【広告】Amazonからファッション秋のお出かけタイムセールまつり20日開催

COLLECTOR BBS

ホームページへ戻る

名前
Eメール
題名
内容
URL
削除キー 項目の保存

[575] 題名:The Missing Boy 1 名前:コレクター 投稿日:2022年12月13日 (火) 05時15分

ちょっとした雲の動きが、はっとした空の色めきが、気にかかればいいと念じるなんて、まったくもって虚妄のなせるわざ、それは仕掛けが先んじた色ごとが不発に終わってしまうような、とてもやるせない心情に即している。
あえて言うなら、嫌みなことわざを先祖代々聞かせれているみたいな感覚であって、尊い思念なり、遠い光景をものがっているふうに、ありがたみを憶えてしまうほうがよほど狂っており、そうとはいえ、はえばえとした直感で包まれ、もたれ掛かる風景に絡まった視線のゆくえは自ら切り裂きがたく、来るべき本意の証明にはかなり隔たっている。
ペイルの胸中にもまた、ひとまたぎ出来そうもないくらい、愚かで軽い足取りが駆けめぐっていた。
その事由があまりに分かりやすかったので、むしろ安堵をもよおす隙間があるほど、差し迫った一仕事の重々しさに、素直な面持ちを貼りつけることさえ厭わなかった。随分ひねくれた胡散臭い性根のありようだと、我ながら呆れつつ、字義通り異国より運ばれる石像の奇態とその重みに日々は明らかに軋んでいて、なんとも名状しがたい憂愁が焦りをともない空腹は満たされないものだから、それに味わいもうわの空であったので、ある意味、神経が妙に研ぎすまされてるのかもしれない。
結局、おのれをねじ曲げるつもりでいても、はなから重力に取りつかれているのだから、考えこむだけ馬鹿らしく、遥か彼方より海を越えて送られてくる怪しげな石像にしっかり緊張していればよかった。
澄み切った異変の純度が深いのであればなおのこと、関心の寄せかたも同様に形成させるのであって、まさに悠久の歴史が香ってやまなかったし、魔術めいた技法で彫像されたとしか思いつかないものだから、ちょうど縁まで湛えられたグラスの縁へ小石を投げ込むような按配で、あふれ出してしまう水のごくごく当たり前な透明が、どことなく悔しげな、心細さを誘ってふうにも感じられ、純度なんてはかりごとの言い様がすでに背馳なのだろうなんて省みたりした。
形象が醸す不穏な情趣こそ、煙に巻かれるごとく、奈辺へと漂うと察したペイルは、日頃からほとんど慣れ親しんでいないにもかかわらず、執事フランツの意向を窺いたくなった。
ものごころついた折にはすでに赫奕たる光彩を放っている執事に、どうした感情を抱いていたのかさえ覚束ないけれど、華やかな城内の夜宴を取り仕切っている相手とは、まったく無縁の職分だったので、なおさら関わり合いがなく、親しみどころかまともな会話さえしたことがなかった。とすれば、畏敬を含んだ距離感はこの城に焚き込めている芳香のように嗅覚が率先して感じ入るのであって、先ほどの上空の眺めを見遣ったときに生じてしまう、なにかしらの卑屈が実直に、容赦なく、無残に、しかし華美な幻影を須臾の間だけめぐらせ、乱反射してしまうのも無理もないとため息をついた。
執事フランツの毅然とした容貌、あるいは魅惑的な仕草や巧みな口調、その眼窩に宿している不思議を敬遠しいているおのれがみじめに思えてきた。だが、吸血魔の浮評さえまことしやかなフランツと、城主が邪気払いの名目で運ばせる石像を待つ心持ちに芽生えた小さな勇気が、まるでひとごとみたいに明朗だったから、少なくとも出自の明かされていない両者には、果敢な交誼が許されている気がし、放浪の途上で拾われた身上に臆していたものが氷解してゆくような心映えにつき動かされたのだった。
早速、フランツの姿を庭園に見出したペイルは、ひきつった顔の裏に秘められた好奇心と崇敬の念が混濁を隠しきれない足つきで駆け寄り、
「フランツさま、今度の積荷の件なのですが」
と、いかにも実務な装いを崩さず、自分でも意外なほど相手の眼を鋭く見つめた。まぎれもなく好奇をはらんだ内心が汲み取られる期待はこのとき、すでに虚妄を打ち破る勢いだったに相違なく、その証拠につい先ほどまでの羞恥でかこまれた断定的な気後れは何処へやら、常日頃まで伏せ目がちであったのがなぜか懐かしく想えてくるのだった。初めて異性を意識した瞬間を柔らかに、そして素早く描写してしまうように。

これは家僕のペイルがまだ青年であった頃の話しである。
先代のシシリーはむろん人語なぞ喋れず、悪戯好きでわがままし放題のお嬢さまも生まれておらず、あの妖精のようなベロニアもこの土地に足を踏み入れていなかった。
日まいの緊迫は次第に神経を高ぶらせ、やがてニーナを焼き払ってしまった城主である伯爵に収斂していたけれど、他の使用人にはいくらか風変わりな者がおり、また可愛らしい小間使いも数人いて、城主存命なのだから、来客の頻度ものちのちとは比べようもなく、とりまく敷地の大池から立ち上る煙浪のように見通しがよいのやら悪いのやら判別できないほど、時間は慌ただしくに流れていた。

「おまえがあの厄介な積荷に関心があろうとはな。で、メデューサのことを誰に聞いたのだ」
間髪を入れず、問いかけられたペイルはさすがに身をこわばらせ、
「実は伯爵さまがしきりに独り言を・・・それで知ったわけです」
いかにも罰の悪そうな面持ちで答えた。
「なるほど、そうか、おまえは感づいてるだろうが、城主の神経はかなり疲弊してる。表立って奇矯な振る舞いを見たか」
「いえ、そこまでは。ただフランツさまの言葉通り、お加減がよろしいとは言い難く、やはり衰弱されてるのでしょうか。独り言にしてもか細い声をおもらしになる程度です。でもしきりにメデューサと口にされるので、なにか謂れでもあるのかと・・・」
ペイルは執事の高圧的な態度を受け流し、反対に意味深な加減を相手との間合いに横滑りさせた。
ここでようやく微笑をたたえたフランツは、
「その様子ではもう城内に知れ渡っているようだな」
「さあ、他の者からの取り沙汰は耳にしておりません」
心なしきっぱりした声色でなかったせいか、
「おまえのまわりには変てこな奴が幾人かいるだろう。本当に噂にはなってないと言い切れるのかな。沈黙の裾野に佇んでいるおまえを信じでよいものやら」
と、いかにも昵近の素ぶりを示しながら、薄っぺらな侮蔑が投げかけられたのだった。
案ずるより濃密な好奇に支えられたペイルは、いかにも傾慕する女人と向かい合った様相ではにかみ、黙りこんでいる。
「私はおまえのことをよく知らない。だが、おまえは私の風説を影に忍ばせたりしない。そう心得たよ、ペイル。じゃないと、メデューサに探りを入れようなんて態度など見せないはずだからね」
執事にしてみれば、あくまで懐柔を用いた調子だったが、無学な割に雅趣のある眼光をたぎらせている若い家僕は、愚かで浅はかな妄想がさっそうと羽ばたいてゆくのを禁じ得なかった。


[574] 題名:霧の航海 名前:コレクター 投稿日:2022年10月10日 (月) 03時26分

あらくれ者で知られたジャン・ジャックはその額に深く刻まれた傷痕を潮風へさらすよう舳先に陣取り、陸地を求めるまなざしなどあり得ぬといった風格を誰かれに誇示するわけでもなく、ひたすら想い出の向こうへ櫂を漕ぎ出すふうにして前方を見据えていた。
その眼光がいつもより波しぶきをとらえていると察した船員のひとりは、ジャンの影を踏むことさえ畏れたのか、一刻も早く積み荷が目的の入り江へと送られることを願った。

不穏なうわさが海面にただよう霧よりさきに船内へ導かれただけとは言い難い、なぜなら出航まえから彼の神経はささくれ立ち、港で行き合った顔なじみの言を借りれば、まるで死神にとりつかれたような昏い眼をしていたからで、つね日頃の剛毅なうちにもはにかみを忍ばせた心安さがまったく失せていたのだった。
たとえ嵐のさなかだろうが臆することなく錨をあげ、依頼主の要件に応えようとする姿勢とは別種のこわばりが相貌へ滲んでおり、それはどこからともなく囁かれだした積み荷に関する奇怪な風聞と関わり合って、船員配下はおろか、港に面した酒場の女やあたりをうろつく野良猫の目つきまで、眠たげな、しかしあきらかな物怖じを生じさせているのだった。

船出まえの晩には、この手の巷説をもっともらしく語りだす老人が酒場の片隅から、鈍重なそれでいて厳粛な身振りでジャン・ジャックのそばへと歩み寄り、
「あんた、悪いことはいわん。積み荷を届けてはいけないよ」

相手の返答を待つ間もなく、こう続けざまに言い切った。

「が、引き受けた仕事なら仕方あるまい、捨て置くことは出来んしなあ。なら遭難にでも見せかけ海の底に沈めてしまうのじゃな」
「ほう、それはまたいかなる理由で」
平静を保った面持ちのジャンはおおきく首をかしげて見せたのだが、一緒に傾いた目線は自らの影を凝視するはめになってしまい舌打ちをした。
「おまえさんの胸に聞いてみればええ」
石像の蓋が開かれている、皆が危ぶんだ秘密がまことしやかに船底から這い上がってきたとき、ジャンの胸中にはある決断がなされていた。
老人からの提言を聞き入れ、海原に浮かんだ鬼胎のなすままに、船員らの周章狼狽を鎮めるため事なかれで済まそうとしているのではなく、その逆を演じる覚悟をしたのであった。

蹌踉とした物腰を認めつつ、なおさらその身震いのなかに夢のまた夢を沈みこめることは、奇怪な矛盾すら飲み込み、あかかも錆びついた錨を潮から引き上げるよう、夜風が口中に染み入る辛さをともない、もよりに寄港する素振りをしめし、だが入港は行なわれず、北極星に祈りを捧げてから小島の陰に碇泊した。
そして乗組員たちが抱え込んでいる胸騒ぎと、引きつった顔のすべてを自ら引き受ける勢いで、ジャンはさながら秘密結社の会合がもたらす緊迫の口火を切った。
「よく聞くんだ、皆のもの、これより検分するのは言うまでもないだろう。誰が積み荷を解いたのか知らないが、石像の蓋が開いていただと、ふん、そんなでたらめなぞあり得ない。これが証拠だ、蓋もなにも、あの倉庫の扉の鍵はこの通り、肌身離さずにぎっておる」
一同のどよめきを尻目にジャン・ジャックはふたりの手下をその背後に、そして舵取り以外の全員を船倉に引き入れた。
「見ろ、扉はしっかり閉まっているじゃないか」
高らかな笑い声は特別庫の鍵穴を突き抜けそうな勢いで、船底の揺らぎを支えているようにさえ感じる。
「ええ、誰も開けたりしないでしょう」
うしろのひとりがそう呟いた。
ジャンは不審な表情をつくり
「おまえもそう思うのか」と、もう一名に尋ねた。
「あなたの他に入った者はおりません」
きっぱり、そう答える。血の気が急激に全身から引いてゆく。
その視線がたどるさきをよもや失念していたとは・・・言葉にする気力があったのではない、うわ言がついて出ただけであった。

「あとの者はどうした、みんなどこへ消えてしまったんだ。なぜ検証に立ち合わん」
にわかにジャンの記憶は生々しい腐臭をともなって、ここ数日の怪異を蘇らせた。封印されしものは脳裏だけが心得ており、いかなる実際にも眼を閉じていた。が、暗幕をすり抜け描き出される光景は闇の気配へと近づき、否が応でも悲哀と苦渋に通じ、ちょうど港町の下水に流れる汚物のように、忌々しい暗黒へ同化してしまい、恐怖が恐怖を呼び起こす小さな物音にそっと耳を貸す。
誰ひとり足音さえ届かない、冴え渡った月夜の孤独。
顔なじみの船員以外、日雇い同然の集まりだったから、出航間際ひとりふたり身勝手に下船しようが、さして気にもとめておらず、いや、そうあるべきだと自分の影に刻まれた暗黒の意識を理解していたからこそ、今度の航海は陸地の揺らぎで保たれていたのだった。
誤謬の内側に巣喰う確信、迷妄の彼方へ伸ばした触手、希望の蒸発、尻込みする絶望、無遠慮に横たわる朱色の時間、眼底がとらえる浮ついた失意と補填、あらゆる生活を担っている覚めた耳鳴り。
日毎、船員が消えてしまう現象を架空の出来事として見据えていたのだとすれば・・・なんというおぞましくも素晴らしい船出なのだろうか。

ジャン・ジャックの筆跡らしき航海日誌の末尾には、こう記されていた。
「私はまどろみながらとても古い書物を読んでいる」


[573] 題名:星空のマリオネット 名前:コレクター 投稿日:2022年06月14日 (火) 05時01分

見果てぬ夢を思い浮かべてみる愉悦が、いかに艱苦とは無縁の居場所でつぼみをひろげようとしていたのか、当時のジャンに限らずとも、薄っぺらでありながら強固なその花弁はとりとめない揺籃からこぼれ落ちたであろうし、おのずと近づいてくる恋情の魅惑に淡いあこがれを抱いたとして不思議はあるまい。
むしろ、未知なる明日に過剰な期待を寄せており、しかし反面では細心の紋様が渺然と寝室に満ちていたのだ。
童心の仕草は徒為につき動かされているかも知れないが、ちょうど草の根をかき分けるよう地面を這いまわる昆虫の姿態にある種の感銘を、それがたとえ意識に上らなくとも、注がれた視線は俯瞰の領域とは異なる穏やかな軌跡を描くのであろう。

さてプルート老人とジャンとのふれあいがどのような間合いと情調を生み出していたかを想像するに、とりわけ発端やら成りゆきを述べることは、あまり意義をなさない。
なにより端的な石化が可能であると信じた畏怖ゆえに、また背馳なのだが朧なる時間の過ぎゆきに対し、あえて委細が省かれる暁光を想わせる自然によりかえって性急な、そうあたかも暮れ時のすべり台に興じる体感を想起せしめ、その場面は玲瓏たる、そしてもっとも香しい意趣に支配されるからであった。

ものごころつかない折から女の子の衣装をあてがわれていたジャンにとって、その後の抵抗はあったにせよ、ある距離までの許容範囲でしかない近づきの思慕は、明度がどうあれ異性の蠱惑である以上、仰望にも似た欲求はまだ明快な輪郭と落とし穴のような抜けを覚えず、月並みな言い方をすれば、自らのなかに色香を見出すしか手だてがなかったのだ。
古書に現れたゴーゴン姉妹に対するジャンの反応は、便宜を承知のうえで語るなら、それらはあらかじめプルートの胸におさめられており、すでにあやかしの名分は認証され、ゆくえを見失うあやまちが入りこむ余地はなかった。
つまり少年のまだ未分化であるこぼれる情欲と、老人の枯れ木へしたたり落ちるような雨露は陽光と月影の関係で結ばれ、その交差する時間の重なりに歳月はしりぞくしかなかったのである。夢想が宙を舞えば、いわれなき下半身に屹立するものは同等の価値を放つしかなかろう。

衆人の世評とは無縁でありつつ自身の粉飾に金輪際いや気がさしたわけでもないジャンの心持ちを見抜いていたプルートは、自傷によってすべてが払拭され生まれ代わったとも、割礼にならった風習を無意識になぞったとも考えておらず、逆に冴えわたった月影に照らされる青白きかがやきだけを見定めた。
余人の知らぬところで少年は女装のきらびやかさを内心こころよく感じていたに違いない。
現にあれだけからだに触れられるのを嫌ったにもかかわらず、ふともらしたゴーゴン伝説に関する謂れを優しいまなざしで詳しく聞かせたことにより、ジャンの警戒心は解かれ威勢のよい爆竹みたいに炸裂し、そしてその硝煙を含みいれるがごとく肉厚の風船を膨らませたのだった。
醜悪な容貌に怖れをなす一方で、着飾っては薫香に包まれたひとときを忘れるはずがなく、まわりへの反撥はいわば凡庸な態度に過ぎないことを胸の片隅で心得ていた。
少年が欲した誉れ、それは自分の外へと流れゆく芳香であり、かといって対象をかたち作る条件へ意志を傾けるには到底およばず、ほぼ羞恥に被われた野放図な希求であったと思われる。

ジャンは老人と親しくなるにつれ、語気を荒げて彼の名を呼ぶことが度々あったけれど、老人は別段いましめるのでもなく、ただ苦笑して少年の遊戯にひそんだ陰りと栄光をこころのなかにそっと見つめるのだった。
その栄光とは寡黙なひかりを浴びてまばゆく、プルートが眠りつかせてきたかつての郷愁に甘く苛まれる危惧を避けるためにも、ついぞナルキッソスの伝承を口にすることがはばかられた。
理由はプルート本人の変容願望が樹液のように頬をつたうのをためらったからで、それは経年の知恵だと心得て貫目が保たれるのを望んだからに他ならない。
増々もってゴーゴン伝説に収斂してゆく様は火を見るより明らかで、プルート老人は顔を近づける毎に股間を押さえつけるふうな手つきを隠しきれず、またジャンは見るものをして一瞬で石像に変えてしまう妖術に酔いしれ、異性が自らの裡に宿っている幻想を決して振り払おうとはしなかった。

やがて姉妹のなかでメデューサが海神ポセイドンの愛人であることを知るにおよび、遠い憧憬は遥か雲海を越え大海原へと飛躍してやまず、神話は血肉となり果て、老人の若かりしころを夢想しはじめたのであった。
甘く強い呼びかけはそうした事由のはにかみだったのかどうか、ただこの見解には穿ち過ぎのきらいがあるので、安易に情欲へと排水を流すような無粋は避けたいのだが、鏡を用いての大団円にジャンが驚喜した事実を無視することは出来そうもない。
硬直する肉体を賭してその首をはねる果敢で頽廃によって突き飛ばされる情動は、恍惚とした輝きにあふれており、また陸離たる紋様の奏でる通底音に身を震わさずにはいられなかったからである。

おさなき日々の戯れにはいつも欲情がひそんでいる。
燦々と上る朝陽ではなく、鉛色に暮れなずむ天空を朱に染める夕陽こそ寝屋にしのぶ官能に導かれ、禁断の扉に透ける裸体は仄かでありながらゆるぎない衝動を保持し、たそがれのまどろみと拮抗する。
鏡よ、鏡・・・老いたプルートは若い盛りのジャンを見越していたのだろうか、幼年の健気で陰湿な面をはらんだ性質を知悉していたのだろうか。
奇しくも積み荷をめぐって諌めた言葉は、未来の光景へと引きつけられながら、記憶のなかに埋もれた書物の断片に、あどけなさの裡へ巣食った美しさに、聡明な瞳の陰に燃えた情念に、そして無骨を気取った小胆の置きどころに届けられたのだろうか。
老人は北極星のまたたきを忘れたかった。少年は忘れものを思い出せなかった。


[572] 題名:古風なメヌエット 名前:コレクター 投稿日:2022年06月06日 (月) 08時04分

北極星の瞬きが港へ落ちるころ、泥をかぶった酒場の裏に転がることを忘れた樽の影に、その奥へどっしり腰をすえた煤けた瓶にたまった汚水の上に、かがやきを失わないひかりの矢が一条ふり注ぐと、ふて寝をきめこんでいた野良猫や、酩酊しても笑みをしめさない呑んだくれ人夫らの顔つきには、いくらかの意欲が戻りはじめていた。
もっともこの場合、意欲というのは樽底へ残ったエキスが発酵にともない効能あらわにしたのものでも、通り雨で洗い流された汚濁に感心をよせるものでもなく、むしろ臨終間際の病人の眼窩ににじむ体液に似た苦い心地を含んでいた。
船出を待つ錨がわずかに揺れているのは、昨夜の嵐の名残りだろうと感ずるまでもなく水夫たちはそれぞれの身支度に余念がなかった。積み荷を検分してまわったジャン・ジャックの轍を踏むまい、錆ついた良識だと嘲られようとも、己の運命が左右されざるを得ない怖れから鑑みれば捨ておくことは出来ない。それがプルート老人の提言であった由縁は周知のことである。
しかしジャンのとった醇乎たる判断を、その顛末のすべてを知る者はおらず、記された航海日誌から読み解ける情況よりことの次第を推量するしかすべはなかった。
奇態な風聞につきものの邪性をまとった暗幕にはもっと深い陰しか見出せず、そして困り果てた興行主が姑息に用いる粉黛すら幻影に過ぎず、果断なジャンの意志は波打つ右舷にむかって揺れる錨の静けさをなぞっているかのようであった。
口調はいたって穏やかだが真率なまなざしを絶やさないプルート老人の助言もまた海底の藻を想わせる揺らぎになった。

「わしはおさない時分のジャンをよく遊んでやったよ。けど抱っこしてやろうとすると暴れだすから始末におけん。おまえさんらには想像つかんだろうが、それはそれは見目麗しくてな、まるでアフロディテかと親族はもちろんまわりの人々も賛嘆しながら口にしたものだ。で、可愛さからみなが頬をなでたりキスをしたがったり、天童をあがめる按排で囃し立てる。それが次第に鬱陶しくなったんだろうな、髪も肌にも触れられるのがたまらない様子でしまいにはたとえ母親だろうが見知った顔だろうが、近づくのでさえ露骨に不快な視線を放つようになった。
当時は両親が骨董店を営んでおり、ジャンは格好の着せ替え人形にされていたのさ。ああ、この目で何度も見せてもらったよ、長い金髪に結ばれた緋色のリボン、洋服はもちろん女の子の着るフリルつきのドレスで、時代がかっているせいか、さながら舞踏会に繰り出すお姫さまのようだった。
ある日にはあえて趣向をただし、長い髪を束ねバロック風の楽士を演じれば、飾り窓から床に落ちるまなざしには典雅な調べがともなって陽光に溶け合い、しかも幾分か背伸びした形跡をまるで匂わせず、反対に華やかな青年の持つ美麗な香りだけが足もとから胸のあたりへ漂った。偽装を見破ろうなんて下心を抱く者なぞはおらん、言うまでもない、古風な趣きに包摂される悦びを打ち壊すなんて徒爾であることを心得てたから。
案の定ジャンは看板娘ならぬ看板少年になった、そして突然ゆくえをくらましたりしたのさ。
二日後に悪びれた顔つきもせず家に戻ったジャンは誰それと喧嘩をしてきた、そう言い張ったけれど、あれは喧嘩の傷なんかじゃない、おそらくおのれでつけた勲章のつもりだったのだろう。わしはその兆しを勘づいておったよ、なに、ひとり波止場で空瓶をたたき割るすがたをよく見かけたからな。あの額の深い傷痕は瓶の破片で斬りつけたに違いない。
それからのジャンは実際に蒸発するまであの通りだったし・・・おっと、わしは遭難したとは信じておらん、あくまで蒸発だ。どこへ消えたって訊くのかい、それがわかるくらいならこんな話しはしないだろうよ」

おさないジャン・ジャックは謂わば素晴らしい環境に恵まれていた。
港界隈における他の子供たちとは別の世界に取り囲まれもて囃されたのは、プルート老人の言にすでに現れている。
しかし骨董のなかの逸品がときに鈍いひかりと鋭いひかりを交互に発するよう、あるいは刹那の感興を数歩しりぞかせる猶予をあらかじめ備えており、それが陶冶による仕業であることを悟らせないあたり、雁行の序列を模した斜の自覚がなにより先んじていたと思われる。
つまり隠顕する妙味をあたえられていたのだ。帰順まで至らなかったわけは傷痕の有無にかかわらず、ジャンが成人するのちまで夢想から逃れる算段をしなかった事実ひとつでこと足りるであろう。
老人は否定するが本当に彼は遭難しなかったのか、その問いに答えるまえにある情景を前面に引き寄せなければならない。仮に魔手に加担し浄福とは異なった色彩に溺れようとも。

ジャンの店は二階奥まで品々が陳列とはいかないけれど運びこまれており、まだ荷を解かれないものまで入れると果たして収拾がつくのかと傍目には覚束なくなる状態だったので、片づけの手伝いとうそぶき(たとえ愛児であろうとも遊び場として解放されなかった)お仕着せの類いではない、心底から夢心地のする飾りはねを物色しては、それらはなめし皮の眼帯だの、今にも朽ちてしまいそうないかがわしい土偶だの、あきらかに壊れている朱色の横笛だの、ねじまがった銀製のスプーンであったが、何より木箱に平積みにされた古書の頁をめくるのがこのうえない楽しみとなった。
整理された書籍は種類別にまとめて一階の脇棚に並べられたけれど、木箱の中身はまだ埃がつもったままで、目を細めては思いきり息を吹きかけ表紙や口絵を開き、怪異と神秘が織りなす暮色の裡に点綴する中紅を浮かべてはしばし時間を忘れた。
ジャンが極めて頻繁に読み耽ったのはギリシャ神話に関する、わけてもゴーゴン姉妹に関する伝説であり、他の妖異譚に惹かれる素振りをわざとらしく示さなねばならないほど、禁断の穂波にとらわれたのである。味到するべきものは絡み合った粘り気であり、恐懼を厭わぬ魔性の顕れであり、頽廃へのあこがれであった。

鏡のなかに現れるたびに細やかな儀式がくり返される。
それが太古の昔から鏡に宿った霊妙なる為業であるのか、自惚の中枢に手をかける所為なのか、あるいは同時に両者が混じり合った結果、毛細血管に指令が下されるよう厳密な、極めて生理的な自然の発露であるのか、その謂れはうらはらに儀式という合わせ細工の機能が一番よく理解しており、ひかりの加減や陰影の満ちかたを深く慈しんでいたのだ。
目の当たりにする自己像の硬直してしまう過程が刹那であるゆえに、石化は歴史を否定する。
まだ年少のジャンが果たしてそうした観念を擁していたのか定かではないけれど、すくなくもプルート老人の説話によって、こっそり胸にしまっていた秘密がいとも簡単に露呈してしまうとは考えも及ばなかった。


[571] 題名:伯爵夫人の恋 名前:コレクター 投稿日:2022年05月16日 (月) 06時38分

誰もがうらやむ境遇にあることを認め、優雅な風の吹き抜けを当然と思いなしては、みぞおちあたりに妙なくすぐりを覚え、それがどうした仕業かわかろうともしないまま、不敵な笑みを浮かべるのが彼女に備わった美徳であった。
ロベルト伯爵夫人にとってこれまでの道のりを振り返るとき、おのずと立ち現れてくる言葉には、枯葉が枝の先からこぼれ落ちようとする景色をあぶり出すごとく、風の気配とは無関心な乾いた響きをもっていた。
少女から艶冶な容姿へと移りゆく鏡のなかへ言い聞かせた声が、霞むことさえ、忘れ遠いこだまになって舞い戻ってくる不思議は、伯爵夫人の未来へと限りなく連なっていた。

あなたにはわからないでしょうが、恋にとらわれずに婚約者が決められる因習をどう受けとめてよいものやら・・・でも不穏な空気ばかりに包まれていたわけじゃないわ。
おとぎ話に聞かされた王子さまの幻影に胸の高鳴りを覚えたのも事実、いえ、それ以上に思惑がまぼろしを引き連れ、夜な夜な寝室の中へさまよいだしたの。あなたがこの城を恐る恐る見やるように、そして珍しがるようにね。
ところが風の便りは、闇を切り裂くムササビより速く、目の色を読まれているにもかかわらず卑屈な追従を表わす召使いどもより手際よく、悪寒が走るまえにすべてあきらかにされてしまった。
誰が報せたと思うかしら、とんだお笑いぐさよ、窓硝子にへばりつたナメクジがとても雄弁に語っていたのだから。ええ、むろん言葉じゃないわ。
まぎれもない鏡の作用、硝子の霊力、そう感じ入るために光線は微妙なさじ加減をあたえていたと思われる。
伯爵夫人にとって過ぎゆく時間は朱に染まった砂時計のように、無味乾燥ながら鮮烈な光彩を音もなく放ち続ける幻影であり、児戯に等しい空疎な身支度と不可分だった。
だが、陰りある微笑のうちに息づく繊毛のような動きには、黄昏の上空へと羽ばたいてゆく限りない衝動が織り込まれていて、その嘆かわし気なまなざしにまどわされる者は親族や召使いたちだけでない。

霧雨が空模様を哀しみへ誘ったとき、わたしは小指に痛みを感じ、そのしびれのような痛さをこらえようとしなかったのは、月影を慕いだした頃、硝子越しの明かりへ浮きあがる顔にしのび寄る迷い鳥にこうささやかれたからなのよ。
「夜は終わらない」
以来、迷いなんかではなくあきらかに伝達するため、昼夜おかまいなく様々な生きものがわたしに近づいてきた。
「おいでシシリー、茂みにひそんでいる獣を生け捕ってやるわ」
娘のコリアーヌはいかにも首尾よく獲物をしとめるふうなくちぶりだったが、鼻歌と変わらぬぞんざいさがうかがえる。
しかし、まやかしだろうと気まぐれだろうと、意義をただしてみるだけの抵抗は少しもわき起こらず、つまり令嬢としての振る舞いが魅せる圧制によって、おのずと戯れを許してしまうのだった。
それだけではない、小悪魔が身にまとった薄衣の芳香に酔いしれている甘美な自覚さえ得て、こうべをたれ、ひざまずくことを厭わなかった。
シシリーはかつての詰問が身にしみていたので、ことさら卑下していると見なされるかも知れないけれど、ベロニアを慕う心情とは別の想いが働いており、その思慕はしもべの粋を越えていた。

「獣なんか、もうみんな追っ払ってしまったから蛇くらいしか見かけない。それでもいいさ」
あたかもメデューサを前にしたベロニアの為、ヤマカガシを払いのける意気込みをのぞかせてみても、理由づけには及ばなかった。
「先に行って見ておいで」
高飛車な口調に叱咤されるようにシシリーは猛然と草むらへ駆けこんだ。
「食い殺してはいけないわ、見つけたら吠えるのよ」
コリアーヌの声を背にしながら、眼を輝かせているばかりで鼻を効かそうとはしない。
令嬢を軽んじているわけではなく、あくまで虚しい遊戯に没頭したいが一心で、まばらな陽が落ちたにじんだ草の根をにらみつけている。

四つ足の裏に伝わってくる冷気を保った感触が心地よい。
「このまま、深い森のなかに吸いこまれていきたい。そして鎮守の精霊たちに入り交じり、ベロニアの影を呼び寄せるんだ。お穣さまと一緒に・・・ああ、ペイル、もちろんだよ、あなたも」
前足に鋭角的な痛みが走ったあと、視界がぼやけはじめ灰色に濁った。
地を這う渇いた毒蛇の尾が遠のいていくのが微かに分かった。コリアーヌの声が次第に甲高くなった。

そうね、この世のものとは思えない訪れもあったわ。鼻を鳴らしながらじゃれつかれたのは死んだはずのシシリーだった。代々その名を引き継いでいる雄の番犬よ、かわいそうに三日まえ毒蛇にかまれてしまったの。
まちがわないで、なにも動物たちと会話が通じるなんて言ってはないのよ。シリリーは特別なの、わたしと同い年だった。だからといって怪しい力なんか備わっていない、すべては婚姻の日取りを耳にしたとき決定したと思う。
浮き立ったのだわ、この胸の底のさざ波が大きく、因習といってもわたしには夢のひとこまであり、世間知らずの遠いまなざしは流されゆく運命だった。
わたしは煩悶することで、胸のざわめきを悲劇に仕立てあげようとした、そうすることが期待を淡いままに保てると信じていたのね、きっと。
婚約者の訃報は晴天の霹靂なんかじゃなかった。
哀しみに包まれることも、嘆き苦しむ自身の姿すら想像できなかったわ。そう、わたしは悪夢から逃れただけに過ぎない、目覚めはいつもの寝室の空気に少しだけ妙薬を薫らせてくれた。まるで部屋の模様替えの居心地のように。
それからの日々は身辺だけが、からまわりしているみたいだったわね。
ただ見つめていただけ、これが噓偽りのない心境だった。心境というのもおかしいかしら、そうですとも、空洞をどれだけのぞきこんで見たところで、なにもこの目に映りはしない。ねえ、ニーナ、新たな嫁ぎさきはそっと知らされたものよ。
ええ、あなたが星のまたたきに見とれていたとき、大地の底からささやきがあったでしょう、同じことだったのね。


[570] 題名:シシリーの夢 名前:コレクター 投稿日:2022年05月10日 (火) 04時38分

そぼ降る雨音の余情に大人びた想念を掛け合わすなんて、もしくは煙る外光に毅然とした覚悟を見出したりしたのだとすれば、それはたぶん、古謡が奏でる見え透いた強がりに従ったまでのこと、意味ありげな余韻のなかに衝動がうずまいているのなら、とても分かりやすいのだけど、ねえ、どうするつもり、と誰かに叱責されているようで、さすがに知らない謡だからなんて、適当にごまかしてしまうわけにもいかず、すこしばかり、相手の顔色を窺いながら、コリアーヌはためらいの胸を軽く押さえ、こう言った。

「お母さま、ペイルに命じてください。あの恐ろしい石像の首をはねるよう」

案じたよりすんなり口をついてしまうと、あらかじめ定まっていた宿命にも不思議と思えてきて、娘の懇願は母の希望でもあったわけであり、いかなる由縁でかのメデューサが敷地に運ばれたのか知るよしもないはずで、困惑気味の視線を宙に這わしているのが、まるで心細さを補填しているように感じられ、すぐさまペイルが放つであろう獣の匂いを自らにまとわりつかせた。
同時にコリアーヌは、気おくれしているシシリーの野生をすがたを思い浮かべ、なにかしら小意地の悪い笑みをもらしてしまった。
「わたしの言葉を理解したのね、シシリー、いい子だね。ペイルにもちゃんと伝えておくのよ」

鼻先でほめられた音にどきまぎするのが、おそらく精一杯、同調とか共感なんて、ただの護符でしかなかったので、鼻息荒い獣の遠吠えはよりいっそう遥かに聞こえ、子猫のねだりのようにあらくれはあきらかにしょぼくなり果てていた。
相合い傘にふたり、訳ありの肌寒さがまるで春先のほがらさな色合い向かっているなんて、どうにも、気恥ずかしく、かねてから準備やら心構えで正当化されたそれなりの実感に命令されていたので、みっともない拒絶を受けようとも、いたしかなかったし、本然とわきあがってくる憎しみはすべてを支配しようと努めている。
母の戸惑いだって、すでにニーナの秘密を打ちあけてしまった手前、頼もしく可憐に成育した冷酷を宿した娘の頼みをないがしろにしておくことは出来ず、とうとうメデューサを駆逐することになった。
で、なんとシシリーに命令が下されたのである。下令を受けたシシリーの苦渋に歪んだ顔を想像するのは難くないだろう。
母の企みは明瞭だった。コリアーヌが番犬に言葉を仕込んだという限り、あたかも夜遊びには甘い面持ちが望ましくあるように。

これはシシリーの夢である。すべてではないにしろ、おおよその場面は優しい眠りにつきまとう、あの光景である。

当然ながら、シシリーは唯一こころやすくしているペイルに相談してみた。
「どうやって切り落とせばいいんだろう、言い伝えではあの眼と見合わしたら最期石になってしまうっていうじゃないか。それにベロニアが・・・」
「どうした、いつものおまえらしくないぞ、石がどうした、そのまえに人間になったのはいったい誰なんだ」
「それは実のところ、ぼくの関知することではないよ」
「まあ仕方あるまい、しかしお嬢さまとニーナがちからを合わせてくれた恩を忘れてならん」
「どうしてなの、ぼくは拷問されたんだ。舌を引っこ抜かれそうになった、秘密を話さないなら必要ないだろうって」
「魔術なのさ、それで四つ足から二本足に生まれ変わったんじゃないのか。文句はなかろう、なあシシリー、おまえが犬のころからベロニアを慕ってしたのはお見通しなんだよ。石になっているのはそのこころだろうが」
「わかっているならもっと親身になってくれよ、お願いだペイル、ぼくは石なんかじゃないし、なりたくもない」
「ずいぶん気弱なもんだな、忠犬さまの気概はどこへいった。まさかこのわしにベロニアと手を取って逃げ出せとでも言って欲しいのじゃないだろうな」
「ああ、そうだとも、そう言って背中を押してくれたらどれだけありがたいだろう」
「本気でしゃべっているつもりか」

その夜シシリーは石像にむかって語りかけているベロニアのそばへ歩み寄った。
いつものように草むらを縫いながらまとわりつく、ヤマカガシを数匹たくみに前足で払いのけ、夜気に乗じた怪しげな影を遠ざけると、意気盛んなまなざしで番犬であることの栄光に酔い痴れた。
それほど性急ではない。ただ、そうした心持ちで吹き抜けなければ、いとも簡単に夢から醒めてしまいそうだった。
前足に痺れるような痛みを覚えたのは、果たして気の緩みであったか。次第に足もとはふらつき、幽かな耳鳴りに覆われ、視界が定まらなくなってきた。しかしベロニアの語りだけは聞き取れている。
この領地の言葉ではない。それが分かっただけでも救われたのだとうなずき、ゆっくりからだを揺らしながら目線を暗い気高く静まった山稜へ向けてから、大地の香りにも愛しさを感じとった。
そして女神の影のなかにうずくまり、涼風が鼻先をかすめ、獣の匂いは異国まで吹き流されてしまったのか、自分が自分であることを忘れるため、シシリーは深い深い眠りについた。


[569] 題名:風のささやき 名前:コレクター 投稿日:2022年04月26日 (火) 06時13分

その澄んだ碧眼の奥に映しだされた色彩は、黄金が風にそよぐような麦穂だった。
晴天ではなかったが、光彩をまとったしなやかな群生は空の青みを招いており、遠くに連なる山稜まで呼び声はこだました。
頬をなでる髪にかがやく、白金の柔らかなひかり、ベロニアは微笑んでいた。
想い出のありかを探りあてることにもう飽きてしまったのか、忘れてしまったのか、見渡すかぎり草原の放つひかりがすべての情景を担っているのだった。
小間使いのベロニアは日没を待ちわびるかのように、毎夜となくひっそり歩み寄ってはメデューサの石像へ話しかけていた。
家僕のペイルと番犬シシリーは、城主のひとり娘と比べても数段澄んだその瞳に魅せられていたけれど、なんだか盗み見でもしているような弱みにかこつけ、恋心と言って過ちのない胸裏のあり方をすげかえてしまった。
単に美貌が包み隠されているのだと、思いなしたくなかったから、夜風が抱く秘密に接することを避けたのかも知れない。
くすみを知らない透き通った肌、あるいはなびく髪のきらめきを、月光が放つ白金の罪に収めたりせず、むしろ頭巾のごとくの被りものや、うつむき加減の生気のない面持ちのせいで、華やぎが抑えられ代わりに砂漠に舞い降りた鴉みたいな汚れ役を背負っているのだと、あたかも恥じらいをあたりに分け与えているような謬錯を生じさせ、とりとめない眺めのなかにベロニアの容姿を浮かばせていたのだ。
そして本心とはうらはらな加減によって、距離感は半透明の遮蔽であり続け、いかにもベロニアが自らの美しさを糾弾しているふうに見えたのだから、その意地らしさには疎外という接し方がもっともふさわしいのだろう、無難であるべきと信じていたいが為、微妙な均整によって立ち位置は保たれた。
ペイルとシシリーはきまじめな学徒のような姿勢で、夜と昼の狭間を行き来し、午後の光景を選びとった。

さて石像はいつの時代より持ち込まれたのやら、城そのものに忌諱され、かと云ってニーナを暖炉へ焼べるみたいなたやすい感情の発露ですます事はできず、もてあました末が家僕小屋の脇に移されたであろうと察せられる。
また山間にもかかわらず、その異形の眼は遥かかなたの海原を凝視していたので、幼いころ人さらいによって船に乗せられこの地にやってきた、そうまことしやかにささやかれたベロニアの身上にすれば、呪詛を孕ましたと勘ぐられても致しかたなく、夜な夜なの行為が明るみになってしまうと、主人を失った城内には静謐を装った雰囲気が濃厚に漂ってくるのだった。

失われたものを徐々に取り戻そうと努めたわけではなかったのだけれど、ある夕暮れメデューサに触れることをためらっている朱の光線を認めたとき、べロニアは妙な胸騒ぎをおぼえ、よろめく足つきにまかせながら石像へと近寄った。
こころのなかに言葉が浮かんでは消え、消えてはさまよいだした頃には、秘密のベールに守られた会話が成り立っていると思いなし、迷妄を支えにしつつか細い声をもらしてみた。
風のささやきに似た、けれども異界にしか吹き抜けることを許されない、淡くせつない心情。
それはやや伏し目の気難し気な表情をしたメデューサに伝わった。地を這い、夜気をくぐって。

「わたしの両親は麦穂のひかり、顔はまぶしく、目を細めなくてはならないから余計に遠のいてゆく。きっと迷子になったのよ。だってどこまで突き進んでも風景は絵画のように止まっていたわ。何者かの大きな手がわたしの背をつかみとった」
メデューサの昏き眼がうっすら色づいたのは天空のうつろい、月光のしわざだったが、ベロニアには一瞬の出来事にしか感じられなかった。
今宵は鎮守の森にてかがり火を絶やさぬ祭礼、城に残されたのは家僕と番犬、それにほとんど名ばかりの病身の執事が床についているだけである。
奇妙な胸騒ぎはときを選択し、そのゆくえを占ったのだろうか。

「ここに来た当初のことなら覚えているわ。それはそれは厳めしいご主人さまで、わたしは祈る言葉をなくしてしまった。お嬢さまがご生誕されたときの記憶は鮮明よ、今よりもっと沢山の家族で、召使いの数も知れないくらいだった。厩舎からはいつも匂いが漂っていたわね、懐かしいわ。村人たちの出入りも頻繁だったし、異国の行商人やいかがわしい女もちらほら、日をあけず催しがおこなわれ人々の顔はとても生き生きしていたわ。ひとつひとつの場面が切り絵のごとく、手をのばせばすぐにでも触れられそうだった」

ベロニアはよほどの悪天候でないかぎり石像と向き合った。
それは煌々と照りつける月あかりが辺りに際どい陰影をほどこし、魔手の胚胎に力添えしている冴え渡った夜更けのことである。
番犬シシリーの気配を感じていながら、開き直りに近い意欲でメデューサの復活を願ったベロニアはある決心のもと、誰からも教わったはずのない、だが人知れず連綿といにしえより伝えられてきた秘法を身につけた威厳をもって儀式を執り行なった。
正確には祈祷と呼ぶのがふさわしく、また形式からすればその狂乱の姿態は、床に散らばった薔薇の花びらのように艶やかであったので、念入りな化粧がもたらした凄みは石像のかたくなさに染み入ったかの様相を呈した。
その唇を染めていたのは自らの手首を斬りつけた鮮血にほかならず、人語を放擲したベロニアは祈りがとぎれるごとに赤みを補充するのだった。
やがて夜空からの使者が舞い降りる予兆として月が雲間に隠されたとき、それまでの張りつめた情景が緩まると、視線はあらぬ方角へ向けられ、こうべを垂れたままがっくり膝を落としてしまったのである。

「攫われしは者は汝に限らず、我が身とて同じ、今こそ目醒めよ、ニーナ」

ベロニアはてっきり自分の口をついて出た文句だと思ったのだが、闇が支配するさなかでも石像の身震いをはっきり目の当たりにした。そして耳に入る声色のなんという雅かな響きであったことも。
城主の娘に抱かれるはずだったニーナを探しださなければ・・・だがその願いは暗黒に閉ざされて、粋を脱することは不可能だった。
なぜなら暖炉に焼べられ灰になったニーナは、裏庭の麦畑にまかれてしまったのだから。
脳裏に渦巻く不穏な光景を押し返すよう、ふたたび黄金色のかがやきが立ち帰ってきた。
「わたしに想い出はいらない」
ベロニアは石像を上目遣いにして、そうつぶやいた。


[568] 題名:炎の肖像 名前:コレクター 投稿日:2022年04月18日 (月) 03時00分

コリアーヌの瞳に焼きついた肖像は夜の帳が降りるにつれ、いつものごとく濃厚な色彩を放ちはじめた。
深紅の天鵞絨と見まがうような光沢で敷きつめられた階段の壁にその肖像画は飾られており、陽光のまったく触れないことも手伝って、燭台に灯る炎のゆらめきを過敏に受けとめていた。
「面影のないお父さま、今宵もそんな眼でわたしを眺めているのですね」
娘の独り言は、幾とせにもわたり繰り返されてきた。
その背後には亡き母の幻影が白く浮き出して、しめやかな憑依を遂げているのか、自身の言葉はあたかも台詞のような深い意味合いと、浅薄な警句に則していた。
想い出は常に陽炎とともに胸のなかへ沈み、迷妄と現実の境い目を縫い上げることで、庭園に鎮座した朽ちることを知らないプロメテウスの塑像に共感をもとめた。
針の先端に光る鮮血が誓いの徴であると信じ、小さな痛覚はほぼ慣習となり果てていた。こころの奥底に居すわる憎しみには、甘酸っぱい香りが孕んでいて、とらえようのない紋様に細かく広がっている。
しかし、その定まらなさが不思議とプロメテウスのすがたを形造っていたので、コリアーヌの嘆きは恍惚とした響きを醸しているのだった。怨嗟に歩みよりながら、反撥に突き動かされながらも、逆光を浴びてしまったときの戸惑いが、夢見の狂おしさへといざなっている。
父の肖像が放つ威厳に対し、娘は先取りともいえる感傷を胚胎しており、当たり前のように機能させていた。
「ニーナはいつ帰ってくるのでしょう。焼き捨ててしまうなんて酷すぎます。わたしの大切な友達になるはずだった、たったひとりの・・・同じものを届けさすなんて言い方にも抵抗ありました。身代わりのが務まらないのは、ここの血統と同じですわ」

母が自分を身籠って間もなく熱病に伏し、命をおとしてしまった父の所業を娘は憎んだ。
所業などとまるで吐き捨てるよう意識していることさえ忌々しかった。なぜならそういうふうに受けとらざるを得ない反面には、ひりつくほどの郷愁が息づいて、呪詛に近い憎しみはくだんのようにゆるやかな嘆願があった。
ましてや肖像画が薫らす面差しの先には、早世してしまった父への膠着が強くうごめいて、功罪の有無など理解されないまま、唐突に暴君と化した急峻な態度を未完の物語のように感じ取っていたから、なおのこと内燃の発露はあからさまにならざるを得なかった。

どうしたいきさつがあるのか、なにかのまじないでもあるのか、ただの気まぐれが引き起こした癇癪だったのか、母の胎内にあったコリアーヌは知るよしもなく、残酷としか思えない所業に打ち震えるしかない。
父は縁者から贈られたニーナを見るやいなや、燃えさかる暖炉に放り込んでしまったのである。
鴉がいつになく晴れわたった上空を数えきれないくらいの群れで旋回しながら、つんざくような鳴き声を轟かした昼下がり、父は上気した顔に激しい怒りを乗せ、母の手もとから贈り物を奪い取ったと、そう三度聞かされた。

最初は老衰で息を引き取ろうとしている家僕ペイルの口から、それは近づくことさえ禁じられていた規律を破り、そっと木陰にうずくまるようにしては昔話をせがんでいた最期の遊びになった。
「お嬢さまの右肩にニーナのまぼろしが見えるのでございます」
「ニーナとは誰のことです。もっと詳しくお話しなさい」
いくら催促してもそれ以上の事柄を伝えようとはしない。ただ見えるの一点張りで、それならどうして名前が分かるのか、我ながら機知に富んだとうぬぼれに舌打ちしつつ、問い続けてみても真摯に応じなかった。
同時に幼児を蔑んでいるふうな家僕の目つきに憤りを覚えたのは、未熟な感受性のなせる技や、気丈な性質によるものではなく、あるいは番犬シシリーだったらその謎を知っているだろうと答えた家僕の、ふざけたはぐらかしに呆れたわけでもなく、ひたすら秘密を保守しようと口を閉ざす頑迷であり、他の禁句を良しとしてきた馴れ合いから閉め出される屈辱を味わったせいだった。
「それならシシリーを拷問してみるわ、おまえはそのうち地獄へ堕ちることでしょう」

二度目は母を仰ぎ見ながら臆する様子を面に表さず、直截なもの言いで訊ねた。
すると一瞬たじろぎ眉根を寄せたのだったが、すぐに毅然たる姿勢で聞き返した。
「誰が喋ったのです、はっきり答えなさい」
コリアーヌはあらかじめ用意されていた答案でもなぞるよう即座に、
「シシリーからです。お母さま」
そう言い放つと、にわかに笑みを浮かべ、こっくりうなずき、あの逸話をそっくり授かったのである。
動揺より早く、父に対する怒りの火焔がそそりたち、頬に悔しなみだを模したしずくが一条つたった。

最後は狼の風体を想わせる雄犬シシリーの名を連呼して間近に寄せ、熟れたざくろの実を鼻先へちらつかせてから、ことの次第を引きずりだした。
シシリーはコリアーヌの殺意を持った悽愴な顔つきにおののいたのか、見事なまでの忠犬ぶりを発揮して、ひとの言葉を操ろうと懸命になった。


[567] 題名:夜明けのニーナ 名前:コレクター 投稿日:2022年04月12日 (火) 01時26分

空の色はまだ鉛を溶き流したように鈍く、星々の瞬きが離ればなれの境遇を嘆いているのだと、大地の裂け目の奥底から誰かがこっそり教えてくれたあの夜更け、ニーナはとても静かな馬車の音に揺られながら、城の門を通り抜けた。
うしろを振り返りたくなる気力が消えたのは、城門の先へたたずむ女主人のともしびを忘れた暗き双眼にのみこまれ、過去がゆくえを失ったからであった。
それだけではない、麝香を想わせる芳香があたり漂うなか、歓迎の証しであろう朱に染まった唇は、奇妙なく明るみを放っていたので、微笑が宿す真意を知らされたような気がし、未来が記憶を封印したと了解した。
「春の夜とは言え、冷えたでしょう」
女主人は召使いを侍らすことなく、たったひとりでニーナの到着を待っていた。
そのたたずみが単に、物静かな優しみだけで覆われていたのなら、不穏な心持ちは決して退かず、戦禍より持ち帰ったふうな緊迫を貼りつけていたであろう。女主人の声色には不幸な少女が夢見てやまない、仄かな闇の気配と薄明が入りまじっており、些細なことに拘泥する神経を麻痺させてくれた。
些細でも大仰でも、とにかくありありとした感性がひたすら邪魔であった。夜のしじまへ想いを託したくなればなるほど、自意識のせばまりが望ましく、あらぬ便りも疎わしい、夢幻の境地が願わしかったから。
「暖炉はまだ燻っているのです。お入りなさい」
柔らかな口調は孤絶した山間の城壁へと幽かにこだました。
そして闇に溶けたマントをさっと翻せば、洞穴に敷きつめられたかの苔した濃緑色の裏地をかいま見せ、始終寡黙であった御者の一礼を背に受けて、あたかも夜想曲の調べで誘われるごとく、霞がかった石畳を軽やかに踏みしめた。
御者に抱かれたニーナはためらうことさえ許されない、禁断の園に立ち入った歓びと恐懼が交差するなか、鬱蒼と茂る草いきれの眠りを妨げないよう、それは夜気を切り分けつつ歩みだした怯懦に結ばれ、豊かな実りの夢想へとたなびき、息をひそめ様子をうかがっている獣たちの沈黙に歩調を合わす術となった。

「ここがあなたのお部屋です。長旅で疲れたみたいね。今夜はもうおやすみなさい、あとでスープを運ばせますから」
給仕も執事のすがたもニーナの青い瞳に影を落とすことはなかった。
この城に棲むものは女主人だけしかいない、確信より早く、夢見の残像が広大な敷地を徘徊し、えも言われぬ居心地をあたえるのだった。あり得ない恐怖に先んじた気分が自ずと死霊を呼び寄せてしまうよう、あるいは幻影の足もとに漂う人がたが絶えず浮遊しているように。
そうした孤絶感をかみしめることで、不遜な垣根を取り払い、ニーナは城内の時間を把握し、薄墨の、しかしどこまでもひろがる信憑を作り上げてしまったのである。
鋭利な刃物が夜を脅すのではなく、肉眼ではとらえづらい錆びの鈍色に親を覚え、いばらの道が閉ざされた。決して背後の城門に意識を投げかけたりせずに。
むろん希望と不安の入り交じる胸の動悸は、深更の底に伝わってくる古びた時計の音に共振したけれど、紛れもない時刻を読みとる以前に、花園へと群がる蟻のすがたをもたらしては、蠢動から導かれるよう暗黒にきらめく、星の数奇なる運命へと想い馳せるだった。


[566] 題名:霧の告白 名前:コレクター 投稿日:2022年04月02日 (土) 02時35分

もうどれくらいの歳月が過ぎ去っていったのやら、想いも及ばぬ時節などと、過ぎゆきの配分にとらわれてしまい、果たして目の前の君にとって私はどのような風貌が映っているやら、どうにも気が遠くなりそうだ。
で、私を訪ねるにあたってお断りしておいたとおり、何ぶんひとに喋るという機会は絶えて久しいものだから、この住まい同様、手狭な家だが朽ち果て枯れておる次第でな、応えるまえからすでに疲れを感じてしまっている。
だから要点をしぼって話そうじゃないか。
フランツ・・・ああ、それでいいとも、私はかつてその名で呼ばれ召し抱えられていた。むろん、あの城以外では別だったけれど。
あまりに長くしみついた名前だよ、執事フランツ。おおよその見当はついているんだろう、どうしたのだ、そんなに怯えなくとも大丈夫、君がぜひにというからこうして老醜をさらしているのじゃないか。
ごらんのように私は君の先祖みたいな年齢さ、あくまでうわべはね、ひょっとして心当たりがあるのかな・・・いや、べつにどうでもいい。
つまり二百年も生き長らえてくると途中から加齢は意味をなさなくなってしまう。
もう少しくつろぎたまえ、心配は無用、君をその、どうこうするつもりなぞ毛頭ない。いつか誰かに聞いてもらうべき巡り合わせだったのだから。

ベロニアならよく覚えている。とても知的で美しい顔をした娘だった。貴族の血を引いているともっぱらの噂だったよ。お嬢さまが授かる以前からあの城に、つまり養子にだな・・・その辺の事情は語るまでもなかろう。
当時の私といえば、体よく城主に取り入って職務にありついたわけで、委細は省かせてもらうが大陸を縦断し海を渡った変わり種だからこそ、見識を深め機知に富んだ配慮が養われたに違いないと、うまい具合にそうはやし立てられたものさ。
私は鋭気に満ちあふれていた。
そんな華やぎに対するまわりの呼応は、冷ややかな笑みを絶やさぬ権力の顕示であり、底にあつらえた従属を認めさせることだった。なんというお粗末なささやきだろうか。とはいえ、それはたいそうな歓待ぶりでな、まるで賓客あつかいだったよ。
執事の肩書きは名ばかりで、夜ごと開催される怪しげな催しの目配り役が私の最上の努め、城主の機嫌を見計らいながら虚実ないまぜの見聞を披露する。
あるときは気位の高い僧侶たちに、あるときは衒学におぼれる貴族連中や裕福な商人を相手に。

蜜月に影がさしたのは、夜と朝の境い目をまじまじと、つまり生き生きとした指針を肌に感じる頃合いへ至ったと思いなしたからだろうか。いや、これはたとえだよ、実際には宿痾がわざわいになってしまったのだった。
仔細を説明していると幾晩かかるやら、ともあれ城主は私の血生臭い本性を見抜き、私はあえて糊塗するすべもないまま、口許をわずかに歪め、昏い微笑を床へ投げかけた。無論、そうした仕草が悠久の調べを奏でていることを察していても、過去の栄光がきらびやかであり続けるように、今もなお厳然とした風情を保つべく、かつての大理石は磨かれ続けていて、その映発に絶大の信頼を忍ばせた日々を慈しむのが、本望であると、まるで光の輪を弄ぶごとく浮かび上らせた。
するとどうだろう、半ば放逐を覚悟していたこの身に曙光が降り注いだのだ。記憶は遠いがその情景は鮮血のしたたりに等しい。
相手は生身の人間、私の異形を知り尽くしているわけではなく、また知り得ることがどれだけ精神の犠牲になるかを瞬時に悟ったと思われる。そう、触らぬ神にたたりなしだ。
もちろん私はどう転んでみたところで神とは無縁、悪鬼の誉れこそふさわしいが、特殊な能力なぞ宿してはいない、ただ、食が細いというだけさ。皮肉に聞こえるかな。
盟約は実に簡単だった。城内の悪行を、つまり吸血を禁ずるかわりに、他の領地における行為は目をつむるという見解の一致であり、いわゆる専用の酒蔵を提供してくれたのだ。これで葡萄酒の香りとおさらばできた。
しかしだ、所詮は厄介な荷物に違いなく、可能なら速やかにこの地より消えうせて欲しいのがもろもろの本音に違いない。
ところが私は歴代の主人へ仕えてきたふうな、勤勉なる従僕の面差しを張りつけたまま、忠誠心をその目の奥にたぎらせていたから無下には扱えない。
こちらの狙いはそこにあったのだが、おっと飛躍しないでくれないか、私は妖術使いでも手品師でもない、夜露をしのぐために蝙蝠に変ずることも叶わない異形にすぎぬ。
野獣の牙さえ隠しておけばよい、城内の居心地から放浪の旅に舞い戻るのはもうご免だった。つまり人間らしく生きようと心底願っていたのだ。寿命がどれほどか計れはしないけれども、のたれ死になんかしたくはなかったのさ。
舌先で嘆願するより、私は行為で自らを証明してみせた。忠実なるしもべ、異端の横顔は持参の仮面と異なる主人の朱印が記されたもうひとつの面に被われている。
これで誰もが疑心暗鬼ながらことなきを得ると思っただろう。熱病が領内近辺に蔓延さえしなれば。
私の存在意義を薄めるため、もっともらしい症状をうたい病床に臥したと皆が触れまわってくれたお陰で、現実に猛威をふるった熱病すべてが自分に押し寄せてくるとは想像もしていなかった。
牙を抜かれた異人に、今度は一致団結の刃が向けられたのだ。残された道は蟄居するしかなかった。

このあとの顛末は君がすでに書いている。
メデューサの像を邪気払いにわざわざ取り寄せたこと、主人までが病死したこと、ベロニアを慕い続けたシシリーが夢を見たこと、そして家僕のペイルが老衰で息をひきとったこと。君にとって有益な情報は尽きたのさ。うそじゃない、もう空が明るみだしているじゃないか。


[565] 題名:ノスフェラトゥ 名前:コレクター 投稿日:2022年03月31日 (木) 07時07分

有益な情報は尽きた・・・いつか訪ねてきた青年に、関心事はさておき澄んだ瞳に、くすぶる仄暗さをもち、身震いを闇夜に捧げようとしている相手にむかってフランツはそう答えた。
さながら叙事詩のピリオドにふさわしい響きをもたせたつもりだったけれど、実際には隣家からもれてくる夜想曲のような静けさを含んだ名残惜しさがこめられていた。
蟄居の身に甘んじながらも胸の片隅では廃墟と呼ぶに似つかわしくないこの屋敷を想えば、奇妙な眼球の動きにとらわれてしまう。
しかもそのまなざしは稀な来訪者のすがたをたやすく通り抜け、霊気となって大理石の床に更なる冷ややかさをもたらし、悠久の彼方を夢みるのであった。不遇をかこつ情況が結果であるとは言い切れない、何故なら冷徹な意志が足もとへ狂わせた可能性を決して軽んじるべきでないからである。
かつての狂気こそ最良の条件であったことに異存はなかった。
落胆の色を隠しきれない青年の面持ちに向って雀躍を禁じ得なかったのがなによりの証し、それはあたかもかつて執事を努めていた頃の記憶と入り交じり、我ながら陰険な心情をくみ出したのか、わざとらしく舌打ちをしてみせる不埒な愛嬌をこぼした。
主人への忠誠は悦楽と引きかえであった。

「私の名が偽名であると同時にあの使い古された良心とやらは影をひそめ、宿痾が光彩を放ちはじめたのだ」

フランツは自らの放浪癖を逆手にとり、矛盾ともみえる安住の地を見出したのである。
それが廃屋の気配を醸し出そうとも、朽ちた日々に侵蝕されようとも、鮮烈な想い出がある限り、真紅の裏地を配した暗幕は開き窓を遮蔽する宿命に忠実であり続けた。
城主なきあとの職分が流浪の気性に歯止めをかけた現実を認めないわけではなかったし、老齢にいたった身上のなりゆきとしてみれば当然の帰結であったことに間違いはなかろう。
ただ陽光のまばゆさをさえぎる無辺の闇を好んだフランツにとって、覇気の衰退や加齢は然したる意味をもたなかった。むしろ本来の性をむきだしにする野獣のような不覊に祝福され、その歯牙は夜ごとの夢をはぐくむことを忘れはしなかった。
それゆえ番犬シシリーの愛くるしさに隠れた放埒な稟質を見逃しはせず、うわべでは気さくな素振りで接していたが、これはなにもシシリーだけにとどまらず他者すべてに対し言えることであり、孤高を恃みとする心情からしてみればごく自然の振る舞いであった。
一日遅れの手紙を開封する焦りを周到にごまかした羞恥にさらわれない為、文字と一緒に指先をまるめるように。

フランツにとって言葉は必要でないのか、そんな疑念を起こすまえに執事としての職務へ目を向けてもらいたいところだが、残念ながら委細は見通せるはずもなく、その怜悧で分をわきまえた暗躍ぶりはいうに及ばず、才気にたけた生業とだけ記しておくのが関の山、煩瑣でいら立ちを催す日々の過ぎゆきの裏に愉楽を得ていたことは否定されるべきではない。
とにかくフランツに不可欠なものは暗闇にしたたる隠れた情念に他ならなかった。
山稜よりのぼる朝陽のまばゆさが城内に仕掛けをもたらそうと躍起になったとして、ここの住人たちはさしずめ素肌にまとったマントをひるがえす所作をしてみるだけで、夜の霧を呼び寄せ、暗澹たる喜悦に近づくことが可能であったから、執事の体面はことさら揺らぎもせず、自若たるたたずまいを保てたのだった。
貴重な葡萄酒の香りと切り分けられた肉塊、永遠と引き換えに死神を駆逐した報酬はありあまる栄光であり、柱時計は緩やかに、そして性急に振り子を揺らしていた。
それでも老いはやって来る。永遠という高貴な代物にさえ腐蝕の手はのびた。
善人の一生にも悪鬼の生涯にも均一にときは流れる。いつかの訪問者はフランツを題材にした物語りを書きたかったそうだが、おのれの血涙だけで綴れるほど人生は甘くない。そう他者の血を求めなくしては。


[564] 題名:お知らせ 名前:コレクター 投稿日:2022年02月13日 (日) 20時58分

「三重県まん延防止重点阻止」が延長された為、3月6日まで休業させていただきます。

2022年 2月14日 〜 3月6日


[563] 題名:お知らせ 名前:コレクター 投稿日:2022年01月31日 (月) 00時30分


「三重県まん延防止等重点措置」による時短要請を受けまして、当店は午後8時以降、開店のため指定期間、休業させていただきます。

2022年 1月31日 〜 2月13日


[562] 題名:夜にほほよせ 名前:コレクター 投稿日:2022年01月15日 (土) 02時41分

潮風が心地よかった。
身をかすめゆく感触に午後の日差しがしみ入ったからだけではなく、右隣でギターを爪弾いく青年の柔毛が頬を撫でているのが、遠い異国から届けられた景色のように儚げで美しいからであった。
とりまいた子供らも口々に「きれい、きれい」とほめそやしている。
僕はただただ、うっとりした時間を享受していたかったのだが、あいにく微妙な緊張が手放しの陶酔を軽減させてしまい、いくら夢みたいな場面とはいえ、気安く観客に甘んじていられなかった。
それは左隣よりベースギターを手渡され、にわか仕込みの練習に焦りと同質のものを覚えていたから。
彼らは僕が十代の頃、憧れていたロックバンドだったし、絶対あり得ない状況にもかかわらず拒む理由もないわけで、それはそうだろう、こんなこと一生に一回でもある方がおかしい、きっかけを思い出す暇があればこの刹那に興じていたいのは当然といえる。
どんないわれがあるにせよ、とにかく僕はベーシストの代役を果たさなければいけない立場に置かれ、今まで手にしたことのない楽器を懸命にこなそうと努めていた。が、どだい無理なのは分かりきっており、冷めた口調でこう言い含められてた。
「ベース音は後ろから流れるようにしてあるから、手つきだけもっともらしくしてればいい」
それが出来たらなんの問題ないはずだと、こころのなかでは反発してみたけれど、いら立ちは非現実的な光景に和らげられ、神経を突き刺す痛みもやはり潮風によってどこかに運ばれてしまっている。
ギタリストの美貌を盗み見しながらの、無謀な特訓なんて極端で面白いではないか。と、まあ開き直ってみたいところだったけども、陶然とした心持ちへ傾斜するのもそれなりの意思が要求される。
この場に及んでいるからこそ、そして間違いなく奇跡と呼んでかまわないからこそ、僕は以外にあわてたりせず指先の動きは左手に委ね、右目で風のリズムが吹き流している栗色の柔毛の揺れをうかがっていた。
音楽ファンである前に僕は、この美青年が漂わせる清潔な風貌、近づくことにためらいを感じてしまうくらいの、それはつまり僕の劣等意識が拡大されているような視野をもたらすからで、卑屈な感性を露呈させながらでも、憧憬を先送りしたい欲求に裏打ちされていたのだった。
実際メンバーのなかでもリーダー格の彼は圧倒的な人気を誇っており、こうして居並ぶ出来事に当惑しながらあくまで夢見の世界に内包されている。だから、子供たちの賛美に対し青年はこう応えるのだった。
「母からよく言われた。獅子のたてがみが光り輝くようおまえは美しくなければならない」
幻聴、いや、うつろな束縛、それとも加減を知らない落ち葉の舞であったか。
彫像と錯覚してしまう陰影ある横顔に忘れかけていた生気が宿る眺めは、磁力であると同時に僕の胸を寂しくつき放し、現実の距離へと回帰させた。一夏の恋心が燃え尽きる運命であるかのように。
しかし僕はとことん青年を崇拝していたから、その言葉のうちに尊大さを嗅ぎ取ることなどなく、従容として目を細めた。
すると今度はベースの指運びに慄然とせざるを得なくなった。もちろんだ。で、あたまをかかえてしまった。
あまりの拙さも然ることながら、数時間後には身代わりとして人前に出なくてはならない、いくらギタリストのカリスマ性に隠れていようとも、バンド全体として音楽は進行するわけで、結果的には大勢の聴衆の期待を裏切るのは目に見えているではないか。
何度も念を押すけど、こんな成りゆきを望んだのは僕ではないし、また深い事情があるにせよ、もっと適切な代わりがいるはずだろう、急激に渦を巻いた推理は荒唐無稽だったが、僕はひょっとしたら彼らに対し想像もつかない貢献をしたとでもいうのか、例えばメンバーなり主催者の命の恩人だったりして、そう、危うく車にはねられそうになったのを救助したり、あるいは逆に僕がはね飛ばされてしまい、幸い怪我はなかったけど醜聞を避ける為こんな要望が叶えられようとしているのだ。
理由づけは無茶苦茶なほうが今は救われる。とにかく段々と内包されているのが不気味になってきた。
視線の世界は緊迫だけを強要しない。いや厳密には一所に収まっている静止画を否定する働きがあるから、無様に飛び散ろうが、勝手に飛躍しようが、心底拒み続けようが、不確かな収斂はのちに検証されるべきで、この切り替わりは一種の意匠だとさえ思えてしまう。

「ウミガメなんか引き上げてどうするんだい」
潮風を側に感じるはずだ。
すぐ先には船着き場あって、こじんまりした堤防の下のわずかな足場を頼りに一人の男が、けっこう大きなウミガメを素手で捕まえようとしていた。声にしたつもりだったが僕の所感でしかなく、男は悠々と海面に顔を出した獲物を引き寄せてしまった。
他に人影もなく、あんな狭い場所から一体どうやって陸地へ上げるのだろう、それともただの戯れなのか。別段どうした思惑もなかったけど、気がつくと僕はいつの間にやら心許ない足場を横這いしながら男のいた方へ歩んでいた。が、すでにその姿は視界になく浮上したウミガメも消えている。
先ほどまでの焦燥が霧散した安心を得るより早く、陽の陰りは鷹揚に所在なさみたいな気配を深め、かといって寂寞とした空間が形成されてしまうのではなくて、どこかしら不透明でありながらさほど臆することのない、あえて言うなら無人の児童公園を見回している風趣があった。
それが哀婉な詩情になびく手前で凍結しているのだから、旋回しているのは上空の鳶によるまじないかも知れない。案の定、僕は軽いめまいを起こしデコボコした足もとに危険を感じた。しかし、意識が定まると目線を落としたところに弁当箱ほどのカメが可愛らしくのろのろ動いており、一気になごんでしまった。
ウミガメの子だろうか、そっと足音をしのばせ両手で甲羅を持ち抱えてみれば、案外重みがあり無性にうれしさが込み上げてきて、そのまま細い足場から引き返そうと急いだまではよかったのだが、その先が悪かった。
海岸だからいろんな生き物がいるだろうけど、そのあとで、いくらなんでもあんな物凄い蟹を出現させなくたっていいではないか。ゆうに一畳はあろう、全体が赤茶けたまだら模様でちっとも晴れ晴れしくない青みを点綴させた異様な蟹がぬっと半身を出し、通り道をふさぐようにしてうずくまっている。
冗談じゃない、平家蟹だってあんな面相を見せはしないだろう。ちょうど歌舞伎の隈取りみたいな顔つきで睨みを効かせ、完全に僕の行く手を遮断しているのだ。これには驚きを通り越し怒りの感情が恐怖の影に寄り添いながらもたげ、二三歩下がりながら、反対方向を確認すれば更に歩幅制限をあたえている現状が困惑に直結する始末で、増々化け蟹の威力に圧倒されてしまった。
妙案とは夢想とともに眠れるものなのか。
「置いてけ堀だな、これは」
取り留めない情景がはらむ不穏から逃れて束の間、今度は逼迫状態が見事に胸をなぞった。
カメの子に未練などなく僕は直感に従い、今にも這い上がってきそうな勢いを封じる為、力まかせに手にしたカメを蟹に命中させると、まるで呪術が解けたように目の前に鉄梯子があるのが分かり、やっと苦難から脱出できたのだった。
視界が大きく解放されたのは必然と言い切るべきだろう。
バスターミナルの喧噪はただ単に僕を圧迫するだけにとどまらず、ベースギターのことが再びブーメランとなって舞い戻り、放棄されるべきデタラメに律儀であるほうが妙だという意識と葛藤し始めていた。それにしても大型バスが連なってすぐ横をすり抜けていくのはかなり騒々しく、どの車両にも乗客がひしめいておりとても乗りこめる余地はない。しかも停留所から半周し走行しているので、相当のスピードは生暖かい疾風を巻き起して一層不快な気分にさせた。
注意するでもなく行く先を掲げた運転席の上部に目をやれば、あ行、か行、さ行と見れた。これ又まやかしかと思ってみたが、向こう側の乗り場に人がいたのを幸い、
「あのう、このバスは何処へ行くのでしょうか」と、訊いたところ中年男は怪訝な表情をしながらこう言った。
「お祭りだよ、あんた知らないの。それぞれの名前で振り当てられているね、混雑を避けるためにだってさ」
脇をた行の車両が駆けていった。
「僕の名前はなんていったんだ」
ぽつりとつぶやいたつもりだったが、中年男は、
「ほら、な行が来たよ、これで5番目だな、あんた数も気になるんだろう、だったらカズオでいいじゃない」そう人ごとなのか、親身なのか区別し難い声色で教えてくれた。
「じゃあ、間に合わないですよ、か行はもう発車してしまったから」
落胆の色が濃くにじみ出ているのを自覚し情けなかったけど、そんな適当な言い分をうのみにしている佇まいはもっと影が薄く、続けざまに、は行、ま行、や行と走り去るのを見送りながら、
「いちぬけた」
腑抜けた語調でそうもらした。すると呼応でもするように「ベースの練習はどうしたんだ」誰が喋りかけたのだろう、確かにこの耳へ聞こえた。
厳かなターミナルは静寂が間延びしている。
同時に時刻の設定も用済みらしく、曇り空でもないのに太陽は地上に関心を寄せていない、ただそう映っただけかも知れない。
カメの子がとことこ僕の方に向かってきたのを認めたとき、醜悪な蟹が現われたよりも数倍の驚きがあり、その動悸を反響させているのは、紛れもない感動だった。
「どうしたんだい、こんなところまで来たりしてさ。さっきは痛かったろう、放り投げてしまって」
子ガメに僕の言葉は通じているのだろうか、どうにも確かめようがなく、手を触れるのもひかえて見守っていると、僕を意識した素振りなどまったく示さず、我が道をゆく調子でまっすぐ進んでしまったので、唖然とするしかなかったけど、どこかしら晴れやかな気分が、少しだけ後から着いて来るのだった。


[561] 題名:ぼんち 名前:コレクター 投稿日:2022年01月10日 (月) 03時27分

一席おつきあいのほどを。
なんでございますな、ちまたでは草食系など申します男子が増殖しておりますそうで、どうにもあたしらにはピンときませんがね、色恋を避けているって風潮ですから、世も末なんでしょうか、はたまた少子化を担うために人類がとち狂いはじめたのか、食糧難を乗り切る配慮でありますやら、どうでも理由づけは勝手にしやがれってわけでございまして、そもそも男女の間の隙間が、いえいえ溝でごさいますな、えらく深い溝が出来ているってことは間違いありません。食欲性欲といわれた二大欲求の片方が欠落したわけでございます。

「たこ八さんじゃねえか、どうした浮かない顔をして」
「ああ、くま吉さんかい、聞いてもらうも恥なんだけどさ、せがれの宗太なんだがね、あの件以来どうも妙になっちまって」
「お花さんのことかい」
「そうでさあ、あっしの口からいうのもなんだけど宗太は役者にしたくらいの色男、かかあに似たのでなし、むろんあっしはごらんの風貌で、もらいっ子にちげえねえだの、大工のせがれにしとくのは惜しいだの、いろいろ世間はやかましい。で、餓鬼のころから仕事を仕込んでみたものの、施主のところに娘がいたらこれまたどうにもならずでね」
「知ってるよ、娘どころかおかみさんやら女中、近所のおんなっておんなが頬を染めて、お茶をすすめるやら煎餅、饅頭をどうぞとやら、まあ一服なさいだの仕事にならねえって」
たこ八、ここで冴えない顔を上気させ発するに、
「仕事は仕事なんだけどさ、背丈も伸び、一丁前に物憂い面なんぞ浮かべやがると、たこ八さんよ、日当はちゃんと出しますからね、宗さんをちょいと貸しておくなさいよ、と来たもんだ」
「それって」
乗りだすくま吉をいさめても仕方ない、平静な口ぶりに返り説明しますと。
「おいおい、枕役者じゃあないよ。他愛もなことさ、座敷に引き入れて喜んでいるさ」
するとくま吉は怪訝な顔で、
「本当かい、物持ちのおんながほっておくもんかい」そう突っ込みます。
「さすがに昼日中からはあるめえ。こちとらも目を凝らしていらあ」
「どうなんだい、いっそのこと役者にしちまえばいいじゃないか」
「馬鹿言っちゃいけない、宗太はもう所帯を持っていてもおかしくない歳だよ。大工だって役者だって仕込みが肝心だ、生半可はいけねえ。とは言うものの、肝心の本業があの通りからっきし駄目と来た。そりゃね、あっしらの育て方が悪かったんだ、かかあだってちゃんと認めてるよ、そこで能無しだけどあの器量に惚れ込んだ娘が是非ともなんて、甘い思惑をめぐらせるとだね」
「ほう」
「世の中ってのは持ちつ持たれつなんだねえ、反物問屋の次女が宗太のうわさを聞きつけ、一目見るなりあっと言う間の惚れ込みよう」
「お花さんだね」
「あんたも適当だねえ、お花さんは茶店の奉公人、反物問屋はおさよさん、まったくひとごとだと思って」
「そう怒りなさんな、悪かったよ。最近どうももの覚えがよくないもんで」
「なに言ってやがる。でも仕方あるまい、あのふたりはすがたかたちがよく似てるからね。いやほんとに、双子みてえだよ」
したり顔で頷いたくま吉を尻目にたこ八、お天道様を仰ぐふうな様子で、
「それで向こうさまから縁談がもちこまれたって次第さ。棚からぼた餅てのはこういうことか、なんて喜んでいたわけなんだがね、宗太に話しを聞かせたところ、たこ八さんよ、なんとせがれの奴こんな台詞を吐きやがった。おとう、実はおらあ好いたひとがいるんだ。これにはあっしもかかあも仰天よ、ああしたときはおなごのほうが気丈だね、あんぐり口を開けたわが体たらくを押しのける勢いで、かかあはすかさず言ったよ。どこの誰なんだ、これ宗太、隠し事はならんよ、きちんと話してごらん」
はい、神妙な面で語り出したこの希代の色男、以前より通っておりました茶店の娘に懸想していたそうで、とはいっても宗太は案外うぶな性情でございまして、決してそれらしき態度は示さず、口にもしないというわけで、あとは当のお花が勘づいているかってことになりますが、それは後々あらわになりますから、ひとまずたこ八の家へと話しを戻しましょう。
そこで早速、両親ともども宗太と一緒に茶店へと赴いたのでございます。さほど遠い距離ではありませんでしたな。話しが持ち上がった折から反物問屋のおさよの容姿を見知っているたこ八、このときばかりは狐につままれた面持ちで、こうつぶやいたそうです。
「なんでえ、どうしてお嬢さんがここにいなさるんで」
ここは男親の威厳の見せどころ、考えあぐねるより先つかつか店内に踏み入り、
「もしや双子ではありませんか、おさよさんの」
といきなり切り出した。
これまた豆鉄砲を食らったようなお花の表情、世間話しがゆきわたっていたとしてかの反物問屋は五里ほど離れております、江戸市中はそう狭くはありません。まったく何が何やら分からぬ顔つき、泳ぐは両の目の色、更にはかかあもしゃしゃり出てきまして、これこれの問屋の娘と縁故があるのか、名はなんと言う、宗太を見知っているのか、もう矢継ぎ早の問いただしで、まわりの客も眉をひそめるものやら、立ち上がるものやら、不穏な雰囲気にあわてて駆けつけた茶店の主との話し合いに落ち着いた次第でございます。
「なるほど、そういう事情でございますか。うそいつわりなぞ申してどういたしましょう。お花は三年まえより手前どもで奉公しております。合点がいかれましたかな、まったく他人のそら似です。それよりそちらの子息とお花はどうしたわけで」
茶店の主の態度に揺るぎはないのですな。
こうなるとあわてふためいたのは張本人の宗太、顔を赤らめしどろもどろ、やむなくたこ八がせがれの岡惚れを恐縮しつつ説明いたします。呆気にとられたのは言うまでもありません。幸い野次馬から逃れるよう奥座敷にての話し合いでしたので騒ぎにまでなりませんでしたが、どこやらから漏れるものでしょう、二三日もすればもう色男と双子の縁談とえらく尾ひれがつきまして、そのうち反物問屋の耳へ入りましたのでございますな。呼びだされた宗太と両親はあたかもとが人の態でうなだれております。無理もありません、数代続く問屋側からしてみれば、入り婿とはいえ破格の縁組、娘かわいさの決意です。それがこともあろうか双子などと下世話な風評が飛び交い、茶店の女中ふぜいを慕っておったとは甚だしき侮辱、おさよに傷がついたも同様、また本人も悲嘆に暮れたのは察してあまるところでございましょう。浮いた縁結びは木っ端みじんに吹き飛び、懸想されたお花もいたたまれなくなり茶店をやめてしまいました。それでも宗太はたこ八に泣きついたそうでございます。
「なんとかお花さんと一緒になれないもんか」
あとの祭りと知りながらも反物問屋のお嬢さんはお花さんと売りふたつ、どうして算段しなかったのかと詰め寄りたい気分だったけれど、聞くだけ野暮とすべてを諦めていたところ、いやはや風聞とはまことに恐ろしものでして、色男一世一代の恋などと格好の話題になっており、世評は宗太の肩を持ちだしたのです。暇人がいるものでございます。どこのつてをたどってか、ひっそりとある屋敷で女中奉公しておりましたお花を探しだし、おまけに屋敷の当主の上役までとりこんであれこれ吹き込む始末、もはや人情噺を地でゆく勢いですな。
当主は邪心こそありませんが、今評判の宗太の想いをかなえてやれば名声もたかまりましょうぞ、などと耳打ちする輩がおりまして、早速お花にその旨を言い渡したのでございます。ところが、
「滅相もございません。わたしはあのひとの目が気色悪くてたまらないのです。命と申されるのならお暇をいただきたく」と、えらい剣幕にて自害さえしかねない様相で訴えかけます。
好いた惚れたは互いの気持ちが通いあってのみ、まわりも納得するものでしょう。無理強いまでして名を上げようとしなかった当主はまだ人間味がありましょう。ことの次第を聞き入れざるしかない宗太の道は願いを運んではくれません。
失意のうちに次第に世間の噂も幾日とやらで、悲劇をしょった宗太に新たな機運は訪れず、反対に畏敬の目に近い危ういものでも眺めるふうな扱いに甘んじるしかありません。まったくもって不可思議なのはひとのこころでございます、憔悴したとはいえ、宗太の美貌は凄みを増し神々しくさえあったというのですから。
そのうちこの哀れな色男はおなごのすがたを見るだけで胸に痛みを感じたそうで、こうなりますと余計に女人と接する機会もなく、例の日当にもありつけません。たこ八を悩ますには十分の有り様であったわけでございます。
宗太はそれから何をするでもなく、日中は寝込んだまま一歩も外に出ようとはせず、夜な夜な人気もなく、灯火も見いだせない暗がりをそぞろ歩いていたそうで、なんでも辻斬りにばっさりやられたと人々の話頭にのぼったのも束の間、精々残されているのは早く寝ないと怖いものが来るぞという子供らへの戒めくらいですが、宗太という名もいつしか消えてなくなってしまいました。
おあとがよろしいようで。


[560] 題名:花凪源十朗 名前:コレクター 投稿日:2022年01月07日 (金) 02時46分

こんな経験ありませんか。
経験と言うにはどこか大仰でしょうけど、忘れかけた頃、ある日とつぜんに降ってわいたような意識の迷走です。でもやはりそれは気がかりであったと思われます。
面倒くさいのでしょうか。
そうですね、想い出そうとしても、色々調べあげても、あるいは季節の風物より先行していたりして結構もやもやを育んでしまいますので、なんだかんだで謎めいていることには違いありませんよね。
それは映画の一場面であったり、テレビに映し出されたひとこまなのです。が、どうしてもその光景を含んだ題名は言い当てられません。ならどうすればいいのでしょう。
こころに眠れる断片としての宝石めいた価値を保ち続けますか、それとも来るべき先にと輝きをそっと被い、日々の連鎖の下敷きにしておきますか、取り急がれるのでしょうか。まるで背中を押されたときみたいに、誰と振り返ることが、そのままめくるめく幻となって落下していくごとく。


月明かりの白砂、穏やかでひとけもない、孤高の波打ち際。喧噪が過ぎた気配は幽かに名残惜しく、ただ独りの鎧武者の陰を映し出している。
たった一度だけの、したたり落ちる冷や汗は月光を受けて青ざめており、たぶんそれは私自身の心境であったと思われるので、増々胸がときめいてしまうのだったが、あんなに浮き世離れした場面に出会った試しがなかったから、こうしていつまでも単調で怠惰な日々のあたまに鉢巻き締めされているのだろう。
黒々とした甲冑には潮のしぶきが点綴しているけれど、月のひかりが意思を抱いて降り注いでいるとしか感じられなかった。結晶より無粋でありながら、水滴より尊い夜のしじまの輝き。辺りの山々の背景はずっと遠く、武者の頬当てだけが画面を支配している。
ひげ飾りはなく、大魔神を彷彿させる異形であるのだが、しかし、不思議とのっぺりとした落ち着きがうかがわれ、不敵な笑みとも悲嘆の面とも、恍惚を得ようとしている矢先とも見受けられる。そして睥睨に至ったとき、記憶は途切れてしまった。


花凪源十朗はとても困惑していた。
剛毅にして果敢な出立ち通り、武勇の誉れは高く此度の奇襲も満場一致で首肯され、主君より命を授かった。
夜陰に乗じて敵将を討ち取ろうという策謀であったのだが、予期されたよう敵将の陣は容易く見定められなかった。松明のまばゆさだけでない、どれもこれもが標的に映しだされるふうに仕組まれていた。
源十朗らは隠密行動のゆえ、十数名を二手に分け、探りを入れたのだったが、それでは特攻の焦点が望めなく、このまま抜刀せず引き返すことなど出来ない。すでに向かい側には源十朗に加担すべく捨て身の撹乱兵たちが突撃の合図を待ちわびている。
昨夜の斥候からの報せでは斯様な情況ではなく、だからこそ勝機ありと見込んだのであったけれど、こうして裏をかかれた現状に狼狽するしかない己を否定するためにも、漏洩はどこで為されのかだの、内部に諜報が紛れていたのかだの、果ては日頃より反目とまではいかないが、快く思っていない側近にまんまとはめられたのかなどという、思念が浮絵のように胸へじんだ。
しかし考えあぐねれるほどに、ときはじり貧への傾きを許さず、衝動的な無我はその掌に汗となって斬り込みを促していた。
源十朗は配下のものに低い声でこぼれ落ちるよう意を伝えた。
「もっとも燃え盛っている松明こそ本命と見た。却ってひっそりと夜気に包まれておろう姿は至当すぎようぞ。敵軍とて警護の厳重な陣なればとせせら笑っておるのじゃ」
独断とすれば妥当であったが、奇襲の道理はすでに霧散し、討ち死にを選びとるより仕方のない場面をひきつけたともいえる。
鬨をつくるまでもなく、源十朗は夏の虫のごとく赤々とした松明に吸い寄せられ、目に入るすべての動きに対し剣を浴びせかけた、いや叩きつけたのだった。
忘我の境地であった。撹乱兵の勢いも相まって敵がたの周章ぶりは突風にあおられたすすきの穂を想起させ、次々と刃のしたへ戦意喪失者を横たわらせた。
もう源十朗は悲願の首級を手にした攻防も経緯も失念していた。
正気にかえったときには血まみれの布切れを抱え、独り戦場から遠のいていたのである。そこが山間から相当隔たった地なのは、血の香りに寄り添ってくる潮の匂いを覚えたからで、どうやら一山越えたと、そして武士の面目を守りきれたのだと、安堵した。広々とした白砂を踏みしめるやわらかな感触が、寄せては返す波の音と折り重なり、ひとときの平穏を得たのだったが、たった独り身で浜辺をさまよっている影を足もとにしかと見いだした際、不吉な念が月光とともに源十朗を冷ややかに照りつけた。
「影とな」
一か八かの突撃はもはや戦略でもなかったし、知謀でもない。
敵将の御身が話頭にのぼるとき、その明晰な頭脳もさることながら、恐ろしく警戒心の強い研ぎすまされた植物的な神経も取り沙汰された。左頬に小豆大ほどのほくろを授かったことを幸いに、幾人かも知れぬ影武者を周囲はむろん、鷹狩りの折や宴の幕内などにも周到にすげ替えては用心を怠らなった。似た風貌とつけぼくろさえあれば、敵将は人前に姿を見せることなく、奥深い寝屋で好色に耽ったり、高いびきで天下泰平の夢に遊べるであろう。
源十朗は月明かりから逃れる足取りで己の身と首級の隠れ場所を物色した。甲斐あって小さな洞穴を波うち際に見出し、辺りを慎重にうかがいそっと影を忍ばせた。
とりあえず人目から消えることが出来たと胸をもう一度なでおろせるはずであったが、暗黒の洞穴は視界を奪い去り、念頭にたちこめている真意をただすのが不可能になってしまった。せめてものと、布をほどき首をなで頬に指さきが触れ、直ぐさまそれがほくろであるのを感じとったまではよかったのだが。
源十朗の長く熱い夜はここから始まった。灯火を求めずとも敵将である証左を得て、小躍りしたい気分は思いの他、蔦がからまった森に封じこめられたような不安に鎮められ、やがて疑心の暗雲にすっかり閉ざされてしまったのである。
もう体温を失っている生首のほくろに微熱すら感じないにもかかわらず、源十朗は卑猥な手つきでその証に触れ続けていた。めぐるものは生暖かい反復だけであった。
「偽物であったにしろ、すぐに剥げ落ちるはずもなかろう」
「人肉に付随していたとして、実によく出来た技巧である」
「見分けがつかないゆえの影ではないか」
「この感触は本物に相違ない」
当惑は真贋に帰結されるべきであったのだが、いつしか想いは、いかなる理由で隠遁の態を選択したのかという、現実に舞い戻っていた。
「でかしたぞ、源十朗、ほほう、さすがは花凪どの、あっぱれでござる」
「奇襲を悟らぬ敵将ではあるまい」
主君はじめ居並ぶ要職はもちろん、親族縁者の賛嘆を耳にした途端、あとは嘲笑の的であり続ける光景から逃れそうもない。
影に擁護されている内実をつかんでいながら、夜襲の案に賛同した面々の心根が小憎らしいくらいよく分かる。おめおめと偽物を小脇に携えている格好を見とがめられたなら、どれほど恥じ入らなくてはならないのか。討ち死の覚悟が成果をあげたにせよ、失態は失態、むしろいとも簡単に首級を穫れたほうが怪しい。
源十朗の胸中は死線から脱し得た喜びを糊塗せんが為、自らの名誉に拘泥してしまい、どうあっても生き延びた我が身が情けなく思われるのだった。
一刻も早くこの首を始末しなければ、、、そして敗走の汚名をぬぐうには、、、いや、己だけの力で首を打ったのではあるまい。壮絶な斬り合いが一方的な戦果として、また散る火花を消滅させ、記憶を葬り去ったのは紛れもなくあの刹那、敵将だと信じて疑わなかった功名心であり、極点にまで舞い上がった勇猛という怯えであった。
言葉にすれば見苦しい葛藤に過ぎないけれど、この心持ちにいたる夜は決して短くはなかった。ふらふらと洞穴を抜け出たのは黎明を告げられる寸前であったように思われた。
まずは血まみれの布を波にさらわせ、同様に生首も海中に放り投げようと弱々しい力をふりしぼろうと努めた。そのときである。
「貴様には出来まいて」
信じがたいことだが、両の手にはさまれた首がそう口を開いた。
腰を抜かさんばかりの場面であったけれど、源十朗は金縛りにあった様子と見え、微動だにしないからだに逆に操られるふうにして、首を砂のうえに置き、兜を脱ぎ捨て、魔術にかけられたふうなだらしない顔つきのまま、剣をゆっくり抜き、切っ先から棟に左手を滑らせて両肩に乗せ、そのまま一息に胴体より己の首を斬り落とした。
源十朗の哀れな表情が波間に消えゆくのを待っていたのか、砂上の首級は高貴な目配せを月影にしめし、虚脱したはずの胴体に生命を与えたのである。
両腕がのび、あろうことか生々しく血糊を垂れ流している斬り口へと、あたかも人形の首をすげ替えるごとくおさめてしまったのだ。
それからおもむろに兜と頬当てを被り、あきらかに人目を意識したまなざしでまわりを見据えた。夜明けにはまだまだ猶予があった。
鎧武者はそれをよく心得ており、源十朗は知り得なかったのである。


[559] 題名:つづれおり 名前:コレクター 投稿日:2022年01月05日 (水) 08時14分

かりに私が感情表現を持ち合わせていなかったとすれば、当然ながら表現以前に感情さえあやふやであると考えてしまうところだが、それは確かな解釈といえるのであろうか。表現にとって感情は常に不可欠でなければならないと仮定してみると、喜怒哀楽がわき起こる刹那の身振りを経て、脱皮をより肉体的なものとしながら、その実ますます肉体とは本質的に反対の方向に突き進んではいるように感じられる。
感情は硬直した体躯に揺さぶりをかけ、ときに激しく、ときにたおやかで緩慢な動作を選択し、躍動へと羽ばたきもしよう。又その指先は既成の道具を巧みに操り、あるいは操られているという錯誤に導かれ、扇情的な音色を奏でることも可能であり、悲愁に満ちた調べを漂わせるすべを心得ている。さらには絵筆や彫刻刀が見せるあまりに細やかな時間への配分と埋没を忘れるはずもなく、鋏が断ち切る用布から毛髪にいたる手際のよさは日常に即しており、取り繕うためというより様式にそった機能を量産しつづける一本の針のひかりが無数の幻影に守護されているのは言うまでもない。
表現はすでに感情から見放されている。そんな冷笑的な意想をあえて述べてみるのは歴史性やら熟成やら、進化といった能動的な良心をただちに影絵と化してしまった「ラスコーの壁画」に想い馳せてみれば十分だからで、つまり表現のひとり歩きに対してあながち、警戒を秘めたまなざしは必要ないということになる。
だが、ここで結論を言いきるつもりはないし、その理由を説明する意思も持ち合わせていない。誤解なきよう、私はなにもひとり歩きを賛美しているわけでも擁護しているのでもなく、ただ精神の発展がなされたのは現在過去未来というシステムに委ねられた結果だけに限定されるべきではなくて、いささか神秘的に聞こえるかも知れないが、自動書記の手法が時間を傷つけ、逆巻かせ、夢の彩色に促されて、肉体に宿った血や汗や涙やもろもろの体液が凝固され、感情の発露を見いだしにくくなっているという危惧にうごめいているからで、それは反面から得るところ混沌と共存する歓びでもある。ここで使われる自動書記とは濃密なめまいと呼ばれるのがふさわしい。



網次郎にとって女体デッサンに関わっている学生らは羨望であると同時に、幾度も首をかしげなくてはいけない連中に思えて仕方なかった。ふとした縁で知り合いになった男から、ちょうど積年の疑問を今にも懇切丁寧に解説してくれそうになった矢先、網次郎はどうしたことか、気後れでもあるまい、だが、明らかにその経験を口にした男に性急な問いかけで迫れなかった。
「最初はそうだ、どきどきしたもんです。なんせあの頃まだあっちの経験もなかった」
このひとことが不思議と気分を萎えさえるよう、また待望の場面に目をつむってしまう怯懦を呼び覚ました。あれこれ心理状態を自分ながら顧みたところ、胸に仕舞われていた想念の不純さに年甲斐もなく照れている事実に行き当たった。引き出しから消しゴムを探し出すより容易に得た心持ちに半ばうかれてしまったのも、羞恥の織りなす仕業にあることに感じ入ったがゆえであり、さらに脳裡の片隅はなぜか空高く、よく晴れた日の飛行機雲みたいに遠く、のどかな情景を張りつけているので、羨望は直通電話ではなく、時代遅れの呼び出し電話を想起させる間合いを獲得し、好都合に糊塗されてしまった。
男の声が近づくほどに、こそばいゆい感覚がえらくもったいぶった価値を蔵しているふうにも思え、のどかさに敬礼したくなったりもした。しかし、幾日かした折には焦燥につき動かされている実際を、鼓動と発汗を知るに及んで、網次郎は時間を弄んでいたに過ぎない強欲を認めないわけにはいかず、先送りした余裕らきしものは気後れでも怯懦でもなく、男から耳にした途端まぶたの裏に焼きつけるだろう、あまりに固定された充足を勝ち取ってしまうのでつまらなさを感じてしまっているのだった。
列車を一本見送っただけ、そう悔しまぎれに言い聞かせてみるのもまんざら嘘ではなくて、旅ゆきの気分が延長されたと想像してみれば少しは気が楽になる。意識的な操作ではないのだと、思いこむわずかな努力で平常心に帰れたのだ。
で、当時美大生であった男が語るに、
「あなたの予想は見事にはずれますな。いや、自分だけではありませんよ、まわりの奴らだって誰ひとり官能に征服されてはいませんでした。股間を押さえてる図など思い浮かべてるでしょうが、それは間違いです、はい」と、これから観葉植物の名前でも並べたてそうな取り澄ました口調で通された。
「結局ですね、若いせいもあったんでしょうけど、けっこう人目が邪魔するもんです。教授の目線だって冷ややかでして、無言の威圧っていうのですかね、その雰囲気が教室全体にゆきわたってるんですよ。冷え過ぎの空調みたいに。モデルの女性はやはりそれなりに奇麗なからだつきですけど、決して卑猥な感じはまといっていない、ポーズにしたって椅子に沈鬱な表情で腰かけてみたり、どこかしら技巧的なんです。あの人らだって仕事でしょうし、場慣れもあります、乙女の恥じらいがにじみ出しているモデルに出会った試しはないですね。第一、多数のまえで真っ裸になるわけですから、同じ職業でもストリップとは大違いで、あちらは情欲をあおるのが目的でしょう、そりゃ素朴なものですよ。中には不埒な念を隠してる奴もいたそうですけどね、当人は公言なんかしません成績に響くとか、評判が悪くなるとか、あの頃は不真面目は罪ですし、あくまでうわさに過ぎません」
網次郎はほぼ了解したつもりではあったが、自分がその場に臨んでない以上、反論する意欲なんかあるはずもないのだったけれど、間延びした羨望のゆくえを最後まで確認したい変な律儀さが顔をのぞかせ、と同時にその相貌へ薄皮一枚でへばりついている頼みの綱、よこしまな願望をついでに洗い落としてもらいたくなった。
「裸体におおむね興奮はしない、そういうことですか」
「そうです」
「わかりました。裸にはですね。じゃあ、顔のつくりはどうでしょう。さっき沈鬱と言われましたけど、そんな暗い顔つきばかりなんですか。まあそうだとしても、あなたの好みだったらどうします」
男はおもむろに腕組みをしながら、
「ほう、なかなか突っ込みますねえ。ではこう考えてみて下さい。普通あれのとき以外は女体を拝む機会なんてありません。街角だって店屋のなかだって電車に乗っていても、人の集う場所に裸体は登場しないものです。そうあればいいと願っているひとはいるかも知れませんよ、人前において女性はきちんと服を着て過ごしているものです。けれど顔はある意味で裸の一部ですな。まあ化粧でごまかしたり、華やいだりしてますがね。肉体が隠されているから顔かたちが美しくみえたりするのではないでしょうか。唯一の裸だからです。ヌードモデルの場合は、全身がむきだしなんですよ。顔だけに集中するっていうのは難しい、いえ、これは全体像をデッサン、つまり描ききらなくていけない作業なんです。なかには半身とかもありましたが、せっかく素っ裸でいるわけでしょう、目に映る限りをなぞるだけなんです、淡々と」
そう応えると、少々蔑みをはらんだ眉根が網次郎の思惑に挑んだふうにみえたが、すぐに口角をあげてこう話しをつなげた。
「男子ばかりじゃない、教室には女子学生も数人はいまして、そのひとりとちょっとばかし懇意になりましたんでね、ある日、尋ねてみたことがありました。女性から眺めて同性のヌードってどう映るのかって。まともな返答だったから今まで忘れてたくらいですよ。いやあ、どうしてるかな、急に懐かしくなってきた」
「恐縮です」
「いやいや、いいんです。あとでゆっくり物思いに耽りますから。で、彼女が言うには、ああしたモデルのひとって意識屋さんね、男はもちろん女のわたしにだって性的なものを薫らすどころか、彫像になりきっているみたいな冷静さを崩したりしないわ。裸である恥じらいより、どう描かれるか、どう見つめられ、絵のなかにいかに収まるのか、素描が色づけをまだ欲しないように、ほんのわずかばかり肉感に目配りされた形骸だけを見せつけているんだわ。肉体をさらしているつもりなんかじゃなく、曖昧な意識を切り売りしているのよ。だからモデルは意識屋なの、そう思うわね、といさぎよい口ぶりでした」
「そうですか」
「女性はわたしらとは別の角度からものごとを判断しているんでしょう、ヌードに限らず。こんなもんでよかったでしょうか」
「ええ、ありがとうございました。以前にお話しましたように若い頃からどうも気がかりだったんです。でも分かっていたのかも知れません。興味は学生たちの色欲が立ち上る幻影に終始していたと思います。彼らの心境はあらかじめ官能に支配されていて、理性らしきものと傍目への気配りが拮抗している。そうあってもらいたい、しかし、おそらく現実はもっと素っ気ない空気を生み出しているのでしょう。あなたの吐く息とわたしの吸う息が時間の隙間に紛れこんで決して立ち会うはずのなかった場所にたどり着きました。呼吸は感情をさまたげているのでしょうか。薄々感じていながら念押しみたいに現場の様子をうかがいたかったのは、失望を先取りしている自分に居場所を提供するためだったようです。あふれる光景はつかみ取りつらいですけど、すでに終決した画面はどうにでも切り貼りできます。やけっぱちだろうが、奇抜な発想だろうが、そうですね、下手な料理と似てますよ、限られた食材にこれでもかって味つけを施して、創作料理なんて納得している。狭い食卓とこじんまりした冷蔵庫が割と性に合っているのでしょう。手狭が居心地のよさを醸していることってあるんです。発露より閉塞、例えば金魚鉢のなかを窮屈そうに泳いでいる景色ってわたしが考えこむより、当の金魚はさほど嘆いていないかも知れません」
「随分と内向的ですね。しかしヌードデッサンはそうかも知れない。彩色が加われば変幻すると期待してますけど」
「さっきの懐かしい懇意な方ですか」
「これはまいったな、それは別問題でしょう。あなただってそうでしょうが」
「失礼しました」
網次郎はそれより先へ話題を深めることなく、とりとめのない会話に流れゆくこころ模様を眠たげに紡いでいた。


[558] 題名:金魚鉢 名前:コレクター 投稿日:2021年12月12日 (日) 09時23分

夕暮れ、気まぐれ、所在なし、ほろ酔いにまかせておいた狭い庭を見遣る目つきは空を切ったまま。
耳朶に届いた鳥の鳴き声、さながら障子紙に浅く鋭く砕け散る。
カラスの群れが山へ帰るのなら、そろそろ杯を置き、重い腰を上げてみよう。
昨日までの長雨、庭の片隅まで冷えたしずくを残したまま。

たしかに聞き覚えのある文句が残響し、記憶の裾野に軽やかにすべりゆくので、思わず苦笑い。
そうさ、金魚売りだ。テレビの時代劇からこぼれでた声色、祖母が見入っていた画面から。

いつか読んだ短編小説にこうあった。
「すぐそこだから」
なら、行ってみよう。いいや、遅疑の末、渋々ではなかったか。
「驚いたのはこっちよ、なにさ」
女の顔には須臾の間、木の葉のような薄い憎しみが抜け出し滲む。媚態はもちろん宙にふわりと舞った。

金魚鉢に向い「ほら仲間だよ」と話しかけ、黒い出目金を水底に沈めた。
縁日ごとにすくってくる金魚、これで三匹。新入りはどうした案配か、片目の異形。
これが最後まで生き延びた。
その後、何度かもっともらしく朱をなびかせる奴を持ち帰ったのだったが、寿命は短い。
愛着を覚えるに理由はいらなかった。
それなりに世話をし、えさのやり過ぎに気を配った。
しかし出目金は、子供の遊び時間をいくらか張り合わせただけの、たとえば寝入り際の息が希薄になるひとときを、泳ぎ着いただけだった。
傲慢なる意識・・・張りぼての玩具、淡麗な思い出、透ける濁色の輪郭・・・そうかも知れない。
漆黒の尾ひれが透明な水を濁す幻影なれば。

黄昏の想いは気だるさを伴いながら、その反面なにやらからだの芯とは縁のない、奇妙な感覚に包まれて、熱病が治まったときのような殊勝な心持ちが浮上しては、誰彼となしにいたわりの言葉を投げかけたくなる欲動が発令され、一瞬哀しみが風にそよぎ、せせらぎの音を聞き取ったかの清涼な体感がめぐると、不意にうしろを振り向いてみたくなり、だが、そこに幻も禍々しい影もあり得ないことを認め、舌打ちするまでもなく、軽やかな意識にそって、葉にしずくがほろりと垂れる情景が流れゆく。
彼方遠くへ。
後追いの気分は過剰な想念をいさめるよう、ちょうど優しげな年配者から小言を受け、反撥と同時にうなずいてみせる視線が地に落ちる様に重なって、ゆったりとした淀みに連なる。

金魚鉢、よみがえる色彩、暗黒をくぐり抜ける、そうトンネルを


[557] 題名:父との旅(改題」 名前:コレクター 投稿日:2021年12月12日 (日) 09時17分

列車の振動は山峡にささかかると、その曲がりくねりがもたらす催眠効果をより増幅させるのか、季節の過ぎゆきに性急な瞬きは無縁とばかり、雲間へ移ろいだ日輪を讃えるごとくトンネルの漆黒が華やぎ始める。
まぶたの裏をかすめ続けた夏の陽射しは退き、さながら魔性のひるがえす怪しきマントの姿態を想わせた。
むろん依頼人への斟酌が寄せては返す波の音を模すのか、緊迫と焦燥とが編み上げる言葉にたどり着けない独語は浜辺にひろがるような静けさを謳い揚げ、眠りへのとばりがたやすく降りてくるわけではなかった。
用意周到のつもりで重みがかさんだバックは決して脇から離れるつもりはないらしく、先走る手はずに苦笑いを投げかける段取りも健在であった。
しかし鋭意な心がけのその上っ面はやはり溶け出しているのだろう、盛夏の車両に乗り込んだ不穏な熱気はゆき届いた空調により、時間が孕む明晰な翳りへと傾き、その羽ばたきを、夜鳥のついばむ証しを消し去ることはできそうもない。
目覚めは長くもあり、とても短かったから。
ホームで見遣った家族連れの光景が浮き立たせた郷愁、独語にさえ寄りかかれない、けれども靦然な装いに彩られたなき恋人への便りがひとり宙を舞うと、そこはやはり異界だった。

さい果ての地へたどり着いた皮膚感覚が世迷い言のようにたなびいている。
視野をふさぐのは雪景色にあらず、寒風にさらされた木目がかいま見せる殊勝な柔らかさだった。浮き足だつ旅情に流されるまま、辺りを眺めればひとけもなく、上空から鉛色をたぐり寄せて張りつめている電線の結びが妙に艶やかで、醇乎とした風情さえ感じられる。
北国からの依頼にあやまりなく、この土地へめざしたのなら、煙にまかれた眠りの世界は半透明に違いない。確信への歩みはいにしえよりの規矩に支えられており、危ぶみを浄化しうる醒めた倨傲がひとり歩きしていた。
うしろに樹齢の枝ぶりに似た気配を察するまで、明暗の隠れ蓑を借り受け、異相を念写しようと務めだしやまない。

父の顔から縁遠い場所へ連れて来られた怪訝な目つきを消すことはできなかったが、苦渋まで至らない様子がそれとなく読み取れ安堵した。理由は判然としなかった。枯れ葉に薄き笑みがひそんでいるようなちいさな歓びが透けて見えたせいかも知れない。
「ここは変わった建物だな」
寒さでのどがかすれているけれど、父の声は風向きに乗っている。
「日の暮れるまえ宿へ」
そう言いかけて、あらためて依頼主の面影が描きだされそうになったが、親子ふたり旅である実情に向うと、不思議の壁は予期した通りゆるやかに崩れゆく。
吸血鬼退治は肉親であれ内密だったから、そして恥じらいで縛られていたから、いまこの時間に裏づけはいらなかった。崩れたがれきをかき分ける健気な気分にうながされ、
「ちょっと覗いてみようか」
等しくかすれた声色なのだが、果断な響きは冬空に細く突き刺さったと思われる。
父が視認するまでもなく、そこは風変わりな造りというより、深い記憶の奥底から甦ってきた蒼然たる病棟の回廊であった。手術中と筆書きされた用紙が古びた部屋のすべての入り口に平然と張りついている。
「臨時募集の方ですね」
不意に真横の扉が開き、白衣の医師らしい男からにこやかにそう尋ねられた。
否定も肯定もしない、奥まった先に位置する階段をぼんやり照らす白熱灯の、旅人と臨時雇いとをないまぜにした明朗なもの言いの、痕跡をたどれぬ悲哀が宿る夜のしじまに対する恋闕の、奇矯な明るみに打たれただけなのだろう。
すっかり忘却の彼方にしまいこんでいた列車の振動が瞬時よぎると、この空間がとてつもなく愛おしく感じられてくる。
「とりあえず手順を教えますので、いえいえ、左程むずかしくありませんよ」
勢いのない筆書きとはうらはらに招き入れられた手術室は蛍光灯が赤々とかがやき、たぶん臨時の面々による実習が恬淡とくりひろげられていた。
「ある種の美容法なのですけど、申し訳ありませんが委細はお話できないのです。ごらんのように流れ作業の要領で施術がおこなわれます」
なるほど、この一室にベッドは六床、シーツで身体を被われた若い女性が横たわる側へ臨時係らはたたずみ、顔面に指先を微妙にあてがっている様相がうかがえる。
見学の姿勢で見つめていると、手早い処置に流れベッドは次から次へと台車の本領発揮とばかりに別室に運ばれてゆく。
「ごらんのようにこの部屋では一種類の作業だけ担当してもらうわけでして」
手術から美容さらには作業へと収斂する異郷の眺めは遠く、片や近かった。
邪念のすべりこむ余地はないと思われた。父がどこに連れていかれたのか、あるいは自らの意思で他の部屋へ臨んだのか、気にもとめなかったし、流れ作業の手順とやらも見よう見まねで揮えたし、責任者であり医師と思っていた男がまわりから主任と呼ばれていることに違和感を覚えなかったし、さらに純度を高めたのはまばゆい光がまっさらなシーツを照り返しては、四季をひとまたぎしてしまった白銀の旅愁にのみこまれたからであった。
期待には奇態が能動的に働きかけている。鮮血こそ見出されはしなかったけれど、女性たちの作業を施される際、苦悶を取り込んだと見紛うばかりの面持ちにはある種の恍惚が目覚めていたに違いない。
「左側のですね、頬骨の箇所に金属片が埋めてあります。まあ以前の工程です。これくらいは説明してもいいでしょう。さて、個人差がありまして深く埋まってしまい、そうです、肉に沈んでしまうと呼称しているんですけどね。たいていはこのピンセットでつまめば軽く浮きでます。その先端にはフックをかける穴が開いており、穴が確認できたところで作業はおわりです」
主任の解説はきわめて明瞭であった。しかし、字義通り釘をさすように念を押された。
「とげ抜きみたいなあんばいと考えないでください。さきほども言いましたけど、金属の深さは一様ではないので抜きさしならないのです。あくまで慎重にお願いしますよ。あまり痛がったり悲鳴をあげたらすぐに申し出ること」
よく見渡せばその後の主任はまるで教壇に立つ面持ちで監視の目を光らせている。
難題かも知れない。とげだって神経に触れていれば相当な痛みが生ずるだろう。だがすべては杞憂であった。
なかにはどこへピンセットをあてがえばいいのか判明できないくらい健常な頬を間近にしうろたえてしまったが、以外にも当人が小声でほくそ笑みつつ人差し指でしめしてくれたり、金属片に穴が見当たらず、思わず主任を呼ぼうと焦ったところ、苦痛をかみしめているのが当然だというまなざしを送られ、震える手先に落ち着きを取り戻したら確認完了などという場面があった。
それから場面は曇りガラスの品格をかろうじて保ちつつ、忘却と悦楽の狭間をめぐり、晴れ間を夢想しながら苦渋の裏より露になった穂波の渇いた、けれどもたおやかなささやきに溺れ、逸した時節のなかへ埋没するばかりであった。ふたたび背後に立つ父の言葉を耳にするまでは。
「そろそろ帰ろう。列車に乗り遅れる」
まだまだ作業を続けたかった。抵抗する気概が失せていたのではないと思う。言葉がようやく単調な意義に導かれたような気がしたからであった。素直にうなずいた。
「まだ旅の途中だしな」
父もまた正午の太陽を見上げるようなまぶしさを忘れかけていたが、おそらく失ってはいない。
「ちょうど一時間ですね。それと歩合がありますので。今日の賃金です」
大仰な機械仕掛けで動いている主任の人柄も忘れなくなってしまった。


[556] 題名:お知らせ 名前:コレクター 投稿日:2021年09月12日 (日) 17時06分

緊急事態宣言発令にともなう「三重県緊急事態措置」の延長により期間中、休業させていただきます。

令和3年9月13日~令和3年6月30日

バー・コレクター




Number
Pass

ThinkPadを買おう!
レンタカーの回送ドライバー
【広告】Amazonからファッション秋のお出かけタイムセールまつり20日開催
無料で掲示板を作ろう   情報の外部送信について
このページを通報する 管理人へ連絡
SYSTEM BY せっかく掲示板