COLLECTOR BBS
[337] 題名:おばけの妄太郎 名前:コレクター 投稿日:2013年02月19日 (火) 03時29分
そう、いつぞやのL博士にまつわる話しなんだがね、蛇女退治や、公開心霊実験みたいな雰囲気ではないんだ。心霊実験はさておき、蛇女事件はぼくが当事者といっても過言じゃないかったし、L博士の人物像というか、感性、少なからずも定置に据えたい性格、更に突っこむとだよ、嗜好や奇癖がどうした具合に眼前に展開しているのかってところまでは見切れていないわけだったんだ。が、今度の逸話は変人扱いなんてレッテルのだね、いわば表面の文様絵柄よりもその粘着性がよく了解できたと思う。というのは、人間の評価なんて一面だけもしくはごく控えめに反面を見聞して、しかも受け手側の独断に少なからず左右されるものだろう、客観的な認識なんて小難しいことを持ち出すまでもないさ、己の好都合が常に優先されているに過ぎないからであって、これは見方ではなく関係性をどう解釈するかって気分なわけだ。無論ぼくはそうしたあり方を非難するつもりなんか毛頭ないし、批判的態度を胸にため置くほど興味があるわけでもなければ、逆に世情人情と受け流す器量を持ち合わせているはずもないね。ところがだよ、張りつけられたレッテル、シールはだよ、はがれやすいとか、はがれにくいとかって問題じゃなくて、どうしてそうした粘着度を勝ち得たのかって疑問に滑り落ちるんだ。まるでゴキブリホイホイにでも飛び込んだ気分。例えはよくないけれど生死以前の感触だから、そう、勝ち得たのさ、誹謗中傷だの陰口だの、揶揄や軽蔑にしても、まれに賞されたり、感心されたりしても、黙殺よりかは遥かに存在意義ってものがあるような気がするからね、あくまで気だけだけど、、、前置きは短いほうがいいや、で、これまた老年にいたる以前のL博士の語りだから、おっとだからこそ、まっさらな白紙が最初から黄ばんでいたのか、うかがえるってもんさ。しかし粘り気だけだと片手落ち、話しの上っ面も必要なのはいうまでもないね。
若さゆえなぞと文句に一切合切ゆだねようなんて青臭い戯言を吐くほど、懐古趣味を引き寄せたつもりなんかない。フープルの「すべての若き野郎ども」で歌われているように伝えたいだけだ。
幻想の産物に関する感触、例をあげるなら入眠時幻覚におけるあのリアルな視覚像と、とてつもなくシリアスな幻聴耳鳴り、うらはらに浮き世から遠ざかったのだと恐ろしさが夢でコーティングされた心持ちは捨てがたく、それらが渾然となって我が身を異界に誘う、あのまさに微動だにならない金縛りの夜、はたまた、炎天下で髄液がやられたのか、沸騰にまでは至らないがかなり熱を持った影響で面前を覆う、鮮明な異形の群れと、死の世界で建築された気高き景観には恐れ入る。
ところがL博士の心地といえば、どうしたことか小遣い銭を握りしめて駄菓子を買いにゆくようだったというから、さほど実験精神を胸に抱いていたのではないのだろうね。だが、間違いなく博士は妙な場所へと足を踏み入れてしまったと思われても仕方ない。だって路地のさきに見かけない商店があって、地べたアスファルトにチョークで品書きされている、幸い車両が通れるほどの幅がないのをいいことに風変わりな営業をしているものだと、感心ともつかないけれどふと立ち止まってしまった。
コーヒー、コーラ、ジュース、三百円、ただし初回につきすべて三千円。さすがのL博士も怪訝な顔で見つめていたらしいけど、こう判断したらしい。「これはつまり入会金を意味している。ただの商店であるまい」とね。よほど太いチョークで書きつけたみたいで、内心投げやりなのと小馬鹿にした感じを居並べつつ、足底で踏みつけながら店内に向かったのだったが、品書きの白い文字はかすみこそすれ、灰色の地べたに消え入ることはなかった。
ドアの左側に窓があり三人の大人が睨みをきかせた目つきで博士をじっと品定めするふうに無言で立っている。好奇心が勝るよりも警戒心にとらわれるのが当たり前だったので、思わずひるんだけれど、何となく癪にさわり平然とした表情を作ったまま、棒立ちでいたんだと。やがて窓のなかのひとりが目配せをした。
見ればさながら道場の看板のごとく物々しい代物に「入らずんば速やかに、迷うことなくば軽快に」と墨書きされており、これには戸惑うより大いに発奮し、口を開くことなく店内へ吸い込まれれば、窓の三人とはうってかわってにこやかな気色をした若い女が「どうぞ、お好きなお召し物を選んで下さい」まるで貸衣装でも借りに来た客を扱うような物言いをする。
そこは薄暗く、貸衣装でもない、ごくありふれたシャツだのネクタイだの上着が無造作にハンガーに吊るされているだけである。しかも有料だというので仕方なく適当なジャケットを借り受け羽織ると「どうぞ、こちらへ」いかがわしさにあふれた気配をものともせず、その声のなんと冷涼で気品のあること。
L博士はこの時点でもはや日頃から抱いている怪しの領域を自ずと開拓した気分になってしまい、言われるがままに決して清潔とは呼べない廊下を抜ければ、そこは私設体育館とでも形容したい中々の広さを持った空間が待ち受けていて、はたと合点がいった。「やはり道場であったか」そこまでの眼力は間違ってはいなかったし、不信感を捨て突入を試みた気概は非難されるべきでもない、ただ、L博士の眼力の本質がこれほど鮮やかに受け入れられるほうが不思議さを通りこして、ぼくらにある種の感銘をあたえるのはあながち見込み違いでなかろう。
さて博士の両目に映ったのは先ほどのほこりがたかったような陰気くさい小部屋ではなく、煌々とした明かりの下、それぞれが、といっても若者以外の顔は存在せず、男女同人数が誰の指導を乞うている様子もいままに、好きな方向に目線を投げかけ、いや、宙に彷徨わせ、身体の動作もまばらなら、もたげた心情も様々らしく、どことなく共通に思われるのは目鼻立ちが表した恍惚と嘆き、喜悦と悲しみがちょうど紅葉の盛りに彩られた深山を訪れたような趣を呈していることであった。色彩の鮮烈さとくすみが折り重なり合いつつ、晩秋の冷気に反意をしめし、のち感謝の念に転じるであろう。
心もとなさがL博士の胸を打った。彼らは競技の準備体操をしているとも、自由連想に基づいた身体放出を演じているようにも感じられ、が、上着を貸しておきながら、なかにはほぼ裸身の入れ墨を施した坊主頭の青年が床を転げ回ったり、かと思えば、生真面目そうな事務服を着た女性が首をふりながらよだれをたらしており、しかも指導者らしき人物の影が目を凝らしてみても一向に見当たらなかったので、L博士は次第に尋常さを逸し始め、せっかくだからと明々と照り返す床に身を横たえ、どんぐりころころの歌なぞ小声にしながら、解放なのか、放縦なのか、さては無防備なのやら、脳裡に意味を求めることなくしばらく若者らに入り交じってみたのだった。
ぼくの理解できる範囲はせいぜいこれくらいであり、その後の博士の挙動には正直なところ同調は少々で、残りは不可解な凡庸でしかなかった。もっともこれは軽視でも失望でもない。ぼくがもうちょっと悪のりを好む人間だったら、別な意味で心底落胆していたに違いないだろう。
L博士はどんぐりの歌の長さを知っていたにもかかわらず、似たように床に寝そべったままの女性に何気に近づきその束ねを解かれた長い毛髪のかびのような匂いに魅せられ、次には一周してからまた接近するという軍事行動に走り、立ったまま首ふりしている人数も念頭にあったので、一層どんぐりの唱歌も高らかにスカートの奥に視線を送る方法も瞬時にして身につけたのだった。
関節に痛みを覚えた頃にはこの道場の生業がおぼろげにわかってきたらしく、さすがに立ち上がり辺りを冷静なまなざしで見回し、体育館に通じたあの廊下に向かおうとしていたひとりの女性のうしろに駆け寄り、声を出したまではよかったのだが、ここに来てどんぐりの歌以外、誰ひとり口をきいてないことにたじろでしまい、
「あのう、ここは何というところでしょうか」としどろもどろで尋ねたところ、恍惚とは無縁であるというふうないかにも利発で物怖じしない顔つきをした、それでいて愛嬌をうっすらした微笑のうちに潜ませた肌の透き通った奇麗な女性が、
「わたしも知りません」そう丁寧とつっけんどんの半ばくらいの口調で答えた。
「ならば」と言いかけたL博士の質問を見下すよう「数年前より通っていますけど」とこちらの腹を感知した様子で愛想笑いを艶やかに浮かべたのである。
ぼくが博士に同情の念を禁じ得ないのは、そんな凡俗な対応に、また無邪気さとは言い切れないぎこちなさにあって、もっと言えば、本人は十分気づいているはずなのに、余計な失態をあえて見せつけ、その見せつけもすでに若い女性の色香に対してではなく、我が身に返り血を浴びることの悦びを先取りしてしまった邪念に他ならなかったのでどうしようもない。
そつなくその場から立ち去ろうとする意思に逆らう気概が天性のものであるかのごとく博士は振る舞った。そうすることでより明確な自分の立場を知り、自嘲を恥じらいと切り離せるのでは、よぎったのは酔漢の反復意識に近かった。
「ところで、ここでは自由恋愛なんかもおおらかなんでしょうね」
これがL博士の捨て台詞であり、月夜に捧げた悲観であった。のどが渇いた。
「そうした欲望や身についた垢を払い落とすのがここの集いなのです。誤りのないよう願います」
女性は笑みを草花のいばらに変え、博士に背を向ける。
呆然と立ち尽くす時間も計算通りだったから、その目は遊戯に耽ったさきの食傷を予感しており、わざと重たげな足取りで帰ろうとしたとき、きっと見落としたのだろう、親戚の子が進学受験にと勉強部屋をあてがってもらった記憶が吹き寄せ、しかもそっくりそのまま室内が再現されていたので驚いてしまった。だが、積み上げられた参考書や文具の類いがやけに生き生きしているのに、そこは無人だった。
[336] 題名:閃光 名前:コレクター 投稿日:2013年02月12日 (火) 05時20分
寝静まった妻の微かな気息に耳を向けるまでもなく、山下昇は苦虫をつぶしたような微笑を浮かべている自分を思い、消え入りそうな予感に深く沈みこむのではなくて、反対に暗幕でさえぎってしまった。
だが、暗幕の内側に息づくものを映像が終了する案配で拭いとることは出来そうもない。無言の会話、、、眠りついた妻に問いかけようとしているのだろうか。それとも、子犬が飼い主の傍らで奮起し、大はしゃぎするのに似たような、しかし大人であるから意味合いはいくらか違っているかも知れない、そんな安堵が胸のなかにゆったり広がっていくのを感じていた。とすれば、問いかけというよりも、机を前にした沈着とも緊縛とも無縁でありそうな顔つきは遠い夜空を眺めていた、いつかの想い出に誘われ、ふとため息がもれたのが妙に愉快で、寝室続きの部屋の空気はやはり同じであるとうなずいてしまうのだった。
意想は独り身の頃、酒に火照った頬をなでてゆく寒風に始まり、銀河の果てから訪れた夜の支配人の幻覚に導かれ、夢と現実がないまぜになった仮想世界に足を踏み入れ、殺戮のあげく自らも惨たらしい仕打ちに至った経緯を叙事詩のごとくよみがえらせていた。
潤んだのはまなこではない、森閑とした真夜中の家屋に伝わるか伝わらない、耳鳴りに等しい潮騒の、そして遥かな海面が生み出す絶え間ない月光のきらびやかな艶にあった。昇はひとり小舟を漕ぎ出し、月明かりを追い求めたが、陸地から離れるほどに夜空にかかった暗雲に妨げられ、漆黒の海原を彷徨いはじめると、夜の深淵を眺め続けているおののきながらもどこか優美な心持ちが寄り添った殊勝な雰囲気に全霊を捧げた。櫂を手放した昇はまるで夜釣りの要領で決して海底まで届きそうにない錨を投げ込む。そして酔眼で仰いだ天空に再び夜の支配人を見出そうと努め、対話を願ったのだ。
揺れる小舟は波間にとどまり、陶酔感を伴った風景画が描かれ、鈍く垂れ込めた雲間は晦冥より解き放たれて、大いなる月輪のもと画はいよいよ色彩豊かに、諧調をも授かって無欠の夢に落ちていった。
苦笑はときに深刻さと切り離されたように、不敵でありながらそのくせ甘えん坊みたいな相反する気分を形成することがある。昇はその理由をなんとなく分かった気がしたけれど、それ以上深追いすることなく、夢の底に落ち入る愉楽の影に隠れた目のひかりを思い返していた。
姉の望美が見せた憎悪と呼んでも差し支えのない、激しく突発的な怒りが目の奥に灯った幼児の記憶。しかし、萎縮してしまい、あるいは咄嗟に泣き出したにもかかわらず、その感情に溺れるどころか、姉の同級生であった美代への不思議な憧憬が先んじてしまい、その後の顛末を聞き及んだ少年期の記憶がまざまざと胸元に這い上がってくるのだった。あのとき、美代はあきらかに昇から玩具のライフル銃で攻撃されたのだったが、生来の優しさからであろうか、意地らしくかばってくれた様子が幼子ながらに感じられ、また姉の叱責は鋭い刃物のようであったけれど、その裏に秘められた肉親の情は決して自分を傷つけたりしないだろうという瞬時のひらめきも、無垢なる神経が受け取ったのであって、大人としての成育が培ったものではなかった。昇の意想のゆらぎはすでに海辺より戻り、これは些細な褒美なのか、潮騒が耳元にまで達しているふうな聴覚を得たのである。
更には月のひかり、このまどろむには殺風景でありながら、狭苦しく、息苦しくさえ感じてしまうことのある部屋に満ちているのは紛れもない夜の希望だった。
「なに、ぶつぶつ言ってるの」
まだ十分に新婚と呼べる家庭にあふれているもの、、、欲を言い出せばきりがない、
「なんにも言ってないよ。もう寝るからさ」
「あ、そう」
ほとんど寝ぼけた口調であったが、昇には新妻がふと目覚めたことが奇跡であるように思え、あらためて己の居住まいに意識を傾け、まぶたをそっと閉じてみた。希望が信号機の点滅であるなら青から黄に、そして赤に変化してゆくのは間違いない。つまらない考えをと払拭しかけたのが仇になってしまった。閉じた目のなかに再度とりかえしのつかない暗黒を住まわせてしまったのである。
姉と美代の顔が当時のままめぐってきた。望美はともかく美代の顔がこれほど鮮明に舞い戻ってくるのは珍しい。確か美代はあまり前例のない吸血事件を起こして、もうひとりの姉である有理とその娘、つまり姪の砂理も何らか関わったらしいのだったが、住居に距離があったこともあり昇はその件に触れる機会を逸していた。当然それなりに興味をひかれたのだけれど、姉らは禁句のごとく口を閉ざそうといるのがうかがえたし、砂理に至ってはこころに傷を負ってしまったようなので、おおよその見当はついたものの好奇心を優先させてまで真意を探りだしたいとは思わなかった。第一身内の醜聞に近づく足取りは自身の墓穴を堀かねない、変なところで昇は望美の憎悪を反転させた童心を思い起こして、辻褄が合ったような納得に落ち着いた。
海上からたどって来た波のざわめきが静まり、深更の真っ只中に、ちょうど時計の針がその時刻で止まってしまったふうな錯覚を得たころ、美代の容姿は曖昧になり、ただ赤い洋服を着ていただけとしか認識できなくなってしまった。信号機はこうして昇に睡眠を促したと思われるのだが、当の本人は暗渠への転落を痛感し、救いようのない意識に目覚めてしまった。
夜風に乗ってゴミが路上をのたうちまわっているのだろう、カラコロとさほど不快でもない音をたてながら、窓の外を遠ざかってゆく。厳粛であるべき夜はいにしえより神事に相応しいと伝えられ、方や魑魅魍魎が跋扈する魔の刻でもある。静謐のなかで喧噪が演じられるといった矛盾を人々にしらしめながら、連綿とこころの中を例えようもない闇で覆ってきた。
昇は崇高な考えを排する調子で、それまでのしめやかな気配を急にかき乱したくなり、しかも素面で息をしていることの生真面目さとぎこちなさ、今から飲みだすほどの大胆さもない、今日は週末ではないし、いくら冬日だとしてもう夜明けは近かったので無性に神経がたかぶるのを抑えられなかったのだ。転落が痛手ならこみ上げてこよう欲情はひりつくばかりの、そう毛穴のひとつひとつまで見事に通過してゆく勢いであり、逆巻く生命である。
軽く寝息のする方を振り返りながら、新婚である現実を骨折より強く痛感し、一気にもたげた下半身を浄化させようと立ち上がった。毅然としているようで宙に浮いたふうな、酩酊した折の意思を置き忘れながら目的だけが根元に残っている枯れ木なのか、新緑の放埒さなのか、どちらとも判別つかないまま、昇は見慣れたとはまだ言葉に出来ない妻の寝顔をのぞけば、猛烈な淫欲に駆られている実態を今度は外部から見届けている錯誤にとらわれて、陵辱に値すると行為をためらってしまった。
「明日があるじゃないか」
妻にだって仕事はある、こんな時間に起こしてまで股間の充血を、いや脳裡の悶えを解放するまでもない。じっと寝姿を見つめているのさえ、気恥ずかしく感じられた。その仕草、挙動はさながら小用を足しにいきながらもしずくさえ出ないと聞かされた老人のそれを想起させ、増々やるせない気持ちが膨張したので、己の手で突起したものを慰めるしかなく、そうと決まれば、眠れる妻を脇に置き、余裕の精神で自慰に専念し始めた。これ以上の情愛はひとのこころに備わってはいない、なんという施しだろうか。
肉欲に突き上げられたはずが、早くも絶頂を迎えかければ、いつの間にやら白夜を彷徨しているふうな心境に達し、また夢幻であった去勢の記憶が降りてきて、実感はより切々とした血肉に絡まりあいながら、相変わらず苦笑を張りつけている面をまざまざと焼きつけるのだった。
[335] 題名:書き割り 名前:コレクター 投稿日:2013年01月29日 (火) 03時32分
そういやあ、最近コタツに当たったことがないね、いや、去年の今頃だったかな、知り合いの家でほんの申しわけ程度に足の先を入れたっていうのはあったけど、ほら、ぬくぬくと胸元までもぐりこむようなのは何十年もまえの記憶だよ。第一背丈が違うだろう、子供の時分はそれこそ頭まですっぽりで、赤外線らしき温熱を全身に浴びてたもんだ。目が悪くなるから首を出しなさいなんて親に叱られたけど、懲りずに赤く閉ざされた身を慈しんでいた。
なに、大した趣向なんかじゃない、どちらかと言えば馬鹿のひとつおぼえみたいに、とどまることを知らない満ちあふれた時間にどっぷり浸っているような、無邪気なのやら、想いを馳せないがゆえ透明感にのまれていたんだろう、外の景色が移ろうのと同じで家の中だってこたつの中だって、決して昨日も今日も一緒であるはずもなく、それは寒さをしのいでいるばかりじゃないからであり、退屈を覚える間があたえられてない縮こまった空気のよどみがただ新鮮だったのさ。
で、こないだ夏日の夢を見たんだがね、家中の戸が開けっぱなしにされていたから、今じゃなく、やはり小さな頃だ。自分の家なのかどうかも分からなかった。似ているとろこはそうだろうし、まったく記憶に跳ね返ってこない部屋や家具に取り囲まれていたんで、どっちでもなかろう、そう思っていたんだよ。ああ、これは目覚めの意識だけど。が、そんなことは問題ではないね、大事なのは真夏らしく、風鈴なんぞ、ちりりんと涼しげに鳴っているのに、汗ばむどころか、暑さを感じてなかったという事実だよ、そうだとも、うたた寝だろうが、疲労困憊だろうが、酔いどれの眠りのだろうが、意識とおさらばしたわけじゃないだろう、逆に普段見かけない隣人みたいな自分を見届けたり、その気になりきってみたりするんだから安閑なものさ、たとえ落武者が突然あらわれて槍で胸を突かれても、、、まあ、痛みはあるね、あれは凄まじい衝撃だった、、、でね、痛感にしろ温感にしろ、やはりやって来ない場合が多いな、風鈴の音もいつしか消え去り、書き割りの家に相応しいざわめきやら、反対にひっそりしたものやらが耳を通過していくんだ。
聞き覚えがあるからそれなりに納得していると思う、蝉らしき怪鳥であっても、花火をまねた鬼火であっても、金魚売りに化けた殺し屋であろうが一向にかまわないよ、風情に埋没している余裕がないのはこっちでも同じだろう、なら団子状になったつみれ汁を味わうときの気分さ、コタツの中でまるまっていた洟垂れ小僧は夏を夢見ていたのかも知れない。
そこでだよ、夕飯の時間がやってきた。むろん夏の陽は長いから夕刻でもまだ浮き浮きするくらい明るみにほだされていて、早く飯を食らって外に飛び出したい勢いなんだね。ああ、気分がだよ。
さて間違いなくあの金網のざるは見覚えがあった、銀色で新品のときはピカピカ輝いていたんだろうけど、水垢とかで鈍い色合いになっていたざる、それにそうめんがたんまり盛られているんだ。一家四人、水切りを兼ねたざるに箸をのばすって寸法で、こう言うとおおげさなようだが、あの光景こそ夏の夕暮れに現れ出た白い幻影で、しかも、そうめんだけだといけないからご飯も食べときなさいって言いつけまで、そっくりそのまま立ち戻ってきた。今からふり返れば炭水化物ばかりなんだけどね、ラーメンライスとか、お好み焼きに飯とかよりシンプルで、そうでしょうが、ラーメンには具あるしスープとして単品なりの味わいがあり、お好み焼きにいたっては肉に卵に野菜だから、断然比べてはならない、それに色合いや香りだって別ものだよね。
白い夏が幻影たる所以は、そうめんライスによる涼感で刹那に流れ去った味気なさにあるような気がする。誰かが言ってよ、一束に数本だけ色つきの麺がまるでご褒美のごとくあって、兄弟で取り合いしたんだとさ、まったくしみじみくる話しだ。どぎつい色ではなかったかな、そう感じただけか、淡い桃色に黄色、淡くもなかったか、しばらく色つきそうめん食べてないからね。今度確認しておくよ。
冬より夏がカラフルなのは太陽や海や草花のせいとは限らない、蒸し暑くてまさしくそうめんまみれでもよかろうはずなのに、色鮮やかなんだよな、ああ、そうだとも、色気も盛んだった、女は肌の露出が高まるし、男は下着でその辺をうろつきまわり、落とし物を拾うような心持ちで目をぎらつかせていたからね、あんな視線が日本中に飛び交い、増々肌はあらわになって小麦色に染まるし、悪意も敵意も混ぜこぜにしてしまい仕方なくなんて、不埒な思惑を隠しきる野暮は言いっこなしで、派手なパンツなんかちらりと見えたりすると、大喜びしてたんだから、やはりカラフルなんだろうね。ビー玉だって透ける色を無造作に見せてくれていたじゃないか。
白いパンツにこだわる輩もいることはいる、そうめんライスで食を満たしてからでも遅くないよ。いいや、これは皮肉なんかでなく、反作用としてなおさら白い幻影を追い求められ幸せだってことさ。とすれば、さしづめコタツは赤い幻影だ。よくぞ寒空のした、すきま風を遮断する心意気でちいさな太陽を演じてくれた、あっぱれだなあ。
曇り空からは白い粉雪、正月には餅つき、白髪のばあさんが梅干しをひとつまみ。隣の子供が窓の外に幽霊を見たと騒いでいた。で、夢はその後かき氷に向かうんだ。あの頼りなさそうで、その癖みずみずしい空色をしたプラスチックのスプーン、奮発したのか、パインやらマンゴーやらイチゴやらが乗っかったのをうれしそうに口に運んでいる。しかし、ちっとも冷たくない、さっき言い忘れたけど、そうめんもこれといった舌触りがなかった。いつかライスカレーをもぐもぐ食べながら、まったく異質の味覚に驚いたことがあってね、あれくらいだな、夢の味わいなんて。そもそも向こうに食感を求めるじたい間違っているし、強欲だ。
ところで強欲ついでにコタツのなかで耽っていたのは事実だから、去年あまり深々と足をのばせなかったなんて言うと、またぞろ深読みしすぎなんてそしりを受けそうで萎縮してしまうけど、乏しい想像力を赤く光らせたのは、コタツそのものより、これも思い出の彼方にあるのだがね、どこかの若夫婦の家の冬、生まれた赤子に頬ずりしながらコタツ布団に倒れこむように愛おしむ若妻の様子、その仕草、自然にわき起こったイノセントな情感を引きづりながらも、見つめている側には暗雲となって押し寄せてくる色欲をごまかせないんだ。どうしても夏の夕立のような趣を覚え、同時に乱れた姿態と思いなしている自分を責めては解放させようと気分がそわそわしてくるから、一気に洗い流されるふうに清められたい、そう願ったものさ。
コタツで寝ると風邪ひくというのは布団が短いからだと思っていた。だからベッドから上掛けと毛布を引っぱがしてみたんだ。予想してたより暑苦しくてね、あのときも夏の情景が夢にひろがったんじゃないだろうか。
[334] 題名:冬景色 名前:コレクター 投稿日:2013年01月22日 (火) 04時27分
「へびは冬になるとあまり見かけないわね、夏とか家と山の間にあるコンクリート部分にいる。コンクリは涼しいのかなあ、木陰の湿気った土のほうが涼しそう、かなへびみたいなのが多いかな、アオダイショウは何回かみた、マムシはみてない、赤い模様のきれいなのもいた。毒蛇かと思って調べたら毒のないやつだった」
「へえ、調べたのかい」
数矢の声がいつになく急ごしらえの生真面目な調子を帯びていたので、多津子は通りすがりの乳児に向かって目配せするときに似た、あの母親にも同様の気分を分けあたえたい朗らかな衝動にまかせ、
「そうよ、あなたに教えてあげようと思ってね」と、つんと鼻を上げ気味に返答した。
「おいおい、おれがいつ教えてくれなんて言ったんだよ」
「怖いものが好きだって話していたじゃない、幽霊や妖怪よりか自然界に棲息する変わった生き物がって」
「そうだったっけ、お化けの類いが信じられなくなったんだろうね、きっと」
口を開きながらも普段の快活な顔のなかに薄日が被さったふうな鈍さを現した。しかし太陽は遠い海原にあり、乳白の雲を透かして砂浜を照らしているような擦過するあこがれを香らせていた。
多津子は数矢の人見知りを知らない性格が好ましかったけれど、軽やかな抵抗をしめしているのか、さきほどの口調によって毛嫌いより深い感情をゆっくりと、まるでグラスのなかの液体に沈む紙切れみたいに、浮くことを忘れているまどろみに近い様相で、受け入れつつ目線を通し、どことない焦点に結ばせるのだった。逆の気質であることより、むしろ数矢に寄り添うかたちで、こころのうちに侵食しそうな悪意を甘酸っぱい情緒に置き替えてしまって、柔らかな感触だけに接する自分を両極から眺めていたかったのだ。
ひとりよがりとは決して呼ばせないところが多津子の持ち味であり、自らもそこに誠意を感じとっていたのだから、数矢の軽快な人当りがあまりに無垢であると見なす場合以外、首筋から肩にかけて不快な緊張を覚えることもなく、やや誇張ある加減の笑いに紛らわせていたのだ。で、その無垢である場合なのだが、多津子には明らかに嫉妬の念が生じているのは承知しており、なおかつ相手が女性であれば、むろん不本意な情感を押しつけられているとさえ思いながらも、極めて冷静に容姿を観察するこころがまえを放棄せず、美貌であればあるほどに自分の位置を確認してゆくのだった。
「数矢さんにはお似合いだけど、それはあくまでうわべだけ」
落ち着くさきはおおむねそんなふうであり、これは懐が深いというのではなく、情念による情念のための悲喜劇をあらかじめ鑑賞していた結果で、多津子の信念は常に過去形で運ばれていたのである。彼女の一年後はもう日記に書かれてしまっているし、五年後は祭典の記憶となってよみがえらせ、さらに十年さきには退色した木目の家具の肌触りを愛でていた。
信念が情愛に連なるのであれば、不確実で曖昧な現在の意識を認めるわけにはいかず、かといって先送りの実りを願うのは打算を解するくらい罪に感じられた。知り合って半年の間、多津子は恋とともに生き、自分と数矢の距離にとらわれていたけれど、性質の隔たりに嘆くほど愚かでないのは清く了解しており、反対に広がりゆく間合いにちから強く踏み込んでは、信念とは異なる足跡を残していった。
ふたりの道行きには降り積もった雪の気配が漂っていたし、ひとりきりのときには幼い頃、石油ストーブのうえで寒気にもの申す、やかんの湯気の直線的で、しかも神妙な息づかいが放たれ、まだ見ぬ粉雪が舞い降りてくる様を呼び寄せた。
またある日には、そう、ふと深夜に目覚めたとき、世界中が眠りの底に張りついてしまい、必ずしも我が身だけとは考えたくなのだけれども、しじまに促された秒針のオブラートで包まれたふうな鋭角さに耳を突かれながら、外の雨音を緩やかに聞き取った渇いた悦びの上質な感覚が捨てがたくて、自身の感受性に埋没してしまうのだった。
数矢は無駄口も多かったが、そんな一人芝居を懸命に演じているすがたを見逃したはしないであろう、きっと闊達な気性には似つかわしくないと察しているから、あえて言葉にせず、ありがたみのない笑みなんか浮かべてごまかしてしまって、いきなり手を握りしめたり、抱き寄せたりするのだと、、、
多津子の弱みは唯一ここにあった。四季折々の風景が却って自分の位置を定めてくれているような、あたりまえで律儀で、そのくせどこかしら心もとなく、逆恨みをまねてみる気持ちさえ顔をだし、寒暖のうつろいに敏感に反応するのだった。隠しきれない部分は領域である。多津子はすぐに衣服を脱がされるのを極力拒んだ。あたかも素肌が冷気に、熱気にさらわれるのを怖れるごとく。
胸の谷間をくだり、なだらかに忍び寄る指先の動きに反応しつつ、最後の一枚が剥がされたゆくのをまさに不安の目で見つめ、ぼんやりした恍惚と入れ違いになる感覚を、いつしか西日射す港で交差する漁船に重ねていた。方や夕陽を背負い、方や残照を待ち受ける格好ですれ違う、時間そのものが海面に波打ち、安定がおごそかに揺らぐひとときを。
下半身に被さった揺れに身をまかせつつ、多津子は数矢の張りつめたものを飲みこんで、影を想い、出航するからだと、寄港するからだを想像してみた。だが、男の勢いは悲哀さえ表情ににじませながら、激しく燃え上がり、脳裏に映じた北風にさすらうような淡くたゆたう景色を吹き流してしまい、転じてからだの芯に巻き起こった有無を言わさぬ快感につらぬかれ、落陽の赤みは乱れ、全体に全身に波紋となって大きくひろがった。思考が止まりかけたにもかかわらず、多津子はこれで数矢の八方美人を気高い気持ちで許せたと知り、のどからしぼりだすように鮮明なうめき声をあげ、一瞬たじろいだ相手に今度は自分が許しをこころのなかで乞うた。
気が遠のきかけたのは曙光のせいに違いない、真夜中に鳥が巣のなかで壮大な夢を見ている実感を今しみじみ悟り、逃げ去ってゆく信念に再び出会うだろう、そうかみしめるのだった。
[333] 題名:特急列車 名前:コレクター 投稿日:2013年01月14日 (月) 19時08分
長旅を期待しながら列車に乗りこむ風情は眺めるがわとて、ちょうど色づき始めた草花を愛でるふうに殊勝な心持ちへ傾くのだから、どうであろう、この身がすでに車窓のなかに座しているのであれば、それは景色が後方に流れゆくままにまかせた風の抵抗を関知しない、あの気取りを忘れた街ゆく視線をより優美に引き立たせてくれるに違いない。感じうるものはレールの惜しげもなくはじき出す暗算が、耳にしっかり届けられているという単調な、しかし、確実に空間と時間を蕩尽する意気込みが典雅に伝わるのであって、ことさら秘められた野心など持ち合わせる必要はなかった。
駅舎より旅立ったはずなのに、すでに二つめの陸橋を抜け平地へと勢いよく走りだす鳥瞰を得ているのが不思議といえば不思議だったが、旅情に納められた揺らぎはまるで水枕のような感触で後頭部や額を柔らかにし、湛えられた水の透ける様子は車窓のガラスに挑んだのか、実際の風景をこの目に映し出すよりも空へと舞い上がったのだから、これほど心地のよい出発はなかった。
新幹線に乗り換えた覚えはないのだけれども、いつしか私は九州まで運ばれており、それは冬空に願いをこめた想いがかなったのであろうか、北国を敬遠した理由を見いだせないまま、とにかく見知らぬ土地が物珍しくて仕方ない、意想に然うよりも南国の情趣を抱えたく、まさに今の空気を呼吸するのだった。
生来の方向音痴をかみしめるがごとく、ふらりと訪れたのは、こう言うといかにもひと事みたいだが、確かに旅なんて実感をもたらしてくれるよりか、絵空事に向き合っているのを緩急自在に試しているだけだろうから、まして私の意識は車窓の流れにまるで即していたかったので、今回は見物客なかの見物客を装い、ここが九州の何県であるのやら問うことなく、間口がやたらに広々とした湯治場らしき、かなりの年月を経た建物の玄関先をぶらついていた。
「ねえ、しばらく働かせてよ。経験ないけど、わたしこういうとこ好きなんだわ」
「今思いついたのですか」
私はどうやらこの湯治場の従業員に間違われている、が、臆することなくいやに甘ったるい声を出す若い女性にそう問うのだった。
「そうよ、気に入ったの」
若い女の顔が日常領域より迫ってくる。私はにせ従業員の仮面を隠れみのにし、ムズムズする緊迫をやんわり抑えつつ、ありもしない矜持を保つのが優れた才覚であるかのように、けれどもやや気恥ずかしい口ぶりは隠しきれず、
「わかりました、ではあちらの方で待っていて下さい」
と、沈着な面持ちの裏に留め置かれた情感を覚られることなくそう答えた。いや、覚られようが、されまいがこれは矜持の問題なので、湯上がりにしたたり落ちる汗を羞恥へ置き換えるほど気弱でなく、また複雑でもなかった。ただ、女が素直にうなずいて待ち合いの長椅子へ足を向けたとき、急な湯冷めに軽く身震いしてしまった。そう、私は湯上がりだったし、まだ宿泊の手続きも済ませてなかったので、帳場に人影がないの訝しながら、がらんとした広間を見まわし、旅のほどよい疲れとめまいを混同させ、ものの見事にこの空間に張りついている大きな振り子時計へ行きついた。
「3時20分」
私たちはすでに経験済みである。極めて似た状況とまったく同じ気持ちが絡み合いながら屹然と、あたかも鏡のなかの分身から指令される場面を、、、
「さあ、ここがあんたの部屋やで」
ふたたび勘違い、薄茶のえび色がかった割烹着にひと懐こそうな関西弁、私と同年代に見える。
ともあれ言葉のアクセントがもたらす効果は侮れず、勘違いをただす気力がなかば欠けていたのは事実で、先ほどの既視感はしりぞき、妙な気安さと、それは例えば、子供のころ山のふもとでドングリを拾い集めたときに覚えた熱中と、方や無性に殺風景な心持ちが同居しながら寒風に紛れ込んだ思い出であり、その手のあかぎれを見やる乾いて風化している心境に包まれていた。つまりほぼ遊戯に乗っかっている意識からはみ出すことがなかったのだ。
「ほかの先輩らはあとから来るさかい、あんじょう挨拶しときなはれ」
私は若い女性を面接したつもりであったけれど、なりすました仇がこの逆転劇を生んでしまったのか、見習いどころか住み込みの従業員に移り変わっている。そして部屋の様子をつぶさに見ているうち次第に、不穏な雲行きを知るはめにおちいり、それまでの見物客たる安楽さから隔たりを感じないわけにはならなくなってしまった。
廊下からの出入りはよしとして、開けっ放しの障子口が横一列、左右にそれぞれ三部屋はうかがえる安易な造作に閉口してしまい、いくら手違いとはいえ、借りにここで寝起きする身をさっと思い浮かべただけで、明らかに気が滅入ってきた。大部屋に雑魚寝する様相と大差なく、きっとプライバシーもないであろう。
一応幅狭いがベッドはあり、毛布も布団も用意されている。けれども部屋はいたって手狭く、物置き場とばかりに壊れたと思える机型のミシンや、薄汚れた食器類、なにに使われるのか判明しない長い木の棒などが、意味など無用といった有り様で放置されていた。極めつけは右となりの障子から便器が顔を出しており、これには瞬時にして不快な表情を示さなければならない。ところが左右ではなく、もう一方、廊下に向き合った外窓を開けてみると、河川に似た流れがこちらに通じていて、しかもほのかに湯気を立てている。
「ああ、これは温泉のあまり湯でんな、と言うても汚水ばかりとはちゃいますで。こんこんと湧いて出た自然の流れですがな」
この横一列の部屋部屋のしたが川筋なのか、男の話すよう冷気に水面を吹かれ湯気が消え去ると、底の細やかな砂地が透けて見え、それほど深さもなく、思わず「ここから飛び込んだら気分いいでしょうね」と言いかけたのだが口をつぐんでしまった。
もう絵空事ではなくなっていたからである。旅の情趣がこんな形で哀感に転じてしまう奇縁に胸がざわめきだし、両の川岸に少しだけ目線を送り、透明な流れをじっと眺め続けていた。
もう家には帰れないのか、これから何年ぐらい住み込むのだろう、、、あてどもない台詞にあえて抑揚をあたえるふうな技巧を用いた意識は拭いきれないまま、しかし吐いた台詞に痛切な思いが宿るのは否定できない。私は湯治場へやって来たのだ。
「早速やけどな、夕飯の支度や、自炊のお客さんもおりなさるし、わしらが調理せんならんこともある」
そう言うと男はベッドの脇に大きな白い発泡スチロールをどしりと置いた。ふたを開けた途端、私はすぐさま声をあげてしまった。
「イルカじゃありませんか」
「はいな、あんたさばけるか、今日のメイン料理や」
「いいえ、とても、、、」
もうかまわない、私にだって自由は残されている、宿った意識から逃れよう、私は働きに来たのではない、旅に出ただけなのだ。怒りでも悲しみでもなかった、むしろ関西弁の男に真実を告げるのが気の毒にさえ思えていたのだから、激しく重い感情なんて抱えていないのだろう。
だが事情は一変した。男がイルカのあたまをなでたら信じられないけれど、その色は赤茶けたふうに退色し、あまつさえアザラシを想起させる犬に変貌してしまったのだ。丸い目を見開き、両手を交互に舌でペロペロなめだした。私は恐る恐るその未知の動物に手をやったところ、わざとらしくなめていた舌でペロリとやられてしまい、背筋に電流が走り、凝り固まったまま、ひとことも発することが不可能になった。
イルカ犬は、そう私は勝手に名づけたのだが、じっと私の瞳をのぞきこみ、抱きつこうとしたけど、不可避なはずの身はたやすく一歩うしろに引かせられた。このまま、どんどん後退して行けばいい、廊下に戻り、だだっ広い玄関からも出て、特急列車に乗り込もう、そしてもと来た町に帰るのだ。
そんな意識とは無関係にイルカ犬は私と目を合わせたまま、静かに微笑んでいるのだった。
[332] 題名:新・探偵 名前:コレクター 投稿日:2012年12月31日 (月) 16時50分
出来れば259「探偵」268「続・探偵」、もしくはSTORY内「短編」の同タイトルにざっと目を通していただけるとありがたい。正統な続きものではないけれど、まるっきり無関係とも言い難くて、どうしてかというと、あなたがこちら側にいて自分がむこう側の橋から呼びかけているようなものだから、多少の意思疎通とか、了承事項の確認(そこまで面倒じゃないが)なぞ入用な気がしてこないわけでもなく、これは例えるなら、年末風習の年越しそばみたいなものであり、が、別に細く長くなんて縁起でもないし、取り立てて深意があるはずもなく、気楽に冷めないうちづるづっとすすってもらえば幸いなので、出汁に鰹節はもちろん、昆布も敷いておいたら、どうしたのやら、本来うまみ成分が交じりあって香しい味わいとなるところ、卑猥なことにその昆布の切り方が、つまり大変こころ苦しくて、気恥ずかしいけれど、女体の股間に繁茂する黒々しく、艶やかな形状となっていて、それは水だしした結果ぬめりが多いに貢献していると考えられるのだったが、自分としては毛頭そんな期待をしてそば汁を仕込んだつもりなどない、ましてなべに沈めてあった昆布が知らない間に、死せる黒衣のグリーン女史の股ぐらに張りついているなんて、夢にも思ってなかったし、斯様なリサイクル的行状にいたろうとは、いや、非日常的な按配になろうとはまったく予期できるはずもなかった。
あまつさえ真犯人の汚名を着せられ続け、不運の最期を遂げたこの女性に屈折した官能を求めようなど不届き千万、金田一探偵の名推理には感服するしかなかったけれど、三たびグリーン女史のすがたと出会うとはにわかに信じ難かった。しかし、どうやら劇中は収拾つかぬ事態に陥っているらしく、
「だいたいだよ、死人の着物のすそをめくりあげて昆布をだね、そのように扱うとはどうしたもんなんだ」
前回の役者とは違う見慣れない顔の中年男が、激昂しつつもどこかしらくすぐったそうな口ぶりで周囲にしきりに訴えている。まわりの連中にも見覚えはない、知り得るのは困惑気味の表情を浮かべ隅っこに佇んでいる金田一探偵だけである。
「あれは去年の事件でしたか」もの静かだが、腰のあるうどんみたいに芯をもった柔らかな、よく通る声が何故かしら自分の頭だけに響いてくる。おそらく、これは自分の劇中に対するわくわくした気分のなせるわざに違いない、それくらい認識できるよう。いくらなんでも思い上がりと焦燥だけで顔色は変えてはおらず、呼吸をしていない。
また、前回、前々回の失態を繰り返す懸念が相当あり、自分なりに沈着な意識は保っていて、無闇矢鱈に横やりを入れるなど大人げない行動は慎んでいたつもりだ。
さて読者諸氏に理解を促す意味で補足させてもらうと、もはや、自分はむこう側に橋渡しされているようなので、これは毎度のことでもあるのだが、今回こそ、透徹した洞察をもってことに臨もうと意気込んでいた次第であって、言わずもがな、金田一探偵に一歩もひけをとらぬという気概さえ胸裏に秘めていたのだ。結局、劇中であることの自在な不用意に甘んじており、焦りがせり出してしまい、しかも短命であるのを直感的、生理的に予測しいていたから、要は澄まし顔で成りゆきを傍観していれば、醜態をさらすなくて済むだろうし、薄ら寒い思いもしなくてよかったに違いない。
「毒殺だったのでしょう、では短剣をいっせいに投げつけた理由ですよ、あれは、つまり死後痙攣を不気味な甦生と見誤ったわけですな。警官隊のおののきも分からんではないが、早まってしまった、残酷です、冒涜です、更にこの有り様だ。わたしはそこの探偵さんに伺いたいですね、これもなんですか、古くから伝わる地唄とか、なにか由縁のある短歌とかによる、犯人の撹乱作戦というわけですかな」
まるで中年男のひとり芝居の態で台詞はよく行き渡り、他の面々は脇役というより小道具の存在と化してしまっている。増々したり顔になった男は身振り手振りも大仰に、
「あきらかにこの昆布はあるものを隠匿しておると推測されましょう、被害者には気の毒だが、犯人の意図するところは淫らで、他愛もない、児戯にも劣る、変態心理がありありと見通せます」
と、高らかに声を張り上げた。
なるほどと、自分の鼓動は強まってきた。探偵の出る幕ではない、この無名の中年男こそがこの劇の主役だのだ。金田一を脇の脇に添えることで斬新な手法とし、見るものに意外性を授ける。が、自分は慎重であった、裏の裏をかくというのもあり得るかも知れない。そこであえて探偵の表情を凝視することに専念したのだったが、困惑顔が色褪せてしまったとでもいえばいいのだろうか、微笑までにはいたらぬけれど、そのまなざしにはこれまでの名誉に相応しいひかりが備わっており、次第に隠微な面持ちへと変化してゆくのが見てとれた。
とはいえ、早鐘がつくのと意識を抑える葛藤に苛まれている自分が心地よく感じられたからには、幾ばくかの学習能力を身につけたと思われて、更なる事態を飽きずに眺めていた。もう便所に布団が敷かれている気色悪さも、這々の体で逃げ出したい恥辱を受けるはめもないだろう、肝心なのはこの演劇空間を見舞わすことでなく、むろん一点を熟視する執念でもない、それは刻一刻と経ってゆく時間をいかに見送るかに尽きよう。黙視はむしろ自尊心に似た、優雅な調べを奏でる無の音階であった、心の臓が脈打つのを数えているような限りなく無意味でありながら、至上の行為に連なる、神々しいまでの橋渡しであった。
自分の視線は探偵から逸れて、声の主にすべてを委ねるよう軽やかになった意識を向かわせると、中年男は犯行動機を理路整然と解き明かす大詰めを確信したのか、深く息を吸って浅く目もとを落とし、
「ところでグリーン女史が食べたのは、うどんでしたか、そばでしたか」そうおもむろに問うたところ、
菅井きん似の老女が「そばでございますよ」と即座に応えた。
自分はその刹那それまでの平穏な時間に亀裂が生じるのを感じざる得なくなってしまった。菅井きんはいつの間に現われたというのだ。不吉な思惑がもたげ、目が泳ぎだした頃、今度はあの真犯人であった岩下志摩似の奥さんが、
「わたしは申したはずです」とひとこと呟いた。
この場面は終わったはずだ、自分はついに我慢しきれずに劇中劇の階層を深めてしまった。
「いえ、奥さん、あなたはただ煙る線香を横顔に漂わせただけです、なにも話してはいません」
すると、あたかも自分の衝動に被さるよう金田一探偵が低い声色で言葉をつなげた。むろん知っている、探偵は自分の存在を無視、いや感じてはいない、つまりここにあり得ないことを、、、
だが、これで観念してしまえば、新探偵の面目が立たない、意味も意義も必要なかった、悪あがきだろうが、うめき声であろうがものは試しである。
「ちょっと待って下さい、グリーン女史は自分と心中しようとさえしたのでした。覚えているでしょう。昆布に毒薬が仕込まれていたなんて単純すぎるでしょうが、股間に張りつけることによってあえて他殺か自殺かの謎にしてしまった。どうです、古典的な犯行ですよ、もっとも目につきやすい箇所に凶器は転がっていた。が、その昆布を検視にまわせば一目でしょう、そこで裏の裏ですけどね。そばには天かすが入っていませんでしたか、奥さんは語らずとも自分にはそうとしか考えられない」
さきほどまで主役であった中年男、菅井きん、岩下志摩、そして金田一探偵、その他のとりまきらが、まるで夜空を彩る待望の花火を見上げるように自分のほうを振り向いた。夢なら覚めないでほしい。しかし同時に自分は悟っていた。黙って見送ればよいものを、、、またしても、、、いや悔やんだりはしていない、ただそうあるべきものが愛おしいのか、少し戸惑っただけであった。
もう目覚めだ。金田一探偵がわずかだが微笑んでくれたような気がする。菅井きんの言葉が耳もとから遠ざかるとき、これが初夢であればさぞかし愉快なのだが、そう思いつつ、しわがれた声が消え去っていった。
「あたしは見てましたけど、そばに天かすは最初から入ってはおりませんでしたよ」
[331] 題名:賛美歌 名前:コレクター 投稿日:2012年12月31日 (月) 16時48分
アンデルセン童話に「ゆきだるま」という一編があります。
あるうちのにわにゆきだるまがすわっていました。なんだかからだのなかがみしみしすると、ゆきだるまはいいます、おひさまがてっていたのですね。ぎらぎらてりつけるおひさまに、にらむのはよしてくれ、からだがやわらかくなってしょうがない、そううったえたのです。やがておひさまがにしにしずむと、まるいおつきさまがそらにのぼってきます。さっきのおひさまがまたでてきたとおもったのでしょう。でもおつきさまのひかりはよわいのでほっとしました。わんわん、そのときいっぴきのいぬがかけてきました。
ゆきだるまは、ぼくもあんなにかけたいな、うらやましくいうと、いぬはこうこたえます。「あす、またおひさまがぎらぎらひかって、きみをほりにすべりこませてくれるよ」
「いまそらにでてるじゃないか」
「ちがうよ、あれはおつきさまだよ、わんわん」
それからいぬはゆきだるまにこんなおはなしをしました。
「ぼくがチンコロだったころは、いつもへやのなかでかわれていたんだ。ほらまどのむこうにみえるだろう、あれはストーブといってふゆになくてはならないものなんだよ」
「ストーブっていいものかい」
「ああ、いまでもゆめにみるほどさ、そばにふかふかのふとんがおいてあって、ぼくはいつもそこにいたのさ」
「チンコロのときにだね」
あんのじょう、ゆきだるまはストーブをうらやましくおもいましたが、いぬは「だめだよ、きみはとけてしまうよ」
そのばん、ゆきだるまはどんなものかおもいめぐらせ、あさになってしまいました。ひがしのそらから、きのうとおなじおひさまがでてきてかがやきます、ぎらぎらと。
「やれやれ、いぬくんのいったとおりだ」
あたたかいひかりにしだいにやせてしまい、ついにはとけてほりのほうにながされてゆきました。
「さようなら、さようなら、また、らいねんのふゆにやっておいで、わん、わん、わん」
いぬはきのどくそうになきました。ゆきだるまのたっていたばしょにひかきぼうがころがっていました。からだのしんだったのです、こっかくだったのです。
「それであんなにストーブのそばにいきたかったんだね」
じょちゅうさんがきてひかきぼうをへやにもっていきました。
「よかったね、ねがいがかなって」
暮田静夫は教会系の幼稚園に一年間だけ通いました。どんな深い霧の彼方よりもいえ、宵闇の向こうにさえ覚束ない光景はほとんど曖昧です。ちいさな建物でした。幼児ながらそう感じていたのですから、こじんまりしていて、そのぶん園児も少なかったのも覚えています。それが静夫の持っている園内の目一杯の記憶でした。
数枚の写真を後年、見返すことがあり、懐かしさがこみあげてくるかと期待したのですが、幼少の意識はよくもわるくもぼんやりしているので、なにか別の場所を見ているような気がしてなりません。けれども遠足の風景、これは即座に思い出せました。なにせ自分の家のまえを通ってその場所に向かいましたから。
べつに恥ずかしがることないのに無性に照れてしまい、なぜか家族らが顔を出さないことを懸命に祈ってました。そんな心許なさも些少ですけどよみがえります。が、遊戯会でしょうか、しかもクリスマスでしょうか、ツリーやモールといったすっかり見慣れた飾りつけが背景に写っていますので、さぞかし楽しい雰囲気の一日だったかと記憶をたどるのですが、どうもしっくりきません、とはいってもよそよそしいわけではなく、どことなくそこに自分がいたと確信が持てない、それくらい時間は過ぎ去り逆戻りを嫌うのだろうか、、、
静夫は考えました。「やっぱり薄れているだけさ」結論とは投げやりな思惑を過分にはらんでいることがあります。ことさら重大な事件や、激烈な印象に裏付けされてない限り、過去から現在に至る(未来は別口ですね、この場合)現象は透けそうで見えにくい、あるいは気まぐれな邪魔者が鮮明な色合いをまるで枯れたふうに変質させているのです。そのわけはよく理解できませんけど、おそらく老人が青年であってはなにかしら困るのでしょうし、死人が生きてその辺をうろついたりしたらとても敵いません、ましてや好きで好きで仕方ない今は離れてしまった恋人が急に現われ微笑まれたりすれば、平静でいられるはずがないでしょう。
が、多津子さん、きみのことはよく覚えています。写真なんか見なくても時折ゆめになり、情景になり、言葉になります。アーメン
「吹き鳴らす角笛遠く、、、せめて来る悪魔を倒せ、神のちからを知るがいい、少年ダビデ、、、」
正確ではないでしょう、が多分こんな歌詞だったような気がします。いつ歌っていたのかも忘れてしまいました。華やかだったとこころ弾ませていたクリスマス会なのか、普段のお遊戯の時間だったのか、それもあやふやです。色褪せた白黒写真の静夫は三角の紙の帽子を被り、踊ろうとしています。きっと楽しかったのでしょう、ふて腐れながらはしゃいだりする子供はあまりいないです。それほど腹芸を会得などしているはずがありません。しかし、まったくといっていいほど光景と記憶は重なり合わないのです。困ったりあたまを抱えてはいませんよ、ただ困ったと他愛もなくひとごとみたいに感じているだけです。
うれしい想い出は一枚の絵はがきにありました。昭和の中頃です、小さな幼稚園です、豪華なプレゼントなんかもらえるなんてと、子供にしては鋭敏な予想が働いておりました。静夫のクラスは10人もいたかいないくらいの少人数、しかしはがきの種類はすべて異なっており、それはみんな見せっこしたからで、またこれは間違いなく現在からの遠望なのでしょうが、誰ひとり不平をもらす子がいなかった、そう思います。悪くはないでしょう、いえ、絵はがきの図柄です、ひとりひとり、別々な一枚。
大事にしまっておいたのですが、いつしかどこかにいってしまいました。静夫にしてみればかなりの失態です。いまだに小学時代のえんぴつやけしごむも(いくつか)引き出しにしまったあるくらいですから。
土団子は嫌いでしたね、多津子さん。反対に静夫は泥をまるめ細かい砂をまぶし、まるで宝石のように園の裏庭で熱心な遊びに興じていました。これまた不思議なのですけど、そんなに没頭し執心した土団子を決して家に持ち帰ろうとしなかった、いいえ、先生に禁止されたわけでもありませんし、逆にかばんに入れるなりして家の土間でもいいから保管しておいたほうが安全なわけです。いつ壊されるか、とられるか、しれたものでなかったはずです。しかし、静夫は土団子をまるめては裏庭の片隅や草むらの影にそっとひそませておきました。
後年の収集癖、物欲派としてみればおおいに首を傾げるところです。
[327] 題名:妖婆伝〜その四十七 完結 名前:コレクター 投稿日:2012年12月17日 (月) 15時55分
「夜明けにはちと早いようじゃが、あんた、眠れんかんったな、まあ、なかなかこんな夜話しを聞かされることもあるまいて。さてと、わしの物語もそろそろ終わりよ、もう酒はよいか、なら冷たい麦茶でもどうだい」
「はあ、もらえますか」
「舟虫や、よく冷えたのを頼む」
「で、なあ、阿可女はともかく古次が生きておったとはお釈迦さまでも知るまいて、もちろん間延びしたときを愛でたい心許なさが作用しておったに過ぎんがな。いうまでもない、黙念先生じゃよ、変幻自在、神がかり、清流の主にして厭世家、かと思いきや、罪つくりの天真爛漫、生きながら死に絶える賢者、愚人、悪鬼、どうしようもない惚け老人、くだらぬ気分屋、、、が、口答えする気力は尽きておったわ。面倒になった、馬鹿臭くはないが生真面目でいる必要もあるまい、別に空とぼけていたでないよ、ただ、旅の終わりに相応しかったんだろうな、中左衛門みたいに融通の効かぬ最期、まあ本人は救われたのかも知れんが、わしから言わすと、愚の骨頂じゃ、来世で会いましょうとな、勝手にどことなり行くがよいわ。
もろ助よ、とことんしらを切るつもりか、ええよ、ええよ、好きにすればよい、ところで阿可女さん、中左衛門にからだを許したとはまことでございますか、この観音さまには不届きな口を利くつもりはない、古次が化けて出るなら、このわしとて舞台から引き下がりはせんわ。阿可女は軽くうなずいたのみ、さほど大義でもなければ悔いも恥じらいも見当たらぬ、わしの思惑なぞ歯牙にもかけん典雅さよ。素晴らしきかな、金目流とやら、積もる話しは山ほどあれど、そっちも億劫になってきた。
さて湯浴みじゃ、垢まみれはごまかしようがないからの。想えば、妙をたぶらかしたのも湯けむりに紛れたほんのりした意想じゃった、嘘ではない、強欲めいたもの言いをしたから、いやせざるを得なかった故あんたには欲情の権化、捨て鉢の刹那と聞こえただろうが、そうでもないわな。毛穴にぬくもりがしみ入るごとく、股間に湯が浸透したまでのことよ。妙の初々しさは二度とめぐりはせぬ、いくら股間がゆるもうと、うなぎがもたげようともな。
道場とは借りの名、寒村の民家じゃ、湯船もこじんまりとして、懐かしい我が家に帰ってきたような感じさえよぎったわ。終わりが肝心というが何どうして、あっさり話しを締めくくろうぞ。
妙の面影やら小汚い湯船でそれなりの想いにひたっておると、古次が全裸で入って来ての、これにはさすがに戸惑った。お背中でも、冗談でない、そんな台詞なぞではないわ、こう言うた。小夢さまわたしと夫婦にそう申されましたな、しかと引き受けいたしましょう、嘘偽りありませぬと感じ入りました。さあ、閨にて契りを、そのまえにわたしも身を浄め、、、ああ、そうであった、あの夜、わしは古次に向かってどうして忍んでこなんだと詰問したのじゃ、よもや斯様なかたちで循環されるようとは、、、
古次の陰茎はいきり立ってはいないが、瑞々しい張りをしめしておった。のんびりでもないけれど、あえてこの場はゆったり湯に沈んでいたかったものを。
しかし悠長に構えているべきでないのは瞭然、今わしは人生最大の奇跡に立ち会っておるのだ、天に昇る心持ちが狭い了見に整然と収められているのなら、奇跡のときも大仰に振る舞うまでもなかったけれど、儀式こそひとを正す枠組みよ、遵守いたそうではないか。が、たとえ黙念先生の教えたろうと、素直に従えぬ、いいや、駄々をこねておるわけでないよ、いくら変幻とはいえ古次、いやもろ助と性交するのはちと抵抗がある、なんとかならぬか、、、よい知恵は絞りだせんかったが、こう思った。阿可女と瓜二つの顔立ち、先に問いかけたのはわしからじゃ、阿可女をくれるならとな、ならば古次には多少わしの言い分も聞き入れてもらわんと困る、黙念先生とて困っていただこう、なに、他愛もないことよ、これよりの契りはいわば祝言、が、そんじょそこらの婚姻とは破格の違いがあろう、でな、湯上がりを待ってわしは古次にあたまを下げたんじゃ、そりゃえらそうには言えんわな、事情が事情よ。
なあ、もろ助、せめて紅を引きおしろいをほどこし、おなごの装いにて枕をともには出来んだろうか、おれはおまえの女房になるんだよ、阿可女さんはもう諦めた、そんな調子のよい夫婦と兄妹なぞあり得んわな、おれは案外まともなんだよ、おまえや随門、金目、すべてまわりのせいになんてしたくはない、たとえ外がなにもかも狂っていようが、おれの狂いはやはり正しい、それでいいじゃないか、わかってくれ、まともだろう、だから頼むから阿可女に扮してくれないか、どうせ着物を脱げばふぐりも堅物もあらわになる、せめて小さな夢をあたえてもらえないか。切実な懇願、いや哀願、土下座寸前だったわ、ところが甲斐あって古次は快く願いをかなえてくれた。
三三九度も執り行ったとな、ああ、それはそうじゃろ、阿可女も参列じゃ、そのまえに初夜の様子を聞いてくれるか。わしだって浮き浮きとは思い返したくはないよ、しかしな、あんた、信じられんことが起きたんじゃ、そこだけでいい、実は話したくて仕方がないわ。
おそらく阿可女が細々と手伝ったと思われよう、それは見事なおんな振り、交わりに角隠しはどうかと訝ったけれども、上手い具合に、そうとも双子なのだからなあ、これが当たりまえなのだろうな、うなじまで白塗りの美貌は冴えに冴えて、一刻も早く夜具に押し倒したい情欲にかき立てられた。声は上げん、古次は心得ておる。帯に手をかけ裾をかきわける按配は躊躇われ、破れかぶれに胸もとを暴いたとろこ、わしは目を疑ってしもうた、たわわな乳房とまではいかぬが、おしろいの白さに導かれたふうな柔らかで優し気な隆起が胸に備わっている。ちくびさえ充血したよう膨らんで見えるのは錯覚でしかないのかや。見せてくれ、もっと見せてくれ、、、阿可女に扮した古次こそ錯覚と思いなそうと努める悲痛な欲情は、直ぐさま肌に触れることを拒み、かすれた声が次第に内なる響きとなってゆくのを粛然と悟り、ふせた左右の瞳に輝いているだろう鮮血をよみがえらせる、赤く艶やかな唇を吸いに吸った。もはや手先はおろか、足の指までじっと留まる意義を忘却している、わしは女体を演じた古次の胸をさすり、自らの衣を速やかにはだけると、そっとまぶたを閉じ古次を迎え入れた。興奮や快楽とは異なるが平たく浅い、けれども砂地の落ち着きを決して損なわない遠浅の白浜のような汚れを知らぬ悦びに溺れた。
海流に揉まれ、波濤に呑まれ、やがて潮溜まりに取り残されたふうな小さな甘えにも似た嘆息が閨を浜辺から遠ざける。小夢さま、、、古次の声色に異変はない、が、わしは毅然とこう応えた。小夢と呼んでくだされ、その夜は記憶を消し去ろうと躍起になっていたけど、自然の理はときに破れた。
祝言というてもほんのまねごとよな、金目なり黙念先生、古次の亡霊と来れば、あんたも期待しようが、形式なぞ終わってしまえば、あとかたも残らぬ。古次は、いや黙念先生はもっとも最高の幸せをあたえてくれたに違いない、そう知るまで幾年かかったことやら、、、
翌朝、庭先において古次はあの中左衛門が自決の際に用いた剣を手にし、抜刀するやいなや、有無を言わさず阿可女を袈裟斬りにした。ほぼ即死であった、崩れ落ちるより軽やかに女人は地に倒れこんだ。
わしにはもう何がどうしたのか皆目見当はつくはずもなく、叫ぶことさえ出来ず、無言のまま風に吹かれているしかない。
小夢よ、古次が死ぬとき、わしも死ぬ、とは申せ死んでばかりはおれん、阿可女の魂はこの身に宿ったぞ、おまえは女体を愛でたのか、それとも魂に恋したのか、まあいい、即答なぞ一番の方便に過ぎんからな。口外は無用よな、さあ、これよりわしは古次であり阿可女となる。おまえが腹の底で望んだことよ、現実とは厄介なものよなあ、断層のずれのごとくちぐはぐに即す、、、これが黙念先生が発した最期の、いいや最初かも知れんな、わしには割り切れん言葉であった。
阿可女の亡きがらは魂を失っておらぬという古次の確信ゆえ、鳥葬をもって別れとした。中左衛門は廃墟の片隅に葬られた。ああ、これは余談だが、ごん随の婿取りなあ、そうじゃよ、真意のほどは知らぬがわしの子息だそうだったが、気の毒なことよ、婚礼の日取りが決まって数日のちに急死したそうじゃ。連鎖かのう、随門師匠もほどなく病死、とはいえ流派はごん随がどうした仔細かは存ぜぬけど引き継ぎ、途絶えはせんかったそうな。ああ、そうじゃ、かなりの月日が経ってからだった、の毛子が一度、この地を訪ねてくれたことがあってな、お互い笑顔で向き合った想い出があるのう。
これから先は物語でない、だから特別に語るべきことはこれにておしまいじゃ、おっと舟虫はまちがいなくわしの孫娘よ、つまり古次との間に子が生まれ、その子が舟虫をという摂理だから秘密めいたことはそこにない。もし聞きたければ話してあげようが、あんた、峠を越えなきゃならんのだろ、残念だったのう、もう一息で舟虫はあんたとねんごろになれたかも知れぬわ、はははっ、ところで、あんた、どうして峠越えを急がれる、ほう、そうだったのかい、地質学者かいな、で、明日の研究会に代表として是が非でもと、、、その足でそのまた峠をなあ、少しでも横になって行きなさい、心配せんでええ、ちゃんと起こしてあげよう、わしはくたびれた年甲斐にもなく喋り過ぎてしもうたわ、どれ寝るとするか、明日は見送れんがな、代わりに舟虫が名残り惜しそうな顔で手を降ってくれようぞ、これはちいとばかり大袈裟かや、では達者でな」
完
[326] 題名:妖婆伝〜その四十六 名前:コレクター 投稿日:2012年12月17日 (月) 05時22分
開いた口がふさがらない、両の目も開いたままだし、鈍いというより金属をこすっているような鋭い耳鳴りもする。しかし、金切り声めいた異音のせいで、中左衛門が語った、家元、女史、阿可女、それに古次の言い分など粉々の散ってしまい、さながら旋盤で切り抜かれたちから強くも、不快な音響が山々にこだました。
「なんと、言われました」
小夢の声はあくびを逆さに流したふうな頼りなさでしかない。
「阿可女さまを抱いた、全裸にいたしてすべてをむさぼったのでございます」
「犯したと、、、」
「どうとなり解釈してくだされ、ただし阿可女さまは抵抗なさりませんでした」
「根図どの、わたしはいま激しいめまいと耳鳴りを覚えています。けれど、奇妙なことに申された男女の交わり、おふたかたのですね、ありありと眼前に浮かびあがって来ます」
「結構なことですな」
「そうでございますか」
根図と阿可女の裸体が明確に脳裡を支配した刹那、弓矢が射られるより迅速にふてぶてしい感情がわき上がった。
「密偵なる任務は役得があると言いた気でございましょうが、はて寝図どの、お気は確かでござりまするか」
「ほほう、それがしを気狂いあつかいされるわけですな。それは勝手が違いましょう」
「無礼な、貴殿こそくせ者、わたしはうなぎでございます、やんごとなきお方より暇を頂戴したとも知らされております、が、少なくとも目一杯、苦しんだつもりです、懊悩苦悶を逆手にずいぶんと無茶もしでかしました。でも、貴殿のような無頼漢ではありませぬ」
吐き捨てる勢いの小夢に向かって、中左衛門はこれ以上の慈しみがないといわんばかりの表情をしめし、
「問答と参りますか」
「馬鹿にされても結構、しかしお相手はいたしません」
「馬鹿も賢者もありますまい、それは金目全滅斎どのは賢人でありましょう、が、われらは如何なもの、小夢さまは転生されたそうでございますね、本来は雄うなぎとやら、で、あるとき奮起して妙齢のおなごに潜りこんだ。古次さまも左様なこと申されておりましたなあ」
「貴殿は知っておろう、意識の在り方の根源を、、、わたしはうなぎ男としてある日突然目覚めたわけでありません、あの清流の川底を知り、蛇のもろ助は知己でありました、転生の由縁は貴殿なぞに聞かせても仕方あるまい。でもこれだけは申しておきます、川底の顔炭のまじまい、やっと理解できましたぞ、随門流はあの奥義を求めておるのじゃ」
「さあ、それはどうしたことやら」
「とぼけなさるな、わたしはよく覚えています、随門師の怖れおののいた顔を」
「どのような顔でございました」
「ええい、もうよい、わたしは語らぬ、なにが金目流です、気狂いの正体が見たければ、今すぐここでわたしを斬りなさい」
「物騒ですぞ、小夢さま、それにそのように憤慨されては肝要の阿可女さまに会えませぬぞ」
さすがにその言葉は冷静にさせる効果を授けた。
「根図どの、なぜ阿可女さんと交わったのです」
「これは又、鏡に向かって問うておるみたいですな。あなたさまと同じ心持ちだからでございます。切に願ったからに他なりませぬ。たった一度、今生の願いとあたまを地べたにすりつけ一心に求め続けたのです」
「さすれば」
「わかりましたと帯をほどき、裸身をさらしてくださいました」
「阿可女さんが、、、」
「なにを不思議がっておられる、小夢さまとてご本人に申し上げたのではないのですか」
「わたしはそこまで、、、」
「阿可女さまの代わりはおられましたはず」
「それは、、、」
「別段、よろしい、さて、そろそろおいとま致しましょう」
「何処へ行かれるのでございます」
「聡明なお方とお見受けしておったつもりでしたが。小夢さまは来世を信じられますか」
「えっ、なんと申される、まさか、、、まさか、、、」
「そのまさかですから、致し方ありませぬ。少々腑に落ちませんが、、、もろ助とやら、古次さま、それがし、と来た、本来なら随門師が順次、この世にはまこと人智に及ばず事象だらけでございますな、阿可女さまをお抱きする時間だけは許されたようなので、これまた不可思議、では御免、来世でお会いいたしましょうぞ」
最期は雄叫びに近かった。密偵の役割とて分かったようでなにひとつ語れない、ただ中左衛門が武家であるのはなんとなく納得がいった気がした。あくまで気がしただけであり、武家が切腹する理由は知らない、根図中左衛門が自刃するその真意を知らない。
小夢の一帯に激しい血しぶきが舞い上がった。中左衛門はすでに正座したままの格好で前のめりの上体をかろうじて保っていたが、それが意志によるものか、尋常ではない出血をともなった激痛による昏迷か、はたまたもはや意識を喪失し、肉体のみが空騒ぎしているのか、判別つきかねた。認められたのは中左衛門は腹に刀剣を突き立てたのではなく、束を両手で下方に握りしめ、あごから首筋に添って深い傷あとを残していった紛れもない情景であった。見事なまでに直線に裂かれた傷口は、古びたのに真新しく感じる建具の亀裂を想起させた。双方のまなこは決して安らかではないが、眠りついたふうな静けさに囲まれている。のどぼとけに損傷が見られなかったので、小夢は中左衛門が遺言を呟きだすのではないかと目を凝らしたけど、見る見る間に蒼白の度合いを増してゆく顔面へさすがに期待は寄せられなかった。木枯らしめいた風がかすかに遺体の背を震わせたのが、亡魂らしくもあり、小夢の情感をからっぽにするのだった。
「根図どの」
ひとことだけささやきてはみたものの、底の底まで凍てついた水面の険しさが無言でひかりを放つよう、合図には無縁であり、指標とも関係なかった。しかし、小夢のこころは満ち足りていた。やっと到達することが出来たのだ。阿可女だって生きている、ほんの今しがた中左衛門はその肌のぬくもりを冥土へ持って行ったのだから。
金目流、、、随門があわてふためくはずよ、古次が取り乱すのも無理はない、、、黙念先生、大山椒魚の先生でなく、生身の人間としての先生、、、呪詛は必要だったのですか、これが奥義なのですか、ではどうしてこのわたしに効験が現われないのでしょう、随門にしても。
わたしはひとでなしでございます。うなぎなしでもあります、ひとの親として子なぞ可愛がった覚えもなければ、わたしを産み落としてくれた親に敬意を払った試しもありません。行き当たりばったりの情欲を仇と見なしつつ、裏ではそっと手をまわし、もう一方の手がいさめるのを待って罪として参りました。ほとんど無風に舞っている風車に時たま旋風が訪れると、盛んに意気立ち、生気を取り戻したような錯覚にとらわれるのをさわやかな生きがいと思いなしておりました。阿可女は悔やんだりしないでのしょうか、まだ、、、ああ、解けました、解けましたとも、、、黙念先生、阿可女こそ真の弟子だったのでございますね。わたしは気狂いなのですか、人間としての感性をほぼ欠落させているのでしょう、中左衛門や古次の気概がよくわかりました。先生と阿可女は人間ではないのですね、、、
そのとき聞き覚えのある声が小夢を呼んだ。もう振り返りたくはない、が、執拗に名を呼ぶ。ついには、
「いつまで茫然としているのです。さあ立ち上がりなさい、わたしを抱きたくはないのですか、わたしに会いに来たのでしょう、幻滅斎さまもご一緒でございます。しっかり見届けましたよ、中左衛門は黄泉の国に旅立ったのです、ああいう運命だったのです、しかし、あなたは違う、さあ、道場はすぐそこ、随門師の伝言、いやごん随女史のですか、承りましょうぞ」
逆光を背にまばゆく受けた阿可女は神々しいまでに清楚な微笑で佇んでいた。半歩下がる按配に人影が見えたが、強い光線のため判別がつかない。が、それも指折数える間もなかった、同じ顔、同じ笑み、古次ではないか。小夢は第一声が叫びや悲鳴やうなりでなく、言葉を選ぼうとして反対に言葉を見失っている滑稽な有り様を感じ、指先はいうに及ばず、脳天から尻の穴まで生気がゆったりと流れてゆくのが分かった。急にうれしさがあふれだして来た、涙がとめどもなくわき出し、わざとのろのろした足つきで両人のもとへと歩んでいった。そして古次の面をしみじみ見つめこう言い放った、
「なあ、もろ助や、阿可女さんをおれにくれよ、その代わりおまえと夫婦になってやるからさあ」
古次は目を細めるだけで返答がない、阿可女はおかしさを堪えているふうに見えた。
「駄目なのかい、駄目なのはおまえらだ、兄妹で祝言はあげれないんだぜ。神話の世界じゃあるまいし」と、言いかけたところではたと口を閉ざしてしまった。あとを継ぐよう阿可女が言った。
「それは名案ですね、三人仲良くってことでしょう」
まさに助け舟、だが、泥の船かも知れぬ。小夢は慎重を期する態度でこう返した。
「道中、疲れたました。湯船にゆったりつかりたいものです」
「ではご案内しましょう、小夢さん」
天にも昇る気分とは案外、こうした状況を指すのかも知れない、能天気など浮かれた情態でなく、この身震いがどこからやって来るのか確かめられないという感覚を如実に知る狭い了見のことである。陽が翳った。
[325] 題名:妖婆伝〜その四十五 名前:コレクター 投稿日:2012年12月17日 (月) 01時52分
山頂に近いのだろうけど、木枯らしが辻角を吹きすさんだふうな、そっと人影が退いたような、嫌に喧噪を押し静めている感じがして、小夢は周囲を思わず見渡した。もの言わぬ枯れ木の束が一様に迫ってくる不快な渇き以外、冴え切った冬空は思ったほど垂れ込めてない。
「どこからお話しいたしましょう、古次さまが幼少の頃、それがしの思い出、いかがお受けとりしましたのやら、阿可女さまとの婚礼なぞ子供騙しの支援、まことに陰険な計らいとさぞかし不審を募られておるでしょうな。次子どのにあたられる赤子は身分の高い大名の側室が旗本へ授けたに相違ありません、詳らかには出来ませぬが、それがしの使命はその赤子を暗殺すること、手違いとでも申しておきましょうか、一端手放した子息のお命を奪えとはただならぬ理由があったのでございますな。いえいえ、借りに詳細を把握していようともこればかりは口外いたせぬ。もとより小夢さまには関わりのないこと、双子の兄妹かたには運命の岐路と相成り申したが、いかんせん任務遂行にそむけるはずもなく、とはいえ、不幸中の幸いは古次さまの純愛とも廉潔とも称されましょう、あっぱれな心意気、年少の心持ちながらそれがし甚く感銘を受けました次第、口数こそすくなれど対する阿可女さまの心情もまた清かれし」
確かに古次からことの顛末を知らされていた小夢は、中左衛門の語り一辺倒でこと足りたのだったが、あやまちがあると言うからには齟齬をたださなくてはと、かねてより古次が口にした事情を逐一述べたのだった。すると、
「睨みの術でございましたな、それは熱心に励んでおられました。いやこれは不謹慎な言い様、とにかくでございます、古次さまの執心はそれがしのひとこと、そうです、邪魔が入り申したのひとことで堅く定まりました。しまいには早う首をはねてしまえ、おまえの正体は刺客であろう、さもなければ斯様な讒言をひそかに申すものか、もたもたしておれば、父上に言いつけるぞ、と、純朴な恋情が邪心に張りついている様は実に恐るべき、非情をもって任とする身にずしりと突き刺さった汚れない悪意、こちらが奮い立たされるありさま、取り急ぎえせ験者を探し出したのは実際でございました。さてお祓いの儀こそ、まさに格好の暗殺舞台、邪霊の仕業なりと吹き込んでおきもっともらしい因縁も言い聞かせておけば、験者は安直に利用しおって騒ぎだす始末、欲の皮が突っ張っていたのも機宜であった、あらかじめ過分な祈祷料を手渡し、大仰な振る舞いに越したことはないと、猛毒の入った御酒をあおらせていたのでござる。
首ですな、そうでございますとも、それがしが一刀にて。屋敷内の周章狼狽ぶりもさることながら、当主さまとて、それがしが忠言いたした折より怪訝な顔色もとに返ろうはずもなく、いわば不測の事態を予期おられたご様子ならば、そっと耳打ちを、お家の面目に結びつかれるは必至とみました、どうぞ、この場はそれがしにと、はなから下賜に似たる養子縁組、入り組んだ政情を呑んでこそ、なら当主さまの畏怖はごもっとも、こうして何者も寄せつけず、それがし堂々と屋内に足を踏み入れ、素早く一命をば頂戴いたし、懐から包みをひろげ首をば天上裏に忍んでいた手下に放り投げという経緯でございます。怪しきからくりとは存外このようなありふれた仕様、しばらくは町中ありとあらゆる憶測やらが飛び交いましたが、蓋を開けてみれば皆の大変な驚きこそまさに風聞でしたな。ただ古次さまは観察しておられたに相違ありませぬ、そうでありましょうぞ。ところでそれがしは裏門より配下が用意した駕篭にて退散、次子どの首級ははてどこに持ち運ばれたのやら、これは真実それがしの関与するものでござらん。その後の足取りは側室さま擁護の御仁のもとに赴き、遂行の次第を報告仕り、捜索の目をかいくぐる為、難所を抜け、山越えし、ときには変装しまして都の雑踏に紛れ込んだり、ほとぼりの冷めるのを待ってここ金目流へと身を寄せたのでございますが、それはすでに判明いたしておりますな。人相書きなぞも出回ったと聞きましたけれど、予断なき情勢、側室さまの急逝ならび御仁の失脚に伴いましてそれがしの立場も危うくなったというわけです。なんでも大名家はご安泰、派閥闘争の影も消え去り、忌み嫌われしも体面を保ちました旗本屋敷とて、怪事件を話頭にするものなぞいなくなり、当主さまは絶縁した兄妹の復帰を願っておるとの伝聞、が、体面が汚されたのも確かなら、いささか気弱な性情のお方、あたらに子息が誕生なされたことも重なり、ふたたび奇禍は避けたいのでしょう、たっての願望とまで相成っておらぬご様子、また、これは阿可女さまより近年うかがったのですが、形ばかりの申し入れが為されたのをいち早く察知した古次さまは、言下にこれを退けられたと申すのですな、武士に二言なし、父母の情を情として汲んでおらぬ身からしてみれば当然、二言もなにも、阿可女さまと離ればなれになることない暮らしぶり、復縁を望まれるなどもっての他、そのさきの模様については語るべくもあるまい。
次に金目流の趨勢について知っていただきたく存じます。さきほどの廃墟こそかつての大屋敷であったのは紛れもありません、ただし昔日の華美でございます。もともと南朝の流れを汲む流派として栄えておられたそうですが、世襲よる家元の君臨より、芸の奥を極めた達人のみが秘術を伝授され後嗣と任命されし流派、家元ともなれば余人のうかがうすべもない、それはそれは秘匿された芸風であったとか、ゆえにあまねく高名は知れ渡れど、門人は少数精鋭の結社のごとき呈をなし、これは随門流も同じくでございまするな、という次第でひとくちに華道と申しましても、凡常の技芸ではござらん、むしろ常軌を逸した光景にまみえるとさえ評されたといいますから、優雅や華飾とは無縁の道を切り開いていかれたと承っており、位の高いお方らにも疎まれ出した頃にはすっかり名誉は下り坂、反対に冗漫を廃し、毒舌的ながら芯だけを一輪残したふうな極めて禁欲とも見間違うであろう随門流は、その質素な様式ゆえにいたずらに晦渋さを擁せず、まるで座禅のひとときのような緊迫と安逸の雰囲気を醸していたそうでございます。もちろん解脱とか悟りには似ても似つかぬのですが、そうした気安さが連綿と生きながらえてきたのでしょうな、金目流の哲理の壁にさえぎられたふうな重圧は感じられませんでした。
さてではいかなる由縁にて金目が残存し、ひいては阿可女さまのこころを奪い、謀反と呼んで差し支えない所業に至ったのか、簡便に説明いたしますと、まず随門師は金目幻滅斎どのを非常に崇拝していた、師本人は決して言葉にする機会はありませんでしたれど、揺るぎない事実なのでございます。更にあわよくば金目の奥義を頂戴したいという隠れた非望があった、これは外部はおろか門弟たちにさえ勘づかれてはならぬ、、、もうお分かりでしょう、小夢さま、兄妹の情愛を知りながら身分の隔たりをつくり、不能でありながら阿可女さまを寵愛されていたのは、他でもありませぬ、双子でありながらですぞ、古次さまの凡庸な熱情に感心しながらですぞ、随門師は妹の才覚を鋭く見抜いておったのでござります。こやつなら金目の秘術を体得出来ると。小夢さまが家元に建前のうえでは招聘されたのはご存知ですな、そうです、蛇の一件でござる、古次が身を寄せたばかりの夜、自分はもろ助という名の蛇であるとの迷妄、随門師はあなたさまには古き記憶がめぐった、それで公暗和尚に願って身をあずかったと申されたようですが、それも一理ありましょう、けれど本意は双子として阿可女もまた転生を口走るかも知れぬという期待であったわけでして、此度のごん随女史の婿入れなぞ、一石二鳥をうたったいわばよそ目に向けさせがたいが撹乱、真意は阿可女さまの開眼にあったのです。それほどあの方の才覚を感じとっていたに相違ありません。
多分すべては話しておらぬでしょう、しかし家元は金目流への修行を強行しようと説得にかかった、阿可女さまの沈める希望とひきかえに、、、そうです、古次さまを跡目にしようという口約でございます。阿可女さまからこうお聞かせいただきました。束の間じゃ、おまえなら金目の秘術を簡単に会得できよう、金目と随門が今こそいにしえのときを経てひとつになるのじゃ、と。
兄妹の身分を隔てただけでは気が済まぬ随門師は、言葉を交わさぬとも意思の疎通が可能であったことも知っており、妾同様に閨にて女体をまさぐり続けていたです、阿可女愛しさに違いなかろうでしょうが、目的は古次さまの炎のごとく嫉妬と屈辱を欲したからでございます。耐えきれないのは古次さまより、あのお方、、、そこまで算段しておったのです。泣く泣く承知いたしたのはそれとなく気づかれたでござろう、阿可女さまとて都合よく兄が後嗣に治まると甘く考えてはいませんでした。そこで牽制するがごとく小夢さまを間に挟み、家元の腹の底を探ろうとしていたのでございます。だが、肝心の古次が情愛より、ひととしての矜持を最期に選びとってしまいました。それがしが古次さまの刃傷沙汰を自決と判じるのはそうしたわけでなのです。家元、女史、阿可女さま、それぞれの言い分をお聞きなり、ようやくその真髄が見えてきませぬか、わずか数日の狂おしい時間によって、、、
さて金目の秘技さえ持ち返ればですぞ、口約ながら古次は家元、おそらく流派が二分したなぞ屁理屈にてごん随女史の婿どのも家元と相成る、火急を要したのは小夢さまの身元調べを綿密に公安和尚を介し行なっており、いよいよ一石二鳥の慶福が近づいたからでございます。
それがしがこの地に参ったのは半月ほどまえ、とが人でしかなくなったからにはこの陋屋こそが相応しいというもの、おお、そうでござった、それがしの事情と申すか心情を開陳しておりませなんだ。ほんに短い逗留でしたが、思い返せばあの兄妹は監視下にあったも同然、いいえ、それがしは随門流には赴いてはおりませぬ。
こう申しておきましょう、小夢さま、それがし金目幻滅斎どのと会見出来ましたより、阿可女さまを抱いたことのほうが至高の幸せ、思い残すことはなにもありませぬ」
[324] 題名:妖婆伝〜その四十四 名前:コレクター 投稿日:2012年12月11日 (火) 06時07分
駕篭の中からもの言うことは自ずと躊躇われた。自然の理に逆らうふうであり、禁句同様にはしたなく、また悪あがきに似た見苦しさを承引していたからである。雲助と侮ったつもりはなかったけど、家元の手配した駕篭かきが慣れ慣れしく話してくれるはずもなかった。小夢の念いはくり返し、阿可女の面影へと沈潜していくしかない。
家元の言い分を額面通り受け取るなら、ここが思案の別れ道なのだが、傀儡としての役割を成し遂げれなかった処罰により憂き目をみているのやら、それとも随門の乱心を看破しており、善後策を講じる為さほど不遇の身におかれているわけでないのか、以外や金目流に救われた念が強く、おおらかな心持ちで過ごしているのやら、が、もっとも憂慮されるのは追手とは名ばかり、用済みとして送られてくる門弟をいかに迎えるべきなのか、更には古次の死をどう胸に収めて、いや収まりきろうはずがない、そう考えるのが至当、善きにつけ悪しきにつけ、小夢は阿可女に合わす顔がないにもかかわらず、この期に及んで尚おのれの命とひきかえになど、過剰な大義をふりまわし激しい情愛の炎を燃やし続けている、自身の熱病こそ鎮静されなければならかった。
小夢の意識はこれらを順繰りに反芻させてみたけど、希望と絶望の配分を覚えないまま撹拌されるだけだったので、所詮は憂いの域から脱することなく、血なまぐさい幻影に彩られるのが関の山、さっぱり埒があかなかった。熱病を引き起こしている当人にとって思案とは迷宮でしかない。
昼までには目的の地に着けると聞かされて言葉だけが頼りになった。そして激情と戦きで胸いっぱいになったあり様を笑い飛ばし、次なる冒険へと飛翔してゆく説話の王子さまの心意気に転じてみた。この意識変化は無謀でもなければ、笑止千万でもないであろう、思考が停止した限り、残された術は心身が待望している未知の領域へすべてを投げ出すより他になかった。
木々の間を駆け抜ける駕篭に注ぐ木漏れ日が密かな快感に変わるとき、すだれの編み目を通し、着物の紋様を小気味よく、優雅に明るく染め直すとき、半面に浴びた光線の点滅する加減はまたたきに準じて自在を得る。頬を黒髪を、矢継ぎ早に差すひかりに乗れば、夢幻はうつつに捕らわれ、山々の霊気を身にまとい、ひたすら狂女の面持ちでまだ見ぬ景色さえ睥睨していた。火急の折だからでもなかろう、小夢に去来する光輝な地平は極々ありふれた瞬間に現われていたような気がする。これは捨て身の覚醒であろうか、いや、阿可女の顔かたちまで薄らいでしまったからには本然と認めるが正しい、宙に浮いたこの感覚、まさに桃源郷に違いない。
こうして小夢は女々しい葛藤を経て、理性と狂気の境に立脚した。もっとも浮遊していたのでこの言い方は適切ではなかろうが。
「あねさま、到着しました」
えらく丁寧な響きで駕篭かきふたりが揃って声を出したのが不気味なくらい愉快だった。
「ご苦労でありました」
小夢の声音にも狂女の汚れない優しさがこもっている。だが、こころの底から湧いて出たような気持ちが純真無垢でなく、選ばれし演じられる表情をなぞったに過ぎないことを瞭然と思い知らされた。
冒険の果て、希望の地平、うつつの本山、、、眼前に映じているのが金目流に違いなかろう。駕篭かきに問う気力は抜け落ちていた。小夢の瞳の奥にまで確実に満たされているもの、それは廃墟に残された陋屋でしかなかった。
「あっしらはこれにて御免仕ります」
一礼に応えてはみたものの、又ふたりのうしろ姿を見つめていたけれど、切り開かれた山間の荒涼たる風景にたたずむ意識が遠のいてゆくのを放置したまま、目線を那辺に泳がせればよいのか判断つかず、茫然と立ち尽くすとはまさに現状を指し示すのであろう。
牢獄でも処刑場でなかった、、、では姥捨て山か、ふたたび狂女の笑いがこみあげて来たが、無垢と擬態の相違に悩まされ煩わされることはもうない。随門の悪巧みに関心する間も無用、の毛子の言葉は枯れ葉のごとく空を彷徨うけれど情感と切り離されている、阿可女の姿態が寒空に大きく広がったのも錯覚なら、金目流の栄華こそ、この寂寞とした枯れ野に眠っているのだろう。正午らしい天上に太陽が輝いている。木漏れ日には格子戸の向こうを想わせる隠微な陰り、そして奥床しいさがあったけれど、こうもありありと頭上を占領されてしまえば、だらしなく降参するのが似つかわしい。白日のもとに晒される気分は決して惨めではなく、却って清々しかった。朽ちた礎とまではいかないが、土中に半ば埋まった門柱らしき木片や梁の残骸が風雨に蝕まれ、土気色に同化しているのが侘しくもあり、ところどころ青みを帯びた雑草の意欲がよく映える。
背後に気配を察したのはどれくらいしてからであったろうか。失意の底を徘徊するのが任務であると思いなした小夢にとって、ひとの息づかいは同調によるものでなく、いにしえに文献を漁っているときなぞに感ずるものでしかないような気がしていたので、足音と同時に自分の名を呼ばれた刹那、夢幻の彼方からの、死神からの招き声だと肝を冷やした。おもむろに振り返る仕草こそが天上への忠誠であり、復讐である、懐剣にそっと手をやり、
「どなたでございます。わたしの名を知る、、、」
と言いかけたのだが、目を会わせた途端ほとんど忘れかけていた緊張の糸が少しだけゆるむのを感じ、あらかたの謎が解けたような奇妙な確信を抱いた。気抜けもあろうけど目尻がやや垂れるのが分かり、痴呆みたいに口を半開きにし声の主の風貌をまじまじと見つめた。
「怪しい者ではありません、小夢さま、それがし根図中左衛門と申します。すでにお聞き及びでござろう」
「あなたさまが、、、根図どの」
「いかにも、古次さまより仔細は承知されたし」
「では、わたしを討ち取りに参ったのですね。あなたさまの素性は知ってか知らぬか」
「早まってはいけませぬ、討ち取りなど、左様な物騒な」
「もう、たぶらかされませぬぞ、密偵として暗躍、旗本屋敷から随門流、そして荒廃の館、金目流」
目尻ははやつり上がっている。小夢は興奮と動揺の渦中にいた。が、激しい怒りに任せての忘我ではない、反対に激昂を眺めているふうな渇いた交誼を介し、疲弊したまなざしの回復を暗に願った発露であった。ゆえに中左衛門からの厚い慈愛と、流暢な言い開きに小夢は耳をしっかり傾けた。恰幅のよい威厳ある容姿で立ちはだかっていたけれど、若侍を偲ばせる雰囲気が幾ばくかその月代にかいま見える。
「古次さまより、いかが承ったかは存じませぬ。いえ、他の方々も同様でござる。さて小夢さまがこれまでの辛酸、それがし失礼ながらよく存じ上げております。不本意ながらの刃傷には察するところ余りあります、くれぐれも自責の念に執着されることなく、平静を保ち頂ければと願っている次第、はい、古次さまとて決してお恨みなぞいたしておりませんでしょう。随門師の申されるよう自害と裁定されうるべき所業、小夢さまもお察しくだされい。またそれがしの身上についてはあからさまに出来ぬところもありますゆえ、平にご容赦のほどを。
まずこの地についてひとこともふたことも述べなくては小夢さまには得心いただけまい、見てのとおり金目の本山に偽りはありません、が、昔日の名残りは連綿と今だ絶えることなく続いています。金目の家元、幻滅斎どのも高齢ながらご健在、第一の気がかりでありましょう、いや、これは失言、ごん随女史からの任務でありましたな、阿可女さまもご別状なく、ご安心くだされ。今すぐにでも韋駄天のごとくお連れしたいのですが、ほんの猶予を頂きたい。それというのもあなたさまの疑心を解きほぐすのが先決、随門流の甘言にはまってしまわれたのは災厄でございました、古次さまよりの言説にもあやまちあり、いえいえ、それがしの弁明ではありません、では絡まった糸をひも解く要領でお話いたしましょうぞ。むろんでござります、金目道場までさして遠くもありませぬゆえ、道々ながら」
[323] 題名:妖婆伝〜その四十三 名前:コレクター 投稿日:2012年12月10日 (月) 11時35分
いつぞやの駕篭かきに似た風体だと見いってしまったのは、いや、凝視のようでありその実さほど関心をしめしたのでもなく、ただ脳裡をよぎらす情景に意味合いを付与したかったと思える。ごん随女史は伴もつけると言っていたけれど、この実用のふたりが、既視感の到来が、まさに伴であるとは思ってもみなかった。しかし不平不満をこぼす身分ではなかろう。寡黙で実直な駕篭かきらは申し分なく頼もしく、道行きを安穏な旅程にまで引き上げてくれた。
もちろん険阻な道中が以前の比でない様子は瞭然であったし、一昼夜で辿った道程、二十里らしきを早駆けた緊迫のうちにも安楽さが連れ添っていた感じとはずいぶん異なる。案の定、日の入り間際にはなだらかな道筋へ達しており、すでに懐かしく耳へ届いてくる人の気配を知れば、そこが山間の宿坊であることにあらためて驚き、また、かなり山深いところに夢うつつかと見違える、より清澄な空気に包まれた黄昏いろに浮き出た宿屋の並びに、新鮮な想いを得るのだった。夕暮れの情景は何故この様にやわらかな美しさを醸すのであろう。沈める日輪はひとの息づかいに託言を残してゆくのか、まばゆい光線を闇に眠らせるから雄大な意思はぼんやりと明るみを発するのか、それとも、明日を約束したのでひとの恥じらいを先まわりして伝えてくれるやら、天空の主は何もかもお見通しに違いない。
溶けだしそうになる想念とはうらはらに、山中での宿泊の模様を実感することが出来ず、小夢の記憶にとどまったのはひかりを失った空間を飛び交う夜光虫の羽音のような小さな、しかし払いのけ難い観念であった。
垢染みた頁をめくるがごとき過ぎ去りしときに意識が傾いたのではない、多少の名残りはとあえて感傷の刻印を記してから、開き直り随門流より逃れた身である限り、一切はかつてのうなぎにまつわる煩悶と同じ轍を踏むわけにはいかず、とはいえ、島流しや獄中に連れゆかれる心情を糊塗することも難しく、行く先がもう決定されているよう小夢の想いはひたすら阿可女へと接近するしかなかった。
想像するには容易い、金目流とやら、これまで関わった一門とは別種の忌まわしさを放っておる、家元らの言葉通り阿可女が本当に野心を持っていたのなら、実行を決意していたのなら、背後で知恵を与え立ちまわり方を指示していたのは金目と見なし間違いなかろう、現に阿可女は匿われているとの報せ、これ以上の詮索は無用でしかない、勘ぐりだしたとて埒があかない、鑑みれば我が命をあわよくば亡きものにしようとした悪辣な眷属からの告知、金目の本山とは名目だけで実際には牢獄どころか処刑場かも知れぬ、だが、そうも言い切れなかった。の毛子は金目の存在を知りうる範囲、別れの朝小夢にこう語ってくれたのである。
「わたし前に、いいえ、ここではなくて、商家にいた頃ですけどね、華道を極め尽くした仙人みたいな老爺がいると小耳にはさんだことがあります。金目幻滅斎という名です。お師匠さまの口から聞かされのは先日始めてですの。よくは知らないけど裏華道では随門流と遜色ない、そういうことらしいから、大変でしょうが、、、」
と、少なくとも架空の人物でもなければ、獄門の場でもなさそうだ。小夢はそれがたとえ根拠のない噂であったとして、の毛子の話しを信じて疑わないつもりだった。信心とは決して威容や哲理にのみ込まれるばかりと限らず、儚い花びらに舞う蜜蜂の嗅覚が、花弁を魅惑の証明してみせるよう鮮やかな色づきに宿される場合がある。
ひとときの舞いと静止が映し出す光景は追随を許さないのであろうか。小夢は理性的な判断を捨てていた。すると暗中にささやく羽音にうっすら色調が施された心持ちがし、目の前の闇に封じられたひかりが一条、心身を駆け抜けていく感じがした。迷妄の口笛がうなぎの泳ぎを促して、雑念ない牛太郎が踊りだせば恋する男は、愛しの阿可女が待ちわびた顔でいるのだから、吸引力で流れをさかのぼりひとめ会うなり激しく接吻を交わすのだと強く胸に言い聞かせた。聞かすと同時にそれより先の艶かしさを放擲して、直ちに古次殺しをあがなう為、阿可女に懐剣を手渡し、おのれの心の臓を刺し貫いてもらう。言葉はいらぬ、かっと見開いた眼がこの世のすべてのひかりを反照されるとき、信心は成就され、夜と朝が入れ替わるのだ。
二泊目の宿における夢想であった。無駄な想念は排除して、何度も何度も終わることを知らず金目本山に待つ阿可女との接吻、そして死を夢見た。目覚めたとき冷たい夜気にもかかわらず寝汗が全身を濡らしており、火照った頬の色を手鏡で認めるまでもなく、寝巻きのすそをそっとかき分け、手淫を試みたけれどからだの反応は追って来なかった。小夢はたらいに張られた清水に指先を浸す、健気な波紋、底は微かに揺らめいていたが、はなから手の届く浅みだったので波紋が収まるのをぼんやり眺めていた。
翌朝、珍しく威勢のいい口調で駕篭かきのひとりがこう言った。
「あねさま、昼までには到着しますよ。もう少しの辛抱でさあ」
動揺した素振りをつくりだしたのが我ながらおかしく「あれま、東海道をゆくのではなかったのですか」などと戯れ言を返したりした。内心はたらいに浮いた枯れ葉でありたかったのかも知れない。相方の駕篭かきにも目配せしながら、感謝の気持ちはそのまま、剣呑な意想が夜に守護されていたことに抗うべきか、その揺らぎは彼らのきつく締められた帯をつかみ取りたい衝動に向かおうとして、はたと気がついた。阿可女が呼んでいる、、、感冒などとは異なる、いやどんな流行り病いとも別の熱病のさなかに小夢は生きていた。昨夜の寝汗が悪寒を招いたのか、ようやく本来の感覚を取り戻したらしく、いよいよ金目本山に近づいて来たという感慨も手伝って、無口な駕篭かき相手に饒舌になった。
「ではよろしくお願いしますぞ。ところで両人とは初見ではないような気がいたしますの、もしや随門師匠のところまで、そうです、あのときの」
ふたりが雲助根性でないのは直ぐさま返答した声色で分かった。やがてあれこれ尋ねてみれば、それどころか武士に通じる気概さえ感じられる。
「ごもっとも、この生業の風体なぞ似たりよったりでございます。たとえあねさまが見間違えようとも、あっしらには間違いはありません。此度が始めて」
「なるほど、そういうものなのですね。生業にそもそも尊卑はありません、わたしとて駕篭に乗せてもらう身分では、、、いらぬことを訊いてしまいました」
「滅相もありませんや、以前の思い出をあっしらに重ねてもらえるとはありがたいことです」
「あら、お上手ですこと」
「何をおっしゃいますやら、上手も下手もありません、ただ担がせてもらうだけでございます」
「ほほほ、これは参りました」
ここで小夢がふたりに感じたのは、無駄口を叩く暇を惜しんでいる、面をかすめたのはあくまでそつのない振りだったが、実情は受け答えそのものを頑なに拒む姿勢であり、これは的確な直感としかいいようがなかった。見落としたりしない、軽妙なやりとりに乗じながらも速やかに支度を整え、鋭利な目つきが道中を急ぐであろうわらじの上に落ちたのを。
が、小夢はここであたかも仕来りに従うあり様で喋りをやめようとしなかった。旅の恥はかき捨て、あまりこの場面に即したことわざでないけれど、ふと生のほむらが立ちのぼり、
「金目の本山ってやはり山奥なのでしょう」と何気なさを装い口にすれば「ええ、そうでございます」駕篭かきは不要なものを切り捨てるというよりか、要件に接するのは御法度である、そんな厳しい語気となる。
「由緒ある名門とうかがっていますけど、さぞかし立派な家屋敷、道場なのですか」
「よそ様の家屋をあれこれ評することは出来かねます」
「これは失言でした」
手厳しさに臆した弱々しい声音でいったん区切りながら、がらりと口調を変え「しかしながら、わたしは金目流に重大な任があるのです。是が非でもお聞きしたい、酒手ははずみましょう」
「されば、あっしらも同様、駕篭かきの重責がござります」
「わたしの身が重いと申すのですか、それとも努めが些細な口外を禁じているのですか」
それまで会話に加わらなかった相棒がいさめるふうなもの言いをした。
「両方でございますよ、あねさま、そろそろ表へ」
宿の主、女中の見送りもない。小夢は周到な道行きに感嘆と落胆を一緒に覚えるしかなかった。
[322] 題名:妖婆伝〜その四十二 名前:コレクター 投稿日:2012年12月03日 (月) 04時47分
ごん随の思惑は卑劣でも悪徳でもなかった。これくらい明快な託言もあるまい、あわよく死んでくれるのは小夢でも古次でもかまわなかった、生き残った方を速やかに断罪する口実は用意されていたのだから。ごん随の諭しに逆らう気概などあるはずもないと高をくくられており、阿可女のもとに馳せ参じる手立てが認められているのだ。しかし話頭に上った婿殿の覚束なさを鵜呑みにするほど蒙昧ではない、また自分と同じく正気を逸しているとすれば、あえて金目に赴かせる必要はいらないにもかかわらず、ごん随が危惧しているのは小夢の母として立場であり、我が子息が本然と目覚めた場合に集約されよう。
なんとでも言い含める自信があってのことか、たとえば母君はひとを殺めてしまったのでお隠れいただいたのですやら、家元の安泰を願えばこそ、身を引かれたなど、それこそ大義をかさにするまでもなく、すんなり訳合いはまかりとおる。だが、小夢はそんな痛恨を言葉にしようとは思わなかった。それどこか、お払い箱にされる仕打ちをものともせず、心持ちは案外すっきりして、つまらぬ騒動に関わらずに済むと内心ほっとしていたのだった。が、無論これよりさきは暗中であり、煩悶を混ぜ込んだぬるま湯にはもう浸っていれない。
「では阿可女さんを連れ戻せばよろしいのでございますね」
「そうです、しかし、あれもおいそれと舞い戻るわけにもいかないでしょう、家元として確固とした情況になった暁にと、これがわたしなりの誠意と汲んでください」
「よく分かりました、けれど、わたしは名残り惜しいのです。ここで人生をまっとうしようと考えていたのですから」
歯が浮いたようで、浮かない、小夢にしてみてもこの言い分がまんざら詭弁とは思いきれずにいたのは事実であった。が、天下泰平の世が永続されないよう、安易な余生を保証してもらうほうが不遜であろう。思えば屋敷を飛び出したのも、はっきりいえば嫌気がさしたからであって、もっと遡ればうなぎから転生した曖昧な記憶とて逃げ口上に相違ない、気狂いであったという事実は遠景に等しく、それほどしっくりこないのだから、わずらい考えあぐねるまでに至っておらず、口上を純正なものへと研磨しているのはつまるところ黙念先生に対する畏敬に他ならかった。かといって不可思議きわまる正体の解明を取り急ごうとも案じておらず、ある意味なおざりにしておくのが賢明だと判じているのは小夢の揺るぎない打算であった。
そもそも古次に襲われたとき、死を受け入れず反撃に転じた事実が歴然とそれを裏付けているし、死の見苦しさを忌み嫌うという弁明を冷笑しながらも熟知していたからである。牛太郎やもろ助が幻影であろうがなかろうが、さして究極の難題ではなかったように、ごん随の申し渡しを聞き入れたこと、これは即ちよく現実を把握した証し、そうとらえてみてもあながち間違ってはいない、寧ろそう念じた意想にこそ生が息づいているのだ。小夢の口は軽やかに傾くのを抑え気味にした慎重さで、更にこう開かれた。
「もとより尋常でない身、ずっと家元のそばに仕えとうございました、けれどこれも運命なのでしょう。ごん随さま、ところでわたしはどうした態度で金目流に臨めばよろしいのですか、いいえ、もう、きっぱりと運命に従うつもりでございます。ただ、、、こう申しますのは若輩の分際と大変恐縮ですが、ここを離れるには覚悟だけではままならなりません、ごん随さまの誠意は重々ありがたく頂戴しましたけれど、いったいどの様に、、、」
さすがに痛いところをつかれた顔色を示した女史は、消え入るふうな小夢の声を奮い立たせる意気を見せ、
「なにも案ずることはいりませぬ、そうですね、使命ではありませんけど、家元の乱心を表沙汰にならないよう気配りしてもらいたいのです。阿可女自身、古次を跡継ぎにと野心を抱いた引け目があるでしょうし、おいそれ身内の醜態を口にするとは思えません。それどころかあなたが保身、、、これは言わずとよいですね、、、古次の死を半ば予測していた節は疑いないでしょうから、きっと消沈していると思われます。小夢さん、いいですね、あなたがいたわってあげればそれでいいのではないですか」
もとよりわけを質そうとして尋ねたもの言いでなかったが、小夢はたやすく確約を得た気がし、増々浮き浮きしてきた。女史の盗人猛々しさに呆れるより、虚言を貫き通した姿勢に感服していたのだ。これで念押しが穏当になる。
「では、わたしの随意でよろしいと申されるのでございますね」
浮いた心持ちとはうらはらに口調は床に沈みこめるごとく低く、的確だった。
「はい」
返事に覇気を持たそうと構えてみたけれど胸中のくもりが露呈している。もはや小夢に未練はなかった。
「なるだけ早いほうがいいでしょう、支度は整えますし、伴もつけますから安心を」
「たいそうな心づくし、感謝いたします」
こうしてごん随は流派の安泰を得ることが出来た。事後の懸念は一切ぬぐわれ、白痴の婿取りは支障を来すことなく成就、ひとりの若者の死を代償にしたのみで、自らの手を血に染めた覚えもない、実に十全な手まわしであった。
出立の朝、見送りより早く、の毛子が思いつめたような、しかし、口もとにほのかな笑みをたたえながら小夢のまえに現われた。
「戻って来るのでしょう」些細な隠しごとを滑らした言い様に胸が熱くなり「ええ、いつか必ず」そう答えながら、目頭を押さえた。
「わたしも色々聞いてもらいたいことがあったのですよ」
の毛子の睫毛はまるで朝露が垂れたような潤いがあった。
「込み入った話しは出来ませんでしたからね」
「あら、そうかしら、古次や阿可女さんとは身の上を語りあったのでは」
「ええ、それは、、、」
「いいのよ、今更どうしょうもないし、ちょっと言ってみたかっただけですの」
「の毛子さん、いつかあなたに頬を打たれ、かっとなり手荒くしてしまったことありましたね。ごめんなさい」
「なにをいうのですか、もう忘れました。あれはわたしが悪かったの、新参者なのにわたしより奇麗だったから、、、」
「の毛子さん」
小夢は思いもよらぬ言葉に身がこわばってしまい、小柄なつくりの娘のまえで棒立ちになって、その瞳から目をそむけられずにいた。例の香りを覚えるよりも、自分の両目がかすみだし、涙が頬をつたうのを知り、視界がにじみ始めたとき、咄嗟にの毛子のからだを抱き寄せてしまった。そして乾いた土塀に果実味が塗りこめられたふうな髪油の匂いをためらい勝ちに嗅ぎ、頬を寄せ合いって互いの温もりを確かめ合う。
不意にの毛子の唇が重なった。朝露に濡れた睫毛は伏せられ、眉間には悩ましい筋が走って、呼吸は止まり、柔らかな弾力と湿った感触に溺れてしまい、抱擁と接吻の魅惑が束の間であることを忘れてしまった。どちらともなく唇が離れたとき、狐につままれた顔をしていた小夢とは反対に、の毛子の表情はとても晴れやかで憂いの片鱗もなく、「その気があるって本当だったですね」と、無邪気な笑みを浮かべる始末。
「まあ、の気子さんったら、、、」小夢も微笑で返す。
「わたしはここへ厄介になるまえ、ある商家の若夫婦の手慰みものだったです。だから女人の色香は分かってしまうの。生娘だったわたしにとってあの頃は苦痛でしかなかったけど、今となっては懐かしい思い出、あら、ごめんなさい、変なこと話してしまって」
「いいんです、わたしになぞ話してくれてうれしい」
すると、再度の毛子の顔つきは険しさを増し、
「きっとですよ、きっと帰って来てくださいましよ」
小夢の手を握りしめ、哀願の声を発した。
「ありがとう、それまでお元気でね、あなたのことは忘れません、可愛いの気子さん」
感極まった双方の目には大粒の涙があふれだし、うなだれ嗚咽を上げたの気子のすがたに妙の面影が一瞬よぎると、後悔の念も加わって増々悲しく、いよいよ門口にて皆に暇を乞うたとき、泣き腫らした顔が居並んだ心持ちがした。
普段は見せたことのない白糸の寂し気な面は冷ややかでなく穏健であり、ごん随女史の目もとには勝ち誇ったひかりはない、の気子は変わらぬ愁いを保ち続けている。随門師匠とは部屋でむせる挨拶を済ませていた。
「皆様、本当にお世話になりました。金目へ参りますけれど、こころはこの流派にございます」
暇乞いの言葉にこめられた情は素直なものであったが、各人の壮行の声を小夢はよく耳にすることが出来なかった。別離とはこうもひとを感傷にひたらせるのだろうか。いや、そんな内省も遠雷のようこの身に届いたのはしばらくしてからであった。
[321] 題名:妖婆伝〜その四十一 名前:コレクター 投稿日:2012年12月03日 (月) 01時44分
廊下に人影がないのを感じる。古次の死からさして時間を経ていないにもかかわらず、又、たったいま呆れるほどに鮮やかで、惚れ惚れするくらいの幻滅を味わったことすら、流れの彼方にあるような心持ちがしてならない。冬の青空の冴えきった冷たさに、張りつめた温もりを感じることは不思議ではなかった。ごん随女史の双眸から光輝が放たれたのではなく、例えるなら、寒風によって生み出された湖面の細やかな波は決して凍結を覚えさせることがない、そんな微笑が静かに眠りをさまたげていた。まばたく湖水の反照に寄り添って。
「ここではなんですから」
小夢の面をかすめるように女史の横顔が近づくと、首をまわすことなく家元の按配をやんわり示し、続けて囁く。
「あなたにとってみても大事なことですよ」
転生や気狂いという障壁とは別種のまやかしに操られているのは分かっているけれど、さながら季節の真ん中に立ちすくむ忘我に似て、うつろいゆく道理を覚える間もない。足袋さきにひやりとした感覚が、しかし冷たさだけを伝えているのでなく、浮遊した陽気な気分が少しだけ運ばれる。廊下の鈍い明るみは、これまでたどった試しのない部屋のまえでぼんやり途切れるふうにして、そこが女史の書斎だと教えていた。
「こちらへ」
こうして師匠抜きの密談がおこなわれたわけであるが、小夢は霞んだあたまのなかへ「まさに予感したことが」というふわりとした苦しさをあたえ、ようやく全身に生気がゆきわたりだした。
熱いほうじ茶と草餅を遇されたのが、礼儀を忘れさせるほど、渇きと空腹を知らしめ、勢いよく交互に口にしていまい、このときばかりはごん随女史も軽い驚きを面にした。逆に小夢は胃袋が熱をもった感じで安堵したのか、顔つきは冷静に見えるのだった。口火は真正面から切られた。
「ねえ小夢さん、お師匠さまのご様子いかがと思われますやら、あなたはもう分かっているはずでしょう、そこで相談しておきたいことがあるのです。それと承知しておりましょうけど、さきほどのお師匠さまのお話しは本音ではありません、いえ、瞞着に過ぎるとも言えませぬが、すべては流派の為、多少の歪みは正されましょうぞ。あまり長話も出来ません、というのもやんごとなきお方こそ急がれているのです。家元ご自身の焦燥と見るは過ちで、、、悲しいかな、実際のところ当家への婿入りと申すは名ばかり、この度も正気の沙汰に整えし気狂いの計らい、あら、気にさわったら許して下さい、小夢さんの所以もよく存じておりますよ、けれど内情を申し聞かされし受け入れ、わたしの言わんとしてることは判じてもらえますね。婿殿はまだまだお若い、あなたのお子ですから、それだけではありません、母君とは知らされてないばかりか、おそらく母たる意味合いも通じるやら、、、覚束ないのです」
小夢はさすがに憤然とした面持ちを隠しきる必要もないと思われ、と同時に曇っていたあたまがすっきりし始めたので、女史の言い様を聞き入れる心得を忘れてしまい、
「では、ごん随さまはお覚悟のうえで」と語気をあらため「お師匠さまもでございますか」そう訊ねれば、
「左様です、家元の意志はわたしの意志、、、と、きっぱり申したいのですけど、小夢さん、汲んでいただけますね、あまり猶予はありません」
「やはりお師匠さまの容態が」
「ええ、老衰とは厳しくも儚いものです、家元は乱心したのです。さきの遺言めいた話しの内容は、このわたしが拵えました、気つけの妙薬を少々含ませまして、種本にそって語ってもらったのです。色々と厄介ですからねえ、、、急場しのぎの種本でしたけれど」
「すると阿可女さん兄妹の謂われも」古次の名を口に上らせず、語調が下がった小夢をなだめるよう、それからひと息に疾駆するもの言いで女史は説明した。
「あれは間違いなく伝えられた経緯です、難問は家元と阿可女のいざこざにあります。よいですか、小夢さん、極めて大切なことがらゆえ、しかと聞いて下さい。阿可女は凶刃など振るっておりません、家元の世迷い言なのです、騒ぎを一番に知ったのがわたしでしたから幸いだったものを、確かにふたりは同じ部屋にいましたよ、しかし刃物なんかどこにも見当たりません。この狼藉もの、といきり立ってあれこれ罵声を浴びせているばかり、しまいには斬られたと叫びだすわ、聞きつけた白糸の足音がもう少し早ければ、とんだ狂言が明るみになってしまったでしょう。わたしは咄嗟に阿可女に向かって金目に身を隠すより仕方あるまいと命じ、直ぐさま伝令を呼びつけました。一方、怪訝な顔で駆けつけた白糸の目に触れないよう家元を隣の部屋に移し、のちには打ち消せない騒ぎを本物に仕立てたのです。ところがふすまを閉めた手もとが力んでしまったのでしょう、隙間が開いており一時は終わりかと思いましたけど、上手い具合に家元は隅の方にうずくまり背を向けていましたので、覗いたにせよ、にわかに判別はつきかねるでしょう、肝を冷やしながらも、白糸に対し厳命を発する声色で、ことの次第をまことらしく言い聞かし、の毛子のもとに走らせたのでした。そのさきはあなたも存じているとおり」
「そうでございましたか、、、」
「不可解でありましょう」
「成りゆきはのみこめました、しかし」
「もっともです、こうしたわけがあります。家元と阿可女は単に師弟の関係ではなかった、と申せば察せらせましょうぞ、ええ、古次が身分の隔てに甘んじていたのは兄妹間の情愛もさることながら、ひとえに家元の執心ゆえの仕打ち、当人は勘づいているどころか、了承することで自らの桎梏としていたのでしょう、哀れといえばそうとも、幸甚といえばあまりに如実、結ばれない有り様こそ古次をこの世に生かせていたのです。阿可女への執着は簡潔に言えませぬけれど、家元が不能であったにもかかわらずとだけ今は耳に入れておきます。いずれ真相を知ることでしょうから。次に認めていただきたいのは、家元のかねてよりの奸計です。この時点ではまだ乱心の気配はありませんでしたし、わたしも身内ながら鳥肌を禁じ得なかったのですから、相当強い念がこめられていたに違いありません。こういう企てだったのです、あなたが阿可女に懸想しているのを察知した家元は、婿取りの見通しがつきかけた頃、大義名分であった小夢さんと、邪魔ではあるけど何ともし難かった古次とをあわよくば亡きものにしたく、何故ならそれまで阿可女のこころを掌握していたのは他でもありません、兄を流派の後継にとの金言にも等しい黙約、ところがやんごとなきお方の意向が明確になるに従い、ご破算を願ったのはいうまでもないでしょう、阿可女との諍いがあったとするなら、ここに端を発するのは間違いありません。今朝あなたと古次が外に出たのを聞いたわたしはすぐに双方の身が案じられました」
「それは方便でしょう」小夢は急に不敵な笑いをつくった。
「なにゆえに」
「ごん随さま、あなたがわたしの枕もとへ置かれたのです、古次さんを殺めた懐剣、そうでございましょう。もうよいのです、お家争いには正直申しまして辟易しているのですから。家元の奸計でもあなたさまの種本でも、ご随意にどうぞ、ここまで興味深くうけたまわってまいりましたが、わたしは古次さんの死で悟りました、金目にも旗本にも大名にも関知したくありません、ましてや婿殿にしても。あちらさまに肉親の情がないのが好都合、わたしとて気狂いのうなぎ男、いまさら親子の再会など願い下げでございます、こんなふうに申せば、叛意を抱いているとお考えなさるでしょうけれど、ご安心ください、わたしは誰に逆らったりもしませんし、ごん随さまの腹づもりを非難する立場にありません、ただ、これ以上こみ入った情況に巻き込まれたくないだけでございます。わたしがここに座らせていただいているのは万が一の比率だったのですから、十分過ぎるほどに心得ております。亡きものにされると聞かされまして怖じ気だし、屈服したとでも、欲を捨て去ったとでも、お受けください。つい先日、随門師より助勢を乞われ快諾した身でございます、過分の扱いは無用です、どうか、そつない善処を賜りたく願います」
かなり面倒な事態には相違なかろうが、家元らの腹はおおかた読めた。叛意も非難もとあらずと口にしておきながら、古次が死んだ限り、増々阿可女の艶やかな姿態が色濃く迫ってくるような気がする。それにしても乱心とは芝居がかった様相、借りに事実であるなら、阿可女は自由の身、金目流にてどう過ごしておるのやら、敗北にうちひしがれているであろうし、古次の死も耳に届いているに違いない、このわたしが刺し殺したことも、、、なにが自害だ、危ういな、非常に危うい、まだ服従の態度を示しきれてはおらん、とにもかくにもここは平身低頭でやり過ごすしかないであろう。様子窺いは決して焦らない、愛しの阿可女よ、待っておれ、もう少しだけ待っておれ、、、、おっと最後の砦があった、黙念先生よ、だが、これは堅く口を閉ざすべきであろうな。
「小夢さん、まえには不思議なひとと感心しましたが、あらためて私利私欲のない無垢なおひとと感銘しましたぞ。けれどもあなたにだって望みがあるでしょう、古次なきあと、家元乱心のちの阿可女、金目流より呼び戻すべき、どうおもわれますか」
「御意」
「これで決まったも同じでしょう、では早速、金目の本山に出向いていただきましょう」
[320] 題名:妖婆伝〜その四十 名前:コレクター 投稿日:2012年11月26日 (月) 06時44分
の毛子と揃って門をくぐると、いつも沈着な白糸の顔色がただならぬ様子で待ち受けているのを認め、小走りのさなかに無心とはいえ胸騒ぎを押し殺せなかった気息が、ここに来てようよう白い吐息となった。
「お師匠さまはどちらに」
「深刻な事態ですが、傷は浅く、毅然としておられます。それにしても阿可女、大それたことを仕出かしおったわ」
怪訝な表情の奥により不穏なひかりが揺らめいている。が、返す踵も鮮やかに、うしろ姿は重圧な気品を放って、声は寒気によく透き通る。
「さあ、まいりましょう」
流派の存亡を一身に背負ったかの気勢でふたりを牽引した。このとき小夢は家元にまつわる厄難がこれから始まるような予感がし、小さく身震いした。
さて床の敷かれた部屋に入ったとたん目に飛び込んできたのは、刃傷沙汰に倒れた随門師の泰然とした様子でなく、かたわらに座したごん随女史の射るような鋭い目つきであった。部屋の空気を凍てつかすそのまなざしは自分に向けられているのではない、かといって白糸でもの毛子にでもない、どうやら特定の人間を見つめていないのが却って不気味に感じられた。
続けて視界に訴えるのはもちろん随門師であったが、小糸の言い方とはうらはらに一気に年衰えてしまって、気迫を失っているとしか映らない、事情に与らない者には老弱の有り様でしかないと思うであろう。
ごん随女史はこほんと軽く咳払いして見せたのち、
「皆こちらへ、もっと近う」
と、内弟子らをあたかも臨終間際の席に誘うがごとく、しめやかな、だがどこか焦燥を抑えきれない、哀感と怒気を含ませた声でそう言った。
するとどうだろう、
「心配いらん、わしは平気じゃ、これ傷もこの通り」
憔悴しきってしまわれたと案じていた矢先なので、皆はいっせいに驚きの表情を面にし、これも家元の演出なのか、大様に半身を起こし、おそるおそる怪我人が差し出す左腕に巻かれたさらしの薄ら血の滲みだすのを凝視する。
「わずかに腕をかすめただけよ、阿可女ごときの凶刃に倒れるわしではあるまいて。よいか、これから話すことをしっかり聞いてもらいたい」
やつれた頬から出る声にしては威勢がいいので、ごん随女史を除き、更に驚きの形相やら、拍子抜けしたふうな何とも締まりのない表情をするもの、だれかれともいわず一様にそんな顔つきをめぐらせ、ちらりと互いを見合ったりした。
そんな模様に得心がいったのか、自らの気丈振りに叱咤する按配で随門師はこう続けた。
「あの双子が謀反を起こしたのは厳然たる事実である。いや以前より阿可女ははっきり口にせなんだが、わしはちゃんと見抜いておった。近々わしは隠居し、ごん随には婿殿を迎えることと相成った、この小夢に縁のあるお方よ。これはごん随にさえ伏せてあり、つい最近知らせた機密ゆえに漏洩はなかろう、だが、阿可女は外部よりそれを得たのじゃ。断定は出来んがおそらく間違いあるまい、山脈向こうの金目流の仕業よ、逃げ失せたさきもな、、、そのまえに阿可女と古次だが、おっと古次は」
ここで小夢と目線を結び、なめくじが動くよう口もとを不浄に歪ませ、反応を待つより早いか、さっとの毛子の顔にいくぶん穏やかな目を送った。師匠の思惑が焼けつくのか、の毛子は空き地での光景をありありと目のまえにあぶり出し、直ぐさま言葉に置きかえた。小夢のほうを見遣る猶予などないまま。
「お師匠さまの言いつけに従って尾行しました、はい、事前におっしゃられていたとおり、古次は自害しておりました」
動悸は激しくなっていたけれど、まさかこんな耳慣れない響きを口にするとは考えてもいなかった小夢は、思わず「えっ」と、むせこむよう声を出してしまった。が、その声は一同の驚嘆によってかき消されてしまい、ときを経ず観客が舞台の役者の一挙一同を見つめる要領で随門師に耳目が集まった。再び威厳を整えた顔つきで問いかけるに、
「ほう、いさぎよいな、そうか。いやな、古次には認可をあたえておいたのよ、阿可女とは一蓮托生の運命、つい先日のことでな、今まで身分の隔てで引き離してあったが、阿可女によからぬ動静が見えた以上、一度は自由にしてやり、今生の別れの機会を授けてやったのじゃ、古次はたとえ妹の意見であろうが謀反に加担するやつではない、いや、そうと知ってしまった限り、おのれは謀反人だと思いこむ質、本来ならば武家の出として妹をたしなめ、刺し違えるところ、しかしそれとて出来んわな、可哀想な男であった。で、小夢も見届けたのじゃな」
あえて小夢の顔から目をそむけ、ぴしゃりと扇子を打つ調子での毛子に同意を求めた。まったく変わらぬ姿勢で「はい、小夢さんはそばにいました」と、応えた。
衰弱していたはずの随門に生気がよみがえる。瞳の奥にはまだまだ漲るものを秘めているといわんばかりの素早い目配りで、
「小夢や、なんぞ遺言めいたことは言っておらんだか、よい構わん、せめてものはなむけよ、憚りもなかろうて」
畳にしみ入るような低い声でうなる。うなると同時に小夢のあたまのなかには無数の蝿が飛びまわり、不快を越え出て振動に身をまかせている放心に堕ちていった。意識が遠のきかけたともいえるし、古次の死に際までの情景を透けた紙が幾重にも被さっているふうでもあり、また不意にの毛子に鬢つけ油が香ったりもした。闇夜を歩く心許なさ、、、ほとんどうつつの声色がこだました。
「特にございません、阿可女さんのことも触れませんでした。ただ、からす天狗さまと申しておりましたが、わたしにはなにを言っているのか一向に」
「なに、からす天狗だと、蛇と言ってはいなかったか」
「いえ、そのようなことは」
随門師は大きく頷き、ごん随を横目で見た。部屋の入った際の射るような鋭さは和らげられるまでもなく、凍てついたものは霧散していた。
「阿可女はまぎれもない下手人だが、兄の古次はおのれを葬ることで罪をあがなった、遺体は丁重に埋葬してやろう。で、あの兄妹よ、委細は語らんがさる旗本屋敷より引き取った、いわくがあってな。しかし彼奴らにでない、次に生まれた子に問題があったのじゃ、実子ではない、これまた因縁がある、次子は御三家に連なる大名が側室に生ませたのだが、世継ぎ争いであろうな、深い事情は聞いておらんし、探りを入れてもいかん、その赤子が旗本屋敷に下ったときから色々と騒動が起こったという、旗本同士の小競り合いとも、正室の策謀が尾を引いたともな。そこで暗躍したのが金目流の後ろだて、側室を擁護しておった要職の御仁じゃ、密偵を屋敷に放って情勢をうかがっていたのよ。そこに惨憺たる事件が発生した、なんと次子が暗殺されたという、これらは皆も知ろう公暗和尚よりの通達じゃ、その折に合わせて忠告があった、根図中左衛門なる若侍、事件当日に逐電せし、重要人物として探索がなされておる、だが、ようとして行方は知れん、確定したわけではないが、根図こそ側室すなわち次子の生みの親が送りこんだ密偵と思われる、けれどじゃ、おかしいであろう、首尾よく成育を見守るなり、外敵から守護してこそお役目、どうして事件に関与せねばならん、それとも我が子の暗殺を根図に申しつけたのか、合点がいかん、いや、わしもそうだが公暗和尚もそう申しておる。さあ、ここからが肝心なところよ、人相書きなど手配はされたようでの、結果どうも金目流の家元に匿われているとの報せが届いた。知らぬ者もいるだろうから話しておくけれど、金目流と随門流にこれといった諍いもなければ、取り立てて繋がりもあるでなし、そもそも技風がまるで異なる、向こうは陰茎縛りの技を駆使するからのう、ところがじゃ、阿可女に内密で近づき我ら流派を狙ったのが金目である節が濃厚になってきた、が、側室の意図はまだまだ見えてこん、古次も知り得ていたのか分からん、ともあれ、阿可女があんな暴挙に出たことは由々しき事態であろう、これに対敵するには一刻も早く婿殿に家元を継いでもらうが最上、なにせやんごとなきお方の子息だからのう、これに勝る縁組みはないわ。あとは追ってそれぞれに伝えよう」
これだけ話すと、随門師は今までの気合いがまるで嘘のように衰弱した顔色に戻って、床に身を横たえてしまった。皆が早々に立ちあがり部屋を出ようとしたとき、小夢はごん随にうしろから小声で囁かれた。
「あなたはこのままいて下さい。お話がありますゆえに」
振り向いた小夢を映しだしていたのは、感心するほどに澄み渡ったごん随の瞳だった。
[319] 題名:妖婆伝〜その三十九 名前:コレクター 投稿日:2012年11月25日 (日) 21時12分
刃先をかわしたつもりだったのか、小夢は腰を落とすよう後ろによろめき、尻餅をつきかけながら斜に身を逃がした。と同時に実際には意識のうえで読み取って欲しかった懐剣を抜き出し、低い姿勢から右手に掲げ陽光を反射させた。古次の表情にわずかな迷いが走ったのを幸い、片方で瞬時に握りしめた小石を数個投げつけたところ、近い距離ゆえか思ったより首尾よく、おそらく痛覚に至らずも目くらましの効果を発揮し、狙い定まった刃をくぐることが出来た。荒い息に叱咤されるよう、両手で束をつかむとほとんど体当たりの要領で古次の脇腹を突き上げる。ぐっとちから加減さえ分かぬまま。手応えを覚えるまえに春縁の面影を深紅によみがえらせれば、あのときのもろ助の憤怒の目つきも追ってきて、はらわたまで達したであろう懐剣の意義がものの見事に遠のき、おののきは近いけれど、どれだけ古次の歪んだ顔を見据えようが過去の幻影に勝るものなしといった按配、流れしたたる血の匂いなど鼻につかん、勝機を見出したりもせん、ひたすらめぐるのは春縁が絶命きわにしめした鉛色の瞳であり、北空に吸い寄せられていたもろ助の鎌首であった。
すべての光景は一巡を経なければいけない宿命であろうか、崩れるよう身をかがめた古次の苦悶と、久闊を叙した矢先に頓死したもろ助との隔たり、そこにひそむ狂おしいまでの切なさ、すべては虚しく、あからさまに激しい、すぐにでも陽気な心持ちにひたれるくらいに、、、小夢は衝撃を意識しつつも、それが相打ちでなかったことをぼんやり知る。さながら失神を忘却しており、痛手を感じる暇がまだ訪れてないといった風情で。
日差しが傾いた気配はない、臓腑を抉りあばらに食い込んでいるかの刃元をいたわるよう触れた古次の手に血潮がまとわりつく。まぶしい、眼を細めてみても、うっすらまぶたをふさいでみても、ようやく古次ともろ助が重なったすがたはまぶしかった。両ひざを地につけ、それでも上体を畳むことなく古次は光線を背に小夢を見返している。このときほど言葉が求められたことはなかった。双方にと飾りたいところだが、より欲していたのは小夢であったし、相手の願いは最早叶いそうになかったので、ためらわず口を開いた。
「まただよ、おまえを殺してしまう、、、そうさ、そうだとも、、、」
悔恨に限りなく等しいのは信じたかったれど、古次の瀕死の形相も同様に拒否を現そうと努めている。小夢は最期の言葉になる、そう見極め、こう言い聞かした。
「黙念先生がもたらした殺意じゃないよな、本当は阿可女をとられるのが憎くて仕方なかったんだろう、わかったよ、もろ助、そうだよな、もろ助」
体当たりの反動でよろけた足つきのまま、それはまるで冥土から立ち返って来た様相を香らせ、千切れかけた花緒へ微かに煙る土ぼこりとなって、曖昧な、けれども引導を渡す意気を底辺に残し、嗚咽ながらの問いかけになっていた。もろ助は決して応えてはくれまい、信念で固めたひとりごとを湿らすごとく、漉かれた状態に戻りたいが為、小夢の涙は大地を濡らした。死と対峙し、生き延びた我が身を愛でてしまう罪をあがなう為に。
深慮するまでもなく、久しく携えたことのなかった懐剣を目覚めの枕もとに見出し、その心添えは随門師によるものと至当に受け入れたのが欺瞞の始まり、ことの結末はあらかじめ推察されていた。
もろ助の目色になにかが灯ったのは錯誤だったのか。凝視する気力をなくしたのはもう二度とそんな錯誤を得たくなっかったからである。小夢は涙が血であることだけをひたすら願っていた。
風がそよぐ、裏山には潮の匂いは届かない、無造作を知り尽くしたまわりの木立に場所を譲るよう空き地は仄暗さに覆われた。見上げるまでもないだろう、陰惨とは無縁の鈍色を誇る雲間が陽を隠し、もろ助がこと切れたのを覚った。あたりは静寂にさらわれ、涙が甘みを含むまで小夢はもつれた足をしっかり踏みしめ、いつまでも死者と対話していたかったが、鏡をのぞく具合にいかないことを薄ら感じており、悲愁に埋没したい熱意は毎朝目にしていた庭先の古池の光景をたぐって、穏やかであった日々の語らいを蒼然と写しだしては些少だけ泡にさせ、これまでの疑心になって浮かんでくるので、億劫なつぶやきとなってしまった。小夢に戻った声色がなによりの証しだろう。
「赤子の首はわたしがなんとしても」とか「随門師匠には早々に引退願わなければ」とか「やんごとなき方は黙念先生を、、、」とか、絡みつく事態も関与すべきでない事柄も、すべて自分に投げ出された使命だと思えてくるのだった。
どのくらい亡きがらと過ごしていたのだろう、静まり返った空き地は無念の装いをそういつまで居座らせてくれず、涸れた涙に赤い影が射すこともなければ、古次の口から蛇身が逃れ出てくるわけでなく、こころの空隙は果たしてなにを欲したのか、死が永遠であるなら、この身は無常に取り残された入れ物に過ぎない。なら耳鳴りであることを願っているこの嫌に落ち着きはらった予感は正しく、今まさに気丈な精神が雲間に達したと思われる。不吉な足音が哀しくなるほど軽快に伝わって来た。おおよその見当はついていた。
ゆっくり振り向くと、の毛子がすがた、地べたへ伏した惨状に目を瞠るより、己が急報を口にするが早い。
「大変です、小夢さん、お師匠さまが」の毛子の顔には悲愴よりときめきが張りついているように見える。「襲われました、阿可女さんに斬りつけられたのよ」急いた息に乗って飛び出したもの言いで「お師匠さまから、気取られぬようふたりのあとを着いてゆけって命じられた、途中まで来たらうしろから白糸さんが呼びとめるの、えらいことが起きたからすぐ戻りなさい、わたしの事情は知っているみたいで、とにかく家元を、、、」そこで始めて面前の情況に驚きつつも、ちょうど判読出来ない書面に目を泳がせているといった顔つきで「小夢さん、さあ」と、促すことだけに精力を傾ける。
「それでどうなったのです」
すでに小夢はあらたな装いにこころ奪われ、忘れものの在りかを思い出したような表情をつくり、の毛子に近づいて「お師匠さまは」そう言いかけ、相手の鬢つけ油の芳香を素早く嗅ぎとった。微風のせい、そんな言い訳めいた言葉と並べ、うしろめたさを隠し「無事なのですね」祈願というより確信を強めた語気で問うた。
「幸い、かすり傷ですみました、しかし」芳香の漂いを意識した戸惑いがあるのやら、
「しかし」小夢の声も重なるよう後押しすれば、
「阿可女さんは逃げてしまうし、大騒ぎ、でもお師匠さまは取り乱したりせず、皆を集めよ、っておっしゃるから、そりゃ、もう駆け足で報せに来たの」と、ことの次第をひと通り伝えた安堵か、眉間を寄せたままだったけれど、ようやく憐憫の顔色をしめした。
「古次も、、、そうだったのね」
が、家元の申しつけが肝要、成りゆきは道々に訊かせてもらうという風情で、もと来た方角へ一刻の猶予もなく引き返す素振り、仔細を語るよりこの場をあとにするべきと目が訴えれば、小夢は無言で同意し、おりしも陰った空き地に再度ひかり射しこんで、その奇妙な明るみ、さながら妖魔が退散するに相応しい、脱兎のごとく駆け出した。
途中、小夢の草履は花緒を切らし足袋のまま、勢いついたの毛子は転んでしたたか両ひじ打つやら、家元の按配も細かいところまで話せない以上、無駄口聞くより黙して帰路につくが賢明、古次の死を説明するのはの毛子にとって怖気をふるわすこと必定と、知ってか知らずか、互いの胸におさめ小走りを競った。
[318] 題名:妖婆伝〜その三十八 名前:コレクター 投稿日:2012年11月19日 (月) 07時13分
「うわ言とは申せ、ええ、はっきりとした覚えがあります。わたしがいつから蛇であったのかは知りません。一番古い記憶は地べたを這っていた、川底はどうでしょう、川縁ならあの草むらなら思い出せます」
「そうか、では千代子という名はどうだい」
「いいえ、存じません」
「なら、順序よく話して欲しい、その最古の記憶は」
「とにかく川縁を這っていたらいきなり上空にさらわれたのでございます。鷲とかに捕まって、、、でもそうじゃなかったのです。わたしを捕らえたのはからす天狗さまだったのでした。もちろん信じてもらえないでしょうけれど」
当惑気味の相手を意識したのか、古次の語調は弱まるばかり、すると小夢は素早く、そして叩きつけるように言い放った。
「信じるも信じないもないさ、おれだって山椒魚さまだからな、先を聞こう」
「からす天狗さまはわたしにこう申されたのでございます。これより山々を遥か越え、ひとの世を見聞するがよい、それはそれは威厳のある声でした、優しい響きさえ感じました。獲って食われるわけではない、言葉通り陽が沈むまでのあいだ大空を自在に駆け抜ていれば、ありありと実感がわいてきたのです。夜を迎えるまでには餌を与えられ、あとは穏やかな眠りにつきました。その繰り返しです、いくとせやら、数える余裕などはありません」
「その、ありありとっていうのはどうしたことかな」
「はい、まさにひとの世を俯瞰ながら眺めているという意味です。わたしは様々なものを見聞きしました、ときには低空を飛び回り、からす天狗さまがあれこれと説明してくれました」
「で、あの旗本屋敷へだね」
「いいえ、ある日のこと突然こう言い渡されたのでございます。これよりはおまえ独りで旅するがよい、そんな短い言葉を残し、からす天狗さまはお姿を消されてしまったのです。さあ、どうしたものやら、大方の地名は知らされておりましたので、かの地がどの辺りかは心得ておりました。ここから長い放浪が始まったのですけれど、所詮地べたや暗がりに生きてきた強みがあります、いえ、記憶としてでなくこの身が体得しているのでございます」
「転生の術もからす天狗に教わったというわけだな」
「おっしゃるとおり、これという人間を見初めたのなら、迷わず行けと忠言されておりましたゆえに」
「なるほど分かったよ、寸分違わずと言いたいところだが、もろ助よ、おれの場合は川底から始まっているしなあ、幻覚として判断すれば、神隠しだの、きつね憑きだの、おれはうなぎ憑きだな、そうなるとおまえは蛇憑きか、、、断念しなくてはいけないような気もする、、、」
小夢がすっかりうなだれてしまったので、古次は元来の優し気なまなざしを呼び覚ましこう言った。
「どうしました、しっかり話して下さい」
「おまえは聞いておらんのか、おれのすべてを」
「妹が言うには、これはお師匠さまからの又聞きになりますけど、、、もとはやんごとなきお方に添うておられましたが、高熱が災いし正気をなくしてしまわれたと」
「それで」
「はい、、、」
「もういいよ、あとはこうだろう」
小夢は先日、随門師から知らされたばかりの実情をつぶさに語って聞かせた。そして非常に無念な面持ちで古次を見つめこうつぶやいた。
「おれは心構えをしておっただけかもな。どうやら熱病幻覚のいい分が正しいと思えてきたよ」
「小夢さま、ひとつ尋ねてよろしいでしょうか、何故にそれほど女人を好まれるのでございます」
「それは、、、そうだな、やはり牛太郎が雄だから、そうじゃないか、あっ、待てよ、おれも聞き返すよ、どうして旗本屋敷に近づいたんだい」
小夢は大事なものが欠けていたのを発見し、顔色を取り戻した。
「目的はありませんでした、けれど」
「けれど」
「節句のお祭りを見ておりましたら、どうにも阿可女のすがたに魅入られてしまいまして、ああ、そうとも言い切れません、あの双子と申したほうが正しい」
「では転生を、つまり幻覚でも妄想でもかまわん、おまえは試みたのだな、しっかりとした意志を持ち」
「はい、けれども蛇の記憶は次第に薄れゆき、あくまで幻想として息づいているのでございます」
「そうだったのか」小夢は大きく舌打ちし「おれはまた双子を取り違えたのだとばかり思っていた」と、例のどじにまつわる推測を細やかに説明した。すると古次の目が一瞬妖しいひかりを放ち話すに、
「ほぼ誤りのない考えですが、どうでしょう、わたしは古次として物覚えはしっかりしているのです、曖昧なのはもろ助のほうで、、、貴女さまに予て伝えましたよう、確かに古次という人間として阿可女を愛しているのでございます。決して蛇のまやかしなどではありません。しかしどちらにせよ、一緒ではないでしょうか、蛇が穴を間違ったのなら、悔しい気持ちから阿可女を恋慕うであろうし、蛇の毒がまわったのなら、それはそれで仕方のないこと」
「ちょっと待ってくれないか、じゃあ、いつから阿可女を慕っていたんだい、転生のあとなのかまえなのか」
「おそらくまえからでしょう」
「そうなのか」小夢は嘆息しつつも「だいぶんと事情が異なっている、おれとおまえでは、、、で、転生の際、狙いをはずしてしまったのはどうなんだ」
「まったく焦っていたものですから」
「なあ、もろ助や、おれの知っているおまえは、川底の頃さ、千代子を人間に生け捕りにされた怨念から、ほとだろうがしりの穴だろうが復讐の為にもぐりこんではらわたまで食いちぎってやると叫んでいたんだ。あの激情がきっかけになっておれは転生を求め、黙念先生をはるばる尋ねていった。おまえにはいつかいい知恵をさずけてやるからな、そう説き伏せたんだよ、思い出せないか、、、」
小夢の哀願に近い口ぶりを凄まじい勢いで退けるよう、古次は声を張り上げた。
「なんと申された、黙念先生とな」
あまりの豹変ぶりに足もとがぐらついた。そして口調も控えめになってしまい、
「黙念先生だよ、知っているだろ、阿可女は口にしてなかったのかい」
「知りません」
「おい、どうして急に大声を出すんだ」小夢の問いかけに覇気はない。
「そういや、随門師匠もまったく似た反応だった、いったいどうなってるんだよ」
「小夢さま、もう一度お聞きします、黙念先生と出会ったのですか」
「ああ、出会ったとも、そこで秘伝を授かったのさ」
「お師匠さまには話されたのですね、それ以外の者にも」
立場はいつしか逆転していた、古次の語気は鋭く、日差しをもひんやりさせてしまう。
「話した、、、けど、学問所でもどこでも、ほかには一切話してないよ」
この急転劇に思わぬとまどいを見せてしまい、態勢を回復せねばと、これまで古次に隠しておいた春縁殺しの経緯に始まり、もろ助の奇跡的な登場やその頓死までを残さず言葉にした。小夢の秘密を聞き終えた顔に異変が起こった。これほど見る見るうちに形相が変貌してゆくのは尋常ではない、小夢はついに身をこわばらせてしまって、今まで束ねてあった考えが飛び散るよう消え失せ、代わりに純然たる仮想を招き寄せてしまったのだ。
もろ助の怨念だ、、、いや、黙念先生の呪詛だ、もろ助、おまえを見捨てたわけじゃない、感謝している、先生、約束を破ってしまいました、、、しかし、この情況では、、、仕方が、、、ああ、随門にだって喋ってしまっているじゃないか、祟りは遅れてやってくるのか、そうか、そうか、高熱はどうなった、気狂いは確かだろう、、、
「小夢さま」静かだが、腹の底へと反響する声で「からす天狗さまからこう戒めを受けました、我は黙念なり、口外すなわちであると」そう言いながら懐に手を滑りこませた。
小夢はすぐに理解できた、もろ助だ、あのときは危ういところを救ってもらったが、今度は違う、殺される、なんという有り様なんだろう、、、
刃物は見事に陽光を反射し、古次の殺気に充ち満ちた眼光と居並んだ。そっくりそのままあの場面が舞い戻って来た、夕映えにきらめいた銀色の匕首、手にした人物が違うだけでまわりの空気は同質のものである。声色と同じく歩みも不気味なくらい落ち着いている。
「もろ助なんだろ、そうだろ、分かったよ、これが掟、忘れていた、黙念先生が人間であったことを、、、やはり実在の人物だった」
小夢のおののきは絶頂に達し、もろ助の背後に黙念先生の威容を透かし見ていた。命乞いのつもりであろうか、こんな文句を弱々しくもらしたのだ。
「殺すまえに教えてくれないか、旗本屋敷の赤子の首はどうなった、おまえがもろ助なら、、、あれは嘘だったのか」
「もうなにも答えるつもりはありません」刃が喉もとに迫っている。
「もろ助、よくも今まで化けていたもんだ、、、」これが、小夢のひねり出した精一杯の抵抗であり、こころからの面詰であった。
[317] 題名:妖婆伝〜その三十七 名前:コレクター 投稿日:2012年11月19日 (月) 03時32分
誰も待ち受けている気配のないまま小夢は自分の部屋に戻ると、今度はとりとめもない考えがあたまをめぐり始めた。緊張を強いられた者が刹那、まるで場違いな思いを呼びつけるように。
夕餉の際に皆を顔を合わせもしたけれど、あたかもそれは最期の御膳のごとくしめやかな雰囲気に包まれ、しめし合わせたと訝ってしまうほどに口数少なく、一種ただならぬ気配が敷きつめられていた。いつもより総菜が多かったと記憶するけれど、緊縛と弛緩に支配された心許なさはその品々を思い返すことが出来なかった。湯浴みのときにもやたら湯の香りが遠い風に湿らされている気がするだけで、憂慮され、その半面では身構えを崩さなかった姿勢に降り掛ってくる異変はなにも起こらず終い。早めに床をとる、古次が忍んでくれば、これ幸い、思いの丈を巻き散らかしてやろう、内心は震えているのだけれも、家元における危急存亡に立ち会っているこの身はどこか晴れ晴れとして、さながら青空のもとに詰め腹を切る風情さえ漂わせていた。しかし、まんじりともせず、いびつに膨らんでゆく想念は反対に眠りの方へたなびいていったのか、それからせめて夢中では虚無が授けられたのか、気がつけばすでに暁を迎えており、安堵と失意が交じり合うため息がついて出たのだった。
早朝の庭掃きでようやく古次と向かい合った。彼奴の顔つきはいつもと変わることなく、ほのかに目もとに親しみさえ覗かせお辞儀する。久しく顔を見合わせていなかったふうな気持ちが愉快であった。悠長に挨拶なぞしている場合じゃない、昨夜から携えていた懐剣を突きつける勢いで、無駄のない、極めて率直な見解を用意している、だが、口ぶりは普段通りであろうと努めるのは小夢の怯懦であろう、一方的に詰問しかけたいのだが、思いのほか慎重な態度が保たれた。
そこで小夢は以前に示したことのあるか弱い悩まし気な表情をつくり、押し黙ったまま古次の目を見つめた。咄嗟の演出というより、筋書きに沿った配慮であり、懐剣をあえて悟ってもらうが為に不可欠な媚態であった。しかし、心情はいささかあの頃と異なって、いうまでもない、その美しい顔に重ね合わすよう描いた阿可女に取って代わり、もろ助が透けて出るのを力んでいる攻撃的な視線へと移行された。次第に古次の面持ちがこわばってくるのが分かると、沈黙を破る大仰さでこう切りだした。
「阿可女さんとは昨夜のうちに話し合われたようですね」
相手は眉根を寄せるがすぐに返答はしない。
「お師匠さまより認可を得たのでしょう、そう申しておりましたよ妹さんは。駆け引き、そうですね、もうご存じななず、わたしのことはすべて聞き及んでいるじゃありませんか。昨晩、どうしてわたしの閨に来なかったのです、、、えらく姑息な手段と思わしておいて間をあけるなんて、なんのつもりかしら。お師匠さまとも意見は一致しましたか、いいですとも、無理におっしゃらなくても、そりゃ、そうでしょう、こんなところで喋れませんよね」
小夢はあえて言い切る姿勢を打ち出し、有無をいわせぬよう目つきをかえた。すると、
「もちろんでございます、わたしの方からそう申し上げようと思ってましたのに」いかにも空とぼけた声色だったが、古次の口からこぼれると生真面目さがまだ生き生きしているから不思議である。
「ではどこで」
幾分か顔色を穏やかにそう聞き返せば、
「神社の裏山にまいりましょう」と静かに答え、きちんと折り目をつけるよう「許可は頂いております」そうつけ加えた。
小夢は不意をつかれた感じがし苦々しかったが、相手がそう言うならそれなりの段取りを拵えたかに思え、不審を抱くこともなく、少々距離のある裏山の景色をよぎらせたまま「ならそうしましょう」と不如意は面に出さず素直に応じる。
「それでは」
古次が庭先から駆け出しそうな迫力を見せたとき、小夢は始めて胸に痛みを感じた。もろ助よ、もうすぐ再会だな、しかし因果よなあ、こんなめぐり合わせなんて、、、痛むと同時に高熱が下がりかけたときのように、ぼんやりとした病的な健気さを微笑ましく感じた。
決して早足ではなかったけれど、先をゆく古次の歩調には確固とした意思があらわになって、鬱蒼とした木立の脇を抜け、漁師小屋のまえを通り過ぎれば、早くも潮の匂い、滅多に外にでる機会のなかった小夢には新鮮な光景と映り、先陣を切られた気分を塞ぐことが出来なかった。とはいえ、算段を用いているのは彼奴らが一枚も二枚も上手、いまさら詰まらぬ意地を張るまでもなし、どう転んでみても行き当たりばったりも同様、ならば転生の先達としての気概を発揮するのは誰にも邪魔されないであろう、裏山が相応しく、道行きを急いでいるかの古次のうしろすがたは実にいさぎよい。そう思いなすのが今の心許なさを埋めるせめてもの判断であり、後手にまわった素振りであることの弁疏となった。
河口ふきんからは港が望め、そのさきに連なる遊郭の家並みが覗ける。が、橋を渡り左に折れれば、天空をさえぎるふうに茂りに茂った大楠の巨木の陰に紛れ、そのまま再び雑木林に閉ざされて視界からきらきらとした海原の青みが失われた。束の間の爽快な色合いに目を休める暇がなかったのが却って、心持ちを持続されてくれた気がし、山の麓へ、ほとんど人気のない場所へと、歩を進めるのがまるで家路をたどるような親しみに成りすましているのだった。この親和こそ、小夢の胸を去来する不安の拡散であり、強烈な負の郷愁であったのだ。名もなく居場所もなく、当てもない、ひとでなしをうなぎに見立てた偽善者の帰ってゆく故郷への夢見に他ならない。
まったく同等のことを古次に当てはめるのは容易かった。それゆえのひりつく親和であった。
賛同しているのか、ただの偶然か、枯れ木の伸び具合、その放埒な枝ぶりは刺々しさもさることながら、ひとの侵入を頑なに拒み、宥和なきもの言いが山道をいっそう狭めていたので、袖を払いつつ抜け出た待ち針のあたまのような空き地に踏み込んだときには、安心感が歪められ、むしろ神々しく荒くれる厳然とした難所に追い込まれたふうな感じをあたえられて、それは鷹揚に振り向いた古次の容姿にも言えた。何故なら無性に気弱な表情を隠し切ろうとしていない、ここが如何にもな場所のごとくに怯えているのが見てとれたからである。
日差しは遠慮なかった。仄暗い空き地に適切な陽が注がれ、一陣の風にも会釈はない、あるのは煤けた山肌の寂しさを慈しんでいる照りつけ方だけだった。
ぞんざいな言葉を使いだしたのは、やはり小夢の先制攻撃であろう、しかし古次は微動だにしない。蛇のもろ助、うなぎの牛太郎、積年の邂逅に対する呪詛が互いの足もとの土に染みこむなか、太陽は審判を買って出たのか冬の空から燦々とかがやく。影は身じろぐことの出来ぬ刻印となった。
「もろ助よ、もうお芝居はやめようじゃないか、時間ならあるんだろ、言い分は聞くつもりだよ。それにしてもふざけた家元だなあ、おれもおまえもたぶらかされていると思わんか。で、条件はなんだ、もうまわりくどいのはうんざりさ、言ってくれよ」
風が吹き抜けるのを待っていたのか、しばらく真顔でこちらを見返していた古次は、語気をあらためこう返事した。
「もろ助でございますよ、しかしお芝居とはどういう意味なのでしょう、わたしは芸ごとにいそしんだ覚えはありません、それにしても乱暴な言葉づかい、どうされたました。いくらおなご好みとはゆえ、、、」
ここは日向、虚言は通用しない、が、古次の顔つきに嘘くささが嗅ぎ取れない、ふっと嫌な予感がよぎったけど、構わず牛太郎で通した。
「まあ待て、うなぎの件は知っておるだろう、それとも信じてないのかい」
「はい、昨夜、妹より聞かされました」
「では何故そんなによそよそしいのだ、おれを忘れたとでも言うつもりじゃないだろ、いいんだよ、もう川底に戻って」
「少し、少し、話しが、、、いえ、こういう意味です。わたしは確かにもろ助と名乗ったそうでございます。けれどもそれはこの港町に来てすぐ発熱した折に、、、」
「ほう、では幻覚というんだな」
「そうかも知れません」
「まあいい辛抱するよ、だがおれはこの喋り方でいくぞ、おまえはおまえでいい、化けの皮がはがれそうになってからでも、意識が戻ってからでも、どうでもかまわん、とにかく、これだけは譲れんからな」
「ええ、分かりました」
「では聞くが、もろ助の幻覚とやらを教えてくれんか、まさかそれも忘れたとは言わせんからな」
ここでようやく古次は観念した顔色を見せ、さきほどの怯えに明快に連なったのであった。
[316] 題名:妖婆伝〜その三十六 名前:コレクター 投稿日:2012年11月13日 (火) 03時06分
生気を失ったのか、それとも神経を高ぶらせているのか、ただでさえ泰然としていた随門師のぬけ殻めいた居住まいに、ことさら思い詰めた情感を被せるわけでもなく、狭いだけでない、息苦しささえ提供していた茶室をひとりあとにした胸騒ぎが、如何にきらきらとしたさざ波であったか想像するのは困難であるまい。地下通路を抜け床の間返しからもとの大部屋に戻るまでの間、簡潔にときの流れているのを不思議に感じ、また信じられないくらい閑寂な気配に包まれいると思い、ほくそ笑んだ。
見えそうで透けてしまい、透けるようで浮き出てくる、、、明晰な夢想、、、随門師は「わしを疑ってみるか」と、賭けともいえる捨て台詞を吐いたけれど、小夢からしてみれば、渦中に巻かれているには違いなかろうが、家元争議など別段関わりたくもなし、両者を天秤にかけてみようとも思わない、また驚嘆で肝がつぶれると感じた、やんごとなき方だの、寵児だの、婿取りだの、気狂いの果てだのといった斬新な現実に翻弄されているとも考えたりしなかった。
もう沢山と叫べば、それなりの形式に畳まれるかも知れないが、これでは情念の先行きがあまりに見通しよく、うなぎの意気込みを台無しにしてしまう。なるほど確かに学問所とやらで閲された本性が小夢でもなく、牛太郎でないにせよ、あるいは随門師がまだひた隠しにする面目にせよ、それらは自分と関係してようがしてまいが、今こころして係らなければならないのは、まわりが面倒になり打ち捨てた、が、おそらくもっとも適切であったろう、うなぎの転生から日々を切り開くという意志なのである。だからこそ随門師匠への助力や、双子らに対する奉仕を怠るつもりはない。偽善者は偽善者らしく振る舞えば、より光沢のある重箱に収まるというもの、更に小夢の意志を背後から支えていたのは、まごうかたなき黙念先生の影、随門師とて応えにためらいが、いや、家元は真髄など会得していないのだ、とするなら、あとはおのれのひかりで照らし出すより仕方ない。煩悶そのものに立ち返り、そこで女体と雄うなぎを飼いならすのだ、愛でるのだ、安易に互いを懐柔させたりはせず、ひたすらにこの鮮明な事象に向き合おう。
小夢は着物のすそをまくり上げ、大部屋のまんなかにどっしりとあぐらをかいた。そして目を閉じ、黙想に耽った、無論ときは間違いなく逼迫している。ふすまの開ければ古次が待ち構えているだろう、、、だが、この部屋の底の方では随門師が最期の策を祈願している。火急とはいえ直ぐさま血の雨が降るわけであるまい、日輪が雲間に隠れる間合いくらい許して欲しいものよ。
小夢はすべての執着を川に流しつつ、川底の仄暗い寝床に身を沈め、水面を仰ぎ見た。このひかりでよい、燦々と降り注ぐ陽光は水流にもの申す、しかと聞き入れたり、、、
古次の正体どう判じよう、もろ助であるなら、わしを欺いておるのか、同じ熱病でも記憶の障害が異なるゆえ、本当に牛太郎を忘れてしまったか、それとも世間はせまし同様の名を用いたに過ぎんかや。ともあれ学問所の調べに対し黙念先生ともろ助の名を口にせなんだ、我ながら筋金入りの小胆ぶりよ、裏を返せばそれだけ信念があったということか。
さておき欺瞞であるならば由々しい事態、わしの恩人でありながら今度はあべこべの立場にある、訳はもうよい、いつしか聞いた幼少の意志を貫いておる、、、そうじゃ、貫いておる、、、この閃きあながち法外であるまい、彼奴どじを踏んだな、とんだどじを、、、これはわしにも言える、そもそも妙に色欲を覚えたのは蛇のすがたを庭の灯籠に見かけたという怯えに始まる、ここが肝要、妙がもろ助と認めたのでない、わしがそう聞き及んでしもうたのだ。しかし欲情とはそうも容易く喚起されるものやら、いいや、恩を忘れた呵責が亡きもろ助を引き寄せたなら、異なる方面に情念はなびこう、死骸を葬ったわけでなし、つまるところわしはもろ助の死を見届けておらん、彼奴は生きておった、そしてわしをまねて転生を図ったに違いない、あの旗本屋敷において、、、ところがそこで重大な失態を演じてしもうた、思い浮かぶのはこういう図じゃ、兄妹仲良く並んで小便を足れていた、そうだとも、阿可女と同じ姿勢でな、ひょっとしたら件の節句の折かも、、、言うでおったでないか、衣装なぞ趣向を凝らしてと、、、しかも双子、おさなごの古次の股ぐら、間違えようものか、陰と穴を、、、
この推測もすぐに明らかになろう、この耳でしかと聞き出してやろうぞ。他の事情も案ずるよりことに当たろう。
次は阿可女の番、古次との契りとは片腹痛いわ、もろ助と交わるなど考えただけで気色の悪い、そりゃ顔かたちは瓜二つだけれど御免こうむる。まず随門師からして阿可女が談判しに来おったと怖じけ気味のありさま、古次との対面を許可し、あまつさえ阿可女の機嫌を損なわぬような口ぶり、元来は師弟であろうに、借りに双子の背後に隠れた権力があったとして、何故それなら丁々発止と渡り合わん。よくよく顧みればこのわしを挟んだ牽制にしか過ぎん、弱腰にはとてもつき合いきれんわ、同時に百年の恋も興醒めじゃ、とはいえ、はなからわしは至上の愛だの恋を敬ってきたわけでもない、所詮は世界を決めつけたかっただけ、弱腰に変わりない。が、弱腰ながらうなぎは阿可女を好いておる、そして小夢は方便に迷っていた、、、なら出方は決まりじゃ、わしは古次なんかに抱かれん、阿可女を抱いてやる。
多分に先方とて随門師との協議を察しての成りゆき、攻防戦ならわしが先制攻撃にでようぞ。「はい、阿可女さん、自ら思案しました」これでよろしい。
残りはごん随女史の婿取りじゃ、このわしの子であるとな、、、うなぎ以前のことはきっぱり切り捨てたわ、情にほだされたりせん、ただわしの出方次第で人々に影響を及ぼす。しかし、それぞれ勝手に思惑を描いておるのだろう、なら勝手にすればええ、わしは人情家でも篤志家でもない、そりゃここに住まわせてもろうとる恩義は片時も忘れはせんが、それだけ下働きに従事してきたつもりだし、実際にはわしの出自を承知で、つまり後々家元にとって余得にあずかる胸算用があってのこと、差し引きしてもおつりが来よう。
と、まあ腹づもりは出来上がったわけだったが、心残りがなかったといえば嘘になる。封じ込めたうなぎを泳がせたまではよかったし、観念したごとく情況を見切ったこともいさぎよい、しかし世界を決定したとは語弊があり、却ってよそよそしさをちょうど背中のかゆみのように感じていた。
かゆみであることが肝心であった、何故なら黙然先生が実在するなら、うなぎの転生は夢物語でなく現世では信じ難い真の奇跡として輝くであろうし、来たるべき将来、この時代では想像もつかない光景と出会ったとき、いや、そう想いを馳せるとき、ひとのこころもすっかり変わってしまって、男女の区別はなくなっているかも知れない、子供が大人になるのでなく、反対に大人は子供に成長する。この国は世界に向かって羽ばたいており、鳥が文を運んで来て、魚はひとを海中に住まうよう提案してくれる。黙念先生の銅像が国中の学問所に設置され、残念ながら随門師匠や公暗和尚は歴史から抹消されてしまう。そして空に向かって雨が立ちのぼって、ときには人々の涙も入り交じっていることがあり、海の表面が巨大な鏡になって夜空に瞬く星をすぐそこまで近づける。
他愛もないかゆみだったが、小夢には美しい幻想であった。立ち上がりすそを正し、外の気配から枯れ草の気持ちをもらい受け、ふすまを開くと、斜陽で色づくべっこう飴に反照をした長い廊下をゆっくり歩いていった。
[315] 題名:妖婆伝〜その三十五 名前:コレクター 投稿日:2012年11月12日 (月) 15時36分
まぶたの裏が真っ赤に染まった。血が逆流している、このままではいけない、、、小夢が欲したのは間合いであった。少しだけでよい、思考をきちんと正し、呼吸を整え、まなざしに平静を取り戻す。あれだけ随門師の語りに生唾をのみながらせり出していた意欲が一気に萎えてしまい、多分もうすぐその反動で意識は沸騰してしまう。そうなると、自ずとうなぎが飛び出して来るだろう、、、しかし相手はもうなにもかも承知だと言っている。仕方あるまい、牛太郎いよいよ年貢の納めどきがやってきた、が、もろ助うんぬんは解せん、まったく解せん、あいつは死んだ、わしを助けようと命がけで救ってくれたでないか、この目ではっきり見たわ、まあいい、こっちからうなぎでござる、なぞと名乗りを上げることもあるまい、もろ助の謎が先決じゃ、、、
「結局そなたは高熱が禍いし気狂いに至った、あたまの中身が破損してしもうた、きつね憑きならぬ、うなぎ憑きよ、これが学僧、学者、文人らの見解であった。荒唐無稽ではあったが中々どうして一応筋道の通った理屈と関心を寄せる者さえいたほどじゃ。川縁でおなごを物色するところから始まって女人の心情を理解しようと努めるなど、堂に入った葛藤ぶり、さながら世話物にでも出てくるような細やかさ、またある識者は、文政五年に聞書きされた平田篤胤先生の活五郎再生記聞を引き合いにし、生まれ変わりの不可思議は一笑に付されるべきでなく、丹念に調べあげるよう力説しておったそうじゃ。もっともわしは神仏には一切関わりもたん信条でのう、あの世なぞない生きてるうちだけが花である、そう念い続けてきた。だからこそ我が流派すんなり受け入れられなんだわけだが、これは今の問題でないから先に進めよう。
本来なら山奥か貧村のはずれとかに追いやられる身であったろうが、何せあのお方の心痛甚だしく、そなたを汚れた場所にやることは出来ん、かといって屋敷内に座敷牢もな、それで思案した結果、うなぎの転生からの記憶が鮮明であるのなら、そこから新たな人生を歩ませてやればよろしい、ただ余人には触れさせたくないと、ここで公暗和尚に鉢がまわってきたというわけでな、今はその由縁を説明しておる間がないがな、、、とにかくその口利きで屋敷へ嫁入りしたのは紛れもない事実よ。多少は合点はいったであろうか」
小夢は僅かながら猶予を得た、心持ちをすっきりさせることは無理であったが、もろ助に関する疑点が激しく脳裡を渦巻き、反論の機会をうかがっていた。しかし切り口を上手に持っていかなければ随門師は絶対に納得しないだろう、それどころか一段と気違い扱いされるのは瞭然、先行きを焦る師に隙が生じるのをひたすらじっと狙っていた。
「これはそなたにとって初耳だし、言い辛いことだが、拘束を解かれる際にそれまでの意識は抹消されたんじゃ、学問所での取り調べは生ぬるいものでなかったからなあ、それに嫁入りまえの父母だの、幼少の時期だの、あとからとってつけた記憶もある。要はすんなりした心持ちでやり直しが利くなら、うなぎ騒動は小夢ひとりの胸にしまっておけばよい、よってたかってなぶりもの同様にされた苦い思い出は葬り去るべきだった。なかにはうなぎの意識も消してしまえと主張した学僧がいての、一応詮議し、平たく言えばだ、それではもぬけの空になってしまう、小夢という幻想とうなぎを並べておくのが無難であろうという結論に落ち着いたというわけじゃ。そうとも、そなたの名は小夢ではない、、、」
一瞬ひりつきのような痛みが胸を走ったが、思いのほかよいきっかけが早くもつかめた、小夢は眉根にちからを込めこう尋ねた。
「では、わたしの本名をお聞かせ下さい」
「それはやんごとなき方の沽券に関わるゆえ申せん」
「わかりました、けれど妙ではありませんか、子息をごん随さまの婿殿にとは、、、どうにも理解し難いのです」
「これだけは伝えておく、その子息もある事件によって絶縁されたのじゃ、ここはそうした者の吹きだまりよなあ、詳細はいずれ明らかになろう」
小夢はいかにも殊勝な面持ちでうつむきながら、静かな、しかし毒をあおったふうな凄みを宿し「もろ助、でございましたか、古次さんのうわごとは」と巻き返しの舌先を好調に滑り出した。
「そうじゃよ、それで彼奴もそなたと同じ病魔と訝り、あの首切り騒動をもう一度詮索しておったら危惧した通り、とんだ食わせものだと、、、」
小夢は師の言葉をさえぎった。
「実はもろ助と懇意だったのです。はい、うなぎの頃から、そしてお師匠さまもご存知でありましょう、春縁殺しの折にも」
「どういうことかな、そなたは幻覚を見ておったのじゃよ、もろ助など出会うはずがなかろう、あれは古次の幻覚よ、どうして別々のまぼろしが知り合いなのだ、馬鹿馬鹿しい。それともおぬし変なあおりを食らったか」
表情こそ苦虫を潰したようであったけれど、その目もとにほんの少しだけ動揺の影がかすめた。小夢はそこから自分でも驚くほどの早口で、春縁殺害に至った経緯はもちろん、へびのもろ助のあっぱれな死に様をとうとうとまくし立てた。そして遂にうなぎであった頃の川底の光景や黙念先生の教えまで語り尽くしてしまうと、急に容態が悪化したふうな顔色の師と対峙している自分を知り、次にくるであろう反応を大いに期待する構えでいた。
「今なんと言うた、えっ、黙念とな」随門師のまごつきはすでに隠しきれない。
「はい、黙念先生と申し上げました」
「このたわけが、どこからそんな秘密を盗んできた、えっ、どこからだ、古次か、阿可女か、いや彼奴らが知るよしなどあるまい、、、ならば一体」
「お師匠さま、ひとつお尋ねしてもよろしいでしょうか、学問所やらでわたしは黙念先生のことを語らなかった、そうでございますね」
「もうよい、わしのあわてぶりがなによりの答えだろうて。すまなかった大声を張り上げたりしてしもうた」
「随門さま、わたしに出来ることならどんなことでもお役立て下さいませ。失礼ながら黙念先生はお師匠さまの幻覚ではないのでしょう、そうなんですね、実在されたのですね」
じりじりと詰め寄る言い方ながら、小夢の顔色には見事なまでに粉飾された憐れみと、女人ならではの切ない色香が漂い、あたかも枯れ木に注がれる恵みの雨といった趣きを呈している。小夢は突破口を見出した、そう確信すると「それほどの大事、わたしなぞにお話しされなくてもよいのです。しかし、どうした情況にせよ古次がもろ助と名乗ったのであれば、これはわたしにとっても一大事、蛇のもろ助、その辺にありふれた名とも思えません。偶然にしては出来過ぎております、これにはきっと裏がありましょう。ちょうどよいではございませぬか、もし古次があのもろ助であるなら、どうして今までわたしに気がつきませんのでしょう、理由はあるはずです、お師匠さまはあくまで公暗さまより仔細をうかがったのみ、事実は別かも知れません。わたしの転生を信じて下さいとは申しませぬ、けれども黙念先生はよほどの人物なのでしょう、ええ、そうですとも、わたしも熱病によって意識があやふやだったのでしょうが、黙念先生はおそらく山椒魚なんかではありません、わたしがうなぎでないように」
「そうか、黙念に関してはまだ話すことは出来ない、が、古次の件はそなたの耳に入れておこう、そして約束してくれるか、阿可女の発案に即した振りで彼奴らの正体をあばいて見せるから、わしに助力して欲しい」
「なにをあらたまって、そう申しあげているではありませぬか、随門さま。それよりあの兄妹の奸計を阻止しなくてはいけないのでございますね」
「よく言った感謝するぞ小夢。わし亡きあと、家元に収まる企てに相違ない。その為にそなたを手なずけようとしておる、いいや、そなたの方から歩み寄ったも同じ、わしとごん随はあの秘技の際、阿可女が異様な妖しさを振りまいておるのを確認し、それまでの邪推から明確な陰謀へと考えを正すことにした。いやいや、攻めておるのではない、逆に的外れの懸想のお陰で事態が収拾できそうではないか。これも話しておこう、そなたを今まで芸道に導かなかった訳はこうだ。跡目がしっかり定まってなかったこと、ええい、正直に言うわ、おぬしの白痴ぶりこそわしの求めていたもの、うなぎうんぬんは関係ない、芸道に染まればおそらく快楽に溺れてしまい、わしの申し出に躊躇いを見せると思ったからじゃ、それにごん随が迎えることになろう婿殿もわしに相応しい、やんごとなき血筋、面目、体面を忌み嫌いながら結局わしは不動の価値を願ってやまなかった。絶縁とは申せ陰の援助は計り知れない。これで家元は安泰じゃ、わしの変哲はただの気まぐれ、世情に背いてみたかっただけよ」
そこまで言うとよほど気が抜けたのか、安心しきったのか、世捨て人みたいな風情さえ面ににじませ、にっこり微笑んだ。それから最期のひと仕事に本腰を入れる口ぶりに返り、
「阿可女らはわしとそなたのやりとりを大方予想しておるだろう、なに、そんなことをな、自らの思案と。ではわしを疑ってみるか」
「畏れ多い、お師匠さま、あの双子は特別な才覚を持っていたのがようやく分かりました、わたしが阿可女に惹かれたのもあの妖しい眼光、まさに蛇の目です。わたしを欺いているのなら、この女体に賭けて暴露してやりましょう」
沸々とわき上がる熱気の出所を小夢はしっかり悟っていた。随門だろうが双子だろうが、実はどうでもよい、これまで閉ざされていた謎が開けていく悦び、これこそ生きている証しでなく何であろう。