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[260] 題名:タイムマシンにお願い3 名前:コレクター 投稿日:2012年02月06日 (月) 10時06分

そこは見渡すまでもなく奥深い懐かしさで囲繞されていた。透明人間の心境を取り寄せたのも時間の為せるわざであった。そう考えても罰は当たるまい。悲哀とは聞こえこそ角を立たせないけれど多分に泣き言を孕んでいる。これもあながち的から逸れてはないと思う。
懸念した動揺を緩和すべく、気抜けした一こまに乗じたわけだが、残念ながら本来の時間とはかけ離れたところで懸命に演じてみても、自画自賛の寸劇の域から脱することは不可能だ。しかし磁力の治まった椅子から立ち上がり竹やぶの先にあつらえ向きな灌木の茂みを見つけると、あらかじめ内蔵された機械の働きのごとく素早く椅子を折って隠し、にじみ出るはずもない汗を想像したりして我ながら先行きの好調に胸をふくらませた。もちろんよくまわりを観察し人気のないのを知ったうえでの小さな満悦だったが。
世紀の大実験に携わっているんだ、これくらいの自負は大目にみて欲しい。とはいえ実際のところ、開発者のNさんから念押しされた通り、竹やぶはともかくこの椅子をなくしてしまった暁には取り返しのつかない結末へと転じてしまうから、傍らに抱えて行くのが最善だろうが、もう一方では割と大きな鞄を手にしているわけで、道中の不便というよりも変に目立ってしまうのでないか、そう危ぶむのも無理はないだろう。今の時代だって40年前だって、事務椅子を脇にして町中を歩いている人間をそうそう見かけはしない。風呂敷包みでもすればよかったかも知れないが、今度は紛失なり万が一の盗難などという危惧が念頭から放れず、転送直後に見いだした隠れ蓑がやはり最適だと判断した。多少汚しても機能に弊害は及ぼさないないだろう、そう勝手に解釈して地面の土をまぶし、枯れ葉を乗せ、小枝を如何にもありふれたふうに被せておいた。その間も人目を気にしていたけど、この竹やぶの向こうに民家はまだなく足を踏み入れる人影も探すほうが大変だ。過去の情景は記憶からずれていなかった。これでかなり安心したわけだけれども、野ざらし状態には違いないので、もし雨に降られたらとか、この地域は滅多にあり得ないが雪でも積もろうものならとか、結果タイムマシンに不具合が出て来るのでは、そうした不安の種はつきないながらこれより他に妙案は浮かぶこともなく、精々どこかでビニール袋など調達しようと考えみたが、不自然さを増すだけかもと、隠し場所と転送位置の目印も計りやすかったから、帰還の利便を優先すればおのずと最前の処置に落ち着くのだった。
懐古趣味の予告に付随しているようなこんな注意深さも、旅の道具だと例えるならバイクなり車なり船なり馬なり、そう考えてみれば大切な作業である。
さて熊野の深い山中でもあるまいし、いくら竹やぶに差す明かりが40年前の光線だとしても山林へと連なる方向とは反対に抜ければ、そこはすぐ湾岸に臨める狭い町並みだった。数回迷い犬を見届けるようにタイムマシンの隠し場所を振り返っている間に小高い土地は、この胸になかへ見事なまでの眺めをあたえてくれた。
なだらかに続く下方の畑に緑は濃密でなかったが、うねが線状に居並ぶ光景は足もとまで匂ってきそうな土の香りを含んで、北風に運ばれてくる町全体の息づかいを背景に過ぎ去った時間がめぐって来た。
見るからに走行車がまばらな国道を境に畑はいったん途切れながら、点在する民家を取り巻くよう再び土の領分は広がっており、瓦屋根の平べったくも夜空を吸い込んでしまったふうな燻った色合いの均一なこと、曇天の本意を汲んでいるのか、陽光と風雨の日々を寡黙に見守っている青銅の屋敷神を彷彿させれば、道行く人のすがたも生き生きとした歩行に見え始め、顔かたちがまだ明瞭ではない距離を計るまでもなく、自分の両足は軽やかな風に吹かれた調子でこの界隈の大きな交差点まで進んでしまっていた。現在では削りとられ面影を残しているとは言い難い中央公園の小山もほぼ原型をとどめているのが分かる。信号機が青に変わる合間さえ慈しむよう視界の映りこむ光景に陶然としていれば、休む暇もあたえまいと、建設予定地になっていたグランドに行く手をはばまれ、以前写真に収まっていた雰囲気とはまったくの開きがあるのを知る。さほど遊んだ思い出もないけど、生家がこの道筋沿いであるから遠目にしろ、日常のうちに連なっていた場面は記憶の欠落も手伝って、どこか見知らぬ空間に赴いたときみたいな疎外感を招いていた。だが、野球場としても利用されていた名残りが一部の金網からうかがえるし、何より小道をまたぐのを諌めているとも言える銀杏の黄色が道のすがたを塗り替えている。落ち葉はまるで絨毯を敷き詰めるために空を舞ってきたのだと聞かされても違和をとなえることはないだろう。やや深みががった、けれども鮮やかな黄が放つ色調に枯れ葉の名はそぐわない、幾重にも積もった銀杏の木の下こそ町のなかの森ではなかったか。
屋根のうえまで枝が垂れていても営業していた食堂も目に飛び込んで来た。どぶを挟み暖簾をくぐるような店だったから一度も入ったこともない、小学生の低学年の時分だ、この店に限らず子供同士の小遣いには幾らか足りなかった。記憶のなかではこの数年先に閉店し取り壊してしまう、食事はなるだけ鞄につめこんだものを食べるよう努めるつもりだったが、一面銀杏に支配されているなか、黒ニスもはげかかった店構えには相当惹かれるものがある。夕飯には早いに決まっているけど、おやつがわりにかやくうどんってはどうだろう。ほら品書きが戸の隙間から見えている。いきなりの外食もどうしたものか思案してみたし、鞄の中身は下着と乾パンみたいな軽い持ち物で、重量がかかっているのは桃の缶詰二個だけだった。
記念すべし40年前の食事じゃないか、何を躊躇しているのだ。身なりだってこの時代にありふれたねずみ色の上下に白シャツ、おまけにコートはたいぶ前に古着屋で買った同じく灰色に少々だけ暖色で織られた年代ものを着用している。頭には地味な鳥打ち帽で出立ちに落ち度はないはずだ。
普段あまり頻繁にしない仕草、そう腕時計を顔下に向けるせわしなくも優雅な素振り。予行演習ではなかったけど、そんな自分の心中とはうらはらの大人しくしていられない子供の感覚が、すっかり目覚めてしまった。「午後3時20分」まだ時間はたっぷりある。そう思案していたところ、下校時の学生らがいっせいに銀杏の木を通り過ぎ出した。高校生にしては随分しっかりした顔つきしているじゃないか。男子より女子のほうが更に大人びている。あの頃の憧れにはどのくらい卑猥な成分が含まれていたのか、結構まじめに考えてみたつもりだったが、笑いは抑えられなかった。


[259] 題名:探偵 名前:コレクター 投稿日:2012年02月06日 (月) 09時45分

曇り空の下、近所の奥さんが颯爽とした着物すがたで道を横切るの見かけた。年相応なのだろう、喪服を思わせる青褐の着物はまわりの空気を一変させているが、凛とした容姿から受け取る印象は反対に無邪気な風情も備えており、あらためて女性の謎めきに感心していると、その先で同じく和服に身を包んだ数人とすれ違った。「何か習い事だろう」一人ではなく複数の女性を目にしたせいなのか、急速にときめきが離れていった。
家に帰ると映画が始まっていた。テレビの中ではなく、屋内が舞台となって物語は進行している。
「3Dなら知っているけど、こんなのは始めてだな」首をかしげている間を与えられないまま、この場面に自分も登場人物となって参加しているのを誰かに耳打ちされ、一気に胸が高揚してきた。
「映画も相当進化したもんだ、劇場一体型とは恐れ入った」
最初から観ていないものだからストーリーの把握に戸惑って、まして役柄の設定もあやふやなことが折角の醍醐味をそこねてしまい、居場所のないやきりれなさに滅入っていた。だが居並ぶ面々を見渡せば、この映画は金田一シリーズを彷彿させる推理劇だと了解し安楽に移行した。
岩下志麻ふうの女主や松坂慶子似の遠縁にあたる客、佐分利信の面影を持っている代議士が放つ重厚な声色、見るからのくせ者らしき男優ときて、あきらかに金田一耕助としか言い様のない探偵、距離を置き待機している警官ら、更に遠巻きで恐る恐る様子を見守っている女中たち、どうやら物語はすでに終盤にさしかかっているらしく、これまでの毒殺事件の犯人はこの中にいるなどと話している。だとすれば、当然ながら自分もその一員であるはず、殺人とは物騒だけどどれだけ疑惑の渦中にあろうが、絶対に犯人であるわけがないと自覚していたので、端役の扱いであろうともメラメラと功名心が燃えたってきて、探偵補佐の役割を果たすべく、窓の外をしきりに眺めていた。内情がほとんどつかみ取れてない自分は下手に状況へ首を突っこむより、こうして他の者が見落としているかも知れない些細だけれど、重要な手がかりと化す可能性を探っているのがちょうどよく思えたからだ。
金田一的探偵は奇妙なことに、犯人と目される人々を記号で呼んでいた。つまり色の名前を当てはめていた。岩下志麻はレッド、松坂慶子はグリーン、佐分利信はグレー、くせ者はブルー、それだけだった。やはり自分は登場人物を装った傍観者にすぎない、軽い失望は晴れやかな気分へと後押しされるようなちから加減を知る。それなら思い切り戯れてみるのが娯楽ではないか、どうした理由で次々と犯行が重ねられたのか、いったい誰が殺されたのか、物語の核となる箇所に立ち入ることは止めにし、ひたすら外の風景を見つめていた。
手の届きそうな雲やあと少しの高さがあれば目に映る海岸といった遠望ばかりに気をやっていたのだが、ふと階段わきの小窓から覗けた隣家の瓦屋根に連なる雨どいが目に止まった。それは雨風に蝕まれた穴ぼこではなくて、大仰な、早い話が何者かの手によって乱暴に開けられてしまった破れだと確信し、しばらく前に松坂慶子似のグリーンが筒状になったその一部を手にしたことを思い出した。
俄然心音が強まるのも気味よく、早速探偵にその旨を打ちあけたのだったが、傍観者というより視聴者の意見などまともに取り上げている暇なんかないという顔つきしかあらわにせず、無視状態に近かった。
確かに雨どいの破れと殺人を結ぶには飛躍がありすぎるし、裏打ちされる根拠のかけらもない。それでも自分はバケツに水を汲んできて瓦へとぶちまいてみた。ゴルフ球ほどの穴からは勢いよく、間違いなく雨水よりもっともらしくこぼれ落ちる。
主役の探偵から邪険にされたひがみだろう、増々緊迫した状態をよそに観察者である自負だけをよりどころにしたまま、事件の解明には関与していない素振りで時間を見送っていた。
張りつめた光景は陽炎から訪れる。その一室は閉ざされていたのだったが、いつの間にかグリーンが眼前に立ちはだかっていた。その瞳に映った宿命から逃げ出すことは不可能だった。炎天下の氷塊がその身を嘆く猶予に無言で接するように。
「恐がらなくていいわ。さあ、こっちへ」
グリーンはもうくちびるを差し出している。半開きではないが歯が合わさっていない口もとには暗黒の門が待ち受けている。理解できた、彼女は犯行をとがめられるまえに自分を道連れに命を絶とうとしているのだ。ひときわ艶やかなくちびるにはおそらく毒薬が塗られていて、重ね合わせた刹那に舌先を素早く滑りこませるに違いない。
この身を引き裂く感覚とともに、巧妙な意識の裁断がめぐった。見知ったばかりの女と心中しなければならない不甲斐なさと、所詮は映画のワンシーンでしかない、実際に死んだりはしない、自分は登場者であると同時に視聴者なのだからという考えが。
けれども反応は正直だった。グリーンから口を近づけられるより先に自分の方が艶冶な気狂いをかわしていた。そう毒をなめた舌が絡まるまえに幼児のような軽いキスで従ってみせた。移しとったであろう死の粘液は飲みこんだりせず、あらかじめの約束ごとであったふうに袖で口を拭い、殺意を忌避した。
背後から探偵が声をかけたのと、女の面が枯れ花みたいに萎れていくのが一緒だったので、自分の狼狽は動きの鈍くなった秒針をなぞりつつ、ようやく映画の迫力を堪能している意識を追記できた。
「貴女はいつも緑を窓の向こうにしてましたね。今回の一連の殺人はそんな背景で行なわれた」
探偵のもの言いにはなだめて聞かす調子があったけど、自分にとってもはや茶番でしかなかった。が、ここまで来たのだから黙って観ていよう。
探偵は案の定、こちらには一切視線をくれず淡々と喋りだした。
「ほら窓の外ではなくて、ガラス越しに揺れている柔らかな緑です。実は私、貴女のことをずっと探していたのでした。でも貴女の巧みな犯行にはまったく証拠がない、ここへ来てからも」
女が膝を落としたのがいかにも安直に思えてしまったが、つい先ほどの情死を模した場面を浮かべてみれば、荒唐無稽だと笑い飛ばせるはずもなく、物語は真面目でなければならないのかどうかなんて一概には言えなくなっていた。だから、いっせいに警官数人が飛びこんできて、しかも腰にサーベルを下げている姿に呆気にとられ、女の着物も茶の葉みたいな地味な色合いながら品格があるのを今さら気づいてみたり、素直に捕縛されるかと思っていたら驚異的な身のこなしで警官のサーベルを奪い一刀のもと相手の耳を削ぎ落としても、殊更驚いたりはしない。むしろ煎餅でもかじりながら活劇を見物している按配だった。
グリーンは相当な剣術の心得で返す刃で銅切りを決めたり、踏み込まれる間合いをはかりながら攻撃の手を休ませない、まわりは中々取り押えられそうもなかった。警官も必死の形相でようよう決着をみせるまでに抵抗された傷あとは数多く、縄を放り投げてかろうじて身を封じたところでちから尽きたのか、放心したまなざしで座りこんでしまった女を臆病そうな顔をしたひとりがいきなり袈裟斬りにした。見事なまでに血しぶきが上がったけど、自分の心境は割合と複雑だった。平静を装う気力が卑屈に思えていたから。
映画はまだ終わらない。白装束に着せ替えられたグリーンは丁重に布団に寝かされ枕もとからは線香が漂っている。探偵はこれまでの経緯を本当は得意気に語りたいところ、あえて抑制された口調で説明していた。
カメラがすうっと引かれ遺体の光景が遠ざかる。殺人犯を取り囲む人たちの表情も明確でなく、手前に位置した畳の編み目が延々と映し出されているので、こんな冗長なシーンは悪趣味だと文句を言いたくなった。いや観ようによっては余韻など超越したそれなりの無時間が提出されている、でもこれは推理ものなんだから高尚な感覚は要求されない。
しばらくして、再び警官がどやどや現われた。果てたはずのグリーンの目が開いた。サーベルではなく短剣が白装束めがけ投げつけられる。半身を起こしかけたが一目では数えきれない刃物によってとどめが刺された。なるほど最後にここを描きたかったから静止画みたいなものが撮られたんだな、感心したかといえばそれなりに感心した。それから自分の席がきちんとあったことを確認しエンドロールを背中にした。
黴の匂いがほのかに鼻をつく住み慣れた家に帰ってきた。すると便所に床が敷かれていた。「どうしてこんなところで寝ないといけないんだ」しかも数十年まえのくみ取り式の便所になっている。わけはあるのだろうか、今度は本当に探偵となりこの臭気と不快感を調べなければならないのか。その続きはいずれまた、、、


[258] 題名:巣窟 名前:コレクター 投稿日:2012年01月30日 (月) 15時46分

「まったくなんで火を灯したりするんだろう、こっちは熱くて仕方がない。このまえも何かの弾みで落ちてきたろうそくの固まりで仲間がやられた」
芸太の任務は斥候です。たいがいは彼一匹で遂行されるのでした。人間たちの習性について蟻の芸太が知りうるのはほんのわずか、夜行性ではないけど日中でも燭台に火が灯っている、しかし、この屋敷は特別なので他所とは違う、それが以前聞き伝えにしたすべてでした。確かにここでは人間の寝静まった気配を感じたことがありません。もっとも芸太には帰るべき巣があり、そこで暮らす女王や清掃係、運搬係、育児係といった仲間と夜には眠りにつきますから関係ないのでしたが、彼らとは別の夜行種もいて唯一の情報はその方面から伝わったと思われます。
芸太は夢を見ることがありませんでした。いや見ても憶えてないのかも知れません。気がついたときには彼の役割はすでに定まっており、こうして斥候に出る日々を誇りにさえ思っていますので、あれこれ無駄な考えをめぐらして大事な仕事がおろそかになってしまうのは罪なことでした。芸太は重大な責任を背負っているのです。巣にとって何よりも肝心な食料を探し出すわけですから、いつも緊張と冒険の連続です。危険の割合をいえば運搬係が行列をなす場面よりかは低いでしょうが、さながら荒野に一匹でさまよい出る緊迫感は窮屈な自由を吹き飛ばす不安との闘いでもありました。
一度人間にまじまじとその姿を見とがめられたことがあります。爪先よりも目の玉のほうが芸太に大接近したのです。「見つかったこれまでか」全身がすっと軽くなったのはそうした断念によるものではなく、人間の吐く息によってその身が空に飛んだからでした。ほんとにあっという間の仕業で、これまで一度も垂直なところから落ちたりせず、どんなくぼみのある家具にだって器用に這い上がり、込み入った事情よりも更にざらついたところだって渡ってきた芸太でしたけれど、こうも突発的で悪意ある強風にはかないませんでした。そしてこんな仕打ちをしているのが子供であるのが直後に理解できたのです。蟻にだって子はいますからその姿の大きさで分かりました。
芸太は無信心なので誰かに向かってとっさに祈ったり出来ませんでしたが、自分でも訳の分からない言葉とも思いとも違う何かが、ちょうど腰のくびれから発生して半分にからだがちぎれてしまうほど熱い声となってほとばしりました。運がよかったのか箪笥の陰へと隠れるに最適な箇所まで移動されていたのです。子供は一息だけで気が済んだらしく芸太をそれ以上追いかけたりしませんでした。そんな危機に直面したせいでしょう、今までより部屋の様子をよく観察してから食料を求めるようになったのです。
すると普段は敬遠していた燭台の近くにはいつも分別顔をした人間がいて、四本足で畳を這っている子供を寄せつけないよう注意しているのが見てとれました。芸太が獲得するべきものは人間らの居場所に特定されません。巨大な足の裏によって座敷のいたるところに運ばれているのが実状なのです。しかしそんな足の裏が闊歩する畳のうえは蟻の世界からすると依然広大な領域に違いありませんから、まずは安全地帯となるろうそくの灯る下方へ身を寄せます。大人たちは常に何かを見つめていて身近なところを注視したりするのは滅多にありませんでした。
芸太は斥候としての攻略を発見した歓びから、同じ任務をまっとうする者らにこの事実を教えたのです。結果早くも一匹が熱したろうのしずくの犠牲になってしまいました。かといって威風堂々と適地に赴けば、突風はおろか天からの魔手がのびてきて万事休すです。行列隊の明暗を決定するのもこの悪魔の手にかかっているわけなのですが、芸太はそれでも運搬係の隊長になるだけ火影を進むよう提言したのでした。
ある夕暮れのこと、いつになく屋敷内がざわついているので気を引きしめて様子をうかがっていると、それまで聞いたこともない呪文が唱えだされました。言葉の意味はわかりませんけど、あきらかに普段の言葉使いとは異なる、蟻の自分でもとても妙な気分になってしまいそうな響きが聴き取れたのです。
「きたぞきたぞ、こうをこうをたけ、きりをきりをはれ、のうみそまぜろまぜろ、ろうかをまわせまわせ、ろうかをおりまげろまげろ、なむなむなむなむなむ、とけいをとめろとめろ、、、、、、」
どうやら芸太らが奥の間と呼んでいる部屋からその声が漂って来ます。虫の死骸をたまに見つける以外ほとんど収穫のないため足をのばさない廊下に思わず出てしまいました。その方が呪文がよく伝わってくる、そうです、まさに蟻にとっても明瞭な響きであり、芸太はまるで引きずり込まれるかのように日頃の慎重さを失いかけておりました。
畳とは多いに感触の違う板張りの滑らかさに戸惑うこともなく、茫然と声のする方向へ這ってゆきます。暗色をたたえながら月日を運んできた廊下に怪しい光がときおり明滅しかけたときには、すでに妙なる音はやんでおり、かわりに人間の足踏みがすぐそこまで迫って来ました。足つきに乱れはありません。ふと我に帰った芸太は、上方に香っている濃厚な匂いの残滓をまるで調教された犬のごとく嗅覚で切り捨て、音像を結ばすよう、見たこともない夢を想い描くよう焦点を定め、深い森にも生息する種族のちからを借りながら祈りを捧げ、次第に歩み寄って来る人物を嗅ぎとったのです。
ちいさな芸太にしてとって人間の速度は計算外でした。そして白い足袋が夢の証しだということもうなずけました。が、極度の緊張は足の影を作りだしています。「踏みつぶされる」本能的な恐怖は避けがたいのです。
蟻の芸太が目覚めたのは百年以上さきだったかも知れません。それくらい夢を長く感じていたのでした。ほんの一瞬の出来事なのに。
芸太は土壁に寄り掛かりかつて這い上がった記憶もない天井を見上げました。視界には夢の白足袋よりもっと純白な封筒が大きく広がっていました。


[257] 題名:回廊 名前:コレクター 投稿日:2012年01月30日 (月) 05時52分

吐息は気だるさを知るまえに冴え冴えとした方向をめざしていた。特に目的があるわけでもない、尋ね人や宝探しや意趣返しでもなく、誰かの指令を受けている自覚もなかった。
秋口の呼気がひときわ爽やかに感じられることを忘れていなかったし、季節のめぐりを実感しようと努めるあの静かに横たわった意思もなくしていない。しかし、焦点が定まってないよう肌に触れる空気は四季の特定を願っておらず、あれはいつの日だったかと半ば放心にさらされる粗雑さへ歩み寄っていた。逆光を見つめる眼は醒めた意識を背景にしている。だから風景はこんなに冴えているのだろう。薄皮一枚に隔てられた赤褐色に被われようとも。
親しみがはね返されてしまいそうなくらい気色のいい飴色した廊下をずかずかと進んでゆくのは心地よかった。大名屋敷とも広い寺院とも識別されない混迷だけが宙に舞い、吐息は白濁した霧にのみ込まれながらも先行きをかき分けている。
「あの、いつの時代なんでしょうか」不意にもらしかけた言葉を唾と一緒に喉へ戻し、歩幅に流れる光景を見送っては、一齣一齣が鮮明に飛び込んでくるときめきを忘れられないなどと念じて、感傷を同時進行させてしまう。
どこかで見知ったのふうな寺子屋を想わせる一室がうかがえた。燭台からの灯りにしてはまばゆい気もしたけれど、数人の子供らの顔つきを見比べる余裕なきまま、歩を止めはせず廊下を過ぎてしまうと、あとに残された火影がぼんやりまぶたの裏に浮かぶので、えらく屈折した家屋の造りに違和感を覚える暇もなかった。とはいえ、摺り足とも早足ともつかない歩調であれば、自ずとその爪先が過度に入り組んだ構造を認めてしまっていて、まるで鍾乳洞の深みにもぐりこんだみたいな危ぶみを招く。
「そこで何をされているのですか」またしても疑問符が口からこぼれかけた。
飴色の廊下が廊下であるよう部屋という部屋は畳であったが、よぎる意想を否定しかけても結局そこに生息している人々の呼吸が別種のものだと考えてしまうと、寂しさから逃れなかった。せめてもの救いはこの眼球に反射している眺めは鋭い角を持っていなくて、塵ひとつたてるにしても子犬にほほ笑み返すような柔らかさがあり、例えそのなかに棘が含まれていたところで、虚脱を覚悟した身はすでに風化されており、地平線に連なる古拙な居住まいは汚れていない、星降る夜空を見上げるものと同様の広がりがある、そうしたまなざしは永遠なのだと信じられることだった。
苦笑は夜風になって背後から吹きつける。くねりにくねった廊下の表情は変わらない。足どりは快調とはいかないまでも遠い地に旅する趣きに近く、気抜けした歓びを愛でる使命で運ばれていた。
「弁当の時間ですか。うまそうですね、いえいえ、おかまいなく」すべての室内が見てとれるので、ついつい独り言が出てしまう。実際空腹ではなかったし喉の渇きも覚えなかった。
だが「すごろくとは又懐かしい」とか「座禅なんですね」とか「ほう、それは誰の絵です」とか「江戸川乱歩を読んでいるんですか」などと眼に入る場面に対し黙したままでいるのをやめ、ささやきとして送ることにした。もちろん反応は期待しておらず、何故かしら進行方向の右側だけにしかない座敷の様子をのぞいている。
今が日昼なのか夜間なのかも留意してなかったけど、ろうそくの灯りがこんなに部屋部屋を印象づけているのが不思議に思えてきて、それに各自の服装も着物だったり背広だったりするので、老若男女の割合などおぼろげに目算しているのも疎ましくなり、終いにはそれぞれの様態より一室の雰囲気しか看取しなくなっていた。左手には暗緑色の土壁だけが続いているし、黒ずんだ天井は背丈に低く恭順しているようで、太陽や月を仰げる庭は現われない。
それからしばらくすると失意よりもやはり旅人の描く風景がさきに訪れた。見晴らしのよさなど二の次にして願う心象、偶然だった。見知った顔だった。けれどもその容貌は明らかに時間が停止している。
「あの頃のままだね」
つぶやきは瞬きを奇跡に置き換えたかったみたいだ。低い天井はほどよい高さで彼女を見守っている。
「きみの名前はひょっとして」と言いかけたとき、真っ白な封筒を相手から手渡された。ほんの微かな笑みとともに。
驚きはためらいを生み、封を切る指先も微かに震えた。待ち望んだのではないが頬がゆるむのが分かり、その場に立ち止まった。


[256] 題名:冬の雨 名前:コレクター 投稿日:2012年01月20日 (金) 06時11分

指先から指先へ、綱渡りの危うさで近づいては遠ざかる。まどろむ皮膜のむこうには冬の雨が聞こえている。散漫な意識の陰りは湿気ることなく、蒙昧なままの情況を伝えようとしているのだろう。雨音は何故かしら乾いた響きを持っている。
いつの頃からか私は夢の記譜法とでもいうべき作業に向き合っていた。子供の時分は当たりまえだが、夢の内奥までもぐりこむ決意はおろか、夜の帳を冷静に覗き見ることもかなわず、物怖じを遊戯的な感覚で囲いこんでひたすら檻の向こうから眺めて悦に入っているだけだった。夢見の恐怖はお化け屋敷の仕掛けと同等の価値でしかなかったから。
回想という意識のめぐりを認めるは極めて単純な、花弁はつぼみから広がるようひとりの異性が突然の訪問を示した一夜から始まる。翌朝にたなびく気分には金木犀の芳香を想わせる切ない甘さが漂っていた。普段から注視していたわけでもない、親しい会話が弾んだわけでもないのに、まったく不意打ちの現われ方としか言い様のない場面は、夜へと色彩をもたらす。水彩絵の具ともクレヨンとも色えんぴつとも、あるいは折り紙とかビー玉とか、ドロップでもガムでもいい、とにかくはっきりとした明るく愛らしい色使いに、淡いあこがれは誕生した。
私はその女の子がそれから気になって仕方なく、やがて好意自体がどうしたものか苦痛に似たような感じを帯び出した頃には、いつも恥じらいが前面に踊っているみたいでやりきれなくなってしまっていた。そうした夢見がくり返されるうちに唐突の登場者(異性)は、ほとんど陰の恋人に仕立て上げられる始末となり、いわば方程式の按配で精通を知らぬ私をいたぶるのだった。現在に到って尚この方式は健在である。
さて、まぎれもなく個人的で小さいまとまりを欲している追想は、常に甘い旋律に傾きがちで、しかも哀感と交錯する自由を得たいが為の分析に終始し、断片としての映像により散らばった病根を拾い集めることが、あるいは言葉をただす責務に苛まられていることが、背後霊からの指令であるかのごとく、玄関先の溝を掃き清める行為に導かれてしまっている。
不発弾に軽い失望を覚えながらその威力など想像せず、ただ夜気にきらめく一条の閃光を見つめているのは、陽光のまばゆさに慣れてしまったひとでなしの証しかも知れない。情愛のひかりが世界を被っているという意味あいは不問に付される。言語感覚に異変をきたさない限り記譜法は変わらないだろう。少年は老いやすい。
先日のこと、まだ喋るにも覚束ない赤子をあやす機会があって、とはいえその父親にはあまり好印象を持ってなく、母親の顔も見たことがない、そうした場面に臨んでいるのもやや不快な心持ちながら、前がはだけてままのビニールみたいな質感をした股間を訝しがっていると、おもちゃの糊付けかと思わせる割れ目を赤子の指先は痒いところでも撫でる感じで触り始め、そこから沁みてきた粘液になったものを口先に運んでいるので呆れ返り見ていれば、児戯と呼ぶまでもない野性の戯れは自然現象やら生理現象を擁護する調子で、まるで順番であるべきなのか私の口へ粘液と唾液の溶けたゼリーを塗りつけてくるから、満面に嫌悪感をあらわにしたのだったが、父親はいたって機嫌がよく、無垢な乳児の体液はすすって当然といった表情でいるので、叱るわけにもどうにも拒否しきれずにいると「さあ抱っこしてもらいなさい」そう言って赤子を私に寄越したので仕方なしに「たかいたかいバアー」なんて卑屈な声をこめながら抱き上げ、更にはその子と目が合った瞬間には唇から舌先にまで浸透した体液がまったくの無味無臭であることに妙に感心してしまって、顔つきも定まらないけれど嫌に光っている瞳と向き合っている情況に緊張を覚え、じっと動かすことも出来ないでいたら、どうした理由かさっぱり思いつかないまま「この子を虐めたことがある」など奇怪な妄想がさまよいだし、すっかりうなだれてしまっていると、父親が「こうやって慣れてもらわないとね」なんて意味不明の言葉を発したので、赤子の目も同調したのか分別臭く見えてきた。これはいけない、もう帰ろうと思ったとき「何十年くらい寝小便してないだろう、しかも本格的に」などと、他愛もない考えが雨のごとく降り注いでくるのだった。


[255] 題名:タイムマシンにお願い2 名前:コレクター 投稿日:2012年01月17日 (火) 05時25分

「さあでは椅子に掛けてください」
「目は閉じてたほうがいいんでしょうか」
いよいよ時間の旅が待ち受けているかと思えば心音が激しくなるのは自然だろう。死刑囚の心境を察してみるのは難しいけど、直ちに開始されるのか、それとも儀式めいた猶予があるのか、いやいや、遡行に対するNさんから何らかの注意事項があってもいいはずなのに、、、そんな狼狽をただそうしている自分が情けなくもあり、また曇り空を見上げるとき上澄みみたいにかすってゆく憤懣のあり様のごとく、落ち着きの悪さは保全を願ってやまなく、尋ねる言葉はやはりか細かった。
「開けていてもかまいませんよ。飛行機から下界を眺める要領です」
Nさんの表情を形成しているものを額面通りに信じるなら安心を得るところだったが、患者が医師に対しより確かな処方を求めてしまうのと同じで、もっと明白な助言を優しく受け取りたい。例えば、過去に生きる人々への接触はどこまで許されるものやらとか、野草の一本まで慎重な態度を保つのは鉄則であるとか、時代の眼は案外厳しく不審者として詰問された場合いったいどう対処すればよいのだろうとか、短い間とはいえそれなりに思慮した事柄が出発まえからこうも噴き出してしまうのは潔くなく、見苦しいのかも知れないが、開眼されるべきものはそうあるほうが正しい、自分の質問は時間の移動に向かう態度である、だからNさんはもう少し丁寧な表情をつくる義務があるはずだ、唐突な誘いに乗ったのは自己責任に違いないけど、こんな世紀の発明を自分に試させる意義を問うてみたくなるのは当然だろう。が、憤怒が急速になだめられるよう、喜悦が一気に醒めてしまうように、Nさんに向けられた情意はまるで夢のなかで霧散する光景となって鎮まり、ただ一縷の思いだけが魔法の呼び子となって残され「下界だけでなく、天界も同時に目の当たりにするわけでしょう」そうもらした。
そのときようやくNさんは口角を上げた。実験に魂を捧げてきた学者が見せる至情の笑みだった。決して人懐かしい笑顔ではなく、どちらかと言えば月影に照らされた鬼神の面が放つ、妙えなるひかりに似ている。そして光線を追いかける勢いで訪れた一陣の風に乗り、幽かな笛の音が耳の奥へ静かに鳴っていた。
自分が憂慮しているすべてを柔らかに包みこんでいるふうな、夢とうつつの境目にたゆたっているときの充足感は精緻な言葉を退けようと努めている。ちょうど芝居の決め科白みたいにひとことだけ吐かれる。
「Nさんはどれくらい遡ったのですか」
それは意識の方角から落とされた小石だった。鬼神の面貌にわずかな、もちろん肉眼では窺えないほどの亀裂が現われ、そこから隠された素顔に水がしたたるよう情感がこぼれ、こう呟いた。
「いわば個人史です。秘密にしておきたい。でも安心なさい、その貨幣が使えたのですからあなたが望んでいる時代とそう大差はありません」
Nさんは微笑を保持したまま腕時計を差し出した。そして穏やかな笑みは日輪を霞める雲影を映しとりながら、冷徹な発明家の矜持に返り咲き説明してくれた。さながら花陰を指し示す按配で。
「シチズンのアラーム・4ハンズです」
くすんだ金色の縁取りは秒針を巡らす為にこんなに丸みを強調しているのだろうか。見るからに昭和三十年代が懐古される古びたねじ巻き式腕時計、竜頭がふたつ付いているのがアラーム仕様なのだと認める。
「いかにも表面は当時のモデルですが、これもタイムマシンの付属なのです。時刻設定は為されています。ええ、ですから竜頭は絶対に動かさないでください。これより72時間先、午後3時にプログラム済みですから」
「なるほど分かりました。それではこの時計は預かっておいてください」
これまで着けていたものを外しNさんから受け取った時計をはめ椅子に座った。もうため息さえ空気と不分に交わっている。
「おっと、いけない。言い忘れるとこでした。空間移動が不可能なのは先ほど言った通りで、つまりあなたは三日後のこの場所に帰っていなくてはなりません。40年前この辺り一帯は竹やぶでしたが」
「はい、だいじょうぶです。学校の裏手に広がったところですから」
「必ず午後3時までに戻っていてください」
「それでこんな折りたたみが出来る事務椅子が選ばれたんですね」
「まあ、そういったところです。それから操作などはいりませんよ。ただその時刻に椅子に座ればよいのです」
「分かりました。ではお願いします」
あれこれ危惧したことなど最早すっかり消去されていた。操作は始まったのだろうか、腰掛けた身体には吸盤の圧力が稼動しているみたいな感覚が生じている。すぐに全身が硬直しだし、今度は強烈な暴風にさらされているときの身動きに近い心細さをともなった威圧が胸中に広がった。肉体の痛覚よりも遥かに神経が波打っているのが実感できる。ピリピリと小刻みに震えるのではなく、妙な表現だがもっと大らかにそよいでいるような、あたかもススキの穂に光芒が発し、見極めつかないはずの外敵にとめどもない信頼を寄せるという転倒した物怖じが、それはこの世のものとは俄に認められないにもかかわらず放心を肯定していて、ただの虚脱に思えてしまう。自分の心身が離脱していく瞬間をとらえるなら、まさに今がそのさなかではないか。Nさんも認可した意味をかみしめる為にこうして目を閉じたりはせず、四肢を貫いてゆく圧力も見定める気概でひかりの渦が発生するのを心待ちにしている。脱却するに当たって時間軸はどう抵抗するのだろう、神経の所在はまだ失せていない。いや反対に非常に澄みきった意識が幾重にも折り重なっているみたいで、俯瞰図を眺めている猶予がさずけられているではないか。希望と絶望、親和と疑心、跳躍と停滞、好奇と恐怖、曖昧な夢と偉大な不安、これら相反することや時には歩み寄ったりする心象が、畳まれた襞を這ってゆくよう深く浅く、気圧に左右される自然現象と化して脳内に反射している。そうだ、これがひかりなのか、、、泥酔者がその意識内でもまずまずの機知を働かしていると感じてしまうのと等しく、自分の思考は平行線に定規を当てているのかも知れない。定規が時間、それなら平行線は何なんだろう、、、待てよ、渦が巻くのだ、定規みたいに時間は短くないぞ、巻き尺が入り用だな、とすれば思考が怪しくなるまえに世界はねじで操られ途方もない円環に収斂してゆく。その先を計れるなんて考えるほど傲慢ではない、もっともだ、時間を歪めるどころか逆行しているのだからな、、、意識の俯瞰は案の定、こじんまりとしたあばら屋の見取り図だった。
気がつけば葉ずれの音が身近にあった。歓迎のしるしにも聴こえる。特別に耳をそばだてることもあるまい。竹やぶには冬空がよく似合う。空気はありていに冷たいだけでなく、緑に囲まれているだけでなく、経年に耐えてきた飾り棚にしまわれた置物たちから見届けられているような、塵埃さえも静まり返って朽ちるすべを忘れた奇妙な冷ややかさがあった。
町並みが覗けるところは目と鼻の先なのに、さっきまでの混濁した意識にもう少しだけ浸っていたい気がした。同時に開き直りにもとれる馬力がみなぎってきて、ここが本当に40年前なら三日などとは言わずに心行くまで留まってみたい、野宿や金銭にとらわれたにせずに、、、そんな思いが波打ち際に立ったときのようにゆっくりと去来はじめ、瞬きに沁みる時代の呼吸は悲哀を呼び寄せ、早くも自分を透明にしていた。


[254] 題名:タイムマシンにお願い1 名前:コレクター 投稿日:2012年01月06日 (金) 05時35分

真夜中お好み焼きを作ろうとして冷蔵庫を開けたら卵がなくて悲嘆にくれていたのだが、腹が減ったので焼き飯にしようと考え直してみてもやはり卵がなくてはしょうがない。そこでキャベツと紅ショウガだけのお好みに戻って、せめてソースだけはと、ウスターとトンカツとケチャップをこの世で最高の香りまで高めることに専念した。たかが三種とはいえ絶妙の配分が世界を変えてしまうのだから、それはもう命がけだった。焼き上がりはキャベツを控えめにした結果、水分が出ず表面はカリっと中身はふんわりだったのだが、他に具材がなかった腹いせに紅ショウガを入れ過ぎてえびせんべいみたいな色合いになってしまい、味もピリピリして沈痛な面持ちで食したのであった。黄金比率のソースも成功からはほど遠く、これまた全部ぬりたくったあげく、手やら腕やら顔面にいたるまでベチャベチャになったので、ウエットテッシューを取り出したところ、ただの乾燥紙と化してした。そういえばしばらく使ったなかったことにうなだれ、渋々洗面所へ行ったら額に蜘蛛の巣がまとわりつき、絶望の渕に追いやられながらも一応手洗いと洗顔は済まし床についた。夢にオバQとモジャ公が出て来てなごんだけど、出来れば交替で登場してもらいたかった、なんて能天気な思いに耽っていたらもう翌朝でNさんから電話がありタイムマシンを製作したのだが、どうかと言われた。
どうかって、それは実験に立ち会わないかという意味だと解釈し至極冷静な口調でこう応えた。
「試運転はもう済んだのでしょうか」
Nさんは軽く咳払いをしつつ、それが威厳であるかのごとくゆったりとした声で説明を加える。
「もちろんです。私自身もう体験しました。これはいわば誘いなのです。時間への挑戦でもあります。ただし私の技量は高々しれておりましてそんなに遠い年数は無理なのです」
何を謙遜しているのだろう、タイムマシンなんて世界初ではないか、Nさんの言葉に反撥してしている間にほとんど乗り気になっている自分を確認できない。だからすでに具体的な質問は用意されているし、Nさんもその辺りは心得ているのだろう、すかさず「まず50年といったところです。過去も未来も、それから空間移動はほぼ制御不可能なのでマシンのある場所が到達点となります」と、基本が大方のみ込め、あとは体験あるのみ躍るこころは世界ーと自負した。
Nさんの自宅兼研究所に赴くと、さっそくタイムマシンを安置してある部屋に通された。眼を疑った。どこにも機械めいた装置なく、机とソファが片隅に押しやられた真ん中に何の変哲もない事務用の椅子がひとつ置かれている。嫌な予感が適中するのは慣れている。
「これが私の開発した丸出号です。一見普通の椅子に見えるでしょうが、そもそも時間軸を越えるのに仰々しい仕掛けなど必要ないのです。こうしたシンプルな形状こそ最適と言えます。疑ってますね、心配入りません、ここに腰掛け催眠術なんてまやかしなどでは決してありません」
疑心を先んじて述べられると、残されるのは異形の抜け殻、つまりは帰依みたいな心性に落ち着くこともある。
「わかりました。信じましょう、ところでNさんは過去と未来どちらに行かれました。それとも両方ですか」
「過去に決まっているでしょう、未来なぞ見てしまったら生きる張り合いが失せてしまいます。先が読めそうで読めないからこの世は輝いているのです。先を知ってしまったら人間は確実に堕落します」
「それはごもっとも、でも少しくらいならどうでしょう、ほんの覗き見る程度に」
「あなたはスカートの下の覗くとき、ほんの少しで止めときますか」
「いえ、段々とエスカレートして犯罪に至るやら知れませんから、スカートめくりは小学校以来、いえ中学校かな、試したことはないです」
「理解してもらえて感謝します」
「愚問でした」
というわけで遡行が開始された。数年前の記憶はまだまだへばりついているから、一番記憶のあやふやな、しかし一部分は鮮明な時期を選択すると、やはり小学校の低学年十歳くらいに絞られてくる。
それ以前だと記憶と記憶が交わらない、こういうことだ。幼児期に遡るすればそこはもはや見知らぬ空間でしかなく、例え現存する建築物や山河を見まわしても一風景であることのしがらみを確認するだけで、肝心のこころの芽生えと出会えない、やはりある程度の認識力が備わった頃の自分を見つめてみたいのだ。時間旅行のパラドックスも承知しているから陰でそっと様子見に終始するのだろうが、他者はともかく十歳の己にはひとつだけ言いたいことがあって、いよいよ過去への旅に向かう準備は整った。Nさんからは重要な問いかけを受ける。
「どのくらい滞在しますか」
これはここに着くまで道々思案してきたのが、ごく割り切ってみても旅であることに相違はないので寝泊まりの確保がそのまま過去への滞在日数に繋がる。数回に分けて遡行すればと思われるだろうけど、これには判然とした理由があって、この事務椅子を一度作動させる為にはある科学物質が大量に消費されるので、経済面というよりもその物質を作り出す時間が問題とのこと、なんだかんだで時間には時間が必要なんだと神妙な気持ちを抱いたのだった。
さて旅程だが、まさか生家に未来からやってきました、なんて言っても絶対に受け入れてもらえないだろうし、下手すれば不審者として身柄を拘束されることだってあり得る。かと言って野宿もこの季節は大変だろう、いやいや春夏秋冬に関係なく生まれてこの方野宿なんかした試しがないから、テント張りはおろか飯盒だって覚束ない。登山経験者とか同行してもらえば助かるのだろうけど、タイムマシンはひとりしか転送できない仕組み。かなり真剣に悩んだ、今日は断念して今後はサバイバルの訓練を施してから挑むべきとも考えてみた。ところがNさんいわく「燃料は保存不可能な性質でして、あと一回分を今日明日に使いきってしまわないといけません」
そうなると、当初の企て三日あたりが適切になってきた。仔細はまず相当なとまどいを隠しきれないという心理面からの推察、次に宿泊飲食に要する貨幣の問題、現行の通貨は過去では使用できない、残念ながら聖徳太子のお札は手もとになく、これから調達する間もない。急いで思いつき引き出しの奥から五百円紙幣を十枚を数え、その他にはまったく所有してないことを認める。40年程前に遡るわけだから、百円硬貨も昭和の刻印はなかなか見当たらなく、あっても昭和40年後半とか50年でほとんど平成の代物だった。それでも数枚かき集めてみた結果、これだけの金銭では当時の物価を考慮しても三日だって怪しくなってくる。実は買いものに対する執着も念頭から切り離せなかった。Nさんはそんな苦渋の色を見抜いていた。
「私も旧札を工面しましたよ、使いきれなかった紙幣があります。その時代でも通用します」と言って聖徳太子の大の方を数枚差し出してくれた。
「ではお借りしておきます。ええこれだけあれば上等です。あまり欲を出すのはいけませんから」
確かにこの時間旅行の最大のテーマから外れることは意味がない。答えは簡単、何をしに行くかということに尽きる。空間移動が無理な以上この町をうろつくしかないし、狭い町だから一日もあれば十分なはずで堪能するまで当時の景色を眼に焼きつけてくればいい、デジカメは無用だ。記録を収めにゆくのでななくてあくまで記憶を交差させに向かうのだから、写真は断念しよう。あの時代は港付近に宿屋がまだ沢山あったはずだから、まず一泊して費用を算段すれば何とかなる。飲食物は古びた鞄につめて持って行こう。しかし昭和の匂いが大衆食堂とか中華そばの汁が香る店先を素通りするのはしのびない。
Nさんによればタイマー設定は転送された時点で修整不能になるそうで、はっきりと回収時間を告げておかなければならなかった。あれこれ迷ったあげく計画に即し三日と決定した。さあ十歳の自分に会いに行こう。待っていろよ、きっと記憶は目覚めるはずだ、もう気分は郷愁を先取りしてしまっていた。


[253] 題名:くるみ割り人形 名前:コレクター 投稿日:2012年01月06日 (金) 01時37分

あら、絹子じゃない、何年ぶりかしら、変わらないわね。あたしはどう、ま、いいか。仕事の帰りでしょ、そこの駅ね、じゃあ歩きながら少し聞いてくれるかなあ。あんた何処に住んでるの、あそう、あたしと反対ね。でもいいや、駅までじゃ話しきれないから電車一緒しちゃおうかな。だいじょぶだいじょぶ家まで押し掛けたりしないから。えっ、いいの、ごめんね、迷惑じゃない、あそう、実はさあ、あたしこの間アパート引っ越したんだけど、うん、前々から居心地悪いんで大家さんにこぼしてたの、だって隣が駐車場で、大方そのアパートの住人なんだけどさ、とにかく夜間の出入りがうるさくて、わたし早寝だから、そう夕飯食べて風呂入ったらすぐ寝るの、困るのよね、睡眠だけがあたしの生き甲斐でしょ、せっかくいい夢見てなごんでいるのに邪魔者なんだわ。気になりだすとしまいには車の台数を毎晩数えたりして、まったくこの胸のうちをどうしてくれるの、かと言って駐車場なんだから仕方ないし、こんな部屋を選んでしまったのも自分以外の誰でもないわけで、悶々としてたわけよ。絹子さあ彼氏いるの、いない、そう別にいいんだけどね、ああ、もう何を言わすの、独り住まいのわびしさで八つ当たりなんかしてません、そんなんじゃなく、あたしこう見えても友達いないしね、そうなの孤独を愛する年頃なのよ、だから勘違いしないでって一応念押ししただけ、結構いいよってくる男だっているんだから、でも関係ないわ。で、とうとうやって来たの、いい気を落ち着けてよく聞いてね、誰にもまだ話ししてないのよ、まったくいいとこで出会ったわ、絹子にはあたし素直に何でも言えそう。あんた無口だし反応ない表情してるから丁度いいの、ああ、けなしてるじゃなくてこれには理由があるんだ、じゃあおおかみの場面から始めるわね。車を数えだすのも何か惨めっていうか段々陰気臭くなってしまってるようで、今度は一々窓を開けて、車をキッと睨みつけだしたんだけど、ある夜のこと、まったく車が出払ったときがあって、めったにない光景だから、そうなのよ広々として静かでちょっとした庭みたいな感じさえしてしばらくぼんやり眺めていたの、無心に近かったと思う。どれくらいしてからか覚えないんだけど、だって驚いてしまってその後は呆然としていたから。あのね、少し先にケンタッキーチキンがあってあたしとこからその店の裏が見えるの、たいして気にもとめてなかったし、ごく普通の風景だからまさか定期的に浮浪者たちが忍んで来ては食い残しをあさってるなんて本当にびっくりしたのよ。見るからにそれと分かる格好だったし、きちんと袋持っていて何やら選り分けている、おそらく身の多いやつだけ詰め込んでいたに違いないわ。残飯入れって分厚い紙だった、あいつらそれを破り裂くんじゃなく丁寧にひも解いているんだよ。そう痕跡を知られないようにする為に。どこで嗅ぎ付けてくるのか、きっと情報交換とかしていたんじゃない、そりゃ見事な手さばきで用を済ますと消え去ってしまう。いや、浮浪者に感心してるんじゃないの、問題はその後なんだ、あたしその様子を双眼鏡で見つめていたんだけど、たいしたことない玩具の双眼鏡、子供の時分に縁日の型抜きで手に入れたのを今までとってあったのよ。あ、知ってる型抜きって、硬いガムみたいな素材したものに絵柄が薄く印されていて、針できれいにその通り切り抜くの、何となく覚えてるって、あそう、あたし何度か挑戦してついに達成させたんだ。だって賞品はトランシーバーだの人形だの時計だの戦車だのって子供にとっては眩し過ぎるものが飾ってあったから、へへ、あの時あたしは針でほじるのは絶対限界があるって考えて、針先を唾で湿らせてガムを溶かす手つきで集中したわけ、根気なのかなあ、以前テレビで伝統職人とかって木彫りを作っている番組があってね、あの地道な作業を念頭にしながら祭り見物もそっちのけで没頭したの。そのうち日暮れてきたから露店のおじさんも呆れたんじゃない「もういいから好きなの持っていきな」って、だから正確には完成寸前なんだけど執念で手にしたのがそのその双眼鏡ってこと。倍率は4倍くらいかな、玩具にしてはよく出来てたわ。それで浮浪者の行動もつぶさに観察したって次第なの。ああ違う、熱心な観察はここから、つまり今度はおおかみが現われたのよ。ガサガサする物音に又かと思ってもう窓を開けなかったら、どうもいつもと様子が異なっているような気がして耳を澄ましていると、低いうなり声とかも聞こえてくるじゃない、今夜は野良猫かってため息ついていたら、えらく気配が騒がしくなってきたんでそっと覗いてみたの、そしたらあんた猫なんかじゃない、最初は犬に見えたし、それはあり得そうなことだと頷いていたら、どうも風体があやしいんで双眼鏡でじっくりうかがったの。 ミだわ、しかも十匹くらい居る、あたし吸血鬼の次におおかみ男が好きなもんでよくわかる。ねえ絹子、そのときの気持ち察してくれるわね。そうなの、それからも度々 ミの群れがフライドチキンを狙ってやって来たのよ、浮浪者はたぶん怖れをなして近寄れなかったんだわ、それ以来まったく見かけなくなったもの。で、いくらおおかみ男に興味あってもこうして夜な夜な実際の獣が身近にいると思うと、寝付きが悪くなりだして大家さんに顔を合わせた際ありのままを報せたのよ。そしたら「この都会の真ん中におおかみなんて、それはせいぜい野犬でしょう」って、はなから相手にしてもらえなくてそれでも食い下がったら「じゃあ証拠の写真とかありますか」ときたんで「あたし携帯も持ってないしカメラもありません、仕事は電話番ですので仕方がないのです」そう捨て台詞を吐いてその日はそれきりだったけど、次回はスケッチブックに色えんぴつで写生して懇々と説明したの。すると、、、そうなのよ大家さんはどうやらあたしが前々から部屋を気にいってないことの嫌みだと判断しらしく、今回の引っ越しに至ったわけで、もともと大家さんは不動産業者でもある都合で両者の思惑が一致を示したの。アパートの契約のときにね、一度聞いてみたんだ、物件の事項に心霊現象の有無ってありますかって。当惑した顔をしながらも大家さんは、そんなことはありません、この都会にお化け屋敷なんて、と小馬鹿にした笑いを浮かべていたから、いいえあたしのお訊きたいのは変死とかがあった部屋は色々と問題がるため借り手がないので格安だったりすることもあるのでは、と切り返したの。すると相手は悟ったみたいで、つまりこういうことよ、確かにそうした物件は存在するだろうが、こんな饒舌な者に貸したりしたら後々トラブルの元になりかねない、下手に賃料を安くするのは自分のほうから困惑を露呈するようなものだ、今の部屋ね、あたし実はここの噂を薄々知っていて大家さんに尋ねたこともあったの。蔦の絡まる古びた二階建てのアパートでね、しかも一階の角部屋で虫が湧いたら中まで侵入してきそうだったから、渋っていたら案の定、蜘蛛もよく出ます、なんて取ってつけたようなことまで言ったのよ。何であたしが蜘蛛嫌いなのを知ってるわけ、顔に書いてあったのかなあ、そうした事情で当時は格安物件と心霊現象を逃してしまったのね。ところがそれからもずっとあの一室は明いたままで、結局大家さんはあたしの交換条件をすんなりのんでくれたっていうのが引っ越しのいきさつなのよ。そりゃそうでしょう、いつまでも空き部屋にしとくより多少賃料が下がったって、、、あっ、絹子ここの駅で降りるんだっけ、そうかあ残念だなあ、これからが本題なんだけどさ。そんなかいつまんでなんてとても無理、あたしの体験は順を追って聞いてもらわないと、でもいいや、少しだけ教えてあげる、今の部屋ね、出るのよ、へへへ、ほら窓の外はもう宵闇がせまっているわ、そうなの昼間は決して現われないのよ、今夜、出るのじゃなく居るのよ、、、そうなの、ええっ、これから来てくれるって、絹子もいいとこあるじゃない。あっごめん、さすが絹子ね、では乗り換えしましょう、そうしましょう。日が落ちると一気に寒くなるわ、でもあんた胸のなか温かいんじゃない、ふふふ、うちに着くまでに説明しとかないといけないわね。いきなり対面では、いい絹子、決して怖がってはだめよ、優しく見つめてあげて。そういうあたしも当然ながら最初は凍り付いた、出た、地縛霊に違いないって。場所、もちろん部屋のなか、驚かないで、布団のなかよ。断っておくけどあたし霊感とか全然ないし、幽霊の存在を信じているわけでもないの、ただ夢にいつも妙なものが出てくるから今更目の当たりにしたところでおののいたりしなかった。えっ、いつからかって、う〜ん、どれくらいまえからなんだろう、あっそうじゃなくて、今の件ね、引っ越したその夜からよ。細かいところまでは知らないけど、血なまぐさい事情はあったみたいね、だからといってすぐさま心霊現象にたどり着くなんて考えてなかったし、正直なところ駐車場から離れられ、 ミともおさらばして、家賃も安くなる、へへ現実的でしょ、何よ、その顔、絹子らしくないわねえ、歪んだ表情なんかしてさ。あたしの脳を疑っているんでしょう、仕方ないか、実際に霊が出たんだから、でもどっちが現実なんだろう、どうしたの絹子、今度は微笑、ううん、ありがとう、あたしもなんかうれしいわ。で、布団がもぞもぞしたの、なかを覗いたら小さな顔があった、おかっぱ頭の少女、ほら「千と千尋」に登場するハクっていたでしょう、あんな感じだったわ。もの凄く冷たい眼をしてるの、視線は外せなかった、時間は止まっていたのよ、夢かも知れない、が意識はある。でも夢で意識することもしょっちゅうだわ。だからどちらでもよかった。心臓は止まってなかったみたい、春の雪どけ水だって冷たさには変わりないと思うけど、氷の世界と水の流れは一緒じゃないわ、あたし少女が何かを訴えているような気がしてきたの、そっと手を差しのべてみた。やっぱり冷たい、って感じた瞬間にぐいって引っ張られた、本能的な恐怖に包まれたわ。あわてて布団を蹴飛ばして起き上がったらもうそれきりだった。そんなことが数回続いたある夜、あたし意を決して再び手を握るふりしてかわし、もう一方の手でもって少女のからだをつかみ引きずりだしたの。拍子抜けするくらい身軽だった、すかさず枕元の明かりをつけまじまじと少女を見つめたわ。青みがかったパジャマを着ている、しかも男もの、えっ、もしかしてこの子は少年なの、、、あたし何のためらいもなく胸を撫でてみた、ガラス戸のような感触、そのまま指先を下半身に這わせると、あったわ、突起物、きみは誰なの、内緒話しをする要領で声を細めてそう訊いてみたけど、返答はなくじっと見つめ返しているだけ。寂しそうな表情だったわ、いえ、あたしがそういう見方しか出来なかったかも知れない、どうしてかって言えば、、、絹子、あたしを見損なわないでね、お願い、、、パジャマの下を脱がしてみた。そう下着もろとも、それは立派な大人のものだったわ、しかも は真っ白で全然縮れてなく白糸のようになめらかなの、触れなくても分かった。きみはいくつなの、答えはない、あたし最近あれしてないけど、男のあそこは十分知ってるから胸騒ぎがした。おさまりつきそうない息苦しさ、でもずっとじゃない、いつかは消えてしまうだろう遠い海鳴りにも似た心細さ、そしてあえて情緒を不安にさせる優しさ、少年が口をきけないのはすぐに理解できた。あたしなんかとは喋れないんだ、棲む世界が違うからよね、だったら何故ここに居るのよ、易々とあたしに引きずられおチンチンだしてるのよ、少年は顔色を変えないし、怒りに任せた内語も通じていないようだった。だけどもきみはこうして黙って佇んでいる、そうよ、お見通しね、あたしがこの部屋を求めたのよ、きみに出逢う為に、、、絹子、わかるでしょ、その子はあんたにそっくりだった。あたし少年のものをくわえた、当たりまえのように堅くなったから挿入してもらった。嫌がったりしなかったわよ、あんたがあたしを警戒しているのは分かるわ。でもまあ、よくここまでつき合ってくれたわね。あたしが女装してても動じないんだもん、絹子あんたはいいひとだ。そこの角を曲がったとこがあたしのアパートよ。もう分かったでしょ、地縛霊と会っていく、はははっ、無理はしなくていいんだ、そんなもの居ない、あたしが帰るまでは絶対に居ない。ありがとう絹子、素敵なほほ笑みだわ、だけどもあたし本当は蔑んで欲しいんだ、そうしてくれない。


[252] 題名:Winter Echo 名前:コレクター 投稿日:2011年12月27日 (火) 00時51分

もう学校は冬の休みです。開けっ放しにされた向こうから日差しが照りつけてくる夏休みの始まりと違って、年の瀬とともに訪れるひかりはどこかしら蕭条とした息づかいをしています。クリスマスや正月を控えながらあえて華やぎを抑制しているふうに感じてしまうのは、そんな厳かな気配に触れているからでしょう。寒風に描き出される町並みは霊妙な皮膜で被われています。目線も軽く吹き流されているようで、年越しに向かう時間を停滞させているのでした。はっきりとした理由はわかりませんが、厳粛な感覚は子供の特権とも言えますから、北風に運ばれているものが静かに横切っていくのを感じ、何気ない引き戸の開け閉めが単に防寒だけでなく、その手をふと止め、穏やかに家のなかへと注がれるひかりが日だまりを作りだしているのを見つめてしまうので、やはり夏の到来とは趣きが異なっていたのでした。
暖房も今ほど行き届いていなかった部屋には、純度のそこなわれない外気が冷然と忍びこみますが、しかし隙間風といさめる敵愾心を抱いたりせず、むしろ冬の精霊が舞い込んで混濁した意識に働きかけてくれている、そんな思いに肌寒さは協調していたものです。
家の佇まいも同じく、乾燥しきってほんの少し指先を触れただけでささくれ立ってしまいそうな板塀、その下を伝う水気の消えた溝に安住してしまった土砂、小さな旋風に巻き上げられた枯れ葉をやんわり拒否する窓ガラス、ときおり反射を見せながらも障子に染み込んでゆくことを黙している縁側の光景、また庭先から飛び出した細い木枝は絡まりあって冬空の青みに挑んでいるようですが、精一杯ひろがった茨の様相ながらそれほど邪心はなく、平行に張られた電線へ遊戯を呼びかけているふうに映ります。そうしますと、瓦屋根の位置もいつもとはわずかにずれている気がして、家屋全体が不思議なちからで鎮めらているよう感じてしまうのでした。
子供は風の子。確かに普段は放映されない年忘れ劇場とか古い映画を、こたつに肩まですっぽりもぐりこんで観ているのもゆったりした楽しさがあるのですけど、特別興味をそそられる番組がない限り、冬至を境にする季節に従っていれば、あっと言う間に日暮れてしまいあとは大人しくしてなくてはないりせんから、なるだけ外で遊んでいたかったのです。ことに絹子がこの家へやってきてから静夫の胸中はふわふわと浮いていたわけですから。
記憶の根拠を手探りで当てていくのは難しいもの、それは当時の思いが一途であれ複雑であれ、浮遊する情感はときの波間を泳いだり漂ったりしていますので、海図みたいに明確な標を宛てがうことは無理なのです。ちっぽけなこころだって深い海をたたえています。些細な悲しみだろうが涙を枯らすのは子供にとって不健康、だからこそ技量があやふやであろうと夜の水は汲めども尽きないのでしょう。
その日の遊びは凧あげです。近所の駄菓子屋で売られていたまったくの玩具でしたが、一応空へ上げることは可能です。静夫の上級生のなかには竹ひごを削り上等な凧を手作りする子もいましたけど、まだまだそんな芸当には及びません。それにこの界隈には広場がなく精々半径五十メートルが行動範囲であったことも手伝って、北風の強く吹く日くらいしかこの遊びをしませんでした。それくらい気まぐれだったのです。
近くに住む同級生を誘って向かったのは家からそう遠くもないところに最近出来た空き地で、道路に面していながら金網などの仕切りもなく、奥まった場所に横一列で新しい民家が建てられているだけの割と広い分譲地でした。誰の姿もないのを確認するとそれまで覚束なかった気分が一変に研ぎ澄まされ、まさに熱中へとすべりこんでいきます。それは忘我に違いありません。行動半径も狭くて感情の発露も単一で身に背負うしがらみなども持ち合わせていないのです。憂さ晴らしや気分転換といった不機嫌な現実からの逃避でも逸脱でもなく、あくまで純粋な遊戯への没頭でした。故に時間は速度を上げていたのかも知れません。
電線に当たらないよう気をつけているだけで、予備に用意しておいた凧糸を継ぎ足し上空への飛翔に一心を捧げます。二色刷りの漫画が書かれた安物の凧だって以外と風にあおられるものです。後年、静夫は空を見上げている場面こそ違えど、海釣りに感じる無心をスライドのように重ね合わせては懐かしがるのでした。
ふたつの凧はそれぞれの高度を保ち、風の事情になびき、冬空にしては雲の目立たない天を満喫しておりました。まるでこのからだも一緒に舞い上がったかの錯覚も夢心地によぎります。糸を操る手先に神経は通っておらず、そこに備わっているのは分離した魔法の調べでした。寒空であることを覚えつつも身を震わせる情況は刷新され、眼の奥に棲みついた陽気な魔物が天高く昇りつこうと快適な焦りをあらわにしています。凧は直線に結ばれて固定したかと思えば、斜めに降下したり、とりとめのない動きを演じてみたり、もう完全に静夫の手もとから自由になって大空を駆け、ひとつの生命を得てしまったような実感へと導かれてゆくのでした。凧の自在は静夫の歓喜を剥奪し、静夫のこころは凧に翻弄されてはいましたが、この被虐趣味こそ制御の利いた華やぎだったのです。上昇は遠方への冒険であると同時に、決して足場を喪失させはしない沈滞とも言えるでしょう。
静夫の無邪気な時間はこれまた子供の純正によって打ち破られました。
「糸が切れちゃったよう」
同級生の凧はどうやら実際に自立してしまったみたいで、これで遊びが終わるのは瞭然でした。静夫は残念だねと、取ってつけたなぐさめを口にした途端みるみる間に興ざめしていくのが分かりました。北風の勢いも増し頬を凍らせてるいるのが不快なのかどうかも感じとれないまま、地面の石ころを眺めてています。沈黙は失意を消去させる為に耳にするものが隔てられていたのですが、やや間を置いて「そうだ、おばあちゃんとこに行こう」不意にそう言い放った声は同級生の面持ちは晴れやかでした。静夫は咄嗟に彼がお小遣いをもらいに訪ねるのだと察し、それでまた新しい凧を買うつもりなんだ、自分まで一緒することはない、もう帰ろうと渋面をつくってみたのですが、寒さを覚えない鈍感さは別な意味で共通であるらしく、とうとう屈託ない同級生の笑顔に誘われるまま小走りにあとを着いて行きました。目指す先は静夫の家のまえを通り越しますので、帰途につくような感じも半分残っていて、何ともいえない不甲斐なさがこみ上がってきます。でも追従の足を止めることないままにちらりとだけ家の様子をうかがったのです。するともっとも罰の悪い場面がちょうど立て看板のように静夫を待ち受けていました。
玄関の戸を顔だけのぞかせる具合で佇んでいる絹子に会ったのです。偶然なのでしょう、そして絹子はこれから出かける素振りもなく、ただ無為な手つきで戸を開けているのが嫌というほど理解されるのでした。静夫のこころは空騒ぎを始めてしまいました。ほんの一瞬の光景だったにもかかわらず、同級生の背を追う意識は放擲され、さっきまでのいい加減な片意地も粉砕してしまい、凧に賭けた無垢だけが残像となってまぶたの裏にちらついています。もっと足早に逃げ出したい強迫的な思惑も、整合性をはらんでいるかと頷いてしまいそうな丁重さでまとわりつくのです。静夫はいつかの乱れ髪をした絹子の夢へ思い馳せていました。封印された幽鬼にふたたび襲われてしまったようで、こうして駆けている息の冷たさがしみじみ感じます。あたまのなかを巡るのは「絹子も凧あげに連れてこればよかった」という後悔にほかなりませんでしたけど、その奥にはまた別種の思惑が影をひそめている予感が擦っていきました。
子供の足は速いものです。同級生が目的の家屋へ消え、冷気に取り囲まれた静夫でしたが、いざ見知らぬ門前にひとり立ちすくんでみれば、鬼ごっこみたいな駆けっこにとらわれていた、いえ、熱中していた自分の影が不動に思えてきました。
「何を恥ずかしがっているんだろう」
静夫の胸に微かに響いてくるものがあります。それは遥か彼方のようで案外近くにも聞こえます。毎年おさない従兄弟が遊びに来て、カルタやゲームをするのが恒例です。正月は絹子も一緒でしょう。
厳かな冬の空は静夫の頬を冷たく差します。時間がゆったりと流れていると感じてしまうのはすべてが凍えているから、そう考えたりしました。
白い花びらがぽつりぽつりまわりに浮かんでいます。粉雪はためらい勝ちなやわらかさで落ちてくるのでした。


[251] 題名:広場 名前:コレクター 投稿日:2011年12月22日 (木) 16時38分

性懲りもなく隣町の隣の町へ遊びにやってきた。今回は案内人がいる。なんでも一風変わった建物があるとかで同行を引き受けてもらったのだが、実はそんな風聞などまったく耳にしたこともないまま、半信半疑でNさんの言葉に従ったわけで、そうかといって期待にときめく大仰さはやんわり鎮静され、あらかじめ見届けているような失望にくじかれる土台も放棄し、のびやかな気分だけがこの眼の行方を後押ししている。夢は保証を必要としていない。
大丈夫、今日は腕時計を外してきた。玉砂利を踏みしめながら歩いてゆけば、なるほど寺院とも美術館ともつかない奇異な建築物がまざまざと我が身に迫ってくる。カメラを持ってこなかったのが悔やまれたけれど、灰色にそびえ立つ尖塔は曇天と気脈を通じているようで苦笑いさえぼやかしてしまった。不穏な空気と断定は出来ない、薄い霧に包まれているのがとても心地よく感じられたから。
「なかには入れないのですか」と、Nさんに訊いてみれば「誰もいないからとかじゃなくて、厳重に鍵がかかっているのです」声を低くしそう答える。鉄壁に囲まれた響きが含まれている気がして納得してしまった。
それにしても眺めるほどにつかみどころのない建物で、どうにも形容しようがない、豪奢でもなく倹素でもなく、かといってありきたりでもなく、身勝手でもない。ただ異様な感じだけが見定める思惑に裏ごしされ、正午の影のように、かたつむりの抜けがらのように明確に示されている。
足が地についてない感覚もまた、この周辺に磁場となって眠っており、緩やかな作用のもと早々に立ち去ることを奨励していた。Nさんの薄ら笑いが風に流されてゆく。うなずきながら落とす目許に一瞬、光線がよぎった気がし、微かな歓びの訪れを知る。
「奥の林を越えたところに行ってみたらどうです」Nさんの口調は風を含んでいるのか、懇切ではあるもののどっちつかずな振りに聞こえ戸惑っていると「気にいると思いますよ、わたしはこれで」そう言い残しこの場をあとにしかけたが、引き止めたり、詳細をうかがいつつ別れの挨拶に寄りかかるのは、少しとはいえ時間を引き延そうとする行為にでしかなく、迷宮の意志に反してしまうので黙ってNさんの後ろ姿から眼をそむけた。思考する余裕があたえられていないわけじゃない、速やかに歩を進めるのを優先しただけであり、それはまったく脇目も振らせない空間の歪みに忠実だったからだと言える。瞬間移動したに違いないこの身には、林を抜け出た意識が脱落していた。空の色はこの丘でも同じにくすぶっていて、木々の合間に透ける寒色が思い出されそうになったが、過去を振り返るより眼のまえに広がる廃墟みたいな工場へと視線はのみ込まれていった。
丘陵地帯がそっくり要塞になったような土にまみれた工場は稼動していなかったけど、全体を被う油分のぬめりは生き生きとしており、風雨に耐えて来ただろう錆びた鉄筋造りの構えも今だ現役である重量感を失ってはいない。凹凸の激しい地面にへばりついて、あるいは埋め込まれている機械類は精緻でありながらどことなく温かみがあり、土気色で染まった単調さのなかにほんのりとした明るみを見つけ、それが無人の雰囲気を漂わせながらも廃墟に朽ちることがない証しだと悟る。
そこに無邪気な顔をした子供ら数人が現われ出たのは約束ごとであり、胸を熱くさせ、増々この風景に確信的な親しみを覚えさせた。まるで秘密基地の風貌をたたえた丘の頂に駆け上がるべく、土ぼこりの舞う石段を軽快に踏みしめる。
子供たちの表情には素朴な警戒心が張りついていたから、大げさな身振りと明快な声色が適切だと感じ、足を止め距離を保ったまま「今日は日曜だから工場は休みなんだろう、一緒に遊ぼうよ」そう投げかけると、一番眼をまるくしていた男の子が応じてくれた。
「おじちゃんも休みなの」
「そうさ、だから隠れてないで出ておいで」
「だめだよ、かくれんぼしているんだから」
「これはまいったな、もう遊びは始まってるってことだね」この問いに返答はなく、子供らはいっせいに飛び出したかと思うと、てんでに散らばり再び姿をどこかへ潜ませた。突風が吹いた。酩酊にも似た恍惚感に襲われ、辺りをゆっくり見舞わしてみれば、小高い丘に思われたこの場所が雲海と居並ぶほどの山頂であることに気づき、高らかな笑い声をあげるのだった。


[250] 題名:日影 名前:コレクター 投稿日:2011年12月19日 (月) 23時03分

季節は思い出せません。でも黴の匂いは今もしっかりと鼻に残っています。夏の盛り、押し入れに畳まれた布団のなかへもぐりこむのは快適な遊びでないはず、とすれば小雨に煙る春さきだったのか、湿気が立ち退いてゆくのをどこか心細がっていた秋の頃なのか、ひややかさを越え身に刺さるような感触をあたえてくれた冬場のことだったか、歳時記でもあるまいし、やはり記憶は曖昧です。
私の生家は今でも昔の面影をいくらか保っていますが、採光の加減はいつも一定ではなく、その日の天候に左右されています。玄関横に連なる窓のあかりは裏庭に面した小さな縁側と室内のあいだで交じりあっていたのでしょうが、日の陰りによって中部屋は障子が開けられているにもかかわらず、どんよりとした空気にひかりが澱んでおりました。
古びた箪笥は私の生まれたときから同じ位置に留まってましたし、とくに目立った調度品もなく、家のなかはいつも変わらぬ光景に張りついたままときを刻み続けていたのです。しかし何故あんなに部屋の気配は時折異なる様相を醸していたのでしょうか。見慣れた自分の家であってそうでないような感覚は、子供ながらも実にしんみりと漂ってくるのでした。まるで枯淡の境地を味わっているような落ち着きはどこから湧いてでたものか、わずか六畳の空間に魔法がかけられているとは思っていませんでしたけど、天井の木目や柱のくすみ、本来は床の間であったところに置かれたテレビと茶箪笥、すぐ脇の押し入れ、開閉の自由がどこかで阻まれているのだと念じてしまう襖、それに並んだ畳の縁、これらは退屈しのぎとも遊びともつかない寝転がりによってその在り方を変じていたのです。慣れているといえば、鼻をつく様々な匂いもまた日々強弱があったように思われ、外気が侵入していたのやら、台所の総菜の香りが家中に散らばっていたのやら、これといった印象にとらわれてはおらず、ただ悪臭に堕することなくわずかな刺激をあたえてくれたものです。
押し入れを開けて黴臭さの酸っぱい感じに包まれながら、そうです、すっぽりと頭から布団のあいだに身をはさみこんでゆき、器用な手つきでもって内側から襖を閉めてしまうと、そこは真昼の闇になります。どうしてそんな戯れをしていたのか定かではありませんが、布団の肌触りは夜のそれとは違い、ぬくもり以外の何物かに出会えるような気がして、家族の目を盗んではこっそり悦に耽っておりました。
その押し入れは祖母の布団と普段は使われないものが畳まれていて、上下二段に仕切られているのです。布団のほかは収納されてませんでしたから、最も適した隠れ家と思っていたのでしょう。母からも叱責しれた覚えがありますけど、押し入れを有した部屋は祖母が寝起きしていた一室ですので、口うるさいのは当然年寄りなのです。
押し入れに向かって左手は仏壇でした。私の些細な戯れはその配置によったかも知れません。何故なら、祖母からの小言は決まって、「そんなとこに潜りこんでばかりいると仏さんの罰があたって怖い目にあうぞ」でした。素直に従っていればよいものを反対にその薄ら寒い言い様に何ともいえない気分を覚えてしまい、圧迫されるふうにしてじっと布団の重みを感じていますと、言葉にならない背徳に包まれている妙なひりつきが胸を焦がしてゆくのです。仏罰みたいな霊気を吸い込んでいるひとときは逃げ去る時間でした。夏休みが遠く限りなく待望されるのと同様、まだまだ続くに違いない生命の延長を夢想する為に、いつかは大人へと成長する道理を実感する為に、奇妙な儀礼をひっそり行なっていたのです。
仏壇の下もちょっとした収納場所でした。すぐさまに思い起こされるのは富山の薬売りが置いていった引き出し型の箱です。どうしてこんなところにしまわれていたのかよく分かりませんが、その奥に束ねられた相当古い手紙の類いととも、さすがにいたずらを仕掛ける気持ちは毛頭なく、滑り込もうとすれば可能な体感を浮かべてみるだけに踏みとどまっていました。
激怒まではいきませんでしたが、ほとんど呆れ顔を全面に押し出した調子でこっぴどく叱られたのは押し入れだけではもの足りなくなったときのことです。
近所に商店を営んでいる同級生の家があり、普段からそこの弟ふたりとも遊んでいました。あの頃は日曜に友達の家へ遊びに行くのが暗黙の禁止だったと思います。平日には滅多に顔を見ることのないそれぞれの父親がゆったりとくつろいでいたからでしょう。つまり平穏な雰囲気には子供からしてみれば逆にピリピリする緊張を内包しているのを察知してしまうのでした。のどかな時間は喧噪を望んでいなかったのです。子供は所詮騒ぐのが取りえですから。
ところがそこの家は日曜が休業ということで却って両親が不在勝ちなのでした。商売がら普段家に縛られているので色々と用事やらあったそうです。外で遊んでいた同級生に誘われ、よそとは違う日曜の時間に触れたあの刹那を忘れることは出来ません。ガラス戸一面を被った分厚いカーテンをかき分け、薄暗くなった商店の奥へと招かれますと、裏の雨戸は閉められたままほとんど日差しを寄せつけない空間が保持されているではありませんか。しかも電器を灯すことも疎まれているのか、さながら映画館のごとくテレビの画面が煌煌と輝いている光景に動悸を覚えました。面白い遊びやもの珍しい玩具をまえにした高揚とは異質の、どちらかといえば夕暮れの小径を小走りしているような、風に吹かれて、家並みにのまれそうになる不思議な浮遊感に促され、胸の奥に照り返される自然な風物がゆっくりと、しかし小刻みに揺れる心地よさで瞬いているのです。映写機から放たれた光源が自在な色彩を当たりまえのように含んでいることと同じく。
午後をまわった天高い太陽はここでは劇場みたいに隠されていました。いつも知っているはずの部屋の様子は一変し、散らかった状態なのにとても新鮮な感じがして仕方ありません。
陶然とした面持ちの余韻として、早速自分の家で真似てみたのか、いくらか日にちが経ってから実行したのか覚束ないのですが、昼間とにかく家人が居ないのを見計らって家中の雨戸を引き始めたのでした。真昼の闇は仏壇より暗がりを招来させるのでしょうか。残念ながら途中で祖母に見つかってしまい、日曜映画館は頓挫しました。
漆黒にさまよう恐怖がまだ夢と溶け合っていた頃のお話です。


[249] 題名:ハンスの涙 名前:コレクター 投稿日:2011年12月13日 (火) 02時58分

「その時間なんだよ」
皆の注目を一身に浴びたハンスは得意気な顔を浮かべたようでしたが、雲間から覗いては消える太陽にほほ笑みかけてるとも思われました。一方飼い主のオステンは驚嘆する人たちに応える表情を最近くもらせ勝ちです。
算数の出来る馬として評判を呼んだハンスはすでに立派な見世物でした。しかしオステンは芸当をひけらかすつもりでこんな訓練を施したわけではなかったのです。愛馬と会話がしたかった、その為に数字や文字を根気よく教えこんだのがことの始まりでした。ハンスが示した反応に脈を感じたオステンの高鳴る鼓動は、地面を打ちつけている前脚の蹄と見事に重なっていました。
最初は簡単な足し算引き算でしたが、今では掛け算はおろか分数だって現在の時刻だっていとも簡単に答えてしまいます。
質問が出されハンスの蹄がコツコツ叩かれるたびに人々はどよめき、その長い大人しそうな顔はもちろん、健気に上下する前脚に対し和やかな喝采を送りました。利口なハンスは子供たちにとっては英雄であり、こころある大人たちから見れば敬虔なまなざしを投げかけるに値するものでした。それは奇跡と呼んでも差しつかえない素晴らしい動作だったのです。
噂を聞きつけた様々な分野の学者らが集結したのも当然でした。彼らは調査委員会を設置し科学的な立場からハンスを研究しました。何せオステン以外の者からの出題にもきちんと解答してしまうのですから、単に情愛に支えられた曲芸や、まして手品みたいなトリックがあるとの見解には到底おさまりそうにありませんでした。
そこで色々な実験が開始されたのですが、わずか数週間でハンスの知性は無惨にも否定されてしまったのです。説明はいたって簡単なものでした。馬のハンスは人語を聞き取って数式を解いたり、問題をいい当てていたのではなく、その健気な蹄を打ち鳴らすタイミングを心得ていただけなのです。いやいや、それだって大したものではないか、と温情をいただきたいところなのですけれど、質問者自身が答えを知らない場合、ハンスは一問たりとも正解を披露出来なかったのでした。それは敏感な観察力によって、つまり問題を投げかける人物の些細な動きや表情を、まさに嗅ぎ分けるようにして読み取り、前脚の動きを速やかに中止していたからで、答えが九としますと、八回叩いたところで次に来る解答に対する期待が発せられているのを見抜いていたのでした。
利口なハンスは自分を注視する相手をまるで鏡で照らすよう、じっと見据えていたのです。鋭い視線ではありません、反射する陽光がまばゆくとも決して苦々しく思わない心持ちと同じで、優しく目を細めながら人間たちの要望に応えていたのでした。
オステンが予てから正解するごと好物のニンジンを褒美としてあたえていたので、反射的に学習したに過ぎないなんて考えますと、科学は随分せまい了見しか持ちえません。
その後もハンスは身につけた算数を方々で披瀝しました。調査委員会の証明にもかかわらず人だかりからは惜しみない拍手が絶えることなく、目礼のように解答がなされるとき、ハンスの瞳はキラキラと朝露みたいに輝くのでした。


[248] 題名:午後3時 名前:コレクター 投稿日:2011年12月06日 (火) 08時54分

隣町まで遊びに行ったのはいいのだが、どうにも帰りの時間が気になって仕方ない。
たいして親しくもない連れは端正な顔立ちをしていて中折れ帽がよく似合っている。もうひとりも色違いを被っていて、ここのところ洒落っ気がない自分に舌打ちしつつも、やはり早く帰らなくてはとばかりあせっていた。
「おれらは夕飯を食ってくから」端正な連れが少しばかりは申し訳ないという声でそう言った。
「いいよ、歩いて行くから」ふてくされたわけじゃないが、自分でも幾分かは当てつけの口調に聞こえたので背中がむずむずした。彼らは車に乗り込んで「じゃあ」と、ひとことだけ残し走り去っていった。
とにかく国道に出るのが先決だろう、ずっとまえヒッチハイクした覚えがよぎったりし、足早にその方角に向かう。
相当大きなトンネルの入り口が見えてきて、吸い込まれるように歩いていった。どうやら工事中らしいのだか、今日は休業なのかまったく人気がない。それにしてもこの明るさはかなり自然で、トンネル内にのまれているとは思えなかった。
線路が伸びている。どこまで続くのか当惑を隠しきれないけれど、帰路を約束してくれていると冴えた銀色を放つレールに信頼をよせる。
大掛かりな足場や土木用の軽車両を横目にしながら進む途中、幻聴がやってきた。
列車の走行音。地形によって高くなったり低くなるあの反復音。鉄橋を渡るときのひんやりさせる異音がとても懐かしい。ガタンゴトンガタンゴトンガタンゴトンガタンゴトンガタンガタンガタンガタンガタン、、、、、、
工事中のトンネルとはいえ試し運転していたらどうしよう。それくらい耳鳴りは鮮明だった。が、視覚はもっとはっきりしている。急いた気も手伝っているのだろうが、ここはがらんどうだ。五感が鋭敏になっているのを知るのは心地よい。そう思った瞬間「国道に線路などあったのか」至極当然な自問を投げかけておいて、めまいに酔った。
酒の酔いとは違って早々に醒めてしまったのと、国道らしき交差点に出たのが同時だったので、今度は現実的な目線で標識を探した。左右の方角には見知らぬ地名を記した案内があって、あせりは本格的になってしまい、信号脇のたばこ屋に駆け寄り店先の老人に「ここはなんという町なんですか」と、臆面もなく尋ねれば「いやあ、なんというのか、このまえまではこれこれだったが、いまではなあ」虚脱と寒気をいとも真摯にあたえてくれる始末。ふと目にした地下へ降りる構えを持つこじんまりしたビルに引きつけられる。
再び陽の差さない場所を求めている気が階段に浸透していくようで、足取りは微妙だったけどそこから抜け道がたどれると姑息な選択にさほど惑いはない。外面通り地下は手狭だったが、右手に立ち食いそば屋ふうの店のガラス戸に出会い、少なくとも帰途の情報を得る確信に胸おどった。
こじんまりした店内にはふたりの先客がおり立ち食いといってもちゃんと椅子があって、カウンター越しから年かさの女性に声をかけられる。
「まあ、ゆっくりどうぞ」
「はあ、実はそうもしていれなくて。あのうここはひょっとしてM町ではないですか」
脇腹あたりがさも痛そうな表情で訊いてみた。
「あれま、あんたどこに行くんだか。ここはなあ、、、」店主らしき女性に答えを待つまでもなくこの辺りはT町だと判明してしまい、愕然と首をたれるしかなかった。
「それじゃあ間にあわない」かなり隣町から遠ざかってしまって、あのトンネルが以外と長かった事実に、列車の幻聴に、してやられたと悔やむしか術がなく、気だるくなった身振りで店を見まわし、そばを注文しようとすると「うちはかけそばしかないのですが。いいですか」そう言われれば仕方ない、それほど腹もすいてなかったからちょうどよかった。
さすが立ち食いふうだから、かけそばは手早く目のまえのカウンターに運ばれる。割り箸を持って汁をすすりかけたとき、腕時計が手首からことさら顔をのぞかせた。
横にいた若い女性が不思議そうな目で「えらく古い時計ですね」と、薄笑いを浮かべながら言った。
「ええ、じいさんの形見なんです」どうしてこんなでたらめを喋るのか自分でも理解できないまま、時刻を凝視する。3時20分。
「おかあさん、もうこんな時間ね」なんだここの娘なのか、驚きにも至らない淡い思いが失意を補っていた。


[247] 題名:初恋 名前:コレクター 投稿日:2011年12月06日 (火) 05時08分

冬の空をよそよそしく感じていたのは、日の光とそぐわない冷たい北風のせいだったようです。情熱的な蒼穹に躍らされた夏の日々から随分へだてられた気がするのも、やはり肌寒さが身にしみてしまい、折角の晴天はどこか取り澄ました高さで見おろしていると覚えたからでしょう。とは言え、師走の意味合いなど分からないままに何となく一日一日が軽微なあわただしさで過ぎてゆくのを、不快には思っていませんでした。むしろ汗ばむのを忘れた妙な平常心が留まって、寒風にさらされている午後を澄んだ気持ちで送ることが出来たのです。
冷淡な想念は僕自身の望むところだった、、、現在から振り返ってみましても、その小粒な虚ろを嫌悪するどころか名状しがたい幸福感がじんわりよみがえって来ます。冬へ向かう時間は勢い、正月という節目に柔らかな棘を突きつけていたのです。未来はきっと童心と戯れていたかったのでしょう。落ち葉さえ香っていた年の瀬の想い出です。

先頃このクラスに転校してきた女の子がいました。横顔に火傷の大きなあとが残っている為か、無言のうちに周囲との距離を生み出してしまい、新たな同級生になじめない様子が僕にもよく分かるのでした。子供の領分はときに冷徹なまなざしを要求させます。男子からの挨拶はさておき、女の子同士に交じっても決してうちとけた笑顔が教室内にひろがることはなく、それとなく耳に入ってきた転校の事情、親戚筋にあたる家に預けられているという風聞も、その子の面に沈痛なしるしを刻んでいるようで、増々腫れものに触れるのを避けてしまう雰囲気に閉ざされているのでした。
ついつい児童特有の一過性にまかせ、華奢なつくりの面立ちに深い陰りを見定めてしまうところでしたが、変化に乏しい表情は案外悲愴な空気をまとわりつかせておらず、それは僕が尚更に興味を抱いていた証しなのですけれど、ひっそり花咲く色づきにたおやかな姿勢さえ垣間見えて来るのでした。
透き通った肌を汚している火傷がどういう効果を醸しているのか当時は見当もつきませんでしたが、転校生であり、しかも人とは違う風貌の持ち主に対し、自分でも捕えようのない感情が小雨みたいに降りはじめると、逃げ場を失ったまごつきによって、さながら軒下を借りうける按配で容認していたのです。細やかなこころの動きは大人になった今だからこそなぞれますが、幼心に理性が完備されているわけなどなく、ただそれぞれのしつけに盲目的に従っていただけで、しかも罪の意識がほとんど人まかせだったことを鑑みれば、絹子という未知の存在はちょうど小高い丘に据えられた石像と化して、風雨に応える寡黙な視線を讃えていました。本降りになった頃すでに濡れねずみの身を楽しむ加減とどう折り合いをつけたのか、子供の領分のほうがある種勝っているとしたらその先は明快でしょう。
師走という言葉を聞きかじった記憶がこうして巡ってくるのも、おそらく僕の胸中に奮い立った要因の名残りがあるからです。前もって言っておきますけど、井坂絹子の顔かたちをはっきり想い浮かべることは残念ながら出来ません。先日あの時分のアルバムをめくってみましたが、やはり心模様のほうが正しいみたいで、もう火傷も完治したのだろうかとため息まじりに、大切な見目を消してしまった使命に絡み合うつぶやきがぽつねんとこぼれるのでした。そんな面差しと引きかえに少々気恥ずかしいのですが、はじめてのときめきをお話しします。
僕の住まいは絹子と同じ方角でしたので登校時によく見かけました。いつも前になって歩いていた上級生が、あの子の親戚にあたる暮田静夫くんだったと思います。そうです、いつしか僕は絹子の家を知り、玄関の表札と郵便受けに書かれた名前をのぞきこんでいたのでした。
通学路を同じにするのは児童にとって傍目からうかがえるほど単純な心持ちではありません。それは僕のひとり相撲だと言われるかも知れませんが、特に意識しない同級生でも、反対に普段から口をきく機会のない子のほうが些細ですけど困惑してしまったりするのです。まして興味とも好感とも憧憬ともつかない、しかし胸の奥に薄荷を塗られたような爽快だけれど吹っ切れない気分は、冷ややかに自分の位置を確かめたりし、落ち着きをなおさら悪くしてしまいます。それで早足で絹子らを抜いたり、わざと路地に入りこんで視界から逃れたりしました。教室では転校以来いくらかは女子の間で喋ったりするのを見ていましたが、僕はただの一度も声をかけた試しがありません。席も離れていることもあり、一緒の空気を吸いながら吐く息が異なっているような錯覚におちいったときには、いよいよ「どうしてかわからない、気になってしょうがない」と、不本意な確信に身震いしてみせ、なるだけ学校内では平静を装いながらも、こころの片隅では下校時にはいつか話しかけてみようとか、暮田くんらが広場で野球をしているのを見物する振りしながら近づいてみることも考えたりしていたのです。
そして寝床に入れば妄想の翼は大きく羽ばたいて、すでに暮田くんとは親しくなっており、必然的に絹子とも和やかに話しをしている場面へ至当に着地し、更には寝返りのひとつふたつもうつ間に想像の極点へと転がりこんでいくのでした。
「おまえはさ、大人になったら絹子と結婚したらいいさ、それがいい」
暮田くんの目からは信頼のひかりが放たれ、隣には一層かがやく目をした絹子の微笑みが不変の空間を作りだしているのです。歯ぎしりをともなった一念が夜に溶けだしていくのは陶酔をもたらしましたが、しっかり目は冴えています。決して調子のよい夢のなかに隔離されているのでありません。ですから、まだ自慰を覚えていなかった僕はさながら**とともに果てるよう、絹子の笑みに吸い込まれていく寸前で我に返ってしまうのでした。あとは余韻にひたり羽ばたきを終え、くちばしで夢の殻をついばみながら眠りつきます。
そんな昼夜に僕は恋をしていたのだと最近もっぱら思えて仕方ないのです。年が明けしばらくして絹子はいなくなりました。あまりに急だったので表だって波立つことはなく、悲しくも辛くもありませんでした。ところが童心とはいえあの際に働いた水面下の起伏には感心しています。ある晴れた日、木枯らしに舞う落ち葉を追っている目をもうひとりの自分が眺めているのです。大方テレビドラマの場面なぞを被せてみただけに過ぎないのでしょうが。
僕はあのときの冷えていた冬空が好きです。大人になってみると囚われるだけで、一向に埒があきませんから。


[246] 題名:人力列車 名前:コレクター 投稿日:2011年11月29日 (火) 06時25分

海を見下ろす斜面には鬱蒼とした茂みがあり、山間からしばらく隔てたにもかかわらず木立の影は、視界を暗鬱な一日へ手招いていた。絡まりあった梢から覗ける逆光に照らされた緑は遠く、眼下の海面にきらめく星々に支配されているのかと感じてしまう。うっすらまぶたを閉じ、口もとをすぼめてみる。夏の日はすでに冬支度へ急いでいるのだろうか、鼻孔に通じた空気は吐息となり、やがてかすれた音をたてた。
太陽を直視する。散った彼岸花が想起され幻惑のなか列車に乗り込んだ。沿線に朱が群生するのはきっと旅を求めているからに違いない。懐疑する必要はなかった。燦々とした光線を受けながら列車は海の上を走ってゆく。車両の数が知れないように乗り合った人々の顔も同じで、誰もが無言に車窓に寄りかかっている。離れ小島がこちらに近づいてくる錯覚におちいったとき、「これは船ではないのか」そう訝ってみると、急に足もとに神経がいってしまった。座席の下は歩幅ほど底抜けしていて、いや切り取られているみたいで、しかも自転車のペダルが据えつけてあり、ほとんど無意識のうちにそれを漕いでいた。隣の客席をうかがえば殊更に気をせいている様子もなく、ガラス越しの海原に想いを沈ませている面持ちで、膝を上下させている。
針の穴に糸を通す慎重さはそこにはない。ただ何となく縫い物がしたくなった、気まぐれに等しい気分で旅情を育んでいるだけ、そう映った。
まばゆい光が目を射る瞬間瞬間に少しは眉間にしわを刻んだりするのだが、透明な鏡のまえでは当たりまえのように、ペダル漕ぎの労苦は微塵もあらわになることなく、瞳からあふれだす輝きは無償の時間へと流れ去っていた。「すべて海の底に沈んでしまうから」そういう屁理屈でさえ神話に匹敵している気がして、今度は空高く上昇していく予感を抱いたのだったが、蒼海はどこまでも限りなく続いている。
どれくらい潮のしぶきを浴びたのだろう、鬱屈した光景からいきなり水平線まで運ばれてゆく大胆な跳躍に限界を感じてきた。緑が遠くに見えたのと一緒で、海底もとても深く思えだし、陽光の気高さにひれふしたかった。だが、光線はそれほど深海に関与しない。四方へひろがる大洋に倦怠が芽生え始めた気まずさを糊塗する為、願いはより厳粛な包装で沈みこんでいく。陽の及ばないところまで、音は閉ざされ静謐が奏でられるところまで、空き缶に芸術の神が宿り、聖なる水棲動物が白夜を恋慕うところまで。

車掌らしき声が車内に伝わった。
「これより上陸いたします。ペダルの負荷には変化はございませんが、石ころなど跳ねることもありますのでご注意ください」
以心伝心とはこの情況を指し示しているのか、それとも旅先案内人としての務めをまっとうしているに過ぎないのか、ともあれ小島に見入る思惑が段々その様相を変化させるよう、列車の運行は窓の向こうに新たな景色をなびき、乗客の意識に颯爽とした風を送りこんだ。
潮の浮力と地面の反撥はひとつの次元に思えるほど、水地の切り替わりに違和感は生じない。足先にかかる重みも確かになく、ペダルは機嫌をそこねることないまま、波しぶきの季節を過ぎやり、人気のある密度を実感しに舞い戻ってきた。見知らぬ町、見知らぬ顔が待ち受けているのをいたわりのこころと交差させたく願い。
思わず両足に力が入る。それにしても海と陸では匂いが異なるはずなのに、一向に下方から香ってくる気配はなくて、おそらくペダル漕ぎに掛かる体力を緩和させるのに他の感覚を遮蔽しているなど、適当な了解をしていまい、なるほど嗅覚どころか耳にするものもなく、旅につきものである行楽弁当も用意されておらず、味覚までもが等閑にふされている現状を不思議がることもなかった。こうまでして人力で稼動せざるを得ない理由も皆目わからないから、地に足がついてない不如意を遠まわしに告げられているようでどことなく煙たかったけど、伏し目勝ちな目は朦朧とした意識を保ち続けている。
ようやく目が醒めたのは窓の外に見慣れた道筋が認められたからだった。それは近所の町並みであり、生家へとたどる一方通行の路で、交通規則に従っているのだが、果たして列車がこんな狭い道路を走り抜けていいものやら安穏な気分でいられなくなったせいで一気に身がこわばってしまった。そして、脈絡など通じさせなくてもかまわないのに何故か「出るぞ、出るぞ、たぶん出るぞ」と、呪文のごとく肝だめしみたいな浮ついたおののきを準備していたら、案の定その姿がありありと網膜に飛びこんで来た。
生まれてこのかた、どんなホラー映画よりも最強の悪夢がその白昼のひとこまだった。銭湯から出てきたと思われる上半身のない相撲取りがゆっくりと反対方向から歩いて来る。黒いまわしは汗をかいたのか濡れており、へその下を残した臀部と両脚だけが影を残すことも忘れたように無言の圧力をかけている。まわしの上の切断面は決して現実的な崩れ具合を誇示していなかったが、丸太でも切ったあとに肉汁が湧いて出て、内臓が一部とめ置かれたふうな赤々とした異形には、吐き気を通り越し瞬時にして凍結作用に転じてしまう戦慄が備わっていた。
相撲取りと絶対に目を合わせてはいけないという、心理が直撃される矛盾も巻きこみ、臓物と血糊が抑えられた肉塊の存在は白日のもと完全なる金縛りをさずけていった。
「どうして列車から降りるんだ、、、」
叫んだときは遅かった。強烈な悪夢を甦らせるだけでは足らず、再びその場に佇もうとしている。その目に、その緊縛の身に帰ろうとしている。
海を見下ろす要領で意識が分割してくれれば救いようのあるものを。列車に乗るには早かった。


[245] 題名:にゅうめん 名前:コレクター 投稿日:2011年11月22日 (火) 04時05分

静夫が十歳になったばかりの秋でした。「明日から親戚の子をしばらく家であずかることになったから」と、いつもとは違った目つきで母親から聞かされたとき、みぞおちが急に熱くなってしまい、しかし学校でよく起こす苦痛はともなっていなかったので、胸もとをさかのぼりのどを抜け、あたまのなかにまで侵入してくる熱風に浮かされているしかありませんでした。
突然のしらせは秋風にはなりませんが、涼風が運んでくれる乾いた感触をどこか忘れなかったようで、当日になってみると胸の鼓動は早まり、まるで運動会の喧噪と緊張に似た場面に立たされていました。静夫はひとりっ子でしたから、以前より兄弟姉妹へ対するあこがれは季節の移り変わりに等しく、細やかに、あるときは大らかに波うっていたのです。手放しの期待に転んでしまったとは思えなかったのは、よく見通せない路地を勢いよくかける童心がそれほど無邪気でなく、つまずく先にうずまく影の気配をそれとなく心得ていたせいでしょう。
その子の名は絹子といいました。歳は静夫よりひとつ下です。向かって右の頬に、正確にはこめかみからあごの手前にかけて火傷のあとかと思われるかなり目立った染みがありました。おそらくその黄ばんだ色合いからしてかなりおさない頃に受けたものだと、静夫は見つめるている目の奥に不穏なかたまりが出来てくるのを知りながら、気持ちのなかでは泥まみれになった捨て猫でもいたわるような感傷を同居させていたのです。ちょうどバナナの曲線がところどころ途切れ、まだらとなった文様はほんらい色白の少女にどれだけ深い哀しみをあたえていることでしょう。静夫に理解された最初の印象はごくありがちなそんなまなざしでした。
両親と祖母の暮らしのなかにあたらな家族が生まれました。静夫の胸中はおもちゃ箱をひっくり返したより、いたずらでたんすの中身をかきまわしてしまったより、もっと小面倒な事態をむかえ、どういうふうに絹子に接したらいいのか悩みました。もっとも、鬼ごっこで鬼になったときの心持ちを引きのばした程度の悩みでしたが。絹子の出自に関する話題はいっさい静夫の耳に入ることはありません。そして静夫自身も少女の過去を問う衝動を思ったより軽やかにかわしてしたのです。
学校にはふたりそろって家を出ましたが、近所の同級生も一緒だったことから、暗黙の了解により絹子は人見知りをするよその子らしさと、無闇にうちとけない少女のさがをうまく演じ、いつも静夫たちより一歩も二歩もうしろに下がり、ほとんど口をきくこともありませんでした。普段からやんちゃな同級生のひとりも絹子の横顔に備わっている染みを見ぬふりするよう、余計な口だしをひかえていました。
学年が違うとあんがい校内で顔を合わせる機会も少なく、ときおり朝礼や運動場で見かけるくらいです。また帰りも一緒になることはほとんどありません。特に待ち合わせているわけでないので当たりまえなのですが、ある日、静夫はひとり帰宅していて背後から自分の名を呼ぶ声を聞き、振り返ると今は同じクラスでないけれど、幼稚園のころいつも並んで同じ路を歩いていた多津子だと知り、急に気恥ずかしくなってしまいました。
「静夫くんとこにいる女の子ってどこから来たの」多津子は明日の宿題でも尋ねる口ぶりでそう話しかけてきました。開口一番この調子ですから、どうしてそれを知っているのか聞きただす間もなく、なおさら恥ずかしさはわけもわからず深まってしまい、けれど小学生になってから多津子に疎遠だったという思いが、さながら罰の悪さを盾にしながら懸命になにかをとりつくろっているような気がして、ぶしつけな質問さえ木漏れ日をひさしぶりに受けたようなさわやかさに変わってゆくのでした。それは多津子の無頓着な表情には現われていない、ほのかな親しみを感じとってしまったからなのです。静夫にしてみれば興味本位であれ、絹子の素性や火傷の事情などに関心がないはずはありません。同じ屋根の下で生活するもの同士、ましてや不意な家族に寄せる気持ちは込み入っており、精一杯の背伸びをさせているのでした。
多津子の問いかけは、静夫を代弁してくれているようであり、そして絹子に対する奇妙な未知数を共有してくれ、身の軽さを不透明な重みのうちに投げだしている曖昧さが許されたのだと思えて、自分の態度を素直に認められたのでした。うれしさはときに相手にも差し出されます。親和が訪れたのは多津子との距離がほどよかったのでしょう。
質問にはもちろん応えようがありません。まったく絹子を関知してないのですから。静夫はできるだけ丁寧にそのあたりを多津子に伝えました。しかし想像を交えるのは罪である気がし、自分が抱いている疑問だけを逆に多津子へ投げかけるふうなもの言いで話しました。不遇な絹子に向けられた同情や憐れみはすでに刺激をもたらすほど日々に追随していなかったのです。静夫が怖れたのは軽やかな感情とは決してつり合いがとれないだろう、眠れる幽鬼なのでした。
木漏れ日は多津子の白い歯並びに映え、きらきらとしたその残像はまだ観たことない映画のはずなのに、すでに覚えがありそうなゆがんだ想念を育んだのでした。

寝室といっても二階の八畳間に布団が敷かれるだけでしたから、それまで、父、母、静夫と川の字になって寝ていたのが、静夫、父、母、絹子と並びがあらたまり、窓際に位置したせいか、静夫は風の強い夜など何度も目をあけてしまいました。多津子に話しかけられた晩、昼間の延長にたなびく加減で夢はあたまのなかへ忍びこんできました。
富山のくすり売りは年に一二回忘れたときにやって来ます。実際つい先日もそのすがたを目にし、あの旅人でもあり行商でもある普段あまり見かけない慇懃で、どこかしら凄みのある物腰とともに配られる景品の風船を絹子に全部あげたのでした。色とりどりでけっこう数もあったので絹子は喜びました。そのあと静夫は別に脅すつもりはなかったけど、見るからに毒々しく痛々しい袋の絵柄を、特に内臓が大雑把に書かれた解剖図の胃腸薬をひょいと絹子のまえに出すと、今にも泣き出しそうな顔でにらまれてしまったのです。
夢のなかで絹子は風船を飛ばしていました。静夫にはガスも入ってないのにふんわり宙に漂っているのが不思議でなりません。下の部屋から今にも二階まで上がって来そうです。呆然としていると絹子は手にした風船のさきになにやら仕掛けをし、小さな炎を灯らせたそれを他に浮かんだものへと送り出しました。静夫は「危ない、火事になるじゃないか」そう、思わず声を荒げましたが、いっこうに止める素振りはありません。かといって絹子を取り押さえる勇気もわいてこないのです。そこで思いついたのは父親のカメラで現場写真を写し撮ることでした。ひとことふたこと、喚起してから絹子の狂態を撮影し、それでも火をつけてまわるのでついに憤慨して、「これを見てみろ」とカメラを両手に掲げたのでした。
すると絹子はいかにも余裕たっぷりの顔つきでこう言いました。
「レンズをのぞいてみれば」
静夫は条件反射的に言われた通りに目を凝らしてのぞきこんだのです。そこには絹子ではない、もっと年上の多津子よりももっと妙齢の、例えばテレビドラマに出て来る娘役くらいの女性のはだかが映っていました。慚愧にたえかねている静夫を尻目に、絹子は思いきり首をねじり高笑いしていました。
夢はそこで終わりです。激しい寝汗が肌寒さと拮抗しているのを自覚しながら、静夫は半身もたげ夜目にもそれとわかる無心の寝顔に冷たい視線を放ちました。ちょうど夢のなかの火事を消したい意識もあったでしょう。しかし静夫のこころは異なる思惑に揺さぶられていたのです。額からおちた汗が涙になってまぶたの上から流れていきました。それから「起きているんじゃないの」静夫は絹子にそうささやいてしまったのです。

あくる日、静夫は全身悪寒を覚えたあと高熱を出しました。流行り風邪みたいでした。絹子もその翌日に同じ症状で寝こんでしまったからです。発熱もピークを越えると元気を取り戻したような体感で、すっかり日常に帰った気分になります。恒例により静夫は母へ昼飯の注文をしました。風邪をひいたときには、どうした按配かご褒美ともつかないけど出前のうどんを食べさせてもらえるのです。すでに割り箸子にもかつお節の風味が移っているようなかやくうどんは大好物でした。子供にだって出汁のきき具合はわかります。それと小さな袋の一味唐辛子、普段は食べつけないのでその辛さは舌に不快寸前のきわめて良質の刺激をあたえてくれます。ここ最近は袋の中身を残さずうどんにかけれるようになりました。
ところがその日は祝日で近所のうどん屋は休業だったのです。そこで母の発案は夏の残りのそうめんがあるから、にゅうめんを作ってくれるという、それはそれなりに心弾みました。なかなかに口にしない意味では夏の置き忘れも新鮮なのでした。めぐる季節がまだまだ輝いていたからです。
絹子も静夫も熱が引いていたので、布団の上ではこぼすからといつもの食卓で家族そろってにゅうめんを食べました。
めんが細いぶん、からむ食感はかつお出汁の香りでみたされ、のどごしも滑らかなのですぐにからだが温まります。祖母のめがねが湯気でくもる様子を父がからかい、母も機嫌がよさそうでした。絹子もずずっと勢いのよい音を立てながらおいしそうに食べていて、静夫の気持ちはとても晴れやかでした。悪寒や頭痛はいやだったけど、病気特有のしんみりした健気な心持ちをそれなりにかみしめていました。これも情緒なのでしょうか。
出汁をしみじみ味わいながらほぼ飲み干してしまった父がこんなことを話しだしました。
「こないだ、接待で料理屋に行ってな、しめにお茶漬けが出てきたんだが、あれはお茶じゃない、出汁に抹茶を少し加えてるんだ」
静夫にはうどんの代わりにごはんに出汁がかけられている気がして感心しませんでした。
「ほんとう、ぼくは浜乙女のほうがおいしいと思うなあ」と、出汁の茶漬けを食べたことがないのに意気込んでしまいました。そのときです、それまで食事中ほとんど喋った試しのない絹子が、「あたし、それ食べたことある。おいしかったよ」と、真剣なのか楽しいのか、見分けのつかない目で、ぽつり言ったのです。
静夫が驚いた顔をしたせいでしょうか。絹子はすぐにこうつけ加えました。
「でも浜乙女も好きよ。あられがのってるの楽しい」
そう言ったあとの目は静夫にもちゃんと理解できました。火傷のあとなんか必ず消えてしまう、だってもうそんなに薄くなっているじゃないか。絹子の笑みをしっかり受け止めたようです。


[244] 題名:伴走 名前:コレクター 投稿日:2011年11月14日 (月) 03時02分

その話しならこの頃そういう気分じゃないから今度ゆっくりね、それはそうと、あんたこのまえ訊いてたでしょ、ものごころのうちではけっこう鮮明な方だと思うんだけど、犬の名前はたしかペロだったわ。あたし保育園にも行ってない時分だから、あんたはまだヨチヨチ歩きで覚えてないのは当然かも、籘のかごに丸まっていたの、ほんと生まれたてって感じがした、お父さんもお母さんもすごく若くて、ずっとそうよ、いつ思い返しても写真に収まっているみたいにその姿は変わらない。あたしら姉妹はあのときの両親より歳をとったっていうのに。
台所の土間だったのも記憶している、でも部屋の隅がなんかぼやけていて、子犬を中心にして魚眼レンズっていうの、あんなふうにまわりが歪んでしかも妙に明るくてはっきりしないのよ。あとから知ったけどあの時代はスピッツが流行ったらしいの、どこかでもらってきてさ、結局あたしが可愛がるどころか邪険にしてしまってもとの飼い主のところに戻ったんだけど、そのへん都合いいわね自分ではあまり思い出せないもん、犬が勝手に吠えたのか、叱りつけたから吠えていたのか、とにかく折り合いが悪いっていうか、あんまりうるさいから近所にも迷惑ってことで成犬になって間もなく家からいなくなった。えっ、あんたの反応、ごめんさっぱり覚えてないわ。こないだお母さんにも尋ねてみたらやっぱり全然で、犬を飼ってたこともあやふやだった。あたしのほうがいざペロにいなくなられてみると、そうあの日の心苦しさは忘れてない、お父さんから、「夕方ペロを取りにくる」って淡々とした声で言われたとき、どうしよう、今さら遅いけどそんなの嫌で、かなり悲しくなってしまい出来るなら連れてかないで欲しいなんて念じたのよ。身勝手ね、それからしばらくはペロが繋がれていた場所を見れなかったけど、妙なもので気がつくとそこをぼんやりと眺めていたわ。罪悪感に苛まれるほど痛切じゃなかった、ただ喉から胸にかけて息苦しいような、なにかが詰まっている感じがして、あそこの土間には扉がなかったでしょ、だから外の青空が澄んでいるのが逆にくすんでしまって、しっくりこなかった。
知らないわよね、あんたにはうろ覚えでしかないから。なに、違うの犬のことじゃないって、早とちりじゃないわよ、昔飼ってた動物なんていうからあたしはてっきりペロだと思うじゃない。もしもしちゃんと聞いてる、聞いてたんだったら早く訂正してよ、姉さん違うって、汚点になったあの気持ちは忘れた頃ふっとよぎったりしてたけど、こうして語るのってはじめてだったかも、悲しくなっちゃうじゃない。ひとが悪いわねまったく、途中で気づいてたんでしょう、で、犬じゃなればなんなの。はあっ、ひよこ、それならあんたも一緒に遊んでいたから忘れてないはずよ。うん、そうねえ、何回も飼ったわね。大概は縁日で売られていたのを可愛さのままあとさき考えずにって調子だった、カラーひよこなんてのもいて、赤や緑のスプレーで吹きつけられていたの。そんなのも買ってきてはすぐに死なしてしまうのをくり返した。懲りないっていうか、ほとんど玩具との区別がなかったのよ、きっと。寒さに弱かった、段ボールに綿とか敷いて一応温かくしたつもりだったけど、次の日には生きてなかったもんね。だから春先からじゃないと飼えないって、おばあちゃんにも教えられたんだった。
いたいた、長生きのひよこ、あんたも覚えてる、あたしもよく覚えているわ。いや、一羽じゃなくて二羽だったよ、そのことなの、それで名前を思い出せないって、えっ違うの、ちゃんとにわとりに成長して一年以上は生きてたわ、だってお父さんに頼んで鳥小屋作ってもらったじゃない、ふんの始末は毎日自分らでするって条件つきで。名前でなければなにを訊きたいの、あたしは小さいほうを子、大きいほうを親って名づけてた、別に親子でなくて飼う時期がずれてただけで、あんたもそう呼んでなかったっけ。じれったいわね、あの二羽がどうしたっていうのよ、あっ、そうなの、あのことか、そうねえ目をつむると浮かんできそう、あれは真夜中だった。時々おばあちゃん取り憑かれたふうに夢みてうなされてた、あたしら二階の部屋で寝てたけど、下から聞こえてくるうなり声って怖かったわね、ほらおばあちゃん仏壇の横に布団敷いていたじゃない、昼間でも薄暗い奥の間なのに夜更けなんか耳にしたらほんといくら生きてるひとの呼吸だとわかっていても、どこか別のところから地鳴りみたいに響いてくるようで、お母さんに「うなされてるから起こしてあげなさい」なんて言われても気味が悪く階段降りながら近づいて行くのも勇気いったし、急に甲高く引きつったりするから増々怖じ気づいてしまって、肩をゆすって目を覚ますまで全身寒気がしたもの。
でもあの夜は違った。微かに伝わってくるのはひよこの鳴き声だったのよ。隣の部屋に二羽を入れた段ボール置いてあったじゃない、障子越しによく分かったのだと思うわ、おばあちゃんは多少寝ぼけていただろうけど異変を報せてくれた。あたしびっくりした、親のほうが横ばいになって苦しそうに足をばたつかせていて、子が一生懸命それを教えているの。がむしゃらに泣き叫んでてこれは家のものに訴えているんだなってすぐに情況がのみこめた、あのときがおそらくはじめてよ、自分が消えてしまい目のまえだけに感情がわきたっているって感じたのは。あたしが動揺しているんじゃない、この二羽のひよこらが感情を発していて自分の気なんかそこになかった。もうじきに夏を迎える季節だったし、これまでみたいにすぐに凍死してしまわずすくすく育っていて親はもうとさかも目立ってきて毛も白かった。これから普通に成長するんだなって漠然と考えてただけだから、自然に逆らっているわけでもなかったろうがこんなの理不尽だ、当時はそんな言葉知らなかったけど、そんな意識が伴走のようについてきてようやくあわてたのよ。
お父さんにも起きてきて見てもらったじゃない、あんたも二階の手すりから目をこすりながら様子をうかがってたわ、なるほど、あの光景なの、ひよこのこと次の日に心配そうな顔して「どうなったの、もう鳴かないの」って言ってたもんね。説明しても症状とかわたしも分からないし、なんて答えたのか記憶にないけど、親はくちばしがねばついてなんか透明なゼリーでも食べたあとみたいだった。にわとりに詳しいっていうか素早く対処方法を伝授してくれたおじさんが近所にいてね、あたしよく覚えてる、「これはよくある病気でニンニクの粉を水で溶いて飲ませてやればいい」って話していたのよ。特に感心しなかったけど、それで治ってくれるならいいって祈ってた。だってあの時分はあたしらも胃腸の具合がよくないとアロエの葉を噛まされたり、火傷したらユキノシタの葉を裏庭の湿ったとこからちぎってきて貼られていたじゃない、それでニンニクかって。でもうちの料理では使ってなかった思うの、食べたこともないし実物を見たのは随分大きくなってからよ、なのに不思議と名前があがっただけで納得というか、わかったような気がしたんだから面白いものだわ。そうなのよ、あんたもとても喜んでた、そのニンニクの粉が効果てきめんで一日か二日でよくなったからすごい、あの感動はいまでも生き生きとよみがえってくる。あんたが確認したかったのどうしてだか知らないけど、元気になったのはよかったがそれ以来成長が逆転してしまって、ううん、結局病気は病気だったんで仕方ない、子のほうが早くにわとりになっちゃったのよね。あ、そう、それはちゃんと覚えてるって。
たぶんお父さんも健気なひよこにほだされて鳥小屋まで作ってくれたんだろう。そうよ、二羽はとてもなかよしだった。学校から帰ってくると小屋から出してあげて裏庭に放してやるのが日課だったわ、でもいつまで続いたのかなあ、にわとりの寿命は案外短かったと思う。雄だし卵も生まなかったしね。気がつけば小屋だけが残されていて、もうひよこを飼うことはなかった。あたしはよその家の猫とか犬がいいなあって内心思ってたんだけど、ペロの件があるから複雑な気持ちだったわ。そう、あんたも思い出した、おばあちゃんが生き物に一番うるさかったわね、いつかの金魚のときも、でもおばあちゃんだって秋になると決まって鈴虫飼ってたじゃない、あたし、それでこっそりミドリガメ一匹だけもらってきたんだ。あたしが進学でこのまちを離れてからも何年もうちにいたんだよ、そのあとはあんたのほうが詳しいはず、その通り、水槽から何回も脱走するもんだから、ついに池のある家に放してきたんだわね。今でも元気かしら、カメは万年っていうじゃない。もしもし、えっ、それでわかったって、なによ、あんたしんみりした声で、はいはい、わかってるわ、また電話して。お正月には帰ってくるの、うん、じゃそのときにでも積もる話をしてちょうだい。あっ、反対か、あたしのことね、いいのよ、あまり気にしないで。


[243] 題名:霧の吸血鬼 名前:コレクター 投稿日:2011年11月08日 (火) 03時23分

陰にこもった雨が降り続けているとか、午後の日差しが際立って秋めいているせいだとか、夕闇がせまってくるのをまるで深い洞窟へと踏み込んでいるように錯覚してしまうとか、虫の音がか細くて仕方なく感じてしまうとか、別にこの季節がはぐくむ時間のうつろいによって想い出が浮遊するわけでなかった。
情感に即す日々の美しい仕掛けは、如何にもまぼろしを称えているかにみえるが、あべこべに決まりきった裁断から繕われる記憶の文様にすぎなく、色彩ひとつひとつ美にとらわれ、ちょうど様々な色の積み木を組み立てている幼稚な手つきとも言えるから、大切なのは崩れた積み木のほうだと思うのだけども、どうだろう多津子さん。あなたはとうの昔に忘れてしまっているかも知れないが、あの幼稚園からの帰り路、何度も、「ここだよ、ここでぼくは見てしまった」と子供なりに必死に訴えていたことがあったはずだ。あの日に限って多津子さんはいなかった。もちろん家族にも話したし、他の園児や近所の子らにも見たままの光景を繰り返し口にした。だが誰も信じてはくれなかったので、落胆とは異なったかたちでぼくの胸に空洞を生み出して、後々まで薄ら寒い風を舞わせている。
幼年時の幻想の産物として風化してゆくことに異議はない。深夜の窓の向こうと夢魔に然して違いが分かるまでもなかったから。ただ、この歳になっても今だ濃い霧に包まれた中央公園の入り口で目撃してしまった、あの死人ふたりの悽愴な顔が目に焼きついて離れない。たとえ夜の気配に怯える幼心を試されていたとしても。ぼくは昼下がりの霧をかき分けている。
現在では園児だけで帰宅する慣習はなくなったが、ぼくと多津子さんは帰途が同じということで、毎日のように揃いの黄色い園帽子を被り一緒に歩いた。少ししてから知ったけど、幼稚園からあなたの家まではぼくの所から倍はある距離だったんだね。道のりは途中で陸橋を渡り右に折れるだけで、あとは真っすぐな家路をたどればよかった、と云ってもいつも気丈な面持ちでいる多津子さんに対し、決して平淡にサヨナラを言っていたのではなかった。心細さなんて言葉の意味を持ち合わせていないぼくでも、何故かしらどこか落ち着きが悪く、雨の日など水たまりに小石を蹴飛ばしりしながら、あの頃よく見かけたアメンボがあわてている様子を、くすぐったい気持ちで保留していた。
実は当時あなたと何を喋りながら歩いていたのか、まったく憶えていなくて、さっきも言ったけど濃霧のなかに忽然と現われた死人に関する衝撃だけが、脳内にこだまするよう多津子さんへと拡散してゆく。
間違いなく初めて異性を意識したのはあなただったろう。しかし小さな胸に刺さったものの正体を理解するのは不可能で、又いばらの棘は痛覚をあたえなかったから、のっぺらとした時間だけが異性である多津子さんを模造の花びらに変えてしまうことが出来た。お遊びのとき、色紙で花を折ってみる無邪気さには、ある種技巧めいたものが潜んでいてその手が硬直してしまうように、意識は揺籃から躍りだしはしなかった。震える声はまだ何もなさない野の下で、羽ばたき始める蝶と出会う。
勝手な文面で失礼なのは承知だけれど、その後この狭いまちで小中高と学校を上がるにしたがい、何度か顔を合わせる機会はあったはずで、だが、多津子さんの目にはぼくが感じとっていたものとは別種のひかりが鈍く宿っていたから、風化を承認したほうがいいと思ったんだ。勘違いしないで下さい。未分化な念いは歳月が解決してくれるけど、霧のなかの死人、そう真っ赤な車の前席で首をもたげる格好で口から血をひとすじ流し、静止したものを永遠に見つめていたあの瞳孔は、破り捨てても、焼き捨てても何度でも引き出しのなかに見つけ出される卑猥な写真のごとく、ぼくのこころに棲みついている。
ふたりは多分二十歳くらいの男女で、その異様なまでに青味がかった顔色と一条の血により、ぼくは吸血鬼に襲われたに違いないと思いなし、恐怖は恐怖である事情を通り越して、現実を不透明な幕で被い、あたかも雲の上に浮かんでいる快感にも似た、あるいは遊技場の回転カップを想起させるめまいを催させた。金縛りの状態とはうらはらにその場から駆け出したくなる勢いを封じていたのも、霧の価値を認める判断が備わっていなかったからであり、のちに多少は薄明や夕暮れに親和を覚え、夜の複雑な意味にとらわれだした頃には、怪奇な死人はぼくにとってかつてないときめきになっていた。
もしあなたと一緒に霧へ包まれていたなら、そう考えると、、、あれから色々な回答は時代の波に逆らう飛沫のまま夜露となって今日までぬれ続けてきた。最近の意想だけ述べておきます。
きっとぼくらふたりには、防衛本能が手伝い死人男女の印象を希薄にしてしまって、軽い怪我がすぐに直る調子で恐怖に泣かされ、泣きやんだあとには絵本を閉じながら黙りこんでしまう無感動に救われる。そして互いの目の奥に輝くひかりは秘密から遠ざかり、二度と濃霧にめぐり合うことはないだろう。


[242] 題名:名画座 名前:コレクター 投稿日:2011年11月05日 (土) 10時27分

雑踏からはぐれた感情は置き忘れられてしまい、すでに光景の中へ包まれていた。都会の夕陽を背に二十年以上を経てその空間に佇んでいる。胸いっぱいにひろがった得体の知れない気持ちは、ときの推移に抗わず、一定の場所に立ち戻るために、滑走路のうえをなぞって行くような、重力と申し合わせた関係を過分に了解していた。
郷愁につきものな、あの微量に埃臭さを深く吸い込んでいる錯誤も、夢のひとこまを起立させる名分において閑却され、歓びと気おくれがないまぜになった曖昧な、けれども網膜に焼きつく使命から逃れなれない淡い苦悩に支配されている。漂う香りを知るよりも、この瞳の奥にだけあらかじめ情景が収まっていると確信する。
劇場のロビーには数人の顔があったけど、当然のように見知らぬ影となり行き交っていた。この建物は戦後間もなくの造形と云うだけあって古びかたは年季が入っており、軽薄な懐かしさには丁重な拒絶が、濃密な思惑には飄逸な親しみが、足もとから天井までゆっくりと舞い上がる調子になり迎えてくれる。心得てはいたが、そんな雰囲気だけを求め訪れたわけでない。胸から浮き出る冷や汗に似た願いは、思いのほか俗物的な視線をたどっていたから。
「久しぶりです。憶えてますか」彼の姿を横目で追いながら、ためらいなくそう話しかけた。男は年格好が自分と同じくらいであり、しかも当時の面影をそこなうことなく颯爽と脇をすり抜けるところだった。時間は止まっていない、立ち止まったのは雑踏に流されている心細さだと気づき、口中に苦い唾液を感じる。しかし多少のとまどいはこの都会の大空に吸いあげられるのだと思い直して、彼の目をのぞきこんだ。
「ええ、そうですね」久闊に左右されるのが迷惑そうとでも言いたげに淡白な声で応じる。それは仕方のないこと、懇意であったわけでなく、名前も知らないし、どういった関わりだったのかも覚束なかく、ただここで見知った顔を誰でもいいから認めたかったのだと胸に言い聞かせた。
そのベージュ色したコートを羽織った姿勢にも、素っ気ない態度をまとっているような気がして、失意と呼ぶにはいくらか大仰な寂しい心持ちになったけど、元来こんな男だったのではと記憶をそれ以上たぐり寄せないままにしておいた。そこからどう会話をつなげればよいのか思案してみるが、実は当惑にまかせた投げやりなこの距離感の方こそ、重力が働いており均一に居並ぶことを要請しているに違いない。そして無言のうちに見つめるまなざしだけが、劇場のロビーにふさわしいのではないかと思えてきた。
男は口数が少ないだけでなく、相手に向き合う表情を出し惜しみにしているみたいな冷たさがあった。せわしい様子でカウンターの奥にコートを脱ぎ、なにやら支度めいた素振りを見せ始めたので、小鳥たちが薮の中から出てくる一瞬が約束されている自然の流れを思い浮かべてしまい、合間を数える緊張によって縛られ、飛び立つ鳥の羽のごとくに彼もまたこの場から立ち去ってしまうではないか、行動を観察している身分がどこかしら蔑まれているのではないかなどと、卑屈な意識が芽生え、悲しい空気だけで呼吸している立ち居から後ずさりしたくなった。だが、彼の影をも見失うことなく、小鳥の妄想は夕陽にさらわれてしまった。
男は劇場の従業員だった。そうなのか、それで彼に面識があったのだ。コートの下は黒ズボンに白シャツのいたって月並みな格好だったが、不意に目にした彼の靴の先が異様な造りになっているのを知った。ちょうど親指の付け根あたりから網タイツ状の靴下が覗いており、つまりその黒い靴はサンダルに近いデザインだったわけで、しかも英国調の飾りが施された皮の質感は、夜にまぎれる為に、また夜から浮き上がる為の光沢を放っていた。物腰や態度、それに表情からは類推するのは不可能な生々しい足もとだけが何かを訴えているみたいだった。
今どき七三に整えた頭が似合うのは彼くらいだろう。決してこころの底から感情を発せず、長いまつげに守られた切れ長の目と同様、笑みもこぼすことなく、用件のみを渇いた風のよう口にするその薄い唇もまた、後ずさりする相手に対し間合いをもって魅了する道具として肉感をさずけられている。
胸にひろがる気持ちは曖昧なものから、より霧深い森の彼方にさまよいだす芳香を得たせいか増々、滑走路は道行きであると信じてしまった。
「今宵の映画は」なんて気取って尋ねてみたいところだったが、生憎あまり興味がわかない類いのアクション映画なのは大きく貼られたポスターで瞭然としているから、奥に通じる扉には近づこうとしなかった。何人かの客はごく普通の面持ちでスクリーンの影へ自然に招かれて行った。別に目線を泳がせる必要もないけど、そうした見知らぬ人々に敬意を送ってみたかった。
そのときだった。ひとりの女性が小走りでこちらに向かってきた。「ああ貴女だったのか、まだここで働いていたんだ。随分長いですね」そう声に出して接しかけたかったが、彼女の名前もまた憶えていず、男と同じで別段慣れ親しんだ記憶もない。なにより男と違って結構老けてしまっているのが心苦しくもあり、それがまるで自分にとっては禍機であるような、方向をあやまった憂慮が先走ってしまっている。
おそらく凝視する不審な目を知ったうえ女性は一瞥をくれただけで、いつもと変わらない風を身にまとうよう男と立ち話を始めた。
自分ひとりの唯一この都会で知りうる人間、深くも浅くもない、どちらに転んでもよさそうだけど、きっとどちらにも関わることのない人間、だが、この劇場にもっとも似合う気がして仕方がなく、こうやって距離をとりながらも同じ空気を吸っているだけで、ここまで来た甲斐があったに違いない。二十年の歳月は考えていたより朽ちてなく、刻印する使命に忠実であるべきと見なしてしまった女のあらわな皺にしても至極当たりまえの成りゆきであるはずだから。
女は陽気な声を上げていたし、男は渋い顔をつくりながらも足もとを組みかえたり、劇場が職場として存在している実感をそれなりに味わっているようだった。
よどむ気配に違和を感じないのは、常に夢が創出している雰囲気を奇妙だと薄々知りながら、重力からの解放を求め、そして瞬時にしてそれらを忘失してしまうからである。
天井から雨が降るよう、女は唐突に着ている服を恥じらう素振りもなく脱ぎ捨て、銭湯の硝子戸を開ける手つきを持って裸身で奥へと歩んでいった。小雨は水滴となり硝子をほどよく曇らせている。いつの間にか映画館は変貌を遂げたらしい。瞬きをくり返すまでもなく、奥の様子が、女のうしろ姿が、こちらに透けて見えているから、奇異な感覚は逃げてしまい、代わりにつまらぬ惑いに居場所が狭まれている弱みが台頭しだした。何故ならここに何をしに来たのかつかみ取れないと云うよりも、劇場の転換に立ちつくしているしかない惨めな気分に苛まれていたからである。
これは無限に続くかも知れないと悪夢に堕しかけたとき、男が黙ってカウンターに缶ビールを差し出してくれた。彼の目は細まったわけでもなく、口もとを和らげもせず、その行為はただひたすら二十年前から続けられているまじないであると云う趣だった。ビールを受け取る手は少し汗ばんでいた。
相変わらず男は無口を通し、さすがに郷愁も醒めかけ、どんな時計がこの情景を刻んでいるのだろうと辟易しかけた矢先だった。男は素っ気ない表情を保持したまま、今度はA4サイズほどの用紙を二枚よこした。
手にして見ると、それは色彩を施されていないデッサン画であり、重なっている下の二枚目はまったくの白紙である。紙質は男の唇のように薄く、だが空気抵抗と云う言葉を連想させるしたたかで儚い手触りだった。デッサンは人物だったが明瞭な記憶はすでにない。ただ右下に「KLIMT」と記されているのに驚き、そうなのかとだけ彼に問うてみた。卑屈な態度の皮を剥くみたいな歓びをもって。
想いは忘れなれなかったけど、宙が舞うなら時間も逆巻くのだろう、男の返答も、反応も、その絵もみんな夢のなかに置いてきた。


[241] 題名:ねずみのチューザー63(完結) 名前:コレクター 投稿日:2011年10月31日 (月) 06時44分

デジタル表示の数字が止まったとき、天井から激しい揺れが伝わり、また左右の側面からも何かを連射している小刻みな振動で車内は一気に工場のようなけたたましさに包まれた。夜空に花が咲いたか、朱や黄の火炎が窓ガラスに反映する。花火でも打ち上げているのだろうか。苦笑いの瞳の奥にも火花は飛びこみ、こめかみのあたりから脳天にかけて心地よい痺れをもたらした。
このバスの造りは気密性が高く外部からの匂いを一切寄せつけない。火薬特有の臭気もなく、爆撃はあっという間に終わってしまった。別段反撃を被った形勢はなかったし、夜の山に墜落した飛行物体の気配もなくて、あたりは太古の昔から連綿と続いている山深い静けさに立ち返っていた。外に出てみる気力もなく、ただじっとして運転席に座っていると、振動の余韻みたいなものが背筋までじりじりと這い上がってくる気がした。
照明が順序よく消えていくのが分かり、指先を折り曲げながら数えるようにして闇の沈黙を迎え入れたんだ。デジタル表示も谷底に落ちてゆく蛍となって消滅した。バスの中には漆黒の絹の肌触りをもった空気が張りつめている。頬をなでる微風などないはずなのに、落とした視線を持ち上げるように闇が少し流れだす。そのまま眠りにつければと思ったりしたが、ふと懐にあったマッチが念頭をかすめ、ゆったりとした仕草を慈しむよう一本に火を灯した。硫黄の香りが鼻をつく。中心はぼんやり、楕円に広がった明るみの輪郭が人気のない座席を照らしだした。すぐに火は消える。もう一本マッチをすったとき、同じ場所に淡い人影が居座っている幻が見えた。面立ちまでは判別できない、だが、幽霊にしては物足りない幻影だった。パソコンの電源も切れてしまったから、君にこの続きは話すことは無理だ。


S市から山中に向かう農道で一台の無人バスが数日放置されていたと、地元新聞の片隅に報道されていた。バスの形態から市が関知する車種ではなく、固有のものとしても訝しくナンバープレートは外されており、現在捜査中と記されている。それから最初の発見者は近所の子供で、不審に思い近づいてみると一匹のねずみがバスの屋根から飛び降りてきて驚いたとも書かれていた。





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