COLLECTOR BBS
[293] 題名:妖婆伝〜その十四 名前:コレクター 投稿日:2012年08月13日 (月) 05時31分
「これは遥か昔の記憶なのだろうか、それとも人の世と自然が織りなす想像の産物、きらきらとした蒼海から遠のいては心地よく眠り入る瞬きの光景、日差しすら直接でなく、柔らかで、儚いまぼろしであるような揺りかごの安寧。満蔵の気息はこの肉体のいきれと混ざり、その一途で無骨な舐め方の感覚は、海水と肌がひとつになりつつあるのか、あたかも磯の浅瀬に面を潜らせているようじゃったわ。
満蔵は海草をかき分けていた。わしは寄せる波間に身を横たえ、薄日に隠れる貝のゆくえを他人事みたいにぼんやり考えていた。
冷淡な意識のなかには意地悪さがあったしなあ、それを補いながらも肉感がいそぎんちゃくのようにそよぎだしたのも、潮の満ち引きによるのなら、男女の隔たりが過分に現われ出たのじゃ、白々した気分とはうらはらに茫洋とした好意がもたげてくる。情愛を擬した高揚に吐息が紛れこんで、はっと気のついたときには陽光もまぶしく、光る水面のさざ波と同じ、潮の香りを含みながら、細めたまなざしの彼方へすべてが広がり、股間もろとも脳髄は大海におぼれゆく。満蔵は貝の実を知った。
うれしいのやら、戸惑っているのやら、それよりひたすらにたぎっておるのか、湿り気の帯びた感触が口辺にあることはすでに共通、夢中なのも仕方ないわな、わしとて気持ちが一新されたふうな、とりとめのない悦びを招いている、沈みかける悔恨とひきかえに。そして気取られぬよう横目を流す情念をかすめ取るに違いない、そうであるべき凝視、妙の念を片隅に追いやる。
ぞくぞくと背中を走る快い痺れが、秘所を探り当てた満蔵の幸せである事実は他でもないわ、弓なりにそらした上半身、まるで軋みを立てるごとくに声を吐かせる、あくまで押し殺しているのだが、潮騒に煽られた満蔵の熱気、義姉を泣かさんと欲したであろうな、これぞ男子の本懐、つい今しがた見つけたおっかなびっくりは早くも熟練の技巧となって、大胆に、大人びて、傲岸になり、執拗な愛撫へと変化していった。
呆れるほどに痛快じゃ、悔しいくらい感じる、舌の先端がおなごの道をなぞるよう行ったり来たり、わしの喉からもれるのは嗚咽、満蔵にいたぶられておるさまが嘘くさくも陽気な体温を生み出して、もう絶頂への距離がそれほどないのが分ると、かつてない猫なで声を使い、さあ、満蔵さん、ここに入るのです、熟しております、さあ早く、我ながら火照りきった音色、発した媚態のおもむくままむんずと小柄な上体に両腕をかければ、口は半開き、眼はうつろな表情が引き寄せられる。凛然たる態度を示せないのも無理ないことじゃ、女体の芯にかまけた放心状態の面構え、一言の猶予も見当たらん、ほんに無邪気なものよ、だが、本能の使いは放縦だのう、そのまま意志を表明することもなく、どしりと体重を被せてきた。乳房に横顔を乗せたまま得策など思いもよらぬ満蔵、両手をまわすことなくだらりと虚脱した風情よ、すかさず男子の証しをつかんでみれば、春先の突風に震えるようないたどりの若芽、とくとく脈打つは怯懦にあらず、出陣の勇みと覚えた。
そのまま、ゆっくり、方向を過たず、潮の香りと春の息吹の感ずるところへ導く。つつつっと、滑りゆく。腰まわりに連動をさずけずとも怒張しきったものには血気がこもっておろう、磯遊びに興じていたら、ふと深みに足をとられたような戦きが訪れる。そこに見いだす真珠貝の秘密、若芽は驟雨ならぬ、波濤に襲われ軟体動物の自在を知る。白濁した夢がほとばしるまで時間は努めを放擲した。一瞬の奔流に果てた。が、満蔵の勢いは衰えないまま、自らたこ壷に居座る不遜な心持ちで神秘のぬくもりを味わっておった。
わしにしてもここでからだを離すのは野暮かと、いいや、実を言えばたまゆらの交わり、興奮の度合いなど計れぬ触れ合いではあったけれど、まだ奥所に伝わってくる血脈の響きが何故かしら哀調を秘めて、それは純潔を捧げられた、そう例えてみても殊更に軽卒なわけでも、滑稽な意味でもなく、妙との結びつきが不純というより不可解な思惑にゆらめていた事情とは異なるが故に、受け身であることの許容と、緊縛されし女体の解放を得た晴れやかさが、下半身からすうっと立ちのぼってくるような気がしたんじゃ。
まだまだ少年の満蔵には交わりの濃厚さは知れぬだろう、しかし、こうも瞬時であるほどにその激情はぎゅっと凝縮され、快楽をむさぼる余裕を持てなかったが為、余韻であるべき持続は無念を宿した情欲の残滓となり、おそらく当人の思いとは別の息づかいを、心音を、鳴り響かせておる。山の遠方に妖魔を覚え、海の向こうの怪異にこころ踊らせた無碍と夢見が、女体の神秘をもって一蹴されたかもな。もちろん子供とていつかは肉欲と関わる、少年は老いやすいのじゃ、精の噴出を機に脳髄は計り知れない妄念を育むであろう、見果てぬ夢をたどりつつ、おなごの海を想い、浅瀬と深海に情を通わせ、おのれは風と化して白波の激しさに酔い、かつまた翻弄される。月影の仕業とはつゆしらず。
わしの体温になにを感じておるのか、張り出したままじっと動かぬ。それからしばらくして右手を乳房に、左手を侵入した辺りにし、春の嵐を再演しようと試みだした。そこでようやく腰をくねらせ若芽に刺激を伝授してみると、あの懐かしいうなぎの身体が思い起こされ、わしのなかを喜悦して泳ぎまわり、夢想は快感に促されて溢れるうれしさで一杯になったんよ。さっきよりもっと膝を折ってみせ内股を上向かせ、互いの繋がった場面を身近にしてあげたら、食い入るように眼を輝かせ、乳をわしづかみにして鼻息荒い、またもや、数度の往復で精を吐く。ぬめりやら出し切ったものやらの加減で屹立した状態を保ちながら、ぬっと反射をつけたよう外に飛び出した。糊にまみれた満蔵の持ち物はときを経ず、すぐにでも使用可能な猛々しさと瑞々しさが備わっており、しかもおなごを突いた自信はその胸中とは無縁の光沢に包まれ、満蔵も意気盛んな陽物に当惑しているようだわ。
そんな若さに対し言葉は無用じゃった。肉体の動きというよりも、衝動を温存している熱い核から伝播する緊張の度合いが毛穴を一気にひろげ、大粒の汗を浮き上がらせた。青ざめながら、馥郁たる色香に携わっている情景を知る顔全体に、喉の渇きすら忘れたことを嘆いているようにも、励ましてしるようにも見える首すじに、なだらかで華奢な成育の途上にある肩から胸に、そのうちへ生じているだろう、男女のからみが肉体以上に深遠な予感から、満蔵の情熱は涙の汗になった。おなごの哀感を欲の先鋒に見抜き、同時に噴き出す精のむなしさを重ね合わせる直感を覚えつつ。
わしは眼で話したつもりじゃった。もう一度いらっしゃい、、、あわてずに、しっかり抱いて、、、
満蔵には即座に通じたろうて、開け広げた箇所へすすんで没入しようとしている。そのときだった、部屋に舞うはとぎれとぎれの声色に、溶け合う裸身の音さえ幽か、耳を澄ませばふたりの生唾をのみこむような熱いしたたり、夜具の擦れるは秋の夜のしみじみひんやりした空気に同調している、それ以外はいわば静寂ぞ、が、その静けさを破るものあり、あんた、これはまったくの番狂わせじゃ、果たして斯様な成りゆき誰が描いておったか。
秘匿されたはずの妙のすがた、がたりと手をかけ思いきり解放されたふすまから登場したではないか。しかも摺り足などでない、まさにずかずか敢然と踏み込むばかりの有り様、開いた口がふさがらんとはこのことよ。申し合わせはどうなった、覗き見の遺恨、姉弟の境界を打ち破る気であろうか。その気に相違ない、不敵な笑みにすっかり身をこわばらせてしまって、見まいと念じておる妙のまなこから目線をそらせん、お陰で上体を起こしている満蔵の放った一声がしかと理解できなんだ。
あねさま、不人情ですよ、これから楽しみが増すというのに。そう平然と言ってのける。瞬間、脳裡をめぐったのは儀礼をあばかれた照れ隠しにしては太々しい口ぶりじゃと感じたんだが、闖入者の妙、一層まなじりに嫌なひかりを住まわせ、なにを申す、お義姉さまを孕ませるつもりか、その辺でやめておきなさい、との言い様で、満蔵にとってもあらかじめ承諾の旨であることが判明し驚愕してしもうた。
ああ、やはりこの屋敷には魔物がおる、影にひそんでなんかおらんわ、住人らが悪鬼そのもの、もはや茶番ですまされぬ、異常な事態にわしは取り囲まれている、、、、それより先を思案してみる気力はとうに失せていた。どうにかこうにか取り繕ってきた形勢はここに来てはぐらかしたくもそうは問屋が卸さない。あたまの中を走馬灯のようにまわっている幻影は覚束なかった」
[292] 題名:妖婆伝〜その十三 名前:コレクター 投稿日:2012年08月06日 (月) 07時36分
「さてと、その翌日からの満蔵のまなこ、童心あらわなのか、欲情のおもむくままなのか、見事なまでに爛々とした色目でのう、いくら容認されたとは言え、まあどこまで旦那から聞き及んでおるやら、果たして満蔵はどうとらえているのやら、ない物ねだりしてみせる面持ちには愉快なくらい飾り気がなく、妙がしめしたような羞恥は見いだせんわ。もっとも面と向かって色事を問うたりはせん、あくまでわしの側から誘いを待ち受けておる態度、そつがなく小憎たらしかったが、そのぶん主導権はこっちにあると思いなして、高見から見下げてやるふうな目つきで応対したものよ。
そうこうするうちに月夜の晩がやってきて、旦那は以前のあらくれた口調から一変、優し気なもの言いでな、格式とは本来こうした際に用いられるべき、あっぱれ満蔵をおとこの仲間入りをさせてやってくれ、これで妙の件は相殺されよう、さもないと満蔵の奴、純情を通り越し変な方向に鬱憤を吐き出すかも知れん、もし母上の耳に入ったらどうする、おまえも妙も増々罰が悪くなるぞ、回避するには彼奴の望みを叶えてあげるのが一等だろう、な、これで格式が保たれるではないか、などと如何にもまっとうな手引きであることをしきりに訴える。春縁の子に関しても姑には伏せてあると強調したうえで、満蔵の口封じに為にもひとはだ脱いでもらいたい、わずかに嫌みをはらませたその微笑、是非もないと念を押さん。
こうなってはわしの進退は定まったも同様、なにを姑こそ屋敷随一の古狸、すべて見通しておるに違いなかろう、と反抗すべき手立てもないので、そう胸のなかで叫んでみるしかなく、あとは旦那の指図に従って、いよいよ筆おろしとやらの儀礼と相成った。
すでに満蔵は湯浴みを済ませ自室に居る。夕暮れどきには今宵てほどきを致します、わざと冷ややかな言葉づかいでそう告げておいたんじゃ、これにはおおいに感奮したらしく、下手に媚びたような、艶かしい囁きよりよほど効果ありとみた、なあに他愛もないことよ、成熟したおなごの色香を間近すればするほどに閉口してしまうだろうし萎縮もしよう、冷淡なもの言いの方が満蔵の矜持がそこなわれず、来るべき色香をゆっくり想像できようぞ。肉欲を心待ちにするのは実際の交わりに匹敵しうる悦楽、純朴な精神には斯様な接近がふさわしい。
そこへ忍んでゆき裸身をさらして見せればものの一刻で昇天しよう、どれくらい精を吹くものか楽しみじゃ。難点は隣部屋にひそんで様子をうかがうと言っておる妙、どうやら悔しまぎれで口をついて出ただけでなく、意地でも実行に移す気構えでな、旦那からは、おまえにも満蔵にも遺恨があるのだろうよ、ちょいとやり辛いところだが我慢してくれ、こう開けっぴろげに頼まれては拒みきれんわな。
妙には妙の執念があるのじゃ、別にわしは屈辱とは思わなんだけれど、満蔵に気づかれないよう配慮せんと、まさか妙に向かって、くれぐも細心をはかって下され、などとは切り出せんし、そんな盟約めいた意志を共有するとも考えられん。が、それは杞憂でしかなかった、旦那は抜かりのない声色を発し、心配いらぬ、妙には重々に言い聞かせておる。覗きが発覚すると同時に満蔵め、おのれの試みた卑しさにおののき、逆上して何を仕出かすやら分からんからな、そうなると折角のてほどきが水泡に帰してしまうではないか、おまえとて知れることなく、ただただ、にんまりと眺めていたいのだろう、ならば、決して気配を覚られないよう注意を怠るな、とまあ、双方への配慮は入念に行き届いておった。さすがは血を分けた妹に弟よなあ、思わず感心してしもうたわい。ああ、何とも馬鹿らしい、、、ため息まじりに吐いてみたいが所詮わが身を素早く一巡するこだまでしかないように感じられ、さも大義そうな顔つきで頷くのが、せめてもの抵抗じゃった。
手順は以上、姑は早寝だし、わしの子供らも寝かしつけた、乳母や使用人らには適当な申しつけをしておいたらしく、しかも、その場に臨まずとも耳をそばだてておるわ、そう言って不敵な笑みをつくる。まことにこの屋敷のどこぞかには魔物がひかえているのでは、ぞっと身震いした。
ほんに月夜じゃ、雨戸の隙間より届けられたるほの白いあかり、冷気を含み始めた廊下をおびえた素振りで摺り足、幽かな音の反響が呼び戻される、月光のもとへとな。
秋口の夜に似合いの澄んだ空気はよどみを覚えん、なら、少年の寝息をうかがうことも真義を為さん、為すべきことはそっと忍び寄る影に包まれ、この冷えた廊下の感触、眠りを放擲した夜具まで運び、一気呵成に熱を発しようぞ。即ち、女体の火照りと少年の興奮をひとつにし、振り乱れし黒髪の流れに乗り、まなざしを錯乱させよう、たぎるものは何ぞや、枕も布団も発火寸前よ、月影の使者はここに来たり、青い鬼火となって、ふすまより眺めたる眼も焼き尽さん。
満蔵は確かに震えておる。なだめるように、さあ、わたしのはだかをごらんなさい、未熟な両肩に手をついてすくっと立ちあがり、はらはら帯をほどく。燭台の灯火が不安定に揺れ、部屋の明暗を曖昧にすると、満蔵の無垢な期待は淡く崩れかかって、替わりにおなごの芳香に占拠され、気恥ずかしさに近いぎこちなき呼吸に至る。着物がさらっと肌をすべり、薄暗い部屋に佇む透けるような裸身を茫然として見上げている。
その視線に挑むのでもなく、かといって情愛を結ぶのでもなく、恬然としてひかりを送れば満蔵の息は止まり、心音が無謀に騒ぎだす。吸気をさずける按配でくちづけ、見開いた眼を閉じたのは戸惑いか、あるいは咄嗟に悦びを隠そうと努めたのか、どちらにせよ紅の艶はこれより潤滑油になって、男女の綾にしみ込んでいこう。まだ骨格の出来上がっていない背を抱き、夜具に倒れこむ。満蔵の寝巻きをはぎ取れば、すでに張りつめた陽根、発達途上でありながら甲斐甲斐しく、包皮なかばにした色合い、薄桃を彷彿させて思わず掌に収めてみた。すると背筋を駆け抜けたであろう驚きに導かれし感覚、よく判じられ、迷わず指先にちからを、思いきった加減でなく、あからさまな触れあいでもない、我が子をあやすような、鮮明なのにぼんやりした、とりとめもないままに情がすくわれるような、夜風に紛れて始めて感じる発露。
用意しておいた手ぬぐいで軽く拭い、より赤みのさした先端を見遣る。身をこわばらせているのが微笑ましい、反り立ったものも同じ緊張を宿しているのか、いたずらにことを急く気はないけれど、早くも口に含み入れておる。遠い異国の地鳴りか、わが身を通過してゆく蠢動か、意識の有りようにかかわっている間はない、口中に吹き上がった生温かな奔流、満蔵の精、吐き出すよりのみこむが易し、驚嘆の顔をとどめたまま、眼も一点に集められていたわ。わしのへその下、黒々茂ったところにな。
満蔵は何か言いた気な様子じゃったが、とても言葉になりそうもない。そこで、沢山出ましたね、さあ、次はここに放って下さい、わたしに任せて、と、ここでようやく甘ったるい嬌声を用いれば、驚いたことに言下、お願いします、以外やきびきびした発音、精を噴出したばかりの股間棒は弛まることを知らず、かちかちに突起していたので、両脚を大きく広げてみせると、深く息を吸い、はあっと嘆声にも思われよう虚脱した仕草で、これは本能だろうかのう、いきなり股ぐらに顔を埋めおった。しかし割れた箇所に行きついたわけでない、ひたすら下の草むらに唇を押し当てておるだけじゃ、手引きというても情愛に囲まれた意識のなかで行なわれるものでなく、半分は意地の悪さに左右されよう、妙に施したときとは様相が異なる。
柔和な指導にて程よい愛撫の仕方を、温順な手つきで敏感な位置を知らしめることもあるまい、ここはひとつ見物じゃ、満蔵の奴どのようにこの肉体と戯れるものやら、、、妙も熟視しているだろうよ、その胸に去来するのは果たして如何なる紋様か。そもさん、屋敷に横溢した邪気、義妹の思惑をなぞるかや。
言うまでもないわ、今宵は壮大な儀式、家中あげてのお祭りよ、時間ならたっぷりある。まるで海草を食む勢い、ゆっくり味わうがよい。歯の浮く仏心のような文句をやんわり投げかける。満蔵さん、そこはおなごの大事な場所、優しくしてね、そうよ、そうよ、そうなのよ、精進して、、、
脇から枕を引き寄せ首を安定させ鷹揚にからだを横たえた。両のひざを立て更に秘部にたどれるよう道標だけはあきらかにしてやった。これこそ受け身一手、ときの過ぎゆきに委ねるは如菩薩の計らいぞ、さあ、働け満蔵、身を粉にして働け、我ながら置かれた情況が滑稽に思えて仕方なかったが、反面どこかしら虚しい気もしないわけでなかったわ。けど、隣から眼を凝らしている妙のすがたに憐れみが微塵も感じられんのは不思議じゃった。この不思議さは、あらかじめ確定された、ときの連鎖に絡まるよう算段された夢見であろう、夢の成就は寝て待てばよい、妙の突き刺さす視線を一身に浴びながら、鏡でそのひかりを反射させている。わしは決して鏡を置き忘れたりしなかった」
[291] 題名:妖婆伝〜その十二 名前:コレクター 投稿日:2012年07月31日 (火) 04時20分
「冷や水を浴びた心持ちとは申せ、もとより隣部屋に満蔵の寝ているのは承知、過敏な驚きはいわば念押しを拠り所としてみる几帳面さによるもの、覗き見されたとて頑是ないわ。
どうしたの満蔵さん、こっそり盗み見などはいけませんよ、もう夜更けです、早く寝ないと山からモウモウさんがつかまえに来ます、妙さんとわたしは按摩をしてからだをほぐしているのです、大人になればあちこち凝ったり痛んだりするものよ、はだかになってお互いの悪いところを指圧してるの、でもね、あまり大っぴらにすると、やれ嫁は気づかいも働きも足りん癖にようもなあ、なんて嫌みを言われるのです、満蔵さんはおとこの子だから、こんなこと分かりにくいかも知れないけど、、、と諭して聞かす光景がすでに先行していた。
妙の表情にも一抹の陰りが差しこんで、わしは反射するよう細く開いた闇に手をかけたんじゃ。日頃から恐がりで現にこうして妙の隣に寝起きしておる。声も殺し、音も立てまいと気はもんでいたけれど、物おじの満蔵には異変と感じたのか、ならばあたまから布団を被って震えておればよいものを、どうせ寝ぼけまなこの挙動ぞや、いやいや、小胆にも確かめるべく胸躍ったのなら捨ててはおけん、先の小言はその際の方便よ。
ぱっと怒気を放った手つきでふすまを開ければ、八畳間の隅に薄暗く敷かれた布団、その寝顔もどことなく陰気臭く、かといって嫌みのある面でない、無邪気なものよ、すやすや夢のなかじゃ、忍び足で近寄り寝息のかかる距離から顔を眺めた。わしとて微動だにせん、狸寝入りなら看破しようぞ、後ろから妙も摺り足で、ふたりして小さな邪魔者を睨みすえておったわい。襦袢を羽織っただけであったのと、いつまでも満蔵の表情に動きが見られないのが潮時、肉欲の炎はたち消えとなってしもうたわ、というのも廊下より旦那さまがお帰りでございます、そう下女が声をかけたのじゃった。又とない機会を逸したからには、潔く汗を拭い、浴衣の帯も凛々しく、微笑は涼し気に。
妙さん、いつの日か、、、それだけ言い残してわしは部屋をあとにした。呆気にとられているふうに映るのは義妹があらわにした精一杯の演技だろうし、その心身から急に冷めたりしない熱意のやり場に困ったからに違いない。断ち切られた肉欲は陽炎となり、行方を失った影をあおってみせる、淡い色情は深くつつましい願いのなかに消えてなくなってしまうのか。妙の失意は軽い火傷にも似た、ひりつきをその眼に余し、夏の夜を恨んでいるかのよう。
口惜しいなあ、妙の裸身の見納め、まったく、わしとしたことがしくじりおって、と自責の念にかられるところだったが、こればかりはどう慎重に臨んでみても結果は同じだったろうよ。満蔵を侮ったのがいけなかった、お化け幽霊なぞと稚気に流され、同じ年頃の子供らよりあどけないのを容易く引き受けとったわ。失態じゃ、大失態じゃ、あの世の不思議も山の怪異も、わし自身がよく心得るべき領域でないか、うなぎが人間のおなごになった、まわりにも数えきれんくらい奇妙なことばかり、それなのに、ついつい子供じゃと軽くあしらってしまい、それはこういうことだわ、人間の無心と変化の意識を同列に並べられん、何とも不愉快で、汚されるような、うしろめたく気乗りがしない、そんな心持ちがいつの間にか、満蔵を幼稚で未熟な人格とみなし封じこめていた。小夢に許しを乞い、哀切に打ちひしがれながらも決しておのれの意識を立ち切れんようにな。
あの夜以来、どうも気分が落ち着かなくてのう、そりゃ確かに不埒な色欲を抱いたのを悔やんだりしたわ、ふすまの隙間さえなければ、ことが成就したなどとも、更には隣の満蔵に注意を怠ったのが一番の汚点だったとか、愛撫もほどほどに素早く破瓜を実行すべきで、あのもさもさした、ねちねちした嫌らしさに溺れるんじゃなかったとか、しかも仕損じた挙げ句に待ち受けておったのは、果たして妙の**を破ったとしてどんな意義がある、何かこころを満たしてくれようか、単なる業腹としても、誰に向かっての憤りじゃ、さっぱり合点がいかん、これでは盲目に独り歩きした欲でしかないわ。
とまあ、悶々しておる次第で、それも意識の持ち方だけに徹底していて、実は小気味がよい。言うまでもないわなあ、それでこそお人形さんの面目躍如、ここに到ってどうして奈落になぞ落ちるものか。
わしのお花畑はそこで取り上げられてしもうた。つまり苦悩しようが、内省しようが、開き直ろうが、健気になろうが、ほくそ笑もうが、小夢の器量は歯牙にもかけられず、これまでの待遇が一気に逆転、はあっ、あんた、やっぱりだった、予期した通り、満蔵じゃよ、あのこわっぱめ、しっかり覗いておった、あの情景を食い入るように見届けておった、それをな、一部始終をな、旦那すなわち長兄に言いつけたのよ。
いや姑の耳には入っておらん様子、旦那には勘案あろうて。なぜと言おうに日輪の盛りが過ぎ、それとなく秋の気配が見慣れた庭先に感じられる頃、その晩、どうしたことやら執拗にからだを求めてくる、季節のめぐりみたいな優雅な趣きでなくてな、もっとこう、さばさばしていて、かと思うと陰湿な感じさえあって、いつぞやの真言立川流の興奮を彷彿させる勢い、あれから色事は遠のいていたので、わしも久しぶりにおなごの楽しみを堪能してしもうた。で、肌に余韻の消え去らないうちと案じたのか、こんなことを言い出したんじゃ。
あのときの身震いは忘れられん。のう小夢、おまえは相当の好きものだなあ、なに、今さら隠さんでもよい、春縁のこととて一言も口を挟んどらんだろ、しかしなあ、妙はいかがなものだろう、仮にも義妹ではないか、、、おまえにその方の気があるとは知らなんだ。まあ、いいさ、他所ではなかなか貝合わせも難しいしな、身内で済まそうとは見上げた性根よ、ところで格式って、あれはどうしたものなんだい、妙は素直に信じておったぞ。まったく酷いつくりごとしやがって、おまえは家の家風を茶化しているつもりだろう、そうだ、そうに決まっている、でなけりゃあんな馬鹿馬鹿しい戯言なんぞ出てこんわ、魂胆ないのも分かっておる、おまえの里にひとをやってよう詮索してみたけど、婚儀に及んだ際に調べた以外はなんもなかった。そうとも村一番の器量よしで気だても悪くない、発作持ちでもあるまいし、考えつくのは自虐の思念、これより他になかろう、家のなかの人気がなくなったからか、それで格式などと戯け、この家をこけにして、妙を好いておるのでもあるめえ、気がふれてないなら、おまえに相応しい役目をやらあ、といつもはおっとりした口ぶりの旦那、酩酊でもないのにべらんめえ調で。
更にまくしたてる、そうさ、いい役目だ、うれしくて涙を流すなよ、おっと、妙には指一本触れてはならん、可哀想に、すっかり格式に怖れをなして苦労したぞ。どうした鳩が豆鉄砲くらったみてえな面しやがって。そこでそっと耳を貸せとの仕草、胸騒ぎの波にさらわれるよう言われるがままに。
よくもあのおぼこを仕込んだもんだ、あとはすんなりだったわ、おまえから教わったとかいう手管もちゃんと知ってらあ、おれがおなごにしてやったのさ。どうだ、役者が違うだろう、、、
わしの脳みそが湯気を立てている。実の兄妹でありながらかや、おのれが犯した罪科はどこへやら、よくまあ妙も股を開いたものよ。おののきはめまいとなり、この家の住人の顔かたちを歪めたまま、一点を軸足にくるくるまわり出した。顔と顔の間に人とも獣ともつかぬ魔物がかすめて行く、得体の知れない恐怖じゃ、これは牛太郎の本能が察知したのか、とにかく身の危険を感じる。感じては逃げてゆく。
旦那の語気は甚だしく荒れる一方だった。これがわしのお役目とな、聞いてるはなから吹いてしまいそうだったわい。いわく、満蔵には目の毒よなあ、誰だってあんな場面を夜中に見てしもうたら救いようはない。妙はわしがけじめをつけてやった、とまあ、えらぶって尻拭いもしたのだから承知せいとな、異様なもの言いをする。それから妙には荒療治が相応しかろう、でもなあ、そこで唐突にやわらぐまなじり、満蔵はまだ子供、手をとるように介抱してあげんとな、何を知らしめるのかは瞭然だった。
ここまで来たら突き進むしかないわな、それにわしは別段不快な気持ちもせなんだ、反対にあのこわっぱのものをひんむいてやる、そう意気込んでおったくらいじゃ。この屋敷の家風なぞ痛くもかゆくもない、が、離縁されるのは困りもんで、わしは生計の術にはとんと疎い。なに、役目も果たせんのなら出て行ってもらう、里にも戻れんぞ、醜聞がついてまわるわ、と含められておる。おお、おお、居たたまれん、お人形さまに治まってしまおう、満蔵でも小僧でも持ってこい、たいらげてくれようぞ。
旦那の卑しい笑いすら日々の光明、妙に抱いていた恋慕も夜露と流れ、思いのほか晴れ晴れしい気分になった。少年をなぶるのってみるのも一興、しかも公認じゃ、姑や他には内緒だがな。
わしから切り出すのもどうかと渋面をつくっていたら、あの子の部屋でことに及べときた、これには裏があっての、妙はあれから顔には現さなんだが、実情を聞き及ぶに到って、内心ひどくわしを恨んだらしく、それは無理もないわな、さて兄妹の絆とやらは肉欲に通じたくらいだから、どうにも意趣返しを目論んでおるのが感じられてのう、で、案の定こんな思いつきを持ちかけたらしい。
お義姉さまは嘘つきです、わたしは許せません、けど、あにさま、満蔵は変な執心にとらわれいる様子、だったらいっそのこと、、、お義姉さまにおまかせしましょう、今度はわたしがふすまから覗いてやるの、満蔵にもいい薬よ、と申したそうな。若いおなごは怖いのう、これで段取りはついた、あとは月夜を待つとしようぞ」
[290] 題名:妖婆伝〜その十一 名前:コレクター 投稿日:2012年07月30日 (月) 15時35分
「ふすまの向こうでわしの名を呼ぶ声がする。待ちわびておったとな、それはそうじゃて無論のこと、だがな、ただのひと恋しさでもなければ、ありきたりの肉欲に焦がれているのでもないわ、世にも奇天烈な逢瀬であるゆえにときめいておるのじゃ。わしは義姉でありながら、雄うなぎでありながら、妙と契ろうとしている。義妹はそんな秘密など微塵も知らぬ。知らぬが仏、お義姉さま、、、すぐさま返答をくれてやらぬのは怯みでない、無慈悲でない、ただ、その間合いを聞き入っただけのこと、そうさな、無垢なる犠牲に黙祷を捧げたのだろうて。
語気の弱まるのは道理、たおやかに吐く息を知ったうえで、はい、妙さん、どうぞお入りなさい、ちいと耳遠くなった振りしてみせるはひとり芝居、しずしずと浴衣の裾も夏の夜更け、白地に色づき鮮やかな桔梗をあしらった文様、その清楚な紫の見目、今夜の妙、はや秋口の風情を運んでほんに麗しい。こころの準備も万全かや、わしの気持ちはまだ揺らいでおるというのに。
いいえ、破瓜を決したことを躊躇してるのでなく、これまでの愛撫一辺倒から変化するだろう格式を算段し、少々浮ついたまでのこと、要するに雄の本性が踊り出いた場合、果たして義妹はどんな反応をしめすのやら。あくまでおなご、、、なぐさめの言葉はことわりでもあるはず、妙のからだは受け身としての矜持を保てばよし、ことさらの性戯は余興にならぬわ、それどころか同じおなごの裸体をどう扱う、扱うがすなわち貝合わせの道、くちづけはまねごとで済まされよう、愛撫もまた然り、けれど男女の絡みを模倣すれば、忽ちおののくであろうな、格式とは我ながら堅苦しい言い草を考案したものよ。
ともあれ、いくら懸念してみても始まらん、わしに出来ることといえばさっぱりとした面持ちを維持し、妙の気分をなるだけ楽にさせるくらい、あとは野となれ山となれ、儀礼の筋を外れるとき、自ずと答えに導かれようぞ。
さて一瞬の間がことの始まり。ひときわ無口な居ずまい、緊張には引いた様子、気づかいにはいぶかしそうでな、面は崩れん、その顔色いたって冷静、もちろん恥じらいは差し引いての勘定であるがのう。それよりわしが危惧した意想を汲んでいるのか、浴衣の襟を整えてみたり、後れ毛を撫でつける仕草、早う格式を恋うておるように映る。ならば御免と礼儀をただし夜具に横たわらせ、帯解くよりさきに熱きくちづけで、やや舌先も絡め柔らかな感触を満喫しようぞな。しかと抱いた両腕、まだまだ裸身には触れん、すると驚くなかれ、あんた、歓喜に包まれた表情豊かで、まるで流し目を送るよう傾いだ首にそって視線が宙にさまよう、そのさまよったさきに抱きつく具合でわしの背に両腕をまわした。これは今までなかった行為じゃ、抱擁じゃ、これで一気に興奮を覚えたわ。舌は唇からはみ出しその周辺を舐めまわす、ついでに上体をやや起こし、ぱたんと回転して妙に組み敷かれながら空いた手で帯をゆるめれば、再度転がり浴衣がはだける。あとは勢いでな、あれよあれよという間にもろ肌あらわ、すかさず乳房に顔を沈め、ぐいっと押し開く、だらしなく乱れた帯はそのまま、利き腕に野心をこめ裾をまくり上げ、片方の太ももに手を押し当てる。探り目線を送れば、湯殿の見知ったより、ふっくら、頑丈な両脚、我が身の華奢なつくりとは別様、どうにも、こうにも、くらくら興奮するばかりじゃ、かようなところに妙は息づく、わしの好みかや、この肉づきがすべてじゃ、愛おしい。なあ、妙さんや、、、これも言葉にできなんだ。
決して真っ裸にはせん、脱ぎ捨てられる運命ぎりぎりでまとわりつくような、健気でしおらしい趣き、いやがうえにも気分を盛り立たせよう。妙だけこんな姿にしておけんわ、じっと眼光を定めたままおのれの着物も同じ有り様、感極まって押し抱いたところついに互いの乳房が重なりあった。すると何とも言い難い感触、邪魔ものではなかろう、とかく張りはあるけれど我が身が増えたと思えば愉快千万、鏡に映じたふくよかなれど冷淡な様相でない。これが肉体の温かみじゃなあ、野方図な色欲もさることながらしきりに感心しては頬ずりし、両の**を交互に口にする。こそばゆいの、妙さん、、、こらえているのは瞭然だったが、どことなく身悶えしているのは単に胸の隆起だけを感知しておるわけでなさそうだわい、そう察したならたくしあげた裾をさらに広げ、いよいよ本格的に太ももの付け根へと指を強める。そうしてから、いきなりでは驚くに違いないの、膝のあたりから徐々に舌を這わせ、ああ、わしはうなぎじゃあ、やっぱりうなぎじゃあ、、、この動きに心得あり、潮の満ちる場所にはすぐさま向かわず、なだらかなふくらはぎを行ったり来たり、くねりにくねって肌に吸いついて離れない。下半身の神経は仕組みが異なるのかのう、一向にくすぐったい様子はみせん。ただ、湯殿では得られなかった快感に溺れそうになっているのだが、どうやらうなぎのぬめりが何処にたどり着くのか承知しているようで、いささか気後れもあろう、身悶えは恥じらいの動きぞや。
わしとて秘めた箇所を口にするのは初じゃ、ちなみに自ら試みたものの、よほど柔軟で曲芸じみた肉体の持ち主じゃなければ無理よな、かつてない生まれて始めての色事、これまでの指さき加減でよいのやら。わしはかつて殿方からたっぷりとなめられておる、襞の裏にじんわり、やがて脳天へと燃えさかる快楽は筆舌に尽くし難い。
あれこれ思惑をめぐらすより顔を埋めた。まだ潮の香はせぬ、あんっ、と手玉が転がったような声がし、同時に腰を左右して恥じ入る反応、それでも真珠の位置するまわりを懸命に、筆で撫でるごときにしておると、からだの奥からほむらの熱気、この唇よりあたたかでな、巧みに舌を使うておる意識もとろけてしまいそうじゃ。飴のゆっくり溶ける間にこの身もゆだねよう。妙の腰は落ち着きがなかったが、それとて花心に伝わる悦楽、両足を押し広げてみても嫌な素振りはしない、うっすらしたものがわしのよだれか、潮なのか定めることもせん、一途になめ尽くす、そして緩急自在に上下すると、この耳に届けられし嗚咽。
全身をくねらせ出したのは真の合図よ、妙の快感はわしの快感、いつ果てるともないことを切に願ってやまない、無償の奉仕こそ性愛の極地じゃろうか。しみじみと湧き出る情にほだされ、いつしかその渦中に埋没しておった。
妙の姿態に苦渋を見てとったとき、不意にそれまでの平穏が乱されたんじゃ。快楽の行く手、これより何を求めるというのやら、雄の本性として到達できぬ困惑かや、はたまた、おなごの性として今度はこの身をまさぐってもらいたいのやら、どちらともつかんし、どちらでもあるような気がしてのう、考えあぐねるよりさきに、こう言葉がついて出た。さあ、次は、わたしをね、、、そっと妙の上体を起こし、哀願するような、憐れみをこうような、しかし、眼の奥には針先にも似たひかりを秘め、瞬時にからだをかわし、あべこべの位置となる。いくら酔うたふうとてこれでは妙もはっと我に返えると思われよう、もはや儀礼の枠を越え出でた、同性の股間をなぐさめ合ってどうする、責められる側にあるは無上の悦び、だが愛撫するに欠落したものでは意味をなさない、まさか如意棒は想像で補い、体位だけでも学べとは申し難いわ。
有無を言わさぬ身のこなしであったにもかかわらず、あたまの中はあれこれ吟味しておった。すると抵抗も怪訝な振りもしめさないまま、妙は手習いに励む学童のごときもの言いで、同じようにすればよろしいのですか、なんとも殊勝な応答ではないか。どうやら額面通り受け入れているらしい、男女の交じりを、色事の格式を。間髪をいれず、そうですよ、さあ、わたしのも、、、妙の顔面に腰を落とす、にゅるっとした感触を覚え、うれしさと罪深さを思い知る。あとはよく真似るのだと言わんばかりに再び舌を伸ばし、儀礼の限りを尽くすべしと意をただせば、すでに潮の匂いが漂っており鳥肌が立つ。やがては満ちあふれようぞ、わしは女体を味わいつつ、自らを解放させた。
小夢のからだを、牛太郎の邪念を、小夢の亡魂を、牛太郎の分別を、小夢をくぐり抜ける精神の頑迷さを、牛太郎に降りかかるあらゆる火の粉を、、、混ざり合っては桃源郷とも無間地獄ともいい知れない、見果てぬ境地へ、旅立ちの装いで。
悪意ではなかったろうよ、破瓜の手立てよ、なにを隠そう、今は亡き大旦那の部屋から時代がかった大天狗の面をこっそり借用しておってな、ただいくらなんでも実用には不向きじゃのう、だって、あんた、あのぐっと反り返った鼻はぞっとするような陽物そのもので、借りに用いたとしたら妙のほとは壊れてしまうに違いないわ。もう少し小ぶりのを探してみたけど毒々しい代物ばかり、もうよい、格式を重んじているつもりが、ほんに滑稽な事態を招いてしもうとるではないか。人さし指と中指に愛をこめよう、わしの情念はいよいよ真打ちの到来を待っておった。
夏の夜、夢想は成就されようとしている、わしも妙も玉の汗、木綿の布団は決して裏切りはせん、この火照り、この熱気、この高ぶり、けれど夜具の一角にひやりとした肌触りがなかなか見当たらなかったように、無常もまた夜風を呼んではおらんかった、こころの隙間を吹きゆくことなく。
さて義妹の純潔を破ろうと決意し、潮の具合をいま一度確かめかけようとした刹那、思いもよらぬ注意を促された。お義姉さまは御存知でしたか、どうもさきほどから気に留めかけていたのですが、隣のふすまがちいと開いてはいませんか、そう言われて見れば、ほんのわずかだが闇を一条立てかけたふうな感じがせんでもない、どれどれ、肝心なところで詰まらぬ詮議、が、次の瞬間わしは総身冷水を浴びさせられた気がした。隣の部屋には満蔵が床をとっておるはずじゃ、夢見かや、確かにふすまは薄目でまぼろしを熟視していた」
[288] 題名:妖婆伝〜その十 名前:コレクター 投稿日:2012年07月23日 (月) 22時21分
「どこまで連れて行けるのやら、いやいや、ひょっとしたらこっちが連れ去られるやも知れん。ゆるりとした愛撫じゃけど、うらはらに何やら気が急いて仕方がないわ、光輝なる真珠の扱いはよう心得ておるつもり、云わずもがなこの身を探索しては歓喜にむせび、謎掛けに興じ、はたまた懊悩を呼び寄せ、日の入りと日没に想いを馳せれば、自ずと照り返しにまなこを細めよう。あたかも悲痛を待ち受ける気構えでのう。
妙のからだにはかつてない快感が走っていたはずじゃ、湯にのぼせたふうな顔は持続どころか段々と辛い表情に移りゆく。あくまでそのような風情、わしの方が先達とてよう心得ておるわ。だがの、これより真珠を磨き続けてみても果たして深海の底まで至れるものか、ましてや初の試み、とすれば花心を突き破るのはまだまだ、ここに来てようよう互いの意識の隔たりがはっきりしてきた。妙はともかくこのわしに憑いておった思いやりは波間に浮かんだ藻くずみたいに軽やかなみじめさへ変移してしもうて、それは何度もいうよう慎重な計らいであるほどに、興奮の具合がいやに冷めてきてなあ、つまるところわし自身の快楽がちっとも発生せんというわけだったのよ。雄としての幻影がつまらん邪魔立てをしよる、ああ、ほとばしるものには成りきれんのじゃ。破瓜を取り急ぐまでもあるまい、本来のものが、正式なものがあり得んのだからな。
儀礼であるなら尚更、今日ここで妙を貫いてみたとて所詮はまねごと、ついつい情を熱うしてしもうた。実のところこのときが欲の頂上だった気がする、男の意地に賭けてみる衝動のゆく先は案外尻すぼみだったわい。あたまの中を渦巻いていた念のほうが遥かに大仰だわな、そうなってくると向後はよくよく色情がもたげん限り、無理は禁物か、噴出できないものに期待なぞかなわぬ、表沙汰にでもなれば義妹もろとも共倒れ、それにつけてもこのおぼこ娘よほど痺れたのか、わしの手のさきにはすでに真摯さをなくしかけておったにもかかわらず、まだ頬を赤めとろんとした目つきで呼吸にも力がある。そこですかさず、ねえ、妙さんここではなんですから、いずれときをあらためて、そう諭してみれば、言葉が言葉であることの実用に促されたか、素直なうなずき、とはいえ何処かしらないものねだりをしてみせるような、失意を別の角度から計り直したふうな、おぼこ以前の童心を面に出し、あれほどむさぼった唇の艶も後退してもとの木阿弥、が奇怪なものでよく眼を凝らせば乾くことも忘れた様子、おさなげな口もとに笑みを生み、もやがかった景色を眺めているかのまなざしはさっと鋭い、けれども仄かで有意義な礼節をみせ、わしの言うことに従う素振り、早々に湯殿をあとにした。
うなぎの牛太郎、人情とは何ぞよ、、、あわよく貝合わせを望んだ果ては、いや、ここまでのいきさつは、転生による人格占拠、密通に殺人と来て、茶番に等しい色遊び、意識に刺激をと欲したのがゆき過ぎであったか、それともこころの持ち様がやはり歪んでおるのか、もうよい、わしはたまらなくうなぎに戻りとうなった。だが、不可能よ、万に一つは黙念先生にすがってみれば果たして、、、それもすでに証明済み、もろ助の死がなにより物語っておるわ、それに実際のこととしてあの清流をさかのぼる術などない。長生きしたいのなら堅く口を閉ざすまでか、でもなあ、どうもわしはとうに均衡を失っておるようじゃ。悶々とした日々を過ごして行くのかのう、とな。なにを隠さんこれこそ大嘘、ことなかれ第一の平和愛好者、これまでお人形さまで来れたのを幸いにまだその上にあぐらをかこうとしておる。ほんに情けなや。
煩悶の月日が腐りかかった果実であるのを痛感したのはそれから間もなくだった。普段の立ち居振る舞いに異変は見えんが、廊下ですれ違った際、妙は抑えてはいるのだろうけど、そのぎこちない会釈を羞恥とするなら、ちらりと上目遣いしてみせる素早さこそ卑屈の反動、すなわち飛び出す鋭気、上等の絹に包まれた情念の刃、きれぎれの布地、うら若き女人のときを紡ぐ、眼には映らん妖術でな。妙の面持ちに影を見た、おそらくその生涯においてもっとも盛んな濃い影を。
そりゃ仕方ないだろうって、あんたもそう言いた気じゃな、まったく認めるしかない、わしが火をつけたとも、世に恐ろしいのは老醜の怨念なぞでないわ、溌剌とした若気には鬼が棲んでおる、正確には棲む宿を提供しているんじゃ。こうも判然としてしまったからには好色に溺れるのが躊躇われるであろうが、然にあらず、ほんの二三日もすれば飢餓とはいわぬけど、果実の匂いが漂ってくる。鮮度のよさに勝る供物の誘い、日毎に隣り合わせている死臭がほどよく香る。わしはまた湯浴みのさなかに足を踏み入れ、格式を重んじるがため妙を抱き寄せた。
まえと変わらぬ色目、際立った飛躍とてあるまい、同じ加減で乳をもみしだき、くすぐっては困らせ、もう堪忍というところで海女と化し、ゆらめく潮のなかへ浅く、そして深く、、、
そんな戯れも数えるほど、ある夜のことじゃ。湯殿で交わるというてもあくまでわしの手が蠢いておるばかり、しかと組敷いてはだかのすべてを味わってはおらん、簀の子の感触では気が急いてしもうて、湯冷めがそのまま短い時間となろう。是非とも柔肌からにじむ玉の汗を真綿の夜具に染みこませたいもの、そうして敷き布団の角に足先ひやり、情事から逃れた片隅にひそむ風趣、すでにたぎった欲求を一周させ、胸元に涼しさを宿しておるわ。
どうだい、あんた、わしの気持ち分かるだろう、そうかい、分かってもらえば話しも早いわ、、、さあその夜、旦那は分家に用向きがあるとかで、日暮れまえより出かけ屋敷は増々ひっそりしたものよ、どうせ帰りは深更、いつものことで酩酊のまま床につく。ただし人智に及ばん怪しき気配はこちらが近づくほどに濃厚、触らぬ神に祟りなしでくわばらじゃ。姑の部屋は東の端、で、妙の寝起きするのが西の側、ふすま隔てた隣に満蔵が眠っておるが、これが実に幼稚な子でな、朝夕の挨拶はいまだたどたどしく、その癖まじめくさった顔をして、お義姉さま、山向こうに吠えているのは人食いおおかみではありませんかとか、港に出入りする船乗りから猛霊八惨の話しを聞いたものがいるそうで、これは本当のことですかとか、まだ見ぬ境の果てに夢を運んで悦にいって他愛もない。
今宵こそが夜這いするには絶好の機会でないか、夕餉のあと使用人らも下がり、ちょいと目配せ、察する妙の面にはさざ波、わしは思わず相好を崩しかけ、そおうと耳打ちし、湯浴みして部屋にお待ちください、きっと忍んで、と小声は動悸にかき消される按配、心音の響きこそ人情の音頭、そうと決まれば、下働きに従事しておるかつての乳母ふたり呼びつけて、さりげない要件を申す目つきでな、ちょいと妙さんの部屋におる、旦那さまがお帰りになられたらふすま越しでよい、ひとこと伝えよ、子供らを頼みましたぞ、と羽をのばし義妹とにぎやかに歓談でもする様子を匂わせた。
姑に続き急いで湯に入り、ほの暗い自室にて薄き寝化粧、灯火に浮かんだのは小夢のはかなげな面。そっと笑み一輪、鏡面に咲かせてみれば、かつての懊悩、たやすく露となり眼前に一条したたる。果たしてこのしずく、、、
愛欲にとらわれしものはすべてを塗り替えてしまうわなあ、浴衣の胸元を両手で開いてみれば、我ながらうっとりする乳房よな、これまでどれくらいなぶったであろう、しかし我が身じゃ、体温の比較などあり得ん、この鏡に映っている色艶がどこまでも冷たい感触しかもたらさないようにな。妙の乳房にこの冷たさはどう応えるものだろうか、夏の夜風にあおられ熱く燃えてくれようか。
鏡の中から小夢がささやく、うなぎであって何が悪い、今のはわしの独り言、、、それとも幻聴だったのかいな、ああ、意識もろとも闇に紛れこんでしまいたい、白い柔肌を抱きしめて。
わしのこころは冷静に欲望と見つめ合っていた。耳をそばだてるまでもなく、廊下を踏む音が誰のものか即座に聴き取れ、子供らの寝入りまえの無邪気な会話が届けられる。屋敷のところどころ軋むのが怪し気で仕方ない、鏡の奥では小夢がうなされている、、、苦悶に歪んだ、けれど嘲笑にも似て、眠りの底を揺らす。妙の純潔を汚すのじゃ」
[287] 題名:妖婆伝〜その九 名前:コレクター 投稿日:2012年07月23日 (月) 04時17分
「なんとまあ、気色のよい、想い出のなかに滑りこんだような、それでいて他愛なく、ただ盛り上がった柔らかさにほだされ、満たされた感触。わしにしてみれば初めての乳房じゃ、この身のものはまさに血となり肉と化しておるわ、とはいってみても妙の胸に感じいった間はほんのわずかでなあ、そりゃ、素っ頓狂な声こそ張り上げはせなんだが、まるで不吉な魔手を追い払うといった調子の困惑がのどから絞り出た。その響きのなかに驚きはもちろん含まれておったけど、口早に聞かせた格式を受け入れる用意がなかったから、あからさまな拒否を示しめしたものの、どうして露骨な振る舞いにはそんな態度がふさわしいわな、乳房のしこりが表面に現われないのと同じ、まだ芽を見ぬ地中の按配じゃて、耳を澄ませば微かな嬌声が得られる。まったく不用意だのう、だがこれで妙のこころは決まった。
すかさず、こんなに張りがあって、さあじっとしていてね、子供をあやす声色を持ちい、ほとんど独り言の呈で間合いを埋める、なだめる、壊れものを扱う加減でそおっとな。で、その手も撫でるというよりか傷口を覆うようないたわり、五本の指、あわせて十指、繊毛運動にも似た細やかさでふくらみから離れない。増々狼狽にからだをこわばらせるのも承知よ、しばし無言のまま行為を続けて、妙が小首を大仰に振りかけたとき、わしはこう話した。これが儀礼なのです、心配なさらず、先々のことを考えますとあれこれ気恥ずかしいでしょうけど、わたしはおなご、あくまで形式をなぞってるに過ぎません。
熱心な口ぶりのうちにもどこか醒めた、あるいは感情を押し殺しているふうな余韻が妙の肌にしみ入ったのだろう、観念したといわんばかりに首をうなだれてしもうたわい。その胸中にはしなやかな憐れみが微笑に移りゆく模様が透けて見える、義妹はこう囁いている、わたしの恥じらいを忘れないで、そして導きから怖れを取り除いてとな。今度はわしの方がとまどう始末、簀の子に裸体ふたつ、さてさて乳をもんだまではいいがこの後どこまで性戯を施すのやら、儀礼も格式もはなからでたらめ、女体への欲情とて衝動とみなしたけれど、それすら意気を高揚させる為の方便だったなどと、腰砕けの弱気になりつつある自分を痛感し、うなぎの前の生が人間の男であった確信の所在をひたすら求めるていたらく、それもそのはず、女人に転生した今では男の欲をあたまでわかってもからだは機能してくれない、乳もみには問題ないが肝心の股間に武器が備わっておらん、わしの割れ目を貫いた如意棒はどうしたところでこのからだに見当たらんのじゃ。
そうするとまったく記憶の欠けた前々生なぞ、あやふやになってしもうて気抜けしかけた。男だったら怒張したものが一気に萎えるのかいなあ、そもそも情欲を沈着に運んだのだって別に大義があるわけでもなし、おまけに行き当たりばったりだったと知るに到って、果たして股間のうずきはどういう代物であったのか、ここに来てついに迷いだしたわい。が、両手のひらは妙に張りついたまま意識せずとも繊毛運動に従事しておる、いや、ここで手を離すのは迷いにとらわれるのを了解してしまうわけだから、時間は無意味な行為を黙認してくれとるわな。指さきまでそんな思惑とはおおよそ言い難い配慮が伝わっていたのか、ふと**を人さし指と中指でつまんだところ、思いもかけぬ妙の反応、ああっと小声をもらせば、はっと我に返ったのが幸い、これでいいんじゃ、前々の記憶なんか暇な折にでも思案すればよいわ、衝動の意義をただすなど、空腹の因果を問うてのち飯を食らうようなもの、こりゃ、いささか緊張したとみえる、そうよなあ、わしにとっては初体験だからのう、そして妙もな、、、
とするうちにどうにもこらえきれない、切ない様子になってきたので、思わず親指も加わって**を転ばせ快感のゆくえを見定めようと躍起になる。妙は再び首をくねくねさせ、もう治まりつかない様相で振り向いて哀願の目つきをし、ああ、お義姉さま、たまりませぬ、もうこれ以上は、そう息も絶え絶えの甘いもの言い、さっきまでの悲観はどこへやら、わしは股ぐらからうなぎをひねりだす幻影も鮮やかに、男の性を歌い上げ、その勢いをあえて抑えた口調で、妙さんや、感じるのですね、ではもっともっと、ひかえたたつもりが語尾は尻上がり、まなじりは下がっているのがよく分かる。ようし、このまま股間へと手を這わすか、そう決意も清く、陶然とした妙の快楽を分け与えてもらう勢いでいたところ、こう言うではないか。
こそばゆくてたまりません、お義姉さま、ああ、もう我慢できませぬう、、、さっと身をかわす。わしが落胆したとでも、脱力したとでも、違うわな、あんた、逆にめらめらっと燃え立ってきて、大いにいたぶってやろうと決心したんじゃ。いたぶるといっても悪意ではない、なぜかというに、わしの見立てに狂いはなかった、この義妹はおぼこの中のおぼこ、こそばゆいとはなんとも由々しいではないか、これでこそこちらもそそられるというもの、やりがいを、楽しみを、なぐさみを、生きがいを実感する。感ずれば実行あるのみ、逃げたからだをむんずと斜に抱き寄せ、閉じた股に容赦なく指を忍ばせた。
あれえ、そのようなことを、お義姉さま、、、悲鳴ではないわな、その二歩くらい手前じゃな、わしは聞く耳もたぬ顔つきで毅然と言ってやった。これが格式の門ですぞ、ひるんでどうなさいます。すると妙は、でも、とだけ消え入るような声でそのさきの口をすぼめてしまい、一層全身を堅くして、しかしどうやら怖れと羞恥が平行に並んで簀の子の隙間にこぼれ落ちていくようで、わしはこころ置きなく未開の箇所をまさぐり続けたんじゃよ。悪鬼の形相かとな、いいや夢中だったに違いないが精神はいたって冷静、不思議でもあるまい、かの春縁に抱かれた体感がふつふつとわき上がって来る。急いた愛撫に沈着を願ったことが裏返しの情況で呼び覚まされる、決して気分のよい想い出ではないがのう、味わいの限りに好悪はあるまい、快楽のみが抽出されておるんじゃ、よぎる過去を塗りつぶす手先は冴えに冴えて、妙の秘所がうっすら世間をかいま見ようとし始めた。そこでわしは熱のこもったくちづけをし、開きかけた敏感な位置に注意をはらい、少しだけ指を差し入れてから、たっぷりと唇を吸ってな、初心な妙はまばたきもぎこちなく、目の玉を泳がせておったわ。わしはその泳ぎを見守る仏ごころでなお手先に願いをこめる。
思いやりじゃて、行為はすけべ丸出しかも知れんけど、この女体の中から湧き立つ色の芳香はもはや雄雌の区別なぞ取払い、どこまでも真摯な熱を帯びて、ほんに義妹が愛おしゅうてたまらん、そんな奔流となろう気持ちが一気に溢れ出すのを認めるとき、わしの情念はひたすら燦々と輝きだす。地熱の発光は無償となるのじゃ。
妙の当惑に対する思いは慈愛と呼んでいいだろう、わしはつぶやく。ここもこそばいのですか、あえて口にせずともよいことを、黙して柔かな手つきに専念すべきところを、恥も驚きも一緒に互いの胸に弾ませたいが為、そして少しでも妙の気を楽にしてやりたい一心でそう一言。
すると花弁にそよ風が触れるよう音は届かんが、しばし後ゆれた証しはとても気だるく、眠た気な趣きを装い、あるいは装いそれ自体が空洞の反響か、音のなき世界から霧となってこちらに伝うものがある。頬に羽毛のひとはけ、微かな吐息ともつかぬ、寝惚けた呼気にも似た甘い空気。わずかに首を左右、その微風かや不明瞭ながら、いいえ、、、再度はいらぬわ、妙のからだとこころは正直だった。しかしおなごの大事なところ、情熱にまかせ荒くなぶってはいかん、ましてやみだりに花心への侵入はちと早過ぎる。そこでわしはそっと撫であげる按配でな、女体ではない、野に咲く花でもない、青々とした空に広がる海辺を探ったんじゃ。透けては遠のく波間にたゆたう秘めた真珠を。その在りかは雄大な心持ちにこそ呼応する。見つけましたよ、これは声に出さん、無言の調べは潮騒ぞ、ゆっくりとゆっくりと寄せては返す波の反復、しばらくするうち海水で指がぬれる。真珠のひかりは見つめん、だが妙の沈黙には優雅な緊迫がひかえておるわ、ふたりが共有しているのはひかりに他ならん、つくられた格式で始まった交わりに光明が差しこんで、辺りをきらきら反照させていた。
わしのこころは確かに不純だわな、それにひきかえ妙の心中を満たそうとしているのは紛れもなく自然な戯れ、ああ、強まったのはどちらの輝きやら、詮索もまた虚しい。波の手は休むことを知らず、次第に昂りつつある無垢なからだに息を吹きこむよう何度も唇を吸う、きつく吸う、そしておもむろに離れ、その表情をそっと窺えば、だらしなく半開きなったのが艶色に傾きかけて以外な一面、とろりとした目つきは海原へさまよいだす。あきらかに妙は感じておる、こそばゆいのではなかった」
[286] 題名:妖婆伝〜その八 名前:コレクター 投稿日:2012年07月16日 (月) 03時55分
老婆の眼が鋭く光り思わず身をこわばらせてしまった。悪夢ともいえよう語りに引きずり込まれているのは、どこかしら同調を余儀なくされた結果だろうし、今にももろ助とやらが土間から這い上がって来そうな気配さえあった。そして自らの寿命を明確に知り得たうえで、一語一語が命の灯火に呼応しているのか、怪しい含み笑いのうしろにはどこか寂し気な様子が透けている。日は沈みかけていた。
「どれ舟虫、そろそろ夕餉の支度をな」
自分は孫娘の名を始めて耳にすると同時に、たった今老婆の語った義妹のすがたがすっと傍らに立ち浮かんだような気がし、胸の痒みに襲われた。随分と年少の昔、異性が異性である様子を夕空に投げかけていた淡くて、柔らかくて、幾らかは生真面目なあこがれが白雲のように呼び起こされる。まだ見ぬ男女の機微が気流に乗り、どこか遠くへと、やがてまわりめぐって来る予感を抱きつつ、、、
舟虫の下がる気振りがたなびく前に、ときめきともいえる気分はその律動だけを譲り渡す具合で話しの続きへと繋がってゆく。
「こらえきれん欲だったかといわれれば、そうでもない、なんせ雄には違いないが、人間の性欲を学んでおらんからのう、はっはっは、そうだろう、すけべな気持ちはひとりで成立せんわ、なんだかんだでまわりからひっそりと伝授されるんじゃ。その方が数段いやらしいわな。とまあ、わしは居ても立ってもおれんかったわけじゃない、すぐさま手篭めにするほどの勢いでもない、そこでどうしたものかと思案したんじゃよ。あの時分は貝合わせのいろはを知るよしもなし、ましてや他の女体に接する機会なぞあるまいて。
そうこう案じておる間、十日ばかり経った日のこと、湯浴みの際じゃ、夏の空は宵待ちを気長に心得ておる。湯気が格子の向こうへ逃れて行けば、反対になにやら幻影がこちらに流れこんで来る気配、ぼんやりと見つめておるうちに段々そのかたちが定まって、はっと気づけば、この湯殿こそ裸身があたりまえになる場所、これより他にうってつけはあるまい、屋敷の立派さからしても湯船はそんなに広くなかったし、家風よなあ、入浴の序列はいわずもなが、ちょいと細工をして妙の番をつかめば、それがそのまま女体同士の空間となる。別に雑作はなかった、いつもの掛け声をそれとなく言い繕ってな、先に妙を湯浴みさせ、なに食わぬ顔してその戸を引くまで、相手が驚きを隠せぬのも道理なら、わしとて罰の悪そうな面をつくっての、だが斯様な場面に遭遇した身は、ほれ裸身じゃて、これは失礼で通じるなら更に踏み込んで、あれま、わたしとしたことが、と少々照れもしながら、すかさず毅然たる面持ちにすげ替え、ねえ妙さん、着物を脱いでしまったから、そう一言ぽつり、無論のこと妙のためらいは眼前にある、それとておかまいなしじゃ、間を置きすぎては双方の遠慮が勝るというもの、一気に攻め入る口吻で、一緒になど滅多にありませんなあ、まるで湯けむりに誘われる自然な素振り、しずしずと歩み入れば、互いの恥じらいも狭められよう、近づこう、義妹は拒絶の理由をほんのりと忘れ、ただただ湯船にうつむき加減となったのはことの成りゆき、桶に湯を汲む手つきとてさらり、同じ屋根のもとに暮らすもの、女体ふたりを静める湯に罪はあるまい。のぼせたふうなもの言いで、急いで湯船を出ようとする妙もまた当然の仕草でのう、そこをいたわり気に、そんなはにかみはいりませんよ、さあ、背中を流してあげましょう、折角ですからねえ、と投げかける。これには妙も多少感情あらわにし、滅相もありませぬ、お義姉さま、そのようなこと、眼は湯けむりをさまよい、まさに逃げ場はなし。ああ、わしとてもじゃ、が、そこは年の功でな、すでに面前にある妙のはだか、息をのむ暇もない表情を保ち、ちょいと性急なちからを両手にこめ、その滑らかな肩を押さえ、うらはらに口調はいたって安穏、身内なのですよ、それともわたしが嫌いなのですか、そう問えば、増々もって萎縮する妙、ここに来ておのれが発した言葉の響きに軽いめまい、好きよ嫌いの意味はなお深いわ、たじろぐ様子をしかと諌めるよう追い打ちをかける。わし自身への叱咤でもあろうな。
もう子供みたいにぐずぐずしてはいけません、どうか、わたしの言うことを聞いて、短い文句ながら最初嘆かわしく、しまいはきっぱり威厳をただすと、もとよりひかえめな性質、汚れを受けつけた試しのない背をそっと向けたではないか。湯のしずくやら肌のきめから沸いた汗やら、その張りつめた皮膚の白さ、まだ肉づきのさなかにある緩やかで、優美な曲線を描きたく願っている腰へのくびれ、ふつふつとこぼれ落ちるしたたりを拭う構えで見遣ると、さながら狩人の獲物に迫った感、一抹の憐れみがふとよぎる。
思えばうなぎのわしにはこんな意識なぞ生じておったのか、いいや、その辺がなんとも曖昧じゃ、昔の記憶とて所詮は小夢のあたまを通して、そうとも、牛太郎の考えは純然たる過去の遺物でなく、今この肉体をめぐって降り立ったもの、いわば人間に濾過された思念じゃよ、本来のわしに憐憫の情などあろうはずはない、獲物は獲物、その日の大事な糧に尽きていた。すると妙に感じているものは果たしてどう処理してよいのやら、意識と肉体を分離せんと欲したまではよかったが、土壇場に至ってのこうした逡巡、雄の欲情をぎらつかせたかったにもかかわらず、もっと突っ込めば初夜の晩より刺激に満ちた情況でもあろう、ここで意欲を失っては一生飼い殺し、わしは小夢の供養だけをよりどころにして生きることは出来ん、ひとでなしならぬ、うなぎなしとは変な言い草じゃ、けれどあとに引けぬのなら、ここの戸を引いた余波でおのれをなぶれ。
お義姉さま、ちいと痛うござります。はっと我に返り、現状を見渡すまでもなく、湯気を吹き飛ばす意志がもたげてきた。行き当たりばったりの思いつきでここまで漕ぎ着けのじゃ、むざむざ好機を逸してなるものか、今日のところは半ば強引であったが、妙とてこれからさき二度とこの様な事態を好むとは思えん。なら本願はここで成就せねばならんわな、わしはひたすら裸身を見つめた。妙に限らず、かつては持て余して仕方のなかった我が身を同時に。すると発心がたちまち開眼へ直結したんじゃ、あとは方便が口をついて出るばかり。
あれ痛かったですか、しかし痛さはもっと他にもあるのですよ、妙さんもいずれは嫁にいきましょう、いえ、ちょうどよいと思いましてね、こんな話しびっくりするでしょうが、ここのような格式の家ではみんな教えられることでして、あなたは御存知でしたか、そう、でも祝言の夜は知っておりますね、なるほどそこで格式が問題になるのです。殿方はいくら初心を尊ぶとてあまりの無知は却って無粋、いいえ、それどころか野暮の証しと軽視されましょう。そこで年長のおなごがですよ、肌の交わり、すなわち礼節を知らしめる為に愛撫の手際をな、唇の重ねをな、腰つきの加減をな、大事な箇所の仕組みをな、すすっと伝授いたすのです。あくまで表面上のことゆえ、いえ何、おなごではありせんか、大丈夫ですよ、恥じらいなどいらないのよ、ええ、ありますとも、わたしみたいな近い家族から教わることも。出来ればそうしたい、だって妙さんはとても可愛らしいからです。ここに嫁ぐときはわたしも同じ儀礼を通過したのですよ、ほら分家の奥さまの従姉妹にあたる方から、、、
わしは義妹の背が微風になびくこずえのように身震いするのを見逃さなかった。少なくとも妙は男女の契りを知らぬわけでない、山寺の若僧らにこころ揺らしたのも、まんざら色を蔑んではおらん証拠じゃて。
ここで急いてはならんのだが、もたもたしておると湯が冷めるごとくに妙の興味と不安も熱気をなくしてしまうわ、ではひとつ手早く行かねば。両の手をな、そっと脇から乳房にかけて伸ばしてみたのじゃ」
[285] 題名:妖婆伝〜その七 名前:コレクター 投稿日:2012年07月09日 (月) 20時06分
「さあ、それからわしは茫然自失の体であったかといえば然にあらず、足取りこそ浮遊したままだったがのう、逆巻く意識は明快そのもの、さながら疾風にあおられ流れゆく風景をおもむろに眺めておる感じがして、もろ助の頓死にたじろいだものの、成る程これは春縁が末期に放った忍術の類いに相違あるまい、あの血飛沫からして意趣返しとみえようぞ、そんな冷静な判断をよぎらせつつ、暮れてきた木立の道を急いでおった。もろ助の亡きがらを葬ってやるどころか、穢れた血の匂いがもたらす嫌悪と恐怖から素早く遠のきたかったんじゃ。
夜が迫ってくる、かつてこれほどまでに夜を怖れたことがあったろうか、わしは人間が抱く本能に操られ、防衛心を頼りに、そしてこころの底にうっすらとゆらめいている得体の知れぬ情緒をぬぐわず、宵闇が背後にひしひしと追っかけてくるのを、どこか戯れにも似た感覚でとらえていた。悔恨に苛まれ、もろ助の死を悼む意識はただただ夜に被われよう、なぜなら駆けゆくさきに待ち構えているだろう春縁の壮絶な遺体を取り囲む光景へと突き進んでいるわけじゃ、わしの帰る場所はもうどこにもない、半ば捨て鉢で、半ば災難から救われた安心が、わしを裁断しかけておる。人間に転生した妙味をあたかも身をやつしたふうに解釈し、うなぎの精神ならこうも生臭い焦燥など持ち得まいて、これは娘の怯懦が引き起こしているか弱さなんだ、そんな負い目の所在を転嫁しようと躍起になっていたんじゃなあ。まったくなんたる無様さ、夜は実のところ恐怖なんかじゃない、この身を紛らわす隠れ蓑、すべてを呑み込んでは格好の情趣をこころの隅に留め置く。
が、そんな拮抗する二面を宿しながらもなんとか宵闇にさらわれるまでに屋敷に到着し、懸念した人だかりはおろか、春縁と匕首、そして夜気に触れよう生々しい血潮の気配もないのを知り、始めて我を失ったのじゃった。一体これはどういう有り様、気を取り直し門をくぐれば、寡黙な爺やがぽつりこう言うではないか、湯が沸いております、とな。いそいそと廊下を抜け湯殿へ向かい、平常心を保った仕草で返り血に染まった着物を脱ぎ捨て、湯船に穢れをにじませれば、またもや安堵に収まった情緒が湯気に香る。
なにごともなかったのだ、そう、なにもありませぬ、さっと桜色に上気した肌から囁かれた声は女人の持ちもの。塵芥にまみれた俗世間とは隔絶した趣きさえ顔を出し、その頬がちいさくゆるみ、ほくそ笑む。ほんにそつのない手際じゃて、この屋敷の者も山寺の使者も、わしのこころも、、、危難を回避したうれしさはほんのりさせる湯加減と相まって、刹那の休息を得た。
夕餉の席に僧侶殺害の話題は似つかわしくないのか、いいや、まぼろしを見ていただけのわしにとってどうして空恐ろしい話しが耳に届こう、なにもかもが世迷い言、春縁の恋情から殺意、そしてもろ助の登場、、、突き詰めてみるまでもなく、そう、今は平穏な日々をありがたく受け止めるべき。
よほど衝撃が強かったんじゃろうな、わしのこころは千々に乱れるのを避けたいが為、身重のからだをいたわるように謎めいた現実から眼をそらしてしまったわ。
決まりごとの淡白さで季節はめぐって、汗がぬぐわれ、涼風は冷気へと交替し、雪景色を白い息で眺めては張り出した腹になにやら呪文めいたつぶやき、やがて年があらたまり、わしは玉のようなおんなの児を生んだ。さきの兄妹らに対する情愛を同時にしみじみ感じ入っては、今まで乳母に任せきりだった子育てが甲斐甲斐しく思えてきてのう、ままごとの延長でありながら人形である身がありがたく、こころの持ち方に変化があらわれたんよ。たとえ諦観に裏打ちされておろうがこの過ぎゆきこそがまことの現実、飛躍した覚えもなきままに転生の身のゆらぎが生じない日々を慈しんでおった。
そのうち屋敷内の人々に転機が訪れる。長女に縁談が舞い込み、あれよあれよという間に船に乗って遠く良家に輿入れする。その年の暮れには大旦那が長患いのすえ鬼籍に連なり、残されし家人の静けさは姑の毅然たる姿勢にならうよう息をひそめ、次女の妙、十六歳の花盛りの割りには陰にこもった面持ちで、次男の満蔵はまだ十二を数えたばかりの少年振り、肝心の旦那はなお道楽にのめり込んで罪こそ起こさぬけど、わしらを顧みる余裕はないものとみえる。
単調な毎日に飽きは来なかったと言いたいんだね、そうよ、わしの安住は井に水が湧く按配なぞではなく、いわば原体験を放擲するゆえに育まれた方便、いつこころの均衡に異変があるやも知れん、ちょいとした刺激が呼び水となって汚濁もろとも清流になだれ込む。
ことの起こりは次女妙が庭の灯籠に一匹の蛇を見たという嘆息めいた口調に始まった。生来のもの静かな性質を立証せんばかりの抜けるような色の白さ、紅なぞひけばさぞかし色香が浮きたつであろうに、この妙という娘、おぼこさを通り越して無味乾燥な印象すらあたえかねん。その妙が、お義姉さま、灯籠の影にうす気味の悪い蛇がおります、とその存在がどうのこうのというより、蛇がはらむ想像の産物に打ち震えている様子でな、それはそのままわしの忌まわしい過去を呼び返す模様でもある、まさかもろ助がさまよい出たわけでもなかろう、しかし、妙の態度に隠れた畏怖にはうなずかざるを得ない。ああ、神経を嫌らしく撫でられる思いじゃ、おそらく無心でありながら、わしの方が過敏になってしまうのも致しかたないわな。いつかはきちんと向き合うべき問題じゃて。
思えば、もろ助の死に様は不審そのもの、わしが勝手に相打ちの采配を下したまで、、、忘れかけていた黙念先生の面影が明暗を定めるよう白線となって延びてくる。しかもその線は清流の底にゆらめきながら、あたかも一条のひかりの軌跡と化して失われた過去を照らしだしておる。ほんにやるせない、生きる希望が素直なひかりなら、死せる記憶こそ斯様な明るみに応答する歪みよ。だが、この歪みを見つめないで果たして真の意識と呼べるのだろうか。わしはそのとき、すでに黙念先生が念押しした戒律を思い起こしていたんじゃ。もろ助の死は恐るべき呪詛だったに違いない、あの日、わしはあわただしくもろ助を詰問していたが、おのれの側からなんの真実を伝えてはいなかった、、、かれこれ三月になる、、、そのひとことがもろ助の生命を断ち切った、わしは焦りにかまける素振りで、運命の下敷きになる予感におびえ、しっかり黙念先生の言を守っておったんじゃな。
そこまで考えればもう上等だった。情けなさといらだちが重なり、どうにもやりきれない、もはや情緒のかけらも見当たらないわ。恨みを抱き現世に戻ったもろ助を憐れむより、妙を通して届けられた不穏な空気感染のような形状に嫌悪を覚えよう、じわじわとまわりくどい手法で呪いが伝わってくるのはなんとも気色が悪く、血塗られた帷子のひとり漂うさまが脳裡に描かれる。
このまま苦悩に従い続けるのは小夢の肉体を有したものとして、牛太郎の精神を取り込んだものとして、かくあるべき道理なのやら、もう一度考え直してみようぞ。黙念先生が地雷のごとく敷きつめてある呪いに接触しない術は警戒だけと、震える神経に即しておればよいものかのう。わしの脳みそに反転する意志が芽生えた。
これまでの意識改変とは別種の極めて自然体に即した欲動じゃった。なんの女体に縛られからといっていつまでも従属する必然などないわ、女体は女体、意識は意識、無理強いしてまで女人に生まれ変わらずとも、雄のこころで他の女体を愛でる行為こそ本来のすがたじゃないのか。蛇の言い出しにわしの食指が動いた。そう、花盛りの年頃であるにもかかわらず、朽ちてしまいそうな妙の裸身へとな。
面白いもので、そうした眼でこの純朴な娘を眺めてみれば、なるほど着物の上からは感じとれない、はちきれんばかりの旨味が覆い隠されているような気がしてくる。あとはどう料理するかじゃ、、、
一度そんな欲情が突き上がってくると、もう引き返すことは出来なかったわい。もろ助の幽霊だろうが、黙念先生の呪詛だろうが、もう卑屈で小心な思惑に屈するのは御免こうむる、逆に声高くこう叫びたいものよ、美しかな薮蛇、余分な配慮こそ豊穣の証しなり。他者への配慮なぞでない、おのれによるおのれの為の配分、小夢のからだもこれで抹香臭さを振り払える、未知の領域を遊泳するのじゃ。わしが授けようぞ、川底の泳ぎ方を、雄の嗅覚を、、、」
[284] 題名:妖婆伝〜その六 名前:コレクター 投稿日:2012年07月09日 (月) 06時54分
「春縁との逢い引きが頻繁になるにつれ、そして女体の痺れるような悦びが募り、情事のあとまで熱気を失うことはなくなった頃には随分わしのこころは平安だった。転生したことを悔やむ気持ちが軽くなったのは事実じゃったし、娘の感覚に牛太郎だった領分が侵蝕されていくみたいで、これは裏側からすれば消え去る記憶に慈愛をこめていたのだろうな、あふれだした情感の飛沫を見遣っている猶予が発生しておったから。
それはそれで結構だったんじゃが、心身が安定してくると今度はおのれを取り巻いている実情のひりつきから逃れんようなってしもうた。いうまでもないわな、わしは不義密通を犯しているのじゃ、他の者らも同罪やからと高をくくっておれるほど呑気ではないわ、官能がじんわり肌に残っていながら、不穏な意識は次第にわだかまり、女体の火照りがあたかも村全体に飛び火していくような怖れを感じてた。半ば夢心地である災禍を見送っておるようにな、からだの芯が痺れていた。
若奥さまと、崩れ落ちるような儚い息で抱き寄せられる度にうしろめたさが強まってくる。お坊さまはどう思っているのやら、わしの不安をのぞきこんでは増々欲情のとりこになっている様子、修行に邪心は無用とばかりのひたむきさ、こちらの気持ちなぞとはまったく絡まるところがなく、その健気なまでの淫欲に苦笑してしもうた。そうじゃ、こころの底から念じてみてもなるようにしかならん、、、不埒な考えじゃったけど、所詮これが借りの身であることの本性、際どさの間合いはすでに勘定に入っておるのだろうて。苦笑いの彼方には薄ら寒い地平が開けているようでなあ、今日みたいな雨空の峠を、あんた想い浮かべてみい、ほうら、顔色が曇ったのう、、、いいや別にどうしたわけでもない。
で、わしはなるべくして春縁の子を身ごもってしまい、家人らに弁明する余地もなくなってしもうたんじゃ。その時点でもうほとんど開き直っていたから、旦那より、家名に傷はつけられん、母上もその旨は含んでおる、殊更に考えあぐねるまでもない、おまえはただ安産を願っておればよいのだと、さながら武士の体面をなぞる調子のもの言いでな、追々話すことになろうが、この屋敷はどうにも並みの庄屋なぞとは桁が違う、実際武家の出入りも多かったし、大旦那は甲冑や宝刀を床の間に飾っておったくらいじゃ、わしの生家だった村の庄屋と比べてみるといってもなあ、そもそもうなぎの見識では疑念の育みようもないわ、それが薄々と判じられてきたのはこの不始末に及んでなお息づいておる旦那や姑の面目でなく、春縁が残した言葉によってだった。
さてこうなれば山寺の公暗和尚もそのまま捨てておくわけもなるまい、檀家に対する謝罪が表だってあったのかどうか、特に波風が立った雰囲気もなかったでのう、結局は春縁は下山を命じられ、短い恋路はいとも容易く終わってしもうた。わしらの仲は村中の知るところだったけど、案外だれも口にすることなく驟雨のあとさきを覚える加減じゃった。
失意すらこの胸に留まらん、吐息やらも初夏の兆しに紛れて、この時期特有の楽天的な日差しにあおられ、ときは淡々と過ぎゆくばかり、思い悩む術も忘れたある夕暮れのことじゃ。追放に甘んじていたはずの、あれより一度も顔を合わせなかったお坊さまが庭先の影にじっと佇んでおるではないか、その目つきには明らかな誘いが放たれており、わしは亡者に魅入られたような按配でなんの戸惑いもないまま、浮遊した足取りにて手招きらしき素振りに虚心に応じ、日暮れとはいえ、まだまだ空の青みが失われないほの明るさのさなかを人目も気にかけず近づいていった。ほんの眼と鼻のさきまでたどる時間は不思議な力で歪められているようじゃった、ふわふわとからだが宙に舞う、両の耳はふさがれているみたいなのに妙なる音曲がどこからともなく雅やかに聞こえる、そして視線は愛しきひとを指すことにあやまりはないのだが、まったく別な光景を追っている心持ちがし、歓びは安堵に安堵は放心のなかに包まれているようじゃ。嘆きが歩み寄る場所でない。
呪縛の解けたのは、ああ、まさに呪縛だとも、痛みすら覚えぬ唐突の懇願だった。春縁いわく、若奥さま、もはや道はひとすじでございます、さあ、わたくしと共にこの村を出ましょうぞ、哀切の限りを口にしたんじゃろうが、野太いはずもなく、かといってか細くもない、震えが鉄を伝うごとく、その語尾には焼け火鉢を振りかざしたふうな一点の迸りが備わっておった。わしの返答を待たず強引に手を取る、かぶりを振る動作もうなずく意思もなにも示せない、相手は無言の拒否と感じとったのか、俄に面を曇らせると、早々に断定を下した。なんという無慈悲な言葉、人道をはみ出した言い様、こう吐き捨てよった。ならば仕方ありません、御一緒願えないのなら、こうして舞い戻ったすがたを知られたからには、隠れていただくよりない、覚悟はよろしいな、かつては澄みきっていた瞳の奥には冷徹な焔、激しく燃えさかり、わずかに口角が上がった表情の凄まじさ、鬼の形相に匹敵する勢い、わしはもう微動だに出来ず、後ずさりも叶わぬ、更に恐ろしいのは懐中より鮮やかな手つきで取り出し、突きつけた匕首の夕陽のきらきらと輝く異様なまでのまばゆさ、銀色に映える朱はあたかも鮮血をしたたらせ、凄惨な面持ちは迫り来る死の影を静かに、だが的確に宿しておった。
修行僧とは借り衣か、こんな翻し方まさに抜け忍じゃわ、こちらの意を読み取ったのだろう、どうしてなかなか見破られはせん、屋敷の人々こそ怪しいものよ、そう呟いてみせる。
すっと背中を降りてゆく血の気がやはり静かだったのが、最期の救いじゃった。わしの情感は激烈でない代わり一縷の怨念を線香のように燻らせた。するとどうしたものか、春縁との距離を埋め尽くしていた殺気が幽かにゆるみ、切っ先が飛んでくるのを辛うじてかわすことが出来たんじゃよ。そのわけは驚きの一瞬にひそんでいた。匕首を握った魔手に土色をしたひも状の絡まりが見える、よく眼を凝らせば、一匹の蛇がその腕を締めつけているでないか、ああ、もしかして、いいや間違いない、もろ助じゃ、あの気心知れた蛇じゃ、だが、どうしてここに、、、ええい詮議立てなぞいらん、もろ助はわしの危機を心得ておる、仲間がこのわしの命を助けようとしておる、やがて脳に伝わる、牛太郎いまのうちだ、早く逃げるなり大声をあげろと、、、よしわかった、すまん、もろ助。わしは活気がからだに戻るや、さっときびすを返し、軒先まで駆け再びうしろを振り向くと、春縁の手に刃はなく、今度はもろ助、奴の首にしっかり巻きついておった。相当きつく絡まれていると見えて、春縁両手で振りほどこうにも指先を忍ばせられない様子、苦悶と焦りの色がここからも十分うかがえる。
わしは咄嗟に走りだし、もろ助の憤怒の眼と、春縁の戦慄の眼が同じ北空に向いているのを知ると、すくさま地面に落ちた匕首を拾い、さっきの燻った怨念を一気に解放したんじゃ。真っ赤な血潮が胸元から吹き出たのは心の蔵を見事に貫いたからだろう、返り血をまともに受けたのが分かり眼を細めた。もろ助の勇姿が薄い世界に燦然と見てとれる。もういいんだよ、感謝すると同時に絶命した春縁が大の字に倒れる。大仰に歯ぎしりした按配の口から大量の血の泡がふき出しておったわ。
もろ助は全身の緊迫から脱するのにしばらくかかり、するすると地を這い出してわしの間近に寄った頃とて、山の裏には松明を束ねたよう陽は眠りつくまでに猶予が残されている。わしらは互いを認め合い、言葉以上の疎通をかわした。
やがてもろ助はあたりに人気のないのが幸いだった、一刻も早くこの場から離れよう、死骸などほっておけ、落ち着いて語れる木立を探し当てた頃合いには、ようよう天空は墨汁をはらみだして来た。それにしてもようわしのなりを見抜いたものよと問うたところ、臭いじゃ、おなごに化けようとも牛太郎には違いない、その確信は自慢気にもろ助から出たものじゃったが、わしのなかからも踊り出たような気持ちがして、涙が込み上がってきたわい。もろ助の事情はわしの推測通りだった。やはり上流に向かったまま待てど暮らせど音信がないので、あとを追うように黙念先生を訪ねたという。千代子の件もあるし、いてもたってもおれんかったのじゃな、ようわかる、けどなあ、あの川は大きな山を越えた先、ここまでたどれたのは嗅覚だけでは無理だろう、それともわしが娘のほとに潜り、この村に嫁いだのを知って着いて来たとでも言うだろうか、いったい黙念先生からどう聞いた。矢継ぎ早に疑問を投げかけたいがなかなかうまくいかない。
こうなるとわしのあたまのなかは謎だらけ、今しがたの大恩は棚上げされ、ついつい興奮してしもうた。で、もろ助が語るに、おまえがおらんようになってからかれこれ三月になる、なにを言う、三月だと、この村に嫁いではや三年になるではないかと反論しかけるが口を閉ざす。そこでなだめるようにもろ助や、川の時間と浮き世の時間に大差あるまい、一体どうしたことだ、険しく詰め寄れば、可哀想にとぐろを巻いて考えこむ始末でのう。窮地から救ってくれたにもかかわらず、おのれの気ばかり先行してしもうとる。そのときじゃ、もろ助がかっと眼を開いたかと思うとさっきの血飛沫がその口から吐き出されたんじゃよ。それからのたうちまわった挙げ句に細長い舌をだらしなく垂れたまま、息絶えてしもうた」
[283] 題名:妖婆伝〜その五 名前:コレクター 投稿日:2012年07月03日 (火) 01時51分
「僧の名は春縁と伺っていた。さきにも話した通り、山寺の、なに山と言っても麓でな、てっぺんまで登るまでもない、半里ほど歩いたところじゃ。住職の公暗和尚は徳の高さもさることながら、御上の信頼厚く各地よりかの門を訪ねる客僧あとを絶たずで、名刹でもないのに山寺を知らぬ者はおらん。
そうよ、年端のいかぬ娘子から垢染みた老婦まで、いつも話しの種が尽きた試しがないわ、なんせ、門前の小僧からして見目麗しゅうて、若僧の面々はまるで役者のような容姿と来れば、衆道の本山かやなぞ訝しさはさておいても格好の話題であろう。おなごに限らん、村の誰もがいかなる理由で美男ばかり集めておるのか不思議がっていたけど、真意をただすよりか興味深くその顔立ちを眺めているほうが楽しいわな、いつしか手書きの番付までまわりだす始末じゃ。
向こうも心得ているのか、托鉢の折りは必ず一人歩きでな、行き交う村人の好奇心にさり気なく応答する。わしが胸ときめくのも無理はない、屋敷の長女次女らは密やかに禁断の恋など空想しておる様子、思えば嫁に来た頃より山寺の噂は聞こえていたのに、葛藤に身悶えするあまり、これまで特に気を向けてみることはなかったが、最近の心持ちからすれば、そうじゃ、娘らしさを前面に出そうとする努めの為、しだいにわしは世間に溶けこみ始めたかも知れん。どうあれ慚愧に苛まれたままではらちが明かない、思惑を越えた仕掛けが施されていたと後に了解しようともな、、、
春縁がわしの名を口にしてすぐに言い直したように、こちらもついぞ若僧に対してはお坊さまで通したわい。最初は遠慮まじりのはにかみだと勝手に想像していたところ、どうやら含みがあるのがわかってきてのう、いや、お互い呼び方に変化がなかったのはわしはともあれ、お坊さまからすればあきらかに下心を香らせたい働きがあったのだろう、ひとり気ままに散策しだしてから他の若僧ともすれ違ったりしたが、そつのない会釈程度だったし、まず春縁と比べて格段にその頻度が異なる。これはいかがなもんか、いくら同じ堤を歩くとして、いかにもわしと鉢合わせになるよう春縁はたくらんでいるのでは、、、まさかわしが願っていたわけでもあるまいて、そこである日いつもの道からそれてみたんじゃ。するとやっぱりさも偶然のような顔で反対側からその姿をあらわして、さわやかな微笑を投げかける、ここに到ってわしのほのかな気持ちを汲んでおるのは間違いない、ただ双方の身分がある為に異性としての好意をあらわに出来ぬ、かといって僧侶ともあろうお方が秋波をうながしておるわけでもなかろう、わしはあくまで淡い親しみより進展は求めてなかった。何度もくり返すがのう、憧れであれ、情愛であれ、娘の意識としてこの身をめぐってくれれば、それは記憶をともわなくとも十分だったんじゃ、これだけ話しておいて尚、わしは気持ちの整理をつけたかったんじゃな。
異性に恋心さえ抱ければ、女人であることの証左となろう、悲願が呪縛に転じてしまった今、女体に準じる意味合いは心模様をば変えること以外になかった。この場に及んでまだ純情を知らぬわしは、あの世なぞ信じるまえに現世こそ塗り替えるべきと、ひたすら虚飾に励んでおった。おのれさえ侵蝕される上塗りでなあ、、、春縁はその意想をいとも簡単に読み取ったとしか思えん、そうでなければただの破戒僧よ、山寺の修行者らは容色が端麗であるだけじゃなく、優れた知覚の持ち主でもあったんじゃ。
これでお坊さまの洞察とわしの願望がひとつになった。もう少し加えるとな、相手が仏門という世界にいるからこそ、牛太郎の煩悩と娘の魂が結ばれるよう期待を寄せたことは隠せない、とどのつまり助け舟を求めたといえるじゃろう、たとえ無様な恋慕に流れようともな。
さてそれからの展開じゃが、人目をはばかるふたりではなかったけれども、連れ立っての散策、しかも頻繁となればいささか様子が変わってくるわな、村では似たような光景があちこちで見られたし、おおよその会話も推察できる、悩める乙女に澄まし顔のお坊さま、一見布教に映ろう、が、内面はどちらに軍配を上げていいやら、両人の情は案外細やかだわ、こうなると疑似恋愛にすら思えてくる。
山寺の宗派は座禅の向きだったので、まさか真言立川流でもあるまいて、いやなに、これは以前旦那より興味半分の口ぶりで聞かされた憶えがあっての、なまじっか風流を気取っておるわけじゃない、その方面の怪しげな知識をおもしろおかしく伝えては夜寝の気分を盛りたてているつもりか、わしは随分恥ずかしい思いさせられたわい、そんな按配じゃったけどお陰で仏の道の妙義をかいま見たような錯覚がよぎっていった。なるほど春縁いわく、修行の身なれば邪教も耳に入りましょう、とな。あたかも山寺の風潮を糊塗するべきではなく先手でもって痒いところに忍んでくる機微、これよりは将棋の駒のすすむとこだわい、先々まで見通す眼力なぞわしにはない、この辺で駆け引きは終わりじゃて、もはや軍配は瞭然となった。ただ、わしの中には勝ち負けといった感覚はなかったから結果的に春縁から功徳を施され、それは又あらぬ恋心を認めざるえん場所に落ち着いたとも言えよう。春縁はちっとも狡猾ではなかった、むしろわしの方が勇み足で道を違えたのじゃ。そうなるのう、、、ああ、そうなる。
で、進展はあったかと、あったとも、おおありじゃわい。あんた、わしがうなぎでなくなった茂みを思い出してみなされ、娘が警戒しつつも山肌に包まれ小用を果たした、それが因で儚くも散ったあの灌木の暗がりを。お坊さまからだったのか、わしからだったのか定かではないが、同じく川筋から逸れた方面にふたりの影は隠されていた。光線が届かぬのではない、闇にはすでに光が満ちておったんじゃよ、まばゆいばかりの照り返しに日輪は言葉を失っていた。
代わりにお坊さまが幾度とな口にした、いかなる悩みを、という文句がぐるぐるとあたまの中をまわり、今にも飛び出していくような気分だったわい。そうだとも、あんた、わかるかね、よっぽど牛太郎の悪業を逐一語って聞かせようと思ったのだがなあ、ぱっと両極にひらめいくものが邪魔立てをしおった。よしんば転生の事実を受け止めてもらえたとしたなら、お坊さまのその胸中は嫉妬の念でいっぱいじゃろうて、わけは言うまでもないわな。反対に表面は驚きをともないながらそのじつ荒唐無稽とあざ笑っているなら、これはとても悲しい、どちらにせよ、わしの傍からお坊さまのこころが離れていくのは間違いない。それよりかこの成りゆきに身をまかせ、相手の懐のうちに抱かれるのがなにより、仏道の教えに従ってこそ成仏できようぞ。わしの煩悩は暗がりの一点を灯す鬼火だった。陰に籠っては、地を這い、川底に静める、しかし眼の芯を突き抜けてしまう、強烈な輝きだった。
お坊さまには到底知れぬ、知れようもない、だからこそ、わしの方から歩んでゆくしかない。実際に言葉が無効になるのを忸怩たる思いで認めつつ、うっすらくちびるを開いた。わしは娘になっていた、、、」
春縁の抱擁は優しさにあふれ、その口づけは更なる親愛で熱く燃え、唾液が絡まる。それはあたかも葉のうえの沢山のしずくに似て絶え間なく、閉じた眼の奥に早瀬を知った。そっと力を緩める春縁、耳もとでこう囁いた。若奥さま、これも因果でございます。慈しみに包まれた語感だけを残し、投げやりで無責任な囁きは木霊に加わる。わたしはゆっくり眼を開き、端正な面持ちをいっそう際立たせている薄茶色に透けた瞳をのぞきこみ、そこへぼんやり映る寂しげな顔に虚脱を覚えながらも、遠い谷川の音のような気配に共感し、因果という響きも幽か、遥か悠久の彼方よりの使者、火照り始めた柔肌をなぞる。
夢心地であるのやら、わたしは境界をまたいだ足もとも覚束ない、が、それでいて段々とたかまる野性の息吹はいつしか抱きしめられたからだに合わせながら、逆にその緊縛を振りほどく口調に転化して、こう応えた。されど、由縁もなき。わたしのまなざしは遠く、もの欲し気だった。着物の裾から指先が忍んで来る。滝登りの勢いで逆さつぼを目指し侵入を試ようとしている。くちびるが又ふさがれた。さっきより荒々しい触れあいだったけれども、そしてそのわけも知っていたけど、わたしは相手を軽蔑なんかしない、唾液よりなめらかなものが指先にまとわりつけば、暗がりに悦びが走り抜け、吸われた口から思わず声をもらしてしまう。断続的であることがなにより望ましいと虚勢じみた考えが通過し、その先の快楽をなおざりにしてみる。からだが小刻みに震えている。そのまま膝をつき、地面に押し倒され、両脚の裏にささくれを感じ、付け根にはどんよりと広がる雷神を秘めた黒雲のような、曖昧でいて分厚い得体の知れない快感が訪れていた。
胸元があらわになり、乳房をなでまわされ、首筋に何度も舌が這い、鼻息がかかる。束の間の衝動だとお坊さまは分かっているのだろうか。そうならもう少し落ち着いてからだを味わって欲しい、わたし自身のためにも、、、けれども性急な手つきが不意にとても愛おしく感じられたりして、如意棒を迎え入れた。
すでに大きく飛沫を上げていた滝壺はたやすく、根元までのみ込むと同時に稲妻が貫き、激しい興奮に支配されたのだが、生娘ではない身をあらためて実感することに抵抗を覚えてしまった、それでも女体を持てあましていた時分より格段の進歩を遂げた意義に感謝する。突き刺さった如意棒の擦れる様に陶然とし、素晴らしき仏の導きよと、ひとすじの涙が上気した頬をつたうのだった。
[282] 題名:妖婆伝〜その四 名前:コレクター 投稿日:2012年06月26日 (火) 03時59分
夕暮れどきではないが次第に強くなりだした雨足の気色で部屋は薄暗い。茶をすすりせんべいをかじる。長閑なひとときとは呼び難いけれど、案外しがらみから放れた思いは、遠くの民家の灯りがぽっと瞬く静けさに包まれているようで、峠越えの執心となんら変わらない冷めた情熱に隣り合わせであった。せんべいが香ばしい、たまり醤油の風味は素朴であり、口のなかにじんわり安堵がひろがる。ぽりぽり音をたてると団欒から旅情みたいなものが月並みの顔で煙っているようだ。
「危ういと言えば、女人に成った当初が大変でな、いいや、わし自身が動揺してしまって、ほれ、牛太郎で通ってたくらいだから、雄の性根ははっきりしておるし、前世もこの分なら男だったんじゃないかと思いこんでしまうわなあ。それでな、この身を持てあましているのか、まだまだわしの肉体としてなじんでおらんわけでの、てっとり早く言えば、欲情と一心同体にあったんじゃ。柔らかな乳房に触れれば興奮もしよう、腰回りのふくよかさや太ももの瑞々しさはもう誘惑そのものだったわい、ましてや転生の門であった秘所を備えているという実態は、いかんともし難い煩悶を招いているから、この女体に慣れることが喜ばしいのかどうやらわけがわからんようなってしもた。あんただってきっと同じ気分になるよ、ところがな、面白いもんで、おのれの裸身を覗き見したい欲と、一刻も早くこの現状を受け入れるのが先決だという意識がうまく調合されてのう、まあ例えは妙かも知れんが、新妻を昼夜問わず抱き続けている感じがしてきて、それならわしのような悪党も人間的な営みに励んでいるんだと思い、まあ、そんなふうに辻褄を合わせたんじゃな、開き直ったんじゃな、ああそうとも、人目を避けては乳をもみ、ほとをしみじみ見つめては指先でなぶり、官能の限りを尽くしてみたわい。
毎晩が初夜の昂りであるはずもないわ、はっはっは、百年もなあ、なんの、それは大袈裟よ、とにかくときの経つのはありがたいのか、いつしかわしは娘のからだを支配しておった。色目の支配から解き放たれたってことじゃな。いや、それほどの月日でもなかった、年頃じゃったし、なんせわしが惚れこんだ器量よしだわ、あちらこちらから嫁入りの口があっての、山向こうの物持ちにもらわれて行ったんじゃ。
他家に嫁いでからのほうが本性を隠さなんでよかったと、、、そりゃ、女体になじんだといっても牛太郎の記憶はすっかりとかき消えたわけでないからのう、日々の空模様に気をかけている、つまりわしの肉親やまわりの空気に慣れ合いを願っていたのが不思議と懐かしくてなあ、もう化けていることに冷や冷やせんでもええし、かたちの上でも一応は祝福されたのだから、欺きでも努めは果たしたように感じられて、ほれ、あんた、あの雪女や鶴の恩返しみたいな成りゆきじゃわ、向こうから秘密をあばこうとせん限り、わしのこころは平静だったよ。もっとも誰ひとりとてわしを疑ってみる者はおらんかった、そんないきさつやから見知らん人々の間に紛れることで平穏が訪れたんじゃなく、反対に警戒心がゆるんだんで色々と想いがめぐってきたんじゃ。うなぎの頃に求めた生き様とか、娘の本来の意識とか、つまるとこ黙念先生の教えは残酷ではなかったんじゃろうかとな。わしから望んでおいて何を今更と思うかも知れんが、人間に生まれ変わったお陰でうなぎの狭い了見が身に沁みてなあ、いくら前世もそうであったとして、やはりこの素肌に感じ入るものは広大で切ない。女体を得た喜びなんかそれこそ始めのうちだけで、段々と肉体に即した思考が定着するもんじゃな、今じゃ、乳房の張りよりか、その奥に隠れたものが熱かったり、冷たかったりする。
どうした、そんなしんみりした顔して、、、あんた下世話なことには興味ないんか、わしがどんな気持ちで股を開いたとかのう、はっはっ、そうかい、そうかい、だいたい想像できるってな、だったら簡単に流しておこう。旦那や姑などの話しはつまらんでなあ。しかしまったく語らんっていうのも片手落ちやさか紹介程度にするわい。旦那は世間知らずの長男でな、そのくせ和歌を詠んだり風流なとこがあって、しかも浮気もんで村には囲い女はおる、旅芸者と見ればちょっかいは出すで、わしのことも最初は熱心であるのはお決まり、日が経てば飾りもの扱いでな、姑も似たようなもんさ、大旦那っていうのがすでに嫁入りまえから持病で寝込み勝ちじゃったから、家を取り仕切っているのは実質あのひとよ、とはいっても格式一点張りで世間体ばかり気にかけて庄屋の威厳を保つことに余念がない。そのせいでわしは随分とうるさい小言も聞かされたが、見た目も大人しく、皮も被っておったのが幸いしてお人形さまで済まされた。他には歳のはなれた次男や長女次女なぞもひとつ屋根の下だったけど、どうしたもんか皆おっとりした性質でなあ、わしが無口で通したら向こうもそれにならうような感じで疎ましゅうなく、いわゆる気苦労はせんでよかったわい。やがてわしも一男一女を授かった。で、ここからがこの孫娘にかかわる話しなんよ、まだ子供らの幼い時分やった、大きな屋敷やさかい下男下女はもちろん乳母までおってなあ、その頃になると増々わしは内省っていうんやろか、もの思いに耽ることが多くなって、なに不自由ない暮らしと引き替えに、生きている価値みたいなものが日々薄らいでいくような心持やった。贅沢すぎる悩みかも知れんが、もとがもとじゃで、娘の命まで満たしてやらなければあかん、うなぎの一生がこうして変転したのならそれは奇跡に等しい、だからこそより一層こころを豊かにせんと罰があたる、叶うなら黙念先生を再度探しあて奇跡を解除してもえないかと、、、しかしなあ、うなぎなれば実行に移せた願いもいざ人間になってみると空恐ろしい、川底にもぐるなんて考えただけで眼のまえが真っ暗になる始末、これはわしの意識というより娘の肉体が邪魔をしておる、まったく矛盾しているがのう、死せる娘の意識は自ら甦って来はしない、いいや、これが実際かもな。そんな観念にとらわれ気ままに花咲く堤をひとり歩いてみたりしてたんよ。そう気ままになあ。
ある春さきのこと、庄屋を檀家に抱える山寺で修行している若い僧とすれ違った。以前より顔は見かけておったがこんな場所で出会うことはない。なんでも武家の身分を捨てたか、捨てさせられたのかとかいう噂で、確かにその顔色の生気は澱んだところがなく、どこか凛とした鋭気がもの惜しげに忍んでいるふうにも思え、おもむろに会釈を交わしたすがたが妙に儚くもあり、颯爽とした足取りでもあった。一瞬互いのまなこが向き合ったとき、わしの背中を駆けてゆくものがあっての、それは相手も同様だったのでは、、、その日から度々行き交う機会があり、ついには向こうから声をかけて来たんよ。
なに他愛もない挨拶じゃったが、表情には明らかなはにかみが浮いており、わしも敏感に反応し目線を落としてしもうた。あの刹那の心境はとても割り切れない、なぜなら僧侶としてみても若者としてみても、洒脱な匂いがしていてな、これは娘の本来が嗅ぎ取ったようにも信じたく、また超人と化してしまった卑賤の身が拠り所としたとも察せられてな、実に複雑な気持ちがしたのじゃ。
まるで二枚の葉のように恋情と帰依が重なりあって、わしのこころをゆらゆらと流れてゆく。どこへ向かって、なにを想って、、、はっとして顔を上げると僧はこう訊いている、せせらぎの音はこう言っている、今日はどちらまでとな。
わしはそのとき始めて娘の意識を呼び戻せた。ほんのり頬を染めては満開の花に寄り添ったような気分になった。肩先から脇腹にかけてくすぐったい感じがし、そのあとは花びらが風にあおられる調子で、ええ、この少しさきまで、そう答えていた。すると僧は晴れやかな笑顔を見せてくれたんよ。そして小夢さまってわしの名を呼んでから、失礼しました若奥さまと言い直した声の響きがとても初々しくて、舞い上がってしまったんじゃ」
[281] 題名:妖婆伝〜その三 名前:コレクター 投稿日:2012年06月18日 (月) 09時21分
老婆の放った眼光は顔中のしわを際立たせながら、自分に届けられている気がし、その返礼として同じような輝きを見て取られのだと思った。湯飲みを口へ運ぶ仕草も演出されているのか、茶の香は百幾年の歳月に従順な漂いをしめし、句読点の按配で寸暇を惜しみつつ、潤いを得て淀みなき語りが続けられる。
「孫の話しのまえに黙念先生のことを聞いてもらおうか。まこともって澄みきった沢じゃった、そりゃ瞭然じゃわ、ようよう目指した地へ辿り着いたのがわかった。しばらくすると眼のまえに蒼い影が迫っておって、おお、黙念先生に違いあるまい、そう感じた途端、意識が薄らいでいったんじゃよ。まるで夢のささやきだわな、先生にはわしの目的がお見通しなんだろうて、、、わしのあたまに伝わってくる、めくるめく絵巻物となってな。それはそれは雄大な調べじゃった。しかし朦朧とした加減じゃさか、すべてを言い尽くすのは無理じゃし、あんたにどこまで汲み取ってもらえるか知れん、で、要領よく話すとするわい。
黙念先生は驚くなかれ人間だったそうな、だが厭世にとらわれ山椒魚に転生したんじゃと。わしのしんの臓がぴくりぴくりし始めたとき、おぼろげにことの真相が明らかになってきた。ああ、このわしも、あのもろ助も千代子も、そして大勢の仲間たちも、意思疎通の可能な奴らは皆一緒だったから、つまり人間だったのじゃなあ、とすれば、わしはもとのすがたに戻るため躍起になっているわけになる。なんとも複雑な気持ちになってのう、それで限りなく言葉に近い意識を持っていたのか、悠久の時間が河川に溶けこみ霊妙な種が生じたんじゃなく、すでにこの心身に巣くっていたのか、それでも危うく興ざめになりかけた心持ちへ働きかけていたのは、やはり意志だったから情に流されることなく、わしはひたすら願いを乞うた。黙念先生はほんの少し哀しい眼をしてなあ、秘法を授けてくれたんよ。さぞかし深遠な教義だろうってな、身を引き締めておったわい。ところがあんた、伝授はいたって簡単とにかく焦らないこと、女人なら誰でもよいなど考えぬよう、おのれが恋慕うくらい、また情欲がすべてを包み興奮しながらも遣る瀬なさを相手に見いだしたとき、無心でつまり死を覚悟で突入せよ、、、他言は永劫無用なり。
こう言えばいかにも厳しい激しい響きがあるように聞こえるじゃろうけど、それが不思議なことに皮膜を隔てた向こう側からやんわり鳴っているんじゃよ。澄みきった沢は邪念を消し去ってしまうのやら、はたまた沢そのものの声明であるのやら。
わしは教えをありがたく頂いてのう、黙念先生にお礼をしようとしっかり眼を見開いたのじゃが、すでにその影はなく、辺りは鈴の音が仄かに遠のいていくような気配が残るのみじゃった。
茫然としていても仕方がないのでもと来た流れを下っていったわい。そうじゃとも、行きとは正反対の静かな呼吸でな。それからわしは待った。陽が昇り、そして沈むのをどれだけ、数えきれないほど、だが決して忘れ去ることなく、日々を過ごした。やがて胸ときめく女人を川辺に発見したんじゃ。歳の頃は十七、八でな、背は低からず高からず、ほどよい肉付きがまた若さを新鮮にしておって、好感はもちろんとてその中になんとも言えぬ色香をひそましては、こちらを惹きつける具合が初々しくも早瀬のように切ない。格好から察するに農家の娘みたいじゃけれど、本来の明るさと同居しているのか、どことなく内気な顔つきが、却ってためらいを知らぬふうにも、いや、恥じらう風情を自覚しているからこそ、楚々とした目もとに小さな魔性が眠っておる、まだ目覚めを知らない柔肌の赤みのようにな。
その柔肌を抱くとともにこの身であることの願望が芽生えたところ、もうひとつの肉欲が台頭して来たらしい。わしの方にも魔物は棲んでいるから、まだ目線を交わらすことなくとも互いの距離に甘い空気が漂って、そうじゃよ、女人特有の匂いはひろがって雄が放つとろみと重なり合い、青空に舞い上がって行くようだった。
娘はひとり山菜を摘みに来た様子での、視界に飛び込んできたわけで、笊には収穫が盛られていていたから、帰り道なんだろうて、絶対に見失わぬようわしは陸を這い這いあとを追ったんじゃよ。やがて幸運が訪れたのも天明に違いないじゃろう、娘が小用を催し木陰に身を隠す素振りを見せたとき、わしは脳内から発せられた号令によって一直線に娘のほとへと忍んで行った。
無防備そうでいて、山鳥の枝に休まるときの可憐な警戒心がそのうしろ姿にある。まくられた着物の裾から張りのある山の実がのぞいている。勢いを増す速度を叱咤するよう桃割れの間から清水を想わせる小水がほとばしっておった。わしは無心だった。だから、排水口を遡るよう娘のほとの位置だけを頼りに、、その苔むし滑った亀裂を眺める猶予なぞなく、一気にあたまから突っ込んだんよ。水中の岩穴とはまるで異なる感触が全身を支配するのは閃光のごとくじゃった。わしは胴体をひねりながら行き着く先まで侵入し、これまで味わったことのない柔らかな暗黒に包まれ、深い眠りへ誘われる穏やかな陶酔を感じ、娘の悲鳴を彼方に聞いた。
わしの意識はそこで途絶えたんじゃ。そして覚醒したときに久しく失っていた体感を得ながら、激しい違和を知ったのだから、おそらく娘も失神していたと思われる。なぜなら目覚めたのは娘のからだであり、わしの記憶だったからじゃよ。幾度も瞬きしてみてな、神妙な気分なんだが、胸の隆起をその重みで認めれば、胸の奥底からどうしたことか軽い笑みが込み上がってきたりしてな、増々眼をぱちくりしておった。仰向けのまま瞳に張りついている空をまぶしそうに見つめながら、瞬きすることで現実を了解しようと努めていたのかだろうかいな、それとも回避するまねごとでもしないと治まりが悪いみたいな、ようは娘に対する供養だったかも知れん、多分な。女犯などといった大義名分は成り立たんよ、戒律が大手を振って歩いてくれたならわしは破戒者として枠組みでくくられ、人間らしさの隅っこに気恥ずかしくとも居られただろうよ。ところが女体をむさぼるよりもっともっと罪な所業を行なったんじゃ、からだを乗っ取り娘の無垢な意識を葬ってしまったわけだから、、、命を奪ったに等しいわな。
空高く駆け上がっていく悔恨が、ちょうど天に唾を吐くことと似て、己の顔に落ちてこないよう、良識に縛られない為に、この双の眼に性急な闇をつくりださないといけなかった。ほとんどまじないに思うだろうが、あのときは次第に人間の血が通いだすのを留められないし、乗っ取った娘にわしが同化し始めているは拒めない、さすがに若い肉体じゃて、罪悪感にはおかまいなくどんどん血はめぐり、こころなしか雄である身に女人の魂が浸透してゆく思いがする。わしは眼を閉じてみた。ああ、いかん、暗黒の領域は余計に魂が彷徨してしまうわい。だがな、一方ではさして深くもない供養より人間に転生した歓びを押し殺せずに、一刻も早い順応を求めているんじゃよ。そしてこうなった以上、意志を貫いた限り、娘の肉体を生かす術に大義を見いだしているおのれに気づき愕然としたものの、もはや意識と身体は不可分になりつつあったから、下手に怯んで分裂した人間になっては一生のあいだ宿業を背負うはめになる。これでは娘も浮かばれんだろう、結局そんなこじつけを了承しながらわしは、衝動ではなく悲願としてことに及んだ有り様を肯定するしかなかった。
さあ、ここからはあんたも推測がつくだろう、そうじゃ、わしは瘴気に当てられたと病いを装ってまんまと娘に化けおおせ、都合がよくない場面に接したときもなんとか上手くかわして家人の様子やら、生活ぶりを学習していったんじゃ。やがて嫁にも行く、子宝にも恵まれる、その頃にはすっかり村の風習になじんで、それどころかうなぎの牛太郎であった覚えもあやふやになる始末での、心身は女人のそれにならい今日に至ったという次第なんじゃわ。つまりわしは超人として生命を燃焼したと言ってみてもよかろう。
うなぎ時代と一緒でこれまでの年月、細々したなりわいや暮らしぶりは端折らせてもらうよ。あんたの興味をあげてみると大方こういうところでないかな、化けの皮を剥がされそうな情況はなかったのか、後悔はしなかったのか、再び転生を望むのか、黙念先生との誓約を破って果たして難はないのか、そしてこの孫娘の秘密とやらは、、、そうかい、そうかい、あんた素直じゃな、でも慌てんでもええ、まあ茶でもあがりなさい、せんべいもどうじゃ、まだ日暮れてもおらん、ここまでは前振りじゃて、話しの佳境はこれからよな」
[280] 題名:妖婆伝〜その二 名前:コレクター 投稿日:2012年06月11日 (月) 06時21分
自分の耳を疑ってみることに微妙な抗いが生じている様は、隠されべきものが隠されない、ときめきをともなう快活な胸中に薄く満ちていくような感覚へ向かっている。
最初に女から声をかけられたとき、お茶と一緒に話柄に出たばあ様の顔かたちはすでに思い描かれていたといった予見が、まるで飴色のちゃぶ台に鈍く映りこむ加減ですぐそこに成り立っていた。玄妙な思惑を振り切るように、また虚偽をあばきたてる意気もなおざりにし、老婆と孫娘のふたり暮らしから漂ってくる得体の知れぬ空気感が家屋に澱んでいて、自分の脚に重しとも虚脱ともつかない不思議なくつろぎを与えている。一度は辞退しかけた返答に秘めていた苦渋の相貌が、同じくちゃぶ台の表面に浮いて出る想いがした。
「うなぎは好きかいな」
老婆のかなつぼ眼にじっと見つめられ、そのふっくらした顔に走っているしわの数と、百をいくつも過ぎているにはかくしゃくとした体躯、白髪の色つやが妙に清潔感をたたえていることなどを、ぼんやり気にして相槌を打つごとくに「はあ、栄養がありますから」などと感情のないもの言いをする。だが、この愚純な感情の持ち様こそ、安逸を望む面であり、ひいては一夜の宿に結ばれる陥穽への願いであった。
「共食いは嫌じゃから、わしは食べんけど、あんた好物なら捕まえてこようか」
「いえいえ、そんなお手数など、、、まして、、、」
ほんのわずかなやりとりで自分のこころはこの民家に籠絡されたに違いない。老婆がうなぎだったという迷妄へとにじり寄っている、それは半信半疑とは別種の、いくらか陽気な伝承が型通りに伝わったのであって、おぼろげな記憶のなかに棲息する、あるいは遠い未来に現われ出るような謎めいた予感を従えていた。女は横で年に数度のお祭りでも見物しているふうな目もとを崩さない。そして微笑にも艶笑にも移ろいそうな顔つきはそのまま雪解けを待つ心情となり、ほとんど口をはさむことがなくなった。とめ置いた情欲の身代わりとも考えてもいい、つまり老婆の奇譚が幕を開けたのである。
「そうかい、わしも殺生は好まんからな、前世はうなぎじゃよ、まあ聞きなされ」
自分は茶を一気に飲み干すことだけ忘れず、女にならった。
「ひとつ断っておくがのう、わしが前世をあたまのなかに甦られたんじゃなく、うなぎの時代からしっかりとものごころがあって、いささか抜け落ちとるところもあるがな、そうした気持ちをずっとこの歳まで抱いていたってことなんよ。平たく言えば、人のこころを持ったうなぎだったわけでな、そりゃ、あんたにしたってにわかに信じ難いだろうけど、わしは夢をみとるのでも嘘をついとるでもない、全部ほんとの話しなんじゃ。
さすがに稚魚の時分は覚えがない、そこの流れから河口まではけっこう距離だしな、遡行したとしても川の世界を知ったときがいわば誕生のときじゃて、わしはそう思ておる。ものは喋ったりはできんが、以心伝心で通じ合える仲間がいての、まあ限られた種類じゃけど、うなぎだけでなくて魚だの蝦だの蟹、それに亀や山椒魚とかもな、わしらが言葉をあやつるよりもっと素早く、的確に意思や態度をしめせる。それと人間の考えやら暮らしぶりなんかも伝わってくるんじゃ。他の生き物から教えられることが多かったが、わしだって蛇みたいに陸地を這うたり出来るでのう、どれほどの年月かは忘れたけど、朝夕を決めているのがお日様であり、水温も変化し、それを四季と呼んでいることさえ耳に入っていたわい。どうして言葉を話せないのにって訝るだろうけどもな、風聞というものは川の流れに溶け込むのじゃよ。河口付近に泳いでいったときもあの界隈の奴らに色々聞かされた。確かに始めは想像が大半を占めておって、実際の風物を認めたのは随分と経ってからじゃな。まあ様々な生き物がいるわけだから、そしてそれぞれの寿命はもちろんじゃが、代々にわたって細々とした事柄が寄せ集められ、段々と情報が蓄積される、さながら歴史じゃわな、わしらも。水中の生活はのう、あんたも分かると思うが毎日が淡々としたものよ、大雨で激流になって身の危険を感じたことも多々あるけど、陽のあるうちは明るく、夜は暗黒になるのだから別段人間の暮らしと大差ない。もっともわしらは夜行の習性でおまけに鼻がよく利く、夜間に灯りなしでは歩けない不自由と違い、川底の様子やら岩場の陰なんぞもはっきりと識別されるわな。
だがなあ、わしがあんたに聞かせたいのはそんな日々のなりわいみたいなことではないんじゃ、そりゃ同じさ、わしらだって小魚をとって食うし、釣り針に引っかかったものもおる。こんなのは自然の理じゃ、どこにも不平を持っていけまいて。
それでな、とにかくわしは相当長生きしたみたいなんよ、人間の有り様やら言葉使いが永い永い歳月をかかけて微量に川水に浸透して行くんじゃ、むろん流れがある、だが水蒸気が雨水となって降り落ちる、雲にも流れがある、水分はあまねくこの地もよその地にもしみこむんじゃよ。区分しかねる生活排水にだって念いはこめられまた天に上っていく、それらが理解されるっていうのは一体いつの世から生きていたのやら、、、砂防とかにすがたを変えられなかったお陰もあって、あの川の脈々した様は今もこのとおりじゃ。
さてと、さっきも言うたようにわしには意識ってものがあった、だから人間の営みにただならぬ興味がわき起こるのも無理はないだろうて。陸に上がれるとてたかだかしれたひととき、何度ひとに生まれ直したいと祈願したことやら。分かるか、この気持ち、すがたかたちはうなぎでも、小さなあたまでも、考えることは途方もなく解放されており、なまじっか想いがひろがるせいでついには発狂しかけた。
やたら滅多なことでは顔合わせなど出来ないこの辺の主、大山椒魚の黙念先生を尋ねたのは一念発起したあげくでな、黙念先生こそ太古の昔に生を受け、その霊力は計り知れないものがあるとのいわば神格された存在じゃった。おっと、その前にこれを聞かせておかんといかん、あんた竹細工のもんどりって知っとるかい、うなぎ獲りの仕掛けでな、先細りの円筒をしていて出口なし、入り口は一見容易なんだが、竹のしなりをうまく利用しておって、くぐったら脱出が難しいという代物で、なかには魚の切り身やらミミズなどを入れておく、夕方に川底に仕掛けておいて朝一番で引き上げるんじゃが、おお、そうかい分かるんじゃな、では話しが早い。なんせわしらは嗅覚に長けているもんで、どうしてもあんな強烈な匂いが発散されるともう我慢がならん、わしは何度も忠告したんじゃが、なに、獲物だけ頂いて抜け出てみせるわい、そういった仲間の半数以上は朝まで竹筒のなかでもがき苦しみ流れから連れ去られた。人間だって餌を食らうだろう、それはいい、だが、眼のまえであんなだまし打ちみたいに捕らえられるのは耐えられんかった。いっそひと思いに竿でつり上げられたほうが愁嘆場を見ずにすむ。そんときじゃった。さほど古いつきあいでもないが蛇のもろ助っていう奴が現われて訴えるに、あのもんどりにおれのいい娘がさらわれてしまったそうな。まさか、蛇が川の底をうろつくなんて、なにかの見ま違いだろうと言い含めてみたんだが、千代子に違いない、あの娘は泳ぎが達者だった、逢瀬の約束の場所に来ないから、そこいら中探しまわっているうちに朝になってしまった。仕掛けた人間もなかに蛇がいるので気色悪がって、その場で中身をいじらずに不承不承持ち帰ってしまったので、おおよそ末期は見当がつき、もろ助は幽かな千代子の悲痛を浴びたまま、どうすることも出来なかったそうじゃ。
それがつい先日のこと、怒り心頭のもろ助は復讐を誓い今度人間に出会ったら、ほとだろうがしりの穴だろうがおかまいなしに突撃し、はらわたまで食いちぎってやるんだ、そう息巻いていたんだわな。
のう、牛太郎おまえらの仲間だって餌食になっているんだろう、っておいおい泣き出したのさ。わしは同情するもさることながら、斜めから差しこむよう奴の言ったほとだろうがってとこになんやら天啓をさずかった思いがしての、なるほどいにしえより言い伝わる女人の股ぐらに侵入した蛇の怨念とやらには聞き覚えがある、もしや、そうすることで雌である相手をはらませ、わしも同化すれば、まあここいらはいい加減な想像だったのじゃが、人間として転生するかも知れない、そこで念頭をよぎったのが黙念先生じゃった。かの御仁なら必ずや秘法を伝授してくれようとな、これはもはや信念に近かったわい。で、もろ助にはその件は伏せておき、いい知恵を頂いてまいるからとにかくやけをおこすなと諭し、早速伝手を頼って深山上流まで鼻息荒く遡っていったわけじゃ。
それこそ昼も夜もおかまいなしでな、決意は夢を乗り越える境地にまで達しようとしていたからのう、どうかな、ここまで来ればわしの今生が理解されやしないかい、はっはっ、ほとにもぐることで女人と交わり、妖異の類いに変化したか、その通りじゃとも。しかし黙念先生からはくれぐれも口外するべからずと言われておったので、これまで誰にも語る機会はなかった。ところがこの春先にな、先生の訃報を聞き及ぶにつけ、これまで封印してきた呪力と、なによりこのわしの業を聞かせたくいてもたってもいられなくなったんじゃ。百を越えてもその月日だけ、因業も巣くっているわい、あんなに熱望した生まれ変わりより、これまでの成りゆきを口にしたい欲のほうが勝っているようじゃわ。うなぎとて人間だな、いつも先走るものに違いはないのう。
なに、この子はわしの孫じゃさかい、語らずともよう心得ておる。さあ、あんた信じなさるか、いいや、どうでもええ、たとえ信じたとしたところで、すぐに不審の念がやってこよう。それよりな、この子にも秘密があるんじゃがな、、、はっはっは、当たりまえだろう、あんたもそんな顔しているよ、眼が輝いておるわ」
[279] 題名:妖婆伝〜その一 名前:コレクター 投稿日:2012年06月05日 (火) 06時21分
しらふに返って分別つけば、愚かなり、
酔いがまわって愚かになれば、分別がつく。
〜ドストエフスキー
先日ある人から風変わりな手記を拝借した。何でも当人も人づてによりその褪色した冊子を手にしたらしく、明治四十三年に筆を起こした形跡はあきらかなのだが、肝心の書き手の姓名と出自がどこにも見当たらない、とはいえ、意図的に無名で通したにせよ、その如何にも腺病質な字面で(実際の文字も極めて細かく、ひと昔まえの岩波文庫に見る訳注を想起させる)紡ぎだされた内容は一読ならず、再読三読に値するものと思われたので、ここに紹介する次第である。
文面から察するところ書き手は当地の民話や伝承に関心を寄せているらしく、尚かつ思想宗教といった方面にも学識ぶりがうかがえ、一種独特の世界観を掘り下げていることに異論はないのだが、煩雑な思惟へ巡った結果として、専門用語やら難解な数式が縦横無尽に飛び交う様は下手をすれば衒学趣味に映じてしまうかと危惧されたので、筆者は原本が含有するエッセンスのみに執着し他の学術的な論旨からの解放を目した。次の理由は紙幅の制限もさることながら、読者諸氏が魅入られるのは原本が孕んでいる妖気というか、心身をしてその時、その場から浮遊していくような、まぼろしの到来にあるはずだから、閑雅な語り部に徹しようと考えた。よって本来の形とは掛け離れた物語に流れてしまうけれど、僭越ながら抄訳とは異なる意趣を汲んで頂ければ幸甚である。
峠に差し掛かる開けた山道と聞けば、商いの衆や旅装の行人のすがたに思い馳せることも遠い昔の風情、いやなにね、あたしのばあ様の時代の話しだよ。こんな山奥なんぞも、そりゃにぎやかで、茶店の数軒もあったっていうから文明って奴はどうなんだろうね。で、あんた見たところ呑気に物見遊山って雰囲気じゃないけど、峠を越えるつもりかい。
女の口調に賛同したのは、この土地に不慣れというよりも行くあてもなく今ここに佇んでいる自分を不甲斐なく思い、そしてほとんど同時進行の按配で感情が晴れ晴れとした空に舞い上がっていたからだった。その感情とは色紙を模した華やかなものであった。陽が真上にいる。ちょうど弁当のにぎりめしを風呂敷から取り出しながら田畑に沿って緑を眼に泳がせていると、不意にうしろから声をかけられた。甘ったるいがきびきびしていて頼もしい、そういう響きが更に底抜けに愛くるしく感じてしまいそうな、どことなく一目惚れを容認してしまう声の持ち主は、この辺では滅多に見かけるはずのない、鮮明な色合いの着物がよく似合う若い女だったので、自分の眼中からは色彩の高じる綾がかき消えてしまっていた。
「ばあ様はお元気で」
新緑の気候は掌を潤わせ、額にも涙のような汗を滲ませれば、何を動揺したのか、そんな言葉がついて出る。
「元気さ。あんた昼飯ならあたしとこに来ればいいよ。お茶ないんだろう。ばあ様の話しなんぞ聞いてきな。すぐそこだから」
光線が強く注いだまわり一帯の田畑のきらめきと女の容姿が映発し、自分のこころは数えきれない眩しさにとらわれた。蒼穹に笑いかけては挑んでいるような大きなケヤキの茂りの裏手に家が見える。峠越えは真新しくない目的だと、何やら絡み合った意想が浮上したり、初夏に最適な感覚の真っただ中に立ち止まっているという新鮮な文句を呼び寄せ足もとの影に合わせてみた。
女が笑っている。自分は意識しトボトボとした足取りで木立の方に着いていった。農家というには立派な家構えだったが、玄関をまたいだ刹那どうしたわけか、埃くさくて愁いのある気分に襲われた。
「今日はばあ様とあたしだけしか居ないの。さあ、遠慮しないで上がりなさいってば」
「それじゃあ、ごめん下さい」
胸のうちではまんざらでもない気が張り出していたのだったが、女のうしろ姿に引き寄せられた弱みが形式上、脆弱な態度を示そうと努めている。しかし動悸と一緒になって刻の単調さから脱する打算を働かせていることは確かであり、まったく予期していなかった午後の光景に対し有りあまる感謝で一杯にする以外すべを知らない。
奥の間の飴色をしたちゃぶ台が目立つと、さっきからこの屋内を舞っている埃を寄せつけていないのが、どこかずっと以前この眼にしたようで、又ほんのわずかに違う笑みをあらわにして運ばれたお茶の湯気も、過去に夢見た情景へとかすみをかけ、意識を近づけたり遠ざけたりしているよう想えてきて、増々打ち消したい思惑の輪郭がはっきりとつかめた。
「まやかしならどうか覚めないでくれ、、、」叫びからは拒絶され、祈りには融和を提示され、諦観の彼方には極めて生物的な指弾が待ち構えており、自分の為すべきは、この埃が演じる不思議を、微細な、けれども時間に向かい静かながら反逆する意志を、何より重視することしかなく思われた。湯気の気配で老婆が現われたとき、確信ともいえる夢想が眼前に展開したと身震いし、湯飲みに並んだ青磁の急須に顔色を被らせ昂った気分が治まるのをほくそ笑んだ。
「あんた、峠はじきに雨になるでな。ちょうどよい、ゆっくりしていきなされ」
開口一番この調子であったから、それから始まった移ろいやすい天候の妙やら、年々の田畑の収穫やら、地霊の恐ろしさやら、この付近にまつわる怪異などを喋りだせば、いつの間にやら外の気配はどんよりと陰鬱になっており、よい日和が失われ、山間の僻地だから天気の変化など当然と念じているものの、齢いくつか考えてみるだけで生気が吸い取られるような臆病風に吹かれては、見事にこの老婆にしてやられたと痛感したのだった。そこへ畳み掛けるよう女が「ばあ様はとうに百を過ぎているのよ」と、こちらの心中を透かし見たごとく言いきかせれば、あたかも真夜中にさえずる小鳥の音に耳を澄ますとき、その彼方に不穏な風のうなりを味わう心持ちを彷彿させる。
余韻を噛みしめろ、そう促している女の眼には針先ほどの慈しみのひかりが隠されているようで、哀憐にも似た艶治な情を見つけだしかけたのだけど、ばあ様の「今晩は泊っていきなさるがよい」との一言で、一点の甘い香りは鋭い、そして濃密なからくり仕掛けの茨に転化した。
女は作法に従うよう居住まいを正し、花の開花を満面にたたえ、今日一日の運命を占っているみたいな高見からの目線を投げかけた。花の名は思い出せない。自分の影を熟視する。空模様は予報通り、驟雨の激しさで自分の曖昧な気持ちを洗い流している。安達ヶ原の鬼婆でもあるまい、仮にそうとしたところで、鎌を研ぎ出すまえに駆け出すのも一興、覚まさぬ意識との攻防であるなら本望ではないか。
「どうしたの、そんな苦虫を潰した顔をして。早く弁当食べなさいよ、ばあ様のいうように泊っていけば、この分だと雨はやみそうもないわ、夕食はたいしたものないけど、いいのよ本当に」
はっとして空腹感すらなくしている自分に返る、まったくどうした因果でこの家の畳に座っているのだろう、、、女の声色がありきたりの伝わりで耳になじんだので却って違和を覚えた。自分は過剰な想像に耽っているのでは。因果などと含めた内語からしてそもそもいかがわしい。この土地の人はこんなふうに気安くて親切なのだ。混淆した思考を整理するのが煩わしいのでこんな彷徨をしている。奇妙な場面や数奇な境遇に無責任な夢を乗せているだけなのだ。その証拠に女の厚意を別な角度から斟酌しては妖異の渕にこの身もろとも飛びこもうと企てている。何というお粗末、、、急いでにぎりめしを頬張りながら、茶を飲み干し「折角ですけど、実は用事がありまして今日中に峠の向こうに行かなくてはならないのです。これで、ああ、合羽は用意してますので、どうもお邪魔しました」そういい残して家を出ようとした。
「あんた、無理じゃって、もうどしゃ降りじゃあ、わしの言うこと聞いたほうがよい」
今度は老婆の口調に変化がうかがえた。まるで情夫を引き止めるような痛く切ない願い。しかし自分の妄念がすべてを曲解してしまうのは耐えがたい苦しみを養うだけであり、ここの住人に難儀をかけないという保証はない。
女は哀しい眼をしていた。そして老婆は思いもよらないことを口にした。自分は困惑し血管が脈打つのを明確に実感した。
「この家にはわしらふたりしかおらん。あとは黄泉の国に旅立ったでな。あんた、わしの話しを聞かんといかんよ。それが宿命ってもんじゃ、わしはうなぎだった。たんぼの先に川が流れとるじゃろ、あそこで生まれた、うなぎの牛太郎って名で、それはいい男振りだった。これでも帰りなさるかのう」
[278] 題名:夜間飛行 名前:コレクター 投稿日:2012年05月29日 (火) 03時39分
窓の外に雨音の気配を感じる。はっきりではなく、遠い野に深々と垂れこめる景色が少しづつ、こちらに向かっているような淡い記憶をともない、散りばめられた光の粒を体内に含んだ雲翳が枕頭に広がっていた。瞬きを覚えないまま、残像が緩やかに浸透してゆく。蕭然とした気分に支配されている感覚を小高い丘から見おろしているふうな、甘く、懐かしい、安らぎがあった。幽かな笛の音に流されている優しさを身近にした。
真夜中であることは雨が教えてくれた。彷徨いだした意識は時計の針を認めず、代わりに見知らぬ男のすがたをぼおっと白く浮き上がらせ、僕の顔をのぞきながら話しかけてきた。独り言ではない、それなりの挨拶と笑みを忘れず、つまり僕の存在を十分理解したうえで説明を始めたからだ。静寂を破るような雰囲気ではなかったのと、自然現象に近い現われ方のお陰で、驚きも焦りもないまま薄目を保って、相手の言葉に一通り耳を傾けたところ、すんなり事態がのみこめたのだった。
「いかがなものでしょう」
男は僕に旅行を勧めているわけであり、ネクタイを絞めた身なりと律儀な口ぶりは有能な手腕を匂わせたが、その要求に応じてみるだけのしなやさはすでに了解済みだったので、不審の念は起こるべきもなく、証拠にと如何にもゆったりした動作で寝具から身を離し、内心は共犯者みたいな感情を湧き立たせていた。
男は聡明な笑顔を絶やさず「では支度が出来次第」と、僕の胸中をなぞる声色で柔らかな催促をした。そして案の定返ってくるであろう遅疑すら猶予のなかにひそませ、不思議な旅立ちにふさわしい台詞を用意していた。
「暖かな冬空と肌寒い春先によく似合う服装で」
僕は当たりまえだが夜空に最適の格好を問い、男はもっともな意見を述べたまでのことである。何せこれから窓を飛び出して行こうというのだから。
翼も羽も必要ではなく、特別な仕掛けなどはなし、ただ一緒に飛行しようと言っている。いや、実際には魔法をかけられ真夜中を駆けめぐるだけかも知れない。しかしことの当否は問題にはならず、大事なのは今この意識を占領しながらすぐ先に惹起されるであろう魅惑の結晶体にあった。その輝きにあった。
目覚めてから二度目の時計に視線を送る。真っ暗な部屋なのにそこだけが、まるで懐中電灯で照らされように識別でき、それは男のすがたも同様であり、あらためて胸のときめきを知れば、耳鳴りにも似た音楽が心地よく、外は雨、言葉の響きのうちに、転倒した想念の狭間に、愉悦の調べを聞き取る。秒針を、そうチクタクチクタク、黒炭の内包した白味が夜にこぼれだす。男の応答は闇を背景とし、封印された所作がまぶたに重なり合った。
「代金はあなたの寿命です。ご心配なく、ほんの三十分ですので」
もし男が悪魔や死神の類いだとしても、神や仏の言い分だったとしてみても、僕には合点がいった。それからこう尋ねるのが義務であるみたいな口吻をした。
「すると飛行時間も三十分になるわけでしょうか」
予期していた柔婉な笑顔は、演じられる妖婦と少女の面影を行き来しこう応える。
「脳内時計と、感覚の持続に一任されます。この秒針に忠実である必要はないでしょう、時間は歪み、あなたは広がるのですから。ほら、窓を開ければ、この通り」
杓子定規な質問は一蹴され、認識すべき状況がいち早く開示されたので小躍りしたくなった。雨上がりの夜景が待ち受けている。艶やかに濡れた隣家の外壁はわずかの灯りに媚態を示し、夜の空気を抱きしめたく願っている。眠れる子供らと闇の住人、どちらにも平等によだれを垂らしながら、本能の赴くさき、あたりをぐるりと見渡しては夜露に震える花へと想い馳せる。うかがい知れぬ領域に首をのばす為、恋心の芽生えをしたたり落としては、拾い上げる為。
男は魔術師だった。そう思わなければ仕方ない、この身はもう宙に放り出されており、男のネクタイはパラシュートに等しい開花で漆黒のマントに豹変し、顔つきは無論のこと、それまで穏やかだった身振りが心憎いまでに悪魔じみてきて、喋り方も素晴らしく高圧的に一転している。夜空に踊り出した唐突より、その眼が持つ気高い嫌らしさに心身が吸い取られそうだった。爛々としたまなざしの奥へ奥へ、惹きつけられる感じが飛翔に優先していたのだから、間違いなく僕は魂を投げ売りしたのだろう。だが、後悔する汚点は現在進行形で拭われ、暗雲の彼方に流星らしき光芒を見いだしたとき、気分は無重力空間に遊び、右隣に翻るマントのあおりこそが、僕を浮遊させているのだと感銘した。
「どうだい、命が縮む思いがするだろう。俺のそばから離れるな、ダメだ、近寄りすぎてる、そう、その間合いを忘れないことだな、さもないと落下するぞ」
男の眼から威厳と侮蔑が交互に放たれていたが、僕は解放と抑止と受け取り、縮む命の形式に収めてみた。そこから先は自在を得たといっても過言ではない、自分自身の眼もどうやら煌々と妖しい色に染まりつつあるのを実感し、真下に展開する光景に狂喜しながら、小さく点在する民家の灯りや、隠れていた月光が水辺に反照する様を眺め、上昇気流に乗って相当な高さまで駆け上がった体感を取得して、夜風を切る感触にすべてが結合していることを悟るのだった。
眼前の圧迫している闇をかき分けていく行為はなおざりにされた下半身に対する儀礼となる。夜間飛行の意義は、そして男の手招きと急降下は、狩人の先蹤であり、渇きを称揚する夜露への欲情である。小雨が懐かしい。
「おまえ、吸血鬼になりたいのだろう。だったらほら、あの上流にちょうどいいのがいるじゃないか」
男は僕の心中を斟酌し悪魔的な誘惑に導こうとした。
「なるほど、こんな山間でキャンプをする物好**るもんだ。あの薪は獣よけらしいが、こっちからは何よりの獲物だ」
ためらいの陰りもなく直情が整列し、探りはすぐさま目的に同化すれば、頬の火照りが風に熱意を吹きこみ、もはや自分の意志が率先してマントのはためきを買って出ていると薄ら笑いをつくった。複数のなかにめぼしい女人を見つけ、山稜から山稜へ、やがては歓喜と高まる恋情に胸を焦がして、暗黒の空は狭まった旋回を許容しはじめる。今度テントから出た刹那へ狙いは定められ、狂熱の限りを捧げた。
魔界への導入に促された服装、この水色が灰色に褪せたパジャマの月並みさ、、、申しぶんない、吸血鬼に向けた憧憬は闇にさらわれ、宙づりになったことで却って白々しい日常を軽蔑するどころか、陰陽の連鎖を思い知り太陽の残滓を、月影の誘いを、ひたすら身に宿す。
「ところで、おまえ、どうやって血を吸うつもりなんだ」
「それは、、、やはり、首すじに噛みつくんでしょ」
天空を周回し、脳内にきらびやかな、そして凡庸な発露を飛び散らしていただけのほうが幸せだったかも知れない。
確かに男の問いかけは至極まっとうであり、目的を目指し突き進むのなら、血と肉に関する料理の心得が求められる。だが、犬歯など生えていないこの口で果たして首にかじりつけるのだろうか。想像してみただけで美の狂乱は静まりかえってしまい、どうしてそんな水を差すような意見をと、ちょっとした怒りがもたげてきたが、落ち着いて考えてみれば、犬歯を持っていようがいまいが、僕は生身の人間に食いついたり出来ない。
「何というくだらない葛藤に苛まれているのだ、、、」叱責を含んだ男の視線を感じる。そのときだった。おそらく小用だろう、そう踏んだ意に間違いはない。一人テントから歩きだす様子が分かり、夜光虫が飛び回っているくらいの高さにまで接近し、いや、これはもう高さではなく低さが強調される地表をうろついているに等しくて、それでも情熱の片鱗はうごめいていたから、僕は自分でも情けなくなるくらい哀願の表情を夜気に投げかけていたと思う。
実際には魔術師の法力に、それから汚れも罪もない、何も知らない、ましてや夜の空から邪悪な恋が降り注いでくるなんて空想したこともない、顔も名も不明の女性に対し一途に祈り念じていた。
テントから距離はあるといっても、小用を足すのだから彷徨うほど遠のいたりしないに決まっている。案じると同時に女性は草むらにしゃがみこんだ。凝視する心許なさに従って判断もつかず、どうすることも不可能な立場を歯ぎしりしているしかない自分が悔しかった。
「神隠しの術を使うか」
男の苦々しい口さきに光明を見いだしたのは言うまでもないだろう。こんな反応だけは悲嘆にくれていようが鋭敏であり、調子がいい。魔術師の眼には僕の会心の微笑が映っている。すぐ下の草影からのぞかせている白桃のような尻に眼をやるより、こうして金縛りにあった意識へ沈んでいくほうが望ましかったから。
「さあ、駆け上がるぞ、寿命をいただくのだからな、おまえの想いは叶えてやるよ」
男はすべて見通しているのだろうか、そんな小骨が刺さったみたいな、だが偉大な思惑を乗せ、マントが大鷲のように羽ばたけば、これにはさすがに度肝を抜かれてしまって、絵にでも浮かべて欲しい、あの女人が尻を出したまま大地から飛び立ち、驚愕と動揺に不安定を強いられているのだろう、気流にもまれる勢いで、しかし確実に僕らの方に向かって宙を舞っているではないか。その顔色を見極める間もないうちに上体は夜空に治まったのだが、突風より激しくあおられたせいで下半身に残されているのは、冷気を再確認してしまいそうな真っ白なぱんてぃだけで、本人もそれに気づいたのか、もしくは気丈な性格なのか、こんな情況にもかかわらず、左横に並んだ僕を睨みつけながら怒気を込めこう言い放った。
「あんた気違いなの、なによ、あたしをどうするつもり、その隣は誰、バカじゃないの」
「気違いではないよ、奇麗なお嬢さん、意識を変革しているだけに過ぎない。それよりその格好は君にふさわしくありません」
魔術師は街角でふと些細な粗相をしでかしたふうな、慇懃でなおかつ即席の愛情がこもったもの言いをし、マントを手刀で切る仕草をしたところ、夜目にも鮮やかで美しい純白のドレスが出現した。もちろんすでに女人の身をまとっている。定めし間違いはないだろう、空中に拉致された局面よりも、ただ白いだけでなく、眼にもまばゆかったぱんてぃとは次元の異なる光輝な衣装に陶然としている、つまりそちらの方に彼女の意識は泳ぎだしていたのだ。
何故なら、花々が惑星を取り囲んでいるような、壮大な景観は重力の魅惑によって形成されただろうし、気が遠くなるほどの年月が今この一瞬に凝固され、移ろいゆく森羅万象から編み出された羽衣、いわゆる天女の召し物と化してその身体を包みこんでいたからで、更には胸許に輝く異様な宝石の魔力から逃れることは無理であった。
そんな女人の驚きをともなった放心を魔術師は決して見落としはしない。花の奇跡に例えるならまるでお嬢さんの美しさは、、、といった歯の浮いた、けれども耳あたりは悪くない甘い言葉から続け様に繰り出される品定めは、事実と不可分であることの保証となり、神秘とみやびの世界に転送しながら、これまでの経緯を最大限に優麗に磨きあげ、僕らの邪心は等閑にふされたまま、非礼を詫びている様子がいつの間にやら、誘惑の証しである恋文を読みあげているような情勢へと変じてしまっている。
今宵僕を尋ねた場面なども目立った脚色は施されていないのだが、自分の出来事だったとは俄に信じ難い、遥か彼方の物語のようであり、これから降り立つ美しい星での見聞と思えてきた。
これが神隠しなんだろう、可哀想だけどこの女性は永遠の契りによって僕より寿命を短くしてしまうかも知れない。彼女の表情に奇怪な既視感を覚えた頃、おまえの想いを叶えてやる、、、と言ったことが胸にこだまし、まだまだ愛撫の最中であるような甘言がいつまで続けられるのか気を揉んでいたら、それは明快に白状すると、僕との契約が反故にされているみたいな、この期に及んでいやに生臭い焦燥に駆られたのであって、妄想が準備した吸血行為も、弓矢に目した欲情も、魔術師のマントから離脱してしまい、霧散する予感にとらわれるのだった。
もう地表から明滅するものは得られない高度まで昇りつめていた。その間、僕はここに来てはじめて時を数えてみた。指折りながら、寝室の時計の針を思い返し、時間を売ったことを、それ以上ではなく、そのことだけをとりとめもなく、、、
女人が僕に向かって話しかけてきたのはどれくらい指折り数えてからだろう。とにかく、僕は魔術師の啓示通り、大きく利発そうな眼をしたに見つめられ、なめらかで肉づきのよい唇からこぼれだしている陽気な息づかいを間近にした。そして、その艶めいた赤みがこれより迫り来れない実感に恍惚となった。
礼節を重んじたわけでもないけど、夜空の恋人を抱くまえに魔術師の面に目線を流した。暗雲が最高に、とてつもなく雄大に、占拠しているのが分かり厳然たる世界にひれ伏すより妙案はありそうもなかった。
朝陽に応じる壁掛け鏡はいつになく機嫌がよさそうだったので、僕もその気で青ざめたいつもの顔を映し出してみると、左の耳たぶに異変を見つけた。すると何とも婉曲なかゆみがやってきた。赤い果実を想起したあたりで滑り台を降りて来るような無性なかゆみに変わった。たっぷり蚊に刺されたらしく、まるで福耳の有り様だった。
[277] 題名:瞑想 名前:コレクター 投稿日:2012年05月22日 (火) 04時56分
生来の方向音痴をあらためて実感することは、心情的な揺らぎに即するところもあるだろうが、嘆かわしさが当てられている皮膜を伝う振動に冷や汗は生じず、むしろ鋭角的な意識が見知らぬ領域へと散漫に、そして逼塞した気分は首輪を解かれた犬のように、無心を享受していたと思われる。
進学のため上京した当初、通学にはバスを利用しており、行きは遅刻の懸念から乗車するとし、帰りは節約も兼ねて慣れてもいない町並みを急くこともないまま、徒歩でぶらついたまではよかったのだが、皆目アパートの在りかを見失ってしまって途方に暮れ、道行く人々に尋ねてみても、電柱に標された番地を見つめても一向に埒が明かず、結局タクシーを拾って安堵したことがある。これを三度繰り返し、ようよう帰途を学習した。
慣れというものは微笑ましいというより、薄気味の悪い構成に委ねられているのではないだろうか。別に根拠はないけれど、明治カルミンを何十年ぶりかで食べてみたら、その淡い薄荷が舌にひろがったのか、どうかよく判別しかねていると「ああ、なるほど」それとなく納得させる風味が確かに口中に残り、強い刺激を売りにした最近のガムなどに比べれば、ただそのシンプルな色合いのラベルに郷愁を覚えるまでで、取り立てて感心するほどでもないなのだが、美味なのか、程よいのか、物足りないのか、詮索するのも億劫になってしまうあたり、いい加減な反応で取り繕っている気がする。
決してカルミンのせいではない、構図から見れば来るべき頽齢を先まわりして悲嘆しているような忙しなさと考えられ、まさに神経作用の奉仕が実っているわけだけれど、遺憾ながら手放しで喜べないのが実情であり、というのは方向音痴を峻別する決め手は俯瞰図の欠如なので、私自身は何すら描きとれない不安を自認するしかなく、手もとにもあたまの中にも見当たらないから、方角は直感によって示されるべきなのか。
いつの間にやら意識せずとも身体のほうで勝手に、まったくご主人様には一切わずわせることないまま、宴の支度を見事に整えたふうな召使いの役回りに徹してくれているのだから、増々砕心の機会は失われ、気がつけば醍醐味にありつけないうちに終盤にさしかかってしまう無為に至るのだ。
薄気味悪さを知るのは、おそらく抜けるべき通路や上がり下りする階段に慣れ親しんでいると確信したときで、X線みたいに眼には見えない、いや、こころだって感知しない走りとなって透き通っている刹那にあるのだろう。
そういう意味では両義的であることを訝しがらず、たとえ味覚も舌鼓もなくすでに満腹であったりしても、肉体の火照りを残さぬまま欲情が晴らされていても、買い物をした記憶がないのに宅配便が届けられても、旅行に出たはずがもう帰省していても、眼が覚めたのにまだ夢になかに居たとしても、あまり悔やんだりしないほうが利口だと思うのだが、、、
南国旅行は楽しかったのか、少なくとも無事に帰りの列車に乗り込んでいるのだから価値観を問いただすまでもない、もう見慣れた風景が流れだしている。
「往年の車掌シリーズの映画に似ているな、ただし、いつもながら出発じゃないってとこが洒落にならない」
まったく余韻を忘れた調子で映画館から吐き出された按配で、虚無さえ苦笑していた。パターン化された光景はたまには寸断される。今回はえらく近場だと気づいたのは普段着を意識しなかったお陰なのか、そして隣町のK市の駅舎に佇んでいるのは、以前の立ち食いそば屋での困惑、つまり北南の均衡を保ったつもりだろうか。とすれば、一悶着あるのは当然だし、器ばかりで中身を食せていない苛立ちの燃えかすも、最初から燃えかすらしく燻っていたので、好むと好まざる連鎖反応により、無性に帰りの時刻に圧迫され出した。
「でも、今日はヒッチハイクなんかしない、国道にも出ない、このまま速やかに後続列車に乗るつもりだ。迷子だって知恵がつくんだよ、やあ、この間の質問通りさ、実際じゃない、覚えていてくれたらこれからの曲芸を見守ってほしいな」
どうせまともな道筋ではないと投げやりな姿勢だったが、両の眼をこすってみる猶予なく、ここはK市に違いないけれど、どうも造りは都会の駅ビルのような雰囲気で、しかもけっこう広いスペースの書店に来てしまっている。こうした場合かつては必ずといってよいほど、水木しげるのまだ見たことのない分厚い特集本を手にして有頂天になっていたのだが、今回は自分なりに「迷子」「知恵」「曲芸」とそれなりの意味深な、が、おおむね無責任なキーワードを虚空に並べておいたので、書物には触れず、とにかくレジを探し、大概そこが出口に通じているからと解釈していたら、秒殺の勢いで通路は床ではなく、背の高い本棚にかけられた梯子を上って天井すれすれのところを渡っていくのが分かり、早くも立ちくらみを覚える。
誰もがそうして梯子に手足を引っ掛けているので、疑うことも面倒になり同じ物腰と、たぶんよく似た心境で「ああ、しっかり固定してある。手すりもあるんだ、けど狭いなあ」などと、左側に手すりっていうのが方向音痴からすれば、どうにも落ち着きがよくなく、また出口に向かっているのかと不審がよぎりもし、先行く人の背のもの言わぬ風情に感じいるものがあって難なく反対方面へとたどり着いた。
ところが、まだまだ青みをたたえている空の下に出るやいなや、強烈な空間圧縮の極意をまざまざと目の当たりにしなくてはならなかった。先の三つのキーワードを一気に使い果たした感に逆襲されたどころか、蕩尽するのはこちらの方だと言わんばかりの絶景にねじ伏せられた。
かの海岸に神々しくも屹立と立ちはだかっていたはずの獅子岩が駅舎の脇に隆として居座っている。そればかりではない、何と駅の改札は深山に囲繞されたほこらの様相でこじんまりと息をしており、奇景を通り越し、もはや次元を異にする構えであった。
「しまった、逆だった。どこまで音痴なんだ」
ちなみにこの直感は相当な説得力を擁していて、疑いの余地はなく、急激な焦りがいつものように押し寄せて来る。もと来た道を引き返す愚かしさも忘れ、厳密にはそちらが正解だったかも知れないが、同じ轍を踏む行為から離脱した観念は再びあのキーワードを呼び戻そうとしているので、駅前を見まわせば、交通量も多く、行き交う人のすがたもまた生き生きとしており、このまま右手に折れ、遠まわりになるけど排気ガスも清々しい広い車道に沿った歩道を進むことに決めた。
急な勾配にさしかかった辺りでは、いつしか貸し自転車にまたがっていて、この歪な距離感こそが肝心であることをしみじみ胸にひたしながら反対口を目指した。途中寝転がっている若い女性の傍を横切る。会社帰りなのだろうか、曇り空色した制服の裾からのぞく膝上が妙に自然に映ったが、速度の加減でいつまでもはだけた足ばかり見てられなかったので、その顔色をうかがうと、別段急病の気配もなく、酩酊の具合でもない、かといってふざけている振りには見えなくて、あえて例えるなら、一度とにかく歩道に身を横たえてみたかった、太陽がまぶしい、どことなく不気味だけど陽気な表情をコンクリートに焼きつけている、まなざしの片鱗にそう反照した。とすれば俄然意気込んでしまい先行きは変調をきたしかけが、何ぶん今日は特別な一日でもなくて嫌に追い風が身に重いだけ、そして腹立たしさも静かに澱んでいるから健全なのかも知れない、想いこそ突風となれ。そこで言葉にはしなかっけど、代わりに片目をつぶり挨拶とした。だが互いの視線は交差せず、雑草のようなありきたりの情感だけが後ろへ後ろへ遠ざかってゆくのを認めた。
それからしばらくして漸く迂回の成果を目前にした。改札口が近づいて来る。横には電話ボックス、今まで感じなかった空腹も身近だった。私は無心だったのだろうか、そんな愚問も後頭部から飛び出す。
切符を買おうとして、ふと少し離れた岩屋に人だかりを発見し、眉間にしわなぞ寄せて、いかにも興味のない素振りを現しつつ、しかしどこか人情じみた熱い鼻息をなくしていない、それで何事かと、遠まわりって実は文化なんだよな、どれどれ、そんな岩をくり抜いてどうする、皆さん順番待ちなんですか。そこの外人さんも、なるほどねえ。
メーカー不明のチュウチュウアイスをうまそうに吸っていた年老いた男から返ってきた答えは、自分の態度や質問より、遥かに底が深かった。
「あと7メートルなんだよ。ツルハシ一本の人力で、しかもひとり一振りだ、どこへ貫通するのかって。さあ、誰もそんなこと考えていませんや」
目覚めたあと「何メートル意識は潤色されるのか」などと、妙に分別くさい発想が顔を出した。
[276] 題名:イリュージョン 名前:コレクター 投稿日:2012年05月19日 (土) 15時16分
不断の満ち欠けを気に留めることもないまま、夜道に日は暮れないなどと、健気に、そして眠気を多少こらえているような心持ちで歩いている。
稜線は夜空に昔話しを語りたいのではなく、今日一日の想いがまた過ぎ去ることを自愛をこめて切々と訴えているように見えた。とはいえ月明かりに感謝したくなるのは、墨汁が白紙に触れた刹那をいち早く察し、あたかも秋波を送られたときのためらいと同様のぎこちなさへ通じていたからだろう。
すると輪郭を際立せているのは眠りつく山々の思惑ばかりとは言えず、太古より培われた自愛だけをよりどころにするわけにはならない、そう、まさに天空から降り注いでくる夢見の哥によって、目覚めの周辺が仄白くなり、今宵の足取りはまどろみつつ先をゆく。
急ぎ足であったのが、確か一昨日の日暮れ時で方角も逆ならば、雨上がりの余情をたたえなくてはと、気がせいたのも風景の妙趣で、あたかも優雅な筆先によって山腹に白煙を流させるあたり、却って家路を遠ざけている感じがもたげ安閑な時間のなかに立ち止まる運命となる。煙る山並みこそ、予言を越えた報せであり、訝しがる思いは有機的に隠蔽されているのではなくて、無機質なもやのうねりに好感が歩み寄っている怖れに忠実でありたく、みやびな霧の発生は緩慢なるゆえに、脳内時計を狂わせ、ひたすら三昧の境地に臨む徳性を授けてくれている。
虚ろな白さに酩酊以前の冷静な困惑を覚えること束の間、そう遠くもない霞に赴けばなどと、風流なまま立ち往生しているのも不甲斐なくて、結果は梅桜の華やぎを横目に走らせる、あの形式ばった健全さでほだされ、適度な注視に甘んじてしまうのだった。
が、流しそうめんに興じている女子高生に焦点が絞られるのは、すぐ先のはずだから、山間部の情趣は据え置かれ、白煙となって魅せた雲の儚くも静謐な一幅は、割と粋な計らいをもって、その形状を無くすまえに、呈のよい趣きに設けられた孟宗竹を流れゆく純白のそうめんへと変容していく。
かねてより戯曲の題材にと夢想を羽ばたかせていたので、一昨日の暮れどきが夜道の向こうに連なっているのは自然の成りゆきだと頷き、早足を意識してしまう小胆を叱責しながらも、苦笑いの奥に投げやりな態度を知る思いが募りはじめ、そうすると夜を急ぐ風の便りが行く末の分まで送られているような錯覚を引き起こして、戯曲の場面がすでに描かれた地点にまで到達するのだった。混然とした胸中とは無関係に色づく悦びは気流に乗り、鮮明な映像を認めるに従い、すでに一軒の民家の庭先に展開している光彩のなかへ飛び込んでいる。
かがり火の反照を自ら横顔に覚えるのは心地よく、同時に夜と戯れている女子高生の無邪気な笑みも間近に迫っているのが分かって、そのあどけなさを見遣る数秒後には、なめし皮を撫でているような感触が得られ、実体なき風合いの影に戦きつつ、光源が抱くしめやかな邪念を崇めてしまうのだった。
やがて揺れる木の葉に音なき音を聞きとり、雑念は雑念であるままに宙を舞い、塵埃の汚れから意味が拭われ、転じて夜空にまたたく綺羅星の沈黙と饒舌を了解すれば、自ずと囁きが秘める情景に想い馳せ、光芒はまぶたの裏にあふれ出して、闇を駆逐する勢いで赫奕として舞台を照らし始める。
再びそこに映しだされるものはより彩度を深めた演出の妙であり、気高い色香は崩れる美意識を表象して、薔薇の宿痾を讃えたるあの美しい比喩、決して凝固しない血を流し続ける傷口、との一節を想起させ、暗黒の太陽を我が身に輝かせた。
花弁の自在に対立した絶対の温度、肉体の凍結、心象の固定、空間の嘔吐、これら反作用とも無縁ではないが、時間はやはり虚しいのではないのかなどと内省が働いた途端、念いも一気に氷解し淫らな考えともども、夏の夜にふさわしいそうめんの涼味となって白線は清水に流れゆく。
そして爛漫なる破顔は、半身の器と化した孟宗竹をすべり、女子らひとりひとりの情をまとう金魚のすがたに移り変わった。浅瀬に遊ぶ安穏を披瀝させながら。
呪詛と祈祷がひとつの水脈からくみ出されるのは、月と太陽の共謀であり、予言者にあまねく神秘を付与させる為であろう。
[275] 題名:日常 名前:コレクター 投稿日:2012年05月08日 (火) 01時45分
前回の続きね、あら違うの、でもわたしがそう思うんだから別にいいんじゃない。連続性は意識のほうにあるんでしょ。室温より冷蔵庫のなかが冷たくないってどこかで聞いたことあるわ、どれくらいの温度なのかなあ、缶コーヒー入れといたらホットにはならないよね、いくらなんでも。けどあり得たりして、、、それでびっくりしたっていうより、感激は無意味に接近しすぎてさ、思わず手にした温もりも反対に実感から離れてしまって、自動的に、当たりまえに販売機から出て来たからすぐに口にしたみたいな勢いで飲みかけて、独り「あちちっ、唇が火傷するじゃないか」なんてぼやくのよ。
「今どきの若いものは、、、まったく」って全部ひとのせいにして、といっても文句もなければ怒りもない代わりに、仏壇のまえに向き合っているような静かで、なごやかな嘲笑を浮かべているの。
そうして、わたし寝たきり老人になっているのね、しかもおばあちゃんじゃなく、おじいちゃんで、あっ、これはわたしの些細な空想、つまりね、まわりはすでに結婚し子供生んでる同級生もちらほらいるから、まだまだ若いつもりでいても、さすがに年齢を感じたりするわね。そこで中途半端に焦ったりすねたりしてると、増々ろくなことが起こらないような気がする。だから一気に老人になってみたの、、、随分と時間は前方に延びているでしょうし、人生はまだまだ長いと思っているから、あらそうよ、結構長生きすると信じているの、わたし、こう見えても。
それで年相応なんて決まり事から脱却するためにも、さしあたり寝たきり老人の仲間になったという次第。おばあちゃんではつまらないの分かるよね、どうせゆくゆくはそうなるんだもの、だったら、じい様になったほうが刺激があって面白くない、足腰は弱り気味で、大方入れ歯だらけだけど、割合おつむは惚けてないし、食い意地とかもろもろの欲もまだまだしっかり粉末のかつお節みたいに残っていて、なかなかいい味を忘れてないって身の上。
わたしらのような娘を、じっと見据えたりしてさ、小言のひとつでも聞かせる振りしながら、しみじみと若返りを願っているなんて素晴らしく陰湿だと思う。全然嫌らしくはないわよ、だって、わたしがじい様なんだから、傍から見ているひとからすればそれは確かに見苦しい部分もあるでしょうが、今度はわたしがわたしを玩弄するだけだわ、何度も言うけど。
わたしの意識は消えてはいないから、ようするに自己同一性は保たれているわけで、ただ志向というか、生活観念にいくらかの乱れが生じているだけでしょ、なおかつ思考の働きは、、、屈折しながらもある一面は能動的であって、寝たきりの状態が誰かに迷惑かけているってことでもないしね、そうかといって別に自慢するような話しでもないけど、暇だから「寝たきり老人日記」でも書くつもりでいるだけよ。
でも独白体ではなんか今ひとつ立体感に欠けるっていうか、特に迫力までは必要ないのでしょうが、何らかの層があったほうがやっぱり陰影があっていいかなあ。よし一人称はやめにして、わたし、つまりじい様にね、名前をつけてあげようかな。いいの、いいの適当で、年齢自体が超越的なんだから家庭環境も生い立ちもこだわりなんかいらない。満蔵ってどう、満ちた蔵、もうお腹一杯、十二分です、欲しがりません勝っても負けても、これでいいや、さてと、では風薫る春爛漫のある一日から始めましょう。
とはいっても文体まで変えてしまえば、わたし少し不安で、何故って、それは実際に老人のままで終わってしまいそうだからさあ、分かるでしょ、女は業が深いのよ、しかもずる賢い、逃げ道を無意識で探り当てられる、男のほうが繊細だとかいうみたいね、それは聞こえが良いだけであまり役に立たない方便、女はひたすら細かいのよ、どっちに転んでも、深みに墜ちてもしっかり計算しているわ、情念の燃え方まで。
満蔵老人の眼にはある光景が活動写真と呼ばれていた頃の趣きで焼きついていたの。介護の女性ひとりにそそるものがあって、どうやら夢のなかの化身みたいな、浮き世離れした面影が思い出せそうで仕方ないんだけど、あと一歩のところではかなく描ききれなかったわけ。ようはその若い女性を手鏡で見るような感覚だった。このからくりじみた情欲の底までのぞきこむよりも、満蔵は生き生きとした柔肌に触れたい一心をひた隠しにしていたので、ある意味救われていたのかも知れなかったけど、横臥した胸のうちには次第と溜まりつもっていったのよ。そして下にも上にも半途なまま、行動はおろか冗談めいた口ぶりだってあらわにすることが出来なかった。
手短かで上等だわね、光景ってほどじゃないんだもの。東海林さだおの漫画にあったそうよ、よぼよぼのじいさんのくせして、どう勘違いしたのか優しさにほだされている己の恥を知ることなく、介護士さんの色香に挑戦したの。そのじいさんいわく「どうだい、ちょっと小便くさいけどここへ」って上布団をめくり見るからに不潔な寝床をポンポン叩いてみせた。相手の反応は言うまでもないと思う。
満蔵にとっては甚だ情けない所行で笑うに笑えなかったが、それは上半身の意識だと薄々気がついていたのね、だから叶わぬ下半身は沈黙を余儀なくされるしかなかった、たとえ漫画の世界でも。それがいざこの身に置かれてみると、笑いも沈黙もどうやら存立させてはいけない、この辺りが男の繊細な身構えだった。しかし幾度か顔を合わせ、満蔵のほうでも礼節を崩したりしなかったので、彼からすれば程よい手応えを受けとっているような気がし「漫画をバカにしてはならん」などと思い込む瞬間もあり、介護士が帰ったあとでは急激に熱気を覚えたそうだけど、球根に花が咲くように、パッとあたまが華やいだお陰で不埒な思惑を抱き続けなくて済んだそうよ。
「枯れることなきかな」とか一句ひねり出したい心境に赴いた己を満蔵は落ち着いて振り返った。本当は現在なんだが過去形として美化したかったから、額縁にはまった光景に加工しまったわけ。それきり不届きな思念はなくなったのだけど、しばらくするうちにあの「ちょっと小便くさい」という言葉の持つ何とも卑猥な残響が満蔵のなかに染み込んでいった。
「おれの小便など気にしてどうする」
老人なら、いや年齢に関係なくそんな疑問を持つほうがおかしいのは満蔵もよく心得ていた。が、こうも考えてみる「まだオムツの世話になるまでもない、しかしその日は近いのだろう、けれども違う、そうじゃない、そんな心配なんかじゃないのだ」反発する根はまさに濁った池の水面に沈む、発酵した汚物であるのが理解できたみたい。同時に汚物の所有をめぐる観念が水没する以前、すでに浄化されていることもね。
満蔵老人は身のまわりもその布団も、漫画に出てきたような悲惨で不衛生な状態ではなく、快適だったはず。では一体どうしてあんな強迫観念じみた響きを招いてしまったのだろう。
まっさらなシーツに陽の温もりを知り骨ばった背を埋める。足先に触れる木綿の織りさえ伝わってくる閉じた開放感、老人は豊かな時間そのものを呼吸しながら生命と出会い続け、窓の外には澄みきった青空、近所の薮からうぐいすのさえずりが届けられる。この寝床から這い出す意味を求めるほうが不健康だと太陽は教え、季節は風のうちに宿した無数の目配せで了解させる。双の眼を閉じるまでもなく春日和は清潔だった。暗夜の静寂と対比させる力量も失われ、寝たきりの日々は不動の感覚を礼賛しているようで仕方がない。交わりを阻む告知もないままに、あの動物的な衣擦れを耳もとから遠ざける為に。
満蔵の希望はむしろ不浄だったなんて罰あたりなことを閃かすのはいけないのでしょうか。
そう不浄もまた男の気構えよ。女は似たような態度をしめすけれど、そのときはもう溶け合う覚悟が出来ている。わたしの言っているのはこころのことじゃない。ごめんなさい、わたし役者になりきれないわ。でも満蔵老人の気持ちは分かったつもりよ。あんたの思うようにはいかない、わたしを書いているつもりでしょうが、わたしがこうしてふて腐れると、すぐに破綻してしまうでしょ。じい様の役は短かったけど、いい思い出になるわね、きっと。
[274] 題名:愛しのドッペルゲンガー 名前:コレクター 投稿日:2012年04月30日 (月) 23時02分
極寒地では室内より冷蔵庫のほうが温かいそうだ。窓を開けるのは自由だが冷気とは関係ない。ここで私の語るべきこと、それはもうひとりの自己像をどう認めるかという、心構えの問題に他ならない。では早速窓と共にに奇妙な扉に手をかけてみよう。
ウィリアム・ウィルスンが果たして不幸であったのかどうかを問うまえに、まず彼の資質を振り返ってみたい。それほど込み入った思索ではなく、どちらかといえば紋切り型の評価で十分かと思われる。なぜなら彼の俗物性には嫌悪がもよおされることはなく、それはつまり特異な現象に対する反応が極めて人間的だったからであり、浸透した不安をかなぐり捨てようと懸命になればなる程、また拒否感と並列される嫉妬心を素直に受け入れて結果、事態は奇禍を招いてしまったからに過ぎないからである。
「人間の力ではどうにもできない境遇の奴隷であったということを、私は世の人々に信じてもらいたい」
彼はそう述懐し、あまつさえ一歩一歩と堕落してゆくものだ、との前置きも忘れておらず、想像力に富んだ気質の子孫だったことに弁明を見いだしている。ほの暗い谷は大いに結構であるけれど、反面憐れみを切望しているのは何とまあ殊勝なことだろう。その先も縷々と気弱な経緯を綴ってから、以外や悪童に成育したところで、いよいよ影に出会う。
まったくの臆病者だったと一概に呼べないあたりが、実は彼の凡庸さを均一にさせており、次第に高まる焦燥の加減も自然の成りゆきならば、怨嗟が衝動として解放されるのは少しも不思議でないだろう。
ポオの視点はウィルスンの良心とやらの解剖に努めながらも、その結びにおいて辛辣な叫びを怠りはしていない。
「己のなかにお前は生きていたのだ。――そして、己の死で、お前がどんなにまったく自分を殺してしまったかということを、お前自身のものであるこの姿でよく見ろ」と。
はたして殺してしまう必要はあったのだろうか。私は長い間この疑問を保ち続けてきた。確かに影は事ある度に主人公をいら立たせたし、忠告や妨げを使命と拝しているような存在だった。さて不幸の是非であるが、私にはウィルスンの小心が残念でならない、それだけだ。大胆不敵な意思と行為を求める野心は到底ロマンの域を出たりはしないけれど、ならば私は代わりに自身の体験を述べてみる。一読願えれば幸いである。
幽霊を見たくらいで魂消てはいけません。なるほど自分の影、ウィルスンが煩悶したように不利な面ばかり働きかけてくるのなら閉口するでしょうが、それはこちらから歩み寄っていかず、常に受け身であろうとする惰弱によるものが大きいと思われるのです。誤解なきよう、何も私が敢然とした態度の持ち主であるなどと言うつもりは毛頭ありません、人一倍神経質なうえ、最近ではもっぱら寝たきり老人の仲間と化していますから。
冗漫を避けたいところ少しの傍道を許して下さい。霊感という言葉が流布しておりますけど、それは見る側の天性でもあるのでしょうが、出る側にも、そうです、幽霊の方にも実力といいますか、才覚みたいなのもがあり影響されると仮定しておきます。
あの世から人智を越えた力で現われ出るわけですから、余程の執着なり未練を残していたり、或は情念、なかでも怨念の凄まじさが怪奇譚の中核をなしているのは周知でしょう。そこで疑点が生じるのですが、この世のなかには数えきれないほど非業の死を遂げた人々がいるはずなのに、怨念が力学として作用するのであれば、死者全員はその姿を必ずや現出させると考えたほうが至当ではありませんか。しかし、実際にはその様な事実はほとんどありません。これは私見に過ぎませんが、どうやら死者にも霊力が備わっていないと、いくら切実な思惑を抱いていても、強烈な情念に支配されていようとも、あの世からの橋渡しは不可能ではないかと思えてしまうのです。ですから、稀に霊的な存在を目撃したのなら、礼儀正しく向き合うのが道理でしょう。恐がっている場合ではないのです。
幽霊はさておき、私のドッペルゲンガーをお話します。二十代半ばでしたか、高熱に冒されたので病院に赴いたところ風疹と診断され、悪寒と発熱に呻吟しておりました。病状は医師の言う通り三日ほど治まることなく、消耗からくる急激な疲弊を余儀なくされ病床に臥していたのです。幾度目かの発熱時、水銀体温計の目盛りがほぼ上限に達しているのを朦朧とした意識により確かめたとき、私は異次元に足を踏み入れたふうな感覚にとらわれ、かつて落ち入ったことのない神妙な気分にひたってしまいました。
驚愕や不安は穏やかな四囲とともに曖昧な意味に薄められ、要するに身体感覚を越えた想念が私を取り巻いている、端的に申しますと外部からの侵犯に対し一切の身構えなく横たわっていたのです。
不快な症状自体は軽減されてはいませんが、心身分離したような明徴な念が枕元に浮遊しており、さながら幼児が風船と戯れつつ幻惑されるのに等しく、一心不乱の境地はまどろみへ溶け込み、ささくれ立った神経も、細やかな内省も関与していませんでした。私はからっぽを目指していたのでしょうか。大層な考えをめぐらすまでもなく、睡魔に襲われただけであり、意識が遠のいてゆくのなら、自然の摂理に違いないでしょう。
ところが、あの入眠時幻覚と同じの視覚像が結ばれているのを見逃すわけにはまいりません。明徴さはより際だち、蒙昧とした陰りは取り払われ、脳内の機能が再稼動し始めるのを知れば、まさしく唐突に本来なにもない空間に異変が生じていたのです。私の右横にもうひとりの私が添い寝といった按配で存在していました。
幻の自分を認識しているのは、あまりに鮮明な輪郭と体温さえ共有しているみたいな親和であり、先ほど話しましたように詮索はおろか、疑心の生まれる余地なども有しておりません。夢見と混同しても私事ですので一向にかまわないのですが、あまりに姿かたちが生々しく、まるで磨きあげられた鏡を横たえている光彩さえ放たれているのでした。そして、私の分身は内語で囁きかけてくるので、臨場感は途切れると思いきや却って直接な、不可分な、柔らかな攻撃に身をまかせ、愛おしさが押し寄せているのをひたすら幸せだと感じていました。如何なる囁きがこだましていたのかは、賢明なる諸氏の幸福さで量られるべきだと思いますから、詳細は無用でしょう。
補足になりますが、学術方面では「対象物とそれを視覚像としてみている主体の視座の双方を、同時に視ているもうひとつの眼(中略)を内在化できたと仮定すれば、現前された像の性格にたどりつける」と、吉本隆明は論じており、「脳内現象説」を唱えた立花隆は死後世界の実在も検証しながら、解明され尽くしきれない脳のシステムに迫っています。
又、ジャック・ラカンの鏡像段階における「一次的ナルシシズムの到来であり、しかもこれはまったく神話の意味でのナルシシズムである。というのは、鏡像段階は死、つまりこの時期に先行する期間における生の不全という限りでの死を指し示しているからだ」といった乳児期の未明への類推も魅惑であります。
ほとんど明晰夢的体外離脱に終始してしまい、芥川龍之介が著した「二つの手紙」のような覚醒時のありありとした体験を語ることが出来ませんでした。と言いますのも、私にはそうした覚えがないからで、幽霊と対話する機会を願うごとくに分身と出会いたい一心しか持ち得ておりません。
短い考察を終えるにあたって、ここ最近の法悦を披瀝しておきましょう。残念ながら夢幻でしかありませんが、よい刺激であったことは事実です。
十代の僕には二卵性の双子がいた。妹である信憑は自ずと確立しており、それは世界中の人々から認知されるより深く透明な揺籃のなかに息づいていた。しかし、耽美的な映像に欠かせない記憶の断絶からみれば、妹としての実感は遠方に退いて、その距離を埋め尽くしているのは紛れもない果実の盛りであった。
はね除けられた上布団に寝そべる僕とは逆さまの情態で、互いの顔の位置が並んでいる。
極めて浅い眠りであるのは妹の事情によるものでなく、僕の薄ら笑いから判断される新品の紙やすりみたいな欲望に起因していた。一糸もまとっていない女体の眠りをあと少し黙って感じとっているのは、優雅であると同時にまばゆい光線だったので、かろうじて桎梏に成りおおせた。首をわずかもたげてみれば、ふくよかな身体のすべてを愛でることが出来たけれども、さほど肉欲に叱咤されてはいない、もしくは時間を占領している余裕が、妹の目覚めを延長させ、実際の交わりは遅疑され、無限の悦楽を夢見ていたかっただけかも知れない。
愛おしさは僕のまなざしに眠っていた。横目で見遣る妹の上唇にはうっすらした産毛が微かに波打っているので、紙やすりをかけてあげようと思ったのだが、注意深く眺めるまでもなく、すぐに笑みであるのが分り断念した。
[273] 題名:ウミガメとベースギター 名前:コレクター 投稿日:2012年04月23日 (月) 15時14分
潮風が心地よかった。身をかすめゆく感触に午後の日差しがしみ入ったからでなく、右隣でギターを爪弾いく青年の柔毛が頬を撫でているのが、遠い異国から届けられた景色のように儚げで美しいからだった。とりまいた子供らも口々に「きれい、きれい」とほめそやしている。
僕はうっとりとした時間を享受していたかったのだが、あいにく微妙な緊張が手放しの陶酔を軽減させて、いくら夢みたいな場面とはいっても気安く観客に甘んじていられなかった。左隣よりベースギターを手渡され、にわか仕込みの練習に焦りと同質のものを覚えていたから。
彼らは僕が十代の頃、憧れていたロックバンドだったし、絶対あり得ない状況にもかかわらず拒む理由もないわけで、それはそうだろう、こんなこと一生に一回でもある方がおかしい、きっかけを思い出す暇があればこの刹那に興じていたいのは当然といえる。
どんないわれがあるにせよ、とにかく僕はベーシストの代役を果たさなければいけない立場に置かれ、今まで手にしたことのない楽器を懸命にこなそうと努めている。が、どだい無理なのは分かりきっており、冷めた口調でこう言い含められていた。
「ベース音は後ろから流れるようにしてあるから、手つきだけもっともらしくしてればいい」
それが出来たらなんの問題ないはずだと、こころのなかでは反発してみたが、いら立ちは非現実的な光景に和らげられ、神経を突き刺す痛みもやはり潮風によってどこかに運ばれてしまっている。ギタリストの美貌を盗み見しながらの無謀な特訓なんて極端で面白いではないか。と、まあ開き直ってみたいところだったけども、陶然とした心持ちへ傾斜するのもそれなりの意思が要求される。この場に及んでいるからこそ、そして間違いなく奇跡と呼んでかまわないからこそ、僕は以外にあわてたりせず指先の動きは左手に委ね、右目で風のリズムが吹き流している栗色の柔毛の揺れをうかがっていた。
音楽ファンである前に僕は、この美青年が漂わせる清潔な風貌、近づくことにためらいを感じてしまうくらいの、それはつまり僕の劣等意識が拡大されているような視野をもたらすからで、卑屈な感性を露呈させながらでも、憧憬を先送りしたい欲求に裏打ちされていたのだ。実際メンバーのなかでもリーダー格の彼は圧倒的な人気を誇っており、こうして居並ぶ出来事に当惑しながらあくまで夢見の世界に内包されていた。だから、子供たちの賛美に対し青年はこう応えるのだった。
「母からよく言われた。獅子のたてがみが光り輝くようおまえは美しくなければならない」
彫像かと錯覚してしまう陰影ある横顔に忘れかけていた生気が宿る眺めは、磁力であると同時に僕の胸を寂しくつき放し、現実の距離へと回帰させた。一夏の恋心が燃え尽きる運命であるかのごとく。
しかし僕は青年を崇拝していたので、その言葉のうちに尊大さを嗅ぎ取ることなどなく、従容として目を細めた。すると今度はベースの指運びに慄然とせざるを得なくなった。あまりの拙さも然ることながら、数時間後には身代わりとして人前に出なくてはならない、いくらギタリストのカリスマ性に隠れていようとも、バンド全体として音楽は進行するわけで、結果的には大勢の聴衆の期待を裏切るのは目に見えているではないか。
何度も念を押すけど、こんな成りゆきを望んだのは僕ではないし、また深い事情があるにせよ、もっと適切な代わりがいるはずだろう、急激に渦を巻いた推理は荒唐無稽だったが、僕はひょっとしたら彼らに対し想像もつかない貢献をしたとでもいうのか、例えばメンバーなり主催者の命の恩人だったりして、そう、危うく車にはねられそうになったのを救助したり、あるいは逆に僕がはね飛ばされてしまい、幸い怪我はなかったけど醜聞を避ける為こんな要望が叶えられようとしているのだ。理由づけは無茶苦茶なほうが今は救われる。とにかく段々と内包されているのが不気味になってきた。
視線の世界は緊迫だけを強要しない。いや厳密には一所に収まっている静止画を否定する働きがあるから、無様に飛び散ろうが、勝手に飛躍しようが、心底拒み続けようが、不確かな収斂はのちに検証されるべきで、この切り替わりは一種の意匠だとさえ思えてしまうのだった。
「ウミガメなんか引き上げてどうするんだい」
潮風を側に感じるはずだ。すぐ先には船着き場あって、こじんまりした堤防の下のわずかな足場を頼りに一人の男が、けっこう大きなウミガメを素手で捕まえようとしていた。声にしたつもりだったが僕の所感でしかなく、男は悠々と海面に顔を出した獲物を引き寄せてしまった。他に人影もなく、あんな狭い場所から一体どうやって陸地へ上げるのだろう、それともただの戯れなのか。別段どうした思惑もなかったけど、気がつくと僕はいつの間にやら心許ない足場を横這いしながら男のいた方へ歩んでいた。が、すでにその姿は視界になく浮上したウミガメも消えている。
先ほどまでの焦燥が霧散した安心を得るより早く、陽の陰りは鷹揚に所在なさみたいな気配を深め、かといって寂寞とした空間が形成されてしまうのではなくて、どこかしら不透明でありながらさほど臆することのない、あえて言うなら無人の児童公園を見回している風趣があった。それが哀婉な詩情になびく手前で凍結しているのだから、旋回しているのは上空の鳶によるまじないかも知れない。案の定、僕は軽いめまいを起こしデコボコした足もとに危険を感じた。しかし、意識が定まると目線を落としたところに弁当箱ほどのカメが可愛らしくのろのろ動いており、一気になごんでしまった。
ウミガメの子だろうか、そっと足音をしのばせ両手で甲羅を持ち抱えてみれば、案外重みがあり無性にうれしさが込み上げてきて、そのまま細い足場から引き返そうと急いだまではよかったのだが、その先が悪かった。
海岸だからいろんな生き物がいるだろうけど、何もあんな物凄い蟹を出現させなくたっていいではないか。ゆうに一畳はあろう、全体が赤茶けたまだら模様でちっとも晴れ晴れしくない青みを点綴させた異様な蟹がぬっと半身を出し、通り道をふさぐようにしてうずくまっている。冗談じゃない、平家蟹だってあんな面相を見せはしないだろう。ちょうど歌舞伎の隈取りみたいな顔つきで睨みを効かせ、完全に僕の行く手を遮断しているのだ。これには驚きを通り越し怒りの感情が恐怖の影に寄り添いながらもたげ、二三歩下がりながら、反対方向を確認すれば更に歩幅制限をあたえている現状が困惑に直結する始末で、増々化け蟹の威力に圧倒されてしまった。
妙案とは夢想とともに眠れるものなのか。「置いてけ堀だな、これは」取り留めない情景がはらむ不穏から逃れて束の間、今度は逼迫状態を見事に演出している。
カメの子に未練などなく僕は直感に従い、今にも這い上がってきそうな勢いを封じる為、力まかせに手にしたカメを蟹に命中させると、まるで呪術が解けたように目の前に鉄梯子があるのが分かり、やっと苦難から脱出できたのだった。
視界が大きく解放されたのは必然と言い切るべきだろう。バスターミナルの喧噪はただ単に僕を圧迫するだけにとどまらず、ベースギターのことが再びブーメランとなって舞い戻り、放棄されるべきデタラメに律儀であるほうが妙だという意識と葛藤し始めていた。それにしても大型バスが連なってすぐ横をすり抜けていくのはかなり騒々しく、どの車両にも乗客がひしめいておりとても乗りこめる余地はない。しかも停留所から半周し走行しているので、相当のスピードは生暖かい疾風を巻き起して一層不快な気分にさせた。注意するでもなく行く先を掲げた運転席の上部に目をやれば、あ行、か行、さ行と見れた。これ又まやかしかと思ってみたが、向こう側の乗り場に人がいたのを幸いに「あのう、このバスは何処へ行くのでしょうか」と、訊いたところ中年男は怪訝な表情をしながらこう言った。
「万博だよ、あんた知らないの。それぞれの名前で振り当てられているからね、混雑を避けるためにだってさ」
脇をた行の車両が駆けていった。
「僕の名前はなんていったんだ」ぽつりとつぶやいたつもりだったが、中年男は「ほら、な行が来たよ、これで5番目だな、あんた数も気になるんだろう、だったらカズオでいいじゃない」そう人ごとなのか、親身なのか区別し難い声色で教えてくれた。
「じゃあ、間に合わないですよ、か行はもう発車してしまったから」
落胆の色が濃くにじみ出ているのを自覚し情けなかったけど、そんな適当な言い分をうのみにしている佇まいはもっと影が薄く、続けざまに、は行、ま行、や行と走り去るのを見送りながら「いちぬけた」腑抜けた語調でそうもらした。すると呼応でもするように「ベースの練習はどうしたんだ」誰が喋りかけたのだろう、確かにこの耳へ聞こえた。
厳かなターミナルは静寂が間延びしている。同時に時刻の設定も用済みらしく、曇り空でもないのに太陽は地上に関心を寄せていない、違う、ただそう映っただけかも知れない。
カメの子がとことこ僕の方に向かってきたのを認めたとき、醜悪な蟹が現われたよりも数倍の驚きがあり、その動悸を反響させているのは紛れもない感動だった。
「どうしたんだい、こんなところまで来たりして。さっきは痛かったろう、放り投げてしまい、、、」
子ガメに僕の言葉は通じているのだろうか、どうにも確かめようがなく、手を触れるのもひかえて見守っていると、僕を意識した素振りなど示さず、我が道をゆく調子でまっすぐ進んでしまったので、唖然とするしかなかったけど、どこかしら晴れやかな気分がほんの少しだけ後から着いて来るのだった。