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[48] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年7 名前:コレクター 投稿日:2009年04月23日 (木) 15時02分

晃一の舞台は、こうして予想外だった比呂美の出現によって早々と崩壊しはじめた。もっとも、崩れだしたのは外壁であって、中心部に宿った暗室の天蓋は淡く差しこむ月光の親和をもって受け入れた。

数年まえまではこの三好の家で育った比呂美は、後日、運ばれてきた自分の荷物をひもといてしまうと、こうやって細々した手伝いや調理をこなしているのが、ずっと以前からでもあったような錯覚を晃一にあたえていった。
それはまた、身近を遊泳する禁断の人魚でもあった。これは大げさでなない、中肉中背に見られた彼女のからだつきは、夏着の軽装によって随分と違った香る圧迫を示しだし、その張りきった胸元からくびれた腰つきが階段を昇降するたびに、悩ましげに内股がこすれあう様に、魅入ってしまうのだった。
古い民家を改造しただけの室内はところによって、ほの暗い空間を時のうしろに残したまま人気を待ちわびている。
そんな薄明るさは、比呂美の肌の白さを吸いこんで増々照度を上げ、ときには細いひと筋のひもが鎖骨にそって両肩を滑りゆくまま素肌をあらわにしている浅葱色の服装を、隠微なものに仕立てあげるのだった。
ほとんど納戸になっている部屋に、普段は使わない大皿を取りに入った晃一は、何やら片づけをしていた比呂美のその浮きあがった柔肌、ちょうど深く切り下げられた胸の谷間に米粒ほどのほくろを見つけ、
「あっ、居たんですか。えーと、藍塗りの魚の絵柄のお皿ってどこにあるかわかりますか」
いかにも忙しい素振りで、動揺している心中をまぎらわせるように呟やくと、
「これのことかなあ、団体さん用の二皿ね、鯉がはねている模様が書いてあったと思うの、、、」
そうして、記憶をさぐるまでもなくめぼしい棚の奥を探って、土色になりかけの箱の両手で抱え、
「悪いけど、これ取り出してくれる、わっ、ほこりかぶっちゃって」
ふっ、と息を吹きかける仕草をしてみたのだけれど、すぐに塵が舞うのが懸念されたのか、
「うん、畳のうえに置いて」
と言って、晃一を促したとき、彼はもう一度まじまじと白州に据えられたような黒点に目がいってしまった。
大皿のふたを開けてみるまでのほんの束の間だったが、彼には部屋中が軋んで淀んだ空気がぶれ動いたふうに感じられ、あきらかにその時間は実際よりも長かった。
ほこりがゆっくりと積もっていくような狭いところでは、意中も伝わりやすいのか、晃一の視線に偶然以上のものを察知した比呂美は、
「やだ、ほくろー、恥ずかしいわ、目立つでしょ。何か段々と大きくなるの。とっちゃおうかなって思ったんだけどね、知り合いに聞いたら、それは賢女の徴だからって言うもんだから、わたしもその気になってたんだけど、結局出戻りしたっちゃし、占いなんて当てにならないわね」
ほくそ笑みを浮かべると、すでに開かれている胸の右側の端を更に掻きおろした。
そうして確か真ん中と思われたところより、やや右の部分にあらためて見いだされたけれど、それを凌いで気がかりになったのは、浅葱色のなかには何も着けていないのか、**までは覗けてないもののふくよかな胸の隆起が、部屋の陰りにくぐもることなく顕然と晃一の瞳に押しよせている事態であった。
「もっと大きくなったら、邪魔かもね」
声色になまめかしい余韻はないにしろ、これほど近くまで比呂美に接したことのなかった晃一は、ゆっくりと顔をあげるのもためらい気味に、相手の目を凝視するまで至らず、しかし、内側に折れ曲がってくいこんでしまう想念が斥力とともにもたげ始め拮抗するさなか、再び性急なまばたきの裡になぞったのは、帰省の折印象深かった小鼻の端から頬のかけて点綴するふきでものだった。
一点の艶やかなほくろより、その肌荒れがとても卑猥に映じたのである。


[47] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年6 名前:コレクター 投稿日:2009年04月21日 (火) 13時56分

想い出のなかに保存されていた比呂美のイメージは多少の華飾でくるまれていたのか、、、それは二十歳そこそこで結婚すると云う初々しさが前置きされていたせいもあるだろうし、また少年時代ちょうど中程の年頃の、釣り合い人形のように不均衡な安定で起立している目線でしか判じることが出来ない好奇心は、消極な恥じらいになって来たるべき発芽へと見送った結果だったのかもしれない。
いずれにせよ、三好と一緒に車で駅まで赴いた晃一の目に立ち顕われた彼女の印象は、どこか荒んだ雰囲気を消し去ることを忘れているようだった。
「ただいま、お迎えまでしてもらって、、、」
まぶしそうな目で笑顔をつくり三好の顔を見てから、わずかに小首をかしげ晃一のほうへ一瞥をくれ、そうあまり明瞭でない第一声が放たれた。
陽のひかりは有頂天なくらいに開放的なのだが、合唱に近づいてきた蝉の声に抑制されたような遠慮勝ちの響きであった。と云うのも、三好と並んで民宿の客を迎え入れる際に、いまでは無意識的になった相手の手荷物への配慮が同じく比呂美に対しても発揮された様子が、その地面へと印された動作の影の濃さのように、鮮やかに映ったのだろうか、
「晃一くん、おうちで住みこんでくれてるんだってね、しばらく見ないあいだに大きくなっちゃって」
と言いながら、いっそう目を細めながら見せた八重歯がこころなしか一瞬かがやいたふうで、しかもその反照によって結びつけられたのは、かつて東京の自宅での挨拶の光景であり、過去から現在に至る夢想さえされなかったこの場での対面が、反対に未来像のなかへと投射されていたのではと云った、放埒な思いになりよぎったからだった。
比呂美の肌はあのときと変らず、夏日を忘れさせるほどに白かった。だが湿疹なのかにきびあとなのか分からない赤みがかったふきでものが目立つ面に、晃一はやるせない憧憬みたいなものを覚えたのである。

放物線の高まりが強く激しければ、その軌道は遠く描かれることになる。
比呂美の帰省は予てより晃一の胸の裡へと放たれた衛星であった。彼の進路が、都会脱出が、比呂美との邂逅に則したわけではない、要は重力から逃れることを意識しなかったまでのこと、月がこの地球から離れ去ろうとしないように。
天空の果てまでの遠望はさて置き、ひと夏のストーリーにふさわしく、ここからめくられる顛末はのびあがる入道雲のように一気呵成に蒼穹を覆うことになる、純白の汚れをもって、、、

曇りなき鏡がひび割れたのと、比呂美が実際に帰って来たのは、時間的にみればほぼ同時進行であった。
晃一は東京にとり残してきた自分の**に煩悶していた。両親やまわりの説得や忠告にも決然とした意志をつらぬき通した体裁を整えるには、垂れ流しこぼしてしまうように初体験を済ましてからなどど云う、甘い理屈づけは装着されるべきではなかった。
自ら非社会的な可逆性を模索しなければいけないのだ、そこに親族の助力があるにせよ、少年が少年であるためには、もっとも生臭い衝動である性をコントロールしなければならない。男になる必要など、ことばのうえの綾で上等、そして何より男になることは社会へと溶けこんでいく摩擦を意味している。
永遠の少年はこうして、すべての時間を最小限の意味のなかに閉じこめた。父の書斎から抜き読みしたエーリッヒ・フロムの著作に感銘し、自らを実験台にして性欲が社会的実現への発芽となる威力の是非を試みようとした。
だからこそ人口と緊張が飽和に達していない緩やかな密度が要求され、ちいさなこのまちは彼の恰好の檜舞台となったのである。
過密人口と煩瑣な日々のうちでは集中は不可能だろう、、、明確な論理と実践術がまずあるのではなく、深山に身を隠し世俗とは縁を絶つことによって大悟を得る修験僧のごとく、ひたすら三昧の境地に入ってみたかったのだった。
父とはまったく異なる手法をもって、、、宗教学者なる名称が彼にとっては、そもそもまがいもののように察せられ、それは釣り学者とかカラオケ学者とかに違和感を覚えるのと一緒で、確かに膨大な古今東西の思想書は実り豊かに書架と脳裏を飾るだろうが、いつか父がこぼしていたように、万巻の書をひも解くだけで生涯を終えてしまう憂いはぬぐいきれない。
実験は失敗を許すのだろうか、、、晃一のなかには明日と云う字は存在しかった。ただ、都合よく聞こえてくる青春と云う、青白い月のひかりにも似た寂寞のあかるさに、優しく包みこまれているのだった。


[46] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年5 名前:コレクター 投稿日:2009年04月20日 (月) 06時53分

晃一のめざめはすぐそこまで近づいていた。
このまちで暮らしていることが奇跡なのではなく、このまちがそのものが奇跡なのだと、少年のこころに疾風が吹きこみ鮮やかな波紋が大きく形成されていった。
この世のなかに息づいている実感をこれほどに微塵もなく疑いようなく、今までつかみとれただろうか。
三好の家屋に届きそうなくらいまでたたえられるに穏やかな海が、三方を圧迫に近い快さで取り囲む山の連なりは湿気を常にはらんでいるかのようだけれど雨脚を心憎いまでに統御してみせる天候の対照が、純然とした意志のもと運ばれてゆく時間それ自体となって惑わすことに、まぎれもない歓びを見いだすのだった。
風来とともに訪れた波うち際に立つ、渡り鳥の無心のように。そして白砂の浜におちた孤影が無上の慈しみで縁どられているように。
東京に置き忘れていた出立の記念碑を、思いのほか早くこの身にしるせることが可能となる予感、それは潮風にまじる生臭さが野性を呼び覚まし刺激をあたえたのか、生き生きとした欲望が夢見ながらにひも解かれる様は、まるで恣意的な放物線が小気味よく描かれるのと同じく軽快だった。
三好の主人は自分のことを「だんなさん」と呼んだ晃一に対し照れくさそうな笑い顔を浮かべながら、
「おいおい、そんなたいそうな旅館でもあるまいし、それにいまどき、そんなふうには言わないもんだよ。晃ちゃん」と、軽く受けながし、「わしはここいらではしげさんって呼ばれるんだ、重文だからね」と親しみありげに念押しの風情でそう言った。
「はい、わかりました。では奥さんはおかみさんではだめなんですね」
その応答の具合がよほど間合いよく、思われたのだろうか、三好の奥さんは、
「あらあら、あたしはおかみさんって響きが気にいったわ。ええ、そう呼んで下さいな、このひとはしげさんでも、しげぞうでもかまうもんですか」
そんなやりとりも快調に、そして、ここでの仕事の役割なども別段苦もなく覚えてしまった晃一は、早朝と云うより夜明けまえから起きださなくてはならないこと以外に、予想外の生活変化もなく、またたく間に春眠の深さからくる一日の清澄を覚え、桜のつぼみに何やら目配せしたまま、さりとて散りゆくはかなさは巡り巡る季節の連動とでも云った調子で、それまで懸念していた手狭さや気苦労など想像してみるなど無駄骨、ここはひとつ宙に浮いた感覚で流れて行こうと自ら選びとった境遇を満足気に眺めやるのだった。

掃き掃除や雑巾がけのさなかに汗がにじみだすのが疎ましくなる頃になって、ようやく晃一は鏡のような意識にひと筋のひび割れが生じているのを認める必要に駆られた。
わずかの間だったけれども、それまで晃一の日々は確かに自然のなかでときが刻まれていた。

母から聞かされていた三好の娘比呂美がこの家に舞い戻ってきた。家のものからもその旨は知らされていたので、晃一は殊更に気をもんでみることもなかった。
「夏までには、って本人も言ったたんだがね、とりあえず別居のかたちをとるから来週帰って来るって。晃ちゃんもちいさいときに会ったこともあるだろ、なに、これまで三人家族だったのが四人になるだけさ。働き手も増えるってわけだしね。気むずかしいやつでもないし、反対に能天気すぎて、むこうに愛想つかされたんだよ、、、」
そんな三好の言葉はどこか自分が叱咤されているふうにも聞こえたのだが、気のまわし過ぎは神経にさわると、ここに来てから若葉のように勢いを増した、自然主義的な感性で素直に受けとった。
「母親の叔母の娘だから、どれくらいの血縁になるのだろう、、、叔母と云っても母と姉妹ほどの年齢差で、しかも娘の比呂美さんもまだ二十代半ばだし、なんて呼べばいいのか、、、お姉さんでは、慣れ慣れしいかも、お嬢さんなんていうと、また古風だとからかわれる、それに何より出戻りだし、、、」
そんな一見気配りにも似た、照れ隠しをまとった詮索がどこかむず痒くしかも薄ら寒いのは、逆さにしてみれば隠れみのがすっぽりとれてしまった裸の虫みたいに、ただ自己の居場所を再確認することでしかないと晃一は勘づいてしまったのだが、つまらない直感など毎日の日課でもある単調なほうきで掃いて捨てればいいのだと、些事に拘泥する不甲斐なさへ向き合う代わりに、ひたすら比呂美との再会の日を指折り待ったのである。

よく晴れわたったその日、午後の陽光はこれから描きだされる、ひと夏のストーリーの序曲の伴奏を求めるソリストの高慢のように、近辺を容赦なく照りつけた。
まばゆくひかる海面も、蒼天の色合いに呼応して深みをつのらせる山嶺も、このまち特有の瓦葺きの家々も、そんな鋭くなった陽射しに制圧されたのか、或いはこれから激しくなる熱射に順化するためのあきらめなのか、、、
晃一のこころは、少なくともそういった季節の擬人からは一歩だけだけ抜け出ていると自負していたけれど、次なる一歩がまわれ右をして、下手をすれば自然現象の裡に飲みこまれてしまう予兆を感じていた。
彼は決して自然を愛しているのではなかった、自然のなかでそれを超克してみたかったのであった、、、


[44] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年4 名前:コレクター 投稿日:2009年04月20日 (月) 03時53分

奥手と云えばそうであった、しかし富江が最初の女体であったのではない。彼女と知りあったのはほんの一ヶ月まえ、まったくの偶然による、しかも指向する自然を背景とした晃一に相応しい出会いであった。
生まれて初めておんなの素肌に張りつめた情をもって触れたのは、このまちに来てから日数も浅い、空気が心地よい湿り気に侵されはじめ、新鮮な陽射しが辺りを乾燥させようと懸命に蒼穹の彩度を高めていった初夏の頃だった。

引っ越しの準備から始まった、晃一のまさに青春の旅立ちは、慌ただしさのうちにもどこか醒めた時間が通り過ぎてゆき、薄い膜をへだてた非現実感が溶けこみ、さまよっていた。
親友とまで呼べるほどの友達はいなにしろ、近所には幼い時分よりの学友も住んでいるし、先日の女子生徒ふたりにだって、いつでもたぐり寄せられる想い出以上の心持ちがたなびいているから、、、
二年生の冬休みまえ、晃一は彼女らから続け様に告白を受けた。最初に今井まみから淡く飾り気のない純情をうちあけられ、その素朴な軽やかさに乗りきれず返事をためらっていたところ、今度は彼女と仲よしの本間梨花子から未熟な媚態を漂わした表情で明るい好意を告げられたのである。
「わたし、まえからだったんだ、、、まみはまみの気持ちよ、ともだちだからって変に思うかもしれないけど、まみも承認ずみなの、わたしの番はわたしの番、きらいだったら、はっきりとそういってほしいの、、、」
梨花子の足首は交差され、ねじれた豊満なからだつきは誇張された内心をいくらか物語っているようで、その実自分の意向をたしかに伝えていて、そのとき晃一は別なひるみにより上気してしまい、相手がすでに自分の胸に身を寄せているのを呆然としたまま気力のない腕で受けとめてしまったのだった。
そのあと、くちびるがどちらからともなく近づくと、薄目に閉じられてゆく、しかし突き刺すように見つめる瞳のひかりがにじんでいるのが星の瞬きに似たうつくしさにも感じて、白い歯を覗かせているくちもとに触れたとき、これがキスなんだと思いながらも、お互いの歯が乾いたおとを立てていることに気が集中してしまったのである。
ややあってふたりが距離をつくったとき、切りそろえられた梨花子の前髪は、反対に謀反を起こしたかの険しく頬にかかった乱れ髪をいさめているように、清く可憐に晃一の瞳へと映った。
その夜更け、晃一は梨花子を想ってほとばしるものをひとり空に放った。
夢想は未来へと拡張してゆき、我が身の置きどころは現世には見当たらないと云った倒錯した理念が放埒にあふれだしのはこの頃であり、晃一は天啓にうたれたように、非社会人であることに来るべき将来を託した。
前歯はと云えば、それからもふたりきりになる度に数回ぎこちなくぶつかりあって、舌さきが異質な生き物みたいに侵入しかけたとき、同時に胸もとの柔らかな感触が電流となって股間まで伝わり、晃一の根もとを奮い立たせた。けれども、それよりむこうへの侵攻は行なわれなかった。
ふたたび欲情が突き抜けたのは、年があらたまった寒空の下、学校の近くの細道に見知らぬ生徒と腕組みで歩いている梨花子のひかえめな顔つきを遠目から見いだしたときである。晃一はそれから幾日かのあいだ悲しみを胸にとどめ、根もとからのくみ出し作業を儀式とすることに朝晩没頭した。
その甲斐もあってか、いまでもふたりの女生徒はこころの友を上手に演じてくれたのだと信じている。

彼女らを含んだ数少ない交友への惜別も淡々とこなし、それからは母の提案した道行きをとにかく試してみるだけだったけれど、果たして本当にこれが自分の選択した方途であったのか疑問がないわけでもなく、しかし、いきなりホームレスになるような非社会性に憧憬は抱くことも出来ない、とすれば家族の愛情を一身に背負ったつもりでの譲歩こそが、やはり最良の道に違いない、、、
新幹線のりばで両親との別れ際にも感傷へひたることなく、このまちに到着し、三好の家のひとたちに挨拶をすませたその夜、ひとり寝のしているこの畳部屋がこれから自分の住処になるのだと、言い聞かせてみたときにやっとせつない気分でいっぱいになり、なみだがこぼれて出してくるのだった。
窓のそと、せまい道路をはさんですぐにさきにひろがる海の香りが、自分の甘酸っぱい精神を讃えてくれているようで、この素晴らしい孤独感こそ、無難に人生を渡ってきたであろう父には味わえない質だと云う誇りをかみしめながら、聞こえるか聞こえないか、潮騒へと耳を澄ましてみるのもけれんみあり気かな、などと意識しているうちに晃一は心地よい眠りへとおちていった。


[43] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年3 名前:コレクター 投稿日:2009年04月13日 (月) 22時30分

あのとき晃一は、母が並々ならぬ野心家の一面に近いものを覗き見たに違いないだろうと推察してみた。
翌日、今度は父から、「これで結着にしよう、意志は固いんだな」と問われるままに、
「うん、かわりはないよ、とりあえずあのまちに一度行ってくる、二三日で戻るからさ、心配しないで。交通費なんかも、いままでの貯金はたいて工面したからだいじょうぶ、って言ってもほとんどお年玉を貯めておいたやつだけどね。でもけっこうあるんだよ」
と悠然とした口吻でこたえるのだった。

卒業式を終えた数日後、父が不在だった夜半、晃一は母からある提案を持ち出された。
それはすでに決定された息子のこれからを願う、親の情の切実なあらわれに思われた。話しの切り口に入るまえにはわずかに顔を曇らしたのだったが、夢と理想とを手中に収めてしまった晃一には、過敏な反応以上のなにものでもなく、ましてや母が語りはじめた提案は、巧みに弱点を刺激しながらもけっして懐柔へと通じ得ない、鮮明な展望がひらかれていたからである。
「どう、いきなり見ず知らずの人間のなかに分け入っていくよりかは、かあさんの言うようにとりあえずは、三好さんところへ身を落ち着けてから、あわてることもないでしょう、、、ねえ、そんなに急いでどこへ行くのよ。自分さがしするのだって、ゆっくり時間をかけたってかまわないでしょう」
母が言うには、自分の叔母が嫁いださきが海辺でおもに釣り客を相手とした民宿を営んでいる、以前、親類の法事で帰省した折に、その叔母から最近は若い人材が不足していて、しかも宿の仕事は単調なうえにけっこう労働力も要求させるので、なかなか人が根づかないとこぼしていたことを思いかえし、昨日電話でその後の情況をうかがいがてら、こちらの内情を打ちあけてみたところ、それだったら是非とも三好の家に身を寄せてみればどうかと話しが発展したのであった。
まえには父から鋭い指摘でもって、親戚縁者にすがる可能性を糾弾されたような一幕もあり、晃一にしてみれば、母の発案を鵜呑みにしてしたがってしまう自分がもどかしかった。しかし、そんな息子の胸中をあらかじめ察していたかのように少し声色を甘くなびかせ、余情を伝えることが本命でもあるみたいにしてこう言った、
「話したことあったかしら、あそこの息子さんは家業を引きつぐ気なんかさらさらなくて、あんたと一緒で勉強できたから、医者になるって医大まで入ったのはいいんだけど、そのあと挫折したのか、いきなり北海道の牧場に住みついちゃって、いまではむこうで結婚して、滅多に家に帰ってこないっていうの。
それから次女のほうもねえ、静岡へ嫁にいってたんだけど、どうも夫婦仲がそぐわなかったみたいで、子供が出来てないのを幸いに近々戻ってくるかも知れないって言ってね、ああ、あんた知ってる、そうか、比呂美さんは結婚式のあと、一度うちに挨拶に来てくれたから。たしか前の日にきれいな娘さんが明日来るよっていったらあんた、もじもじしてたもんね。
それで晃一のことを相談してみたら、腰かけでもかり宿の気持ちでもいいから、とにかくいっぺん寄ってみたらって言ってくれて、居心地が窮屈だったり、ほかに落ちつきさきが出来たときには、気兼ねはいらないからって。どう三好さんとこだったら、かあさんも安心だし、あんたと一緒に最初のあいだ暮らすことも止めにしてもいいと思うの」
母の言葉が途切れるやいなや、晃一のこころはそよいだ。そして心音が次第に脈打つのを覚えながら、言い様のない不安と希望が静かに足もとまで忍びよっているのを、他人ごとのように認めてしまっている己を嫌悪した。

あの日、父が三好家を訪ねていたなんて、、、母の確信に満ちたあの甘い物言いはその日のうちに、父からの通達によって希望をみなぎらせたシナリオだったのだ。
なるほど、それで自分のなかの気持ちがどこかしっくりいかないのを、後々まで抱き続けるようになったのか、、、いったい、どこまで根回しされているんだろう、いくら心配だからといってそんなにお膳立てしてもらわなくたってかまわない、、、
一年前の両親らがとった情愛にあふれた画策に気がついた夜、晃一は白日夢が育んだ愛憎に包みこまれていることを知るよしもなかった。


[42] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年2 名前:コレクター 投稿日:2009年04月13日 (月) 22時00分

出来る限り必要以上の機器を身のまわりに備えることを晃一は避けようと誓った。
車とパソコンはあえて持たないことで、行動範囲は限定されるが流浪する自由人のロマンはふくやかなもとなり、安易にたぐり寄せられる情報の閉鎖はかえって未知なる時間への旅立ちを促して、常に探索にむかう姿勢を更新する。
交通の便は一台の自転車を購入することで十分にはかられた。街乗り用より少しばかり性能のすぐれたその真紅のボディの彩りは、颯爽とした走行感をあたえてくれた。
もし車を所有してしまえば、きっと市街はむろん県境を軽く越え、大阪や京都といった都市にまで足をのばしていく可能性が危惧される、それでは、自然に親しみ、簡素な生活スタイルを貫く意味あいが希薄になってしまうだろう。どうしても遠出に迫られたときには、鉄道を利用すればこと足りるではないか、、、いまのところ、ここでの生活には仕事においても運転免許証を取得する必要が生じていなかった。
たったひとつの利便性は、しぶしぶ母に約束させられた携帯電話の所持であった。
「これだけは持っていって、高校でも携帯使ってないのは晃一だけだったでしょ。遠くに行っていまうんだもの、せめていつでも連絡はとれるようにしていて。あんたの望み通り好き勝手でいいと言ってるんだから、、、」
その言葉には哀願以上の強迫じみた説得力があり、晃一は従わざるを得なかったのである。
憶えば携帯を好んで使用しないのは父も同様だった。学者気質そのものの父は自分が打ちこんでいる学究生活を些細なことで乱されるのを極端に嫌った。きっとどこかそんな親からの性格を受けついでいるのだろうと云う実感は、晃一の矜持を裏側からささえていた。

「この携帯電話もいまでは、日常のなかで手放せないものになっている、、、」
けっしてふくよかではないけれど、表面に適度な張りがあって内部からの芯には手ごたえが返ってくる乳房を右の手のひらでもみながら、そのちょうど直線先にあるテレビ台のしたへ無造作に置かれた自分の携帯をぼんやり見遣り、そんな感慨がよぎっていくのだった。
その日、晃一はつきあいだしてから初めて、富江と並んで写真を撮った。
お互い裸体をさらけだすまえの、柔らかなくちづけをしただけの、そうして上背のある晃一が逆にしたからにらみ返される視線によって言いだそうとした言葉がさえぎられた直後、富江のくちから、
「ねえ、ふたりのとこ撮ろうよ、なにためらってるの。誰にも送信したりしないわよ。なんなら磯野くんので写して」
いかにも年上だからといわんばかりのきびきびした声色が発せられた。
木下富江は二十一歳、晃一からしてみれば、まぶしい存在であった。

父が一年前の夏、晃一に内緒でひとりこのまちに帰省していたのを知ったのは、つい最近のことである。
仕事がら特別講師として他の都市や地方の大学におもむくことも多く、あの夏の日もそんな出張なのだと別段気にもとめていなかった。
晃一の決断にゆるぎはなく、どうあっても信念を曲げさせることが無理だと両親に知らしめたのは、ある工作を弄することによって、自ら断崖絶壁から投じる模倣を演じてみせた結果であった。
いよいよ、卒業もさしせまった頃のある昼下がり、なんの前ぶれもなくふたりの同級生だという女子生徒を自宅に呼び寄せ、晃一は母に真顔でこう説明した。
「こちらは今井さんと本間さん、同じクラスなんだけど、実はね、卒業後のこと話しあってたら、ぼくの考えに共感してくれて、もし、あまり遠くない田舎に行くのならどちらかが交替で、いろいろ面倒みてくれるっていうんだ。泊まりがけでもかまわなって。なんかぼくうれしくなっちゃって、それって告白の一種なのかなって、でもふたりから同時、いや共同ってどうかなと思って、かあさん的にはどうなの」
母は薮から棒の息子の言葉に一瞬、我を忘れた顔つきになったが、普段より知る晃一の言動にしては、その無謀さに異質のものを感じとり、きつく結んだくちもとのまま珍妙な意見を求めた本人に向けるべき目線を、より強くふたりの女子生徒に投げかけた。
すると思惑は見事に適中し、ふたりは一気にしおれる草花のように目をあわせることを怯えてうつむいてしまったのである。それからゆっくりと息子の顔色をうかがってみれば、そこには軽くひきつりながらも敗北を認めようとはしない、高慢な薄笑いが塗りこまれているのであった。


[41] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年1 名前:コレクター 投稿日:2009年04月13日 (月) 17時52分

夏の終わりのひかりが遠い彼方にかがやいている。九月の末に吹きぬけてゆく風は、時折思い出したかの気分をふくみながら二階の窓から部屋のなかに訪れた。
両端に束ねられた淡い水色のカーテンから解放されたと云うふうにして、白いレースの透かし模様はやわらかに羽ばたくようにして舞いあがり、晴れわたった秋空の青さを一層あざやかに描きだしてから、重力に静かな抵抗をみせながら、裸になった少年の瑞々しい背中のはしを、そっと撫でていった。
「もういったの、、、」
抑揚のない喉がかすれ気味になった低い声は、しかし意味を孕むことにより、限りない透明度をもった艶やかな水質に似た肌触りを晃一にもたらした。
たったいま首筋から肩先へと流れおちたくちびるは、女体との清冽なふれあいの余韻を噛みしめる間もなく微風に呼応してしまい、
「ああ、いった、、、」
と、如何にもけだるさを漂わして答えたのが、やはり気恥ずかしさからくる演出であることを反響音としてとらえたあとで、晃一は背中から脇腹にかけ奇妙な感触を覚えるのだった。
「いいのよ、そのままじっとしていて。こうしているのが好きなの、、、」
今日は安全日だからと言った相手に、いつもより親愛をつのらせたのも流れゆく発露まま、あふれだす精気は体内深く注がれたけれど、その生命の種子は育みをかなえられなかった代わりに、ふたりの間に目には見えない絆を誕生させた。晃一にはそう思われた。
「わたしも感じたわ、日に日に上手くなってくわね」
「、、、、、、そうかなあ、じゃあ、あとでもう一度、、、」
素っ裸同士の快楽と軋みは、ベッドのシーツを乱し、そのしわが作りだした隙間に、徐々に激しくなる息使いに連動する肉体から、まだまだ肌寒さを覚えるには早い気候に忠実であるように、きらきらと汗がしたたりおちて吸収されていった。
ふたりを包みこみながら通っていった風は、ことが果てたあとに新たな快感をあたえていったようで、からだをふるわす悦びとは種類の違う、解放的な清涼感であった。
では、肉感は解放をもたらしはしないのだろうか、、、
こうやって日をあけず、相手のくちびるを吸っては裸をまさぐりあうことは、強烈な密接を生みだすことなり、かつて知り得なかった緊縛を晃一に授けていった。
それは志願兵の心意気に近い不自由への讃歌であり、規律への逃走であった、、、愛欲という名の監獄へひた走る為に、、、唯一異なるのは、勝利を治めることに目標を定めない、無謀な計画による光画だと云うことだった。

磯野晃一はこの夏で十九歳になった。
両親の反対を緩和させ妥協案をのみ、自分の望むままに東京を離れこのまちにやってこれたのは、ある意味奇跡のようでもあった。あの夕暮れどきに起こった家族間の葛藤劇は、血のつながりをあらためて確認しあう、ひりひりした面映い慰撫を日常会話のなかへ染みこませていったのである。
高校最後の一年に軋轢がふたたび生じなかったかと云えば、そうでもない。
父よりは母からやはり、もう一度よく考えなおしてみるよう再三さとされ、
「都会の生活から逃れたいのなら、試しに近郊の山村とか漁村へアルバイトしながら暮らしてみればどうなの。あんたは東京で生まれ育ったからわからないでしょうけど、この国の田舎なんてどこでも同じようなものよ。山々があって川が流れて田んぼや畑がひろがっていて、背の高い建物はない代わりに、似た民家が立ち並んで、しんみりとした道路のむこうに海が見えるの。
ねえ晃一、お願いだから自然とふれあいたいとか思うのだっら、一度近場で体験してみて、そこから腰をすえて見つめても決して遠回りではないと思うのよ」
腰をすえて、と云う言い方は晃一には技巧が隠されているようにしか聞こえなかった。
結局、母は距離感によって阻まれる意思の疎通を怖れ、、、なにより手の届かないところで見舞われる不運や、あらぬ転落を憂慮し、見張りのきく範疇に留め置くことで負の要因をあらかじめ最小限に抑えこもうと企んでいるのだ、、、あのとき、かあさんも最初の期間を同居するとか言ったけど、東京からあのまちまではやはり遠い、近くに住まわして常に監視するのが実は最後の譲歩に違いない、、、
そんな母の言い分を引っこめる為、晃一に残された手段は追いつめられた獲物が牙をむく、決死の賭けを試みるしかないと思いなされたのであった。


[40] 題名:まんだら35 名前:コレクター 投稿日:2009年04月09日 (木) 07時03分

短い嵐が去ったあと、富江は目を閉じたまま言葉を置き忘れたかの面持ちで静かに呼吸していた。
しばらくしておとこが席に戻ってからも、この姿態がもっとも的確な距離感を保てると思いなし、お互いのかかわりはそうやって見知らぬ他人へと還ってゆくのが本来だと願われたのである。
夏草のうえを軽やかに吹き抜けるそよ風のような寝息は、富江してみれば殊更あらぬ感情をなだめすかしているわけでもなかった、相手もまた同様にそよ風にのって忘却の彼方へはこばれていくのが純粋な戯れなのだから、、、

まだまだ太陽は盛りであることを忘れようとはしない、申し分なく照りつけられたホームのコンクリートが白銀にかがやいて映った。
別れしな富江が「姉が迎えにきていると思います」それが最後のことの葉だと想いをこめて解き放つようにして言うと、孝博は「そうですか、ありがとう、それでは、、、」口ごもったでそう返答したのが、停車した列車のエンジン音に圧搾された低いうなり声にも似て聞こえた。
孝博にくるりを背をむけ、改札を小走りに抜けていった富江のこころは、衣が一枚はがれおちた身の軽さでいま、帰省したと云う実感のさなかにあって、左側に見なれた白い車を背にした姉とその息子の微笑みがひときわ陽光にきらめいて、まぶしさをもたらすのだった。
富江は「ただいま」と言いかけて、ふと、右のうしろの方から何か黒い人影がよぎっていくのを覚え、一瞬、時計の針が止まるあの不吉な刺を感じとり、それが、車両に残してきたあの淫らな余韻であることに向けられそうになったのだったが、黒い影は実際にはこの目には映らずに、かすかに耳をこだまする水滴のごとく、しかし一滴一滴は、確実に言葉の一音一音につらなる語感を鮮明に反響させ、こうささやかれたのであった。
「・・・よるのみずはつめたい・・・」
はっと振り向いたとき、目に見えないその声の主がそこにいたことを裏づける気配となって、薄気味の悪い笑みだけが仮面のように剥ぎとられ地面にころがっている既視現象が、閃光の速度で富江の網膜に飛び込んできた。
もう随分とまえから、それが夢のなかであるのか、何かの物思いの最中に降ってわいて出たのか、記憶の原野をかき分けてみても、意識の留め金を確認してみても、まるで常に先々で蒸発してかき消えてしまう逃げ水のように、定めきれない地下の洞窟へと底深くつながっている畏れは、この夏空にいだかれた盤石の太陽が教える永遠とまったく同じく、手応えのないままひたすらに圧倒する。
そんな押し寄せてくる巨大な、けれども、暗すぎて不明瞭な、明るすぎて不澄明な、限りのなさは針の穴よりもっともっと極微な世界へ通じているようにも予感され、その針穴がわずかに動く刹那を時間と呼べるのなら、富江にささやきを残していった人影こそ、恩恵を施しつづけていると解釈してやまない日輪がかかえる灼熱の地獄を、生けとし生きるものにしらしめる天使であり、黒点に歓びと安息を求める死の住人であり、そして時を超えて降りてきた自分自身のひとがただったのであろう。
手を振りこちらに満面の笑顔を送る姉らに応えるため、口角をあげ両頬へと笑みをつくりだしかけた、ほんの一秒にも充たない間に幻影はまぎれこんだ。
高校の頃クラスメートのひとりが白血病と診断されてから、たいして日数を経ないで死んでしまったことが、予兆の付録みたいに、それにしては生々しいはずの死が、薄っぺらい紙切れに書かれた名前のようによみがえり、微笑みのうしろ側へと仕舞われるのだった。


まんだら 第一篇〜記憶のまちへ     

終 


[39] 題名:まんだら34 名前:コレクター 投稿日:2009年04月09日 (木) 05時37分

太陽の意思というよりも白雲のわだかまりと千切れ雲の気まぐれが光線の配分を決定し、車両の縁どりを見送っていく山々と夏木立が使命感に萌え、陰りのときを創出した。
富江のからだは陰陽に引き裂かれながら、嵐が過ぎてしまったあとでは陽のひかりは白々しく思え、すがすがしさなどどこにも感じられず、はばまれることで生まれた陰りもまた日常の芥が積もりきった沈滞でしかなかった。
秘めやかなところを触られるままどうするわけでもなく、時間にしてみてもほんのわずかの間だったことが、窓のそとを通過してゆく無人駅の名前を横目でとらえてみると、簡単な足し算をする感覚で認められる。夏の嵐はあまりにすばやく、そしてとらえどころがなかった。
自分をなぶった、しかも始めて会ったおとこを叱責することも打擲することも出来なかったわけは、反対に制すれば制するほど得体の知れない快感と汚辱を得てしまう、そんな危うい底の見えないものを瞬時に抱えこんでしまったのかも、、、相手の目と自分の目がかさなりあったとき、おとこ特有の物欲しげなひかりが上手く隠されているようで、すぐ直感的に緊迫した糸にからまったことを観念したことが、すきを大きくひろげてしまったそもそもの起因だった。
でも、くちびるがおおいかぶさってくることは予感できたけれど、まさか、いきなり下半身を直撃されるとは以外だったし、そのせいで緊縛が強まりからだも固まってしまったのだから、、、
カーディガンで膝からうえを隠してと言われたときには、富江はもう抵抗することを放棄していた。
そのあとの意識は、おどろきが拡散されてどこかに弾けてしまうような、悪夢も見ようによったら楽しめるかもと云った、一種の遊離現象が発生したなかで、ところが、沈着な意思はやはり残されたままで、そこから見据えることはもうひとりの自分を見続けているだけであったような気がして、なぜそこに葛藤が起こらなかったか問うてみれば、答えはすぐそこに届きそうなところでたち消えていまい、結局悪夢の側から覚醒を願ってこそ悪夢らしさを体験するのであって、では夢見られたのはどちらの自分だったのかつきつめてみれば、それはなかなか正確に言いあらわすことが出来なかった。
しかも、おとこの手は今までにない密やかな夜光動物の息使いで、富江の穴を嗅ぎわけていった。無論こんな痴漢みたいなことに遭遇したのもはじめてで、どこでどう話しが横道にそれたてしまったのか、なぜ、からだの芯を求められたのか考える余地もなく、拡散された感情はどうしてまた、不本意にも淫らな快感を得て収束してしまい当然波立つ激情を押し殺すはめになってしまったのだろうか、、、

ことが終了したのは富江にとって終着駅についたのと同じくらいの明瞭さで理解された。
次第に大胆になるおとこの手つきがいったん途切れてふたたび動きはじめた矢先、その指先の振動が意志によって小刻みに震えているのではなく、別のところからくる伝播によりもたらされていることがよく感じられたからである。
あきらかにそれはおとこの沸騰点による身のこわばりが、くまなくかけ巡ったあかしであった。そのあと、蛇のようにもぐりこんだ手が同じくもとの道をすばやく引き返していくのを、富江は沼地に棲息する小動物が警戒心を丸だしにして逃げ去ってゆく光景に重ねあわせ、郷愁にも似たわびしさを覚えるのだった。
そして、左手のさきが粘液で濡れ光っているのを同時に見合わせたときには、悪戯を見つけられた子供がすぐに感傷を取り寄せ一気に埋め合わせしてしまうのと同じで、富江はおとこが自分よりも強く恥辱と悔恨を胸に宿しているのを知り、そのまま拭おうともしない手をどうするのか、ここでハンカチを差しだすのは相当に気恥ずかしく、なぜなら突然噴出してしまったであろう精の後始末にとまどっているばつの悪さも生理的に居たたまれなくて、かと云ってときが流れるのをこのまま黙殺してやり過ごすのは堪えがたかったし、でもそれは今しがた感じとったおとこの羞恥心が感染したことを納得する自分の意にそぐわないことだと、ようよう感情をわがものにして、『大人のくせにしっかりしなさい』と喉元をことの葉が吹きあがってきたことで、なにやら少しはすがすがしさが近くまで訪れたことが内心うれしく思われ、窓枠に置いてあった飲みかけの缶コーヒーを、おもむろにつかんでおとこに手渡したのである。
とても自然な手つきで、しかも、若さを失わない恥じらいを取り戻した素っ気なさは、凍りついた孝博の顔をほんのすこしだけ溶かしたようであった。
それから、静かにその場を立ちおそらく洗面所に向かったそのうしろ姿は、振りかえるまでもなく富江のまぶたの裏へ遠い記憶のように焼きつけられた。


[38] 題名:まんだら33 名前:コレクター 投稿日:2009年04月09日 (木) 05時32分

太もものつけ根まで左腕を忍ばせるにはどうしても半身を窓際へとひねりこみ、通路側へ背を向けてしまう恰好をとらざる得なかった。
となりや斜めうしろの乗客らの目は、こちらに注がれてないにもかかわらず、きれいさっぱり拭いさることが無理だったのは、これが夢であろうが現実であろうが同じこと、孝博はもっとも大切な要点を保持している自分を少しだけほめてあげたい気持ちになった。
指さきは富江の素足を這い、いとも簡単に夏ものと思われる柔らかな生地のパンティの右すそをずらし、湿り気をおびた割れめに侵入すると、そっと中指を縦線にそって撫でるようにしながら、こころもちその指のあたまを押しあててみて、少しずつゆっくり穴のなかに沈めていった。
富江の声色はあきらかに恐れを蔵し、しかも、あらわな怒りになるまえにかき消されてしまったとまどいは、ふたたび沈黙に似た反応をみせはじめようとしている。
車窓を貫いてくるちから強い光線にさらされた瞳孔はせばまりながらも、やはり孝博の危惧と同じく辺りが気がかりなのだろう、絞りこまれたレンズが対象を的確にとらえるようにあごを上げたまま、通路をはさんだとなりの座席の老夫婦らしき連れの居眠りをしっかり確認したのち、「はぁっ」と切ない声をちいさくもらすことで沈黙ははからずも破られるのだった。
氷壁は溶けだそうとしている、、、孝博は最果ての地であおぎ見る日輪の雄大さを想像した。そして、抑止された時間がすでに動きはじめたことを知ると、うちなる言語は富江に託されたのか、ときに乗り遅れた語感はどこか哀れでもあり琴線に抵触しかけたのだが、飛龍を呼びよせた孝博の情念はもう後戻りのきかない崇高なまでの貪欲に支配されてしまっていた。
その股間に宿った温熱は、まるで発射台に備えつけられたミサイルの緊張のように沸点を待ち臨んでいる。
富江のことの葉は、下方から吹きつけるそんな熱風にあおられ、おののきながらも期待と逡巡が交差する説明のつかない震えとなって、孝博にも自分にも言い聞かすようつぶやかれた。
「ドウシテデスカ、コワイノデス、、、ヒトガミテイルワ、ソンナ、、、アッ、ダメデス、、、オネガイ、、、」
「だいじょうぶだよ、木下さん、そこに掛けてあるカーディガンをひざのうえにのせなさい、そうすれば誰にも見られることはないから、、、僕にもね。となりは寝込んでいるみたいだから、安心して、そう、もっと腰をずらして足を開いて、、、」
孝博の声はやまびこのように互いのからだに響きあい浸透していった。そうして中指はほどよく湿りをもたらしてきた肉のさけめをふさごうと更にめりこませ、慎重に富江の顔色をうかがいながら優しく回転したのだった。
「アァッ、ハズカシイ、、、ワタシ、コンナノハジメテ、、、ドウカシテルノヨネ、キット、ソウダワ、、、ヘンナキモチガスルノ、トッテモ、ヘンナ、、、」
陽射しが稜線にさえぎられたため富江のおもてはちょうど半面だけ計られたように雲間に隠され、次に太陽が現れるまでの束の間、さながらこころのなかもまっぷたつに割られたのか、陽のあたる場所と陰りの場所がありありと識別できてしまうほど双極を見せつけたのである。
「オネガイデス、ソンナコトヤメテクダサイ、、、ウッ、ハズカシイ、ドウニカナリソウダワ、ワタシ、、、」
切れ切れに吐息となってこぼれだす富江の声色を耳にした孝博は、それが夜陰にひそむ衣ずれが醸しだす同衾へのいざないにも聞こえはじめ、もうそそり立った男根を静める算段などおよびもつかず、今はこうしてこころ奪わるよりすべはないのだと、ひたすらに阿弥陀如来の御影が脳裏を点滅するのは善きしらせに違いあるまいと信じこみ、しかし、ここが真夏の車両内であり、燦々とふりそそぐ陽光のもとであることは、白昼夢の可能性を最大に願いながらも、実際に色情が充たされていく怖れを十全に拾い集めてしまっているのだった。
増々、指のさきが鋭敏になりこなれだしたのは、いちがいにおとこの側の思惑だけではあるまい、しっぽりとまわりの恥毛まで濡れてきたおんなの****らしく扱うのは、花に水をまく育みの情愛と似たようなもの、葉のうえを、花弁のなかを、艶やかにすべってゆく水滴はおんなの側の意想を涙と分泌液で物語りながら、なおかつ相互に苦悩と快楽を授けている。
孝博は富江の目の奥に吸いこまれていくことの不安から逃れるために、幾らか手つきを荒め深々と指をさし入れたのだった。


[37] 題名:まんだら32 名前:コレクター 投稿日:2009年04月06日 (月) 09時18分

夢の偉大さは、何よりも空白と沈黙をもたないことにあった。それが思考空間であれ叙情光景であれ、ゆらめく旋律も歯ぎしりのような騒音も、すべて見て聞かれることを大前提に上映される物語であるからだった。
もっとも停電みたいに視覚が奪いさられるときには、意識も同様に暗幕がおろされるのだから、それは空白や沈黙と云うよりも非在そのものである。
では、この意識と目とこころもようはどこに根ざしているのかと、まるで残り少ないバッテリーを憂慮する意想が鎌首をもたげたのも、やはり、かろうじて全域を夢魔に侵されていない証明となろう、、、なぜならば、ゆとりある領域には、ことの葉がいつも舞い降りているからであった。
その幾ばくかの理路をたどっている以上、あたまはある程度の覚醒を余儀なくされる。孝博の妄念がありもしない実体を生み出したのでない、少なくとも己の視線に信憑をゆだねている間は、、、
そうして、かろうじて把握可能な夢うつつにたゆたう絵巻の押し花から、花片は失われしときの形状を留めないままに、しかし、馥郁たる残り香をしみこませながら、視覚聴覚から切りはなされた嗅覚へと、世界像を拡張させてゆく、、、
氷の緊迫に身動きがとれない富江に孝博は最接近したと思われる、、、すぐそこに瑞々しいおんなの香りがやってきたからであった。これよりさきは密着と云う、肉体のふれ合いを避けられはしない、たとえ衣服で守護されていようとも、、、、
わずか毛先ほどの間隙の残し、孝博は富江に対する肉薄を静止してみた。さしせまる野性のエロスを芳醇なる児戯に還元させたいが為であった。何より視覚の象が結ばれるさきを超え出てしまい、最終的には眼窩に収まらないことになれば茫洋とした肉欲など抽象論でもあるまいし、ポルノグラフィーをかすみ目で追うようなもの、劣化して視聴不能になったアダルトムービーを見やるようなもの、純然としたエロスを我がものにするには、もう一度適正なフォルムをとり戻す必要があった。その為に隠れた次元をひっぱり出して、あの無骨なうちなる言語の堰をきり両翼の羽ばたきを自覚し、ことの葉が木のうえから舞い降りるのではなく、反対に大空にむかってまき散らすかのエネルギーを動員することで、目に映る、そのさしせまった侵犯の瞬間は絶頂への登攀を確実なものにした。
それから氷壁に塗りこめられた実体を余裕をもって眺めやるとき、氷点下のもと地中に生体反応を認めるあの驚きのような高揚はさらに追い打ちをかけ、歓喜の冷却装置はあたまのなかをかけめぐって、一層の醒めたリアリズムを打ち出すことで、欲情に燃えさかる盲目の炎はけっして鎮火されない、青白い龍の天がけとなってこの世に呼びよせられる。
もはやこの世もあの世も未分化のままに混濁した状態で感じとられ、しかも超絶技巧のピアニストの弾む鍵盤が踊りだすかの時間に乗じった興奮も一糸の乱れを生じさせないのと同じく、混迷そのさなかの瞳のむこうは異常なほどに澄みきっているのだった。
論理を破綻させてようやく白痴と呼ばれる称号が、ここにきて付与される。言葉は怒濤さかまく急流を乗りこえて、波間からあっと云う間に選られ新たなる輪郭を表出する、、、白日夢は完成された。
阿弥陀如来の左手は聖なる陵辱であることが諭され、だが、右手は制止の態でも領諾の謂いでもなく、ことさらあわてるまでもなし、生命に宿る情欲を鼻息で無粋なものにしてしまわず、かと云って朴訥な野趣に慢心することも能わない、そんなささやきをもらしているのは果たして誰なのか、苦笑さえも降りもののように我が身にしてしまうと、孝博は何のためらいも覚えないまま、富江のくちびるを奪うよりさきに、その薄地のワンピースのわずかに開かれた奥深いところをかき分けて、慈しみをこめ左手でまさぐるのだった。


[35] 題名:まんだら31 名前:コレクター 投稿日:2009年04月06日 (月) 06時21分

富江の瞳は繊毛に近い微細な感情で揺れているようだった。
孝博から見つめれば、富江の姿はけっしてひとり歩きしてはならない閉じられた押し花だったのだが、ここが夜の夢とは異なるところ、濃霧によって秘められた隠れ里の様子が、年に一度はうかがい知ることを許されている不可思議な掟で語りつがれるように、時折まばたきされたかどうか錯覚されるくらいの不完全さは、今が夢の一種であることを認めただよいゆく為にも、反対にその完全さを保証する裏書きとなった。
なぜなら予期せぬ事態こそが物語の最大の修飾であり、紡ぎだされる綾はつねに何かを裏切りながらこころの襞をかき分けて進んでいくからである。進むからには時間をとどめたままでは限界があるとまでは云わないが超克される地平が理不尽にも遠望されてしまう。別次元の扉を開けるにはより大きな飛翔と豊かな実り、つまりは無限の豊穣を夢見なくてはならない。
過剰な装飾をまとった菩薩が鎮座する絵姿が幾重にも反復される様を、よく目を凝らして観るときには自ずと、決定的な細密の異相とめくらむ巧緻で翻弄される時間を内包していることを知らしめられるように、思考は停止しつつ、論理をまるで積み木細工に似た作業で築きあげながら、そのじつ時間の空洞を覗き見ては精巧なからくりを不埒に夢見る。
調和と秩序、あらゆる万物の多様性は世界の果てにも、どこかの大国にも、まだ見ぬ秘境の谷間にも、海溝の深遠にも、どこにも収斂されることは決してない、この目の奥に仕舞われるだけである。
夢の曖昧性と神秘性はまろやか飽和するべく、淀んだ分泌物は排斥され濾過され、結果角がなくなることによってすべての感情は美しくたおやかに解放され、悲劇の演題は一大妄想劇の上演へと会場を譲りわたし、悲哀が喜悦に、憤怒が慈愛に、杞憂が微笑に、不安が充足に、そして充足は、まんだら絵図のように二次元の世界を剛勇に保ちながら、永遠にほくそ笑み続ける綺羅星のかがやきを失わないまま、幾万光年の彼方を今ここに顕現させるのだった、、、

胎蔵界まんだらと金剛界まんだらの上に陽が差す、、、
上空高く一匹の鳶が脱力した鳴き声も軽やかに、太陽を背に浴びながら、下界に一抹の陰を落として飛んでいく。さっと墨糸でなぞられたかの陰の遊泳が諸尊像のある顔色を一瞬、曇らせる。するとまわりの仏顔が苦笑を浮かべるようにして、にわかにざわめき始める。
孝博は大日如来らの思念に想いめぐらせてみるより、苦笑それ自体に感心して、さらには奥義とやらが絵師のちからで焼きつけられる媒介を想像してみた。するとごく単純な疑問がわき起こり、神々しくもきらびやかで単調な一見窮屈そうな絵図に息吹を授けたのは、はたして高僧の極意であったのか、あるいは絵師の才覚によるものだったのか、ぐるぐると同じところをまわりだし際限がなくなる手前で、普賢菩薩を乗せた白い像を思い起こした。
結跏趺坐の不安定な居住まいは危うい均衡をことさら尊く現しているようで、意味深でもあり、無意味でもあった。それよりもそんな永劫を背にした白像の心中を察して、ちいさな哀しみを胸にあたかもバッジの如く留めおいた。
続いて阿弥陀如来の質素な御影がよぎっていったのは、十分に意義のある仏罰に他ならないと孝博は、深くこうべをたれ、その簡明ななりに反比例する絢爛たる両の掌の静止をあがめながら自ら印相を真似てみて、なおかつ西方極楽浄土からの迎えと称される来迎印が示す際だつ結びの艶やかさの裡に、生と死の、わけても生命のほとばしりを感じいてやまないのだった。
畏れおおいかな、孝博には如来の左手首がだらりと垂れ下がり無造作にこころもちをさらけ出している様が、赤子の尻を清めてくれているような、お互いの恥じらいを堂々と白昼に露呈させているような、どこかエロティックな所作にも判じられてしまうのだったけれど、だが、親指と人さし指がよそよそしいほどに淡い密接で輪を形どるちから加減に幻惑されるまでもなく、もう片方の胸元まで上げられた掌が臨終のときを嘆いているより、むしろ、人の情をよせつけない頑さで万象を否定し続ける、限りない承引に近い戒めに深く共鳴した。
それはいのちのはかなさに対する諦観をも拒絶する、生きるかげろうを見据えている下目加減の双眸に平坦と描かれているからであった。


[34] 題名:まんだら30 名前:コレクター 投稿日:2009年04月06日 (月) 06時19分

流れゆくはずの窓のむこうに時間は生起していない、孝博の目は特異点となることで後退する背景はむろんのこと、富江の残像さえもその場からにわかに消しさった。
すると一こまが次の一こまに瞬時に移り変わるようにして、あらたな富江の姿態が形作られるのだった。
秒針がチクタクと刻まれる幻像にまわりが包まれだしたのも、そして、そんな感覚もどこか遠い世界での出来事だと、太陽を見つめ続けた際に生じる鋭い刃が突きさるかの、あの避けがたい痛みと忘我が共存する刹那へと導かれていたのも、すでにその時点が夢見の霧の彼方であることを受入れざるを得ない、甘い恐怖に彩られていたからである。
夢の面口はあらかじめ解体されたものを今度は独創的に構築させようと、きわめて巧妙な手先を駆使して、だが、いかにも真実を懸命に呼号しているふうな意思をはらませながら、こうして始まってゆく、ちょうどみぎわの浅瀬がいきなり深みへと落ちこんでいる海底に足をとられるときのように、、、それは恐怖が水中で増加され、もしくは緩和される、深い深い霧によって懸命な意思が目隠しされることによって、もうひとつの世界への出発となる。
しかし、今ここであらわになった白日夢は、夜のとばりとはやや異なる趣きをもって絵巻がひもとかれた。

孝博の言葉は、沈痛な余韻がたなびくことを少しだけ了解されたうえで圧縮され、めくられる物語の展開を流暢なものから無骨な木の節々へと、意図的につまずく純粋な要約であるべく変貌を遂げるのだった。
時計の針がひとつ動くその狭間と狭間を大きく押しひろげながら、言葉は発声器官をくぐらずひたすら脳内に打刻される。
「うちの子供のことですか、ああ、木下さんと同じくらいかな、、、えっ彼女がいるかって、どうでしょうね、あまり詮索しないものですから、、、いや、詮索するのがめんどうなもので、、、実は腫れものに触るようなものかと、、、そうです、あなたはうちの子供というより、生徒を想起させます。女生徒と飲みにいったことはありますが、それ以上はありませんよ、、、ああ、つい口がすべってしまった、僕はただこう言おうとしただけです。『この列車に乗り合わせたのも何かの縁なら、、、せめてキスをしてもいいですか?』と。
そうでしょうね、こうして無言で見つめ返すあなたの目がとまどいに揺れているのはわかります、でもほんのり赤みが増しきた、それが危険を察知した本能によるものとしても、わずかに艶めいている柔らかそうな、それでいて張りのあるさくらんぼの弾力を想わせるそのくちびるは、いかにも未熟な性を連想させますよ。いやいや、そう想いこまされてしまうと言ったほうが、、、
僕の言葉が空包であることをあなたは知っている、、、その証拠に、、、そう、その呆れ果てたくちもとの向うに続いている先には、のど仏が待機してるとでもいった確信が、あなたを守っているようだ。お守りは、、、つまり、無音と無言を生み出している暗黒の絶対者の沈黙が、すべてであると言いたいのでしょうが、かたちあるのも、ええ、音にだって言葉にだって音像と云うかたちがあるのです、のど仏はかたちをあらわにする為に待ちうけている器官じゃありませんか。いつだって最後には震るい出されるのは、叫びなのです。誕生の瞬間から、死に到る直前まで、僕らはこころのなかで叫び続けているのです、そうしていつしか大きな添え物となって信頼おけるかたちに作られるのでしょう。
あなたのさっきまでの饒舌は後退しその代わりに現れた僕の言葉によって、沈黙の絶壁に張りついてしまった。いいえ、不可能ですよ、凍りついたまま決して身動きはとれない、、、なぜなら、木下さん自身がたとえ驚きであろうとも、ためらいであろうとも、沈黙を砦としたからなのです。沈黙は言葉を放擲した、もっとも最良の反抗であり、話しは飛ぶけど、しゃがみこんで覗き見ると、あなたのあそこがすでに潤っているのを知るわけですから、、、闇の泉が満たされてゆく尊さの前にひざまずくのは文明なのですよ。
どうぞ、そのままで、、、氷壁のなかから見返される、その視線は冷たくとても美しい、、、」


[33] 題名:まんだら29 名前:コレクター 投稿日:2009年03月31日 (火) 07時02分

もの思いが唐突であれ、緩やかであれ、訪れるやいなや脳裏から振りはらおうとするとき、ほこりをはたく調子で軽やかに速やかに消えてなくなればと、あらためて念を押すような心づもりがあるわけでもなく、しかし、念押しされる特定の箇所がきわだって、そう、この身からあふれだすくらいの苦渋であればそれが嘆かわしいのは仕方のないこと、たとえ綿をちぎるような悔恨にこころ支配されようとも。
まとわりつくのはつかみどころのないもの、所詮あたまのなかに一時的に巣くった幻像、いつか透けてなくなってしまうのも現実の事柄と同じく、焦燥と云う感覚が時間軸にひりつきながら流下するならば、悔恨の念は不安定な小舟に揺られつつ、どこまでもあてどもなく遡ってゆく負の冒険となることだろう。
重大な意義などありはしない、、、大地に根をはる茎のように、神経のすじが虚空にからみあう姿態を模倣してみせるだけである、だが、舞台上で演じられる圧倒的な悲喜劇にまったく感情移入してしまうこころのありようと似て、それは実体なきエネルギー、宿らぬたましいとも呼べるかも知れない。
いつの世も時間の裏がわに触媒としてまといつくのは、我々の想念だけである、、、、、、

孝博の追想から魂魄がさまよい出たのか、あるいは富江の意思がひとり歩きしたのか、その瞬間、お互いの双の目がちょうど暗闇で出会った灯りのようにそれぞれのなかに、おだやかな緊張と底しれない安堵をもたらした。
富江の饒舌が渇きかけ、ことばが目的地を見失いかけていく少しの間に、孝博のあたまの裡を過去が侵入したのだったが、トンネルを突き抜ける車両の速度が、暗幕のなかではよく感じとれないのと一緒で、どのくらい思惑がおちこちにめぐったのかついぞ知るよしもなく、けれどもひと通りの再現はしてみせたであろう模様は、その隠されたかのちいさな結び目を名残りとして、いま視線が停止し、富江の瞳のむこうにくすんだ色を示して浮かびあがらせた。
虹彩の奥へ孝博の思いは潮流に乗ったかのように吸いこまれてしまうと、息子や妻に対するわだかまりはどこかに追い流されたようで晴れやかな蒼海を満喫できそうな気分が訪れたのだが、一方では波頭が見あたらなくなったことは、たったひとり海上の残された寂寞にもなぜかしら通じていて、絶対の孤独とやらがすでに戦渦を承知で帰還を願っている。
「夢の展開はでたらめのようで案外とそれなりに帰結を見せるものだ、、、それが戦慄であったとしても、、、」
孝博のもの思いも悪感情が捨象された。それは夢見によって遠心機にかけられた時間のふるい落としであった。
結果、濾過されない残滓はたましいを蔵さないまなざしそのものになった、いや、たましいを置き忘れたと言ったほうが近い、、、静かな波間に揺らぐ椰子の実は何を想い続ければいいのだろうか。
想いはむこうからやってきた。比較的に長く感じられたトンネルから飛び出した列車によって、明暗の単調なくり返しはにわかに鮮烈な陽光を受けいれることを自覚し、おおいに夏の日を意識させた。
いつかの春さき、桜の開花を通勤途中に横目で堪能したはずだったつもりだったが、またその程度の目配りで寒暖以外に関心ごととして四季のうつろいにはこれで十分などと覚えつつも、後日知り合いらの会話でそれこそ花見談義に花が咲き出すと、不思議なことにまだ鑑賞までには至らない今年の桜は薄桃色から一気に鮮烈な紅色まで飛躍するかのように、思いもかけない衝動がわき起こり、気分まで春爛漫に包みこまれかかったのは決して酒の酔いの力だけではなかった。
ふりかえってみれば、同様の心境をこれまで何度か経験しているはずだった。己のなかだけで完結しているものが、ほんの些細なきっかけもしくは外部からの指摘で、より最適と思われる次元まで大きくふくらんでいく。
束の間だがそんなひとときを孝博はまぶしいものを見つめるように大事に扱った。それらが実際よりも伸び上がっていて、反対の刺激に対しても同等に、つまりは今度は縮んでしまい壊れてしまう結果を予知していたからである。
壊れないように腫れもにでもさわる手つきで扱ったのではない、はかなく壊れるからこそ、その刹那を愛でただけであった。そうして桜の花が散ってしまうと、意識するまでもなく夏日の到来がそれとなく推測され、花冷え春の夜を薄衣で被ったことをかすかに憶いだすのだった。

今は真夏だ。走りゆく特急の座席に身を沈めた孝博は去り続ける時間を停止した。
乳白色のワンピースを身に着けた富江は小柄なのか、あたま半分ほど下方から目線が張られている。ピンとたゆみなく渡された瞳の底からは限りないひかりが放たれ、睫毛の一本一本のカールはあたかも優雅な房をもつ肩章が突風にあおられるが如く、上目使いを強調するために翻っていた。
極上の粉飾はこうして自然の裡にあだ花となって、潤色であることを閑却させ見事に自然を凌駕したのだった。


[32] 題名:まんだら28 名前:コレクター 投稿日:2009年03月24日 (火) 08時12分

山腹を際どく縫いながら列車は走行してゆく。
時折、山林が切り開かれたところから下界を見おろす場面が現れるのは、かなりな高所であることを実感させ、そうかと思うと次の瞬間には漆黒のトンネルへと吸いこまれてしまい、またもや車窓に浮かび出る自身の半身と目が会うのも次第の慣れてくると、記憶と想念も混濁しはじめ、これが幼子であったらきっと喜びと希望にあふれ、単線鉄道の快走はもはや線上のうつろいから次元を超えて、太陽と暗黒が交互に織りなす綾となり、あたかも千鳥格子の紋様のごとくさらには連なる飛翔へと結ばれ、おおいに冒険心をくすぐったに違いないと思われてくるのだった。
しかし今、トンネルの閉塞がいかにも深く闇を呼びよせたといわんばかりに悄然とした顔つきで現れるのは、陰の仕業だろうか、それとも己が闇に迎合しているからなのだろうか、、、

孝博は息子より少しばかり年上の富江に、いっそのこと今日の帰省の事情を話してみたらどうか考えてみた。あくまで世代的な共感へと通じるだけかも知れないが、その不可知がなりよりも意味ありげに思えてくるのは否定できない。
知りえないからこそ、努めて胸襟を開いて親子の会話と云うよりも人間同士の鮮烈な息吹として息子に体当たりしてみた。結果、家内を交えて三つどもえの論議となったのだったが、孝博は居心地の悪い勝者となることで自らの敗北をまるく鞘に収めた。息子の意志は強固なものであり、しかも果敢であった。
斜め読みに導かれた独断論にせよ、孝博が若いころに耽読したマルクスやニーチェを引用しての主張には正直驚きを隠せなかったし、何より彼が自分の急所を握っているのではと云う能動的な曲解をいさぎよしとした。そもそもが断絶なのだった、たとえ血縁においても愛情においても、、、一番よくそれを理解したつもりになっていたのは自分自身ではなかったのか、、、
せがれの言う理屈は少し胸に手をあててみれば、孝博にもよくよく納得せざるべき性質をはらんでいた。「おれも似たようなものかもな、社会のシステムを毛嫌いしながら、しかし他国語にせよシステムの根幹である言語を伝授している、埋め合わせのつもりなのか、宗教学を捨てきれないのは、、、大学の教室も研究室も隠遁の場にふさわしい歪なぬくもりがあるじゃないか、、、」
そんな孝博を尻目に妻は母性本能を最大限に駆使し、磯野家全体をのみこんでしまう慈愛をもって妥協案を差しだした。父親としての体面などそれこそ木っ端みじんに吹き飛ばされてしまったのである。
「わかったわ、好きにしなさい、でも条件つきよ、そんなに不利なことじゃないわ。いい、ひとつは期限つき、二年間で一応、東京に戻ってきなさい、いいえ、全面的に引き上げろとまでは言わない、とりあえず戻ってきなさい、先のことなんか分からないわよね、だからあらかじめ期限をつけるの」
そんな叩きつける激しい雷雨のような勢いの押されたのか、息子は反論を示さない。孝博もへびに睨まれた小動物の思いで聞きいっていまった。
「ふたつめはわたしも最初の数ヶ月間、あなたと一緒に生活します。ええ、この家を出て故郷に行くとことになるわね。それだけよ、あとはあなたの計画を推し進めればいい、わたしはよほどのことがない限り口出しはしないから」
妻は毅然としてそう言いきると、全神経を使い果たしたように急に目のかがやきは失せ、しかし、今度は孝博に向き直り、それが最後の力とばかりに手をまるめこみながら「これでどうかしら、あなたには夫婦としてのお話しを後からさせてもらいます」とさきほどの勇ましさとは別種の冷ややかな意思を覗かせたのである。
その場はそれで互いが了解しあえたかに思えた、何故なら誰よりも先にそれまでの悲愴な面持ちを一変させ、口もとをほころばせたのは我が子であったし、結局のところ、彼の喜びが両親の裡へと伝わっていく道筋が順当であることに早く結着を見いだしたかったからだった。
孝博は胸のなかで呟いた。「息子はやはり稚拙であり、世間知らずだった、制約のある自由と引き換えに時間を与えられたかも知れないが、それこそが貨幣換算に裏打ちされているではいないか、、、放埒な青春の一時期を限りないものと錯覚する距離感をすでに閑却してしまっている、だが、母親としての巧妙なかけひきを敢て承諾したとするなら、、、いや、どちらにしろ早計だ、おれとの話しとやらも想像がつく、家内は衝動を野放しさせてから骨抜きにして言い含める腹づもりだろう、その段取りをおれにさせる気でいるのさ、、、」
孝博は父、母、子と云う、もっともコンパクトな家族構成から、こんな心理ゲームが始まるのをひと事のように鑑賞している自分を見つけ、恥らいにこころが染色してゆくのを覚えたのだったが、それはただの恥じらいにも増して複雑な思惑が重なり合い、不幸が悪いしらせでないために不幸を前もって予期していると云う、上位の俯瞰図を手に入れたと、今度は恥の上塗りをしている確信が、まるで職人業の手並みの眺めやるまなざしとなって、いずれかの感情は切り捨てられしまうのだった。


[31] 題名:まんだら27 名前:コレクター 投稿日:2009年03月24日 (火) 04時50分

春の陽は長かったが、気がつけば宵闇はすぐそこにせまっていた。
孝博にも家内にも暗影は忍び寄る。息子はと見ればまるで光源を背にした独裁者の孤影のように、危うさはらみつつも、飛び立つ鳥に似た警戒心を先取りしていて、それが一種の確固とした信念にも映ったのだった。父親の問いに対し、彼はこう答えたのである。
「あと一年になった高校生活で確信を得たいんだ、つまり、卒業後は家を出て、田舎暮らしをする具体案を練るために進学勉強でもなく、就職活動でもない、自然と共存する可能性を自分なりに見いだしていきたいんだよ」
息子の表情はどこか憑依されたふうにも見えたが、何ぶんその口調にも態度にも奇矯な雰囲気が出ていない、能面を思わせる妖しさが顔を被う仮面となって、別の人格になりすましているかの錯覚さえ感じる。しかし、話している内容自体が突拍子もなく稚拙であることは歴然としていた、少なくともふた親にとっては。
「そうよ、あんた、それでどこに行く気でいるの」家内もストレートな意見を吐くしかない。
「気持ちは中学の終わりくらいからあったんだ。うん、そうだよ、おとうさんたちの故郷さ、なにもリュックひとつで世界を旅してまわろうなんて思ってやしない、ぼくはあの町で暮らしたいんだ。そりゃ知ってるよ、過疎化の一途だってことも、陸の孤島なんて呼ぶ奴もいるのも、でも、よく分からないけど、これは宿命のような気がしてならないんだ、おとうさんらはあの町から出てきた、ぼくは帰っていくんだよ」
「おい、今なんて言ったんだ、よく分からないままだって、それでそんなこと考えているのか!」孝博はすかさず言質をとったことで、やっと感情を高揚させることになった。
「おれにはただの現実逃避としか見えんよ、ああ、誰にでも聞いてみればいい、一目瞭然じゃないか、まだ背中に何かおぶって訳のわからんとこを放浪する方がよっぽどましだ。おまえのは隠遁生活へのあこがれにしかみえんよ、とうさんらの親戚がいるから心強いとでも思っているのかい、家にこもる代わりに外にこもるってことか」
「違うよ!安易な発想じゃないんだ、肌で感じとったんだよ、小さいころから何度か一緒に帰省しただろ、その度に気持ちが惹かれていった、そして段々と自分の生きる方向が見えてきたんだ、それが何故なのか、どういった根拠かってことは、正確には答えることは出来ないよ、でもいい加減な、そんなとうさんの言うように逃避的な意識じゃない」
「じゃあ、何なんだ、親元を離れるのはそれはどこの家庭でもあることだ、無理に進学しろとは言わない、前におまえの担任の先生と面談したときな、こう言われたよ、お宅ではあまり教育を奨励していないようですね、ってな。おれが大学教授なのを知っていて、そんな環境に育てば自ずと勉学にいそしむとでもいわんばかりの薄笑いでな。確かにおまえは小学校から成績もいいし、今でも学年のトップクラスだよ、それはかあさんもおれも自慢の種だった、これは放任ではない、おれの書斎から専門書なんか持ち出していってたのも知ってたよ、知っているどころか、どんな書物を読んでいるのかまで把握していたつもりさ。おまえは隠れて読んでいただろうが、こっちは本の虫のプロなんだ、抜きとられてはもとに戻してある本は全部わかっていたよ。でも実はうれしかったさ、おれの研究書である宗教関係のものばっかり読んでいただろう、さすがは血をわけたせがれだって思ったよ。本来の学業に差し障りがあるわけでもないし、好きなだけ読んでくれればとな。だが、担任が言った言葉の意味が今はじめて理解できた、おまえはそつなく高校生活を終えたい、それからことに誰からも文句がつけられないくらいそつなくな、ただそれだけのためだったんだなって。あの担任の先生もまんざら目が節穴ではない、そんなおまえの冷徹さをよく見ていたわけだ。なるほどそうなると、どうあれ一応の算段はしていたことになる。それでも、まだ正確に答えることができないんだな、、、」
そこまで勢いに乗り一気にまくしたてた孝博だが、最後のくだりに来てにわかに胸騒ぎを覚えてしまった。「正確に、、、誰が誰に対して、何を、、、正確に答えるというのだ、、、」
そのとき、柱時計がいつものように鳴りだしたのだったが、不思議と無機質である響きはくぐもりながらも、音を伝播させる媒体、それがまるで濃厚な湿度で充たされた肌触りに思えてきて、自分を阻害している空気が実はまわりと云うよりも、すぐそこにそれこそ薄皮一枚ぎりぎりの隔たりを保っているかの感覚におそわれた。
その感覚はある不快さを予想させる、、、こうして今度は毛穴のなかにまで深く浸透してゆくのだと、、、


[30] 題名:まんだら26 名前:コレクター 投稿日:2009年03月24日 (火) 02時35分

同郷であること、確率的に考えてもこの特急に居あわせる乗客の比率は高いはずだった、この車両のなかには他にもまだ幾人かは乗りこんでいるかも知れない。もっとも孝博は町外れの山村で生まれ育ち、高校からは東京で過ごした為にあまり顔なじみはいないのだったが。
もう四十も半ばに手が届いた今となっては、子供の時分の同窓と出くわしても果たして面影を残しているのやら、、、最初とはうってかわって清楚な少女に見えた富恵は随分と快活な気性を呼びもどしたのだろう、それにしても始めて会った孝博に対してここまで親和で接してくれるとは思いもよらず、さきほどまでの文学談義を中断して彼女の専門である服飾にまつわる話題へと変えた結果がよかったのか、すっかり相づちをうつ側にまわってしまい、対する富江は酒に酔ったと思わせる饒舌に転じているのだった。
時折言葉を差しいれる為に彼女の方を向いた瞬間、列車は吸い込まれる勢いでトンネルへとのまれてゆく、まぶたの裏に偲んだうるわしの幻影に透ける実相は、あられもない生徒との恋路を連想させ、なおかつ今度は郷里における煩瑣な問題に収斂する、、、すると富江の相貌の先にあらわれたのは車窓を背景した暗幕が連なり流れゆく光景であり、車両に運ばれることで外の風景とは次元を違えるところに、陰影深い面持ちでこちらを見返している己のすがたを認めた。
昼下がりのぎらついた陽光が瞬時にして暗黒に遮断される、そのたびに孝博はもうひとりの自分に見つめられた。
ふたたび光線がまばゆく照りつけ山間に集落が遠景として見いだされると、否応なしに生まれ育った村を想起してしまい、次には過去のすがたが脳裏をめぐり、時の流れに去っていった様々な出来事がよみがえってくる。
しかし、一方では実際の時間の経過そのものが、列車の走行そのものが、どんどんと難題にめがけて突き進んでいくようでもあり、やはり今日はだいぶ神経がすり減ってしまっていると言い聞かせないわけにはいかなかった。
結局、現実の課題はまやかしで解決されるものではない、しばしの休息をあたえてくれることはあっても、、、孝博は研究分野である宗教学からわずかでもヒントが隠されていないか、あたまをひねったのだったが、とどのつまりは祈りと云う、非論理的なパッションに収められてしまう。祈りで地平が開けるのであれば、それはたやすいことではないか、しかし、宗教の根源にある畏怖される対象への加持祈祷のたぐいは古今東西あまたに見受けられ、さらには呪術と化して霊験をしらしめた異相さえ、まことしやかに伝聞されてゆく。
たとえそれが催眠効果やマインドコントロールであったとしても、一種の啓発であることに違いはなく、もしそれで情況が少しでも変るのであれば、ひとは進んでその方法を選びとるだろう、たやすい道だろうがいばらの道だろうが、、、

それにしてもなぜ息子がああまでかたくなに都会生活を毛嫌いし、どう解釈してみても逃避的願望としかとらえられない主張を正当化しようと、少年らしさを消し去ったかの冷静な態度で「おとうさん、ぼくはずっと前から東京から出ていきたいと思っていたんだ、でもせめて高校を卒業するまでと言い聞かせたのは、そのあいだ心変わりするのかどうか自分で試してみてたような気がする」などともらしたのだろうか。
それはこれから進学先について具体的な話題に転じたこの春先、家内も交えた夕食のテーブル上へ不意にもよおされた嘔吐のごとく散らばった。
瞬時に息子の言葉を理解できなかった家内は、ちょうど唐揚げをひとつ口に含んだところだったこともあり、まさに咀嚼するには間にあわないと云った面持ちになり、まだ半分以上、笑みを張りつけたまま時間が過ぎゆくのを待っているしかない様子で、しかし、わずかにぶれ動いた眼球はこれからの不穏の色をあらわにさせる前に孝博の方へと救いを求めたようでもあった。
この場に沈黙が訪れるのを危惧した彼は、いち早く父親としての威厳を整えるようと焦る、そうして動揺を飲みこむ案配で、だが物腰はいたって鷹揚に茶をすする仕草を途中まで演じてから、こう息子にこう尋ねた。
「それで、おまえ、何をしたいというんだい」
目線は少しばかりそらされ、うしろのカーテンの隙間に流される、語気には強さも激しさもなかった。すべての感情がかすかに震えるのをこらえようとする姑息な意思を、夕暮れは窓の外から覗きかえしていたのだった。


[29] 題名:まんだら25 名前:コレクター 投稿日:2009年03月11日 (水) 15時15分

孝博から発している独特の雰囲気が富恵をまず朝もやのように包みこんだのは、彼自身の接しかたによるところも貢献したのであるが、富江からしてみると現実の大人たちに否応なしに結びつけていることと云えば、絶えず日常のくり返しと些事によってでしかなく、大学教授が持つ研究室や書斎での浮世離れした所作に一般社会から隔絶した秘密めいたものを、走りゆく線路の余情としてからめとったからであった。
しかも若輩の身であることが瞭然にも関わらず孝博の口調はいたって礼義正しく、かつてこれほどまで紳士的なあつかいを受けたことのなかった富江にとっては、多少なりとも胸のたかまりが増してくるのを認めないわけにはいかなかった。
これまできた辺りがずっと不透明だったとしても、この教授は現実から遊離した透明人間であることで反対に鮮明に浮かびあがってくる、ちょうど逆説を目のまえにした奇妙な展開に溺れながらも酔いしれてしまうように。
「そうですか、木下さんは、あっ、木下さんと呼んでいいでしょうか、ジッドが描いた敬虔な物語を額面通りに受けとらないほうがよいと考えたわけですね。僕もそう思います。ジッドは近代の作家です、少なくとも天上の世界を信じきっていたとは言いがたい、これは信仰と思想の両面においてのことですが、かといって地上的なる愛、この小説では婚姻に収斂される制度を前提とした愛欲と解釈してもかまわないと思うんですけど、アリサはその平凡な結婚生活をはなから悲観しているんです。木下さんの言う厭世感ですね、ところが現世を超えた境地にあこがれはするものの、最終的にははかなくいのちが尽きてしまいます」
「あこがれと信仰は別問題ってことなのでしょうか」
「いえ、天上とやらも最初から信じていないんですよ、だからあんなつかみどころのない日記がしかもとぎれながら綴られる」
「そうかも知れません、肝心な箇所は破り捨てられたとかいってはぐらかそうとしているのも、そんな不信心を証明しているのじゃありませんか」
孝博はそれから、「狭き門」を逆説的に読みくだくことのつまらなさを言及しながら、「だまされたと知りつつ最後の夢物語として含んでしまえば、それはそれで豊かさがひろがるものです」といったん話しを停止し、アリサの件はまた違った角度で語られるでことだろうと、意味ありげに口角をあげるのだった。
この路線特有なのか、それとも他の単線鉄道を知らないだけだろうか、間断なくしかも性急なリズムをもって刻まれる車輪と線路の響きがとても心地よい、孝博の言葉も同じように富江の裡へと振動していった。
列車がトンネルをくぐる頻度が高まるにつれ、もやがかった透明度は気圧の変化にも影響を受けたのか、やがてすっきりと視界がひらけてくると、あたまのなかの不純物質が消えてなくなり、代わりに沸々と泉がわき出るように富江は臆することなく、まるで友達にでも気楽に話しかける調子であれこれ孝博に語ってみた。それは天然水が流れゆく清冽さを彷彿とさせた。
次第に語尾へ遠慮がちにまとわりついていた物おじした言葉使いもまるみを帯びてくると、富江は本来の快活さを取り戻した様子で孝博のことを「教授さん」と呼んでみるのだったが、「さんは余計ですよ、教授でいい」とたしなめられても「だってそのほうが堅苦しくなくて言いやすいから」とやわらかな我をはるのだった。
孝博にしてみても、日常が切り離されながらも現実に即した仮面を被ったようなこんな女性に出会ったことはある意味奇跡のようであり更にうがてば、あたかも受け持つ女性徒をひとり誘っての交遊にも想像できた。しかし行き先が同じ町であることを知ったことで、彼の自由の翼はひとまわり縮小されたのである、と云うのもこれから訪ねる親戚にあたる家に報告しなくてはならない難事を考えると、富江でさえまったく関わりがないにしても同郷である、ただそれだけの観念が釜のそこにこびりついためしつぶのように頑固に付着して孝博を悩ませたのであった。


[28] 題名:まんだら24 名前:コレクター 投稿日:2009年03月10日 (火) 04時42分

何よりもこの情況、偶然とはいえ大学教授と隣り合わせになり、しかも列車内と云う環境が富江の精神を多いに高揚させた。
富江は権威や勢力などには別段興味はなかったのだが、義務教育の地続きである高校生活から社会への前哨戦とした旅立ちにも似た専門学校への入学を経て、そこで学んだ体系的な知識や、地元とは色合い異なる各地から集まった同年代の学生たちとのふれあいを通し、自分なりにも一皮くらいはむけたであろうと云う自負が日増しに育まれていくことで、逆に歴史観や政情といった世の中の動きに敏感になりはじめたのである。ちょうど経年によって子供部屋の天井に手が届きそうな感覚を見つけるようにして。
大人への距離感は微妙な均衡のうえで成り立っていた。富江にとってみれば両親が一番身近な存在であったし、学校の先生、週三で通っているファーストフードのバイト先の店長や、時折足を運ぶ定食屋のおやじさんなど、みんなそれぞれに住む世界が備わっている気持ちがして、しかし固定される人生の足枷をそこに見てしまうのも実情であると思い、未分化のままで停止し続ける永遠の少年でありたいと云う願望は、地下深く埋めこまれた財宝のようにこころの内部から隙間を縫ってきらめくことを忘れなかった。
自分が年齢的にも照らし合わせて、揺れうごく季節のまっただなかにいる事実はよくよく理解出来た、またその足もとが定まらない不安も影といつも背中合わせであることを了承してみれば、反対に空元気は得体の知れない充足で満たされているようで力強ささえ兼ね備えているのではないかと思われた。
未来形である自己に怯懦しか見いだせないのならば、過ぎ行く時間をひたすらに焼却しているとしかいえない、しかし燃焼するエネルギーが現にこうしておびえを呼び寄せるために稼動している事実がある以上、要はもっとも最適と信じられる方法を選びとるかであろう。
富江のなかでは既成概念に凝り固まった選択肢はすべて唾棄すべきものとして映った。ついこの間まではそう感じていた、ありきたりのファッション、どこにでもある家具、垂れ流しの音楽、保守化しきった金権政治、取り替え可能すぎる友好関係、使い捨てのセックス、これらを侮蔑しながらも、そこから脱却出来ない自分を悔やんでみた。すると腹立たしさもさることながら不思議なことに腹が減ってきて、パジャマのうえにコートをはおって飛び込んだ近所のファーストフードの店でハンバーガーをほおばりながら、BGMとして聞こえてくるアイドル歌手の歌声を耳にしていることも忘れ、目にしたのは求人募集の張り紙で、気がついてみればその紙面をよくながめようと立ち上がっているところを、店長らしき男性から求人案内の詳細を知らされ、翌日からは隔日のアルバイトに精を出しはじめていた。
やりたいこと出来ることをやると云うのはこうしたことなんじゃないだろうか、、、富江のクラスに高校時代から援交ひとすじを貫いている子がいて、今の専門学校もその援助で入学したというのだから恐れ入った、また、過剰なくらいあちこちに男友達をつくらないと気がすまない子は、常に数人を掛け持ちしているらしく、なかでも一番燃え上がるのは相手に彼女や妻がいるにも関わらず、かと云ってそれが略奪恋愛とか真摯な情熱など持ち合せてないままに、まわりへの影響など一切顧みず自分の欲求を満たし続けてやまないことが自然体であるかのように、そんなシチュエーションを愛しく思ってでもいるのか、彼らとの熱烈な情交を尋ねもしないのに延々と語りだす無頓着さをあらわにする。
富江は正直、そんな連中を思いきり見下げながら、別の友達についつい愚痴っぽくこぼしてしまうこともあった。そして散々小馬鹿にしたあげくに、話し相手が割と楽しそうな顔をして聞きいっていることが、なにかつじつまのあわない場面に見えてきて終いにはしらけきってしまうのだった。
「確かにくだらないことを言っている、そのくだらない話しで他人が笑顔でこたえるのなら、わたしだけがやはり取り残されたとも言える、それとも過激なものに惹かれるように、あんな自己中的な子らをどこかでねたんでいるのかしら、、、」
大人の世界だけではない、まわりの世代の世界でさえ、富江の思惑から大きくこぼれ落ちようとしている。まるで熟成を待たずして枝を離れる呪われた果実のように。


[27] 題名:まんだら23 名前:コレクター 投稿日:2009年03月10日 (火) 04時39分

「じっとわたしの顔見つめてたからどうしたんだろうって、誰かと勘違いしているんじゃないかなとか、よく似たひとと思って見ているのか、ふふ、それからひょっとしたらわたしのことが気になっているのかなって」
「たしかに気になってました、さっきも話したけど僕の生徒らと同世代のようだし、それとさっき木下さんが言った女生徒とも飲みに行くことあるのかって質問、実はまだ一度もないんですね。男女おりまぜてや女性複数とは何度か機会はあったけど」
名古屋駅を発ってから小一時間もしないうちに磯野孝博は木下富江と云う十九歳の女性と席を隣り合わせにした為に、いつしか話題にも途絶えることなく談笑を交えながら列車に揺られていった、その様は傍から見れば年齢差のある連れ合いにも映ったことだろう。
さて事後を端緒にかえすと、不審な目つきをただされた孝博が直後に示したアクションは、彼女が手にしたままの文庫本へと留意をうながそうと努め、いち早く表紙に記されたジッドの「狭き門」を見てとるや、「あなたのような若いひとでもこんな古典を読んだりするのですね、感心なことです、この作品の精錬な気高い祈りにはこころ洗われるでしょう」そう深い共感を静かにもらしたあと、相手の反応を待つまでもなく「僕はこういう者です」と座席から姿勢をのばし律儀ながらも鷹揚な態度で名刺を差しだしたのである。
それは予察された。威厳と云う形式は敗北を知らないもの、そして様式は繰り返されることによって増々技巧にみがきがかかる。富江は手渡された一枚のうえにある東京の大学教授の肩書きにまず目を奪われて、それから首をあげて当の孝博と視線を交じらすのが億劫とでも言いたげな所在で、しかもそれは適当な返答させ思い浮かばない沈める花びらのように沈黙を守る圧迫ともなりかけた。
ややあって富江は萎縮しかけ当惑が先行した心持ちのままに、自分でも不甲斐ないと意識しつつ必要以上の手応えをその大学教授に対してこう伝えるのだった。
「東京の大学ですね、ここの外語大知ってます」それだけをいかにもこみ上げてくる勢いで言ってみたのだったが、そのあとに連なる言葉は見つからなかった。
そうすると孝博は相手の逡巡を見通すかの手際で、あとは長いものに巻かれろ式のこころの綾のうつろいを富江のなかに植えつけてあげればよかった。
「いやあ、よくうちの学校なんかご存知ですね、光栄です。教授っていっても臨時講師みたいなもので、最近、韓国語や中国語を専攻する学生が増えてきて、本来の研究分野は比較宗教学なんですけど、そっちにはまだまだ大先輩らが活躍してましてね、あっ、ついつい余計な話しを、、、それはそうとあなたが読んでいるそのジッドですけど、解説のところまで頁がめくられてくるところをみるともう読了されたんですか」
「はい、でもこの本はこれで二回目なんです、高校の頃に読んでさっき言われたように気高さみたなものにあこがれましたが、今度は少し違った感想が残りました」
孝博はゆっくりとまぶたをおろす仕草を見せてからさっと開眼し、探究者が独り書斎で内面と対峙したときに現れる閃光をもって富江の瞳の奥をのぞきこんだ、しかしそこには鋭い眼光と呼ばれる刺はなく、あくまで澄みきった水晶のようなひかりが放たれているばかり。
「そうですか、それは興味がつきないところです、ヒロインのたしかアリサでしたか、彼女に対する感想ですか」
「ええそうなんです、最初は無垢なたましいが天上に召されていく荘厳な美しさに感動したんですけど、今読むとどうもしらけてしまうだけで、なんの為にジェロームの求愛を断ち切ったのかが、よくわからない、いえ、わかりかけてきたことがあるんです」
「それは?」孝博はいつもの教壇からの質問をなぞっている自分にあらたな興奮を覚えた。
「それは結局、アリサの厭世感から来ているんじゃないかって、時代背景もあるのでしょうけど、親族のしがらみなどが全部うとましかったように思うんです、だから神様への帰依だけにすがりつきたかった、それは世俗を見捨てた傲慢さでもあるのじゃないかしら」
孝博の誘導にそって思いがけずそんな所見を述べてみると、富江は気恥ずかしさと一緒になって胸の底から吹き抜けてくる達成感のようなものを自覚した。それはこころの綾があらたな紋様をつむぎだそうと背伸びをして、実際にも少しだけ背丈が高くなった歓びであった。




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