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[280] 題名:妖婆伝〜その二 名前:コレクター 投稿日:2012年06月11日 (月) 06時21分

自分の耳を疑ってみることに微妙な抗いが生じている様は、隠されべきものが隠されない、ときめきをともなう快活な胸中に薄く満ちていくような感覚へ向かっている。
最初に女から声をかけられたとき、お茶と一緒に話柄に出たばあ様の顔かたちはすでに思い描かれていたといった予見が、まるで飴色のちゃぶ台に鈍く映りこむ加減ですぐそこに成り立っていた。玄妙な思惑を振り切るように、また虚偽をあばきたてる意気もなおざりにし、老婆と孫娘のふたり暮らしから漂ってくる得体の知れぬ空気感が家屋に澱んでいて、自分の脚に重しとも虚脱ともつかない不思議なくつろぎを与えている。一度は辞退しかけた返答に秘めていた苦渋の相貌が、同じくちゃぶ台の表面に浮いて出る想いがした。
「うなぎは好きかいな」
老婆のかなつぼ眼にじっと見つめられ、そのふっくらした顔に走っているしわの数と、百をいくつも過ぎているにはかくしゃくとした体躯、白髪の色つやが妙に清潔感をたたえていることなどを、ぼんやり気にして相槌を打つごとくに「はあ、栄養がありますから」などと感情のないもの言いをする。だが、この愚純な感情の持ち様こそ、安逸を望む面であり、ひいては一夜の宿に結ばれる陥穽への願いであった。
「共食いは嫌じゃから、わしは食べんけど、あんた好物なら捕まえてこようか」
「いえいえ、そんなお手数など、、、まして、、、」
ほんのわずかなやりとりで自分のこころはこの民家に籠絡されたに違いない。老婆がうなぎだったという迷妄へとにじり寄っている、それは半信半疑とは別種の、いくらか陽気な伝承が型通りに伝わったのであって、おぼろげな記憶のなかに棲息する、あるいは遠い未来に現われ出るような謎めいた予感を従えていた。女は横で年に数度のお祭りでも見物しているふうな目もとを崩さない。そして微笑にも艶笑にも移ろいそうな顔つきはそのまま雪解けを待つ心情となり、ほとんど口をはさむことがなくなった。とめ置いた情欲の身代わりとも考えてもいい、つまり老婆の奇譚が幕を開けたのである。
「そうかい、わしも殺生は好まんからな、前世はうなぎじゃよ、まあ聞きなされ」
自分は茶を一気に飲み干すことだけ忘れず、女にならった。
「ひとつ断っておくがのう、わしが前世をあたまのなかに甦られたんじゃなく、うなぎの時代からしっかりとものごころがあって、いささか抜け落ちとるところもあるがな、そうした気持ちをずっとこの歳まで抱いていたってことなんよ。平たく言えば、人のこころを持ったうなぎだったわけでな、そりゃ、あんたにしたってにわかに信じ難いだろうけど、わしは夢をみとるのでも嘘をついとるでもない、全部ほんとの話しなんじゃ。
さすがに稚魚の時分は覚えがない、そこの流れから河口まではけっこう距離だしな、遡行したとしても川の世界を知ったときがいわば誕生のときじゃて、わしはそう思ておる。ものは喋ったりはできんが、以心伝心で通じ合える仲間がいての、まあ限られた種類じゃけど、うなぎだけでなくて魚だの蝦だの蟹、それに亀や山椒魚とかもな、わしらが言葉をあやつるよりもっと素早く、的確に意思や態度をしめせる。それと人間の考えやら暮らしぶりなんかも伝わってくるんじゃ。他の生き物から教えられることが多かったが、わしだって蛇みたいに陸地を這うたり出来るでのう、どれほどの年月かは忘れたけど、朝夕を決めているのがお日様であり、水温も変化し、それを四季と呼んでいることさえ耳に入っていたわい。どうして言葉を話せないのにって訝るだろうけどもな、風聞というものは川の流れに溶け込むのじゃよ。河口付近に泳いでいったときもあの界隈の奴らに色々聞かされた。確かに始めは想像が大半を占めておって、実際の風物を認めたのは随分と経ってからじゃな。まあ様々な生き物がいるわけだから、そしてそれぞれの寿命はもちろんじゃが、代々にわたって細々とした事柄が寄せ集められ、段々と情報が蓄積される、さながら歴史じゃわな、わしらも。水中の生活はのう、あんたも分かると思うが毎日が淡々としたものよ、大雨で激流になって身の危険を感じたことも多々あるけど、陽のあるうちは明るく、夜は暗黒になるのだから別段人間の暮らしと大差ない。もっともわしらは夜行の習性でおまけに鼻がよく利く、夜間に灯りなしでは歩けない不自由と違い、川底の様子やら岩場の陰なんぞもはっきりと識別されるわな。
だがなあ、わしがあんたに聞かせたいのはそんな日々のなりわいみたいなことではないんじゃ、そりゃ同じさ、わしらだって小魚をとって食うし、釣り針に引っかかったものもおる。こんなのは自然の理じゃ、どこにも不平を持っていけまいて。
それでな、とにかくわしは相当長生きしたみたいなんよ、人間の有り様やら言葉使いが永い永い歳月をかかけて微量に川水に浸透して行くんじゃ、むろん流れがある、だが水蒸気が雨水となって降り落ちる、雲にも流れがある、水分はあまねくこの地もよその地にもしみこむんじゃよ。区分しかねる生活排水にだって念いはこめられまた天に上っていく、それらが理解されるっていうのは一体いつの世から生きていたのやら、、、砂防とかにすがたを変えられなかったお陰もあって、あの川の脈々した様は今もこのとおりじゃ。
さてと、さっきも言うたようにわしには意識ってものがあった、だから人間の営みにただならぬ興味がわき起こるのも無理はないだろうて。陸に上がれるとてたかだかしれたひととき、何度ひとに生まれ直したいと祈願したことやら。分かるか、この気持ち、すがたかたちはうなぎでも、小さなあたまでも、考えることは途方もなく解放されており、なまじっか想いがひろがるせいでついには発狂しかけた。
やたら滅多なことでは顔合わせなど出来ないこの辺の主、大山椒魚の黙念先生を尋ねたのは一念発起したあげくでな、黙念先生こそ太古の昔に生を受け、その霊力は計り知れないものがあるとのいわば神格された存在じゃった。おっと、その前にこれを聞かせておかんといかん、あんた竹細工のもんどりって知っとるかい、うなぎ獲りの仕掛けでな、先細りの円筒をしていて出口なし、入り口は一見容易なんだが、竹のしなりをうまく利用しておって、くぐったら脱出が難しいという代物で、なかには魚の切り身やらミミズなどを入れておく、夕方に川底に仕掛けておいて朝一番で引き上げるんじゃが、おお、そうかい分かるんじゃな、では話しが早い。なんせわしらは嗅覚に長けているもんで、どうしてもあんな強烈な匂いが発散されるともう我慢がならん、わしは何度も忠告したんじゃが、なに、獲物だけ頂いて抜け出てみせるわい、そういった仲間の半数以上は朝まで竹筒のなかでもがき苦しみ流れから連れ去られた。人間だって餌を食らうだろう、それはいい、だが、眼のまえであんなだまし打ちみたいに捕らえられるのは耐えられんかった。いっそひと思いに竿でつり上げられたほうが愁嘆場を見ずにすむ。そんときじゃった。さほど古いつきあいでもないが蛇のもろ助っていう奴が現われて訴えるに、あのもんどりにおれのいい娘がさらわれてしまったそうな。まさか、蛇が川の底をうろつくなんて、なにかの見ま違いだろうと言い含めてみたんだが、千代子に違いない、あの娘は泳ぎが達者だった、逢瀬の約束の場所に来ないから、そこいら中探しまわっているうちに朝になってしまった。仕掛けた人間もなかに蛇がいるので気色悪がって、その場で中身をいじらずに不承不承持ち帰ってしまったので、おおよそ末期は見当がつき、もろ助は幽かな千代子の悲痛を浴びたまま、どうすることも出来なかったそうじゃ。
それがつい先日のこと、怒り心頭のもろ助は復讐を誓い今度人間に出会ったら、ほとだろうがしりの穴だろうがおかまいなしに突撃し、はらわたまで食いちぎってやるんだ、そう息巻いていたんだわな。
のう、牛太郎おまえらの仲間だって餌食になっているんだろう、っておいおい泣き出したのさ。わしは同情するもさることながら、斜めから差しこむよう奴の言ったほとだろうがってとこになんやら天啓をさずかった思いがしての、なるほどいにしえより言い伝わる女人の股ぐらに侵入した蛇の怨念とやらには聞き覚えがある、もしや、そうすることで雌である相手をはらませ、わしも同化すれば、まあここいらはいい加減な想像だったのじゃが、人間として転生するかも知れない、そこで念頭をよぎったのが黙念先生じゃった。かの御仁なら必ずや秘法を伝授してくれようとな、これはもはや信念に近かったわい。で、もろ助にはその件は伏せておき、いい知恵を頂いてまいるからとにかくやけをおこすなと諭し、早速伝手を頼って深山上流まで鼻息荒く遡っていったわけじゃ。
それこそ昼も夜もおかまいなしでな、決意は夢を乗り越える境地にまで達しようとしていたからのう、どうかな、ここまで来ればわしの今生が理解されやしないかい、はっはっ、ほとにもぐることで女人と交わり、妖異の類いに変化したか、その通りじゃとも。しかし黙念先生からはくれぐれも口外するべからずと言われておったので、これまで誰にも語る機会はなかった。ところがこの春先にな、先生の訃報を聞き及ぶにつけ、これまで封印してきた呪力と、なによりこのわしの業を聞かせたくいてもたってもいられなくなったんじゃ。百を越えてもその月日だけ、因業も巣くっているわい、あんなに熱望した生まれ変わりより、これまでの成りゆきを口にしたい欲のほうが勝っているようじゃわ。うなぎとて人間だな、いつも先走るものに違いはないのう。
なに、この子はわしの孫じゃさかい、語らずともよう心得ておる。さあ、あんた信じなさるか、いいや、どうでもええ、たとえ信じたとしたところで、すぐに不審の念がやってこよう。それよりな、この子にも秘密があるんじゃがな、、、はっはっは、当たりまえだろう、あんたもそんな顔しているよ、眼が輝いておるわ」


[279] 題名:妖婆伝〜その一 名前:コレクター 投稿日:2012年06月05日 (火) 06時21分


しらふに返って分別つけば、愚かなり、
酔いがまわって愚かになれば、分別がつく。

〜ドストエフスキー



先日ある人から風変わりな手記を拝借した。何でも当人も人づてによりその褪色した冊子を手にしたらしく、明治四十三年に筆を起こした形跡はあきらかなのだが、肝心の書き手の姓名と出自がどこにも見当たらない、とはいえ、意図的に無名で通したにせよ、その如何にも腺病質な字面で(実際の文字も極めて細かく、ひと昔まえの岩波文庫に見る訳注を想起させる)紡ぎだされた内容は一読ならず、再読三読に値するものと思われたので、ここに紹介する次第である。
文面から察するところ書き手は当地の民話や伝承に関心を寄せているらしく、尚かつ思想宗教といった方面にも学識ぶりがうかがえ、一種独特の世界観を掘り下げていることに異論はないのだが、煩雑な思惟へ巡った結果として、専門用語やら難解な数式が縦横無尽に飛び交う様は下手をすれば衒学趣味に映じてしまうかと危惧されたので、筆者は原本が含有するエッセンスのみに執着し他の学術的な論旨からの解放を目した。次の理由は紙幅の制限もさることながら、読者諸氏が魅入られるのは原本が孕んでいる妖気というか、心身をしてその時、その場から浮遊していくような、まぼろしの到来にあるはずだから、閑雅な語り部に徹しようと考えた。よって本来の形とは掛け離れた物語に流れてしまうけれど、僭越ながら抄訳とは異なる意趣を汲んで頂ければ幸甚である。

峠に差し掛かる開けた山道と聞けば、商いの衆や旅装の行人のすがたに思い馳せることも遠い昔の風情、いやなにね、あたしのばあ様の時代の話しだよ。こんな山奥なんぞも、そりゃにぎやかで、茶店の数軒もあったっていうから文明って奴はどうなんだろうね。で、あんた見たところ呑気に物見遊山って雰囲気じゃないけど、峠を越えるつもりかい。
女の口調に賛同したのは、この土地に不慣れというよりも行くあてもなく今ここに佇んでいる自分を不甲斐なく思い、そしてほとんど同時進行の按配で感情が晴れ晴れとした空に舞い上がっていたからだった。その感情とは色紙を模した華やかなものであった。陽が真上にいる。ちょうど弁当のにぎりめしを風呂敷から取り出しながら田畑に沿って緑を眼に泳がせていると、不意にうしろから声をかけられた。甘ったるいがきびきびしていて頼もしい、そういう響きが更に底抜けに愛くるしく感じてしまいそうな、どことなく一目惚れを容認してしまう声の持ち主は、この辺では滅多に見かけるはずのない、鮮明な色合いの着物がよく似合う若い女だったので、自分の眼中からは色彩の高じる綾がかき消えてしまっていた。
「ばあ様はお元気で」
新緑の気候は掌を潤わせ、額にも涙のような汗を滲ませれば、何を動揺したのか、そんな言葉がついて出る。
「元気さ。あんた昼飯ならあたしとこに来ればいいよ。お茶ないんだろう。ばあ様の話しなんぞ聞いてきな。すぐそこだから」
光線が強く注いだまわり一帯の田畑のきらめきと女の容姿が映発し、自分のこころは数えきれない眩しさにとらわれた。蒼穹に笑いかけては挑んでいるような大きなケヤキの茂りの裏手に家が見える。峠越えは真新しくない目的だと、何やら絡み合った意想が浮上したり、初夏に最適な感覚の真っただ中に立ち止まっているという新鮮な文句を呼び寄せ足もとの影に合わせてみた。
女が笑っている。自分は意識しトボトボとした足取りで木立の方に着いていった。農家というには立派な家構えだったが、玄関をまたいだ刹那どうしたわけか、埃くさくて愁いのある気分に襲われた。
「今日はばあ様とあたしだけしか居ないの。さあ、遠慮しないで上がりなさいってば」
「それじゃあ、ごめん下さい」
胸のうちではまんざらでもない気が張り出していたのだったが、女のうしろ姿に引き寄せられた弱みが形式上、脆弱な態度を示そうと努めている。しかし動悸と一緒になって刻の単調さから脱する打算を働かせていることは確かであり、まったく予期していなかった午後の光景に対し有りあまる感謝で一杯にする以外すべを知らない。
奥の間の飴色をしたちゃぶ台が目立つと、さっきからこの屋内を舞っている埃を寄せつけていないのが、どこかずっと以前この眼にしたようで、又ほんのわずかに違う笑みをあらわにして運ばれたお茶の湯気も、過去に夢見た情景へとかすみをかけ、意識を近づけたり遠ざけたりしているよう想えてきて、増々打ち消したい思惑の輪郭がはっきりとつかめた。
「まやかしならどうか覚めないでくれ、、、」叫びからは拒絶され、祈りには融和を提示され、諦観の彼方には極めて生物的な指弾が待ち構えており、自分の為すべきは、この埃が演じる不思議を、微細な、けれども時間に向かい静かながら反逆する意志を、何より重視することしかなく思われた。湯気の気配で老婆が現われたとき、確信ともいえる夢想が眼前に展開したと身震いし、湯飲みに並んだ青磁の急須に顔色を被らせ昂った気分が治まるのをほくそ笑んだ。
「あんた、峠はじきに雨になるでな。ちょうどよい、ゆっくりしていきなされ」
開口一番この調子であったから、それから始まった移ろいやすい天候の妙やら、年々の田畑の収穫やら、地霊の恐ろしさやら、この付近にまつわる怪異などを喋りだせば、いつの間にやら外の気配はどんよりと陰鬱になっており、よい日和が失われ、山間の僻地だから天気の変化など当然と念じているものの、齢いくつか考えてみるだけで生気が吸い取られるような臆病風に吹かれては、見事にこの老婆にしてやられたと痛感したのだった。そこへ畳み掛けるよう女が「ばあ様はとうに百を過ぎているのよ」と、こちらの心中を透かし見たごとく言いきかせれば、あたかも真夜中にさえずる小鳥の音に耳を澄ますとき、その彼方に不穏な風のうなりを味わう心持ちを彷彿させる。
余韻を噛みしめろ、そう促している女の眼には針先ほどの慈しみのひかりが隠されているようで、哀憐にも似た艶治な情を見つけだしかけたのだけど、ばあ様の「今晩は泊っていきなさるがよい」との一言で、一点の甘い香りは鋭い、そして濃密なからくり仕掛けの茨に転化した。
女は作法に従うよう居住まいを正し、花の開花を満面にたたえ、今日一日の運命を占っているみたいな高見からの目線を投げかけた。花の名は思い出せない。自分の影を熟視する。空模様は予報通り、驟雨の激しさで自分の曖昧な気持ちを洗い流している。安達ヶ原の鬼婆でもあるまい、仮にそうとしたところで、鎌を研ぎ出すまえに駆け出すのも一興、覚まさぬ意識との攻防であるなら本望ではないか。
「どうしたの、そんな苦虫を潰した顔をして。早く弁当食べなさいよ、ばあ様のいうように泊っていけば、この分だと雨はやみそうもないわ、夕食はたいしたものないけど、いいのよ本当に」
はっとして空腹感すらなくしている自分に返る、まったくどうした因果でこの家の畳に座っているのだろう、、、女の声色がありきたりの伝わりで耳になじんだので却って違和を覚えた。自分は過剰な想像に耽っているのでは。因果などと含めた内語からしてそもそもいかがわしい。この土地の人はこんなふうに気安くて親切なのだ。混淆した思考を整理するのが煩わしいのでこんな彷徨をしている。奇妙な場面や数奇な境遇に無責任な夢を乗せているだけなのだ。その証拠に女の厚意を別な角度から斟酌しては妖異の渕にこの身もろとも飛びこもうと企てている。何というお粗末、、、急いでにぎりめしを頬張りながら、茶を飲み干し「折角ですけど、実は用事がありまして今日中に峠の向こうに行かなくてはならないのです。これで、ああ、合羽は用意してますので、どうもお邪魔しました」そういい残して家を出ようとした。
「あんた、無理じゃって、もうどしゃ降りじゃあ、わしの言うこと聞いたほうがよい」
今度は老婆の口調に変化がうかがえた。まるで情夫を引き止めるような痛く切ない願い。しかし自分の妄念がすべてを曲解してしまうのは耐えがたい苦しみを養うだけであり、ここの住人に難儀をかけないという保証はない。
女は哀しい眼をしていた。そして老婆は思いもよらないことを口にした。自分は困惑し血管が脈打つのを明確に実感した。
「この家にはわしらふたりしかおらん。あとは黄泉の国に旅立ったでな。あんた、わしの話しを聞かんといかんよ。それが宿命ってもんじゃ、わしはうなぎだった。たんぼの先に川が流れとるじゃろ、あそこで生まれた、うなぎの牛太郎って名で、それはいい男振りだった。これでも帰りなさるかのう」


[278] 題名:夜間飛行 名前:コレクター 投稿日:2012年05月29日 (火) 03時39分

窓の外に雨音の気配を感じる。はっきりではなく、遠い野に深々と垂れこめる景色が少しづつ、こちらに向かっているような淡い記憶をともない、散りばめられた光の粒を体内に含んだ雲翳が枕頭に広がっていた。瞬きを覚えないまま、残像が緩やかに浸透してゆく。蕭然とした気分に支配されている感覚を小高い丘から見おろしているふうな、甘く、懐かしい、安らぎがあった。幽かな笛の音に流されている優しさを身近にした。
真夜中であることは雨が教えてくれた。彷徨いだした意識は時計の針を認めず、代わりに見知らぬ男のすがたをぼおっと白く浮き上がらせ、僕の顔をのぞきながら話しかけてきた。独り言ではない、それなりの挨拶と笑みを忘れず、つまり僕の存在を十分理解したうえで説明を始めたからだ。静寂を破るような雰囲気ではなかったのと、自然現象に近い現われ方のお陰で、驚きも焦りもないまま薄目を保って、相手の言葉に一通り耳を傾けたところ、すんなり事態がのみこめたのだった。
「いかがなものでしょう」
男は僕に旅行を勧めているわけであり、ネクタイを絞めた身なりと律儀な口ぶりは有能な手腕を匂わせたが、その要求に応じてみるだけのしなやさはすでに了解済みだったので、不審の念は起こるべきもなく、証拠にと如何にもゆったりした動作で寝具から身を離し、内心は共犯者みたいな感情を湧き立たせていた。
男は聡明な笑顔を絶やさず「では支度が出来次第」と、僕の胸中をなぞる声色で柔らかな催促をした。そして案の定返ってくるであろう遅疑すら猶予のなかにひそませ、不思議な旅立ちにふさわしい台詞を用意していた。
「暖かな冬空と肌寒い春先によく似合う服装で」
僕は当たりまえだが夜空に最適の格好を問い、男はもっともな意見を述べたまでのことである。何せこれから窓を飛び出して行こうというのだから。
翼も羽も必要ではなく、特別な仕掛けなどはなし、ただ一緒に飛行しようと言っている。いや、実際には魔法をかけられ真夜中を駆けめぐるだけかも知れない。しかしことの当否は問題にはならず、大事なのは今この意識を占領しながらすぐ先に惹起されるであろう魅惑の結晶体にあった。その輝きにあった。
目覚めてから二度目の時計に視線を送る。真っ暗な部屋なのにそこだけが、まるで懐中電灯で照らされように識別でき、それは男のすがたも同様であり、あらためて胸のときめきを知れば、耳鳴りにも似た音楽が心地よく、外は雨、言葉の響きのうちに、転倒した想念の狭間に、愉悦の調べを聞き取る。秒針を、そうチクタクチクタク、黒炭の内包した白味が夜にこぼれだす。男の応答は闇を背景とし、封印された所作がまぶたに重なり合った。
「代金はあなたの寿命です。ご心配なく、ほんの三十分ですので」
もし男が悪魔や死神の類いだとしても、神や仏の言い分だったとしてみても、僕には合点がいった。それからこう尋ねるのが義務であるみたいな口吻をした。
「すると飛行時間も三十分になるわけでしょうか」
予期していた柔婉な笑顔は、演じられる妖婦と少女の面影を行き来しこう応える。
「脳内時計と、感覚の持続に一任されます。この秒針に忠実である必要はないでしょう、時間は歪み、あなたは広がるのですから。ほら、窓を開ければ、この通り」
杓子定規な質問は一蹴され、認識すべき状況がいち早く開示されたので小躍りしたくなった。雨上がりの夜景が待ち受けている。艶やかに濡れた隣家の外壁はわずかの灯りに媚態を示し、夜の空気を抱きしめたく願っている。眠れる子供らと闇の住人、どちらにも平等によだれを垂らしながら、本能の赴くさき、あたりをぐるりと見渡しては夜露に震える花へと想い馳せる。うかがい知れぬ領域に首をのばす為、恋心の芽生えをしたたり落としては、拾い上げる為。
男は魔術師だった。そう思わなければ仕方ない、この身はもう宙に放り出されており、男のネクタイはパラシュートに等しい開花で漆黒のマントに豹変し、顔つきは無論のこと、それまで穏やかだった身振りが心憎いまでに悪魔じみてきて、喋り方も素晴らしく高圧的に一転している。夜空に踊り出した唐突より、その眼が持つ気高い嫌らしさに心身が吸い取られそうだった。爛々としたまなざしの奥へ奥へ、惹きつけられる感じが飛翔に優先していたのだから、間違いなく僕は魂を投げ売りしたのだろう。だが、後悔する汚点は現在進行形で拭われ、暗雲の彼方に流星らしき光芒を見いだしたとき、気分は無重力空間に遊び、右隣に翻るマントのあおりこそが、僕を浮遊させているのだと感銘した。
「どうだい、命が縮む思いがするだろう。俺のそばから離れるな、ダメだ、近寄りすぎてる、そう、その間合いを忘れないことだな、さもないと落下するぞ」
男の眼から威厳と侮蔑が交互に放たれていたが、僕は解放と抑止と受け取り、縮む命の形式に収めてみた。そこから先は自在を得たといっても過言ではない、自分自身の眼もどうやら煌々と妖しい色に染まりつつあるのを実感し、真下に展開する光景に狂喜しながら、小さく点在する民家の灯りや、隠れていた月光が水辺に反照する様を眺め、上昇気流に乗って相当な高さまで駆け上がった体感を取得して、夜風を切る感触にすべてが結合していることを悟るのだった。
眼前の圧迫している闇をかき分けていく行為はなおざりにされた下半身に対する儀礼となる。夜間飛行の意義は、そして男の手招きと急降下は、狩人の先蹤であり、渇きを称揚する夜露への欲情である。小雨が懐かしい。
「おまえ、吸血鬼になりたいのだろう。だったらほら、あの上流にちょうどいいのがいるじゃないか」
男は僕の心中を斟酌し悪魔的な誘惑に導こうとした。
「なるほど、こんな山間でキャンプをする物好**るもんだ。あの薪は獣よけらしいが、こっちからは何よりの獲物だ」
ためらいの陰りもなく直情が整列し、探りはすぐさま目的に同化すれば、頬の火照りが風に熱意を吹きこみ、もはや自分の意志が率先してマントのはためきを買って出ていると薄ら笑いをつくった。複数のなかにめぼしい女人を見つけ、山稜から山稜へ、やがては歓喜と高まる恋情に胸を焦がして、暗黒の空は狭まった旋回を許容しはじめる。今度テントから出た刹那へ狙いは定められ、狂熱の限りを捧げた。
魔界への導入に促された服装、この水色が灰色に褪せたパジャマの月並みさ、、、申しぶんない、吸血鬼に向けた憧憬は闇にさらわれ、宙づりになったことで却って白々しい日常を軽蔑するどころか、陰陽の連鎖を思い知り太陽の残滓を、月影の誘いを、ひたすら身に宿す。
「ところで、おまえ、どうやって血を吸うつもりなんだ」
「それは、、、やはり、首すじに噛みつくんでしょ」
天空を周回し、脳内にきらびやかな、そして凡庸な発露を飛び散らしていただけのほうが幸せだったかも知れない。
確かに男の問いかけは至極まっとうであり、目的を目指し突き進むのなら、血と肉に関する料理の心得が求められる。だが、犬歯など生えていないこの口で果たして首にかじりつけるのだろうか。想像してみただけで美の狂乱は静まりかえってしまい、どうしてそんな水を差すような意見をと、ちょっとした怒りがもたげてきたが、落ち着いて考えてみれば、犬歯を持っていようがいまいが、僕は生身の人間に食いついたり出来ない。
「何というくだらない葛藤に苛まれているのだ、、、」叱責を含んだ男の視線を感じる。そのときだった。おそらく小用だろう、そう踏んだ意に間違いはない。一人テントから歩きだす様子が分かり、夜光虫が飛び回っているくらいの高さにまで接近し、いや、これはもう高さではなく低さが強調される地表をうろついているに等しくて、それでも情熱の片鱗はうごめいていたから、僕は自分でも情けなくなるくらい哀願の表情を夜気に投げかけていたと思う。
実際には魔術師の法力に、それから汚れも罪もない、何も知らない、ましてや夜の空から邪悪な恋が降り注いでくるなんて空想したこともない、顔も名も不明の女性に対し一途に祈り念じていた。
テントから距離はあるといっても、小用を足すのだから彷徨うほど遠のいたりしないに決まっている。案じると同時に女性は草むらにしゃがみこんだ。凝視する心許なさに従って判断もつかず、どうすることも不可能な立場を歯ぎしりしているしかない自分が悔しかった。
「神隠しの術を使うか」
男の苦々しい口さきに光明を見いだしたのは言うまでもないだろう。こんな反応だけは悲嘆にくれていようが鋭敏であり、調子がいい。魔術師の眼には僕の会心の微笑が映っている。すぐ下の草影からのぞかせている白桃のような尻に眼をやるより、こうして金縛りにあった意識へ沈んでいくほうが望ましかったから。
「さあ、駆け上がるぞ、寿命をいただくのだからな、おまえの想いは叶えてやるよ」
男はすべて見通しているのだろうか、そんな小骨が刺さったみたいな、だが偉大な思惑を乗せ、マントが大鷲のように羽ばたけば、これにはさすがに度肝を抜かれてしまって、絵にでも浮かべて欲しい、あの女人が尻を出したまま大地から飛び立ち、驚愕と動揺に不安定を強いられているのだろう、気流にもまれる勢いで、しかし確実に僕らの方に向かって宙を舞っているではないか。その顔色を見極める間もないうちに上体は夜空に治まったのだが、突風より激しくあおられたせいで下半身に残されているのは、冷気を再確認してしまいそうな真っ白なぱんてぃだけで、本人もそれに気づいたのか、もしくは気丈な性格なのか、こんな情況にもかかわらず、左横に並んだ僕を睨みつけながら怒気を込めこう言い放った。
「あんた気違いなの、なによ、あたしをどうするつもり、その隣は誰、バカじゃないの」
「気違いではないよ、奇麗なお嬢さん、意識を変革しているだけに過ぎない。それよりその格好は君にふさわしくありません」
魔術師は街角でふと些細な粗相をしでかしたふうな、慇懃でなおかつ即席の愛情がこもったもの言いをし、マントを手刀で切る仕草をしたところ、夜目にも鮮やかで美しい純白のドレスが出現した。もちろんすでに女人の身をまとっている。定めし間違いはないだろう、空中に拉致された局面よりも、ただ白いだけでなく、眼にもまばゆかったぱんてぃとは次元の異なる光輝な衣装に陶然としている、つまりそちらの方に彼女の意識は泳ぎだしていたのだ。
何故なら、花々が惑星を取り囲んでいるような、壮大な景観は重力の魅惑によって形成されただろうし、気が遠くなるほどの年月が今この一瞬に凝固され、移ろいゆく森羅万象から編み出された羽衣、いわゆる天女の召し物と化してその身体を包みこんでいたからで、更には胸許に輝く異様な宝石の魔力から逃れることは無理であった。
そんな女人の驚きをともなった放心を魔術師は決して見落としはしない。花の奇跡に例えるならまるでお嬢さんの美しさは、、、といった歯の浮いた、けれども耳あたりは悪くない甘い言葉から続け様に繰り出される品定めは、事実と不可分であることの保証となり、神秘とみやびの世界に転送しながら、これまでの経緯を最大限に優麗に磨きあげ、僕らの邪心は等閑にふされたまま、非礼を詫びている様子がいつの間にやら、誘惑の証しである恋文を読みあげているような情勢へと変じてしまっている。
今宵僕を尋ねた場面なども目立った脚色は施されていないのだが、自分の出来事だったとは俄に信じ難い、遥か彼方の物語のようであり、これから降り立つ美しい星での見聞と思えてきた。
これが神隠しなんだろう、可哀想だけどこの女性は永遠の契りによって僕より寿命を短くしてしまうかも知れない。彼女の表情に奇怪な既視感を覚えた頃、おまえの想いを叶えてやる、、、と言ったことが胸にこだまし、まだまだ愛撫の最中であるような甘言がいつまで続けられるのか気を揉んでいたら、それは明快に白状すると、僕との契約が反故にされているみたいな、この期に及んでいやに生臭い焦燥に駆られたのであって、妄想が準備した吸血行為も、弓矢に目した欲情も、魔術師のマントから離脱してしまい、霧散する予感にとらわれるのだった。
もう地表から明滅するものは得られない高度まで昇りつめていた。その間、僕はここに来てはじめて時を数えてみた。指折りながら、寝室の時計の針を思い返し、時間を売ったことを、それ以上ではなく、そのことだけをとりとめもなく、、、
女人が僕に向かって話しかけてきたのはどれくらい指折り数えてからだろう。とにかく、僕は魔術師の啓示通り、大きく利発そうな眼をしたに見つめられ、なめらかで肉づきのよい唇からこぼれだしている陽気な息づかいを間近にした。そして、その艶めいた赤みがこれより迫り来れない実感に恍惚となった。
礼節を重んじたわけでもないけど、夜空の恋人を抱くまえに魔術師の面に目線を流した。暗雲が最高に、とてつもなく雄大に、占拠しているのが分かり厳然たる世界にひれ伏すより妙案はありそうもなかった。
朝陽に応じる壁掛け鏡はいつになく機嫌がよさそうだったので、僕もその気で青ざめたいつもの顔を映し出してみると、左の耳たぶに異変を見つけた。すると何とも婉曲なかゆみがやってきた。赤い果実を想起したあたりで滑り台を降りて来るような無性なかゆみに変わった。たっぷり蚊に刺されたらしく、まるで福耳の有り様だった。


[277] 題名:瞑想 名前:コレクター 投稿日:2012年05月22日 (火) 04時56分

生来の方向音痴をあらためて実感することは、心情的な揺らぎに即するところもあるだろうが、嘆かわしさが当てられている皮膜を伝う振動に冷や汗は生じず、むしろ鋭角的な意識が見知らぬ領域へと散漫に、そして逼塞した気分は首輪を解かれた犬のように、無心を享受していたと思われる。
進学のため上京した当初、通学にはバスを利用しており、行きは遅刻の懸念から乗車するとし、帰りは節約も兼ねて慣れてもいない町並みを急くこともないまま、徒歩でぶらついたまではよかったのだが、皆目アパートの在りかを見失ってしまって途方に暮れ、道行く人々に尋ねてみても、電柱に標された番地を見つめても一向に埒が明かず、結局タクシーを拾って安堵したことがある。これを三度繰り返し、ようよう帰途を学習した。
慣れというものは微笑ましいというより、薄気味の悪い構成に委ねられているのではないだろうか。別に根拠はないけれど、明治カルミンを何十年ぶりかで食べてみたら、その淡い薄荷が舌にひろがったのか、どうかよく判別しかねていると「ああ、なるほど」それとなく納得させる風味が確かに口中に残り、強い刺激を売りにした最近のガムなどに比べれば、ただそのシンプルな色合いのラベルに郷愁を覚えるまでで、取り立てて感心するほどでもないなのだが、美味なのか、程よいのか、物足りないのか、詮索するのも億劫になってしまうあたり、いい加減な反応で取り繕っている気がする。
決してカルミンのせいではない、構図から見れば来るべき頽齢を先まわりして悲嘆しているような忙しなさと考えられ、まさに神経作用の奉仕が実っているわけだけれど、遺憾ながら手放しで喜べないのが実情であり、というのは方向音痴を峻別する決め手は俯瞰図の欠如なので、私自身は何すら描きとれない不安を自認するしかなく、手もとにもあたまの中にも見当たらないから、方角は直感によって示されるべきなのか。
いつの間にやら意識せずとも身体のほうで勝手に、まったくご主人様には一切わずわせることないまま、宴の支度を見事に整えたふうな召使いの役回りに徹してくれているのだから、増々砕心の機会は失われ、気がつけば醍醐味にありつけないうちに終盤にさしかかってしまう無為に至るのだ。
薄気味悪さを知るのは、おそらく抜けるべき通路や上がり下りする階段に慣れ親しんでいると確信したときで、X線みたいに眼には見えない、いや、こころだって感知しない走りとなって透き通っている刹那にあるのだろう。
そういう意味では両義的であることを訝しがらず、たとえ味覚も舌鼓もなくすでに満腹であったりしても、肉体の火照りを残さぬまま欲情が晴らされていても、買い物をした記憶がないのに宅配便が届けられても、旅行に出たはずがもう帰省していても、眼が覚めたのにまだ夢になかに居たとしても、あまり悔やんだりしないほうが利口だと思うのだが、、、
南国旅行は楽しかったのか、少なくとも無事に帰りの列車に乗り込んでいるのだから価値観を問いただすまでもない、もう見慣れた風景が流れだしている。
「往年の車掌シリーズの映画に似ているな、ただし、いつもながら出発じゃないってとこが洒落にならない」
まったく余韻を忘れた調子で映画館から吐き出された按配で、虚無さえ苦笑していた。パターン化された光景はたまには寸断される。今回はえらく近場だと気づいたのは普段着を意識しなかったお陰なのか、そして隣町のK市の駅舎に佇んでいるのは、以前の立ち食いそば屋での困惑、つまり北南の均衡を保ったつもりだろうか。とすれば、一悶着あるのは当然だし、器ばかりで中身を食せていない苛立ちの燃えかすも、最初から燃えかすらしく燻っていたので、好むと好まざる連鎖反応により、無性に帰りの時刻に圧迫され出した。
「でも、今日はヒッチハイクなんかしない、国道にも出ない、このまま速やかに後続列車に乗るつもりだ。迷子だって知恵がつくんだよ、やあ、この間の質問通りさ、実際じゃない、覚えていてくれたらこれからの曲芸を見守ってほしいな」
どうせまともな道筋ではないと投げやりな姿勢だったが、両の眼をこすってみる猶予なく、ここはK市に違いないけれど、どうも造りは都会の駅ビルのような雰囲気で、しかもけっこう広いスペースの書店に来てしまっている。こうした場合かつては必ずといってよいほど、水木しげるのまだ見たことのない分厚い特集本を手にして有頂天になっていたのだが、今回は自分なりに「迷子」「知恵」「曲芸」とそれなりの意味深な、が、おおむね無責任なキーワードを虚空に並べておいたので、書物には触れず、とにかくレジを探し、大概そこが出口に通じているからと解釈していたら、秒殺の勢いで通路は床ではなく、背の高い本棚にかけられた梯子を上って天井すれすれのところを渡っていくのが分かり、早くも立ちくらみを覚える。
誰もがそうして梯子に手足を引っ掛けているので、疑うことも面倒になり同じ物腰と、たぶんよく似た心境で「ああ、しっかり固定してある。手すりもあるんだ、けど狭いなあ」などと、左側に手すりっていうのが方向音痴からすれば、どうにも落ち着きがよくなく、また出口に向かっているのかと不審がよぎりもし、先行く人の背のもの言わぬ風情に感じいるものがあって難なく反対方面へとたどり着いた。
ところが、まだまだ青みをたたえている空の下に出るやいなや、強烈な空間圧縮の極意をまざまざと目の当たりにしなくてはならなかった。先の三つのキーワードを一気に使い果たした感に逆襲されたどころか、蕩尽するのはこちらの方だと言わんばかりの絶景にねじ伏せられた。
かの海岸に神々しくも屹立と立ちはだかっていたはずの獅子岩が駅舎の脇に隆として居座っている。そればかりではない、何と駅の改札は深山に囲繞されたほこらの様相でこじんまりと息をしており、奇景を通り越し、もはや次元を異にする構えであった。
「しまった、逆だった。どこまで音痴なんだ」
ちなみにこの直感は相当な説得力を擁していて、疑いの余地はなく、急激な焦りがいつものように押し寄せて来る。もと来た道を引き返す愚かしさも忘れ、厳密にはそちらが正解だったかも知れないが、同じ轍を踏む行為から離脱した観念は再びあのキーワードを呼び戻そうとしているので、駅前を見まわせば、交通量も多く、行き交う人のすがたもまた生き生きとしており、このまま右手に折れ、遠まわりになるけど排気ガスも清々しい広い車道に沿った歩道を進むことに決めた。
急な勾配にさしかかった辺りでは、いつしか貸し自転車にまたがっていて、この歪な距離感こそが肝心であることをしみじみ胸にひたしながら反対口を目指した。途中寝転がっている若い女性の傍を横切る。会社帰りなのだろうか、曇り空色した制服の裾からのぞく膝上が妙に自然に映ったが、速度の加減でいつまでもはだけた足ばかり見てられなかったので、その顔色をうかがうと、別段急病の気配もなく、酩酊の具合でもない、かといってふざけている振りには見えなくて、あえて例えるなら、一度とにかく歩道に身を横たえてみたかった、太陽がまぶしい、どことなく不気味だけど陽気な表情をコンクリートに焼きつけている、まなざしの片鱗にそう反照した。とすれば俄然意気込んでしまい先行きは変調をきたしかけが、何ぶん今日は特別な一日でもなくて嫌に追い風が身に重いだけ、そして腹立たしさも静かに澱んでいるから健全なのかも知れない、想いこそ突風となれ。そこで言葉にはしなかっけど、代わりに片目をつぶり挨拶とした。だが互いの視線は交差せず、雑草のようなありきたりの情感だけが後ろへ後ろへ遠ざかってゆくのを認めた。
それからしばらくして漸く迂回の成果を目前にした。改札口が近づいて来る。横には電話ボックス、今まで感じなかった空腹も身近だった。私は無心だったのだろうか、そんな愚問も後頭部から飛び出す。
切符を買おうとして、ふと少し離れた岩屋に人だかりを発見し、眉間にしわなぞ寄せて、いかにも興味のない素振りを現しつつ、しかしどこか人情じみた熱い鼻息をなくしていない、それで何事かと、遠まわりって実は文化なんだよな、どれどれ、そんな岩をくり抜いてどうする、皆さん順番待ちなんですか。そこの外人さんも、なるほどねえ。
メーカー不明のチュウチュウアイスをうまそうに吸っていた年老いた男から返ってきた答えは、自分の態度や質問より、遥かに底が深かった。
「あと7メートルなんだよ。ツルハシ一本の人力で、しかもひとり一振りだ、どこへ貫通するのかって。さあ、誰もそんなこと考えていませんや」
目覚めたあと「何メートル意識は潤色されるのか」などと、妙に分別くさい発想が顔を出した。


[276] 題名:イリュージョン 名前:コレクター 投稿日:2012年05月19日 (土) 15時16分

不断の満ち欠けを気に留めることもないまま、夜道に日は暮れないなどと、健気に、そして眠気を多少こらえているような心持ちで歩いている。
稜線は夜空に昔話しを語りたいのではなく、今日一日の想いがまた過ぎ去ることを自愛をこめて切々と訴えているように見えた。とはいえ月明かりに感謝したくなるのは、墨汁が白紙に触れた刹那をいち早く察し、あたかも秋波を送られたときのためらいと同様のぎこちなさへ通じていたからだろう。
すると輪郭を際立せているのは眠りつく山々の思惑ばかりとは言えず、太古より培われた自愛だけをよりどころにするわけにはならない、そう、まさに天空から降り注いでくる夢見の哥によって、目覚めの周辺が仄白くなり、今宵の足取りはまどろみつつ先をゆく。
急ぎ足であったのが、確か一昨日の日暮れ時で方角も逆ならば、雨上がりの余情をたたえなくてはと、気がせいたのも風景の妙趣で、あたかも優雅な筆先によって山腹に白煙を流させるあたり、却って家路を遠ざけている感じがもたげ安閑な時間のなかに立ち止まる運命となる。煙る山並みこそ、予言を越えた報せであり、訝しがる思いは有機的に隠蔽されているのではなくて、無機質なもやのうねりに好感が歩み寄っている怖れに忠実でありたく、みやびな霧の発生は緩慢なるゆえに、脳内時計を狂わせ、ひたすら三昧の境地に臨む徳性を授けてくれている。
虚ろな白さに酩酊以前の冷静な困惑を覚えること束の間、そう遠くもない霞に赴けばなどと、風流なまま立ち往生しているのも不甲斐なくて、結果は梅桜の華やぎを横目に走らせる、あの形式ばった健全さでほだされ、適度な注視に甘んじてしまうのだった。
が、流しそうめんに興じている女子高生に焦点が絞られるのは、すぐ先のはずだから、山間部の情趣は据え置かれ、白煙となって魅せた雲の儚くも静謐な一幅は、割と粋な計らいをもって、その形状を無くすまえに、呈のよい趣きに設けられた孟宗竹を流れゆく純白のそうめんへと変容していく。
かねてより戯曲の題材にと夢想を羽ばたかせていたので、一昨日の暮れどきが夜道の向こうに連なっているのは自然の成りゆきだと頷き、早足を意識してしまう小胆を叱責しながらも、苦笑いの奥に投げやりな態度を知る思いが募りはじめ、そうすると夜を急ぐ風の便りが行く末の分まで送られているような錯覚を引き起こして、戯曲の場面がすでに描かれた地点にまで到達するのだった。混然とした胸中とは無関係に色づく悦びは気流に乗り、鮮明な映像を認めるに従い、すでに一軒の民家の庭先に展開している光彩のなかへ飛び込んでいる。
かがり火の反照を自ら横顔に覚えるのは心地よく、同時に夜と戯れている女子高生の無邪気な笑みも間近に迫っているのが分かって、そのあどけなさを見遣る数秒後には、なめし皮を撫でているような感触が得られ、実体なき風合いの影に戦きつつ、光源が抱くしめやかな邪念を崇めてしまうのだった。
やがて揺れる木の葉に音なき音を聞きとり、雑念は雑念であるままに宙を舞い、塵埃の汚れから意味が拭われ、転じて夜空にまたたく綺羅星の沈黙と饒舌を了解すれば、自ずと囁きが秘める情景に想い馳せ、光芒はまぶたの裏にあふれ出して、闇を駆逐する勢いで赫奕として舞台を照らし始める。
再びそこに映しだされるものはより彩度を深めた演出の妙であり、気高い色香は崩れる美意識を表象して、薔薇の宿痾を讃えたるあの美しい比喩、決して凝固しない血を流し続ける傷口、との一節を想起させ、暗黒の太陽を我が身に輝かせた。
花弁の自在に対立した絶対の温度、肉体の凍結、心象の固定、空間の嘔吐、これら反作用とも無縁ではないが、時間はやはり虚しいのではないのかなどと内省が働いた途端、念いも一気に氷解し淫らな考えともども、夏の夜にふさわしいそうめんの涼味となって白線は清水に流れゆく。
そして爛漫なる破顔は、半身の器と化した孟宗竹をすべり、女子らひとりひとりの情をまとう金魚のすがたに移り変わった。浅瀬に遊ぶ安穏を披瀝させながら。
呪詛と祈祷がひとつの水脈からくみ出されるのは、月と太陽の共謀であり、予言者にあまねく神秘を付与させる為であろう。


[275] 題名:日常 名前:コレクター 投稿日:2012年05月08日 (火) 01時45分

前回の続きね、あら違うの、でもわたしがそう思うんだから別にいいんじゃない。連続性は意識のほうにあるんでしょ。室温より冷蔵庫のなかが冷たくないってどこかで聞いたことあるわ、どれくらいの温度なのかなあ、缶コーヒー入れといたらホットにはならないよね、いくらなんでも。けどあり得たりして、、、それでびっくりしたっていうより、感激は無意味に接近しすぎてさ、思わず手にした温もりも反対に実感から離れてしまって、自動的に、当たりまえに販売機から出て来たからすぐに口にしたみたいな勢いで飲みかけて、独り「あちちっ、唇が火傷するじゃないか」なんてぼやくのよ。
「今どきの若いものは、、、まったく」って全部ひとのせいにして、といっても文句もなければ怒りもない代わりに、仏壇のまえに向き合っているような静かで、なごやかな嘲笑を浮かべているの。
そうして、わたし寝たきり老人になっているのね、しかもおばあちゃんじゃなく、おじいちゃんで、あっ、これはわたしの些細な空想、つまりね、まわりはすでに結婚し子供生んでる同級生もちらほらいるから、まだまだ若いつもりでいても、さすがに年齢を感じたりするわね。そこで中途半端に焦ったりすねたりしてると、増々ろくなことが起こらないような気がする。だから一気に老人になってみたの、、、随分と時間は前方に延びているでしょうし、人生はまだまだ長いと思っているから、あらそうよ、結構長生きすると信じているの、わたし、こう見えても。
それで年相応なんて決まり事から脱却するためにも、さしあたり寝たきり老人の仲間になったという次第。おばあちゃんではつまらないの分かるよね、どうせゆくゆくはそうなるんだもの、だったら、じい様になったほうが刺激があって面白くない、足腰は弱り気味で、大方入れ歯だらけだけど、割合おつむは惚けてないし、食い意地とかもろもろの欲もまだまだしっかり粉末のかつお節みたいに残っていて、なかなかいい味を忘れてないって身の上。
わたしらのような娘を、じっと見据えたりしてさ、小言のひとつでも聞かせる振りしながら、しみじみと若返りを願っているなんて素晴らしく陰湿だと思う。全然嫌らしくはないわよ、だって、わたしがじい様なんだから、傍から見ているひとからすればそれは確かに見苦しい部分もあるでしょうが、今度はわたしがわたしを玩弄するだけだわ、何度も言うけど。
わたしの意識は消えてはいないから、ようするに自己同一性は保たれているわけで、ただ志向というか、生活観念にいくらかの乱れが生じているだけでしょ、なおかつ思考の働きは、、、屈折しながらもある一面は能動的であって、寝たきりの状態が誰かに迷惑かけているってことでもないしね、そうかといって別に自慢するような話しでもないけど、暇だから「寝たきり老人日記」でも書くつもりでいるだけよ。
でも独白体ではなんか今ひとつ立体感に欠けるっていうか、特に迫力までは必要ないのでしょうが、何らかの層があったほうがやっぱり陰影があっていいかなあ。よし一人称はやめにして、わたし、つまりじい様にね、名前をつけてあげようかな。いいの、いいの適当で、年齢自体が超越的なんだから家庭環境も生い立ちもこだわりなんかいらない。満蔵ってどう、満ちた蔵、もうお腹一杯、十二分です、欲しがりません勝っても負けても、これでいいや、さてと、では風薫る春爛漫のある一日から始めましょう。
とはいっても文体まで変えてしまえば、わたし少し不安で、何故って、それは実際に老人のままで終わってしまいそうだからさあ、分かるでしょ、女は業が深いのよ、しかもずる賢い、逃げ道を無意識で探り当てられる、男のほうが繊細だとかいうみたいね、それは聞こえが良いだけであまり役に立たない方便、女はひたすら細かいのよ、どっちに転んでも、深みに墜ちてもしっかり計算しているわ、情念の燃え方まで。
満蔵老人の眼にはある光景が活動写真と呼ばれていた頃の趣きで焼きついていたの。介護の女性ひとりにそそるものがあって、どうやら夢のなかの化身みたいな、浮き世離れした面影が思い出せそうで仕方ないんだけど、あと一歩のところではかなく描ききれなかったわけ。ようはその若い女性を手鏡で見るような感覚だった。このからくりじみた情欲の底までのぞきこむよりも、満蔵は生き生きとした柔肌に触れたい一心をひた隠しにしていたので、ある意味救われていたのかも知れなかったけど、横臥した胸のうちには次第と溜まりつもっていったのよ。そして下にも上にも半途なまま、行動はおろか冗談めいた口ぶりだってあらわにすることが出来なかった。
手短かで上等だわね、光景ってほどじゃないんだもの。東海林さだおの漫画にあったそうよ、よぼよぼのじいさんのくせして、どう勘違いしたのか優しさにほだされている己の恥を知ることなく、介護士さんの色香に挑戦したの。そのじいさんいわく「どうだい、ちょっと小便くさいけどここへ」って上布団をめくり見るからに不潔な寝床をポンポン叩いてみせた。相手の反応は言うまでもないと思う。
満蔵にとっては甚だ情けない所行で笑うに笑えなかったが、それは上半身の意識だと薄々気がついていたのね、だから叶わぬ下半身は沈黙を余儀なくされるしかなかった、たとえ漫画の世界でも。それがいざこの身に置かれてみると、笑いも沈黙もどうやら存立させてはいけない、この辺りが男の繊細な身構えだった。しかし幾度か顔を合わせ、満蔵のほうでも礼節を崩したりしなかったので、彼からすれば程よい手応えを受けとっているような気がし「漫画をバカにしてはならん」などと思い込む瞬間もあり、介護士が帰ったあとでは急激に熱気を覚えたそうだけど、球根に花が咲くように、パッとあたまが華やいだお陰で不埒な思惑を抱き続けなくて済んだそうよ。
「枯れることなきかな」とか一句ひねり出したい心境に赴いた己を満蔵は落ち着いて振り返った。本当は現在なんだが過去形として美化したかったから、額縁にはまった光景に加工しまったわけ。それきり不届きな思念はなくなったのだけど、しばらくするうちにあの「ちょっと小便くさい」という言葉の持つ何とも卑猥な残響が満蔵のなかに染み込んでいった。
「おれの小便など気にしてどうする」
老人なら、いや年齢に関係なくそんな疑問を持つほうがおかしいのは満蔵もよく心得ていた。が、こうも考えてみる「まだオムツの世話になるまでもない、しかしその日は近いのだろう、けれども違う、そうじゃない、そんな心配なんかじゃないのだ」反発する根はまさに濁った池の水面に沈む、発酵した汚物であるのが理解できたみたい。同時に汚物の所有をめぐる観念が水没する以前、すでに浄化されていることもね。
満蔵老人は身のまわりもその布団も、漫画に出てきたような悲惨で不衛生な状態ではなく、快適だったはず。では一体どうしてあんな強迫観念じみた響きを招いてしまったのだろう。
まっさらなシーツに陽の温もりを知り骨ばった背を埋める。足先に触れる木綿の織りさえ伝わってくる閉じた開放感、老人は豊かな時間そのものを呼吸しながら生命と出会い続け、窓の外には澄みきった青空、近所の薮からうぐいすのさえずりが届けられる。この寝床から這い出す意味を求めるほうが不健康だと太陽は教え、季節は風のうちに宿した無数の目配せで了解させる。双の眼を閉じるまでもなく春日和は清潔だった。暗夜の静寂と対比させる力量も失われ、寝たきりの日々は不動の感覚を礼賛しているようで仕方がない。交わりを阻む告知もないままに、あの動物的な衣擦れを耳もとから遠ざける為に。
満蔵の希望はむしろ不浄だったなんて罰あたりなことを閃かすのはいけないのでしょうか。
そう不浄もまた男の気構えよ。女は似たような態度をしめすけれど、そのときはもう溶け合う覚悟が出来ている。わたしの言っているのはこころのことじゃない。ごめんなさい、わたし役者になりきれないわ。でも満蔵老人の気持ちは分かったつもりよ。あんたの思うようにはいかない、わたしを書いているつもりでしょうが、わたしがこうしてふて腐れると、すぐに破綻してしまうでしょ。じい様の役は短かったけど、いい思い出になるわね、きっと。


[274] 題名:愛しのドッペルゲンガー 名前:コレクター 投稿日:2012年04月30日 (月) 23時02分

極寒地では室内より冷蔵庫のほうが温かいそうだ。窓を開けるのは自由だが冷気とは関係ない。ここで私の語るべきこと、それはもうひとりの自己像をどう認めるかという、心構えの問題に他ならない。では早速窓と共にに奇妙な扉に手をかけてみよう。
ウィリアム・ウィルスンが果たして不幸であったのかどうかを問うまえに、まず彼の資質を振り返ってみたい。それほど込み入った思索ではなく、どちらかといえば紋切り型の評価で十分かと思われる。なぜなら彼の俗物性には嫌悪がもよおされることはなく、それはつまり特異な現象に対する反応が極めて人間的だったからであり、浸透した不安をかなぐり捨てようと懸命になればなる程、また拒否感と並列される嫉妬心を素直に受け入れて結果、事態は奇禍を招いてしまったからに過ぎないからである。
「人間の力ではどうにもできない境遇の奴隷であったということを、私は世の人々に信じてもらいたい」
彼はそう述懐し、あまつさえ一歩一歩と堕落してゆくものだ、との前置きも忘れておらず、想像力に富んだ気質の子孫だったことに弁明を見いだしている。ほの暗い谷は大いに結構であるけれど、反面憐れみを切望しているのは何とまあ殊勝なことだろう。その先も縷々と気弱な経緯を綴ってから、以外や悪童に成育したところで、いよいよ影に出会う。
まったくの臆病者だったと一概に呼べないあたりが、実は彼の凡庸さを均一にさせており、次第に高まる焦燥の加減も自然の成りゆきならば、怨嗟が衝動として解放されるのは少しも不思議でないだろう。
ポオの視点はウィルスンの良心とやらの解剖に努めながらも、その結びにおいて辛辣な叫びを怠りはしていない。
「己のなかにお前は生きていたのだ。――そして、己の死で、お前がどんなにまったく自分を殺してしまったかということを、お前自身のものであるこの姿でよく見ろ」と。
はたして殺してしまう必要はあったのだろうか。私は長い間この疑問を保ち続けてきた。確かに影は事ある度に主人公をいら立たせたし、忠告や妨げを使命と拝しているような存在だった。さて不幸の是非であるが、私にはウィルスンの小心が残念でならない、それだけだ。大胆不敵な意思と行為を求める野心は到底ロマンの域を出たりはしないけれど、ならば私は代わりに自身の体験を述べてみる。一読願えれば幸いである。

幽霊を見たくらいで魂消てはいけません。なるほど自分の影、ウィルスンが煩悶したように不利な面ばかり働きかけてくるのなら閉口するでしょうが、それはこちらから歩み寄っていかず、常に受け身であろうとする惰弱によるものが大きいと思われるのです。誤解なきよう、何も私が敢然とした態度の持ち主であるなどと言うつもりは毛頭ありません、人一倍神経質なうえ、最近ではもっぱら寝たきり老人の仲間と化していますから。
冗漫を避けたいところ少しの傍道を許して下さい。霊感という言葉が流布しておりますけど、それは見る側の天性でもあるのでしょうが、出る側にも、そうです、幽霊の方にも実力といいますか、才覚みたいなのもがあり影響されると仮定しておきます。
あの世から人智を越えた力で現われ出るわけですから、余程の執着なり未練を残していたり、或は情念、なかでも怨念の凄まじさが怪奇譚の中核をなしているのは周知でしょう。そこで疑点が生じるのですが、この世のなかには数えきれないほど非業の死を遂げた人々がいるはずなのに、怨念が力学として作用するのであれば、死者全員はその姿を必ずや現出させると考えたほうが至当ではありませんか。しかし、実際にはその様な事実はほとんどありません。これは私見に過ぎませんが、どうやら死者にも霊力が備わっていないと、いくら切実な思惑を抱いていても、強烈な情念に支配されていようとも、あの世からの橋渡しは不可能ではないかと思えてしまうのです。ですから、稀に霊的な存在を目撃したのなら、礼儀正しく向き合うのが道理でしょう。恐がっている場合ではないのです。
幽霊はさておき、私のドッペルゲンガーをお話します。二十代半ばでしたか、高熱に冒されたので病院に赴いたところ風疹と診断され、悪寒と発熱に呻吟しておりました。病状は医師の言う通り三日ほど治まることなく、消耗からくる急激な疲弊を余儀なくされ病床に臥していたのです。幾度目かの発熱時、水銀体温計の目盛りがほぼ上限に達しているのを朦朧とした意識により確かめたとき、私は異次元に足を踏み入れたふうな感覚にとらわれ、かつて落ち入ったことのない神妙な気分にひたってしまいました。
驚愕や不安は穏やかな四囲とともに曖昧な意味に薄められ、要するに身体感覚を越えた想念が私を取り巻いている、端的に申しますと外部からの侵犯に対し一切の身構えなく横たわっていたのです。
不快な症状自体は軽減されてはいませんが、心身分離したような明徴な念が枕元に浮遊しており、さながら幼児が風船と戯れつつ幻惑されるのに等しく、一心不乱の境地はまどろみへ溶け込み、ささくれ立った神経も、細やかな内省も関与していませんでした。私はからっぽを目指していたのでしょうか。大層な考えをめぐらすまでもなく、睡魔に襲われただけであり、意識が遠のいてゆくのなら、自然の摂理に違いないでしょう。
ところが、あの入眠時幻覚と同じの視覚像が結ばれているのを見逃すわけにはまいりません。明徴さはより際だち、蒙昧とした陰りは取り払われ、脳内の機能が再稼動し始めるのを知れば、まさしく唐突に本来なにもない空間に異変が生じていたのです。私の右横にもうひとりの私が添い寝といった按配で存在していました。
幻の自分を認識しているのは、あまりに鮮明な輪郭と体温さえ共有しているみたいな親和であり、先ほど話しましたように詮索はおろか、疑心の生まれる余地なども有しておりません。夢見と混同しても私事ですので一向にかまわないのですが、あまりに姿かたちが生々しく、まるで磨きあげられた鏡を横たえている光彩さえ放たれているのでした。そして、私の分身は内語で囁きかけてくるので、臨場感は途切れると思いきや却って直接な、不可分な、柔らかな攻撃に身をまかせ、愛おしさが押し寄せているのをひたすら幸せだと感じていました。如何なる囁きがこだましていたのかは、賢明なる諸氏の幸福さで量られるべきだと思いますから、詳細は無用でしょう。
補足になりますが、学術方面では「対象物とそれを視覚像としてみている主体の視座の双方を、同時に視ているもうひとつの眼(中略)を内在化できたと仮定すれば、現前された像の性格にたどりつける」と、吉本隆明は論じており、「脳内現象説」を唱えた立花隆は死後世界の実在も検証しながら、解明され尽くしきれない脳のシステムに迫っています。
又、ジャック・ラカンの鏡像段階における「一次的ナルシシズムの到来であり、しかもこれはまったく神話の意味でのナルシシズムである。というのは、鏡像段階は死、つまりこの時期に先行する期間における生の不全という限りでの死を指し示しているからだ」といった乳児期の未明への類推も魅惑であります。
ほとんど明晰夢的体外離脱に終始してしまい、芥川龍之介が著した「二つの手紙」のような覚醒時のありありとした体験を語ることが出来ませんでした。と言いますのも、私にはそうした覚えがないからで、幽霊と対話する機会を願うごとくに分身と出会いたい一心しか持ち得ておりません。
短い考察を終えるにあたって、ここ最近の法悦を披瀝しておきましょう。残念ながら夢幻でしかありませんが、よい刺激であったことは事実です。

十代の僕には二卵性の双子がいた。妹である信憑は自ずと確立しており、それは世界中の人々から認知されるより深く透明な揺籃のなかに息づいていた。しかし、耽美的な映像に欠かせない記憶の断絶からみれば、妹としての実感は遠方に退いて、その距離を埋め尽くしているのは紛れもない果実の盛りであった。
はね除けられた上布団に寝そべる僕とは逆さまの情態で、互いの顔の位置が並んでいる。
極めて浅い眠りであるのは妹の事情によるものでなく、僕の薄ら笑いから判断される新品の紙やすりみたいな欲望に起因していた。一糸もまとっていない女体の眠りをあと少し黙って感じとっているのは、優雅であると同時にまばゆい光線だったので、かろうじて桎梏に成りおおせた。首をわずかもたげてみれば、ふくよかな身体のすべてを愛でることが出来たけれども、さほど肉欲に叱咤されてはいない、もしくは時間を占領している余裕が、妹の目覚めを延長させ、実際の交わりは遅疑され、無限の悦楽を夢見ていたかっただけかも知れない。
愛おしさは僕のまなざしに眠っていた。横目で見遣る妹の上唇にはうっすらした産毛が微かに波打っているので、紙やすりをかけてあげようと思ったのだが、注意深く眺めるまでもなく、すぐに笑みであるのが分り断念した。


[273] 題名:ウミガメとベースギター 名前:コレクター 投稿日:2012年04月23日 (月) 15時14分

潮風が心地よかった。身をかすめゆく感触に午後の日差しがしみ入ったからでなく、右隣でギターを爪弾いく青年の柔毛が頬を撫でているのが、遠い異国から届けられた景色のように儚げで美しいからだった。とりまいた子供らも口々に「きれい、きれい」とほめそやしている。
僕はうっとりとした時間を享受していたかったのだが、あいにく微妙な緊張が手放しの陶酔を軽減させて、いくら夢みたいな場面とはいっても気安く観客に甘んじていられなかった。左隣よりベースギターを手渡され、にわか仕込みの練習に焦りと同質のものを覚えていたから。
彼らは僕が十代の頃、憧れていたロックバンドだったし、絶対あり得ない状況にもかかわらず拒む理由もないわけで、それはそうだろう、こんなこと一生に一回でもある方がおかしい、きっかけを思い出す暇があればこの刹那に興じていたいのは当然といえる。
どんないわれがあるにせよ、とにかく僕はベーシストの代役を果たさなければいけない立場に置かれ、今まで手にしたことのない楽器を懸命にこなそうと努めている。が、どだい無理なのは分かりきっており、冷めた口調でこう言い含められていた。
「ベース音は後ろから流れるようにしてあるから、手つきだけもっともらしくしてればいい」
それが出来たらなんの問題ないはずだと、こころのなかでは反発してみたが、いら立ちは非現実的な光景に和らげられ、神経を突き刺す痛みもやはり潮風によってどこかに運ばれてしまっている。ギタリストの美貌を盗み見しながらの無謀な特訓なんて極端で面白いではないか。と、まあ開き直ってみたいところだったけども、陶然とした心持ちへ傾斜するのもそれなりの意思が要求される。この場に及んでいるからこそ、そして間違いなく奇跡と呼んでかまわないからこそ、僕は以外にあわてたりせず指先の動きは左手に委ね、右目で風のリズムが吹き流している栗色の柔毛の揺れをうかがっていた。
音楽ファンである前に僕は、この美青年が漂わせる清潔な風貌、近づくことにためらいを感じてしまうくらいの、それはつまり僕の劣等意識が拡大されているような視野をもたらすからで、卑屈な感性を露呈させながらでも、憧憬を先送りしたい欲求に裏打ちされていたのだ。実際メンバーのなかでもリーダー格の彼は圧倒的な人気を誇っており、こうして居並ぶ出来事に当惑しながらあくまで夢見の世界に内包されていた。だから、子供たちの賛美に対し青年はこう応えるのだった。
「母からよく言われた。獅子のたてがみが光り輝くようおまえは美しくなければならない」
彫像かと錯覚してしまう陰影ある横顔に忘れかけていた生気が宿る眺めは、磁力であると同時に僕の胸を寂しくつき放し、現実の距離へと回帰させた。一夏の恋心が燃え尽きる運命であるかのごとく。
しかし僕は青年を崇拝していたので、その言葉のうちに尊大さを嗅ぎ取ることなどなく、従容として目を細めた。すると今度はベースの指運びに慄然とせざるを得なくなった。あまりの拙さも然ることながら、数時間後には身代わりとして人前に出なくてはならない、いくらギタリストのカリスマ性に隠れていようとも、バンド全体として音楽は進行するわけで、結果的には大勢の聴衆の期待を裏切るのは目に見えているではないか。
何度も念を押すけど、こんな成りゆきを望んだのは僕ではないし、また深い事情があるにせよ、もっと適切な代わりがいるはずだろう、急激に渦を巻いた推理は荒唐無稽だったが、僕はひょっとしたら彼らに対し想像もつかない貢献をしたとでもいうのか、例えばメンバーなり主催者の命の恩人だったりして、そう、危うく車にはねられそうになったのを救助したり、あるいは逆に僕がはね飛ばされてしまい、幸い怪我はなかったけど醜聞を避ける為こんな要望が叶えられようとしているのだ。理由づけは無茶苦茶なほうが今は救われる。とにかく段々と内包されているのが不気味になってきた。
視線の世界は緊迫だけを強要しない。いや厳密には一所に収まっている静止画を否定する働きがあるから、無様に飛び散ろうが、勝手に飛躍しようが、心底拒み続けようが、不確かな収斂はのちに検証されるべきで、この切り替わりは一種の意匠だとさえ思えてしまうのだった。
「ウミガメなんか引き上げてどうするんだい」
潮風を側に感じるはずだ。すぐ先には船着き場あって、こじんまりした堤防の下のわずかな足場を頼りに一人の男が、けっこう大きなウミガメを素手で捕まえようとしていた。声にしたつもりだったが僕の所感でしかなく、男は悠々と海面に顔を出した獲物を引き寄せてしまった。他に人影もなく、あんな狭い場所から一体どうやって陸地へ上げるのだろう、それともただの戯れなのか。別段どうした思惑もなかったけど、気がつくと僕はいつの間にやら心許ない足場を横這いしながら男のいた方へ歩んでいた。が、すでにその姿は視界になく浮上したウミガメも消えている。
先ほどまでの焦燥が霧散した安心を得るより早く、陽の陰りは鷹揚に所在なさみたいな気配を深め、かといって寂寞とした空間が形成されてしまうのではなくて、どこかしら不透明でありながらさほど臆することのない、あえて言うなら無人の児童公園を見回している風趣があった。それが哀婉な詩情になびく手前で凍結しているのだから、旋回しているのは上空の鳶によるまじないかも知れない。案の定、僕は軽いめまいを起こしデコボコした足もとに危険を感じた。しかし、意識が定まると目線を落としたところに弁当箱ほどのカメが可愛らしくのろのろ動いており、一気になごんでしまった。
ウミガメの子だろうか、そっと足音をしのばせ両手で甲羅を持ち抱えてみれば、案外重みがあり無性にうれしさが込み上げてきて、そのまま細い足場から引き返そうと急いだまではよかったのだが、その先が悪かった。
海岸だからいろんな生き物がいるだろうけど、何もあんな物凄い蟹を出現させなくたっていいではないか。ゆうに一畳はあろう、全体が赤茶けたまだら模様でちっとも晴れ晴れしくない青みを点綴させた異様な蟹がぬっと半身を出し、通り道をふさぐようにしてうずくまっている。冗談じゃない、平家蟹だってあんな面相を見せはしないだろう。ちょうど歌舞伎の隈取りみたいな顔つきで睨みを効かせ、完全に僕の行く手を遮断しているのだ。これには驚きを通り越し怒りの感情が恐怖の影に寄り添いながらもたげ、二三歩下がりながら、反対方向を確認すれば更に歩幅制限をあたえている現状が困惑に直結する始末で、増々化け蟹の威力に圧倒されてしまった。
妙案とは夢想とともに眠れるものなのか。「置いてけ堀だな、これは」取り留めない情景がはらむ不穏から逃れて束の間、今度は逼迫状態を見事に演出している。
カメの子に未練などなく僕は直感に従い、今にも這い上がってきそうな勢いを封じる為、力まかせに手にしたカメを蟹に命中させると、まるで呪術が解けたように目の前に鉄梯子があるのが分かり、やっと苦難から脱出できたのだった。
視界が大きく解放されたのは必然と言い切るべきだろう。バスターミナルの喧噪はただ単に僕を圧迫するだけにとどまらず、ベースギターのことが再びブーメランとなって舞い戻り、放棄されるべきデタラメに律儀であるほうが妙だという意識と葛藤し始めていた。それにしても大型バスが連なってすぐ横をすり抜けていくのはかなり騒々しく、どの車両にも乗客がひしめいておりとても乗りこめる余地はない。しかも停留所から半周し走行しているので、相当のスピードは生暖かい疾風を巻き起して一層不快な気分にさせた。注意するでもなく行く先を掲げた運転席の上部に目をやれば、あ行、か行、さ行と見れた。これ又まやかしかと思ってみたが、向こう側の乗り場に人がいたのを幸いに「あのう、このバスは何処へ行くのでしょうか」と、訊いたところ中年男は怪訝な表情をしながらこう言った。
「万博だよ、あんた知らないの。それぞれの名前で振り当てられているからね、混雑を避けるためにだってさ」
脇をた行の車両が駆けていった。
「僕の名前はなんていったんだ」ぽつりとつぶやいたつもりだったが、中年男は「ほら、な行が来たよ、これで5番目だな、あんた数も気になるんだろう、だったらカズオでいいじゃない」そう人ごとなのか、親身なのか区別し難い声色で教えてくれた。
「じゃあ、間に合わないですよ、か行はもう発車してしまったから」
落胆の色が濃くにじみ出ているのを自覚し情けなかったけど、そんな適当な言い分をうのみにしている佇まいはもっと影が薄く、続けざまに、は行、ま行、や行と走り去るのを見送りながら「いちぬけた」腑抜けた語調でそうもらした。すると呼応でもするように「ベースの練習はどうしたんだ」誰が喋りかけたのだろう、確かにこの耳へ聞こえた。
厳かなターミナルは静寂が間延びしている。同時に時刻の設定も用済みらしく、曇り空でもないのに太陽は地上に関心を寄せていない、違う、ただそう映っただけかも知れない。
カメの子がとことこ僕の方に向かってきたのを認めたとき、醜悪な蟹が現われたよりも数倍の驚きがあり、その動悸を反響させているのは紛れもない感動だった。
「どうしたんだい、こんなところまで来たりして。さっきは痛かったろう、放り投げてしまい、、、」
子ガメに僕の言葉は通じているのだろうか、どうにも確かめようがなく、手を触れるのもひかえて見守っていると、僕を意識した素振りなど示さず、我が道をゆく調子でまっすぐ進んでしまったので、唖然とするしかなかったけど、どこかしら晴れやかな気分がほんの少しだけ後から着いて来るのだった。


[272] 題名:桜唇覚書 名前:コレクター 投稿日:2012年04月17日 (火) 00時19分

春雨の領分なぞ取りとめなき想いかすめし今朝の庭、浅き夢にて見遣る心持ちなれば、蒙昧たる証しおのずと雲散霧消されよう。げにも寝ぼけまなこへ映りゆく風物かや、東雲さずけし恩恵と認めるは長閑なるも頑是なき。然るにそぞろ哀しき面影の由縁、何処へあり。
あたかも遠浅の浜辺眺めし空漠たる心地なれど、いささかそぐわぬ所懐満ちゆく故にて一筆記し給う。
大谷崎かの細雪の巻末において尾籠で結びたらんとするは真もって秀逸なり。然れどこの場は名篇を論んずるにあらず、ただ妙齢の雪子、瀉痢に艱苦するさま印象深かりしこと留意され、くだんの領分とやら一考するものにて候。
庭先から遥か遠き彼方に降り積もれるは未知なる白銀の野山、さながら一幅の山水ぞや脳裡に映られよう。濃淡しめすところか、辺り一面雪景色なれどその空模様はたして曇天なるやら、薄日差す按配やら、ついぞ覚えなき。はらはらと舞い落ちる粉雪こそ一条の川筋を見届けるも、眼前に広がりたる絶景を知るは芳春そのものなり。彩色の妙味、爛漫たる花びら冬季に浮かばせては、この世の様相とは思えぬ見事な枝ぶりと馴致させたる。感嘆きわまる胸中に疑心生じず、ひたすら風狂の刻へとどまれたし。

わずかの行数で筆が遅々としてはかどらないのも仕方ない。一考すべき事柄などないからである。今年は花見に興じることもなく、精々近所の通りに咲く枝を横目にやり過ごしただけなので、夢幻を引っぱり出し埋め合わせたに過ぎない。また宣長公や大谷崎を援用し斯様な情景の意義を求めようとした浅慮がいけなかった。とは言え、みすみす反故にする心積もりであるのなら、弁疏すら虚しく、深更に至る想念こそ振り払われなくてはならないが、どうにも綾を紡ぎたがる性分らしい。
そこでわたしは歪曲のそしりを承知しつつ、以下の物語へ本文をつなげようと試みる。

L博士の名が人口に膾炙したのは若き日、鳴り物入りで行なわれたある実験によるものであった。これからお話しする顛末は当時の興味本位な風潮が手伝って、真贋を問われながらも様々な尾ひれがつき、終いには学童のあいだで格好の話題となり大いにその想像力へと寄与したのだった。
超能力や心霊現象がテレビ、マスコミを通じてまことしやかに報道されていた最中、厳粛な立場で実証科学主義を標榜する理性的な知識人を相手どって、ほぼ孤絶した状況から声明を放ったのがかのL博士であり、小さな田舎町は実験という名目に守られたあげく、いよいよ公共施設において両者を見聞するに及んだ。
大方の見物人が当日以前より、口々に交霊会と呼びあっていたところを察すれば、まるでお化け屋敷に臨むような怖いもの見たさがより浸透していたと思われる。この総意に近い関心度から公開実験は半ば良識からはずれた方向を余儀なくされたと、理性派は苦々しく後述したが、彼らの心中もまた狐につままれたふうな余韻を隠しきれず「あの男は手品師の類いだ」そう言明するものの、語調はあくまで結論に取り急いだ面目をあらわにしていた。
さて押し寄せた観衆を束ねるよう暗幕で遮蔽された空間は、施設本来のあるべき均一な姿からは隔てられ、一種異様な雰囲気を醸していたので尚のこと好奇心を育ませており、ひかりを排除した博士の手段に対し明瞭に欠けると指摘した否定者の声は逆効果になっていた。即ち油に水を注ぐ調子で区切られた暗幕内は却って熱気をはらみ、映画鑑賞さながらの期待を背負ってしまっていたのだ。そして博士の口上は決して滑らかではなかったが、集った人々の感興に追い打ちをかけた。
「今宵はお忙しいなか、かくも多数の方々にご来場いただきましたこと厚くお礼申し上げます。ただ今、実演に際しましてこの様に周囲を暗くしたことの非難を受けましたが、そもそも心霊現象は昔から深夜がもっとも適しております。それはひとえに清らかなる時刻であるからなのです。非常灯を残し、数本のろうそくのみにてこれより清らかな夜に近づきたく、どうぞご理解を願います」
その直後頭上からの鮮明な灯りが消えると、拍手はないにせよ、いっせいにどよめきがわき起こり、一部の罵声や怒号をさらうようにして場内は沸点にのぼりつつあった。間を置くことに何気なく気づいた博士は自分の聴覚を遮断し、一切の雑念を取り除き、喉から絞りだす声色をもって沈黙にくさびを打ち込む勢いで説明を続けると、本人が望んだよりも熱心に耳を傾けている様子が伝わってくるので神妙な気持ちに包まれた。
暗闇を重視するのは霊媒から発せられるエクトプラズムを確認してもらう意向であること、この霊妙なる物質こそが科学の域を越えた存在であること、一見煙状にも薄衣にも綿菓子にも映るであろう白い謎を注視されるのはかまわないが、決して近づいて触れたりしないよう、何故ならこの特異な現象は霊媒に依拠するところが極めて高く、また覚醒状態でないにもかかわらず過渡に集中力を発揮しているため、例えるならむき出しの神経を手づかみしてしまう危険性を思い浮かべて欲しい、くれぐれも接触しない旨など、そうした注意事項を述べながら博士は人々の反応よりも舌先の渇きを覚えてしまったので慌てて「そのほか奇怪な物音なども響くかも知れませんけど、それも心霊現象なので静観を願う次第です」と、いったん口を結んでから、手招きに似た仕草で背の高い燭台に挟まれた椅子へ霊媒らしき女性を座らせた。
固唾をのんで凝視する観衆からしてみれば暗幕から不意に現われた姿は、すでに上質の見世物と化しており、長い髪は同じくらい黒色の衣服に垂れているのが見極められないので、増々怪し気な趣きへと没入するのだった。
最初から失神したみたいにうなだれてはいるが、姿勢は乱れず、背もたれ椅子には磁力が備わっている如き有り様。一同の視力に促されたのか、やがて光画に焼きついた思念がコマ送りされる按配で霊媒の首が無造作に振られだした。化粧気は窺えなかったけれど、眠れる青白い容貌には凄みを緩和させる初々しさが時折のぞいているので、それとなく神秘的な魅力に感応してしまう。だが、霊媒の顔立ちに見入っているのはそこまでで、博士の解説通りまず鼻孔から紫煙を逆さにしたような薄靄が吐かれると、今度は半開きの口もとより更にはっきりした野太い白煙が徐々に出現した。
それは特定の形を模索しているというより、不気味ないびつさに惑わされることを希求しているのか、何とも形容し難い白い影になって霊媒の膝下までゆっくり降りていく。時間が停止しているのだと首肯せしめたのは、反対にアメーバの示すような微細な動きを絶やさない影響によるものであった。この錯覚、どこやらか忍びこんだ微風に揺れるろうそくの灯りも加担し、曲芸にも勝る緊迫を生み出して、誰ともなく発した「女が浮かんでいるぞ」という声とともに観衆の注目をあびた。確かに椅子の足は床を離れ、眼には見えないがほどよくふくらんだ風船を下敷きにした要領で微妙な均衡を保っている。左右に傾斜する浮力は不安を喚起しそうでいてその実、得体の知れない歓声を人々のこころにあげさせた。
その時を告げるよう場内の空気は鼓動を反響させ、耳鳴りに同調した鳥のさえずりが駆け巡れば、はたしてこれらの現象は博士の言ったものか、慄然とするところだけれど、奇矯なふるまいの裏には妙なる調べが鳴り続いているとも感じられ、見物の領分から解き放たれたまなざしは恍惚とした境をさまよっていた。夜の奥底は静まりかえり、いよいよ降霊の際にさしかかった。
L博士にとって若気の至りであったとは辛辣かも知れないが、この声さえ放たれなかったら、おそらく後々の評価は別の局面に達していたと思われる。手順にせよ講釈はひかえるべきだった。
「ご覧のように、これがエクトプラズムなるものです。決してまやかしなどではありません。さあ、そこのお嬢さん、いかかですか、怖くはないでしょう。心霊と申しましてもこれは電波やガスと同じく、物質であることには相違ないのです」
浮遊した霊媒と並び満足気な笑みをつくりだしていた博士には、背後から飛び出してきた闖入者を阻止することが出来なかった。突然の事態を演じた側には算段があったのだろう、つまり人体よりも未知なる物質をつかみ取ったわけである。正面からの目撃談によれば、一瞬のことだったので女性の胸もとに手をすり込んだのかと見えたらしい。
博士の忠告に間違いはなく、無垢なる霊媒はたちまち苦悶の表情で椅子からすり落ちてしまった。公正な実験を無視した輩の両手にあるべきものはなく、怒りも悲しみもまだあらわにしていない博士は、床に力なく横たわった女性を気遣うより先に、呆気にとられた目つきで自分を見返している闖入者の顔をまじまじと眺めていた。凍りついた形相へと移りゆく間に場内は騒然となり、我にかえった博士が霊媒に歩みよったところ、一段とざわめきが強まった。無理もない、ぐったりした霊媒の口からはあの物質の残滓が見て取れたのだが、混乱を回避させるため、場内に明々と灯しを戻したせいで、それは生々しい反吐でしかないことがわかった。
L博士は「大丈夫か、すまない、すまない、、、」と連呼していたが、何故かしら霊媒の顔を直視出来なかった。ゆえに辺りへ散らばった花びらの不思議を知り得たのは後日、人づてであった。


[271] 題名:姫萩 名前:コレクター 投稿日:2012年04月09日 (月) 00時51分

遮光を願う意識には秘密がほの明るく灯されている。うららかな春日和の過ぎゆきとは無縁だったのだろうか。やるせない午後の気色に身をまかせていると、階段を上る足音が聞こえてきた。性急な心持ちがやんわり抑えつけられてしまうように弱々しく、か細い、けれども衣擦れが束ねられ、目には見えない手毬となってつかれている明快な疎通が感じられた。
北に面した窓はなるべきして薄曇りに鈍り、カーテンを手にかける仕草は弁明を欲しながらも淡白な微笑で取り繕われた。三面鏡には女の顔が映っている。少年の焦点は定まっているようで浮遊していた。
女の見せる躊躇いとも恥じらいともつかない控えめな面持ちの背後には、無邪気な好意が待ち受けており、本人が自覚したにせよ、しないにせよ、伏し目勝ちのまま口もとからもれる呼気は薄白く甘く、白粉を身近に知った幼年時を呼び覚ませ、心もとなさで満たされてしまうのだった。
女は家族の留守を見計らって誘いの時刻を得、少年は二階の奥まった小部屋を提供した。押し入れを半ばふさいで置かれた箪笥の向かいに母の三面鏡がひっそりと息をしていた。もう使われることもない色あせた木肌だったけれど、所々は古びた写真を思わせる光沢が、あのまぶしさの封じ込まれた片鱗が、特定の場面を持たず輝いている。
女は必ずこの三面鏡をおもむろに開く。そして背を向ける姿勢ではじめ柔らかに、やがて息遣いを激しくしながら少年のくちびるを吸った。不思議と最初の日から少年は冷静な神経を保っていると思い、幾度か淫靡な芳香をすりつける素振りをしつつ、指先を絡ませたり、髪の毛を軽やかに撫でたりしたあげく、頬ずりをそっとやめ、母性とは別のそれでいて明らかに慈愛を帯びており、艶かしさを放擲したふうな、哀願にも似た目つきで見おろした。相手の瞳が水棲動物のように浅瀬から逃げ去るのを知り、女は安堵を持ちえて自らの悦楽をわけ与えようと努め、そのままゆっくりと仰向けになり衣服を脱いだ。
上着のボタンを自分で外した他は少年の覚束ない手先が裸身をあらわにさせた。スカートをめくり始めたときには、反対からだと、少し鼻にかかった声でいさめ、さっと腰を浮かせて手際をよくさせ、成熟した下着すがたを毅然とさらした。畳の感触はひんやりとしていたが、後ろめたさみたいなものを却って新鮮な感情にすげ替えてくれる気がし、少女に戻った錯覚を頼りに静かに目を閉じてみた。
少年の指先はいつも沈着である。しかしその心中は穏やかであるはずもなく、女の衣服の種類によりかなり戸惑うことがあり、最後の一枚になった頃には慎重な手仕事、例えば機械類の解体とか、書類の整理とかの仕上げにようやくこぎ着けた気抜けがあった。だが、それは放心状態をさしているのではなく、衣服をまとった女に対する警戒心が緊張を生んでいて、つまり日々のなかで接する大人の雰囲気にのまれている限りは、同等には向き合えない怖れに被われたままなので、出来るだけ平静を装うのが少年なりの背伸びであり奮闘なのであった。下着に手をかける瞬間は北側の薄暗い部屋が適しており、普段の遊びの延長線上からまだ離れてはいない、どれくらい距離があろうとも。
少年のからだよりひとまわりも大きな裸体が発散する色香を感じとれないのは薄々気がついていた。女にしてみれば異性との落差を手放しで受け入れるほど、相手の精神は発酵しておらず、プロレスごっこみたいな遊戯に朽ちてしまう危惧があり、一抹の寂しさは拭われなかったけど、目を点にして見つめていた秘所には遊びとは異なる動悸がもたらされていたに違いない。乳房に顔を埋めても、脇腹をなぞってみても、何度くちびるを押しつけても女体の醍醐味は得られず、或はまださなぎのような小さなものを口に含んであげても、果たして快楽にまで達しているのか分からなかった。けれども生まれ出る為に造形された湿地にはこころ奪われただろうから、堅く立ち上がった少年をゆっくりと導いてまだ覚えのない肉の襞へ迎え入れた。女は深く閉じた目を大きく開いて瞬きすら忘れ、男の顔が苦痛とも嘆きともつかない、哀れな意思に翻弄させている様を突き刺すよう見つめていた。
腰を上下するまでもなく少年は一気に果てた。精通こそなかったが、女の襞には動脈が微かに打つのが聞こえた。
恥ずかしさを呼んだのは少年の騒乱であった。女の箇所から情けなく抜け出た自分のものを目にした刹那、そして上体を起き上がらせ、両膝を浮かせていた具合でその役目を終え濡れた有り様が瞭然と映れば、短距離走のごとく駆けた快感はすでにかき消えていており、これまで味わったことのない無気力でみじめな感じが羞恥に転じていた。笑みとは言い難い女の眼光が更に少年を萎縮させたのである。
くすんだ天井へ視線を移したあとも女は無言で裸身を横たわらせていた。絶頂をさずけた悦びはあの日から不動を保っていたし、少年の態度には愛玩動物に近い馴れ合いが現われはじめた。何より最初の交わりからして敏感な場所が反応するとは以外であった。短い空砲にも湿らされたのが女としての性なら、きっぱりと気位などかなぐり捨て、少年相手に欲情をまっとうするべきではなとも思われる。
それから女は気持ちを改め、同等の目線まで降りる努めに徹した。口調も同世代の男性とかわす節度と美徳を備えた遜色のない恋人振りを発揮して、子供扱いすることを放棄したのだった。すると少年の様子には成長盛りに即するような瞠目すべき変化が、例をあげれば、共働きの両親の帰り時間を正確に紙に書き寄越し、特定の曜日を選択するよう促して女を束縛しようと試みる一面をのぞかせたりした。むろん子供同士の約束ごとみたいな言いぶりではあったが、その澄んだ両目と言葉尻のあとにきつく結ばれる口もとには逢い引きを誓う信念が香っていた。もっと驚いたのは少年があれから自慰で精通を知り、一端の性知識を会得していたことである。
愛玩的な存在からそう簡単に成育するとは考えてもなかったので、女はたじろぎつつも自分の思惑が早々に鋳型へとはまった微妙な感慨を覚え、急速に冷やされていく行程が流れ星のごとくよぎった。
ことの起こりは咄嗟な戯れであったけれど、慰み程度に少年と触れあったわけではなく、この家に縁がある者として禁断を越える反動に制圧されたとしか言い様のない情念が渦巻き、あの懐かしい三面鏡のひかりに少年が向き合っている情景がすべてを決定してしまった。
真っ赤な口紅がひとすじ、意味をこじつけるのが無理なくらい、時計の音さえ途絶える恐懼がそこに潜んでいた。
女は少年の口をはじめ懐紙で、だが動じないまなざしに魅せられるよう自分のくちびるで拭ってしまったのだ。余計なことを落とすどころかこれでは上塗りでは、そうこころの中でつぶやてみたけれど、座敷牢を思わせる不穏な空気のよどみに足をとられ、よろめいたときにはすでに遅く、女は少年を愛していた。
もちろんのこと、この小部屋での過ぎゆきは日常から逸脱しており、その後の悠長な流れにふたりの密会は春の陽気とは無縁であるどころか、より深まったという。


[270] 題名:鏡 名前:コレクター 投稿日:2012年04月03日 (火) 05時45分

  オートマチック

もう随分まえに帰省したとき、お姉さんには話さなかったけど、背筋が思いきり凍りついたことがあったの。
精霊流しの晩、わたし一人で港まで歩いた。それまでは家の誰かが供養に行ってたのでしょう、でもあのときはお姉さんも居なかったから、ほとんど呟きに近い声だったけど、お母さんにお願いしてみると「じゃあ、頼もうかねえ」って穏やかな笑顔が、湿気を含んだ夏の座敷に小さく広がったわ。
幼い頃おばあちゃんに連れられた想い出は確か、山側に架かった夜の川だったから、お盆に海岸へ足を運んだのは始めてだったけど、海に供物を流すなんて今の時代ではもうあり得ないのは知ったし、お母さんにも手順を聞かされていたんで、久しぶりに目にした夜景は朦々とした線香にもかかわらず、不思議に懐かしく感じられてね、たぶん花火大会の人出を思わせたんじゃない、立ちこめた煙にまぎれる人影がにぎやかだったから、打ち上げがはじまる前の雑踏に呼び戻された気がしたのよ。
見慣れた大通りを歩いていったんだけど、ああした儀礼って祭りじゃないので気分は華やいだりしない代わりに、花火の炸裂があべこべに閉じられているみたいな、かといって勢いが押さえつけられ、くすぶってしまっている感じじゃなくて、何かこう、夜空が悠然と地面に降りている、そんな当たりまえなんだろうが、普段よりも神経が敏感になっている自分に気づいたりしない。違うの、変に細かい意識がざわめきしたりせず、もっと大らかで静かな気配に包まれているってことよ。例えは妙かも知れないけど、すごく香りのいいお茶をひとくち戴いて酔ってしまう、だからもちろん気持ちはしっかりしていて、酔い覚めを知るまでもなく、ごく自然に踵を返すことが出来る。
あの晩は少しだけ、まだ夜景のなかに佇んでいたい気がした。近所の人や見覚えのある顔が通過していくのを見つめていたいわけでもなく、読経に呼応する潮風の匂いを確かめてみたいのでもなかった。
でも、おそらく懐かしさを留め置こうとしただけだから、わたしの影は用が済むと実際にはすでに港から遠ざかっていた。
夏の宵は切ない幻灯機よ。だって家を出た時刻は他の季節ならたっぷり暮れているのに、まだ辺りはうっすらとしていて、まぶたの裏に灯りが残っているようで心地いいけど、一気に暗がりの帰途へ進んでいくもの。わたし、やっぱり余韻を引きずりたかったみたい、青々とした海の色を眺めれなかった代償をその場で清算したくなった。逆だと思うでしょうが、深い闇は白々とした感情さえのみ込んで、すぐに吐き出してしまう、わたしはもと来た大通りをはずれ、河口に沿った夜道へ向かった。
街灯もまばらで右手には墓地といった寂しさだったので、あまり気色よくはなかったけど、この付近を散策するなんて中学以来だし、不意に鮮明な記憶がわき起こったり、夜風が間違いのように冷ややかだったりするものだから、さっきの酔いがもう一度めぐってきたみたいで足どりは軽快だったわ。
星を見上げる余裕はなかった。帰路を急ぎたくない思いと歩調がうまくかみ合っていないせいだろうか、民家の乏しい灯りは増々心細くさせる使命を果たし、踏切の位置がようやく認められたとき、わたしはその先の木立を一心に見つめていた。
真っ白な反物らしきものが宙にゆらゆらと浮かんでいる。胸のなかにぽっかり空いた夢の場所、早まる夜の流れ、微笑がこぼれている、そう強く念じていた。

  
  幽霊

きまじめな光線の加減で少女の表情は愁いを作りだしていた。しかし、その瞳の奥には明らかな無関心が優雅に息衝いており、長いまつげは予想したより見事な隠匿を発揮している。また目尻から頬にかけて遠い惑星を静止させたふうな極めて程よい大きさのほくろが並んでいて、いくつあるのか数えるのが無意味に思えてしまうくらい、自然と調和していた。
少女の笑みは誰からも賛美された。時折きまぐれの灯りが小さな面をとらえない限り、悲哀は本来の役割に忠実であるべく循環を絶やさず、もっとも年老いた蝶と悟られることはない。たとえそう知られようとも、そのすがたにより却って人々は感嘆し、深い叡智にふれたときのごとく少女の容貌を愛でるのだった。
世界中のあらゆる花びらが一カ所に舞いおちた。どんな口紅もその発色を再現できなかった。同じことが少女の全身に見出されるに及んで、大方の形容詞が効力を失い、器用な比喩はいつも疎遠であり続ける運命を強いられた。ただ、人々は愁いに結ばれているはずの口もとからそっとのぞく、もの言わぬ吐息に促されている。雪の結晶を顕微鏡で観察するこころが何のためらいもなく育まれたとき、少女は例のもの悲しさを優しくあらわにして、清涼水のような視線を流すのだった。
いつか魅せられたひとりの青年がこんな質問をした。むろん彼は蝶の羽ばたきをよく見極めているつもりである。そして老醜についても。
「どうしていつまでもそんなに美しいのです。生まれかわるからなのでしょうか」
幼虫の脱皮がくり返されるとでも言いた気な声色であったのは仕方ない、そう尋ねてみたかったのも無理がなかった。少女の影は青年のすべてを被っていたから、繭の本能に基づいて。


  顔

吸血鬼になりたかった。数百年も生き永らえてきたのならば、もう永遠を手にしたと言える。
「地球、いや宇宙の進化から比べるとケチ臭いな」
そう死霊に反駁された男は自分の宿命を呪った。だが、ふとこう思い「なるほど、人類の歴史などたかだかしれている。どんな死に方、いや失礼、生き方をされたのやら、あなたもひとの霊であるなら、ましてやこの世に浮いて出てくる馬力と念を備えているのなら、そう古い存在でもあるまい」
「存在論などやめておこう、ただし永遠なんて気軽に口にしないでもらいたいね。吸血鬼なんか、何度も退治されてるんだ。その時代ごとにもの好きがいて復活の儀式とかやるから甦るだけさ。あれは欧州のロマネスクだよ」
「化石とかの歴史よりはまだ血が通っている」
「だから血を吸いたがるのか」
「そうかも知れない」
「ならそうすればいい、さあ私の生きた時代など語ったところで学者以外は喜ぶまい」
男は逆転の瞬間を実感し、こう吐き捨てた。
「あなたが霊であれ、ぼくの妄想であれ、見失えば寂しいものだ」


[269] 題名:クワガタムシ 名前:コレクター 投稿日:2012年03月27日 (火) 03時27分

昆虫記にしようと思ったんだけどね、いくらなんでも大仰だよな、まったく。虫の生態の記録なんて気恥ずかしくてさ、そういうわけだからそのまま、この題名でいいんだよ。
誰だい、カブトムシとクワガタを取り替えっこしようなんていったのは。「へい、あっしでござんす」
「時代劇は関係ありませんこと、ですからそんな言い方やめてくださらない」
「おたくの口調もだいぶ古くさいですな」
「なんとでも言え」
「なら交換しましょうや、ほれこの通りいい大きさのカブトでしょ」
「まあ確かに、でもこっちは小型のノコギリクワガタだよ。珍しい種類でもなさそうだけどね、ただ、いい艶してるだろう、そこが気にいったんじゃないの」
「分かりましたか、ひかりのあたり具合で反面なんとも味わいのある、漆塗りの汁碗をおもわせますなあ。栗色のうちにも深みがあってしっとりとした明るみも兼ねています、こうした彩色は実に目に優しい。凝縮された張りのある力強さは頼もしげにも、しとやかな憂いとも見立てることが出来ます。黒髪に隠された光沢が風にそよいでいる、そんな日差しの思惑を担っているようで」
「よく観察すればだろ、でもまあ、そこまで持ち上げるんなら交換してもいいけど」
「そりゃどうも、旦那、ありがたい事で」
「旦那なんて、調子いいな、で、虫カゴごと持ってくかい」
「滅相もない、もう懲り懲りですよ」
「どうしてまた」
「ちょいと話しは込み合ってますがね、なに洟でもかみながら聞いておくんなさいまし」
「あっ、そう」
なんでもその男は子供の時分、安物の虫カゴに入れておいたクワガタに襲われたそうで、いや、この場合は幻惑されたと呼んだほうが適切な気がする。洟をすする気配をあざとく推し量ったのか、春風に乗って語るところによれば、
これよりもうふたまわりはありやしたから、そりゃけっこうな大物でして、虫カゴのまんなかにあったでょ開閉口、一応透明なんですけど、おもちゃみたいなもんですから、買ってすぐは透けてましたがね、手垢のせいばかりではございやせん、じきに曇ってしまいまして、捕まえたときも、うれしさあまってカゴに入れとくのが物足りないないみたいな、はあ、かといって取り出して手際よくひもなんかで括れる自身もありません、とにかく矛盾してるふうに聞こえるでしょうけど、落ち着きの悪さが胸にひろがりましてね、食べれるものならいっそむしゃむしゃとやりたい気分もしたり、だけど、まあ結局その見通しのよくない開閉口から愛でつくす意気込みで、ひたすら覗いていたわけでござんす。
プラスチックの虫カゴで色なんかも取ってつけたような草色してましてね、ああ、旦那も覚えありますか、しかも縦横に隙間を切り入れた雑なつくりですから大事な獲物のすがたが見えにくいときた、健気にもギザザギとした手足のさきを愛想のない切れ目にひっかけている様子なんざ、却ってゴキブリと見間違いたくもなります、えっ、それは大げさだろうって、へい、まったく旦那のおっしゃる通り、ですがこうも見栄えがさえないとなればですよ、あっしの両目に映っているのは別の生き物だ、そう念じてみたくなるのも人情ってもんじゃありやせんか。とにもかくにもあっしはクワガタの全体像を見つめていたかったわけでして、変に意識が集中してしまったのかも知れやせん。
カゴをそっと揺すってはまんなかに来るように仕向けて、じっぃと見入っていたわけなんです。さて三年ほど過ぎた頃でしょうかね、いえいえ冗談、それくらいの心持ちがしたって意味ですよ、しばらくってことでやす。
草色もいつの間にやら、目に親しんだとでも言いましょうか、安物の虫カゴにしては緑が息づいているんじゃないかと、へい、錯覚も甚だしく、思い入れもどっぷり深まっておりますからね、あっしはその方面にためらいなくすすんで行きますと、これはどうしたことでしょうか、あんなに視界を曇らせていたところがまるで魔法の手を借りたみたいに、それはそれはピカピカと反射する使命をさずけられたくらい、ガラスマイペット、あっ今はガラスマジックリンって名前に代わりましたけど、匂いもどうでしょう、昔のほうがツンとくる感じあって消毒液みたいなきつさも懐かしいのですが、旦那にもごらんにいれたいほどのひかり具合なんですよ、そうです、あの洗剤で磨きあげたに違いないって。
すっきりくっきりな按配ですので、クワガタもさぞかし歓んでいたのでしょう。細やかな照り返しさえ除いてしまえば、そこにはひかりが輪郭を手放したとしか思いようのない、透き通った、そう、しゃぼん玉に反映する紫色がかった光線にも目をくれず、ひたすら極薄の皮膜の世界だけを眺めているような、そんな純粋な意識ですべてを包み込んでしまうのでした。陶然としたあっしの目はどこへ定まったかなんて知るよしもございません。そんな有り様でしたから、へい、まさかクワガタがこの眼球に突撃してくるなんて、そりゃ隔たりが擬似的に消えてなくなったことに耽溺したい気持ちが幅を利かせておりやしたから、あっしには夢と願いはしても、本当に飛び込んでくるなんてよもや考えてはおりません。もっともあのノコギリ二枚刃に突つかれてみてはじめて我に帰った、これが実のところでやんす。
痛いなんてもんじゃありませんよ、なんせ大きな型でしょ、それがかっと大開きになって見事に両の目へ直撃したんですから、飛び上がった高さも天上際まで、とまあ、そのときはそう感じたもんです、へい。衝撃は全身を貫きやしたね、足の裏までしびれたのが思い出させますから。で、ここからさきは旦那も信じられんと言われるか、鼻水止まらなくなるか、恐縮ですけど、しびれと同時にあたまもしびれましたからね、妄想も踊りだすでしょうし、付き合いきれんと思われても、あっしは別に奇をてらおうなんざ考えてもおりやせんので、聞き流してもらってけっこうでござんす。
しかし妙ものですなあ、目ん玉に突き刺さったノコギリがですよ、グイグイと深く食い込んでしまいにはクワガタの奴、すっぽりとあっしの顔の中と申しますやら、眼窩を通り抜けて額の奥あたりにもぐってしまったのです。左右に口を開けた二本のノコギリは間違いなく両方の目を襲撃したはずなのに、あら不思議、本体もまっぷたつに割れて侵入したんでしょうかね、そのあたりが謎なんですけど、それより旦那、痛みやら驚きで目一杯にもかかわらずですよ、あっしのあたまをこんな意想がかすめていったのでした。
**膜も破れるときは激痛に見舞われるものなんだな」
へい、あっしはれっきとした男ですよ、その気はちっともありやせん、だから逆にへんてこな想像が働いてしまうなんてこともあるんじゃないですか。と、まあ刹那のよぎりだったのでしたが、次にはノコギリクワガタに連想されたある物語が渦巻きはじめたのです。「処刑船」って短い小説でした、作者は誰だったのか覚えがありませんけど、色情魔とも殺人鬼ともいえる若い美人の話しで、最後には意を決した彼女の父親が処刑を行なうって筋書きだっと思ったのですけど、岸壁から突き落とすのですね、すると下の海にはまさにクワガタ状の巨大な刃を搭載した船が待ち構えているって仕掛けでした。ところが落下していく寸前で死に様は描かれないまま物語は閉じていたんですな。あっしはあの神をも畏れぬ人間ばなれした娘の表情を思い浮かべてみようと躍起になるんですが、どういう風の吹きまわしか、いっこうにあの美貌にはたどりつけず、一気に小学時代に引き戻されてしまって、はじめて体育として水泳の時間を迎える光景がよみがえるんですけどね、それが性の萌芽と名指すにはどうにも印象が濃厚でないし、欲情を惹き起こすには長閑すぎるんです。
へい、プールへ行くまえに教室で全員が着替えするわけなんですが、あるおんなの子がやおら真っ裸になってから水着をという風呂にでもつかる有り様だったので、何気に見ておりましたら、先生が「あらあら、さきにタオルを巻いてから脱げばいいのよ」みたいなことを苦笑いしながらその子を諭していたのでした。あっしはその先生の言葉を聞いてから、どうも股間のあたりに違和感を覚えたんですね、おかしいでしょ、服を脱ぎだしたとこから目線は這っていましたし、全裸になってその男子とは異なる一本の筋を持った局部を珍しいものでも発見した感覚で注視したにもかかわらずにですよ、解説文みたいな先生の一言によって意味を知り得たのですから。さすが性教育、文部省ここにありでやんす。へい、その子の罰の悪そうな顔も色あせておりません。
続きまして、いくぶん性欲に対する意識が芽生えた中学の頃でござんす。あからさまな欲望が仕出かしたとは思えませんが、まあ眠れるものは片目くらい開けていたかも知れませんな。掃除の時間でしたか、あっしは悪気はなかったのですけど、一緒にほうきでせっせと床を掃いていた大柄の女子に向かって少々乱暴してしまいました。いえね、えんじ色のトレパン姿なんですが、殊更に色気を嗅ぎ取ったとか、むっちりした肉付きに目がくらんだわけじゃありやせん。なんとなく、ほうきの柄のさきでその女子の股間を突ついてしまったんです、はあ、まさかあんなに的確に命中するとは案じてなかったので、斜め下からちから込めた勢いが、まるでスッポリと割れ目にはまってしまったみたいな手応えを感じて、あっしのほうもビクッとなりましたよ。相手の女子はなにが起きたのか分からない表情をしており、怒りをぶつけるまえに困ったふうな顔つきだけで終わってしまった記憶がありました。よくよくめぐらせば、都合のよいようにあとからあの状景を書き換えたかも知れませんがね。
と、いった想い出はいいも悪くも案外長く生き続けるもんです、旦那どうですか、ほら、あっしの額から木の芽が出ているの分かりますでしょう。春先はいつもこうなんで、もう慣れましたけどね。へい、夏場なぞ、それはそれは、もうぼうぼうでやんす。産毛が植物に変化するのですからね。そのカブトムシは偶然あっしの額に止まったから捕まえたんですな、どうも自然界より季節が早く訪れるみたいで、この間も黄金虫とか玉虫とか精霊バッタとか、スイッチョンがやってきました。虫の世界も大変みたいですよ、色々とよもやま話しする連中もいて、まあ大概はメスがどうしたのやら、子育てに追われて昆虫採集にも行けないなんて話しておりやした。はあ、虫も虫を捕まえたりするんでしょうし、あっしにはそう聞こえましたけど。えっ、このクワガタですか、どうもしやせん、ちょっと手のひらに乗っけてみるだけで、その辺の山に放してやりますよ。


[268] 題名:続・探偵 名前:コレクター 投稿日:2012年03月21日 (水) 00時03分

路傍の黒衣がきっと符牒なのだろう。夕暮れを取り急いでいるような婦人のすがたに再び出会う。
あれからの月日はしれていたけど、犯人と目された松阪慶子似の悽愴な死は、限りない青みを帯びて網膜に棲みついていたに違いない。なぜなら澄んだ空気にもかかわらず、また斜陽の雰囲気にこころ鎮められていたとはいえ、蜃気楼が及ぼしたふうな霊妙な効果をどう感じとればよいのやら、すれ違い様に見届けた面影こそ、死せるグリーン女史そのひとだったからである。とても声はかけれない、が、こころに沸き立つ言葉は刃物で彫られた文字がしめすごとく、ありありとして、適度な深みを、そしてうらはらに余分な凝視をあざ笑うような振幅で反響される。
「貴女は寒気をもよおす媚態で迫り似非心中を謀ろうとした。だが、自分は難を逃れた、浮かばれぬのも仕方あるまい、幽霊なのですか」
視線を交える間もなく、そして自分の逡巡を見限る気概がしめされたのか、はたまた、新たな技法でも駆使されたのか、めぐる念いは倒錯した景色にのみ込まれてしまった。
映画はすでに始まっている。符牒が門口なら、必ずあの場面に立ち返っているはずだ。そして相変わらず自分の存在は透明人間みたいに意味をなしてなく、不本意で苛立たしくて、そうかといってスクリーンを裂いてしまうほどの憤怒は抱いておらず、傍観者の安堵と興味のうちにやはり居座っている。
上映後に待ち受けている帰宅の腹立たしさのほうが念頭にあったから、電話を借りて「便所になんか布団を敷くんじゃない」と家の者に言いつけようとも案じたが、どうにも物語は緊迫している様子なので、結局黙って情況を見渡すことした。
岩下志摩ふうの女主は仏壇のまえで哀愁をにじませた無表情をつくりだしている。金田一探偵がレッドと呼んだあの心情を面にあらわすことを忌避しているこの屋敷の気配そのもの。グレーとかブルーと言われた人物のすがたは今日はなく、他には落ち着いた色合いの着物をまとった司葉子似の気品ある女性と、同じく和装の涼しげな愛くるしい目をした吉永小百合を思わせるひと、薄紫のワンピースが初々しい星由里子によく似た令嬢、その付き人らしき菅井きんに生き写しの老女、右奥には探偵の心底から困惑しているのか疑わしい顔つきが覗けた。
「つまりですね、グリーン女史が真犯人でなかったとすればですよ、あのひとは冤罪をはらすことなく処刑されたわけです。これはまいったなあ、なぜ奥さん貴女はわたしにあんな耳打ちなどしたのです」
どうやら以前の結末から更に飛躍しているようだった。「黒衣のグリーンはそれで自分のまえに、、、」どんでん返しをも期待しつつ、早くも映画の続きに巻き込まれていくのが痛感され、ほどよい刺激が走り抜ける。
女主の返答を待つまでもなく、居合わせる誰もが無言を通し、開け放たれた襖へと澱んだ思惑が吹き流されてゆくのみ、詰め寄る探偵の気忙しさだけが室内に充ちる。
「あの雨どいに毒薬が仕込まれていたのを報せてくれたのはどうしてですか、グリーン女史のゆく先々で毒殺事件が発生しました。これまでの調査からこれは揺るぎのない事実なのです。奥さんは遠縁にあたる女史をかばいきれなくなり、そしてこれ以上の惨劇をくり返さないためにと、わたしにすべてを託された。女史は殺人者独特の嗅覚でそれらを察知し、自ら命を絶とうとした、間一髪踏み込んだときの過激なまでの抵抗はなるほど、今からすれば無実だからこそとおっしゃりたいのでしょうが、連続殺人の動機から考えましても逃げ場を失った狂乱に尽きるのではないですか」
自分は探偵の陳腐な推理に呆れ、まったく的を得てない答えに我慢がならず、例によって劇中へ乗り込んでしまった。そして、冷遇されないよう、ちょうど無人島からありったけの大声を海原に向かってしぼりだす勢いで両腕を振りまわしながら、探偵に言い放った。
「金田一さんはごらんになったでしょうが、自分が女史とくちびるを重ねていたのを。彼女は殺人鬼とは少し違う、いわば心中マニアなんだ、これまでが失敗に終わったから、今度こそ本懐を全うする覚悟だったのです。あのひとの目はそういう色をしていました」
探偵はじめ一同の注視がほぼ現実味をもって集まっているのに舞い上がった自分は、矢継ぎ早に「どうしてあのときの意見を無視したのです。うかつだったのは同じでしょう、差し出がましいのは承知でしたけど、金田一さんはどうしても連続毒殺事件と認めないと気がすまないみたいですね、でははっきり言わせてもらいますよ。探偵はこのわたしなのです、あなたではない」そう断定してしまった。
女主の視線を横目にも熱く感じる。司葉子の表情に異変が、吉永小百合の口もとからは吐息のようなものが、星由里子の微笑もこぼれている、菅井きんは口をあんぐりと開けたまま、そして当事者の金田一も思いもよらない事件現場に向き合ったときに得る、あの会心のまなざしを注いでいるではないか。
「今回の件は出来の悪いドラマだったのです。自分はここに来るまえグリーン女史とすれ違ったのですよ、これだけでも信憑性があるといえるでしょう」
ほぼ全員から嘆息がもれる。それは同時に映画自身の醍醐味でもあると確信した。しかし出来が悪いなどと批判しておきながら、慢心を覚えたのが運のつきだった。
「誰です、テレビをつけたのは、話しの途中ではないですか」
金田一探偵は髪をかきながら、その注意さえ面倒臭そうに言った。
「あたしはね、毎日この時間はニュースを見るんですよ。どれチャンネルが違うのかな」
菅井きんはいっこうに悪びれる顔もせず、すぐさまそう応えた。そして「あれま、金田一さん、これあなたの事件簿ってドラマじゃないですかな」と驚いたような素振りをする。
「再放送でしょう、古い番組やってるな」
探偵も抑えの効いた声で返答した。
「へえ〜、吉永小百合も出てたんですか、まだ若いですなあ」
「一度共演しました、確か」
「じゃあ、このひと誰です、出演者に見境なくサインして下さいって騒いでいる男」
この部屋にテレビはあったのだろうか、いや、そんなことは問題ではない、それより探偵のいう再放送のドラマに自分の影が見てとれる。まさしく乱入といった態で無様に歪んだ笑顔をただそうとしている。唖然とした自分を置き去りにしたまま、探偵はこう呟いた。
「奥さん、今回の犯行は貴女でしたね。グリーン女史を隠れ蓑にして」
うなだれる岩下志摩、仏壇から煙る線香がその横顔をかすめ、無言でうなずくと、女優としての風格が漂い出して、屋敷全体を被った。
目覚めたとき、夢でも恥をかけば実際と変わらない心持ちがするものだと、つくづく感心してしまった。


[267] 題名:惜別 名前:コレクター 投稿日:2012年03月19日 (月) 00時02分

「暮田くん、、、暮田くん」
そうくり返された声が自分を揺すぶっていると知るまで、いえ知ったあとでさえ、次第にかき消えてしまう余波は何故かしら、空耳にも似た微かな実感でしかありません。
春休みをまえにして先生より手渡される通信簿にまごついているのなら、姿勢をただす緊張と、くじ引きとか興じるときの妙に取り澄したゆとりが混然となっているのでしょうが、その日の静夫には成績の悪さもテストの点数で確認済みだったし、このクラスの生徒たち、大半は進級とともに毎日顔を合わせることがなくなり、一抹の寂しさみたいな思いを到来させて当然でしたでしょうけど、耳もとに送られた空気のような名はどこか別のところから呼ばれている気がしてなりませんでした。
まぶたを閉じるまでもなく、まだ冬の名残りが地面に居座っていて、年の瀬や正月の澄んだ町の景色が色調を加減させながらも、静夫の胸にゆっくりと、まるでかたつむりの動きのように描きだされます。けれども正確な日付は思い返せません。
当時の歌謡曲に付随していた、恋だの愛だの、別れといった言葉の重みはあっさりと責務から解放されて、漫画のひとこまに近い端的で、素早く、しかもシールの表面みたいに手軽な意味合いでめくられてしまい、肝心の想い出を沈ませたものはなかなか確かめ難かったのです。
「明日は絹子ちゃん帰ってしまうから、ひとこと励ましてあげなさい」
母の憂いはそつない柔らかさに包まれ、毅然とした口ぶりに違いないのですが、静夫には始めて絹子と対面した日の場面に立ち戻っているよう思えて仕方なく、憂いの情は絵空事にも感じられて、明確な忠言は明日という時間を定めているのでない、そんな投げやりで、浮遊した考えがまとまりつかないまま、想念は血流をたどり足もとに降りていきました。そして沈滞した情況こそ、永遠を願う夢見とうっすら覚えつつ、実際には母の言葉は素通りしてしまい、絹子の面がわけもわからず脳裡をめぐっていたのです。
「なんて声をかければいいんだろう」
それこそ歌謡曲の歌詞に即した挨拶もよぎったりもしますが、実態からかなり隔たりをもってしまった面影にしっかりとした情感が備わっていない限り、作られた言葉は空疎でしかなく、が、悩みという程ではないにしろ、静夫の鼓動は着実に夜明けに向かって届けられていました。
夏休みを振り返りながら懐かしさが埋没してゆく秋口に入った頃、絹子がやってきました。でも当初の戸惑いはポップコーンが弾けたくらいなもので案外臆するべきもなく、重荷を背負った感覚からは遠くて、ひとりっ子の静夫に去来したのはシュークリームのような程よい感触だったのです。水気の薄い皮の中身に美味とは異なる、熱烈でいながら冷ややかさを保てそうな、抑制のある、甘みにうちに溺れない弾力がちょうどよかったのでしょう。
年明けまでの短い期間でしたけど、ひやりとしたことは幾度かありました。絹子が夢に出てきて大胆な振る舞いを見せたり、普段からもっと話しかけてあげなければと思いながら、結局、この家にあずけられた事情も詳らかにされることなく、それは両親があえて口外しない厳格さを嗅ぎ取ったからで、そのまま静夫を凍結させる効果を発揮しましたが、色眼鏡をかけさせてしまう距離を生んで、互いに歩み寄るすべを得ないまま、いえ、不安定な好意だけが一方的に排出されてしまったので、噂話などは確かにまわりから否応なく飛び込んでくる場合もありましたし、絹子との血縁から類推して、彼女を取り巻いていただろう過去を少しばかり想像することも出来ました。しかし、頬にしるされた傷跡の大きさを見まいとすれば、逆に悲惨な想念がわき上がってきてしまい、さながら腫れ物の触るような心地を一層強めたのでした。
いつかの凧揚げのとき痛切に響いた疎外感こそ、静夫の思いやりのなさで、先取すべくしてあらわにした羞恥であり、見失うことを怖れ念じた大人びた馴れ合いだったのです。
絹子に接する状態が別れという現実のさなかでも崩落しないのは皮肉なものかも知れません。静夫の守護神は絹子を小悪魔に仕立て上げ、駆逐する算段を擁していたのですから。
十歳の静夫にも人間の業といいますか、善悪の機微とはいくらか大げさでしょうけど、自身の胸中にわだかまる不穏の正体をかいま見ることは不可能ではありませんでした。一方でそれ以上の内省を拒む童心は健全な機能を失っていませんので、おそらく母を代表として託したであろう、思いやりと礼節を静夫はついに翌日へと持ち越してしまったのです。
その晩の寝苦しさも今となっては、熱病に冒されている時間を逐一なぞるような按配なので、夜想に渦巻き、安眠という揺籃を乱したに違いない音なき辻風に促され、白々しくも気運を秘めた当日の朝陽に語ってもらいましょう。他でもありません、静夫は家のなかで誰よりも一番に目覚めたという自負があったからです。
窓の上では鳩が鳴いています。その声不気味ですけどよくよく聞き入れば、くぐもった小さな絡まりが、ころころと朝もやの彼方に消えていく、あるいは夜の魔王の咳払いしたなごりが軽やかに陽光に炙られる試みであり、太陽と夜が織りなしてきたあまりに壮大な仕草なのです。
「からだに気をつけてね、まえの町とはそんに離れてないから、すぐに慣れるわよ」
母の目は悔しさが勝っているみたいなひかりを放っていますけど、声色は低く優しいのです。
「ずっと家に居てもらってもよかったんだが、この方が絹ちゃんにはよかった」
苦渋をにじませ、おおらかに話す父。
「又、遊びにおいで、ばあちゃんの目の黒いうちにな、きっとだよ、元気でな」
まぶしいものを見つめるまなざしの奥には慈愛が堂々と溢れ出ています。
朝飯を済ました家族は、迎えの車が到着する間、玄関先に佇んだまま、無言の隙を埋めようとそれぞれの思惑を、見慣れたはずのガラス戸に映る影にと求めていました。心配いりません、日差しはみんなこころを透かし文様のガラスに焼きつけています。決して鮮明ではありませんけど、不慣れな手つきで撮られた一枚の写真が思わぬ配置を浮き出させるように。
「ほら、静夫、絹子ちゃんに、、、」
母に背を押される具合で両の目が向き合います。
表に車の気配がする度に静夫は無性に悲しくなってきました。祖母がガラス戸を開けてみると早朝の寒風は辛く、急いで閉め直します。すると絹子の目にしみたのでしょうか、うっすらとひかるものが見えます。
「ありがとう、おにいちゃん」
か細い声でしたが、静夫には確かに絹子の言葉が聞こえました。
「どうしたんだ、先にお礼なんか言われてしまって、、、」
この場に及んでも、静夫は自分の情けなさに拘泥してしまい、取り返しのつかない大事なものを忘れかけてるのです。
「おじちゃん、おばちゃん、おばあちゃん、ありがとう、あたし、楽しかった」
律儀にあたまをペコリと下げている絹子の姿が、まるで映画にシーンにも思えてきて、静夫は一段と苦しさが充満しましたけど、何気なく横目に入ってきた金魚鉢へと溶けて、没し、視界が流されるのを気づいたときにはもう涙で顔中ぐしゃぐしゃで、なにも気の利いたことなど絹子に伝えられませんでした。
悲しみを覚えるにも手順があるなんて、、、「ありがとう」それが静夫の送る言葉でした。

「暮田静夫くん」先生の語気は高まっています。「は、はい」
絹子が居なくなった家のなかに大きな変化はありませんでしたけど、自分のことを「おにいちゃん」と呼んでくれたあの朝を忘れることが出来ません。静夫は絹子に向かってその名前をこれまで口にした記憶がなく、また絹子の方から静夫に話しかけてくることもなかったので、別れの親しみはこんなにも胸に残り続けているのでしょう。


[266] 題名:中左衛門異聞 名前:コレクター 投稿日:2012年03月06日 (火) 02時47分

はや三年、我が胸奥に仕舞われたる誠もって不可思議千万な一夜の所行、追懐の情に流るるを疎めしはひとえに奇景のただなか、夢か現か、ようよう確かめたる術なく、返す返すも要職の重しに閉ざされたれば、口外厳に禁じられたるところ、斯様な回顧もまた御法度なり。されど案ぜられるは後々の子孫に降るかかるやとも知れぬ怪しき口上、姓名は憚れし上役殿より仰せつかるる役目を果たすも後に謎めく声色、さながら狐狸に誑かされ、或は巧妙なるはかりごと裏方ひしめいていたのやら、今となってはただただ隠密裡に運ばれたものよと、大義を滅するは畏れ多く、自戒の念こそ頼みにするばかり。
しかるにこれを記すは当家筆頭たる矜持、かく云うところの戒めを破らん所為なれば、未来永劫我が身焼き尽くされようとも泰然として承引いたし所存、業火へと包まれたる念いの先、これ紛うことなし末裔に捧げられよう。
足袋先かじかむをつと忘れもせん睦月の頃、御庭番末席を汚すばかりこれまで殊更際立つ任務携わるゆえもなく、戦国の世ならばいざ鎌倉の心意気、日々の本懐なりと唱える声も低く沈みける。そこへ降って湧いた如く、上役殿からこ度の指令、心拍気高く打ち、我が面容鏡かざして見るまでなく閃光発したかの輝き、浮き足立つ勢いなだめる有様ながら、しかと拝聴仕れば、さてさて風変わりな伝達にて候。
紀州藩武芸指南役なりと耳に入れしところ身の引き締まるを覚えたるも、同藩なる我には根図中左衛門と名乗る御仁かつて聞き及びなき、されば異名にて暗躍されし人物と思い巡らしたり。須臾の間、上役殿の申すに、黙思にて行動を計るべしとの言、まさしく真意奈辺にあるが如し、返答に窮する始末。常より眼光鋭利な顔色に仄かな微笑こぼれ、そこもとには合点いかぬところもあろうが、明日の夕刻を待って指示通り歩を進めらるがよし、上役殿には珍しき薄いもの言い、元来の務め今更目覚めるかと思し召しに本然たる姿知りたまう。
さて明けた日輪の翳りを頼って北西の山中目指し候。草深き土地なれど迷い込む恐れ毛頭あらぬ、たかがか三里の隔てなき地続き、平安こそ胸を去来すれ遅疑いっこう訪れず。使命に即する思惑、春を望む人肌より放たれる上気にも似て裏面に隠されよう暗黒の魔手、黄昏と目配せくばせする風趣なぞ木々の隙間に覗く加減、湯上がりの長閑さを彷彿させては、道行く者もなき山路に人恋しさを運びゆく。鉛垂れ込めし夕空とまだまだ息吹を許されぬ山地、何処より届けられるものやら、薄絹が擦れ合うようなか細い、木の葉のざわめきが、崖下に聞くせせらぎの気配が、はたまた稚児の無邪気な鼻唄かと、その寂しさ一層募らせつつ遠近に流れゆき、陶然として草木の彩度に宵闇認めさし、にじます山稜を見遣りけり。
灯火用意いらず、根図中左衛門の見参まさに瞭然の合図、その人影を大きく見せる按配にて、山向こうに落ちた陽の名残りこそかの提灯とこころ揺らめき、足場にちから止め置かれよう。互いの間合い、神妙なる微風こころ得し様相、燗酒なぞ引っ掛けし頬の火照りを、冷ややかに撫で付ければ、自ずと背筋へ活力が付与されし。留意すべく箇所、我復誦する猶予の裡に火影近づき、決して我から先にもの申すではないとの命、かほど容易きにて明朗、さしずめ謎掛けに狼狽することなく嬉々として眉目を緩める呈なり。ならば逢瀬の高揚その場で立ちのぼってみるも不思議にあらず、徐々にあらわとなりかけた待ち人の面妖にこころ打たれたし。なんの戯れ、かの御仁、夜景から抜け出だしたと見紛う漆黒の紋付袴、如何にも隆とした身なりもさることながら、髷も一緒に隠されたるのが甚だ愉快に感ずる次第、一体かの鼠らしき御面いかほどの意味合い授けられているのやら、小首を傾げた我、怪異な気分を拭いきれないのも至当、とは申せ唐突なる異変に対峙したまい感想は等閑に付されし所存。家紋と知れる巴を描いた白きしるし確かめる間もなく、武芸指南役たる身分と姓名を怪鳥鳴り響く勢いで我に告げたれば、洞穴の奥へとまなこ引っ張られし如く鮮烈なり。中左衛門殿まるで黒蛇がとぐろ巻く様態にてゆるり身を翻しながら、我の本体を詰問する素振りなき、ただ後ろを着き歩くこと促すのみ。羽織袴はすでに夜風を含んだと見え、得も云われぬ弾力が全身みなぎる剛毅を養い、その反面抜けゆく浮いたふうな足どりに飄逸なるもの感じ入れし。
我、鬼哭啾々たる山間進まず、意識混濁、視界灯火のみにて在りき、行く手なお知るよしもなし、胴体より上もはや宙を滑り異空へと誘われし候。まどろみにも等したゆたう風光のなか、それが一点のねじ巻きの如く僅かな緊迫保たれたり、即ち帰還せざるは相成りや、上役殿とて異界の変化ならば、この身はどこぞ彷徨う宿命たるか、それにつけても捗々しい技量なぞ持ち得ず、風采上がらなきこの身など惑わしてみたところ、さてどの様な価値を見いだし得るのやら、いやはや呑み込み難きかな。
疑心ならほどけよう闇の間口、引き返すこと能わず、増々提灯の揺らめき左右に乱れれば、枯れ草踏む足音消え、耳鳴りと思われし能楽のみ脳裡に反響せる。桃源郷の開けし予兆、理屈にそわぬとは云え、兼ねて知人より風雅に語りたもう梅林の宴、興趣そそられしこと羨望に至りて、この妖かしの源に棲みつけたり。ものがなしきとなぞは仮令ばかり間を持たず妄念羽ばたかせ、鼠の御面を被りし奇天烈な御仁を追えば、必ずや馥郁たる芳香に囲繞されし夢成就、夜宴においてはまた格別の趣きも備わろう、梅一輪、眼前に花開くまぼろし近く、魑魅魍魎に親しむとき深し夜空、すぐ頭上へと垂れ幕の如く語らい収める役目に準じては、無言なる意志の疎通、花鳥風月の雅と変幻したまおう。我、目醒めを欲せず。とき、亀裂を生じ美しき異形を生み出さん。
中左衛門殿その影、灯火とともにすっと闇に融合せんと見紛うも頑是無きかな、かの一帯こそ妄想逞しゅう浮力に任せるは及ばず、平時より知りたまう名だたる梅林、夢幻の境地と、過剰な心象が作り出したる儀、ほどなく心得えし三里の足付きに我が目眩、あたかも神仏の慈愛と混淆せん。はて妖魔に魅入られたる役職のほど真意は如何に。我、忘失の彼方より漂浪せり白痴ぞや、想い事ごとつむじ風にも似たる。ならば巻き上がれし枯れ一葉の、塵芥の類いと軽視するは片手落ちぞや、風に吹かれたる念、瘴気をも駆逐せむ意志を秘めたりこそ。
道行きの指標暗に示さんとはまさしく影法師なれば、かの御仁こそ夢路の先達、鼠の仮面、誠に相応しけれ、もはや疑義挟まるところなし。魚心あれば水心、ついぞ寡黙を守り続けるもいよいよ中左衛門殿もの申さると、玄妙なるかな、一言一句の度にぞ魂宿れる。即ち一声発する間にさきの梅林、いつしかほんのりした明るみ生じ、月光の照りよくよく覚え、或は祭礼想わす壮麗な行灯の温もり近く、或はぼおっと霞んだ彩色なんとも愁いを含んだ調子、人影こそ遊べし習い求むるも甲斐なくはもとより承知、妖異の群れが踊りいでたり野火の果て、枯れ木も山の賑わいなどと、こころ静かに眺めたる。ときの狂いは我が眼の保養、絵にも描けよう宴とは程遠かれど、冴えた月影のもと、柔らかなるひかりに舞う芳しい異形の衆、妖しけり美しけり、実相の祭礼を跨いだ影絵とや感服いたし候。
どこぞから獣の鳴き声なども聞こえゆ。本来の梅林を知らず、ただ摩訶不思議な光景を堪能せり。夜空に吹き立つは我のこころのみにあらず。斯様なまぼろしななれば深更に流るるはいにしえよりの定石、されど本文の意向、妙なる夜宴をや縷々と語るにしかず、当家子孫への忠言こそがその深意なる故に、しかと読み解かれたし。
武芸指南役に伴われし山中での見聞、沙汰通り後日上役殿に報告致しところ、思いもよらぬ命を下されたり。
あの一夜、すべてそこもとの腹に収めたれ他言は厳禁、手記なぞに残すこともなきよう、委細は省略、よき夢想であったと念じておれとの申し付け、我ひたすら顔中より血の気引くのみ、御庭番たる心得重々に理解されしも、児戯に等しい茶番、はたまた上役殿から仕掛けらたる慰みなどと不審は募り、身分を投げ打ち畏れながらと両手のひら床に強くすれば、藩中きっての器と名高い上役殿、いつぞやの薄き笑い我に向けられ、奇怪なる役目、あたかも神事たる由縁を孕んだ如くに明徴な口吻にて、そこもとの末裔に通ずること故、仔細覚ゆるは難ありき、この世には人智をとうに越えうるもの多し、呪術妖術の類いとでも、また深遠なる究理とでも慮ればよし、あとは目映い場所を見遣るふうなまなざしのみ、一切は不問に付されたり。
平静を失するべからずと事後役職に専念せしも、底心に蔓延ったあの夜宴忘却し難し。先々の系譜に対する戦慄とは明解に袂を分つ、されば我の懊悩、天上よりの供物に他ならず、よって大義を捨て自戒を破らん。万事はこの血筋に帰結せし、御庭番なる要職もまた月明かりのみ知己とする本分、風雅なり、これ自嘲にあらず。
密かなる心待ち言わずもがな紅梅の時節、上役殿においては再度かの山中へ赴く下命うけたまわりしことなかるかの所懐。翌年同じく、また翌年には煩悶を伴い今日に至れたれりは哀しかな、末尾にぞ一句添えたし。

梅まつり 月光浴びて 玲瓏と 夢吹き流る あまねし木霊


[265] 題名:こおろぎ 名前:コレクター 投稿日:2012年02月28日 (火) 06時12分

長生きしようが、早死にしようが、こおろぎの音くらいこの国に生まれた者でしたら耳にしたことはありませんか。わたしは小さい時分、背丈ほど盛り土された芝生に駆け上がり、指先からはみ出すほどのびた青草をむしる要領で掌を握りますと、面白いくらいこおろぎがつかめましたので、一時期は虫かごが満杯になるまで夢中になってその場所に通っていたのです。蝉取りでもそうですけど、あまり大量に捕獲できてしまうと興が冷めるといいますか、早い話あきてしまうのでした。が、芝生とはいえ、草むらに潜む姿がいとも容易く手中におさめることの快感は禁じ難く、ついつい足を運んでしまって、しまいにはここいら中のこおろぎを全部獲ってやろうと考えてしまったのでした。例えはどうかと思いますが、軍事的には殲滅作戦というところでしょう、なにせ、テレビ番組のコンバットからの悪影響か、わたしにはこおろぎがドイツ軍の兵隊に思えてきまして、虫かごはさながら捕虜収容所、そこへおさまらない奴らは攻撃対象となるわけでして、といいましても、玩具のピストルで撃つなど高等な遊戯ではなく、つかみ獲ったまま少し離れたところにマンホールがありましてそのまわりはセメントで固められています、そこに勢いよく叩きつけ即死させる、そんな残酷な行為をくり返していたのでした。
今から振り返りかえれば、なんとまあ、かわいそうなことを、いえ、悪逆極まりないことを仕出かしていたのだと、ひたすら悔やむばかりです。こうして子供の純真無垢はわたしの中では甚だ疑問符と成り果てたまま、宙を泳いでいます。
懺悔のつもりではありませんが、子供ながらにおののき、くちびるから血の気が引いていくように感じましたのは、殲滅作戦が完了した、まさにあの瞬間でした。マンホールを取り囲むほどの死骸が散らばった数十匹どころではない、無惨な光景を直視し、ようやく憑き物が落ちたふうに勢いが消え失せ、うろたえて、何度も芝生をかき分けてみたものの、あれほど簡単に出会えた虫たちはいっこうに姿を現さず、二度とわたしの手の中に包まれることはなかったのです。いくらなんでも自分ひとりですべてのこおろぎを殺してしまったなんて考えは間違っている、ドイツ軍は猛攻撃にひるんで撤退したから辺りは沈黙を守っている、他者は知らず、わたしにはそんな弁解さえ思いついた童心が薄ら寒くて仕方がありませんでした。そして卑屈な涙を流してみたことも。一体誰に許しを乞うたのでしょう。以来、害虫と人間はさておき、無闇な殺生や加虐は相当ひかえるようになりました。
時折、似たような経験を聞かされることがあります。トンボの羽をむしったとか、カエルの口に爆竹を加えさせて放り投げたとか、よくもまあ類型的な悪戯が流布していたものだと眉をひそめてしまいます。わたしも同様なのでしょうが、そうした時分を思い返す人たちの顔つきは決して愉快な表情など浮かべてはおりません。悲痛な面持ちこそあらわにしていませんが、どことなく申し訳なさそうな、それは照れ隠しとも異なる、もっと内面からじんわり湧いてくる冷や汗のような、暑さに閉口している自然な苦笑いなのです。
人間が犯す残虐行為にはどうやら際限がなさそうです。生命体の保持が弱肉強食であり、血の噴出が転じて聖性を帯びる儀式の形態は世界中にあまねく見聞できるはず、ニワトリの首を斬り、その鮮血を浴びる祭礼に携わる民族に対して今日のにわかつくりで備わった動物愛護の精神など通用しませんし、それぞれの文化において、様々な生き物が崇められたり、反対に忌諱されているのは周知の事実です。それを野蛮と呼ぶのか、どうかは文化と時代が織りなすあやであって、一個人の視線から通底されるほど安易ではないでしょう。
けれども今、急速に人間を取り巻く環境が激変しようとしています。個人の世界でもなければ、世界の個人でもない、わたしたちは奇妙な世界との関わりを深めようとしています。わたしは平和主義を声高く叫ぶものでも、民主主義を徹底して尊ぶものでもありませんが、そうかといって歴史の終焉に賛同するほど悲観論者ではなく、また無常観を盾にする気分もさほど持ち合わせておりません。わたしは世界を知らないのですから。わたしが知っているのは、指先のささくれみたいな取るに足らない世界なのです。常にそこが入り口であり出口なのです。しかし、通路はけっこう入り組んでおりますから、あんまりぼんやりしていては迷宮を本宅にしなければなりません。これは随分と大風呂敷をひろげてしまいました。
こおろぎの話しに戻ります。桜の見頃にもなりますと、夜間には草木のあいだからその鳴き声が届けられ、秋の虫といったイメージが、こう何か悪くはない意味で前倒しになって季節の循環が狂ってしまったふうな、いい加減でまさに虫のよい、心地よさを覚えてしまいます。あれだけ残虐だった子供が言うには口幅ったいのですけど、これくらいしんみりとした音調を地面に伝えてくれる虫はおりません。他にも鈴虫や松虫なども品のよい風趣を醸してくれますが、彼らの努めは笛や弦楽器のように華やいでおり、いわば秋の真打ちとも呼ぶべき威風に彩られ、こちらの耳もしっかりと暗がりなりに傾けないといけません。
それに比べれますとこおろぎの単調で、夜気を吸い取っているような細切れな、幽かでありながらも案外、明瞭で主張さえしていそうな風情は、聞き入ることも、また無視することも可能な音楽ではありませんか。
以前、欧米では虫の音などノイズでしかないと言われている、確かそんな文章を読んだ記憶も古びることなく、おそらくそう年月も経る間もない、ビートルズのアルバムの曲のつなぎにこおろぎの音を聞いた驚きと、デビット・ボウイが雑誌のインタビューで「最近はこおろぎなどの鳴き声に耳を澄ましている」といった発言を知った歓びは思春期のわたしに決定的な刻印を残してくれました。あれから幾年か流れましたけど、静かな感動はいつの時代でも変わりなく胸にしみ入ります。
毎年のことですから、特別な想い出はないのですが、あえて上げますと、東京の六本木、大通りに面したビルの影、ひっそりとした外灯に照らされたこじんまりした人気のない公園、裏通りに何気なく足が向いたわたしを待ち受けていた大合唱、あまりの音量に大都会の機能を示されたようでもあり、もしくはそこが異界にも感じられたようでもあり、しばらく立ちすくんでおりました。二十年以上まえの夜景です。
今、指先のささくれをあらためてじっと見つめています、やはり供養かも知れません、こんな文章を書いているなんて。


[264] 題名:節子の部屋 名前:コレクター 投稿日:2012年02月28日 (火) 01時55分

「徹子の部屋じゃないの」
「深夜の放送だし雰囲気がまるで違う。あのタマネギおばさんでなく、もっともっと若く華奢で、儚げでいて、葬式みたいな着物で冷ややかだけど、ほんのりと人肌から浮遊しているような色香に包まれた司会者で、ちゃんと画面の下に『ねこやなぎ節子』ってテロップが出ていたから間違えようもない」
「録画しなかったわけね」
蛍光灯のもと、長いまつげをくっきりさせた目のひかりも初々しい少女が、訝しげにそう問うた。
「それで記憶に乱れが入るまえこうやって聞いてもらってるんじゃないか。外で酒飲んで帰って惰性でテレビつけたから、最初は変な番組だなあって眺めていたんだけど、次第に酔いも醒めてきてね、なんせ、見たこともないタレントだし、どこかに引き込まれそうな得体の知れない趣きがあるのであわてて録画したよ」
七三に髪を分けたいかにも実直そうな白い顔をした青年の鼻息は、荒いというよりか清々しい。
「でもあの放送は録ることができないんだろうな。そうに決まっている、画面に釘づけにされながら、落ち着いてリモコン操作してみると時間帯に関係なく、あの番組は空きの端子に映っていたんだ。さあ、早く話してしまわないと鮮度が落ちてしまうどころか、忘れられた夢みたいに二度と呼び返せなくなってしまう」

酔眼とはいえ、目にも鮮やかな毛氈が放つ朱を諌めるふうにして居並ぶ雛人形、背景そのすべてを飾りつくした有り様の何ともきらびやかで騒々しく、それが何段にしつらえてあるのやら、女雛、男雛は一体どの辺りに鎮座しているのやら、ぼんぼりの薄明かりが灯る加減は深紅の影に吸い込まれ、闇夜を彷徨ってみれば、おのれの黒目がただふたつ宙に舞い、五人囃子の奏でる響きも遠くに退いて朦朧たる意識のむこうに光芒を知る想い、三人官女のお歯黒にふと気づいたときは錯乱も心地よく、眉かくしの霊さながら「似合いますか」の一声にはっとし、青年は座敷に対座する女人が今宵の主賓だと知る。
際限なき雛壇の上方に光輝な金屏風の威厳を認める間もなく、地と図が反転する優雅さをまざまざと見せつけられた。それはまるで紅葉に染まりきった峰々を背にしながら浮き上がる白描画のようで、薄花色の帯締めが、かろうじて経帷子を彷彿させる白着物すがたを回避させながらも、司会者がまとった黒衣の和服と見事な対照を示している。
姓名を『六路首子』を紹介されたうら若き女は、画面に収まりきらない深紅の節句を大道具とみなしてしまうのを恥じ入るように、また平安の時代より生きながらえてきた人形も控えていることを悟りつつ、その首をほんのまねごとみたいに心持ち、ぬっと伸ばして見せた。
ねこやなぎ節子は風姿とはにつかわない闊達な口ぶりでそんな首子を褒めそやした。古風な日本髪の端麗さをそこなわず、簡素にまとめあげた髪結いが可憐であるとか、切れ長の目もとに紅梅をさっと擦りつけたふうな風合いが妖しさと交じり合っているとか、やはりろくろ首であるからには笑みは絶やさず、その眼光なめまかしくも薄気味悪さを覚えささなくてはと断言したうえ、さきの一声を首子自身の口からもらすよう促したのだった。
似合うも似合わないも、青年はただただ唖然として心音の鼓動さえ止まってしまったと感じ、寡黙なろくろ首を相手にその空隙を埋め尽くすよう饒舌なまでに語る節子の言葉が、この世に伝わるものとは到底思われなくなっていた。そしてうなずく代わりに美しき宿痾の本領を発揮し、微笑をたたえた顔面がするすると襟足から伸び上がっていく様に取り憑かれ、失禁しかけ、しかも、はらわたをめぐる液体からはみ出してしまいそうな、上半身から下半身にまで血とともに逆巻き、いきり立つような、例えていうなら牢獄に服する身でありながら自由を得てしまった夢想が何度もくり返される興奮に囚われたふうな、青年はろくろ首に限りなく欲情に近いものを覚え、ときの経つのを忘却していた。
司会の節子の語りを聞き取れなかったわけでなく、五人囃子の能楽を鼓膜に震わせてみても、ちょうど裏山の岩屋にひとの気配を察っするにとどまり、それ以上の興趣を持ち得なかったし、あべこべに予言に等しい感覚で来るべき光景を待ち望んでいたこと、ろくろ首が宿命であるなら、おのれの五感が描く図式は呪いきれない風景にいつもまぎれこんでいよう。
青年は見苦しさを卑下したのでない、この身を流れる、いや、この空間に飛び交う、電波や音波、霊波などを拾い集め、真夜中に浄めようとこころの底で願っている不遜に嫌気がさしていたのだ。
だから、こんな妙な番組を見てしまい、股間がふくらみかかっても一向にその手を抑えようとはせずに、むしろ脳波と協調した青みががった画面に真っ赤な悦びを知ったりする。
六路首子は女優であり、今回の映画ではじめて大胆な濡れ場を演じたという話題を聞き逃すはずはない、節子の軽やかな口調も微量の生唾を飲み込むような按配で、それから予告編が紹介された。
「想像にまかせるなんて言わないでね、わたし、平気だから」
少女の瞳の中にはちいさな蝿が飛び回っている。だが青年にはその蝿を捕まえることも追い払うことも出来なかった。
「するするっと、いや、ぬるぬるっとかな、むくむくっとかも知れない。伸びて伸びて、絡んで絡んで、巻きつくわ、締め上げるわ、ろくろ首のはだかは奇麗だったよ。相手の男は普通の人間でね、なんでも公募で選ばれたらしい」
「AVみたいね」
少女の声は明るく、他愛のない会話の域から一歩も出ていないと青年は思った。蛍光灯が地虫に似た音をひねりだしている。
「そんなもんだな、いいや、少しばかり違うような気がする」
「どこか違うの」
「すまない、話していたら段々思い出せなくなってきた」
「そうなの」
わずかのうつむき加減にもかかわらず、少女の長いまつげは深い失望から来る濃い霧を招いている。青年はそう見遣るだけの自由がまだ残されていると考えていたから。


[263] 題名:蛇女の逆襲 名前:コレクター 投稿日:2012年02月21日 (火) 00時37分

頬をなでる冷たい風に引き締まった美しい弦楽の奏でを感じるよう、僕にしてみれば子供らの奇妙なうわさ話は冬の空から舞い降りてきた贈りものだったかも知れない。
最初耳にしたときから聞き流してしまう理由をあげてみるより、風のなかにひそんでいる魔物に魅入られてしまい、というのも僕のほうからすすんで彼方からの訪れを、まるで春の気配のように察してしまったからであって、決して子供の時間に舞い戻ろうなどど考えていたわけでなく、まばらな粉雪にそっと目をやりながら寒天に消えてゆく想いを静かに感じていたかったのだ。
ところが湿気を帯びた夏の怪談と違い、この時期の乾いた空気はさながら流行の感冒みたいに伝播してしまう効力があり、発熱し寝込んでいるときに胸を満たすだろう、群衆のなかの孤独をかみしめてる悠長な気分は許されなかった。
この出来事はL博士が発端にせよ、結局は僕の白日夢が踊り出てしまったと正直に述べておいたほうがよい。
「知っているか、もうあんたのまわりでも、いいや大人でもさ、随分と目撃者が出ているみたいだな」
さてL博士は界隈で変人扱いされている老年男だが、僕とはどことなく気が合うところがあって時折、新たな研究成果とやらの説明を誰よりも早く聞かされていた。年金暮らしの独り身を憐れんでいるからとか、一風変わった性格を物見しつつ自分との距離を定めてみることで、とるに足らない同情を加味しているとかの偽善とは関係ない、単純に言えば僕はL博士の浮き世離れした人柄を好んでいただけに過ぎず、つまりこのあとに続く会話の流れに支障をきたさない為にも、また首を傾げてしまうだろう内容に対し、前もって現実味を少しだけ追加しておく。
「ええ博士、都市伝説の一種だと言いたいところですが、生憎ここは田舎町ですからね、言説を解明するよりも実際に見たと話している方面、とにかく僕らも蛇女に出会わないといけません」
「あんたもそう思うかい、わしもそうでな、いてもたってもいれなくて、ほとんど徹夜でこれまで奴が出没したあたりを探っていたんだ」
「そうですか、僕も同じです。さすがに夜通しではないですけど。で、何か手がかりは」
「今日来てもらったのはずばり本題にせまることなんだ」
「では、正体が分かってきたのですか」
「ああ、この眼で見てしまったよ」
「ええ、あの蛇女をですか。ちょっと待ってください。博士と僕がこの間からしきりに話題にしていたのは、あの、、、」
続く言葉を見失ってしまって当然だといった表情を浮かべた博士は、もの忘れが頻繁になった老人のそれではなく、反対に一計を案じている明晰な眉目が際立って、煙に巻かれた僕をいたわるような雰囲気をかもしだしている。これまで博士の顔つきがこんなに理知的に締ったのは始めてだった。
「風説を基準として押し進めていく段階は終わったということだ。わしが惚けたなり幻覚に惑わされたなり思うのだったら、これ以上あんたの手を借りるつもりはないよ」
「いえ、そんな、僕は信じます。実際ごらんになったわけでしょう、次は僕が見るべきですし、是非とも正体解明の協力をさせてください」
疑心が生じてなかったかと問われれば、心苦しいところもあるけど、そんな息のつまる加減さえごちそうが喉にむせるのと同じで、先行していたのは紛れもない夢見る好奇であった。博士はすでに断定を下していたのだ。そう、だから口調には威厳が備わっており、目もとには妖し気なひかりを通り越して崇高な明るさが棲みついている。僕は自ら呪縛を願ってやまない時間のなかにいた。そしてその手つきは何やら思いもよらない具合で、荒々しくもなく、柔らかでもなく、弱々しくもなく、ちょうど羽を休めた鳩を両手で被うような生々しいけど妙に無機質な感覚だった。
「蛇女はこれまで攻撃性をしめしたことがない、目撃者はただただその怪奇な姿におののいているだけだ」
L博士の解析結果はこうである。突然変異の生命体もしくは太古より生息していた未確認の生物、そして可能性としては低いがある種の呪いによって肉体変貌してしまった被験者。科学とオカルトを含め、これだけでもう言い尽くされていると思った。そして何と僕に要請されたのはその低い箇所、博士の理屈によれば、生き物である以上は捕獲しなくてはならない、狩りをするみたいな手荒な方法では危険がともなうであろう、だから仮定として呪力であるとするなら、まわりに危害が及ばないようこちらもその手法を試すのが賢明だというわけだった。
何だか我々の怯懦が一番安全な道をそれとなく選択したのでは、そうした内省もまた余地をあたえられてないのか、博士が言うには「あんたところには確かワニの剥製があったはずだね」などと、薮から棒の問いを投げつけ決定権が一層強まる思いのうちに、いかにも古めかしい学説が展開された。
これまでの目撃情報はすべて夜間である為、一概に蛇女といってもそれぞれ言い分が異なり、ある者は眼光鋭く舌なめずりしていただの、顔中がまさにうろこで形成され毒々しかっただの、かと思えば糸を引いたような眼は涼しげだけれども全体的に妖しさがゆき届いており背筋が凍てつく風体だったの、誰かとっさに写メールでも撮ってくれれば明白なのだったが、暗がりからしのびよる怪異に対峙しどうして平静でいられよう、肝心の博士当人ですら、少なくともギリシャ神話に登場するゴーゴンみたいに頭髪が蛇ではなかったくらいの印象しか持ち帰れておらず、いかに瞬時の遭遇がとらえ難いものか想像できるだろう。
そうした実情から統計とは至らないけれど、ある程度の風貌に束ねてみたところ、体格ならび四肢はひとがた、顔面のみ爬虫類のそれであり攻撃性は見られないが、多数の目撃談は今では相当な尾ひれがつき幼子まで震撼させている始末、普段から色眼鏡で見られている博士からすれば、ここはひとつ名誉回復のよい機会だと一役買って出たわけである。もっとも助力を担う僕のほうがよほど苦労があり、瞠目に値する役目を果たしたつもりではいるが。
「よく憶えていますね、ええ、ワニの剥製なら持ってますよ。でもありゃ子ワニです、いいんですかあれで」
L博士の要望はその剥製を使って蛇女を退治するという、何とも原始的で非科学的な手段であった。詳細は古代エジプトまでさかのぼり、霊魂不滅説にはじまって壁画に描かれたワニの呪術性から考古学まで突き詰めていくので、講義を拝聴しているだけで日数が過ぎてしまい、行動に移すことが出来なくなっては困るから、要約もほどほどに役割だけをうかがってみると「文献によれば剥製にしたワニを涙で浸し復活させることで、蛇の魔性を追い払うとある」など真剣なまなざしで答えるので、僕は頭のネジが一気に外れていくのを禁じ得なかった。
「当時は位の高い者らが数人で涙をしぼったと書かれているが、誰がほかに心当たりあればいいけれど、なさそうだからあんた一人で挑戦してみてくれないか。いいや、懐疑を抱く者、効能あらずと記されているからな、どうやらあんたしかいないんだ」
「僕だけですか、博士も一緒にやって下さいよ」
「わしはその間に仕上げをしなくてはならない。ワニはあくまで蛇女を追尾するだけで対等に戦うのは無理なようだ。つまりわしが蛇封じの特効薬を完成させるまでの撹乱だな」
「時間稼ぎでしょ」
僕は少々語気を強めたので博士は申し訳なさそうな目つきをしつつ、大蜘蛛作戦っていうのも思案したんだが、相当巨大な蜘蛛を育てないとすぐに食われてしまいだろうし、あんただって部屋からはみ出してしまうような蜘蛛は扱いにくいだろう、なんて言うものだから呆れながらもワニへ涙を注ぐことにした。昔は水槽に入れた剥製が埋まるほどの容量が必要とされたみたいだったが、博士いわく「時代が違う、蛇女もさぞかし息苦しいだろうよ、まあ三日ほど泣き続けてくれればいいよ、問題は量より質かも知れない」と独断に堕ちた。だが、こうなった限り古代エジプトやらの奇跡の片鱗でもいいからこの手にしてみたい。一役買うまえに遥かいにしえの文明に想いを馳せてしまい、僕はもう涙目になっていた。
「これを持っていきなさい。保湿効果のある特殊な素材で作っておいた。涙が枯れたら速やかに蓋を閉めるんだよ。おっと、鼻水とかよだれは禁物、純粋に涙だけを貯めてくれ」
家に帰り早速ワニを水槽に安置し、そのひからびた皮の連続体を濡らし始めた。面白いもので行為自体からくる感動とも陶酔ともいえない不思議なちからが涙腺をゆるめ、しまいにはポタポタと大粒になって落ち剥製のささくれから切れ目に浸透していった。
透明の水槽をのぞき込んで集中していると、ワニのすがたは横たえられた木の枝にも思え、僕の涙はさながら材木置き場に降り出した通り雨にも似て、土の匂いとはまた違ったものをわずかに香らせていく。緑を失った小枝が耳もとでざわめくのも侘しくて、嗅覚に酔っているばかりはいかず、この現実的な剥製のすがたを見つめれば、どこの水辺に棲みいたのだろうなどと、無惨にもはらわたをかき出された宿命が嘆かわしく、役者の気分で落涙していた情況が次第に、そう毛穴が開くよう生身からにじみ始め、くり抜かれた目玉の替わりにはめ込まれたビー玉みたいな義眼と視線が結ばれた頃には、僕はおいおいと声を上げて泣きはらしていた。
縦に線を引いてみる。それから分度器を使った感覚で横線を加える。たぶん縦線には共感できる、だけど横線は限りがないようで、ありったけの感傷を呼び寄せてもその端々はすぐにぼやけてしまい、甘美な涙の行方をかえって曖昧にさせている気がしてくる。長く続く列車の旅には情感も一緒に乗り込んでくれるのに、どうしてここでは、この水槽にだって縦、横、高さもあるのにそれぞれの線分に即さなのだろうか。列車は走るけど水槽は動かない、しかし限りがないのは剥製の居場所の方だ、なのに横線に沿って涙は流れない。
思考が役目の邪魔をしかけているのを薄々感じると、蛇女が哀れに思えて来た。きっと僕の憐憫など欲していないだろうが、嘘泣きに近い儀式だって形通りに決まれば少しは何かが伝わるかも知れない。最後に自分自身の愚かさに泣かされ、夜を迎えるまえに眼球は渇ききってしまった。水槽の底はおろかワニの背中を湿らすにも到底足りてない。そこからが大変だった。悲哀より馬鹿笑いの方が大量に落涙するのを知り、翌日には自分の要領の悪さにつくづく消沈しながらタマネギのみじん切りを眼のまわりに塗っては、包丁をとんとんいわせていた。
目薬だと不純物も混じってしまうけどタマネギの成分なら許してもらえるだろう。その甲斐あってワニの脇腹から背中にあたりになんとか水分が補給された。
そして三日目、風邪だってそれくらい寝込んだら大概は回復するものだ、剥製のワニにも魔法は通じるだろうか。もっとも途中から姑息な手段に転じたから魔法なんて高慢このうえないが。
でもこれだけはわかってもらえるとありがたい、タマネギのしみ方は尋常ではなかったし、三日間の儀式は一応無駄に終わらなかった。というのもワニが動きだしからだ。そっと持ち上げて床に放してやると、スタスタ歩きだし出口を探そうとしていたので、ドアを開けて「さあ、行ってこいよ」とほとんど熱病に冒されたときに発するような頼りない声をかけた。
ワニは少しだけ斜めに僕のほうに向かって体を曲げてから、どうしたことか玄関先にあった赤いスリッパを前足で履いて出ていった。
その先はL博士からの話しなので細々したことは説明できないけど、どうやらワニは蛇女を嗅ぎつけ立派に追跡を果たしたまではいいが、博士もちょうどその現場に立ち会い様子をうかがっていたところ、蛇女は物腰も優しげにしゃがみこんでワニの頭を撫でてやったそうだ。するとワニの奴、まるで猫みたいにころりと腹をだし四つ足もばたついかせていたというから、博士もさぞかし濃厚なめまいを覚えたことだろう。
ひとの噂もなんとやらでそれからしばらくすると蛇女の影を口にするものもいなくなり、L博士は奇跡に出会ったと感激のあまりすっかり足腰のちからが抜けてしまい、寝込んでしまった。
僕にとっても剥製が部屋から消えてなくなったのは事実だったから、まだ驚きは新鮮さを保ったままでいれる。この冬空が春を呼ぶまでの間、冷蔵庫の役目を果たしてくれればいい。


[262] 題名:蒼い絵 名前:コレクター 投稿日:2012年02月14日 (火) 01時19分

なだらかな山裾がぼんやり映りだされると夜の空気は流線になった。眼を凝らすまでもなく、木立から離れてしまった寂しげな枯れ葉が幽かに揺れているのがわかる。その先に静かなみずうみを見いだす予感も訪れて、葉ずれとさざ波が月影へささやき始める。しかし夜空を見上げることは抑制されていて、耳もとにかすめる微細な言葉は澄み渡り、風景が暮れてゆくのをどこか拒んでいるのだと感じてしまった。
月明かりで描かれた一枚の絵のまえで立ち止まっている。真夏の宵、路地まで浸透する夜気を見定めていた想い出がよぎれば、玄関先へ飛び出そうとした衝動も回帰し、背後に柱時計の鈍い音をともなって曲線で満たされた失意が呼び戻される。薄笑いの向こうに時間を知った。緞帳に閉ざされた世界は夢を開示しているから。
星降る麓が想像されたのか、絵の中央には異星人らしき姿がおぼろに現われており、虫の音を忘れた季節は何を補ったつもりだろう、妖怪変化の類いを土壌から放ち、寒々とした気分を空中分解させている。その分子があらためて結晶して異形を作りだした。白夜は味わったことがないけれど、夜の蒼さには憶えがある。
学年ごと撮られた生徒らの写真にはときに欠落した顔があった。御堂島くんが転校してしまう直前の記憶もまた静夫から消え去っていた。が、転入の際に受けた印象を含め、いくつかの場面場面は遠い波しぶきにも似て鮮明な輪郭を失っておらず、小窓から差し込む光線の明るみを想起させ、変じてはしなやかな動作の残像と化していた。
絹子がいなくなった春の陽気に好意を寄せようと努め、何度も瞬きをしてみたりしたこと、日々の流れをせき止めている魔の手に身震いしつつも眠気のような温もりを感じたこと、切実な思いに苛まれることなくこうして四季がカレンダー通りに過ぎゆき、目立たぬ希望はまだ息吹だからと直感し、頼りなさを知るまえに甘い味覚と仲好しであったことが、静夫の気持ちを柔らかく包みこんでいて、その日のひとこまを光らせてくれた。
教室内に起こったざわめきの比重が女子ばかりに傾いてないのを認めるのに抵抗はなかった。誰もが御堂島くんの容姿をまえにして瞳を輝かせている。彼は長身であり優雅に整った顔を持っていた。そして活発な性格で、運動神経もよく上級生みたいな雰囲気があり、実際大人びた冗談を言ったりするので、男子の数人が何日もしないうちに御堂島くんの髪型を真似、坊ちゃん刈りを七三に分けていた。物おじなどしない粋な転校生の影響はすぐさま他の生徒に働きかけ、静夫らの教室は新しい遊びを発見したときみたいな華やぎを漂わせていた。
不思議だったのはそんな憧れにもかかわらず彼の家を訪ねたものはひとりもいなかったことである。静夫にはそのわけがなんとなく分かるような気がした。御堂島くんが格好良すぎてみんな自分からは近づけない、妙な恥じらいが邪魔をしているからだと。性別に関係なく線引きされる領分の秘密を静夫はすでに学習していた。絹子の夢がまぼろしであればあるほどに現実の姿は借りものになって、必要以上の距離ができあがってしまいその間を縮めるために不本意な態度をしめしたり、思いがけない行動をとってしまうこともあったから、子供ごころに芽生える煩悶もやはり底なし沼に通じていて踏み出す一歩が慎重なのはもっともだと思っていた。
曇りのち晴れ、毎日の授業や掃除が単調ならば、不意に照りつけるまばゆい太陽は奇跡の要素を抱えているのだろうか、いや、少なくとも静夫と同級生ふたりが見た状景は、いにしえから変わらぬ光線の降りそそぐ下にあったはず、確かに些細なためらいが生じていたけれども、劇的な瞬間を形成するほど守護されてはいない。太陽は御堂島くんのうしろにもくっきりと影を焼きつけている。
「そう、ぼくらだけじゃない」
静夫のこころに反響した声は普段から当たりまえのように戯れている調子で放たれた。そして遊びの世界に飛び込んだ自覚が発生したときにはこっそりと魅惑の転校生のあとをつけていた。板塀に張りつきながら忍び足で進んではほくそ笑み、電柱の影にその身を隠せば、卑屈な感情などふるい落とされてしまい、その残滓は確かめるまでもなく逆立ちしていた好奇の粒子だと知れば、簡単に射幸心はあおられ日々の連鎖に絡みついてしまう。
「あれ、きみらどうしたんだい」
御堂島くんの驚きに嫌みがないのを受け止めると、静夫は腹の底にしまっておく笑いを我慢できず「ぼくもこいつとこも家が同じところだからさ」いかにも取ってつけたような言葉でにごし破顔した。
「あっそうなの、ぼくのところはこの先を曲がったらすぐ」そう言ってから怪訝な表情に移ることなくま「寄っていかない、きみたちが始めての訪問者だよ」と、相変わらず大人びた口調で誘いを向けてくれたので、静夫らふたりは可笑しさが別種の気分に運ばれていくのを確認する顔つきで見合った。
喜びの頂点らしき山稜にいつも容易く登れるとは限らない。御堂島くんの正確な顔が思い出せない以上、冷ややかな定理のもと欲望の仮住まいを覗いてしまった虚脱を覚え、その先の光景にたどり着けず、裸体をまえにした馴れ合いと同じ時間に被さっているような気がする。
前戯から**にいたる興奮と混同するつもりではないが、この絵のなかに彷徨っている異形が予期していた通り歩きだしたから、夜は塗りつぶされていないのだろう。
御堂島くんには中学か高校か忘れたけど姉がひとりいた。その顔も浮かんでこないが、姉と弟に交じり庭でバトミントンをしていたら物の怪にでも取り憑かれたふうに虚空へ眼を泳がしたまま返答もしなくなったことがあった。彼女はいったい何を見ていたのか。


[261] 題名:ミイラ男の恋 名前:コレクター 投稿日:2012年02月13日 (月) 00時00分

そりゃ夜目にも鮮烈だわな、白黒放送の頃テレビで観たおぼえがあるよ。いいや日本のドラマだった。この間DVDボックスが発売されてたぞ。それより「事件記者コルチャック」全20話、ミイラ男もいいが、おれはあっちが気になって仕方ないなあ。ホラードラマの金字塔だね、70年代のアメリカの雰囲気もよく出ていてさ、プレミアになる前に買っておくべきか思案中だ。ああ、すまない、フィクションじゃなかったんだっけ、でもな薮から棒にミイラ男を見たんだって言われてすんなり聞き入れてくれる奴なんていないよな。分かる分かるとも、おまえは十分に冷静だしいつもの態度を保っている、目も泳いでいないし妙な汗もかいてない、鼻息は少々荒いけど。いいんだ、落ち着いてゆっくり聞くつもりでいるから心配するなよ。悪いやっぱりおれの方が動揺しているようだ、おまえの口ぶりがあんまりまともなもんだから、そう正直なところこういうことになる。幻覚が生じているのならそれなりの対処が必要だって、ミイラ男よりもおまえの、そのつまりあり得もしないロマンだな、ファンタジーでもいい、ああ、違う違う戦慄だった、脳内だけに抑えておきたいんだろうけどそうはいかない、何故なら現実におまえはミイラ男に遭遇し誰にも相談できず悩んだあげくにおれのところにやって来た。そこまではいい、話しの腰を折る気は毛頭ないけど、問題は現象として共有可能かってことに尽きるはずだろ、だからおれはまずおまえの頭を揺すってみたいわけだ、いいや、この手で揺するんじゃなく、なるだけ時間を気にせずひとつひとつ解明していこうっていうのさ。そこで当然疑惑としておれは幻覚路線からスタートさせたんだよ、その方がおまえも割り切って話ができるだろう、フィクションを前提にするよりかはよっぽど誠意があると思うんだけど、自分でいうものなんだがね。ああ、ほんとにおまえは平常心のかたまりみたいだよ、これでいいんだな、おれの気持ちも汲んでくれるって、疑惑を打破するためにここへ来たっていうわけだ、そうそれでいこう、理解してるじゃないか自分のこと、幻覚や妄想でない証拠を見せるけどって、その件はもう少しあとにしてもらっていいか、何度も言うけど一からほぐして行きたいんだよ。三ヶ月まえなんだな、そのミイラ男が現われたというのは。それから毎日だと、朝晩にかかわりなくとにかく出てくるんだと、そして日増しに遭遇率が増えてくるんだったな、すまないちゃんと聞いていたはずだった、遭遇なんかでなく、おまえに会いに来るんだったな、だから必然と言い切れるわけだ。怖いの怖くないのを通り越してしまったってとこからもう一回質問していいかい、さっきの話しじゃお化けや幽霊を語る口調には感じないんだよ、おまえはどうしてもロマンを求めているとしか思えなくなってしまう、そうだろう、今では精霊に導かれているなんて言い方、まだまだ接点が見えてこないんだよ。仮にだ、おれがミイラ男を見たとしよう、おそらくな、おれは早々に布団にもぐってしばらく部屋から出ないようにする、あっ、家の中まで入り込んでいるんだったか、それじゃお手上げだわ。まあいい、これでひとつ態度というか感情移入が見えてきたようじゃない。それはこうだ、すでにおまえはミイラ男に恐怖心を抱いてなく、不安定だとは表現できない微妙な心模様に揺れている、ああ、いいねえ、頭を揺らすまでもなくもう心に移転したってことだろう。だったら次は覚悟の問題が待っている、つまりこれからもミイラ男とつき合ってやるのかって意味さ。たとえが飛躍し過ぎかも知れんけど恋人との関係に置き換えてみればどうかな、おまえの心がけ次第ですべては決定される方向に近づいているではないか、ミイラ男が嫌じゃないなら別に悩む必要もないし、疑惑を解剖するのも夢がないかもな、えっ何だってそんなのはもう解決済みだって、どういうことだよそれ、はあっ、おまえらの仲はまさに恋愛に還元できる部分もあるって言うんだな。ならおれもこう捨てゼリフを吐いてやるよ、勝手にしやがれってな。どう違うんだい、勝手が違うなんてしゃれを言うなよ、やっぱり夜中のミイラは怖いってことなのか、そう解釈していいんだな、わかったよ、おれはおまえと恋愛談義するきはさらさらないんだ、そりゃ確かにひとつずつってたいそうなことを言ったよ、だがなミイラに昼も夜もあるとは信じがたいし、ああ、別に無理しなくたって想像くらい働かせれるさ、こうだろう、ミイラは昼間は男だけど夜になれば女になるって、それでおまえは友情をとるか欲情をとるかで煩悶している、はっきり言おう、ミイラの肉体は実は両性具有であのぐるぐる巻きの包帯をほどいたときにはもう虜になっていたんだ。ミイラとりがミイラなんて決して口にしないつもりだったが、おれまでそこに加わってしまいそうだからはっきりさせておく。ミイラ男には名前があるな、いや隠したってだめだ、おれには段々と読めてきたぞ、そのまえにおまえから明解な説明をもらおう、ミイラは女だな。そうか、、、よく告白してくれた、いいんだ、おれはおまえを追い込む気なんかまったくいないよ、当てずっぽうな意見も許して欲しい、しかしおまえの頑なな姿勢の裏までは見通せなかった。で、どうするこれから、相手は記憶喪失なんだろ、打ちどころが悪かったんだろうよ。それにしてもひき逃げされた怪我人をかくまうっていうか、引き取るっていうのもどんなもんだろう。確かに病院の側の信号で見かけたってこと信じるよ、でも全身包帯巻きだろう、すぐさま病院なり警察に報告すべきじゃなかったのか、なんで車に乗せたりしたんだ、下手すりゃ誘拐だぞ、いやもうそれは、、、今はおまえを責めたりしたくない、で、アパートに連れて来たんだな。えっ、告白はまだあるって、何だよ一気にバッーと喋ろよ、ああ、すまない、いいんだ落ち着いてなそう約束した。包帯は全身ではない頭部から顔面にかけてだな、いいからあわてるな、それで最初は性別も見分けれなかった、胸のふくらみが目立たないうえに怪我のせい声が出さないのでてっきり男だと思ってしまった、そしてどうやら記憶も曖昧みたいだったからとりあえず車に乗せ様子をうかがったんだな。でもおまえは良識を持ってそのまま病院に向かおうとしたわけだ、すると自由の利く両腕がうしろからまわって来て首を絞め始めたんで、驚いて急停車しその哀願から何かを察知したと、そのときもまだ性別を見極められなかったけど、手話みたいな素振りがあまりに懸命で憐れみが感じられたから怪我人の意向に即してしまったということか。だけど、どうなんだおまえの性格はよく知ってる、一見気弱そうだけど優しくて結構意志が堅い、あながち間違ってはいないだろう。それでも合点がいかんな、相手が女だと判明したからずるずると引き延してしまったとは到底考えられないね、おまえの気性からして最良の方策を選ぶはずじゃないか。えっ、これが選択だったとは意味が分からん、もう少し補足してくれよ。野暮なことは飛ばしていい、ああ、ひとつの部屋に男女が昼夜をともにすればってことだ、そんな発端など今はいい、それよりも大事なのはおまえのとった行為を分かりやすくおれに説明することだよ。なるほど性分ねえ、その通りだと言い切るのか、確かに意志が堅い、まさか一目惚れでもあるまい、えっ、そうか、、、そうだったのか、おれとしたことがそこを見落としてしたんだな、さっきの話しで勘づくべきだった、首絞めか。あれからミイラ男になりきってもらい背後から不意に首を絞められるのが刺激になり、そしてその快感から逃れられなくなってしまったと。それもまあ結局発端だ、で、女は記憶を翌日には取り戻していたんだな、そして自分がひき逃げされた場所をおまえに聞かせた、おまえは予期していた最悪の場面に見事立たされてしまい、快感だと信じようと必死で努めた被虐的行為の正体に愕然となり、真実を打ちあけようとしたが、どうしたことか女は何とも形容しがたい笑いを浮かべるだけでおまえの犯罪をなじろうとはしなかった。そのかわりに包帯をとりながら然してひどくもない傷口と素顔をさらけだし、身のうえ話しを長々とおまえに語ったんだな。いいんだ、泣けてくるよおれだって、女の不幸な生い立ちから始まって現在の生活ぶりに至ったあたりですでに決心がついていたんだろう。ミイラもそれを望んでいた、理由はもういいよ、それよりおまえの身の振り方を心配している。まるでサスペンス劇場で放映されるみたいな展開じゃないか、テレビでは決まって悲劇に結ばれるけど、おれはそれこそフィクションだと思っているんだ、だからおまえの意志が今ここで問われるということは、実は問いかけでとかじゃなくて字義どおり意志そのものさ。気が合うんだろミイラ女と、向こうも承知しているからだろ、おまえはこの三ヶ月の間悩みに悩んだ、そして結婚相手として了解したいんだろ、悲劇は転じて福となる、しかしおまえの良心の呵責はまだまだくすぶっていて疑心暗鬼に堕ちないとは言い切れない。そうかミイラ女は案外いい体してるのか、野暮は抜きってことだったけど、どうやらおれは根本的な過ちを犯していたな、そうだともひき逃げは立派な犯罪だし、いくら女が許したとしても今後の生活に影を落とし続けるのは避けられないだろう、えっ、何だって、、、そんな馬鹿はおれが許さんよ、今度はおまえがミイラ男に扮して女に轢いてもらうだと、それであいこにでもなると考えているのか、気持ちは分かる、分かるけどそれでは解決にならない、、、そうだった、おれに相談だったな、仕方ない、申し訳ないがあくまでひとごとの域は出ない発案だ、所詮はひとごとでしかない、でもな自分では踏ん切れないことを他人が受け入れる場合だったあると思う。いいか、こういうのはどうだろう、おまえとミイラ女は嫌になるまでとにかく一緒に過ごす、それだけだ。あとミイラとりは、、、すまん、これは蛇足だったな。




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