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[314] 題名:妖婆伝〜その三十四 名前:コレクター 投稿日:2012年11月12日 (月) 03時38分

打ち解けるもなにもひたすら圧倒され、さながら夢のなかにあって夢なることを自覚しているようで、もどかしくて仕方なく、だが、場面を早送りしてしまうふうな紙芝居の軽佻な加減には頷けず、やはり呆気にとられたまま、阿可女の意見を傾聴しているしか術がない。小夢のこころの片隅に巣食っている恋情が思わぬ成果をあげたからだろうし、寝起きに鏡を当てられた気恥ずかしさも手伝って、愛しき饒舌と受けとめるしかなかった。更にはその饒舌のうちにあるやも知れない疑いをはさむ余地など持ち合わせようがなく、ましてや随門師の計らいとなれば一層のこと、ふたりして交わしたであろう遣り取りは厳命に値する。
小夢の狼狽は阿可女が話した辛辣なことがらによってではなく、いよいよもってただならぬ情況が押し寄せて来よう喜びを含んでいるが為、あまりに急激な勢いに呑まれ、諸手を挙げる素直さを失ってしまったからであった。古次との契りといっても半ばおのれから言い出したようなもの、さほど理解に苦しむわけでも嫌悪するわけでもない、だが、まるで伝令のごとく努めを果たした仕草でさっと身をひるがえす前に発した言葉に、ようやく現実味を感じ、同時に気が遠くなりかけたのだった。
「直後にお師匠さまより呼び出しがありましょう、わたしの言ったことに相違ないかは、あなた自らがよく思案されるべきですぞ」
うしろすがたを見送る目線は張りつめた糸となって小夢の胸に結ばれていたものの、いつも知った阿可女そのひとではない異様な雰囲気があり、残していった肝心の忠告は空を舞ったまま中々、耳の奥に伝わらなかった。
考えをめぐらせかけた矢先に今度はの毛子がいたって朗らかな顔で現われ「小夢さん、お師匠さまがお呼びですよ、なんでしょうねえ、いいことかしらねえ」と、無邪気な好奇心で問いかけてきた。さすがに笑顔で応えるのは難しく、我ながら重苦しい表情を見せていると覚えずにはいられなかった。が、の毛子も心得ているのか、それ以上立ち入らない。そして阿可女の身のこなしとは別の素早さで視界より消え去った。例の大部屋だと知らされ、ほとんど逡巡も抵抗もなく足取りが勝手なのに変に感心している自分が不思議だったので、ふすまのまえに佇み勢いのある声が出たことも平気に思えた。
「お呼びでございますか、小夢です」
「入りなさい」
押し殺したというより、病魔に冒されたと実感できる衰えた余韻がある。ふすまに手をかけた瞬間、病床を見舞うあの悲哀と怯えが合わさったふうな一途を願いながら、実際には四方に情感が飛び散ってしまう混乱を招いており、またしても現実味がすっと遠のき心構えを逸したかけたが、ここに来て阿可女の言がこだまとなって戻ったので緊張は健全さをよみがえらせた。
「まあ、座りなさいといいたいところだが、ここではいけない、さあ、こっちへ、わしについて来なさい」
そう随門師から聞かされても小夢は一向に怪訝な顔色を示さなかった。むしろそれが当たりまえのように思えたのは、別段おかしくない、阿可女のあの一言がすでに予備の知恵となって、これから始まるであろう難問に適切な居場所を授けたのだ。一筋縄にはいきそうもない、、、肝を据えた心持ちまでに達していなかたったが、運命の別れ道は案外こうした情況で展開するものだ、深刻であるべきなのに、どこか謎めいた秘密を待ち受けている不遜な姿勢、苦悶を振り返っている平常心、覚悟という文字がさほど深みを刻んでいないという、どうにも安直な考え、そうした気持ちがちょうど治りかけた傷口を塞ぐかさぶたとなって微妙な痛みを準備していた。
随門師は期待を裏切らず、わくわくするほど遊戯じみた、それは忍者屋敷を想起させる仕掛けをたどる歩調で、まさに抜け壁とか、床の間返しから地下への梯子とか、行き着いた場は茶室そのもの、ここなら誰にも盗み聞きされるおそれはない、師は至極平然たる顔つきで「どうじゃ、ここなら安心、ごん随にさえ教えておらん」その割りにはひっそりした声色に傾きながらも老衰とは無縁の、先天的に秘められた響きであり、抑えに抑えられた口ぶりであった。で、余計に小夢の動悸が高まったのは想像に難くない、事実、その胸中には怯えを忘れた奇妙なぬくもりを感じていて、背筋や肩の辺りはぞくぞくする相反する冷感だった。
「さきほど阿可女がそなたに言うたであろう、古次との交わりをじゃ。いいか、手短かに話すぞ、あまりときはない、急がねばならん、阿可女のやつ遂に談判に来おったわ、それはそなたも耳にした通り、、、」
ここで随門師は黙りこんでしまったので小夢は虚を衝かれたのだが、これは探りを入れていると思いなし、あとを受けつぐ要領で語らいに流れる心情で、つい今しがたの実情を師に説明した。すると渋面に花が咲いたふうな笑顔を見せ、頷きながらこう言った。
「左様じゃ、一言も誤りはない、だがこれはあやつの策謀、よいか、あの兄妹を引き取るにあたってわしはそなたも知る公暗和尚よりあることを付け加えられた。小夢よ、古次からも色々と過去の身の上話しを引き出したであろう、どうだ、そなた信じるか、古次のことを」
「はい、そう信じて来ました、大変な不幸な境遇であったのです。同情もしております。そのうえで、、、いえ、そうなのです、わたしは古次さんを裏切ろうとしています。すべて阿可女さんはご存じでございました」
「なら尋ねるが、阿可女はそなたに如何様な情を抱いておろう」
「そ、それは、、、」
「どうした、分からぬのか、いや、別にかまわん、分からん方がよい。とにかくわしの計らいと阿可女の思惑は一致しておるし、困ったことなどでない。しかし、あやつは動きだしたのじゃ、このわしが衰弱し始めたのを機にな。この際だから包み隠しなく伝えよう、古次を適うものなら跡継ぎと口にしたのはわしなりの保身であり企てに他ならん。わしは皆が認めるようごん随を後嗣とする、ただし婿を取らせる、年齢など不問じゃ、いいか、ようようその婿が選定された、誰だと思う、そなたの子息じゃ」
これには小夢は「あっ」と叫び声をあげてしまい、まじまじ随門師の顔を射るよう見つめたまま、身をこわばらせ、その癖一刻も早くさきを促す視線に熱く変化していった。
「さるやんごとないお方とそなたの間に生まれた寵児」
再度、小夢の悲鳴にも匹敵しうる声が茶室に反響する。
「なんと、なんと申されました、なんと、、、」
「古次ら兄妹をあずかってのち、わしは公暗和尚からとても興味深い話しをされた。そなたが屋敷内で様々な問題を抱える以前よりじゃ、そもそも何故あの屋敷に嫁いだかそなたは知らぬ。そして如何なる伝手でここに参ったかもな。よいか、そなたの正体はとうに判明しておる。そこでじゃ、公暗和尚に頼みこんだのはこのわしである、よく聞くがいい。疑念とも不思議ともそれほどに感じなかったのも仕方ない、古次はここに着くなり高熱を発し、三日三晩意識朦朧であった。ごん随の言うに、あの子は妙はうわごとを口走っております、なんでも、自分は蛇であり、ただの蛇でない、ちゃんと名もある、もろ助という、わしは半信半疑ながら様子をうかがっておるとやはりそのようなことうわごとを確かに喋っておる。が、熱に冒された朦朧状態から出た妄念、格別気には留めなんだ。そう何年も忘れておったわ、ところがそなたの伝聞があの記憶を呼び覚まさせた、高貴な家柄に嫁いでひとり子息を授かったまではよし、同じくそなたは熱病に苦しみ、そのあげくに発狂した。やんごとなきお方はそなたの身を離したくなかったのだが、そこは世間体、またまた面目よ、子息はそのまま成育し、そなたは公暗が擁する結社、陰陽道やら密教を研鑽する学問所やら、あらゆる方面から調べ尽くされやがて放免、いや、なに、あの屋敷に嫁いだという次第じゃ。これで分かろう、わしは小夢のすべてを判じておるゆえに古次が怪しくなり、そうなればもちろん阿可女にも不審がわき起こる。で、この事態じゃ、もう少し詳しく話そう」


[313] 題名:妖婆伝〜その三十三 名前:コレクター 投稿日:2012年11月11日 (日) 22時07分

「小夢さん、じっとわたしの目を見つめていましたね」
衝撃の芸道披露から数日経ったある朝、阿可女はかつてないしめやかな声色で尋ねてきた。
「はい、それは、、、もう、怖くて怖くて仕方ありませんでしから」
小夢をどぎまぎさせたのは、阿可女の問いかけにありながらも、恋着にこだわり続けた実りをようやく間近にした気恥ずかしさであった。初心な乙女などではあるまいが、古次との共感も偽善のうえに呼び覚ましているような負い目が邪魔をしている、そうまさしく邪魔なのであり、阿可女を慕う限り双子の兄は小夢の視界から消え去るべきなのだ。ひいてはごん随女史に少々潤色しながら打ち明けた片恋、穿つも穿たないもとうに阿可女に知らされているとしたら、、、
「無理もありません、あなたは蚊帳の外、わたしらの芸道には無縁でありましたから、さぞかし驚いたでしょうに」
確かにしめやかな声であるけれど、水菓子の涼し気な見た目にときに誤りがあるごとく、微かな苦みが口辺に陰っている。それにまなざしも何処となく妖しく、思わせぶりとまではいかないが、これも忸怩たる思いのゆえか。が、内心を見透かされている心許なさは慮外な反応に出た。
「ええ、そうですとも、しかし、わたしは阿可女さんの顔ばかり気になって、どう言っていいのでしょう、それが怖くて、、、」
この刹那、相手があらわにした表情を小夢は見逃さなかった。さっと朱が差したかに映ったのは思い過ごしか、けれども妖し気な目もとにあたかも針の先が閃いたよう見えた途端、急激に額から頬にかけ青ざめてしまったのだが、気丈な顔つきに正そうとする意思が直ちに普段の阿可女へ立ち戻らせたのだった。
うっかり本音を滑らしてしまった小夢は胸騒ぎを覚え、意想外の顔色を受け止めるより自分の動揺を鎮める方にすっかり気をとられる始末、増々縮こまってしまう。
短い間にかかわらず、こうなれば阿可女は分があるのをすぐに察知したのか「あら、どうしてです。あなたはお師匠さまの言いつけを聞きませんでしたの。芸道はわたしらが披露したに違いありませんけど、そうですもの、裸になったりして、けれど花を生けたのはお師匠さまなのです。それが流派、どうしてわたしばかり見つめていたのでしょうね」と、いかにも不思議な面持ちに加え、柔らかな、が、奇麗な花には棘があるを地でいかんばかりの冷徹な響きを忘れはしない。
これには返す言葉を的確に紡げなかった。そこで小夢はうなぎの心性を呼び返そうとおなごの粉飾をかなぐり捨て、いっそのこと情欲むきだしの体当たりで向かおうと考えてみた。しかし、小夢になりきってしまったのが仇になり、というのも異性として阿可女を欲しているのやら、同性として恋慕してのやら、どうにも明快な線引きが出来なくなっているおのれに新鮮な狼狽を覚えてしまい、とても以前のようにぎらついた肉欲に突き動かされる様子がなかった。これほどまで身もこころも変わり果ててしまったのだろうか。愛しの阿可女と夢見るごとく、あるいは熱病に冒されたごとくに、さながら念仏を唱えるよう胸に言い聞かせていたのは、情愛とは似て異なる何か別種の情念だったのでは。確かに悪夢をすげ替えたまでは意識の為せる技であったろうし、奇跡のからくりを看破したのも得心がいったはずだ。とはいえ、奇跡を了解し、そこに顕現する観世音菩薩の幻影にすがった以上、恋は恋であり、肉欲は肉欲のまま不変であってもらいたい、念には念を入れて氷の世界にしまいこんだのも久遠を願うが一心、嘘で固めたのはおのれの脆弱な意志であったか、、、
すっかりうなだれた小夢にさして大きな罰はくだらなかった。自業自得を覚えたものを叱責するのはこころではない、素晴らしく整然とした損得感情だけである。ところがこの場合の小夢に引き渡されたものは果たしてどう形容すればいいのだろう。小夢はただただ聞き入るしかなかった。なにせ魅惑と悲願と困惑が突然降ってわいて来たのだから。
「芸道を知ったのだから、あなたはもうわたしと一心同体、わかりますか、お師匠さまのご容態はあまり芳しくありません。これは心得ておりますね、心得ついでに、ごん随さまからお話しはうかがいましたよ、あらあら、わたしをだしにして困ったひとだこと。兄もどうやらあなたを好いているみたいです、いえ、直に尋ねたり、本人から相談されたわけではありません。双子の宿業でしょうか、今ではほとんど言葉を交わすこともなくなりましたけど、なに、意思疎通はお手のもの、わたしの考えは兄の考え、そこでいかなもでしょう、流派を見聞した小夢さんならもう理解しましたね。そうです、わたしら四人はもはや殿方を必要と致しません、あの秘技がすべての悦楽をあたえてくれるのです。けれど兄は違います、仔細はすでに承知されているはず、兄は女人を知りません、このわたしと結ばれる夢だけに生きているのです。お師匠さまは慧眼をお持ちでしたから、兄妹の血を越えた情を見極め、そのうえで最善の措置をとられました。承知して下さいますね、兄の望みを叶えてあげて欲しいのです、こんなお願いが出来るのも実はお師匠さまの計らいでもあるからなの、先日わたしを呼びこう申されたました。
わしはこれまでそなたら兄妹を鉄の掟で縛りつけてきた、そのわけは今さら言うまでもない、だがな、寿命を感じる昨今、果たして掟だけがひとの世の理であったのか、わしは善かれと裁断した、放っておけばきっとおぬしら兄妹は身を滅ぼすであろう、さすればこの家門に傷もつこう、つまるところは面目じゃ。かつておぬしらが背負わされた重圧じゃ、家元はごん随に譲るとして、これで肩の荷がおりるというものかのう、なら面目など打ち捨てたいのだが、それでは流派に顔向けが出来ん、ごん随とて後々まで精進せねばならぬ身、わしのお情けだけではどうしょうもない。おぬしらは色の道を遥かに越えた域に達しておる、が、我ら流派は男子禁制、嫡子のみが代々受け継ぐしきたりよ、わしは元来変哲な人間でのう、訳あって生涯独り身を通したいわば謀反者よ、先代の厳命に逆らうもしぶしぶ了承した挙げ句の妾腹にも恵まれなんだ、子種なしのかたわと罵られもした。世襲などという決まり事さえなければ、わしは喜んで古次に跡目を継いでもらいのじゃ。しかしこればかりは、、、
お師匠さまはそう長嘆されてから、こうおっしゃりました。小夢にはまだ秘技を授けておらん、いうなれば生娘よなあ、どうだろう、古次と契りを交わさせてみるに、おぬしへの愛着を断ち切るのは無理でも、彼奴とて男、おぬしも薄々勘づいておるであろう。わしもな幾度となくあの二人が仲睦まじ気に立ち話をしておるのを見かけたわ、その会話まで筒抜けじゃ、地獄耳だけはまだまだ達者だのう。
そこでわたしはこう申し上げたのです。お師匠さま、さればよき計らい、実は小夢には何か底知れぬところがありまして、兄を好いておるなど方便に過ぎません、このわたしに懸想しているらしいのでございます。ことの次第は詳らかではありませんが、不穏な企みとも思えません。いずれは秘技をまっとうする宿命、いっそ兄に捧げるのが名案でありましょう。それから大変恐れ入りますが、その件につきまして、ひとつお聞き入れしていただきたいことがございます。他でもありません、小夢が本当に謀りごとを秘めておらぬか、ここは禁令を是非とも解いていただき、兄にその旨を伝え真意をしかと見極めたいのです。
どうです、小夢さん、こんな敵の懐具合、いいえ、家元の名誉にかけてもあなたに承服してもらわないといけません。さあ、これでわたしとあなたはすっかり打ち解けましたね」


[312] 題名:妖婆伝〜その三十二 名前:コレクター 投稿日:2012年11月05日 (月) 20時17分

流派の秘技は極めて厳かな気配を要請された。何故というにこの情景がかりに茶屋の広間で催されたなら、大方の者は低俗な趣向と半ば嘲りをもって喝采し囃し立てはするものの、決して気高い芸道とは認めたりはしないと思われるからである。小夢にしてみても、緊迫を背負った特異な状況であったから、不意をつかれたような、異変が生じ乱心に至ったような、茫然自失のさなかに放り込まれて、四囲の出来事に立ち会うというより、自身の狂乱を鎮めているみたいな錯誤を発生させたのだった。そうしなくては、村八分の憂き目に合ってしまいかねない戦慄に覆われて仕方なく、恐怖の感情とは異なる沈着なまなざしが予想だにしなかった光景と向き合うことによって、そして何より阿可女への偽装じみた情愛がこの場を喜劇とも悲劇ともつかぬ、異形の空間に昇華してくれていた。小夢の目線は宙を泳ぎながらも、ある一点に収斂しようと努めていたのだ。
信じ難くも信じざるを得ない、愛なのか、取り繕いなのか、ただの邪心なのか、めぐりめぐって行き着いた土地はこの港町であったが、当人しか握りしめていない錠前の鍵はどこへ隠すべきなのだろう、煩悶の末に選んだのは愛妾の身にやつしてでも、屋敷内の修羅から逃げだしたい一念であったし、その修羅に加担していた消すことの出来ない事実は終生つきまとうであろう、所詮は疎ましさから遠のきたいだけ、生命保持は抜かりなく心得ていた。そんな自嘲めいた考えも新鮮なひかりと共に放たれると、都合のよい具合に鍵の隠し場所は目がくらんだのを幸いに、等閑に付されて更なる延期、突き詰めるべきものはそつなく風化されよう。
小夢の眼前に展開する珍妙な芸に半畳を入れるような無粋なまねは許されない。瞬時にして悟ってしまったのだ。直感でひも解いた色欲がこうも鮮やかに成し遂げられるとは、、、阿可女の顔つきは間違いなく柔和であったし、より深い情を胸に焼きつかせた。いや、そう感じ入る必要に促されたともいえるだろう。どちらにせよ、小夢の執心に変わりはなかった。あの時点では想像にも及ばなかったが、いつかは我が身に降り掛って来るに違いない家元の教えに身震いを覚える反面、引き受けてしまうことの葛藤は生じておらず、うなぎ魂を讃えてやまない傲岸な痴情がぬるりを顔を見せていた。あとは呻吟の末に派生する泣き疲れた心情をいたわるふうな薄笑いにまかせ、というものそれは鍵の置き場の見失ってみるに等しくて、至極まっとうな流れであると思われたからである。川の流れに罪などあり得ないように。
日々を一緒に過ごしたおなごらが裸になった、揃いも揃って、これは演芸かや、、、下女扱いに不満を拭いきれなかった憎悪に寄り添った情念は、奇妙な転倒をまえにして安楽な悦びに浸りかけている。わしが姫さまじゃ、もとはお人形さまだから、そしておまえらは女中に過ぎんのだ、何と愉快な見世物であろう、、、小夢のこころに悪心が芽生えたとして、それは致し方ない、あまりの事態に収拾がつかない分なす術は開き直りにも似た安逸な心構えに落ち着くしかなかったのだから。
風変わりな秘技は忘れかけていた生花の差し入れによって一段と風趣に富んだ。別段すがたを包み隠す必要もなかろう、劇中における黒子の役割に徹したまで、古次の両手に束ねられた生花がふすまの奥から届けられる。小夢は古次をこのときほど健気に思えた試しはなかった。梅に菊に寒椿、水仙あり、名も知らぬ草花あり、ただし以外や数は少ない。やや小首を傾げた程度で済ましたのは正解であった。訝しがるよりか、華麗なる秘技に瞬きする間を惜しむのはすぐさきのことだったからである。一方、随門師といえば悠揚と構えたまま微動だにせず、さながら熱い茶を冷ましているような自若の境地にあった。
さあ、空想の翼さえたどり着けぬ芸当が家元の鎮座に奉られる様相で開始された。内弟子たちはまるで武術が編み出した技のごとく素早く一斉に畳へ伏せたかと思うと、各自あたまを縦横にごん随との毛子が縦、白糸と阿可女が横に組んで両の腕は脇にしっかり添えられ、ちょうど十字の形をなし、ほぼ髪をひっつけたままうつ伏せになった。それは鑑賞に値する凄艶なすがたで官能を漂わせていた、現にそう裏付ける為に四人は息を殺し沈黙に身を捧げ、一糸まとわぬ裸身から香り立つであろう肉感を棺桶に封じたような蕭条たる生命に殉じている。だがを模した形状は形状であることにより却ってその生々しさを嫌がうえにも匂わせ、者を演じる意想は虚言に対する反撥を招く勢いと同じで、強烈なまでのなまめかしさを振りまいたのだった。おそらく身動きを認めさせぬこの姿態は相応の効果を引き起こし、さぞかしこれまでの客人を悩ませたであろう。それほど内弟子たちの異様な伏臥は堂に入っており、ひかりは沈黙の彼方に吸い込まれていた。
やがておもむろに師匠が腰を上げたとき、小夢ははたと膝を打った。先程ごん随女史は、わたしらが花と大言したけど、どうにも大雑把に聞こえる、四人の裸体は花であると同時に器でなかろうか。尋常の花器などでない、それはとてつなく淫靡であり醜猥であり、例えようもなく秀麗に違いあるまい。年齢こそまばらだが見よ皆のあの腰つきを、脇腹から優雅に下ったくびれを、それもひとえに至上の器と化す臀部を飾りたてるがゆえ、かくしゃくとした足取りで手にした菊の枝葉は今まさに生けられようとしている。
小夢は目を見開いた。これが家元の秘技、数年もの間いっこうに授けられる素振りさえなかった暗黒の極意、随門流すなわち肛門生け花、、、それぞれの尻に一輪差しの清さ、ああ、何という美しさ、手折られた菊や梅の花弁が急激に色鮮やかに染まるのは気の迷いで済まされるのか。しばし玩味のあと尻に吹きつけられるは焼酎、消毒なるか、はたまた浄めなるか、それはさて置き、糞尿をひりだすとなれば、肛門のみとは片手落ちなのでは、、、小夢は動悸が高まるなか女陰の役割がおぼろげながらよぎっていった。だがそれはまだ目の当たりにしておらず、確証を得る猶予が快楽に連なると見込んで十文字に伏せた内弟子を尊敬の念で凝視する。ほぼ推測に誤りはなかった、ごん随女史を筆頭におなごの面には悦びが溢れ出ているではないか。わしが悶々とした日を抑えこんでいるなか、四人の愛弟子は華道の名分において斯様な快感を享受しておったということ、芸道そく官能であったわけじゃ、、、歯ぎしりに身悶えしつつ、悲境であるとか、貧乏くじを引いたなどとは考えず、ここに臨席している紛れもない現実に夢を託し、それはそっくりそのまま肛門の卑猥が華やぎに転じる様態へと受けつがれた。気ままでは成立しない闇の穴との触れあい、生花とはいえせる生もの、だが肛門は異なる、隠微に排泄物と関わりながら栄養素の残滓を愛でたりせず、憎みもせず、ひたすら生命体の器官に徹しているに過ぎない。随門流はよくぞこの不毛な肉の躍動に着目したものよ、花器としてこれほどの逸品はあるまい、、、小夢のこころは阿可女のとろんとした目もとを引き寄せ、排泄物の臭気を芳しさに移し替えようと躍起になった。つまるところ観念が優先されるべきなのだ。しかし臭いものは臭いのであろう、家元の神髄は如何に、、、


[311] 題名:妖婆伝〜その三十一 名前:コレクター 投稿日:2012年11月05日 (月) 18時13分

小夢にとって阿可女はひとつの奇跡だった。望みが成就されるから奇跡とは限らない。村から逃れ、行く末を半ば放擲しつつも、わらにもすがる念いが沈みこみそうで浮遊していたのは、ひとえに命乞いに他ならず、それは宵待ちを欲する暗き願望に支えられ、漆黒の気配に仄明るく灯った顔を待ちわびる、出会うべくして出会った夜に透ける微笑であった。随門師に対する恐懼が何より先行される情景を塗りつぶしていたとするなら、門前に佇んでいた阿可女の風姿は片隅に描かれていよう、ほんのりした色彩である。
思いめぐらせるまでもなく、闇夜の灯明が神仏に限りなく近かったことは否めず、小夢の怖れは極寒の地で一気に凍結してしまう危うさに支配されていたのだが、本能に働きかけてくる情動は、悪夢を見事に恋心にすり替えてしまったのであろう、そうでも思わないことには一目惚れを成り立たせている謂われを何処に持ち込んでよいのやら、迷いにも終着があると信じるべきは、偽善者たる、そして高慢で不憫な心情にもっとも適しているに違いなかった。愛の不毛に嘆くより、不毛の地平を夢見る方が素晴らしいと感じたからである。
小夢の場合、危うさと居並びながらも一線を画する氷結がもたらされたので、今度は腐敗をせき止める遺体の側から見上げるような視線が、氷の世界に絶対の信頼を寄せさせた。不変の安寧は冷たいこころが長い年月をかけて溶けだしてゆくような、いわば寿命に即した現実味を会得し、あらぬ不安はなおざりにしたまま前途を切り開いた。足もとをずっと掬われ続けているよりかは、宙にぶら下がったひもに手をかけ、なおかつその手応えまで夢想することで実際の居場所を確かめたのであり、同時に心模様にも彩りを加えたのだった。
萌芽は大切に氷のなかに保存された。古次の世界が閉じていると思ったことはまさしく、自分自身の境遇に照らし合わせ、端的に言い切りたかったからで、裏を返せば近似する心境を上段から斜に眺めているふうな底意地の悪さにそそのかされていた。その分、阿可女に委ねた意識は単なる懸想にとどまらず、天の岩屋よろしく世界の開示を、ひかりの再来を、脳裡に燦然と輝かせ、これを奇跡と見なしたのである。
小夢はここに身を預けてからというもの、まるでほうき星のたなびきのごとく恋情を温存していた。だが決して口にすることなくやり過ごして来た信念が、思わぬところで綻びをみせてしまい、しかもあろうことか、くしゃみが出たふうな有り様で開陳してしまったのだ。察するまでもない、先日のごん随女史からの申し出にいたく動揺したに相違なく、積年の鬱屈が、これにはいささか語弊があるけれど、つまり習慣づけられた下働きの日常を疎んじているようで、案外よどんだ空気とは感じず、逆に目新しさもない代わりに十分と感謝の念さえ抱ける新鮮味を知らず知らずに取得していた、無論ことなかれの凡庸に甘んじていただけではない、過去における放恣なまでの欲情が封じられたまでで、実際不埒な懸想を暴露してしまうていたらく、燻っていた残り火は今だ健在で、そこへ相乗りする如くいよいよ華道という未知なる方向が開けて来た、嘘で固めた色恋をうっかり漏らしたもの、いわば方便、小夢の好奇と期待は不所存な箇所に滑り落ちるのであった。
おのれの色欲がままならぬなら、他の者らは如何に欲情を晴らしておるのやら、これは念頭に上らせ赤い野心を抱かせるより、不用意に胸裏に想い描くことを制する意識がかり出され、いつしか忘却の彼方に追いやってしまった灰色の、だが微かな火種のような発疹を肌身に残した証しといえよう。濁りきった沼底に棲息するえら呼吸の確かなうごめきは新たな息吹となって、全身の毛穴から煙のように立ちのぼって来る。色欲の意識は遠くにありて近きもの、小夢の嗅覚は内弟子らの性に関し、どうしてもっと鋭敏でなかったのか不思議に思ってみたけれど、おのれを抑制している現状に憤懣やる方ないなら、他者の色には目をくれないのが賢明であろうし、あくまで禁欲の仕組みに忠実だったに過ぎず、ただこの度のごん随女史からもたらされた意向にありきたりの、そう身分が高まっただの、平淡な日毎から解かれるだの、果てはひょっとして自由が得られる可能性だの、そういった平穏な暮らしぶりから逸脱しない事柄でなく、別な意味合いをぬめりのように抱きかかえる想念がおおいに表立ってくるのだった。
それは紛うかたなき、これまでずっと秘事であった華道そのものに対する震える関心であり、遠く謎めいていた肉欲の匂いに他ならない。薄皮一枚隔てた裸形をなぞる指先がまず不確かな輪郭を知れば、次に喚起されるのが人肌のぬくもりであり、そこに触れたい一心は着物のすそをめくり上げる淫猥に堕するけれど、情欲に本来裏表があろうもなきにかかわらず、まさに薄皮ぎりぎりのところでふみとどまる理性をひとは称揚し、陰でむせび泣いてしまうのだ。
小夢の華道への高揚はこうして閉め出された色欲の香りによって、大きくふすまが開け広げられる按配で意気盛んになっていった。実のところ、随門師の部屋に始めて呼ばれたとき、こころのふすまが同じ勢いで開けられたので不届きな予測が立派に当てはまったと、胸が踊った。
さて遂に内密であり続けた師匠と弟子らの芸に立ち会う瞬間が訪れたわけであるが、小夢の淫靡な、しかし澄み渡った意想は塵ひとつとして舞わぬ畳の清らかさを持ち合わせており、その二十畳敷きの大部屋に足を踏み入れたときはさすがに息をのんでしまったけれど、すでに師のうしろに物々しく控えている内弟子四人の顔つきに神妙さを覚えるどころか、あらかじめ示し合わせたふうな会心の笑みさえ送りたい気持ちを抑えることが出来なかった。が、広々とした室内にはいつもの顔ぶれの居住まいがあるのみで、がらんとした空気は年も明けて日数も経つというのに、どこか厳粛な雰囲気で張りつめていて、これより指導される一切の幕開けに相応しく思われた。そして畳縁の凛然とした直線が意思を裏打ちしているかに感じられ、生花も花器の影すら見当たらない殺風景な場は、なにやら家元たちの密談を予期させ、幾分かの湿り気を小夢の掌に与えた。
「そこでよろしい、そこにじっと座って我が流派をしかと見届けるがよい」
これが開口一番、随門師の言であり、あとあとはいっさい喋らずじまいであった。秘技が終了するまでの間、もっとも懇切に接してくれたのは、といっても丁寧な解説でも優し気な口調でもなく、驚愕に揺れている小夢の心情を汲んだふうな表情を細やかに送った阿可女そのひとであって、増々恋情を募らせ、あれこれ筋合いを考えあぐねたことが徒労であったと胸を打った。
座した師匠の無言の合図に気づくはずもない、小夢はそれまで灯されていなかった燭台に次々と火が点じられてゆく様を、思考が止まった状態で見送るしかなく、密談に適っていた大部屋が見る見る間に煌煌とした輝きに充たされ、始めて陽光を凌ぐまばゆいばかりの光景に臨んでいる情況を実感し、いずこより入りこんだか、僅かな微風にそよぐ灯火が月光を浴びて陰影をなす草木に思われ、はっと意識を取り戻した刹那には、一層ひかり充ちて何と華やかな女体が月と日輪のひかりをたぐり寄せる様相で迫っていたのだった。
「小夢さん、わたしたちが花なのですよ」
ごん随女史が自らの裸体を賛美しているは一目瞭然で、崇高な声でそう言うや、白糸、の毛子、阿可女、皆が着物をほどき出した。ゆるりと帯が流れ落ち、それぞれの召し物が優美な衣擦れになってふわり脱ぎ捨てられた。燦々とふり注ぐ陽光さえ必ずや弾いてみせよう純白で光沢のある裸身に、小夢は激しいめまいと、みぞおち辺りから込みあげてくる熱い悦びを知った。


[310] 題名:妖婆伝〜その三十 名前:コレクター 投稿日:2012年11月05日 (月) 06時57分

「の毛子はさすが若いだけにもの言いがきびきびしておる、あれほど感に触った声色がまるで可憐な鳥の鳴き声にも聞こえてしまうのだから、ひとの心持ちなぞいい加減なものだわな。けれど、それで安寧が得られるのであれば、そのさきは過分よなあ、愚痴めいた言い訳に堕するだけじゃ。
愚痴ではないが最近では鏡のなかの顔に小じわを認めてしもうた、これは自然の理であるのだろうが、一抹の哀しみは拭われん、うなぎの寿命はいかほどやら、わしにも老醜の影がさしている、これは変な思考だが、小夢に転生してのち、全身にみなぎっておった溌剌とした若さを久遠と取り違えていたのがよく分かるようになって来た。月並みの生き方でないだけに日々に向かう気持ちは些細な変化を機に、何やら強迫めいた焦りに転じたようだわ。わしは生き急ぐというより、ときの連鎖に殊更疎まれているようで仕方ない。これが宿命なのか、子憎たらしかったの毛子の妙齢がうらやましい、かといって嫉妬の情まで生じさせてはおらん、老人が大木のささくれに触れながらも新緑の香りを嗅ぎつけるように、ある種のあきらめを肝に銘じているつもりじゃわい。
小夢さん、この間ね、お師匠さまがこぼしてましたよ。わしも高齢である、出来ることならごん随に家元を継がせたいのだが、いかんせん、まだまだ未熟もの、わしの精髄を授けるには器が足りんし、風格も備わっておらん、かくなるうえはおまえら弟子たちの協調、一致団結が流派の存亡にかかっておる。
これには仰天したわ、かつてこうした話題がわしの耳朶に伝わった試しは一度もなかった、それが鳥のさえずりのように庭先の梢から何気に聞こえて来る錯覚となったのだから。果たしての毛子は斯様に重大な事柄を安気に口にしてよいものやら、聞かされたわしの方がどぎまぎしてしまうわな。それとも如何にも牧歌的で平穏な日々に紛れるふうな思惑がひしめているのやら。つまり、わしは試されている。またして疑心の顔をもたげざる得なくなり、身をこわばらせた。ところが、白糸も似たようなことをあたかも世間話しみたいに話しだした。跡目はそれは大変でしょうねえ、わたしらも増々荷が重くなるでしょうに、、、
更には阿可女さえ、お師匠さまにもしものことがあったときにはどうなるのでしょう、と口々からもれるのは向後の懸念ばかり、いくら奥の間との隔たりがあるとはいえ、食事どきに噂するにはことが深刻であるし、こうも開けっぴろげな言いぶりはどうであろう、これまでの生活にはあり得ん放埒な雰囲気、取りあえず疑心はさておき、ときの推移が内弟子らをふてぶてしゅうさせたのやら、逞しくしたのやら、あれほど感の鋭い随門師に挑むふうな意気にすっかりのまれてしもうたわ。
そして数日経ったよく晴れた朝、ついにごん随女史から打診を受けた。小夢さんはここに来てもう何年でしょうかねえ、家元はめっきり衰弱してまいりました、年には勝てません、どうでしょう、そろそろ華道を学ぶべきだと思うのですけど、、、別にあらたまった口調で言われたのでない、ごくありきたりな一室で向かいあったくらいだからのう。しかし、この情況が却ってわしに緊張を強いた、いよいよという思いは突風のごとく駆け抜け、あたかも死地に赴く厳粛な覚悟が要請され、それが日常の何気のない部屋での当たり障りない口ぶりと来れば、あらたまった式典に臨席するより遥かに堅苦しさを禁じ得ない。
結局、ここの流派は何故にこれほどまで少数にて維持されたのだの、いつもながら季節の折々に招聘される高貴で富裕な人々は何を所望しているのだの、ことの始まり、公暗和尚は一体どんな配慮でもってわしをこの地へ向かわせたのだの、これまで疑問であったけれど封印してきた事柄が一息に噴出したんじゃ。内心しどろもどろ、虚脱しているのか、高揚しているのか、狼狽しているのか、確かめようもなかった。ただそんな最中にあってごん随女史の気構えのない目もとが異様に感じたのはあながち的外れでなかったみたいでな、要は機が熟した、それに尽きるということじゃ、随門師も内弟子らも、わしも古次も迎えるべきして迎えたときなのであろう。
張りつめていたものが、或いは脱力で失われていたものが、すうっとさり気なくこの身に舞い戻ったわ、当たりまえに戻ったようでその実、何かが異なる、わしは恬然とそれを悟った。すると思いもよらぬ言葉を口走ってしもうたが、あとの祭りよ、どうしてあんなことを言ってしもうたのかや、うなぎの本性とも思えんし、すべてに観念したとも考えられん、ああ、もはや吟味はいらぬ、これがわしの一念であったろうくらいしか脳裡に形跡は留めん。
ごん随さま、わたしは古次を愛しておりました、けれどもそれが仮想であることを認めなくてはいけません、はい、その面影を同じゅうする阿可女さんを好いているのです、あなたさまは跡目となられるお方、その旨はとうにお師匠さまから聞き及びでござりましょう、わたしの好色な性情を、、、またしても空言、はなから古次を慕っておったでない、だが、よくよく振り返ってみるにまず接近を計ったのはまさしくあの可哀想な下男、確証こそあやふやであるけれど、まるきりでたらめでもあるまいて。おのれで吐いた告白の余波にもまれている間、ごん随はまったく気色ばんだりせず、いつぞや古次が語ってくれたようなあの忌まわしい、だがいたって平淡なまなざしが想起されようひかりと化して部屋に灯されている。
忸怩として消え入りたい心許なさに傾きかけるも、須臾にしてごん随女史はこう述べた。それはそれは、風変わりで面白うございますね、それで、如何がされたし、よもや阿可女の情人になるつもりでもあるまい、戯言と聞き流しておきますから心配いりません。そのうち小夢さんの願いが報いられることもあるやら知れませんぞや、果報は寝て待て、ほほほっ、精進されたし、師は病床についていますけれど、あらためて華道の手引きをいたしましょう。それにしても小夢さん、あなたは不思議なおひとじゃ、わたくしは感心しましたぞ。
その夜、わしはひさしぶりにうなぎのすがたに返って清流を遡った。はっきりしないが、おそらく黙念先生を探していたのだろう、夢は無限に続くと感じられ、歓喜が押し寄せて来た。束の間の本家帰りと思いなし川底にそっと身を沈ませれば、夢の入り口が懐かしくもあり、遥か昔の出来事に関わっているような浮遊した感覚が全身を覆う。苔の岩、静かな意思、揺らめく川藻の優雅な調べ、水面に映れば微笑ましくも、言い難い望ましさの魚影となるであろう傍らに泳ぐ鮮やか銀鱗、やあみんな、変わりはないか、、、ひとの言葉なのだが、ひとの言葉でない、流れに溶けだす淡い響き、これほど屈託のない遊泳はいつの日以来やら、黙念先生が清流の主をあることを疑るすべもなかった遠い日々、目指すさきは永遠の向こうでもあった、、、」

自分は、老婆の表情に時代の変遷とは別次元の、それはたった今見知ったふうな驚きと悲嘆、限りない幸せが横並びに溢れ出ているのでは、そう感じさえてやまないものを受け取った。灯火の明るみをさえぎるというより、こころのうちから放たれた光輝を呑み込んでしまった、静かな、しかしとても重い閉眼が自分を夢のなかへと誘った。老婆は目を閉じたまま語りだす。不敵な笑みがむしろ反対に、そう自嘲の感情など悠遠の彼方に置いてきた様相で、親しみをたっぷり含ませた面持ちとなり、言葉の端々から響く陽炎のような光景を面前に浮かび上がらせる。切なくたゆたう情感を、ときには慄然と、あるいはときめきに変化させ、こころとこころの断面をゆっくり溶かし始めるのだった。


[308] 題名:妖婆伝〜その二十九 名前:コレクター 投稿日:2012年10月29日 (月) 06時03分

「そうさな、かまわんとも、わしは愛しい阿可女の段にもってゆこうとしたけれど、なるほど古次のその後は捨て置くわけにいかんな。生き写しであるからのう、いいや別に顔かたちだけでついでのごとく古次を語るのではない、確かに仔細とまではいかぬが、わしの知りうる限りは話しておくべきだろう。それに言い忘れた箇所もある、では続けようぞ。
あんたの疑点もっともじゃ、いくらなんでも古次って奴かなりの楽天家でないかと、それはそうさな、幼年ならまだしも、いい大人になってまだ阿可女に執着しておる。で、兄妹どうしで婚姻できると思っているのか、そこが解せんのだろうて。わしも同じよ、しかしこの世に常軌を逸した情愛が見受けられるのは上田秋成をひもとくまでもあるまい、現にわしはかの屋敷で近親者の糜爛した肉欲に携わったからのう、そういう意味合いで古次を糾弾するわけにはいかん、逆にどうみても引き裂かれたとしか言い様がないにもかかわらず、あそこまで気高く清い愛を抱き続けるほうが余程、情熱があり不思議に感じられるわ。いや、こんな穿ちも可能でないかや、古次は初めから血のつながった兄妹が結ばれるなんて信じていなかった、信じていなかったがゆえに、どうしても離れられず、平素の意識とは異なる働きがああした情況に至らせたとな。つまり異相から眺めれば中左衛門とて、本願成就の為の足掛かりでしかなく、験者の死に及んではまたとない好機であったのではなかろうか。
さあ、では赤子の首は果たして何奴が切り落とし隠してしもうた、そしてその動機は如何に。残念ながら異変の詮索が開始される以前に古次はこの土地に身を寄せていたから、どのような探査がなされたかはうかがい知れぬ、もちろん外よりの報せは皆無じゃ、ひとつだけ光明を見出すなら、それは阿可女のこころに隠されていると察せられようぞ、これは後日古次にそれとなく問いかけてみたのだが、、、
それで身分を定められ阿可女さんとは昔のように気軽に喋ることも出来なくなってしまったのですね、どうでしょう、わたしには中左衛門なる若侍がふたりの約束ごとを見抜いていたとは思えないのですけど、、、すると古次は、はい、ひとの胸中を探る才にたけていただけのことでしょう。と、申しますのは、はてどのような、、、わしはそれとなく分かった気がしないでもなかったけど、あえて謎めいた顔をつくり返答を待った。
せいぜい聞き耳でも立てていたのではないのでしょうか、わたしらもまだ幼かった用心したつもりでも壁に耳あり天井に目あり、中左衛門がなんらかの目的で家屋敷を混乱させようと企てをしていたなら、日頃からわたしらを気取られぬよう監視していたと思われるのでございます。阿可女には、、、えっ、どうなんですか、わしの口調は次第に激しくなり、では、どうなんです、確かめてごらんになったのですか、ほとんど詰め寄る勢い、これには古次も閉口した顔つきを示し、間合いを取るよう背筋を延ばすと、いいえ、阿可女に訊いたことはありません、ここでふと我に返ったわ、まえに語ったように古次にとってそれは最後の砦であり、禁断の園であったはず、これが露呈してしまえば、この男の夢は途端に崩壊してしまうだろうよ、儚さを知りつつひたすらに耐え抜く意思が。
さあ、どうしようぞ、実はな、阿可女との出来事に取り急ぎたいのはひとつは中左衛門や怪死の謎に迫りたいからじゃよ、古次の世界は閉じておる、ほんに見事なまでに閉じておる、ところが阿可女が醸す雰囲気はまるで正反対だわな、今いうた謎そのものを包含しているのがこのおなご、世界は開示されているようにさえ思えてくる。じゃあ、いいのかい、では端折るとしよう、そして阿可女から聞き出した驚きの事実を話してあげよう、おっとそのまえに阿可女と親しくなった経緯を簡単に説明せんといかんな、これは肝心なことだからなあ。
手掛かりはあのうら若き娘の毛子に発する、そう言えばどうかな、狐にでも騙された心持ちがせんかい、が、本当だから仕方あるまいて、小生意気な口ぶりは相変わらずだったが、見た目は随分としなやかになり、からだつきにも色香が存分に備わって、中々そそるものがあったわ。それはさておき常日頃から古次と同じよう下働きばかり、そのうえ小言の治まる兆しもなく、その頃にはこれは目論見というより逆らえぬよう押さえつけているのだ、ただ単に逃げられでもしたらことなので、生かさず殺さずの精神を敷衍しているのだ、そう思いなすことで悔しいけどおのれを丸め込んでおったのじゃな、もっとも阿可女だけは恋しいあまり、用向きとはいえ口をきいてもらえるだけでこころ弾んだ、弾んだというても手放し満面の笑顔なぞは禁物、誰にも悟られぬよう警戒したものよ、特に古次にはのう、、、あの男は半ば共犯者、はてはて、裏切りでありながら同情さえ感じていたから余計になあ。
で、ある日のこと年の瀬に近い、あわただしさが寒気によって的確に包まれているような昼下がり、珍しく随門師が炊事場やら玄関口にすがたを見せ自らあれこれ皆に指示をしておった。そこで又わしの手違いかや、年代ものの掛け軸を納戸から運び出したのだったが、どうやら絵柄が異なる、めざとく察知したの毛子、いつにない高圧な口ぶりでわしを叱責した。ところがじゃ、随門師がさも大義そうに、つまらぬ諍いなぞやめてしっかり働けと言わんばかりの顔つきで、どれどれと掛け軸をのぞき込んだ。そして、こともなげに、ああ、これでもかまわん、そう言ったのじゃな。安堵を覚えたわしはよかったのだが、いらぬ癇癪を起こしたみたいな態だったの毛子は引っ込みがつかんのか、さも歯痒そうな顔つきをしておった、それで随門師が立ち去るやいなや、つかつかと歩み寄りいきなりわしの頬をしたたかに打った。目から火花が散ったとき、あたかもそれが火種であったかのごとく、わしの溜まりに溜まった怨念らしきものが爆発してしもうた、気がついたときにはの毛子へ逆襲、めった打ちにした挙げ句、足蹴にし、まわりから取り押さえられる始末、ようよう気を取り直したけど後悔は感じなんだ、と並んでさほど憎しみも抱いておらんのがわかった気がし、まあ、これだけ乱暴したのだから当然じゃろうがな、髪を乱れに乱し、薄くはない青あざ、口から血を流しているすがたに痛々しさを覚えると、その場にへたりこんでしまった。
の毛子は悔しさより恐怖に襲われたふうな本能をはっきり面にしており、何度も瞬きをしていたので、思わず土埃にまみれた手を握りしめると、おいおい泣き出し始め、わしはそのとき、初めてこのおなごが可愛らしく見えた、いいや、すがたかたちでない、そのこころがじゃよ。
そんな出来事があってから、いつしかの毛子の態度に変化が現われ、といっても徐々にで、さほど劇的な和睦が演じられたわけでない、流れは割愛するとして、まあ、それが縁となってわしは内弟子のひとりと仲がようなった。考えてみれば、わしの方が負い目をいつも面前にし、まわりに打ち解けようとしていなかったように思える、無論うなぎの秘密のせいなのだが、随門師を畏怖するよう他の者らにも一線を引いていたのは間違いあるまいて、まったくお人形さまの独り相撲は救いようがないのう。
そういうわけでの毛子とはほんに気安くなり、いつしか白糸やごん随、それに阿可女とも他愛のない話しを交わしておった。で、阿可女と親密に、といきたいところだが、おいそれ容易く恋は成就せぬ、まずはの毛子とのやりとり、そこでようやく判明して来た家元の素顔など、これらを通して物語は発展するのだから、もう少しだけ説明がいるというもの、あんた、ほれ呑みなされ、そのうち酔いなど吹き飛んでしまおうぞ」


[307] 題名:妖婆伝〜その二十八 名前:コレクター 投稿日:2012年10月29日 (月) 00時44分

「続けて古次は語る。これらが古次の知るところのすべてだったのだが、、、
絶縁を申し渡されるに及んで、父母からこう諭されたそうじゃ。当家は汚れてしもうた、赤子の怪死に限らず、そなたら兄妹はまことに見目麗しいのだが、生誕の折より世間では双生児を不吉の報せと忌む者あり、斯様な惨状を呈したのもその由縁なりと陰口甚だしく、このままでは体面が危ぶまれよう。瑞祥と思いなし、嫡子としてより愛おしさが勝っておるのは言わずもがな、断腸の思いである。勘当とて表向きと心得よ、いずれ機を見て、当家に戻れるよう取り計らおうぞ、、、それまでの辛抱よ、と苦し気な面持ち、脇の阿可女を見遣れば恐れ入っているのか、よく呑み込めたのか、いかにも家名に従っておるような顔つきだったそうな。
さて古次、年少とはいえ、事態の過酷な様はちゃんと理解できておる、復帰なぞあり得ん、これは父母の悲嘆からついて出たなぐさみの情、惑うも惑わぬもない、いざ今生の別れ、そう自身に言い聞かせ、翌日には身支度を整え屋敷をあとにした。が、ふた親の口上に偽善が染み込んでいたように、古次がわにも偽りがあった。ことの起こりは中左衛門の不審に違いなかろうが、その委細が異なる。端麗な面に朱が走ったかと思うと、目つきに妖しさを帯びて、ややうつむき加減でこう切り出したのじゃ。赤子を死なせたのはわたし同様、いえ首が落ちるなどとは考えてもおりませんでした、けれど、、、そう願っていたのを打ち消すことは出来ません。
話しを急ごう、次子誕生から間もないある日、古次はあの中左衛門からこう耳打ちされたという、おめでたいのはもっともなのでございますが、これはいささか困りものではありませぬか、そうです、阿可女さまとあなたさまとの婚礼、溝が入りましたようで、、、つぶらな瞳の奥に邪心のあるなしを計れといわんばかりの中左衛門の言い草、はたと胸を突かれた。何故なら古次と阿可女はゆくゆくの婚儀を交わしていたというのじゃな、いやいや、あくまで幼い口約束まで、だが古次にとってはその将来のみがあって、日々の暮らしも遊びも宙に浮いたごとくに実感がない、一刻も早く晴れて夫婦となる身を念じておった。念じるがゆえに他言は禁物、兄妹だけの固い絆に守られ秘匿されていたはずなのに、如何なる事情で中左衛門、普段はほとんど会話する機会がなかったにもかかわらず、絆を見知っているのか、まさか阿可女が口外したとは信じ難く、しかしそれより他にそとに漏れようはない、困惑すると同時に古次は萎縮してしまい、とうとう阿可女に真意は問いただせずじまいの有り様、妹に対する詰問によってすべてがご破算になってしまそうな不安に駆られたゆえに。その代わり不安はそっくりそのまま、不慣れな若侍に委ねられ秘密は遵守されようとしている。中左衛門の憂慮とは次子に阿可女を譲り渡さなればならないという、古次がこころの奥底で燻らせていた根拠をもたぬ怖れに相違なかったので、不安は怖れの相貌をより際立たせ曖昧を許さず、すべての気力はそのような成りゆきを是が非でも阻止するべく方へと流れ落ちた。
話しの様子から察するに中左衛門なる人物、かなり悪知恵が働くうえにその手際も嫌らしい、幼い古次をまさに手玉にとるよう忠義立ての精神だけはまっとうに、我が一命に代えてお力添え申しあげましょう、と迫る。が、これといった秘策を授けることなく、じっと古次の目をのぞき込んでは力む素振り、それよりのちも当人は何の援助らしい挙動を示すことなく、ただひたすら嫡男としての自覚を促すのみ。そして遂に堪えきれなくなった古次、尋ねるに、赤子に悪戯してみてはどうだろう、手を上げるような折檻はいけない、もっとも効果があり尚かつ確証など一切残さないよき方法は、、、そう口を滑らしてしもうた。案の定、中左衛門は目を見返すばかり、そのときだった、閃きがよぎったのは、、、その眼光よ、赤子に言葉は通じぬ、けれども目は見開いておるではないか、来るべき行く末まで見通すごとくに澄みきったひかりを宿し、、、ならば、その行く末を狂わせてみようぞ、思うが早いか、乳母のもとにあっても古次は異様な目つきで次子を睨みつけていた、いや、正確には口もとを綻ばせ、眉を下げ、あたかも肉親の情愛を振りまいているふうな表情のもと、暗きまなざしを送り続けていたのだった。
赤子に異変が訪れるまでにそう月日は要しなかった。以後の顛末はさきに話した通り、ただし中左衛門が験者を招きいれる際、古次にはひとことのことわりがなく、待ってましたとばかりの狡猾な素早さ、これには仰天、震えおののいたのは至極当然、よもや赤子に斬首の刑が処されようとは、、、が、事態は急展開、験者は頓死、肝心の参謀はみごと雲隠れ、二度と当屋敷にすがたを現しはしないであろう、そんな予感も生々しくあとは野となれ山となれ、脱力にまかせ思念が停止しかけた古次を見舞うのは風塵だけぞ、ついでに秘めごと一切合切を粉々にし吹き流してしまえ、追放の身がひねりだしたせめてもの発意、阿可女の顔色をも染めよう、、、
これが古次の悪業じゃ、ああ、分かっておるとも、あんた、そんなに乗り出さんでも、こうであろう、まったくそれしかないわな。
家名とひきかえにいわば島流しの憂き目、だが古次は落胆なぞしていなかった。いやむしろ晴れやかな気持ちを抑えるのに懸命だったそうな、これで阿可女と離ればなれにならなくてよい、婚礼は夢かも知れんが、おさなごころに芽生えた信念が勝利したわけじゃ、浮かれるなという方が無理よ、どの様なところだろうが阿可女を暮らせるならこれより他の幸せはない。紛糾した過去には未練どころか、引導を渡したい心持ちだった。
で、この港町に落ち着いたのだったが、その架け橋の仔細はおろか、随門師匠の思惑とて触れるは御法度、それは口頭で諭されたのではく、ふたりの兄妹は肌で感じたそうな。諸事情は随門師に通達されているのは確か、家門の汚れゆえの、いや世間体を慮っての決断、ならば師はふたりをどう裁定したのであろう、古次は口をつぐんでおった、赤子の怪死がすべてであり、くだんの悪戯、中左衛門との結託は決して口にせなんだ、ところが随門師はいとも簡単に古次の奸計を見破ってしまった。多分に緊張が禍いし、面に色濃くにじんだと思われる、古次もその辺は認めておった。そうなるとふたりの仲に収まっていた夢の世界は幽閉ならぬ、開城を余儀なくされ、実に適切な、あまりに悲愴なを審判を甘受するに至ったわけじゃ。おそるべき随門師、村最後の晩、公暗和尚と向き合った際の重圧がひしひしと呼び戻される、あのときの心境、古次のそれと比べ遜色はなかろうよ、互いに死守しなければならない黙約を抱えておったのだから。
しかしわしの場合はまだ救われていた、まるで肩透かしをくったような按配でさっさと所払い、ほんに安楽な身に上に思えるわ。それにひきかえ古次に下った裁定は生き地獄に等しい刑罰、婚礼を夢見たはずがその身分には容赦ない差別が設けられ、同じ屋根に下とは申せ、かつて兄妹であった名残りはどこにも見出せん、絵図にたとえるなら家僕の古次、妾に甘んじた阿可女の影を眺める、とな。
実際は知らぬよ、何せ内弟子と師の間をかいま見ることままならんのだから、だが、古次の面目はかろうじて影と寄り添うかたちで保たれたのじゃ。ああ、訊いてみたとも、まことに言い辛いのですが、引き裂かれた双子と、そんな言葉がかすめてゆくのです、この胸をさらってしまう勢いで、、、古次はそれでも平淡な表情を崩さなかった、反対にわしの空想が先走り過ぎているのかや。そうであろう、古次はこう言い切ったのだから、、、いえ、わたしどもはいつも一緒でございます、身分に隔たりがあろうとも、それはあとから形式として与えられだけです、こころは常に阿可女とともにあるのです。
わしは何となくこの男が寡黙であるのが分かった気がした、それは性分なんかじゃない、情感の逼塞でもない、古次は強靭な意思のもとにおいて現状を引き受けているのじゃ。
これが戦きの重しかと、いいや違うよ、わしはわしで古次の意思を見届けたまで、さほど人情家でもあるはずもなかろうて。怖れたのは随門師の得体の知れぬ、底なし沼のような暗い深みと、そこにこうして臨んでおる疑いようもない現実だった」


[306] 題名:妖婆伝〜その二十七 名前:コレクター 投稿日:2012年10月23日 (火) 04時42分

「話せば長くなりましょう、確かに、古次の目から放たれた冷たい輝きに背筋をただす。わしが設け置いた間合いを十全に含んだ声色、成りゆきというよりかねてから機会をうかがっていたのでは、そう思わせる低く地を這うような不気味さがあった。随門師匠は内弟子をいくたりか連れ外出していたと記憶しておる。が、春の日差しを浴びながら耳にするはどこかうしろめたい、期待と緊張を軽い仕草のうちに忍ばせ、そっと蔵の陰に歩を進めた。
前にもいうたけど古次は口数が少ない、そこにもってきて肝心なところで息詰まる、感極まり目をうるませたかと思えば、話しの脈絡が曖昧になり、いいや、わざとではないのだろうが、これまで自分の生き方を振り返ってみることがなかったのだろうて仕方あるまい、じゃで、ここからはわしの要約で聞いてもらうよ。
名は詳らかに出来んが、古次と阿可女は由緒ある旗本の家に育ったそうな。心身はいたって健全、珠のごとく可愛らしい、しかも男女の双子という希有な子宝に注がれるまなざしは想像に難くない。それはそれはふた親はじめまわりから受ける寵愛日ごとに増していったそうじゃ。
上巳の折には阿可女以上に古次の美しさが口々に誉めそやされ、また端午の際には反対に秀麗な男装を披露した阿可女が人々の賛辞を一身に浴びたというから、節句の華やかさ、こぼれんばかりのひかりに満ち満ちていたのだろう。それからの年少時代、取り立てて陰が落ちるようなこともなかったと申しておるから、古次らの記憶を疑るすべなぞない。ただ発端というならそうかも知れんのだが、本人はそこに立ち戻る思惑をどうやら振り払いたいようなので、少々複雑よな。こういうあらましじゃ、双子に続いて五年後、おとこの子が生まれた。兄妹には似ておらなんだけど、いかにも武家の次子らしく眉目端麗で頼もしい、しかし首が座るか座らんかうちにとくに目の焦点が尋常でないのが発覚した、何かの拍子できっと誰ぞやを睨みつけるような鋭い視線を投げかける、最初は庭に遊ぶ蝶だの蜻蛉だのを追っているかと案じていたが、どうも様子が異なる。現に閉め切った部屋の片隅にも同じ目線を放つ、両親も次第に単なる戯れとは感じられなくなり、この子はなにぞ、私らには見えんものを取り押さえておるのでないか、さて魑魅魍魎なるか、亡魂なるか、生霊の気配なるか、いずれにせよ、不可思議と首を傾げるに異存はない。
あるとき、家住みの若物の発案から、かねてより都界隈でも評判になったさる験者がこの地を訪れている、かの宮様に取り憑いた悪霊を払った件は隠しおうそうにも膾炙し、今では引く手あまたとか、その霊験まやかしの類いなら、斯様に讃えるべくもなし、是非とも一度、忠信の籠った口吻に促されたと同時に、とくに母親は験者のうわさをすでに聞きつけていた模様、二つ返事で早速手配するよう若者の言に首肯した。
ところでこの若侍、後々の語りに連なるので姓名を覚えておいてもらいたい、根図中左衛門という。背丈の低い、だがいたって頑健な気質を漲らせており、ひょうきんな面を持ちながら時折すっと暗い面持ちをのぞかせたりもする。残念ながらその出自の特定は出来ん、古次は幼少であったし、次子の異常におののくまで感性も発達していなかった。薄ら覚えにしか中左衛門を知らぬ、大方の面影はのちに聞き及んだもの、そしてあれこれ詮索を含め一通り拵えられた、いわば人相書きよ、で、この人相あの事件が起こってから出奔してしまい現在に至っており、先程も言うたが果たして発端はいずこなる問いかけ、事件の鍵を握っているようであり、そうとも言い切れぬ、けれどもはや再会などあり得ん、、、ここで古次、声を震わせ、ことの真相に迫ろうと意気込んだ。意気込みはおおいに買うのだが、余程の衝撃が今また押し寄せて来たようで言葉詰まらす。だがもっともじゃ、あんな惨憺たる光景を目の当たりのしたのだからのう、、、
中左衛門の案によって名高い験者とやらが屋敷を訪れたのはさほど日数を経ていなかった。次子には果たして物の怪が憑いているか、はたまた験者すら考え及ばん能力を秘めていたのか、加持祈祷がとりおこなわれた場に立ち会うのは許されなんだ、おんなこどもに限らん、当主でさえその一室から退くよう命じられたというのだから。古次は自分より物怖じしておる阿可女の手をきつく握りしめ、その手にしみ出る汗がどちらか判別ゆかぬまま、父母らに見守られ、ときを数える心持ちであったと語り、当日の異様に緊迫した、けれども夢の国へと運ばれる乗りものに揺られているふうな、淡い憧憬が寄り添っていたのを忘れていない。生きるか死ぬか、そうした厳粛な刹那を知らぬ身であればこその安寧が、かつてないほど険しい表情をした父を、そして青ざめる一方で、甲高くなる声を出す一方で、いつか観た能面の不気味な笑みを取り寄せた母を、血の気が通うていないのではと感じてしまっていた。
実際の怖れは阿可女のやわらかな掌にしっかり収まっており、その他の情景や空気なぞはあたかも絵空ごとにしか受け取られていなかったかも知れぬ、どうであろう、幼年の意識とは以外や酷薄、罪深さはないが、それは罪を覚えぬがゆえ、古次には割り切るも割り切れんもない、つかみどころが見当たらんのだからな。
怖いもの見たさの心境より験者の発する祈祷が怒声に変わっているのに驚いた。屋敷内には道場もあるし大声には慣れていたのだったが、稽古に励む威勢のよい声とは別種の、一歩違えば金切り声に近い、威圧するというよりも逆に屈服を強いられている歪んだ響きをはらんでいるようで仕方なく、こどもながら取り返しのつかない事態が発生する予感を抑えられず、ほとんど濡れて滑りそうな手を離さないのがおかしいと思いつつ、悪夢に興じていた。
そのうち、験者の祈祷はやみ、あたりは水を打った静けさにつつまれたそうじゃ。やがて疲労困憊の相をあらわ足を引きずりながら歩み寄って伝えるに、邪霊の仕業でござります、相当昔からこの家に棲み憑いておりました、双子の兄妹を望んでおったとみえる、おのれの分身として都合よく乗り移ろうと計ったのでしょう、ところが御兄妹には入りこめなんだ、冥加と申すべきか、因縁、もしくは不幸と申すべきか、、、邪霊らしき禍いが解かれた様子はうかがえ安堵したものの何やら歯切れが悪い、当主は威厳を正して、だが半ば嘆願を擁しなじると、験者は眉間に深いしわを寄せ、あたかもそのしわに災禍が宿っているようなもの言いで、御兄妹はなんと申しますやら、格別の才覚を生まれもっています、そして赤子にもその才覚があるのです。気づかれませんでしか、かの異様な目つき、次子殿だけではなかったなずですぞ、邪霊はときを待っておったのでございます。血族の生誕によりちからは分担されましょう、そうでございます、次子殿が生まれ出た限り、御兄妹の紐帯であり、結束されたものに隙間が生じるのです。そこが邪霊の付け入るところ、しかし、次子殿とて、そうですとも、生まれたばかりだからこそ鋭敏な感覚を働かせたのでございます。と、ここまで験者は息も絶え絶えの態で話したのだったが、何とそのまま仰向けに倒れ死んでしまったのじゃ。これには一同、大慌てよ、当主や奥方、古次ら兄妹を眺める目つきにはすでにただならぬものがある、腰を抜かす輩もいれば、今にも逃げ出したい内心を必死でこらえている者すらおった。そんな最中にひとりだけ平静を保っていたのが、中左衛門というわけでな、その落ち着きぶりは忠義であったのかどうか、ことの次第は中左衛門である由縁には違いなかろうて、自ずとその旨を心得ていたとすればあっぱれよ。で、頓狂な声こそ上げる者はいなかったが、ほとんど皆ざわめきに紛れこんでは戦々恐々、そんななか毅然とこう言い放ったそうな。
とにかく部屋の様子を、それがしが見てまいりましょう、当主らの返答を待つか待たぬ間に素早く加持祈祷のなされていた奥の間に駆け込む。衆目の認めるところであったろうし、不穏な回答を固唾を呑んで待ち構えていた光景は古次の目に焼きついている。ときの経過を計る必要はなかった、必要なのは相も変わらず夢の波間に揺られているような、船酔いともつかぬ、忌まわし気で幽かで、至らなさみたいな感情を噛みしめることだった。
中左衛門の紫がかった唇からついて出た報せに驚愕しなかったのは、何も当主が、左様な、左様な、と繰り返すばかりで一向に自ら次子の無惨なすがたを確かめにゆこうとしない不甲斐なさではなく、どちらかといえば、まわりの者らの吐息さえ遮っている、澄みきった空気の仕業だと古次は述懐した。
赤子の首は落とされ、あたりは血の海であったそうじゃ。しかしどこを探してもその首は持ち去られた如く見つからず、これは験者の加持祈祷によるものか、それさえ定かでなかった。秘匿しようにもたちまちこの惨劇は広まってしまい、御上に届けられ沙汰待ちとなったのだが、詮議は事件同日に逐電してしもうた中左衛門へと向けられ、また高名であった験者の身分が明らかになるに従い、当主はかろうじて面目を保つことが出来た。とはいえ、卑しい身分であった験者などの言い草、いや、卑しいゆえに効をなしたのであろうかや、古次ら兄妹は絶縁、家屋敷から追放を余儀なくされた次第、まったくもって因果であるのやら、嘆くに嘆けん」


[305] 題名:妖婆伝〜その二十六 名前:コレクター 投稿日:2012年10月16日 (火) 03時09分

「ここでの暮らし、はや二年、温暖な気候だし四季の移ろいも明快だったわ。もっとも雨の日の多いが難点といえば難点、じめじめする上こまめに掃除していてもすぐあちこち黴びてのう、そんな日々に追われるまま、彼岸や盆、正月はもちろん月ごとの習わしに準じた家元の行事すらよく覚束ん、相も変わらず下働きに従事する身、催しの行なわれる日はそれはにぎやか、随分と遠方からの来客もある様子、とはいえわしは花を活ける席上に呼ばれた試しがない、華道の通人にはそこそこ名の知れた家元らしく、そっと覗き見れば、華美な乗り物のすだれがゆるり、艶やかな女人の姿、脇に控えし隆とした御武家、更には公暗和尚を想起させる高僧の立ち居、その後ろには見るからに富裕な商人がちらほら、普段とてほとんど家人の他に接する機会なぞなし、なにやら優麗な絵巻が庭先へひろがった按配でな、すっかり見とれてしもうた。
しかし四季折々の機微に接していたかと問われれば、かの訪問客を見物するに似て厚き緞帳で遮られており、風雨の眺めや寒暖は感じていたであろうが、ときに即した移ろいまでしみじみ実感してたのやら、どちらかといえば取り留めない想念に流されておった。きらびやかな人々の風姿がはかなく目の前から消え去ったように。
空模様の移り変わりは遅れてやって来た荷車みたいにわしのこころを占領することがあった。暗い影が落ちるばかりでない、平穏とも慣習とも異なる薄明るい道程をたどって、今ここに居るという感覚がほろっとこぼれれば、あたかも土間にしみ入る濃淡がみるみる間に確実となるように、決して安堵からもたらされたものでなかったが、さほど不安の材料にも思えなく、気休めは気休めなのだろうけど、不思議と日毎の生活に溶け込んでいるふうな感じがし、ふと空を見上げたものだった。そしておもむろに荷をほどく仕草をなぞるはいかなる所為ぞ。
源氏の君でもあるまいが独り、雨夜の品定めよろしく内弟子らを観察しておったのが懐かしくもあり、こうして現今もなんら発展せぬ情況に置かれているのが恨めしくも微笑ましい、はてこれは自嘲なるかや。
で、暮らしぶりにこれといった変遷がないのは、あんたも聞いててつまらぬだろう、何せここは竜宮城の影絵みたいな風情だが、ときの経過もこれまた緩慢、太郎翁は刹那を過ごして来たけど、影絵はそういうわけにいかぬ、色彩に乏しいだけ挙止は的確に見届けられよう、荷車の輪とて例外ではない、その車輪の回転をすっと速めてみようか、さすれば物語りは一気に滑り出す、その分わしも年をとろうが。
更に五年の月日が流れた。竜宮さながらみな老けこんでおらん、これは随門師を筆頭にしてじゃが、、、いやいや年嵩のごん随にせよ、おなごらはほんに美しいままよ。気だてはあの日以来べつだん変わるところなし、それゆえ連鎖は安定しておる、こりゃ皮肉というより諦観だわな。わしの後進なぞ現れるか半ば期待していたのだが、この不動の面々であるからこそ、これから話す奇態な展開を迎えられた。古酒が熟すよう、無論のこと、いわくありげな双子だの、年少であった機敏な目つきはどうなっただの、増々取りつく島がないのだろうかだの、つまるところ随門の正体はだの、悪酔いしそうな熟成はいたって健全であり、成るべきして成ったとしか言い表しようがないわ。
ほれ、もう一献どうじゃ、もたもたしておると夜が明けてしまう、酔いにまかせるのがちょうどええかもな、どれ、では愛しの阿可女との因縁へまわすとしようぞ。
おなごらはともあれ、下男の古次とは心安いとまではいかないが、挨拶の他にも細々したことを話すようになっていた。従前どおり実直一筋だったけれど、決して身構えているふうには思えなんだ、むしろ罪人として懲罰に甘んじた挙げ句なにやら清澄な空気に囲まれているような心境に達したのだろうか、最近では冗談めかしたわしの意見にも素直に応じてくれる。あれは一年ほど前じゃ、春の陽気の浮かれに便乗してこう尋ねたことがある。
ところで古次さん、罪を犯したって申しておりましたけど、そんなに悪いことしたのですか、ひとを殺めたとか、、、まさかね、だったら今頃は牢屋か獄門、でもここは御上から免罪符でも戴いているようですもの、いえ、わたしだって色々ありましてね、あら、そんなに見つめないで、、、そうよ、わたしだって悪党、仔細はお話できませんけど、以前は庄屋、いえ昔でいうところの地頭みたいな家柄でね、それはそれは恐ろしい屋敷でしたの、、、と随門師のもとに身を寄せたいきさつをかいつまんで聞かせ、妙や満蔵らとのただれた色欲をちょいとばかし抑え気味に、それとさすがに春縁殺しのいきさつは伏せておき、あとは記憶に沿おうが沿うまいが、いかにも虐げられたうえでの抵抗、うなぎの本性はあってなし、すべての罪科は不遇にあるとだと強調したのじゃ。
最初、驚きを装うた振りさえし、そのくせ内心はまさに驚愕そのもので、面に出てしまうのを危ぶんだ古次、初心だわなあ、間を与えることなく悲愁の面持ちでつぶやくよう、やがて潮が満ちるを真似て性急にたたみかけるよう、ほとんど哀願に近い声色でいつぞやの朝みたいに身を寄せた。一通り耳にしてなお物足りない様子がありありと窺えるのは効を奏したあかし、それぞれの顛末に疑問が生じておるのじゃろう、別にそうした心算が働いたわけではなかったが、疑問が残るのは当たりまえだわな、謎を明かせば忽ちうなぎが躍り出る。おおいに首を傾げていてくれればそれでええ、だが、間延びしてしまうのは茹で過ぎた素麺をすするごとくかや、疑念が点じている矢先こそ、話頭を転じるに格好と読んだ、そこですかさず、ねえ、古次さんだってさぞかし辛酸をなめたのでしょう、と一言、相手の瞳に吸い取られそうなか弱をさらす。あとは返答を待つのみよ。
さながら共犯者の心情、拭われるはずもない罪の精は時間の裁可から放免され、ある固有な形態に近づこうと躍起になる。そのとき、わしの大仰な悲哀はすっかり古次に絡みつき、耳目はもちろん小さな毛穴からでも菌が侵入するごとく乗り移る、これはあくまで側面の見方、異なる角度から判ずれば古次の理性が正確に動き始めたといえよう、邪性ではないよ、あくまで理性じゃ、そう信じることでようやくこの下男は汚名を晴らそうとしている、誰しも同じものを抱えておるわ、根っこに眠る生き物と共存せよ。ただし両目が爛々になるほど目覚めてもらっては困る、かといって惰眠をむさぼられては馬力どころか、鼻水も涙も出てこんわ。
ともあれ、企みというより咄嗟の機転は古次の胸を開かせるに至った。正直わしは有頂天だったわ、覆い被せたとはいえ、ここに来てやっと淡々とした日常から解放される、観劇の居住まいではなかったけど、まさか斯様な戦きの重しがのしかかってこようとは、このとき夢にも思わなんだ、、、」


[304] 題名:妖婆伝〜その二十五 名前:コレクター 投稿日:2012年10月15日 (月) 00時58分

「とまあ、その日はいつもの鬱屈した気分に傾くことなく、相変わらずぎこちなく間を置いた内弟子らに、わけても阿可女にはおそらくここに来てもっとも晴れやかな笑みを投げかけたのよ。怪訝な表情をしておったわ。古次と速やかに通じているなら、すでにわしの詰問めいた口ぶりは耳に入っていよう、しかしあの小さな困惑はどうして演技とは思えん。人間すきまをいじられると微妙な反応をしめす、日に日に落ちこんでゆくわしの顔色を順当と思いなし、説明し難いがそうした目色、なにやら透徹した意向があるとみて間違いあるまいて、その効果として意気消沈するのが自然の流れであったなら、わしの黄金の笑みはさながら気狂いに映ったのだろう。阿可女だけでない皆が同様じゃ、ほんのひとときにせよ、わしはようやく観察眼を落ち着きはらい持ち得た。あとは再び無言のあしらい、そして細々とした雑用は手厳しく容赦ない。無駄口のなかったのは幸いよ、お陰で悟らぬようちらり横目、あるいは遠目から素知らぬ顔で用をこなしながらうかがう機会は多々あり、それぞれの容姿を把握するとともに、その気質を汲み取とることが出来た。
とはいえ、所詮は阿可女のすがた追いに執心しておるのは認めるしかない、あろうことか一目惚れかや。いいや、初見に生まれるのは単なる偶然、しかしその萌芽に促されるものは、きっかけとして胚胎しているものは、かつて見知った面影に限りなく近いようで、実はとりとめなく、まだ見ぬ恋仲のひとを写し取っているふうな、恋情のみが募りだす悪夢に似てもどかしいばかり、二度三度よくよく注意し眺めるに至って胸にじんわり、気がかりな様、小雨に等しいわ。やがて強く激しく、ふと我に返ったときはすでに遅し、あらぬ恋ごころと訝るほどに初の対面が鮮やかによみがえる。気はそぞろ、掌はなにをつかもうぞや、小躍りしてみたくなる驚きとやるせない潤沢が交互に、もしくは入り乱れ、胸いっぱい。そんな胸中の片隅に忍ばす毒針、斯様な想いはまやかしぞ、仇をなす、害をなす面影にひと差し、するとちくり痛む、鋭いようで柔らかな痛み、不親切で得体の知れぬ、けれども不思議で美しい阿可女が恋しい。
わしはおのれを虜にした風姿なぞ見つめまいと片意地を張る、張ると同時にあの不安を肩代わりする仕掛けを思い出し、ちょいと舌打ち、が、この開き直りは理屈をくぐらん、新たな代替はごん随を筆頭に、の毛子、白糸ら三人の捨て置くには惜しい容色、まず随門師匠の姪御かや、しみじみうかがえば、なるほど年増に感じる所作がなくもない、顔のつくりは秀麗ながらいささか肌のくすみ、おしろいの按配を知るほどに残念なのは仕方あるまい、一見きゅっと雪を丸めたふうな美顔に感じ入れば、その控えめで優し気な目もとやつんと澄ました鼻筋の線の細さも可愛らしく、往年の色香が偲ばれるというもの。類推かや、違う、違う、熟視のさきに浮き上がって来るのは紛れもない阿可女のまなじり、やや吊った大きなまなこ、その黒目の存在に隠れ、いつぞやの柔和な笑みをもたらした、あたかも橋のたもとの緩やかな水際を彷彿させて、本来はたおやかであろうことを願わす滑らかさ。ちから強く届けられ勝ちなゆえに優しさをたたえることも、さっときつくもなる瞳に吸いこまれてしまいそうじゃ。天の悪戯か、それを補ってやまない一途に跳ねた、が、流麗な文字のような眉、、、いつの間にやらこの始末、散漫なるはていたらくかや。今は三人の門弟を、阿可女に勝るとも劣らないおなごらを鑑賞するのじゃ。
の毛子とは変わった名であるが、その由来を知り得るより、うら若さでいえば、とりすましたふうな姿勢についつい見失い勝ちであろうけど、おそらく一番の年少であるまいか。機敏な目つきはいかにも隙を与えない動きであろうが、裏返してみれば気弱なまだまだ神経の定まっていない、初々しさを、あるいは生娘らしさをよく示しておるように感じられる。わしに家事を申しつける言葉づかいもときにきつく聞こえるが、たとえば、小夢さん、戸棚の奥ですからね、間違わずに、と語尾をしっかり結んだふうではあるのだけど、ちょうど寒天でも噛みしめたように柔らかく、ひんやりした余韻を残し、それは冷たさというよりか、大人びた言い方を望んでいるようであり、その背伸び具合から少女特有の一途な純情がかいま見える。憂いを覆い隠そうと努める反面、より大仰に顔色へ浮かびあがる物怖じは、昨日今日の滅入りなぞ二三日もすればさっさと忘れてしまい、明るさを取り戻せる活力に満ちていようぞ、そっと沈める宝石のありかを信じていることでな。いらぬ事を口走ってしまった悔恨がすぐさま、陽気なさざ波となり、こころの乱れを穏やかに現すように。
雪肌とまではいかないけれど、の毛子の面や首筋には溌剌とした艶があり、ほんのり紅をさした唇の愛らしさ、頬にまで伝わったかの血色を讃えてやまん。怯懦ゆえの眼光を放っていた双眸は以外や小粒、ただ睫毛の張りは可憐というより勇ましく、このおなごの気性を物語っておる。小柄な体躯は肉付きがよさそうで格子縞の着物まで健やかに映るわ。さて少女の面影宿りしの毛子、わしをどう案じておるのやら、いやはや皆目見当がつかん、若さゆえの傲倨とてこちらの穿った見方も加担しているようにも思え、親和の情がない限り、まあ憶測を差し引いてみたとしてやはり見下した態度には変わりないわ、かといってそれが明確な敵意であるとは感じん、しばらく様子を見るとしよう。
白糸とはまた優美な響きを持っているが言葉の聞こえ、あまりしっくりいかぬわ。しっくりどころか苛立ちさえ惹き起こすあり様、そりゃ見た目には柳腰のすらりとした風姿、はかなげでありながら中々の存在感、あんただって道ばたですれ違うたら思わず振り返ってしまうじゃろうて、着物は銘仙で燻った藍色のべっ甲柄を一層目立たぬよう織られた白地の清さ、まさに呼び名にふさわしい着付けぶり、黒髪のちょっと湿ったふうなのも情趣に富み、これで流し目でもされたら背筋どころか全身おおいに感ずるに違いない。ところがこの白糸にはそんな風流な仕草なぞ微塵もないわ、白地が潔癖を主張してみせるようその性分ほんに汚れを容赦せぬ、自らの挙止は無論まわりへ対する落ち度や失策に情けはない、やり手婆とも厳格な武家の奥方とも似たる性情、あれほどの細かさは潔癖を通り越して痛々しくも剣呑じゃ。で、顔つきはといえば、決して鋭いまなざしではなく、眉間にしわも寄せておらん、いたって涼し気な表情を保ったままで、どこからあんないけずな文句が出て来るのやら、どうにも腑に落ちんわ。閉ざされた口もととて実に穏やかそうで芳しい、精々あらを探すのなら小楊枝を置いたような眉のかたち、、、ああ、またもや阿可女にそれと比較しておる、あちらは流麗ゆえ格好の対比じゃわな。
わしは幾度叱責されたことやら、思い出すと腹が立つばかり、もっともわしの方にしばしば不手際があったのは事実、悪感情を除いてみれば、さてどう察しようぞ。面映いかも知れん、しかしながら白糸の性分は激烈だろうよ」


[303] 題名:妖婆伝〜その二十四 名前:コレクター 投稿日:2012年10月09日 (火) 02時09分

「日頃より無口なのは心得ておった。饒舌な阿可女と生き写しの面を持ちながら古次はこうも違う性向なのか、よろめいたわしをその腕で支えてくれたまではよし、が、秋波を送るよりもっとそつない哀し気なまなざしで、めぐる季節の情感を精一杯演じてみせても、異性に、いや他人に触れるのが忌避であるような気振り、冷淡な目線に忠実なもの言いで返される。かんざしでございますね、よく注意しておきましょう。礼儀正しさもここまで極まれば、さながら朽ちて傾いた板塀を整える如く白々しい、腕を離されただけなのに一歩も二歩も退かれた思いがしたわ。
しかし、ここで下がってはおしまいよ、すぐに真顔に戻り色香をさっと引きながら、無心で相手の目を見つめた。本当に無心であったか、それは自分では分からん、だが少なくとも邪念は取り払ったつもりじゃ、寡黙な古次には姑息な手は通じない、ならば弁明はいらん、もはや目論見なぞどうでもええ。
身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、、、とやら。虚空を眺めているふうな視線は所詮空回りかや、故事は生きておるのか。一切合切捨てきれたのでない、菩薩が顕現したわけでもない、すべて無になってしまえば、なにも起こらんし、なにも始まらん、わしは永遠の静けさと縁がなかろうて、縁のなさが考えてもみなかった文句を口にさせたんじゃ、そうとしか思えん。
あろうことか算段において一番先に弾かれた愚直なうかがいが放たれた。古次さんは阿可女さんと兄妹なのでしょうか、とな。別に遠慮することでもなかろう、ただ新参者としての卑屈なこころが邪魔をしておったようじゃ、これだけ似ていれば誰だって口にしても仕方ない、そう仕方ない、古次の返答は面倒くさい、渋々といった調子で、はい、おっしゃる通りです、ことさら迷惑でないが、わかりきったことをまたぞろ持ち出されたというふうな面持ち、白々しさに加えて、こればかりは主従の立場から切り離され上位に臨んだと確信された嫌に低く明解な声色で、皆様はよくこう申されます、双子であろう。
ああ、日頃の煩悶やら、真理の探求めいた思惑がまたたく間に蒸発してしもうた。混乱と疑心で濁らせた浅き水たまりをな。で、景色の見通しがよくなったといわれたら、残念ながらそうじゃない、濁り水こそ体のよい隠れみの、臆病風の立てゆくさざ波に準じておる。要するに謎解きの看板を掲げることで不安を打ち消していたわけじゃ、焦眉の急でありながら地面の石ころを数えておるような薄ら寒い呑気さ、その場しのぎとも呼べん無邪気な発心、思えばこれまで似たような代償を重ねて来たわな。無心を軽く剥いただけでぼろが出た、底抜けに馬鹿くさい運命に対する好奇心、当然ひとりよがりの懊悩、毛が触れたくらいの痒さを痛みにすり替えては悦に入っておった。じゃで、たった今のうれしさはそんな空疎なからくりが吹き飛んでしまったよろこびに他ならん。たわいもない、、、
そうなると小夢を演じるのも投げだしかけない口調になって、いかにも関心あり気に、装うことを忘れた年増女のずけずけした問いかけに等しく、では双子なんですね、最初からそう見えますもの、いえ、訳ありなんてこと言いませんけど、同じ屋根の下に身を寄せてながらも、内弟子と下男ではねえ、、、あとを埋めるのは古次の役目であるよう下卑た余韻を忘れない。訳があるから身分の隔たりが生じているはずよ、ここで遠慮しておくのが人情、だが、わしの跳ねっ返りは悪意すらはらんでおらんのか、臆面もなく、古次の表情の変化を見つめていた。よそよそしく感じられた態度とて実はわしが過分につくりあげたのなら、相手の反応は自ずと明らかになろう。そうじゃ、困惑しつつも下男の身を嘆くよう事情を話し始めるのか、随門の命であるからとか適当な逃げ口上に至るのか、古次にとってはふたつの選択があるのだが、わしにしてみればひとつの方便があるのみ、無慈悲な好奇心の刃によって謎はさらけ出される。安寧を置き忘れた鞘と共にな。
覚悟と映ったのか、それならそれで微笑ましい、どちらにせよ、関心の的はわしの胸に収まっておるはず。たどたどしくてもかわまん、出来うる限り不幸な生い立ちを聞かせてもらいたいものよ、さもないとただの暇つぶしでしかないわ。確かに古次と阿可女は寸分違わぬ美貌を持ち、わしを魅了する、が、異性も同性も女体を通じてここまで知って来た、そう簡単に見た目の美しさで惑わされるのは心外、おまえの容姿は鏡に映えるだろうが、影に振幅は備わっておらず時間を知らん、わしの感覚が刺激されてようやく線になり、その線が震えることで十重二十重の輪郭を生み出し、ひかりを放つのじゃ。
あらかじめ用意され整った器量なぞ幻影よ、更なるまぼろし作りとあんたは言いたそうだが、わしは時間の翼に触れておる、かつてあった美貌を含め重層的な光景に出会う、その為に悲劇は細心の注意をはらって正統な綾を紡がねばならん。お分かりかや、ほんの立ち話、交情となる、よろこびは地面に転がっているのじゃ。古次には分かったろうて、理屈でないよ、わしの絶望が、、、おっとまえにも言ったわなあ、絶望するのだって馬力を要求される、夜が深まるから脆弱さを売りに出歩くのでない、意識は研ぎ澄まされ余分な脂肪がそぎ落とされることで身軽になって、神経に働きかけようぞ、眼ではとらえられんもの、そう、幽鬼の気配が迫り来れば理知は放擲され、美醜の判断は厳粛な無知に委ねられ、こみ上げる官能に守られて、切ない情趣に結ばれるのよ。恋心の彩りと伴走するのは紛れもない、哀しみじゃ。わしはその音色を好む。
ほんのわずかだけ萎縮した古次、早朝の冷気に身を縮めたというふうで、けれどもわしの気安い口ぶりが功を奏したのだろうか、低い受け答えから変調、若者らしい陽気で屈託のない一面を披露する。血色のよい唇から白い歯がのぞくと、朝陽のまぶしさにときめきを覚えてしもうたわ。
委細は語れませんが、わたしは罪を犯したのでございます、、、阿可女とわたしは師匠の裁定のもと斯様な境遇に甘んじているのです。と古次の言い様にためらいはない。なるほど、そう来たか、委曲は尽くせんが、随門の圧力は明快に知らしめておる、鮮やかな返答じゃ。兄妹間の咎とやら、空想の俎上に見事乗ってくれた、悲劇の幕開けにふさわしい、いずれはその顛末もうかがおう。ひとり合点、晴天に届けたい気分よ。
特に不審気な顔つきも見せぬ古次、なら憚りもなく続け様にごん随のゆえんも訊いてみる。噂好きの無粋なおなごと思われてもかまわん、だが、いくらかは遠慮した目つき、斜に下げまだ濃くはないおのれの影に問うよう。すると思いのほかあっさり、ええ、師匠の姪御にあたる方でしてゆくゆくは家元を継がれましょう、なんでも早くに両親を亡くしましたそうでここの最古参、御若く見えまするが。
これには得心と同時に少々驚いた、成りゆきで古次の年を尋ねてみたのじゃが、この香り立つような美青年はしっかりした雰囲気のせいか以外や大分わしと離れておる、ならば阿可女もかや、このふたりと比べてごん随はさほど年増とは思えんかった。年格好が似ているはずの阿可女はまだまだ妙齢、その年頃と大差ないと踏んでいたごん随はかなり年配、してやられた感を禁じ得なんだ。もっとも随門師にしてからその風貌老いを駆逐せん面構え、華道に専心する身はかくも若々しいのだろうか。なら阿可女は駆け出しかや、で、古次が口にした罪とは如何なる、、、疑心暗鬼から転じた好奇はするりと桃の皮が剥けるよう小気味よい手応えになった。今日はこれくらいにしておこう、深追いは禁物じゃ、まえの屋敷でもう懲り懲り、どこに探索の眼が光っておるかわからん。けども阿可女の美貌、古次に被さったとはいえ、やはりこころ惹かれているのか、としたらこの華やぎとまでは行かないがこざっぱりした気持ちは、、、そうようなあ、まるで夢の情事のあとさきみたいじゃ」


[302] 題名:妖婆伝〜その二十三 名前:コレクター 投稿日:2012年10月02日 (火) 03時26分

「夢の明晰さとはうらはら、翌朝の身支度ともども細々した光景はどこへやら、よほど意気込んでおったのか、さては緊張かいな。朝の挨拶にうかがったはずの随門師の面持ちも忘れてしもうとる。これから如何なる生活が、いや、境遇が待ち受けていると案ずれば、身のまわりの些事なぞ眼中にあってなし、もっともまなこはしっかり見開いておるものの、ちょうど浮ついた気分に等しく収まるべき視点が結べんかった。唯一中庭にさほど大きくもない池があり、朝陽を勢いよくはね返していたのがまぶたの裏にきらきら、魚影を探るのが努めであるかのようにじっと見つめた素振り、気恥ずかしくよみがえってくるわ、空疎な居ずまいよ、反照のまばゆさとてわざとらしい、池の水面を撫でゆく微風の思惑にさえ及ばん。
思い出のひとこまは隅々まで、そうじゃ、四角であろうが楕円だろうが、その鏡に映りこむ様子は常に曖昧模糊として、中心あたりにだけ華やいだ色彩を残していったようだわ、華やいだといってもどぎつい印象の域を出んかったし、そう照り返すのが宿命みたいなものじゃったから、一見あわてているふうで内心は落ち着いていたかもな。回想とは緑葉を透かし見るに似ている、薄様に遊ぶ影とともに。
とにかく昨夜の心持ちから少しは解放されていたようだわ、それくらいの記憶は留まっておる。
ちょいと町並みを、なに、これは後々見知った景色じゃ、あんまり外出する機会はなかったけれど、一応説明しておこう。
険峻な道中、まことにもってしかりじゃなあ。そよぐ草木はおおよそ浜風のしわざ、そろそろ秋の気配が近づいてはいるが、見まわすまでもない、三方押し迫るような山々の濃い緑まだまだ陽光に甘んじ、白雲垂れながら均一な青みを失わん空模様、稜線を明確に描いてやまん。ひとっ飛びに駆け上がりたい衝動がわいて来るのが自然よ、可愛らしい笛の音を想わせとんびが旋回すれば、空の高みに吸い込まれ、遥か彼方まで舞い上がって行きそうで気分爽快、消えた鳥のゆくえを追いながら、南の方角に白浜を覚える景観、猫の額ほどの平地に民家はところどころ寄りそっておる。山肌が間近に感じられるくらいじゃで、河川の水かさも雨脚に左右されるとみて、三つの川は中々幅があり流れも早い。北の縁には神社仏閣、そこから浜に至れば、ちいさな港ながら漁師に交じり商いの衆も少なからず、桟橋より船着き場に沿って遊郭の並び。随門師の住まいからは色町を望めんが、裏山に、山というても小高い丘ほどでな、そこからゆき交う船の影がかろうじて認められ、陽の傾くころ合いには灯火が一列に浮き上がって見える。初めての晩に誘われた潮騒とて滅多に届いては来んのだが、あれは夜風の加減かのう、それと潮の香りもいつしか気にならんようになった。慣れは良いものじゃ、耳鼻に伝わる刺激をまろやかにしてくれる。もちろん気持ちの変化にも、、、
さてと、町案内はそのうちあらためて、悠長に語りたいところじゃが先に進もう。この屋敷の主は紛れもない華道の師匠、広々とした庭園には季節の草花がところ狭し植えられ、門弟らしき人々の出入りは頻繁でな、阿可女の他に内弟子の女人三名、住み込みの下男、おっと、追々詳しく聞かせるがこの下男、まるで阿可女にふりふたつ、いやはや双子といわれても異存ないわ、これらの者が甲斐甲斐しく立ち働き日々精進しておった。というのも、まえの屋敷とは異なり少数精鋭なのか、質実な家風なのか、飯炊きはむろん清掃に洗い物それら家事を下男ととも実にきびきびこなすのじゃよ。役割分担をするようでな、向こう何日はこれこれの担当と決めておる、わしは不慣れどころかお人形さまで通して来たからのう、ろくすっぽうお茶もいれられんかった。
随門師、阿可女らはその辺の事情を分かっていたのか、平身したくなるほど気優しく対応してくれてのう、じきに手足が慣れるでしょうから気楽にやって下され、こう申す始末じゃ。更に感激したのは、追って花の方を修行される身なれば日頃の手仕事はその下積み、わたしどもと一緒に専心いたしましょう、生真面目な表情の中まさに花が香るような澄んだ色の声、目線を合わすにもうしろめたい気がしていたら、すっと手を取って、しみじみ見つめられる、が、なんとも名状し難い気後れに反対にほだされ、涙腺がゆるみかけてしもうた。知らぬ間にわしを取り囲む人数、阿可女に手を握られたまま見遣れば内弟子のすなわち、白糸、の毛子、ごん随の三人だったわ。その刹那あたまをよぎったものがある。そこそこの門構えながらこじんまりした一統、しかし濃密な人情、修行一筋、質素倹約な様相があまりに奇麗すぎる、、、ああ、又しても陥穽かや、、、
懸念を保つ間はないはずだった。とにかくわしは我武者らに働いたからのう。決別と呼ぶべき夏はとうに過ぎ去り、山々も庭の景色もすっかり紅葉に染まって乾いた空気がときおり鋭くひやり、天高くも気分はそぞろ、いやいや、精進したつもりだけれど日々の働きが板につけばつくほどに謎めいた箇所が立ち現われてくるものよ、夕餉の片づけなり湯殿の支度を終えると、内弟子らは随門師の部屋へ籠ってしまう。日中も手のあいた者は教えを乞うておる様子だったが、当然わしに声はかからん、と同時に阿可女らの態度に嫌みや蔑視はないものの、先日の激励の口調とはいささか距離があるよう感じる、これも精神鍛錬かとおのれに言い聞かせてみたが、胸のうちは穏やかでない。はっきりはしておらんけど下女扱いにしか思えん、普段の会話なぞまるでない、ここは修行の場、言葉をひとつ交わすのも作法ありきかとうかがっていたんじゃ。ところが実情は違う、わしがいてもいなくても内弟子らはなごやかに無駄話しに興じておる、別に下女なら下女で上等なんじゃ、こうして住まわしてもらえるだけでありがたい、今更こんな愚痴を吐ける身分でないわ、三たび修練と思いなし、阿可女たちの顔色から目をそむけようとした。それが逆に増々不安を募らせ、考えたくもない陥穽という言葉を呼び戻した。次の日からはあたまのてっぺんに穴が開いた気がし、ぼんやりと蓋を探しておったわ、、、ああ、さほど苦痛でない、むしろ自由であるのかも知れん、そこで手持ち無沙汰なればあれこれ考える性癖がもたげて来たというわけじゃ。
いいや、食い物のことではないわ、聞かせた通り質実な生活、取り留めまでもなし、ましてや生唾をのむような珍味なぞあり得んかった。まず内弟子のひとりごん随がどうもその名から察せられるよう近親者であるということ、それに下男の古次の容貌、見れば見るほどに阿可女そっくり、この二件が気がかりで仕方ない。まさか新参のわしから他の誰かに、そうなんじゃ、他にっていうてみてもわし以外は鉄の絆でつながっていて、とても割り込める余地はない、ここはひとつ空想をめぐらすかと言いたいけど、置かれた場所が狭すぎては羽がはばたけん、黙って精進するしかないか、余計な神経はもう沢山、そうだったわな、と諦めかけたそのとき、まさに天啓じゃ、場所のせいにするとは情けなや、ありきたりに直接に真意を問うなど愚の骨頂、誰彼でないわ、どうやったら謎を知り得るか、その為にはどうしたらよいのか、考えてみればよい、すでに実証済みだろうて、妙の裸を想像してから交わりに至るまでどのように勘案したのか思い出せ、欲情にほだされた故であったが、今の疑問とて衣服のすそをめくるような色香を含んでおる、さあ、そこからはとんとん拍子で、あたかも血のめぐりが良くなった指先の如く動き始め、事は算段された。
一か八かの賭けに等しかったが理はかなっていたわ。つまり随門師をのぞく異性は下男の古次しかおらん、色仕掛けすれすれですり寄れば他の者より胸襟をひらくであろう、よもや衆道では、いや、それはどうだろう門弟は子女ばかり、男色の輩が斯様なところで燻っておれるものか、待て、随門師の相手だとすれば、、、これが賭けよ、とはいったものわしはそれとなく古次の仕事振りを眺めておってな、随門師の身辺はやはり内弟子らが世話をしていて明らかに下男の出る幕はない、これも偽装だと疑ってみるのはどうかや、人の出入りする日中はともかく夜間まで一体誰を欺く、まさかわしをかい、通達はなされているはずじゃ、わしに関する様々な事柄は、、、これで決まりだわな、さあ後は古次に接近するきっかけ、、、あんた、歯がゆいだろうから、行動に移したところまで端折らせてもらうよ、はははっ、、、
冬の冷たさを先んじて感じる晩秋の頃、長雨の日が続いたある日和、早朝など吐く息が白くなるよう錯覚してしまう。これはいい按配じゃ、ふとした思いつきを胸にかねてより暖めておった企てを実行するときがやって来た。薪割りやら落ち葉集めに精を出す古次、その日わしはなくし物をした振りで挨拶もせわしなくあたりをうろつく。下男らしく寡黙な身構えはかえって好都合、小声で、ほとんどつぶやきでかんざしを探す素振り、執拗に。
渦巻きに乗った小舟が中心に運ばれる如く、わしは古次に歩み、つまずき、よろめいてその腕に支えられる。はっとした目のひかり、吐息は白く、だが情熱を秘めたくちびるの紅い艶は古次の眉間にとまどいを、頬に証明できぬ親しみを投げかける」


[301] 題名:妖婆伝〜その二十二 名前:コレクター 投稿日:2012年09月25日 (火) 03時04分

「険しかった山道に懐かしさを覚えてしもうたのは、木々が恭しく退いたよう一気に眺望が開け、西日を受けるまばゆい緑の残像によるもの。それは眼下にひろがった海原の深い碧さへと吸い込まれてしまう鮮烈な色の後退であり、ときめきにも似た惜別の情だった。
駕篭かきふたりはさして屈強な風体ではなかったけど、陽の落ちるまで二十里の道のりを辿ったのじゃから恐れ入ったわな。もっとも港町までの距離はまだまだありそうだし、地名すら聞き及んでおらんかったから、ひょっとしたら公暗和尚は適当な里程を口にしたのかも知れんわ、が、そんな疑心を持ったところで別段どうこうない、今この眼をきらきらと輝かせている波間の反照の遠さに意識は占領され、あたかも夜空に散らばった星の瞬きによって暗黒が至上の背景となるごとくに、こころの闇はのっぺりしていた。いずこまで連れて行かれるのやら、、、憂慮を抱えているにもかかわらず、目覚めを告げる鳥の声を半ば疎んじているような、それは時間の上澄みにも感じられ、たとえば納戸に入りこんだときのくすんだ色彩が漂う暗がりであったり、散策の道ばたに落ちるおのれの影に捕われし蟻一匹だったわ。
長閑な風情をたぐり寄せておったわけじゃない、悠久の夜空より初めて眼にする海を、陸地がすっきりと駆逐された広大さを、だが一層こころ揺らいだのはその計り知れない深さの底に棲息するであろう、魚介の類いに得もいわれぬ親しみが湧いてきたからだったのじゃ。うなぎの先祖帰りかや、説明つかねばそれでええ。
すっかり陽が沈んだ頃、とある門口に駕篭はその任を終えたとみえて優雅に、しかしながら地面の固さを重々に思い知ることで到着の合図がなされる。取り次ぎの声色もまた労をねぎらいつつ、暗黙の了解を得たふうに見知らぬ土地を伝えば、さっと身震い、すだれをおもむろに上げ、人影をうかがう。先入主の働きであったわ、駕篭かきを迎える図には警戒心のありそうな面構えが相応しいもの、それゆえに男衆の声と聞き及んでしもうたのは早計、提灯片手に夜を背負うておったのはわしと同じ年格好のおなご、しかも華道に従事しているせいか、いやいや、これは思い込みでなく、提灯ばかりか軒先に灯った明かりはその姿態を余すところなく照らし、実にたおやかな立ち居、うっとり見とれてしまいかけた。ああ、そうだとも、ことさら妙の面影を擁しているわけじゃない、なのに彷彿させるものはあの貝合わせ、生々しい想い出である一方、沈みゆく苦みを含んでいながら甘露であり続ける余韻が偲ばれる。女体同士の戯れなどまぼろしだったのでは、、、花咲く影がわしを迎えてくれた。駕篭を出てから挨拶するべきだとちょいとあわてたのがいけない、足がもつれつんのめり無様に転んでしまってな、それでも目線は相手からそらさず、あらまあ、と驚いた表情の、崩れかけてもなお気品ある美貌の虜になったようで、失態を恥じるよりか、道中にめぐった思惑にそそのかされ、地べたに横たわったまま軽く会釈したんじゃよ。
すると増々怪訝な顔つきになりかけて、涼し気な目もとが冷ややかな蔑みに至ろうかと観念すれば、さっと雲間から切れ味のよい陽が射すよう、にこやかにおじぎされる、内心おかしくて仕方なかったのかも知れんけど、わしには天女の微笑みにさえ映ったわ。それが随門師の内弟子のひとり、阿可女との出会いじゃった。すぐさま起き上がりかけたところ、手を差しのべられ、そのさきの細々した箇所は忘れてしまったわい、理由は簡明よ、気が動顛していたんだろうて、阿可女の出迎えもその一翼だったが、空想していた不穏な空気を感じとることなく、深みを怖れていたばかりに、そう海に対する感銘もただ雄大であるだけじゃない、底知れぬ不気味さを隠蔽しようとする努め、都合よく浅瀬につまずく失態を演じ、妙のまぼろし、面映げに浮き出てくるあたり、想像の産物とは所詮たかがしれたものであったかやと残念がって、最悪の推定を払い除けようと執心しておったのが露呈してきた。早い話し安堵したのじゃ、門口にたどり着いただけでと思うだろうがのう、右も左も、天も地も、人情も邪心も分からぬ身、たったひとつの口実を頼りに生きるしか能がなかった。こう言うと神仏祈願の原点に降り立ったみたいだがな、うなぎの化身からしてみればさほど奇異でもあるまいて、奇異なのはわしのこころに巣食う魔性よ、あくせく働いてみても空腹にならず、そよ風が心地よい部屋なぞで昼寝をしておると猛烈に腹が減る。
とまあ、今は内観でもあるまい、気は的確かつ好都合に動顛し、いよいよ随門師との対顔となった。夜分のこともあり、踏みしめた畳のへりにもろ助の亡霊がひそんでいるのでは、そんな取り留めもない考えがよぎった記憶はある。阿可女のうしろ姿も思い出せるわ、亜麻色の着物が灯火にやんわり染められておるようでなあ、そのほっそりした襟足の白さは際立つのでなく、同じ灯火のなかで肌がしめす変化を見せまいと耐えているふうな情趣があって、なぜかというに、肉眼には映らないだろう薄紫の細やかな血の管が首筋にそってしたたり、まるで阿可女の炎が透かして出ている、ぞっとするほど陰惨な雰囲気にのまれそうでな、それでいて化け物じみているわけでなく、あべこべにか細い筆先で描かれた水墨画の幽かな儚さを宿しておった。美しいが故に近寄り難い、今から振り返るとあのおなごの気性を現していたのかもな、そして何より真に近づくことの出来ない小夢の幻影でもあったと思うのじゃ。
随門師はなるほど、公暗和尚に通じる柔和で従容とした物腰だった。もっともふくよかな容貌でなく、痩せぎすな体躯に細面、双眸も鼻すじもそれにならえで、上唇の薄さに至っては冷酷無比を地でゆく面相だけれどな、還暦はとうに過ぎただろうが肩にかかるところで切り揃えられた黒髪の艶やかさ、存外しわの見当たらぬ美点と相まって表面上は狷介な性分までに留まり、老醜をさらしておらん。ときおり定まる眼光も片意地から来る鋭さと判断したら、年寄りの頑迷はごもっともで、尚かつ華道ひとすじに打ち込んできたであろう生き方、風貌の是非を問うまえに慮るべきぞ。
謡曲に準じた古老の声のかすれにとげとげしさを感ずることのないよう、随門師が醸すものは朽ちた生花の哀れであり、向後も生けられる草花と共に分かつ命だったから、わしにはおっとりした様子に見えたのだろうか、とにかく尻からうの字は出さんでも済みそうな予測を素早く呼びつけた。その夜の夢見はありありと憶えておるわ。
夢の導きは紛れもない潮騒じゃ、闇のなかに白紙がひらり、一文字大きく書かれているのだが墨汁の性、暗黒に即してなかなか読みとれん、おまけに風もないのにふわふわ舞っている。つかもうと足掻くほど白紙は逃げてしまう、そこで仕方なくふて寝したんじゃな、眼は開いておった、いや閉じていたかもな。そのうち顔のうえにひらひら頬に乗っかったから手にし、じっと見つめた。そうなんじゃ、文字がざわざわ動いておる、更に凝視すれば、なんと墨汁ではない、この漆黒は蟻の大群のひしめき、夢と書こうとしているのか、ほんに単純だわな。わしが最初に知った文字だった」


[300] 題名:妖婆伝〜その二十一 名前:コレクター 投稿日:2012年09月18日 (火) 01時43分

むき出しにされるべき情欲は何者かと取引を交わしたみたいにすまし顔であった。背徳と淫逸に彩られた小夢の境遇から目をそらすのは、絵空事だということを知り尽くしているような矛盾で成り立っており、それ故、割り切れない胸のうちに居座る影は赤みを帯びて、隠蔽されたものを羞恥に委ねていた。多少は心苦しく、何かの弾みによって空中分解してしまいそうな、弱々しくも大胆な思念を下敷きにして、、、自分の本心を見つめられないのでなく、その視線には歪みがあるのだと生真面目だが、とって付けたような口実を設けている。
列車を待ちくたびれた旅人が無聊を慰める為、辺りの草花を何気にむしったりする些細な歯痒さがあった。無頓着でいながら、途上にある焦りを軽減させる算段は、こうして旅情のふくらみの中にひっそり息づいて、ときおり新鮮な追い風が身を撫でてゆけば、そのこころは内側から針でやんわり突つかれるようなあくまで微弱な痛みを覚えるのだった。
峠を間近とするにもかかわらず、語りから抜け出てきた不逞の徒に足止めされているのが心地よい。しかし、この小さな秘密を面に出すわけにはいかなかった。夢が覚めてしまうのはつまらない。自分は今、夢を見ているのだ。寝言をもらしてしまう前にひたすら耳を澄ますとしよう。老婆の眼を覗くよりさき決意というほど芯は固くなかったが、おもむろに舟虫の横顔を見た。常に憂いと同居しているような冷たく美しい睫毛が静止している。瞬きを忘れてしまったのだろうか、、、

「ちっとは気分が落ち着いてのう、とは言うても休憩の折に見晴らした裾野や、夏の終わりを静かに告げている抜け切った末の空の深みに感じ入っておったわけでない、静かさを覚えたのは投げやりな心持ちが提案した妥協に過ぎん。いくらか景色もしみ入ったろうが、ほとんどその眺めがよみがえってこんところをみると、やはり引きずっていた不安に呑まれそうになるのを危ぶみ、その葛藤を経た意識が織りなした正絹じゃろうて。濾過される岩清水のように、不穏な境遇も時間が純化してくれるのじゃ。まあそうとでも思わんとやっておれんわな。
道中あれこれ巡ったなかで一番の妙案は、これからどうあれ、公暗和尚と随門師との繋がりにおいて、ようは隠匿なり保護だとしても、それはうわべの名分でしかなく、とてもじゃないけどよい展望が開けるとは思ってなかったからな、身売りでもされた傷心をなぞっていたのよ、ひとごとみたいに、すると面白いもんでな、どうあがいても不幸にさらわれてゆく道のりが、まるで脇道を早駆けするごとく先んじて見渡せ、どん底に手をついて跳ね上がったみたいな実感を得たんじゃ、そう、身もこころも。
愉快ではなかったけど気は紛れたわい。うなぎ時代からここまで実に変哲な生き様でやってきたわけだからのう、案外幸せなぞというものはこんなみすぼらしい空想のうちに芽生えるのかも知れん。だが、すでに出来上がっている、そうだねえ、浮世絵をまねて描いてみても最初は楽しいだろうけど、そのうちおのれの領分が逆に侵略されてしまったふうに感じてくるんじゃなかろうか。寸暇を惜しみ、手間ひまをかけ、精進した挙げ句に悟るのは先達の器量以外でしかない、模倣を修行と捉える向きもあろうが、わしには理解できん、写経もそうじゃ、もっともあの頃は文盲に近かったけど。
そんな馬力を出して何処へ行くのやら、、、天空を舞うのかい、それとも大地を徘徊するかのう、突風にあおられて居場所すらなくしてしまうのが関の山、で、わしの言いたいことはじゃ、生半可な空想ではいかんと、みすぼらしくともな、果たして空想に外見がありうるのかどうかは別にしても、とにかくこころの羽ばたきまで狭めるような、あるいは狭められる状況は打破せねばならん。たとえ侵蝕を免れない事実を想念として予期していても、その想念は同一でない、価値にこだわっているよう聞こえるだろうが、大事なのはそうでなく意義でもないわ、生まれ変わりの身分として傲慢であろうがこれだけは聞いて欲しい、如何にも自然をないがしろにした意志のもと挑んだ悪行であったけど、生命の自然な誕生と比較した場合、この意志はむろん重要な位置をなしておらず、かといって取り立てて下等な部類でもなかろう、誕生に善し悪しがあるなら、それは他者がそれぞれの思惑において勝手に決めつけているだけよ。想念のいわれも同じ、あらかじめ配備された仕掛けを滑り落ちてゆくしかないと嘆くなら、嘆けばよい。わしはそれを模倣と呼ばん、呼びたくないのじゃ、拒絶の態度こそ意想であり、出来上がりに対する挑戦よ。別にあんたの同意を求めておるんじゃないよ、これはわしによるわしの戦いだから、あんたや世間に声高に向かって訴える問題ではない、ああ、ついつい興奮してしもうた、勘弁じゃ。分かっておるとも、侵蝕も自然と歴史の一環だから。
さて、わしは最悪を推定しわい、もっとも半ば自虐の笑いを伴っておったがな。こうした設定じゃ、もろ助の死があぶりだした呪詛は、わしら河川に棲息していた一握りのみ知るところ、しかし、高僧と師匠やらがその秘密を嗅ぎつけていたならば、、、一理はありそうだわな。ただならぬ因縁があるからこそ春縁との関係に触れることなく、また駆け込みを決したわしの扱いにも慎重であった、そう解釈するなら自ずと奴らには目論見があっての裁断となろう。いやはや、恩人は舌先の渇かぬうちに敵方よ、それもふくよかな想像の産物、呆れるくらいの推量の道筋をたどるわ。
まだ見ぬ随門師の面影はわしの脳裡に浮き出ておった。公暗の知己とも配下ともその辺はよく分からないが、まったくの他人であろうはずはなし、目論見を共有する仲間とみなして間違いあるまい。そんな顔はすぐさま浮かび上がるわな。いや、容姿はどうでもええ、肝心なのはうなぎのうの字が、実物のくねった長さから寸断され、声として空間を伝わるのか、以心伝心に有無を言わさずもたらされるのか、いずれにせよ、押し殺したような雰囲気のかもす緊張に戦々恐々とした相手の顔色が待ち遠しかったわ。
随門師が黙念先生の呪詛を知っているとすれば、尚のこと事情は入り組んで来る。それとも先に話したようすべてがまやかしなのか。としたら、ただ単にわしの幻想に収斂するだけだろう、が、他者は絶対にそんな戯言で重い腰を上げたりしない、ここはひとつ確信であるという路線で行こう。
緊張はそのひりつきの快感を残し、あたかも昆虫が脱皮するごとく姿をくらました。ああ、そうとも半信半疑とはいえ、目の前でもろ助が頓死しておるのじゃ、迷妄であることに手を合わせたいくらいの怖れも残存して、ひりつきをより高次に仕上げてくれている。そして、わしの畏怖に間違いなければ、うの字を発するかも知れぬ随門師にも命の保証はない。痛快極まるところだがなあ、反対に一切そうした実情へ近づく素振りがなかったとしよう、あくまでこちらの出方を観察する腹づもり、息がつまりそうじゃ。なら、うの字の代わりにこう言ってやろうぞ。
長々と喋りだしそうな口ぶりをもって、おなごのしなをわざとらしく作り、わたしのお尻から出してみましょうか、お師匠さまの禍いと幸いとを、とな。面白半分、興醒めに至るわ」


[299] 題名:妖婆伝〜その二十 名前:コレクター 投稿日:2012年09月10日 (月) 16時14分

雨上がりの気配を宵の口に感じるのも悪くない。鉛色の空が青みがかる、何となく得をしたような、憂いの置いてかれたような風色と違って、夜空にはさながら寝入った幼児の夢見がひろがり、底辺に遊ぶ重しをなくした初々しくもしめやかな混乱があった。静けさだけを取り柄とした、そのお陰で別方向からやってくる侘しさの斉整を引き受けなければいけなかったが。
ひとり夕餉をいただき杯を煽る。最初は申し訳なく、気まずく、遠慮がちであったけれど、酔いの手助けもあり、客人という大義名分を鵜呑みにするのが酒の味わいだと、不敵な思いに駆られだして、老婆、舟虫と酌み交わしている情景のなかへ埋没し始めていた。少しの違和も生じないのが不思議といえば、不思議だったが、日中からのときの経過はあまりに間延びしていたのだと想いなし、奇妙な物語の変遷に現実の時間をはめこむ没意義に頷けば、ほろ酔い気分もまた小夢の語りに含まれている気がした。
「この分でしたら明日は晴れるでしょう」
停滞し続けよう努めている流れに逆らってみたくなったのは、いくらかの気恥ずかしさがあったのだろう。折角うつつを抜かしているにも関わらず、わずかの呵責を口にしてみせる小胆、自分から話題にするのは無粋であり、下手すれば二人のもてなしを損ねてしまいかねない。どうしてそんな早まったことを言ってしまったのか。
「どうかいな、この辺の天気は変わりやすいのじゃ」
「明日は明日よ」
案の定、苦々しく半分呆れているふうな返答が寄越された。
「はあ、そうですね」
実に情けない声で了解してみると、不意に異なった考えが横切った。先を急いだわけでない、峠越えに縛られているのでもない、あべこべにたゆたっているこの現況へ執着しているのだ。胸の片隅では明日も客人のまま留まっていたい、例えまやかしであろうと半睡の情態が恋しく、それはたなびく霞の向こうで悩まし気な顔をした舟虫であり、語りのなかに棲む小夢であり、つまり自分を取り囲むすべては決して色褪せてはならないのだった。村はずれに、山々の遠方に、鉄道のゆく先に、風の彼方に拡散する願いより、妖しい気流の渦巻いく辻に立ち、こじんまりした、けれども無限の謎をはらんだ四方を見据えていたい。
「ひとり酒もなんですから、ご一緒しませんか」
今度は卑下でも気詰まりでもなかった。沸々と体中の毛穴から立ちのぼってきた酒気は責務になって、素直な心持ちを後押しした。夢に呑まれていたとしても、自分はそこで出会った者らと触れ合いたかった。悪鬼であろうが、妖魔であろうが、ひとでなしであろうが、、、
「あれま、心遣い、それじゃ、相伴にあずかろうかねえ。舟虫や、杯を持ってきておくれ」
すくっと立ち上がった舟虫の姿勢は健気で、その足もとに落ちた影は濃く、畳の目を美しく覆い隠した。
「あんた、いける方だね」
老婆は舟虫の影から這い出したふうな、それでいて悪びれてない様子をまるで写し鏡にしてみせる声色を使ってくれた。駆け出しの気分を、夕焼けに染まった始まりの情趣を。宵の色は残照なしに見届けられない、生酔いが頬の赤みをともなうように。
「いえ、それほどでも。それに随門師匠でしたか、のちの経緯を聞きたいものです」
「そりゃ、殊勝な心掛けじゃわい、はははっ、酩酊してしもうたらいけんわな」
果たして老婆の昔話しは今夜中に終わるのだろうか。疑心を抱くことすら無駄であると思いつつ、あきらかに自分は百歳を過ぎてなお闊達な口調に委ねていたけれど、そのわけは念頭に上らせるまでもない。
「ばあ様は冷やでよかったわね、あたしも」
口のなかは熱を帯だしていたので自分も同じものを所望した。井戸水か湧き水にでもさらしておいたのだろうか、きりりと冷やされたその舌触りに驚いた。しかし、冷酒に感嘆した素振りはあえてなおざりするよう、神妙な顔つきでちゃぶ台を見つめていた。相伴とともに語りが再開されることを望んでいるふうな装いだったが、他でもない、先程まで右隣に座していた小夢のまぼろしに成り代り、あたかも前世からの約束事であったかのように舟虫が寄り添ったからである。自分の寡黙は早鐘をついたまま、幻影と隣合わせ、いや、交わった事実に圧倒されていたので、その戸惑いのさなかに凝固するしか能がなかったのだ。
女から徳利を受ける。正面の老婆の顔をうかがうのが照れ臭く、必要以上に目線を意識してしまい、うつむき加減が気弱で仕方なくなり、増々もって陰鬱な表情をしめしていた。
哀れなのか、奇特であるのか、それとも果報者なのか、香り立つ女の匂いは運ばれることで、新たな因果を生みだす。遠い過去の出来事が色鮮やかによみがえるとき、その眼の奥に眠る宝石の価値は無限大となる。どうした事情なのだろう、まぼろしが現実に即す場面から免れたいとは、、、
一時の狼狽と気軽にかわすことが出来ない、これでは初心な女学生と誹謗されても仕方あるまい。自分は港町の風景に、随門師匠の風貌に想い馳せることで、肩先さえすぐ触れそうな舟虫の存在を薄め、一刻も早く老婆が喋りだすのを待ち構えていた。
そんな焦りにも似た気後れを知ってか知らぬか、舟虫の体温は伝わって来そうなほど身近にありながら、表情を知るのがためらわれている自分と同じ気振りで通している。くらくら脱力しかけた身構えは、体をなしていなかったはずの小夢のまぼろしに支えられていた。そう、すでに老婆の口は開いており、陽光を浴びてなお、寂寞と駆けゆく夜の意想へ紛れこんでいた。至福にありながら、おいそれと境地を認められない頑迷が善くも悪くも堤防になって自分を遮断しているのだ。
小夢ならすぐに抱きしめただろうか。妙を攻略したように無益な情念をたぎらせられない。自分の横に舟虫がいる。ただそれだけ、、、満蔵だったら悪知恵を働かすに違いない、無邪気という隠れ蓑を用いて。


[298] 題名:妖婆伝〜その十九 名前:コレクター 投稿日:2012年09月04日 (火) 03時24分

「なんもないけど召し上がれ」
そう言われてようやく杯を置き、ちゃぶ台へ並んだ夕餉の品々に眼をやった。わだかまる濃厚な想いに遮断され、あまりに固く妨げられて、これら総菜の支度に当然ただよったはずの匂いすら嗅ぎとれなかった自分を恥ずかしく思った。
まず視線は鮎の塩焼きに落ちる。踊り串に炙られたのであろう三匹、緩やかにうねった身に程よい焦げ目、背びれから尾まで粗塩が散らばる様は無惨でありながら、死んだ魚の眼は無味乾燥に泳いでいるので、生臭さが取り払われ香ばしさだけが残される。もちろんのこと、牛太郎にも馴染みがあったと思われるところ、老婆の顔を窺えば、あの語りは遠く過ぎ去った念とともにすでに風化して、齢を重ねた証しの深いしわが微かに震えるあたり、慈しみの情を感じさせ、転じては食欲を平たくそそってしまった。
採れたてではなかろうが、実に鮮度のよい色あいは春先の土の香りを失ってはおらず、煮汁にひたされた加減が瑞々しい竹の子。隣の小鉢の夏野菜は、きゅうり、なす、酢の物に見えるけど添えられた、みょうが、大葉、千切りされた昆布から推測するに、その僅かとろみがかった按配から出汁かけの涼味が彷彿される。
あえて同色のくすんだ小皿のうえに油分をみなぎらせ、いかにも歯ごたえの小気味よさそうなのはこんにゃくの炒めもの。板状に素っ気なく切り揃えられているところなど、振られた七味唐辛子の刺激と相まって思わぬ味付けが待望されよう。
山菜にきのこ類の天ぷら、生唾ごと衣に吸い付いてしまいそうな見事な揚がり具合、おろし大根の山に交じりあえば、さながら雪融けの風味か、その食感、想像に即していると見た。天つゆが見当たらぬところを察するに生醤油でいただくのであろう。
椀ものには蓋がされているので一層の信頼が寄せられ、湯気を封じた様がそのまま豊かな香りであることを知らしめており、反対に半透明の薄みどりの器にこじんまり収まった桃の切り口からは、まだ熟しきっていない無骨が覗きながらも、若々しい水気も備わっていて果物の位置する落ち着きが偲ばれる。
更に食指を動かしたのが、最後に運ばれたざるうどんの抜けるような白さであった。茹であげられたあとのざぶりと冷水をくぐった、その如何にも腰のありそうな中太麺の艶やかさは来たるのどごしを折り目正しく強調してやまず、つけ汁に加味されよう小口切りのわけぎとおろししょうがの風味を優雅に控えさせている。夕餉はかくも美しい見た目を有し、その本来を映しだしているのか。
迷い箸に臆することなく、気の向くまま食するとしよう。が、これらはどう見ても一人前の膳に映る。酒の杯もそうであったし、箸置きも同様、まさか自分ひとりの為に料理されたのであるまい。
ためらいをすかさず看取った老婆に「遠慮はいらん、あんたは客人じゃさかい、これが習わしぞ、早う食べなされ」と、微笑みすすめられる。
こうなればまさに風土の語らいを受け入れるべきで、老婆と舟虫に対し神妙な目配せをしてから夏野菜をつまんでみた。酢の匂いはない、きゅうりの青臭さを残したまま昆布だしが染みこんでおり、焼きなすのとろけた旨味が舌に優しく、みょうが、大葉の芳香が颯爽と暑気を払ってくれる。続いてたけのこに箸をのばしたとき「春に掘ったものを塩漬けにしておいたんじゃが」明解な老婆の言が入り、得心がゆくと同時にこちらは若干の酸味を含んだかつおだしであるのが分かり、その相性のよさにおおいに頷く。
こんにゃくに至っては自分の方から「不思議な味わいですね、油加減がちょっと肉汁を思わせます」そう投げかけると「ごま油で炒めただけよ、仕上げに醤油を少し」今度は舟虫が眼を細めながら答えてくれた。
この瞬間、自分はこんにゃくがつるり手を滑ってゆく場面を想起させてしまい、何とも滑稽で他愛のない連鎖に結ばれたことに驚いているうち、ぴりりと舌へ走った七味の辛みに促され、不用意な肉感がこの簡単きわまるこんにゃく炒めの奥底に隠し味として横たわっているような錯誤を得て、思わず顔を赤らめてしまったのだが、じんわり酒が効いたせいにしておいたあたり、そろそろ夕餉の席に慣れきたのかも知れない。しかしながら、意思をしめす眼光で舟虫を見返すことは出来なかった。間合いは恐ろしく的確に距離を埋める。
「はい、どうぞ」
徳利をゆっくり傾ける舟虫の手つきにそつはない。まごつく気持ちと川底に流れるみたいな急いた勢いの両方を慰撫するごとく、酒は注がれた。ぐいっと煽るが粋、感情に溺れきらないつもりでも、ついつい体裁をつくりだしてしまっている。罰の悪さまでは感じなかったが、舟虫の主導のもとにいる自分が疎ましくもあり、反面好ましくもあった。こんな心情ではやはり夕餉の席からはみ出しているようとらえるかも知れないが、以外やそうとも確定出来ず、箸を持つ手にはちからがみなぎっていたし、舟虫の挙動、表情に細やかな注意をはらっている自分を見失ってはいない。女の出方にこそ呑まれた調子であったけど、内心は歩幅を合わせているふうな片意地があった。
思い出したようにお椀の蓋を開けてみると、漆塗りのなかには干し椎茸と湯葉が上品に浮いており、それぞれ芳醇な湯気を放っている。冷めないうちにひとくちすすれば、座敷全体が静まったような、女の色香を包みこんだような、得もいわれぬ滋味が温かく、のびやかにひろがり吐息とひとつになる。その有り様はさながら戦士の休息に似てときを覚えず、天ぷらを頬張り、おろし大根を口に運べば、山菜の名の知らぬを告げる老婆の声さえ先んじて耳にするようで仕方なく、充たされだした胃袋は好調で、ひとり膳の萎縮は何処へやら、からり揚った衣を大口にかじる。かじるついでにそれまでどうしたわけか手つかずにしておいた鮎の塩焼きもしみじみ味わう。岩苔と川水に育まれた野性の香味が口中に一条の流れをつくり、それが想念を越えて奈辺へ消えゆく。あくまで正確な残滓であり続けりことを天命として。
老婆に向かう気遣いを逸しているのが心地よかった。そのまま滑りこむようざるうどんを食す。箸に伝わってくる絶対の歯ごたえ、重み自体にはや存在感が充溢していて期待を裏切ることはないであろう。薬味のわけぎ、しょうがの主張を懐深く快諾している風味豊かなつけ汁もあっぱれながら、そのうどんの質感、主食の地位に泰然として怯む様子あるべくもない、何というのどごし、何という噛みごたえ、煮干しを基本に仕上がっているつけ汁へとからまる美味さ、一気に平らげる間、老婆のつぶやきも聞き流してしまっていた。
「どうかい、それは近所の人が打ったものじゃが、なかなか、いけるだろう」
返事をするのも億劫であったふうな余念のなさは至って無邪気であり、満腹へと向かう疾走は歓びそのものであったが、ゆき着くさきには微笑み返しとして虚無が迫っている。しかし、まだ重ねる酒杯はその空隙にかりそめの気分を吹きこんでくれるに違いない。
「あら、雨やんだみたいねえ」
単調ながら舟虫の声には艶がある。
屋根や戸板を叩きつけていた響きは治まっていた。代わりに夜のしじまにはこおろぎの音がちらほら聞こえだした。桃をひと切れ、熱狂のあとの寂し気な甘みにこころ静まる。その余韻を打ち消すよう、いや、決して新しくはないけれど白い木綿でちゃぶ台が拭かれるよう、深まる夜にもたれかかるため酒が汲まれた。
歓びと哀しみが交差する。これからが夏の盛りなのに、ここには秋の気配が漂っていた。


[297] 題名:妖婆伝〜その十八 名前:コレクター 投稿日:2012年09月03日 (月) 06時06分

「おっとりとした風貌から申し渡されたる以外な提案、あれこれ思いめぐらす猶予のあたえられておらんのは瞭然でな、やわらかな口ぶりのなかには厳命が籠っている、わしの耳はそう判じ、何故ならこれはひとつの沙汰であり、そうあるのを願っているのは紛れもないおのれの意志だったからよ。
つまり公暗和尚が妙策を講じてくれたと信じることにしか、賭けは成立しなかったわけじゃ。わしの発心はとにかく急いていたからのう、有無を言う間などもとより必要なかったし、相手の言い分にうなだれながらにしても決して軽やかでなく、遥かに重みのある首肯に違いなかった。事情をよく了承してもろうた限りは速やかな進退が望ましい。が、手筈を整えるとしてなんの身支度もない、そんな憂慮を見て取るよう和尚の言うには早朝に立たれよ、随門師の方は追ってゆえんを通達しておこう、鷹揚にそう諭された。含みのない言い様だったが、わしの脳裡を閃光の如く擦過してゆくのは推量するも不可能な、闇の伝令がただちに暗躍し始めるすがたに他ならなかったわ。春縁殺しの後始末の際にみせた鮮やかなる活動、その実態は疾風を捕らえるより難儀であろう、背筋が冷ややかになりかけたけれど、こうした不穏なところへ駆け込んだ自分はいかがなものか、あたかも猖獗をきわめる巣窟に立ち入ったに等しいぞよ。
公暗和尚に深々とあたまを下げ、窮状を救ってもらった礼を述べたのが最期の対顔になった。あとは若僧の案内に乞われるまま、夕餉をいただき、湯浴みし用意された床につき、なかなか寝つけぬ夜を過ごした。翌朝には港町まで早駕籠の行程、いやはや至れり尽くせりじゃわ。
寝不足の心持ちを更に虚ろに、かといって神経が休まっているわけでなく、ぼんやりと駕篭に揺られていたのでもない、ちょうど暗雲を見上げたときに生ずる、天空の不吉を占っているような遠い願掛けとも、近くの、そうあまりに身近な体調の些細な変化を嘆いてみせる愚痴ともいえよう、凡庸な不安に覆わせていたのは、ありきたりな懸念だった。いとも簡単に困苦が打開されたはいいが、随門師匠やらと公暗和尚を結ぶ接点にそうそう好ましい事態が待ち構えているようには思えん、ちらちらと駕篭のなかへ朝陽を浴びながら山道の木々の緑が鮮明に映えるのを眼にしつつ、その胸に去来するのは寝静まった民家を離れ、裏街道を寂寞と駆けゆく夜の意想だったんじゃ。
さてと、話しの段も区切りがついたところで夕餉にしようぞ。どれ舟虫、支度は出来たかいな。続きは飯のあとでまた」

外の雨はやみそうになかった。どしゃ降りというほどではないが、雨足は強く、気休め程度の思いはまたたく間に消え去った。いや反対のようだ。老婆の語りにつりこまれていた自分は、ようやく雨の音を取り戻したのだろう。そして空腹を覚えた。苦笑してみたかったのだが、何故かこの場の空気に対しそぐわぬ感じがして、平静な顔つきを保とうと努めた。別に怪訝な思いを拭いたいのでも、緊張によるものでもない、ましてや安閑な甘えであろうはずがない。しかし、この身は言い難い節度を欲しているような気がし、いつもの自分とは異なる心情に運ばれていた。
「あんた、酒は燗がええかい」
老婆の問いにはっとしていたのが我ながら不思議だった。「おかまいなく、、、」どちらでもいいと答えたかったのだろうが、その実、初夏の蒸し暑さを過分に体感したような発想のもと、舟虫という孫娘の白い手から熱燗の酌を受けている情景がゆらゆら浮き出してくる。形をとるより早く人肌の放つ親しみが、肉薄する容色が胸にあふれだせば、すきま風にゆらめく灯火のごとく心細気な影となり艶かしく寄り添う。娘の容姿は鮮やか過ぎるくらいだが、となりの自分は灯火には照らされず黒子みたいに塗りつぶされ煤を被ったようでしかない。そんな幻影をよぎらせながら、いそいそと飴色をしたちゃぶ台に小鉢やら椀を並べている舟虫を横目にし、酒の支度に余念がなさそうな老婆のさきほどの声を呼び戻す。するとほろ酔いの気楽さが無性に恋しくなった。だが「熱燗を願います」と実際に言い直すことは出来ない。もういい、分かった、確かに緊張している、自分で自分を堅苦しくしているだけだ。遠慮なく酒も夕餉もいただこう、そして語りの尽きるころには夜更けに至るかも知れないが、明日は空模様に関係なく峠を越えるのだ。それだけのことじゃないか、一夜くらい自意識から解放されてもいいだろう、何ともつかみどころのない怪しい雰囲気のなかへ。話しのなかの小夢の運命が決まりそうな眠れぬ夜に比べれば、安気であった。
「さあ、召し上がれ。酒はぬる燗にしたよ、さあ一杯やりなさい」
屈託ない老婆の陽気な発音と、何かしんみりしたなかにも張りつめたような眼をした舟虫にすすめられ、杯は透明な酒で充たされた。濁りを永久に忘れた美酒、掌に昔からなじみであったかのような感触の杯、煽ったのではない、一息に呑み干したのでない、渇きを癒したのとも違う、例えるなら清水が口中に湧いて出た。土と石と草に待ちわびた異変が、あまりに自然な異変が訪れるよう潤いを覚える。ぬる燗だと老婆は言っていたれど、自分にはひんやりとした刺激に感じ、まぶたの裏には水面が張られ、すぐさま夕陽を小窓から見つめたときの切ない熱気に転じた。一口の酒がもたらす酔いは古くからの伝承のごとく、それは必ずしも鮮明ではなかったが、薄絹にひたされた酩酊の露払いと思われ、胸に歓びを知るより手足の指先に安堵が伝わった。
「もうひとつ」
次は舟虫が徳利を傾ける。つい今しがた彷徨いだした情景は誰の手を借りずとも、まるで薄衣の風に吹かれた、そう、あらかじめ寄りかかる梢を心得ていたかのように、すんなり座敷に舞い降りた。脇にこそ身は近づいてなかったけれど、日中うしろから呼び止められた際のきびきびした、少しばかりぞんざいな面影は日没とともに退いてしまったのか、どことなく陰をおび、青みが鮮烈だった着物も夜に溶けこんで、一目惚れを軽やかに容認していた自分の願いは照度を下げながらすぐ傍らにある実感を得た。峠越えさえ遅疑してみた不意のきらめき、蒼穹と田畑に広がった想いはもう隠しきれない。この女が自分の足を留めたのだ。老婆の物語はいわば、認められず放置されようとした初夏の情念を糊塗せんがため時間が割かれたに過ぎない。強く念じるまでもなく、美酒を含んだ意想は灯火のゆらぎに映発する舟虫の容姿にとらわれていた。再度まやかしの覚醒を拒む。
茶をすすったときの心許なさとは別の、たおやかで、繊細な欲情がもたげてくる。通り掛かりの自分に対し一夜の宿をと誘いかけてくれたは風土そのものだと、冷徹に考えていたのだが、それは単に逡巡でしかなく、夢心地を破り捨てる小心に傾いていたに違いない。
どっぷり暮れた田園に守られ高揚する意識のさきには清澄な夜の空気しかない。美酒の酔いだけではないだろう、すると老婆の語りが果たした役割を無下にするわけにはいかなくなって、何故ならば小夢のまぼろしが右隣に座っているような気配を先程からうっすら感じており、そのまぼろしがあきらかに舟虫の魅惑に重なり合うのは、ひとえに昔話のもたらした恩恵となる。こんな拮抗する想念は増々怪しくなる一方、混濁したあたまを舞う光景は、枯れ野の果てまで追いかけて来よう安達ヶ原の鬼婆に他ならなかった。


[296] 題名:妖婆伝〜その十七 名前:コレクター 投稿日:2012年08月27日 (月) 07時40分

「先導されるままに薄暗き渡り廊下、足音しのばせることを忘れたような、こわばる心持ちはどこへやら、奥の間へと案内される実感をともなっているようで、そうでなく、例えていうなら夢の出来事に向き合っている、あの放心が常に胸の奥にも、まわりの空気にも薄い膜で覆われている感じがして、なんとも申し開き出来ないもどかしさ、けれど確実に歩を運んでいる証しかや、冷ややかに頬をなでる寺院の宵の口の気配、鼻孔をくすぐる抹香の刺激と調和され、さながら死人の嘆息に触れる思いがした。
この世になき魂ならば斯様な感覚で面と向かおうか、捕縛の危ぶみから除かれたとはいえ、魂魄に魅入られるとはやはり不安が拭われておらぬのだろう、しっかり浮かんだ考えではなかったが、それなら夢の雰囲気は怖れを紛らわせる手立て、意識の片隅に居続けるそんな憂慮も実は霧雨、混同する頼りなさに促され、けぶる実相の手綱を引き、その足取り幽玄の彼方へ消えゆくまで。
公暗和尚とまみえるまでの束の間、脳裡に逆巻いた細々した念をわしは今でもよく覚えておる。肝が座ったと申せ、あのとき心境を支配していたのは牛太郎の死であり、小夢の崩落であった。ゆえに朦朧とした夢幻をたぐり寄せようと努めておったのじゃ。仔細はこれまで話してきたから分かってもらえるだろうて、一見身を捨てたかのようだが、屋敷を這々の体で逃げだしたと同じ、和尚に対する信頼の大方は畏怖に傾いておるわな。畢竟するにここが風前の灯火、うなぎの本性をあばかれるまでもなく、おのれの犯した宿業があらわになり、かりそめと気安く、更には不遜な居直りの城楼から物見していた生き様が低地に引きずり降ろされる。これまでの意想や情感、色欲に、少しは殊勝であったふうな顔、その反面まったく無頓着でしかなかったことごとは嫌がうえにも露呈されてしまう。その割りには針の穴へ通されるような怯み、先端も縮こまり細々した挙げ句に、いざ通過してしまえば、さながら命乞いが実ったかの勝算すら待機していてのう、どうやら業はそう簡単に根絶やしにならんとみた。なら幽玄の真意を問うは雨風にこころを充当するに等しいわ、風雨の冷たさはおのれの皮膚の責任じゃ。夢を知り、夢に遊べば、それが即ち現実よ。死罪に処されし者はこんなことを思いめぐらせるのか、それとも一切を認めまいとするのだろうか。
おそらく生涯においてもっとも緊迫した瞬間を彩ったのは、霧のなかの幻影、その薄靄の一粒一粒にまで施されたひかりの反照、極彩色であるかどうかは知らぬ、細めた眼にはまばゆいばかりよ、色遣いの機微には及ばん。あとに香る死人の匂い、感覚はまたよく心得ておるもの。
そうした本能とも技巧ともつかない集中のお陰で、いざ公暗和尚に体面したときは思いのほか気分が静まってしもうた。とはいえ、そのふくよかな顔つきに温和な目もと、一瞥しただけで出来すぎた容貌に違和を覚えたのも無理はない、それほど一筋縄ではいかん風体に接している、ここでだがのう、あんた、わしは急に寂しさと哀しさとが仲良く胸にこみあがって来るのをこらえきれんかった。どうしたわけか詮索するのも億劫というか、それすら辛くてなあ、いやいや身を裂かれるほどの辛さでない、あえていうなら、うしろ姿を追っかけるときの侘しさだけを抜き出しているふうでな、未練や執着などのしがらみは見当たらんのじゃ、多分うしろ姿が遠過ぎて、なかば諦めが優先しておるからなのか、それ以上はあっさり悲愁にあずけてしもうた。さっきの割り切り方とは矛盾に聞こえようが、あの切ない気持ちは忘れられん。
で、和尚じゃ。いつまでも感傷にひたってはおれまい。切迫した問題は怪異な和尚にあり、わしのこころにある。その間合いにすべてを投じるまでよ。顔見知りでありながら、今まで会話を交わしたことはない、まして差し向かいの場などあり得なかった。落ち着きを失っておったのか、無邪気な心情を願うたのか、相手に見定められるより早く、わしの視線は懸念も動悸にも左右されず、まじまじとその風貌に吸い寄せられ、どこをどう品定めするわけでもなかったが、単に大きいなだけでなくぎょろりとしてやや垂れ気味である両の眼や、それが生まれもった本来と納得してしまう鼻孔のひろがり具合、まさに団子鼻じゃな、そして不釣り合いに映ろうけど、すぼまった唇が案外、笑みをこしらえる際に大仰な間口に変ずることなどを注視ともつかぬ程合いで眺めておった。そこに何らかの意向を汲みとりたいでもない、ただただ見入っていた、あたかもときの過ぎように軽く反撥している調子でな。
公暗和尚はわしの心許なさに寛容であろうとする表情を崩しはしなかった。それが至極当然なのを逆に知らしめられているような気さえわき起こっていたからのう。ふっくら顔は血色がよく、袈裟懸けに包まれた体躯もどっしりしておる。血の気の失せたわしに向き合う素振りにそつのないのは言うまでもなく、大作りな目鼻立ちは一様に会心の笑みを誘い、一層際立った何ともまあ立派な形の福耳は、すでにわしの弁明を聴き取っているようじゃ。まだ会釈のみ、声はのどをあがって来ない。だが和尚の双の耳朶には才人が会得する能力でこちらが委曲を尽くさぬとも、はや鮮明にことの成りゆきへ辿っていたと思われる。
何故なら、沈黙と称するには過分かも知れないけれど、わしの目線をやんわり掌にかすめとったふうな手つきとともにやや膝を乗り出した仕草が、ほんにしじまと感じられ、それは刹那でありながら東雲を覚える薄目の安らぎに似て、こころしめやかに、うたた寝の安息でもあったような、慰撫に内包されていたから。
小夢さん、そう名を呼ばれたときにはまるで術中におちたのやら、はらはら落涙してしもうとる始末、それきり和尚の声は伝わらず、ひたすら冷えた頬をこぼれ落ちる大粒の涙にわれを忘れかけ、波の引きと寄せが広々とした空間に閑寂に呼応しているごとく、悲しみの理由を探り当てようとも、そうしまいとも欲しているのか、今度はときの経過をとどめてしまいたくなり、涙の果てるまでひとときの感情に溺れ続けていたかった。そんな所作がこの場面に一番適しているのをもう一方の自分が黙って見つめておったのじゃ。静寂を破ったに違いはないが、とめどもない涕涙はゆくえ知れずを嘆いている情念であり、潮騒に耳を傾けつつ、そのわけなぞ突き放し、あべこべにわけを遠ざける浅慮にこそ、熱き想いが羽を休ませておるのじゃろうから、静けさは汚されたわけでない。
和尚のまなざしをうかがう余裕があったところをみれば、浄めの涙が許されたのもおのれの知慮に関わってない、あまねく光線に照らされたると同じ、つとに救済されていたのだった。
口のなかが塩っぱく感じたのが、もう悲愴な味覚でなく、字義どおり泣いた子が笑顔に移ろう一瞬の陽気に、風の温もりに、大地の火照りにあるのなら、杓子定規な告白めいたもの言いは簡略されよう。が、そうとはいえ露悪趣味にひたる心性が払拭されない限り、涙は飾りものでしかない。うなぎの正体までさらけ出す気を持ち得なかったのは、まだこころの片隅のうちでは奇跡と特権が迷妄に入り混じっていたからで、感情の発露にさきを譲ったのも沈滞した不可思議に固執した由縁だったわ。泣きはらしたあとの惨めさを担っていたのは、悔恨の情が甘くすげ替えられてゆく影絵の単調であり、その濃淡に含まれる微細な証言だったのよ。他者に対する言いでない、おのれの胸裏に眠れる本能的な証しぞや。
公暗和尚の寡黙を勝手に解釈し、駆け込んだ身は傷つき薄ら汚れたものではない、きれいさっぱり垢を洗い流し毅然とした態度で臨んでいる、わしは自分にそう言い聞かせた。それからのやりとりはあんたにも聞かせた数々だわな、まずは世間知らずのお人形であることから始まり、屋敷の異様な人間関係、徒然に倦むあまり不埒な情欲に流れ、、、和尚さまもご存知のこと、そう切り出し、こちらの若僧とのいきさつ包み隠さず、そのうえで妙や満蔵にまつわる秘事を一切打ち明けたのじゃ。女体の神秘は異分子によるものとは決して話せぬから、あくまでその傾向を抑えられない不甲斐なさと長嘆してみせ、虚偽を弄し色情をまっとうしようとした浅はかさも白状した。覗き見の段に至っては公暗和尚の額に不穏な色合いがかいま見え、その陰りに世情からの隔たりを、ありきたりでない別種のいわばあちらの趣きをしかと認めたわ。
想像していたより和尚は口数が少なでな、わしはぼろを出さんよう警戒しながら、この山寺の門を叩くまでを一気に、そこは細心を計ろう、女人がしめせる限界のしおらしさで語り尽くした。わしは性根から間違っておったのじゃろうか。いいや、そうとは思えん、公暗の眼底にひそむ怪しき動き、見とったうえには牛太郎の名乗りは剣呑、たとえ女体を弄ばれようともそれだけは律しておった。
さて、一通り話し終えたのち、向後どうなるものかと案じていたところ、これが肩透かしをくったような具合でな、覚悟さえ決めていた囲いの身上でも、慰み者の地位でもない、公暗が言うにはここより二十里ほど離れた港町にひとまず身を寄せてみよと対処を講じる。屋敷の思惑はそなたの疑念に近いであろう、ならば言い訳も取りつくろう。これにはさすがに震えが来るほど驚いたわ、うれしいのやら、空恐ろしいのやら。
落ち着くさきはくだんの港町にてひっそり華道に専念しておる随門師匠と申す御仁だそうな。これでこの村ともお別れじゃ」


[295] 題名:妖婆伝〜その十六 名前:コレクター 投稿日:2012年08月21日 (火) 00時49分

「日暮れどきの沈める明るみが遁走するに似つかわしい。着の身着のまま、ちょいと表まで、飾らぬ容姿に秘めた動悸がうまく糊塗されているのは自分でも信じ難いわ、そんな有り体な足並みはどこに向かっておるのやら。
脇の木戸から薪を運び入れようとしていた爺のきょとんとした目つき、お母さまと声に出すことも忘れてしもうた子供らの小さな影、重なり合う乳母の屈託ない笑み、それらの影を深々と覆い尽くすであろう屋敷の甍が迫れば、これまでの暮らしは遥か海上に消えゆく船出を思い起こさせ、曖昧な大洋に感情がひろがる。見果てぬ夢が逆にすぐそこまで近づいているような、投げやりで、そのくせ小心翼々とした爪先は夕陽を追い越そうと努めている。土地の呪縛から逃れたい一心は生まれ故郷かも知れぬ海原のまぼろしを描きだしていたのだろう、朱に染まる帆が強風にあおられる如く、この身は急いておるのか。姑や妙、満蔵の視線は水平線の彼方に運ばれ、累の及ぶことはあるまいて、大地を踏みしめる代わりに水没を欲しているのがはかなくも潔い。わしの影法師は誰にも怪しまれず、通い慣れた堤を渡り、時折ゆき交う村人の会釈を受け、鬱蒼とした夏の名残りの林を抜けてなお、浮き足立った調子と我武者らが入り込んだ歩幅を保っていた。増々日の陰った一本道を心細気に、だが、普段着ながら気に入りのかんざしひとつ、あるいは草履の鼻緒、真新しくすげられたような、片隅に留まってはやんわりとしたうれしさを噛みしめ、ほの暗い山寺の門をくぐろうとしておった。
夕景のしめすもっとも陰惨で哀切なひととき、闇の侵蝕に譲歩する静けさ、一日の死、もう二度と戻れぬ今日という空間、単調な連鎖ゆえに日々の途切れに身をゆだねてしまう安穏、不慮に際して、苦境に臨んではじめて感ずる灰色の世界、きらびやかでふくよかであった反映をこうも遠のかせ、明日という繋がりに託す、風のような無神経さにとりあえず感謝すべきであろうかや。
渦巻く所思は、さながら絵の具が溶けだした錦絵と成り果て収拾がつかず、色落ちする見苦しさに眼を伏せれば、心情は自ずと彩色以前の無味で、血の気のない下地に舞い戻ろうと躍起になり、墨絵のごとく淡白な境地に着地する。さりとて胸中の華やかさ、脳裡の憂愁を手軽に見届けるわけにもいかん。混濁した意識は耳鳴りの安直さで分明しようぞ。
ことの次第は、、、忌まわしい色欲、恥ずかしながら、わたくしめもなにを隠そう、いいえ、ご存知かと、こちらの修行僧とのいきさつ、、、それに屋敷の内情、和尚さまはよく見極めておいででありましょう、不都合は如何なる所存と申されますか、、、はい、すべてお話いたします、そのうえで裁断いただければ、、、
わしの出来うる口上は精々この程度、山寺に駆け込んだ限りはうなぎの本性、黙念先生、もろ助に関する一切合切を吐露すべきかや、この場に及んでまだ踏ん切りつかぬまま、そうよ、駆け引きなしで突き進んだにもかかわらず、最期の一線が越えられぬ。理由は簡単じゃ、いくら誉れが高かろうが公暗和尚に全幅の信頼を寄せてはおらん、反対に得体の知れない雰囲気にのまれ、情けないかな竦んでしもうとる。確かに清流の奇跡には触れながらも、人の世に通じるどころかまったく無縁で過ごして来たではないか、世のなりわいも無頓着、かろうじて意気を上げたのは色事、しかも児戯に等しい、いや戯れより低級な刹那の愉悦のみに執着した。人間の叡智を見くびり続けたというより、自然の洞穴に入り浸ったまま一歩なりとも外に踏み出そうとしなかった怯懦が、おのれを腑抜けにしてしもうたんじゃ。黙念先生は霊妙な業の持ち主であろう、しかし、霊長類の極めて進化した人間こそ、計り知れぬ才知と胆力を有しているのでは、さすれば山椒魚の奇跡を越え出ることも夢ではあるまい。井の中の蛙とはよく言うたものよ、これからまみえる人格者に向かい、果たしてわしは牛太郎と名乗れるだろうか。もろ助の頓死を因縁と信じている限り、呪縛からは逃れられん、逃走心の由縁が明快になるにつれ、おのれのとった行動が方策として如何に安易であったか顧みられた。
あんたみたいに峠を越えるとかじゃないわ、ほんの先の麓まで歩を進めたに過ぎん。わだかまるものは死の恐怖に裏打ちされた間延びした不安じゃ。そこに居座る快楽は湿った座布団のように厚かましいが、変に愛着を覚えてしまう、ちょうど情交のあとさきの気分があやふやなようにな。
湿気っていても、濡れていても居心地さえ悪くなければ、ずっと屋敷に留まったろうよ、けどあの乱れはわしの安閑な意識から遥かに飛び出しておる、色欲だけに治まらん、焼けつくに違いないもっともっと血なまぐさい事態が引き起こされるような気がして仕方なかった。で、あとは身の振り方、そろそろ牛太郎として生きるか、小夢になりきるか、混在したまま思考がめぐり、欲が沸騰し、かつ濾過されるのも所在ないではいたたまれん、これから齢も重ねるしのう、そこで黙念先生と公暗和尚のいわば腕比べを画策したわけじゃ。勝手な見物だとも、しかし繰り返すようだが、わしの取る道はこれしかあり得なかったし、あわよくば、法力で謎が解決出来れば幸いよ、もろ助がもらした奇妙な文句、三年の月日を三月だと言うておった、あの意味深な言葉、わし自体が転生を経た世にも不可思議な存在であるのは、実は借りのすがたやまやかしであって、つまり何かまじないみたいな作用を受けており、本当はうなぎの記憶も絵柄をつけるふうに施されたのでは、、、とすれば、海も川も山も地も支配している人間の知恵をもってまずは川底をさらう按配で、清流の秘密をあばいてもらいたい。
一か八かの心境であったけど、こうした秘事とともに生きている実感は決して捨てたもんじゃないわ、絶望の情況に映ろうとも、異常な取り巻きのなかに震える雛の神経が、即座に致命的な結末に堕ちゆくとは言い切れない、見渡す限り秘境であるなら、そのかよわい羽毛に包まれた生命はすべての気流に乗り、あらゆる可能性を体現するだろう、なにもかもが無理なのは百も承知よ、だがのう、たったひとつでもいいではないか、すべては転がっているのじゃ、なに動いておるとな、そりゃ、死んでないなら身動きしよう、死人の魂さえ浮遊しているやも知れんぞ、あんた、寝転がってなんぞ考えたりはせんか、それとて立派な作業だわな、か細い雛の神経とて何かに結びつこう。
日没の想いに浸っている間に山門を背にし、夕闇と慣れ親しみ始めた提灯ふたつを前にした。つい今しがたまでの空の色が技巧によりぽっと凝縮されたような灯火、辺りはまだ暗がりを地に這わせていなかったので、名入れのない提灯は宙に浮いた感じをあたえなかったが、黄金色に火照った表面には細かく横筋がひかれたよう黒ずんでいた。そもそもこの寺に表札はなく通称の山寺で通っておった。
法事の折に幾度か訪れた機会はあったものの、ひとり山門をくぐるのは初のこと、本堂の構えもいたって質素でな、両脇の提灯の反照にひっそり応える障子の風情、仏壇に灯されたろうそくが薄明るく透けていた。瓦屋根を守護する心算かと、いぶかし気でありながら野趣を賞賛しよう木々の枝垂れ、相当数な僧侶の起居する奥行きを一層せばめているので、ほんにこじんまりした印象は今日とて同じ。
こんな暮れどきを訪ねる女人は過分に煩悩を背負い込んでおるのか、はたまた、浄めに逆らう気配が濃く醸されとるのか、こちらから声を発するよりさきに、作務衣の僧ひとり、早速わしの風姿を認め、丁寧な口調でそっと様子を伺う。ためらい勝ちな表情を黄昏のなかにしんみり作って屋敷の名を告げれば、応対された僧きりりと声色がしまって、和尚さまにお伝えいたしますのでとの言を残し、にわかに奥へと身を返す。
不審の念を抱かれるどころか魚心はいとも容易く実ったわい。初手が肝要なのは心得ていたが、こうも滑らかに挙動が運ばれると小躍りしたい気分になってしまう。現に須臾にして取り次ぎがなされたことを鑑みれば、先行き明るく、思い煩った情勢は無下であるまい、屋敷からの通告なり追手なりが素早くまわっているのなら、いくら取り繕うろうと微妙な緊張が走るものよ。ましてや暮れどきゆえにこそ鼠の気振りが察知されよう、闇に紛れた眼光、忍ばせた息づかいは却って仇になる。ここまで臨めば、もはや肝は座り、物怖じは自若に転じておったわ。山寺の意向は捕縛にあらず、煩悶が導きだした図絵に彩りが添えられようとしていた」


[294] 題名:妖婆伝〜その十五 名前:コレクター 投稿日:2012年08月20日 (月) 03時58分

「遊び足りなさを悔やむ顔つきと仕草でもって、まさに子供らしい惜しげな様子で、満蔵はからだを離した。やや勢いを失った隆起が如実にそれを語っていたのだが、こんな予期せぬ情景のうちでは、すぐさま萎れることを知らない陽根に却って冷酷なものが根づいているよう思われる。現況把握できないのは、走馬灯を呼び寄せるまでもなく、とうの昔から分かっていたことであって、困惑のゆくえをたどる行為、たとえば乱れた敷き布団のうえにどちらから抜け落ちたのやら、何気に眼についた数本の**、汚らわしいとも、やりきれないとも、又はなんの感興を引き起こさなくとも、どこか注意深く見つめているふうな時間の滞りに、すべてを投げ出している感覚、直に打ち震えてしまう損傷を引き延す護身が働いているのだった。
ぼんやりとした懸念を先回りしたのであろう、唐突な妙の出現も、遊戯の延長を体現している満蔵にもその実、天地が逆さまになるほどの驚きを覚えておらず、あえて言うなら、驚きの形式におのれを当てはめてみたに過ぎん。あんた、忘れんでほしい、このわしだって小夢を乗っ取った痴れ者よ、そして立派な屋敷の住人じゃわい。戦きなり驚愕なり、ついてまわって当たりまえ、これは開き直りであろうな、処世術と呼ぶには大仰かや。とはいえ、あの悪戯な舞台では、そういくら舞台と心得ようとも簡単に気を落ち着けたりは出来ん、今は回顧ゆえに沈着な意見を吐けるが、あの刹那はやはり動顛していたろうよ。
妙への色目から始まったにしても、どうこうあれ、つまるところ陥穽にすすんで堕ちたと解釈してよかろう、魔物はわが身にしっかり棲みついておる。それをあたかも悲劇の姫君を装ってお人形さまになぞらえてみたり、屋敷全体に覆う気配を邪気と観て取ったりしたのは他でもない、おのれの生き様を都合よく認めたかったからじゃ。色事に準じたまでよ、こんな言い草をしたら、どうかな、あんた、侮蔑の念がふつふつとわき上がってくるかいな。ああ、ええ、それでええ、準じる即ち、道理でないか。見え透いた筋書きとて追ってみれば、情も動こう、涙も流そう、気もそぞろになろう、舞台狭しとありたけの気分を放ってみる、手足の自由がきく限り走りまわってみる、おのれの意識が遠のいてどこかに舞っていくよう願ってみる、ただ悲しいことに客席なき演芸場、燃え上がろうと、はかなく散ろうと、発した意識は、声は、言葉は、合わせ鏡のなかにしか躍動せん。わしのもっとも怖れた事態は、そうした有り様に照らし出されることじゃった。気抜けと同時にあたまをよぎった観念は、逃走しかない、わしはようやくお人形さまの不自由を、汚れなき停滞を疎んじたわ。
その夜の駆け引きは交情にあったのでなく、むき出しになった保身にあった。肉を交えたふたりにしても殊更うらみつらみを言うわけでない、びっくり箱を開けて見せただけに等しい淡白な感じがし、わしはふらふらと部屋を抜け出た。頼りない足取りに追従するよう、あるいは思惑が高じてわざとらしく、つまり悟られぬよう配慮したのかもな。姉弟の見事に決まった画策は間を置かず旦那の耳へ誇らし気に届けられるだろう、もしかして姑も承諾しているでは、、、ほぼ固まりつつあった逃走心を是認させる為には、危惧を豊かな想像で羽ばたかせなくてはならん。と、まあこの時点にめぐらせていた思惑には罪はなかった、案の定ことの成りゆきは適中したんじゃから。平穏なのはそこまででな、それより先は罰が待ち受けておった。
翌朝より旦那のすがたがふっつり消えた、なんでも所用でしばらく留守にするとな。とってつけたような振る舞いに疑念をはさむ猶予のなきまま、わしの胸中が筒抜けになっておるとしか考えられん仕打ちが始まった。もっとも無邪気で、もっとも陰湿な罰を受けるはめになったんじゃ。屋敷の一員であることを半ば軽んじていた不誠実な、しかし拠り所として気安く甘受していた意気をなじられたに違いない。わしはただの嫁であり、血縁に連なっておらん、おのれの悪心をこの家に紛れこまそうとした姑息さが仇になったか、それとも秘めたうなぎの本性を嘆きながら一方で陶然としている気構えを見抜かれたか、どう転んでみても鬼から仏から愛想つかされたのよ、更に穿てば、なんのことはない離縁を迫られている実相が浮かんで来こよう。これはわしの能動的な解釈でないわ、単なる書き割りでない、そんな芝居じみた演出ならさぞかし粋であろうよ。
家中を上げての儀礼、年中行事ならともかく、下半身の沸騰を日々鎮火する役目とは如何に。満蔵の奴、よほど味をしめたのか、次の日から恥じらう気色ひとつなく、慣れ慣れしいもの言いで、お義姉さま、昨夜はほんに中途半端でした、とぬけぬけ口にし、ふたたび相手を所望するではないか。妙との共謀には呆れていたけど、悪戯とも割り切ろう、儀礼なぞ最初で最後と楽観していたのが大間違い、色に目覚めた満蔵の眼は純粋に澄んでおり、手習いを授かるような真摯な態度で言い寄ってくる。逃げ出したい心持ちの予感がこんな形で圧迫するとはさすがに見当もつかなかった。正直言えば、頑なに拒むほど満蔵が憎らしいわけでなく、情交に嫌気がさしていたのでもない、妙に不届きな淫欲を覚えた手前、因果はめぐるではないが、仕置きの様相に見立て裸体を投げ出すくらいの覚悟はあったわ。麻痺した神経かも知れん、が、とにかく好悪に苛まれるまで至ってはおらん。仕方あるまい、、、これが本音じゃ。
旦那がしばらく家をあける機会に便乗したのだろうて、困ったものよ。妙はまた覗いたりするのだろうか、それも構わぬ、元はといえばわしの不埒に因を発しておる。で、その夜は秋の風も何処へやら、部屋中に充満する熱気、肌から噴きあふれる汗、声を忍ばす必要もない、鍛錬に集中するような掛け声も若々しく、満蔵は腰を振る。精がほとばしる。昨晩の意表をついた妙の言葉がまるでよき薫陶のように耳にこだまする。その辺でやめておきなさい、、、ああ、こんなに精を注がれたら孕んでしまうであろうな。格式かや、、、哀しいかな、女体は過敏に反応をしめしており、善悪は等閑に付され痺れる快感だけが身を貫いていた。
それから秘め事は日課となった。いいや、もはや秘められた行為ではない、昼も夜も暇さえあれば満蔵はそばに駆け寄りその手は肌を這う、薄々予覚していた怖れが実際に。乳母に預けたままだった子供らの世話をしていたら、背後より冷ややかな声色、温情に限りなく近いまなざし、姑の言うに、せがれの留守なればこそ、満蔵にはしっかり当主たる自負を育んでもらいたいものよ、精々奮闘されようぞ。
わしのこころはこれでやっと揺らぎから解放された、姑は満蔵の子を宿すことを奨励しておる。この屋敷には代々脈々と流れておるに違ない、近親による交情の血が、、、先に嫁いだ長女は果たして、妙は、満蔵は、、、
お義姉さま、小夢姉さま、いっぱしに精悍な言い様だが、薄皮に包まれた饅頭のごとく中身は甘く柔らかい、背伸びした素振りは無粋でもなかったが可愛くもないわ、股間を勢いよく突かれながら念頭をかすめるのは、血の緊縛から逃避せねばならぬという大義名分が立った勇みだった。ついに一条のひかりが差し込んだ、暗黒と闇をさまよい続けていた人形に血が通いだしたんじゃ。皮肉にも闇夜にふさわしい黒々とした血流と接することによって、真新しく新鮮な息吹を得た。お人形さんかい、あんた気になるかいな、そうよな、置き土産として藁人形にすげ替えたのよ。呪詛なぞ籠らさん、もぬけのからじゃ、一応はこの家に世話になったわけだからのう、飛ぶ鳥あとを濁さずだわな。そうと決まれば一日たりとも早いほうがよい、旦那の留守を幸いに。
当てなどない、刹那を生きてきた身上、閃きまかせだった。出奔するにも頼るべきところはあり得ず、生家に帰るわけにもいかん、そうした事情は話したわな。醜聞にとどまるものか、生き恥さらしと罵られ、下手をすれば命も危うい。そこで思案した、なるだけ穏便にすがたをくらませたかったのだが、向こうとて脅しめいた言い方で封じようと努めていたではないか、なら、飛ぶ鳥は遺憾ながら少々波紋を残すのも仕方あるまい。この広い国には夢もあろうな、偏狭な意識しか持たぬわしには広大な土地を駆け巡るなんて芸当は出来ん、閉じた性根のなかに潜りこむのも方策じゃて、夢を紡げんのなら、悪夢に飛びこんでやろうぞ、あんたならどうする、これは愚問じゃった、わしの問題よな。
この村にありながら他の土地に通じておるところ、それは山寺以外にない、春縁を死と追いやるという外道を一切とがめることなく、屋敷と何らかの疎通を計ったそこ知れない力量、衆道の本山などと陰口を叩かれながら、村人からは憧憬の的にさえなっておる不思議な魅惑、駆け込み寺という意義がもし活用しておるのなら、わしはそこに賭けてみたい。屋敷に連れ戻されるかも知れぬ不安をぬぐい去る要因は、離縁をものともしない家風であり、春縁の子をも素知らぬ振りで生ませた化けものじみた寛容さよ。そして何より我が子に愛着を抱きもしない、わしの人でなし加減が絶縁への保証となろう。卑しい打算だが刹那をかろうじて支えていた。
山寺の公暗和尚はどう対応するものやら。道は一本じゃ、残念ながら選択の余地はない、希望に通じた明るい道筋とはいい難い、どちらかと言えば絶望にひた走る直線だわな。しかしなあ、どんな道だろうと走るにおいて馬力はいるんじゃ、薄らぼんやりしておれん」




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