COLLECTOR BBS
[272] 題名:桜唇覚書 名前:コレクター 投稿日:2012年04月17日 (火) 00時19分
春雨の領分なぞ取りとめなき想いかすめし今朝の庭、浅き夢にて見遣る心持ちなれば、蒙昧たる証しおのずと雲散霧消されよう。げにも寝ぼけまなこへ映りゆく風物かや、東雲さずけし恩恵と認めるは長閑なるも頑是なき。然るにそぞろ哀しき面影の由縁、何処へあり。
あたかも遠浅の浜辺眺めし空漠たる心地なれど、いささかそぐわぬ所懐満ちゆく故にて一筆記し給う。
大谷崎かの細雪の巻末において尾籠で結びたらんとするは真もって秀逸なり。然れどこの場は名篇を論んずるにあらず、ただ妙齢の雪子、瀉痢に艱苦するさま印象深かりしこと留意され、くだんの領分とやら一考するものにて候。
庭先から遥か遠き彼方に降り積もれるは未知なる白銀の野山、さながら一幅の山水ぞや脳裡に映られよう。濃淡しめすところか、辺り一面雪景色なれどその空模様はたして曇天なるやら、薄日差す按配やら、ついぞ覚えなき。はらはらと舞い落ちる粉雪こそ一条の川筋を見届けるも、眼前に広がりたる絶景を知るは芳春そのものなり。彩色の妙味、爛漫たる花びら冬季に浮かばせては、この世の様相とは思えぬ見事な枝ぶりと馴致させたる。感嘆きわまる胸中に疑心生じず、ひたすら風狂の刻へとどまれたし。
わずかの行数で筆が遅々としてはかどらないのも仕方ない。一考すべき事柄などないからである。今年は花見に興じることもなく、精々近所の通りに咲く枝を横目にやり過ごしただけなので、夢幻を引っぱり出し埋め合わせたに過ぎない。また宣長公や大谷崎を援用し斯様な情景の意義を求めようとした浅慮がいけなかった。とは言え、みすみす反故にする心積もりであるのなら、弁疏すら虚しく、深更に至る想念こそ振り払われなくてはならないが、どうにも綾を紡ぎたがる性分らしい。
そこでわたしは歪曲のそしりを承知しつつ、以下の物語へ本文をつなげようと試みる。
L博士の名が人口に膾炙したのは若き日、鳴り物入りで行なわれたある実験によるものであった。これからお話しする顛末は当時の興味本位な風潮が手伝って、真贋を問われながらも様々な尾ひれがつき、終いには学童のあいだで格好の話題となり大いにその想像力へと寄与したのだった。
超能力や心霊現象がテレビ、マスコミを通じてまことしやかに報道されていた最中、厳粛な立場で実証科学主義を標榜する理性的な知識人を相手どって、ほぼ孤絶した状況から声明を放ったのがかのL博士であり、小さな田舎町は実験という名目に守られたあげく、いよいよ公共施設において両者を見聞するに及んだ。
大方の見物人が当日以前より、口々に交霊会と呼びあっていたところを察すれば、まるでお化け屋敷に臨むような怖いもの見たさがより浸透していたと思われる。この総意に近い関心度から公開実験は半ば良識からはずれた方向を余儀なくされたと、理性派は苦々しく後述したが、彼らの心中もまた狐につままれたふうな余韻を隠しきれず「あの男は手品師の類いだ」そう言明するものの、語調はあくまで結論に取り急いだ面目をあらわにしていた。
さて押し寄せた観衆を束ねるよう暗幕で遮蔽された空間は、施設本来のあるべき均一な姿からは隔てられ、一種異様な雰囲気を醸していたので尚のこと好奇心を育ませており、ひかりを排除した博士の手段に対し明瞭に欠けると指摘した否定者の声は逆効果になっていた。即ち油に水を注ぐ調子で区切られた暗幕内は却って熱気をはらみ、映画鑑賞さながらの期待を背負ってしまっていたのだ。そして博士の口上は決して滑らかではなかったが、集った人々の感興に追い打ちをかけた。
「今宵はお忙しいなか、かくも多数の方々にご来場いただきましたこと厚くお礼申し上げます。ただ今、実演に際しましてこの様に周囲を暗くしたことの非難を受けましたが、そもそも心霊現象は昔から深夜がもっとも適しております。それはひとえに清らかなる時刻であるからなのです。非常灯を残し、数本のろうそくのみにてこれより清らかな夜に近づきたく、どうぞご理解を願います」
その直後頭上からの鮮明な灯りが消えると、拍手はないにせよ、いっせいにどよめきがわき起こり、一部の罵声や怒号をさらうようにして場内は沸点にのぼりつつあった。間を置くことに何気なく気づいた博士は自分の聴覚を遮断し、一切の雑念を取り除き、喉から絞りだす声色をもって沈黙にくさびを打ち込む勢いで説明を続けると、本人が望んだよりも熱心に耳を傾けている様子が伝わってくるので神妙な気持ちに包まれた。
暗闇を重視するのは霊媒から発せられるエクトプラズムを確認してもらう意向であること、この霊妙なる物質こそが科学の域を越えた存在であること、一見煙状にも薄衣にも綿菓子にも映るであろう白い謎を注視されるのはかまわないが、決して近づいて触れたりしないよう、何故ならこの特異な現象は霊媒に依拠するところが極めて高く、また覚醒状態でないにもかかわらず過渡に集中力を発揮しているため、例えるならむき出しの神経を手づかみしてしまう危険性を思い浮かべて欲しい、くれぐれも接触しない旨など、そうした注意事項を述べながら博士は人々の反応よりも舌先の渇きを覚えてしまったので慌てて「そのほか奇怪な物音なども響くかも知れませんけど、それも心霊現象なので静観を願う次第です」と、いったん口を結んでから、手招きに似た仕草で背の高い燭台に挟まれた椅子へ霊媒らしき女性を座らせた。
固唾をのんで凝視する観衆からしてみれば暗幕から不意に現われた姿は、すでに上質の見世物と化しており、長い髪は同じくらい黒色の衣服に垂れているのが見極められないので、増々怪し気な趣きへと没入するのだった。
最初から失神したみたいにうなだれてはいるが、姿勢は乱れず、背もたれ椅子には磁力が備わっている如き有り様。一同の視力に促されたのか、やがて光画に焼きついた思念がコマ送りされる按配で霊媒の首が無造作に振られだした。化粧気は窺えなかったけれど、眠れる青白い容貌には凄みを緩和させる初々しさが時折のぞいているので、それとなく神秘的な魅力に感応してしまう。だが、霊媒の顔立ちに見入っているのはそこまでで、博士の解説通りまず鼻孔から紫煙を逆さにしたような薄靄が吐かれると、今度は半開きの口もとより更にはっきりした野太い白煙が徐々に出現した。
それは特定の形を模索しているというより、不気味ないびつさに惑わされることを希求しているのか、何とも形容し難い白い影になって霊媒の膝下までゆっくり降りていく。時間が停止しているのだと首肯せしめたのは、反対にアメーバの示すような微細な動きを絶やさない影響によるものであった。この錯覚、どこやらか忍びこんだ微風に揺れるろうそくの灯りも加担し、曲芸にも勝る緊迫を生み出して、誰ともなく発した「女が浮かんでいるぞ」という声とともに観衆の注目をあびた。確かに椅子の足は床を離れ、眼には見えないがほどよくふくらんだ風船を下敷きにした要領で微妙な均衡を保っている。左右に傾斜する浮力は不安を喚起しそうでいてその実、得体の知れない歓声を人々のこころにあげさせた。
その時を告げるよう場内の空気は鼓動を反響させ、耳鳴りに同調した鳥のさえずりが駆け巡れば、はたしてこれらの現象は博士の言ったものか、慄然とするところだけれど、奇矯なふるまいの裏には妙なる調べが鳴り続いているとも感じられ、見物の領分から解き放たれたまなざしは恍惚とした境をさまよっていた。夜の奥底は静まりかえり、いよいよ降霊の際にさしかかった。
L博士にとって若気の至りであったとは辛辣かも知れないが、この声さえ放たれなかったら、おそらく後々の評価は別の局面に達していたと思われる。手順にせよ講釈はひかえるべきだった。
「ご覧のように、これがエクトプラズムなるものです。決してまやかしなどではありません。さあ、そこのお嬢さん、いかかですか、怖くはないでしょう。心霊と申しましてもこれは電波やガスと同じく、物質であることには相違ないのです」
浮遊した霊媒と並び満足気な笑みをつくりだしていた博士には、背後から飛び出してきた闖入者を阻止することが出来なかった。突然の事態を演じた側には算段があったのだろう、つまり人体よりも未知なる物質をつかみ取ったわけである。正面からの目撃談によれば、一瞬のことだったので女性の胸もとに手をすり込んだのかと見えたらしい。
博士の忠告に間違いはなく、無垢なる霊媒はたちまち苦悶の表情で椅子からすり落ちてしまった。公正な実験を無視した輩の両手にあるべきものはなく、怒りも悲しみもまだあらわにしていない博士は、床に力なく横たわった女性を気遣うより先に、呆気にとられた目つきで自分を見返している闖入者の顔をまじまじと眺めていた。凍りついた形相へと移りゆく間に場内は騒然となり、我にかえった博士が霊媒に歩みよったところ、一段とざわめきが強まった。無理もない、ぐったりした霊媒の口からはあの物質の残滓が見て取れたのだが、混乱を回避させるため、場内に明々と灯しを戻したせいで、それは生々しい反吐でしかないことがわかった。
L博士は「大丈夫か、すまない、すまない、、、」と連呼していたが、何故かしら霊媒の顔を直視出来なかった。ゆえに辺りへ散らばった花びらの不思議を知り得たのは後日、人づてであった。
[271] 題名:姫萩 名前:コレクター 投稿日:2012年04月09日 (月) 00時51分
遮光を願う意識には秘密がほの明るく灯されている。うららかな春日和の過ぎゆきとは無縁だったのだろうか。やるせない午後の気色に身をまかせていると、階段を上る足音が聞こえてきた。性急な心持ちがやんわり抑えつけられてしまうように弱々しく、か細い、けれども衣擦れが束ねられ、目には見えない手毬となってつかれている明快な疎通が感じられた。
北に面した窓はなるべきして薄曇りに鈍り、カーテンを手にかける仕草は弁明を欲しながらも淡白な微笑で取り繕われた。三面鏡には女の顔が映っている。少年の焦点は定まっているようで浮遊していた。
女の見せる躊躇いとも恥じらいともつかない控えめな面持ちの背後には、無邪気な好意が待ち受けており、本人が自覚したにせよ、しないにせよ、伏し目勝ちのまま口もとからもれる呼気は薄白く甘く、白粉を身近に知った幼年時を呼び覚ませ、心もとなさで満たされてしまうのだった。
女は家族の留守を見計らって誘いの時刻を得、少年は二階の奥まった小部屋を提供した。押し入れを半ばふさいで置かれた箪笥の向かいに母の三面鏡がひっそりと息をしていた。もう使われることもない色あせた木肌だったけれど、所々は古びた写真を思わせる光沢が、あのまぶしさの封じ込まれた片鱗が、特定の場面を持たず輝いている。
女は必ずこの三面鏡をおもむろに開く。そして背を向ける姿勢ではじめ柔らかに、やがて息遣いを激しくしながら少年のくちびるを吸った。不思議と最初の日から少年は冷静な神経を保っていると思い、幾度か淫靡な芳香をすりつける素振りをしつつ、指先を絡ませたり、髪の毛を軽やかに撫でたりしたあげく、頬ずりをそっとやめ、母性とは別のそれでいて明らかに慈愛を帯びており、艶かしさを放擲したふうな、哀願にも似た目つきで見おろした。相手の瞳が水棲動物のように浅瀬から逃げ去るのを知り、女は安堵を持ちえて自らの悦楽をわけ与えようと努め、そのままゆっくりと仰向けになり衣服を脱いだ。
上着のボタンを自分で外した他は少年の覚束ない手先が裸身をあらわにさせた。スカートをめくり始めたときには、反対からだと、少し鼻にかかった声でいさめ、さっと腰を浮かせて手際をよくさせ、成熟した下着すがたを毅然とさらした。畳の感触はひんやりとしていたが、後ろめたさみたいなものを却って新鮮な感情にすげ替えてくれる気がし、少女に戻った錯覚を頼りに静かに目を閉じてみた。
少年の指先はいつも沈着である。しかしその心中は穏やかであるはずもなく、女の衣服の種類によりかなり戸惑うことがあり、最後の一枚になった頃には慎重な手仕事、例えば機械類の解体とか、書類の整理とかの仕上げにようやくこぎ着けた気抜けがあった。だが、それは放心状態をさしているのではなく、衣服をまとった女に対する警戒心が緊張を生んでいて、つまり日々のなかで接する大人の雰囲気にのまれている限りは、同等には向き合えない怖れに被われたままなので、出来るだけ平静を装うのが少年なりの背伸びであり奮闘なのであった。下着に手をかける瞬間は北側の薄暗い部屋が適しており、普段の遊びの延長線上からまだ離れてはいない、どれくらい距離があろうとも。
少年のからだよりひとまわりも大きな裸体が発散する色香を感じとれないのは薄々気がついていた。女にしてみれば異性との落差を手放しで受け入れるほど、相手の精神は発酵しておらず、プロレスごっこみたいな遊戯に朽ちてしまう危惧があり、一抹の寂しさは拭われなかったけど、目を点にして見つめていた秘所には遊びとは異なる動悸がもたらされていたに違いない。乳房に顔を埋めても、脇腹をなぞってみても、何度くちびるを押しつけても女体の醍醐味は得られず、或はまださなぎのような小さなものを口に含んであげても、果たして快楽にまで達しているのか分からなかった。けれども生まれ出る為に造形された湿地にはこころ奪われただろうから、堅く立ち上がった少年をゆっくりと導いてまだ覚えのない肉の襞へ迎え入れた。女は深く閉じた目を大きく開いて瞬きすら忘れ、男の顔が苦痛とも嘆きともつかない、哀れな意思に翻弄させている様を突き刺すよう見つめていた。
腰を上下するまでもなく少年は一気に果てた。精通こそなかったが、女の襞には動脈が微かに打つのが聞こえた。
恥ずかしさを呼んだのは少年の騒乱であった。女の箇所から情けなく抜け出た自分のものを目にした刹那、そして上体を起き上がらせ、両膝を浮かせていた具合でその役目を終え濡れた有り様が瞭然と映れば、短距離走のごとく駆けた快感はすでにかき消えていており、これまで味わったことのない無気力でみじめな感じが羞恥に転じていた。笑みとは言い難い女の眼光が更に少年を萎縮させたのである。
くすんだ天井へ視線を移したあとも女は無言で裸身を横たわらせていた。絶頂をさずけた悦びはあの日から不動を保っていたし、少年の態度には愛玩動物に近い馴れ合いが現われはじめた。何より最初の交わりからして敏感な場所が反応するとは以外であった。短い空砲にも湿らされたのが女としての性なら、きっぱりと気位などかなぐり捨て、少年相手に欲情をまっとうするべきではなとも思われる。
それから女は気持ちを改め、同等の目線まで降りる努めに徹した。口調も同世代の男性とかわす節度と美徳を備えた遜色のない恋人振りを発揮して、子供扱いすることを放棄したのだった。すると少年の様子には成長盛りに即するような瞠目すべき変化が、例をあげれば、共働きの両親の帰り時間を正確に紙に書き寄越し、特定の曜日を選択するよう促して女を束縛しようと試みる一面をのぞかせたりした。むろん子供同士の約束ごとみたいな言いぶりではあったが、その澄んだ両目と言葉尻のあとにきつく結ばれる口もとには逢い引きを誓う信念が香っていた。もっと驚いたのは少年があれから自慰で精通を知り、一端の性知識を会得していたことである。
愛玩的な存在からそう簡単に成育するとは考えてもなかったので、女はたじろぎつつも自分の思惑が早々に鋳型へとはまった微妙な感慨を覚え、急速に冷やされていく行程が流れ星のごとくよぎった。
ことの起こりは咄嗟な戯れであったけれど、慰み程度に少年と触れあったわけではなく、この家に縁がある者として禁断を越える反動に制圧されたとしか言い様のない情念が渦巻き、あの懐かしい三面鏡のひかりに少年が向き合っている情景がすべてを決定してしまった。
真っ赤な口紅がひとすじ、意味をこじつけるのが無理なくらい、時計の音さえ途絶える恐懼がそこに潜んでいた。
女は少年の口をはじめ懐紙で、だが動じないまなざしに魅せられるよう自分のくちびるで拭ってしまったのだ。余計なことを落とすどころかこれでは上塗りでは、そうこころの中でつぶやてみたけれど、座敷牢を思わせる不穏な空気のよどみに足をとられ、よろめいたときにはすでに遅く、女は少年を愛していた。
もちろんのこと、この小部屋での過ぎゆきは日常から逸脱しており、その後の悠長な流れにふたりの密会は春の陽気とは無縁であるどころか、より深まったという。
[270] 題名:鏡 名前:コレクター 投稿日:2012年04月03日 (火) 05時45分
オートマチック
もう随分まえに帰省したとき、お姉さんには話さなかったけど、背筋が思いきり凍りついたことがあったの。
精霊流しの晩、わたし一人で港まで歩いた。それまでは家の誰かが供養に行ってたのでしょう、でもあのときはお姉さんも居なかったから、ほとんど呟きに近い声だったけど、お母さんにお願いしてみると「じゃあ、頼もうかねえ」って穏やかな笑顔が、湿気を含んだ夏の座敷に小さく広がったわ。
幼い頃おばあちゃんに連れられた想い出は確か、山側に架かった夜の川だったから、お盆に海岸へ足を運んだのは始めてだったけど、海に供物を流すなんて今の時代ではもうあり得ないのは知ったし、お母さんにも手順を聞かされていたんで、久しぶりに目にした夜景は朦々とした線香にもかかわらず、不思議に懐かしく感じられてね、たぶん花火大会の人出を思わせたんじゃない、立ちこめた煙にまぎれる人影がにぎやかだったから、打ち上げがはじまる前の雑踏に呼び戻された気がしたのよ。
見慣れた大通りを歩いていったんだけど、ああした儀礼って祭りじゃないので気分は華やいだりしない代わりに、花火の炸裂があべこべに閉じられているみたいな、かといって勢いが押さえつけられ、くすぶってしまっている感じじゃなくて、何かこう、夜空が悠然と地面に降りている、そんな当たりまえなんだろうが、普段よりも神経が敏感になっている自分に気づいたりしない。違うの、変に細かい意識がざわめきしたりせず、もっと大らかで静かな気配に包まれているってことよ。例えは妙かも知れないけど、すごく香りのいいお茶をひとくち戴いて酔ってしまう、だからもちろん気持ちはしっかりしていて、酔い覚めを知るまでもなく、ごく自然に踵を返すことが出来る。
あの晩は少しだけ、まだ夜景のなかに佇んでいたい気がした。近所の人や見覚えのある顔が通過していくのを見つめていたいわけでもなく、読経に呼応する潮風の匂いを確かめてみたいのでもなかった。
でも、おそらく懐かしさを留め置こうとしただけだから、わたしの影は用が済むと実際にはすでに港から遠ざかっていた。
夏の宵は切ない幻灯機よ。だって家を出た時刻は他の季節ならたっぷり暮れているのに、まだ辺りはうっすらとしていて、まぶたの裏に灯りが残っているようで心地いいけど、一気に暗がりの帰途へ進んでいくもの。わたし、やっぱり余韻を引きずりたかったみたい、青々とした海の色を眺めれなかった代償をその場で清算したくなった。逆だと思うでしょうが、深い闇は白々とした感情さえのみ込んで、すぐに吐き出してしまう、わたしはもと来た大通りをはずれ、河口に沿った夜道へ向かった。
街灯もまばらで右手には墓地といった寂しさだったので、あまり気色よくはなかったけど、この付近を散策するなんて中学以来だし、不意に鮮明な記憶がわき起こったり、夜風が間違いのように冷ややかだったりするものだから、さっきの酔いがもう一度めぐってきたみたいで足どりは軽快だったわ。
星を見上げる余裕はなかった。帰路を急ぎたくない思いと歩調がうまくかみ合っていないせいだろうか、民家の乏しい灯りは増々心細くさせる使命を果たし、踏切の位置がようやく認められたとき、わたしはその先の木立を一心に見つめていた。
真っ白な反物らしきものが宙にゆらゆらと浮かんでいる。胸のなかにぽっかり空いた夢の場所、早まる夜の流れ、微笑がこぼれている、そう強く念じていた。
幽霊
きまじめな光線の加減で少女の表情は愁いを作りだしていた。しかし、その瞳の奥には明らかな無関心が優雅に息衝いており、長いまつげは予想したより見事な隠匿を発揮している。また目尻から頬にかけて遠い惑星を静止させたふうな極めて程よい大きさのほくろが並んでいて、いくつあるのか数えるのが無意味に思えてしまうくらい、自然と調和していた。
少女の笑みは誰からも賛美された。時折きまぐれの灯りが小さな面をとらえない限り、悲哀は本来の役割に忠実であるべく循環を絶やさず、もっとも年老いた蝶と悟られることはない。たとえそう知られようとも、そのすがたにより却って人々は感嘆し、深い叡智にふれたときのごとく少女の容貌を愛でるのだった。
世界中のあらゆる花びらが一カ所に舞いおちた。どんな口紅もその発色を再現できなかった。同じことが少女の全身に見出されるに及んで、大方の形容詞が効力を失い、器用な比喩はいつも疎遠であり続ける運命を強いられた。ただ、人々は愁いに結ばれているはずの口もとからそっとのぞく、もの言わぬ吐息に促されている。雪の結晶を顕微鏡で観察するこころが何のためらいもなく育まれたとき、少女は例のもの悲しさを優しくあらわにして、清涼水のような視線を流すのだった。
いつか魅せられたひとりの青年がこんな質問をした。むろん彼は蝶の羽ばたきをよく見極めているつもりである。そして老醜についても。
「どうしていつまでもそんなに美しいのです。生まれかわるからなのでしょうか」
幼虫の脱皮がくり返されるとでも言いた気な声色であったのは仕方ない、そう尋ねてみたかったのも無理がなかった。少女の影は青年のすべてを被っていたから、繭の本能に基づいて。
顔
吸血鬼になりたかった。数百年も生き永らえてきたのならば、もう永遠を手にしたと言える。
「地球、いや宇宙の進化から比べるとケチ臭いな」
そう死霊に反駁された男は自分の宿命を呪った。だが、ふとこう思い「なるほど、人類の歴史などたかだかしれている。どんな死に方、いや失礼、生き方をされたのやら、あなたもひとの霊であるなら、ましてやこの世に浮いて出てくる馬力と念を備えているのなら、そう古い存在でもあるまい」
「存在論などやめておこう、ただし永遠なんて気軽に口にしないでもらいたいね。吸血鬼なんか、何度も退治されてるんだ。その時代ごとにもの好きがいて復活の儀式とかやるから甦るだけさ。あれは欧州のロマネスクだよ」
「化石とかの歴史よりはまだ血が通っている」
「だから血を吸いたがるのか」
「そうかも知れない」
「ならそうすればいい、さあ私の生きた時代など語ったところで学者以外は喜ぶまい」
男は逆転の瞬間を実感し、こう吐き捨てた。
「あなたが霊であれ、ぼくの妄想であれ、見失えば寂しいものだ」
[269] 題名:クワガタムシ 名前:コレクター 投稿日:2012年03月27日 (火) 03時27分
昆虫記にしようと思ったんだけどね、いくらなんでも大仰だよな、まったく。虫の生態の記録なんて気恥ずかしくてさ、そういうわけだからそのまま、この題名でいいんだよ。
誰だい、カブトムシとクワガタを取り替えっこしようなんていったのは。「へい、あっしでござんす」
「時代劇は関係ありませんこと、ですからそんな言い方やめてくださらない」
「おたくの口調もだいぶ古くさいですな」
「なんとでも言え」
「なら交換しましょうや、ほれこの通りいい大きさのカブトでしょ」
「まあ確かに、でもこっちは小型のノコギリクワガタだよ。珍しい種類でもなさそうだけどね、ただ、いい艶してるだろう、そこが気にいったんじゃないの」
「分かりましたか、ひかりのあたり具合で反面なんとも味わいのある、漆塗りの汁碗をおもわせますなあ。栗色のうちにも深みがあってしっとりとした明るみも兼ねています、こうした彩色は実に目に優しい。凝縮された張りのある力強さは頼もしげにも、しとやかな憂いとも見立てることが出来ます。黒髪に隠された光沢が風にそよいでいる、そんな日差しの思惑を担っているようで」
「よく観察すればだろ、でもまあ、そこまで持ち上げるんなら交換してもいいけど」
「そりゃどうも、旦那、ありがたい事で」
「旦那なんて、調子いいな、で、虫カゴごと持ってくかい」
「滅相もない、もう懲り懲りですよ」
「どうしてまた」
「ちょいと話しは込み合ってますがね、なに洟でもかみながら聞いておくんなさいまし」
「あっ、そう」
なんでもその男は子供の時分、安物の虫カゴに入れておいたクワガタに襲われたそうで、いや、この場合は幻惑されたと呼んだほうが適切な気がする。洟をすする気配をあざとく推し量ったのか、春風に乗って語るところによれば、
これよりもうふたまわりはありやしたから、そりゃけっこうな大物でして、虫カゴのまんなかにあったでょ開閉口、一応透明なんですけど、おもちゃみたいなもんですから、買ってすぐは透けてましたがね、手垢のせいばかりではございやせん、じきに曇ってしまいまして、捕まえたときも、うれしさあまってカゴに入れとくのが物足りないないみたいな、はあ、かといって取り出して手際よくひもなんかで括れる自身もありません、とにかく矛盾してるふうに聞こえるでしょうけど、落ち着きの悪さが胸にひろがりましてね、食べれるものならいっそむしゃむしゃとやりたい気分もしたり、だけど、まあ結局その見通しのよくない開閉口から愛でつくす意気込みで、ひたすら覗いていたわけでござんす。
プラスチックの虫カゴで色なんかも取ってつけたような草色してましてね、ああ、旦那も覚えありますか、しかも縦横に隙間を切り入れた雑なつくりですから大事な獲物のすがたが見えにくいときた、健気にもギザザギとした手足のさきを愛想のない切れ目にひっかけている様子なんざ、却ってゴキブリと見間違いたくもなります、えっ、それは大げさだろうって、へい、まったく旦那のおっしゃる通り、ですがこうも見栄えがさえないとなればですよ、あっしの両目に映っているのは別の生き物だ、そう念じてみたくなるのも人情ってもんじゃありやせんか。とにもかくにもあっしはクワガタの全体像を見つめていたかったわけでして、変に意識が集中してしまったのかも知れやせん。
カゴをそっと揺すってはまんなかに来るように仕向けて、じっぃと見入っていたわけなんです。さて三年ほど過ぎた頃でしょうかね、いえいえ冗談、それくらいの心持ちがしたって意味ですよ、しばらくってことでやす。
草色もいつの間にやら、目に親しんだとでも言いましょうか、安物の虫カゴにしては緑が息づいているんじゃないかと、へい、錯覚も甚だしく、思い入れもどっぷり深まっておりますからね、あっしはその方面にためらいなくすすんで行きますと、これはどうしたことでしょうか、あんなに視界を曇らせていたところがまるで魔法の手を借りたみたいに、それはそれはピカピカと反射する使命をさずけられたくらい、ガラスマイペット、あっ今はガラスマジックリンって名前に代わりましたけど、匂いもどうでしょう、昔のほうがツンとくる感じあって消毒液みたいなきつさも懐かしいのですが、旦那にもごらんにいれたいほどのひかり具合なんですよ、そうです、あの洗剤で磨きあげたに違いないって。
すっきりくっきりな按配ですので、クワガタもさぞかし歓んでいたのでしょう。細やかな照り返しさえ除いてしまえば、そこにはひかりが輪郭を手放したとしか思いようのない、透き通った、そう、しゃぼん玉に反映する紫色がかった光線にも目をくれず、ひたすら極薄の皮膜の世界だけを眺めているような、そんな純粋な意識ですべてを包み込んでしまうのでした。陶然としたあっしの目はどこへ定まったかなんて知るよしもございません。そんな有り様でしたから、へい、まさかクワガタがこの眼球に突撃してくるなんて、そりゃ隔たりが擬似的に消えてなくなったことに耽溺したい気持ちが幅を利かせておりやしたから、あっしには夢と願いはしても、本当に飛び込んでくるなんてよもや考えてはおりません。もっともあのノコギリ二枚刃に突つかれてみてはじめて我に帰った、これが実のところでやんす。
痛いなんてもんじゃありませんよ、なんせ大きな型でしょ、それがかっと大開きになって見事に両の目へ直撃したんですから、飛び上がった高さも天上際まで、とまあ、そのときはそう感じたもんです、へい。衝撃は全身を貫きやしたね、足の裏までしびれたのが思い出させますから。で、ここからさきは旦那も信じられんと言われるか、鼻水止まらなくなるか、恐縮ですけど、しびれと同時にあたまもしびれましたからね、妄想も踊りだすでしょうし、付き合いきれんと思われても、あっしは別に奇をてらおうなんざ考えてもおりやせんので、聞き流してもらってけっこうでござんす。
しかし妙ものですなあ、目ん玉に突き刺さったノコギリがですよ、グイグイと深く食い込んでしまいにはクワガタの奴、すっぽりとあっしの顔の中と申しますやら、眼窩を通り抜けて額の奥あたりにもぐってしまったのです。左右に口を開けた二本のノコギリは間違いなく両方の目を襲撃したはずなのに、あら不思議、本体もまっぷたつに割れて侵入したんでしょうかね、そのあたりが謎なんですけど、それより旦那、痛みやら驚きで目一杯にもかかわらずですよ、あっしのあたまをこんな意想がかすめていったのでした。
「**膜も破れるときは激痛に見舞われるものなんだな」
へい、あっしはれっきとした男ですよ、その気はちっともありやせん、だから逆にへんてこな想像が働いてしまうなんてこともあるんじゃないですか。と、まあ刹那のよぎりだったのでしたが、次にはノコギリクワガタに連想されたある物語が渦巻きはじめたのです。「処刑船」って短い小説でした、作者は誰だったのか覚えがありませんけど、色情魔とも殺人鬼ともいえる若い美人の話しで、最後には意を決した彼女の父親が処刑を行なうって筋書きだっと思ったのですけど、岸壁から突き落とすのですね、すると下の海にはまさにクワガタ状の巨大な刃を搭載した船が待ち構えているって仕掛けでした。ところが落下していく寸前で死に様は描かれないまま物語は閉じていたんですな。あっしはあの神をも畏れぬ人間ばなれした娘の表情を思い浮かべてみようと躍起になるんですが、どういう風の吹きまわしか、いっこうにあの美貌にはたどりつけず、一気に小学時代に引き戻されてしまって、はじめて体育として水泳の時間を迎える光景がよみがえるんですけどね、それが性の萌芽と名指すにはどうにも印象が濃厚でないし、欲情を惹き起こすには長閑すぎるんです。
へい、プールへ行くまえに教室で全員が着替えするわけなんですが、あるおんなの子がやおら真っ裸になってから水着をという風呂にでもつかる有り様だったので、何気に見ておりましたら、先生が「あらあら、さきにタオルを巻いてから脱げばいいのよ」みたいなことを苦笑いしながらその子を諭していたのでした。あっしはその先生の言葉を聞いてから、どうも股間のあたりに違和感を覚えたんですね、おかしいでしょ、服を脱ぎだしたとこから目線は這っていましたし、全裸になってその男子とは異なる一本の筋を持った局部を珍しいものでも発見した感覚で注視したにもかかわらずにですよ、解説文みたいな先生の一言によって意味を知り得たのですから。さすが性教育、文部省ここにありでやんす。へい、その子の罰の悪そうな顔も色あせておりません。
続きまして、いくぶん性欲に対する意識が芽生えた中学の頃でござんす。あからさまな欲望が仕出かしたとは思えませんが、まあ眠れるものは片目くらい開けていたかも知れませんな。掃除の時間でしたか、あっしは悪気はなかったのですけど、一緒にほうきでせっせと床を掃いていた大柄の女子に向かって少々乱暴してしまいました。いえね、えんじ色のトレパン姿なんですが、殊更に色気を嗅ぎ取ったとか、むっちりした肉付きに目がくらんだわけじゃありやせん。なんとなく、ほうきの柄のさきでその女子の股間を突ついてしまったんです、はあ、まさかあんなに的確に命中するとは案じてなかったので、斜め下からちから込めた勢いが、まるでスッポリと割れ目にはまってしまったみたいな手応えを感じて、あっしのほうもビクッとなりましたよ。相手の女子はなにが起きたのか分からない表情をしており、怒りをぶつけるまえに困ったふうな顔つきだけで終わってしまった記憶がありました。よくよくめぐらせば、都合のよいようにあとからあの状景を書き換えたかも知れませんがね。
と、いった想い出はいいも悪くも案外長く生き続けるもんです、旦那どうですか、ほら、あっしの額から木の芽が出ているの分かりますでしょう。春先はいつもこうなんで、もう慣れましたけどね。へい、夏場なぞ、それはそれは、もうぼうぼうでやんす。産毛が植物に変化するのですからね。そのカブトムシは偶然あっしの額に止まったから捕まえたんですな、どうも自然界より季節が早く訪れるみたいで、この間も黄金虫とか玉虫とか精霊バッタとか、スイッチョンがやってきました。虫の世界も大変みたいですよ、色々とよもやま話しする連中もいて、まあ大概はメスがどうしたのやら、子育てに追われて昆虫採集にも行けないなんて話しておりやした。はあ、虫も虫を捕まえたりするんでしょうし、あっしにはそう聞こえましたけど。えっ、このクワガタですか、どうもしやせん、ちょっと手のひらに乗っけてみるだけで、その辺の山に放してやりますよ。
[268] 題名:続・探偵 名前:コレクター 投稿日:2012年03月21日 (水) 00時03分
路傍の黒衣がきっと符牒なのだろう。夕暮れを取り急いでいるような婦人のすがたに再び出会う。
あれからの月日はしれていたけど、犯人と目された松阪慶子似の悽愴な死は、限りない青みを帯びて網膜に棲みついていたに違いない。なぜなら澄んだ空気にもかかわらず、また斜陽の雰囲気にこころ鎮められていたとはいえ、蜃気楼が及ぼしたふうな霊妙な効果をどう感じとればよいのやら、すれ違い様に見届けた面影こそ、死せるグリーン女史そのひとだったからである。とても声はかけれない、が、こころに沸き立つ言葉は刃物で彫られた文字がしめすごとく、ありありとして、適度な深みを、そしてうらはらに余分な凝視をあざ笑うような振幅で反響される。
「貴女は寒気をもよおす媚態で迫り似非心中を謀ろうとした。だが、自分は難を逃れた、浮かばれぬのも仕方あるまい、幽霊なのですか」
視線を交える間もなく、そして自分の逡巡を見限る気概がしめされたのか、はたまた、新たな技法でも駆使されたのか、めぐる念いは倒錯した景色にのみ込まれてしまった。
映画はすでに始まっている。符牒が門口なら、必ずあの場面に立ち返っているはずだ。そして相変わらず自分の存在は透明人間みたいに意味をなしてなく、不本意で苛立たしくて、そうかといってスクリーンを裂いてしまうほどの憤怒は抱いておらず、傍観者の安堵と興味のうちにやはり居座っている。
上映後に待ち受けている帰宅の腹立たしさのほうが念頭にあったから、電話を借りて「便所になんか布団を敷くんじゃない」と家の者に言いつけようとも案じたが、どうにも物語は緊迫している様子なので、結局黙って情況を見渡すことした。
岩下志摩ふうの女主は仏壇のまえで哀愁をにじませた無表情をつくりだしている。金田一探偵がレッドと呼んだあの心情を面にあらわすことを忌避しているこの屋敷の気配そのもの。グレーとかブルーと言われた人物のすがたは今日はなく、他には落ち着いた色合いの着物をまとった司葉子似の気品ある女性と、同じく和装の涼しげな愛くるしい目をした吉永小百合を思わせるひと、薄紫のワンピースが初々しい星由里子によく似た令嬢、その付き人らしき菅井きんに生き写しの老女、右奥には探偵の心底から困惑しているのか疑わしい顔つきが覗けた。
「つまりですね、グリーン女史が真犯人でなかったとすればですよ、あのひとは冤罪をはらすことなく処刑されたわけです。これはまいったなあ、なぜ奥さん貴女はわたしにあんな耳打ちなどしたのです」
どうやら以前の結末から更に飛躍しているようだった。「黒衣のグリーンはそれで自分のまえに、、、」どんでん返しをも期待しつつ、早くも映画の続きに巻き込まれていくのが痛感され、ほどよい刺激が走り抜ける。
女主の返答を待つまでもなく、居合わせる誰もが無言を通し、開け放たれた襖へと澱んだ思惑が吹き流されてゆくのみ、詰め寄る探偵の気忙しさだけが室内に充ちる。
「あの雨どいに毒薬が仕込まれていたのを報せてくれたのはどうしてですか、グリーン女史のゆく先々で毒殺事件が発生しました。これまでの調査からこれは揺るぎのない事実なのです。奥さんは遠縁にあたる女史をかばいきれなくなり、そしてこれ以上の惨劇をくり返さないためにと、わたしにすべてを託された。女史は殺人者独特の嗅覚でそれらを察知し、自ら命を絶とうとした、間一髪踏み込んだときの過激なまでの抵抗はなるほど、今からすれば無実だからこそとおっしゃりたいのでしょうが、連続殺人の動機から考えましても逃げ場を失った狂乱に尽きるのではないですか」
自分は探偵の陳腐な推理に呆れ、まったく的を得てない答えに我慢がならず、例によって劇中へ乗り込んでしまった。そして、冷遇されないよう、ちょうど無人島からありったけの大声を海原に向かってしぼりだす勢いで両腕を振りまわしながら、探偵に言い放った。
「金田一さんはごらんになったでしょうが、自分が女史とくちびるを重ねていたのを。彼女は殺人鬼とは少し違う、いわば心中マニアなんだ、これまでが失敗に終わったから、今度こそ本懐を全うする覚悟だったのです。あのひとの目はそういう色をしていました」
探偵はじめ一同の注視がほぼ現実味をもって集まっているのに舞い上がった自分は、矢継ぎ早に「どうしてあのときの意見を無視したのです。うかつだったのは同じでしょう、差し出がましいのは承知でしたけど、金田一さんはどうしても連続毒殺事件と認めないと気がすまないみたいですね、でははっきり言わせてもらいますよ。探偵はこのわたしなのです、あなたではない」そう断定してしまった。
女主の視線を横目にも熱く感じる。司葉子の表情に異変が、吉永小百合の口もとからは吐息のようなものが、星由里子の微笑もこぼれている、菅井きんは口をあんぐりと開けたまま、そして当事者の金田一も思いもよらない事件現場に向き合ったときに得る、あの会心のまなざしを注いでいるではないか。
「今回の件は出来の悪いドラマだったのです。自分はここに来るまえグリーン女史とすれ違ったのですよ、これだけでも信憑性があるといえるでしょう」
ほぼ全員から嘆息がもれる。それは同時に映画自身の醍醐味でもあると確信した。しかし出来が悪いなどと批判しておきながら、慢心を覚えたのが運のつきだった。
「誰です、テレビをつけたのは、話しの途中ではないですか」
金田一探偵は髪をかきながら、その注意さえ面倒臭そうに言った。
「あたしはね、毎日この時間はニュースを見るんですよ。どれチャンネルが違うのかな」
菅井きんはいっこうに悪びれる顔もせず、すぐさまそう応えた。そして「あれま、金田一さん、これあなたの事件簿ってドラマじゃないですかな」と驚いたような素振りをする。
「再放送でしょう、古い番組やってるな」
探偵も抑えの効いた声で返答した。
「へえ〜、吉永小百合も出てたんですか、まだ若いですなあ」
「一度共演しました、確か」
「じゃあ、このひと誰です、出演者に見境なくサインして下さいって騒いでいる男」
この部屋にテレビはあったのだろうか、いや、そんなことは問題ではない、それより探偵のいう再放送のドラマに自分の影が見てとれる。まさしく乱入といった態で無様に歪んだ笑顔をただそうとしている。唖然とした自分を置き去りにしたまま、探偵はこう呟いた。
「奥さん、今回の犯行は貴女でしたね。グリーン女史を隠れ蓑にして」
うなだれる岩下志摩、仏壇から煙る線香がその横顔をかすめ、無言でうなずくと、女優としての風格が漂い出して、屋敷全体を被った。
目覚めたとき、夢でも恥をかけば実際と変わらない心持ちがするものだと、つくづく感心してしまった。
[267] 題名:惜別 名前:コレクター 投稿日:2012年03月19日 (月) 00時02分
「暮田くん、、、暮田くん」
そうくり返された声が自分を揺すぶっていると知るまで、いえ知ったあとでさえ、次第にかき消えてしまう余波は何故かしら、空耳にも似た微かな実感でしかありません。
春休みをまえにして先生より手渡される通信簿にまごついているのなら、姿勢をただす緊張と、くじ引きとか興じるときの妙に取り澄したゆとりが混然となっているのでしょうが、その日の静夫には成績の悪さもテストの点数で確認済みだったし、このクラスの生徒たち、大半は進級とともに毎日顔を合わせることがなくなり、一抹の寂しさみたいな思いを到来させて当然でしたでしょうけど、耳もとに送られた空気のような名はどこか別のところから呼ばれている気がしてなりませんでした。
まぶたを閉じるまでもなく、まだ冬の名残りが地面に居座っていて、年の瀬や正月の澄んだ町の景色が色調を加減させながらも、静夫の胸にゆっくりと、まるでかたつむりの動きのように描きだされます。けれども正確な日付は思い返せません。
当時の歌謡曲に付随していた、恋だの愛だの、別れといった言葉の重みはあっさりと責務から解放されて、漫画のひとこまに近い端的で、素早く、しかもシールの表面みたいに手軽な意味合いでめくられてしまい、肝心の想い出を沈ませたものはなかなか確かめ難かったのです。
「明日は絹子ちゃん帰ってしまうから、ひとこと励ましてあげなさい」
母の憂いはそつない柔らかさに包まれ、毅然とした口ぶりに違いないのですが、静夫には始めて絹子と対面した日の場面に立ち戻っているよう思えて仕方なく、憂いの情は絵空事にも感じられて、明確な忠言は明日という時間を定めているのでない、そんな投げやりで、浮遊した考えがまとまりつかないまま、想念は血流をたどり足もとに降りていきました。そして沈滞した情況こそ、永遠を願う夢見とうっすら覚えつつ、実際には母の言葉は素通りしてしまい、絹子の面がわけもわからず脳裡をめぐっていたのです。
「なんて声をかければいいんだろう」
それこそ歌謡曲の歌詞に即した挨拶もよぎったりもしますが、実態からかなり隔たりをもってしまった面影にしっかりとした情感が備わっていない限り、作られた言葉は空疎でしかなく、が、悩みという程ではないにしろ、静夫の鼓動は着実に夜明けに向かって届けられていました。
夏休みを振り返りながら懐かしさが埋没してゆく秋口に入った頃、絹子がやってきました。でも当初の戸惑いはポップコーンが弾けたくらいなもので案外臆するべきもなく、重荷を背負った感覚からは遠くて、ひとりっ子の静夫に去来したのはシュークリームのような程よい感触だったのです。水気の薄い皮の中身に美味とは異なる、熱烈でいながら冷ややかさを保てそうな、抑制のある、甘みにうちに溺れない弾力がちょうどよかったのでしょう。
年明けまでの短い期間でしたけど、ひやりとしたことは幾度かありました。絹子が夢に出てきて大胆な振る舞いを見せたり、普段からもっと話しかけてあげなければと思いながら、結局、この家にあずけられた事情も詳らかにされることなく、それは両親があえて口外しない厳格さを嗅ぎ取ったからで、そのまま静夫を凍結させる効果を発揮しましたが、色眼鏡をかけさせてしまう距離を生んで、互いに歩み寄るすべを得ないまま、いえ、不安定な好意だけが一方的に排出されてしまったので、噂話などは確かにまわりから否応なく飛び込んでくる場合もありましたし、絹子との血縁から類推して、彼女を取り巻いていただろう過去を少しばかり想像することも出来ました。しかし、頬にしるされた傷跡の大きさを見まいとすれば、逆に悲惨な想念がわき上がってきてしまい、さながら腫れ物の触るような心地を一層強めたのでした。
いつかの凧揚げのとき痛切に響いた疎外感こそ、静夫の思いやりのなさで、先取すべくしてあらわにした羞恥であり、見失うことを怖れ念じた大人びた馴れ合いだったのです。
絹子に接する状態が別れという現実のさなかでも崩落しないのは皮肉なものかも知れません。静夫の守護神は絹子を小悪魔に仕立て上げ、駆逐する算段を擁していたのですから。
十歳の静夫にも人間の業といいますか、善悪の機微とはいくらか大げさでしょうけど、自身の胸中にわだかまる不穏の正体をかいま見ることは不可能ではありませんでした。一方でそれ以上の内省を拒む童心は健全な機能を失っていませんので、おそらく母を代表として託したであろう、思いやりと礼節を静夫はついに翌日へと持ち越してしまったのです。
その晩の寝苦しさも今となっては、熱病に冒されている時間を逐一なぞるような按配なので、夜想に渦巻き、安眠という揺籃を乱したに違いない音なき辻風に促され、白々しくも気運を秘めた当日の朝陽に語ってもらいましょう。他でもありません、静夫は家のなかで誰よりも一番に目覚めたという自負があったからです。
窓の上では鳩が鳴いています。その声不気味ですけどよくよく聞き入れば、くぐもった小さな絡まりが、ころころと朝もやの彼方に消えていく、あるいは夜の魔王の咳払いしたなごりが軽やかに陽光に炙られる試みであり、太陽と夜が織りなしてきたあまりに壮大な仕草なのです。
「からだに気をつけてね、まえの町とはそんに離れてないから、すぐに慣れるわよ」
母の目は悔しさが勝っているみたいなひかりを放っていますけど、声色は低く優しいのです。
「ずっと家に居てもらってもよかったんだが、この方が絹ちゃんにはよかった」
苦渋をにじませ、おおらかに話す父。
「又、遊びにおいで、ばあちゃんの目の黒いうちにな、きっとだよ、元気でな」
まぶしいものを見つめるまなざしの奥には慈愛が堂々と溢れ出ています。
朝飯を済ました家族は、迎えの車が到着する間、玄関先に佇んだまま、無言の隙を埋めようとそれぞれの思惑を、見慣れたはずのガラス戸に映る影にと求めていました。心配いりません、日差しはみんなこころを透かし文様のガラスに焼きつけています。決して鮮明ではありませんけど、不慣れな手つきで撮られた一枚の写真が思わぬ配置を浮き出させるように。
「ほら、静夫、絹子ちゃんに、、、」
母に背を押される具合で両の目が向き合います。
表に車の気配がする度に静夫は無性に悲しくなってきました。祖母がガラス戸を開けてみると早朝の寒風は辛く、急いで閉め直します。すると絹子の目にしみたのでしょうか、うっすらとひかるものが見えます。
「ありがとう、おにいちゃん」
か細い声でしたが、静夫には確かに絹子の言葉が聞こえました。
「どうしたんだ、先にお礼なんか言われてしまって、、、」
この場に及んでも、静夫は自分の情けなさに拘泥してしまい、取り返しのつかない大事なものを忘れかけてるのです。
「おじちゃん、おばちゃん、おばあちゃん、ありがとう、あたし、楽しかった」
律儀にあたまをペコリと下げている絹子の姿が、まるで映画にシーンにも思えてきて、静夫は一段と苦しさが充満しましたけど、何気なく横目に入ってきた金魚鉢へと溶けて、没し、視界が流されるのを気づいたときにはもう涙で顔中ぐしゃぐしゃで、なにも気の利いたことなど絹子に伝えられませんでした。
悲しみを覚えるにも手順があるなんて、、、「ありがとう」それが静夫の送る言葉でした。
「暮田静夫くん」先生の語気は高まっています。「は、はい」
絹子が居なくなった家のなかに大きな変化はありませんでしたけど、自分のことを「おにいちゃん」と呼んでくれたあの朝を忘れることが出来ません。静夫は絹子に向かってその名前をこれまで口にした記憶がなく、また絹子の方から静夫に話しかけてくることもなかったので、別れの親しみはこんなにも胸に残り続けているのでしょう。
[266] 題名:中左衛門異聞 名前:コレクター 投稿日:2012年03月06日 (火) 02時47分
はや三年、我が胸奥に仕舞われたる誠もって不可思議千万な一夜の所行、追懐の情に流るるを疎めしはひとえに奇景のただなか、夢か現か、ようよう確かめたる術なく、返す返すも要職の重しに閉ざされたれば、口外厳に禁じられたるところ、斯様な回顧もまた御法度なり。されど案ぜられるは後々の子孫に降るかかるやとも知れぬ怪しき口上、姓名は憚れし上役殿より仰せつかるる役目を果たすも後に謎めく声色、さながら狐狸に誑かされ、或は巧妙なるはかりごと裏方ひしめいていたのやら、今となってはただただ隠密裡に運ばれたものよと、大義を滅するは畏れ多く、自戒の念こそ頼みにするばかり。
しかるにこれを記すは当家筆頭たる矜持、かく云うところの戒めを破らん所為なれば、未来永劫我が身焼き尽くされようとも泰然として承引いたし所存、業火へと包まれたる念いの先、これ紛うことなし末裔に捧げられよう。
足袋先かじかむをつと忘れもせん睦月の頃、御庭番末席を汚すばかりこれまで殊更際立つ任務携わるゆえもなく、戦国の世ならばいざ鎌倉の心意気、日々の本懐なりと唱える声も低く沈みける。そこへ降って湧いた如く、上役殿からこ度の指令、心拍気高く打ち、我が面容鏡かざして見るまでなく閃光発したかの輝き、浮き足立つ勢いなだめる有様ながら、しかと拝聴仕れば、さてさて風変わりな伝達にて候。
紀州藩武芸指南役なりと耳に入れしところ身の引き締まるを覚えたるも、同藩なる我には根図中左衛門と名乗る御仁かつて聞き及びなき、されば異名にて暗躍されし人物と思い巡らしたり。須臾の間、上役殿の申すに、黙思にて行動を計るべしとの言、まさしく真意奈辺にあるが如し、返答に窮する始末。常より眼光鋭利な顔色に仄かな微笑こぼれ、そこもとには合点いかぬところもあろうが、明日の夕刻を待って指示通り歩を進めらるがよし、上役殿には珍しき薄いもの言い、元来の務め今更目覚めるかと思し召しに本然たる姿知りたまう。
さて明けた日輪の翳りを頼って北西の山中目指し候。草深き土地なれど迷い込む恐れ毛頭あらぬ、たかがか三里の隔てなき地続き、平安こそ胸を去来すれ遅疑いっこう訪れず。使命に即する思惑、春を望む人肌より放たれる上気にも似て裏面に隠されよう暗黒の魔手、黄昏と目配せくばせする風趣なぞ木々の隙間に覗く加減、湯上がりの長閑さを彷彿させては、道行く者もなき山路に人恋しさを運びゆく。鉛垂れ込めし夕空とまだまだ息吹を許されぬ山地、何処より届けられるものやら、薄絹が擦れ合うようなか細い、木の葉のざわめきが、崖下に聞くせせらぎの気配が、はたまた稚児の無邪気な鼻唄かと、その寂しさ一層募らせつつ遠近に流れゆき、陶然として草木の彩度に宵闇認めさし、にじます山稜を見遣りけり。
灯火用意いらず、根図中左衛門の見参まさに瞭然の合図、その人影を大きく見せる按配にて、山向こうに落ちた陽の名残りこそかの提灯とこころ揺らめき、足場にちから止め置かれよう。互いの間合い、神妙なる微風こころ得し様相、燗酒なぞ引っ掛けし頬の火照りを、冷ややかに撫で付ければ、自ずと背筋へ活力が付与されし。留意すべく箇所、我復誦する猶予の裡に火影近づき、決して我から先にもの申すではないとの命、かほど容易きにて明朗、さしずめ謎掛けに狼狽することなく嬉々として眉目を緩める呈なり。ならば逢瀬の高揚その場で立ちのぼってみるも不思議にあらず、徐々にあらわとなりかけた待ち人の面妖にこころ打たれたし。なんの戯れ、かの御仁、夜景から抜け出だしたと見紛う漆黒の紋付袴、如何にも隆とした身なりもさることながら、髷も一緒に隠されたるのが甚だ愉快に感ずる次第、一体かの鼠らしき御面いかほどの意味合い授けられているのやら、小首を傾げた我、怪異な気分を拭いきれないのも至当、とは申せ唐突なる異変に対峙したまい感想は等閑に付されし所存。家紋と知れる巴を描いた白きしるし確かめる間もなく、武芸指南役たる身分と姓名を怪鳥鳴り響く勢いで我に告げたれば、洞穴の奥へとまなこ引っ張られし如く鮮烈なり。中左衛門殿まるで黒蛇がとぐろ巻く様態にてゆるり身を翻しながら、我の本体を詰問する素振りなき、ただ後ろを着き歩くこと促すのみ。羽織袴はすでに夜風を含んだと見え、得も云われぬ弾力が全身みなぎる剛毅を養い、その反面抜けゆく浮いたふうな足どりに飄逸なるもの感じ入れし。
我、鬼哭啾々たる山間進まず、意識混濁、視界灯火のみにて在りき、行く手なお知るよしもなし、胴体より上もはや宙を滑り異空へと誘われし候。まどろみにも等したゆたう風光のなか、それが一点のねじ巻きの如く僅かな緊迫保たれたり、即ち帰還せざるは相成りや、上役殿とて異界の変化ならば、この身はどこぞ彷徨う宿命たるか、それにつけても捗々しい技量なぞ持ち得ず、風采上がらなきこの身など惑わしてみたところ、さてどの様な価値を見いだし得るのやら、いやはや呑み込み難きかな。
疑心ならほどけよう闇の間口、引き返すこと能わず、増々提灯の揺らめき左右に乱れれば、枯れ草踏む足音消え、耳鳴りと思われし能楽のみ脳裡に反響せる。桃源郷の開けし予兆、理屈にそわぬとは云え、兼ねて知人より風雅に語りたもう梅林の宴、興趣そそられしこと羨望に至りて、この妖かしの源に棲みつけたり。ものがなしきとなぞは仮令ばかり間を持たず妄念羽ばたかせ、鼠の御面を被りし奇天烈な御仁を追えば、必ずや馥郁たる芳香に囲繞されし夢成就、夜宴においてはまた格別の趣きも備わろう、梅一輪、眼前に花開くまぼろし近く、魑魅魍魎に親しむとき深し夜空、すぐ頭上へと垂れ幕の如く語らい収める役目に準じては、無言なる意志の疎通、花鳥風月の雅と変幻したまおう。我、目醒めを欲せず。とき、亀裂を生じ美しき異形を生み出さん。
中左衛門殿その影、灯火とともにすっと闇に融合せんと見紛うも頑是無きかな、かの一帯こそ妄想逞しゅう浮力に任せるは及ばず、平時より知りたまう名だたる梅林、夢幻の境地と、過剰な心象が作り出したる儀、ほどなく心得えし三里の足付きに我が目眩、あたかも神仏の慈愛と混淆せん。はて妖魔に魅入られたる役職のほど真意は如何に。我、忘失の彼方より漂浪せり白痴ぞや、想い事ごとつむじ風にも似たる。ならば巻き上がれし枯れ一葉の、塵芥の類いと軽視するは片手落ちぞや、風に吹かれたる念、瘴気をも駆逐せむ意志を秘めたりこそ。
道行きの指標暗に示さんとはまさしく影法師なれば、かの御仁こそ夢路の先達、鼠の仮面、誠に相応しけれ、もはや疑義挟まるところなし。魚心あれば水心、ついぞ寡黙を守り続けるもいよいよ中左衛門殿もの申さると、玄妙なるかな、一言一句の度にぞ魂宿れる。即ち一声発する間にさきの梅林、いつしかほんのりした明るみ生じ、月光の照りよくよく覚え、或は祭礼想わす壮麗な行灯の温もり近く、或はぼおっと霞んだ彩色なんとも愁いを含んだ調子、人影こそ遊べし習い求むるも甲斐なくはもとより承知、妖異の群れが踊りいでたり野火の果て、枯れ木も山の賑わいなどと、こころ静かに眺めたる。ときの狂いは我が眼の保養、絵にも描けよう宴とは程遠かれど、冴えた月影のもと、柔らかなるひかりに舞う芳しい異形の衆、妖しけり美しけり、実相の祭礼を跨いだ影絵とや感服いたし候。
どこぞから獣の鳴き声なども聞こえゆ。本来の梅林を知らず、ただ摩訶不思議な光景を堪能せり。夜空に吹き立つは我のこころのみにあらず。斯様なまぼろしななれば深更に流るるはいにしえよりの定石、されど本文の意向、妙なる夜宴をや縷々と語るにしかず、当家子孫への忠言こそがその深意なる故に、しかと読み解かれたし。
武芸指南役に伴われし山中での見聞、沙汰通り後日上役殿に報告致しところ、思いもよらぬ命を下されたり。
あの一夜、すべてそこもとの腹に収めたれ他言は厳禁、手記なぞに残すこともなきよう、委細は省略、よき夢想であったと念じておれとの申し付け、我ひたすら顔中より血の気引くのみ、御庭番たる心得重々に理解されしも、児戯に等しい茶番、はたまた上役殿から仕掛けらたる慰みなどと不審は募り、身分を投げ打ち畏れながらと両手のひら床に強くすれば、藩中きっての器と名高い上役殿、いつぞやの薄き笑い我に向けられ、奇怪なる役目、あたかも神事たる由縁を孕んだ如くに明徴な口吻にて、そこもとの末裔に通ずること故、仔細覚ゆるは難ありき、この世には人智をとうに越えうるもの多し、呪術妖術の類いとでも、また深遠なる究理とでも慮ればよし、あとは目映い場所を見遣るふうなまなざしのみ、一切は不問に付されたり。
平静を失するべからずと事後役職に専念せしも、底心に蔓延ったあの夜宴忘却し難し。先々の系譜に対する戦慄とは明解に袂を分つ、されば我の懊悩、天上よりの供物に他ならず、よって大義を捨て自戒を破らん。万事はこの血筋に帰結せし、御庭番なる要職もまた月明かりのみ知己とする本分、風雅なり、これ自嘲にあらず。
密かなる心待ち言わずもがな紅梅の時節、上役殿においては再度かの山中へ赴く下命うけたまわりしことなかるかの所懐。翌年同じく、また翌年には煩悶を伴い今日に至れたれりは哀しかな、末尾にぞ一句添えたし。
梅まつり 月光浴びて 玲瓏と 夢吹き流る あまねし木霊
[265] 題名:こおろぎ 名前:コレクター 投稿日:2012年02月28日 (火) 06時12分
長生きしようが、早死にしようが、こおろぎの音くらいこの国に生まれた者でしたら耳にしたことはありませんか。わたしは小さい時分、背丈ほど盛り土された芝生に駆け上がり、指先からはみ出すほどのびた青草をむしる要領で掌を握りますと、面白いくらいこおろぎがつかめましたので、一時期は虫かごが満杯になるまで夢中になってその場所に通っていたのです。蝉取りでもそうですけど、あまり大量に捕獲できてしまうと興が冷めるといいますか、早い話あきてしまうのでした。が、芝生とはいえ、草むらに潜む姿がいとも容易く手中におさめることの快感は禁じ難く、ついつい足を運んでしまって、しまいにはここいら中のこおろぎを全部獲ってやろうと考えてしまったのでした。例えはどうかと思いますが、軍事的には殲滅作戦というところでしょう、なにせ、テレビ番組のコンバットからの悪影響か、わたしにはこおろぎがドイツ軍の兵隊に思えてきまして、虫かごはさながら捕虜収容所、そこへおさまらない奴らは攻撃対象となるわけでして、といいましても、玩具のピストルで撃つなど高等な遊戯ではなく、つかみ獲ったまま少し離れたところにマンホールがありましてそのまわりはセメントで固められています、そこに勢いよく叩きつけ即死させる、そんな残酷な行為をくり返していたのでした。
今から振り返りかえれば、なんとまあ、かわいそうなことを、いえ、悪逆極まりないことを仕出かしていたのだと、ひたすら悔やむばかりです。こうして子供の純真無垢はわたしの中では甚だ疑問符と成り果てたまま、宙を泳いでいます。
懺悔のつもりではありませんが、子供ながらにおののき、くちびるから血の気が引いていくように感じましたのは、殲滅作戦が完了した、まさにあの瞬間でした。マンホールを取り囲むほどの死骸が散らばった数十匹どころではない、無惨な光景を直視し、ようやく憑き物が落ちたふうに勢いが消え失せ、うろたえて、何度も芝生をかき分けてみたものの、あれほど簡単に出会えた虫たちはいっこうに姿を現さず、二度とわたしの手の中に包まれることはなかったのです。いくらなんでも自分ひとりですべてのこおろぎを殺してしまったなんて考えは間違っている、ドイツ軍は猛攻撃にひるんで撤退したから辺りは沈黙を守っている、他者は知らず、わたしにはそんな弁解さえ思いついた童心が薄ら寒くて仕方がありませんでした。そして卑屈な涙を流してみたことも。一体誰に許しを乞うたのでしょう。以来、害虫と人間はさておき、無闇な殺生や加虐は相当ひかえるようになりました。
時折、似たような経験を聞かされることがあります。トンボの羽をむしったとか、カエルの口に爆竹を加えさせて放り投げたとか、よくもまあ類型的な悪戯が流布していたものだと眉をひそめてしまいます。わたしも同様なのでしょうが、そうした時分を思い返す人たちの顔つきは決して愉快な表情など浮かべてはおりません。悲痛な面持ちこそあらわにしていませんが、どことなく申し訳なさそうな、それは照れ隠しとも異なる、もっと内面からじんわり湧いてくる冷や汗のような、暑さに閉口している自然な苦笑いなのです。
人間が犯す残虐行為にはどうやら際限がなさそうです。生命体の保持が弱肉強食であり、血の噴出が転じて聖性を帯びる儀式の形態は世界中にあまねく見聞できるはず、ニワトリの首を斬り、その鮮血を浴びる祭礼に携わる民族に対して今日のにわかつくりで備わった動物愛護の精神など通用しませんし、それぞれの文化において、様々な生き物が崇められたり、反対に忌諱されているのは周知の事実です。それを野蛮と呼ぶのか、どうかは文化と時代が織りなすあやであって、一個人の視線から通底されるほど安易ではないでしょう。
けれども今、急速に人間を取り巻く環境が激変しようとしています。個人の世界でもなければ、世界の個人でもない、わたしたちは奇妙な世界との関わりを深めようとしています。わたしは平和主義を声高く叫ぶものでも、民主主義を徹底して尊ぶものでもありませんが、そうかといって歴史の終焉に賛同するほど悲観論者ではなく、また無常観を盾にする気分もさほど持ち合わせておりません。わたしは世界を知らないのですから。わたしが知っているのは、指先のささくれみたいな取るに足らない世界なのです。常にそこが入り口であり出口なのです。しかし、通路はけっこう入り組んでおりますから、あんまりぼんやりしていては迷宮を本宅にしなければなりません。これは随分と大風呂敷をひろげてしまいました。
こおろぎの話しに戻ります。桜の見頃にもなりますと、夜間には草木のあいだからその鳴き声が届けられ、秋の虫といったイメージが、こう何か悪くはない意味で前倒しになって季節の循環が狂ってしまったふうな、いい加減でまさに虫のよい、心地よさを覚えてしまいます。あれだけ残虐だった子供が言うには口幅ったいのですけど、これくらいしんみりとした音調を地面に伝えてくれる虫はおりません。他にも鈴虫や松虫なども品のよい風趣を醸してくれますが、彼らの努めは笛や弦楽器のように華やいでおり、いわば秋の真打ちとも呼ぶべき威風に彩られ、こちらの耳もしっかりと暗がりなりに傾けないといけません。
それに比べれますとこおろぎの単調で、夜気を吸い取っているような細切れな、幽かでありながらも案外、明瞭で主張さえしていそうな風情は、聞き入ることも、また無視することも可能な音楽ではありませんか。
以前、欧米では虫の音などノイズでしかないと言われている、確かそんな文章を読んだ記憶も古びることなく、おそらくそう年月も経る間もない、ビートルズのアルバムの曲のつなぎにこおろぎの音を聞いた驚きと、デビット・ボウイが雑誌のインタビューで「最近はこおろぎなどの鳴き声に耳を澄ましている」といった発言を知った歓びは思春期のわたしに決定的な刻印を残してくれました。あれから幾年か流れましたけど、静かな感動はいつの時代でも変わりなく胸にしみ入ります。
毎年のことですから、特別な想い出はないのですが、あえて上げますと、東京の六本木、大通りに面したビルの影、ひっそりとした外灯に照らされたこじんまりした人気のない公園、裏通りに何気なく足が向いたわたしを待ち受けていた大合唱、あまりの音量に大都会の機能を示されたようでもあり、もしくはそこが異界にも感じられたようでもあり、しばらく立ちすくんでおりました。二十年以上まえの夜景です。
今、指先のささくれをあらためてじっと見つめています、やはり供養かも知れません、こんな文章を書いているなんて。
[264] 題名:節子の部屋 名前:コレクター 投稿日:2012年02月28日 (火) 01時55分
「徹子の部屋じゃないの」
「深夜の放送だし雰囲気がまるで違う。あのタマネギおばさんでなく、もっともっと若く華奢で、儚げでいて、葬式みたいな着物で冷ややかだけど、ほんのりと人肌から浮遊しているような色香に包まれた司会者で、ちゃんと画面の下に『ねこやなぎ節子』ってテロップが出ていたから間違えようもない」
「録画しなかったわけね」
蛍光灯のもと、長いまつげをくっきりさせた目のひかりも初々しい少女が、訝しげにそう問うた。
「それで記憶に乱れが入るまえこうやって聞いてもらってるんじゃないか。外で酒飲んで帰って惰性でテレビつけたから、最初は変な番組だなあって眺めていたんだけど、次第に酔いも醒めてきてね、なんせ、見たこともないタレントだし、どこかに引き込まれそうな得体の知れない趣きがあるのであわてて録画したよ」
七三に髪を分けたいかにも実直そうな白い顔をした青年の鼻息は、荒いというよりか清々しい。
「でもあの放送は録ることができないんだろうな。そうに決まっている、画面に釘づけにされながら、落ち着いてリモコン操作してみると時間帯に関係なく、あの番組は空きの端子に映っていたんだ。さあ、早く話してしまわないと鮮度が落ちてしまうどころか、忘れられた夢みたいに二度と呼び返せなくなってしまう」
酔眼とはいえ、目にも鮮やかな毛氈が放つ朱を諌めるふうにして居並ぶ雛人形、背景そのすべてを飾りつくした有り様の何ともきらびやかで騒々しく、それが何段にしつらえてあるのやら、女雛、男雛は一体どの辺りに鎮座しているのやら、ぼんぼりの薄明かりが灯る加減は深紅の影に吸い込まれ、闇夜を彷徨ってみれば、おのれの黒目がただふたつ宙に舞い、五人囃子の奏でる響きも遠くに退いて朦朧たる意識のむこうに光芒を知る想い、三人官女のお歯黒にふと気づいたときは錯乱も心地よく、眉かくしの霊さながら「似合いますか」の一声にはっとし、青年は座敷に対座する女人が今宵の主賓だと知る。
際限なき雛壇の上方に光輝な金屏風の威厳を認める間もなく、地と図が反転する優雅さをまざまざと見せつけられた。それはまるで紅葉に染まりきった峰々を背にしながら浮き上がる白描画のようで、薄花色の帯締めが、かろうじて経帷子を彷彿させる白着物すがたを回避させながらも、司会者がまとった黒衣の和服と見事な対照を示している。
姓名を『六路首子』を紹介されたうら若き女は、画面に収まりきらない深紅の節句を大道具とみなしてしまうのを恥じ入るように、また平安の時代より生きながらえてきた人形も控えていることを悟りつつ、その首をほんのまねごとみたいに心持ち、ぬっと伸ばして見せた。
ねこやなぎ節子は風姿とはにつかわない闊達な口ぶりでそんな首子を褒めそやした。古風な日本髪の端麗さをそこなわず、簡素にまとめあげた髪結いが可憐であるとか、切れ長の目もとに紅梅をさっと擦りつけたふうな風合いが妖しさと交じり合っているとか、やはりろくろ首であるからには笑みは絶やさず、その眼光なめまかしくも薄気味悪さを覚えささなくてはと断言したうえ、さきの一声を首子自身の口からもらすよう促したのだった。
似合うも似合わないも、青年はただただ唖然として心音の鼓動さえ止まってしまったと感じ、寡黙なろくろ首を相手にその空隙を埋め尽くすよう饒舌なまでに語る節子の言葉が、この世に伝わるものとは到底思われなくなっていた。そしてうなずく代わりに美しき宿痾の本領を発揮し、微笑をたたえた顔面がするすると襟足から伸び上がっていく様に取り憑かれ、失禁しかけ、しかも、はらわたをめぐる液体からはみ出してしまいそうな、上半身から下半身にまで血とともに逆巻き、いきり立つような、例えていうなら牢獄に服する身でありながら自由を得てしまった夢想が何度もくり返される興奮に囚われたふうな、青年はろくろ首に限りなく欲情に近いものを覚え、ときの経つのを忘却していた。
司会の節子の語りを聞き取れなかったわけでなく、五人囃子の能楽を鼓膜に震わせてみても、ちょうど裏山の岩屋にひとの気配を察っするにとどまり、それ以上の興趣を持ち得なかったし、あべこべに予言に等しい感覚で来るべき光景を待ち望んでいたこと、ろくろ首が宿命であるなら、おのれの五感が描く図式は呪いきれない風景にいつもまぎれこんでいよう。
青年は見苦しさを卑下したのでない、この身を流れる、いや、この空間に飛び交う、電波や音波、霊波などを拾い集め、真夜中に浄めようとこころの底で願っている不遜に嫌気がさしていたのだ。
だから、こんな妙な番組を見てしまい、股間がふくらみかかっても一向にその手を抑えようとはせずに、むしろ脳波と協調した青みががった画面に真っ赤な悦びを知ったりする。
六路首子は女優であり、今回の映画ではじめて大胆な濡れ場を演じたという話題を聞き逃すはずはない、節子の軽やかな口調も微量の生唾を飲み込むような按配で、それから予告編が紹介された。
「想像にまかせるなんて言わないでね、わたし、平気だから」
少女の瞳の中にはちいさな蝿が飛び回っている。だが青年にはその蝿を捕まえることも追い払うことも出来なかった。
「するするっと、いや、ぬるぬるっとかな、むくむくっとかも知れない。伸びて伸びて、絡んで絡んで、巻きつくわ、締め上げるわ、ろくろ首のはだかは奇麗だったよ。相手の男は普通の人間でね、なんでも公募で選ばれたらしい」
「AVみたいね」
少女の声は明るく、他愛のない会話の域から一歩も出ていないと青年は思った。蛍光灯が地虫に似た音をひねりだしている。
「そんなもんだな、いいや、少しばかり違うような気がする」
「どこか違うの」
「すまない、話していたら段々思い出せなくなってきた」
「そうなの」
わずかのうつむき加減にもかかわらず、少女の長いまつげは深い失望から来る濃い霧を招いている。青年はそう見遣るだけの自由がまだ残されていると考えていたから。
[263] 題名:蛇女の逆襲 名前:コレクター 投稿日:2012年02月21日 (火) 00時37分
頬をなでる冷たい風に引き締まった美しい弦楽の奏でを感じるよう、僕にしてみれば子供らの奇妙なうわさ話は冬の空から舞い降りてきた贈りものだったかも知れない。
最初耳にしたときから聞き流してしまう理由をあげてみるより、風のなかにひそんでいる魔物に魅入られてしまい、というのも僕のほうからすすんで彼方からの訪れを、まるで春の気配のように察してしまったからであって、決して子供の時間に舞い戻ろうなどど考えていたわけでなく、まばらな粉雪にそっと目をやりながら寒天に消えてゆく想いを静かに感じていたかったのだ。
ところが湿気を帯びた夏の怪談と違い、この時期の乾いた空気はさながら流行の感冒みたいに伝播してしまう効力があり、発熱し寝込んでいるときに胸を満たすだろう、群衆のなかの孤独をかみしめてる悠長な気分は許されなかった。
この出来事はL博士が発端にせよ、結局は僕の白日夢が踊り出てしまったと正直に述べておいたほうがよい。
「知っているか、もうあんたのまわりでも、いいや大人でもさ、随分と目撃者が出ているみたいだな」
さてL博士は界隈で変人扱いされている老年男だが、僕とはどことなく気が合うところがあって時折、新たな研究成果とやらの説明を誰よりも早く聞かされていた。年金暮らしの独り身を憐れんでいるからとか、一風変わった性格を物見しつつ自分との距離を定めてみることで、とるに足らない同情を加味しているとかの偽善とは関係ない、単純に言えば僕はL博士の浮き世離れした人柄を好んでいただけに過ぎず、つまりこのあとに続く会話の流れに支障をきたさない為にも、また首を傾げてしまうだろう内容に対し、前もって現実味を少しだけ追加しておく。
「ええ博士、都市伝説の一種だと言いたいところですが、生憎ここは田舎町ですからね、言説を解明するよりも実際に見たと話している方面、とにかく僕らも蛇女に出会わないといけません」
「あんたもそう思うかい、わしもそうでな、いてもたってもいれなくて、ほとんど徹夜でこれまで奴が出没したあたりを探っていたんだ」
「そうですか、僕も同じです。さすがに夜通しではないですけど。で、何か手がかりは」
「今日来てもらったのはずばり本題にせまることなんだ」
「では、正体が分かってきたのですか」
「ああ、この眼で見てしまったよ」
「ええ、あの蛇女をですか。ちょっと待ってください。博士と僕がこの間からしきりに話題にしていたのは、あの、、、」
続く言葉を見失ってしまって当然だといった表情を浮かべた博士は、もの忘れが頻繁になった老人のそれではなく、反対に一計を案じている明晰な眉目が際立って、煙に巻かれた僕をいたわるような雰囲気をかもしだしている。これまで博士の顔つきがこんなに理知的に締ったのは始めてだった。
「風説を基準として押し進めていく段階は終わったということだ。わしが惚けたなり幻覚に惑わされたなり思うのだったら、これ以上あんたの手を借りるつもりはないよ」
「いえ、そんな、僕は信じます。実際ごらんになったわけでしょう、次は僕が見るべきですし、是非とも正体解明の協力をさせてください」
疑心が生じてなかったかと問われれば、心苦しいところもあるけど、そんな息のつまる加減さえごちそうが喉にむせるのと同じで、先行していたのは紛れもない夢見る好奇であった。博士はすでに断定を下していたのだ。そう、だから口調には威厳が備わっており、目もとには妖し気なひかりを通り越して崇高な明るさが棲みついている。僕は自ら呪縛を願ってやまない時間のなかにいた。そしてその手つきは何やら思いもよらない具合で、荒々しくもなく、柔らかでもなく、弱々しくもなく、ちょうど羽を休めた鳩を両手で被うような生々しいけど妙に無機質な感覚だった。
「蛇女はこれまで攻撃性をしめしたことがない、目撃者はただただその怪奇な姿におののいているだけだ」
L博士の解析結果はこうである。突然変異の生命体もしくは太古より生息していた未確認の生物、そして可能性としては低いがある種の呪いによって肉体変貌してしまった被験者。科学とオカルトを含め、これだけでもう言い尽くされていると思った。そして何と僕に要請されたのはその低い箇所、博士の理屈によれば、生き物である以上は捕獲しなくてはならない、狩りをするみたいな手荒な方法では危険がともなうであろう、だから仮定として呪力であるとするなら、まわりに危害が及ばないようこちらもその手法を試すのが賢明だというわけだった。
何だか我々の怯懦が一番安全な道をそれとなく選択したのでは、そうした内省もまた余地をあたえられてないのか、博士が言うには「あんたところには確かワニの剥製があったはずだね」などと、薮から棒の問いを投げつけ決定権が一層強まる思いのうちに、いかにも古めかしい学説が展開された。
これまでの目撃情報はすべて夜間である為、一概に蛇女といってもそれぞれ言い分が異なり、ある者は眼光鋭く舌なめずりしていただの、顔中がまさにうろこで形成され毒々しかっただの、かと思えば糸を引いたような眼は涼しげだけれども全体的に妖しさがゆき届いており背筋が凍てつく風体だったの、誰かとっさに写メールでも撮ってくれれば明白なのだったが、暗がりからしのびよる怪異に対峙しどうして平静でいられよう、肝心の博士当人ですら、少なくともギリシャ神話に登場するゴーゴンみたいに頭髪が蛇ではなかったくらいの印象しか持ち帰れておらず、いかに瞬時の遭遇がとらえ難いものか想像できるだろう。
そうした実情から統計とは至らないけれど、ある程度の風貌に束ねてみたところ、体格ならび四肢はひとがた、顔面のみ爬虫類のそれであり攻撃性は見られないが、多数の目撃談は今では相当な尾ひれがつき幼子まで震撼させている始末、普段から色眼鏡で見られている博士からすれば、ここはひとつ名誉回復のよい機会だと一役買って出たわけである。もっとも助力を担う僕のほうがよほど苦労があり、瞠目に値する役目を果たしたつもりではいるが。
「よく憶えていますね、ええ、ワニの剥製なら持ってますよ。でもありゃ子ワニです、いいんですかあれで」
L博士の要望はその剥製を使って蛇女を退治するという、何とも原始的で非科学的な手段であった。詳細は古代エジプトまでさかのぼり、霊魂不滅説にはじまって壁画に描かれたワニの呪術性から考古学まで突き詰めていくので、講義を拝聴しているだけで日数が過ぎてしまい、行動に移すことが出来なくなっては困るから、要約もほどほどに役割だけをうかがってみると「文献によれば剥製にしたワニを涙で浸し復活させることで、蛇の魔性を追い払うとある」など真剣なまなざしで答えるので、僕は頭のネジが一気に外れていくのを禁じ得なかった。
「当時は位の高い者らが数人で涙をしぼったと書かれているが、誰がほかに心当たりあればいいけれど、なさそうだからあんた一人で挑戦してみてくれないか。いいや、懐疑を抱く者、効能あらずと記されているからな、どうやらあんたしかいないんだ」
「僕だけですか、博士も一緒にやって下さいよ」
「わしはその間に仕上げをしなくてはならない。ワニはあくまで蛇女を追尾するだけで対等に戦うのは無理なようだ。つまりわしが蛇封じの特効薬を完成させるまでの撹乱だな」
「時間稼ぎでしょ」
僕は少々語気を強めたので博士は申し訳なさそうな目つきをしつつ、大蜘蛛作戦っていうのも思案したんだが、相当巨大な蜘蛛を育てないとすぐに食われてしまいだろうし、あんただって部屋からはみ出してしまうような蜘蛛は扱いにくいだろう、なんて言うものだから呆れながらもワニへ涙を注ぐことにした。昔は水槽に入れた剥製が埋まるほどの容量が必要とされたみたいだったが、博士いわく「時代が違う、蛇女もさぞかし息苦しいだろうよ、まあ三日ほど泣き続けてくれればいいよ、問題は量より質かも知れない」と独断に堕ちた。だが、こうなった限り古代エジプトやらの奇跡の片鱗でもいいからこの手にしてみたい。一役買うまえに遥かいにしえの文明に想いを馳せてしまい、僕はもう涙目になっていた。
「これを持っていきなさい。保湿効果のある特殊な素材で作っておいた。涙が枯れたら速やかに蓋を閉めるんだよ。おっと、鼻水とかよだれは禁物、純粋に涙だけを貯めてくれ」
家に帰り早速ワニを水槽に安置し、そのひからびた皮の連続体を濡らし始めた。面白いもので行為自体からくる感動とも陶酔ともいえない不思議なちからが涙腺をゆるめ、しまいにはポタポタと大粒になって落ち剥製のささくれから切れ目に浸透していった。
透明の水槽をのぞき込んで集中していると、ワニのすがたは横たえられた木の枝にも思え、僕の涙はさながら材木置き場に降り出した通り雨にも似て、土の匂いとはまた違ったものをわずかに香らせていく。緑を失った小枝が耳もとでざわめくのも侘しくて、嗅覚に酔っているばかりはいかず、この現実的な剥製のすがたを見つめれば、どこの水辺に棲みいたのだろうなどと、無惨にもはらわたをかき出された宿命が嘆かわしく、役者の気分で落涙していた情況が次第に、そう毛穴が開くよう生身からにじみ始め、くり抜かれた目玉の替わりにはめ込まれたビー玉みたいな義眼と視線が結ばれた頃には、僕はおいおいと声を上げて泣きはらしていた。
縦に線を引いてみる。それから分度器を使った感覚で横線を加える。たぶん縦線には共感できる、だけど横線は限りがないようで、ありったけの感傷を呼び寄せてもその端々はすぐにぼやけてしまい、甘美な涙の行方をかえって曖昧にさせている気がしてくる。長く続く列車の旅には情感も一緒に乗り込んでくれるのに、どうしてここでは、この水槽にだって縦、横、高さもあるのにそれぞれの線分に即さなのだろうか。列車は走るけど水槽は動かない、しかし限りがないのは剥製の居場所の方だ、なのに横線に沿って涙は流れない。
思考が役目の邪魔をしかけているのを薄々感じると、蛇女が哀れに思えて来た。きっと僕の憐憫など欲していないだろうが、嘘泣きに近い儀式だって形通りに決まれば少しは何かが伝わるかも知れない。最後に自分自身の愚かさに泣かされ、夜を迎えるまえに眼球は渇ききってしまった。水槽の底はおろかワニの背中を湿らすにも到底足りてない。そこからが大変だった。悲哀より馬鹿笑いの方が大量に落涙するのを知り、翌日には自分の要領の悪さにつくづく消沈しながらタマネギのみじん切りを眼のまわりに塗っては、包丁をとんとんいわせていた。
目薬だと不純物も混じってしまうけどタマネギの成分なら許してもらえるだろう。その甲斐あってワニの脇腹から背中にあたりになんとか水分が補給された。
そして三日目、風邪だってそれくらい寝込んだら大概は回復するものだ、剥製のワニにも魔法は通じるだろうか。もっとも途中から姑息な手段に転じたから魔法なんて高慢このうえないが。
でもこれだけはわかってもらえるとありがたい、タマネギのしみ方は尋常ではなかったし、三日間の儀式は一応無駄に終わらなかった。というのもワニが動きだしからだ。そっと持ち上げて床に放してやると、スタスタ歩きだし出口を探そうとしていたので、ドアを開けて「さあ、行ってこいよ」とほとんど熱病に冒されたときに発するような頼りない声をかけた。
ワニは少しだけ斜めに僕のほうに向かって体を曲げてから、どうしたことか玄関先にあった赤いスリッパを前足で履いて出ていった。
その先はL博士からの話しなので細々したことは説明できないけど、どうやらワニは蛇女を嗅ぎつけ立派に追跡を果たしたまではいいが、博士もちょうどその現場に立ち会い様子をうかがっていたところ、蛇女は物腰も優しげにしゃがみこんでワニの頭を撫でてやったそうだ。するとワニの奴、まるで猫みたいにころりと腹をだし四つ足もばたついかせていたというから、博士もさぞかし濃厚なめまいを覚えたことだろう。
ひとの噂もなんとやらでそれからしばらくすると蛇女の影を口にするものもいなくなり、L博士は奇跡に出会ったと感激のあまりすっかり足腰のちからが抜けてしまい、寝込んでしまった。
僕にとっても剥製が部屋から消えてなくなったのは事実だったから、まだ驚きは新鮮さを保ったままでいれる。この冬空が春を呼ぶまでの間、冷蔵庫の役目を果たしてくれればいい。
[262] 題名:蒼い絵 名前:コレクター 投稿日:2012年02月14日 (火) 01時19分
なだらかな山裾がぼんやり映りだされると夜の空気は流線になった。眼を凝らすまでもなく、木立から離れてしまった寂しげな枯れ葉が幽かに揺れているのがわかる。その先に静かなみずうみを見いだす予感も訪れて、葉ずれとさざ波が月影へささやき始める。しかし夜空を見上げることは抑制されていて、耳もとにかすめる微細な言葉は澄み渡り、風景が暮れてゆくのをどこか拒んでいるのだと感じてしまった。
月明かりで描かれた一枚の絵のまえで立ち止まっている。真夏の宵、路地まで浸透する夜気を見定めていた想い出がよぎれば、玄関先へ飛び出そうとした衝動も回帰し、背後に柱時計の鈍い音をともなって曲線で満たされた失意が呼び戻される。薄笑いの向こうに時間を知った。緞帳に閉ざされた世界は夢を開示しているから。
星降る麓が想像されたのか、絵の中央には異星人らしき姿がおぼろに現われており、虫の音を忘れた季節は何を補ったつもりだろう、妖怪変化の類いを土壌から放ち、寒々とした気分を空中分解させている。その分子があらためて結晶して異形を作りだした。白夜は味わったことがないけれど、夜の蒼さには憶えがある。
学年ごと撮られた生徒らの写真にはときに欠落した顔があった。御堂島くんが転校してしまう直前の記憶もまた静夫から消え去っていた。が、転入の際に受けた印象を含め、いくつかの場面場面は遠い波しぶきにも似て鮮明な輪郭を失っておらず、小窓から差し込む光線の明るみを想起させ、変じてはしなやかな動作の残像と化していた。
絹子がいなくなった春の陽気に好意を寄せようと努め、何度も瞬きをしてみたりしたこと、日々の流れをせき止めている魔の手に身震いしつつも眠気のような温もりを感じたこと、切実な思いに苛まれることなくこうして四季がカレンダー通りに過ぎゆき、目立たぬ希望はまだ息吹だからと直感し、頼りなさを知るまえに甘い味覚と仲好しであったことが、静夫の気持ちを柔らかく包みこんでいて、その日のひとこまを光らせてくれた。
教室内に起こったざわめきの比重が女子ばかりに傾いてないのを認めるのに抵抗はなかった。誰もが御堂島くんの容姿をまえにして瞳を輝かせている。彼は長身であり優雅に整った顔を持っていた。そして活発な性格で、運動神経もよく上級生みたいな雰囲気があり、実際大人びた冗談を言ったりするので、男子の数人が何日もしないうちに御堂島くんの髪型を真似、坊ちゃん刈りを七三に分けていた。物おじなどしない粋な転校生の影響はすぐさま他の生徒に働きかけ、静夫らの教室は新しい遊びを発見したときみたいな華やぎを漂わせていた。
不思議だったのはそんな憧れにもかかわらず彼の家を訪ねたものはひとりもいなかったことである。静夫にはそのわけがなんとなく分かるような気がした。御堂島くんが格好良すぎてみんな自分からは近づけない、妙な恥じらいが邪魔をしているからだと。性別に関係なく線引きされる領分の秘密を静夫はすでに学習していた。絹子の夢がまぼろしであればあるほどに現実の姿は借りものになって、必要以上の距離ができあがってしまいその間を縮めるために不本意な態度をしめしたり、思いがけない行動をとってしまうこともあったから、子供ごころに芽生える煩悶もやはり底なし沼に通じていて踏み出す一歩が慎重なのはもっともだと思っていた。
曇りのち晴れ、毎日の授業や掃除が単調ならば、不意に照りつけるまばゆい太陽は奇跡の要素を抱えているのだろうか、いや、少なくとも静夫と同級生ふたりが見た状景は、いにしえから変わらぬ光線の降りそそぐ下にあったはず、確かに些細なためらいが生じていたけれども、劇的な瞬間を形成するほど守護されてはいない。太陽は御堂島くんのうしろにもくっきりと影を焼きつけている。
「そう、ぼくらだけじゃない」
静夫のこころに反響した声は普段から当たりまえのように戯れている調子で放たれた。そして遊びの世界に飛び込んだ自覚が発生したときにはこっそりと魅惑の転校生のあとをつけていた。板塀に張りつきながら忍び足で進んではほくそ笑み、電柱の影にその身を隠せば、卑屈な感情などふるい落とされてしまい、その残滓は確かめるまでもなく逆立ちしていた好奇の粒子だと知れば、簡単に射幸心はあおられ日々の連鎖に絡みついてしまう。
「あれ、きみらどうしたんだい」
御堂島くんの驚きに嫌みがないのを受け止めると、静夫は腹の底にしまっておく笑いを我慢できず「ぼくもこいつとこも家が同じところだからさ」いかにも取ってつけたような言葉でにごし破顔した。
「あっそうなの、ぼくのところはこの先を曲がったらすぐ」そう言ってから怪訝な表情に移ることなくま「寄っていかない、きみたちが始めての訪問者だよ」と、相変わらず大人びた口調で誘いを向けてくれたので、静夫らふたりは可笑しさが別種の気分に運ばれていくのを確認する顔つきで見合った。
喜びの頂点らしき山稜にいつも容易く登れるとは限らない。御堂島くんの正確な顔が思い出せない以上、冷ややかな定理のもと欲望の仮住まいを覗いてしまった虚脱を覚え、その先の光景にたどり着けず、裸体をまえにした馴れ合いと同じ時間に被さっているような気がする。
前戯から**にいたる興奮と混同するつもりではないが、この絵のなかに彷徨っている異形が予期していた通り歩きだしたから、夜は塗りつぶされていないのだろう。
御堂島くんには中学か高校か忘れたけど姉がひとりいた。その顔も浮かんでこないが、姉と弟に交じり庭でバトミントンをしていたら物の怪にでも取り憑かれたふうに虚空へ眼を泳がしたまま返答もしなくなったことがあった。彼女はいったい何を見ていたのか。
[261] 題名:ミイラ男の恋 名前:コレクター 投稿日:2012年02月13日 (月) 00時00分
そりゃ夜目にも鮮烈だわな、白黒放送の頃テレビで観たおぼえがあるよ。いいや日本のドラマだった。この間DVDボックスが発売されてたぞ。それより「事件記者コルチャック」全20話、ミイラ男もいいが、おれはあっちが気になって仕方ないなあ。ホラードラマの金字塔だね、70年代のアメリカの雰囲気もよく出ていてさ、プレミアになる前に買っておくべきか思案中だ。ああ、すまない、フィクションじゃなかったんだっけ、でもな薮から棒にミイラ男を見たんだって言われてすんなり聞き入れてくれる奴なんていないよな。分かる分かるとも、おまえは十分に冷静だしいつもの態度を保っている、目も泳いでいないし妙な汗もかいてない、鼻息は少々荒いけど。いいんだ、落ち着いてゆっくり聞くつもりでいるから心配するなよ。悪いやっぱりおれの方が動揺しているようだ、おまえの口ぶりがあんまりまともなもんだから、そう正直なところこういうことになる。幻覚が生じているのならそれなりの対処が必要だって、ミイラ男よりもおまえの、そのつまりあり得もしないロマンだな、ファンタジーでもいい、ああ、違う違う戦慄だった、脳内だけに抑えておきたいんだろうけどそうはいかない、何故なら現実におまえはミイラ男に遭遇し誰にも相談できず悩んだあげくにおれのところにやって来た。そこまではいい、話しの腰を折る気は毛頭ないけど、問題は現象として共有可能かってことに尽きるはずだろ、だからおれはまずおまえの頭を揺すってみたいわけだ、いいや、この手で揺するんじゃなく、なるだけ時間を気にせずひとつひとつ解明していこうっていうのさ。そこで当然疑惑としておれは幻覚路線からスタートさせたんだよ、その方がおまえも割り切って話ができるだろう、フィクションを前提にするよりかはよっぽど誠意があると思うんだけど、自分でいうものなんだがね。ああ、ほんとにおまえは平常心のかたまりみたいだよ、これでいいんだな、おれの気持ちも汲んでくれるって、疑惑を打破するためにここへ来たっていうわけだ、そうそれでいこう、理解してるじゃないか自分のこと、幻覚や妄想でない証拠を見せるけどって、その件はもう少しあとにしてもらっていいか、何度も言うけど一からほぐして行きたいんだよ。三ヶ月まえなんだな、そのミイラ男が現われたというのは。それから毎日だと、朝晩にかかわりなくとにかく出てくるんだと、そして日増しに遭遇率が増えてくるんだったな、すまないちゃんと聞いていたはずだった、遭遇なんかでなく、おまえに会いに来るんだったな、だから必然と言い切れるわけだ。怖いの怖くないのを通り越してしまったってとこからもう一回質問していいかい、さっきの話しじゃお化けや幽霊を語る口調には感じないんだよ、おまえはどうしてもロマンを求めているとしか思えなくなってしまう、そうだろう、今では精霊に導かれているなんて言い方、まだまだ接点が見えてこないんだよ。仮にだ、おれがミイラ男を見たとしよう、おそらくな、おれは早々に布団にもぐってしばらく部屋から出ないようにする、あっ、家の中まで入り込んでいるんだったか、それじゃお手上げだわ。まあいい、これでひとつ態度というか感情移入が見えてきたようじゃない。それはこうだ、すでにおまえはミイラ男に恐怖心を抱いてなく、不安定だとは表現できない微妙な心模様に揺れている、ああ、いいねえ、頭を揺らすまでもなくもう心に移転したってことだろう。だったら次は覚悟の問題が待っている、つまりこれからもミイラ男とつき合ってやるのかって意味さ。たとえが飛躍し過ぎかも知れんけど恋人との関係に置き換えてみればどうかな、おまえの心がけ次第ですべては決定される方向に近づいているではないか、ミイラ男が嫌じゃないなら別に悩む必要もないし、疑惑を解剖するのも夢がないかもな、えっ何だってそんなのはもう解決済みだって、どういうことだよそれ、はあっ、おまえらの仲はまさに恋愛に還元できる部分もあるって言うんだな。ならおれもこう捨てゼリフを吐いてやるよ、勝手にしやがれってな。どう違うんだい、勝手が違うなんてしゃれを言うなよ、やっぱり夜中のミイラは怖いってことなのか、そう解釈していいんだな、わかったよ、おれはおまえと恋愛談義するきはさらさらないんだ、そりゃ確かにひとつずつってたいそうなことを言ったよ、だがなミイラに昼も夜もあるとは信じがたいし、ああ、別に無理しなくたって想像くらい働かせれるさ、こうだろう、ミイラは昼間は男だけど夜になれば女になるって、それでおまえは友情をとるか欲情をとるかで煩悶している、はっきり言おう、ミイラの肉体は実は両性具有であのぐるぐる巻きの包帯をほどいたときにはもう虜になっていたんだ。ミイラとりがミイラなんて決して口にしないつもりだったが、おれまでそこに加わってしまいそうだからはっきりさせておく。ミイラ男には名前があるな、いや隠したってだめだ、おれには段々と読めてきたぞ、そのまえにおまえから明解な説明をもらおう、ミイラは女だな。そうか、、、よく告白してくれた、いいんだ、おれはおまえを追い込む気なんかまったくいないよ、当てずっぽうな意見も許して欲しい、しかしおまえの頑なな姿勢の裏までは見通せなかった。で、どうするこれから、相手は記憶喪失なんだろ、打ちどころが悪かったんだろうよ。それにしてもひき逃げされた怪我人をかくまうっていうか、引き取るっていうのもどんなもんだろう。確かに病院の側の信号で見かけたってこと信じるよ、でも全身包帯巻きだろう、すぐさま病院なり警察に報告すべきじゃなかったのか、なんで車に乗せたりしたんだ、下手すりゃ誘拐だぞ、いやもうそれは、、、今はおまえを責めたりしたくない、で、アパートに連れて来たんだな。えっ、告白はまだあるって、何だよ一気にバッーと喋ろよ、ああ、すまない、いいんだ落ち着いてなそう約束した。包帯は全身ではない頭部から顔面にかけてだな、いいからあわてるな、それで最初は性別も見分けれなかった、胸のふくらみが目立たないうえに怪我のせい声が出さないのでてっきり男だと思ってしまった、そしてどうやら記憶も曖昧みたいだったからとりあえず車に乗せ様子をうかがったんだな。でもおまえは良識を持ってそのまま病院に向かおうとしたわけだ、すると自由の利く両腕がうしろからまわって来て首を絞め始めたんで、驚いて急停車しその哀願から何かを察知したと、そのときもまだ性別を見極められなかったけど、手話みたいな素振りがあまりに懸命で憐れみが感じられたから怪我人の意向に即してしまったということか。だけど、どうなんだおまえの性格はよく知ってる、一見気弱そうだけど優しくて結構意志が堅い、あながち間違ってはいないだろう。それでも合点がいかんな、相手が女だと判明したからずるずると引き延してしまったとは到底考えられないね、おまえの気性からして最良の方策を選ぶはずじゃないか。えっ、これが選択だったとは意味が分からん、もう少し補足してくれよ。野暮なことは飛ばしていい、ああ、ひとつの部屋に男女が昼夜をともにすればってことだ、そんな発端など今はいい、それよりも大事なのはおまえのとった行為を分かりやすくおれに説明することだよ。なるほど性分ねえ、その通りだと言い切るのか、確かに意志が堅い、まさか一目惚れでもあるまい、えっ、そうか、、、そうだったのか、おれとしたことがそこを見落としてしたんだな、さっきの話しで勘づくべきだった、首絞めか。あれからミイラ男になりきってもらい背後から不意に首を絞められるのが刺激になり、そしてその快感から逃れられなくなってしまったと。それもまあ結局発端だ、で、女は記憶を翌日には取り戻していたんだな、そして自分がひき逃げされた場所をおまえに聞かせた、おまえは予期していた最悪の場面に見事立たされてしまい、快感だと信じようと必死で努めた被虐的行為の正体に愕然となり、真実を打ちあけようとしたが、どうしたことか女は何とも形容しがたい笑いを浮かべるだけでおまえの犯罪をなじろうとはしなかった。そのかわりに包帯をとりながら然してひどくもない傷口と素顔をさらけだし、身のうえ話しを長々とおまえに語ったんだな。いいんだ、泣けてくるよおれだって、女の不幸な生い立ちから始まって現在の生活ぶりに至ったあたりですでに決心がついていたんだろう。ミイラもそれを望んでいた、理由はもういいよ、それよりおまえの身の振り方を心配している。まるでサスペンス劇場で放映されるみたいな展開じゃないか、テレビでは決まって悲劇に結ばれるけど、おれはそれこそフィクションだと思っているんだ、だからおまえの意志が今ここで問われるということは、実は問いかけでとかじゃなくて字義どおり意志そのものさ。気が合うんだろミイラ女と、向こうも承知しているからだろ、おまえはこの三ヶ月の間悩みに悩んだ、そして結婚相手として了解したいんだろ、悲劇は転じて福となる、しかしおまえの良心の呵責はまだまだくすぶっていて疑心暗鬼に堕ちないとは言い切れない。そうかミイラ女は案外いい体してるのか、野暮は抜きってことだったけど、どうやらおれは根本的な過ちを犯していたな、そうだともひき逃げは立派な犯罪だし、いくら女が許したとしても今後の生活に影を落とし続けるのは避けられないだろう、えっ、何だって、、、そんな馬鹿はおれが許さんよ、今度はおまえがミイラ男に扮して女に轢いてもらうだと、それであいこにでもなると考えているのか、気持ちは分かる、分かるけどそれでは解決にならない、、、そうだった、おれに相談だったな、仕方ない、申し訳ないがあくまでひとごとの域は出ない発案だ、所詮はひとごとでしかない、でもな自分では踏ん切れないことを他人が受け入れる場合だったあると思う。いいか、こういうのはどうだろう、おまえとミイラ女は嫌になるまでとにかく一緒に過ごす、それだけだ。あとミイラとりは、、、すまん、これは蛇足だったな。
[260] 題名:タイムマシンにお願い3 名前:コレクター 投稿日:2012年02月06日 (月) 10時06分
そこは見渡すまでもなく奥深い懐かしさで囲繞されていた。透明人間の心境を取り寄せたのも時間の為せるわざであった。そう考えても罰は当たるまい。悲哀とは聞こえこそ角を立たせないけれど多分に泣き言を孕んでいる。これもあながち的から逸れてはないと思う。
懸念した動揺を緩和すべく、気抜けした一こまに乗じたわけだが、残念ながら本来の時間とはかけ離れたところで懸命に演じてみても、自画自賛の寸劇の域から脱することは不可能だ。しかし磁力の治まった椅子から立ち上がり竹やぶの先にあつらえ向きな灌木の茂みを見つけると、あらかじめ内蔵された機械の働きのごとく素早く椅子を折って隠し、にじみ出るはずもない汗を想像したりして我ながら先行きの好調に胸をふくらませた。もちろんよくまわりを観察し人気のないのを知ったうえでの小さな満悦だったが。
世紀の大実験に携わっているんだ、これくらいの自負は大目にみて欲しい。とはいえ実際のところ、開発者のNさんから念押しされた通り、竹やぶはともかくこの椅子をなくしてしまった暁には取り返しのつかない結末へと転じてしまうから、傍らに抱えて行くのが最善だろうが、もう一方では割と大きな鞄を手にしているわけで、道中の不便というよりも変に目立ってしまうのでないか、そう危ぶむのも無理はないだろう。今の時代だって40年前だって、事務椅子を脇にして町中を歩いている人間をそうそう見かけはしない。風呂敷包みでもすればよかったかも知れないが、今度は紛失なり万が一の盗難などという危惧が念頭から放れず、転送直後に見いだした隠れ蓑がやはり最適だと判断した。多少汚しても機能に弊害は及ぼさないないだろう、そう勝手に解釈して地面の土をまぶし、枯れ葉を乗せ、小枝を如何にもありふれたふうに被せておいた。その間も人目を気にしていたけど、この竹やぶの向こうに民家はまだなく足を踏み入れる人影も探すほうが大変だ。過去の情景は記憶からずれていなかった。これでかなり安心したわけだけれども、野ざらし状態には違いないので、もし雨に降られたらとか、この地域は滅多にあり得ないが雪でも積もろうものならとか、結果タイムマシンに不具合が出て来るのでは、そうした不安の種はつきないながらこれより他に妙案は浮かぶこともなく、精々どこかでビニール袋など調達しようと考えみたが、不自然さを増すだけかもと、隠し場所と転送位置の目印も計りやすかったから、帰還の利便を優先すればおのずと最前の処置に落ち着くのだった。
懐古趣味の予告に付随しているようなこんな注意深さも、旅の道具だと例えるならバイクなり車なり船なり馬なり、そう考えてみれば大切な作業である。
さて熊野の深い山中でもあるまいし、いくら竹やぶに差す明かりが40年前の光線だとしても山林へと連なる方向とは反対に抜ければ、そこはすぐ湾岸に臨める狭い町並みだった。数回迷い犬を見届けるようにタイムマシンの隠し場所を振り返っている間に小高い土地は、この胸になかへ見事なまでの眺めをあたえてくれた。
なだらかに続く下方の畑に緑は濃密でなかったが、うねが線状に居並ぶ光景は足もとまで匂ってきそうな土の香りを含んで、北風に運ばれてくる町全体の息づかいを背景に過ぎ去った時間がめぐって来た。
見るからに走行車がまばらな国道を境に畑はいったん途切れながら、点在する民家を取り巻くよう再び土の領分は広がっており、瓦屋根の平べったくも夜空を吸い込んでしまったふうな燻った色合いの均一なこと、曇天の本意を汲んでいるのか、陽光と風雨の日々を寡黙に見守っている青銅の屋敷神を彷彿させれば、道行く人のすがたも生き生きとした歩行に見え始め、顔かたちがまだ明瞭ではない距離を計るまでもなく、自分の両足は軽やかな風に吹かれた調子でこの界隈の大きな交差点まで進んでしまっていた。現在では削りとられ面影を残しているとは言い難い中央公園の小山もほぼ原型をとどめているのが分かる。信号機が青に変わる合間さえ慈しむよう視界の映りこむ光景に陶然としていれば、休む暇もあたえまいと、建設予定地になっていたグランドに行く手をはばまれ、以前写真に収まっていた雰囲気とはまったくの開きがあるのを知る。さほど遊んだ思い出もないけど、生家がこの道筋沿いであるから遠目にしろ、日常のうちに連なっていた場面は記憶の欠落も手伝って、どこか見知らぬ空間に赴いたときみたいな疎外感を招いていた。だが、野球場としても利用されていた名残りが一部の金網からうかがえるし、何より小道をまたぐのを諌めているとも言える銀杏の黄色が道のすがたを塗り替えている。落ち葉はまるで絨毯を敷き詰めるために空を舞ってきたのだと聞かされても違和をとなえることはないだろう。やや深みががった、けれども鮮やかな黄が放つ色調に枯れ葉の名はそぐわない、幾重にも積もった銀杏の木の下こそ町のなかの森ではなかったか。
屋根のうえまで枝が垂れていても営業していた食堂も目に飛び込んで来た。どぶを挟み暖簾をくぐるような店だったから一度も入ったこともない、小学生の低学年の時分だ、この店に限らず子供同士の小遣いには幾らか足りなかった。記憶のなかではこの数年先に閉店し取り壊してしまう、食事はなるだけ鞄につめこんだものを食べるよう努めるつもりだったが、一面銀杏に支配されているなか、黒ニスもはげかかった店構えには相当惹かれるものがある。夕飯には早いに決まっているけど、おやつがわりにかやくうどんってはどうだろう。ほら品書きが戸の隙間から見えている。いきなりの外食もどうしたものか思案してみたし、鞄の中身は下着と乾パンみたいな軽い持ち物で、重量がかかっているのは桃の缶詰二個だけだった。
記念すべし40年前の食事じゃないか、何を躊躇しているのだ。身なりだってこの時代にありふれたねずみ色の上下に白シャツ、おまけにコートはたいぶ前に古着屋で買った同じく灰色に少々だけ暖色で織られた年代ものを着用している。頭には地味な鳥打ち帽で出立ちに落ち度はないはずだ。
普段あまり頻繁にしない仕草、そう腕時計を顔下に向けるせわしなくも優雅な素振り。予行演習ではなかったけど、そんな自分の心中とはうらはらの大人しくしていられない子供の感覚が、すっかり目覚めてしまった。「午後3時20分」まだ時間はたっぷりある。そう思案していたところ、下校時の学生らがいっせいに銀杏の木を通り過ぎ出した。高校生にしては随分しっかりした顔つきしているじゃないか。男子より女子のほうが更に大人びている。あの頃の憧れにはどのくらい卑猥な成分が含まれていたのか、結構まじめに考えてみたつもりだったが、笑いは抑えられなかった。
[259] 題名:探偵 名前:コレクター 投稿日:2012年02月06日 (月) 09時45分
曇り空の下、近所の奥さんが颯爽とした着物すがたで道を横切るの見かけた。年相応なのだろう、喪服を思わせる青褐の着物はまわりの空気を一変させているが、凛とした容姿から受け取る印象は反対に無邪気な風情も備えており、あらためて女性の謎めきに感心していると、その先で同じく和服に身を包んだ数人とすれ違った。「何か習い事だろう」一人ではなく複数の女性を目にしたせいなのか、急速にときめきが離れていった。
家に帰ると映画が始まっていた。テレビの中ではなく、屋内が舞台となって物語は進行している。
「3Dなら知っているけど、こんなのは始めてだな」首をかしげている間を与えられないまま、この場面に自分も登場人物となって参加しているのを誰かに耳打ちされ、一気に胸が高揚してきた。
「映画も相当進化したもんだ、劇場一体型とは恐れ入った」
最初から観ていないものだからストーリーの把握に戸惑って、まして役柄の設定もあやふやなことが折角の醍醐味をそこねてしまい、居場所のないやきりれなさに滅入っていた。だが居並ぶ面々を見渡せば、この映画は金田一シリーズを彷彿させる推理劇だと了解し安楽に移行した。
岩下志麻ふうの女主や松坂慶子似の遠縁にあたる客、佐分利信の面影を持っている代議士が放つ重厚な声色、見るからのくせ者らしき男優ときて、あきらかに金田一耕助としか言い様のない探偵、距離を置き待機している警官ら、更に遠巻きで恐る恐る様子を見守っている女中たち、どうやら物語はすでに終盤にさしかかっているらしく、これまでの毒殺事件の犯人はこの中にいるなどと話している。だとすれば、当然ながら自分もその一員であるはず、殺人とは物騒だけどどれだけ疑惑の渦中にあろうが、絶対に犯人であるわけがないと自覚していたので、端役の扱いであろうともメラメラと功名心が燃えたってきて、探偵補佐の役割を果たすべく、窓の外をしきりに眺めていた。内情がほとんどつかみ取れてない自分は下手に状況へ首を突っこむより、こうして他の者が見落としているかも知れない些細だけれど、重要な手がかりと化す可能性を探っているのがちょうどよく思えたからだ。
金田一的探偵は奇妙なことに、犯人と目される人々を記号で呼んでいた。つまり色の名前を当てはめていた。岩下志麻はレッド、松坂慶子はグリーン、佐分利信はグレー、くせ者はブルー、それだけだった。やはり自分は登場人物を装った傍観者にすぎない、軽い失望は晴れやかな気分へと後押しされるようなちから加減を知る。それなら思い切り戯れてみるのが娯楽ではないか、どうした理由で次々と犯行が重ねられたのか、いったい誰が殺されたのか、物語の核となる箇所に立ち入ることは止めにし、ひたすら外の風景を見つめていた。
手の届きそうな雲やあと少しの高さがあれば目に映る海岸といった遠望ばかりに気をやっていたのだが、ふと階段わきの小窓から覗けた隣家の瓦屋根に連なる雨どいが目に止まった。それは雨風に蝕まれた穴ぼこではなくて、大仰な、早い話が何者かの手によって乱暴に開けられてしまった破れだと確信し、しばらく前に松坂慶子似のグリーンが筒状になったその一部を手にしたことを思い出した。
俄然心音が強まるのも気味よく、早速探偵にその旨を打ちあけたのだったが、傍観者というより視聴者の意見などまともに取り上げている暇なんかないという顔つきしかあらわにせず、無視状態に近かった。
確かに雨どいの破れと殺人を結ぶには飛躍がありすぎるし、裏打ちされる根拠のかけらもない。それでも自分はバケツに水を汲んできて瓦へとぶちまいてみた。ゴルフ球ほどの穴からは勢いよく、間違いなく雨水よりもっともらしくこぼれ落ちる。
主役の探偵から邪険にされたひがみだろう、増々緊迫した状態をよそに観察者である自負だけをよりどころにしたまま、事件の解明には関与していない素振りで時間を見送っていた。
張りつめた光景は陽炎から訪れる。その一室は閉ざされていたのだったが、いつの間にかグリーンが眼前に立ちはだかっていた。その瞳に映った宿命から逃げ出すことは不可能だった。炎天下の氷塊がその身を嘆く猶予に無言で接するように。
「恐がらなくていいわ。さあ、こっちへ」
グリーンはもうくちびるを差し出している。半開きではないが歯が合わさっていない口もとには暗黒の門が待ち受けている。理解できた、彼女は犯行をとがめられるまえに自分を道連れに命を絶とうとしているのだ。ひときわ艶やかなくちびるにはおそらく毒薬が塗られていて、重ね合わせた刹那に舌先を素早く滑りこませるに違いない。
この身を引き裂く感覚とともに、巧妙な意識の裁断がめぐった。見知ったばかりの女と心中しなければならない不甲斐なさと、所詮は映画のワンシーンでしかない、実際に死んだりはしない、自分は登場者であると同時に視聴者なのだからという考えが。
けれども反応は正直だった。グリーンから口を近づけられるより先に自分の方が艶冶な気狂いをかわしていた。そう毒をなめた舌が絡まるまえに幼児のような軽いキスで従ってみせた。移しとったであろう死の粘液は飲みこんだりせず、あらかじめの約束ごとであったふうに袖で口を拭い、殺意を忌避した。
背後から探偵が声をかけたのと、女の面が枯れ花みたいに萎れていくのが一緒だったので、自分の狼狽は動きの鈍くなった秒針をなぞりつつ、ようやく映画の迫力を堪能している意識を追記できた。
「貴女はいつも緑を窓の向こうにしてましたね。今回の一連の殺人はそんな背景で行なわれた」
探偵のもの言いにはなだめて聞かす調子があったけど、自分にとってもはや茶番でしかなかった。が、ここまで来たのだから黙って観ていよう。
探偵は案の定、こちらには一切視線をくれず淡々と喋りだした。
「ほら窓の外ではなくて、ガラス越しに揺れている柔らかな緑です。実は私、貴女のことをずっと探していたのでした。でも貴女の巧みな犯行にはまったく証拠がない、ここへ来てからも」
女が膝を落としたのがいかにも安直に思えてしまったが、つい先ほどの情死を模した場面を浮かべてみれば、荒唐無稽だと笑い飛ばせるはずもなく、物語は真面目でなければならないのかどうかなんて一概には言えなくなっていた。だから、いっせいに警官数人が飛びこんできて、しかも腰にサーベルを下げている姿に呆気にとられ、女の着物も茶の葉みたいな地味な色合いながら品格があるのを今さら気づいてみたり、素直に捕縛されるかと思っていたら驚異的な身のこなしで警官のサーベルを奪い一刀のもと相手の耳を削ぎ落としても、殊更驚いたりはしない。むしろ煎餅でもかじりながら活劇を見物している按配だった。
グリーンは相当な剣術の心得で返す刃で銅切りを決めたり、踏み込まれる間合いをはかりながら攻撃の手を休ませない、まわりは中々取り押えられそうもなかった。警官も必死の形相でようよう決着をみせるまでに抵抗された傷あとは数多く、縄を放り投げてかろうじて身を封じたところでちから尽きたのか、放心したまなざしで座りこんでしまった女を臆病そうな顔をしたひとりがいきなり袈裟斬りにした。見事なまでに血しぶきが上がったけど、自分の心境は割合と複雑だった。平静を装う気力が卑屈に思えていたから。
映画はまだ終わらない。白装束に着せ替えられたグリーンは丁重に布団に寝かされ枕もとからは線香が漂っている。探偵はこれまでの経緯を本当は得意気に語りたいところ、あえて抑制された口調で説明していた。
カメラがすうっと引かれ遺体の光景が遠ざかる。殺人犯を取り囲む人たちの表情も明確でなく、手前に位置した畳の編み目が延々と映し出されているので、こんな冗長なシーンは悪趣味だと文句を言いたくなった。いや観ようによっては余韻など超越したそれなりの無時間が提出されている、でもこれは推理ものなんだから高尚な感覚は要求されない。
しばらくして、再び警官がどやどや現われた。果てたはずのグリーンの目が開いた。サーベルではなく短剣が白装束めがけ投げつけられる。半身を起こしかけたが一目では数えきれない刃物によってとどめが刺された。なるほど最後にここを描きたかったから静止画みたいなものが撮られたんだな、感心したかといえばそれなりに感心した。それから自分の席がきちんとあったことを確認しエンドロールを背中にした。
黴の匂いがほのかに鼻をつく住み慣れた家に帰ってきた。すると便所に床が敷かれていた。「どうしてこんなところで寝ないといけないんだ」しかも数十年まえのくみ取り式の便所になっている。わけはあるのだろうか、今度は本当に探偵となりこの臭気と不快感を調べなければならないのか。その続きはいずれまた、、、
[258] 題名:巣窟 名前:コレクター 投稿日:2012年01月30日 (月) 15時46分
「まったくなんで火を灯したりするんだろう、こっちは熱くて仕方がない。このまえも何かの弾みで落ちてきたろうそくの固まりで仲間がやられた」
芸太の任務は斥候です。たいがいは彼一匹で遂行されるのでした。人間たちの習性について蟻の芸太が知りうるのはほんのわずか、夜行性ではないけど日中でも燭台に火が灯っている、しかし、この屋敷は特別なので他所とは違う、それが以前聞き伝えにしたすべてでした。確かにここでは人間の寝静まった気配を感じたことがありません。もっとも芸太には帰るべき巣があり、そこで暮らす女王や清掃係、運搬係、育児係といった仲間と夜には眠りにつきますから関係ないのでしたが、彼らとは別の夜行種もいて唯一の情報はその方面から伝わったと思われます。
芸太は夢を見ることがありませんでした。いや見ても憶えてないのかも知れません。気がついたときには彼の役割はすでに定まっており、こうして斥候に出る日々を誇りにさえ思っていますので、あれこれ無駄な考えをめぐらして大事な仕事がおろそかになってしまうのは罪なことでした。芸太は重大な責任を背負っているのです。巣にとって何よりも肝心な食料を探し出すわけですから、いつも緊張と冒険の連続です。危険の割合をいえば運搬係が行列をなす場面よりかは低いでしょうが、さながら荒野に一匹でさまよい出る緊迫感は窮屈な自由を吹き飛ばす不安との闘いでもありました。
一度人間にまじまじとその姿を見とがめられたことがあります。爪先よりも目の玉のほうが芸太に大接近したのです。「見つかったこれまでか」全身がすっと軽くなったのはそうした断念によるものではなく、人間の吐く息によってその身が空に飛んだからでした。ほんとにあっという間の仕業で、これまで一度も垂直なところから落ちたりせず、どんなくぼみのある家具にだって器用に這い上がり、込み入った事情よりも更にざらついたところだって渡ってきた芸太でしたけれど、こうも突発的で悪意ある強風にはかないませんでした。そしてこんな仕打ちをしているのが子供であるのが直後に理解できたのです。蟻にだって子はいますからその姿の大きさで分かりました。
芸太は無信心なので誰かに向かってとっさに祈ったり出来ませんでしたが、自分でも訳の分からない言葉とも思いとも違う何かが、ちょうど腰のくびれから発生して半分にからだがちぎれてしまうほど熱い声となってほとばしりました。運がよかったのか箪笥の陰へと隠れるに最適な箇所まで移動されていたのです。子供は一息だけで気が済んだらしく芸太をそれ以上追いかけたりしませんでした。そんな危機に直面したせいでしょう、今までより部屋の様子をよく観察してから食料を求めるようになったのです。
すると普段は敬遠していた燭台の近くにはいつも分別顔をした人間がいて、四本足で畳を這っている子供を寄せつけないよう注意しているのが見てとれました。芸太が獲得するべきものは人間らの居場所に特定されません。巨大な足の裏によって座敷のいたるところに運ばれているのが実状なのです。しかしそんな足の裏が闊歩する畳のうえは蟻の世界からすると依然広大な領域に違いありませんから、まずは安全地帯となるろうそくの灯る下方へ身を寄せます。大人たちは常に何かを見つめていて身近なところを注視したりするのは滅多にありませんでした。
芸太は斥候としての攻略を発見した歓びから、同じ任務をまっとうする者らにこの事実を教えたのです。結果早くも一匹が熱したろうのしずくの犠牲になってしまいました。かといって威風堂々と適地に赴けば、突風はおろか天からの魔手がのびてきて万事休すです。行列隊の明暗を決定するのもこの悪魔の手にかかっているわけなのですが、芸太はそれでも運搬係の隊長になるだけ火影を進むよう提言したのでした。
ある夕暮れのこと、いつになく屋敷内がざわついているので気を引きしめて様子をうかがっていると、それまで聞いたこともない呪文が唱えだされました。言葉の意味はわかりませんけど、あきらかに普段の言葉使いとは異なる、蟻の自分でもとても妙な気分になってしまいそうな響きが聴き取れたのです。
「きたぞきたぞ、こうをこうをたけ、きりをきりをはれ、のうみそまぜろまぜろ、ろうかをまわせまわせ、ろうかをおりまげろまげろ、なむなむなむなむなむ、とけいをとめろとめろ、、、、、、」
どうやら芸太らが奥の間と呼んでいる部屋からその声が漂って来ます。虫の死骸をたまに見つける以外ほとんど収穫のないため足をのばさない廊下に思わず出てしまいました。その方が呪文がよく伝わってくる、そうです、まさに蟻にとっても明瞭な響きであり、芸太はまるで引きずり込まれるかのように日頃の慎重さを失いかけておりました。
畳とは多いに感触の違う板張りの滑らかさに戸惑うこともなく、茫然と声のする方向へ這ってゆきます。暗色をたたえながら月日を運んできた廊下に怪しい光がときおり明滅しかけたときには、すでに妙なる音はやんでおり、かわりに人間の足踏みがすぐそこまで迫って来ました。足つきに乱れはありません。ふと我に帰った芸太は、上方に香っている濃厚な匂いの残滓をまるで調教された犬のごとく嗅覚で切り捨て、音像を結ばすよう、見たこともない夢を想い描くよう焦点を定め、深い森にも生息する種族のちからを借りながら祈りを捧げ、次第に歩み寄って来る人物を嗅ぎとったのです。
ちいさな芸太にしてとって人間の速度は計算外でした。そして白い足袋が夢の証しだということもうなずけました。が、極度の緊張は足の影を作りだしています。「踏みつぶされる」本能的な恐怖は避けがたいのです。
蟻の芸太が目覚めたのは百年以上さきだったかも知れません。それくらい夢を長く感じていたのでした。ほんの一瞬の出来事なのに。
芸太は土壁に寄り掛かりかつて這い上がった記憶もない天井を見上げました。視界には夢の白足袋よりもっと純白な封筒が大きく広がっていました。
[257] 題名:回廊 名前:コレクター 投稿日:2012年01月30日 (月) 05時52分
吐息は気だるさを知るまえに冴え冴えとした方向をめざしていた。特に目的があるわけでもない、尋ね人や宝探しや意趣返しでもなく、誰かの指令を受けている自覚もなかった。
秋口の呼気がひときわ爽やかに感じられることを忘れていなかったし、季節のめぐりを実感しようと努めるあの静かに横たわった意思もなくしていない。しかし、焦点が定まってないよう肌に触れる空気は四季の特定を願っておらず、あれはいつの日だったかと半ば放心にさらされる粗雑さへ歩み寄っていた。逆光を見つめる眼は醒めた意識を背景にしている。だから風景はこんなに冴えているのだろう。薄皮一枚に隔てられた赤褐色に被われようとも。
親しみがはね返されてしまいそうなくらい気色のいい飴色した廊下をずかずかと進んでゆくのは心地よかった。大名屋敷とも広い寺院とも識別されない混迷だけが宙に舞い、吐息は白濁した霧にのみ込まれながらも先行きをかき分けている。
「あの、いつの時代なんでしょうか」不意にもらしかけた言葉を唾と一緒に喉へ戻し、歩幅に流れる光景を見送っては、一齣一齣が鮮明に飛び込んでくるときめきを忘れられないなどと念じて、感傷を同時進行させてしまう。
どこかで見知ったのふうな寺子屋を想わせる一室がうかがえた。燭台からの灯りにしてはまばゆい気もしたけれど、数人の子供らの顔つきを見比べる余裕なきまま、歩を止めはせず廊下を過ぎてしまうと、あとに残された火影がぼんやりまぶたの裏に浮かぶので、えらく屈折した家屋の造りに違和感を覚える暇もなかった。とはいえ、摺り足とも早足ともつかない歩調であれば、自ずとその爪先が過度に入り組んだ構造を認めてしまっていて、まるで鍾乳洞の深みにもぐりこんだみたいな危ぶみを招く。
「そこで何をされているのですか」またしても疑問符が口からこぼれかけた。
飴色の廊下が廊下であるよう部屋という部屋は畳であったが、よぎる意想を否定しかけても結局そこに生息している人々の呼吸が別種のものだと考えてしまうと、寂しさから逃れなかった。せめてもの救いはこの眼球に反射している眺めは鋭い角を持っていなくて、塵ひとつたてるにしても子犬にほほ笑み返すような柔らかさがあり、例えそのなかに棘が含まれていたところで、虚脱を覚悟した身はすでに風化されており、地平線に連なる古拙な居住まいは汚れていない、星降る夜空を見上げるものと同様の広がりがある、そうしたまなざしは永遠なのだと信じられることだった。
苦笑は夜風になって背後から吹きつける。くねりにくねった廊下の表情は変わらない。足どりは快調とはいかないまでも遠い地に旅する趣きに近く、気抜けした歓びを愛でる使命で運ばれていた。
「弁当の時間ですか。うまそうですね、いえいえ、おかまいなく」すべての室内が見てとれるので、ついつい独り言が出てしまう。実際空腹ではなかったし喉の渇きも覚えなかった。
だが「すごろくとは又懐かしい」とか「座禅なんですね」とか「ほう、それは誰の絵です」とか「江戸川乱歩を読んでいるんですか」などと眼に入る場面に対し黙したままでいるのをやめ、ささやきとして送ることにした。もちろん反応は期待しておらず、何故かしら進行方向の右側だけにしかない座敷の様子をのぞいている。
今が日昼なのか夜間なのかも留意してなかったけど、ろうそくの灯りがこんなに部屋部屋を印象づけているのが不思議に思えてきて、それに各自の服装も着物だったり背広だったりするので、老若男女の割合などおぼろげに目算しているのも疎ましくなり、終いにはそれぞれの様態より一室の雰囲気しか看取しなくなっていた。左手には暗緑色の土壁だけが続いているし、黒ずんだ天井は背丈に低く恭順しているようで、太陽や月を仰げる庭は現われない。
それからしばらくすると失意よりもやはり旅人の描く風景がさきに訪れた。見晴らしのよさなど二の次にして願う心象、偶然だった。見知った顔だった。けれどもその容貌は明らかに時間が停止している。
「あの頃のままだね」
つぶやきは瞬きを奇跡に置き換えたかったみたいだ。低い天井はほどよい高さで彼女を見守っている。
「きみの名前はひょっとして」と言いかけたとき、真っ白な封筒を相手から手渡された。ほんの微かな笑みとともに。
驚きはためらいを生み、封を切る指先も微かに震えた。待ち望んだのではないが頬がゆるむのが分かり、その場に立ち止まった。
[256] 題名:冬の雨 名前:コレクター 投稿日:2012年01月20日 (金) 06時11分
指先から指先へ、綱渡りの危うさで近づいては遠ざかる。まどろむ皮膜のむこうには冬の雨が聞こえている。散漫な意識の陰りは湿気ることなく、蒙昧なままの情況を伝えようとしているのだろう。雨音は何故かしら乾いた響きを持っている。
いつの頃からか私は夢の記譜法とでもいうべき作業に向き合っていた。子供の時分は当たりまえだが、夢の内奥までもぐりこむ決意はおろか、夜の帳を冷静に覗き見ることもかなわず、物怖じを遊戯的な感覚で囲いこんでひたすら檻の向こうから眺めて悦に入っているだけだった。夢見の恐怖はお化け屋敷の仕掛けと同等の価値でしかなかったから。
回想という意識のめぐりを認めるは極めて単純な、花弁はつぼみから広がるようひとりの異性が突然の訪問を示した一夜から始まる。翌朝にたなびく気分には金木犀の芳香を想わせる切ない甘さが漂っていた。普段から注視していたわけでもない、親しい会話が弾んだわけでもないのに、まったく不意打ちの現われ方としか言い様のない場面は、夜へと色彩をもたらす。水彩絵の具ともクレヨンとも色えんぴつとも、あるいは折り紙とかビー玉とか、ドロップでもガムでもいい、とにかくはっきりとした明るく愛らしい色使いに、淡いあこがれは誕生した。
私はその女の子がそれから気になって仕方なく、やがて好意自体がどうしたものか苦痛に似たような感じを帯び出した頃には、いつも恥じらいが前面に踊っているみたいでやりきれなくなってしまっていた。そうした夢見がくり返されるうちに唐突の登場者(異性)は、ほとんど陰の恋人に仕立て上げられる始末となり、いわば方程式の按配で精通を知らぬ私をいたぶるのだった。現在に到って尚この方式は健在である。
さて、まぎれもなく個人的で小さいまとまりを欲している追想は、常に甘い旋律に傾きがちで、しかも哀感と交錯する自由を得たいが為の分析に終始し、断片としての映像により散らばった病根を拾い集めることが、あるいは言葉をただす責務に苛まられていることが、背後霊からの指令であるかのごとく、玄関先の溝を掃き清める行為に導かれてしまっている。
不発弾に軽い失望を覚えながらその威力など想像せず、ただ夜気にきらめく一条の閃光を見つめているのは、陽光のまばゆさに慣れてしまったひとでなしの証しかも知れない。情愛のひかりが世界を被っているという意味あいは不問に付される。言語感覚に異変をきたさない限り記譜法は変わらないだろう。少年は老いやすい。
先日のこと、まだ喋るにも覚束ない赤子をあやす機会があって、とはいえその父親にはあまり好印象を持ってなく、母親の顔も見たことがない、そうした場面に臨んでいるのもやや不快な心持ちながら、前がはだけてままのビニールみたいな質感をした股間を訝しがっていると、おもちゃの糊付けかと思わせる割れ目を赤子の指先は痒いところでも撫でる感じで触り始め、そこから沁みてきた粘液になったものを口先に運んでいるので呆れ返り見ていれば、児戯と呼ぶまでもない野性の戯れは自然現象やら生理現象を擁護する調子で、まるで順番であるべきなのか私の口へ粘液と唾液の溶けたゼリーを塗りつけてくるから、満面に嫌悪感をあらわにしたのだったが、父親はいたって機嫌がよく、無垢な乳児の体液はすすって当然といった表情でいるので、叱るわけにもどうにも拒否しきれずにいると「さあ抱っこしてもらいなさい」そう言って赤子を私に寄越したので仕方なしに「たかいたかいバアー」なんて卑屈な声をこめながら抱き上げ、更にはその子と目が合った瞬間には唇から舌先にまで浸透した体液がまったくの無味無臭であることに妙に感心してしまって、顔つきも定まらないけれど嫌に光っている瞳と向き合っている情況に緊張を覚え、じっと動かすことも出来ないでいたら、どうした理由かさっぱり思いつかないまま「この子を虐めたことがある」など奇怪な妄想がさまよいだし、すっかりうなだれてしまっていると、父親が「こうやって慣れてもらわないとね」なんて意味不明の言葉を発したので、赤子の目も同調したのか分別臭く見えてきた。これはいけない、もう帰ろうと思ったとき「何十年くらい寝小便してないだろう、しかも本格的に」などと、他愛もない考えが雨のごとく降り注いでくるのだった。
[255] 題名:タイムマシンにお願い2 名前:コレクター 投稿日:2012年01月17日 (火) 05時25分
「さあでは椅子に掛けてください」
「目は閉じてたほうがいいんでしょうか」
いよいよ時間の旅が待ち受けているかと思えば心音が激しくなるのは自然だろう。死刑囚の心境を察してみるのは難しいけど、直ちに開始されるのか、それとも儀式めいた猶予があるのか、いやいや、遡行に対するNさんから何らかの注意事項があってもいいはずなのに、、、そんな狼狽をただそうしている自分が情けなくもあり、また曇り空を見上げるとき上澄みみたいにかすってゆく憤懣のあり様のごとく、落ち着きの悪さは保全を願ってやまなく、尋ねる言葉はやはりか細かった。
「開けていてもかまいませんよ。飛行機から下界を眺める要領です」
Nさんの表情を形成しているものを額面通りに信じるなら安心を得るところだったが、患者が医師に対しより確かな処方を求めてしまうのと同じで、もっと明白な助言を優しく受け取りたい。例えば、過去に生きる人々への接触はどこまで許されるものやらとか、野草の一本まで慎重な態度を保つのは鉄則であるとか、時代の眼は案外厳しく不審者として詰問された場合いったいどう対処すればよいのだろうとか、短い間とはいえそれなりに思慮した事柄が出発まえからこうも噴き出してしまうのは潔くなく、見苦しいのかも知れないが、開眼されるべきものはそうあるほうが正しい、自分の質問は時間の移動に向かう態度である、だからNさんはもう少し丁寧な表情をつくる義務があるはずだ、唐突な誘いに乗ったのは自己責任に違いないけど、こんな世紀の発明を自分に試させる意義を問うてみたくなるのは当然だろう。が、憤怒が急速になだめられるよう、喜悦が一気に醒めてしまうように、Nさんに向けられた情意はまるで夢のなかで霧散する光景となって鎮まり、ただ一縷の思いだけが魔法の呼び子となって残され「下界だけでなく、天界も同時に目の当たりにするわけでしょう」そうもらした。
そのときようやくNさんは口角を上げた。実験に魂を捧げてきた学者が見せる至情の笑みだった。決して人懐かしい笑顔ではなく、どちらかと言えば月影に照らされた鬼神の面が放つ、妙えなるひかりに似ている。そして光線を追いかける勢いで訪れた一陣の風に乗り、幽かな笛の音が耳の奥へ静かに鳴っていた。
自分が憂慮しているすべてを柔らかに包みこんでいるふうな、夢とうつつの境目にたゆたっているときの充足感は精緻な言葉を退けようと努めている。ちょうど芝居の決め科白みたいにひとことだけ吐かれる。
「Nさんはどれくらい遡ったのですか」
それは意識の方角から落とされた小石だった。鬼神の面貌にわずかな、もちろん肉眼では窺えないほどの亀裂が現われ、そこから隠された素顔に水がしたたるよう情感がこぼれ、こう呟いた。
「いわば個人史です。秘密にしておきたい。でも安心なさい、その貨幣が使えたのですからあなたが望んでいる時代とそう大差はありません」
Nさんは微笑を保持したまま腕時計を差し出した。そして穏やかな笑みは日輪を霞める雲影を映しとりながら、冷徹な発明家の矜持に返り咲き説明してくれた。さながら花陰を指し示す按配で。
「シチズンのアラーム・4ハンズです」
くすんだ金色の縁取りは秒針を巡らす為にこんなに丸みを強調しているのだろうか。見るからに昭和三十年代が懐古される古びたねじ巻き式腕時計、竜頭がふたつ付いているのがアラーム仕様なのだと認める。
「いかにも表面は当時のモデルですが、これもタイムマシンの付属なのです。時刻設定は為されています。ええ、ですから竜頭は絶対に動かさないでください。これより72時間先、午後3時にプログラム済みですから」
「なるほど分かりました。それではこの時計は預かっておいてください」
これまで着けていたものを外しNさんから受け取った時計をはめ椅子に座った。もうため息さえ空気と不分に交わっている。
「おっと、いけない。言い忘れるとこでした。空間移動が不可能なのは先ほど言った通りで、つまりあなたは三日後のこの場所に帰っていなくてはなりません。40年前この辺り一帯は竹やぶでしたが」
「はい、だいじょうぶです。学校の裏手に広がったところですから」
「必ず午後3時までに戻っていてください」
「それでこんな折りたたみが出来る事務椅子が選ばれたんですね」
「まあ、そういったところです。それから操作などはいりませんよ。ただその時刻に椅子に座ればよいのです」
「分かりました。ではお願いします」
あれこれ危惧したことなど最早すっかり消去されていた。操作は始まったのだろうか、腰掛けた身体には吸盤の圧力が稼動しているみたいな感覚が生じている。すぐに全身が硬直しだし、今度は強烈な暴風にさらされているときの身動きに近い心細さをともなった威圧が胸中に広がった。肉体の痛覚よりも遥かに神経が波打っているのが実感できる。ピリピリと小刻みに震えるのではなく、妙な表現だがもっと大らかにそよいでいるような、あたかもススキの穂に光芒が発し、見極めつかないはずの外敵にとめどもない信頼を寄せるという転倒した物怖じが、それはこの世のものとは俄に認められないにもかかわらず放心を肯定していて、ただの虚脱に思えてしまう。自分の心身が離脱していく瞬間をとらえるなら、まさに今がそのさなかではないか。Nさんも認可した意味をかみしめる為にこうして目を閉じたりはせず、四肢を貫いてゆく圧力も見定める気概でひかりの渦が発生するのを心待ちにしている。脱却するに当たって時間軸はどう抵抗するのだろう、神経の所在はまだ失せていない。いや反対に非常に澄みきった意識が幾重にも折り重なっているみたいで、俯瞰図を眺めている猶予がさずけられているではないか。希望と絶望、親和と疑心、跳躍と停滞、好奇と恐怖、曖昧な夢と偉大な不安、これら相反することや時には歩み寄ったりする心象が、畳まれた襞を這ってゆくよう深く浅く、気圧に左右される自然現象と化して脳内に反射している。そうだ、これがひかりなのか、、、泥酔者がその意識内でもまずまずの機知を働かしていると感じてしまうのと等しく、自分の思考は平行線に定規を当てているのかも知れない。定規が時間、それなら平行線は何なんだろう、、、待てよ、渦が巻くのだ、定規みたいに時間は短くないぞ、巻き尺が入り用だな、とすれば思考が怪しくなるまえに世界はねじで操られ途方もない円環に収斂してゆく。その先を計れるなんて考えるほど傲慢ではない、もっともだ、時間を歪めるどころか逆行しているのだからな、、、意識の俯瞰は案の定、こじんまりとしたあばら屋の見取り図だった。
気がつけば葉ずれの音が身近にあった。歓迎のしるしにも聴こえる。特別に耳をそばだてることもあるまい。竹やぶには冬空がよく似合う。空気はありていに冷たいだけでなく、緑に囲まれているだけでなく、経年に耐えてきた飾り棚にしまわれた置物たちから見届けられているような、塵埃さえも静まり返って朽ちるすべを忘れた奇妙な冷ややかさがあった。
町並みが覗けるところは目と鼻の先なのに、さっきまでの混濁した意識にもう少しだけ浸っていたい気がした。同時に開き直りにもとれる馬力がみなぎってきて、ここが本当に40年前なら三日などとは言わずに心行くまで留まってみたい、野宿や金銭にとらわれたにせずに、、、そんな思いが波打ち際に立ったときのようにゆっくりと去来はじめ、瞬きに沁みる時代の呼吸は悲哀を呼び寄せ、早くも自分を透明にしていた。
[254] 題名:タイムマシンにお願い1 名前:コレクター 投稿日:2012年01月06日 (金) 05時35分
真夜中お好み焼きを作ろうとして冷蔵庫を開けたら卵がなくて悲嘆にくれていたのだが、腹が減ったので焼き飯にしようと考え直してみてもやはり卵がなくてはしょうがない。そこでキャベツと紅ショウガだけのお好みに戻って、せめてソースだけはと、ウスターとトンカツとケチャップをこの世で最高の香りまで高めることに専念した。たかが三種とはいえ絶妙の配分が世界を変えてしまうのだから、それはもう命がけだった。焼き上がりはキャベツを控えめにした結果、水分が出ず表面はカリっと中身はふんわりだったのだが、他に具材がなかった腹いせに紅ショウガを入れ過ぎてえびせんべいみたいな色合いになってしまい、味もピリピリして沈痛な面持ちで食したのであった。黄金比率のソースも成功からはほど遠く、これまた全部ぬりたくったあげく、手やら腕やら顔面にいたるまでベチャベチャになったので、ウエットテッシューを取り出したところ、ただの乾燥紙と化してした。そういえばしばらく使ったなかったことにうなだれ、渋々洗面所へ行ったら額に蜘蛛の巣がまとわりつき、絶望の渕に追いやられながらも一応手洗いと洗顔は済まし床についた。夢にオバQとモジャ公が出て来てなごんだけど、出来れば交替で登場してもらいたかった、なんて能天気な思いに耽っていたらもう翌朝でNさんから電話がありタイムマシンを製作したのだが、どうかと言われた。
どうかって、それは実験に立ち会わないかという意味だと解釈し至極冷静な口調でこう応えた。
「試運転はもう済んだのでしょうか」
Nさんは軽く咳払いをしつつ、それが威厳であるかのごとくゆったりとした声で説明を加える。
「もちろんです。私自身もう体験しました。これはいわば誘いなのです。時間への挑戦でもあります。ただし私の技量は高々しれておりましてそんなに遠い年数は無理なのです」
何を謙遜しているのだろう、タイムマシンなんて世界初ではないか、Nさんの言葉に反撥してしている間にほとんど乗り気になっている自分を確認できない。だからすでに具体的な質問は用意されているし、Nさんもその辺りは心得ているのだろう、すかさず「まず50年といったところです。過去も未来も、それから空間移動はほぼ制御不可能なのでマシンのある場所が到達点となります」と、基本が大方のみ込め、あとは体験あるのみ躍るこころは世界ーと自負した。
Nさんの自宅兼研究所に赴くと、さっそくタイムマシンを安置してある部屋に通された。眼を疑った。どこにも機械めいた装置なく、机とソファが片隅に押しやられた真ん中に何の変哲もない事務用の椅子がひとつ置かれている。嫌な予感が適中するのは慣れている。
「これが私の開発した丸出号です。一見普通の椅子に見えるでしょうが、そもそも時間軸を越えるのに仰々しい仕掛けなど必要ないのです。こうしたシンプルな形状こそ最適と言えます。疑ってますね、心配入りません、ここに腰掛け催眠術なんてまやかしなどでは決してありません」
疑心を先んじて述べられると、残されるのは異形の抜け殻、つまりは帰依みたいな心性に落ち着くこともある。
「わかりました。信じましょう、ところでNさんは過去と未来どちらに行かれました。それとも両方ですか」
「過去に決まっているでしょう、未来なぞ見てしまったら生きる張り合いが失せてしまいます。先が読めそうで読めないからこの世は輝いているのです。先を知ってしまったら人間は確実に堕落します」
「それはごもっとも、でも少しくらいならどうでしょう、ほんの覗き見る程度に」
「あなたはスカートの下の覗くとき、ほんの少しで止めときますか」
「いえ、段々とエスカレートして犯罪に至るやら知れませんから、スカートめくりは小学校以来、いえ中学校かな、試したことはないです」
「理解してもらえて感謝します」
「愚問でした」
というわけで遡行が開始された。数年前の記憶はまだまだへばりついているから、一番記憶のあやふやな、しかし一部分は鮮明な時期を選択すると、やはり小学校の低学年十歳くらいに絞られてくる。
それ以前だと記憶と記憶が交わらない、こういうことだ。幼児期に遡るすればそこはもはや見知らぬ空間でしかなく、例え現存する建築物や山河を見まわしても一風景であることのしがらみを確認するだけで、肝心のこころの芽生えと出会えない、やはりある程度の認識力が備わった頃の自分を見つめてみたいのだ。時間旅行のパラドックスも承知しているから陰でそっと様子見に終始するのだろうが、他者はともかく十歳の己にはひとつだけ言いたいことがあって、いよいよ過去への旅に向かう準備は整った。Nさんからは重要な問いかけを受ける。
「どのくらい滞在しますか」
これはここに着くまで道々思案してきたのが、ごく割り切ってみても旅であることに相違はないので寝泊まりの確保がそのまま過去への滞在日数に繋がる。数回に分けて遡行すればと思われるだろうけど、これには判然とした理由があって、この事務椅子を一度作動させる為にはある科学物質が大量に消費されるので、経済面というよりもその物質を作り出す時間が問題とのこと、なんだかんだで時間には時間が必要なんだと神妙な気持ちを抱いたのだった。
さて旅程だが、まさか生家に未来からやってきました、なんて言っても絶対に受け入れてもらえないだろうし、下手すれば不審者として身柄を拘束されることだってあり得る。かと言って野宿もこの季節は大変だろう、いやいや春夏秋冬に関係なく生まれてこの方野宿なんかした試しがないから、テント張りはおろか飯盒だって覚束ない。登山経験者とか同行してもらえば助かるのだろうけど、タイムマシンはひとりしか転送できない仕組み。かなり真剣に悩んだ、今日は断念して今後はサバイバルの訓練を施してから挑むべきとも考えてみた。ところがNさんいわく「燃料は保存不可能な性質でして、あと一回分を今日明日に使いきってしまわないといけません」
そうなると、当初の企て三日あたりが適切になってきた。仔細はまず相当なとまどいを隠しきれないという心理面からの推察、次に宿泊飲食に要する貨幣の問題、現行の通貨は過去では使用できない、残念ながら聖徳太子のお札は手もとになく、これから調達する間もない。急いで思いつき引き出しの奥から五百円紙幣を十枚を数え、その他にはまったく所有してないことを認める。40年程前に遡るわけだから、百円硬貨も昭和の刻印はなかなか見当たらなく、あっても昭和40年後半とか50年でほとんど平成の代物だった。それでも数枚かき集めてみた結果、これだけの金銭では当時の物価を考慮しても三日だって怪しくなってくる。実は買いものに対する執着も念頭から切り離せなかった。Nさんはそんな苦渋の色を見抜いていた。
「私も旧札を工面しましたよ、使いきれなかった紙幣があります。その時代でも通用します」と言って聖徳太子の大の方を数枚差し出してくれた。
「ではお借りしておきます。ええこれだけあれば上等です。あまり欲を出すのはいけませんから」
確かにこの時間旅行の最大のテーマから外れることは意味がない。答えは簡単、何をしに行くかということに尽きる。空間移動が無理な以上この町をうろつくしかないし、狭い町だから一日もあれば十分なはずで堪能するまで当時の景色を眼に焼きつけてくればいい、デジカメは無用だ。記録を収めにゆくのでななくてあくまで記憶を交差させに向かうのだから、写真は断念しよう。あの時代は港付近に宿屋がまだ沢山あったはずだから、まず一泊して費用を算段すれば何とかなる。飲食物は古びた鞄につめて持って行こう。しかし昭和の匂いが大衆食堂とか中華そばの汁が香る店先を素通りするのはしのびない。
Nさんによればタイマー設定は転送された時点で修整不能になるそうで、はっきりと回収時間を告げておかなければならなかった。あれこれ迷ったあげく計画に即し三日と決定した。さあ十歳の自分に会いに行こう。待っていろよ、きっと記憶は目覚めるはずだ、もう気分は郷愁を先取りしてしまっていた。
[253] 題名:くるみ割り人形 名前:コレクター 投稿日:2012年01月06日 (金) 01時37分
あら、絹子じゃない、何年ぶりかしら、変わらないわね。あたしはどう、ま、いいか。仕事の帰りでしょ、そこの駅ね、じゃあ歩きながら少し聞いてくれるかなあ。あんた何処に住んでるの、あそう、あたしと反対ね。でもいいや、駅までじゃ話しきれないから電車一緒しちゃおうかな。だいじょぶだいじょぶ家まで押し掛けたりしないから。えっ、いいの、ごめんね、迷惑じゃない、あそう、実はさあ、あたしこの間アパート引っ越したんだけど、うん、前々から居心地悪いんで大家さんにこぼしてたの、だって隣が駐車場で、大方そのアパートの住人なんだけどさ、とにかく夜間の出入りがうるさくて、わたし早寝だから、そう夕飯食べて風呂入ったらすぐ寝るの、困るのよね、睡眠だけがあたしの生き甲斐でしょ、せっかくいい夢見てなごんでいるのに邪魔者なんだわ。気になりだすとしまいには車の台数を毎晩数えたりして、まったくこの胸のうちをどうしてくれるの、かと言って駐車場なんだから仕方ないし、こんな部屋を選んでしまったのも自分以外の誰でもないわけで、悶々としてたわけよ。絹子さあ彼氏いるの、いない、そう別にいいんだけどね、ああ、もう何を言わすの、独り住まいのわびしさで八つ当たりなんかしてません、そんなんじゃなく、あたしこう見えても友達いないしね、そうなの孤独を愛する年頃なのよ、だから勘違いしないでって一応念押ししただけ、結構いいよってくる男だっているんだから、でも関係ないわ。で、とうとうやって来たの、いい気を落ち着けてよく聞いてね、誰にもまだ話ししてないのよ、まったくいいとこで出会ったわ、絹子にはあたし素直に何でも言えそう。あんた無口だし反応ない表情してるから丁度いいの、ああ、けなしてるじゃなくてこれには理由があるんだ、じゃあおおかみの場面から始めるわね。車を数えだすのも何か惨めっていうか段々陰気臭くなってしまってるようで、今度は一々窓を開けて、車をキッと睨みつけだしたんだけど、ある夜のこと、まったく車が出払ったときがあって、めったにない光景だから、そうなのよ広々として静かでちょっとした庭みたいな感じさえしてしばらくぼんやり眺めていたの、無心に近かったと思う。どれくらいしてからか覚えないんだけど、だって驚いてしまってその後は呆然としていたから。あのね、少し先にケンタッキーチキンがあってあたしとこからその店の裏が見えるの、たいして気にもとめてなかったし、ごく普通の風景だからまさか定期的に浮浪者たちが忍んで来ては食い残しをあさってるなんて本当にびっくりしたのよ。見るからにそれと分かる格好だったし、きちんと袋持っていて何やら選り分けている、おそらく身の多いやつだけ詰め込んでいたに違いないわ。残飯入れって分厚い紙だった、あいつらそれを破り裂くんじゃなく丁寧にひも解いているんだよ。そう痕跡を知られないようにする為に。どこで嗅ぎ付けてくるのか、きっと情報交換とかしていたんじゃない、そりゃ見事な手さばきで用を済ますと消え去ってしまう。いや、浮浪者に感心してるんじゃないの、問題はその後なんだ、あたしその様子を双眼鏡で見つめていたんだけど、たいしたことない玩具の双眼鏡、子供の時分に縁日の型抜きで手に入れたのを今までとってあったのよ。あ、知ってる型抜きって、硬いガムみたいな素材したものに絵柄が薄く印されていて、針できれいにその通り切り抜くの、何となく覚えてるって、あそう、あたし何度か挑戦してついに達成させたんだ。だって賞品はトランシーバーだの人形だの時計だの戦車だのって子供にとっては眩し過ぎるものが飾ってあったから、へへ、あの時あたしは針でほじるのは絶対限界があるって考えて、針先を唾で湿らせてガムを溶かす手つきで集中したわけ、根気なのかなあ、以前テレビで伝統職人とかって木彫りを作っている番組があってね、あの地道な作業を念頭にしながら祭り見物もそっちのけで没頭したの。そのうち日暮れてきたから露店のおじさんも呆れたんじゃない「もういいから好きなの持っていきな」って、だから正確には完成寸前なんだけど執念で手にしたのがそのその双眼鏡ってこと。倍率は4倍くらいかな、玩具にしてはよく出来てたわ。それで浮浪者の行動もつぶさに観察したって次第なの。ああ違う、熱心な観察はここから、つまり今度はおおかみが現われたのよ。ガサガサする物音に又かと思ってもう窓を開けなかったら、どうもいつもと様子が異なっているような気がして耳を澄ましていると、低いうなり声とかも聞こえてくるじゃない、今夜は野良猫かってため息ついていたら、えらく気配が騒がしくなってきたんでそっと覗いてみたの、そしたらあんた猫なんかじゃない、最初は犬に見えたし、それはあり得そうなことだと頷いていたら、どうも風体があやしいんで双眼鏡でじっくりうかがったの。 ミだわ、しかも十匹くらい居る、あたし吸血鬼の次におおかみ男が好きなもんでよくわかる。ねえ絹子、そのときの気持ち察してくれるわね。そうなの、それからも度々 ミの群れがフライドチキンを狙ってやって来たのよ、浮浪者はたぶん怖れをなして近寄れなかったんだわ、それ以来まったく見かけなくなったもの。で、いくらおおかみ男に興味あってもこうして夜な夜な実際の獣が身近にいると思うと、寝付きが悪くなりだして大家さんに顔を合わせた際ありのままを報せたのよ。そしたら「この都会の真ん中におおかみなんて、それはせいぜい野犬でしょう」って、はなから相手にしてもらえなくてそれでも食い下がったら「じゃあ証拠の写真とかありますか」ときたんで「あたし携帯も持ってないしカメラもありません、仕事は電話番ですので仕方がないのです」そう捨て台詞を吐いてその日はそれきりだったけど、次回はスケッチブックに色えんぴつで写生して懇々と説明したの。すると、、、そうなのよ大家さんはどうやらあたしが前々から部屋を気にいってないことの嫌みだと判断しらしく、今回の引っ越しに至ったわけで、もともと大家さんは不動産業者でもある都合で両者の思惑が一致を示したの。アパートの契約のときにね、一度聞いてみたんだ、物件の事項に心霊現象の有無ってありますかって。当惑した顔をしながらも大家さんは、そんなことはありません、この都会にお化け屋敷なんて、と小馬鹿にした笑いを浮かべていたから、いいえあたしのお訊きたいのは変死とかがあった部屋は色々と問題がるため借り手がないので格安だったりすることもあるのでは、と切り返したの。すると相手は悟ったみたいで、つまりこういうことよ、確かにそうした物件は存在するだろうが、こんな饒舌な者に貸したりしたら後々トラブルの元になりかねない、下手に賃料を安くするのは自分のほうから困惑を露呈するようなものだ、今の部屋ね、あたし実はここの噂を薄々知っていて大家さんに尋ねたこともあったの。蔦の絡まる古びた二階建てのアパートでね、しかも一階の角部屋で虫が湧いたら中まで侵入してきそうだったから、渋っていたら案の定、蜘蛛もよく出ます、なんて取ってつけたようなことまで言ったのよ。何であたしが蜘蛛嫌いなのを知ってるわけ、顔に書いてあったのかなあ、そうした事情で当時は格安物件と心霊現象を逃してしまったのね。ところがそれからもずっとあの一室は明いたままで、結局大家さんはあたしの交換条件をすんなりのんでくれたっていうのが引っ越しのいきさつなのよ。そりゃそうでしょう、いつまでも空き部屋にしとくより多少賃料が下がったって、、、あっ、絹子ここの駅で降りるんだっけ、そうかあ残念だなあ、これからが本題なんだけどさ。そんなかいつまんでなんてとても無理、あたしの体験は順を追って聞いてもらわないと、でもいいや、少しだけ教えてあげる、今の部屋ね、出るのよ、へへへ、ほら窓の外はもう宵闇がせまっているわ、そうなの昼間は決して現われないのよ、今夜、出るのじゃなく居るのよ、、、そうなの、ええっ、これから来てくれるって、絹子もいいとこあるじゃない。あっごめん、さすが絹子ね、では乗り換えしましょう、そうしましょう。日が落ちると一気に寒くなるわ、でもあんた胸のなか温かいんじゃない、ふふふ、うちに着くまでに説明しとかないといけないわね。いきなり対面では、いい絹子、決して怖がってはだめよ、優しく見つめてあげて。そういうあたしも当然ながら最初は凍り付いた、出た、地縛霊に違いないって。場所、もちろん部屋のなか、驚かないで、布団のなかよ。断っておくけどあたし霊感とか全然ないし、幽霊の存在を信じているわけでもないの、ただ夢にいつも妙なものが出てくるから今更目の当たりにしたところでおののいたりしなかった。えっ、いつからかって、う〜ん、どれくらいまえからなんだろう、あっそうじゃなくて、今の件ね、引っ越したその夜からよ。細かいところまでは知らないけど、血なまぐさい事情はあったみたいね、だからといってすぐさま心霊現象にたどり着くなんて考えてなかったし、正直なところ駐車場から離れられ、 ミともおさらばして、家賃も安くなる、へへ現実的でしょ、何よ、その顔、絹子らしくないわねえ、歪んだ表情なんかしてさ。あたしの脳を疑っているんでしょう、仕方ないか、実際に霊が出たんだから、でもどっちが現実なんだろう、どうしたの絹子、今度は微笑、ううん、ありがとう、あたしもなんかうれしいわ。で、布団がもぞもぞしたの、なかを覗いたら小さな顔があった、おかっぱ頭の少女、ほら「千と千尋」に登場するハクっていたでしょう、あんな感じだったわ。もの凄く冷たい眼をしてるの、視線は外せなかった、時間は止まっていたのよ、夢かも知れない、が意識はある。でも夢で意識することもしょっちゅうだわ。だからどちらでもよかった。心臓は止まってなかったみたい、春の雪どけ水だって冷たさには変わりないと思うけど、氷の世界と水の流れは一緒じゃないわ、あたし少女が何かを訴えているような気がしてきたの、そっと手を差しのべてみた。やっぱり冷たい、って感じた瞬間にぐいって引っ張られた、本能的な恐怖に包まれたわ。あわてて布団を蹴飛ばして起き上がったらもうそれきりだった。そんなことが数回続いたある夜、あたし意を決して再び手を握るふりしてかわし、もう一方の手でもって少女のからだをつかみ引きずりだしたの。拍子抜けするくらい身軽だった、すかさず枕元の明かりをつけまじまじと少女を見つめたわ。青みがかったパジャマを着ている、しかも男もの、えっ、もしかしてこの子は少年なの、、、あたし何のためらいもなく胸を撫でてみた、ガラス戸のような感触、そのまま指先を下半身に這わせると、あったわ、突起物、きみは誰なの、内緒話しをする要領で声を細めてそう訊いてみたけど、返答はなくじっと見つめ返しているだけ。寂しそうな表情だったわ、いえ、あたしがそういう見方しか出来なかったかも知れない、どうしてかって言えば、、、絹子、あたしを見損なわないでね、お願い、、、パジャマの下を脱がしてみた。そう下着もろとも、それは立派な大人のものだったわ、しかも は真っ白で全然縮れてなく白糸のようになめらかなの、触れなくても分かった。きみはいくつなの、答えはない、あたし最近あれしてないけど、男のあそこは十分知ってるから胸騒ぎがした。おさまりつきそうない息苦しさ、でもずっとじゃない、いつかは消えてしまうだろう遠い海鳴りにも似た心細さ、そしてあえて情緒を不安にさせる優しさ、少年が口をきけないのはすぐに理解できた。あたしなんかとは喋れないんだ、棲む世界が違うからよね、だったら何故ここに居るのよ、易々とあたしに引きずられおチンチンだしてるのよ、少年は顔色を変えないし、怒りに任せた内語も通じていないようだった。だけどもきみはこうして黙って佇んでいる、そうよ、お見通しね、あたしがこの部屋を求めたのよ、きみに出逢う為に、、、絹子、わかるでしょ、その子はあんたにそっくりだった。あたし少年のものをくわえた、当たりまえのように堅くなったから挿入してもらった。嫌がったりしなかったわよ、あんたがあたしを警戒しているのは分かるわ。でもまあ、よくここまでつき合ってくれたわね。あたしが女装してても動じないんだもん、絹子あんたはいいひとだ。そこの角を曲がったとこがあたしのアパートよ。もう分かったでしょ、地縛霊と会っていく、はははっ、無理はしなくていいんだ、そんなもの居ない、あたしが帰るまでは絶対に居ない。ありがとう絹子、素敵なほほ笑みだわ、だけどもあたし本当は蔑んで欲しいんだ、そうしてくれない。