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[62] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年19 名前:コレクター 投稿日:2009年08月31日 (月) 05時57分
「人はすべて行為をその成就にまで続行しなければならない。そうすれば、その出発点がなんであろうとも、終極はすべて美しいはずだ。行為が醜いのは、それがまだ完全に成就されていないからなのだ」
― ジャン・ジュネ
振り返っても、そぐそこに届きそうなくらいの距離しか持たないと感じさせる夏日に、まだ惜別を情をはらませる理由が見つからないのはおそらく、その時間への配慮が瑞々しさの気持ちに包みこまれてしまっていて、あえて刻一刻この身に知らしめる必要を回避しているからなのだろうか。
秋日和は天空に渇きながら、しかしまだまだ森林の濃い緑は保有する湿り気に覆われていることで却って鮮明さを醸し出すよう、そんな息吹で支配している。さながら淡い恋ごころを涙で確信的な情感へと高まらせると云ったふうに、、、そう、あらかじめ失われているひとときをつかみとる為に、反対に自分からそれらを囲繞する為にも。
おだやかな波のリズムのようにして風は幾度となくレース越しに、あるいは何のさまたげなく部屋へと運ばれた。
涼風によって造形されたかの微笑と共に、富江が差しだして見せたふたりを収めた携帯画像が、一葉の写真に思えるのもこの秋風がもたらした錯覚だとするなら、やはりときの過ぎゆきはこの気持ちのなかで川面の夕映えのごとく輝いているのだろう、、、
川の流れの照りは目に優しさをあたえてくれる。そのわけは言うまでもなく、流下する光の粒子たちが過去と未来、そしていまの瞬間をせつなく同居させて見せようと懸命に努めているからである。
無論のこと晃一は、富江の笑みを慈しみ、こころの底から情熱をくみ上げ季節の裡に、、、いや季節の推移をも忘れさせるくらいこの夕映えをとどめ置きたかった。
だが、彼は光の粒が水面に散らばるように、川底にも光明が浸透している模様を想像する。それは浮上することのない明るさではあったが、忘れ去ることが出来ない想い出と同じく、決して晃一のなかから逃れることのない花影に似た性質のものであった。すでに旭日と夕日は溶けあっていた。そして月影へと想いは知らぬ間に流されているのだった。
もし運命の番人がこのふたりを見守っているなら、彼らの衣服をもう一度脱がせてお互いのからだを結びつけながらため息まじりに、こうつぶやくに違いない。
「もっと肌と肌を密着させておくべきだ。間隙をさがすのがやっかいな程に、、、そうすれば、多少の邪魔が入り込んでみても簡単には引き離されはしない、、、」
晃一の胸裡に富江以外の異性が潜んでいる事実は、とりもなおさず彼自身を燦然と輝かせる光源であったし、たとえ内密にしようと努めるまでもなく、富江からからだを合わせているさなかに、
「ねえ、それでその始めての子どうだったの。いいのよ隠したりしなくたって、わたし気にしないから」
と思いがけない拍子で秘事のふたがひろげられてしまい、馬鹿正直にことの次第を話してみるほうが、相手に対しても純情であることを強調するようにも思われ、また自分にとってみても誇示されるものは、その意気込みの手前で抑制され殊勝さをまとうことによって、独白を上位に高めることで落ちつきが良くなるはずだったからである。手鏡のなかに富江の顔も一緒に並ばせると云った具合に。
そして、晃一の思惑に呼応するとでもいうように、今度は彼女から更に確証を抱かせるふたりしての撮影が行なわれた。ふとした勢いで写されたのだけでは説明の出来ない、目には見えない運命がその引き金を弾かせただろう瞬間が、来るべき運命を動かし始めた。
運命の番人には、そんな不自然さに宿る暗黒の意志が見通せるため、彼らが出会って名前を口にし(晃一の)、それから東京出身であることなどを聞かされた折の富江の反応をも踏まえたうえで、ことの成りゆきへと必要以上の吐息がもらされるのだ。
この町には珍しい<磯野>と云う姓、直感が適中するのを、眼前に危難が迫っているのになす術を持たない、それどころか進んで逼迫した嵐の裡に飛び込んでしまいそうな奇態な威厳、、、一年前の夏、帰郷する列車で遭遇した人物に結びつけられるまぎれもない予感は、一体富江を何処に向かわせようとしているのか。
[59] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年18 名前:コレクター 投稿日:2009年05月26日 (火) 05時23分
街灯のわびしさがこれほど夜を演出している光景を今まで見たことがない、、、ましてや五月雨に向かおうとする時節を気に留めず、知らぬ間に飛び越えてしまった薄ら寒いこおろぎの音を潜ませる青草が、こんなにもぼんやりと火照っている様子を、、、
このまちに来てひと月あまり経ったころ、宵のなかに見つけたちいさな灯りと虫の音の競演に思わず耳を澄ませてしまったのが、つい最近のようにも思われる。
三好から、数少なくなったけれども、まだ銭湯が残っていると聞かせれた晃一は、興趣つのるまま歩いてみたところで湯冷めにはそう遠くないであろう、ひなびた浴槽と番台の位置も曖昧な造りを自由に思い浮かべ、夕食後さっそく独りそぞろと宵闇が隅々にまでゆきわたる夜道をめぐって行ったのだった。
男女の出入り口が分けられて、しかし互いの湯船の底を海流しているのは、そんな隔てを太古の彼方に見失ってしまった感情であると云う、ぬくもりを信じようとするロマネスクであるべきなのか、あるいは混浴が想起させる過ぎ去った母性にあったのかは、あくまで湯けむりのむこうに隠された陰部のように、決してあらわにされることはない。
記憶の在りかをどこに求めようとするのだろ、その夜のことを想いかえそうとする矢先、ちょうど蒼天がしめした湿気のなさが夜空へと、ときの橋を渡って過ぎるよう出来ることなら爽快に清らかに、こころの裡へと安置してしまって、意地らしいくらいあの銭湯へと向かった晩の情景が描かれるのだった。
夕暮れの陽をいっぱい吸いこみながら反映する川面の惜別が、一途な流れに身をまかせていることを躊躇わないように。
不確かな意識に明滅するのは、カウンター越しから客の煙草へと点される瞬きにも似て、素早い着火の陰に消えてしまう宿命でしかない。
晃一と麻菜とのおそらく冗長な会話のそのほとんどは、一見やわらかに見える木の実と同じで、実際には殻は固く、しかもむき終わるまで要した時間の割には中身がこじんまりした、云わば賞味それ自体よりもそこへ至る道程をたしなんでいる趣きにひたりながら味わっていたのであった。
来るべき肉感が、予想を裏切らないこととぼんやりした語感のなせるままに、深く沈める赤光は暁に違いないと乞い願う声が言葉にならないままに、、、
酩酊した晃一の目に映るのは、一面が落陽に染めあがっているこのまちの港と、潮風に濡れた今にも溶けおちそうな麻菜のまなこだった。
どうやって店の外へ出たのか、どれほど時間が経過したのか、思考回路のぜんまいが急回転してしまって伸びきった晃一の感覚には推しはかることは不可能であった。
とぎれとぎれに、古い映像が乱れるように、自分のすがたをあらぬ方向から見つめている奇妙な錯視がまずよみがえり、それもほんの束の間、次には映写された一齣のうちに道ばたへしゃがみこんでいる麻菜とそばから心配そうな顔つきで覗きこんでいる好子に森田の影が横ぎり、街灯や酒場の看板に照らされているわけでもない、強いて言うならば月明かりがこの路地の片隅にまで届けられたと形容すべき、危うさと気高さが滲みだすまさしく白雲がひかりを吐き出しその代わりに月光を呑みこんだに相違ない阻まれた冷たいほむらが放つ、限りない優しさに包まれながらどっと地べたに手をついてへどを吐きだしているその顔をよくよく見れば、誰でもないそれはの苦渋と恍惚が交じりあった己の表情ではないか。
夜風に乗ったのはこのからだ、、、冬支度の窓のそとに舞う、取り残された枯れ葉の予感は一気に若葉を襲って、人生のかけらしか噛みしめていない無念を想像させる。
夜更けに運ばれてくる秘めやかなピアノの練習曲のはかなさを、、、明星を待つことなく狂喜を唱えるうぐいすのわびしさを、、、
如何なる理由で、、、無意味な空想が、いや不気味な追憶が選びだされ未だ成人に達してないこの身を緊縛するのか、、、それとも昏睡のがわから見つめる世界において、悪夢を打ち払うために恐怖から逃れたい一心によりこんな不鮮明な、だが強烈無比な断片を切りとるのだろうか。
夢のなかから現実に瞬く閃光のすべてが、やはり夢であることをもう一度知るように。
たったひとつ、疑えないのは他でもない、その夜、晃一の**が捨てられたと云う事実であった。
[58] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年17 名前:コレクター 投稿日:2009年05月26日 (火) 05時16分
歩いている時間も閑却させるほどすぐ近くにあるスナックのカウンターに並んだときの別種な感触を味わっている間もなく、好子が乾杯とともに一曲歌いだすと他の客らの手拍子も始まってにぎやかな雰囲気がにわかに形成され、別段遠慮してみたわけでもなく、三人のあとに座った席の隣がたまたま麻菜であったと云う現実にスポットライトがあてられた高揚に乗りこめないでいるもどかしさは、さながら喧噪のなかでの孤絶感を想起させてしまい、そうなると横目で窺うような自分の目つきに過敏にならざるを得なくなってしまうのは、やはりまだ拮抗する胸裡を意識しているからと云えよう。
しかし、いまは森田、好子、麻菜、自分と横列した事実に感謝しなければいけないと、ふとあたまによぎったのは疑うべくもない、思惑はどうであれ麻菜のことに引き寄せられている事態を承認する、いわば通行手形みたいなものであった。
妖しい魅惑の根底に巣くう正体を見極める為くぐる隧道への。
気持ちよく声を張り上げる好子のすがたに感心する振りをして、その視線は焦点をあわせるようにたぐり寄せることで麻菜の横顔を不自然ではなく、堂々と見つめることが可能になった。
森田はなじみらしいカウンターの向うの女性となにやら話しこんでは、まわりに囃され連続して歌声を披露する好子に時折、拍手することも忘れてはいないようで、一番はしに位置した晃一にとってみればそれは約束の地をあたえられた迷い子であった。
そして、思いついたと云うふうに目のまえに置かれた焼酎を迷うことなく一気に飲み干した。
「あら、若いひとはさすがに豪快だわね」
そんな愛想に真正面から応じるよう、ママらしいもうひとりの女性が作ってくれた濃いめの水割りを何杯も勢いよく喉の奥に流しこむ。
視野が急速にせばまりゆくのが自覚出来たのが、晃一にとって明晰な判断に信憑を寄せられる最後の光景であった。途中で歌の順番が自分へとまわって来たときには、すでにスピーカーから鳴り響く音とは異なる耳鳴りのような高音が空気中を漂っているなか、幽体離脱したかの自分にとマイクを渡そうとする麻菜に向かい、
「僕は歌は苦手です。いえ、けっこうです」
そう昂然とした口ぶりで意思をしめし、好子の高ぶりへと連なるよう、あたかもその場の情況に自然であるよう、拒絶を柔軟に仕上げてみせたのは決して胸算によるものでなく、あくまで本能的な目論みであった。
再びマイクを手にした好子の微笑みが、自分の意想に照応したであろう連鎖を確認したとき晃一は、初めて麻菜に対して距離を埋めていることに積極的であることを見いだした。そしてこう言った。
「麻菜さんは彼氏とかいないのですか」
今しがたの反応からは想像してもいなかった唐突な投げかけに、一瞬何を言っているのかよく分からない面持ちを保たせようとしたのだったが、
「あれえ、磯野くん、そんなこと聞くんだ。じゃ、教えてあげようかなあ。わたしはね、去年の春さきに大失恋しちゃって、このまちに帰って来たんだ」
自分でも予期しない、不思議な反動のような勢いが口を借りて勝ってに込みあがってくる。それがいつから蠢いていたのかは知らない、、、嘔吐をもよおす加減が突然であるのと同じく。
晃一はもう酩酊の手前の横断歩道を左右確認しないまま通行する、無頓着さで危険を信頼してしまっていた。すると麻菜の心中も同様に乱雑な文体で綴られた物語りのごとく、展開してしまうのだった。
自分の酔いが相手の酔いと同調し、錯覚であることを目醒めようにもそれが実感となってこころのなかを満たしてゆく限り、混乱は素直に落ちつきを認めようとはせず、暴走は程よい抵抗の風を生みだす行為となって、涙も血も鼻水もよだれでさえ何もかもを肯定する覚醒した夢想と拡張してしまう。
唯一、片隅でささやくように点滅しているのは、膨満し続ける意識が虚栄を育んでいるのではいかと云う危険信号なのだが、うれしいことにこの信号には色彩が剥奪されているのだった。悲哀と悔恨は酔い覚めの朝、陽のひかりで照らしだされてから彩りを取り戻すのである。
縮小する意識が虚栄を持てあますことで、反対に居場所を明確な彩度を探りあてると云った方程式は背理ではない、何故ならばそれは営為そのものだから、、、
[57] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年16 名前:コレクター 投稿日:2009年05月25日 (月) 03時11分
小さく、しかし大胆に耳へと吸い込まれた麻菜のひとことは、初顔あわせした今夜の時間の流れを一瞬にして固定してしまい、つかみようのないままに指先から逃げさってゆく期待を芽生えさせた。
そう感じられたのは、予期せぬ僥倖に先んじることで受け入れ態勢を整えようと構える結果が逡巡を招きいれてしまっていると云う、あの尊大な好奇心を晃一の胸中に植えつけていったからである。
異性を含め他人との距離感を意識しなくとも、すでに自動的に間合いがはじき出されている世間慣れした人間であれば、あの艶めいた健全な問いに即応して思惑が素早くめぐり、股間へと脈打つことを知るが故に却って、過剰な反射を本能のあかしと認める余裕が獲得される。
同時に発動されてしまった事態を不埒なものといさめる分別があったと云う良識が、下半身の躍動を牽制し、やがては狩人が慎重な足どりで獲物に近づいてゆく沈着さを、つまりは欲望を遠回しにコントロールする器量を養うことになる。
秋波を送られたにもかかわらず、すぐには踏み足を出さず機が熟すのを待つことによって駆け引きを楽しむ、気品に香るしなやかな情欲をある程度持続させる為に、、、
ところが、若き晃一にはそんな術など持ち合せているはずもなく、また元来の性質からしてみても到底、欲情を一巡させてみるしたたかさは欠落していた。もっとも、このような場面以外のところでは心理の動きや彼なりの世界観は独自の価値が理論化され、あるいは理論を基礎づける装飾がほどこされて、秘められた性欲としての範疇できわめて珍妙な禁令が遵守されているのだった。
麻菜の目のひかりにまぶしさを覚えたのは紛れもない事実であり、いまこうやって数秒にも充たない威圧にも似た好意を含んだ質問にひるんでしまっているのだが、どう答えればよいのやら戸惑う根因は、つまるところ女性経験を知らない恥らいに由来するからだと、投げ打つよう自尊心の裡から鮮明な感情を見つめてみれば、そこには放擲される自尊心も同様に認められ、以外とすっきりした心持ちになり足を引っ張っていたのは脆弱な理論なのかも知れない、径庭を造りあげていたのは秘匿された怯懦によるものだと、それこそ開き直りに近い明朗さが晃一をもう一皮むかせることになった。
「麻菜さんの目はきらきらしていて美しいと思います」
麻菜の側からしてみれば、決して間合いを経てそんな言葉が口にされたなどとは思ってもいないのだろうけれども、晃一からすれば自分で吐いてしまった表現に実は深い意味合いなどなく、ただ直感がかする上澄みの内奥まで透過できなかっただけのことであった。
そんな晃一の気後れには関知してないと云ったふうに麻菜は、
「あら、お上手ね。ではその目に映っているのは誰なの」
如何にも含蓄をはらんだ言い方は、ふたたび目尻に寄せられた俊足なしわと協調しあうように笑みを誘っている。
彼女の美点を讃えたばかりにもかかわらず、不意をつかれた、いや更に追い打ちをかける秋波であることを正面から受けとめれない狼狽は、晃一の目線をテーブルの上へと下げさせてしまい、
「ひょっとして僕なのかな、、、」
と、まるで無実であることを忘却させられた容疑者のような投げやりな覚悟が醸し出される。
「そうだとしたら、どうするの」
「それは、、、」
にごり水の中に顔面を沈めたときの困惑と、咄嗟の判断を見あやまる不快な驚きを相手に見いだしたのか、
「かなり酔っぱらってきたのかなあ。目のなかにはお星さまがきらきら、わたしは王女さま、、、ねえ、もう一件いこうよ」
隣の好子をうながす素振りで森田のほうへ向きなおってみせると、多少大きくなった声に素直に煽りをうけたといった様子で、
「よし、じゃあ、カラオケに行こうか」
夜はこれからだと云うふうに、森田は心配りなのだろうか、今日の主役は好子なのだと暗に示す態度もさりげなくそう提案した。好子の表情は洗顔あとのように歓びを隠せなかった。
一同席を立ちかけたとき晃一は足がふらついているのを感じたのだが、店の外に出てみるとすでにその感覚も夜気に溶けだしてしまったのか、次の酒場を選択している森田らの声を遠くに聞いている茫洋とした自身を発見し、それがまさに酔いの証拠だと、揺れる小舟が大海に身をまかせる方便であることに大きく首肯するのであった。
[56] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年15 名前:コレクター 投稿日:2009年05月18日 (月) 05時33分
麻菜と格別に込みいった会話を進ませた記憶もない、数日たってその夜のことを思い返す度にまず狼煙のよう上がってくるのは、くだんの老成を先取した、完熟トマトみたいに鮮やかな内にも酸味を残すことを忘れない、夕陽を彷彿とさせる笑みであった。
隣席の好子は森田に婚約者のことを懸命にあれこれ話している様子だったのだが、すでに酔いがふたりの会話を切実なものから、云うまでもなく曖昧なものに鳴り響かせてしまい、むろんそうなると彼らの話し内容は、窓の外でとぎれとぎれに跳ねているにわかの雨脚のようにも思われ、気にすることもしないことも可能な、あの適当な雑談のなかに消えてゆく宿命をほんのわずかだけ憂慮してみせる。
また、それはまったく違う形で晃一と麻菜を、いわば彩るのであった。
「西安さんったら、夏風邪とか言っちゃって、そんなに二週間近く長引くものなの」
多少、鼻息が荒くなりかけた好子が自分の未来の伴侶を叱責しかけると、森田はいかにも落ちついた口調で、
「あっそう、二週間ねえ、実際は先週の終わりからだっけ」
すると好子は、あたまのなかで指折り数えているふうな目つきをして、
「えーと、今日で八日目」
彼女以外、酔い加減は均等に自分にもまわって来ただろうと云う、実感のあった森田から見れば、好子の素面さが、逆に酩酊の調子に見紛われて揺れ動き、奇妙な錯覚へと支配されてしまうのだった。
日数を上げてみたその声は、通りがよかったせいもあり、麻菜と晃一のふたりにとってみても、目線が交互に相手の顔の上を横切って、これこそ酔眼の証拠と呼べるかもしれない断続的な効果音と化し流れてゆく。
「磯野くんって、東京では彼女いたの」
「ええ、まあ、軽い感じで」
「軽い、それはどういう意味」
最後の意味という語が半音下がり気味にのばされる。
そこに、好子の具体的すぎる数字が差し挟まれ、答えには直結しないものも、想像の枠内からははみ出しはしないだろう艶めいた推察へと香って、まるで異国の言葉のように、その花びらのように、ひとひらこぼれおちる。
あるいは、「何となく、わたしを避けているみたいな気もするんだけど、あのひとは今までもいっぱい彼女つくってきたから、避けるふりして試されたりもされてるんじゃないかって、、、」
森田は、束の間の無言も間合いを見抜いてみたというふうに、
「考え過ぎだと思うよ」
そう言った語感は単なる説明からあきらかに超脱し、未だ見知らぬ情感へと勝手にたなびきながら、
「あのさあ、さっき少し聞いた、三好荘に戻ってきてる娘さんいるよね、わたしも知ってるよ。森田さんと同い年じゃない、子供のころよく遊んでいたって」
そこから麻菜は幾分か声を低めにして、横目でちらりと森田の方を目配せして、
「ひょっとすると、前からあのひとのこと好きだったりして、、、」
と、情熱が積まれたた倉庫内の反響みたいに、けれども日陰に安置させるべく、ひんやりとした声色はすぐ後に続く森田の冷静なことばを察した呼び子となり、こうしてふたりの間を繕うかの如く、一片のことの葉が舞おりる。
夏いきれから開放されたかの、青葉が夜陰の空気に抵抗受けることなくここまで届けられるのを、晃一はまたもや奇跡のなかへと静かに沈めようとしたのだった。
何故ならば、ときおり停止される、麻菜の柔らかに磨かれた瞳が、あまりに時間的配慮を欠いた刺激となって己の胸に突き刺さるのを、今はとりあえず避けなければと感じるからであった。
反面、もう少しの余裕が、つまりはこんな進行具合がまるで映画のように思われ、クライマックスを嫌がうえにも期待させるからであり、それにも増して決定づけられたのは、唐突に発せられた麻菜のひとことにより強烈なときめきを知らされたから、、、
「ねえ、わたしみたいな女性はどう見えるのかしら」
比呂美に対する禁句が、まるで短冊にでも書かれているような現実性をまえにした晃一は、そのとき萎縮しながらも、微熱が呼び起こす不遠慮な風が、短冊の裏側を覗かせてくれる希望を抱いた。
パンティが脱がされる以前に、蠱惑のふとももがあらわにされるように、その為には禁断のスカートが強風であおられる様を乞い願うように、、、
[55] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年14 名前:コレクター 投稿日:2009年05月18日 (月) 05時09分
麻菜や森田らの断続な会話の流れは、更けゆく夜の気配を招きいれたとでも云うようにして、十分に明るい店内へと忍びよった微風の如く、一層こうして対座している場面を、テーブル上に運ばれている各自の飲み物や料理の並び方を、それとなく意識させる、あの読点に似た間合いを覚えさせさない流麗さでもって、晃一の皮膚全体へめぐってゆくのだった。
ほどよい刺激が産毛まで揺れさせてしまうように、そして微かに開かれつつある毛穴へと浸透してゆく際の、肉眼では窺い知り得ない暗部へもひかり差し込んでいる想念は、転じて目に映る身近なものをより鮮明に輝かせる。
すると、照度は視覚との均整を保つ為であろうか、まるで透明なビニールシートで覆われた物体を目の当りにしたときみたいな、興味本位な親近さが最前より備わっていたかの光輝を放ちはじめる。
奥行きはせばめられ、均一化された、白々しい光線を浴びてでもいると云うように、、、だが、日常の方向感覚とは異なった、浮遊した無限性をそこに見ようとしているのは、やはり、酔い心地のなせる技だとしたら、確かにすでに箸で何をつまんだのか、ビールのグラスを半分以上飲みほしたのが、どれくらいまえの時間だったのかを気にかける必要もあるまい、、、
「きっと瞳孔が小さくなってるんだ」
晃一のため息にも似た、こんな想いをしたたらす様子は彼を取りまく人たちのなかへと、目に見えない風となって届けられたのか、自分の感情を振り返るまでもなく、まさに手をのばせばすぐそこに相似形の海綿となって、今度はこちらへと急激に近づいてくるのだった。
波の合間と水しぶきが、お互いに距離を量りつつ、空隙を形成し合うように。
麻菜と好子は、思わぬ本音が飛び出したということさえ忘れてしまったのか、先程までの結婚観まで尾を引きかけた遣り取りが、偶然の間合いでもあるように、しかし、実際の注文が酔いの空間でエコーしただけなのだが、並んだふたりの間を裁断する具合にのびてきた店員の腕まくりされた手によって、ちょっとした一息を入れるタイミングに仕上げられたのである。
「あれ、またビール頼んだの、わたし、ビール飽きちゃったから、焼酎おかわりしたんだけど。あっ、磯野くんのじゃない、わたし、すこし酔ったのかなあ」
笑顔が笑顔である為に、抑揚を増幅させることで、例えるなら、よりボールが大きく回転するようためらいなく表情が刻印される。
本人とは無関係の感情がそこに訪れてしまっているかの、荒磯の激しい波の意思にも似て。
そのとき見せた、麻菜のどんぐりまなこは、反対に受光を狭めたふうにも映り、尚もその瞳の底のほうでは相変わらず相手の全体像を飲みこむ勢いなのだろうけれど、その両脇に寄せられた数本のしわは、ちょうど蜘蛛の足を想起させる敏捷さでもって線引きされており、ときの垣根を飛び越えた加齢のあかしは、却って瑞々しい顔つきをそこに誕生させてしまい、少女と老婆を類比させようにも、発想の提起自体がはなから意味のないことを悟らすようで、あえて印象のありかを問うならば、それは瞬時にして美しく歪んでゆく、子供こころの無邪気さに由来しているのだろう。
まわりめぐって拡大されたのは、ひかりをいっぱい含んだ両目が時間に溺れてみただけのこと、、、その端に刻まれる不相応なしわが走る彼方など露知らずに。
麻菜の微笑み、それは晃一にとってみれば、ある異変とでも呼べる好感に変容されることであり、いびつな美しさにまとわれている現実として投げかけられるのであった。
ひとが恋におちいる寸前を、瞬間に冷凍されるこころ模様を、一気に沸点に到達したがる熱情を、あたかも時計の針をゆっくり、そう、ゆっくりとねじが宿した気丈な反撥をも介せずに、それがまぎれもない自然の営みであるように、巻き戻してみると、無に似たその区画は盲滅法、ちょうど小賢しい気な蟻の群れが乾燥した土のうえを這いまわる仕草を思わせて、けれども早送りされるように不自然な動作によく目を凝らしてみれば、どうにも無駄な起居かとめぐらすあの思惑にせめぎとめられるまでもなく、その微小な光景からはなんと馥郁たる香りの如く、機能美にさえ連なる渇きゆく臨場感を得ることだろうか。
更には、蟻たちが立てる点を喚起させるリズムの、なんと粘着質で優雅なことか。
潤いを求める口中に、一番最初に含み、流れ、浸透してゆくであろう、そんな瞬間。
わずかに不快ではない、耳鳴りを感じた頃、時計はもとのすがたを取り戻し静かに帰っていく、、、
面倒な、だが、未知なる恋ごころの旅すがたが、蟻の群れだったとすれば、晃一は砂の一粒一粒をかき分けてみればよかったのである。
[54] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年13 名前:コレクター 投稿日:2009年05月04日 (月) 05時37分
この季節を感じることは、もうすでにあきらめにも似たやるせなさで上着を脱いでしまっていると云う、そもそも夏着に裏地などと辻褄の合わない道理をあてがいながら、ほどよく袖が抜けていく気楽さと遺憾を途上にて受理する風趣にあった。
安閑としてるのは抗うことに意味を求めようとしない摂理、そして心残りなのは、また幾度かめぐって来るだろう夏日に対する憧憬をねじ曲げてみた拘泥。冷房が行き届かない為か、いや、むしろ情趣を重んじるために開けひろげられた縁側に置かれた扇風機の生暖かい風を得る、安息にも似た静止された望み。
少年が振り返る郷愁は美しくも歪んだ過剰によって、ちょうど近視なのか遠視なのか見わけのつかない眼鏡をかけてみるときのように、期待が増幅されたまま後方へと追いやったはずの光景をすぐ様たぐり寄せるのだった。
その反射神経こそが瞬発力だと己惚れる拡大鏡をふんだんに活用しながら。
晃一の微熱は体内から発したものではなかった。それは季節が、このまちが、自分をとりまくあらゆることが、ひかりごけに類する作用として彼を呪縛せしめているのだった。もちろんそんな効能を感知していないわけではない、何故ならば、少年が育んだのは自ら霊媒師となって宣託を受けとろうとする現実にあったからである。
酔い心地は宵闇ににじみながら小さく閃光する花火のようだった。
一皮むかれた晃一の意識には先程までの転化する視線の分配が、あたかも天啓によって導かれることによって解かれる方程式の如く、整然とした活路で開かれている。
麻菜による人なつこさを身上とした根掘り葉掘りの質問に応えると云った流れは、すでに平静のうちに水路を抜けるようたおやかになびき、ことさら生硬な理屈をこねてまわすまでもなく如何にも自分らしさを未熟な思念のまま含め伝えることで、ときには集中し聞き耳そばたてる好子や森田の表情の肌理をなぞりながら又、冗漫な加減で茶化すことも忘れず、こうして注視されることに快感さえ発生している情況を作りだしているのだった。
学業を放棄したのは単に学歴社会に疑問を持ったとか、田舎暮らしに憧れたのも自然回帰的な安易な発想ではなく、あくまでひとつの選択肢として思慮された結果であること、最終的には両親の意向をくむ形に落ちついたから今があるのであって、自由などと放言してみたところで本当の意味での解放には繋がらないし繋げようとも考えていないと云う不遜な態度を率直に述べてみると、これは晃一自身も覚悟していたのだったが実際は思いもかけず、若気の至りなどと紋切り型の反応がかえってくるのか案じた予想を裏切り、
「けっこう、そういうのって恰好いいじゃない。ちょっとした反抗よね」
「どうかなあ、本人にとってはちょっとどころじゃないと思うんだけど、流れを自分で変えてみたかったというのはわかるような気がするな」
など、ふたりの女性が交互にうなずく様子は以外な調子を打ち出して、
「そうだよ、おとなになったからって分別がしっかり出来るものでもなし、好きなことをやれるうちにやっておくのも悪くはないよな、もっとも後悔さきに立たず、かどうかは知らないけど、誰のものでもない自分の人生だからね。寝た子を起こすべきか、寝かしたままにすべきかは誰の判断でもないよ、俺もえらそうなことは言えないけどね、、、でもひとそれぞれさ」
と、少しはにかみを面にしながらも笑みが突然引きしまったふうな急ごしらえでは決してなく、余韻のなかにそれまでの姿が残り続けているよう接続点をも感じさせない森田の表情ある言葉を噛みしめ聞き及ぶと云う自賛へ高騰していくのだった。
こうやって初見の人たちも含めた共通の認識の裡に自分がいると云う事実は、晃一に別の陶酔をもたらす。
「それで、親戚の家の居心地はどうなの」
その頃にはこのまちへとやって来た初日の感想なども、年少から温め続けた卵のように柔らかに、しかし程よい熱意で大事に扱うことを貫きながら語りだし、現実にも則していった順化の行程に足もとをとられているのが他人ごとのように小気味よく、ついつい口が滑ってしまいそうになる比呂美の魅惑を押し殺しているのも不本意かと、もたげる肉感の原色に染まりかかる背景を怖れつつも窺い、それでいて震わすのど仏との共存を配慮してみたと云う、葛藤のあとを胸のなかに沈みこめる節度も讃えることで、けばけばしい色合いは薄められ淡い恋情となって溶けだしながら、やはり秘匿された宝石箱の内蓋のようにその光彩は軽減されることなく、閉ざされたまま、あらたな領域を人知れず照らしだすのだった。
そして、こう云うふうに晃一を喋らせた。
「奇跡は自分で発見するものですよね、ひとからあたえられるものじゃなくて、そう思ってました、いままでは。でもこのまちに来てから少しづつ変わり始めました。あっ、はい、居心地はすごくいいです、綿菓子のうえに乗っているみたいな感じがします。ちょっと底なし沼のように抵抗感がないのが大変ですけど」
すると、麻菜はすかさずにこう言った。
「なら、その綿菓子を食べちゃったらどうなの、案外と早く底が見れるかもよ」
ここに来て痛烈な光線は人為を経ることで危険信号となる以前から、光明によりあらかじめ内包されているかの如来蔵をあらわにする。
瞬時に網膜へと到達してしまう運命を呪いながらも、生命を賛美するため幾層にも重なる音階の裡に最も相応しい諧調を得る、牽強付会となって発動されるであった。
[53] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年12 名前:コレクター 投稿日:2009年04月30日 (木) 06時43分
「ねえ、前にどこかで会ったことあるような気がするんだけど」
「そんなはずないさ、磯野くんはこのまちに来てから日が浅いし、どうして麻菜ちゃんが知ってるわけ」
早すぎるのでもなく遅すぎるのでもなくしてふたり連れが現れると、晃一はすでに酔いが全身をまわりだしたのを感じたのだったが、高校の頃にも似たような感覚を保ちながらそれでも相当量を痛飲したことが思いだされ、別段呂律が怪しくなったわけでもなし、ただひたすらに心身が上昇していくのが確認出来るのだった。
「うん、そうなんだけど。まだ十八でしょ、、、きっと誰かの面影がかぶっているのかなあ」
ただでさえ丸い目を思いっきり見開らきながら、しげしげと値踏みでもするふうに迫っている視線を避けることはまだ晃一には難しく思われ、悪気はないにしろ露骨な目つきにさらされている実感は、酔い心地を差し引きしてみても少しばかり釣りがくるのだけれど、それはある意味ぜいたくな自意識の残余でもあった。
テーブルをはさんで男女対座する恰好の配置は、初めてのふたりからしてみれば当然合わせもった好奇の的となる。
むろん晃一の方でも森田からそれぞれの名を告げられた直後から、果たしてどちらが妊婦なのか、また年齢差はなどと見定める意欲がわき起こっていた。
晃一の真正面が青井好子で、その隣の席で大きな目を光らせているのが上戸麻菜だった。
飲みものの注文をとりに来たときには好子が、今夜のいわば発起人であることがさとられた。話しぶりから察するところ麻菜の方が若干年上だと思われたのだが、目もとにべったりと塗りこまれた原色と呼称するのが適切なくらいのブルーなメイクが、好子の第一印象を決定づけてしまって方や自然な団栗まなこと比べてみると、異質な対照がありありと見受けられ両者の個性が同時に飛びこんでくるようで、増々年齢不詳を募らせてしまう。
「あっ、焼きそば、おいしそう」
そう言って好子が注文した品を横合いから奪いとる手際も悪びれたところがなく、そんな麻菜の幼さを晃一は高いところから低いところを見おろすときに似た、爽快さでもって眺めているのが転倒した立場であるように意識され、言い様のない親近感を覚えだした矢先、反対に視線を送るがわから送られるがわに転じていることを痛感してしまうのだった。
森田は彼女とはかねてより気心が知れているらしく、必要以上のプロフィールを晃一に示すことなく酒宴は続行されてゆく。
ウーロン茶をすすりながらもこの場が楽しくて仕方ないと云った内心が隠しようがないのは、やはり森田からさきほど説明された好子の微妙なこころ模様なのだろう、焼酎片手に今度は水餃子をつまみだしては無邪気に喜んでいる麻菜の微笑みとは別種の開放感がかいま見える。
「そうよ、梅男さんの言う通り、麻菜ちゃんの思い過ごしだわ、ついつい目新しいものに理由づけしたがるのは、欲深い証拠かもね」
平然とした口調なのだが、濃厚な化粧の奥からかがやいている瞳の崇高なまでの優しさに、晃一はたとえ先入観があったにしろやがては母となる運命の底知れないちからを感じてしまい、その皮肉めいた言い草には本来宿っているべきものなど実はないのだと云う、不思議な予言を教えられているようで感心してしまったのだが、そんな逆説を放っているのは現実の妊婦であり、しかもすぐ後で知った好子の年齢、、、まだ二十歳であることが奇跡を呼び寄せるための装置であるかの早熟な態度と醒めた幸福感、、、少しばかり年かさであることがここまで大きく開きを告知していることに初めて触れるのだった。
とは云え、晃一の穿ち過ぎもまた同罪であるのを次には知らしめるように、
「何よ、あんたは結婚するからいいでしょうけど、つかみとれない人間はいつだって右往左往しているものよ、去年まで半べそかいてた癖に」
ついむきになってしまったと言いた気な、しかし、攻撃的にはけっしてならないむせこみながら語尾が下がってゆく麻菜の音調に同感してしまうのも、切なさを共鳴しているようでふたりの言い分に振りまわされている自分が浅薄に思えてくる。
だが、そんな主体性のなさ加減に自由をあてはめてみるのも、悪くはない禁じ手だとしたらなどと、ぼんやりした意識がぬくもったのはやはり酔っているせいなのだろうか、そうこころの片側をやんわりと見返してみるのだった。
[52] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年11 名前:コレクター 投稿日:2009年04月30日 (木) 04時24分
待ち合わせ場所の公園付近まで自転車を走らせた晃一は、夕闇がひろがりだした敷地内を鬱蒼と覆うよう茂る木立の影にひとり佇み、携帯を操っている森田の姿を一目で見てとった。
「あっ、森田さん早いですね」
と自分も時間より早めに来たつもりだったのに以外な先手でもあるかのような気後れがして、しかし、おとなを待たしてしまったと云う妙な優越感も同時にわき起こり、自転車のうえから思わず大きな声を出してしまったのである。
そうして小走りするよう人影との距離を縮めてゆくと森田は、
「いあや、さっき仕事関係のひとを駅に見送ったところだったんだ。夕涼みにちょうどいいかなと、ここは花見で何回か来てるけど、こうやって生い茂った桜の葉の下にいると何か変な気分なるね。懐かしいような、、、あっ、さっき知り合いに連絡したら、ぜひ来たいってメールがあって、いや、せっかくだから磯野くんの歓迎会をこめてって思ったもんだから。だいじょうぶだよ、女の子だから、花見に誘ってくれなかったとか言われたからいい機会だとね」
晃一は想像もしていなかった展開に追いつく間もなかったが、
「えっ、それって森田さんの彼女とか」
適当に動揺をさとられまいして素早く応対してみると、森田は苦笑を浮かべながら、
「あっ、全然関係ないの、よく飲み屋で顔をあわせるひとが今度結婚するんだけど、その本人が夏風邪で寝込んじゃって、で相手はおめでたでさ、風邪うつすとよくないからって何日か会ってないらしく、彼は目一杯気遣いしてるつもりなんだけど、彼女は冷たい仕打ちとか言いだす始末でね。これってマリッジブルーの一種かもって、気晴らしも必要だってことでちょうど今日の昼時にそんな電話があって、それなら今晩にでも彼女とその友達らを誘ってみるからと話してたところへ君から連絡もらったわけなんだ」
「じゃあ、先約だったんじゃないですか、、、」
「いやいや、むこうも磯野くんのことをちらっと話したら、えらい興味あるみたいでさ。それより迷惑だったかな、君の知らない子らを呼んだの」
すでに森田が語る詳細を半ばまで聞いていた晃一は俄然、先刻までの夕映えが再びめぐって来たようにこころのなかが朱に染まっていく。
「迷惑だなんで、違います、、、でも何か、恥ずかしいですけど、、、」
すると、森田はそんな彼のこそばゆい表情を慰撫するかの低めの口調で、
「女の子っていっても気さくでね、生憎その彼女ともうひとりしか都合つかなったんだけど、人数的にもいい組合わせだよ。おめでたさんだから酒を飲まないみたいだしね。帰りは車で送ってくれるって言ってるし」
と、まるで晃一の照れを呑みこむよう、そして自らに言い含むよう応えるのだった。
すっかり相手のペースに乗ってしまい、「自転車で、、、」と堅固な思考が働かないことをどこかで願った小さな回転は、期待通りの空回りとなって宵闇にかき消されていった。
それから一時間も経たないうち、すでに公園内の暮れは忘却の彼方へと去りゆき、あたかもかんな掛けされた木材が新鮮な芳香を漂わすように杞憂は剥ぎとられ、そこに新たに見いだされたのは紛れもない自由な精神であった。
公園の近くにある居酒屋の暖簾をくぐってから誘われたふたりの女性が訪れるまでの間、一応遠慮はしてみたものの予期するべきであったよう森田から、
「磯野くんは年齢よりいくつか上にみえるね。ビール一杯くらいはいいだろう、せっかくだから、飲めないなら無理にとは言わないけど」
辺りをはばかるようで、実のところその丁寧な口ぶりに恐縮した晃一は、不意に念頭をよぎった父の顔に乾杯の意を捧げなければいけないと云った、素晴らしい強迫観念を払拭するためにも、そして父が酒豪であったことも今あらためて思い出され、名も知らない洋酒の瓶や夏場になればビールの後でと、すでにテーブルに用意されているワインクーラーの冷たげな銀色をなぞる清涼な汗のようなしずくを横目で眺めているすがたが甦り、もの欲しそうな顔色を酔眼で読んでみたに過ぎないと言い聞かせるふうにして勧められたであろう、その白ワインのかつて憶えたことのない飛び抜けて引き締まった冷たさに驚いて、一気にあおってしまったあと口のなかに父の秘密を味わったことが、こうして血をわけている証明になりかかるのであった。
晃一はそんな父を一刻も早く忘れようと、森田のうしろになにものも見ることなくビールを飲み干した。
[51] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年10 名前:コレクター 投稿日:2009年04月30日 (木) 04時23分
翌朝には初々しい陽光がこのまちすべてに降りそそいだ。
もっとも晃一は昨夜は寝つけないまま、いつの間にか眠りおちたのかと思えば、うつらうつらと意識が彷徨して夢見なのか、こちら側での感情のこわばりなのかよく分からないうちに夜明けを迎えた。
あれから、比呂美は盆に乗せた麦茶のポットとサッポロポテトバーベQあじ一袋を置いて、別段会話もなく「おやすみ」と言って晃一の視界から消えていった。
内部に暴発した原液はいつになく大量放出されたようで、と云ってもこんな醜態は初めてのことであり(一般にいう夢精の経験もかつてなく)どれくらい噴射したのか比べようもないのだが、とにもかくにも比呂美をまえにしてよだれを垂らすように、いや、それの何倍も羞恥が塗りかさなる痴態は、晃一を未知なる複雑な領域へ連れこんだのである。
日中には当然比呂美と顔を合わせもし、来客の段取りで用件を伝えられることも何らいつもと変りないのだったが、しかしその日常の微動だにしない有様が却って晃一の胸中を煩雑なものに生成した。
台風一過の青空のもと、忘れものを探しているのかようにときおり地を駆ける突風となって、、、
やがては追い風にあおられる宿命を信じたいが為に、姑息な避難場所に身をひそめてしまう惰弱を知るが故に。
晃一が願ったのは夕立ではなかった。これからの季節に長雨は降らない。あの夜のことがもう数週間も数ヶ月もまえの想い出となって胸をひりひりと焦げつかせる。
「たった三日した経ってないのに、、、」
その夜、三好から明日は泊まり客が少なくなるから休みをとるように言われたこともあって、休日には恒例となっている自転車の町中巡りを考えていたのだけれども、この三ヶ月のあいだ方々を走りまわったことだし、かねてより誘われていた夜のまちへ探訪してみるのも一興だと、早速その連絡をとってみた。
「もしもし、磯野です、はい、三好荘の。ええ、お酒は飲めないわけでもないのですけど、僕まだ未成年ですから、いやあ、食べるだけでけっこうです。はい、それでは、あと一時間してから、駅前の公園のところですね。わかりました、それでは」
このまちに来てすぐ三好から、
「この人はむかしうちに食品を納めてくれてた森田商店の息子さん、もう随分まえにここの親父さんは廃業したんだけど。息子さんはいまは会社勤めしてるんだがね、釣りが趣味なもので、うちのお客さんと釣り場の情報交換をしてくれてるんだよ」
と言って初日にたまたま顔を出した青年を紹介された。
年の頃は二十代なかほど、眉目のつくりが明確で派手な風貌なのだが、その割にはどことなく落ちついた雰囲気が全身を嫌味なく透過しているのは、その茶色がった虹彩の澄み具合によるもの、ちょうど抑制される感情が自他ともに静けさをもたらすことに似ている。
「どうも、しげさんから聞いてたけど、今日着いたんだね。よろしく」
と言ってさりげなく名刺を取り出した。
それからから所用でまちへ出ることがあると、森田のバイク姿を見かけて軽く会釈すると、「やあ」と云った笑顔を返してくれ、また三好のところにも頻繁に訪れる度に色々話しかけられて、晃一はきっと近いうちに懇意になるかも知れないと内心期待もし、それはいくら孤独癖を深めようにも実際は隔絶した情況に居るわけでもなく、多様な関係にとらわれるまでは行かないにしろ、ある程度は世間の風を受けてみるのも自分の軽やかさを育むような気がしたからであった。
三好からも比呂美の帰省話しの流れから森田のことを聞かされ、
「梅男くんはうちの娘と同い年でな、結婚も早かったんだが去年の秋に別れてしまって、子供が欲しいと言ってたけど出来ないままでなあ。家庭を大事にする気性のよい子だったんだけど、やっぱりむこうとの性格があわなかったんだろう、おんな遊びをするわけでもないし、、、」
などと近々出戻ってくる自分の娘の心情をくんだ侘しさを、そこに重ねあわせるよう語るのが晃一にとってもどこかしら胸に染み、ちょうど雲間からかいま見える青空に却って哀愁を覚えるような、先行きの懸念が物語のごとく培われるのだった。
[50] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年9 名前:コレクター 投稿日:2009年04月28日 (火) 05時40分
それから幾日か哀しみなどにも想い馳せることなく、夜気を迎え入れては白々と煩悶を刷くのだったが、そんな虚構のうちに循環している情欲がいつまでも平穏に保てるはずがなかった。
ある大雨の晩のこと、地面を叩きつけるような雨脚と樋をつたう激しい水流の為、いつもなら敏感に耳を澄ませる足音への警戒がなおざりにされ、と云うのも梅雨明けからの久しぶりにまとまった降水で洗われているかの感覚が先行してしまって、嵐が吹きすさぶ興奮にも似た作用が晃一の雑念を払拭したせいもあり、極めて危うい情況を呈したのであった。
「おそらく勘づかれたかも、、、」
時折だが、特に来客が多く繁忙な日の夜半には、冷たい飲みものや切った西瓜を比呂美なり彼女の母が、晃一の寝起きする別棟の二階部屋まで差しいれてくれることがある。
一階は商家ふうのガラス戸をひき開け、土間になったところには晃一や三好の自転車、雑貨類に燃料などが置かれており、その先にある六畳の間の左から階段が上っているのだが、主に響くのはガラス戸の軋みであって(六畳間はほとんど開放したまま)しかも二枠に収められた大きな硝子なので、二階にも振動としてよく伝わるのだった。
ジャージの上下は作業着と云うよりパジャマ替わりに着衣されていて、ベルトもファスナーもない気楽な着心地は又、儀式の際にも下着ごとずりおろせる手軽さがあった。
激しい雨が窓のそとから部屋のなかまで煙って来そうな陰湿さは、決して不快な気配を室内に誘致したわけではなく、むしろ晃一にとって一種の静寂をもたらした。
雨音に対し知らず知らずの裡に意識が沈みこんでゆく、、、暗雲たれこめた夜空は判別つかない遠景を一層曖昧なものにして行くと、難なく山稜を潜伏させた意思もやはりくみ取れないまま、星のきらめきを乞い願う闇夜の憧憬に対し柔らかに応えるように、たより気ない外灯のあかりは、降りつける線状の雨を瓦屋根がきつく跳ねかえす様を、そこに少しだけ情趣が醸し出したふうに意地らしく光らせるのであった。
夜が眠りを忘れ去ろうとしているのではないかと、想い募らせた子供ごころをなだめ満たしてくれるように、、、
晃一の夢想は幼年期の未分化なこころが性的な濁色で配合されだした日々を、憎み愛した。根もとからの噴出は快楽によって愛憎を無辺の虚空に希釈させ、徹底した快感を培養することで、現実の秘めごとは独白の根底に潜水してゆく。
とろみをもった精のあふれは清色の、清水の、抽出液だった。少年には破壊的精神は存在しなかった、ただ、過ぎゆく時間に向き合った時限爆弾の仕掛けみたいな、何もかもかが静止する緊縛の予感を怖れつつ崇拝した。
傷つけられる時間から逃れることが不可能である故に、目を耳を鼻を口を皮膚を、そしてさまよい出そうになる魂魄を逃がすまいと懸命になったのである。
いつもは階段を踏みしめるときに生じるだろう、空気の上昇の気配でそれが誰なのか晃一は推断した。
しかし、極点に達しかけた逸楽と強雨が障壁となってしまった。障子のむこう側から「晃ちゃん」と比呂美の声が届いたときには、あわてふためくよりも全身が凍りつく反応がいち早く、せめてもの救いは背後より不意をつかれたことで、それはすでに開きだそうとしている部屋の光景をあからさまに露見する危機を辛うじて回避させた。
障子に手をかけ比呂美が現れる、、、引き下げられた股間に固く火照った陽根は今にも噴射寸前だった、、、縛られたからだにも関わらず背中の眼が、うしろの様相を鋭く察する、、、比呂美は自分のあられもない姿を瞬時に見極めてしまう、、、だが、彼女にしたところで思いの外に違いない、きまりが悪いのは秘ごとに遭遇した者同士が抱き合う、恐怖による密着劇と同じ情況、、、
咄嗟には、言葉も態度も表情も作られはしない、、、晃一にはそんな保身をはかる一抹の余地が残されていた。
局部の露出を免れた態勢から両の手をさっと離して火照りをズボンのなかに隠すと、大様にふりかえってみせるのだった。そして、うつむき加減なのも仕方がないままに、
「びっくりしたぁ、大雨の音でわからなくて、何かドキッとしちゃった」
と如何にも意に介さない素振りを示したのだったが、すでに背中の眼が察知した怪訝な面影はそこにはなく、普段通りの微笑が、けれども晃一のこころに触れることをはにかんでいるような生真面目さが、赤面を催させる湿気を帯びた部屋にひろがっていた。
一呼吸つく間もなく、安堵の念とともに比呂美の顔色をうかがったその時、晃一は根もとから急激に噴き上がってくる源流の勢いをどうすることも出来なかった。
[49] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年8 名前:コレクター 投稿日:2009年04月27日 (月) 04時55分
晃一の儀式はこのまち赴いてからその夜、再開された。いや、儀式などの形式ばった天井を吹き破った、無礼講による解剖室の祭典と呼んだほうが実質に近い。
ならいっそはっきりと「自慰」と言えばよいものだが、少年には少年の曲がりなりにも美学が息づいていた。むろん独断的な美学ではあるのだけど、性衝動を対峙する姿勢には、単に欲情を抑制するだけの禁欲精神では不十分であり、肝要は性欲の対象といかに関わりあうかと云う命題に集約された。
それは、色欲による意識の変遷などと云った、官能小説における心理分析とは態度が異なる、もっと科学よりの自己解剖だった。
あの納戸部屋から大皿二枚を抱えて厨房へ戻った晃一は、そこで初めて箱から出された藍色の陶器と対面した。
「昔からここは旅籠だったこともあって、これは、なんでも戦争前からこの家にあったらしくてな、無銘の焼きだが、見てみろや、この鯉のなんともいえない跳ね具合、それと何も怖れていないうっとりした目ん玉、こう云うのが生き生きしてるってことなんだろうな、、、」
三好は年に一度使用しするかしないかの大皿の絵柄を調理台に乗せると、蔵出しされた祭具にでも見立てたふうに、しみじみとながめながらどこか遠いところを懐かしんでいるような表情で、ひとり言ともつかない声でそう言った。
晃一は儀式の最中にその言葉が、とぎれとぎれに、又少し語彙が差し替えられ、だが結ばれる意味は決して明白でない、それは徐々に高まってゆく快感により蒙昧とした霧にさらわれだした意識の乱れを受容しかけた、次元の異なる言語作用であり、肉感以前のまだ耽溺にいたらない不器用な夢想への導入部だった。
握りしめた掌は弾みがつきはじめ往復が激しくなるに従って、整頓された言葉は水気を含んで紙のように溶けだし滲み始めると、語感もおぼつかない混濁した想念が無作為に、時には強引に脳裏の片隅から呼び戻しながら、ところかまわず飛来してゆく。
絵皿の目は、まさに宙へと跳ねあがって、己の恍惚があふれる源はは眼窩へと貫いていることを思い知ることとなる。
それから性急なまでに追い立てられ濃縮される断片図は、変容の度合いも不安定なまま、白熱を帯びた女体像へ思いめぐらすと、様々な角度から照らしだしては、反対に翳りで覆わせつつ糜爛した恥部をかいま見せ、更には局所から周辺へと満ちゆく潮の如く、肉塊が、**が、くちびるが、睫毛が、鼻孔が、或いはふぞろいな**が首筋へと連なる様子が、欲情によって還元され不確かなうちにも、ある特定の面貌を形成しようと躍起になる、、、
抵抗することなく引き受けられる、横顔、長い髪、白い肌、ゆれるまなざし、尊厳さえ漂わす色香、なめらかさを想起させることで乱れを強調する荒れた素肌、、、比呂美の顔、、、得体の知れない微笑から覗かす唾液に濡れた歯、、、梨花子との乾いたふれあい、否、怯懦で乾ききっていたゆえの無骨な覚悟、、、可能性さえ覚束なかった隔絶した性欲の対象、、、間を置いから押し寄せる後悔の念とあらたに陵辱が入り混じった攻撃的な偽装の本能、、、
しかし、何ものにもまして確実に陶酔を約束するそんなうしろめたい情欲を晃一は信頼していた。背中に注視を浴びながら舞台から消えゆくときに押し寄せる余韻のように。
夢想の輪郭は浮上しかけたかと思えば、今度は虚実ないまぜになった様々な首がそれにとって替ってしまい、ぐるぐる水しぶきをあげながら旋回するモーターボートみたいに視点を抑えることの至難さを投げつけているかと云えば、そうではなく、却って回転する独楽を見つめるときに生じるあの澄んだ情動にも似て、何色かの色合いが高速により単一の、しかし風化したような、液化したような、純然たる化学反応の悦楽となって生体へ一直線に打ち響いて来るのだった。
巻き戻される映像、、、パンティがいかがわしい手つきでゆっくりと脱がされるときの、そうやってあらわになる黒い茂りようの、自由になった剥き身が開かれる際の、あらゆる欲望がその一瞬に収斂されるかの狂おしい閃光は、幾度となく繰り返すことで、まるで金打ちされる刀剣から飛び散ってゆく、熱く冷たい火花となって過剰な目くらましをあたえ続けるのだ。反復される残像こそが最もの刺激となる。
引き下ろされるパンティはこうして無限の日めくりと化し、晃一に至福の白夜を過ごさせた。
[48] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年7 名前:コレクター 投稿日:2009年04月23日 (木) 15時02分
晃一の舞台は、こうして予想外だった比呂美の出現によって早々と崩壊しはじめた。もっとも、崩れだしたのは外壁であって、中心部に宿った暗室の天蓋は淡く差しこむ月光の親和をもって受け入れた。
数年まえまではこの三好の家で育った比呂美は、後日、運ばれてきた自分の荷物をひもといてしまうと、こうやって細々した手伝いや調理をこなしているのが、ずっと以前からでもあったような錯覚を晃一にあたえていった。
それはまた、身近を遊泳する禁断の人魚でもあった。これは大げさでなない、中肉中背に見られた彼女のからだつきは、夏着の軽装によって随分と違った香る圧迫を示しだし、その張りきった胸元からくびれた腰つきが階段を昇降するたびに、悩ましげに内股がこすれあう様に、魅入ってしまうのだった。
古い民家を改造しただけの室内はところによって、ほの暗い空間を時のうしろに残したまま人気を待ちわびている。
そんな薄明るさは、比呂美の肌の白さを吸いこんで増々照度を上げ、ときには細いひと筋のひもが鎖骨にそって両肩を滑りゆくまま素肌をあらわにしている浅葱色の服装を、隠微なものに仕立てあげるのだった。
ほとんど納戸になっている部屋に、普段は使わない大皿を取りに入った晃一は、何やら片づけをしていた比呂美のその浮きあがった柔肌、ちょうど深く切り下げられた胸の谷間に米粒ほどのほくろを見つけ、
「あっ、居たんですか。えーと、藍塗りの魚の絵柄のお皿ってどこにあるかわかりますか」
いかにも忙しい素振りで、動揺している心中をまぎらわせるように呟やくと、
「これのことかなあ、団体さん用の二皿ね、鯉がはねている模様が書いてあったと思うの、、、」
そうして、記憶をさぐるまでもなくめぼしい棚の奥を探って、土色になりかけの箱の両手で抱え、
「悪いけど、これ取り出してくれる、わっ、ほこりかぶっちゃって」
ふっ、と息を吹きかける仕草をしてみたのだけれど、すぐに塵が舞うのが懸念されたのか、
「うん、畳のうえに置いて」
と言って、晃一を促したとき、彼はもう一度まじまじと白州に据えられたような黒点に目がいってしまった。
大皿のふたを開けてみるまでのほんの束の間だったが、彼には部屋中が軋んで淀んだ空気がぶれ動いたふうに感じられ、あきらかにその時間は実際よりも長かった。
ほこりがゆっくりと積もっていくような狭いところでは、意中も伝わりやすいのか、晃一の視線に偶然以上のものを察知した比呂美は、
「やだ、ほくろー、恥ずかしいわ、目立つでしょ。何か段々と大きくなるの。とっちゃおうかなって思ったんだけどね、知り合いに聞いたら、それは賢女の徴だからって言うもんだから、わたしもその気になってたんだけど、結局出戻りしたっちゃし、占いなんて当てにならないわね」
ほくそ笑みを浮かべると、すでに開かれている胸の右側の端を更に掻きおろした。
そうして確か真ん中と思われたところより、やや右の部分にあらためて見いだされたけれど、それを凌いで気がかりになったのは、浅葱色のなかには何も着けていないのか、**までは覗けてないもののふくよかな胸の隆起が、部屋の陰りにくぐもることなく顕然と晃一の瞳に押しよせている事態であった。
「もっと大きくなったら、邪魔かもね」
声色になまめかしい余韻はないにしろ、これほど近くまで比呂美に接したことのなかった晃一は、ゆっくりと顔をあげるのもためらい気味に、相手の目を凝視するまで至らず、しかし、内側に折れ曲がってくいこんでしまう想念が斥力とともにもたげ始め拮抗するさなか、再び性急なまばたきの裡になぞったのは、帰省の折印象深かった小鼻の端から頬のかけて点綴するふきでものだった。
一点の艶やかなほくろより、その肌荒れがとても卑猥に映じたのである。
[47] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年6 名前:コレクター 投稿日:2009年04月21日 (火) 13時56分
想い出のなかに保存されていた比呂美のイメージは多少の華飾でくるまれていたのか、、、それは二十歳そこそこで結婚すると云う初々しさが前置きされていたせいもあるだろうし、また少年時代ちょうど中程の年頃の、釣り合い人形のように不均衡な安定で起立している目線でしか判じることが出来ない好奇心は、消極な恥じらいになって来たるべき発芽へと見送った結果だったのかもしれない。
いずれにせよ、三好と一緒に車で駅まで赴いた晃一の目に立ち顕われた彼女の印象は、どこか荒んだ雰囲気を消し去ることを忘れているようだった。
「ただいま、お迎えまでしてもらって、、、」
まぶしそうな目で笑顔をつくり三好の顔を見てから、わずかに小首をかしげ晃一のほうへ一瞥をくれ、そうあまり明瞭でない第一声が放たれた。
陽のひかりは有頂天なくらいに開放的なのだが、合唱に近づいてきた蝉の声に抑制されたような遠慮勝ちの響きであった。と云うのも、三好と並んで民宿の客を迎え入れる際に、いまでは無意識的になった相手の手荷物への配慮が同じく比呂美に対しても発揮された様子が、その地面へと印された動作の影の濃さのように、鮮やかに映ったのだろうか、
「晃一くん、おうちで住みこんでくれてるんだってね、しばらく見ないあいだに大きくなっちゃって」
と言いながら、いっそう目を細めながら見せた八重歯がこころなしか一瞬かがやいたふうで、しかもその反照によって結びつけられたのは、かつて東京の自宅での挨拶の光景であり、過去から現在に至る夢想さえされなかったこの場での対面が、反対に未来像のなかへと投射されていたのではと云った、放埒な思いになりよぎったからだった。
比呂美の肌はあのときと変らず、夏日を忘れさせるほどに白かった。だが湿疹なのかにきびあとなのか分からない赤みがかったふきでものが目立つ面に、晃一はやるせない憧憬みたいなものを覚えたのである。
放物線の高まりが強く激しければ、その軌道は遠く描かれることになる。
比呂美の帰省は予てより晃一の胸の裡へと放たれた衛星であった。彼の進路が、都会脱出が、比呂美との邂逅に則したわけではない、要は重力から逃れることを意識しなかったまでのこと、月がこの地球から離れ去ろうとしないように。
天空の果てまでの遠望はさて置き、ひと夏のストーリーにふさわしく、ここからめくられる顛末はのびあがる入道雲のように一気呵成に蒼穹を覆うことになる、純白の汚れをもって、、、
曇りなき鏡がひび割れたのと、比呂美が実際に帰って来たのは、時間的にみればほぼ同時進行であった。
晃一は東京にとり残してきた自分の**に煩悶していた。両親やまわりの説得や忠告にも決然とした意志をつらぬき通した体裁を整えるには、垂れ流しこぼしてしまうように初体験を済ましてからなどど云う、甘い理屈づけは装着されるべきではなかった。
自ら非社会的な可逆性を模索しなければいけないのだ、そこに親族の助力があるにせよ、少年が少年であるためには、もっとも生臭い衝動である性をコントロールしなければならない。男になる必要など、ことばのうえの綾で上等、そして何より男になることは社会へと溶けこんでいく摩擦を意味している。
永遠の少年はこうして、すべての時間を最小限の意味のなかに閉じこめた。父の書斎から抜き読みしたエーリッヒ・フロムの著作に感銘し、自らを実験台にして性欲が社会的実現への発芽となる威力の是非を試みようとした。
だからこそ人口と緊張が飽和に達していない緩やかな密度が要求され、ちいさなこのまちは彼の恰好の檜舞台となったのである。
過密人口と煩瑣な日々のうちでは集中は不可能だろう、、、明確な論理と実践術がまずあるのではなく、深山に身を隠し世俗とは縁を絶つことによって大悟を得る修験僧のごとく、ひたすら三昧の境地に入ってみたかったのだった。
父とはまったく異なる手法をもって、、、宗教学者なる名称が彼にとっては、そもそもまがいもののように察せられ、それは釣り学者とかカラオケ学者とかに違和感を覚えるのと一緒で、確かに膨大な古今東西の思想書は実り豊かに書架と脳裏を飾るだろうが、いつか父がこぼしていたように、万巻の書をひも解くだけで生涯を終えてしまう憂いはぬぐいきれない。
実験は失敗を許すのだろうか、、、晃一のなかには明日と云う字は存在しかった。ただ、都合よく聞こえてくる青春と云う、青白い月のひかりにも似た寂寞のあかるさに、優しく包みこまれているのだった。
[46] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年5 名前:コレクター 投稿日:2009年04月20日 (月) 06時53分
晃一のめざめはすぐそこまで近づいていた。
このまちで暮らしていることが奇跡なのではなく、このまちがそのものが奇跡なのだと、少年のこころに疾風が吹きこみ鮮やかな波紋が大きく形成されていった。
この世のなかに息づいている実感をこれほどに微塵もなく疑いようなく、今までつかみとれただろうか。
三好の家屋に届きそうなくらいまでたたえられるに穏やかな海が、三方を圧迫に近い快さで取り囲む山の連なりは湿気を常にはらんでいるかのようだけれど雨脚を心憎いまでに統御してみせる天候の対照が、純然とした意志のもと運ばれてゆく時間それ自体となって惑わすことに、まぎれもない歓びを見いだすのだった。
風来とともに訪れた波うち際に立つ、渡り鳥の無心のように。そして白砂の浜におちた孤影が無上の慈しみで縁どられているように。
東京に置き忘れていた出立の記念碑を、思いのほか早くこの身にしるせることが可能となる予感、それは潮風にまじる生臭さが野性を呼び覚まし刺激をあたえたのか、生き生きとした欲望が夢見ながらにひも解かれる様は、まるで恣意的な放物線が小気味よく描かれるのと同じく軽快だった。
三好の主人は自分のことを「だんなさん」と呼んだ晃一に対し照れくさそうな笑い顔を浮かべながら、
「おいおい、そんなたいそうな旅館でもあるまいし、それにいまどき、そんなふうには言わないもんだよ。晃ちゃん」と、軽く受けながし、「わしはここいらではしげさんって呼ばれるんだ、重文だからね」と親しみありげに念押しの風情でそう言った。
「はい、わかりました。では奥さんはおかみさんではだめなんですね」
その応答の具合がよほど間合いよく、思われたのだろうか、三好の奥さんは、
「あらあら、あたしはおかみさんって響きが気にいったわ。ええ、そう呼んで下さいな、このひとはしげさんでも、しげぞうでもかまうもんですか」
そんなやりとりも快調に、そして、ここでの仕事の役割なども別段苦もなく覚えてしまった晃一は、早朝と云うより夜明けまえから起きださなくてはならないこと以外に、予想外の生活変化もなく、またたく間に春眠の深さからくる一日の清澄を覚え、桜のつぼみに何やら目配せしたまま、さりとて散りゆくはかなさは巡り巡る季節の連動とでも云った調子で、それまで懸念していた手狭さや気苦労など想像してみるなど無駄骨、ここはひとつ宙に浮いた感覚で流れて行こうと自ら選びとった境遇を満足気に眺めやるのだった。
掃き掃除や雑巾がけのさなかに汗がにじみだすのが疎ましくなる頃になって、ようやく晃一は鏡のような意識にひと筋のひび割れが生じているのを認める必要に駆られた。
わずかの間だったけれども、それまで晃一の日々は確かに自然のなかでときが刻まれていた。
母から聞かされていた三好の娘比呂美がこの家に舞い戻ってきた。家のものからもその旨は知らされていたので、晃一は殊更に気をもんでみることもなかった。
「夏までには、って本人も言ったたんだがね、とりあえず別居のかたちをとるから来週帰って来るって。晃ちゃんもちいさいときに会ったこともあるだろ、なに、これまで三人家族だったのが四人になるだけさ。働き手も増えるってわけだしね。気むずかしいやつでもないし、反対に能天気すぎて、むこうに愛想つかされたんだよ、、、」
そんな三好の言葉はどこか自分が叱咤されているふうにも聞こえたのだが、気のまわし過ぎは神経にさわると、ここに来てから若葉のように勢いを増した、自然主義的な感性で素直に受けとった。
「母親の叔母の娘だから、どれくらいの血縁になるのだろう、、、叔母と云っても母と姉妹ほどの年齢差で、しかも娘の比呂美さんもまだ二十代半ばだし、なんて呼べばいいのか、、、お姉さんでは、慣れ慣れしいかも、お嬢さんなんていうと、また古風だとからかわれる、それに何より出戻りだし、、、」
そんな一見気配りにも似た、照れ隠しをまとった詮索がどこかむず痒くしかも薄ら寒いのは、逆さにしてみれば隠れみのがすっぽりとれてしまった裸の虫みたいに、ただ自己の居場所を再確認することでしかないと晃一は勘づいてしまったのだが、つまらない直感など毎日の日課でもある単調なほうきで掃いて捨てればいいのだと、些事に拘泥する不甲斐なさへ向き合う代わりに、ひたすら比呂美との再会の日を指折り待ったのである。
よく晴れわたったその日、午後の陽光はこれから描きだされる、ひと夏のストーリーの序曲の伴奏を求めるソリストの高慢のように、近辺を容赦なく照りつけた。
まばゆくひかる海面も、蒼天の色合いに呼応して深みをつのらせる山嶺も、このまち特有の瓦葺きの家々も、そんな鋭くなった陽射しに制圧されたのか、或いはこれから激しくなる熱射に順化するためのあきらめなのか、、、
晃一のこころは、少なくともそういった季節の擬人からは一歩だけだけ抜け出ていると自負していたけれど、次なる一歩がまわれ右をして、下手をすれば自然現象の裡に飲みこまれてしまう予兆を感じていた。
彼は決して自然を愛しているのではなかった、自然のなかでそれを超克してみたかったのであった、、、
[44] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年4 名前:コレクター 投稿日:2009年04月20日 (月) 03時53分
奥手と云えばそうであった、しかし富江が最初の女体であったのではない。彼女と知りあったのはほんの一ヶ月まえ、まったくの偶然による、しかも指向する自然を背景とした晃一に相応しい出会いであった。
生まれて初めておんなの素肌に張りつめた情をもって触れたのは、このまちに来てから日数も浅い、空気が心地よい湿り気に侵されはじめ、新鮮な陽射しが辺りを乾燥させようと懸命に蒼穹の彩度を高めていった初夏の頃だった。
引っ越しの準備から始まった、晃一のまさに青春の旅立ちは、慌ただしさのうちにもどこか醒めた時間が通り過ぎてゆき、薄い膜をへだてた非現実感が溶けこみ、さまよっていた。
親友とまで呼べるほどの友達はいなにしろ、近所には幼い時分よりの学友も住んでいるし、先日の女子生徒ふたりにだって、いつでもたぐり寄せられる想い出以上の心持ちがたなびいているから、、、
二年生の冬休みまえ、晃一は彼女らから続け様に告白を受けた。最初に今井まみから淡く飾り気のない純情をうちあけられ、その素朴な軽やかさに乗りきれず返事をためらっていたところ、今度は彼女と仲よしの本間梨花子から未熟な媚態を漂わした表情で明るい好意を告げられたのである。
「わたし、まえからだったんだ、、、まみはまみの気持ちよ、ともだちだからって変に思うかもしれないけど、まみも承認ずみなの、わたしの番はわたしの番、きらいだったら、はっきりとそういってほしいの、、、」
梨花子の足首は交差され、ねじれた豊満なからだつきは誇張された内心をいくらか物語っているようで、その実自分の意向をたしかに伝えていて、そのとき晃一は別なひるみにより上気してしまい、相手がすでに自分の胸に身を寄せているのを呆然としたまま気力のない腕で受けとめてしまったのだった。
そのあと、くちびるがどちらからともなく近づくと、薄目に閉じられてゆく、しかし突き刺すように見つめる瞳のひかりがにじんでいるのが星の瞬きに似たうつくしさにも感じて、白い歯を覗かせているくちもとに触れたとき、これがキスなんだと思いながらも、お互いの歯が乾いたおとを立てていることに気が集中してしまったのである。
ややあってふたりが距離をつくったとき、切りそろえられた梨花子の前髪は、反対に謀反を起こしたかの険しく頬にかかった乱れ髪をいさめているように、清く可憐に晃一の瞳へと映った。
その夜更け、晃一は梨花子を想ってほとばしるものをひとり空に放った。
夢想は未来へと拡張してゆき、我が身の置きどころは現世には見当たらないと云った倒錯した理念が放埒にあふれだしのはこの頃であり、晃一は天啓にうたれたように、非社会人であることに来るべき将来を託した。
前歯はと云えば、それからもふたりきりになる度に数回ぎこちなくぶつかりあって、舌さきが異質な生き物みたいに侵入しかけたとき、同時に胸もとの柔らかな感触が電流となって股間まで伝わり、晃一の根もとを奮い立たせた。けれども、それよりむこうへの侵攻は行なわれなかった。
ふたたび欲情が突き抜けたのは、年があらたまった寒空の下、学校の近くの細道に見知らぬ生徒と腕組みで歩いている梨花子のひかえめな顔つきを遠目から見いだしたときである。晃一はそれから幾日かのあいだ悲しみを胸にとどめ、根もとからのくみ出し作業を儀式とすることに朝晩没頭した。
その甲斐もあってか、いまでもふたりの女生徒はこころの友を上手に演じてくれたのだと信じている。
彼女らを含んだ数少ない交友への惜別も淡々とこなし、それからは母の提案した道行きをとにかく試してみるだけだったけれど、果たして本当にこれが自分の選択した方途であったのか疑問がないわけでもなく、しかし、いきなりホームレスになるような非社会性に憧憬は抱くことも出来ない、とすれば家族の愛情を一身に背負ったつもりでの譲歩こそが、やはり最良の道に違いない、、、
新幹線のりばで両親との別れ際にも感傷へひたることなく、このまちに到着し、三好の家のひとたちに挨拶をすませたその夜、ひとり寝のしているこの畳部屋がこれから自分の住処になるのだと、言い聞かせてみたときにやっとせつない気分でいっぱいになり、なみだがこぼれて出してくるのだった。
窓のそと、せまい道路をはさんですぐにさきにひろがる海の香りが、自分の甘酸っぱい精神を讃えてくれているようで、この素晴らしい孤独感こそ、無難に人生を渡ってきたであろう父には味わえない質だと云う誇りをかみしめながら、聞こえるか聞こえないか、潮騒へと耳を澄ましてみるのもけれんみあり気かな、などと意識しているうちに晃一は心地よい眠りへとおちていった。
[43] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年3 名前:コレクター 投稿日:2009年04月13日 (月) 22時30分
あのとき晃一は、母が並々ならぬ野心家の一面に近いものを覗き見たに違いないだろうと推察してみた。
翌日、今度は父から、「これで結着にしよう、意志は固いんだな」と問われるままに、
「うん、かわりはないよ、とりあえずあのまちに一度行ってくる、二三日で戻るからさ、心配しないで。交通費なんかも、いままでの貯金はたいて工面したからだいじょうぶ、って言ってもほとんどお年玉を貯めておいたやつだけどね。でもけっこうあるんだよ」
と悠然とした口吻でこたえるのだった。
卒業式を終えた数日後、父が不在だった夜半、晃一は母からある提案を持ち出された。
それはすでに決定された息子のこれからを願う、親の情の切実なあらわれに思われた。話しの切り口に入るまえにはわずかに顔を曇らしたのだったが、夢と理想とを手中に収めてしまった晃一には、過敏な反応以上のなにものでもなく、ましてや母が語りはじめた提案は、巧みに弱点を刺激しながらもけっして懐柔へと通じ得ない、鮮明な展望がひらかれていたからである。
「どう、いきなり見ず知らずの人間のなかに分け入っていくよりかは、かあさんの言うようにとりあえずは、三好さんところへ身を落ち着けてから、あわてることもないでしょう、、、ねえ、そんなに急いでどこへ行くのよ。自分さがしするのだって、ゆっくり時間をかけたってかまわないでしょう」
母が言うには、自分の叔母が嫁いださきが海辺でおもに釣り客を相手とした民宿を営んでいる、以前、親類の法事で帰省した折に、その叔母から最近は若い人材が不足していて、しかも宿の仕事は単調なうえにけっこう労働力も要求させるので、なかなか人が根づかないとこぼしていたことを思いかえし、昨日電話でその後の情況をうかがいがてら、こちらの内情を打ちあけてみたところ、それだったら是非とも三好の家に身を寄せてみればどうかと話しが発展したのであった。
まえには父から鋭い指摘でもって、親戚縁者にすがる可能性を糾弾されたような一幕もあり、晃一にしてみれば、母の発案を鵜呑みにしてしたがってしまう自分がもどかしかった。しかし、そんな息子の胸中をあらかじめ察していたかのように少し声色を甘くなびかせ、余情を伝えることが本命でもあるみたいにしてこう言った、
「話したことあったかしら、あそこの息子さんは家業を引きつぐ気なんかさらさらなくて、あんたと一緒で勉強できたから、医者になるって医大まで入ったのはいいんだけど、そのあと挫折したのか、いきなり北海道の牧場に住みついちゃって、いまではむこうで結婚して、滅多に家に帰ってこないっていうの。
それから次女のほうもねえ、静岡へ嫁にいってたんだけど、どうも夫婦仲がそぐわなかったみたいで、子供が出来てないのを幸いに近々戻ってくるかも知れないって言ってね、ああ、あんた知ってる、そうか、比呂美さんは結婚式のあと、一度うちに挨拶に来てくれたから。たしか前の日にきれいな娘さんが明日来るよっていったらあんた、もじもじしてたもんね。
それで晃一のことを相談してみたら、腰かけでもかり宿の気持ちでもいいから、とにかくいっぺん寄ってみたらって言ってくれて、居心地が窮屈だったり、ほかに落ちつきさきが出来たときには、気兼ねはいらないからって。どう三好さんとこだったら、かあさんも安心だし、あんたと一緒に最初のあいだ暮らすことも止めにしてもいいと思うの」
母の言葉が途切れるやいなや、晃一のこころはそよいだ。そして心音が次第に脈打つのを覚えながら、言い様のない不安と希望が静かに足もとまで忍びよっているのを、他人ごとのように認めてしまっている己を嫌悪した。
あの日、父が三好家を訪ねていたなんて、、、母の確信に満ちたあの甘い物言いはその日のうちに、父からの通達によって希望をみなぎらせたシナリオだったのだ。
なるほど、それで自分のなかの気持ちがどこかしっくりいかないのを、後々まで抱き続けるようになったのか、、、いったい、どこまで根回しされているんだろう、いくら心配だからといってそんなにお膳立てしてもらわなくたってかまわない、、、
一年前の両親らがとった情愛にあふれた画策に気がついた夜、晃一は白日夢が育んだ愛憎に包みこまれていることを知るよしもなかった。
[42] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年2 名前:コレクター 投稿日:2009年04月13日 (月) 22時00分
出来る限り必要以上の機器を身のまわりに備えることを晃一は避けようと誓った。
車とパソコンはあえて持たないことで、行動範囲は限定されるが流浪する自由人のロマンはふくやかなもとなり、安易にたぐり寄せられる情報の閉鎖はかえって未知なる時間への旅立ちを促して、常に探索にむかう姿勢を更新する。
交通の便は一台の自転車を購入することで十分にはかられた。街乗り用より少しばかり性能のすぐれたその真紅のボディの彩りは、颯爽とした走行感をあたえてくれた。
もし車を所有してしまえば、きっと市街はむろん県境を軽く越え、大阪や京都といった都市にまで足をのばしていく可能性が危惧される、それでは、自然に親しみ、簡素な生活スタイルを貫く意味あいが希薄になってしまうだろう。どうしても遠出に迫られたときには、鉄道を利用すればこと足りるではないか、、、いまのところ、ここでの生活には仕事においても運転免許証を取得する必要が生じていなかった。
たったひとつの利便性は、しぶしぶ母に約束させられた携帯電話の所持であった。
「これだけは持っていって、高校でも携帯使ってないのは晃一だけだったでしょ。遠くに行っていまうんだもの、せめていつでも連絡はとれるようにしていて。あんたの望み通り好き勝手でいいと言ってるんだから、、、」
その言葉には哀願以上の強迫じみた説得力があり、晃一は従わざるを得なかったのである。
憶えば携帯を好んで使用しないのは父も同様だった。学者気質そのものの父は自分が打ちこんでいる学究生活を些細なことで乱されるのを極端に嫌った。きっとどこかそんな親からの性格を受けついでいるのだろうと云う実感は、晃一の矜持を裏側からささえていた。
「この携帯電話もいまでは、日常のなかで手放せないものになっている、、、」
けっしてふくよかではないけれど、表面に適度な張りがあって内部からの芯には手ごたえが返ってくる乳房を右の手のひらでもみながら、そのちょうど直線先にあるテレビ台のしたへ無造作に置かれた自分の携帯をぼんやり見遣り、そんな感慨がよぎっていくのだった。
その日、晃一はつきあいだしてから初めて、富江と並んで写真を撮った。
お互い裸体をさらけだすまえの、柔らかなくちづけをしただけの、そうして上背のある晃一が逆にしたからにらみ返される視線によって言いだそうとした言葉がさえぎられた直後、富江のくちから、
「ねえ、ふたりのとこ撮ろうよ、なにためらってるの。誰にも送信したりしないわよ。なんなら磯野くんので写して」
いかにも年上だからといわんばかりのきびきびした声色が発せられた。
木下富江は二十一歳、晃一からしてみれば、まぶしい存在であった。
父が一年前の夏、晃一に内緒でひとりこのまちに帰省していたのを知ったのは、つい最近のことである。
仕事がら特別講師として他の都市や地方の大学におもむくことも多く、あの夏の日もそんな出張なのだと別段気にもとめていなかった。
晃一の決断にゆるぎはなく、どうあっても信念を曲げさせることが無理だと両親に知らしめたのは、ある工作を弄することによって、自ら断崖絶壁から投じる模倣を演じてみせた結果であった。
いよいよ、卒業もさしせまった頃のある昼下がり、なんの前ぶれもなくふたりの同級生だという女子生徒を自宅に呼び寄せ、晃一は母に真顔でこう説明した。
「こちらは今井さんと本間さん、同じクラスなんだけど、実はね、卒業後のこと話しあってたら、ぼくの考えに共感してくれて、もし、あまり遠くない田舎に行くのならどちらかが交替で、いろいろ面倒みてくれるっていうんだ。泊まりがけでもかまわなって。なんかぼくうれしくなっちゃって、それって告白の一種なのかなって、でもふたりから同時、いや共同ってどうかなと思って、かあさん的にはどうなの」
母は薮から棒の息子の言葉に一瞬、我を忘れた顔つきになったが、普段より知る晃一の言動にしては、その無謀さに異質のものを感じとり、きつく結んだくちもとのまま珍妙な意見を求めた本人に向けるべき目線を、より強くふたりの女子生徒に投げかけた。
すると思惑は見事に適中し、ふたりは一気にしおれる草花のように目をあわせることを怯えてうつむいてしまったのである。それからゆっくりと息子の顔色をうかがってみれば、そこには軽くひきつりながらも敗北を認めようとはしない、高慢な薄笑いが塗りこまれているのであった。
[41] 題名:まんだら 第二篇〜月と少年1 名前:コレクター 投稿日:2009年04月13日 (月) 17時52分
夏の終わりのひかりが遠い彼方にかがやいている。九月の末に吹きぬけてゆく風は、時折思い出したかの気分をふくみながら二階の窓から部屋のなかに訪れた。
両端に束ねられた淡い水色のカーテンから解放されたと云うふうにして、白いレースの透かし模様はやわらかに羽ばたくようにして舞いあがり、晴れわたった秋空の青さを一層あざやかに描きだしてから、重力に静かな抵抗をみせながら、裸になった少年の瑞々しい背中のはしを、そっと撫でていった。
「もういったの、、、」
抑揚のない喉がかすれ気味になった低い声は、しかし意味を孕むことにより、限りない透明度をもった艶やかな水質に似た肌触りを晃一にもたらした。
たったいま首筋から肩先へと流れおちたくちびるは、女体との清冽なふれあいの余韻を噛みしめる間もなく微風に呼応してしまい、
「ああ、いった、、、」
と、如何にもけだるさを漂わして答えたのが、やはり気恥ずかしさからくる演出であることを反響音としてとらえたあとで、晃一は背中から脇腹にかけ奇妙な感触を覚えるのだった。
「いいのよ、そのままじっとしていて。こうしているのが好きなの、、、」
今日は安全日だからと言った相手に、いつもより親愛をつのらせたのも流れゆく発露まま、あふれだす精気は体内深く注がれたけれど、その生命の種子は育みをかなえられなかった代わりに、ふたりの間に目には見えない絆を誕生させた。晃一にはそう思われた。
「わたしも感じたわ、日に日に上手くなってくわね」
「、、、、、、そうかなあ、じゃあ、あとでもう一度、、、」
素っ裸同士の快楽と軋みは、ベッドのシーツを乱し、そのしわが作りだした隙間に、徐々に激しくなる息使いに連動する肉体から、まだまだ肌寒さを覚えるには早い気候に忠実であるように、きらきらと汗がしたたりおちて吸収されていった。
ふたりを包みこみながら通っていった風は、ことが果てたあとに新たな快感をあたえていったようで、からだをふるわす悦びとは種類の違う、解放的な清涼感であった。
では、肉感は解放をもたらしはしないのだろうか、、、
こうやって日をあけず、相手のくちびるを吸っては裸をまさぐりあうことは、強烈な密接を生みだすことなり、かつて知り得なかった緊縛を晃一に授けていった。
それは志願兵の心意気に近い不自由への讃歌であり、規律への逃走であった、、、愛欲という名の監獄へひた走る為に、、、唯一異なるのは、勝利を治めることに目標を定めない、無謀な計画による光画だと云うことだった。
磯野晃一はこの夏で十九歳になった。
両親の反対を緩和させ妥協案をのみ、自分の望むままに東京を離れこのまちにやってこれたのは、ある意味奇跡のようでもあった。あの夕暮れどきに起こった家族間の葛藤劇は、血のつながりをあらためて確認しあう、ひりひりした面映い慰撫を日常会話のなかへ染みこませていったのである。
高校最後の一年に軋轢がふたたび生じなかったかと云えば、そうでもない。
父よりは母からやはり、もう一度よく考えなおしてみるよう再三さとされ、
「都会の生活から逃れたいのなら、試しに近郊の山村とか漁村へアルバイトしながら暮らしてみればどうなの。あんたは東京で生まれ育ったからわからないでしょうけど、この国の田舎なんてどこでも同じようなものよ。山々があって川が流れて田んぼや畑がひろがっていて、背の高い建物はない代わりに、似た民家が立ち並んで、しんみりとした道路のむこうに海が見えるの。
ねえ晃一、お願いだから自然とふれあいたいとか思うのだっら、一度近場で体験してみて、そこから腰をすえて見つめても決して遠回りではないと思うのよ」
腰をすえて、と云う言い方は晃一には技巧が隠されているようにしか聞こえなかった。
結局、母は距離感によって阻まれる意思の疎通を怖れ、、、なにより手の届かないところで見舞われる不運や、あらぬ転落を憂慮し、見張りのきく範疇に留め置くことで負の要因をあらかじめ最小限に抑えこもうと企んでいるのだ、、、あのとき、かあさんも最初の期間を同居するとか言ったけど、東京からあのまちまではやはり遠い、近くに住まわして常に監視するのが実は最後の譲歩に違いない、、、
そんな母の言い分を引っこめる為、晃一に残された手段は追いつめられた獲物が牙をむく、決死の賭けを試みるしかないと思いなされたのであった。
[40] 題名:まんだら35 名前:コレクター 投稿日:2009年04月09日 (木) 07時03分
短い嵐が去ったあと、富江は目を閉じたまま言葉を置き忘れたかの面持ちで静かに呼吸していた。
しばらくしておとこが席に戻ってからも、この姿態がもっとも的確な距離感を保てると思いなし、お互いのかかわりはそうやって見知らぬ他人へと還ってゆくのが本来だと願われたのである。
夏草のうえを軽やかに吹き抜けるそよ風のような寝息は、富江してみれば殊更あらぬ感情をなだめすかしているわけでもなかった、相手もまた同様にそよ風にのって忘却の彼方へはこばれていくのが純粋な戯れなのだから、、、
まだまだ太陽は盛りであることを忘れようとはしない、申し分なく照りつけられたホームのコンクリートが白銀にかがやいて映った。
別れしな富江が「姉が迎えにきていると思います」それが最後のことの葉だと想いをこめて解き放つようにして言うと、孝博は「そうですか、ありがとう、それでは、、、」口ごもったでそう返答したのが、停車した列車のエンジン音に圧搾された低いうなり声にも似て聞こえた。
孝博にくるりを背をむけ、改札を小走りに抜けていった富江のこころは、衣が一枚はがれおちた身の軽さでいま、帰省したと云う実感のさなかにあって、左側に見なれた白い車を背にした姉とその息子の微笑みがひときわ陽光にきらめいて、まぶしさをもたらすのだった。
富江は「ただいま」と言いかけて、ふと、右のうしろの方から何か黒い人影がよぎっていくのを覚え、一瞬、時計の針が止まるあの不吉な刺を感じとり、それが、車両に残してきたあの淫らな余韻であることに向けられそうになったのだったが、黒い影は実際にはこの目には映らずに、かすかに耳をこだまする水滴のごとく、しかし一滴一滴は、確実に言葉の一音一音につらなる語感を鮮明に反響させ、こうささやかれたのであった。
「・・・よるのみずはつめたい・・・」
はっと振り向いたとき、目に見えないその声の主がそこにいたことを裏づける気配となって、薄気味の悪い笑みだけが仮面のように剥ぎとられ地面にころがっている既視現象が、閃光の速度で富江の網膜に飛び込んできた。
もう随分とまえから、それが夢のなかであるのか、何かの物思いの最中に降ってわいて出たのか、記憶の原野をかき分けてみても、意識の留め金を確認してみても、まるで常に先々で蒸発してかき消えてしまう逃げ水のように、定めきれない地下の洞窟へと底深くつながっている畏れは、この夏空にいだかれた盤石の太陽が教える永遠とまったく同じく、手応えのないままひたすらに圧倒する。
そんな押し寄せてくる巨大な、けれども、暗すぎて不明瞭な、明るすぎて不澄明な、限りのなさは針の穴よりもっともっと極微な世界へ通じているようにも予感され、その針穴がわずかに動く刹那を時間と呼べるのなら、富江にささやきを残していった人影こそ、恩恵を施しつづけていると解釈してやまない日輪がかかえる灼熱の地獄を、生けとし生きるものにしらしめる天使であり、黒点に歓びと安息を求める死の住人であり、そして時を超えて降りてきた自分自身のひとがただったのであろう。
手を振りこちらに満面の笑顔を送る姉らに応えるため、口角をあげ両頬へと笑みをつくりだしかけた、ほんの一秒にも充たない間に幻影はまぎれこんだ。
高校の頃クラスメートのひとりが白血病と診断されてから、たいして日数を経ないで死んでしまったことが、予兆の付録みたいに、それにしては生々しいはずの死が、薄っぺらい紙切れに書かれた名前のようによみがえり、微笑みのうしろ側へと仕舞われるのだった。
まんだら 第一篇〜記憶のまちへ
終