COLLECTOR BBS
[17] 題名:まんだら14 名前:コレクター 投稿日:2009年03月05日 (木) 14時28分
久道の大きな危惧の念とは、とにもかくにも彼の主張する神秘の扉が開かれたとき、果たして人々は各国家は軍事大国首脳らは、どのような対処をもって未知なる存在を受け入れることとなるのかと云う憂慮にあった。
だが、長年の研究によれば世界各国にはすでに異星人の塁家とも呼ばれるべき一族が太古の昔から棲息しており、彼らの実体はフリーメーソンの創設時からも介入しており、その秘密結社がもつ秘匿された高度にして驚嘆すべき技術を久道は、人間離れした奇跡的なものだと信じてやまないのであった。
そんな彼の意見に対し、大方の反応はまやかしでしかないとあたまから否定する限りではあったものも、なかにはまれに生真面目な論客もいて、「遠藤さんの話しは確かに飛躍しすぎたところもあるけど、大体において仏教の究極が億万光年の彼方へとひろがっていく宇宙空間的な哲理をもっている以上、あながち現実遊離した論理ではないと思うのでして、これはあくまで精神論とした上での言い方ですが、ギリシャ神話とか日本の記紀に登場する神々だって争いごとをして勝者が讃えられるわけですから、結局、強いもの偉大なもののほうに聖性を求めていくのが業と云うものでしょう。遠藤さんが、人格神をより絶対的な巨大な装置として(これは例えですけど)備えつけて、自らもその装置のなかである種の開放感を得られるのであったら、裏付けが独断であろうとも、本人がそれでかまわないのなら、人にとやかく言われる問題でもないですが、本来的には」
などと、久道の琴線に際どく触れつつも、最終的には誇大妄想のゆえんを力学的な位相から計り直すもの言いは確かに、頼もしい共感者となり得るはずだったのだが、あらためてひとからそんな意見を聞いたところで、正直それほど感激するわけでもなく、というのも久道自身がすでに重々知りつくしていて、いわば確信犯がことあるごとに、己の信条を一から説明しなければならない煩わしさで辟易してしうまう場合と同じように、もはや超常現象全般は微動だにしない確信として屹立した、取り替えがかなわない久道のいきり立った男根そのものあったと云えよう。
これは有無を言わさぬ根源的な体感として、彼の全存在となって時折放出する**の粘り気もまた過剰な戯れをしたたるい成分へのなかにまとわりつかせ、まるで蜘蛛の糸のごとく、全体が分泌液にまみれているかのようであった。
そんな特異な性質の保持者であるという自負が久道を陶酔させるのである。隠されたものに心底あこがれを持ち続けることで、現実から逸脱しようとも、精神の根っこではそれらも所詮夢見るロマンの発露でしかないと以外に醒めた情熱が、くすぶっているだけなのだと割り切っているとすれば、そこに薪をくべることがまさに生命力を燃え上がらせることになろう。
久道を見誤ってはいけない、彼は決して自らを霊能者や超能力者であるとは微塵も考えてはいないのであり、ただただそういった存在に触れたいがゆえに情熱をたぎらせているだけなのだ。それはちょうど作家にあこがれる文学青年がいつの間にやら作家気取りで書き物をしはじめる仕草に似たもので、そのうちゲルマニューム療法などを施しはじめ、心身ともに浄化させていく効能を感得することも、至高体験へと登りつめてゆく過程に相違ない。
もっと卑近な例を上げれば、アイドル歌手にならって髪型をまねてみる心根も同様の形態である。久道のアイドル、つまり偶像は地球規模を離れた無限の宇宙の彼方に存在した、そして何万光年の先からやってくる光が今ようやく夜空を見上げる肉眼のうちにとらえられるように、いつか必ず異星からの訪問客が現れると心待ちにしているのであった。
まわりからすると風変わりな所作に映るだろうが、久道にとっては日常を豊かなものにしてくれる、大切なドラマでもあった。現在彼が夜毎の夢見にある着想を見いだしているのも、いかに日々を充実した精神で送っていこうとしているのかうかがえる、そう、久道はそれほど偏狭でもない、実に人間らしい人間の特質をよく体現しているだけのことなのである。
あくる朝早く、サイレンの音を耳にしたような気がしたのだが、まだまどろみのなかにあった久道は、妻や子供らが騒がしいのでしぶしぶ起きだし何事かと問いただすと、
「大変、前の川に女の子が落っこちていたそうよ、救急隊が来てさっき助かったみたいだけど」
妻の言葉がまだ夢のなかから聞こえてくるものに思えたのは、超常現象を前にして立ちすくむ、あの恐怖と感動が交じり合った複雑にして明瞭な認識が訪れた為だったからなのだろうか。
[16] 題名:まんだら13 名前:コレクター 投稿日:2009年03月05日 (木) 14時28分
ことさら世情に造反したかの態度で、今夜ひとり自分の部屋にこもるようにして、コリン・ウィルソンの大著「オカルト」を耽読していたのは、傍目から見ればやはり少しばかり奇特な様子に思われるかも知れなかったが、遠藤久道にとってみれば、きわめて明快な意味あいしかそこになかった。
花火大会などより、やっと手にしたこの書物をとにかくじっくりと読んでみたかったのである。今にはじまったことでもない、久道は小学生くらいまでは子供らしく、まつりや運動会にこころ弾ませたものだったけれど、中学にあがり多少なりとも自意識の萌芽がかいまみえる年頃にもなると、いわゆる偏狂者の素質も同系列の規則正しさでめばえはじめ、結婚後の現在にいたるまでまつりごとや催し物などいっさい関知なしと云った態度を示し続けていたのだった。
久道は高校時代に友人から、そこまで神秘主義に興味があるのだったら、祭礼や神事と云った伝統行事にも関心を向けるべきで、その友人は自分が歴史や民俗学といった分野から、人間の奥底にひそむ不可思議な心性を探りあてようとしていることを細々と話すのだったが、久道は「規模が小さい、小さい、ぼくはね、もっと大きな謎とき、秘められたものに興味があるんだ、例えば天皇家に代々つかえる超能力者の系譜が宇宙人であるというような、壮大なものへさ」
と云った具合で、つまるところ一般の歴史書にまったく記述されたこともないような、また心理学や哲学で説かれる理論などもたかだか人類の進化系統にすぎないと断裁し、そんな次元を遥かに超えた大宇宙の生命体へと交感される日をひたすらに信じ込んだわけであった。
しかし、ごく一部の熱狂的な探求者が著す文献など、当時から今にいたるまで市民権など得られるはずもなく、一時期世間に衝撃をあたえたカルト教団が興味本位で巷に浸透したあとでは、その事件性に対する非難の声によって以前にも増して小数派であることに堅持するしかすべがなかった。
マスコミが書き立てる上っ面だけの三面記事など、そっちのほうがまやかしものだと、久道はひどく憤慨したもだったが、怒りだけによって何事も進むこともあるまい、誤解を招く言動は直ぐさまにその足もとがすくわれるように、出来るだけ信念を冷静に伝えていくのが賢明であると、あたかも弾圧下にあっても理念を貫いてきた鎌倉仏教信者らの気概そのものと云った調子で、自分の守備位置を確認してから次には伝道師の気骨を体現すべく、仕事以外の余暇を可能な限りその方面に費やすこととなった。
彼の親が信心していた宗派とは一線を画し、とはいうもののこれは独自の折衷案かそれとも受け売りなのかわからないが、歴史に名を残し教祖と崇められた聖たちや、現存する宗門にあっていまだ勢力の盛んな者らを奇跡を呼び起こす存在として栄光を授けることによって、彼らをして超能力者の一員であることをも自他ともに容認するのであった。それは小数派からしてみれば、時代性と云う区分を垣根を取り払うことで、同位置に自らを配置出来る可能性を見込んだわけでもある。
空海も親鸞も日蓮も道元も、もちろん釈尊やキリストも霊能者として超一流であったからこそ、大きく歴史の時流に乗れたのであって、そこには人智を超えた能力が発揮されたことになる、つまりは発想を転換して彼らがそもそも人間ではなく、天空の彼方より訪れし異星人だとすれば、、、ここに久道の面目躍如たるものがあった、俗に云う誇大妄想的な発意と悪態をつかれようが、人類の科学がわずかの年月で加速度的に進化したことと照らしあわせてみても、いかに民衆が迷妄にとらわれながらも気がついてみれば、何の違和感もなく日常を過ごしているではないか、人類が月にまで飛んでいく未来がやってくるといったいどれだけ昔の人間は考えただろう、その理屈とまったく同等に想像してもらいたい、現在、この星の上で生きている何人がこころの底から宇宙人の存在を認めているのだろうか。
そう、こころの目を開く時がやってきたのだ、そうすれば必ず秘められた大きな扉がそのまぶたとともに開門されることになる、しかし、同時に厄介な問題も横たわることになるのだが、それは今後の重大な課題としてあるいは人類にかせられた指標となって、良きにすれ悪しきにすれ、創世記以来の未曾有の出来事になるのだ。
[15] 題名:まんだら12 名前:コレクター 投稿日:2009年03月05日 (木) 14時27分
酒の肴にと奥さんがさばいてくれた、あじととびうおの刺身をつまみながら、口中に新鮮な青りんごをかすかに思わせるその白ワインを含むと、潮の香りは風に乗って遠くまで運ばれ、人気のない山村に生える果実の木のしたへと、まるで眠りをもとめてそこへ安息するかのような心持ちになり、日頃より愛飲家である磯野孝博は、やはり今夜は一段と格別な風味を享受であると実感すると、これは無明長夜に違いないこと知るのであった。
無明とは仏教用語で云うところの、根本的な煩悩を意味している、自分は仏性の顕現から隔絶したところに立っているが、地場としての故郷は決して見失わないよう努めてきたつもりだった。少なくともここ数年は、、、
大学院に残り研究生だった頃、巷では輸入思想がファッションの様相で席巻していて、孝博も向学心から知人に薦められるまま、いくつかの書物に目を通してみた。
しかしそれらはやたら難解な言い回しを弄するばかりで芯のない、装飾ばかり体裁を整えた文献としての価値以外これと云った感銘をもたらすものではなかった。というのも共産主義思想が敗退したのちに、打ち立てるものは空疎な建築でしかないとか、すべては模倣の模倣物であると云った冷笑主義、ハイパーリアルな醒めた意識には深く共感できるものが見いだせず、それなら何も現代でなくとも、フランス暗黒文学の系譜に連なる、サドやバタイユ、なかでもユイスマンの「さかしま」における徹底した非人間性の小宇宙の構築の方が、ある意味馬鹿らしく逆に人間臭さを内包していて孝博の愛読書の一冊であった。
それでも収穫がまったくではなかったわけでなく、言語学者のソシュールを丹念に研究考察したわが国のある学者や、フッサールの現象学のなかに潜む欲望論を白日にさらけだし、フロイドとは異なる意識による意識としてより厳密な学の体系を模索しようと試みた著者にも共鳴したのだった。
彼は若い頃、熱心に読み耽ったニーチェの書をあたまにして、ニヒリズムをうたっている内容のなさを、まるで手柄のように執拗に書き連ねている凡人たちを軽蔑した。虚無とは空白でも非存在でも死の国でもない、大いなる幻想が我々を支配している現実を直視するなかで、はじめて見えてくるある特異点にような磁場なのであって、その姿かたちにできないものを認識しつつ了解し、超越してゆく肯定の反命題そのものである。
ニーチェの思想が万人理解されないのは、実は当然のことかも知れない、はなから本人がそう言い切っている、又それはニーチェが形而上学特有の体系を持とうとしない、その破壊性とあまりの壮大な寓話によるものであって、畢竟の大作「ツラトゥストラ」を一読しただけでも、いかにたくさんの動物たちがある任務を遂行するためにいびつにしかも華麗に描きだされているかうかがえる。
そして、神が死んだと声高に宣言したあと、荒野をさまよう人々に超越の示唆をあたえつづけるが、残念ながらニーチェ自身そこまでで哲学思考を中止したかの文脈で我々をめくらませ、権力への意志で有名な力そのものへの傾倒と呼びかけるのだが、その曖昧な抽象論は読むものをして各人の思惑を様々な道程へと導く仕掛けになっている、もっともそれが意図されたものなのかどうかは判然としないのだが。
ここがニーチェの謎として永遠の魅惑となり、あるいは圧倒的な悪夢を呼び寄せる無数の試金石と化し、いまだその呪縛から解放されることはない。そして永遠回帰と云う、もはや一大叙事詩でしかない、死と生の謎掛けへと高らかにこう詠われる。人生がすべてが何ものも苦も快楽も一切がっさいが寸分も違わずにもう一度もどってくる、我々は果たしてひきうけられるのか、反復される人生そのものを、、、
孝博のニーチェに向き合う限界もそこにあった、これはまぎれもない獰猛でしかも弱肉強食を指向する、荒くれ陶酔を宿すディオニュソスの神をまつる祭壇で唱えられる題目ではないか。仮にこれが方便だとしても、修辞学以上の手応えを得られない、絶対者なきあとの絶対者、、、民主主義的な懐にとても大人しく収まる思想ではない、ヴェーバーの著書「プロテスタントティズムの倫理と資本主義の精神」と並び、逆説的究明にはどこか皮肉めいたものがいつも顔をのぞかせているようで、それが他力を廃した結果の手段だとしても、やはり素直に受け止めがたい何かがひっかりとなって、ニヒリズムの克服を実現させるにもう一度、偶像化されたものに我が身に投影しようと奮い立った、それ自体がいっそう肥大したニヒリズムであるかも知れない恐れを十分に認めながらも、、、
[14] 題名:まんだら11 名前:コレクター 投稿日:2009年03月05日 (木) 14時27分
いつの頃のものかはわからないが、十分に時を経た木桶は、この畳部屋に備えられると見事なまで風趣に富み、恰好のワインクーラー代役を、いや、もはやそれにとってかわる役柄としての調和をみせていた。
あべこべに孝博が持参したフランス産のワインのほうが、浮いてしまっていたのだが、夕刻からはじめた晩酌はすでに全身へ酔い心地を染みこませてゆき、もうかれこれ何十年ぶりだろうと懐かしさで、このひなびた家屋への記憶を新たに構成し直すと云ったロマネスクは、一通り経過してしまったとでもいうふうに、あとに残された情趣は結局、自己沈滞へと降りていくめぐりあわせになってしまうのだった。
そうなると、しみじみとしたこころ模様は、いつの間にやらジグザクな斜線やら大小まばらの染め柄でほどこされ、それが酔眼に反映する、視野のせばまりかと云えばそうであったし、つい今しがた鳴りだした風鈴の音のように意味あり気に、合図を送る夜風の仕業か、不要な想念や現象を払拭するために吹き抜けてゆくだったが、突風が砂ぼこりどころかときには肝心なものまで飛ばしてしまうように、酩酊にいたる行程はこころのなかにある沈殿物を浮上させ、またもや脳裏のど真ん中まで持ちあげてくるのだった。
しかし孝博は沈酔に身もこころも任せていられるのは、今夜が特別な環境にいるからであることを忘れはしなかった。
ただ、目と鼻のさきほどの港の喧噪から霧隠れし、独り特別観覧席から物見へとこころ踊らす、この情況に感謝しなければならない、すると、どうしても親戚に対する親和と信頼が(いくら彼らが気さくであったとしても)孝博にとっては、薄皮一枚まで肉薄してくる過剰ななれ合いとして、そこには差し迫った意味など存在してないにも関わらず、それ自体の関係に対し敏感に反応してしまうである。
親族そろってエレベーターのなかでひしめきながら向き合う場面に、どこかむずかゆさを覚えて早く扉が開いてくれないかと願う、血縁ゆえの濃さからの得体の知れない逃避のような、それがわが国の家父長制が担ってきた圧迫でもあり、そこからの逸脱を希求する近代自我の名残として、核家族に分散した現代にまだ連綿と続く決して断ち切れないものとして、日常のなかにとけ込んでいることを、なぜか不気味にとらえてしまうのが不可解なのであった。
孝博はそんな自分を嫌った。つまるところは自分のひとり相撲に似た神経作用かとも考えてみたが、正式な講師として教壇には立ってないものの、宗教学の立場から察するにかつて研究を重ねた、古代宗教の原初形態をつぶさに考察したデュルケムによるトーテミズムの聖と俗の集団表象や、フレーザーの「金枝篇」で展開される王殺しの説話、モースや更にエロスと死に鮮烈な光芒を見いだしたバタイユの供犠論、わけても近親相姦を見据えたフロイドの功績をすでに古典としてではなく、新たな性欲論として読み直しを通してはじめて自意識、この近代がつくりだした脳細胞の解明へと、形而上学とくにデカルト以降の西洋思想らと比較省察のうえで、仏教哲学からの派生としての新興宗教を専門としてきた。
彼が中国語に堪能になったのは、若い頃から熱心に仏教を勉強し続けたこともあって、しかし実のところ宗教学のあまりの広大な領域に果たして寿命つきるまで到達地点が見いだされそうにもないと云う、諦観を抱いてしまったのも正直なところであり、もうひとつはかねてより有数の現代宗教に思わぬ魅惑を持ってしまい、本来ならば冷徹な視点で文献なり寺社なりに対峙しなければならないところ、祈りと云う、古来より人類の歴史の精神、いや、魂の土台である根本原理を学術的に極めるのは、ある意味片手おちではないかと、それには自らがたとえ偶像であろうが、政治的援用にまみれた体系をもつ一派だろうが、とりあえずは無垢なる気持ちで一度は接してみるのが大事なこと、世界中の広範な絶対神の歴史的異相を追い続けるよるよりも、ひとつでもいいから安息の地みたいなものを欲したのであった。
そしてその祈りを通して、深く、深く、知性を超えた時空へと誘われていくもの潔しと、大きく首肯したのである。
[13] 題名:まんだら10 名前:コレクター 投稿日:2009年03月05日 (木) 14時26分
古びた佇まいながら、玄関のガラス戸や格子が醸し出す風情には泰然とした望郷が備わっていて、屋内の印象も同様、あらたに増築された部屋は別としても、木目を土色にくすぶらせ、天井があたまの上に張りついているかのこじんまりとした造りには、現代からみれば快い逼塞感させあたえてくれ、磯野孝博をもてなすために通されたこの室内にはあきらかに時代の変遷が旋風の果てとなって淀み続けているようだった。
開け放たれた二階窓枠の欄干からは、すぐ右手に港が展望され、すでに夜空には夏の風物詩が大きく目に映っている。畳敷きの上に腕枕でくつろいだふうの孝博は、次々と打ち上げられる花火を見やりながら、想いはまた別のところへ行ったり来たりして、それは今宵の一夜の情趣を味わいながらも、この場面自体が何ものかの背景となっていると想起する、こころの奥行きを感じることに結ばれていくのだった。
親戚筋にあたるこの家人らは、子供らの強引な言いなりにあえてなだめすかすわけでもなく、孝博の心中を半ば察した思慮も手伝い彼ひとりを残すかたちで、「子らが港に連れてけってうるさいもので、じゃ、少しの間行ってくるから留守をたのんだよ」と、まるで傷心の身に気遣いをかける案配でいそいそと皆が出払ってしまったのだったが、たとえそうした配慮が加味させたにせよ、もう今はごく自然の成り行きと感じるほうへと彼のこころは緩やかに傾斜していた。
食卓に並んだ魚介類や夏野菜をつまみながら、手土産に持ってきた辛口の白ワイン二本を、ここの主が「わしらはビールと冷や酒で十分、孝博さんが飲めばよい」そう言われるままに、その口ぶりが遠慮をまったく含蓄していないことも素直に受け止め、「考えてみると自分自身がこのワインを飲みたかったのだ、まったくどうかしている、相手のことを少しも思っていない」と自己嫌悪を抱きながらも、特に神経質な思考に拘泥してしまことがなかったのは、やはりこの家の人たちの些事にとらわれない純朴さに暖かく包み込まれてしまったようで、そのぬくもりをつまらぬ思惑で台無しにしていまいそうな予感を打ち破るためにも、孝博はあえて彼らの好意に甘えることで一切をそこに委ねる気持ちが、これは決して欺瞞に裏打ちさせる意味でもなく、単純に、そう願うことで更に親和が育まれればと、ひとつの注文を口にさせた。
「あのう、すいませんが桶みたいなものありませんか、氷水をはってもらえれば、あっ、バケツでもいいです、ワインを冷たくしておきたいんです」
我ながら図々しい言い様にも思えたが、ここの奥さんは、あら気がつかなくてと云った面持ちをぱっと咲かせると、それはたった今、海上高く花開いた火の粉が見せる無心のかがやきにも似て、階下に降りてゆくとはたして孝博が願った木桶をやや重そうな物腰で手にして戻ってきた。
以外に深みのあるその桶には、きらきらと水中に身を浮かべる氷が、いかにも涼しげに無言で語りかけてくれるようで、「こんなのでよかったかしら」と孝博に問うた奥さんの優しい声の響きは、氷水の上に反響し、よりいっそうの冷たさがぬくもりのなかで湧出したとしか想われないほどに、美しい沈黙が余韻となって部屋中に漂うのだった。
こうやって留守番役の名誉とともに、居住まいをくずしてごろりと横になれたのも、幸せのひとときかと、それが本意のもとであることに一抹の疑いもないはずだったのだが、まわりの心遣いに感謝の念を思い抱いた途端にあらぬ条理が、潮風に呼応する軒下に吊るされた風鈴の音のごとく孝博の胸中にちりんと鳴りはじめた。
それは、宗教学者であり大学中国語教授の肩書きが自ずと前景にせり出す、あのいつもの帰納法的な分析思考と、それとは相反する無抵抗なるままの崇信が、拮抗しつつ絡み合い意識も精神も混濁となって、あたかも宇宙創世記における重力の折衝のうちに次第に形成される、天体の大いなる奇跡へと飲み込まれていきながら、かろうじて矜持を保とうとする、彼自身のまんだら図絵を顕現させることにあった。
[12] 題名:まんだら9 名前:コレクター 投稿日:2009年03月05日 (木) 14時25分
今年の夏が過ぎれば、この町からしばらく遠ざかることになる、、、結婚してから一年、新婚生活の妙味やらが色褪せるまではいかないにしろ、次第に安定したものへと落ち着いていくのは、成り行きにまかせれば当然そうした陰りを呼び寄せることになって、否むしろ薄日がもれる下で多少の不明瞭な関わりの方が、お互いをさらけだしてしまうなれ合いをうまく緩和てしてくれるのではないのだろうか、、、
森田梅男は専門学校卒業後、とある商社に入社したのだが、最初の二年を地方都市で勤務したあと故郷に配属されて、しばらくするうちに地元で今の家内と知り合い、割と短い交際期間だったが躊躇することなく、思い切りよく結婚に踏み切ったのだった。
まだ子宝には恵まれていなかったこともあり、今回の転勤辞令を受けた折も、ところ変われば気も何とやらで新婚生活の雰囲気とはまた違った環境がもたらす恩恵の部分にまず食指が動かされ、日々の過ぎ行きが再び大きく変化を迎えるように思えてくるのであった。
転任先は横浜だと知らされており、今までにない大都市への転勤は、様々な思惑を乗せて希望という名を文字通り梅男の胸中へ刻み込んだ。毎日の夕飯のおかずもこれまでみたいに一品のみと云った、手抜きから脱却して(もっとも妻は経済観念からそう工面しているのであろうが)中華街などにもたまには出かけ、外食してみるのもまた豊富な食材などから刺激を受けて、決して豪華を臨んだりはしないけれども、幾分か総菜に手間ひまを加えてもらえればと、まだひとりだけの想像ではあったが、早くも現在とは異なる家庭があらたに生まれてくるような期待にこころ踊ったのである。
今夜出不精な妻を誘って夫婦水入らずで、花火の打ち上げを見物しようと意気込んだのは、確かに盆休みなどには帰省の機会もあるだろうが、この町で開催される港まつりは八月の始めという日程もあり、転任後の次回は何年先になるかも知れないと見納めに似た感情を含みつつ、同時に伴侶である彼女自身にもその様な惜別の意識を感じとってもらいたいと願ったからであった。
それは旅立つものがいつになく殊勝な面持ちで、あとにする地に名残を抱きながらも別天地に想いを馳せる、湿気が急激に乾燥してゆく速度の安楽に一抹の弁明が必要とされる申し訳なさみたいなものを二人して共感することであり、夜空の上っては花咲、散ってゆく花火の宿命を間断なき現実と対比させ、強く印象づけることで帰り際にでも帰宅後にでも、ある信念の言葉をその余韻の上へと刻印したいと考えたからである。
梅男のこころは、今の家庭の営みにまだ大きく現れてはないけど、すでに軋みが生じていることを認めなくてはならなかった。それが、妻との性格上の摩擦だけに要約されないことも薄々知っていた、蜜月と呼ばれるこれまでの時間を如何に意識的に梅男の側から、想像と演出を用いて享楽出来るよう努めていたか、そうした苦心が打てば響くよう相手のうちに届くのであれば、それ以降は自ずと必要以上の腐心も、意識を硬直させ腫れ物に触れるような配慮もやがては霧散してゆくことだろう。
しかしこのままでは、展望は開けてきそうにもない、そこで平たく云えば、ひとつガツンとこれからの夫婦生活のありかた、自分の最低限の要求を理解してもらう為にも、今夜のまつりは二人して今までに対する詩情と感情が激しく交差しながら転機へと旅立つ惜別であった。
梅男は妻を愛していた、しかし愛憎が表裏一体で顕現する以上、惰性のまま時の推移に委ねる訳にはいかない。いずれはとりかえしのつかない軋轢となる前に、どうしても膝を交えてみなければならなかったのだ。
頭上を彩る夜の祭典は終盤にさしかかったが、結局梅男をじっくりとそれを鑑賞することなく、終始あたまのなかでは神経系統が火花を散らし続けていた。
妻のほうはどうかと見れば、打ち上げの間中ほとんど口数もなく、放心した顔つきで海上に向き合っている。そんな様子に梅男は感慨深いものを覚えたのだが、やがてすっと胸もとから上がってくるような言葉としてあふれだしてきたのは、妻に対する憐れみの衣を借りてきた、涙もろくなってしまいそうな響きを持つ、ありがとうと云う感謝の念であった。
[11] 題名:まんだら8 名前:コレクター 投稿日:2009年03月05日 (木) 14時25分
しばらくして青井好子が向うから歩いてくる男に手を振るのを見て、上戸麻菜は彼が好子から聞かされていた花野西安であることを直感し、思わずなぜか自分も気分が高揚してくるのを覚えた。
そして、不覚にもそんな態度を見せてしまったと、明らかに他の連れらへ遠慮がちの表情を面にしている好子の様子が、いかにも健気ででもあり、麻菜は相手に優しさを示す時に特有のあの包みこむような笑顔をたたえながらこう言った。
「何よ別れたんじゃなかったの、やだ、未練たっぷりって感じじゃない」
すると好子は、照れくさそうに少し顔を赤らめ身をよじる仕草をしながら、
「一応はね、だって彼ったら毎年花火の夜には女と別れてしまうとか真面目な顔して話すんだもの、もう三年間連続のジンクスは今年もみたいなことまで言うから、それってわたしと別れたいって意味なのって、あたまにきてそれっきり連絡しなかったのよ。それであっちからも何の音沙汰ないし、これはもう終わったんだなって自分の方から終止符をうったわけ」
「じゃ、何で手なんかふって愛想するの」
「実はね、今日の昼間にメールが彼からあって、君を試すような言い草をしてしまってごめん、過去がそうだったから逆に不安を相手に投げかけるふうになってしまった、って」
「好子が別れたってわたしに話してくれたのは五日前でしょ、何ですぐにそう釈明しなかったんだろうね、要は彼がもとのさやに納まりたくなったってことじゃないの」
「そう思ったわよ、だから返事しないでいたの、そしたら今夜、港で出会うだろうなんて夕方の又、メールがきて、、、」
麻菜はこころのなかで勝手にすればと思いつつ、「じゃ、とにかく会ってもう一回きちんと話ししてくれば」
と好子の肩先を軽く突き出すようにして恋の後押しをすると、あとの二人に「好子を行かせてあげましょう、いいわね」
それを聞いた好子は、すでに満面に喜びがあふれ出す勢いのまま、みんなの顔をひとりずつ確認するように、そこには奥ゆかしげな感謝の気持ちを現す意味あいでもあると云うふうにして、「ごめんね、でもすぐに戻ってくるからここで待っていて」
するとさっと小走りで男のもとへと近づいて行き、あっという間に二人の向き合う姿を遠目にも確認されたが、人出にさえぎられてここからは男女の織りなす機微までは見えてこない。
本当にわずかの間であった、口もとをきつく結んだ顔つきながら、溌剌とした瞳を輝かせもうこちらへ駆けてくる好子に、連れの誰もがことの成り行きを容易につかみとり、彼女の言ったようにほんの時間で約束ごとを遵守した清潔な心意気を祝福するに何の邪推も入りこむ余地はなかった。
皆は好子のいつもより濃く塗られたブルーのアイシャドーに、ある晴れやかな自然を前にしたわき起こる清冽な色調を思い浮かべ、そのメイクが厚手であることも今は何の違和感なくあらためて見つめ直した。それは女優が舞台のすそに悠然と降りてくる瞬間に感じる、スポットライトから解き放たれたあとにも余韻を残す、舞台化粧の派手やかさを夢の続きと認めたくなるひとときの陶酔に似たものを連想させる。
好子は好子で、無言のうちにさっと集中した視線がはらむ優しいときめきに応えるべく、開口一番にこう切り出したのだった。
「ねえ、花野さんがね、よかったらみんなで今から家に来ないかって、二回の窓からよく花火が見えるんだって。わたしが喋りだす前にそう言ったの。わたし彼には、今日は先輩や友達と一緒だからって話そうとするのを予感していたようなセリフでしょ、だからみんなに聞いてみるって言ってきたの」
麻菜もそれから好子の同級生の葉子も一昔前のアイドル歌手みたいな雰囲気の友美も、それを聞くとさっとためらいがよぎったが、そのためらいは温めておいた飲み物を口にする時にひと呼吸する、そんな落ちつきのある性質であったので一同、快くうなずいたのであった。
すかさず好子は西安に再び手をふりながら、今度は両方の腕を頭のうえにかざし円形の了解合図を送ったのである。
「焼きそば、もう少し買ってこうか、フランクフルトと水餃子もね」
麻菜は、他人の恋愛はいいもの、花火のくぐもった爆音と一緒にそんな思いが夜空の上に大きく共鳴していくのを覚え、ロマンチックな気分にひたるのだった。
[10] 題名:まんだら7 名前:コレクター 投稿日:2009年03月05日 (木) 14時24分
夜空にひらく炎塵、一瞬のまばたきの裡におさまる華麗な滅亡に、こころ奪われ放心でこうべを上げたままの人もいれば、まつりの催しの一角に臨んでいることが、何か総合的な意気高揚に結びついていて、別段こころして花火のうつくしさやはかなさにとらわれる必要もないと、ちょうど花園を散策ことが心地よいのであって、ひとつひとつの花びらをたんねんに吟味して立ち会うまでもあるまいと云った、そんな感覚、、、裸電球の下の屋台らが夜目にものめずらしく、色合いの度合いでいけば金魚すくいや、綿菓子、お面に、風船、たこやき、やきそば、などの夜店がけばけばしくかもしだす、一種独特のきな臭さのほうが、ひと夏の喧噪をより魅惑の一夜に仕立て上げている。
上戸麻菜は初めてデパートの屋上に連れてこられたおさなごのような紅潮した笑みで、たこ焼きをうれしそうにほおばると、いつくかまだ残したままの手元を微動だにせず、さきにある焼きそばの屋台に執心している様子だった。
久しぶりに帰省し高校時代の友達と連れだって港まつりにくり出したのだが、ついこの間までの煩わしい恋愛を早く忘れ去ってしまいたい一心も手伝い、こうやって無邪気に買い食いしてみると、しみじみと気持ちが晴れるように思えた。決して空高く彩る花火に関心を示さない訳ではなかった。
今しがた買った焼きそばを片手に次はよく冷えたビールをと、見目にも涼しさを呼ぶ氷水がはられた浅い水槽のなかから一番冷たそうな缶を選び出そうとした時、ひんやりした冷水の感触に何か言いようのない観念が想起されたのだったが、それが実体をあらわにしようとした途端に缶ビールをしっかりつかみとり、いかにも飲酒によってこれから軽い酔いを覚えるだろうと云う予感が、現在の思考をあいまいにさせてしまう効果を準備しているようで、結局、今は深く思い悩むよりかは何にも拘束されない自由な意思を尊重するための手応えでもあった。
「ごめん、焼きそば持っててくれない」
そう連れの後輩だった青井好子に声をかけると、財布から小銭をとりだし店の人に手渡し、さっそくビールをごくりと喉に流し入れた。
「一気に飲んじゃうわ、何か喉が乾いた」
そう言ってごくごくと缶を傾けて飲みほしはじめたのだが、その格好が見せる、そうことに視線において特徴的な上目つかいのわずかに痴呆を演じているような、視点があらぬところに貼付けられた空洞の両の目は、隙だらけで無防備そのものだった。
しかし、その定置されたからっぽの眼球に、ごくありふれた光景が映し出され、しかも何が印象的なのやらかいもく見当もつかないほどに普通で平凡な、親子の影が、、、父親と幼い娘と云う構図が、今度は反対に明確に言い表わせる現像として脳裏に焼きつけれた。すると突然、閃光のように強烈な想いが願望となって浮上してくる。
「やっぱり子供はいいなあ、わたしも出来れば女の子が欲しい」
振り払いたい以前の色恋の翳りにもそんな願いは潜んでいたと思うけど、こうやって如何にも人ごととして目の当りにすると、それは不思議なもので、理想やあこがれは決して都合よく降ってわいてこないのと同じく、仮にドラマや映画などに描かれる顛末に惹かれてみたところで、所詮は絵空事の世界、それよりは今しがた前を横切っていったあの親子がかすかに漂わせていた、はにかみと素っ気のなさが、実際には血のつながりを現実的に有無を言わせずに物語ってくれている。
麻菜にとっては些細なひとこまだったけれども、素晴らしい文章に出会った時に書物にしおりをはさみこむような小躍りした感動だったのかも知れなかった。親子の姿はすでに視界から失われていた。
杉山周三はあれこれ欲しがる娘を、途中ではぐれてしまった妻に委ねて、まだ今日は一滴もたしなんでない酒を、こころおきなく味わいたかった。もちろん、若い女性が通りすがりの自分らに、そんな想いを抱いたなどとは露にも知るよしもない。
[9] 題名:まんだら6 名前:コレクター 投稿日:2009年03月05日 (木) 14時24分
ほの暗い眼をした見知らぬ男がすれ違い様に何とも薄気味悪い笑みを浮かべる。
空気感染と云えよう暗鬱な余波だけを残して遠ざかってしまうその男の行き先を富江は何故か知っていて、それが恐ろしく矛盾した思惑であることも、はかない定めだと了解しつつ男のたどる軌跡に一抹の望みを委ねた。どうして死神の来訪を許諾しかねないそんな直感がよぎるかと云えば、それが夕陽のもと、地面のうちからしみ出してくる自分の影法師であることを確認する、黄昏の哀歌であり、すぐそこに迫り来る宵闇にとけ込み飲まれこんでしまう一日の過ぎ行きへの挽歌であると感じていたからである。
青葉の茂りが夜のなかでひっそりと眠りにつくように、溌剌とした若い情動もやはり小さな死を迎える、それは生育や未来への躍動であるが故の陰画として、すべての思念を暗幕で覆う。この年頃には誰もがそんな気分を覚えるはず、夏草の吐息や笹ずれの声色にも、悠然とひろがりを見せている入道雲の刻一刻のためらいにも、さざ波の去来に永遠を見つけ出そうとする歓びのうちにも、必ず行き先が存在すると云う確信をもって。
富江は突然の事故に見舞われしまった我が身を予期出来なかったが、川中にあって誰ひとりその不運の様子を見つけ出すことがないままに時が過ぎ、辺りが薄暗くなりかけた頃ようやく意識をおぼろげながら取り戻しながら、明瞭な思考を働かせる前に、くだんの笑み、夜の番人から折り目正しい挨拶をうけた、それはひとがたを借りた目配せのようなわずかな符号だったが、真摯な解答に違いなかった。ちょうど自らのなかに潜む生命力を、浮き出た毛細血管へとふと見つめ直すことで再認識するように。
わたしの血は赤い、、、朦朧とするあたまの上で、その赤い血潮が大きく輪のようになって飛び散る映像が花開いたのは、幽明にさまよながらもようよう陰りの森から、民家の灯りをその先に認めた時の距離感がしっかり計りとれない安心と同じで、今、現実に港の上空へと打ち上げられた花火の爆音は耳元へ届かなかったにしろ、半目開きのその視線はまぎれもなく、夜空に炸裂した大輪の一瞬を見逃してはいなかったのである。そして間を置きつつ空高くつき上がって行く火焔の種子がひとつ、またひとつと赤く青く開花していくのをぼんやり見つめていた。
すると遠くのいつもとは違った華やいだざわめきは、川の流れにひたされている本来ならば身に直結する恐怖の感覚を、何処かへ浮遊してゆく童心に帰そうとして、いっそう霧のかかった隔たりを生み出し、それはあたかも黒雲に隠されてしまった月の光のように薄明るい世界の調べとなって、天空から降りそそいでくるのだった。
そして水面のかすかな意識は、生と死の分水嶺へと流れ落ちるそうになる清濁のさきをことさら呻吟するまでもなく無心のまま受け入れようと、やわらかなその光のもとへ、からだから亡魂をさまよい出させたのである。
富江はまるで気流の目のようになって、河口を下り潮風と硝煙がまじりあう港まで流れついた、、、、、、、
、、、、、夜の海に鳴り響く爆音はいたるところで反響しあっている。
天上に放射状にひろがる色彩が弾きだす大きなこだまは、今宵ここにつどった人々の裡に様々な残響をもたらし、その余韻にひたる間もなく、新たに鮮明な印象を残していった。黒い海面は波間を自在に固定したかの意思をはらみ、ほとばしる火片の残像を消しさることを忘れて、次から次へと打ち鳴らされる梵鐘にたましいを吹き込まれ、月のみちひきから解き放たれたように変化するのである。それは漆黒の絨毯が数えきれないほどの燭台を反射している、きらびやかな錯覚に似ていた。
そんな一年に一度の奇跡、天海の競演は、陸地との境界線をきわめてあいまいなものにしてしまうと、大きく了解したようで、もう些事にはいっさい関知することなく、夜空の変幻を人々へ気ままにまき散らかし、あとは幽冥界からの声なき声に耳を傾けるのだった。
富江は予期せぬ、まれびととなって境界線をすり抜けていった。自身の姿が幻灯機であることに喜びを見いだしたのか、不運は転じて今はすべてが成就したかと夢みられた。
[8] 題名:まんだら5 名前:コレクター 投稿日:2009年03月05日 (木) 14時23分
木下富江は神木と言われる大楠の木陰で自然の涼をとると、港のにぎわいが潮気をはらんだほどよい熱気に感じられ再び川縁に沿って海の方へと歩いていった。
鉄柵が幾分低くなった辺りに来て、ふと下方を見遣ると垂直に切り立っていない、少しだけ傾斜のあるコンクリートで塗りかためられた中程に何かがこちらに向かってうごめいているのが見てとれた。身を策から乗り出すようにして凝視すれば、それはたわしくらいの大きさをした石灰色の亀で、地の底から天上を目指して這い上がってくる風に感じとれて、小さい頃、みどり亀を飼っていたがいつの間にか逃げ出してしまったのか、富江の前にはそれっきり姿を現さなかった記憶が、切実とした気持ちになって自分の方へと一生懸命に上ってくる場面となり、ことさら胸をときめかしたのである。
更に声援を送る勢いで上半身をくの字に曲げたのが、まったく予期しない結果を招いてしまった。
履き慣れない下駄が上背を持ち上げるあんばいで、両足が地から離れると同時に全身のバランスが失われ頭部が錘の役目を果たした瞬間、富江は緩やかに半円を描くように真っ逆さまに川の中に転落してしまった。
落下の最中はまるでスローモーションだった。最初ふんわりと重力から開放されたかの感覚が訪れた時には、非常に危険な状態を意識しつつも、一方では深い川ではない、溺れることもあるまい、祭りの日に最悪なアクシデントに見舞われるなんてまったくついてない、などと不測の事態を客観視する余力がこころの中に残存していた。
しかし、顔面が水しぶきをあげて半身が水没した刹那には、ことの次第を緊急回避させるべくあらゆく思惑は消え去り、声にならない悲鳴が全身に響き渡ったのだった。
確かに水かさは日頃より増してしたし、この河口が連なる海原はこれから満潮時を迎えるところでもあり、思いの他深みを実感した富江は、ほとんどパニック状態で水中でもがいて、呼吸を確保しなければと焦った為に川水を吸引してしまい、これまで味わったことのないくらいの息苦しさと恐怖の中に翻弄されるはめになった。
それでも手足をばたつかせているうちに片足が川底をなぞり、ややあって両の足を固定しかけた時には何とか救いの光明が見いだされ、後は手をひろげて羽ばたきをする要領で均衡をただし水中に立ち止まることが出来た。
胸元まで及ばない浅瀬であることを確認すると、一気に悲しみやら怒りやら恐やらが混交となって再び、冷静さをなくしかけたのだったが、よく辺りをみればすぐ先に人が歩いていける格好の平坦な場所があった。
そこまでたどり着けばよい、あくまで慎重にと右足から踏み出したのだが、落下の衝撃かもがいている最中なのだろうか、下駄は失われてしまっていて素足になっていることが得体のわからない不安を呼び寄せた。それでも左足をっ確認するとこちらは素足でなない、しっかりと履物をしている。その安堵が先を急がせた、足下の情況は不安定なままで、、、
眼前に迫る平の地にもう少しのところだった、歩を進める自分の足下に落とし穴が存在いるとは富江は夢にも思わなかった。正確には川底に横たわっていた金属製の細長い部品のようなものに躓いて、今度は真正面に倒れ込んでしまった。しかも後わずかで到達するはずであった水面から浮き出た平坦なコンクリートの角にしたたか顔面をぶつけ昏倒してしまったのである。
その姿は溺れかけた者が岸壁に半身をささえるようにして、ようやく一命をとりとめた様に似ていた。
富江は運が悪かった、すぐ上の道路はいつもより交通量も多く人通りもあったのだが、祭りの日の今日、人々の意識は華やかな舞台となるべく海の方面へと向かっているのだった、誰も日頃から連綿と流れゆく河川に一瞥をくれる者はいない。
やがて満潮によって水かさは富江を被い隠そうとし始めた。しかしちょうど帯をしめたあたりの水中にしっかりした突起物があってうまい具合に浴衣をひっかけ、コンクリートの側面から浮遊して流されることはなかった。
[7] 題名:まんだら4 名前:コレクター 投稿日:2009年03月05日 (木) 14時23分
―S課長は社内のデスク上などいつも整然とこぎれいにされていて、今も右手の押し入れの棚に重ねてある横長のビニールの入れ物にはマジックで番号が書かれている。
一通りぐるりと部屋を拝見した久道は、何の邪気もなく思うままに質問を発していた。「あのう、部屋はここだけじゃないですよね、流しもトイレも奥にあるんですか」
手作業に一段落したと云った面持ちで泰然と身をこちらに向けた課長は言った。「この一室だけさ、狭いだろうが満足はしてるよ」
目を細め勝ちにしてそう答える表情は、どこか醒めたものを醸し出していた。半身をひねるようにして久道の方を見ているS課長の足下をよく見ると布団の縁を踏まないように、自分の寝起きする夜具だから気ままに扱ってもよさそうなものなのだが、頑に何かの領域を侵すことないと云った律儀さで、この圧迫感さえ受ける小部屋を労っているかに思える。そして、久道は次の瞬間に意識と場面がほとんど同時に強烈に転換していった。
自分の足は平気で課長の布団のしかも真ん中あたりを踏みしめている、もっとも靴脱ぎ場以外は課長が領域の侵犯を自らに律しているから、久道には文字通り足の踏み場がない。だが、この上司は別段に注意を促す小言を吐くわけでもなかった、いつもの仕事上での叱責度から鑑みれば奇異の念にとらわれる。
又もや瞬時であった、S課長と自分との会社内においての距離感や価値観が、こんな夢の中まで来て、しかももう相当以前に関わりのなくなった過去の人物を、誕生日という意味あり気な導入部から断片図をかいま見せようと登場させている、、、夢の国にはロジックは存在しない、、、それは間違っている、ロジックは隠されているようで、実は再構築されるのを待ち望んでいるのである、しかも秘められたロジックはいずれ規範を提示することで、安寧秩序を保持しようと努める私たちを実に鮮やかなお手並みで欺く。
それは仕方がない、悠長に徴など欲する間もなく夢は今夜も明晩もやってくる、、、まさしく一瞬の裡に言葉と感情は圧縮され、次なる舞台に放り出す。
久道は自宅らしい居間のテレビの前に座り込んでいる、ブラウン管の映し出されているのは、さっきまでのS課長のあの小さな室内だった。向こう側から彼は話しかけてくる「これからの営業マンはね、マニュアル通り一遍じゃ駄目なんだよ、駄目なんだよ、、、」
それから先の展開を久道はよく思い出せなかった、いや、思い出したくないのかも知れなかった。いずれにせよ、夢の役割はそこまでで完結しなければならない、何故なら私たちは夢想に引き回されるほどお人よしではないからである。映画に感動し心酔してしまうこともあるだろうが、日々の連鎖は鉄製で作られている、宙に浮いた夢見は錆つく前に地上の引き戻さなくてはならない。
これから死ぬまで、いったいどれくらいの数を夢見るのだろう、世にあふれる出版物と同様、読まれればそこで一応の役割は果たされる。もっとも奇跡的な書物は例外だが、、、
久道は分析心理学から援用する、あの秘匿させた部分に意味を過剰に見いだす手法をまっこうから否定した。失われた大陸を失われた記憶を頼りに探査しようが、それはスポイルでしかなくはなから暗中模索に等しい、ならば夢見のうちでも鮮明に脳裏へ火花が散るような激烈な意識を徹底解明するほうが、確実に手応えを感じうるに違いあるまい。
超常現象と云うつかみどころのない光景を捕獲する為に、深層心理への探求など無意味である、折角むこうからメーセージを送ってくれているではないか、受信装置は我である、感度のよい電波だけを徹底受信すればいいのだ。
[6] 題名:まんだら3 名前:コレクター 投稿日:2009年03月05日 (木) 14時22分
久道の乗った車は直線したまま、国道に出ると一気にスピードを上げながら南下し、握るハンドルの感触もオートマテックに思われる、と意識した途端に昨晩の夢見を追憶し始めた。
現在の家業である硝子工房を引き継ぐまで、久道は東京で大手保険会社の営業の職についていた。その時の上司であったS課長が数年ぶりに彼の夢枕に鎮座したのである。
―比較的に要領を得た、密室劇みたいな内容だった、、、S課長から電話があり、今日は休日なのに何の用事だろうかと耳をそばだてていると、いつになく力のない声で「あ、遠藤か、、、実は今日なあ、俺の誕生日なんだけど、、、」と言うなりしばらく黙り込んでしまった。
久道は直感的に、これは自分を誕生会に招待しようとしているのか、しかし、恋人や異性ならともかく上司が部下に誘いかけるのは、何とも薄ら寒い気さえして、しかし何故言ったのかよくわからないが「そうですか、実は僕も明日が誕生日なんです、、、」そう言葉をもらしてしまってから、これは失策だと悟ると「でも昨日から熱が出て寝込んでるんです、風邪ひいたみたいで」ととってつけた嘘を話した。
相手の落胆する表情が無言の受話器の向うから伝わってくる。すると課長が妙な事を言い出した。「でな、今ひとりでフグを食べてるんだけど、これどこかに毒があるんだよな」
そこまで聞いた瞬間、久道はどこをどうやってその場に吸い込まれたのか、S課長の部屋らしきところに立っていた。見ると休日らしくくつろいだ上下ジャージ姿の課長が小さなちゃぶ台を前にして座っている。
「このフグなあ、ここのところはむしったほうがいいんだっけ」と言いながら手にしているのは、何とフグのみりん干しで、まわりのとげとげした箇所を裂こうとしていた。呆気にとられながらよく目をこらすと、皿に盛られたその干物の両脇には梨が一個ずつ並べられていた。
夢は飛翔する、、、どんな奇想天外な物語よりも俊足に、大胆に、鮮烈な空間を生み出し展開させる。そして映画のサウンドトラックのように、ある種の音楽が静かに伴奏されている。主題が視覚で構成されるのが夢の宿命なのは、わざわざ学説を持ち出すまでもなく、私たちが一番痛感しているはずだ。続いて聴覚が体感が夢空間で体験で出来る、嗅覚や食感は極めて低い確率でしか表現されない、いつか見た夢の中で食べたカレーラスはがまったく異質の味をしていた。
ある種の音楽と呼んだのは、それが旋律をもった曲調で奏でられるのではなく、ちょうどライヒやグラスの反復音を想起させる短いフレーズが鳴り響いているにすぎないのだが、何故か決まって深い哀調を含んでいる。感動のあまりに涙するほど劇的でもなく、紋切り型の切な気な感興を付与されるわけでもない、あえて例えるならば、燦々と照りつける陽射しのまばゆさのさなかに蜃気楼の出現を願う、夢の中で夢を希求するはかなさとしての音像。
気をつけて耳を澄ましてみるとよい、だいじょうぶ夢の世界でも多少は意志を抱けるし、時にはストーリも変えられることだって可能だ。
ミュージカルは別格として映画のシークエンスは映像によって書かれている、繰り返すが夢も同じように視覚そのものが銀幕となる、サイレントがトーキーへと進化していくのは必然であった。脳細胞が作り上げる抽象的説話を文明は模倣したにすぎないとも言えよう。
S課長の手元からはフグがなくなって、足下からはちゃぶ台も梨も消え去っていた。久道は万年床と呼んでさしつかえのない、布団の上に佇んでいる。見れば課長はせわし気に布団の縁で何やら片付けをしている様子、電話口のあの弱々しい雰囲気はそこにはなく、いかにもてきぱきと律儀そうな立ち振る舞いは日頃の仕事ぶりを見ているようだった。
[5] 題名:まんだら2 名前:コレクター 投稿日:2009年03月05日 (木) 14時22分
その日、遠藤久道は昨夜みた夢がどうして印象深いのだろうかと訝りながら、所用で車を走らせ川沿いの道に出たところで浴衣姿の若い娘とすれ違ったのだが、次の瞬間、ふとサイドミラーに目をやった時にはすでに距離を隔てていて、しかもこれこそ夢か幻か、川縁からその娘が飛び込み落下してゆく奇態な光景が鏡に映りこんだような気がした。
ある程度のスピードが出ていたこともあって、振り向く余裕もなく又、急停車するには大仰に思い、少しばかり速度を緩めながら再びサイドミラーを注視してみたのだが、そこに人の気配は感じられなかった。
久道は特に驚いた様子も見せずそのまま運転を続けた。と云うのもつい先日も自宅の風呂場の窓から開かれた夜空に光る物体が変則的に飛来しているのを目撃して、湯船から飛び出し裸のまま居間にいる妻を呼びよせ庭先からその方向をふたりして見上げたのだが、月明かりと不動に点在するかの星のまたたきが上空を支配してるだけ、そこには何ら異変は生じていなかったからだった。
もう慣例になっている、こういった事態に無言で落ち着きはらったまなざしを向ける妻に対して、久道は同じく冷静さを取り戻した面持ちに返った素振りを示しつつも内面では、ひとつの大きな確信が肩すかしを食らった時の失意を覚え悔しがった。
未確認飛行物体にしろ、有史以前に地球に降臨した異星人が何らかの影響を現在に到るまで及ぼし続け、その結果として歴史が動かされていると云う謎めいた伝説、あるいは太古に存在したと呼ばれる高度な文明をもった大陸にまつわる諸説を、肯定的に把握出来ることが特権的な人格であると信憑する心性は、敬虔な宗教者や絶対者に帰依する思念とはやや赴きの異なるものであり、その異相には紛れもない先見が宿っているのであって、常人には見えない大きな皮膜を突き破れるのは、この意識の目覚めでしかないと云う優越感が久道の道先案内であったのだ。
それは知り得ぬものを透視する超能力が我が身にも潜在していることを証明する最善の方法に違いなく、先行きへと進む歩みには不変の陶酔が保証されているのだった。
自分の目にしか映らない現象こそが、至上の光景となりうる。随分とこれまで幻覚と思われそうな場面に遭遇してきたのも、決して不可解な事ではなかった。すべてを透視出来る力が万全に備わっていないから、夢見のように断片的な事象が立ち現れては消え去る、それらが全部意味あるもの、更につきつめれば何らかのメッセージを秘めているのではないか、一見無意味に感じる破片を根気よく寄せ集めてみれば、必ず整合性をもった現実へと結実される。かつて誰も知り得なかったもの、想像を絶するあまりに巨大で深淵な宇宙が明確に見えてくる。
しかし、若い頃のあの独善的な思惑、それらを超越した彼方、約束の地にそびえる塔へたどり着けるのは自分だけであると云う、自負心は三十も半ばの年齢になった今では次第に弱まって、代わりにこれまでの体験や研究の成果を世に現すことが啓発になるはずだと、かつては嘲笑し相手にしようとさえしなかったまわりの人間らに、今度は噛んで聞かせるように要点を絞り、熱意をもってふれあえば必ず理解を得てくれると思い始めていた。
無論、そうなると体系化した理論を全面に指し示すことが必要になり、ここに早くも難問が横たわってしまった。久道の感性からすれば体感的な理屈ではあっても、他者からしてみれば超常現象とやらの実証は、すでに感得不可能が故にいい意味でも悪い意味でも一種のロマンに包みこまれるようにして隠されているもの、最先端の物理学や宇宙論を一般者が容易に理解しづらいのとは別で、それは科学が壮大かつ綿密な仮説の上に構築されるたゆみない努力を、随分と端折って安易にしかも高遠な理念だけは手放さずに、説き聞かせるこちら側の言い分に少なくとも明解な要所がなければ、やはり心霊主義を唱える限界と区別がつかなくなってしまう。
そこで久道が思いついたのは、夢の分析を通して深い考察を行なうことだった。人の夢を他人は直接見ることが出来ない、個人的で非論理的な混沌たる体験―各人の夢見こそがもっとも身近で感覚が際立つ超常現象だからである。
[2] 題名:まんだら1 名前:コレクター 投稿日:2009年03月05日 (木) 14時18分
住み慣れたこの町を離れ専門学校のある名古屋に越してから一年目の夏は、木下富江に対して瑞々しい陽光で向かい入れた。
この正月にも一度帰省しているものの、冬着で重ねた衣服のせいなのか、直接素肌全体に光差すのを、訳ありにこばむかのようにその冷たい上空からの陽を意識することはなかった。日中は特に外出もせず姉や姪たちも生家に帰っていたこともあり、家族団らんの屋内は何の誇張もなく富江を心地よく暖めてくれたから。
あれから半年があっと云う間に過ぎ去って行ったようにも思えたのは、先ほど少し港の方を歩いてこようと思い、玄関から表に出た刹那ふとよぎった季節の推移であり、時間の変りようを劇的に知らしめた、まばゆい昼すぎの太陽の仕業であった。二日前に名古屋のアパートを後にしてから、ずっと汗がにじみだす暑さを片時も忘れさせない、この日射しは常に自分を照らし続けている、、、
この夏は例年になく七月の半ばから猛暑となり、額からしたたり落ちるほどの汗ばみにすでに慣れてしまったはずだが、今しがた軒先に臨んだ瞬間、いつも変らない陽の光はまるで不思議の国への入り口を証明せんとばかりと、見慣れた近所の意味あいをわずかなのだろうけれども、ちょうど密閉された納戸が経年によって軋みが生じ魔物じみた荘厳さで一条の光を忍び込ませるように、静かな孤立感を伴った変化をもたらしたのだった。
富江は寸秒の間、凍りついてみたが、肝試しの遊技が不気味をもって辺りを一変してしまうのと似た感覚で、もうこの家で生活してはいないすでに一人暮らしで通学している日々が、こうやって夏休みと云う郷愁を抱えているのだと想ってみれば、なるほど自分はまだ成人にはあと一年ある身分、大人への脱皮など大仰なたとえで今の得体の知れない緊縛を夢想の責任であると信じるのだった。
狭い路地を抜け川筋に出る横道へさしかかる頃には道行きながら、先の帰省の折のこと、元旦の午後親戚や家族のなかにあって、よく甘受出来ない抑制されたかの安堵に寄り添うようにしている小さなほこらみたいなものが、胸の奥底に祭ってある気持ちがして、それは去年まで養い住まわせてもらっていたこの家と両親に対する真摯な感謝であったのだろうかとぼんやりとしたまま考えながら、しかしすでに歩が進み眼前に川向うに大きな神木が表れた時には、祈祷が深い情念とともに気化してしまったのか逍遥の自然と、こころのなかに仕舞われていった。
話には聞いていたがこの川は随分と奇麗になった、小さな時分よりその流れと淀みと腐敗を見てきた富江の目に映る川水は澄みきっているほどに清冽ではなかったが、真夏の陽の下を健気に河口へとはけてゆく様は涼し気であった。
数日前から断続的な大雨が降ったせいかこの季節にしては水かさもある。今夜はこの町の港祭り、すでに魚市場では出店も準備され、手踊りやカッター競技などが催され人出でにぎわっていることだろう。
富江も宵からの花火大会に仲のよかった同級生らと連れ立って、そのお祭り気分のうちへととけ込んでいくよう、早くも浴衣の装いであった。これは名古屋の大須にある店で見立てた時代物の、白地に紺が大半を染め抜いてところどころを朱の綾が大胆に配色された、現代から眺めると古風でありながら未来的な新鮮な位相がそこに浮かびあがり、若さゆえの気概にその浴衣をまとえば、背伸びした心意気は自身の思慮をそれこそ軽く飛び越え、夜空に打ち上げられる大輪の火花となって活写されるに違いない。
わたしは水路そのものだし、まだ始まったばかりだけど、恐れや不安が宿すから大きくそこから跳躍してみることが出来ると思う、、、確かに一人で寝起きする毎日は自由で放埒な一面を獲得しているけど、その分先行きの決定がすべて自分に押し迫ってくる、、、見知らぬ土地でどこに向かへば良いのかもわからない、、、
富江は気がつくと巨大な神木の茂りの木陰に佇んでいた。物思いに耽りながらも身体は不必要なまで熱射を欲しないもの、また太陽のひりつきにも悪心などなく決して大事な隠れ蓑を剥奪したりはしないもの。
夜になれば浄化された川面に照り返すだろう火花の影、放恣なままに散花してゆく刹那の悦びの紋様は側溝を流下するだけと言えまい。
夕暮れにもまだ遠い炎天のもと、海上をなでつけた潮風が富江の鼻に少し強く匂っていった。