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[126] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット9 名前:コレクター 投稿日:2010年09月14日 (火) 08時15分

「ところで磯野さん、美代の顔はごらんになったことありますか、、、ええ、新聞に顔写真は載っておりませんでしたが、ある週刊誌ではきわもの扱いで掲載され、しかもしっかりと実名で紹介されていたのです。紹介などと云うと軽卒に聞こえるかも知れませんけれど、いえ、ご存知でしょうが、見出しからしてまるで恐怖映画のうたい文句みたいに始まって、記事に至っては世にも奇怪な事件なのだと読者の感興をわかせる筆致もしたたかと云うより、あれは小さい頃少年誌などでよく見かけた子供だまし丸出しの風説に近く、あなたも知っているならば疑念を抱いたでしょうが、美代の写真にしたって実年齢のものではない、わたしも最近まで分かりませんでしたけど、あの代物はどうも少女時代に撮影されたものだそうです。それにしては大人びた化粧をしてるし、でも一目瞭然なのは、背伸びしかけたところで顔つきはやはり子供のまま、決して一流の扮装とは云い難いでしょう。そうですか、磯野さんも同じくそこに引っかかりましたか。ご納得のいくように事情を申し上げたいわけですが、無論わたしが知り得た情報がひも解かれないことにはいささか腑に落ちないところも出てくると思われます。写真の出所にしてもある程度の説明が必要になりますし、兎に角ここは兄であるわたしによる事件性に関連した追憶をお聞き願わなくてはならないようです。いかかでしょう、それでよろしいでしょうか、、、」

虚を衝かれたと云うよりも、力強い太鼓の響きに心臓の鼓動が叱咤され同調へと促せれてしまうよう、孝博の胸騒ぎは不安に翳る暗雲がさっと掃き流される希望の空模様を仰ぐ如く、静かな跫音をその身に感じとり浮遊にも似た小さな、しかしそうそう経験することもない開放感をあたえたのだった。
久道が語り始めた追想の行く手はおぼろげな黄昏時へと歩を進めながら、反対に明星を認めそこから抜け出してしまいそうな着実な道のりでもあり、聞き手に徹する了解を不動のものとする思いは、まるで過ぎ去りし夏の夜、蚊帳のなかでふと目を覚ましたときに感じる、あの両親の微かな寝息に守られて待った夜明けまでの沈黙を想起させる。
ものごころついた頃よりずっと今まで見定めて来た兄としての立場は、血をわけた真義によってそれほど強固な基盤を保持し続けたわけでもなく、また同じ屋根の下で暮らす密接さも以外と隙間だらけであったことがよくよく思い返せるのだった、、、
久道の述懐は障子で隔てられているに過ぎない、薄く淡い気持ちに仕切られたまま取り留めのない調子を帯び漂い、時折は細やかな記憶の片鱗を集め出してきらびやかな画像に仕上げている。失われた過去がいつも水底に沈める淡彩である様子を打ち消さないことへのあらがいとして。
情熱的な口ぶりをまだそっと潜ませているつもりなのか、淡々としたもの言いは楽曲の序章を彷彿とさせるように、少年期の放埒さは破れやすい障子紙への気遣いに平行した案配へ自ずとすべりこみ、幼児であった美代の面影にまざまざとした印象を求めようとはしない。そこにあるのは久道自身もまだまだ耳にするだけで身震いを催してしまう見知らぬ場所への怖れや、夕暮れが織りなす視覚効果とは別だと感じずにはいられない夜の調べに魅入られそうになった柔弱さを糊塗する為、幼児である妹を殊更恐がらせたりした鮮明な意思だった。聞きかじりでしかない夜話しや裏山に棲む幽鬼の類いを宵闇せまる頃合いを計らって、何処からか聞こえてくる犬の遠吠えに重ねあわせ、その異様なうなりを尚のこと強調させる勢いで、「あれはもうもうさんというオオカミの霊だよ」などと、したり顔で言って聞かせるのだけれど、口にした矢先から己がすでに鳥肌立っており、それは秋風に撫でつけられた感触とは異質で内側からやってくるのだと増々ぞっとするのだった。だが、あのときの美代の顔つきをはっきりと浮かべられない。障子に映された影絵が単彩にしめされるのと同じく、無防備な輪郭は恐怖と共に我が身を一カ所へ突き落とす。外側の妹に気配りが生まれる余裕はなく、今こうして振り返ってみても同様、やはり長い時間の推移だけではないだろう、自己籠絡甚だしくも苦々しい想い出は、風雪に耐えて来た障子へ皮肉なねぎらいをかけているようだ。
それから久道は誰にでも思い当たる人見知りの感覚や、瑣細なことで泣き出してしまう制御しきれないか弱い風船みたいな幼心をさらっと話し、前置きでも話したが学術主義などと名目を振りかざしたからには、自分も含めた当時の過程環境、兄妹はもちろん両親や祖母との関係も詳らかにしておきたいのであるけれど、あの時分は取り立てて語るべき問題も見当たらないし、家族同士のつながりにも特に違和を覚えるような要素がありそうもない、父は仕事以外でも交友が広く不在気味であったが、非常に温和な性格であったし厳しさと云うよりも柔らかさと言い表したほうが間違いなく、それは母や祖母にも共通するところがあり、まだ幼かったから細やかに窺えなっかったのかも知れない内実を差し引いてみても、後に繋がっていくきっかけを探しだせない。結局、遠藤家は平穏無事を絵にかいたような家族関係が保たれており、幼児期における美代の原体験をつかさどった素因は発見出来なかった。
そこまで消化を助ける用心をする為によく噛み砕く具合で、他にも些事を挿みながら沈着に話してきた久道だったが、ほどなく顔色を曇らせたのを孝博は見落とすと云うよりは、見せつけられると換言したほうが的確な様相に行き着いたのである。


[125] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット8 名前:コレクター 投稿日:2010年08月31日 (火) 06時35分

「驚かれたみたいですが、その少女の件はそれくらいで今は取り急ぐわけじゃないですけど、いえ別に時間がないとかそうではなくて、息子さんも関わった事実もわかりましたし、何よりあなた自身も恥辱から抜け出せないご様子と見えてしまいますので、そうなるとこう言っては失礼ながらまるで懺悔を聞いているようで少々耳が痛くもありまして、磯野さんだって、切り出しとしてその辺の事情からお話されたのでしょう。だとすればわたしも偶然ながらそこのところを綿密に掘り下げてみたいのは山々なのですが、わたしの場合はあくまでも確認作業としてその後で瞑想を行ったわけなのです。それが結果かどうかはこれもまだ予断できませんけど、あなたも決断された、、、いやこれは夢想でしょうか、ともかく能動的に近い方法だったと思うわけですが、お話しの夜の川の場面に行きつくのです。当然そのときの意識が、いえ無意識なのかも、、、これはわたしの氏名も含めてある符号を示していると云う結果を生み出しました。しかし、磯野さんも先程おっしゃられたように、少年時の記憶装置が自動処理的な判断を下して、更には三好荘で目に留めたペナントから受けた印象を拡大して、ご自分でもわたしを訪問する以前に色々と下調べしておられるではないですか。つまり申し上げたいことはこうです、磯野さんとわたしの不可思議な能力がどこかで結びついた結果が、現在あなたの抱いている疑問に直接お応えしていると導くのは早急でして、確かにご存知の如くわたしは超常現象などと研究しておりますけど、すべてを神秘一筋で解明させようなどいつも考えてはいないのです。あなたのとられた演繹的な立場があくまで科学的もしくは常識的であるのと同じく、わたしの立場も闇雲に現実から逃避することを一番の方便とは認めていませんから、、、
そこで、これはわたしの意見なのですけれど符号とかが嗅がせる直感かつロマンはひとまず脇に置き、と云いましてもそれらは無視出来ない可能性を秘めてますけど、、、これはあなたにとっての問題であることがそもそもですので、これからお話させていただく姿勢と云いますか態度ですね、そこはある程度透徹した学術主義を援用して行きたいのです。何もわたしに限ったことではありません、磯野さんご本人が学者じゃありませんか。その上で未知なるもの、まあこの言い方自体に語弊がまとわりつくみたいに聞こえますが、どうしても了解項として一致を見ないもの、心理的要因にさせ糸口を見出せないもの、そう云った曖昧な領域でしか窺い知れない何かを感じたときに、わたしなりの見解を述べさせていただきたいのです。ええ、もちろん磯野さんの専門分野を総動員して頂くこともお願いします。
わたしはね、長い間ほんとうに不遇だったのです。もっとも自分勝手な解釈にこだわり過ぎた天罰みたなものなのですけど、、、だからこそ、こうした縁を慎重に扱いたいわけなのです。とりあえず一方的な意見を述べましたけれど、おそらくあなただって神秘主義者の陥りやすい仕掛けはご存知なはず、、、あっ、そうですか、そう言って下さるのはとてもこころ強くもあり、さすがだと敬服してしまいます。いえいえ、心底そう感じたままです。どうしてこの場でご機嫌をとる必要があるのでしょうか。
さあ、では手短かにわたしからひとつの提案がありますのでよろしいですか。お話しから察しますところあなたはわたしの妹、はい美代に関することです、ああ、そんなに恐縮されますとかえってわたしが困惑してしまいます、いいのです、あなたの知りたい謎の一部はそこにあるのを決して不快な思いで受け止めていませんし、方法的にもそこから始めるのが理にかなっていると信じているからなのです。
そう、事件の最後から進めていこうじゃありませんか。あっ、金田一耕助って知ってますよね、はい探偵小説の、映画、、、そうです、そうです、映画でもそうなんですけど、大団円を向かえる間際になると決まって金田一探偵は、事件現場とは一見深い縁故のなさそうな土地へと足を運ぶのですが、そこで必ず今回の一連の事件の鍵になるものを持ち帰って来ます。だったら最初とは言わないけど、ある程度の段階で早々にそうすればこと足りると思うのは素人ならでは、、、しかしそれは所詮フィクションの世界に於いてです。
もうお分かりでしょう、わたしはあなたの疑念やら、悔恨やら、尊厳やら、感情やらの一切合切を謎解く探偵と自分自身を今ほぼ同一視しているのですよ。いいえ、冗談でも悪ふざけでもありません、そうでなければどうして身内による事件でもあった美代のことから始めなくてはならないのでしょう。そうですか、いきなりこんな言い方も確かに妙ですもの、いやあ、ごもっともです。では、こう繋ぎを差し出しましょう、磯野さん、あなたは近いうちに美代と会うことになるはずです。これは予言なんかじゃありません、申し上げたはずです。学術主義を援用させましょうと、そうなるとあなたは探偵であるわたしとは別な角度で、そうまったく異なる角度で実地調査に携わることになります。では、質問をどうぞ」


[124] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット7 名前:コレクター 投稿日:2010年08月31日 (火) 06時34分

「順序よくと申しましても、、、」喉元から流暢に滑り出させたい気持ちを精一杯抱きながら、滑舌とは明らかに隔たりのある実感に苛まれた現状を、孝博は苦々しく感じつつも半面ではしかるべき安堵に即していると、錆び付いた金具を手にしたときに思いなす、あの成り行きのような事態へといささか大仰に還元させてみたのだった。
無論、久道から筋道の明快さを求められたわけでもないのだが、この様な持てなしを受けてみれば自ずと身がこわばってしまうのだと、言い聞かせるつもりで胸中をなだめてみる。焦りだす口吻が先走った妄念と化して実際に相手の耳へと届いてしまった以上、あとはもう少し落ち着きを取り戻し、出来る限りの説得力を維持した展開で言い分を伝えよう、、、
尋ねられたのではなく、そう自分に楔を打ち込む馬力が孝博を昂然とさせた。何しろそもそもの切り出し口からして、日常の成り行きを逸脱した不明瞭な、そしてあまりに唐突な内容を含み過ぎている。もちろんこうして面会している当人に対し、魚心あれば水心の意想にたなびく予感が用意されていると云う、都合のよい思案も加味してのことなのだけれど、ことの次第が煩瑣な事情によって、いや精確には複合的な欲情に色づけされてしまっている負い目もあり、どうしても明瞭さを際立たすには恥部である己の箇所をも包み隠さず語らなくてはいけない。夢見による遭遇などといきなり奇妙な角度から開陳してみたのは、実のところはさほど冷静さを失ってはおらず、逆に久道の好奇心をくすぐる結果を期待してみたまで、さて、続き早に放たれたペナントにまつわる不可思議も儀礼として添えられた程度に、最終的には自身の欲情を払拭させてしまう勢いで、あくまで聞き手としての本領を発揮すべく、それはまた卑怯な防衛意識を最小限に稼働させていながら、なしくずしに久道が纏っているであろう禁忌へと身勝手に分け入ってしまう不遜に堕するのであった。
まくしたてるような、けれども内心は情念を鎮火させたい望みだけが上昇し結果、増々萎縮してしまう性根の物言いが反吐のように逆流しただけである。わずかに曇ったふうにも見える久道は、
「そうですか、実はですね、わたしもその少女が川に転落する場面を目撃しているのです。それから、それが錯覚であったのかどうか、少々気にかかりまして、わたし独自の瞑想法で行方を探ってみたことがありました」
あらかじめ決まっていた質問に答えるみたいに静かにそう言った。
それを聞いた孝博は後頭部に強烈な衝撃を受けながら、やがて全身の血がさっと引いてゆく感覚に襲われ、急激に何かが萎れてしまう幻影に支配されてしまった。そうして今までの緊張が一気に霧散してどこか遠くの方へと放れ去る、虚脱にも似た失意を覚えるのだった。だがその失意は孝博にとって決して後悔などを孕んではおらず、未知なる手ごたえを引き寄せる為に守備よく配列された偽装を知らしめた。
奇襲の如く現れる予兆にはまぼろしの種子が胚胎している。生命が育まれる必然を死が隠蔽したところで、すべてを消滅することは出来ない。孝博のこころは他愛もない焦慮、例えば部屋のなかを掃除する機会を一大事のように考えこんでいる時間や、寝起きの意識に被さってくる蒙昧さを悲観的に捉えてしまう脆弱、そんな些細な気分に落ち込んでいる自分を憐れんでいた、その後の健全な意志を思い返した。
久道からの一撃は何かを損なったけれども、確実に新たなる武装を敷く要請を命じ、まだ見ぬ外敵を愛する矛盾を設定させるのであった。偶然を越えた神秘を覗き見ようと志したのは単なる戯れによるものだったのか、思念からはみ出してしまう謎をひとまとめに黙された意志のなせる業へ棚上げする、安直さも傲慢さも持ちあわせていない、だが久道が口にした意味あいは一瞬の目くらませと同じく、孝博を切り裂いた。
「仮りにそれが俺を見据えた上での虚言であったとしたところで、出会いを認めこうやってこの場に臨んだからには、本質的な次元からはずれてはいないはず、、、」
こうして夏の午後は永遠に続いていくのかも知れないと、汚れない幻影が胸いっぱいにひろがり、気がつけば寡黙に見えた相手は思いのほか微に入り細に入り澱みなく語り始め、孝博とてまるで歩調を揃える具合でときに饒舌気味なほど気持ちを表にしているのであった。語られるべきところは補填され、あるいは強調されて明瞭な形を整え出し、伏し目がちな感情をともなうまだ幾分かの的確でない部分は、柔らかな手つきで払われる砂のようにとめどもない童心が為すままで形状あらわにさせない。互いに交される会話の質もまた砂上にしみ込む雨水となって深みを知らぬ情況が保たれている。意図されたものか、それはまだ判明し難い。
ようやく、対座したふたりへと昼下がりの想いは密接な時間を分配してくれたようだ。残暑に燃える外気からは遮断された冷房のゆき届いた室内であったが、夏日は夏日であり多分に湿度で充たされた風の微かな流れは浄化されることなく、辺りの空気を侵蝕して止まない。虚空は真空であるべきなのだと云う、渇いたこころを叱責してくれるのは吝嗇な下心を見越してしまっているからなのだろうか。


[123] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット6 名前:コレクター 投稿日:2010年08月10日 (火) 06時31分

この店で形作られたものなのだろうか、一見ありふれた透明な硝子の器。すでに箸をつけながらもその素朴な風味に、否、刺々しい感情や上昇する熱意などを一切洗い流して、ここが夏日から遮断された屋内であることをはなから承知させる気概すらも漂わせない冷麺の涼味に、身もこころもさらわれてしまいすぐさま何かしら言い表せる間合いも同時に失いかけた矢先、孝博がひも解かなくてはならなかった念いは、落ちつきをあらためて取り戻したように自然なひかりを放っているその容器へと沈みこんでいった。
よくよく察してみれば、湯気を立てているスープも一口すすっていたし、冷や麦にしては以外としっかりした歯ごたえを認め、更にはよく讃岐うどんにあるよう麺へからまる汁に塩分よりもまず出汁加減を舌先で覚える、あの小躍りしてみたくなりそうな得心をあたえられていたにもかかわらず、どうやら先駆けてみなくてならないのは別の方角に聖地を発見する予兆でもあるようだった。
そんな大仰なひらめきは孝博に寡黙な居ずまいを律したのか、あるいはこの家全体から音もなく降り注いでくる噴水のしぶきみたいなものが意識に影響を及ぼす為なのか、とにかく必要以上の口数をなくして今は食事に専念し、美味をたたえる配慮は遠ざけてもかまわないと云う気持ちが大きくもたげてくる。
久道にしてもごく当たり前の雰囲気を崩さない配膳に徹しているよう見えるし、前もっての口上にはあらかじめこちらの感興を含んでしまっていて余計な気組みを排除してくれている。過剰な想念を働かせたのは己であって気のおもむくまま勝手な追憶にひたりだし、食材の色合いなどからとめどもなく過去への遊泳に興じ、結局は味覚を的確に表現する意義だけを衣にしてしまい、その衣もいざ身にまとうとなると恐ろしく昂揚して、まるで急速眼球運動の勢いで独語をほとばしり無意識的かはどうか、乱れたぎこちなさの夢見を体験する調子で、動体視力の超現実性と表裏一体になったまま先制攻撃さながらの応答を巡らせてしまうのだった。
これは明らかに内心を見透かされてしまっているのではと云う怖れが禍いをなし、自意識に沈潜するしか方便を持てないまま、対座する相手の顔つきに正当な意味あいを感じとれない、まさに金縛りに陥った情況が形成する負の磁場であった。身振りはともかく久道の表情に真意を汲みとることなど等閑に付され、すべて辻褄が合わなく見えてしまうのだが、孝博自身から行動を起こした由縁にこうした場面はやはり帰着しているのである。
おそらく俺は祈願をかけるみたいな意志でここに臨んだわけではない、、、虚しさを埋めようなどとも思っていない。あくまで学者としての探求心が稼働しているだけだ。ただ、いとも容易く自分を受け入れてくれたこの遠藤と云う人物、昼飯の振る舞いにしても、妙に冷静さを見せつける態度に少々とまどっているのは事実かも知れない。この後も彼の方から色々と尋ねられることもないだろうし、こちら側から話題を提供しなければこの男は何も語りはしないだろう。だが、もしも悠長な素振りが彼なりの演出だとしたら、、、
あたかも閃光が射し込む徴に威厳をただすふうにして孝博はようやく自縛の縄目を弛められた。すると衣服の着衣が手際よくなったようで、それは袖を通したときの腕が自在な運動によってもたらされたと勘違いしてしまう颯爽とした感覚を伴い、軽やかに抜け出た手先は空を切り、空をつかみ取る。その鮮やかさは置き忘れられた雨傘が翌朝、太陽に向かって大きな羽ばたきを示すような晴れ晴れしさにあふれ、自らが地面に作りだした影を今度はそのまま置いて行こうとさえ思いあます。光線に乗じて一歩踏み出し、輝きを見つめる瞳の奥はどこまでも透明であり続ける。

硝子の器に反射する意想は、茹でられ熱せられた挙げ句に冷水の洗礼を受けた食材の如く、痙攣的な思弁で調理された末にひとつの活路に陸離として光彩を放つまぼろしであった。けれどもそれは鋭角な面を持った切り子硝子と同じく、ひとつひとつの刻みが深く陰りつつ輝く証明でもあった。
やがて孝博は手応えのある確信を抱くことになる。食事も済んでいよいよ話頭が切りだされた頃には、あの妄想が繰り広げた対話はひとりよがりな脇道にそれるどころか、予習よろしく脳裏を一回りさせた甲斐あって澱みなく開陳され、同時に危惧した相手の機嫌を損なうこともなく、むしろ瞠目させてしまう効果を生じさせた。久道は少しづつ動揺をあらわにしつつも決して自らを抑制させようと試みていない。それは彼の反応の裡に如実にうかがえた。重苦しさが排斥された答弁もさることながら何よりも眼光の強度が増して行くのを。彩度と一緒に劇的なまでの放射で満ち始めた室内は、異なる照明があらたにゆきわたった鮮烈な印象で塗り替えられてしまった。
夢見の導入部より聞き耳をそばだてた久道に対して抱いた感情、それはどの様な過程を通り越した複雑なものであれ、照らしだされているのは己自身でもあると云うまぎれもない知覚に基づいている。親近感で濾過された感謝の念に染まった合わせ鏡を見るように。


[122] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット5 名前:コレクター 投稿日:2010年08月03日 (火) 06時03分

真夏の幻想であろう汗ばむ想い出を払拭するに正確な涼感が伝わってくる五目冷や麦とやらは、現実には冷や汗となって居場所を確認していた孝博に良好な印象を授けた。
もはや冷や汗は引いた。ほどなくすると湯気を立てたスープを盆に載せて現れる久道に対峙するだろうが、素早い思考に伴う記憶がかいま見せた陽気な側面にほだされたところもあり、それはまるでこれから展開する白熱の演技に向って備えられた準備体操のように思われ、敵陣に踏み込んだ緊張をほぐす効果を存分にあたえてくれているのだと言い聞かせてみるのだった。
反面、時間の猶予はまさに寸前であるはずだけれど、孝博の脳裏に去来する段取りなき意想は久道の調理の下ごしらえに挑戦するがごとくに火炎を上げている。とは云え、それは決して火花散る情熱に支えられた直情を宿してはおらず、所詮は青白い魂魄がこの身から抜け出し飛翔する勢いをなだめすかすのを楽しんでいる、あたかも客席から見物するときのような気安さが用意させていた。孝博にはそうであるほうが好ましかった。
現実の時間は奇妙な誤差を受け入れる。久道が言った通り、きゅうりや錦糸卵が冷や麦の麺に即すようほどよい細さで切られており、他にも大葉やかまぼこも似た具合で添えられている。白地に映える野菜の緑と黄身が際立った彩りは申し分なく涼味をあたえ続けるのだったが、己の裡にある醒めた情念がそうであるように、十全なる冷たさには幾分かの不純分子がまぎれこんでしまい、目には見えない微細なそれらの動きが温度をわずかながら上昇させている。夜空にまたたく光を見つめても寒々とした意識に支配されることがないことに似て。五目冷や麦は宿命的な気配でそこに涼んでいた。
孝博の思考はやや神経質な傾向に流れ出していたが、ここまで来て不意に独りの時間が隠し扉を開けるみたいに訪れたからには、現実のほうが精一杯空間をゆがめてもらいたいところ、だとしても考え自体をいびつさせるのではなく、もう決して取り返しのつかない過去だけをそこに圧縮してどうにか置き場所とすること、それから出来るだけ手短かにここに至る経緯を提示すること、何のことはない、あの生命危機にさらされた際に覚えると云う超然とした動体視力の威力のような、意識の時間推移を自在に駆使し予行演習しているだけなのだ。孝博の願いはどうやら不純な動機で稼働しているようであった。

「ええ、夢の裏打ちを求めたことは事実ですけど、三好荘で見つけたペナントに実はおぼろげながら知るところがありまして、たわいもないかも知れませんし少々失礼かと思いますが、今時ペナントを作成してることを以前にひとづてに耳にしたことがありました。息子の件でこちらに来た折です。それとわたしが小学生のときなんですが、同級生の従兄弟が遠藤硝子店の近くに住んでいまして何度か遊びに行った際に、前を通りかかったこともあってやはり記憶には残っていたわけなんです。はい今は越してしまったようでその従兄弟の方はそれきりです。とにかく、わたしはあのペナントの新月の夜らしき山奥に跋扈している鹿や兎、狸の類いが小さな光に照らしだされている図柄に惹かれるところがあって、又わたしの夢見に共通する雰囲気も感じられて、三好の主人に尋ねてみるとあなたの名前があぶり出しのマジックのように浮かびあがって来たわけです。そこで他にもあなたのことを調べさせてもらいますと、何やら若い時分より超脳力などを熱心に研究されているとやら、すぐ様電話帳を引きますと硝子店と書かれた下にはまぎれもなく『エンドウヒサミチ』と記されているではありませんか。それだけで十分な確証を得たわけですけど、問題はどうしてわたしがあなたを夢のなかで出会う結果に至ったかと云う説明なのでしたが、それは先ほどお話した息子にまつわる顛末であり、それからこれは誠に申しにくいことなのですけれども、よろしいでしょうか、はい、遠藤さんの妹さんの噂なのです。現在は嫁ぎさきからもほぼ縁をなくされたと聞き及んでいまして、とある施設に入院されているとか。ええ、わたしはそれほど噂話しを鵜呑みにするわけではないです。けれども、、、ある事件を、、、かまわないですか、そこでわたしも一応方々をあたって見た結果なのですが、妹さんが吸血鬼まがいの行為を何件か引き起こしたと云う風聞、これは実際に新聞などにも掲載されていますし、いくらなんでも根も葉もないそんな奇怪な報道はあり得ないと思いますからでたらめではないと。それにしてもどうして吸血事件などと騒がれているのか、わたしには何か隠されている事実が存在するように感じてなりません。仮にですよ、妹さんに病的な疾患があったとしても、本当に生き血を吸ったりしたのでしょうか。もっと異なる行為、あえて申しますが例えば同性愛傾向による過剰な肉欲が、相手を傷つけてしまい失血をもたらしてしまったとか。ええ、新聞によると三件とも相手は若い女性であったと書かれてますね。そうですか、、、遠藤さんにもやはり理解し難い事件なのですか」

そこまで急速に独語が乱れを見せながら散らばった時、先ほどとまったく同一の表情を持った久道が案の定、両手で持たれた盆を運んで来た。その手つきには慎重さは感じとれず、どこまでも静かに安置されている仏像を彷彿とさせるのだった。


[121] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット4 名前:コレクター 投稿日:2010年08月03日 (火) 06時03分

最近ではあまり見かけなくなった如何にも中華飯店ふうな皿にこじんまりと、おそらく炒めあげてから一度茶碗に盛られたものを逆さにかえした技であろう、そんなどこか小振りな乳房を連想させる形は色合いまでもが似通ったところもあって、ぱっと見には予断を許さない微笑ましさにしてやられてしまったなど、なすがままの風情にひたっていることを意識しながら、白いレンゲまでも用意してくれている気遣いも楽し気に、久道からすすめられるまますでに食し始めているわずかの間隔には、その実なんの念いも被さってはいなかった。ただ、レンゲでさらった焼き飯を噛みしめながら、その以外な香ばしさにやや驚いてから、ようやく言葉になりかけた矢先相手より、
「具はベーコンに長ねぎ、卵だけなんです。どうですかシンプルですけど、コクはあるでしょう」
と説明を受けた時、孝博は思わぬ自分の行為を少しばかり恥ずかしく感じてしまったのである。
いくら手際よく同時系列に運ばれてきたからと云っても、当然麺類である五目冷や麦とやらから箸をつけるべきであった。どうにも日頃の経験からすれば、ラーメンと焼き飯を注文することも多々あり、その折には確率的に焼き飯のほうから出されてくる場合が高く、どうしてもその癖がしみ込んでいるのだろうか、又ほどよい案配で追加される麺類には当然スープがたたえられていて、口中に含んだものを熱く湿らす醍醐味も兼ねて手にしたレンゲですくわれ、すすられる感覚が一種の儀式にまで確定されてしまっている。そこではたと気づかされるのが決まって麺への愛着なのだけれど、こればかりは順序に拘泥する必要もない、そんな食欲への忠誠みたいな無意識の行為をさげすむこともないだろう。
孝博は反駁にも近い弁解をこころに浮かべながら、気丈な顔つきを装い久道の様子をうかがって見たものの、別段いぶかし気なところもなく至って平静な、と云うよりもとても平和な一日であることをしみじみと噛みしめているような笑みを浮かべているばかり、まるで胸中を悟られたと不意に突きあがってくる邪念を封じる為にもあえて、
「これは中々いけます。味付けも塩コショウに味の素、それに仕上げの醤油を少しと云ったところでしょうか。米粒一粒にしっかりと含まれた香りは逃げ場を失ったように諦観してますが、このしっとりとした油加減がもたらしている柔らかさには、愁いの涙と云うよりか、歓喜のしるしが滲みだしているみたいで、パラつき具合が絶妙にコントロールされています」
と、あくまで泰然とした居ずまいをあえて崩してみせながら一気にまくしたてるよう感想を述べてみた。
「そうですか、そりゃどうも大変恐縮です。確かに塩コショウなのですが、今回は味の素ではなくて鶏ガラスープ顆粒を使いました」
久道の返答が淡々としているのが幸いだったのか、孝博もそれ以上余計な口をはさむことなく、おもむろに五目冷や麦へと箸が移ってゆく姿が自然であるよう振る舞いを見せる。
この時点で孝博は自身の緊張を認めないわけにはいかなかった。向かいあった久道も平然とした態度で食しているのだが、彼がどうした順番で箸をすすめたのかを確認出来ていなかったことは、完全な敗北とも呼ぶべき失態であり、やはりそこにはぶしつけな訪問を許可された弱みが、ちょうどあらかじめ敷かれた座布団の厚みとなって過剰な遠慮を誘発させてしまう。気もそぞろであったのはあのペナントを見つめた時から定められた宿命であったのかも知れない。孝博にとって後ろめたさみたいなものは、例えその姿をあらわにするまでもなく、字義通り常に人見知りするこころのように物陰へ隠れ、そっと何処か様子を見届けることに専念している。
ホクホクするほどの焼き飯を食べながらも、微かに流れる冷や汗を意識してようよう孝博は落ち着きを取り戻し出した。そんな心境を補うつもりか久道は安堵に満ちている機知をもって、
「あっ、すいません。焼き飯のスープを忘れてました。いえ、もう作ってあるんです。今あっためてきますから、さっきの鶏ガラの素を溶いたやつですけど」
そう言うとあたふたと立ち上がった。と同時に五目冷や麦の盛りつけへと釘づけになりかけそうな気持ちを刷新させ、今度は冷静なまなざしを我がものにする余裕を得られたと思った。そして目は判然と冷た気な麺に焦点を合わせつつも、先ほど脳裏をわずかによぎったラーメンと焼き飯の注文を想起させると、何故やら次には高校生の頃しょっちゅう食べていた「寿がきや本店の味」と云うインスタントラーメンの記憶を強引にたぐり寄せた。やや濃い口のしょうゆ味だけれど湯の量を加減すれば、思ったよりあっさりとした口当たりに変化する、例えは悪いがどこかどぶ臭ささえ漂う本来のスープに繊細なうま味を発見した際には、たぶん材料となっているだろう鶏ガラの澄んだ香味の向こう側に、魚類系の出汁や野菜エキスが送りだす甘い成分を嗅ぎ取って有頂天になったことや、悲しいくらい微々たる乾燥メンマとコーンを駆逐する勢いで鍋に投入した生キャベツの歯触りが、太目のしかもあまり伸びやかではない麺と不思議な効果を生み出し、どんぶりの中身がほぼ消えかかる頃になって、インスタント食品が背負ういかがわしさと、その正反対である名状し難い満足感を覚えたこと、そうした即物的な食欲のあり方を投げやりに肯定していた気分が生々しくよみがえってくるのだった。


[120] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット3 名前:コレクター 投稿日:2010年07月20日 (火) 12時58分

思いもよらなかった昼飯のもてなし、しかも初めて訪ねた家で本人が腕をふるってくれた焼き飯の味。遠藤が言うよう随分と段取りがなされていたのか、この室内を見渡している間がかりそめの裡へ過ぎてしまったことに即す程、手際よく並べられた新鮮な驚きは、布張りのソファに浅くもなく、深くもなく腰をおろした居ずまいから覚える体温の高まりに準じ、冷房が行き届いたまわりの空気へとけ込むのだった。
予想していた通りの品がいかにも手慣れた様子で運ばれる光景に見とれながらも、孝博はおそらく恐縮で身がある程度こわばってしまう在り来たりの気分に支配されることはなかった。それと云うのも、今ここにこうして座っている事態を的確に捉えることが不可能と思われるからであって、理由は言わずもがな、彼の胸中に奥深くわだかまっている気配が、次第に形をあらわにさせようとしている為だけれど、見通しの良い眺望を期待する条件は盤石とそこに備わっていない。むしろ淡い悲観に寄り添うような影の希薄さが、郷愁にも似た旋律を選びつつ茫洋と流れだそうとしている。
大胆に見える所作は以外とふとした偶然から繰り出されてゆく。花火の夜、いつになく酒杯を傾けてしまった記憶をまるでよそ事のごとくに打ち消してしまった一瞬の始まり。翌朝、以前息子の晃一にあてがわれていたと云う部屋に入って窓の外を眺めながら、
「片目を失明させてしまったのは、わしのいたらなさでもあるんだよ、孝博さん、本当にすまなかった」
もう何度となく三好から、そう謝罪を重ねられただろう。人一倍義理堅いところのある主人にとってみれば、遠縁にあたる若者を預かったすえ取り返しのつかない結果に結びついてしまった悔恨を、どう整理してみればよいのやら、それは相手に対しての責任と云うよりおのれに直結する不甲斐なさで閉じられているのだろう。三好の性分を知っている孝博にはよく理解されるのだったが、これ以上の懺悔にも映ってしまうそんな痛みは出来れば早く忘れてしまいたかった。自分や三好が嘆こうがつまるところは同じ根から発生している。失われた息子の右目は決して取り戻せないし、不慮の事故でもあるが、実際は晃一自身が引き起こした不幸なのだ。
「いえ、あれで本人は以外と落ち込んでないんですよ。こんなふうに言うと不謹慎でしょうが、晃一にとってみれば負の勲章みたいに感じているところがあるように思うのです。隻眼って何かかっこいいとか言い出して映画なんかでよくある黒い皮の眼帯を特注で作ったほどで、だからもう気になさらずに、このまちに来ると熱望したのも本人だし、失恋に至ったのも仕方のないことです。やけかどうかはわかりませんけど山道からの転落も不運としか言えません、、、」
孝博はその先を弁解する意義を見失っていた。その埋め合わせとして少なくとも自尊心は放棄したつもりであった。そして鬼畜にも等しい投げやりな意想を息子のこころに張りつけてしまうと、あたかも示談が成立したふうな決して後味はよくないにせよ、それなりの解決へ収まった感を抱いている他者のような自分を知った。
浮遊する視線が捉えようとしたのは、わざわざ三好に頼んでこの部屋を見せてもらい、自然なふるまいとして窓の向こうに解放された港の風景などではなく、前にも確か見たと思う一枚のペナントを確認する為であった。果たしてそれにどんな意味あいが封じられているのかは、やはり夢の謎解きに近い曖昧な偶然に包みこまれている。
「これって晃一がこっちで手に入れたものなんですか」
少々ばかり力み過ぎ何気なさを強調してしまそうになった孝博の問いに、別段いぶかる面持ちも見せず、
「このペナントは確か、比呂美がまだ嫁に行く前に遠藤硝子のひとからもらったんじゃなかったかな、こんなものがどうかしたのかね」
「別にただ目についたものですから」
それから先、孝博は極々世間話しを流す調子で、遠藤硝子って川向こうにある老舗だったと、記憶を何となく巡らしてみた口ぶりで、それで又どうして硝子店がペナントを持って来たわけかと探れば、三好もその時は苦笑をしてみせ、先代はもう亡くなって久しくなるけど、その婿養子がどうしたわけか硝子職人を継ぐことをせず、一切を先代の娘にまかせてしまって、今では硝子店とは名ばかりで細工ばかりを専門にした小さな工房を営んでいる。婿養子は東京で保険会社に努めていたのだが退職後に帰省して縁あって、と云うより親類にあたるところからどうやら婿に入ったらしい。奥さんは硝子細工だけれど、彼は刺繍とか得意だったこともあり、ああして時代遅れの織物を作っていると。何でも最近は海外から発注が多くあれでなかなか実入りもある様子で、その最初の作を比呂美にいわばプレゼントしたとのことであった。
「あはは、久道とか云う名だったな、うちの比呂美に気があったのかいな」
そうして、何だったら娘にいきさつを聞いてみるかと冗談ぽく話す三好を適当にあしらったのは、すでにある信憑が孝博の脳裏に渦巻いてしまい、余裕を保つことが困難になりかけたからであった。


[119] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット2 名前:コレクター 投稿日:2010年07月06日 (火) 05時33分

単なる期待であるべき以上の思惑をはらんでいたからには、初対面の人物を果たしてどういった印象で受けとめるのやら、気早に波立つ久道の眼に映じた男の年格好や人柄は、兎に角挨拶を交した時点で何やら顔見知りに思えたりもして、しかもよりどころのないままに胸のあたりに充満する既視感を、錯覚かと受けとめる良識も同居させているあたり、反対に随分と浮かれてしまっているなと感じるのだった。
手放しで喜びが許されない、腑に落ちてしまうことをどこかで拒む、熱射のうちに溶け出してしまう氷塊を見つめているような、微かな敗北感みたいなものがもたげているからであり、その雪解け水を連想させる季節はずれなイメージに我ながら慌ただしい胸中を諭される。
「お昼はまだでしょう」
正午をとうにまわった時刻の来訪に念を押すよう、ほころびから笑みが飛び出してしまうのを押さえるよう、久道は聞いてみた。
「はい、三好荘を午前中に出て少し、海辺からみかん山にかけて歩いて来たものですから」
幾分うつむき加減でそう応える男の額には汗が吹き出している。
久道はこころの底から合点がいったと目を奥からひかりを輝かせながら、
「磯野さん、まあ上着を脱いで楽にして下さい。今日もかなり暑くなりそうですから」
と言って、冷房も効いている室内だったが扇風機を客人に向け涼をうながした。
「お昼と申しまても内のが留守で、さっきから仕込みと段取りだけは済ましておいたんですけど、いいえ、大層なものは作れませんので。五目冷や麦と焼き飯なんですが、あっ、五目冷麦って云うのは、きゅうりとか錦糸卵とか載った冷たい麺です。冷やし中華の和風版ですか。それと焼き飯も半ライスのこじんまり量でして、こう暑くなりますとやはり炭水化物をしっかり採っておかなければなどと思いまして、それに冷たいものと温かいものってバランスもいいじゃないですか」
この部屋に備わるソファやカーテンの布地から湿度が発散されているのだろう匂いを、想い出そうと磯野は努めてみたのだけれど、それがどこで嗅いだものかはつかみ取れないまま、強風に乗って聞かされた意表を着かれるそんな献立に和まされ、まだ少し汗に濡れた皮膚もひんやりとした感触にさらされていった。
ビールでもと勧めたれたが、先きに手元に置かれた麦茶で十分ですからと、恐縮しつつも意思をあらわにした後で、
「それでは、少々お待ち下さい。今、こしらえて来ますから。もう段取りは済んでますから、すぐですから」
と、軽快な口調で台所に姿を消した久道の思いもかけない陽気さに唖然としながら、増々、汗が冷たくなって引いていくのを磯野は時を数えるように知った。
この場でひとりになって始めて覚えるこそばゆさで己を解放させてみたくなる放埒な思い。あらためてこの部屋の匂いが衣類の陳列された洋品店を彷彿させる、あの真新しい繊維が浮遊し冷気と交じり合った清潔さを運んでくる初々しい微風によく似ていると感じる。真夏の外からは隔絶されても、季節に即し慰撫する使命を心得ているかの淡い、そう原色が潔く退色したとでも云える、薄桃色や水色や吸い込まれそうな若葉色で清涼を醸し出す、白昼の岩屋が持っている隠れ場のような居心地。
嗅覚と云うものがどれほどこころの底辺まで沈潜し、記憶の貯蔵庫の扉を開けるのか、磯野孝博は数年ぶりにその謎を探ってみたい欲求に駆られたのだったが、反逆作用とも呼べる現実的な情況は残念ながら彼が目のあたりにしているこの室内、つまりは視線が配分する未知なる日常の方向へと否が応でも連れ戻してしまうのだった。記憶の彼方に別れを告げることもなく、、、
おそらく事務室を兼ねた客間であろう十畳はゆうにありそうな広さ、低めのテーブルを囲んだ布張りのソファ、レースのカーテンに遮られているけれど本来は外光を直接受けている幅広な机、その両脇の壁に添えつけられた天井まで届きそうな書架、ここからでも眺められる孝博もよく知る専門書を扱う出版社の書物。立ち上がって端からつぶさに見てとりたい気持ちを引き締めたのは、彼自身もよく分からない穏やかな余裕が静かに警鐘を鳴らしている為であって、決してここに長居するわけでもないのに何故か、満ち足りてしまい、こうして遠藤の住まいまで訪ねてしまったと云うことで、糸口を即物的にとどめ置こうと懸命になっているのであった。
そして、あながち的はずれではないと推測される、あまりに唐突な連絡が思いがけない快諾へと結びついた意味。書架以外の壁面にびっしり張りつけられたペナントの織物が見せつける光景、それはまだ茫洋とではあるが大胆な無邪気さを裏側から支えているような気がしてならなかった。
この無邪気さは、冷麦や焼き飯と云った昼飯によって脱力感を生み出し、親和へと歩み始める。台所から香ばしい炒めもの油分が漂って来て、ようやく孝博はさきほどからの清涼な冷気の発信源を見出したのだった。


[118] 題名:まんだら 最終篇〜虚空のスキャット1 名前:コレクター 投稿日:2010年06月29日 (火) 05時39分

その日も残暑の厳しさを予感させる日差しであった。いつもながら九時過ぎに目覚めた遠藤久道へ最初に届けられたのは、聞き慣れない名前の人から電話がと云う、妻のどこか慌ただし気な一声だった。
「誰だろう、電話で起こされるのもそうないからな」
久道にしてみれば確かにそれくらいの間合いであったに違いない。仕事の関係者らには携帯の番号を知らせてあるし、彼の起床時間をわかっている知人も午前中に連絡を寄越すことはほとんどなく、しかも寝起きながらも初耳にする相手の名は、久道を呼び覚ます加減を秘めているようにせわしない緊迫で到達する。
「はい、替わりました。店主の遠藤です」
寝室から出たすぐ先きの廊下で受話器をとるまで、わずかな時間に押し寄せた言葉にならない胸騒ぎは頂点に向かうまでもなく、すでに払拭されてしまった。先方の礼儀正しい名乗りと、几帳面な性格が窺える控えめではあるけれど端整なもの言いに要約された所思が、小気味よく伝わってくる。
結局、電話口でことの真意を応答することなく、ほとんど相手の用件を鵜呑みにする案配で訪問を了解していた。決して矢継ぎ早で告げられるままの押し出しに揺らいだわけでもない、どちらかと云えば遠慮勝ちにさえ聞こえる口調は好感さえ醸しており、忽然と奇妙な用向きを述べられた感触に嫌な想像が巡らなかった理由は、営業目的などの勧誘とは明らかに一線を画する、腑に落ちてしまうのが躊躇われるくらいの意欲が満ちて来る確信を覚えたからで、はなからそれが何らかの営利に結びついているとは思えなかったからである。
仕事柄そうした場面にたずさわる事情もあるし、実際自分も商売を営んでいる以上、その辺りの機微は見極めがつく。
「これからでもかまいませんが、はい、わたしは全然大丈夫です。あっ、そうなんですか、それじゃ、ほんとすぐ近くじゃないですか。川沿いを少し折れたところです、遠藤硝子って看板が出てますから」
ついさっきまで眠っていたことが何やら疑わしく感じてしまう。それにしてもこのまちに戻るまで努めていた保険会社での経験が、こんな形で即座に甦って明快な反応を示すとは、、、
だが、久道の揺るぎない信憑に杭を打ったのは経験的な直感だけではなかった。電話の主がやや声を落としながら言った、
「はい、夢のなかで一度お目にかかったことがありまして、信じてもらえるほうがおかしいのですけど、確かにあなたのお名前通りだったのです。わたしは先ほども申しあげましたけれど、特に信心深いわけでもありません。大学での研究でも少々分野が異なると云いますか、しかし、不可思議な体験にせよ、そこに潜んだ可能性みたいなものは探ってみたいわけです」
との奇天烈な披瀝に感電するかのごとく興奮し、続いてその夢見の情況と何故ここにたどり着いたかを臆しながら説明する様子に増々惹かれた久道は、
「わかりました。夢で会ったからなんて、ものを売りつけたり勧誘することもないでしょう。もし、そうなら、それも勉強です。あっ、すいません、それで、どちらから電話をおかけしてるんですか」
そう問いかける頃には、いつにないほど目覚めの爽快さに覆われてしまい、楽しみが待ちどうしくいたたまれないような童心が呼び起こされ、例え相手が大学教授であろうがなかろうが、このまちの出でかどうかも関係なく、面識もない人間がこのようなアプローチをもってこの身に訪れてくる現実が愉快で仕方ないのだった。
仮に対面したあげくに詐欺師か悪戯の類いであったとしてみても、随分と趣向を凝らした、と云うよりこうも趣旨を前面に打ち出したまやかしであるからには、それなりの値打ちがあるはず、突然の幸運を逃さない為には、逆転の仕掛けを講じ自ら運命を切りさかなくてはいけない、そうやって始めて楔をこの胸に深く打ち込める。
まだまだ続くだろう夏の光線が不快指数に堕するまえに、一刻も早くと願う気持ちは高揚して、午後からお邪魔しますと控えめで応えている口吻に叱責する思いさえみなぎり、とうとう昼飯も用意させてもらうから、何よりそんな近所の民宿にいるわけだし是非ともそうしてもらえればと、熱したままむき出しの感情に衣を着せることも忘れてしまうのであった。
受話器を置いてからしばらく経ったのけれど、耳鳴りが治まらないときの浮遊感に似た無感覚さで支配されているのだろう、その場から離れようとはせず、役目を果たした健気さで静まっている電話から放たれる無言の響きに聞き入ってしまう。これから出会う未知の人物の声を何度も思い起こしながらわざとらしく身震いをし、それ以上の先きの展開を中断してみてはほくそ笑む。
「あなた、誰か来るの。わたし、硝子細工の夏期講習だから出かけるわよ。お昼は向こうでいただくの」
不意に妻からそう聞かせれても微動だにしないだけの余韻と余裕は持ち合わせている。
「あっ、そうだったな。いいさ、昼飯くらい作れるよ」
「講習終わってからも知り合いの人たちとお話してくるから、でも夕方には帰れると思うわ」
「いいよ、いいよ、ゆっくりしてくれば」
時計は十一時をまわっていた。


[117] 題名:まんだら 第三篇〜異名23 名前:コレクター 投稿日:2010年06月08日 (火) 04時44分

他の三枚とは異なる図柄を配した最後の一枚があかりを取りこむようにして燦然と輝きだす。
あきらかに日差しは隠れはじめ、夕暮れ間近特有のひっそりと沈みこめる気配に導かれていたと思われるが、どうした具合なのか寄りそったふたりの顔が燻りがちとは云え、漆ぬりされたふうに朱で染めあがった色づきで明らむ様は、如何にも胸の裡が熱していたのだと、こうしてすべてを知りつくしたつもりで落とした視線をはね返すよう、その内心とはうらはらに冷たい光を放っている。
気が遠くなるほどまでは云わないけれど、相当の年月を隔てた自分の顔がこんなわずかの距離で黙ったまま目線を釘付けにしてしまう厳めしさは否定しがたく、よそよそしい面持ちを思わずつくり出してしまう。
ふたりして眉のうえ少しのところは揃ったものの、隣に写る美代の華奢な首筋は暗幕に遮られるようにして右手から横顔を寄せている有理の存在を哀しみで誘い、しかもその哀しみは際立った陰影を拒む様子もなく肩先までで切りとられ、あとはまわりに張り付いてしまった夜の使者が塗りこめた背景にうなずいている有理の黒髪、、、陰りの主であることに忠実なるまま闇に溶けてしまった黒髪が、彼女のまぶたを閉じさせているのだった。
すっと伏せられたまぶたにはなめらかな曲線を描いた睫毛がゆっくりと被さり、厳かな沈黙を守るべく、美代の目尻から頬にかけてかたちの良い鼻梁がほとんどひっつきながら、そのくちもとと云えばきつく結ばれているのだが、微かに口辺へ波紋のごとく笑みの種子を投げいれたと窺えるのはあながち気のせいでもあるまい、それは真横に位置した加減でいつになくふくよかとした上くちびるの中心が丸みを帯び、触ればさっと反応してしまう小魚のひれを思わせる過敏さで震え、ときには傷みやすい果実が香らす清純さも予感させられ、さざ波となって微笑へと誘っているように見えた。
微笑は哀しみと出会う。伏し目の有理とは対照的に美代のまなざしは大きく見開かれ、半面に寄りそった相手よりも威厳ある居ずまいを明快に現し、むろん、椅子にかけた美代の斜めうしろから抱く素振りで密着した、そう、畳にひざを立てたまま思いきり近づいた情況を知りつつ、あえて大人ぶって有理が延ばした左手のレンズを見つめ続けた。背後からしがみつかれながらも、あえてかぶりを振りきらず沈着に、冷静に、未来へと送られる構図を意識することでもうひとりの自分へと飛翔する。
確かにわたしは笑顔など浮かべていなかった、、、黒目が濃く、それは有理姉さんが眉墨をあまり入れなかったからだけど、するといやでも鮮やかに塗られたくち紅が毒気を放っているみたいで、ましてやまわりの暗がりがくちのなかまで侵入して来るのか、少しだけ開かれたくちびるの間から白い歯は覗かせない、、、でも、微笑む余裕がなくてこんな険しい表情をしているわけでなく、あのときはああした顔つきをしてみたかったの。案の定、有理姉さんは寂しいようだけどわたしの気持ちを察してくれたのか、とても自然な穏やかな横顔でこうして頬をすり寄せている。そう云うふうに写っているだけかも知れないけど、、、この写真を見せられた直後にわたしの顔色は曇ってしまい、泣き声を出しそうになったから抱きしめられたのだろうか、、、それともわたしの方からむこうの胸に飛びこんでいったのだろうか、、、どちらでもかまわない、、、

「浅井さん、さっきお兄さんが面会にいらしてたんですけど、眠ってるからまた出直すって言ってました」
「えっ、兄がですか」
美代は意味あり気な符丁にもとれる珍しい久道の来意に驚いたふうであったが、ふと気を取り直し、どれくら眠っていたのかと思い巡らす小さな旅路の伴走として、とりとめもない回想がそうであるように別段兄の面会を意識するべきでもないと、こころのなかでつぶやいてみた。眠れる湖へ小石を投げ込むときに抱くほんの少しの邪念を知りつつ、、、
外には冷たい風が吹いていたようだけど、窓のうちに差し込む夕映えはいつか見た夢うつつの温もりに包まれ、何よりも美代自身の体温が、例えそれが発熱であったとしても、心地よさへと繋がる道程であると思われた。


まんだら 第三篇〜異名

終 


[116] 題名:まんだら 第三篇〜異名22 名前:コレクター 投稿日:2010年06月08日 (火) 04時43分

あの日の写真を取り出しじっと目を凝らす。光線の加減もあって大概は暗くぼやけた写りのものばかりで、記念にと云う有理の思惑に実はかなった枚数の少なさが今となっては価値を高めている。
美代の手元に渡されたのはわずか四枚だけであり、そのうちの三枚がやや正面から撮影された似たような表情で、それらは微笑んでいるのか戸惑っているのか、よく見極めのつかないありきたりな面持ちに支配されていた。が、所詮は小学の低学年が精一杯つくり出した感情の曖昧さで終始されるのも頑是ないこと、ファインダー越しに悲哀のまなざしを求められてみても、内心は正反対に吹き出してしまいそうになった反応が我ながらに可笑しく思い返す。
有理の未熟ながらも丹念な化粧により仕上がったこの写真を手にした際の印象は、その濃密な目もとの彩色や当時のプリントがそうであった独特の発色と相まって、月日を経た現在でも決して色褪せたりはしない。自分の顔立ちがどうこうと云うよりもおさな子であるはずの、色艶とはほど遠いすがたがそこでは奇矯さぎりぎりのところで不遜なまでに自愛をしめしている。有理姉さんがあのときふともらしていた可憐な小花と云う言葉が、まだ効力を秘めていると痛感出来てしまう根拠は、まさにこの人工的な異形が発散する無機質な歓びにあったのだろう。
見ようによっては冷淡なくらい肉薄い上くちびるが、ようやくめくられたふうにして歯並びを少しばかり覗かせている。口角をわずか動かせることに成功した頬の隆起も平淡な内心をかいま見せるにとどまり、それと云うのも束ねられた黒髪が、目尻からあご先にかけて隠し去るようにして左半面に垂れさがり、本来しもぶくれ気味の頬を無きものにしてみせ、同時に反対側は目論まれた陰影がちょうど良い具合に重なりあい、多少丸みを帯びたおとがいを目立たせることなく細面に形成させているからだった。
この時点でもはや美代本人の目から見てもよそよそしいほどに現実感は霧散してしまい、なおかつ、やや上目使いに定められた瞳のまわりを縁取る微妙な案配で引かれたアイライナーは、頑な意思で棲みついた無垢なる脆弱さをそれとなく強調して、そこから放たれる光させも惑わす奇態な視線に変幻する。
わたしはあの場で刃物を突きつけられていたのではなかっただろうか、、、美代にそんな荒唐無稽な感慨を張りつけたのも無理はない。それほど自分の顔かたちは、死に直面した折に血の気が失せる手前の暖色が急低下する瞬時を物語っていた。そこにはむろん喜びはないが悲しみも怒りもない、放置されたのは人肌をまとった模造品の苦悩だけである。ひとつだけ難を逃れたのは白塗りで段差が損なわれたのか、すっきり通った鼻梁の気高さは了解出来ず、小鼻がふくらんだ様子があらわになったせいでどうにか子供らしさを残存させているのだった。

鮮烈に焼き付けられた記憶は遠く過ぎ往きた後ろがわへと流れるはずなのに、この写真から喚起するひろがりの情感はちょうど額にドアがあって、そこからはらはらと花びらが強風にあおられ散り去るはかなさが、せつなく、もどかしく、けれども余分なとらわれに陥ることなく見据えられる。
「これって練習なの、わたしまだまだ上手じゃないみたいだから」
一度は息継ぎのようにくちびるが離れてから、ふたたび今度はより濃厚なぬめりのキスが終わったあと有理はこうつぶやいた。
それから言い訳らしく聞かせた言葉を美代は明確には思い出せない。だが、有理があのとき胸に秘めていた小鳥みたいに柔弱な好奇心は、かねてより望美から教えられていた事情もあって共有できるし、何よりわたしが期待してやまなかったのだから、有理姉さんが恥ずかし気な態度をあらわせば、あらわすほどそれは同じ恥じらいとなってわたしの胸を滲ましていった、、、
「ううん、いいの。わたしもうれしかったから」
そう言いかけながら、結局は口に出来なかった。その節度は今から顧みても十二分に美代の自尊心を保持し続け、そして有理をどこかしら物体として捉える意想に傾いていった。おそらくは感じとったのであろう美代の気持ちに驚きをみせることが躊躇われ、また羞恥の方向へとおちていくのを見逃さず察している様子がどうにもたまらなく、身の置きどころなく思われた。
美代にはそんな彼女のすがたが、固定された感情、、、鬼ごっこで相手を捕まえたときのあの遊戯精神にあふれた優越感、会話が会話であることに煮詰まってしまい、あらぬ方角へ逃亡しかける脱力感と緊張感、つまりは投げかけなどのやり取りが停止し自己完結だけに意識が占領された光輝の瞬間へとすべては収斂してゆく。
編目で覆われながら羽ばたいている蝶、すがたかたちを見届ければその羽ばたきは限りなく静止へと向かっている。美代のこころは自由であった。


[115] 題名:まんだら 第三篇〜異名21 名前:コレクター 投稿日:2010年06月01日 (火) 04時15分

不意に訪れた深く眠る色褪せたはずの想い出、いやそれらはきっと取り戻さなければならない宿命であったから、呼び子によって彩りを施され今ここに巡ってくる。ちょうど遠い汽笛が潮風を運んでくると信じてしまうように。
視界をさえぎる夜霧に包まれた時に感じる不思議な心地よさに、美代はすっかり我を失ってしまった。
煙立ち靄がかったさきに写しだせれていたのは、まぎれもないわたしの姿だったのだけれど、どう受けとめてよいのやらわけが分からず、そこに後押しされるよう有理の心配気な口ぶりが被さった途端、もう意識は乱れた気流によってさらわれ、めまいが生じ、しかしながら心棒を回転軸にする駒のような一定感はむしろ反対に覚めた情念をこの身から逃さず、確かに大人びた、我ながらうっとりとしてしまう妖しさを醸し出しており、その刹那わき起こった衝動はおそらく抱擁のあとに来る行為を切実と願っていた。
ませた仕草を演出したのは有理であったが、懸命に役柄を演じたのは美代であった。そうして脚本とも即興とも云える一瞬は、予定調和に即すよう美代に放電を促す。有理の気遣いは、まるで人造人間を生みだしてしまった博士が、目のまえに展開する所業におののくよう、それは生命の神秘を暴いてしまったかの狼狽であった。
過剰な電流によって強烈な意志を得た美代は、飛び込んだ有理の胸もとで今度は写真に焼き付けられた以上の、つまりはそこから抜け出てしまった別人となり、同級生の姉は年上には違いないけれど、もはや同性であることに拘泥する意味あいは剥奪されひとりの好男子と化し、あるいは美代が少年に変容したうえで女装し、有理に切ない胸を打ちあけようとする。そんな自分を美代は異名で呼んでみたくなった。
有理の柔らかなくちびるが、生暖かい吐息をともなって寸前にまで近づいてきた。さあ、わたしは誰になればいいの、だいじょうぶ怖くなんかない、わたしはわたしじゃないから、、、鬼ごっこでつかまったときの罰ゲームと同じ、、、それと映画の一場面みたいなもの、旅行先で泊まった夜の枕があたえる冷たい親近感、そのあと聞こえてきた町並みが震える微かな音、、、音、、、たぶん聞き慣れない、魔法の国からやってくる、だって明日になればすっかり忘れてしまう音、、、想い出したわ、音の波、いいえそうじゃないの、有理姉さんの口先に初めて触れたときのことを何度も憶い返すと、あの感触に浸ろうとすればするほど、望美から聞かされた内緒話しや三人組の悪戯と云ったつまらない事柄が一緒になって脳裏の駆けてゆく。どうしてなのかよく分からない、以前何かの本で読んだが男性は自慰にマンネリ化すると、妄念の勢いをあえて妨げて、まったく無縁の場面に移行させながら頂点を呼び寄せる、そうした延長作用がかえって快感を引き延ばしているのだとか、、、わたしの場合もそれなのかしら、でも無縁と云うよりも付随した想念が招かれるのだから、話しの腰を折るような中断作業ではなくて、だって男性にとっては絶頂を抑止することで少しでも快感を先延ばししたいって欲深さだろうけど、わたしにつきまとう追想は婉曲に申しでてくる、そう、緩やかな非常階段みたいなもの、手探りを必要としない、向こうから探られる軽やかな手すりへの触れ合い、、、冷めた紅茶を飲み干すときに覚える、あの矛盾したようだけどとても時間が長く感じられる性急さだったから。
それを前戯と呼んでみればどうだろう、遠まわりで不本意でありながらも目的を成就させる為、終着を向かえる為に乗り継がれる列車の振動。その振動がもたらす反復は律動となり、五感に安定と痙攣を授けていく。
口中に異物が侵入しかけたと思われるほどの違和感が発生した美代は、そんな言い草でしかそれらを思い浮かべられなかった。別人に扮してみたとしても感覚自体に異変は生じない。背丈も違えば、顔も、肝心のくちびるの大きさも異なり、ましてや初めての経験である事実は期待した以上の贈り物には成り得ず、逆に圧迫にも成りかねない一面をうかがわせていた。しかし、どちらが分泌した唾液によってか知るよしもないまま、互いのくちびるが濡れてなめらかになった頃、美代の意識は純化され先ほどまでの邪念からは十分に距離を保つことが出来た。
そうね、あれからの光景は俯瞰図で見取れるくらい鮮明に憶えている、、、わたしはやっぱり無我夢中だったに違いない、だって有理姉さんたら、思いっきり両腕にちからを入れて抱きしめるから、からだがきつくなってしまい、そうするとキスしているって感触が散乱してゆくけど、そのお陰で何故かしら自分がとても冷静な気持ちでいられたと思える、、、わたしを無くすってことは、ああした緊張のなかを云うのではないかしら、、、だって、冷静な自分はすでに別のひとだから、、、


[114] 題名:まんだら 第三篇〜異名20 名前:コレクター 投稿日:2010年05月25日 (火) 05時40分

そのあとも望美は斥候に出るよりか、話しに夢中になっていることに意義を見出した様子で、日頃から小耳へ挟んだ姉に関する領域を美代へと報告する努めに精をだした。
ラブレターをもらったと自慢気に語りながら自分からも二回ほど渡したことを正直に言うあたりが姉らしいこと、小太りの同級生に限らずこの家へ来る同年らはけっこう異性を値踏みするもの言いではきはきしていること、あるときなど、度のきつそうな眼鏡をかけたひとに頼みがあるんだけどあんたでチューの練習させてくれないと真顔で迫られ同性でも無性に気色が悪くなって泣きべそをかいたこと、そのとき隣で薄ら笑いを作っていた姉がとても憎らしく感じたこと、それから美代の催促に応える具合で、いくらなんでも有理本人はそんな無茶は口にしないと、だって姉妹だから気色がどうのこうより絶対あり得ない、そう固く言いきったことなどが、こぼれ出す水槽の危うさで矢継ぎ早に語られた。
美代の好奇心は吸い取り紙となって水分を含み濾過され循環された。そしてようよう視線が下がり共通項にたどり着く。
「知ってる、赤ちゃんってどうやって出来るのかって。キスを百回するとね、、、」
「うん、わたしも聞いたことある。でも本当かなあ、、、」
と言いかけて、生唾を飲みこむようにしてその次に接がれるはずであった感想をためらった。
半年ほど前のこと、クラスの男子で普段より悪戯好きの三人組がどこで拾ってきたものか休み時間、いかがわしい週刊誌をちぎって一枚一枚さながら新聞配達よろしく一年生の教室にばらまいた。あくまで下級生のところだけと云うのが馬鹿馬鹿しくも情けないのだったが、その実情は先生にさえ見つからなければ咎めもないとたかをくくった腹づもりであり、昼休みを過ぎても何の沙汰がなかったのはそれほどの効果も与えられなかったことよりも、三人組をして安堵がもたらしている気配を美代は敏感に読みとっていたからであった。
と云うのも、昼まえ授業が始まるとき廊下の隅で顔を見合わせながら互いを探りあっている場面を横切りながら、
「やっぱり、誰かが言いつけるかも知れないよ。あんだけ破ってまいたんだ。顔もはっきり見られてるしさ」
「証拠はないからな、そうびくびくすんなよ。これも教育だ」
「おいおい、絶対に怒られるよ。すぐにおれらのせいだってわかるよ」
語調を落としているつもりでも、内心の怖れが金切り声に限りなく近づいて思いのほか空気に振動してしまう。そのときには美代もまだことの顛末がつかみとれていたわけでなく、またつまらない悪さでもしてびくついているだけだろうくらいに聞き流していたのだけれど、午後からの音楽の授業で渡り廊下にさしかかったところで一年生のげた箱の隅にふと漫画雑誌の切れはしらしきものを見つけ、どうした都合か風がそよいだ加減でさぁっと宙に舞い上がり目線でたどるに適した高さで停止しかけ、まざまざとその絵姿が飛び込んでくるに及んで、あの三人組が言わんとする意味合いがようやく判明したのであった。
無論、黄ばみかけている紙にこれまた色あせかけたインクで刷りこまれた漫画の実態を美代は理解しているわけでない。そこに描かれている局所を除き全裸で抱きあった男女が指し示ているのは、何やらいかがわしさには違いないのだが、内実にまで通底する根拠を持ち得ていないことや、淫らと云った含みさえ耳にした覚えもない稚拙さが救いになり、裸とくれば銭湯を思い浮かべるしかすべがないまま絵柄の持つ深意は未消化に終わってしまう。そして彼ら三人も裸体が交わっている図形を正式に認めてはいなかったと思える。怪獣や幽霊の存在を疑っても、世界の果てにとめどもない夢想を投げかける熱意は決して醒めることもなく、近所の暗い夜道へ次元爆弾みたいに仕掛けられた魔法に怖れをなすはずだから。
翌日の昼まえ校庭の階段わきの水道場で、家の近所にある森田商店の梅男と云う一年生の子が、昨日見たものと同じ種類の切れはしを懸命に洗い流そうとしている姿を美代は目に留め、
「あら梅男くんじゃない、学校で会うのはひさしぶりね。それ何かしら、あたしも、、、」
と言いかけると、
「そこら中に散らばっていたよ。昨日から教室にあったんだけどみんな隠してしまったんだ。先生に届けるのも面倒だもん」
「えっ、じゃあ昨日からそれ持っていたの」
「違うよ、今そこで拾ったんだ。ごみ箱まで持っていくよりこうして水をかけちゃえばとけるから」
そう答えながら、勢いよく吹き出す蛇口をしっかり握りしめた手は梅男の力強く、また所々ひび割れたり小さな穴ぼこを露にしたセメントも年月を経た風合いで水流をしっかり受けとめている。切れはしの絵柄は次第に破れ遂には細かくまるめられ、悪戯の成果は完全に根絶やしにされてしまったようだった。
湿気のない乾燥した秋風が校庭を駆けると、水気を帯びたセメントから立ちのぼるふうにして、水道管から吊るされた蜜柑色になった編袋のなかのひからびた石けんが微かに香る。
この懐かしい匂いはどこからやってくるのだろう。美代はそっと辺りを見まわす素振りをしながらそう思った。


[113] 題名:まんだら 第三篇〜異名19 名前:コレクター 投稿日:2010年05月25日 (火) 05時38分

あのとき感じた、神妙に引き締まりながらもどこかへ吹き流されてしまいそうになる安楽さが、どうした加減で発生し、わたしの胸のあいだに渦巻いたのかよくわからない、、、
それから二階から見下ろす隣の庭をいつもの平静で認める何気なさ、、、切迫した情況であった距離感を引き離した優雅な空想の源も、雲間から自若として照りつける日差しのごとく、手は届かない。間近で惹き起こされる悲しみに進んで耽溺してゆく行為を、片方の自分が冷静に見届けている。
いったい何に期待を寄せているのかさえ不透明な動揺は、砂時計がしめす無音の世界を思わせた。極度にせばまったくびれを抜け落ちる刹那に覚える、あの瑞々しくも鮮烈な手触りを醸し出さずにはいられない過剰な共感。それはまたモノクロームの映像が網膜に焼きつけられる際に想起させる、水辺にたたずむうら寂しさの裡にあった。
有理の心境をあやつり人形のように何よりも先んじてくみとってしまうのは仕方ないことであり、沈着な片方の自分は、こうして悲哀に染めあがる情感を維持させている脈拍をとめるわけにはいかない使命で、あらぬ対話を脳裏にこだまさせた。
「ごめんね、、、」
又ぽつりと囁かれて、美代はまっさらなノートに鉛筆書きしたときに知る甘美な失望を得る。
すでにわかっていた、いいえ情況を把握していたのではないわ、わたしが理解したのは、背後からのぞき込むように頷いているお人好しの映画監督みたいな歓び、、、かくれんぼや鬼ごっこと同じ性質をもった手放しの緊張感、それがいかにこじんまりとしていても幸い計るすべはここにはない。
望美が自転車の修理に出ていないと聞かされた瞬間から、美代は洞窟の入り口を目の当たりにし闇の到来へすべてを託し恐怖さえ懐柔した、ふたつの眼光を怜悧な指針とみなす遊戯に惑溺してしまった。
光は有理を宝石に仕立てあげた。階段で振りむかれたときは髪の毛がさっと突風に煽がれたふうにも映り、その偶然の裡に忍びこむように自分はいま異国の空気に取り巻かれていると嘆きつつ微笑して、寸暇に別れを告げる連鎖へと旅立っている余情を満たしながら、幾すじかの毛が黒目のうえを被い肌にまとわりつくまで遠近が曖昧な洞窟を駆け抜けていた。そして新たな輝きに包まれた。
待望していたのは確かに等身大の自分が変貌を遂げた写真でもあるのだけれど、更に欲したのは、そこから煙のごとく浮かびあがりこの世からはみ出してしまう純粋な想いであった。
美代の生霊を橋渡しさせる為に必要だったのは他でもない、成熟にはほど遠くまだまだ青みを留めている肉感を宿した、子供の目から見ても大人に成りきれてはいない柑橘類に直結する溌剌とした味覚だった。
それはいつの日か、有理の同級生らしき小太りでいかにもませた口調でまくしたてる、何回かこの家で居合わせたことがあるい女生徒から漏れた最後のひとこと、
「あのさあ有理、こないだのことだけどもっと詳しく教えてよ。とぼけてもだめ、いいじゃない誰にも話さないから。ねえ、したんでしょ、キス」
別に聞き耳を立てていたのではなかったが、有理の部屋に昇がいるかも知れないから見てくると、階下から声を出して呼んでもいつもながらに返事もしない弟を昼寝させるのに連れ戻すため、さっと小走りにしかも軽やかに階段を駆け昇った望美は、帰りはえらく足音を忍ばせながら美代に近づき、今さ、お姉ちゃんたら内緒話してて、それが、、、と言うより、目が笑ったかと思うと美代の手をとってもう一度二回へと今度は慎重にかまえている姿に圧迫され腰が浮きかけたけれど、そう執拗でもなかった誘いに「わたしはいいわ」と断ってからひそひそと会話の内容を聞くに及んで、瞬く間に顔面が上気していくのが意識されるのであった。
妹が言うには、中学を卒業するまでに体験するとかしないとか、どうも男女間にまつわる生々しい秘められたことに関する話題らしく、それで姉はどうもすでにキスは経験済みだとその口からはっきり聞いたからと、最初はおっかなびっくりに目線を下げ気味に喋っていたのだったが、段々興がわいてきたのか、去年の夏休み臨海学校の折、宵闇があたりを浸透した時分先生を囲んで行われた怪談にこころ奪われてしまった衝撃波の再来とばかり、話す方も聞く方も五感が研ぎすまされてゆくあの冷ややかな体温の下降にのみ込まれ、反対にどんどん上昇してゆく頬の熱さでからだは苛まれ置きどころを失ってしまう。
しかし、姉から放たれた矢尻は深く妹の喉仏に突き刺さり、その声色に異変をきたす頃には語感がまるで鐘の音のように響きわたって美代の胸に沁み入り、あるいは消化を司る機能が十全に役目を果たす自覚を得たときと同様なのだけれど、異なるのはどこまで入っても尽きることのない底なし沼に引きずられていきそうな予感であり、夜更けの家並みを眺める眼球に還ってくる孤独感を生み出してしまう浸透であった。


[112] 題名:まんだら 第三篇〜異名18 名前:コレクター 投稿日:2010年05月18日 (火) 05時56分

その一室に満たされている僅かな匂いは、落ち着きを忘れ、狐につままれてしまった美代のこころを見守る役目をそっと果たしていた。何故なら、同い年の望美が発散させるものに程度の差を見出す意味あいは、あくまで近場の半径で計られる駆けっこのようなものであり、そこには未知なる好奇が生まれる条件も、一瞬にして鳥肌を浮かびあがらせる異香も、あらかじめ聴要された馴れ合いで薄められた約束事によって決して湧き立つことがなかったからである。
予想外の地平が胸のなかにひろがる可能性は、どこまでも続くであろう線路が提供してしまっている負の側面、単調で凡庸な連なりに、見た目には余韻を残していくようでもその実あまり感興を育まない轍に似ていた。裏返せばやはり夢想を巻き起こす温度差が少なかったと云える。それだけ同年の感性は良くも悪くも隣どうしに並んでいたのだ。子供の頃はそうであった。
ところが年長からの知らしめはいつも未だかつてない魅惑の鱗粉を放ちながら時間のうえをすべって行く。目くらましにあったときに覚える不安と同居する興奮をついぞつかまえられないように。
その情況は例えば、親しくもないけれど学校内では見かける上級生がどういうわけか、鬼ごっこに加わっていてしかも鬼の役であることから来る得体の知れない怖さであり、ましてやいきなり塀のうえからひょいと顔をのぞかせる折に身震いをもって感じてしまう、圧倒的な醍醐味、そう極めて上質な遊戯を味わうひと時などであった。
幼なごころに弾ける豆鉄砲みたいなよろこびは一見たわいもなかったが、ある定理で運ばれている。他でもない、年齢差が算出する未知数への挑戦であり、それはまた絶対的な直線に物差しをあててみる現実性に培われていた。大人になればなるほどに、言い方を変えると、ときの過ぎゆきを体験すればするほどに濃密だったはずの世界は希釈されてしまい、ぼやけた分だけ随分と無理してまで修正しようと躍起になるのが当たり前だと信じ込んでしまうのだけれども、小さな躍動のうちには紛れもない凝縮された無垢なる時間が燦然と輝いている、その明るさに気がつかないのはもちろん罪なことではない。
明暗がこころの奥底に映しだされる年頃にはじめて異性を意識しだすと云うことはある意味理にかなっている。彼らは光輝が放たれている現実に罪を被せて、あまつさえその場所が禁じられた花園であると見立てるすべを学習するからである。
ここから色香にまつわる感覚を差し引いてみれば、おのずと純粋な培養は陸離として年少期に沈潜しているのが分かるだろう。肉体の発育がどの世代に比べて急速であるにもかかわらず、こころの発達は一番の感受性を萎縮させることをもって豊かな想像を育成してみせるが、思いの他それは偏狭な羽ばたきであり、矮小な空間を押し出す単一な作業なのだ。
美代は当然年上の有理に惹かれたわけを明確に知る由もなかった。ただ、幾らかひとより感性の伸縮が自在であって、無論ゴムのように陽気な一面を持ってはいるけれど闊達な性質とは形容し難い、詳細は見通せない形が定めにくい模様以前の白雲であった。それゆえ有理の空模様に流れゆく運命をひたすら願っていた。美代が信じていたのは、戯れと運命が別れ別れになってしまうことを疑わない眠れる宝石だった。
「やっぱり明かりつけなかったからはっきりしないけど、ほんとうはね、ぼやけたふうな具合に写らないかなあって思ってたの。よくあるじゃないブロマイドとかに。そうすると美代ちゃん、もっと大人びて見えるんじゃないかって」
有理のうしろを影のように付き添いながらこうして物おじしている気持ちさえ曖昧になりつつあったのか、出来上がった写真を手渡さされるまでの間、視界に入っていたはずの場面はすっかり止め置くを忘れてしまったようで、やはりこの部屋から香っている言葉に出来ない印象のなかをさまよっていたのが、長い時間であったふうに思われる。当惑がやんわりとごまかされたのは追い風にあおられたそんな嗅覚の為せるわざであると、ぱっとよぎったりもしたけれど今度は意識が別のところに張りつけられている実際は、ちょうど喚声に驚き窓の外をのぞき見る衝動と同じく無意識のうちに稼働し、楽し気なのか、切実と問いかけているのだろうかよくつかめない有理の感想が次第に説得力を帯びているように聞こえだす。
「どうしたの美代ちゃん、気に入らなかったのかなあ」
「そんなんじゃなくて、、、」
有理が心配な顔をつくりしみじみと見つめている視線がじりじりと熱気を持ち始めてしまったと、気にかかり、返答に窮している自分がどこか惨めであるとも思えてしまい、写真に収められた異相に向かいあっているのに互いの意識は宙ぶらりで、増々別のほうへと泳ぎだして収拾がつかないまま、頬から発火した火照りが耳たぶまで類焼してゆく様を思い知らされるのであった。
美代の羞恥をどう解釈していいのか、それからどう対処するべきなのか迷ったあげく、
「びっくりしたんでしょ。ごめんね」
そう、腹の底から浮上してくる想いをことさら優しい声音でもなくさらっとしたふうに口にすると、まだふたりして畳にも腰をおろしてなかった性急さに気づき、寛容な態度を取り戻そうと念頭にのぼった省みは、有理自身も予期してなっかった行動へ移されてしまった。
「お姉ちゃん、、、」
胸へ抱え込んだ斜になった美代はすでに涙声になっている。立ちつくしたまましっかりと両手をまわし妹と同い年である子に悲しみをあたえていることが、夢の出来事のように思えてくる。
有理の胸もとの弾力は自然とその悲しみを深めた。美代にとってもそれは説明のつかない甘い香りに包まれた夢であった。


[111] 題名:まんだら 第三篇〜異名17 名前:コレクター 投稿日:2010年05月11日 (火) 17時11分

人知れない物陰に佇んだときに感じとるような、たおやかな気配にくるまれている。
微風がそよいだと感じられるけれども、たぶんそれは目覚めが引き起こした小さな吐息に違いなく、そのささやきに似た声音で誘われるまま玲瓏とした調べに酔いしれたふうに没我の境地をさまようこころ持ちを保っていられるのは、今日が日曜日か祭日の朝であることをおぼろに知りながら、布団に身のぬくもりを確かめつつ、足のさきに触れるひやりとする仄かな反応を慈しむ安らかな眠りのあとさきが窺いきれないからであった。
たなびく夢想の架け橋も消えかかる頃合いの、こうした余情あふれた、しかしあくまで幽寂の森に造られた舞台は、夜霧の彼方に忘れられることを嘆いてはおらず、水平線にとけ込んでゆく送り船を見やるときによぎる快活な得心で寂寥から離れ去ってしまう。
階下の仏壇まえに床を敷くならわしであった祖母は曜日には頓着せず、空模様さえ悪くなければほとんど早朝から外出していることが多いけれど、両親はじめ兄も美代もいつもの起床時刻より確実に遅くまで寝ているのが休みの日の習慣だった。二階、ふすまを隔てた向こうに親らが、廊下をはさんだ部屋に久道が就寝している。ときには誰よりも一番にしかも勢いよく目が覚めてしまうこともあったが、別に早起きして何をするわけでもなく、ほかの者らが深閑として寝息すら立ててない様を邪魔してしまうのもこころ苦しく感じられ、そのまま寝床でぼんやりしていた。
カーテン越しの日光は黄味がかった生地の色を一層に萌え立たせるようにして、室内に充満しながら抑制の効いた輝きをもたらしている。黄金色のまばゆさはたった一枚の布地にさえぎられた憤懣をあらわにするどころか、広大な大地を素通りしてみせる余裕を示し、電燈では到底及ぶすべもない云わばひかりの浮遊力を体現しているのだろう、美代の視界は揺曵された夢幻を呼びもどす努力する必要もなく、肉親たちの眠りのなかに自身を忍ばせることが可能な光景を思い描いくのだった。
そう云えば、休日に限って望美のところを訪れた試しがなかったのも他の友達と同様で、今から顧みて顕然としているのは、やっぱりうちと同じように父親が寝坊し日中在宅していた影響があるからと思い、常日頃からあまり面識のない相手に躊躇して、ある種の圧力みたいなものを事前に察すると云うよりも、おのずと遠慮勝ちに傾く分別が通底していたのであり、例えば夕刻過ぎには互いの行き来を控えるのが当たり前であったように、夜分の訪問と同じく何らかの訳ありでない限り、日曜日には近所のなじみであろうと普段通りみたいな気安さは憚れていた。
美代はある日、ひとつ年下のおんなの子から笛の稽古をせがまれていたことを思い出し、数日過ごしてしまった懸念をはらう為に家が近い理由もあり、日曜の昼前ころにそこを訪ねたことがあって、その折に目のあたりにした玄関から奥の、いつもとは雰囲気が打って変わってしまったような隈が家屋全体に棲みついている怪訝な具合にとまどい、それはまた応対に出たおんなの子の母親の化粧気が剥奪された生彩ない顔色を直視出来ない不甲斐なさに繋がれ、なおかつ不機嫌な相手の様子があと少しであきらかになる予感を抱いてしまい、用件もあやふやに早々と引き上げてきた記憶を去来させた。
今では休日のほうが友人や縁者と交流する機会が増した気がするけれど、、、これはわたしたちが大人になって仕事や家事から解放されただけなのかしら、、、子供たちも一日中よその家で遊んで食事までごちそうになって来てるし、、、当時の風潮みたいなものが現在とは違ってきたのかも、、、
美代の脳裏に知人はさておき、自分の家にもどういった血縁にあたるのか判然としない者が午後も半ばをまわった頃合いによく訪ねてきていた場面を想起させた。なかには高齢者も交じっていたこともあって自分とはかけ離れた存在、後でそっと両親に名前を聞いてみるのも億劫な気分は事前に形成されていたのか、あるいは例の人見知りが加減したのか、物覚えが曖昧なのはどうした理由かは知れない。
しかし、ひとつだけ言える事柄はおそらくは祖母や父方の親戚筋であったと思われる年配者らが、
「美代ちゃんか、大きくなったね。段々と親に似てくるもんだ」
と、同じ言いようを同じ声色で(何故かしらなだめられていると痛感してしまうほどに)投げかけられたときのむず痒くなる恥じらいが、今もってはっきりと胸の奥からしみ出してくる甘酸っぱい思いだった。
邪気の欠片すらあるはずないと疑うことを知らなかった大人たちの社交に陰影をかいま見たわけでない、どちらかと云えば彼らが自分に肉迫してくるみたいな、被害妄想をたくましく育成していたと解釈したほうが明白である。
大人が単に怖かったわけではなく、子供である自分もやがては成育してゆく過程が断片的に、そうちょうど割れた硝子の破片のごとく無闇に突き刺さってくる雑念に過剰に反応したみただけで、どうしてかと問われれば、甘いお菓子ならともかくも、得体の知れない微笑みほど不気味な好奇心を宿していると感じずにはいられないこの身が情けなく歯痒かったからだった。

有理の部屋も二階にあった。息をひそめたふうに静まった日曜の空気がそれほど年月を経てもいないのに随分と古びた追想になって鮮明によみがえった。


[110] 題名:まんだら 第三篇〜異名16 名前:コレクター 投稿日:2010年05月06日 (木) 05時44分

その後どれくらい山下の家を訪ねたのか、実のところ美代には判然と思い出せない。
有理に淡いあこがれを持ってはいたものの毎回彼女が家に居るわけでもなく、あくまで同級生の望美を慕い放課後、ときには自宅に帰る途中ほんの小一時間くらい立ち寄る場合もあったけれど、主に家屋内でトランプや月刊雑誌の付録だった紙のゲームなどをしながら他愛もないおしゃべりに時間を費やしていた。
もっとも暇つぶしと云った感覚などではなく、特に熱中する遊戯がその都度あったのではないが、散漫さとは似てながら限られた範疇を惜しみつつあるこころ持ちは、夕方前には帰宅しなければいけないことや、大概は母親と一緒にテレビの前にかじりついていた昇が時々ぬり絵や絵本を片手に仲間入りしてくることや、小遣いのやりくりにも制限ある悲しさなどを含んで、半時も過ぎる頃になれば決まってせわしいわけでもないのにすでに名残惜しさを到来させてしまっていた。
「このミラーマンの顔はどの色がいいの、怪獣もこうかな」
とか、ぬり絵の案配をしきりに問いかけてくる昇にも、それほど鬱陶しさは感じなくて適当にあしらうのでもなく、まともに相手をするのでもなく、ただのどかな日和のなかで空気がまったりとしている滞りに余計な圧迫が加わってしまい、無論それが解放感の裏返しであるとはあの時分は知るよしもなく、意識するほどでもない苛立ちが自由気ままを侵蝕している微かな響きを聞きとっていたにすぎない。
子供も領分と云うものもそんな微妙な空気圧のなかで、成人してから覚える虚ろさと同種の静謐に包まれている。今度は絵本を読んでくれるよう願う昇に対し、いかにもうわの空と云った表情と声色でただ字面を追うように接している望美を横目に見ている美代の気持ちは、感興をまったく得ない曇り空の模様によく似ていた。
午後の日差しを満面に受けた有理の笑みが、かねてより密やかにこころ待ちしていたあの成果を告げられたのもこの家で送ったどの日であったのか。薄曇りを迎え入れた一室で行われた内緒の出来事からしばらくたっていたには違いないけれど、それから有理を交えて話す機会も一二度あったようにも思われもし、ただし望美や昇を排する格好で彼女と面と向かったことはあり得なかった。と云うのも、
「あら、美代ちゃんちょうどよかった。二階にいらっしゃいよ、望美は自転車の修理に今出かけていったばかりなの。あの写真仕上がってきたから見せてあげるわ」
そう玄関口で声を落とし気味に誘われた期待の瞬間は、幾度か入ったことのある有理の部屋へと上る階段際から、奥の間にいる気配がする昇と母に挨拶してから一段一段踏みしめながら彼女のうしろ姿を追って異様に胸が高まり出すのを永遠に焼きつけてしまったからである。
「わたしは忘れはしない、気おくれも流されてしまった、あの吸い込まれてしまいそうな緊迫した欲望を、、、」
階段途上で有理がふと振り返って見下ろしたときのまなざしに美代は完全に我をなくしてしまった。
前髪が振り乱された後でもとに整えはしたものの、幾条かの毛がひたい真ん中から鼻筋に沿いふくよかなくちびるにへばりつくみたいにして垂れ下がっている。その両脇に位置する瞳には憐れみと懇願に滲んだどことなく眠た気な黒目が宿っており、凝視するちからこそ半減してしまっているのだけれど、上下の睫毛をも潤わしてぼんやりとした光を放っている様子には、やはり憂いを最前に醸し出すことをためらっている加減が如実にうかがわれるようで仕方なく、それは有理が今まで見せたことのなかった感情を示しているとも思われて、更には凄みと云うよりも魔性にでも魅入られたときに反応する姿を見つめ返している危うさも付け足され冷ややかな感触を与えはしたが、陰にこもり勝ちとなるべき印象は視線の内奥に棲まうであろう常軌を決して逸しはしなであろうと云う、冷徹な信憑に守られ培われ不穏な形相へ堕してゆくことなくぎりぎりにところで均衡を保ち、さきほどの微笑がとっさに甦ることによって、邪念は涼風にあおられるごとく払拭され、冷水がもたらすここち良さのなかに優しさを見出す意想へと落ち着くのだった。
無言のうちに再び背を向けた有理の気持ちに応えなくては、、、
息をのんだ後、美代はかつて家族旅行で都市に出かけた折、乗り継ぎ駅の構内で迷子になってしまい散々泣きわめいて困惑するしか方がなかったこと、ようやく親たちに見つけられてもなお泣きやむことが出来なかったのは安堵だけではなく、底知れない不安を経て間もないにも関わらず、まるで兄が語る怪談に聞き入ってしまったのちもその戦慄すべきこころ持ちを反芻し続けていた情況に酷似していること、そして脱し得た恐怖のさなかがどこか懐かしいと思える辻褄の合わない心境を不思議がったのであった。


[109] 題名:まんだら 第三篇〜異名15 名前:コレクター 投稿日:2010年05月06日 (木) 05時39分

望美の目の奥に棲んでいた蔑みを帯びた怒りを、今でも美代ははっきり思い浮かべられる。
おとなになってさえしばしば見出すことのある、近親者が見せる憚りのない突発的な憎悪の露呈。徒に直情から噴出した遠慮のなさと云うより、親兄妹だけに許される技巧が隠匿された汚水の浄化。昇に示した彼女の目つきには実のところ、いきどおりへとすがたを変貌させた激しい情念そのものであって、そこに他人である美代が介在しているお陰で尚更に怒気が強調され、望美の胸中は激しさで揺れていても剣呑さに自らを失うことなく一縷の親和が、やがて平素の結び目を取り戻し自然にもとの鞘へと納まってゆく。
美代は普段から兄に小言はともかく、こっぴどく叱責されたり嫌みをあらわにされた思いがないだけにどこで見聞きしたかは判然としないが、そうした情況がある意味うらやましくもあり敏感に関知してしまうのだった。おそらくは有理に対する憧憬もその辺りから、深いさきの世界などつゆ知らずともちょうど煙幕に遮られた向こうにほのかな人影を探りあてるように、判然としたかたちは為さないけれどことばになる以前の触手としてとらえていた。
昇の暴発に狼狽したふりをしてその場を、と云うより正直なところ美代自身が取り乱したくなかった理由も、当たり前だがおもちゃの弾丸であっても思い切り命中した刹那はともかく、はっと我にかえったときには奮然として思わず手をあげてしまいそうなくらいでなのだったが、間髪を入れず弟を鋭く詰問しながら憂慮をはらい、そしてあの目を昇に差し向けたとき、すでにある種の敗北を感じてしまっていたからである。形式上においても道義においても望美がとっさに示した態度に微塵の落ち度はないはずで、もはや有無を言わせない情勢を受けとめるしか手だてのない美代は、じんと腫れているような目の下に覚える痛みとともに短い憤怒も鎮火させてしまい、代わりに訪れたのはそんな場面が兄久道とでなく、有理といつか再現されることを切望すると云った逃避的夢想と、おとうとを思いやる気持ちを底辺に認めてしまっている自分のどこか意地汚い鋭敏さに対するとまどいであった。
以前より美代は両親に限らず、まわりのひとたちに応対する(どうでもよさような些事、あいさつ程度)場合、必要以上に身をこわばらせてしまう癖があるよう思えて仕方なく、もっとおさない時分など、
「この子はよく人見知りするもので」
と、今ではそれほど顕著でなくなったけれど、当時そう申し開きをしていた幾たりかの人物の顔をよく想起出来るほどであるのが、ことさら口のなかを苦みが走るときに似た違和感を呼び覚ました。もっとも自己嫌悪に陥ってしまうくらい強い思念であるわけではなく、枯れ葉の重なり如くに薄くたより気ない見映えをもつ瑣末な齟齬であり、又からっ風にあおれて一葉一葉が自由に宙を舞っているひとときの気安さから来るこころ細さであった。
「久道もかなりでな、親戚のおじちゃんがお土産だって言ってくれてるのに、ふすまのうしろに隠れるようにしてな」
前に祖母から聞かされていた兄も同様な性格である事実も、胸のうちに薄膜が貼られているみたいで、そんなときだけ兄と妹だと云うにわかに確信がたかまり収拾のつかない勝手な意想に落ち着いてしまう。幼少のころなどは特にそうした現実面を発見する度に万事につけ何事も礼賛するものだ。見るもの聞くもの触れるものらが常に刷新されている夢見はまだまだ揺籃にあり、美代が懸念するまでの神経は酷使されてはいない。ただ、おとなとは別の部分でそれこそ取るに足りぬ僅少なことがらを、それこそ虫眼鏡で拡大されて目に飛び込んでくる大仰さで受け止めてしまうから、やはり夕暮れを境にした魔物たちの暗躍に空想から越えたものを、げんかつぎを真面目に信奉しけっして疑ってみようとはしない怯懦を、昆虫類が身近にある季節がふつう過ぎて実感がないように、だが彼らのちいさな命も冬の到来で消え尽きることを理解しはじめた不確かな自尊心が脈打ち出し、頼りなくもそこに答えを見つけようと努める細やかな回路を知ったからには、この身を萎縮させなければならない。
羞恥に近い燻った意識であることを消し去ろうとする葛藤は、こうしていつの間にやら美代のこころに沈潜していた。けれども沈みゆく船上から最後まで海面を見届けてしまうのと同じく、少なくとも我が身を案じることだけに収斂する業に縛られる老成まで至らず(まだ屹立とした自我が形成されてはいないから)惨事を明瞭に把握しなければならない桎梏から猶予を与えられている。
望美から苦言を受けてうなだれている昇の睫毛の長いはっきりとした二重の奥に潤んだ瞳は、おさな子が持つ切なさ以上の真摯な情念を潜めているように美代は感じた。すると何故かしらその深い切なさみたいなものが冷たく輝いてこちらに明滅しているのではと、ちょうど夜空に散らばる星々を見上げたときのきらめきが遠い感情を呼び寄せるふうに粛然と映じるのだった。


[108] 題名:まんだら 第三篇〜異名14 名前:コレクター 投稿日:2010年05月06日 (木) 05時38分

あの日のことはよく憶えているつもりだったけれど、後年山下の家の光景を振りかえってみると、以外に一度しか足を踏み入れてない一室の調度類を瞬時に思い起こせたり、当時の自分よりそれほど大きな歳の開きがないのに同級生の望美の弟がずいぶんと幼稚で、いかにも傍若無人なふるまいで好都合の遊び相手だとばかりに駄々をこねては泣きわめいてみたり、機嫌がなおったかと思えばおもちゃのライフル銃両手に真面目な顔つきをして撃つ仕草を演じて、ある日にはいきなり玉が込めてある状態で実際に銃撃してきたりもし、堅い玉ではなかったけれども望美ともども顔や首筋に命中したときの痛感さえ甦ってきて、ふたりして怒鳴りつけながら弟の昇からライフル銃を奪いとろうとした、あの瞬時に部屋の空気を切る身の動きとちいさな風をも忘れてはいなかったわりには、肝心な出来事の隅々まで記憶の毛細血管は伸びていないのか、それとも通わぬのは微細な領域にまで流れゆかない滞った血のほうなのか、萎びれてしまった感情のなせるわざであるなら、文字どうり昇の銃弾を受けてあたまに血がのぼったことが鮮明に残っている事実が可笑しく思えてしまうのだった。
「こらっ、ひとに向けて撃ったりしちゃだめじゃない、あんた大きくなったら殺人鬼とかになっちゃうよ」
と怒気をふくみながらも茶化すふうに望美がたしなめると、
「でもさあ、コンバットのサンダース軍曹はドイツ兵をやっつけてるから、ぼくもドイツ兵になって撃ちかえしたんだ。みんな死んだらどうなってしまうの」
「なにわけのわかんないこと言ってるの、とにかく絶対にひとを撃ったりしたらいけないの、あと野良猫とか裏の家にいるペスにもよ、わかった」
美代は昇の滑稽な返答で気分が高揚したのか、とは云え叱りつける語調はひかえめに、「すずめとかもね」と言いかけて内心では、「もっとも動きのある的は全然無理だろうけどさ」と思いながら目を細めてしまい、すでに泣きべそをかこうとしだした弟を気遣った望美もおのずと美代と似たような表情になって、同時してふたりの顔にすごまれることを予想していた昇は、姉らの目から怒りが消えかけていることにとまどってしまったのか、幼児の気まぐれは情況をつかみそこねてしまった挙げ句にやはり当然のようにして大声で泣きだした。
「あらあら、ちゃんとわかったんならもう泣かないの、あんたが泣くとわたしがお母さんやお姉ちゃんから叱れるんだからもう」
それでも一度声をあげ出すと蝉などと一緒ですぐには泣きやまないのが定則、ほんとう段々と大声になって虫みたい、と妙に感心しながら、最近はわたしもあんなふうに泣いたことないけどこの子くらいのときはなどと感慨深くなり、弟を懸命になだめている望美のことばもうわのそらでただ呆然として瞳を彼らに投げかけているのだった。
ほんの束の間であっただろうし、まだ涙と洟でくしゃくしゃになった顔が背を向けて部屋から離れようとした姿を憶えているのだから、確かにそれほどの間を置くほどふたりのやりとりを見過ごしていたわけでもない、けれども踵を返す昇を凝視できなかった事情が逆襲にも似た振る舞いが突発的であったと云うよりも、ほとんど過失だったのだとその後もずっと反芻するしかなかったは、よもや再び銃をこちら側に発射させることが起こるはずがないと確信とも呼べるくらい予知していなかった為でもあり、運悪くまたもや至近距離からただ一発だけ放たれた玉が美代の右目の下にかなりの衝撃をあたえてから、はじめてことの情況を把握したのである。
「わざとじゃないよ、バイバイって言おうとして手をあげかけたら勝手に玉が飛びだしちゃったんだ」
「勝手に飛んでくるような玉なんてあるわけ、あれだけ反省した顔してたくせにさ、まだ懲りないらいわね」
「そんなでも、、、ぼく、撃つつもりなかった」
「ごめんね美代ちゃん、痛たそう。目のした腫れてるよ、うっすら赤くなってるけどだいじょうぶかなあ」
「何が起ったか、わたしわかんなかった。はっと気づいたら昇ちゃんに撃たれてしまった」
「撃ったんじゃないってば、ドイツ軍は日本人を殺さないんだ」
「また馬鹿みたいなこと言って、とにかく美代ちゃんにあやまりなさいって。あんたの玉があたったのは確かなんだから」
望美の表情はきびしい目と口もとで強く固められ、自分より美代に命中させてしまった昇に相当いきどおりを感じていた。


[107] 題名:まんだら 第三篇〜異名13 名前:コレクター 投稿日:2010年04月28日 (水) 05時58分

「いい撮るわよ、あっ、そんなふうに無理して笑顔しなくてもいいから。もっとおすまし顔で。そう、でももう少しだけ目を下にしてどこか悲しいそうに。ごめん、ごめん、泣きだしそうな表情じゃなくてね。ちょっとだけつまらなそうにしてみて。はい、そうよもう一枚。こころになかでね、そうねえ、テレビドラマ、あっ、みなしごハッチとか、うーんオーバーすぎるか、あのさあ美代ちゃんムーミン見てるでしょ、先週の見た。うん小鳥が死んじゃうやつ。じゃあね、最後にムーミンが崖から海に向かって嘆く場面、あれを思い出してみて」
伏せ目にした顔、額から両頬のあたりにかけてゆるかやにウェーブがかけられた髪は、奇妙な違和感から徐々に解消されようとしている。この場合の違和と云うのはあくまでおさな顔が一様に形容しがたい色香を漂わせているためであって、ドライヤーと豚毛ブラシでにわか拵えした、毛先にかけてそよいでいる趣きが際立つにつれてあべこべに、少女では充たされない妙齢への期待は先手を打って美代を未来へと送り届ける。
意識するまでもなく、ゆっくりとちょうどもの思いからふと我に返った素振りがなに気に悩ましい横顔となって心情を身にまとったふうに映ったりする。
「これで服装が整ってれば最高なんだけど、わたしの服どうやっても大き過ぎるから」
と、落胆しかけた声をもらしかけたのだけれど、ふと壁のすみにひっそりとかけられていたベージュ色のレインコートに目をやり、さっとハンガーからはずしながら、
「これでも羽織っていればいいわ。小さなからだもうまく隠してくれるし」
こうして有理の工夫によっていよいよ写真の撮影がはじまったのであった。
部屋の照明はやはり灯らないままカメラをぎこちなさそうに扱う格好であったけれど、気のせいか時折窓の外でほのかに暖かな風が運ばれているみたいに感じたのは、雲の間から少しだけ光線が送られて来たせいだろうか。
レンズ越しとは云え、そのすぐ内側には無防備な視線が、、、写真に集中していることでこちらに応対する義務が緩和されてしまった分だけ、有理の思慮は別のかたちで美代をこわばらせてしまった。普段とは違う何かが研ぎすまされて、それは夜中に刃物を研ぐと云った陰惨なうちにも清冽な視線が込められいるおごそかな様相で、いつかの大晦日に覚えた粛然とした寒気に触れたときを思い出させる。
いつになく静まりかえった辺りの雰囲気は引き潮にさらわれる自然の出来事として感じられて、今よりおさない胸のうちにはほこりが清潔に舞うよう、ことばとならない怖れや関心が軽やかにひろがった。潮が遠のいた彼方からはうかがい知れない存在が、しかしじっと自分たちの方へと見つめることも可能なちからを秘めている気配が濃密な意志でもあるかのように漂い、また兄から聞かされていた妖怪や幽霊の話しなどもその延長にあると云うふうにも信じていたのは、ひとえに世のなかの仕掛けになどまったく関知することなく、おぼろげな気分で日々の過ぎゆきに身をゆだねている年齢でいられたから。
ことばがあらゆる物事を定義しはじめる輪郭線を描くすべを知らない、さながら真綿にくるまれた心身で意識の明滅をつかさどってやわらかにしか手応えを受けとめれない、感性の芽であった。
それが幼稚園から学校にあがるころにもなれば、まずことばが最優先となり算数の暗記など筆頭に否が応でも教育の束縛から逃れるわけにはいかなくなる。まだ自己を明瞭に持つことを自覚し得ないから、乾燥した砂に水が浸透するよう原理的には抵抗を示さないわけだけれど、美代にとって学校とは授業を拝受するだけなどと到底思ってもなく、かと云って勉強をなおざりにしておく悪意をうちに宿しているのでもない、ただ自分とは性格も育ちも様々に異なる級友や、背丈が見上げるほどまで成育している上級生のなかに入り混じっている事実だけが、これからの未来への架け橋となっていて、それがどう云った意味あいで結ばれているのかは判然としないものの、入学式の際に肌で知った悲哀などとはまだ覚束ないけれど、何かしら観念し尽くした気持ちが嫌でも伝わるまわりの緊張にかかわらず穏やかに静まる具合で、集団儀式を絶対的に見てしまったようにこれからの毎日を受けいれる準備となり出発となっているのだった。
ところがこうして身内でもない年上の同性とふたりしての、かつて試しない遊戯から逸脱しかける不穏さを認めつつ陶酔に近いくすぐったくなりそうなこころよさへと介在する予期されない視線は、必要以上に自分の思惑を凍結させてしまう作用があり、それは有理本人も見通せない胸裏にたかまる熱意がこうやってひとすじの目で被写体と向かいあっていることで、実は冷ややかな理知が形成されようとしている緊迫が美代のうえへ覆ってくる。興味本位ながら指先と面が触れ合っていた今までの親しみと敬いが、レンズを介して一方通行と化して自分の方に、もちろん濾過された純朴さとは別様の乾いた風みたいに吹きつける。
そんな置いてけぼりをくってしまったようなこころもとなさは、相手に対して同様の空白を作り出そうとしてしまう。美代は有理がぬけがらとなっていまここに居ないのではないかと悲しくなった。




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