているのでもないわ、世にも奇天烈な逢瀬であるゆえにときめいておるのじゃ。わしは義姉でありながら、雄うなぎでありながら、妙と契ろうとしている。義妹はそんな秘密など微塵も知らぬ。知らぬが仏、お義姉さま、、、すぐさま返答をくれてやらぬのは怯みでない、無慈悲でない、ただ、その間合いを聞き入っただけのこと、そうさな、無垢なる犠牲に黙祷を捧げたのだろうて。
語気の弱まるのは道理、たおやかに吐く息を知ったうえで、はい、妙さん、どうぞお入りなさい、ちいと耳遠くなった振りしてみせるはひとり芝居、しずしずと浴衣の裾も夏の夜更け、白地に色づき鮮やかな桔梗をあしらった文様、その清楚な紫の見目、今夜の妙、はや秋口の風情を運んでほんに麗しい。こころの準備も万全かや、わしの気持ちはまだ揺らいでおるというのに。
いいえ、破瓜を決したことを躊躇してるのでなく、これまでの愛撫一辺倒から変化するだろう格式を算段し、少々浮ついたまでのこと、要するに雄の本性が踊り出いた場合、果たして義妹はどんな反応をしめすのやら。あくまでおなご、、、なぐさめの言葉はことわりでもあるはず、妙のからだは受け身としての矜持を保てばよし、ことさらの性戯は余興にならぬわ、それどころか同じおなごの裸体をどう扱う、扱うがすなわち貝合わせの道、くちづけはまねごとで済まされよう、愛撫もまた然り、けれど男女の絡みを模倣すれば、忽ちおののくであろうな、格式とは我ながら堅苦しい言い草を考案したものよ。
ともあれ、いくら懸念してみても始まらん、わしに出来ることといえばさっぱりとした面持ちを維持し、妙の気分をなるだけ楽にさせるくらい、あとは野となれ山となれ、儀礼の筋を外れるとき、自ずと答えに導かれようぞ。
さて一瞬の間がことの始まり。ひときわ無口な居ずまい、緊張には引いた様子、気づかいにはいぶかしそうでな、面は崩れん、その顔色いたって冷静、もちろん恥じらいは差し引いての勘定であるがのう。それよりわしが危惧した意想を汲んでいるのか、浴衣の襟を整えてみたり、後れ毛を撫でつける仕草、早う格式を恋うておるように映る。ならば御免と礼儀をただし夜具に横たわらせ、帯解くよりさきに熱きくちづけで、やや舌先も絡め柔らかな感触を満喫しようぞな。しかと抱いた両腕、まだまだ裸身には触れん、すると驚くなかれ、あんた、歓喜に包まれた表情豊かで、まるで流し目を送るよう傾いだ首にそって視線が宙にさまよう、そのさまよったさきに抱きつく具合でわしの背に両腕をまわした。これは今までなかった行為じゃ、抱擁じゃ、これで一気に興奮を覚えたわ。舌は唇からはみ出しその周辺を舐めまわす、ついでに上体をやや起こし、ぱたんと回転して妙に組み敷かれながら空いた手で帯をゆるめれば、再度転がり浴衣がはだける。あとは勢いでな、あれよあれよという間にもろ肌あらわ、すかさず乳房に顔を沈め、ぐいっと押し開く、だらしなく乱れた帯はそのまま、利き腕に野心をこめ裾をまくり上げ、片方の太ももに手を押し当てる。探り目線を送れば、湯殿の見知ったより、ふっくら、頑丈な両脚、我が身の華奢なつくりとは別様、どうにも、こうにも、くらくら興奮するばかりじゃ、かようなところに妙は息づく、わしの好みかや、この肉づきがすべてじゃ、愛おしい。なあ、妙さんや、、、これも言葉にできなんだ。
決して真っ裸にはせん、脱ぎ捨てられる運命ぎりぎりでまとわりつくような、健気でしおらしい趣き、いやがうえにも気分を盛り立たせよう。妙だけこんな姿にしておけんわ、じっと眼光を定めたままおのれの着物も同じ有り様、感極まって押し抱いたところついに互いの乳房が重なりあった。すると何とも言い難い感触、邪魔ものではなかろう、とかく張りはあるけれど我が身が増えたと思えば愉快千万、鏡に映じたふくよかなれど冷淡な様相でない。これが肉体の温かみじゃなあ、野方図な色欲もさることながらしきりに感心しては頬ずりし、両の**を交互に口にする。こそばゆいの、妙さん、、、こらえているのは瞭然だったが、どことなく身悶えしているのは単に胸の隆起だけを感知しておるわけでなさそうだわい、そう察したならたくしあげた裾をさらに広げ、いよいよ本格的に太ももの付け根へと指を強める。そうしてから、いきなりでは驚くに違いないの、膝のあたりから徐々に舌を這わせ、ああ、わしはうなぎじゃあ、やっぱりうなぎじゃあ、、、この動きに心得あり、潮の満ちる場所にはすぐさま向かわず、なだらかなふくらはぎを行ったり来たり、くねりにくねって肌に吸いついて離れない。下半身の神経は仕組みが異なるのかのう、一向にくすぐったい様子はみせん。ただ、湯殿では得られなかった快感に溺れそうになっているのだが、どうやらうなぎのぬめりが何処にたどり着くのか承知しているようで、いささか気後れもあろう、身悶えは恥じらいの動きぞや。
わしとて秘めた箇所を口にするのは初じゃ、ちなみに自ら試みたものの、よほど柔軟で曲芸じみた肉体の持ち主じゃなければ無理よな、かつてない生まれて始めての色事、これまでの指さき加減でよいのやら。わしはかつて殿方からたっぷりとなめられておる、襞の裏にじんわり、やがて脳天へと燃えさかる快楽は筆舌に尽くし難い。
あれこれ思惑をめぐらすより顔を埋めた。まだ潮の香はせぬ、あんっ、と手玉が転がったような声がし、同時に腰を左右して恥じ入る反応、それでも真珠の位置するまわりを懸命に、筆で撫でるごときにしておると、からだの奥からほむらの熱気、この唇よりあたたかでな、巧みに舌を使うておる意識もとろけてしまいそうじゃ。飴のゆっくり溶ける間にこの身もゆだねよう。妙の腰は落ち着きがなかったが、それとて花心に伝わる悦楽、両足を押し広げてみても嫌な素振りはしない、うっすらしたものがわしのよだれか、潮なのか定めることもせん、一途になめ尽くす、そして緩急自在に上下すると、この耳に届けられし嗚咽。
全身をくねらせ出したのは真の合図よ、妙の快感はわしの快感、いつ果てるともないことを切に願ってやまない、無償の奉仕こそ性愛の極地じゃろうか。しみじみと湧き出る情にほだされ、いつしかその渦中に埋没しておった。
妙の姿態に苦渋を見てとったとき、不意にそれまでの平穏が乱されたんじゃ。快楽の行く手、これより何を求めるというのやら、雄の本性として到達できぬ困惑かや、はたまた、おなごの性として今度はこの身をまさぐってもらいたいのやら、どちらともつかんし、どちらでもあるような気がしてのう、考えあぐねるよりさきに、こう言葉がついて出た。さあ、次は、わたしをね、、、そっと妙の上体を起こし、哀願するような、憐れみをこうような、しかし、眼の奥には針先にも似たひかりを秘め、瞬時にからだをかわし、あべこべの位置となる。いくら酔うたふうとてこれでは妙もはっと我に返えると思われよう、もはや儀礼の枠を越え出でた、同性の股間をなぐさめ合ってどうする、責められる側にあるは無上の悦び、だが愛撫するに欠落したものでは意味をなさない、まさか如意棒は想像で補い、体位だけでも学べとは申し難いわ。
有無を言わさぬ身のこなしであったにもかかわらず、あたまの中はあれこれ吟味しておった。すると抵抗も怪訝な振りもしめさないまま、妙は手習いに励む学童のごときもの言いで、同じようにすればよろしいのですか、なんとも殊勝な応答ではないか。どうやら額面通り受け入れているらしい、男女の交じりを、色事の格式を。間髪をいれず、そうですよ、さあ、わたしのも、、、妙の顔面に腰を落とす、にゅるっとした感触を覚え、うれしさと罪深さを思い知る。あとはよく真似るのだと言わんばかりに再び舌を伸ばし、儀礼の限りを尽くすべしと意をただせば、すでに潮の匂いが漂っており鳥肌が立つ。やがては満ちあふれようぞ、わしは女体を味わいつつ、自らを解放させた。
小夢のからだを、牛太郎の邪念を、小夢の亡魂を、牛太郎の分別を、小夢をくぐり抜ける精神の頑迷さを、牛太郎に降りかかるあらゆる火の粉を、、、混ざり合っては桃源郷とも無間地獄ともいい知れない、見果てぬ境地へ、旅立ちの装いで。
悪意ではなかったろうよ、破瓜の手立てよ、なにを隠そう、今は亡き大旦那の部屋から時代がかった大天狗の面をこっそり借用しておってな、ただいくらなんでも実用には不向きじゃのう、だって、あんた、あのぐっと反り返った鼻はぞっとするような陽物そのもので、借りに用いたとしたら妙のほとは壊れてしまうに違いないわ。もう少し小ぶりのを探してみたけど毒々しい代物ばかり、もうよい、格式を重んじているつもりが、ほんに滑稽な事態を招いてしもうとるではないか。人さし指と中指に愛をこめよう、わしの情念はいよいよ真打ちの到来を待っておった。
夏の夜、夢想は成就されようとしている、わしも妙も玉の汗、木綿の布団は決して裏切りはせん、この火照り、この熱気、この高ぶり、けれど夜具の一角にひやりとした肌触りがなかなか見当たらなかったように、無常もまた夜風を呼んではおらんかった、こころの隙間を吹きゆくことなく。
さて義妹の純潔を破ろうと決意し、潮の具合をいま一度確かめかけようとした刹那、思いもよらぬ注意を促された。お義姉さまは御存知でしたか、どうもさきほどから気に留めかけていたのですが、隣のふすまがちいと開いてはいませんか、そう言われて見れば、ほんのわずかだが闇を一条立てかけたふうな感じがせんでもない、どれどれ、肝心なところで詰まらぬ詮議、が、次の瞬間わしは総身冷水を浴びさせられた気がした。隣の部屋には満蔵が床をとっておるはずじゃ、夢見かや、確かにふすまは薄目でまぼろしを熟視していた」


[288] 題名:妖婆伝〜その十 名前:コレクター 投稿日:2012年07月23日 (月) 22時21分

「どこまで連れて行けるのやら、いやいや、ひょっとしたらこっちが連れ去られるやも知れん。ゆるりとした愛撫じゃけど、うらはらに何やら気が急いて仕方がないわ、光輝なる真珠の扱いはよう心得ておるつもり、云わずもがなこの身を探索しては歓喜にむせび、謎掛けに興じ、はたまた懊悩を呼び寄せ、日の入りと日没に想いを馳せれば、自ずと照り返しにまなこを細めよう。あたかも悲痛を待ち受ける気構えでのう。
妙のからだにはかつてない快感が走っていたはずじゃ、湯にのぼせたふうな顔は持続どころか段々と辛い表情に移りゆく。あくまでそのような風情、わしの方が先達とてよう心得ておるわ。だがの、これより真珠を磨き続けてみても果たして深海の底まで至れるものか、ましてや初の試み、とすれば花心を突き破るのはまだまだ、ここに来てようよう互いの意識の隔たりがはっきりしてきた。妙はともかくこのわしに憑いておった思いやりは波間に浮かんだ藻くずみたいに軽やかなみじめさへ変移してしもうて、それは何度もいうよう慎重な計らいであるほどに、興奮の具合がいやに冷めてきてなあ、つまるところわし自身の快楽がちっとも発生せんというわけだったのよ。雄としての幻影がつまらん邪魔立てをしよる、ああ、ほとばしるものには成りきれんのじゃ。破瓜を取り急ぐまでもあるまい、本来のものが、正式なものがあり得んのだからな。
儀礼であるなら尚更、今日ここで妙を貫いてみたとて所詮はまねごと、ついつい情を熱うしてしもうた。実のところこのときが欲の頂上だった気がする、男の意地に賭けてみる衝動のゆく先は案外尻すぼみだったわい。あたまの中を渦巻いていた念のほうが遥かに大仰だわな、そうなってくると向後はよくよく色情がもたげん限り、無理は禁物か、噴出できないものに期待なぞかなわぬ、表沙汰にでもなれば義妹もろとも共倒れ、それにつけてもこのおぼこ娘よほど痺れたのか、わしの手のさきにはすでに真摯さをなくしかけておったにもかかわらず、まだ頬を赤めとろんとした目つきで呼吸にも力がある。そこですかさず、ねえ、妙さんここではなんですから、いずれときをあらためて、そう諭してみれば、言葉が言葉であることの実用に促されたか、素直なうなずき、とはいえ何処かしらないものねだりをしてみせるような、失意を別の角度から計り直したふうな、おぼこ以前の童心を面に出し、あれほどむさぼった唇の艶も後退してもとの木阿弥、が奇怪なものでよく眼を凝らせば乾くことも忘れた様子、おさなげな口もとに笑みを生み、もやがかった景色を眺めているかのまなざしはさっと鋭い、けれども仄かで有意義な礼節をみせ、わしの言うことに従う素振り、早々に湯殿をあとにした。
うなぎの牛太郎、人情とは何ぞよ、、、あわよく貝合わせを望んだ果ては、いや、ここまでのいきさつは、転生による人格占拠、密通に殺人と来て、茶番に等しい色遊び、意識に刺激をと欲したのがゆき過ぎであったか、それともこころの持ち様がやはり歪んでおるのか、もうよい、わしはたまらなくうなぎに戻りとうなった。だが、不可能よ、万に一つは黙念先生にすがってみれば果たして、、、それもすでに証明済み、もろ助の死がなにより物語っておるわ、それに実際のこととしてあの清流をさかのぼる術などない。長生きしたいのなら堅く口を閉ざすまでか、でもなあ、どうもわしはとうに均衡を失っておるようじゃ。悶々とした日々を過ごして行くのかのう、とな。なにを隠さんこれこそ大嘘、ことなかれ第一の平和愛好者、これまでお人形さまで来れたのを幸いにまだその上にあぐらをかこうとしておる。ほんに情けなや。
煩悶の月日が腐りかかった果実であるのを痛感したのはそれから間もなくだった。普段の立ち居振る舞いに異変は見えんが、廊下ですれ違った際、妙は抑えてはいるのだろうけど、そのぎこちない会釈を羞恥とするなら、ちらりと上目遣いしてみせる素早さこそ卑屈の反動、すなわち飛び出す鋭気、上等の絹に包まれた情念の刃、きれぎれの布地、うら若き女人のときを紡ぐ、眼には映らん妖術でな。妙の面持ちに影を見た、おそらくその生涯においてもっとも盛んな濃い影を。
そりゃ仕方ないだろうって、あんたもそう言いた気じゃな、まったく認めるしかない、わしが火をつけたとも、世に恐ろしいのは老醜の怨念なぞでないわ、溌剌とした若気には鬼が棲んでおる、正確には棲む宿を提供しているんじゃ。こうも判然としてしまったからには好色に溺れるのが躊躇われるであろうが、然にあらず、ほんの二三日もすれば飢餓とはいわぬけど、果実の匂いが漂ってくる。鮮度のよさに勝る供物の誘い、日毎に隣り合わせている死臭がほどよく香る。わしはまた湯浴みのさなかに足を踏み入れ、格式を重んじるがため妙を抱き寄せた。
まえと変わらぬ色目、際立った飛躍とてあるまい、同じ加減で乳をもみしだき、くすぐっては困らせ、もう堪忍というところで海女と化し、ゆらめく潮のなかへ浅く、そして深く、、、
そんな戯れも数えるほど、ある夜のことじゃ。湯殿で交わるというてもあくまでわしの手が蠢いておるばかり、しかと組敷いてはだかのすべてを味わってはおらん、簀の子の感触では気が急いてしもうて、湯冷めがそのまま短い時間となろう。是非とも柔肌からにじむ玉の汗を真綿の夜具に染みこませたいもの、そうして敷き布団の角に足先ひやり、情事から逃れた片隅にひそむ風趣、すでにたぎった欲求を一周させ、胸元に涼しさを宿しておるわ。
どうだい、あんた、わしの気持ち分かるだろう、そうかい、分かってもらえば話しも早いわ、、、さあその夜、旦那は分家に用向きがあるとかで、日暮れまえより出かけ屋敷は増々ひっそりしたものよ、どうせ帰りは深更、いつものことで酩酊のまま床につく。ただし人智に及ばん怪しき気配はこちらが近づくほどに濃厚、触らぬ神に祟りなしでくわばらじゃ。姑の部屋は東の端、で、妙の寝起きするのが西の側、ふすま隔てた隣に満蔵が眠っておるが、これが実に幼稚な子でな、朝夕の挨拶はいまだたどたどしく、その癖まじめくさった顔をして、お義姉さま、山向こうに吠えているのは人食いおおかみではありませんかとか、港に出入りする船乗りから猛霊八惨の話しを聞いたものがいるそうで、これは本当のことですかとか、まだ見ぬ境の果てに夢を運んで悦にいって他愛もない。
今宵こそが夜這いするには絶好の機会でないか、夕餉のあと使用人らも下がり、ちょいと目配せ、察する妙の面にはさざ波、わしは思わず相好を崩しかけ、そおうと耳打ちし、湯浴みして部屋にお待ちください、きっと忍んで、と小声は動悸にかき消される按配、心音の響きこそ人情の音頭、そうと決まれば、下働きに従事しておるかつての乳母ふたり呼びつけて、さりげない要件を申す目つきでな、ちょいと妙さんの部屋におる、旦那さまがお帰りになられたらふすま越しでよい、ひとこと伝えよ、子供らを頼みましたぞ、と羽をのばし義妹とにぎやかに歓談でもする様子を匂わせた。
姑に続き急いで湯に入り、ほの暗い自室にて薄き寝化粧、灯火に浮かんだのは小夢のはかなげな面。そっと笑み一輪、鏡面に咲かせてみれば、かつての懊悩、たやすく露となり眼前に一条したたる。果たしてこのしずく、、、
愛欲にとらわれしものはすべてを塗り替えてしまうわなあ、浴衣の胸元を両手で開いてみれば、我ながらうっとりする乳房よな、これまでどれくらいなぶったであろう、しかし我が身じゃ、体温の比較などあり得ん、この鏡に映っている色艶がどこまでも冷たい感触しかもたらさないようにな。妙の乳房にこの冷たさはどう応えるものだろうか、夏の夜風にあおられ熱く燃えてくれようか。
鏡の中から小夢がささやく、うなぎであって何が悪い、今のはわしの独り言、、、それとも幻聴だったのかいな、ああ、意識もろとも闇に紛れこんでしまいたい、白い柔肌を抱きしめて。
わしのこころは冷静に欲望と見つめ合っていた。耳をそばだてるまでもなく、廊下を踏む音が誰のものか即座に聴き取れ、子供らの寝入りまえの無邪気な会話が届けられる。屋敷のところどころ軋むのが怪し気で仕方ない、鏡の奥では小夢がうなされている、、、苦悶に歪んだ、けれど嘲笑にも似て、眠りの底を揺らす。妙の純潔を汚すのじゃ」


[287] 題名:妖婆伝〜その九 名前:コレクター 投稿日:2012年07月23日 (月) 04時17分

「なんとまあ、気色のよい、想い出のなかに滑りこんだような、それでいて他愛なく、ただ盛り上がった柔らかさにほだされ、満たされた感触。わしにしてみれば初めての乳房じゃ、この身のものはまさに血となり肉と化しておるわ、とはいってみても妙の胸に感じいった間はほんのわずかでなあ、そりゃ、素っ頓狂な声こそ張り上げはせなんだが、まるで不吉な魔手を追い払うといった調子の困惑がのどから絞り出た。その響きのなかに驚きはもちろん含まれておったけど、口早に聞かせた格式を受け入れる用意がなかったから、あからさまな拒否を示しめしたものの、どうして露骨な振る舞いにはそんな態度がふさわしいわな、乳房のしこりが表面に現われないのと同じ、まだ芽を見ぬ地中の按配じゃて、耳を澄ませば微かな嬌声が得られる。まったく不用意だのう、だがこれで妙のこころは決まった。
すかさず、こんなに張りがあって、さあじっとしていてね、子供をあやす声色を持ちい、ほとんど独り言の呈で間合いを埋める、なだめる、壊れものを扱う加減でそおっとな。で、その手も撫でるというよりか傷口を覆うようないたわり、五本の指、あわせて十指、繊毛運動にも似た細やかさでふくらみから離れない。増々狼狽にからだをこわばらせるのも承知よ、しばし無言のまま行為を続けて、妙が小首を大仰に振りかけたとき、わしはこう話した。これが儀礼なのです、心配なさらず、先々のことを考えますとあれこれ気恥ずかしいでしょうけど、わたしはおなご、あくまで形式をなぞってるに過ぎません。
熱心な口ぶりのうちにもどこか醒めた、あるいは感情を押し殺しているふうな余韻が妙の肌にしみ入ったのだろう、観念したといわんばかりに首をうなだれてしもうたわい。その胸中にはしなやかな憐れみが微笑に移りゆく模様が透けて見える、義妹はこう囁いている、わたしの恥じらいを忘れないで、そして導きから怖れを取り除いてとな。今度はわしの方がとまどう始末、簀の子に裸体ふたつ、さてさて乳をもんだまではいいがこの後どこまで性戯を施すのやら、儀礼も格式もはなからでたらめ、女体への欲情とて衝動とみなしたけれど、それすら意気を高揚させる為の方便だったなどと、腰砕けの弱気になりつつある自分を痛感し、うなぎの前の生が人間の男であった確信の所在をひたすら求めるていたらく、それもそのはず、女人に転生した今では男の欲をあたまでわかってもからだは機能してくれない、乳もみには問題ないが肝心の股間に武器が備わっておらん、わしの割れ目を貫いた如意棒はどうしたところでこのからだに見当たらんのじゃ。
そうするとまったく記憶の欠けた前々生なぞ、あやふやになってしもうて気抜けしかけた。男だったら怒張したものが一気に萎えるのかいなあ、そもそも情欲を沈着に運んだのだって別に大義があるわけでもなし、おまけに行き当たりばったりだったと知るに到って、果たして股間のうずきはどういう代物であったのか、ここに来てついに迷いだしたわい。が、両手のひらは妙に張りついたまま意識せずとも繊毛運動に従事しておる、いや、ここで手を離すのは迷いにとらわれるのを了解してしまうわけだから、時間は無意味な行為を黙認してくれとるわな。指さきまでそんな思惑とはおおよそ言い難い配慮が伝わっていたのか、ふと**を人さし指と中指でつまんだところ、思いもかけぬ妙の反応、ああっと小声をもらせば、はっと我に返ったのが幸い、これでいいんじゃ、前々の記憶なんか暇な折にでも思案すればよいわ、衝動の意義をただすなど、空腹の因果を問うてのち飯を食らうようなもの、こりゃ、いささか緊張したとみえる、そうよなあ、わしにとっては初体験だからのう、そして妙もな、、、
とするうちにどうにもこらえきれない、切ない様子になってきたので、思わず親指も加わって**を転ばせ快感のゆくえを見定めようと躍起になる。妙は再び首をくねくねさせ、もう治まりつかない様相で振り向いて哀願の目つきをし、ああ、お義姉さま、たまりませぬ、もうこれ以上は、そう息も絶え絶えの甘いもの言い、さっきまでの悲観はどこへやら、わしは股ぐらからうなぎをひねりだす幻影も鮮やかに、男の性を歌い上げ、その勢いをあえて抑えた口調で、妙さんや、感じるのですね、ではもっともっと、ひかえたたつもりが語尾は尻上がり、まなじりは下がっているのがよく分かる。ようし、このまま股間へと手を這わすか、そう決意も清く、陶然とした妙の快楽を分け与えてもらう勢いでいたところ、こう言うではないか。
こそばゆくてたまりません、お義姉さま、ああ、もう我慢できませぬう、、、さっと身をかわす。わしが落胆したとでも、脱力したとでも、違うわな、あんた、逆にめらめらっと燃え立ってきて、大いにいたぶってやろうと決心したんじゃ。いたぶるといっても悪意ではない、なぜかというに、わしの見立てに狂いはなかった、この義妹はおぼこの中のおぼこ、こそばゆいとはなんとも由々しいではないか、これでこそこちらもそそられるというもの、やりがいを、楽しみを、なぐさみを、生きがいを実感する。感ずれば実行あるのみ、逃げたからだをむんずと斜に抱き寄せ、閉じた股に容赦なく指を忍ばせた。
あれえ、そのようなことを、お義姉さま、、、悲鳴ではないわな、その二歩くらい手前じゃな、わしは聞く耳もたぬ顔つきで毅然と言ってやった。これが格式の門ですぞ、ひるんでどうなさいます。すると妙は、でも、とだけ消え入るような声でそのさきの口をすぼめてしまい、一層全身を堅くして、しかしどうやら怖れと羞恥が平行に並んで簀の子の隙間にこぼれ落ちていくようで、わしはこころ置きなく未開の箇所をまさぐり続けたんじゃよ。悪鬼の形相かとな、いいや夢中だったに違いないが精神はいたって冷静、不思議でもあるまい、かの春縁に抱かれた体感がふつふつとわき上がって来る。急いた愛撫に沈着を願ったことが裏返しの情況で呼び覚まされる、決して気分のよい想い出ではないがのう、味わいの限りに好悪はあるまい、快楽のみが抽出されておるんじゃ、よぎる過去を塗りつぶす手先は冴えに冴えて、妙の秘所がうっすら世間をかいま見ようとし始めた。そこでわしは熱のこもったくちづけをし、開きかけた敏感な位置に注意をはらい、少しだけ指を差し入れてから、たっぷりと唇を吸ってな、初心な妙はまばたきもぎこちなく、目の玉を泳がせておったわ。わしはその泳ぎを見守る仏ごころでなお手先に願いをこめる。
思いやりじゃて、行為はすけべ丸出しかも知れんけど、この女体の中から湧き立つ色の芳香はもはや雄雌の区別なぞ取払い、どこまでも真摯な熱を帯びて、ほんに義妹が愛おしゅうてたまらん、そんな奔流となろう気持ちが一気に溢れ出すのを認めるとき、わしの情念はひたすら燦々と輝きだす。地熱の発光は無償となるのじゃ。
妙の当惑に対する思いは慈愛と呼んでいいだろう、わしはつぶやく。ここもこそばいのですか、あえて口にせずともよいことを、黙して柔かな手つきに専念すべきところを、恥も驚きも一緒に互いの胸に弾ませたいが為、そして少しでも妙の気を楽にしてやりたい一心でそう一言。
すると花弁にそよ風が触れるよう音は届かんが、しばし後ゆれた証しはとても気だるく、眠た気な趣きを装い、あるいは装いそれ自体が空洞の反響か、音のなき世界から霧となってこちらに伝うものがある。頬に羽毛のひとはけ、微かな吐息ともつかぬ、寝惚けた呼気にも似た甘い空気。わずかに首を左右、その微風かや不明瞭ながら、いいえ、、、再度はいらぬわ、妙のからだとこころは正直だった。しかしおなごの大事なところ、情熱にまかせ荒くなぶってはいかん、ましてやみだりに花心への侵入はちと早過ぎる。そこでわしはそっと撫であげる按配でな、女体ではない、野に咲く花でもない、青々とした空に広がる海辺を探ったんじゃ。透けては遠のく波間にたゆたう秘めた真珠を。その在りかは雄大な心持ちにこそ呼応する。見つけましたよ、これは声に出さん、無言の調べは潮騒ぞ、ゆっくりとゆっくりと寄せては返す波の反復、しばらくするうち海水で指がぬれる。真珠のひかりは見つめん、だが妙の沈黙には優雅な緊迫がひかえておるわ、ふたりが共有しているのはひかりに他ならん、つくられた格式で始まった交わりに光明が差しこんで、辺りをきらきら反照させていた。
わしのこころは確かに不純だわな、それにひきかえ妙の心中を満たそうとしているのは紛れもなく自然な戯れ、ああ、強まったのはどちらの輝きやら、詮索もまた虚しい。波の手は休むことを知らず、次第に昂りつつある無垢なからだに息を吹きこむよう何度も唇を吸う、きつく吸う、そしておもむろに離れ、その表情をそっと窺えば、だらしなく半開きなったのが艶色に傾きかけて以外な一面、とろりとした目つきは海原へさまよいだす。あきらかに妙は感じておる、こそばゆいのではなかった」


[286] 題名:妖婆伝〜その八 名前:コレクター 投稿日:2012年07月16日 (月) 03時55分

老婆の眼が鋭く光り思わず身をこわばらせてしまった。悪夢ともいえよう語りに引きずり込まれているのは、どこかしら同調を余儀なくされた結果だろうし、今にももろ助とやらが土間から這い上がって来そうな気配さえあった。そして自らの寿命を明確に知り得たうえで、一語一語が命の灯火に呼応しているのか、怪しい含み笑いのうしろにはどこか寂し気な様子が透けている。日は沈みかけていた。
「どれ舟虫、そろそろ夕餉の支度をな」
自分は孫娘の名を始めて耳にすると同時に、たった今老婆の語った義妹のすがたがすっと傍らに立ち浮かんだような気がし、胸の痒みに襲われた。随分と年少の昔、異性が異性である様子を夕空に投げかけていた淡くて、柔らかくて、幾らかは生真面目なあこがれが白雲のように呼び起こされる。まだ見ぬ男女の機微が気流に乗り、どこか遠くへと、やがてまわりめぐって来る予感を抱きつつ、、、
舟虫の下がる気振りがたなびく前に、ときめきともいえる気分はその律動だけを譲り渡す具合で話しの続きへと繋がってゆく。
「こらえきれん欲だったかといわれれば、そうでもない、なんせ雄には違いないが、人間の性欲を学んでおらんからのう、はっはっは、そうだろう、すけべな気持ちはひとりで成立せんわ、なんだかんだでまわりからひっそりと伝授されるんじゃ。その方が数段いやらしいわな。とまあ、わしは居ても立ってもおれんかったわけじゃない、すぐさま手篭めにするほどの勢いでもない、そこでどうしたものかと思案したんじゃよ。あの時分は貝合わせのいろはを知るよしもなし、ましてや他の女体に接する機会なぞあるまいて。
そうこう案じておる間、十日ばかり経った日のこと、湯浴みの際じゃ、夏の空は宵待ちを気長に心得ておる。湯気が格子の向こうへ逃れて行けば、反対になにやら幻影がこちらに流れこんで来る気配、ぼんやりと見つめておるうちに段々そのかたちが定まって、はっと気づけば、この湯殿こそ裸身があたりまえになる場所、これより他にうってつけはあるまい、屋敷の立派さからしても湯船はそんなに広くなかったし、家風よなあ、入浴の序列はいわずもなが、ちょいと細工をして妙の番をつかめば、それがそのまま女体同士の空間となる。別に雑作はなかった、いつもの掛け声をそれとなく言い繕ってな、先に妙を湯浴みさせ、なに食わぬ顔してその戸を引くまで、相手が驚きを隠せぬのも道理なら、わしとて罰の悪そうな面をつくっての、だが斯様な場面に遭遇した身は、ほれ裸身じゃて、これは失礼で通じるなら更に踏み込んで、あれま、わたしとしたことが、と少々照れもしながら、すかさず毅然たる面持ちにすげ替え、ねえ妙さん、着物を脱いでしまったから、そう一言ぽつり、無論のこと妙のためらいは眼前にある、それとておかまいなしじゃ、間を置きすぎては双方の遠慮が勝るというもの、一気に攻め入る口吻で、一緒になど滅多にありませんなあ、まるで湯けむりに誘われる自然な素振り、しずしずと歩み入れば、互いの恥じらいも狭められよう、近づこう、義妹は拒絶の理由をほんのりと忘れ、ただただ湯船にうつむき加減となったのはことの成りゆき、桶に湯を汲む手つきとてさらり、同じ屋根のもとに暮らすもの、女体ふたりを静める湯に罪はあるまい。のぼせたふうなもの言いで、急いで湯船を出ようとする妙もまた当然の仕草でのう、そこをいたわり気に、そんなはにかみはいりませんよ、さあ、背中を流してあげましょう、折角ですからねえ、と投げかける。これには妙も多少感情あらわにし、滅相もありませぬ、お義姉さま、そのようなこと、眼は湯けむりをさまよい、まさに逃げ場はなし。ああ、わしとてもじゃ、が、そこは年の功でな、すでに面前にある妙のはだか、息をのむ暇もない表情を保ち、ちょいと性急なちからを両手にこめ、その滑らかな肩を押さえ、うらはらに口調はいたって安穏、身内なのですよ、それともわたしが嫌いなのですか、そう問えば、増々もって萎縮する妙、ここに来ておのれが発した言葉の響きに軽いめまい、好きよ嫌いの意味はなお深いわ、たじろぐ様子をしかと諌めるよう追い打ちをかける。わし自身への叱咤でもあろうな。
もう子供みたいにぐずぐずしてはいけません、どうか、わたしの言うことを聞いて、短い文句ながら最初嘆かわしく、しまいはきっぱり威厳をただすと、もとよりひかえめな性質、汚れを受けつけた試しのない背をそっと向けたではないか。湯のしずくやら肌のきめから沸いた汗やら、その張りつめた皮膚の白さ、まだ肉づきのさなかにある緩やかで、優美な曲線を描きたく願っている腰へのくびれ、ふつふつとこぼれ落ちるしたたりを拭う構えで見遣ると、さながら狩人の獲物に迫った感、一抹の憐れみがふとよぎる。
思えばうなぎのわしにはこんな意識なぞ生じておったのか、いいや、その辺がなんとも曖昧じゃ、昔の記憶とて所詮は小夢のあたまを通して、そうとも、牛太郎の考えは純然たる過去の遺物でなく、今この肉体をめぐって降り立ったもの、いわば人間に濾過された思念じゃよ、本来のわしに憐憫の情などあろうはずはない、獲物は獲物、その日の大事な糧に尽きていた。すると妙に感じているものは果たしてどう処理してよいのやら、意識と肉体を分離せんと欲したまではよかったが、土壇場に至ってのこうした逡巡、雄の欲情をぎらつかせたかったにもかかわらず、もっと突っ込めば初夜の晩より刺激に満ちた情況でもあろう、ここで意欲を失っては一生飼い殺し、わしは小夢の供養だけをよりどころにして生きることは出来ん、ひとでなしならぬ、うなぎなしとは変な言い草じゃ、けれどあとに引けぬのなら、ここの戸を引いた余波でおのれをなぶれ。
お義姉さま、ちいと痛うござります。はっと我に返り、現状を見渡すまでもなく、湯気を吹き飛ばす意志がもたげてきた。行き当たりばったりの思いつきでここまで漕ぎ着けのじゃ、むざむざ好機を逸してなるものか、今日のところは半ば強引であったが、妙とてこれからさき二度とこの様な事態を好むとは思えん。なら本願はここで成就せねばならんわな、わしはひたすら裸身を見つめた。妙に限らず、かつては持て余して仕方のなかった我が身を同時に。すると発心がたちまち開眼へ直結したんじゃ、あとは方便が口をついて出るばかり。
あれ痛かったですか、しかし痛さはもっと他にもあるのですよ、妙さんもいずれは嫁にいきましょう、いえ、ちょうどよいと思いましてね、こんな話しびっくりするでしょうが、ここのような格式の家ではみんな教えられることでして、あなたは御存知でしたか、そう、でも祝言の夜は知っておりますね、なるほどそこで格式が問題になるのです。殿方はいくら初心を尊ぶとてあまりの無知は却って無粋、いいえ、それどころか野暮の証しと軽視されましょう。そこで年長のおなごがですよ、肌の交わり、すなわち礼節を知らしめる為に愛撫の手際をな、唇の重ねをな、腰つきの加減をな、大事な箇所の仕組みをな、すすっと伝授いたすのです。あくまで表面上のことゆえ、いえ何、おなごではありせんか、大丈夫ですよ、恥じらいなどいらないのよ、ええ、ありますとも、わたしみたいな近い家族から教わることも。出来ればそうしたい、だって妙さんはとても可愛らしいからです。ここに嫁ぐときはわたしも同じ儀礼を通過したのですよ、ほら分家の奥さまの従姉妹にあたる方から、、、
わしは義妹の背が微風になびくこずえのように身震いするのを見逃さなかった。少なくとも妙は男女の契りを知らぬわけでない、山寺の若僧らにこころ揺らしたのも、まんざら色を蔑んではおらん証拠じゃて。
ここで急いてはならんのだが、もたもたしておると湯が冷めるごとくに妙の興味と不安も熱気をなくしてしまうわ、ではひとつ手早く行かねば。両の手をな、そっと脇から乳房にかけて伸ばしてみたのじゃ」


[285] 題名:妖婆伝〜その七 名前:コレクター 投稿日:2012年07月09日 (月) 20時06分

「さあ、それからわしは茫然自失の体であったかといえば然にあらず、足取りこそ浮遊したままだったがのう、逆巻く意識は明快そのもの、さながら疾風にあおられ流れゆく風景をおもむろに眺めておる感じがして、もろ助の頓死にたじろいだものの、成る程これは春縁が末期に放った忍術の類いに相違あるまい、あの血飛沫からして意趣返しとみえようぞ、そんな冷静な判断をよぎらせつつ、暮れてきた木立の道を急いでおった。もろ助の亡きがらを葬ってやるどころか、穢れた血の匂いがもたらす嫌悪と恐怖から素早く遠のきたかったんじゃ。
夜が迫ってくる、かつてこれほどまでに夜を怖れたことがあったろうか、わしは人間が抱く本能に操られ、防衛心を頼りに、そしてこころの底にうっすらとゆらめいている得体の知れぬ情緒をぬぐわず、宵闇が背後にひしひしと追っかけてくるのを、どこか戯れにも似た感覚でとらえていた。悔恨に苛まれ、もろ助の死を悼む意識はただただ夜に被われよう、なぜなら駆けゆくさきに待ち構えているだろう春縁の壮絶な遺体を取り囲む光景へと突き進んでいるわけじゃ、わしの帰る場所はもうどこにもない、半ば捨て鉢で、半ば災難から救われた安心が、わしを裁断しかけておる。人間に転生した妙味をあたかも身をやつしたふうに解釈し、うなぎの精神ならこうも生臭い焦燥など持ち得まいて、これは娘の怯懦が引き起こしているか弱さなんだ、そんな負い目の所在を転嫁しようと躍起になっていたんじゃなあ。まったくなんたる無様さ、夜は実のところ恐怖なんかじゃない、この身を紛らわす隠れ蓑、すべてを呑み込んでは格好の情趣をこころの隅に留め置く。
が、そんな拮抗する二面を宿しながらもなんとか宵闇にさらわれるまでに屋敷に到着し、懸念した人だかりはおろか、春縁と匕首、そして夜気に触れよう生々しい血潮の気配もないのを知り、始めて我を失ったのじゃった。一体これはどういう有り様、気を取り直し門をくぐれば、寡黙な爺やがぽつりこう言うではないか、湯が沸いております、とな。いそいそと廊下を抜け湯殿へ向かい、平常心を保った仕草で返り血に染まった着物を脱ぎ捨て、湯船に穢れをにじませれば、またもや安堵に収まった情緒が湯気に香る。
なにごともなかったのだ、そう、なにもありませぬ、さっと桜色に上気した肌から囁かれた声は女人の持ちもの。塵芥にまみれた俗世間とは隔絶した趣きさえ顔を出し、その頬がちいさくゆるみ、ほくそ笑む。ほんにそつのない手際じゃて、この屋敷の者も山寺の使者も、わしのこころも、、、危難を回避したうれしさはほんのりさせる湯加減と相まって、刹那の休息を得た。
夕餉の席に僧侶殺害の話題は似つかわしくないのか、いいや、まぼろしを見ていただけのわしにとってどうして空恐ろしい話しが耳に届こう、なにもかもが世迷い言、春縁の恋情から殺意、そしてもろ助の登場、、、突き詰めてみるまでもなく、そう、今は平穏な日々をありがたく受け止めるべき。
よほど衝撃が強かったんじゃろうな、わしのこころは千々に乱れるのを避けたいが為、身重のからだをいたわるように謎めいた現実から眼をそらしてしまったわ。
決まりごとの淡白さで季節はめぐって、汗がぬぐわれ、涼風は冷気へと交替し、雪景色を白い息で眺めては張り出した腹になにやら呪文めいたつぶやき、やがて年があらたまり、わしは玉のようなおんなの児を生んだ。さきの兄妹らに対する情愛を同時にしみじみ感じ入っては、今まで乳母に任せきりだった子育てが甲斐甲斐しく思えてきてのう、ままごとの延長でありながら人形である身がありがたく、こころの持ち方に変化があらわれたんよ。たとえ諦観に裏打ちされておろうがこの過ぎゆきこそがまことの現実、飛躍した覚えもなきままに転生の身のゆらぎが生じない日々を慈しんでおった。
そのうち屋敷内の人々に転機が訪れる。長女に縁談が舞い込み、あれよあれよという間に船に乗って遠く良家に輿入れする。その年の暮れには大旦那が長患いのすえ鬼籍に連なり、残されし家人の静けさは姑の毅然たる姿勢にならうよう息をひそめ、次女の妙、十六歳の花盛りの割りには陰にこもった面持ちで、次男の満蔵はまだ十二を数えたばかりの少年振り、肝心の旦那はなお道楽にのめり込んで罪こそ起こさぬけど、わしらを顧みる余裕はないものとみえる。
単調な毎日に飽きは来なかったと言いたいんだね、そうよ、わしの安住は井に水が湧く按配なぞではなく、いわば原体験を放擲するゆえに育まれた方便、いつこころの均衡に異変があるやも知れん、ちょいとした刺激が呼び水となって汚濁もろとも清流になだれ込む。
ことの起こりは次女妙が庭の灯籠に一匹の蛇を見たという嘆息めいた口調に始まった。生来のもの静かな性質を立証せんばかりの抜けるような色の白さ、紅なぞひけばさぞかし色香が浮きたつであろうに、この妙という娘、おぼこさを通り越して無味乾燥な印象すらあたえかねん。その妙が、お義姉さま、灯籠の影にうす気味の悪い蛇がおります、とその存在がどうのこうのというより、蛇がはらむ想像の産物に打ち震えている様子でな、それはそのままわしの忌まわしい過去を呼び返す模様でもある、まさかもろ助がさまよい出たわけでもなかろう、しかし、妙の態度に隠れた畏怖にはうなずかざるを得ない。ああ、神経を嫌らしく撫でられる思いじゃ、おそらく無心でありながら、わしの方が過敏になってしまうのも致しかたないわな。いつかはきちんと向き合うべき問題じゃて。
思えば、もろ助の死に様は不審そのもの、わしが勝手に相打ちの采配を下したまで、、、忘れかけていた黙念先生の面影が明暗を定めるよう白線となって延びてくる。しかもその線は清流の底にゆらめきながら、あたかも一条のひかりの軌跡と化して失われた過去を照らしだしておる。ほんにやるせない、生きる希望が素直なひかりなら、死せる記憶こそ斯様な明るみに応答する歪みよ。だが、この歪みを見つめないで果たして真の意識と呼べるのだろうか。わしはそのとき、すでに黙念先生が念押しした戒律を思い起こしていたんじゃ。もろ助の死は恐るべき呪詛だったに違いない、あの日、わしはあわただしくもろ助を詰問していたが、おのれの側からなんの真実を伝えてはいなかった、、、かれこれ三月になる、、、そのひとことがもろ助の生命を断ち切った、わしは焦りにかまける素振りで、運命の下敷きになる予感におびえ、しっかり黙念先生の言を守っておったんじゃな。
そこまで考えればもう上等だった。情けなさといらだちが重なり、どうにもやりきれない、もはや情緒のかけらも見当たらないわ。恨みを抱き現世に戻ったもろ助を憐れむより、妙を通して届けられた不穏な空気感染のような形状に嫌悪を覚えよう、じわじわとまわりくどい手法で呪いが伝わってくるのはなんとも気色が悪く、血塗られた帷子のひとり漂うさまが脳裡に描かれる。
このまま苦悩に従い続けるのは小夢の肉体を有したものとして、牛太郎の精神を取り込んだものとして、かくあるべき道理なのやら、もう一度考え直してみようぞ。黙念先生が地雷のごとく敷きつめてある呪いに接触しない術は警戒だけと、震える神経に即しておればよいものかのう。わしの脳みそに反転する意志が芽生えた。
これまでの意識改変とは別種の極めて自然体に即した欲動じゃった。なんの女体に縛られからといっていつまでも従属する必然などないわ、女体は女体、意識は意識、無理強いしてまで女人に生まれ変わらずとも、雄のこころで他の女体を愛でる行為こそ本来のすがたじゃないのか。蛇の言い出しにわしの食指が動いた。そう、花盛りの年頃であるにもかかわらず、朽ちてしまいそうな妙の裸身へとな。
面白いもので、そうした眼でこの純朴な娘を眺めてみれば、なるほど着物の上からは感じとれない、はちきれんばかりの旨味が覆い隠されているような気がしてくる。あとはどう料理するかじゃ、、、
一度そんな欲情が突き上がってくると、もう引き返すことは出来なかったわい。もろ助の幽霊だろうが、黙念先生の呪詛だろうが、もう卑屈で小心な思惑に屈するのは御免こうむる、逆に声高くこう叫びたいものよ、美しかな薮蛇、余分な配慮こそ豊穣の証しなり。他者への配慮なぞでない、おのれによるおのれの為の配分、小夢のからだもこれで抹香臭さを振り払える、未知の領域を遊泳するのじゃ。わしが授けようぞ、川底の泳ぎ方を、雄の嗅覚を、、、」


[284] 題名:妖婆伝〜その六 名前:コレクター 投稿日:2012年07月09日 (月) 06時54分

「春縁との逢い引きが頻繁になるにつれ、そして女体の痺れるような悦びが募り、情事のあとまで熱気を失うことはなくなった頃には随分わしのこころは平安だった。転生したことを悔やむ気持ちが軽くなったのは事実じゃったし、娘の感覚に牛太郎だった領分が侵蝕されていくみたいで、これは裏側からすれば消え去る記憶に慈愛をこめていたのだろうな、あふれだした情感の飛沫を見遣っている猶予が発生しておったから。
それはそれで結構だったんじゃが、心身が安定してくると今度はおのれを取り巻いている実情のひりつきから逃れんようなってしもうた。いうまでもないわな、わしは不義密通を犯しているのじゃ、他の者らも同罪やからと高をくくっておれるほど呑気ではないわ、官能がじんわり肌に残っていながら、不穏な意識は次第にわだかまり、女体の火照りがあたかも村全体に飛び火していくような怖れを感じてた。半ば夢心地である災禍を見送っておるようにな、からだの芯が痺れていた。
若奥さまと、崩れ落ちるような儚い息で抱き寄せられる度にうしろめたさが強まってくる。お坊さまはどう思っているのやら、わしの不安をのぞきこんでは増々欲情のとりこになっている様子、修行に邪心は無用とばかりのひたむきさ、こちらの気持ちなぞとはまったく絡まるところがなく、その健気なまでの淫欲に苦笑してしもうた。そうじゃ、こころの底から念じてみてもなるようにしかならん、、、不埒な考えじゃったけど、所詮これが借りの身であることの本性、際どさの間合いはすでに勘定に入っておるのだろうて。苦笑いの彼方には薄ら寒い地平が開けているようでなあ、今日みたいな雨空の峠を、あんた想い浮かべてみい、ほうら、顔色が曇ったのう、、、いいや別にどうしたわけでもない。
で、わしはなるべくして春縁の子を身ごもってしまい、家人らに弁明する余地もなくなってしもうたんじゃ。その時点でもうほとんど開き直っていたから、旦那より、家名に傷はつけられん、母上もその旨は含んでおる、殊更に考えあぐねるまでもない、おまえはただ安産を願っておればよいのだと、さながら武士の体面をなぞる調子のもの言いでな、追々話すことになろうが、この屋敷はどうにも並みの庄屋なぞとは桁が違う、実際武家の出入りも多かったし、大旦那は甲冑や宝刀を床の間に飾っておったくらいじゃ、わしの生家だった村の庄屋と比べてみるといってもなあ、そもそもうなぎの見識では疑念の育みようもないわ、それが薄々と判じられてきたのはこの不始末に及んでなお息づいておる旦那や姑の面目でなく、春縁が残した言葉によってだった。
さてこうなれば山寺の公暗和尚もそのまま捨てておくわけもなるまい、檀家に対する謝罪が表だってあったのかどうか、特に波風が立った雰囲気もなかったでのう、結局は春縁は下山を命じられ、短い恋路はいとも容易く終わってしもうた。わしらの仲は村中の知るところだったけど、案外だれも口にすることなく驟雨のあとさきを覚える加減じゃった。
失意すらこの胸に留まらん、吐息やらも初夏の兆しに紛れて、この時期特有の楽天的な日差しにあおられ、ときは淡々と過ぎゆくばかり、思い悩む術も忘れたある夕暮れのことじゃ。追放に甘んじていたはずの、あれより一度も顔を合わせなかったお坊さまが庭先の影にじっと佇んでおるではないか、その目つきには明らかな誘いが放たれており、わしは亡者に魅入られたような按配でなんの戸惑いもないまま、浮遊した足取りにて手招きらしき素振りに虚心に応じ、日暮れとはいえ、まだまだ空の青みが失われないほの明るさのさなかを人目も気にかけず近づいていった。ほんの眼と鼻のさきまでたどる時間は不思議な力で歪められているようじゃった、ふわふわとからだが宙に舞う、両の耳はふさがれているみたいなのに妙なる音曲がどこからともなく雅やかに聞こえる、そして視線は愛しきひとを指すことにあやまりはないのだが、まったく別な光景を追っている心持ちがし、歓びは安堵に安堵は放心のなかに包まれているようじゃ。嘆きが歩み寄る場所でない。
呪縛の解けたのは、ああ、まさに呪縛だとも、痛みすら覚えぬ唐突の懇願だった。春縁いわく、若奥さま、もはや道はひとすじでございます、さあ、わたくしと共にこの村を出ましょうぞ、哀切の限りを口にしたんじゃろうが、野太いはずもなく、かといってか細くもない、震えが鉄を伝うごとく、その語尾には焼け火鉢を振りかざしたふうな一点の迸りが備わっておった。わしの返答を待たず強引に手を取る、かぶりを振る動作もうなずく意思もなにも示せない、相手は無言の拒否と感じとったのか、俄に面を曇らせると、早々に断定を下した。なんという無慈悲な言葉、人道をはみ出した言い様、こう吐き捨てよった。ならば仕方ありません、御一緒願えないのなら、こうして舞い戻ったすがたを知られたからには、隠れていただくよりない、覚悟はよろしいな、かつては澄みきっていた瞳の奥には冷徹な焔、激しく燃えさかり、わずかに口角が上がった表情の凄まじさ、鬼の形相に匹敵する勢い、わしはもう微動だに出来ず、後ずさりも叶わぬ、更に恐ろしいのは懐中より鮮やかな手つきで取り出し、突きつけた匕首の夕陽のきらきらと輝く異様なまでのまばゆさ、銀色に映える朱はあたかも鮮血をしたたらせ、凄惨な面持ちは迫り来る死の影を静かに、だが的確に宿しておった。
修行僧とは借り衣か、こんな翻し方まさに抜け忍じゃわ、こちらの意を読み取ったのだろう、どうしてなかなか見破られはせん、屋敷の人々こそ怪しいものよ、そう呟いてみせる。
すっと背中を降りてゆく血の気がやはり静かだったのが、最期の救いじゃった。わしの情感は激烈でない代わり一縷の怨念を線香のように燻らせた。するとどうしたものか、春縁との距離を埋め尽くしていた殺気が幽かにゆるみ、切っ先が飛んでくるのを辛うじてかわすことが出来たんじゃよ。そのわけは驚きの一瞬にひそんでいた。匕首を握った魔手に土色をしたひも状の絡まりが見える、よく眼を凝らせば、一匹の蛇がその腕を締めつけているでないか、ああ、もしかして、いいや間違いない、もろ助じゃ、あの気心知れた蛇じゃ、だが、どうしてここに、、、ええい詮議立てなぞいらん、もろ助はわしの危機を心得ておる、仲間がこのわしの命を助けようとしておる、やがて脳に伝わる、牛太郎いまのうちだ、早く逃げるなり大声をあげろと、、、よしわかった、すまん、もろ助。わしは活気がからだに戻るや、さっときびすを返し、軒先まで駆け再びうしろを振り向くと、春縁の手に刃はなく、今度はもろ助、奴の首にしっかり巻きついておった。相当きつく絡まれていると見えて、春縁両手で振りほどこうにも指先を忍ばせられない様子、苦悶と焦りの色がここからも十分うかがえる。
わしは咄嗟に走りだし、もろ助の憤怒の眼と、春縁の戦慄の眼が同じ北空に向いているのを知ると、すくさま地面に落ちた匕首を拾い、さっきの燻った怨念を一気に解放したんじゃ。真っ赤な血潮が胸元から吹き出たのは心の蔵を見事に貫いたからだろう、返り血をまともに受けたのが分かり眼を細めた。もろ助の勇姿が薄い世界に燦然と見てとれる。もういいんだよ、感謝すると同時に絶命した春縁が大の字に倒れる。大仰に歯ぎしりした按配の口から大量の血の泡がふき出しておったわ。
もろ助は全身の緊迫から脱するのにしばらくかかり、するすると地を這い出してわしの間近に寄った頃とて、山の裏には松明を束ねたよう陽は眠りつくまでに猶予が残されている。わしらは互いを認め合い、言葉以上の疎通をかわした。
やがてもろ助はあたりに人気のないのが幸いだった、一刻も早くこの場から離れよう、死骸などほっておけ、落ち着いて語れる木立を探し当てた頃合いには、ようよう天空は墨汁をはらみだして来た。それにしてもようわしのなりを見抜いたものよと問うたところ、臭いじゃ、おなごに化けようとも牛太郎には違いない、その確信は自慢気にもろ助から出たものじゃったが、わしのなかからも踊り出たような気持ちがして、涙が込み上がってきたわい。もろ助の事情はわしの推測通りだった。やはり上流に向かったまま待てど暮らせど音信がないので、あとを追うように黙念先生を訪ねたという。千代子の件もあるし、いてもたってもおれんかったのじゃな、ようわかる、けどなあ、あの川は大きな山を越えた先、ここまでたどれたのは嗅覚だけでは無理だろう、それともわしが娘のほとに潜り、この村に嫁いだのを知って着いて来たとでも言うだろうか、いったい黙念先生からどう聞いた。矢継ぎ早に疑問を投げかけたいがなかなかうまくいかない。
こうなるとわしのあたまのなかは謎だらけ、今しがたの大恩は棚上げされ、ついつい興奮してしもうた。で、もろ助が語るに、おまえがおらんようになってからかれこれ三月になる、なにを言う、三月だと、この村に嫁いではや三年になるではないかと反論しかけるが口を閉ざす。そこでなだめるようにもろ助や、川の時間と浮き世の時間に大差あるまい、一体どうしたことだ、険しく詰め寄れば、可哀想にとぐろを巻いて考えこむ始末でのう。窮地から救ってくれたにもかかわらず、おのれの気ばかり先行してしもうとる。そのときじゃ、もろ助がかっと眼を開いたかと思うとさっきの血飛沫がその口から吐き出されたんじゃよ。それからのたうちまわった挙げ句に細長い舌をだらしなく垂れたまま、息絶えてしもうた」


[283] 題名:妖婆伝〜その五 名前:コレクター 投稿日:2012年07月03日 (火) 01時51分

「僧の名は春縁と伺っていた。さきにも話した通り、山寺の、なに山と言っても麓でな、てっぺんまで登るまでもない、半里ほど歩いたところじゃ。住職の公暗和尚は徳の高さもさることながら、御上の信頼厚く各地よりかの門を訪ねる客僧あとを絶たずで、名刹でもないのに山寺を知らぬ者はおらん。
そうよ、年端のいかぬ娘子から垢染みた老婦まで、いつも話しの種が尽きた試しがないわ、なんせ、門前の小僧からして見目麗しゅうて、若僧の面々はまるで役者のような容姿と来れば、衆道の本山かやなぞ訝しさはさておいても格好の話題であろう。おなごに限らん、村の誰もがいかなる理由で美男ばかり集めておるのか不思議がっていたけど、真意をただすよりか興味深くその顔立ちを眺めているほうが楽しいわな、いつしか手書きの番付までまわりだす始末じゃ。
向こうも心得ているのか、托鉢の折りは必ず一人歩きでな、行き交う村人の好奇心にさり気なく応答する。わしが胸ときめくのも無理はない、屋敷の長女次女らは密やかに禁断の恋など空想しておる様子、思えば嫁に来た頃より山寺の噂は聞こえていたのに、葛藤に身悶えするあまり、これまで特に気を向けてみることはなかったが、最近の心持ちからすれば、そうじゃ、娘らしさを前面に出そうとする努めの為、しだいにわしは世間に溶けこみ始めたかも知れん。どうあれ慚愧に苛まれたままではらちが明かない、思惑を越えた仕掛けが施されていたと後に了解しようともな、、、
春縁がわしの名を口にしてすぐに言い直したように、こちらもついぞ若僧に対してはお坊さまで通したわい。最初は遠慮まじりのはにかみだと勝手に想像していたところ、どうやら含みがあるのがわかってきてのう、いや、お互い呼び方に変化がなかったのはわしはともあれ、お坊さまからすればあきらかに下心を香らせたい働きがあったのだろう、ひとり気ままに散策しだしてから他の若僧ともすれ違ったりしたが、そつのない会釈程度だったし、まず春縁と比べて格段にその頻度が異なる。これはいかがなもんか、いくら同じ堤を歩くとして、いかにもわしと鉢合わせになるよう春縁はたくらんでいるのでは、、、まさかわしが願っていたわけでもあるまいて、そこである日いつもの道からそれてみたんじゃ。するとやっぱりさも偶然のような顔で反対側からその姿をあらわして、さわやかな微笑を投げかける、ここに到ってわしのほのかな気持ちを汲んでおるのは間違いない、ただ双方の身分がある為に異性としての好意をあらわに出来ぬ、かといって僧侶ともあろうお方が秋波をうながしておるわけでもなかろう、わしはあくまで淡い親しみより進展は求めてなかった。何度もくり返すがのう、憧れであれ、情愛であれ、娘の意識としてこの身をめぐってくれれば、それは記憶をともわなくとも十分だったんじゃ、これだけ話しておいて尚、わしは気持ちの整理をつけたかったんじゃな。
異性に恋心さえ抱ければ、女人であることの証左となろう、悲願が呪縛に転じてしまった今、女体に準じる意味合いは心模様をば変えること以外になかった。この場に及んでまだ純情を知らぬわしは、あの世なぞ信じるまえに現世こそ塗り替えるべきと、ひたすら虚飾に励んでおった。おのれさえ侵蝕される上塗りでなあ、、、春縁はその意想をいとも簡単に読み取ったとしか思えん、そうでなければただの破戒僧よ、山寺の修行者らは容色が端麗であるだけじゃなく、優れた知覚の持ち主でもあったんじゃ。
これでお坊さまの洞察とわしの願望がひとつになった。もう少し加えるとな、相手が仏門という世界にいるからこそ、牛太郎の煩悩と娘の魂が結ばれるよう期待を寄せたことは隠せない、とどのつまり助け舟を求めたといえるじゃろう、たとえ無様な恋慕に流れようともな。
さてそれからの展開じゃが、人目をはばかるふたりではなかったけれども、連れ立っての散策、しかも頻繁となればいささか様子が変わってくるわな、村では似たような光景があちこちで見られたし、おおよその会話も推察できる、悩める乙女に澄まし顔のお坊さま、一見布教に映ろう、が、内面はどちらに軍配を上げていいやら、両人の情は案外細やかだわ、こうなると疑似恋愛にすら思えてくる。
山寺の宗派は座禅の向きだったので、まさか真言立川流でもあるまいて、いやなに、これは以前旦那より興味半分の口ぶりで聞かされた憶えがあっての、なまじっか風流を気取っておるわけじゃない、その方面の怪しげな知識をおもしろおかしく伝えては夜寝の気分を盛りたてているつもりか、わしは随分恥ずかしい思いさせられたわい、そんな按配じゃったけどお陰で仏の道の妙義をかいま見たような錯覚がよぎっていった。なるほど春縁いわく、修行の身なれば邪教も耳に入りましょう、とな。あたかも山寺の風潮を糊塗するべきではなく先手でもって痒いところに忍んでくる機微、これよりは将棋の駒のすすむとこだわい、先々まで見通す眼力なぞわしにはない、この辺で駆け引きは終わりじゃて、もはや軍配は瞭然となった。ただ、わしの中には勝ち負けといった感覚はなかったから結果的に春縁から功徳を施され、それは又あらぬ恋心を認めざるえん場所に落ち着いたとも言えよう。春縁はちっとも狡猾ではなかった、むしろわしの方が勇み足で道を違えたのじゃ。そうなるのう、、、ああ、そうなる。
で、進展はあったかと、あったとも、おおありじゃわい。あんた、わしがうなぎでなくなった茂みを思い出してみなされ、娘が警戒しつつも山肌に包まれ小用を果たした、それが因で儚くも散ったあの灌木の暗がりを。お坊さまからだったのか、わしからだったのか定かではないが、同じく川筋から逸れた方面にふたりの影は隠されていた。光線が届かぬのではない、闇にはすでに光が満ちておったんじゃよ、まばゆいばかりの照り返しに日輪は言葉を失っていた。
代わりにお坊さまが幾度とな口にした、いかなる悩みを、という文句がぐるぐるとあたまの中をまわり、今にも飛び出していくような気分だったわい。そうだとも、あんた、わかるかね、よっぽど牛太郎の悪業を逐一語って聞かせようと思ったのだがなあ、ぱっと両極にひらめいくものが邪魔立てをしおった。よしんば転生の事実を受け止めてもらえたとしたなら、お坊さまのその胸中は嫉妬の念でいっぱいじゃろうて、わけは言うまでもないわな。反対に表面は驚きをともないながらそのじつ荒唐無稽とあざ笑っているなら、これはとても悲しい、どちらにせよ、わしの傍からお坊さまのこころが離れていくのは間違いない。それよりかこの成りゆきに身をまかせ、相手の懐のうちに抱かれるのがなにより、仏道の教えに従ってこそ成仏できようぞ。わしの煩悩は暗がりの一点を灯す鬼火だった。陰に籠っては、地を這い、川底に静める、しかし眼の芯を突き抜けてしまう、強烈な輝きだった。
お坊さまには到底知れぬ、知れようもない、だからこそ、わしの方から歩んでゆくしかない。実際に言葉が無効になるのを忸怩たる思いで認めつつ、うっすらくちびるを開いた。わしは娘になっていた、、、」
春縁の抱擁は優しさにあふれ、その口づけは更なる親愛で熱く燃え、唾液が絡まる。それはあたかも葉のうえの沢山のしずくに似て絶え間なく、閉じた眼の奥に早瀬を知った。そっと力を緩める春縁、耳もとでこう囁いた。若奥さま、これも因果でございます。慈しみに包まれた語感だけを残し、投げやりで無責任な囁きは木霊に加わる。わたしはゆっくり眼を開き、端正な面持ちをいっそう際立たせている薄茶色に透けた瞳をのぞきこみ、そこへぼんやり映る寂しげな顔に虚脱を覚えながらも、遠い谷川の音のような気配に共感し、因果という響きも幽か、遥か悠久の彼方よりの使者、火照り始めた柔肌をなぞる。
夢心地であるのやら、わたしは境界をまたいだ足もとも覚束ない、が、それでいて段々とたかまる野性の息吹はいつしか抱きしめられたからだに合わせながら、逆にその緊縛を振りほどく口調に転化して、こう応えた。されど、由縁もなき。わたしのまなざしは遠く、もの欲し気だった。着物の裾から指先が忍んで来る。滝登りの勢いで逆さつぼを目指し侵入を試ようとしている。くちびるが又ふさがれた。さっきより荒々しい触れあいだったけれども、そしてそのわけも知っていたけど、わたしは相手を軽蔑なんかしない、唾液よりなめらかなものが指先にまとわりつけば、暗がりに悦びが走り抜け、吸われた口から思わず声をもらしてしまう。断続的であることがなにより望ましいと虚勢じみた考えが通過し、その先の快楽をなおざりにしてみる。からだが小刻みに震えている。そのまま膝をつき、地面に押し倒され、両脚の裏にささくれを感じ、付け根にはどんよりと広がる雷神を秘めた黒雲のような、曖昧でいて分厚い得体の知れない快感が訪れていた。
胸元があらわになり、乳房をなでまわされ、首筋に何度も舌が這い、鼻息がかかる。束の間の衝動だとお坊さまは分かっているのだろうか。そうならもう少し落ち着いてからだを味わって欲しい、わたし自身のためにも、、、けれども性急な手つきが不意にとても愛おしく感じられたりして、如意棒を迎え入れた。
すでに大きく飛沫を上げていた滝壺はたやすく、根元までのみ込むと同時に稲妻が貫き、激しい興奮に支配されたのだが、生娘ではない身をあらためて実感することに抵抗を覚えてしまった、それでも女体を持てあましていた時分より格段の進歩を遂げた意義に感謝する。突き刺さった如意棒の擦れる様に陶然とし、素晴らしき仏の導きよと、ひとすじの涙が上気した頬をつたうのだった。


[282] 題名:妖婆伝〜その四 名前:コレクター 投稿日:2012年06月26日 (火) 03時59分

夕暮れどきではないが次第に強くなりだした雨足の気色で部屋は薄暗い。茶をすすりせんべいをかじる。長閑なひとときとは呼び難いけれど、案外しがらみから放れた思いは、遠くの民家の灯りがぽっと瞬く静けさに包まれているようで、峠越えの執心となんら変わらない冷めた情熱に隣り合わせであった。せんべいが香ばしい、たまり醤油の風味は素朴であり、口のなかにじんわり安堵がひろがる。ぽりぽり音をたてると団欒から旅情みたいなものが月並みの顔で煙っているようだ。
「危ういと言えば、女人に成った当初が大変でな、いいや、わし自身が動揺してしまって、ほれ、牛太郎で通ってたくらいだから、雄の性根ははっきりしておるし、前世もこの分なら男だったんじゃないかと思いこんでしまうわなあ。それでな、この身を持てあましているのか、まだまだわしの肉体としてなじんでおらんわけでの、てっとり早く言えば、欲情と一心同体にあったんじゃ。柔らかな乳房に触れれば興奮もしよう、腰回りのふくよかさや太ももの瑞々しさはもう誘惑そのものだったわい、ましてや転生の門であった秘所を備えているという実態は、いかんともし難い煩悶を招いているから、この女体に慣れることが喜ばしいのかどうやらわけがわからんようなってしもた。あんただってきっと同じ気分になるよ、ところがな、面白いもんで、おのれの裸身を覗き見したい欲と、一刻も早くこの現状を受け入れるのが先決だという意識がうまく調合されてのう、まあ例えは妙かも知れんが、新妻を昼夜問わず抱き続けている感じがしてきて、それならわしのような悪党も人間的な営みに励んでいるんだと思い、まあ、そんなふうに辻褄を合わせたんじゃな、開き直ったんじゃな、ああそうとも、人目を避けては乳をもみ、ほとをしみじみ見つめては指先でなぶり、官能の限りを尽くしてみたわい。
毎晩が初夜の昂りであるはずもないわ、はっはっは、百年もなあ、なんの、それは大袈裟よ、とにかくときの経つのはありがたいのか、いつしかわしは娘のからだを支配しておった。色目の支配から解き放たれたってことじゃな。いや、それほどの月日でもなかった、年頃じゃったし、なんせわしが惚れこんだ器量よしだわ、あちらこちらから嫁入りの口があっての、山向こうの物持ちにもらわれて行ったんじゃ。
他家に嫁いでからのほうが本性を隠さなんでよかったと、、、そりゃ、女体になじんだといっても牛太郎の記憶はすっかりとかき消えたわけでないからのう、日々の空模様に気をかけている、つまりわしの肉親やまわりの空気に慣れ合いを願っていたのが不思議と懐かしくてなあ、もう化けていることに冷や冷やせんでもええし、かたちの上でも一応は祝福されたのだから、欺きでも努めは果たしたように感じられて、ほれ、あんた、あの雪女や鶴の恩返しみたいな成りゆきじゃわ、向こうから秘密をあばこうとせん限り、わしのこころは平静だったよ。もっとも誰ひとりとてわしを疑ってみる者はおらんかった、そんないきさつやから見知らん人々の間に紛れることで平穏が訪れたんじゃなく、反対に警戒心がゆるんだんで色々と想いがめぐってきたんじゃ。うなぎの頃に求めた生き様とか、娘の本来の意識とか、つまるとこ黙念先生の教えは残酷ではなかったんじゃろうかとな。わしから望んでおいて何を今更と思うかも知れんが、人間に生まれ変わったお陰でうなぎの狭い了見が身に沁みてなあ、いくら前世もそうであったとして、やはりこの素肌に感じ入るものは広大で切ない。女体を得た喜びなんかそれこそ始めのうちだけで、段々と肉体に即した思考が定着するもんじゃな、今じゃ、乳房の張りよりか、その奥に隠れたものが熱かったり、冷たかったりする。
どうした、そんなしんみりした顔して、、、あんた下世話なことには興味ないんか、わしがどんな気持ちで股を開いたとかのう、はっはっ、そうかい、そうかい、だいたい想像できるってな、だったら簡単に流しておこう。旦那や姑などの話しはつまらんでなあ。しかしまったく語らんっていうのも片手落ちやさか紹介程度にするわい。旦那は世間知らずの長男でな、そのくせ和歌を詠んだり風流なとこがあって、しかも浮気もんで村には囲い女はおる、旅芸者と見ればちょっかいは出すで、わしのことも最初は熱心であるのはお決まり、日が経てば飾りもの扱いでな、姑も似たようなもんさ、大旦那っていうのがすでに嫁入りまえから持病で寝込み勝ちじゃったから、家を取り仕切っているのは実質あのひとよ、とはいっても格式一点張りで世間体ばかり気にかけて庄屋の威厳を保つことに余念がない。そのせいでわしは随分とうるさい小言も聞かされたが、見た目も大人しく、皮も被っておったのが幸いしてお人形さまで済まされた。他には歳のはなれた次男や長女次女なぞもひとつ屋根の下だったけど、どうしたもんか皆おっとりした性質でなあ、わしが無口で通したら向こうもそれにならうような感じで疎ましゅうなく、いわゆる気苦労はせんでよかったわい。やがてわしも一男一女を授かった。で、ここからがこの孫娘にかかわる話しなんよ、まだ子供らの幼い時分やった、大きな屋敷やさかい下男下女はもちろん乳母までおってなあ、その頃になると増々わしは内省っていうんやろか、もの思いに耽ることが多くなって、なに不自由ない暮らしと引き替えに、生きている価値みたいなものが日々薄らいでいくような心持やった。贅沢すぎる悩みかも知れんが、もとがもとじゃで、娘の命まで満たしてやらなければあかん、うなぎの一生がこうして変転したのならそれは奇跡に等しい、だからこそより一層こころを豊かにせんと罰があたる、叶うなら黙念先生を再度探しあて奇跡を解除してもえないかと、、、しかしなあ、うなぎなれば実行に移せた願いもいざ人間になってみると空恐ろしい、川底にもぐるなんて考えただけで眼のまえが真っ暗になる始末、これはわしの意識というより娘の肉体が邪魔をしておる、まったく矛盾しているがのう、死せる娘の意識は自ら甦って来はしない、いいや、これが実際かもな。そんな観念にとらわれ気ままに花咲く堤をひとり歩いてみたりしてたんよ。そう気ままになあ。
ある春さきのこと、庄屋を檀家に抱える山寺で修行している若い僧とすれ違った。以前より顔は見かけておったがこんな場所で出会うことはない。なんでも武家の身分を捨てたか、捨てさせられたのかとかいう噂で、確かにその顔色の生気は澱んだところがなく、どこか凛とした鋭気がもの惜しげに忍んでいるふうにも思え、おもむろに会釈を交わしたすがたが妙に儚くもあり、颯爽とした足取りでもあった。一瞬互いのまなこが向き合ったとき、わしの背中を駆けてゆくものがあっての、それは相手も同様だったのでは、、、その日から度々行き交う機会があり、ついには向こうから声をかけて来たんよ。
なに他愛もない挨拶じゃったが、表情には明らかなはにかみが浮いており、わしも敏感に反応し目線を落としてしもうた。あの刹那の心境はとても割り切れない、なぜなら僧侶としてみても若者としてみても、洒脱な匂いがしていてな、これは娘の本来が嗅ぎ取ったようにも信じたく、また超人と化してしまった卑賤の身が拠り所としたとも察せられてな、実に複雑な気持ちがしたのじゃ。
まるで二枚の葉のように恋情と帰依が重なりあって、わしのこころをゆらゆらと流れてゆく。どこへ向かって、なにを想って、、、はっとして顔を上げると僧はこう訊いている、せせらぎの音はこう言っている、今日はどちらまでとな。
わしはそのとき始めて娘の意識を呼び戻せた。ほんのり頬を染めては満開の花に寄り添ったような気分になった。肩先から脇腹にかけてくすぐったい感じがし、そのあとは花びらが風にあおられる調子で、ええ、この少しさきまで、そう答えていた。すると僧は晴れやかな笑顔を見せてくれたんよ。そして小夢さまってわしの名を呼んでから、失礼しました若奥さまと言い直した声の響きがとても初々しくて、舞い上がってしまったんじゃ」


[281] 題名:妖婆伝〜その三 名前:コレクター 投稿日:2012年06月18日 (月) 09時21分

老婆の放った眼光は顔中のしわを際立たせながら、自分に届けられている気がし、その返礼として同じような輝きを見て取られのだと思った。湯飲みを口へ運ぶ仕草も演出されているのか、茶の香は百幾年の歳月に従順な漂いをしめし、句読点の按配で寸暇を惜しみつつ、潤いを得て淀みなき語りが続けられる。
「孫の話しのまえに黙念先生のことを聞いてもらおうか。まこともって澄みきった沢じゃった、そりゃ瞭然じゃわ、ようよう目指した地へ辿り着いたのがわかった。しばらくすると眼のまえに蒼い影が迫っておって、おお、黙念先生に違いあるまい、そう感じた途端、意識が薄らいでいったんじゃよ。まるで夢のささやきだわな、先生にはわしの目的がお見通しなんだろうて、、、わしのあたまに伝わってくる、めくるめく絵巻物となってな。それはそれは雄大な調べじゃった。しかし朦朧とした加減じゃさか、すべてを言い尽くすのは無理じゃし、あんたにどこまで汲み取ってもらえるか知れん、で、要領よく話すとするわい。
黙念先生は驚くなかれ人間だったそうな、だが厭世にとらわれ山椒魚に転生したんじゃと。わしのしんの臓がぴくりぴくりし始めたとき、おぼろげにことの真相が明らかになってきた。ああ、このわしも、あのもろ助も千代子も、そして大勢の仲間たちも、意思疎通の可能な奴らは皆一緒だったから、つまり人間だったのじゃなあ、とすれば、わしはもとのすがたに戻るため躍起になっているわけになる。なんとも複雑な気持ちになってのう、それで限りなく言葉に近い意識を持っていたのか、悠久の時間が河川に溶けこみ霊妙な種が生じたんじゃなく、すでにこの心身に巣くっていたのか、それでも危うく興ざめになりかけた心持ちへ働きかけていたのは、やはり意志だったから情に流されることなく、わしはひたすら願いを乞うた。黙念先生はほんの少し哀しい眼をしてなあ、秘法を授けてくれたんよ。さぞかし深遠な教義だろうってな、身を引き締めておったわい。ところがあんた、伝授はいたって簡単とにかく焦らないこと、女人なら誰でもよいなど考えぬよう、おのれが恋慕うくらい、また情欲がすべてを包み興奮しながらも遣る瀬なさを相手に見いだしたとき、無心でつまり死を覚悟で突入せよ、、、他言は永劫無用なり。
こう言えばいかにも厳しい激しい響きがあるように聞こえるじゃろうけど、それが不思議なことに皮膜を隔てた向こう側からやんわり鳴っているんじゃよ。澄みきった沢は邪念を消し去ってしまうのやら、はたまた沢そのものの声明であるのやら。
わしは教えをありがたく頂いてのう、黙念先生にお礼をしようとしっかり眼を見開いたのじゃが、すでにその影はなく、辺りは鈴の音が仄かに遠のいていくような気配が残るのみじゃった。
茫然としていても仕方がないのでもと来た流れを下っていったわい。そうじゃとも、行きとは正反対の静かな呼吸でな。それからわしは待った。陽が昇り、そして沈むのをどれだけ、数えきれないほど、だが決して忘れ去ることなく、日々を過ごした。やがて胸ときめく女人を川辺に発見したんじゃ。歳の頃は十七、八でな、背は低からず高からず、ほどよい肉付きがまた若さを新鮮にしておって、好感はもちろんとてその中になんとも言えぬ色香をひそましては、こちらを惹きつける具合が初々しくも早瀬のように切ない。格好から察するに農家の娘みたいじゃけれど、本来の明るさと同居しているのか、どことなく内気な顔つきが、却ってためらいを知らぬふうにも、いや、恥じらう風情を自覚しているからこそ、楚々とした目もとに小さな魔性が眠っておる、まだ目覚めを知らない柔肌の赤みのようにな。
その柔肌を抱くとともにこの身であることの願望が芽生えたところ、もうひとつの肉欲が台頭して来たらしい。わしの方にも魔物は棲んでいるから、まだ目線を交わらすことなくとも互いの距離に甘い空気が漂って、そうじゃよ、女人特有の匂いはひろがって雄が放つとろみと重なり合い、青空に舞い上がって行くようだった。
娘はひとり山菜を摘みに来た様子での、視界に飛び込んできたわけで、笊には収穫が盛られていていたから、帰り道なんだろうて、絶対に見失わぬようわしは陸を這い這いあとを追ったんじゃよ。やがて幸運が訪れたのも天明に違いないじゃろう、娘が小用を催し木陰に身を隠す素振りを見せたとき、わしは脳内から発せられた号令によって一直線に娘のほとへと忍んで行った。
無防備そうでいて、山鳥の枝に休まるときの可憐な警戒心がそのうしろ姿にある。まくられた着物の裾から張りのある山の実がのぞいている。勢いを増す速度を叱咤するよう桃割れの間から清水を想わせる小水がほとばしっておった。わしは無心だった。だから、排水口を遡るよう娘のほとの位置だけを頼りに、、その苔むし滑った亀裂を眺める猶予なぞなく、一気にあたまから突っ込んだんよ。水中の岩穴とはまるで異なる感触が全身を支配するのは閃光のごとくじゃった。わしは胴体をひねりながら行き着く先まで侵入し、これまで味わったことのない柔らかな暗黒に包まれ、深い眠りへ誘われる穏やかな陶酔を感じ、娘の悲鳴を彼方に聞いた。
わしの意識はそこで途絶えたんじゃ。そして覚醒したときに久しく失っていた体感を得ながら、激しい違和を知ったのだから、おそらく娘も失神していたと思われる。なぜなら目覚めたのは娘のからだであり、わしの記憶だったからじゃよ。幾度も瞬きしてみてな、神妙な気分なんだが、胸の隆起をその重みで認めれば、胸の奥底からどうしたことか軽い笑みが込み上がってきたりしてな、増々眼をぱちくりしておった。仰向けのまま瞳に張りついている空をまぶしそうに見つめながら、瞬きすることで現実を了解しようと努めていたのかだろうかいな、それとも回避するまねごとでもしないと治まりが悪いみたいな、ようは娘に対する供養だったかも知れん、多分な。女犯などといった大義名分は成り立たんよ、戒律が大手を振って歩いてくれたならわしは破戒者として枠組みでくくられ、人間らしさの隅っこに気恥ずかしくとも居られただろうよ。ところが女体をむさぼるよりもっともっと罪な所業を行なったんじゃ、からだを乗っ取り娘の無垢な意識を葬ってしまったわけだから、、、命を奪ったに等しいわな。
空高く駆け上がっていく悔恨が、ちょうど天に唾を吐くことと似て、己の顔に落ちてこないよう、良識に縛られない為に、この双の眼に性急な闇をつくりださないといけなかった。ほとんどまじないに思うだろうが、あのときは次第に人間の血が通いだすのを留められないし、乗っ取った娘にわしが同化し始めているは拒めない、さすがに若い肉体じゃて、罪悪感にはおかまいなくどんどん血はめぐり、こころなしか雄である身に女人の魂が浸透してゆく思いがする。わしは眼を閉じてみた。ああ、いかん、暗黒の領域は余計に魂が彷徨してしまうわい。だがな、一方ではさして深くもない供養より人間に転生した歓びを押し殺せずに、一刻も早い順応を求めているんじゃよ。そしてこうなった以上、意志を貫いた限り、娘の肉体を生かす術に大義を見いだしているおのれに気づき愕然としたものの、もはや意識と身体は不可分になりつつあったから、下手に怯んで分裂した人間になっては一生のあいだ宿業を背負うはめになる。これでは娘も浮かばれんだろう、結局そんなこじつけを了承しながらわしは、衝動ではなく悲願としてことに及んだ有り様を肯定するしかなかった。
さあ、ここからはあんたも推測がつくだろう、そうじゃ、わしは瘴気に当てられたと病いを装ってまんまと娘に化けおおせ、都合がよくない場面に接したときもなんとか上手くかわして家人の様子やら、生活ぶりを学習していったんじゃ。やがて嫁にも行く、子宝にも恵まれる、その頃にはすっかり村の風習になじんで、それどころかうなぎの牛太郎であった覚えもあやふやになる始末での、心身は女人のそれにならい今日に至ったという次第なんじゃわ。つまりわしは超人として生命を燃焼したと言ってみてもよかろう。
うなぎ時代と一緒でこれまでの年月、細々したなりわいや暮らしぶりは端折らせてもらうよ。あんたの興味をあげてみると大方こういうところでないかな、化けの皮を剥がされそうな情況はなかったのか、後悔はしなかったのか、再び転生を望むのか、黙念先生との誓約を破って果たして難はないのか、そしてこの孫娘の秘密とやらは、、、そうかい、そうかい、あんた素直じゃな、でも慌てんでもええ、まあ茶でもあがりなさい、せんべいもどうじゃ、まだ日暮れてもおらん、ここまでは前振りじゃて、話しの佳境はこれからよな」




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