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[170] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット49 名前:コレクター 投稿日:2011年02月15日 (火) 03時31分
砂理の黒目は見事にどこへ焦点を定めればよいのか分からなくなってしまったようだった。貰い受けてきた子犬がはじめて屋内に放されたときの様子に似て。それは葛藤や軋轢からくる重圧とは異なる、もっとたおやかな、花吹雪のなかにさらされているみたいな、ときめきさえ覚える香しい身の危険。強風によって散らされる花びらが全身に降り掛かってくるあくまでもののあわれに籠絡される戸惑い。晃一は砂理のこころが透けて見えるような気がした。レントゲンの透視など無機質な視覚ではなく、蝉や蜻蛉の羽のように生きた透明度で知りうる柔肌のこころを。
「そんなふうにはっきり言われると恥ずかしい。でも君だって恥ずかしいだろ」
ふたりの思惑が同一の場所にとどまっているのだと晃一は考えていない。むしろ至近距離にありながら見落とし勝ちである慣れ親しんだものをもう一度しっかり見つめることで、水底の感触が伝わってくる程合いに互いの断層を計れるのだった。本心から出た言葉であれば額面通りに受けとめもしただろうが、砂理の口吻から大胆な問いかけに自らも狼狽をしめしたがっているほんの些細だけれど、悪戯からは脱皮しかけた思慮がかいま見え、晃一の反応を錯雑にした。
念頭に突き上げると云うよりも、相手の固定されない目線を追いながら香りとったのは自分の肉体から滲みでてくる煙状の、だが、肝要なすがたをかき消すのない淡い煙幕に包まれた軽やかな推量だった。
見果てぬ夢であった砂理との接触をきれいさっぱり拭ってこれなかった情欲が、ついに今湯煙の熱気を立て始めている。
生来から異性には関心ないと自他ともに認めていた感覚がわずかだけだが揺らいだのだ。砂理を見通すより早く、こちらの感情を察知していたからこそ一見大胆にも聞こえてしまう探りを入れ、ここしばらくは音信が途絶えていたとは云え、少なくとも好意を寄せ合ってきたことには違いない関係に変化が訪れるのは予期せぬ事態をどこかで求める証ではないだろうか。郷里の件にしても同性志向の吸血鬼とのふれこみによって吸い寄せられてしまった比重が大きいかも知れないが、同郷に縁があるだけで異性である自分を慕ってああした冒険を試みたのは、決して算段によるものだけとは思えない。この微妙な距離感をなるだけ意識してこなかった所以は何よりも砂理の感情を逆なですることなく、それでも波紋を与えたいと云う抑制ある理念に収斂された。決して恋愛を狭間に据え置かない、ある意味邪心を持ち合わさない友情とも呼び辛い想いは、何気ない口ぶりや態度に如実に表れるところだったが、恐らくはこの距離をとりあえず維持したが為に自ずと中性的な接し方をこころがけていたのだ。男色の気は間違いなく備わっていないけれども、女性同士の交わりに対する憧憬は単に性的な次元を超えて赫奕たる清浄なひかりへと結ばれる。
こんな意想が内包されていたから、砂理の胸に好意以上の信頼がこだましていたのだろう。夏の日の冒険は案じていたより呆気なく終息し、異性としての結びつきがなかったからには、それぞれが想像している通りの現実に埋没していくしかなく、あれから別に信頼が深まったわけでも、馴れ合いに流されてゆくわけでもなかった。どちらかが過ぎ去った想い出にしがみつくか、またそこから奇矯な展望をめぐらせ強引に縛りつけでもしない限りは元通りの間柄に帰ってしまう。
先ほどの砂理の発言は晃一にとってみれば、諦観の彼方にそよぐ涼風であるべきだったけれど、こぼれるはずのなかった独り言を反対に聞かされたことで、こころの底から恥ずかしくなってしまったのだった。そして恥かくしの言い草に無様なくらいふさわしい、あんな反復をしてしまった。ところが砂理はまたしても晃一をかく乱される返事をしたのだ。
「いいえ、恥ずかしいなんて思わないわよ。だって前々から思っていたことだし、今日だって偶然に会ったようで、そうでもないって考えたの。ごめんなさい、こっちから棒で突ついといて、困ったなあはないわね。でも、あれから連絡なかったから少し寂しかったのかな。ねえ、こんな言い方するから善き解釈に発展するわけ」
と、言うやかつてない破顔を見せた。晃一もつられてはにかみが苦虫に、それからまるで喧嘩のあとの仲直りで交わすさわやかな笑みに変わっていくのを知った。するとこれまでの下心が一気に露呈された自虐的な歓びも沸々とわきあがってくる。勝ってに文句が口から飛び出してゆく。「ぼくも健全な男子なんだ。君と間近にいて性欲を持たないほうが不健全と云うもんじゃない。そうだよ、かなわない欲情は紆余屈折しながらどこかに噴出するしかないんだ」
「日に二回も自分でしてるって本当なの。まえにそう言ってたわよね」
「ああ、そんな時期もあったさ。もう昔のことだけど」
「何が昔よ、わたしたちまだまだ若いのよ。そんな老人が語るみたいな言い方はやめてくれない」
砂理の面持ちは笑みを保ったまま、語気を強めるでもなく、ただ意地悪な子供が少々本気になったような純朴な口調で応対する。
「去年の夏だって、まだ終わっていないわ。そうでしょう、それでお父さんはどうしてるの」
晃一はわざと渋い顔をつくりながら、「あれま、本題からそれるわけね。いいだろう。それも今日の課題だから」そう答えると、今度は眉間のしわをひろげて隻眼を光らせのるだった。
[169] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット48 名前:コレクター 投稿日:2011年02月08日 (火) 06時04分
「そうそう、うちの父親についてね。これもそれとなく気がかりなんだ、っていうかわざわざ心配してもらうほどでもないんだけど。やっぱり罰が悪かったに違いないさ。息子をまえにして吸血行為に陶酔するんだもんな。誰だって少しは変なとこがあったり、妙な癖があるだろうけど、あれは奇行だと胸をはって呼べるからね」
どことなく気楽な口ぶりであったが、自ずと招いた後日談義そのものに没頭している素振りが疎ましくなってきたのと、身勝手な退屈さがもたげ始めだしたのと、両極から挟み撃ちになっている胸中は意外と素直な焦燥を晃一に振り分けてくれた。
出来ればかいつまんであれからの日々を話したかったのだが、几帳面な性格も手伝ってこと細かに父の変貌ぶりを砂理に聞かしては、反応を見ながら質問をしてみたり、故郷に置き忘れてきたものでもあったかのようにそれからの音信やうわさなども織り交ぜながら、気持ちだけは焦りつつも一気にまくしたてるふうには運ばれなかった。すでに晃一は自身の願望が抑えきれなくなってきていて、いくら相手の為とは云え反芻にも似た会話を続けるのが面倒にもなってきた。磯野家にとって名誉なことであればむろん苦になるわけでもないだろうが、話せば話すほどに惨めな気持ちを回避出来なくなってしまう。掘り下げて考えるほどに高尚な心理などに近づくどころか、増々嫌気がさしてくるばかりで仕舞いにはつくづく運が悪いなど嘆きにまで発展するのだった。しかし、不運に見舞われてばかりだったわけでなく、それなりの出会いやときめきもこの胸を通過していったのだからと、驟雨にとまどいながらも決して泣き言だけでやり過ごしていなかった様々な事実には確かに救われていた。
父の現状を話すまえに何故あのような奇怪な訪問に随行したのか、せめて動機だけはきちんと砂理に理解してもらいたくもあり、それを伝えるのは願いが伏せ字のような効果を生むのを予覚していたからであって、好むと好まざるも、相手が相手であっても、所詮はせりあがってくる欲動につき動かされているのだと判断した結果だった。興味本位が不純ならばこうした晃一の話に聞き入る砂理もまた無垢とは呼べない性根であるし、そもそも異性間でありながら恋愛には到底結ばれない実情を納得したうえで、同志など大仰な結束力だけで行動を共にしたのも、よくよく顧みれば風変わりな関係性である。
晃一のいらだちは詰まるところ成就だと明言可能な現実に対面してこれなかった悲運にあった。いらだちに年齢は関与しない、むしろ逆巻く自然を裡に囲う方便に熟練していないが故に若さは老成に憧れる。完結までほど遠い作品みたいな、あるいは落成のめども立っていない工事みたいな、故意ではない手つかずは瞬発的な発光に幻惑されやすい。思春期にありがちな高邁な意志に惑わされた始末に悔いはなかったが、偶然を装った形の出会い、肉親の不埒な行為がめぐり会わせた初恋などには心底絶望した。こころも大きな傷を負ったけど日常を見据えるに大切な眼球も片方失ってしまい、簡単には立ち直れないそうもない不遇を青春の勲章とまで自負する屈折は根深い。歪んだ鉄筋がそのままの状態をしばらく保持し、本来の強度とは無縁の働きを示すように。
故郷に縁がある砂理との邂逅もまた定められた軌跡を追う盲目の旅人であった。もちろん晃一は盲人ではないが、ひかりを見つめる器官が半減している限り闇夜の道行きには好都合となる。父のとった陰湿な仕打ちに奮然と立ち向かえる負の勇気は暗黙の畑地で培われた。他人である砂理と共謀するより以前から息子は父との間には提携が成り立っていたのだ。何を好んで超常現象にまつわる人物を尋ねるのか、いくら郷里だからと云え吸血事件の犯人と目されている女性にのこのこと会いに行ったりするのだろう。まっとうな頭で考えてみれば瞭然としている行動に痙攣的な好奇心を抱いた時点で見限るのが当たり前なのだけれど、表面では平静を装いながら新たな提携者である砂理をも引き入れ、崩れゆく浅ましい父親像を拝んでみたかった。
訊けば砂理も内密な事柄を長年温め続けていた実績を持ち、どこでどう繋がったか、美代と彼女の母にはそれとなく因縁めいた過去があり、しかも張本人である父と亡き遠藤とは夢境で知り合ったと云うではないか。のちの否定的な見解では、夢見が後発で前々から聞き及んでいた研究者と妹に触れてみたかったと説明していたが、どこまで信用していいものか、自前で起こした性的な挙動をひた隠しにし続けている姿勢からは軽蔑しか浮かんでこない。それでも、、、反旗を翻す意識を抱くこともなく、親子に共通項を認めたちいさな歓びは決して捨てきれないまま、又もや轍を踏むように陰湿な復讐を試みるが、相変わらず何も成就などせず、却って自分が汚れてゆくのを見守っている不甲斐なさを知らされる。
そこまで噛み締めながらおおよそこんなあらましを語った晃一だったが、徒労に終わる懸念ばかりが先走り、肝心の思惑を巧く差し入れることが出来なかった。もうあからさまに伝えたほうがよいのではないか。だが、晃一の熱気は吐息として冬空から少しばかり遮断された空気に霧散した。
そのときだった。神妙な顔つきをこしらえ黙って聞きいっていた砂理が声も艶やかにこう言った。
「えらく遠回しね。晃一くん、わたしのこと抱きたいんでしょ。顔にそう書いてある。不可能な肉欲って反対に募るばっかでしょうからね。困ったわ、、、」
[168] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット47 名前:コレクター 投稿日:2011年02月08日 (火) 05時55分
追想には違いないのだろうが、口をついて出る夏の幻影は自らの裡に巣くっている実体のようにも思えだして、振り返えるまなざしはまざまざと迫り来る倒錯した感覚だけを残してゆこうとしている。
夢幻の境地をたゆたう模糊とした視界にどう委曲を尽くせばよいのやら、次第と睡魔に襲われる状態からは実際に起こった現象が、ちょうど映画の一場面みたいに手の届かない世界で光彩を放っているばかりでもどかしく、靄がかった情景をなぞるのが精一杯になってくる。心奥に残存している記憶が曖昧になると云うのは、乾燥した感情で風化させられているからなのか。天井から降った夜の水に相反するのを承知しているかのように。
遠藤の影をどれくらい見つめていたのだろう、他の者らの反応はうかがうまでもなかったし、それは自分と同じく鋭角的な驚嘆だけに縛られていない、確かに全員張りつめた空気を吸っている気配は肌に浸透していた。想い出のなかにある夏の斜陽は、愛おしさで圧迫されていたにもかかわらず、常に淡い憧憬となって逃げさるしかない。この部屋の湿気と乾燥は謎めいた科学反応をしめているのか、それとも極めて均衡を保っているのか、よく感じとれないまま気持ちが静まっていくのを寝入り際のように引き受けている。
そして今こうやって砂理をまえにして一部始終を語りだしていることも夢境の現れではないのかと、地に浮いたような、それでいて山稜へかかる白雲を見上げたような、遠いところにこころが吹き流されていく安閑さに支配されている。夢の情景が澄みきった空間をかいま見せるのと同じく。
だが、晃一はしっかり目覚めており興味深く自分の話に耳を傾けている砂理の呼吸も鼓動も感じているのだ。強い衝撃と底なしの不安に失神してしまった身からすれば、その後の成り行きには胸騒ぎでせめぎたてられる勢いの危うい魅力で充たされたい望みがあるはずだから。
片目をじっとのぞきこんでいる一条のひかりは最初に彼女と出会った頃、まぶしさと羞恥で何度となく晃一を暖める新鮮な輝きに満ち、身もこころも突き抜けていく清涼な刺激となっていた。この瞬間にも光度は衰えることなく向かい合った距離など飛び超し、遥か彼方まで、地の果てまで、駆けめぐるだろう。ひかりは風に乗り、風もまたひかりと戯れ、熱風となり、涼風となり、あらゆる想いを運んでくれる。だからこそ幻想に傾いた事実を伝えよう。そのままでいいけれど、美しければ尚のこと素晴らしい。玲瓏たる音色にすべてを捧げる指揮者の如く、無の空間を馥郁とした香りで埋め尽くそう、、、晃一の想いは複雑に絡み合っていたけれど、無心で見つめられている自分を知るに及んで緊縛の縄がほどけだし、ゆらめく気持ちに木の葉が舞い降りてきた。
「遠藤さんの影が次第に薄れていくのを呆然と見ていたよ。だって、もう二度とこんな光景に出会えるなんて思ってなかったから。ほんと、呆然としていた。何かあっという間だったな。塚子さんの表情がもとどおりに変わっていった。でも誰も口をきかなかったし、その場から動こうともしなかったのさ。まるで余韻にひたっているみたいな気分だった。君はまだ気を失ったままだったけど、お母さんは口もとを引き締めたまま身じろごうとせず、ぼくと同じく一点を凝視していたんだ。父の様子をうかがうのは何だか気後れがしたと云うか、たとえは嫌らしいかも知れないけど、両親のセックスをのぞき見たようで不快な感じがして、でもおそらくそれ以上の出来事だったから、そう、児戯にも思えたから、そのまま正気を取り戻すまでぼくから声はかけまいとした。どのくらいの時間だったか覚えてないけど、無言劇の終わりを告げたのは美代さんだった。すでに遠藤さんの気配も消えてなくなり、あの暗幕が自動的に開くと外はまさに美代さんが演出した夕暮れそのものだった。微笑んでいたよ、多分あそこにいたみんなに対して。それは決して自嘲的な笑みなんかじゃない、慈しみのある透き通った無垢なものだったんだ。ろうそくに再び火が灯されるような気がしたんだけど、ごく普通に蛍光灯の明かりが無言劇を終わらせたのさ。そして静かな声でこう言った、もうお目にかかることはないでしょう。兄もそう申してました。今日のことは忘れません。それだけの言葉を残して部屋を出ていった。砂理ちゃんが気がついたのは塚子さんが熱いお茶をいれてくれたあとだったね。霊媒師がいなくなった部屋に時間の針が刻みだしたのはあのお茶が一役買っていたんだ。だって塚子さんたら、さっきの夜の水、主人亡きあとも新月の水汲みは続いていて、この緑茶もその水でいれたとか言うんだから。あっと思ったよ。何だ塚子さんは憑依されているのを自覚してたというか、演じていたんじゃないかってね。美代さんと一緒になってぼくらに最高の見せ物をプレゼントしてくれたかもって。父さんもそれを内心わかっていながら儀式に即したような気がする。君はまだ涙に潤んだ目をしていたよ。お茶をすすりながらあのとき何を考えていたんだい」
「そうね、今まで気絶なんてしたことなかったから、一体どうしたんだろうって、ここはどこなんだろうって、そんな単純な思いだけがお茶の味に含まれていたわ」
砂理の瞳も美代のように澄みきっていた。晃一は己の汚れを知った。罪深いかどうか定かではないが、白い小鳥の羽が少しばかりくすんでいるように感じた。
[167] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット46 名前:コレクター 投稿日:2011年02月01日 (火) 07時01分
決して声をかけた方向に寄りかけたわけではなかったが、美代の言葉は塚子との距離をせばめていると錯覚してしまう効力を秘めていて、それは金縛りの状態をあらわにしているとは言い難く、むしろ特異な磁場で浮遊しているような不均衡ながらも危うさを示さない様子であり、旋風に呑まれた揺さぶりが塚子の身体をこちらに向かわせていると見なされる。
「おそらく、美代さんが口にした魔法の言葉が塚子さんを緊縛しているんだと判断してしまった。だってその身に死んだ遠藤さんが乗り移っていると咄嗟に信じてしまうしかなかったから」
晃一は嵐の晩ひっそり部屋にうずくまっている、嫌に平静なこころを想像していた。荒れ狂う暴風や叩きつける石つぶての雨脚を素直に耳にすることが出来る、根拠のない安らぎのような倒錯。災害が間近に迫っていてもどこか遠いところの出来事だと思いなす、あの現実遊離した不確かな綿菓子のように膨らんだ胸裡。しかし、綿菓子のなかに幾筋か神経が魚の小骨みたいになって隠されている実感も同居しており、実質には恐怖が隠匿されているのも薄々承知しているのだった。
呪力がひとを制圧するのは暴力的な有り様でなく、反対に安堵を装った催眠的な加減によって自らの毒針に刺されてしまうのだろう。
晃一の視界が幻覚に近い様相を呈したのも、横目を使うまでなく砂理を介抱しながら同一のまなざしを投げかけている有理を察知したのも、そして父とて虚ろな状態のまま塚子の背後をじっと眺めているのも、あたかも集団催眠にかかったふうに思えてくるからだった。一陣の風がときをほとんど同じにしながらそれぞれをかすめていくように。
美代は風に言霊を吹きこんだ。そして霊力を高める為に夜の水を呼び寄せた。
「これはあとから父さんから聞いたんだけど、遠藤さんは新月の夜に人里離れた山中までわき水を汲みに行ってたらしいんだ。家のまわりにまく為にね、東西南北、特定の位置に土地への念いをこめ清めていた。どれほどの効用があったのかは知らない、だけど毎月の始めには欠かさずそれを行なっていたと云うんだ」
意識がうつろい始めた塚子をなだめる如く、天井から雨漏りに似た夜の水がしたたり落ちてきた。
「どうして夜の水だったかと云えば、驚いてはいけないよ。塚子さんを濡らせしばらくすると水蒸気が立ちのぼるようにして遠藤さんのすがたがぼんやりと現れだした。それは塚子さんの肉体からにじみ出てきたのか、あるいは彼女を包みこむように陽炎となって浮きあがってきたのか、そのどっちでもあったのか、ぼくは遠藤さんとは面識なかったけど、とにかく紛れもない本人だと思ったよ。美代さんだって兄が来ているとか言ってたわけだし」
遠藤の面影と塚子の身体は重なりあっているようで分離しているとしか形容出来なかった。透けておぼろげなのは降霊者の方だけれども、霧がかかった生身のすがたもまた仄かに映り、まるで幻灯機二台で同じ場所を映写しているみたいに実体がつかみきれない透明感を生みだしていた。
「幽霊には足がないって定説もあるけど、手足だけじゃなく全身がぼんやりと淡く水色に見えるんだ。水って不思議じゃないかい、海水も川の水も手にすくってみれば透明だけど、海川だと緑色だったり青色だったりする。生命は水のなかから誕生したから魂もやはりそうなのかなあ、なんてうっすら考えたりもした」
砂理の目の奥がわずかにきらめくのを晃一は、汚れなき不安だと信じた。父とも話し合ったのだったが例えあの降霊が集団幻覚であったとして、何ら劣等感に苛まれることなく、ただ純粋に現象と触れ合ったのだと首肯すればいいのであって、心霊の有無を問いかける必要はなかった。大切なのはどうして遠藤の亡魂をまのあたりにするのかと云う、我々のこころの綾である。
「ねえ、それで遠藤さんは何か喋ったりしたわけなの」
この世のものではないかもと恐る恐る包みをほどくようなもの言いには健全な期待こそあれ、忌まわしい不安はすでに退いている。失神したのは事実だが、こうした思いもよらない再会によって好奇の芽が顔をのぞかせれば、晃一の語りはただ単に過去に言及するだけでなく、未来へと続く道程に不確かだが何らかの指針を示しているかも知れない。
うつむき加減ながら砂理の微笑が回遊魚のように戻ってきた。晃一は不意に語り部である自分を意識してしまい、と云うのも偶然にしろ街頭で砂理を見つけたときから、それまで疎遠にしていた去年の夏をもう一度追体験してみたい欲求にかられ、衝動的に封印したつもりでいた汚れの箱を開けてみたくなったのだ。汚れていたのは追想をはばむ諦観に規定された希望であること、それから自意識を常に性格づけによって許諾している狭小な了見を見過ごしてきたこと、そうした葛藤に対する反動がかたちを為さないまでも、噴火を待ち受けている火口の如くに平穏から飛び散ろうとしている。
だが、今は自分の知り得るものを、砂理が聞きたいと願っているものを正確に話し終えるべきなのだ。晃一のなかにも再び回遊魚がめぐってきた。
「遠藤さんはひとことも喋ったりしなかった。君のお母さんと同じく。関係ないと思うだろうけどどこかで通じているんじゃないかって、はっきりした根拠なんかはない。ああ、ごめん話しがそれたね。結局夜の水が降って、霊魂が塚子さんに乗り移ったと云うか、不可思議な現象を体験して、それよりなにもうちの父親が現実的に一番の衝撃をあたえてくれた。信じるなら美代さんが持っていただろう予知能力が働いてくれた結果なんだけど」
「遠藤さん無口だったんだ。きっと何を言っても無駄だと思ったんじゃないかな。でもお母さんはそうじゃないわ。無言である意義を見通していたのよ。過去が未来に繋がることを誰よりも理解していたから」
[166] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット45 名前:コレクター 投稿日:2011年02月01日 (火) 07時00分
「あの日の君にはもう会えない。あんなに涙を流し続けたからきっと何もかも忘れてしまいたくなるって思った、ぼくのことも、美代さんのことも。少しばかり、いいや、少しじゃない、砂理ちゃんを更に傷つけてしまう恐れを胸にとどめながら、あれからぼくが見聞きしたものを話したい。それでかまわないね」
「ええ、わたしは大丈夫、そう、あんなに泣いたからね」
姿勢はただしたつもりだったけど、まるで重圧に被われる如く、直面する現実に身が縮まる思いがした。果たしてあれが現実だったのかどうか、実のところ晃一には納得のいく折り合いはほとんどとれていなかった。夢想のように描けば手の届かない位相に羽ばたいてしまうのは当然だったが、直視する意気を呼び返せば、避け難い唾棄すべき事柄をもなぞっていかなくてならなく、興味本位で始まったと理由づけられている内実から垣間見える魚影のような暗さに導かれた先には、想像から逸した潮流が妖しくうねっていた。
収縮したのは、この場で砂理と向き合っている情況を別の鏡で映しとられていたからであり、夢想による力の及ばない領域に魂が浮遊してしまったからであった。ひとは時として災厄に際し、あらぬ回避術を駆使する。現実否定と云う、超絶技巧をもって。
晃一の目は閉じられてなかったけど、こころの目を閉ざすわけにはいかなかったから、見開いたまま空虚な像をよぎらしていた。片方は完全に闇の世界を彷徨しているのだから、この身構えは清いすがたであった。
あの黄昏の間で父が美代に近づいていったのを、晃一は連動写真を並べて見るくらいの鮮明さで脳裏に描きだせた。一点しか見つめていないようで、もっと底深い沼をのぞきこんでいた不気味なほど澄みきった眼球、足取りは魔がさして宙に浮いたふうでもあり、爬虫類が獲物へと狙いを定め慎重に鋭敏な神経を発揮している様子でもあった。対峙した美代はそんな父の姿に身じろぎもせず、まさに不動のたたずまいで相手を受け入れようとしているのが見てとれた。これは戦慄すべき光景以外の何ものでもなかったし、その戦慄こそ晃一が意識出来ないまま秘め置いて来た予期される絵図だったのだ。
「最初は映画のインタビュー・ウィズ・ヴァンパイアみたいな雰囲気にひたれればって考えてたんだけど、あの映画でもやっぱり吸血鬼は吸血鬼なんだ。つまり人間の血を吸う。怪奇趣味って単純に見えるだろうが、ただ化け物や幽霊が出てくるだけじゃつまらない。悪鬼に襲われる場面は常に怖いもの見たさの心理が働いている。でもそれだけじゃない、最高に刺激的なのは邪悪なものらの隠された秘密にあるのさ。美代さんの事件を聞きつけてから、胸が高まったのは親子としての必然であったと思う。父の感性の苗は確実にぼくに分けあたえられていたんだ。しかし指向が幾分か違っていた。ぼくは美代さんから吸血されたかった。ところが父の場合は逆に彼女を望んだんだ。結果的には君も見た通りのあやふやな儀式で終わってしまったけど」
「わたし、震えが止まらなかった。それに涙も。確かに怖かったわ、紛れもない恐怖。でも晃一くんが言う刺激ってのも分かる。なんとなくだけど、、、涙が甘い液体になって唇に流れて来た、塩の味がするって思ったけどこころのなかでは甘く感じたの。もっともそれから先は失神してしまったから覚えてない」
「ぼくはあのとき君が倒れかかった瞬間を見ていない。お母さんに抱えられるようにしてソファに寝かされたのもうら覚えさ。何しろ、その直後にもっと信じられないことが起ったからなんだ」
と、鼻息荒く黒皮の眼帯に隠された目で見切ったとさえ威丈高につくろえた。しかし、もう片方はあたかも記録映画を撮影する沈着さでこの世のものならざる光景に向かい合っていた。
顔面蒼白にもかかわらず孝博の生き血を含んだ唇だけが、熱帯に咲く花弁の如く異様な赤さで濡れており、意識が定まっているものやら見分けがつかないうちに美代から数歩退いたと思うと、その場に正座を崩すような足組でしゃがみこんでしまった。美代は孝博を気遣うと云うより、何かまじないを唱えるふうに低い声で短い言葉を吐き、一気に視線を転換させる勢いで塚子の方にからだをひねり、まだしたたり落ちている手をそのままに右腕を肩先より上げ、その人差し指と中指で塚子の顔面あたりを鋭く差し示した。ほとんど虚脱状態に見えた、この如才ない夫人は本来の意思とは別のところで立ちすくんでいるかのようだったが、やがて背後より何ものかに支えられてでもいる不自然な立ち居を保っている格好に異変を覚えるのと同時、美代はあの抑揚のない、しかし洞穴深くまで通じる不敵な祝詞とも云える文句を口にした。迷い猫をなだめすかす声色をもって。
「お兄さん、さっきから来ているんでしょ。みなさんお揃いですから。塚子さんを借りていればいいわ」と、まったく夢想だにもしなかった展開に滑りこんでいき一同唖然とするなか、不敵な笑みがまるで女神のまなざしであろうかと思われる優美で無垢なる、静謐な表情に移ろってゆく。ほこりが舞う音さえ聞えてきそうな、ひかりと異形なる天稟が織りなしているさながら星雲のひろがりをも想像させる、白昼の暗黒、夕暮れの終焉、吸血儀式は始まりそのものであった。太陽のしずくは夜明けの到来を約束することによって、闇の正門にためらいなく手をかける。待ちくたびれた百鬼たちに鎮魂をさずけ、おそらくは二度とはあり得ない復活を果たす為に激しい情念を急速冷凍で現世に届けようと試みる。たとえ念いは伝わらなくとも、凍てついた舌先には生命の証しであった記念碑が言葉なきまま現れる。幽霊が饒舌であったなら、もはやそれは人間である。こうして霊媒を介し、帰ってきた遠藤久道にかける言葉は冷淡であるべきだった。美代は如夜叉の顔容に切り変わるのか。誰もが固唾の飲んだ。
[165] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット44 名前:コレクター 投稿日:2011年01月25日 (火) 05時06分
少しばかり喧噪から奥まった雰囲気が感じられたのは、どこか昭和を喚起させる素っ気ない店内の作りに相まって出汁の匂いがしみじみと鼻に香ったからであった。特に古びた木目が際立つ壁面でもないのだが、飴色をしたカウンターやテーブルには時代がかった味が染みこんでいるようで親しみやすく、ぞんざいに置かれた割り箸立てや、控えめなのか強引なのかよく分からない白紙になでつけるふうに書かれたお品書きや、そして何より投げやりな調子で明かりを放っている蛍光灯の加減が、ほどよい静けさに加担しているのだった。
気もそぞろなせいもあり、案内を買ってでみたのだけれど晃一の意気込みはどことなく沈下しているようで、また砂理も胸中にわだかまる雨雲でそれほど店のなかを興味深く眺めてはいない。
それでも、注文のかやくうどんが運ばれてきたときには、砂理の瞳に無造作なひかりが瞬いたような気がした。
「ほんとう、関西風だわ。麺もあまり腰がないあたりが絶妙かもね。かつお出汁がよく効いてる」
「讃岐うどんもそうだけど、おつゆを含んだあとにうま味が訪れると思わない。それが麺にからみついて食感を引きだしているんだ」
さっきまで冬空の下にいたことを忘れさせてくれるひとときがそこにあった。ふたりとも上着を脱いでいないのを思い出したように同じ動作で、皮をはぎ取る仕草を現して、食べ終わるまで言葉を交さないのが礼儀であるみたいに無心を装った。外気と店内の温度差、それに湯気立つかやくうどんの温もりが両人の目に潤いをもたらしたのを確認し合ったのは、晃一がどんぶりを傾けてつゆを飲み干したあとだった。楽し気な目をした砂理を見つめる。こころのなかに温かみが染みわたったのは食事のお陰だけではあるまい、そんな想いが北風のようによぎれば相殺される感情が横たわるはずだったのだが、晃一も砂理に似せた笑みを目のなかにたたえた。
満足そうな顔をしたぼくらを端から見れば、きっと誰もが微笑ましい心持ちを抱いたに違いない、、、不意に影差す炎天下の戯れに似たものが、考え以上に濃くひろがってゆく。長かった夏日を振り返るまなざしには不確かな悔恨がつきまとっている。予想を遥かに上まわった経験が驚きよりもある種のせつなさを残していくように、かけがえのない日々はそれほど遠い過去にあるものでなく、反対に戸惑いに揺れているからこそ、ときの後方へと記憶を見送ってしまう。
少年時代の冒険ごっこを懐かしむこころに罪はない。寝ぼけまなこで薄暗い階段を降りることは危険をともなうだけなのだろうが、明瞭な意識のもと手すりにつかまりながら恐る恐る足もとを注意しながら歩を進める身ぶりも味気ない。とは云え、自分でも判然としない想念で無闇に行く手をさえぎっていることを潔しと認めたくないのなら、それこそ遠藤家で催された暗幕の儀式にならい、自らの首魁と相対するのも大切かも知れない。
「ここは餡蜜やところてんなんかもあるんだ。どうデザートに。もう昼すぎだから店もすいているみたいだし」
孝博の言いたいことを察したのか砂理はゆっくり瞬きしながらうなずき、「じゃあ、餡蜜食べようかなあ」と、鈴の音のように答えた。晃一の杞憂は鏡の向こうに憧憬となって遠く映しだされる。
「ねえ、晃一くん、わたしに聞いてもらいたいことってさ、ひょっとしてわたしのこと」
「それもあるんだけど、、、」
「なんかさあ、直感っていうか、それほどでもないんだけど、だって晃一くんの顔に書いてあるもの。いいわよ、どうせ、順序よく話しの筋を通してでしょ。でもね、結構わくわくしてるんだ。あれから美代さんはどうなったか、あなたのお父さんに異変はとかさ。お母さんは何にも言ってくれないどころか、人様に知られてはいけない件まで暴露してしまったんだから仕方ないけど、もう金輪際あのひとたちとは関わりは持つべきじゃないって。ある意味では精算したつもりなんでしょう。きっとそうよ、晃一くんにも会うなとか言うし」
晃一は自分の表情が陰険になってゆく気がしていたたまれなかったが、砂理の明け透けで陽気なもの言いにいくらかほだされ、背筋をただしながらこう言った。
「君のお母さんの言い分はもっともだ。忘れるすべも、思い起こすすべも、定規で線を引くみたいに割りきれなかったから、結局は封印のかたちをとっていただけで、去年のことでより一層その気持ちが固まったんじゃないかな。割り切れなさを固めるって云うのは変かも知れないけど。ぼくのなかにだってそんな気持ちはある。多分うちの父だってそうさ」
「あら、永瀬家の家風に賛同してくれるんだ。ありがとう。じゃ、聞かせてもらおうかな。その後の顛末を、、、」
[164] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット43 名前:コレクター 投稿日:2011年01月18日 (火) 07時01分
「やあ、元気そうだね。あれ以来だけど、ごめん、連絡しなくって。もう年も越えたけど、去年は夏が長かったんで、この寒さはけっこうきついよ」
粉雪が灰色の空から舞い降りてくる。晃一はダウンジャケットのファスナーを引き上げる仕草をした。すでに顎に届くまでしっかり閉じられている。
「初詣の帰りだったけど、よくこの辺りにいるってわかったわね。ひさしぶりだし、びっくりしちゃった。晃一くんも元気みたいね。明けましてあめでとう」
白いコートの襟が寒空で乾燥気味な頬に触れている。
「おめでとう。どこか喫茶店にでも行こうよ。立ち話じゃ寒すぎるし、少し聞いて欲しいこともあるから」
都心では有名な神社もさすがに一月の半ばも過ぎると人出は減ったが、砂理のような若い女性のすがたは珍しいわけではなかった。
「晃一くんもお参りに来てたんだ」
「違うよ。学校の友達に用事があってさっき別れたとこだった。大通りの向こうからどうも砂理ちゃんらしきひとが見えたから思わず後を追ったんだ。片目でも視力はいいんだよ。でも君も連れ立って歩いていたから声をかけづらくて、、、」
「それでしばらくしてから電話くれたわけ」
「そう、悶々としてから意を決して」
「わたしがあのまま連れとどこかに行く予定があったらどうしたの」
「いや、そんな予定はキャンセルすると思った。必ず来てくれると信じてた」
砂理の頬に微かな朱がさした。「あら随分と強気ね。だけど実際たいした予定もなかったし。ねえ、晃一くん、わたしお昼まだなんだ。予定っていうのはそれなの」
晃一は満面が笑顔になるのをこらえきれず「そりゃ、ちょうどいい。実はぼくは朝から何も食べてないんだ」
雑踏にまかせてゆっくり歩きだしていたふたりは同時に足を止め、お互いを見つめ合い笑みを交換した。
「あったかいものが食べたいの」白い吐息が言葉になる。「そのほうがいい。で、何にする」
砂理は今日の献立を発表するみたいな事務的な口ぶりで、「うどん」と答えた。「できれば関西風のかつおだしが効いているやつ。讃岐うどんでもいいよ」
「讃岐は四国だからねえ。あるよ、その関西風ってやつを食べさせてくれるお店。食堂みたいなとこだけど、関西風だと思う。かやくうどんで通じる」
「かやくうどんで通じる」思わず言い返してしまう。
「そう、かまぼこにちくわ、油あげの千切りと万能ねぎ、と少量の天かす」
「わたしのお母さんもそれと同じ具で作ってくれるわ。わかめも入っているけど、かやくうどんって言って」
「うちの父親にも聞いたことがあるんだ。上京したての頃、あきらかにうどん屋の店構えを見定めてからのれんをくぐり、かやくうどんって注文したら、ありませんって言われたって。目の前が真っ暗になったそうだよ。そしたらカウンターの中から主人らしき年配の男のひとが、関東じゃ、おかめうどんって呼ぶんだ、って。でも実際は違うよね。おかめうどんは、卵焼きと鳴戸巻き、大きめの麩、それに竹の子や甘辛い椎茸なんかがのっている」
「そうと決まれば早く行こうよ。この近くなの」
「五分ばかり歩くかな」
「五分あればどん兵衛が出来ちゃうね」
「じゃあ、そっちにする」
「今日はかやくうどんにするわ。だってどん兵衛ならいつでも食べれるし。だったら言うなってね」
砂理の表情は曇り空の下でも晴れやかに光って見えた。去年の出来事は季節の悪戯ではなかったかと訝ってしまう。晃一は、あれからの日々が線上に今日まで連なっているとは思えなかった。だからこそ砂理にも一切連絡をしなかったし、すべてを忘れてしまおうとさえ決意した。
「あのさ、あれからお父さんも変わりないわけ」
決意を鈍らせる思惑を援護するのが役目であるかのように、昼飯まえだろうと何だろうと、自ら選択した行為に疑問符は追随する。せめて、かやくうどんを食べてからその件に向き合う腹つもりであったけど、砂理を呼び出したのだから当然の成り行きだ。彼女だって似たような気持ちを抱き続けて年を越したことだろう。
「ぼくらは何か変わったと思うかな。あとで話そうと思ってたんだけど、父さんは確かに変わったよ。それを君に聞かせるべきかどうか迷った」
ビルの谷間だと粉雪の舞い方が違って見える。北風の勢いで飛び去っているみたいで、とても足もとまで落ちては来ない。なかには空を目指し吹き上がって行こうとしている。晃一は決して触れることのない砂理の横顔に冷たい彫像と同じ手触りを感じた。
[163] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット42 名前:コレクター 投稿日:2011年01月18日 (火) 04時26分
孝博の悲願は見世もの小屋に遊ぶ心理と比べてみて何ら遜色がなかった。初秋の午後を吹き抜ける一陣の風に夢を託す。季節が人々を培う風景はおおよそ凡庸であるが、ときには信じられないほど美しいこともある。有理の出現により挫折しかかった夢をもう一度呼び起こす。暗幕垂れ込める人工的な黄昏にも宵闇が迫ってこなければならない。神々の黄昏にも終曲があるように、永遠の日暮れを愛し続けることは徒労に等しい。夜の気配を粛々と招き入れる精神だけが、かまいたちの発生を見抜ける。闇からの送りものである刃で傷つけられた肌には奇跡が起きる。
美代の顔立ちに魅せられた有理の心情も今となっては古色蒼然たる民家の一室に眠っている。勇敢なほど現実家である有理には、ろうそくの灯火はもちろん夜気の余情も必要あるまい。そう思いなすことが孝博の矜持を甦らせ、夜の刃で一息に切り捨てる気概を推進させた。たしかに俺の気概など計れないだろう。美代を取り巻く暗澹たる領域が腐食されないうちに行動しなければ。燦々とした陽光は墓標にも活力をもたらす。奇跡的な再会などでほだされてしまう前に時計の針を止め、姑息な追憶に終止符のくさびを打ち込むのだ。
独善的であろうが、利己的であろうが、夜の川底にもう一度立ち返えり、遠藤にも美代にも別れを告げる。塚子の面持ちが新たに変わり始めた。もの言わぬ指針計。この部屋で最高の調度品だ。
孝博は迷妄の地図を大きく広げ、あたかも大理石の床を気品持って歩く動作にすべてを委ねた。風の音が窓をわずかに震わせる。落ち葉が親し気に頬をかすめていく。美代との距離は一気に狭まるはずだったが、大理石と見立てられた床に触れる靴音から華やかな音楽が聞えて来た。小刻みにせわしく、大胆に子気味よく、一陣の旋風がそこに奏でたのは、まるでフレッド・アステアの踊りみたいに優雅で華麗なリズムだった。
ほどなくろうそくの明かりはかき消され部屋の階調が下がる。美代の瞳に巣食っていたひかりは異次元へと帰ってゆき、棺に収められた眼光を呼び覚まそうとしている。孝博は躊躇なく美代を抱えこみ、まったく抵抗のないしなだれた様子に違和を感じたが、このからだを逃すまい、そう念じてから首すじに狙いを定める。意識の狭間をめがけ急速に回想が生じてしまう。それは遠藤と同じ振るまいを演じているのだと云う痙攣であった。他の者らの当惑は一切関知されなかったし、ほとんどの感覚は荒野に仰臥する自棄で守護されていた。
いよいよ左の首に歯形を押しあてる瞬間になって、暗鬱とした美代の目がじっと孝博の面をにらんでいるのが知れた。再び回想が押し寄せる。「そうじゃないの」幼い美代が耳もとにそうささやきかける。戸惑う久道、つぼみのような唇がなめくじの如く動きだし、赤い幻想となって激しさを増す。硬直する孝博、もはや反逆せず同様なる轍をここでも甘受する。
「わたしは血をすすったのは有理さんだけでした」乾いた声が孝博の衝動をいさめるように、謀反をとがめるように、耳の奥へ響いてゆく。はっと我に返る猶予が寄贈されたものとなっている。その証拠にするりと身をかわした美代の手には果物ナイフが握られているではないか。一気に酔いが醒める感覚が全身に浸透するのを待ち受けてくれたに違いない。次の瞬間、左手の甲にナイフの切れ込みが入る。それほど深くはないが唇の大きさを考慮したのだと判じないわけにはいかない切り口。暗がりに映る手は照度には無縁であるかの如く白く透けている。線上に滲み出す鮮血の量が何ともほどよい流れになって指先まで伝ってゆく。美代が執り行なった儀式は紛れもなく孝博に捧げられているのだ。
「さあ、わたしの血を含んで下さい」無言だが、そうつぶやいているとしか思えない。社交ダンスの始まりを彷彿とさせながらも、その要領を保持し血染めに映える純白の手をとれば、冷ややかな体温が孝博の心臓まで突き抜けていく。爪先まで達して床にしたたろうとしている血を遂に口にした。夢遊病者の容貌で腕を差し出す美代、狂信者の風貌で生き血を吸う孝博、ふたりの邪魔をするものは夜の支配者によって厳かに監視され、迷妄で広げられた地図上に赤い標が浮かび出すのを見届けている。無心なる吸血が途絶えることのない鼓動に即しているかのように、生命の証しが寸分の狂いもなく脈打っている。
あらゆる液体の感触にはない禁域の泉からくみ出される甘露。真紅に焼けついたにもかかわらず止めどもなく溢れ出す過剰な水脈。孝博は味わうことすら忘れた虚ろな目で厳粛なる時間に従った。こころのなかは充たされることもなく、枯れることもなく、ひたすら無我の彼方へ導かれてゆく風圧だけを感じとった。はためくものが何であるのか見極めれないまま、目にも見えない、耳にも聞えない、口にも出せない、風に運ばれてゆく透明なのりしろのような想念だけがよぎる、、、
寸陰でしかなかったろうし、喉を潤すに足りるはずもなかった。終止符は打たれたようだ。晃一の叫びを、有理の悲鳴を、砂理の悲泣を、塚子の凝視を受け取った。
年少の美代、あの日膝上まで伝った初潮が必然であったとしても、不浄な気分に没することから解放された瞬間、、、
孝博の空漠としたこころに、それが原風景となって映しだされた。
[162] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット41 名前:コレクター 投稿日:2011年01月18日 (火) 04時25分
「それで山下さんは今こうして美代さんに会われたわけですか」孝博の声色には幾らかの驚きが加わっている。
「そのようですね。わたしは砂理に上手く先方にたどり着けたらメールで連絡するよう言っておきました。まさかいきなり直行されるとは考えてもおりませんでしたので、砂理の気持ちをなだめる必要に駆られその部屋から出て電話するよう返信したのです」
「とても慌てていたようだった」と、孝博は注意深く観察しなくてはならなかった責務に胸を突かれた。
「おふたりに出迎えられ車へと乗り込んだのを駅の隅から息をひそめながら見送ったわたしは、予約しておいたビジネスホテルに向かいました。客室に案内されてくつろぐ間もなく、砂理からこころの準備がない自分が恐ろしく不安になって仕方ない、遊び半分などではなかった、本当にこのまちに来てみたかった。でも、いくらなんでも直ぐさま対面になるとは思ってもみなかった。からだが震えてくる、、、砂理が涙まじりだったのは顔を見なくても分かりました」
「その先はわたしがお話しします」舞台劇の要領で青ざめた顔色を強調させながら砂理があとを継ぐ。
「一刻も早く母の声を耳にしたいわたしは部屋から逃げ去る勢いで外に出ようとしたんです。ここまで来る途中に見つけた児童公園がすぐ近くにあるのを思い、そこまで駆け足で行こう、そこで落ち着きを取り戻す為に電話をしようとしました。ところが玄関先で何気なく右横を向いたら角部屋があり、その窓越しから女のひとがこっちを見ているすがたが、不気味な鮮明さで迫っています。迷うことなく、このひとが美代さんだと思いました。すぐさまその場から逃れかったはずなのに、わたしの目はこころを離れ異形の女人に吸いこまれてしまい、足は虚脱したみたいになって一歩たりとも動きません。午後の日差しが中庭を照らすのどかな光景に縛られている、、、窓の奥からはこの世で最上の笑みを持った顔がわたしを離すまいとしている、、、知っているんだわ、わたしが山下有理の娘であるのを。理性も判断力も意欲さえも無くしかけた脳裏に、血を吸われるんだ、と云う意識だけが渦巻きました。そして何だか朦朧として時間の経過を忘れてしまったようで、気が着いたときには児童公園に佇み、母の言葉をひとつひとつ確認しながら、自分の言葉も同じように反復していたんです。無理よ、覚られてしまったの。わたし必ず吸血鬼のえじきになるわ。しっかりしなさい、そんなことはないから。大丈夫これからそっちに行くから、計画は変更よ。わたしの秘密もあなたの秘密もさらされるけど、美代ちゃんはあなたに危害をあたえたりしない。児童公園ね、そこに居なさい。そのままで、、、」
「ぼくが近づいても砂理ちゃんは何だか目が泳いでいるみたいで何度も両肩をゆすったんだ」晃一は高まる気分を制御しているつもりなのか、大きく深呼吸をしてみせる。それから続けて話す。
「母も来てるの。今ここに向かってる、、、ぼくは事情がよくのみ込めず、あれやこれや質問した結果、さっき砂理ちゃんのお母さんが語った真相に及んだ」
有理は寂し気な目で晃一に「タクシーの中からあなた達を眺めてました。双方の表情からどんな会話が為されているのか想像はついてた。少し車を移動してもらってため息ばかりついていたわ」と言った。
そして部屋全体に行き渡ることを込めた口ぶりで「わたしがこんな情況に飛びこまなくてはならなかった理由はこれがすべてです。見るべきものはもうありません」
役回りの演技をこなした女優が安堵に混ぜて放つような困憊がそこにあった。
孝博は言い様のない圧迫感に苦しんでいた。強烈な力ではない、むしろ得体の知れない悪臭に巻かれている不快な心持ち。晃一と砂理は恋人同士とは別の関係で、砂理と有理は親子の縁とは異なる従属系統に属し、晃一と俺もやはり親子でありながらいくつかの立ち位置をもっている。しかもよくよく考えてみれば、俺だけが蚊帳の外に居たのではないだろうか。遠藤を介し夢うつつの道ゆきを経て、ようやく期日に至り、晃一をも先導して来たつもりだった。ところが蓋を開けてみるとこの有り様だ。美代は砂理を見つけるなり、いや、塚子を通して息子と知人の女性と伝達しておいた時点でもう砂理が現れ、有理との再会を果たすと予感していた。そもそも遠藤はこう言ったのだ「あなたは近いうちに美代と会う」と。
何もかもが轍のうえにあったのか。神々や如来が切り開いた道程などでなく、ごく身近な連中によって定められた、その実さほどでもないありふれた秘密に支えられた僅少な神秘。はなから神秘主義を信奉してきたつもりはないが、ここまで来て自分が健全で明朗な現実家とも断言し難い。
「見るべきものはもうありません」か。家族の平和を維持する為に隠蔽し続けた秘画が白日を浴びたからには、確かに本人の言葉通り見るものはない、、、こんな同窓会みたいな結末で終わってしまってかまわないのか。救いもないかわりに、謎も毒もときめきもない。砂理がおののいたような事態が展開されたら、さぞかし痛快だったかも知れない。用意周到な集いがそれも気泡に帰した。
晃一、おまえは俺の秘密も知っているんだろう。何枚上手なんだい、素晴らしい敗北感と言いたいところだけど、ひとつ忘れかけていたよ。孝博の目に妖しいひかりがきらめいた。ろうそくを消すんだ。そして妄念を解放する。
[161] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット40 名前:コレクター 投稿日:2011年01月17日 (月) 11時11分
「吸血事件で胸を痛めたのはわたしら親子もさることなが、張本人である美代ちゃんとの想い出でした。時間というものは冷淡な流れでもあります。あれから数十年を経た今では記憶こそ鮮明ですけれど、今現在のこころまで支配する能力は失われてしまって、残されたのは甘酸っぱい気恥ずかしさと、罪を知らなかった、いえ、罪の深さを知らなかった邪気に対する怖れだけです。やはり保身が働いているのは紛れもない事実でしょう。最期に声を枯らしながら唱えたのは、わたしが美代ちゃんを吸血鬼なんかにしたんじゃない、原因は兄である久道さんに違いない。何故なら彼の研究はそう云う方面のようでしたから。もう随分と故郷の土を踏んでいないと砂理には話していましたが、実のところ何度か帰省していました。両親は亡くなっておりますし、わたしの妹や弟もこのまちを出ていることもありまして、都合よく言い訳が成り立っていたのでした。ところが気掛かりなのはこのまちで結婚した美代ちゃんの行く末と、久道さんの奇行の噂だったのです。ましてや事件後にはどうにかして美代ちゃんに再会出来ないものか思案をしました。帰省も合わせてそれらが形式上の憂慮であるのは鏡を見るよりよく分かっていました。所詮は少女時代の気まぐれな遊戯、、、そう割り切る以外に救いの道はありません。わたしは美代ちゃんの回復を祈ることだけに収束を見出そうと努めていたのです。それより実際の災禍をわたしは避けたかった。決して偶然ではない不吉な足音が我が家に歩み寄って来たからです。晃一さんの存在と、磯野先生の奇妙な探究心、、、類焼は防がなくてはなりません。彼らと砂理を近づけるのは危険な情況以外の何ものでもありませんから。訊けば磯野先生は久道さんに会われ相当感化されたとの様子、あの方の提唱する超能力やらに傾倒されたからか、美代ちゃんとの関係を丹念に調べあげたいのだろうかと憶測の域は出ませんが、おおむねそんなところではないのでしょうか。あなたは晃一さんを伴う際にあからさまとは申しませんけど、ある程度の意気込みは話しておりますね。わたしは晃一さんと砂理が親しくしている姿を複雑な気持ちで眺めていました。郷里が同じであり同年代でもある。どんな理由づけをして砂理を言い含めれば、、、つまりはふたりの仲を断ち切ってしまおうか考えあぐねました。ところが逆にそんな思案を巡らしているのが、知れてしまったらそれこそ薮蛇になってしまいます。災厄から逃れたいと願う一心は却って仇になると云う図式がすでにひかれているのです。一方でわたしの眠りを揺り動かすような奇異な胸騒ぎが始まっているのを、もう否定するのは困難になってきました。そうです、ひたすら祈りを捧げているばかりの自分を脅かす如くに逼迫してくる現実、いつかはこの口から砂理に話さなくてはならない現実、ところが強風であおられるこころの一角にはいみじくも毒消し作用のあるあだ花が芽を出しているではありませんか。美代ちゃんとの邂逅を夢見させていた本当の気持ち、それが次第に曖昧なものからもっと感情的なものに昇華し、終いにはもうすぐ会えるのではと不確実な領域を越えて願望の錨を下ろす覚悟まで至ったのです。封印していたのは、世間体のような常識をまとった小市民の感情でした。そして昇華されるべき感情こそ、忘れかけていたあだ花を育む想念なのです。こうなれば、晃一さんはもうわたしにとってはかけがえのない有力な味方でした。砂理との不幸な交際をあえて望んでいる姿勢にも共感出来ます。わたしはなるだけ砂理に彼を通して情報を得るよう求めました。訝しい目つきをしている砂理を懐柔するのは他愛もなく、どうしてかと申しますと、わたしの秘密を嗅ぎ分けている内情を危ぶんでいるのは娘本人だからなのです。胸襟など開かれない美徳によってむしろ互いはよりよく結ばれ、腹芸とも云える好奇なかけひきで秘密のベールがより優れた形ではがされてゆくのです。娘にとって母の少女期はめくるめく官能をひそめており、母にとっては娘の性障害から生み出される逸楽に加担する意義を得るのでした。注意深く耳を澄まして磯野先生の動向を探りながら、慎重な言葉使いで砂理と晃一さんとの信頼度を確かめてみる。それと能天気な装いを過分に示しつつ、封印を解放させたいと無意識的に望んでいる態度をちょうど手話で伝えるようあくまで記号的に表すこと。こうした作業が功を為すのは時間の問題でした。まず晃一さんとは恋愛関係で繋がっているのではなく、察したように有能な同志の感覚で手を取り合っている。わたしが帰省を行なわない事情を感づかれまいとしているけど、内心では現在の美代ちゃんに関心ある、そう思わせることで彼らの計略はまんまと露呈されてしまったのです。わたしは理由の説明をあえて濁したうえで、晃一さんらとの帰省を叱責し、弱みを握った証しとして本音を吐き出させる権限を勝ち取ることが出来ました。とは申しましても、例の写真から始まった疑惑のすべてを口にするほど娘は馬鹿正直ではありません。小さい頃より妙に意固地なところがあって、素直じゃないわけではないのですけど、こうと決意したら頑なに貫く性格だったのです。おそらくは晃一さんとの約束もあるのでしょう、郷里にこれこれの女吸血鬼騒ぎがあったみたいだから興味がある、いい具合に彼が帰省すると云うのでこの際だから是非とも一緒に行きたい、、、ざっとまあそうした経緯であとはわたしが承諾するかどうかだけだったわけですが、砂理に含んでおきましたように、磯野先生らには一日遅れてから出発予定であると伝えておくこと、家族には内緒にしていると云うこと、これらはわたしも同伴する事実が覚られない為に必要な策でした。以外と思われるでしょうけど、砂理はわたしと一緒ならばとの条件をすんなりとのんだのですよ。お分かりでしょう、母と娘はひとつのまばゆい光景を見つめていたのです。わたしは別に意味深な登場の仕方をしたかったのではありません。美代ちゃんと確実に会えるまでよくよく算段してみただけのことです。あなた達の訪問によりどんな反応が垣間見えるのか、そんな思惑もありました。あだ花らしさとは結構実際的なものですわ。さて一番肝心な弁明を。砂理からは美代ちゃんがいつまで滞在しているのか訊き出してもらって、あらためて訪問する気でした。あんなにも泣き叫びながら電話で話すまでは、、、」
[160] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット39 名前:コレクター 投稿日:2011年01月17日 (月) 11時10分
端々に刷毛が無造作にかけられたまま、ぼんやりと空高く浮かぶ雲を想起させる。山稜からなら手が届きそうな気がしてしまうがかなり上空である。どれくらいの風が吹いているのだろう。見上げれば、ふんわりとした形状は次第に海生動物の様相へ近づき、地上から無垢なる心情を吸い上げている。
天と地と海の雄大さは、抵抗し難い勢いをもってこの一室に凝縮してしまったようだ。白雲ながら中心部は煤けた憂慮の如くにくすんでいるではないか。予期されていたのかも知れない砂理の母親の出現、それは雛形を作り得ない風姿、まるで空から降りてきた雲の影であった。浮き雲の安寧とはかなり趣きが隔てられた緊迫した空気に運ばれている。
やせ形で乾いた匂いをした容貌には慣れ親しみにくい印象があるのだが、その目に込められた憤怒とも愁訴とも判じられない因果をくみすれば、あながち正鵠は射ておらず雰囲気全体がつかみとれていない。しかし、突然の来意を弁明することが先決であると云う、意気込みは余すところなく伝わってくる。砂理とはつくりが反対で大きく見開かれた双眸が、残暑のように過酷なそれでいて儚いうつろいを代弁し、唯一そっくりな長いまつげがせわしさを潤沢に補い、饒舌であることが予想される呼吸を意識しているような口もとは期待を裏切らなかった。
「お聞きの通りです。砂理の事情もわたしの意思もあらかたのみ込んで戴けたのではないでしょうか。いきなり押し掛けてしまう形になってしまいましたけれど、どうしても娘だけここへ寄越すのは出来ませんでした。こちらを訪ねております方々、ええ、とくに磯野先生はこれで得心いかれたのでは」
「わたしをご存知したか」挨拶もなきまま直球を投げつけられる。
「砂理からお聞きしましたし、晃一さんからもお話は少々うかがっております」毅然とした口調に今のところ雲の陰りは感じられない。自分は招かれざる客であると、前書きで記した開き直りにも似た口上が用意されている。
「これは、皆様大変失礼しました。砂理の母の山下と申します」誰に目をあわせるわけでもなく、吐息みたいに生気なく口にした。有理自身へと呼びかける、力まぬ証明であるかのように。
「有理姉さん」
「美代ちゃん」
こわばったそれぞれの表情が、刺々しさに張りつめた空気が、二羽の小鳥のさえずりで得難い陥穽におちいる。突如現れた防空壕への安堵となって。
赤錆がこぼれ落ちていくような柔和な微笑を有理の顔に見つけた。まわりの者らも童話に聞き入る子供となって、こころに泉が湧くのを覚える。
何よりも先に視線を送るべきひとであった美代の呼びかけは、有理から邪念を追い払う効果を発揮した。見る見るうちに有理の両肩からはあらぬ勢いが抑えられ、踏みしめている足もとに張った懐疑が希釈され、釈明に専念されだけの武器にも近かった口もとがしめやかに閉ざされた。残暑に佇んでいたまなざしへ灯された明かりはろうそくによるものだけではなかった。
孝博は童話から紙芝居に目移りする小さな興奮で、何かが急降下してゆくのを認めた。明らかに動揺をあらわにしている有理とは対照的に美代はほとんど顔色を変えていない。有理の方にからだを向けているものの、その全身には日陰にとどまり花咲かす可憐な息づかいしか聞えてこなかった。いや、動じなかったのではない、砂理を一目にしたときからすぐ先に惹起されるであろう情景が見てとれたのだ。一番最初に悲愁で胸を焦がしたのは間違いなく美代である。
だからこそ、墓標に陽光が降り注ぐのは粛然たる恥じらいとなり、また、前ぶれがあったと云え棺の蓋が開けられるのはこころ許なかったのだろう。
そんな美代を深く理解していたから、このまま牧歌的な感傷にひたっていることは寸暇の戯れであるのを了承する為にも、有理は本来の役割に速やかに立ち戻らなくてはならなかった。いつまでも郷愁の淵に身を沈めているわけにはいかない。
まるで置いてきぼりを喰った人々を嘲笑する悪鬼たるべく室内の空調を強引に変えてしまう。にわか拵えされた微笑を仏壇の奥深くにしまい込むふうにして、孝博のお株を遠藤と同じく奪う様相で講義を再会させた。
「わたしには磯野先生の気概を計ることが難しいです。砂理があの写真を以前から盗み見していたのは知ってましたし、年頃になるより性向に問題があるのも薄々感じておりました。それがわたしの罪業であると思い込まなくてはならない強迫観念に苛まれていたのは信じてもらえますでしょうか。のちに印可をあたえられたのではないかしら、そう念じてしまった吸血事件を耳にしたときには卒倒しかけました。そして今まで封印し続けて来た秘密もすべてあからさまになってしまうのだと嘆きました。わたしだけの保身ではありません、砂理にとってもそれは親の宿業の顕現だと痛感させてしまい、結果はどう転んでみても最悪を指向してしまうでしょう。それでもわたしが躍起なったところで、古傷を隠し通すより他に賢明な手段はありませんでした。お分かりですか、わたしたちの間には神秘的な要素も、興趣をそそる物語も含まれていないのです。見るべきものはありません。どう思われますか、磯野先生、、、」
[159] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット38 名前:コレクター 投稿日:2011年01月17日 (月) 04時08分
固定された視線に輪郭が浮かび上がる。ドアのうしろにひとの気配を知ったのと、塚子が怪訝な顔つきで「山下さんと云う方がみえてますけど、、、」そう、声を出すのがきまり悪そうに告げに来たのはほとんど同時であった。
美代の目は動かない。晃一と砂理はふたりして戦慄を投げかけるふうに孝博を睨んでいる。だが実相は驚愕を共にしたい、そんな合意を求める鋭さによって真剣の火花となっている。孝博はたじろがざる得なかったが、切っ先が合わさった刹那に悠久の間合いをそこに見出してしまった。剣豪が次なる一太刀にてすべてが終わるの熟知しているかのように、虚しい血けむりがあらゆるものが純化される。血縁も、美代の透けた血管も、**の血も、吸血鬼のしたたりも、、、
「父さん、実は、、、」間合いに同調するべきして、吐露されるものが耳に届けられようとしている。ところが晃一の哀れな声をかき消す勢いで、「ごめんなさい、わたし嘘ついてました。本当はひとりじゃなっかったんです」と、既視感を浮き出させる悲痛な叫びが砂理によってもたらされた。
「母と同じ列車でこのまちに来ました。わたしだけ先に駅から飛び出してごまかそうとしました。どうしてかって、、、わたし美代さんの事件を偶然手にした週刊誌で知ってしまい、胸騒ぎがおさまりませんでした。白黒で小さく掲載された顔写真に覚えがあったからです。数少ないけどこのまち出身の知人らには、真意をただすと云うより名前と顔を尋ねてみただけでした。答えはみんな同じです。それ以上の詰問は薄ら寒さによって阻まれました。掲載されたものの現物に違いない写真が以前よりうちにあったからなのです、、、母のクローゼットの奥深く、人目につくことなく着物の帯のあいだに隠されていました。最初にそれを見つけたのは、わたしが十歳くらいのときです。かくれんぼをしている最中に見つけてしまったのでした。そして緊縛されたまま、誰にもそれを話すことはありませんでした。写真は二十枚ほどあって、なかには母の少女時代の顔もそこにありました。掲載されたひとの顔と並んで、、、子猫が寄り添うみたいに頬と頬がひっついている。色褪せた写真特有の時代がかった主張は生やさしくもあり、ぶっきらぼうでもありました。でも、互いのくちびるが重なっている構図には意図的な戯れとは離れた、もっと生真面目な面持ちで底なし沼に佇んでいる、そんな緊張に被われています。鳥肌が立ちました。身震いがしました。とても孤独な気分がわき起こりました。そして、写真を見てしまったことが母に気づかれるのをとても恐れたのでした」
胸の奥に積もりに積もった土砂が吐きだされた。少なくとも孝博にはそう思われた。裏付けはすでに美代の直言で為されている。砂理が部屋から出ていった経緯も、晃一の態度も、何より小さな太陽にも感じられた笑みが泣きはらしている情況が的確に物語っている。
そこに補足を加えるのが使命だと認めてか、「ぼくと出会ったのも運命さ、いつしかぼくの方からこのまちの出来事を喋り始めたんだ」と、晃一は堰を切って出たついでに便乗する自棄的なもの言いで話しだす。
「十歳の頃から抱え込んだ重荷からやっと解放される、そう言って砂理ちゃんもぼくに写真の件を聞かせてくれた。とても辛そうな顔をして、、、そして正直に教えてくれたよ。この写真の母に呪縛されたのか、それとも本来なのかは判断しづらいけど異性に関心を持ったことがない、とね」
「晃一くん、、、ごめんなさい、、、」砂理はすっかりうなだれてしまった。
そんな消沈を脇にかかえ晃一は咆哮した。
「ぼくらは言わば秘密結社さ、恋人でもなんでもない。お互いちぐはぐな縫い目に掛けられたボタン同士なだけだ。父さんが再びこのまちに行くと聞いてから、その理由も聞いてから、どうしても美代さんに合わなくてはと念じ出したんだ。彼女の母親はぼくの存在を煙たがっていたよ。でも秘密結社として何食わぬ素振りで砂理ちゃんとつき合っていた。ぼくにとっても父さんの探求とやらは相当に引っかかったから、煙たがればなるほど余計にこの身を霧がくれの術で不透明にさせてみたかっんだ。そうすれば、きっと相手のすがたが見通せる」
孝博の肋骨あたりに冷たいすきま風が吹き抜けていった。美代がさっき言った遠藤の歪んだ表情が自分にも、そっくりそのまま仮面となって被せられているような気がした。先手は打ってあったが、思わぬ一手でかく乱させる将棋台を彷彿とさせる。しかも、用意周到なのは彼らであって、孝博の妄念が推進した意向とはまったく質が異なる。ある程度は推察されたけど、こんなに後手にまわっていようとは、、、
方向性が別口であることを唱えたのは理念であったのか、背理であったのか、、、確かに己本意でしか采配をふるって来なかったし、所詮晃一らは旅の道連れ程度でしかなかった。
当惑の顔つきに変じてしまっている塚子のすがたをじっと見遣る。ろうそくの炎は決して揺らめいてはいない。
美代が静かに判決文を読みあげるようこう言った。
「有理姉さんを通して下さい」固定された視線はほどけ、抑揚のない言葉に新たな息吹が授けられた。
[158] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット37 名前:コレクター 投稿日:2011年01月17日 (月) 04時06分
かつて兄から好奇の目で眺められ、性的な意識さえ抱かした妹、美代。遠藤の告白めいた追想は果たして脚色が施されているのか。大体は嘘ではないだろう。血の繋がった兄妹にもかかわらず己の欲情のおもむくままに禁令を越えかけた。この事実だけでも過分な情報提供と云えよう。それほどまで遠藤を煩悶させた生き仏が今ここにいる。もっとも聖なる佇まいかどうかは判断しがたい。如夜叉であったこともやはり事実だからだ。吸血鬼、、、女の子だけを狙ったと云うそれほど血なまぐさいはないが異常な挙動。
だからこそ、臀部あたりから背筋にかけて樹氷で出来た電線を何かが駆け抜けてゆく。激しい伝播は一瞬にして恍惚とともにその通路も霧散させていまう。熱気だけがほとばしっていると感じるすべてが虚妄であったかのように、一縷の念いは叶えられない。雪合戦の想い出を持ち合わせていないひとのように。
ならばせめて雪解け水を、その熱い喉もとに注いでみよう。決して虚実だけを見極めに来たわけではない証として、、、
孝博にとって条理はあまり重要な問題でなかった。肝心なのは今ここにひき起される欲望の現れを見つめることだけだった。それ故に美代をしっかりこの眼球に焼きつけておかなくてはならない。
多少のひかりが目もとに棲家を探り当てたのか、それともろうそくから放たれる赤く黄色い炎が棲家を焼き払っているのか、いずれにしても美代の瞳は思ったより日輪を嫌悪しないだろうし、雨空に近親憎悪をもよおしたりすることのない適度な潤いも持ち合わせていた。
気になるのは小首を傾げる癖のあとに、どことなく悲哀を半ばあらわにした笑みが、本人が意識する以上に愁いと隣合わせになっていることだった。抑揚のない口吻でひとこと話し終えた途端に、その情感の複合物が肖像画となって画布に描かれる。そしてその肖像画はあたりまえだが一枚一枚彩色が異なっていた。差異に生き甲斐を感じているのは学者だけではない。女吸血鬼と云えども生きている限り日々の移り変わり、例えば天候であったり、体調であったり、他者との距離感であったり、その日その日の相違は生命の根幹でもあるから。
美代の目の奥に何が潜んでいるのかは分からないが、こうして彼女を見つめているとそこに映しだされているのは紛れもない自分であることを孝博は、財宝を掘り当てた困惑によく似た慢心で迎え入れた。緊張の糸はほぐれたのか、己の口角が気を取り直したようにあがり気味になるのが感じられると、一時は恐れすら為していた美代の目つきに幾分か慣れ始めていた。ちょうど隣の家に越して来たばかりの子供と目配せを交すように。
尋常ではない白い肌もよくよく目を凝らせば、それなりの年齢にふさわしく素顔のままではなくて、しっかり化粧の形跡が見てとれる。きめ細かい肌質だからなのか、上質の木綿にアイロンをあてたときみたいに見事な張りと艶やかさが美白をより一層際立たせていた。生憎この薄明かりでは白さは浮きあがっても、しわやらしみなど目立つことなく意気消沈として表だつ必要もない。辛うじてその面に影差すのは、炎のなせる業であり、特に斜め横から見届けた鼻筋からあご先に至る肖像は、逆に生々しい表情を生みだしており、わりと長目の睫毛がそっと降ろされるときなど一種神々しい印象さえ備えていた。
実家における兄との関係や想い出が一通り語りつくされたのか、小首を傾げながらもこの部屋にひとつしかないドアの方に何回か視線を送るのが見てとれる。
「かなり幼い頃だと思います。大掃除の際に障子紙を張り替える光景です。裏庭に出されたそれらを破りとっていたら、兄が何やら奇妙な手法をわたしに伝えたのです。はっきりとは覚えていませんけど、指先に魔法がかかったとでも云うのでしょうか、面白いほど素早く古い障子がはがされていくのでした」
視座を定めることに成功したような美代の目は、ドアの向こうへ張りついたまま、その先は誰に話しかけるわけでもないと云った風情の声色になった。小石が崖を無邪気に転がり落ちる如く。
「いつの間にか戻ってきた兄を背後に認めると同時に、歪んだ表情をしたまま、そう、驚きが抑えつけられて羨望へと移行しかける決して美しくはない表情です。それが嫉妬の萌芽であったのを知るまでに時間はかかりませんでした」
美代のまなざしはお伽噺をしているときのけれんみを際どく排除しながら、安らぎにも似た憐憫をたたえている。
「それからのことです。兄がわたしに色々と風変わりな所作を要求してきたのは、、、」
過ぎ去りし幻影を追いかけるまでもなく、睫毛の先に追憶の哀しみが風化しつつあった。そして消えかかる想いは風船のように軽やかに宙に浮かんでいる。
その直後、孝博は不可思議な光景をむかえ入れることになった。夕暮れが深まるなか、遠くの明かりがとても身近に感じられてしまうのと同じく、、、
[157] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット36 名前:コレクター 投稿日:2011年01月11日 (火) 06時17分
日暮れ時に覚えるやるせなさが何処からやって来るのか、ぼんやりとした意識からわき上がる霧の彼方に目配せをしながら、胸のまわりを繻子で撫でつけられるような感触は歳月に関係なくこの身に訪れる。
今もまた、同じ想いのなかにゆっくりと横たわろうとしている。眠り入る前のおぼろげな感覚がいつもかたちを為さないように。
たぶん外では季節の前ぶれを告げるふうに一枚の枯れ葉が舞っている。乾いた秋風がよぎる様子は室内からも多分に窺える。すすきの穂は微風になびくだけで音もなく、ためらいもなく、夕暮れに牽引されることを拒んだりしない。夜が空から降りて来ても、今日一日の日差しは踏みしめた大地の上に森閑として眠っているから。明日と云う約束に忠実である為にも、深い闇を受け入れなくてはならないし、その束の間である黄昏をいつくしむのは希望の灯火であろう。
美代がこの場でおもむろに一本のろうそくを取り出して見せても誰も不思議な顔をしなかった。昼下がりは緞帳を降ろされ、時計の針は責務から解放され、自在な時刻を選びとる。
ちょうど美代の面くらいの長さをした筒型のろうそくに炎が灯されると、まわりの光景はより一層と逢う魔がときへ近づいていった。先端を天井の真上に定めたようにまっすぐ立ちのぼった火は先細りつつも、ちから強い勢いを内包しているのだろう、実際ろうそく全体の輝きは炎によるものでなく、自らの情念で発熱しているとさえ思えるほど火照っている。その灯火に照らされた美代も、淡くなったり濃くなったりする陰影にせかされて、透き通った肌の血管を浮きだたせていた。そして晃一も砂理も、おそらく孝博もまるで夕映えを浴びたときの、あの信頼感が呼び寄せられる明るみのなかを思い出しているのだった。
暗闇で灯される雰囲気とは異なって、ろうそくの火は部屋の隅々にまで何かねぎらいをかけているのではなどと、他愛もない感想を持ってしまう。美代の手元から離れ机に置かれた位置だけに灯っていると云う、不測の事態みたいな印象をあたえているわけでなく、ここに在るすべてが、集った者たちの佇まいも、前回と変わらぬ家具調度類も、それから本来は結びつくことないそれぞれの想いも、真空であったり、不穏な気配を含んだ空気もが均一な照度を受けている。
孝博は当然ながら美代の一挙一動を見守るしかなかったので、これからどう云った情況へと運ばれて行くのかは皆目見当がつかなかった。だが、暗幕やろうそくのもたらす効果がただ単に、特殊な環境を生み出しているだけでなく、或いは芝居がかった舞台に上るために招かれる催眠的な方法だとも思わない。なすがままの有り様を甘受するのがある意味真意である限りは、そこに即すのが賢明なのだけれど、一切ゆだねるふうに情趣がたなびくまま思念を閉じ去るのは不如意であった。もてなされた重箱の隅を突いてみたい性根は捨てきれないのだ。遠藤の妹であり、異形の女人である美代のすべてを知りたい探究心は、欲深い釣り人に似ていた。
「また大振りな魚を釣りあげる夢を見た、、、」
孝博は年に数回はそんな夢見で嘆息した。深層心理的に水面を透ける魚が意味するところはおおむね了解していたし、何より夢中における胸の高まりと、言い様のないうしろめたさ、もっと明確には「こんな大きな魚を釣ってしまっていいのだろうか」と云う、子供が身分不相応のものを手にした際のおののき、棲息するべき場所に居る魚に対する畏怖は、その色かたちと大きさも相まって、未だ生類憐れみの情へと短絡に避難しようと務めるのだったが、実のところ隠された卑猥であると推測していた。
束の間の考えにすぎなかったけど、やはりこの薄明かりが育んだ思考に違いない。いや、そうではなくこの黄昏どきを愛するからこそ、場面が大仰に映るのかも知れない。どちらにせよ孝博が希求してやまない精髄は証明された。「美代の首すじを噛む、、、」あの妄念は闇に埋没することなく薄明の刻を待っている。過剰に呻吟して見せるほどの思想ではない。それは重力に抵抗しているのか、陽光に舞う綿ぼこりに交じって宙に浮く、不沈の微粒子と化して、、、白日をものともせず、ここまでたどり着いた夜叉の魂に魅せられ、、、
孝博の沈着さは、かつて書かれた悪魔の辞典から引用されるべき軽やかな体質をはらんでいた。情感に溺れる自己をどう料理するかはほとんど問題なかった。しかしながら夢の魚を釣るのが怖かった。ただ釣り上げてさえしまえば、骨まで出汁にして飲み干しただろう。
どうやら克己心にも鞭は打たれたようだ。たった一本のろうそくに灯された火は美代を正視する機会を授けてくれた。
揺らめいているのが罪なほど、時折炎は意思を伝える。美代が始まりの合図を示した以上、急がなくては。孝博の胸中は戦闘体勢に臨むまえの飛行機乗りに似ていた。ただただ広がる青い空と白い雲、見渡せる大陸、神秘的な海原。見届けよう、、、もっとも自然なすがたを。「浅井美代さん、あなたのことを、、、」
[156] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット35 名前:コレクター 投稿日:2010年12月28日 (火) 06時07分
さすが兄妹だけのことはある。美代は生前から兄を敬遠していたようだが、思考の方法はよく似ているし、聞き手を引き込む話しぶりは生写しと云ってもよい。美代自身、時間系列など意識的に排除しているふうに、吸血鬼にまつわる内情をつぶさに語り始めたかと思えば、肝心かなめな動機には言及せず、兄久道が執心していた超常現象に関する話題に転じ、心霊と超能力は並列で論じてはならいと力説し始め、やはり降り行くところは兄への怨念にも似た情念に終始するのだった。
あきらかに美代は我々に、そう云った恨みつらみなるものを吐き出したいが為、進んで今日の面会に応じたとさえ思える会話の濁流を排出している。孝博は気掛かりである砂理の悲哀を何とかしたかったのだが、所詮は美代にまみえることに主眼を置いている以上、主役を脇にして来訪者の裏面をさらすわけにはいかなかった。
濁流なのだろうけども、どうしても耳を澄ませば清流に運ばれゆく一葉が次から次へと、しとどに濡れてながら川面に浮かび、沈みゆく。孝博にはその一葉が決して同じものでないのを心得てはいたのだったが、連綿と続く呪文のようにいつまでもその音を聞いていたいのであった。
むろん話しの合間合間にそっとうかがうようにしか視線を定着出来ない己の不甲斐なさは、ゆるゆるとねじを締める金属音と化して幾度かこころに鋭利なこだまを響かせた。しかし、美代との接見が限られたものである現実が、うらはらに夢想とも云えるこの光景を至上の栄光へと導く。
孝博に可能な方策は谷間のゆりを眺めるごとくに、美代を眼球に映し出し、周到に準備されているかもわからない砂理に関する事情を、明瞭なかたちでここに集った者らから聞き及ぶことであった。ずぶりと刃物を突き刺すみたいに率直な意見はためらわれた。その真意は性急すぎ、あまりに幼稚であるのだと云う建て前によって二重に保護されていたからである。
年齢不詳と思いなす意識こそが曖昧な具象を縁どっていた。コンクリートに近い単色な灰色加減のワンピースはあまりに地味であったから、対比させる意匠も逸してしまい、白亜で塗られた落書きが罪であるみたいな通念に埋没していた。けれどもよく目を凝らせば決して日だまりのなかに三分と佇めない、それくらい病的な美に漂白された肌であった。
「これまで何人かの血を口にはしましたけど、わたしの血を吸ったのはひとりだけです。どうやってかって、すこし恥ずかしいから、あの日が始まったときと答えておきましょう」
生来なのか、それとも疾患に起因しているのか、やはり声に張りはない。それでも余ってあるふくよかなもの言いが、抑揚ない一定の規律で貫かれていると感じるのは新鮮な音域を耳にしているからか。小首を傾げるのが癖に見える。まるで章句に捧げられる仕草のように、可憐な花びらと蜜蜂がささやきあい、その密やかな寄り添いに花弁と茎がわずかだけたわむ、風の悪戯にしては微少すぎる連鎖が悩まし気に、乳房へかかる黒髪を艶やかにそよがせている。
「想像におまかせしますと申したいですけど、正直にお話します。膝上まで伝ってきたあの血を指ですくいなめるまねをしました。それが始まりでした。学校でからだの仕組みを説明された直後くらいだったので、案外驚きはありませんでしたが、その血を指先でなぞられたときには真新しい体感が走り抜けていったのをはっきり覚えています。だって磯野さん、すでにご存知でしょう。わたしが早熟な子供であったのを、、、」
薄い唇には少女時代から変わらず聡明な生物が棲みついている。しかもその生物は老獪なすべなど一切身につけない、それでいて季節のうつろいには敏感で綺麗な花を咲かせる。青虫が蝶に変身すると花畑がいっそう華やぐように。
「兄は言ってましたか、わたしにキスをしようとして抱きしめたとか。それは本当にありました。ところが、おそらくわたしのほうがすでに経験済みだったのでしょう。歳がいくつ違うかも聞いていますよね。びっくりしたあの顔ったら、意気消沈とはああした顔つきをさしているのでは、、、それからは性的な関心でわたしに触れるのがためらわれたのだと思います」
連想として「血を吸う眼」と云う映画があったなと、少々寄り道をしかけたのも放縦な思念ではあるまい。別に眼玉が吸血をおこなうわけではなかったが、役に徹した岸田森の迫真の演技は素晴らしかった。美代には全体的に強烈な存在感は付与されていないけど、生気が失われた植物的な危うさ、鋭い刺を隠し持っている、岸田森が扮したあの吸血鬼の面影を漂わせていた。映画と同じく美代のまなざしを直視するには厳かな探究心と克己心が要求される。
「カーテンをします。心配ないわ。真っ暗にはならない、そんなふうにこの部屋は作られているのです」
どこかに装置が備えられているのだろうか、勝手に暗幕が下ろされるのだったが、確かに室内は夕暮れの始まりを告げる程度の照度で保たれていた。
[155] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット34 名前:コレクター 投稿日:2010年12月28日 (火) 06時06分
静かにドアは開かれた。二時ちょうど。孝博の緊張は沸点まで達したことになる。泣きはらした目をハンカチで押さえているが、哀しみのしずくはまだ枯れる頃合いを見定めていない。
砂理の肩先には晃一の手がこわれものに触れるように、なぐさめを不透明にしてしまいたい想いで、純白色した小鳥の羽となって柔らかく乗っている。どうしたいきさつがあったのか、問いただしたい欲求は、落涙を寂し気に見つめる晃一の片目によって勢いが弱められ、日頃から気にかけまいと努めてきた黒皮製の眼帯に閉ざされた亡きひかりによって失われた。力なくソファに腰を下ろすふたりを見守るのが精一杯だと思われたから。
そのときを待ちわびていたように、やはり静かにドアを開ける音がして見知らぬ女性と向きあった。
「大変お待たせして申し訳ありません。頭痛が中々おさまらなかったもので。浅井美代と申します。早速ですが、わたしをお訪ねになられた理由は想像がつきますので、どうぞあまり気にかけないで下さい。さあ立ったままでは何ですのでお座りになって」
抑揚こそ忘れられているみたいだったが、その口調にはきびきびとした対応が聞きとられ、来客であるひとりが涙を流している情況も一緒に洗われてゆく心地がした。
「こちらこそ、身勝手なお願いでさぞかしご迷惑かと思いますし、本当にぶしつけな訪問をお許し下さい。久道さんには一度だけしかお会いしていませんけど、あの様な不運でどうお悔やみ申し上げたらよいのやら、、、前回同様に急なうえ、こうして多数で押し掛けてしまいまして」
「いいのです。わたしに面会にいらしたのでしょ。ですから、わたしはこうしてみなさんにお会いしているのです」
「あっ、失礼しました。わたくし磯野孝博と申します」焦り気味になってしまったのも仕方ない、習慣的に名刺を差し出そうとすると、「以前、兄に渡されましたね、名刺は兄嫁の塚子さんから拝見させてもらいました。けっこうです」厳しくもない、優しくもない、美代のもの言いには日常を遮るつい立てみたいな距離感がうかがえる。小さな紙切れである名刺などは何枚張り合わせたところで、つい立ての役目は果たさないだろう、、、思わず胸のなかで苦笑いしてしまう。
「それはどうも、、、これは息子の晃一です。すいません、何やら事情があるあるらしく泣いていまして、美代さんが入ってこられるのとほぼ同時でしたので、わたしもよくわからない次第なのですけど、息子の友人の永瀬砂理さんです」
「ごめんなさい、肝心なときにこんなふうな態度で。でももう気を引き締めましたから大丈夫です。よろしくお願いします」
と、砂理は睫毛に水滴を含ませたまま、例の陽気な笑顔を振りまこうとした。
「あらあら、大変ね。乙女ごころは複雑ですから。それにわたし、あなたがどうして泣いていたのか知っていますから遠慮はいりません。好きなだけ涙を流すのがいいわ」
訪問者たちが凍りついたのは言うまでもない。そんな様相をゆっくり見聞するかのごとく、美代はそこから無言になった。心身に及ばずこの空気全体が急速に凍結されてゆく。
砂理の両目からはもう潤いどころか、虹彩は鈍い色合いのまま捨て置かれた紙くずのように情感を剥奪されていまっている。晃一はぽかんと口を開いたまま、何とか片方の目を宙に泳がせるのが最良の方策だと信じ込んでいるようだ。孝博は自分でも不思議なほど落ち着きをなくしてはいなかった。ここまで迷路をさまようように進んで来たのは、まさに観念上のたうちまわった錯綜から抜け出てみたいが為であったからで、これほど端的な導入部は鳥肌が立つ思いであり、尚かつ砂理の狼狽から一気に謎が見渡せる案配に近づいている実感が、旅客機に乗りこむ楽しみを、つまりは疾走する悦楽と鳥瞰があらたな地平と天空を切り開いて行くのだと確信出来たからであった。
もう心底から熱い情念を吐きだしてもかまわない。静寂は平常心によって破られた。
「どうやら久道さんは真実に一番近いところをわたしに語ってくれたみたいですね」
「兄とはしばらく会う機会もありませんでした。はっきり申しまして、わたしはそれほど兄の死に悲しみを感じておりません。子供の頃の想い出はあるとしても大人になったからは疎遠でしたし、それに、、、兄の研究ご存知なはずです。実験材料なんかにされるのはご免でした。いいのですよ、別にこうしたお話なら、わたしだってどれだけ話しても尽きないものがありますから。どこまで聞かされていらっしゃるのか知りませんけど、片手落ちはいけません。兄の言葉がすべてだと信じるのはご自由ですが、言葉は動いています。動物なのです。動物は当然ものを食べます。それがエネルギーでしょう。さて車はガソリンで動きますけど、言葉は何を燃料としているかご存知でしょうか。語学者であり、宗教学者の磯野さんが知らないわけなどはありませんね。それはそれとして、ところで兄はこんな言い方はしていなかったですか。時間系列に沿ってお話しましょう、と。そう言いながらもところどころ逸脱していた。半日で語り尽くせるほどわたしの生きてきた時間は短くありませんから、記憶の貯蔵庫に幼児期から整理番号でもつけておかない限り、年代記などは随分と潤色されるものです」
美代の声はすでに呪力を帯びていた。どれだけ論理的であっても、どれだけ感情が固定されていようとも。
[154] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット33 名前:コレクター 投稿日:2010年12月28日 (火) 06時05分
親子が取り残された室内には戸惑いも然ることながら、一種の空隙が特異な様相で現れ、あたかも大きくひろげられた断面図に阻まれたような息苦しさを覚えさせた。しかしそれは、見ることも、聞くことも、嗅ぎ分けることも、触れることも叶わず、真空状態が部屋に充満しつつある感覚だけに傾斜していった。
遠藤夫人があらわにした奇矯な表情にとらわれたのはわずかの間だったが、その隙に砂理が姿を消し去るふうに外へ出ていったのを、晃一もどうした事態だったのか認められないまま立ちすくんでいる。
「何も言わずに駆け出していった」唖然とした声色でつぶやく。
「きっと急な連絡だったんだよ。気になるなら様子を見てくればいい、、、」孝博の口ぶりも確固とした助言とは言い難く、そのあとへ続く言葉があやふやになってしまうのを半ば自覚している。
ふたりは顔を見合わせる仕草さも避けたい心境だった。真空は物質を腐食させないのだろうが、ここにある精神は間違いなく蝕まれる寸前であった。今すぐにでも美代がすっと現れ、身構える猶予なき情況が恐怖だけで構成される。慇懃な挨拶など墓穴に生き埋めされるごとく葬られ、砂理への懸念は闇夜の突風となって吹き消され、邪視に魅入られるのが対面の礼式であるかのごとく、なすすべもないうちに緊縛を甘んじて受け入れるしかない。
亡き主人の魂魄がこの真空に揺らいでいるようで仕方ないのは、夫人の異様な笑みと、ひとりの女性がこの場からいなくなっただけで妄想されるのか、、、おそらくそれだけではあるまい。吸血鬼、、、やはり吸血鬼をどこかで怖れてしまっているのだ。口先では精神病理学的な接触が最優先されるべき可能性を謳いながら、こころの底には得体の知れない感触を残してきた。遠藤の学術的と云う口吻の陰には、こうして彼が研究していた呪力と呼んでいい魔の刻が張りついている。やっと今、秒針を刻む音が聞え出した。
だが、怖れに素直に応じるだけならば、わざわざ連れ立ってここにやって来るだろうか、、、願っていたのは恐怖のもうひとつ裏に潜んでいる何かではないのか、、、
目くらましのようなつむじ風が脳裏をめぐると、奇妙なことに動揺が少し治まり、真空に対して心身を投げ入れている現在がいとおしく思えてきた。
「以心伝心って奴かな、おまえ気色が悪いじゃないのか。おれもそうだ、ここの空気は普段感じることない、形容出来ないものがある。しかし、もう怖がらなくていい、悪霊などではないよ、ひとの霊だよ、生きた人間の霊魂だ。自分以外のな。そう念じたほうがいい」
「それって合理的に考えろって意味」
「そうかも知れない、でもそれほど深く考えなくてかまわないよ。激しい感情は伝わりやすいけど、その他の思惑やら想念は自分自身以外やはり理解不能であるってことだから、おまけにその自分もしょっちゅうな」
孝博の目もとにほのかな明るみが灯ったの見た晃一は、
「自分の霊は感じないってことになるね。それでかまわないの」やや鋭さを片目にとどめながらそう訊いた。
「今はそのほうが賢明だってことだよ。そうじゃないと折角ここまで来た甲斐がないから。異様なる空間に抱かれ、奇怪なる女性とまみえる、それでいいじゃないか」
「わかったよ。砂理ちゃん気になるからちょっと出てくる。多分、玄関先あたりにいると思う。早くしないと美代さんが来ちゃうといけないから」
晃一の面にはいつもの若々しさが帰っていた。部屋から出てゆく後ろ姿にも悠然とした雰囲気が感じられた。魔の刻はあれから絶え間なく孝博に呪文をささやきかけたし、真空で充たされたと判じないわけにいかない室内は間隙を埋め尽くしてしまったので、もう息苦しくなかった。どうやら舞台装置が完成されたようなので、断面図は仕舞われたのだろう。一瞬、晃一がこぼしていった「自分の霊」と云う言葉に促され人体模型図の、内蔵や血管、筋、骨などがあからさまに浮き出し、屹立する様を想い描いてみれば、微笑がこぼれ落ちるくらい世界が動転しているのが疑似体験出来てしまい、酒に酔った気分を味わえた。
現実の時計も絶え間なく秒針を刻んでいた。すでに二時まえをさしている。この家に着いたのが一時十五分、これは孝博の腕時計でも、書架の片隅に掛けられている幾分古くさい銀縁をした丸い壁時計でも確認された。そして今も同じくともに相違はない。晃一が砂理を気遣って部屋を出てから三十分になる。美代にしても姿を見せるのを恥じらっているのか、ただ焦らしているだけなのか、ドアが開かれる気配さえ忍ばせているかのようだ。
時間こそ魔物かも知れない。いつもあくせくしているのは殆ど時間のお陰だから。夫人の顔つきひとつでもおののいてしまい、整合的に記憶を模索して躍起となっていたではないか。しかしながら酔った心持ちがもたらす高揚はそれくらいの経過に泰然と立ち向えた。まだ大丈夫だとも言えた。その根気を養う気概が反対に緊張を強いる。よからぬ事態がちょうど気体となって棺の中から煙りだそうとしている。幻想小説を読み耽りながら、実際にぼやを知るような時差をともない。
それは寸秒の時差だった。「二時になったらおれもこの部屋を出てみよう」
現実のぼやは火のまわり方次第で取り返しのつかない結果がもたらされる。孝博はあくまで律儀であった。無窮なる空間にも射し込むひかりのように直情であった、いや、むしろ磁場によってねじ曲がっている体感を得ていない無情なひかりであった。
[153] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット32 名前:コレクター 投稿日:2010年12月24日 (金) 06時35分
遠藤の家が目前にせまったとき、孝博は期待と不安が交じり合っている興奮を感じないわけにはいかなかった。それほど深刻ではない、もっと仄かで宙に浮く現実離れしたような空気が身を包みこむ感覚。小学校の運動会で毎年憶えた即席の孤独感、遊戯の延長にありながら情況が一変しているため惹き起こされた独りよがりの焦燥。しかし駆けはじめた途端にはそんな意識はすで解放されてしまっている。
息子とその彼女も一緒に臨んでいるのだから、独りぼっちではないのだが、スタート直前に横並びの生徒がそれぞれ噛みしめていた緊迫と似た雰囲気があった。実際晃一の片目はついに獲物に遭遇したみたいな先走りな緊張で一点を凝視していたし、砂理の表情は挨拶の際に見せた華やぎから随分と隔てられたところに移されたままだった。
三人はそのまま無言のうち玄関に立った。夏日のあの光景からそれほど間を経てないにもかかわらず、孝博は長い時間が過ぎていったと云うこころ持ちに支配されていた。遠藤の突然の死に戸惑い続けた影響もあるのだろうが、生前彼より聞かされた兄妹にまつわる風変わりな語りに引きずりこまれ、そしてついに予言めいた言葉通り美代に接する現実を受け入れようとしているのだ、意気込むと同時に空疎な落とし穴へと足を踏み入れる安堵が浮遊感をもたらすことは必然の成り行きである。だが、意識は驚くほど鮮明に、まるで俯瞰図を沈着に見守る建築家のように冴え冴えとしており、或いはここまでたどった道のりを峠から見下ろす達成感にも似たやすらぎがあった。
そこからの心境は反対に茫漠とした世界にさらわれたふうで、来訪の意を殊更述べる必要がないことも加わり、出迎えた遠藤の妻への弔辞も型通りに、三人とも初見である堅苦しさも表立つことなく、以前通された事務室兼客間のソファに座っている。布張りの感触は冷房が効いていた頃とは異なってはいたけど、両の壁面にしつらえた書架はおそらくあれから誰も手を触れていないのだろう、ひたすら亡き主人を待ち続けている様子が偲ばれた。孝博はそれきりまわりを見遣るのをやめてしまったが、晃一は左右に首こそまわしはしないものの片目を最大に見開かんばかりの勢いで、この室内からどん欲に情報を収集しようと努めている。
遠藤夫人がお盆に茶をのせ彼らのまえに現れるときまで、孝博の追憶は自ら用意した陥穽にすがたをくらますごとく、以前の情況をこの席に持ち込もうとはしなかった。喪に服する遺族を慮って黙祷のような気持ちをもったのだろうか、それとも書き置きらしいものが残されてなかった事実が裏打ちしている事故死を首肯するが為、故人を含め調度類や書籍にもこの部屋全体にもすでに関心は薄らいでおり、胸中にひろがるのは美代の存在に尽きるからなのだろうか、そのわけさえ自問するのが憚れた。
「お見えになる時間は美代さんに伝えておきましたから、もう少しお待ち下さい」愛想笑いではないが、至って丁寧な笑みとともに遠藤夫人はそう言って、見るからに香りのよさそうな煎茶を差し出した。
ぼんやりした頭のまま、消えいりそうに希薄な湯気が蒸発している煎茶を見つめていると、不意にいくつかの記憶がありありと脳裏にめぐって来た。ひとつはここを訪ねるまえ渓流で晃一が何気なくもらした「熱いほうじ茶」のやりとり、ふたつめは学生時代に読んだ川端康成の小説「眠れる美女」に数回出て来た鉄瓶の湯から入れられる上質な煎茶の場面であり、次には昨晩三好の風呂場で湯けむりが立ちこめていて、親子同士の裸体が何とも云えない案配にぼやかされ、それが湯殿の情趣であったとしてもあのなかでは却って気恥ずかしさを覚えてしまい、微細な照れ隠しを演じようと試みたけど無言に終始したこと、、、茶と湯けむりが織りなしたイメージに違いないのはほぼ想像出来る、、、「眠れる美女」は煎茶だけに尽きない類推が、、、
そこまで思考を力むことなく水路に伝うよう流していたところ、砂理の携帯が鳴りだしメール着信であるのが見てとれた。そして部屋から足音を忍ばせるふうにして出ていこうとした遠藤夫人がおもむろに振り返り、「どうぞ、ごゆっくり。わたしはみなさんのお話には加わりませんので、こころゆくまで美代さんと語らって下さい」
その声色にはどことなくけれんみが挟まっているようだったが、ドアを閉める際にあらわにした人工的な笑みには背筋がぞっとした。それは毒婦がわざとらしく浮かべる類いの、侮蔑までは示していないけど、秘密と云う名の媚薬を嗅がさずにはいれない性根が透けて見える卑屈な儀礼、、、どこかで見かけた顔だ、、、どこかで、、、卑屈ながらも自虐の罠には決して堕ちない、ときには様式に傾き無機質な膠着で相手を揶揄する、高慢にして酷薄な、ところが何故かしら憎みきれないあの顔、、、例えるなら「フェリーニ」の映画にほんの脇役で登場する娼婦やモデルや女中。
孝博の脳は猛スピードで記憶の断片をかき集め、ねじれをより戻し、逆巻く時間をなだらかな曲線を持った収まるべき装置、そう時計のなかにへ組み入れようと躍起になっていた。
夫人がいなくなって間もなく、青ざめた顔色で部屋を飛びだしていった砂理の慌ただしい行動に注意が払われないほどに、、、
[152] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット31 名前:コレクター 投稿日:2010年12月20日 (月) 04時41分
波紋が消え去るよう永瀬砂理の笑みがようやく細面から遠のいた。
「何だよ、折角彼女だってここまで来たんだよ。ぼくだってそうさ、手を取り合って突き進むためにこうしてここにいるんじゃないか、それを土壇場になって考え直せはないだろう」
晃一の憤慨は同時に邁進への確信であり、そして砂理の悲しみのみなもとでもあるようだった。
「そうか、それならいいんだ」孝博の声は低音にくぐもったが肯定のちからは損なわれていなかった。
手を取り合ってと云う、言葉が意味するところは何故か反対に散り散りに離れゆくイメージが脳裏をよぎる。が、今はそんな陰画で意識を乱されたくはなかった。
「砂理ちゃん、着いてすぐで申しわけないが、このまますぐに遠藤さんのところに行くよ。それでいいかい」
すると、今しがたまでの砂理の華やぎは瞬時にして枯れ尾花のごとく生気が失われた。口もとがきつく結ばれた連動によってつり目が増々冷ややかになり、うっすらと滲み出した涙とも見える潤いがかえって白濁した瞳を形成する。肉感を秘めていた唇は、陸上げされた二枚貝みたいに頑な抵抗で色艶が剥奪してしまって、もはや清純ささえも見出せず、まるで反抗期の少女のごとくに無感情な顔つきへと変貌している。
敏感に晃一が反応した。「やっぱり疲れているんだよ、父さん。東京から初めて来て、いきなり吸血鬼と対面じゃあ、、、三好荘で一休みしてからにすればいいのだけど。どう砂理ちゃんそうする、それとも今回は見送りますか」ふて腐れた子供をあやす言い方で砂理に打診する。
孝博の危惧はまだはっきりとしたかたちを為していなかったが、やはり彼女を同伴させるのは無謀と云うより何ら意味合いがなかったし、徒に悪しき不安の種を瑞々しい感受性の根へとまくようなものだった。晃一にはそれが共感出来るのだろう、決して自分も一緒に辞退するとは言いだしてはしない。むしろ時間に忠実であることを本願とした意気込みにすべてを託している。そう、息子はこう話したではないか「自意識過剰気味ではあるけど、みんなそれぞれのこだわりのところにそれを発揮してるんじゃない、ぼくだって今は違う箇所に意識がなびいているから」
晃一は単に血を分けた子であるだけでなく、すでに共犯者とも呼ぶべき意志で繋がっている。それが後戻り出来ない忌まわしき事態だけに結ばれようとも。
「だいじょうぶよ、ただこんなに急とは思わなかっただけだから。ちょっと焦ってしまって、、、わたしも連れて行って下さい、お願いします。迷惑にはならないと思います、黙って見ているだけですから。遠藤さんの家からは許可をもらったって聞きましたし、、、」
表情は見事に反転された背景画のように曇り空の下へ佇んでしまったふうであったが、案外芯のある口調が孝博の胸を打った。許可と云う言葉もどこか奇態な響きがあってか、自分でも理由がつかみ取れないまま、何やらぐっとこみ上げてくる情に思わず目頭が熱くなり、そんな戸惑いを隠すため不本意な叱責を晃一にあたえてしまった。
「おまえ、何時に先方を訪ねるのかきちんと伝えてなかったのか」もちろん晃一はそんな伝令を受けていない。「ごめん、ごめん、うっかりしちゃってた」健気にも父が吐いた咄嗟の取り繕いに対応する。更に目頭が熱くなるのを孝博は禁じ得なかった。その顔を覚られるのを避けるためにも、早く車に乗り込む素振りを示した。後部座席には若いふたりが。エンジンをかけたときにバックミラーを反し砂理の顔色をうかがって見れば、幾分かは落ち着きを取り戻したふうにも思えた。そして一緒に映った隣の晃一の表情がまるでこま送りみたいに変化するのを見逃さなかった。
優しく砂理をなだめるまなざしは、彼女の横顔をすり抜けながらガラス越しにどこかをぼんやり見つめた刹那、それが次にはその隻眼が孝博のほうに、まるで狙撃手を思わせる真剣な鋭いひかりを放ったのだ。
「こいつは何かおれの知らないことをつかんでいる。もしくはおれのことを何もかも知りつくしている」
孝博の直感は反撃を命令する司令官のように冷酷であった。だが、冷めた愛情より百倍くらいは親密だった。車は走りだす。伝わったのはエンジンの振動ばかりではない。
晃一の意識も緊迫して来たのだろうか、ふと思い浮かべたと云う調子で、
「そういやあ、砂理ちゃんのお母さんって旧姓は何て言ったんだっけ」そう先程、孝博に問われたことを訊いてみた。
「山下有理って言います。それと母方の叔父も叔母もこのまち出身ですけど、今はそれぞれ離れてます」
「山下有理、、、」振り向くことなく、そうつぶやいた父の背にじっと片目を固定しまま、車はすでに目的地への道のり半分をすでに通過している。
「父さん、その名前どう知ってる」
「いや、知らないなあ」ため息つくより簡単にそれだけ答える。「年齢は、出身校は、、、、」実際のところそんな質問が口をついて出るのだろうが、磯野親子にとって深追いする必要などまるでなかった。大事な問題はすぐそこに迫りつつあったから、、、
[151] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット30 名前:コレクター 投稿日:2010年12月20日 (月) 04時33分
肩に触れた黒髪は風にそよいでいるようであったが、澄んだ空気は動かないままじっとこの瞬間を愛でていた。
孝博のこころにも凍結とはまた作用の違った揺るぎのなさが到来していた。それが寸暇であることはわかっていたし、通りすがりに鼻をつく芳香みたいなものだと云う確信も潔く承知していた。それだからこそもう一度、待ち人から旅人へと変化する仕掛けに耽溺した。
晃一はからは幾度か彼女の存在を聞かされていたけれど、これまで自分の方からどういった容姿であるのか、家庭環境や学歴など込み入った内情には探りをいれたりしなかった。単に興味がないと云うのは詭弁であり、痛手を被るはめに陥った息子の未来を直視する勇気がなかったのが本当のところだろう、自ら刃を突き立ててしまうのを過敏に臆するあまり、放恣な振る舞いを奨励している惰弱な魂胆を見とがめようとしない。それでいて、趣味的とも呼べる不穏な事態には平気に同意を求め、同調されることに感銘したり都合のよい折り合いに対し随分もったいぶった理念を反応させた。気にいった書物のとある頁だけにしっかりしおりを挿みこむように。
永瀬砂理の容貌に面しても、そんな一頁からめくられる抜粋の要領で黙読してみる。素早く、的確に、そしてはかない字面に魔法がかけられていることを切に願って、、、
そうした所為が孝博にとって許されているのかどうかは、不問に付された。衝動は風に似て横暴なさわやかさを含んでいる。幸い風はやんだ。横暴さも一瞬息をひそめる。すでに色褪せつつある写真のような残像だけがそこに焼きつけられた。
ストレートな髪と面長なつくりは女性としてのかよわさと堅実な意思をきわめて効果的に組み合わせていた。からだのふくよかさは別としても、その容色から導き出される体感は脆弱でありながら、どこかに鋭気を忍ばせ、色香を放ちつつも抵抗させると云う反作用を促す。ましてややや上がり気味の双眸がもたらす印象は、まさに狐の面に対峙したとき感ずる冷ややかなときめきを到来させるも、犬や猫に抱く感情と同じく獣でありながら愛玩の対象へとひとすじに徹されるあの情愛のなかに包みこまれてゆく。
砂理の顔立ちが怜悧で近寄りがたい感懐にとどまらないのは、ほどよい高さをもった鼻筋と煮豆を思わせる小鼻のふくらみからくる愛らしさが備わっているからであり、その下に位置するやや肉厚で左右にひらいた唇が更なる愛嬌と、艶めいたひかりを同時に配しているからであった。
口角を下げることを忘れた口もとにも、開花寸前の匂いたつ蜜の味が天衣無縫にまとわりついている。彼女はそれを意識しているのか、していないのか、どちらにせよ小さな太陽に違いない笑顔が浮きだたせる夢のひとときは、すべてが薔薇色に染まった花弁に歩みよる決意を禁じたりしていない。
ホワイトジーンズの裾は夏の忘れ形見のようにまくりあげ、素足に薄いベージュのパンプスを履いている。緩やかな丸首をもった淡いブルーのカットソーはやや生地が厚めであったが、とてもからだの線に沿っているので、どうしても全身の隆起に気がとられてしまうのだけど、そこからの描写はあえて見ぬ素振りで流してしまおうと念じたものの、眼球に映ずる砂理の姿はひとつに統合された身体であり、決して便宜だけで抜粋出来てしまうほど安易なひとがたではなかった。
早くも座礁に乗り上げた失意をもよおしたが、どこか投げやりな意識が逆に本能的な至情に働きかけるのだろう、砂理のからだつきは上背もあって思ったより豊満なこと、それは全体をさり気なく見遣る目つきに自ずと還元され、しかも座礁に屈することなくその場に投錨さえしてしまう開き直りに転じ、とは云え純白の手袋を思い出させるような手先に塗られた桜色のマニキュアに感心する美意識を抱いてから、張りのある胸もとへと釘付けになってしまうのだった。さながらトーマス・マンが描いた「ヴェニスに死す」のアッシェンバッハの心情みたいに。涼し気な感心から、おそるおそる忍ばせる足音に、やがては我をなくしてしまう激情へと、、、
だが、少なくとも孝博はアッシェンバッハほどに暇人でも自由人でもなかった。また、「さあ、これで心おきなく恋をなさることができますよ」と、ささいな補いをしてくれる理髪師にもめぐりあってはいなかった。ただ、虚飾の精神を見届けようとする気概は中々堂に入ったものだった。魔法はかけられていたのだ。
残像たなびく長い夢のあとのような気怠さは、戦場に向う兵士の休息に似て模糊とした裡にも贅沢な時間を提供させた。能の舞いが魅せる幽明の静かだけれど強烈なる鼓動をともない、、、
写真はその色合いをくすぶりだす。三たびとんびの声を耳にした頃、孝博はそれが合図となったようにこう言った。
「そろそろ時間だ。晃一、砂理ちゃんよく聞いてほしい。君らがどうした意欲でこれから遠藤家に向うのか、その理由はこれ以上詮索しないし、おれも詳細はもう語らない。ただ、ふたりを危険な情況に巻き込んでしまうのがやはり心配なんだ。案の定、遠藤さんの妹はこのまちに来ていた。推測通りだった。吸血鬼に会いに行くって思いはないよ、しかし決して良いことは起らないだろうな、悪いことは惹き起こされても、、、どうだい、辞めるのならそれでいい、特に砂理ちゃんはまったく事情を飲みこんでいない、所詮おれだって似たようなものだけどな。面白半分だったら辞めるべき、そこだけを確認しておきたいんだ、わかるかい、、、」