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[199] 題名:ねずみのチューザー21 名前:コレクター 投稿日:2011年06月28日 (火) 04時00分

白襦袢姿の苔子は見ようにもよるが、決してなめまかしい雰囲気でたたずんでいるわけでもなく、もとの無表情な面に帰っていたこともあって、どちらかといえば巫女を想わせる粛然とした容色に支配されていた。それは湯船に浸かっている僕が丸裸であることを差し引いたうえでの順当な見解だけどもね。
すると、意識は本来劇的な方向へ突き進むべきはずのところ、さっ**ったように僕の湯煙と向こうの冷気はあくまで緩やかに交わっていあったから、激しい高ぶりは抑止されていた。だからこそ、苔子から立ちのぼる香りに秩然たる匂いが感じられたに違いない。こんな説明の仕方だと僕らの間に、まるで儀式めいた要素が存立してるといわれそうだけど、それもまんざら無理もないことだよ。苔子はもげもげ太の姪だというし、これは一族にとっての歓待のあらわれだとすれば、その先に繋がる結果もおおよそ予測できるじゃないか。僕が考えている以上の振る舞いは情欲に堕する質だろうから、つまらない下心は持つべきでなく、社交ダンスに興じる気分で相手の出方を察すればいい。
とはいえ苔子から「湯から上がってください」って、ささやきにも似た口調で乞われたときにはさすがに勢いよく湯船をまたぐわけにもいかず、つまり手ぬぐいもなにも持ってなかったので自然と下半身だってさらしてしまうし、けっこう気合いがいるだろう、素手で局部を隠しながらなんていう格好もあべこべに妙な具合になるなんて考えていると、なにやら気まずくなってしまうばかりだったから、懇願でもする目つきになっている自分を痛感してしまい、そっと苔子の顔を盗み見てしまったんだ。
早くも少女に先手を打たれ、その気色ばむ様子のない態度に屈してしまった僕は、社交ダンスどころではく、汗ばむ手に気をとらわれ狼狽する呈でまごついていたわけだけど、苔子の抑制されている心得が嫌というほど分かりかけると同時に、次は別の意味で自分が恥ずかしくなってきた。その意味を悟られるのも心外だったので僕は素早く、背中を木戸に向ける姿勢で横向きに湯船をまたぎ出て、いい案配で床に置いてあった木の腰掛けに座りこんだんだ。こうすればとりあえず全身をさらすこともない。背面に目があるとかの達人や超人にはまったく及ばず、僕の背中は案じたより鈍感だったみたいでようやく一安心したわけ。その間に一切口をきくことはなかった。耳を澄ますまでもなく、桶が湯を汲む音がしんみりと聞こえてくると、右肩にほどよい力が添えられ石鹸の匂いが背後から漂ってきた。垢こすりみたいにゴシゴシ擦っているわけじゃなかったし、かといって肌をなでつけている加減でもなったので徐々に苔子の手つきに慣れてきて、背を向けていることも加勢したのか、またまた冷静さを取り戻したというと聞こえは良いけれど、正直なところ不純な成分が石鹸で洗われたのだろう、純情なまっさらな欲望が鎌首をもたげだしてきた。
一通り背や腕を流し終えたその先はどの向きへ移るのだろう。まさか、くるりと反転して胸やら腹まで洗ってくれるというのか。苔子の平然とした口ぶりに対し鼓動はますます激しくなる。肉体が触れあうかも知れない望みをとらえる興奮がすでに訪れてしまっている。桶から注がれる湯も滑らかに背中を流れていったから、これで終了だと思った僕は「ありがとう、あとは自分で」と、言いかけて口をつぐんでしまったんだ。
言うより早く苔子は「ではまえを向いてください。遠慮などなさらずに」、駅の売店なんかで若い売り子が素早く品ものと釣り銭を手渡す場面さえ彷彿とさせる、事務的な態度でそう申し出る。
面映さもこうなれば、湯船で火照った肌から立ちのぼる熱気にまぎれこんでしまい、言われるがままに石鹸のぬめりも手伝って腰掛けのうえを反転し全身をさらした。まるで恥じらう**みたいな言い様に聞こえるだろうけど、この屋敷の門で初めて少女を目にしたときから紅葉の反射とは違った明るみにほだされ、軽い会釈のうちにとどまる感情を緩めていたようだし、何よりその緩められた安全弁の在り処を黙殺しかけた仇が今こうやって、逆転しかかっている。
口調とはうらはらに苔子はさきほど見せた微笑とは異なる目つきをしていた。僕が裸であることをどこかで有利に感じているのか、もしくは少女である身を誇らし気に認めているのか、年齢差などまったく意味をなさない永遠の性差だけが抽出され、裸身と白襦袢、その一枚の隔たりに守られるようにした距離が僕の髄液を妖しく培養する。少女は確実に羽ばたいていた。脱皮したての蝶が草地をもの珍しくひらひらと飛んでいる。秋の空は季節の転倒を許し、紅葉の色調に目配せでもするように笑みを投げかけていた。
僕の目はどこにそよげばいいのやら、思慮するまでもなくゆらゆらと幻影のごとくにある苔子の表情を見つめる以外ない。
胸に手ぬぐいが触れた瞬間にはもう開き直りに似た落ち着きを覚えて、複雑な層から浮かびあがるとばかりに考えていた笑みがそれほど重力に抵抗せず、ごくありきたりで幼稚な、そして健気であることが垣間見えてきて、僕の肌を優しくこすっている手つきと表情が不可分だと知れだす頃には、妙な気分は離れさってしまっていた。過剰な色香は訪れたのでなく、僕が強引に呼び寄せたんだ。湯煙は自在に立ちこめていたよ。これまでの緊張が解けだした理由は少女の所作には集約されない、、、
苔子は僕のからだの隅々まで洗い流してくれた。とても丁寧なちから加減で、予期していたけど下半身に石鹸の泡が被り、さながら**が白雲で隠れだしても僕は平常だった。もう見られているんじゃないという意識が働いてきて、少女の顔をぼんやりと眺めてたから。けれども、ふと目線が首すじから肩になだれるように落ち、返り湯を浴びている胸元へとたどり着いたとき、襦袢の生地が極めて薄いことに気づいてしまい、そこに透ける肌に目は吸い寄せられてしまったんだ。


[198] 題名:ねずみのチューザー20 名前:コレクター 投稿日:2011年06月21日 (火) 03時08分

見据えていたようでその実、しめやかな空気になだめられていたのか、凝視にまで至らなかったのは、苔子が音もなく障子をしめ姿を隠したあとに漂った名残りへ溶解している、薄ら寒い想いによるものだったようだ。けれども、少女の笑みを求めるまえに僕の眼中をよぎった光景は消え去ることなく、温熱が次第に冷めるようにこの身を通過する。
チューザーの児戯めいた挙動がなによりも僕の気持ちを代弁していてくれたから、それより深く思案してみるまでもなく、小さな波紋はそれらしく静かにさざれていただけさ。茶を口に含みながら揺曳する目はもう一度、夕日をしみ込ませた障子の明るみに慰撫されだした。もげもげ太にしろ、苔子にしろどうもここの家人は余情を投げあたえる才覚があるのか、それとも僕が勝手に心もとなさをすげ替えているだけなのか、どちらにしても今はその鎮座のなかに浸るしかなかった。反照の加減により刻一刻と過ぎゆくのを格別意識しなかったのはいうまでもないだろう。チューザーもいつしか知らず走りまわるのを止めて大人しくしていたし、それから会話を交わした覚えもないんだ。
風呂の支度がと、ふたたび苔子が顔を出すまでどれくらいの間だったか、そしてチューザーから「それがしは浴槽は苦手でありますので、御先にどうぞ」そう促されたまま座敷をあとにし、廊下を踏みしめる足の裏にかつてない感触を覚えながら、苔子のうしろ姿を見つめているのか、ただぼんやりと案内されるままなのか自分でも判別つかないうちに、「こちらでございます」と、さながら風呂場の湯気に湿ったふうな声色を耳に届けられるまでは、どこか夢心地だったんだろうね。
夢といえばここまでの道のりも夢のまた夢みたいなものだし、が、それだけではなく突き刺さるいばらを抱きかかえた煩いも間違いなく同居しているので、このひんやりした廊下がもたらす目覚めのような感じを愛おしいものとして受け入れた。そのときだった、古びた木戸に手をかけた苔子は半身をこちらに向け、ここに来て初めて笑みを浮かべてくれた。ほっそりした面すべてが豹変するわけでもないけど、釣り目勝ちな双眸はほんの気持ちまなじりが下がり、毅然としたあご先は口角がやわらかに上がることで、凡庸だと思われた唇がとても可愛らしい生き物に見え、白い歯並びは心底無言に徹する感情だけをそよがせる。もちろん僕の思い込みかも知れないが、それまで木彫りの人形であった苔子の顔かたちに仄かなかがやきが宿り、それが先ほどまでの夕映えにせよ、こうして廊下を伝い陽のあたるところから奥まったなかで笑みが咲くのは、まさに黄昏どきの路傍に見つける一輪の草花であった。
湯に身を沈める瞬間、あらたに生まれかわる何かがもたげかけたのだが、どうした意想であれこの肌を包みこむ、しかし、どこまでもかけ離れているような気分に浸食されたまま僕もそっと微笑んでみたんだ。湯船にたたえられた熱気が毛穴から浸透してくる。一番風呂らしく湯気はほとんど目立たずに、肩先からうえにあの懐かし気なとりとめもない情趣が泳ぎだし、風呂場の造りを見回すことさえ忘れてしまって、ときにさらわれたのか、あるいは夕暮れの空が落ちてきたのか、想いは自在な雲の流れになり目のまえに人造の湯気を呼び寄せた。ほとんど形はなさないものの、胸のなかにたかぶった妄念と、脳裏から降りてくる弛みない情感が湯に混じっては火照ったからだから発散してゆき、夢幻と和解している現象を思い知る。
湯船は温泉地の家族風呂ほどの広さがあり手足は自由を取り戻した。わびし気に天井へ引っついている裸電球のあかりはほんのり灯り、脳裏へと創りだされる湯気には最適な陰影を保っていた。方や漫然とよぎってゆくまだまだ未知なるものに対する怖れが、遠く離れてはすぐに近づいているような気がし、もはや冷や汗とはいえないしずくとなって額から頬に伝わるのがわかる。あれこれ思考をめぐらさずにはおれない性格なんだよ。でも困った性分と割り切ってきたたからこそ、苔子の笑みがついさっき授けられたんだと思いなし、そして更に突き進んで欲情の破片を汗のしずくに見立てると、湯煙でむせ返るくらい頭を曇らせてから一カ所だけ設けられた小窓にしたたる水滴へ重ね合わせたんだ。空の様子もうかがい知れないガラスの小窓は暗色にくすむのでもなく、裸電球の照りに応えるのでもなく、土気色から人肌色に変わりつつある生気で明るみ、艶やかさと滑らかさを同時に持っていた。
段々と膨らみつつある湯気の向こうには「闇姫」やら「卍党」やら「ミューラー大佐」やら「諜報」といった言葉が無造作に並びはじめたけど、温まりだした身体はそれらを閑却してしまい、冷や水を浴びせるのが一番の効用だと願ってしまったわけさ。そうだよ、冷静な欲情などと相矛盾する妄念を抱く限り、たいそれた期待などしないほうがいい。無論これも逆説でね、可能性が期待に裏打ちされている以上、焦りは禁物なんだ。これはまえにも話したはずだよな。それから脳内の湯気が形成したものと、期待の成就を常に計りにかけておく事。だって僕は試されているんだよ、そうさ、バスのなかでも、この屋敷のなかでも、、、
小面倒だって言うのかい、湯煙なんかわざわざこしらえなくてもかまわないと。さあ、それはどうだろう、このくらいが丁度いいんだよ。だって一人相撲は確かに物悲しいけど、所詮は己が作り出した砂上の楼閣、責任転嫁の手間もはぶける。さて、続きに戻ろう。小窓のガラスに点綴したものと同じ数だけ僕の顔面からも汗がこぼれた頃、木戸の先から物音が純然と聞こえ間をおかずに、「よろしければお背中を流させて下さい」と、苔子の憂い秘めた声が響いた。驚きはしなかったし、慌てたりもしないさ。では待っていたのだろうか、そうともいえるが、そうともいえない。と、いう次第で木戸は開けられ、風呂場にこもった湯気の大半は苔子の声のするほうへ緩やかに移り、反対に冷気がこのせまい湯船に忍びよってきた。
白襦袢を襷がけにした苔子は少女である背丈から、艶麗な気配を先延ばし、調節なのかそのふさやかな黒髪をうしろに束ねることで妙齢の色香を抑えているかに見えた。


[197] 題名:ねずみのチューザー19 名前:コレクター 投稿日:2011年06月14日 (火) 02時40分

八畳ほどの殺風景な座敷に通された僕らは、といっても僕とねずみには適度な広さで、ちょっとした旅情が障子越しにすきま風となって運ばれてきた。玄関からして簡素な佇まいだったので、庭先の景色をうかがう意欲もかすれてしまい、縁側に沿って踏めば軋るような廊下を進んでいく心持ちを意識するまでもなく、そのときは実をいうと久しぶりに靴を脱いで歩いている感触のほうが勝ってしまったのか、あれこれ家の造りに目をやることも忘れていたんだ。
しかし、いざ絵柄なしの少々黄ばんだ白いふすまが向き合い、これまたくすんだ畳に足の裏が触れた途端に、調度品も床の間も掛け軸もないがらんとした空間に視線が泳ぎはじめたのさ。指先にぬめりを与えたかとさえ思わせる飴色をたたえたふすまの木枠は相当時代を偲ばせ、その幅はまるで畳の縁を床から浮かびあがらせるように同じ位置に接しながら、奥の間と隣の間を区切って水平垂直に不思議な整合性を配し、左手の土壁の素っ気なさに臆することなく雅な味わいを感じさせてくれている。奥の間も同じ間取りであるのが知れると、それ以上深追いしない狩人の気性などほのかに胸を去来させ、おもむろに姿勢を変え縁側の障子をぼんやりと見つめた。「まずはおくつろぎを」と、ねぎらいを含んだ柔らかな言葉の余韻がまだ耳に残っている。もげもげ太はおそらくここのあるじなのだろう、すっと閉められた障子がすべりゆく残像にも毅然とした風格がそれとなく尾を引いているようで、僕の胸中には安堵やら期待が混じり合い、律儀な線状を見せる座敷もさることながら、すでに夕日が差し込んでいる情景に陶然としてしまったんだよ。
真っ白であったのか、煤けていたのか、もはや夕映えを仰ぎ見る気分に同調したままじっと、橙色に染まりゆく障子紙をなにか怖いものでも目にするようにしていたのはきっと、妙な出来事に飛び込んでしまっている不安が解消され、反対に郷愁の成分を譲り受けたからではないだろうか。
まなざしは定まったままの状態だったが、なぜか掌で畳をこする仕草は続けていた。それをあえて子供じみた、いや動物じみたかな、反応で示してくれたチューザーのせわしない無言の動きが加わり、互いの心模様があらわになっていたように思う。やっぱりねずみって凄くすばしっこいんだね。何度かあのひげ先が指にあたったんだけど、その感触を覚えたときにはもう座敷の隅っこに駆けているんだ。さながら隠しきれない気持ちのように。遠くへ逃げ出したいくらいのはにかみを振り捨てながら、、、
「失礼します」日暮れであることに没頭していた趣きが一層深まった。チューザーは読みとってくれていたんだ、きっと。
僕は橙色した色合いのうしろに積雲の動きをゆっくり見届けた。不意な陰りではない、予期したごとくの明確な挙措であり、それはしなやかな身体を映しだす、いわば僕の幻灯機であった。
「お茶をお持ちしました。お風呂のほうは少しお待ちください」
腰まである黒髪が揺れる様は影絵のまま、開かれた障子のなかに持ち込まれる。苔子は僕の動揺に勘づいているのか、決して目線を合わせようとしない。だが、僕の動揺は浴槽からあふれてしまう湯水みたいに、その放恣は案外と大胆な意気込みを育んでしまう。そう、苔子の姿かたちをこの目に焼きつけんばかりの勢いで観察したんだ。時間にしたらわずかだったけど、動体視力を駆使しつつ、しっかりと観るべきものは脳裏に保存する覚悟だったから、彼女は増々気おくれしてしまったかも知れないな。そんな有様だったわけなので、苔子の容貌はしっかりと想起出来る。
濃い緑をしたお茶をすすった。この香り、舌へと残るまろやかさに拮抗する品のある苦み、どこかで味わったようにも思えるのだが、それより先は踏み込めない。えっ、ねずみもお茶をすすったかって。ああ、チューザーはリポビタンだって飲むんだよ、それより茶の香りは、別の香りをこの殺風景な部屋に放った。律儀なふすまの木枠と畳の縁はお決まりの端正であることから解き放たれ、縦横無尽にその直線を組み替え、限りない線路のように山を越え、谷を越え、地を這い続ける。
少女は少女であることを自分で認めていながら、雨後のたけのこが驚異的な成長を見せる様態をあくまで両の目でうかがっている。長く伸びた髪に対する時間とは異なる意想を宿しはじめ、すでにその根はこころの奥深へ浸透しているのだが、うまくたぐり寄せることも、つき放してみることも覚束なくて、つい投げやりな視線に流してしまうのだけども、傍からすればそんな面持ちこそ十全な成育のあかしに他ならず、丸みを帯びていた手がどことなく引き締まった反面、からだ全体はふくよかな張りに充たされだし、着物のうえからも察することが無理ではない色香を漂わせだす。例えば首筋に備わり始めている溌剌とした皮膚の艶は、姿勢の加減や些細な仕草のうちに一瞬あらわになるし、元来細面であったのか、こめかみのあたりからあごにかけての鋭角さも理知的な冷たさで損なわれてしまっているというより、気品ある乙女だけが持つ厳粛さで逆に強い引力を生み出して、まわりの空気を浄化し、魅惑の距離感を定めてくれる。そんな輪郭は静止している場合だけにとどまらず、様々な角度から眺めることで小気味よい踊りのように、あるいは愛嬌ある動物の骨格のように、表面上の、そして内面の若さゆえの清純を強調させてやまない。少女が内包している爆弾に匹敵する清楚な球根に罪はない。そもそも女体自体なんの罪もあるはずがない、清らかに淫らにと査定をくだしているのはすすんで罰を受けるために存在している輩だけだ。もっともそういう輩がこの世からいなくなってしまえば、相当寂しい世界になるだろうが、、、
苔子の瞳をのぞきこむのが難しかったので、僕は横顔を通しなぞっている。とはいえ、彼女の目が若干つり上がり気味であるのも、細面に合わせて調節したみたいな鼻筋がこれからまだ屹立してくる予兆があるのも、それから以外と唇が凡庸であって印象が薄いのも、すべては苔子の笑みをまだ目の当たりにしていなかったからなんだ。


[196] 題名:ねずみのチューザー18 名前:コレクター 投稿日:2011年06月07日 (火) 02時39分

甲賀までどのくらいバスは山路を抜けてゆくのだろう。まどろみに誘われ、夢の里がぼんやり霞がかった向こうに届きかけた心地は消え入りそうな水彩画へにじむ一筆だった。どこまでも淡白である情緒に従うことを至上と心得る、かたくなな居眠りとなって。
そうさ、うたた寝をしてる間に、空模様の加減をうかがうこともないままに、まるで時代劇の撮影用にでも建てられたかの古めかしい門構えが窓のそとに静止した。草庵と呼ぶには気骨あり気なたたずみの、風雪に対峙し続けてきた木目の質朴は、武家屋敷の趣きを醸しながらもそれらしく山深き民家であることが観てとれたんだ。門のさきには畑が耕されていて、柿の木や南天が寡黙にのびた様子も、その上空をゆるやかに舞っている鴉も無聊を慈しんでいるような気配だったから、なおさら紋切り型の印象を受けたのかもね。
「ここが里の入り口なのかい」なんとも間の抜けた台詞を僕は吐いてしまった。
「左様でございます。二角堂と申しましてかの玄妖斎翁が晩年に住まわれた家屋なのです」
もげもげ太が颯爽とした声色でそう答える。ああ、いよいよ得体の知れなかったものが本格的に立ち現われようとしいる。眠気が飛んでしまうというより、もっと深い夢の彼方に連れ去られてしまいそうな気がして、ふらふらとした足取りでバスを降りたんだ。車内も清浄な空気を保っていたけど、外気は手足がしびれてしまうくらい澄みきっていた。長旅かどうかはわからないが、とにかくチューザーの講談に引かれるまま山中を揺られてきた身にとってみれば、名所や旧跡を訪ねたときの新鮮な感覚に見舞われるのと同じで、しかもこれは古きものが威厳をただしているだけの日向にくっきりと浮かぶ濃い影とは異なる、逆に陽光のなかにぽっかり開いた穴ぼこをしらしめる、さながら墓所を掘り返してみたようなおののきにひんやりと僕は包みこまれていた。すべてが幻想に浸食される瞬間っていうのはこうした冷気をともなうものなのか、汚れを知らない山の精も無論この環境を造りだしているのだろうけど、僕には架空の人物としか思われなかった甲賀玄妖斎がこの門内に漂っているふうに感じられて仕方なく、鳥肌を立てることも忘れているほど外界に射抜かれたのさ。つまりは透視された。だからとてつもなく澄んでいたんだろう。
チューザーもなにやら話しかけていたようだったが、どうにもその場のことが思いだせない。なぜなら僕らを待ち受けていた人影が、宙を浮いた足もとへ近づいてくる様をじっと見つめていたし、面をあげるのも気恥ずかしく、鴉は変わらずゆったりと飛翔を続けているのか、果たして何羽が空から見下ろしているのやら、歓迎の挨拶は門前の人影よりひと足早く鳥影のすがたでこころの隙間に歩み寄ったからなんだ。上空の羽ばたきがここまで聞こえてきそうなくらいのせわしなさで。それでいて、悠然とした素振りがこの二角堂という寺社みたいな名前の由来を告げているようなのは、どうしたわけなのか。秋風がさっと吹きこんだのもいい案配で幻想は宿無し子をなだめ、萎縮と羞恥のはざまに生き生きとした光線を照らしたんだ。紅顔に染まる思いが自然であることを願い、ようやくたどりつけた人里に血のぬくもりを覚えたことを祝し、あの揺籃から導こうと努めた回路が不徹底となる甘い憂いに失する予感が、しみじみ愛おしく感じる。
老夫婦の笑みにはすでに鳥影から離れた親しみのあるしわが刻まれており、油が抜けた皮膚に一層濃い影を生みだしていた。でも、僕が身震いしたのは彼らの後ろに隠れるようにして立ちすくんでいる、ひとりの少女であって、その容姿の清楚な雰囲気にのみ込まれたのはもっともだったが、なによりその頬が紅葉の反射を受けて朱に染まっているかの光景だった。僕の羞恥は多分この少女がもたらしたんだよ。
「この家の留守居のじいとばあの夫婦です。それからこの娘はわたくしの姪にあたる苔子、斯様な山奥のこと故なんのおかまいも出来ませぬが、まずはおくつろぎ下され」
もげもげ太はそう言うと門のなかへと案内してくれた。おおよそ山のなかにはありそうな老夫婦だと違和感はなかったけど、まさかこんな少女がいるなんて考えもなかったので、人影のなかに見いだしたことをわずかだけど引き延ばしたんだろうな。「こけこ」って言われみて最初はにわとりを想像して一体どういう名前なんだって首を傾げた通り、これだけ風貌と名がそぐわないのも珍しいよ。
バスの窓に映った畑は左右に案外ひろく、その真ん中を一直線に進んでゆくとやはり映画のセットみたいな建物が迫ってきた。それでも草葺きの風趣に感心していたから、細やかに普請の情景を伝えたいところなんだけれどもげもげ太が家のまえあたりで急に、「闇姫さまは所用にてこちらにまいるまで三日ほどかかりそうでございます。いかがいたしましょう」と、チューザーにか僕にか、それともどっちにもか、半ば薄笑いをつくりながら問いかけてきたんだ。どうもこうもない、僕に権限などないのは百も承知だったので黙っていたところ、チューザーはいかにも物憂にこう言った。
「それなら骨休めといたしましょうぞ。御両人には鋭気を養いまするのがよい機会、また車両での密談などより、この様な由緒ある屋敷にて、懐かしい畳部屋にて、休息をかねてですな、、、」
僕は内心喜んでいたんだ。温泉場にでもくつろぐ安穏でもう胸のなかには湯煙が立ちこめていたからね。雨降りはあまり好きじゃないけど、小雨や霧に霞む山間はとても静寂でしかも見通しが良くなる。君にはわかるだろう僕の言ってることが。


[195] 題名:ねずみのチューザー17 名前:コレクター 投稿日:2011年05月31日 (火) 10時01分

山道が舗装されてないことを今はじめて身に覚えた。それはどれくらいまえからだっただろう、通り去る風景の一こま一こまをしっかり見定めていたようで、なにもかもが虚ろにしか感じられない、あの穏やかで閉塞的なまなざしによって回想は曇らせていた。僕の意識に立ち上ってくる淡い情感は、行方を探ろうとはしない朦朧とした余熱で保られたまま一ヵ所に淀んでいる。紅葉に萌える山々が色彩をなくしてしまい、一面真っ白く雪景色へ移り変わってしまった平坦な思いに包まれていたのさ。留め置きたい気持ちは、ちいさな雪だるまとなってところどころで寂し気に日光を受けている風情だった。雪どけを待ちながらも氷の世界を愛しむ、冬の旅人のように。
現実の季節がこうして逃げさっていくことってないかい、いや、季節に限らず一日のあいだでも起伏を生み出しては、さっきまで好きだったものが次第に色あせ、何事もなかったふうに目には見えない物置にしまわれる。そして反対に忘れかけていた些細な気分が胸のなかに充たされていく。まったく自由奔放といえばそれまでだけど、僕らの体調もそれに等しく日々うつろっているから、温もりや寒気に敏感になったり鈍感になるってことはあたりまえだね。バスに伝わる振動は決して均一ではなかったけど、そのうちガタガタ道を走る違和感が薄らいできて、変拍子にのせられているような体感を心地悪く思わなくなっていた。
まどろむ意識がいつも揺籃であるとはいわないが、まどろむことによって棘のささった指先を見つめなくなり、ザラザラしたいただちは緩和され、キリキリする欲望や嫉妬が希釈させる。こころの中すべてが放念されるかといえばそうでなく、案外それまで見えてこなかった異相がくらげのように曖昧なかたちではあるけど、大気中に靄を認めるみたいにして形成し始めたんだ。
僕の脳裏から剥奪されたのは自由であったかも知れないが、気分がそれなりに自由である限り、奪われ束縛されたのでなく、そうだな、旅行中にハイジャックとかバスジャックに出会った不運を嘆きつつも旅の趣きを決して失わない、そんな生気さ。無理矢理バスに拉致されたわけでもないけど、それなら僕の方からすすんで乗車したともいえないからなあ。このあたりが明確でないのがやはり実情だよ。チューザーの奇天烈な話しを鵜呑みにしなければならない情況を了解しても、それがそのまま絶対の束縛には繋がらないと思うんだ。どうやら僕は何らかの鍵をにぎっているため少しは役に立つのだろう、もちろん彼らの言い分がまっとうであればだけど。あと相当に入り組んだ世界を浮かべてしまうんで、正直なところ面倒だと考えてもいたから、そりゃ僕だって追憶には即せないが、思考方法はあれこれめぐらせてみたよ。一般論な合理的判断に結ばれないのを自覚したのは妥当だと思う。帰納法でつきすすめてみても袋小路にゆきついてしまいそうだし、夢想とか聞こえのよいマインドコントロールにいたってはもう一切考えないほうが賢明だ。僕に可能な方便は、つまり残された道筋は現象学的還元だけだった。その行程はこれまで書いてきた通りで、必ずしも明解な答えにはたどり着いておらず、相互の主観を出来るだけ綿密に記述しようとしてきただけだから独断でしかないわけだけれども、そう、つまるところ自意識の要諦に四苦八苦して引き戻す作業なんだ。現象学は厳密な学だと創始者は述べているけど、結果的には道筋をたどる方法論でしかなく、落ち着く先も海底に下ろされる錨のように確実ではない。だけど主客二元論で割り切られる世界よりはよっぽど誠実だ。少なくとも欲望が加味していることに親しみを寄せられるから。
投錨されることが欲望なんだ。観念論や実在論がわざわざ遠ざけてきた欲望が大海に再び飛び込んでゆく。この官能さえともなう理念を見つめない限り、錨はただの重しにすぎない。さあ、君ならどうする。由緒ある製鉄所で製造された錨に絶対の確信を持ちひたすら一途であるのか、それとも由緒も本来も格別こだわりなく投げこまれた錨にこの身が溶け込んでいく刹那を愛するのか。そして愛するものが誰なのか、どこにいるのかなどとの考えを無粋と流し目だけで送れるかな。
流れゆくさ、上流から下流へ、過去から未来へ、春から夏へ、空から雨が、山から霧が、森から鴉が、夜から朝が、人から人が、、、大地と大海と大空は、君の錨を待ち望んでいる。君が望んでいるよりもっともっと深い場所で、高貴な寝台を準備して。
僕はどうするかって。決まっているじゃないか。このバスに錨は装着されていないから、停車を望むまでのこと。まえにも伝えたけど最終目的地などでなく、各駅停車みたいな気軽でいながら胸騒ぎを忘れないことだよ。
いかにも思惟をめぐらせたふうに聞こえるかも知れないが、土台妖しの世界を身震いしながらのぞきこんでしまう性格なんだ。そうそう現世ご利益じゃないけど念いは通じるもんだね。チューザーからしてみれば仔細を明かすに及ばずの方針は、僕にとっては非常に喜ばしい方向に進んでいった。もげもげ太がこう切りだしたんだ。
「これより甲賀の里へと向かいます。今後の計画などは申し訳ありませんがしばしの猶予を。実際に甲賀にて見聞されるのがよろしいかと存じます。それから予てより待ちわびられておりました様子の闇姫さまが里に戻られたと連絡が入りました」
僕は無性にうれしい反面、どことなくわびし気な幕に被われた。切望したのは事実だったけど、こうもたやすく面会がかなうなど贅沢にも拍子抜けしたように感じたんだ。あれから日にちと呼んでいいものやら、チューザーには壮大な謂われを聞かされたにしても、劇的な事件にも遭遇してなければ、身の危険に苛まれたわけでもない、時間の推移が実感できないままにもう祈願が成就されてしまう。無論わびさしより期待のほうが数段と勝ってはいたが、いざ自分ごとになって切迫してみると、捨て犬が路頭に迷うやいなや直ぐさま優しい飼い主に拾われたみたいな運が良すぎる進行には、戸惑いがあった。いずれこの微妙な綾は別の意味で知らされるのだけど、そのときは胸騒ぎまで発展しない、気軽さだけに手応えを覚えない驕りで燻られていた。


[194] 題名:ねずみのチューザー16 名前:コレクター 投稿日:2011年05月24日 (火) 06時36分

覚えているかなあ。はじめてチューザーからねこの謂われをしらされたとき驚きのことだけど。記憶の端からすんなりと形状が示されるように確か黄色いビニールのおもちゃが飛び出てきた。まるで魔法にでもかけられのたか、催眠術によって実在しないものが捻出されたのか、どっちでも同じなんだ。だって幼年期に沈める思い出とか、確実にたぐり寄せられるものなんかじゃない。それはまだまだ産湯につかっていて、人肌の加減を味わう言葉さえも覚束なく、疑心を産み出す努力も教えられない、無垢な光線に照らされた湯気のような意識だった。
少なくとも僕は後年までその黄色いねこをガラス張りの飾り棚にしまっておいたから、湯気に包まれようが光線は瞬く間にやってきて、ひとつの確信を残しておけたけど無垢なのかどうかはわからない。
いや、後年の意識まで催眠効果で植えつけられたとまでは邪推しないよ。そんなにねじ曲げてみたところであまりよい意味はなさそうだし。軍帽はまえに一度だけ話したよね。チューザーはその事情をのみ込んいるみたいだったが、おぼろげなままにあえて説明しておいたんだけれど、それにしてもよくミューラーに軍帽を被せたことまで読みとっていたと感心したんだ。そうだろう、帰納法から導いたにせよ最低限、僕の幼年時代を垣間みていなくては言えないし、まさか夢のなかにとか口にしていたが、共有夢なんてのも超能力か神通力みたいで中々信じがたい。となれば、やっぱり催眠方とかになってしまう。映画なんかでもあるじゃない、スパイが拷問の末に薬物を投与されて自白するって方法。考えたくもない結果だけど、合理的につめてゆくとその線が一番濃厚かも知れないよな。ただし、僕は意地でもそんな線を認めたくない、そうじゃないか、そんなもの認めてしまえばすべてが白昼夢に堕ちてしまう。墓穴も空洞も自分で見いだすから醍醐味があるんだ。たとえすでに掘られていようとも。だったら最初から中途半端にせず、脳内を思いきりかきまぜられてロボットにでもなってしまったほうがましだよ。でも彼らはそんな荒々しい手段は使ってないようだから、こうして君にメールなんか書き送れるんだろう。
きっと冷血な優しさなんかもあるに違いない。どこまで疑り深いのかって、大事だからだよ、信じることはとても大切だが、色々と懐疑してみるのも必要なことだと思うからさ。軍帽から少々それてしまったけど、どうこうあれ、チューザーは僕の原風景みたいなものをどこかでのぞき見ている。いいさ、どうせ僕は合理主義者にはむいてないみたいだし、だまされるなら美しくだまされたいもんだ。
ねずみの歴史から僕の心情に飛躍してしまったけど、実際においてもミューラーの軍帽にさしかかったとき、ついにチューザーの講談にあいの手を入れ、いま言ったような会話にすべっていったのさ。同じ意味あいを問うたわけ。どんな反応したか想像できるかい。また一本とられたよ、彼はこう答えた。
「この世は条理にてひもとけるものだけ存在するのでございませぬ。また、条理とやらも宙に浮いた白雲でありましょう。なるほど、ミューラー大佐の帽子なぞ、よくよく鑑みますれば、まずあなたさまの光景が先んじておりまして、それがしが実在を説く秘密結社総統の風貌こそ、とってつけた仮面のごとき戯れ、万にひとつの偶然と怪しまれてごもっとも」
「じゃあ、この際だからどうしてすぐに僕が黄色いねこをもっていたのか、種明かししてもらいたいな」
「あなたさまがまだ幼き頃、ああしたビニール製の玩具は子供のもつ家庭では珍しくはござりませんでした。が、ある程度の年齢になりますとあれほど慈しみ、そうでございます。よだれを浴びせるのが日課であった幼き月日は、雨上がりの陽射しで無碍にて蒸発してゆく浅き水たまり、記憶の回路こそ、のちの標識、、、」
「わかったよ、僕にはミューラーの思い出なんかないってことだね。飾り棚に眠っていたことすら忘れさっていた。しかし、あの軍帽には確かな記憶がある」
「そうでございましょう」
「知っていたのかい。小学の中頃かな、GIジョーって男子版着せ替え人形が発売されてみんな夢中になったこと。アメリカ軍の陸海空の軍服が大半の割合だったなか、ドイツ兵、なかでも親衛隊の制服がひと際格好よく映ったこと。怪獣とか宇宙人とかの絵空事からはじめて離れたような気持ちを抱き、人形のなかに生ける躍動を感じとったこと。もうよだれなんかで汚したりしない、しかし手先は執拗なほどに精巧にあつらえられた軍服の生地やボタンをなぞり、もう一体欲しいと切実と願っては結局かなわなかったことを」
子供が子供であり続けるのが不純であるかのように、やがてはその愛玩物に目もくれなくなった頃、一夏の昆虫の死をいたむかのように庭のすみへと埋葬する儀式の延長だろうか、僕はあれほど端正に仕立てられていた着せ替え人形の破れはてた姿さえ思い浮かべられないまま、唯一ゴムでかたどられていた軍帽だけをそっと手にした。土中へと埋めるわけにもいかない。思案もなにもない、飾り棚のなかで時間を失っている黄色いねこのあたまに被せてあげたのだった。
「あのとき、あなたさまは葬儀と再生をつかさどったのでございます」チューザーの声色はまるで僧侶の引導を想起させる余韻があった。
合理主義うんぬんはもちろん脇に置いといてもこれではまったく答えにはなっていない。だが、僕はとても気持ちが引き締まる感じがしたんだ。そうだろう、もっと秘密はあるんだろうね。チューザーからミューラー大佐にまつわる真相(幼児期のほう)を聞きただそうとしたけれども、どうやらまだまだ陽は昇りきってないように思われた。


[193] 題名:ねずみのチューザー15 名前:コレクター 投稿日:2011年05月24日 (火) 03時58分

彼の語るところはおおよそ理解したつもりだった。何度も繰り返すけど、目前のねずみがこうやって分別ある毅然とした口ぶりで過去を、例えそれが陥穽におとしめる企てであっても、今はひたすらその言葉を受け止めるしかない。どんな計略が僕を待ち受けているのかなど、肝を冷やしながら向かい合うよりか、不思議という綾が織りなす好奇を優先させている心持ちのほうが、血がかよっていると感じたんだ。ねずみとねこの諍いなんて、まるで「トムとジェリー」みたいで微笑ましいじゃない。きっと幼いこどもたちだって好ましく思うんじゃないだろうか。もちろん、表面的な追いかけっこまでなんだけど。
チューザーの披瀝はまだ続いていったが、君にとってはおそらく幾分か瑣末な話しも含まれていたし、僕なりに細やかなところは別に記しておきたい身勝手さもあって、すまないけど本筋を明瞭にというか、多岐にわたる箇所はいくつか端折って説明させてもらうよ。鼻をひくひくさせながらの講談は捨てがたいんだが、チューザーの古雅な語り口だとどうやら総集編の予告篇じゃおさまりそうもないから。
さっき計略かもとかいったけど、僕の胸のなかにはそんな陰りも確かに発生していて、どれだけ途中で問いただしたりしようと思ったことか。でも口をはさむのがどうしたわけか禁制であるような、いや、まわりから抑圧とかされ自由がきかない緊縛ではなく、もっとだだっ広い空間に自分の声が震えるように響いていくときの張りつめた音をどこかで怖れてしまったんだ。小学生になりたての頃に訪れた、授業中思わず手をあげたのはいいけど、隣の席の子も前の席の子もまわりが急に静まり返ってしまって、先生の視線さえ冷ややかなものに変質している、ときの隙間に呪いがかけられたような疎外感を。
当時の感覚も随分とぼやけてしまって、こんなふうにいうのも多分あの情況を的確にはよみがえらせていないだろうけど、今からすれば墓穴を掘ってしまった恥じらいにとらわれていたんだよ。どれほど深いのか、どんな格好をした墓穴なのかまで思惑がめぐったりしない、ただ決して外側だけに強いられている性質じゃなく、僕自身の空洞も加わって、ちょうど宵闇がトンネルに忍びこんでゆくのを眺めているような気分だった。
さて、ねずみとねこに戻ろう。チューザーによれば、ねずみ一族の生存は様々な時代をくぐったとはいっても、相当危機にひんした場面もあって、並大抵ではない辛苦にたえながら結束を固めてきたからこそ現在へといたっている。それは一縷の望みにかけてきた証でもあるんだ。彼の先祖たちによる時代の奔走は僕に対してだけじゃなく、これは御法度だと明言してたから詳細はつかみようがない。チューザーだってはなからそんな来歴を聞かそうなんて考えてないよ。彼が強調したかったのは国内においてはそれなりの平穏が保たれていたということ。これは人間がどうのと社会がどうのとでなく、あくまで彼らねずみ一族における形勢であり、ここは誤解ないよう受け止めてほしいのだが、どうやらこのご時勢には忍びとしての役割はすでに大方なすべきものはないみたいで、しかしはっきり役目から放免されたとも言いがたい、その辺は大きな紛争の渦中にいない僕らにも不透明なところさ。ところが、ねこ一族とやらは情報こそ多種あってもその実体はまったく憶測の域を出ないというわけなんだ。特にそのミューラー大佐だね、奴の正体を見極めたものなどかつてなく、実はねこは仮面でれっきとした人間、しかも家系はナチスであり、オデッサであり、国際規模にひろがる秘密結社の頂点に君臨している。と、まあ世界の陰謀説とか暗躍家系図に登場してきそうな資質が漂ってくるから、チューザーたちにも要請が命じられた。相手がもし人間であるなら、こちらだってなにも古来から伝わる呪術めいた忍びにことを託すまでもなく、もっとハイテクな対処の仕方があるはずだろう。僕が合点いかなかったように君だってそう考えないか。しかしね、どうやらその思考は単純でしかない。ここでも主眼は伏せられたままだったので、具体的には説明しようがないけど、これは冷戦ならぬ底戦らしんだ。ミューラー大佐はドイツ国籍っていわれてるが、実際には秘密結社を通して各国をめぐっている。しかもねこであるとの触れ込みはある意味軽やかな信憑性を蔓延させる結果となって、そう、「トムとジェリー」と似たようなものであり、真っ向から彼を糾弾するものが逆にいなくなっていまう現象を引き起こしてしまったわけさ。恐るべき脅威が切迫しているのに、誰もまともに調査に乗り出そうとはしない。精々奮起しているのは引きこもり系の陰謀説論者くらいだ。
と、ここまでが言わば通説、そうさ、全然引きこもり系だけなんかじゃない、先進国のほとんどはミューラー大佐を非常に警戒していて、しかもすでに各国の主要ポストにスパイが送りこまれ、また軍部の内にも結社から特定の人物が派遣されているらしい情報がもれている。こうなるともはやねこ一族とかでは済まされない問題だよ。幸いミューラー大佐は特に表立った行動は起こしていないので、CIAとかも監視の段階にとどまり積極的な交渉を始めてはいない。これも不透明でさ、かつてCIAはオデッサを保護していた事実もあるから、どれくらいの影響力を秘めているかは厚いベールに被い隠されている。そこでねずみ一族に白羽の矢が立てられた次第さ。
ここらで要点をしぼっておこう。僕が理解し得たのは、国際的な秘密結社の存在と脅威。ねこは仮面を被っているのかも知れないこと。と同時にこの予感は理解とははずれるかも、つまりねずみもまた仮面を被っている、う〜ん、悪いけどこれはちょっと保留しておいてくれないか。で、これから水面下、あるいは地下において諜報作戦が開始されるということ。ねずみ一族だけでなく金目教、卍党の末裔も秘密裏に参画していること。僕はこの事態に遭遇したんじゃなくて、どうも計画的に巻き込まれた可能性が高く、その理由は子供の時分にねこのおもちゃを持っていて、ミューラー大佐と名付けていたこと。そしてこんな情況を反面楽しんでいるという我ながら意外な心境、あっ、これはもう酸っぱくなるほど話したね。
君どう思う。もし今いった要約を精神科の医者に相談したとしよう。すると医者はこう応える。
「あなたはよく自分を客観的にとらえられていますから、なにも問題ありません」そして帰される。果たしてそう思うかい。


[192] 題名:ねずみのチューザー14 名前:コレクター 投稿日:2011年05月17日 (火) 07時31分

「なにぶんにも秘せられた由来のみが見えない分銅になり積みかさなる身分、おのれの出自すら不確かで忠節だけを指針とすべし、そう彫り入れられた腹には嗜好品をたしなむ隙間もございませんでした。朝餉のにぎりめしがそれがしに出来うる目一杯のもてなし、あなたさまを御迎えするに際しましてはもげ氏の協力をあおぎましたので、ジュースや冷凍食品はわずかながら用意させていただきました」
そういや僕はよく冷えたジュースをもらって飲んでいたけど、チューザーにそんな場面はなかった。とにかくねずみの歴史はまだ序の口だろうが、予想はかなりの線で当たっていたようだったから勘違いにも似たうれしさが込み上げてきたんだ。勘違いというのはいい意味での気分転換ってことだよ。わずかばかりだけど、僕はチューザーのおかれた境遇っていうか、生い立ちが悲しく思えてきて語りの間をさえぎってしまい何かしら意見をはきそうな表情をしたんだろう。すると、「少々のどが渇きました」と言ってこっちからは死角になっていた運転席の横から素早くリポビタンを取り出しすと軽快にキャップをまわし開け、実にうまそうに、尚かつ栄養分がしっぽの先までしみわたりそうな勢いで飲み始めたんだ。
よくそのビンを見れば大きさは小ぶりで赤いラベルが貼られている。あれはリポビタンゴールドなんだな。いいんだよ、栄養補給しなけりゃ、ねずみのからだにしてはいくら小ビンでも大仰に映ったけど。まあ、そうした勘違いってこと。
早かったねえ、ほとんど一気飲みに近かった。リポビタンとかエスカップなんてのはああして飲むべきだから、余計に気分転換になってさ、僕にもくれないかと思ったけど口には出来ず、乗り遅れてしまった電車を見送っているみたい顔つきのまま言い出しかねてしまったよ。チューザーはそこのところは心得ているのか、ちょうど高座で演芸に徹する落語家が手のひらで湯飲みとかあらわすように、さらりとその仕草を印象づけておいて語りの続きへ、ほんと待ち時間なしに次の電車がホームに滑り込んで来るかの継ぎ目のなさ、見事な所作だった。
「窓枠のしたの取っ手が専用の冷蔵庫になっておりますので、いつでも御利用くだされ。中左一族に戻ります。それがしが聞き及んでおり他言できますのは、われら一族がもっとも栄え活躍したのはやはり武家制度の興隆とともにあったのでございます。なかでも戦国の世でしょうな。ときの将軍足利義昭公に妖術をもって挑んだ金目教のもくろみを打破すべく、織田の殿様から密偵として放たれたわが先祖の忍びら数名が京の都で殊勲をたて、おおいなる信頼を得たのは誉れ高き来歴、その後義昭公は織田の殿様と緊迫した関係になってしまわれますが、表舞台の情勢はわれらにはうかがうこと無用なる所存、木の葉のごとくに人目につかず、されど常に朝夕の気配をしるすべくこの身を軽やかにとどめておくのが必定。いかなる由縁で信長公のもとに結集していたのかは闇のなか、よって機縁はここまでとされたし。ただ念頭にしかとしまわれておかれたきは、甲賀玄妖斎率いる金目教でございます。それなるもげ氏の祖先は昨日申しあげた通り、のちに卍党へと組織が変容いたすのも存じておられるのならば、中左一族の栄華など必要以上に語るべきもなく、更なる話頭へ転じさせていただきます。おわかりでござりましょうぞ、ミューラー大佐、すなわちねこ一族なる存在に関してであります。われらにも国際的な同輩はおりまして、アメリカ、カナダ、メキシコ、ブラジル、スペイン、チリ、アリゼンチン、イギリス、フランス、ロシア、ドイツ、オランダ、インド、中国、韓国、北朝鮮、オーストリア、ベルギー、、、、いやはや人様が作った世界の国々に人語を解するねずみたちは棲息しているわけでございます。ただし、文化交流はおろか一切の関わりは中立と申しますか、いわば江戸時代の鎖国と同じく断絶状態、中国や欧州のほうでは国によっては地理的な事情で国交がさかんなところもあるようでございますけれども、われらの地はぐるりと大海に囲まれた島国、ねずみは水が大の苦手、いかような術を弄しましても中々渡海までは不可能、それは他国のものらも一緒で精々密航するのが目一杯、とは云ってみても元来それぞれの言語が異なるのは当然でございますので、わざわざよその国まで海を渡ろうなどとは及びもつきません。ねずみはねずみ、闇に生きてこそ面目が保てる次第ですから、絶対に人目を避けなくてはなりませぬ。そんな掟がいつ定まったを問うのは失礼ながら愚問でござります。それがしの知り得る範囲では人語を知るねずみの数も世界的に我が国と同じよう著しく減退している様子。では本題に入りまするが、ミューラー大佐は現在ドイツ国籍であり、祖をたどればナチスの親衛隊に擁護された組織に行き着くそうでして、第二次大戦には数々の勲章を胸に飾った、勇猛果敢かつ高度な教養と知性をかねあわせた名誉ある血筋、その末裔こそ太平洋を遥かに臨み、この地まで悪名をとどろかせてやまないオデッサ、すなわち旧ナチス党員による結社からも絶大なる支持を受けております。しかもミューラー大佐は一族のなかでも抜きんでた鋭敏な頭脳によって完全なる地下組織を運営させているらしく、数カ国語に精通し欧州のみならずアジア諸国にまで勢力を拡張させているとの情報、すでに日本へは極秘で入国した証拠はそれがしも確かな筋から聞き及んでいる次第でございます。ねずみとねこ、古い天敵でござります。小動物同士の自然連鎖ならとかく問題がありませぬが、ミューラー大佐は動物であるすがたを自らのすがたを呪ったのか、その矛先をわれらに、そして一族がいにしえより守り通したすべてを剥奪しようと画策しているのです。あたかも人様に代わって代理戦争を仕掛ける不遜さに酔いながら」


[191] 題名:ねずみのチューザー13 名前:コレクター 投稿日:2011年05月17日 (火) 07時29分

朝から陽射しは少しも翳ることなく午後の天空を一段と冴えわたらしていたけれど、胃袋へしみこんだ朝餉の満足に窓の向こうも強いて見晴らしを望んでないのかとさえ感じられた。それは目にも鮮やかな紅葉に彩られた山々が唱えているような清澄な得心とも思えたんだ。本来ならどこまでも連なりゆく山肌に優美な錦絵が展開しているのを見入ってしまいそうになるだろうが、今はどうやら内心がうたた寝しているみたいだったから、瞳の中まで彩色されてなかった。うつらうつらとしていただけかもね。
山は深かったし、タイヤから伝わる振動も何度も曲がりくねったりするうちには単調な時間へとすべりこんでいくので、太陽の高さをそれとなく眺めてみる以外はどれくらい経過しているのか覚束ない。
チューザーが運転席からこちらを振り向いて、例の鼻先をヒクヒクさせるまで僕はただの乗客に過ぎなかった。それというのも、今まで曖昧なままで過ごしていた気分が一新される情況がそれとなく感じられ、これまた妙な言い方だけれども、夢のあいだに新たな夢がはさみこまれて、それが針先に触れるような鋭敏さをもった現実感に圧倒されてしまったのさ。
そうチューザーはついに語りだしたんだ。彼の歴史を、それから卍党にまつわる現在を。僕の運命もおそらくはさみこまれた夢同様に、曖昧さから反対に逃れられない物語となって進展していくのだと確信したんだ。それまでは桃源郷であることの桎梏を倒錯したままどこかで期待してたに違いないから、ねずみのひげがまるで急な針となって突き刺さってくる予感に身をこわばらし、最初のバスの横転や、みかん畑から不意に現われたあの驚きとは別種の緊張が走りだしたわけなんだよ。
僕は前にねずみの秘密も目的地も興味がないと書いたとはずだが、それはとりもなおさず次なる停車場だけに意識を傾かせた刹那的な考え以上のなにものでもない、孤独と不安と恐怖に苛まれるよりかはファンタジーに遊んだほうがどれほど心地よいものか。しかし、閉ざされた遊園地にはいずれ見捨てられるんだ。いいや、僕がそうした情況に飽きてしまうこととは似ているようで似ていない。空間に重力が存在する事実に等しく、精神とか意識なんてものは風が吹けばさっさと飛んでしまうんだよ。だからファンタジーには強度が要求されるわけ、そうだよ、その辺は抜かりがなかった。「闇姫」との対面を先手打って持ちかけておいたからね。その反応もまんざらじゃない。と、まあこれは僕の本能が導いた手管なのか、単なる思いつきかは実のところよくわからない、、、
さあ前置きはこれくらいにして、ねずみの歴史とやらを君に聞いてもらおう。あっ、大丈夫だよ、それほど込み入ったものじゃなく、大河ドラマの総集編のその予告編ほどだから。チューザーのひげに針先を感じたのは僕の神経が勝手に作用したのだし、倒錯の中に新たな逆転を見いだしたのも思弁にすぎない。君は君の感性であるべきで、なにも僕が正しいわけではないよ。

彼は言った。
「ねずみと耳にされていかなる連想されますやら、薄汚い小動物にて夜行性暗所を好み、ねずみ食いなどにあらわなこそ泥みたいな性質なぞ、油虫と並んで毛嫌いされ駆除の標的である醜い存在なぞ、ほかにも諸々と汚れを背負った印象はぬぐいきれないところ、もってあまる不遇なる種類でありましょうが、それがし、すがたかたちこそ斯様な生まれは否めませぬけれども、こうして人様の言葉を察する身である故、ごく常識から申しましても妖怪変化のたぐいと異形の刻印がせきのやま、突然変異と見なされていただくことさえ畏れ多いのも承知のうえで、われら種族の系譜をひもとかせていただきます。人様に肌の相違はござりましても、あるいは世界の国々の言語が異なり文化習俗の差異はござりましても、動物や昆虫魚類などと云った下等生物と明晰な意思疎通を可能なさしめている人種は現代には存じ上げません。太古にはそうした交流はことさら珍しいものではありませんでした。ここで有史以前の生物の有様を述べるつもりは毛頭なきにして、せつに申し上げたいのは、今日あまたに存在を認知されます種とわれら中左一族は類人猿と人様にも共通する隔たりがあるのでございます。驚かれるのも無理はありません、進化論にも生物学にもねずみが抽象的な思考能力を持ち得るまで飛躍したなどとは論じられておらず、現在においても研究の対象になろうはずもなく、その事実を知るのはごく限られた方々のみでありまして、かつて幾時代にかは妖術魔術の方面から重宝されおもしろおかしく目された痕跡はあれ、手品まやかしと真摯に歩みよることなきが幸いしまして決して人口に膾炙することはなかったのでございます。いつの時代と云うのも中々秘匿された実情があります故に詳しくは述べがたく、またそれがしにも代々の血筋がどうした暗躍をおこなったのかは明確には聞かされていないのです。お気づきでありましょうが、紀州藩武芸指南役と申しましてもあくまでその相手は人様でなくわれら同輩、表立って剣術などの修練など夜も更けいった時刻に制限、お見知りおきなのは藩中ではただおひとりでござりました。そのお方の身分は申し上げれませぬが、われらが忍びとして日々鍛錬をかさねていた内情はお含みいただきたく存じます。それがしの父も祖父も一切の書き付けは残しておりません、先代どころか遠い昔にさかのぼりましてもそうした記し自体が御法度でありまして、すべては口伝にて先祖より賜ったもの、それほど極秘な宿命を連綿と背負い続けたのでございますれば、あまたに見かける種とは隔絶の一族、いえ、それでは傲慢と受けとめられるや。暗中跳梁と云う意味あいでは所詮同じ穴の類、ひとえにわれらから優劣をくだすことは憚られましょう。どうぞ、それがしのすがたかたちを通し、世に棲息する人語知らず種を憐れむことなく認識されとう願います」


[190] 題名:ねずみのチューザー12 名前:コレクター 投稿日:2011年05月10日 (火) 05時07分

真っ青に澄んだ秋空の爽快が惜しげもなく水面を讃えている。波立つことを覚えない鏡面のようなすがたも又、蒼空をいつまでもとらえておきたい欲望を忘れかけている。
アルミっぽい金属製のマグカップは湯飲みとして風情に欠けるのかも知れないけれど、冷凍だと聞かされてはいたそのにぎりめしを、かじりだして中身の梅干しが顔をだすまで、しんと湯気を立てていて、のどへ流したのはふたつめを食べおえたあたりだったが、思いのほか煎れたてのほうじ茶の香りを存分にあたえてくれた。同様にかなり大きめのにぎりめし三個の味わいも、まるで炊きたてをさまし結ばれたしっとりとした食感があり、米粒を離ればなれにしない為より集まった意思みたいなものが、口のなかで物悲し気に、そしてすぐさま陽気に、ひろがっていったよ。
目線は池の真ん中あたりにちょうど浮き釣りの案配でただようのでもなく、流れるのでもなく、揺らいでいて、かみしめるほどに空腹が意識される楽しい焦燥は、指先にひっついた米粒を惜しむふうな心情へとまじりあい、実際にも数粒が純白を際立たせていたので、いつになく水辺に腰をすえている自分がかげろうになってしまって、取り囲まれてあることの自然さが小雨にけむる大様であるまま、すっと顕われている気持ちになったんだ。さっきも話したけど、そんな一体感というか、無心な状態には、いつも見限られていたから、出来るだけその心持ちすら留め置かないように、かといってなくしてしまうのでもなく、霧がはれるのを反対に延長させたい仄かな願いを水面へ沈めた。そうして、しみじみとねずみのにぎりめしを観察したのさ。
三個とも海苔には巻かれていないのは、竹の皮を開いたとき一気に見てとれてしまったが、それだけに具の有無が気にかかるじゃないか。適当な具って言ってたけれど、ひとつめが肉厚でやわらかな梅干しであったのは思い切りストライクだったし、ふたつめもいい塩梅に甘みをおさえた昆布のつくだにだったから、期待感より満足感が勝ってしまって、残りがあとひとつとなった竹皮を見つめる目には、ここ全体の光景を含みこみ尚更まばゆいものになってきた。
ほうじ茶の湯気は晩秋の渇きに誘われ青空高くのぼったのだろうか、舌先にも口中にも熱気を残さない温度は、季節そのものでもある自解と共にあって、白雲さえ描かない潔癖さに浮かれるこころへ語りかけてくるもの、それはこの白米で結ばれた質朴な朝餉のかたちにあるのだった。ささいな葉ずれも呼ばない、ときが止まったような空気は光をどこまで保ち続けるのか、指先についた米をなめて、茶をすすり、今度は大仰にまわりを見まわしてみる。変化ない水上の沈黙、目くばせも無用に思われるもげもげ太の表情、同じく切り株に乗っかってサイズこそ違いはあるけど、三個のにぎりめし食べているチューザー、彼らは僕に合わせるかのように、残りのひとつに手をだした。僕はほうじ茶がのどもとにいい調子で流れていったのを微笑みで返しながら、具を案じながら、がぶりと頬張りついたよ。ああ、鰹節だった、おかかだね、シンプルに花かつおを醤油でまぶしただけのものだったが、中心だけに固められているんじゃなくて、表面の白さを保っているが意外と思えるほど、中身はまんべんなく、しかもうま味が白米に染み渡るような勢いは得も言われない。なんくちで食べてしまったのか、微風を待っていたのか、この瞬間に訪れる満腹を知らしめる祭り囃子を遠くに覚えることがまぼろしであるように、風はそよがず、竹皮の香りだけがほんのりとかすめていった。
相当ぼんやりしていて、意識は水にひたされる紙みたいに猶予をあたえられなかったようだ。いや、決して悪い意味なんかじゃない、むしろ、光線と影が織りなす襞のうちに溶け込んでしまい、鮮やかな編み目にしばらく包まれたんだろう。
「これでよかってですか。ほかにもありましたが」と、もげもげ太がバヤリースオレンジの缶を差し出してくれるまでは、どうやらほとんどの感覚はコードを抜かれた機械と同じで、なすべき機能をおこなえなかった。
「ファンタオレンジ、HI-Cオレンジ、プラッシーにスコールとかありました」
もげもげ太は僕がうっとりとしている間にバスから飲み物を持ってきてくれたんだ。えらく懐かしい名前が並んでいるので、もう一度遠い目をしながら景色を追ってみた。
ジュースはよく冷えていたよ。真夏の汗ばむ季節に最適なくらい。これは後からわかったんだけど、バスのなかには案外大きな冷蔵庫や冷凍庫が備えられていて食材なども豊富らしく、長期走行に対応できているようだった。ああ、自動運転の秘密なんかもあきらかになったんだろうが、それほど感心はなかったから僕から強いて訊くこともあるまい。時計を確認する場面もなく、朝餉を終えたのが正確に何時だったのかは知らないうちに再びバスへ乗りこむと、いよいよ、チューザーともげもげ太から核心に迫る話題を提供された。そう僕が今ここにいる成りゆきについてね。それは思いもよらないところから来てきたんだ。


[189] 題名:ねずみのチューザー11 名前:コレクター 投稿日:2011年05月10日 (火) 04時59分

バスが停車するときまで、走行にまぎれこんでいった想念が窓のそとを煙らせてしまったのだろう、かわり映えしない山並みとはいえ、目に飛び込んでくるはずの景色のうつろいに注意が傾かなかったのが意外な効果をもたらした。
突然開けた光景をまのあたりにした当惑は、さましまな驚きに差し替えられ、胸のなかでざわめく魚影となって、実際に広がっている大きな池に向かい合ったんだ。
「ずいぶん静かなところだけどこんな池があるなんて」
左右の視界に収まりきれそうでもあり、そう願う心持ちがちょうど一枚の風景画のように閉じた美しさを演出しているふうでもあった。
「妙心池といいまして、何でも大蛇が眠っているそうでございます」と、チューザーが説明する。
「よくありそうな伝説だね。それにしてもこの静寂は神々しいくらいだ」
そうなんだよ、朝から快晴だったんけど、この静かな池を見つめているのが、なにやら逆に落ち着きをなくそうと努める加減があって、わざとらしくも空を見上げれば雲ひとつない秋晴れだし、肌に感じる微風さえ生じていなかったのも、柔らかな陽射しの感触が静かに代弁してくれていた。
それで水面はさざ波のかけらもあらわにせず、まるで巨大な鏡が敷かれているのではと表現したいくらい、形よい楕円をした池が醸し出している幽玄さに面食らったわけ。変な言い方に聞こえるかも知れないけど、じっと眺めているのが惜しいみたいな気もしながら、視線を送れば送るほどに逃げていくというよりかは、どうあっても全体的にうまく受け取れないもどかしい感じがして、多分それはこの池だけのせいでなく、僕自身の感性にひずみが起きているからだと思ったりした。こんな感覚は以前にも経験したことがあったように想いだされ、それは岬から見下ろした音なき波頭を抱く海原であったり、普段とは明らかに色合いを強調する夕陽の広がりであったり、無心に流れゆく川面の細やかな飛沫であったり、とにかく立ちすくんで正視しているのが居たたまれず、大自然に心身が被われているといった境地にはまったく及ばないんだ。そうだなあ、僕とそうした絶景のあいだに薄皮で作られたカーテンが垂れ下がっていて、常に遮蔽されている感触、向こうには美し過ぎる世界が待ち受けているのだが、その光景と一緒になることが難しい、僕のほうから拒絶しているのでもないのに、どうしても不安気に目をそむけてしまう。まあ、目をそらしたってその場から立ち去らない限り視覚以外の手応えもやってくるわけだから、結局は奇妙な自意識が電化機器の微細な音のようにいつまでもへばりついているのだろう。そういや散歩している途中には案外すれちがってゆく空気と一体になれる。あれは何故なのか、急にある音がよみがえったよ。山腹に民家が点在する道を下りかけると、いきなり潮騒が聞こえる箇所があったんだ。道は山肌に沿い結構くねっていてガードレールに引っかかる具合で木々や草がのびてきているので、まさかその真下が磯だとは思ってもみないから一瞬とても不思議な感じがして、立ち止まってよくよくのぞきこんで見ると、確かに海水が岩に被さっている様子がかろうじてうかがえる。それから幾度かそこを通るごとに波に洗われる心地がしたものさ。
そんな記憶がかろうじてめくれていたから、ヨーロッパの深い森にひっそり眠れるようなこの池の静謐な透明感にも、魅入ってしまいそうになる自分を意識するたびに邪念が介入して、折角の絶景を慈しむことが出来なかった。もちろんまわりには僕らのほか息つかいの気配もないし、呆然としたまま澄みきった蒼穹を映しとっている水面に見とれてしまおうとする考えも虚しく、せめて大きく深呼吸でもして新鮮な冷気を肺に送りこんだのさ。
こう書かれていれば、そんなに美しいところも所詮は台無しだったかと思われそうだが、実はそうではない。よい具合で腰掛け代わりの切り株がほとりに備わっていたので、そこで朝餉をいただくことにした。もげもげ太はこの池の妖しい美しさに感極まっているようだったけど、特に感想を述べたりはしなかった。僕と2メートルくらい離れた切り株にゆったりと腰をおろしたところで、チューザーが小型のリヤカーみたいな荷車を引きながら、ねずみのにぎりめしとやらを配ってくれた。見れば的中、竹の皮に包まれているじゃないか。小躍りしたい気持ちでチューザーと目を合わすと、そのつぶらな黒目は池のほとりにふさわしいひかりを含んでおり、顔からはみ出したひげ先もまたピアノ線がしなやかにたわむかのように水気をおびた艶に輝いている。リヤカーの引き手に乗っているちいさな指にはとても愛嬌がって、不意にあたりまえのことだけども、こう尋ねてみたくなった。
「これはチューザーが作ったのかい。竹の皮なんてシャレているなあ」
すると、「それがしがこしらえましたと申しても、いやはやごはんは冷凍でございまして、バスには簡単な設備もありますので、適当に具を入れたまで。お口にあいますやら」少しばかり恥ずかしそうにしている。
「冷凍だろうが平気だよ。僕はこの竹の皮がすごく気にいった。実はそうであればいいなって想像していた。ついでに竹筒の水入れもなんてね」
「それは恐縮でございます。残念ながら竹筒の用意はありません。お茶はただいまお持ちします。ティーパックのほうじ茶ですが。それからジュースなども冷蔵庫で冷やしてあります」
「いいよ、いいよ、僕がとってくるから」とは言ってみたものの、ティーパックやジュースには肩すかしをくった。でも仕方ないよな、バスのなかにキッチンなんかなかったし、いくら怪力とはいえ小動物に風趣を期待するほうが間違っている。竹皮だけでもたいしたもんじゃない、ねえ、君だったそう思はないかい。なんだかんだで欲張るからいけないんだ。えっ、ねずみは手でにぎりめしを作ったかって。そうだろうね、解凍したごはんに具とか言ってたから。何のためらいもなくそれを食べたのか知りたいんだろ。ああ、別になんとも思わなかった。それより、その味を教えてあげるよ。


[188] 題名:ねずみのチューザー10 名前:コレクター 投稿日:2011年04月26日 (火) 05時37分

きっと深い眠りにおちていたのだろう。目覚めてみたり寝てみたり何やらせせこましいようだが、一日は長くもあり短くもあるから別に目くじらを立てることもあるまい、それより夢のかけらさえ垣間見ずまぶたを閉じられていたのがとても新鮮に思え、寝入り際の感傷も朝露となって頬に残っているような錯覚さえ生じたのだから、その朝陽がどれだけまぶしくすがすがしかったか想像してほしい。
「よい天気でございますなあ」
暁を覚えないまま夜風にならいひかれてしまった帳のすそから顔を出す調子で、もげもげ太の声が気味よく鼓膜に響くと、両の目はすでに陽光を受け相手の顔をしっかり認めた。一夜明けたことがこんなに初々しく感じた機会もなかったので、すっかり気分がよくなってしまったんだ。そんな感覚は子供の頃、夏休みや祭りや旅行などを心待ちにした、あの時間を湯水とも知らず彼方へかき分けようとした無為な高揚に似ていた。そして一日の境界をひとまたぎする不敵な笑みも夜霧のむこうに健在であるのが透けて見えたから、なおさら朝露をそっと頬のうえに感じてしまったのかも知れない。
「バスは動いている。ねえ、夜中も走り続けていたのかい」僕は権限でも主張する声色でそう尋ねた。
「走ったり停まったりしておりました」すかさず返答したのはチューザーで、「それがしは夜行性でありますゆえ、適度に休息しながら運転を見届けていたのです。おふたりともよくお眠りのご様子でなにより。朝が来ました」と、満足気に鼻をヒクヒクさせていたよ。いつの間にやら僕の横に座っていて、斜めから振り返る格好で見つめているもげもげ太にも礼節あるまなざしで微笑んでいた。おそらくはこれからの任務というか目的に向かう心意気というべきものを示していたんだと思う。
僕は寝起きの状態だったけど、いくらさわやかな朝であってもまだまだ胸のなかは、暗夜行路と呼んだほうが本音だから、窓を差す日にぬくもりばかりを求めているわけにはいかず、そう、車内隅々を照らし出しては吸い込まれるような、金属やガラスに触れてはキラリとはね返すような、ひかりの鋭さに姿勢をただされる思いがして、そこに時間の経緯が発生しているのが嫌がうえにもまばゆかったのさ。時間はやはり過ぎているんだ、こうしている刹那刹那にも確実にいまは過去になりつつあり、反対に未来に浸食しようとも志している。昨夜は寝入る直前に「銀河鉄道」を彷彿させる幻のような光景に感激したが、僕はジョバンニみたいに無垢ではない。なぜなら過去は捨てられていながら新たな記憶を鮮明に貪欲に蓄積しようと願っているんだ。そして決定的なのは夢幻にさまよえる切符は手に入れたかも知れないけども、どこへ巡ったのでもなく、どこへ巡りたいのでもなく、ただバスに揺られ続けているだけなんだ。もちろん、何もまだ始まってはおらず仕方ないと言えばそれまでなんだが、、、この焦燥こそがまたしてもひりつく神経を呼び起こし、折角の行楽調子にひびを入れこんで気分を台無しにしてしまう、、、
さぞかし失意のどん底だろうかって。いや、あわててはいけないよ。ああ、焦りは確かに禁物だ、しかし、台無しと失意が必ずしも居並ぶとは限らない。逆に僕は焦燥に対しある種の導きさえ感じとっている。じゃなけりゃ、深い溝が出来てしまう懸念までしながら、どうして君にこうやって細々書き送ることが可能なんだろうか。答えには早いが、やはりこのひりつく加減が小刻みに血を通わせ、四肢へと巡ってゆき、やがて脳内を陣取り、鬼神の魂を施され、未来へと向きあう充血した目をつかさどるんだよ。だからこそ僕は「闇姫」に会いたいのかも。
どこへも巡れないというのは詭弁さ。一途に願うほどのものがないってだけだ。なければないで、それとなく見繕い仕立て上げればいいんじゃないか。焦ってはいけないよ。どうせなら精魂こめてやったほうがいいと思う。と、いうわけで僕にはチューザーがどうして人語を操るのか、このバスの真の到達地など、もうどうでもよくなってしまった。奇跡にもたとえられる旅として、次なる停車に胸をときめかせたのさ。
一心不乱の精神が満願に通じる方便を否定したりしてない。それはあながち間違ってはいないから、おそらく指をくわえている待っている奴などとは比較にならないエネルギーがあることだろう。ただ、どの方角にそのエネルギーを向けるかなんだよな。東西南北とか位置のことじゃないよ、鬼門なんてのも土地感ないからトンチンカンだし、天とか地とか問われても弱ったなあ、やっぱり僕にはこのバスの道が似合ってそうだから、精々祈っているよ。えっ、祈るのかって。そりゃ祈るとも。「どうぞ、恐怖新聞だけは配達されませんように」って。君だって恐怖新聞は知ってるだろう。冗談じゃない、あれは地獄だ。明日の自分が写真付きで報道されているんだよ。恐怖は恐怖でも質が違ってる。明日起きることすべてわかりきってしまったら、それこそ本当に台無しなんじゃないか。過剰な願望は醜くもあり浅ましいし、手前ながら疎ましくもあるけど、ときには限りない美しさに変貌する。
寝ぼけたあたまのなかをそんな思惑が勢いよく駆け抜けてゆくと、はたまた忘れていた大事な日常を知らされた。
「さあ、朝餉の仕度が出来ましたのでバスは停まります。なにせ山深き地、斯様に質素ではございますが、ねずみのにぎりめし、おなかの足しにしてくだされ」
そうだよ。ごはん、ごはん。そういや、少なくともチューザーに出会ってからはなにも食べていない。それ以前の食事の場面にはどうしてもたどりつかなかったから、朝餉の知らせには胸をつかれる劇的な作用があり、思わず生唾を飲みこんだのはいうまでもないだろう。
にぎりめし、、、白米を三角形丸形などに整えて握ったもの。塩加減を程よく舌が覚えるのもその形態のゆえんか、一般に海苔で包まれており、ごま塩、ふりかけなどがまぶされる場合も、中身は具と称し、梅干し、佃煮、鰹節、塩鮭、漬け物などを果実の芯のごとく潜ませては、ひとくち、ふたくちと、ほおばる程度に出くわす新たな味わい、かけがえないような喜びを見いだす。
チューザーがもてなしてくれるだろう、にぎりめしを僕はとても楽しみにしてしまって、ついつい記憶を古色なおもむきに転じさせた。そうだよ、竹の皮に収まっている、あの風情を。そして竹筒の水入れを。


[187] 題名:ねずみのチューザー9 名前:コレクター 投稿日:2011年04月19日 (火) 04時13分

「闇姫」を簡単に説明しておこう。霞谷七人衆の紅一点、つまりくの一だよ。ドラマで演じたのは岡田千代さんって女優で確かまだ現役のはず。で、なんで懐かしいのかっていうと、首領の「幻妖斎」が振る舞う非情さを思い知り(かつ赤影らの温情にほだされ)最期に金目教の悪略をはばもうとしながら一命を落としてしまうシーンがなんとも印象的でさ、だってそれまで「おのれ赤影、わらわもくの一」とか言って、形勢が不利になっても勇ましかったのに、息をひきとる間際には「赤影さん、、、」って声色に変わってしまうんだもの。子供ながらに感じたよ、女は優しさに包まれると無防備になるんだなあって。
詳しい場面はもし暇があったら本編をDVDなりで観てもらうとして、僕がこころ惹かれたのはその「赤影さん、、、」というまさに吐息のような憂いにあるんだ。再放送で闇姫の回になるたび同じ想いがやってくるのは、ひとつの原型が巣くっているんじゃないかとぼんやり考えていたんだけど、残党とはいえまさかの「卍党」に出会って、一気に液体が凝固してしまうようある情念が示されたんだよ。そう、フィクションにありがちな悲劇性、それは現実から切り離された想念とかでなく、本来こころに沈めるもの、眠りのなかの眠り、ゆえにかたちが定まりにくい水枕みたいな、寝具と呼称していいのやらもわからない、しかし、まぎれもない眠りであり覚醒することを疑わない静かな情念であると。
簡単にいうと目覚めたってことかな。僕は男だから当然女に好奇を抱だくだろうし、それが情欲となって噴出することだって本質的には間違ってなく、むしろ自然な営みであり、やみくもに否定してしまう方がよっぽど強引な捕縛だと思う。普段から誰もが常識的に自らを縛りつけているから、こんなとんちんかんな情況に投げだされてみれば、緊縛もさらりとゆるんでしまうのは理解してもらえるだろうか。
それは単なる都合づけって反論もあるかもね。どうせ夢を見ているようなものだから自在に戯れるままにしておくだけで、不条理をよいことに眠りも本質も後から張り付けた背景画でしかない。さあ、どちらなんでしょう。戦時下とか無法地帯で引き起こされる略奪や強姦を類推するまでもなく、また時と場合などにより移ろう行動に理性は追いついてくれず、積み上げられた瓦礫と、どの方角から吹き付けてくる砂塵によって目くらませされるのが関の山、そのような環境で己を見失わずに進む方角を定められることのほうが不思議なくらいだ。だから、やけくそも諦観も心理的に合わせ持ってると見なしたぐらいがいいかもな。
とにかくひりつくような神経はもうごめんだっから、おそらく僕は初対面のもげもげ太の第一印象を都合よく塗り替えてしまった可能性があるかもしれない。彼の目に親しみを感じたのも、鼻孔をくすぐるくらいの淡い憧憬を忍ばせたのも、まるでこっちが忍者じゃないのっていう自己韜晦によるものだとしたら、、、
それはそれで、悪くはないと思うんだ。愚かしさは十分承知のうえだけど、賢く立ち回れるすべなど身につけていないし、そうありたいとも願っていないから僕は自分の愚かしさを受け入れる。韜晦はただの自己保全だよ。ささやかな。とはいいながら、ちゃっかり「闇姫」には会ってみたいと切望しているんだから、どこまで本当か、僕にも君にも実際は把握出来ないかもね。それにもげもげ太は「傀儡甚内」が子孫、忍法顔盗み術をあやつれるんだ。神妙な顔をして生真面目に考えこんでる場合じゃない、そんな軽妙さが今はなにより必要だった。そうだよ、なんだかんだ言いつつ、僕はもげもげ太もチューザーも信じていた。手放しで歓迎ってわけではなかったけど、彼らと同伴するのを決して拒んだりしなかった。
今日はとりたてて大きな展開はなかったが、バスに揺られている僕の気持ちは少しだけ山々の景色に溶け込んでいった。
無人バスがこれで乗り合いになって、いや、チューザーがねずみだからひと気がなかったって意味ではなくて、奴は一応運転手だからさ、乗客がひとり増えたってこと。それから当たり前のように時間が流れ出し、車内は相変わらず寡黙であり続けていたけど、次第に宵闇に包まれ始めた頃、夜を迎えるのはこれが最初かなって割と感傷的な気分にひたっていたら、微かな寝息が隣の席のもげもげ太からもれてきて、その時よくわけはわからないまま、僕の目はうるみだした。どこだか知らないこの深い山奥からは一切の灯火が隔離されている。にじむ視界は暗黒に冷たく拒否されるばかりなのだろうか。
筆を置くまえに、君へおやすみを言うまえに、そこに起こったちいさな奇跡を記しておこう。夜空はいつの間にやら満天の星で満たされていた。どうしてこんなにたくさんの星がいっせいに降り注いだのか、考える暇もなく、車窓を通して光差す以上の点滅がこのバスを支配している。まるでミラーボールが回転する星粒が壁や床といわず、座席に、手すりに、スクリーンに、反射を歓ぶ車窓に、ありとあらゆるものの上にまたたいている。
「銀河鉄道じゃないか」そう思い涙があふれだしたのが、その夜の最後の記憶だった。忘れてしまっていたよ、僕が記憶喪失者であることを。


[186] 題名:ねずみのチューザー8 名前:コレクター 投稿日:2011年04月19日 (火) 04時12分

長い旅とかえらそうぶってみたものの、あのみかん園をあとにしてからはずっとバスに揺られぱなしで、幸いなのかどうか腕時計もはめてなかったから、脳内時計のなすがまま時折しんみりした顔つきを浮かべたりして、自動運転だから別に会話に支障はないと思ってたんだけど、チューザーの奴どうしたわけなのかえらく無口を守ったまま、いかにも運行に注意をはらっているような気配だし、僕のほうから質問を浴びせてやろうって勢いもなぜかしらそがれてしまい、多分それはあわてなくてもこれから糸をほぐすように明快な答えがあらわれてくるんじゃないかという確信みたいなものを不思議なことにこのガランした車内から感じとったからで、自分のうわずった声が無人バスに反響してしまうのを怖れたせいなのだろう、確固たる釈明を胸に抱ききれてない本心は、糊付けされた紙みたいに時間のなかへ張り合わされようとしていたんだ。困るんだな。むやみにひっつけてしまうと。あとからはがすのが大変じゃないか。で、まあ焦らずに肩のちからを抜いて山の連なりを眺めていた。
そんな事情だったからどれくらい時間が経過したのか、よくつかみとれないうちにどうやら目的地が迫っているのを知らされたんだよ。いよいよあの離婚状を通行手形とした最初の関門ってことになるから俄然気も引きしまり、印象的だった名の「もげもげ太」なる人物像をあれこれ想像してみたわけさ。チューザーからの情報はまえに言ったように「ミュラー大佐」に関わる人物であり、「卍党」であり、こちらこそ願わくばの「意気投合」を前ぶりされているわけだから、かなり具体的な風貌が浮かびあがってきたていた。しかし、ここでそのスケッチにいたる行程を話しているのは時間の無駄だと思うので、端的に出会いの瞬間へと筆を飛ばそう。

第一印象はこうだった。「えらくイメージを裏切る容姿じゃないか」ほとんど小声になりかかっていたよ。想像では三枚目的なお人好しを装った冷徹なる顔。はなから忍びの者とか聞かされていたから、そんなふうに収まるのも紋切り型かと抵抗しつつも、だけどやはり貧困だね、やっぱり底が浅いんだろうな。すでに第一印象からして目くらましの術にかけられているだから。そうだなあ、俳優とかで例えるとこれが最近ではあまり見かけなくなったタイプでさ。とにかく見るからに神経質な大きな目をしていてね、繊細な感じが空気感染してくるんだけども決して嫌みはなくて、どちらかといえば全体的にひかえめな面持ちを崩さないんだ。こっちが歩みよれば同様の歩幅で応えてくれるような実直さを持っていて、それは軽佻な資質が都合よく被われているから見栄えがいいとか、狡猾な知能がはかりにかけて培われた愛想とかではない、もっと身近に感じることの出来る、いや、もう今ではあまり接する機会もなくなった小川のせせらぎを彷彿される清らかな親しみだよ。
華奢なつくりも重圧感を排除しているんだろう、もし交差点とかですれ違ったとしても好印象をさりげにあたえながら、同性として異質な分子がいったん濾過されて、ちょうど微かにただようオーデコロンが鼻をくすぐってゆくさわやかな存在であり続ける透明感を身に宿している、どう今そんな俳優いるかい。名前は思いだせないけど、おぼろげな顔が磨りガラスのむこうに佇んでいる。
「はじめまして、もげもげ太です」
声からして一口サイズの洋菓子のように甘く柔らかい。僕はよほど「あなたは俳優のあのひとに似てます」と言いたかったけれど、「卍党」って先入観がうまく始動してくれて余計な口をきかずにすんだ。つまりは相手は忍びであるってことがいい意味で僕を寡黙に仕立てあげ、「ミューラー大佐」を保持する(もっとも実体でなく影らしいが)大義をかみしめてみたのさ。いくら懐かしの俳優に似てるからってイメージ通りの反応は期待出来ないし、するべきでもない。チューザーが間に入るまでは一切無駄口はきくまいって構えていたわけ。そうりゃそうでしょうよ、まだ海のものとも山のものともさっぱり見分けがつかないのだから。こっちは「赤影」にはわりと詳しいほうだからね。特に甲賀幻妖斎が率いた「金目教霞谷七人衆」と「卍党うつぼ忍群」の面々はたいがい覚えている。もげもげ太もその流れをくんでいる限り、隙を見せるのは早計というもの。記憶がないわりに妙な箇所だけは忘れてない自分に感謝したよ。ほんと感謝したよ、、、君にはわかるだろう、幾度となくテレビで再放送され、大人になっても関連書物を見つけては収集していたんだ。
ねずみの奴どこへ消えてしまったのか。まあいい、ここまま澄まし顔でいるのもそろそろ限界にきていて、僕の好奇心はもう火がついてしまっていた。彼の風貌にはもうおかまいなく、ついに尋ねてみたんだ。「幻妖斎」の末裔はいるのか、テレビ番組がすべてではないのは百も承知だが、ああ、霞谷衆の紅一点「闇姫」の末路はいかに。過度な緊張が逆噴射してしまい、にわか仕立ての理性を吹き飛ばしてしまった。いきなり「闇姫」はさすがにはばかれたので、もげもげ太におそるおそるこう訊いた。
「あなたはひょっとして傀儡甚内の子孫ではありませんか」
「いかにも、霞谷七人衆がひとり、忍法顔盗みの秘術は連綿と伝わっております。あなた様がそれをご存知とはおそれいります」
こうなると調子にのってしまい「かなうことなら闇姫さまにお会いでませんでしょうか」と、咳き込む勢いで口をついて出てしまったよ。
もげもげ太のくっくりとしたまぶたがひと際濃くかさなると、もうこれは俳優の領域でしかない憂いを帯びた目元が妖しくひかりだした。
「闇姫さまにおめみえしていかがなされるおつもりでございます」
「ただ懐かしいだけです。忍法髪あらしはむろん遠慮させていただき、ひとめでよいから会ってみたいのです」
「それほどまでにご執心ならば、、、しかし、闇姫さまはここにはおりません。いづれ日をあらためましてのご面会でよろしいございましょうか」
と、いうわけで思ってもみなかった事態に発展していった。まだなんにも関与していなんだけど、意外に地平は開けていくようじゃないか。


[185] 題名:ねずみのチューザー7 名前:コレクター 投稿日:2011年04月12日 (火) 04時46分

どれくらい山間を抜けて行ったのだろう。映画に魅入っていたから折角の山河が織りなす風景にとけ込むこともないまま、気がつくと鑑賞後の余韻にひたる気流さへ窓枠わずかにかすめてゆくだけだった。
記憶が封印されてしまっているようなので、逆にもどかしく焦りがちょうど湯気をふくやかんみたいに沸点を知らしめて、ある帰結へのシグナルを送っているのか、ともあれ明快な意識に先導されてない頼りなさは、湯気で窓を曇らせているようだ。
不快感はなかったよ。だってまともであれ、まともでないにせよ、人語で歩み寄るねずみを拒絶せずにこのバスへ乗り込んだこと自体、それが危険な誘惑だとしても僕が欲した行為だからね。模糊とした判断にもかかわらず何らかの焦燥が無人バスの車内に浸透しているのは、乗り心地をどこか微調整されているようで自分の感覚が遊離しているのを楽しむアミューズメントにも通じたから。
で、「卍党」なんて寝耳に水な発言には、半ば含み笑いを押し殺せない拍子抜けしまう戸惑いもあって、増々夢幻の世界にはまりこんで行くんだなって無責任な高揚感を鎮めるすべをなくしてしまった。いつか君に話したと思うけど「仮面の忍者赤影」ってテレビ番組はいくら子供向けとはいっても、荒唐無稽ひとすじなんだけど歯切れはよくて、その時代考証のなさは神々しい境地に達してながらも毎回登場する怪忍者とか怪獣はとても魅力的だったんだなあ。巨大な金剛力士像は電動だったし、球形の飛行物体に到っては現代科学も真っ青の秘密兵器で、なかで操縦している忍者らはきっと蒸せたんだろう、どうみても扇風機としか見えない代物が備えられていた。織田の殿様がっていう時代にだよ。なごむじゃないか。チューザーの存在も確かに信じがたいけど、あれよという間に話し相手になってしまい、そもそもS市の農道をさまよっていた僕にとっては唯一の道づれだったから、これは前回も説明したよね。もう少し厳密に言えば、横転したバスとねずみのチューザーによってはじめて僕は記憶の発火点に触れ、空白に取り囲まれている形を再確認したわけさ。つまり、まわりの空虚を感じることで今という時間がとても生々しいものに発酵していった。それがいい傾向にあるのかどうかは問題でない。ねずみが喋ることを悪夢と見なすのか、奇跡だとあがめるのか、即座に回答出来ないようにね。あのとき大事だったのは常軌を逸している場面にどう向かい合えるかって態度の問題だったと思う。記憶があやふやだったから藁にすがりたかったんじゃなく、バスとねずみの登場が自然と僕の時計の針を進めてくれたんだ。そこでようやく過去に霞がかかっている事実を知り得たし、これからの道行きに対してもまるで遠足に出かけるみたいな浮ついた陽気さがともなうから、心持ちは決して不快じゃなかった。
「卍党」という、フィクションがそうではなくなっている成りゆきを聞くに及んで、ようやく異形の空間を認知する感性に近づいたのも、まんざらデタラメではないだろう。人は絶対の孤独には絶えられないんだ。ねずみもねこの大佐も僕にしてみれば救いだったに違いない。記憶の曖昧さなぞ、舞台にかかる暗幕のようなものだよ。バスに軽々と乗車出来たのも、目のまえで派手な横転というパフォーマンスを演じてくれたから、、、大体そんなところかな。「卍党」に度肝を抜かれた装いで振るまうのは、狂気を我がものにせんが為の気分転換かな。
ちょっと悟りすましたふうに聞こえるかもしれないけど、それは誤解だよ。なぜなら第一幕は開いたばかりで、内心はとてもひやひやしていたんだ。僕が知り得たのは事実とは異なる現状であって、知り得たというよりかは、そう解釈せざるを得なかったといったほうが正しいもんな。だからこそここがスタートラインじゃない。これからが始まりだと思ってほしい。
作られた映画にひたる器量はあっても、流れゆく風景を味わう余裕なんてまったく持っていなかった。それで窓が曇ったんだって、これすごい言い訳だよね。おそらく都合の悪い過去を思い出したくないに違いない、記憶なんて案外と操作しやすい装置のような気がする。
とはいえ、やっぱり欠落しているんだなあ。S市にどんな思いで向かったのか、あの離婚状を突きつけた女性が誰だったかよく思いだせない。まあ、思いだしたくないんだろうから仕方ないけど、あれは偶然などではなく、むしろ必然であるのはチューザーもそれとなく認めているから尚更もどかしいじゃないか。そうだね、君なら端的にそう問うだろう。
「いったいどんな意味あいがここに潜んでいるの」って。
同感だよ、出来ることなら早々にここから立ち去りたい気持ちがないわけじゃない。でももうわかるだろう。旅には最低ふたつの道があるんだ。日帰りのような気軽に散歩気分で出かける旅、そして反対に行き先を定めない無目的に近い、長い旅。窓の曇り具合からみてどうやら長いトンネルにくぐる予兆をしみじみ感じてしまう以上、残念ながらすぐには帰ってこれそうもないや。二階の軒へ吊るしといたてるてる坊主によろしく言っておいてくれるかい。
「雨の日もたまには微笑んでいてくれるとうれしいから」とね。


[184] 題名:ねずみのチューザー6 名前:コレクター 投稿日:2011年04月05日 (火) 05時35分

とんだみかん狩りだった。あっ、勘違いしないでほしい。薮から棒に離婚状を鼻先へつきつけられたんで辟易したわけでなく、僕が記憶喪失者であり、なおかつ付随する疾患というか意識のありようが狂気の部類に属している可能性が濃厚な自覚に落胆したわけなんだ。異次元なり黄泉の国でもけっこうなんだけどさ、過去の清算を迫られるのが旅の始まりっていうのも哀れな話しじゃない。どうせならスッパリと中身がからっぽになった状態で行きたかったね。チューザーは通行手形なんだとか意味ありげに釈明しているが、どうしてもああした修羅を再体験(たぶん僕はバツイチみたいだ)しなくてはいけなかったのだろうか。まあ地獄だって閻魔さまから罪業の数々を思い知らされるそうだから避けては通れないし、旅立つにあたって列車なり飛行機なり切符がなくては確かにどうにもならないからな、とかなんか少々いじけた感じをおさえながら、とにかくもう突風みたいに過ぎていったんだかって胸へ言い聞かせたりしていた。過去を持たないからこそ、かつての残像が秋の空から照りつけられ、そこには幽霊のように境界から抜け出てくる染みが浮かびあがるんだ。もっともあの剣幕は幽霊が醸し出す儚さとか遺恨など吹き飛ばしてしまう勢いだったけど。ただふたりの幼子、唐突だったんで顔立ちまで見届ける余裕なくて、、、ああ、あの子らは実の娘だったんだろうなって感傷的になってりもして、旅の切符は紙切れだがなにやら鉛みたいな重みで息苦しくなった。なかなか理解してもらえないだろうなあ、現実からあっという間に引き裂かれ隠れ里に連れてこられたのか、はたまたこれらはすべて陰謀であって僕だけが意識操作されてるのか、どちらにせよ正確な判断のくだしようがないのだから、まるでそこが巣であるようにポケットへちゃっかり収まった人語をあやつるねずみがこうして存在している限り、やっぱり狂気に包まれた空気を吸っているんだよな。
でもそこなんだ。君が僕の話しをいぶかり小首を傾げるどころか眉間のしわが邪気をはらんでしまう以上に、おそらく僕の感情はあのとき強烈にたかぶりつつも反比例するごとく冷静な意識がめぐってきていた。具体的に言うと、バスが横転してから数時間しか経過してないにもかかわらず、すでに現状を引き受けている薄皮餅のようなまとまりが出来上がっていて、はじめチューザーに礼儀ただしく接しられた際のもの言い、つまり「なにゆえにねずみの分際で無人バスなど運転していたのか、またどこへ向かおうとしていたのか、なにより人語を解するすべを奇怪に感じられるであろうが、、、うんぬん」に対等な心持ちで臨んでいけると実感したわけさ。だから、バツイチで二児の父である身を振り返ることも必要なく、再体験を済ませてしまったからには、なんかほんと形式上の習わしを終えた気分になってしまった。
その晴れやかまでとはいかないけど、形よく膨らんだ風船ガムがしぼんだときのような充実感に、こっちからあえて狂気とやらをポンプで吹き込んでやれば、、、どうかなあ、同じ吸い込むにしても吸わされているのとでは若干違った意義が芽をのぞかせはしないかい。そうなると「今度は攻める側だ」って気力がもたげてくるし、俄然能天気に踊る加減もシニカルに運んでゆけそうだ。
ここからの筋は見えてくるだろう。そうだよ、僕こそ異次元を自在にさまよい歩く意識人、遠慮はいらない、チューザーに向かって猛然たる質問攻めを浴びせたのさ。で、どうしたかって。最初になるだけ要点をしぼって書くっていったの覚えているね。チューザーは小栗虫太郎を引き合いに出したりしてるけど大丈夫、多少の横道もあるだろうが本末転倒まではいくらなんでも。
ところで僕が弁明を求めたいことはすでにチューザーが要約していて、自ずと霧が晴れて見通しがよくなるのはこの空気に包まれた実感がもう約束してくれている。「はじめに言葉ありき」さ。目から涙が吹き出るくらいこすってみても、ほっぺから血がしたたり落ちるほどつねってみても、耳をかっぽじるまでもなく、このねずみはすでに人の言葉を喋っているんだ。とりあえずそれが迷惑であるとも思われないから、だって実際は唯一の話し相手だしね。その件に関しては原因究明より現状肯定に止揚しておいて、問題は旅とやらには聞こえがいいけれど、またまた不愉快な行程をめぐるんじゃないかって怖れがなりよりで、運転も自動だし乗り心地も悪くなかったから、ずばり次の行き先と目的を明瞭にしなさいって。
すると「はい、これよりは銀山みかん園から山中深くバスは進んでまいります。そこである人物と合流する手筈でございます」しゃあしゃあこう答えるじゃないか。
「誰だい、その人物って」まったく嫌な予感がよぎるもんだから執拗に問いつめたところ、いやはや、君には大変申し訳ないがはたまた混迷と逸脱が発生したようだ。舌先の乾かないうちから要点が曖昧になってしまうけど、チューザーの奴はこんなふうに詰問の刃をかわしてしまったよ。
「ミューラー大佐探索にとって重要な方であります。もげもげ太と申す、卍党の流れをひく忍びの者でございます」
「卍党だって!まさか、あの仮面の忍者赤影の敵忍のか」
「さようです。お会いになればきっと意気投合されることと信じております」
開いた口がふさがらないってのはこういうのだろう。ねずみをしめあげる気勢はもののわずかでしかなく見事反対にしてやられた。色々知恵をしぼったつもりがこの結果じゃ、まだまだ先は遠いかもな。窓の外に張り付いた山々は紅葉を向かえていたけど、視線は焦点定まらずにいたところ、運転席の横上に設置されたスクリーンが点滅しだした。泣けてくるねえ。バッハのマタイ受難曲に導かれ映しだされたのは、タルコフスキー監督の「サクリファイス」だった。


[182] 題名:ねずみのチューザー5 名前:コレクター 投稿日:2011年03月29日 (火) 08時33分

どんな夢を見たかって、それは毎度のことだからこまごま書くのは省略させてもらうとして、一気に夢は覚めたよ。いや大丈夫、頭に石は飛んでこなかったし無邪気な目をした子供も見当たらない。そこは銀山みかん園に違いけど、やっぱりこれといった印象が情景としてしみついてなかったから、山々にかこまれても格別感慨はなかった。それに誰もいない、ひとっこひとりいない。みかんは数知れずあの野球帽の色に負けることなくたわわに実っていたよ。太陽は温かなんだが、風がときおり冷たくてね、まあ申し分なのない気候だったから、人気がないほうがのびやかでよかった。それで夢が覚めたんじゃない。問題は寝た子をたたき起こすようだ。バスから降りるとチューザーは僕の足下からスルスルって這い上がってきて、胸のポケットにシュッと収まってしっまうと、「なかなか居心地のよい胸でございます」なんて言うもんだからちょっとびっくりしてさ。というのも今じゃ萎びてしまったけど、あの頃は無性に筋トレに凝っていてプロテイン飲みながら超回復理論なんてのも考慮して励んでいたら、大胸筋がえらく張りだしてきて、以前あったじゃない「だっちゅーの」っていうの。あれ出来るようになったわけ、自分でも妙な気分でさ、だって乳房まではいかないけど貧乳の女性よりは盛っていたから、風呂につかるときなどもんだり、さすったりしていた。それを急に思い返したんだ。同時にチューザーがサッとポケットに全身を沈めながらこう言った。
「どうですか、もうおわかりでしょう。それがしはここにひそんでおりますから、ゆるりとご対面されるがよいでしょう」とね。
一気に脳内をチューザーに代わるねずみが駆けまわりはじめた。ああ、柔らかな乳房、なめらかな脇腹、すべすべとした二の腕、そしてふくよかな尻。一体誰の女体だったのか、まだはっきり顔が現れてこない、、、そのときだった、密生しているみかんの木がガサガサと鳴りだしたと思うと、ふたりの女の子供がヒョイと顔を出し目をまるくしてじっと様子をうかがっている。まだそれでも合点がいかない、しかしもう問題の半分は解けたような気がして、これはほぼ条件反射だろうな「おかあさんはいないの」なんて自分でもくすぐったいくらい甘い声色で話しかけてみたんだよ。すると、ふたりの子供を盾する格好でみかんの影からいきなり見知らぬ女性が出てきた。
「そういうのをねこなで声って呼ぶのよ」ってあきらかに怒気を含みながらこっちに近づいてくる。なんだ、なんだ、これはねずみの奴にいっぱい食わされたか、異次元だろうが、不思議の国だろうが、あの世だろうが、ようやく危機的な鋭角的な感情がわきあがってきて、胸を思い切り叩いてねずみを成敗してやろうといきり立ってみたけど、それよりさきにその見知らぬ女性が「これにハンコ押してちょうだい」なんて意味不明のことを口走るものだから呆気にとられてしまい、さっき解けかかった問題に全神経を集中させたんだ。
差し出された紙面を見れば離婚届じゃないか。僕はあんたなんか会ったこともなければ、結婚した覚えもない、って喉までもう出かかっているが的確に反抗出来ない。そうこうするうちにじっとひそんでいたはずのねずみがもぞもぞ動いた加減で、どうしたわけだろう、まるで陽光をたっぷり吸い取った布団のうえに横たわっているような、ふんわりしたぬくもりが訪れてしまい、もと「だっちゅーの」だった僕の胸は変幻し、南国の大振りな型をした果実へと色香を漂わし出してあらぬ方向へと、磁石で引きつけられるみたいな移行をもってこの身が消え入るのではと危ぶまれた。が、心もとないにもかかわらず、異性をまえにして衣服をすべて脱ぎすてるような恥じらいより先行した興奮がうずまき、肉体の交わりがいとも簡単に済まされたときと同様の安堵に包まれてしまった。
ほどよい弾力は決して人工的な按配で生み出せるものじゃないね。精が果てたあとの女体枕をいつまでも味わい尽くしたい欲望だけが、あたかも夜明けのカーテンが暖色に染めあげられるよう、寸暇である光となってこころ焦がす。
妙な妄想が過ぎてゆくと僕は相手に釈明を求めることなく、その紙面を受け取ったんだ。もちろん誰だったか知らずじまいさ。女性はふたりの子供を連れて身をひるがえし何処かに行ってしまったよ。
「まったく、どういう事情がわからないがなにもこんなとこで離婚状を突き出すなんて」そう勝ってに口が開いたら、待ってましたとばかりにねずみの奴、「そうでございますな、時と場合が肝心というものです」なんていつの間にかポケットから抜け出し、僕の肩にちゃっかり乗りながらもっともらしく相づちを打っている。「おい、おまえが仕組んだんだろう」肩から払い落とす素振りでそうなじると「そうかも知れません。しかしこれは儀礼なのです。記憶が戻らなかったのは通行手形を受けとったという意味でしょう。あの女人が何者であれ、あなたさまは自由になられた。さあ、更なる旅を続けましょう」と来た。
これじゃ、あの頭に石をぶつけられるのと似たようなものじゃないか、そう内心では悔やんでみたけど、「八面体における一面の相似」ってつぶやいて観念したよ。ねずみも道づれになっていることだし、記憶はなくても少しは冷静になろうって。


[181] 題名:ねずみのチューザー4 名前:コレクター 投稿日:2011年03月29日 (火) 05時47分

みかん狩りだよ。銀山みかん園っていえばそれしかないからね。ちょうど秋日和だったし、あの辺の山深くもない、なだらかに山地が勾配している眺めはのどかでいいもんだ。と、いっても小学生の頃に一回きり親に連れられた記憶があるだけなんだけど、ある事件をいまでも生々しく思い浮かべることが出来る。こんな無人バスじゃなくぎっしり家族づれでつまったにぎやかな雰囲気でさ、くねりにくねった国道を揺られて行きながら、子供ながらにはやる気持ちを抑えているみたいな、どこか醒めた旅愁のようなものへ生意気にもひたりつつ、車酔いが混交していたのを覚えているよ。きっと乾いた秋風と柔らかな陽が窓の外にどこまでも流れゆくのが心地よかったんだろう。
みかん園に到着したらよく晴れわたった青空の下は案外ひんやりしていて、鬱蒼としげる濃い緑から懸命に顔をのぞかせてるみかん達がまた無性に可愛くてね、ここに一枚の写真があって、そのときのスナップでさ、だいぶ色あせた写真なんだけどみかん色の野球帽をかぶって目を細めているの。いやあ、陽射しがまぶしかったんじゃない、あの頃の僕はどの写真みても情けなくなるくらい薄目をしている、何故かね。照れくさかったのかな、たぶんそんなとこだろう。でもみかん色の帽子には我ながら微笑んでしまう。何か気合いというかやるき満々な気もあったから、意識してかどうかは知らないけど色合いを調整してたんだな。
そうそう、そんなことより事件さ。大げさに聞こえるようだけど、子供にとっても大人にとってもあれは事件だった。他のバスからもぞろぞろと乗客が降りてきたんだ。そのなかのひとり、中年の男性だった。頭髪がかなり薄かったから。その後頭部にピンポン玉ほどの石つぶてが命中するのを間近で目撃した。ごつんとか音はしなかったけど、ぶつけられた当人はうしろを振り返る余裕もないまま、とはいいながらいきなり頭をかかえたわけじゃなくて一瞬なにが起こったのか判断出来ないような様態だったよ。男性も家族づれらしくてさ、奥さんとちいさな子供があとから駆け寄ったのを見届けながら、そんな悪事を働いた犯人をしっかり確認した。だってまだ片方の手に小石が握られ、命中先をじっと見つめているんだから。邪心があるのかないのか、その犯人はいたいけな児だったからことの次第を把握していないだろうし、その表情にとまどいもおそれもなかったところを見ると、攻撃心は宿してなかったと思う。その児にも当然だけど親がいてさ、まわりが声をあげると気がついたみたいで、まだ手にしたものをまのあたりにし気の毒なくらい狼狽しちゃって、相手の家族に謝るやら児を叱りつけるやらで、君にも大体想像できるだろう、そんな場面。男性の薄髪の間から血はにじんでいるし、犯人を叱責するまえに痛さでしゃがみこんでしまい、見ていた僕もすがすがしい気分が一転して、どこかから石が飛んでくるのではなんて不安に襲われてしまったよ。
空覚えではない、そのあとさ、石をぶつけられ血をにじませた不幸な男性は寛大なのか、そんな幕開けをきっぱり否定したかったのか、だってそうだろ、せっかく行楽場所に来た矢先そんな不運に見舞われた胸中は察してみてあまりある。しかも故意でないことが明瞭すぎるくらいなわけだから、一切の文句を言うどころかさしたる感情も現さないでその場から早々に立ち去ったんだ。その家族の反応は残念ながら思い出せない。寛容すぎる無言の退去にもどかしさを感じながらも、自分にも降り掛かってくるんじゃないかって怖れがにじみ出しはじめ胸がどきどきしていた。いまから思えば、叱責なき姿が逆にあらぬ不安を募らせたんだよ。野方図なまま取り残された空白みたいものが、高い空まで浮上していくようだとね。で、事件はおしまって言いたいとこだけれど、そうは問屋がおろさない。リアルな記憶はここまで、これからはまたまた奇想天外な成りゆきに話を戻さなくては。
そんなみかん園にどうしてチューザーはわざわざバスを走らせるのかなって考えてみた。あの情景が鮮烈だったんでその先のことをさっぱり思い出せないんだ。みかん色の野球帽の下に汗をうっすらかきながら夢中でみかん畑を駆けたのか、お昼はどんなふうだったのか、多分おにぎりだったのだろうが、写真では三匹のこぶたの絵が書かれた水筒なんかぶら下げているけど、いまひとつピンとこないなあ。まさかチューザーはそんな失われた思い出を甦らせるために運転しているわけでもあるまい。あれからみかん園を特別懐かしがったこともないし、いくらぞっとした事件だっからといってトラウマにまで到ってないからさ。
すでに不思議の国にはまりこんでいるのに、あれこれ詮索したみても仕方がないかって開き直りもあって、思考をめぐらせるのも適当に気がつけばいつもの癖だね、走りゆくあとに焦点をあわせるでもなく、ぼんやりと窓の向こうを眺めていると、緊迫した意識が大気に拡散していくようで、こうして移動しながら風景を見やるっていうのは一種の麻痺に近い感覚で実に落ち着く。自力で草原を軽やかに駆ける動物や、空中を自在に飛翔する鳥たちとはまた異なる速度感じゃないかな。運転手はさておいて手も足も、羽ははえてないけども、それらをまったく駆使することなくただ座ったままで享受出来るなんて素晴らしいと思わないかい。空が晴れようが、曇ろうが、雨荒らしであろうが、のんきであろうと思えばどこまでものんきでいられる。はがねとガラスの内側に居座りながら夢を見ているんだよ。流れ去る時間をふんだんに堪能しつつ。


[180] 題名:ねずみのチューザー3 名前:コレクター 投稿日:2011年03月22日 (火) 07時12分

「運転免許ですか、ご察しのように自動運転で走行しておりますのでご安心ください。どうです、乗り心地のほどは。ところでこの無人バスでございますが、実のところあなたさまをお迎えにあがった次第なのでして、唐突にそう知らされてもただ狼狽されることと承知のうえなのですけど、幻覚へとさまよってしまわれるのは遺憾でありますので、この際はっきりと申しあげたほうがこれからの成りゆきもご理解いただけるのでは、僭越ながらそうお含みくだされましたら幸いでございます。いかなるゆえんでかのような方策にいたったかはのちのちお分かりになられるかと存じますので、まずはそれがしの任務を披瀝いたしましょう。あなたさまは以前よりよく悪夢にさいなまれていると自他ともに認めてらっしゃいますのを、それがしかねてより精通しておりまして、いえいえ、その手段は少々こみいっていますので省略させてもらいますが、とにかく就寝中あまりいい夢見がまれでときには金縛りなぞの憂き目にあわれているのは間違いないところでしょう」
「たしかに毎晩夢は見るけどそれほど苦痛ではないな、最近のホラー映画のマンネリよりかはバラエティに富んでいるような気がしないわけでもないからそれなりに鑑賞しているよ。だが金縛りはまだまだ慣れない。それがどうして任務と関係あるって言うの」
このバスがお迎えなんてあまりの言い草にたまげるより、それこそ悪い夢のなかにいるんじゃないかという気持ちがして、おもわず脱力感を覚えてしまった。冗談ならいい加減にしてくれって意識もよぎっていったよ。だからといって虫左のひどくかしこまったもの言いに反発したいわけでなく、もう自動運転のバスに揺られてしまった身、ここはその任務とやらっていうえらく重々しそうな謂われでも聞かしてもらおうじゃないか、そう思ったんだ。
「あなたさまは認識されておられるかと存じますけど、ときおり夢に一匹のねこが登場しないでしょうか。黄色いねこです。軍帽をかぶっているはずです。それがしはかの御仁、すなわちミューラー大佐を探っているのでございます」
僕はここで始めて驚きに支配された。それまでがまるで絵空事だったんじゃないかってくらいにね。
「ミューラー大佐は夢なんかに出てきたことないよ。だって僕の飼いねこじゃないか。もっともビニール製のおもちゃだけど。なんなら見せてあげていいよ」
「失礼ながらそれは考え違いでございます。あなたさまがお持ちのものはいわば影、実体は別な世界に棲息しているのです。なぜならそのおもちゃでさえ、どのような経路で幼児期よりお手もとに届けられたかご存知ないはずです」
「あたりまえだよ、経路なんて大げさなもの通ってないっていうの。親が買ってくれたから家にあったんだ」
「ほう、そういたしますとご両親からその言質はいただいておられると申されますか」
「随分と話しがふくらんできたなあ。そんなこと聞いてみたためしもないし、聞きてみたいとも思ってない。それより、なぜならっていうけど影と実体なんてどうして言い切れるんだい」
だいぶ興奮しているのが自分でもわかってたんだ、もちろんばかばかしいけど妙にひっかかるじゃないか。おんぎゃあーと生まれてから、両親はじめいろんなひとからもらったり譲り受けたりしても記憶に残っていないおもちゃって一体どれくらいあったんだろうってね。実際虫左のいうミューラー大佐だけが唯一成人した今でも当時から手もとに置かれている。困惑している僕をなだめる意味なんだろうか、それとも更なる迷宮へと案内するつもりなのか、明快な返答がないまま今度はこんなことを言い出したんだ。
「あなたさまは小栗虫太郎の黒死館殺人事件を読まれたことがありますね。それがしの名、虫左の虫はあそこから一字を頂戴しているのでございます」
「ああ高校生のころに読んだよ。あの文庫本ならまだ本棚にあるはずだ。そういや再読してみたいって思っていた。太平洋戦争のさなかある兵隊がかたみはなさないで余暇を見ては耽読していたっていう、あの衒学趣味に満ちあふれた小説だろ。へえ、そうなんだ。虫の字はねずみのちゅうの当て字かと思ってたよ。で、ミューラー大佐の影の持ち主がどこでどう虫太郎と関わってくるのさ。夢落ちとかはもう食傷気味なんだ、これがまぼろしでないなら頼むからいくらか筋道をつけてくれないか」
「このバスはただいま銀山みかん園に向かって走行しております。おわかりでしょうか、めくるめく衒学は逸脱の嵐であったという軌跡を、、、筋道は大事でしょうが、寄り道も決して悪くはありません。虫太郎は虫太郎、それがしもこのあたりで変化いたしましょう。どうぞこれよりはチューザーとお呼びくださいまし」
と、まあそういうわけでおいそれと謎はとけそうもないや、ねずみのチューザーとしばらく一緒してみるしか手だてもなさそうだしね。
今日はここまでにしとくよ。またメールするからさ。それじゃまた。


[179] 題名:ねずみのチューザー2 名前:コレクター 投稿日:2011年03月21日 (月) 17時50分

あの情況をよくよく振り返ってみれば、平静を保っていたのか、幻惑され魂が半分くらい引き離されていたのか、よくまあ取り乱さずにその場へ座りこむ調子でねずみとすんなり会話しだしたもんだと、我ながら感嘆してしまうね。だって、「怪我はないようだが、バスは転んでるし、第一その紀州藩っていつの時代なんだい。ひょっとしてこれタイムスリップなのかな」などと真顔で問いかけていたんだから。
「いえスリップしたのはバスのタイヤでしてそれがしの未熟によるもの、いまは二十一世紀に他なりません」なんて面目なさそうにこたえた姿勢がまたなんともいえない哀感があって、ついつい情にほだされてしまい、「なるほど、色々と訳ありの様子だね。よかったらわかりやすく説明してもらえないかなあ」そう発した自分の声色にもどこか風情がこもっている心持ちがしてきて、増々恐縮に身をこわばらしているねずみから目をそむけられなくなってしまったんだ。
そんな按配なわけだったから、突然の異変に対応すべき心情を書きつらねるのは割愛させてもらうとして、虫左とやらが語ったことがらをまずは簡潔に記しておくよ。
訊くところによれば、紀州藩うんうんというのは彼の先祖をさしているのだそうで、特にもったいぶったもの言いをしたつもりではなく、思わぬ事故を目撃された動揺をただすためにも己の出自を明らかにしたうえで、慎重な挨拶を怠らないよう努めたまでのこと、無論現在では武家制度のなごりは祖霊のなかに生き続けているのであって、連綿と仕来りを守り通しているまでもない、ごらんのように着物も身につけておらず小動物らしく毛皮を身上とする生き物であるから、時代錯誤は形式のうえと判断されたく願いたい、先祖代々の由来を述べる煩瑣は省略させていただき、なにゆえにねずみの分際で無人バスなど運転していたのか、またどこへ向かおうとしていたのか、なにより人語を解するすべを奇怪に感じられるであろうが、そうした疑念を晴らしてまいりましょうと、とても一匹のねずみがくりだす口上とは思えない毅然とした素振りなもので、とにかく圧倒されたというより、かつて感じたこともない熱いものがこみあがってきて、ここでこうやって奇妙な対話がなされている事実がより鮮明になって現実味さえ帯だしてきた。もう疑心も迷いも吹き飛んだね。君も、虫左の言葉に耳を傾けてくれるかい。おっとそのまえに信じられない光景を目にしたんだ。横転したバス、音もなく静かに横たわったままだったから、ついついねずみの話しに引き込まれてしまい、めったに遭遇するものでもない事態を忘れかかっていた。びっくりしないで落ち着いて聞いてほしい。虫左は四輪が手放しになって所在なく腹をさらしていたバスの反対側にまわりこみ、低くうなり声をだしたかと思うとなんと一気に横倒しの形態からもとの威勢のいい車体に戻してしまったんだよ。これにはさすがに仰天した。さっき放棄したはずの疑心がブーメランとなって返ってきたような気分だった。それから悠然とぼくのまえに現れた当の虫左はなに食わぬ顔でこう言うじゃないか。
「さあ、立ち話もなにですからどうぞ乗車してください」
「そりゃどうも」
そうなったらもう自動ドアが開いたのかどうかも記憶のないうちに車内の座席にかけていた。一番うしろの席だったけど。すでにバスは走りだしていたよ。どこに向かっていたのだろう。それは追々見えてくるから今は詳しく言わないでおこう。それより運転席にはねずみなんだけど、君にはどうも想像しづらいだろうなあ。ねずみといってもはつかねずみくらいの大きさでさ、ハンドルにしがみついているんだけど、とても運転している姿には見えないし、手足だってブレーキやらアクセルにはほど遠いから、おそらく自動運転装置かなんかじゃないかと直感した。そうでもしない限りあのバスには乗ってられなかったんだろうな。おさるの電車ってあっただろう、あれの百万倍は不安だったね、でも最初の間だけさ、一応道沿いを乱れることなくスムーズに走行していったから、外の景色に気を奪われている安楽さを知ったときにはほとんど身をまかせていたし、虫左の話しが切り出されだしたから、すっかり不信感は消えてなくなった。でもさっきの魔法みたいなちからわざをまのあたりにした残像は消え去らなかったんで、それこそ反射的に口を開いたんだ。君だって絶対ぼくとおなじ質問を投げかけたに違いないと思う。それは言うまでもなく、奇天烈な現象に対するあおりさ。
すると、「それがしは幼年の折からいのししと相撲をとっておりまして、とは申しましても生後ひと月くらいはうりぼうが対戦相手なんですが。そういう次第でこう見えましても案外馬力はあるのでございます」
「そりゃ馬力どころじゃない、怪物並みじゃないか」と、返ってきた答えに半ば憮然としたら、「そのうちあなたさまのお役に立つこともあるでしょう」生真面目というか、その語感も得体が知れないだけにそう言われてみれば反対に不思議と説得力あるんだな、これが。
「さあ、それでは謎ときといたしましょうか。さきほど申しました疑念を解明していくわけでございます」
このバスとすれ違ってからどれだけ時間がたったのか、いや、もしくは時間は凍結されているんじゃないか、などふと我を見つめる余裕もどうやら車窓を流れる景色に即し、ぼんやりと物思いに耽りながらも内容のない、実体のない、空間を漂っているような反応だけが眠気をともなって過ぎてゆく。現実感が希薄になりかけているのはやっぱり異次元に紛れ込んだしるしかも知れない。まあいいさ、その異次元とやらもついでに欠片でも謎とけたらこんな未知にそうそうめぐりあうこともないだろう。ねずみの虫左の顔をまじまじと見つめていると、悲しいのやら楽しいのやら分からなくなってきたんだ。




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