COLLECTOR BBS
[83] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年39 名前:コレクター 投稿日:2009年11月09日 (月) 18時51分
「触ってはいけない、医者はどうしたんだ。すぐに手術してもらわないと、、、」
あわてふためき突き上げてくる衝動に忠実であることを夢は認可しない。床が強力な磁場で形成されているかの身動きの制御が夢の常套手段であるとしても、全身から生き血が抜きとられたこの虚脱感はどうしたことだろう。
「そうだ、ここから脱出しようとしているんだ。これはまやかしに違いない」
「虚構と知りながら興奮するのは誰、あなたの血は抜かれてしまったわけじゃないわ。騒いでいるのよ、血が騒いでいるのよ。熱い眠りをご存知でしょう」
富江がそう言っているのか、ひとりごとが聞こえてくるのか、判別はつかなかった。ただ、ある論理的な考えが呼び起こされる。
「授業中に生徒らが収拾つかなくなるくらいに騒がしくなる、途中でこれは夢だと気がつき、冷静に目覚めを待ち受けるのだが、スクリーンの裡に物語が展開されていくように、目のまえの情景は決してとどまろうとはしない。吸血鬼にとりかこまれるおぞましい場面に接したときに、おれも首筋を食いつかれて奴らの仲間になればもう恐怖は消えてしまう、などと開きなおりながらも最後には絶叫を浴びせる、いや、ふりしぼることで夢魔から解放される。生徒たちに対しても同様、怒りとも悲鳴ともつかない雄叫びが精々のところ、、、よく覚えているはず、身を挺して異形の群れや恐怖の原型を体現した輩に飛びこんで行くのは、必ず目が開いてからだってことを、、、」
「ではどうぞご自由に、わたしも晃一さんもあなたに襲いかかったりしませんから」
富江の声は、この世のものではないくらいに優しく耳に届いた。天女のごとくやわらかな羽衣の言の葉は孝博をいっとき慰撫しながら、笛の音が風にかき消される風情で、ゆるやかな傾斜にふたたび意を馳せる。
「地平線を知らない原野よ、ここだろうあかずの間の扉は。それでもってそいつが鍵っていうわけか。笑わせるんじゃない、一体誰の夢だと思っているのだ、おれの夢なんだよ、これはおれが編み出したからくり仕掛けで稼動しているのさ。すべて答えはまさにここに眠らせてあるんだよ」
そう虚空につぶやきながら、孝博はさきほどと同じ笑みをつくったまま見返している晃一に殺意に近い愛情を込めながら近づくと、ためらうことなく、純白で満たされた眼帯に向かって手をのばし、清潔な屹立を保持し生地を痛めることなく芽生えている、刺にしては長すぎる小枝をつかみとった。
「父さん、それはぼくが自分で、、、」
ささくれた感触をにぎりしめる孝博の手を、ひんやりとした、しかし力強い晃一の手が被った。息子の体温が自分より低いことにやるせなさを感じつつも、素早く痛みに切迫する被虐で声を押し殺すようにして、
「放すんだ、おまえの痛みはおれの痛みなんだよ。おまえじゃ無理だ、一気に抜きとってやるから、その手をどけろ」
そのとき孝博は自分の言葉の影に、幼年のころ押し入れに自ら閉じこもって泣きわめいたこと、母と湯船につかりながら『孝博ちゃんはお父さんとお母さん、どっちが好きなの』と問われて、何も言えずに無言を通していたら『こういうときはお母さんと答えるのよ』とかつてないきびしさとかなしみを突きつけられたこと、そしてあのあげは蝶の優雅でせわしない羽ばたきと、彼岸花の鮮血を香らせる生き生きとしたすがた、それらが連続写真となってよぎっていった。晃一の手は死人のようにつめたく、かたくなであった。
夢の時間をひとは計れはしない、、、それからどんな攻略が応じられたのかは演出されないまま、いつの間にか、てのひらにある木片を、それは小枝を細工して鍵状にこしらえたとでも云ったふうな異物を、まじまじと見据えているのだった。あまりの様式性に興ざめしてくる、あの退屈へと橋渡しされる手前のため息が、新たな地平まで未開の地までかきわけて行った先発隊の報告を受けるまでもなく、そっともらされた。
「閉じているんだね、地平線も水平線もないんだね。どうして夢の造形まで球体で作ってしまうのだろう、、、あのまんだら図絵みたいに、、、」
夢はとても律儀であった。意外性と放埒に耽りながらも自ら陶酔することなく、様式美を重んじて常に欲望の発火点に気配りしながら、無限地獄と理性を調和し、和声の響きをもって富江にこう語らせた。
「あなたの夢が嫌なら、どうでしょうか、わたしの夢をごらんになっては。それも嫌ですって、嫌ではなく見れないのですよ。そうでしょう、仕方のないひと、さあ、その手にしたものをわたしに、、、」
孝博はほぼ覚めきっていた。そして、こう確信を得るのだった。
「出口が薄皮一枚のところに、おれはいる。手につばを吐いて、それで顔を洗えば目が覚める」孝博は覚醒へと急いだのだが、「おっと、いけない、別の夢見を繰りひろげないと」
すると、富江が言った。「そうはいかないわ。ごらんなさい、あなたの顔、そんな顔でよそに行けると思いますか」
つばきで禊ぎされたと思われた孝博の顔には、耳以外に目も鼻も口もなにもなかった。
[82] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年38 名前:コレクター 投稿日:2009年11月09日 (月) 05時43分
夜の海からゆっくりとわき上がる、落ちつきに満たされ出した気分にひたろうとする刹那、忘れかけていたもうひとつの感情が静かに、まるで足音をしのばせたかのような慈しみをもってこの胸のなかに浸透してゆく。
美しい音色でこだまする幽かな旋律は、思念においては捕らえようもない、不穏な気ままさと気高い曖昧さに包みこまれているようでその正体を見定めることなど及ばず、ただ夜目に映りこむ安慮で予感された気配に静謐な調べをささげることによって、はじめて世界の輪郭線がとけだしていることを知るのであった。
孝博の意識は眠気を受け入れようとしている。緊縛に苛まれる時間を振りほどこうとした結果でもあろうが、安易に夢の彼方に降りてゆくことを拒んでみせる、あのつつましくもやわらげな意思が、油に水ををそそぐようにして胸の裡を燃え上がらせ緊縛の縄を焼きはらった。
油は皮膜からしぼりだされ、水は涙の通りみち深くにたたえられ、それぞれ異質の感性で培われていたけれども、帰ってゆくところは同じ場所であり、それゆえに火焔は立たず白くかがやくばかりであった。
夢の炎は冷たい、少なくとも外界の温度よりはるかに低温であり、すべてを鎮火させる作用を秘めている。まどろみかける瞬間、孝博は両の目がまたしてもこちらに反射しているぬけがらになったような自分の顔と出会った。陰影深く沈痛なその面持ちはいわくありげな謎を孕んでいながらも、所在ない子供の無心へとすげ替えられるぞんざいな視線を放ち、音もなくまぶたが閉じられるのだった。
至上の旋律はこうして鼓膜の向うがわで奏でられる。長いトンネルへとのみこまれた列車とともに、、、
記憶の原野はその広大さを偉容をしめしてみせるわけでもなく、ちょうど小さなつむじ風のごとく孝博を軽やかにまえの夏へと引き戻した。
開け放たれた窓に花ひらく祭りの夜と向き合った、三好荘での一夜。想い共々に二階の欄干から落ちてしまえばさぞかし気楽なものだと、酔眼を弾ませながら、夜空ににじむ打ち上げ花火の残影に感傷を差しだした、あの動揺たなびいた過去が信じられないくらいに懐かしい、、、
来るべき予感の兆しを胸に宿したときが、これほどまでに美しく悲哀で彩られるのは、きっと我が子を身籠ったあらゆる生命体が抱く、しあわせの絶頂であると同時に死への道標であるからに違いない。古代人は、いやそれほど遠くもない人類もそう感じとっていただろう。
夢の無限とも云える勾配は、こうして孝博の意想を華やかに大きくさながら大輪が弾け出す火花となって映像を生みだし、瑣末な神経を豊かな所作に駆りだして、悪夢が悪夢であることを、亜空間が時間どころが魂までもねじ曲げてしまったことを、まのあたりに顕現させる。そこではすでに悔恨や内省は流れ去る星屑となって、物質の残骸であるかのようただ一瞥をくれるだけ。
けれども果てしもない彼方にひかりかがやく星たちの、たったいまここに到来しつつある、あまりに壮絶な意志のようなもの見上げる目に、切実な祈りはやはり含まれているのだろうか。
孝博の夢想はきらめく光線と一緒になって、今度はあの夜の氷が浮かべられた木桶が思い返された。いまが夢のさなかだとは彼はもちろん知らない。しかし、どんなに豪勢な巨大客船のなかで宴に酔いしれようが海上を運ばれていることを疑わないないように、ここが日々の延長から不思議な扉で閉ざされている空間であることは半透明の意識にしみ出す岩清水の清澄さで感じとっていた。その純粋さは、夢見を限りなく尊いものに導く。
木桶にはられた氷水を弾きかえすようにして、きらきらと饒舌なひかりを浮かべる光景は、まるで夜光虫の自在さで部屋のなかから遠く天空の果てにと誘われてしまい、そのひかりの、まさに瞬時の、奇跡をふりまく様には陶酔さえも追いつけないあきらめをおぼえるしかなく、取り残されたこころはせめてもの意趣返しと云わんばかりに、放心状態を甘受するしかなかった。
ところが小さな願いは祈りへと通じていったのだろうか、そんな無心に、白地の画布に、人恋しさからそっとなぞってみるときの素描のかき出しに似た微笑が現われる。
孝博は病室らしき寒々とした部屋のベッドに横たわる晃一の顔を見つめていた。
息子は以前とかわりのない白い歯をみせ、こちらをうかがっている。少年らしい、どんなに大人びてもようとも高尚な精神に囚われようとも、いつまでたっても自分の子供であることにはかわりはない。
「目は大丈夫なのか」孝博がそう声をかけるのと、晃一の「だんだんのびてくるんだ、この小枝が」と悲しみとも喜びともつかない声色が重なりあった。
そのとき孝博は「いまのは晃一が喋ったのではない」そう強く、裁決をくだす勢いで念じられ、さきほどからベッドのすぐ脇に立っている富江のすがたに驚いてみせる必要もないように、ほどこされた眼帯を突き破るようにして人さし指ほどの長さで右目から芽をだしている、若葉をもたないささくれだった小枝に言い放ったのである。
[81] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年37 名前:コレクター 投稿日:2009年11月02日 (月) 06時06分
道行きを指し示していると疑うことさえ億劫になる沈滞した気分が更にその場から動くことを怠るのは、ぬるま湯のなかに浸り続ける居直りにも似た情況であった。
車両が揺れるように、湯船も心地よさをぬぐい去ることなく、次第に冷めゆくであろう身を憂いながら、それでも残された砂時計の分量を湯水に換算する想念は、健気にもまだ命のともしびが絶えることなくゆらめく可能性を決して疑わない。
地震のごとく大地が轟いたとしても己の意識はすぐさまに危機を覚えない、あの不遜な身構えは如何なる理由で微少な猶予を差しだすのか。恐慌から免れる為に毅然たる判断を瞬時に養う、つまりは防衛本能が稼動した証しとでも云うのか。
孝博のこころは列車が響かせる反復的な震動を受けていた。懸念が増幅される必然は警告文となって胸に突き刺さってくるべきところ、揺れ動き定まらない机上で文が綴れないよう、想いが言葉に変換出来ないよう、まるで水のなかに書かれた文字の連なりとなって、こころのなかに沈みこんでいった。識別が可能であっても意味は水面下でたゆたう海藻のごとく判読を阻害しながら、もどかしさを呼び起こしつつ、そのまま霧の彼方に留まろうとしている。
ところが彼は知っていた。すでに防衛段階から身をかわし、新たな虎口に面している事態を、、、そしてこの乗り物から見遣る左右の車窓は、まるで映写機でもって意識をそこに促す幼稚でしかも投げやりな態度の流れを生みだし、その感覚的な事象は段々とあふれゆくであろう水流へと重なりあわせることによって、より深く言葉を底のほうへと沈みこめるのだった。
これは放逐なのだろうか、困苦から逃げだす行為にいつも言い訳が追いついてくる自意識の攻防、あげくの果ての神経麻痺。
「いや、麻痺などしていない、、、聞こえてくる、この身をひたしている、まわりの空気が水のような抵抗を感じさせている、見えている、いつかは水流にのまれることがやってくるかも知れないが、揺れては浮き上がる言葉のとまどいと勢いが、自分のなかで幾層にも重なりあうのを、、、」
それは災害などと云った不可避へと推し量ろうとする諦観に、ひとしずくの涙でこたえる感傷ではなかった。滂沱とした感情の発露は地下水へと通じることで、もはや大仰なまでの形式的な悲哀にすべり込むことなく、浄化作用の域から逸脱することはなかった。
ゆっくりと、絶え間なくみ出される泉水の微かな音が、決して洪水へと直結などしないように。
静かな反復にささえられることは災厄を、日々の連鎖の過程に薄めてしまい来るべき悲劇を待ち受ける心づもりへと昇華される。
孝博を満たそうとしているもの、それは確かに道行きがもたらした心痛であったに違いない。けれども痛みの根源を穴が開くほど見つめてみたところで、ちょうど虫歯にさいなまれた箇所をより一層知覚してしまうことと同じく、効果的な解決策には至りはしない。
「そうさ、三好からいくら今は体力消耗で安眠中と知らされようが、たとえ携帯をとることが無理だとしてみても、すぐさまに晃一に連絡をつけようと試みるのが、親と云うものではないか。だが、そんな簡単なあたりまえのことを邪魔する思惑がこうしてひそんでいる。転落事故の顛末は透かしガラスの向こうで起こった出来事みたいに輪郭もはっきり見定められ、その余波が、晃一は無論のこと富江や三好家までに及ぼされる、それから、、、それらは、すべて自分へと収斂してしまう未来図までが、すでにもう出来上がっている、、、」
トンネルをくぐる頻度が増してした頃、傷ついた晃一が眠るまちへと近づいてきたことを感ずるほどに、孝博の胸騒ぎは反対に治まりつつあった。直接に連絡をつける行為は、軟体生物が示す生硬な葛藤の末に控えられた。
代わりに彼のこころに満ちはじめたのは旅情と呼ばれる、不確かでつかみどころのない感覚の氾濫であった。名も知らぬ駅に向かうわけでも、人里離れた温泉宿をめざすわけでもない。
しかし孝博は夢想することで、無用な気遣いを回避させようと努めた。
「祈りの本質とは天上や奥底に向かうばかりではないはず、こうして脇目で意想をずらしてみることも、個人的な行為として下賤ではないだろう」
難題を抱えて寝床に入った深夜に、案の定顕われて来た夢想の影絵が期待通りに展開せず、まるで様変わりした光景で映しだされるよう、孝博は異相を夢見るのであった。
[80] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年36 名前:コレクター 投稿日:2009年10月27日 (火) 06時32分
線路と云う一本に連なる道行き。山間部を抜ければ又すぐに待ち受けているトンネルと云う局所的な空間 ― 母体に開けられた魔法の時間が過ぎゆく漆黒。
トンネルをくぐるたびに孝博は、夜明けや日没の意志に促されるよう、思考がおおらかに切り替わっていく快楽とも呼べる意識の連鎖に抵抗することを放擲した。
常夜灯の清らかさが、夜を限りなく讃える様は、トンネル内に設置された灯りの流れも同じこと。
晃一の山中での事故は、大事に至らなかったしらせを受けたこともあり、今こうして孝博の胸裡を安静にしながら、転落間際の息子のすがたに想い馳せるのであった。
苦い恋の味などと、我ながら歯が浮いてしまいそうになる文句さえ想起し、そのあとに連なるであろう父親としての提言が傷心の晃一に浸透するがごとく吸い込まれてゆく。
「たとえ過失以外の事態であろうとも、おまえは短期間で見事に燃焼してみせた。田舎暮らしを試してみたと云うことは都会脱出も体験済み、性的なものにまつわる煩雑な心理と体感は、禁欲とうらはらに極めて実験的に推進され、しかも婚姻間際まで情念を解放することで、抑圧されるべきものはなにであったか、少しは理解出来ただろう。素敵だよ、晃一、爽快だよ、せがれよ、怖れを知らないことは善いことなんかではない、おまえは怖れを洗練のかたちで敬遠させ、そして終いには破壊する覚悟で燃えつきようとさえしたではないか。
純朴とか自然とかも形容として援用するまでもない、おし着せの洋服が板についてなかったのは昔の日本人とて同じ、、、本当の自然など言葉や概念で言い表せることは到底不可能さ。
どうだい晃一、今度は学術のための大学とし徹底して勉強してみないか、ああ、いいとも彼女のひとりやふたり、それはそれさ。そして父さんの研究を手伝ってみる気はないか、そうだな、わかるよ。盗み読みする程度の学術とやらが楽しいと言いたいのだろ。エロスだって覗き見が最高とか誰かが書いてあったって!誰だい、そいつは、ははは、おまえ本当にそうだと信じるかい」
夏の陽射しとはあきらかに強度が異なる乾燥した空気を暖めようと努める今日の光線は屈託なさそうにも見え、そのじつ気性をあえて大地に色づけてみたとでも云った、不埒な永遠が線路沿いにところどころ群生している彼岸花が赤味と化しているのを見いだしたとき、孝博は再び幼少の頃へと記憶の産毛を、あげは蝶に託した。
目と鼻の先にたたずむ校門から自分の家まで、ひらひらと低空を舞ってゆく黒地に黄色の紋様が泳いでいるあげは蝶。こんなに通学距離が短いことを一緒に楽しんでくれているのか、そのあてどもない上下左右への慌ただしい飛来が遅刻寸前の半泣きの同級生の仕草を類推させ、年少時特有の優越感を培養した。
そんな微笑が育む香りたつ情感は、そよ風の気まぐれにも似た透明さのなか、ゆるやかなスロープに沿って歩を進めて行くよう無心のまま汚れなき想念へと結ばれる。
家の窓から眺めている孝博の目線を次第に陶然とした奇妙な感覚へといざなったのは、その予測不能な飛来方ではなく、三角形に作られた黒衣とも見まがう羽ばたきの裡に黄味が溶けてなくなる、そして不意に土塀などに止まったおりにかいま見せる、細身で壊れてしまいそうな胴体が醸し出すあやうい優しさ、と同時に以外な箇所から顔を出して思わず否定せざるを得ない、禁じられた想像であった。
蝶全体の質感があたえるのは、軽やかで艶やかな体毛、、、そう、浴室でしか見ることのない母の股間にとまっている生物、、、溶けてしまい、隠れようとしているのは、体毛から覗かれる普段は決してあらわにされることなどない、柔らかなところ。
その夏休みが終わってしばらくした頃、孝博は転校した。
引っ越しの際に数回しか乗ったことがなかった列車に揺られながら、遠くの風景ばかりに気をとられていたのだったが、各駅で停車するたびに線路沿いに赤く染まる花の名を母に尋ねてみたことがあったのを、たった今まで忘れてしまっていた。
[79] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年35 名前:コレクター 投稿日:2009年10月27日 (火) 04時59分
新幹線でN駅に到着した孝博は、特急に乗り換え待ちのあいだに晃一の消息をようやく得ることが出来た。
三好の主人から直接の連絡であった。
「とにかく意識もしっかりしているし、本人は歩けるって言ったそうなんだよ。骨折もしてないようだな、打撲程度ですんでほんと不幸中の幸いだって。ただ、右の眼が痛いっていうもんで、精密検査を、、、もちろん、全身診てもらわないとって。ええ、そういうわけで」
孝博は受話器へと三好の張り上げる声が、ホームの拡声器を通して上空から鳴っているのではないかと思われた。その声色は釣り師が何年か一度しか捕らえられない獲物を手中にしたような喜びがあらわだったからである。
孝博のこころも躍った。だがつい先程までの曇った気分は、一気加勢に霧散される義務に反撥してみせるように、青雲たなびく空は足もとから彼の裡へと、まるで地面に鏡を敷きつめた反射となって映りこむのだった。それゆえに三好の笑声は天上から降りてきたのかも知れない。
善きしらせに安堵してみせるとき、うわずった明朗さに茶々をいれてみたくなる心境が、幸福の証しであるならどんなに素晴らしいことだろう。だが孝博にとって幸福とは、ある意味不可解なものであった。
閉切ったはずの扉からわずかにひかり差す情景に頬をゆるめながらも、眼は凍結した視線を維持し続けてしまうように。
そんな観念が今ここで培われたわけではなかったが、晃一の安否がわかり次第、更なる課題が孝博を待ち受けていることはさきより明瞭であったし、勝利の凱歌にあわせて判明した息子の事故の顛末を聞くに及んで、その不可解さは、より錯綜した日常を眼前へと引き延ばしてしまうのだった。
「しかしまあ、なんであんな山のうえから転落したんだろうね。夜中だったっていうし、でもよかったさ。あんなとこ猪か猿しかいないからさあ。農園のひとがたまたま赤い自転車を見つけたっていうから」
孝博は晃一から富江との出会いが、三好荘の後方に高まる山腹であることを聞かされていた。さきほどから三好の話す山とやらは間違いなくその付近と思われる。
今朝、近所に投函した富江宛の手紙のなかで結んだ内容が、はやくも白々しく技巧的なひとりよがりの文面となってしまっている事実に赤面し、けれども手遅れな筆消しに狼狽しつつ試みることと云えば、羞恥があたまから逃げだそうとしていることを自覚することだけであった。
「そうだ、三好に尋ねれば富江との直接対話も可能になる。それは少しも不自然なことでもない、そしてすぐにでも彼女に問うべきなのだ、、、なにを、、、いや、かまわない、晃一の情況だけを問うてみればいい、、、そうすれば、、、そうすれば、、、すこしは落ちつく、、、」
わずかの間にめぐったものは意識の循環などではない、船酔い客が乗船まえに想像とやらで余儀なくされる怯懦の予習であった。それは他でもない、波間に揺れる感情がいつまでたっても鎮静されない自然の理であった。
「じゃ、昼過ぎに駅まで迎えに行くから。孝博さん、そう心配しなさんな」
結局、意気盛んな三好のほうが実の親より、例えお祭り騒ぎに似た気概を発しているとはいえ、悠然と事態と向き合っているではないか。
そう考えつつ孝博は、富江が幾度となく書き示した影法師と云う言葉を反芻してみることで、自分の行動を正当化する機会をあたえられたと思いなおすのであった。
「晃一は死んだわけではない、ちょっとした遭難だったのだ。これを期にあいつもこころが生まれかわる」
特急列車に乗り込みながら、沈着さがあのまちの方角より自分のもとにさざ波のように向かってくるような心持ちがした。それは皮肉にも焦る勢いですがりつく方法を回避した結果こうして得られた。
[78] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年34 名前:コレクター 投稿日:2009年10月27日 (火) 04時03分
単線鉄道の轍はどこまで行っても音響でしかないにもかかわらず、このように記憶の残像を呼び寄せてしまう加減は、、、祝福に包まれた光輝とも、災禍に圧しやられた苦渋とも異なる、がしかし、その双方を遠い彼方に想いかえしてしまう加減は、、、一体どこからこの耳に奥へと通じているのだろう。
単調な響きがもたらす催眠効果にも似た安定感は、切迫した情況をまるで真綿で被ってしまうように、心臓の鼓動を決して増幅することなく、反対に雲がかかった視界のごとく見定めを確定させない、意志を高揚させない、そして感情を隆起させないことで、こころの音をそっと静めてくれているのだった。
また、予想すら覚束ない、無邪気な童心が表現してみせるあの蝶の飛翔と寸分の違いがないであろう、軽やかさはすぐさまに嗅覚的な領域へと想いことごと連れ去られ、鼻孔へ糸状の風がすっと抜けていったときには、それが何の臭いか判別つかないまま、しかし、すでにそれは或る遠い過去の光景を脳裏に描き始めようとし、次の瞬間には、現在の、この現在の、車両を運んでいる金属音が視覚をつんざく閃光となって道行きを案内しはじめる。
小学の低学年まで市内に住んでいたこと、あまりに校舎と住居が近すぎて、特に運動場など自分の庭みたいな感覚で視野にすっぽりとおさまってしまい、子供ごころにも違和感を育成していたこと、だが、裏の広い道路を隔てた向こう側は『まち』と呼び慣らされ、決してひとりでは足を踏み入れた試しがなかったことなど。
そうしながらも、記憶の蝶は自由にはばたき、商店街に面してしたパチンコ店の脇に細長く通じていた路地の薄明かりへと、閃光はあたかも急激な暗転で羽をおろし、暖色の透きガラスの扉が開閉するたびに大きくもれてくる銀玉の弾きだされる音に得も云われぬ、興味を感じるのだった。
こども同士が、たとえそれが何人いようがうかがい知れない、そこはおとなの秘密場所。騒音ともに下界に吹きこんでくる、冷房のひんやりした空気、それから、灯油にまぶされた金属みたいな、わずかに鼻をつく酸味のある臭い、、、立ち止まることは出来なかった、路地とは抜けていくところ、微かの時間ではあったけれども、鮮明にこの身体に触れていった想い出。何度、あの臭いに出会ったのかは覚えていないが、ああ、おそらく夏だったに違いない、外気とは異質の全身の体感すべてへ急激に侵蝕してくる冷気、、、
回想はいつも曖昧であるけれど、そのじつ以外や遠近定まらない必然色をおびている。
孝博の胸中には、煩瑣な蜘蛛の糸が巣くっているはずだった。そうあるべきからこそ胸騒ぎが途切れることなく、ため息は焦燥への加速を増すための懸命な生体反応となり、禍いが強迫するいばらのトンネルをくぐらなくてはならなかった。血を分けたたった一人息子に危機が訪れてしまった。
こころのどこかで予期していただの、己の宿業などでは済まされない危機が、津波のように発生し、この先を案じることさせ、どこかに捨て去りたいほどの絶望感に支配されている。
しかし、思念はところかまわず駆巡り、孝博のすべてを蝕みはじめ、負の方角からは来るべき使者が予言めいた口調で、早くも鎮魂に向けた説教を唱え出し、孝博の神経を必要以上に逆なでしはじめ、だがそれは悪夢が絶頂に到達する間合いと同じくらいの駿足で、不意に掻き消えてしまい、と云うのも明確な現状など把握していない故に、闇夜を暴走する荒馬となる妄念の行きつく先がどう転んでみても、自ら鞭打った結論でしかないことを薄々知るに及ぶからであって、では楽観すべき余地の土壌が拓かれているのとなれば、その場所には気安いなぐさめが不必要なように、安直な憂慮はまさに安直なまま、車窓のうしろへと流れ去ってゆくのだった。
胸のなかにどっかりと居座り続けるもの、、、それはやはり悪夢となんら変わりはない。しかし、夢のさなかにおいて、夢そのもの、夢の形式と云うもの、それを知悉した冷静さを経験したものならば、こう意識をねじ曲げることは無理なことではない。
「これは夢の夢なのだ」
意識が膨満感に苛まれ、神経が末端を見失いかけるとき、伝家の宝刀はその鞘から抜かれ、妖しい銀色のひかりを放ち出す。月影の鎧武者の魂魄はそこに宿り、あの火事場の馬鹿力といった瞬発的な奇跡がこの世に展開する。
我々はそれを放心と呼んでいるではないか。長時間は保てない、これは希望でも絶望でない、生体反応が燃え盛る一刹那は、孝博にとって幸運なことに、時間的連続体を端的にかいま見せる列車内と云う場面を提供している。
悪心にせよ、何にせよ、泡沫のごとく消え去る運命にあるものは、決して彼だけの精神ではなかった。
[77] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年33 名前:コレクター 投稿日:2009年09月29日 (火) 04時59分
「翌日は家内が晃一に電話したのでした。意気消沈な息子のすがたに胸が痛んでいる様子は十分に理解していながらも、今回のことは家内の耳にしてみれば突拍子もない事態には間違いないはずですが、初恋の沸騰とでも片づけられてしまう程度のインパクトしかあたえてないのも実情、磯野家にとってそれは一見大事件にも思われ勝ちな予想図でもあったのです。あくまでも磯野家全体として。
ところが、私の胸中はもはや別の場所で警鐘を鳴り響かせてしまっている。そうです、貴女と云う異質な思考に対し、それから堕ちゆく光景しか想い浮かべることが出来ない晃一の苦悶に対し。
『何を都合のよいことばかり言ってるの、まだわからないのわたしのことが』厳しい語気でそう答える貴女の声が聞こえて来そうだ。
ええ、よくわかりません。本当にわからないのです。精々受け止めることが可能なのは、貴女のお手紙の字面だけです。しかし、そこから抜けでてくるような言霊とは異質の、そうです、貴女自身さえもがよく手綱をとらえていない、反語的作用ともいえそうな怨念じみた言葉のひとり歩きは簡単には理解しがたい領域にさまよいだしているのだと思います。それは、この文章によく顕われているではないですか。
『晃一さんの影に貴方を見ているわけではありません。わたしの影の裡に貴方たち親子の人影が棲んでいるのです』
普段より活力は低下しているようだが、深刻な意見を吐くほどに晃一は衰弱していないと知らされました。もとより、息子は弱みを表面に出さない性質ですから、どれほどの精神が保たれているのかは推測しかねます。
私は是が非でも、息子を東京に引き戻すつもりでいます。これが木下さん、貴女にとってみても最良の方策となりうるのだと信じております。
様々に入り混じった感情や思念、時間の彼方に沈殿していった言葉にも成り得なかった視線の切れ端、少しは晃一があたえたであろう純粋な緊縛、、、そこから感化されたでもあろう、肉欲を通過した、いや精神を濾過した、異形のかたまり、、、それらは眼になど見えるものですか、もし気がついたとしてもすでにそれは己を侵蝕してしまっている。
貴女が影法師と呼んでいる暗がり、ええ、私にも感じることは出来ました。しっかりと貴女のなかに棲みついていることを。それは善い悪いでは決して判じることは無理なのです。
またもや、この手紙を投函することが延期されてしまった。私の生涯においてもこんな遅延はそうないでしょう。
今日の朝、晃一が世話になっている三好荘から緊急連絡が入りました。貴女はご存知なのでしょうか、その顛末を、、、
一昨日の夜から晃一が帰ってきていない。携帯もつながらないし、知りうる限りを当たってみたがまったくの行方不明だと。三好には思い切って貴女の名も出して問うてみました。もう周知の仲だと言ってましたよ。当然貴女のところにも連絡してみたが、同じくその時刻以降、息子を見かけてないしここ数日は会ってないと話していたとも。
朝方とか休日には外泊もあったようだが、二日間も連絡なしでいたことはなかったそうです。警察には捜索願いを出したようです。
私はこれからすぐにそちらに向かいます。貴女のバイト先に電話をして直接、お話してみようとも考えましたが、それはやめておきます。
この手紙はこれでやっと封をされ、貴女のもとに届けられるでしょう。だが、富江さん、それよりはやく私は貴女と再会する運命になってしまった。
磯野孝博」
[76] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年32 名前:コレクター 投稿日:2009年09月29日 (火) 04時56分
「前置きが少し長くなってしまいました。お許し下さい、ひとつは貴女に対する真摯な謝罪を、もうひとつはあの日以来から相互の裡にあったと思われる心持ちと誤謬を、確かめておかなくてはならなかったからです。
先日、晃一から連絡がありました。と云いましても家内宛ですけど、そうです、貴女との交際を結実させる声明、結婚についての相談でした。家内は相変わらず拍子抜けしてしまいそうな表情で私に仔細を語るのでしたが、困惑が隠しきれない様相は当然のこと、夫婦間でのやりとりは割愛させていただき、それより、息子のまたしても一本の矢尻が放たれたかの気負いに押されかけた一週間後、今度はかつて知ったこともないくらい途方に暮れた様子の電話があったと聞かされたときの気持ち、、、木下さんから大学宛にいただいた書中からおおよそ局面はうかがえてたとしても、あまりに観念的なそんな情況が一人息子の身に降りかかってしまう事実、、、ことの発端はこの自分にあるというのに、どこか絵空事を観察しているような心境、、、
直後に津波のごとく押し寄せてきた、貴女にも指摘された成立しない反応、そう、どうして最初の段階で策を講じるなりの気概を抱かなかったのか、何故ことの成り行きを等閑に付し薄ら笑うよう見過ごそうとしてしまったのか。ひたすらに反復する後悔の波しぶきを浴びながら、行きつ戻りつするのはそれでも、どうにか意味づけだけでも付与しなければと云う、懺悔にはほど遠い俗物精神の生成だけでした。
先の文で申しあげましたように、晃一の意思決定を知るに及んでようやく、ことの全体像が俯瞰出来ることになり、まずはあまりに自己保身と安住の精神をむさぼり続けた猛省として、傲慢な思惑を含んだまま貴女に書き記すことが要請されるのでした。
お手紙が届いたのがちょうど二週間まえ、それから晃一の落胆を聞かされるまでの間に私のとった行為は、一途に煩悶するだけでした。
どう木下さんに返信するべきなのか、ましてや封筒に裏には名前のみ記されたまま住所は伏せられています。貴女の一方的な思案がそこにすべて込められているかのようで、ただならぬ雰囲気、またその秘密めいた様相が醸し出す匿名性が、こころのどこかに不安とは別種の安息を位置づけようとして、あらぬ想像をめぐらせてしまう始末、閑却してしまった問題にあわてふためき、極秘のうちに貴女に連絡をと(手紙とは違う手段で)あれこれ考えこんだりもしました。
貴女の住まいは分からなかったけれど、晃一から聞かされていたバイト先の飲食店はすぐに判明しましたので、そちらに送付させてもらいます。
これも無粋な下衆とも指差されても仕方ありませんが、あの封書はある意味強迫文をはらんで差しだされたのではないかなどとも訝るのでした。それに対するまたもや過剰な防衛が、晃一をだしにしたくだらぬ心理描写と、沸々わきあがってくる猜疑を鎮静させるために仕掛けた貴女への挑発だったのです。
前文にその模様は克明とまでは云えないにしろ、お明かししたつもりです。遅疑する苦渋の顔色までを読みとっている貴女の慧眼はまことにたいしたものだ。素晴らしいと感嘆の声をあげたくなってしまうのも無理ありません。
そして三日前、私なりの解答を提示すべく書き記した内用に封をし、あとは投函するまでだったのでした。
ところが、再度筆をとりそれまでの文面のある箇所は削除され、こうして書き直される必要が生じてしまったのです。返書の遅れはこうした次第によるものでした。
ここから書きだすことが、実質その必要性なのです。そう、これから先は端的に申さなくてはいけない。
三日前の晩、晃一はこう私に電話口で喋ったのです。
『お父さん、富江さんのこと知っているの、彼女は帰省の列車で乗り合わせたって話してるけど。それっていつの話しなの』
もちろん私は、そのような娘と隣どうしになったような記憶があると、言葉をにごしながら写真を見た限りでは思い浮かべることがあり得ないと答えておきました。それ以上の探りを入れる素振りは電話の向こうにもうかがえなかったので、その場はこちらから詮索もしませんでした。
一体これはどうしたことなのです、晃一には列車のことは触れてないと手紙にも書かれているじゃないですか。
私は確かに自分勝手かも知れません。もはや自意識を放れたところで、自在に意味合いを構成しているだけの救いようのない気まま者でもあるでしょう。だが、行動として外部に躍り出たものは正直にお話した通りです。もっとも木下さんに同じ歩調を強制することは出来ません。
だからこそ、答えて欲しいのです。果たして、どのような考えをお持ちなのかと」
[75] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年31 名前:コレクター 投稿日:2009年09月29日 (火) 04時55分
「おそらく貴女はこう反駁されることでしょう。いかにも親子揃って観念論者らしい意見だが、晃一のうしろに父親のかたちなど見受けられないまま、そこには沈黙を守り続けようとする怯懦なおとなを知るだけ、、、息子との交わりに瞠目しつつも、その実、速やかに関係が終結するのを願っていると。
そうして、これをいい機会に晃一を東京に引き戻せれば、実験とやらは寸劇として見事に演題を達し得たことになって、母親の憂慮も取り払われ、まさに青春の貴重な一頁に綴られた奇跡的なメモリーとなる。
究極の関係性にまで発展しかけたうえでの終息であるし、何よりも実際に木下さんにこうして心中を吐露して、やっと謝罪が述べられるから。
晃一本人の失恋はどうするのかと云えば、彼にあらず、あたかも遠隔操作でもして身体を自在に操ったふうに、それであたまのなかは自分であるなどど念じてみることで、息子の傷心をわが身に引き受けるかのようにして、現実の晃一の痛みから眼をそむけられる。
まことによく構成された心理劇ではないか、、、わたしのことは、あくまで復讐とは異なるアプローチでもってこころの奥に巣くった暗部を根こそぎ自分のそとに放り出し、そのついでに厄介な影法師から上位へと立ち位置を確定することで、共存とも呼べる間柄を保持出来るではないか。そのように思いこめばいいのだと。
そう云うふうにとられても仕方はありません。憑依現象など得体の知れない表現を持ち出してまでの弁明には、どこまで行っても自己保持の粘着しか見えてこない、、、
わかっています、私自身もよくわかっているのです。確かにどう言い表わしてみたところで、所詮は言い逃れでしかありませんから。
しかし、そんな弁明を私のなかに一抹の希望とも似たかたちで授けているのは、木下さん、貴女がしめされた温情と呼ぶには冷ややかな、が、突き放してしまうには非情であると感じる、ある種のとまどいではないでしょうか。
いかにも断定的な言い様ですが、貴女の文面に浮き出てしまっているみみず腫れのような奇妙な感覚、被告を弾劾する切先はあくまで懐へしまいながら、事件が過失であったのか故意であったのか問題視しない不可解な加害者意識、それは何より晃一との距離を限りなくなくしてしまうことで、もっと明確に申せば、自ずから望んで新たな葛藤を生み出そうとするのは、如何なるゆえんであるのか。貴女はこう述べてております『意識の葛藤とは複雑なものですね。それに比べると肉体の葛藤とは、もはや知性を疎ましくさせます』
私にはうら若い女性の心理および生理など把握することも分析することも出来ません。私がとらえられるのは、女性の肉感は私の意想を越えているものかも知れないと云う、ただの幻想だけです。
よく理解出来ないです、どうして私の子供と判明したのちに過剰反応するみたいに、逆噴射してしまうみたいに、安穏な日常を逸脱してまでも、たとえそれが木下さんにとって唯一の方法論だったとしても、あえて危険な断崖に歩みよろうとしてしまったのか。決してたぶらかしではない、と言い切る貴女の口調には、単に否定的な意味あいを抜け出てしまった賭博的でどこか放埒な気性が透けて見え、更にはこれも幻想の底辺に漂う気配ですが、拒絶と願望が混交とした未分化な底知れない胎動を察してしまうのです。
それは、貴女の母性が無意識的に稼動しまい、私と云う性的な種子を受け入れ夢想ともなる婚姻の結果晃一が誕生してしまう、こうした本来は有り様もない現実を抹殺するために、その時間軸を形成する親子の因果を立ち切る必要があった。つまりは晃一と先行して肉体的に結びつくことで、私の存在そのものをこの世から抹消してしまう。
貴女が復讐と呼びたくないのは、どうしても自分だけの現象として問題として、すべてを解決してしまおうと試みた、そうです、まさに観念的な方法論だったからではないでしょうか。強靭な意志のあらわれはご自身で書かれた通りです。
一瞬にして、まるで大宇宙の開闢のように、晃一から氏名を聞き及んだとき、すべては決定されたのでしょうね。交際が深まり、お互いに虜となりつつ様相が光りかがやいて、いずれは私のもとへと伝播する。
計画などではありませんよね。待っていたわけでもないでしょう。望んでいたのは、と言っておられるがそうでもないはず。貴女はただ、失態を回復したかっただけです。肉感と云う衝動を甘受してしまった、いまとなっいては郷愁と呼びならわすことさえ気恥ずかし気な、よくつかみとれない感覚を、、、
成立しないと判断された写真への反応を、随分と想像力たくましく語ってくれてますね、素晴らしい。
男冥利に尽きると喜んでみたいところですけどそうもまいりません。
それは冒頭で述べましたように、この返信が遅れた理由をこれから、木下さんによく説明しなければならないからなのです」
[74] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年30 名前:コレクター 投稿日:2009年09月28日 (月) 06時13分
「お手紙拝読させていただきました。返事が随分と遅れてしまったことお詫びします。もっとも返信無用とも思える文面でしたが、このように日にちを経てしまった理由はこれから申し上げる次第です。
貴女にはあたまがさがります。何よりも最初にこう言わなければいけない、、、自分の感情と信念をよく開陳してくれましたね。ありがとう、、、いや、感謝より謝罪しなければ、、、どうにも気ばかりが先行して思うように筆がはこびません。冷静なのは私などより木下さんのほうです。
あの写真が送られてきたとき、、、まるで完成間近の建物の設計図をあらためて見直す心境になったのは、申すまでもなく、貴女がおっしゃられた予期すべきものが待機していることを実感してしまったからなのです。
貴女と乗り合わせた列車内で、息子のことをかいつまんでお話したときから、わたしは一種の憑依現象にとらわれてしまっていた。他でもありません、晃一の生霊ともいえます。それはこういう意味でもあります。親ばかに聞こえるかも知れませんが、あの子の性格はわたしに非常に似ているし、実際思春期のわたし自身あのように偏狭な信念を十分に宿していたからです。息子との違いは時代もあると云えばあるのでしょう、反骨精神みたいなものは外部へと沸騰するまえに、鎮静してしまう作用を世間や社会は憎らしいくらいに機能させていたのです。臆病な精神を生成する空気と云ったものがわたしの環境を取り巻いていました。
ですから、偏狭さや自己愛などは、当然表にあらわにすることがかなわず、ひたすら内奥へと沈滞してゆくしか方法論が見当たらないわけで、そうなると意固地になって非常に微細なものをほじくってみたくなる。わたしの場合は語学や宗教学にのめりこめたお陰でそれが生業となって結実したまでのことです。
ところが晃一の世代では、思考と行動をさまたげている障害が以外と見つからなかった、父親であるわたしからして抑止力などなく、逆に自分が果たせなかった、もっともっと自由であるべきだったすがたを彼の裡に投影してしまったのでしょう。やりたいことを若いときにやってみる、その単純でいながら果たせない衝動を晃一はまるでその後の人生を棒にふってでも噴出させようとした。
今、単純と云う言葉を使いましたが、いえ、構造自体はそう簡単な造形ではありません。それが如実に窺えるのは、あの子の屈折した禁欲主義となって鎧のごとく身を緊縛する精神でした。
なぜそんなことをと思われるでしょうが、晃一がわたしの書斎から抜きだしては熱心に熟読した文献、それはフロイトから始まり、その亜流や現存在分析派はもとより、禅宗の研究や密教関連などをつぶさに学んでいた形跡があるからなのです。
高校の夏休み、読書感想文でマルキ・ド・サドと三島由紀夫を論じてみたりし、家内は担任の教師から『研究はおおいにかまわないが、異常性欲と徹底禁欲ならびに自己愛などと云う課題は高校生にはふさわしくない』などと苦言をいただく始末、わたしにはまさに性的なものが開花したときにこそ、自分のあたまも共振させるべきだと思うのでしたが、いざ、息子と向きあうと奨励は愚か、勝手に書物を持ち出してはならないなどと、なぜか口先は反対の意見を滑らしてしまうのでした。
もうおわかりでしょう、晃一は性を飼いならそうと試みていたのです。まるで犬や猫を飼育して順応させるように。
わたしは彼の実験精神を高く評価したつもりでした、心情的には共感さえおぼえてしまう。しかし、事情は成り行きを相当複雑のものに作り替えてしまった、、、一年前の夏、貴女に秘め事を強要してからというもの、わたしのなかではあのまちは貴女の棲むまち、通学のため名古屋で生活していようが、貴女の帰るまち、、、晃一が切望している場所と云うよりも、とにかく木下さんが存在する場所なのでした。
確率と言われているように、あの日以来、晃一はあのまちで必ずや貴女と遭遇することになるだろう、そのさきの肉体関係まで想像をめぐらせたかどうか、、、これは確率ではない、必然の悲劇の幕開けなのです。
一人息子にまつわる、そんな不穏な舞台装置、、、いえ、違います、わたしの指先が貴女の秘所をまさぐったときから、わたしは、晃一のすがたを借りて東京から飛び立ったのでした。心理学用語でいうところのまさに投影です。自由を取り戻すために、、、肉欲を再現するために、、、E.A.ポオの『Never More』を否定するために、、、それらすべてを欲するがゆえに」
[73] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年29 名前:コレクター 投稿日:2009年09月24日 (木) 05時05分
「もちろん、晃一さんにはあの列車のことなど話してはいません。でも想像してみて下さい。こころのどこかで希求したものが、実際ではないにしろ血を介してこのわたしのなかにふたたび舞い戻ってくる。
あなたの息子さんは一途な思いで抱いてくれるのです。そして、遂には結婚を申し込まれたのです。
貴方が彼をこのまちに解放したように、わたしは彼を貴方のこころに解放してあげたように思います。彼の携帯で写真を撮らせたのもそんな意志が秘められていたからに違いありません。
貴方のつぐないが、自然にうちに回帰することを願ったのであれば、そこでは価値や常識、保身や弁明さえほとんど色褪せたものになり、そして最終的にこのわたしの采配へと、つまりは悪夢を日常へと委ねたのであれば、避け得ることが可能であったにもかかわらず、その悪夢のなかに自ずと飛び込んでゆくことで、貴方とともにわたしは暗黒の世界を旅することになるのです。
もう影法師を意識することなく、こうして、ようやく、自分らしさを発見することが出来るのでしょう。
晃一さんの影に貴方を見ているわけではありません。わたしの影の裡に貴方たち親子の人影が棲んでいるのです。
さて、肝心な一番重大なことをお話しなければ、、、わたしの心情がどのようなものであったかは、ご推察いただけたかと思います。
他者から見れば、といいましても貴方以外に口外する気はありませんけれど、おそらくこんなふうに解釈されるのではないでしょうか。
『態のいい、復讐劇だ。しかも、快楽を肯定する口実を巧みにはらませている』
実際、磯野さん、、、いい面の皮だと苦虫をつぶしながら、これからさきの現実をどうやって共有していくのか、そんな観念論でものごとを判別したところで、悲劇が、しかも、毛抜きで一本一本頭髪をつままれるような陰険な悲劇が続くだけ、そう思っているのではないですか。
ご心配なく、わたしの影に納めたと云う意味をよく吟味して下さい。貴方から受けた肉感、、、肯定することさえ覚束なかった、閉ざされた暗所、反面、こぼれ日が聖水のように降り注いでいる魅惑の神殿、陵辱と誘惑、まだまだおとなになりきれない、割りきれない、すくいとれない混濁したこころ。
どうぞ、お願いですから復讐とは思わないで下さい。これはわたしのこころの問題なのです。これが精一杯、自分と闘った証明なのです、おんなとして、ひととして、これからも生き続けなくてはならないかがやける存在として。
彼とわたしだけの世界はもう終わりました。短命であることを覚悟した恋でした。こうしてものの見事に貴方に知れた以上、これで悲劇風の寸劇は閉幕されます。
わたしは晃一さんの求婚を断るつもりでいます。これが何よりの誠意でしょう、そして観念論ではない生き方の結論でしょう。結果、彼ひとりが何も知らないまま、ただひたすら傷つきますが、それはわたしたちの眼を通したうえでのことです。
彼は初恋に破れただけです。人類共通の悩みの一頁を開いたのです。『君はやはり小悪魔か』そう版押しされても仕方ありません言い草ですけれども、、、
悪魔ついでに、これも邪推であればと願うのですが、磯野さん、貴方の思惑はもしかしてわたしとは似た位置にありながら、それでも、限りなく平行線をたどってしまうところにいないでしょうか、、、間違っていればどうぞお許し下さい。
まさか、貴方は悲劇を喜劇へと転化して、ええ、こう云うことです、、、彼との結婚を了解どころか、それすら予想図に描かれており、わたしとの関係をさきほどの風化とは異なった意味で、再編してみる方法も念頭にあった、、、ああ、それこそ悪魔です、、、そしてこんなよこしまな考えを浮かべてしまうのも自分のなかにも悪魔がひそんでいると云うことでしょうか。
想像です、妄想です、いいえ、そんなふうに、そんなドラマみたいに人間の思考は大胆に働かないものですよね。
さあ、晃一さんとの別れをどう切り出すか、なるだけ彼の心中を察して、もう一度、徹底したオナニストに帰ってゆくように、、、
磯野さん、アドバイスは失礼ながら必要ありません。大事なひとり息子でしょうが、決してたぶらかしているわけではありませんから。それはこの手紙に書き尽くしたつもりです。
木下富江」
[72] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年28 名前:コレクター 投稿日:2009年09月24日 (木) 05時02分
「前略、この様な形でお手紙を差し上げるとは思ってもみませんでした。帰省の折、列車内で隣合わせた夏から一年が過ぎてしまった今、何か巡り合わせでもあるかのように、貴方の息子さんと知り合い(出会いやその後の詳細は晃一さんから聞いてらっしゃるでしょう)ええ、先日も彼から両親に対して、わたしのことを随分と熱心に報告、、、こう云ったらおかしいでしょうが、確かにそれは熱意のこもった言葉であったと思います。
晃一さんは、そんなやりとりを逐一伝えて下さるので、わたしには磯野家の狼狽ぶりが透けて見えてなりません。とは申しましても、一人息子の早婚に対するご両親の内心をわたしの側から冷静に見つめさせてもらった場合、そう、すでに貴方の胸中を支配してしまっているのは、若年の身で早まった結婚を希求する情況以上に、あの夏の日の淫猥な想い出があれから片時も放れることがなかったであろう、錐でもまれるような痛感ではなかったでしょうか。
そう念じたいのは、ことさらに沈滞した心情でも過敏な神経でもないはず、、、ごく普通の思いではありませんか。
貴方の当惑の由来がそこにあることは、ご自身が一番ご存知でしょうし、更に輪をかけて痛みを深めるのは、わたしの尊大な態度に他ならいのもお分かりのはずです。
息子さんが、ひとりこのまちで暮らす決意を示されたとき、何よりも予感として(そうです、確率的な)このわたしと遭遇する可能性を取り払うことが出来なかったのは、隠しきれない気持ちであり、しかし、差しだしてしまったあの一枚の名刺の行方を非常に怖れつつ、わたしがその後、貴方に苦情なり抗議なり連絡をしなかったことである意味安堵を抱きだして、これは憶測の域を出ませんけれども、、、自然と風化してしまうよう、ことが本能による所作であったよう、わたしの受け身も時間のなかにかき消されていくと願ってみたのではありませんか。そう思いこむことで、確率的な不安は、ひとつの運命へと浄化され自らのこころをも平静化させてしまう。
すると、晃一さんとわたしとの関係はあくまで因果に結ばれながらも、遠い糸口の隔たりは予感された自然の意思の裡でふたたび自由を取り戻し、貴方の悪心は消滅されることなく、能動的に時間の裏側に返されることになりますね。無造作に振られる賽子自体に何の邪心も存在しないように。
貴方の危惧はそうやって、つまりは怖れをすでに了解してしまう発想の転換をもって、ご自分の贖罪へと収斂させてしまったのです。そうでなければ、息子さんから写真を転送されたとき、あの前もって決められていたかの反応が成立しません。貴方は実は待っていたのではないですか。こんな日がそう遠くはないうちにやってくるのを、、、平静なこころを保持し続けながらも、いえ、その平静さを知るがゆえに来るべき運命を密かに祈っていたのではないでしょうか。
さすが宗教学の教授でありますこと、生と死の境地を悟ってしまったみたいな精神ですわ。勘違いしないで下さい、わたしは軽蔑をふくんでそう言っているのではなのです、、、誤解なきよう、そしてすべてを語り尽くすためにも、これからお話することを、今度は貴方が疑いを持ち始めてしまうことを懸念して、こう明言しなくてはいけないのです。
『そんなときを望んでいたのはわたしのほうかも』と。
ああ、罪深いひと、、、貴方の痴態に反応してしてしまったのは、わたしにとっては汚辱であると同時に強烈な郷愁となって、この身に眠ることを知らぬ妖怪を棲まわしてしまった。
お分かりいただけるでしょうか、始めて彼と山道で出会った際に名乗られた名字、、、このまちには一件も存在していない、鮮烈な想い出を急上昇させてしまう、貴方と同じ姓、、、封印しきれずに、かと云って苦悩を育むほどの過去ではない、まるで自分の影のような印象さえあたえ続けてしまう暗がり。
あのとき即座に全身を貫いていったのは、まぎれもありません。貴方の指先だったのです、、、
しかし、わたしはその後こう幾度も反芻するよう言い聞かせたのでした。
『磯野教授が忘れられないじゃない、これは恋でも憧憬でもない、得体の知れない郷愁なのだ。肉感と云うものが訪れ、見知らぬ世界を開示していっただけ』
そう念じてみればみるほどに、自分の淫らさみたいなものを了解してしまうことになりかかり、列車がトンネルに潜ったときの闇の到来が、本来閉ざされているものをかいま見せてくれるように、暗中であることで眼には映らない別のものを感じさせて、それが性的な一面を浮上させようとしているのか、おんなはこんな感性を持ってはいけないのだろうかなどと、日常にさらされないこんな意識をどうにも上手く扱うことが出来そうもなく、じっと影を見つめる不安のこころにもう一度、投げ返してしまうのでした。
意識の葛藤とは複雑なものですね。それに比べると肉体の葛藤とは、もはや知性を疎ましくさせます。
晃一さんと再会するきっかけを講じたのはわたしです。その際に、、、あなたの血を受けた、、、そうです、肉欲を彼に求めたのもわたしのほうからなのだったのです」
[71] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年27 名前:コレクター 投稿日:2009年09月14日 (月) 18時35分
両手を後頭部で支えてみるようにして、伸びた背筋のうしろすがたに気をとめてみたものの、裸のままそんなポーズをとるよう言った晃一の思惑がよく解せないうちに、背後から見つめられていると云う、気恥ずかしさが鳥肌のように全身を被ってしまい、
「意識を背中に集中して」
と言った晃一のいつになく強い哀願調の響きに共鳴することも忘れかけて、恥じらいが内部へと浸透してしまうまえに富江のこころを支配し始めたのは、自分の影が晃一を反対に見つめ返していることであった。
スケッチだと言って、ボールペンでノートに富江の裸体を写しかけたのだが、昨日の秋晴れから空模様は一変し、今日は朝から雨脚のやまない、薄暗らさに活気も奪われそうな陰気さで、部屋には灯りが天井より放たれてはいるものの、閉切ったカーテンに倍以上の大きさで、その襞に忠実に染みこむようにして形成された影、、、陰影を濃く出すためにと卓上用の蛍光灯を斜めからあてることで発生した、乳房の三角が真横に刻されると、その上部には同じ角度をもった肘が、対角線上に大きく間隔を持って墨絵のようになって、すでに描かれてしまっている。
横目で自分の伸び上がった影を見ながら、いつしか意識はあきらかに情感から屹立した、まるでこの影絵に問いかけるように、そして現実の晃一と云うよりも、あくまでこの場に存在しない彼を想像してみるのだった。
今日もまた仕事の合間に、晃一によればこの時期は暇なので一向に気にしなくてもよいと言うのだが、富江の方からしてみると、確かに共働きの両親は日中不在だし、自分は親戚が営業している飲食店に夕方から手伝いのおかげで、こうした昼間からの結びつきが約束されるわけであったけれど、ほとんど日をあけずの交わりには、激しい息づかいがもたらしただけとは違った、にじみ出る汗がシーツに吸い込まれていくようになった。
澄みきった季節ながら、今日みたいな雨空では部屋のなかにも湿気は忍びこみ、いつになく果敢に挑むようにして肉体をかきわけ、むさぼった晃一の激情と、たかまる快感を制御しようにも最後には鼓動を共有する勢いで果ててしまう富江とがしぼりだす発汗は、部屋全体を陰湿な感触に変質させる。
晃一の求めるがままに背中をさらして、奇妙な静止画を室内に映し出した富江の意識が、あたかも分離して別の意思を築き出し、しかしよく考えてみると、そこに登場したのは又もやあの影法師であったと知るやいなや、思いもよらない言葉をうしろから浴びた。
「あの昨日の写真だけど、実はうちの親に送ってあげたんだけど」
「えっ、、、」
「いあや、たまたま、親父からメールが来てさあ、ほんと珍しいんだ、こっちに来てから二回目だよ。母さんは時たま、電話もくれるんだけどね。それで、元気かって書いてよこしてあったんで、彼女が出来るくらい元気だよって、これ証明って送ってあげたわけ」
「それで、、、どうなったの」
うわずる声を勘づかれまいとした配慮も、吹き飛ばされる勢いで、
「親父なんて言って来たと思う」
間をあけるのが罪とも感じられながらも、突風にあおられる様をようやく知り得たことで、今度はその間に罪ではなく、罰をあたえるような気概を持ってこう言ってみた。
「彼女なんて、そんな無理すんなよ、ってじゃない」
震えだしたのは声色ではない、あきらかにからだの方であった。
晃一にはそんな変化を識別する根拠も、眼力もなかった。彼にいま備わっているのは、見失ったはずの自然、、、演出家たること必要としない、手放しの充足であった。
「違うよ、精々がんばれよ、だって」
富江は一瞬、あたりが茫洋としたような気がするのだったが、たどりつくべき大陸をいち早く察知しているとでも云わんばかりの安堵で、それは吹きこぼれる煮物に注意をはらったあとに似た、つまりはより入念な神経で、
「あら、そう、じゃあいつか上京するとき、わたしも連れていってくれる」
そう、言い放ってみた。
しかし、小刻みに揺れだしそうになるはだかには、明解な釈明は直ぐさまに用意出来ない。いくら予測された悲劇の最高潮だとしても、それを目前として、このまま平静を装うにはあまりに荷が重すぎる。
吹きこぼれだすと云うより、爆発してしまうくらいの情況なのだから、、、火元は取りあえず弱めるのではなく、消しさらなくては、、、
「悲劇の主人公はわたしでなくてはならない。あなたは脇役よ。あなたのお父さんもね」
富江のからだは、武者震いしているかのように火照るのだった。
[70] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年26 名前:コレクター 投稿日:2009年09月14日 (月) 18時32分
予期せず眼前に陽炎のごとく現れた、冷たい至情を持つひとがた、、、
鮮明な木立の陰影に隠された、歴然たる情感の波立ちのさきに、すでに序章が始まっているのを意識しえない、だが山の神が微笑みかけるのならば、おそらくきっと自分に優しく投げかけたであろうと想われる哀切に彩られた宣告。
夢幻の裡に受託する意識の遠のきに似た甘美な旋律が、そのとき富江の胸許まで届いたのも、醒めやらぬ焔の予兆であったとすれば、今もまだこうやって巣くっている錯綜としたままの愛憎を見つめるだけでは、ときの小舟に流されるはかなさしかその中心部に残らない。
忌諱されるべき様相なのに、あの山道で憶えた交錯した感情が、自分の意思とは別な方向に彷徨いだしたのは、鬱蒼とした草に被われる底知れない井戸を覗きこんだときのように、仄暗い未知なる領域を知ってみたいと願う一心に結ばれるのなら、それは極めて危険な行為であり、また限りなく非現実的な逸脱であることによって、がしかし、最終的にはこの世に完全な花園を創り出すことになるだろう。
何故ならば、究極の探査なしに桃源郷が見いだされないのと一緒で、例え偶然にせよ、そう云った悲願を胸に抱き続けない限り、向こう側の扉は決して開かれることがないからである。血と汗の結晶が燦然と輝くことは、太陽の光輝や夜空の迷宮と同じく、果てしない可能性のまったただ中に位置する意識を逃しはせず、ひたすら突き抜けるだけの加速で疾走してゆくから、、、
小さな冒険には小さな発見が、得体の知れない衝動には不確かな結末が、底知れないほどに深い欲望には、目がつぶれてしまうくらいの狂喜が到来する。
富江は晃一のすがたを通じて、あの世を覗きこもうとしたと言える。それが健全な精神から発動された情熱であるかどうかは問われまい、わが身に寄り添う実体なき影法師を思考のよりどころとしてしまった精神が不健全であるかどうかただせないように。
高校を出るあたりから胸に巣くった暗部が、逆に生命の躍動を知らせた反エネルギーであることを、富江は死に至る必然を介して理解したのであった。夭折した音楽家や作家に傾倒していったのは、別段風変わりでもないはず、彼らは短い生涯に美しさを託すよう、信じられないくらいの放電と炎上でもってすべてを撹乱させたからで、それは強烈なめまいを要求する転倒した自然体を再確認する効果が完遂されたことであり、凍結された時間が永遠の額縁に収められた証しであった。
瞬間的にわが身を通過して行くもの、それがこの現在の連鎖のひとこまひとこまであると同時に、後方へと彗星の如く流れ去ってうつろい、その都度の死であるとするならば、いまここに在ると云うことは、生死の均衡のうえで成り立っている奇跡であると過信してしまう、限りない祈願を生みだす母体となり、実際には死は時間軸に於いてもこの身に訪れてないにも関わらず、先取の構えであの世とやらを構築する契機となる。
些事にこだわる日常のなか、そんな不安に包まれた端緒を封じてしまおうとして、様々な教えが連綿として語りつがれている人智を、富江は知っていた。それらが反自然的な思弁に塗りこめられている華飾の言説をも、ちょうど濃厚な彩色の筆で描かれた油絵のように理解していた。
しかし、それらは地獄絵巻のような艱難で船出しなければ意味がなく、つまりは安寧や静謐な情趣は保たれたとしても、はなからそんな境地が待ち受けているはずではない、まさに血と汗の彼方に、血みどろに染まった苦渋の果てとして、汗まみれの汚穢の果てとして、到達する至上の結実のなかにすべては映しだされなくてはならない。
暴走行為を繰り返す少年のこころをかすめる死の不安が、いつしか行為そのものだけを避けはじめ、だが身の保全に向かおうとした心性を正面から認めない不遜さ、、、無頼に振る舞うちからの背後には、むろん賭けそのものである精神が張りついているだろう。
ところが、その支えとなる張りついた護符は極めて乾きのはやい糊で、しかも剥がれる際もこれまた容易である。一度、剥がれ落ちた護符はものの見事にその霊験を失ってしまい、賭けそのものは目先を改め、少なくとも一晩は熟思したのち、日々の些事に立ち返ってゆく。手軽く意味はなさないかわり、そう簡単には失効しない緩やかな賭けを演じるおとなとなって、、、
ひとは誰しも若いころ、こうした経験を覚えるものだ。
富江が晃一の裡に嗅ぎとったのは、ある意味強靭な理性をまとった不合理な賭博精神であり、その純粋なゆえに自らをもねじ曲げてしまわなければならない、不幸な贅沢であった。
[69] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年25 名前:コレクター 投稿日:2009年09月07日 (月) 06時22分
過ぎゆく四季への目配せ、、、晃一がこのまちで体感し想像した一種の儀礼。
それから彼が東京から持ちこんだ、徹底した自慰の精神。これはある意味ではおごそかに存続され、ある意味では両親の提案を受け入れたこと同様、形式的には妥協のうちになかば解体されてしまった。
だが、よく振り返って考えてみれば最初比呂美がもたらした禁断の香り立ちに煩悶してみせた自分のすがたには、鋭利な刃物に近い禁欲精神が屹立しており、徹底した自慰へともう一度、降りてゆくための受難劇を成立させる気概がまだまだ見受けられるではないか。
やがて太陽の高まりは、そんな孤影を大地にしらしめ叱咤激励するとでも云うように、はやくもこれが寸劇であることを証明してみせるかの如く、自分をとりまく役者たちも、強烈な陽射しを浴びながら、速度を増す季節のうつろいに応答し、すばやくまわる舞台のうえで、肌理こまやかな律儀な演技を披露させる。
森田に誘われた一夜、、、後々で判明したことだが、やはりあの勧誘は婚前の青井好子への気遣いもあったのだろうけれど、何よりも麻菜の傷心を、、、それは森田や花野らの男性陣が、女性特有の愁いにほだされ意識の深みと云うよりも感性の共鳴で、ついつい遊びごころの振幅を拡張してしまったまでのことに帰着される。
それが悪戯と呼ばれるのか、好意と呼ばれるのかは、それぞれの思惑のなかでただただ意味づけられる。
森田自身もまだ離婚の痛手を完全に振り払っているとは言えなかったし、あの晩、麻菜からそっと耳打ちされるように知らされた、三好荘との関わり、、、幼なじみとして比呂美とは懇意であったこと、、、それから、ことさらに声を低めして、
「森田さんの**ってひょっとして、ひょっとしてよ。わたしにはわかるなあ、おんなの勘よ、いまでも想ってるんじゃないかって。でも、揃ってバツイチじゃ、世間態もあるんだろうし、あっ、わたしはそんなのあまり気にしないけど、三好のお父さん頑固もんだしね。森田さんもものすごく繊細なとこあるでしょ」
そう聞かされた片方の耳朶には、おとなの世界だけで共鳴すべき哀愁の音色が流れていった。
このまちの人間模様など及びもつかない晃一ではあったが、思えば、森田が比呂美に今も懸想していたとしても、それが互いに離縁の身上であると云う境遇でより深く、より揺るぎないものとして、地下で目覚めていることは決して夢物語ではないはず、、、
借りに世間と云う障壁にはばまれていたとしても、おとなの男女が織りなす気高さと危うさの交わりには、見てなならない爬虫類の腹のような不気味な色彩がほどこされるゆえに、背伸びするわけでもない、そこにはあの何とも淫らな空気が沈滞し続け、なおかつただちに視線が釘付けになってしまったようしばらく身動きがとれなくなる。それが官能と云う、機能とあきらめをつけるまでは。
実際に森田の口から、まるでおとぎ話の如く壮麗な、悲劇の如くやるせない、胸襟を開ききった哀切に満ちた説話を聞かされることになるが、その顛末はいずれ章が代わって、舞台模様が変転したのちに物語れるであろう。
ここでは晃一の**を見抜いた森田があたかもかなわぬ己の愛欲を、晃一のすがたに仮縫いするように、意趣ばらしを講じてみたと云うことと、そんな企図を察知するまでもなく、戯れのこころでもいくらか癒されることを、恐ろしく無邪気に振る舞った麻菜の天真爛漫を述べておくだけにする。
無論、このふたりは計画的にことを運びだそうなどとはしておらず、何ら相互に指示もなく、あくまで晃一をとりまく役者として、そうした役回りを演じたまでであり、その一挙一動は本人たちが観想する枠を越えたところで立ちまわれ、陽がのぼり夜のとばりが降りる自然でもって、もはや超越的な書割りの裡でのおごそかな演目になったのである。
更には彼らの演技もすべて晃一の脚本であったとすれば尚のこと、、、自慰の精神はそんな驟雨のような寸劇に想いを馳せた。
四季への一瞥、、、富江との出会い、進行形の跳躍。演出家のいない自然の感情表現。さようなら夏の日よ。
晃一は以前の彼ではなかった。
[67] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年24 名前:コレクター 投稿日:2009年09月07日 (月) 04時05分
吐息ととも熱気に冒されたあきらめを含んだとまどいが、遠い胸のなかで結晶のように成りかけるのをなかば知りつつ、また情念がことばとして紡ぎだされようとする今、秋風に吹きなだめられるやや渇きかけた晃一のくちびるに対し、富江は混濁した汚水があふれる様を想起してみた。
それは、人気の途絶えた山道に思わぬ人影を見いだしたときの木々のざわめきを序章とし、相手のほうから予期しない笑みが木漏れ日とともに投げられた際の、あの動揺があらかじめ裡にひそめていることを自覚し得ぬ、未分化な、だが気が薄らいでいくような曖昧さに包み込まれている感覚を甦らさせる。
「あのう、このさきはまだまだ山の上に続くんでしょうか」
ためらい気味と云うよりもそこには問いかけ自らが、まるでこれからはじまる冒険を冷ややかに楽しんでいる野心が勝っているふうに富江には聞こえ、
「はじめてですか、この道は山腹をぐるりをひとまわりするのです」
と、勢いよく通った口調はあきらかに彼の存在 ― たった今、発見したその姿態にものおじしない、それは晃一が醸し出した雰囲気によるものであったが ― それ自体がなにものかに先んじる感情を前面に押し出し、自身の気持ちを快活とした声色にさせた。
それからふたりが交したやりとりは、澄みきった天空から降りおちてくるような小鳥たちのさえずりに囲まれながら、ときおり頬をかすめてゆくひんやりとした山の冷気に火照った気分を解放させていくのだった。
伏せた目もとをほんの少しだけ開いてみると、自分と同じ高まりのなかに心情を捧げた晃一の閉じたまぶたが、すぐそこと云うより遠い遠い記憶から霧状になって現われているように思える。
あのとき、どんなふうに会話が弾んでゆき、気がつけば双方の名と年齢を告げ合い、しかし、それまでの時間としてもさして長くはないはずの、そう好意が互いに浸透している実感の渦中にあって、不意に訪れたその姓が持つ反響は、まるで余韻のほうが前にたなびいていると云う錯覚で後から脳裏に深いよどみをもたらした。
濃霧にさえぎられながらも、予想を裏切らない形状をそこに認めるであろう、あの願望の正当性のように。
富江のこころに目には映らない波紋がひろがっていたのだが、それは自覚しようとする意識がまだかろうじて、対岸の火事の如く物見ですまされればと云った、直感的な否定の作用が働いて、と云うのもこれ以上関わるより、ただ道ばたですれ違ったひとみたいにさり気なくその場を離れれば、たとえ耳に飛び込んだ異物であろうとも、別段これよりは実質的な責務を負うわけでもなく、悪印象だとすればそれが追々とわだかまることにもなろうが、一切を否定する保身のための逃走だって最善の手段ともなる。
「しかし、、、それでは、わたしのほうが悪者みたい、、、過去を捨て去ること、、、もっとも善い方法はそんなふうに日陰にくぐもることじゃなく、この日陰から飛び出してゆくことじゃないかしら、、、」
意志はいつもなにかに突き上げられる。
富江のよどみは確かに汚濁のなかにあり、それゆえ波紋の伝播もよく感じとることが出来なかったのだが、いったん意志のちからを宿したからには、そのさきの紋様は蜘蛛の巣のように、颯爽と夜気に白く張りめぐされ、執拗な邪気を眠らせながらも、毒素はとりあえず中和され、何よりも粘液をもってこれから編み込まれる賭けにも似た遊戯に甘い殺意を封じこませるのだ。
「あなたの閉じた目をわたしは、こうして薄目でぼんやりと見つめている、、、あなたの知らないことをわたしはよく知っている、、、それは、いつかあなたにさらされる宿命だとしたら、わたしの手のなかには、一個の鍵が握られている」
晃一は、自分のくちびるの渇きが富江のなかから湧出するもので充たされるのを願った。
その小ぶりなこれまで味わったことのない濡れた果実を思わせるぬめりの感触はこうして重ねあわせれることによって溶けだし、いつしか晃一自身の一部と変容していくのである。
彼はことの最中に、その筆舌にしがたいまでの味覚を何度も言葉に現そうとしては断念し、その代わりに本当に噛みついてしまいたくなる衝動を優雅に味わいつくそうと、反対に軽い、さながらあめ玉をしゃぶるときの愛おしさで口中に含んでしまった。
晃一は忘れてはいない、、、この相手の口を封じてでもいるかの加虐的な興奮の陰に、麻菜との初体験が夜霧の神話の如くひそんでいるのを、、、
そして、その悔恨と失意がねじれを生じ、夢うつつの肉感でありながら、のちにこの掌に収まった残された鍵の冷たさが被虐性を養い続けていることを。
[66] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年23 名前:コレクター 投稿日:2009年09月04日 (金) 16時00分
船着き場を横目に勾配が急になりつつある坂にさしかったあたり、右手には防波堤を乗り越えていくような浮遊感が運転席からも心地よさをもって高まりはじめ、その彼方に解放されている蒼海が見る見るあいだに視界に収められる。
陽光のみなぎる鮮烈さは、フロントガラス越しに反射している木々のざわめきをしらしめるよう、道なりに伸び続けるガードレールの力強い影へと挑みかけるかがやきで加速し始めた。
中腹へと上ってゆく山道には豊穣な草木が覆いかぶさるようにして、陽射しをさえぎっているのだったが、そうした木陰に決定的なコントラストを示しているのか、さながら網の目からこぼれ落ちたひかりの鮮度は、その場その場で産声をあげるいると云ったふうに圧倒的な明瞭さで束ねられている。
わけても木立が描きだす線状の陰影は、そんなひかりの束と交互にせめぎあって、富江の網膜に明暗を強く焼きつけていった。
曲がりくねった山道の走行は、まさにひかりのシャワーを浴びている感覚をもたらす。そして時折、山深くなった光景に隙間が突然現われ、ふたたび目が釘付けになるほどの海原が荘厳に沈滞しているかのよう、そのころにはすでの下方へと眺望されるのだけれど、葉緑の濃さにも増して紺碧にたたえられる海の色彩は、遠方に浮かべさせている小島の緑をも剥奪し、上空高く自らの諧調を謳歌する調子で、晴れわたった大空もまた、領分への配慮を心得ている、、、
白雲の謂いに饗応しているのであろうか、対岸から小島のあいだに見られる潮の流れはまるでたわんだ投げ輪の如く海上に白く脈打っている。所在なげにも映るが、そのじつ生き生きとした海流であることは、原風景に対し拘泥すればするほどに無力感を覚える、あの壮大さのなかにあっては当然の帰結となろう。
そう、鳥瞰する心性が育んだと云うよりも、もはや非現実にと傾斜しかける太古への旅路を通じて。
まるで、宇宙の彼方の天体を眺めるときに知る、奇妙な一体感とも似て、稜角が削られたまなざしの鎮魂となる。
眼前の草葉が風にそよぐと、そんな深い色で培われていよう海面が波立つと見まごうのも素晴らしいこと。
さきほどから、車のエンジンを切り、その垣間見える場所に佇んでいるのだった。
「確かこの先にみかん園があったはず」
富江は高校のころ、みかんを形状選別するアルバイトを短期間ではあったが、そこで手伝ったことを思いだし、まわりのおとなから、
「帰りには手先は黄色くなるよ、いいや、みかん色になあ」
と、親しみとも嫌味とも関係のない激励を受けたことなどを振り返って独りほくそ笑みながら、車中に戻り先へと走り出した。
次第に傾斜が意識され、いくらか大きくくねりながらも、そう時間も隔てることなく、気がつけが自然の草木がきれいに取り払われ、こんもりとまとまったみかんの葉が右側の沿道からあたまを覗かせ始めた。
向こう岸は遠景として明確なすがたを形作って、その湾内として望められる海の蒼さに変わりはないとしても、随分と下界に見おろす恰好になっている。
決して山頂には至ってはないのだけれど、菜園として切り開かれた上方から窺う様子と、勾配の加減で切り取られる風景によって、登頂への予感が爽快に訪れるのであった。
もう一度、停車しようと考えた矢先、道なりは急なカーブであったので、徐行しかけたそのとき、富江のひとみにたち現われたのは、自転車をゆったりを手押しつつ海を見おろしている、ひとりの少年らしき風体であり、その以外な遭遇は、ちょうど猿とかのけものに出くわした折の驚きとも似ているようなのだが、しかし何かが異なる不思議な動悸であった。
現に民家のある山裾から中腹にかかった辺りを越えたときから、すれ違う車は一台もなく、ただひたすらに太陽光線が照りつける意志の裡に擬人的なざわめきを聞き、刻印される山木や青葉の暗影に点在する喧噪を想じたのである。
なおかつ木々の下、真っ赤に彩られた自転車は、その視線のむこうには碧海とぬけゆく蒼空、そしてまわりには深玄たる山の調べが、絵画的な配色のありようで中枢神経を服従させている。
富江の胸に早くも去来する、はぐれ雲のように意味の定まらないときめきは、さまよえる小舟を見失いつつ眼下に縮小され収まってしまった、が、肉眼では決して見られることのない波頭がいつも静止を表出してみせながら、無軌道な連破へとあらたなリフレインを求めるように、思わぬ波立ちは章句の連鎖に似て、ある必然性の裡に曳航されているのであった。
[65] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年22 名前:コレクター 投稿日:2009年09月01日 (火) 03時21分
小首を傾げ気味にした目もとは、幾分か身長の差で定置へと配属されたふうに、やや下方から見上げられる面を一層、小悪魔的な挑発で浮かびあがらせると、あたかも晃一の視線にそって飛び火して来そうな勢いのまつげが鋭く、だが際どさに至らぬ電撃となりながらも、信じられないほどの柔和に転じてしまうのは、その首もとの真下になめらかに現われている胸の谷間へと、あらゆる心情が転げおちてゆくことで確定されるのか。
焦点さえもがぼやけて消えうる、乳房の盛り、、、日陰の熱い桃、、、絶対の果実、、、
「そうなの、結局、その麻菜さんとの初体験の確信はないままってわけね。だって、お口の場面しか覚えてないんでしょ。でもいくら酔っているからって、そんな大事なことをぼやかしてしまうんんて、随分ともったないことよ。ええ、確かに当人に問いただすのは、もっとかっこ悪いかも」
ことを終えてみてもはだかのままでいるには、少々肌寒さを感じる故に、こうしてすでに炎上した愛欲が終息を見せた素振りで互いの衣服をまとい、如何にも見た目だけでは全裸となって求め合った姿かたちは汗がひき渇くことで、反対に情欲の飢餓が充たされるのだったが、その透けて移しだされるような、こぼれ落ちるために存在しているような、再来する色情の顕現を待ち受けてしまうことに帰着してしまう。
丸かじりしたリンゴを今度は、向こう側からかじりつく衝動として、、、
「いいんだよ、富江さん、ぼくはああやって闇に閉ざされた記憶であるほうが刺激的だと思うんだ。仮にきちんと挿入していても、、、」
そこまで言いかけると、晃一は話しぶりでは富江のほうが性に対してあっけらかんとしていて、その実、年上にしては自分よりおさなげな雰囲気の顔つきをもちながら、からだははちきれんばかりのゴム毬みたいな落差に未だ幻惑されていることを再確認し、すると挿入と云う語感が放った意味合いは、言霊並みの霊力で富江に向かって露呈した己の陽物のようで、なんともくすぐったさを感じながらも、あえて深く女陰をつらぬく意地で、
「すぐに放出してしまったらさあ、それでそのあとが続かなかったら、とてもいい印象を残さないだろうって。でもあの夜に間違いなく、あれを体験したとぼくは言い切りたんだ」
そう話してみたものの晃一には、あの鍵を手放してからのめくらむような幻想を富江に語ることが出来なかった。何故ならば、あの女体との融合は、この世のもととは異なるあくまで観念的な、自慰が創出した演劇であらねばならなかったからである。
その代わりに夢の彼方にとり忘れた可能性は、ありとあらゆる姿態で非常識なまでの痛快さを演じつつ、だがその反面鋳型に押し込める灼熱の類型が定められること、この両義的な了解がこの世界を実りゆたかなものに仕立て上げてくれるのだった。
麻菜との交わりは欠落することによって、富江のすべてをたぐり寄せ、その他の満ち足りない項目は秘蔵の部品で補填されることになる。常に完成されながらも、見事にその場で崩壊してしまう時間の流れのしもべと化す。
そこに陰惨さなどなかった。この能動的な陰りこそ、未来への忠実たる従僕でありながら、闇夜に視界を通じさせる絶対君主の手腕が最良の発揮される、つまりは労働の歓びを発見するようなものである。
富江には、そんな晃一がとても健気に映じるのだった。
「わたしは知っている。月影が引力がどんな魔法を駆使するのか、、、あなたの父親と一緒に列車でトンネルをくぐるときに覚えた、うしろめたさを孕んだ好奇心のわだかまりを、、、祭りの夜、独りで死と向き合ったとき夢幻の境地にさまよわせた偉大な優しいちからを、、、」
「富江さん、、、」
如何にも甘えやわびしさを、哀願にすり替えた晃一の声は、ふたりがどこかで見上げている月夜の静寂に染みこんで行くようであった。
ふたたび富江の両目は視界を遮断して月世界へと翔けてゆく。熱いくちびるを互いに鎮静させると云わんばかりの醒め過ぎた情炎でもって。
富江のなかに夜の河口が開けてくる、、、すでに慣れ親しんだ住人だと思いこむ意識には、もちろん刃が仕込まれていた。
「あなたの名を知ったときから、こうやって待っていた自分が成就すると確信したわ。さあ、次はわたしが語りだす番ね」
おそらく富江は晃一の父、孝博への復讐を企てたのではなかった。そう自分に言い聞かせた。ちょうど晃一が初体験を幻影と現実の境目で確認するように。
彼女が画策したのは他でもない、この居心地のよい、思春期に萌芽を見せた自分に寄り添っては先んじ、乗じては後手にまわりこみ、生命そのものと不可分になって羅針盤を狂わせた、もっとも愛しい過去、あの影法師に復讐の念を抱いたのである。それは晃一の考える偽装の心情とは違った、壮大なる母性に突き動かされているのであった。
[64] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年21 名前:コレクター 投稿日:2009年09月01日 (火) 01時49分
目が覚めたとき、晃一はここが何処であるのか瞬時にして判別することが出来なかった。
しかし、次のまばたきで確認された事態は、夢の出口を振り返る意思より先行された、おそらく外泊をしてしまった、三好の家に釈明を、と云った焦燥が前景に押し出されるのであった。
ただちにそれが杞憂であり、三好には酔い具合によっては森田のところに泊めてもらうことになるかも知れないと、そうむこうからも遠慮なくと言われていると、昨夕のうちに伝えているのを思いだして、安堵を重しにあらためてまどろみのなかへと沈下するゆとりを持った。
後景への歩幅は夢見の重力から逃れる意味を知らないまま、沈みゆく枕の安らぎを保ちつつ、そうして弱音で奏でられるピアノの旋律のごとく、ゆるやかに戻り、たおやかな身のこなしであった。
それは極めて短命なときのまたたきであっただろう、、、ふたたびまぶたの裏に赤い色彩が染まりだし、まわりにひとの気配が感じられない認識へと移行したのは、そこに麻菜の姿を見いだすことが出来ないと云う、敗北に似た驚きを受理するためであり、明るみにさらされることのなかった始めての女体を、こうして陽光にさらわれてしまっている悔恨に惑溺するためであった。
奇跡は自ら捻出されるべきと妄信した根拠の彼岸には、砂上に構築された城塞が純白のかがやきで崩落しようとしている。やがては深く沈みゆく古城と変化することを願って、、、
ベッドの脇に置かれた小さなテーブルの上に麻菜が書き記したものを目にしたとき、その字面を追ってみたあとにも、晃一のこころに波紋はひろがることはなかった。
「よく寝ていたので起こしませんでした。わたしも今日は仕事は休みですが、実家に用事があって午後まで帰りません。それまで居てくれてもかまわないけど、もしそうでなければ、この鍵で施錠して入り口左手の芝生に立てかけてある、さるぼぼの下に、あっ、さるぼぼ知らないか、でもすぐに目にとまるわ。真っ赤な顔したのっぺらぼうの人形よ。そこに置いていって」
壁に掛けられた時計は九時をまわっていた。我ながらよく痛飲したものだと妙な自信がわき上がったのも束の間、カーテンでさえぎられた窓のそとを窺えば、たしかに玄関先からあたり一面は芝生が敷きつめられているように見える。
晃一は昨夜の服装を身につけたままであることに奇妙なとまどいを覚えたが、腰のベルトが随分と緩んでいることにほくそ笑み、室内は冷房がゆき届いていることも感心して、おもわず白日を呼び込んだ部屋全体を見回してみるのだったが、ひとり暮らしの若い女性にしてはえらく殺風景な印象で、それより脳裏を巡ったのは性交の光景へと飛翔しかけた充たされない幻影が空回りして、羞恥らしい居たたまれなさが虚しさに飲みこまれてしまうまえに、麻菜の言うよう、影は影のむこうへ、幸いにして灯りに見とがめられることがなかった故、足跡ひとつ残さない気持ちで速やかにこの部屋をあとにすることが出来た。さるぼぼとやらのまん丸した顔は昇りつめようとしている太陽より赤かった。
自分でも不思議なくらい強く握りしめてしまった鍵をそこに収めて、小走りで自転車を置いてきた公園へと向かった刹那、初夏らしいまだひかえめな陽射しが、それでも鮮烈な印象を常に肯定させようとする気概のある光線を斜めに浴びながら、鍵をつかんでいた手の芯に微かながら、それは陽炎が立ち上るゆらめきのように曖昧でいて、しかもめくらむほどの甘酸っぱさを味わさせる。
それはまぼろしなのだろうか、、、それとも夢をみていたのか、、、だが、この掌に残る未知なる感触、己の身体とは別種の柔らかでしかも張りつめた弾力の新鮮さ、あるいは指のあいだに、そうまるで櫛で梳く要領で長く色香がただよう髪の流れ、、、あらゆる方向へと曲線が描きだされる様を果てしなく愛撫しようとする意志を持ったこの掌。
耳を澄ませば、夜の扉はきしみをあげ闇の情炎を解放しようと、哀しみを帯びた悦びがもれだす小声が聞こえてくる。しなやかに躍動する半身はいにしえからの妖術に操られてでもいるふうに、乳房を原始のリズムで弾ませ、続く腹部にまとわるもっとも柔らかな肉付きは優雅に小刻みしながら左右へ振動を伝えているようだ。
女体の存在を知らしめる尻から、餅のように伸び膨らむふとももの頑丈さは、股間を這う**の叱咤に反撥するとでも云った感じで、その局部を変幻自在のかいま見せることを熟知しているのは、どこまでも力つよい大蛇のうねりを連想させる。
一見小柄に映る女性のほんの薄きれ一枚隔てた先は、何と豊満な密林が展開しているのだろう、、、体内から湧出するもので湿ったところへ指先が到達したのは、すでに目に見えない糸とやらで結ばれていたあかし、、、そうして今度は渇いたくちびるを潤すためにときめきながら近づき、その泉に舌先もろとも潜入してゆけば、両の掌がすでに撫でつくした感触とは異なる、悦楽がこの身に訪れる。
いや、この身だけではあるまい、此岸と彼岸が出会う刹那、おんなのからだにも異変が顕われ、もうひとつの世界へと移り住む心づもりが、満ち潮のごとく押し寄せてくる。
幻想は終止符を打つよりも罪深く、晃一にある実感を悟らせた。手のなかに包まれる金属片がもたらした、柔軟な白日夢。
何よりも救いがなかったのは、そんな白日夢を他者も共有しているとは到底およびもつかない現実にあった。
[63] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年20 名前:コレクター 投稿日:2009年09月01日 (火) 01時46分
晃一のこころに明滅し続けている照り返しが、思いあまってのどの奥から放出されたからなのか、もしくは、その波間に消え去る永遠の真珠のきらめきを感じとったからなのだろうか、少なくとも簡単な裏付けのままに<事実>の確証を得た富江にしてみれば、深入りと形容されても言い逃れが出来ないこのひと月であったはずであった。
実際に目を細めまぶしい具合で見つられるがわとなれば、また、少年時の年上女性に対するあこがれは一般通念に裏打ちされるまでもなく、野性的な趣味として十全に富江の子宮にまで伝わり、何ら拒否する名目が見当たらないのを幸いに、その好意をすべて受け入れるつもりであった。
肉親に咎めがあったにせよ、一切は不問にし、ただ自分とは多少の相違はあっても、その背伸びした姿勢の気炎に共通項を感じられるからなのか、、、
富江は年長ということもあって、自分の領域には触れないまま巧みに相手の心中を忖度した。
第三者から傍観すると、一方的な質問攻めにさえ映り兼ねない様子に近かったのだけれど、晃一の若さは繁茂した草木が身を持てあまし、それを見かねた富江に草刈りをしてもらっていると云った感覚にさえ萌え盛り、もはや彼女を疑る条件などこの地上からは見いだすことが不可能であった。
そんな有様だから、あれほど慎重に扱われた**への拘泥さえも、過ぎ去ったときの向う岸と云うより、もはや自分では関知しない他人事のように思い返される。もっとも意想の変移は特技とも呼べる性質ではあったが、愛欲と性欲が不可分である現在では、随分と屁理屈をこねまわして来た経緯は記憶から消えてゆくべき類いとして歯牙にもかけなかった。
あの東京での梨花子とのくちづけさえも今では思いかえすこともない。だが、この夏を擦過していった比呂美への禁止された欲情の高揚と、その矢先にまるでお膳立てしてもらったような上戸麻菜との初体験は沈める古城となって、鮮烈な記憶を祭り上げるため、ときおり城門が勢いよく、あるときは冷静に開かれるのであった。
富江はそうした彼の心意を察するとばかりに、三好の家のことなども含め一切合切、聞き出してしまいそうな勢いで、
「でもよかったじゃない。そんな薄暗い部屋なんかで、お色気の出戻りさんとしょっちゅう顔合わせてたら、終いには妙なことになってたかもね」
「確かにその通り、もう臨界点を越えそうだったから。森田さんからの誘いがなかったらおそらく何らかのアプローチをおこしていたと思うよ」
「それでその飲み会の夜にやったっていうのは結構いけるわ。本当にうろ覚えなの、さっきから聞いてても肝心なと記憶が飛んでるとか言って、しっかり順序よく整理してみてよ、居酒屋出てスナックに行ってからの意識があやふやなのね、そこを出てからどうやって帰ったのかも、、、」
どうたぐり寄せてみても失われた思考は晃一は断片的な光景として、所々をかいま見せることしか無理だった。焼けこげた配線の回路を伝いやがて故障への烙印を押されるとでも云った調子なのだが、これは機械の故障ではない、記憶の裁断なのだ。すべてを順序よく再編するまでもなく、一番肝心な箇所、つまりは初めて裸の女体に重なった際の感触や、ぎこちなく済まされたであろう**までの情況を呼び覚まさないと、初体験と云う人生一度の想い出が無効になってしまう。
富江から注意を受けるまでもなく、晃一にとってそれは鮮やかな色調で甦るべき属性でならなければならない、、、まさか今更、上戸麻菜本人に尋ねることも出来ないし、森田はあれから数日後、出張先で何でも駐車場で猫を轢き殺してしまい、かいつまんでしか話してもらえなかったが、過失にしろ酷く無惨な傷跡に苛まれているようでそれ以来、思うところあってを自らを律しているとのこと、いつの日か宿命的な事態への備えに対してなど、どうにも今はこの方からも詳細は得れそうにもない。
お膳立てと云えば確かに泥酔した自分と麻菜を妊婦の好子の車で送らせて、麻菜の部屋まで付き添うよう促したのは覚えているし、部屋のなかにふたりして倒れこむようにて入った途端に、好子の車がその場から走り去る音が響いていったも、それで不審と緊張によってお互い顔を見合わせたことも知っている。
ただ、その部屋の灯りは消されたままだったので、麻菜のどんぐり目がさぞかし大きく見開かれたさまを想像することはあっても実際には確認出来なかったのである。
靴は脱いだと思われるが服まではどうだったのか、、、それよりどちらから歩みより相手の背に腕をまわしたのだろう、、、前戯として麻菜のはだかをまさぐった覚えがない、**した感覚さえあやふやなのだから。
結局、性交渉が実際だと想起出来る場面は、
「じゃ、きれいにしてあげる」
というさきほどまでの声色とは違ったやわらかな口調とともに、下半身があらわになったままの晃一の陰茎をすっぽりと口中に含みながら、その時間の経過がカーテンの向こうからもれてくる街灯のわずかの明かりに滲みだしてしまったよう、いつまでも、いつまでも、夜に支配し続けられている快感が局部を通じるより、眠りに落ち入るきわに似た、緊張が緩和される快楽を約束してくれていることにあった。