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[158] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット37 名前:コレクター 投稿日:2011年01月17日 (月) 04時06分

かつて兄から好奇の目で眺められ、性的な意識さえ抱かした妹、美代。遠藤の告白めいた追想は果たして脚色が施されているのか。大体は嘘ではないだろう。血の繋がった兄妹にもかかわらず己の欲情のおもむくままに禁令を越えかけた。この事実だけでも過分な情報提供と云えよう。それほどまで遠藤を煩悶させた生き仏が今ここにいる。もっとも聖なる佇まいかどうかは判断しがたい。如夜叉であったこともやはり事実だからだ。吸血鬼、、、女の子だけを狙ったと云うそれほど血なまぐさいはないが異常な挙動。
だからこそ、臀部あたりから背筋にかけて樹氷で出来た電線を何かが駆け抜けてゆく。激しい伝播は一瞬にして恍惚とともにその通路も霧散させていまう。熱気だけがほとばしっていると感じるすべてが虚妄であったかのように、一縷の念いは叶えられない。雪合戦の想い出を持ち合わせていないひとのように。
ならばせめて雪解け水を、その熱い喉もとに注いでみよう。決して虚実だけを見極めに来たわけではない証として、、、
孝博にとって条理はあまり重要な問題でなかった。肝心なのは今ここにひき起される欲望の現れを見つめることだけだった。それ故に美代をしっかりこの眼球に焼きつけておかなくてはならない。

多少のひかりが目もとに棲家を探り当てたのか、それともろうそくから放たれる赤く黄色い炎が棲家を焼き払っているのか、いずれにしても美代の瞳は思ったより日輪を嫌悪しないだろうし、雨空に近親憎悪をもよおしたりすることのない適度な潤いも持ち合わせていた。
気になるのは小首を傾げる癖のあとに、どことなく悲哀を半ばあらわにした笑みが、本人が意識する以上に愁いと隣合わせになっていることだった。抑揚のない口吻でひとこと話し終えた途端に、その情感の複合物が肖像画となって画布に描かれる。そしてその肖像画はあたりまえだが一枚一枚彩色が異なっていた。差異に生き甲斐を感じているのは学者だけではない。女吸血鬼と云えども生きている限り日々の移り変わり、例えば天候であったり、体調であったり、他者との距離感であったり、その日その日の相違は生命の根幹でもあるから。
美代の目の奥に何が潜んでいるのかは分からないが、こうして彼女を見つめているとそこに映しだされているのは紛れもない自分であることを孝博は、財宝を掘り当てた困惑によく似た慢心で迎え入れた。緊張の糸はほぐれたのか、己の口角が気を取り直したようにあがり気味になるのが感じられると、一時は恐れすら為していた美代の目つきに幾分か慣れ始めていた。ちょうど隣の家に越して来たばかりの子供と目配せを交すように。
尋常ではない白い肌もよくよく目を凝らせば、それなりの年齢にふさわしく素顔のままではなくて、しっかり化粧の形跡が見てとれる。きめ細かい肌質だからなのか、上質の木綿にアイロンをあてたときみたいに見事な張りと艶やかさが美白をより一層際立たせていた。生憎この薄明かりでは白さは浮きあがっても、しわやらしみなど目立つことなく意気消沈として表だつ必要もない。辛うじてその面に影差すのは、炎のなせる業であり、特に斜め横から見届けた鼻筋からあご先に至る肖像は、逆に生々しい表情を生みだしており、わりと長目の睫毛がそっと降ろされるときなど一種神々しい印象さえ備えていた。
実家における兄との関係や想い出が一通り語りつくされたのか、小首を傾げながらもこの部屋にひとつしかないドアの方に何回か視線を送るのが見てとれる。
「かなり幼い頃だと思います。大掃除の際に障子紙を張り替える光景です。裏庭に出されたそれらを破りとっていたら、兄が何やら奇妙な手法をわたしに伝えたのです。はっきりとは覚えていませんけど、指先に魔法がかかったとでも云うのでしょうか、面白いほど素早く古い障子がはがされていくのでした」
視座を定めることに成功したような美代の目は、ドアの向こうへ張りついたまま、その先は誰に話しかけるわけでもないと云った風情の声色になった。小石が崖を無邪気に転がり落ちる如く。
「いつの間にか戻ってきた兄を背後に認めると同時に、歪んだ表情をしたまま、そう、驚きが抑えつけられて羨望へと移行しかける決して美しくはない表情です。それが嫉妬の萌芽であったのを知るまでに時間はかかりませんでした」
美代のまなざしはお伽噺をしているときのけれんみを際どく排除しながら、安らぎにも似た憐憫をたたえている。
「それからのことです。兄がわたしに色々と風変わりな所作を要求してきたのは、、、」
過ぎ去りし幻影を追いかけるまでもなく、睫毛の先に追憶の哀しみが風化しつつあった。そして消えかかる想いは風船のように軽やかに宙に浮かんでいる。

その直後、孝博は不可思議な光景をむかえ入れることになった。夕暮れが深まるなか、遠くの明かりがとても身近に感じられてしまうのと同じく、、、


[157] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット36 名前:コレクター 投稿日:2011年01月11日 (火) 06時17分

日暮れ時に覚えるやるせなさが何処からやって来るのか、ぼんやりとした意識からわき上がる霧の彼方に目配せをしながら、胸のまわりを繻子で撫でつけられるような感触は歳月に関係なくこの身に訪れる。
今もまた、同じ想いのなかにゆっくりと横たわろうとしている。眠り入る前のおぼろげな感覚がいつもかたちを為さないように。
たぶん外では季節の前ぶれを告げるふうに一枚の枯れ葉が舞っている。乾いた秋風がよぎる様子は室内からも多分に窺える。すすきの穂は微風になびくだけで音もなく、ためらいもなく、夕暮れに牽引されることを拒んだりしない。夜が空から降りて来ても、今日一日の日差しは踏みしめた大地の上に森閑として眠っているから。明日と云う約束に忠実である為にも、深い闇を受け入れなくてはならないし、その束の間である黄昏をいつくしむのは希望の灯火であろう。
美代がこの場でおもむろに一本のろうそくを取り出して見せても誰も不思議な顔をしなかった。昼下がりは緞帳を降ろされ、時計の針は責務から解放され、自在な時刻を選びとる。
ちょうど美代の面くらいの長さをした筒型のろうそくに炎が灯されると、まわりの光景はより一層と逢う魔がときへ近づいていった。先端を天井の真上に定めたようにまっすぐ立ちのぼった火は先細りつつも、ちから強い勢いを内包しているのだろう、実際ろうそく全体の輝きは炎によるものでなく、自らの情念で発熱しているとさえ思えるほど火照っている。その灯火に照らされた美代も、淡くなったり濃くなったりする陰影にせかされて、透き通った肌の血管を浮きだたせていた。そして晃一も砂理も、おそらく孝博もまるで夕映えを浴びたときの、あの信頼感が呼び寄せられる明るみのなかを思い出しているのだった。
暗闇で灯される雰囲気とは異なって、ろうそくの火は部屋の隅々にまで何かねぎらいをかけているのではなどと、他愛もない感想を持ってしまう。美代の手元から離れ机に置かれた位置だけに灯っていると云う、不測の事態みたいな印象をあたえているわけでなく、ここに在るすべてが、集った者たちの佇まいも、前回と変わらぬ家具調度類も、それから本来は結びつくことないそれぞれの想いも、真空であったり、不穏な気配を含んだ空気もが均一な照度を受けている。
孝博は当然ながら美代の一挙一動を見守るしかなかったので、これからどう云った情況へと運ばれて行くのかは皆目見当がつかなかった。だが、暗幕やろうそくのもたらす効果がただ単に、特殊な環境を生み出しているだけでなく、或いは芝居がかった舞台に上るために招かれる催眠的な方法だとも思わない。なすがままの有り様を甘受するのがある意味真意である限りは、そこに即すのが賢明なのだけれど、一切ゆだねるふうに情趣がたなびくまま思念を閉じ去るのは不如意であった。もてなされた重箱の隅を突いてみたい性根は捨てきれないのだ。遠藤の妹であり、異形の女人である美代のすべてを知りたい探究心は、欲深い釣り人に似ていた。
「また大振りな魚を釣りあげる夢を見た、、、」
孝博は年に数回はそんな夢見で嘆息した。深層心理的に水面を透ける魚が意味するところはおおむね了解していたし、何より夢中における胸の高まりと、言い様のないうしろめたさ、もっと明確には「こんな大きな魚を釣ってしまっていいのだろうか」と云う、子供が身分不相応のものを手にした際のおののき、棲息するべき場所に居る魚に対する畏怖は、その色かたちと大きさも相まって、未だ生類憐れみの情へと短絡に避難しようと務めるのだったが、実のところ隠された卑猥であると推測していた。
束の間の考えにすぎなかったけど、やはりこの薄明かりが育んだ思考に違いない。いや、そうではなくこの黄昏どきを愛するからこそ、場面が大仰に映るのかも知れない。どちらにせよ孝博が希求してやまない精髄は証明された。「美代の首すじを噛む、、、」あの妄念は闇に埋没することなく薄明の刻を待っている。過剰に呻吟して見せるほどの思想ではない。それは重力に抵抗しているのか、陽光に舞う綿ぼこりに交じって宙に浮く、不沈の微粒子と化して、、、白日をものともせず、ここまでたどり着いた夜叉の魂に魅せられ、、、
孝博の沈着さは、かつて書かれた悪魔の辞典から引用されるべき軽やかな体質をはらんでいた。情感に溺れる自己をどう料理するかはほとんど問題なかった。しかしながら夢の魚を釣るのが怖かった。ただ釣り上げてさえしまえば、骨まで出汁にして飲み干しただろう。
どうやら克己心にも鞭は打たれたようだ。たった一本のろうそくに灯された火は美代を正視する機会を授けてくれた。
揺らめいているのが罪なほど、時折炎は意思を伝える。美代が始まりの合図を示した以上、急がなくては。孝博の胸中は戦闘体勢に臨むまえの飛行機乗りに似ていた。ただただ広がる青い空と白い雲、見渡せる大陸、神秘的な海原。見届けよう、、、もっとも自然なすがたを。「浅井美代さん、あなたのことを、、、」


[156] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット35 名前:コレクター 投稿日:2010年12月28日 (火) 06時07分

さすが兄妹だけのことはある。美代は生前から兄を敬遠していたようだが、思考の方法はよく似ているし、聞き手を引き込む話しぶりは生写しと云ってもよい。美代自身、時間系列など意識的に排除しているふうに、吸血鬼にまつわる内情をつぶさに語り始めたかと思えば、肝心かなめな動機には言及せず、兄久道が執心していた超常現象に関する話題に転じ、心霊と超能力は並列で論じてはならいと力説し始め、やはり降り行くところは兄への怨念にも似た情念に終始するのだった。
あきらかに美代は我々に、そう云った恨みつらみなるものを吐き出したいが為、進んで今日の面会に応じたとさえ思える会話の濁流を排出している。孝博は気掛かりである砂理の悲哀を何とかしたかったのだが、所詮は美代にまみえることに主眼を置いている以上、主役を脇にして来訪者の裏面をさらすわけにはいかなかった。
濁流なのだろうけども、どうしても耳を澄ませば清流に運ばれゆく一葉が次から次へと、しとどに濡れてながら川面に浮かび、沈みゆく。孝博にはその一葉が決して同じものでないのを心得てはいたのだったが、連綿と続く呪文のようにいつまでもその音を聞いていたいのであった。
むろん話しの合間合間にそっとうかがうようにしか視線を定着出来ない己の不甲斐なさは、ゆるゆるとねじを締める金属音と化して幾度かこころに鋭利なこだまを響かせた。しかし、美代との接見が限られたものである現実が、うらはらに夢想とも云えるこの光景を至上の栄光へと導く。
孝博に可能な方策は谷間のゆりを眺めるごとくに、美代を眼球に映し出し、周到に準備されているかもわからない砂理に関する事情を、明瞭なかたちでここに集った者らから聞き及ぶことであった。ずぶりと刃物を突き刺すみたいに率直な意見はためらわれた。その真意は性急すぎ、あまりに幼稚であるのだと云う建て前によって二重に保護されていたからである。

年齢不詳と思いなす意識こそが曖昧な具象を縁どっていた。コンクリートに近い単色な灰色加減のワンピースはあまりに地味であったから、対比させる意匠も逸してしまい、白亜で塗られた落書きが罪であるみたいな通念に埋没していた。けれどもよく目を凝らせば決して日だまりのなかに三分と佇めない、それくらい病的な美に漂白された肌であった。
「これまで何人かの血を口にはしましたけど、わたしの血を吸ったのはひとりだけです。どうやってかって、すこし恥ずかしいから、あの日が始まったときと答えておきましょう」
生来なのか、それとも疾患に起因しているのか、やはり声に張りはない。それでも余ってあるふくよかなもの言いが、抑揚ない一定の規律で貫かれていると感じるのは新鮮な音域を耳にしているからか。小首を傾げるのが癖に見える。まるで章句に捧げられる仕草のように、可憐な花びらと蜜蜂がささやきあい、その密やかな寄り添いに花弁と茎がわずかだけたわむ、風の悪戯にしては微少すぎる連鎖が悩まし気に、乳房へかかる黒髪を艶やかにそよがせている。
「想像におまかせしますと申したいですけど、正直にお話します。膝上まで伝ってきたあの血を指ですくいなめるまねをしました。それが始まりでした。学校でからだの仕組みを説明された直後くらいだったので、案外驚きはありませんでしたが、その血を指先でなぞられたときには真新しい体感が走り抜けていったのをはっきり覚えています。だって磯野さん、すでにご存知でしょう。わたしが早熟な子供であったのを、、、」
薄い唇には少女時代から変わらず聡明な生物が棲みついている。しかもその生物は老獪なすべなど一切身につけない、それでいて季節のうつろいには敏感で綺麗な花を咲かせる。青虫が蝶に変身すると花畑がいっそう華やぐように。
「兄は言ってましたか、わたしにキスをしようとして抱きしめたとか。それは本当にありました。ところが、おそらくわたしのほうがすでに経験済みだったのでしょう。歳がいくつ違うかも聞いていますよね。びっくりしたあの顔ったら、意気消沈とはああした顔つきをさしているのでは、、、それからは性的な関心でわたしに触れるのがためらわれたのだと思います」
連想として「血を吸う眼」と云う映画があったなと、少々寄り道をしかけたのも放縦な思念ではあるまい。別に眼玉が吸血をおこなうわけではなかったが、役に徹した岸田森の迫真の演技は素晴らしかった。美代には全体的に強烈な存在感は付与されていないけど、生気が失われた植物的な危うさ、鋭い刺を隠し持っている、岸田森が扮したあの吸血鬼の面影を漂わせていた。映画と同じく美代のまなざしを直視するには厳かな探究心と克己心が要求される。
「カーテンをします。心配ないわ。真っ暗にはならない、そんなふうにこの部屋は作られているのです」
どこかに装置が備えられているのだろうか、勝手に暗幕が下ろされるのだったが、確かに室内は夕暮れの始まりを告げる程度の照度で保たれていた。


[155] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット34 名前:コレクター 投稿日:2010年12月28日 (火) 06時06分

静かにドアは開かれた。二時ちょうど。孝博の緊張は沸点まで達したことになる。泣きはらした目をハンカチで押さえているが、哀しみのしずくはまだ枯れる頃合いを見定めていない。
砂理の肩先には晃一の手がこわれものに触れるように、なぐさめを不透明にしてしまいたい想いで、純白色した小鳥の羽となって柔らかく乗っている。どうしたいきさつがあったのか、問いただしたい欲求は、落涙を寂し気に見つめる晃一の片目によって勢いが弱められ、日頃から気にかけまいと努めてきた黒皮製の眼帯に閉ざされた亡きひかりによって失われた。力なくソファに腰を下ろすふたりを見守るのが精一杯だと思われたから。
そのときを待ちわびていたように、やはり静かにドアを開ける音がして見知らぬ女性と向きあった。
「大変お待たせして申し訳ありません。頭痛が中々おさまらなかったもので。浅井美代と申します。早速ですが、わたしをお訪ねになられた理由は想像がつきますので、どうぞあまり気にかけないで下さい。さあ立ったままでは何ですのでお座りになって」
抑揚こそ忘れられているみたいだったが、その口調にはきびきびとした対応が聞きとられ、来客であるひとりが涙を流している情況も一緒に洗われてゆく心地がした。
「こちらこそ、身勝手なお願いでさぞかしご迷惑かと思いますし、本当にぶしつけな訪問をお許し下さい。久道さんには一度だけしかお会いしていませんけど、あの様な不運でどうお悔やみ申し上げたらよいのやら、、、前回同様に急なうえ、こうして多数で押し掛けてしまいまして」
「いいのです。わたしに面会にいらしたのでしょ。ですから、わたしはこうしてみなさんにお会いしているのです」
「あっ、失礼しました。わたくし磯野孝博と申します」焦り気味になってしまったのも仕方ない、習慣的に名刺を差し出そうとすると、「以前、兄に渡されましたね、名刺は兄嫁の塚子さんから拝見させてもらいました。けっこうです」厳しくもない、優しくもない、美代のもの言いには日常を遮るつい立てみたいな距離感がうかがえる。小さな紙切れである名刺などは何枚張り合わせたところで、つい立ての役目は果たさないだろう、、、思わず胸のなかで苦笑いしてしまう。
「それはどうも、、、これは息子の晃一です。すいません、何やら事情があるあるらしく泣いていまして、美代さんが入ってこられるのとほぼ同時でしたので、わたしもよくわからない次第なのですけど、息子の友人の永瀬砂理さんです」
「ごめんなさい、肝心なときにこんなふうな態度で。でももう気を引き締めましたから大丈夫です。よろしくお願いします」
と、砂理は睫毛に水滴を含ませたまま、例の陽気な笑顔を振りまこうとした。
「あらあら、大変ね。乙女ごころは複雑ですから。それにわたし、あなたがどうして泣いていたのか知っていますから遠慮はいりません。好きなだけ涙を流すのがいいわ」
訪問者たちが凍りついたのは言うまでもない。そんな様相をゆっくり見聞するかのごとく、美代はそこから無言になった。心身に及ばずこの空気全体が急速に凍結されてゆく。
砂理の両目からはもう潤いどころか、虹彩は鈍い色合いのまま捨て置かれた紙くずのように情感を剥奪されていまっている。晃一はぽかんと口を開いたまま、何とか片方の目を宙に泳がせるのが最良の方策だと信じ込んでいるようだ。孝博は自分でも不思議なほど落ち着きをなくしてはいなかった。ここまで迷路をさまようように進んで来たのは、まさに観念上のたうちまわった錯綜から抜け出てみたいが為であったからで、これほど端的な導入部は鳥肌が立つ思いであり、尚かつ砂理の狼狽から一気に謎が見渡せる案配に近づいている実感が、旅客機に乗りこむ楽しみを、つまりは疾走する悦楽と鳥瞰があらたな地平と天空を切り開いて行くのだと確信出来たからであった。
もう心底から熱い情念を吐きだしてもかまわない。静寂は平常心によって破られた。
「どうやら久道さんは真実に一番近いところをわたしに語ってくれたみたいですね」
「兄とはしばらく会う機会もありませんでした。はっきり申しまして、わたしはそれほど兄の死に悲しみを感じておりません。子供の頃の想い出はあるとしても大人になったからは疎遠でしたし、それに、、、兄の研究ご存知なはずです。実験材料なんかにされるのはご免でした。いいのですよ、別にこうしたお話なら、わたしだってどれだけ話しても尽きないものがありますから。どこまで聞かされていらっしゃるのか知りませんけど、片手落ちはいけません。兄の言葉がすべてだと信じるのはご自由ですが、言葉は動いています。動物なのです。動物は当然ものを食べます。それがエネルギーでしょう。さて車はガソリンで動きますけど、言葉は何を燃料としているかご存知でしょうか。語学者であり、宗教学者の磯野さんが知らないわけなどはありませんね。それはそれとして、ところで兄はこんな言い方はしていなかったですか。時間系列に沿ってお話しましょう、と。そう言いながらもところどころ逸脱していた。半日で語り尽くせるほどわたしの生きてきた時間は短くありませんから、記憶の貯蔵庫に幼児期から整理番号でもつけておかない限り、年代記などは随分と潤色されるものです」
美代の声はすでに呪力を帯びていた。どれだけ論理的であっても、どれだけ感情が固定されていようとも。


[154] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット33 名前:コレクター 投稿日:2010年12月28日 (火) 06時05分

親子が取り残された室内には戸惑いも然ることながら、一種の空隙が特異な様相で現れ、あたかも大きくひろげられた断面図に阻まれたような息苦しさを覚えさせた。しかしそれは、見ることも、聞くことも、嗅ぎ分けることも、触れることも叶わず、真空状態が部屋に充満しつつある感覚だけに傾斜していった。
遠藤夫人があらわにした奇矯な表情にとらわれたのはわずかの間だったが、その隙に砂理が姿を消し去るふうに外へ出ていったのを、晃一もどうした事態だったのか認められないまま立ちすくんでいる。
「何も言わずに駆け出していった」唖然とした声色でつぶやく。
「きっと急な連絡だったんだよ。気になるなら様子を見てくればいい、、、」孝博の口ぶりも確固とした助言とは言い難く、そのあとへ続く言葉があやふやになってしまうのを半ば自覚している。
ふたりは顔を見合わせる仕草さも避けたい心境だった。真空は物質を腐食させないのだろうが、ここにある精神は間違いなく蝕まれる寸前であった。今すぐにでも美代がすっと現れ、身構える猶予なき情況が恐怖だけで構成される。慇懃な挨拶など墓穴に生き埋めされるごとく葬られ、砂理への懸念は闇夜の突風となって吹き消され、邪視に魅入られるのが対面の礼式であるかのごとく、なすすべもないうちに緊縛を甘んじて受け入れるしかない。
亡き主人の魂魄がこの真空に揺らいでいるようで仕方ないのは、夫人の異様な笑みと、ひとりの女性がこの場からいなくなっただけで妄想されるのか、、、おそらくそれだけではあるまい。吸血鬼、、、やはり吸血鬼をどこかで怖れてしまっているのだ。口先では精神病理学的な接触が最優先されるべき可能性を謳いながら、こころの底には得体の知れない感触を残してきた。遠藤の学術的と云う口吻の陰には、こうして彼が研究していた呪力と呼んでいい魔の刻が張りついている。やっと今、秒針を刻む音が聞え出した。
だが、怖れに素直に応じるだけならば、わざわざ連れ立ってここにやって来るだろうか、、、願っていたのは恐怖のもうひとつ裏に潜んでいる何かではないのか、、、
目くらましのようなつむじ風が脳裏をめぐると、奇妙なことに動揺が少し治まり、真空に対して心身を投げ入れている現在がいとおしく思えてきた。
「以心伝心って奴かな、おまえ気色が悪いじゃないのか。おれもそうだ、ここの空気は普段感じることない、形容出来ないものがある。しかし、もう怖がらなくていい、悪霊などではないよ、ひとの霊だよ、生きた人間の霊魂だ。自分以外のな。そう念じたほうがいい」
「それって合理的に考えろって意味」
「そうかも知れない、でもそれほど深く考えなくてかまわないよ。激しい感情は伝わりやすいけど、その他の思惑やら想念は自分自身以外やはり理解不能であるってことだから、おまけにその自分もしょっちゅうな」
孝博の目もとにほのかな明るみが灯ったの見た晃一は、
「自分の霊は感じないってことになるね。それでかまわないの」やや鋭さを片目にとどめながらそう訊いた。
「今はそのほうが賢明だってことだよ。そうじゃないと折角ここまで来た甲斐がないから。異様なる空間に抱かれ、奇怪なる女性とまみえる、それでいいじゃないか」
「わかったよ。砂理ちゃん気になるからちょっと出てくる。多分、玄関先あたりにいると思う。早くしないと美代さんが来ちゃうといけないから」
晃一の面にはいつもの若々しさが帰っていた。部屋から出てゆく後ろ姿にも悠然とした雰囲気が感じられた。魔の刻はあれから絶え間なく孝博に呪文をささやきかけたし、真空で充たされたと判じないわけにいかない室内は間隙を埋め尽くしてしまったので、もう息苦しくなかった。どうやら舞台装置が完成されたようなので、断面図は仕舞われたのだろう。一瞬、晃一がこぼしていった「自分の霊」と云う言葉に促され人体模型図の、内蔵や血管、筋、骨などがあからさまに浮き出し、屹立する様を想い描いてみれば、微笑がこぼれ落ちるくらい世界が動転しているのが疑似体験出来てしまい、酒に酔った気分を味わえた。

現実の時計も絶え間なく秒針を刻んでいた。すでに二時まえをさしている。この家に着いたのが一時十五分、これは孝博の腕時計でも、書架の片隅に掛けられている幾分古くさい銀縁をした丸い壁時計でも確認された。そして今も同じくともに相違はない。晃一が砂理を気遣って部屋を出てから三十分になる。美代にしても姿を見せるのを恥じらっているのか、ただ焦らしているだけなのか、ドアが開かれる気配さえ忍ばせているかのようだ。
時間こそ魔物かも知れない。いつもあくせくしているのは殆ど時間のお陰だから。夫人の顔つきひとつでもおののいてしまい、整合的に記憶を模索して躍起となっていたではないか。しかしながら酔った心持ちがもたらす高揚はそれくらいの経過に泰然と立ち向えた。まだ大丈夫だとも言えた。その根気を養う気概が反対に緊張を強いる。よからぬ事態がちょうど気体となって棺の中から煙りだそうとしている。幻想小説を読み耽りながら、実際にぼやを知るような時差をともない。
それは寸秒の時差だった。「二時になったらおれもこの部屋を出てみよう」
現実のぼやは火のまわり方次第で取り返しのつかない結果がもたらされる。孝博はあくまで律儀であった。無窮なる空間にも射し込むひかりのように直情であった、いや、むしろ磁場によってねじ曲がっている体感を得ていない無情なひかりであった。


[153] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット32 名前:コレクター 投稿日:2010年12月24日 (金) 06時35分

遠藤の家が目前にせまったとき、孝博は期待と不安が交じり合っている興奮を感じないわけにはいかなかった。それほど深刻ではない、もっと仄かで宙に浮く現実離れしたような空気が身を包みこむ感覚。小学校の運動会で毎年憶えた即席の孤独感、遊戯の延長にありながら情況が一変しているため惹き起こされた独りよがりの焦燥。しかし駆けはじめた途端にはそんな意識はすで解放されてしまっている。
息子とその彼女も一緒に臨んでいるのだから、独りぼっちではないのだが、スタート直前に横並びの生徒がそれぞれ噛みしめていた緊迫と似た雰囲気があった。実際晃一の片目はついに獲物に遭遇したみたいな先走りな緊張で一点を凝視していたし、砂理の表情は挨拶の際に見せた華やぎから随分と隔てられたところに移されたままだった。
三人はそのまま無言のうち玄関に立った。夏日のあの光景からそれほど間を経てないにもかかわらず、孝博は長い時間が過ぎていったと云うこころ持ちに支配されていた。遠藤の突然の死に戸惑い続けた影響もあるのだろうが、生前彼より聞かされた兄妹にまつわる風変わりな語りに引きずりこまれ、そしてついに予言めいた言葉通り美代に接する現実を受け入れようとしているのだ、意気込むと同時に空疎な落とし穴へと足を踏み入れる安堵が浮遊感をもたらすことは必然の成り行きである。だが、意識は驚くほど鮮明に、まるで俯瞰図を沈着に見守る建築家のように冴え冴えとしており、或いはここまでたどった道のりを峠から見下ろす達成感にも似たやすらぎがあった。
そこからの心境は反対に茫漠とした世界にさらわれたふうで、来訪の意を殊更述べる必要がないことも加わり、出迎えた遠藤の妻への弔辞も型通りに、三人とも初見である堅苦しさも表立つことなく、以前通された事務室兼客間のソファに座っている。布張りの感触は冷房が効いていた頃とは異なってはいたけど、両の壁面にしつらえた書架はおそらくあれから誰も手を触れていないのだろう、ひたすら亡き主人を待ち続けている様子が偲ばれた。孝博はそれきりまわりを見遣るのをやめてしまったが、晃一は左右に首こそまわしはしないものの片目を最大に見開かんばかりの勢いで、この室内からどん欲に情報を収集しようと努めている。
遠藤夫人がお盆に茶をのせ彼らのまえに現れるときまで、孝博の追憶は自ら用意した陥穽にすがたをくらますごとく、以前の情況をこの席に持ち込もうとはしなかった。喪に服する遺族を慮って黙祷のような気持ちをもったのだろうか、それとも書き置きらしいものが残されてなかった事実が裏打ちしている事故死を首肯するが為、故人を含め調度類や書籍にもこの部屋全体にもすでに関心は薄らいでおり、胸中にひろがるのは美代の存在に尽きるからなのだろうか、そのわけさえ自問するのが憚れた。
「お見えになる時間は美代さんに伝えておきましたから、もう少しお待ち下さい」愛想笑いではないが、至って丁寧な笑みとともに遠藤夫人はそう言って、見るからに香りのよさそうな煎茶を差し出した。
ぼんやりした頭のまま、消えいりそうに希薄な湯気が蒸発している煎茶を見つめていると、不意にいくつかの記憶がありありと脳裏にめぐって来た。ひとつはここを訪ねるまえ渓流で晃一が何気なくもらした「熱いほうじ茶」のやりとり、ふたつめは学生時代に読んだ川端康成の小説「眠れる美女」に数回出て来た鉄瓶の湯から入れられる上質な煎茶の場面であり、次には昨晩三好の風呂場で湯けむりが立ちこめていて、親子同士の裸体が何とも云えない案配にぼやかされ、それが湯殿の情趣であったとしてもあのなかでは却って気恥ずかしさを覚えてしまい、微細な照れ隠しを演じようと試みたけど無言に終始したこと、、、茶と湯けむりが織りなしたイメージに違いないのはほぼ想像出来る、、、「眠れる美女」は煎茶だけに尽きない類推が、、、
そこまで思考を力むことなく水路に伝うよう流していたところ、砂理の携帯が鳴りだしメール着信であるのが見てとれた。そして部屋から足音を忍ばせるふうにして出ていこうとした遠藤夫人がおもむろに振り返り、「どうぞ、ごゆっくり。わたしはみなさんのお話には加わりませんので、こころゆくまで美代さんと語らって下さい」
その声色にはどことなくけれんみが挟まっているようだったが、ドアを閉める際にあらわにした人工的な笑みには背筋がぞっとした。それは毒婦がわざとらしく浮かべる類いの、侮蔑までは示していないけど、秘密と云う名の媚薬を嗅がさずにはいれない性根が透けて見える卑屈な儀礼、、、どこかで見かけた顔だ、、、どこかで、、、卑屈ながらも自虐の罠には決して堕ちない、ときには様式に傾き無機質な膠着で相手を揶揄する、高慢にして酷薄な、ところが何故かしら憎みきれないあの顔、、、例えるなら「フェリーニ」の映画にほんの脇役で登場する娼婦やモデルや女中。
孝博の脳は猛スピードで記憶の断片をかき集め、ねじれをより戻し、逆巻く時間をなだらかな曲線を持った収まるべき装置、そう時計のなかにへ組み入れようと躍起になっていた。

夫人がいなくなって間もなく、青ざめた顔色で部屋を飛びだしていった砂理の慌ただしい行動に注意が払われないほどに、、、


[152] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット31 名前:コレクター 投稿日:2010年12月20日 (月) 04時41分

波紋が消え去るよう永瀬砂理の笑みがようやく細面から遠のいた。
「何だよ、折角彼女だってここまで来たんだよ。ぼくだってそうさ、手を取り合って突き進むためにこうしてここにいるんじゃないか、それを土壇場になって考え直せはないだろう」
晃一の憤慨は同時に邁進への確信であり、そして砂理の悲しみのみなもとでもあるようだった。
「そうか、それならいいんだ」孝博の声は低音にくぐもったが肯定のちからは損なわれていなかった。
手を取り合ってと云う、言葉が意味するところは何故か反対に散り散りに離れゆくイメージが脳裏をよぎる。が、今はそんな陰画で意識を乱されたくはなかった。
「砂理ちゃん、着いてすぐで申しわけないが、このまますぐに遠藤さんのところに行くよ。それでいいかい」
すると、今しがたまでの砂理の華やぎは瞬時にして枯れ尾花のごとく生気が失われた。口もとがきつく結ばれた連動によってつり目が増々冷ややかになり、うっすらと滲み出した涙とも見える潤いがかえって白濁した瞳を形成する。肉感を秘めていた唇は、陸上げされた二枚貝みたいに頑な抵抗で色艶が剥奪してしまって、もはや清純ささえも見出せず、まるで反抗期の少女のごとくに無感情な顔つきへと変貌している。
敏感に晃一が反応した。「やっぱり疲れているんだよ、父さん。東京から初めて来て、いきなり吸血鬼と対面じゃあ、、、三好荘で一休みしてからにすればいいのだけど。どう砂理ちゃんそうする、それとも今回は見送りますか」ふて腐れた子供をあやす言い方で砂理に打診する。
孝博の危惧はまだはっきりとしたかたちを為していなかったが、やはり彼女を同伴させるのは無謀と云うより何ら意味合いがなかったし、徒に悪しき不安の種を瑞々しい感受性の根へとまくようなものだった。晃一にはそれが共感出来るのだろう、決して自分も一緒に辞退するとは言いだしてはしない。むしろ時間に忠実であることを本願とした意気込みにすべてを託している。そう、息子はこう話したではないか「自意識過剰気味ではあるけど、みんなそれぞれのこだわりのところにそれを発揮してるんじゃない、ぼくだって今は違う箇所に意識がなびいているから」
晃一は単に血を分けた子であるだけでなく、すでに共犯者とも呼ぶべき意志で繋がっている。それが後戻り出来ない忌まわしき事態だけに結ばれようとも。
「だいじょうぶよ、ただこんなに急とは思わなかっただけだから。ちょっと焦ってしまって、、、わたしも連れて行って下さい、お願いします。迷惑にはならないと思います、黙って見ているだけですから。遠藤さんの家からは許可をもらったって聞きましたし、、、」
表情は見事に反転された背景画のように曇り空の下へ佇んでしまったふうであったが、案外芯のある口調が孝博の胸を打った。許可と云う言葉もどこか奇態な響きがあってか、自分でも理由がつかみ取れないまま、何やらぐっとこみ上げてくる情に思わず目頭が熱くなり、そんな戸惑いを隠すため不本意な叱責を晃一にあたえてしまった。
「おまえ、何時に先方を訪ねるのかきちんと伝えてなかったのか」もちろん晃一はそんな伝令を受けていない。「ごめん、ごめん、うっかりしちゃってた」健気にも父が吐いた咄嗟の取り繕いに対応する。更に目頭が熱くなるのを孝博は禁じ得なかった。その顔を覚られるのを避けるためにも、早く車に乗り込む素振りを示した。後部座席には若いふたりが。エンジンをかけたときにバックミラーを反し砂理の顔色をうかがって見れば、幾分かは落ち着きを取り戻したふうにも思えた。そして一緒に映った隣の晃一の表情がまるでこま送りみたいに変化するのを見逃さなかった。
優しく砂理をなだめるまなざしは、彼女の横顔をすり抜けながらガラス越しにどこかをぼんやり見つめた刹那、それが次にはその隻眼が孝博のほうに、まるで狙撃手を思わせる真剣な鋭いひかりを放ったのだ。
「こいつは何かおれの知らないことをつかんでいる。もしくはおれのことを何もかも知りつくしている」
孝博の直感は反撃を命令する司令官のように冷酷であった。だが、冷めた愛情より百倍くらいは親密だった。車は走りだす。伝わったのはエンジンの振動ばかりではない。
晃一の意識も緊迫して来たのだろうか、ふと思い浮かべたと云う調子で、
「そういやあ、砂理ちゃんのお母さんって旧姓は何て言ったんだっけ」そう先程、孝博に問われたことを訊いてみた。
「山下有理って言います。それと母方の叔父も叔母もこのまち出身ですけど、今はそれぞれ離れてます」
「山下有理、、、」振り向くことなく、そうつぶやいた父の背にじっと片目を固定しまま、車はすでに目的地への道のり半分をすでに通過している。
「父さん、その名前どう知ってる」
「いや、知らないなあ」ため息つくより簡単にそれだけ答える。「年齢は、出身校は、、、、」実際のところそんな質問が口をついて出るのだろうが、磯野親子にとって深追いする必要などまるでなかった。大事な問題はすぐそこに迫りつつあったから、、、


[151] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット30 名前:コレクター 投稿日:2010年12月20日 (月) 04時33分

肩に触れた黒髪は風にそよいでいるようであったが、澄んだ空気は動かないままじっとこの瞬間を愛でていた。
孝博のこころにも凍結とはまた作用の違った揺るぎのなさが到来していた。それが寸暇であることはわかっていたし、通りすがりに鼻をつく芳香みたいなものだと云う確信も潔く承知していた。それだからこそもう一度、待ち人から旅人へと変化する仕掛けに耽溺した。
晃一はからは幾度か彼女の存在を聞かされていたけれど、これまで自分の方からどういった容姿であるのか、家庭環境や学歴など込み入った内情には探りをいれたりしなかった。単に興味がないと云うのは詭弁であり、痛手を被るはめに陥った息子の未来を直視する勇気がなかったのが本当のところだろう、自ら刃を突き立ててしまうのを過敏に臆するあまり、放恣な振る舞いを奨励している惰弱な魂胆を見とがめようとしない。それでいて、趣味的とも呼べる不穏な事態には平気に同意を求め、同調されることに感銘したり都合のよい折り合いに対し随分もったいぶった理念を反応させた。気にいった書物のとある頁だけにしっかりしおりを挿みこむように。
永瀬砂理の容貌に面しても、そんな一頁からめくられる抜粋の要領で黙読してみる。素早く、的確に、そしてはかない字面に魔法がかけられていることを切に願って、、、
そうした所為が孝博にとって許されているのかどうかは、不問に付された。衝動は風に似て横暴なさわやかさを含んでいる。幸い風はやんだ。横暴さも一瞬息をひそめる。すでに色褪せつつある写真のような残像だけがそこに焼きつけられた。

ストレートな髪と面長なつくりは女性としてのかよわさと堅実な意思をきわめて効果的に組み合わせていた。からだのふくよかさは別としても、その容色から導き出される体感は脆弱でありながら、どこかに鋭気を忍ばせ、色香を放ちつつも抵抗させると云う反作用を促す。ましてややや上がり気味の双眸がもたらす印象は、まさに狐の面に対峙したとき感ずる冷ややかなときめきを到来させるも、犬や猫に抱く感情と同じく獣でありながら愛玩の対象へとひとすじに徹されるあの情愛のなかに包みこまれてゆく。
砂理の顔立ちが怜悧で近寄りがたい感懐にとどまらないのは、ほどよい高さをもった鼻筋と煮豆を思わせる小鼻のふくらみからくる愛らしさが備わっているからであり、その下に位置するやや肉厚で左右にひらいた唇が更なる愛嬌と、艶めいたひかりを同時に配しているからであった。
口角を下げることを忘れた口もとにも、開花寸前の匂いたつ蜜の味が天衣無縫にまとわりついている。彼女はそれを意識しているのか、していないのか、どちらにせよ小さな太陽に違いない笑顔が浮きだたせる夢のひとときは、すべてが薔薇色に染まった花弁に歩みよる決意を禁じたりしていない。
ホワイトジーンズの裾は夏の忘れ形見のようにまくりあげ、素足に薄いベージュのパンプスを履いている。緩やかな丸首をもった淡いブルーのカットソーはやや生地が厚めであったが、とてもからだの線に沿っているので、どうしても全身の隆起に気がとられてしまうのだけど、そこからの描写はあえて見ぬ素振りで流してしまおうと念じたものの、眼球に映ずる砂理の姿はひとつに統合された身体であり、決して便宜だけで抜粋出来てしまうほど安易なひとがたではなかった。
早くも座礁に乗り上げた失意をもよおしたが、どこか投げやりな意識が逆に本能的な至情に働きかけるのだろう、砂理のからだつきは上背もあって思ったより豊満なこと、それは全体をさり気なく見遣る目つきに自ずと還元され、しかも座礁に屈することなくその場に投錨さえしてしまう開き直りに転じ、とは云え純白の手袋を思い出させるような手先に塗られた桜色のマニキュアに感心する美意識を抱いてから、張りのある胸もとへと釘付けになってしまうのだった。さながらトーマス・マンが描いた「ヴェニスに死す」のアッシェンバッハの心情みたいに。涼し気な感心から、おそるおそる忍ばせる足音に、やがては我をなくしてしまう激情へと、、、
だが、少なくとも孝博はアッシェンバッハほどに暇人でも自由人でもなかった。また、「さあ、これで心おきなく恋をなさることができますよ」と、ささいな補いをしてくれる理髪師にもめぐりあってはいなかった。ただ、虚飾の精神を見届けようとする気概は中々堂に入ったものだった。魔法はかけられていたのだ。
残像たなびく長い夢のあとのような気怠さは、戦場に向う兵士の休息に似て模糊とした裡にも贅沢な時間を提供させた。能の舞いが魅せる幽明の静かだけれど強烈なる鼓動をともない、、、

写真はその色合いをくすぶりだす。三たびとんびの声を耳にした頃、孝博はそれが合図となったようにこう言った。
「そろそろ時間だ。晃一、砂理ちゃんよく聞いてほしい。君らがどうした意欲でこれから遠藤家に向うのか、その理由はこれ以上詮索しないし、おれも詳細はもう語らない。ただ、ふたりを危険な情況に巻き込んでしまうのがやはり心配なんだ。案の定、遠藤さんの妹はこのまちに来ていた。推測通りだった。吸血鬼に会いに行くって思いはないよ、しかし決して良いことは起らないだろうな、悪いことは惹き起こされても、、、どうだい、辞めるのならそれでいい、特に砂理ちゃんはまったく事情を飲みこんでいない、所詮おれだって似たようなものだけどな。面白半分だったら辞めるべき、そこだけを確認しておきたいんだ、わかるかい、、、」


[150] 題名:まんだら 第三篇〜虚空のスキャット29 名前:コレクター 投稿日:2010年12月20日 (月) 04時27分

山間から町中へと引き返すときも、まるでサンダル履きで駆けゆくような素早さであった。ひとつしかない改札口は駅舎から多少離れたところからも見通せた。
朝からの快晴は午後を過ぎても変わらず、青く澄みわたった空にはとんびが数羽自在に飛びまわっている。車が目的地に近づくにつれ駅舎の後方にひかえていた山並みが屋根の下に潜りこむように視界から消え、駅名の記された真上にこしらえられている山稜を模した屋根が青空をほんの一部だけ隠した。むろん左右を望めば名も知らない山が連ねているけど、あと数分でホームに滑りこむだろう列車を待ち受けるまなざしは真正面だけに位置づけられていた。旅人に対する視線はおおむねこうした熱烈な姿勢で成り立っているか、もしくは内省的な雰囲気が一目で見てとれるうつむき加減で示されるものだ。それがどう云った思惑であるのかは他者の関与するべきことではない。
同じように他者からすれば、かつて列車内で過剰な肉欲を抱いてしまった不始末、やがて因果となってめぐり晃一を巻き込む悲劇に逢着した事実、それらは秘匿された不動の陰であり続けるだろう。
孝博は待たれる側をこのまちで幾度も経験したから、見知らぬひとのそうした姿を横目で見遣るすべを少なからず身につけていた。だが今度は始めて待つ側に転化することで、変に落ち着き払った気分を得た。おそらく、たった今までこの駅の向こう遠く渓流で弁当を食べていた余韻だろうし、息子と肩を並べて他人を迎える行為にも奇妙な違和が生じているからかと、つまりは擬似的にしろ山道を経てまちの入り口に佇んでいる現実が、随分と前よりここに住み着き久しぶりの客を出迎えるような錯覚を起こしているのだ。
この錯覚は安全弁がしっかり締められた機能的なめまいであった。それゆえにすべての空気が一瞬にして変わってしまおうと決して身じろがない偽装の錯誤であり、そこに平穏が委ねられるのは不思議な現象ではない。
磯野親子は位相を反転させただけだったが、これから始めなくてはいけない夏休みの宿題に焦りおののいているような安逸を同時に孕んでいた。肝心なのは恐怖ではなく、達成されるべき先に控えている日々の栄光であったから。玲瓏たる意識がうつろいを噛みしめるためにも、、、
孝博は父親として威厳を保つ意義など持ち合わせなくてもよかった。だから一切は伏せられ、ときには全貌が切り売りされた。たぶん晃一もその考えに同調したに違いないから、込み入った実情とは異なる方角よりあくまで怪異譚たるべきして歩み寄ろうと試みている。以前遠藤久道が孝博に示唆した方向があたらに切り開かれたのだ。ただし反吐をもよおすほどの膿がにじみ出す可能性も避け難く、そこから逃げない覚悟が要求される。ふたりはそうして湯けむりに霞む人影のように妖しく互いを認めあった。黄昏どきに行き交う同士が恐怖を克服する様相に似て、、、反芻される踏み絵となりつつ、、、

列車が到着するといとも簡単に改札を抜けたと云う足取りでこちらに向ってくる若い女性を孝博は見た。
晃一の顔に笑みを送っているようにも、孝博に丁寧な親しみを投げかけているようにも見える。あるいはこのまちに生まれて始めてたどり着けたのを自ら祝福している喜色満面が、花束が飛び散る華麗さで放たれているせいなのだろうか。
「どうもはじめまして永瀬砂理と申します。晃一くんにはお世話になってばかりで」
手がのばせる距離まで早足に歩んでから、まずそっと晃一に目配せをしてから彼女はそう挨拶した。まだまだ若いから旅の疲れなど微塵も感じさせないうえ、にこやかな面持ちもしばらくは維持してゆくくらいの気概が溌剌とした身の動きに現れている。とは云ってもせわしない風情でもない、実際永瀬砂理の足先はしっかり地を踏みしめたままどこにも勝手に歩きだそうとしてないし、身ぶり手振りも大仰につくられたものでもなく、挨拶まえから一向にかがやきを失わない、そのややつり目勝ちだけれどひかりを十二分に含んだ両のひとみは、隻眼の晃一に向って余りあるほど親しみを投げかけていた。そしておこぼれを頂戴するような具合で孝博にも親和が気流になって丁寧に伝わり、「ここまで遠く感じたでしょう」と、ごく自然にありきたりな言葉が衝いてでる。
「いいえ、何せこの地方には来たことがないのでまわりの風景に見入ってしまって、何だか楽しくあっと云う間でした」
砂理の全身には思春期の少女が発するような初々しい喜びが確かにみなぎっている。
とんびが再び上空を旋回しながらのどかな声を聞かせた。素早く首をあげる仕草、好奇な目線とともに砂理の長いまつげがよく晴れた空に、まるでなでしこの花弁を想わせるように翻えり、そのあおりでもってのばされたと認めたいほどにほっそりとした首筋がすっと上を向く。清潔感のあるあご先はこじんまりすぼんで知性的なかたちである故に気丈な性格を香らせながらも、今はまだ無邪気さだけをあらわにしている。
「あの鳥かわいい鳴き声ね」
空を見上げるままつぶやいたのど笛はほんのわずか震えただけで、なめらかな白い肌はまばゆいくらい美しかった。


[149] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット28 名前:コレクター 投稿日:2010年12月14日 (火) 04時25分

渓流の音を耳にながら頬張る弁当は悪くなかった。公園まではあと少しのところだったが晃一の希望は正しかった。が、いざ弁当のふたを開けてみると著しい相違が両目に飛び込んできた。「ごはんが白米だ、、、」晃一の注文は鉄の意志のごとく「のり唐弁当」で透徹され、一切のゆるぎは認められなかった。孝博は少々迷った。はなからこれにしようとは決めてはいなかったので、以外と数多いメニューのなかから選びきるのは面倒と云うよりも楽しい行為なのだけれど、晃一の頼んだ弁当の規格と他のものとは容器も大体同じであれば、白米の中心に梅干し、そのまわりを衛生のようにして小粒のごま塩が振られていると云った呈も似たりよったりで、メインが海老フライでもロースカツでもショウガ焼きでも、どこか説得力が欠けているような気がして、しかしながらどんぶりものには食指が動かず、直火チャーハンなどに至っては亡き遠藤の面影があまりに濃厚に直撃してくるなど、わずらっていたのだったが入り口の横に貼られたポスターの「秋の行楽〜幕の内」を見つけるに及んで生唾とともに先鋭なる解答が弾き出たのであった。
他の品とは写真の大きさも異なる為か、あきらかに豊富な総菜が焼き海老を中心に据えらていて、れんこん、しゅうまい、焼き魚、こんにゃく、さつまいも、かまぼこなどの暖色系を強調した盛りつけには思わず引き込まれてしまい、何より総菜の量からすると瞭然とした控えめさで敷きつめられいる炊き込みごはんの、これまた温かみで湯気をたてている案配には間違いなくこころ奪われてしまった。こうなれば梅干しごま塩系からは完全に脱却した世界が展開されて、有無を言わさない気迫に圧倒されるばかりだ。

滑滝は非常に加減よく浅瀬へと流れ落ちていたし、腰かけた清涼感のある川石には太陽の熱がほんの少しだけ閉じ込められているような感触がした。晃一は「買ってから二十分も経ってなけど、まだまだ温かいね」などと言いながらうまそうに唐あげのかたまりにかじりついている。孝博の落胆は以外に底が深いようであった。「弁当屋が炊き込みごはんと白米を入れ違えたのか」さすがにこれからその誤りをただしに行こうとまでは考えなかったけど、運が悪いにしても何にしても、この場に於ける失望は根深く淀み続けてしまう。目の前の淵だって常に清冽な流れに支配される喜びを知っているかも知れない。紅葉と血が虚構に連なるものだとしても、いや、そう願ってみたいからこそあらゆる拘泥はむしろ意のままに遊泳してくれなくてならない。例え滝に打たれなくとも見た目だけでもいい、そんな雰囲気が醸しだされていてくれれば本望だ、、、ところが、この梅干しとごま塩は一体何を言わんとしているのだろう、、、
「そんな怖い顔してどうしたのさ、弁当食べないの」
よほど深刻な顔つきをしていたのか、孝博はさすがに恥じらった。そして、内奥に堕ちて行く懊悩とは別の表情で「確かこの弁当、秋の行楽とかって書いてあったよな、それなのに普通の白米なんだよ」と飄然と言い放ってみた。
どれどれと云う目つきで晃一はそれを見つめた。
「あっ、本当。でもポスターには二種類あったと思うよ」重々しさを悟られまいとする父の胸中を察知したふうにそう答える。そして「炊き込みごはんのほうを注文しなかったからじゃないの」そうあくまで快活な口調で失態をちょうどこの渓流のごとく清らかに見送ろうと努めている。
それを聞いた孝博は今すぐにでもこの浅い滝壺に飛び込みたい衝動に駆られた。だが、すぐさま思い直し、冷ややかに己を侮蔑した。そして喜劇へと転化出来るか問うてみた。答えは案外早く胸を破るまでもなく、景品の風船を一気に膨らませる調子で虚空を意味あるものに変えた、それが答えだった。
「そうかい、二種類な。よく見なかったのが悪いのさ、大したことじゃない」
「お茶も冷たいやつより温かいのにすればよかった」今度は晃一が連鎖反応みたいにぼやいた。「父さんはいつもご飯のあとしかお茶飲まないよね、まえから気になってたけど大したことじゃないな」
「いいや、締めにすする熱いほうじ茶は夏場でもうまいもんだよ。ガブガブ飲むもんじゃない。でも今日は別にいいさ」
「あっそう、いやあ、ぼくはね、この川の流れみてたら何だか、その熱いほうじ茶を思い出したんだ」
透けるがごとく美しい清流は茶で濁されたのだろうか。孝博はそうではないと思っていた。「弁当に茶は付きものだ。腹が減れば、昼になればみな飯を食う。連続体みたいなものなのか。醜いものが嫌いなら綺麗なものを好む、綺麗なものが嫌いなら醜いものを好む、これはどうかな」声にならないつぶやきは乾いた秋風のなかに消えた。
迎えの時刻が近くなってきたのでふたりは憩いの淵を後にした。車中、晃一がついにしびれを切らしたふうにこう訊いてきた。「やっぱり、これって一種の吸血鬼退治なわけ」
孝博は一笑に付しながら「そんな馬鹿な、誰を退治するっていうんだ。そんなこと言ってるとこっちが退治されるかも知れないよ、だからおまえの彼女な、ちょっと心配になってきてるんだ。そうした意味あいから今みたいな言い方したんじゃないのか」
「別にそうではないんだけど」返答にややこわばりつつそう言った。
「そうか、しかし嫌な予感がする。これは吸血鬼うんぬんの怖れとは違う何かだ。おれも思慮が足りなかった。砂理ちゃんを呼んだのはよくない、でももう遅いよな。釆は投げられた、あとは終結を見届けるまでさ、、、」


[148] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット27 名前:コレクター 投稿日:2010年12月14日 (火) 04時21分

迎えゆく駅を通り過ぎてしまう格好になったのだったが、車で抜けゆく爽快さをおぼえ出すとそこはすでに山間であり、寄り道が別段遠回りになってしまうとも思えない。途中で弁当を買い、次第に傾斜がたかまる林道の先にある公園をめざし孝博はハンドルを軽やかに握っていた。振り返ればこのまちで車の運転をした記憶はあまりないけれど、三方を山並でぐるりと囲まれた温和な風景は、きっとすりこみになって網膜へ焼きついてしまっているのだろう、相当な月日を隔てたにもかかわらず見覚えのある山道のうねりがさながらときの緩やかな螺旋を呼び起こし、散漫である気分を優しく見守っているのだと感じ、木々のざわめきと走行音はのびやかにひとつになった。そこにあるひかりもほどよい木漏れ日となって随所に待ち受けている。
山の地形により旋回するような道筋もあったせいで県境に近づいている感覚がより増幅された。それは陸地からも見渡せる離れ小島へとせまったときに押し寄せる小舟の勢いに似ている、海上の距離が一気に遠のく爽快な錯覚。時間の麻痺は包み込まれる光景のなかで生まれる。
「まだ夏の山って感じじゃない。紅葉には早すぎるね」
直接照りつけた太陽にまぶしい目つきをしながら晃一は尋ねる。
「三好さんも言ってたよ、裏山でつくつくぼうしが鳴いてたって。おそらくあれが最期だったんだろけど。それにしても今年の夏は永遠の日差しのようだった。でもあとひと月もすればこの辺りも綺麗な紅葉に染まるさ」
孝博は尾根から麓までまだらながらも色彩が植えこまれた山の声を想像した。遠目には種類は判別出来なくても木々が燃えさかるようにして色めきだつ、しかも枯れゆくまえにして鮮やかな変容を遂げる情念を静かに夢想した。山全体を眺めやるまなざしは曖昧な慰撫に落ちつかず、もっと鮮明な意思に即されているような心持ちへとたなびく。「まったく妙なものだ、今ここにある山林になぐさめられながら、これから日々先の紅葉へと思い馳せてしまっている」そう胸のなかで唱えてみるのだった。

緑が連なる単一な山稜を追う目線にはない、そうまるで気高い造形を見上げてしまう半ば高圧的でもある何かに縦走する心意気が与えられ、なめらかな曲線を描きながら下っている様をじっくりと追うようにしては、その様々に染まった華飾の宴に魅入ってしまい、控えめな亜麻色から杏色へと移ろう階調に感心する間もなく、赤錆が生じたかの点綴に瞳孔が反応しつつ、中腹へと下山する足取りのままそこに取り残されたみたいにしている針葉樹の、まわりに同調してしまうのを勇ましく拒み青々と茂り誇示する一群はより紅葉の本義を際立たせ、隣り合う鶯色にささやきかけているのもやはり染色の気概か、丁字色や浅蘇芳、洗朱、唐茶など微妙な配合に交じり合ううち、裾野へと沈むようにひと際かがやいている楓の枝ぶりが山道沿いからうかがえる。そして行く手をさえぎるのでもなく、格別何かを伝えるわけでもなく、微風にそよいでは首を泳がしているすすきの群れが、光線のなかでときと戯れている。
間近に接するが故なのだろうけれど、不動に配色された山並みとは異なる晩秋がそこに息づいているのも季節の美しさである。それからもう一度、真っ赤に焼きあがったもみじが天にのびさかる様と、地にのぞみしだれる様を、鮮烈なあかしとしてこの胸に収め置く。雲も微かな蒼空を血で洗う意想は、まさにこの先への予感かも知れないから。
「ちょっと待って、今のとこ右手の下」無言のままもの思いに耽っていたので少し慌てる。
「どうしたんだ」
「そこで止まってくれない」晃一は運転席ににじり寄りながらその場を示す。「小さな淵というか、しかも滝があるよ」
孝博には気がつかなかったが、確かにガードレール越しから渓流らしき水しぶきの気配があり、それほど大きくもないけどごろごろとした石が転がっているなか温泉みたいな格好をした豊かな淀みがある。
停車して覗きこむと晃一の言った通りそこは淀みでなく、川幅がひろまった流れであり、ただ上流からの勢いが上手い具合に積み重なった大きめの石でせき止められ、同様に下流に対しても水はけが狭まっているのでこんな温泉とも、こじんまりしたプールとも云える淵が作られていた。しかも山手を伝い岩盤を落下する滑滝は何ともすがすがしく、その幅はひとふたりほどであろうか、水量も実際に受けてみたところで危険に見えない。仮に富豪であるならばこのままそっくり自宅の庭園に再現したくらい、子供らは必ず大はしゃぎすること請け合いなほど、滑滝が落ちゆく川底は浅瀬であり水は透きとおっていた。
「真夏だったら絶対にあの滝に打たれてみたいな、打たれるってほどじゃないけど。でも気持ちいいだろうな」
晃一の笑顔は孝博にもよく理解出来た。「そうだな、便利な修行場だな。流される心配もないし、溺れることもない、でもそれじゃ、修行ではないよなあ」
「ねえ、父さんここで弁当食べよう。公園まで行かなくてもいいよ、ここが気に入った」


[144] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット26 名前:コレクター 投稿日:2010年12月07日 (火) 04時45分

あらかじめ書きあげられた脚本を読み上げるふうにしてことの次第をかいつまんで相手に伝えると、思いがけない反応が返って来た。
「はい、主人は磯野さんのご名刺を自慢気にしていましたのでよく覚えています。ああいったひとでしたから、大学の先生がわざわざ訪ねていただいのはよほどうれしかったのでしょう。詳しい話しはわたしには難しくてよくわかりませんでしたが、あのひとはこう言っておりました。自分が研究していた分野をあれだけ真剣にとらえてくれた学者に始めて出会えたって、、、」
電話の向こうでは悲しみと交差する声に移りだそうとしているかもと耳がそばだってしまう。
孝博は出来るだけ電話口でのやり取りを最小限にしたいが故に、息子とその彼女も一緒であること、それとこれは機転だったが、ふたりは遠藤の超常研究をかねてよりそれとなく察知していて亡きあとはせめて書斎が変わりなければ是非とも拝見させてもらえれば、そうそつなく申し出て了解を得てから矢継ぎ早に実のところ妹の美代さんにもお会いしたいだと、先程からの口調を崩さず探りを入れてみた。
一瞬、凍りつくかに感じられた間合いであった為なのか、それとも孝博の鼓動がときに賭博を挑んだ為なのか、次の返答が響いてくるまでひとつふたつの気詰まりに身がこわばった。
「えっ、美代さんですか。はい昨日からうちに居ますけど」
こわばりなど思わず氷解してしまいそうなくらい、朗らかな驚きの様子が鮮明に読みとれる。
「色々と取りざたされて迷惑なのは承知なのですけど、遠藤さんから是非とも一度妹と引き合わせたいと先日申されましたので、もしご都合とか悪いのでしたらけっこうなのです。これは電話ではなんですけど、ご主人の予言も含まれておりますので」
と、多少の潤色をくわえることで取り急いで訪問を確定させなければならない焦りが語尾を走らせた。
「わかりました、それでは午後からですね。はい一時過ぎ頃、、、」
予言を遺言と言い違えそうになったとき、さすがに動悸が高ぶったけどこうして悲願でもあった美代との面会が現実のものになってしまって、思いのほかこれからは本当の児戯に堕するのではないかと、水風呂に飛びこむときのような疎ましさがよぎったりした。
それにしても遠藤の妻は感が鋭いと云うのか、ただのおひとよしと云うのか、美代の件にささかかり次第に緊張しかけた声色をとにかく察したのだろう、
「事件のことですか、あれってかなり大げさな報道なんですよ。美代さんは昔から変わったところのあるひとでしたし、実はわたしも本当に久しぶりなんです。葬式ではお兄さんとしっかりお別れが出来ないとか言って出てこないし、あまりわたしのことも好いてくれてないようですの。主人も人見知りするたちでしたけど兄妹ですね、美代さんも同じなんです。ちょうどよかったですわ。わたしらとも会話らしい会話は済んでしまいましたので、話し相手になってあげてくださると助かりますわ。明日には帰るって言ってましたからいいタイミングでした」
希望の星は手にした途端に消えてなくなるのだろうか。電話口からの遺族がもらす哀感は掃き清められたと呼ぶよりは、はたきでパタパタはらわれてしまったようなぞんざいさで小綺麗になり、孝博が描いていた悲運と秘密が織りなす月夜の闇に浸透していく淡い情景は、日のひかりで白々と濃淡がそこなわれてゆく。これでは美代の首筋うんぬんはおろか、会話すら成り立たないかも知れない。だとすれば一体どうして遠藤の言葉にこの身を託し、息子らまで引き連れての珍道中を急ぎ足で駆け抜けて来たと云うのだ。
孝博は祈りが成就したよろこびより、ここまでの道程が最上のかがやきにあふれていたのを嫌がうえにも認めないわけにはいかない。
「どうしたの父さん、ぼんやりして」
背後から晃一にそう言われて普段の真顔を作りだす。
「あのな、美代さんに会えるぞ」
「やっぱりね、ぼくも絶対に来ていると思っていたんだ」
「どうしてそう言えるんだい」
「いやあ、こっちにだって知人は残して来たからさ。情報、情報、父さんもどこかで仕入れたんだろう。ほんとうきうきするなあ。どんなひとなんだろう、写真も週刊誌とかに出たそうなんだけど、実年齢は知らぬがよしでね、でも噂ではすごい美人だとか。だって女吸血鬼だよ、父さん」
晃一の邪気のない笑い顔には罪はなかった。女吸血鬼にだって罪はないかも知れない。罪があるとすればそれは間違いなく己のつまらぬ起伏をもった感情だった。揺らいでいる、空気が揺らいでいるのではない、波が揺らいでいるのでもない、時計の秒針が揺らいでいるのでもない、理知の刃物で切り裂いたはらわたがきちんと整列してくれないので揺らいでしまうのだ。そもそも理知の刃などはどこにもない。ただあればいいと想像しただけで、背筋が少しばかり伸び、目にひかりが宿った。それでよかったのだが、このはらわたにはいい加減うんざりする。整列しない、してくれないのではなくて、整列させたくないのだから始末に置けない。
「ねえ、まだ時間じゃないけど車借りて行こうよ、さっき砂理ちゃんの携帯からメールでさ、もうお昼の駅弁食べたからだって随分早弁だね。ぼくも何だか弁当食べたくなった、のり唐弁当がいいな。天気いいから山の公園で食べてから駅に迎えに行けばちょうどいいんじゃない」
晃一の食欲は澄み切った天空にも増してさわやかだと、孝博もいつぞや上空から見下ろしたとき大地の起伏のなさを思い出し、笑みをこしらえた。
「そうするか。ところで彼女の母親の旧姓はなんて言うんだい。こっちの出だってな」
「山下って名字だよ、名前は一度聞いたような気がするけど忘れちゃった。砂理ちゃんが着いたら教えてもらうよ」


[143] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット25 名前:コレクター 投稿日:2010年12月07日 (火) 04時44分

秋風が静かに吹いてゆく夢の波間をさまよった。どんよりとした念いから逃げ去ることは無理であったが、寝入り際に遠のく旋律へとすべてを沈みこめる滑らかさのお陰で悪夢には苛まれず、意識は薄明のなかで半ば好個な書物を読んでいるようなぼんやりした感覚を残しつつ、まばたきの度に引き潮となって、すっかり目が覚める頃にはやや煤けている障子紙がありありと夜具の足先に眺められた。
「父さん起きてる」カーテン越しに朝陽は部屋に満ちていたけれど、晃一の声は遠慮勝ちに耳に伝わった。
「ああ、ちょうど今な、どうだ、よく眠れたかい」
「いやあ、何か次から次と夢の洪水でさあ、さっきから妙にリアルな光景で突然飛び起きたままぼんやりしてたんだ」
「そう、でも今は夢の話しはやめておこう、いつかあらためてな」
「まったくだね、ぼくも同じ意見だよ」
外はよく乾燥した空気がみなぎる晴天だった。朝食まえ、孝博は三好に東京から連れが来ることを言い忘れていた手落ちを自分のせいとして詫び宿泊を願った。それから九時をまわった時間に遠藤の家に電話をしてみた。別に昨日でもそれ以前でも連絡くらいはいつでもよかったはずなのに、どうしたわけか四十九日の翌朝とまるで儀式を司るよう使命を微動だにしなかった。
常識的な配慮からもさして昵懇でもない、いやたった一度だけしか面会していない人間が法事のさなかを訪ねるわけにはいかないし、かと云って悲報からは日にちを経てないので前もっての連絡も同様に遺族を不安に落としかねない。いずれにせよ遠藤の妻とは面識もないし訪問は不謹慎であろう。ならば、どうしてせめて半年なりの間をおいてから彼の家に赴こうと思慮しないのか、、、法事の翌日だって家の者からすれば心労が募り、不運の死の悲しみから決して癒されているはずなどないのに。
己の業がそこに土足で踏みこんでいる忌まわしさは分かっていた。四十九日にこだわるのも、ある不透明な思惑がまるで幽冥界から唱えられる風の音のようにこの胸に届けられるのであって、それは遠藤が聞かせた妙に筋道の通った昔話しに感化された、初対面とは云え夢見の裡にかいま見た不思議さをも現実に成立されてしまう論理に魅入ってしまったからなのだが、そんな判断をしめやかに戒めている彼の物言いにはやはり魔性が棲みついているのか、それとも自らの息吹が魔性を呼び寄せているのか、死者に口はなし、気炎はあの夏の日よりあがり始め自制心を失い、親子間に横たわる不義なるものを一層あばき立てようとさえなりうる逆転の道を滑り落ちているではないか。間接的ではあれ、ぎこちない合わせ鏡であれ、日々の連鎖に倦み疲れた脳みそは何を望んで新たな気だるささえ生み出す小細工を仕掛けたがると云うのだ。
しかし孝博は目を細めいとしいものを見遣る心持ちで、「遠藤さん、あなたの予言をはずすわけにはいきませんから」握りしめた砂を川底に返すときの流れに沿うようささやいてみた。この手に不確かだけれども少しばかりの力加減を求める謎を握らせたのは紛れもない遠藤その人であった。だから今度はこうして、自身の夢に忠実であるためにも夜の川底に不確かなるものを放たなくてはならない。例えそれが空気のように、水のように希薄で透明であろうとも、裡なる幻想の果てである夜の川へもう一度戻らなくては、、、そう、突然の死に戸惑い怖れた感情を糊塗するべく惚けてみせた、あの児戯をあれからもひたすらに念じていたのだから。
美代には必ず会える。葬式には参列しなかったそうだが、この法事には必ず顔をだす。なるほど遠藤の予言も彼自身にとっての幻想であったとしても、不純であれどうであれ、いや、それならば尚のこと妹である美代に残される情念として残滓は濾過されて、赫奕たる双眸が亡き兄を映しだす未来を言い当てたのだ。その場に美代は留まっているに違いない、そして遠藤が陽気な素振りで昼食をもてなしてくれたように、軽やかな儀式を首を長くして待っている。だが、機会は今日しかない、、、「どうです、遠藤さん、あなたがわたしに示したかった不可能性に案外たやすく達することが出来そうです。学術的と言われた方法論もこの日取りの計算だったとしたら、算術的と呼びかえた方がいいのでは」
孝博の空洞には独り言が限りなくこだましていた。それと鉛のようなおもりを忘れてはならない、興味本位なのだろが晃一の存在は、ちょうど真空に重力を発生させる役割を担っている。それが微力であるのか強力であるのか、ましてや中空に浮かぶ月のような引力を秘めているなら、すべては、夜空も青空も草木も山々も砂浜も河原も家並みも国道も林道も風も香りも波も鳥たちも、あらゆる動物たちも、想い出や作り話も、手穴も爪先も、人々も眼球も、そこに映しだされる。

受話器に手をかけた刹那ことさらにためらいはなかった。遠藤と名乗った女性に孝博は淡々とした、けれども地の底から伝わって行くような優しさで用件を述べるのだった。


[142] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット24 名前:コレクター 投稿日:2010年11月30日 (火) 06時25分

「それで永瀬砂理さんは何と言ったんだい」
「さっき話したように彼女のお母さんもこのまちが出身なんだけど、生まれは東京だし、その辺がぼくと似てるでしょ。そうしたこともあって学校の親睦会みたいなもので知り合ったわけで、でも母方の血縁は早くに途絶えたせいなのか、祖父や祖母は亡くなって、叔父叔母も土地を離れているからって、それで今まで一度もこのまちに来たことがないって言うんだよ。そんなことわざわざ嘘もつくまいと思ってさ、それじゃ、いつかぼくが帰省するときには一緒にどうって盛り上がっていた矢先だったわけ。そこに来てこの事件に惹かれたんだけど、それは父さんだって同じだから通じ合うものはあると思うんだ。だけど、ひょっとしてこう思われているとしたら心外だな。こっちでさ、失恋プラス失明までした補填みたいな感情が起動してぼくを知る人間らに何かを知らしめるなんてね、そんなふうにとられるのは癪だし、第一それほどぼくのことなんか誰も気にしてないよ。自意識過剰気味ではあるけど、みんなそれぞれのこだわりのところにそれを発揮してるんじゃない、ぼくだって今は違う箇所に意識がなびいているから」
「吸血事件にも関心があると云うわけなんだね。それは興味本位だろうか、おまえだってどこまでやら見当はつかないけど、おっと、父さんにもそれは同じことかな」
「いつかのさ切手の話しあったじゃない、小林古径のやつ。あのことも実は喋ってしまってさ、だって父さんはどう感じてるかは分からないけど、確かにあの絵柄は素晴らしいし親子そろって気にいったところで、それほど変ではないでしょ、だって他にもいっぱいあの切手が美しいって感じてるひとはいるんじゃない。ぼくが言いたいのは例の事件とあの絵柄との微妙な類推であって、そこを彼女に面白い前置きとして聞かせてあげたかっただけだから、特に父さんの研究を冷笑するような気持ちもないし、そんな意識で連れて来るようじゃ、ぼく自身が父さんを蔑んでいると呼ばれても仕方ないじゃない、だからそこは信じて欲しいんだ。それより驚いたのはさあ、もう砂理ちゃんは明日にはこのまちに来てしまうからこうして語れるんだけど、、、ぼくと付き合いだしてあまり日にちもない身だし、あっ、ぼくのことはきちんと話してあるそうなんだ、ところが、いざ今回帰省に同伴する素振りを見せたら彼女の母親が顔色を曇らせてしまって、それらしくお母さんの生まれ故郷なのにまだ見てないからとか理由づけておけばいいのに、ぼくの父が大学の先生で色々と研究してることや、それが吸血事件にも関連ありそうなので是非とも現地に一緒に行ってみたいと打ち明けたら、えらい剣幕でそんなふしだらな探検めいたこと絶対に許さないって始末になってしまったんだ。とは云え砂理ちゃんは以外や負けん気があってさ、どうしても母親の禁止が腑に落ちないって、父親は逆にもう子供じゃないんだから、それくらいの自由はふしだらでもないって応援してくれた心強さも手伝って決行は断念しなかったわけ。だけど日程まで執拗に聞かれてたんで、つまり今日だね、一応おとなしくあきらめた様子を見せておいて翌日アルバイトに出かけるふりをして列車に飛び乗ると、、、こうしたいきさつがあったんだ」
「おいおい、何だ、じゃあ、無断でこっちに向うのか」
晃一は父の上ずった声を打擲するように、
「そこはしっかり砂理ちゃんの親御さんに言い聞かせてくれないと。両親共に反対しているんじゃないの、母親だけがどこか要領を得ない文句を言ってるだけなんだ。生後あのお母さんに連れられて帰省した記憶がないってことは、砂理ちゃんに不可解であるはずだと思う。お母さんだっていくら血縁が絶えたとしたって、まあ本人がそう云う意識なら仕方ないけど、砂理ちゃんに帰省する権利はあるよね。もしもぼくらを責め立てて来たりしたら、父さんは毅然としていて欲しい、ぼくは最悪仲を引き裂かれるような事態に陥っても後悔はしないからさ。砂理ちゃんにとってこのまちは見知らぬ土地だろうけど、記憶のまちとして新たに見出せる可能性は秘めているよ、きっと」
いつにない息子の勢いに押された孝博は暗闇に浮かんでいる天井をみつめ苦笑するしかなかった。首を傾げ、しっかりと切実な訴えに応えるようひかりなき空間を射る目線を結ばせるのは憚れた。決意をうがつ晃一の語感の重みで夜は増々深まってゆく。うらはらに孝博のこころは空洞の奥行きがせばまってゆき、どこか興醒めしてしまう意識を修復する意欲が損なわれていた。しかし、灯火のようなちいさな明るみにほだされるときの無防備さは健全であった。地底の洞窟に灯る一本の蝋燭、闇の支配下に甘んじるには忌まわしく、灯しの安堵に慣れ親しむには虫がよすぎた。行くてが黄昏であるうちが華なのか。
「わかったよ晃一、何だか砂理ちゃんに会うのが楽しみになって来たよ」
かげろうのように力ないけど秋風に包まれたときの乾いた返事をし、美代の代わりとしてなのかと奇妙な前兆に運ばれたよう頷くのだった。


[141] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット23 名前:コレクター 投稿日:2010年11月30日 (火) 03時47分

寄り合いに行っててつい今しがた帰ったばかりだと言う三好に挨拶すると案の定、晃一をいたわる声色は留まるところを知らず、当人も閉口してしまいそうになるほど厚い気遣いなので、
「こうやって元気な顔を見てもらいに来たんですから、もう本当に大丈夫です」
そう数回似たようなセリフを繰り返す始末だったが、合いの手に比呂美から、疲れただろうから先に風呂へと促されて磯野親子は再びふたりだけになった。以前は旅館であったここの浴室は情趣あり気に湯けむりが立ちこめており、ふたりの姿を曖昧なものにする意欲を宿しているようだった。
実際に疲労を感じていたのだろうか、お互い無言の裡に入浴をすませ、夕食も会話を弾ませようと躍起になっている三好へ礼を欠かない程度の冷ややかさで交し、疲れた素振りを両人がしめしたことでその夜は早めの就寝となったのだが、孝博は遠藤の件で執拗に三好を煩わした手前さすがに、
「重文さん、いろいろとお世話になりました。遠藤さんの事件でも手数おかけしまして、前にも電話でお話ししましたように少々気にかかることがあって又ご厄介になります。四十九日は今日だったんですよね、何かきりがいいと思いまして、明日なら親族も帰られてると思いますし、あそこの奥さんにもお話を聞きたいもので。それと晃一にはよい機会だと思ったものですから、すっかり立ち直ったところを見ていただければ」
と、もっともらしい言い様で事情を説明した。遠藤の死因究明を急いたことで変な勘ぐりをされてしまったのも、何かよい言い訳はないか案じていたのだったが、三好から問い正してこない以上は弁解することもないから、とりあえずは明日の訪問に意識を集中しよう、そう強く噛みしめ辞して床が敷かれた客間に入った。
ところが早々に寝床にはいったにしては晃一も寝付きがよくないらしい。東京では深夜になっても静かなようで交通音は闇にまとわりついているのか、耳を澄ますまでもなく断続的に低いうなりを寝室まで伝えるれど、このまちでは夜によって土地そのものが沈下されてしまったようで、余計な雑音を濾過したごとく凛とした自若に支配されている。裏山にひそめる獣の眠りさえ想起されそうな気配は、反対に冷厳なる掟に託されて安堵をもよおし、時折の風が通り過ぎてゆくのも気にならない。窓の外の船着き場からも繋留された小舟同士が波間で揺れては軋みそうになることもあるのだろうが、今夜は黒い液体と化した海水の凄みにあたりは鎮まって、ただ寝息を思わせる潮の匂いにささやかな波の音を感じ取るのだった。
すると孝博の悔恨は夢の導入部にいざなわれるのか、ようやく静寂になれ親しんだとばかりに少しづづ殻を破って脱皮する蝉にように、忸怩たる変容を受け入れ始め、眠気がささないにしては気分は曖昧な心地に揺られながら、ある確信みたいなものを意識してしまう。だが直接それを見通す思慮は働かずに、遠回しな言葉となって夜気に吐かれた。
「そういや、おまえ彼女も連れて来ていいかとか言ってたけど」
実際にも孝博はそのことをすっかり忘れていたので思ったより控えめな口調になる。
「あっ、そうか、まだ話してなかったっけ。ごめん、ごめん、明日の昼過ぎの列車で来るからって」
ふとした弾みで悪戯が以外な思惑に流れたときの気持ちを思い出す。
「そうかい、別にかまわないけどここに泊めてもらうつもりなのか」
「そうだね、それなら早めにしげさんに伝えておかないと」
「こっちはどうにかしてもられるだろうが、彼女のほうはどうなのやら。父親のおれも一緒で堅苦しい思いをするんじゃないのかって。まだ会ったこともないしな」
「悪いなあ、父さん、実は色々と彼女にも話して聞かせてあるんだよ。父さんらに会わせるだけなら別に東京でもよかったんだけども、、、」
一瞬はね起きそうになったのは、内心では折角ゆるやかに語りだそうと努めていたところを、いきなりあの確信に近づけてしまう予想外の吐露が晃一によってもたらされたからであった。
聞けば、このまちで起った珍しい事件に関心があった為、それはまるで怪奇小説もどきの感触を授けてくれたからで、自分が電話口でしきりに興奮しているのを心配しながら、謎めいた秘密に惹かれるまま遂にはそのあらましを知ってしまい同行を願って出ると、思いのほか容易く了解してもらえたのでとてもうれしく、それとやはり過去の受難が翳ることに対する錯綜した意識が大きくせりあがってきて、本当は親子で臨むところに現在の彼女を加えればもっと違う何かが開けてくるのではないか、その心境はよくよく顧みれば分かりそうでもあるのだけどあえて実際の行動に出てみたかった。このまちでひとり暮らしをと願ったあの日のように、、、
素直な響きを耳にしながら、晃一の声は暗闇のなかでわずかながら震えているのを感じた。
「いいさ、明日ではなんだから、まだ重文さんも起きているかも知れない。早く頼んでくるんだ」
飛び起きる調子で「うん、ありがとう」と答えて部屋を急ぎ足で出て行った晃一の夜目には判明出来なかった笑顔を想像しかけた途端、孝博には彼女とやらがここに訪れる理由をまだ知り得てないのを思い、どうせならこちらから根掘り葉掘り問いただしてみようとさえ誓った。
「晃一それではおまえの都合だけじゃないか、すると彼女は単なる脇役だぞ。そうじゃないだろ、父さんによく説明してくれないか」
真っ暗なはずの部屋に夜空の星が幽かに灯っている。晃一がはね除けた夜具が盛り上がっているのを横目で眺めれば、布団のひだが更なる暗黒をそこへ作り出しているかに映った。月夜が待遠しいのは云うまでもなかった。


[140] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット22 名前:コレクター 投稿日:2010年11月24日 (水) 03時27分

駅に着くまで眠りこんでいた晃一を落ち着いた気持ちで揺り起こし、改札を抜けたときにはすっかり宵闇が地面から立ちのぼったふうに上空まで充たされていた。
「やっぱり匂うよね、潮の香りがほんの少しだけど」
晃一にとっては苦い経験を回想させる帰省となるはずだったが、妙にさばさばした口ぶりは屈託なさを素直に表しているいようだけれども、あるいは一抹の懸念を糊塗するために陽気な顔つきをこしらえているのかも知れない。孝博にとってもその気がかりは同様であり、それとなく三好に尋ねてみたところ、木下富江は再び名古屋に行ったそうで遭遇することもないだろうとは思っていたのだが、晃一を伴って今回こうしてこのまちへ戻ったからには、消し去れない感情が線香の煙りのようにどうしても細くたなびいてしまう。
静まりかえった駅前だったが数台の車は出迎えに来ている。
「そうかい、父さんには匂いはわからないなあ」
と少し間を置いて返答したとき、左側から聞き覚えのある声が飛びこみ、それが比呂美であるのをいち早く察して大きく手を振った晃一にはそんな印象など忘れてしまってようで、
「わあ、ひさしぶりです、比呂美さん。わざわざ迎えに来てくれたんですね、どうもすみません」
そう言いながら満面に笑みで孝博に先んじ歩み寄るのだった。
「晃一くん本当災難だったけど、また帰ってくれてうれしいわ。元気そうだし」
「前はお世話になりました。視界は狭くなったけど最近ではもう慣れてしまったのか、それほど不自由でもないし、失意も感じてませんから」
明るい口調にほだされたのか比呂美の顔色も夜に華やぎ、やや伏せ目がちだった視線をしっかり相手に合わせて大きな笑みを作りだしている。そしてそのまま表情を損なうことなく照れた様子で孝博にお辞儀した。
「さあ乗って下さい。わたしの運転もだいぶ上達したから安心して」
駅前から直線に延びた通りを走るとやはり秋めいた心地のよい風が流れ、海岸線に差しかかると確かに潮の香りは鼻をつく。列車内ではもの想いに傾かなかった分、あっと云う間に到着してしまう車の速度がやるせなく、ほのかな灯しに揺らいでいるようにも見える船着き場から漂う潮風がいとおしい。この夜景には何か凝縮された思念が溶け込んでいるし、胸の奥で妖しく発酵している意志がひそんでいる。匂いが鼻孔へまぎれこんだ瞬間、封じられていたものらが胎動し始めると云うよりも一気に解放されていく感覚が全身をめぐり、喜びとも哀しみとも怒りとも異なった理知的な興奮が訪れるのだった。
三好の家に向う短い時間であるがゆえに、こうした起伏のある情感がわき出しているのを孝博はよく承知していたし、この先にある堤防で遠藤が死んだことも脳裏をよぎり、夜の海がはらんでいる得体の知れない妖気が鳥肌を立てさせる。真の道行きは先程までの線路ではなく、このわずかな走行に敷かれているのだ。それは目的らしい目的が定まっていないこの帰省を正当化するために緊張度を増幅した計らいとも云える。半ば遊び気分で付いてきた晃一の考えを吟味することなく、都合よく学者根性を盾にし情念に流され、さらわれる素振りをしながら慎重に冷静に深淵をのぞきこもうと企てているではないか。
あれほど渇望した遠藤の死を探ること、それはもう直接の使命感を帯びておらず、彼に供える線香のたなびきに忍びこむ過去を精算することを願う一心に集約されそうである。ならば晃一にすべてを話し聞かせて許しを乞うた上で、蠱惑から目をそむけられない本心を吐きだすべきなのだが、それはそのまま父子交えて色情を語る不埒な、もしくは滑稽な場面を生み出してしまうから秘められるものはそっとしておくべきなのだ。黙される事柄をあらわにするのは決して最良の策と限らない。親としての矜持が崩れゆくのを怖れているからではなく、息子を叩きのめすよりはるかに過酷な傷を背負わしてしまうのが危ぶまれたからで、知らぬが仏を決め込んでいるほうがどれほど平穏を保たれることだろうか。真相を知れば必ず亀裂が生じ、親子の絆は寸断されてしまう。失恋の勲章だとうそぶいている晃一のこころは単純ではないはず、失明の自覚をやわらげるためにも強がりを演じている可能性は低くない、もしかしてこれも否定出来ない可能性だが、富江からことの次第をすでに吹き込まれていたのだとしたら、、、すべてを受け入れるか、すべてを捨てさるか、幸いおもて立って窺えるのは前者のほうであるから均衡は維持されているのだが、もしそうであるなら何と健気なのだろうか、、、親子である以前に人間として晃一の意地らしい気持ちをしっかりくみとってあげなくてはならない。
孝博は最悪の情況まで気をやっている自分を嫌悪しながらも、深淵に近づいている今を意識してしてやまなかった。すると晃一への謝罪は別室の扉に閉ざされる調子で風化され、代わりの扉が開かれてそこが禁断の間であることが知らしめられる。白い冷気が底を這うようにして近づくものらの足跡を覆い隠してしまう。消されたのはふたりの親子だった。共犯者である暗黙の了解は常軌からの逸脱を弁明している。
徳性の働きはそこまででよろしい、扉の下に漂う冷気は血糊をつけた鋭い刃物のごとく理知的であった。


[139] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット21 名前:コレクター 投稿日:2010年11月16日 (火) 07時06分

陽光はいっこうに衰えを見せなかった。十月も半ばに差し掛かったが蝉時雨はまぼろしの音色で真夏を留め置こうとしているのか、季節の実感は剥奪され異形な晩夏に席を譲り渡した。
倦み疲れたからだを左右にずらすよう、いら立ちを噛みしめながらもときのうつろいにあがらう事なくその熱気を受け入れる。
「秋の気配はもう来ているのにね、だって風は渇いているわ」
孝博の妻は何度かそう言っていた。確かにこの大きく広がった車窓の眺めから、空は澄んで雲は柔らかに細かく乱れ、弱く冷房がかかっている車両内でも体感出来るほど景色は自然であった。
隣でうたた寝している晃一を時折見つめつつ、ふっとため息をもらし視線はうしろに走り去る光景を所在な気に追いかける。ようやく今年の夏が今日明日にも終わってしまうことを天気予報は伝えていたし、昨日そちらに向うと連絡した際に三好が「まだつくつくぼうしが裏山で鳴いているから」と言ってかすれた声を出したときも、延長戦ぎりぎりまで競技を目の当たりにするような錯覚でとらわれ、再びこうして特急に揺られている現実はどこか遊離したふうで、秋風が頬を撫でてゆくのが待ち遠しいのやらどうかよくわからない。
そうするうちにも日暮れを忘れてしまったかの時刻の鮮明な証しは調整され、気がつけば山々を押さえつけるよう晴れわたっていた青空はくすみ始めていて、白雲も寄り添い大きく光を包み放さず淡い鬱金色に変貌しつつある。陽が陰り出すのはあたりまえだと天空から清明な響きが降りたのを孝博は快く了解した。それと共に様々な思惑が胸のなかを去来していたのだが、そのひとつひとつに思いをゆだねるのも今は軽やかにあきらめ、外の景色がくすぶりながら遠のいて行くのを静かに見送った。ちょうど各駅を尻目に走り抜けるこの列車のように。
山嶺が連なる光景はまだまだ窓越しに指先でなぞれる程くっきりとして、気ままなおうとつを失っていなかったので孝博は凝視したままの姿勢を保った。心は空洞であった。しかし一瞬一瞬は何かを埋め尽くすよう見つめた向こうから押し寄せては消えて、水墨画の濃淡に似た曖昧さで風景をのみ込んでゆく。
山間に点在する村落が夕陽にさらされる頃、孝博のからだにも暖色で描かれた感情がめぐって来るのだったけれど、それは意想を孕まない無関心な状態で通され切実な色合いを拒んでいた。彼はいつかの情景、トンネルにくぐったとき車内の明かりで反射した自身の顔を忘れはしない、だが、どんな表情であったのか思い出すことは必要ないと思われたから、そろそろせわし気に車窓が遮断される山中に迫っても、ゆっくりとまばたきをするのだった。
早く抜け行くトンネルを出た途端、今度は夜が訪れたのではと疑ってしまうくらい長い漆黒が視線を閉ざす。そして開けゆく谷間やどこまでも凡庸に広がっている野山がぱっと現われても、微動だにせずそのまま無表情でいられるのが微かに心地よかった。遥か彼方に感じる峰々があきらかにかすみ出して、空の青みが鉛色に侵蝕された時刻、太陽はすがたを雲間に隠したままもう今日は再び光線を放つ勢いをひそませ、大地に黒檀を敷き始める。じっと無心で見遣る孝博だったが、さすがにその頃合いにもなればまばたきの様相で落ち着きにはらっていた面持ちに、甘い郷愁が優しく忍びよって、小学生の時分映画館から出た瞬間に辺りがすで宵闇に包まれている名状し難い驚きを知ったことが想い出され、日中から暗闇で映像に魅入ってしまった後の叱責のような、けれども夢の送りものかも知れないなどと映画が外まで着いて出たのでは、そんな虚言が許される心持ちに酔った。時間の推移をこうして身に知らしめるのは奇跡のまばたきであったから。
あの日に連れ立っていたのが親であったのか友達であったのかは明確でない、振り返れるのは帰途にたなびく金木犀の香りのような甘さだけである。
芳香に惑わされたわけではないけれど、すでに窓の向こう側も一気に照明がしぼられてしまい、稜線はぼんやりと意思をなくしたみたいに大人しく、枯れることを気づかぬ木々の緑も夜気に被われ、夕映えの名残を惜しむ間もなしに暮れてゆく。すると又しても鋭い軋みが風圧に消されるようにして列車は闇に飛び込み車窓を暗く塗りこめ、夜の帳を乗客全員に告知する。吐き出された刹那には山村へ灯る親しみが不意に現われ、見る者の胸に巣食う驕りを品よく袱紗でくるんでしまって、ほんの束の間だが殊勝な気分にひたることが出来る。
寝息を立てている晃一に首を向けてみれば、黒皮であつらえた眼帯こそ痛々しいが、失った視力は永遠に閉ざされ闇夜に眠っている。夢のなかでは晃一の右目からとげとげしい小枝を抜きとった、、、どうやら無心から夢想に移行したようだ、、、甘い郷愁は到着駅へたどり着くまでの安定剤みたいなものなのか、、、

山稜はすでに夜空へとけ込み田畑もおぼろげな土の気配を残しどこまでも沈黙を守り続けていた。


[138] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット20 名前:コレクター 投稿日:2010年11月08日 (月) 17時30分

切手帳から取り出すのも慎重さで寄せられているのが、それほど重要でもないように感じてしまうのは特に高価な一枚であるべくもなく、ただ同じ紙質でかたち作られ印刷されただけの類比では例えようない、哀れさみたいな親しみが「髪」の価値を本来の場所に戻すよう静かに願っているからなのだろうか。
他の切手らにも似たような気持ちで接したこともあったのを思い返せば、どうやら過剰な記憶は後々に生まれたと察せられる。
晃一が子供の時分よりこの一枚に興味を抱いていた事実も、いつの間にやらシートで保有していた過去も、今の孝博の胸には反響することなく極々自然な成り行きだからと優し気にまなじりを弛められた。
大阪万博にほとんどの領分が持って行かれたのは当時の世代ならほぼ共通した傾向であった。それはまず普段では叶わない空間移動でもあり、すでに出回っていたガイドブックから立ちのぼってくるような魅惑の世界は、かつてない国際的な規模がもたらす夢想のときめきとなって嫌が上にも興奮せずぬにはいられない。テレビや映画でしか触れることのなかった大きな祝祭が、まるで子供たちの為に開催されると錯覚してしまうくらい期待はせり出し、手をのばし、足を運べばその場に到達する可能性は日々の玄関口の開閉から、いつでも飛び出せて行けるような現実味を有していた。
孝博も家族揃ってちょうど大阪の方に親戚がいた幸運もあって、夏休みに万博行きが実現されたのだったけれど、懸命にあのときの光景を呼び返そうと努めてみてもどうしたわけか、鮮明さを欠いた曖昧な想い出だけが執拗に脳裏へ浮かんでは消えてしまう。道中は無論、入場口までせまった際の胸の高鳴り、夏の日差しには慣れてたとは云え、会場全体の雰囲気を取り戻すことなど、いや、始めから全体などに気配りしておらず、一心に求めたのはガイドブックから得た有名パビリオンの数々だけであったのだが、結局は人気あるところは誰もが殺到していて、先端科学とはおおよそ無縁でしかない発展途上国の展示物、木彫りの像やら原始的な仮面やらを意気消沈しながら見流していた念いが今でも澱のように沈殿している。
「アメリカ館は四時間待ちだとさ」「なんだ月の石は見えないのか」「三菱未来館も大行列」などと云った憤懣の声が周囲から聞えてくる度に孝博は、心中半泣きになりながらどこかであきらめが毅然として充当されているのを知った。
その心持ちは欲しい玩具を買ってもらえなくて駄々をこねる感情とは違い、未知なるもの、これまで胸のなかに棲みついたことがない、たおやかな形をした落胆であった。
あたりが夕闇に包みこまれるのがいつもとまるで異なる気配であったのは、見回すまでもなく目線の先にそびえる「太陽の塔」に夕陽が反射しているのか、あるいは会場自体の電飾が灯しだされたのを夕暮れは強調を持って演出に与してくれたのか、肌色が燃えあがったような夕映えのきらめきは、瞳にまぶしいと云うより、こころに明るいと云うより、自分のどこに光を受けているのかよく掴めとれないまま、暗澹とした夕暮れ時を受け入れる開放感に慰撫されていたのだ。孝博はそれからの日没風景に溶け込んでしまいそうになった感覚をよく憶えている。行き交う白人や黒人たちにその都度振り向いてしまっていた、微小な怯懦は宵闇の暗幕により一層保護され、物珍しさへと背伸びしてみる矜持に脱皮してゆく。金髪の青い目をした若い女性と視線があったとき、思わず笑みを浮かべてみると相手もそれ以上の笑みを投げかけてくれているような気がする。各パビリオンから発光された夜祭りに他ならないこの黄昏のひとときに孝博は陶酔し、今まで味わったことのない忘我に見舞われた。
残念ながらそれ以上の情況も心境もすでに輪郭は為さないうち、どんどんと遠ざかってしまうだけなので、茫洋とした意識にあらがわずそのまま、じっと日没際の暗幕に身を沈めるのだった。

後年、仕事関係の出張やまったくの観光に出る機会も憶えきれないくらいあったが、あの万博会場で体験した異次元への旅を忘れることはない、、、さあ、今度の道行きは果たしてどんな異化作用をもたらしてくれるのだろうか。準備などいらない、心構えも必要ない、一度は鮮烈な修羅に歩みよったではないか、出来れば手ぶらで臨みたいけど晃一を伴って行くのも悪くはないはずだ。何しろあいつ自身が乗り気なのだから、、、この帰省に意味などはない、遠藤の妹に出会えれば首筋を噛むとはいい公約かも知れない。
「遠藤さん、あなたはわたしにも探偵となるよう反語で提案された。秘密めいた妹とのいきさつをちらつかせて、、、ところで真犯人など本当に存在するんですか。わかってますよ、わたしのこころにこそ潜んでいると言いたいのでしょう。まあ、それはそれとしまして、あなたの死因にはとまどっていますけど、謎めいているまでとは申しあげにくいわけです。事故は事故、偶然は偶然、それ以外ふるいにかけられこの手に落ちてくるのは、そう、やっぱりわたしの妄念、一時はあなたは絶対に遺書を通してこのわたしに託されたと信じていました。仮に他殺だとしてもそれらしき危機感をあなたは感じていたでしょうし、話せる範囲ではほとんど言い尽くしたとも思えます。まったく根拠などなかった、わたしがすべての原因であるのでしょうから、、、」


[137] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット19 名前:コレクター 投稿日:2010年10月26日 (火) 05時52分

古径「髪」の魅せるものが幼き孝博を禁断の道筋へと案内しかけたのだとは云いがたい。
遠藤久道が語った妹と同じほどの年齢、まだ性が芽生えうるもなく、この絵があらわにしている乳房のなめらさに類推されるのは、湯船のなかで間近にされる母のそれであり、少なくとも猥褻さや官能を刺激する分子は肉眼では見定めることは出来ない。が、孝博はこの切手を父と書店に行った折に買ってもらった光景をよく思い返せる、否、厳密には父とのやりとりと述べたほうが明瞭である。
「なんでこんなのがいいんだ、他のにしなさい」
しかめつらだったのか、照れくさそうにしていたのか、その面持ちは思い出せない。
「いや、これ前から欲しかったんだ。趣味週間もだいぶ揃えたし、後のはけっこう高いしさ」
父は孝博がいつも切手カタログをながめているせいか、そのあたりは合点がいったようで、それに書店の主人が構えるすぐ側に販売用の切手がカレンダー式で垂れ下がっているのをめくりながら品定めしている具合もあり、横やりから悪気もないのだろうけど、あとは「月に雁」だけかい、とここで売られている最高値の代物を苦笑いしながら口にされたところで、もすんなり「髪」は孝博の手に落ちたのだった。
今となっては十歳そこそこの子供が半裸の女性が描かれた絵柄を欲するのは、我ながら理解し難い。特に発売年に拘泥したわけでもなく、かと云って他の趣味週間にはない着物を脱ぎ去った裸身に惹かれたわけでもない、収集歴を鑑みればこれ以外の品も現に集めきれてないし、裸うんぬんに関してはすでに一考を与えてみたつもりである。それでは何故あのシリーズから「髪」を選びとったのか、そう自問を立てた瞬間に孝博の背筋を二本の刺激がまるで電流のごとく伝わって行き、容易には手の届かない箇所まで走り抜けていくのが分かった。一筋の電線は比較的抜けた先が予測出来そうだった。
「別にあのときこだわりが毅然として居座っていたわけじゃない。以前からの約束で書店に連れ立っただのであり、しかもいつもは小遣いをためたりして買っていたから、源氏より前のものは雨中湯帰りのみ、あれは苦労の末に親戚から譲ってもらったのであって、今回は百円以内の品と云うことで選り抜いただけ、あの前後は一応揃っていたし、、、追想と印象が溶け合っているよう考えてしまうのがいけない、息子があの切手に執着をみせたことが自分の胸で何ものかを培養してしまっているのだ。晃一だけの好奇心にすべてを委ねてしまうのではなく、養分を吸い取らせた自分にも隠匿されるべきものが存在するはずだから、、、」
おおよそ孝博には電流の発生源を推測してみる気概はあったけれども、今は少しばかり落ち着いてこの「髪」の構図と配色をしみじみ味わってみる余裕が肝心な所与に思われた。

乳白色の背景は単一ながらほぼ全体を占めるふたりの女人にある力強さを加味している。左側で両膝をつき長き黒髪を梳く所作、目にも蒼く映える振り袖の色は藍にも染まり、太い白縞が勢いよく下方に落ちだした様は滝の如く濃厚な色調を醸しながら互いに妙齢の生を慈しんでいるのだろうか、構図上着物姿の女人は右端が若干途切れながらもそれすらがこれから梳くべき生を恥忍んでいる心持ちを素直に切りとっている。胸元高く締められた朱の帯へ配せられた文様は幽か、右手に忍ばせるようにしながらも人差し指がしっかりつかみかかった櫛もまた判別し難くこれ同様黒髪の流れにかき消されてしまっているけれど、一点にそそがれる慈愛と慎重がそのまなこに宿っている限りほんのわずかだけ笑みを含んだ紅の色合いは帯のうちに秘められた無垢なる想いに連なっているはず。まるで裸身が添え物のごとく嫌みも汚れも美しさも主張しないのはくだんの着物とは対照的な淡萌黄の腰巻きのせいでなく、この絵の主がやはり黒髪に他ならない証だからこそ、半身あらわな居ずまいはその乳房と紅、眉目をのぞき透き通ってしまいかねない美白が均一に被い冷ややかさを暖色に萌えさせよう努めているのだろう。しかしながら梳かれる身からすれば恥じらう加減で裸身を火照らせてしまうのが不謹慎なようで、ただじっと真正面を静かに見つめるだけ。その胸のうちをすべて知っている長い長い髪は自らの意志で宙に舞い上がる如くに柔らかである。右の手を膝上へ、左の手を太ももつけねへ、交互に押さえつけるようにした念いは舞い上がる心持ちも作用させようとした歓びの防御なのだろうかなどと見遣る視線もつゆしらず、光明のもとであるのか灯火を待つ日暮れ時であるのか、おそらくはずっとこのまま未来永劫梳き続けられる生に時間も限りもない、女人ふたりはいつまでも菩薩であろうと信じられる。


[136] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット18 名前:コレクター 投稿日:2010年10月26日 (火) 05時51分

孝博も熱心と収集したには違いないのだったけれど、まだ小学に通い始めの頃、折からの切手ブームの余波がいつの間にやら到来していたのか、思い返してみてもよく定めきれない期間に訪れた没頭であったから、それも心底欲して小さな絵柄のとりこになったようでもなく、表記価格を上回る値打ちに小躍りしながら玩具を扱う手つきと異なる慎重さを宿していたと云う、生まれて初めて知る義務感に即していたあたりも曖昧ながら、薄味のカルピスをすするような感覚でよみがえる。
同級生の兄や近所に間借りしていた学校の先生のところで開かれた、あの切手帖にびっしり並べられた色彩が勝手にどよめいているような興奮は今でも、実物の彩色から隔てられた想起の裡に鮮やかに過ってゆくし、おそらくは幾度かは目にしたこともあった年賀切手の干支を配した動物らが醸す可愛らしさと、赤や黄や青に空色、蜜柑色など原色が際立つ色合いに親しみを覚えた童心はもっともだと思いなす。
同年代の収集を次から次へと見てまわった記憶の先にあるのは、一世代は離れた者らより宝箱をひろげられるように目の当たりにした、本格的な収集の圧倒であり、聞き及んだのか向こうから自慢気に説明されたのか定かでないまま、一枚きりとしか知らなかったのがシートと云う形で綴りられていること、その量的な印象は小銭しか手した試しもなく、紙幣などかいま見る機会がなかったあの頃にはとてつもない質感を同時に伴っていたこと、何よりも気持ちを高揚させたのは「どこの家にだって古い葉書や封筒は捨てられないで残っているはずだから探してみれば」と云う、まるで財宝が分与される可能性がこの身に降り掛かって来るよろこびであった。
大人さえもピンセットを操りながら切手帖のなかを整理したり、如何にも高価そうな子供の目線から窺ってもまだ骨董などと云う言葉も意にないはずであるけど、明るく健気な、そうあくまで玩具の延長にあるような図柄とは一線を画した、単色刷りされている淡い色どりや価格の表示が三桁で示されて、右端から先に下線が引かれているのが直感的に古風な代物だと知らしめられ、ましてや蝋紙で大切に包まれているものに至っては畏敬の念さえわき上がっていたように思える。
そうした切手の類いがいかに身近でないかは、自分の背丈を大人と比べる無意味さがあるごとく分かりきっているのだった。
当時はいわゆる静かなブームのさなかであったから、不相応な執着にとらわれる悲劇の成り立ち様はそれなりの逃避行が駆使され、過分な収集に陥るべくもなく比較的廉価で入手可能な過ぎ去った年代のそれぞれ好みな切手をこつこつ集めたり、表記額で購入されるまだ見ぬ新発行の期日を心待ちにした。他にも知人同士での交換や、先程の意見通り孝博の家からも、これは主に祖母からの提供であったが、仏壇下に取り付けられたこじんまりした引き戸の暗きなかより、探し当てられ微かな黴臭さで取り出された戦争時代の葉書類に身震いし、小さな充足は光のない国に舞い降りている埃となって未知なる時間を刻み始めた。ものごころついた時分より我が家のちょうど真ん中あたりへ掲げられた柱時計の秒針に合わせつつ、、、
それからの想い出と云えば、消印のある海外切手の詰め合わせなどを土産でもらったり、思いがけない引き出しから未使用の年賀シートが出てきたと両親からも協力を得たりし、書店の片隅で過去の記念切手が単品で売られたりしていて、また早朝から郵便局に新発行のシートを始めて買いに並んだ記憶も残っているのは、もちろん現物が今でも保存されているからで、随分とそれらに目をやることもなかったけれど、晃一が幼い頃、どこかの切手マニアの家で触発されたらしく、久しぶりに切手帳を書架より取り出したとき、案外自分の集めた枚数がしれていることを確認するのだった。
確か仲間内で同じ部類に偏らないよう、例えば風景もの国立公園、国定公園シリーズだったり、花や魚の動物類、オリンピック、国体などのスポーツ系などに分類された範囲で各自が精を出したのがめぐって来る。孝博のコレクションもそうした統一性が見られてよいはずだったのだが、よくよく眺めると整然とならんでいたのは当時の大人たちがひろげて見せた光景であり、ここに残された一冊にはとても意志を持ち揃えた形跡は窺えず、案の定知人らと気の向くままで交換を重ねた形跡が歴然と示されているのだった。
晃一にねだられるまま、あれから十年以上前のことにしても、記憶はひとつの居場所に留まってくれないものだろうか、、、自分が欲してやまない高嶺の花だった「見返り美人」は三十歳くらいの頃にふと足を踏み入れた古書店で購入したのをよく憶えているし、と云うのも自分の執着は国宝シリーズと切手趣味週間にあったから、通称「ビードロ」と呼ばれた喜多川歌麿のあの有名な絵や、写楽、春信から本格的に始まるこのシリーズは網羅していたつもりなのが、何枚かは欠落している、浮世絵から中世絵巻、源氏物語と時空を妖しく駆けては、昭和40年の上村松園「序の舞」より絢爛と連なる、藤島武二「蝶」、黒田清輝「湖畔」、土田麦僊「舞妓林泉」そして45年の小林古径「髪」らの現代日本画が手のひらに十分収まった得も云われぬ魅力が放たれていた輝きは翌々年で途絶えてしまっている。
理由は多分に趣味の衰退と大阪万博の開催に夢中になってしまったことに違いあるまい。数枚の万博切手が場所をとっているところからもそれは頷けるのだった。




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