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[212] 題名:ねずみのチューザー34 名前:コレクター 投稿日:2011年07月26日 (火) 03時14分

じいやばあのすがたは目にすることはあっても、おくもが来て以来めっきり僕に近づく動静もなく、ただ単こうしてにひとつ屋根の下で暮らしているのは、すりガラスの向こうに見ているような感じだった。
おくもは最初の姿勢を変わらず保ち続けているので、僕は増々萎縮してしまい、距離感は縮まるどころか限りない平行線で律儀に計られていたよ。しかし慣れっていうのはある意味底知れないものだね。配膳のときなどおくまのからだはかなり僕に接近したりするけど、いつの間にか、独り膠着状態に淀んでいた気分がごく当たり前に思えてきたんだ。それまでは手が触れそうになったら、妙に意識したりしていたのでよくよくおくもを忖度してみる余裕などあり得ず、常にどぎまぎした自分を情けなく思ったりしていた。
ところがそんな初心な心情も季節の変わり目には移ろっていくように、段々と図太い神経が育まれていくのか、隔たりを十分知りつつもそれまで対峙からは一歩踏み出し、素知らぬ顔色でおくもの姿態をうかがうようになり、同時に心算を働かせていたのは相手のほうじゃないかと感じてきたんだ。
さっき慣れだと言ったけど実はそれだけじゃない、あらかじめ用意されていた意想がようやく緊縛を振りほどいたに違いなく、それは心棒のようになって僕の胸にわだかまっていた濁りを浄化し始めたわけさ。
聡明な君にならすぐわかるだろう。そうだよ、おくもの微塵たりとも揺るがない物腰は本来の姿勢ではなく、周到にめぐらされたもの、つまり見事な演技だってことなんだよ。これは大胆な飛躍でも過剰な妄念でもない、もげ太に連れられ挨拶にきた折、含蓄のある微笑を僕は見抜いていたし、いや、見せられていた、それはつまるところ貞節を尽くす身構えが、うらはらに色香を霧状に発散させていたという非常に官能的な有り様に落ち着くわけだ。とりもなおさず僕は苔子からももげ太からも、禁令に対する免罪を認可されているじゃないか。が、なまじ正当な品行だと含まれたお陰で、一歩も二歩もへりくだるような意識が台頭してしまい、欲望の対象として眺めるまなざしを忌避してしまう方向に追いやろうとした。
実像に触れた途端、僕はおくもをしげしげとそしてなめまわすよう視野を固定し、隙をつく算段に終始した。まったく暇を弄ぶ身分にあったから、日がな一日、庭先の枯れ木なぞに無常を覚えるよりか、ひりつきながらも薄ら恥ずかしい気持ちに尻がすぼまる思いで、慎重かつ大胆な構想を練り始めたんだ。
君にしてみれば、雑然とした細事を読まされる煩わしさに閉口するだろうけど、ここからが急転劇の幕開けなので我慢して字面を追ってほしい。
湯浴みが意味するところはすでに自明だった。気軽ささえ包含されている容認だし、あの湯煙に包まれた欲情こそが現在の僕へと繋がって、未知数を残したまま、まるで蟄居を命ぜられた当主の態で謎かけに遊ぶ行為は抑止され、その代替としておくもが送りこまれてきた。ところが僕は謎かけの第一問だけはなんとか解けたので、続く問題にも挑戦してみたくなったんだ。これもひょっとしたら、すでに仕掛けが施されており自負心を操作する罠なのかも知れないが。
逡巡は許されない、それと安易におくもを抱くことも控えるべきだ。いやいや、抱くのはいいが、闇姫に溺れるような放埒は絶対に避けなければいけない。
それから何日経過しただろう。本山とやらに赴いた苔子からは一切連絡はなし、もげ太は何やら気忙しい様子で屋敷を留守にする日が多く、もっとも彼とは打ち解けようにも鉄壁の好感度ですべてをうやむやにしてしまうので、はなから監視役くらいにしか意義を認めていなかったから、不在であるのは却って都合がよかった。じい、ばあも同様、もともとさほど接点はなく信頼など求めていない、残るはねずみだけども、あの婚礼の夜から再びすがたを現さず、天井裏に潜んでいるのかどうかも定かではなかった。
で、謎かけの第一問、種牛としての義務をまっとうし苔子が懐妊したにもかかわらず、どうしてまだお役御免とならないかという疑問に対する解答を述べよう。好きよ惚れたの恋情もこうして引き離されてみれば何とも複雑でもの悲しさに沈滞しかけてしまいそうだけど、ふたつの標識がありありと提示されるんだ。ひとつめは種牛としては無論のこと、僕には何らか利用価値が備わっている為、更なる子種を注ぐとともに延命が約束されるという凡庸にしてこれまで通りの不条理らしき道程。ふたつめは苔子の出産に不具合が生じた場合、新たな母体としておくもが使命を受け持ついわば補欠策で、あからさまな夜伽の認可がそれを如実に物語っている。ではおくもが能動的に誘惑を表にしない訳、憶測だが苔子の安産が確定されるのを判断してから実行される慎重説で、これにもいわくはあると考えられる。
肝心なのは僕の精だけではなく、母体としての資質が多大な影響を占めるために子宮があれば誰でもよいわけではない、やはり選ばれし条件があると見るのが賢明だ。苔子は闇姫を装うほどに妖艶な容色に恵まれ、尚かつ上臈を彷彿とさせる典雅な挙措を失することなき絶品、おくもはといえば、観察の結果から苔子みたいなふくよかな容姿ではないが、武家の子女などに見受けられる凛とした息づかいが感ぜられ初々しい気品も漂わせている。
会話こそ抑制されていたけど、僕はあれからおくもを攻落することだけに専念し、すがたかたちの検分に尽力し、そして第二問へと挑むため、まだ開かれていない肉体の奥に神経を集中した。


[211] 題名:ねずみのチューザー33 名前:コレクター 投稿日:2011年07月25日 (月) 04時17分

苔子が本山とやらに里帰りするのを、じい、ばあ、もげ太らと門口で見送りながら僕は得もいわれぬ感情に襲われた。深刻でありながら作り事を了解してしまう、水と油が入り混じらないようで微妙に溶け合っているみたいな思いがけなさ。惜別の情には違いないのだろうが、悲哀が沈殿していると同時に上澄みとなって揺らぎ透明すぎて、よく判別できない心境。それは苔子を抱きしめたあと、僕をさとす顔つきになって含めるよう口にした、「わたしの留守中、色々と大変でしょうから身のまわりを世話する者を寄越します。もげ殿にも断っておきましたので気兼ねなさらずに」という意味あり気な発言に戸惑っていたのがひとつ、それから子供の頃には日中を雨戸によってさえぎったり、異様な雰囲気を好む性癖があったことを振り返ってみて、苔子からも夜光虫と指摘される道理が、やはり闇姫を慕っていた心情を浮き上がらせたのだ、そう頑なに念じてしまう寂しさも間違いなく寄与していた。
もうここに慕っていたひとはいない。闇姫のなかに苔子はいても、その反対はすでに過ぎゆきてしまったんだ。闇姫に投影していたものがここにきて自ずと立ち現われてきたよ。とはいえ、決して苔子の魅力が減ずるわけではなかった。
伴侶を送ったあと、案の定もげ太は世話係の件を一刻も早く伝えたいのか、朗らかに説明しはじめた。
「明日にでも参りましょうが、気だてのよいおなごでございます。これからしばらくは独り身でなにかと不自由になりますゆえ、苔子の気遣いと汲んでやってください。なんなりと申しつけくだされ」
いつものさわやかさに増して、目尻がやや下がり気味なのがどこかくすぐったく、身のまわりなんか別に忙しい分際でもないのに、じいやばあで上等だと思っていたら、もげ太はすかさず察知したのか、
「これまでは、といいますか、ここへお見えになってからあなた様には苔子が付きっきりでしたから、今後は細々とした配慮なども補填しなくてはなりません。湯浴みなども遠慮なさらず、女中とは申せそれなりの要員として教育されております。どうぞお含みくださり、決して忍耐などなさらぬようお願い申す」
なるほどそういう思惑が働いているんだ。あっさり了解している自分がとても軽やかに思えたりしたが、そうした軽さを生み出している誘因は目に見えない空気のように僕を取り囲んでいると苦笑いした。
いずれは究明にいたるだろうって、薄皮みたいな予感が去来したけど、そのときは深く考えるのを先延ばしにしてみた。のちにこの態度は急進的な展開となってゆくわけだが、それは追々語るとして、とりあえず苔子が言い残し、もげ太が是認した女中がやってきた日へと筆を飛ばすよ。
独り座敷で無聊に苛まれている間なんてなかった。もげ太の言う通りこれまで闇姫の影を常に意識していたから、事情はどうあれ身ひとつ無為に過ごす時間が逆に外側へと広がってしまい、多分一時的にせよ自由を得たような錯覚が洞察のきっかけも一緒にあたえてくれたと思う。しかし、心境には先延ばしを願う切れ味の鈍い切っ先が横たわっているので、快刀乱麻を断つごとくまわりの空間を処理してみせるのではなく、どんよりとした雲がたれ込んでいる様相で視界が開かれるしかなかった。
混濁した意想はきらびやかな光彩を放てないが、鉛色のくすんだひかりがある種の重みを感じさせるように、こころの底辺にも不確定ながら微動だにしないわだかまりを発生させ、そこから徐々に外側が開示されていったんだ。ようはおっかなびっくりだったということかな。そこへもってきて女中の登場だ。もげ太の背に整然と佇んでいる様子からはとりとめて好印象を抱くこともなく、却って芯の強そうな目つきにちょっとした疎ましさを感じたりした。
「これは先日申し上げました娘でございます。名はおくも、しばらくお世話させていただきます。こちらは新しい旦那様だ、ご挨拶いたせ。」
「おくもと申します。若輩ではありますが、どうぞよろしくお願いいたします」
腰の低さにそつはなく、表情もまた律儀な心得からはみ出すこと知らず、実年齢を越えているような落ち着きのある愛嬌が丁重に包み込まれていて、微笑とともにひかった目の鋭さが何故かしら柔和に見えてしまった。また心持ち鼻にかかった嫌みのない甘い声色も加わり、僕は疎ましさなど放れ雲となって消し飛んでいく気がした。
「いやあ、こちらこそどうぞよろしく」
印象が覆されにもかかわらず、簡単な返答しか口に出来なかったのは、おくもが目を細めながら照れた面持ちで、一瞬僕を観察している怜悧な素振りをしめしたからだった。もちろん思い過ごしかも知れないけど、もげ太からはそれなりの要員だと聞かされていた覚えもあり、油断は禁物と咄嗟に念じたのだろう。
あらためて言うまでもないが、僕を取り巻く連中は最小限の情報しかもたらさない。現におくもにしたって、その日から僕の身のまわりに関わりながら不用意な言動をあらわにすることなく、掃除や食事の世話に専念している。無駄口のひとつくらいとこっちが差し向けたいところだけど、暗黙のうちに一線が引かれているような雰囲気はまだまだ濃厚で、冗談めいた軽口はさておき、天候や風向きを何気に話しかける機会さえ逸している有様だったから、自ずとぎこちない気構えで接してしまう。
例えば夕餉の際など、「お酒は燗になさいますか」そう訊かれて、「ああ、頼むよ」と、ぶっきらぼうなもの言いで返してしまい、そうじゃなく、寒くなってきたね、少し熱いくらいにしてもらおうか、くらいの綾をつけ足してもよかったなど後悔してみたり、「冷えてまいりましたから、おやすみ前に雨戸を引きましょうか」って、あの苔子の思い出が乗せられた問いにも、至って沈着な口ぶりで応えてしまったり、一体どうしてここまで態度が硬化してしまっているのか解せない。
僕が理性でなく本能的な嗅覚でこの距離を見極めるのは、枯れ葉が舞うのを見慣れた頃になってからだった。


[210] 題名:ねずみのチューザー32 名前:コレクター 投稿日:2011年07月25日 (月) 04時16分

綿帽子にすっぽり隠された横顔はのぞき込むまでもなく、きつねの面も透き通され、始めて目にした苔子の困惑したような、苦いものでも口にしたような、けれども何やら思わせぶりな微笑が薄膜となって張りついており、それほど親密ではない知人にふとした拍子で同席してしまった場面を想起させて、儀式の緊迫からほどけてゆく心持ちをもたらした。
同様に時間の過ぎ行きもまた不明瞭な夜気にさらわれ、気がついてみれば、おどろおどろしくもおごそかだった提灯のあかりがわびし気に遠のいてゆくのを、はかなく見守っている。安堵で虚脱したというよりも本来強いられてではなく、自らこころのどこかで望んでいた実像がかすんで映っている。とらえきれない手ごたえは脳裏へ巣食った幻影にそれとなく共鳴しているからだと思った。
灯火が夜の奥へと帰っていく。僕は今宵の婚礼に会した人々が何者だったのか知るすべもなく、また伴侶となった闇姫に質してみることさえ禁句であり、儀式がつかさどる永遠の内郭に無名化されているのを黙ってうなずくしかなかった。
皆が去ったあと、僕と闇姫は薄明を怖れるまなざしを確認し合いながら寝屋へと、その足取りに幽玄な音律を忍ばせ、芳しくも激烈な交情に耽溺したんだ。夜具が怪しく乱れるより、畳のへりに爪を立てた自分に陶酔し、甘露をすすっては精をそそぎ、胸の谷間に眠った。
夜明けを告げられたのは思ってもみないことだった。これまでどれだけ朝陽をさえぎる雨戸の自堕落な軋みを耳にしてきたか。祝言が済んでしまえば、いきなり日常やらに逆戻りしてしまうのだろうか。じいが言うには、「よい朝でございます。誠にめでたき晴天です」以前からそう口にし続けたかのごとく笑みをたたえている。唖然としている顔を寝惚けまなこと峻別するかのように闇姫が語りだす。
「主様に申し伝えねばなりません。妾は身重なれば、これより屋敷を出て金目様の本山にて安産を祈願いたします。なぜにと思われましょうが、ここはもげ太殿のお住まい、妾は主様にまみえる為にこそ身を寄せていましたゆえ、出産の大事は本山が道理でございます。なれど主様にはお役目もありましょう、どうぞ、もげ太殿のはからいにて逗留いただき、妾の無事を願いただきたく存じます」
えらく丁寧なもの言いに聞こえるけど、結局それも掟なんだろって思いながら、しかも懲りずに金目様を持ち出してくるからには返す言葉もなかったよ。
「いままで主様には妾の生理に同調いただき、かような日々を送らさせたこと誠にすみません。身ごもった限り妾はもう闇姫ではなく、これからはひかりを燦々と浴びて生きてゆけましょう。主様、そうした次第でありますゆえ、なにとぞ本日より夜光虫のごとき生活から逸してくださりませ。手前の事情ばかりで申しわけありませんが」
闇姫はあたまを深々とさげ、悲嘆にくれた顔つきでそう説明するものだから、情が移ったわけでもないけど、さなぎが蝶に変化したような気持ちがして、いや、狐狸にたぶらかされているのか、とにかく無下にするわけにもいかず承知を覚悟したうえでこう尋ねてみたんだ。
「色々と内情があるのはわかっているつもりだけど、闇姫ではないとしたら誰になるわけなんだろうね。まさか苔子さんかい」
「主様の申すとおり、妾はいえ、わたしは苔子になります。赤影さん」
「ちょっと待ってくれ、苔子はいいが、赤影さんっていうのはどうなんだろう。僕は違うと思うんだけど」
あわてた僕の表情がよほど面白かったのか、あるいは彼女の肩の荷が懐妊でおり、使命なりがまっとうされた解放感からか、相好をくずしながら、
「では主様」
「その方がまだましだよ。しかし苔子さん、どこまでも虚飾をつらぬくつもりだね。金目様の本山がどこなのか別に関心はないし、あれこれ吟味するのも無駄だとわかっている。けど、きみは僕と結婚したんだろ、それなのに秘密だらけっていうのもやりきれないなあ。きみの最大の任務は僕の子種を宿すことだけだったとしたら、それはそれで認めるしかない。出産をひかえて里帰りするのも大義名分がある。ああ、すまない、きみを責めても仕方がないよな、でもなんか切なくてさ。闇姫にあこがれを持っていた身とすればね」
「当然です。どんなになじられても余りあります。闇姫は主様を惹きつける化身でした。これがわたしの宿命なのですから、、、でも苔子は必ず帰ってきます。もし、わたしが少しでも愛しいとおっしゃられるのなら、信じて待っていてくだい。あともうこれからは苔子と、呼び捨てにしてほしいのです」
こんなに表情が交替する彼女を見ることはなかったよ。僕は自分の感情をよく把握していないみたいだ。が、使命だろうが、任務だろうが、絶対の掟によって素顔を無くした境遇は同情している。たぶん過剰なくらいに。
「もうなにも言わなくていい。じゃ、苔子がこどもを連れ帰ってくるのを楽しみにしているよ。それでいつ出立する予定なんだ」
「今日これからです、、、」
「なんだってそんなに急に」
僕の涙腺がゆるんだのは間違いなかった。もう一度きみを抱く時間も残されていないの、そう言いかけて右手を差し出した。苔子は左手でしっかり握ってくれた。お互いの腕はからだを引き寄せあう為にちから強かったよ。そして僕と苔子は、乱れ飛び散った夜具のうえで激しく抱き合い、唇を重ねた。
苔子の頬からひとすじの哀しみがまっすぐに流れ、僕の手に落ちた。
「きみなしで、こんなところで耐えられるだろうか。苔子、好きだよ」
「主様、わたしも大好きです。祝福の涙と信じます。しばらくのお別れですね」


[209] 題名:ねずみのチューザー31 名前:コレクター 投稿日:2011年07月19日 (火) 04時45分

こんなに廊下はくねっていたかと、屋敷内を隅々までめぐったことのなかった僕は宙になかば浮いた気分で感心しながらふすまを取り払ったとみえる広間に連れていかれた。
燭台は座したふたりと距離がおかれない間隔で煌々と灯され、まっすぐな炎を立てている。すでに来客らで広間は中央まで埋め尽くされ、ゆうに五十人は越えているかと見まわせるなか、上座には白無垢の打ち掛けに綿帽子で顔容を被われた闇姫がしおらしく端座している。僕はうっすらしためまいにも似た動揺に背を押されながら、浮遊の足つきで部屋の角をまわり座布団の隙を縫って指定の位置まで赴いた。
そっとうかがうようにかぶりを降る闇姫に目配せする余裕もなく、咳払いやぼそぼそとした声が入り交じる大勢の客人らがかもす異容にあらためて脅威を覚えてしまう。きつねの仮面といっても祭りなどで見かける白地に赤い耳や口の白狐ではなく、芥子色や土色をした被り物ばかりで、なかにはひげや眉毛がすすきの穂や羽毛の束のように飛びはね能面を彷彿させる類いも見受けられる。皆が黒装束であり唯一花嫁だけが白無垢となれば、碁盤に並んだ黒白の配列の対比を想起してほしい、それがいかに鮮やかな心象を描きだしているのかを。ましてや灯りといえばろうそくの燃える火が、橙色であったり、黄金色であったり、中紅であったり、真朱であったりする加減によって、黒衣一辺倒の広間には霊妙な雰囲気がひろがって、あながち冥暗に吸いこまれる怖ればかりを抱かせるのではなく、闇夜へ照射する勢いさえ保ち光彩陸離とした凄みを感じさせた。
きつねの面々もそんなまばゆさに囲繞されながら、様々な表情が陰影豊かにあぶりだされ、今宵の祝言の幕開けをおおいに歓んでいる。もげもげ太が僕の横に座ったとき、右端のそれほど遠くないところに儀礼にのっとって客人と同じよう面をつけたチューザーを発見した。一瞥をくれた僕に感づいたのか会釈をしてみせたのだが、いかにも他人行儀な葬儀場とかで出会ったふうの空気をまとっていて、一瞬不快な気持ちがしたけど捨て置く以外に仕方ないだろう。
この婚礼の儀はどうした式次第で執り行なわれるのか期待などしていなかったが、斎主も巫女のすがたはおろか、三三九度の杯も、祝詞を読み上げることも、玉串を捧げることもなくて、たぶん神式とはまた違った儀式なんだと殊更いぶかしがる必要もなく、各人のまえに添えられた膳をしみじみ観察してみた。
随分と型のよい真鯛の塩焼きが皿からはみ出している。それに赤飯のにぎりめし二個、どうやらワンカップ酒らしきものも供され、上質そうな割り箸も配されているのだけど、誰として手をつけようとはしていない。こんな仮面を被っていたら食べようにも無理なわけだから、この膳はあくまで飾りであってきっと帰りに持たせるんだろうって考えていたよ。それにしても全員が黙りこんでいるだけっていうのも一種不気味な光景だ。ところが段々とその寡黙がつちかっている真意がわかってきたのさ。
広間の右側はふすまも障子も除かれ、庭に面していたわけだけど、ろうそくの丈が目に見えて短かくなった頃、夜風がさっと部屋全体をなぞっていくように吹きこんだ。かなりの本数がその風にゆらめき、それまで仮面に秘された表情を炎と影がつくりだしていたと信じ、雑踏に映える夕陽みたいなものと類推していたのだったが、実は目線は隠されていただけで決してそれぞれに散らばっているのではなくて、すべての所見は僕と闇姫に一点集中していたんだ。まぎれもない確信に及んだのは、いつしか中空に現われた満月に照らし出され、広間にいままでとは異なったひかりが注がれ、やがて深閑とした集まりのうちから嘆息のような声色がもれだしたときだったよ。
月影がしめしてくれたのは、自然のなかに眠りかけていたまなこを刺激している、夜の帳に包まれた僕たち新郎新婦への激しい好奇心に違いない。僕だって面なんかしてるけど、こうして幾つもの視線が投げかけられていると思えば、熱してくる意気込みを彼らに投げ返してあげたくなってきた。そこで衝動的に面をはぎ取り素顔をさらしてやろうと手をかけてみたが、驚いたことにまるで張りついているかのように仮面はびくともしない。両手にちからを入れ何度も試してみたけど結果は同じだった。横合いからもげもげ太が言った。
「無謀な仕打ちをするものではありませぬ。今宵は至上の儀式、どうぞ最後まで大人しく客人と向かい合っていただきたい」
反論するつもりはなかったから、「わかったよ。婚礼をだいなしにする気なんて毛頭ないさ」と、薄笑いを伝えたい声で了解した。
僕の挙動に怪しんでいる反応は人々になかったようなので、観念して再び満月を眺めていると、どこからか囃子の音色がそよいできた。夜風に流れるさだめを心得ているみたいな、透き通って、闇の空間に掻き消えてしまいそうな美しい調べだ。一体誰がこんな音曲を奏でているのだろう。謎めいてはいたけど、もはやどこから聞こえてくるのか知れない囃子を詮索する気も失っていた。
笛や太鼓は月のひかりに応えている。徐々に高まる曲調にのって僕のこころは月世界に遊び、美酒に酔いしれているふうに闇姫の横顔をじっと見つめた。


[208] 題名:ねずみのチューザー30 名前:コレクター 投稿日:2011年07月18日 (月) 19時22分

闇姫との婚儀は出来るだけつまびらかにするつもりだよ。ここまで来たからはもう気おくれもないし、その日はまだ明るいうちから儀式特有の張りつめた、よそよそしい雰囲気が屋敷中に漂っていたので、身が引き締まる思いだった。じいとばあは朝からあれこれ立ち振る舞っていて、別に掃除とか飾り付けではなかったけど、とにかく忙しそうに部屋のふすまを開けたり閉めたりしていた。ここの家は毎日掃除がゆきとどいていて、廊下は火影を弾いてしまうような艶をたたえていたり、調度類こそほとんど目にされなかったのが不思議というよりか、ひとつひとつの間が適度な緊張を強いており、畳の表面には必ずひとの残像を吸い取ってしまう妖力が秘められているようで、欄間から天井を見上げてみてもそこに澄んだ空気がいつも保たれている感じがするほど、簡素を極めた清潔さがうかがえたんだ。
もげもげ太は早くも紋付袴で門前に日の丸の旗を掲げ、庭先に水を撒いたりして僕と目があってもいつになく気難しい顔つきをしていた。花嫁の闇姫といえば、朝餉の席にも現われず、どうも奥座敷にこもって衣装合わせに余念がないのは聞き出すまでもなく、鋭敏に伝わってくる。
僕は着付けにあとでまいりますと、ばあから言われていたので別段あちこち通わす必要もなく、座敷のまんなかで大の字になって冷気とともに忍んでくる緊張を、無造作に払う素振りをしていたよ。
ほんのわずかだけうたた寝をしたのか、竹林のなかから幾羽とも知れない数のすずめがいっせいに飛び出し羽ばたいていく夢を見て、瑞祥なのかなどと目をまばたいていた。
晩秋の陽は一気に山稜を燻った色に変え、辺りに薄明るさをしめしながら、やがて谷間や、川底や、軒下に陰った夜の敷物をひろげていった。すっかり黄昏どきの仄かな親しみが引いていった頃、小声をひそめる来客の足取りが地を伝わってきた。耳を傾けるまでもなく、横目で庭の方を静かに眺めると、まばらな提灯の明かりが宙に浮かんだふうに確認でき、その顔かたちまではっきり見通せないものの、行列とまではいかないが、途切れつつも相当数の人々が祝言に集っている様子。もげもげ太は来客のひとりひとりに黙礼で応えているのだろうか、短い会話さえ夜風に乗って運ばれてこない。さすがに着替えも済ましていない僕は落ち着いてはいられない気分になり、上半身を起こし廊下に出て行こうとする衝動に駆られた。が、どうしたものかまるで金縛りにあったみたいにからだの自由が許されず、焦る意識だけが尚も深まる夜の空気に絡めとられてしまう。ひんやりとした微風が頬をなでるのを感じながら、ねっとりしたあぶら汗がゆっくり首のうしろを垂れてゆく。金縛り状態は途方もなく長い時間に思えた。念頭にのぼってくるのは身支度を整える術であり、この部屋には用意させていない装束への渇望だった。
夜目ににじみ出す提灯がいよいよ列に近い密度で、門前の先まで連なっているのを呆然と見つめている。皆一様に黒装束と思うが、女性の来客は抑えた声色の具合でかえって性差を識別させているようで、それはともかく、彼女らも全員がまるで喪服を身にまとっているのではないかと目をこすってみたくなるほどに、婚儀に参集した面々は夜の申し子だと軽く身震いを催させたんだ。昨日、闇姫に無邪気に問うた言葉が不気味によみがえってくる。朦朧とした夜景は異様なる相貌を漆黒に塗りこめ、決してそのすがたを明るみにさらさせようとはせず、ひたすらに消え入りそうな提灯の黄ばんだひかりを制御している。夜空に目をやった。
「あれはまやかしだったのか、月なんかどこにも出ていない」僕はそう呪文を唱える語感で胸をいっぱいにすると、かつてこの地が猖獗をきわめた異形の民で満たされていたことに傾倒しまい、想像の羽を闇夜に羽ばたかせた。これまでとは一線を越えた、この妖異に溢れた死人の匂いは僕の総身に鳥肌を立てながら、血の気が急速にそこなわれていくのを体感させた。
点綴していた灯火がほぼ門内にのまれて、庭先は当然大勢の来客で華やいだよ。気がつくとこの屋敷の部屋すべてにも明かりは灯され、次々と履物を脱ぐざわめきが聞こえてくる。廊下にはまぎれもない足音を感じる。提灯は玄関先で消され、手もとから離れたけれど、この座敷のまえを渡ってゆく人々の黒衣が濃厚なのか、いまだ各人の全体を把握することは難しい、、、
視界が狭められているようで仕方なく、ちいさな穴からこれらの様相を見やっている気がした。数人の足取りが僕の目のまえを横切っていったとき、ついに彼らの顔を目撃できた。
「なんということだ、、、みんなきつねの面を被っているじゃないか」
あまりの場に驚嘆する間も置かず、僕は次なる怪異に見舞われていたんだ。いつ、着込んだかまるで覚えない、家紋入りの羽織袴、それに夜道を密やかに通ってきた客人らと同じく、僕もきつねの面を顔に張りつけている。確かに視界が狭いわけだ。
じいとばあ、それにもげもげ太がようやく正式の支度で現われたのはその直後だったよ。もっとも三人はやはりお面を被っていたけど、その声と物腰からすぐに気がついたし、口上もまた儀式とはいえ、それほど人格にまで定規をあてられた異形で毒されてはいなかった。
「大変お待たせ致しました。里の衆も皆いらして下さいました。これより甲賀流婚儀を執り行ないたくお迎えにあがりましたぞ。ご用意も万全でございますな。ではまいりましょう」
もげもげ太はまだ甲賀とか言ってるから、幾分か引いた血の気が戻ってきた。まったく、どこまで金目教を演じきるつもりなんだろう。


[207] 題名:ねずみのチューザー29 名前:コレクター 投稿日:2011年07月18日 (月) 19時16分

「朝餉を食べ雨戸によって再び閉ざされたされたひかりなき座敷で熟睡しろと、そして昼と夜の区別もつけられないなか、貴女と交わり続けるわけですか」
ほとんど怒号に近くなっていた僕の詰問に対し、闇姫は反論することなく黙ってうなずいた。実際にはここが終着点だった。すべてを言い尽くすどころか、僕の立場はここから一歩も踏み出せない仕掛けにはばまれていた。失った記憶への感謝も所詮は都合しだいで落胆に転じてしまう。
その後のあらましを書き記すにはいくらか抵抗があり、しかも君の想像通りだろうからあえて詳細はひかえたい。でもこの数日間、といってもほとんど時間の感覚も失せてしまっているのでくり返しを避けるために、多少とも衝撃的なことがらだけを話しておこう。
連日にわたって僕は闇姫の女体に溺れ続けた。朝餉だって夕餉だって、おそらく昼餉もあったかな、とにかくしっかり飯は食べさせてもらったし、リポビタンもユンケルも酒も茶も毎日飲ましてくれたよ。女体に飽きなかったのかと問われれば、即答できる。「飽きる間などなかった」とね。
闇姫は「また苔子と呼んでくだされ」そう人格変異の術で徹底してまどわしてくれたから。あるときなど「あなたさまを赤影と申してよろしいでしょうか、苔子の際には赤影さんとなりますが」と、琴線に触れる文句とともにしなだれる仕草で悩殺されてしまうし、湯船にも一緒に浸かったり極楽気分を満喫、もうすっかり愛欲生活にまみれていた。
僕にはもう薄々わかっていたんだ。生活はいつも安全日でしかも闇姫は自分を搾乳機と同一視しているのか、毎回きまって最後の一滴まで精を吸いとる。僕が種牛なのがここにきて判明したわけだ。これが鍵ならなんという喜劇だろう。しかもそんな環境に甘んじている僕も相当いい加減なもんさ。
ねずみはあれから姿を見せなかった。種牛が奴らの目的だったなら計画が遂行された今、顔を合わせる必要などなかったんだろう。もげもげ太とはしばらくしてから婚礼の打ち合わせで面会した。相も変わらずの好青年ぶりなんだけど、言っていることは酷い内容で、苔子との縁組みは金目様も祝福しておりますとか、闇姫の存在が自明なのにまだしらをきっているんだ。しかもこの婚礼のどこに意味があるのかさっぱり理解できない僕の境遇などまったく度外視したまま、さっさと日取りを決めてしまい、
「どうぞ、いたらぬ姪でございますが末永く可愛がっていただきとう願います」なんて、涙目で切々と口にするんだよ。すっかりふぬけになっていた僕は、闇姫愛しさから逃れられるなんて考えるだけでも面倒だったから冬支度に入るまえにはとの言い分に承諾してしまい、いよいよ婚礼の日を迎えることになった。
こうかいつまんで話しただけで、おおよその見当はつくだろう。ねずみともげ太は僕の胤を得んが為に画策してきたんだ。ただ、どうして僕なんかの血脈が求められるのかは疑問として徹底的に残る。以前チューザーに聞きただそうとして、埒があかなかったままなおざりにしておいたのがいけなかった。あのときは真意を探りだしたい反面、幼児期の光景が妙にまばゆく、原体験の核心に触れることがその年齢と歯車をしっかり合わせているようで、揺籃から抜け出すことに怖れを持ってしまい、ついつい玩具のままミューラー大佐を仮想の世界へ置いてきたように思う。どう推量してみても秘密結社の黒幕と、僕が手にしていたビニール人形との間には隔世の感どころか、逆立ちしても接点すらまったく浮かんでこない。この荒唐無稽な示唆にはなからさじを投げていたこともあって、いくら事情をつかみ取りたくとも空すべりの連続に終わるだけだと、自分の存在意義を吟味してみる意欲もそがれていったわけさ。そうなれば種牛に黙って甘んじているのも仕方ない、仔細はいずれ知ることになるかも、とにかくこの情況へ無闇に刃向かってみたところで結果は見えているし、なんらかの因縁があるだったら遅かれ早かれの問題だ。
今すぐ獲って食われるよりはまだましかなどと、心労をなだめすかしながら奇妙な婚礼に糸口を結んだ。明日の晩がその儀式となった夕餉の際、僕は闇姫から朗報を受けた。
「お喜びくださいませ、懐妊いたしましたようでございます」
何やら少々日にちが早いような気もしたけど、婚礼を明晩にひかえた心境には、ちょうど小鼓の渇いた音色が響く按排でしかなく、かえって幽玄な調べに幻惑されたよ。闇姫の満足気な面持ちを察することなく、小雨が落ちてきた外の気配が胸にしみわたり、冷や酒のほろ酔いで夜景の向こうに目線が泳ぎだした頃、雨水の軽く流れるような誘いにそって、静かにまぶたを閉じてみた。
一瞬障子の白さが残像として夜に挑んでいるかの鮮烈な印象がよぎってゆき、小雨と寒さに震えて鳴いている地虫の音が遠い山間まで続いている錯覚に聞き入った。耳鳴りにも似た微かだが、座敷の奥まで突きさってくる音感が心地よい。婚礼の段取りなど一切聞かされてないにもかかわらず、いやに泰然としているわけも深追いしなかった。ただ、ひとことだけ質問してみた。
「貴女は闇姫だから日中を避け、宵に式をあげたいのだろうけど、雨戸は解放されているのかい」
闇姫はいかにも良識を得た態度をしめすように、
「明晩は月夜でございます。今宵の雨は清浄なるしるし、深い秋の夜こそ月光がふさわしいものです」
と快活な声で言い放った。


[206] 題名:ねずみのチューザー28 名前:コレクター 投稿日:2011年07月13日 (水) 19時12分

じいとばあはそれ以外の無駄口は利かず盆を行灯の横に置くと身をひるがえし障子を閉めていった。
「夕餉からですから。いえ、もう朝餉の時刻です。お召し上がりくだせれ」
苔子はいつ着物を身にまとったのか、すでに裸身ではない。再び灯された行灯に妖艶な影がちらつく。僕のこころは二転三転しながら、ついに来るべきときを迎え入れたと、おののきつつも相手をいさめる語気で苔子に詰め寄った。実ることのない恋情を支えていた哀しみのほうが、どれほど幸せなひとときであったことか。
「苔子さん、貴女が闇姫なんだね」
「おっしゃるとおり、妾は闇姫。相まみえるのを願うておりましたのは貴殿の方とうかがっておりますぞ」
まさしく火花が散るみたいなやりとりだったから、苔子の表情も一変した。消えうせてしまったとは言いたくない、少女の面影はすでに湯煙にさらわれていたし、秘所に執拗なまで魅入ったうえ、からだを被う皮膚のすべてを愛撫しつくしたことで、一夜とはいえ僕は苔子に恋をした。それはもちろん幻の恋だろうけど、肉欲を通過した執着はもはや現実でも治まりはつかない。情熱はそう簡単に消えたりしないさ。何よりも僕はずっと闇姫を追い求めてきたんだ。
「やっと逢えたね。苔子であろうが闇姫であろうがもういいんだ。貴女のなかに苔子はいつもいると信じている」
「なにゆえ、そう言いきれます。妾の術であったとすればいかがいたすおつもり」
「術だって貴女が体得したものでしょう。だったら例え分身の術を使おうとも貴女には変わりない」
闇姫の目が一段と鋭くなった。でも僕はひるまず、その目から視線をそらそうとはしなかった。別に格好つけて話しているわけじゃないよ、実際には戦慄が走り抜けていったし、夜明けまで交わり続け疲労感もどんよりと重くのしかかっていた。それは闇姫だって同じだろう、一応からだに血が流れている人間同士とすれば。
それよりも童心に帰ったみたいな気分で苔子に執着してしまい、一夜限りとの言に打たれ、泣きべそをかきそうになった自分を見つめれば、この場面は恐怖や不安を単純に通り越して、案外救われているんじゃないかって。気になる異性と些細なことで口論しながらも胸のなかでは何かが華やいでいた思い出は君にはないだろうか。
「それならば貴殿はすべて承知のうえと申させるのでしょうか」
「ああ、闇姫を訪ねてここまで来たのです。もげ太さんから貴女のことを聞かされたときにどれほど驚き喜んだことか」
闇姫の視線が一瞬下向きになりかけたのを僕は見逃さなかった。そして、ここまで保持してきたものを瓦解させても悔いはなかった。
「闇姫さん、金目教なんて本当はなかったんでしょう。卍党だって。それからもげもげ太さんも傀儡甚内の子孫なんかじゃない。ねずみの話しにしても、、、」
「さればもう一度、お尋ねいたしましょう。なにゆえ妾に」僕はそこで言葉をさえぎった。無論きちんと言い分を確認する為にね。
「山中をさまようバスの行き先には、どうしようもない不安がこめられていたからチューザーからいろいろと話しされているうちに、僕は誘導尋問にでも乗る成りゆきで、郷愁を彩っている記憶を引っぱりだし、籠のなかの鳥がさえずるように言語として意味不明であるべき様相を選びとったんだ。ねずみが人語を操る、その不条理に対抗するには絵空事へと身を投じなければ。僕にはチューザーの存在がどうしても幻覚や幻聴だとは思えなかった。だとすれば僕自身も不条理を受け入れる土壌が別口で必要になる。奴の言い分ばかりでは片手おちだからだよ。そこで卍党を耳にした途端に、幻想が果たして現実味を帯びるのか試してみたんだ。するとわけなく闇姫の名前が確認できた。僕はここしか突破口はないと腹をくくったわけさ。もげもげ太には立場的に追う側にいれたと思う。だから不本意ながらこの里を甲賀と偽ってなるだけ早く貴女と対面させるしかなかった。姪というのも嘘だろう、夜伽にしたって礼式的な意義とは違う思惑が働いているはずだと感じた」
「では妾さえ闇姫などでなく、謎の工作員と危ぶんではおらぬのでしょうか」
さすがにすべてをここで言い尽くすのは無理があると思ったので、
「僕は不条理に飛び込んだわけです。貴女がその試金石といえる。なぜかといえば、僕は小さい頃にテレビで闇姫を観てから恋をしていたからなのです」
「これは随分とけむに巻く口上、妾のお株を奪いとるおつもりか。なれどそれもよろしいでしょう。貴殿は大変な齟齬に気づかぬ様子、不条理とやらの神髄をしかと見届けるがよい。妾もおちから添えいたしましょうぞ」
鋭利なまなざしが反転し、より秘められた危険なひかりを放ちながらそつない口ぶりで応じる。
「もちろんだとも、だけど闇姫さん、墓穴を掘ってしまったようだね。貴女の狼狽こそ僕の出方を探っているよ。しばらく僕に張りついているのが使命なんだろう。ねずみによれば僕は何かの鍵みたいなものを握っているじゃなかったっけ」
そこで闇姫は急に笑いだした。
「これはまたおかしなことを申される。記憶も定かでない貴殿がどれほどあがいてみても突破口とやらも、鍵とやらも顕現いたすことなどありえませぬ。ねずみ一族の心遣いをいかように感じておられよう。黙して刹那を過ごされてこそ身上、妾を好いておられるのならば」
「僕は美しくだまされたいんだ。確かにチューザーからにぎりめしなど食べさせてもらったり、気分を害するような態度もなく親切にされた。信頼もしていたよ。でも夜伽まで弄するのはつまるところ懐柔策だろう。貴女にも美しく泣かされたよ。雨戸が閉まる音を耳にするまではね。それから決定的だったのはそこに置いてあるにぎりめしさ。チューザーはこの屋敷にいるはず、そう直感した。昨夜の光景を天井裏からのぞいていたかも知れないと。大人の迷子にとってチューザーは心強い味方でもあった。だからその不用意なにぎりめしが僕にすべてをあからさまにした」


[205] 題名:ねずみのチューザー27 名前:コレクター 投稿日:2011年07月12日 (火) 14時39分

すべる手すりなんてと思いながらも指は割れ目をなぞり、無為な**に果てる瞬間を限りないものに高めてくれた。安っぽい感情だと知りつつ、存分に異性の魅惑を認めてしまったからには、一夜だけの恋もあり得るのだというふうに。
それから僕は出来る限りの愛撫をもって苔子の肉体を隅々まで探査し、敏感な手応えを覚え、ひたすら責め尽くしては体位を替え何度も交わった。いやらしくもうるおう「わたくしのほうが好きものかも知れませぬ」という言葉は薄っぺらい媚態にとどまるのでなく、あの激しい吸引をあとにほぼ受け身とまわり、苔子から積極的な技巧で弄ばれることはもうなかった。ただ身をくねらせては熱いささやきで、僕の興奮をなだめ、あるいは募らせ、執拗に秘部をなめつくしたときも、その潮の香と柑橘類が溶け混じったような匂いに溺れている忘我を讃えるべく、夜のしじまを破るよう嗚咽があげられるのだった。
どれだけ裸身が入り乱れていたのか数えられなくなった頃、僕は余裕の目線で苔子の肉体を観察してみた。
行灯の鈍いひかりがもどかしく感じる。白く優雅な曲線のなかに描かれた裸像はたっぷりと味わいつくしたつもりなのに、この手の残る感触はすでに遠く記憶の彼方に向かって放れ去ってゆくようで、いたたまれなくなり、すぐにでも全身で強く受け止めたい欲求に苛まれてしまう。だが、一呼吸もして焦心が落ち着いていまうと、つい今しがたの肌触りや肉感がよみがえってきて、ふくよかだけでない乳房の張りがやや垂直に抵抗しがたい熟れた加減や、へそから腰まわりにいたる肉づきが少女のそれではなく、くびれを残していながらも下腹に脂肪をたくわえているのが、ちょっとした動きのうちに艶やかに映り、正座したままの両腿にもなだらかでまるみのある柔肌は、薄明るさで膨張して見える。そして暗さによって仄かにしめされている小さな逆三角形をした恥毛の草むらは腿のつけ根で隠され、卑猥な感じを生じながらもどこか清楚な野草を想わせる。
かなり汗ばんでいたのは苔子も同様、夜目にも白いからだの表面に張りついた水滴は真夏の湿気を呼び戻し、毛穴にまわとりつくあの不快さを一歩手前で、そう、秋の乾燥した空気によって細やかな水晶に精製してしまい、尚のこと裸体をなめらかにしていた。
行灯は確かに明かりを失っているようだったよ。廊下に面した雨戸は閉められた様子がなかったので、容赦なく朝陽が差し込んできた。この季節の黎明は長く、そしてはかない。苔子との一夜は夏日の勢いで燃え盛ったとうなずいてみても、こうして夜が大地の反対側に退いていくのはやるせない気分だった。
苔子の黒目にも翳りから解放されている放心みたいなひかりがある。儀式はつつがなく終了したというのか。夕陽とは反対の気軽なくせに制圧的で朗らかな陽光がこうなると疎ましい。さすがにもう一度苔子に挑むのは断念されたけど、黎明にふさわしく彼女の肉体を愛でることが出来たのは有終の美に思えたんだ。
照度はいきなり増さないが座敷の隅まで明るみが及んでいる。裸身ばかりに見とれていた僕を揶揄するふうに苔子はにっこりと笑顔を作ったまま、姿勢を崩そうとはせずに無言を通してした。おそらく外はまぶしい秋晴れだろう。陽射しだって季節の情緒以前に能天気なくらい強烈に違いない。この座敷にいる限り僕のこころは悲哀にとらわれてゆくだけだ。「苔子さんも一緒に哀しんでくれよ」そう叫びだくなるのも、いまさら妙な笑みなんか浮かべているからじゃないか。「夜伽」の成果がこんな気持ちへと結ばれていくというしかないのなら、それは仕方ないかも知れない。それに、享楽の限りにひたっておいて虚しさを直ぐさま呼びつけるのも大人げないよな。どうしたんだ、すっかり骨抜きにされてしまったみたいじゃないか、そんなひとりごとを唱えてみれば、「どうしてそんな冷たい目をしているのですか」と、肌が触れあうまえにつぶやいた苔子の不審がとっさに脳裏へ返ってきた。それから多少の笑みもこぼれると嘆いていたことも。
僕は思考だけを逆まわしにして悦に入っていったのだろう。それが最適な方便だと信じ、たぎる性欲をコントロールしようと試みた。ところが夜明けに流れ去る感情はまるで最初の段取りとは正反対で、激流にのまれてしまい自分を完全に見失っている。精々手もとに取り残されたのは、どうせ奸計にはまるのなら悦楽のみを重視する気構えを持ち、あとは虚無を受容するという駆け引きの反故だった。なるほど無用の紙切れは残されたが、この執着心は疑うまでもなく苔子へ愛欲だけだ。
思い出せ、チューザーに連れられみかん園に行ったときの出来事を、、、あの見知らぬ母子から差し出された離縁状こそ反故されるべき代物であるはずなに、通行手形などと言い含められてしまい、うやむやなまま道中を続けた真意はどこにあったのだろう。
そのときだった。朝陽を浴びて居たたまれなくなった座敷の明るみが嘘のようにもとの薄闇へ戻ってしまった。理由はすぐに判明したよ。廊下の雨戸が閉められたんだ。あのぎこち悪くもありさり気ない音は記憶の倉庫にしまってあったから、すぐに分かった。それに、じいとばあが極々ありふれた顔で、
「たいそうくたびれたでございましょう。雨戸を閉めておきましたのであとはごゆるりとおやすみくだされ」そう言って、盆にのせたにぎりめしと椀を持ってきた。
いたずらにしては不可解とかしげるところ、何て光景だ、僕は確かこどもの時分、日曜の昼ひなかに家人のいないことを幸いに雨戸を引いては真昼の暗黒を楽しんでいた、あの不気味な追想が鮮やかに描きだされる。だから、これはちっとも不可解なじゃない場面じゃない。君にもそろそろ読めてきたはずだ。ああ、陽は当分昇らないだろうって、、、


[203] 題名:ねずみのチューザー25 名前:コレクター 投稿日:2011年07月11日 (月) 02時58分

満腹感となんだかんだの疲労が重ったのか僕は睡魔にさらわれてしまった。升酒の酩酊というより、バスに揺られ、屋敷へ通され、座敷の畳につかの間だけど安堵を見いだし、湯船で温まったうえ、魔に魅入られた情念が開花して、日暮れ次第に深まる宵闇へと青白くも鮮烈な電流がほとばしる。
「不都合ならばどうぞ就寝のままにて」という苔子の言葉が耳の奥で幾度もこだまし、欲情をなだめすかす役割に忠実であろうとしていたのだろう、醒めた意識に柔らかな面紗を掛けられるのは、確かに夜の甘美な戒めだ。
決して熟睡していたとは思えない。ゆっくり瞬くようにして視界を徐々に閉ざしながら、身が横たわる感覚を宙に浮いた鈍さで知る刹那、じいとばあのよくは聞き取れないが、ことさら困惑した気配も伝わらない首尾を心得た会話は、まるで催眠効果のごとくに僕から流露した夢想の導入部に違いない。
座敷に揺らめていたのは行灯の影だとぼんやりした意識が輪郭を取り戻し始めたのだけど、薄暗い室内の様相をはっきり認めるには覚束なかった。何より感じたのは酒食で熱を帯びていたからだの表面を包みこんでいるひんやりとした肌触りにほかならず、察すれば、僕の体温を吸収するこの布団の冷ややか具合から、どうもさほど寝込んでいたわけではないという目覚めだったよ。
天井の明かりは消されていたから、枕もとへ置かれた行灯に目が吸い寄せられたのも当然だね。そのうち、何やら影が視界にぼっと浮かんでいるのがようやく定かになったとき、局面がひらけると同時に暗闇へ配慮を示しているようしとやかな声がもれてきた。
「お目覚めでございますか。斯様な所作をお許し下さいませ。一夜のおなぐさみなれど共寝いただきたくお願いにまいりました」
苔子の口ぶりにはどこか哀感がこもっている。酒酔いの残りによるものでないけど完全に思考が復活しないまま、僕はあえて眠気に誘われる調子で夕餉の満足を、風呂場の湯煙に秘匿された快感を、門前で初めて苔子の容姿を見いだしたときめきをフィルムの逆まわしとして脳裏にめぐらせたんだ。そうすることが、苔子に対する礼儀にも思われ、また情況に接した緊張をほどく手段にもとれた。
「夜伽」という言葉の響きを厳粛に受けとめてしまえば、その隠微でありながら高まりつつある欲情に水をさして、興を削いでしまうだけでなく下手をすると鎮火によって、すべてが義務づけられた足かせになってしまいかねない。色仕掛の妙策を自覚してしまえば、残されたものは服従と引き替えであることは瞭然、まえにも言ったけどせっかく古風な情趣を演出してくれているんだ、味気のない契りに心身を投じるのはあまりに虚しいよ。これから目の当たりにする苔子の裸身を堪能するのは例え束の間の悦楽だろうが、豊かなときを確実に約束してくれる。だからこそ面前の緊迫から解放される為、自己演出が要求されるんだ。苔子の声色にもそこはかとない哀しみがひそんでいる以上、儀式はいったん閑却される。
実際の女体に色香を直接求めず、さながら**が初体験時に怯懦を克服するよう、直視を避け、かつて自慰の対象となっていた想像世界を陶然と見つめ返すに等しく、自らを奮い立たせるのさ。筆おろしと今の情況ではいささか違いがあるだろうが、未知なる場面を選択する自由において何の隔たりがあるというのだ。
僕の意識はそうやって眠た気なまなざしを頼りに意図された性欲を制御しつつ、至上の高まりをめざし行灯の影に寄り添った。
「どうしてそんな冷たい目をしているのですか」
どうやら苔子に僕の気持ちは通じているらしい。
「冷たくなんかないさ。苔子さんがとても奇跡的だから驚いているだけだよ」
「ならば、多少の笑みもこぼれましょうに」
おそらく僕の表情に変化はない。が、冷淡な言葉を保ち続ける意志は届けた。
「ほら、貴女はもうそんな優しい顔で驚いているじゃないですか。その満面を僕はしっかりと見つめていたい。わかるだろう、僕は今から優しい顔に隠されたからだと交わるんだ」
苔子はそっと目を伏せながら、白い歯をほんの少しだけ覗かせた。そして行灯を背でさえぎる格好で座ったまま帯を解き、着物をゆっくり脱ぎ始めた。紅い半襟は夜目にまばゆいはずなのに、明かりが塞がれた座敷は鮮明な彩りを投げかけることはない。際どい色合いよりも今は制約され煤けた暗渠を好んだ。灯火に映える水面を遠目にし、ほくそ笑む自分を慈しみながら、台所の底を這っているナメクジの陰湿な軌跡を愛した。夜風など入りこむ余地はなかったけれど、こころのなかは秋の月をもかすめていくような涼風を得て半身を起こすと、すでに素肌をあらわにしている苔子に手を差しのべた。
夕暮れには白襦袢に透けていた実り豊かな乳房へと顔をうずめる。仄暗い空間でも裸身は接するほどに白く発光している。その胸の谷間には青い血管がほどけた糸のように細く浮いて見えた。からだはまだ火照りに制覇されていない。上布団をはねのけ、女体と横並びになる格好で両腕をしっかりまわした。互いの面が視線と共に向き合ったとき、一層腕にちからがこめられるのが我ながら悩ましく、が、おそらくは伏し目になっていまうだろう一瞬を逃さずに吐息も飲みこむ勢いで唇を重ねた。半開きの状態を維持しつつ舌先を少し絡めてみる。声にはならない、かといって呻いているわけでもない呼気が舌の奥から熱気となってもれだし、ふたりの唾液は純度を増していき、案の定すでに閉じられた両のまぶたを開かせる興奮が荒い口づけとなってぬめり、歯の裏まで僕の舌は触れていた。


[202] 題名:ねずみのチューザー24 名前:コレクター 投稿日:2011年07月05日 (火) 03時36分

夕暮れは一気に深まった。秋の宵口に歩調を合わせたのはいうまでもないだろう。夕餉の膳を運んできたのは門前で挨拶を受けた、じいとばあだった。いつの間にやら天井の明かりが座敷を静かに照らしている。こんな古い家屋だから燭台とか行灯が具されているのかと案じていたけど、以外と電気が通じているんだ。そういや風呂場周辺に薪の燃える匂いはなかったようで、もしかしたらガス湯沸かしだったかもね。
家の外をじっくり見回したりしてなかったので、はっきりしたことはわからないが、走行距離は長かった割にそれほど標高ある土地特有の空気ではないような気がする。山深い里であるのは違いないみたいだけど、近くに山村が開けていて他にも民家があってもおかしくない様子がした。本当にここは甲賀なのか、そんな疑念もかすったりしたが、実質的に重要視されるのは映画のセットがいい雰囲気をかもしてくれて、金目教の末裔やらが似非史伝とともに存在しているというときめきに尽きるんだ。
じいがいうにはチューザーはねずみの会合に出かけてしまい、どうやら僕ひとりこの座敷で食事をすることになってしまった。もげもげ太も苔子も一緒でないあたり、またチューザーも伝言だけ残して居なくなってしまうなんて、幾分よそよそしさがあるようにも思われ一抹の不安も翳ったけど、「夜伽」を待ち受ける側からすれば、この方が気楽といえば気楽で、これも細やかな心遣いかと内心うなずいた。
座敷に運ばれたてきたものは、こころの片隅にとって大事な栄養素となる夢見の確信であり、薄暗くなった夜気にまぎれこんだ香しい罠だった。湯煙の向こうに見え隠れしためくるめく悦楽がこんな近くまで忍びよっている。僕は自分の顔に遊戯の始まりを確認した歓びと、その敗北を知る不敵な笑みを同時につくりだしているのを感じ納得した。
料理は山里にふさわしい品々で、川魚の甘露煮、茸と山菜の天ぷら、柿のくるみあえ、茶碗蒸し、大根のみそ汁、おろしそば、それに赤飯も添えられていたよ。あと升酒。
どれから箸をつけようか思案するまでもなく、升酒に手をのばしかけて、やっぱり川魚からいただくことにした。目のまえに膳を並べられると空腹感が一層募ってきたからね。
「これはヤマメですか」
「左様でございます。この辺りではよく獲れるのです」
ばあが目尻をさげながらそう答えてくれた。茸や山菜も同様に種類など尋ねてみたかったけど、今度はじいが詳しく説明を始めそうだと勝手に決めつけて黙って口にした。ああ、おいしいかったよ。山菜は名前は思い出せないけど春先によく見かけるものを塩漬けにでもしてたのだろう。茸は今まで味わったことのない肉厚で歯切れのいい食感だった。茶碗蒸しは対照的にとろけるくらいのだし加減で舌にからまり、具材として閉じ込めらている、ぎんなんやたけのこ、魚のすり身のような固まり、椎茸などが柔らかな黄味のなかからつつまし気に顔をだすと、僕の気分もなごやかなになり升酒をひとくち飲んでみる。木の香りこそ酒に移ってはいないものの、唇と一緒に上下の歯が枡のふちに微かに触れて、異質な感じを口内にあたえてくれた。軽くのつもりが勢いを増したのか喉ごしもあきらかになり、一気にあおってしまいそうな調子だったので、代わりにみそ汁の椀を手にした。別にひといきに飲み干してもよかったけど、空きっ腹に染み渡るのがしっかり分かったからほどほどにしておいたんだ。だって最初のひとくちが流下した途端にあたまの中がくらりと揺れるのを実感したから。
酔いがもたらすのは揺らぎだけではないね、すかさず含んだみそ汁のなんと程よい塩梅、千切り大根と油揚げの相性も加わって、鰹だしとみそがあらゆる記憶を溶かしこんでしまうかと思えるくらい、濃密でありながらあっさりとした味つけ、それがまた塩気を脇にかかえつつ佳味に転じてしまう。この芳醇さ、懐かしさも通りこんでしまい根底に横たわっているものは一体何なんだろう。遥か遠方に気持ちがめぐりかかったとき、不意にねずみのにぎりめしを思い浮かべたのも仕方ないこと。あれからどれだけ時間が流れたのか、つい昨日のようであり、随分と日にちを経た気もする。そんなときの推移に目配せでもするよう小茶碗に盛られた赤飯へと意識がうながされていたものの、この品だけはどうにもいわくつきではないかという観念が離れず、青磁皿に平たくのせられたそばへと食指は動き、その大根おろしは、さながら台地の中央に降り積もった白雪を彷彿とさせては、すでに味覚を先取りしてしまったかの錯誤させ生じてしまう。汁はやや深みをもった青磁皿の底にひたされている。自然が織りなす色彩を損なうような所懐にとらわれながらも、積雪を掘り返して土と交じり合う要領で、箸の先は水分を滴らせおろしそばを僕の口まで上手に持ってきてくれた。そば粉独特の滋味にわずかに辛みを帯びたおろし、そして両者をなだめるように主張してやまない汁の奥深いこれまた鰹だしの濃い味わい。
みそやだしに秘伝が備わっているのは訊くだけ野暮かと、じいの面持ちをちらっと見てはためらっていたが、絶妙なそばを食した矢先、
「このそばは手打ちなのでしょうか」と、意気さかんな声を出してしまったんだ。
「いえ、これは市販の乾麺でございます」
じいはもそもそっとした口ぶりでそう言った。
「あ、そう」
僕の反応に揚々とした響きがなかったけど、別に落胆したわけじゃない。十分な夕餉だった。


[201] 題名:ねずみのチューザー23 名前:コレクター 投稿日:2011年07月05日 (火) 03時34分

再び訪れた沸点のあとを湯で流し、自若として風呂場から出た。脱衣所らしき手狭なところだったが、苔子に連れられここで衣服を脱いだ記憶もおぼろげで、多分それは宙に浮いたような心持ちのせいだったろうけど、入り口なんていつも覚束ないものだと苦笑いしてしまったよ。いまは一応出口だから平静な目で足もとやら壁やらを眺められる。籘のかごに浴衣らしきものが折り畳まれているのは、僕の為に用意されたに違いない。だが、それまで身につけていた衣類はどこにも見当たらず、ましてやどんな格好であったのかさえ完全に忘却してしまっていた。まわりの土壁は電球の明かりを吸い込んでしまっているみたいに、鈍い反射で取り囲まれている。鏡もなかった。
すると今しがたまでの欲情が別のすがたで立ち現われてくるような気がして、幻惑のなかに泰然と居座っていた不遜な思いは失意にも似た影に招き寄せられ、悔恨の情へかられていった。とはいえ、それほど深く滅入ったわけでもない、ただ何となく物悲しくなっただけさ。底意地の悪い戯れとも見なしたくなかったし、鏡の有無をあえて問いただしてみる気力は、続けざまで放出した精の気だるさに従い虚脱を覚え少々萎えたに過ぎないとね。
柔らかそうな白いバスタオルも置かれていたので、秋の澄んだ空気も手伝って汗はたやすく拭われ、浴衣だとばかり思っていたものが、真新しい作務衣であるのを知ったとき、萎えた気分は不思議に速やかに遠のいてしまった。生成り色した上下の脇には同じ色合いの下着も添えられていて、無心のうちに着込んでみた。木綿の肌触りがとても心地よく、作務衣を見下ろしている自分の表情さえ思い浮かんでくる。
勝って知った心意気でひとり苔子に案内された廊下に出て座敷に戻って、畳に寝転がってみてようやく、淫靡なささやきを胸のなかに解放する出来たんだ。あれは「夜伽」を意味しているんだ、と。そしてそんな歓待を受けることを訝し気に計ってみるよりも、素直に情況を認めてみれば、どうにも避けがたい渦のなかに巻き込まれているのが判然とするじゃないか。推論に狂いはあるまい、もげもげ太の計略によるものか、チューザーの指令なのかは見通せないが、こうまでして僕を引き込みたい思惑には首尾一貫した信念が感じられる。色仕掛けをもって味方に取り込む手管は古今東西、定番だからね。
僕が安堵したのは、いくらでも可能なはずなのに彼ら決して威圧的な手段を選ばず、こんな古風な筋書きでより深い接近を望んだってところなんだ。ここらで再度この奇妙な立場を理解するのに肝心な部分を整理してみよう。
世界情勢とか国際組織には無縁だと考えていたこれまでの自分を取り巻く現実は、静かに音を軋ませ歪みかかってしまっている。偶然というかたちにしろ、僕の方から臨んだとは了解するにはかなり無理があり、何故かは分からないけど記憶の大半をなくしたままで、邪推を含めれば記憶の剥奪もひょっと計画的かも知れないけど、とにかく彼らの活動に協力する羽目になっているようだ。しかも洗脳による一方的で暴力的な参画を求めてはおらず、あくまで僕の決意を重視しているのがこれまでの接し方から十分うかがえ、そこに謎は沈滞している。以前確か現象学に触れたことがあったよな、徹底した懐疑をもってふるいにかけるよう本質に迫ろうという態度だ。もちろん想像とかの余地も残されてはいるし、五感をくぐり純正培養される残滓から導かれる答えがすべてとは言い切ることは乱暴すぎて、疑念が常に付随してくる動的な思考を捨て去るのは経験主義以前のひとの業だよ。だってひとの感性なんて受け身だけでは割り切れない、つまり受け手であると同時に僕らは意思をそこにはらませ、交換とも呼べるやりとりがいつも稼働しているからさ。闇夜の道中を懐中電灯で照らす、現象はひかりの世界に浮かびあがり道筋を明瞭にさせるけど、そもそも明瞭にさせたいのは闇雲にあたりを照射しているのでなく、夜道を安全に渡って行きたいという願望に強く裏打ちされている。
世のなかであれ、身近な道のりであれ、場面の選択であれ、僕たちが照らしだしたいのは根源的な箇所に限定されるほど高尚な質だけではない、もっと卑近で猥雑な目移りも同居しているわけさ。だから現象学が後に批判される最たる要因は、懐中電灯の機能にあるのじゃなくて、その発光体を握りしめた手、更にいえば光源そのものに潜む欲望を半ば切り捨てようと意識した不用意にあると思う。照射される道筋だけをたどる行為はそれ以外の世界を認識から葬ることで、残念ながら新たな二元論を擁立させてしまった。ひかりを記述に置き換えてみれば一目瞭然だね、記述自体は必ずしも精確とはいえない。
無意識の心理学が結局、思弁を駆使した仮想のうえに成り立っているように、厳密な意識もまた幾重にも折り重なる綾を追う終わりなき幻想に最後は出くわす。かといっても無理強いしてまで意識を分断してしまうのが正しいのか、どうかは僕にはよく分からない。ただひとつだけ明言したいのは二元論を許容した時点で、あの世とか異界が、もしくは絶対的な代物が台頭しざるを得ないという仕組みなんだ。
僕は感謝しなければならない、記憶が曖昧な事情からの出発であり、ある意味純粋な思念だけを見届ける境遇にいるから。
鏡は脱衣所の土壁に掛けられていたのかも知れない。僕はそこに映った顔を認めまいとしただけかも知れない。だが、どちらでも一緒ではないだろうか。意識の領野を追い求めては探りつつ、切実に道標を乞いながらも異界へと迷うことに分け隔てはしたくない。ひかりは闇と共にある。


[200] 題名:ねずみのチューザー22 名前:コレクター 投稿日:2011年06月28日 (火) 06時03分

それは座敷へ届けられた障子に透ける夕陽だった。少女の肌にしめされた残照は僕を自由にした。薄地にのぞく柔肌にとらわれたには違いないだろうが、肉体に太陽の証を見つけた限り、突発的で一過性の欲情では収まりの効かない高揚に襲われてしまったんだ。湯煙はそんな胸中をさり気なく曖昧にする。だから一層自由になれた。
からだの隅々といったけど石鹸泡は僕の腹部から垂れてきたもので、まだ下半身そのものに苔子の手が触れたわけではない。胸から腹のあたりで躊躇いが見られる様子もなかった。きっと次は太ももに手がかかると思っていた僕は、生地の薄さによって染みこんでゆく襦袢に見とれていたから、別段その先への感覚に敏感になってはおらず、むしろもっと能動的な肉欲につき動かされそうだった。少女の胸にへばりついた生地はほとんど水着の加減で、その豊満な乳房を薄皮のように包みこんでいる。まして白地ゆえの幸いか、桜桃のような弾ける赤みを秘めた**もしっかり浮かびあがって、鮮烈な印象をあたえながら刹那、紅白は反転し女体が血染めにかがやく光景もよぎりさえしたよ。こうなれば妖艶な肢体が包み隠されているのは間違いないだろう、どうして今まで気がつかなかったのだろうって、狐狸にたぶらかされているのを承知していたはずなのに、朦朧と過ぎ行く気配に隠匿していたのは僕自身、諦観やらの産湯とはき違えるどころか進んで意気を沈めこんでしまった仇なんだ。苔子は顔のつくりこそ小娘の瑞々しさに形とられているが、実際にからだつきをうかがえば未成年なのやら、童顔にすぎないだけなのやらよく判じられない。笑みをあらわにしない態度は人見知りからくるというより冷徹な陰をひそませていたし、口数の少なさも隙をつかれない護身に思われてくる。
「苔子さん、もしかして、、、」
僕の欲情と共に噴出した理性は当然ながら見事に均衡をなくしてしまった。たぶん問いかけなど蚊が鳴くほども声にならなかったろう。へそに生暖かいものを感じた矢先、僕の股間はくすぐられるような気分に圧倒され、顔先には哀訴へと堕ちてかかっている切ない苔子の表情が迫っていた。
お互いが吐く息もかかるほど近づいたにもかかわらず、視線のひかりを的確に定めることはどう委曲を尽くしても難しい。きっと僕の目も似たふうな色合いに傾いていたと思う。だって、苔子の内情はどうあれ立場的には攻める側にいたわけで、僕はすべてが無防備なうちに快感へと連れ去られてしまったから。
手ぬぐいでさわるのが作法に則っていないと判断したのだろうか、それともこれが最適な慰めと、あえて野に咲く花を手折る心情で接してくれたのだろうか。手つきはもはや入浴に付随する行為から逸脱してしまい、くつろぎのひとときは完全に消えうせて、燃えさかる炎に接近するばかり、掌で揺さぶられるものは最初の数秒だけ驚きに戸惑ったけど、それからは脳髄まで直撃する快楽に身を押しとどめておくのも不可能で、根元からきつくいきり立ってしまっている棒先から精が噴き出すのも仕方のないことだった。ほんのわずかだったよ。石鹸のすべりもあって、苔子の指先は固定されたまま技巧を弄するまでもなく、いとも簡単に絶頂へと導いてくれた。下半身全体が虚脱しかけたとき、ここで何が起こっているのか疑ってみたいような、天の邪鬼な心根も出かかったが、それより間近にまみえる苔子の唇をかすめることを一心に願いながら結局未遂に終わり、果ててしまったんだ。
自分でも信じられないくらいの勢いで精は飛び散った。本当いっぱい出た。**が透けているあたりに付着しているのも瞭然で、頬やらあごやら眉毛にも痕跡はあって、束ねられた黒髪にも僕の液が認められたのには、ある意味こっちが攻める側であったのかと妙に感心したよ。
放出後は無心に近かたっけど、湯上がりまでの情景は網膜に焼きついている。それから苔子は股間に湯をかかてくれ、乱発射してしまった精を手ぬぐいでそっとふき取ると、さっきよりもっと顔を寄せて僕の耳元にこうささやいた。
「今宵、あなた様の床にまいります。不都合ならばどうぞ就寝のままにて」
返す言葉をのどにつまらせながら、ほとんど反射的に彼女を抱きしめようと腰を浮かしてしまったんだけど、両腕は肩さきにかかったものの、つかまえられずにそのままするりと輪が抜けていくみたいに身をかわされた。そうなんだ、今宵と明言しているじゃないか、ここで慌ててどうする。苔子の素早い動作に驚嘆しつつ、わずかだけど僕の両腕は女体の輪郭をかすめていた。
立ち上がりこの場から退くとき、無言のままで眉根によせたものが、困惑なのか、期待なのか、哀しみなのか判別出来ないなか、やはり湯気をなぞったのかと内心ほくそ笑んだその訳は襦袢を透して見知ったより更に、総身成熟した芳香をまとっていたからさ。僕は考え直した。強引に呼んだんじゃない、夢は向こうからやってくるとね。
叶わぬ夢を嘆く必要もないし、苔子も含め僕をとりまいている情況をにらんでみても仕方ない。決して気持ちが整理されたとかじゃなかったけど、苔子のささやきが吐息となりまだ耳に残っているような気がして、その一途な情動をかけがえのない証とする為に僕は湯煙を相手に、自らもう一度快感にひたってみた。


[199] 題名:ねずみのチューザー21 名前:コレクター 投稿日:2011年06月28日 (火) 04時00分

白襦袢姿の苔子は見ようにもよるが、決してなめまかしい雰囲気でたたずんでいるわけでもなく、もとの無表情な面に帰っていたこともあって、どちらかといえば巫女を想わせる粛然とした容色に支配されていた。それは湯船に浸かっている僕が丸裸であることを差し引いたうえでの順当な見解だけどもね。
すると、意識は本来劇的な方向へ突き進むべきはずのところ、さっ**ったように僕の湯煙と向こうの冷気はあくまで緩やかに交わっていあったから、激しい高ぶりは抑止されていた。だからこそ、苔子から立ちのぼる香りに秩然たる匂いが感じられたに違いない。こんな説明の仕方だと僕らの間に、まるで儀式めいた要素が存立してるといわれそうだけど、それもまんざら無理もないことだよ。苔子はもげもげ太の姪だというし、これは一族にとっての歓待のあらわれだとすれば、その先に繋がる結果もおおよそ予測できるじゃないか。僕が考えている以上の振る舞いは情欲に堕する質だろうから、つまらない下心は持つべきでなく、社交ダンスに興じる気分で相手の出方を察すればいい。
とはいえ苔子から「湯から上がってください」って、ささやきにも似た口調で乞われたときにはさすがに勢いよく湯船をまたぐわけにもいかず、つまり手ぬぐいもなにも持ってなかったので自然と下半身だってさらしてしまうし、けっこう気合いがいるだろう、素手で局部を隠しながらなんていう格好もあべこべに妙な具合になるなんて考えていると、なにやら気まずくなってしまうばかりだったから、懇願でもする目つきになっている自分を痛感してしまい、そっと苔子の顔を盗み見てしまったんだ。
早くも少女に先手を打たれ、その気色ばむ様子のない態度に屈してしまった僕は、社交ダンスどころではく、汗ばむ手に気をとらわれ狼狽する呈でまごついていたわけだけど、苔子の抑制されている心得が嫌というほど分かりかけると同時に、次は別の意味で自分が恥ずかしくなってきた。その意味を悟られるのも心外だったので僕は素早く、背中を木戸に向ける姿勢で横向きに湯船をまたぎ出て、いい案配で床に置いてあった木の腰掛けに座りこんだんだ。こうすればとりあえず全身をさらすこともない。背面に目があるとかの達人や超人にはまったく及ばず、僕の背中は案じたより鈍感だったみたいでようやく一安心したわけ。その間に一切口をきくことはなかった。耳を澄ますまでもなく、桶が湯を汲む音がしんみりと聞こえてくると、右肩にほどよい力が添えられ石鹸の匂いが背後から漂ってきた。垢こすりみたいにゴシゴシ擦っているわけじゃなかったし、かといって肌をなでつけている加減でもなったので徐々に苔子の手つきに慣れてきて、背を向けていることも加勢したのか、またまた冷静さを取り戻したというと聞こえは良いけれど、正直なところ不純な成分が石鹸で洗われたのだろう、純情なまっさらな欲望が鎌首をもたげだしてきた。
一通り背や腕を流し終えたその先はどの向きへ移るのだろう。まさか、くるりと反転して胸やら腹まで洗ってくれるというのか。苔子の平然とした口ぶりに対し鼓動はますます激しくなる。肉体が触れあうかも知れない望みをとらえる興奮がすでに訪れてしまっている。桶から注がれる湯も滑らかに背中を流れていったから、これで終了だと思った僕は「ありがとう、あとは自分で」と、言いかけて口をつぐんでしまったんだ。
言うより早く苔子は「ではまえを向いてください。遠慮などなさらずに」、駅の売店なんかで若い売り子が素早く品ものと釣り銭を手渡す場面さえ彷彿とさせる、事務的な態度でそう申し出る。
面映さもこうなれば、湯船で火照った肌から立ちのぼる熱気にまぎれこんでしまい、言われるがままに石鹸のぬめりも手伝って腰掛けのうえを反転し全身をさらした。まるで恥じらう**みたいな言い様に聞こえるだろうけど、この屋敷の門で初めて少女を目にしたときから紅葉の反射とは違った明るみにほだされ、軽い会釈のうちにとどまる感情を緩めていたようだし、何よりその緩められた安全弁の在り処を黙殺しかけた仇が今こうやって、逆転しかかっている。
口調とはうらはらに苔子はさきほど見せた微笑とは異なる目つきをしていた。僕が裸であることをどこかで有利に感じているのか、もしくは少女である身を誇らし気に認めているのか、年齢差などまったく意味をなさない永遠の性差だけが抽出され、裸身と白襦袢、その一枚の隔たりに守られるようにした距離が僕の髄液を妖しく培養する。少女は確実に羽ばたいていた。脱皮したての蝶が草地をもの珍しくひらひらと飛んでいる。秋の空は季節の転倒を許し、紅葉の色調に目配せでもするように笑みを投げかけていた。
僕の目はどこにそよげばいいのやら、思慮するまでもなくゆらゆらと幻影のごとくにある苔子の表情を見つめる以外ない。
胸に手ぬぐいが触れた瞬間にはもう開き直りに似た落ち着きを覚えて、複雑な層から浮かびあがるとばかりに考えていた笑みがそれほど重力に抵抗せず、ごくありきたりで幼稚な、そして健気であることが垣間見えてきて、僕の肌を優しくこすっている手つきと表情が不可分だと知れだす頃には、妙な気分は離れさってしまっていた。過剰な色香は訪れたのでなく、僕が強引に呼び寄せたんだ。湯煙は自在に立ちこめていたよ。これまでの緊張が解けだした理由は少女の所作には集約されない、、、
苔子は僕のからだの隅々まで洗い流してくれた。とても丁寧なちから加減で、予期していたけど下半身に石鹸の泡が被り、さながら**が白雲で隠れだしても僕は平常だった。もう見られているんじゃないという意識が働いてきて、少女の顔をぼんやりと眺めてたから。けれども、ふと目線が首すじから肩になだれるように落ち、返り湯を浴びている胸元へとたどり着いたとき、襦袢の生地が極めて薄いことに気づいてしまい、そこに透ける肌に目は吸い寄せられてしまったんだ。


[198] 題名:ねずみのチューザー20 名前:コレクター 投稿日:2011年06月21日 (火) 03時08分

見据えていたようでその実、しめやかな空気になだめられていたのか、凝視にまで至らなかったのは、苔子が音もなく障子をしめ姿を隠したあとに漂った名残りへ溶解している、薄ら寒い想いによるものだったようだ。けれども、少女の笑みを求めるまえに僕の眼中をよぎった光景は消え去ることなく、温熱が次第に冷めるようにこの身を通過する。
チューザーの児戯めいた挙動がなによりも僕の気持ちを代弁していてくれたから、それより深く思案してみるまでもなく、小さな波紋はそれらしく静かにさざれていただけさ。茶を口に含みながら揺曳する目はもう一度、夕日をしみ込ませた障子の明るみに慰撫されだした。もげもげ太にしろ、苔子にしろどうもここの家人は余情を投げあたえる才覚があるのか、それとも僕が勝手に心もとなさをすげ替えているだけなのか、どちらにしても今はその鎮座のなかに浸るしかなかった。反照の加減により刻一刻と過ぎゆくのを格別意識しなかったのはいうまでもないだろう。チューザーもいつしか知らず走りまわるのを止めて大人しくしていたし、それから会話を交わした覚えもないんだ。
風呂の支度がと、ふたたび苔子が顔を出すまでどれくらいの間だったか、そしてチューザーから「それがしは浴槽は苦手でありますので、御先にどうぞ」そう促されたまま座敷をあとにし、廊下を踏みしめる足の裏にかつてない感触を覚えながら、苔子のうしろ姿を見つめているのか、ただぼんやりと案内されるままなのか自分でも判別つかないうちに、「こちらでございます」と、さながら風呂場の湯気に湿ったふうな声色を耳に届けられるまでは、どこか夢心地だったんだろうね。
夢といえばここまでの道のりも夢のまた夢みたいなものだし、が、それだけではなく突き刺さるいばらを抱きかかえた煩いも間違いなく同居しているので、このひんやりした廊下がもたらす目覚めのような感じを愛おしいものとして受け入れた。そのときだった、古びた木戸に手をかけた苔子は半身をこちらに向け、ここに来て初めて笑みを浮かべてくれた。ほっそりした面すべてが豹変するわけでもないけど、釣り目勝ちな双眸はほんの気持ちまなじりが下がり、毅然としたあご先は口角がやわらかに上がることで、凡庸だと思われた唇がとても可愛らしい生き物に見え、白い歯並びは心底無言に徹する感情だけをそよがせる。もちろん僕の思い込みかも知れないが、それまで木彫りの人形であった苔子の顔かたちに仄かなかがやきが宿り、それが先ほどまでの夕映えにせよ、こうして廊下を伝い陽のあたるところから奥まったなかで笑みが咲くのは、まさに黄昏どきの路傍に見つける一輪の草花であった。
湯に身を沈める瞬間、あらたに生まれかわる何かがもたげかけたのだが、どうした意想であれこの肌を包みこむ、しかし、どこまでもかけ離れているような気分に浸食されたまま僕もそっと微笑んでみたんだ。湯船にたたえられた熱気が毛穴から浸透してくる。一番風呂らしく湯気はほとんど目立たずに、肩先からうえにあの懐かし気なとりとめもない情趣が泳ぎだし、風呂場の造りを見回すことさえ忘れてしまって、ときにさらわれたのか、あるいは夕暮れの空が落ちてきたのか、想いは自在な雲の流れになり目のまえに人造の湯気を呼び寄せた。ほとんど形はなさないものの、胸のなかにたかぶった妄念と、脳裏から降りてくる弛みない情感が湯に混じっては火照ったからだから発散してゆき、夢幻と和解している現象を思い知る。
湯船は温泉地の家族風呂ほどの広さがあり手足は自由を取り戻した。わびし気に天井へ引っついている裸電球のあかりはほんのり灯り、脳裏へと創りだされる湯気には最適な陰影を保っていた。方や漫然とよぎってゆくまだまだ未知なるものに対する怖れが、遠く離れてはすぐに近づいているような気がし、もはや冷や汗とはいえないしずくとなって額から頬に伝わるのがわかる。あれこれ思考をめぐらさずにはおれない性格なんだよ。でも困った性分と割り切ってきたたからこそ、苔子の笑みがついさっき授けられたんだと思いなし、そして更に突き進んで欲情の破片を汗のしずくに見立てると、湯煙でむせ返るくらい頭を曇らせてから一カ所だけ設けられた小窓にしたたる水滴へ重ね合わせたんだ。空の様子もうかがい知れないガラスの小窓は暗色にくすむのでもなく、裸電球の照りに応えるのでもなく、土気色から人肌色に変わりつつある生気で明るみ、艶やかさと滑らかさを同時に持っていた。
段々と膨らみつつある湯気の向こうには「闇姫」やら「卍党」やら「ミューラー大佐」やら「諜報」といった言葉が無造作に並びはじめたけど、温まりだした身体はそれらを閑却してしまい、冷や水を浴びせるのが一番の効用だと願ってしまったわけさ。そうだよ、冷静な欲情などと相矛盾する妄念を抱く限り、たいそれた期待などしないほうがいい。無論これも逆説でね、可能性が期待に裏打ちされている以上、焦りは禁物なんだ。これはまえにも話したはずだよな。それから脳内の湯気が形成したものと、期待の成就を常に計りにかけておく事。だって僕は試されているんだよ、そうさ、バスのなかでも、この屋敷のなかでも、、、
小面倒だって言うのかい、湯煙なんかわざわざこしらえなくてもかまわないと。さあ、それはどうだろう、このくらいが丁度いいんだよ。だって一人相撲は確かに物悲しいけど、所詮は己が作り出した砂上の楼閣、責任転嫁の手間もはぶける。さて、続きに戻ろう。小窓のガラスに点綴したものと同じ数だけ僕の顔面からも汗がこぼれた頃、木戸の先から物音が純然と聞こえ間をおかずに、「よろしければお背中を流させて下さい」と、苔子の憂い秘めた声が響いた。驚きはしなかったし、慌てたりもしないさ。では待っていたのだろうか、そうともいえるが、そうともいえない。と、いう次第で木戸は開けられ、風呂場にこもった湯気の大半は苔子の声のするほうへ緩やかに移り、反対に冷気がこのせまい湯船に忍びよってきた。
白襦袢を襷がけにした苔子は少女である背丈から、艶麗な気配を先延ばし、調節なのかそのふさやかな黒髪をうしろに束ねることで妙齢の色香を抑えているかに見えた。


[197] 題名:ねずみのチューザー19 名前:コレクター 投稿日:2011年06月14日 (火) 02時40分

八畳ほどの殺風景な座敷に通された僕らは、といっても僕とねずみには適度な広さで、ちょっとした旅情が障子越しにすきま風となって運ばれてきた。玄関からして簡素な佇まいだったので、庭先の景色をうかがう意欲もかすれてしまい、縁側に沿って踏めば軋るような廊下を進んでいく心持ちを意識するまでもなく、そのときは実をいうと久しぶりに靴を脱いで歩いている感触のほうが勝ってしまったのか、あれこれ家の造りに目をやることも忘れていたんだ。
しかし、いざ絵柄なしの少々黄ばんだ白いふすまが向き合い、これまたくすんだ畳に足の裏が触れた途端に、調度品も床の間も掛け軸もないがらんとした空間に視線が泳ぎはじめたのさ。指先にぬめりを与えたかとさえ思わせる飴色をたたえたふすまの木枠は相当時代を偲ばせ、その幅はまるで畳の縁を床から浮かびあがらせるように同じ位置に接しながら、奥の間と隣の間を区切って水平垂直に不思議な整合性を配し、左手の土壁の素っ気なさに臆することなく雅な味わいを感じさせてくれている。奥の間も同じ間取りであるのが知れると、それ以上深追いしない狩人の気性などほのかに胸を去来させ、おもむろに姿勢を変え縁側の障子をぼんやりと見つめた。「まずはおくつろぎを」と、ねぎらいを含んだ柔らかな言葉の余韻がまだ耳に残っている。もげもげ太はおそらくここのあるじなのだろう、すっと閉められた障子がすべりゆく残像にも毅然とした風格がそれとなく尾を引いているようで、僕の胸中には安堵やら期待が混じり合い、律儀な線状を見せる座敷もさることながら、すでに夕日が差し込んでいる情景に陶然としてしまったんだよ。
真っ白であったのか、煤けていたのか、もはや夕映えを仰ぎ見る気分に同調したままじっと、橙色に染まりゆく障子紙をなにか怖いものでも目にするようにしていたのはきっと、妙な出来事に飛び込んでしまっている不安が解消され、反対に郷愁の成分を譲り受けたからではないだろうか。
まなざしは定まったままの状態だったが、なぜか掌で畳をこする仕草は続けていた。それをあえて子供じみた、いや動物じみたかな、反応で示してくれたチューザーのせわしない無言の動きが加わり、互いの心模様があらわになっていたように思う。やっぱりねずみって凄くすばしっこいんだね。何度かあのひげ先が指にあたったんだけど、その感触を覚えたときにはもう座敷の隅っこに駆けているんだ。さながら隠しきれない気持ちのように。遠くへ逃げ出したいくらいのはにかみを振り捨てながら、、、
「失礼します」日暮れであることに没頭していた趣きが一層深まった。チューザーは読みとってくれていたんだ、きっと。
僕は橙色した色合いのうしろに積雲の動きをゆっくり見届けた。不意な陰りではない、予期したごとくの明確な挙措であり、それはしなやかな身体を映しだす、いわば僕の幻灯機であった。
「お茶をお持ちしました。お風呂のほうは少しお待ちください」
腰まである黒髪が揺れる様は影絵のまま、開かれた障子のなかに持ち込まれる。苔子は僕の動揺に勘づいているのか、決して目線を合わせようとしない。だが、僕の動揺は浴槽からあふれてしまう湯水みたいに、その放恣は案外と大胆な意気込みを育んでしまう。そう、苔子の姿かたちをこの目に焼きつけんばかりの勢いで観察したんだ。時間にしたらわずかだったけど、動体視力を駆使しつつ、しっかりと観るべきものは脳裏に保存する覚悟だったから、彼女は増々気おくれしてしまったかも知れないな。そんな有様だったわけなので、苔子の容貌はしっかりと想起出来る。
濃い緑をしたお茶をすすった。この香り、舌へと残るまろやかさに拮抗する品のある苦み、どこかで味わったようにも思えるのだが、それより先は踏み込めない。えっ、ねずみもお茶をすすったかって。ああ、チューザーはリポビタンだって飲むんだよ、それより茶の香りは、別の香りをこの殺風景な部屋に放った。律儀なふすまの木枠と畳の縁はお決まりの端正であることから解き放たれ、縦横無尽にその直線を組み替え、限りない線路のように山を越え、谷を越え、地を這い続ける。
少女は少女であることを自分で認めていながら、雨後のたけのこが驚異的な成長を見せる様態をあくまで両の目でうかがっている。長く伸びた髪に対する時間とは異なる意想を宿しはじめ、すでにその根はこころの奥深へ浸透しているのだが、うまくたぐり寄せることも、つき放してみることも覚束なくて、つい投げやりな視線に流してしまうのだけども、傍からすればそんな面持ちこそ十全な成育のあかしに他ならず、丸みを帯びていた手がどことなく引き締まった反面、からだ全体はふくよかな張りに充たされだし、着物のうえからも察することが無理ではない色香を漂わせだす。例えば首筋に備わり始めている溌剌とした皮膚の艶は、姿勢の加減や些細な仕草のうちに一瞬あらわになるし、元来細面であったのか、こめかみのあたりからあごにかけての鋭角さも理知的な冷たさで損なわれてしまっているというより、気品ある乙女だけが持つ厳粛さで逆に強い引力を生み出して、まわりの空気を浄化し、魅惑の距離感を定めてくれる。そんな輪郭は静止している場合だけにとどまらず、様々な角度から眺めることで小気味よい踊りのように、あるいは愛嬌ある動物の骨格のように、表面上の、そして内面の若さゆえの清純を強調させてやまない。少女が内包している爆弾に匹敵する清楚な球根に罪はない。そもそも女体自体なんの罪もあるはずがない、清らかに淫らにと査定をくだしているのはすすんで罰を受けるために存在している輩だけだ。もっともそういう輩がこの世からいなくなってしまえば、相当寂しい世界になるだろうが、、、
苔子の瞳をのぞきこむのが難しかったので、僕は横顔を通しなぞっている。とはいえ、彼女の目が若干つり上がり気味であるのも、細面に合わせて調節したみたいな鼻筋がこれからまだ屹立してくる予兆があるのも、それから以外と唇が凡庸であって印象が薄いのも、すべては苔子の笑みをまだ目の当たりにしていなかったからなんだ。


[196] 題名:ねずみのチューザー18 名前:コレクター 投稿日:2011年06月07日 (火) 02時39分

甲賀までどのくらいバスは山路を抜けてゆくのだろう。まどろみに誘われ、夢の里がぼんやり霞がかった向こうに届きかけた心地は消え入りそうな水彩画へにじむ一筆だった。どこまでも淡白である情緒に従うことを至上と心得る、かたくなな居眠りとなって。
そうさ、うたた寝をしてる間に、空模様の加減をうかがうこともないままに、まるで時代劇の撮影用にでも建てられたかの古めかしい門構えが窓のそとに静止した。草庵と呼ぶには気骨あり気なたたずみの、風雪に対峙し続けてきた木目の質朴は、武家屋敷の趣きを醸しながらもそれらしく山深き民家であることが観てとれたんだ。門のさきには畑が耕されていて、柿の木や南天が寡黙にのびた様子も、その上空をゆるやかに舞っている鴉も無聊を慈しんでいるような気配だったから、なおさら紋切り型の印象を受けたのかもね。
「ここが里の入り口なのかい」なんとも間の抜けた台詞を僕は吐いてしまった。
「左様でございます。二角堂と申しましてかの玄妖斎翁が晩年に住まわれた家屋なのです」
もげもげ太が颯爽とした声色でそう答える。ああ、いよいよ得体の知れなかったものが本格的に立ち現われようとしいる。眠気が飛んでしまうというより、もっと深い夢の彼方に連れ去られてしまいそうな気がして、ふらふらとした足取りでバスを降りたんだ。車内も清浄な空気を保っていたけど、外気は手足がしびれてしまうくらい澄みきっていた。長旅かどうかはわからないが、とにかくチューザーの講談に引かれるまま山中を揺られてきた身にとってみれば、名所や旧跡を訪ねたときの新鮮な感覚に見舞われるのと同じで、しかもこれは古きものが威厳をただしているだけの日向にくっきりと浮かぶ濃い影とは異なる、逆に陽光のなかにぽっかり開いた穴ぼこをしらしめる、さながら墓所を掘り返してみたようなおののきにひんやりと僕は包みこまれていた。すべてが幻想に浸食される瞬間っていうのはこうした冷気をともなうものなのか、汚れを知らない山の精も無論この環境を造りだしているのだろうけど、僕には架空の人物としか思われなかった甲賀玄妖斎がこの門内に漂っているふうに感じられて仕方なく、鳥肌を立てることも忘れているほど外界に射抜かれたのさ。つまりは透視された。だからとてつもなく澄んでいたんだろう。
チューザーもなにやら話しかけていたようだったが、どうにもその場のことが思いだせない。なぜなら僕らを待ち受けていた人影が、宙を浮いた足もとへ近づいてくる様をじっと見つめていたし、面をあげるのも気恥ずかしく、鴉は変わらずゆったりと飛翔を続けているのか、果たして何羽が空から見下ろしているのやら、歓迎の挨拶は門前の人影よりひと足早く鳥影のすがたでこころの隙間に歩み寄ったからなんだ。上空の羽ばたきがここまで聞こえてきそうなくらいのせわしなさで。それでいて、悠然とした素振りがこの二角堂という寺社みたいな名前の由来を告げているようなのは、どうしたわけなのか。秋風がさっと吹きこんだのもいい案配で幻想は宿無し子をなだめ、萎縮と羞恥のはざまに生き生きとした光線を照らしたんだ。紅顔に染まる思いが自然であることを願い、ようやくたどりつけた人里に血のぬくもりを覚えたことを祝し、あの揺籃から導こうと努めた回路が不徹底となる甘い憂いに失する予感が、しみじみ愛おしく感じる。
老夫婦の笑みにはすでに鳥影から離れた親しみのあるしわが刻まれており、油が抜けた皮膚に一層濃い影を生みだしていた。でも、僕が身震いしたのは彼らの後ろに隠れるようにして立ちすくんでいる、ひとりの少女であって、その容姿の清楚な雰囲気にのみ込まれたのはもっともだったが、なによりその頬が紅葉の反射を受けて朱に染まっているかの光景だった。僕の羞恥は多分この少女がもたらしたんだよ。
「この家の留守居のじいとばあの夫婦です。それからこの娘はわたくしの姪にあたる苔子、斯様な山奥のこと故なんのおかまいも出来ませぬが、まずはおくつろぎ下され」
もげもげ太はそう言うと門のなかへと案内してくれた。おおよそ山のなかにはありそうな老夫婦だと違和感はなかったけど、まさかこんな少女がいるなんて考えもなかったので、人影のなかに見いだしたことをわずかだけど引き延ばしたんだろうな。「こけこ」って言われみて最初はにわとりを想像して一体どういう名前なんだって首を傾げた通り、これだけ風貌と名がそぐわないのも珍しいよ。
バスの窓に映った畑は左右に案外ひろく、その真ん中を一直線に進んでゆくとやはり映画のセットみたいな建物が迫ってきた。それでも草葺きの風趣に感心していたから、細やかに普請の情景を伝えたいところなんだけれどもげもげ太が家のまえあたりで急に、「闇姫さまは所用にてこちらにまいるまで三日ほどかかりそうでございます。いかがいたしましょう」と、チューザーにか僕にか、それともどっちにもか、半ば薄笑いをつくりながら問いかけてきたんだ。どうもこうもない、僕に権限などないのは百も承知だったので黙っていたところ、チューザーはいかにも物憂にこう言った。
「それなら骨休めといたしましょうぞ。御両人には鋭気を養いまするのがよい機会、また車両での密談などより、この様な由緒ある屋敷にて、懐かしい畳部屋にて、休息をかねてですな、、、」
僕は内心喜んでいたんだ。温泉場にでもくつろぐ安穏でもう胸のなかには湯煙が立ちこめていたからね。雨降りはあまり好きじゃないけど、小雨や霧に霞む山間はとても静寂でしかも見通しが良くなる。君にはわかるだろう僕の言ってることが。


[195] 題名:ねずみのチューザー17 名前:コレクター 投稿日:2011年05月31日 (火) 10時01分

山道が舗装されてないことを今はじめて身に覚えた。それはどれくらいまえからだっただろう、通り去る風景の一こま一こまをしっかり見定めていたようで、なにもかもが虚ろにしか感じられない、あの穏やかで閉塞的なまなざしによって回想は曇らせていた。僕の意識に立ち上ってくる淡い情感は、行方を探ろうとはしない朦朧とした余熱で保られたまま一ヵ所に淀んでいる。紅葉に萌える山々が色彩をなくしてしまい、一面真っ白く雪景色へ移り変わってしまった平坦な思いに包まれていたのさ。留め置きたい気持ちは、ちいさな雪だるまとなってところどころで寂し気に日光を受けている風情だった。雪どけを待ちながらも氷の世界を愛しむ、冬の旅人のように。
現実の季節がこうして逃げさっていくことってないかい、いや、季節に限らず一日のあいだでも起伏を生み出しては、さっきまで好きだったものが次第に色あせ、何事もなかったふうに目には見えない物置にしまわれる。そして反対に忘れかけていた些細な気分が胸のなかに充たされていく。まったく自由奔放といえばそれまでだけど、僕らの体調もそれに等しく日々うつろっているから、温もりや寒気に敏感になったり鈍感になるってことはあたりまえだね。バスに伝わる振動は決して均一ではなかったけど、そのうちガタガタ道を走る違和感が薄らいできて、変拍子にのせられているような体感を心地悪く思わなくなっていた。
まどろむ意識がいつも揺籃であるとはいわないが、まどろむことによって棘のささった指先を見つめなくなり、ザラザラしたいただちは緩和され、キリキリする欲望や嫉妬が希釈させる。こころの中すべてが放念されるかといえばそうでなく、案外それまで見えてこなかった異相がくらげのように曖昧なかたちではあるけど、大気中に靄を認めるみたいにして形成し始めたんだ。
僕の脳裏から剥奪されたのは自由であったかも知れないが、気分がそれなりに自由である限り、奪われ束縛されたのでなく、そうだな、旅行中にハイジャックとかバスジャックに出会った不運を嘆きつつも旅の趣きを決して失わない、そんな生気さ。無理矢理バスに拉致されたわけでもないけど、それなら僕の方からすすんで乗車したともいえないからなあ。このあたりが明確でないのがやはり実情だよ。チューザーの奇天烈な話しを鵜呑みにしなければならない情況を了解しても、それがそのまま絶対の束縛には繋がらないと思うんだ。どうやら僕は何らかの鍵をにぎっているため少しは役に立つのだろう、もちろん彼らの言い分がまっとうであればだけど。あと相当に入り組んだ世界を浮かべてしまうんで、正直なところ面倒だと考えてもいたから、そりゃ僕だって追憶には即せないが、思考方法はあれこれめぐらせてみたよ。一般論な合理的判断に結ばれないのを自覚したのは妥当だと思う。帰納法でつきすすめてみても袋小路にゆきついてしまいそうだし、夢想とか聞こえのよいマインドコントロールにいたってはもう一切考えないほうが賢明だ。僕に可能な方便は、つまり残された道筋は現象学的還元だけだった。その行程はこれまで書いてきた通りで、必ずしも明解な答えにはたどり着いておらず、相互の主観を出来るだけ綿密に記述しようとしてきただけだから独断でしかないわけだけれども、そう、つまるところ自意識の要諦に四苦八苦して引き戻す作業なんだ。現象学は厳密な学だと創始者は述べているけど、結果的には道筋をたどる方法論でしかなく、落ち着く先も海底に下ろされる錨のように確実ではない。だけど主客二元論で割り切られる世界よりはよっぽど誠実だ。少なくとも欲望が加味していることに親しみを寄せられるから。
投錨されることが欲望なんだ。観念論や実在論がわざわざ遠ざけてきた欲望が大海に再び飛び込んでゆく。この官能さえともなう理念を見つめない限り、錨はただの重しにすぎない。さあ、君ならどうする。由緒ある製鉄所で製造された錨に絶対の確信を持ちひたすら一途であるのか、それとも由緒も本来も格別こだわりなく投げこまれた錨にこの身が溶け込んでいく刹那を愛するのか。そして愛するものが誰なのか、どこにいるのかなどとの考えを無粋と流し目だけで送れるかな。
流れゆくさ、上流から下流へ、過去から未来へ、春から夏へ、空から雨が、山から霧が、森から鴉が、夜から朝が、人から人が、、、大地と大海と大空は、君の錨を待ち望んでいる。君が望んでいるよりもっともっと深い場所で、高貴な寝台を準備して。
僕はどうするかって。決まっているじゃないか。このバスに錨は装着されていないから、停車を望むまでのこと。まえにも伝えたけど最終目的地などでなく、各駅停車みたいな気軽でいながら胸騒ぎを忘れないことだよ。
いかにも思惟をめぐらせたふうに聞こえるかも知れないが、土台妖しの世界を身震いしながらのぞきこんでしまう性格なんだ。そうそう現世ご利益じゃないけど念いは通じるもんだね。チューザーからしてみれば仔細を明かすに及ばずの方針は、僕にとっては非常に喜ばしい方向に進んでいった。もげもげ太がこう切りだしたんだ。
「これより甲賀の里へと向かいます。今後の計画などは申し訳ありませんがしばしの猶予を。実際に甲賀にて見聞されるのがよろしいかと存じます。それから予てより待ちわびられておりました様子の闇姫さまが里に戻られたと連絡が入りました」
僕は無性にうれしい反面、どことなくわびし気な幕に被われた。切望したのは事実だったけど、こうもたやすく面会がかなうなど贅沢にも拍子抜けしたように感じたんだ。あれから日にちと呼んでいいものやら、チューザーには壮大な謂われを聞かされたにしても、劇的な事件にも遭遇してなければ、身の危険に苛まれたわけでもない、時間の推移が実感できないままにもう祈願が成就されてしまう。無論わびさしより期待のほうが数段と勝ってはいたが、いざ自分ごとになって切迫してみると、捨て犬が路頭に迷うやいなや直ぐさま優しい飼い主に拾われたみたいな運が良すぎる進行には、戸惑いがあった。いずれこの微妙な綾は別の意味で知らされるのだけど、そのときは胸騒ぎまで発展しない、気軽さだけに手応えを覚えない驕りで燻られていた。


[194] 題名:ねずみのチューザー16 名前:コレクター 投稿日:2011年05月24日 (火) 06時36分

覚えているかなあ。はじめてチューザーからねこの謂われをしらされたとき驚きのことだけど。記憶の端からすんなりと形状が示されるように確か黄色いビニールのおもちゃが飛び出てきた。まるで魔法にでもかけられのたか、催眠術によって実在しないものが捻出されたのか、どっちでも同じなんだ。だって幼年期に沈める思い出とか、確実にたぐり寄せられるものなんかじゃない。それはまだまだ産湯につかっていて、人肌の加減を味わう言葉さえも覚束なく、疑心を産み出す努力も教えられない、無垢な光線に照らされた湯気のような意識だった。
少なくとも僕は後年までその黄色いねこをガラス張りの飾り棚にしまっておいたから、湯気に包まれようが光線は瞬く間にやってきて、ひとつの確信を残しておけたけど無垢なのかどうかはわからない。
いや、後年の意識まで催眠効果で植えつけられたとまでは邪推しないよ。そんなにねじ曲げてみたところであまりよい意味はなさそうだし。軍帽はまえに一度だけ話したよね。チューザーはその事情をのみ込んいるみたいだったが、おぼろげなままにあえて説明しておいたんだけれど、それにしてもよくミューラーに軍帽を被せたことまで読みとっていたと感心したんだ。そうだろう、帰納法から導いたにせよ最低限、僕の幼年時代を垣間みていなくては言えないし、まさか夢のなかにとか口にしていたが、共有夢なんてのも超能力か神通力みたいで中々信じがたい。となれば、やっぱり催眠方とかになってしまう。映画なんかでもあるじゃない、スパイが拷問の末に薬物を投与されて自白するって方法。考えたくもない結果だけど、合理的につめてゆくとその線が一番濃厚かも知れないよな。ただし、僕は意地でもそんな線を認めたくない、そうじゃないか、そんなもの認めてしまえばすべてが白昼夢に堕ちてしまう。墓穴も空洞も自分で見いだすから醍醐味があるんだ。たとえすでに掘られていようとも。だったら最初から中途半端にせず、脳内を思いきりかきまぜられてロボットにでもなってしまったほうがましだよ。でも彼らはそんな荒々しい手段は使ってないようだから、こうして君にメールなんか書き送れるんだろう。
きっと冷血な優しさなんかもあるに違いない。どこまで疑り深いのかって、大事だからだよ、信じることはとても大切だが、色々と懐疑してみるのも必要なことだと思うからさ。軍帽から少々それてしまったけど、どうこうあれ、チューザーは僕の原風景みたいなものをどこかでのぞき見ている。いいさ、どうせ僕は合理主義者にはむいてないみたいだし、だまされるなら美しくだまされたいもんだ。
ねずみの歴史から僕の心情に飛躍してしまったけど、実際においてもミューラーの軍帽にさしかかったとき、ついにチューザーの講談にあいの手を入れ、いま言ったような会話にすべっていったのさ。同じ意味あいを問うたわけ。どんな反応したか想像できるかい。また一本とられたよ、彼はこう答えた。
「この世は条理にてひもとけるものだけ存在するのでございませぬ。また、条理とやらも宙に浮いた白雲でありましょう。なるほど、ミューラー大佐の帽子なぞ、よくよく鑑みますれば、まずあなたさまの光景が先んじておりまして、それがしが実在を説く秘密結社総統の風貌こそ、とってつけた仮面のごとき戯れ、万にひとつの偶然と怪しまれてごもっとも」
「じゃあ、この際だからどうしてすぐに僕が黄色いねこをもっていたのか、種明かししてもらいたいな」
「あなたさまがまだ幼き頃、ああしたビニール製の玩具は子供のもつ家庭では珍しくはござりませんでした。が、ある程度の年齢になりますとあれほど慈しみ、そうでございます。よだれを浴びせるのが日課であった幼き月日は、雨上がりの陽射しで無碍にて蒸発してゆく浅き水たまり、記憶の回路こそ、のちの標識、、、」
「わかったよ、僕にはミューラーの思い出なんかないってことだね。飾り棚に眠っていたことすら忘れさっていた。しかし、あの軍帽には確かな記憶がある」
「そうでございましょう」
「知っていたのかい。小学の中頃かな、GIジョーって男子版着せ替え人形が発売されてみんな夢中になったこと。アメリカ軍の陸海空の軍服が大半の割合だったなか、ドイツ兵、なかでも親衛隊の制服がひと際格好よく映ったこと。怪獣とか宇宙人とかの絵空事からはじめて離れたような気持ちを抱き、人形のなかに生ける躍動を感じとったこと。もうよだれなんかで汚したりしない、しかし手先は執拗なほどに精巧にあつらえられた軍服の生地やボタンをなぞり、もう一体欲しいと切実と願っては結局かなわなかったことを」
子供が子供であり続けるのが不純であるかのように、やがてはその愛玩物に目もくれなくなった頃、一夏の昆虫の死をいたむかのように庭のすみへと埋葬する儀式の延長だろうか、僕はあれほど端正に仕立てられていた着せ替え人形の破れはてた姿さえ思い浮かべられないまま、唯一ゴムでかたどられていた軍帽だけをそっと手にした。土中へと埋めるわけにもいかない。思案もなにもない、飾り棚のなかで時間を失っている黄色いねこのあたまに被せてあげたのだった。
「あのとき、あなたさまは葬儀と再生をつかさどったのでございます」チューザーの声色はまるで僧侶の引導を想起させる余韻があった。
合理主義うんぬんはもちろん脇に置いといてもこれではまったく答えにはなっていない。だが、僕はとても気持ちが引き締まる感じがしたんだ。そうだろう、もっと秘密はあるんだろうね。チューザーからミューラー大佐にまつわる真相(幼児期のほう)を聞きただそうとしたけれども、どうやらまだまだ陽は昇りきってないように思われた。


[193] 題名:ねずみのチューザー15 名前:コレクター 投稿日:2011年05月24日 (火) 03時58分

彼の語るところはおおよそ理解したつもりだった。何度も繰り返すけど、目前のねずみがこうやって分別ある毅然とした口ぶりで過去を、例えそれが陥穽におとしめる企てであっても、今はひたすらその言葉を受け止めるしかない。どんな計略が僕を待ち受けているのかなど、肝を冷やしながら向かい合うよりか、不思議という綾が織りなす好奇を優先させている心持ちのほうが、血がかよっていると感じたんだ。ねずみとねこの諍いなんて、まるで「トムとジェリー」みたいで微笑ましいじゃない。きっと幼いこどもたちだって好ましく思うんじゃないだろうか。もちろん、表面的な追いかけっこまでなんだけど。
チューザーの披瀝はまだ続いていったが、君にとってはおそらく幾分か瑣末な話しも含まれていたし、僕なりに細やかなところは別に記しておきたい身勝手さもあって、すまないけど本筋を明瞭にというか、多岐にわたる箇所はいくつか端折って説明させてもらうよ。鼻をひくひくさせながらの講談は捨てがたいんだが、チューザーの古雅な語り口だとどうやら総集編の予告篇じゃおさまりそうもないから。
さっき計略かもとかいったけど、僕の胸のなかにはそんな陰りも確かに発生していて、どれだけ途中で問いただしたりしようと思ったことか。でも口をはさむのがどうしたわけか禁制であるような、いや、まわりから抑圧とかされ自由がきかない緊縛ではなく、もっとだだっ広い空間に自分の声が震えるように響いていくときの張りつめた音をどこかで怖れてしまったんだ。小学生になりたての頃に訪れた、授業中思わず手をあげたのはいいけど、隣の席の子も前の席の子もまわりが急に静まり返ってしまって、先生の視線さえ冷ややかなものに変質している、ときの隙間に呪いがかけられたような疎外感を。
当時の感覚も随分とぼやけてしまって、こんなふうにいうのも多分あの情況を的確にはよみがえらせていないだろうけど、今からすれば墓穴を掘ってしまった恥じらいにとらわれていたんだよ。どれほど深いのか、どんな格好をした墓穴なのかまで思惑がめぐったりしない、ただ決して外側だけに強いられている性質じゃなく、僕自身の空洞も加わって、ちょうど宵闇がトンネルに忍びこんでゆくのを眺めているような気分だった。
さて、ねずみとねこに戻ろう。チューザーによれば、ねずみ一族の生存は様々な時代をくぐったとはいっても、相当危機にひんした場面もあって、並大抵ではない辛苦にたえながら結束を固めてきたからこそ現在へといたっている。それは一縷の望みにかけてきた証でもあるんだ。彼の先祖たちによる時代の奔走は僕に対してだけじゃなく、これは御法度だと明言してたから詳細はつかみようがない。チューザーだってはなからそんな来歴を聞かそうなんて考えてないよ。彼が強調したかったのは国内においてはそれなりの平穏が保たれていたということ。これは人間がどうのと社会がどうのとでなく、あくまで彼らねずみ一族における形勢であり、ここは誤解ないよう受け止めてほしいのだが、どうやらこのご時勢には忍びとしての役割はすでに大方なすべきものはないみたいで、しかしはっきり役目から放免されたとも言いがたい、その辺は大きな紛争の渦中にいない僕らにも不透明なところさ。ところが、ねこ一族とやらは情報こそ多種あってもその実体はまったく憶測の域を出ないというわけなんだ。特にそのミューラー大佐だね、奴の正体を見極めたものなどかつてなく、実はねこは仮面でれっきとした人間、しかも家系はナチスであり、オデッサであり、国際規模にひろがる秘密結社の頂点に君臨している。と、まあ世界の陰謀説とか暗躍家系図に登場してきそうな資質が漂ってくるから、チューザーたちにも要請が命じられた。相手がもし人間であるなら、こちらだってなにも古来から伝わる呪術めいた忍びにことを託すまでもなく、もっとハイテクな対処の仕方があるはずだろう。僕が合点いかなかったように君だってそう考えないか。しかしね、どうやらその思考は単純でしかない。ここでも主眼は伏せられたままだったので、具体的には説明しようがないけど、これは冷戦ならぬ底戦らしんだ。ミューラー大佐はドイツ国籍っていわれてるが、実際には秘密結社を通して各国をめぐっている。しかもねこであるとの触れ込みはある意味軽やかな信憑性を蔓延させる結果となって、そう、「トムとジェリー」と似たようなものであり、真っ向から彼を糾弾するものが逆にいなくなっていまう現象を引き起こしてしまったわけさ。恐るべき脅威が切迫しているのに、誰もまともに調査に乗り出そうとはしない。精々奮起しているのは引きこもり系の陰謀説論者くらいだ。
と、ここまでが言わば通説、そうさ、全然引きこもり系だけなんかじゃない、先進国のほとんどはミューラー大佐を非常に警戒していて、しかもすでに各国の主要ポストにスパイが送りこまれ、また軍部の内にも結社から特定の人物が派遣されているらしい情報がもれている。こうなるともはやねこ一族とかでは済まされない問題だよ。幸いミューラー大佐は特に表立った行動は起こしていないので、CIAとかも監視の段階にとどまり積極的な交渉を始めてはいない。これも不透明でさ、かつてCIAはオデッサを保護していた事実もあるから、どれくらいの影響力を秘めているかは厚いベールに被い隠されている。そこでねずみ一族に白羽の矢が立てられた次第さ。
ここらで要点をしぼっておこう。僕が理解し得たのは、国際的な秘密結社の存在と脅威。ねこは仮面を被っているのかも知れないこと。と同時にこの予感は理解とははずれるかも、つまりねずみもまた仮面を被っている、う〜ん、悪いけどこれはちょっと保留しておいてくれないか。で、これから水面下、あるいは地下において諜報作戦が開始されるということ。ねずみ一族だけでなく金目教、卍党の末裔も秘密裏に参画していること。僕はこの事態に遭遇したんじゃなくて、どうも計画的に巻き込まれた可能性が高く、その理由は子供の時分にねこのおもちゃを持っていて、ミューラー大佐と名付けていたこと。そしてこんな情況を反面楽しんでいるという我ながら意外な心境、あっ、これはもう酸っぱくなるほど話したね。
君どう思う。もし今いった要約を精神科の医者に相談したとしよう。すると医者はこう応える。
「あなたはよく自分を客観的にとらえられていますから、なにも問題ありません」そして帰される。果たしてそう思うかい。


[192] 題名:ねずみのチューザー14 名前:コレクター 投稿日:2011年05月17日 (火) 07時31分

「なにぶんにも秘せられた由来のみが見えない分銅になり積みかさなる身分、おのれの出自すら不確かで忠節だけを指針とすべし、そう彫り入れられた腹には嗜好品をたしなむ隙間もございませんでした。朝餉のにぎりめしがそれがしに出来うる目一杯のもてなし、あなたさまを御迎えするに際しましてはもげ氏の協力をあおぎましたので、ジュースや冷凍食品はわずかながら用意させていただきました」
そういや僕はよく冷えたジュースをもらって飲んでいたけど、チューザーにそんな場面はなかった。とにかくねずみの歴史はまだ序の口だろうが、予想はかなりの線で当たっていたようだったから勘違いにも似たうれしさが込み上げてきたんだ。勘違いというのはいい意味での気分転換ってことだよ。わずかばかりだけど、僕はチューザーのおかれた境遇っていうか、生い立ちが悲しく思えてきて語りの間をさえぎってしまい何かしら意見をはきそうな表情をしたんだろう。すると、「少々のどが渇きました」と言ってこっちからは死角になっていた運転席の横から素早くリポビタンを取り出しすと軽快にキャップをまわし開け、実にうまそうに、尚かつ栄養分がしっぽの先までしみわたりそうな勢いで飲み始めたんだ。
よくそのビンを見れば大きさは小ぶりで赤いラベルが貼られている。あれはリポビタンゴールドなんだな。いいんだよ、栄養補給しなけりゃ、ねずみのからだにしてはいくら小ビンでも大仰に映ったけど。まあ、そうした勘違いってこと。
早かったねえ、ほとんど一気飲みに近かった。リポビタンとかエスカップなんてのはああして飲むべきだから、余計に気分転換になってさ、僕にもくれないかと思ったけど口には出来ず、乗り遅れてしまった電車を見送っているみたい顔つきのまま言い出しかねてしまったよ。チューザーはそこのところは心得ているのか、ちょうど高座で演芸に徹する落語家が手のひらで湯飲みとかあらわすように、さらりとその仕草を印象づけておいて語りの続きへ、ほんと待ち時間なしに次の電車がホームに滑り込んで来るかの継ぎ目のなさ、見事な所作だった。
「窓枠のしたの取っ手が専用の冷蔵庫になっておりますので、いつでも御利用くだされ。中左一族に戻ります。それがしが聞き及んでおり他言できますのは、われら一族がもっとも栄え活躍したのはやはり武家制度の興隆とともにあったのでございます。なかでも戦国の世でしょうな。ときの将軍足利義昭公に妖術をもって挑んだ金目教のもくろみを打破すべく、織田の殿様から密偵として放たれたわが先祖の忍びら数名が京の都で殊勲をたて、おおいなる信頼を得たのは誉れ高き来歴、その後義昭公は織田の殿様と緊迫した関係になってしまわれますが、表舞台の情勢はわれらにはうかがうこと無用なる所存、木の葉のごとくに人目につかず、されど常に朝夕の気配をしるすべくこの身を軽やかにとどめておくのが必定。いかなる由縁で信長公のもとに結集していたのかは闇のなか、よって機縁はここまでとされたし。ただ念頭にしかとしまわれておかれたきは、甲賀玄妖斎率いる金目教でございます。それなるもげ氏の祖先は昨日申しあげた通り、のちに卍党へと組織が変容いたすのも存じておられるのならば、中左一族の栄華など必要以上に語るべきもなく、更なる話頭へ転じさせていただきます。おわかりでござりましょうぞ、ミューラー大佐、すなわちねこ一族なる存在に関してであります。われらにも国際的な同輩はおりまして、アメリカ、カナダ、メキシコ、ブラジル、スペイン、チリ、アリゼンチン、イギリス、フランス、ロシア、ドイツ、オランダ、インド、中国、韓国、北朝鮮、オーストリア、ベルギー、、、、いやはや人様が作った世界の国々に人語を解するねずみたちは棲息しているわけでございます。ただし、文化交流はおろか一切の関わりは中立と申しますか、いわば江戸時代の鎖国と同じく断絶状態、中国や欧州のほうでは国によっては地理的な事情で国交がさかんなところもあるようでございますけれども、われらの地はぐるりと大海に囲まれた島国、ねずみは水が大の苦手、いかような術を弄しましても中々渡海までは不可能、それは他国のものらも一緒で精々密航するのが目一杯、とは云ってみても元来それぞれの言語が異なるのは当然でございますので、わざわざよその国まで海を渡ろうなどとは及びもつきません。ねずみはねずみ、闇に生きてこそ面目が保てる次第ですから、絶対に人目を避けなくてはなりませぬ。そんな掟がいつ定まったを問うのは失礼ながら愚問でござります。それがしの知り得る範囲では人語を知るねずみの数も世界的に我が国と同じよう著しく減退している様子。では本題に入りまするが、ミューラー大佐は現在ドイツ国籍であり、祖をたどればナチスの親衛隊に擁護された組織に行き着くそうでして、第二次大戦には数々の勲章を胸に飾った、勇猛果敢かつ高度な教養と知性をかねあわせた名誉ある血筋、その末裔こそ太平洋を遥かに臨み、この地まで悪名をとどろかせてやまないオデッサ、すなわち旧ナチス党員による結社からも絶大なる支持を受けております。しかもミューラー大佐は一族のなかでも抜きんでた鋭敏な頭脳によって完全なる地下組織を運営させているらしく、数カ国語に精通し欧州のみならずアジア諸国にまで勢力を拡張させているとの情報、すでに日本へは極秘で入国した証拠はそれがしも確かな筋から聞き及んでいる次第でございます。ねずみとねこ、古い天敵でござります。小動物同士の自然連鎖ならとかく問題がありませぬが、ミューラー大佐は動物であるすがたを自らのすがたを呪ったのか、その矛先をわれらに、そして一族がいにしえより守り通したすべてを剥奪しようと画策しているのです。あたかも人様に代わって代理戦争を仕掛ける不遜さに酔いながら」




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