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[91] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年47 名前:コレクター 投稿日:2009年12月07日 (月) 05時35分

白ワインの冷たさは格別であった。
孝博は三好からすすめられたビールをひとくち飲み干したあと、いつにない酔いが全身を巡ると云うよりも襲ってきて、体調を崩すか寝込んでしまいかねないと思い、それ以上は杯を重ねないまま、ぼちぼち打ち上がりはじまりだした花火を港で見物する三好ら家人を見送りしな、折角孝博のために配膳された肴にほとんど手をつけないのも心許なく、失礼にあたるなどと思いなしている心中を察してか、と云うよりも今朝、東京を発つときに新幹線で車内販売の軽食をとっただけで、乗り換え列車にあわてて乗り込んだため、その先の出来事もあって結局食事らしい食事をしないままであったから、心労と空腹が酔いを急激なものにしてしまったこともあり、三好の奥さんの「遠慮しないで箸をつけて下さい」と云う言葉に誘導されるようにして木桶を所望し持参のワインを冷やしておいたわけだったけれど、家人らが全員外出してしまうと、どことなく自由な感覚が甦ったようでもあり、さきほど少しだけ食してみたあじととびうおの造りをつまみながら、焼きなすときゅうりのしそあえを口にすると俄然食欲が復活したようで、更には卓台中央に大皿で盛られた、昔ながらのマヨネーズ味のスパゲッティサラダに桃やりんごの細切れを見いだすに及んで、まるで主食を平らげる勢いをもって無心に食し、氷が十分に張られたとはいえ、まだ適温まで冷えてはいないだろうと思った白ワインを手にしてみると、その木桶の以外な深みが幸いしたのか、ボトルに手をあててみた孝博は迷わず開栓して、小ぶりのタンブラーに冷酒を注ぐ案配で一献傾け、意味あり気に瞠目してから、まずは軽く口中に含み酸味と甘味、わけても熟した果実を連想させる味わい深い残り香をおしみながら喉に流しこんだ。
舌さきを幽かにもったいつける加減で刺激する柑橘系の酸味は、サラダに混ぜられた桃やりんごと抜群の相性を誘発することで更なる一杯を希求させ、口中のマヨネーズがもたらしている停滞感をさながら洗浄しつつも互いに反撥しつつ同じ酸性を加味されたもの同士、最終的には見事なる融和のうちに賞味しつくして、次なる白身魚の刺身をより鮮明な感触と味覚に招待させる。
あじの身はほどよい脂が乗っており、噛みしめればうまみが口もとだけではなく上あごあたりまで伝わって飲みこむあたりを見計らって、今度は少量を注ぎ、後追いさせる気持ちを抑え気味に保ちながらもぐいっと一息で決めれば、至上の瞬間は決してもったいぶった余韻で主張するわけでもなく、かと云って淡白な控えめさを哀切で訴えるのでもない、それはまだ前菜を味わう過程での醍醐味であり、続いてまだわずかに温かさを保持している焼きなすを頬張るときに覚える、安堵にも似た満足感が実は仮想の性質を秘めていることで、他でもない、その焼き汁のこぼれ具合と夏野菜独特の瑞々しさが決して満点の充足を授けないという意味で仮想的だと感じるのであった。
もう一本を開ける頃には、孝博はしたたかに酔っている自分を確信した。あのビールひとくちの疲労感に支配された酔いではない。もちろん、二本目は夏の夜の奇跡のごとく毅然とした美しさで冷えていた。
孝博は何故か感情がこみあげてくるものがあり、その木桶の縁を両手で優しくそえるようにしてつかみながら、顔を氷みずの中に埋めようとした。木桶からだろうか、微かに潮の移り香が放たれている。氷はあめ玉くらい小さくなって水中に浮かびながら、その姿を冷水に還元しようと努めているかのようだ。
孝博の両目からいきなり大粒の涙が木桶のなかにこぼれ落ちた。
「悲しいのだろうか、、、」
酔眼からしたたり出る涙など、それほど意味などない。が、晃一はこんな涙を知っているのだろうか。
「いや、おそらく知らない」
大輪の火花は夜空を飾り、硝煙たなびく様はまるで銀河の果ての星雲のように壮大に見えた。
そうして、月影がその様子を静かに見つめていることを今は忘れ去ってしまっているのだった。


まんだら 第二篇〜月と少年

終 


[90] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年46 名前:コレクター 投稿日:2009年12月07日 (月) 05時33分

出現などと言い表わすには現実味から遠く、夢見のなかではあまりに近距離であり、ちょうど飾り棚の人形を見つめるなまなざしが、そこに生身の生命を見いだそうとする幻視のような仕掛けであったならば、半身水中に没したままの浴衣のなりはまさしく実在しつつ、霧にさらわれた神隠しの少女であった。
なるほど、いつぞや聞いたように確かにボラの稚魚らしき群れが川面を飛び交いながら、富江の面をかすっているようでもある。その目はちからなく垂れた首の角度に沿うようにして、閉じられたまま水流をまぶたの裏でとらえているのだろうか、抵抗することなくほとんど横倒しの情況からは、如何にも虚ろなからだを浮遊させているふうにも判ぜられ、こころなし川の流れはもうこれより速まることも、深まることもなく、ただ夜が明けるのをそっと待ちわびているのだと、確信に近いものを得た孝博はもうこれ以上ここにとどまる理由を探し出すことが出来なかった。
あれほどまでに疑心暗鬼がはびこり、果ては決死の覚悟まで抱いたことが霧散し、と同時に瀕死の状態である人間を救いだす算段もないまままに ― もちろんこれは、孝博の意志とは別のところで大きく働いていることを認めざるを得なかったわけであるが ― 朦朧としかけたあたまのなかで意識を保てるのは、結局、己の想像が編み出した怯懦と自虐的であることに債務を委ねた証しであったなどと、蓋を開けてみれば興ざめ甚だしい帰結へと降りて行っただけであった。
「そうさ、俺が彼女を転落させたのかも知れないけれど、そこには因果や縁起が介在していたのかも知れないけれど、もう俺の手からはすべて離れてしまっているじゃないか。それともこうして夢の奥深くまで迷宮をたどるように彷徨っているのは、いまだ因縁から解き放たれていないことを自覚するためなのか、、、それほどまでに罪深いというのか、、、俺は破戒僧なんだ、、、ときがときならば。だが、それがどうした、俺はそんなときに生きてなどいない。現代を生きているんだ、、、いや、違う現代を夢想しているんだ」

列車がトンネルを抜けた瞬間、気圧の関係だろうか孝博は夢から覚めたことを実感した。しかし、ため息のような声を軽くもらすと再度、目をふさぎ夢の連鎖をたぐりよせ、口角にやるせない笑みを浮かべる調子で、呼吸を静かに整え死の国へと旅だつ心構えを了解した。
車内は幾分騒がしくなっている。彼が向かっている駅が近づいてきたようで、乗り合わせた中には同駅に下車する者もけっこういるようだった。孝博は気にとめなかった。「あっという間さ、夢の補遺は」
閉じられた目の裡に再び夜の川が流れだすよりさき、くだんの、ほんの束の間に嗅ぎとったあの不快ささえ懐かしさを醸し出す磯の香りが鼻孔をくすぐり、河口のさきに広がる港にたたえられる海面が波打ち揺らぐ様は、車両の振動と重なりながら満ちゆく潮のリズムに誘われ、いとも簡単に河口を飛び越えて岸壁に寄り添うようにしながら海上へと魂を流し始めた。
上空で爆音が響いているようだが、父や親戚筋から幼いころ聞かされた空襲のはなし、、、そんなことを呼び起こしつつ、海面から頭上を仰ぎ見ようとしてみたのだけれど、やはり顔を整える余裕が足りなかったのか、耳より他は孝博の面には何ひとつ存在していなかった。
「でも、この臭いはどこからやってくるのだろう。紛れもない潮の臭い、転校先の漁村で迎えた第二の少年時代。潮騒が夜になると際だって聞こえだし、夏の蒸し暑い時節には、いつも鼻先を漂っていった海の香り」
孝博はしばらくして納得した。それはこの体内の記憶から発生しいていることを。そう思うと涙がこぼれ落ちそうになった。しかし、悲しいかな、涙を噴出させる涙腺も眼球も持ち合せていない。仕方なく海中にもぐりこんで見れば悲しみは一気に鎮静され、今度は息苦しさを覚えてあたまを海面に突き出したのだが、そのときぼんやりとしたひかりがほんとに遠い遠いところで鎮座しているのを見つけたような気がした。
それが月あかりであること知った瞬間、孝博の目は完全に閉ざされたのであった。


[89] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年45 名前:コレクター 投稿日:2009年12月07日 (月) 05時32分

意識の連鎖はふとした弾みで断たれたと云うよりも、それが必然の理であるように過去は隠れ去り、いまここに未知なる映像がときの支配から愛でられながら孝博を包み込んだ。
湿り気を十分に含んだ磯の香りが泥にまみれたふうな、不快でもないが決して好ましいとも感じられぬ臭気があたりに沈滞している様子が、夜目を通せない視界以上にこの川底から連なる河口を呼び覚ましたようにも思われる。川の流れはどこまで続いているのか、、、やがては海水を交じりあうことで、希薄される運命にあろうとも水の精は広大な海原に拡散し、あらたな潮流へと導かれることで自由を得る。
膝上深く水面に佇んでいるはずなのだが、その感覚は孝博を拘束することなく、濃紺が夜気に溶け込んだような水流の暗色な色合いだけが、しっかりとこの目に映りこみ、それ以外の気配や光景は遠方へと後退したか、遮断されたか、ただ呆然としたままその場から身動きはとれない。
エンドウなる男の言ったとおりに魚の小さな群れは、まるで静寂を損なう気兼ねでもしているのか、勢いを抑制したまま、水中からほんのわずかの跳梁を試みはじめている。川水と夜の帳でその色調もまた鈍色に施され、見ようによっては細長い石つぶてが跳ねているようでもあった。
右隣にそっと影を落としている男に孝博はこう質問してみた。
「それであなたは転落した姿を追ってここまで来たと言うのですね。しかし、今はわたしにとっての領域だと確信しているわけですが、どうでしょう、ここから出たあと、再びあなたとお会いすることは可能でしょうか。そして、、、」
「そして」
「確かめてみたいのです。エンドウさんが可能性を確認しに来たように」
するとエンドウは微少とも苦笑ともつかない、いや、それらが共存したと形容したほうが正しい具合の表情を作りながら、
「そうですか、わたしはエンドウヒサミチです。あなたのお名前は」
「はい、わたしは、、、」
さぞかし狼狽しきった反応を予期しながらも、孝博は何故か、火に焙られた紙きれが見る見るうちに燃え尽きてしまうのを、悔やみ焦りつつも、どこか覚めた気持ちで見届けてしまうときの諦観に促されるまま、
「すいません、自分の名前がわかりません。誰かに呼ばれたらきっと、、、」
父親であったこと、教授であったことなどの記憶もおぼろげになりつつある。一匹の魚が不意に左のほうでわりと大きな跳躍で水音を立てた。
気はつけば、問いに対し簡明な返答と予言を告げた当のエンドウの姿はここにない。振り向いてあたりを見遣ることももはや必要ではなく、孝博はひたすら前方に視線を固定したまま、魚の群れが集まりだすのを、祭りの提灯が寄り合う際の、あのぼんやりした恐怖が胸になかに訪れようとする予定された、しかしどこかで異形のしるしが形作られる望みともにじっと待ち続けているのであった。

どれほどのときが流れていったのだろう。意識は極度に明晰であることのよって、間隙の存在を意識的にちょうどふるいにかけるように見落としてしまう。純化物を前面に引き出す使命に忠実であるあまり、あみの目の役割さえ忘れてしまった愚鈍さのうえに、ある意味精選された恣意がとり残されるのである。
夢の世界では定則と云えるこの放埒で無軌道な過ぎゆきは、扇のひだに潜まされた荒ぶれる情念を思わせ、ひと振りの刹那にたち現われてはかき消されるはかなさで、幽かな余韻だけを夢から覚めたあとに運んでくれよう。複雑な夢見であったのはこの扇のなせるわざ、見果てぬ情念を封じるためにたたまれるのか、はたまた、物語りを流暢にそして鮮やかに演出させるために禁欲的なはからいがもたらされるのか、すべては夢の意想、全貌をあらわにすることなく隠される。
それは雪おんなの面影のごとく冷淡でありながら、凍りつくほどに美しく、そう、欠片とも云える他の情景はまさに瞬時にして凍結された想い出だったのかも知れない。
さて、孝博のこころ模様も超俗にしたがい変化を見せていた。無論こと定則など事情を知るよしもない、反対に彼の胸中に高まりつつあったのは、地獄図絵にも見まがうだろう水死寸前の富江の様相から受けるおぞましさが、それは腐敗する人骨が放つ、根源的な忌まわしさを連想させる圧迫感を備えているにも関わらず、朽ちゆく悲哀を永久の彼方までたなびかせることなくとどめ置かれることで、そこに魂の所在を感じとったとき、あたかも腐臭の素をなす粒子が散々と黄金色にきらめく霧状の放出に昇華されながら、無言の裡にも、孝博を怨憎会苦から解放してくれる予感であった。


[88] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年44 名前:コレクター 投稿日:2009年11月19日 (木) 06時29分

放心から覚めやまないままに孝博は己のいきさつを語ることより、エンドウと名乗る男がその超常現象とやらでここに存在している理由を欲した。
「わかりました。魚たちが飛びまわり始めるには少し時間があるようです。あなたの探している女性もそのとき見いだせるでしょうから。お話しましょう、この場にこうして居るわけを、、、」
エンドウの言葉は、漂白され糊付けされたシャツのように端正で邪気がなく、見渡す限り整然とした配列を乱しはしない、一貫した秩序によってまっさらな潔癖で紡がれていくようだった。

自ら運転する走行車のサイドミラーに映じた転落する浴衣姿、幻覚とは言いがたい確信を裏打ちしているもの、分析心理学者らが秘められる意味を再構成してゆく行程より遥かに優れた解答へと導かれるはず、それは偉大なる力によって了解される。ここに佇んでいること自体が、そうしてこうやって明解な論理を伝達出来ることが証左となっている。
確かに超越者の存在、それはこの星以外のところから訪れると聞かされても、容易には信じることが無理なのは仕方があるまい。しかし、いくら文明が発達しようとも科学が進歩しようとも、この天空をつきぬけて無限大にひろがっている大宇宙の神秘にどれだけ肉迫出来ると云うのだろうか。個と個は断絶した入れものでしかないなどと云う考え方は、所詮矮小に定義された民主主義的なうさぎ小屋でしかなく、その精神はまさに進化を肯定し認知する一方で、不確かな領域への足踏みをかたくなに拒んでみせる。それは安住を得たいが為の方便に過ぎない、何故ならばいかにも肥大した情報社会に生きるすべを身につけようと躍起になったところで、その情報自体がちょうど巡回する海流のように、めくるめく季節の到来のように、信頼と安寧で保たれているから。真に貴重で重大な情報など一般社会には決して流布されることなどない。
歴史の隠蔽は突然変異体の発覚を怖れるが故に、われわれの目のまえからあらゆる革新的な事象を消しさり、緩やかな進化と約束された未来を提示してみせる。例えば地球外生命体の確率を推定した「ドレイクの方程式」は一見数式を踏まえた理論であるが、銀河系における恒星惑星の計量はさておき、そこからなしくずし的に展開される独断とも云える思弁は決して綿密なものではない。あくまでも仮説のうえの仮説に過ぎないのであるなら、せめてそこにより豊かな可能性を希求する精神を芽生えてさえてはならないとは言えまい。知的生命が有する星間通信手段が光速の域を脱しえない理屈そのものを疑ってみる、つまりは現代物理学の成果とは別の位相で宇宙をとらえなおしてみれば、おのずから人類科学の限界を知らしめる嚆矢となろう。
個と個は断絶などしていない。山川草木にいのちが宿り、そこから様々な生命連鎖がくりひろげられ、言葉なきゆえにわれわれは直接コンタクトすることが出来ないけれども、大いなる力はすべてを熟知し、言葉が抱える矛盾を解くことを知らしめてくれる。それは夢のなかに送られる真実のメーセージなのだから、秘められたものを探りだそうとか、新たに意味を付与しようとなどとしてはいけない、ただ、耳を澄ましてひたすら受信機のように待てば、むこうから顕われてくるのである。
「ではあなたは、何が目的でここに」
「確認に来ただけです。能動的夢想による超越で示される可能性を確認しに来ただけなのです」
孝博にとって多少は腑に落ちない論旨ではあるし、随所にさながら焼き印をあてているかの飛躍した思考に違和を覚えながらも、実際こうして夢見を通して、顕われてくるものに向かいあう態度には共通するものがあり、宗教学者としても、彼が抱く天上への深い憧憬は理解出来る範疇にあった。そもそも超常現象と宗教は切っても切れない紐帯で固く結ばれているのではなかったか。
仏陀入滅後、数十億年後に姿を見せる弥勒菩薩も、その気の遠くなる年月が授ける異相も、遥かかなたの星雲から人智を越え飛来する宇宙人のような尊厳を備えていればこそ、崇拝の対象として連綿と伝えられたのだ。
気休めにも似た、いや、不思議な親和が胸のなかで温かくひろがってゆく安心感に身をまかせようとしたのは、エンドウなる人物に出会ったことに違いないのだが、それでも孝博にとっては彼は不埒な闖入者であった。だが、そんな男を追い払う理由はどこにもない。己の陰に浸透し、私論を披瀝してくれたこの来訪はとてもこころ強かったからである。他者であろうと影法師であろうと、もはやそんなことに拘泥することもあるまい。「個と個は断絶していない、、、」
「さあ、魚たちが水面をはねています。そのさきにあなたの探している姿が見えるはずです」
エンドウの口調は、運動会のかけ声のように勇ましく楽し気であった。


[87] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年43 名前:コレクター 投稿日:2009年11月19日 (木) 06時28分

「彼女は確かわたしの夢は見れないはずと言ったはずだが、、、それにしても夜の川ってこんなにも不気味なところなんだな」
磯野孝博はひとつの決意を抱いてここまで、息子に意見されるまま素直にしたがい、それはあたかも巡礼でもあるごとくに恐る恐る、けれども考える余地などないに等しい夢の傾斜に乗って、突然降ってわいた事件のようにこの場所を選択した。もやは孝博の頭脳は理科室などにそえられるている頭蓋骨の標本くらい生硬な魂を宿していた。呪詛でぬりこまれた単一でしかも胆の定置も明瞭になった、身の軽さはまさに砂塵吹きすさぶ地にさらされ渇ききった髑髏である。あるいは無傷の化石のように生きたまま時間を喪失した生命体であった。それ故に留意すべき点は一途にしぼられる。
さきほどまでの湯船のぬくもりや、夏の川遊びの心地よさをここでは捨てさること、あの癒されるような魔手に気を許しては、せっかく身軽な魂で飛びこんだ決意がふやけてしまう。
「涙にも血にも救いを求めてはいけない、骨だけで十分さ」
そのあとに続く文句を孝博は先手をもって、箇条書きを読み上げる心意気で声に出してみるのだった。
「これはおれの夢の現実である。木下さんが先回りしていることも、それを伝達する晃一の言葉には応じたつもりだが、そのあとの展開はあくまで自分の意志と傾斜を信頼しなければならない。仮面を当てはめてみるまでのこと」

この川の流れは手を延ばせば届きそうなくらいの近さで港へと運ばれている。聞くところによれば、過失によって川底に転落し溺れかけ九死に一生を得た。ひとは死に直面した記憶を決して忘れはしない。そこでの時間は永久凍結され、普段のこころの動きをつかさどる範疇から慎重に隠蔽を得た鎮魂によって日々の時間へ障りないよう祈願される。
あくまで現実の日常において、、、日のあたる陽気で物おじしない清々しい時間において。それは夢見が当人でなくとも、何らかの関わりを持つ限り封じられた忌諱には変わりなく、つまりはこの夢世界においても邪心は純粋に保持されている。邪心と云う呼称が適当でないなら、怨念でも憎悪でもいい、だから成仏などと思い上がった了見で対すれば、青白き相貌であることに気がつきながらも、細心の用心を怠った結果として、間違いなくすでにひとつの魂魄だけでさまよっている吸血鬼に首筋を食いちぎられてしまうと云ったおぞましい惨劇を招くであろう。気骨とは戦慄と共存するための手段なのだ。そして呪詛とは相手を懲伏することではなく、己を愛する逆説的な防衛であるから。
孝博は富江の恐怖を想像した。黒々とした水流にのみ込まれる焦燥から逃れようとすればするほど、目にもこころにも見えない川底にうごめく夜の番人を呼び寄せてしまい、一層深みへと引き込まれていく本能を直撃する不安を増幅させる。おそらく過剰に反応する手足なども含め、満身創痍でこころの闇もさることながら疲弊しきったからだからは体温が奪われ、意識低下するとともに恐怖心も緩和されていったかも知れないけれど、それは当日催された打ち上げ花火が、まるであの世の夜空で華ひらく死への点火へと幻惑されることで、まさに燈明が漆黒に灯されることとなる。
その夜、月あかりは本来のひかえめな役割から免責されながらも、きっと不運に見舞われた哀しみを嘆いていただろうが、天空を彩る火花の炸裂のあいまあいまに、優しいまなざしを投げかけたことにより却って、静寂と火焔の攻防にも似た情景を醸し出し、戦渦における極度の緊張へと身もこころもさらわれてゆくのであろう。
「木下さん、貴女は地獄を、そっくりそのままそのすがたに宿し、ここに現われるはずだ。どうしようもなく悲劇的で、現実的な仮面の装着を余儀なくされて、、、」

浴衣姿をさらった夜の流れの向うがいまにも透けて現われそうな、霊魂を呼び寄せる忌まわし気な心性が孝博を支配した。そのときであった。背後から突然男の声が、とても落ちつきはらい、そしてすべてを見守っているとでもいった低めの響きとなって耳へと伝えられた。
「ここで何をしているのですか。わたしと同様に研究にいらしたのでしょうか」
振り向き様にその男の面をまじまじとうかがう寸暇を放擲するように、孝博はすかさず反対に質問を投げかける。
「あなたはどなたなのです。ここはわたしの夢なのですよ」
きっぱりと、押し売りを拒否するときに似た語気をもって、一声を放ったのち、不快な印象はそのまま留め置きながらも、ここに至るまでの道程をつまびらかにしてみたい欲求が突き上げてくるのを禁じ得なかった。
すると夜目にも同年輩と映る相手の返答が、すぐさまにも判明してしまう、それは直感と云うよりも毅然とした証しのような確信でのみ込めてしまうのであった。案の定、男は、
「わけはお聞きしません。確かにあなたの夢だ。そして、自分は自分の意思でここにたどりついたまでのことなのです」
「誰なんですか、あなたは」
「エンドウというものです。超常現象を趣味で研究しています」
孝博は狐につままれたような顔をしたままもの言えず、富江の出現を待つことさえ忘れてかけてしまうのだった。


[86] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年42 名前:コレクター 投稿日:2009年11月17日 (火) 06時14分

孝博のからだにぬくもりが伝わってきた。
「まだ、出たらいけないのよ。あと、十数えるの」
母の声には陽炎みたいなあやうさがあった。あの頃はまだ薪のにおいが通りを漂いながら、夕闇にひろがっていった。
「ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、むっつ、ななつ、やっつ、ここのつ、、、」
見覚えぼえのある、いや、その素肌にも想い出のある河口が列車の窓から見えてきたとき、孝博は川遊びで冷えたからだの感覚がめぐってくるのであったが、車両の移動が思いを乗せて走りさる調子で、夏休み、川水で体温を奪われた郷愁は、反対にふたたび晩秋のなかのぬくもりとなって彼のところへと届けられた。
押し黙ってしまったのは、いまこの耳に聞こえてくる、頼りなげに数を読みあげる声色とは別の、もっと性急なときへの密着があったからだと思えてしまう、、、昼夜はこどもに木綿のような肌触りで庭先から路地へ抜けいつもの広場へと時間を分配していた。垣根は家屋や土地をはばむものではなく、やわやかに行く手を垂れ幕となって目くらませしているだけ、それからさきは汚れることを畏怖する神妙なこころをつくりだしている。どんなに衣服が汚そうとも洗いながせない、未知なる魔手があたりにひそんでいることを感じていたから。
あの夜の母の言葉もそんな魔の先行きから訪れた余韻だったのだろうか。浴槽の深みを思い返そうとすればするほどに自分の背丈も曖昧となってしまい、年代的に想定出来る感覚もあくまで数値の域から脱することなく、それ以上の体感を甦らせてはくれない。しかし、母のもつ背丈で湯船にひたっている光景、膝をおりまげ向かいあっている具合から、何故かしらその深みを思いはかれるのであった。それは大人になった身体から直結して投影されるだけでなく、もっと、形になりそうでよく見定めの出来ない、沈めるもののような、不確実でありながら、知らざるを得ない恐怖に近い宿命でもある。
無言でうつむく瞬間に目にした、母のきびしいくちもとと、やり場のない情感が湯気にのぼせあがった不思議な哀願として、こうしていまめぐってくるのを孝博は、ぬくもりが沸点に達したことでふたたび夢想してしまう。
するとあの黒い蝶のイメージもあのとき母の裸体から生み出された奇妙な妖精なのだろうか、まだ性的な観念など育んではいない証拠に真昼の校舎を羽ばたく様相からも、それは自由な、無邪気な、資質で保護されている。だが、白昼夢が編み出す奔放さの裡に閉ざされた幽門のごとく、不確かな年代記など軽く飲みこんでしまう陰のちからをやはり見通すことなど不可能なのだ。
孝博は車窓を流れていった河口付近から鉄橋にさしかかったあたりで、
「なんだ、まだおれは夢のなかにいるんだ。ほんのわずかだった、そんな、点みたいな時間のなかでおれは白日夢を分析しようなどとしている、夢をみている」
もうろうとしかける意識は懸命に、奮闘している己を知ろうとするのだが、薄目が開かれた車内はまだトンネルを通過中であることも、現実なのかどうか量り知ることが出来ない。
富江が天女のごとく、あらわれてからどうしてしまったのか、そんな堂々めぐりも錯綜とした、しかし、おそらくもっとも美しい傾斜に沿ってからだごとすべりだすよう、孝博の夢想は意志を孕んだとも云える。
気がつくとあの氷の国の一室と思われた部屋のベッドに横たわっていた。しかもほとんど魂をもっていかれた晃一と入れ替わりとなっている。とすれば息子を助け出すことは無理だったか。
「何ということだ、いくら夢にしろ、肝心の問題から脱線して見失ってしまうとは、、、」
ところが杞憂を吹き飛ばしてしまう鮮やかな展開によって、孝博は更に捕縛された。
「そんなことないよ、父さん。よくそこまで目覚めを我慢してくれたんだ。もうあと少しさ、その証拠に」
そこまで言いかけた晃一の明朗な声を聞くと安心したのか、それとも不意をつかれての反応にすぎないのか、いかにも挑戦的な口調となって安否を尋ねることも忘れてしまい、
「証拠に、、、晃一、どういう意味だ、それは、おまえにはわかるというのか」
息子は焦る気持ちを察したのか、的確に素早くこう答えた。
「そうだよ、その手にした木の枝が証拠さ。富江さんは先に行ってるからその枝を持って川に飛び降りてみてって。まえに話しただろ父さんにも。彼女は夜の川に落ちて生死のさかいをさまよったんだ。そこまで行けば何かわかるはずかも。さあ、時間がないよ、ここはほんとうに時間が長くて短かすぎる」
孝博の胸中に何とも形容しがたい渦巻きが発生した。それは憤怒でも驚愕でもない、どちらかと云えば脱力とともにやってくる、呆れはてた安堵であるのだったが、その底辺には初めて結婚話をもちだされたときのような、あの複雑な困惑が、小さな芽生えとしてすでに誕生していた。
「これはまったく、どうしようもない現実さ」


[85] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年41 名前:コレクター 投稿日:2009年11月17日 (火) 06時10分

孝博の目は渇ききってしまっていた。絶対の信憑などはなから存在しないことを承知であったし、あくまで夢語りとしての帰依とも云える王国は、絢爛たる色彩、つまりは忌諱されるべく反作用の極彩色で描きかれてこそ、そこに忠誠心が胚胎する仕組みであった。
自分と云う入れものに納まりつかず、こぼれだしてゆく悲涙と同じ感覚でありながら、その目からうるおいが失われてしまったのは他でもない、ひからびた杯の底を、すでに見つめていたからである。
もし純潔な作用が働いたとするなら、杯のしたに彩られた赫奕たる錦絵は、血糊でもって描かれているはず、せめてもの願いはそんな清流と流砂で混濁となったあかつきにきっと見いだされる、わずかの砂金のようなものであった。
息子の健全すぎる快癒は夢のなかでは悪行であった。それは凍りつく好奇で幽霊屋敷を訪れてみても何の異変も生じない現実性によるもの、または格闘技を観戦しても、一向に白熱せず引き分けの試合に終始して感興を肩すかしさせる悪質な縁どりのなかへ丁寧にはめ込まれている。
人恋しさから芽生えた素描は、最終的には肉欲にまみれ、愛憎に切り裂かれ、悪夢に溶けだすことで鮮やかな色に染まり、そうして描かれる風景をわれわれはこころのどこかで何か少なからず期待しているではないか。真なる美は夜の帳にいつもひそんでいるもの、そして漆黒の背景色がすべての現実性を被うことで、血は奔放にからだのなかをかけめぐり、勢いあまって飛び散る血しぶきは夢の地平まで届けられるさだめとなる。むろん血潮自体には罪はない、もしそれに罪科をあてはめるのであれば、夢の世界など存在しないほうがよほど救われる、、、が、そうなのか、それでいいのか、、、
巧妙に理性が顔をのぞかせたとき、孝博はすでに覚醒している自分に揺り起こされているような感触でかぶりを振った。頭皮に触れた霧は朝もやだった。もう一度まぶたを閉じようと念じる。

ここでは晃一を殺すことも出来る。がしかし、渇ききったまなざしには、もはや流血の赤色は似合わなかった。そのときである。終着駅に近づいた哀しみをくるんだ明るいひかりが差し込み「教授さん、これはどうですか」別段甘くもなく、媚びたふうでもない富江の言葉つきが目覚めを沈めた。夕陽にようにあたりを黄金色に包み込んだ。あまりの光輝にすべてがかき消えてしまいそうだった。
彼女がとった姿態は夕焼け空を瞬時にして暗転させる昏睡への導きであり、奇跡と呼ばなくてはならない天女の降臨に違いない、暗幕とともに降り立った無垢なる夢の精であった。
富江は看護士が身につける白衣を着て、孝博のまえに毅然とした面で対峙した。それからおもむろにスカートをたくしあげて、真っ白なパンティを惜しげもなくあらわにし、そのまま腰のうえまでまくられた。
孝博の視野は急激にせばまり、遠い洞窟のさきへ目を細めてしまう希望と怖れに支配され、富江の表情をうかがい知る余裕もなくしてしまった。喜びも怒りも悲しみも、笑い泣きも、悔し涙も、それから遺恨や羨望も、猜疑で呼び起こされる種々の感情、居直りの砦として自己嫌悪がもたらす悪心さえもが、彼のこころから蒸発してしまって、そこに顔色を識別する必要がなくなったのである。
ただ、生命の起源を封印したことに沈黙でこたえようする、堅牢な氷柱がいっさいの不純物を排してこの空間を形作っている静けさに厳かな気配を、死への門口に横たわる晃一の真新しい敷物のような姿態が知らしめる鼓動を、感じとってしまうだけであり、何よりも富江の白衣があらわににて見せる隠されざる箇所に晃一とは異なった赤い染みを発見し、そのともしびのような明るみに頬をゆるめるのであった。
氷の大地は少しづつ溶けだそうとしている。そう、ゆっくりと時間を刻み、空間を ― 夢を霧散させようとしている。まるでここは純白にひろがる広野であり、白煙によってそのすがたを失ってしまう、魔法の国のように。
富江の股間に色づく小さな花弁は、太陽よりもまぶしく、あたたかく思えた。長いトンネルを抜けて浴びる光線とどこかよく似ていた。


[84] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年40 名前:コレクター 投稿日:2009年11月09日 (月) 18時55分

孝博は素直に従った。富江の言葉にではない、夢の言葉に対してである。
過失と裏切りと用いながらも、信頼と治癒をつかさどる、己の王国、あるいは過剰なる鬼門。
紋切り型を地でゆく鍵の象徴など、孝博は文献のなかだけで考察するべき対象であり、さながら家族だんらんのクリスマスみたいな宙に浮いた気安さと、時間の連鎖からくる重圧に縛られる気まずさは、ただ双方で反撥しあっている加減だと辟易していたから。
だがここで孝博が居残りをきめこんだわけはもっと別のところにあった。それは富江の夢を拝見してみようと願う小さな戯れであり、体温をもたない晃一の手が語る思惑が己の意識分配のなせる業であることを了解するように、富江の仮面をその、のっぺらぼうとやらの顔面に当てはめてみることで慰めに近い異相へ歩をすすめてみようと試みたのである。
決して類型や形式や画一性が醸し出す、洗練を目論みる挫折精神を蔑んでいるわけでななく、むしろ頓挫しかける危惧を予測し、均一へと圧縮をかけるがごとく精進する姿勢は、金の延べ棒を作り出す単一でありながら価値感も維持し続ける、継続の美学が日常へと降り注ぐ陽のひかりと化しそれ相応の充足をうながすからであった。貨幣は通俗でなければ流通しない。これは重要な理に違いない。

高みの見物にも似た安逸さは、夢の舞台を随分と居心地のよい環境へ転化させる。
孝博が手渡した木製の鍵にようなものは案の定、富江の看護士を彷彿させる手つきによってふたたびベッドのうえの晃一に還元された。注射針を打つ手先を彷彿させる鮮やかの真っ白な眼帯に小枝は突立てられると、その時点で孝博は再度、夢見の冒頭に巻き戻され「だんだんとのびてくるんだ」という悲痛をにじませた小声に回帰されることで、晃一が全身から発している憐れみが倍加し、それとともに孝博の霞がかった意識は意図的な回廊を構築させようと企てるのだった。
夢の途上の覚醒も又しかり、それは泥酔きわの人間が、ときおり平常心で時間を顧みるように、間近の様子をうかがうと云った、健康的な生理現象であった。
孝博は苦笑を顔面にも懐にも隠しきれない、こぼれだしてしまう展開を思い浮かべながら、富江と晃一とが演じる喜劇を鑑賞することに専念した。予想から逸脱してくれることにわずかな期待を抱くことで、桎梏からの微少な逃亡が許されるのなら、夢はか細い切り傷によって、大きく震えることだろう。
「富江さん、さあ、拝見しよう。その目に痛ましく突き立てた鍵とやらはどんな効果を、わたしの夢全体にもたらしてくれるのだ」
「父さん、見て下さい」唐突な息子の反応は父を見事に裏切ることで、合格点を獲得する信頼を勝ち得えた。半身をもたげた晃一は、何と先刻自身で抵抗をあらわにした行動を速やかに実行したのである。
死人を死人たらしめていた刺は、誰よりも容易にあたかもくじ引きするような賭けの、あるいは模擬演習における緊迫感の低下のもと、晃一から離れ去った。
孝博は形状によって構成される、物語の神髄を予察し予定調和に納まりゆく、美学を再評価するこころづづもりであったのだ。何故ならば、夢の夢とは覚醒と分ちがたい真理で、もの言わぬ仏像のように静かな尊厳をこの世に蔓延させているからである。ウィルスのように目には見えないけれども、抹香の雲煙でもって地上から天上へと、風船のごとくそれは運ばれていく。
さて孝博は実証を得たのであろうか、、、彼の夢想は平板な修羅を思い描いており、返り血が噴出する様が舞台装置でもって誇張される場面へと開示されるはずであった。息子の右目からはとめどもない流血があふれ出し、辺りは塗りこめられた赤光の反射に染まりゆくのであり、それでも崩れ落ちない我が子の偉容をしっかと抱きしめながら、夢見の主人公たる己にようやく様式美で統一化した落涙を容認する。
そうして涙目で霞んでしまう富江のすがたに向かって、曇り空を見遣る目線のまま佇み、涙は夢の皮膜を浸透し持ち越されるのであった。
ところが夢の現実はたゆまない創造精神は、ものの見事に咲乱れる花園の芳香で孝博を裏切ったのである。取り除かれた眼帯は清廉な白さのまま、ただ一点が、それは針を突き刺してみたあとで赤い水玉のように浮き上がってくるほんのわずかな赤味を、その中央に克明に色づかせつつあった。しかも、どくどくと脈打つ血液を想起させない、かと云って白地に赤くの国旗みたいな、あまりに明徴なしるしではなく、苦笑いをもって例えられるのは、あの弁当、白米の中心に鎮座する日の丸弁当に他ならない。それくらいに出血は微量であった。


[83] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年39 名前:コレクター 投稿日:2009年11月09日 (月) 18時51分

「触ってはいけない、医者はどうしたんだ。すぐに手術してもらわないと、、、」
あわてふためき突き上げてくる衝動に忠実であることを夢は認可しない。床が強力な磁場で形成されているかの身動きの制御が夢の常套手段であるとしても、全身から生き血が抜きとられたこの虚脱感はどうしたことだろう。
「そうだ、ここから脱出しようとしているんだ。これはまやかしに違いない」
「虚構と知りながら興奮するのは誰、あなたの血は抜かれてしまったわけじゃないわ。騒いでいるのよ、血が騒いでいるのよ。熱い眠りをご存知でしょう」
富江がそう言っているのか、ひとりごとが聞こえてくるのか、判別はつかなかった。ただ、ある論理的な考えが呼び起こされる。
「授業中に生徒らが収拾つかなくなるくらいに騒がしくなる、途中でこれは夢だと気がつき、冷静に目覚めを待ち受けるのだが、スクリーンの裡に物語が展開されていくように、目のまえの情景は決してとどまろうとはしない。吸血鬼にとりかこまれるおぞましい場面に接したときに、おれも首筋を食いつかれて奴らの仲間になればもう恐怖は消えてしまう、などと開きなおりながらも最後には絶叫を浴びせる、いや、ふりしぼることで夢魔から解放される。生徒たちに対しても同様、怒りとも悲鳴ともつかない雄叫びが精々のところ、、、よく覚えているはず、身を挺して異形の群れや恐怖の原型を体現した輩に飛びこんで行くのは、必ず目が開いてからだってことを、、、」
「ではどうぞご自由に、わたしも晃一さんもあなたに襲いかかったりしませんから」
富江の声は、この世のものではないくらいに優しく耳に届いた。天女のごとくやわらかな羽衣の言の葉は孝博をいっとき慰撫しながら、笛の音が風にかき消される風情で、ゆるやかな傾斜にふたたび意を馳せる。
「地平線を知らない原野よ、ここだろうあかずの間の扉は。それでもってそいつが鍵っていうわけか。笑わせるんじゃない、一体誰の夢だと思っているのだ、おれの夢なんだよ、これはおれが編み出したからくり仕掛けで稼動しているのさ。すべて答えはまさにここに眠らせてあるんだよ」
そう虚空につぶやきながら、孝博はさきほどと同じ笑みをつくったまま見返している晃一に殺意に近い愛情を込めながら近づくと、ためらうことなく、純白で満たされた眼帯に向かって手をのばし、清潔な屹立を保持し生地を痛めることなく芽生えている、刺にしては長すぎる小枝をつかみとった。
「父さん、それはぼくが自分で、、、」
ささくれた感触をにぎりしめる孝博の手を、ひんやりとした、しかし力強い晃一の手が被った。息子の体温が自分より低いことにやるせなさを感じつつも、素早く痛みに切迫する被虐で声を押し殺すようにして、
「放すんだ、おまえの痛みはおれの痛みなんだよ。おまえじゃ無理だ、一気に抜きとってやるから、その手をどけろ」
そのとき孝博は自分の言葉の影に、幼年のころ押し入れに自ら閉じこもって泣きわめいたこと、母と湯船につかりながら『孝博ちゃんはお父さんとお母さん、どっちが好きなの』と問われて、何も言えずに無言を通していたら『こういうときはお母さんと答えるのよ』とかつてないきびしさとかなしみを突きつけられたこと、そしてあのあげは蝶の優雅でせわしない羽ばたきと、彼岸花の鮮血を香らせる生き生きとしたすがた、それらが連続写真となってよぎっていった。晃一の手は死人のようにつめたく、かたくなであった。
夢の時間をひとは計れはしない、、、それからどんな攻略が応じられたのかは演出されないまま、いつの間にか、てのひらにある木片を、それは小枝を細工して鍵状にこしらえたとでも云ったふうな異物を、まじまじと見据えているのだった。あまりの様式性に興ざめしてくる、あの退屈へと橋渡しされる手前のため息が、新たな地平まで未開の地までかきわけて行った先発隊の報告を受けるまでもなく、そっともらされた。
「閉じているんだね、地平線も水平線もないんだね。どうして夢の造形まで球体で作ってしまうのだろう、、、あのまんだら図絵みたいに、、、」
夢はとても律儀であった。意外性と放埒に耽りながらも自ら陶酔することなく、様式美を重んじて常に欲望の発火点に気配りしながら、無限地獄と理性を調和し、和声の響きをもって富江にこう語らせた。
「あなたの夢が嫌なら、どうでしょうか、わたしの夢をごらんになっては。それも嫌ですって、嫌ではなく見れないのですよ。そうでしょう、仕方のないひと、さあ、その手にしたものをわたしに、、、」
孝博はほぼ覚めきっていた。そして、こう確信を得るのだった。
「出口が薄皮一枚のところに、おれはいる。手につばを吐いて、それで顔を洗えば目が覚める」孝博は覚醒へと急いだのだが、「おっと、いけない、別の夢見を繰りひろげないと」
すると、富江が言った。「そうはいかないわ。ごらんなさい、あなたの顔、そんな顔でよそに行けると思いますか」
つばきで禊ぎされたと思われた孝博の顔には、耳以外に目も鼻も口もなにもなかった。


[82] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年38 名前:コレクター 投稿日:2009年11月09日 (月) 05時43分

夜の海からゆっくりとわき上がる、落ちつきに満たされ出した気分にひたろうとする刹那、忘れかけていたもうひとつの感情が静かに、まるで足音をしのばせたかのような慈しみをもってこの胸のなかに浸透してゆく。
美しい音色でこだまする幽かな旋律は、思念においては捕らえようもない、不穏な気ままさと気高い曖昧さに包みこまれているようでその正体を見定めることなど及ばず、ただ夜目に映りこむ安慮で予感された気配に静謐な調べをささげることによって、はじめて世界の輪郭線がとけだしていることを知るのであった。
孝博の意識は眠気を受け入れようとしている。緊縛に苛まれる時間を振りほどこうとした結果でもあろうが、安易に夢の彼方に降りてゆくことを拒んでみせる、あのつつましくもやわらげな意思が、油に水ををそそぐようにして胸の裡を燃え上がらせ緊縛の縄を焼きはらった。
油は皮膜からしぼりだされ、水は涙の通りみち深くにたたえられ、それぞれ異質の感性で培われていたけれども、帰ってゆくところは同じ場所であり、それゆえに火焔は立たず白くかがやくばかりであった。
夢の炎は冷たい、少なくとも外界の温度よりはるかに低温であり、すべてを鎮火させる作用を秘めている。まどろみかける瞬間、孝博は両の目がまたしてもこちらに反射しているぬけがらになったような自分の顔と出会った。陰影深く沈痛なその面持ちはいわくありげな謎を孕んでいながらも、所在ない子供の無心へとすげ替えられるぞんざいな視線を放ち、音もなくまぶたが閉じられるのだった。
至上の旋律はこうして鼓膜の向うがわで奏でられる。長いトンネルへとのみこまれた列車とともに、、、

記憶の原野はその広大さを偉容をしめしてみせるわけでもなく、ちょうど小さなつむじ風のごとく孝博を軽やかにまえの夏へと引き戻した。
開け放たれた窓に花ひらく祭りの夜と向き合った、三好荘での一夜。想い共々に二階の欄干から落ちてしまえばさぞかし気楽なものだと、酔眼を弾ませながら、夜空ににじむ打ち上げ花火の残影に感傷を差しだした、あの動揺たなびいた過去が信じられないくらいに懐かしい、、、
来るべき予感の兆しを胸に宿したときが、これほどまでに美しく悲哀で彩られるのは、きっと我が子を身籠ったあらゆる生命体が抱く、しあわせの絶頂であると同時に死への道標であるからに違いない。古代人は、いやそれほど遠くもない人類もそう感じとっていただろう。
夢の無限とも云える勾配は、こうして孝博の意想を華やかに大きくさながら大輪が弾け出す火花となって映像を生みだし、瑣末な神経を豊かな所作に駆りだして、悪夢が悪夢であることを、亜空間が時間どころが魂までもねじ曲げてしまったことを、まのあたりに顕現させる。そこではすでに悔恨や内省は流れ去る星屑となって、物質の残骸であるかのようただ一瞥をくれるだけ。
けれども果てしもない彼方にひかりかがやく星たちの、たったいまここに到来しつつある、あまりに壮絶な意志のようなもの見上げる目に、切実な祈りはやはり含まれているのだろうか。
孝博の夢想はきらめく光線と一緒になって、今度はあの夜の氷が浮かべられた木桶が思い返された。いまが夢のさなかだとは彼はもちろん知らない。しかし、どんなに豪勢な巨大客船のなかで宴に酔いしれようが海上を運ばれていることを疑わないないように、ここが日々の延長から不思議な扉で閉ざされている空間であることは半透明の意識にしみ出す岩清水の清澄さで感じとっていた。その純粋さは、夢見を限りなく尊いものに導く。
木桶にはられた氷水を弾きかえすようにして、きらきらと饒舌なひかりを浮かべる光景は、まるで夜光虫の自在さで部屋のなかから遠く天空の果てにと誘われてしまい、そのひかりの、まさに瞬時の、奇跡をふりまく様には陶酔さえも追いつけないあきらめをおぼえるしかなく、取り残されたこころはせめてもの意趣返しと云わんばかりに、放心状態を甘受するしかなかった。
ところが小さな願いは祈りへと通じていったのだろうか、そんな無心に、白地の画布に、人恋しさからそっとなぞってみるときの素描のかき出しに似た微笑が現われる。

孝博は病室らしき寒々とした部屋のベッドに横たわる晃一の顔を見つめていた。
息子は以前とかわりのない白い歯をみせ、こちらをうかがっている。少年らしい、どんなに大人びてもようとも高尚な精神に囚われようとも、いつまでたっても自分の子供であることにはかわりはない。
「目は大丈夫なのか」孝博がそう声をかけるのと、晃一の「だんだんのびてくるんだ、この小枝が」と悲しみとも喜びともつかない声色が重なりあった。
そのとき孝博は「いまのは晃一が喋ったのではない」そう強く、裁決をくだす勢いで念じられ、さきほどからベッドのすぐ脇に立っている富江のすがたに驚いてみせる必要もないように、ほどこされた眼帯を突き破るようにして人さし指ほどの長さで右目から芽をだしている、若葉をもたないささくれだった小枝に言い放ったのである。


[81] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年37 名前:コレクター 投稿日:2009年11月02日 (月) 06時06分

道行きを指し示していると疑うことさえ億劫になる沈滞した気分が更にその場から動くことを怠るのは、ぬるま湯のなかに浸り続ける居直りにも似た情況であった。
車両が揺れるように、湯船も心地よさをぬぐい去ることなく、次第に冷めゆくであろう身を憂いながら、それでも残された砂時計の分量を湯水に換算する想念は、健気にもまだ命のともしびが絶えることなくゆらめく可能性を決して疑わない。
地震のごとく大地が轟いたとしても己の意識はすぐさまに危機を覚えない、あの不遜な身構えは如何なる理由で微少な猶予を差しだすのか。恐慌から免れる為に毅然たる判断を瞬時に養う、つまりは防衛本能が稼動した証しとでも云うのか。
孝博のこころは列車が響かせる反復的な震動を受けていた。懸念が増幅される必然は警告文となって胸に突き刺さってくるべきところ、揺れ動き定まらない机上で文が綴れないよう、想いが言葉に変換出来ないよう、まるで水のなかに書かれた文字の連なりとなって、こころのなかに沈みこんでいった。識別が可能であっても意味は水面下でたゆたう海藻のごとく判読を阻害しながら、もどかしさを呼び起こしつつ、そのまま霧の彼方に留まろうとしている。
ところが彼は知っていた。すでに防衛段階から身をかわし、新たな虎口に面している事態を、、、そしてこの乗り物から見遣る左右の車窓は、まるで映写機でもって意識をそこに促す幼稚でしかも投げやりな態度の流れを生みだし、その感覚的な事象は段々とあふれゆくであろう水流へと重なりあわせることによって、より深く言葉を底のほうへと沈みこめるのだった。
これは放逐なのだろうか、困苦から逃げだす行為にいつも言い訳が追いついてくる自意識の攻防、あげくの果ての神経麻痺。
「いや、麻痺などしていない、、、聞こえてくる、この身をひたしている、まわりの空気が水のような抵抗を感じさせている、見えている、いつかは水流にのまれることがやってくるかも知れないが、揺れては浮き上がる言葉のとまどいと勢いが、自分のなかで幾層にも重なりあうのを、、、」
それは災害などと云った不可避へと推し量ろうとする諦観に、ひとしずくの涙でこたえる感傷ではなかった。滂沱とした感情の発露は地下水へと通じることで、もはや大仰なまでの形式的な悲哀にすべり込むことなく、浄化作用の域から逸脱することはなかった。
ゆっくりと、絶え間なくみ出される泉水の微かな音が、決して洪水へと直結などしないように。
静かな反復にささえられることは災厄を、日々の連鎖の過程に薄めてしまい来るべき悲劇を待ち受ける心づもりへと昇華される。
孝博を満たそうとしているもの、それは確かに道行きがもたらした心痛であったに違いない。けれども痛みの根源を穴が開くほど見つめてみたところで、ちょうど虫歯にさいなまれた箇所をより一層知覚してしまうことと同じく、効果的な解決策には至りはしない。
「そうさ、三好からいくら今は体力消耗で安眠中と知らされようが、たとえ携帯をとることが無理だとしてみても、すぐさまに晃一に連絡をつけようと試みるのが、親と云うものではないか。だが、そんな簡単なあたりまえのことを邪魔する思惑がこうしてひそんでいる。転落事故の顛末は透かしガラスの向こうで起こった出来事みたいに輪郭もはっきり見定められ、その余波が、晃一は無論のこと富江や三好家までに及ぼされる、それから、、、それらは、すべて自分へと収斂してしまう未来図までが、すでにもう出来上がっている、、、」

トンネルをくぐる頻度が増してした頃、傷ついた晃一が眠るまちへと近づいてきたことを感ずるほどに、孝博の胸騒ぎは反対に治まりつつあった。直接に連絡をつける行為は、軟体生物が示す生硬な葛藤の末に控えられた。
代わりに彼のこころに満ちはじめたのは旅情と呼ばれる、不確かでつかみどころのない感覚の氾濫であった。名も知らぬ駅に向かうわけでも、人里離れた温泉宿をめざすわけでもない。
しかし孝博は夢想することで、無用な気遣いを回避させようと努めた。
「祈りの本質とは天上や奥底に向かうばかりではないはず、こうして脇目で意想をずらしてみることも、個人的な行為として下賤ではないだろう」
難題を抱えて寝床に入った深夜に、案の定顕われて来た夢想の影絵が期待通りに展開せず、まるで様変わりした光景で映しだされるよう、孝博は異相を夢見るのであった。


[80] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年36 名前:コレクター 投稿日:2009年10月27日 (火) 06時32分

線路と云う一本に連なる道行き。山間部を抜ければ又すぐに待ち受けているトンネルと云う局所的な空間 ― 母体に開けられた魔法の時間が過ぎゆく漆黒。
トンネルをくぐるたびに孝博は、夜明けや日没の意志に促されるよう、思考がおおらかに切り替わっていく快楽とも呼べる意識の連鎖に抵抗することを放擲した。
常夜灯の清らかさが、夜を限りなく讃える様は、トンネル内に設置された灯りの流れも同じこと。
晃一の山中での事故は、大事に至らなかったしらせを受けたこともあり、今こうして孝博の胸裡を安静にしながら、転落間際の息子のすがたに想い馳せるのであった。
苦い恋の味などと、我ながら歯が浮いてしまいそうになる文句さえ想起し、そのあとに連なるであろう父親としての提言が傷心の晃一に浸透するがごとく吸い込まれてゆく。
「たとえ過失以外の事態であろうとも、おまえは短期間で見事に燃焼してみせた。田舎暮らしを試してみたと云うことは都会脱出も体験済み、性的なものにまつわる煩雑な心理と体感は、禁欲とうらはらに極めて実験的に推進され、しかも婚姻間際まで情念を解放することで、抑圧されるべきものはなにであったか、少しは理解出来ただろう。素敵だよ、晃一、爽快だよ、せがれよ、怖れを知らないことは善いことなんかではない、おまえは怖れを洗練のかたちで敬遠させ、そして終いには破壊する覚悟で燃えつきようとさえしたではないか。
純朴とか自然とかも形容として援用するまでもない、おし着せの洋服が板についてなかったのは昔の日本人とて同じ、、、本当の自然など言葉や概念で言い表せることは到底不可能さ。
どうだい晃一、今度は学術のための大学とし徹底して勉強してみないか、ああ、いいとも彼女のひとりやふたり、それはそれさ。そして父さんの研究を手伝ってみる気はないか、そうだな、わかるよ。盗み読みする程度の学術とやらが楽しいと言いたいのだろ。エロスだって覗き見が最高とか誰かが書いてあったって!誰だい、そいつは、ははは、おまえ本当にそうだと信じるかい」

夏の陽射しとはあきらかに強度が異なる乾燥した空気を暖めようと努める今日の光線は屈託なさそうにも見え、そのじつ気性をあえて大地に色づけてみたとでも云った、不埒な永遠が線路沿いにところどころ群生している彼岸花が赤味と化しているのを見いだしたとき、孝博は再び幼少の頃へと記憶の産毛を、あげは蝶に託した。
目と鼻の先にたたずむ校門から自分の家まで、ひらひらと低空を舞ってゆく黒地に黄色の紋様が泳いでいるあげは蝶。こんなに通学距離が短いことを一緒に楽しんでくれているのか、そのあてどもない上下左右への慌ただしい飛来が遅刻寸前の半泣きの同級生の仕草を類推させ、年少時特有の優越感を培養した。
そんな微笑が育む香りたつ情感は、そよ風の気まぐれにも似た透明さのなか、ゆるやかなスロープに沿って歩を進めて行くよう無心のまま汚れなき想念へと結ばれる。
家の窓から眺めている孝博の目線を次第に陶然とした奇妙な感覚へといざなったのは、その予測不能な飛来方ではなく、三角形に作られた黒衣とも見まがう羽ばたきの裡に黄味が溶けてなくなる、そして不意に土塀などに止まったおりにかいま見せる、細身で壊れてしまいそうな胴体が醸し出すあやうい優しさ、と同時に以外な箇所から顔を出して思わず否定せざるを得ない、禁じられた想像であった。
蝶全体の質感があたえるのは、軽やかで艶やかな体毛、、、そう、浴室でしか見ることのない母の股間にとまっている生物、、、溶けてしまい、隠れようとしているのは、体毛から覗かれる普段は決してあらわにされることなどない、柔らかなところ。

その夏休みが終わってしばらくした頃、孝博は転校した。
引っ越しの際に数回しか乗ったことがなかった列車に揺られながら、遠くの風景ばかりに気をとられていたのだったが、各駅で停車するたびに線路沿いに赤く染まる花の名を母に尋ねてみたことがあったのを、たった今まで忘れてしまっていた。


[79] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年35 名前:コレクター 投稿日:2009年10月27日 (火) 04時59分

新幹線でN駅に到着した孝博は、特急に乗り換え待ちのあいだに晃一の消息をようやく得ることが出来た。
三好の主人から直接の連絡であった。
「とにかく意識もしっかりしているし、本人は歩けるって言ったそうなんだよ。骨折もしてないようだな、打撲程度ですんでほんと不幸中の幸いだって。ただ、右の眼が痛いっていうもんで、精密検査を、、、もちろん、全身診てもらわないとって。ええ、そういうわけで」
孝博は受話器へと三好の張り上げる声が、ホームの拡声器を通して上空から鳴っているのではないかと思われた。その声色は釣り師が何年か一度しか捕らえられない獲物を手中にしたような喜びがあらわだったからである。
孝博のこころも躍った。だがつい先程までの曇った気分は、一気加勢に霧散される義務に反撥してみせるように、青雲たなびく空は足もとから彼の裡へと、まるで地面に鏡を敷きつめた反射となって映りこむのだった。それゆえに三好の笑声は天上から降りてきたのかも知れない。
善きしらせに安堵してみせるとき、うわずった明朗さに茶々をいれてみたくなる心境が、幸福の証しであるならどんなに素晴らしいことだろう。だが孝博にとって幸福とは、ある意味不可解なものであった。
閉切ったはずの扉からわずかにひかり差す情景に頬をゆるめながらも、眼は凍結した視線を維持し続けてしまうように。
そんな観念が今ここで培われたわけではなかったが、晃一の安否がわかり次第、更なる課題が孝博を待ち受けていることはさきより明瞭であったし、勝利の凱歌にあわせて判明した息子の事故の顛末を聞くに及んで、その不可解さは、より錯綜した日常を眼前へと引き延ばしてしまうのだった。
「しかしまあ、なんであんな山のうえから転落したんだろうね。夜中だったっていうし、でもよかったさ。あんなとこ猪か猿しかいないからさあ。農園のひとがたまたま赤い自転車を見つけたっていうから」
孝博は晃一から富江との出会いが、三好荘の後方に高まる山腹であることを聞かされていた。さきほどから三好の話す山とやらは間違いなくその付近と思われる。
今朝、近所に投函した富江宛の手紙のなかで結んだ内容が、はやくも白々しく技巧的なひとりよがりの文面となってしまっている事実に赤面し、けれども手遅れな筆消しに狼狽しつつ試みることと云えば、羞恥があたまから逃げだそうとしていることを自覚することだけであった。
「そうだ、三好に尋ねれば富江との直接対話も可能になる。それは少しも不自然なことでもない、そしてすぐにでも彼女に問うべきなのだ、、、なにを、、、いや、かまわない、晃一の情況だけを問うてみればいい、、、そうすれば、、、そうすれば、、、すこしは落ちつく、、、」
わずかの間にめぐったものは意識の循環などではない、船酔い客が乗船まえに想像とやらで余儀なくされる怯懦の予習であった。それは他でもない、波間に揺れる感情がいつまでたっても鎮静されない自然の理であった。
「じゃ、昼過ぎに駅まで迎えに行くから。孝博さん、そう心配しなさんな」
結局、意気盛んな三好のほうが実の親より、例えお祭り騒ぎに似た気概を発しているとはいえ、悠然と事態と向き合っているではないか。
そう考えつつ孝博は、富江が幾度となく書き示した影法師と云う言葉を反芻してみることで、自分の行動を正当化する機会をあたえられたと思いなおすのであった。
「晃一は死んだわけではない、ちょっとした遭難だったのだ。これを期にあいつもこころが生まれかわる」
特急列車に乗り込みながら、沈着さがあのまちの方角より自分のもとにさざ波のように向かってくるような心持ちがした。それは皮肉にも焦る勢いですがりつく方法を回避した結果こうして得られた。


[78] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年34 名前:コレクター 投稿日:2009年10月27日 (火) 04時03分

単線鉄道の轍はどこまで行っても音響でしかないにもかかわらず、このように記憶の残像を呼び寄せてしまう加減は、、、祝福に包まれた光輝とも、災禍に圧しやられた苦渋とも異なる、がしかし、その双方を遠い彼方に想いかえしてしまう加減は、、、一体どこからこの耳に奥へと通じているのだろう。
単調な響きがもたらす催眠効果にも似た安定感は、切迫した情況をまるで真綿で被ってしまうように、心臓の鼓動を決して増幅することなく、反対に雲がかかった視界のごとく見定めを確定させない、意志を高揚させない、そして感情を隆起させないことで、こころの音をそっと静めてくれているのだった。
また、予想すら覚束ない、無邪気な童心が表現してみせるあの蝶の飛翔と寸分の違いがないであろう、軽やかさはすぐさまに嗅覚的な領域へと想いことごと連れ去られ、鼻孔へ糸状の風がすっと抜けていったときには、それが何の臭いか判別つかないまま、しかし、すでにそれは或る遠い過去の光景を脳裏に描き始めようとし、次の瞬間には、現在の、この現在の、車両を運んでいる金属音が視覚をつんざく閃光となって道行きを案内しはじめる。
小学の低学年まで市内に住んでいたこと、あまりに校舎と住居が近すぎて、特に運動場など自分の庭みたいな感覚で視野にすっぽりとおさまってしまい、子供ごころにも違和感を育成していたこと、だが、裏の広い道路を隔てた向こう側は『まち』と呼び慣らされ、決してひとりでは足を踏み入れた試しがなかったことなど。
そうしながらも、記憶の蝶は自由にはばたき、商店街に面してしたパチンコ店の脇に細長く通じていた路地の薄明かりへと、閃光はあたかも急激な暗転で羽をおろし、暖色の透きガラスの扉が開閉するたびに大きくもれてくる銀玉の弾きだされる音に得も云われぬ、興味を感じるのだった。
こども同士が、たとえそれが何人いようがうかがい知れない、そこはおとなの秘密場所。騒音ともに下界に吹きこんでくる、冷房のひんやりした空気、それから、灯油にまぶされた金属みたいな、わずかに鼻をつく酸味のある臭い、、、立ち止まることは出来なかった、路地とは抜けていくところ、微かの時間ではあったけれども、鮮明にこの身体に触れていった想い出。何度、あの臭いに出会ったのかは覚えていないが、ああ、おそらく夏だったに違いない、外気とは異質の全身の体感すべてへ急激に侵蝕してくる冷気、、、
回想はいつも曖昧であるけれど、そのじつ以外や遠近定まらない必然色をおびている。

孝博の胸中には、煩瑣な蜘蛛の糸が巣くっているはずだった。そうあるべきからこそ胸騒ぎが途切れることなく、ため息は焦燥への加速を増すための懸命な生体反応となり、禍いが強迫するいばらのトンネルをくぐらなくてはならなかった。血を分けたたった一人息子に危機が訪れてしまった。
こころのどこかで予期していただの、己の宿業などでは済まされない危機が、津波のように発生し、この先を案じることさせ、どこかに捨て去りたいほどの絶望感に支配されている。
しかし、思念はところかまわず駆巡り、孝博のすべてを蝕みはじめ、負の方角からは来るべき使者が予言めいた口調で、早くも鎮魂に向けた説教を唱え出し、孝博の神経を必要以上に逆なでしはじめ、だがそれは悪夢が絶頂に到達する間合いと同じくらいの駿足で、不意に掻き消えてしまい、と云うのも明確な現状など把握していない故に、闇夜を暴走する荒馬となる妄念の行きつく先がどう転んでみても、自ら鞭打った結論でしかないことを薄々知るに及ぶからであって、では楽観すべき余地の土壌が拓かれているのとなれば、その場所には気安いなぐさめが不必要なように、安直な憂慮はまさに安直なまま、車窓のうしろへと流れ去ってゆくのだった。
胸のなかにどっかりと居座り続けるもの、、、それはやはり悪夢となんら変わりはない。しかし、夢のさなかにおいて、夢そのもの、夢の形式と云うもの、それを知悉した冷静さを経験したものならば、こう意識をねじ曲げることは無理なことではない。
「これは夢の夢なのだ」
意識が膨満感に苛まれ、神経が末端を見失いかけるとき、伝家の宝刀はその鞘から抜かれ、妖しい銀色のひかりを放ち出す。月影の鎧武者の魂魄はそこに宿り、あの火事場の馬鹿力といった瞬発的な奇跡がこの世に展開する。
我々はそれを放心と呼んでいるではないか。長時間は保てない、これは希望でも絶望でない、生体反応が燃え盛る一刹那は、孝博にとって幸運なことに、時間的連続体を端的にかいま見せる列車内と云う場面を提供している。
悪心にせよ、何にせよ、泡沫のごとく消え去る運命にあるものは、決して彼だけの精神ではなかった。


[77] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年33 名前:コレクター 投稿日:2009年09月29日 (火) 04時59分

「翌日は家内が晃一に電話したのでした。意気消沈な息子のすがたに胸が痛んでいる様子は十分に理解していながらも、今回のことは家内の耳にしてみれば突拍子もない事態には間違いないはずですが、初恋の沸騰とでも片づけられてしまう程度のインパクトしかあたえてないのも実情、磯野家にとってそれは一見大事件にも思われ勝ちな予想図でもあったのです。あくまでも磯野家全体として。
ところが、私の胸中はもはや別の場所で警鐘を鳴り響かせてしまっている。そうです、貴女と云う異質な思考に対し、それから堕ちゆく光景しか想い浮かべることが出来ない晃一の苦悶に対し。
『何を都合のよいことばかり言ってるの、まだわからないのわたしのことが』厳しい語気でそう答える貴女の声が聞こえて来そうだ。
ええ、よくわかりません。本当にわからないのです。精々受け止めることが可能なのは、貴女のお手紙の字面だけです。しかし、そこから抜けでてくるような言霊とは異質の、そうです、貴女自身さえもがよく手綱をとらえていない、反語的作用ともいえそうな怨念じみた言葉のひとり歩きは簡単には理解しがたい領域にさまよいだしているのだと思います。それは、この文章によく顕われているではないですか。
『晃一さんの影に貴方を見ているわけではありません。わたしの影の裡に貴方たち親子の人影が棲んでいるのです』
普段より活力は低下しているようだが、深刻な意見を吐くほどに晃一は衰弱していないと知らされました。もとより、息子は弱みを表面に出さない性質ですから、どれほどの精神が保たれているのかは推測しかねます。
私は是が非でも、息子を東京に引き戻すつもりでいます。これが木下さん、貴女にとってみても最良の方策となりうるのだと信じております。
様々に入り混じった感情や思念、時間の彼方に沈殿していった言葉にも成り得なかった視線の切れ端、少しは晃一があたえたであろう純粋な緊縛、、、そこから感化されたでもあろう、肉欲を通過した、いや精神を濾過した、異形のかたまり、、、それらは眼になど見えるものですか、もし気がついたとしてもすでにそれは己を侵蝕してしまっている。
貴女が影法師と呼んでいる暗がり、ええ、私にも感じることは出来ました。しっかりと貴女のなかに棲みついていることを。それは善い悪いでは決して判じることは無理なのです。


またもや、この手紙を投函することが延期されてしまった。私の生涯においてもこんな遅延はそうないでしょう。
今日の朝、晃一が世話になっている三好荘から緊急連絡が入りました。貴女はご存知なのでしょうか、その顛末を、、、
一昨日の夜から晃一が帰ってきていない。携帯もつながらないし、知りうる限りを当たってみたがまったくの行方不明だと。三好には思い切って貴女の名も出して問うてみました。もう周知の仲だと言ってましたよ。当然貴女のところにも連絡してみたが、同じくその時刻以降、息子を見かけてないしここ数日は会ってないと話していたとも。
朝方とか休日には外泊もあったようだが、二日間も連絡なしでいたことはなかったそうです。警察には捜索願いを出したようです。
私はこれからすぐにそちらに向かいます。貴女のバイト先に電話をして直接、お話してみようとも考えましたが、それはやめておきます。
この手紙はこれでやっと封をされ、貴女のもとに届けられるでしょう。だが、富江さん、それよりはやく私は貴女と再会する運命になってしまった。

磯野孝博」


[76] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年32 名前:コレクター 投稿日:2009年09月29日 (火) 04時56分

「前置きが少し長くなってしまいました。お許し下さい、ひとつは貴女に対する真摯な謝罪を、もうひとつはあの日以来から相互の裡にあったと思われる心持ちと誤謬を、確かめておかなくてはならなかったからです。
先日、晃一から連絡がありました。と云いましても家内宛ですけど、そうです、貴女との交際を結実させる声明、結婚についての相談でした。家内は相変わらず拍子抜けしてしまいそうな表情で私に仔細を語るのでしたが、困惑が隠しきれない様相は当然のこと、夫婦間でのやりとりは割愛させていただき、それより、息子のまたしても一本の矢尻が放たれたかの気負いに押されかけた一週間後、今度はかつて知ったこともないくらい途方に暮れた様子の電話があったと聞かされたときの気持ち、、、木下さんから大学宛にいただいた書中からおおよそ局面はうかがえてたとしても、あまりに観念的なそんな情況が一人息子の身に降りかかってしまう事実、、、ことの発端はこの自分にあるというのに、どこか絵空事を観察しているような心境、、、
直後に津波のごとく押し寄せてきた、貴女にも指摘された成立しない反応、そう、どうして最初の段階で策を講じるなりの気概を抱かなかったのか、何故ことの成り行きを等閑に付し薄ら笑うよう見過ごそうとしてしまったのか。ひたすらに反復する後悔の波しぶきを浴びながら、行きつ戻りつするのはそれでも、どうにか意味づけだけでも付与しなければと云う、懺悔にはほど遠い俗物精神の生成だけでした。
先の文で申しあげましたように、晃一の意思決定を知るに及んでようやく、ことの全体像が俯瞰出来ることになり、まずはあまりに自己保身と安住の精神をむさぼり続けた猛省として、傲慢な思惑を含んだまま貴女に書き記すことが要請されるのでした。
お手紙が届いたのがちょうど二週間まえ、それから晃一の落胆を聞かされるまでの間に私のとった行為は、一途に煩悶するだけでした。
どう木下さんに返信するべきなのか、ましてや封筒に裏には名前のみ記されたまま住所は伏せられています。貴女の一方的な思案がそこにすべて込められているかのようで、ただならぬ雰囲気、またその秘密めいた様相が醸し出す匿名性が、こころのどこかに不安とは別種の安息を位置づけようとして、あらぬ想像をめぐらせてしまう始末、閑却してしまった問題にあわてふためき、極秘のうちに貴女に連絡をと(手紙とは違う手段で)あれこれ考えこんだりもしました。
貴女の住まいは分からなかったけれど、晃一から聞かされていたバイト先の飲食店はすぐに判明しましたので、そちらに送付させてもらいます。
これも無粋な下衆とも指差されても仕方ありませんが、あの封書はある意味強迫文をはらんで差しだされたのではないかなどとも訝るのでした。それに対するまたもや過剰な防衛が、晃一をだしにしたくだらぬ心理描写と、沸々わきあがってくる猜疑を鎮静させるために仕掛けた貴女への挑発だったのです。
前文にその模様は克明とまでは云えないにしろ、お明かししたつもりです。遅疑する苦渋の顔色までを読みとっている貴女の慧眼はまことにたいしたものだ。素晴らしいと感嘆の声をあげたくなってしまうのも無理ありません。
そして三日前、私なりの解答を提示すべく書き記した内用に封をし、あとは投函するまでだったのでした。
ところが、再度筆をとりそれまでの文面のある箇所は削除され、こうして書き直される必要が生じてしまったのです。返書の遅れはこうした次第によるものでした。

ここから書きだすことが、実質その必要性なのです。そう、これから先は端的に申さなくてはいけない。
三日前の晩、晃一はこう私に電話口で喋ったのです。
『お父さん、富江さんのこと知っているの、彼女は帰省の列車で乗り合わせたって話してるけど。それっていつの話しなの』
もちろん私は、そのような娘と隣どうしになったような記憶があると、言葉をにごしながら写真を見た限りでは思い浮かべることがあり得ないと答えておきました。それ以上の探りを入れる素振りは電話の向こうにもうかがえなかったので、その場はこちらから詮索もしませんでした。
一体これはどうしたことなのです、晃一には列車のことは触れてないと手紙にも書かれているじゃないですか。
私は確かに自分勝手かも知れません。もはや自意識を放れたところで、自在に意味合いを構成しているだけの救いようのない気まま者でもあるでしょう。だが、行動として外部に躍り出たものは正直にお話した通りです。もっとも木下さんに同じ歩調を強制することは出来ません。
だからこそ、答えて欲しいのです。果たして、どのような考えをお持ちなのかと」


[75] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年31 名前:コレクター 投稿日:2009年09月29日 (火) 04時55分

「おそらく貴女はこう反駁されることでしょう。いかにも親子揃って観念論者らしい意見だが、晃一のうしろに父親のかたちなど見受けられないまま、そこには沈黙を守り続けようとする怯懦なおとなを知るだけ、、、息子との交わりに瞠目しつつも、その実、速やかに関係が終結するのを願っていると。
そうして、これをいい機会に晃一を東京に引き戻せれば、実験とやらは寸劇として見事に演題を達し得たことになって、母親の憂慮も取り払われ、まさに青春の貴重な一頁に綴られた奇跡的なメモリーとなる。
究極の関係性にまで発展しかけたうえでの終息であるし、何よりも実際に木下さんにこうして心中を吐露して、やっと謝罪が述べられるから。
晃一本人の失恋はどうするのかと云えば、彼にあらず、あたかも遠隔操作でもして身体を自在に操ったふうに、それであたまのなかは自分であるなどど念じてみることで、息子の傷心をわが身に引き受けるかのようにして、現実の晃一の痛みから眼をそむけられる。
まことによく構成された心理劇ではないか、、、わたしのことは、あくまで復讐とは異なるアプローチでもってこころの奥に巣くった暗部を根こそぎ自分のそとに放り出し、そのついでに厄介な影法師から上位へと立ち位置を確定することで、共存とも呼べる間柄を保持出来るではないか。そのように思いこめばいいのだと。
そう云うふうにとられても仕方はありません。憑依現象など得体の知れない表現を持ち出してまでの弁明には、どこまで行っても自己保持の粘着しか見えてこない、、、
わかっています、私自身もよくわかっているのです。確かにどう言い表わしてみたところで、所詮は言い逃れでしかありませんから。
しかし、そんな弁明を私のなかに一抹の希望とも似たかたちで授けているのは、木下さん、貴女がしめされた温情と呼ぶには冷ややかな、が、突き放してしまうには非情であると感じる、ある種のとまどいではないでしょうか。
いかにも断定的な言い様ですが、貴女の文面に浮き出てしまっているみみず腫れのような奇妙な感覚、被告を弾劾する切先はあくまで懐へしまいながら、事件が過失であったのか故意であったのか問題視しない不可解な加害者意識、それは何より晃一との距離を限りなくなくしてしまうことで、もっと明確に申せば、自ずから望んで新たな葛藤を生み出そうとするのは、如何なるゆえんであるのか。貴女はこう述べてております『意識の葛藤とは複雑なものですね。それに比べると肉体の葛藤とは、もはや知性を疎ましくさせます』
私にはうら若い女性の心理および生理など把握することも分析することも出来ません。私がとらえられるのは、女性の肉感は私の意想を越えているものかも知れないと云う、ただの幻想だけです。
よく理解出来ないです、どうして私の子供と判明したのちに過剰反応するみたいに、逆噴射してしまうみたいに、安穏な日常を逸脱してまでも、たとえそれが木下さんにとって唯一の方法論だったとしても、あえて危険な断崖に歩みよろうとしてしまったのか。決してたぶらかしではない、と言い切る貴女の口調には、単に否定的な意味あいを抜け出てしまった賭博的でどこか放埒な気性が透けて見え、更にはこれも幻想の底辺に漂う気配ですが、拒絶と願望が混交とした未分化な底知れない胎動を察してしまうのです。
それは、貴女の母性が無意識的に稼動しまい、私と云う性的な種子を受け入れ夢想ともなる婚姻の結果晃一が誕生してしまう、こうした本来は有り様もない現実を抹殺するために、その時間軸を形成する親子の因果を立ち切る必要があった。つまりは晃一と先行して肉体的に結びつくことで、私の存在そのものをこの世から抹消してしまう。
貴女が復讐と呼びたくないのは、どうしても自分だけの現象として問題として、すべてを解決してしまおうと試みた、そうです、まさに観念的な方法論だったからではないでしょうか。強靭な意志のあらわれはご自身で書かれた通りです。
一瞬にして、まるで大宇宙の開闢のように、晃一から氏名を聞き及んだとき、すべては決定されたのでしょうね。交際が深まり、お互いに虜となりつつ様相が光りかがやいて、いずれは私のもとへと伝播する。
計画などではありませんよね。待っていたわけでもないでしょう。望んでいたのは、と言っておられるがそうでもないはず。貴女はただ、失態を回復したかっただけです。肉感と云う衝動を甘受してしまった、いまとなっいては郷愁と呼びならわすことさえ気恥ずかし気な、よくつかみとれない感覚を、、、
成立しないと判断された写真への反応を、随分と想像力たくましく語ってくれてますね、素晴らしい。
男冥利に尽きると喜んでみたいところですけどそうもまいりません。
それは冒頭で述べましたように、この返信が遅れた理由をこれから、木下さんによく説明しなければならないからなのです」


[74] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年30 名前:コレクター 投稿日:2009年09月28日 (月) 06時13分

「お手紙拝読させていただきました。返事が随分と遅れてしまったことお詫びします。もっとも返信無用とも思える文面でしたが、このように日にちを経てしまった理由はこれから申し上げる次第です。
貴女にはあたまがさがります。何よりも最初にこう言わなければいけない、、、自分の感情と信念をよく開陳してくれましたね。ありがとう、、、いや、感謝より謝罪しなければ、、、どうにも気ばかりが先行して思うように筆がはこびません。冷静なのは私などより木下さんのほうです。
あの写真が送られてきたとき、、、まるで完成間近の建物の設計図をあらためて見直す心境になったのは、申すまでもなく、貴女がおっしゃられた予期すべきものが待機していることを実感してしまったからなのです。
貴女と乗り合わせた列車内で、息子のことをかいつまんでお話したときから、わたしは一種の憑依現象にとらわれてしまっていた。他でもありません、晃一の生霊ともいえます。それはこういう意味でもあります。親ばかに聞こえるかも知れませんが、あの子の性格はわたしに非常に似ているし、実際思春期のわたし自身あのように偏狭な信念を十分に宿していたからです。息子との違いは時代もあると云えばあるのでしょう、反骨精神みたいなものは外部へと沸騰するまえに、鎮静してしまう作用を世間や社会は憎らしいくらいに機能させていたのです。臆病な精神を生成する空気と云ったものがわたしの環境を取り巻いていました。
ですから、偏狭さや自己愛などは、当然表にあらわにすることがかなわず、ひたすら内奥へと沈滞してゆくしか方法論が見当たらないわけで、そうなると意固地になって非常に微細なものをほじくってみたくなる。わたしの場合は語学や宗教学にのめりこめたお陰でそれが生業となって結実したまでのことです。
ところが晃一の世代では、思考と行動をさまたげている障害が以外と見つからなかった、父親であるわたしからして抑止力などなく、逆に自分が果たせなかった、もっともっと自由であるべきだったすがたを彼の裡に投影してしまったのでしょう。やりたいことを若いときにやってみる、その単純でいながら果たせない衝動を晃一はまるでその後の人生を棒にふってでも噴出させようとした。
今、単純と云う言葉を使いましたが、いえ、構造自体はそう簡単な造形ではありません。それが如実に窺えるのは、あの子の屈折した禁欲主義となって鎧のごとく身を緊縛する精神でした。
なぜそんなことをと思われるでしょうが、晃一がわたしの書斎から抜きだしては熱心に熟読した文献、それはフロイトから始まり、その亜流や現存在分析派はもとより、禅宗の研究や密教関連などをつぶさに学んでいた形跡があるからなのです。
高校の夏休み、読書感想文でマルキ・ド・サドと三島由紀夫を論じてみたりし、家内は担任の教師から『研究はおおいにかまわないが、異常性欲と徹底禁欲ならびに自己愛などと云う課題は高校生にはふさわしくない』などと苦言をいただく始末、わたしにはまさに性的なものが開花したときにこそ、自分のあたまも共振させるべきだと思うのでしたが、いざ、息子と向きあうと奨励は愚か、勝手に書物を持ち出してはならないなどと、なぜか口先は反対の意見を滑らしてしまうのでした。
もうおわかりでしょう、晃一は性を飼いならそうと試みていたのです。まるで犬や猫を飼育して順応させるように。
わたしは彼の実験精神を高く評価したつもりでした、心情的には共感さえおぼえてしまう。しかし、事情は成り行きを相当複雑のものに作り替えてしまった、、、一年前の夏、貴女に秘め事を強要してからというもの、わたしのなかではあのまちは貴女の棲むまち、通学のため名古屋で生活していようが、貴女の帰るまち、、、晃一が切望している場所と云うよりも、とにかく木下さんが存在する場所なのでした。
確率と言われているように、あの日以来、晃一はあのまちで必ずや貴女と遭遇することになるだろう、そのさきの肉体関係まで想像をめぐらせたかどうか、、、これは確率ではない、必然の悲劇の幕開けなのです。
一人息子にまつわる、そんな不穏な舞台装置、、、いえ、違います、わたしの指先が貴女の秘所をまさぐったときから、わたしは、晃一のすがたを借りて東京から飛び立ったのでした。心理学用語でいうところのまさに投影です。自由を取り戻すために、、、肉欲を再現するために、、、E.A.ポオの『Never More』を否定するために、、、それらすべてを欲するがゆえに」


[73] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年29 名前:コレクター 投稿日:2009年09月24日 (木) 05時05分

「もちろん、晃一さんにはあの列車のことなど話してはいません。でも想像してみて下さい。こころのどこかで希求したものが、実際ではないにしろ血を介してこのわたしのなかにふたたび舞い戻ってくる。
あなたの息子さんは一途な思いで抱いてくれるのです。そして、遂には結婚を申し込まれたのです。
貴方が彼をこのまちに解放したように、わたしは彼を貴方のこころに解放してあげたように思います。彼の携帯で写真を撮らせたのもそんな意志が秘められていたからに違いありません。
貴方のつぐないが、自然にうちに回帰することを願ったのであれば、そこでは価値や常識、保身や弁明さえほとんど色褪せたものになり、そして最終的にこのわたしの采配へと、つまりは悪夢を日常へと委ねたのであれば、避け得ることが可能であったにもかかわらず、その悪夢のなかに自ずと飛び込んでゆくことで、貴方とともにわたしは暗黒の世界を旅することになるのです。
もう影法師を意識することなく、こうして、ようやく、自分らしさを発見することが出来るのでしょう。
晃一さんの影に貴方を見ているわけではありません。わたしの影の裡に貴方たち親子の人影が棲んでいるのです。
さて、肝心な一番重大なことをお話しなければ、、、わたしの心情がどのようなものであったかは、ご推察いただけたかと思います。
他者から見れば、といいましても貴方以外に口外する気はありませんけれど、おそらくこんなふうに解釈されるのではないでしょうか。
『態のいい、復讐劇だ。しかも、快楽を肯定する口実を巧みにはらませている』
実際、磯野さん、、、いい面の皮だと苦虫をつぶしながら、これからさきの現実をどうやって共有していくのか、そんな観念論でものごとを判別したところで、悲劇が、しかも、毛抜きで一本一本頭髪をつままれるような陰険な悲劇が続くだけ、そう思っているのではないですか。
ご心配なく、わたしの影に納めたと云う意味をよく吟味して下さい。貴方から受けた肉感、、、肯定することさえ覚束なかった、閉ざされた暗所、反面、こぼれ日が聖水のように降り注いでいる魅惑の神殿、陵辱と誘惑、まだまだおとなになりきれない、割りきれない、すくいとれない混濁したこころ。
どうぞ、お願いですから復讐とは思わないで下さい。これはわたしのこころの問題なのです。これが精一杯、自分と闘った証明なのです、おんなとして、ひととして、これからも生き続けなくてはならないかがやける存在として。
彼とわたしだけの世界はもう終わりました。短命であることを覚悟した恋でした。こうしてものの見事に貴方に知れた以上、これで悲劇風の寸劇は閉幕されます。
わたしは晃一さんの求婚を断るつもりでいます。これが何よりの誠意でしょう、そして観念論ではない生き方の結論でしょう。結果、彼ひとりが何も知らないまま、ただひたすら傷つきますが、それはわたしたちの眼を通したうえでのことです。
彼は初恋に破れただけです。人類共通の悩みの一頁を開いたのです。『君はやはり小悪魔か』そう版押しされても仕方ありません言い草ですけれども、、、
悪魔ついでに、これも邪推であればと願うのですが、磯野さん、貴方の思惑はもしかしてわたしとは似た位置にありながら、それでも、限りなく平行線をたどってしまうところにいないでしょうか、、、間違っていればどうぞお許し下さい。
まさか、貴方は悲劇を喜劇へと転化して、ええ、こう云うことです、、、彼との結婚を了解どころか、それすら予想図に描かれており、わたしとの関係をさきほどの風化とは異なった意味で、再編してみる方法も念頭にあった、、、ああ、それこそ悪魔です、、、そしてこんなよこしまな考えを浮かべてしまうのも自分のなかにも悪魔がひそんでいると云うことでしょうか。
想像です、妄想です、いいえ、そんなふうに、そんなドラマみたいに人間の思考は大胆に働かないものですよね。
さあ、晃一さんとの別れをどう切り出すか、なるだけ彼の心中を察して、もう一度、徹底したオナニストに帰ってゆくように、、、
磯野さん、アドバイスは失礼ながら必要ありません。大事なひとり息子でしょうが、決してたぶらかしているわけではありませんから。それはこの手紙に書き尽くしたつもりです。

木下富江」


[72] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年28 名前:コレクター 投稿日:2009年09月24日 (木) 05時02分

「前略、この様な形でお手紙を差し上げるとは思ってもみませんでした。帰省の折、列車内で隣合わせた夏から一年が過ぎてしまった今、何か巡り合わせでもあるかのように、貴方の息子さんと知り合い(出会いやその後の詳細は晃一さんから聞いてらっしゃるでしょう)ええ、先日も彼から両親に対して、わたしのことを随分と熱心に報告、、、こう云ったらおかしいでしょうが、確かにそれは熱意のこもった言葉であったと思います。
晃一さんは、そんなやりとりを逐一伝えて下さるので、わたしには磯野家の狼狽ぶりが透けて見えてなりません。とは申しましても、一人息子の早婚に対するご両親の内心をわたしの側から冷静に見つめさせてもらった場合、そう、すでに貴方の胸中を支配してしまっているのは、若年の身で早まった結婚を希求する情況以上に、あの夏の日の淫猥な想い出があれから片時も放れることがなかったであろう、錐でもまれるような痛感ではなかったでしょうか。
そう念じたいのは、ことさらに沈滞した心情でも過敏な神経でもないはず、、、ごく普通の思いではありませんか。
貴方の当惑の由来がそこにあることは、ご自身が一番ご存知でしょうし、更に輪をかけて痛みを深めるのは、わたしの尊大な態度に他ならいのもお分かりのはずです。
息子さんが、ひとりこのまちで暮らす決意を示されたとき、何よりも予感として(そうです、確率的な)このわたしと遭遇する可能性を取り払うことが出来なかったのは、隠しきれない気持ちであり、しかし、差しだしてしまったあの一枚の名刺の行方を非常に怖れつつ、わたしがその後、貴方に苦情なり抗議なり連絡をしなかったことである意味安堵を抱きだして、これは憶測の域を出ませんけれども、、、自然と風化してしまうよう、ことが本能による所作であったよう、わたしの受け身も時間のなかにかき消されていくと願ってみたのではありませんか。そう思いこむことで、確率的な不安は、ひとつの運命へと浄化され自らのこころをも平静化させてしまう。
すると、晃一さんとわたしとの関係はあくまで因果に結ばれながらも、遠い糸口の隔たりは予感された自然の意思の裡でふたたび自由を取り戻し、貴方の悪心は消滅されることなく、能動的に時間の裏側に返されることになりますね。無造作に振られる賽子自体に何の邪心も存在しないように。
貴方の危惧はそうやって、つまりは怖れをすでに了解してしまう発想の転換をもって、ご自分の贖罪へと収斂させてしまったのです。そうでなければ、息子さんから写真を転送されたとき、あの前もって決められていたかの反応が成立しません。貴方は実は待っていたのではないですか。こんな日がそう遠くはないうちにやってくるのを、、、平静なこころを保持し続けながらも、いえ、その平静さを知るがゆえに来るべき運命を密かに祈っていたのではないでしょうか。
さすが宗教学の教授でありますこと、生と死の境地を悟ってしまったみたいな精神ですわ。勘違いしないで下さい、わたしは軽蔑をふくんでそう言っているのではなのです、、、誤解なきよう、そしてすべてを語り尽くすためにも、これからお話することを、今度は貴方が疑いを持ち始めてしまうことを懸念して、こう明言しなくてはいけないのです。
『そんなときを望んでいたのはわたしのほうかも』と。
ああ、罪深いひと、、、貴方の痴態に反応してしてしまったのは、わたしにとっては汚辱であると同時に強烈な郷愁となって、この身に眠ることを知らぬ妖怪を棲まわしてしまった。
お分かりいただけるでしょうか、始めて彼と山道で出会った際に名乗られた名字、、、このまちには一件も存在していない、鮮烈な想い出を急上昇させてしまう、貴方と同じ姓、、、封印しきれずに、かと云って苦悩を育むほどの過去ではない、まるで自分の影のような印象さえあたえ続けてしまう暗がり。
あのとき即座に全身を貫いていったのは、まぎれもありません。貴方の指先だったのです、、、
しかし、わたしはその後こう幾度も反芻するよう言い聞かせたのでした。
『磯野教授が忘れられないじゃない、これは恋でも憧憬でもない、得体の知れない郷愁なのだ。肉感と云うものが訪れ、見知らぬ世界を開示していっただけ』
そう念じてみればみるほどに、自分の淫らさみたいなものを了解してしまうことになりかかり、列車がトンネルに潜ったときの闇の到来が、本来閉ざされているものをかいま見せてくれるように、暗中であることで眼には映らない別のものを感じさせて、それが性的な一面を浮上させようとしているのか、おんなはこんな感性を持ってはいけないのだろうかなどと、日常にさらされないこんな意識をどうにも上手く扱うことが出来そうもなく、じっと影を見つめる不安のこころにもう一度、投げ返してしまうのでした。
意識の葛藤とは複雑なものですね。それに比べると肉体の葛藤とは、もはや知性を疎ましくさせます。
晃一さんと再会するきっかけを講じたのはわたしです。その際に、、、あなたの血を受けた、、、そうです、肉欲を彼に求めたのもわたしのほうからなのだったのです」




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