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[26] 題名:まんだら22 名前:コレクター 投稿日:2009年03月09日 (月) 16時54分

特急列車の走行音と振動は懐かしさをひかえめに哀願しているようにも思えた。
所用に手間取ってしまい駆け込みに近い勢いで乗車してから指定の席を見つけ、このまま乗り換えなしで到着する町までしばらくのくつろぎが約束されている気がして、目を閉じあたまのなかを空白にしてうたた寝におちてくれればよいと安逸をきめこんだのだったが、さきほど窓側の先客に自分の鞄を網棚に上げるために会釈した際、まだ少女の面影を残しているその横顔へ目線がたどっていった軌跡を思い出したように数回反芻したのは、そして疑問符として脳裏をよぎったのは、やはりその女性の年格好が日頃から接している生徒を連想させたのかも知れないなどと他愛もない所感に帰着して、居住まいをくずしながら無心に戻ろうと肩のちからを抜いてみても、不快さをともなわない強迫めいた好奇心みたいなものが、泡のように現れては消えるのはどこかむずかゆくて、ついには思いたったとふうにして両目を開いてかぶりを隣に向けたのだった。
見れば、髪の毛をうしろに束ねたちいさな顔全体はまだいたいけなさを物語るのだが、その主役であるつぶらな瞳は遠くまで澄んでいて、伏し目で本読みをしている視線をはつらつと見送っている睫毛も初々しく、頬には軽い火照りがあるようにも思え、それが上気によるものなのか、それともこうして見つめられていることを察知しての恥じらいのせいかもなのかと、我ながら飛躍しすぎた思いも小気味よいほどに、少女の色香はすみれの如く鮮やかにして凛とした表情を形作ろうとしていた。
まだ成熟しきらない、つぼみがほころびる寸前のやわらかな肌触りの連鎖は優しく結ばれた口もとへも色染めされるように配色され、けっして化粧に頼ることなく乳白色にたたえられる素肌のはりは水をはじいてしまいそうで、ただうっすらと朱をはいたかの火照りがみせるためらいに似た憂いのなかにひそむ情熱が、来るべき開花への健気な恐れであったとするなら、おそらく色艶はこころの裡に宿されているのだろう。
磯野孝博はまなざしの向うに、真横に座る少女の面を透き通して、日々教鞭をとる己のすがたとその目に映る生徒らのすがたを表出させた。学問を説く立場には前提としてきわめて厳粛な空間が要求されるものだが、彼の授業は幾分か脱力したなまぬるさを意識的に醸しだしており、それは緊迫した空気を打ち破るというほどに明確なものでなく、結局のところ孝博自身の性分によるところであった。
中国語専門と云うこともあり、学生らそれぞれは後々に社会に出て実践として活用する意義を十分に認めていて、授業内容に関しては常に貪欲な姿勢で臨んでいる。つまり生徒にとって語学を習得することは確信的な研鑽なのであって、ひとりひとりが真剣にとりこんでいるのは当然向学心の発露だった。
すると教授としての位置からのアプローチは気楽であると同時に手抜きのない熱情を保ち続けなければならないのだが、火花散るような緊張した場面を孝博は好まなかった、いや、ほとばしる熱意があらかじめ先にある以上、それは荒馬を乗りこなすと云った手腕とは違った様相、荒波から距離をおいて見遣る傍観者であることを許される特権が与えられることにより、学徒の間に緩和した空気を送りこむ資格を得た。
単身赴任の身であるため、生徒と夕食をともにする機会が自然な流れとして運ばれていったのも孝博の欲するままであったに違いない、しかし、教壇から酒席へと場が移ろうが自分が受け持つ学生であることは変わりなく、異相はまるで風車のように軽やかにまわって見せるだけであって、それは酔いが手伝ったとしてみたところで根本的には延長線の上に流れていった。
「あの、どうかしましたか?」まのあたりにした少女をすり抜け、彷彿の彼方まで意識がめぐってしまってしまい、対象の実在をも一瞬忘れてしまったのか、ちいさな声でそう問われてようやく孝博は我にかえった。
「あ、いえ、どうもしません、、、」あわてている様子が自分でもひとごとみたいに思われたのだが、少女のこわばりながらゆっくりとまばたきするうちの黒目にはじめて生々しい接近を覚えると、苦笑してみせるしかないのだった。
「すいません、ちょっと物思いしてたようです、失礼しました」
すると少女の双眸に宿っていた不審が、こともなく氷解したのか、それとも拍子抜けしたのか、みるみるうちに表情が明るくなって上気を取り戻したようで、それは不本意な恥じらいにも思われたが、しかし相手の失態や逸脱にこちらがかえって萎縮しまうことが時折あったことも思い出して、羞恥のいじらしさで香る面貌に対し慈しみに似た感情が生まれたのであった。


[25] 題名:まんだら21 名前:コレクター 投稿日:2009年03月09日 (月) 02時07分

墓所がもし貯蔵所であったら、、、暗色にひろがる荒涼とした無限に約束された眠りの遺骨は屍であると同時に、春爛漫の躍動に満ちあふれた大いなる沈める帝国であるかもしれない、、、わたしと云う絶対君主を戴き、風となって野山を駆けぬけ、山稜に飛びあがって白雲をかすめとって大地へ降臨し、ビルの谷間をいともたやすく縫い、空中どこまでも羽ばたき、民家のすべてを俯瞰して、河川はもちろん大海ひろく遊泳しながら陶然として深海底までおちてゆき、再びひかりのない世界に抱かれながら眠る。
カラスたちのすがたを見失ったとき、富江は夢から解放されたと思われたのだったが、それは皮膜をめくって裏返しにしてみただけのこと、すると今度は秘めらていた臓腑がとびだしこぼれだしてくるように、わたしと云う現象からは超えて出ることはなく一層と我の引力にたぐり寄せられ、思いもよらないすき間から自分自身の眼球を見つめることになり、さればこれはあらかじめ予期されていた不吉な死角になった。
三途の川に例えられる、意識を超脱したなかでの限りない夢幻の境地、幽光だけを頼りに解放される閉じられた久遠、闇があたりを絶対的に支配しながらも、それが冥暗からの使者であるのか、月の海がかつて蒼海であったと云うまことしやかな夢想がつのった果てに、あたかも地上に降りてくる天女を顕現させる奇蹟が、すぐそこに手がとどきそうなくらいのところに見いだされた。
月あかりは川の水面に照り返しながら夜の暗色に溶けこみ、ところどころにきらめきを捧げるよう、天上から落ちたたましいと生るべく水の精へと変容してゆく。川水はときおり生命を水上へと跳舞させるのだったが、富江にはそれがついこの間までの記憶のなかにあった、この河口にかかる橋のうえから釣り糸をたらしている子供らのすがたを喚起するとともに、ちいさな水しぶきをもたらすボラの遊泳へと導かれてゆき、その光景を鳥瞰するのでなくこうしてほぼ水平の視線で見遣っていることにえも言われぬ感銘を覚えるのだった。
そして富江は眠たげなまばたきが消えかかる裡に、夜のいのちの戯れを焼きつけたのである。それからどのくらい時は過ぎたのだろう、流れに逆らうようにして跳びはねる魚の数が次第に増してくるのを知ると、川面に点描される銀のしぶきがいきおい自分のほうに向かって押しよせてくる錯覚となったが、しかしそれは危険が身に逼迫しながらも、まだ他人ごとのように、絵空ごとように事態を回避させる余地を持つ様にも似て、決して浮き足だつことなく銀幕から目をそらさないままのまなざしを保ち続けていた。
高速で何かが飛びこんでくる際の、まったく時間が省略された不意打ちをくらわされる唐突の悲喜劇、瞬時にして凍結される、あるいは解凍される無表情な天使の来訪、日々の亀裂、薮から棒、、、気がついてみれば富江の口中には一匹のボラがものの見事な跳躍をもって身を挺しており、左右にくねらす魚特有のくねりがのどの奥まで届くようにして伝わると、あまりのことに現状の把握もならず、しかも呼吸がせきとめられたのを感じるまで猶予があるほどに驚き自体をも忘却してしまって、ややあって目の前に猛然と迫った影を想起するのだった。
ままならない気息が徐々に生命を脅かしはじめたものの、鼻からの吸気がかろうじて事態の安全を確保した富江は涙目になりながら意識がまた薄れかけたのだが、この意表をつかれた生物の闖入におののきは無論のこととして感じつつも、ふたたび闇に抱かれようとした逃避行の道なりには二日前の飛び散った記憶が蒔絵のように浮き世ばなれした様相で思いだされた。
それは帰省のため名古屋駅から乗り込んだ列車のなかで体験しためくるめく肉感であった。発車間際にようよう座席にたどりついた風情で隣に座った中年男から、尋ねられるままに行き先など話しているうちに会話が弾みだし、富江が学校で専攻している服飾にかかわる歴史的変遷や色使いがもたらす感覚への刺激といった専門分野にかねてより関心のある口ぶりをしめした男の、知的な雰囲気や親しみを投げかける目元にすっかり打ちとけて柔らかな木綿に触れているようで心地よく思われた。
そして彼もまた富江と同じ町に向かうことを聞くに及んで増々興味がつのりはじめ、見知らぬ他人には違いないけど何か共通項を持ち合せているようで、帰省と云うありふれた道行きが車窓から差しこむ夏のまばゆい光線に不思議と感応するのか、今は旅情に似た漂白する心持ちがすこしあふれだしたのであった。


[23] 題名:まんだら20 名前:コレクター 投稿日:2009年03月05日 (木) 14時32分

陽光がまぶたのうらに赤く染みこんだかの記憶は茫洋としたままに、しかし追想される、きれぎれなひとこまのなかに於いてひび割れのように引かれた、あるいは二枚貝がわずかに海水をあらためて含みいれる様相で、富江は薄目をかすかに開き月あかりの有為転変を眼睛に知らしめたのだった。
「まだわたし、生きている」と水温に体熱をうばわれ、風船のようにからだから浮遊した意識のなかに点滅はじめたのは嬰児のちいさな鼓動にも似た、いのちの実質に違いなかったと富江は思った。
町中の河口と云うこともあり淡水と海水、それに生活排水が入り混じったものを多少飲みこんでしまい、胃洗浄やら感染症の検査やらを含め、消耗した体力から微熱が遠のいていくまでまる三日間入院したあと、平癒を待って自宅保養に落ちついたのだったが、みなぎる若さを包みこむ身にしてみれば、ほとんど回復した状態であって、ただ精神的な動揺が尾びれをひいており、それは水のなかに未だひたされ、ただよう気分を振りはらわれない、まとわりつく悪夢の残響から逃れられない過去形として富江のこころに巣くっていた。
交通事故や感冒が、べつだん悪形をもって我が身に降りかかってくるとは信じていないように、河口への転落もふとした失態以上のなにものでもない、ところが家族やまわりは親身に九死に一生だったと口を揃えるふうに富江の胸中を忖度しながらも、その実不幸な事件であったことを執拗にくり返し唱えているようで、それは憂慮の裡にひそむ、話柄をこと欠くことに失意をおぼえる、あの軽やかな逃げ足をもつ薄っぺらい悪意にも思えるのだった。と云うのも、友人知人のなかには心配顔はそのままで、そのくせ「ほんと、かっこわるいわね、しかもよりにもよってまつりの日に」などとあからさまに、富江をまるで非難しながら失笑しているかの言い様をしめしたり、「先輩がさ、東京で雑誌記者になって今度記事を書かせてもらえるらしいから、試しにどうかな」と云った嘲弄を含んだものまで、聞き流してしまうわけにはいかない波紋も生じて、そんな嫌味な反応と対峙しなければならなかった。
実際にも地元新聞の片隅であったが掲載されたこともあり、富江の心中は錯綜とした森のなかに迷いこんでしまったのである。
元来ものおじしない性格だったけれど、今回のことで本来ならば過失と云うべき事故がなにか異色の出来事みたいに語られてゆき、自身はその辺で転んだとき同様ばつの悪さこそ覚えるものの、皆が大げさに騒ぎたてるほどのことではないと確信していたのだったが、まるで子供じみたいじめに近い無邪気でありながらも、本質的には邪気に尖った刃を向けられているようで、それは富江本人が中学のころ、弱いものいじめと呼んでもよいふるまいのあげく今度は上級生から、呼び出しを受け取り囲まれた折の恐怖心があわせ鏡になって脳裏にわだかまり、後悔の念と侮蔑の感情がひとを介して往還している、なんとも居たたまれない心持ちになってしまい、終いには懺悔の海に飛びこんでしまいたくなってそんな自分をよくよく顧みたときには、やはり転落したのも一種の天罰かなどと柄にもなく落ちこんでしまうのであった。
そうなると最初は血相を変えて病室で富江を見守っていた両親や姉の、今はいかにもほとぼりが冷めた安心のうちから発せられている他愛もない言葉と口調に、どこか自分を叱責している響きが感じられ息苦しくなってきた。
そして寝つけない夜のまくらもとからは、耳をすますと幽かに川の流れが聞こえだし、天井に張りついたかの豆電球の赤みをおびた黄色いあかりが、あの川中より見上げた月のすがたを想起させ、闇は部屋に忍びより黒い生き物と化して呼気をもらしはじめるのだった。
静かに沈んでゆく眠りにおちてゆくころには、すでに富江はゆめとうつつの境にあってあいまいな知覚と想念が溶けだすと、一定のすがたかたちをとりつつも次の瞬間には時間も停止し、それはあたかも樹氷のごとく細やかで、つかみとろうとした途端にもろく消えさってしまう、はかない光景の明滅となって夜露にぬれるのであった。
そして気がついてみれば、そこは記憶の墓所なのだろうか、頭上を旋回するカラスの群れに誘われて天に舞い、更なる浮標へと導かれたとき、川のなかに落下したその後の失われた意識がおぼろげながらもよみがえってきたのである。


[22] 題名:まんだら19 名前:コレクター 投稿日:2009年03月05日 (木) 14時31分

久道は遠慮勝ちな態度が現すままの挙動で夢の演劇の筋書きに従った。そして悪夢の途中で、もうひとりの意思が語り聞かせている入れ子の情況もそれとなく察知することが出来た、あの、お決まりの言葉になっていないが確信に近い、「これは夢なんだ」と云うナレーションを。
女はまだ若そうだった、少なくとも久道よりも年下に映った、そう覚えるのが何かの符牒となって、あるいは己の所感がまだ交えぬ肉体をはさんで、これからはじまる尋常ではない性戯をまえに、克己心を奮い立たせて欲情を放擲するのとはまるで正反対に進んでいく為にも、せめて肉欲にまつわる栄養素を抽出しようと、果実の皮に指先を入れる感触で味覚を先取りし、焼きあがろうと火がなかほどまで通った牛肉がしたたりおとす肉汁を食前酒に見立てて、恐怖を快楽に、不安を充足に、そして絶望を欲望に転化させようとした。
しとねにそそがれる家族らの視線はきわめて沈着であった、まるですがたかたちを消し去る思いで、これから実行に移される重要な実験に立ち会ったものだけが味わう苦悩をかみ殺しているかのように。
もうひとりの意思は、もはや霧散したのか、それとも久道のなかにあらたに入れ子として消化されたのか、今あるのは夢見にあっても戦慄にはなにぶんかわりはなく、半身を起こし寝間着を脱ぎだした女のやはり裸のうえにみみずにように這っている墨書きが、首筋から肩を流れ、腕を伝って落ちていき、一方では乳房の豊満な起伏をなぞりながらへそのしたまで続いていく途切れのない執念の筆使いを思い知るのだった。
下着はつけてない、いよいよ経文と不可分であらわになった肉体が久道の眼前へと顕現すると、女はふたたび横になり両の脚をゆっくりとひろげ腰を少し浮かせて、尻を割り陰ったところをおしげもなく披露させた。
久道はまぶたを閉じたつもりだったが、迫りくる情欲がむこうからやってこなくて実際には自分の身が、押しかぶさる勢いで女体に突進していることを自覚したならば、その目は十分に開かれていたに違いない。
一瞬、おんなのからだの経文が生きているように、水の流れのように、動いてみえたのだったが、久道はならば動きを封じる呈で二本のふとももの裏に手をかけ持ち上げ、腹にひっつくほど開脚してうえから押さえこむ具合で固定し、まだ閉じた貝のままの盛りあがった土手のような、**をまじまじと見下ろしたしたのである。すると、おんなは肉塊に宿る心性はこちらにあるのだと言いたげな面で久道の目線をそらそうと、じっと相手の瞳のなかをのぞきこみながらそれまでの表情を一変させるのだった。
坂道を転がっていくかに思えた久道の肉欲は、止まることを知らない眼球となって食い入るごとく女陰の裂け目に落ちていく宿命だったのだが、おんなが示した薄笑いのうちに露見したくちもとの奇異な、そのお歯黒で塗りこまれた歯並びと対面するに及んで、これで紋切り型の宿命ではなくなると激しい情がこみあがってくるのを覚え、すると坂道は一気に勾配が急となり己のたどる道筋さえ失い、まるで瀑布に飲みこまれる小舟のように無抵抗なまま巨大な暗渠に落ちてゆくのだった。
それでもせめてのものと悪魔にくちづけをする高慢な小胆は、意識が消えかかる矢先にまるく膨らんだかのこんもり茂った黒草のしたにくちびるをぬめらすようにして押しあてる、、、、、、

、、、、、、わずかに潮の香りが、海藻が、野の雑草と同じように草いきれを放って夏の日を謳歌しつつ朽ち果てることを承諾しているかの香りが、つつしみ深く久道の口中にひろがる。
意識がそこのあることを知りつつ、なお、からだはここにあらず、ちょうど撮影される全景をその場以外のところで見据えているような、しかし、まったくの非在を認めるには心許ない浮遊感に似た覚醒であった。そして気構えする猶予は省かれ、久道にやってきたのは遂に探しあてた現場への胸騒ぎであり、宝くじが当たったことを一度は否定してみる当惑が、日常の実感と何も違わずにわきあがったのである。
「やっとたどり着いた」そう、ささやきが胸のなかを吹き抜けてゆくと、再びあらたな意思が夜風とともに舞い込んだのか極めて冷然としたまなざしで、川面に半身を沈めたあの浴衣姿を見いだしたのであった。久道も同様に夜の川に身をひたしているかと云えば、それはそうであるとも、そうでないとも云える、なぜなら久道の目はカメラのように遠景から近景へと自由に行き来し、少女の顔をとらえることも、あたりを時折はねては水のなかに潜るボラの遊泳もありありと目撃でき、中空にかかった妖しい月光を受けながら身もこころも溶けだして、もはや己であることが奇蹟に感じれるほどに夢は美しかったからだった。


[21] 題名:まんだら18 名前:コレクター 投稿日:2009年03月05日 (木) 14時30分

今にも通り雨が落ちてきそうな曇り空の下、山腹にまばらと立つ民家のなかでもひときわ目につく、一軒の黒塗りの門構えを前にして、封書のようなものをその屋敷に届けなければと、配達人の風情でありながらもどこか逡巡している自分を意識していた。
しばらくすると風格さえある佇まいから不意に現れた、そのいかにも普段着のような夏の軽装の、しかも一世代以上前を思わせる、そう、幼いまま一緒に収まっていた若き母との写真のうちから薫る面影に、なぜかしら恥じらいからまった驚きが生じた理由は、それもまた記憶の彼方に仕舞ったテレビドラマの一場面から焼きつけられたあの何気ないであろう感懐、家政婦かと見れば本家の若奥様そのひとであったと云う、小さな喜びが不安を求めたからであった。小池の面に照る陽を木陰から見つめるまなざしと同じように。
夢見の残像が光鮮やかな風景にもかかわらず、絶えずして薄明の印象で想起されるのはきっとそんな帳の陰からまばゆい時間をえがいているからだろう、断片図に割りふられた光として、、、
そして均衡を保つがためなのか、若奥様の立つ右うえに見える表札の野太い文字は、墨汁をたった今しみこませたくらい黒々としていて、はっきり「藤堂」と読めた。夢の世界では必ず文字は化けてでる、だが今日は違ったみたいだった。
手渡した封書の中身を確認出来るわけでもないのに、それが賞状であると感じとったのと雨が降り出してきたのが同時で、奥様は礼を言って家のなかへときびすを返してしまって、置いていかれたと云った心証を若干もってはみたけれど、拍子抜けするには感情のたかまりは強風にあおられてはない、それから傘を持ってこなかったとまどいより、そのあとどこに向かえばよかったのか考えながら、もと来た道を戻るでもなくその少し先にある家の方へ歩いてゆくと自分のことを知っているのだろうか、さながら一家総出の人々が手招きしている。
親子にじじばば、こどもらが迎えいれた家は妙に門口のせまい奥行きのある、このまま歩けば裏に出てしまいそうなくらい細長い造りをしていた。案の定、家屋を突き抜けてしまうと裏山に面する小高くなった畑からで、ランニングシャツ姿の野良仕事をしている男が何かと話しかけてくるのだった。
聞くところによると、隣の屋敷には主夫婦はとうに鬼籍に入り、あととりも去年に亡くなって後家となったくだんの若奥様がひとりとのこと、なるほど、それで自分はこころのなかに蜘蛛の巣がはったような緊張と、それとは逆に湖畔の静けさをもつ余裕のある興趣が交じりあっていたのかも知れない、それはにわか雨のさなかに辺りが日向くさくなると云うたとえにも似て、しかしそれ以上は思いを深めるのでもなく、ただ本当に雨が降ってきた事実をありがたく感じるだけであった。
こころのなかにも雨が降る、、、夢の意想は底抜けに限りないまま闇夜に抱かれ、うらはらに蒼穹へとのびあがる放恣な情念は飛行機雲のようにまっすぐに高速で駆け抜けてゆくのだが、次第にかたちを成す積乱雲を、まして大地で展開される入れ子状の活劇と心理劇のただなかにあっては、見届ける猶予などあるはずもなく、やがて落ちてくる驟雨にただうたれるままでしかない。もっともその舞台は他でもない、夢の国以外どこでもないのだが。
遠藤久道は気がつくと随分早送りされた映像の如くえらく厳粛なシークエンスに置かれていた。裏の畑が窓を通してうかがえる六畳間ほどの部屋に病臥しているのか、布団敷きの女をかこんで見守る家族らの顔、顔、顔、、、
目のまえで何が起ころうとしているのか察しがつかないうちに、久道は家のものからこの女を抱いてやってくれと、まるで宣託を戴いたかの神聖な響きを耳にして、はじめてこの夢のなかで動揺をあらわにしたようにも思われた。
有無を言わさぬ雰囲気にあって、ためらい気味に女の表情を見ていると目は宙に泳いだまま帰着する様子をなさず、さらに冷や水を浴びせられたよう身を引いてしまったのは、掛け布団をはいだ寝間着の胸元からのぞいた、恐らく全身に施されていることを疑いきれない、筆書きされた経文らしきその異様さにあった。


[20] 題名:まんだら17 名前:コレクター 投稿日:2009年03月05日 (木) 14時30分

宙に浮かびあがった感覚は抑圧される行動をなだめすかしているかの、こころもとない足どりとなって一歩一歩づつ踏み出していったのだが、ガタンと音をたてて真横に倒れこんでしまったとでもしか言い現せない空間をなぞりながら身を運ばせるわざは思ったより容易ではなく、体感的には重力に抵抗するときの奮起が要求された。
しかし筋力として負荷を直に受けているわけでもない、例えれば体操選手が十字懸垂の姿態をまざまざと見せつけるときに、自ずとこちらも手に力が入って気持ちそのものが大きくりきんでしまう、そんな緊迫した情況であった。
床に足がついているのやらさえ危うい自覚のなさは、反動として焦燥をかりたて増々あたまのなかを空まわりさせる。そして、ちょうど加速度のついた勢いが最後の全力疾走へと燃焼されていくように、脳内の不均衡はいびつな空間処理を消化し終えたと云った具合で(それは手放せば奈落の底へと吸い込まれてゆく際どさから解放される賭けを思わせる)無心のまま気がつくと、すでに障害を乗り越えてしまっているのだった。
あとはふすまに手をかけ、大きく傾いた額縁をもとにただす案配でこの部屋を出ればよかったのだが、ふすまが開かれるやいなや、その先にあるはずの廊下の向こう側から、まるで闇が手前まで土砂くずれで押し寄せてきたように、目の前には暗幕がはられているのを一瞬見てとったと同時、次に意識したときにはあろうことか、時間が瞬時に巻き戻されたのか、再度布団の上で寝ている自分に帰っているのであった。
おそるおそる双眸を開けると、やはりそこには歪曲した室内が待ち受けていて、そうなればひとりでにさっきと寸分違わない行動をとりはじめ、少々変化が現れているのは、焦る気持ちだけが心持ち増加したかも知れないと、あたかも他人の不幸を脇で見届けている、高熱に浮かされた離人症患者を彷彿とさせる薄気味悪さがたなびいているのだった。
傍観者と歩む調子で、傾いた部屋を進みふすまの向うに暗黒を確認し、またもやもとの寝床に引き戻される、これが二桁を数えるまで反復されるのだった。それは死人が棺桶の底よりこの世に立ち返ろうとしては、望みがかなわぬままに自縛を潔しとする、光明を求めるあまり本来を忘れ去る、無辺世界に酷似していた。
がやがて、亡骸をそこに認めたのか、あるいは無限地獄にもいつかは終わりが訪れるのか、すべてが灰になって虚空がすすけた色調にわずかのあいだ変移したとき、そして曇り空が陰りを作り出すためにようやく日輪が顔をのぞかせたとき、一条の光線がちょうど鋭利な刃物になって自らを縛りつける縄を断ち切ったのだろう、富江は長い長い年月を経て故郷に帰ってきた囚人のごとく疲弊したまなざしを何度もこすり、さながら幾重にも連なる鉄条網をかいくぐってきた面持ちで部屋の外へと飛び出ると、廊下を踏みしめ平行感覚を確認してからおもむろに階段を降りてゆき玄関先へと向かった。
自分では深呼吸の仕草をしてみたつもりだったが、はやる気持ちは勢い屋外へと慌てふためいた足どりで突き抜けてしまい、悲願達成の折にひとが表す、培われ蓄えられた感銘の享受はあとまわしにされた、そしてついぞめぐってくることはなかった。
外は雨だった、いや、精確には雨模様だったと云ったほうがいいだろう、なぜなら夏空が気まぐれに暗雲を呼びよせ驟雨をもたらす景観を模倣したとしか言い様のない、このひとをたぶらかす光景、果たして何物なのか、、、
雨脚に映っているのは、実際には無数の笹の葉が空から舞い降りているのであり、辺りすべては竹やぶに囲まれ見知った隣近所の家屋は、蒸発してしまったように影も形もどこにも存在していなかった。
なすすべもなく呆然と立ちつくしたままの富江は、ややあって上空を見上げると、そこには相当な数のからすの群れが渦を巻くようにして飛びまわっているのがよくわかり、旋回するその形態はいかにもめまいを供応してくれているようで、いくらなんでもそんなと云う怒りに似た悲しみの震えに目を閉じると、改めて歪んだ部屋の寝床に仰臥する自分を発見するのであった。


[19] 題名:まんだら16 名前:コレクター 投稿日:2009年03月05日 (木) 14時29分

洞穴の出口にようやく近づいてきたのか、ほの暗いなかをいつか想い出のうちに印象づけられた淡い光線が、まぶたの裏に幽かに甦ってきたのがわかり、ためいきに似た気休めをもらすも、しかし軽微な希望であることを決して忘れ去ろうとはしなかった。
意識の黎明は星屑のまたたきとともに、ゆらめく小舟の危うさであらたな水路へと押し流されて行くようで、もやがかった先行きに期待するわけでもなく、放心状態の無防備さのまわりにはこれと云った恐怖の感覚はない、そこのあるのは穏やかで、そしてとても静かに息をひそめている川面に映える月影だけであった。
からだが水中にかなりの間ひたっていたのが、今となっては幸いなのか富江のこころも一緒に包み込まれていたかのようで、羊水に満たされて守護されている胎児の鼓動が小さく打ち続けられるのと同じく、いのちの息吹は夜の世界にまだ見ぬ彼岸を夢想させた。
煙霧たなびきながら夢物語は映しだされる、、、それが連鎖反応であるならば、何もかもが透きとおってしまうほど、その情景はあまりにも美しい、、、残月が夜明けをくぐり抜けてもまだ、おぼろな姿を中空にとどめているように。
富江はスクリーンに浮かびあがる夜の砂浜を見つめていた、闇夜かと思われる幽暗の浜辺に打ち寄せる白波の思いは、わずかな意想を宿していたのだろうか、気がつけば一体の鎧武者が黒々と全身に潮をしたたり落としながら、隆として波際に立っている。兜のしたにあてられた、さながら鬼神の面貌に戦の相はすでになく、いにしえからよせてはかえす無常の波間に消え去ったのか、そこにはうつろな笑みだけが妖しげに取り残されていた。
鎧武者はこの世のものではなかろう、何故ならば、ゆっくりとかぶりをふるように波頭を睥睨する様が、己の魂魄に引導をわたしているさなかをしのばせ、海水のしずくにしとどと濡れた漆黒の甲冑を照り返す細氷にみえたきらめきが、はじめて月のひかりであることを知って、その美しさにたましいが奪われていくのを富江は陶然と見つめ続けていたからだった。
それは月明かりが、夜空に隠れながら地上を照らしている心情をわかちあうことでもあった、闇夜の海から船出するために、、、
まるで無声の白黒映画の一場面であるかの、月影の鎧武者はいつまでもそうして浜辺に佇んでいるのだった、富江が目を放すまでは。
うっすらとまぶたが、ちょうど小箱のふたを開けようとする間をわざをゆっくりとしてみせるように、ほんの少しだけ世の中を見てきたように、開かれたかと思われたのだが、確かにめざめではあったかも知れないけれど、ここがどこの家やら部屋やら判別することが出来ないことを承知で、再び目を閉じようとしたのは、あふれ出してくる涙のしずくと一緒になって胸のうちからこみ上げてくる悲しみがなせるわざによるものだった。
おばあちゃん、、、とちいさな声をもらした途端に、いままで夢のなかで亡き祖母の生前の姿絵が生き生きとしてえがき出されていたことを知り、それから幼い時分に飼っていたうさぎが死んでしまってから、もう随分と月日が流れてしまったことを思い出したからだった。布団のへりが両目からこぼれたしずくで湿っている感触を得たとき、夢見の途中のこの意識もまだ夢のなかから出ていないことを実感したのだったが、その実感もさらに閉じられたものとすれば、、、、飢渇を覚え、手をのばしたつもりで水を飲み干してみても、それが夢の欲望だったとしたら、覚醒しないまま喉だけがひりひりと渇いているのを意識するのは、半睡がもたらす体感の仕業なのか。
眠りの場から緊縛された身をふりほどく勢いで脳みそを揺り動かしてみると、いきなりぱっと視界がひろがった。
やっと目がさめたとそのひかりに包まれた部屋をよく見てみれば、ベッドと横になった自分はそのままで、部屋全体が確実に九十度に傾いている、富江は首を曲げて位相を反転させようとしてみたのだが、カーテン越しの陽射しにまき上げられたかのようなほこりは、その微細な粒子らが奏でるとでも云うのか、聴き取るのが不自然なくらいの不協和音を放ちながら、歪んだ空間をいっそう強調させている。
遠足で遊園地に行った際、こんな回転屋敷に入ったことがあったはずだと記憶の貯蔵庫から呼びだしてみたら、以外に驚きや不安の要素が拭われ、代わりにあの胸がさわぐ戯れに可能性を期待する遊びごころが招かれて、慎重に体を起こし手が触れるたんすに身をすり寄せようとしながら、まるで綱渡りでもするかの足取りでこの傾いた部屋から出ていこうとするのだった。


[18] 題名:まんだら15 名前:コレクター 投稿日:2009年03月05日 (木) 14時29分

夜霧が何のためらいもなく晴れていくように、漁り火が静かな別れを告げながら遠ざかっていくように、めざめはいつもと変らず待っている。
谷間をつたう清水に足もとをひたす感触が、ちょうど冷水で顔を洗う手間を先取りしてくれていればなおのこと、いつになく沈着した気分を保とうとしたのは、おそらく今しがた聞かされた川に転落したあの光景が、幾重にも反射しているまぶしさに目をふさごうと、再びまどろみのうちに戻って行こうとする葛藤が意識の片隅で働いたからであった。
それが起床と睡魔との攻防の態で現れたのは、もっともだと了解した頃に久道は反射しつづけるサイドミラーを脳裏に思い浮かべることによって、映像を我がものへと回帰させた。イメージが乱射されるなかにあって、こころ乱すものを鎮静させるには、一点に集中する意思が必要とされる。
ほんの数秒の間に光は脳裏をかけめぐる、まず最初に昨日の走行中の出来事が想起され、続いてまぼろしかといぶかった自分を呼び起こし、更にはまったく忘却してしまったのではない、本読みの最中も夕飯時にも、遥か彼方の星がわずかに明滅するように、あの浴衣姿は一瞬見え隠れしていた。そして寝入り際、想念が霧中に消え入りそうになった瞬間にもやはり姿は立ち現れていたのだった。しかし、あまりの速さでめぐっている、そんな光の粒のようなものだから記憶はあえてとどめようとしなかったのだろうか。
その答えもやはり深い霧のむこうに隠されている、我々が意識の極限と呼ぶものを観念として想起させるには、志向性の食指をのばさないなくてはならない、久道が転落する女性を鏡を介して認識したところに、幻覚と現実との境目が発生した。日頃から空飛ぶ円盤などを追いかけては見失い、ありありと目撃しても確証をおさえられなかった久道にとっては、やはりあの時は目の錯覚だと認識したと考えても誤りではないだろう、しかし、いざ後から現実問題だと知らされるにおよんで、幻覚と云われたものが光となって乱反射はじめた事実をどう受けとめるのだろうか。
あらゆる現象をまのあたりにするとき、各人はそこに決まりきった様相などを見いだしてないない、ただ、自分にとって最良の光景を作り出そうと努めているのである、時間という波に乗りながら、、、

どこかさえない気分のまま、久道は朝食後、今日は日曜で仕事も休みなので、寝室にもどってうたた寝を始めた。何気ない休日の家庭、まつりのあとの静まりかえった町並み、流れゆく川面にはどこも異変はない。
ところが久道は違った、部屋のカーテンを再び閉めきると、家のものらに起こさないよう強く伝えると、引き出しから睡眠導入剤を取り出して強制睡眠しようとしていたのだった、理由は明白である、もう一度夢見のなかで真相を探りあてようと目論んだのである。
小数派を自認してつきつめた結果がこれであった、己の裡に生起するもの、脳波が安定した状態で確証を得るためにも睡眠時による交信こそが彼の最終兵器なのであった。夢占いなどとは方法論を異にする、それは考古学者が遺跡で発見した秘密の回廊をときめきながら奥まったほうへと進んでゆく、実証的なアプローチに他ならない。
久道は失意を補填するためにことを起こしているとは考えなかった、ただ割り切れない感情がどうにも澱になって胸の底に沈殿しているみたいで、すっきりとしなかったのだった。そして混濁した気分はやはり感情として蒸発することを望むとそこには力学が発生する、ただむやみやたらな悪感情だと自分自身が収拾つかなくなるので、それを別のものへ委ねると、待ちかまえているのは、そう超能力者たちの恩恵であった、これほど熱心にあなたらの存在を信じている、その情念はまぎれもない宗教心の発露であり、まさにブーバーが著した「我と汝」で論じられる全人格的呼びかけの出会いに違いなかった。
あのメフィストに魂を売り渡したファースト博士の信念が、狂おしいまでの美学と悦楽に彩られていたように。


[17] 題名:まんだら14 名前:コレクター 投稿日:2009年03月05日 (木) 14時28分

久道の大きな危惧の念とは、とにもかくにも彼の主張する神秘の扉が開かれたとき、果たして人々は各国家は軍事大国首脳らは、どのような対処をもって未知なる存在を受け入れることとなるのかと云う憂慮にあった。
だが、長年の研究によれば世界各国にはすでに異星人の塁家とも呼ばれるべき一族が太古の昔から棲息しており、彼らの実体はフリーメーソンの創設時からも介入しており、その秘密結社がもつ秘匿された高度にして驚嘆すべき技術を久道は、人間離れした奇跡的なものだと信じてやまないのであった。
そんな彼の意見に対し、大方の反応はまやかしでしかないとあたまから否定する限りではあったものも、なかにはまれに生真面目な論客もいて、「遠藤さんの話しは確かに飛躍しすぎたところもあるけど、大体において仏教の究極が億万光年の彼方へとひろがっていく宇宙空間的な哲理をもっている以上、あながち現実遊離した論理ではないと思うのでして、これはあくまで精神論とした上での言い方ですが、ギリシャ神話とか日本の記紀に登場する神々だって争いごとをして勝者が讃えられるわけですから、結局、強いもの偉大なもののほうに聖性を求めていくのが業と云うものでしょう。遠藤さんが、人格神をより絶対的な巨大な装置として(これは例えですけど)備えつけて、自らもその装置のなかである種の開放感を得られるのであったら、裏付けが独断であろうとも、本人がそれでかまわないのなら、人にとやかく言われる問題でもないですが、本来的には」
などと、久道の琴線に際どく触れつつも、最終的には誇大妄想のゆえんを力学的な位相から計り直すもの言いは確かに、頼もしい共感者となり得るはずだったのだが、あらためてひとからそんな意見を聞いたところで、正直それほど感激するわけでもなく、というのも久道自身がすでに重々知りつくしていて、いわば確信犯がことあるごとに、己の信条を一から説明しなければならない煩わしさで辟易してしうまう場合と同じように、もはや超常現象全般は微動だにしない確信として屹立した、取り替えがかなわない久道のいきり立った男根そのものあったと云えよう。
これは有無を言わさぬ根源的な体感として、彼の全存在となって時折放出する**の粘り気もまた過剰な戯れをしたたるい成分へのなかにまとわりつかせ、まるで蜘蛛の糸のごとく、全体が分泌液にまみれているかのようであった。
そんな特異な性質の保持者であるという自負が久道を陶酔させるのである。隠されたものに心底あこがれを持ち続けることで、現実から逸脱しようとも、精神の根っこではそれらも所詮夢見るロマンの発露でしかないと以外に醒めた情熱が、くすぶっているだけなのだと割り切っているとすれば、そこに薪をくべることがまさに生命力を燃え上がらせることになろう。
久道を見誤ってはいけない、彼は決して自らを霊能者や超能力者であるとは微塵も考えてはいないのであり、ただただそういった存在に触れたいがゆえに情熱をたぎらせているだけなのだ。それはちょうど作家にあこがれる文学青年がいつの間にやら作家気取りで書き物をしはじめる仕草に似たもので、そのうちゲルマニューム療法などを施しはじめ、心身ともに浄化させていく効能を感得することも、至高体験へと登りつめてゆく過程に相違ない。
もっと卑近な例を上げれば、アイドル歌手にならって髪型をまねてみる心根も同様の形態である。久道のアイドル、つまり偶像は地球規模を離れた無限の宇宙の彼方に存在した、そして何万光年の先からやってくる光が今ようやく夜空を見上げる肉眼のうちにとらえられるように、いつか必ず異星からの訪問客が現れると心待ちにしているのであった。
まわりからすると風変わりな所作に映るだろうが、久道にとっては日常を豊かなものにしてくれる、大切なドラマでもあった。現在彼が夜毎の夢見にある着想を見いだしているのも、いかに日々を充実した精神で送っていこうとしているのかうかがえる、そう、久道はそれほど偏狭でもない、実に人間らしい人間の特質をよく体現しているだけのことなのである。
あくる朝早く、サイレンの音を耳にしたような気がしたのだが、まだまどろみのなかにあった久道は、妻や子供らが騒がしいのでしぶしぶ起きだし何事かと問いただすと、
「大変、前の川に女の子が落っこちていたそうよ、救急隊が来てさっき助かったみたいだけど」
妻の言葉がまだ夢のなかから聞こえてくるものに思えたのは、超常現象を前にして立ちすくむ、あの恐怖と感動が交じり合った複雑にして明瞭な認識が訪れた為だったからなのだろうか。


[16] 題名:まんだら13 名前:コレクター 投稿日:2009年03月05日 (木) 14時28分

ことさら世情に造反したかの態度で、今夜ひとり自分の部屋にこもるようにして、コリン・ウィルソンの大著「オカルト」を耽読していたのは、傍目から見ればやはり少しばかり奇特な様子に思われるかも知れなかったが、遠藤久道にとってみれば、きわめて明快な意味あいしかそこになかった。
花火大会などより、やっと手にしたこの書物をとにかくじっくりと読んでみたかったのである。今にはじまったことでもない、久道は小学生くらいまでは子供らしく、まつりや運動会にこころ弾ませたものだったけれど、中学にあがり多少なりとも自意識の萌芽がかいまみえる年頃にもなると、いわゆる偏狂者の素質も同系列の規則正しさでめばえはじめ、結婚後の現在にいたるまでまつりごとや催し物などいっさい関知なしと云った態度を示し続けていたのだった。
久道は高校時代に友人から、そこまで神秘主義に興味があるのだったら、祭礼や神事と云った伝統行事にも関心を向けるべきで、その友人は自分が歴史や民俗学といった分野から、人間の奥底にひそむ不可思議な心性を探りあてようとしていることを細々と話すのだったが、久道は「規模が小さい、小さい、ぼくはね、もっと大きな謎とき、秘められたものに興味があるんだ、例えば天皇家に代々つかえる超能力者の系譜が宇宙人であるというような、壮大なものへさ」
と云った具合で、つまるところ一般の歴史書にまったく記述されたこともないような、また心理学や哲学で説かれる理論などもたかだか人類の進化系統にすぎないと断裁し、そんな次元を遥かに超えた大宇宙の生命体へと交感される日をひたすらに信じ込んだわけであった。
しかし、ごく一部の熱狂的な探求者が著す文献など、当時から今にいたるまで市民権など得られるはずもなく、一時期世間に衝撃をあたえたカルト教団が興味本位で巷に浸透したあとでは、その事件性に対する非難の声によって以前にも増して小数派であることに堅持するしかすべがなかった。
マスコミが書き立てる上っ面だけの三面記事など、そっちのほうがまやかしものだと、久道はひどく憤慨したもだったが、怒りだけによって何事も進むこともあるまい、誤解を招く言動は直ぐさまにその足もとがすくわれるように、出来るだけ信念を冷静に伝えていくのが賢明であると、あたかも弾圧下にあっても理念を貫いてきた鎌倉仏教信者らの気概そのものと云った調子で、自分の守備位置を確認してから次には伝道師の気骨を体現すべく、仕事以外の余暇を可能な限りその方面に費やすこととなった。
彼の親が信心していた宗派とは一線を画し、とはいうもののこれは独自の折衷案かそれとも受け売りなのかわからないが、歴史に名を残し教祖と崇められた聖たちや、現存する宗門にあっていまだ勢力の盛んな者らを奇跡を呼び起こす存在として栄光を授けることによって、彼らをして超能力者の一員であることをも自他ともに容認するのであった。それは小数派からしてみれば、時代性と云う区分を垣根を取り払うことで、同位置に自らを配置出来る可能性を見込んだわけでもある。
空海も親鸞も日蓮も道元も、もちろん釈尊やキリストも霊能者として超一流であったからこそ、大きく歴史の時流に乗れたのであって、そこには人智を超えた能力が発揮されたことになる、つまりは発想を転換して彼らがそもそも人間ではなく、天空の彼方より訪れし異星人だとすれば、、、ここに久道の面目躍如たるものがあった、俗に云う誇大妄想的な発意と悪態をつかれようが、人類の科学がわずかの年月で加速度的に進化したことと照らしあわせてみても、いかに民衆が迷妄にとらわれながらも気がついてみれば、何の違和感もなく日常を過ごしているではないか、人類が月にまで飛んでいく未来がやってくるといったいどれだけ昔の人間は考えただろう、その理屈とまったく同等に想像してもらいたい、現在、この星の上で生きている何人がこころの底から宇宙人の存在を認めているのだろうか。
そう、こころの目を開く時がやってきたのだ、そうすれば必ず秘められた大きな扉がそのまぶたとともに開門されることになる、しかし、同時に厄介な問題も横たわることになるのだが、それは今後の重大な課題としてあるいは人類にかせられた指標となって、良きにすれ悪しきにすれ、創世記以来の未曾有の出来事になるのだ。


[15] 題名:まんだら12 名前:コレクター 投稿日:2009年03月05日 (木) 14時27分

酒の肴にと奥さんがさばいてくれた、あじととびうおの刺身をつまみながら、口中に新鮮な青りんごをかすかに思わせるその白ワインを含むと、潮の香りは風に乗って遠くまで運ばれ、人気のない山村に生える果実の木のしたへと、まるで眠りをもとめてそこへ安息するかのような心持ちになり、日頃より愛飲家である磯野孝博は、やはり今夜は一段と格別な風味を享受であると実感すると、これは無明長夜に違いないこと知るのであった。
無明とは仏教用語で云うところの、根本的な煩悩を意味している、自分は仏性の顕現から隔絶したところに立っているが、地場としての故郷は決して見失わないよう努めてきたつもりだった。少なくともここ数年は、、、
大学院に残り研究生だった頃、巷では輸入思想がファッションの様相で席巻していて、孝博も向学心から知人に薦められるまま、いくつかの書物に目を通してみた。
しかしそれらはやたら難解な言い回しを弄するばかりで芯のない、装飾ばかり体裁を整えた文献としての価値以外これと云った感銘をもたらすものではなかった。というのも共産主義思想が敗退したのちに、打ち立てるものは空疎な建築でしかないとか、すべては模倣の模倣物であると云った冷笑主義、ハイパーリアルな醒めた意識には深く共感できるものが見いだせず、それなら何も現代でなくとも、フランス暗黒文学の系譜に連なる、サドやバタイユ、なかでもユイスマンの「さかしま」における徹底した非人間性の小宇宙の構築の方が、ある意味馬鹿らしく逆に人間臭さを内包していて孝博の愛読書の一冊であった。
それでも収穫がまったくではなかったわけでなく、言語学者のソシュールを丹念に研究考察したわが国のある学者や、フッサールの現象学のなかに潜む欲望論を白日にさらけだし、フロイドとは異なる意識による意識としてより厳密な学の体系を模索しようと試みた著者にも共鳴したのだった。
彼は若い頃、熱心に読み耽ったニーチェの書をあたまにして、ニヒリズムをうたっている内容のなさを、まるで手柄のように執拗に書き連ねている凡人たちを軽蔑した。虚無とは空白でも非存在でも死の国でもない、大いなる幻想が我々を支配している現実を直視するなかで、はじめて見えてくるある特異点にような磁場なのであって、その姿かたちにできないものを認識しつつ了解し、超越してゆく肯定の反命題そのものである。
ニーチェの思想が万人理解されないのは、実は当然のことかも知れない、はなから本人がそう言い切っている、又それはニーチェが形而上学特有の体系を持とうとしない、その破壊性とあまりの壮大な寓話によるものであって、畢竟の大作「ツラトゥストラ」を一読しただけでも、いかにたくさんの動物たちがある任務を遂行するためにいびつにしかも華麗に描きだされているかうかがえる。
そして、神が死んだと声高に宣言したあと、荒野をさまよう人々に超越の示唆をあたえつづけるが、残念ながらニーチェ自身そこまでで哲学思考を中止したかの文脈で我々をめくらませ、権力への意志で有名な力そのものへの傾倒と呼びかけるのだが、その曖昧な抽象論は読むものをして各人の思惑を様々な道程へと導く仕掛けになっている、もっともそれが意図されたものなのかどうかは判然としないのだが。
ここがニーチェの謎として永遠の魅惑となり、あるいは圧倒的な悪夢を呼び寄せる無数の試金石と化し、いまだその呪縛から解放されることはない。そして永遠回帰と云う、もはや一大叙事詩でしかない、死と生の謎掛けへと高らかにこう詠われる。人生がすべてが何ものも苦も快楽も一切がっさいが寸分も違わずにもう一度もどってくる、我々は果たしてひきうけられるのか、反復される人生そのものを、、、
孝博のニーチェに向き合う限界もそこにあった、これはまぎれもない獰猛でしかも弱肉強食を指向する、荒くれ陶酔を宿すディオニュソスの神をまつる祭壇で唱えられる題目ではないか。仮にこれが方便だとしても、修辞学以上の手応えを得られない、絶対者なきあとの絶対者、、、民主主義的な懐にとても大人しく収まる思想ではない、ヴェーバーの著書「プロテスタントティズムの倫理と資本主義の精神」と並び、逆説的究明にはどこか皮肉めいたものがいつも顔をのぞかせているようで、それが他力を廃した結果の手段だとしても、やはり素直に受け止めがたい何かがひっかりとなって、ニヒリズムの克服を実現させるにもう一度、偶像化されたものに我が身に投影しようと奮い立った、それ自体がいっそう肥大したニヒリズムであるかも知れない恐れを十分に認めながらも、、、


[14] 題名:まんだら11 名前:コレクター 投稿日:2009年03月05日 (木) 14時27分

いつの頃のものかはわからないが、十分に時を経た木桶は、この畳部屋に備えられると見事なまで風趣に富み、恰好のワインクーラー代役を、いや、もはやそれにとってかわる役柄としての調和をみせていた。
あべこべに孝博が持参したフランス産のワインのほうが、浮いてしまっていたのだが、夕刻からはじめた晩酌はすでに全身へ酔い心地を染みこませてゆき、もうかれこれ何十年ぶりだろうと懐かしさで、このひなびた家屋への記憶を新たに構成し直すと云ったロマネスクは、一通り経過してしまったとでもいうふうに、あとに残された情趣は結局、自己沈滞へと降りていくめぐりあわせになってしまうのだった。
そうなると、しみじみとしたこころ模様は、いつの間にやらジグザクな斜線やら大小まばらの染め柄でほどこされ、それが酔眼に反映する、視野のせばまりかと云えばそうであったし、つい今しがた鳴りだした風鈴の音のように意味あり気に、合図を送る夜風の仕業か、不要な想念や現象を払拭するために吹き抜けてゆくだったが、突風が砂ぼこりどころかときには肝心なものまで飛ばしてしまうように、酩酊にいたる行程はこころのなかにある沈殿物を浮上させ、またもや脳裏のど真ん中まで持ちあげてくるのだった。
しかし孝博は沈酔に身もこころも任せていられるのは、今夜が特別な環境にいるからであることを忘れはしなかった。
ただ、目と鼻のさきほどの港の喧噪から霧隠れし、独り特別観覧席から物見へとこころ踊らす、この情況に感謝しなければならない、すると、どうしても親戚に対する親和と信頼が(いくら彼らが気さくであったとしても)孝博にとっては、薄皮一枚まで肉薄してくる過剰ななれ合いとして、そこには差し迫った意味など存在してないにも関わらず、それ自体の関係に対し敏感に反応してしまうである。
親族そろってエレベーターのなかでひしめきながら向き合う場面に、どこかむずかゆさを覚えて早く扉が開いてくれないかと願う、血縁ゆえの濃さからの得体の知れない逃避のような、それがわが国の家父長制が担ってきた圧迫でもあり、そこからの逸脱を希求する近代自我の名残として、核家族に分散した現代にまだ連綿と続く決して断ち切れないものとして、日常のなかにとけ込んでいることを、なぜか不気味にとらえてしまうのが不可解なのであった。
孝博はそんな自分を嫌った。つまるところは自分のひとり相撲に似た神経作用かとも考えてみたが、正式な講師として教壇には立ってないものの、宗教学の立場から察するにかつて研究を重ねた、古代宗教の原初形態をつぶさに考察したデュルケムによるトーテミズムの聖と俗の集団表象や、フレーザーの「金枝篇」で展開される王殺しの説話、モースや更にエロスと死に鮮烈な光芒を見いだしたバタイユの供犠論、わけても近親相姦を見据えたフロイドの功績をすでに古典としてではなく、新たな性欲論として読み直しを通してはじめて自意識、この近代がつくりだした脳細胞の解明へと、形而上学とくにデカルト以降の西洋思想らと比較省察のうえで、仏教哲学からの派生としての新興宗教を専門としてきた。
彼が中国語に堪能になったのは、若い頃から熱心に仏教を勉強し続けたこともあって、しかし実のところ宗教学のあまりの広大な領域に果たして寿命つきるまで到達地点が見いだされそうにもないと云う、諦観を抱いてしまったのも正直なところであり、もうひとつはかねてより有数の現代宗教に思わぬ魅惑を持ってしまい、本来ならば冷徹な視点で文献なり寺社なりに対峙しなければならないところ、祈りと云う、古来より人類の歴史の精神、いや、魂の土台である根本原理を学術的に極めるのは、ある意味片手おちではないかと、それには自らがたとえ偶像であろうが、政治的援用にまみれた体系をもつ一派だろうが、とりあえずは無垢なる気持ちで一度は接してみるのが大事なこと、世界中の広範な絶対神の歴史的異相を追い続けるよるよりも、ひとつでもいいから安息の地みたいなものを欲したのであった。
そしてその祈りを通して、深く、深く、知性を超えた時空へと誘われていくもの潔しと、大きく首肯したのである。


[13] 題名:まんだら10 名前:コレクター 投稿日:2009年03月05日 (木) 14時26分

古びた佇まいながら、玄関のガラス戸や格子が醸し出す風情には泰然とした望郷が備わっていて、屋内の印象も同様、あらたに増築された部屋は別としても、木目を土色にくすぶらせ、天井があたまの上に張りついているかのこじんまりとした造りには、現代からみれば快い逼塞感させあたえてくれ、磯野孝博をもてなすために通されたこの室内にはあきらかに時代の変遷が旋風の果てとなって淀み続けているようだった。
開け放たれた二階窓枠の欄干からは、すぐ右手に港が展望され、すでに夜空には夏の風物詩が大きく目に映っている。畳敷きの上に腕枕でくつろいだふうの孝博は、次々と打ち上げられる花火を見やりながら、想いはまた別のところへ行ったり来たりして、それは今宵の一夜の情趣を味わいながらも、この場面自体が何ものかの背景となっていると想起する、こころの奥行きを感じることに結ばれていくのだった。
親戚筋にあたるこの家人らは、子供らの強引な言いなりにあえてなだめすかすわけでもなく、孝博の心中を半ば察した思慮も手伝い彼ひとりを残すかたちで、「子らが港に連れてけってうるさいもので、じゃ、少しの間行ってくるから留守をたのんだよ」と、まるで傷心の身に気遣いをかける案配でいそいそと皆が出払ってしまったのだったが、たとえそうした配慮が加味させたにせよ、もう今はごく自然の成り行きと感じるほうへと彼のこころは緩やかに傾斜していた。
食卓に並んだ魚介類や夏野菜をつまみながら、手土産に持ってきた辛口の白ワイン二本を、ここの主が「わしらはビールと冷や酒で十分、孝博さんが飲めばよい」そう言われるままに、その口ぶりが遠慮をまったく含蓄していないことも素直に受け止め、「考えてみると自分自身がこのワインを飲みたかったのだ、まったくどうかしている、相手のことを少しも思っていない」と自己嫌悪を抱きながらも、特に神経質な思考に拘泥してしまことがなかったのは、やはりこの家の人たちの些事にとらわれない純朴さに暖かく包み込まれてしまったようで、そのぬくもりをつまらぬ思惑で台無しにしていまいそうな予感を打ち破るためにも、孝博はあえて彼らの好意に甘えることで一切をそこに委ねる気持ちが、これは決して欺瞞に裏打ちさせる意味でもなく、単純に、そう願うことで更に親和が育まれればと、ひとつの注文を口にさせた。
「あのう、すいませんが桶みたいなものありませんか、氷水をはってもらえれば、あっ、バケツでもいいです、ワインを冷たくしておきたいんです」
我ながら図々しい言い様にも思えたが、ここの奥さんは、あら気がつかなくてと云った面持ちをぱっと咲かせると、それはたった今、海上高く花開いた火の粉が見せる無心のかがやきにも似て、階下に降りてゆくとはたして孝博が願った木桶をやや重そうな物腰で手にして戻ってきた。
以外に深みのあるその桶には、きらきらと水中に身を浮かべる氷が、いかにも涼しげに無言で語りかけてくれるようで、「こんなのでよかったかしら」と孝博に問うた奥さんの優しい声の響きは、氷水の上に反響し、よりいっそうの冷たさがぬくもりのなかで湧出したとしか想われないほどに、美しい沈黙が余韻となって部屋中に漂うのだった。

こうやって留守番役の名誉とともに、居住まいをくずしてごろりと横になれたのも、幸せのひとときかと、それが本意のもとであることに一抹の疑いもないはずだったのだが、まわりの心遣いに感謝の念を思い抱いた途端にあらぬ条理が、潮風に呼応する軒下に吊るされた風鈴の音のごとく孝博の胸中にちりんと鳴りはじめた。
それは、宗教学者であり大学中国語教授の肩書きが自ずと前景にせり出す、あのいつもの帰納法的な分析思考と、それとは相反する無抵抗なるままの崇信が、拮抗しつつ絡み合い意識も精神も混濁となって、あたかも宇宙創世記における重力の折衝のうちに次第に形成される、天体の大いなる奇跡へと飲み込まれていきながら、かろうじて矜持を保とうとする、彼自身のまんだら図絵を顕現させることにあった。


[12] 題名:まんだら9 名前:コレクター 投稿日:2009年03月05日 (木) 14時25分

今年の夏が過ぎれば、この町からしばらく遠ざかることになる、、、結婚してから一年、新婚生活の妙味やらが色褪せるまではいかないにしろ、次第に安定したものへと落ち着いていくのは、成り行きにまかせれば当然そうした陰りを呼び寄せることになって、否むしろ薄日がもれる下で多少の不明瞭な関わりの方が、お互いをさらけだしてしまうなれ合いをうまく緩和てしてくれるのではないのだろうか、、、
森田梅男は専門学校卒業後、とある商社に入社したのだが、最初の二年を地方都市で勤務したあと故郷に配属されて、しばらくするうちに地元で今の家内と知り合い、割と短い交際期間だったが躊躇することなく、思い切りよく結婚に踏み切ったのだった。
まだ子宝には恵まれていなかったこともあり、今回の転勤辞令を受けた折も、ところ変われば気も何とやらで新婚生活の雰囲気とはまた違った環境がもたらす恩恵の部分にまず食指が動かされ、日々の過ぎ行きが再び大きく変化を迎えるように思えてくるのであった。
転任先は横浜だと知らされており、今までにない大都市への転勤は、様々な思惑を乗せて希望という名を文字通り梅男の胸中へ刻み込んだ。毎日の夕飯のおかずもこれまでみたいに一品のみと云った、手抜きから脱却して(もっとも妻は経済観念からそう工面しているのであろうが)中華街などにもたまには出かけ、外食してみるのもまた豊富な食材などから刺激を受けて、決して豪華を臨んだりはしないけれども、幾分か総菜に手間ひまを加えてもらえればと、まだひとりだけの想像ではあったが、早くも現在とは異なる家庭があらたに生まれてくるような期待にこころ踊ったのである。
今夜出不精な妻を誘って夫婦水入らずで、花火の打ち上げを見物しようと意気込んだのは、確かに盆休みなどには帰省の機会もあるだろうが、この町で開催される港まつりは八月の始めという日程もあり、転任後の次回は何年先になるかも知れないと見納めに似た感情を含みつつ、同時に伴侶である彼女自身にもその様な惜別の意識を感じとってもらいたいと願ったからであった。
それは旅立つものがいつになく殊勝な面持ちで、あとにする地に名残を抱きながらも別天地に想いを馳せる、湿気が急激に乾燥してゆく速度の安楽に一抹の弁明が必要とされる申し訳なさみたいなものを二人して共感することであり、夜空の上っては花咲、散ってゆく花火の宿命を間断なき現実と対比させ、強く印象づけることで帰り際にでも帰宅後にでも、ある信念の言葉をその余韻の上へと刻印したいと考えたからである。
梅男のこころは、今の家庭の営みにまだ大きく現れてはないけど、すでに軋みが生じていることを認めなくてはならなかった。それが、妻との性格上の摩擦だけに要約されないことも薄々知っていた、蜜月と呼ばれるこれまでの時間を如何に意識的に梅男の側から、想像と演出を用いて享楽出来るよう努めていたか、そうした苦心が打てば響くよう相手のうちに届くのであれば、それ以降は自ずと必要以上の腐心も、意識を硬直させ腫れ物に触れるような配慮もやがては霧散してゆくことだろう。
しかしこのままでは、展望は開けてきそうにもない、そこで平たく云えば、ひとつガツンとこれからの夫婦生活のありかた、自分の最低限の要求を理解してもらう為にも、今夜のまつりは二人して今までに対する詩情と感情が激しく交差しながら転機へと旅立つ惜別であった。
梅男は妻を愛していた、しかし愛憎が表裏一体で顕現する以上、惰性のまま時の推移に委ねる訳にはいかない。いずれはとりかえしのつかない軋轢となる前に、どうしても膝を交えてみなければならなかったのだ。

頭上を彩る夜の祭典は終盤にさしかかったが、結局梅男をじっくりとそれを鑑賞することなく、終始あたまのなかでは神経系統が火花を散らし続けていた。
妻のほうはどうかと見れば、打ち上げの間中ほとんど口数もなく、放心した顔つきで海上に向き合っている。そんな様子に梅男は感慨深いものを覚えたのだが、やがてすっと胸もとから上がってくるような言葉としてあふれだしてきたのは、妻に対する憐れみの衣を借りてきた、涙もろくなってしまいそうな響きを持つ、ありがとうと云う感謝の念であった。


[11] 題名:まんだら8 名前:コレクター 投稿日:2009年03月05日 (木) 14時25分

しばらくして青井好子が向うから歩いてくる男に手を振るのを見て、上戸麻菜は彼が好子から聞かされていた花野西安であることを直感し、思わずなぜか自分も気分が高揚してくるのを覚えた。
そして、不覚にもそんな態度を見せてしまったと、明らかに他の連れらへ遠慮がちの表情を面にしている好子の様子が、いかにも健気ででもあり、麻菜は相手に優しさを示す時に特有のあの包みこむような笑顔をたたえながらこう言った。
「何よ別れたんじゃなかったの、やだ、未練たっぷりって感じじゃない」
すると好子は、照れくさそうに少し顔を赤らめ身をよじる仕草をしながら、
「一応はね、だって彼ったら毎年花火の夜には女と別れてしまうとか真面目な顔して話すんだもの、もう三年間連続のジンクスは今年もみたいなことまで言うから、それってわたしと別れたいって意味なのって、あたまにきてそれっきり連絡しなかったのよ。それであっちからも何の音沙汰ないし、これはもう終わったんだなって自分の方から終止符をうったわけ」
「じゃ、何で手なんかふって愛想するの」
「実はね、今日の昼間にメールが彼からあって、君を試すような言い草をしてしまってごめん、過去がそうだったから逆に不安を相手に投げかけるふうになってしまった、って」
「好子が別れたってわたしに話してくれたのは五日前でしょ、何ですぐにそう釈明しなかったんだろうね、要は彼がもとのさやに納まりたくなったってことじゃないの」
「そう思ったわよ、だから返事しないでいたの、そしたら今夜、港で出会うだろうなんて夕方の又、メールがきて、、、」
麻菜はこころのなかで勝手にすればと思いつつ、「じゃ、とにかく会ってもう一回きちんと話ししてくれば」
と好子の肩先を軽く突き出すようにして恋の後押しをすると、あとの二人に「好子を行かせてあげましょう、いいわね」
それを聞いた好子は、すでに満面に喜びがあふれ出す勢いのまま、みんなの顔をひとりずつ確認するように、そこには奥ゆかしげな感謝の気持ちを現す意味あいでもあると云うふうにして、「ごめんね、でもすぐに戻ってくるからここで待っていて」
するとさっと小走りで男のもとへと近づいて行き、あっという間に二人の向き合う姿を遠目にも確認されたが、人出にさえぎられてここからは男女の織りなす機微までは見えてこない。
本当にわずかの間であった、口もとをきつく結んだ顔つきながら、溌剌とした瞳を輝かせもうこちらへ駆けてくる好子に、連れの誰もがことの成り行きを容易につかみとり、彼女の言ったようにほんの時間で約束ごとを遵守した清潔な心意気を祝福するに何の邪推も入りこむ余地はなかった。
皆は好子のいつもより濃く塗られたブルーのアイシャドーに、ある晴れやかな自然を前にしたわき起こる清冽な色調を思い浮かべ、そのメイクが厚手であることも今は何の違和感なくあらためて見つめ直した。それは女優が舞台のすそに悠然と降りてくる瞬間に感じる、スポットライトから解き放たれたあとにも余韻を残す、舞台化粧の派手やかさを夢の続きと認めたくなるひとときの陶酔に似たものを連想させる。
好子は好子で、無言のうちにさっと集中した視線がはらむ優しいときめきに応えるべく、開口一番にこう切り出したのだった。
「ねえ、花野さんがね、よかったらみんなで今から家に来ないかって、二回の窓からよく花火が見えるんだって。わたしが喋りだす前にそう言ったの。わたし彼には、今日は先輩や友達と一緒だからって話そうとするのを予感していたようなセリフでしょ、だからみんなに聞いてみるって言ってきたの」
麻菜もそれから好子の同級生の葉子も一昔前のアイドル歌手みたいな雰囲気の友美も、それを聞くとさっとためらいがよぎったが、そのためらいは温めておいた飲み物を口にする時にひと呼吸する、そんな落ちつきのある性質であったので一同、快くうなずいたのであった。
すかさず好子は西安に再び手をふりながら、今度は両方の腕を頭のうえにかざし円形の了解合図を送ったのである。
「焼きそば、もう少し買ってこうか、フランクフルトと水餃子もね」
麻菜は、他人の恋愛はいいもの、花火のくぐもった爆音と一緒にそんな思いが夜空の上に大きく共鳴していくのを覚え、ロマンチックな気分にひたるのだった。


[10] 題名:まんだら7 名前:コレクター 投稿日:2009年03月05日 (木) 14時24分

夜空にひらく炎塵、一瞬のまばたきの裡におさまる華麗な滅亡に、こころ奪われ放心でこうべを上げたままの人もいれば、まつりの催しの一角に臨んでいることが、何か総合的な意気高揚に結びついていて、別段こころして花火のうつくしさやはかなさにとらわれる必要もないと、ちょうど花園を散策ことが心地よいのであって、ひとつひとつの花びらをたんねんに吟味して立ち会うまでもあるまいと云った、そんな感覚、、、裸電球の下の屋台らが夜目にものめずらしく、色合いの度合いでいけば金魚すくいや、綿菓子、お面に、風船、たこやき、やきそば、などの夜店がけばけばしくかもしだす、一種独特のきな臭さのほうが、ひと夏の喧噪をより魅惑の一夜に仕立て上げている。
上戸麻菜は初めてデパートの屋上に連れてこられたおさなごのような紅潮した笑みで、たこ焼きをうれしそうにほおばると、いつくかまだ残したままの手元を微動だにせず、さきにある焼きそばの屋台に執心している様子だった。
久しぶりに帰省し高校時代の友達と連れだって港まつりにくり出したのだが、ついこの間までの煩わしい恋愛を早く忘れ去ってしまいたい一心も手伝い、こうやって無邪気に買い食いしてみると、しみじみと気持ちが晴れるように思えた。決して空高く彩る花火に関心を示さない訳ではなかった。
今しがた買った焼きそばを片手に次はよく冷えたビールをと、見目にも涼しさを呼ぶ氷水がはられた浅い水槽のなかから一番冷たそうな缶を選び出そうとした時、ひんやりした冷水の感触に何か言いようのない観念が想起されたのだったが、それが実体をあらわにしようとした途端に缶ビールをしっかりつかみとり、いかにも飲酒によってこれから軽い酔いを覚えるだろうと云う予感が、現在の思考をあいまいにさせてしまう効果を準備しているようで、結局、今は深く思い悩むよりかは何にも拘束されない自由な意思を尊重するための手応えでもあった。
「ごめん、焼きそば持っててくれない」
そう連れの後輩だった青井好子に声をかけると、財布から小銭をとりだし店の人に手渡し、さっそくビールをごくりと喉に流し入れた。
「一気に飲んじゃうわ、何か喉が乾いた」
そう言ってごくごくと缶を傾けて飲みほしはじめたのだが、その格好が見せる、そうことに視線において特徴的な上目つかいのわずかに痴呆を演じているような、視点があらぬところに貼付けられた空洞の両の目は、隙だらけで無防備そのものだった。
しかし、その定置されたからっぽの眼球に、ごくありふれた光景が映し出され、しかも何が印象的なのやらかいもく見当もつかないほどに普通で平凡な、親子の影が、、、父親と幼い娘と云う構図が、今度は反対に明確に言い表わせる現像として脳裏に焼きつけれた。すると突然、閃光のように強烈な想いが願望となって浮上してくる。
「やっぱり子供はいいなあ、わたしも出来れば女の子が欲しい」
振り払いたい以前の色恋の翳りにもそんな願いは潜んでいたと思うけど、こうやって如何にも人ごととして目の当りにすると、それは不思議なもので、理想やあこがれは決して都合よく降ってわいてこないのと同じく、仮にドラマや映画などに描かれる顛末に惹かれてみたところで、所詮は絵空事の世界、それよりは今しがた前を横切っていったあの親子がかすかに漂わせていた、はにかみと素っ気のなさが、実際には血のつながりを現実的に有無を言わせずに物語ってくれている。
麻菜にとっては些細なひとこまだったけれども、素晴らしい文章に出会った時に書物にしおりをはさみこむような小躍りした感動だったのかも知れなかった。親子の姿はすでに視界から失われていた。
杉山周三はあれこれ欲しがる娘を、途中ではぐれてしまった妻に委ねて、まだ今日は一滴もたしなんでない酒を、こころおきなく味わいたかった。もちろん、若い女性が通りすがりの自分らに、そんな想いを抱いたなどとは露にも知るよしもない。


[9] 題名:まんだら6 名前:コレクター 投稿日:2009年03月05日 (木) 14時24分

ほの暗い眼をした見知らぬ男がすれ違い様に何とも薄気味悪い笑みを浮かべる。
空気感染と云えよう暗鬱な余波だけを残して遠ざかってしまうその男の行き先を富江は何故か知っていて、それが恐ろしく矛盾した思惑であることも、はかない定めだと了解しつつ男のたどる軌跡に一抹の望みを委ねた。どうして死神の来訪を許諾しかねないそんな直感がよぎるかと云えば、それが夕陽のもと、地面のうちからしみ出してくる自分の影法師であることを確認する、黄昏の哀歌であり、すぐそこに迫り来る宵闇にとけ込み飲まれこんでしまう一日の過ぎ行きへの挽歌であると感じていたからである。
青葉の茂りが夜のなかでひっそりと眠りにつくように、溌剌とした若い情動もやはり小さな死を迎える、それは生育や未来への躍動であるが故の陰画として、すべての思念を暗幕で覆う。この年頃には誰もがそんな気分を覚えるはず、夏草の吐息や笹ずれの声色にも、悠然とひろがりを見せている入道雲の刻一刻のためらいにも、さざ波の去来に永遠を見つけ出そうとする歓びのうちにも、必ず行き先が存在すると云う確信をもって。
富江は突然の事故に見舞われしまった我が身を予期出来なかったが、川中にあって誰ひとりその不運の様子を見つけ出すことがないままに時が過ぎ、辺りが薄暗くなりかけた頃ようやく意識をおぼろげながら取り戻しながら、明瞭な思考を働かせる前に、くだんの笑み、夜の番人から折り目正しい挨拶をうけた、それはひとがたを借りた目配せのようなわずかな符号だったが、真摯な解答に違いなかった。ちょうど自らのなかに潜む生命力を、浮き出た毛細血管へとふと見つめ直すことで再認識するように。
わたしの血は赤い、、、朦朧とするあたまの上で、その赤い血潮が大きく輪のようになって飛び散る映像が花開いたのは、幽明にさまよながらもようよう陰りの森から、民家の灯りをその先に認めた時の距離感がしっかり計りとれない安心と同じで、今、現実に港の上空へと打ち上げられた花火の爆音は耳元へ届かなかったにしろ、半目開きのその視線はまぎれもなく、夜空に炸裂した大輪の一瞬を見逃してはいなかったのである。そして間を置きつつ空高くつき上がって行く火焔の種子がひとつ、またひとつと赤く青く開花していくのをぼんやり見つめていた。
すると遠くのいつもとは違った華やいだざわめきは、川の流れにひたされている本来ならば身に直結する恐怖の感覚を、何処かへ浮遊してゆく童心に帰そうとして、いっそう霧のかかった隔たりを生み出し、それはあたかも黒雲に隠されてしまった月の光のように薄明るい世界の調べとなって、天空から降りそそいでくるのだった。
そして水面のかすかな意識は、生と死の分水嶺へと流れ落ちるそうになる清濁のさきをことさら呻吟するまでもなく無心のまま受け入れようと、やわらかなその光のもとへ、からだから亡魂をさまよい出させたのである。
富江はまるで気流の目のようになって、河口を下り潮風と硝煙がまじりあう港まで流れついた、、、、、、、

、、、、、夜の海に鳴り響く爆音はいたるところで反響しあっている。
天上に放射状にひろがる色彩が弾きだす大きなこだまは、今宵ここにつどった人々の裡に様々な残響をもたらし、その余韻にひたる間もなく、新たに鮮明な印象を残していった。黒い海面は波間を自在に固定したかの意思をはらみ、ほとばしる火片の残像を消しさることを忘れて、次から次へと打ち鳴らされる梵鐘にたましいを吹き込まれ、月のみちひきから解き放たれたように変化するのである。それは漆黒の絨毯が数えきれないほどの燭台を反射している、きらびやかな錯覚に似ていた。
そんな一年に一度の奇跡、天海の競演は、陸地との境界線をきわめてあいまいなものにしてしまうと、大きく了解したようで、もう些事にはいっさい関知することなく、夜空の変幻を人々へ気ままにまき散らかし、あとは幽冥界からの声なき声に耳を傾けるのだった。
富江は予期せぬ、まれびととなって境界線をすり抜けていった。自身の姿が幻灯機であることに喜びを見いだしたのか、不運は転じて今はすべてが成就したかと夢みられた。


[8] 題名:まんだら5 名前:コレクター 投稿日:2009年03月05日 (木) 14時23分

木下富江は神木と言われる大楠の木陰で自然の涼をとると、港のにぎわいが潮気をはらんだほどよい熱気に感じられ再び川縁に沿って海の方へと歩いていった。
鉄柵が幾分低くなった辺りに来て、ふと下方を見遣ると垂直に切り立っていない、少しだけ傾斜のあるコンクリートで塗りかためられた中程に何かがこちらに向かってうごめいているのが見てとれた。身を策から乗り出すようにして凝視すれば、それはたわしくらいの大きさをした石灰色の亀で、地の底から天上を目指して這い上がってくる風に感じとれて、小さい頃、みどり亀を飼っていたがいつの間にか逃げ出してしまったのか、富江の前にはそれっきり姿を現さなかった記憶が、切実とした気持ちになって自分の方へと一生懸命に上ってくる場面となり、ことさら胸をときめかしたのである。
更に声援を送る勢いで上半身をくの字に曲げたのが、まったく予期しない結果を招いてしまった。
履き慣れない下駄が上背を持ち上げるあんばいで、両足が地から離れると同時に全身のバランスが失われ頭部が錘の役目を果たした瞬間、富江は緩やかに半円を描くように真っ逆さまに川の中に転落してしまった。
落下の最中はまるでスローモーションだった。最初ふんわりと重力から開放されたかの感覚が訪れた時には、非常に危険な状態を意識しつつも、一方では深い川ではない、溺れることもあるまい、祭りの日に最悪なアクシデントに見舞われるなんてまったくついてない、などと不測の事態を客観視する余力がこころの中に残存していた。
しかし、顔面が水しぶきをあげて半身が水没した刹那には、ことの次第を緊急回避させるべくあらゆく思惑は消え去り、声にならない悲鳴が全身に響き渡ったのだった。
確かに水かさは日頃より増してしたし、この河口が連なる海原はこれから満潮時を迎えるところでもあり、思いの他深みを実感した富江は、ほとんどパニック状態で水中でもがいて、呼吸を確保しなければと焦った為に川水を吸引してしまい、これまで味わったことのないくらいの息苦しさと恐怖の中に翻弄されるはめになった。
それでも手足をばたつかせているうちに片足が川底をなぞり、ややあって両の足を固定しかけた時には何とか救いの光明が見いだされ、後は手をひろげて羽ばたきをする要領で均衡をただし水中に立ち止まることが出来た。
胸元まで及ばない浅瀬であることを確認すると、一気に悲しみやら怒りやら恐やらが混交となって再び、冷静さをなくしかけたのだったが、よく辺りをみればすぐ先に人が歩いていける格好の平坦な場所があった。
そこまでたどり着けばよい、あくまで慎重にと右足から踏み出したのだが、落下の衝撃かもがいている最中なのだろうか、下駄は失われてしまっていて素足になっていることが得体のわからない不安を呼び寄せた。それでも左足をっ確認するとこちらは素足でなない、しっかりと履物をしている。その安堵が先を急がせた、足下の情況は不安定なままで、、、
眼前に迫る平の地にもう少しのところだった、歩を進める自分の足下に落とし穴が存在いるとは富江は夢にも思わなかった。正確には川底に横たわっていた金属製の細長い部品のようなものに躓いて、今度は真正面に倒れ込んでしまった。しかも後わずかで到達するはずであった水面から浮き出た平坦なコンクリートの角にしたたか顔面をぶつけ昏倒してしまったのである。
その姿は溺れかけた者が岸壁に半身をささえるようにして、ようやく一命をとりとめた様に似ていた。
富江は運が悪かった、すぐ上の道路はいつもより交通量も多く人通りもあったのだが、祭りの日の今日、人々の意識は華やかな舞台となるべく海の方面へと向かっているのだった、誰も日頃から連綿と流れゆく河川に一瞥をくれる者はいない。
やがて満潮によって水かさは富江を被い隠そうとし始めた。しかしちょうど帯をしめたあたりの水中にしっかりした突起物があってうまい具合に浴衣をひっかけ、コンクリートの側面から浮遊して流されることはなかった。


[7] 題名:まんだら4 名前:コレクター 投稿日:2009年03月05日 (木) 14時23分

―S課長は社内のデスク上などいつも整然とこぎれいにされていて、今も右手の押し入れの棚に重ねてある横長のビニールの入れ物にはマジックで番号が書かれている。
一通りぐるりと部屋を拝見した久道は、何の邪気もなく思うままに質問を発していた。「あのう、部屋はここだけじゃないですよね、流しもトイレも奥にあるんですか」
手作業に一段落したと云った面持ちで泰然と身をこちらに向けた課長は言った。「この一室だけさ、狭いだろうが満足はしてるよ」
目を細め勝ちにしてそう答える表情は、どこか醒めたものを醸し出していた。半身をひねるようにして久道の方を見ているS課長の足下をよく見ると布団の縁を踏まないように、自分の寝起きする夜具だから気ままに扱ってもよさそうなものなのだが、頑に何かの領域を侵すことないと云った律儀さで、この圧迫感さえ受ける小部屋を労っているかに思える。そして、久道は次の瞬間に意識と場面がほとんど同時に強烈に転換していった。
自分の足は平気で課長の布団のしかも真ん中あたりを踏みしめている、もっとも靴脱ぎ場以外は課長が領域の侵犯を自らに律しているから、久道には文字通り足の踏み場がない。だが、この上司は別段に注意を促す小言を吐くわけでもなかった、いつもの仕事上での叱責度から鑑みれば奇異の念にとらわれる。
又もや瞬時であった、S課長と自分との会社内においての距離感や価値観が、こんな夢の中まで来て、しかももう相当以前に関わりのなくなった過去の人物を、誕生日という意味あり気な導入部から断片図をかいま見せようと登場させている、、、夢の国にはロジックは存在しない、、、それは間違っている、ロジックは隠されているようで、実は再構築されるのを待ち望んでいるのである、しかも秘められたロジックはいずれ規範を提示することで、安寧秩序を保持しようと努める私たちを実に鮮やかなお手並みで欺く。
それは仕方がない、悠長に徴など欲する間もなく夢は今夜も明晩もやってくる、、、まさしく一瞬の裡に言葉と感情は圧縮され、次なる舞台に放り出す。
久道は自宅らしい居間のテレビの前に座り込んでいる、ブラウン管の映し出されているのは、さっきまでのS課長のあの小さな室内だった。向こう側から彼は話しかけてくる「これからの営業マンはね、マニュアル通り一遍じゃ駄目なんだよ、駄目なんだよ、、、」

それから先の展開を久道はよく思い出せなかった、いや、思い出したくないのかも知れなかった。いずれにせよ、夢の役割はそこまでで完結しなければならない、何故なら私たちは夢想に引き回されるほどお人よしではないからである。映画に感動し心酔してしまうこともあるだろうが、日々の連鎖は鉄製で作られている、宙に浮いた夢見は錆つく前に地上の引き戻さなくてはならない。
これから死ぬまで、いったいどれくらいの数を夢見るのだろう、世にあふれる出版物と同様、読まれればそこで一応の役割は果たされる。もっとも奇跡的な書物は例外だが、、、
久道は分析心理学から援用する、あの秘匿させた部分に意味を過剰に見いだす手法をまっこうから否定した。失われた大陸を失われた記憶を頼りに探査しようが、それはスポイルでしかなくはなから暗中模索に等しい、ならば夢見のうちでも鮮明に脳裏へ火花が散るような激烈な意識を徹底解明するほうが、確実に手応えを感じうるに違いあるまい。
超常現象と云うつかみどころのない光景を捕獲する為に、深層心理への探求など無意味である、折角むこうからメーセージを送ってくれているではないか、受信装置は我である、感度のよい電波だけを徹底受信すればいいのだ。


[6] 題名:まんだら3 名前:コレクター 投稿日:2009年03月05日 (木) 14時22分

久道の乗った車は直線したまま、国道に出ると一気にスピードを上げながら南下し、握るハンドルの感触もオートマテックに思われる、と意識した途端に昨晩の夢見を追憶し始めた。
現在の家業である硝子工房を引き継ぐまで、久道は東京で大手保険会社の営業の職についていた。その時の上司であったS課長が数年ぶりに彼の夢枕に鎮座したのである。

―比較的に要領を得た、密室劇みたいな内容だった、、、S課長から電話があり、今日は休日なのに何の用事だろうかと耳をそばだてていると、いつになく力のない声で「あ、遠藤か、、、実は今日なあ、俺の誕生日なんだけど、、、」と言うなりしばらく黙り込んでしまった。
久道は直感的に、これは自分を誕生会に招待しようとしているのか、しかし、恋人や異性ならともかく上司が部下に誘いかけるのは、何とも薄ら寒い気さえして、しかし何故言ったのかよくわからないが「そうですか、実は僕も明日が誕生日なんです、、、」そう言葉をもらしてしまってから、これは失策だと悟ると「でも昨日から熱が出て寝込んでるんです、風邪ひいたみたいで」ととってつけた嘘を話した。
相手の落胆する表情が無言の受話器の向うから伝わってくる。すると課長が妙な事を言い出した。「でな、今ひとりでフグを食べてるんだけど、これどこかに毒があるんだよな」
そこまで聞いた瞬間、久道はどこをどうやってその場に吸い込まれたのか、S課長の部屋らしきところに立っていた。見ると休日らしくくつろいだ上下ジャージ姿の課長が小さなちゃぶ台を前にして座っている。
「このフグなあ、ここのところはむしったほうがいいんだっけ」と言いながら手にしているのは、何とフグのみりん干しで、まわりのとげとげした箇所を裂こうとしていた。呆気にとられながらよく目をこらすと、皿に盛られたその干物の両脇には梨が一個ずつ並べられていた。
夢は飛翔する、、、どんな奇想天外な物語よりも俊足に、大胆に、鮮烈な空間を生み出し展開させる。そして映画のサウンドトラックのように、ある種の音楽が静かに伴奏されている。主題が視覚で構成されるのが夢の宿命なのは、わざわざ学説を持ち出すまでもなく、私たちが一番痛感しているはずだ。続いて聴覚が体感が夢空間で体験で出来る、嗅覚や食感は極めて低い確率でしか表現されない、いつか見た夢の中で食べたカレーラスはがまったく異質の味をしていた。
ある種の音楽と呼んだのは、それが旋律をもった曲調で奏でられるのではなく、ちょうどライヒやグラスの反復音を想起させる短いフレーズが鳴り響いているにすぎないのだが、何故か決まって深い哀調を含んでいる。感動のあまりに涙するほど劇的でもなく、紋切り型の切な気な感興を付与されるわけでもない、あえて例えるならば、燦々と照りつける陽射しのまばゆさのさなかに蜃気楼の出現を願う、夢の中で夢を希求するはかなさとしての音像。
気をつけて耳を澄ましてみるとよい、だいじょうぶ夢の世界でも多少は意志を抱けるし、時にはストーリも変えられることだって可能だ。
ミュージカルは別格として映画のシークエンスは映像によって書かれている、繰り返すが夢も同じように視覚そのものが銀幕となる、サイレントがトーキーへと進化していくのは必然であった。脳細胞が作り上げる抽象的説話を文明は模倣したにすぎないとも言えよう。
S課長の手元からはフグがなくなって、足下からはちゃぶ台も梨も消え去っていた。久道は万年床と呼んでさしつかえのない、布団の上に佇んでいる。見れば課長はせわし気に布団の縁で何やら片付けをしている様子、電話口のあの弱々しい雰囲気はそこにはなく、いかにもてきぱきと律儀そうな立ち振る舞いは日頃の仕事ぶりを見ているようだった。




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