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[252] 題名:Winter Echo 名前:コレクター 投稿日:2011年12月27日 (火) 00時51分

もう学校は冬の休みです。開けっ放しにされた向こうから日差しが照りつけてくる夏休みの始まりと違って、年の瀬とともに訪れるひかりはどこかしら蕭条とした息づかいをしています。クリスマスや正月を控えながらあえて華やぎを抑制しているふうに感じてしまうのは、そんな厳かな気配に触れているからでしょう。寒風に描き出される町並みは霊妙な皮膜で被われています。目線も軽く吹き流されているようで、年越しに向かう時間を停滞させているのでした。はっきりとした理由はわかりませんが、厳粛な感覚は子供の特権とも言えますから、北風に運ばれているものが静かに横切っていくのを感じ、何気ない引き戸の開け閉めが単に防寒だけでなく、その手をふと止め、穏やかに家のなかへと注がれるひかりが日だまりを作りだしているのを見つめてしまうので、やはり夏の到来とは趣きが異なっていたのでした。
暖房も今ほど行き届いていなかった部屋には、純度のそこなわれない外気が冷然と忍びこみますが、しかし隙間風といさめる敵愾心を抱いたりせず、むしろ冬の精霊が舞い込んで混濁した意識に働きかけてくれている、そんな思いに肌寒さは協調していたものです。
家の佇まいも同じく、乾燥しきってほんの少し指先を触れただけでささくれ立ってしまいそうな板塀、その下を伝う水気の消えた溝に安住してしまった土砂、小さな旋風に巻き上げられた枯れ葉をやんわり拒否する窓ガラス、ときおり反射を見せながらも障子に染み込んでゆくことを黙している縁側の光景、また庭先から飛び出した細い木枝は絡まりあって冬空の青みに挑んでいるようですが、精一杯ひろがった茨の様相ながらそれほど邪心はなく、平行に張られた電線へ遊戯を呼びかけているふうに映ります。そうしますと、瓦屋根の位置もいつもとはわずかにずれている気がして、家屋全体が不思議なちからで鎮めらているよう感じてしまうのでした。
子供は風の子。確かに普段は放映されない年忘れ劇場とか古い映画を、こたつに肩まですっぽりもぐりこんで観ているのもゆったりした楽しさがあるのですけど、特別興味をそそられる番組がない限り、冬至を境にする季節に従っていれば、あっと言う間に日暮れてしまいあとは大人しくしてなくてはないりせんから、なるだけ外で遊んでいたかったのです。ことに絹子がこの家へやってきてから静夫の胸中はふわふわと浮いていたわけですから。
記憶の根拠を手探りで当てていくのは難しいもの、それは当時の思いが一途であれ複雑であれ、浮遊する情感はときの波間を泳いだり漂ったりしていますので、海図みたいに明確な標を宛てがうことは無理なのです。ちっぽけなこころだって深い海をたたえています。些細な悲しみだろうが涙を枯らすのは子供にとって不健康、だからこそ技量があやふやであろうと夜の水は汲めども尽きないのでしょう。
その日の遊びは凧あげです。近所の駄菓子屋で売られていたまったくの玩具でしたが、一応空へ上げることは可能です。静夫の上級生のなかには竹ひごを削り上等な凧を手作りする子もいましたけど、まだまだそんな芸当には及びません。それにこの界隈には広場がなく精々半径五十メートルが行動範囲であったことも手伝って、北風の強く吹く日くらいしかこの遊びをしませんでした。それくらい気まぐれだったのです。
近くに住む同級生を誘って向かったのは家からそう遠くもないところに最近出来た空き地で、道路に面していながら金網などの仕切りもなく、奥まった場所に横一列で新しい民家が建てられているだけの割と広い分譲地でした。誰の姿もないのを確認するとそれまで覚束なかった気分が一変に研ぎ澄まされ、まさに熱中へとすべりこんでいきます。それは忘我に違いありません。行動半径も狭くて感情の発露も単一で身に背負うしがらみなども持ち合わせていないのです。憂さ晴らしや気分転換といった不機嫌な現実からの逃避でも逸脱でもなく、あくまで純粋な遊戯への没頭でした。故に時間は速度を上げていたのかも知れません。
電線に当たらないよう気をつけているだけで、予備に用意しておいた凧糸を継ぎ足し上空への飛翔に一心を捧げます。二色刷りの漫画が書かれた安物の凧だって以外と風にあおられるものです。後年、静夫は空を見上げている場面こそ違えど、海釣りに感じる無心をスライドのように重ね合わせては懐かしがるのでした。
ふたつの凧はそれぞれの高度を保ち、風の事情になびき、冬空にしては雲の目立たない天を満喫しておりました。まるでこのからだも一緒に舞い上がったかの錯覚も夢心地によぎります。糸を操る手先に神経は通っておらず、そこに備わっているのは分離した魔法の調べでした。寒空であることを覚えつつも身を震わせる情況は刷新され、眼の奥に棲みついた陽気な魔物が天高く昇りつこうと快適な焦りをあらわにしています。凧は直線に結ばれて固定したかと思えば、斜めに降下したり、とりとめのない動きを演じてみたり、もう完全に静夫の手もとから自由になって大空を駆け、ひとつの生命を得てしまったような実感へと導かれてゆくのでした。凧の自在は静夫の歓喜を剥奪し、静夫のこころは凧に翻弄されてはいましたが、この被虐趣味こそ制御の利いた華やぎだったのです。上昇は遠方への冒険であると同時に、決して足場を喪失させはしない沈滞とも言えるでしょう。
静夫の無邪気な時間はこれまた子供の純正によって打ち破られました。
「糸が切れちゃったよう」
同級生の凧はどうやら実際に自立してしまったみたいで、これで遊びが終わるのは瞭然でした。静夫は残念だねと、取ってつけたなぐさめを口にした途端みるみる間に興ざめしていくのが分かりました。北風の勢いも増し頬を凍らせてるいるのが不快なのかどうかも感じとれないまま、地面の石ころを眺めてています。沈黙は失意を消去させる為に耳にするものが隔てられていたのですが、やや間を置いて「そうだ、おばあちゃんとこに行こう」不意にそう言い放った声は同級生の面持ちは晴れやかでした。静夫は咄嗟に彼がお小遣いをもらいに訪ねるのだと察し、それでまた新しい凧を買うつもりなんだ、自分まで一緒することはない、もう帰ろうと渋面をつくってみたのですが、寒さを覚えない鈍感さは別な意味で共通であるらしく、とうとう屈託ない同級生の笑顔に誘われるまま小走りにあとを着いて行きました。目指す先は静夫の家のまえを通り越しますので、帰途につくような感じも半分残っていて、何ともいえない不甲斐なさがこみ上がってきます。でも追従の足を止めることないままにちらりとだけ家の様子をうかがったのです。するともっとも罰の悪い場面がちょうど立て看板のように静夫を待ち受けていました。
玄関の戸を顔だけのぞかせる具合で佇んでいる絹子に会ったのです。偶然なのでしょう、そして絹子はこれから出かける素振りもなく、ただ無為な手つきで戸を開けているのが嫌というほど理解されるのでした。静夫のこころは空騒ぎを始めてしまいました。ほんの一瞬の光景だったにもかかわらず、同級生の背を追う意識は放擲され、さっきまでのいい加減な片意地も粉砕してしまい、凧に賭けた無垢だけが残像となってまぶたの裏にちらついています。もっと足早に逃げ出したい強迫的な思惑も、整合性をはらんでいるかと頷いてしまいそうな丁重さでまとわりつくのです。静夫はいつかの乱れ髪をした絹子の夢へ思い馳せていました。封印された幽鬼にふたたび襲われてしまったようで、こうして駆けている息の冷たさがしみじみ感じます。あたまのなかを巡るのは「絹子も凧あげに連れてこればよかった」という後悔にほかなりませんでしたけど、その奥にはまた別種の思惑が影をひそめている予感が擦っていきました。
子供の足は速いものです。同級生が目的の家屋へ消え、冷気に取り囲まれた静夫でしたが、いざ見知らぬ門前にひとり立ちすくんでみれば、鬼ごっこみたいな駆けっこにとらわれていた、いえ、熱中していた自分の影が不動に思えてきました。
「何を恥ずかしがっているんだろう」
静夫の胸に微かに響いてくるものがあります。それは遥か彼方のようで案外近くにも聞こえます。毎年おさない従兄弟が遊びに来て、カルタやゲームをするのが恒例です。正月は絹子も一緒でしょう。
厳かな冬の空は静夫の頬を冷たく差します。時間がゆったりと流れていると感じてしまうのはすべてが凍えているから、そう考えたりしました。
白い花びらがぽつりぽつりまわりに浮かんでいます。粉雪はためらい勝ちなやわらかさで落ちてくるのでした。


[251] 題名:広場 名前:コレクター 投稿日:2011年12月22日 (木) 16時38分

性懲りもなく隣町の隣の町へ遊びにやってきた。今回は案内人がいる。なんでも一風変わった建物があるとかで同行を引き受けてもらったのだが、実はそんな風聞などまったく耳にしたこともないまま、半信半疑でNさんの言葉に従ったわけで、そうかといって期待にときめく大仰さはやんわり鎮静され、あらかじめ見届けているような失望にくじかれる土台も放棄し、のびやかな気分だけがこの眼の行方を後押ししている。夢は保証を必要としていない。
大丈夫、今日は腕時計を外してきた。玉砂利を踏みしめながら歩いてゆけば、なるほど寺院とも美術館ともつかない奇異な建築物がまざまざと我が身に迫ってくる。カメラを持ってこなかったのが悔やまれたけれど、灰色にそびえ立つ尖塔は曇天と気脈を通じているようで苦笑いさえぼやかしてしまった。不穏な空気と断定は出来ない、薄い霧に包まれているのがとても心地よく感じられたから。
「なかには入れないのですか」と、Nさんに訊いてみれば「誰もいないからとかじゃなくて、厳重に鍵がかかっているのです」声を低くしそう答える。鉄壁に囲まれた響きが含まれている気がして納得してしまった。
それにしても眺めるほどにつかみどころのない建物で、どうにも形容しようがない、豪奢でもなく倹素でもなく、かといってありきたりでもなく、身勝手でもない。ただ異様な感じだけが見定める思惑に裏ごしされ、正午の影のように、かたつむりの抜けがらのように明確に示されている。
足が地についてない感覚もまた、この周辺に磁場となって眠っており、緩やかな作用のもと早々に立ち去ることを奨励していた。Nさんの薄ら笑いが風に流されてゆく。うなずきながら落とす目許に一瞬、光線がよぎった気がし、微かな歓びの訪れを知る。
「奥の林を越えたところに行ってみたらどうです」Nさんの口調は風を含んでいるのか、懇切ではあるもののどっちつかずな振りに聞こえ戸惑っていると「気にいると思いますよ、わたしはこれで」そう言い残しこの場をあとにしかけたが、引き止めたり、詳細をうかがいつつ別れの挨拶に寄りかかるのは、少しとはいえ時間を引き延そうとする行為にでしかなく、迷宮の意志に反してしまうので黙ってNさんの後ろ姿から眼をそむけた。思考する余裕があたえられていないわけじゃない、速やかに歩を進めるのを優先しただけであり、それはまったく脇目も振らせない空間の歪みに忠実だったからだと言える。瞬間移動したに違いないこの身には、林を抜け出た意識が脱落していた。空の色はこの丘でも同じにくすぶっていて、木々の合間に透ける寒色が思い出されそうになったが、過去を振り返るより眼のまえに広がる廃墟みたいな工場へと視線はのみ込まれていった。
丘陵地帯がそっくり要塞になったような土にまみれた工場は稼動していなかったけど、全体を被う油分のぬめりは生き生きとしており、風雨に耐えて来ただろう錆びた鉄筋造りの構えも今だ現役である重量感を失ってはいない。凹凸の激しい地面にへばりついて、あるいは埋め込まれている機械類は精緻でありながらどことなく温かみがあり、土気色で染まった単調さのなかにほんのりとした明るみを見つけ、それが無人の雰囲気を漂わせながらも廃墟に朽ちることがない証しだと悟る。
そこに無邪気な顔をした子供ら数人が現われ出たのは約束ごとであり、胸を熱くさせ、増々この風景に確信的な親しみを覚えさせた。まるで秘密基地の風貌をたたえた丘の頂に駆け上がるべく、土ぼこりの舞う石段を軽快に踏みしめる。
子供たちの表情には素朴な警戒心が張りついていたから、大げさな身振りと明快な声色が適切だと感じ、足を止め距離を保ったまま「今日は日曜だから工場は休みなんだろう、一緒に遊ぼうよ」そう投げかけると、一番眼をまるくしていた男の子が応じてくれた。
「おじちゃんも休みなの」
「そうさ、だから隠れてないで出ておいで」
「だめだよ、かくれんぼしているんだから」
「これはまいったな、もう遊びは始まってるってことだね」この問いに返答はなく、子供らはいっせいに飛び出したかと思うと、てんでに散らばり再び姿をどこかへ潜ませた。突風が吹いた。酩酊にも似た恍惚感に襲われ、辺りをゆっくり見舞わしてみれば、小高い丘に思われたこの場所が雲海と居並ぶほどの山頂であることに気づき、高らかな笑い声をあげるのだった。


[250] 題名:日影 名前:コレクター 投稿日:2011年12月19日 (月) 23時03分

季節は思い出せません。でも黴の匂いは今もしっかりと鼻に残っています。夏の盛り、押し入れに畳まれた布団のなかへもぐりこむのは快適な遊びでないはず、とすれば小雨に煙る春さきだったのか、湿気が立ち退いてゆくのをどこか心細がっていた秋の頃なのか、ひややかさを越え身に刺さるような感触をあたえてくれた冬場のことだったか、歳時記でもあるまいし、やはり記憶は曖昧です。
私の生家は今でも昔の面影をいくらか保っていますが、採光の加減はいつも一定ではなく、その日の天候に左右されています。玄関横に連なる窓のあかりは裏庭に面した小さな縁側と室内のあいだで交じりあっていたのでしょうが、日の陰りによって中部屋は障子が開けられているにもかかわらず、どんよりとした空気にひかりが澱んでおりました。
古びた箪笥は私の生まれたときから同じ位置に留まってましたし、とくに目立った調度品もなく、家のなかはいつも変わらぬ光景に張りついたままときを刻み続けていたのです。しかし何故あんなに部屋の気配は時折異なる様相を醸していたのでしょうか。見慣れた自分の家であってそうでないような感覚は、子供ながらも実にしんみりと漂ってくるのでした。まるで枯淡の境地を味わっているような落ち着きはどこから湧いてでたものか、わずか六畳の空間に魔法がかけられているとは思っていませんでしたけど、天井の木目や柱のくすみ、本来は床の間であったところに置かれたテレビと茶箪笥、すぐ脇の押し入れ、開閉の自由がどこかで阻まれているのだと念じてしまう襖、それに並んだ畳の縁、これらは退屈しのぎとも遊びともつかない寝転がりによってその在り方を変じていたのです。慣れているといえば、鼻をつく様々な匂いもまた日々強弱があったように思われ、外気が侵入していたのやら、台所の総菜の香りが家中に散らばっていたのやら、これといった印象にとらわれてはおらず、ただ悪臭に堕することなくわずかな刺激をあたえてくれたものです。
押し入れを開けて黴臭さの酸っぱい感じに包まれながら、そうです、すっぽりと頭から布団のあいだに身をはさみこんでゆき、器用な手つきでもって内側から襖を閉めてしまうと、そこは真昼の闇になります。どうしてそんな戯れをしていたのか定かではありませんが、布団の肌触りは夜のそれとは違い、ぬくもり以外の何物かに出会えるような気がして、家族の目を盗んではこっそり悦に耽っておりました。
その押し入れは祖母の布団と普段は使われないものが畳まれていて、上下二段に仕切られているのです。布団のほかは収納されてませんでしたから、最も適した隠れ家と思っていたのでしょう。母からも叱責しれた覚えがありますけど、押し入れを有した部屋は祖母が寝起きしていた一室ですので、口うるさいのは当然年寄りなのです。
押し入れに向かって左手は仏壇でした。私の些細な戯れはその配置によったかも知れません。何故なら、祖母からの小言は決まって、「そんなとこに潜りこんでばかりいると仏さんの罰があたって怖い目にあうぞ」でした。素直に従っていればよいものを反対にその薄ら寒い言い様に何ともいえない気分を覚えてしまい、圧迫されるふうにしてじっと布団の重みを感じていますと、言葉にならない背徳に包まれている妙なひりつきが胸を焦がしてゆくのです。仏罰みたいな霊気を吸い込んでいるひとときは逃げ去る時間でした。夏休みが遠く限りなく待望されるのと同様、まだまだ続くに違いない生命の延長を夢想する為に、いつかは大人へと成長する道理を実感する為に、奇妙な儀礼をひっそり行なっていたのです。
仏壇の下もちょっとした収納場所でした。すぐさまに思い起こされるのは富山の薬売りが置いていった引き出し型の箱です。どうしてこんなところにしまわれていたのかよく分かりませんが、その奥に束ねられた相当古い手紙の類いととも、さすがにいたずらを仕掛ける気持ちは毛頭なく、滑り込もうとすれば可能な体感を浮かべてみるだけに踏みとどまっていました。
激怒まではいきませんでしたが、ほとんど呆れ顔を全面に押し出した調子でこっぴどく叱られたのは押し入れだけではもの足りなくなったときのことです。
近所に商店を営んでいる同級生の家があり、普段からそこの弟ふたりとも遊んでいました。あの頃は日曜に友達の家へ遊びに行くのが暗黙の禁止だったと思います。平日には滅多に顔を見ることのないそれぞれの父親がゆったりとくつろいでいたからでしょう。つまり平穏な雰囲気には子供からしてみれば逆にピリピリする緊張を内包しているのを察知してしまうのでした。のどかな時間は喧噪を望んでいなかったのです。子供は所詮騒ぐのが取りえですから。
ところがそこの家は日曜が休業ということで却って両親が不在勝ちなのでした。商売がら普段家に縛られているので色々と用事やらあったそうです。外で遊んでいた同級生に誘われ、よそとは違う日曜の時間に触れたあの刹那を忘れることは出来ません。ガラス戸一面を被った分厚いカーテンをかき分け、薄暗くなった商店の奥へと招かれますと、裏の雨戸は閉められたままほとんど日差しを寄せつけない空間が保持されているではありませんか。しかも電器を灯すことも疎まれているのか、さながら映画館のごとくテレビの画面が煌煌と輝いている光景に動悸を覚えました。面白い遊びやもの珍しい玩具をまえにした高揚とは異質の、どちらかといえば夕暮れの小径を小走りしているような、風に吹かれて、家並みにのまれそうになる不思議な浮遊感に促され、胸の奥に照り返される自然な風物がゆっくりと、しかし小刻みに揺れる心地よさで瞬いているのです。映写機から放たれた光源が自在な色彩を当たりまえのように含んでいることと同じく。
午後をまわった天高い太陽はここでは劇場みたいに隠されていました。いつも知っているはずの部屋の様子は一変し、散らかった状態なのにとても新鮮な感じがして仕方ありません。
陶然とした面持ちの余韻として、早速自分の家で真似てみたのか、いくらか日にちが経ってから実行したのか覚束ないのですが、昼間とにかく家人が居ないのを見計らって家中の雨戸を引き始めたのでした。真昼の闇は仏壇より暗がりを招来させるのでしょうか。残念ながら途中で祖母に見つかってしまい、日曜映画館は頓挫しました。
漆黒にさまよう恐怖がまだ夢と溶け合っていた頃のお話です。


[249] 題名:ハンスの涙 名前:コレクター 投稿日:2011年12月13日 (火) 02時58分

「その時間なんだよ」
皆の注目を一身に浴びたハンスは得意気な顔を浮かべたようでしたが、雲間から覗いては消える太陽にほほ笑みかけてるとも思われました。一方飼い主のオステンは驚嘆する人たちに応える表情を最近くもらせ勝ちです。
算数の出来る馬として評判を呼んだハンスはすでに立派な見世物でした。しかしオステンは芸当をひけらかすつもりでこんな訓練を施したわけではなかったのです。愛馬と会話がしたかった、その為に数字や文字を根気よく教えこんだのがことの始まりでした。ハンスが示した反応に脈を感じたオステンの高鳴る鼓動は、地面を打ちつけている前脚の蹄と見事に重なっていました。
最初は簡単な足し算引き算でしたが、今では掛け算はおろか分数だって現在の時刻だっていとも簡単に答えてしまいます。
質問が出されハンスの蹄がコツコツ叩かれるたびに人々はどよめき、その長い大人しそうな顔はもちろん、健気に上下する前脚に対し和やかな喝采を送りました。利口なハンスは子供たちにとっては英雄であり、こころある大人たちから見れば敬虔なまなざしを投げかけるに値するものでした。それは奇跡と呼んでも差しつかえない素晴らしい動作だったのです。
噂を聞きつけた様々な分野の学者らが集結したのも当然でした。彼らは調査委員会を設置し科学的な立場からハンスを研究しました。何せオステン以外の者からの出題にもきちんと解答してしまうのですから、単に情愛に支えられた曲芸や、まして手品みたいなトリックがあるとの見解には到底おさまりそうにありませんでした。
そこで色々な実験が開始されたのですが、わずか数週間でハンスの知性は無惨にも否定されてしまったのです。説明はいたって簡単なものでした。馬のハンスは人語を聞き取って数式を解いたり、問題をいい当てていたのではなく、その健気な蹄を打ち鳴らすタイミングを心得ていただけなのです。いやいや、それだって大したものではないか、と温情をいただきたいところなのですけれど、質問者自身が答えを知らない場合、ハンスは一問たりとも正解を披露出来なかったのでした。それは敏感な観察力によって、つまり問題を投げかける人物の些細な動きや表情を、まさに嗅ぎ分けるようにして読み取り、前脚の動きを速やかに中止していたからで、答えが九としますと、八回叩いたところで次に来る解答に対する期待が発せられているのを見抜いていたのでした。
利口なハンスは自分を注視する相手をまるで鏡で照らすよう、じっと見据えていたのです。鋭い視線ではありません、反射する陽光がまばゆくとも決して苦々しく思わない心持ちと同じで、優しく目を細めながら人間たちの要望に応えていたのでした。
オステンが予てから正解するごと好物のニンジンを褒美としてあたえていたので、反射的に学習したに過ぎないなんて考えますと、科学は随分せまい了見しか持ちえません。
その後もハンスは身につけた算数を方々で披瀝しました。調査委員会の証明にもかかわらず人だかりからは惜しみない拍手が絶えることなく、目礼のように解答がなされるとき、ハンスの瞳はキラキラと朝露みたいに輝くのでした。


[248] 題名:午後3時 名前:コレクター 投稿日:2011年12月06日 (火) 08時54分

隣町まで遊びに行ったのはいいのだが、どうにも帰りの時間が気になって仕方ない。
たいして親しくもない連れは端正な顔立ちをしていて中折れ帽がよく似合っている。もうひとりも色違いを被っていて、ここのところ洒落っ気がない自分に舌打ちしつつも、やはり早く帰らなくてはとばかりあせっていた。
「おれらは夕飯を食ってくから」端正な連れが少しばかりは申し訳ないという声でそう言った。
「いいよ、歩いて行くから」ふてくされたわけじゃないが、自分でも幾分かは当てつけの口調に聞こえたので背中がむずむずした。彼らは車に乗り込んで「じゃあ」と、ひとことだけ残し走り去っていった。
とにかく国道に出るのが先決だろう、ずっとまえヒッチハイクした覚えがよぎったりし、足早にその方角に向かう。
相当大きなトンネルの入り口が見えてきて、吸い込まれるように歩いていった。どうやら工事中らしいのだか、今日は休業なのかまったく人気がない。それにしてもこの明るさはかなり自然で、トンネル内にのまれているとは思えなかった。
線路が伸びている。どこまで続くのか当惑を隠しきれないけれど、帰路を約束してくれていると冴えた銀色を放つレールに信頼をよせる。
大掛かりな足場や土木用の軽車両を横目にしながら進む途中、幻聴がやってきた。
列車の走行音。地形によって高くなったり低くなるあの反復音。鉄橋を渡るときのひんやりさせる異音がとても懐かしい。ガタンゴトンガタンゴトンガタンゴトンガタンゴトンガタンガタンガタンガタンガタン、、、、、、
工事中のトンネルとはいえ試し運転していたらどうしよう。それくらい耳鳴りは鮮明だった。が、視覚はもっとはっきりしている。急いた気も手伝っているのだろうが、ここはがらんどうだ。五感が鋭敏になっているのを知るのは心地よい。そう思った瞬間「国道に線路などあったのか」至極当然な自問を投げかけておいて、めまいに酔った。
酒の酔いとは違って早々に醒めてしまったのと、国道らしき交差点に出たのが同時だったので、今度は現実的な目線で標識を探した。左右の方角には見知らぬ地名を記した案内があって、あせりは本格的になってしまい、信号脇のたばこ屋に駆け寄り店先の老人に「ここはなんという町なんですか」と、臆面もなく尋ねれば「いやあ、なんというのか、このまえまではこれこれだったが、いまではなあ」虚脱と寒気をいとも真摯にあたえてくれる始末。ふと目にした地下へ降りる構えを持つこじんまりしたビルに引きつけられる。
再び陽の差さない場所を求めている気が階段に浸透していくようで、足取りは微妙だったけどそこから抜け道がたどれると姑息な選択にさほど惑いはない。外面通り地下は手狭だったが、右手に立ち食いそば屋ふうの店のガラス戸に出会い、少なくとも帰途の情報を得る確信に胸おどった。
こじんまりした店内にはふたりの先客がおり立ち食いといってもちゃんと椅子があって、カウンター越しから年かさの女性に声をかけられる。
「まあ、ゆっくりどうぞ」
「はあ、実はそうもしていれなくて。あのうここはひょっとしてM町ではないですか」
脇腹あたりがさも痛そうな表情で訊いてみた。
「あれま、あんたどこに行くんだか。ここはなあ、、、」店主らしき女性に答えを待つまでもなくこの辺りはT町だと判明してしまい、愕然と首をたれるしかなかった。
「それじゃあ間にあわない」かなり隣町から遠ざかってしまって、あのトンネルが以外と長かった事実に、列車の幻聴に、してやられたと悔やむしか術がなく、気だるくなった身振りで店を見まわし、そばを注文しようとすると「うちはかけそばしかないのですが。いいですか」そう言われれば仕方ない、それほど腹もすいてなかったからちょうどよかった。
さすが立ち食いふうだから、かけそばは手早く目のまえのカウンターに運ばれる。割り箸を持って汁をすすりかけたとき、腕時計が手首からことさら顔をのぞかせた。
横にいた若い女性が不思議そうな目で「えらく古い時計ですね」と、薄笑いを浮かべながら言った。
「ええ、じいさんの形見なんです」どうしてこんなでたらめを喋るのか自分でも理解できないまま、時刻を凝視する。3時20分。
「おかあさん、もうこんな時間ね」なんだここの娘なのか、驚きにも至らない淡い思いが失意を補っていた。


[247] 題名:初恋 名前:コレクター 投稿日:2011年12月06日 (火) 05時08分

冬の空をよそよそしく感じていたのは、日の光とそぐわない冷たい北風のせいだったようです。情熱的な蒼穹に躍らされた夏の日々から随分へだてられた気がするのも、やはり肌寒さが身にしみてしまい、折角の晴天はどこか取り澄ました高さで見おろしていると覚えたからでしょう。とは言え、師走の意味合いなど分からないままに何となく一日一日が軽微なあわただしさで過ぎてゆくのを、不快には思っていませんでした。むしろ汗ばむのを忘れた妙な平常心が留まって、寒風にさらされている午後を澄んだ気持ちで送ることが出来たのです。
冷淡な想念は僕自身の望むところだった、、、現在から振り返ってみましても、その小粒な虚ろを嫌悪するどころか名状しがたい幸福感がじんわりよみがえって来ます。冬へ向かう時間は勢い、正月という節目に柔らかな棘を突きつけていたのです。未来はきっと童心と戯れていたかったのでしょう。落ち葉さえ香っていた年の瀬の想い出です。

先頃このクラスに転校してきた女の子がいました。横顔に火傷の大きなあとが残っている為か、無言のうちに周囲との距離を生み出してしまい、新たな同級生になじめない様子が僕にもよく分かるのでした。子供の領分はときに冷徹なまなざしを要求させます。男子からの挨拶はさておき、女の子同士に交じっても決してうちとけた笑顔が教室内にひろがることはなく、それとなく耳に入ってきた転校の事情、親戚筋にあたる家に預けられているという風聞も、その子の面に沈痛なしるしを刻んでいるようで、増々腫れものに触れるのを避けてしまう雰囲気に閉ざされているのでした。
ついつい児童特有の一過性にまかせ、華奢なつくりの面立ちに深い陰りを見定めてしまうところでしたが、変化に乏しい表情は案外悲愴な空気をまとわりつかせておらず、それは僕が尚更に興味を抱いていた証しなのですけれど、ひっそり花咲く色づきにたおやかな姿勢さえ垣間見えて来るのでした。
透き通った肌を汚している火傷がどういう効果を醸しているのか当時は見当もつきませんでしたが、転校生であり、しかも人とは違う風貌の持ち主に対し、自分でも捕えようのない感情が小雨みたいに降りはじめると、逃げ場を失ったまごつきによって、さながら軒下を借りうける按配で容認していたのです。細やかなこころの動きは大人になった今だからこそなぞれますが、幼心に理性が完備されているわけなどなく、ただそれぞれのしつけに盲目的に従っていただけで、しかも罪の意識がほとんど人まかせだったことを鑑みれば、絹子という未知の存在はちょうど小高い丘に据えられた石像と化して、風雨に応える寡黙な視線を讃えていました。本降りになった頃すでに濡れねずみの身を楽しむ加減とどう折り合いをつけたのか、子供の領分のほうがある種勝っているとしたらその先は明快でしょう。
師走という言葉を聞きかじった記憶がこうして巡ってくるのも、おそらく僕の胸中に奮い立った要因の名残りがあるからです。前もって言っておきますけど、井坂絹子の顔かたちをはっきり想い浮かべることは残念ながら出来ません。先日あの時分のアルバムをめくってみましたが、やはり心模様のほうが正しいみたいで、もう火傷も完治したのだろうかとため息まじりに、大切な見目を消してしまった使命に絡み合うつぶやきがぽつねんとこぼれるのでした。そんな面差しと引きかえに少々気恥ずかしいのですが、はじめてのときめきをお話しします。
僕の住まいは絹子と同じ方角でしたので登校時によく見かけました。いつも前になって歩いていた上級生が、あの子の親戚にあたる暮田静夫くんだったと思います。そうです、いつしか僕は絹子の家を知り、玄関の表札と郵便受けに書かれた名前をのぞきこんでいたのでした。
通学路を同じにするのは児童にとって傍目からうかがえるほど単純な心持ちではありません。それは僕のひとり相撲だと言われるかも知れませんが、特に意識しない同級生でも、反対に普段から口をきく機会のない子のほうが些細ですけど困惑してしまったりするのです。まして興味とも好感とも憧憬ともつかない、しかし胸の奥に薄荷を塗られたような爽快だけれど吹っ切れない気分は、冷ややかに自分の位置を確かめたりし、落ち着きをなおさら悪くしてしまいます。それで早足で絹子らを抜いたり、わざと路地に入りこんで視界から逃れたりしました。教室では転校以来いくらかは女子の間で喋ったりするのを見ていましたが、僕はただの一度も声をかけた試しがありません。席も離れていることもあり、一緒の空気を吸いながら吐く息が異なっているような錯覚におちいったときには、いよいよ「どうしてかわからない、気になってしょうがない」と、不本意な確信に身震いしてみせ、なるだけ学校内では平静を装いながらも、こころの片隅では下校時にはいつか話しかけてみようとか、暮田くんらが広場で野球をしているのを見物する振りしながら近づいてみることも考えたりしていたのです。
そして寝床に入れば妄想の翼は大きく羽ばたいて、すでに暮田くんとは親しくなっており、必然的に絹子とも和やかに話しをしている場面へ至当に着地し、更には寝返りのひとつふたつもうつ間に想像の極点へと転がりこんでいくのでした。
「おまえはさ、大人になったら絹子と結婚したらいいさ、それがいい」
暮田くんの目からは信頼のひかりが放たれ、隣には一層かがやく目をした絹子の微笑みが不変の空間を作りだしているのです。歯ぎしりをともなった一念が夜に溶けだしていくのは陶酔をもたらしましたが、しっかり目は冴えています。決して調子のよい夢のなかに隔離されているのでありません。ですから、まだ自慰を覚えていなかった僕はさながら**とともに果てるよう、絹子の笑みに吸い込まれていく寸前で我に返ってしまうのでした。あとは余韻にひたり羽ばたきを終え、くちばしで夢の殻をついばみながら眠りつきます。
そんな昼夜に僕は恋をしていたのだと最近もっぱら思えて仕方ないのです。年が明けしばらくして絹子はいなくなりました。あまりに急だったので表だって波立つことはなく、悲しくも辛くもありませんでした。ところが童心とはいえあの際に働いた水面下の起伏には感心しています。ある晴れた日、木枯らしに舞う落ち葉を追っている目をもうひとりの自分が眺めているのです。大方テレビドラマの場面なぞを被せてみただけに過ぎないのでしょうが。
僕はあのときの冷えていた冬空が好きです。大人になってみると囚われるだけで、一向に埒があきませんから。


[246] 題名:人力列車 名前:コレクター 投稿日:2011年11月29日 (火) 06時25分

海を見下ろす斜面には鬱蒼とした茂みがあり、山間からしばらく隔てたにもかかわらず木立の影は、視界を暗鬱な一日へ手招いていた。絡まりあった梢から覗ける逆光に照らされた緑は遠く、眼下の海面にきらめく星々に支配されているのかと感じてしまう。うっすらまぶたを閉じ、口もとをすぼめてみる。夏の日はすでに冬支度へ急いでいるのだろうか、鼻孔に通じた空気は吐息となり、やがてかすれた音をたてた。
太陽を直視する。散った彼岸花が想起され幻惑のなか列車に乗り込んだ。沿線に朱が群生するのはきっと旅を求めているからに違いない。懐疑する必要はなかった。燦々とした光線を受けながら列車は海の上を走ってゆく。車両の数が知れないように乗り合った人々の顔も同じで、誰もが無言に車窓に寄りかかっている。離れ小島がこちらに近づいてくる錯覚におちいったとき、「これは船ではないのか」そう訝ってみると、急に足もとに神経がいってしまった。座席の下は歩幅ほど底抜けしていて、いや切り取られているみたいで、しかも自転車のペダルが据えつけてあり、ほとんど無意識のうちにそれを漕いでいた。隣の客席をうかがえば殊更に気をせいている様子もなく、ガラス越しの海原に想いを沈ませている面持ちで、膝を上下させている。
針の穴に糸を通す慎重さはそこにはない。ただ何となく縫い物がしたくなった、気まぐれに等しい気分で旅情を育んでいるだけ、そう映った。
まばゆい光が目を射る瞬間瞬間に少しは眉間にしわを刻んだりするのだが、透明な鏡のまえでは当たりまえのように、ペダル漕ぎの労苦は微塵もあらわになることなく、瞳からあふれだす輝きは無償の時間へと流れ去っていた。「すべて海の底に沈んでしまうから」そういう屁理屈でさえ神話に匹敵している気がして、今度は空高く上昇していく予感を抱いたのだったが、蒼海はどこまでも限りなく続いている。
どれくらい潮のしぶきを浴びたのだろう、鬱屈した光景からいきなり水平線まで運ばれてゆく大胆な跳躍に限界を感じてきた。緑が遠くに見えたのと一緒で、海底もとても深く思えだし、陽光の気高さにひれふしたかった。だが、光線はそれほど深海に関与しない。四方へひろがる大洋に倦怠が芽生え始めた気まずさを糊塗する為、願いはより厳粛な包装で沈みこんでいく。陽の及ばないところまで、音は閉ざされ静謐が奏でられるところまで、空き缶に芸術の神が宿り、聖なる水棲動物が白夜を恋慕うところまで。

車掌らしき声が車内に伝わった。
「これより上陸いたします。ペダルの負荷には変化はございませんが、石ころなど跳ねることもありますのでご注意ください」
以心伝心とはこの情況を指し示しているのか、それとも旅先案内人としての務めをまっとうしているに過ぎないのか、ともあれ小島に見入る思惑が段々その様相を変化させるよう、列車の運行は窓の向こうに新たな景色をなびき、乗客の意識に颯爽とした風を送りこんだ。
潮の浮力と地面の反撥はひとつの次元に思えるほど、水地の切り替わりに違和感は生じない。足先にかかる重みも確かになく、ペダルは機嫌をそこねることないまま、波しぶきの季節を過ぎやり、人気のある密度を実感しに舞い戻ってきた。見知らぬ町、見知らぬ顔が待ち受けているのをいたわりのこころと交差させたく願い。
思わず両足に力が入る。それにしても海と陸では匂いが異なるはずなのに、一向に下方から香ってくる気配はなくて、おそらくペダル漕ぎに掛かる体力を緩和させるのに他の感覚を遮蔽しているなど、適当な了解をしていまい、なるほど嗅覚どころか耳にするものもなく、旅につきものである行楽弁当も用意されておらず、味覚までもが等閑にふされている現状を不思議がることもなかった。こうまでして人力で稼動せざるを得ない理由も皆目わからないから、地に足がついてない不如意を遠まわしに告げられているようでどことなく煙たかったけど、伏し目勝ちな目は朦朧とした意識を保ち続けている。
ようやく目が醒めたのは窓の外に見慣れた道筋が認められたからだった。それは近所の町並みであり、生家へとたどる一方通行の路で、交通規則に従っているのだが、果たして列車がこんな狭い道路を走り抜けていいものやら安穏な気分でいられなくなったせいで一気に身がこわばってしまった。そして、脈絡など通じさせなくてもかまわないのに何故か「出るぞ、出るぞ、たぶん出るぞ」と、呪文のごとく肝だめしみたいな浮ついたおののきを準備していたら、案の定その姿がありありと網膜に飛びこんで来た。
生まれてこのかた、どんなホラー映画よりも最強の悪夢がその白昼のひとこまだった。銭湯から出てきたと思われる上半身のない相撲取りがゆっくりと反対方向から歩いて来る。黒いまわしは汗をかいたのか濡れており、へその下を残した臀部と両脚だけが影を残すことも忘れたように無言の圧力をかけている。まわしの上の切断面は決して現実的な崩れ具合を誇示していなかったが、丸太でも切ったあとに肉汁が湧いて出て、内臓が一部とめ置かれたふうな赤々とした異形には、吐き気を通り越し瞬時にして凍結作用に転じてしまう戦慄が備わっていた。
相撲取りと絶対に目を合わせてはいけないという、心理が直撃される矛盾も巻きこみ、臓物と血糊が抑えられた肉塊の存在は白日のもと完全なる金縛りをさずけていった。
「どうして列車から降りるんだ、、、」
叫んだときは遅かった。強烈な悪夢を甦らせるだけでは足らず、再びその場に佇もうとしている。その目に、その緊縛の身に帰ろうとしている。
海を見下ろす要領で意識が分割してくれれば救いようのあるものを。列車に乗るには早かった。


[245] 題名:にゅうめん 名前:コレクター 投稿日:2011年11月22日 (火) 04時05分

静夫が十歳になったばかりの秋でした。「明日から親戚の子をしばらく家であずかることになったから」と、いつもとは違った目つきで母親から聞かされたとき、みぞおちが急に熱くなってしまい、しかし学校でよく起こす苦痛はともなっていなかったので、胸もとをさかのぼりのどを抜け、あたまのなかにまで侵入してくる熱風に浮かされているしかありませんでした。
突然のしらせは秋風にはなりませんが、涼風が運んでくれる乾いた感触をどこか忘れなかったようで、当日になってみると胸の鼓動は早まり、まるで運動会の喧噪と緊張に似た場面に立たされていました。静夫はひとりっ子でしたから、以前より兄弟姉妹へ対するあこがれは季節の移り変わりに等しく、細やかに、あるときは大らかに波うっていたのです。手放しの期待に転んでしまったとは思えなかったのは、よく見通せない路地を勢いよくかける童心がそれほど無邪気でなく、つまずく先にうずまく影の気配をそれとなく心得ていたせいでしょう。
その子の名は絹子といいました。歳は静夫よりひとつ下です。向かって右の頬に、正確にはこめかみからあごの手前にかけて火傷のあとかと思われるかなり目立った染みがありました。おそらくその黄ばんだ色合いからしてかなりおさない頃に受けたものだと、静夫は見つめるている目の奥に不穏なかたまりが出来てくるのを知りながら、気持ちのなかでは泥まみれになった捨て猫でもいたわるような感傷を同居させていたのです。ちょうどバナナの曲線がところどころ途切れ、まだらとなった文様はほんらい色白の少女にどれだけ深い哀しみをあたえていることでしょう。静夫に理解された最初の印象はごくありがちなそんなまなざしでした。
両親と祖母の暮らしのなかにあたらな家族が生まれました。静夫の胸中はおもちゃ箱をひっくり返したより、いたずらでたんすの中身をかきまわしてしまったより、もっと小面倒な事態をむかえ、どういうふうに絹子に接したらいいのか悩みました。もっとも、鬼ごっこで鬼になったときの心持ちを引きのばした程度の悩みでしたが。絹子の出自に関する話題はいっさい静夫の耳に入ることはありません。そして静夫自身も少女の過去を問う衝動を思ったより軽やかにかわしてしたのです。
学校にはふたりそろって家を出ましたが、近所の同級生も一緒だったことから、暗黙の了解により絹子は人見知りをするよその子らしさと、無闇にうちとけない少女のさがをうまく演じ、いつも静夫たちより一歩も二歩もうしろに下がり、ほとんど口をきくこともありませんでした。普段からやんちゃな同級生のひとりも絹子の横顔に備わっている染みを見ぬふりするよう、余計な口だしをひかえていました。
学年が違うとあんがい校内で顔を合わせる機会も少なく、ときおり朝礼や運動場で見かけるくらいです。また帰りも一緒になることはほとんどありません。特に待ち合わせているわけでないので当たりまえなのですが、ある日、静夫はひとり帰宅していて背後から自分の名を呼ぶ声を聞き、振り返ると今は同じクラスでないけれど、幼稚園のころいつも並んで同じ路を歩いていた多津子だと知り、急に気恥ずかしくなってしまいました。
「静夫くんとこにいる女の子ってどこから来たの」多津子は明日の宿題でも尋ねる口ぶりでそう話しかけてきました。開口一番この調子ですから、どうしてそれを知っているのか聞きただす間もなく、なおさら恥ずかしさはわけもわからず深まってしまい、けれど小学生になってから多津子に疎遠だったという思いが、さながら罰の悪さを盾にしながら懸命になにかをとりつくろっているような気がして、ぶしつけな質問さえ木漏れ日をひさしぶりに受けたようなさわやかさに変わってゆくのでした。それは多津子の無頓着な表情には現われていない、ほのかな親しみを感じとってしまったからなのです。静夫にしてみれば興味本位であれ、絹子の素性や火傷の事情などに関心がないはずはありません。同じ屋根の下で生活するもの同士、ましてや不意な家族に寄せる気持ちは込み入っており、精一杯の背伸びをさせているのでした。
多津子の問いかけは、静夫を代弁してくれているようであり、そして絹子に対する奇妙な未知数を共有してくれ、身の軽さを不透明な重みのうちに投げだしている曖昧さが許されたのだと思えて、自分の態度を素直に認められたのでした。うれしさはときに相手にも差し出されます。親和が訪れたのは多津子との距離がほどよかったのでしょう。
質問にはもちろん応えようがありません。まったく絹子を関知してないのですから。静夫はできるだけ丁寧にそのあたりを多津子に伝えました。しかし想像を交えるのは罪である気がし、自分が抱いている疑問だけを逆に多津子へ投げかけるふうなもの言いで話しました。不遇な絹子に向けられた同情や憐れみはすでに刺激をもたらすほど日々に追随していなかったのです。静夫が怖れたのは軽やかな感情とは決してつり合いがとれないだろう、眠れる幽鬼なのでした。
木漏れ日は多津子の白い歯並びに映え、きらきらとしたその残像はまだ観たことない映画のはずなのに、すでに覚えがありそうなゆがんだ想念を育んだのでした。

寝室といっても二階の八畳間に布団が敷かれるだけでしたから、それまで、父、母、静夫と川の字になって寝ていたのが、静夫、父、母、絹子と並びがあらたまり、窓際に位置したせいか、静夫は風の強い夜など何度も目をあけてしまいました。多津子に話しかけられた晩、昼間の延長にたなびく加減で夢はあたまのなかへ忍びこんできました。
富山のくすり売りは年に一二回忘れたときにやって来ます。実際つい先日もそのすがたを目にし、あの旅人でもあり行商でもある普段あまり見かけない慇懃で、どこかしら凄みのある物腰とともに配られる景品の風船を絹子に全部あげたのでした。色とりどりでけっこう数もあったので絹子は喜びました。そのあと静夫は別に脅すつもりはなかったけど、見るからに毒々しく痛々しい袋の絵柄を、特に内臓が大雑把に書かれた解剖図の胃腸薬をひょいと絹子のまえに出すと、今にも泣き出しそうな顔でにらまれてしまったのです。
夢のなかで絹子は風船を飛ばしていました。静夫にはガスも入ってないのにふんわり宙に漂っているのが不思議でなりません。下の部屋から今にも二階まで上がって来そうです。呆然としていると絹子は手にした風船のさきになにやら仕掛けをし、小さな炎を灯らせたそれを他に浮かんだものへと送り出しました。静夫は「危ない、火事になるじゃないか」そう、思わず声を荒げましたが、いっこうに止める素振りはありません。かといって絹子を取り押さえる勇気もわいてこないのです。そこで思いついたのは父親のカメラで現場写真を写し撮ることでした。ひとことふたこと、喚起してから絹子の狂態を撮影し、それでも火をつけてまわるのでついに憤慨して、「これを見てみろ」とカメラを両手に掲げたのでした。
すると絹子はいかにも余裕たっぷりの顔つきでこう言いました。
「レンズをのぞいてみれば」
静夫は条件反射的に言われた通りに目を凝らしてのぞきこんだのです。そこには絹子ではない、もっと年上の多津子よりももっと妙齢の、例えばテレビドラマに出て来る娘役くらいの女性のはだかが映っていました。慚愧にたえかねている静夫を尻目に、絹子は思いきり首をねじり高笑いしていました。
夢はそこで終わりです。激しい寝汗が肌寒さと拮抗しているのを自覚しながら、静夫は半身もたげ夜目にもそれとわかる無心の寝顔に冷たい視線を放ちました。ちょうど夢のなかの火事を消したい意識もあったでしょう。しかし静夫のこころは異なる思惑に揺さぶられていたのです。額からおちた汗が涙になってまぶたの上から流れていきました。それから「起きているんじゃないの」静夫は絹子にそうささやいてしまったのです。

あくる日、静夫は全身悪寒を覚えたあと高熱を出しました。流行り風邪みたいでした。絹子もその翌日に同じ症状で寝こんでしまったからです。発熱もピークを越えると元気を取り戻したような体感で、すっかり日常に帰った気分になります。恒例により静夫は母へ昼飯の注文をしました。風邪をひいたときには、どうした按配かご褒美ともつかないけど出前のうどんを食べさせてもらえるのです。すでに割り箸子にもかつお節の風味が移っているようなかやくうどんは大好物でした。子供にだって出汁のきき具合はわかります。それと小さな袋の一味唐辛子、普段は食べつけないのでその辛さは舌に不快寸前のきわめて良質の刺激をあたえてくれます。ここ最近は袋の中身を残さずうどんにかけれるようになりました。
ところがその日は祝日で近所のうどん屋は休業だったのです。そこで母の発案は夏の残りのそうめんがあるから、にゅうめんを作ってくれるという、それはそれなりに心弾みました。なかなかに口にしない意味では夏の置き忘れも新鮮なのでした。めぐる季節がまだまだ輝いていたからです。
絹子も静夫も熱が引いていたので、布団の上ではこぼすからといつもの食卓で家族そろってにゅうめんを食べました。
めんが細いぶん、からむ食感はかつお出汁の香りでみたされ、のどごしも滑らかなのですぐにからだが温まります。祖母のめがねが湯気でくもる様子を父がからかい、母も機嫌がよさそうでした。絹子もずずっと勢いのよい音を立てながらおいしそうに食べていて、静夫の気持ちはとても晴れやかでした。悪寒や頭痛はいやだったけど、病気特有のしんみりした健気な心持ちをそれなりにかみしめていました。これも情緒なのでしょうか。
出汁をしみじみ味わいながらほぼ飲み干してしまった父がこんなことを話しだしました。
「こないだ、接待で料理屋に行ってな、しめにお茶漬けが出てきたんだが、あれはお茶じゃない、出汁に抹茶を少し加えてるんだ」
静夫にはうどんの代わりにごはんに出汁がかけられている気がして感心しませんでした。
「ほんとう、ぼくは浜乙女のほうがおいしいと思うなあ」と、出汁の茶漬けを食べたことがないのに意気込んでしまいました。そのときです、それまで食事中ほとんど喋った試しのない絹子が、「あたし、それ食べたことある。おいしかったよ」と、真剣なのか楽しいのか、見分けのつかない目で、ぽつり言ったのです。
静夫が驚いた顔をしたせいでしょうか。絹子はすぐにこうつけ加えました。
「でも浜乙女も好きよ。あられがのってるの楽しい」
そう言ったあとの目は静夫にもちゃんと理解できました。火傷のあとなんか必ず消えてしまう、だってもうそんなに薄くなっているじゃないか。絹子の笑みをしっかり受け止めたようです。


[244] 題名:伴走 名前:コレクター 投稿日:2011年11月14日 (月) 03時02分

その話しならこの頃そういう気分じゃないから今度ゆっくりね、それはそうと、あんたこのまえ訊いてたでしょ、ものごころのうちではけっこう鮮明な方だと思うんだけど、犬の名前はたしかペロだったわ。あたし保育園にも行ってない時分だから、あんたはまだヨチヨチ歩きで覚えてないのは当然かも、籘のかごに丸まっていたの、ほんと生まれたてって感じがした、お父さんもお母さんもすごく若くて、ずっとそうよ、いつ思い返しても写真に収まっているみたいにその姿は変わらない。あたしら姉妹はあのときの両親より歳をとったっていうのに。
台所の土間だったのも記憶している、でも部屋の隅がなんかぼやけていて、子犬を中心にして魚眼レンズっていうの、あんなふうにまわりが歪んでしかも妙に明るくてはっきりしないのよ。あとから知ったけどあの時代はスピッツが流行ったらしいの、どこかでもらってきてさ、結局あたしが可愛がるどころか邪険にしてしまってもとの飼い主のところに戻ったんだけど、そのへん都合いいわね自分ではあまり思い出せないもん、犬が勝手に吠えたのか、叱りつけたから吠えていたのか、とにかく折り合いが悪いっていうか、あんまりうるさいから近所にも迷惑ってことで成犬になって間もなく家からいなくなった。えっ、あんたの反応、ごめんさっぱり覚えてないわ。こないだお母さんにも尋ねてみたらやっぱり全然で、犬を飼ってたこともあやふやだった。あたしのほうがいざペロにいなくなられてみると、そうあの日の心苦しさは忘れてない、お父さんから、「夕方ペロを取りにくる」って淡々とした声で言われたとき、どうしよう、今さら遅いけどそんなの嫌で、かなり悲しくなってしまい出来るなら連れてかないで欲しいなんて念じたのよ。身勝手ね、それからしばらくはペロが繋がれていた場所を見れなかったけど、妙なもので気がつくとそこをぼんやりと眺めていたわ。罪悪感に苛まれるほど痛切じゃなかった、ただ喉から胸にかけて息苦しいような、なにかが詰まっている感じがして、あそこの土間には扉がなかったでしょ、だから外の青空が澄んでいるのが逆にくすんでしまって、しっくりこなかった。
知らないわよね、あんたにはうろ覚えでしかないから。なに、違うの犬のことじゃないって、早とちりじゃないわよ、昔飼ってた動物なんていうからあたしはてっきりペロだと思うじゃない。もしもしちゃんと聞いてる、聞いてたんだったら早く訂正してよ、姉さん違うって、汚点になったあの気持ちは忘れた頃ふっとよぎったりしてたけど、こうして語るのってはじめてだったかも、悲しくなっちゃうじゃない。ひとが悪いわねまったく、途中で気づいてたんでしょう、で、犬じゃなればなんなの。はあっ、ひよこ、それならあんたも一緒に遊んでいたから忘れてないはずよ。うん、そうねえ、何回も飼ったわね。大概は縁日で売られていたのを可愛さのままあとさき考えずにって調子だった、カラーひよこなんてのもいて、赤や緑のスプレーで吹きつけられていたの。そんなのも買ってきてはすぐに死なしてしまうのをくり返した。懲りないっていうか、ほとんど玩具との区別がなかったのよ、きっと。寒さに弱かった、段ボールに綿とか敷いて一応温かくしたつもりだったけど、次の日には生きてなかったもんね。だから春先からじゃないと飼えないって、おばあちゃんにも教えられたんだった。
いたいた、長生きのひよこ、あんたも覚えてる、あたしもよく覚えているわ。いや、一羽じゃなくて二羽だったよ、そのことなの、それで名前を思い出せないって、えっ違うの、ちゃんとにわとりに成長して一年以上は生きてたわ、だってお父さんに頼んで鳥小屋作ってもらったじゃない、ふんの始末は毎日自分らでするって条件つきで。名前でなければなにを訊きたいの、あたしは小さいほうを子、大きいほうを親って名づけてた、別に親子でなくて飼う時期がずれてただけで、あんたもそう呼んでなかったっけ。じれったいわね、あの二羽がどうしたっていうのよ、あっ、そうなの、あのことか、そうねえ目をつむると浮かんできそう、あれは真夜中だった。時々おばあちゃん取り憑かれたふうに夢みてうなされてた、あたしら二階の部屋で寝てたけど、下から聞こえてくるうなり声って怖かったわね、ほらおばあちゃん仏壇の横に布団敷いていたじゃない、昼間でも薄暗い奥の間なのに夜更けなんか耳にしたらほんといくら生きてるひとの呼吸だとわかっていても、どこか別のところから地鳴りみたいに響いてくるようで、お母さんに「うなされてるから起こしてあげなさい」なんて言われても気味が悪く階段降りながら近づいて行くのも勇気いったし、急に甲高く引きつったりするから増々怖じ気づいてしまって、肩をゆすって目を覚ますまで全身寒気がしたもの。
でもあの夜は違った。微かに伝わってくるのはひよこの鳴き声だったのよ。隣の部屋に二羽を入れた段ボール置いてあったじゃない、障子越しによく分かったのだと思うわ、おばあちゃんは多少寝ぼけていただろうけど異変を報せてくれた。あたしびっくりした、親のほうが横ばいになって苦しそうに足をばたつかせていて、子が一生懸命それを教えているの。がむしゃらに泣き叫んでてこれは家のものに訴えているんだなってすぐに情況がのみこめた、あのときがおそらくはじめてよ、自分が消えてしまい目のまえだけに感情がわきたっているって感じたのは。あたしが動揺しているんじゃない、この二羽のひよこらが感情を発していて自分の気なんかそこになかった。もうじきに夏を迎える季節だったし、これまでみたいにすぐに凍死してしまわずすくすく育っていて親はもうとさかも目立ってきて毛も白かった。これから普通に成長するんだなって漠然と考えてただけだから、自然に逆らっているわけでもなかったろうがこんなの理不尽だ、当時はそんな言葉知らなかったけど、そんな意識が伴走のようについてきてようやくあわてたのよ。
お父さんにも起きてきて見てもらったじゃない、あんたも二階の手すりから目をこすりながら様子をうかがってたわ、なるほど、あの光景なの、ひよこのこと次の日に心配そうな顔して「どうなったの、もう鳴かないの」って言ってたもんね。説明しても症状とかわたしも分からないし、なんて答えたのか記憶にないけど、親はくちばしがねばついてなんか透明なゼリーでも食べたあとみたいだった。にわとりに詳しいっていうか素早く対処方法を伝授してくれたおじさんが近所にいてね、あたしよく覚えてる、「これはよくある病気でニンニクの粉を水で溶いて飲ませてやればいい」って話していたのよ。特に感心しなかったけど、それで治ってくれるならいいって祈ってた。だってあの時分はあたしらも胃腸の具合がよくないとアロエの葉を噛まされたり、火傷したらユキノシタの葉を裏庭の湿ったとこからちぎってきて貼られていたじゃない、それでニンニクかって。でもうちの料理では使ってなかった思うの、食べたこともないし実物を見たのは随分大きくなってからよ、なのに不思議と名前があがっただけで納得というか、わかったような気がしたんだから面白いものだわ。そうなのよ、あんたもとても喜んでた、そのニンニクの粉が効果てきめんで一日か二日でよくなったからすごい、あの感動はいまでも生き生きとよみがえってくる。あんたが確認したかったのどうしてだか知らないけど、元気になったのはよかったがそれ以来成長が逆転してしまって、ううん、結局病気は病気だったんで仕方ない、子のほうが早くにわとりになっちゃったのよね。あ、そう、それはちゃんと覚えてるって。
たぶんお父さんも健気なひよこにほだされて鳥小屋まで作ってくれたんだろう。そうよ、二羽はとてもなかよしだった。学校から帰ってくると小屋から出してあげて裏庭に放してやるのが日課だったわ、でもいつまで続いたのかなあ、にわとりの寿命は案外短かったと思う。雄だし卵も生まなかったしね。気がつけば小屋だけが残されていて、もうひよこを飼うことはなかった。あたしはよその家の猫とか犬がいいなあって内心思ってたんだけど、ペロの件があるから複雑な気持ちだったわ。そう、あんたも思い出した、おばあちゃんが生き物に一番うるさかったわね、いつかの金魚のときも、でもおばあちゃんだって秋になると決まって鈴虫飼ってたじゃない、あたし、それでこっそりミドリガメ一匹だけもらってきたんだ。あたしが進学でこのまちを離れてからも何年もうちにいたんだよ、そのあとはあんたのほうが詳しいはず、その通り、水槽から何回も脱走するもんだから、ついに池のある家に放してきたんだわね。今でも元気かしら、カメは万年っていうじゃない。もしもし、えっ、それでわかったって、なによ、あんたしんみりした声で、はいはい、わかってるわ、また電話して。お正月には帰ってくるの、うん、じゃそのときにでも積もる話をしてちょうだい。あっ、反対か、あたしのことね、いいのよ、あまり気にしないで。


[243] 題名:霧の吸血鬼 名前:コレクター 投稿日:2011年11月08日 (火) 03時23分

陰にこもった雨が降り続けているとか、午後の日差しが際立って秋めいているせいだとか、夕闇がせまってくるのをまるで深い洞窟へと踏み込んでいるように錯覚してしまうとか、虫の音がか細くて仕方なく感じてしまうとか、別にこの季節がはぐくむ時間のうつろいによって想い出が浮遊するわけでなかった。
情感に即す日々の美しい仕掛けは、如何にもまぼろしを称えているかにみえるが、あべこべに決まりきった裁断から繕われる記憶の文様にすぎなく、色彩ひとつひとつ美にとらわれ、ちょうど様々な色の積み木を組み立てている幼稚な手つきとも言えるから、大切なのは崩れた積み木のほうだと思うのだけども、どうだろう多津子さん。あなたはとうの昔に忘れてしまっているかも知れないが、あの幼稚園からの帰り路、何度も、「ここだよ、ここでぼくは見てしまった」と子供なりに必死に訴えていたことがあったはずだ。あの日に限って多津子さんはいなかった。もちろん家族にも話したし、他の園児や近所の子らにも見たままの光景を繰り返し口にした。だが誰も信じてはくれなかったので、落胆とは異なったかたちでぼくの胸に空洞を生み出して、後々まで薄ら寒い風を舞わせている。
幼年時の幻想の産物として風化してゆくことに異議はない。深夜の窓の向こうと夢魔に然して違いが分かるまでもなかったから。ただ、この歳になっても今だ濃い霧に包まれた中央公園の入り口で目撃してしまった、あの死人ふたりの悽愴な顔が目に焼きついて離れない。たとえ夜の気配に怯える幼心を試されていたとしても。ぼくは昼下がりの霧をかき分けている。
現在では園児だけで帰宅する慣習はなくなったが、ぼくと多津子さんは帰途が同じということで、毎日のように揃いの黄色い園帽子を被り一緒に歩いた。少ししてから知ったけど、幼稚園からあなたの家まではぼくの所から倍はある距離だったんだね。道のりは途中で陸橋を渡り右に折れるだけで、あとは真っすぐな家路をたどればよかった、と云ってもいつも気丈な面持ちでいる多津子さんに対し、決して平淡にサヨナラを言っていたのではなかった。心細さなんて言葉の意味を持ち合わせていないぼくでも、何故かしらどこか落ち着きが悪く、雨の日など水たまりに小石を蹴飛ばしりしながら、あの頃よく見かけたアメンボがあわてている様子を、くすぐったい気持ちで保留していた。
実は当時あなたと何を喋りながら歩いていたのか、まったく憶えていなくて、さっきも言ったけど濃霧のなかに忽然と現われた死人に関する衝撃だけが、脳内にこだまするよう多津子さんへと拡散してゆく。
間違いなく初めて異性を意識したのはあなただったろう。しかし小さな胸に刺さったものの正体を理解するのは不可能で、又いばらの棘は痛覚をあたえなかったから、のっぺらとした時間だけが異性である多津子さんを模造の花びらに変えてしまうことが出来た。お遊びのとき、色紙で花を折ってみる無邪気さには、ある種技巧めいたものが潜んでいてその手が硬直してしまうように、意識は揺籃から躍りだしはしなかった。震える声はまだ何もなさない野の下で、羽ばたき始める蝶と出会う。
勝手な文面で失礼なのは承知だけれど、その後この狭いまちで小中高と学校を上がるにしたがい、何度か顔を合わせる機会はあったはずで、だが、多津子さんの目にはぼくが感じとっていたものとは別種のひかりが鈍く宿っていたから、風化を承認したほうがいいと思ったんだ。勘違いしないで下さい。未分化な念いは歳月が解決してくれるけど、霧のなかの死人、そう真っ赤な車の前席で首をもたげる格好で口から血をひとすじ流し、静止したものを永遠に見つめていたあの瞳孔は、破り捨てても、焼き捨てても何度でも引き出しのなかに見つけ出される卑猥な写真のごとく、ぼくのこころに棲みついている。
ふたりは多分二十歳くらいの男女で、その異様なまでに青味がかった顔色と一条の血により、ぼくは吸血鬼に襲われたに違いないと思いなし、恐怖は恐怖である事情を通り越して、現実を不透明な幕で被い、あたかも雲の上に浮かんでいる快感にも似た、あるいは遊技場の回転カップを想起させるめまいを催させた。金縛りの状態とはうらはらにその場から駆け出したくなる勢いを封じていたのも、霧の価値を認める判断が備わっていなかったからであり、のちに多少は薄明や夕暮れに親和を覚え、夜の複雑な意味にとらわれだした頃には、怪奇な死人はぼくにとってかつてないときめきになっていた。
もしあなたと一緒に霧へ包まれていたなら、そう考えると、、、あれから色々な回答は時代の波に逆らう飛沫のまま夜露となって今日までぬれ続けてきた。最近の意想だけ述べておきます。
きっとぼくらふたりには、防衛本能が手伝い死人男女の印象を希薄にしてしまって、軽い怪我がすぐに直る調子で恐怖に泣かされ、泣きやんだあとには絵本を閉じながら黙りこんでしまう無感動に救われる。そして互いの目の奥に輝くひかりは秘密から遠ざかり、二度と濃霧にめぐり合うことはないだろう。


[242] 題名:名画座 名前:コレクター 投稿日:2011年11月05日 (土) 10時27分

雑踏からはぐれた感情は置き忘れられてしまい、すでに光景の中へ包まれていた。都会の夕陽を背に二十年以上を経てその空間に佇んでいる。胸いっぱいにひろがった得体の知れない気持ちは、ときの推移に抗わず、一定の場所に立ち戻るために、滑走路のうえをなぞって行くような、重力と申し合わせた関係を過分に了解していた。
郷愁につきものな、あの微量に埃臭さを深く吸い込んでいる錯誤も、夢のひとこまを起立させる名分において閑却され、歓びと気おくれがないまぜになった曖昧な、けれども網膜に焼きつく使命から逃れなれない淡い苦悩に支配されている。漂う香りを知るよりも、この瞳の奥にだけあらかじめ情景が収まっていると確信する。
劇場のロビーには数人の顔があったけど、当然のように見知らぬ影となり行き交っていた。この建物は戦後間もなくの造形と云うだけあって古びかたは年季が入っており、軽薄な懐かしさには丁重な拒絶が、濃密な思惑には飄逸な親しみが、足もとから天井までゆっくりと舞い上がる調子になり迎えてくれる。心得てはいたが、そんな雰囲気だけを求め訪れたわけでない。胸から浮き出る冷や汗に似た願いは、思いのほか俗物的な視線をたどっていたから。
「久しぶりです。憶えてますか」彼の姿を横目で追いながら、ためらいなくそう話しかけた。男は年格好が自分と同じくらいであり、しかも当時の面影をそこなうことなく颯爽と脇をすり抜けるところだった。時間は止まっていない、立ち止まったのは雑踏に流されている心細さだと気づき、口中に苦い唾液を感じる。しかし多少のとまどいはこの都会の大空に吸いあげられるのだと思い直して、彼の目をのぞきこんだ。
「ええ、そうですね」久闊に左右されるのが迷惑そうとでも言いたげに淡白な声で応じる。それは仕方のないこと、懇意であったわけでなく、名前も知らないし、どういった関わりだったのかも覚束なかく、ただここで見知った顔を誰でもいいから認めたかったのだと胸に言い聞かせた。
そのベージュ色したコートを羽織った姿勢にも、素っ気ない態度をまとっているような気がして、失意と呼ぶにはいくらか大仰な寂しい心持ちになったけど、元来こんな男だったのではと記憶をそれ以上たぐり寄せないままにしておいた。そこからどう会話をつなげればよいのか思案してみるが、実は当惑にまかせた投げやりなこの距離感の方こそ、重力が働いており均一に居並ぶことを要請しているに違いない。そして無言のうちに見つめるまなざしだけが、劇場のロビーにふさわしいのではないかと思えてきた。
男は口数が少ないだけでなく、相手に向き合う表情を出し惜しみにしているみたいな冷たさがあった。せわしい様子でカウンターの奥にコートを脱ぎ、なにやら支度めいた素振りを見せ始めたので、小鳥たちが薮の中から出てくる一瞬が約束されている自然の流れを思い浮かべてしまい、合間を数える緊張によって縛られ、飛び立つ鳥の羽のごとくに彼もまたこの場から立ち去ってしまうではないか、行動を観察している身分がどこかしら蔑まれているのではないかなどと、卑屈な意識が芽生え、悲しい空気だけで呼吸している立ち居から後ずさりしたくなった。だが、彼の影をも見失うことなく、小鳥の妄想は夕陽にさらわれてしまった。
男は劇場の従業員だった。そうなのか、それで彼に面識があったのだ。コートの下は黒ズボンに白シャツのいたって月並みな格好だったが、不意に目にした彼の靴の先が異様な造りになっているのを知った。ちょうど親指の付け根あたりから網タイツ状の靴下が覗いており、つまりその黒い靴はサンダルに近いデザインだったわけで、しかも英国調の飾りが施された皮の質感は、夜にまぎれる為に、また夜から浮き上がる為の光沢を放っていた。物腰や態度、それに表情からは類推するのは不可能な生々しい足もとだけが何かを訴えているみたいだった。
今どき七三に整えた頭が似合うのは彼くらいだろう。決してこころの底から感情を発せず、長いまつげに守られた切れ長の目と同様、笑みもこぼすことなく、用件のみを渇いた風のよう口にするその薄い唇もまた、後ずさりする相手に対し間合いをもって魅了する道具として肉感をさずけられている。
胸にひろがる気持ちは曖昧なものから、より霧深い森の彼方にさまよいだす芳香を得たせいか増々、滑走路は道行きであると信じてしまった。
「今宵の映画は」なんて気取って尋ねてみたいところだったが、生憎あまり興味がわかない類いのアクション映画なのは大きく貼られたポスターで瞭然としているから、奥に通じる扉には近づこうとしなかった。何人かの客はごく普通の面持ちでスクリーンの影へ自然に招かれて行った。別に目線を泳がせる必要もないけど、そうした見知らぬ人々に敬意を送ってみたかった。
そのときだった。ひとりの女性が小走りでこちらに向かってきた。「ああ貴女だったのか、まだここで働いていたんだ。随分長いですね」そう声に出して接しかけたかったが、彼女の名前もまた憶えていず、男と同じで別段慣れ親しんだ記憶もない。なにより男と違って結構老けてしまっているのが心苦しくもあり、それがまるで自分にとっては禍機であるような、方向をあやまった憂慮が先走ってしまっている。
おそらく凝視する不審な目を知ったうえ女性は一瞥をくれただけで、いつもと変わらない風を身にまとうよう男と立ち話を始めた。
自分ひとりの唯一この都会で知りうる人間、深くも浅くもない、どちらに転んでもよさそうだけど、きっとどちらにも関わることのない人間、だが、この劇場にもっとも似合う気がして仕方がなく、こうやって距離をとりながらも同じ空気を吸っているだけで、ここまで来た甲斐があったに違いない。二十年の歳月は考えていたより朽ちてなく、刻印する使命に忠実であるべきと見なしてしまった女のあらわな皺にしても至極当たりまえの成りゆきであるはずだから。
女は陽気な声を上げていたし、男は渋い顔をつくりながらも足もとを組みかえたり、劇場が職場として存在している実感をそれなりに味わっているようだった。
よどむ気配に違和を感じないのは、常に夢が創出している雰囲気を奇妙だと薄々知りながら、重力からの解放を求め、そして瞬時にしてそれらを忘失してしまうからである。
天井から雨が降るよう、女は唐突に着ている服を恥じらう素振りもなく脱ぎ捨て、銭湯の硝子戸を開ける手つきを持って裸身で奥へと歩んでいった。小雨は水滴となり硝子をほどよく曇らせている。いつの間にか映画館は変貌を遂げたらしい。瞬きをくり返すまでもなく、奥の様子が、女のうしろ姿が、こちらに透けて見えているから、奇異な感覚は逃げてしまい、代わりにつまらぬ惑いに居場所が狭まれている弱みが台頭しだした。何故ならここに何をしに来たのかつかみ取れないと云うよりも、劇場の転換に立ちつくしているしかない惨めな気分に苛まれていたからである。
これは無限に続くかも知れないと悪夢に堕しかけたとき、男が黙ってカウンターに缶ビールを差し出してくれた。彼の目は細まったわけでもなく、口もとを和らげもせず、その行為はただひたすら二十年前から続けられているまじないであると云う趣だった。ビールを受け取る手は少し汗ばんでいた。
相変わらず男は無口を通し、さすがに郷愁も醒めかけ、どんな時計がこの情景を刻んでいるのだろうと辟易しかけた矢先だった。男は素っ気ない表情を保持したまま、今度はA4サイズほどの用紙を二枚よこした。
手にして見ると、それは色彩を施されていないデッサン画であり、重なっている下の二枚目はまったくの白紙である。紙質は男の唇のように薄く、だが空気抵抗と云う言葉を連想させるしたたかで儚い手触りだった。デッサンは人物だったが明瞭な記憶はすでにない。ただ右下に「KLIMT」と記されているのに驚き、そうなのかとだけ彼に問うてみた。卑屈な態度の皮を剥くみたいな歓びをもって。
想いは忘れなれなかったけど、宙が舞うなら時間も逆巻くのだろう、男の返答も、反応も、その絵もみんな夢のなかに置いてきた。


[241] 題名:ねずみのチューザー63(完結) 名前:コレクター 投稿日:2011年10月31日 (月) 06時44分

デジタル表示の数字が止まったとき、天井から激しい揺れが伝わり、また左右の側面からも何かを連射している小刻みな振動で車内は一気に工場のようなけたたましさに包まれた。夜空に花が咲いたか、朱や黄の火炎が窓ガラスに反映する。花火でも打ち上げているのだろうか。苦笑いの瞳の奥にも火花は飛びこみ、こめかみのあたりから脳天にかけて心地よい痺れをもたらした。
このバスの造りは気密性が高く外部からの匂いを一切寄せつけない。火薬特有の臭気もなく、爆撃はあっという間に終わってしまった。別段反撃を被った形勢はなかったし、夜の山に墜落した飛行物体の気配もなくて、あたりは太古の昔から連綿と続いている山深い静けさに立ち返っていた。外に出てみる気力もなく、ただじっとして運転席に座っていると、振動の余韻みたいなものが背筋までじりじりと這い上がってくる気がした。
照明が順序よく消えていくのが分かり、指先を折り曲げながら数えるようにして闇の沈黙を迎え入れたんだ。デジタル表示も谷底に落ちてゆく蛍となって消滅した。バスの中には漆黒の絹の肌触りをもった空気が張りつめている。頬をなでる微風などないはずなのに、落とした視線を持ち上げるように闇が少し流れだす。そのまま眠りにつければと思ったりしたが、ふと懐にあったマッチが念頭をかすめ、ゆったりとした仕草を慈しむよう一本に火を灯した。硫黄の香りが鼻をつく。中心はぼんやり、楕円に広がった明るみの輪郭が人気のない座席を照らしだした。すぐに火は消える。もう一本マッチをすったとき、同じ場所に淡い人影が居座っている幻が見えた。面立ちまでは判別できない、だが、幽霊にしては物足りない幻影だった。パソコンの電源も切れてしまったから、君にこの続きは話すことは無理だ。


S市から山中に向かう農道で一台の無人バスが数日放置されていたと、地元新聞の片隅に報道されていた。バスの形態から市が関知する車種ではなく、固有のものとしても訝しくナンバープレートは外されており、現在捜査中と記されている。それから最初の発見者は近所の子供で、不審に思い近づいてみると一匹のねずみがバスの屋根から飛び降りてきて驚いたとも書かれていた。



[240] 題名:ねずみのチューザー62 名前:コレクター 投稿日:2011年10月31日 (月) 05時36分

「現在の本部はX1の処置に戸惑っている。提供者として発言権はおろか、計画の進行に参入することなどあり得はしないが、ドクトルKから特別の許可をもらい分身と対面させてもらった。過酷な伝達であるのは承知してもらいたい、X1よ、もう時間はないんだよ。それは誰よりも知っていると思うが、わたしの口から言うにはいたたまれない。これはわたしの分身的な他者に対するレクイエムだ。おっと、勘違いしないでもらいたい、わたしは金魚を憐れんでいるのでなく、その器を嘆いているんだ。きみはもはやわたしとは別人格として存在しているから、尊厳を無視したりはしない。ただ、計算の狂いから少々、尊厳の在り方を考えさせられてしまった。もうひとりのわたしが異国で生きているごとく、さまよえる旅人となって、しかも自由などという目に見えない実体は微塵もなく、強烈な時限爆弾を抱え、時空に宙吊りにされている。チューザーの裏切りともとれる行為はそんなX1に向けた最期のはなむけだったのだろう。彼もまた己の寿命を見極めていたと思う。半ば役職をと言ったのは実のところ、憐憫の情を語るためだけでなく、きみの行方に関するわたしとしての模索を語っておきたかったからなんだ。この映像発信は本部の認可を受けている。隠れ里に居残る反体制の幹部も今頃、瞬きもせずに観いいっているだろう。ここ数日間で大佐の不動の地位は大きく傾いてしまい、もう支持者は白眼視どころか追放の憂き目に合う情況まで変革してしまった。きみが仮想を生き抜いた証として知人にことの次第を書き送っていたのも了解している。脳内の溶解と戦うようにして時間を忘れ、無心で言葉をたぐっていた。わたしのこころはひどく揺らいだ。どうにかしてチップを制御装置の延命を計れないものか。きみが知人に向けて綴り続けている間、体制はミューラー大佐を放逐してしまい、すでに無用の長物と化した意識を呼び醒ますことに意義は求められない。願わくば覚醒ないままにX1に身体を譲り渡してもらえるなら、、、かつて独裁的な手腕で粛清も厭わなかった大佐ではあるが、長年の功績を称える意味あいからも、このまま自然消滅していまうように、記憶の隅々まで霧の彼方に掻き消えてしまうように、もしそれが可能なら。大方の願望は雪崩を見届ける面持ちでそんな空気に包まれていたそうだ。しかしドクトルKが思案するまでもなく、残念だがチップの寿命は元来限られた性能しかあたえられていない。我々の身勝手を聞くに及び、激しい憤りを感じるのは重々分かっている。X1よ、きみはよく耐えてきた、そしてよく戦ってきた、あとは静かに眠ってほしい」
思ったより簡潔に言い切ったものだよ。提供者の言い分はあらかじめ予測していた結末をなぞったに過ぎなかったから、それほどの衝撃は感じなかった。それより、僕という曖昧な人間に対して尊厳の目線を配ってくれたのがやはりうれしかった。時間とのせめぎ合いにも疲れてきたところだったし、僕に関わった者らがみんな死んでしまったあとには、まっすぐな諦観が横たわっている。
僕は提供者からの伝言を確かにレクイエムとして受け止めたし、君に話すべく物語も終焉を迎えつつあった。モニターからの続く一言を聞くまでは。
「選んでくれないか。ミューラー大佐が目覚めるのを待たず自決するか、それとも、、、」
「それとも」
折角はかない人生に最期の灯火を見いだしたこの意識が、乱れた。
「溶けてなくなるのが自然なんだろ、ミューラーの覚醒はそんなに厄介なのか、僕に能動的な死を示唆するなんて何というひとでなしなんだよ。ああ、そうかい、なるほどな。見えてきたぞ、これは僕に対する命令なんだな、断ればこのバスに攻撃を仕掛けてくるつもりなんだろう。はっきり言えよ!」
「わたし個人の力量ではどうにもならない。すべては本部で決定された。見苦しい大佐を復活させることなく潔く死んでくれ」
「隠れ里の連中も同意見というわけか、あんたら巨大な権力のまえには僕なんか石ころにも充たない存在なんだろうが、そうと決まれば抗戦しかない。どうせ知人に綴った文も抹消されてしまうとみた。それにしてもあんたらの実験精神には感心するよ。最期の最期まで僕を実験材料にしたわけだ。殺すならいつでも殺せたはずじゃなかったのか、それを生き血の一滴まで絞りとろうとする。
『僕は死ぬ、、、君らは僕を愛さなかったし、僕は君らを愛さなかったから。僕は死ぬ、、、僕らの関係は元へ戻らないからだ。僕は君らに消えることのない疵を残すだろう』
ルイ・マルの鬼火のラストだ。あんたの用件は分かったから、ルイ・マルを放映してくれ」
そうつぶやいてから、空になったサザエの甘露煮の瓶詰めをモニターに思い切りぶつけてやった。光が途絶えた。
上空にヘリの気配を感じてしまう。奴らは迅速に行動するからな。得体の知れない衝動に操られるまま、運転台に並んだありとあらゆるスイッチやボタンをひねったり押してみたりした。かつて体感したことのない振動がバスを動かす。ドアが開いてすぐに閉じる。デジタル表示の数字が真っ赤な色をして猛烈な勢いで秒読みを開始した。ハンドル下の四角い画面に「BOMB」と大きく点滅し、車内にバッハのトッカータとフーガニ短調がしめやかに流れだす。
僕は記憶の貯蔵庫に降りていった。恐る恐る、だがとても興味深い眉根を意識しつつ、自分の表情を鏡なしで眺めている。蜘蛛の巣が嫌らしく首にまとわりついたけど、その闇に張り巡らされた澄んだ細い糸を愛おしく感じ、苔子が忍んでいた床下を思い浮かべた。そして、チューザーが言い残した「日暮れまでには」という文句は反対に白夜を連想させ、夜露に濡れた蜘蛛の糸が薄明のなかに溶けこんでゆく光景へと重なりあった。


[239] 題名:ねずみのチューザー61 名前:コレクター 投稿日:2011年10月31日 (月) 02時28分

窓枠へ映し出された宵闇に一瞥をくれながら、のどかな心持ちを抑制している自分が微笑ましく思えてくる。座席に腰を降ろした気安さは、すぐに焦げついてしまいそうな怖れを含んでいて、これからの展望をゆっくりとした瞬きのうちに巡らし、年少時に覚えたプラモデルの製作にでもとりかかろうとする気忙しい手つきを呼び寄せた。残りのファンタを一息で飲みほすと、カメラがまわり始めた役者みたいな気分になり、車中を調べる仕草を意識しだしたんだ。そうだな、実際どこかに隠された穴から僕の一挙一動は筒抜けになっていることだろう。
込み入った運転席はあとまわしにして、後部から丹念に探り始めれば、四人掛けの座席をはぐるとそこが細長い冷凍冷蔵庫であるのを認め、生野菜こそ数は少なかったものの、ソーセージやら瓶詰やらがたくさん収められていた。飲料の種類も様々だったけど、どうもアルコールは見当たらない。ことさら感慨にひたるまでもなく、食品をつぶさに数え上げるよりも、他の仕掛けや装置の発見を急いだ。
極めて慎重に、大切な落とし物に集中したような過程は、おそらく君にとって時計の針を見送っている面持ちに等しいだろうから、結果だけを報告しておくよ。
いくつかの車窓の下にはコンパクトな保冷庫が埋め込まれているのは前に話した通りだし、ある席を移動させると簡易ながら電気調理台に様変わりした。それから床の一部から覗ける様態からかなり精密な装置がうかがわれ、やはり単純にガソリンで走る車種ではないのが確認された。赤や緑を主に点滅しながら複雑に絡み合っている基板を見れば、宇宙船にでも乗っている不思議な思いにとらわれる。銃器も一切出てこなかった。もっとも外側からは点検してないので車内に限ったことだねどね。運転席の左後ろに一台のノートパソコンを見つけた。14インチだな、この大きさは。早速起動させてみるとネット環境へも接続可能で、つまりそのお陰でこうして君に長文を送れる次第なのさ。君のアドレスは何故か記憶されていたので、まったく奇異なことだが唯一の聞き手はそこで決定されてしまったわけさ。最初に断っておいた通り、返信はいらない、理由はいたって簡単、僕には時間がない。気がふれたんじゃないかって訝られても仕方のない、これまでの経緯はモノローグで貫いたほうがいいに決まっている。
運転台には当たりまえのようにハンドルがあったりするけど、細々としたスイッチには名称がなく、まったくお手上げ状態だったので、不用意に触れるのは避け、とにかくエンジンの掛け方を調べたけれど、どこがキーなのかも判明されない。照明は自在に操れるようになったから、発車を焦らずバスに籠城でもする気概を喜びへと誘い、ここまでの顛末を書き綴ってきた。
あれから、どれだけ陽が昇り沈んだろう。追手は現われなかったけど、日に一度必ずヘリコプターが頭上に接近する音を聞かされた。そのうち慣れっこになったと言いたいところだが、兵糧責めにあっているみたいな心細さは確かに芽を出していたし、食料の尽きるまえに電源が切れてしまう懸念も生じ、段々と車内の空気が息苦しくなってきたんだ。
無論まどろみだけに終始した最初の一夜が明けたあと、すぐに親衛隊とチューザーの亡骸を確認するために山道を駆けていったけど、予期していた通りにその姿は消えてしまっていた。したたり落ちた血糊も敵対したキツネの面々も同様に始めから何事もなかったふうに、すべての痕跡は山々の霊気にのみ込まれてしまい、透明な静寂だけが幽かに微笑している。ああいうときこそ、ひとは心底震え上がるものだよ。
咄嗟に襲った戦慄は倍くらいの早さで僕をバスに引き帰させた。信頼や疑念、奇妙にして優雅でもあった過去の出来事に想い馳せることもなく、この身に差し迫ってくるのは惜別や悲哀の情も近寄らせない、冷たく青白い鬼火だけだった。
今まで幾分かは論理的に思考を働かせたつもりだったけど、案外そう信じ込んできたまでのことで、現実にはいかにして妄念を正当化しようかと努めてきたに過ぎない。チューザーとの了解があったとはいえ、このバスへの到達が一縷の希望に繋がっている信憑もないまま、逃走を演じた役柄に意味などなかった。
泣きごとめいた言い草をくり返しているのは、このあと想像もしていなかった事態に直面したからんだ。空無に生きる宿命を負ったものが僅かな抵抗をしめしたあげく、突きつけられたのはどんな鋭利な刃物よりも痛ましい、内心の声だった。
以前、タルコフスキーの映画がまるで天啓のように映されていたモニターに画像が現われ、目が釘付けになった途端、全身から血液が引いてゆくのがわかった。光の粒子でしかない画像となって滲みでた人物はまだ一言も発してはいない。が、親しみには距離があり、かといって慈愛を示しているまなざしをどこか香らさせている様子は、紛れもない死神そのものだった。
僕にはすぐにその人物が誰であるのか分かったよ。データX1の提供者さ。認識したのと彼が言葉を投げかけたのは気色いいほど素晴らしい間合いだった。
「やあ、その顔つきからして私の正体を名乗るまでもないようだね。気分はどうかなんて尋ねるのも野暮だから止めておく。まだミューラー大佐を占領している分身に対して、まずは敬意を払おう。それと自分で言うのもなんだが、決して悪い気はしていない。もちろん、これは個人的な意見だが」
提供者は以外と堂々とした喋り方をする。そりゃ、比較する方が間違っているけど、適切な判断を可能にするのは分析力より、現場の情況がもたらす胸中に溜まった澱だよ。負い目だけが誇りである僕はおどおどしていようが正直でいいと、自分に敬意を抱いた。
「この映像の発信は半ば役職を越えたものだと伝えたい」
その先も流暢に説明を加えそうなところ、僕はあえてこう言い返してやったんだ。
「あんたは僕なんだろう、つまり僕がどう足掻こうともかなわない。ちょうど金魚鉢から出れないように」
「そうむきにならなくてもいいさ。でもそこまで観念しているのなら、これから話すことに耳を傾けてくれるかな」


[238] 題名:ねずみのチューザー60 名前:コレクター 投稿日:2011年10月18日 (火) 00時48分

谷底まで反響した銃声の名残りを半ば放心状態で耳にしたまま、その戦闘がもたらした空気に特別な異変を感じなかったのは、現実からの攻勢を辛うじて回避させた楽観が過剰な寂寥にすげ替えられたのではなく、あくまでこの山々に囲まれた孤独と自由が森閑とした面持ちを維持していたからだ。
懐かしささえこみ上げてくるバスの後部がすでにかいま見えだしていた。大佐ではない僕の胸にひろがるのは親衛隊の死を予覚していながら、微塵の温情も口に出せなかった悔恨に突き刺されている痛みと、あえてそれを過去へと急速に葬ってしまいたい、焼けつくような苦みが消えてゆく鎮静だった。
車両に向かって進むにつれ、ここまで逃走してきた意味も同じく消えてしまう気がする。残照に応えながら泰然とした格好で停車しているバスに目的はあるのか。
ひと際大きな風がよぎっていったとき、左に山肌から岩清水がしみだしているのを見つけた。光線を受けきらめく透明さがまだそこに残されていると感じ、山の冷気が出迎えてくれたなんて勝手に思いめぐらせた。土を押し流したところどころは茶褐色の岩が見られ、より清らかな山水だと口をすすぎたくなった。のども渇いていたけど、安穏な思い出がこのバスには詰まっている気がして、そうだよ、リポビタンとかプラッシーやファンタグレープを一気に飲みほしたくなっていた。だが、とにかくチューザーと顔を会わせるのが先決だ。それに銃撃に倒れた親衛隊も気がかりだし、山びこさえ帰ってきそうな大声で僕はねずみを呼んだんだ。
いよいよバスに真向かうと、不意に肩に飛び乗ってくるあの軽やかな感触を期待した。けれども応答はなく、渓谷の音が小さく鼓膜に侵入して、視線が泳ぎだしたそのとき、山肌から溢れたらしい水たまりに不純な影を発見した。歩幅を急かす必要などなく、それがねずみの死骸であるのは瞭然としていた。
「チューザーなのか、、、」
水たまりは洗面器ほどで深みも同程度だったが、ねずみはあきらかに溺死の様相で沈んでいたんだ。チップのなかにだって過去に見聞きしたねずみの情報くらい保存されているだろう、この隠れ里に来てからも他の種類だって知ったし、何より僕はチューザーの顔を忘れたりしない。あまりの事態にめまいを覚えたけど、洗面器から水をすくう手つきで死骸を取り出した。灰色の毛並みは水分を含んで炭みたいに黒ずんでいた。僕の思考はほぼ停止していたと思う。だが、立ちすくむことなく踵を返しヒツジのいる場所へと小走りに駆けていったんだ。
ヒツジはその顔つきでことを悟ったらしく、黙って首をうなだれた。
「傷はどうだ」そうつぶやくように、頼り気ない言葉が出る。半身を起こしているのも限界に見えたヒツジはうなだれた首に誘われながら斜めに倒れこんだ。わずかだけど被った面から人肌がのぞく。僕はねずみを土のうえに置き、すでにほとばしった電流の驚きと痛覚をなだめる調子で訊いた。
「もげ太さんなんだろう、どうして、、、苔子を看病するよう言ったはずじゃないか。いつの間にヒツジになんか扮してしたんだよ」
「申し訳ありません。大佐殿」
「僕はミューラー大佐をまだ呼び戻していない、よく承知していたのだろう、もげ太さん。何故なんだ、何故逃亡に加担してくれたんだ」
「任務に対する服従だけではないのです。わたくし自身もこの里を離れたかったのです」
「苔子はどうなるんだよ。あなたは苔子を愛していたはずでは、、、」
「この世には色々な愛があるのでございます」
もげ太の顔色が急変した。「しっかりするんだ、あのバスは秘密兵器なんだろう、なんなら僕がバスを運転してくるから、それまでふんばるんだ」
僕はヒツジの面をはずし、その好青年がつくる最期の細やかな笑みを見つめた。口角が糸先で吊られたほど上げられると、ゆっくりとどこか遠くを眺める目線を僕に捧げてくれた。それがもげ太の生命だった。
「もげ太さん、、、どこまでひとがいいのやら。でもあなたがこの里で一番不思議だった」
喪に服する猶予は哀しいけどこの山にはなかったから、僕はもげ太の胸にチューザーをそっと乗せ、日暮れに挑む勢いで再びバスへと走り、ドアに手をかけたんだ。信じられるものは独断であり、勘でしかなっかった。
バスは確か自動走行をしていたし、食料も蓄えられているはずだ。それにこの車両はガソリンで動いているんじゃない、どんなエネルギ−かは分からないが、とにかくガソリン特有の匂いを今まで感じなかったことを思い出した。ドアは簡単に開いたよ。ただ、室内にも似た閉塞感は夜の気配をすでに漂わせ始めており、明かりの不十分なのは外気から逃れられた安堵を迎えるに均衡がとれず、却って窓枠にへばりついてくる夜気に接する本能的な恐怖を増幅させてしまった。早く運転席の装置を点滅させないと、この世界は暗黒に支配されてしまう。春の夜はとても穏やかだけれど、僕のこころは死んでいった者たちに見守られていると、言い切れるほど傲慢ではなく、また悪霊が跋扈しているなんて物怖じするつもりもない。願いはひとつ、闇に視界がさえぎられるまえにどうにか、野性から逃れた居場所を確保しておきたかったんだ。
ハンドルの脇に密集しているスイッチを片っ端から触ってみる。空調が可動したのが確認でき、続いて何やら赤いランプが点灯し、数字がデジタル表示される。比較的大きなレバーをまわせば、ヘッドライトがまばゆく放たれ、宵闇に包まれかけた山間を煌々と照らしたんだ。室内灯の明かりも各所判明してきたよ。きっと運転マニュアルもあるに違いない、走行まで焦るのは禁物だと冷や汗を拭いながら考えてみてから、懐にマッチがあるのを気づいた。これはおくもさんがあのとき渡してくれたものだ。
ようやく座席に腰かけ、少しだけぼんやりしてから例のジュースを探ってみた。あった、あった、缶のファンタグレープでのどを潤すと、疲労と一緒に炭酸が胃から戻ってきたよ。


[237] 題名:ねずみのチューザー59 名前:コレクター 投稿日:2011年10月17日 (月) 08時38分

木々の狭間を隠れ蓑にしてみたところで無防備でしかなく、忘れた頃にそよぐ風が木立を縫い、緑を揺らすように僕の姿勢にも軽やかなものが吹き抜けていった。極度の緊張に襲われているはずなのに、妙に落ち着いていられるのが不思議だったよ。思えば、屋敷内にどのくらいこもっていたんだろう。僕という意識が芽生えたときには早々にバスへ乗車して、みかん園や鏡面のようだった妙心池に立ち寄った以外、あの見事なセットのなかに逼塞していたからな。こうやって山中に誘われ、紛れこんでいるの現状にもっと解放感を覚えてよかったははずだが、脳内に自由を見いだせない限りはやはりただの風景でしかない。
そもそもミュラーの記憶を封印させることと、あんなふうに時代ががった演出はどこにその必然性が結ばれているというのか。甲賀の忍者、武家屋敷ともいえる古風な造り、着物で肌を包んだ女人たち、その言葉遣い、歴史を遡ったとしか形容出来ない雰囲気のなかで果たせる意味などあり得たとは信じがたい。
今になって訝ったりするのも変だけど、自ら夢見の世界に同調してしまった負い目というか、極めて脆弱な影と寄り添ってこなければならなかった日々が、すべてを脚色していたとも言える。だから、ミュラーたちの趣向についてあれこれ詮索してみても、所詮は僕の記憶が風化していく過程を反対側から覗きこんでしまうだけだし、なにより風景に対するまなざしを純化させるためには、最適の環境だったと思う。
屋敷でも時間は何かに塞き止められているんじゃないかと感じるほどに緩やかだったが、この生死の境目に置かれた情況のもとでも同じ感覚を延長させているみたいだった。狙撃されるのか、捕縛されるのか、大佐の意識が危機に目醒め、僕の脳髄をはかなく希釈してしまうのか、いずれにせよ雑草を踏みしめている足の裏に感じる現実味は、大地もまた悠久の流れとともに移動していたのだという意想と静かに、だがある種の強靭さを草木や上空に語らいながら重なり合っていた。
おとりとなったヤギの安否に神経を使うよりか、僕は彼ら親衛隊の心境をよく理解してしない虚しさによって、恐怖も不安もまるで段ボールにでも詰めこまれたように整理され、あわよくばどこかにそのまま送り届けてもらいたかった。きっとヤギもヒツジも銃弾に倒れてしまう。大義のうえでは党首とも元帥とも呼称される身分には違わないが、すでに失脚の兆しは著しく、いくら上官に心酔しているとはいえ、明治天皇と乃木将軍でもあるまい、みすみす命を棒に振る必要があるというのだろうか。申し出た時点で頑なに拒んでおけばよかったなどと、又もや後悔してしまうのだったけれど、虫のいい孤独感が衣をまとったのを自覚してしまった限り、苦笑は冷ややかな感情をともなわず、逆に屹立とした彼らの敬礼のかたちに来るべき先行きを見て取ったのさ。笑みなどこぼさなくていい、そんな不自然な領域に温かい手触りは望めないんだ。親衛隊の枠組みは衣そののものを拒否していると判じれば、彼らが役職に殉じる態度は僕の曖昧な部分を補填してくれているかにも思えてくる。
「ヒツジよ、おまえは僕がまだ大佐の記憶を取り戻しておらず、ぎこちない演技を見せているだけだと知っているんじゃないのかい」そう、問いたい気持ちを抑制するのに増々雑草を踏みしめているのが分かった。彼らの殉死は大佐に捧げられるのであって、データX1に従属するのでは決してない。
陽の陰りの推移を知るほどもない短い物思いだった。しかしヒツジの呼吸が微かながらに隣から聞こえているようで、ほぼ予感とやらが適中するのを痛感した。
銃声が一発、間を置かず続け様に激しい銃撃戦が開始された。後方から山道に向かったヤギがここからでもはっきり識別出来る。更に距離をとった箇所からキツネの面々の姿が四人うかがえ、じりじりと間合いを狭めつつ身構えてヤギへと発砲していた。すでに応戦の姿勢ではなくなっていた親衛隊は銃を握った右手を垂れ下げ、両足が覚束ないまま今にも倒れていまいそうだった。ライフルを手にしたキツネが余裕ある物腰で瀕死の獲物に狙いを定めるよう銃口を宙に浮かべている。ヒツジは援護にまわると思いきや、同朋が撃ち死にしてゆくのをただ見つめているだけだった。キツネらは全員ライフルを携えているが、とどめを差すのはそのうちのひとりらしい。おもむろに距離を詰め、確実に引き金を弾くつもりか。ほとんど戦意を失ったヤギの足もとがもつれるのと、上半身にみなぎる殺意を降臨させたのには唖然とさせられた。十分に狙い撃ち可能なはずだったのに、相当近くまで歩みよった不遜が仇になり、いかにも最期と映っていたヤギの鮮やかな手さばきから銃声が炸裂し、胸の真ん中を見事に打ち抜いたんだ。よろめく間もなく相手は地面に突っぷした、即死だよ。
呆気にとられたいたのは僕だけじゃない、残りのキツネが一斉にライフルを向けたとき、ヤギは二発目を撃ったがさすがに前の銃撃で燃えつきたか、弾丸は虚空に消え、狙撃者たちの全面攻撃に身を躍らせながら果てた。
ヒツジの呼吸がはっきりと聞き取れたとき、彼は猛然とキツネらに駆け出し、すぐさまひとりを撃ち倒すと、くるりと反転する勢いで太い幹のうしろに身を隠し、数発の弾丸を発射した。もう狙撃者は距離を縮めたりせず、同じく木立へ潜もうと試みたが、その隙をあたえずに三人目に命中させ、残されたキツネを窮地に追いこんだかに見えた。が、その姿は僕からは目視出来ず、互いに山道からはずれてしまっていた。
「大佐殿、さあ早く逃げて下さい」ヒツジはありったけの声を振り絞った。「道には出ないよう木の間を」そう叫んだあと、敵が態勢を取り直している辺りに発砲する。思わく通り銃弾を浴びせた草むらからせわし気に撃ち返してくる。ただ、短銃の不利がヒツジの決意を早めに違いない。いきなり道に飛びだし一気に勝負に出た。キツネにしてみれば得策だっただろうが、仲間を一気に失っていまった動揺が勝ってしまい慎重な構えは作ったものの、突進してくる相手に照準をあわせる冷静を保てなかったみたいだ。
まず、突撃者の弾がキツネの頬をかすめていった。反射的な応戦は不運なことにヒツジの脇腹をえぐった。がくんと膝をおとしたまま、傷口をかばうことなく両手でしかっり銃を持ち、さっきのヤギ同様に詰め寄ったところから渾身の銃弾を連射したんだ。キツネも激しく反撃したけど、その額は割れ血が吹き出し、両肩へも受けた弾によりライフルを操れなくなっていた。前のめりの格好で今にもまっぷたつになりそうな面から流血を地に滴らせる。僕はとてもじゃないが逃げることなんか無理で、目が点になるまでこの撃ち合いを見つめていた。
ヒツジはかろうじて上半身を起こしていたけど、僕がどこにいるのか確かめられないらしい。驚かさないよう彼に近づき、「大丈夫か、傷は腹だけじゃない」太ももの付け根からも出血していた。
「大佐殿、どうして逃げてくれなかったのです。敵はまだ他にいるかも知れません」
「あんな少人数ってことはないだろう、だがな、おまえは誇りある私の唯一の親衛隊なんだ。一緒にバスまで行こう。もうチューザーも着くころだろうから、まずは治療だ」
「いえ、私は助かりそうもありません、内臓まで三発撃たれています」
「気をしっかり持つんだ。チューザーを探しにいってくる、ついでにバスに乗車出来るか確認してみる。それまでここを動くんじゃない」
僕の目からはぼろぼろと涙があふれでていた。ヤギとヒツジが倒れたことが引き金だろうけど、涙の理由を尋ねる無粋なまねだけは敬遠した。


[236] 題名:ねずみのチューザー58 名前:コレクター 投稿日:2011年10月04日 (火) 17時06分

自分の手さえ汚れなかったら保身を正当化する為に流血を許容するのか。何とも法廷に立たされたみたいな心地だけど、逃走を実行した時点で夢見の延長を願った意志が親衛隊を是認したんだ。葛藤は生じなかった。チップを取り巻く脳髄がすでに惨殺を実行しているし、分裂した脳内を抱える身からしたら、たとえ詭弁と誹られようとも、この仮想現実を今少し生きてみたい。僕の遊戯はそういう非情な面を持っている。ミューラーの意志はとても強固でありながら、夕陽のごとく寂寞に透ける時間へと共感してしまったように。
だから、陽のある間にすべてを終わらせたかった。幽霊屋敷を出たら宵闇に被われていたなんていうのはご免だからね。地図に記された二角堂が時代に取り残されたというより、未来に捧げられた記念碑の趣向で雑木から顔をのぞかせている。こじんまりとありふれた祠だったが、わざわざ黒丸で示されたのも何かの符号に思えてくる。
「先を急ごう、急ごう」
僕はようやく親衛隊の二人に声をかけた。まずは振り向いて、もう一度は前方へ風に乗る調子で。
陽の翳りが足を急がしたのだろうけど、山中に潜む獣たちの息づかいを感じるまでもなく、二角堂を越えたあたりで脳内の指標もまた墓碑銘を薫らせ、小さな旅路の余情を先取りする。そして眼下の渓谷の流れに沿うよう薄紅が浮かぶ桜並木を発見した。満開には到ってないが、花片の舞い落ちるだろう風情は瞳の奥に優雅に送り届けられ、煤けた空の色調にしめやかな反撥をみせている。
「大佐殿、、、」
後ろのヤギが緊迫を押し殺したようにつぶやく。
「わかっている、お前も気をつけてな」
敏感に気配を察しているのはヒツジも同様だった。左右に目配せする微かな動きで動静を探っている。渓流の音はそんな情況とはうらはらに春の冷たさを無頓着に運んでいた。岩肌に弾けだす気泡の束を山々へと戻しながら。
空気がひんやり感じ始めたのはとても心地よかったよ。お陰で脳髄がいくらか引きしまった。桜の一群を素早く見送るふうにして進んでゆく。さながら校舎の並木を抜けるよう幽霊屋敷へと足を踏み入れ、鼓動のたかまりに得も言わぬものを覚える。チューザーはすでにバスに乗りこんでいるのだろうか。それでエンジンの加減を調べたり、色々と備わった装置を点検しているのだろうか。目的地までもう残す時間もなくなってきていた。地図を懐に仕舞い、山道の確かな感触を頼りに、ちょうど地雷を踏みつけはいないかといった面持ちになり戦々恐々とした足取りで速度をあげる。
風はない。空模様を眺めた一齣を意識してみる自分に苦笑しつつ、渓流が遠のく光景をぼんやりと目にしていた。傾斜がきつくなった。幽霊屋敷の階段かも知れないな。だが、窓の明かりが辛うじて室内に招き入れられるように、闇がまわりを侵蝕している恐怖は緩和され、夜の帳によって記憶が薄くまることなく、日暮れまでにはどうやら間に合ったようだ。的確な予感は大きな羽ばたきの絵筆を持たずとも、この坂を登りきったところへバスの姿を眼中に描き出した。
名も知らない山鳥が木々の間から頭上に飛び立ったのと、銃声が四方に響き渡ったのはほとんど同時だった。
「茂みに隠れて下さい!」
ヒツジが怒号にも似た口調で叫ぶ。牽制されているのか、狙撃を受けたのかはその場で計れない。ただ、一発の銃弾だけが山中に轟くほど至近距離から放たれたのは確かだった。僕と親衛隊は木陰に飛びこみ、呼吸を整えながらじっと耳を澄ましていた。「まわりは包囲されている」とか「抵抗せずに手を上げて」などといった紋切り型の声が今にもその辺りから聞こえてきそうで、身がこわばってしまったけど、内心は以外と山の冷気を吸いこんだ按配に静まっていたんだ。
眼光を鋭くさせているヒツジとヤギの二人の様子が面を通して透かし見える気がした。両脇に音も立てずにじり寄ってきた親衛隊の呼気を微かに感じとり、緊迫にまぎれた親和の情が水滴みたいにこぼれ落ちたとき、二番目の銃声が鼓膜に痛々しく伝わった。
運よく銃弾が外れた安堵を叱責する、けれども沈着な意向を受け渡す柔らかさで、
「狙撃手と思われます。援護者もいるでしょう。私が向こう側から銃撃してみますので、位置を確認し応戦して下さい」
と、ヤギはそう言った。無論ヒツジに対する提言だと思うが、僕に喚起を促したとも聞こえる決死の覚悟だったに違いない。相手が狙いを定めている現況に反撃を加えることは即ちおとりだ。しかし、ヤギは面を被っているせいもあってか一抹の悲壮感など発する間もなく、もと来た方向へと木立の中をくぐり消えてしまった。
再び沈黙に守られた僕はヒツジと共に息を殺しながらときの経過をじっと窺っていた。


[235] 題名:ねずみのチューザー57 名前:コレクター 投稿日:2011年10月03日 (月) 23時41分

夕陽の赤みは木々の間に染みこむようにして山道を照らしていた。時折吹きつける風に揺られた草木の緑は朱と交じりあい、日没まえの切迫した空気をどこか間延びしたものに変えている。澄みきっていた青空はいつしか鈍い色をした雲を呼び寄せ、残照に移りゆく心構えを見せているようだ。
紙切れは屋敷を出た直後に開いただけだったので、精確な道のりには覚束ない。どうしたわけか、ヒツジは僕のまえを少しばかり距離をおいて歩いているし、ヤギも同じくらいの間隔で後ろについている。前後を固めてくれているんだろうけど、ヒツジの方は目的地を把握しているとでもいうのか。いや、僕は彼らに行き先を明瞭に伝えてはなく、ただバスを目指していることは了解しているみたいだが、この配列からはどうやら規律のようなものが匂ってくる。残念ながら見知らぬ風景とは都合よくいかなかった。
僕から会話を禁じた手前、情況を説明しろというのも変だったからしばらく様子を見ようと決めた。そして堂々とチューザーから渡された地図を眺め、行き先へとこころ泳がせる。
両脇に山の斜面を見届けながら進んでいたが、やがて景観は開け右手に渓谷らしきうねりが現れ、山道も同様に曲がりくねって勾配を感じ始めたんだ。なるほど麓からさほど遠くない箇所に川の流れが細く記されていて、ちょうど山あいを縫いながらこの道と連なっている。地形はいたって簡略に書かれていているなか、この先には大きさは分からないけど、二角堂という屋代か祠みたいな建物がその名と並んで黒丸でしめされていたので、少々胸が高鳴ったよ。二角堂って本当にあったんだな。
地図によるとそこを大きく右折し、二またに分かれている片方の山道の奥まったあたりでバスが待機している。渓流の音が耳をそばだてるまでもなく聞こえてきたところ、これまでの道のりから推量してあと小一時間くらいだろうか。灌木が視界をさえぎっているので水流は間近に出来なかったが、山腹へ登りだした傾斜の加減といくらかの曲がり道が、冴えた渓谷のすがたを約束している。
舗装のない道幅は確実に狭まっており、林道であるとしてもかなり走行が厳しく思われ、土ぼこりが舞っていない代わりに何やら妖し気な煤煙が漂っているふうだった。天空からの明るみは無関心であることを保守しているのか、前方をゆくヒツジの足取りを単調にし、胸にわだかまっていた懸念を風の向こう側へ送ろうと試みているのだけど、実際は数歩さきに案内人が存在するように、澄んだ霊気には包まれなかった。
風景がもしキャンバスや写真のフレームだったなら、僕は今どこを切り取るべきなのだろうか。それとも枠組みなど捨て去ってしまい、いっそこの脳内にならい平面であることに拘泥せず、自在なパノラマを時間と共有するか、選択肢の方が僕に先んじているようにも思えてくる。だが、それより彼方へと神経を手中させてみても風景はかわり映えしない。本当にきれいな瞬間は立ち止まってくれないのだ。別に汚くても同じなんだよ。僕はただバスに向かえばよい。
君には無目的な行動としか思えないだろうが、人里離れた山道を分け入る心境を形成しているのは、木立からさまよい出た草いきれを嗅ぎとっているかどうかもあやふやな自由と、斜陽が織りなす歩行の無為に他ならず、それは地面を這っている冷笑すら留め置かない影であり、山峡を被い尽くしている乾いた温もりだった。しみじみと実感するには風の向きや川の流れが、僕から上手に逃げ出しているようだよ。
どうしてこんな意想を持つのかっていうと、ふとよぎったデータX1についての霊妙な成りゆきによるんだ。チップに埋め込まれた情報が青年から抽出されたものである限り、ミュラーの肉体に植えつけられているのは断片だろうし、現にチューザーからそう知らされているから、この記憶をなくしてしまったとしても決して本体の青年が損なわれるわけでも、消滅してしまうのでもない。あくまで仮想としての意識が用済みになるだけじゃないか。とすれば、僕は不思議の森に迷いこんで二度と思い返すことない夢を見たに過ぎないだろう。夢想において死ぬと考えてみても無論やるせないが、バスに乗りこんだときから今まで随分ファンタジックな体験の連続だったから、これ以上浮き世離れした展開はまさに負荷が大きいよな。
夕暮れの遊園地から帰途へつくような感覚はここに集約されそうだ。ただし、本体の青年がどういった処置を施されたかまで及びはつかないし、安否を保証する手立てさえ誰にも問えない。ミューラーやドクトルKとやら、それに学者や医師団らの良心を信じるしかないよ。と、したところでこの仮想意識からたどるのはどちらにせよ不可能だけど。
太陽が沈むように僕も山の向こうに帰るだけさ。あまりに自然すぎて胸の温もりさえ忘れてしまいそうだけど、チューザーが言った「日暮れまでには」という意味あいは、夜を指していないと思う。
あれこれ思考がめぐったりしたが、朱を帯びたひかりが辺りを反透明な色合いで敷きつめていく推移はやはり脳裡に勝っているのだろう、僕は現実的には帰る場所がなかったけど、小さな秘密基地みたいなところにもぐりこみたい欲求を捨ててしまうほど悲壮感は抱いてない。ヒツジとヤギも一緒のことだし、もう少し遊戯に甘んじてみよう。
勾配の重みがひざに微妙な心地よさをあたえてくれたのと、道なりが右に沿っているのを覚えた頃、新たな危険が足の裏に突き刺さる。そう、追手が現われないのはどうしたわけだ。山陰に消される自分の影に薄ら寒い棘が忍んでいるような気がして、雲間に隠れつつもいよいよ残照となった空の色が、まるで暗調に移りゆく効果を発揮しそうで冷笑は本物に近づいていった。バスは多分秘密兵器だよ。だから、捕縛なり攻撃は乗車するまでに仕掛けてくるに違いない。親衛隊に任命した二人は果たしてどう出るのだろうか。遊園地はあとにしたけど、宵がせまるまえにどうやら幽霊屋敷の門をくぐる羽目になりそうで、背中からうなじにかけて鳥肌が立ってきたよ。作務衣の袖に石ころが残っている気がして、思わず手を突っ込んでみたが、砕けた砂利に触れただけだった。それはさっき親衛隊の銃を所持しているのを確認した反応かも知れなくて、僕は戯れることはあっても死闘はまっぴらだったから、自ら迎撃に徹する場面は訪れないだろうが、ヒツジらは任命された以上、血煙をあげる光景は避けられないとみたんだ。


[234] 題名:ねずみのチューザー56 名前:コレクター 投稿日:2011年09月27日 (火) 03時09分

西に傾いた陽は僕の横顔へ歓びを注いでくれた。熱をはらんだ一陣の風はより情感に接した。気分は決して悪くない。が、平坦な野から草木の密集した山道にさしかかった頃、獣の類いには似つかない余計な気配を後ろに感じたんだ。案の定、付け人が居たみたいだな。
気分の善し悪しには影響ないと胸に言い聞かせてみたけど、腹の底がむず痒いのか痛いのか、よく分からないうちに混乱はやって来た。予測しておいた通りの展開だったので、今更とまどいはなかったが、一歩踏みだしたところで旅路が損なわれた失意は、まるで瘴気となって現われ、新緑を汚しているようだった。
「誰だ、姿を見せなさい」
あくまでミューラーの姿勢を保持したままで敵対しなければならない。すると針葉樹に群がるように茂っていた羊歯の影から二人の男が路にさまよう按配で出てきた。
「畏れながら、我らを同伴していただけないでしょうか」
二人はヒツジとヤギの面を着けている。さっき親衛隊を募った際に忠義を果たしたと思われる者だ。
「必要ないと言っても付いてくるのだろう。まあいいさ、好きにするがよい」
実際どうでもよかったんだ。気配を悟らせないよりかは、こうして見張りを連れ立っている方が開き直れる。二人が本当に親衛隊なのか実証することなど意味はない。僕の返答に誠意を示すつもりか、揃って面を剥ごうとしかけたとき、こう言ってやったんだ。
「被ったままでよろしい、素顔を見せてもらっても私は動じない」
ヒツジとヤギは一瞬気勢がそがれた様子をしめしたけど、「はっ」と、よく通る声を揃え背筋を伸ばし命に従った。
座敷に集結した全員の顔を注意深く眺めなかったように、この二人も僕にとっては見知らぬ風景となってもらえば丁度よかった。彼らが仮面の中からこちらを凝視しようが、すでに態度が定まっている以上どこにも火照りは生じない。まだ燃え尽きたりしてないけど、半端な視線に惑わされるほど初心ではないし、平温だって高くなっているような気がして(これは例えだけどね)耐熱性を発揮したんだ。虚空に跳躍するにしてもエネルギーは大事だからね。
「ところでおまえたち、私の行き先は知っているのかね。それとも地獄の果てまで伴うつもりだろうか」
ミューラーの語気というよりも、どうやら僕の地が踊り出た。
するとまたしても口を揃えて、「バスに乗りこまれるのでしょう」二人はそう答えたよ。
「なるほど、私はバスでここまでやってきたのだからな、バスで帰ると判じたわけだな。ではその先はどこを目指す」
「いえ、それは、、、」ヤギの方が申し訳なさそうに言葉を詰まらせる。質問を投げかけたまま黙っていると、やや間を置いてからヒツジの方が、「どこへなりとも」と、いかにも実直な声を響かせた。
彼らが監視役だとしても僕は欺瞞に満ちているとは思わない、むしろ自分のもの言いに陰険な性質がこもっているようで、二人が気の毒になってきた。
「おまえたちの忠節はよく分かった、名前はいいがこれまでの所属と階級を申せ」
ヒツジが先に答えた。「陸軍中野学校、義烈空挺隊、少尉であります」
脱力にも似た感覚にとらわれたが、下手に真意の追求はせず、それはミューラーの仮面を剥離することに及んでいるから、泰然とした姿勢で臨まなくてはいけない。
ヤギが続く、「同じく陸軍中野学校、F機関、少尉であります」
「よろしい、二人は本日より親衛隊長に任命する。武器は所有しておるのか」勢い余ってつい増長してしまった。
親衛隊長らは笑みとも哀しみともつかない微妙な顔つきで、懐から短銃を取り出した。自分から言い出しておいて底気味を悪くしていまうのも仕方なかったが、なるだけ不穏な空気は避けたく、確かに先行きが暗雲で包まれているのは承知していたけど、また死闘が繰りひろげられるのは辟易で、眉間にしわが寄るのが感じられたから、あくまでもこの二人は護衛なんだと、願掛けでもしたくらいの心持ちに治まりたかった。そのとき不意に閃くものがあったんだ。そこで、こう話した。
「これよりは必要最小限の会話以外を禁止する。追手に位置を探知されないが為と、精神の統一を兼ねている」
「了解いたしました」
まったく大佐を演じるのは至難の技だよ。ヒツジとヤギは純朴そうで僕を疑ってみることなど微塵も顔にしないが、運良くバスに乗車出来たとしても、それからの指標をどうやって説明すればいいのだかろうか。僕の脳にはミューラーは宿っていないのだ。仮に彼らがそれを知っていて、来るべき日までの補充として警護に尽くしているのなら、尚さら影武者のごとく大佐に徹しなければならなく、会話はぼろを出してしまう可能性が高いから、とにかくバスに到着するまでは言動を慎しもうとしたんだ。
日暮れまでには、、、チューザーはそう自信あり気に言い残し僕の肩から飛び降りていった。小さく折り畳まれた紙にバスの在りかを記して。


[233] 題名:ねずみのチューザー55 名前:コレクター 投稿日:2011年09月26日 (月) 05時25分

チューザーの語りからすれば、大佐の理念は独裁的なスタンスを回避しているふうであったが、ドクターヘリを乗りまわしたり、科学者を動員し無謀な実験を行なえる権力構造には、たとえその心境に無常が横たわっていようとも、やはり専制の影が濃厚に漂っている。
目醒めるよう促されてみて、確かに謎はひとつの帰結を迎えたわけだけど、それまでの不透明な脳に甘んじることなく常に懐疑を忘れなかった意志が効を為したのか、制御装置は安定を保ったままで一朝一夕にはとても意識が転換されると感じられなかった。ミューラーへの覚醒とは僕の消失を決定するんだろう、それは自分の思念や感情がこの世からなくなってしまうことを意味するんだ。新たな意識がどんな格好で脳裡をめぐるのか想像もつかないし、眠りのなかに夢見を置き去りにしてしまうように、もしくは夢に落ちてしまう意識が隔絶されたものであるように、僕という現象はもうどこにも探りあてられなくなる。
所詮チップに組み込まれたデータX1か、、、しかし、装置の誤作動を発生させる闘志は神奇な猶予をさずけてくれているに違いない。そんな放恣が全身にみなぎっているのはあながち驕りだけでなかった。信じる術は盲目だったが、脳に棲みついた僕の命はひかりを放ち続けていたから。
声高にミューラーを振る舞って、我ながら演技に陶酔しながらもこころの隅ではそんな不安に苛まれていたんだ。が、ぬれ雑巾で怖れを拭ってしまう気分は、不安の侵蝕を容易には許しておらず、今という時間を刷新しようと磨きをかけていた。
「全員参列せよ!」
開け放たれたふすまの向こうから担架で運ばれてくる苔子を見つけ号令をかける。監視役やら護衛役は音もなく座敷へ現われるとそれぞれ面を外し、僕の言葉に従った。どの顔にも見覚えないのは当たりまえだけど、彼らの容貌に特別注意を払ったりもしなかった。十数名ほどの佇みには配下としての忠節が規律に守られているだけだったから、大佐を演じている僕からすればどこかよそよそしさもあったのだろう、ひとりひとりの顔つきを見分する使命は反対に距離感をつくりだしていたよ。
やがて担架に乗せられた苔子が横に迫ってきた。目配せするより早く担ぎ手らは歩を止め、僕の指示ともつかない態度を察知し、さながら負傷兵を慰労する情況へと運ばれる。僕はのどの奥から絞りだす調子で、
「もう自由の身だ。今後は養生に専念してほしい」と、薄目をしている苔子に伝えた。
床下で見せた蒼顔にも近かった面は無為な明かりで囲まれ、黙した配下たちの息遣いも静寂に掻き消えている。緊縛の空気は開け広げられた座敷から四方に流れゆき、かつて女体が躍動した情熱は想い出となってその瞳の底に透けて映るようだったけど、遥か彼方に遠のく意想がこの場を厳かに、そして緩やかに鎮めた。
「主様、、、」血の気をまだ戻せてない唇が微かに動いてそう呼んでいるよう耳にした。憔悴しきった表情だったが、小さな一点の微笑は目鼻なのか口もとなのか判別しかねているうちにそっと届けられる。僕は無言のまま苔子を優しく見返していた。いや、きっとそんな思いを描きたかっただけだ。僕の頬はこわばっていたように思うし、皮肉にもミューラーの擬態がそんな接触を冷淡に導いていた。
けれども苔子の横顔には春風でなぞられたに違いない安堵が色づき、一枚の葉が静かに震うようまぶたを伏せた。
「闇姫の役目は終わったんだ。きみは狂ってなんかいない、、、」口にしかけてみたが、言い出せない。ミューラーとも僕とも割り切れない気持ちのままで。
軽く首肯したのが合図になった。担ぎ手は再び任務に帰り、苔子の姿は僕から離れていった。二度と会うこともないだろう。後を追う黙礼にすべてを込めているもげもげ太を見送りつつ、深いため息をつきかけたところだったが、憂愁にとどまってはいられない、さあ、これで屋敷とも配下ともお別れだ。
「少し庭を歩いて来る」誰にでもなく、だがはっきりと聞こえる発音でそう言って僕はひとり外に出た。そしてチューザーは苔子との対面をまわりが注視するなか、ひと足早くバスの在りかに向かって駆け出していたわけさ。垣根を越え門を抜けた。甲賀玄妖斎なんて結局居なかったな、などと他愛ない考えに吹かれるようにして浮遊した足取りも気楽な風体で、ついに隠れ里を背にした。
追手の心配については都合よく解釈を施してあったので、というよりほとんど楽観的な考えに絡まっていたのだが、つまりきつねの面々は反勢力の手先だからどこまでも監視を怠らないだろうし、どうあがいてみても僕の行動は逐一上層部に報告されてしまうわけさ。あるいは百歩譲って野放しを容認する場合、職務放棄という名目において処理しよう、そう願ってもない好機に恵まれるんじゃないか。無論ミューラー大佐個人の逃亡だけで済まされない事情は計り知れなく、世界中に暗躍した組織の君臨者をおいそれと放任するとは思えず、情報の露呈など様々な危惧によって再度幽閉か、暗殺が待ち受けていると腹をくくったほうがいい。だがどちらにせよ、自由への渇望は障壁を乗り越えようとするんだ。大佐の意識が甦生すれば、僕は原理的に死んでしまう。それなら、最悪の情況を嘆くのではなく、いわば無心で虚空を羽ばたくようにして時間をたぐり寄せてみよう。ときの流れに身をまかせるふうでもあるけど、視線の泳ぎ方はかなり異なるよ。
あのバスだって結社が用意した秘密兵器かも知れない。そうなれば増々逃げ場は存在しない。だけども僕はチューザーと一緒にバスに乗り込みS市へと進んでいくしかないんだ。そこに行ったからといって何かが待っているわけでもないだろう。これは虚空への旅立ちだ。目的なんかじゃない、一切があそこから始まったし、すごろくなら振り出しに戻る遊戯なのさ。ミューラーの意識もあの農道で僕と入れ替われば、空虚なこころに円環が浮かびあがり、完結という名の装いが施される。今度は僕が美しくだましてやる、何をかって、それは振り出しに帰ればきっと分かるよ。
山並みを睥睨するつもりはなかったけど、西日を受け始めた目はまぶしいものに挑発されたみたいな気がして、孤独の境地をミューラーに分けあたえてやりたかったんだ。誰も注目などしていないのに、ひとり稽古する役者の心意気かも知れないな。だってその方が山も野も陽光でかがやくだろう。瞬間瞬間を愛せずに一体どこを求めるんだ。
これから麓に向かうには山々を目に、野原を踏みしめて行くわけだからさ。




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