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[178] 題名:ねずみのチューザー1 名前:コレクター 投稿日:2011年03月21日 (月) 17時38分

別に隠していたわけじゃなかったんだけど、いくら君でも「はいそうですか」なんてすんなり信じてくれないってわかっていたから、今まで話さなかっただけなんだ。でも、どうやら妙な誤解に発展しそうな気がして、その誤解もとてつもない方向でないにしても、ささいといったらなんだけど、つまり下世話なありきたりな、そして見苦しい結果を招いてしまって結局は深い溝をつくってしまうじゃないかと思った。もちろん溝を掘るのは君だけではないし、不本意ながらでその原因を明快にしないまま指を加えて煩悶しているのもどんなもんかと、想像するまでもないよね。で、直接会ってこと細かに説明したいのはやまやまなんだけど、おそらく話しはじめるやいなや君は、「それってどういうこと」とか「わたしには理解出来ない」とか「そんないい訳やめて」とか言い出す場面がありありと目に浮かんでしまうから、こうしてメールで書き送ろうと考えたのさ。一方的だと非難されても仕方ない、だけど話しの合間に生じる疑問符から感情的な流れが必ず生じてしまう気がして、するとただでさえ珍妙な詳述は輪をかけて先行きが怪しくなりそうだから、きっと頓挫してしまい何も伝えることが出来なくなると思案したあげく、あえてこの選択をとったんだ。
なるだけ、要点をしぼって書くつもりでいるから疑問や謎はひとまず片隅に置いといてもらえたらうれしい。もっとも不可解を感じるのは仕方ないことだし、あたまから鵜呑みにしてくれまでと求めてないからさ、風変わりなんだと念頭においてくれて結構だよ、とにかく聞いてくれるかなあ。

こないだバスが横転するのを目撃したってのは教えたよね。小旅行ときめこんでS市に行ったときのこと。ほんと脇を走り抜けた瞬間からえらくバランスがおかしいなって見ていたら、スローモーションみたいに残像が焼きつくほどの緩やかさで、一時は冗談だろって訝っていたけど、傾きが尋常じゃないと危険を察知したときにはすでに横転していたんだ。これはえらい事故だって鳥肌総立ちのうえ、心身とも硬直してしまい、目が点になっているのがありありと自覚できたよ。
ここまでは君は真顔でじっと僕の言うことに反応してくれてた。しかし、「怪我人とか大丈夫だろうかって恐る恐るすこしだけバスに近づいてみると、なかはまったくの無人で誰も乗車していなかった。映画なんかであるように事故後の爆発も危惧されて、それ以上足がすくんで間近まで寄って見ることが出来なかったんだけど、あきらかにひと気がない。それでも僕は視力はいいほうだから運転席まで確認してみれば、やっぱりひとの姿がない。国道からけっこう山村へと奥まった農道みたいな道路だったから、あたりに民家も見当たらず、道ゆく影も皆無で僕ひとりがその無人バスと向き合っていたわけなんだ」
と、話したとたん君の表情は浅瀬にたたずんでいるような笑みが含まれた翳りをあらわにしたね。
「それって本当にあったの、夢でも見てたんじゃないの」
そう言って、困ったふうな気持ちが眉間にしわを寄せさせていたのが案の定印象的だった。
おそらく僕だってそんな光景を聞かされたら同じく眉間にちからが入ってしまったろう。だけれど、そこから切り出さないとその次へはたどり着けないから、信憑性がないにしろどうせもっと仰天する事柄へと向かうことだし、割合冷ややかに君の態度を観察していた。
一匹のねずみの件になって始めて、自分でも夢語りをひもときだしたんだと意識したね。そうだよ、君の顔色を一変させてしまったあの奇妙な有様さ。
「それでそのねずみはどこにいるっていうの」
今から思えばあのときの沈黙ってけっこう長く感じた。君が努調を帯びた詰問を発したのはあれが最初だと記憶している。だって、そのまえの情況を聞こうとせず、ねずみを出して見せろの一点張りだったし、僕は僕で真剣に話しているつもだったから、横倒しのバスはまるでミニカーが転んだみたいに無傷で、エンジン音もなく、不気味といえば不気味だったけど案外気は落ち着いてて、そのねずみだけがいつの間にやら僕の目のまえにはい出してきた、それで思わず手をのばしたら警戒した様子だったけど、まるで挨拶でもするように、ぴたりと動きをとめてじっとこっちを見返し、その距離が人間とねずみの間合いにしてはすでに親密な位置にあると変に感心していたら、
「こんな場面で恐れ入ります。訳あってこの地にやってまいりましたが、貸し切りバスはどうもいけません。運転手がいないっていうのでそれがしが慣れない手つきでもってどうにか走らせてきましたところとんだ失態を、通りがかりのかたとお見受けいたしますが、ご丁寧なおこころざしいたみいります。それがしは紀州藩武芸指南役の小動物子弟筆頭、ねずみの虫左と申します」
と、ひとの言葉を巧みにあやつり喋りだしたんだ。
こっちはまだひとことも言ってないのに、おこころざしとか頭を下げられたときには一瞬相手がねずみの姿をしているのを忘れてしまっていて、今から考えても面白いもんだ、夢うつつだと指摘されてもまったく無理ないよ。さて、このまえはこれ以上聞く耳を持ってくれないようだったけど、これから僕とねずみの不思議な物語をはじめるとしよう。


[177] 題名:夜景 名前:コレクター 投稿日:2011年03月14日 (月) 07時26分

旅ではなかった。生まれ育ったまちだったから。ひと時だけ帰省しているようでもあり、もう長く住んでいるようでもあった。
散歩ではなかった。なにしろ、宵の口から指折り数えてみるとかなり夜が深まっている。所用があったにせよ、今時分そぞろ歩ているのは帰路へついているからに違いないのだろうけど、いきなりこの夜道に忽然と連れてこられたふうな違和感はなにやら拭いきれない。
知った道だし、車で通ったこともある。左手には港が眺められる。驚いたのは対岸の工場から反映するネオンが、黒ずんだ海面を浮遊するあの毅然とした寂寞ではなく、海全体がエメラルド色に染まって夜気に溶けこむのを拒んでいる、まるで真昼の森林を彷彿とさせる新鮮な彩りであった。
ゆるい勾配を歩く足はとまり、その美しく映える海を見続けていた。
そのうち、進行方向から騒がしい音が聞こえてきたかと思うと、極彩色の衣装をまとった十数人の男女がローラースケートを軽やかに操りながら、夜風を切る勢いで向かってくる。すれ違い様にひらひらとした素材の衣装であることが、夜目にも鮮やかにうかがえ、ふたむかしまえ以上のタケノコ族を想起させた。時代を少々さかのぼったのか、それとも取り残されたのか、どちらにせよ望郷とは異なり、浅い瘴気がともなわれ気恥ずかしさが残った。しかし、彼らの駆けゆく様子はエメラルドの海にある種の艶を添えているとも云えた。右側に連なる山すそから降りてくる闇を切り裂いているような疾走感があったから。
派手やかな一群が遠のいたあと俄然、さきを急ごうと胸が高まってきた。
「海がああして輝いているのだから、河口ふきんもきっと華やいでいるに違いない、、、」
果たして、大きくうねった坂のむこうには夜まつりかと見まがう喧噪が展開されている。神社の通りにはやはりお祭りかとうなずかせるにぎわいがあって、夜店がひしめきあいながら沿道に連なっている。オレンジ色の電球が本来よりまぶしく見えるのは、数えきれないくらい灯しを夜に捧げているからなのだろうか。綿菓子や金魚すくいなど見慣れた光景にまじって、得体の知れない動物の置物や、見たこともない玩具が並べられていたのだが、案外それらに気をとらわれるでもなく、ひょっとしたら誰か知り合いなり旧友なりに遭遇するかもと淡い期待で行き交う人々の顔を見渡した。道幅が狭くなったほど人出の勢いが増すなか、しばらくの間次第に覚めつつある期待を据え置きながら、どの顔にも見覚えがあるようなのだが、結局誰にもめぐりあうことはなかった。
左に折れる橋を渡ったのは、自然のなりゆきであり、また、その方がこの夜景をよりよく眺められる情趣に的確だったのは言うまでもない。ひとつ橋を越えただけなのに、そこに人影は見当たらなかった。悪寒のような寂しさを覚えつつも、対岸の灯火を見つめているみたいな落ち着きが、夜の衣服を肌がけしてくれるよう身にしみた。
家路を急いているわけではないのだけど、祭りをうしろにするぬくもりある孤独感を省みることは無粋に思えるのだった。


[176] 題名:日向 名前:コレクター 投稿日:2011年03月11日 (金) 05時27分

何気なしに壁に片手をつきもたれかかってみた。固さも手触りも特に意識されない。いまどきには珍しいというより、ここは相当古い家屋である思いは、舗装される以前によく目にした雨上がりの水たまりに向けたまなざしと重なりあっている。ふざけながら足を入れると時には意外な深みの水たまりに出くわす。おそらく小さな時分だったから、その深みに鈍感なだけだったのだろう。

ある夜、もたれた壁が見えなくなっているような気がしてよく目を凝らすと、わすれな草色をした蚊帳がその部屋に吊られていた。
「どう、透ける色合いがきれいでしょう」女は自慢気にそう言った。
「懐かしいなあ、どこから持ってきたんだい」
「納戸に眠っていたのよ。ほこりもかぶっていたけど、水洗いして干しておいたらこんなに蘇ったのよ」
「日差しが強いから一気に乾いたんだろうね」
「編み目に水分が張りついていたわ。ゆらゆらとしてるの。はたきかけて止めたわ」
「どうしてさ」
「ほうっておいても、じき蒸発しそうで。でね、よく見ているとひかりを浴びて編み目から浮かびあがるみたいに消えてゆくの」
「じっと見ていたのかい」
「そうよ、乾ききるまでずっと」
女の表情には日中の照りがまだ残っているようで、なにやら少しばかりまぶしく感じた。なぜあの時すぐさま蚊帳のなかに入ろうとしなかったのだろう。湿った夜風がこの部屋に忍びこんでいるというのに。
くすんだ天井から落ちている灯りの加減で、ところどころが淵に沈んだような濃い色合いを見せていた。隣の家から漂ってきたのか、ここでは無用の蚊遣りが鼻をかすめていったとき、夏休みの水遊びがとても懐かしく思われ、不意に川に飛び込む要領をまねて薄く透けるむこうに身を投げ出してしまった。
「あらあら」
女は嬌笑とも驚きともつかない、小さな落石みたいな声を出した。
天井の隅から下敷きが割れるような音がしたとき、からだがふんわりと一瞬空にとどまったようで心地よかったが、電車のつり革状の輪が手前に落ちてきたので落胆のほうが勝ってしまい、いたたまれない気分になった。
古ぼけた室内に端然として、そしてこころ細気に吊られていた四角形を乱してしまった。

何日かしてその部屋を訪ねてみたけれど、蚊帳も、吊りかけ用に据えられた天井下の取っ手も、女のすがたもなかった。
がらんとした空気が土色をした壁に寄り添っていた。そっと触れてみると、日中らしい火照りが感じられた。


[175] 題名:処刑船 名前:コレクター 投稿日:2011年03月08日 (火) 10時29分

それはまだ沈まぬ太陽を知っている朱に染まる夕暮れに始まった。潮風にさらわれる娘の髪も空いっぱいにあふれる光を浴びて琥珀色にかがやいていた。茫洋とした夕空に寡黙な祈りを捧げた草原は、その草いきれのなかに安息を見いだしているのか、やや湿った空気に包まれながら、透き通った娘の微笑を絶やそうとはしない。
ところどころに生い茂った灌木の加減により広々とした眺めである岬は、かえって開放感を知らしめてくれる。岬の下はかなりの深みを持っているのだが、それほど距離をへてないここからの眺望からもいまだ険阻な荒磯に出会うことはなく、遠い潮騒の音さえ届いてこなかった。聞こえてくるのは反照を受け緑が黄金色にそよぐ衣擦れのような幽かな調べだけである。
まぼろしが映しだされているのではない、夢があまりの絶景を生みだしてしまって境界を設ける必要がなかったにすぎない。スクリーンの彼方にまで焼きついている西日を疑うすべなど微塵も持ちあわせておらず、ひたすら情景に魅入られた境地はまさに夢ごごち、岬から俯瞰する想いも遥か未来に馳せるせわしさへと埋没している。だから、娘が見知らぬ青年に向き合っている様を遠目にしたときも、海鳴りを呼びよせることなく、ただ眼を細めるのだった。
記憶喪失者が意識を取り戻したのは、胸のなかで小人たちがいっせいにざわめきはじめ、断崖にそって傾斜した草原を駆け出したのと同時であった。いや、実際には駆け出したのではなかったが、細めた眼が大きく開かれたと感じられて、娘の外道をはたと呼び覚まさせた。
「もうこれで五人目じゃないか、、、」
娘は殺人鬼だった。今まで男性ばかり五人刺し殺していた。現に対峙した若い男の脇腹には鋭い刃物が突き刺さっていて、この急転劇を理解する間もないまま草原にくずれようとしている。彼は何を見届けたのだろう、刃物のひかりが瞳の奥にまで達したのか、木の葉が最期にくすぶるような鉛色となった眼には、自ら滴らせている鮮血さえ識別できまい。
男が絶命するのを確認することなく、娘はこちらを遠いまなざしで見つめ返した。肩までかかった栗色の髪が潮風の向きなのか、殺意の余韻なのか、不敵な乱れかたをしている。落雷と突風にでもあおられたようなあらくれをこちらに告げよう、そう望んでいるでないかと思えた。すこしは歩を進めたのかも知れない。なぜなら、傾斜にそって次第にきらきらと光る星屑が海面から浮上する光景にはじめてまみえたからである。
夕照のきらめきは娘が犯した殺生と一切関知なしだと言いた気なほど、無邪気にまばたいていた。裁断をくだすにためらいはなかった。
逃亡を阻止し首尾よく岬から一段降りたところにある見晴らし台へと娘を連れてきた。ここからの展望はいわゆる絶壁で臨まれる岩場で形成されている。右上に広がっていた緑が嘘のように消え失せ、ごつごつとした感触を全身にあたえていて、その身の危険は真下へと切立っためくらむ恐怖に収斂されていた。鉄杭が打たれ頑丈なロープが三本、大人の胸元あたりまで張られ不慮の事故を未然に防ごうと努めている。
娘が何気に一番上のロープへ手をかけたのを見計らって、右腕を太ももつけねの内にまわし、あまった腕で安全が保られていた手をはらいのけ一気に押し出し奈落へと突き落とそうと、最大限の集中力を発揮した。すると娘の両足は思いのほか軽やかに浮き上がり、くの字を描く格好で向こう側へと転落しかけた。と云うのも反転する勢いのなか咄嗟にからだをひねり、転落をまぬがれ二本目のロープをしっかと両手に握りしめ、宙にぶらさがる軽業師の様相で上目つかいをしているのだ。その瞳に汚れを探しだすことは無理だった。娘は極限の状態におかれながら微笑を絶やしていない。
「おとうさん、わたしが怖くなったのでしょう。でも、わたしは殺されない、、、」そのあとの言葉を聞き取るのは不可能であった。
いつの間に現れたと云うのか。古代海洋時代を想起させる木造船が一艘ちょうど娘が落下するであろうあたりに向かって漕がれてくる。娘は自身に満ちていた。「これくらいの断崖なんて飛び降りて泳いでしまえる」そういいた気な柔和な面持ちを誇示していた。視線は一途だった。憐れみがはねかえそうなくらい優しい眼でじっとこちらを見つめている。真下で何が起ころうとしているのか知る余地はない。
木造船の帆柱は十字架を示していた。白帆は見当たらない。かわりに十字架の下方から、まるでクワガタ虫みたいな二本のノコギリ状をした鋭い刃が鈍い銀色を反射させ、ゆっくりと水平に開閉しながらせまりつつあった。そして右舷左舷からも半円をした大型回転カッターが飛び出し、すすんで両手を放し落下してゆく娘の位置に停泊した。静かなはずだ。夕陽の海は凪いでいた。


[174] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット53 名前:コレクター 投稿日:2011年02月28日 (月) 23時23分

夏木立の合間を縫って山間に点在する民家を眺めている両の目はまぶしさを一層募らせ、澄んだ意識を胸中に収めながら生い茂った雑草たちのうえに歩を休めた。真新しい空気を気持ちよく運んでくる涼風には、草いきれを浄化する瑞々しい効果が備わっているようで思わず鼻孔を力ませてしまい、これ以上は嗅ぎとれないくらい緑から夏の匂いを奪った。奢侈に耽る様相を想い描きつつ、耳をそばだてては野鳥や蝉の音を慈しみ、振り返るまでもなく背にした下方に広がっている紺碧の海を早くも懐かしがった。
ここに来れば仙人の心境をかいま見れるのだと夢想した。
去年の父も同じく夢想したに違いない。真夏の山には一緒しなかったが、狂おしいほどに陽光の衰退を拒み続けた秋口の山々に花萌えるより色づく紅葉を夢みたと話していたから。
父の夢は儚く散ったかにみえたけど、あの鮮血を口にした光景からは悪夢を超え出た異相が夕映えにときめく侘しさとなって抽出された。それは散り去って小川の水面に浮かびゆく花弁の残像であり続けることで、逆に無造作にすくいとるのが億劫な日常へと据え置かれた。
遠藤とどんな関わりを持ったのか今となっては計り知れないけれど、父も父なら正真正銘の異形なる化身こそ美代であった。
「そうだ、あれからの美代さんにまつわる風聞を砂理ちゃんに聞かせていない。もっともぼくにしたところでその詳細を知ってはおらず、これもまた残像であるが故に性急な解明を望んだりしないだろう」
見つめ合うと呼んで差し支えないふたりのまなこは張りつめながらも、次第に緊張がほぐれる具合で沈黙を破り、水分を浸した指先で溶かされる薄紙のように穴があき、閉ざす役割から解放される安堵を共有する雰囲気を醸して向こう側を明示する。
「吸血事件などと喧伝されたには違いないけど、ことの真相は地元のあいだでもよく判明していないみたいなんだ。記事では猟奇的な局面を打ち出そうとしていたが、被害にあった少女らはのどを噛みつかれたとか重傷を負ったとかまで到ってなく、精々手や腕からにじみ出た血におののきながら泣きわめいていたという目撃者の証言があるだけで、手ひどい行為を受けたわけでも乱暴されたわけでもなさそうなのさ。元々ひかえめな性格なうえ美人であったことから擁護する側に立ったひともいたようでね、その説明によれば、子供たちは転んだりなんらかの擦り傷を自分で負っていたところに偶然美代さんが居合わせて、つまりまあ、ここからがどうしても奇異な行動にとられるんだろうけど、その傷口をなめてあげたいたと云う情況であった、そう主張してやまない穏健なひとたちは結構いたらしい。想像すると美代さんは過分に傷をいたわったんじゃないだろうか。それが子供の親らは手当から逸脱した印象を濃くさせ、日頃から下校時には不審者に注意するよう諭していた警戒も加担し、短期間のうちに同一者により引き起こされてしまったことで、常軌から外れた変質的な事件だと騒ぎだしたんだ。また当の美代さんがほとんど弁明らしい弁明を行なっていないのも、あらぬ風聞となって巷に流れていった要因じゃないかな。どうして事件性を帯びて来てるのに黙認していたか、ぼくにはよくわからない。美代さんのこころの問題だから。願わくば、うちの父が小説のなかに於いて陽炎であろう見果てない夢を推量してくれるのを頼みにしている。美代さんの件はここまでが今のところ知り得るすべてさ」
ごく手短かだったが砂理に聞かせたあとに感ずる充足のような余韻は清らかな鈴の音を想起させた。
それは今日と云う一日の終わりにふさわしい語りだったのだと、晃一に黄昏の調べが親し気に奏でられているようで、背伸びもするまでもなく辛口の酒を含んだときに感じる苦みを納得させ、そのまま等身大の現在を快く見つめられるのだった。そして曇天にも律儀に返礼する自らの影ぼうしを愛おしく感じる。行き交う見知らぬ影のなかにも雑踏にまぎれては、きっとこんな想いを忍ばせているのだろう。
大きな交差点にさしかかったところで晃一は右手のなかに思わぬ冷気を感じ、すぐさまそれが砂理の冬景色から抜け出た人肌の冷たさであるのを認めた。驚きで胸がいっぱいになるより、都会と郷里の冬の相違を漠然と比較している野方図な意識が先立ち、砂理の顔をおもむろに眺めたときには、掌に微かなぬくもりを覚えつつあった。返す言葉は必要ないと確信されたから晃一は無言で、その柔らかな季節の体感をしっかりつかみとった。砂理の表情に格別の変化は見られなかったが、信号待ちをしているあいだに左右を走り抜けてゆく車の騒音で、ちょうどその気持ちのささやきが掻き消されていると信じこんだ。
青信号が点滅し、ふたりは交差点を渡りだす。仲のよい恋人同士に映っているのだろうか、、、この眼帯のおかげで少しは奇抜な面立ちと思われているのでは、、、この場に及んでもそんな意識がせり出してくる自分に舌打ちする。
灰色に被われた空模様の一角が黄ばんだ明るみを示すなか、ふたりのうしろ姿は人混みのさきに消えていった。


まんだら 最終篇〜虚空のスキャット

終 


[173] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット52 名前:コレクター 投稿日:2011年02月28日 (月) 23時22分

晃一がうつむき加減になるまで他にも色々と砂理は語りかけていたし、合間にはそれなりの受け答えも返したつもりであったが、己の影にすっぽりと包みこまれてしまった切なさが募り、外界からの情報を取り込む意欲をどうやら喪失しているようであった。
実りかけだした恋情があっさりと消え去ってしまうのは予期した通りであったけど、もっと別の流れで立ち消えるだろうと、くじ引きなどした際に念じるあの期待を持たない大らかさと同種の失望を思い浮かべていたので、これほど悲しみがこみあげてくるとは考えてもみなかった。自分を突き放している姿を過信していたのがあだとなってしまい、ちょうど粗相を仕出かした子供が間をおいてから泣きべそをかきだす程合いに似て、こみあがってしまった悲しさの要因さえ覚束ない有様だった。
結局は艶言を帯びた会話がなされたにもかかわらず、不如意に傾く結論へと誘導されていただけだと逆恨みを抱いてしまうくらい実りは報われず、自責の念は額面を認めはしたものの、砂理から指摘された意見を噛みしめる余裕はあり得ない。そんな高波が押し寄せる船の上を踏みしめているのがやっとで、気配りには追いつけない様相であったから、大概は保身にまわるところであるのだろうが、今の晃一はどこか投げやりな気分に支配されたまま悲哀へと身をゆだねてしまうばかりで、過言だったからと表情も豊かに声色も優し気に相手を慰撫してくれる砂理の言葉をうまく聞き入れるのが難しかった。いやむしろ、茫洋とした気分にくるまれた半信半疑な展望台に臨んだからこそ、失意の先鋒がかたくなに沈黙の塁壁だけを見つめてしまったのだろう。
消沈しきった面持ちに高揚をさずけようと懸命になっている砂理の気遣いはうれしかったのだが、試してみたいとか、抱きたいのとか、晃一くんを餌で釣るみたいなもの言いをしたのはいけないことだった、、、それはわたし自身が揺れ動いていたから、そしてその揺れがいい波長に合わさればと安易に案じてしまったのが、あとさきも考えずに口先に出たような気がする。多分去年から音沙汰が途絶えてしまった不信と反感があんなふうに媚びた態度をあらわにしたの、そうすればちょっとした意趣晴らしになるし、わたしに対してもっと関心を持ってくれるのでは。恋愛感情が生じるのはほとんど可能性がないとたかをくくっていたのも高慢で不謹慎だけど、ほどほどにからかってみたい興味が先行していまい、あなたにとって心理はどうあれ異性に映る事実が何よりの強みになって、おおっぴらに隙を見せながらすり寄っていく素振りさえ示した。ところが、そんなわたしを投げやりだと軽視されたあたりから、確かに自分の浅はかさと意地の悪さが覗けたように思えて、晃一くんの言ってる理屈が痛々しく伝わってきた。それでことさら言い返すつもりはなかったけれど、あんな調子で攻めるようなことまで話してしまった。と、その先へはさすがに晃一も意見をはさみ、攻めたてるなんてそんなんじゃない、君はとても素直でかわいらしいなど、情にほだされた真摯な顔つきまで作って応対した。あたかも相づちを打つ使命をよく心得ているかの調子で。
だが、この胸に沈滞している砂地の失意は残念ながら払拭されることなく、却って「投げやりな」などと云う言葉を先んじて砂理に振っているのが妙に乾燥した印象を残し、晃一のなかに敷かれた砂をより粒だたせた。
偶然だった。今日この広い東京の街中を砂理にめぐり逢う為に出向いていたわけではない。むろん彼女の存在がまっさらに意識から欠落しておりもせず、いつかぱったり顔を会わせる機会もあるだろうとは内心祈っていた。昼飯も一緒に食べれたし、あの出来事にまつわる件も一端ながら語れて無沙汰の穴埋めにはなったはずだ。もうここらでふたりして席を立って別々の帰途についてもいいのではないか。未練みたいなものがないと云えば嘘になるが、これ以上虚しく実りを求める時間は苦渋でしかない。外は薄曇りだったけど、晃一のこころには冬の陽特有のしめやかな光線が差し込んできた。よりこころを乾かす為に得られたそんな効果を潤んだ瞳が反作用してみせる。
「それじゃ、それそろ出ようか」
自覚に成り得ないほどよそよそしい響きが口の中にとどまっている。返事をするより早く、砂理は黙ってうなずいた。上背のある晃一を見上げるまなざしが、そのとき一点に結ばれ、同時に口もとも、そこから静かにもれる呼気も、鼻の先がつんと上を向いた様子も、透けるような白い肌も、そしてぎこちなく起立しているようだがたたずんだ全身も、ひとつのこころに操られているみたいにすべてが別れゆくひとに張りつめられた。すくんでしまったのは仕方のないこと、晃一は須臾の間、何もかもが凍結してしまう幻影を夢見た。一切が止まってしまうわけではなく、時間はしめやかな冬の光を通して寒々とした光景を白鳥の舞となって流れゆき、見果てぬ銀嶺の彼方へと飛翔する。白銀の世界はどこまでも続き、天空からまばらに降ってくる一粒一粒の雪は淡々とした安息を約束しようと語りかけてくれている。
薄紅色した砂理のくちびるが更なる夢を描きだすのを待ち焦がれているように、、、晃一の想いは夢遊病者の無碍にあった。


[172] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット51 名前:コレクター 投稿日:2011年02月21日 (月) 08時09分

晃一は顔がこわばりゆくのをどこか覚めた意識でとらえていた。際どい橋渡しなはずだけれど、平静を装ったまま歩を踏み出している宙に浮いたような空気抵抗を感じている。高所から見下ろした先へと吸い込まれてしまいそうになるめまいにも似たあやふやさが、危険を察知していながらも逃げ去ろうとしない誘惑の罠を想定してしまい、ためらいなくその仕掛けに堕ちてみようと願っている。それは秋波を送られているのだと積極的に解釈してしまう情動をともなっていたが、簡潔に型押しされることを懐疑している用心深さによって抑制され、意識下に充たされる手前で拮抗を見せていたと云えよう。
こわばりを作りだしている分子は決して戸惑いや照れだけでなく、予知された緊張がさずけてくれた乾きゆく木綿のような水分をうっすらと含んでいた。これから交わされる会話がどう展開するのか、晃一にはそんな蒸発と同じ作用で、抵抗を示さず無理のない、雲間に隠れてしまわない、陽光から届けられる送りものとなり胸の裡をかすかに焦がしながら憂いを緩和させるのだった。
この気分は欲情と無縁であるのでは、そう云った思念が突風になってよぎったのと、砂理が柔らかな言葉を投げかけた間には、まさに谷底をうかがう冷ややかな気配が濃厚に漂っていて、性欲に裏打ちされているせわし気な喜びは静かな引き潮みたいに遠のいていった。
「好きなのでしょ、、、」潮騒であるはずの響きにうらはらの想いが交差してゆく。それより先を繋がない砂理の居ずまいはしおらしくもあり、増々晃一の自尊心を曖昧なものに変容させ、花咲くときめきは不純分子を昇華しながら様々な想念が、まるで寒色に透ける映し絵のごとく淡い情感をのせて羽ばたたき、この身に巣くう不明瞭なものを旅立たせた。残像にさえ成りかけている直情は今すぐにでも手をとり抱きしめてしまいたい感動を哀感に置き換えて、あまつさえ憐れみの萌芽がどちらのこころなぞったのか知らないままに、諦めとも呼びうる波紋を描きだしている。
「ああ、出会った頃からずっと好きだったよ」別れの言葉を口にするかのような控えめな、けれども切実とした言い分を持った答えがにじみ出すと、再び相手の表情を慈しみながら見遣る。
沈黙の流れを意図した儚い期待は、陽気な女神によって美しく裏切られた。
「ありがとう。うれしいわ。今もそうなら、わたし、自分を試してみたい気がするけど、どう言えばいいのか、つまりまだ時間が必要に思えてくるの。わかっている、わかっているのよ、傷つくのを恐れていることも、不確かなまま飛びこむような行為にうしろめたさを感じていることも、、、それから何よりもひとを好きになることが不安で仕方ないことも。でも、大丈夫、別に晃一くんに応える為だけにあれこれ悩んでいるわけじゃない。本当はずっと以前から抱え込んできた問題をもう少し引きずっていたいだけかもね。取り急いで証明する必要がないってわけ。だから、、、」
「だから、、、」手渡されるバトンの要領で晃一があとを継ぐ。「それでいいのさ。背伸びしたり無理したりするのはあまりいい結果を生まない。君はぼく気持ちもきちんと考えてくれているし、自分自身の心情だって結構把握してると思う。今日こうやって話しが出来たのはとても貴重なことだよ。砂理ちゃんの不安はぼくの不安さ。それが確かめられたと信じればそれでいい。正直に言えば、今ふたりでいる瞬間をもっと明確に確かめたい、つまりは関係を深めるには裸の君を抱きしめてみたいと願っていた。でも、そう顔に書いてあるのを指摘されてうろたえてしまったのもまんざら悪いだけではなさそうだ」
「それでいいの。案外と臆病なだけかもよ。もちろん、わたしもだけど。あと一押しされたら、多分晃一くんの願いに近づいていけるような気がする。わあ、わたしって大胆なこと言っているのかなあ」
「うんまあ、投げやりなところもある。それが大胆なのかどうかは分からない。ただ、じれったさが本音を物語っているとは限らないよ。もっともっと駆け引きだけを楽しみたい思惑が臭ってくるから」
「そうかなあ、そんなゲームみたいなまねしたってつまらないでしょ。わたしはわたしで、よく考えながら返答してるつもりだわ。駆け引きだと推定してしまう方が虚しくない。その顔のうえにはしっかりと欲情が浮かんでいたけど、それって一過性の仮面なの。晃一くんはさっき、わたしの不安はぼくの不安って言ってたけど、そこにやっぱりずれがあるんじゃないかなあ。同化したいのって本当は体なのでしょうが、それを振り切る方便としてお互いの不安をそこに重ね合わせてしまい、まるで精進したふうに取り澄した意見を吐きながら自己を慰めようとしている。分かるのよ、そんな気持ちが。過去の件もあるだろうし、お父さんも大変そうだから仕方ないのでしょうけど、あなたまでが覇気のない態度をとることはないと思うの。晃一くんは晃一くんらしく自由でいればそれでいいのに。まえに聞かされた円環とか轍とか、どうしてもとらわれなくてはならないわけ、それも一種の想定かも知れないじゃない。ごめん、言い過ぎたかな」
「かまわないよ、その通りだと思うから」晃一の片目が潤みだしている。しおらしく映ったはずの砂理から思いがけず反論され、崩れゆく自画像こそが堕ちゆく仕掛けであったのをようやく理解した。薄っぺらい感傷などではなく、隠蔽し続けてきた粘着質な意志のゆくえに対して初めて涙した。きらきらと輝く光芒の住処を見つけたと錯覚するのも無理はない、一縷の涙が本物の沈黙をあたえてくれた。


[171] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット50 名前:コレクター 投稿日:2011年02月21日 (月) 08時09分

「父さんどうなったか気にしてくれるんだ。想像してごらんって言いたいところだけど、『**の生き血』ってウド・キア主演の映画を観てくれていれば尚かつ感銘深いと思う。至上最弱の吸血鬼なんだ、今度機会があれば鑑賞してほしいところかな。父さんは吸血鬼じゃないけど心底興味があったんだろう。あんな有様をさらした以上はもちろん引きこもっているよ。いいんだよ、笑えるから。そのほうが父さんも納得してくれる。妙に心配されたり同情されるよりか、笑ってあげるのが一番じゃないかな。大学のほうは休職届けを出して書斎に閉じこもって小説を書いている。えっ、どんなのかって、それこそ想像通りさ。この間こっそり原稿を読んでみたんだ。古風だよ、万年筆でこつこつと書いているんだから。そしたら案の定あとから覗き見したのばれてしまってね、いつもそうさ、書斎の本一冊拝借しただけでもわかってしまうから、たぶん今回もねちねちと嫌みたらしく小言を聞かされるかと観念してたら、こんなこと言い出してさ。今まで論文やら批評は書いてきたけど創作は始めてなんでどうにも筆が進まない、これこれの筋なんだけどおまえどう思う、とかでさ。筋もなにも自分を投影した主人公に、ぼくそっくりの息子、怪奇小説のつもりで書いているらしいけど美代さんや遠藤さんらしき人物設定もそのまま、まるで去年の夏だ。おまけに砂理ちゃんまで登場しそうな伏線も敷かれてるんだよ。休職までしての執心だから、まあ本人の自由だけど」
「へえ、そうなの。わたしも出てくるんだ。やっぱり女吸血鬼のまえで失神しちゃうのかな。それでレズだとか色々掘り下げてあって、晃一くんとの関わりも結構ドラマチックに展開するわけかしら。面白そうじゃない、わたしでよかったら脚色なしで描いてもらってもいいわ。血や肉を提供するわけでもなく、魂を売るのでもない、ただ現実の自分とは別のもうひとりの自分が虚構の世界におどりだすだけ。そんな自分と対面してみたい、そう思わない」
「冗談じゃないよ、磯野家の恥はもう十分だ。砂理ちゃんは身内じゃないから面白そうに映るんだろうけど、ごらんのようにこの片目だって元はと云えば父さんから巡ってきた因果だ。その方面に関しては暗黙の示談が成立してるからまあいいとして」
「あら初耳、なんなの、その暗黙の示談って」
「話してなかったかなあ。犯罪を除外してぼくの生き方に一切口を挟まないって盟約、父母ともに了承済みさ。ぼくがひとり暮らしを決意したときにも色々と一悶着あって、それでこの目を無くしてからただでさえ腫れ物に触らないよう、刺激しないよう、家庭環境を保持してきたわけだけど、ぼくからすればそれほど厄介な性質ではないとやっぱり思い過ごしっていうか、過敏になってしまったんだと、そもそも悲劇はどこから発生したのか、こうして胸に手を当ててよく省みれば両親に文句のもってき場がありそうでやはりないんだ。父に対する陰険な報復など性根が腐っているから試みようとしてしまうのさ。父親に両手をついて詫びられる光景を浮かべるだけで気色悪くて、不快なのかどうかとは別の次元で鳥肌が立ってしまうじゃない。いいんだ、正義や倫理を問うまえに日々の積み重ねと共に沈滞していく業を払い除けるべきだと信じている。業が積もればろくなことが生まれないからね。吸血事件なんか、まさに核家族における当主筆頭の祭礼だった。家族の平和を温存させたいなら無理して波紋をひろげたりはしないよな。すり減ってしまうのは石鹸とか靴底とか包丁とかでいいんじゃない。それなのに自由気ままを貫こうなどと宣言したら恐ろしく家族みんなが神経をすり減らしてしまった。かつてはそうであったから、盟約なんて云っても実は軋轢を避けるための方便なんだ。これで落ち着いてくれればよかったんだけど、分別がつきかけた矢先に父が暴走した。もっとも父のなかでは日常など見捨てる気概にあふれていただろうが、、、まあ大した騒動にならなくてよかったのが救いだった。塚子さんも一切口外してないみたいだし、お宅のお母さんだって同様だろう。ああ、話しが見えにくいって、それはいまから補足するよ。平和を乱す予行演習みたいに休職し、脱稿したら公にするのかは知らないけど、読むべきものが読めば、亀裂が生じる可能性だってある不穏な内容を書き紡いる心境が今ひとつ腑に落ちない。所詮は学者気質を隠れ蓑にしたエゴイズムとしか映らないんだ」
「ううん、もうそれでいいわ。お父さんはきっと一気に神経をすり減らそうって奮起してるんじゃないかしら。日々の連鎖で消耗してゆく何かを見つめ直しているような気がする。だから、いいの、あなたの家の事情まで知ってもあまり意味がない。いいえ、決して興味なくてそう言ってわけでなく、関わりになりたくないとかでもなく、そっとしておいてあげてほしいの。わたしが関心を示さないって行為、そうね、笑ってあげてくれっていうのもわかるけど、残念だけど笑えない。そのかわり小説のなかで自由に羽ばたいているすがたを思い浮かべる、、、わたしからお父さんの件を振っておきながらごめんなさい。さあ、じゃあのことに戻ろうか。あらどうしたの、そんな驚いた顔して、晃一くんの気持ちについてよ。わたしを好きなんでしょ」


[170] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット49 名前:コレクター 投稿日:2011年02月15日 (火) 03時31分

砂理の黒目は見事にどこへ焦点を定めればよいのか分からなくなってしまったようだった。貰い受けてきた子犬がはじめて屋内に放されたときの様子に似て。それは葛藤や軋轢からくる重圧とは異なる、もっとたおやかな、花吹雪のなかにさらされているみたいな、ときめきさえ覚える香しい身の危険。強風によって散らされる花びらが全身に降り掛かってくるあくまでもののあわれに籠絡される戸惑い。晃一は砂理のこころが透けて見えるような気がした。レントゲンの透視など無機質な視覚ではなく、蝉や蜻蛉の羽のように生きた透明度で知りうる柔肌のこころを。
「そんなふうにはっきり言われると恥ずかしい。でも君だって恥ずかしいだろ」
ふたりの思惑が同一の場所にとどまっているのだと晃一は考えていない。むしろ至近距離にありながら見落とし勝ちである慣れ親しんだものをもう一度しっかり見つめることで、水底の感触が伝わってくる程合いに互いの断層を計れるのだった。本心から出た言葉であれば額面通りに受けとめもしただろうが、砂理の口吻から大胆な問いかけに自らも狼狽をしめしたがっているほんの些細だけれど、悪戯からは脱皮しかけた思慮がかいま見え、晃一の反応を錯雑にした。
念頭に突き上げると云うよりも、相手の固定されない目線を追いながら香りとったのは自分の肉体から滲みでてくる煙状の、だが、肝要なすがたをかき消すのない淡い煙幕に包まれた軽やかな推量だった。
見果てぬ夢であった砂理との接触をきれいさっぱり拭ってこれなかった情欲が、ついに今湯煙の熱気を立て始めている。
生来から異性には関心ないと自他ともに認めていた感覚がわずかだけだが揺らいだのだ。砂理を見通すより早く、こちらの感情を察知していたからこそ一見大胆にも聞こえてしまう探りを入れ、ここしばらくは音信が途絶えていたとは云え、少なくとも好意を寄せ合ってきたことには違いない関係に変化が訪れるのは予期せぬ事態をどこかで求める証ではないだろうか。郷里の件にしても同性志向の吸血鬼とのふれこみによって吸い寄せられてしまった比重が大きいかも知れないが、同郷に縁があるだけで異性である自分を慕ってああした冒険を試みたのは、決して算段によるものだけとは思えない。この微妙な距離感をなるだけ意識してこなかった所以は何よりも砂理の感情を逆なですることなく、それでも波紋を与えたいと云う抑制ある理念に収斂された。決して恋愛を狭間に据え置かない、ある意味邪心を持ち合わさない友情とも呼び辛い想いは、何気ない口ぶりや態度に如実に表れるところだったが、恐らくはこの距離をとりあえず維持したが為に自ずと中性的な接し方をこころがけていたのだ。男色の気は間違いなく備わっていないけれども、女性同士の交わりに対する憧憬は単に性的な次元を超えて赫奕たる清浄なひかりへと結ばれる。
こんな意想が内包されていたから、砂理の胸に好意以上の信頼がこだましていたのだろう。夏の日の冒険は案じていたより呆気なく終息し、異性としての結びつきがなかったからには、それぞれが想像している通りの現実に埋没していくしかなく、あれから別に信頼が深まったわけでも、馴れ合いに流されてゆくわけでもなかった。どちらかが過ぎ去った想い出にしがみつくか、またそこから奇矯な展望をめぐらせ強引に縛りつけでもしない限りは元通りの間柄に帰ってしまう。
先ほどの砂理の発言は晃一にとってみれば、諦観の彼方にそよぐ涼風であるべきだったけれど、こぼれるはずのなかった独り言を反対に聞かされたことで、こころの底から恥ずかしくなってしまったのだった。そして恥かくしの言い草に無様なくらいふさわしい、あんな反復をしてしまった。ところが砂理はまたしても晃一をかく乱される返事をしたのだ。
「いいえ、恥ずかしいなんて思わないわよ。だって前々から思っていたことだし、今日だって偶然に会ったようで、そうでもないって考えたの。ごめんなさい、こっちから棒で突ついといて、困ったなあはないわね。でも、あれから連絡なかったから少し寂しかったのかな。ねえ、こんな言い方するから善き解釈に発展するわけ」
と、言うやかつてない破顔を見せた。晃一もつられてはにかみが苦虫に、それからまるで喧嘩のあとの仲直りで交わすさわやかな笑みに変わっていくのを知った。するとこれまでの下心が一気に露呈された自虐的な歓びも沸々とわきあがってくる。勝ってに文句が口から飛び出してゆく。「ぼくも健全な男子なんだ。君と間近にいて性欲を持たないほうが不健全と云うもんじゃない。そうだよ、かなわない欲情は紆余屈折しながらどこかに噴出するしかないんだ」
「日に二回も自分でしてるって本当なの。まえにそう言ってたわよね」
「ああ、そんな時期もあったさ。もう昔のことだけど」
「何が昔よ、わたしたちまだまだ若いのよ。そんな老人が語るみたいな言い方はやめてくれない」
砂理の面持ちは笑みを保ったまま、語気を強めるでもなく、ただ意地悪な子供が少々本気になったような純朴な口調で応対する。
「去年の夏だって、まだ終わっていないわ。そうでしょう、それでお父さんはどうしてるの」
晃一はわざと渋い顔をつくりながら、「あれま、本題からそれるわけね。いいだろう。それも今日の課題だから」そう答えると、今度は眉間のしわをひろげて隻眼を光らせのるだった。


[169] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット48 名前:コレクター 投稿日:2011年02月08日 (火) 06時04分

「そうそう、うちの父親についてね。これもそれとなく気がかりなんだ、っていうかわざわざ心配してもらうほどでもないんだけど。やっぱり罰が悪かったに違いないさ。息子をまえにして吸血行為に陶酔するんだもんな。誰だって少しは変なとこがあったり、妙な癖があるだろうけど、あれは奇行だと胸をはって呼べるからね」
どことなく気楽な口ぶりであったが、自ずと招いた後日談義そのものに没頭している素振りが疎ましくなってきたのと、身勝手な退屈さがもたげ始めだしたのと、両極から挟み撃ちになっている胸中は意外と素直な焦燥を晃一に振り分けてくれた。
出来ればかいつまんであれからの日々を話したかったのだが、几帳面な性格も手伝ってこと細かに父の変貌ぶりを砂理に聞かしては、反応を見ながら質問をしてみたり、故郷に置き忘れてきたものでもあったかのようにそれからの音信やうわさなども織り交ぜながら、気持ちだけは焦りつつも一気にまくしたてるふうには運ばれなかった。すでに晃一は自身の願望が抑えきれなくなってきていて、いくら相手の為とは云え反芻にも似た会話を続けるのが面倒にもなってきた。磯野家にとって名誉なことであればむろん苦になるわけでもないだろうが、話せば話すほどに惨めな気持ちを回避出来なくなってしまう。掘り下げて考えるほどに高尚な心理などに近づくどころか、増々嫌気がさしてくるばかりで仕舞いにはつくづく運が悪いなど嘆きにまで発展するのだった。しかし、不運に見舞われてばかりだったわけでなく、それなりの出会いやときめきもこの胸を通過していったのだからと、驟雨にとまどいながらも決して泣き言だけでやり過ごしていなかった様々な事実には確かに救われていた。
父の現状を話すまえに何故あのような奇怪な訪問に随行したのか、せめて動機だけはきちんと砂理に理解してもらいたくもあり、それを伝えるのは願いが伏せ字のような効果を生むのを予覚していたからであって、好むと好まざるも、相手が相手であっても、所詮はせりあがってくる欲動につき動かされているのだと判断した結果だった。興味本位が不純ならばこうした晃一の話に聞き入る砂理もまた無垢とは呼べない性根であるし、そもそも異性間でありながら恋愛には到底結ばれない実情を納得したうえで、同志など大仰な結束力だけで行動を共にしたのも、よくよく顧みれば風変わりな関係性である。
晃一のいらだちは詰まるところ成就だと明言可能な現実に対面してこれなかった悲運にあった。いらだちに年齢は関与しない、むしろ逆巻く自然を裡に囲う方便に熟練していないが故に若さは老成に憧れる。完結までほど遠い作品みたいな、あるいは落成のめども立っていない工事みたいな、故意ではない手つかずは瞬発的な発光に幻惑されやすい。思春期にありがちな高邁な意志に惑わされた始末に悔いはなかったが、偶然を装った形の出会い、肉親の不埒な行為がめぐり会わせた初恋などには心底絶望した。こころも大きな傷を負ったけど日常を見据えるに大切な眼球も片方失ってしまい、簡単には立ち直れないそうもない不遇を青春の勲章とまで自負する屈折は根深い。歪んだ鉄筋がそのままの状態をしばらく保持し、本来の強度とは無縁の働きを示すように。
故郷に縁がある砂理との邂逅もまた定められた軌跡を追う盲目の旅人であった。もちろん晃一は盲人ではないが、ひかりを見つめる器官が半減している限り闇夜の道行きには好都合となる。父のとった陰湿な仕打ちに奮然と立ち向かえる負の勇気は暗黙の畑地で培われた。他人である砂理と共謀するより以前から息子は父との間には提携が成り立っていたのだ。何を好んで超常現象にまつわる人物を尋ねるのか、いくら郷里だからと云え吸血事件の犯人と目されている女性にのこのこと会いに行ったりするのだろう。まっとうな頭で考えてみれば瞭然としている行動に痙攣的な好奇心を抱いた時点で見限るのが当たり前なのだけれど、表面では平静を装いながら新たな提携者である砂理をも引き入れ、崩れゆく浅ましい父親像を拝んでみたかった。
訊けば砂理も内密な事柄を長年温め続けていた実績を持ち、どこでどう繋がったか、美代と彼女の母にはそれとなく因縁めいた過去があり、しかも張本人である父と亡き遠藤とは夢境で知り合ったと云うではないか。のちの否定的な見解では、夢見が後発で前々から聞き及んでいた研究者と妹に触れてみたかったと説明していたが、どこまで信用していいものか、自前で起こした性的な挙動をひた隠しにし続けている姿勢からは軽蔑しか浮かんでこない。それでも、、、反旗を翻す意識を抱くこともなく、親子に共通項を認めたちいさな歓びは決して捨てきれないまま、又もや轍を踏むように陰湿な復讐を試みるが、相変わらず何も成就などせず、却って自分が汚れてゆくのを見守っている不甲斐なさを知らされる。

そこまで噛み締めながらおおよそこんなあらましを語った晃一だったが、徒労に終わる懸念ばかりが先走り、肝心の思惑を巧く差し入れることが出来なかった。もうあからさまに伝えたほうがよいのではないか。だが、晃一の熱気は吐息として冬空から少しばかり遮断された空気に霧散した。
そのときだった。神妙な顔つきをこしらえ黙って聞きいっていた砂理が声も艶やかにこう言った。
「えらく遠回しね。晃一くん、わたしのこと抱きたいんでしょ。顔にそう書いてある。不可能な肉欲って反対に募るばっかでしょうからね。困ったわ、、、」


[168] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット47 名前:コレクター 投稿日:2011年02月08日 (火) 05時55分

追想には違いないのだろうが、口をついて出る夏の幻影は自らの裡に巣くっている実体のようにも思えだして、振り返えるまなざしはまざまざと迫り来る倒錯した感覚だけを残してゆこうとしている。
夢幻の境地をたゆたう模糊とした視界にどう委曲を尽くせばよいのやら、次第と睡魔に襲われる状態からは実際に起こった現象が、ちょうど映画の一場面みたいに手の届かない世界で光彩を放っているばかりでもどかしく、靄がかった情景をなぞるのが精一杯になってくる。心奥に残存している記憶が曖昧になると云うのは、乾燥した感情で風化させられているからなのか。天井から降った夜の水に相反するのを承知しているかのように。
遠藤の影をどれくらい見つめていたのだろう、他の者らの反応はうかがうまでもなかったし、それは自分と同じく鋭角的な驚嘆だけに縛られていない、確かに全員張りつめた空気を吸っている気配は肌に浸透していた。想い出のなかにある夏の斜陽は、愛おしさで圧迫されていたにもかかわらず、常に淡い憧憬となって逃げさるしかない。この部屋の湿気と乾燥は謎めいた科学反応をしめているのか、それとも極めて均衡を保っているのか、よく感じとれないまま気持ちが静まっていくのを寝入り際のように引き受けている。
そして今こうやって砂理をまえにして一部始終を語りだしていることも夢境の現れではないのかと、地に浮いたような、それでいて山稜へかかる白雲を見上げたような、遠いところにこころが吹き流されていく安閑さに支配されている。夢の情景が澄みきった空間をかいま見せるのと同じく。
だが、晃一はしっかり目覚めており興味深く自分の話に耳を傾けている砂理の呼吸も鼓動も感じているのだ。強い衝撃と底なしの不安に失神してしまった身からすれば、その後の成り行きには胸騒ぎでせめぎたてられる勢いの危うい魅力で充たされたい望みがあるはずだから。
片目をじっとのぞきこんでいる一条のひかりは最初に彼女と出会った頃、まぶしさと羞恥で何度となく晃一を暖める新鮮な輝きに満ち、身もこころも突き抜けていく清涼な刺激となっていた。この瞬間にも光度は衰えることなく向かい合った距離など飛び超し、遥か彼方まで、地の果てまで、駆けめぐるだろう。ひかりは風に乗り、風もまたひかりと戯れ、熱風となり、涼風となり、あらゆる想いを運んでくれる。だからこそ幻想に傾いた事実を伝えよう。そのままでいいけれど、美しければ尚のこと素晴らしい。玲瓏たる音色にすべてを捧げる指揮者の如く、無の空間を馥郁とした香りで埋め尽くそう、、、晃一の想いは複雑に絡み合っていたけれど、無心で見つめられている自分を知るに及んで緊縛の縄がほどけだし、ゆらめく気持ちに木の葉が舞い降りてきた。
「遠藤さんの影が次第に薄れていくのを呆然と見ていたよ。だって、もう二度とこんな光景に出会えるなんて思ってなかったから。ほんと、呆然としていた。何かあっという間だったな。塚子さんの表情がもとどおりに変わっていった。でも誰も口をきかなかったし、その場から動こうともしなかったのさ。まるで余韻にひたっているみたいな気分だった。君はまだ気を失ったままだったけど、お母さんは口もとを引き締めたまま身じろごうとせず、ぼくと同じく一点を凝視していたんだ。父の様子をうかがうのは何だか気後れがしたと云うか、たとえは嫌らしいかも知れないけど、両親のセックスをのぞき見たようで不快な感じがして、でもおそらくそれ以上の出来事だったから、そう、児戯にも思えたから、そのまま正気を取り戻すまでぼくから声はかけまいとした。どのくらいの時間だったか覚えてないけど、無言劇の終わりを告げたのは美代さんだった。すでに遠藤さんの気配も消えてなくなり、あの暗幕が自動的に開くと外はまさに美代さんが演出した夕暮れそのものだった。微笑んでいたよ、多分あそこにいたみんなに対して。それは決して自嘲的な笑みなんかじゃない、慈しみのある透き通った無垢なものだったんだ。ろうそくに再び火が灯されるような気がしたんだけど、ごく普通に蛍光灯の明かりが無言劇を終わらせたのさ。そして静かな声でこう言った、もうお目にかかることはないでしょう。兄もそう申してました。今日のことは忘れません。それだけの言葉を残して部屋を出ていった。砂理ちゃんが気がついたのは塚子さんが熱いお茶をいれてくれたあとだったね。霊媒師がいなくなった部屋に時間の針が刻みだしたのはあのお茶が一役買っていたんだ。だって塚子さんたら、さっきの夜の水、主人亡きあとも新月の水汲みは続いていて、この緑茶もその水でいれたとか言うんだから。あっと思ったよ。何だ塚子さんは憑依されているのを自覚してたというか、演じていたんじゃないかってね。美代さんと一緒になってぼくらに最高の見せ物をプレゼントしてくれたかもって。父さんもそれを内心わかっていながら儀式に即したような気がする。君はまだ涙に潤んだ目をしていたよ。お茶をすすりながらあのとき何を考えていたんだい」
「そうね、今まで気絶なんてしたことなかったから、一体どうしたんだろうって、ここはどこなんだろうって、そんな単純な思いだけがお茶の味に含まれていたわ」
砂理の瞳も美代のように澄みきっていた。晃一は己の汚れを知った。罪深いかどうか定かではないが、白い小鳥の羽が少しばかりくすんでいるように感じた。


[167] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット46 名前:コレクター 投稿日:2011年02月01日 (火) 07時01分

決して声をかけた方向に寄りかけたわけではなかったが、美代の言葉は塚子との距離をせばめていると錯覚してしまう効力を秘めていて、それは金縛りの状態をあらわにしているとは言い難く、むしろ特異な磁場で浮遊しているような不均衡ながらも危うさを示さない様子であり、旋風に呑まれた揺さぶりが塚子の身体をこちらに向かわせていると見なされる。
「おそらく、美代さんが口にした魔法の言葉が塚子さんを緊縛しているんだと判断してしまった。だってその身に死んだ遠藤さんが乗り移っていると咄嗟に信じてしまうしかなかったから」
晃一は嵐の晩ひっそり部屋にうずくまっている、嫌に平静なこころを想像していた。荒れ狂う暴風や叩きつける石つぶての雨脚を素直に耳にすることが出来る、根拠のない安らぎのような倒錯。災害が間近に迫っていてもどこか遠いところの出来事だと思いなす、あの現実遊離した不確かな綿菓子のように膨らんだ胸裡。しかし、綿菓子のなかに幾筋か神経が魚の小骨みたいになって隠されている実感も同居しており、実質には恐怖が隠匿されているのも薄々承知しているのだった。
呪力がひとを制圧するのは暴力的な有り様でなく、反対に安堵を装った催眠的な加減によって自らの毒針に刺されてしまうのだろう。
晃一の視界が幻覚に近い様相を呈したのも、横目を使うまでなく砂理を介抱しながら同一のまなざしを投げかけている有理を察知したのも、そして父とて虚ろな状態のまま塚子の背後をじっと眺めているのも、あたかも集団催眠にかかったふうに思えてくるからだった。一陣の風がときをほとんど同じにしながらそれぞれをかすめていくように。
美代は風に言霊を吹きこんだ。そして霊力を高める為に夜の水を呼び寄せた。
「これはあとから父さんから聞いたんだけど、遠藤さんは新月の夜に人里離れた山中までわき水を汲みに行ってたらしいんだ。家のまわりにまく為にね、東西南北、特定の位置に土地への念いをこめ清めていた。どれほどの効用があったのかは知らない、だけど毎月の始めには欠かさずそれを行なっていたと云うんだ」
意識がうつろい始めた塚子をなだめる如く、天井から雨漏りに似た夜の水がしたたり落ちてきた。
「どうして夜の水だったかと云えば、驚いてはいけないよ。塚子さんを濡らせしばらくすると水蒸気が立ちのぼるようにして遠藤さんのすがたがぼんやりと現れだした。それは塚子さんの肉体からにじみ出てきたのか、あるいは彼女を包みこむように陽炎となって浮きあがってきたのか、そのどっちでもあったのか、ぼくは遠藤さんとは面識なかったけど、とにかく紛れもない本人だと思ったよ。美代さんだって兄が来ているとか言ってたわけだし」
遠藤の面影と塚子の身体は重なりあっているようで分離しているとしか形容出来なかった。透けておぼろげなのは降霊者の方だけれども、霧がかかった生身のすがたもまた仄かに映り、まるで幻灯機二台で同じ場所を映写しているみたいに実体がつかみきれない透明感を生みだしていた。
「幽霊には足がないって定説もあるけど、手足だけじゃなく全身がぼんやりと淡く水色に見えるんだ。水って不思議じゃないかい、海水も川の水も手にすくってみれば透明だけど、海川だと緑色だったり青色だったりする。生命は水のなかから誕生したから魂もやはりそうなのかなあ、なんてうっすら考えたりもした」
砂理の目の奥がわずかにきらめくのを晃一は、汚れなき不安だと信じた。父とも話し合ったのだったが例えあの降霊が集団幻覚であったとして、何ら劣等感に苛まれることなく、ただ純粋に現象と触れ合ったのだと首肯すればいいのであって、心霊の有無を問いかける必要はなかった。大切なのはどうして遠藤の亡魂をまのあたりにするのかと云う、我々のこころの綾である。
「ねえ、それで遠藤さんは何か喋ったりしたわけなの」
この世のものではないかもと恐る恐る包みをほどくようなもの言いには健全な期待こそあれ、忌まわしい不安はすでに退いている。失神したのは事実だが、こうした思いもよらない再会によって好奇の芽が顔をのぞかせれば、晃一の語りはただ単に過去に言及するだけでなく、未来へと続く道程に不確かだが何らかの指針を示しているかも知れない。
うつむき加減ながら砂理の微笑が回遊魚のように戻ってきた。晃一は不意に語り部である自分を意識してしまい、と云うのも偶然にしろ街頭で砂理を見つけたときから、それまで疎遠にしていた去年の夏をもう一度追体験してみたい欲求にかられ、衝動的に封印したつもりでいた汚れの箱を開けてみたくなったのだ。汚れていたのは追想をはばむ諦観に規定された希望であること、それから自意識を常に性格づけによって許諾している狭小な了見を見過ごしてきたこと、そうした葛藤に対する反動がかたちを為さないまでも、噴火を待ち受けている火口の如くに平穏から飛び散ろうとしている。
だが、今は自分の知り得るものを、砂理が聞きたいと願っているものを正確に話し終えるべきなのだ。晃一のなかにも再び回遊魚がめぐってきた。
「遠藤さんはひとことも喋ったりしなかった。君のお母さんと同じく。関係ないと思うだろうけどどこかで通じているんじゃないかって、はっきりした根拠なんかはない。ああ、ごめん話しがそれたね。結局夜の水が降って、霊魂が塚子さんに乗り移ったと云うか、不可思議な現象を体験して、それよりなにもうちの父親が現実的に一番の衝撃をあたえてくれた。信じるなら美代さんが持っていただろう予知能力が働いてくれた結果なんだけど」
「遠藤さん無口だったんだ。きっと何を言っても無駄だと思ったんじゃないかな。でもお母さんはそうじゃないわ。無言である意義を見通していたのよ。過去が未来に繋がることを誰よりも理解していたから」


[166] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット45 名前:コレクター 投稿日:2011年02月01日 (火) 07時00分

「あの日の君にはもう会えない。あんなに涙を流し続けたからきっと何もかも忘れてしまいたくなるって思った、ぼくのことも、美代さんのことも。少しばかり、いいや、少しじゃない、砂理ちゃんを更に傷つけてしまう恐れを胸にとどめながら、あれからぼくが見聞きしたものを話したい。それでかまわないね」
「ええ、わたしは大丈夫、そう、あんなに泣いたからね」
姿勢はただしたつもりだったけど、まるで重圧に被われる如く、直面する現実に身が縮まる思いがした。果たしてあれが現実だったのかどうか、実のところ晃一には納得のいく折り合いはほとんどとれていなかった。夢想のように描けば手の届かない位相に羽ばたいてしまうのは当然だったが、直視する意気を呼び返せば、避け難い唾棄すべき事柄をもなぞっていかなくてならなく、興味本位で始まったと理由づけられている内実から垣間見える魚影のような暗さに導かれた先には、想像から逸した潮流が妖しくうねっていた。
収縮したのは、この場で砂理と向き合っている情況を別の鏡で映しとられていたからであり、夢想による力の及ばない領域に魂が浮遊してしまったからであった。ひとは時として災厄に際し、あらぬ回避術を駆使する。現実否定と云う、超絶技巧をもって。
晃一の目は閉じられてなかったけど、こころの目を閉ざすわけにはいかなかったから、見開いたまま空虚な像をよぎらしていた。片方は完全に闇の世界を彷徨しているのだから、この身構えは清いすがたであった。

あの黄昏の間で父が美代に近づいていったのを、晃一は連動写真を並べて見るくらいの鮮明さで脳裏に描きだせた。一点しか見つめていないようで、もっと底深い沼をのぞきこんでいた不気味なほど澄みきった眼球、足取りは魔がさして宙に浮いたふうでもあり、爬虫類が獲物へと狙いを定め慎重に鋭敏な神経を発揮している様子でもあった。対峙した美代はそんな父の姿に身じろぎもせず、まさに不動のたたずまいで相手を受け入れようとしているのが見てとれた。これは戦慄すべき光景以外の何ものでもなかったし、その戦慄こそ晃一が意識出来ないまま秘め置いて来た予期される絵図だったのだ。
「最初は映画のインタビュー・ウィズ・ヴァンパイアみたいな雰囲気にひたれればって考えてたんだけど、あの映画でもやっぱり吸血鬼は吸血鬼なんだ。つまり人間の血を吸う。怪奇趣味って単純に見えるだろうが、ただ化け物や幽霊が出てくるだけじゃつまらない。悪鬼に襲われる場面は常に怖いもの見たさの心理が働いている。でもそれだけじゃない、最高に刺激的なのは邪悪なものらの隠された秘密にあるのさ。美代さんの事件を聞きつけてから、胸が高まったのは親子としての必然であったと思う。父の感性の苗は確実にぼくに分けあたえられていたんだ。しかし指向が幾分か違っていた。ぼくは美代さんから吸血されたかった。ところが父の場合は逆に彼女を望んだんだ。結果的には君も見た通りのあやふやな儀式で終わってしまったけど」
「わたし、震えが止まらなかった。それに涙も。確かに怖かったわ、紛れもない恐怖。でも晃一くんが言う刺激ってのも分かる。なんとなくだけど、、、涙が甘い液体になって唇に流れて来た、塩の味がするって思ったけどこころのなかでは甘く感じたの。もっともそれから先は失神してしまったから覚えてない」
「ぼくはあのとき君が倒れかかった瞬間を見ていない。お母さんに抱えられるようにしてソファに寝かされたのもうら覚えさ。何しろ、その直後にもっと信じられないことが起ったからなんだ」
と、鼻息荒く黒皮の眼帯に隠された目で見切ったとさえ威丈高につくろえた。しかし、もう片方はあたかも記録映画を撮影する沈着さでこの世のものならざる光景に向かい合っていた。
顔面蒼白にもかかわらず孝博の生き血を含んだ唇だけが、熱帯に咲く花弁の如く異様な赤さで濡れており、意識が定まっているものやら見分けがつかないうちに美代から数歩退いたと思うと、その場に正座を崩すような足組でしゃがみこんでしまった。美代は孝博を気遣うと云うより、何かまじないを唱えるふうに低い声で短い言葉を吐き、一気に視線を転換させる勢いで塚子の方にからだをひねり、まだしたたり落ちている手をそのままに右腕を肩先より上げ、その人差し指と中指で塚子の顔面あたりを鋭く差し示した。ほとんど虚脱状態に見えた、この如才ない夫人は本来の意思とは別のところで立ちすくんでいるかのようだったが、やがて背後より何ものかに支えられてでもいる不自然な立ち居を保っている格好に異変を覚えるのと同時、美代はあの抑揚のない、しかし洞穴深くまで通じる不敵な祝詞とも云える文句を口にした。迷い猫をなだめすかす声色をもって。
「お兄さん、さっきから来ているんでしょ。みなさんお揃いですから。塚子さんを借りていればいいわ」と、まったく夢想だにもしなかった展開に滑りこんでいき一同唖然とするなか、不敵な笑みがまるで女神のまなざしであろうかと思われる優美で無垢なる、静謐な表情に移ろってゆく。ほこりが舞う音さえ聞えてきそうな、ひかりと異形なる天稟が織りなしているさながら星雲のひろがりをも想像させる、白昼の暗黒、夕暮れの終焉、吸血儀式は始まりそのものであった。太陽のしずくは夜明けの到来を約束することによって、闇の正門にためらいなく手をかける。待ちくたびれた百鬼たちに鎮魂をさずけ、おそらくは二度とはあり得ない復活を果たす為に激しい情念を急速冷凍で現世に届けようと試みる。たとえ念いは伝わらなくとも、凍てついた舌先には生命の証しであった記念碑が言葉なきまま現れる。幽霊が饒舌であったなら、もはやそれは人間である。こうして霊媒を介し、帰ってきた遠藤久道にかける言葉は冷淡であるべきだった。美代は如夜叉の顔容に切り変わるのか。誰もが固唾の飲んだ。


[165] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット44 名前:コレクター 投稿日:2011年01月25日 (火) 05時06分

少しばかり喧噪から奥まった雰囲気が感じられたのは、どこか昭和を喚起させる素っ気ない店内の作りに相まって出汁の匂いがしみじみと鼻に香ったからであった。特に古びた木目が際立つ壁面でもないのだが、飴色をしたカウンターやテーブルには時代がかった味が染みこんでいるようで親しみやすく、ぞんざいに置かれた割り箸立てや、控えめなのか強引なのかよく分からない白紙になでつけるふうに書かれたお品書きや、そして何より投げやりな調子で明かりを放っている蛍光灯の加減が、ほどよい静けさに加担しているのだった。
気もそぞろなせいもあり、案内を買ってでみたのだけれど晃一の意気込みはどことなく沈下しているようで、また砂理も胸中にわだかまる雨雲でそれほど店のなかを興味深く眺めてはいない。
それでも、注文のかやくうどんが運ばれてきたときには、砂理の瞳に無造作なひかりが瞬いたような気がした。
「ほんとう、関西風だわ。麺もあまり腰がないあたりが絶妙かもね。かつお出汁がよく効いてる」
「讃岐うどんもそうだけど、おつゆを含んだあとにうま味が訪れると思わない。それが麺にからみついて食感を引きだしているんだ」
さっきまで冬空の下にいたことを忘れさせてくれるひとときがそこにあった。ふたりとも上着を脱いでいないのを思い出したように同じ動作で、皮をはぎ取る仕草を現して、食べ終わるまで言葉を交さないのが礼儀であるみたいに無心を装った。外気と店内の温度差、それに湯気立つかやくうどんの温もりが両人の目に潤いをもたらしたのを確認し合ったのは、晃一がどんぶりを傾けてつゆを飲み干したあとだった。楽し気な目をした砂理を見つめる。こころのなかに温かみが染みわたったのは食事のお陰だけではあるまい、そんな想いが北風のようによぎれば相殺される感情が横たわるはずだったのだが、晃一も砂理に似せた笑みを目のなかにたたえた。
満足そうな顔をしたぼくらを端から見れば、きっと誰もが微笑ましい心持ちを抱いたに違いない、、、不意に影差す炎天下の戯れに似たものが、考え以上に濃くひろがってゆく。長かった夏日を振り返るまなざしには不確かな悔恨がつきまとっている。予想を遥かに上まわった経験が驚きよりもある種のせつなさを残していくように、かけがえのない日々はそれほど遠い過去にあるものでなく、反対に戸惑いに揺れているからこそ、ときの後方へと記憶を見送ってしまう。
少年時代の冒険ごっこを懐かしむこころに罪はない。寝ぼけまなこで薄暗い階段を降りることは危険をともなうだけなのだろうが、明瞭な意識のもと手すりにつかまりながら恐る恐る足もとを注意しながら歩を進める身ぶりも味気ない。とは云え、自分でも判然としない想念で無闇に行く手をさえぎっていることを潔しと認めたくないのなら、それこそ遠藤家で催された暗幕の儀式にならい、自らの首魁と相対するのも大切かも知れない。
「ここは餡蜜やところてんなんかもあるんだ。どうデザートに。もう昼すぎだから店もすいているみたいだし」
孝博の言いたいことを察したのか砂理はゆっくり瞬きしながらうなずき、「じゃあ、餡蜜食べようかなあ」と、鈴の音のように答えた。晃一の杞憂は鏡の向こうに憧憬となって遠く映しだされる。
「ねえ、晃一くん、わたしに聞いてもらいたいことってさ、ひょっとしてわたしのこと」
「それもあるんだけど、、、」
「なんかさあ、直感っていうか、それほどでもないんだけど、だって晃一くんの顔に書いてあるもの。いいわよ、どうせ、順序よく話しの筋を通してでしょ。でもね、結構わくわくしてるんだ。あれから美代さんはどうなったか、あなたのお父さんに異変はとかさ。お母さんは何にも言ってくれないどころか、人様に知られてはいけない件まで暴露してしまったんだから仕方ないけど、もう金輪際あのひとたちとは関わりは持つべきじゃないって。ある意味では精算したつもりなんでしょう。きっとそうよ、晃一くんにも会うなとか言うし」
晃一は自分の表情が陰険になってゆく気がしていたたまれなかったが、砂理の明け透けで陽気なもの言いにいくらかほだされ、背筋をただしながらこう言った。
「君のお母さんの言い分はもっともだ。忘れるすべも、思い起こすすべも、定規で線を引くみたいに割りきれなかったから、結局は封印のかたちをとっていただけで、去年のことでより一層その気持ちが固まったんじゃないかな。割り切れなさを固めるって云うのは変かも知れないけど。ぼくのなかにだってそんな気持ちはある。多分うちの父だってそうさ」
「あら、永瀬家の家風に賛同してくれるんだ。ありがとう。じゃ、聞かせてもらおうかな。その後の顛末を、、、」


[164] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット43 名前:コレクター 投稿日:2011年01月18日 (火) 07時01分

「やあ、元気そうだね。あれ以来だけど、ごめん、連絡しなくって。もう年も越えたけど、去年は夏が長かったんで、この寒さはけっこうきついよ」
粉雪が灰色の空から舞い降りてくる。晃一はダウンジャケットのファスナーを引き上げる仕草をした。すでに顎に届くまでしっかり閉じられている。
「初詣の帰りだったけど、よくこの辺りにいるってわかったわね。ひさしぶりだし、びっくりしちゃった。晃一くんも元気みたいね。明けましてあめでとう」
白いコートの襟が寒空で乾燥気味な頬に触れている。
「おめでとう。どこか喫茶店にでも行こうよ。立ち話じゃ寒すぎるし、少し聞いて欲しいこともあるから」
都心では有名な神社もさすがに一月の半ばも過ぎると人出は減ったが、砂理のような若い女性のすがたは珍しいわけではなかった。
「晃一くんもお参りに来てたんだ」
「違うよ。学校の友達に用事があってさっき別れたとこだった。大通りの向こうからどうも砂理ちゃんらしきひとが見えたから思わず後を追ったんだ。片目でも視力はいいんだよ。でも君も連れ立って歩いていたから声をかけづらくて、、、」
「それでしばらくしてから電話くれたわけ」
「そう、悶々としてから意を決して」
「わたしがあのまま連れとどこかに行く予定があったらどうしたの」
「いや、そんな予定はキャンセルすると思った。必ず来てくれると信じてた」
砂理の頬に微かな朱がさした。「あら随分と強気ね。だけど実際たいした予定もなかったし。ねえ、晃一くん、わたしお昼まだなんだ。予定っていうのはそれなの」
晃一は満面が笑顔になるのをこらえきれず「そりゃ、ちょうどいい。実はぼくは朝から何も食べてないんだ」
雑踏にまかせてゆっくり歩きだしていたふたりは同時に足を止め、お互いを見つめ合い笑みを交換した。
「あったかいものが食べたいの」白い吐息が言葉になる。「そのほうがいい。で、何にする」
砂理は今日の献立を発表するみたいな事務的な口ぶりで、「うどん」と答えた。「できれば関西風のかつおだしが効いているやつ。讃岐うどんでもいいよ」
「讃岐は四国だからねえ。あるよ、その関西風ってやつを食べさせてくれるお店。食堂みたいなとこだけど、関西風だと思う。かやくうどんで通じる」
「かやくうどんで通じる」思わず言い返してしまう。
「そう、かまぼこにちくわ、油あげの千切りと万能ねぎ、と少量の天かす」
「わたしのお母さんもそれと同じ具で作ってくれるわ。わかめも入っているけど、かやくうどんって言って」
「うちの父親にも聞いたことがあるんだ。上京したての頃、あきらかにうどん屋の店構えを見定めてからのれんをくぐり、かやくうどんって注文したら、ありませんって言われたって。目の前が真っ暗になったそうだよ。そしたらカウンターの中から主人らしき年配の男のひとが、関東じゃ、おかめうどんって呼ぶんだ、って。でも実際は違うよね。おかめうどんは、卵焼きと鳴戸巻き、大きめの麩、それに竹の子や甘辛い椎茸なんかがのっている」
「そうと決まれば早く行こうよ。この近くなの」
「五分ばかり歩くかな」
「五分あればどん兵衛が出来ちゃうね」
「じゃあ、そっちにする」
「今日はかやくうどんにするわ。だってどん兵衛ならいつでも食べれるし。だったら言うなってね」
砂理の表情は曇り空の下でも晴れやかに光って見えた。去年の出来事は季節の悪戯ではなかったかと訝ってしまう。晃一は、あれからの日々が線上に今日まで連なっているとは思えなかった。だからこそ砂理にも一切連絡をしなかったし、すべてを忘れてしまおうとさえ決意した。
「あのさ、あれからお父さんも変わりないわけ」
決意を鈍らせる思惑を援護するのが役目であるかのように、昼飯まえだろうと何だろうと、自ら選択した行為に疑問符は追随する。せめて、かやくうどんを食べてからその件に向き合う腹つもりであったけど、砂理を呼び出したのだから当然の成り行きだ。彼女だって似たような気持ちを抱き続けて年を越したことだろう。
「ぼくらは何か変わったと思うかな。あとで話そうと思ってたんだけど、父さんは確かに変わったよ。それを君に聞かせるべきかどうか迷った」
ビルの谷間だと粉雪の舞い方が違って見える。北風の勢いで飛び去っているみたいで、とても足もとまで落ちては来ない。なかには空を目指し吹き上がって行こうとしている。晃一は決して触れることのない砂理の横顔に冷たい彫像と同じ手触りを感じた。


[163] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット42 名前:コレクター 投稿日:2011年01月18日 (火) 04時26分

孝博の悲願は見世もの小屋に遊ぶ心理と比べてみて何ら遜色がなかった。初秋の午後を吹き抜ける一陣の風に夢を託す。季節が人々を培う風景はおおよそ凡庸であるが、ときには信じられないほど美しいこともある。有理の出現により挫折しかかった夢をもう一度呼び起こす。暗幕垂れ込める人工的な黄昏にも宵闇が迫ってこなければならない。神々の黄昏にも終曲があるように、永遠の日暮れを愛し続けることは徒労に等しい。夜の気配を粛々と招き入れる精神だけが、かまいたちの発生を見抜ける。闇からの送りものである刃で傷つけられた肌には奇跡が起きる。
美代の顔立ちに魅せられた有理の心情も今となっては古色蒼然たる民家の一室に眠っている。勇敢なほど現実家である有理には、ろうそくの灯火はもちろん夜気の余情も必要あるまい。そう思いなすことが孝博の矜持を甦らせ、夜の刃で一息に切り捨てる気概を推進させた。たしかに俺の気概など計れないだろう。美代を取り巻く暗澹たる領域が腐食されないうちに行動しなければ。燦々とした陽光は墓標にも活力をもたらす。奇跡的な再会などでほだされてしまう前に時計の針を止め、姑息な追憶に終止符のくさびを打ち込むのだ。
独善的であろうが、利己的であろうが、夜の川底にもう一度立ち返えり、遠藤にも美代にも別れを告げる。塚子の面持ちが新たに変わり始めた。もの言わぬ指針計。この部屋で最高の調度品だ。
孝博は迷妄の地図を大きく広げ、あたかも大理石の床を気品持って歩く動作にすべてを委ねた。風の音が窓をわずかに震わせる。落ち葉が親し気に頬をかすめていく。美代との距離は一気に狭まるはずだったが、大理石と見立てられた床に触れる靴音から華やかな音楽が聞えて来た。小刻みにせわしく、大胆に子気味よく、一陣の旋風がそこに奏でたのは、まるでフレッド・アステアの踊りみたいに優雅で華麗なリズムだった。
ほどなくろうそくの明かりはかき消され部屋の階調が下がる。美代の瞳に巣食っていたひかりは異次元へと帰ってゆき、棺に収められた眼光を呼び覚まそうとしている。孝博は躊躇なく美代を抱えこみ、まったく抵抗のないしなだれた様子に違和を感じたが、このからだを逃すまい、そう念じてから首すじに狙いを定める。意識の狭間をめがけ急速に回想が生じてしまう。それは遠藤と同じ振るまいを演じているのだと云う痙攣であった。他の者らの当惑は一切関知されなかったし、ほとんどの感覚は荒野に仰臥する自棄で守護されていた。
いよいよ左の首に歯形を押しあてる瞬間になって、暗鬱とした美代の目がじっと孝博の面をにらんでいるのが知れた。再び回想が押し寄せる。「そうじゃないの」幼い美代が耳もとにそうささやきかける。戸惑う久道、つぼみのような唇がなめくじの如く動きだし、赤い幻想となって激しさを増す。硬直する孝博、もはや反逆せず同様なる轍をここでも甘受する。
「わたしは血をすすったのは有理さんだけでした」乾いた声が孝博の衝動をいさめるように、謀反をとがめるように、耳の奥へ響いてゆく。はっと我に返る猶予が寄贈されたものとなっている。その証拠にするりと身をかわした美代の手には果物ナイフが握られているではないか。一気に酔いが醒める感覚が全身に浸透するのを待ち受けてくれたに違いない。次の瞬間、左手の甲にナイフの切れ込みが入る。それほど深くはないが唇の大きさを考慮したのだと判じないわけにはいかない切り口。暗がりに映る手は照度には無縁であるかの如く白く透けている。線上に滲み出す鮮血の量が何ともほどよい流れになって指先まで伝ってゆく。美代が執り行なった儀式は紛れもなく孝博に捧げられているのだ。
「さあ、わたしの血を含んで下さい」無言だが、そうつぶやいているとしか思えない。社交ダンスの始まりを彷彿とさせながらも、その要領を保持し血染めに映える純白の手をとれば、冷ややかな体温が孝博の心臓まで突き抜けていく。爪先まで達して床にしたたろうとしている血を遂に口にした。夢遊病者の容貌で腕を差し出す美代、狂信者の風貌で生き血を吸う孝博、ふたりの邪魔をするものは夜の支配者によって厳かに監視され、迷妄で広げられた地図上に赤い標が浮かび出すのを見届けている。無心なる吸血が途絶えることのない鼓動に即しているかのように、生命の証しが寸分の狂いもなく脈打っている。
あらゆる液体の感触にはない禁域の泉からくみ出される甘露。真紅に焼けついたにもかかわらず止めどもなく溢れ出す過剰な水脈。孝博は味わうことすら忘れた虚ろな目で厳粛なる時間に従った。こころのなかは充たされることもなく、枯れることもなく、ひたすら無我の彼方へ導かれてゆく風圧だけを感じとった。はためくものが何であるのか見極めれないまま、目にも見えない、耳にも聞えない、口にも出せない、風に運ばれてゆく透明なのりしろのような想念だけがよぎる、、、
寸陰でしかなかったろうし、喉を潤すに足りるはずもなかった。終止符は打たれたようだ。晃一の叫びを、有理の悲鳴を、砂理の悲泣を、塚子の凝視を受け取った。
年少の美代、あの日膝上まで伝った初潮が必然であったとしても、不浄な気分に没することから解放された瞬間、、、
孝博の空漠としたこころに、それが原風景となって映しだされた。


[162] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット41 名前:コレクター 投稿日:2011年01月18日 (火) 04時25分

「それで山下さんは今こうして美代さんに会われたわけですか」孝博の声色には幾らかの驚きが加わっている。
「そのようですね。わたしは砂理に上手く先方にたどり着けたらメールで連絡するよう言っておきました。まさかいきなり直行されるとは考えてもおりませんでしたので、砂理の気持ちをなだめる必要に駆られその部屋から出て電話するよう返信したのです」
「とても慌てていたようだった」と、孝博は注意深く観察しなくてはならなかった責務に胸を突かれた。
「おふたりに出迎えられ車へと乗り込んだのを駅の隅から息をひそめながら見送ったわたしは、予約しておいたビジネスホテルに向かいました。客室に案内されてくつろぐ間もなく、砂理からこころの準備がない自分が恐ろしく不安になって仕方ない、遊び半分などではなかった、本当にこのまちに来てみたかった。でも、いくらなんでも直ぐさま対面になるとは思ってもみなかった。からだが震えてくる、、、砂理が涙まじりだったのは顔を見なくても分かりました」
「その先はわたしがお話しします」舞台劇の要領で青ざめた顔色を強調させながら砂理があとを継ぐ。
「一刻も早く母の声を耳にしたいわたしは部屋から逃げ去る勢いで外に出ようとしたんです。ここまで来る途中に見つけた児童公園がすぐ近くにあるのを思い、そこまで駆け足で行こう、そこで落ち着きを取り戻す為に電話をしようとしました。ところが玄関先で何気なく右横を向いたら角部屋があり、その窓越しから女のひとがこっちを見ているすがたが、不気味な鮮明さで迫っています。迷うことなく、このひとが美代さんだと思いました。すぐさまその場から逃れかったはずなのに、わたしの目はこころを離れ異形の女人に吸いこまれてしまい、足は虚脱したみたいになって一歩たりとも動きません。午後の日差しが中庭を照らすのどかな光景に縛られている、、、窓の奥からはこの世で最上の笑みを持った顔がわたしを離すまいとしている、、、知っているんだわ、わたしが山下有理の娘であるのを。理性も判断力も意欲さえも無くしかけた脳裏に、血を吸われるんだ、と云う意識だけが渦巻きました。そして何だか朦朧として時間の経過を忘れてしまったようで、気が着いたときには児童公園に佇み、母の言葉をひとつひとつ確認しながら、自分の言葉も同じように反復していたんです。無理よ、覚られてしまったの。わたし必ず吸血鬼のえじきになるわ。しっかりしなさい、そんなことはないから。大丈夫これからそっちに行くから、計画は変更よ。わたしの秘密もあなたの秘密もさらされるけど、美代ちゃんはあなたに危害をあたえたりしない。児童公園ね、そこに居なさい。そのままで、、、」
「ぼくが近づいても砂理ちゃんは何だか目が泳いでいるみたいで何度も両肩をゆすったんだ」晃一は高まる気分を制御しているつもりなのか、大きく深呼吸をしてみせる。それから続けて話す。
「母も来てるの。今ここに向かってる、、、ぼくは事情がよくのみ込めず、あれやこれや質問した結果、さっき砂理ちゃんのお母さんが語った真相に及んだ」
有理は寂し気な目で晃一に「タクシーの中からあなた達を眺めてました。双方の表情からどんな会話が為されているのか想像はついてた。少し車を移動してもらってため息ばかりついていたわ」と言った。
そして部屋全体に行き渡ることを込めた口ぶりで「わたしがこんな情況に飛びこまなくてはならなかった理由はこれがすべてです。見るべきものはもうありません」
役回りの演技をこなした女優が安堵に混ぜて放つような困憊がそこにあった。
孝博は言い様のない圧迫感に苦しんでいた。強烈な力ではない、むしろ得体の知れない悪臭に巻かれている不快な心持ち。晃一と砂理は恋人同士とは別の関係で、砂理と有理は親子の縁とは異なる従属系統に属し、晃一と俺もやはり親子でありながらいくつかの立ち位置をもっている。しかもよくよく考えてみれば、俺だけが蚊帳の外に居たのではないだろうか。遠藤を介し夢うつつの道ゆきを経て、ようやく期日に至り、晃一をも先導して来たつもりだった。ところが蓋を開けてみるとこの有り様だ。美代は砂理を見つけるなり、いや、塚子を通して息子と知人の女性と伝達しておいた時点でもう砂理が現れ、有理との再会を果たすと予感していた。そもそも遠藤はこう言ったのだ「あなたは近いうちに美代と会う」と。
何もかもが轍のうえにあったのか。神々や如来が切り開いた道程などでなく、ごく身近な連中によって定められた、その実さほどでもないありふれた秘密に支えられた僅少な神秘。はなから神秘主義を信奉してきたつもりはないが、ここまで来て自分が健全で明朗な現実家とも断言し難い。
「見るべきものはもうありません」か。家族の平和を維持する為に隠蔽し続けた秘画が白日を浴びたからには、確かに本人の言葉通り見るものはない、、、こんな同窓会みたいな結末で終わってしまってかまわないのか。救いもないかわりに、謎も毒もときめきもない。砂理がおののいたような事態が展開されたら、さぞかし痛快だったかも知れない。用意周到な集いがそれも気泡に帰した。
晃一、おまえは俺の秘密も知っているんだろう。何枚上手なんだい、素晴らしい敗北感と言いたいところだけど、ひとつ忘れかけていたよ。孝博の目に妖しいひかりがきらめいた。ろうそくを消すんだ。そして妄念を解放する。


[161] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット40 名前:コレクター 投稿日:2011年01月17日 (月) 11時11分

「吸血事件で胸を痛めたのはわたしら親子もさることなが、張本人である美代ちゃんとの想い出でした。時間というものは冷淡な流れでもあります。あれから数十年を経た今では記憶こそ鮮明ですけれど、今現在のこころまで支配する能力は失われてしまって、残されたのは甘酸っぱい気恥ずかしさと、罪を知らなかった、いえ、罪の深さを知らなかった邪気に対する怖れだけです。やはり保身が働いているのは紛れもない事実でしょう。最期に声を枯らしながら唱えたのは、わたしが美代ちゃんを吸血鬼なんかにしたんじゃない、原因は兄である久道さんに違いない。何故なら彼の研究はそう云う方面のようでしたから。もう随分と故郷の土を踏んでいないと砂理には話していましたが、実のところ何度か帰省していました。両親は亡くなっておりますし、わたしの妹や弟もこのまちを出ていることもありまして、都合よく言い訳が成り立っていたのでした。ところが気掛かりなのはこのまちで結婚した美代ちゃんの行く末と、久道さんの奇行の噂だったのです。ましてや事件後にはどうにかして美代ちゃんに再会出来ないものか思案をしました。帰省も合わせてそれらが形式上の憂慮であるのは鏡を見るよりよく分かっていました。所詮は少女時代の気まぐれな遊戯、、、そう割り切る以外に救いの道はありません。わたしは美代ちゃんの回復を祈ることだけに収束を見出そうと努めていたのです。それより実際の災禍をわたしは避けたかった。決して偶然ではない不吉な足音が我が家に歩み寄って来たからです。晃一さんの存在と、磯野先生の奇妙な探究心、、、類焼は防がなくてはなりません。彼らと砂理を近づけるのは危険な情況以外の何ものでもありませんから。訊けば磯野先生は久道さんに会われ相当感化されたとの様子、あの方の提唱する超能力やらに傾倒されたからか、美代ちゃんとの関係を丹念に調べあげたいのだろうかと憶測の域は出ませんが、おおむねそんなところではないのでしょうか。あなたは晃一さんを伴う際にあからさまとは申しませんけど、ある程度の意気込みは話しておりますね。わたしは晃一さんと砂理が親しくしている姿を複雑な気持ちで眺めていました。郷里が同じであり同年代でもある。どんな理由づけをして砂理を言い含めれば、、、つまりはふたりの仲を断ち切ってしまおうか考えあぐねました。ところが逆にそんな思案を巡らしているのが、知れてしまったらそれこそ薮蛇になってしまいます。災厄から逃れたいと願う一心は却って仇になると云う図式がすでにひかれているのです。一方でわたしの眠りを揺り動かすような奇異な胸騒ぎが始まっているのを、もう否定するのは困難になってきました。そうです、ひたすら祈りを捧げているばかりの自分を脅かす如くに逼迫してくる現実、いつかはこの口から砂理に話さなくてはならない現実、ところが強風であおられるこころの一角にはいみじくも毒消し作用のあるあだ花が芽を出しているではありませんか。美代ちゃんとの邂逅を夢見させていた本当の気持ち、それが次第に曖昧なものからもっと感情的なものに昇華し、終いにはもうすぐ会えるのではと不確実な領域を越えて願望の錨を下ろす覚悟まで至ったのです。封印していたのは、世間体のような常識をまとった小市民の感情でした。そして昇華されるべき感情こそ、忘れかけていたあだ花を育む想念なのです。こうなれば、晃一さんはもうわたしにとってはかけがえのない有力な味方でした。砂理との不幸な交際をあえて望んでいる姿勢にも共感出来ます。わたしはなるだけ砂理に彼を通して情報を得るよう求めました。訝しい目つきをしている砂理を懐柔するのは他愛もなく、どうしてかと申しますと、わたしの秘密を嗅ぎ分けている内情を危ぶんでいるのは娘本人だからなのです。胸襟など開かれない美徳によってむしろ互いはよりよく結ばれ、腹芸とも云える好奇なかけひきで秘密のベールがより優れた形ではがされてゆくのです。娘にとって母の少女期はめくるめく官能をひそめており、母にとっては娘の性障害から生み出される逸楽に加担する意義を得るのでした。注意深く耳を澄まして磯野先生の動向を探りながら、慎重な言葉使いで砂理と晃一さんとの信頼度を確かめてみる。それと能天気な装いを過分に示しつつ、封印を解放させたいと無意識的に望んでいる態度をちょうど手話で伝えるようあくまで記号的に表すこと。こうした作業が功を為すのは時間の問題でした。まず晃一さんとは恋愛関係で繋がっているのではなく、察したように有能な同志の感覚で手を取り合っている。わたしが帰省を行なわない事情を感づかれまいとしているけど、内心では現在の美代ちゃんに関心ある、そう思わせることで彼らの計略はまんまと露呈されてしまったのです。わたしは理由の説明をあえて濁したうえで、晃一さんらとの帰省を叱責し、弱みを握った証しとして本音を吐き出させる権限を勝ち取ることが出来ました。とは申しましても、例の写真から始まった疑惑のすべてを口にするほど娘は馬鹿正直ではありません。小さい頃より妙に意固地なところがあって、素直じゃないわけではないのですけど、こうと決意したら頑なに貫く性格だったのです。おそらくは晃一さんとの約束もあるのでしょう、郷里にこれこれの女吸血鬼騒ぎがあったみたいだから興味がある、いい具合に彼が帰省すると云うのでこの際だから是非とも一緒に行きたい、、、ざっとまあそうした経緯であとはわたしが承諾するかどうかだけだったわけですが、砂理に含んでおきましたように、磯野先生らには一日遅れてから出発予定であると伝えておくこと、家族には内緒にしていると云うこと、これらはわたしも同伴する事実が覚られない為に必要な策でした。以外と思われるでしょうけど、砂理はわたしと一緒ならばとの条件をすんなりとのんだのですよ。お分かりでしょう、母と娘はひとつのまばゆい光景を見つめていたのです。わたしは別に意味深な登場の仕方をしたかったのではありません。美代ちゃんと確実に会えるまでよくよく算段してみただけのことです。あなた達の訪問によりどんな反応が垣間見えるのか、そんな思惑もありました。あだ花らしさとは結構実際的なものですわ。さて一番肝心な弁明を。砂理からは美代ちゃんがいつまで滞在しているのか訊き出してもらって、あらためて訪問する気でした。あんなにも泣き叫びながら電話で話すまでは、、、」


[160] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット39 名前:コレクター 投稿日:2011年01月17日 (月) 11時10分

端々に刷毛が無造作にかけられたまま、ぼんやりと空高く浮かぶ雲を想起させる。山稜からなら手が届きそうな気がしてしまうがかなり上空である。どれくらいの風が吹いているのだろう。見上げれば、ふんわりとした形状は次第に海生動物の様相へ近づき、地上から無垢なる心情を吸い上げている。
天と地と海の雄大さは、抵抗し難い勢いをもってこの一室に凝縮してしまったようだ。白雲ながら中心部は煤けた憂慮の如くにくすんでいるではないか。予期されていたのかも知れない砂理の母親の出現、それは雛形を作り得ない風姿、まるで空から降りてきた雲の影であった。浮き雲の安寧とはかなり趣きが隔てられた緊迫した空気に運ばれている。
やせ形で乾いた匂いをした容貌には慣れ親しみにくい印象があるのだが、その目に込められた憤怒とも愁訴とも判じられない因果をくみすれば、あながち正鵠は射ておらず雰囲気全体がつかみとれていない。しかし、突然の来意を弁明することが先決であると云う、意気込みは余すところなく伝わってくる。砂理とはつくりが反対で大きく見開かれた双眸が、残暑のように過酷なそれでいて儚いうつろいを代弁し、唯一そっくりな長いまつげがせわしさを潤沢に補い、饒舌であることが予想される呼吸を意識しているような口もとは期待を裏切らなかった。
「お聞きの通りです。砂理の事情もわたしの意思もあらかたのみ込んで戴けたのではないでしょうか。いきなり押し掛けてしまう形になってしまいましたけれど、どうしても娘だけここへ寄越すのは出来ませんでした。こちらを訪ねております方々、ええ、とくに磯野先生はこれで得心いかれたのでは」
「わたしをご存知したか」挨拶もなきまま直球を投げつけられる。
「砂理からお聞きしましたし、晃一さんからもお話は少々うかがっております」毅然とした口調に今のところ雲の陰りは感じられない。自分は招かれざる客であると、前書きで記した開き直りにも似た口上が用意されている。
「これは、皆様大変失礼しました。砂理の母の山下と申します」誰に目をあわせるわけでもなく、吐息みたいに生気なく口にした。有理自身へと呼びかける、力まぬ証明であるかのように。
「有理姉さん」
「美代ちゃん」
こわばったそれぞれの表情が、刺々しさに張りつめた空気が、二羽の小鳥のさえずりで得難い陥穽におちいる。突如現れた防空壕への安堵となって。
赤錆がこぼれ落ちていくような柔和な微笑を有理の顔に見つけた。まわりの者らも童話に聞き入る子供となって、こころに泉が湧くのを覚える。
何よりも先に視線を送るべきひとであった美代の呼びかけは、有理から邪念を追い払う効果を発揮した。見る見るうちに有理の両肩からはあらぬ勢いが抑えられ、踏みしめている足もとに張った懐疑が希釈され、釈明に専念されだけの武器にも近かった口もとがしめやかに閉ざされた。残暑に佇んでいたまなざしへ灯された明かりはろうそくによるものだけではなかった。
孝博は童話から紙芝居に目移りする小さな興奮で、何かが急降下してゆくのを認めた。明らかに動揺をあらわにしている有理とは対照的に美代はほとんど顔色を変えていない。有理の方にからだを向けているものの、その全身には日陰にとどまり花咲かす可憐な息づかいしか聞えてこなかった。いや、動じなかったのではない、砂理を一目にしたときからすぐ先に惹起されるであろう情景が見てとれたのだ。一番最初に悲愁で胸を焦がしたのは間違いなく美代である。
だからこそ、墓標に陽光が降り注ぐのは粛然たる恥じらいとなり、また、前ぶれがあったと云え棺の蓋が開けられるのはこころ許なかったのだろう。
そんな美代を深く理解していたから、このまま牧歌的な感傷にひたっていることは寸暇の戯れであるのを了承する為にも、有理は本来の役割に速やかに立ち戻らなくてはならなかった。いつまでも郷愁の淵に身を沈めているわけにはいかない。
まるで置いてきぼりを喰った人々を嘲笑する悪鬼たるべく室内の空調を強引に変えてしまう。にわか拵えされた微笑を仏壇の奥深くにしまい込むふうにして、孝博のお株を遠藤と同じく奪う様相で講義を再会させた。
「わたしには磯野先生の気概を計ることが難しいです。砂理があの写真を以前から盗み見していたのは知ってましたし、年頃になるより性向に問題があるのも薄々感じておりました。それがわたしの罪業であると思い込まなくてはならない強迫観念に苛まれていたのは信じてもらえますでしょうか。のちに印可をあたえられたのではないかしら、そう念じてしまった吸血事件を耳にしたときには卒倒しかけました。そして今まで封印し続けて来た秘密もすべてあからさまになってしまうのだと嘆きました。わたしだけの保身ではありません、砂理にとってもそれは親の宿業の顕現だと痛感させてしまい、結果はどう転んでみても最悪を指向してしまうでしょう。それでもわたしが躍起なったところで、古傷を隠し通すより他に賢明な手段はありませんでした。お分かりですか、わたしたちの間には神秘的な要素も、興趣をそそる物語も含まれていないのです。見るべきものはありません。どう思われますか、磯野先生、、、」


[159] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット38 名前:コレクター 投稿日:2011年01月17日 (月) 04時08分

固定された視線に輪郭が浮かび上がる。ドアのうしろにひとの気配を知ったのと、塚子が怪訝な顔つきで「山下さんと云う方がみえてますけど、、、」そう、声を出すのがきまり悪そうに告げに来たのはほとんど同時であった。
美代の目は動かない。晃一と砂理はふたりして戦慄を投げかけるふうに孝博を睨んでいる。だが実相は驚愕を共にしたい、そんな合意を求める鋭さによって真剣の火花となっている。孝博はたじろがざる得なかったが、切っ先が合わさった刹那に悠久の間合いをそこに見出してしまった。剣豪が次なる一太刀にてすべてが終わるの熟知しているかのように、虚しい血けむりがあらゆるものが純化される。血縁も、美代の透けた血管も、**の血も、吸血鬼のしたたりも、、、
「父さん、実は、、、」間合いに同調するべきして、吐露されるものが耳に届けられようとしている。ところが晃一の哀れな声をかき消す勢いで、「ごめんなさい、わたし嘘ついてました。本当はひとりじゃなっかったんです」と、既視感を浮き出させる悲痛な叫びが砂理によってもたらされた。
「母と同じ列車でこのまちに来ました。わたしだけ先に駅から飛び出してごまかそうとしました。どうしてかって、、、わたし美代さんの事件を偶然手にした週刊誌で知ってしまい、胸騒ぎがおさまりませんでした。白黒で小さく掲載された顔写真に覚えがあったからです。数少ないけどこのまち出身の知人らには、真意をただすと云うより名前と顔を尋ねてみただけでした。答えはみんな同じです。それ以上の詰問は薄ら寒さによって阻まれました。掲載されたものの現物に違いない写真が以前よりうちにあったからなのです、、、母のクローゼットの奥深く、人目につくことなく着物の帯のあいだに隠されていました。最初にそれを見つけたのは、わたしが十歳くらいのときです。かくれんぼをしている最中に見つけてしまったのでした。そして緊縛されたまま、誰にもそれを話すことはありませんでした。写真は二十枚ほどあって、なかには母の少女時代の顔もそこにありました。掲載されたひとの顔と並んで、、、子猫が寄り添うみたいに頬と頬がひっついている。色褪せた写真特有の時代がかった主張は生やさしくもあり、ぶっきらぼうでもありました。でも、互いのくちびるが重なっている構図には意図的な戯れとは離れた、もっと生真面目な面持ちで底なし沼に佇んでいる、そんな緊張に被われています。鳥肌が立ちました。身震いがしました。とても孤独な気分がわき起こりました。そして、写真を見てしまったことが母に気づかれるのをとても恐れたのでした」
胸の奥に積もりに積もった土砂が吐きだされた。少なくとも孝博にはそう思われた。裏付けはすでに美代の直言で為されている。砂理が部屋から出ていった経緯も、晃一の態度も、何より小さな太陽にも感じられた笑みが泣きはらしている情況が的確に物語っている。
そこに補足を加えるのが使命だと認めてか、「ぼくと出会ったのも運命さ、いつしかぼくの方からこのまちの出来事を喋り始めたんだ」と、晃一は堰を切って出たついでに便乗する自棄的なもの言いで話しだす。
「十歳の頃から抱え込んだ重荷からやっと解放される、そう言って砂理ちゃんもぼくに写真の件を聞かせてくれた。とても辛そうな顔をして、、、そして正直に教えてくれたよ。この写真の母に呪縛されたのか、それとも本来なのかは判断しづらいけど異性に関心を持ったことがない、とね」
「晃一くん、、、ごめんなさい、、、」砂理はすっかりうなだれてしまった。
そんな消沈を脇にかかえ晃一は咆哮した。
「ぼくらは言わば秘密結社さ、恋人でもなんでもない。お互いちぐはぐな縫い目に掛けられたボタン同士なだけだ。父さんが再びこのまちに行くと聞いてから、その理由も聞いてから、どうしても美代さんに合わなくてはと念じ出したんだ。彼女の母親はぼくの存在を煙たがっていたよ。でも秘密結社として何食わぬ素振りで砂理ちゃんとつき合っていた。ぼくにとっても父さんの探求とやらは相当に引っかかったから、煙たがればなるほど余計にこの身を霧がくれの術で不透明にさせてみたかっんだ。そうすれば、きっと相手のすがたが見通せる」
孝博の肋骨あたりに冷たいすきま風が吹き抜けていった。美代がさっき言った遠藤の歪んだ表情が自分にも、そっくりそのまま仮面となって被せられているような気がした。先手は打ってあったが、思わぬ一手でかく乱させる将棋台を彷彿とさせる。しかも、用意周到なのは彼らであって、孝博の妄念が推進した意向とはまったく質が異なる。ある程度は推察されたけど、こんなに後手にまわっていようとは、、、
方向性が別口であることを唱えたのは理念であったのか、背理であったのか、、、確かに己本意でしか采配をふるって来なかったし、所詮晃一らは旅の道連れ程度でしかなかった。
当惑の顔つきに変じてしまっている塚子のすがたをじっと見遣る。ろうそくの炎は決して揺らめいてはいない。
美代が静かに判決文を読みあげるようこう言った。
「有理姉さんを通して下さい」固定された視線はほどけ、抑揚のない言葉に新たな息吹が授けられた。




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