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[240] 題名:ねずみのチューザー62 名前:コレクター 投稿日:2011年10月31日 (月) 05時36分

「現在の本部はX1の処置に戸惑っている。提供者として発言権はおろか、計画の進行に参入することなどあり得はしないが、ドクトルKから特別の許可をもらい分身と対面させてもらった。過酷な伝達であるのは承知してもらいたい、X1よ、もう時間はないんだよ。それは誰よりも知っていると思うが、わたしの口から言うにはいたたまれない。これはわたしの分身的な他者に対するレクイエムだ。おっと、勘違いしないでもらいたい、わたしは金魚を憐れんでいるのでなく、その器を嘆いているんだ。きみはもはやわたしとは別人格として存在しているから、尊厳を無視したりはしない。ただ、計算の狂いから少々、尊厳の在り方を考えさせられてしまった。もうひとりのわたしが異国で生きているごとく、さまよえる旅人となって、しかも自由などという目に見えない実体は微塵もなく、強烈な時限爆弾を抱え、時空に宙吊りにされている。チューザーの裏切りともとれる行為はそんなX1に向けた最期のはなむけだったのだろう。彼もまた己の寿命を見極めていたと思う。半ば役職をと言ったのは実のところ、憐憫の情を語るためだけでなく、きみの行方に関するわたしとしての模索を語っておきたかったからなんだ。この映像発信は本部の認可を受けている。隠れ里に居残る反体制の幹部も今頃、瞬きもせずに観いいっているだろう。ここ数日間で大佐の不動の地位は大きく傾いてしまい、もう支持者は白眼視どころか追放の憂き目に合う情況まで変革してしまった。きみが仮想を生き抜いた証として知人にことの次第を書き送っていたのも了解している。脳内の溶解と戦うようにして時間を忘れ、無心で言葉をたぐっていた。わたしのこころはひどく揺らいだ。どうにかしてチップを制御装置の延命を計れないものか。きみが知人に向けて綴り続けている間、体制はミューラー大佐を放逐してしまい、すでに無用の長物と化した意識を呼び醒ますことに意義は求められない。願わくば覚醒ないままにX1に身体を譲り渡してもらえるなら、、、かつて独裁的な手腕で粛清も厭わなかった大佐ではあるが、長年の功績を称える意味あいからも、このまま自然消滅していまうように、記憶の隅々まで霧の彼方に掻き消えてしまうように、もしそれが可能なら。大方の願望は雪崩を見届ける面持ちでそんな空気に包まれていたそうだ。しかしドクトルKが思案するまでもなく、残念だがチップの寿命は元来限られた性能しかあたえられていない。我々の身勝手を聞くに及び、激しい憤りを感じるのは重々分かっている。X1よ、きみはよく耐えてきた、そしてよく戦ってきた、あとは静かに眠ってほしい」
思ったより簡潔に言い切ったものだよ。提供者の言い分はあらかじめ予測していた結末をなぞったに過ぎなかったから、それほどの衝撃は感じなかった。それより、僕という曖昧な人間に対して尊厳の目線を配ってくれたのがやはりうれしかった。時間とのせめぎ合いにも疲れてきたところだったし、僕に関わった者らがみんな死んでしまったあとには、まっすぐな諦観が横たわっている。
僕は提供者からの伝言を確かにレクイエムとして受け止めたし、君に話すべく物語も終焉を迎えつつあった。モニターからの続く一言を聞くまでは。
「選んでくれないか。ミューラー大佐が目覚めるのを待たず自決するか、それとも、、、」
「それとも」
折角はかない人生に最期の灯火を見いだしたこの意識が、乱れた。
「溶けてなくなるのが自然なんだろ、ミューラーの覚醒はそんなに厄介なのか、僕に能動的な死を示唆するなんて何というひとでなしなんだよ。ああ、そうかい、なるほどな。見えてきたぞ、これは僕に対する命令なんだな、断ればこのバスに攻撃を仕掛けてくるつもりなんだろう。はっきり言えよ!」
「わたし個人の力量ではどうにもならない。すべては本部で決定された。見苦しい大佐を復活させることなく潔く死んでくれ」
「隠れ里の連中も同意見というわけか、あんたら巨大な権力のまえには僕なんか石ころにも充たない存在なんだろうが、そうと決まれば抗戦しかない。どうせ知人に綴った文も抹消されてしまうとみた。それにしてもあんたらの実験精神には感心するよ。最期の最期まで僕を実験材料にしたわけだ。殺すならいつでも殺せたはずじゃなかったのか、それを生き血の一滴まで絞りとろうとする。
『僕は死ぬ、、、君らは僕を愛さなかったし、僕は君らを愛さなかったから。僕は死ぬ、、、僕らの関係は元へ戻らないからだ。僕は君らに消えることのない疵を残すだろう』
ルイ・マルの鬼火のラストだ。あんたの用件は分かったから、ルイ・マルを放映してくれ」
そうつぶやいてから、空になったサザエの甘露煮の瓶詰めをモニターに思い切りぶつけてやった。光が途絶えた。
上空にヘリの気配を感じてしまう。奴らは迅速に行動するからな。得体の知れない衝動に操られるまま、運転台に並んだありとあらゆるスイッチやボタンをひねったり押してみたりした。かつて体感したことのない振動がバスを動かす。ドアが開いてすぐに閉じる。デジタル表示の数字が真っ赤な色をして猛烈な勢いで秒読みを開始した。ハンドル下の四角い画面に「BOMB」と大きく点滅し、車内にバッハのトッカータとフーガニ短調がしめやかに流れだす。
僕は記憶の貯蔵庫に降りていった。恐る恐る、だがとても興味深い眉根を意識しつつ、自分の表情を鏡なしで眺めている。蜘蛛の巣が嫌らしく首にまとわりついたけど、その闇に張り巡らされた澄んだ細い糸を愛おしく感じ、苔子が忍んでいた床下を思い浮かべた。そして、チューザーが言い残した「日暮れまでには」という文句は反対に白夜を連想させ、夜露に濡れた蜘蛛の糸が薄明のなかに溶けこんでゆく光景へと重なりあった。


[239] 題名:ねずみのチューザー61 名前:コレクター 投稿日:2011年10月31日 (月) 02時28分

窓枠へ映し出された宵闇に一瞥をくれながら、のどかな心持ちを抑制している自分が微笑ましく思えてくる。座席に腰を降ろした気安さは、すぐに焦げついてしまいそうな怖れを含んでいて、これからの展望をゆっくりとした瞬きのうちに巡らし、年少時に覚えたプラモデルの製作にでもとりかかろうとする気忙しい手つきを呼び寄せた。残りのファンタを一息で飲みほすと、カメラがまわり始めた役者みたいな気分になり、車中を調べる仕草を意識しだしたんだ。そうだな、実際どこかに隠された穴から僕の一挙一動は筒抜けになっていることだろう。
込み入った運転席はあとまわしにして、後部から丹念に探り始めれば、四人掛けの座席をはぐるとそこが細長い冷凍冷蔵庫であるのを認め、生野菜こそ数は少なかったものの、ソーセージやら瓶詰やらがたくさん収められていた。飲料の種類も様々だったけど、どうもアルコールは見当たらない。ことさら感慨にひたるまでもなく、食品をつぶさに数え上げるよりも、他の仕掛けや装置の発見を急いだ。
極めて慎重に、大切な落とし物に集中したような過程は、おそらく君にとって時計の針を見送っている面持ちに等しいだろうから、結果だけを報告しておくよ。
いくつかの車窓の下にはコンパクトな保冷庫が埋め込まれているのは前に話した通りだし、ある席を移動させると簡易ながら電気調理台に様変わりした。それから床の一部から覗ける様態からかなり精密な装置がうかがわれ、やはり単純にガソリンで走る車種ではないのが確認された。赤や緑を主に点滅しながら複雑に絡み合っている基板を見れば、宇宙船にでも乗っている不思議な思いにとらわれる。銃器も一切出てこなかった。もっとも外側からは点検してないので車内に限ったことだねどね。運転席の左後ろに一台のノートパソコンを見つけた。14インチだな、この大きさは。早速起動させてみるとネット環境へも接続可能で、つまりそのお陰でこうして君に長文を送れる次第なのさ。君のアドレスは何故か記憶されていたので、まったく奇異なことだが唯一の聞き手はそこで決定されてしまったわけさ。最初に断っておいた通り、返信はいらない、理由はいたって簡単、僕には時間がない。気がふれたんじゃないかって訝られても仕方のない、これまでの経緯はモノローグで貫いたほうがいいに決まっている。
運転台には当たりまえのようにハンドルがあったりするけど、細々としたスイッチには名称がなく、まったくお手上げ状態だったので、不用意に触れるのは避け、とにかくエンジンの掛け方を調べたけれど、どこがキーなのかも判明されない。照明は自在に操れるようになったから、発車を焦らずバスに籠城でもする気概を喜びへと誘い、ここまでの顛末を書き綴ってきた。
あれから、どれだけ陽が昇り沈んだろう。追手は現われなかったけど、日に一度必ずヘリコプターが頭上に接近する音を聞かされた。そのうち慣れっこになったと言いたいところだが、兵糧責めにあっているみたいな心細さは確かに芽を出していたし、食料の尽きるまえに電源が切れてしまう懸念も生じ、段々と車内の空気が息苦しくなってきたんだ。
無論まどろみだけに終始した最初の一夜が明けたあと、すぐに親衛隊とチューザーの亡骸を確認するために山道を駆けていったけど、予期していた通りにその姿は消えてしまっていた。したたり落ちた血糊も敵対したキツネの面々も同様に始めから何事もなかったふうに、すべての痕跡は山々の霊気にのみ込まれてしまい、透明な静寂だけが幽かに微笑している。ああいうときこそ、ひとは心底震え上がるものだよ。
咄嗟に襲った戦慄は倍くらいの早さで僕をバスに引き帰させた。信頼や疑念、奇妙にして優雅でもあった過去の出来事に想い馳せることもなく、この身に差し迫ってくるのは惜別や悲哀の情も近寄らせない、冷たく青白い鬼火だけだった。
今まで幾分かは論理的に思考を働かせたつもりだったけど、案外そう信じ込んできたまでのことで、現実にはいかにして妄念を正当化しようかと努めてきたに過ぎない。チューザーとの了解があったとはいえ、このバスへの到達が一縷の希望に繋がっている信憑もないまま、逃走を演じた役柄に意味などなかった。
泣きごとめいた言い草をくり返しているのは、このあと想像もしていなかった事態に直面したからんだ。空無に生きる宿命を負ったものが僅かな抵抗をしめしたあげく、突きつけられたのはどんな鋭利な刃物よりも痛ましい、内心の声だった。
以前、タルコフスキーの映画がまるで天啓のように映されていたモニターに画像が現われ、目が釘付けになった途端、全身から血液が引いてゆくのがわかった。光の粒子でしかない画像となって滲みでた人物はまだ一言も発してはいない。が、親しみには距離があり、かといって慈愛を示しているまなざしをどこか香らさせている様子は、紛れもない死神そのものだった。
僕にはすぐにその人物が誰であるのか分かったよ。データX1の提供者さ。認識したのと彼が言葉を投げかけたのは気色いいほど素晴らしい間合いだった。
「やあ、その顔つきからして私の正体を名乗るまでもないようだね。気分はどうかなんて尋ねるのも野暮だから止めておく。まだミューラー大佐を占領している分身に対して、まずは敬意を払おう。それと自分で言うのもなんだが、決して悪い気はしていない。もちろん、これは個人的な意見だが」
提供者は以外と堂々とした喋り方をする。そりゃ、比較する方が間違っているけど、適切な判断を可能にするのは分析力より、現場の情況がもたらす胸中に溜まった澱だよ。負い目だけが誇りである僕はおどおどしていようが正直でいいと、自分に敬意を抱いた。
「この映像の発信は半ば役職を越えたものだと伝えたい」
その先も流暢に説明を加えそうなところ、僕はあえてこう言い返してやったんだ。
「あんたは僕なんだろう、つまり僕がどう足掻こうともかなわない。ちょうど金魚鉢から出れないように」
「そうむきにならなくてもいいさ。でもそこまで観念しているのなら、これから話すことに耳を傾けてくれるかな」


[238] 題名:ねずみのチューザー60 名前:コレクター 投稿日:2011年10月18日 (火) 00時48分

谷底まで反響した銃声の名残りを半ば放心状態で耳にしたまま、その戦闘がもたらした空気に特別な異変を感じなかったのは、現実からの攻勢を辛うじて回避させた楽観が過剰な寂寥にすげ替えられたのではなく、あくまでこの山々に囲まれた孤独と自由が森閑とした面持ちを維持していたからだ。
懐かしささえこみ上げてくるバスの後部がすでにかいま見えだしていた。大佐ではない僕の胸にひろがるのは親衛隊の死を予覚していながら、微塵の温情も口に出せなかった悔恨に突き刺されている痛みと、あえてそれを過去へと急速に葬ってしまいたい、焼けつくような苦みが消えてゆく鎮静だった。
車両に向かって進むにつれ、ここまで逃走してきた意味も同じく消えてしまう気がする。残照に応えながら泰然とした格好で停車しているバスに目的はあるのか。
ひと際大きな風がよぎっていったとき、左に山肌から岩清水がしみだしているのを見つけた。光線を受けきらめく透明さがまだそこに残されていると感じ、山の冷気が出迎えてくれたなんて勝手に思いめぐらせた。土を押し流したところどころは茶褐色の岩が見られ、より清らかな山水だと口をすすぎたくなった。のども渇いていたけど、安穏な思い出がこのバスには詰まっている気がして、そうだよ、リポビタンとかプラッシーやファンタグレープを一気に飲みほしたくなっていた。だが、とにかくチューザーと顔を会わせるのが先決だ。それに銃撃に倒れた親衛隊も気がかりだし、山びこさえ帰ってきそうな大声で僕はねずみを呼んだんだ。
いよいよバスに真向かうと、不意に肩に飛び乗ってくるあの軽やかな感触を期待した。けれども応答はなく、渓谷の音が小さく鼓膜に侵入して、視線が泳ぎだしたそのとき、山肌から溢れたらしい水たまりに不純な影を発見した。歩幅を急かす必要などなく、それがねずみの死骸であるのは瞭然としていた。
「チューザーなのか、、、」
水たまりは洗面器ほどで深みも同程度だったが、ねずみはあきらかに溺死の様相で沈んでいたんだ。チップのなかにだって過去に見聞きしたねずみの情報くらい保存されているだろう、この隠れ里に来てからも他の種類だって知ったし、何より僕はチューザーの顔を忘れたりしない。あまりの事態にめまいを覚えたけど、洗面器から水をすくう手つきで死骸を取り出した。灰色の毛並みは水分を含んで炭みたいに黒ずんでいた。僕の思考はほぼ停止していたと思う。だが、立ちすくむことなく踵を返しヒツジのいる場所へと小走りに駆けていったんだ。
ヒツジはその顔つきでことを悟ったらしく、黙って首をうなだれた。
「傷はどうだ」そうつぶやくように、頼り気ない言葉が出る。半身を起こしているのも限界に見えたヒツジはうなだれた首に誘われながら斜めに倒れこんだ。わずかだけど被った面から人肌がのぞく。僕はねずみを土のうえに置き、すでにほとばしった電流の驚きと痛覚をなだめる調子で訊いた。
「もげ太さんなんだろう、どうして、、、苔子を看病するよう言ったはずじゃないか。いつの間にヒツジになんか扮してしたんだよ」
「申し訳ありません。大佐殿」
「僕はミューラー大佐をまだ呼び戻していない、よく承知していたのだろう、もげ太さん。何故なんだ、何故逃亡に加担してくれたんだ」
「任務に対する服従だけではないのです。わたくし自身もこの里を離れたかったのです」
「苔子はどうなるんだよ。あなたは苔子を愛していたはずでは、、、」
「この世には色々な愛があるのでございます」
もげ太の顔色が急変した。「しっかりするんだ、あのバスは秘密兵器なんだろう、なんなら僕がバスを運転してくるから、それまでふんばるんだ」
僕はヒツジの面をはずし、その好青年がつくる最期の細やかな笑みを見つめた。口角が糸先で吊られたほど上げられると、ゆっくりとどこか遠くを眺める目線を僕に捧げてくれた。それがもげ太の生命だった。
「もげ太さん、、、どこまでひとがいいのやら。でもあなたがこの里で一番不思議だった」
喪に服する猶予は哀しいけどこの山にはなかったから、僕はもげ太の胸にチューザーをそっと乗せ、日暮れに挑む勢いで再びバスへと走り、ドアに手をかけたんだ。信じられるものは独断であり、勘でしかなっかった。
バスは確か自動走行をしていたし、食料も蓄えられているはずだ。それにこの車両はガソリンで動いているんじゃない、どんなエネルギ−かは分からないが、とにかくガソリン特有の匂いを今まで感じなかったことを思い出した。ドアは簡単に開いたよ。ただ、室内にも似た閉塞感は夜の気配をすでに漂わせ始めており、明かりの不十分なのは外気から逃れられた安堵を迎えるに均衡がとれず、却って窓枠にへばりついてくる夜気に接する本能的な恐怖を増幅させてしまった。早く運転席の装置を点滅させないと、この世界は暗黒に支配されてしまう。春の夜はとても穏やかだけれど、僕のこころは死んでいった者たちに見守られていると、言い切れるほど傲慢ではなく、また悪霊が跋扈しているなんて物怖じするつもりもない。願いはひとつ、闇に視界がさえぎられるまえにどうにか、野性から逃れた居場所を確保しておきたかったんだ。
ハンドルの脇に密集しているスイッチを片っ端から触ってみる。空調が可動したのが確認でき、続いて何やら赤いランプが点灯し、数字がデジタル表示される。比較的大きなレバーをまわせば、ヘッドライトがまばゆく放たれ、宵闇に包まれかけた山間を煌々と照らしたんだ。室内灯の明かりも各所判明してきたよ。きっと運転マニュアルもあるに違いない、走行まで焦るのは禁物だと冷や汗を拭いながら考えてみてから、懐にマッチがあるのを気づいた。これはおくもさんがあのとき渡してくれたものだ。
ようやく座席に腰かけ、少しだけぼんやりしてから例のジュースを探ってみた。あった、あった、缶のファンタグレープでのどを潤すと、疲労と一緒に炭酸が胃から戻ってきたよ。


[237] 題名:ねずみのチューザー59 名前:コレクター 投稿日:2011年10月17日 (月) 08時38分

木々の狭間を隠れ蓑にしてみたところで無防備でしかなく、忘れた頃にそよぐ風が木立を縫い、緑を揺らすように僕の姿勢にも軽やかなものが吹き抜けていった。極度の緊張に襲われているはずなのに、妙に落ち着いていられるのが不思議だったよ。思えば、屋敷内にどのくらいこもっていたんだろう。僕という意識が芽生えたときには早々にバスへ乗車して、みかん園や鏡面のようだった妙心池に立ち寄った以外、あの見事なセットのなかに逼塞していたからな。こうやって山中に誘われ、紛れこんでいるの現状にもっと解放感を覚えてよかったははずだが、脳内に自由を見いだせない限りはやはりただの風景でしかない。
そもそもミュラーの記憶を封印させることと、あんなふうに時代ががった演出はどこにその必然性が結ばれているというのか。甲賀の忍者、武家屋敷ともいえる古風な造り、着物で肌を包んだ女人たち、その言葉遣い、歴史を遡ったとしか形容出来ない雰囲気のなかで果たせる意味などあり得たとは信じがたい。
今になって訝ったりするのも変だけど、自ら夢見の世界に同調してしまった負い目というか、極めて脆弱な影と寄り添ってこなければならなかった日々が、すべてを脚色していたとも言える。だから、ミュラーたちの趣向についてあれこれ詮索してみても、所詮は僕の記憶が風化していく過程を反対側から覗きこんでしまうだけだし、なにより風景に対するまなざしを純化させるためには、最適の環境だったと思う。
屋敷でも時間は何かに塞き止められているんじゃないかと感じるほどに緩やかだったが、この生死の境目に置かれた情況のもとでも同じ感覚を延長させているみたいだった。狙撃されるのか、捕縛されるのか、大佐の意識が危機に目醒め、僕の脳髄をはかなく希釈してしまうのか、いずれにせよ雑草を踏みしめている足の裏に感じる現実味は、大地もまた悠久の流れとともに移動していたのだという意想と静かに、だがある種の強靭さを草木や上空に語らいながら重なり合っていた。
おとりとなったヤギの安否に神経を使うよりか、僕は彼ら親衛隊の心境をよく理解してしない虚しさによって、恐怖も不安もまるで段ボールにでも詰めこまれたように整理され、あわよくばどこかにそのまま送り届けてもらいたかった。きっとヤギもヒツジも銃弾に倒れてしまう。大義のうえでは党首とも元帥とも呼称される身分には違わないが、すでに失脚の兆しは著しく、いくら上官に心酔しているとはいえ、明治天皇と乃木将軍でもあるまい、みすみす命を棒に振る必要があるというのだろうか。申し出た時点で頑なに拒んでおけばよかったなどと、又もや後悔してしまうのだったけれど、虫のいい孤独感が衣をまとったのを自覚してしまった限り、苦笑は冷ややかな感情をともなわず、逆に屹立とした彼らの敬礼のかたちに来るべき先行きを見て取ったのさ。笑みなどこぼさなくていい、そんな不自然な領域に温かい手触りは望めないんだ。親衛隊の枠組みは衣そののものを拒否していると判じれば、彼らが役職に殉じる態度は僕の曖昧な部分を補填してくれているかにも思えてくる。
「ヒツジよ、おまえは僕がまだ大佐の記憶を取り戻しておらず、ぎこちない演技を見せているだけだと知っているんじゃないのかい」そう、問いたい気持ちを抑制するのに増々雑草を踏みしめているのが分かった。彼らの殉死は大佐に捧げられるのであって、データX1に従属するのでは決してない。
陽の陰りの推移を知るほどもない短い物思いだった。しかしヒツジの呼吸が微かながらに隣から聞こえているようで、ほぼ予感とやらが適中するのを痛感した。
銃声が一発、間を置かず続け様に激しい銃撃戦が開始された。後方から山道に向かったヤギがここからでもはっきり識別出来る。更に距離をとった箇所からキツネの面々の姿が四人うかがえ、じりじりと間合いを狭めつつ身構えてヤギへと発砲していた。すでに応戦の姿勢ではなくなっていた親衛隊は銃を握った右手を垂れ下げ、両足が覚束ないまま今にも倒れていまいそうだった。ライフルを手にしたキツネが余裕ある物腰で瀕死の獲物に狙いを定めるよう銃口を宙に浮かべている。ヒツジは援護にまわると思いきや、同朋が撃ち死にしてゆくのをただ見つめているだけだった。キツネらは全員ライフルを携えているが、とどめを差すのはそのうちのひとりらしい。おもむろに距離を詰め、確実に引き金を弾くつもりか。ほとんど戦意を失ったヤギの足もとがもつれるのと、上半身にみなぎる殺意を降臨させたのには唖然とさせられた。十分に狙い撃ち可能なはずだったのに、相当近くまで歩みよった不遜が仇になり、いかにも最期と映っていたヤギの鮮やかな手さばきから銃声が炸裂し、胸の真ん中を見事に打ち抜いたんだ。よろめく間もなく相手は地面に突っぷした、即死だよ。
呆気にとられたいたのは僕だけじゃない、残りのキツネが一斉にライフルを向けたとき、ヤギは二発目を撃ったがさすがに前の銃撃で燃えつきたか、弾丸は虚空に消え、狙撃者たちの全面攻撃に身を躍らせながら果てた。
ヒツジの呼吸がはっきりと聞き取れたとき、彼は猛然とキツネらに駆け出し、すぐさまひとりを撃ち倒すと、くるりと反転する勢いで太い幹のうしろに身を隠し、数発の弾丸を発射した。もう狙撃者は距離を縮めたりせず、同じく木立へ潜もうと試みたが、その隙をあたえずに三人目に命中させ、残されたキツネを窮地に追いこんだかに見えた。が、その姿は僕からは目視出来ず、互いに山道からはずれてしまっていた。
「大佐殿、さあ早く逃げて下さい」ヒツジはありったけの声を振り絞った。「道には出ないよう木の間を」そう叫んだあと、敵が態勢を取り直している辺りに発砲する。思わく通り銃弾を浴びせた草むらからせわし気に撃ち返してくる。ただ、短銃の不利がヒツジの決意を早めに違いない。いきなり道に飛びだし一気に勝負に出た。キツネにしてみれば得策だっただろうが、仲間を一気に失っていまった動揺が勝ってしまい慎重な構えは作ったものの、突進してくる相手に照準をあわせる冷静を保てなかったみたいだ。
まず、突撃者の弾がキツネの頬をかすめていった。反射的な応戦は不運なことにヒツジの脇腹をえぐった。がくんと膝をおとしたまま、傷口をかばうことなく両手でしかっり銃を持ち、さっきのヤギ同様に詰め寄ったところから渾身の銃弾を連射したんだ。キツネも激しく反撃したけど、その額は割れ血が吹き出し、両肩へも受けた弾によりライフルを操れなくなっていた。前のめりの格好で今にもまっぷたつになりそうな面から流血を地に滴らせる。僕はとてもじゃないが逃げることなんか無理で、目が点になるまでこの撃ち合いを見つめていた。
ヒツジはかろうじて上半身を起こしていたけど、僕がどこにいるのか確かめられないらしい。驚かさないよう彼に近づき、「大丈夫か、傷は腹だけじゃない」太ももの付け根からも出血していた。
「大佐殿、どうして逃げてくれなかったのです。敵はまだ他にいるかも知れません」
「あんな少人数ってことはないだろう、だがな、おまえは誇りある私の唯一の親衛隊なんだ。一緒にバスまで行こう。もうチューザーも着くころだろうから、まずは治療だ」
「いえ、私は助かりそうもありません、内臓まで三発撃たれています」
「気をしっかり持つんだ。チューザーを探しにいってくる、ついでにバスに乗車出来るか確認してみる。それまでここを動くんじゃない」
僕の目からはぼろぼろと涙があふれでていた。ヤギとヒツジが倒れたことが引き金だろうけど、涙の理由を尋ねる無粋なまねだけは敬遠した。


[236] 題名:ねずみのチューザー58 名前:コレクター 投稿日:2011年10月04日 (火) 17時06分

自分の手さえ汚れなかったら保身を正当化する為に流血を許容するのか。何とも法廷に立たされたみたいな心地だけど、逃走を実行した時点で夢見の延長を願った意志が親衛隊を是認したんだ。葛藤は生じなかった。チップを取り巻く脳髄がすでに惨殺を実行しているし、分裂した脳内を抱える身からしたら、たとえ詭弁と誹られようとも、この仮想現実を今少し生きてみたい。僕の遊戯はそういう非情な面を持っている。ミューラーの意志はとても強固でありながら、夕陽のごとく寂寞に透ける時間へと共感してしまったように。
だから、陽のある間にすべてを終わらせたかった。幽霊屋敷を出たら宵闇に被われていたなんていうのはご免だからね。地図に記された二角堂が時代に取り残されたというより、未来に捧げられた記念碑の趣向で雑木から顔をのぞかせている。こじんまりとありふれた祠だったが、わざわざ黒丸で示されたのも何かの符号に思えてくる。
「先を急ごう、急ごう」
僕はようやく親衛隊の二人に声をかけた。まずは振り向いて、もう一度は前方へ風に乗る調子で。
陽の翳りが足を急がしたのだろうけど、山中に潜む獣たちの息づかいを感じるまでもなく、二角堂を越えたあたりで脳内の指標もまた墓碑銘を薫らせ、小さな旅路の余情を先取りする。そして眼下の渓谷の流れに沿うよう薄紅が浮かぶ桜並木を発見した。満開には到ってないが、花片の舞い落ちるだろう風情は瞳の奥に優雅に送り届けられ、煤けた空の色調にしめやかな反撥をみせている。
「大佐殿、、、」
後ろのヤギが緊迫を押し殺したようにつぶやく。
「わかっている、お前も気をつけてな」
敏感に気配を察しているのはヒツジも同様だった。左右に目配せする微かな動きで動静を探っている。渓流の音はそんな情況とはうらはらに春の冷たさを無頓着に運んでいた。岩肌に弾けだす気泡の束を山々へと戻しながら。
空気がひんやり感じ始めたのはとても心地よかったよ。お陰で脳髄がいくらか引きしまった。桜の一群を素早く見送るふうにして進んでゆく。さながら校舎の並木を抜けるよう幽霊屋敷へと足を踏み入れ、鼓動のたかまりに得も言わぬものを覚える。チューザーはすでにバスに乗りこんでいるのだろうか。それでエンジンの加減を調べたり、色々と備わった装置を点検しているのだろうか。目的地までもう残す時間もなくなってきていた。地図を懐に仕舞い、山道の確かな感触を頼りに、ちょうど地雷を踏みつけはいないかといった面持ちになり戦々恐々とした足取りで速度をあげる。
風はない。空模様を眺めた一齣を意識してみる自分に苦笑しつつ、渓流が遠のく光景をぼんやりと目にしていた。傾斜がきつくなった。幽霊屋敷の階段かも知れないな。だが、窓の明かりが辛うじて室内に招き入れられるように、闇がまわりを侵蝕している恐怖は緩和され、夜の帳によって記憶が薄くまることなく、日暮れまでにはどうやら間に合ったようだ。的確な予感は大きな羽ばたきの絵筆を持たずとも、この坂を登りきったところへバスの姿を眼中に描き出した。
名も知らない山鳥が木々の間から頭上に飛び立ったのと、銃声が四方に響き渡ったのはほとんど同時だった。
「茂みに隠れて下さい!」
ヒツジが怒号にも似た口調で叫ぶ。牽制されているのか、狙撃を受けたのかはその場で計れない。ただ、一発の銃弾だけが山中に轟くほど至近距離から放たれたのは確かだった。僕と親衛隊は木陰に飛びこみ、呼吸を整えながらじっと耳を澄ましていた。「まわりは包囲されている」とか「抵抗せずに手を上げて」などといった紋切り型の声が今にもその辺りから聞こえてきそうで、身がこわばってしまったけど、内心は以外と山の冷気を吸いこんだ按配に静まっていたんだ。
眼光を鋭くさせているヒツジとヤギの二人の様子が面を通して透かし見える気がした。両脇に音も立てずにじり寄ってきた親衛隊の呼気を微かに感じとり、緊迫にまぎれた親和の情が水滴みたいにこぼれ落ちたとき、二番目の銃声が鼓膜に痛々しく伝わった。
運よく銃弾が外れた安堵を叱責する、けれども沈着な意向を受け渡す柔らかさで、
「狙撃手と思われます。援護者もいるでしょう。私が向こう側から銃撃してみますので、位置を確認し応戦して下さい」
と、ヤギはそう言った。無論ヒツジに対する提言だと思うが、僕に喚起を促したとも聞こえる決死の覚悟だったに違いない。相手が狙いを定めている現況に反撃を加えることは即ちおとりだ。しかし、ヤギは面を被っているせいもあってか一抹の悲壮感など発する間もなく、もと来た方向へと木立の中をくぐり消えてしまった。
再び沈黙に守られた僕はヒツジと共に息を殺しながらときの経過をじっと窺っていた。


[235] 題名:ねずみのチューザー57 名前:コレクター 投稿日:2011年10月03日 (月) 23時41分

夕陽の赤みは木々の間に染みこむようにして山道を照らしていた。時折吹きつける風に揺られた草木の緑は朱と交じりあい、日没まえの切迫した空気をどこか間延びしたものに変えている。澄みきっていた青空はいつしか鈍い色をした雲を呼び寄せ、残照に移りゆく心構えを見せているようだ。
紙切れは屋敷を出た直後に開いただけだったので、精確な道のりには覚束ない。どうしたわけか、ヒツジは僕のまえを少しばかり距離をおいて歩いているし、ヤギも同じくらいの間隔で後ろについている。前後を固めてくれているんだろうけど、ヒツジの方は目的地を把握しているとでもいうのか。いや、僕は彼らに行き先を明瞭に伝えてはなく、ただバスを目指していることは了解しているみたいだが、この配列からはどうやら規律のようなものが匂ってくる。残念ながら見知らぬ風景とは都合よくいかなかった。
僕から会話を禁じた手前、情況を説明しろというのも変だったからしばらく様子を見ようと決めた。そして堂々とチューザーから渡された地図を眺め、行き先へとこころ泳がせる。
両脇に山の斜面を見届けながら進んでいたが、やがて景観は開け右手に渓谷らしきうねりが現れ、山道も同様に曲がりくねって勾配を感じ始めたんだ。なるほど麓からさほど遠くない箇所に川の流れが細く記されていて、ちょうど山あいを縫いながらこの道と連なっている。地形はいたって簡略に書かれていているなか、この先には大きさは分からないけど、二角堂という屋代か祠みたいな建物がその名と並んで黒丸でしめされていたので、少々胸が高鳴ったよ。二角堂って本当にあったんだな。
地図によるとそこを大きく右折し、二またに分かれている片方の山道の奥まったあたりでバスが待機している。渓流の音が耳をそばだてるまでもなく聞こえてきたところ、これまでの道のりから推量してあと小一時間くらいだろうか。灌木が視界をさえぎっているので水流は間近に出来なかったが、山腹へ登りだした傾斜の加減といくらかの曲がり道が、冴えた渓谷のすがたを約束している。
舗装のない道幅は確実に狭まっており、林道であるとしてもかなり走行が厳しく思われ、土ぼこりが舞っていない代わりに何やら妖し気な煤煙が漂っているふうだった。天空からの明るみは無関心であることを保守しているのか、前方をゆくヒツジの足取りを単調にし、胸にわだかまっていた懸念を風の向こう側へ送ろうと試みているのだけど、実際は数歩さきに案内人が存在するように、澄んだ霊気には包まれなかった。
風景がもしキャンバスや写真のフレームだったなら、僕は今どこを切り取るべきなのだろうか。それとも枠組みなど捨て去ってしまい、いっそこの脳内にならい平面であることに拘泥せず、自在なパノラマを時間と共有するか、選択肢の方が僕に先んじているようにも思えてくる。だが、それより彼方へと神経を手中させてみても風景はかわり映えしない。本当にきれいな瞬間は立ち止まってくれないのだ。別に汚くても同じなんだよ。僕はただバスに向かえばよい。
君には無目的な行動としか思えないだろうが、人里離れた山道を分け入る心境を形成しているのは、木立からさまよい出た草いきれを嗅ぎとっているかどうかもあやふやな自由と、斜陽が織りなす歩行の無為に他ならず、それは地面を這っている冷笑すら留め置かない影であり、山峡を被い尽くしている乾いた温もりだった。しみじみと実感するには風の向きや川の流れが、僕から上手に逃げ出しているようだよ。
どうしてこんな意想を持つのかっていうと、ふとよぎったデータX1についての霊妙な成りゆきによるんだ。チップに埋め込まれた情報が青年から抽出されたものである限り、ミュラーの肉体に植えつけられているのは断片だろうし、現にチューザーからそう知らされているから、この記憶をなくしてしまったとしても決して本体の青年が損なわれるわけでも、消滅してしまうのでもない。あくまで仮想としての意識が用済みになるだけじゃないか。とすれば、僕は不思議の森に迷いこんで二度と思い返すことない夢を見たに過ぎないだろう。夢想において死ぬと考えてみても無論やるせないが、バスに乗りこんだときから今まで随分ファンタジックな体験の連続だったから、これ以上浮き世離れした展開はまさに負荷が大きいよな。
夕暮れの遊園地から帰途へつくような感覚はここに集約されそうだ。ただし、本体の青年がどういった処置を施されたかまで及びはつかないし、安否を保証する手立てさえ誰にも問えない。ミューラーやドクトルKとやら、それに学者や医師団らの良心を信じるしかないよ。と、したところでこの仮想意識からたどるのはどちらにせよ不可能だけど。
太陽が沈むように僕も山の向こうに帰るだけさ。あまりに自然すぎて胸の温もりさえ忘れてしまいそうだけど、チューザーが言った「日暮れまでには」という意味あいは、夜を指していないと思う。
あれこれ思考がめぐったりしたが、朱を帯びたひかりが辺りを反透明な色合いで敷きつめていく推移はやはり脳裡に勝っているのだろう、僕は現実的には帰る場所がなかったけど、小さな秘密基地みたいなところにもぐりこみたい欲求を捨ててしまうほど悲壮感は抱いてない。ヒツジとヤギも一緒のことだし、もう少し遊戯に甘んじてみよう。
勾配の重みがひざに微妙な心地よさをあたえてくれたのと、道なりが右に沿っているのを覚えた頃、新たな危険が足の裏に突き刺さる。そう、追手が現われないのはどうしたわけだ。山陰に消される自分の影に薄ら寒い棘が忍んでいるような気がして、雲間に隠れつつもいよいよ残照となった空の色が、まるで暗調に移りゆく効果を発揮しそうで冷笑は本物に近づいていった。バスは多分秘密兵器だよ。だから、捕縛なり攻撃は乗車するまでに仕掛けてくるに違いない。親衛隊に任命した二人は果たしてどう出るのだろうか。遊園地はあとにしたけど、宵がせまるまえにどうやら幽霊屋敷の門をくぐる羽目になりそうで、背中からうなじにかけて鳥肌が立ってきたよ。作務衣の袖に石ころが残っている気がして、思わず手を突っ込んでみたが、砕けた砂利に触れただけだった。それはさっき親衛隊の銃を所持しているのを確認した反応かも知れなくて、僕は戯れることはあっても死闘はまっぴらだったから、自ら迎撃に徹する場面は訪れないだろうが、ヒツジらは任命された以上、血煙をあげる光景は避けられないとみたんだ。


[234] 題名:ねずみのチューザー56 名前:コレクター 投稿日:2011年09月27日 (火) 03時09分

西に傾いた陽は僕の横顔へ歓びを注いでくれた。熱をはらんだ一陣の風はより情感に接した。気分は決して悪くない。が、平坦な野から草木の密集した山道にさしかかった頃、獣の類いには似つかない余計な気配を後ろに感じたんだ。案の定、付け人が居たみたいだな。
気分の善し悪しには影響ないと胸に言い聞かせてみたけど、腹の底がむず痒いのか痛いのか、よく分からないうちに混乱はやって来た。予測しておいた通りの展開だったので、今更とまどいはなかったが、一歩踏みだしたところで旅路が損なわれた失意は、まるで瘴気となって現われ、新緑を汚しているようだった。
「誰だ、姿を見せなさい」
あくまでミューラーの姿勢を保持したままで敵対しなければならない。すると針葉樹に群がるように茂っていた羊歯の影から二人の男が路にさまよう按配で出てきた。
「畏れながら、我らを同伴していただけないでしょうか」
二人はヒツジとヤギの面を着けている。さっき親衛隊を募った際に忠義を果たしたと思われる者だ。
「必要ないと言っても付いてくるのだろう。まあいいさ、好きにするがよい」
実際どうでもよかったんだ。気配を悟らせないよりかは、こうして見張りを連れ立っている方が開き直れる。二人が本当に親衛隊なのか実証することなど意味はない。僕の返答に誠意を示すつもりか、揃って面を剥ごうとしかけたとき、こう言ってやったんだ。
「被ったままでよろしい、素顔を見せてもらっても私は動じない」
ヒツジとヤギは一瞬気勢がそがれた様子をしめしたけど、「はっ」と、よく通る声を揃え背筋を伸ばし命に従った。
座敷に集結した全員の顔を注意深く眺めなかったように、この二人も僕にとっては見知らぬ風景となってもらえば丁度よかった。彼らが仮面の中からこちらを凝視しようが、すでに態度が定まっている以上どこにも火照りは生じない。まだ燃え尽きたりしてないけど、半端な視線に惑わされるほど初心ではないし、平温だって高くなっているような気がして(これは例えだけどね)耐熱性を発揮したんだ。虚空に跳躍するにしてもエネルギーは大事だからね。
「ところでおまえたち、私の行き先は知っているのかね。それとも地獄の果てまで伴うつもりだろうか」
ミューラーの語気というよりも、どうやら僕の地が踊り出た。
するとまたしても口を揃えて、「バスに乗りこまれるのでしょう」二人はそう答えたよ。
「なるほど、私はバスでここまでやってきたのだからな、バスで帰ると判じたわけだな。ではその先はどこを目指す」
「いえ、それは、、、」ヤギの方が申し訳なさそうに言葉を詰まらせる。質問を投げかけたまま黙っていると、やや間を置いてからヒツジの方が、「どこへなりとも」と、いかにも実直な声を響かせた。
彼らが監視役だとしても僕は欺瞞に満ちているとは思わない、むしろ自分のもの言いに陰険な性質がこもっているようで、二人が気の毒になってきた。
「おまえたちの忠節はよく分かった、名前はいいがこれまでの所属と階級を申せ」
ヒツジが先に答えた。「陸軍中野学校、義烈空挺隊、少尉であります」
脱力にも似た感覚にとらわれたが、下手に真意の追求はせず、それはミューラーの仮面を剥離することに及んでいるから、泰然とした姿勢で臨まなくてはいけない。
ヤギが続く、「同じく陸軍中野学校、F機関、少尉であります」
「よろしい、二人は本日より親衛隊長に任命する。武器は所有しておるのか」勢い余ってつい増長してしまった。
親衛隊長らは笑みとも哀しみともつかない微妙な顔つきで、懐から短銃を取り出した。自分から言い出しておいて底気味を悪くしていまうのも仕方なかったが、なるだけ不穏な空気は避けたく、確かに先行きが暗雲で包まれているのは承知していたけど、また死闘が繰りひろげられるのは辟易で、眉間にしわが寄るのが感じられたから、あくまでもこの二人は護衛なんだと、願掛けでもしたくらいの心持ちに治まりたかった。そのとき不意に閃くものがあったんだ。そこで、こう話した。
「これよりは必要最小限の会話以外を禁止する。追手に位置を探知されないが為と、精神の統一を兼ねている」
「了解いたしました」
まったく大佐を演じるのは至難の技だよ。ヒツジとヤギは純朴そうで僕を疑ってみることなど微塵も顔にしないが、運良くバスに乗車出来たとしても、それからの指標をどうやって説明すればいいのだかろうか。僕の脳にはミューラーは宿っていないのだ。仮に彼らがそれを知っていて、来るべき日までの補充として警護に尽くしているのなら、尚さら影武者のごとく大佐に徹しなければならなく、会話はぼろを出してしまう可能性が高いから、とにかくバスに到着するまでは言動を慎しもうとしたんだ。
日暮れまでには、、、チューザーはそう自信あり気に言い残し僕の肩から飛び降りていった。小さく折り畳まれた紙にバスの在りかを記して。


[233] 題名:ねずみのチューザー55 名前:コレクター 投稿日:2011年09月26日 (月) 05時25分

チューザーの語りからすれば、大佐の理念は独裁的なスタンスを回避しているふうであったが、ドクターヘリを乗りまわしたり、科学者を動員し無謀な実験を行なえる権力構造には、たとえその心境に無常が横たわっていようとも、やはり専制の影が濃厚に漂っている。
目醒めるよう促されてみて、確かに謎はひとつの帰結を迎えたわけだけど、それまでの不透明な脳に甘んじることなく常に懐疑を忘れなかった意志が効を為したのか、制御装置は安定を保ったままで一朝一夕にはとても意識が転換されると感じられなかった。ミューラーへの覚醒とは僕の消失を決定するんだろう、それは自分の思念や感情がこの世からなくなってしまうことを意味するんだ。新たな意識がどんな格好で脳裡をめぐるのか想像もつかないし、眠りのなかに夢見を置き去りにしてしまうように、もしくは夢に落ちてしまう意識が隔絶されたものであるように、僕という現象はもうどこにも探りあてられなくなる。
所詮チップに組み込まれたデータX1か、、、しかし、装置の誤作動を発生させる闘志は神奇な猶予をさずけてくれているに違いない。そんな放恣が全身にみなぎっているのはあながち驕りだけでなかった。信じる術は盲目だったが、脳に棲みついた僕の命はひかりを放ち続けていたから。
声高にミューラーを振る舞って、我ながら演技に陶酔しながらもこころの隅ではそんな不安に苛まれていたんだ。が、ぬれ雑巾で怖れを拭ってしまう気分は、不安の侵蝕を容易には許しておらず、今という時間を刷新しようと磨きをかけていた。
「全員参列せよ!」
開け放たれたふすまの向こうから担架で運ばれてくる苔子を見つけ号令をかける。監視役やら護衛役は音もなく座敷へ現われるとそれぞれ面を外し、僕の言葉に従った。どの顔にも見覚えないのは当たりまえだけど、彼らの容貌に特別注意を払ったりもしなかった。十数名ほどの佇みには配下としての忠節が規律に守られているだけだったから、大佐を演じている僕からすればどこかよそよそしさもあったのだろう、ひとりひとりの顔つきを見分する使命は反対に距離感をつくりだしていたよ。
やがて担架に乗せられた苔子が横に迫ってきた。目配せするより早く担ぎ手らは歩を止め、僕の指示ともつかない態度を察知し、さながら負傷兵を慰労する情況へと運ばれる。僕はのどの奥から絞りだす調子で、
「もう自由の身だ。今後は養生に専念してほしい」と、薄目をしている苔子に伝えた。
床下で見せた蒼顔にも近かった面は無為な明かりで囲まれ、黙した配下たちの息遣いも静寂に掻き消えている。緊縛の空気は開け広げられた座敷から四方に流れゆき、かつて女体が躍動した情熱は想い出となってその瞳の底に透けて映るようだったけど、遥か彼方に遠のく意想がこの場を厳かに、そして緩やかに鎮めた。
「主様、、、」血の気をまだ戻せてない唇が微かに動いてそう呼んでいるよう耳にした。憔悴しきった表情だったが、小さな一点の微笑は目鼻なのか口もとなのか判別しかねているうちにそっと届けられる。僕は無言のまま苔子を優しく見返していた。いや、きっとそんな思いを描きたかっただけだ。僕の頬はこわばっていたように思うし、皮肉にもミューラーの擬態がそんな接触を冷淡に導いていた。
けれども苔子の横顔には春風でなぞられたに違いない安堵が色づき、一枚の葉が静かに震うようまぶたを伏せた。
「闇姫の役目は終わったんだ。きみは狂ってなんかいない、、、」口にしかけてみたが、言い出せない。ミューラーとも僕とも割り切れない気持ちのままで。
軽く首肯したのが合図になった。担ぎ手は再び任務に帰り、苔子の姿は僕から離れていった。二度と会うこともないだろう。後を追う黙礼にすべてを込めているもげもげ太を見送りつつ、深いため息をつきかけたところだったが、憂愁にとどまってはいられない、さあ、これで屋敷とも配下ともお別れだ。
「少し庭を歩いて来る」誰にでもなく、だがはっきりと聞こえる発音でそう言って僕はひとり外に出た。そしてチューザーは苔子との対面をまわりが注視するなか、ひと足早くバスの在りかに向かって駆け出していたわけさ。垣根を越え門を抜けた。甲賀玄妖斎なんて結局居なかったな、などと他愛ない考えに吹かれるようにして浮遊した足取りも気楽な風体で、ついに隠れ里を背にした。
追手の心配については都合よく解釈を施してあったので、というよりほとんど楽観的な考えに絡まっていたのだが、つまりきつねの面々は反勢力の手先だからどこまでも監視を怠らないだろうし、どうあがいてみても僕の行動は逐一上層部に報告されてしまうわけさ。あるいは百歩譲って野放しを容認する場合、職務放棄という名目において処理しよう、そう願ってもない好機に恵まれるんじゃないか。無論ミューラー大佐個人の逃亡だけで済まされない事情は計り知れなく、世界中に暗躍した組織の君臨者をおいそれと放任するとは思えず、情報の露呈など様々な危惧によって再度幽閉か、暗殺が待ち受けていると腹をくくったほうがいい。だがどちらにせよ、自由への渇望は障壁を乗り越えようとするんだ。大佐の意識が甦生すれば、僕は原理的に死んでしまう。それなら、最悪の情況を嘆くのではなく、いわば無心で虚空を羽ばたくようにして時間をたぐり寄せてみよう。ときの流れに身をまかせるふうでもあるけど、視線の泳ぎ方はかなり異なるよ。
あのバスだって結社が用意した秘密兵器かも知れない。そうなれば増々逃げ場は存在しない。だけども僕はチューザーと一緒にバスに乗り込みS市へと進んでいくしかないんだ。そこに行ったからといって何かが待っているわけでもないだろう。これは虚空への旅立ちだ。目的なんかじゃない、一切があそこから始まったし、すごろくなら振り出しに戻る遊戯なのさ。ミューラーの意識もあの農道で僕と入れ替われば、空虚なこころに円環が浮かびあがり、完結という名の装いが施される。今度は僕が美しくだましてやる、何をかって、それは振り出しに帰ればきっと分かるよ。
山並みを睥睨するつもりはなかったけど、西日を受け始めた目はまぶしいものに挑発されたみたいな気がして、孤独の境地をミューラーに分けあたえてやりたかったんだ。誰も注目などしていないのに、ひとり稽古する役者の心意気かも知れないな。だってその方が山も野も陽光でかがやくだろう。瞬間瞬間を愛せずに一体どこを求めるんだ。
これから麓に向かうには山々を目に、野原を踏みしめて行くわけだからさ。


[232] 題名:ねずみのチューザー54 名前:コレクター 投稿日:2011年09月18日 (日) 23時21分

くるりともげ太らに背を向け屋敷に戻ろうとした。困惑の様子がうしろからうかがえる。さっと振り向き僕は言った。
「これはミューラー大佐としての命令だ。速やかに苔子を床下より救出し、十分な治療に専念せよ。残っている医師はいるんだろう、いなければ直ちに呼び寄せるんだ」
自分でも無理があるようにも思えたけど、声は広く野に響きわたり、そこには確固とした自覚があった。無論ミューラーの意志ではない、僕の自覚さ。
「大佐殿、そのような心遣い、、、任務を全う出来なかった苔子に、、、」
もげ太の言葉尻は恐懼に震えているようだったが、柔らかな声質のせいか、願ってもない満悦をくぐもらせているようにも聴こえた。多分に僕の温情がこぼれ出たと言われそうだけど、そうじゃない、電撃的な直感から結び目が見えたんだ。
「さっきも尋ねただろう、苔子の処遇について。掟には縛れていないよ。それとさあ、もげ太さん、あなたは苔子のことが好きだったんだろう」
僕の発した言葉に多少の呪力はあったみたいだ。「畏れ入ります」のひと言だけで黙りこんでしまった。別にこれまでの経緯に対する意趣返しなんかではないよ。苔子を救えるのはもげ太しかいないという考えも直感に含まれていたんだ。
「いとこ同士だから好きになっていけないなんて誰が決めたのさ。ミューラーは独裁的にあなたから苔子を奪ったのかも知れない。いいんだ、真実など。僕に出来るせめてもの断定だ。救出後もげもげ太の任務を解く。これでいいんじゃないかい」
まったく何を得意になっているんだと君は思うだろうな。が、よく考えてほしい、ミューラーとしての立場は失脚の憂き目から逃れなれないし、実験が失敗に終わった以上この里の処分や、配備されている監視役なんかの今後はもう見えているんだ。本来の意味で僕は幽閉状態なんだよ。近いうちに幹部連中の意見がまとまれば、僕はおろかもげ太やチューザーの進退は明らかになる。いわば彼らは最後の親衛隊といえるんだ。だからこそすべてにおいて忠実だったんじゃないか。苔子も入れ自由の空気を味わってもらわなくては。きっとミューラーだってそう判断するに違いない。
意気揚々と座敷に上がったとき、チューザーが何か言いた気な顔をしていたが、すぐにそれは理解出来た。ミューラー大佐を演じろってことさ。そこで早速、僕は声を張り上げた。
「護衛ならびに監視役の者、プロジェクトの任はここに終結する。きつねの面々もよく聴け、地下の医師団にも告ぐ。闇姫役の女人を今すぐここに連れてくるのだ。親衛隊を誇れる者はこの中にいるか」
音もなくふすまが開かれ二名が現われた。それぞれヒツジとヤギの面を被っていた。恭しく敬礼をした二名に対し、僕はこう命令した。
「お前たち、もげもげ太を伴い苔子の救助に当たれ。くれぐれも粗暴な扱いをするのではない」
もげ太の瞳がうるんでいるのを横目で認めながら、僕は屹立とした姿勢で素早く駆けてゆく部下の背中を凝視していた。
あれはどのくらいまえなんだ。おくもさん、きみのうしろに着いて座敷を巡ったのは、、、あのときは機械人形なんか思い浮かべてしまったけど、今は僕が完璧な機械だよな。すまなかった、きみは自分の魂が抜けてしまうのを知っていたから、あんな空虚な説明に透けて現われ幽霊みたいだったんだろう。
悔やみきれない情念は逆巻くことにとどまらず、青みを増した月光となって屋内におけるあらゆる明かりを駆逐しようと試みた。
「護衛役、奥の間の殉職者を丁重に葬るのだ。監視役、本部との連絡は可能か、ならば待機しておれと伝えよ」
僕は賭けていたんだ。ミューラーの記憶が甦るまでの間、どれだけ逃走出来るかね。どう言われても最高責任者の末路が僕に及んでくるのを易々と受け入れるほど、お人好しではない。散々他者を巻き込んでおきながらよくそんな文句が言えるもんだと思われてもかまわないさ。本質的には僕の原罪ではないから。
それに制御装置の稼働だが、現時点では僕に主導権があるみたいじゃないか。気が動顛していることはしているけど、大佐を演じるくらいの冷静さもかろうじて残されている。ことによると案外目覚めは遅くなるかも知れない。
苔子が無事を見届け、もげ太に別れを言い、屋敷は解放される。そしてさっきから僕の肩に飛び移ったチューザーとねずみ語で企てを立てている。ねずみ語なんていつ学習したのかって。バスでも座敷でもいつも暇だったのを忘れたのかい。
チューザーの置かれている立場も実は危ういんだ。ミューラーの威光が失墜した情況だと、種族の途絶えた身には、結社の科学班がこぞって研究対象の為と気の毒なくらい奉仕させられるのは確実で、おそらく生きて自由を得ることは叶わない。特にドクトルKは人体実験よりも、効率の高いクローン技術を用いて格好の材料と密かに願っていたんだ。子孫繁栄とはいえ、チューザーはそんな複製術などにすがる気は毛頭ないらしく、僕と一緒に逃走し山間に隠してきたバスで落ち合おうということ決まった。ミューラー大佐としてではなく、あくまで僕という曖昧な人格とね。考えてみればチューザーは独裁者に制圧された、いや影響されてしまった悲劇の生き物といえる。
土壇場での逃走に恭順してくれたのは、彼にとってみても最後の賭けだったと思う。だって途中で僕の意識が消えたりしたら目もあてられない。それとも大佐と心中でもする覚悟をしていたのだろうか。


[231] 題名:ねずみのチューザー53 名前:コレクター 投稿日:2011年09月18日 (日) 23時19分

風がそよぎだした。山稜に白雲がかかったがまだ低くない太陽の光線は、生き生きする緑のふちをかすめながら乳白色の雲を生みだしていた。ところどころが黄金を透かしたみたいに深い光彩を放っている。
「闇姫はあのまま解放されない掟に縛られるのだろうか。分娩が不首尾って言ってたけど、それも背信行為と定めたというのかな。もげ太さん、あなたに訊くよ」
「いいえ、じいやばあ、それにおくもと違いまして苔子、いや闇姫は戦闘員としての使命は申しつけられていません」
「苔子でいいよ。僕もそう呼ぶから」
「恐縮です。死んだ三名は本来護衛役として配備されたのですから、越権行為は絶対命令のもと断罪されても仕方ありません」
「監視役じゃなかったわけだ」
「はい、監視は屋敷内に張り巡らされた高感度映像や集音装置がほぼ担いまして、あとは大佐殿に察知されないようまわりを幾人かが固めておりました。三名は世話役も兼ねていたのですが」
「そうだったんだ。僕はてっきり彼らに見張られていたのかと。それにおくもは肉欲の相手まで努めてくれたんだ。いや、おくもについては最後にするよ。まさかハイテク機能を装備した屋敷とはねえ、で、苔子なんだけど」
「あの床下の奥にはトンネルが掘られていまして、苔児の分娩室が設けられていたのです。屋敷からはちょうど灌木の茂みの向こうになりますが、見通しが利かないあたりに自動開閉する明かり取りの窓なども設置されていたのです。医師団は無事分娩を見届けましたあと、直ちにねずみの発育に専念して器官を詳細に調べた結果、チューザー殿に顕著な声帯をどの子ねずみからも確認できなかったです。しかし成長とともにやがて成果が出ることに望みをかけました。それを知った苔子はやはり母体の本能とでも言いますのでしょうか、誰よりも深く失望し、そして自責の念を募らせていったのです。結局種族の誕生はあきらめるしかありませんでした。ところがわたくしも知らぬ重大な秘密が監視役から届けられたのでした。それは苔子は子ねずみと一緒に人間の子供を生んだというのです。かなり小さな赤子でしたが、紛れもない人の子」
「何だって!その子はどうなったんだ」
僕の鼓動は早鐘のように鳴り始めた。再びめまいに襲われる。が、底知れない陰謀が渦巻いているのを、あたかも隣部屋から覗き見しているように判断出来たんだ。そして苔子の狂態さえもが。
「死産でございましたので実験が失敗に終わった以上、大佐殿にはこの件は伏せておくのが最善、人の子など価値はないと一蹴されるに決まっている、そんな意見が大半を占めて、早々にこの里から何処かに運ばれてしまいました」
端正なもげ太の顔立ちが不協和音に歪んでいる。
「そのあと、苔子は発狂したんだね」
「そうです。けれども原因は使命の不首尾とも、死産の赤子からとも言えません。いきなり狂ったわけではなく、次第に正気を失っていったそうです。医師団や幹部はその処置に頭を悩ませ、ついにわたくしとチューザー殿に妙案を求めてきたのでした。問題は大佐殿の記憶回復に委ねれていました。あの頃の大佐殿といえば、苔子なきあと籠絡の身を嘆き、脱走さえ目論んでいる様子でしたから、わたくし共はおくもの責務をより認識させる為、地下室へ連れてきて苔子の有様を見せたのでした。とにかく大佐殿をこの屋敷から出さないよう心身一体となって尽くせとの命を、おくもは従順に務め上げました」
「それでおくもは床下の造りを知っていたわけだ。だけど、そんな部屋も抜け道なんかないって」
そこまで言いかけたとき、僕の胸に不快な熱が広がっていくのをどうすることも出来なかった。思えば赤影にまつわる金目教やら卍党、そして闇姫という存在自体が目的に向け刷り込まれていた。きっかけを作るよう軽快に投げかけられているも知らず、いや、むしろ僕を奮起させるにもってこいの追想として段取りされていたのであって、少年時の憧憬を募らせ性的興奮をたかめる為にか、その意気込みこそが無謀に近い交配を成就させ、僕と闇姫はいにしえからの契りを約束されている確信へ至ったんだ。本来の記憶がミューラーのものなのか、青年のものなかはここでは証明出来ないが、なんという時代がかった、けれども淡さをもって激しさとする演出には畏れ入るばかりだよ。あれほど嫌悪した記憶回路への侵入はもはや疑念として拭うわれるのではなく、一筋の道程になって僕を待ち受けている。
すると闇姫を演じた苔子もまた同様に意識操作されていたのだろうか。
「苔子は金目教としての自覚があったのか、そうなら、、、」
「いえ、役目を全うしたのです」と、もげ太はきっぱり否定しかける語気で続けて「闇姫に成りきっていました。故に失望も大きかったのではないでしょうか」そう話した。
「おくもはそんな苔子の心根を見抜いていた」
「違いありません。大佐殿の疑問もそこに結ばれていくのです。おくもは悲嘆にくれる姿に同情しただけでなく、奥の分娩室を見られてしまうのを怖れていたのでしょう。しかし」
「しかし」血の香りが鼻につく。
「ばあからすればおくもの心中を慮ることなく、断罪に値したわけなのです」
「どこまでも忠実だった、この僕に」
憐れみが花びらになっていればいいのだろうか。
「じいはおくもに斬りつけたあと僕にも攻撃しかけてきた」
もげ太は眉根に悲しみを寄せ「捕らえるつもりだったのです。どうして大佐殿を傷つけられましょう」
山々の連なりに向かって深いため息がもれ、陽光は雲間に隠された。ほとんど起伏のない野原だったが、翳りによって抑揚ある草いきれを覚える。
きみらがおくもの失血死をくい止めなかったのも、忠義からだったのか。悔恨に満ちてきたこころは方角を転じるよう命じている。風がまたそよぐ。ほら、ほんのひと時さ、陽射しがすぐに戻ったのを僥倖とばかり、
「では苔子はもういいんだね」と、挑むよう問うた。


[230] 題名:ねずみのチューザー52 名前:コレクター 投稿日:2011年09月13日 (火) 04時41分

「命令だったのかい僕の。任務から逸れるものは直ちに抹殺するべし。例外はなし、すべては鉄の掟に守られている」
おくもがとった行為はプロジェクト失敗後だったし、本然に立ち返る僕を目一杯補佐する役割を担っていたのではないだろうか。しかし、じいとばあはまるで禁断の地に仕掛けられた刃のように、反射的な殺意でもって僕らを襲撃した。正確にはおくもに対する処刑が敢行されたのだが。
時間系列でいけば他の疑点から記すのが順序だろうけど、さっきからの会話は遺体から離れたとはいえ、まだまだ血の匂いに包まれた直後に交わされていたんだ。どうして沈着な心地でいられるものか。
「大佐殿、どれほどの護衛があなた様のまわりに配備されていたか御存知でしょうか。人気のないS市に放たれましたときから、バスへの乗車、そして隠れ里に到着するまで厳重な体制は微動だにしませんでした。もちろん屋敷内におけるすべてもでございます。第一に大佐殿の意志が問われておりました。おくもについては端的な返答を差し上げたいところなのですが、どうしてもそれを迂回するわけにはまいりません。この度の計画はなるほど用意周到に進められてきたのでありますけど、ドクトルKが懸念いたしました通り、成功率は決して約束されたものではなく、集結された学者たちの見解も同様で、最先端技術の彼方の光芒には神秘という名のまぼろしが映るのみ、理論は骨子でしかない、畢竟我々を突き動かす力は意志の有無に大きく左右されるのだと共通項に帰着したのでございます。宇宙は無限の広がりを提示し、環境に及ぼす影響は計り知れないものがありましょう。しかし、どれほど宇宙論を探求したところで、また自然科学を極めたところで、意志という力が稼働しない限り、この世界は所詮ただの風景なのです。いえ決して静止した意味合いでとらえているわけではございません。文明の発達も、自然災害の猛威も、人智の進化も、あるいは世界像の転倒も、一個人の力量で動かせないように風景は生き物と変わらぬ生命力を持っております。ただ、それがしが申し上げたいのは認識論的な把握による世界観より、動的な時間性に還元されつつ乗り越える意志のあり方を問いたいのです」
チューザーの奴うまく矛先をかわしたもんだ。まあいいさ、つまりミューラーの意志がこの僕なわけなんだろう。そんな気持ちと折衝しながらこう尋ねる。
「護衛とは恐れ入ったね、では僕をつけ狙う輩もいたということなんだ」
「さきほど申しましたように、大佐殿の決断は結社の総意とは言い難く、密かに反乱を企てている幹部も存在していたのです。そこで自ら実験台に望まれたのを幸いと、脳内に異変をきたした理由づけにおいて大佐殿を失脚させる陰謀が発覚したのでございます。婚儀に参列しましたきつねの面々こそ反勢力の連中、疑心暗鬼の仮面を被った様相はまさに効果満点、護衛側でも紛れこんでいたのでさすがにあの席では謀反を起こせません。もの言わぬ圧力と判断して誤りはないと存じます。何せ事前に参列の予告を寄越したぐらいでありますから。大佐殿と闇姫様にも面をして頂いたのは言わば暗黙の了解であったわけでございます」
「じゃあ、あのとき警戒態勢だったのかい」
「無論そうです。それがしは屋敷内から庭先の隅々まで警護隊を配備いたしまして、緊張に身をこわばらせていたのであります」
道理で目線が合ったときによそよそしく見えたんだ。チューザーが語る真相の数々によって僕の疑念は一気に溶けだし、つい先ほどまで屋敷内で繰り広げられていた活劇が、まさに映画館をあとにするような感じとなって胸の奥へのみ込まれていった。すると不思議なことに今ここの庭先に佇んでいる自分の影が、会話の主であるねずみの姿をありありと際立たせたんだ。
何てことはない、チューザーはもげもげ太の肩に乗っかって僕と向きあっている。真正面ではなくやや斜交い気味なのだが、その間合いといいこんな深刻でクレージーな話しをするには絶妙の位置だった。もげ太の存在さえ眼中にあり得なかったのだから、その集中度がどれくらいなのか察してほしい。ようやく相手を客観視できるようになったのは、それは言い換えると、いくらか呪縛から解かれたということになるし、動悸も治まり何より気持ちが落ち着いた証拠だろう。
陽光が肌に注いでいる感覚と殺戮により焼きつけられた鮮血は、ここにきて得も言われぬ混淆で現実感を育んでいた。現実が現実であることは予断を許さない鋭角的な印象を刻む一方で、どこか遥か彼方に飛翔してゆく翼をまぶたの裏に描いてみせた。この相反する感性の磁場はもしかしてミューラーの記憶が、薄皮を隔てて僕に帰ってくる予兆なのだろうか。それなら意識するよりも目のひかりが反映するものをただ眺めてみよう。
もげ太の表情には険しさが風にさらわれたような微笑がたたえられていた。チューザーの語りに歴史の重みを見いだし後世に記された書物をひもとく、、、おそらく教科書なんかじゃない、でも彼が頁をめくり読み上げると誰もが聡明な顔をしてうなずいてしまう。そんな夢想に連れ去られ、いつまでたっても好青年ぶりを発揮するもげ太にあらためて親しみを覚える。僕は彼からも何かを聞くのだろうか。予感は風に乗って訪れる。
チューザー、ちょっと見ない間に随分老けこんだんじゃないのかい。こんな陽気なひかりを浴びているから、そう感じてしまうのだけなのかな。いやいや実は数百年も生き長らえてきたのかもね。種族の長老だから子孫存亡の憂いて立ち上がったんだ。色々あったけど僕はきみらと出会えてよかったよ。脚本だろうが決定項だろうが、、、
ミューラーの意識が舞い戻ったらこんな気持ちは消えてなくなってしまう運命だよな。共同体としての連帯感は変わらないと思うけど、もう一緒にバスに乗ったり、にぎりめしを食べることもない、それに疑念を抱きながら謎ときをしてゆく冒険も。言葉を喋るねずみなんて世界中探したってチューザーしかいないんだろ。ミューラーの欲望はすべてをつくりだしたみたいだけど、すべてを壊してしまった。
さあ、語るべきものは語ってくれ。そして解放してくれるかい。


[229] 題名:ねずみのチューザー51 名前:コレクター 投稿日:2011年09月12日 (月) 14時41分

「これはいささか感傷が過ぎたようです」
いつにないチューザーの悲哀に乗せられたのか、僕とミューラーが共振している感覚が近距離まで歩んできたような気分がする。しかし感傷に身をまかせてるわけにはいかない、大佐の意志の件に戻ろう。
最初に耳へと入ってきた聞き慣れない言葉、そうデータX1とチップについてだ。これは僕の要約で進めていくよ。
いよいよ人格変換の技術を駆使するにあたって、さきの精神医学分野と大脳生理学が援用され、大佐にとって最適な、この情況ならびに以後の経過までを吟味した結果、あるひとりの青年が抜擢された。
チューザーには門外漢なところもあるので詳しい情報はもたらせなかったが、要はあまり激烈な個性だったり、特異な嗜好に傾斜している人間は一見、仮面としての本領を発揮しそうなのだけど、大佐自身の性格を完璧に消し去る可能性が出てくる。この事情については学者間においても相当議論されたみたいで、ひとつには意識の完全払拭が日常レベルの会話や行動に影響を及ぼさないかという危惧であり、これはまた胎教から想起されるように寝た子の睡眠度を計測したい、もしくは根本に生命体があり記憶は果たして徐々に植えつけられるのではなのかという命題を重視した結果、柔らかな自己像の成り立ちに賛成意見が寄せられ、穏便な性格の持ち主がやはり適切であるとの見解に至ったんだ。
ふたつめには記憶回復の過程においても完全消去よりかは、いくらかの残滓がより自然な回復につながるだろうとの意見で一致をみせ、それならば適任者とは、なるだけ情緒の安定した、かといって利己的な性分をあらわにしない程度に配慮の利きそうな温和な人格が最良だと認められた。
そしていざ選定に臨んだとき、ミューラー大佐はふと思い出したように、数年前S市からそう遠くはない町で起きた事件の際、ドクターヘリで救出したある青年を指名した。なんでもうわごとに「猫を引き殺した、車輪から飛んだ猫は回転しながらこっちを見つめていた」とつぶやいていたそうだ。良心の傷みから発せられたうわごとなんだろうけど、瀕死の重傷においてそんな言葉を聞くとは思ってみなかったので印象に残っていた。その後青年は後遺症もなく無事全快し、今ではショッカー○○支部に従事しているところ、面談ならびに身体検査を経てから、脳波変換機にて大佐へとその記憶を移しとった。その際に大佐はちょっとした悪戯をした。猫の怨念から解放されるのを願い幼児期にある記憶を植えておいたというのだ。逆療法ともいえるがとにかくそれは僕もよく知るところだから、なるほどそうした経緯があったかと妙に感心してしまったよ。
チューザーは青年と大佐との施術には立ち会っておらず、のちにそれを知ったらしいけど、僕へ言い含めたミューラーにまつわる話しはまさに筋書き通りだったのさ。
あと肝心なことを述べておかなくてはいけない。青年の記憶をどこまで移植するかにあたって、またもや関係者らの意見が対立した。最終的には断片を散らす具合で、これは君も覚えているだろう、みかん園での離婚騒動や、茶の香りに敏感なあたりがいかにも現実味をあたえ、それはある意味成功だった。というより青年の記憶はほとんど浮上することなく、失われた過去と現状にもがき苦しむ設定をつくりだす方向に貢献したと思う。僕が明言するんだから間違いないよ。おかげで真実に直面しても未だミューラーとしての自覚なんか微塵もなく、穏健説を唱えてくれた学者に感謝したいやら何とも複雑な気持ちだ。
データX1に関するいきさつはこれくらいでいいだろう。チップについてはこう読み解くしかないと考えている。すでに混乱は始まっているわけだけど、制御システムがうまく作動している間は問題ないとみていい、だが僕の混乱が雪崩みたいに勢いを増すと、回路は乱れて逆行し、つまり心身を破壊してでも最期の選択に邁進する。そうだよ、ミューラーを取り戻すのか、あるいは永遠にニュートラルの世界を彷徨し、チューザーが感傷に震わせた無常へ浮遊していくのだろうか。どうやら僕の思惑とは離れたところですでに萌芽が取りざたされているんだ。生身の神経はメカとどれくらい拮抗を展開するのというのか。そして壊れゆくという意味合いが字義通りに灰燼へ帰するのなら、それは本望であるかも知れない。
党首としての自覚も使命感も投げ捨ててしまいたい芽生えが自他ともに明白とされたとき、その答えは自ずと僕を制圧し、自由への讃歌に欺瞞的な美を見いだすことだろう。
美しくだまされたい、、、何という幼稚で世間知らずの戯言を理念としてきたんだ。君から見ればきっと僕は二重に緊縛されているのだから、憐憫さえ覚えてくれればなど甘えてみたくなる。
サスペンス映画なんかだと、ここで幕切れになるし、後味の悪さは案外日常から逸した感銘をあたえたりするんだろうな。ところが悲しいかな、まだ僕は君に伝えなくてはいけない事柄があるんだ。床下に潜んでいた闇姫の謎めいた行動や、そこから判明した出産が失敗に終わったという、プロジェクトそのものの崩壊。
鉄の掟はどうして過酷なまでに血生臭い結末に堕していまわなければならなかったのか。おくもを見限ったチューザーともげ太の思案は本当に冷徹だと言えるか一考の余地があり、それは治まりを知らない憤怒が今だけ牙をあらわにしない、してはいけない、冷血漢みたいな心境は果たしてどういった意志に培われているのか、想い巡らしたいんだ。
なんだかんでで僕は神経が図太いに違いない。そうでなければ、おくもの死にとらわれているだけで、とてもじゃないが整合性に意識を重ね合わしたり出来はしない。恋は死んだんだ。墓碑銘にたたずんでいるのが最善の時間であるべき姿を打ち消しているのは、どんな面貌なのか僕には分からなかった。


[228] 題名:ねずみのチューザー50 名前:コレクター 投稿日:2011年09月12日 (月) 04時36分

「それでねずみ一族は大いに実験へと加担したというわけだ」
軍事的行動という名において計画が企てられたとすれば、さぞかしミューラーはそこに価値観を見いだしていたんだろう。互いの望みが叶えられるのなら、きっと共同体として機能していたに違いない。僕は欠片ほども記憶を甦らせられない自分をもっと突き放すよう、秘密結社の欲望と種族らの栄光に軽蔑の念を抱いている口ぶりでそう尋ねてみた。
「おっしゃる通りでございます。我らの存亡は大佐殿にすべて委ねられたのです。すべてをコントールせよ、それがあなた様のお言葉でした」
「えらく、尊大な言い様だな。僕はそんな言葉を吐いていたんだ」
「現状をコントロールせよとは申しておりません。様々の可能性を信じつつ、決してひとつの形態だけに慢心せず、進化する過程にこそ至上のまなざしを注げと祈りにも似た観念をお持ちでございました。故にコントロールとは掌握することではなく、より深い認識性を示していたのだと思われます」
「それは立派な意見だ。でも今は以前の記憶にひたることも無理だから、いずれゆっくり吟味させてもらうとして、まずはドクトルKとやらの手腕を聞かせてもらおうか」
「はい、遺伝子工学の権威にしてクローン技術を極めました博士なのです」
チューザーの語るところによれば、ミューラー大佐は自分のからだにねずみ一族のDNAを組み入れたり、細胞から抽出した特殊な物質を投与するようドクトルKに依頼したのだったが、人体実験を買って出た本人に及ぼす危険性が高いと最初は承諾しなかったそうだ。大佐のからだに送りこまれるのはいわばチューザーのエッセンスなんだろうけど、最終目的は自己の精巣から放たれるものがねずみを生み出す源となり、受け手の女体にも同様の技術を施すっていうのだから、クローン人間とはかなり趣きが変わっている、第一人語を理解出来るねずみの生体自体がよく解明されていない、大佐の願望とドクトルの意見が現実において噛み合ないのは他の取り巻きにも瞭然と映っていた。
しかし、ミューラーはあくまで実験精神を放棄するべきでないと、声高々に主張してやまず、ついに一大プロジェクトの幕は切って下ろされたんだ。遺伝子工学以外にも各国から高名な産婦人科医、胎教を専門とする研究者、さらには精神分析医、大脳生理学者、怪奇医学史に通暁する識者、薬物学の権威、また異色のところからは超常現象研究家、建築家に庭師、脚本家なども動員されたという。
母体となるべき女性には結社側から慎重かつ秘密裏に幾人かが選定され、美貌はいうに及ばず、その品性を追求し、なおかつ心身の健常を越えて有能である挺身者に的が絞られた。それが闇姫こと苔子だったのさ。実名は定かではないけど、もげもげ太はその推薦者であり、苔子のいとこにあたるそうだ。屋敷では叔父とか言っていたが、親族であることには間違いなく、もげ太もまた結社に所属している身とか、このあたりの情報はチューザーに包み隠されず伝えられたというわけさ。
そこで彼らは御用達の脚本家が書いたシナリオに沿って互いの役割を演じ、隠れ里の開墾に携わった。じいやばあも挺身隊だった。屋敷に接した際の印象が映画のセットを彷彿させたのは、あながち勘頼りに傾いていたのでなくそうした背景が潜んでいたからなんだよ。
S市の農道でさまよっていたときにはすでに仕掛けが万全に施されていたんだ。その後の展開は今まで記してきた通りだから、重複するのを避けるとして、ここでミューラーの意志について少し説明しておこう。
といっても僕の記憶は述べれないので、チューザーから聞き出した言説をよりどころとして見解に導いてみる。
「己を投げ出してまでの実験にどんな意志を持って臨んだか、世界掌握が本願でないとすればだよ、ミューラーはどうしてすすんで種まきの役に準じたんだろう。結局、世にも稀なねずみを生ますことに快感を覚えたからじゃないのか」
僕の質問にチューザーはもっともというような顔つきをし、こう答えた。
「快感とおっしゃられましたが、それがしにはそんな一過性の問題とは思われませぬ。確かに実験の成功から得られる栄光は我ら種族も含め、歴史に燦然とした輝きをもたらすでしょう。それは単一な感情に返せるものではなく、未来永劫に光輝を放ち続ける性質をはらんでいます。ところがドクトルKが渋面をつくったように、必ずしもこの交配が成就されると限られますまい、そしてかの博士の懸念は大佐殿の内奥に仕舞われたおぞましき白色矮星のごとき願望を見抜いておりまして、反論に拍車をかけたわけでございますが、それと言いますのも、結社に君臨している身をどこかで憐れんでいる心性をかいま見たからではないでしょうか。掌握に絶対性を求めず、過程そのものに意識をすりつけてゆく、裏から見ますと無常観にも共通する醒めた情熱に支配されているのでございます。そんな大佐殿の面持ちを配下の者らは感じとっているのか、党首としての才覚に疑問を投げかける風潮さえ表立っていたのです。ちなみに大佐殿はオデッサなどではありません、あれはそれがしが脚本を読み上げたまでのこと、ねずみとねこの諍いは機知に富み秀逸でありませんでしたか。結社の本来の姿はいずれ記憶の回復と共に明らかになるはずでございますから、詳しくは申し上げる必要もないでしょう。さて、そうしますと大佐殿が望まれたものは快感とは似ても似つかぬ、一種の逃避願望であったのを思い知りまして、あなた様を目の当たりにしてしまいますれば、どうしてもそれを禁じ得られませんでした。大佐殿の本願は現在のあなた様のこころに裡にあらかじめ修められていたのでは、そう儚くも切ない心持ちに流れてゆくのをそれがし、こらえてみればみるほどに、いたたまれなくなってしまうのでございます」


[227] 題名:ねずみのチューザー49 名前:コレクター 投稿日:2011年09月12日 (月) 04時35分

「感情レベルが振り切れてしまいますのはデータX1のパーソナルにもよりますが、装置のショートが引き起こす問題は大佐殿を破壊しかねない危険があるです。微小なチップに埋め込まれた情報は制御システムとしては優れているのでございますが、生身の神経と直接接触する為、多様性の限界に近づきますと、その機能ゆえ緩和を放棄してまでも能力を最大に発揮させてしまい、回路に混乱をきたすリスクを背負って稼働し続けようとしていまうのです。指示においてはご自身で記憶を取り返しかける兆しが見えるまで、という計画でありましたから、それがしは慎重に実験の経緯をうかがっていたのです」
「実験、、、」

まどわしの室内はもはや白日にさらされた幽霊屋敷でしかない、ことの次第は新鮮な空気を吸いながら説明しましょうという、チューザーの意見に逆らうでもなく、気軽に庭先に出てみるよう僕は従った。回廊をめぐる経験より、その設計図を見てみたい意識がせり出していたから。
春の気候にふさわしく午後の太陽は、ひとつひとつの毛穴にまで浸透してくる朗らかな刺激を持っていた。新緑に映える山々からは初夏を待ちきれない息吹が届けられ、青空の広がりはそのまま透明な意識と連結してどこまでも自由を保証してくれている軽剽な夢に溶けこんでいる。
胸を焦がすのはおくもとの交情の思い出にもあったが、過去の一場面をただ切り取ることよりか、青空全体におくもの女陰がワイドに映しだされているといった、荒唐無稽なイメージのほうが枯れた涙と釣り合いがとれているような気がしたんだ。秘められてこそ官能を高めていたこれまでに決別する思いは、水瓶をひっくり返す投げやりな衝動に似て、ふしだらで薄情な言い草に聞こえるだろうけど、こんな清々しい天候に女体が開かれる様を想像するのは如何に健康的で、陽気で、そして天真のエキスがまぶされているか、まだ笑いが訪れてない以上、僕は蒸発してしまった涙を失ったとは思いたくなかった。
ミューラー大佐と呼ばれてもひとつも実感が湧かないし、僕にとっては架空の人物であるよりも、いっそ赤の他人だという感覚が優先し疎遠であり続けていたけれど、チューザーの言葉に疑念を抱くのはもう止めてしまったわけだよ。常識判断を放り捨てる気概が削がれたのではなく、あまりの大仕掛けが常識を裏切っているのはおかしいと考えたんだ。そうだろう、ここまでして僕を騙し続けるメリットがチューザーらにあるとは到底思えない、僕はミューラー大佐だったんだ、そう過去系で認識してみるより他にどんな方法が見当たるのか。とりあえずは、その実験とやらの詳細に耳を傾けるしか展望は開けない。
ここまで読み進めてくれた君ならばこそ感じる疑問の数々こそ、僕の知るべき権利でもあるのだから。
ねずみが僕に知らしめた驚愕の事実は、推量を遥かに通り越したあまりの内容だったので、却って人ごとみたいな、つまり他人の不幸を聞かされているふうな距離感を作り出していたと思う。何から問いただせばよいのか、実際にはこみ上げているだろう混乱した意識は案外取り乱すことなく、鎮静した心持ちを維持するあきらめに首を頷かせ、空疎な間合いへと歩み寄ったんだ。
忠義に萎縮しているのか、それとも動揺している僕に刺激が加わる手順を思慮しているのか、黙したまま空気へ何かを伝播させたい意想が透けて見えてしまったので、口火はこちらから切った。
「僕は目醒めなければならないんだね」
続くチューザーの応対を出来るだけつぶさに書いていくつもりだけど、君にとっても理解しやすくする為に要約を交えて、何故かといえば、僕はやはり動揺を隠せなかったみたいで愚問にまでは至ってないが、けっこう要領を得ない会話に持ち込んでしまっている、そうした事情も踏まえて整合性に即すよう敷衍するつもりだよ。

「計画では大佐殿ご自身が意識を呼び戻すよう設定されておりました」
「それはさっき言った、回路に混乱をきたすおそれを避けるための制御システムなのか」
設定の不首尾が自分の責任であるかのようにチューザーはあくまで控えめな口調を崩さなかった。しかし彼の口から突いて出る言葉の数々はめまいをもたらさずにはいられない。まず、僕が脳内のある箇所にチップ、すなわち他人格変換装置を埋め込んだ理由から説明は始まる。
「大佐殿にとって我らねずみ一族への接近は宇宙開発にも匹敵する軍事的行動でありました。しかも優秀な部下たちを退けてまで自ら生身でアプローチを計ったわけでございます。ただ生身という形態には様々な問題が付随していました。幾ら意識を偽装したとて、細やかな感情や不意の反応を覆い隠せるものではありません。そこである人格をまとい完全に今までの境遇を消し去ってしまう、これが最終的に選択された方法だったのです。目的は種族数少ないの生き残りとなっているそれがしを訪問され、我ら種の保存とそして科学的技術により非常に厳しい情況に置かれていた子孫を生み出すことにありました。徹底的な分析結果をもとに種の繁栄が我らの自然交配では確率が極めて低いこと、はい、そうでございます。人語を操る異種の生誕確率です。そこで人口受精が研究され試みられたところ、効果はかんばしいものでなく最先端の科学をもってしても種の絶滅を阻止できない、手法は尽くされたと悲観していた矢先、大佐殿から思いがけぬ発案が飛び出し、計画最高担当者であったドクトルKを説き伏せられまして、我ら子孫の存続へとまさに身を挺するご覚悟にて臨まれた次第でござります」


[226] 題名:ねずみのチューザー48 名前:コレクター 投稿日:2011年09月11日 (日) 20時02分

地下世界からの生還に艶めいているおくもの黒髪へそっと触れてしまったとき、躍起になって偵察を行なっていたのが、なにやら恨めしくも儚くも思えてきた。眠りついたとは見えない横顔には、それでも安らかなあどけなさが薄紅を刷かれたようにほんのり香っている。止血するすべもままならない焦燥は、改悛の情から離脱して不本意な方向にたなびいていた。待ち人が一刻も早くこの場へ姿を現すことだけに賭け、おくもの流血は夕陽のごとく赤い幻影になって帰途をさまたげていると、行き交うそれぞれのひとに願いを託していた。
畳の目に沁みてゆく血潮はもの言わはぬおくもの魂だった。無闇にからだを動かしたりするのは容態を悪化させてしまいそうで、見守るしか能がないことをしめやかに呪い、せめて意識を取り戻してくれたら、水気を帯びた髪をなでる指先が硬くならないよう気持ちを落ち着け、森閑とした座敷に伝わってくる細かな音を聞き取っていたんだ。
決死の覚悟で駆け抜けた出入り口の畳は何事もなかったみたいに元通りで、つい今しがたまで地下に潜入し、闇姫と言葉を交わしたことが夢なのではと疑りたかったけど、傷つき横たわったおくもと、少し離れたところで酷たらしい屍になっているじいが目に入る限り、夢は現実を過剰に裏切っているのが嫌というほど実感された。じいがおくもに襲いかかり、僕はじいを殺した。誰か目撃者とかいれば、サイレンが遠くから近づいてくるはずなのに、、、
もげ太、チューザー、どうしたんだ、老夫婦だけが過酷な番人の任務に殉じたのかい、おまえらが責任を放棄するとは考えられないんだけど。頼むから今すぐそこのふすまを威勢よく開けてくれないか。
闇姫は床下で僕の子を産んでいたんだよ、本山でなんてよくそんな嘘を言えたもんだな。あのとき咄嗟にねずみの群れはと信じこんでしまったが、それもかなり不可解なことだ、しかし今はどうでもいいから、理由なんかこだわったりしないから、とにかく姿を見せて欲しい。
声にならない悲痛な叫びは、返ってくることのない虚ろな響きとなって隠れ里を取り巻く見えない壁に吸収される。時計とは縁のない日々だったから、こんなに秒針が刻まれる思いはひりつくような、焦りだけに埋もれていく。いっそもう一度畳の下へ降りて、闇姫を問いただしてみようか、そんな案もかすめたりしたけど、あの拒絶ぶりからして好転に繋がる可能性は極めて低いだろうし、おくもをひとりにしておくのはとても危険だ。僕はよく磨かれたガラス窓の向こうを眺める具合で、瀕死の味方に魔手が忍び寄る様を見たり、そのあげく耐えがたい孤独にさらわれてしまうのを想像してしまい、結局辺りがてらてらした血の海となっていくのを黙って容認しているだけだった。
ところがときを経ず、急にこみ上げてくるものに押されたのか、赤い敷物みたいに流れたそれを見届けながら、ほぼ無意識的に傷口に被さる着物の破れを裂いて、襦袢も剥がしにかかり、自分でも信じられないくらい大胆な手つきでようやく、おくもの負傷を目の当たりにした。おそらくはどうすることも出来ない介抱を血の海で了解し、文字通りの手当だけを試みようとしたんだ。
「ううっ」と、苦渋の息がもれたが目を覚ましたわけじゃない。からだをなるだけ動かさないよう傷を受けた部分の肌を露出させてみると、なんということだ、肩の肉はざっくり開いて鎖骨にまで達し、腕がちぎれてしまいそうな痛ましさがあらわになった。こんこんと吹き出す血の躍動にとてもじゃないが手はおろか何物も触れることなど叶わない。このまま放置すれば確実に失血死するのは素人目にも歴然だった。
あんなに交わった柔肌が見るも嘆かわしく蝕まれ大きな糜爛を呈している。
胸の隆起は容赦なく血ぬられ、可憐な桜色していた**も単なる突起物としか言い様のなく、まるで蓋のつまみを想わせる人工的な素材に成り下がっていた。が、あばら辺りのかろうじて素肌を残している、健康的なかがやきは鮮血との対比を肉感的なものに仕上げ、着物を無下に破り捨てても燦然とした女体は本質を失ったりしない、そんな考えが湧き水となって現われ惨憺たる情況を濾過させる。
神秘をたぐり寄せるよう陶然として、生と死の狭間を見届けているのが僕に出来るせめてもの手当だった。やがておくもの顔は恐ろしいくらい見る見る青ざめていく。唇は紫に変色し不吉な容貌へと急降下していった。もう二度と白い歯とともにあの笑みが、僕に向けられることはないのだろうか。
そうして伏したからだを取り囲めるほどになった流血に、涙のしずくを垂れる悲嘆にくれる間のないまま、おくものうら若い生命は閉ざされてしまった。
畳へつきた両手になま温かい血潮を感じたけど、別段激情に駆られるでもなく、またおくもの死に顔を見つめるでもなく、浮遊した視線は宙を舞い、僕が惨殺した老人のほうへ吹き流されるようにしてたゆたっていた。
陽射しは部屋全体を無感動なひかりで包みこんでときの過ぎゆきを放棄させた。死の匂いが無臭である不思議さだけが、遠い宇宙空間に放り出された寂寞となって、星の瞬きに目を瞑るものうさへと沈殿していく。地下世界の暗黒に無論ひかりはなかったが、肌を差す恐怖は横溢していた。畳のうえの死はひかりを照り返しているが、頬をなでる微風は忘却されていた。
背後に季節はずれの虫の音を聞く気配があり、秒針がひとつだけ動いたような細やかだけど、閑却されても仕方のない無味を微かに覚えた。振り向くのも億劫だったし、僕に迫り来る気配だったら自ずと明確になるさ。いや、こころの隅に小さくへばっているのさえ認めたくない虚脱が、意地らしい抵抗を示していたんだ。
空気はいびつに傾き足音だけが純粋な影となってすぐそこへ刻印されている。はなから枯れていた涙は非情の影を叱責する気力も失っていた。言葉は勝手に空気を伝わる。
「そろそろお目醒めになってはいかかでしょうか。これ以上は負荷が過ぎると思われます」
もげもげ太の声は普段に増して、まるで患者をいたわる医師みたいな慈しみがあった。
「計算には早いですが、データX1の回路は焼けついてしまうでしょう」
チューザーかい、久しぶりに耳にする文句は相変わらず理不尽だな。あれほど切望した者らに対し、僕はそう胸のなかで呟くだけで首はまわさなかった。指折り数えられる少しの間が置かれたけれど、何の意想も滑りこませないよう無心に徹した。
じれたわけでもあるまいが、チューザーは僕の背をただす為に一念を込めたんだろう、
「命令に反するかたちになってしまいました。しかし、脳内の安全が保証出来ません。ミューラー大佐殿」毅然とそう言った。
座敷の畳すべてが床下に堕ちてしまう幻影に見舞われた。だが、ひかり差す空間は保たれており明度も仄かに下げられた感じがしただけで、衝撃はこの身をつらぬいてはいない、そんな失意とは離れた思いだけがぼんやり灯っていた。


[225] 題名:ねずみのチューザー47 名前:コレクター 投稿日:2011年09月07日 (水) 10時34分

両の袂に石を詰め込みすぎて利き腕が重た過ぎる、これではいけないと負担を減らし万全を期し、いよいよ恐る恐る階段下にやってきた。畳をいかに開くのか、おくもは心得ているらしいから僕はひかりへ羽ばたくようにして、とにかく座敷に駆け上がり転げこむのだ。そして第二の刺客に先制攻撃で立ち向かう。伝え聞く大きな斧とやらが瞬時にギロチンと化したときは、すでにあきらめもなにもない。おくもとは手短かに作戦を交わしただけで、階段に足をかける躊躇も惜しまれるくらい切迫した時間を互いに強要していた。そうしなければ、ふたりの呼吸は物怖じに乱れてしまう。耳をそばだてるまでもなく、小柄なつくりで温和だったじいの気配は、握りしめられた斧の重量によって圧力が加わり、それだけでない、もはや別人であることを肝に銘じなくてはならなかったんだ。
深呼吸したのだろうか、意識する必要なかった。脇をすり抜けたおくもの空気は軽く、足音忍ばせ敏速に階段を上り、その手つきも宙に浮かされた感じでポンと畳の裏を突つけば、シーソーが弾むみたいに一枚の扉は開かれ、白濁したひかりが差し込んだ。おくもが身をよじらせた横を僕は力まかせに駆け、ホームベースへ飛んでいく要領にわずかのひねりを入れ、斜めさきへと全身を投げこむ。思った以上に距離をのばせた幸運を知り感謝で歯をくいしばって処刑人の位置を確認する。いたよ、しかし僕が飛び出すのを待ち構えていたような如才ない猶予がうかがえた。
果たして一見鈍そうな斧の重しは、その破壊力を行使するまで血なま臭い雰囲気をかもしてなく、何より当のじいには殺気が感じられないし、悽愴とした顔色に朽ちることなく、これまで知った物腰を保ち続けているふうで、また一歩間違えば首を立ち斬られているはずだと、冷や汗をかかずに済んだのは、どう見てもじいには不釣り合いな斧をまるで杖がわりのよう手にしている姿だった。口もとには穏やかさが年輪みたいに記されていて、しかも眼光と呼べる威圧なんか微塵もない。
部屋の空気はすべての緊張を消し去って無味を取り戻していたよ。意表をつく処刑人の様子に一瞬気が抜けた。いけない、そのとき即座に自分の運だけが泥濘にはまっていることに気づいた。
「おくもさん、出てきてはだめだ!」
そう叫ぶまでの間はどれくらいだったろうか。じいは僕よりまずおくもを抹殺したいんだ。が、ときはすでに遅く、ひらりと身をくぐらせたおくもは寝そべった状態から、打ち合わせ通りに手裏剣を投げつけようとしていた。過ちを犯してしまったあとでは態勢を整えることは難しく、僕がまったく攻撃した形跡のない情況を覚ったおくもは、一瞬からだを堅くしてしまった。ふたりの視線は交差しかけたけれど、じいの無慈悲な笑みへと吸いこまれてしまい、鈍重な斧が振り下ろされるのを阻止することが出来なかった。
瞬きにも充たない気後れだったが、おくもの放った手裏剣よりじいの一振りに明暗は別れたんだ。僕の石つぶてなんかもまったく効果ないうちに、おくもの左肩から鮮血がほとばしった。恐ろしい速度だった。ひれ伏した格好のまま相当な損傷に耐えているのか、それとも意識を失っているのか、そばに寄って確かめることも叶わない、僕は適切な距離からひたすらじいに石を投げるしかなかった。
幾らか顔面に命中したけど、老人が秘める強靭な精神は一向に怯むことなく、また長距離走者の心音を想わす持久力で、ばあを倒された憎悪もたぎらす態度さえあらわにさせず、おくもに対する処罰だけに忠実であろうと凶器を振りかざす。ゆっくりした動きに映るのは目の錯覚かも知れない、打ち下ろされる勢いが信じられない速さであるように、この老人のわざは練達の極みなんだろう。かといって指をくわえているわけにはいかない、目の錯覚ならそれでもよかった。
上体を起こし処刑人の脇腹めがけて頭突きの態勢で突進する。獲物へ狙いを定めていた斧は垂直に空振りし、辛うじて危機はまぬがれた。ところが両手にしっかり握られた凶器は、老人のからだを反対に操っているのか、体当たりしても押さえ込めなかった隙にまたもや一撃をあたえようとしている。今度は斜に斧が飛んでくるのを察知したので、一か八か大きめの石を横面に打ちつけてよろめいたところ、すかさずより大型のものを手にして殴りかかった。打撃は鼻と口にかなりの手応えを感じ、もう一回同じところに叩きつけると、グシャリと肉もろとも砕けたのが歯であるのを知り、間もなく吹き出した血の量が激しかったのに勝機を見いだして、徹底して同所へ攻撃を続けついに仰向けに倒れたので、更に馬乗りのなって顔面が陥没するまで石を上下させたんだ。
途中で眼球が血糊に包まれとろみを持って流れてきたけど、それもかまわずすり潰すように殴打した。もう絶命していたんだろうが、斧をつかんだ骨張った手がまだ生きているみたいで、頭部だけ残しほとんど形をとどめていないのを眺めてから、手首の皮を裂き、肉を飛び散らせ、骨を砕ききってようやく凶器を肉体から切り離した。死体から鼓動が聞こえてくる幻聴を、僕の動悸と言い聞かすのに苦心したよ。そしてかけがえのない脈に向かい合う猶予を実感した。
「おくもさん、大丈夫か」
伏した様態から微かな呼吸が感じとれた。傷口にあたる着物は大きく破かれたふうに綻んでいる。どれくらいの深手か分からないが、あの一撃を受け軽傷であるはずもない。どうすればいいんだ。出血は止まらないし、意識も確かじゃなかった。
「すまない、僕のせいでこんな目にあわせてしまった」
途方に暮れるしかない惨めさで打ちのめされていたけど、おぼろげにそのさきが予測された。三番目の刺客の登場さ。もげもげ太はきっと現れるに決まっている、もう死闘なんかご免だ。彼に懇願しておくもを助けてもらおう。見殺しになんか絶対出来ない、どこへも行かないから、、、


[224] 題名:ねずみのチューザー46 名前:コレクター 投稿日:2011年09月04日 (日) 22時25分

ろうそくの火が大きく揺らいだのは僕が反射的に後ずさりしたせいだった。そうじゃないよ、闇姫の哀切な拒絶におののいたのではなくて、蟻塚みたいなところからいきなり妖婆が飛び出してきたからなんだ。すぐにそれが処刑人であることが見てとれたので、闇姫の言葉は一気に凄みを増したわけさ。
あの世から甦ってきたみたいに逆立った白髪の迫力といったら、その手に振りかざした鎖鎌もさることながら、魔物が湧いて出たと震わせる怪異を十全に見せつけていた。闇姫の姿は傾いたろうそくの加減で視界から消え、あとは眼前に迫りくる殺人鬼の形相だけが生き生きと現われている。歯並びのいびつなのが、いかにも牙をむいているふうにも思えたあたり、ほとんど金縛り状態だったのを物語っているよな。戦慄のさなかは以外と冷静な装いで、直視するものの特徴をつかまえているんだ。不意に躍り出た、いや、闇姫の宣告通りにか、とにかく僕らのまえに映っている妖婆が老夫婦の片割れ、ばあであるのも判然としていた。
鬼の形相にだって面影はある。逆に面影が残されているからこそ脅威になるんじゃないだろうか。
白さは夜目に鮮烈であり、蓬髪をふり乱しつつ荒ぶる姿態はそれだけでも一級品なのに、神経を縮ませたうえ、鎖鎌で狙われた日にはまったく完璧な処刑の執行となる。あんな鋭い刃で肉が削られたなら一巻の終わりだ。悠長にそんなこと考えている暇がないと思い知らされたのは、僕の頬をかすめるようにして鎌が飛んゆきおくも襲ったからだよ。標的はまず仲間内からだった。だが、おくもだってそれなりに仕込まれているのだろう、情け容赦ない刃を間一髪でかわすと、
「旦那様、わたしは灯りを絶やしませんからご自分のは吹き消して下さい」
そう、地底まで響きわたる声を張り上げた。それはおくもが的になっている間に逃げろと言っているわけだ。ためらっている猶予なんかなかったけど、妖婆に向かって挑発しているとも聞こえたから、ろうそくの火を隠すことも、一目散に駆け出すことも叶わず、寸暇を待たず新たな一撃がおくもに加えられるのを黙ったまま見守ってしまった。
「なにをしているのです。早く火を、、、」眉間に寄せたしわがことの性急さを訴えている。おくもは次の攻撃も回避してみせると、掌から少しはみだすくらいの鈍い色した鋼を懐中より取り出し反撃に転じた。左にろうそくを握ったままの応戦だったが、相手の隙を突いた効果があったようで、妖婆は甲高い奇声をあげ鎌を持つ腕をかばう弱みを見せた。
「今のうちです、あの畳返しの階段まで急いで下さい」
地下といっても大した距離を進んだのでもなく、この灯りがあればどうにかあの入り口まで引き戻れような気がする。そしておくもの手を引き、命からがらの脱出劇が展開された。が、妖婆に軽傷しか追わせてないのは、ジャラジャラと地面を擦っている鎖の音があとに続くのが耳に刺さるからで、階段付近まで詰められた際にはうまくかわせる可能性が少なくなっているのが予想出来る。
攻撃こそが最大の防御なんだ、そう意を決し後方へ振り向き様に僕は秘密兵器でもって不穏な影に突撃した。いつか君に話しておいただろう、武器は調達済みだってね。それは屋敷内に転がっている石ころだった。銀山みかん園に赴いたとき思い返した、薄い頭髪に命中した石つぶての一件。あの無邪気で残酷な子供こそ実は僕だったのではないかと思いこみ、学生時代は野球に熱中し投手としていい線まで行けてたのでは、そう信じ人気のないのを見計らって、木の幹に印した箇所を目標として石投げを密かに行なっていたのさ。あまり根をつめると目立ってしまうから、コントロールの正確さだけに専念したんだ。仮想敵の目や眉間に集中するよう狙い定めていた。
ようやく役に立つときが来たか、感慨に耽るより早く、僕は拾い集めた適当な大きさの石ころを追手めがけ乱発射していた。何発かが眉間や目のあたりに命中した手ごたえを感じたよ。妖婆は顔面を手で押さえてしゃがみこんでしまったから。そして躊躇なく、ソフトボールくらいのやつをなるだけまえに出て脳天めがけ叩きつけてやった。
倒れこみ白髪に気味悪く血が滲みだしたところを、今度は両手でつかめる大きさの岩石でもってグシャリと骨が砕ける音を確認するまで数回振り落とし、しわくちゃで筋ばった手先きが痙攣するのを見届けてからおくもに言ったんだ。
「第一の刺客は退治したぞ。次は順番からいってじいとの対戦だな。おくもさん、この床下にはあの階段しか出入り口はないのかい。僕の勘ではじいは座敷に出たところで急襲を仕掛けてくると思う。他に抜け道があるならそっちを選びたいよ」
「残念ながらわたしはここに来たのは二回目なのです。入り口はあそこだけしか知りません」
これには僕も肩透かしを喰った。
「じゃあ、妖婆に続いてどんな怪人に変貌したじいが構えているのだろう」
「確かけっこう大きな斧を持って首をはねるのを得意としている、そう聞いた覚えがあります」
何てことだ、それじゃ畳に顔を出した途端にバッサリ斬り落とされてしまいというのか。床下での死闘にじいは耳を澄ましていたに違いない。脱出の術が相当な危険に阻まれているのを知るのは正直辛かった。畳のうえで生きていられる実感がどんどん遠のいてゆく。今一度、闇姫のもとに下り懇願してでも、逃走路を聞き出すのが最良の手段ではないか。おくものろうそくから火種をもらい踵を返したとき、
「無理でございます。闇姫様はさきほどはっきり言われたではありませんか。抜け道などうかがうより、わたしたちが踏み入れた道のりに戻りましょう。旦那様の石つぶてとわたしの手裏剣で切り抜けなくてはいけません。一刻もここにとどまってはならないのです。尋常な場所ではない、確かそう申されたのをお忘れでございますか」
おくもの面には笑みがあった。
「そうだな、力を合わせて挑んでみるか。僕は集中砲撃で撹乱してみるから、なんとか手裏剣を急所に打ち込んでおくれ」
階段近くまで来たとき案の定、頭上に殺気をともなった足踏みが伝わってきた。それが片割れを血染めにされた復讐心に脈打つ鼓動で増幅されているのだとすれば、、、僕は全身から血の気がひいてくのを止めることが出来なかった。


[223] 題名:ねずみのチューザー45 名前:コレクター 投稿日:2011年09月03日 (土) 06時18分

無限空間をさまよっていた床上とは異なって、闇が被うこの場所には暗黒の深みこそあるけど、意識をたぶらかそうとしている奸計はめぐらされてない、そうした直感が鉛のように沈んでゆく。たどり着くだろう奥底に既視感を覚えてしまうのも、原野が開けるといった達成からではなくて、古巣に舞い戻ったふうな苦い思いが顔を出しているからだった。
おくもが案内を買って出た時点で僕の願いはすぐそこにあった。迷路と化している座敷を突き進んで行った時間の推移、それはよくよく振り返ってみると、この地下世界に凝縮された念いをときほぐす為の心構えだったに違いない。僕が何を探っているのか、案内人は清く了承していたので、目的へと一気に突入してしまう衝撃をゆるめる必要を感じていたのだろう。踏み入れた闇に呑みこまれないことを祈りながら。
二柱の灯火が照らす床下は遠く広がっているようだったけれど、求め願う光景はそれほど距離を持っていなかった。
思い描かれた報せ、泥濘に足をとらわれてしまう予感に忠実であるよう、地面を無感動に這っているねずみの群れを見つける。本能的には居場所を嗅ぎつかれ、右往左往していたようでもあるが、僕の見知ったあの鼻先をひくつかせる愛嬌ある表情はそこに存在していない。ろうそくの灯りにさらされても別に反応を示さないのは、きっと人語を理解する種族ではないはずだと、そこにチューザーの影を認めることもなく、奥まったところに別の一群がうごめく気配を察し、あたかも砂糖に固まる蟻の姿を浮かべてしまう。
「この先なんだね」
急な斜面に滑り落ちるのを乞うているかの口調でおくもに問う。
「足もとにお気をつけ下さい。そこの地面は苔だらけです」
「わかったよ」
実際に勾配は身の安定を失わせそうに見えた。手にしたろうそくをゆっくり傾けると、まさに蟻塚を彷彿させる長細い岩なのかどうかも識別出来ない奇妙な形が火影にゆれる。ねずみらは行きつ戻りつ、次第に忙しなさを訴えかけているよう蟻塚と似た物体のまわりを這いまわっていたんだ。
「旦那様、あちらに、、、」
おくもの声は爪先立った慎重さが風化していくみたいに、蚊のなくほどしか届かない。いや、届かせなたくなかったと思えたりする。
こころのなかを渇いた疾風が駆け抜けた。目に映ったのは、細長い影に身をひそめているはかな気なひとの姿だった。青ざめた面持ちではあったけど、凄惨な雰囲気などまとってなくどちらかといえば、懐かしさが滲み出した親しみをあらわにしている。しかし、そう感じたのはまだ目を合わしていない段階なので、僕が一方的に投げかけた斟酌とも言える。震えるこころに返り咲いた気力は、遊戯の域を見捨てはしないはず、あの熱病に冒された日々を決して忘れなかった。燻り続けていたのだろうか、多分そうだと思うよ。では切り裂かれたものは何なのか。
傾斜の底にうずくまって人影を見定める為、ろうそくの位置を降ろしていく。その瞳に宿るひかりと再会する瞬間を得たいがゆえに。
僕ひとりでたどれた時間ではない、うしろからの灯りで守られている立場が狡猾な行為に思えてくる。声をすぼましてしまったのは、思い上がりの恋を悟らせたからに違いなく、反照となって染みわたる情念をすげ替えたのも、そうだよ、おくもに対する憐れみは僕が作り上げたんだ。今向き合うひとにも同様の意識が作動している。時間の帯はこうして無垢な恋を汚してみせた。そして汚れのなかに飛び込もうと固唾を飲んでいる。
「やっぱりそうだったんだ」反動により、ひと言だけが痴呆的なよだれになってこぼれた。
すると闇姫の目からは潤いを含んだひかりが送られ、僕はうなだれてしまった。瞬間に交差した目配せは様々な感情と思念を乗せて、銀河の果ての瞬きのように過ぎ去り、地面に群がるねずみは闇姫が生み落とした僕の子供だと確信したんだ。
滑るまま母体に近づきたい気持ちを抑えつけているのが、苔子と呼んでやれない無情さであるのを認めたとき、闇姫の顔は灯火で鮮明になった。苦しみと安心が同居している、よどみが似つかわしいと言いた気な微笑だった。
「主様、なにゆえ妾のもとへ参られました。かような姿を見られますのはどれほど無惨と知りましょうか。いえいえ、なにもおっしゃられなくとも一目瞭然、そこのおくもにたばかられましたのですね。ごらんのように分娩は不首尾、はなから主様に顔を合わせられる身ではありませぬが、掟を破れしものはただちに処罰を受けましょうぞ」
落ち着いた口吻ではあったが、火のごとく明瞭に意味を伝えていた。
「ちょっと待ってくれないか、おくもさんを巻き込んだのは僕なんだ。徹底してすべてを疑る視点から結ばれた場面がここなんだよ。どこかにきみが隠れているじゃないかという疑念は拭いきれなかったからだし、ここでの生活に慣れ親しんだ振りをしたのも、結局は記憶を回復させたいが一心なのさ。こうやって地下世界まで降りてきてしまったことの弁明だろうけど、きみらが謎に包まれ、沈黙を余儀なくしたから僕は抵抗したまでだ。処罰だなんてひどすぎる」
「旦那様、、、」
背中へ語りかけようとするおくもの息づかいも一緒に切断する勢いで、闇姫はこう諌めた。
「問答無用でございます。一刻も早くここから立ち去りなさいまし、妾にはそれしか申すことはありません」
最後の言葉は幾分怒気を帯びていたにもかかわらず、闇姫は憂いを名残りとしたかったのか、少しだけ頬をゆるませ深い眠りにつくような目で見つめていた。


[222] 題名:ねずみのチューザー44 名前:コレクター 投稿日:2011年09月01日 (木) 18時34分

灯火は恐怖と混然なったもろもろの心情をかなり鎮めてくれた。床下だけあってさほど頭上は高くないのを知ったし、地底深く傾いているかに見えた空間も広大な面積を持っているようではなく、敷地内から野方図にはみ出してはいない気がしたんだ。低い階段を降りたばかりのときは回転した畳がもとの状態に戻ってしまい、光線は断たれマッチの灯りだけでは心細かったけど、この頼もしい百目が放つ明るみは余計な神経を除き去って恐怖心を純化させ、それに見合うだけの研ぎ澄まされた緊張へと導いてくれた。
視界が開けたことは何よりの安堵だったが、自分の身体に鋭敏になったのはこれからの身構えを諭してくれていると思われたよ。春先の気候だから別に温度に意識は奪われはせず、ただ薄い靴下を隔てて感じられる地面の具合が、解放とは似つかないの軽卒な自由を拡散しているみたいで、小石に交じって何か鋭利なものが紛れこんでいそうな危うさをごまかせなかった。おくもと同じに足袋を履いているだけで、どれだけ居心地が向上しただろう。とはいえ、今更ぼやいてみても仕方なかったので、作務衣の懐や袖を探ってみたんだ。この里に来て衣服以外は身につけることもなければ、何も持ち歩く必要もなかったから当然気の利いたものなんか出てくるはずもない、精々了解したのは同じ型のろうそくをあと二本懐中に仕舞っておいたぐらいか。もう数本持って来てもよかったのだが、多分それなりの勘が働いたんだろうな、そんなに長時間も穴ぐらを徘徊したくはないと願っていたのが本音さ。つまり地下室に忍びこむ気忙しさは、一瞬鍾乳洞を想わせる驚異に勝ったのか、案外と沈着な展望を求めていたわけだ。
何とも手前みその理屈に聞こえるかも知れないけど、おくもは僕の心中を察していたようで、
「ろうそくは他にいくつかの場所に備えられています。わたしも不用意でありました。マッチ一箱しか携えていないとは、、、」
と、いささか落胆した声色をこぼしながら昭和の面影を残した箱形のそれを差し出した。
「そうだね、ライターとかあればよかったんだろうが」
喫煙の習慣は忘れられていたので手もとに置かれてなかったし、あの古風な屋敷内には不似合いな代物だよ。衝動的とさえいえるこの情況をあらかじめ知り得ていようが、ライターはおろか懐中電灯だって果たして常備されているやら、たとえそうであったとしても一体誰に尋ねられるというのか。そんな発案こそ勘づかれることないよう留意してきたんだ。
そのとき僕の脳裡をはすかいに横切っていく、だがとても鮮明な瞬きが訪れた。おくもは自分の手落ちを嘆いてみせたが、この床下にかつて足を踏み入れた事実は間違いない、そうだよ、だからろうそくの在りかなんかも心得ていて、マッチ一箱で事足りる推量をしっかり抱いている。どこまで細やかな心配りをしてくれるんだろう、僕の動揺を包み込んでくれるように感情の襞に優しい手が差しのべられる。
感激で胸が熱くなりかけたけど、非の打ちどころがないおくもの思慮に冷徹な側面を見つけないはずもなかった。しかし、そんな邪推を退けるくらい僕の胸は一筋の光明に照らされており、複雑に絡みあった蔦が紅葉に染まる色彩を分別して眺めることもなく、反対に色とりどりの豊かさが鮮やかな光線のなかへと帰ってゆくのを覚えた。
恐怖心は選り抜かれた風景にまつらう様相で対峙している。足のさきから、あるいは頭のてっぺんから冷や水を浴びせられるふうにして感じとるのが本来なのだろうが、消えゆく最後の疑心に笑みを浮かべながら手を振ってあげたい念いは、偽りのなかへすべてを投じてしまいたい一心に同調して、闇は灯りを決して侵蝕出来ないだろうという求めに収斂していた。恐怖が恐怖として存在しながら、僕のからだをすり抜けたりしているのは、白々しいと言われようとも、新たな邪念が生み出されたからに違いなく、そう僕はおくもに恋をしているのを知ったんだ。
知ると同時に再び暗闇に対する不安が押し寄せろうそくの火を揺らした。もう一本を取り揺曳する火影をそっと移す。水たまりに浮かんだ波紋を制御するにはもうひとつの波紋を生じさせるのが適切であるように、僕の産声は自然に泣き止むのを恥じ、ふたつの火柱が夜空へと燃え上がる空想に準じた。
おくもの表情には手渡されたろうそくの灯りを受け、つつましく見える緩慢な笑みが美しく現われ、陰影に捧げられた。なぜなら、肩が触れあうほどに寄り添った面持ちで、たおやかに小首を傾けあえて目線がそらされた姿態には、言い様のない夜の気配が漂っていたから。
またそっと唇を重ねてみたい欲望に駆られてしまったけど、どちらかの灯火も消してはいけない想いが強く波打ち、熱い吐息さえもれることなく新鮮な空気は保たれ、甘い苦しみを感受しつつ胸のなかの水面に引き戻された。その代償として僕はおくもから、こう言われたんだよ。
「うれしいです。ろうそくが二本、わたしの分も気遣ってくれたのでございますね」
そんなの気遣いなんかじゃない、そう返しかけ別のもの言いをした。
「とにかく僕から離れないようにしないと。ここは尋常な場所ではない。わかったね」
おくもは今度は目をそらさず黙ってうなずく。我ながら恥じ入ったよ。ここまでおくもの尻に引っついて来たというのに、恋にとらわれたのがまるで罪であるよう、それから相手に罰を言いわたすのが務めであるよう見事に高慢な態度が躍り出たもんだ。が、出てしまったのも幸いか、ようやく僕の意志は怖いもの見たさに匹敵する馬力、あの遊び心を復活させていたのさ。


[221] 題名:ねずみのチューザー43 名前:コレクター 投稿日:2011年08月30日 (火) 06時00分

奇妙な逆転した思考だと言われそうだが、少々補足させてもらうと、おくもは機械人形なんかじゃないし、これは無論こころの在り方なんだけど、それならどうして生身の人間に油の匂いなんか嗅ぎとるのかって問われれば、端的に言うとまだまだ抑制が働いている加減を知るからであり、おくもがどこまでも陰謀に加担しているわけではなく、本人が応えたように自らの自由を、つまり桎梏から逃れる手段を選択したってことに尽きるんだ。意味合いが見えにくいのならこういうふうに説明する。
おくもは任務から逸脱したけど、身に絡みついた枠組みみたいな足かせに縛られている。その慣習はどれ程そつなく歩いてみても、反対にどこかぎこちなく影が泳いでゆく、そう思えたとき僕はようやく真の味方を得たと感激したのさ。何度も念を押すがおくもの実際の歩き方に問題はなく、やはりこれは濃厚にからだを交えられたおかげで透けて見えた確信であり、ゆるぎのない空間を踏みしめている感覚だった。
さて、信念をみなぎらせるというより胸中があまりに澄みきってきたので、激しい勢いに押されるでもなく、あるいはおくもの背に強烈な磁力を感じるわけでもなく、ときを経ず油の匂いも希薄してしまってもう五感に飛び込んでくる刺激はなにもなかった。ただ、奥まった座敷に漂う静謐な感じが異様といえば異様であり、肌を撫でていく無風に限りなく近い空気が、おくもの後からひんやりと流れてくるようで粛々とした気分をさずけてくれた。花びらが舞落ちるとき、ほんの僅かだけ芳香がかすめるように。
ぼんやりした明かりが一定のままなのは摺り足に畳を踏む加減と調和している。部屋の隅に置かれた行灯の為せるわざなのか、放心状態で歩を運ぶ僕にはそれをつぶさにすることもままならないうち、どうやら陽がほのかに差しているのが、まぶたの裏へ柔らかく報せている。おくもが振り返るのと、ふすまに隠ったような低い声が出たのは同時だった。
「ここでございます」
別段なにも見当たらないし、間取りに変化があるわけでもない。しかし、おくもの爪先は白足袋を破り抜ける野性の嗅覚でその場を示している。
「この部屋が一体、、、」
放心に輪をかけられた僕は首をまわしてみたり、天井を見上げたりしてみたが異質な様子はどこにも見当たらず、かえって昼と夕の狭間に訪れる無防備な面持ちをした気だるい陽射しに、畏敬の念を抱いたりした。先の間に覗ける障子を通し薄い煙幕となり畳を這っているひかりはとても神妙だ。ふすまの影を淡く横たわらせ隅々の本来の薄暗さに忍びよった趣きに、胸の空洞が充たせれていくのを知ったよ。
おくもは一枚の畳のへりに注視するよう、目線を斜めにすべらせ僕の反応を待ちながら、驚きを緩和させる務めで不敵な笑顔をあらわした。承知していたさ、前から注意深く各部屋の畳を確かめていたのに一向に発見はなく、不審な物音も聞き取ることが出来なかったから、こうして定番の畳返しが披露されるのはとても口惜しい。おくもはそんな僕の遺憾を吹き流すため、あえて感情の発露を仮面にして見せたんだ。そしてこちらの構えを確認したらしい。
「これから猶予はありません。一気に踏み込みましょう」
そう言い放ち、ドンと右足をへりに叩きつけると、軽やかに木の板が跳ねる具合で畳の前方が上がり、後方が床下に下がったまま、辺りのひかりを吸い込んでしまいそうな、暗渠を想わせる侵入口を目の当たりにさせた。半畳ぶん床が開いただけで、恐らく気のせいなんかじゃなく、明らかに土臭い冷気が足もとに近づいてくる。が、それより素早くおくもは先に立ち、いつの間に手にしていたのか、マッチ棒をすり瞬発の火をたよりに階段を見定め、白足袋が闇へと消え入ることも怖れずに身を落としてゆく。僕も慎重に後を追いながら次々と小さな火が灯される真下を見極めるべく、目を点にする。
梯子に近い危う気な階段は長さもなく、案外楽に床下に達したんだ。でもそこからが茫洋とした夜の海のように行く手を拒んでいる。反面なだらかな傾斜によって土中深くにまで広がっている現況は、ある種の開放感を与えつつ次第に閉塞へ持ちこむ邪気で被い尽くされているかと感じられ、胸に秘めたはずの空洞はいとも簡単に呑まれてしまったのさ。救いとなったのはおくもの挙動が闇夜に慣れた素振りであったこと、その目はたぶん僕と違って危険を避ける方法を得ており、かつて夜道を手繰りに足場を築いた知恵がいま懸命に試されていることだった。
奥行きは計り知れず、左右に伸びる空間の在りかもつかみとれない。あたかも鍾乳洞に迷いこんだ困惑にささやいてくれるのは、地底から湧き出る清冽な水音であり、反響に限りがない予測を信じるよう内心にひそんでいる声だけだ。そんな念いがよぎっていったとき、まさに小声のおくもは地上に届かさないもの言いでこう促した。
「そこの左側の岩肌にくぼみがあります。ろうそくが仕舞われているはずです。旦那様のほうが手を伸ばしやすいので、わたしがマッチをすって照らしますから、確認してみて下さい」
言うが早いか、僕の返事を聞くまでもなくその場所らしきところがパッと明るみ、確かに削りとられた形跡のあるくぼみは浮かんで、数本のろうそくが血の気を失った人肌のごとく立てかけられているのを見つけ、難なく取れるのを知り再び暗闇へと襲われるまえにサッと手にした。
つかんだとき咄嗟に感じたけど、炎が灯されてみれば人肌に映ったのも無理はない、幼児の前腕くらいはありそうな百目ろうそくだったのさ。先端に向かって太くなっている重量感は期待通り、火焔をめらめらと立ちのぼらせると、闇を漂白する勢いで僕とおくものまわりを照らし、燃える朝焼けのような朱に落ち着ついて岩肌を悩ませたんだ。無数の陰影が居場所を隠そうとしていたから。




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