COLLECTOR BBS
[191] 題名:ねずみのチューザー13 名前:コレクター 投稿日:2011年05月17日 (火) 07時29分
朝から陽射しは少しも翳ることなく午後の天空を一段と冴えわたらしていたけれど、胃袋へしみこんだ朝餉の満足に窓の向こうも強いて見晴らしを望んでないのかとさえ感じられた。それは目にも鮮やかな紅葉に彩られた山々が唱えているような清澄な得心とも思えたんだ。本来ならどこまでも連なりゆく山肌に優美な錦絵が展開しているのを見入ってしまいそうになるだろうが、今はどうやら内心がうたた寝しているみたいだったから、瞳の中まで彩色されてなかった。うつらうつらとしていただけかもね。
山は深かったし、タイヤから伝わる振動も何度も曲がりくねったりするうちには単調な時間へとすべりこんでいくので、太陽の高さをそれとなく眺めてみる以外はどれくらい経過しているのか覚束ない。
チューザーが運転席からこちらを振り向いて、例の鼻先をヒクヒクさせるまで僕はただの乗客に過ぎなかった。それというのも、今まで曖昧なままで過ごしていた気分が一新される情況がそれとなく感じられ、これまた妙な言い方だけれども、夢のあいだに新たな夢がはさみこまれて、それが針先に触れるような鋭敏さをもった現実感に圧倒されてしまったのさ。
そうチューザーはついに語りだしたんだ。彼の歴史を、それから卍党にまつわる現在を。僕の運命もおそらくはさみこまれた夢同様に、曖昧さから反対に逃れられない物語となって進展していくのだと確信したんだ。それまでは桃源郷であることの桎梏を倒錯したままどこかで期待してたに違いないから、ねずみのひげがまるで急な針となって突き刺さってくる予感に身をこわばらし、最初のバスの横転や、みかん畑から不意に現われたあの驚きとは別種の緊張が走りだしたわけなんだよ。
僕は前にねずみの秘密も目的地も興味がないと書いたとはずだが、それはとりもなおさず次なる停車場だけに意識を傾かせた刹那的な考え以上のなにものでもない、孤独と不安と恐怖に苛まれるよりかはファンタジーに遊んだほうがどれほど心地よいものか。しかし、閉ざされた遊園地にはいずれ見捨てられるんだ。いいや、僕がそうした情況に飽きてしまうこととは似ているようで似ていない。空間に重力が存在する事実に等しく、精神とか意識なんてものは風が吹けばさっさと飛んでしまうんだよ。だからファンタジーには強度が要求されるわけ、そうだよ、その辺は抜かりがなかった。「闇姫」との対面を先手打って持ちかけておいたからね。その反応もまんざらじゃない。と、まあこれは僕の本能が導いた手管なのか、単なる思いつきかは実のところよくわからない、、、
さあ前置きはこれくらいにして、ねずみの歴史とやらを君に聞いてもらおう。あっ、大丈夫だよ、それほど込み入ったものじゃなく、大河ドラマの総集編のその予告編ほどだから。チューザーのひげに針先を感じたのは僕の神経が勝手に作用したのだし、倒錯の中に新たな逆転を見いだしたのも思弁にすぎない。君は君の感性であるべきで、なにも僕が正しいわけではないよ。
彼は言った。
「ねずみと耳にされていかなる連想されますやら、薄汚い小動物にて夜行性暗所を好み、ねずみ食いなどにあらわなこそ泥みたいな性質なぞ、油虫と並んで毛嫌いされ駆除の標的である醜い存在なぞ、ほかにも諸々と汚れを背負った印象はぬぐいきれないところ、もってあまる不遇なる種類でありましょうが、それがし、すがたかたちこそ斯様な生まれは否めませぬけれども、こうして人様の言葉を察する身である故、ごく常識から申しましても妖怪変化のたぐいと異形の刻印がせきのやま、突然変異と見なされていただくことさえ畏れ多いのも承知のうえで、われら種族の系譜をひもとかせていただきます。人様に肌の相違はござりましても、あるいは世界の国々の言語が異なり文化習俗の差異はござりましても、動物や昆虫魚類などと云った下等生物と明晰な意思疎通を可能なさしめている人種は現代には存じ上げません。太古にはそうした交流はことさら珍しいものではありませんでした。ここで有史以前の生物の有様を述べるつもりは毛頭なきにして、せつに申し上げたいのは、今日あまたに存在を認知されます種とわれら中左一族は類人猿と人様にも共通する隔たりがあるのでございます。驚かれるのも無理はありません、進化論にも生物学にもねずみが抽象的な思考能力を持ち得るまで飛躍したなどとは論じられておらず、現在においても研究の対象になろうはずもなく、その事実を知るのはごく限られた方々のみでありまして、かつて幾時代にかは妖術魔術の方面から重宝されおもしろおかしく目された痕跡はあれ、手品まやかしと真摯に歩みよることなきが幸いしまして決して人口に膾炙することはなかったのでございます。いつの時代と云うのも中々秘匿された実情があります故に詳しくは述べがたく、またそれがしにも代々の血筋がどうした暗躍をおこなったのかは明確には聞かされていないのです。お気づきでありましょうが、紀州藩武芸指南役と申しましてもあくまでその相手は人様でなくわれら同輩、表立って剣術などの修練など夜も更けいった時刻に制限、お見知りおきなのは藩中ではただおひとりでござりました。そのお方の身分は申し上げれませぬが、われらが忍びとして日々鍛錬をかさねていた内情はお含みいただきたく存じます。それがしの父も祖父も一切の書き付けは残しておりません、先代どころか遠い昔にさかのぼりましてもそうした記し自体が御法度でありまして、すべては口伝にて先祖より賜ったもの、それほど極秘な宿命を連綿と背負い続けたのでございますれば、あまたに見かける種とは隔絶の一族、いえ、それでは傲慢と受けとめられるや。暗中跳梁と云う意味あいでは所詮同じ穴の類、ひとえにわれらから優劣をくだすことは憚られましょう。どうぞ、それがしのすがたかたちを通し、世に棲息する人語知らず種を憐れむことなく認識されとう願います」
[190] 題名:ねずみのチューザー12 名前:コレクター 投稿日:2011年05月10日 (火) 05時07分
真っ青に澄んだ秋空の爽快が惜しげもなく水面を讃えている。波立つことを覚えない鏡面のようなすがたも又、蒼空をいつまでもとらえておきたい欲望を忘れかけている。
アルミっぽい金属製のマグカップは湯飲みとして風情に欠けるのかも知れないけれど、冷凍だと聞かされてはいたそのにぎりめしを、かじりだして中身の梅干しが顔をだすまで、しんと湯気を立てていて、のどへ流したのはふたつめを食べおえたあたりだったが、思いのほか煎れたてのほうじ茶の香りを存分にあたえてくれた。同様にかなり大きめのにぎりめし三個の味わいも、まるで炊きたてをさまし結ばれたしっとりとした食感があり、米粒を離ればなれにしない為より集まった意思みたいなものが、口のなかで物悲し気に、そしてすぐさま陽気に、ひろがっていったよ。
目線は池の真ん中あたりにちょうど浮き釣りの案配でただようのでもなく、流れるのでもなく、揺らいでいて、かみしめるほどに空腹が意識される楽しい焦燥は、指先にひっついた米粒を惜しむふうな心情へとまじりあい、実際にも数粒が純白を際立たせていたので、いつになく水辺に腰をすえている自分がかげろうになってしまって、取り囲まれてあることの自然さが小雨にけむる大様であるまま、すっと顕われている気持ちになったんだ。さっきも話したけど、そんな一体感というか、無心な状態には、いつも見限られていたから、出来るだけその心持ちすら留め置かないように、かといってなくしてしまうのでもなく、霧がはれるのを反対に延長させたい仄かな願いを水面へ沈めた。そうして、しみじみとねずみのにぎりめしを観察したのさ。
三個とも海苔には巻かれていないのは、竹の皮を開いたとき一気に見てとれてしまったが、それだけに具の有無が気にかかるじゃないか。適当な具って言ってたけれど、ひとつめが肉厚でやわらかな梅干しであったのは思い切りストライクだったし、ふたつめもいい塩梅に甘みをおさえた昆布のつくだにだったから、期待感より満足感が勝ってしまって、残りがあとひとつとなった竹皮を見つめる目には、ここ全体の光景を含みこみ尚更まばゆいものになってきた。
ほうじ茶の湯気は晩秋の渇きに誘われ青空高くのぼったのだろうか、舌先にも口中にも熱気を残さない温度は、季節そのものでもある自解と共にあって、白雲さえ描かない潔癖さに浮かれるこころへ語りかけてくるもの、それはこの白米で結ばれた質朴な朝餉のかたちにあるのだった。ささいな葉ずれも呼ばない、ときが止まったような空気は光をどこまで保ち続けるのか、指先についた米をなめて、茶をすすり、今度は大仰にまわりを見まわしてみる。変化ない水上の沈黙、目くばせも無用に思われるもげもげ太の表情、同じく切り株に乗っかってサイズこそ違いはあるけど、三個のにぎりめし食べているチューザー、彼らは僕に合わせるかのように、残りのひとつに手をだした。僕はほうじ茶がのどもとにいい調子で流れていったのを微笑みで返しながら、具を案じながら、がぶりと頬張りついたよ。ああ、鰹節だった、おかかだね、シンプルに花かつおを醤油でまぶしただけのものだったが、中心だけに固められているんじゃなくて、表面の白さを保っているが意外と思えるほど、中身はまんべんなく、しかもうま味が白米に染み渡るような勢いは得も言われない。なんくちで食べてしまったのか、微風を待っていたのか、この瞬間に訪れる満腹を知らしめる祭り囃子を遠くに覚えることがまぼろしであるように、風はそよがず、竹皮の香りだけがほんのりとかすめていった。
相当ぼんやりしていて、意識は水にひたされる紙みたいに猶予をあたえられなかったようだ。いや、決して悪い意味なんかじゃない、むしろ、光線と影が織りなす襞のうちに溶け込んでしまい、鮮やかな編み目にしばらく包まれたんだろう。
「これでよかってですか。ほかにもありましたが」と、もげもげ太がバヤリースオレンジの缶を差し出してくれるまでは、どうやらほとんどの感覚はコードを抜かれた機械と同じで、なすべき機能をおこなえなかった。
「ファンタオレンジ、HI-Cオレンジ、プラッシーにスコールとかありました」
もげもげ太は僕がうっとりとしている間にバスから飲み物を持ってきてくれたんだ。えらく懐かしい名前が並んでいるので、もう一度遠い目をしながら景色を追ってみた。
ジュースはよく冷えていたよ。真夏の汗ばむ季節に最適なくらい。これは後からわかったんだけど、バスのなかには案外大きな冷蔵庫や冷凍庫が備えられていて食材なども豊富らしく、長期走行に対応できているようだった。ああ、自動運転の秘密なんかもあきらかになったんだろうが、それほど感心はなかったから僕から強いて訊くこともあるまい。時計を確認する場面もなく、朝餉を終えたのが正確に何時だったのかは知らないうちに再びバスへ乗りこむと、いよいよ、チューザーともげもげ太から核心に迫る話題を提供された。そう僕が今ここにいる成りゆきについてね。それは思いもよらないところから来てきたんだ。
[189] 題名:ねずみのチューザー11 名前:コレクター 投稿日:2011年05月10日 (火) 04時59分
バスが停車するときまで、走行にまぎれこんでいった想念が窓のそとを煙らせてしまったのだろう、かわり映えしない山並みとはいえ、目に飛び込んでくるはずの景色のうつろいに注意が傾かなかったのが意外な効果をもたらした。
突然開けた光景をまのあたりにした当惑は、さましまな驚きに差し替えられ、胸のなかでざわめく魚影となって、実際に広がっている大きな池に向かい合ったんだ。
「ずいぶん静かなところだけどこんな池があるなんて」
左右の視界に収まりきれそうでもあり、そう願う心持ちがちょうど一枚の風景画のように閉じた美しさを演出しているふうでもあった。
「妙心池といいまして、何でも大蛇が眠っているそうでございます」と、チューザーが説明する。
「よくありそうな伝説だね。それにしてもこの静寂は神々しいくらいだ」
そうなんだよ、朝から快晴だったんけど、この静かな池を見つめているのが、なにやら逆に落ち着きをなくそうと努める加減があって、わざとらしくも空を見上げれば雲ひとつない秋晴れだし、肌に感じる微風さえ生じていなかったのも、柔らかな陽射しの感触が静かに代弁してくれていた。
それで水面はさざ波のかけらもあらわにせず、まるで巨大な鏡が敷かれているのではと表現したいくらい、形よい楕円をした池が醸し出している幽玄さに面食らったわけ。変な言い方に聞こえるかも知れないけど、じっと眺めているのが惜しいみたいな気もしながら、視線を送れば送るほどに逃げていくというよりかは、どうあっても全体的にうまく受け取れないもどかしい感じがして、多分それはこの池だけのせいでなく、僕自身の感性にひずみが起きているからだと思ったりした。こんな感覚は以前にも経験したことがあったように想いだされ、それは岬から見下ろした音なき波頭を抱く海原であったり、普段とは明らかに色合いを強調する夕陽の広がりであったり、無心に流れゆく川面の細やかな飛沫であったり、とにかく立ちすくんで正視しているのが居たたまれず、大自然に心身が被われているといった境地にはまったく及ばないんだ。そうだなあ、僕とそうした絶景のあいだに薄皮で作られたカーテンが垂れ下がっていて、常に遮蔽されている感触、向こうには美し過ぎる世界が待ち受けているのだが、その光景と一緒になることが難しい、僕のほうから拒絶しているのでもないのに、どうしても不安気に目をそむけてしまう。まあ、目をそらしたってその場から立ち去らない限り視覚以外の手応えもやってくるわけだから、結局は奇妙な自意識が電化機器の微細な音のようにいつまでもへばりついているのだろう。そういや散歩している途中には案外すれちがってゆく空気と一体になれる。あれは何故なのか、急にある音がよみがえったよ。山腹に民家が点在する道を下りかけると、いきなり潮騒が聞こえる箇所があったんだ。道は山肌に沿い結構くねっていてガードレールに引っかかる具合で木々や草がのびてきているので、まさかその真下が磯だとは思ってもみないから一瞬とても不思議な感じがして、立ち止まってよくよくのぞきこんで見ると、確かに海水が岩に被さっている様子がかろうじてうかがえる。それから幾度かそこを通るごとに波に洗われる心地がしたものさ。
そんな記憶がかろうじてめくれていたから、ヨーロッパの深い森にひっそり眠れるようなこの池の静謐な透明感にも、魅入ってしまいそうになる自分を意識するたびに邪念が介入して、折角の絶景を慈しむことが出来なかった。もちろんまわりには僕らのほか息つかいの気配もないし、呆然としたまま澄みきった蒼穹を映しとっている水面に見とれてしまおうとする考えも虚しく、せめて大きく深呼吸でもして新鮮な冷気を肺に送りこんだのさ。
こう書かれていれば、そんなに美しいところも所詮は台無しだったかと思われそうだが、実はそうではない。よい具合で腰掛け代わりの切り株がほとりに備わっていたので、そこで朝餉をいただくことにした。もげもげ太はこの池の妖しい美しさに感極まっているようだったけど、特に感想を述べたりはしなかった。僕と2メートルくらい離れた切り株にゆったりと腰をおろしたところで、チューザーが小型のリヤカーみたいな荷車を引きながら、ねずみのにぎりめしとやらを配ってくれた。見れば的中、竹の皮に包まれているじゃないか。小躍りしたい気持ちでチューザーと目を合わすと、そのつぶらな黒目は池のほとりにふさわしいひかりを含んでおり、顔からはみ出したひげ先もまたピアノ線がしなやかにたわむかのように水気をおびた艶に輝いている。リヤカーの引き手に乗っているちいさな指にはとても愛嬌がって、不意にあたりまえのことだけども、こう尋ねてみたくなった。
「これはチューザーが作ったのかい。竹の皮なんてシャレているなあ」
すると、「それがしがこしらえましたと申しても、いやはやごはんは冷凍でございまして、バスには簡単な設備もありますので、適当に具を入れたまで。お口にあいますやら」少しばかり恥ずかしそうにしている。
「冷凍だろうが平気だよ。僕はこの竹の皮がすごく気にいった。実はそうであればいいなって想像していた。ついでに竹筒の水入れもなんてね」
「それは恐縮でございます。残念ながら竹筒の用意はありません。お茶はただいまお持ちします。ティーパックのほうじ茶ですが。それからジュースなども冷蔵庫で冷やしてあります」
「いいよ、いいよ、僕がとってくるから」とは言ってみたものの、ティーパックやジュースには肩すかしをくった。でも仕方ないよな、バスのなかにキッチンなんかなかったし、いくら怪力とはいえ小動物に風趣を期待するほうが間違っている。竹皮だけでもたいしたもんじゃない、ねえ、君だったそう思はないかい。なんだかんだで欲張るからいけないんだ。えっ、ねずみは手でにぎりめしを作ったかって。そうだろうね、解凍したごはんに具とか言ってたから。何のためらいもなくそれを食べたのか知りたいんだろ。ああ、別になんとも思わなかった。それより、その味を教えてあげるよ。
[188] 題名:ねずみのチューザー10 名前:コレクター 投稿日:2011年04月26日 (火) 05時37分
きっと深い眠りにおちていたのだろう。目覚めてみたり寝てみたり何やらせせこましいようだが、一日は長くもあり短くもあるから別に目くじらを立てることもあるまい、それより夢のかけらさえ垣間見ずまぶたを閉じられていたのがとても新鮮に思え、寝入り際の感傷も朝露となって頬に残っているような錯覚さえ生じたのだから、その朝陽がどれだけまぶしくすがすがしかったか想像してほしい。
「よい天気でございますなあ」
暁を覚えないまま夜風にならいひかれてしまった帳のすそから顔を出す調子で、もげもげ太の声が気味よく鼓膜に響くと、両の目はすでに陽光を受け相手の顔をしっかり認めた。一夜明けたことがこんなに初々しく感じた機会もなかったので、すっかり気分がよくなってしまったんだ。そんな感覚は子供の頃、夏休みや祭りや旅行などを心待ちにした、あの時間を湯水とも知らず彼方へかき分けようとした無為な高揚に似ていた。そして一日の境界をひとまたぎする不敵な笑みも夜霧のむこうに健在であるのが透けて見えたから、なおさら朝露をそっと頬のうえに感じてしまったのかも知れない。
「バスは動いている。ねえ、夜中も走り続けていたのかい」僕は権限でも主張する声色でそう尋ねた。
「走ったり停まったりしておりました」すかさず返答したのはチューザーで、「それがしは夜行性でありますゆえ、適度に休息しながら運転を見届けていたのです。おふたりともよくお眠りのご様子でなにより。朝が来ました」と、満足気に鼻をヒクヒクさせていたよ。いつの間にやら僕の横に座っていて、斜めから振り返る格好で見つめているもげもげ太にも礼節あるまなざしで微笑んでいた。おそらくはこれからの任務というか目的に向かう心意気というべきものを示していたんだと思う。
僕は寝起きの状態だったけど、いくらさわやかな朝であってもまだまだ胸のなかは、暗夜行路と呼んだほうが本音だから、窓を差す日にぬくもりばかりを求めているわけにはいかず、そう、車内隅々を照らし出しては吸い込まれるような、金属やガラスに触れてはキラリとはね返すような、ひかりの鋭さに姿勢をただされる思いがして、そこに時間の経緯が発生しているのが嫌がうえにもまばゆかったのさ。時間はやはり過ぎているんだ、こうしている刹那刹那にも確実にいまは過去になりつつあり、反対に未来に浸食しようとも志している。昨夜は寝入る直前に「銀河鉄道」を彷彿させる幻のような光景に感激したが、僕はジョバンニみたいに無垢ではない。なぜなら過去は捨てられていながら新たな記憶を鮮明に貪欲に蓄積しようと願っているんだ。そして決定的なのは夢幻にさまよえる切符は手に入れたかも知れないけども、どこへ巡ったのでもなく、どこへ巡りたいのでもなく、ただバスに揺られ続けているだけなんだ。もちろん、何もまだ始まってはおらず仕方ないと言えばそれまでなんだが、、、この焦燥こそがまたしてもひりつく神経を呼び起こし、折角の行楽調子にひびを入れこんで気分を台無しにしてしまう、、、
さぞかし失意のどん底だろうかって。いや、あわててはいけないよ。ああ、焦りは確かに禁物だ、しかし、台無しと失意が必ずしも居並ぶとは限らない。逆に僕は焦燥に対しある種の導きさえ感じとっている。じゃなけりゃ、深い溝が出来てしまう懸念までしながら、どうして君にこうやって細々書き送ることが可能なんだろうか。答えには早いが、やはりこのひりつく加減が小刻みに血を通わせ、四肢へと巡ってゆき、やがて脳内を陣取り、鬼神の魂を施され、未来へと向きあう充血した目をつかさどるんだよ。だからこそ僕は「闇姫」に会いたいのかも。
どこへも巡れないというのは詭弁さ。一途に願うほどのものがないってだけだ。なければないで、それとなく見繕い仕立て上げればいいんじゃないか。焦ってはいけないよ。どうせなら精魂こめてやったほうがいいと思う。と、いうわけで僕にはチューザーがどうして人語を操るのか、このバスの真の到達地など、もうどうでもよくなってしまった。奇跡にもたとえられる旅として、次なる停車に胸をときめかせたのさ。
一心不乱の精神が満願に通じる方便を否定したりしてない。それはあながち間違ってはいないから、おそらく指をくわえている待っている奴などとは比較にならないエネルギーがあることだろう。ただ、どの方角にそのエネルギーを向けるかなんだよな。東西南北とか位置のことじゃないよ、鬼門なんてのも土地感ないからトンチンカンだし、天とか地とか問われても弱ったなあ、やっぱり僕にはこのバスの道が似合ってそうだから、精々祈っているよ。えっ、祈るのかって。そりゃ祈るとも。「どうぞ、恐怖新聞だけは配達されませんように」って。君だって恐怖新聞は知ってるだろう。冗談じゃない、あれは地獄だ。明日の自分が写真付きで報道されているんだよ。恐怖は恐怖でも質が違ってる。明日起きることすべてわかりきってしまったら、それこそ本当に台無しなんじゃないか。過剰な願望は醜くもあり浅ましいし、手前ながら疎ましくもあるけど、ときには限りない美しさに変貌する。
寝ぼけたあたまのなかをそんな思惑が勢いよく駆け抜けてゆくと、はたまた忘れていた大事な日常を知らされた。
「さあ、朝餉の仕度が出来ましたのでバスは停まります。なにせ山深き地、斯様に質素ではございますが、ねずみのにぎりめし、おなかの足しにしてくだされ」
そうだよ。ごはん、ごはん。そういや、少なくともチューザーに出会ってからはなにも食べていない。それ以前の食事の場面にはどうしてもたどりつかなかったから、朝餉の知らせには胸をつかれる劇的な作用があり、思わず生唾を飲みこんだのはいうまでもないだろう。
にぎりめし、、、白米を三角形丸形などに整えて握ったもの。塩加減を程よく舌が覚えるのもその形態のゆえんか、一般に海苔で包まれており、ごま塩、ふりかけなどがまぶされる場合も、中身は具と称し、梅干し、佃煮、鰹節、塩鮭、漬け物などを果実の芯のごとく潜ませては、ひとくち、ふたくちと、ほおばる程度に出くわす新たな味わい、かけがえないような喜びを見いだす。
チューザーがもてなしてくれるだろう、にぎりめしを僕はとても楽しみにしてしまって、ついつい記憶を古色なおもむきに転じさせた。そうだよ、竹の皮に収まっている、あの風情を。そして竹筒の水入れを。
[187] 題名:ねずみのチューザー9 名前:コレクター 投稿日:2011年04月19日 (火) 04時13分
「闇姫」を簡単に説明しておこう。霞谷七人衆の紅一点、つまりくの一だよ。ドラマで演じたのは岡田千代さんって女優で確かまだ現役のはず。で、なんで懐かしいのかっていうと、首領の「幻妖斎」が振る舞う非情さを思い知り(かつ赤影らの温情にほだされ)最期に金目教の悪略をはばもうとしながら一命を落としてしまうシーンがなんとも印象的でさ、だってそれまで「おのれ赤影、わらわもくの一」とか言って、形勢が不利になっても勇ましかったのに、息をひきとる間際には「赤影さん、、、」って声色に変わってしまうんだもの。子供ながらに感じたよ、女は優しさに包まれると無防備になるんだなあって。
詳しい場面はもし暇があったら本編をDVDなりで観てもらうとして、僕がこころ惹かれたのはその「赤影さん、、、」というまさに吐息のような憂いにあるんだ。再放送で闇姫の回になるたび同じ想いがやってくるのは、ひとつの原型が巣くっているんじゃないかとぼんやり考えていたんだけど、残党とはいえまさかの「卍党」に出会って、一気に液体が凝固してしまうようある情念が示されたんだよ。そう、フィクションにありがちな悲劇性、それは現実から切り離された想念とかでなく、本来こころに沈めるもの、眠りのなかの眠り、ゆえにかたちが定まりにくい水枕みたいな、寝具と呼称していいのやらもわからない、しかし、まぎれもない眠りであり覚醒することを疑わない静かな情念であると。
簡単にいうと目覚めたってことかな。僕は男だから当然女に好奇を抱だくだろうし、それが情欲となって噴出することだって本質的には間違ってなく、むしろ自然な営みであり、やみくもに否定してしまう方がよっぽど強引な捕縛だと思う。普段から誰もが常識的に自らを縛りつけているから、こんなとんちんかんな情況に投げだされてみれば、緊縛もさらりとゆるんでしまうのは理解してもらえるだろうか。
それは単なる都合づけって反論もあるかもね。どうせ夢を見ているようなものだから自在に戯れるままにしておくだけで、不条理をよいことに眠りも本質も後から張り付けた背景画でしかない。さあ、どちらなんでしょう。戦時下とか無法地帯で引き起こされる略奪や強姦を類推するまでもなく、また時と場合などにより移ろう行動に理性は追いついてくれず、積み上げられた瓦礫と、どの方角から吹き付けてくる砂塵によって目くらませされるのが関の山、そのような環境で己を見失わずに進む方角を定められることのほうが不思議なくらいだ。だから、やけくそも諦観も心理的に合わせ持ってると見なしたぐらいがいいかもな。
とにかくひりつくような神経はもうごめんだっから、おそらく僕は初対面のもげもげ太の第一印象を都合よく塗り替えてしまった可能性があるかもしれない。彼の目に親しみを感じたのも、鼻孔をくすぐるくらいの淡い憧憬を忍ばせたのも、まるでこっちが忍者じゃないのっていう自己韜晦によるものだとしたら、、、
それはそれで、悪くはないと思うんだ。愚かしさは十分承知のうえだけど、賢く立ち回れるすべなど身につけていないし、そうありたいとも願っていないから僕は自分の愚かしさを受け入れる。韜晦はただの自己保全だよ。ささやかな。とはいいながら、ちゃっかり「闇姫」には会ってみたいと切望しているんだから、どこまで本当か、僕にも君にも実際は把握出来ないかもね。それにもげもげ太は「傀儡甚内」が子孫、忍法顔盗み術をあやつれるんだ。神妙な顔をして生真面目に考えこんでる場合じゃない、そんな軽妙さが今はなにより必要だった。そうだよ、なんだかんだ言いつつ、僕はもげもげ太もチューザーも信じていた。手放しで歓迎ってわけではなかったけど、彼らと同伴するのを決して拒んだりしなかった。
今日はとりたてて大きな展開はなかったが、バスに揺られている僕の気持ちは少しだけ山々の景色に溶け込んでいった。
無人バスがこれで乗り合いになって、いや、チューザーがねずみだからひと気がなかったって意味ではなくて、奴は一応運転手だからさ、乗客がひとり増えたってこと。それから当たり前のように時間が流れ出し、車内は相変わらず寡黙であり続けていたけど、次第に宵闇に包まれ始めた頃、夜を迎えるのはこれが最初かなって割と感傷的な気分にひたっていたら、微かな寝息が隣の席のもげもげ太からもれてきて、その時よくわけはわからないまま、僕の目はうるみだした。どこだか知らないこの深い山奥からは一切の灯火が隔離されている。にじむ視界は暗黒に冷たく拒否されるばかりなのだろうか。
筆を置くまえに、君へおやすみを言うまえに、そこに起こったちいさな奇跡を記しておこう。夜空はいつの間にやら満天の星で満たされていた。どうしてこんなにたくさんの星がいっせいに降り注いだのか、考える暇もなく、車窓を通して光差す以上の点滅がこのバスを支配している。まるでミラーボールが回転する星粒が壁や床といわず、座席に、手すりに、スクリーンに、反射を歓ぶ車窓に、ありとあらゆるものの上にまたたいている。
「銀河鉄道じゃないか」そう思い涙があふれだしたのが、その夜の最後の記憶だった。忘れてしまっていたよ、僕が記憶喪失者であることを。
[186] 題名:ねずみのチューザー8 名前:コレクター 投稿日:2011年04月19日 (火) 04時12分
長い旅とかえらそうぶってみたものの、あのみかん園をあとにしてからはずっとバスに揺られぱなしで、幸いなのかどうか腕時計もはめてなかったから、脳内時計のなすがまま時折しんみりした顔つきを浮かべたりして、自動運転だから別に会話に支障はないと思ってたんだけど、チューザーの奴どうしたわけなのかえらく無口を守ったまま、いかにも運行に注意をはらっているような気配だし、僕のほうから質問を浴びせてやろうって勢いもなぜかしらそがれてしまい、多分それはあわてなくてもこれから糸をほぐすように明快な答えがあらわれてくるんじゃないかという確信みたいなものを不思議なことにこのガランした車内から感じとったからで、自分のうわずった声が無人バスに反響してしまうのを怖れたせいなのだろう、確固たる釈明を胸に抱ききれてない本心は、糊付けされた紙みたいに時間のなかへ張り合わされようとしていたんだ。困るんだな。むやみにひっつけてしまうと。あとからはがすのが大変じゃないか。で、まあ焦らずに肩のちからを抜いて山の連なりを眺めていた。
そんな事情だったからどれくらい時間が経過したのか、よくつかみとれないうちにどうやら目的地が迫っているのを知らされたんだよ。いよいよあの離婚状を通行手形とした最初の関門ってことになるから俄然気も引きしまり、印象的だった名の「もげもげ太」なる人物像をあれこれ想像してみたわけさ。チューザーからの情報はまえに言ったように「ミュラー大佐」に関わる人物であり、「卍党」であり、こちらこそ願わくばの「意気投合」を前ぶりされているわけだから、かなり具体的な風貌が浮かびあがってきたていた。しかし、ここでそのスケッチにいたる行程を話しているのは時間の無駄だと思うので、端的に出会いの瞬間へと筆を飛ばそう。
第一印象はこうだった。「えらくイメージを裏切る容姿じゃないか」ほとんど小声になりかかっていたよ。想像では三枚目的なお人好しを装った冷徹なる顔。はなから忍びの者とか聞かされていたから、そんなふうに収まるのも紋切り型かと抵抗しつつも、だけどやはり貧困だね、やっぱり底が浅いんだろうな。すでに第一印象からして目くらましの術にかけられているだから。そうだなあ、俳優とかで例えるとこれが最近ではあまり見かけなくなったタイプでさ。とにかく見るからに神経質な大きな目をしていてね、繊細な感じが空気感染してくるんだけども決して嫌みはなくて、どちらかといえば全体的にひかえめな面持ちを崩さないんだ。こっちが歩みよれば同様の歩幅で応えてくれるような実直さを持っていて、それは軽佻な資質が都合よく被われているから見栄えがいいとか、狡猾な知能がはかりにかけて培われた愛想とかではない、もっと身近に感じることの出来る、いや、もう今ではあまり接する機会もなくなった小川のせせらぎを彷彿される清らかな親しみだよ。
華奢なつくりも重圧感を排除しているんだろう、もし交差点とかですれ違ったとしても好印象をさりげにあたえながら、同性として異質な分子がいったん濾過されて、ちょうど微かにただようオーデコロンが鼻をくすぐってゆくさわやかな存在であり続ける透明感を身に宿している、どう今そんな俳優いるかい。名前は思いだせないけど、おぼろげな顔が磨りガラスのむこうに佇んでいる。
「はじめまして、もげもげ太です」
声からして一口サイズの洋菓子のように甘く柔らかい。僕はよほど「あなたは俳優のあのひとに似てます」と言いたかったけれど、「卍党」って先入観がうまく始動してくれて余計な口をきかずにすんだ。つまりは相手は忍びであるってことがいい意味で僕を寡黙に仕立てあげ、「ミューラー大佐」を保持する(もっとも実体でなく影らしいが)大義をかみしめてみたのさ。いくら懐かしの俳優に似てるからってイメージ通りの反応は期待出来ないし、するべきでもない。チューザーが間に入るまでは一切無駄口はきくまいって構えていたわけ。そうりゃそうでしょうよ、まだ海のものとも山のものともさっぱり見分けがつかないのだから。こっちは「赤影」にはわりと詳しいほうだからね。特に甲賀幻妖斎が率いた「金目教霞谷七人衆」と「卍党うつぼ忍群」の面々はたいがい覚えている。もげもげ太もその流れをくんでいる限り、隙を見せるのは早計というもの。記憶がないわりに妙な箇所だけは忘れてない自分に感謝したよ。ほんと感謝したよ、、、君にはわかるだろう、幾度となくテレビで再放送され、大人になっても関連書物を見つけては収集していたんだ。
ねずみの奴どこへ消えてしまったのか。まあいい、ここまま澄まし顔でいるのもそろそろ限界にきていて、僕の好奇心はもう火がついてしまっていた。彼の風貌にはもうおかまいなく、ついに尋ねてみたんだ。「幻妖斎」の末裔はいるのか、テレビ番組がすべてではないのは百も承知だが、ああ、霞谷衆の紅一点「闇姫」の末路はいかに。過度な緊張が逆噴射してしまい、にわか仕立ての理性を吹き飛ばしてしまった。いきなり「闇姫」はさすがにはばかれたので、もげもげ太におそるおそるこう訊いた。
「あなたはひょっとして傀儡甚内の子孫ではありませんか」
「いかにも、霞谷七人衆がひとり、忍法顔盗みの秘術は連綿と伝わっております。あなた様がそれをご存知とはおそれいります」
こうなると調子にのってしまい「かなうことなら闇姫さまにお会いでませんでしょうか」と、咳き込む勢いで口をついて出てしまったよ。
もげもげ太のくっくりとしたまぶたがひと際濃くかさなると、もうこれは俳優の領域でしかない憂いを帯びた目元が妖しくひかりだした。
「闇姫さまにおめみえしていかがなされるおつもりでございます」
「ただ懐かしいだけです。忍法髪あらしはむろん遠慮させていただき、ひとめでよいから会ってみたいのです」
「それほどまでにご執心ならば、、、しかし、闇姫さまはここにはおりません。いづれ日をあらためましてのご面会でよろしいございましょうか」
と、いうわけで思ってもみなかった事態に発展していった。まだなんにも関与していなんだけど、意外に地平は開けていくようじゃないか。
[185] 題名:ねずみのチューザー7 名前:コレクター 投稿日:2011年04月12日 (火) 04時46分
どれくらい山間を抜けて行ったのだろう。映画に魅入っていたから折角の山河が織りなす風景にとけ込むこともないまま、気がつくと鑑賞後の余韻にひたる気流さへ窓枠わずかにかすめてゆくだけだった。
記憶が封印されてしまっているようなので、逆にもどかしく焦りがちょうど湯気をふくやかんみたいに沸点を知らしめて、ある帰結へのシグナルを送っているのか、ともあれ明快な意識に先導されてない頼りなさは、湯気で窓を曇らせているようだ。
不快感はなかったよ。だってまともであれ、まともでないにせよ、人語で歩み寄るねずみを拒絶せずにこのバスへ乗り込んだこと自体、それが危険な誘惑だとしても僕が欲した行為だからね。模糊とした判断にもかかわらず何らかの焦燥が無人バスの車内に浸透しているのは、乗り心地をどこか微調整されているようで自分の感覚が遊離しているのを楽しむアミューズメントにも通じたから。
で、「卍党」なんて寝耳に水な発言には、半ば含み笑いを押し殺せない拍子抜けしまう戸惑いもあって、増々夢幻の世界にはまりこんで行くんだなって無責任な高揚感を鎮めるすべをなくしてしまった。いつか君に話したと思うけど「仮面の忍者赤影」ってテレビ番組はいくら子供向けとはいっても、荒唐無稽ひとすじなんだけど歯切れはよくて、その時代考証のなさは神々しい境地に達してながらも毎回登場する怪忍者とか怪獣はとても魅力的だったんだなあ。巨大な金剛力士像は電動だったし、球形の飛行物体に到っては現代科学も真っ青の秘密兵器で、なかで操縦している忍者らはきっと蒸せたんだろう、どうみても扇風機としか見えない代物が備えられていた。織田の殿様がっていう時代にだよ。なごむじゃないか。チューザーの存在も確かに信じがたいけど、あれよという間に話し相手になってしまい、そもそもS市の農道をさまよっていた僕にとっては唯一の道づれだったから、これは前回も説明したよね。もう少し厳密に言えば、横転したバスとねずみのチューザーによってはじめて僕は記憶の発火点に触れ、空白に取り囲まれている形を再確認したわけさ。つまり、まわりの空虚を感じることで今という時間がとても生々しいものに発酵していった。それがいい傾向にあるのかどうかは問題でない。ねずみが喋ることを悪夢と見なすのか、奇跡だとあがめるのか、即座に回答出来ないようにね。あのとき大事だったのは常軌を逸している場面にどう向かい合えるかって態度の問題だったと思う。記憶があやふやだったから藁にすがりたかったんじゃなく、バスとねずみの登場が自然と僕の時計の針を進めてくれたんだ。そこでようやく過去に霞がかかっている事実を知り得たし、これからの道行きに対してもまるで遠足に出かけるみたいな浮ついた陽気さがともなうから、心持ちは決して不快じゃなかった。
「卍党」という、フィクションがそうではなくなっている成りゆきを聞くに及んで、ようやく異形の空間を認知する感性に近づいたのも、まんざらデタラメではないだろう。人は絶対の孤独には絶えられないんだ。ねずみもねこの大佐も僕にしてみれば救いだったに違いない。記憶の曖昧さなぞ、舞台にかかる暗幕のようなものだよ。バスに軽々と乗車出来たのも、目のまえで派手な横転というパフォーマンスを演じてくれたから、、、大体そんなところかな。「卍党」に度肝を抜かれた装いで振るまうのは、狂気を我がものにせんが為の気分転換かな。
ちょっと悟りすましたふうに聞こえるかもしれないけど、それは誤解だよ。なぜなら第一幕は開いたばかりで、内心はとてもひやひやしていたんだ。僕が知り得たのは事実とは異なる現状であって、知り得たというよりかは、そう解釈せざるを得なかったといったほうが正しいもんな。だからこそここがスタートラインじゃない。これからが始まりだと思ってほしい。
作られた映画にひたる器量はあっても、流れゆく風景を味わう余裕なんてまったく持っていなかった。それで窓が曇ったんだって、これすごい言い訳だよね。おそらく都合の悪い過去を思い出したくないに違いない、記憶なんて案外と操作しやすい装置のような気がする。
とはいえ、やっぱり欠落しているんだなあ。S市にどんな思いで向かったのか、あの離婚状を突きつけた女性が誰だったかよく思いだせない。まあ、思いだしたくないんだろうから仕方ないけど、あれは偶然などではなく、むしろ必然であるのはチューザーもそれとなく認めているから尚更もどかしいじゃないか。そうだね、君なら端的にそう問うだろう。
「いったいどんな意味あいがここに潜んでいるの」って。
同感だよ、出来ることなら早々にここから立ち去りたい気持ちがないわけじゃない。でももうわかるだろう。旅には最低ふたつの道があるんだ。日帰りのような気軽に散歩気分で出かける旅、そして反対に行き先を定めない無目的に近い、長い旅。窓の曇り具合からみてどうやら長いトンネルにくぐる予兆をしみじみ感じてしまう以上、残念ながらすぐには帰ってこれそうもないや。二階の軒へ吊るしといたてるてる坊主によろしく言っておいてくれるかい。
「雨の日もたまには微笑んでいてくれるとうれしいから」とね。
[184] 題名:ねずみのチューザー6 名前:コレクター 投稿日:2011年04月05日 (火) 05時35分
とんだみかん狩りだった。あっ、勘違いしないでほしい。薮から棒に離婚状を鼻先へつきつけられたんで辟易したわけでなく、僕が記憶喪失者であり、なおかつ付随する疾患というか意識のありようが狂気の部類に属している可能性が濃厚な自覚に落胆したわけなんだ。異次元なり黄泉の国でもけっこうなんだけどさ、過去の清算を迫られるのが旅の始まりっていうのも哀れな話しじゃない。どうせならスッパリと中身がからっぽになった状態で行きたかったね。チューザーは通行手形なんだとか意味ありげに釈明しているが、どうしてもああした修羅を再体験(たぶん僕はバツイチみたいだ)しなくてはいけなかったのだろうか。まあ地獄だって閻魔さまから罪業の数々を思い知らされるそうだから避けては通れないし、旅立つにあたって列車なり飛行機なり切符がなくては確かにどうにもならないからな、とかなんか少々いじけた感じをおさえながら、とにかくもう突風みたいに過ぎていったんだかって胸へ言い聞かせたりしていた。過去を持たないからこそ、かつての残像が秋の空から照りつけられ、そこには幽霊のように境界から抜け出てくる染みが浮かびあがるんだ。もっともあの剣幕は幽霊が醸し出す儚さとか遺恨など吹き飛ばしてしまう勢いだったけど。ただふたりの幼子、唐突だったんで顔立ちまで見届ける余裕なくて、、、ああ、あの子らは実の娘だったんだろうなって感傷的になってりもして、旅の切符は紙切れだがなにやら鉛みたいな重みで息苦しくなった。なかなか理解してもらえないだろうなあ、現実からあっという間に引き裂かれ隠れ里に連れてこられたのか、はたまたこれらはすべて陰謀であって僕だけが意識操作されてるのか、どちらにせよ正確な判断のくだしようがないのだから、まるでそこが巣であるようにポケットへちゃっかり収まった人語をあやつるねずみがこうして存在している限り、やっぱり狂気に包まれた空気を吸っているんだよな。
でもそこなんだ。君が僕の話しをいぶかり小首を傾げるどころか眉間のしわが邪気をはらんでしまう以上に、おそらく僕の感情はあのとき強烈にたかぶりつつも反比例するごとく冷静な意識がめぐってきていた。具体的に言うと、バスが横転してから数時間しか経過してないにもかかわらず、すでに現状を引き受けている薄皮餅のようなまとまりが出来上がっていて、はじめチューザーに礼儀ただしく接しられた際のもの言い、つまり「なにゆえにねずみの分際で無人バスなど運転していたのか、またどこへ向かおうとしていたのか、なにより人語を解するすべを奇怪に感じられるであろうが、、、うんぬん」に対等な心持ちで臨んでいけると実感したわけさ。だから、バツイチで二児の父である身を振り返ることも必要なく、再体験を済ませてしまったからには、なんかほんと形式上の習わしを終えた気分になってしまった。
その晴れやかまでとはいかないけど、形よく膨らんだ風船ガムがしぼんだときのような充実感に、こっちからあえて狂気とやらをポンプで吹き込んでやれば、、、どうかなあ、同じ吸い込むにしても吸わされているのとでは若干違った意義が芽をのぞかせはしないかい。そうなると「今度は攻める側だ」って気力がもたげてくるし、俄然能天気に踊る加減もシニカルに運んでゆけそうだ。
ここからの筋は見えてくるだろう。そうだよ、僕こそ異次元を自在にさまよい歩く意識人、遠慮はいらない、チューザーに向かって猛然たる質問攻めを浴びせたのさ。で、どうしたかって。最初になるだけ要点をしぼって書くっていったの覚えているね。チューザーは小栗虫太郎を引き合いに出したりしてるけど大丈夫、多少の横道もあるだろうが本末転倒まではいくらなんでも。
ところで僕が弁明を求めたいことはすでにチューザーが要約していて、自ずと霧が晴れて見通しがよくなるのはこの空気に包まれた実感がもう約束してくれている。「はじめに言葉ありき」さ。目から涙が吹き出るくらいこすってみても、ほっぺから血がしたたり落ちるほどつねってみても、耳をかっぽじるまでもなく、このねずみはすでに人の言葉を喋っているんだ。とりあえずそれが迷惑であるとも思われないから、だって実際は唯一の話し相手だしね。その件に関しては原因究明より現状肯定に止揚しておいて、問題は旅とやらには聞こえがいいけれど、またまた不愉快な行程をめぐるんじゃないかって怖れがなりよりで、運転も自動だし乗り心地も悪くなかったから、ずばり次の行き先と目的を明瞭にしなさいって。
すると「はい、これよりは銀山みかん園から山中深くバスは進んでまいります。そこである人物と合流する手筈でございます」しゃあしゃあこう答えるじゃないか。
「誰だい、その人物って」まったく嫌な予感がよぎるもんだから執拗に問いつめたところ、いやはや、君には大変申し訳ないがはたまた混迷と逸脱が発生したようだ。舌先の乾かないうちから要点が曖昧になってしまうけど、チューザーの奴はこんなふうに詰問の刃をかわしてしまったよ。
「ミューラー大佐探索にとって重要な方であります。もげもげ太と申す、卍党の流れをひく忍びの者でございます」
「卍党だって!まさか、あの仮面の忍者赤影の敵忍のか」
「さようです。お会いになればきっと意気投合されることと信じております」
開いた口がふさがらないってのはこういうのだろう。ねずみをしめあげる気勢はもののわずかでしかなく見事反対にしてやられた。色々知恵をしぼったつもりがこの結果じゃ、まだまだ先は遠いかもな。窓の外に張り付いた山々は紅葉を向かえていたけど、視線は焦点定まらずにいたところ、運転席の横上に設置されたスクリーンが点滅しだした。泣けてくるねえ。バッハのマタイ受難曲に導かれ映しだされたのは、タルコフスキー監督の「サクリファイス」だった。
[182] 題名:ねずみのチューザー5 名前:コレクター 投稿日:2011年03月29日 (火) 08時33分
どんな夢を見たかって、それは毎度のことだからこまごま書くのは省略させてもらうとして、一気に夢は覚めたよ。いや大丈夫、頭に石は飛んでこなかったし無邪気な目をした子供も見当たらない。そこは銀山みかん園に違いけど、やっぱりこれといった印象が情景としてしみついてなかったから、山々にかこまれても格別感慨はなかった。それに誰もいない、ひとっこひとりいない。みかんは数知れずあの野球帽の色に負けることなくたわわに実っていたよ。太陽は温かなんだが、風がときおり冷たくてね、まあ申し分なのない気候だったから、人気がないほうがのびやかでよかった。それで夢が覚めたんじゃない。問題は寝た子をたたき起こすようだ。バスから降りるとチューザーは僕の足下からスルスルって這い上がってきて、胸のポケットにシュッと収まってしっまうと、「なかなか居心地のよい胸でございます」なんて言うもんだからちょっとびっくりしてさ。というのも今じゃ萎びてしまったけど、あの頃は無性に筋トレに凝っていてプロテイン飲みながら超回復理論なんてのも考慮して励んでいたら、大胸筋がえらく張りだしてきて、以前あったじゃない「だっちゅーの」っていうの。あれ出来るようになったわけ、自分でも妙な気分でさ、だって乳房まではいかないけど貧乳の女性よりは盛っていたから、風呂につかるときなどもんだり、さすったりしていた。それを急に思い返したんだ。同時にチューザーがサッとポケットに全身を沈めながらこう言った。
「どうですか、もうおわかりでしょう。それがしはここにひそんでおりますから、ゆるりとご対面されるがよいでしょう」とね。
一気に脳内をチューザーに代わるねずみが駆けまわりはじめた。ああ、柔らかな乳房、なめらかな脇腹、すべすべとした二の腕、そしてふくよかな尻。一体誰の女体だったのか、まだはっきり顔が現れてこない、、、そのときだった、密生しているみかんの木がガサガサと鳴りだしたと思うと、ふたりの女の子供がヒョイと顔を出し目をまるくしてじっと様子をうかがっている。まだそれでも合点がいかない、しかしもう問題の半分は解けたような気がして、これはほぼ条件反射だろうな「おかあさんはいないの」なんて自分でもくすぐったいくらい甘い声色で話しかけてみたんだよ。すると、ふたりの子供を盾する格好でみかんの影からいきなり見知らぬ女性が出てきた。
「そういうのをねこなで声って呼ぶのよ」ってあきらかに怒気を含みながらこっちに近づいてくる。なんだ、なんだ、これはねずみの奴にいっぱい食わされたか、異次元だろうが、不思議の国だろうが、あの世だろうが、ようやく危機的な鋭角的な感情がわきあがってきて、胸を思い切り叩いてねずみを成敗してやろうといきり立ってみたけど、それよりさきにその見知らぬ女性が「これにハンコ押してちょうだい」なんて意味不明のことを口走るものだから呆気にとられてしまい、さっき解けかかった問題に全神経を集中させたんだ。
差し出された紙面を見れば離婚届じゃないか。僕はあんたなんか会ったこともなければ、結婚した覚えもない、って喉までもう出かかっているが的確に反抗出来ない。そうこうするうちにじっとひそんでいたはずのねずみがもぞもぞ動いた加減で、どうしたわけだろう、まるで陽光をたっぷり吸い取った布団のうえに横たわっているような、ふんわりしたぬくもりが訪れてしまい、もと「だっちゅーの」だった僕の胸は変幻し、南国の大振りな型をした果実へと色香を漂わし出してあらぬ方向へと、磁石で引きつけられるみたいな移行をもってこの身が消え入るのではと危ぶまれた。が、心もとないにもかかわらず、異性をまえにして衣服をすべて脱ぎすてるような恥じらいより先行した興奮がうずまき、肉体の交わりがいとも簡単に済まされたときと同様の安堵に包まれてしまった。
ほどよい弾力は決して人工的な按配で生み出せるものじゃないね。精が果てたあとの女体枕をいつまでも味わい尽くしたい欲望だけが、あたかも夜明けのカーテンが暖色に染めあげられるよう、寸暇である光となってこころ焦がす。
妙な妄想が過ぎてゆくと僕は相手に釈明を求めることなく、その紙面を受け取ったんだ。もちろん誰だったか知らずじまいさ。女性はふたりの子供を連れて身をひるがえし何処かに行ってしまったよ。
「まったく、どういう事情がわからないがなにもこんなとこで離婚状を突き出すなんて」そう勝ってに口が開いたら、待ってましたとばかりにねずみの奴、「そうでございますな、時と場合が肝心というものです」なんていつの間にかポケットから抜け出し、僕の肩にちゃっかり乗りながらもっともらしく相づちを打っている。「おい、おまえが仕組んだんだろう」肩から払い落とす素振りでそうなじると「そうかも知れません。しかしこれは儀礼なのです。記憶が戻らなかったのは通行手形を受けとったという意味でしょう。あの女人が何者であれ、あなたさまは自由になられた。さあ、更なる旅を続けましょう」と来た。
これじゃ、あの頭に石をぶつけられるのと似たようなものじゃないか、そう内心では悔やんでみたけど、「八面体における一面の相似」ってつぶやいて観念したよ。ねずみも道づれになっていることだし、記憶はなくても少しは冷静になろうって。
[181] 題名:ねずみのチューザー4 名前:コレクター 投稿日:2011年03月29日 (火) 05時47分
みかん狩りだよ。銀山みかん園っていえばそれしかないからね。ちょうど秋日和だったし、あの辺の山深くもない、なだらかに山地が勾配している眺めはのどかでいいもんだ。と、いっても小学生の頃に一回きり親に連れられた記憶があるだけなんだけど、ある事件をいまでも生々しく思い浮かべることが出来る。こんな無人バスじゃなくぎっしり家族づれでつまったにぎやかな雰囲気でさ、くねりにくねった国道を揺られて行きながら、子供ながらにはやる気持ちを抑えているみたいな、どこか醒めた旅愁のようなものへ生意気にもひたりつつ、車酔いが混交していたのを覚えているよ。きっと乾いた秋風と柔らかな陽が窓の外にどこまでも流れゆくのが心地よかったんだろう。
みかん園に到着したらよく晴れわたった青空の下は案外ひんやりしていて、鬱蒼としげる濃い緑から懸命に顔をのぞかせてるみかん達がまた無性に可愛くてね、ここに一枚の写真があって、そのときのスナップでさ、だいぶ色あせた写真なんだけどみかん色の野球帽をかぶって目を細めているの。いやあ、陽射しがまぶしかったんじゃない、あの頃の僕はどの写真みても情けなくなるくらい薄目をしている、何故かね。照れくさかったのかな、たぶんそんなとこだろう。でもみかん色の帽子には我ながら微笑んでしまう。何か気合いというかやるき満々な気もあったから、意識してかどうかは知らないけど色合いを調整してたんだな。
そうそう、そんなことより事件さ。大げさに聞こえるようだけど、子供にとっても大人にとってもあれは事件だった。他のバスからもぞろぞろと乗客が降りてきたんだ。そのなかのひとり、中年の男性だった。頭髪がかなり薄かったから。その後頭部にピンポン玉ほどの石つぶてが命中するのを間近で目撃した。ごつんとか音はしなかったけど、ぶつけられた当人はうしろを振り返る余裕もないまま、とはいいながらいきなり頭をかかえたわけじゃなくて一瞬なにが起こったのか判断出来ないような様態だったよ。男性も家族づれらしくてさ、奥さんとちいさな子供があとから駆け寄ったのを見届けながら、そんな悪事を働いた犯人をしっかり確認した。だってまだ片方の手に小石が握られ、命中先をじっと見つめているんだから。邪心があるのかないのか、その犯人はいたいけな児だったからことの次第を把握していないだろうし、その表情にとまどいもおそれもなかったところを見ると、攻撃心は宿してなかったと思う。その児にも当然だけど親がいてさ、まわりが声をあげると気がついたみたいで、まだ手にしたものをまのあたりにし気の毒なくらい狼狽しちゃって、相手の家族に謝るやら児を叱りつけるやらで、君にも大体想像できるだろう、そんな場面。男性の薄髪の間から血はにじんでいるし、犯人を叱責するまえに痛さでしゃがみこんでしまい、見ていた僕もすがすがしい気分が一転して、どこかから石が飛んでくるのではなんて不安に襲われてしまったよ。
空覚えではない、そのあとさ、石をぶつけられ血をにじませた不幸な男性は寛大なのか、そんな幕開けをきっぱり否定したかったのか、だってそうだろ、せっかく行楽場所に来た矢先そんな不運に見舞われた胸中は察してみてあまりある。しかも故意でないことが明瞭すぎるくらいなわけだから、一切の文句を言うどころかさしたる感情も現さないでその場から早々に立ち去ったんだ。その家族の反応は残念ながら思い出せない。寛容すぎる無言の退去にもどかしさを感じながらも、自分にも降り掛かってくるんじゃないかって怖れがにじみ出しはじめ胸がどきどきしていた。いまから思えば、叱責なき姿が逆にあらぬ不安を募らせたんだよ。野方図なまま取り残された空白みたいものが、高い空まで浮上していくようだとね。で、事件はおしまって言いたいとこだけれど、そうは問屋がおろさない。リアルな記憶はここまで、これからはまたまた奇想天外な成りゆきに話を戻さなくては。
そんなみかん園にどうしてチューザーはわざわざバスを走らせるのかなって考えてみた。あの情景が鮮烈だったんでその先のことをさっぱり思い出せないんだ。みかん色の野球帽の下に汗をうっすらかきながら夢中でみかん畑を駆けたのか、お昼はどんなふうだったのか、多分おにぎりだったのだろうが、写真では三匹のこぶたの絵が書かれた水筒なんかぶら下げているけど、いまひとつピンとこないなあ。まさかチューザーはそんな失われた思い出を甦らせるために運転しているわけでもあるまい。あれからみかん園を特別懐かしがったこともないし、いくらぞっとした事件だっからといってトラウマにまで到ってないからさ。
すでに不思議の国にはまりこんでいるのに、あれこれ詮索したみても仕方がないかって開き直りもあって、思考をめぐらせるのも適当に気がつけばいつもの癖だね、走りゆくあとに焦点をあわせるでもなく、ぼんやりと窓の向こうを眺めていると、緊迫した意識が大気に拡散していくようで、こうして移動しながら風景を見やるっていうのは一種の麻痺に近い感覚で実に落ち着く。自力で草原を軽やかに駆ける動物や、空中を自在に飛翔する鳥たちとはまた異なる速度感じゃないかな。運転手はさておいて手も足も、羽ははえてないけども、それらをまったく駆使することなくただ座ったままで享受出来るなんて素晴らしいと思わないかい。空が晴れようが、曇ろうが、雨荒らしであろうが、のんきであろうと思えばどこまでものんきでいられる。はがねとガラスの内側に居座りながら夢を見ているんだよ。流れ去る時間をふんだんに堪能しつつ。
[180] 題名:ねずみのチューザー3 名前:コレクター 投稿日:2011年03月22日 (火) 07時12分
「運転免許ですか、ご察しのように自動運転で走行しておりますのでご安心ください。どうです、乗り心地のほどは。ところでこの無人バスでございますが、実のところあなたさまをお迎えにあがった次第なのでして、唐突にそう知らされてもただ狼狽されることと承知のうえなのですけど、幻覚へとさまよってしまわれるのは遺憾でありますので、この際はっきりと申しあげたほうがこれからの成りゆきもご理解いただけるのでは、僭越ながらそうお含みくだされましたら幸いでございます。いかなるゆえんでかのような方策にいたったかはのちのちお分かりになられるかと存じますので、まずはそれがしの任務を披瀝いたしましょう。あなたさまは以前よりよく悪夢にさいなまれていると自他ともに認めてらっしゃいますのを、それがしかねてより精通しておりまして、いえいえ、その手段は少々こみいっていますので省略させてもらいますが、とにかく就寝中あまりいい夢見がまれでときには金縛りなぞの憂き目にあわれているのは間違いないところでしょう」
「たしかに毎晩夢は見るけどそれほど苦痛ではないな、最近のホラー映画のマンネリよりかはバラエティに富んでいるような気がしないわけでもないからそれなりに鑑賞しているよ。だが金縛りはまだまだ慣れない。それがどうして任務と関係あるって言うの」
このバスがお迎えなんてあまりの言い草にたまげるより、それこそ悪い夢のなかにいるんじゃないかという気持ちがして、おもわず脱力感を覚えてしまった。冗談ならいい加減にしてくれって意識もよぎっていったよ。だからといって虫左のひどくかしこまったもの言いに反発したいわけでなく、もう自動運転のバスに揺られてしまった身、ここはその任務とやらっていうえらく重々しそうな謂われでも聞かしてもらおうじゃないか、そう思ったんだ。
「あなたさまは認識されておられるかと存じますけど、ときおり夢に一匹のねこが登場しないでしょうか。黄色いねこです。軍帽をかぶっているはずです。それがしはかの御仁、すなわちミューラー大佐を探っているのでございます」
僕はここで始めて驚きに支配された。それまでがまるで絵空事だったんじゃないかってくらいにね。
「ミューラー大佐は夢なんかに出てきたことないよ。だって僕の飼いねこじゃないか。もっともビニール製のおもちゃだけど。なんなら見せてあげていいよ」
「失礼ながらそれは考え違いでございます。あなたさまがお持ちのものはいわば影、実体は別な世界に棲息しているのです。なぜならそのおもちゃでさえ、どのような経路で幼児期よりお手もとに届けられたかご存知ないはずです」
「あたりまえだよ、経路なんて大げさなもの通ってないっていうの。親が買ってくれたから家にあったんだ」
「ほう、そういたしますとご両親からその言質はいただいておられると申されますか」
「随分と話しがふくらんできたなあ。そんなこと聞いてみたためしもないし、聞きてみたいとも思ってない。それより、なぜならっていうけど影と実体なんてどうして言い切れるんだい」
だいぶ興奮しているのが自分でもわかってたんだ、もちろんばかばかしいけど妙にひっかかるじゃないか。おんぎゃあーと生まれてから、両親はじめいろんなひとからもらったり譲り受けたりしても記憶に残っていないおもちゃって一体どれくらいあったんだろうってね。実際虫左のいうミューラー大佐だけが唯一成人した今でも当時から手もとに置かれている。困惑している僕をなだめる意味なんだろうか、それとも更なる迷宮へと案内するつもりなのか、明快な返答がないまま今度はこんなことを言い出したんだ。
「あなたさまは小栗虫太郎の黒死館殺人事件を読まれたことがありますね。それがしの名、虫左の虫はあそこから一字を頂戴しているのでございます」
「ああ高校生のころに読んだよ。あの文庫本ならまだ本棚にあるはずだ。そういや再読してみたいって思っていた。太平洋戦争のさなかある兵隊がかたみはなさないで余暇を見ては耽読していたっていう、あの衒学趣味に満ちあふれた小説だろ。へえ、そうなんだ。虫の字はねずみのちゅうの当て字かと思ってたよ。で、ミューラー大佐の影の持ち主がどこでどう虫太郎と関わってくるのさ。夢落ちとかはもう食傷気味なんだ、これがまぼろしでないなら頼むからいくらか筋道をつけてくれないか」
「このバスはただいま銀山みかん園に向かって走行しております。おわかりでしょうか、めくるめく衒学は逸脱の嵐であったという軌跡を、、、筋道は大事でしょうが、寄り道も決して悪くはありません。虫太郎は虫太郎、それがしもこのあたりで変化いたしましょう。どうぞこれよりはチューザーとお呼びくださいまし」
と、まあそういうわけでおいそれと謎はとけそうもないや、ねずみのチューザーとしばらく一緒してみるしか手だてもなさそうだしね。
今日はここまでにしとくよ。またメールするからさ。それじゃまた。
[179] 題名:ねずみのチューザー2 名前:コレクター 投稿日:2011年03月21日 (月) 17時50分
あの情況をよくよく振り返ってみれば、平静を保っていたのか、幻惑され魂が半分くらい引き離されていたのか、よくまあ取り乱さずにその場へ座りこむ調子でねずみとすんなり会話しだしたもんだと、我ながら感嘆してしまうね。だって、「怪我はないようだが、バスは転んでるし、第一その紀州藩っていつの時代なんだい。ひょっとしてこれタイムスリップなのかな」などと真顔で問いかけていたんだから。
「いえスリップしたのはバスのタイヤでしてそれがしの未熟によるもの、いまは二十一世紀に他なりません」なんて面目なさそうにこたえた姿勢がまたなんともいえない哀感があって、ついつい情にほだされてしまい、「なるほど、色々と訳ありの様子だね。よかったらわかりやすく説明してもらえないかなあ」そう発した自分の声色にもどこか風情がこもっている心持ちがしてきて、増々恐縮に身をこわばらしているねずみから目をそむけられなくなってしまったんだ。
そんな按配なわけだったから、突然の異変に対応すべき心情を書きつらねるのは割愛させてもらうとして、虫左とやらが語ったことがらをまずは簡潔に記しておくよ。
訊くところによれば、紀州藩うんうんというのは彼の先祖をさしているのだそうで、特にもったいぶったもの言いをしたつもりではなく、思わぬ事故を目撃された動揺をただすためにも己の出自を明らかにしたうえで、慎重な挨拶を怠らないよう努めたまでのこと、無論現在では武家制度のなごりは祖霊のなかに生き続けているのであって、連綿と仕来りを守り通しているまでもない、ごらんのように着物も身につけておらず小動物らしく毛皮を身上とする生き物であるから、時代錯誤は形式のうえと判断されたく願いたい、先祖代々の由来を述べる煩瑣は省略させていただき、なにゆえにねずみの分際で無人バスなど運転していたのか、またどこへ向かおうとしていたのか、なにより人語を解するすべを奇怪に感じられるであろうが、そうした疑念を晴らしてまいりましょうと、とても一匹のねずみがくりだす口上とは思えない毅然とした素振りなもので、とにかく圧倒されたというより、かつて感じたこともない熱いものがこみあがってきて、ここでこうやって奇妙な対話がなされている事実がより鮮明になって現実味さえ帯だしてきた。もう疑心も迷いも吹き飛んだね。君も、虫左の言葉に耳を傾けてくれるかい。おっとそのまえに信じられない光景を目にしたんだ。横転したバス、音もなく静かに横たわったままだったから、ついついねずみの話しに引き込まれてしまい、めったに遭遇するものでもない事態を忘れかかっていた。びっくりしないで落ち着いて聞いてほしい。虫左は四輪が手放しになって所在なく腹をさらしていたバスの反対側にまわりこみ、低くうなり声をだしたかと思うとなんと一気に横倒しの形態からもとの威勢のいい車体に戻してしまったんだよ。これにはさすがに仰天した。さっき放棄したはずの疑心がブーメランとなって返ってきたような気分だった。それから悠然とぼくのまえに現れた当の虫左はなに食わぬ顔でこう言うじゃないか。
「さあ、立ち話もなにですからどうぞ乗車してください」
「そりゃどうも」
そうなったらもう自動ドアが開いたのかどうかも記憶のないうちに車内の座席にかけていた。一番うしろの席だったけど。すでにバスは走りだしていたよ。どこに向かっていたのだろう。それは追々見えてくるから今は詳しく言わないでおこう。それより運転席にはねずみなんだけど、君にはどうも想像しづらいだろうなあ。ねずみといってもはつかねずみくらいの大きさでさ、ハンドルにしがみついているんだけど、とても運転している姿には見えないし、手足だってブレーキやらアクセルにはほど遠いから、おそらく自動運転装置かなんかじゃないかと直感した。そうでもしない限りあのバスには乗ってられなかったんだろうな。おさるの電車ってあっただろう、あれの百万倍は不安だったね、でも最初の間だけさ、一応道沿いを乱れることなくスムーズに走行していったから、外の景色に気を奪われている安楽さを知ったときにはほとんど身をまかせていたし、虫左の話しが切り出されだしたから、すっかり不信感は消えてなくなった。でもさっきの魔法みたいなちからわざをまのあたりにした残像は消え去らなかったんで、それこそ反射的に口を開いたんだ。君だって絶対ぼくとおなじ質問を投げかけたに違いないと思う。それは言うまでもなく、奇天烈な現象に対するあおりさ。
すると、「それがしは幼年の折からいのししと相撲をとっておりまして、とは申しましても生後ひと月くらいはうりぼうが対戦相手なんですが。そういう次第でこう見えましても案外馬力はあるのでございます」
「そりゃ馬力どころじゃない、怪物並みじゃないか」と、返ってきた答えに半ば憮然としたら、「そのうちあなたさまのお役に立つこともあるでしょう」生真面目というか、その語感も得体が知れないだけにそう言われてみれば反対に不思議と説得力あるんだな、これが。
「さあ、それでは謎ときといたしましょうか。さきほど申しました疑念を解明していくわけでございます」
このバスとすれ違ってからどれだけ時間がたったのか、いや、もしくは時間は凍結されているんじゃないか、などふと我を見つめる余裕もどうやら車窓を流れる景色に即し、ぼんやりと物思いに耽りながらも内容のない、実体のない、空間を漂っているような反応だけが眠気をともなって過ぎてゆく。現実感が希薄になりかけているのはやっぱり異次元に紛れ込んだしるしかも知れない。まあいいさ、その異次元とやらもついでに欠片でも謎とけたらこんな未知にそうそうめぐりあうこともないだろう。ねずみの虫左の顔をまじまじと見つめていると、悲しいのやら楽しいのやら分からなくなってきたんだ。
[178] 題名:ねずみのチューザー1 名前:コレクター 投稿日:2011年03月21日 (月) 17時38分
別に隠していたわけじゃなかったんだけど、いくら君でも「はいそうですか」なんてすんなり信じてくれないってわかっていたから、今まで話さなかっただけなんだ。でも、どうやら妙な誤解に発展しそうな気がして、その誤解もとてつもない方向でないにしても、ささいといったらなんだけど、つまり下世話なありきたりな、そして見苦しい結果を招いてしまって結局は深い溝をつくってしまうじゃないかと思った。もちろん溝を掘るのは君だけではないし、不本意ながらでその原因を明快にしないまま指を加えて煩悶しているのもどんなもんかと、想像するまでもないよね。で、直接会ってこと細かに説明したいのはやまやまなんだけど、おそらく話しはじめるやいなや君は、「それってどういうこと」とか「わたしには理解出来ない」とか「そんないい訳やめて」とか言い出す場面がありありと目に浮かんでしまうから、こうしてメールで書き送ろうと考えたのさ。一方的だと非難されても仕方ない、だけど話しの合間に生じる疑問符から感情的な流れが必ず生じてしまう気がして、するとただでさえ珍妙な詳述は輪をかけて先行きが怪しくなりそうだから、きっと頓挫してしまい何も伝えることが出来なくなると思案したあげく、あえてこの選択をとったんだ。
なるだけ、要点をしぼって書くつもりでいるから疑問や謎はひとまず片隅に置いといてもらえたらうれしい。もっとも不可解を感じるのは仕方ないことだし、あたまから鵜呑みにしてくれまでと求めてないからさ、風変わりなんだと念頭においてくれて結構だよ、とにかく聞いてくれるかなあ。
こないだバスが横転するのを目撃したってのは教えたよね。小旅行ときめこんでS市に行ったときのこと。ほんと脇を走り抜けた瞬間からえらくバランスがおかしいなって見ていたら、スローモーションみたいに残像が焼きつくほどの緩やかさで、一時は冗談だろって訝っていたけど、傾きが尋常じゃないと危険を察知したときにはすでに横転していたんだ。これはえらい事故だって鳥肌総立ちのうえ、心身とも硬直してしまい、目が点になっているのがありありと自覚できたよ。
ここまでは君は真顔でじっと僕の言うことに反応してくれてた。しかし、「怪我人とか大丈夫だろうかって恐る恐るすこしだけバスに近づいてみると、なかはまったくの無人で誰も乗車していなかった。映画なんかであるように事故後の爆発も危惧されて、それ以上足がすくんで間近まで寄って見ることが出来なかったんだけど、あきらかにひと気がない。それでも僕は視力はいいほうだから運転席まで確認してみれば、やっぱりひとの姿がない。国道からけっこう山村へと奥まった農道みたいな道路だったから、あたりに民家も見当たらず、道ゆく影も皆無で僕ひとりがその無人バスと向き合っていたわけなんだ」
と、話したとたん君の表情は浅瀬にたたずんでいるような笑みが含まれた翳りをあらわにしたね。
「それって本当にあったの、夢でも見てたんじゃないの」
そう言って、困ったふうな気持ちが眉間にしわを寄せさせていたのが案の定印象的だった。
おそらく僕だってそんな光景を聞かされたら同じく眉間にちからが入ってしまったろう。だけれど、そこから切り出さないとその次へはたどり着けないから、信憑性がないにしろどうせもっと仰天する事柄へと向かうことだし、割合冷ややかに君の態度を観察していた。
一匹のねずみの件になって始めて、自分でも夢語りをひもときだしたんだと意識したね。そうだよ、君の顔色を一変させてしまったあの奇妙な有様さ。
「それでそのねずみはどこにいるっていうの」
今から思えばあのときの沈黙ってけっこう長く感じた。君が努調を帯びた詰問を発したのはあれが最初だと記憶している。だって、そのまえの情況を聞こうとせず、ねずみを出して見せろの一点張りだったし、僕は僕で真剣に話しているつもだったから、横倒しのバスはまるでミニカーが転んだみたいに無傷で、エンジン音もなく、不気味といえば不気味だったけど案外気は落ち着いてて、そのねずみだけがいつの間にやら僕の目のまえにはい出してきた、それで思わず手をのばしたら警戒した様子だったけど、まるで挨拶でもするように、ぴたりと動きをとめてじっとこっちを見返し、その距離が人間とねずみの間合いにしてはすでに親密な位置にあると変に感心していたら、
「こんな場面で恐れ入ります。訳あってこの地にやってまいりましたが、貸し切りバスはどうもいけません。運転手がいないっていうのでそれがしが慣れない手つきでもってどうにか走らせてきましたところとんだ失態を、通りがかりのかたとお見受けいたしますが、ご丁寧なおこころざしいたみいります。それがしは紀州藩武芸指南役の小動物子弟筆頭、ねずみの虫左と申します」
と、ひとの言葉を巧みにあやつり喋りだしたんだ。
こっちはまだひとことも言ってないのに、おこころざしとか頭を下げられたときには一瞬相手がねずみの姿をしているのを忘れてしまっていて、今から考えても面白いもんだ、夢うつつだと指摘されてもまったく無理ないよ。さて、このまえはこれ以上聞く耳を持ってくれないようだったけど、これから僕とねずみの不思議な物語をはじめるとしよう。
[177] 題名:夜景 名前:コレクター 投稿日:2011年03月14日 (月) 07時26分
旅ではなかった。生まれ育ったまちだったから。ひと時だけ帰省しているようでもあり、もう長く住んでいるようでもあった。
散歩ではなかった。なにしろ、宵の口から指折り数えてみるとかなり夜が深まっている。所用があったにせよ、今時分そぞろ歩ているのは帰路へついているからに違いないのだろうけど、いきなりこの夜道に忽然と連れてこられたふうな違和感はなにやら拭いきれない。
知った道だし、車で通ったこともある。左手には港が眺められる。驚いたのは対岸の工場から反映するネオンが、黒ずんだ海面を浮遊するあの毅然とした寂寞ではなく、海全体がエメラルド色に染まって夜気に溶けこむのを拒んでいる、まるで真昼の森林を彷彿とさせる新鮮な彩りであった。
ゆるい勾配を歩く足はとまり、その美しく映える海を見続けていた。
そのうち、進行方向から騒がしい音が聞こえてきたかと思うと、極彩色の衣装をまとった十数人の男女がローラースケートを軽やかに操りながら、夜風を切る勢いで向かってくる。すれ違い様にひらひらとした素材の衣装であることが、夜目にも鮮やかにうかがえ、ふたむかしまえ以上のタケノコ族を想起させた。時代を少々さかのぼったのか、それとも取り残されたのか、どちらにせよ望郷とは異なり、浅い瘴気がともなわれ気恥ずかしさが残った。しかし、彼らの駆けゆく様子はエメラルドの海にある種の艶を添えているとも云えた。右側に連なる山すそから降りてくる闇を切り裂いているような疾走感があったから。
派手やかな一群が遠のいたあと俄然、さきを急ごうと胸が高まってきた。
「海がああして輝いているのだから、河口ふきんもきっと華やいでいるに違いない、、、」
果たして、大きくうねった坂のむこうには夜まつりかと見まがう喧噪が展開されている。神社の通りにはやはりお祭りかとうなずかせるにぎわいがあって、夜店がひしめきあいながら沿道に連なっている。オレンジ色の電球が本来よりまぶしく見えるのは、数えきれないくらい灯しを夜に捧げているからなのだろうか。綿菓子や金魚すくいなど見慣れた光景にまじって、得体の知れない動物の置物や、見たこともない玩具が並べられていたのだが、案外それらに気をとらわれるでもなく、ひょっとしたら誰か知り合いなり旧友なりに遭遇するかもと淡い期待で行き交う人々の顔を見渡した。道幅が狭くなったほど人出の勢いが増すなか、しばらくの間次第に覚めつつある期待を据え置きながら、どの顔にも見覚えがあるようなのだが、結局誰にもめぐりあうことはなかった。
左に折れる橋を渡ったのは、自然のなりゆきであり、また、その方がこの夜景をよりよく眺められる情趣に的確だったのは言うまでもない。ひとつ橋を越えただけなのに、そこに人影は見当たらなかった。悪寒のような寂しさを覚えつつも、対岸の灯火を見つめているみたいな落ち着きが、夜の衣服を肌がけしてくれるよう身にしみた。
家路を急いているわけではないのだけど、祭りをうしろにするぬくもりある孤独感を省みることは無粋に思えるのだった。
[176] 題名:日向 名前:コレクター 投稿日:2011年03月11日 (金) 05時27分
何気なしに壁に片手をつきもたれかかってみた。固さも手触りも特に意識されない。いまどきには珍しいというより、ここは相当古い家屋である思いは、舗装される以前によく目にした雨上がりの水たまりに向けたまなざしと重なりあっている。ふざけながら足を入れると時には意外な深みの水たまりに出くわす。おそらく小さな時分だったから、その深みに鈍感なだけだったのだろう。
ある夜、もたれた壁が見えなくなっているような気がしてよく目を凝らすと、わすれな草色をした蚊帳がその部屋に吊られていた。
「どう、透ける色合いがきれいでしょう」女は自慢気にそう言った。
「懐かしいなあ、どこから持ってきたんだい」
「納戸に眠っていたのよ。ほこりもかぶっていたけど、水洗いして干しておいたらこんなに蘇ったのよ」
「日差しが強いから一気に乾いたんだろうね」
「編み目に水分が張りついていたわ。ゆらゆらとしてるの。はたきかけて止めたわ」
「どうしてさ」
「ほうっておいても、じき蒸発しそうで。でね、よく見ているとひかりを浴びて編み目から浮かびあがるみたいに消えてゆくの」
「じっと見ていたのかい」
「そうよ、乾ききるまでずっと」
女の表情には日中の照りがまだ残っているようで、なにやら少しばかりまぶしく感じた。なぜあの時すぐさま蚊帳のなかに入ろうとしなかったのだろう。湿った夜風がこの部屋に忍びこんでいるというのに。
くすんだ天井から落ちている灯りの加減で、ところどころが淵に沈んだような濃い色合いを見せていた。隣の家から漂ってきたのか、ここでは無用の蚊遣りが鼻をかすめていったとき、夏休みの水遊びがとても懐かしく思われ、不意に川に飛び込む要領をまねて薄く透けるむこうに身を投げ出してしまった。
「あらあら」
女は嬌笑とも驚きともつかない、小さな落石みたいな声を出した。
天井の隅から下敷きが割れるような音がしたとき、からだがふんわりと一瞬空にとどまったようで心地よかったが、電車のつり革状の輪が手前に落ちてきたので落胆のほうが勝ってしまい、いたたまれない気分になった。
古ぼけた室内に端然として、そしてこころ細気に吊られていた四角形を乱してしまった。
何日かしてその部屋を訪ねてみたけれど、蚊帳も、吊りかけ用に据えられた天井下の取っ手も、女のすがたもなかった。
がらんとした空気が土色をした壁に寄り添っていた。そっと触れてみると、日中らしい火照りが感じられた。
[175] 題名:処刑船 名前:コレクター 投稿日:2011年03月08日 (火) 10時29分
それはまだ沈まぬ太陽を知っている朱に染まる夕暮れに始まった。潮風にさらわれる娘の髪も空いっぱいにあふれる光を浴びて琥珀色にかがやいていた。茫洋とした夕空に寡黙な祈りを捧げた草原は、その草いきれのなかに安息を見いだしているのか、やや湿った空気に包まれながら、透き通った娘の微笑を絶やそうとはしない。
ところどころに生い茂った灌木の加減により広々とした眺めである岬は、かえって開放感を知らしめてくれる。岬の下はかなりの深みを持っているのだが、それほど距離をへてないここからの眺望からもいまだ険阻な荒磯に出会うことはなく、遠い潮騒の音さえ届いてこなかった。聞こえてくるのは反照を受け緑が黄金色にそよぐ衣擦れのような幽かな調べだけである。
まぼろしが映しだされているのではない、夢があまりの絶景を生みだしてしまって境界を設ける必要がなかったにすぎない。スクリーンの彼方にまで焼きついている西日を疑うすべなど微塵も持ちあわせておらず、ひたすら情景に魅入られた境地はまさに夢ごごち、岬から俯瞰する想いも遥か未来に馳せるせわしさへと埋没している。だから、娘が見知らぬ青年に向き合っている様を遠目にしたときも、海鳴りを呼びよせることなく、ただ眼を細めるのだった。
記憶喪失者が意識を取り戻したのは、胸のなかで小人たちがいっせいにざわめきはじめ、断崖にそって傾斜した草原を駆け出したのと同時であった。いや、実際には駆け出したのではなかったが、細めた眼が大きく開かれたと感じられて、娘の外道をはたと呼び覚まさせた。
「もうこれで五人目じゃないか、、、」
娘は殺人鬼だった。今まで男性ばかり五人刺し殺していた。現に対峙した若い男の脇腹には鋭い刃物が突き刺さっていて、この急転劇を理解する間もないまま草原にくずれようとしている。彼は何を見届けたのだろう、刃物のひかりが瞳の奥にまで達したのか、木の葉が最期にくすぶるような鉛色となった眼には、自ら滴らせている鮮血さえ識別できまい。
男が絶命するのを確認することなく、娘はこちらを遠いまなざしで見つめ返した。肩までかかった栗色の髪が潮風の向きなのか、殺意の余韻なのか、不敵な乱れかたをしている。落雷と突風にでもあおられたようなあらくれをこちらに告げよう、そう望んでいるでないかと思えた。すこしは歩を進めたのかも知れない。なぜなら、傾斜にそって次第にきらきらと光る星屑が海面から浮上する光景にはじめてまみえたからである。
夕照のきらめきは娘が犯した殺生と一切関知なしだと言いた気なほど、無邪気にまばたいていた。裁断をくだすにためらいはなかった。
逃亡を阻止し首尾よく岬から一段降りたところにある見晴らし台へと娘を連れてきた。ここからの展望はいわゆる絶壁で臨まれる岩場で形成されている。右上に広がっていた緑が嘘のように消え失せ、ごつごつとした感触を全身にあたえていて、その身の危険は真下へと切立っためくらむ恐怖に収斂されていた。鉄杭が打たれ頑丈なロープが三本、大人の胸元あたりまで張られ不慮の事故を未然に防ごうと努めている。
娘が何気に一番上のロープへ手をかけたのを見計らって、右腕を太ももつけねの内にまわし、あまった腕で安全が保られていた手をはらいのけ一気に押し出し奈落へと突き落とそうと、最大限の集中力を発揮した。すると娘の両足は思いのほか軽やかに浮き上がり、くの字を描く格好で向こう側へと転落しかけた。と云うのも反転する勢いのなか咄嗟にからだをひねり、転落をまぬがれ二本目のロープをしっかと両手に握りしめ、宙にぶらさがる軽業師の様相で上目つかいをしているのだ。その瞳に汚れを探しだすことは無理だった。娘は極限の状態におかれながら微笑を絶やしていない。
「おとうさん、わたしが怖くなったのでしょう。でも、わたしは殺されない、、、」そのあとの言葉を聞き取るのは不可能であった。
いつの間に現れたと云うのか。古代海洋時代を想起させる木造船が一艘ちょうど娘が落下するであろうあたりに向かって漕がれてくる。娘は自身に満ちていた。「これくらいの断崖なんて飛び降りて泳いでしまえる」そういいた気な柔和な面持ちを誇示していた。視線は一途だった。憐れみがはねかえそうなくらい優しい眼でじっとこちらを見つめている。真下で何が起ころうとしているのか知る余地はない。
木造船の帆柱は十字架を示していた。白帆は見当たらない。かわりに十字架の下方から、まるでクワガタ虫みたいな二本のノコギリ状をした鋭い刃が鈍い銀色を反射させ、ゆっくりと水平に開閉しながらせまりつつあった。そして右舷左舷からも半円をした大型回転カッターが飛び出し、すすんで両手を放し落下してゆく娘の位置に停泊した。静かなはずだ。夕陽の海は凪いでいた。
[174] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット53 名前:コレクター 投稿日:2011年02月28日 (月) 23時23分
夏木立の合間を縫って山間に点在する民家を眺めている両の目はまぶしさを一層募らせ、澄んだ意識を胸中に収めながら生い茂った雑草たちのうえに歩を休めた。真新しい空気を気持ちよく運んでくる涼風には、草いきれを浄化する瑞々しい効果が備わっているようで思わず鼻孔を力ませてしまい、これ以上は嗅ぎとれないくらい緑から夏の匂いを奪った。奢侈に耽る様相を想い描きつつ、耳をそばだてては野鳥や蝉の音を慈しみ、振り返るまでもなく背にした下方に広がっている紺碧の海を早くも懐かしがった。
ここに来れば仙人の心境をかいま見れるのだと夢想した。
去年の父も同じく夢想したに違いない。真夏の山には一緒しなかったが、狂おしいほどに陽光の衰退を拒み続けた秋口の山々に花萌えるより色づく紅葉を夢みたと話していたから。
父の夢は儚く散ったかにみえたけど、あの鮮血を口にした光景からは悪夢を超え出た異相が夕映えにときめく侘しさとなって抽出された。それは散り去って小川の水面に浮かびゆく花弁の残像であり続けることで、逆に無造作にすくいとるのが億劫な日常へと据え置かれた。
遠藤とどんな関わりを持ったのか今となっては計り知れないけれど、父も父なら正真正銘の異形なる化身こそ美代であった。
「そうだ、あれからの美代さんにまつわる風聞を砂理ちゃんに聞かせていない。もっともぼくにしたところでその詳細を知ってはおらず、これもまた残像であるが故に性急な解明を望んだりしないだろう」
見つめ合うと呼んで差し支えないふたりのまなこは張りつめながらも、次第に緊張がほぐれる具合で沈黙を破り、水分を浸した指先で溶かされる薄紙のように穴があき、閉ざす役割から解放される安堵を共有する雰囲気を醸して向こう側を明示する。
「吸血事件などと喧伝されたには違いないけど、ことの真相は地元のあいだでもよく判明していないみたいなんだ。記事では猟奇的な局面を打ち出そうとしていたが、被害にあった少女らはのどを噛みつかれたとか重傷を負ったとかまで到ってなく、精々手や腕からにじみ出た血におののきながら泣きわめいていたという目撃者の証言があるだけで、手ひどい行為を受けたわけでも乱暴されたわけでもなさそうなのさ。元々ひかえめな性格なうえ美人であったことから擁護する側に立ったひともいたようでね、その説明によれば、子供たちは転んだりなんらかの擦り傷を自分で負っていたところに偶然美代さんが居合わせて、つまりまあ、ここからがどうしても奇異な行動にとられるんだろうけど、その傷口をなめてあげたいたと云う情況であった、そう主張してやまない穏健なひとたちは結構いたらしい。想像すると美代さんは過分に傷をいたわったんじゃないだろうか。それが子供の親らは手当から逸脱した印象を濃くさせ、日頃から下校時には不審者に注意するよう諭していた警戒も加担し、短期間のうちに同一者により引き起こされてしまったことで、常軌から外れた変質的な事件だと騒ぎだしたんだ。また当の美代さんがほとんど弁明らしい弁明を行なっていないのも、あらぬ風聞となって巷に流れていった要因じゃないかな。どうして事件性を帯びて来てるのに黙認していたか、ぼくにはよくわからない。美代さんのこころの問題だから。願わくば、うちの父が小説のなかに於いて陽炎であろう見果てない夢を推量してくれるのを頼みにしている。美代さんの件はここまでが今のところ知り得るすべてさ」
ごく手短かだったが砂理に聞かせたあとに感ずる充足のような余韻は清らかな鈴の音を想起させた。
それは今日と云う一日の終わりにふさわしい語りだったのだと、晃一に黄昏の調べが親し気に奏でられているようで、背伸びもするまでもなく辛口の酒を含んだときに感じる苦みを納得させ、そのまま等身大の現在を快く見つめられるのだった。そして曇天にも律儀に返礼する自らの影ぼうしを愛おしく感じる。行き交う見知らぬ影のなかにも雑踏にまぎれては、きっとこんな想いを忍ばせているのだろう。
大きな交差点にさしかかったところで晃一は右手のなかに思わぬ冷気を感じ、すぐさまそれが砂理の冬景色から抜け出た人肌の冷たさであるのを認めた。驚きで胸がいっぱいになるより、都会と郷里の冬の相違を漠然と比較している野方図な意識が先立ち、砂理の顔をおもむろに眺めたときには、掌に微かなぬくもりを覚えつつあった。返す言葉は必要ないと確信されたから晃一は無言で、その柔らかな季節の体感をしっかりつかみとった。砂理の表情に格別の変化は見られなかったが、信号待ちをしているあいだに左右を走り抜けてゆく車の騒音で、ちょうどその気持ちのささやきが掻き消されていると信じこんだ。
青信号が点滅し、ふたりは交差点を渡りだす。仲のよい恋人同士に映っているのだろうか、、、この眼帯のおかげで少しは奇抜な面立ちと思われているのでは、、、この場に及んでもそんな意識がせり出してくる自分に舌打ちする。
灰色に被われた空模様の一角が黄ばんだ明るみを示すなか、ふたりのうしろ姿は人混みのさきに消えていった。
まんだら 最終篇〜虚空のスキャット
終
[173] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット52 名前:コレクター 投稿日:2011年02月28日 (月) 23時22分
晃一がうつむき加減になるまで他にも色々と砂理は語りかけていたし、合間にはそれなりの受け答えも返したつもりであったが、己の影にすっぽりと包みこまれてしまった切なさが募り、外界からの情報を取り込む意欲をどうやら喪失しているようであった。
実りかけだした恋情があっさりと消え去ってしまうのは予期した通りであったけど、もっと別の流れで立ち消えるだろうと、くじ引きなどした際に念じるあの期待を持たない大らかさと同種の失望を思い浮かべていたので、これほど悲しみがこみあげてくるとは考えてもみなかった。自分を突き放している姿を過信していたのがあだとなってしまい、ちょうど粗相を仕出かした子供が間をおいてから泣きべそをかきだす程合いに似て、こみあがってしまった悲しさの要因さえ覚束ない有様だった。
結局は艶言を帯びた会話がなされたにもかかわらず、不如意に傾く結論へと誘導されていただけだと逆恨みを抱いてしまうくらい実りは報われず、自責の念は額面を認めはしたものの、砂理から指摘された意見を噛みしめる余裕はあり得ない。そんな高波が押し寄せる船の上を踏みしめているのがやっとで、気配りには追いつけない様相であったから、大概は保身にまわるところであるのだろうが、今の晃一はどこか投げやりな気分に支配されたまま悲哀へと身をゆだねてしまうばかりで、過言だったからと表情も豊かに声色も優し気に相手を慰撫してくれる砂理の言葉をうまく聞き入れるのが難しかった。いやむしろ、茫洋とした気分にくるまれた半信半疑な展望台に臨んだからこそ、失意の先鋒がかたくなに沈黙の塁壁だけを見つめてしまったのだろう。
消沈しきった面持ちに高揚をさずけようと懸命になっている砂理の気遣いはうれしかったのだが、試してみたいとか、抱きたいのとか、晃一くんを餌で釣るみたいなもの言いをしたのはいけないことだった、、、それはわたし自身が揺れ動いていたから、そしてその揺れがいい波長に合わさればと安易に案じてしまったのが、あとさきも考えずに口先に出たような気がする。多分去年から音沙汰が途絶えてしまった不信と反感があんなふうに媚びた態度をあらわにしたの、そうすればちょっとした意趣晴らしになるし、わたしに対してもっと関心を持ってくれるのでは。恋愛感情が生じるのはほとんど可能性がないとたかをくくっていたのも高慢で不謹慎だけど、ほどほどにからかってみたい興味が先行していまい、あなたにとって心理はどうあれ異性に映る事実が何よりの強みになって、おおっぴらに隙を見せながらすり寄っていく素振りさえ示した。ところが、そんなわたしを投げやりだと軽視されたあたりから、確かに自分の浅はかさと意地の悪さが覗けたように思えて、晃一くんの言ってる理屈が痛々しく伝わってきた。それでことさら言い返すつもりはなかったけれど、あんな調子で攻めるようなことまで話してしまった。と、その先へはさすがに晃一も意見をはさみ、攻めたてるなんてそんなんじゃない、君はとても素直でかわいらしいなど、情にほだされた真摯な顔つきまで作って応対した。あたかも相づちを打つ使命をよく心得ているかの調子で。
だが、この胸に沈滞している砂地の失意は残念ながら払拭されることなく、却って「投げやりな」などと云う言葉を先んじて砂理に振っているのが妙に乾燥した印象を残し、晃一のなかに敷かれた砂をより粒だたせた。
偶然だった。今日この広い東京の街中を砂理にめぐり逢う為に出向いていたわけではない。むろん彼女の存在がまっさらに意識から欠落しておりもせず、いつかぱったり顔を会わせる機会もあるだろうとは内心祈っていた。昼飯も一緒に食べれたし、あの出来事にまつわる件も一端ながら語れて無沙汰の穴埋めにはなったはずだ。もうここらでふたりして席を立って別々の帰途についてもいいのではないか。未練みたいなものがないと云えば嘘になるが、これ以上虚しく実りを求める時間は苦渋でしかない。外は薄曇りだったけど、晃一のこころには冬の陽特有のしめやかな光線が差し込んできた。よりこころを乾かす為に得られたそんな効果を潤んだ瞳が反作用してみせる。
「それじゃ、それそろ出ようか」
自覚に成り得ないほどよそよそしい響きが口の中にとどまっている。返事をするより早く、砂理は黙ってうなずいた。上背のある晃一を見上げるまなざしが、そのとき一点に結ばれ、同時に口もとも、そこから静かにもれる呼気も、鼻の先がつんと上を向いた様子も、透けるような白い肌も、そしてぎこちなく起立しているようだがたたずんだ全身も、ひとつのこころに操られているみたいにすべてが別れゆくひとに張りつめられた。すくんでしまったのは仕方のないこと、晃一は須臾の間、何もかもが凍結してしまう幻影を夢見た。一切が止まってしまうわけではなく、時間はしめやかな冬の光を通して寒々とした光景を白鳥の舞となって流れゆき、見果てぬ銀嶺の彼方へと飛翔する。白銀の世界はどこまでも続き、天空からまばらに降ってくる一粒一粒の雪は淡々とした安息を約束しようと語りかけてくれている。
薄紅色した砂理のくちびるが更なる夢を描きだすのを待ち焦がれているように、、、晃一の想いは夢遊病者の無碍にあった。
[172] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット51 名前:コレクター 投稿日:2011年02月21日 (月) 08時09分
晃一は顔がこわばりゆくのをどこか覚めた意識でとらえていた。際どい橋渡しなはずだけれど、平静を装ったまま歩を踏み出している宙に浮いたような空気抵抗を感じている。高所から見下ろした先へと吸い込まれてしまいそうになるめまいにも似たあやふやさが、危険を察知していながらも逃げ去ろうとしない誘惑の罠を想定してしまい、ためらいなくその仕掛けに堕ちてみようと願っている。それは秋波を送られているのだと積極的に解釈してしまう情動をともなっていたが、簡潔に型押しされることを懐疑している用心深さによって抑制され、意識下に充たされる手前で拮抗を見せていたと云えよう。
こわばりを作りだしている分子は決して戸惑いや照れだけでなく、予知された緊張がさずけてくれた乾きゆく木綿のような水分をうっすらと含んでいた。これから交わされる会話がどう展開するのか、晃一にはそんな蒸発と同じ作用で、抵抗を示さず無理のない、雲間に隠れてしまわない、陽光から届けられる送りものとなり胸の裡をかすかに焦がしながら憂いを緩和させるのだった。
この気分は欲情と無縁であるのでは、そう云った思念が突風になってよぎったのと、砂理が柔らかな言葉を投げかけた間には、まさに谷底をうかがう冷ややかな気配が濃厚に漂っていて、性欲に裏打ちされているせわし気な喜びは静かな引き潮みたいに遠のいていった。
「好きなのでしょ、、、」潮騒であるはずの響きにうらはらの想いが交差してゆく。それより先を繋がない砂理の居ずまいはしおらしくもあり、増々晃一の自尊心を曖昧なものに変容させ、花咲くときめきは不純分子を昇華しながら様々な想念が、まるで寒色に透ける映し絵のごとく淡い情感をのせて羽ばたたき、この身に巣くう不明瞭なものを旅立たせた。残像にさえ成りかけている直情は今すぐにでも手をとり抱きしめてしまいたい感動を哀感に置き換えて、あまつさえ憐れみの萌芽がどちらのこころなぞったのか知らないままに、諦めとも呼びうる波紋を描きだしている。
「ああ、出会った頃からずっと好きだったよ」別れの言葉を口にするかのような控えめな、けれども切実とした言い分を持った答えがにじみ出すと、再び相手の表情を慈しみながら見遣る。
沈黙の流れを意図した儚い期待は、陽気な女神によって美しく裏切られた。
「ありがとう。うれしいわ。今もそうなら、わたし、自分を試してみたい気がするけど、どう言えばいいのか、つまりまだ時間が必要に思えてくるの。わかっている、わかっているのよ、傷つくのを恐れていることも、不確かなまま飛びこむような行為にうしろめたさを感じていることも、、、それから何よりもひとを好きになることが不安で仕方ないことも。でも、大丈夫、別に晃一くんに応える為だけにあれこれ悩んでいるわけじゃない。本当はずっと以前から抱え込んできた問題をもう少し引きずっていたいだけかもね。取り急いで証明する必要がないってわけ。だから、、、」
「だから、、、」手渡されるバトンの要領で晃一があとを継ぐ。「それでいいのさ。背伸びしたり無理したりするのはあまりいい結果を生まない。君はぼく気持ちもきちんと考えてくれているし、自分自身の心情だって結構把握してると思う。今日こうやって話しが出来たのはとても貴重なことだよ。砂理ちゃんの不安はぼくの不安さ。それが確かめられたと信じればそれでいい。正直に言えば、今ふたりでいる瞬間をもっと明確に確かめたい、つまりは関係を深めるには裸の君を抱きしめてみたいと願っていた。でも、そう顔に書いてあるのを指摘されてうろたえてしまったのもまんざら悪いだけではなさそうだ」
「それでいいの。案外と臆病なだけかもよ。もちろん、わたしもだけど。あと一押しされたら、多分晃一くんの願いに近づいていけるような気がする。わあ、わたしって大胆なこと言っているのかなあ」
「うんまあ、投げやりなところもある。それが大胆なのかどうかは分からない。ただ、じれったさが本音を物語っているとは限らないよ。もっともっと駆け引きだけを楽しみたい思惑が臭ってくるから」
「そうかなあ、そんなゲームみたいなまねしたってつまらないでしょ。わたしはわたしで、よく考えながら返答してるつもりだわ。駆け引きだと推定してしまう方が虚しくない。その顔のうえにはしっかりと欲情が浮かんでいたけど、それって一過性の仮面なの。晃一くんはさっき、わたしの不安はぼくの不安って言ってたけど、そこにやっぱりずれがあるんじゃないかなあ。同化したいのって本当は体なのでしょうが、それを振り切る方便としてお互いの不安をそこに重ね合わせてしまい、まるで精進したふうに取り澄した意見を吐きながら自己を慰めようとしている。分かるのよ、そんな気持ちが。過去の件もあるだろうし、お父さんも大変そうだから仕方ないのでしょうけど、あなたまでが覇気のない態度をとることはないと思うの。晃一くんは晃一くんらしく自由でいればそれでいいのに。まえに聞かされた円環とか轍とか、どうしてもとらわれなくてはならないわけ、それも一種の想定かも知れないじゃない。ごめん、言い過ぎたかな」
「かまわないよ、その通りだと思うから」晃一の片目が潤みだしている。しおらしく映ったはずの砂理から思いがけず反論され、崩れゆく自画像こそが堕ちゆく仕掛けであったのをようやく理解した。薄っぺらい感傷などではなく、隠蔽し続けてきた粘着質な意志のゆくえに対して初めて涙した。きらきらと輝く光芒の住処を見つけたと錯覚するのも無理はない、一縷の涙が本物の沈黙をあたえてくれた。
[171] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット50 名前:コレクター 投稿日:2011年02月21日 (月) 08時09分
「父さんどうなったか気にしてくれるんだ。想像してごらんって言いたいところだけど、『**の生き血』ってウド・キア主演の映画を観てくれていれば尚かつ感銘深いと思う。至上最弱の吸血鬼なんだ、今度機会があれば鑑賞してほしいところかな。父さんは吸血鬼じゃないけど心底興味があったんだろう。あんな有様をさらした以上はもちろん引きこもっているよ。いいんだよ、笑えるから。そのほうが父さんも納得してくれる。妙に心配されたり同情されるよりか、笑ってあげるのが一番じゃないかな。大学のほうは休職届けを出して書斎に閉じこもって小説を書いている。えっ、どんなのかって、それこそ想像通りさ。この間こっそり原稿を読んでみたんだ。古風だよ、万年筆でこつこつと書いているんだから。そしたら案の定あとから覗き見したのばれてしまってね、いつもそうさ、書斎の本一冊拝借しただけでもわかってしまうから、たぶん今回もねちねちと嫌みたらしく小言を聞かされるかと観念してたら、こんなこと言い出してさ。今まで論文やら批評は書いてきたけど創作は始めてなんでどうにも筆が進まない、これこれの筋なんだけどおまえどう思う、とかでさ。筋もなにも自分を投影した主人公に、ぼくそっくりの息子、怪奇小説のつもりで書いているらしいけど美代さんや遠藤さんらしき人物設定もそのまま、まるで去年の夏だ。おまけに砂理ちゃんまで登場しそうな伏線も敷かれてるんだよ。休職までしての執心だから、まあ本人の自由だけど」
「へえ、そうなの。わたしも出てくるんだ。やっぱり女吸血鬼のまえで失神しちゃうのかな。それでレズだとか色々掘り下げてあって、晃一くんとの関わりも結構ドラマチックに展開するわけかしら。面白そうじゃない、わたしでよかったら脚色なしで描いてもらってもいいわ。血や肉を提供するわけでもなく、魂を売るのでもない、ただ現実の自分とは別のもうひとりの自分が虚構の世界におどりだすだけ。そんな自分と対面してみたい、そう思わない」
「冗談じゃないよ、磯野家の恥はもう十分だ。砂理ちゃんは身内じゃないから面白そうに映るんだろうけど、ごらんのようにこの片目だって元はと云えば父さんから巡ってきた因果だ。その方面に関しては暗黙の示談が成立してるからまあいいとして」
「あら初耳、なんなの、その暗黙の示談って」
「話してなかったかなあ。犯罪を除外してぼくの生き方に一切口を挟まないって盟約、父母ともに了承済みさ。ぼくがひとり暮らしを決意したときにも色々と一悶着あって、それでこの目を無くしてからただでさえ腫れ物に触らないよう、刺激しないよう、家庭環境を保持してきたわけだけど、ぼくからすればそれほど厄介な性質ではないとやっぱり思い過ごしっていうか、過敏になってしまったんだと、そもそも悲劇はどこから発生したのか、こうして胸に手を当ててよく省みれば両親に文句のもってき場がありそうでやはりないんだ。父に対する陰険な報復など性根が腐っているから試みようとしてしまうのさ。父親に両手をついて詫びられる光景を浮かべるだけで気色悪くて、不快なのかどうかとは別の次元で鳥肌が立ってしまうじゃない。いいんだ、正義や倫理を問うまえに日々の積み重ねと共に沈滞していく業を払い除けるべきだと信じている。業が積もればろくなことが生まれないからね。吸血事件なんか、まさに核家族における当主筆頭の祭礼だった。家族の平和を温存させたいなら無理して波紋をひろげたりはしないよな。すり減ってしまうのは石鹸とか靴底とか包丁とかでいいんじゃない。それなのに自由気ままを貫こうなどと宣言したら恐ろしく家族みんなが神経をすり減らしてしまった。かつてはそうであったから、盟約なんて云っても実は軋轢を避けるための方便なんだ。これで落ち着いてくれればよかったんだけど、分別がつきかけた矢先に父が暴走した。もっとも父のなかでは日常など見捨てる気概にあふれていただろうが、、、まあ大した騒動にならなくてよかったのが救いだった。塚子さんも一切口外してないみたいだし、お宅のお母さんだって同様だろう。ああ、話しが見えにくいって、それはいまから補足するよ。平和を乱す予行演習みたいに休職し、脱稿したら公にするのかは知らないけど、読むべきものが読めば、亀裂が生じる可能性だってある不穏な内容を書き紡いる心境が今ひとつ腑に落ちない。所詮は学者気質を隠れ蓑にしたエゴイズムとしか映らないんだ」
「ううん、もうそれでいいわ。お父さんはきっと一気に神経をすり減らそうって奮起してるんじゃないかしら。日々の連鎖で消耗してゆく何かを見つめ直しているような気がする。だから、いいの、あなたの家の事情まで知ってもあまり意味がない。いいえ、決して興味なくてそう言ってわけでなく、関わりになりたくないとかでもなく、そっとしておいてあげてほしいの。わたしが関心を示さないって行為、そうね、笑ってあげてくれっていうのもわかるけど、残念だけど笑えない。そのかわり小説のなかで自由に羽ばたいているすがたを思い浮かべる、、、わたしからお父さんの件を振っておきながらごめんなさい。さあ、じゃあのことに戻ろうか。あらどうしたの、そんな驚いた顔して、晃一くんの気持ちについてよ。わたしを好きなんでしょ」