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[114] 題名:まんだら 第三篇〜異名20 名前:コレクター 投稿日:2010年05月25日 (火) 05時40分

そのあとも望美は斥候に出るよりか、話しに夢中になっていることに意義を見出した様子で、日頃から小耳へ挟んだ姉に関する領域を美代へと報告する努めに精をだした。
ラブレターをもらったと自慢気に語りながら自分からも二回ほど渡したことを正直に言うあたりが姉らしいこと、小太りの同級生に限らずこの家へ来る同年らはけっこう異性を値踏みするもの言いではきはきしていること、あるときなど、度のきつそうな眼鏡をかけたひとに頼みがあるんだけどあんたでチューの練習させてくれないと真顔で迫られ同性でも無性に気色が悪くなって泣きべそをかいたこと、そのとき隣で薄ら笑いを作っていた姉がとても憎らしく感じたこと、それから美代の催促に応える具合で、いくらなんでも有理本人はそんな無茶は口にしないと、だって姉妹だから気色がどうのこうより絶対あり得ない、そう固く言いきったことなどが、こぼれ出す水槽の危うさで矢継ぎ早に語られた。
美代の好奇心は吸い取り紙となって水分を含み濾過され循環された。そしてようよう視線が下がり共通項にたどり着く。
「知ってる、赤ちゃんってどうやって出来るのかって。キスを百回するとね、、、」
「うん、わたしも聞いたことある。でも本当かなあ、、、」
と言いかけて、生唾を飲みこむようにしてその次に接がれるはずであった感想をためらった。
半年ほど前のこと、クラスの男子で普段より悪戯好きの三人組がどこで拾ってきたものか休み時間、いかがわしい週刊誌をちぎって一枚一枚さながら新聞配達よろしく一年生の教室にばらまいた。あくまで下級生のところだけと云うのが馬鹿馬鹿しくも情けないのだったが、その実情は先生にさえ見つからなければ咎めもないとたかをくくった腹づもりであり、昼休みを過ぎても何の沙汰がなかったのはそれほどの効果も与えられなかったことよりも、三人組をして安堵がもたらしている気配を美代は敏感に読みとっていたからであった。
と云うのも、昼まえ授業が始まるとき廊下の隅で顔を見合わせながら互いを探りあっている場面を横切りながら、
「やっぱり、誰かが言いつけるかも知れないよ。あんだけ破ってまいたんだ。顔もはっきり見られてるしさ」
「証拠はないからな、そうびくびくすんなよ。これも教育だ」
「おいおい、絶対に怒られるよ。すぐにおれらのせいだってわかるよ」
語調を落としているつもりでも、内心の怖れが金切り声に限りなく近づいて思いのほか空気に振動してしまう。そのときには美代もまだことの顛末がつかみとれていたわけでなく、またつまらない悪さでもしてびくついているだけだろうくらいに聞き流していたのだけれど、午後からの音楽の授業で渡り廊下にさしかかったところで一年生のげた箱の隅にふと漫画雑誌の切れはしらしきものを見つけ、どうした都合か風がそよいだ加減でさぁっと宙に舞い上がり目線でたどるに適した高さで停止しかけ、まざまざとその絵姿が飛び込んでくるに及んで、あの三人組が言わんとする意味合いがようやく判明したのであった。
無論、黄ばみかけている紙にこれまた色あせかけたインクで刷りこまれた漫画の実態を美代は理解しているわけでない。そこに描かれている局所を除き全裸で抱きあった男女が指し示ているのは、何やらいかがわしさには違いないのだが、内実にまで通底する根拠を持ち得ていないことや、淫らと云った含みさえ耳にした覚えもない稚拙さが救いになり、裸とくれば銭湯を思い浮かべるしかすべがないまま絵柄の持つ深意は未消化に終わってしまう。そして彼ら三人も裸体が交わっている図形を正式に認めてはいなかったと思える。怪獣や幽霊の存在を疑っても、世界の果てにとめどもない夢想を投げかける熱意は決して醒めることもなく、近所の暗い夜道へ次元爆弾みたいに仕掛けられた魔法に怖れをなすはずだから。
翌日の昼まえ校庭の階段わきの水道場で、家の近所にある森田商店の梅男と云う一年生の子が、昨日見たものと同じ種類の切れはしを懸命に洗い流そうとしている姿を美代は目に留め、
「あら梅男くんじゃない、学校で会うのはひさしぶりね。それ何かしら、あたしも、、、」
と言いかけると、
「そこら中に散らばっていたよ。昨日から教室にあったんだけどみんな隠してしまったんだ。先生に届けるのも面倒だもん」
「えっ、じゃあ昨日からそれ持っていたの」
「違うよ、今そこで拾ったんだ。ごみ箱まで持っていくよりこうして水をかけちゃえばとけるから」
そう答えながら、勢いよく吹き出す蛇口をしっかり握りしめた手は梅男の力強く、また所々ひび割れたり小さな穴ぼこを露にしたセメントも年月を経た風合いで水流をしっかり受けとめている。切れはしの絵柄は次第に破れ遂には細かくまるめられ、悪戯の成果は完全に根絶やしにされてしまったようだった。
湿気のない乾燥した秋風が校庭を駆けると、水気を帯びたセメントから立ちのぼるふうにして、水道管から吊るされた蜜柑色になった編袋のなかのひからびた石けんが微かに香る。
この懐かしい匂いはどこからやってくるのだろう。美代はそっと辺りを見まわす素振りをしながらそう思った。


[113] 題名:まんだら 第三篇〜異名19 名前:コレクター 投稿日:2010年05月25日 (火) 05時38分

あのとき感じた、神妙に引き締まりながらもどこかへ吹き流されてしまいそうになる安楽さが、どうした加減で発生し、わたしの胸のあいだに渦巻いたのかよくわからない、、、
それから二階から見下ろす隣の庭をいつもの平静で認める何気なさ、、、切迫した情況であった距離感を引き離した優雅な空想の源も、雲間から自若として照りつける日差しのごとく、手は届かない。間近で惹き起こされる悲しみに進んで耽溺してゆく行為を、片方の自分が冷静に見届けている。
いったい何に期待を寄せているのかさえ不透明な動揺は、砂時計がしめす無音の世界を思わせた。極度にせばまったくびれを抜け落ちる刹那に覚える、あの瑞々しくも鮮烈な手触りを醸し出さずにはいられない過剰な共感。それはまたモノクロームの映像が網膜に焼きつけられる際に想起させる、水辺にたたずむうら寂しさの裡にあった。
有理の心境をあやつり人形のように何よりも先んじてくみとってしまうのは仕方ないことであり、沈着な片方の自分は、こうして悲哀に染めあがる情感を維持させている脈拍をとめるわけにはいかない使命で、あらぬ対話を脳裏にこだまさせた。
「ごめんね、、、」
又ぽつりと囁かれて、美代はまっさらなノートに鉛筆書きしたときに知る甘美な失望を得る。
すでにわかっていた、いいえ情況を把握していたのではないわ、わたしが理解したのは、背後からのぞき込むように頷いているお人好しの映画監督みたいな歓び、、、かくれんぼや鬼ごっこと同じ性質をもった手放しの緊張感、それがいかにこじんまりとしていても幸い計るすべはここにはない。
望美が自転車の修理に出ていないと聞かされた瞬間から、美代は洞窟の入り口を目の当たりにし闇の到来へすべてを託し恐怖さえ懐柔した、ふたつの眼光を怜悧な指針とみなす遊戯に惑溺してしまった。
光は有理を宝石に仕立てあげた。階段で振りむかれたときは髪の毛がさっと突風に煽がれたふうにも映り、その偶然の裡に忍びこむように自分はいま異国の空気に取り巻かれていると嘆きつつ微笑して、寸暇に別れを告げる連鎖へと旅立っている余情を満たしながら、幾すじかの毛が黒目のうえを被い肌にまとわりつくまで遠近が曖昧な洞窟を駆け抜けていた。そして新たな輝きに包まれた。
待望していたのは確かに等身大の自分が変貌を遂げた写真でもあるのだけれど、更に欲したのは、そこから煙のごとく浮かびあがりこの世からはみ出してしまう純粋な想いであった。
美代の生霊を橋渡しさせる為に必要だったのは他でもない、成熟にはほど遠くまだまだ青みを留めている肉感を宿した、子供の目から見ても大人に成りきれてはいない柑橘類に直結する溌剌とした味覚だった。
それはいつの日か、有理の同級生らしき小太りでいかにもませた口調でまくしたてる、何回かこの家で居合わせたことがあるい女生徒から漏れた最後のひとこと、
「あのさあ有理、こないだのことだけどもっと詳しく教えてよ。とぼけてもだめ、いいじゃない誰にも話さないから。ねえ、したんでしょ、キス」
別に聞き耳を立てていたのではなかったが、有理の部屋に昇がいるかも知れないから見てくると、階下から声を出して呼んでもいつもながらに返事もしない弟を昼寝させるのに連れ戻すため、さっと小走りにしかも軽やかに階段を駆け昇った望美は、帰りはえらく足音を忍ばせながら美代に近づき、今さ、お姉ちゃんたら内緒話してて、それが、、、と言うより、目が笑ったかと思うと美代の手をとってもう一度二回へと今度は慎重にかまえている姿に圧迫され腰が浮きかけたけれど、そう執拗でもなかった誘いに「わたしはいいわ」と断ってからひそひそと会話の内容を聞くに及んで、瞬く間に顔面が上気していくのが意識されるのであった。
妹が言うには、中学を卒業するまでに体験するとかしないとか、どうも男女間にまつわる生々しい秘められたことに関する話題らしく、それで姉はどうもすでにキスは経験済みだとその口からはっきり聞いたからと、最初はおっかなびっくりに目線を下げ気味に喋っていたのだったが、段々興がわいてきたのか、去年の夏休み臨海学校の折、宵闇があたりを浸透した時分先生を囲んで行われた怪談にこころ奪われてしまった衝撃波の再来とばかり、話す方も聞く方も五感が研ぎすまされてゆくあの冷ややかな体温の下降にのみ込まれ、反対にどんどん上昇してゆく頬の熱さでからだは苛まれ置きどころを失ってしまう。
しかし、姉から放たれた矢尻は深く妹の喉仏に突き刺さり、その声色に異変をきたす頃には語感がまるで鐘の音のように響きわたって美代の胸に沁み入り、あるいは消化を司る機能が十全に役目を果たす自覚を得たときと同様なのだけれど、異なるのはどこまで入っても尽きることのない底なし沼に引きずられていきそうな予感であり、夜更けの家並みを眺める眼球に還ってくる孤独感を生み出してしまう浸透であった。


[112] 題名:まんだら 第三篇〜異名18 名前:コレクター 投稿日:2010年05月18日 (火) 05時56分

その一室に満たされている僅かな匂いは、落ち着きを忘れ、狐につままれてしまった美代のこころを見守る役目をそっと果たしていた。何故なら、同い年の望美が発散させるものに程度の差を見出す意味あいは、あくまで近場の半径で計られる駆けっこのようなものであり、そこには未知なる好奇が生まれる条件も、一瞬にして鳥肌を浮かびあがらせる異香も、あらかじめ聴要された馴れ合いで薄められた約束事によって決して湧き立つことがなかったからである。
予想外の地平が胸のなかにひろがる可能性は、どこまでも続くであろう線路が提供してしまっている負の側面、単調で凡庸な連なりに、見た目には余韻を残していくようでもその実あまり感興を育まない轍に似ていた。裏返せばやはり夢想を巻き起こす温度差が少なかったと云える。それだけ同年の感性は良くも悪くも隣どうしに並んでいたのだ。子供の頃はそうであった。
ところが年長からの知らしめはいつも未だかつてない魅惑の鱗粉を放ちながら時間のうえをすべって行く。目くらましにあったときに覚える不安と同居する興奮をついぞつかまえられないように。
その情況は例えば、親しくもないけれど学校内では見かける上級生がどういうわけか、鬼ごっこに加わっていてしかも鬼の役であることから来る得体の知れない怖さであり、ましてやいきなり塀のうえからひょいと顔をのぞかせる折に身震いをもって感じてしまう、圧倒的な醍醐味、そう極めて上質な遊戯を味わうひと時などであった。
幼なごころに弾ける豆鉄砲みたいなよろこびは一見たわいもなかったが、ある定理で運ばれている。他でもない、年齢差が算出する未知数への挑戦であり、それはまた絶対的な直線に物差しをあててみる現実性に培われていた。大人になればなるほどに、言い方を変えると、ときの過ぎゆきを体験すればするほどに濃密だったはずの世界は希釈されてしまい、ぼやけた分だけ随分と無理してまで修正しようと躍起になるのが当たり前だと信じ込んでしまうのだけれども、小さな躍動のうちには紛れもない凝縮された無垢なる時間が燦然と輝いている、その明るさに気がつかないのはもちろん罪なことではない。
明暗がこころの奥底に映しだされる年頃にはじめて異性を意識しだすと云うことはある意味理にかなっている。彼らは光輝が放たれている現実に罪を被せて、あまつさえその場所が禁じられた花園であると見立てるすべを学習するからである。
ここから色香にまつわる感覚を差し引いてみれば、おのずと純粋な培養は陸離として年少期に沈潜しているのが分かるだろう。肉体の発育がどの世代に比べて急速であるにもかかわらず、こころの発達は一番の感受性を萎縮させることをもって豊かな想像を育成してみせるが、思いの他それは偏狭な羽ばたきであり、矮小な空間を押し出す単一な作業なのだ。
美代は当然年上の有理に惹かれたわけを明確に知る由もなかった。ただ、幾らかひとより感性の伸縮が自在であって、無論ゴムのように陽気な一面を持ってはいるけれど闊達な性質とは形容し難い、詳細は見通せない形が定めにくい模様以前の白雲であった。それゆえ有理の空模様に流れゆく運命をひたすら願っていた。美代が信じていたのは、戯れと運命が別れ別れになってしまうことを疑わない眠れる宝石だった。
「やっぱり明かりつけなかったからはっきりしないけど、ほんとうはね、ぼやけたふうな具合に写らないかなあって思ってたの。よくあるじゃないブロマイドとかに。そうすると美代ちゃん、もっと大人びて見えるんじゃないかって」
有理のうしろを影のように付き添いながらこうして物おじしている気持ちさえ曖昧になりつつあったのか、出来上がった写真を手渡さされるまでの間、視界に入っていたはずの場面はすっかり止め置くを忘れてしまったようで、やはりこの部屋から香っている言葉に出来ない印象のなかをさまよっていたのが、長い時間であったふうに思われる。当惑がやんわりとごまかされたのは追い風にあおられたそんな嗅覚の為せるわざであると、ぱっとよぎったりもしたけれど今度は意識が別のところに張りつけられている実際は、ちょうど喚声に驚き窓の外をのぞき見る衝動と同じく無意識のうちに稼働し、楽し気なのか、切実と問いかけているのだろうかよくつかめない有理の感想が次第に説得力を帯びているように聞こえだす。
「どうしたの美代ちゃん、気に入らなかったのかなあ」
「そんなんじゃなくて、、、」
有理が心配な顔をつくりしみじみと見つめている視線がじりじりと熱気を持ち始めてしまったと、気にかかり、返答に窮している自分がどこか惨めであるとも思えてしまい、写真に収められた異相に向かいあっているのに互いの意識は宙ぶらりで、増々別のほうへと泳ぎだして収拾がつかないまま、頬から発火した火照りが耳たぶまで類焼してゆく様を思い知らされるのであった。
美代の羞恥をどう解釈していいのか、それからどう対処するべきなのか迷ったあげく、
「びっくりしたんでしょ。ごめんね」
そう、腹の底から浮上してくる想いをことさら優しい声音でもなくさらっとしたふうに口にすると、まだふたりして畳にも腰をおろしてなかった性急さに気づき、寛容な態度を取り戻そうと念頭にのぼった省みは、有理自身も予期してなっかった行動へ移されてしまった。
「お姉ちゃん、、、」
胸へ抱え込んだ斜になった美代はすでに涙声になっている。立ちつくしたまましっかりと両手をまわし妹と同い年である子に悲しみをあたえていることが、夢の出来事のように思えてくる。
有理の胸もとの弾力は自然とその悲しみを深めた。美代にとってもそれは説明のつかない甘い香りに包まれた夢であった。


[111] 題名:まんだら 第三篇〜異名17 名前:コレクター 投稿日:2010年05月11日 (火) 17時11分

人知れない物陰に佇んだときに感じとるような、たおやかな気配にくるまれている。
微風がそよいだと感じられるけれども、たぶんそれは目覚めが引き起こした小さな吐息に違いなく、そのささやきに似た声音で誘われるまま玲瓏とした調べに酔いしれたふうに没我の境地をさまようこころ持ちを保っていられるのは、今日が日曜日か祭日の朝であることをおぼろに知りながら、布団に身のぬくもりを確かめつつ、足のさきに触れるひやりとする仄かな反応を慈しむ安らかな眠りのあとさきが窺いきれないからであった。
たなびく夢想の架け橋も消えかかる頃合いの、こうした余情あふれた、しかしあくまで幽寂の森に造られた舞台は、夜霧の彼方に忘れられることを嘆いてはおらず、水平線にとけ込んでゆく送り船を見やるときによぎる快活な得心で寂寥から離れ去ってしまう。
階下の仏壇まえに床を敷くならわしであった祖母は曜日には頓着せず、空模様さえ悪くなければほとんど早朝から外出していることが多いけれど、両親はじめ兄も美代もいつもの起床時刻より確実に遅くまで寝ているのが休みの日の習慣だった。二階、ふすまを隔てた向こうに親らが、廊下をはさんだ部屋に久道が就寝している。ときには誰よりも一番にしかも勢いよく目が覚めてしまうこともあったが、別に早起きして何をするわけでもなく、ほかの者らが深閑として寝息すら立ててない様を邪魔してしまうのもこころ苦しく感じられ、そのまま寝床でぼんやりしていた。
カーテン越しの日光は黄味がかった生地の色を一層に萌え立たせるようにして、室内に充満しながら抑制の効いた輝きをもたらしている。黄金色のまばゆさはたった一枚の布地にさえぎられた憤懣をあらわにするどころか、広大な大地を素通りしてみせる余裕を示し、電燈では到底及ぶすべもない云わばひかりの浮遊力を体現しているのだろう、美代の視界は揺曵された夢幻を呼びもどす努力する必要もなく、肉親たちの眠りのなかに自身を忍ばせることが可能な光景を思い描いくのだった。
そう云えば、休日に限って望美のところを訪れた試しがなかったのも他の友達と同様で、今から顧みて顕然としているのは、やっぱりうちと同じように父親が寝坊し日中在宅していた影響があるからと思い、常日頃からあまり面識のない相手に躊躇して、ある種の圧力みたいなものを事前に察すると云うよりも、おのずと遠慮勝ちに傾く分別が通底していたのであり、例えば夕刻過ぎには互いの行き来を控えるのが当たり前であったように、夜分の訪問と同じく何らかの訳ありでない限り、日曜日には近所のなじみであろうと普段通りみたいな気安さは憚れていた。
美代はある日、ひとつ年下のおんなの子から笛の稽古をせがまれていたことを思い出し、数日過ごしてしまった懸念をはらう為に家が近い理由もあり、日曜の昼前ころにそこを訪ねたことがあって、その折に目のあたりにした玄関から奥の、いつもとは雰囲気が打って変わってしまったような隈が家屋全体に棲みついている怪訝な具合にとまどい、それはまた応対に出たおんなの子の母親の化粧気が剥奪された生彩ない顔色を直視出来ない不甲斐なさに繋がれ、なおかつ不機嫌な相手の様子があと少しであきらかになる予感を抱いてしまい、用件もあやふやに早々と引き上げてきた記憶を去来させた。
今では休日のほうが友人や縁者と交流する機会が増した気がするけれど、、、これはわたしたちが大人になって仕事や家事から解放されただけなのかしら、、、子供たちも一日中よその家で遊んで食事までごちそうになって来てるし、、、当時の風潮みたいなものが現在とは違ってきたのかも、、、
美代の脳裏に知人はさておき、自分の家にもどういった血縁にあたるのか判然としない者が午後も半ばをまわった頃合いによく訪ねてきていた場面を想起させた。なかには高齢者も交じっていたこともあって自分とはかけ離れた存在、後でそっと両親に名前を聞いてみるのも億劫な気分は事前に形成されていたのか、あるいは例の人見知りが加減したのか、物覚えが曖昧なのはどうした理由かは知れない。
しかし、ひとつだけ言える事柄はおそらくは祖母や父方の親戚筋であったと思われる年配者らが、
「美代ちゃんか、大きくなったね。段々と親に似てくるもんだ」
と、同じ言いようを同じ声色で(何故かしらなだめられていると痛感してしまうほどに)投げかけられたときのむず痒くなる恥じらいが、今もってはっきりと胸の奥からしみ出してくる甘酸っぱい思いだった。
邪気の欠片すらあるはずないと疑うことを知らなかった大人たちの社交に陰影をかいま見たわけでない、どちらかと云えば彼らが自分に肉迫してくるみたいな、被害妄想をたくましく育成していたと解釈したほうが明白である。
大人が単に怖かったわけではなく、子供である自分もやがては成育してゆく過程が断片的に、そうちょうど割れた硝子の破片のごとく無闇に突き刺さってくる雑念に過剰に反応したみただけで、どうしてかと問われれば、甘いお菓子ならともかくも、得体の知れない微笑みほど不気味な好奇心を宿していると感じずにはいられないこの身が情けなく歯痒かったからだった。

有理の部屋も二階にあった。息をひそめたふうに静まった日曜の空気がそれほど年月を経てもいないのに随分と古びた追想になって鮮明によみがえった。


[110] 題名:まんだら 第三篇〜異名16 名前:コレクター 投稿日:2010年05月06日 (木) 05時44分

その後どれくらい山下の家を訪ねたのか、実のところ美代には判然と思い出せない。
有理に淡いあこがれを持ってはいたものの毎回彼女が家に居るわけでもなく、あくまで同級生の望美を慕い放課後、ときには自宅に帰る途中ほんの小一時間くらい立ち寄る場合もあったけれど、主に家屋内でトランプや月刊雑誌の付録だった紙のゲームなどをしながら他愛もないおしゃべりに時間を費やしていた。
もっとも暇つぶしと云った感覚などではなく、特に熱中する遊戯がその都度あったのではないが、散漫さとは似てながら限られた範疇を惜しみつつあるこころ持ちは、夕方前には帰宅しなければいけないことや、大概は母親と一緒にテレビの前にかじりついていた昇が時々ぬり絵や絵本を片手に仲間入りしてくることや、小遣いのやりくりにも制限ある悲しさなどを含んで、半時も過ぎる頃になれば決まってせわしいわけでもないのにすでに名残惜しさを到来させてしまっていた。
「このミラーマンの顔はどの色がいいの、怪獣もこうかな」
とか、ぬり絵の案配をしきりに問いかけてくる昇にも、それほど鬱陶しさは感じなくて適当にあしらうのでもなく、まともに相手をするのでもなく、ただのどかな日和のなかで空気がまったりとしている滞りに余計な圧迫が加わってしまい、無論それが解放感の裏返しであるとはあの時分は知るよしもなく、意識するほどでもない苛立ちが自由気ままを侵蝕している微かな響きを聞きとっていたにすぎない。
子供も領分と云うものもそんな微妙な空気圧のなかで、成人してから覚える虚ろさと同種の静謐に包まれている。今度は絵本を読んでくれるよう願う昇に対し、いかにもうわの空と云った表情と声色でただ字面を追うように接している望美を横目に見ている美代の気持ちは、感興をまったく得ない曇り空の模様によく似ていた。
午後の日差しを満面に受けた有理の笑みが、かねてより密やかにこころ待ちしていたあの成果を告げられたのもこの家で送ったどの日であったのか。薄曇りを迎え入れた一室で行われた内緒の出来事からしばらくたっていたには違いないけれど、それから有理を交えて話す機会も一二度あったようにも思われもし、ただし望美や昇を排する格好で彼女と面と向かったことはあり得なかった。と云うのも、
「あら、美代ちゃんちょうどよかった。二階にいらっしゃいよ、望美は自転車の修理に今出かけていったばかりなの。あの写真仕上がってきたから見せてあげるわ」
そう玄関口で声を落とし気味に誘われた期待の瞬間は、幾度か入ったことのある有理の部屋へと上る階段際から、奥の間にいる気配がする昇と母に挨拶してから一段一段踏みしめながら彼女のうしろ姿を追って異様に胸が高まり出すのを永遠に焼きつけてしまったからである。
「わたしは忘れはしない、気おくれも流されてしまった、あの吸い込まれてしまいそうな緊迫した欲望を、、、」
階段途上で有理がふと振り返って見下ろしたときのまなざしに美代は完全に我をなくしてしまった。
前髪が振り乱された後でもとに整えはしたものの、幾条かの毛がひたい真ん中から鼻筋に沿いふくよかなくちびるにへばりつくみたいにして垂れ下がっている。その両脇に位置する瞳には憐れみと懇願に滲んだどことなく眠た気な黒目が宿っており、凝視するちからこそ半減してしまっているのだけれど、上下の睫毛をも潤わしてぼんやりとした光を放っている様子には、やはり憂いを最前に醸し出すことをためらっている加減が如実にうかがわれるようで仕方なく、それは有理が今まで見せたことのなかった感情を示しているとも思われて、更には凄みと云うよりも魔性にでも魅入られたときに反応する姿を見つめ返している危うさも付け足され冷ややかな感触を与えはしたが、陰にこもり勝ちとなるべき印象は視線の内奥に棲まうであろう常軌を決して逸しはしなであろうと云う、冷徹な信憑に守られ培われ不穏な形相へ堕してゆくことなくぎりぎりにところで均衡を保ち、さきほどの微笑がとっさに甦ることによって、邪念は涼風にあおられるごとく払拭され、冷水がもたらすここち良さのなかに優しさを見出す意想へと落ち着くのだった。
無言のうちに再び背を向けた有理の気持ちに応えなくては、、、
息をのんだ後、美代はかつて家族旅行で都市に出かけた折、乗り継ぎ駅の構内で迷子になってしまい散々泣きわめいて困惑するしか方がなかったこと、ようやく親たちに見つけられてもなお泣きやむことが出来なかったのは安堵だけではなく、底知れない不安を経て間もないにも関わらず、まるで兄が語る怪談に聞き入ってしまったのちもその戦慄すべきこころ持ちを反芻し続けていた情況に酷似していること、そして脱し得た恐怖のさなかがどこか懐かしいと思える辻褄の合わない心境を不思議がったのであった。


[109] 題名:まんだら 第三篇〜異名15 名前:コレクター 投稿日:2010年05月06日 (木) 05時39分

望美の目の奥に棲んでいた蔑みを帯びた怒りを、今でも美代ははっきり思い浮かべられる。
おとなになってさえしばしば見出すことのある、近親者が見せる憚りのない突発的な憎悪の露呈。徒に直情から噴出した遠慮のなさと云うより、親兄妹だけに許される技巧が隠匿された汚水の浄化。昇に示した彼女の目つきには実のところ、いきどおりへとすがたを変貌させた激しい情念そのものであって、そこに他人である美代が介在しているお陰で尚更に怒気が強調され、望美の胸中は激しさで揺れていても剣呑さに自らを失うことなく一縷の親和が、やがて平素の結び目を取り戻し自然にもとの鞘へと納まってゆく。
美代は普段から兄に小言はともかく、こっぴどく叱責されたり嫌みをあらわにされた思いがないだけにどこで見聞きしたかは判然としないが、そうした情況がある意味うらやましくもあり敏感に関知してしまうのだった。おそらくは有理に対する憧憬もその辺りから、深いさきの世界などつゆ知らずともちょうど煙幕に遮られた向こうにほのかな人影を探りあてるように、判然としたかたちは為さないけれどことばになる以前の触手としてとらえていた。
昇の暴発に狼狽したふりをしてその場を、と云うより正直なところ美代自身が取り乱したくなかった理由も、当たり前だがおもちゃの弾丸であっても思い切り命中した刹那はともかく、はっと我にかえったときには奮然として思わず手をあげてしまいそうなくらいでなのだったが、間髪を入れず弟を鋭く詰問しながら憂慮をはらい、そしてあの目を昇に差し向けたとき、すでにある種の敗北を感じてしまっていたからである。形式上においても道義においても望美がとっさに示した態度に微塵の落ち度はないはずで、もはや有無を言わせない情勢を受けとめるしか手だてのない美代は、じんと腫れているような目の下に覚える痛みとともに短い憤怒も鎮火させてしまい、代わりに訪れたのはそんな場面が兄久道とでなく、有理といつか再現されることを切望すると云った逃避的夢想と、おとうとを思いやる気持ちを底辺に認めてしまっている自分のどこか意地汚い鋭敏さに対するとまどいであった。
以前より美代は両親に限らず、まわりのひとたちに応対する(どうでもよさような些事、あいさつ程度)場合、必要以上に身をこわばらせてしまう癖があるよう思えて仕方なく、もっとおさない時分など、
「この子はよく人見知りするもので」
と、今ではそれほど顕著でなくなったけれど、当時そう申し開きをしていた幾たりかの人物の顔をよく想起出来るほどであるのが、ことさら口のなかを苦みが走るときに似た違和感を呼び覚ました。もっとも自己嫌悪に陥ってしまうくらい強い思念であるわけではなく、枯れ葉の重なり如くに薄くたより気ない見映えをもつ瑣末な齟齬であり、又からっ風にあおれて一葉一葉が自由に宙を舞っているひとときの気安さから来るこころ細さであった。
「久道もかなりでな、親戚のおじちゃんがお土産だって言ってくれてるのに、ふすまのうしろに隠れるようにしてな」
前に祖母から聞かされていた兄も同様な性格である事実も、胸のうちに薄膜が貼られているみたいで、そんなときだけ兄と妹だと云うにわかに確信がたかまり収拾のつかない勝手な意想に落ち着いてしまう。幼少のころなどは特にそうした現実面を発見する度に万事につけ何事も礼賛するものだ。見るもの聞くもの触れるものらが常に刷新されている夢見はまだまだ揺籃にあり、美代が懸念するまでの神経は酷使されてはいない。ただ、おとなとは別の部分でそれこそ取るに足りぬ僅少なことがらを、それこそ虫眼鏡で拡大されて目に飛び込んでくる大仰さで受け止めてしまうから、やはり夕暮れを境にした魔物たちの暗躍に空想から越えたものを、げんかつぎを真面目に信奉しけっして疑ってみようとはしない怯懦を、昆虫類が身近にある季節がふつう過ぎて実感がないように、だが彼らのちいさな命も冬の到来で消え尽きることを理解しはじめた不確かな自尊心が脈打ち出し、頼りなくもそこに答えを見つけようと努める細やかな回路を知ったからには、この身を萎縮させなければならない。
羞恥に近い燻った意識であることを消し去ろうとする葛藤は、こうしていつの間にやら美代のこころに沈潜していた。けれども沈みゆく船上から最後まで海面を見届けてしまうのと同じく、少なくとも我が身を案じることだけに収斂する業に縛られる老成まで至らず(まだ屹立とした自我が形成されてはいないから)惨事を明瞭に把握しなければならない桎梏から猶予を与えられている。
望美から苦言を受けてうなだれている昇の睫毛の長いはっきりとした二重の奥に潤んだ瞳は、おさな子が持つ切なさ以上の真摯な情念を潜めているように美代は感じた。すると何故かしらその深い切なさみたいなものが冷たく輝いてこちらに明滅しているのではと、ちょうど夜空に散らばる星々を見上げたときのきらめきが遠い感情を呼び寄せるふうに粛然と映じるのだった。


[108] 題名:まんだら 第三篇〜異名14 名前:コレクター 投稿日:2010年05月06日 (木) 05時38分

あの日のことはよく憶えているつもりだったけれど、後年山下の家の光景を振りかえってみると、以外に一度しか足を踏み入れてない一室の調度類を瞬時に思い起こせたり、当時の自分よりそれほど大きな歳の開きがないのに同級生の望美の弟がずいぶんと幼稚で、いかにも傍若無人なふるまいで好都合の遊び相手だとばかりに駄々をこねては泣きわめいてみたり、機嫌がなおったかと思えばおもちゃのライフル銃両手に真面目な顔つきをして撃つ仕草を演じて、ある日にはいきなり玉が込めてある状態で実際に銃撃してきたりもし、堅い玉ではなかったけれども望美ともども顔や首筋に命中したときの痛感さえ甦ってきて、ふたりして怒鳴りつけながら弟の昇からライフル銃を奪いとろうとした、あの瞬時に部屋の空気を切る身の動きとちいさな風をも忘れてはいなかったわりには、肝心な出来事の隅々まで記憶の毛細血管は伸びていないのか、それとも通わぬのは微細な領域にまで流れゆかない滞った血のほうなのか、萎びれてしまった感情のなせるわざであるなら、文字どうり昇の銃弾を受けてあたまに血がのぼったことが鮮明に残っている事実が可笑しく思えてしまうのだった。
「こらっ、ひとに向けて撃ったりしちゃだめじゃない、あんた大きくなったら殺人鬼とかになっちゃうよ」
と怒気をふくみながらも茶化すふうに望美がたしなめると、
「でもさあ、コンバットのサンダース軍曹はドイツ兵をやっつけてるから、ぼくもドイツ兵になって撃ちかえしたんだ。みんな死んだらどうなってしまうの」
「なにわけのわかんないこと言ってるの、とにかく絶対にひとを撃ったりしたらいけないの、あと野良猫とか裏の家にいるペスにもよ、わかった」
美代は昇の滑稽な返答で気分が高揚したのか、とは云え叱りつける語調はひかえめに、「すずめとかもね」と言いかけて内心では、「もっとも動きのある的は全然無理だろうけどさ」と思いながら目を細めてしまい、すでに泣きべそをかこうとしだした弟を気遣った望美もおのずと美代と似たような表情になって、同時してふたりの顔にすごまれることを予想していた昇は、姉らの目から怒りが消えかけていることにとまどってしまったのか、幼児の気まぐれは情況をつかみそこねてしまった挙げ句にやはり当然のようにして大声で泣きだした。
「あらあら、ちゃんとわかったんならもう泣かないの、あんたが泣くとわたしがお母さんやお姉ちゃんから叱れるんだからもう」
それでも一度声をあげ出すと蝉などと一緒ですぐには泣きやまないのが定則、ほんとう段々と大声になって虫みたい、と妙に感心しながら、最近はわたしもあんなふうに泣いたことないけどこの子くらいのときはなどと感慨深くなり、弟を懸命になだめている望美のことばもうわのそらでただ呆然として瞳を彼らに投げかけているのだった。
ほんの束の間であっただろうし、まだ涙と洟でくしゃくしゃになった顔が背を向けて部屋から離れようとした姿を憶えているのだから、確かにそれほどの間を置くほどふたりのやりとりを見過ごしていたわけでもない、けれども踵を返す昇を凝視できなかった事情が逆襲にも似た振る舞いが突発的であったと云うよりも、ほとんど過失だったのだとその後もずっと反芻するしかなかったは、よもや再び銃をこちら側に発射させることが起こるはずがないと確信とも呼べるくらい予知していなかった為でもあり、運悪くまたもや至近距離からただ一発だけ放たれた玉が美代の右目の下にかなりの衝撃をあたえてから、はじめてことの情況を把握したのである。
「わざとじゃないよ、バイバイって言おうとして手をあげかけたら勝手に玉が飛びだしちゃったんだ」
「勝手に飛んでくるような玉なんてあるわけ、あれだけ反省した顔してたくせにさ、まだ懲りないらいわね」
「そんなでも、、、ぼく、撃つつもりなかった」
「ごめんね美代ちゃん、痛たそう。目のした腫れてるよ、うっすら赤くなってるけどだいじょうぶかなあ」
「何が起ったか、わたしわかんなかった。はっと気づいたら昇ちゃんに撃たれてしまった」
「撃ったんじゃないってば、ドイツ軍は日本人を殺さないんだ」
「また馬鹿みたいなこと言って、とにかく美代ちゃんにあやまりなさいって。あんたの玉があたったのは確かなんだから」
望美の表情はきびしい目と口もとで強く固められ、自分より美代に命中させてしまった昇に相当いきどおりを感じていた。


[107] 題名:まんだら 第三篇〜異名13 名前:コレクター 投稿日:2010年04月28日 (水) 05時58分

「いい撮るわよ、あっ、そんなふうに無理して笑顔しなくてもいいから。もっとおすまし顔で。そう、でももう少しだけ目を下にしてどこか悲しいそうに。ごめん、ごめん、泣きだしそうな表情じゃなくてね。ちょっとだけつまらなそうにしてみて。はい、そうよもう一枚。こころになかでね、そうねえ、テレビドラマ、あっ、みなしごハッチとか、うーんオーバーすぎるか、あのさあ美代ちゃんムーミン見てるでしょ、先週の見た。うん小鳥が死んじゃうやつ。じゃあね、最後にムーミンが崖から海に向かって嘆く場面、あれを思い出してみて」
伏せ目にした顔、額から両頬のあたりにかけてゆるかやにウェーブがかけられた髪は、奇妙な違和感から徐々に解消されようとしている。この場合の違和と云うのはあくまでおさな顔が一様に形容しがたい色香を漂わせているためであって、ドライヤーと豚毛ブラシでにわか拵えした、毛先にかけてそよいでいる趣きが際立つにつれてあべこべに、少女では充たされない妙齢への期待は先手を打って美代を未来へと送り届ける。
意識するまでもなく、ゆっくりとちょうどもの思いからふと我に返った素振りがなに気に悩ましい横顔となって心情を身にまとったふうに映ったりする。
「これで服装が整ってれば最高なんだけど、わたしの服どうやっても大き過ぎるから」
と、落胆しかけた声をもらしかけたのだけれど、ふと壁のすみにひっそりとかけられていたベージュ色のレインコートに目をやり、さっとハンガーからはずしながら、
「これでも羽織っていればいいわ。小さなからだもうまく隠してくれるし」
こうして有理の工夫によっていよいよ写真の撮影がはじまったのであった。
部屋の照明はやはり灯らないままカメラをぎこちなさそうに扱う格好であったけれど、気のせいか時折窓の外でほのかに暖かな風が運ばれているみたいに感じたのは、雲の間から少しだけ光線が送られて来たせいだろうか。
レンズ越しとは云え、そのすぐ内側には無防備な視線が、、、写真に集中していることでこちらに応対する義務が緩和されてしまった分だけ、有理の思慮は別のかたちで美代をこわばらせてしまった。普段とは違う何かが研ぎすまされて、それは夜中に刃物を研ぐと云った陰惨なうちにも清冽な視線が込められいるおごそかな様相で、いつかの大晦日に覚えた粛然とした寒気に触れたときを思い出させる。
いつになく静まりかえった辺りの雰囲気は引き潮にさらわれる自然の出来事として感じられて、今よりおさない胸のうちにはほこりが清潔に舞うよう、ことばとならない怖れや関心が軽やかにひろがった。潮が遠のいた彼方からはうかがい知れない存在が、しかしじっと自分たちの方へと見つめることも可能なちからを秘めている気配が濃密な意志でもあるかのように漂い、また兄から聞かされていた妖怪や幽霊の話しなどもその延長にあると云うふうにも信じていたのは、ひとえに世のなかの仕掛けになどまったく関知することなく、おぼろげな気分で日々の過ぎゆきに身をゆだねている年齢でいられたから。
ことばがあらゆる物事を定義しはじめる輪郭線を描くすべを知らない、さながら真綿にくるまれた心身で意識の明滅をつかさどってやわらかにしか手応えを受けとめれない、感性の芽であった。
それが幼稚園から学校にあがるころにもなれば、まずことばが最優先となり算数の暗記など筆頭に否が応でも教育の束縛から逃れるわけにはいかなくなる。まだ自己を明瞭に持つことを自覚し得ないから、乾燥した砂に水が浸透するよう原理的には抵抗を示さないわけだけれど、美代にとって学校とは授業を拝受するだけなどと到底思ってもなく、かと云って勉強をなおざりにしておく悪意をうちに宿しているのでもない、ただ自分とは性格も育ちも様々に異なる級友や、背丈が見上げるほどまで成育している上級生のなかに入り混じっている事実だけが、これからの未来への架け橋となっていて、それがどう云った意味あいで結ばれているのかは判然としないものの、入学式の際に肌で知った悲哀などとはまだ覚束ないけれど、何かしら観念し尽くした気持ちが嫌でも伝わるまわりの緊張にかかわらず穏やかに静まる具合で、集団儀式を絶対的に見てしまったようにこれからの毎日を受けいれる準備となり出発となっているのだった。
ところがこうして身内でもない年上の同性とふたりしての、かつて試しない遊戯から逸脱しかける不穏さを認めつつ陶酔に近いくすぐったくなりそうなこころよさへと介在する予期されない視線は、必要以上に自分の思惑を凍結させてしまう作用があり、それは有理本人も見通せない胸裏にたかまる熱意がこうやってひとすじの目で被写体と向かいあっていることで、実は冷ややかな理知が形成されようとしている緊迫が美代のうえへ覆ってくる。興味本位ながら指先と面が触れ合っていた今までの親しみと敬いが、レンズを介して一方通行と化して自分の方に、もちろん濾過された純朴さとは別様の乾いた風みたいに吹きつける。
そんな置いてけぼりをくってしまったようなこころもとなさは、相手に対して同様の空白を作り出そうとしてしまう。美代は有理がぬけがらとなっていまここに居ないのではないかと悲しくなった。


[106] 題名:まんだら 第三篇〜異名12 名前:コレクター 投稿日:2010年04月26日 (月) 07時08分

有理すらもおぼつかない、まるで未完成の白亜の塑像を彷彿とさせる変容が引き起こすであろう美代の幼心は当然のなりゆきとして本人の思惑から離れしまい、戯れで造りあげたにしては息をのむくらい真摯で崇高な気配を宿している。すでにその内面まで美神が乗り移ったとでも云うべき冷厳さは、つい先ほどまでのはにかみを面にあらわしていた少女を虚ろなまで透明度のある聖域まで連れさってしまったようだ。毅然とした面容を黙視しているか如く対した有理の狼狽を、さざ波が微風によってひろがる綾を、美代の瞳に冷徹に映し出したのも無理はない、ふたりして無言に向きあう様はどこまでも澄みきっている。置き鏡は薄曇りの陽を逆光で迎え入れ、いつまでもこうした余韻を愛しんでいるようであった。静かに沈みこめるときの連鎖を永遠に眠らせてしまう意志さえ持ち得た如くであったから。
やがてそんな沈黙は雪どけ水が最初のひとしずくをしたたり落とすよう、あたらな息吹である有理の再帰により、そう、ことば無きまま彩色筆をその仕上げのため手にした刹那、峻厳さに包まれていた空気はどちらともなく安堵に近いゆとりを取り戻させた。おもむろに紅を持った有理の意中に応えるため、あごのさきをさっと差し出すことで互いの裡に一条のひかりが瞬き、表情には浮かび上がらないにせよ、あきらかに希望と夢見で結ばれる微笑が呼び起こされ、やがては待ち受けている喜悦に向かって行くことを確かめ合うよう意図された、そこだけが欠落させてあったとさえ云っても過言ではない血の気が人工的に失われていた箇所にさっと赤みがもたらされる。見た目はつつじ色の艶やかさ印象づけるのだけれど、実際には紅梅の色合いが厚みを持たない怜悧なくちもとに施された効果は、十二分にふくよかな色香を放ってやまず、尚も上塗りすることがすでに不必要と思われるくらい完成を目前にした色づきは美代を別人に変貌させ、再度あの静謐なる時間をそのすがたにまといつかせる予感を生み出させる。
だが、自ら緊張のなかにあるのか忘我の渦中にあるのか判別つかない有理のこころにも濃艶な花弁が開かれたのは、美代の秘められた光輝がもうすぐ開花されようとしているからであり、紅がひかれることであたかも血潮が口唇の裡に充満していると思えてきたからであった。するとまったく意識もしていなかった強いちからに引っ張られてしまうみたいに、きっとわたしもまだこどもなのだわ、成人まであと何年あるのだろう、と云った念が不意にわきあがり、
「美代ちゃん、えらく見違えちゃったよ。ほら鏡みてごらん」
ようやく平常心に立ち返ったふうにして話しかけた。
陰りを帯びた部屋の案配が気になり明かりを灯そうと電燈のひもを手をかけたのだが、何故かしら薄明かりであるほうが自然であると感じ、おそらくは日差しが隠れはじめた頃合いを見計らったように化粧を施したことの延長であるべく、いや、もとはと云えば華飾を模倣する気まぐれから起ってしまったどこかやましい気持ちがこのまま隠されることを願っているこころを知る故なのか、決して明瞭でない写し絵を言われたとおりじっと見つめている美代に対し複雑な感慨を持ちながらも、あえてそれ以上は深く推量せず自然光にすべてを託すのだった。
「お姉ちゃん、すごい、ほんとうにわたしなの」
いつもは有理姉ちゃんと呼んでいるのだけれど、このときは驚きが優先したとでも云うみたいに気安く、親し気に、ときめきとためらいとよろこびが居並ぶままそう口にした。
「まったく、わたしもびっくりだわ。将来有望ね、きっと美人になるってわかったでしょ」
美代はそのことばを額面どおり受け取ったのか、斜に目線を逃すようにし、ほのかに頬が上気している。
その羞恥は、さすがにおとながかいま見せる折の一見清涼なまなざしによる、しかし肉感を突然さえぎられたあの重厚である緊迫を半身にはらんだ意味あいを表にはしておらず、いかにもおさない照れが粉飾を崩してしまった安易さで醸し出されている。
「さあ、あとは髪の毛をほどいてみようよ」
ふりほどけば肩より下まで垂れるであろう黒髪は、そのときまんなかから分けられ両耳のうしろで結ばれていたのだったが、束ねから解放されただけのことで案の定一変して美代を年齢不詳にさせた。
それは、清純な少女と出会ったときの鮮烈な胸のたかまり、舞台女優が演ずる虚飾に魅入られたあてどもない情熱、あるいは寡婦がときおり見せる妖艶な微笑み。この世のものではない不確かな欲望。


[105] 題名:まんだら 第三篇〜異名11 名前:コレクター 投稿日:2010年04月26日 (月) 07時08分

今まで感じたこともないその指先から授けられる柔らかな触れあいに対し、美代はなぜか入学式のとき同じ年頃の子らも自分と似た緊張ぐあいだろうとよく了解したことをふと思い返した。
有理から持ち出された、ままごとにはしては秘密の匂いがするふたりだけの遊びに多少は当惑気味であったことは確かだけれども、薮から棒というより美代自身の胸裏へにわかにわきあがった期待に忠実であるべく素直にしたがったまでとすれば、彼女のなすがままに任せるのが一番だと開きなおりみたいなうれしさがこみあげてくるのだった。
下地らしき液体が美代の小粒な顔全体に塗りこめられる間、そんな困惑と喜びがないまぜなった意識はとりとめもないうちに微弱だがあざやかな決意となって胸のなかにふくらみ、気がつけばほのかに酸味をはらんだ濃厚な甘さが鼻をついた途端、
「さあ、そのまま動かないでね。おしろいパタパタしてあげるから」
と言って真珠色のコンパクトから取り出された厚手の、だが素材はいたって肌触りのよい布地でたたくと云うよりもうっすらなでつけられる加減でふたたび美代の面に粉飾がほどこされた。薄目を開けその様子をうかがいたいところ、細かい粉が飛び込んできそうにも思えて増々きつくまぶたにちからが入ってしまう。そんな表情を有理はさぞかし愉快に見てとっているのではと感じる反面、布地より伝わってくる振動になりかける以前の愛撫にも似た真剣な手つきを、操っているまなざしをどう受けとめてよいのやら、どうにもやり場のない勝手な想像にもとらわれる。
するとむずがゆそうな美代のこころを察したのか、
「まだ赤ちゃんみたいになめらかな肌、ほんとはおしろいなんかいらないだろうけど、こうすると産毛も白く染まっていくように消えてゆくのよ」
軽快に頬のあたりをなぞっている手はうらはらに有理はゆっくりとした口調でなだめるようささやいた。「そうなの」内心まだまだ平静を取り戻すことがままならないけれど、美代もひとことだけつぶやき返す。
午後の陰りはさきほどまでの陽光にときを告げたのか、そとの空気は色調を落とし部屋の明るみが失われつつある。正午と夕暮れのさかいを流れている少女ふたりの背伸びのようなひとときはあくまで静かに彼女らを見守っている。少なくともふたりのこころに焦りをもたらさないよう。
「これでよし、それじゃ、あごをあげてみて」
有理のことばに信頼そのものを感じるまま、美代は心持ち首をうしろにそして鏡のなかに浮かんでいる白塗りになった顔と対面した。くちびるまでおしろいははたかれていないのだが、もともと薄いくちもとである為か、また和毛で細みにかたちどられた眉にも粉がまぶされたふうに見え、一瞬ぎょっとした驚きが襲ったのも無理はあるまい。ところがときの経過がせわし気に追い立てるのでなく、おそらくは有理と美代の感情が波打っているのだろう、鏡に映る異形にとらわれる猶予を消し去る勢いで次の化粧道具が出番を待ち受けている。
こうして次第に彩色が重ねられていく模様は、斜日に薄らいだ窓のうちから光彩を放ちだして部屋のなかを輝かした。
「めもとから仕上げちゃおう。はい、少しだけライン入れるわ。あんまりきついと不良の子みたいになるから」
と、今度は有理のひとりごとにさらわれ伏し目になる。危な気な筆使いでもする手加減でリキッドタイプのアイライナーが本人の思惑どうり、内側すれすれのところから気持ちだけはね出るくらい絹糸で貼つけられたふうに黒く線かれる。そして乾きを待つ素振りでたったいまのひと筆を推敲でもする如く、書きつけた当人も下目の視線でじっと見つめているのだった。
きりりと引き締まった眼瞼に華やぎと可憐を添えるにあたって、ほんの間合いはあったものの有理の彩りはあらかじめ用意されていた配色のように、淡紅色をなびかせる具合で流麗に定まり、薄紫をほんのりと点在させつつ、だが不用意な主張をひかえさせる案配で、年少の面だちにほがらかな哀感を植えることに成功した。もうこれだけで色香とは別種の一輪の小花を想い起させるおさな顔が誕生してしまった光景を我ながら満足そうに見やる有理の瞳からも潤いあるひかりが瞬いている。
祭礼で施される明快だけれど異相に変化する方法とは違った粉飾は、案じていたより素晴らしい効果を生み出した。更にはビュラーをあて、カールと云うよりかはなだらかな蔓草の先端を思わせる優美さを演出し、あっさりとマスカラを通してから、これはほとんど手入れが不要なくらいにしなやかに細みを描いている眉にコントラストを与えたのであった。


[104] 題名:まんだら 第三篇〜異名10 名前:コレクター 投稿日:2010年04月22日 (木) 09時47分

「わたし、あの日写真撮ったのよ、ええ美代ちゃんのすがたも遠目だったけど何枚か写したの。でも欲張って枚数の多いフィルム買ったんでまだ残っているんだ。現像したらきっとあげるわね」
あれから足しげく山下の家の遊びに通いだしたのも、ものおじしている美代の気分を別段やわらげると云った配慮も働いてはいないが有理がもつ本来のあかるさが一気にこどもこころを掌握してしまったふうでもあり、それはまた美代の側からしてもひとしお望んでいたことであったから、ふたりが同級生の望美をあいだにはさんで親しくしている定めから段々ともっと開放的な、これは相当に飛躍した思念でもあるけれど、このうちの子になりたい、そして有理さんとずっと一緒にいれれば、、、そんなどこのこども一度は胸に宿した浅慮もときとして切実なる透明性をおびることにより、本願がかなわずとも一本の矢がちから強くひかれまっすぐと虚空を突き進んでゆく意志はどこかで成就に巡り合える。
さきほどから写真の件でもおどろきとうれしさでいっぱいになっていた美代のこころの隅から顔をのぞかせた非現実ではない、願望ははやくも言下に実りを得ることが予想された。
「わたしから切り出せば、わたしのほうからお願いすればきっと」
フィルムのことを告げられ、落胆しているのか恥じらいでいるのか、いずれにしても細かく断じる性分ではない有理は、ふと思いついたように、
「そうだせっかくだから今から美代ちゃん撮ってあげる。ふふ、お化粧もしてあげるわ。わたし安物だけど化粧品もってるんだ。まえにお母さんの黙って使ってたらついに見つかってしまって、えらく怒られたけど、やっぱり興味ある年頃だもんね。あのさあ、おとこの子だって学校に香水つけてくるんだよ」
美代は天にも上る最良のめまいで舞い上がってしまったのだが、友達のお姉さんとは云え、いざ自分の素肌に直接触れられることにためらいがないとは言えない。その気持ちの底にはやはり憧れが放つ光源とともに生み出される陰りに対する弱気で臆病な神経であり、もうひとつはにきびが多少吹き出ているにしても、カールされた睫毛や薄くひかれた靴紅、手入れのゆき届いた芳香を放つ首筋までで整えられた髪に圧倒されてしまい、昨日の夕方風呂に入っただけの朝方、洗顔しただけの身がとてつもなく汚れているようにさえ思えてきて、これはもの怖じと云ってしまえばそれまでであったが、化粧を施されること自体には抵抗はないものの、思春期にさなかにある有理から伝わってくる清潔感、それがマスカラや口紅、女性専用のシャンプーによるものでとしても、美代には気恥ずかしさからくる圧迫で卑下へと落ちてしまって、そうなるとよそよそしさを体現するのが関の山で、あれほどまで望んだことが現実面では苦痛を招く結果になりかけてしまっているこの現状に立ちすくむしかなかった。
「あら、遠慮しなくていいのよ、わたしも実は念入りに化粧した顔を撮ってみたいのよ。美代ちゃんも代わりにわたしを写して。だいじょうぶこのカメラはこうやってボタンを押すだけだから」
以外な有理のことばは一陣の風となって美代のわだかまりをどこかに吹き流してしまった。
「まえに望美にも頼んだんだけど、妹しつこくてね、何枚も何枚も撮ろうとするし、しまいには弟の昇をつかまえてきて、この子も一緒に化粧してあげようとか言ってくるし、それでお母さんにばれてしまったのよ。都合いいわ、あの子はまだそろばん塾から帰ってこないから」
「わたし、そんなカメラ触ったこともないんだけど」
まだ愚図っていると察した有理は、
「ただ押すだけの状態にしとくから、ほらここからのぞくと見えるでしょ」
彼女の持ち物にしては随分と大柄で使い古された写真機だけれども、いまはこれが誰のものか推測する猶予もなく、おそるおそる言われるがままにファインダーに片目を近づける。
気がつくと有理の学習机には楕円形の置きかがみが据えられ、なにやら細々した道具をおさめたビニール製のバックから取り出しはじめた。
「美代ちゃんからしてあげる。これお化粧落としだけど、まあ、油分もまだ浮いてない素肌だし別に使わなくてもいいんだけど一応ね」
祭礼のときも同じく下地から丁寧にコットンで顔中をたたくようにしてから白塗りにされた経験のある美代はすでに有理の意のまま、実の姉妹がかいま見せるやりとりがいま現実に執り行われようとしている。
以前にはけみたいなもので塗りこまれた白地と違って、チューブから微量しぼりだされた乳白色の半液体が美代の顔面にところどころ塗りつけられ、それからかたちのよいすらりとした指先が丹念に全体へとまんべんに動きだし、さあ少しのあいだ両目をふさいで、その声を耳にした刹那、美代のなかに激震が走り抜けた。
「この指先だわ、いつか見た夢の、、、」
こうなることを知っていたのね、きっと、その念いは有理にも誰にも伝えることが憚れていた。何故ならば、メロドラマの定石は必ず恋心が隠されたままであることが美学に結びついているからだったのだが、美学の本質など知る由もない美代が模倣としてその心情を真似たのであったとしたら、それはそれでひとつの憧れが、恋を育もうとしている盲信とも云えるであろう。


[103] 題名:まんだら 第三篇〜異名9 名前:コレクター 投稿日:2010年04月22日 (木) 08時15分

穴があくほど美代は今日はじめて目の当たりにした有理の顔をうかがったわけでもないのに、自分の家に帰ってから夕食をすませた後母と一緒に銭湯に行った際、ちいさな背中を流してもらいながら湯気でくもりかかった鏡に反射するおさなげな表情が、より頼りない造作で目鼻だちを並べてあるように思え、いつものことながらこうして母にからだを洗われている無防備な体勢によくわからない羞恥が浮き上がるのを、なぜかしら躍起になって打ち消したい焦りが意識を別の居場所に案内させたのか、それとも総タイル張りの浴室に反響するほかの入浴客の声や、気持ちいいほど軽やかなそれでいて不意をつかれたときのとまどいのように風呂桶が床へカランと響く音がおもわぬ居心地のよさを提供させるためなのか、湿り気に濡れた鏡にしたたる汗となったしずくが悲しげな風情をつくりだし、美代の面にゆっくりと重ねあわされるふうにして有理の笑みがあらわれた。
驚きを隠すすべもない美代は振り返ることさえ自分の胸中を母親に悟られてしまう気がして、ゆっくりとかぶりをふってさも石けんの泡が目許にしみる素振りで、そっと鏡に映る母の裸身に目をやった。最近、少し小太りになってきたと子供ながらにも一抹の感慨がもたらされる以外母のすがたに特別な興味があるわけでもなかった。だが、さきほどふっと霧のむこうに面影が見え隠れするよう出現した有理の微笑みから素早く追想される混濁したものの正体を見極めるには、この場がふさわしくないのはかねてより夜具に包まれた安寧と眠りの世界がさしせまっている闇夜の懸念が錯綜する就寝前が何かにつけ最善であると信じていたことで、美代は恋するものが忍ぶところはたえ忍ばなくてなないらいと云ったメロドラマによくある様相を型どうりに理解した。
「美代ちゃん、はい、じゃもう一回あったまってからね」
いつの間にやら洗髪まで済まされてしまったときの過ぎようを不思議な感覚ではな至極あたりまえとしてとらえたことが、なぜやら誇らしくもあった。

春の夜とは云え、日中との寒暖のひらきは罪深い火のしもべがこらえきれない情念を世のなかにさらけだしているように、その夜が底冷えしたことがかろうじて脳裏を巡ってくるだけで、しかもこの病室からでも体感出来そうなくらいここ数日が同じく春先とは呼ぶにふさわしくない気候であることのほうが、反対にあの幼少時代の記憶を裏打ちしているのか、美代にとって残念ながら明かりが消された畳部屋に連ねる両親の布団が敷かれた箇所が読書灯のぽっとしたともしびを見届けたどうかすら危うい記憶の貯蔵庫に、かの想い出は眠っていない。
初見の印象を追い求める意想が、かたくなな意志と云うよりもあくまで形式上のこだわりによって善くも悪くも脅迫的な記念碑を打ち立てようとするちからに誘導されているのは、まさにひとの業であろう。
現在から振り返ってみれば、映画のプロローグに似せたい心情が発生するのも首肯してしまうところであるが、いまは養生に専念するため日々の生活から解放された身、クライマックスが伏線なき切り取りで再生されるのは興趣に欠けるであろうし、何より時間の住人であることを避けて通ったとしてもそこには、たくさんの忘れものを残してくることが懸念される。細部にまで追想の手をのばし続けるわけではなく、もっとも強烈な体験や感情が織りなす綾をいま少しだけひもといてみるのも無駄ではあるまい、、、
美代のこころはすでに決定された脚本に忠実であるよう、こうして手鏡を慈しむまなざしで過去のなかへと旅だってゆくのであった。

「ねえ、そうそうこのあいだのお祭りの日、お話は出来なかったけどお互い気づいていたわよね」
「うん、有理姉さん、わたしのほうじっと見てたから、ますます緊張しちゃった」
正月を越し、毎年催される二月の祭礼の最終日、海岸線から幾筋か隔てた古くからある街道沿いに主のこどもたち主体の手踊りがくりだされるのだけれど、今年で連続三回目の参加となった美代の七五三以外では施されることのない念入りな化粧すがたに毎回、感嘆の声をあげるのはものの見事に年かさの順であり、まずは待ちかねた気持ちを押さえることなく満面に笑みをたたえながら、ほんとう美代はこうしてみると将来たのしみなくらい可愛らしいね、と祭りに集まった孫をもつ老夫婦ら誰もが紋切り型に口にする褒めことばが円満にささやきだされ、続いて両親、わけても母がおさな子を見守る目のなかに同じ女性としての野性味さえ匂わせるような、
「美代、お化粧すると一変するわね、お母さんも若くなりたいわ」
などと、我が子でありながらすでに失われてしまった自分の思春期あたりを相当、胸裏に呼びよせるのか大きくため息をひとつついて見せたりするのだった。父と兄とは美代が祭礼に初参加したおりこそ、目新しい発見を求めるような気概でありあまるよろこびを託してしたのであったが、父は青年部の寄り合いの酒盛りやつきあいでそうそう美代を見守り続けているわけでもなく、久道と云えば生来からの出不精なのかひとの集まるところが苦手なのか、家でみんなを見送ったあとはひとり読書に耽ったりして、やはり兄妹の距離を律儀に保っていると呼ぶのは、それは褒め過ぎなのかも知れない。


[102] 題名:まんだら 第三篇〜異名8 名前:コレクター 投稿日:2010年04月22日 (木) 08時14分

夢ごごちのなかにほんの少しだけ、留め置きした感触を美代はどこから招きよせたか思慮するのでなく、その淡い色合いをもつ薄紙が漉かれる優麗さのためらいすら洗いながしてしまう親しみへと静かに呼吸をあわせるようになすがままであり続けた。
まくらもとから差し出された両の指先が、感ずるままにそれが人先指と中指であることを察知しつつも、とても軽やかな触れ合いをもって美代の閉じられたまぶたのうえに添えられる。かすかな肌触りからその手の持ち主が妙齢の人物であることを覚らせたのだが、夢うつつのなかではそれが母である可能性は等閑に付され、と云うのも正直親密さにおいては隔たりがある兄の存在が、姉妹への見果てぬあこがれになって巣くっていることを日頃より、同級生の幾人かのうち兄久道と同じくらい年齢差がある環境に出会ったこともあって、兄妹とはまるで接触の異なった話ぶりや互いの表情が投げかられる様子に名状しがたいうらやまさを禁じ得ることができなかったのである。
夢からさめてみてからもふさがれた双眸に映った面は、確認されることは遠い過去の情景を想い浮かべる模様となって、わずかに相手が微笑とともにこぼれ落としたような好意をあらわにしたことばになる以前の声色だけが残さただけだけれども、美代自身これは錯覚と云うより実感に限りなく近い感情を呼び起したに違いない、わたしが男性であったならこうして残り香となって漂っているうら若い女性の思慕がとてもうれしい、と云った気持ちがまるで鮮烈な積雲となって蒼穹にひろがっていくのだった。
まだ幼少の美代にとって、もうおとなに成りかけている体つきや、女性特有の甘い香りがそれとなく発散されているかぐわしさへの憧憬は、ただ単に信頼を寄せる対象として年長の同性であるばかりでなく、当人もやがては成長してゆく過程を先まわりして捕えてしまいたい念いが隠されているのだろうが、それだけでは当てはまらない情感の起伏でおおきく揺らぐ要因まで堀り進める意欲はまだ封印されるべきものであり、また見た目にも明確な彼女らの胸の隆起にときめきを覚えることに恥じ入る心持ちさえ滲み出してくるのが、どこか落ち着きの悪い恐れとなったからであった。
初潮を迎えるまで心身の発育も十分な余裕のときの過ぎ行きのなかにあった美代は、むろん生理の仕組みさえ想像しがたく、ましてや男女のあいだに生まれる恋愛の心中もテレビ番組で展開される物語を文字道理なぞるにすぎず、絵本のなかに大仰で描かれる王子さまとお姫さまの結びつきにも官能的な夢想をいだくこともない。想像力を喚起させることにおいては兄のあの謎めいた幽冥譚などからの刺激に満足しているわけだけれど、語り部と化した兄本人が魅惑を全身から発しているのでなく、あくまで彼の聞かせる不思議の数々に共鳴するだけであって、どちらかと云えば普段は無口な久道の存在は、気分本意に饒舌度をたかめる随意さでもって割合を定める結果となり、美代の気分を軽減させてしまう始末であった。
それが毎日顔をつきあわせる馴れ合いで生じる鮮度の低下にせよ、およそ世間を知らない美代にとってみれば仕方のないこと、よその家の姉妹を観察すると云うよりも、我が家とは別のところにいまこうして足を踏み入れている興奮を受け止めているのが精一杯で、最初のあいだは他家のたたずまいや建具、美代の生まれてくるまえから匂っていただろうと想起してしまう土から立ち上っている生活の異臭とも呼べる、だが決して不快でない独自の空気が部屋のつくりや目にはいる調度類や飾りものの珍しさと相まり、次第に意識しだしたその家の姉との接近がもたらす、新鮮な胸中のたかまりは徐々にかたちをあらわにし始める夜目にも映える花影となった。
同級生のなかでも特に最近親しみだした山下望美のうちには幼稚園に通っている弟と中学三年になる姉がいることは以前より誰に聞いたというわけでもなく知っていたのだが、はじめてここを訪れた去年の暮れ、姉の有理もまた冬休みで在宅していたのだろう、玄関先から突き当たった廊下の先で受話器をとりながら、勢いよく戸がすべったほうに自然と目がいったというふうな顔つきを見せると、やや遠慮がちな仕草で妹のうしろから一歩遅れてきた様子で見知らぬすがたを判別しようと務め、あの不意の遭遇にありがちな怪訝な目線を送りだしてしまってから笑みを作り出すまでの一瞬、あたりまえのように美代は当惑を感じたのだけれど、電話を中断することなくさながら話相手に投げかける笑顔がこちらに向けられたのを、同級生だけではなく自分にも分配されたのかとまぶしい光源を見つめる思いで軽く会釈したのが、あのころからしてみれば随分と大人っぽく見えた彼女との出会いであった。
「あら、おかえり」
有理の目許は判然としたことばを宿していた。


[101] 題名:まんだら 第三篇〜異名7 名前:コレクター 投稿日:2010年04月19日 (月) 15時10分

木枯らしが目にしみるままの冷たさは、多少の違和感を差し出ているとでも云う愛おしさの忍苦に逆に守られている。小学の二三年へあがる時分には、ひとり家路をたどる足取りにも習慣から案内されるのか、ひっそりとした分別さえ備わっているのでないかと思われる心持ちが波状をもって従容と充たされていく。それは見慣れた通学路の並木に照りつける光線の、いつもとは色合いが違ったようにも感じられる彩度が決定権を揺るぎないものに定める強引さであるより、もっと微弱な、おそらくそう勢いもない向こう風を身に受けるときに覚える、ほどよい刺激に親和が呼び起こされるあの透明な感情が胸の奥底に沈んだままの柔らかな質感によった。
木々の枯れ葉を、燻ったかわら屋根の背景となるべくして青みを増した空模様を、庭先の茂みとの隔たりをさらにかけ離れた空間へ位置づける縁側を、経年によっておおらかに朽ちかけてはいるけれども、雨樋をつたい流れおちる雨水がまるで濾過された純然と澄んだ清らかさを想起させるよう、通り過ぎてゆく見知らぬ家屋の風情が見慣れたはずの印象を変化させてしまう不思議をはぐくんでいること、眠りのなかに入りこんでしまいそうになる安心感に包まれている落ち着きは外の世界がまだまだ無限大なひろがりであることを脅威として知らしめるのではなく、毎日の天候がその加減によって刻一刻と新たな光景を鮮明に描いてみせてくれている。
すべては偉大な単調さのうちにあるのだからと念いは、確かに目にしみいるのであった。
雨上がりのしずくが草木を濡らしたままのすがたである続けるのを、どこか陰にかくれて気ままに望んでいる意志のようなものは、目立って眼前にあらわれるのはなく、夜露が早暁に眠りをさまされるふうにあくまで抵抗を如実に指し示さないことで、隠れ蓑はごく相応に嫌がる素振りもみせないまま季節のさきへとその身を投げ出している。
美代は四季が織りなす町並みの移りようを描いてくれていた年少時に想いを馳せるとき、同時に風に巻き上げられた土ぼこりや、塀をのりこえ顔をのぞかせていた果実が香った印象を銀木犀の放つな甘い芳香とともに攻め上がってくるのだったが、その濃厚な記憶を明確につかみとることがもどかし気に意欲の淵へと消えていく失意をどうすることも出来ないままに、いや、正確には記憶の輪郭をたぐる寄せる意味を見出せないからだろうし、実際においての鮮烈な嗅覚の方こそが明確に追想を補強するのであって、やるせないうちに時間のうしろへと流れさる車窓の情景みたいに、醒めた視線が配置されている現実にたいしてそれほど感傷を捧げるまでもないことを、薄葉の手触りのように理解していた。
だが、五感をゆさぶる指先とも云える想い出の目線の彼方には、その薄くはかない紙質をかすろうと務めるもうひとりの自分がときの住人である決意を穏やかに保持し続ける陽炎となってこちらを見返している。
美代はしとしとと朝から降り続けた薄暗い天候が家のなかまで入りこんでいた、春さきの小寒い昼さがりの場面に音もなく落ちていった。祖母がひとり縫いものをしながら留守番しているだけの、普段でもありがちな一日ではあったのだけれど、南に面した硝子戸からもらい受けるくぐもった明かりを頼りに手先を操っている置物でもあるようなすがたが部屋の端に鎮座している様は、一室を変貌させるに必要な条件をさり気ない手つきで添えられたに違いなく、電灯が活用されるまでのひとときをいま過ごしているのだと云う、やはり静かな気配にひたされた明暗がかもす雨空に圧迫された空間がどこか間延びとも似た不確かさで広々としており、開け放たれたふすまの脇に備えられている仏壇のとびらのうちの奥行きもまた、遠いところへと通じているありようを地に這う深い鉛色の絨毯の如く漂わし幻惑させた。
きっと兄ならば「それは異界に向かってのびている門構えなのさ」などと言い出しそうな勘ぐりも閃光に近い邪心のなさで呼びだされる。
祖母は生来闊達な性格で、むろん末娘である美代に小言はおろか、しつけがましい物言いをした試しもない猫可愛がりの情愛にくるまれていたからであるのだが、足腰もしっかりとし雨天でなければ近所の老人仲間のもとを訪れたり、旬の山菜やときにはバスに乗り込み浜辺まで潮干狩りにと精を出すくらいの気力を維持していたのだけれど、今日みたいな薄暗い虚空に寄りそう様子で黙々と手芸に埋没している雰囲気は、老齢そのものが別段意識するまでもなく薄日にひっそりとすがっているようにも感じられ、さきの兄なら端的にあらわにした言葉がはらむ、それはすぐ近くの仏壇の暗闇の奥や、墓苑の石碑、砂底深いなかに想いをめぐらすことへの本能的な、もしくは自分自身を呪縛せしめている禁句が発令する永遠にたどりつくことが不可能な領域へと連れ去る磁力を察してしまうゆえんであったなら、、、「天候に罪はない、そんなひっそりとしたあの昼下がりが甦ってくるのもわたしのこころ模様のなせるわざ」
美代はつらつらを思念をめぐらしながら、どうであれ少しは気味の悪い場面ではあったけれども、あの寂寞として一種、日々のときから取り残されたような、鈴のねが遥か遠いところから鳴っていたような、桜も散りさった気候にしては肌寒く、薄手のカーディガンがほどよい温もりを与えてくれたやすらぎを忘れてはいなかった。


[100] 題名:まんだら 第三篇〜異名6 名前:コレクター 投稿日:2010年04月16日 (金) 15時58分

夢の断章はときと云うしおりをいともたやすく抜き出し見開かれるべき光景へと連れさる。
普段着の高森を想起させた求心力はどこから供与されたのか、美代には漠然ながら頬の軽い火照りのように理解出来た。おぼろげな意想がくもり硝子の不透明さのなかに実相をとめ置くように。

めくられる頁のさきはすでに夢の彼方であった。おそらくは中学生の風体を持ちながらも高森はおとなびた素振りで自宅で調理をしていた。その場に美代が来訪していたのか、実体を伴わない浮遊する受動器だけがその一室を眺め彼の言葉を耳にしていたのかは把握することは出来ない。だが夢見た当人である以上、その見聞は美代が引き受けるしかない。
「いつもそうだよ。夕飯はぼくがこしらえるんだ。父ちゃんはぼくと同じでからだが弱いんだ。母ちゃんは仕事で帰りが遅いし、うん、慣れたもんかもね」
相当古びた平屋の家屋、土間からわずかに離れている台所で腕まくりをして包丁を上下させている高森の表情に陰が見出せないのは、低い天井から勢いよく放たれた裸電球の地下室をも照射させるやや黄ばんだ強烈な明かりの仕業だと感じた。ガス台には大きめの底厚なフライパンが置かれ、今日の総菜らしき魚のぶつ切りと皮つきソーセージが、まな板上ではなくステンレス流しのなかで無造作に切り刻まれている。
「この方がさっと洗い流せるから」
問われるまえに自ら悪びれた様子どころか、気楽さを謳歌する口吻で説明してみせる横顔にもまぶし気なくらいに電球が反射しているのだが、やがて奇態な調理法がいよいよ仕上げにかかったころには、光線が直裁に高森の顔色はもちろん食材や台所あたり全体を浮き上がらさせる情景に一抹の忌諱が滲みはじめ、それと云うのも魚とソーセージはだし汁のようなもので煮詰められているさなか、おもむろに戸棚から取り出された食パンがそのフライパンに放りこまれたのであり、ここでもすかさず弁明の物言いなのか、
「こうやって煮たほうが手間もはぶけるし」
と、飄々とした表情を損なうことなくぽつりと自身に言い聞かすようにもらした語感は、おそらく本人の思惑から隔たりをみせ呪文を思わせる効果をまわりに及ぼすと、夕餉の仕度が完了した安堵がもたらす日々の疲弊は言霊に憑依されるのか、美代の胸のなかに気まずさを含んだ言いようのない憐れみみたいな感情を植えつけ、煌々とかがやく天井からぶら下がった裸電球のかさに遮られてしまった仄暗い壁の上、黒かびを思わせる暗部へと視線を這わせた。
夜の気配が玄関を通り抜け、この家屋にも漂いはじめたのを感ずることは、他人の居住まいを容赦なくよそよそしいものに仕立てあげ美代のこころは次第に不安感がつのりだし、得体の知れないものに対する恐怖心で充たされはじめる。そんな気持ちを察しているのか、高森はふすま一枚隔てた部屋に病臥しているらしい父親に夕飯が出来たことを事務的に知らせると同時に、さきほどから恐れを抱いている明かりが遮断された壁に向かって指を差し、
「これ知ってる。『クリムゾンキングの宮殿』とジェネシスの『怪奇骨董音楽箱』中古で買ったんだけど」
なるほど、LPレコードが帯付きの状態で天井間際の壁にかけられている。そのさきの高森の言葉も仕草も脱落し、あるいは忘却の深淵に眠っているのだろう、そして実生活のおいてもあの夢以来、彼と会話をかわした記憶はない。
ただ、不穏な雰囲気に立たされたにもかかわらずそのLPレコードを差し示されたときに、このひともこんなアルバムを買うんだと、胸に巣くっている振り払ってしまいたい念とは別のところで、妙に感心したと云う事実である。目覚めの瞬間に拭いきれない眠気にからまるようにして夢の世界から顔をのぞかせたのも最後の印象、忌まわし気な緊張を払拭してしまったとも云える、やはり楽天的な風貌であった。
「移ろったのは高森くん、あなたじゃない。あなたは正直すぎるくら馬鹿正直だったわ。身勝手に解釈したわたしのこころがどこかをさまよっていたと思う」
夕飯後、高森は早々と寝てしまうと話していたことがあった。そして早起きであることも、、、
「もう一度あの夢のなかに行くことが出来れば」
薬が効いてきたのか、まぶたが重く感じられそのままいつもの眠りにつきながら美代の目は潤いを慈しんでいるのだった。


[99] 題名:まんだら 第三篇〜異名5 名前:コレクター 投稿日:2010年04月16日 (金) 15時57分

男子のなかでも目立った存在であるわけでもなく、その反対の雰囲気、つまりは病弱な体質と聞き及んでいたところもあり、児童らしからぬ頬のこけ具合からは何故か淀んだ水たまりを連想してしまう見るからに陰湿な風貌を醸し出しているのだったが、細面に不似合いな張りのあるつぶらな瞳はときおりため息をもらした加減と相違をあらわにすることを望むのか、高森を包み込むんでいる全体的な印象はどこかしら健気な居住まいへと移りゆきながら、殊更てらうわけでもなくただそうやって静かに編み方に専念している様は、穏やかな流れをもつ水域へとたなびいていくようであった。
やはり彼が腺病質であることをまわりの者らも理解していたのだろう、誰ひとりとして女子のお株を奪う芸当をあからさまに非難してみたりからかう調子も表に出ない。美代へ留意を促した子の語気には、どちらかと云えば感嘆に類する新鮮なためらいが込められているようであり、その先へは意見を発しないままにそっと見守っている表情がすべてを物語っていた。
美代は意外性と感じる間のなく妙な関心をおぼえたことを憶い出す。のどかな春日和の陽光を待ちわびているこころが、こんな記憶のかけらを蘇らせたのも不思議なことだけれど、しかし門戸が開かれるためのきっかけとして情景的にもっとも叶ったこの霧が晴れゆき、新たなに回想が紡ぎ出されようとしているとりとめもなさそうな、そよ風にも似た心持ちは深い谷底に目を落とす、あの瑞々しさとめまいが同居した感覚を呼びさます。
あれだけ熱心に編み上げられ、可愛らしくもあざやかに腰元を飾って揺らいだリリアン作りも季節が変わるころには一過性の流行を同じくもうもてはやされることもなくなっていた。それがどのくらいの期間であったのか、結局美代自身もうら覚えに誰かのおさがりを身につけていたようなにも思えるのだが、それより先の光景はひろがっては来ない。

「浅井さん、どうですか今日は。外は風が冷たいですけど、こうして窓から眺めると暖かな感じがしますね」
個室を割り当てられた美代のこじんまりとした室内には確かに暖かな日差しがとりこまれ、白壁を背にして佇んでいる自分よりもひとまわりほど年の差がありそうな看護士が見せる、はにかみを思わせる遠慮勝ちの微笑みは窓の外の寒風にたったいま顔をさらして来たふうで、白衣に身を包まれたすがたもまた冷たさをより引き立たせている。
「この看護婦さんの笑顔をもう何度目にしたのだろうか、、、」
まばゆい満面の笑みを決しておもてにさせることのない毎日の挨拶が繰り返されるなか、美代のこころの底に沈みこんでいく懸念はこうやって空洞をくぐり抜ける不確かさに寄り添いながら、いつかは訪れることだろう先行きへの淡い期待となり、ぼんやりとした意識の裡に雪洞のように灯される。
検温を済まし、あたりさわりのない会話の余韻を少しだけ残して再び閑静な部屋にひとりとなった美代は、不意に胸騒ぎみたいなものに突き動かされるようにして思考を集中し、かたちになりかけようとしている記憶の断片を寄せ集めはじめた。
「随分とまえだけど高森くんの夢を見たことがあるわ。短い夢だったけど確かに、、、あのあと中学でも同じクラスになったのよ。やっぱり学校も休みがちだったし、ほとんど口も聞いたことないはずなのにどうしてかしら」
ものごとを成就させるためにはいつだって歩み寄りが不可欠だ。たとえそれが前向きな姿勢ではないとしても情念を奮い立たせるには、そこに近づいていかなくてはならない。夢のなかであったとしても、、、

意識の黎明を知らせる予兆はすでにその萌芽を含んでいる。中学生に成長した美代自身の影がすっと足音もなく胸のなかに忍びこんだ感触が符号になったのか、高森のすがたもにきび面の容貌へうつろいながら、ところが校内での対面ではなく、林間学校での集合場所になった国道沿いの駐車場へと意識は影絵の如く映し出された。あれは真夏の早朝、薄明を通り越したばかりの気配が山々から降りてくる冷気とともに運ばれ、鳴きはじめて間もない蝉の声がまばらながら遠くから聞こえていた。
普段はまだ寝床にいる自分がこうして他の生徒たちと、山裾から香りたつ草いきれを早くも一緒になって感じとっていることが、日盛りの熱気が失われてしまった時刻に立ち会っているようで、どこか謎めいた微行にも思われ、明らかにいつもとは違った寂然とした空気感にまどわされて、なかば夢見の心持ちに支配されている。
高森がすぐ近くで数人と喋りあっている。そしていつかの小言を思わせるように美代の隣にいた男子生徒が、ぶっきらぼうにとは云え悪態をつく口調におちることなく、
「なんか、森やんのジーパンすがたはじめてみるよなあ。おそろしく似合わないなあ」
そう一言彼がつぶやいてみせたのは美代に同意を求めると云うより、本心がごく自然に口をついたまでのことであるようで思わず笑みがこぼれだしたことが、いま憶い返されるのであった。


[98] 題名:まんだら 第三篇〜異名4 名前:コレクター 投稿日:2010年04月14日 (水) 16時52分

空気抵抗を反対にもてあそびながら時間の流れをそこに悠然とあらわしている光景は、微小な羽毛たちが神妙としてひかりの祝福を甘受している、あのまどろみの裡に見出す判然としない不安感を憶い出させる。永劫に浮遊し続けるちいさな歓びが無限の空間から断絶される恐怖をひた隠しているように。
美代の脳裏に同じく、朝もやのように廻ってきたのはやはり微細でとりとめもなく緩やかな想い出であった。まさしく散漫で悠長な風貌がこうして想起されるのも、ひかり輝くひとときの戯れであればそれはひとゆめのはかなさにも通じる開放的な調べと云えよう。

小学低学年の頃、教室内で休み時間になると何人かの女子が(ほとんどの生徒らがと認めたくもあるところ)リリアンと呼ばれた手芸に夢中になり、その色鮮やかな見た目と細かく編み込まれる手間がおそらくは、多彩な色づかいが醸す可愛らしさ以上の何ものかを発しているのだろう、魅惑はコンパクトな形状に収まり、なおかつそれなりの労力ともいうべき作業を必要とされることで、より一層のあこがれが彼女たちの清らかな胸のなかに颯爽と芽生えはじめたのだった。
勉強に専念する意志がまだ未分化なこども時代、図工など教科から覚える趣向とは違った意味あいを育んだ遊戯のこころはそんな他愛もない手細工に熱意を傾ける。すでにあの時分は、校舎を出れば駄菓子と並んで店先に陳列された廉価な玩具の類いは小遣い程度で買うことが可能であったにもかかわらず、こどもらには放課後をもてあます余力みたいなものが残されていて、男子は簡易な組み立て玩具やら、ビー玉、面子などの単純な遊戯に熱中しつつも、まだまだ労を惜しむのがまるで罪であるみたいに野原を駆け巡ったり、野球のまねごとなどに興じた。たぶん現在ほどモノに取り囲まれるまでは至ってなかっただけなのだろうか、駄玩具類はさておき、専門のおもちゃ屋に足を運ぶことが家族なりのおとな同伴でなければ到底可能ではなかった意識が重圧のように存在していた事実もまた彼らを高等な欲求から回避させ、低年齢である最大限の活力をもってする時間の充足、それが万全に充たされた方向とは断言出来ないにしろ、いずれにせよ物質からすべてをたぐり寄せる手法は選ばれなかったのである。
各家庭に据えられたテレビが毎回放映するこども向けの番組も、再放送の機会がなければ再び享受することがあり得なかったことも、放埒な醍醐味など最初から拒んでいるかのようで、そうすると食い入るほどに見つめたテレビ画面への感興は、まだ白黒番組なども放送されていたことも相まり想像は溢れさせんばかりの情熱となってまだ見ぬ未来へとおおらかに飛翔するのであった。
しかし、あとに残された廉価なモノらはそんな事情により、自らの価値を蔑んでしまったのかと云えば、情況はいみじくも、流行からは取り残されてしまったけれど決して品位を落としたりはしない歌手のように聴衆にふりまく笑顔は絶やさず、それは媚びる姿態へと流されることを嫌悪する意地でもあるかの如くに、こどものこころに意欲をさずけることで軽やかなる価値を証明してみせた。
「さあ、今度はこれまでとは違った遊びかたでやってみよう」
小さなプラスチック怪獣のあたまは外され、同じくらい小さな指にはめられ、ときにはビー玉を弾く兵器と化し、アイスクリームの空容器は積み木と一緒になって、一室の片隅に奇妙な要塞を築くための重要な器材へと変化した。そのほか面子やブロマイドなどは学習ノートと共に机の引き出しに仕舞われ長い眠りについたものもある。
そんな幼少さが創成するきらめきに溢れたさり気なさは、その実どこまでも平静であることの装いを意識しない約束ごとみたいな守り神の霊力によって、不満分子たる欲求を封じていたのかも知れない。
さて美代も例外にもれず、親しい同級生の感化を瞬く間に受けていたのだが、どうしたわけか手先の器用な兄とは正反対に、そしてまわりの女子たち誰にもまして、自分が念じた動作を指先はことごとく裏切る結果、リリアンが作り出す色彩の綾は見るも無惨な形状をあきらかに予期出来てしまう段階で、美代の期待を外堀から打ち崩すようにしてつぼんでしまうのだった。
生徒同士に暗黙の了解と云った気概がとりまいていたのか、本人が編み上げた品以外をほかの者が身につけることがまるで御法度として誰ひとり進呈はおろか交換も見出せない以上、如何にも興味なさそうな目をくれている男子のなかに混じりこんでしまいたい無念さと、切実に感じた哀しみに苛まれてしまった美代は生まれてはじめて孤独感を覚えたのである。のちに成人してから襲われるひりつくような世界からの孤独と、言わば鮮度が異なるその念いは、親身になって編み方を教えてくれる仲のいい友達にも伝えられない性質であった。
当時は男子女子ともにジーンズをはいている子が多数で、腰の横ベルト通しにひっかける感じで歩くたびに複数棒状に編み込まれたオレンジや赤、緑に黄色が織りなす原色がクレヨンから移しとられたかの極彩色の放ちながら揺れている様子から美代は逃れることが出来ない。
「ああ、これがせめてハンカチとかであれば、、、」
だが、幼いこころを煩わした事態もさほどの時間を要することなく、思わぬ知らせから一気に氷塊してしまった。
「ねえ、美代ちゃん、あの高森くん見てよ。男子のくせによくもまあ、、、」
彼は男子生徒のなかで、この教室のなかで、ただひとりせっせと休み時間にリリアンを手慣れた指先で制作しているのであった。


[97] 題名:まんだら 第三篇〜異名3 名前:コレクター 投稿日:2010年04月14日 (水) 16時52分

思いのほか気まぐれにやんわりとあるいは又、不意に背後からしのび寄った悪意の翳りの前兆はあの幼い日々のなか密やかに棲みついていたのだろうか。
木漏れ日のような思いがけない到来は、すぐそこに手をかざせば親しみのある温もりをあたえながら、前後を把握しきれない微かな驚きを内実に宿し冷たい感触の火花が一瞬、胸のうちに散り去ってゆく。
美代にとって冬空から降りてくる陽光は、ごく身近な存在であると共にまなじりあげて見つめなくてならない畏怖に包まれた天高く遠いところからの来訪者であった。
鋭利な刃物を間近にしたときの感覚とは別の、さほどこの身に差し迫った痛感ではなく、おとぎ話の世界で遊泳しているみたいな靄がかった底なしの気楽さを持ち合わせていることで、どこか現実ばなれした距離が遠方に結ばれ、冒険する気分がいつも幾分か不遜な心意気をその奥底にとどめ置くよう怯懦は転じて美代の目許を緊縛する。冷たい火花はそうして寒風の彼方に還元された。
天空から降りそそぐ夏の日とはあきらかに意想が異なるかがやきに、童心ながら無常にも似た落ち着きをもたらしたのも、冷気が野生の鳥や昆虫の類いを駆逐してしまったと直感で知らしめられる次元から導き出される以前より、この原風景の薄皮一枚に張り付いている乾燥した空気によるものだった。
「これは諦観をなぞっているような追憶が生み出す仄暗い感傷なのかも知れない、、、」美代のまぶたは、硝子窓を無言で透過してゆくひかりの粒子を想起させるほこりの舞いに合わせるかの如く、ゆっくりと、しかしながらおそらくひかりの素早さを目のなかへ含みいれる加減をけっして忘れたわけでもないと云った案配に優しく閉ざされた。
日差しを面に受けながらいつの間にやら、この季節の風物詩とあえて大仰に、それから誇張された透明度のむこうに吸い込まれていく調子にわずかな微笑がこぼれ落ちていたことも、もう遠く過ぎ去ってしまった年の瀬の一日を、軽やかに寝床から半身をもたげる仕草に似た様子で思い起こしたのも、この閉ざされた視界を覆う赤い翳りによるとすれば、それは気まぐれと呼ぶよりもなにかもっと根源的な磁場から発せられた予兆なのではないだろうか。「光線の束はまぶたの裏側までいともたやすく侵蝕する、、、さあ、どうかしら。これは侵蝕などではなく、あたりまえの自然ないとなみでは、、、」
何気のない考えがぼんやりと浮かびあがるままに美代はすべてを委ねてでもいるようであったが、自然界に昼夜がめぐるのと同じ、その思惑の落ち着きさきも又過剰な意思が手元を誤ってはいつもこぼれてしまう必然を裏打ちするよう、まさに反転した箇所から、意識のうしろからすべりこむ勢いで、厚手の夜具にすっぽりと覆われるかの暗幕がひかりをかき消してしまった。
だが、美代にとって闇夜とは月の裏側へと抜けゆくための近道であることを生理的に感じていた。まぎれもない女性であることの証、それから太陽光線は夜空の彼方で星と星の広大な領域に飛び交う塵たちをまばゆく照らし出しているに違いないと云う確信、影面に立つ以上にはおおきな帳が必ず存在し、目には見えない生き物らが棲息しているはずだと。
大晦日の夜を思い浮かべこころが透けてなくなるほど静粛な気分に支配されたあの感触は、この世界の反対にいつも超然と鎮座している。日常の顔つきと何ら相違ないけれど、しかし潮の満ち干きが及ぼす絶対的な影響力を軽んじるわけでなく、むしろ様々な波及がひとの意識にまで綾を織りなす実情へと気配ることにより日々の襞を見極めることが出来るよう、闇の国ではまず手先の熟練がその行く末を定める指針となろう。美代はどちらかと言えば現実的な感性と浪漫的な知性を育んできた。
先ほどまどろみのさなか、ゆらめいた追想にやはり要所を突くよう現れた兄久道のまだおさな気なすがたに対し、ある種の微笑ましさを禁じ得なかったのである。のちに大人になってから決して幸福だったとは云えない人生であった、ひとりの兄にあたかも逆さ眼鏡をかけてときの過ぎようをかいま見ようとする行為は、あまり意義のある郷愁でも独自の感傷に接する余裕も呼びよせない。
「でも、あのときの情況に少なからずかかわった兄の行為と心意は忘れはしないだろう」
うつらうつらしつつも重力から解放された意想の飛躍は美代のまぶたを再びおおきく広げさせ、焦点を外された硝子窓の付近に浮遊しているほこりの数も減少したのか、病人特有の日差しを浴びながらの殊勝な面持ちはいつになく尊大でもあるのだが、気高さをその消耗した体力になせるわざだと察することもない。ただ、兄とはまるで正反対の性格と気質に生まれ育ったきた自分に、時より訪れる号外とでも云う不自然な感性の供託はどこからやってくるのか。
眠気が満潮時に向かって誘われ意識の裾野から次第に浸されてはいたけれども、今は忘却のなかへとすべてをもぐりこますことに、少しばかり飽きていたのであった。久道の棲み家は日常の形態からどれほど逸脱していたのと云うのか。男女の性差こそあれ誰もがたどる思春期の道程、軌道はその都度ただされ今日に至るとすれば、あのころ恐る恐る踏み出し、あるいは泰然として邁進し続けた刹那を思い返せるものなら、、、美代は両のこめかみに痛みが走るのを覚えたが、気を取り直したふうに平穏な表情を作り出し、部屋のなかに散逸して舞っている微細なひかりの粒子の借りのすがたを再びゆっくりと見つめていた。


[94] 題名:まんだら 第三篇〜異名2 名前:コレクター 投稿日:2010年01月11日 (月) 23時18分

床から起き上がったと見まごう畳が一枚一枚、どんな案配に寄せ集められたのか、表に運ばれたのか、明瞭な光景を思い浮かべることは出来ない。印象深く、今でも小さな驚きを保ちながら脳裏に広がるのは、畳の下に敷かれていた色褪せた新聞紙が、それまでの抑圧から解放されることに恥じらいにも似た、浮遊をあらわにした場面である。
木肌と云うより土間の色合いに近い床張りの上に、ほんの気休めのように乗せられた古新聞。美代は思わずその日付やらテレビ放映欄をしゃがみこんで見つめた記憶があるのだが、やはりおぼろげのままで時間を明記したわけでもなかった。ほどなくして威勢よく畳をはたいている兄と父のすがたがまぶしく映りだしたのも、ガラス戸がすべて取り払われ寒空であることも意に介せず、こうして外気が家中に満ちあふれている不思議さによるものであり、また全身を包み込むように触れる冷気は隙間風とは異なり、どこか快楽的な気分をもたらして、兄らが無心ではたき出す風船状に浮き上がる鈍色のほこりの束は、部屋の空気全体を未知なる鮮度へと移行させた。
美代は次第に朦々とあたりを充満してゆく異質な陰りに対し、嫌悪とは反対のむしろ幸福感に傾斜した初々しさを覚えた。あふれ出すほこりを通してかいま見せたものかどうか、見慣れたはずの真向かいの玄関先と木塀はあきらかに日々のそれとは趣きが別にあることを知り、しばらく陶然として視線をうつろわすことを忘れてしまった。青白く透けてしまうような、ゆらいでは消えてなくなりそうな、そんな手ごたえのなさが現在の意識に揺曳しているのも、きっと年月のなせるわざ、遠い彼方に佇んでいるモノクロームの想い出にはいつも彩色が施されてしまう。すぐ目のまえの情景でさえ、随分と潤色が加味されわたしたちに新たな意味を投げかけてゆく。
淡いブルーで被われたあの日のまなざしをそれ以上、追いかけてみる気持ちを美代は、断念ではなく風化してゆく意想と了解した。遠方の山々の色合いが空のコントラストに呼応しているように。

普段ならば何気なく、おそらく気にとめる間もないままであろう臭いが、恭しく毅然とした香りで家屋全体に染み入るごとく浸透しかけていることもあるまい。
ポリバケツのなかで希釈された清掃洗剤が発揮する独特の酸味をおびた得も知れない果実臭は、ちょうど学校で流行っていた臭いつきの消しゴムがあたえる香水と呼ぶには大仰しいけれど、こじんまりした、しかし一種、味覚へと連動しかけかねない駄菓子のような魅惑が、おおいに溢れかえったようで心地よささえ感じるのであった。
自分がその日どんな手伝いをしたのか、恒例と云っても実際に毎年ああした大掛かりな掃除が行なわれていたのであろうか、幼児期の微かな物覚えに裏書きはない。
「この正月に実家に帰ったとき、母に尋ねてみようかしら、、、」
一抹の抵抗が示されるのを意識しつつ、ふっと微笑みがおだやかに開いたのは、過ぎ去った時の流れに対して抱く複雑な配慮とともに、そんな些事を顧みるくすぐったくなる思いが互いに和やかな落ち着きを見せるからであり、朝井の家に嫁いでから久闊のままに隔たってしまった、母や兄夫婦への身近な遠慮がなせる小さな不安であった。
「どうかしら、母より兄のほうが何かと細かいことを覚えているかも」
だが、美代は六歳上の久道との接点、いわば兄妹としてのふれ合いなるものからはおおよそかけ離れた意味あいしか保っていない為、同じ屋根のしたに同居するひとでしかなく、そのよそよそしさはが異性の年長者である故の共通な関わりだと、似た境遇にあった同級生からいつぞや知らされた、思いのほか的確でもありそうな意見を咀嚼していることさえ忘却してしまいくらい自然に流れていった。
反面からすれば、それは何より美代自身にとってほどよい距離感であることを、あえて意識させる重要性を無化させる風のような思惑でもあった。兄は小言ひとつ、それらは両親らの役割だと十分に含んでいる素振りを示しながら、時折思い立ったように怪談話しやら宇宙人にまつわる秘密めいた謎を一方的にまくしたてることがあった。
もちろん、世間も世界も見知らぬ子供にとっては、怖れをなしながら胸がときめき、ついつい引き込まれてしまって、後悔と云うことばさえ探りあてることも出来ない。日頃から口数が少ない性格も幸いして、美代にはこうした久道の絵本よりも想像を駆り立てる饒舌な物語に嫌気を覚える理由はなかった。
遠藤兄妹、このふたりは目には見えないが適正な尺度で定められているかの親和が成り立っていた。ただお互いが意識的であるはずもなく、ふたりをほどよい他者として位置づけていたのは、気まぐれな無関心と誠実な好奇心の綾であった。


[93] 題名:まんだら 第三篇〜異名1 名前:コレクター 投稿日:2010年01月05日 (火) 03時55分

語るべきして語られるわけもないはずなのに、普段とは違った動作のうちに重ね合わされるよう、ちょうどナレーションと云った趣きで音像が言葉の響きに歩みよろうとしている。
昨日まで、つい先程までこうして開け放たれることが久しかったガラス戸は、以外な結末を迎えた連続ドラマの緊張が過ぎ去ったあとのように敷居からはずされ、思いもかけなかった光景とすがすがしい外気を家屋中へと引き入れた。
家具たちも同様、いつもの配置が乱されたことには違いないけれど、思い腰を上げることがとても気軽にそして気持ちよく感じる運動となっているのか、その思いを代弁することが当たり前のように、決して筋道だった考えでも満ちあふれる感情でもなく、こころのなかに新鮮な言葉を浮ばせることに助力しているようだった。
「かけ声なのかしら」今から振り返ればそうであろうし、おそらくその感覚はたわいもない発露としてこれからも優しく鎮座し続ける素振りで、北風が時折、目に見えそうな勢いで裏庭まで駆け抜けていった想い出のうちに、冷たい目薬がもたらす親しみとなって瞬時に消え失せてしまうだろう。
煤払い、あるいはは大掃除と呼ばれた年末のあの情景を、朝井美代はしみじみと追想し始めようとしていた。ものごころがついた折より一家総出の恒例であったのか定かではないけれど、記憶を隅を探ってみれば毎年似た場面が切れ切れに呼び起こされ、もしくはある特定の様相が、ほとんど夢のひとこまにも近い鮮やかさをもって散っては結ばれる。
裏庭に集められた各部屋の障子を思い存分に破ってみる試しが、幼いながらも大胆な行ないであることを覚えたこと。それは普段より母から小うるさく諌められている留意に裏打ちを受けた、文字通り型破りの原点を体験したと云うよりも、部屋を仕切る木枠に貼られた白紙が外気にさらされ、こうもたやすく一気に無造作に、無惨なすがたに変貌することを知りながらも、同時にためらいを育んでいた童心に怖れをなした瞬間であった。
両親ばかりか祖母まで「美代ちゃん、これ今から張り替えするからバリバリって破ってごらん」と聞かされた途端にからだが萎縮してしまったのは、規律からはみ出す不安よりもっと根源的な、一年毎に刷新される時間の節目がとてつもなく奥深い押し入れの底から、顔をのぞかせているようで仕方なく、あまつさえその正体を見定めることを想像してみるにも、一向にかたちを為さない故のとまどいによるものであった。もちろん、そこには不明瞭さだけが慄然と居座っているわけではない、反対に比重を占めているのは以前、祖母が話していた除夜の鐘にまつわる大晦日の夜の不思議、まだ見ぬ深夜の通り、年が明けるという現象が体感出来る清めらた明徴、隣近所の家々からも漂ってくる静謐にゆだねられた気配がかもす共有した空気は乾燥した冬景色の純度を深め、胸の奥底まで荘厳を満ち寄せる。
年少時、お祓いごとやまつりごとなど何も知りはしない、、、ただ、大掃除らを含めた年の瀬がもたらす雰囲気の裡に荘厳は宿っていた。もしくは陽気な無限の遊戯の始まりでありながら、当日に終わらせなければならない定められた迷宮であった。
すると今でもそのまま大人に成長したのだとと親しみを抱き、反面あの時分より不気味な存在であった兄、久道の冷ややかさと熱気も、まるで紙芝居のなかの静止画のように思い出される。
「いいかい美代、そうやってむしりとるんじゃなく、こう念じながら剥がすんだ」
「だっておばあちゃんも好きにやっていいって」
最初の当惑をいつくしむよう、障子が本来の役目から逸脱して木枠で組まれた玩具でありながら、どこか生き物でもあるみたいに破れ目から庭の木々や塀、いつになく冴えわたった冬空の青みを覗かせた異相は、次第に美代の動作を緩慢にさせ時間の推移を停滞させた。
他の者らは階段や廊下の雑巾がけやら、神棚の清掃やら、各自分担作業にいそしんでいたので横合いから兄が喋りかけてくるとは思いがけず、また口にした文句には新たに揺らぎを植えつける怪訝さで膨らんだ。しかし口先とは裏腹に久道はそれ以上、美代に対し自分の仕草を強要するわけでもない。
右手の人さし指と中指をあわせ、紙の端までなで付けるようにして、わずかに両の爪が残滓をなぞっていくのである。何かひとりごとを唱えているかにも聞こえたのだが、よく意味が知らされないまま、さっと身をひるがえしその場から立ち去った。
兄の奇妙な身振りは以外や、美代に鮮烈な好奇を与えた。ちょうどテレビで放映されていた謎の怪人に共感する刹那的な憧憬だったのだろうか。とても独りでこなせそうにもない障子の数に向き合う身に降り注いだ乾燥した陽射しが、午前のものであったのか午後のものであったのかは忘れてしまった。粛然とした光線は限りなく無言であった。




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