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[232] 題名:ねずみのチューザー54 名前:コレクター 投稿日:2011年09月18日 (日) 23時21分

くるりともげ太らに背を向け屋敷に戻ろうとした。困惑の様子がうしろからうかがえる。さっと振り向き僕は言った。
「これはミューラー大佐としての命令だ。速やかに苔子を床下より救出し、十分な治療に専念せよ。残っている医師はいるんだろう、いなければ直ちに呼び寄せるんだ」
自分でも無理があるようにも思えたけど、声は広く野に響きわたり、そこには確固とした自覚があった。無論ミューラーの意志ではない、僕の自覚さ。
「大佐殿、そのような心遣い、、、任務を全う出来なかった苔子に、、、」
もげ太の言葉尻は恐懼に震えているようだったが、柔らかな声質のせいか、願ってもない満悦をくぐもらせているようにも聴こえた。多分に僕の温情がこぼれ出たと言われそうだけど、そうじゃない、電撃的な直感から結び目が見えたんだ。
「さっきも尋ねただろう、苔子の処遇について。掟には縛れていないよ。それとさあ、もげ太さん、あなたは苔子のことが好きだったんだろう」
僕の発した言葉に多少の呪力はあったみたいだ。「畏れ入ります」のひと言だけで黙りこんでしまった。別にこれまでの経緯に対する意趣返しなんかではないよ。苔子を救えるのはもげ太しかいないという考えも直感に含まれていたんだ。
「いとこ同士だから好きになっていけないなんて誰が決めたのさ。ミューラーは独裁的にあなたから苔子を奪ったのかも知れない。いいんだ、真実など。僕に出来るせめてもの断定だ。救出後もげもげ太の任務を解く。これでいいんじゃないかい」
まったく何を得意になっているんだと君は思うだろうな。が、よく考えてほしい、ミューラーとしての立場は失脚の憂き目から逃れなれないし、実験が失敗に終わった以上この里の処分や、配備されている監視役なんかの今後はもう見えているんだ。本来の意味で僕は幽閉状態なんだよ。近いうちに幹部連中の意見がまとまれば、僕はおろかもげ太やチューザーの進退は明らかになる。いわば彼らは最後の親衛隊といえるんだ。だからこそすべてにおいて忠実だったんじゃないか。苔子も入れ自由の空気を味わってもらわなくては。きっとミューラーだってそう判断するに違いない。
意気揚々と座敷に上がったとき、チューザーが何か言いた気な顔をしていたが、すぐにそれは理解出来た。ミューラー大佐を演じろってことさ。そこで早速、僕は声を張り上げた。
「護衛ならびに監視役の者、プロジェクトの任はここに終結する。きつねの面々もよく聴け、地下の医師団にも告ぐ。闇姫役の女人を今すぐここに連れてくるのだ。親衛隊を誇れる者はこの中にいるか」
音もなくふすまが開かれ二名が現われた。それぞれヒツジとヤギの面を被っていた。恭しく敬礼をした二名に対し、僕はこう命令した。
「お前たち、もげもげ太を伴い苔子の救助に当たれ。くれぐれも粗暴な扱いをするのではない」
もげ太の瞳がうるんでいるのを横目で認めながら、僕は屹立とした姿勢で素早く駆けてゆく部下の背中を凝視していた。
あれはどのくらいまえなんだ。おくもさん、きみのうしろに着いて座敷を巡ったのは、、、あのときは機械人形なんか思い浮かべてしまったけど、今は僕が完璧な機械だよな。すまなかった、きみは自分の魂が抜けてしまうのを知っていたから、あんな空虚な説明に透けて現われ幽霊みたいだったんだろう。
悔やみきれない情念は逆巻くことにとどまらず、青みを増した月光となって屋内におけるあらゆる明かりを駆逐しようと試みた。
「護衛役、奥の間の殉職者を丁重に葬るのだ。監視役、本部との連絡は可能か、ならば待機しておれと伝えよ」
僕は賭けていたんだ。ミューラーの記憶が甦るまでの間、どれだけ逃走出来るかね。どう言われても最高責任者の末路が僕に及んでくるのを易々と受け入れるほど、お人好しではない。散々他者を巻き込んでおきながらよくそんな文句が言えるもんだと思われてもかまわないさ。本質的には僕の原罪ではないから。
それに制御装置の稼働だが、現時点では僕に主導権があるみたいじゃないか。気が動顛していることはしているけど、大佐を演じるくらいの冷静さもかろうじて残されている。ことによると案外目覚めは遅くなるかも知れない。
苔子が無事を見届け、もげ太に別れを言い、屋敷は解放される。そしてさっきから僕の肩に飛び移ったチューザーとねずみ語で企てを立てている。ねずみ語なんていつ学習したのかって。バスでも座敷でもいつも暇だったのを忘れたのかい。
チューザーの置かれている立場も実は危ういんだ。ミューラーの威光が失墜した情況だと、種族の途絶えた身には、結社の科学班がこぞって研究対象の為と気の毒なくらい奉仕させられるのは確実で、おそらく生きて自由を得ることは叶わない。特にドクトルKは人体実験よりも、効率の高いクローン技術を用いて格好の材料と密かに願っていたんだ。子孫繁栄とはいえ、チューザーはそんな複製術などにすがる気は毛頭ないらしく、僕と一緒に逃走し山間に隠してきたバスで落ち合おうということ決まった。ミューラー大佐としてではなく、あくまで僕という曖昧な人格とね。考えてみればチューザーは独裁者に制圧された、いや影響されてしまった悲劇の生き物といえる。
土壇場での逃走に恭順してくれたのは、彼にとってみても最後の賭けだったと思う。だって途中で僕の意識が消えたりしたら目もあてられない。それとも大佐と心中でもする覚悟をしていたのだろうか。


[231] 題名:ねずみのチューザー53 名前:コレクター 投稿日:2011年09月18日 (日) 23時19分

風がそよぎだした。山稜に白雲がかかったがまだ低くない太陽の光線は、生き生きする緑のふちをかすめながら乳白色の雲を生みだしていた。ところどころが黄金を透かしたみたいに深い光彩を放っている。
「闇姫はあのまま解放されない掟に縛られるのだろうか。分娩が不首尾って言ってたけど、それも背信行為と定めたというのかな。もげ太さん、あなたに訊くよ」
「いいえ、じいやばあ、それにおくもと違いまして苔子、いや闇姫は戦闘員としての使命は申しつけられていません」
「苔子でいいよ。僕もそう呼ぶから」
「恐縮です。死んだ三名は本来護衛役として配備されたのですから、越権行為は絶対命令のもと断罪されても仕方ありません」
「監視役じゃなかったわけだ」
「はい、監視は屋敷内に張り巡らされた高感度映像や集音装置がほぼ担いまして、あとは大佐殿に察知されないようまわりを幾人かが固めておりました。三名は世話役も兼ねていたのですが」
「そうだったんだ。僕はてっきり彼らに見張られていたのかと。それにおくもは肉欲の相手まで努めてくれたんだ。いや、おくもについては最後にするよ。まさかハイテク機能を装備した屋敷とはねえ、で、苔子なんだけど」
「あの床下の奥にはトンネルが掘られていまして、苔児の分娩室が設けられていたのです。屋敷からはちょうど灌木の茂みの向こうになりますが、見通しが利かないあたりに自動開閉する明かり取りの窓なども設置されていたのです。医師団は無事分娩を見届けましたあと、直ちにねずみの発育に専念して器官を詳細に調べた結果、チューザー殿に顕著な声帯をどの子ねずみからも確認できなかったです。しかし成長とともにやがて成果が出ることに望みをかけました。それを知った苔子はやはり母体の本能とでも言いますのでしょうか、誰よりも深く失望し、そして自責の念を募らせていったのです。結局種族の誕生はあきらめるしかありませんでした。ところがわたくしも知らぬ重大な秘密が監視役から届けられたのでした。それは苔子は子ねずみと一緒に人間の子供を生んだというのです。かなり小さな赤子でしたが、紛れもない人の子」
「何だって!その子はどうなったんだ」
僕の鼓動は早鐘のように鳴り始めた。再びめまいに襲われる。が、底知れない陰謀が渦巻いているのを、あたかも隣部屋から覗き見しているように判断出来たんだ。そして苔子の狂態さえもが。
「死産でございましたので実験が失敗に終わった以上、大佐殿にはこの件は伏せておくのが最善、人の子など価値はないと一蹴されるに決まっている、そんな意見が大半を占めて、早々にこの里から何処かに運ばれてしまいました」
端正なもげ太の顔立ちが不協和音に歪んでいる。
「そのあと、苔子は発狂したんだね」
「そうです。けれども原因は使命の不首尾とも、死産の赤子からとも言えません。いきなり狂ったわけではなく、次第に正気を失っていったそうです。医師団や幹部はその処置に頭を悩ませ、ついにわたくしとチューザー殿に妙案を求めてきたのでした。問題は大佐殿の記憶回復に委ねれていました。あの頃の大佐殿といえば、苔子なきあと籠絡の身を嘆き、脱走さえ目論んでいる様子でしたから、わたくし共はおくもの責務をより認識させる為、地下室へ連れてきて苔子の有様を見せたのでした。とにかく大佐殿をこの屋敷から出さないよう心身一体となって尽くせとの命を、おくもは従順に務め上げました」
「それでおくもは床下の造りを知っていたわけだ。だけど、そんな部屋も抜け道なんかないって」
そこまで言いかけたとき、僕の胸に不快な熱が広がっていくのをどうすることも出来なかった。思えば赤影にまつわる金目教やら卍党、そして闇姫という存在自体が目的に向け刷り込まれていた。きっかけを作るよう軽快に投げかけられているも知らず、いや、むしろ僕を奮起させるにもってこいの追想として段取りされていたのであって、少年時の憧憬を募らせ性的興奮をたかめる為にか、その意気込みこそが無謀に近い交配を成就させ、僕と闇姫はいにしえからの契りを約束されている確信へ至ったんだ。本来の記憶がミューラーのものなのか、青年のものなかはここでは証明出来ないが、なんという時代がかった、けれども淡さをもって激しさとする演出には畏れ入るばかりだよ。あれほど嫌悪した記憶回路への侵入はもはや疑念として拭うわれるのではなく、一筋の道程になって僕を待ち受けている。
すると闇姫を演じた苔子もまた同様に意識操作されていたのだろうか。
「苔子は金目教としての自覚があったのか、そうなら、、、」
「いえ、役目を全うしたのです」と、もげ太はきっぱり否定しかける語気で続けて「闇姫に成りきっていました。故に失望も大きかったのではないでしょうか」そう話した。
「おくもはそんな苔子の心根を見抜いていた」
「違いありません。大佐殿の疑問もそこに結ばれていくのです。おくもは悲嘆にくれる姿に同情しただけでなく、奥の分娩室を見られてしまうのを怖れていたのでしょう。しかし」
「しかし」血の香りが鼻につく。
「ばあからすればおくもの心中を慮ることなく、断罪に値したわけなのです」
「どこまでも忠実だった、この僕に」
憐れみが花びらになっていればいいのだろうか。
「じいはおくもに斬りつけたあと僕にも攻撃しかけてきた」
もげ太は眉根に悲しみを寄せ「捕らえるつもりだったのです。どうして大佐殿を傷つけられましょう」
山々の連なりに向かって深いため息がもれ、陽光は雲間に隠された。ほとんど起伏のない野原だったが、翳りによって抑揚ある草いきれを覚える。
きみらがおくもの失血死をくい止めなかったのも、忠義からだったのか。悔恨に満ちてきたこころは方角を転じるよう命じている。風がまたそよぐ。ほら、ほんのひと時さ、陽射しがすぐに戻ったのを僥倖とばかり、
「では苔子はもういいんだね」と、挑むよう問うた。


[230] 題名:ねずみのチューザー52 名前:コレクター 投稿日:2011年09月13日 (火) 04時41分

「命令だったのかい僕の。任務から逸れるものは直ちに抹殺するべし。例外はなし、すべては鉄の掟に守られている」
おくもがとった行為はプロジェクト失敗後だったし、本然に立ち返る僕を目一杯補佐する役割を担っていたのではないだろうか。しかし、じいとばあはまるで禁断の地に仕掛けられた刃のように、反射的な殺意でもって僕らを襲撃した。正確にはおくもに対する処刑が敢行されたのだが。
時間系列でいけば他の疑点から記すのが順序だろうけど、さっきからの会話は遺体から離れたとはいえ、まだまだ血の匂いに包まれた直後に交わされていたんだ。どうして沈着な心地でいられるものか。
「大佐殿、どれほどの護衛があなた様のまわりに配備されていたか御存知でしょうか。人気のないS市に放たれましたときから、バスへの乗車、そして隠れ里に到着するまで厳重な体制は微動だにしませんでした。もちろん屋敷内におけるすべてもでございます。第一に大佐殿の意志が問われておりました。おくもについては端的な返答を差し上げたいところなのですが、どうしてもそれを迂回するわけにはまいりません。この度の計画はなるほど用意周到に進められてきたのでありますけど、ドクトルKが懸念いたしました通り、成功率は決して約束されたものではなく、集結された学者たちの見解も同様で、最先端技術の彼方の光芒には神秘という名のまぼろしが映るのみ、理論は骨子でしかない、畢竟我々を突き動かす力は意志の有無に大きく左右されるのだと共通項に帰着したのでございます。宇宙は無限の広がりを提示し、環境に及ぼす影響は計り知れないものがありましょう。しかし、どれほど宇宙論を探求したところで、また自然科学を極めたところで、意志という力が稼働しない限り、この世界は所詮ただの風景なのです。いえ決して静止した意味合いでとらえているわけではございません。文明の発達も、自然災害の猛威も、人智の進化も、あるいは世界像の転倒も、一個人の力量で動かせないように風景は生き物と変わらぬ生命力を持っております。ただ、それがしが申し上げたいのは認識論的な把握による世界観より、動的な時間性に還元されつつ乗り越える意志のあり方を問いたいのです」
チューザーの奴うまく矛先をかわしたもんだ。まあいいさ、つまりミューラーの意志がこの僕なわけなんだろう。そんな気持ちと折衝しながらこう尋ねる。
「護衛とは恐れ入ったね、では僕をつけ狙う輩もいたということなんだ」
「さきほど申しましたように、大佐殿の決断は結社の総意とは言い難く、密かに反乱を企てている幹部も存在していたのです。そこで自ら実験台に望まれたのを幸いと、脳内に異変をきたした理由づけにおいて大佐殿を失脚させる陰謀が発覚したのでございます。婚儀に参列しましたきつねの面々こそ反勢力の連中、疑心暗鬼の仮面を被った様相はまさに効果満点、護衛側でも紛れこんでいたのでさすがにあの席では謀反を起こせません。もの言わぬ圧力と判断して誤りはないと存じます。何せ事前に参列の予告を寄越したぐらいでありますから。大佐殿と闇姫様にも面をして頂いたのは言わば暗黙の了解であったわけでございます」
「じゃあ、あのとき警戒態勢だったのかい」
「無論そうです。それがしは屋敷内から庭先の隅々まで警護隊を配備いたしまして、緊張に身をこわばらせていたのであります」
道理で目線が合ったときによそよそしく見えたんだ。チューザーが語る真相の数々によって僕の疑念は一気に溶けだし、つい先ほどまで屋敷内で繰り広げられていた活劇が、まさに映画館をあとにするような感じとなって胸の奥へのみ込まれていった。すると不思議なことに今ここの庭先に佇んでいる自分の影が、会話の主であるねずみの姿をありありと際立たせたんだ。
何てことはない、チューザーはもげもげ太の肩に乗っかって僕と向きあっている。真正面ではなくやや斜交い気味なのだが、その間合いといいこんな深刻でクレージーな話しをするには絶妙の位置だった。もげ太の存在さえ眼中にあり得なかったのだから、その集中度がどれくらいなのか察してほしい。ようやく相手を客観視できるようになったのは、それは言い換えると、いくらか呪縛から解かれたということになるし、動悸も治まり何より気持ちが落ち着いた証拠だろう。
陽光が肌に注いでいる感覚と殺戮により焼きつけられた鮮血は、ここにきて得も言われぬ混淆で現実感を育んでいた。現実が現実であることは予断を許さない鋭角的な印象を刻む一方で、どこか遥か彼方に飛翔してゆく翼をまぶたの裏に描いてみせた。この相反する感性の磁場はもしかしてミューラーの記憶が、薄皮を隔てて僕に帰ってくる予兆なのだろうか。それなら意識するよりも目のひかりが反映するものをただ眺めてみよう。
もげ太の表情には険しさが風にさらわれたような微笑がたたえられていた。チューザーの語りに歴史の重みを見いだし後世に記された書物をひもとく、、、おそらく教科書なんかじゃない、でも彼が頁をめくり読み上げると誰もが聡明な顔をしてうなずいてしまう。そんな夢想に連れ去られ、いつまでたっても好青年ぶりを発揮するもげ太にあらためて親しみを覚える。僕は彼からも何かを聞くのだろうか。予感は風に乗って訪れる。
チューザー、ちょっと見ない間に随分老けこんだんじゃないのかい。こんな陽気なひかりを浴びているから、そう感じてしまうのだけなのかな。いやいや実は数百年も生き長らえてきたのかもね。種族の長老だから子孫存亡の憂いて立ち上がったんだ。色々あったけど僕はきみらと出会えてよかったよ。脚本だろうが決定項だろうが、、、
ミューラーの意識が舞い戻ったらこんな気持ちは消えてなくなってしまう運命だよな。共同体としての連帯感は変わらないと思うけど、もう一緒にバスに乗ったり、にぎりめしを食べることもない、それに疑念を抱きながら謎ときをしてゆく冒険も。言葉を喋るねずみなんて世界中探したってチューザーしかいないんだろ。ミューラーの欲望はすべてをつくりだしたみたいだけど、すべてを壊してしまった。
さあ、語るべきものは語ってくれ。そして解放してくれるかい。


[229] 題名:ねずみのチューザー51 名前:コレクター 投稿日:2011年09月12日 (月) 14時41分

「これはいささか感傷が過ぎたようです」
いつにないチューザーの悲哀に乗せられたのか、僕とミューラーが共振している感覚が近距離まで歩んできたような気分がする。しかし感傷に身をまかせてるわけにはいかない、大佐の意志の件に戻ろう。
最初に耳へと入ってきた聞き慣れない言葉、そうデータX1とチップについてだ。これは僕の要約で進めていくよ。
いよいよ人格変換の技術を駆使するにあたって、さきの精神医学分野と大脳生理学が援用され、大佐にとって最適な、この情況ならびに以後の経過までを吟味した結果、あるひとりの青年が抜擢された。
チューザーには門外漢なところもあるので詳しい情報はもたらせなかったが、要はあまり激烈な個性だったり、特異な嗜好に傾斜している人間は一見、仮面としての本領を発揮しそうなのだけど、大佐自身の性格を完璧に消し去る可能性が出てくる。この事情については学者間においても相当議論されたみたいで、ひとつには意識の完全払拭が日常レベルの会話や行動に影響を及ぼさないかという危惧であり、これはまた胎教から想起されるように寝た子の睡眠度を計測したい、もしくは根本に生命体があり記憶は果たして徐々に植えつけられるのではなのかという命題を重視した結果、柔らかな自己像の成り立ちに賛成意見が寄せられ、穏便な性格の持ち主がやはり適切であるとの見解に至ったんだ。
ふたつめには記憶回復の過程においても完全消去よりかは、いくらかの残滓がより自然な回復につながるだろうとの意見で一致をみせ、それならば適任者とは、なるだけ情緒の安定した、かといって利己的な性分をあらわにしない程度に配慮の利きそうな温和な人格が最良だと認められた。
そしていざ選定に臨んだとき、ミューラー大佐はふと思い出したように、数年前S市からそう遠くはない町で起きた事件の際、ドクターヘリで救出したある青年を指名した。なんでもうわごとに「猫を引き殺した、車輪から飛んだ猫は回転しながらこっちを見つめていた」とつぶやいていたそうだ。良心の傷みから発せられたうわごとなんだろうけど、瀕死の重傷においてそんな言葉を聞くとは思ってみなかったので印象に残っていた。その後青年は後遺症もなく無事全快し、今ではショッカー○○支部に従事しているところ、面談ならびに身体検査を経てから、脳波変換機にて大佐へとその記憶を移しとった。その際に大佐はちょっとした悪戯をした。猫の怨念から解放されるのを願い幼児期にある記憶を植えておいたというのだ。逆療法ともいえるがとにかくそれは僕もよく知るところだから、なるほどそうした経緯があったかと妙に感心してしまったよ。
チューザーは青年と大佐との施術には立ち会っておらず、のちにそれを知ったらしいけど、僕へ言い含めたミューラーにまつわる話しはまさに筋書き通りだったのさ。
あと肝心なことを述べておかなくてはいけない。青年の記憶をどこまで移植するかにあたって、またもや関係者らの意見が対立した。最終的には断片を散らす具合で、これは君も覚えているだろう、みかん園での離婚騒動や、茶の香りに敏感なあたりがいかにも現実味をあたえ、それはある意味成功だった。というより青年の記憶はほとんど浮上することなく、失われた過去と現状にもがき苦しむ設定をつくりだす方向に貢献したと思う。僕が明言するんだから間違いないよ。おかげで真実に直面しても未だミューラーとしての自覚なんか微塵もなく、穏健説を唱えてくれた学者に感謝したいやら何とも複雑な気持ちだ。
データX1に関するいきさつはこれくらいでいいだろう。チップについてはこう読み解くしかないと考えている。すでに混乱は始まっているわけだけど、制御システムがうまく作動している間は問題ないとみていい、だが僕の混乱が雪崩みたいに勢いを増すと、回路は乱れて逆行し、つまり心身を破壊してでも最期の選択に邁進する。そうだよ、ミューラーを取り戻すのか、あるいは永遠にニュートラルの世界を彷徨し、チューザーが感傷に震わせた無常へ浮遊していくのだろうか。どうやら僕の思惑とは離れたところですでに萌芽が取りざたされているんだ。生身の神経はメカとどれくらい拮抗を展開するのというのか。そして壊れゆくという意味合いが字義通りに灰燼へ帰するのなら、それは本望であるかも知れない。
党首としての自覚も使命感も投げ捨ててしまいたい芽生えが自他ともに明白とされたとき、その答えは自ずと僕を制圧し、自由への讃歌に欺瞞的な美を見いだすことだろう。
美しくだまされたい、、、何という幼稚で世間知らずの戯言を理念としてきたんだ。君から見ればきっと僕は二重に緊縛されているのだから、憐憫さえ覚えてくれればなど甘えてみたくなる。
サスペンス映画なんかだと、ここで幕切れになるし、後味の悪さは案外日常から逸した感銘をあたえたりするんだろうな。ところが悲しいかな、まだ僕は君に伝えなくてはいけない事柄があるんだ。床下に潜んでいた闇姫の謎めいた行動や、そこから判明した出産が失敗に終わったという、プロジェクトそのものの崩壊。
鉄の掟はどうして過酷なまでに血生臭い結末に堕していまわなければならなかったのか。おくもを見限ったチューザーともげ太の思案は本当に冷徹だと言えるか一考の余地があり、それは治まりを知らない憤怒が今だけ牙をあらわにしない、してはいけない、冷血漢みたいな心境は果たしてどういった意志に培われているのか、想い巡らしたいんだ。
なんだかんでで僕は神経が図太いに違いない。そうでなければ、おくもの死にとらわれているだけで、とてもじゃないが整合性に意識を重ね合わしたり出来はしない。恋は死んだんだ。墓碑銘にたたずんでいるのが最善の時間であるべき姿を打ち消しているのは、どんな面貌なのか僕には分からなかった。


[228] 題名:ねずみのチューザー50 名前:コレクター 投稿日:2011年09月12日 (月) 04時36分

「それでねずみ一族は大いに実験へと加担したというわけだ」
軍事的行動という名において計画が企てられたとすれば、さぞかしミューラーはそこに価値観を見いだしていたんだろう。互いの望みが叶えられるのなら、きっと共同体として機能していたに違いない。僕は欠片ほども記憶を甦らせられない自分をもっと突き放すよう、秘密結社の欲望と種族らの栄光に軽蔑の念を抱いている口ぶりでそう尋ねてみた。
「おっしゃる通りでございます。我らの存亡は大佐殿にすべて委ねられたのです。すべてをコントールせよ、それがあなた様のお言葉でした」
「えらく、尊大な言い様だな。僕はそんな言葉を吐いていたんだ」
「現状をコントロールせよとは申しておりません。様々の可能性を信じつつ、決してひとつの形態だけに慢心せず、進化する過程にこそ至上のまなざしを注げと祈りにも似た観念をお持ちでございました。故にコントロールとは掌握することではなく、より深い認識性を示していたのだと思われます」
「それは立派な意見だ。でも今は以前の記憶にひたることも無理だから、いずれゆっくり吟味させてもらうとして、まずはドクトルKとやらの手腕を聞かせてもらおうか」
「はい、遺伝子工学の権威にしてクローン技術を極めました博士なのです」
チューザーの語るところによれば、ミューラー大佐は自分のからだにねずみ一族のDNAを組み入れたり、細胞から抽出した特殊な物質を投与するようドクトルKに依頼したのだったが、人体実験を買って出た本人に及ぼす危険性が高いと最初は承諾しなかったそうだ。大佐のからだに送りこまれるのはいわばチューザーのエッセンスなんだろうけど、最終目的は自己の精巣から放たれるものがねずみを生み出す源となり、受け手の女体にも同様の技術を施すっていうのだから、クローン人間とはかなり趣きが変わっている、第一人語を理解出来るねずみの生体自体がよく解明されていない、大佐の願望とドクトルの意見が現実において噛み合ないのは他の取り巻きにも瞭然と映っていた。
しかし、ミューラーはあくまで実験精神を放棄するべきでないと、声高々に主張してやまず、ついに一大プロジェクトの幕は切って下ろされたんだ。遺伝子工学以外にも各国から高名な産婦人科医、胎教を専門とする研究者、さらには精神分析医、大脳生理学者、怪奇医学史に通暁する識者、薬物学の権威、また異色のところからは超常現象研究家、建築家に庭師、脚本家なども動員されたという。
母体となるべき女性には結社側から慎重かつ秘密裏に幾人かが選定され、美貌はいうに及ばず、その品性を追求し、なおかつ心身の健常を越えて有能である挺身者に的が絞られた。それが闇姫こと苔子だったのさ。実名は定かではないけど、もげもげ太はその推薦者であり、苔子のいとこにあたるそうだ。屋敷では叔父とか言っていたが、親族であることには間違いなく、もげ太もまた結社に所属している身とか、このあたりの情報はチューザーに包み隠されず伝えられたというわけさ。
そこで彼らは御用達の脚本家が書いたシナリオに沿って互いの役割を演じ、隠れ里の開墾に携わった。じいやばあも挺身隊だった。屋敷に接した際の印象が映画のセットを彷彿させたのは、あながち勘頼りに傾いていたのでなくそうした背景が潜んでいたからなんだよ。
S市の農道でさまよっていたときにはすでに仕掛けが万全に施されていたんだ。その後の展開は今まで記してきた通りだから、重複するのを避けるとして、ここでミューラーの意志について少し説明しておこう。
といっても僕の記憶は述べれないので、チューザーから聞き出した言説をよりどころとして見解に導いてみる。
「己を投げ出してまでの実験にどんな意志を持って臨んだか、世界掌握が本願でないとすればだよ、ミューラーはどうしてすすんで種まきの役に準じたんだろう。結局、世にも稀なねずみを生ますことに快感を覚えたからじゃないのか」
僕の質問にチューザーはもっともというような顔つきをし、こう答えた。
「快感とおっしゃられましたが、それがしにはそんな一過性の問題とは思われませぬ。確かに実験の成功から得られる栄光は我ら種族も含め、歴史に燦然とした輝きをもたらすでしょう。それは単一な感情に返せるものではなく、未来永劫に光輝を放ち続ける性質をはらんでいます。ところがドクトルKが渋面をつくったように、必ずしもこの交配が成就されると限られますまい、そしてかの博士の懸念は大佐殿の内奥に仕舞われたおぞましき白色矮星のごとき願望を見抜いておりまして、反論に拍車をかけたわけでございますが、それと言いますのも、結社に君臨している身をどこかで憐れんでいる心性をかいま見たからではないでしょうか。掌握に絶対性を求めず、過程そのものに意識をすりつけてゆく、裏から見ますと無常観にも共通する醒めた情熱に支配されているのでございます。そんな大佐殿の面持ちを配下の者らは感じとっているのか、党首としての才覚に疑問を投げかける風潮さえ表立っていたのです。ちなみに大佐殿はオデッサなどではありません、あれはそれがしが脚本を読み上げたまでのこと、ねずみとねこの諍いは機知に富み秀逸でありませんでしたか。結社の本来の姿はいずれ記憶の回復と共に明らかになるはずでございますから、詳しくは申し上げる必要もないでしょう。さて、そうしますと大佐殿が望まれたものは快感とは似ても似つかぬ、一種の逃避願望であったのを思い知りまして、あなた様を目の当たりにしてしまいますれば、どうしてもそれを禁じ得られませんでした。大佐殿の本願は現在のあなた様のこころに裡にあらかじめ修められていたのでは、そう儚くも切ない心持ちに流れてゆくのをそれがし、こらえてみればみるほどに、いたたまれなくなってしまうのでございます」


[227] 題名:ねずみのチューザー49 名前:コレクター 投稿日:2011年09月12日 (月) 04時35分

「感情レベルが振り切れてしまいますのはデータX1のパーソナルにもよりますが、装置のショートが引き起こす問題は大佐殿を破壊しかねない危険があるです。微小なチップに埋め込まれた情報は制御システムとしては優れているのでございますが、生身の神経と直接接触する為、多様性の限界に近づきますと、その機能ゆえ緩和を放棄してまでも能力を最大に発揮させてしまい、回路に混乱をきたすリスクを背負って稼働し続けようとしていまうのです。指示においてはご自身で記憶を取り返しかける兆しが見えるまで、という計画でありましたから、それがしは慎重に実験の経緯をうかがっていたのです」
「実験、、、」

まどわしの室内はもはや白日にさらされた幽霊屋敷でしかない、ことの次第は新鮮な空気を吸いながら説明しましょうという、チューザーの意見に逆らうでもなく、気軽に庭先に出てみるよう僕は従った。回廊をめぐる経験より、その設計図を見てみたい意識がせり出していたから。
春の気候にふさわしく午後の太陽は、ひとつひとつの毛穴にまで浸透してくる朗らかな刺激を持っていた。新緑に映える山々からは初夏を待ちきれない息吹が届けられ、青空の広がりはそのまま透明な意識と連結してどこまでも自由を保証してくれている軽剽な夢に溶けこんでいる。
胸を焦がすのはおくもとの交情の思い出にもあったが、過去の一場面をただ切り取ることよりか、青空全体におくもの女陰がワイドに映しだされているといった、荒唐無稽なイメージのほうが枯れた涙と釣り合いがとれているような気がしたんだ。秘められてこそ官能を高めていたこれまでに決別する思いは、水瓶をひっくり返す投げやりな衝動に似て、ふしだらで薄情な言い草に聞こえるだろうけど、こんな清々しい天候に女体が開かれる様を想像するのは如何に健康的で、陽気で、そして天真のエキスがまぶされているか、まだ笑いが訪れてない以上、僕は蒸発してしまった涙を失ったとは思いたくなかった。
ミューラー大佐と呼ばれてもひとつも実感が湧かないし、僕にとっては架空の人物であるよりも、いっそ赤の他人だという感覚が優先し疎遠であり続けていたけれど、チューザーの言葉に疑念を抱くのはもう止めてしまったわけだよ。常識判断を放り捨てる気概が削がれたのではなく、あまりの大仕掛けが常識を裏切っているのはおかしいと考えたんだ。そうだろう、ここまでして僕を騙し続けるメリットがチューザーらにあるとは到底思えない、僕はミューラー大佐だったんだ、そう過去系で認識してみるより他にどんな方法が見当たるのか。とりあえずは、その実験とやらの詳細に耳を傾けるしか展望は開けない。
ここまで読み進めてくれた君ならばこそ感じる疑問の数々こそ、僕の知るべき権利でもあるのだから。
ねずみが僕に知らしめた驚愕の事実は、推量を遥かに通り越したあまりの内容だったので、却って人ごとみたいな、つまり他人の不幸を聞かされているふうな距離感を作り出していたと思う。何から問いただせばよいのか、実際にはこみ上げているだろう混乱した意識は案外取り乱すことなく、鎮静した心持ちを維持するあきらめに首を頷かせ、空疎な間合いへと歩み寄ったんだ。
忠義に萎縮しているのか、それとも動揺している僕に刺激が加わる手順を思慮しているのか、黙したまま空気へ何かを伝播させたい意想が透けて見えてしまったので、口火はこちらから切った。
「僕は目醒めなければならないんだね」
続くチューザーの応対を出来るだけつぶさに書いていくつもりだけど、君にとっても理解しやすくする為に要約を交えて、何故かといえば、僕はやはり動揺を隠せなかったみたいで愚問にまでは至ってないが、けっこう要領を得ない会話に持ち込んでしまっている、そうした事情も踏まえて整合性に即すよう敷衍するつもりだよ。

「計画では大佐殿ご自身が意識を呼び戻すよう設定されておりました」
「それはさっき言った、回路に混乱をきたすおそれを避けるための制御システムなのか」
設定の不首尾が自分の責任であるかのようにチューザーはあくまで控えめな口調を崩さなかった。しかし彼の口から突いて出る言葉の数々はめまいをもたらさずにはいられない。まず、僕が脳内のある箇所にチップ、すなわち他人格変換装置を埋め込んだ理由から説明は始まる。
「大佐殿にとって我らねずみ一族への接近は宇宙開発にも匹敵する軍事的行動でありました。しかも優秀な部下たちを退けてまで自ら生身でアプローチを計ったわけでございます。ただ生身という形態には様々な問題が付随していました。幾ら意識を偽装したとて、細やかな感情や不意の反応を覆い隠せるものではありません。そこである人格をまとい完全に今までの境遇を消し去ってしまう、これが最終的に選択された方法だったのです。目的は種族数少ないの生き残りとなっているそれがしを訪問され、我ら種の保存とそして科学的技術により非常に厳しい情況に置かれていた子孫を生み出すことにありました。徹底的な分析結果をもとに種の繁栄が我らの自然交配では確率が極めて低いこと、はい、そうでございます。人語を操る異種の生誕確率です。そこで人口受精が研究され試みられたところ、効果はかんばしいものでなく最先端の科学をもってしても種の絶滅を阻止できない、手法は尽くされたと悲観していた矢先、大佐殿から思いがけぬ発案が飛び出し、計画最高担当者であったドクトルKを説き伏せられまして、我ら子孫の存続へとまさに身を挺するご覚悟にて臨まれた次第でござります」


[226] 題名:ねずみのチューザー48 名前:コレクター 投稿日:2011年09月11日 (日) 20時02分

地下世界からの生還に艶めいているおくもの黒髪へそっと触れてしまったとき、躍起になって偵察を行なっていたのが、なにやら恨めしくも儚くも思えてきた。眠りついたとは見えない横顔には、それでも安らかなあどけなさが薄紅を刷かれたようにほんのり香っている。止血するすべもままならない焦燥は、改悛の情から離脱して不本意な方向にたなびいていた。待ち人が一刻も早くこの場へ姿を現すことだけに賭け、おくもの流血は夕陽のごとく赤い幻影になって帰途をさまたげていると、行き交うそれぞれのひとに願いを託していた。
畳の目に沁みてゆく血潮はもの言わはぬおくもの魂だった。無闇にからだを動かしたりするのは容態を悪化させてしまいそうで、見守るしか能がないことをしめやかに呪い、せめて意識を取り戻してくれたら、水気を帯びた髪をなでる指先が硬くならないよう気持ちを落ち着け、森閑とした座敷に伝わってくる細かな音を聞き取っていたんだ。
決死の覚悟で駆け抜けた出入り口の畳は何事もなかったみたいに元通りで、つい今しがたまで地下に潜入し、闇姫と言葉を交わしたことが夢なのではと疑りたかったけど、傷つき横たわったおくもと、少し離れたところで酷たらしい屍になっているじいが目に入る限り、夢は現実を過剰に裏切っているのが嫌というほど実感された。じいがおくもに襲いかかり、僕はじいを殺した。誰か目撃者とかいれば、サイレンが遠くから近づいてくるはずなのに、、、
もげ太、チューザー、どうしたんだ、老夫婦だけが過酷な番人の任務に殉じたのかい、おまえらが責任を放棄するとは考えられないんだけど。頼むから今すぐそこのふすまを威勢よく開けてくれないか。
闇姫は床下で僕の子を産んでいたんだよ、本山でなんてよくそんな嘘を言えたもんだな。あのとき咄嗟にねずみの群れはと信じこんでしまったが、それもかなり不可解なことだ、しかし今はどうでもいいから、理由なんかこだわったりしないから、とにかく姿を見せて欲しい。
声にならない悲痛な叫びは、返ってくることのない虚ろな響きとなって隠れ里を取り巻く見えない壁に吸収される。時計とは縁のない日々だったから、こんなに秒針が刻まれる思いはひりつくような、焦りだけに埋もれていく。いっそもう一度畳の下へ降りて、闇姫を問いただしてみようか、そんな案もかすめたりしたけど、あの拒絶ぶりからして好転に繋がる可能性は極めて低いだろうし、おくもをひとりにしておくのはとても危険だ。僕はよく磨かれたガラス窓の向こうを眺める具合で、瀕死の味方に魔手が忍び寄る様を見たり、そのあげく耐えがたい孤独にさらわれてしまうのを想像してしまい、結局辺りがてらてらした血の海となっていくのを黙って容認しているだけだった。
ところがときを経ず、急にこみ上げてくるものに押されたのか、赤い敷物みたいに流れたそれを見届けながら、ほぼ無意識的に傷口に被さる着物の破れを裂いて、襦袢も剥がしにかかり、自分でも信じられないくらい大胆な手つきでようやく、おくもの負傷を目の当たりにした。おそらくはどうすることも出来ない介抱を血の海で了解し、文字通りの手当だけを試みようとしたんだ。
「ううっ」と、苦渋の息がもれたが目を覚ましたわけじゃない。からだをなるだけ動かさないよう傷を受けた部分の肌を露出させてみると、なんということだ、肩の肉はざっくり開いて鎖骨にまで達し、腕がちぎれてしまいそうな痛ましさがあらわになった。こんこんと吹き出す血の躍動にとてもじゃないが手はおろか何物も触れることなど叶わない。このまま放置すれば確実に失血死するのは素人目にも歴然だった。
あんなに交わった柔肌が見るも嘆かわしく蝕まれ大きな糜爛を呈している。
胸の隆起は容赦なく血ぬられ、可憐な桜色していた**も単なる突起物としか言い様のなく、まるで蓋のつまみを想わせる人工的な素材に成り下がっていた。が、あばら辺りのかろうじて素肌を残している、健康的なかがやきは鮮血との対比を肉感的なものに仕上げ、着物を無下に破り捨てても燦然とした女体は本質を失ったりしない、そんな考えが湧き水となって現われ惨憺たる情況を濾過させる。
神秘をたぐり寄せるよう陶然として、生と死の狭間を見届けているのが僕に出来るせめてもの手当だった。やがておくもの顔は恐ろしいくらい見る見る青ざめていく。唇は紫に変色し不吉な容貌へと急降下していった。もう二度と白い歯とともにあの笑みが、僕に向けられることはないのだろうか。
そうして伏したからだを取り囲めるほどになった流血に、涙のしずくを垂れる悲嘆にくれる間のないまま、おくものうら若い生命は閉ざされてしまった。
畳へつきた両手になま温かい血潮を感じたけど、別段激情に駆られるでもなく、またおくもの死に顔を見つめるでもなく、浮遊した視線は宙を舞い、僕が惨殺した老人のほうへ吹き流されるようにしてたゆたっていた。
陽射しは部屋全体を無感動なひかりで包みこんでときの過ぎゆきを放棄させた。死の匂いが無臭である不思議さだけが、遠い宇宙空間に放り出された寂寞となって、星の瞬きに目を瞑るものうさへと沈殿していく。地下世界の暗黒に無論ひかりはなかったが、肌を差す恐怖は横溢していた。畳のうえの死はひかりを照り返しているが、頬をなでる微風は忘却されていた。
背後に季節はずれの虫の音を聞く気配があり、秒針がひとつだけ動いたような細やかだけど、閑却されても仕方のない無味を微かに覚えた。振り向くのも億劫だったし、僕に迫り来る気配だったら自ずと明確になるさ。いや、こころの隅に小さくへばっているのさえ認めたくない虚脱が、意地らしい抵抗を示していたんだ。
空気はいびつに傾き足音だけが純粋な影となってすぐそこへ刻印されている。はなから枯れていた涙は非情の影を叱責する気力も失っていた。言葉は勝手に空気を伝わる。
「そろそろお目醒めになってはいかかでしょうか。これ以上は負荷が過ぎると思われます」
もげもげ太の声は普段に増して、まるで患者をいたわる医師みたいな慈しみがあった。
「計算には早いですが、データX1の回路は焼けついてしまうでしょう」
チューザーかい、久しぶりに耳にする文句は相変わらず理不尽だな。あれほど切望した者らに対し、僕はそう胸のなかで呟くだけで首はまわさなかった。指折り数えられる少しの間が置かれたけれど、何の意想も滑りこませないよう無心に徹した。
じれたわけでもあるまいが、チューザーは僕の背をただす為に一念を込めたんだろう、
「命令に反するかたちになってしまいました。しかし、脳内の安全が保証出来ません。ミューラー大佐殿」毅然とそう言った。
座敷の畳すべてが床下に堕ちてしまう幻影に見舞われた。だが、ひかり差す空間は保たれており明度も仄かに下げられた感じがしただけで、衝撃はこの身をつらぬいてはいない、そんな失意とは離れた思いだけがぼんやり灯っていた。


[225] 題名:ねずみのチューザー47 名前:コレクター 投稿日:2011年09月07日 (水) 10時34分

両の袂に石を詰め込みすぎて利き腕が重た過ぎる、これではいけないと負担を減らし万全を期し、いよいよ恐る恐る階段下にやってきた。畳をいかに開くのか、おくもは心得ているらしいから僕はひかりへ羽ばたくようにして、とにかく座敷に駆け上がり転げこむのだ。そして第二の刺客に先制攻撃で立ち向かう。伝え聞く大きな斧とやらが瞬時にギロチンと化したときは、すでにあきらめもなにもない。おくもとは手短かに作戦を交わしただけで、階段に足をかける躊躇も惜しまれるくらい切迫した時間を互いに強要していた。そうしなければ、ふたりの呼吸は物怖じに乱れてしまう。耳をそばだてるまでもなく、小柄なつくりで温和だったじいの気配は、握りしめられた斧の重量によって圧力が加わり、それだけでない、もはや別人であることを肝に銘じなくてはならなかったんだ。
深呼吸したのだろうか、意識する必要なかった。脇をすり抜けたおくもの空気は軽く、足音忍ばせ敏速に階段を上り、その手つきも宙に浮かされた感じでポンと畳の裏を突つけば、シーソーが弾むみたいに一枚の扉は開かれ、白濁したひかりが差し込んだ。おくもが身をよじらせた横を僕は力まかせに駆け、ホームベースへ飛んでいく要領にわずかのひねりを入れ、斜めさきへと全身を投げこむ。思った以上に距離をのばせた幸運を知り感謝で歯をくいしばって処刑人の位置を確認する。いたよ、しかし僕が飛び出すのを待ち構えていたような如才ない猶予がうかがえた。
果たして一見鈍そうな斧の重しは、その破壊力を行使するまで血なま臭い雰囲気をかもしてなく、何より当のじいには殺気が感じられないし、悽愴とした顔色に朽ちることなく、これまで知った物腰を保ち続けているふうで、また一歩間違えば首を立ち斬られているはずだと、冷や汗をかかずに済んだのは、どう見てもじいには不釣り合いな斧をまるで杖がわりのよう手にしている姿だった。口もとには穏やかさが年輪みたいに記されていて、しかも眼光と呼べる威圧なんか微塵もない。
部屋の空気はすべての緊張を消し去って無味を取り戻していたよ。意表をつく処刑人の様子に一瞬気が抜けた。いけない、そのとき即座に自分の運だけが泥濘にはまっていることに気づいた。
「おくもさん、出てきてはだめだ!」
そう叫ぶまでの間はどれくらいだったろうか。じいは僕よりまずおくもを抹殺したいんだ。が、ときはすでに遅く、ひらりと身をくぐらせたおくもは寝そべった状態から、打ち合わせ通りに手裏剣を投げつけようとしていた。過ちを犯してしまったあとでは態勢を整えることは難しく、僕がまったく攻撃した形跡のない情況を覚ったおくもは、一瞬からだを堅くしてしまった。ふたりの視線は交差しかけたけれど、じいの無慈悲な笑みへと吸いこまれてしまい、鈍重な斧が振り下ろされるのを阻止することが出来なかった。
瞬きにも充たない気後れだったが、おくもの放った手裏剣よりじいの一振りに明暗は別れたんだ。僕の石つぶてなんかもまったく効果ないうちに、おくもの左肩から鮮血がほとばしった。恐ろしい速度だった。ひれ伏した格好のまま相当な損傷に耐えているのか、それとも意識を失っているのか、そばに寄って確かめることも叶わない、僕は適切な距離からひたすらじいに石を投げるしかなかった。
幾らか顔面に命中したけど、老人が秘める強靭な精神は一向に怯むことなく、また長距離走者の心音を想わす持久力で、ばあを倒された憎悪もたぎらす態度さえあらわにさせず、おくもに対する処罰だけに忠実であろうと凶器を振りかざす。ゆっくりした動きに映るのは目の錯覚かも知れない、打ち下ろされる勢いが信じられない速さであるように、この老人のわざは練達の極みなんだろう。かといって指をくわえているわけにはいかない、目の錯覚ならそれでもよかった。
上体を起こし処刑人の脇腹めがけて頭突きの態勢で突進する。獲物へ狙いを定めていた斧は垂直に空振りし、辛うじて危機はまぬがれた。ところが両手にしっかり握られた凶器は、老人のからだを反対に操っているのか、体当たりしても押さえ込めなかった隙にまたもや一撃をあたえようとしている。今度は斜に斧が飛んでくるのを察知したので、一か八か大きめの石を横面に打ちつけてよろめいたところ、すかさずより大型のものを手にして殴りかかった。打撃は鼻と口にかなりの手応えを感じ、もう一回同じところに叩きつけると、グシャリと肉もろとも砕けたのが歯であるのを知り、間もなく吹き出した血の量が激しかったのに勝機を見いだして、徹底して同所へ攻撃を続けついに仰向けに倒れたので、更に馬乗りのなって顔面が陥没するまで石を上下させたんだ。
途中で眼球が血糊に包まれとろみを持って流れてきたけど、それもかまわずすり潰すように殴打した。もう絶命していたんだろうが、斧をつかんだ骨張った手がまだ生きているみたいで、頭部だけ残しほとんど形をとどめていないのを眺めてから、手首の皮を裂き、肉を飛び散らせ、骨を砕ききってようやく凶器を肉体から切り離した。死体から鼓動が聞こえてくる幻聴を、僕の動悸と言い聞かすのに苦心したよ。そしてかけがえのない脈に向かい合う猶予を実感した。
「おくもさん、大丈夫か」
伏した様態から微かな呼吸が感じとれた。傷口にあたる着物は大きく破かれたふうに綻んでいる。どれくらいの深手か分からないが、あの一撃を受け軽傷であるはずもない。どうすればいいんだ。出血は止まらないし、意識も確かじゃなかった。
「すまない、僕のせいでこんな目にあわせてしまった」
途方に暮れるしかない惨めさで打ちのめされていたけど、おぼろげにそのさきが予測された。三番目の刺客の登場さ。もげもげ太はきっと現れるに決まっている、もう死闘なんかご免だ。彼に懇願しておくもを助けてもらおう。見殺しになんか絶対出来ない、どこへも行かないから、、、


[224] 題名:ねずみのチューザー46 名前:コレクター 投稿日:2011年09月04日 (日) 22時25分

ろうそくの火が大きく揺らいだのは僕が反射的に後ずさりしたせいだった。そうじゃないよ、闇姫の哀切な拒絶におののいたのではなくて、蟻塚みたいなところからいきなり妖婆が飛び出してきたからなんだ。すぐにそれが処刑人であることが見てとれたので、闇姫の言葉は一気に凄みを増したわけさ。
あの世から甦ってきたみたいに逆立った白髪の迫力といったら、その手に振りかざした鎖鎌もさることながら、魔物が湧いて出たと震わせる怪異を十全に見せつけていた。闇姫の姿は傾いたろうそくの加減で視界から消え、あとは眼前に迫りくる殺人鬼の形相だけが生き生きと現われている。歯並びのいびつなのが、いかにも牙をむいているふうにも思えたあたり、ほとんど金縛り状態だったのを物語っているよな。戦慄のさなかは以外と冷静な装いで、直視するものの特徴をつかまえているんだ。不意に躍り出た、いや、闇姫の宣告通りにか、とにかく僕らのまえに映っている妖婆が老夫婦の片割れ、ばあであるのも判然としていた。
鬼の形相にだって面影はある。逆に面影が残されているからこそ脅威になるんじゃないだろうか。
白さは夜目に鮮烈であり、蓬髪をふり乱しつつ荒ぶる姿態はそれだけでも一級品なのに、神経を縮ませたうえ、鎖鎌で狙われた日にはまったく完璧な処刑の執行となる。あんな鋭い刃で肉が削られたなら一巻の終わりだ。悠長にそんなこと考えている暇がないと思い知らされたのは、僕の頬をかすめるようにして鎌が飛んゆきおくも襲ったからだよ。標的はまず仲間内からだった。だが、おくもだってそれなりに仕込まれているのだろう、情け容赦ない刃を間一髪でかわすと、
「旦那様、わたしは灯りを絶やしませんからご自分のは吹き消して下さい」
そう、地底まで響きわたる声を張り上げた。それはおくもが的になっている間に逃げろと言っているわけだ。ためらっている猶予なんかなかったけど、妖婆に向かって挑発しているとも聞こえたから、ろうそくの火を隠すことも、一目散に駆け出すことも叶わず、寸暇を待たず新たな一撃がおくもに加えられるのを黙ったまま見守ってしまった。
「なにをしているのです。早く火を、、、」眉間に寄せたしわがことの性急さを訴えている。おくもは次の攻撃も回避してみせると、掌から少しはみだすくらいの鈍い色した鋼を懐中より取り出し反撃に転じた。左にろうそくを握ったままの応戦だったが、相手の隙を突いた効果があったようで、妖婆は甲高い奇声をあげ鎌を持つ腕をかばう弱みを見せた。
「今のうちです、あの畳返しの階段まで急いで下さい」
地下といっても大した距離を進んだのでもなく、この灯りがあればどうにかあの入り口まで引き戻れような気がする。そしておくもの手を引き、命からがらの脱出劇が展開された。が、妖婆に軽傷しか追わせてないのは、ジャラジャラと地面を擦っている鎖の音があとに続くのが耳に刺さるからで、階段付近まで詰められた際にはうまくかわせる可能性が少なくなっているのが予想出来る。
攻撃こそが最大の防御なんだ、そう意を決し後方へ振り向き様に僕は秘密兵器でもって不穏な影に突撃した。いつか君に話しておいただろう、武器は調達済みだってね。それは屋敷内に転がっている石ころだった。銀山みかん園に赴いたとき思い返した、薄い頭髪に命中した石つぶての一件。あの無邪気で残酷な子供こそ実は僕だったのではないかと思いこみ、学生時代は野球に熱中し投手としていい線まで行けてたのでは、そう信じ人気のないのを見計らって、木の幹に印した箇所を目標として石投げを密かに行なっていたのさ。あまり根をつめると目立ってしまうから、コントロールの正確さだけに専念したんだ。仮想敵の目や眉間に集中するよう狙い定めていた。
ようやく役に立つときが来たか、感慨に耽るより早く、僕は拾い集めた適当な大きさの石ころを追手めがけ乱発射していた。何発かが眉間や目のあたりに命中した手ごたえを感じたよ。妖婆は顔面を手で押さえてしゃがみこんでしまったから。そして躊躇なく、ソフトボールくらいのやつをなるだけまえに出て脳天めがけ叩きつけてやった。
倒れこみ白髪に気味悪く血が滲みだしたところを、今度は両手でつかめる大きさの岩石でもってグシャリと骨が砕ける音を確認するまで数回振り落とし、しわくちゃで筋ばった手先きが痙攣するのを見届けてからおくもに言ったんだ。
「第一の刺客は退治したぞ。次は順番からいってじいとの対戦だな。おくもさん、この床下にはあの階段しか出入り口はないのかい。僕の勘ではじいは座敷に出たところで急襲を仕掛けてくると思う。他に抜け道があるならそっちを選びたいよ」
「残念ながらわたしはここに来たのは二回目なのです。入り口はあそこだけしか知りません」
これには僕も肩透かしを喰った。
「じゃあ、妖婆に続いてどんな怪人に変貌したじいが構えているのだろう」
「確かけっこう大きな斧を持って首をはねるのを得意としている、そう聞いた覚えがあります」
何てことだ、それじゃ畳に顔を出した途端にバッサリ斬り落とされてしまいというのか。床下での死闘にじいは耳を澄ましていたに違いない。脱出の術が相当な危険に阻まれているのを知るのは正直辛かった。畳のうえで生きていられる実感がどんどん遠のいてゆく。今一度、闇姫のもとに下り懇願してでも、逃走路を聞き出すのが最良の手段ではないか。おくものろうそくから火種をもらい踵を返したとき、
「無理でございます。闇姫様はさきほどはっきり言われたではありませんか。抜け道などうかがうより、わたしたちが踏み入れた道のりに戻りましょう。旦那様の石つぶてとわたしの手裏剣で切り抜けなくてはいけません。一刻もここにとどまってはならないのです。尋常な場所ではない、確かそう申されたのをお忘れでございますか」
おくもの面には笑みがあった。
「そうだな、力を合わせて挑んでみるか。僕は集中砲撃で撹乱してみるから、なんとか手裏剣を急所に打ち込んでおくれ」
階段近くまで来たとき案の定、頭上に殺気をともなった足踏みが伝わってきた。それが片割れを血染めにされた復讐心に脈打つ鼓動で増幅されているのだとすれば、、、僕は全身から血の気がひいてくのを止めることが出来なかった。


[223] 題名:ねずみのチューザー45 名前:コレクター 投稿日:2011年09月03日 (土) 06時18分

無限空間をさまよっていた床上とは異なって、闇が被うこの場所には暗黒の深みこそあるけど、意識をたぶらかそうとしている奸計はめぐらされてない、そうした直感が鉛のように沈んでゆく。たどり着くだろう奥底に既視感を覚えてしまうのも、原野が開けるといった達成からではなくて、古巣に舞い戻ったふうな苦い思いが顔を出しているからだった。
おくもが案内を買って出た時点で僕の願いはすぐそこにあった。迷路と化している座敷を突き進んで行った時間の推移、それはよくよく振り返ってみると、この地下世界に凝縮された念いをときほぐす為の心構えだったに違いない。僕が何を探っているのか、案内人は清く了承していたので、目的へと一気に突入してしまう衝撃をゆるめる必要を感じていたのだろう。踏み入れた闇に呑みこまれないことを祈りながら。
二柱の灯火が照らす床下は遠く広がっているようだったけれど、求め願う光景はそれほど距離を持っていなかった。
思い描かれた報せ、泥濘に足をとらわれてしまう予感に忠実であるよう、地面を無感動に這っているねずみの群れを見つける。本能的には居場所を嗅ぎつかれ、右往左往していたようでもあるが、僕の見知ったあの鼻先をひくつかせる愛嬌ある表情はそこに存在していない。ろうそくの灯りにさらされても別に反応を示さないのは、きっと人語を理解する種族ではないはずだと、そこにチューザーの影を認めることもなく、奥まったところに別の一群がうごめく気配を察し、あたかも砂糖に固まる蟻の姿を浮かべてしまう。
「この先なんだね」
急な斜面に滑り落ちるのを乞うているかの口調でおくもに問う。
「足もとにお気をつけ下さい。そこの地面は苔だらけです」
「わかったよ」
実際に勾配は身の安定を失わせそうに見えた。手にしたろうそくをゆっくり傾けると、まさに蟻塚を彷彿させる長細い岩なのかどうかも識別出来ない奇妙な形が火影にゆれる。ねずみらは行きつ戻りつ、次第に忙しなさを訴えかけているよう蟻塚と似た物体のまわりを這いまわっていたんだ。
「旦那様、あちらに、、、」
おくもの声は爪先立った慎重さが風化していくみたいに、蚊のなくほどしか届かない。いや、届かせなたくなかったと思えたりする。
こころのなかを渇いた疾風が駆け抜けた。目に映ったのは、細長い影に身をひそめているはかな気なひとの姿だった。青ざめた面持ちではあったけど、凄惨な雰囲気などまとってなくどちらかといえば、懐かしさが滲み出した親しみをあらわにしている。しかし、そう感じたのはまだ目を合わしていない段階なので、僕が一方的に投げかけた斟酌とも言える。震えるこころに返り咲いた気力は、遊戯の域を見捨てはしないはず、あの熱病に冒された日々を決して忘れなかった。燻り続けていたのだろうか、多分そうだと思うよ。では切り裂かれたものは何なのか。
傾斜の底にうずくまって人影を見定める為、ろうそくの位置を降ろしていく。その瞳に宿るひかりと再会する瞬間を得たいがゆえに。
僕ひとりでたどれた時間ではない、うしろからの灯りで守られている立場が狡猾な行為に思えてくる。声をすぼましてしまったのは、思い上がりの恋を悟らせたからに違いなく、反照となって染みわたる情念をすげ替えたのも、そうだよ、おくもに対する憐れみは僕が作り上げたんだ。今向き合うひとにも同様の意識が作動している。時間の帯はこうして無垢な恋を汚してみせた。そして汚れのなかに飛び込もうと固唾を飲んでいる。
「やっぱりそうだったんだ」反動により、ひと言だけが痴呆的なよだれになってこぼれた。
すると闇姫の目からは潤いを含んだひかりが送られ、僕はうなだれてしまった。瞬間に交差した目配せは様々な感情と思念を乗せて、銀河の果ての瞬きのように過ぎ去り、地面に群がるねずみは闇姫が生み落とした僕の子供だと確信したんだ。
滑るまま母体に近づきたい気持ちを抑えつけているのが、苔子と呼んでやれない無情さであるのを認めたとき、闇姫の顔は灯火で鮮明になった。苦しみと安心が同居している、よどみが似つかわしいと言いた気な微笑だった。
「主様、なにゆえ妾のもとへ参られました。かような姿を見られますのはどれほど無惨と知りましょうか。いえいえ、なにもおっしゃられなくとも一目瞭然、そこのおくもにたばかられましたのですね。ごらんのように分娩は不首尾、はなから主様に顔を合わせられる身ではありませぬが、掟を破れしものはただちに処罰を受けましょうぞ」
落ち着いた口吻ではあったが、火のごとく明瞭に意味を伝えていた。
「ちょっと待ってくれないか、おくもさんを巻き込んだのは僕なんだ。徹底してすべてを疑る視点から結ばれた場面がここなんだよ。どこかにきみが隠れているじゃないかという疑念は拭いきれなかったからだし、ここでの生活に慣れ親しんだ振りをしたのも、結局は記憶を回復させたいが一心なのさ。こうやって地下世界まで降りてきてしまったことの弁明だろうけど、きみらが謎に包まれ、沈黙を余儀なくしたから僕は抵抗したまでだ。処罰だなんてひどすぎる」
「旦那様、、、」
背中へ語りかけようとするおくもの息づかいも一緒に切断する勢いで、闇姫はこう諌めた。
「問答無用でございます。一刻も早くここから立ち去りなさいまし、妾にはそれしか申すことはありません」
最後の言葉は幾分怒気を帯びていたにもかかわらず、闇姫は憂いを名残りとしたかったのか、少しだけ頬をゆるませ深い眠りにつくような目で見つめていた。


[222] 題名:ねずみのチューザー44 名前:コレクター 投稿日:2011年09月01日 (木) 18時34分

灯火は恐怖と混然なったもろもろの心情をかなり鎮めてくれた。床下だけあってさほど頭上は高くないのを知ったし、地底深く傾いているかに見えた空間も広大な面積を持っているようではなく、敷地内から野方図にはみ出してはいない気がしたんだ。低い階段を降りたばかりのときは回転した畳がもとの状態に戻ってしまい、光線は断たれマッチの灯りだけでは心細かったけど、この頼もしい百目が放つ明るみは余計な神経を除き去って恐怖心を純化させ、それに見合うだけの研ぎ澄まされた緊張へと導いてくれた。
視界が開けたことは何よりの安堵だったが、自分の身体に鋭敏になったのはこれからの身構えを諭してくれていると思われたよ。春先の気候だから別に温度に意識は奪われはせず、ただ薄い靴下を隔てて感じられる地面の具合が、解放とは似つかないの軽卒な自由を拡散しているみたいで、小石に交じって何か鋭利なものが紛れこんでいそうな危うさをごまかせなかった。おくもと同じに足袋を履いているだけで、どれだけ居心地が向上しただろう。とはいえ、今更ぼやいてみても仕方なかったので、作務衣の懐や袖を探ってみたんだ。この里に来て衣服以外は身につけることもなければ、何も持ち歩く必要もなかったから当然気の利いたものなんか出てくるはずもない、精々了解したのは同じ型のろうそくをあと二本懐中に仕舞っておいたぐらいか。もう数本持って来てもよかったのだが、多分それなりの勘が働いたんだろうな、そんなに長時間も穴ぐらを徘徊したくはないと願っていたのが本音さ。つまり地下室に忍びこむ気忙しさは、一瞬鍾乳洞を想わせる驚異に勝ったのか、案外と沈着な展望を求めていたわけだ。
何とも手前みその理屈に聞こえるかも知れないけど、おくもは僕の心中を察していたようで、
「ろうそくは他にいくつかの場所に備えられています。わたしも不用意でありました。マッチ一箱しか携えていないとは、、、」
と、いささか落胆した声色をこぼしながら昭和の面影を残した箱形のそれを差し出した。
「そうだね、ライターとかあればよかったんだろうが」
喫煙の習慣は忘れられていたので手もとに置かれてなかったし、あの古風な屋敷内には不似合いな代物だよ。衝動的とさえいえるこの情況をあらかじめ知り得ていようが、ライターはおろか懐中電灯だって果たして常備されているやら、たとえそうであったとしても一体誰に尋ねられるというのか。そんな発案こそ勘づかれることないよう留意してきたんだ。
そのとき僕の脳裡をはすかいに横切っていく、だがとても鮮明な瞬きが訪れた。おくもは自分の手落ちを嘆いてみせたが、この床下にかつて足を踏み入れた事実は間違いない、そうだよ、だからろうそくの在りかなんかも心得ていて、マッチ一箱で事足りる推量をしっかり抱いている。どこまで細やかな心配りをしてくれるんだろう、僕の動揺を包み込んでくれるように感情の襞に優しい手が差しのべられる。
感激で胸が熱くなりかけたけど、非の打ちどころがないおくもの思慮に冷徹な側面を見つけないはずもなかった。しかし、そんな邪推を退けるくらい僕の胸は一筋の光明に照らされており、複雑に絡みあった蔦が紅葉に染まる色彩を分別して眺めることもなく、反対に色とりどりの豊かさが鮮やかな光線のなかへと帰ってゆくのを覚えた。
恐怖心は選り抜かれた風景にまつらう様相で対峙している。足のさきから、あるいは頭のてっぺんから冷や水を浴びせられるふうにして感じとるのが本来なのだろうが、消えゆく最後の疑心に笑みを浮かべながら手を振ってあげたい念いは、偽りのなかへすべてを投じてしまいたい一心に同調して、闇は灯りを決して侵蝕出来ないだろうという求めに収斂していた。恐怖が恐怖として存在しながら、僕のからだをすり抜けたりしているのは、白々しいと言われようとも、新たな邪念が生み出されたからに違いなく、そう僕はおくもに恋をしているのを知ったんだ。
知ると同時に再び暗闇に対する不安が押し寄せろうそくの火を揺らした。もう一本を取り揺曳する火影をそっと移す。水たまりに浮かんだ波紋を制御するにはもうひとつの波紋を生じさせるのが適切であるように、僕の産声は自然に泣き止むのを恥じ、ふたつの火柱が夜空へと燃え上がる空想に準じた。
おくもの表情には手渡されたろうそくの灯りを受け、つつましく見える緩慢な笑みが美しく現われ、陰影に捧げられた。なぜなら、肩が触れあうほどに寄り添った面持ちで、たおやかに小首を傾けあえて目線がそらされた姿態には、言い様のない夜の気配が漂っていたから。
またそっと唇を重ねてみたい欲望に駆られてしまったけど、どちらかの灯火も消してはいけない想いが強く波打ち、熱い吐息さえもれることなく新鮮な空気は保たれ、甘い苦しみを感受しつつ胸のなかの水面に引き戻された。その代償として僕はおくもから、こう言われたんだよ。
「うれしいです。ろうそくが二本、わたしの分も気遣ってくれたのでございますね」
そんなの気遣いなんかじゃない、そう返しかけ別のもの言いをした。
「とにかく僕から離れないようにしないと。ここは尋常な場所ではない。わかったね」
おくもは今度は目をそらさず黙ってうなずく。我ながら恥じ入ったよ。ここまでおくもの尻に引っついて来たというのに、恋にとらわれたのがまるで罪であるよう、それから相手に罰を言いわたすのが務めであるよう見事に高慢な態度が躍り出たもんだ。が、出てしまったのも幸いか、ようやく僕の意志は怖いもの見たさに匹敵する馬力、あの遊び心を復活させていたのさ。


[221] 題名:ねずみのチューザー43 名前:コレクター 投稿日:2011年08月30日 (火) 06時00分

奇妙な逆転した思考だと言われそうだが、少々補足させてもらうと、おくもは機械人形なんかじゃないし、これは無論こころの在り方なんだけど、それならどうして生身の人間に油の匂いなんか嗅ぎとるのかって問われれば、端的に言うとまだまだ抑制が働いている加減を知るからであり、おくもがどこまでも陰謀に加担しているわけではなく、本人が応えたように自らの自由を、つまり桎梏から逃れる手段を選択したってことに尽きるんだ。意味合いが見えにくいのならこういうふうに説明する。
おくもは任務から逸脱したけど、身に絡みついた枠組みみたいな足かせに縛られている。その慣習はどれ程そつなく歩いてみても、反対にどこかぎこちなく影が泳いでゆく、そう思えたとき僕はようやく真の味方を得たと感激したのさ。何度も念を押すがおくもの実際の歩き方に問題はなく、やはりこれは濃厚にからだを交えられたおかげで透けて見えた確信であり、ゆるぎのない空間を踏みしめている感覚だった。
さて、信念をみなぎらせるというより胸中があまりに澄みきってきたので、激しい勢いに押されるでもなく、あるいはおくもの背に強烈な磁力を感じるわけでもなく、ときを経ず油の匂いも希薄してしまってもう五感に飛び込んでくる刺激はなにもなかった。ただ、奥まった座敷に漂う静謐な感じが異様といえば異様であり、肌を撫でていく無風に限りなく近い空気が、おくもの後からひんやりと流れてくるようで粛々とした気分をさずけてくれた。花びらが舞落ちるとき、ほんの僅かだけ芳香がかすめるように。
ぼんやりした明かりが一定のままなのは摺り足に畳を踏む加減と調和している。部屋の隅に置かれた行灯の為せるわざなのか、放心状態で歩を運ぶ僕にはそれをつぶさにすることもままならないうち、どうやら陽がほのかに差しているのが、まぶたの裏へ柔らかく報せている。おくもが振り返るのと、ふすまに隠ったような低い声が出たのは同時だった。
「ここでございます」
別段なにも見当たらないし、間取りに変化があるわけでもない。しかし、おくもの爪先は白足袋を破り抜ける野性の嗅覚でその場を示している。
「この部屋が一体、、、」
放心に輪をかけられた僕は首をまわしてみたり、天井を見上げたりしてみたが異質な様子はどこにも見当たらず、かえって昼と夕の狭間に訪れる無防備な面持ちをした気だるい陽射しに、畏敬の念を抱いたりした。先の間に覗ける障子を通し薄い煙幕となり畳を這っているひかりはとても神妙だ。ふすまの影を淡く横たわらせ隅々の本来の薄暗さに忍びよった趣きに、胸の空洞が充たせれていくのを知ったよ。
おくもは一枚の畳のへりに注視するよう、目線を斜めにすべらせ僕の反応を待ちながら、驚きを緩和させる務めで不敵な笑顔をあらわした。承知していたさ、前から注意深く各部屋の畳を確かめていたのに一向に発見はなく、不審な物音も聞き取ることが出来なかったから、こうして定番の畳返しが披露されるのはとても口惜しい。おくもはそんな僕の遺憾を吹き流すため、あえて感情の発露を仮面にして見せたんだ。そしてこちらの構えを確認したらしい。
「これから猶予はありません。一気に踏み込みましょう」
そう言い放ち、ドンと右足をへりに叩きつけると、軽やかに木の板が跳ねる具合で畳の前方が上がり、後方が床下に下がったまま、辺りのひかりを吸い込んでしまいそうな、暗渠を想わせる侵入口を目の当たりにさせた。半畳ぶん床が開いただけで、恐らく気のせいなんかじゃなく、明らかに土臭い冷気が足もとに近づいてくる。が、それより素早くおくもは先に立ち、いつの間に手にしていたのか、マッチ棒をすり瞬発の火をたよりに階段を見定め、白足袋が闇へと消え入ることも怖れずに身を落としてゆく。僕も慎重に後を追いながら次々と小さな火が灯される真下を見極めるべく、目を点にする。
梯子に近い危う気な階段は長さもなく、案外楽に床下に達したんだ。でもそこからが茫洋とした夜の海のように行く手を拒んでいる。反面なだらかな傾斜によって土中深くにまで広がっている現況は、ある種の開放感を与えつつ次第に閉塞へ持ちこむ邪気で被い尽くされているかと感じられ、胸に秘めたはずの空洞はいとも簡単に呑まれてしまったのさ。救いとなったのはおくもの挙動が闇夜に慣れた素振りであったこと、その目はたぶん僕と違って危険を避ける方法を得ており、かつて夜道を手繰りに足場を築いた知恵がいま懸命に試されていることだった。
奥行きは計り知れず、左右に伸びる空間の在りかもつかみとれない。あたかも鍾乳洞に迷いこんだ困惑にささやいてくれるのは、地底から湧き出る清冽な水音であり、反響に限りがない予測を信じるよう内心にひそんでいる声だけだ。そんな念いがよぎっていったとき、まさに小声のおくもは地上に届かさないもの言いでこう促した。
「そこの左側の岩肌にくぼみがあります。ろうそくが仕舞われているはずです。旦那様のほうが手を伸ばしやすいので、わたしがマッチをすって照らしますから、確認してみて下さい」
言うが早いか、僕の返事を聞くまでもなくその場所らしきところがパッと明るみ、確かに削りとられた形跡のあるくぼみは浮かんで、数本のろうそくが血の気を失った人肌のごとく立てかけられているのを見つけ、難なく取れるのを知り再び暗闇へと襲われるまえにサッと手にした。
つかんだとき咄嗟に感じたけど、炎が灯されてみれば人肌に映ったのも無理はない、幼児の前腕くらいはありそうな百目ろうそくだったのさ。先端に向かって太くなっている重量感は期待通り、火焔をめらめらと立ちのぼらせると、闇を漂白する勢いで僕とおくものまわりを照らし、燃える朝焼けのような朱に落ち着ついて岩肌を悩ませたんだ。無数の陰影が居場所を隠そうとしていたから。


[220] 題名:ねずみのチューザー42 名前:コレクター 投稿日:2011年08月29日 (月) 06時17分

計画通りに運んだとほくそ笑むのが正しいのだろうけれど、しっくりと来なかったのは、いや、しっくりなんて言い方はどうこうあれ好ましくない、とにかく覚束ないままおくものこころに接触し、設問に即してない形ではあったが、攻落へと至ったことを素直に喜べなかったのは事実だった。
理由は分かっているようで、分からない。物差しを当ててみたものの先っぽがどうにも霞んでしまう、そんな不的確さにこころの安定は揺れていた。それはおぞましい感じでなく、もっと微細で曖昧な雰囲気がしなだれかかったおくもにまとわりついていたから、ほこりを振りはらう手先きに似た軽さで、底辺に沈んだ重しに触れらなかったのかも知れない。沈みゆくものが欺瞞という名の装置であるのも覚悟していたけど、僕の方がまごついているからには、思ったよりたやすくこの場面を演じられた安堵によって、空白がさらけだされたみたいだ。
空白を埋める算段まで描いてなかったので、同じく抜け殻になってしまったおくもを心持ち強く抱きしめるのが関の山だったよ。意向が伝わった時点で本当は直ぐさまにでも突破口が開かれるはずだったし、予断は許されない疾走のみが最後の方法だったから、軽微であれ感慨などに耽っている間などなく、そして詳述する代わりに無言で手を取り、目から異彩を放てば、あとはもう鮮明な逃避行へと一直線に結ばれる。だが、そんな憂慮は拭われてしまった。
両腕に預けられらた置物のようなからだは刹那に流されなかったのか、しなやかさを呼び戻し、まるで僕を先導する勢いで語気も優雅に、
「旦那様、やはり桜をみたくなりました。ですからこうしているのはおしまいでございます。さあ、まいりましょう」
と、姿勢を正しながら潤いたたえた瞳が輝きだし、豹変するのはなめらかな箇所をなぞる軽快さの証し、そう言いたげな様子がこぼれ出していたんだ。天真の笑みに薄ら寒いものを覚えたが、数える間もなく、それは怯懦によりもたらされた冷ややかな戸惑い、冷徹な意志が試される武者震いが背中合わせになっていると考えて間違いなかっただろう。
情念がこうも見事に開花するとは想像もしてなかったので、すっと立ち上がったときには互いの顔が向き合い空気を切っているような感覚を得て、おくもと共に上空へ舞う幻視さえよぎった。しかも乾いた口もとからはうらはらに熱気を孕んだ吐息が、ちょうど氷点下の地で吐かれる白煙みたいに拡散し、雪女の風姿も脳裡に浮かばせては異様なまでに士気が高揚してくる。一方では零落した欲情が名残りを惜しみ、ここで唇を重ねるわけにはいかないと自問している。余情に引きずられたままだったが、抱擁を確かめ合うことはなく、突破口を突き抜けるまでは色香は別種の彩に変貌し、鳥肌が全身へ吹きだした瞬間を自戒の念になぞらえ、なまめかしい様相を封印した。そしておくもが発した道行きの言葉が最後のみやびと思いなした。
「どこへ行くというのさ」
少しばかり引きつってはいたけど、あらかじめ決められた台詞として口を突いて出た。おくもに委ねられている情況は反転する文様と等しく、僕のひかりが織りなしたんだ。そう自責するのが義務なのだと言い聞かし、邪念を打ち消した。
「かねてより探索されていたところでございます。そこには旦那様が求めていた徴がきっと見いだされましょう。このような立場になった限り、わたしは一身を捨て去る覚悟、これから待ち受けているのは決して容易な道すじではありません。どうぞ、しかと気持ちを引き締めお進み下さい」
「ああ、わかったよ。でも、おくもさん、君を巻き込んでしまって申し訳ない、、、」
ほとんど自動的に吐かれた弁明が如何に虚しく、汚れているのかを痛感しながら、もう後戻りが出来ない緊迫に身を投げ入れている実際を肯定していた。だから、それ以上深謝の言葉は見つからないわけではなく、見つけようとしない虚偽のうえに一方的な沈黙を被せるしかなかった。
おくもはすべてを見通しているようなので、せめて、君だけを危険にさらしたりしない共にゆこうと喉から出かけたとき、
「お気遣いは無用でございます。わたしが選びとったのですから。旦那様の自由は、わたしの自由でもあるわけです」
そう言い含むよう応えたんだ。悲壮感など微塵もうかがわせない淡白な口ぶりに僕は本当に無言で対するしかなかった。そうしてふたりは以前かくれんぼの際に開け放たれたままのふすまを通り抜け、右や左に折れながらまったく感心するほど均一な座敷の奥へと呑みこまれていった。
美しくだまされたい、という願いは閉ざされた一枚一枚のふすまにおくもが手をかける度に、まるで深い谷底に落下してしまうような戦慄を催させて、増々純度を高めていく。おくもの背と僕の距離は、まさに道さき案内人を彷彿させる間合いだった。屋敷内だから外よりは狭まっているのだろうけど、活力が一見抑制された女性らしい歩幅は、単調に進んでゆく機械人形を想起させ、一縷の望みとかけてきた一切陰謀説を馥郁とした香りで裏切ってくれてたんだ。
おくもが機械なら油も必要だろう、狂い始めたネジや歯車に注入するための。ほのかに匂うそんな香りに僕は陶然としてしまったわけさ。


[219] 題名:ねずみのチューザー41 名前:コレクター 投稿日:2011年08月23日 (火) 04時01分

「この里にも桜は咲くのだろうか」
付近を見回し、ふとそう口を突いてでたのが自分でも以外な響きに感じられた。真っ昼間からおくもの股間をなめつくし、ほとばしりが済んですぐの言葉だった。
「わたしにもよく分かりません。旦那様と同じではじめての里でございますから」
おくもが真実を言っているのかなど詮索する気は毛頭なかった。ただ、この環境に対しての疑念をおくもに問いかけてみることが今までなかったのは以外だと思い、どんな遠慮が働いているのか考えかけたとこで、やはり推量は断念するべきだとため息をついた。遠慮といえば、肉の交わりはより激しさを増し、昼夜に関わらず濃厚な情念を解き放っていたよ。
ふすまを開けたまま陽射しを浴びて裸をむさぼったのも、決して思いやりがないわけじゃなく、居るか居ないか分からない老夫婦に見せつけてやりたい気持ちが開放感へと結びつき、同時に籠絡の身が為せるせめてもの抵抗をおくもと共有したかったからなんだ。羞恥を捨ててない素振りは見せるけど、嫌がる顔などせず卑猥な体位にも応じてくれたし、廊下でのんびり茶をすすっていて、急にいちもつに触れて欲しいとねだったりした。春の訪れを待つ風趣で、堅くなったものを口内に含んでもらえるのは、土中に眠れる草木の目覚めより幸せかもね。茶の熱はおくもの口に残っていて、そのぬくもりの人肌とは異なる、しかし限りない生命の温感はまさに新緑の到来だ。
かくれんぼは最近ほとんど行なわれなかった。といってもどこかで秘密を探りたい希求はくすぶっていたんだろう、おくもと交わるところはいつも違う部屋だったり、時々畳のへりを爪でなぞったりしてみた。
「紅葉は素晴らしかったから、是非とも桜も見てみたいよ」
「わたしも見てみたいものです」
おくもの返答にはいつも無邪気な拒絶が植えつけられている。一々目くじらは立てないけど、水滴みたいな小さな悲しみが空中に舞っているような、涙とは別種の形態を想い浮かべた。こんなに肉体が交じり合い溶け込んでいるのに、現実にはどこへもたどり着けないやるせなさに辟易していた。いっそのこと僕とと一緒に脱走しよう、そう切り出せたら、、、しかし、それはこの隠れ里での夢遊病的な生活の終わりを告げることになるに違いない。目には見えない鋭い氷のような刃が僕を切り裂く。春爛漫はこうして限りなく先延ばしされる様相で、停滞し、微かな時計の秒針さえ耳に入らないよう狂った季節を装っていた。
僕はおくもに狂気を見い出していたんだ。それは合わせ鏡に寄り添う影そのものだった。病棟には手触りこそ冷たいがこころのこもった贈り物が届けられる。
「それなら僕が咲かせてあげよう」
「まあ、それは素敵でございます」
「いや君がこの世で一番素敵さ。だからもう少しこうしていよう」
自分でも意味が不明確になってゆくのを知りつつ、発した文句を何度も胸にこだまさせた。さっきの水滴が身近に迫ってくる幻影とともに涙腺がゆるみだし、取り繕うように苔子やもげ太、チューザーへの不満を並べ立ておくもの存在を讃えるつもりだったけれど、その裏では彼らをとても恋しがってる気持ちが払拭されず、増々僕は切り裂かれてしまったんだ。
とはいえ、この庭先には陽気な鬼神が隠れているんじゃないかと真面目に考えてしまうくらい平和だったよ。だから気を取り直しおくもにあれこれ他愛もないことまで言って聞かせた。意識は混濁していなかったから、同じいきさつや込み上げた感情をだぶらせてなかったみたいだが、話自体が堂々めぐりなのは我ながら興ざめだよな。
君も退屈してきたと思うので、先だって言っておいた急展開へ怒濤のごとく快進撃しよう。もっともすでに絵巻物はひも解かれているけどね。
おくもの瞳に中にかつてないひかりを知ったのは、きつねの面々の隅にチューザーの姿を見つけたあたりで、その続きを話しだすと更にそのひかりは、ちょうど点滅しながら近づいてくる未確認の光源のように、僕のすぐ側まで肉迫してきた。そしてついに掟が破られるのを、禁断の地が開拓されるのを実感すると、おくもはそれが特別な破顔であることを意識しているのか、
「それでチューザー様は何か言い残されましたのですか」
と、不気味なくらいにこやかに尋ねてきたんだよ。さすがに驚いたし、遠慮という意味合いは気遣いを遥かに越えた禁句で成り立っているのが分かっていたから、狂人が正気を取り戻すよりも震撼とさせたんだ。あたまのネジがいくつかゆるみだすのは楽しいようで怖いものさ。案の定おくもは堰を切ったみたいに饒舌になり、それまでの寡黙な姿勢は一気に蒸発してしまった。
「旦那様は寂しいのでございましょう。わたしが番犬でいることもつまらないのですね」
「そんなことはないさ。さっき言っただろう、君が一番素敵だって」
「チューザー様や闇姫様に会われたくはなのですか。どれほどわたしを誉めて頂いても、旦那様の語り口のあちらこちらには他の方々が宿っています。わたしは闇姫様のように変幻自在な術などあやつることは出来ません。夜伽だけしか能のない婢女なのでございます。正直に申してくださいませなど、口が裂けても言えませんが、旦那様はわたしの裸体しか愛しておりません。いいえ、そのよう仕向けるのが本来の務め、失言であるのは百も承知のうえなのです。巌の口重だけをよりどころと教えを受けてまいりましたけれど、旦那様の寂しさがこのおくもの身に伝染してしまったのでしょう、もうこれより先は言わせないで下さい」
はらはらと崩れゆくはかなさを僕は黙って受け止めるしかなかった。


[218] 題名:ねずみのチューザー40 名前:コレクター 投稿日:2011年08月23日 (火) 00時47分

その日は一度の**で済んでしまった。気分が乗らないというより、執拗に絡み合うことで以前の愛欲の沼にはまり込んでいくのを危惧したためだろう。それと、かくれんぼを終えたわけではなかったので、軽くなった下半身はなおさら計画の続行へ速やかに戻ろうとした。多分おくももそれなりの快感にひたれたのだと思う。「それじゃ、さっきの続きだ」と、軽快な口調でうながしたところ、黙ったままどんよりとした目で応えたのが演技とかでなく、まだからだの芯が痺れ余韻に犯されていると映ったからだった。
倦怠に支配されながらも残り火が忘れられない、そんなまなざしには敵意とは逆の親密なひかりがうかがえ、これはあながち誇大な言い様でないと感じたんだ。交わりにどれだけ満足したのかまでは分からないけど、ある程度の快楽はおくもにあたえられ、再びかくれんぼを求める態度になかば呆れつつも、無言で従うあたり、ひょっとしたら僕の思慮を見通しているのかも知れない。むろん看破されたとして楽観的にとらえるのは早計だし、第一そんな簡単に助勢が得られるはずもない。
とにかく僕はおくもを迷路に放つ素振りで、あらためてこの屋敷の不可解さを認めようと努めた。結果から言ったほうがいいだろう。そうだよ、畳のへりをじっくり調べてみたけどどこにも仕掛けなど発見できず、ましてや掛け軸ひとつ飾られてない殺風景な有様は僕の根気をたやすく削いでしまったのさ。天井だってにらむように視線を送ったし、欄間の相違も注意深く眺めてみた。廊下のどこかに抜け穴が設けられているんじゃないかと足もとにも神経を配り、あとは庭に出て辺りの様子をつぶさに観察するだけだったが、以外と広い敷地には期待通り凡庸な草木がまばらに茂るのみで池もなければ灯籠もない、実をなさない柿の木を見つめていると気抜けするばかりで、最初の閃きはものの見事に打ち砕かれてしまった。
そういうふうに出来上がっているかと妙に感心してしまう自分が情けなくもあり、空元気の素材を拾い集めている無為を痛感したよ。
だが、おくものからだは毎日欠かすことなく抱き続けた。かくれんぼ=探索の図式はほとんど崩れてしまい、根気というよりか性欲が勝手に一人歩きしている風情だった。完全に計画を放棄したのか問われてみれば、夜間には交情を持たなかったあたり、一縷の望みを捨てていなかったようだから、どこかで探査の目線は発せられていたんだろう。
かくれんぼ=交情の日々は虚しく過ぎていったと語りたいところだが、懸念した肉欲の虜に堕してしまったと白状したくなる胸中を察してくれないか。まったく変な義理を自ら設定しまったようで、救われているのはまさにこの設定なんだけど、どうみてもおくもの女陰を突き上げることに主眼が置かれているのは紛れもないよ。身のまわりの世話にしたってたいして雑作などかからず、飯の支度で顔を合わせたあとは決まってうしろから抱きつてみたり、着物の裾をまくりあげたり、これはもう立派なひひ爺に成り下がっていると顔を始終引きつらせながら苦笑でごまかしていたんだ。日毎の交わりは一度に限られていたから、突発的に後ろから突き立てることや、下半身だけ広げてもらって太ももに顔をはさみ込まれて悦にいってることなど、またある日は無造作に寝転んだうえからいろいろ秘技が繰り出されるに至って、からだの相性は掛け替えのない方向に流れていったよ。そして義理に縛られていた思考もなし崩し的に消えうせ、昼夜に限らず僕とおくもは乱れたのさ。夕餉には酒を決まって運ばせたから、随分といかがわしいまぐあいにも発展していた。
一向に報せを寄越さない苔子やもげ太、雲隠れしてしまったチューザー、この屋敷に残されたのはじいとばあだけで、彼らともふだん滅多に顔を合わせる機会もなくなっていた。僕の気持ちが婚儀で結ばれた苔子から自然に遠ざかってゆくのは、おくもが代理で居てくれるからなんだと、感謝がもっと上位に高まった頃、例の種牛理論も危うくなってきたんだ。春の気配が近づいてきて、それとなく温かさがこの身にも伝わる。おくもを抱いてから結構月日を経たにも関わらず、精をすべてなかに注入した効果が一切現われない。虚言だと頭から決めつけていた避妊の是非がここに来て、もはや判然とされてきたではないか。僕は非情の手段、と言っても大方泣き落としに近い腹を割って相手の意向を見定める決意をした。
「おくもさん、こうして僕とふたりで楽しいかい」
「はい、ずっとこのまま旦那様と、、、わたしの役目でございますから」
青空を仰ぎ見たあとの充足に似た、けれども笑みにはならない渇いた表情が切なかった。おくもが監視役だとしても、僕には逃走願望さえあやふやでこの先の展望など持ち合わせていない。だとすれば、懐柔するもされるも徒労に等しい、思いつきたままを口にしたほうが今後いつまで続くか知れない情況に歩み寄れるのではないか。例え思惑が筒抜けになってしまおうとも仕方がないし、悪あがきしてみたところで所詮解放にはほど遠い。
日がな一日おくもと過ごしているのだからと、これまでのいきさつも含め、決して整然とした言い様ではなかったけど(これは君に対しても同じだ)ぽつりぽつり喋りだしたのさ。気がつくと落ちている秋雨のように庭先を煙らしながら、おくもは顔色に変化を見せないのが身上だという趣きで話しにつき合ってくれた。ひと言も疑点をただすどころか、ただ黙って僕のせわしない気分を、まるで季節の推移にゆだねる野生の草花のごとく静かに、風雨への感情が消えいるかに耳を澄まし、ときおり目を細めたりしながらうなずき聞き入ってくれるのだった。


[217] 題名:ねずみのチューザー39 名前:コレクター 投稿日:2011年08月22日 (月) 04時29分

袱紗の手触りを慈しむよう髪を撫でながら、唇をそっと重ねる。伏せられた目もとは眠た気なまま、情欲を静かに解き放とうとしている。おくもの表情は微風によりかすめられたような、うっすらとした哀しみが現われており、僕の胸は厳かな鎮魂に被われそうになったが、鏡に口づけする冷たい感触を味わう様相へと埋没して、反応を細やかに受け取ることは避けた。次第に温もりが感じられだしたのは哀しみが、別種のものに移り変わったからだと、醒めた歓びのなかへ時間を放り投げ、肉欲が穏やかに巡ってゆくのが分かった。
苔子との放埒な日々はからだにまだまだ残っていたので、おくもに対する興奮は影絵のうちに描かれる色彩となって、すぐさま躍りだしはしなかったのさ。彩りが不明瞭なぶん、技法を常に意識している節度が保たれていたと思う。おくもの着物を脱がし、瑞々しい肌を目の当たりにしながら、小ぶりの乳房を観賞し、少女の面影を宿した上半身に欲情とは異なったときめきを覚える。掌はそっと肩先へ触れるだけにとどまり、なだらかな胸を弄ぶ衝動は抑えられ、ゆっくり帯をほどいてみるもの憂さで、沈着した肉欲の流れを見届けたんだ。そんな僕の顔つきをおくもは不思議そうに眺めていた。いや、そんなふうに思い込みたいだけだったかも知れない。だってかなり悠長に構えて裸体との出会いを遅らせ、激しい交わりに展開するのかどうかさえ覚束ない態度を維持していたから。序曲だけを愛聴する短気さが、実はとても気長であるように。
濃紺の十字絣を脱いだ柔肌には格別な美しさが備わっていた。そしていよいよ茄子色の帯も巻き付く役目に暇をあたえられたとき、隠し通す使命から解放された初々しくまぶしい太ももが出現した。水気を含んだような張りは見事な肉感を漲らせている。透けるほどの白さではないが、憎々しいくらい肌の色がにじみ出て、僕を吸い付けてしまう一体感へと誘いながらも、その弾力には好意をはね返しかねない、無邪気な抵抗が潜んでいて増々悩ましさを募らせた。穏やかだった気分に変調をきたしたのは無理もなかったよ。だけども、そのあとに僕はもっと強烈な鼓動を知った。
着物の裾が完全にめくられたとき、まったく予期してなかった光景に目を奪われてしまったんだ。おくもは生成り色のパンティをはいていた。淡い色合いのせいか、はっきりした判断は数秒遅れていたと思うけど、恥毛の有無を認めることより、下着を身につけている不自然さに圧倒されてしまったよ。苔子に慣れすぎたのも一因だろうが、まさか股間を被う布がこれほどめまいをもたらすとは考えてもなかったから、やっぱり不自然といえるし、この違和感に僕はかなり戸惑ってしまい、しかも単なる驚きだけでなく、肝心なのは女体がそこですべてをさらされているよりも、つまり股の草むらが秘所を守護している加減、あるいは反対に陰部が陰部であることを強調している官能、それより遥かに僕は脳髄を揺さぶれ、手足の身震いを止められなかった。
肉に張りついているようなパンティはおくものこころと不可分なのかも知れなかったが、実際にはこころから超越したに違いない咽せかえては、視界さえもさえぎる濃い霧にかいま見る局部であり、いまここに陶然と目にしているものは女体の神髄をくぐるのれんだった。顕現を待つ心境は神々しく、そのむこうに開けるすべてを掌握している。そうだよ、脱がす瞬間は至福そのものだ。
もう帯を解くときの手つきは忘れてしまっていて、序曲の第一旋律は絶頂に達し、参拝する際にありがちな作られた無心が僕を突き動かしたのさ。ムクムクと**するのが痛いほど分かる。女体の地平が開かれた以上、妄念は嫌がうえにも脂汗にまみれ、熱烈な惰性とともに溶けてなくなるんだ。まばゆい太ももに顔を埋めるとき、おくもが見せた逃亡者を彷彿させる切実な、だがどこか不敵でありそうな微笑を僕は愛した。かくれんぼはまだ終わっていない。
ためらいが傷口であったなら、そんなことを思い浮かべながら股のあいだに唇を這わせ、水飴でもなめているような音を聞き取った。春先に咲き始める花の色づき、濃い桃色をした花弁、季節は移ろい真夏の太陽が燦々と降り注ぐ。蝉の声は暑苦しいけど、限りなく澄んでいる。おくもの喉の奥から次第に嗚咽がもれだす。僕は濡れた花びらから飛び立つ蝶のように、太ももの内側をまんべんなく味わい、それから雨上がりのカタツムリの精神で脇腹をさかのぼり、愛でるにとどまっていた乳房に到達する。
人差し指と中指で**を軽くつまんでから、両手ですべてをもみほぐした。決してちからを強めず、かといって弱すぎることなく、その盛り上がりに応える加減で柔らかなしこりを撫で尽くしたんだ。そのあとは左手を離し、再び濡れたところへと指さきを、緩慢に割れ目に沿って上下しながら少しだけ奥に忍ばせた。おくもが身をよじらせうっすらと汗ばみ始め、僕の下半身も肉に接したく上半身を起こしたとき、「わたしは避妊しております。どうぞ思いきり感じて下さいまし」喘ぎ声とは無縁であるかの口ぶりで、そう言い放った。
これまで手探りで築き上げていた臆見が瓦解する失意を覚えたけど、すぐにそれは一蹴された。おくもは明らかに虚言を吐いている。僕が断片的にかき集め、方向づけた種牛説を否定するのは無限の迷路をさまよい続けるに等しい。慎重に考えてきたつもりだ、揺るぎはなかった。
「そうなんだ、じゃあ、いくよ」
勢いよくおくもに精が注がれた。いつものことだが半分以上放出されたあたりで、冷静な思考がよみがえってくる。補欠策は穿ち過ぎだったかも知れない、僕は鋭利な自説に酔っていた、何というお人好しなんだろう。しかし、この里の住人が常軌で計れないのならば、現象は永遠につかみとれないというのか。


[216] 題名:ねずみのチューザー38 名前:コレクター 投稿日:2011年08月09日 (火) 00時10分

婚礼のため解放されたあの広間からむこうは知らない。まずは僕が隠れる役になり、幾重にも閉ざされたふすまを数えることなく開け放っては、底なしの奥行きへと遊泳する。もう何年もまえから住み続けてきたような思いがするいつもの座敷が、装い違う必要なしとばかりの無機質な相貌で出迎えてくれる。
畳の匂いや天井の木目にわずかに新鮮なものを感じとっているような気もしないわけではないが、多分それは代わり映えしない部屋をかき分けて進んでいる感覚のなせるわざで、歩調こそ軽いけど、決して駆けるほどの勢いでないにもかかわらず、こころ躍るがゆえにだろう。
遊戯だとよくよく自分に言い聞かせてみれば、確かにこの迷宮はおくもの息づかいを背後に知るし、騙し部屋をぐるぐる巡っているだけとしても、それはそれで愉快なところがある。世の中には不愉快な遊戯もいっぱいあるんだろうけど、今の僕には文句ない迷走だったよ。思惑はまえに話した通りだからくり返さなくてもいいね。ひと言、この脱出劇から遊びごころを外してはいけない、とだけ念押ししておこう。
さて、困ったことにどの部屋にも押し入れがない。それらしき敷居のつくりに飛びついてみると、またもや同じ光景が現われてくるだけでいっこうに進展がなく、このままだと他愛なくおくもに追いつかれてしまうな。一応探索も兼ねているのだから、何らか身をひそめる場所があって欲しいものなのに、これではただの追いかけっこになってしまう。いつもまでも堂々巡りに応じてはいられない、とりあえず屋敷内を無闇に探ってみた結果はまさにつかみどころがなかったし、徒労に終わりそうだ。いくら遊戯とはいえ、なるだけ早く見取り図なり、秘密の通路なりの仕掛けを見つけ出したい。さあ今度は慎重に目を凝らしながら、畳のへりや欄間の文様などにも相違がないか調べてみよう。僕は足取りをゆるめ、いかにも根負けした趣きで一室にたたずんだ。背中で表情を見せるのは中々難しい。元々静かな空間だったから、僕が音を忍ばせれば自ずとおくもの気配は耳をかすめた。おくもは女忍なら悟られることなく近づくのも可能なはずだけど、鬼の役目は言わずもがなだったから、悲嘆にくれ、あるいは戸惑いにせき止められた様相をそつなく背中でしめせたら、意向は伝わるに違いない。機微をうがつ手間は省略される代わり、瞬時にして僕の葛藤は解読されることだろう。大丈夫さ、誤解、つまり逃走心だけを見抜かれたとしても、おくもはそこに率先している挙動の影を見る。
攻落に向けての第一歩がたたずみの裡にあることを知り、また頓狂な好意がこうも寡黙になかに息づいている直感を得るんだ。おくもの動揺を背後に感じよう。
案の定、畳をする足音も初々しくおくもは僕に迫ってきた。開け放たれたふすまが何枚越しか、大体わかる距離だ。極めて冷血なまなざしを阻まれた無限の造りに投げかけ、その鋭い冷たさも反射して後方のおくもに届けられるよう願った。もはや耳を澄ます神経はいらない。
「旦那様、降参でございますか。行けども行けども、同じ部屋の連続、、、」僕は陽気な言葉をさえぎるよう声をあげた。
「次はおくもさん、きみが隠れる番だ」
句点を打った効果のような間が透明に堕ちた。そして僕の返事に対する口ぶりが発せられた刹那、おもむろに身を翻しながら目線を合わせることが出来た。
「承知しました。わたしの番でございますね」
おくもの声は距離を置いて響く花火のごとく、少しだけ低音気味だった。僕は微笑を取り寄せ、優しくこう言った。
「そうだよ、早く逃げないと」
今度はおくもが背を向けると、これまでたどってきた座敷へ小走りに去っていった。直列した四枚目のふすまから左に折れるのが見てとれた頃、僕はほとんど平時の歩行速度でそのあとを追跡したのだったが、逃げ足が途絶えているのを訝しながら左に向かったとき、思いがけない姿に出会ったんだ。
そこには投げやりにも意図的にも見えてしまう、おくもの哀願するような眼光が浮かんでいる。まさかこんなに早く番を放棄するとは考えてもいなかったので、心臓がドキリとしたけど僕は無言のまま、さっきの冷血なまなざしを注ぎ、情感を混交させようと努めた。
ここが奥まった座敷であることをあらためて認識したのは、陽光がほとんど差していない仄暗さによって、僕らふたりの間合いに遮蔽がほとんど存在していない、情感よりもっと高揚するものを見せつけられたからだった。眼光に哀しみを感じたのは僕の勝手かも知れない。しかし、この場に待ち受けているふうに立っている事実は想像のよどみではなく、ひとつの意思が歴然と働いている証ではないか。僕の驚きを期待していると思った矢先、おくもは有無を言わせない行為で更に緊縛を求めた。そう、求めたんだ。
そして空気を抜かれた風船みたいにヘナヘナとしゃがみこんでしまった。明かりのよりどころだった目線は面持ちをうかがわせない素振りで下方に落とされ、ちから尽きたと言わんばかりの風姿に僕は複雑な気持ちを抱いた。失望と希望が同居しつつも、悪夢と欲望が離反していく奇妙な、だが、限りない愛情が芽生える予感が渦を巻いている。おくもが鋭敏に僕を理解してくれたのなら、なぜ遊戯をこんな形で終わらせてしまうのか、早急な交情はこの隠れ里では真意が曖昧なのに、、、
どうやら僕は籠絡される運命から逃れられそうにもない。おくもはすべてを熟考したうえで忍法を仕掛けているんだ。遅かれ早かれの問題だったが、なまじ背中で演技などした挙げ句の至り、僕は黙っておくもと交えるしかない。かくれんぼは一時中断と思えばそれでいいじゃないか。
間合いなど本当になかった。すぐ手を伸ばしてうなだれたようにも見える首を上げさせた。ゆるやかな曲線を描いている額の下に悩まし気なまつげが伏せられ、瞳の中をのぞくまでもなかった。


[215] 題名:ねずみのチューザー37 名前:コレクター 投稿日:2011年08月02日 (火) 02時01分

屋敷にこもったきり憮然と苔子を待ち続ける風情で、庭先おろかこの敷地内さえ興味本位ならずも調べてみる挙動をこれまであらわにしなかったのは、やはり開き直りなのかも知れない。
いきさつを語りだしてみたものの、いまひとつ切迫した危機感をあぶりだしているふうに君には見えるだろうか。原因は僕の記憶がなにより一番だと考えられるけど、不可解な現象に対する反応の鈍さがもっと問われるべきではないか。架空の女忍に好意をすりつけ、曖昧な対象へと意識をくぐらせていたったのは、籠絡を僕から乞い願ったと見なされても仕方のない態度だよな。
囚われの身なのだと嘆くよりも、浮遊した意思を預けてあると言い換えたほうが不安や怖れは減少されるし、仮釈放みたいな自由がもたらされ、萎縮した我が身と四六時中向き合わなくても済みそうだった。熱烈な信仰を捨てなかった隠れキリシタンじゃあるまいし、当然ながら本当の自由なんて微塵も得ることなど出来ない。僕は奇怪な接遇に甘んじる代わり、自ずと幽閉の規律をまっとうしていた。そう、許されたこころの自由がひろがりゆくほど、この身を目に見えない荒縄で縛りつけていたんだ。だから、寝起きする座敷より出てみるのは圧迫をともなう苦痛だった。かといって決然とした解放への希求があったわけでもなく、所詮は隠れ里から逃れなれない、異境の涙に流れるしかない、そんな諦観にしっかり骨抜きにされていたから、別に拷問を受けているでもなし、怪し気な重力と健全な斥力がうまい具合に計られ今日まできた。もっとも何が健全かは自明に述べられるんじゃなく、あくまで怪異にのみ込まれた餌食が覚える想念だけどもね。
で、まあそうした葛藤がいよいよ僕の背を押し、隠れ里でかくれんぼという二重構造の回路を見いだす珍事に展開した。もげ太やじいばあを懐柔するには今更の感が強すぎる、細かく言わなくても分かるだろう。そうなるとあとはおくもしか残らない。苔子が帰ってくるまでにはとりあえず、屋敷中を調査し可能な限りの情報を探しだす。僕だけで隠密に行なうのは絶対に無理だ。昨日までふぬけ状態だった奴がいきなり部屋や庭をうろつきだしたら、間違いなくすぐ警戒される。おくもには最大の用心がいるな、苔子やねずみはあきらかに身近な監視として彼女を屋敷に寄越したんだ。だが、一番僕に近いことで不用意な行動が案外客観性を損なわす、つまり天井裏から盗み見しているねずみのような視線の配分を削る効果が期待される。おくもが優秀な女忍であるのは疑う余地はないが、何も絶望的になることはない。
僕は自分でも得体の知れない力が奥底からみなぎってくるのが分かり、単なる特攻精神だけでない、僕が何か未知なるものを握っているに違いない、そんな確信がはっきり芽生えたからなんだ。この件はまえにも話したよな、前置きはもうこれくらいにしておこう。
さて、かくれんぼを開始するにあたって、念頭に叩きこまなければならない要点を反芻してみると、自然不自然の見識は場合によってはあだになる、子供のように無邪気に振る舞えばいい。退屈しのぎだ、憂さ晴らしだといった面持ちこそ最善の構えなんだ。次に監視はさておき、注意すべきはおくもとの会話であり、更に神経を研ぎすましておくのが盗聴への対策だよ。この防衛術に関しては腹案があるのでいずれ実演におかれた時点で話すことになるから省略させてもらうとして、おくもには早い段階で僕の意向を悟らせておき、なるだけ綿密な探索を決行したいと願っているから、あえて無防備な挙動に出るつもりさ。
そうじゃないと限られた時間で屋敷の見取り図は描けないし、外部への逃走も出遅れてしまうだろう。最後にもっとも重要な事柄を示す。僕の不穏な行動に察知したじいとかばあはいち早く連絡網を使うと考えられるが、そのまえに有効に探査が進行しているとは明言し難い、出来るだけ穏便な手段を選びたいところだけど、これはつまり戦争だ。非情な攻撃も遂行する覚悟でいる。武器はすでに調達してある、以外なものが役立つのさ、これも後々話すよ。さて、あとはもげ太も含めた自称忍者らとの最悪の決戦だ。あの婚儀に参列したきつねの面々も加わったら僕は完全に包囲されてしまうだろう。いかにして突破口を切り開くか、そのさきは残念ながらわからない。
かくれんぼから包囲まではとりあえず遊戯だろう。だから取り急いではいけない。二重構造をそうたやすく横断してしまっては元も子もない。折角閃いた回路なんだ、まずはおくも攻落の仕掛けからゆっくりとご覧にいれよう。一気に要点だけを絞って聞かせたので、気忙しく感じたかも知れないけど、この里に流れる時間はそれはそれはゆったりとした優雅なうつろいであり、僕が想定した攻防などよくよく鑑みればおとぎ話となってしまい、なごやかなものに思えてしまう。
おくもの裸体にだってまだ触れていない、そして僕自身の何かにもまったく気づいていない、時間は短いようで長いのか、それとも反対なのか。
こころの準備は一応整ったので、おくもに切り出した。といっても我ながら拍子抜けするくらいの頼りなさが声色に出てしまい、遠足にでも行くような、もしくは海水浴に誘うような喋り方だった。
おくもにしてもきょとんとした目で僕を眺め返していた。そしてこう言ったのさ。
「面白そうでございます。旦那様もさぞかし退屈でしょうから。承知しました。では鬼の番はどちらから始めましょうか」
僕はこの屈託のない口ぶりを忘れることはないだろう。


[214] 題名:ねずみのチューザー36 名前:コレクター 投稿日:2011年08月01日 (月) 01時05分

日ごと寒気はつのりはじめ座敷の畳もひんやりした感触を通り越して、手のひらに尖った冷たさを残していった。冬支度で備えられた火鉢の暖に寄りそっていると、無為な生活も相変わらずと思われたけど、胸の奥には炭火と似た紅い火炎が消されることなく燃え続けている。
僕の生活は奇妙なほど静かに過ぎていったが、暗色の炭に炎を宿しているよう沈思黙考を怠らず時機を待っていたんだ。とはいえ、秋空の下でもくすぶるしか能がなく、半ば宿命とあきらめに傾斜していた身を省みれば、胸中はどうあれ実際には自分からすすんで幽閉の責めに甘んじてるとしか思えなかった。
例えばこの屋敷内を隈なく探査してみただろうか。もげ太らの言う金目教なり甲賀である虚偽を暴く行動を起こす試しがあっただろうか。つまるところ、妄言と退けたい一心で反対にことの真意から遠ざかるのみで、隠蔽された鉄壁に忠実な態度で臨んでいたにすぎない。思い返すまでもなく、僕は軽佻な素振りで楽観視を肯定していたから。籠絡の地位に妥協するには、こんな浮薄な神経が要求されたとでも弁解するつもりなら、部屋の散らかりを放置しておく怠慢となんら変わりはないよな。
季節に責務をゆだねるなんて適当な言い訳かも知れないけど、秋の深まりが冬に移行した現在、何かこう背筋が正され一条の光明に向かって邁進する決意がわきあがってきた。転倒した言い分にも聞こえるだろうが、火鉢にしがみついていた安楽の気分が情けなさを増大させ、一気に果断な心境へと転化したわけさ。
奇怪な儀式とはいえ、仮にも婚礼を行ない、あまつさえ僕の子種を宿した新婦はなしのつぶて、取り巻く環境もこれまで話してきた限り、いま可能性として開かれているのは、あるいはそう見届けてしまう迷妄なのか、兎に角おくもを通じてしか余された道はあり得ない。おくもを攻落するっていっても先だって話したはずだけど、中々よい方法が浮かんでこなかった。湯浴みにおいて思いきって交情へ持ち込む算段にしたところで、苔子との成りゆきがどこかで先行きを邪魔をしているのか、いつまで経っても背中を洗い流してもらうばかり、色情とは無縁の呆気ない日常に埋没してしまっている。
むろん時宜にかなった交情でないのは、例の第一問、補欠策におくもの使命が決定づけられているからであり、種牛としての僕は役割に縛られていた。ここで仮説が仮説でしかない、妄想が妄想でしかない、限界に直面し、補欠要員だと認めざるを得なかった僕の心境を察してほしいんだ。昔風に考えれば苔子が正室で、おくもが側室であってもかまわない気がするのだが、本山とやらの意向はどうも僕の憶測に合致しているようだ。考えてもみてくれ、この格式ばった待遇こそ、仮説を裏打ちする方便じゃないか。奴らは僕が記憶の断片を無くし、優柔不断に振る舞っている性分を洞見している。もっともそれすらが操作により試されているのなら万事休すだけど、とりあえず、最悪の事態を知らされてない以上、第一問から導かれた補欠ならびに慎重説をよりどころとして駒をすすめていこう。
おくもに欲情しなかったのかと言われれば、ないと答えるのは嘘になる。ここに連れてこられて以来、種牛と蔑んでみたところで自分なりには、女体をむさぼり精を吐き出す快楽は天にも昇る心地がしたし、婚儀にいたるまでの日々はまさに愛欲で充たされていたから、意識転換した今でも下半身にうずく血流はそう簡単に治まりはしないさ。
もげ太が念押しした、「決して忍耐などなさらぬようお願い申す」という意味がこれほど引っかかってくるとは思ってもみなかった。つまり、おくもに手をかけることは僕の品性や人格とかでなく、ある真偽が試され、更に穿てば監視の域から絶対に逃れられなくなってしまうんだ。いかなる理由でそこまで徹底した管理が施されるのかは残念ながら見通せない。
僕の煩悶はそうやって火鉢のなかに燃える炭のごとく絶えることがなかった。ところがある日、屋敷内探索の意想から飛び火するように、とても素晴らしい閃きが炎上したんだ。案はいたって児戯に等しいけど、領分はもちろん大人のそれさ。
炭火が灰に埋もれていくのをじっと眺めていたときだった。不意にかくれんぼという言葉が脳裏にどっしりのしかかった。さあ誰とかくれんぼするのというのだ。決まっている、おくもしかいない。だが、あの若さに似つかわしくない取り澄した娘が、いくら旦那様のいいつけであっても容易く了解するだろうか。補欠策によって交情は見送られているからこそ、児戯にまぎれておくもを攻落し、監視の眼をかく乱させ、この幽閉から脱出するために是が非でも彼女の協力を得なくてはならない。ことは慎重にそして大胆に遂行されるべきだ。もう説明は無用だろ、かくれんぼとは探索そのものだよ。おくもと交わる機は案外速やかに訪れるように思えてならない。何故ならこの閃きとともに、僕の股間もいきり立っていたからだ。
火花は燃えさかる。そして、あらゆる方向に飛び散る勢いを秘めている。闇姫が言い残していった、日向への憧憬もこうなると感慨深く、僕は戦国時代の合戦のさなかにおける血縁や男女の契りを想起させた。さながら信念と裏切りが渦巻きつつ、紅蓮の炎に包まれる城中を夢み、無常の果てに疾走する魂のゆくえを、、、


[213] 題名:ねずみのチューザー35 名前:コレクター 投稿日:2011年07月26日 (火) 03時43分

ある晩のこと、膳を下げにきたおくもに熱燗を再度所望し、酔眼の振りをもって彼女の視線と交わらせつつ笑みを作ってみたのだが、偽悪の表情はわれながらさぞ卑屈な顔つきだろうと、考えただけで興ざめしかけた。けれども、その不自然さがあべこべにおくもの軽侮をたぐり寄せ、思わぬ成果を生んだ。
「旦那様、今宵はめずらしいですね。随分とご機嫌がよろしいようで」
僕の醜悪な笑顔もまんざらではなかったのか、酔眼をなだめる優しい口調でそう言った。
「おくもさんよ、僕だって酔いたいときもあるさ。ねえ、すまないがお酌なんかしてくれるとありがたいんだけど」
図にのって頼んでみたら、おくもは黙って静かに徳利を傾けてくれた。手にした杯が微かに震えたのも何やら意味が添えられているふうで好都合だったかも知れない。一滴もこぼさないよう口を近づけ一気に杯をあおると、卑屈さは転じ未知数は逆算され、修正不要の確信を抱いた。「これでいい、これが前進さ」そう胸のなかでつぶやいた。
徳利が空になるまでおくもは酌をしてくれた。そのあいだ僕は彼女の顔を目に焼きつける。始めて会ったときの印象を裏切らない意思の強そうな目もとからは、犯しがたい神聖なひかりがいつも放たれていて、相手を威圧しかけない鋭さにためらってしまうが、ややしもぶくれの輪郭に調和する肉厚の唇と、きれいに揃った歯並びの白さを忘れ勝ちになり、ついつい顔全体で形成される穏やかな品性がなおおざりにされてしまう。その見た目は実際におくもに面しているときよりも、まぶたを伏せてみる遮断のなかに瑞々しくよみがえってくる。あごにかけての肉づきが丸みを帯びているせいか、正面と横顔に際立った違いを見いだすのが出来ないことに失望しかけた途端、鼻唇溝の深みととも口角がさわやかに上がり、歯並びが強調されるようにして笑みが浮き出し、あらゆる角度からの観賞にも親しみが付随していることに感嘆するだろう。おくもの笑顔がまれであるだけ、いつまでも脳裏に映し出されている余韻は隔てを無効にし、見知らぬものには既視感さえあたえるのではないだろうか。
僕が奸計と推量したこの冷たさ、あるいは毅然とした気風がかもす近寄りがたさ、これらは天性の器量であって殊更に誇張されたものではなかった。
濃紺の十字絣と茄子色の帯も本来の若さをいったん濾過してから、のちに抑えを解いたような清冽さを香らしている。からだつきは着物の濃い色調もあって一様にはかり知ることが出来ない。
「空になりましけど、もう一本おつけしましょうか」
鼻にかかったその声が耳をなでていくように感じられ、甘えながら抱き寄せてみたい衝動に駆られたが、その晩はそれ以上を望まなかった。鼓膜に微風が届けられたのかと夢想する。断念なんかじゃない、第二問はあわてては仕損じるだけで答えを取り逃がしてしまうんだ。だから「おやすみなさいませ」と、静かに障子を閉めたときの乾いた音に、夜の残り香を感じとり満悦した。手のうちはもう気づいただろう。そうだよ、僕はおくものこころに接触したかった。えらく純な胸中だって、さあそれはどうかな。屋敷をあとにする苔子には間違いなく感傷的になったと思うが、いまの僕は苔子にも闇姫にも、そしておくもにも束縛などされないし、情愛を分かち合う妄想も持ち合わせていない。女体を賞味しないのかって、どうやら義務みたいだから一応はだかはむさぼるさ。だが、それは第三問に進む情況を切り開く必要においてだよ。
見上げればもう冬空だ。冷たい雨はやがて雪になるだろう。少しも不自然じゃない、異形の里にも雪は積もる。日々は嘘みたいな早さで流れていった。約束された湯浴みの場面に筆を運ぼう。
あの酔眼から間もない日暮れ、僕は湯船につかったまま大声を張り上げておくもを呼んだ。
「どうなさいました。気分がよろしくないのですか」
心配そうに風呂場の戸から顔をのぞかせながら尋ねてきたので、いかにも平気な表情を保ちこう口にした。
「悪いけど背中を流してくれないか」抑揚はないが一言、やや高圧的な語気を込め目線はそらしたままだった。沈黙という効果がどこまで力量を発揮するのか、そんな問いを浮かべたところをみると僕は少々自信がなかったようだね。が、おくもは沈黙の場そのものに溶け込んでゆく、伏せ目がまるで無言の承諾であるように自分の足もとに注意をはらうと、躊躇することなく着物の裾をまくり、どこから手にしたのかたすきがけも鮮やかに湯船へ歩を進めてきた。
「旦那様、湯から上がってくれませんとお背中を流せません」そう、僕の語気などまったく意に介さない模様で微笑さえ投げかけてくれる。
これではかつての場面がくり返されたと困惑してしまい、局部を隠しながら湯船をまたぐのも等しく、せめてもの救いは手ぬぐいがすぐ近くに置かれてあった幸運だった。おくもの手つきは苔子とはあきらかに相違があった。ごしごしと垢をこするような加減とは別の、肌をゆっくりとなでつけてくれるふうな柔らかでのんびりとした調子、あまりに軽い手触りだったから、その分浴室の空気は湯気に代わって吐息が充満しているんじゃないかという妙な思いで密度は高まる。
背中に泡立てられた石鹸の匂いが希薄になっているようなはかなさは、紛れもないこれより反転する上体を求めている証だろう。そんな願望が湯冷めと拮抗しかけたのだが、おくもは背中をすすぎ終えると、「それではわたしはこれにて」そくそくと木戸を開け濡れた手足を拭っている様子がうかがえ、足音を響かせるくらいの気兼ねなさを誇示するふうに廊下の奥に消えてゆくのがわかり、僕はやはり肩すかしを食ったのだと遺憾を記しておくよ。




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