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[555] 題名:お知らせ 名前:コレクター 投稿日:2021年08月14日 (土) 03時09分

三重県の要請に基づき、感染症拡大防止のため、当店は臨時休業させていただきます。

令和3年8月14日~令和3年9月12日

バー・コレクター


[554] 題名:ゆうれい座(加筆にて再アップ) 名前:コレクター 投稿日:2021年07月06日 (火) 06時08分

不思議な色合いのまちなかにいる。
紙芝居みたいにこじんまりとしていそうで思いのほか、にぎやかさは収まりつかない気配を仰々しく伝えてくれるから、胸の奥に温かいものが湧き出でて、辺りを一通り見回した頃にはじんわりとした感情に包み込まれてしまった。
立ち止まるのを拒まれているのだろうか、いや、斜め向こうの威勢のいい客引きは流暢な発声でもって巧みに見世物の面白さを語りだし、懸命に、つまり全身全霊で、とても情熱的に、だがどことなくあらかじめ色褪せした絵柄のような物悲しさを底辺に残しつつ、私らの気をひこうとしている。
空は水ようかんであつらえられたふうにひんやり、行き交うひとの目は反対にそわそわ落ち着きがなく、やれ綿菓子売りだの、金魚すくいだの、団子屋だの、狐やひょっとこの面売りだの、香ばしい焼きいかを並べた店だのが居並ぶなか、地べたの感触にも空の色が映りこんでいるようで、私はふわりと浮き足だってしまい、客引きの口上に聞き入っていた。

「いよいよ本日開演だよ、見なきゃ損とは言わないけど、無理してまで見物してもらうことねえや、えっ、どっしたわけだって、あたりきよ、あとの祭りだってことさ。そこの旦那も姉さんも学生さんもお嬢さんもお坊ちゃんも、うわさには追いつけやしないよ、天地が逆さになろうがこればかりは現物を目ん玉に刷り込んだもんが勝ちってもんだ。あれは信じられなかったなとか、ううっ、思い出しただけでも鳥肌がとかね、いくら人づてに聞いたところで、話す本人だって狐につままれているんだ。根掘り葉掘りと望むところだがそうは問屋が卸さねえ、へへ、あっしの言うことは大げさかい、そんなはずない、無理しなくてもよござんすって仏の教えみたいに諭してるんだよ、こちとらも商売だい、それがですぜ、皆々さまの冷静な判断を仰いでるって寸法だい、馬鹿丁寧にもほどがありゃしやせんか。そんじょそこらの出し物とは破格の違いがあるって証拠じゃござんせんか。で、その肝心かなめをこれから、つつっと喋りますよ、いいですかい、気が向いたなら木戸をくぐっておくなまし。
皆さんは満蔵一座って名くらいは知っておりやしょう、へい、蛇女やらろくろ首にミイラの類いをこれまでお披露目いたしやした、おっ、そこの坊ちゃん、うなずいてるね、影に隠れたお嬢さんも、そうでやす、怪奇一辺倒、おばけの一座でごぜえます。種も仕掛けもありませんとも、かといって妖怪変化とも申しませんよ、そんなほらを吹いてはいけない、正真正銘の奇形異形のね、哀れな宿命を背負ったものらのすがたかたちだ。ところが満蔵座長いわく、もうそうした宿命を売り歩くのは嫌気がさした、ここらでがらっと趣向を変えましょうと、が、これまでの名物はなんといっても異形の数々、憐憫はさておき中々めぼしい工夫が思いつかない。さあ、ここからが正念場だ、そう一気にすっとんだよ、端折りも端折って神髄を開陳する。いやね、あっしも最初は度肝を抜かれたってより、押し黙ってしまってね、いくらなんでもそんな無体な、罰あたりどころか夜と昼を反転さしたようなもんだ、そりゃあり得ん、どうあってもあり得ん、第一うす気味悪くていけねえ、そんな幽霊なんぞ、捕まえようなんざ。
もらしてしまった、そうなんで、あの世から見せ物を引っ張ってこようって魂胆でね、あっしが戸惑うの分かるってもんでしょうが。ところが座長の眼はぎんぎんぎらぎら、商魂たくましいってよりか、それはまるで夏休みの自由研究とやらに熱中しまくる小学生みたいな意気込みでして、まっ、どっちにしても、すでに幽冥界の主と掛け合い、契約を取り交わして来たっていうから驚き桃ノ木山椒の木だい。
さあさあ、お立ち会い、あっしの言い分はもっともと了解してもらえましたかい、隅っこのしたり顔の学生さんよ、あんただって文明社会に幽霊が出るとは、しかも真っ昼間の見せ物小屋にだよ、大人しくどろどろひゅうって具合にお出ましすると考えられようか、そうだろう、どうせ手品かまやかしかってとこが関の山、あったりまえよ、坊ちゃん嬢ちゃんだってそれくらいの道理は心得てらあ、ねえ。と、まあ、たじたじな気分はここまでにしておき、いよいよ本題だ。
なんだいなんだい、そこの旦那、ひとが喋るまえからえらい顔で興奮しちまってよう、だがね、旦那の心中は大体いいとこを突いているんだろうな。幽霊の正体はいかに、なるほど違いはありやせんよ。見てのお楽しみなんぞ、けち臭いことも言いやせんよ。もったいなんかつけるもんで。ずばり予告しておきますよ、おんなの幽霊でさあ、しかもうら若い美形ときた、ああ、旦那、慌てなさんな、押さないで押さないで、あんたが一番乗りなのは確実でさあ、あっしが太鼓判押すよ。まだ説明すんでないからようく聞いておくんなさい。でね、その幽霊、ただ舞台に居ったってるだけじゃない、脱ぐんですな、そう着物の裾をちらっと、あとは語るに及ばず、あれま、お嬢さん、ずいぶん不服そうな顔色ですな、ああ、そうか、こりゃ、あっしとしたことが舌足らずでやした。大丈夫ですぜ、そんな不謹慎な代物じゃありません、下世話な女色とは次元が異なるってもんです、なんせあの世からの巡業でございやすよ、それはそれは幽玄な美しさにうっとりされること請け合い、お子様とて、魔法の絵本をめくるようなもんで、心配ご無用、世俗を離れた境地に遊ばれなされ。
と、いったところでおしまいじゃあないんだなあ。出し物はまだあるっていう大奮発よ。これは簡単に流しといてと、続きは木戸の奥でもって縷々と語られる案配だからね、隠れ里ってご承知だろう、不意に行方が知れなくなって数年たってから戻って来ればその時分とまったく変わりがない、歳をとってないって摩訶不思議だ。ここで腰を抜かしてはいけないよ、今から二百年まえに忽然とすがたを隠されたと伝わる上臈が、なんと一座と出会ったんだな。その気品ある面影は筆舌に尽くしがたい。座長の意向を酌んで本日限りの特別出演と相成った。これだけでない、さらにやんごとなき上臈と幽霊の対面も実現されるというから、なんまいだ、アーメンそうめん冷やそうめんじゃないか。こんなことあっていいもんだろうか。ほんとはあっしだって恐れ多いんだ、それをあえて衆目の認めるところとし、文明の、いや、過ぎ去った幻影をいっときでも感取してもらえればこれに勝る癒しはないだろう・・・」

客引きの言葉が途切れるまえ、物珍しげに寄り集まった人々は、まるで三途の川を渡るような虚脱した面容で熱狂の気色もなく木戸へと吸い込まれていった。私も同様であった。ただ二の足を踏んだつもりはなかったはずなのに、まわりの顔つきに一層足を引きずられそうな心地がしたのが何故かしら幸いしたのであろう。
あと少しで暗闇に紛れるところ、いきなりうしろから肩を叩かれた。手まりが軽く弾むような、しだれ柳の束に触れたような、柔らかな手つきだった。
「ちょいと兄さん、あんなインチキに騙されてはいけないよ」
振り返れば、銀杏返しに色白の、はっと胸に染みる目もとの、退紅の着物すがたの、微笑みと目があった。
「やはりそういうものなのかね」
私の声は少しうわずっている。無理もない、幽冥界とやらに導かれる矢先だったのだ。しかし間を置くことなく面前の女性の思い詰めた一途な、それでいて憂いをまとっているかに見える表情にとらわれているのを知った。
「そうよ、決まっているでしょう。そんなことより、すぐそこなの」
憂いは気まぐれな鳥の鳴き声のようにほんのりしたときめきへと移ろいだ。手鏡をかざすごとく。
そして突風にあおられる爽快な気持ちがわき起こると、ただちにそのししおき豊かな容姿に惑わされた。熱い血と冷たい血が交互に私のからだをめぐりだしている。渇きを癒すために生唾をのむ矛盾を忘れた。手招きより壮絶で饒舌な、うるんだ瞳にぼんやりとした影を見いだしたとき、空は雲がかかって湿気を呼んでいた。


[553] 題名:お知らせ 名前:コレクター 投稿日:2021年06月01日 (火) 03時54分

三重県の要請に基づき、感染症拡大防止のため、当店は臨時休業させていただきます。

令和3年6月1日~令和3年6月20日

バー・コレクター


[552] 題名:コレクター 名前:臨時休業延長のお知らせ 投稿日:2021年05月11日 (火) 23時27分


三重県の要請に基づき、感染症拡大防止のため、当店は臨時休業させていただきます。

令和3年5月12日~令和3年5月31日

バー・コレクター


[551] 題名:お知らせ 名前:コレクター 投稿日:2021年04月26日 (月) 16時01分

臨時休業のお知らせ


三重県新型コロナウイルス「緊急警戒宣言」による時短要請を受けまして、当店は午後8時以降の開店のため、指定期間、臨時休業させていただきます。


2021年 
4月26日(月) 〜 5月11日(火)


バー・コレクター


[549] 題名:L博士最後の事件簿〜第五章・写真よさようなら25(最終話) 名前:コレクター 投稿日:2021年03月02日 (火) 00時43分

たとえば薔薇の花びら、真紅の燃え盛りをそなえ持ちながらも、激切なる情感に流れゆくことを閑却して、その色差しのみで周囲に散らばっては異変を鼓膜に届けようとせず、むしろ予定調和が抱える美的要素だけへ還元されるとき、視界は極めて単一な光景を描きだす。
尾籠なたとえだが、自らの放尿を目の当たりにしても、排便をわざわざ凝視してみても、根本的な感銘が生ずることはほぼあり得ないけれど、吐精の瞬間を見定めていたとするなら、まったく同じ体内から排泄されたものなのに、感動的な耳鳴りに聞き入っているような重圧が空気中に沈潜する。
性感をともなっているという原罪らしさには無縁だと知るとき、なお一層の動揺に浸され、決して不合理ではない困惑に囚われているのを覚える。なぜなら、それが本能的な志向によってそそのかされている事実であり、生命のほとばしりに他ならないと確信するからであって、どれだけ気まずさやうしろめたさが訪れようとも、後日には思い出の彼方で浮遊するしおりの役割りを担い、こう回顧するだろう。
「脳裡に快感はない。幽霊が持ち去ったから」
では、自分自身のいわば影絵であるはずの幽霊の根拠を揺さぶるのかといえば、そうでなく、時間軸を介して棲息する分身であることに異論は唱えられない、ここで早くも同一性は失われてしまって、堂々巡りが視覚像が反復される。
間弓の女陰へ食い入るよう見つめ舐めまわすと、視界はなかば塞がれてしまい、もっとも善き興奮は卑猥さを欠いて、あたかも埋もれ火のような潜在する魂の権化へと歩み寄り、ほとんど直感的に土嚢の精神を積み重ね、舌先から得られる触感を頼りに即席の淫らさが散らばるのをほの明るく了解するしかなった。
もっとこまめに舐めては引いて、見入ればよりよい成果があったのではないか。そんな怠慢なたわごとを言う暇があるのなら、代わりばんこの意識を児戯とあしらわずに、あるいは首振り人形の粗雑さを馬鹿にせず、どうせ腰ばかり一生懸命に使っているのを心得ているのだから、眼球に依拠することなく、機械仕掛けの意気込みで臨むべきだ。
そこで脳裡が働くわけだけれど、女陰の襞を這う舌は信号の、まるで電気信号の責務を果たしているかと問えば、いとも明白にそれは否定され、ただ点滅する信号機への類推に寄りかかり、間延びした無の時間が精神の合間を表現するだけである。暫定的に幽霊が引っ張りだされたのは、由縁の由縁を埋めるべくおのれの置き引き行為を異形に託すためだったのか、それとも失念の美徳を正当化する必要に駆られたせいか、いずれにせよ、働いた脳裡が生み出した幻影の域から出ることはない。
放尿と吐精の際どい差異は、体内と意識と領域がつちかう閉鎖を遵守し、姑息な解放に加担することなく、透徹した優美をなぞり、ゆくてのこじんまりした現実を拡大鏡にさらす試金石となった。
愛しいと叫び、恋すると謳い、とまどいの気持ちと嘆き、寂しいと訴える。
「何を考えているの」
恐ろしいくらい適宜な既視感が天下る。
「いえ、別に」
強引な幽霊なんて雅びやかでないけど、不遜な心持ちは流下を辞したりせず、差異の差異にやはり快感を当てはめてしまうのだ。
ついでに、いや、もう隠しようもない予期を持って既視感は絶対視され、反復が押しつける限りない倦怠は、ちょうど交わりにおける正常位のようにありきたりな、けれども結局落ちつくところへ落ちつく、平凡な人生を無難に支えて、その美徳はつつましさかを心得ているのかも知れない。どれほどの葛藤が渦巻こうとも、どれほどの波風が立とうとも、未来形の匂いをぷんぷんさせる思い出のしおりの以外な強靭さに気づかぬまま、
「間弓さん、あなたの身体が好きです」
なんて、とってつけたふうに言ってしまうと、
「あら、そうなの」
懈怠を香らせた微笑が静かに舞うばかり。
ものわすれ、そうであるなら認めよう。幸吉の胸に去来するのは気づかないうちに、くたびれた手ぬぐいのごとく、使い慣れた軽さになぞらえた使い捨ての意識だった。言質が倦怠を近づけないのは、律義で真摯な局面が崩れるのを厭うからとは限らず、反対に倦怠の道のりを先まわりした明敏が、さながら齢を重ねて角のとれた人柄をうかがわせるよう、落ち着きはらった物腰の鷹揚さを再認識すれば、いとも簡単に短絡的な思考がちょうど夏の風を知らせる風鈴のように伝わり、そして鮮明な筆使いが待つ色彩のごとく、ほのかな諦観は自明の刃こぼれに柔らかなきらめきを感じ取る。
つまり老醜と死に接近した実感をどう解釈するか、その深いしわの溝を数えているのだろうなどと思い忍ばせ、風化する言葉が裏の畑や、池のほとりや、並木道の連なりや、納屋の奥の奥から逃げだして来たふうな、ひなびた家屋の横へうずくまる陽だまりの光景を身近なものにする。
脳裡に居座りながら、瞬発的で揮発性の高い郷愁が尊い落下となって胸のなかへ降り注ぐけれど、こみあがってくる情感は淡く、まるで褪色した写真の風合いのように焼きつけられた日々を偲ばせるだけで、揺るぎない意想に結びつこうとせず、連続的な言葉を介することはない。なら断片的な言葉は一陣の風となりうるのか。
媚態をあらわにしなくとも間弓は、たやすく幸吉の曖昧さを受け入れ、そして籠絡していた。
うしろから突き立てられる姿態に優位性をもって悩まし気な声を上げた。聞き取るも聞き取れないもない、よがり声に促されて、濡れそぼった秘所へ摩擦をくり返すだけの覚めた意識は、あたかも性欲など持ち得ようもない乾いた花びらを連想させ、興奮のさなかであるにもかかわらず、それが庸俗の極みであるかのような境地へと誘うのも不思議なありさまだけど、もう幾度も精を出してしまったのから、こんな老獪な構えの心持ちに至るのだろうか、それとも漫然と流れる停止した曲芸の残影を彷彿させるので、転倒した心境が開けているのだろうか。いや、思考はめくられる頁のように前へ進むが、残影の裏側には何者もひそんでいない。
すでに籠絡を悟った幸吉は自身の心模様を見つめていなかった。この家に君臨する暴君の気配を背後に感じとろうとしていたからである。それは奇禍を仰望していると断定するにふさわしい高らかな翳りであった。
ほぼ的確に包まれた畏れを払拭するかの勢いで、間弓の尻を持ち上げ、生殖器をこすり合い、最後の交わりだと悲しみつつも、有りがちな感傷にこれまでの機縁をゆだねるつもりはなかった。
壁一面に張りつけられた自画像の照り返しが、苦々しい笑いを少しばかりもよおさせ、大げさな仕掛けに惑わされている実感は引き潮のごとく離れてゆく。さすがに快感も薄くなり、興奮の中心は定まらず、拡散する邪念の粒子は肉眼を通して一連の幻影の帰結だけに絞られていた。絶対的な瞬間をから騒ぎに求めていた。
間弓の嬌声が気配を消している。
「なんという無防備な用心深さ」
もはや幸吉は外界の異変さえ捉えることを断念し、屈折した光の角度を見とがめなかった。それが真正面から物音をかき消すようにして現れた気配であること、つまり背後というもっとも隙だらけの空間に信憑を置き危ぶんだこと、しかしながら幽霊はいつも眼前に透けながら浮かんでいること、恐怖の対象などは実在せず、大らかな夢想が逆に息苦しさと狭隘を育んでいること、そうした分岐点のない回路に迷いこんだ以上、部屋の扉が不意に開くのは当然であって、待ちわびた光景に他ならなかった。
今西満蔵が手にしたカメラを幸吉は驚愕の眼でとらえたけれど、自分でもこらえきれない懐かしさが過剰に渦巻いていると思いなし、無論いわくのカメラであり、発端であったから、なかば必然の回遊なのかも知れない、そしてかつての人物とは判別しがたいほど痴呆の兆しを濃くさせた風貌に、あらためて首肯するしかなかった。
「まあ、お父さま、悪ふざけはいけませんわ。また寝ぼけたのでしょう」
間弓の口調には不自然さを気取られない余裕が束ねられている。あきらかに幸吉へ向けた台詞まわしである。
が、満蔵はもっそり部屋のなかへ首をのばしカメラを構えた。
「あらあら」
交接は続いていた。幸吉は萎えを自覚しない股間を意識しつつ、視線を合わせるか、合わせないかの刹那、うっすらとよだれを垂らした今西満蔵の顔に再会したのだった。



[548] 題名:L博士最後の事件簿〜第五章・写真よさようなら24 名前:コレクター 投稿日:2021年02月02日 (火) 05時01分

果てたあとに訪れるもの、それが宙へ浮いたような困憊であることを感ずるまでもなく、幸吉はしぼんだ肛門を見つめながらも見届けてはいなかった。なにやらよそよそしい意識に流されてしまい、交接し終わった陰部の生々しく映えているのを頼りにしたのだが、虚脱は背中からおおいかぶさっていた。
衝動を抱きかかえ、放埒を心中に響かせ、無道をちまたへと散乱させた肉欲は、熱意を十分に達せた悦びで溢れていたのだろう。やはりだろうという仮定がふさわしく、それはこれから大人になってもずっと変わらないし、どれだけ分別がつこうと当たり前のように振る舞い続け、醒めた情熱の由縁など探ることなきまま、何度も何度もくり返されるのだ。
間弓は放心した様子の相手をたやすく感じとったのか、健康的な微笑をつくって、同時にその肉体も血の気を凝固させ、情欲から引き離された裸婦像のような気位を香らせた。しかしあくまでそうした場面は、幸吉の食傷と呼んでさしつかえない観点によって得られたのであって、つかみようのない時間で閉ざされ、あるいは開封された異空に向き合う玄妙な意識交換ではなく、気疎い体感が身勝手にくみ上げる淡泊な皮膚の触りであり、とるに足らない不調へ固執してしまう逃げ口上同様の憂愁であった。
何故あれほど欲した肉体がこうまで無味な様相へ転じてしまうのか。少なくとも心の底から間弓個人を愛しく想っているなら、満たされ虚脱した直後であっても、宿りはふくよかな情感をたたえていて、そのまなざしを無心で見返すだけの静かな炎のゆらめきは失われない。今宵の寝床に日常を汲み取って、平穏な眠りへいざなわれる限りは。
また、そっと抱き寄せる腕の加減にも親密な証しがおさめられる。一日たりとも離れ離れになる寂しさを募らせ、戯曲のように悲劇的な気分で胸をしめつけるのであれば。
つまるところ、肉欲であることの自明が燦然と輝いていればいるほど、獣が餌食をむさぼるごとく、傲岸な毛並みは逆立ち、視線は一方通行に徹し、この上もなく女色に尊さを覚えてしまうのだ。
むろん傲岸という態度はあとづけの謂いであり、姑息な弁明に過ぎないけれど。
幸吉はとりとめのない感傷を引き寄せるふうにして、この場を刻んでゆく時間に体よく当てはめてみようとしたのだが、どこかで不意打ちを喰らうような刺激は捨てきれず、視界から消えてゆく裸身の影を色濃く脳裡へめぐらせた。すると停戦を宣した兵器の残煙がゆっくり燻っているのを感じ、またもやむくむくと股間が隆起したので我ながら驚きを隠せなかった。
とまどうことのあざとさ。
幸吉は泣き笑いに歪んだ面持ちで間弓の言葉を待った。が、さほど期待はしておらず、不思議としらけた気分に包まれていた。ちょうど幼い時分、おもちゃをねだって買ってもらえなくてもあきらめが隣り合わせにあったように、願望はよそよそしさを学んでいた。先取りされる季節感が過渡な情調に塗られようと、その彩色は常に透けていて、ひんやりした夏模様に接した指先には実感がともなわず、かげろうは薄ら寒さだけを春に告げ、そして冬支度の殊勝な心持ちは灰色の空へと舞い上がり、突風が吹き抜け、寒気が外の景色を引き入れるけれど、こたつや石油ストーブのぬくもりは外界を遠ざけ、卑近で杓子定規な心持ちにまぶたは重なる。
不意打ちには下準備が必要である。間弓は冬の光の気配を報せるふうなかすれた声で言った。
「わたし、嘘つきだわね。あなたを好きなのかどうか、でも」
「でも」
「以外だったわ。だって幸吉さん、わたしを好いてくれているわ」
返事に窮した幸吉は黙ってうなずくより仕方ない。
「元気ね」
「えっ」
間弓の眼は懲りずに起っているものをかすめ、明るい声音に変じて笑みを放った。
一瞬の破顔は刺々しい獣欲をやわらげ、色事のやましさを洗い流し、手の届かない汚濁を感じさせ、裸同士であることの初々しさを前面にせり出したので、婬奔な構えにはどこかしら廉直の心延えが備わって、清らかな磁力で導かれるよう飽きることないまぐわいが始まり、幸吉の意中は得体の知れない情愛が満ちてくる幻想に浸された。吸ったくちびるが痛い。けれども、痛みは柔らかで思わずきつく噛んでしまいそうだったし、指先がなぞる下半身のすべては未踏の地である恐れとうらはらに、まるで贈り物のごとく優しい懇親の土で被われており、そればかりか潤いの感触を従えていたし、急いた抱擁に未熟や韜晦をお仕着せするのは誤りである。永遠の虚飾が敷かれた肌の重なりには衝動がよく似合っている。
幸吉は緩急自在に熱意をあやつれるような気がして、申し分ない量感に溺れる素振りで息づかいを激しくしたかと思えば、ゆったり波間を漂うごとく肉体のなかへと泳ぎだした。時折かきあげる黒髪に絡んだ間弓の手をにぎり、顔中に接吻し、腰を同期させようと努め、ちぐはぐで、がむしゃらで、いい加減で、そつのない交わりに埋没した。やがて意識は空白になった。ただ、ひたすら女体と戯れている幻影を夢見る。が、俯瞰図には成りきれず、横ばいのおそらく等身大が迫り来て、淫らさにまみれる悪感情はほどよく駆逐され、うっとりする征服感のまたたきにとって代わると、不如意な嫌悪は諧調を見据えた傾慕との境目をあいまいにした。空白は閉じていない。
色合いが入り交じる。間弓の詭計も、正枝の打算も、由紀子の無方も、静子の淡薄も、同学年の女子の純情も、なにもかもが溶けて溶けて下半身へ滑り落ち、股間のぬめりが至上のみなもとだと揚言する。
うすらうすら、おそるおそる、知らず知らずに描き始めた女体は隠し続けられ、そしてあばかれることを願っているような態度がにわかに騒然とした根拠のなかでうずき出し、秘匿はうぬぼれと拮抗しているかの表象を肥大させるのだが、決して情欲と憧憬を彼方へ追いやったりはしない。内燃の狭窄が外界にはみ出るのは、自然の理だと首肯しながらも肥大した妄念は底なし沼のようであり、局所的な磁場の獲得に魅入られ、呪われ、祝福されている。遠隔が最大限に機能するとき、女体への接近は本能的な予覚に後押しされて、すでに約束の地となっているのだから、うぬぼれは直截に働くことをためらっているかのごとく、魅惑を過剰につくり出し、その温度差の有り様に常識を感じ取る。
一見、転倒した思考であるが、「恋愛はただ性欲の詩的表現を受けたものである。少なくとも詩的表現を受けない性欲は恋愛と呼ぶに値しない」と、冷徹に言った芥川龍之介を恃みにするまでもなく、往々にして女体から人格をはぎ取るのは別段変わったことでなし、たかぶり抑えきれない発情のもとで肉塊は更紗を必要としないだろう。ただ、詩的表現を講じる以前に呵責の顔があたり窺うとき、一気にその間合いを埋め尽くすようにもの珍しい生物が類推されるが、それはほとんどいびつな筆先の走りと同じで、性急な怯懦と散漫な気迫が織り上げる、あの夢の余韻、うたた寝で閉じたまぶたの裏側に波打った異形の景色が、半重力的な躍動が、たゆたい流れるままにうつつを抜かしていたのだと、ぼんやりした響きに包まれながら知る偏頭痛の生命である。
見知った景色に降り注ぐ偏頗な光によって生み出される束の間の冒険、小さな悪夢、あるいは偉大な逍遥、数瞬で覚めてしまう深甚な世界、そんな体験が意識的に生み出されるのを幸吉は捨象した。捨象することで現実と対価になった。やがて希有な行為への関心となった澱は、ねじれた光の、そのまたねじれの重しが乗っかっていたたまれず、歯ぎしりの見苦しさを忍ばせては悶々とする時間に取り囲まれた放恣な日々を振り返れば、それはけたたましい叫びであるとともに、仄かなささやきに終始している功徳にも思われた。
肉欲のたぎらす激しくせわしない発汗の絵図が、地獄なのか浄土なのか判別つかなくなってしまったなどと言えば、適当な了解だけれど、自由勝手に夢想した裸像と女心は固定するばかり、静止画でもあるまいし、息づく異性は摩訶不思議を乱反射する。
幸吉は自分の肉体が行為に及べば、見事に反応が返ってくる悦びに有頂天になった。
なにより相手の心が肌を通して伝わってくるような気分になった。独りよがりの受けとめに疑念は生じたりせず、甘くしとやかな声色に造作ない虚言が引っついていても、致命的な嘘にはならないと自らの快感を物差しにするしかなく、どう踏ん張ってみても、どう思いやってみても、女体のうねりそのものは感じ取れなかった。当たり前のことを当たり前に嘆く徒為は豊潤であり、建設的な解体である。付随する邪念の散らばりとともに。


[547] 題名:L博士最後の事件簿〜第五章・写真よさようなら23 名前:コレクター 投稿日:2021年01月13日 (水) 05時57分

腰の振りが止まって股間へ逆流するような放尿感をわずかに覚え吐精した幸吉は、抜け殻とおぼめし自分の肌を通し、果てたのか、まだ打ち続く波に揺れているのか、即座には見届けられない間弓の肉体を被う皮膜に全幅の信頼を寄せ、虚脱が永劫へ連なろうとする影のちからを捕まえた。
余韻で酔い痴れているのであれば征服の兆しを、絶頂に達した震えであるのなら別れの証しを、どちらにせよ、形式の依拠することなく恬淡と胸懐に仕舞い込める、そう判じたからだった。この離脱的な想念がいかに曖昧であり、またねじれなど修復する手つきを構えていないかは、底知れぬ影の領域へ分け入った不相応な怖れの反映である実感をともなっていたので、覚束なさに寄りかかったまま、靦然として恥じるところはなかった。
そして満腹感に似た卑小な安堵を蹴散らす為、残骸をかき集めては肉欲の盛りへきびすを返す。
昨夜、女優と交わったばかりの恍惚に隠れた失意が、威勢よくおぼろげな幽霊たちへと呼びかける。精は吐き尽くされようとも虚脱や放心はこの際、一時的なため息でしかなく、現に快感を身へ閉じ込めた間弓の寡黙な姿態は、有効成分にあふれており、すぐさまその滋味を得なければ、せっかくの幽霊たちの悽愴な笑みが台なしになってしまう。霊魂のかけらを引き渡す代わりに、間弓の理性をとことん麻痺させて欲しかった。
半分しおれた男根の先は白濁が誇らしげにへばりついていたけれど、そのまま別の体位、つまり背後から、意外に丸みのある尻をわしづかみにしながら、根の根まで突立てたくなった。
醒めた興奮が伝わったのだろうか、肉体の重みは感じさせず造作なき反転をもって幸吉の意に応じ、なんとも好色めいた、が、気だるそうにも見える仕草で尻を上げると、粘液に光るうっすら割れた秘所を差し出したので、両手を添え正確な位置に定まるよう、さっそく硬直したものを埋め込もうとした。
思惑に即すこの瞬間こそ、切れ目なき連続を断ち切る青白い炎に包まれ、迷妄と欲望が溶け合って宙に舞う意識の醇化であり、また法悦の声なき声を聞く澄み渡った凍結である。恥毛は乱れを誇り、陰茎は軟体生物と出会い驚愕するのだろうが、切実な機能を有した睾丸は視界から逃れ、さながら弾薬庫の危殆を告げ忘れた愚蒙に甘んじている。
そんな一瞬の理におかまいなく、ねっとりした感触をもらい受ければ、先端の悦びはただちに脳髄まで到達し、陵辱のきわどさを未知数が未知数であるがままに暗算するのだけれど、すでにすっぽりはまり込んでしまっていたので、きわどさは緩慢な実状に戸惑い、融合の糜爛は嫌らしさから離れ陵辱の由縁を見失い、ふたたび健勝な腰づかいが行なわれ、なにがなにやらと痴呆的な答弁をのど仏にため置くのだった。
こうなれば、張りつめていながら柔らかくもある尻の弾力に応えるよう、強弱自在の念をもって挿入して奥深く突くことで、おたがいの無知を確認し合って、もしくはうかがいを放棄した努めに没頭したいがゆえ、快楽の共有には無縁でありたく願うだけと、その孤絶を確かめるようにますます盛んな動きとなる。
尻と下腹部がたたき出す豪快な音は甲高く、途切れ途切れのあえぎ声もくぐもることなく鮮明で、同調した幸吉の呼吸は荒々しく、なにかを求めているようだけれど、反対に遠ざけているようでもあり、それは予定調和に踊らされた男女の影へと浸透していく様子を、悦楽の極みからぼんやり眺めているのだと了解した。
ぼんやりしてはいたが、幸吉の胸のなかに胚胎している切ない情欲はまったく消え去ったわけでなく、冷徹な意思を削いだ最中だからこそ、言いようのないわびしさが汚れに侵されながら小さく突き刺さっていた。
しかし間弓がよがればよがるほど、もう二度とひりつくような駆け引きに焦燥を覚えることはなくなり、今西家を黙してあとにする孤影だけが残される。
色彩を欠いた適度な覚悟とやらに心弛びするのが虚しい。あれだけ堂々めぐりを厭っていたはずなのに、決意をかためた矢先から未練が生じてしまう。なにもかもが受け身でしかなく、抵抗は愉悦の言い換えでしかなかったこれまでの関わりを振り返れば、憂いと奢侈がおおらかにすり替わっていたのがよく分かり、その虚偽を痛感するために背後からの交接が激しく望まれるのだろう、などと案じていれば、ときおり勢いあまって、にゅるっと抜けてしまうのが嘘のように微笑ましくて仕方なかった。
けれども蜂蜜を塗りたくったみたいな股間の濡れ具合は感度をそこねたりせず、むしろ醒めた意識に摩擦熱が発するのか、悪あがきに等しい灯火がさっと目の前をかすめていくような気がして、ほのかな幽霊の気配を感じさせ、それが不思議とも奇怪でもなく、玄奥な趣きのゆくてへ佇んで柔らかな快感を長引かせた。
陽光に彩られた挿入は、みだらさと共にあってなお初々しく思え、押さえつけるようにしていた両手が自由に這いまわると、腹部のくびれをさすってはその肌触りにときめき、ゆっくり乳房の山へとのびていった。あおむけの状態とは異なった、まるで煮こごりのような触感に新たな親しみを発見し、おのずと幸吉の掌は滑らかになって濡れそぼった割れ目を堪能しながら、切ない愛撫が続けられた。
気のせいか、同じふうな性感を甘受している間弓に宿らなくてはいけない非情の意識がはね返り、すると小首を傾げた振りですら、形式をなしくずしにしているよう見えてしまい、こんな性急な交わりなのに、虚偽を孕んだ淫蕩なのに、どうしたわけなのだろう、ほのかな幽霊の顔に欲情している倒錯を倒錯だと感じなくなって、さらに穿てば、幽霊の透けた淡さと自分の心持ちが異空間でまみえているようで、もともと呪詛など念頭に置かなかった本心が、愛しさを間弓に投げかけているのではないか。それはなるほど無理もない感情の発露であったし、いくら大仰とはいえ、どれだけ外連味があるといえ、身を挺してまでの誘惑だけとたかをくくることはできそうもない。これこそ仕掛けのなかの仕掛け、形式の形式であって然るべきなのに、散々そういう情況へ自らのめり込んでいったのに、誘惑を裁断できず、あろうことかいたずらに投げかけた小石の波紋を乞い願っている。
これは邪念なのだ。幸吉は何度もそう唱えながら果てることを拒むかのように女陰を突いた。そして幻影でしかない発露の機微を払いのけるふうに交接の部分だけを見つめた。挟み入れた卑猥な動作を追い、毒づく気概を引き戻して因循から逃れようとした。描出されるのは獣欲の気高さと儚さである。飽くなき征服と別れを裏書きするために。
ふと木の葉からしたたる水滴を想起した。見遣るまでもなくむき出しの肛門が鎮座している。形式とは縁もゆかりもないといった風情で取り澄ましている。排便の機能さえ匂わさず。幸吉は拍子抜けするかのごとく精が吹き出すのを知った。


[546] 題名:L博士最後の事件簿〜第五章・写真よさようなら22 名前:コレクター 投稿日:2021年01月06日 (水) 01時40分

ちょっとした身震いをもよおしそうな抑制ある興奮に突き動かされ、幸吉は至福の光源を見つめた。
奮い立つほど熱意を感じられないのが不思議だったけれど、裸体を開いた女性がいつまでも恥じらってないよう、幸吉の見構えもまた不遜な落ち着きに浸されていた。
黒々とした恥毛は悦びの光を押し殺しているのだろうか、さきほどから白く柔らかな肌を愛撫しては、やや濃い茂りに息をのみ、割れ目への凝視をためらって先延ばしとしてきたのだが、夢見における闇のなかをさまよう心境と等しく、深夜という静まりかえった時刻に始めて触れた心細さに、電光の音を耳鳴りと感じてしまう気安さに、なにかしら守護されているかの反転した意識が働いたせいかも知れない、そうして望みもしない肉欲の重荷だと、あえて言い聞かせる屈折した線状をなぞっていた。
だとすれば分別も道理もわきまえずに、ひたすら情欲へ溺れる悲劇的な笑みすら浮かべられない自分がままならなず、よそよそしく、それこそ形式に則しているだけの淫行に過ぎないではないか、先んじた領分は所詮透けているが、重荷こそ肉欲の希望となるはずだ。
「もっとよく見せて」
思いがけず卑猥な声色を出してしまい、照れ隠しのようだと胸が小さく騒いだけれど、無言のまま虚脱した様子で腰を浮かせた間弓に、同類のよそよそしさを覚え、屈折の度合いは過分なく調整された心持ちになった。
それは卑下であって、性の奴隷という名分を借り受けている以上、いら立ちは抑えられ屈従が生命力の破壊に血路を開いていると看做して欲しいのだから、折り合いは好都合な情事を讃えて然りだった。
すでに快楽の糸口を結んでいた肛門への刺激より、すこし弱い舐めずりを持って眼福となし、とは言え、ほとんど光源をふさいでしまって、その官能の糜爛を眺めることが出来なかったので、くちびると舌で感じる粘り気がすべてだった。
吸いつきながらちろちろ舌を這わす案配は、もう学習済みであった女陰の酸味を尊く感じるけれど、熱中している割りには散漫な想念をもたげてしまう。たこときゅうりの酢の物はもっと甘いとか、上気した頬に羞恥を察しないのはどうしたことだとか、勢いで呑み込まれたわけでもないのに数本の恥毛が絡まる感覚に驚いたり、昨夜と違い明るみの下での口淫はいやらしさを力説しているか、どうも妙な気分になり増々もって局所の局所たる由縁に埋没したくとも、陽光が射す部屋でのありありした場景をしっかり脳裡へ放り込んでみても、現在のいかがわしさに直接触れてないように感じたが、それはまだまだ過ぎ去った夜の高揚が醒めていないからだと、冷ややかな情けなさに包まれながら得心するしかなかった。
間弓にしてもそうした事情は心得ていて、この交わりが意図するものを含んでいるから、たとえ物々しく肉感に応じても、あるいはしっかり絶頂を迎える体勢でいたとしても、なんら欺瞞であると呼ぶべきではなく、却って大胆な媚態を知らしめる姿態が有意義に映しだされ、それは気弱な風情を押し包んであますところなく素直な方向へなびいているよう、抜け落ちた快楽を呼び返している。
顔色を見遣れば、とろんとした目つきやだらしなく開いた口もとが雄弁に語っているようで、幸吉は今西家に置かれた自らの立場、理不尽な高圧にくみする絵空事みたいな誘惑を、そして仕掛けの有無は不問にした由紀子との熱愛がこのうえもなく懐かしくよみがえってくるので、些事は放擲し、おそらく二度とは帰って来ない奇特な体験をしみじみ噛みしめ、以前瀧川先輩に女子がのめり込んでしまったふうに、間弓の肉体を開眼させたいと一抹の気まぐれをよぎらせたりしたが、もつれた形勢に陥るのが鬱陶しくなり、抱くのは今日が最初で最後、そう案じると、気散じはするものの、形式にわずかだけでも抗う意気で貪欲にこの裸身をもてあそび、体力と神経を最大限に発揮させたのだから、深夜の電光がもらす耳鳴りのような微かな異音を打つ消すように嬌声をしぼりはじめた間弓は、まぼろしの愛人と化し、淫らな肉体の関係だけに集約されると信じた。
粗描された無頼を演ずる居心地に善し悪しもない。形式の情交を深めながら、その情交に沈みゆく俳優と一緒であると自らを叱咤した。どこまでも幻惑であることを願うかたわら、ちくちくと皮膚を刺すような快味を求め、幸吉は失った夜を取り戻そうとしている。
「そんなにじろじろ見ないで」
日陰と日向のさかいを絶え間なく行ったり来たりする昆虫のせわしなさをふと思い浮かべつつ、案じた割りには愛撫と視姦を我がもにしていたと知り、引いた潮の満ちてゆく綿密さを包摂する悠長な調べに大きくうなずいた。
すでに自分の唾液だか、濡れそぼった証しだか、判別不能な割れ目の襞に張りついた恥毛を見つめながら、
「僕のもお願い」
と、間弓の手を引き寄せ握らせ、上体を起こそうとしたところ、りきみ過ぎはどちらだろうと、それこそ白黒つけたくなるような淫奔な思わくが冴えわたって、熱意はどうあれ色魔の本性にへばりつく意地悪な衝動は邪心のない関わりになる。すると握らせた手の冷たさを補うごとく、なま暖かい感触が怒張しきったものへ被さった。
何度も接吻を重ねたせいか、間弓の口内は人肌をたぎらせたように、ぬるぬると火照っており、すっぽり幸吉を頬張ってしまった。これまでの奉仕への返納のつもりだろうか、明らかに生娘の技などではない妙齢の色香が放出させた、そつのない行為に驚き喜んだ幸吉は、快楽に溺れていくおのれの投げやりな想いの増すのをこらえきれなかったけれど、これまで頭のてっぺんから足の指さきまで痺れるほどの淫行をがむしゃらに施してきたので、嗚咽やよがり声の粋を越え、大きな愉悦を体現してもらいたく、つまり絶叫をこの部屋に、いや、今西の家屋全体に響かせたくなっていた。
熟した桃の実とざくろの強烈な赤みが、幸吉の倨傲を煽ったというよりも、年少の男子が抱く本懐として是が非でも先に頂点へ導かなくてはならない。由紀子と正枝の秘所を突き進んだという自負を証明したい。それは功罪の彼方からささやいてくる稚気に富んだ抵触であり、不粋なまでに生々しさを発光させている拝跪に他ならなかった。
間弓はうっとりするくらい惚けた表情を保ち、くわえこんでいたものをゆっくり離すと、くだんの本懐とは異なる甘えみたいな要望が胸にあふれ出したのだったが、一方で肉体のうねりを乞うている対等の意識にとらわれ、愚図愚図している暇はない、さあ、股をひろげたままで、言葉には出来なかったけれど、目つきやら動作でそれは通じたと思われる。
ふたたびあおむけになった裸身に重なり、腰を落とした。
「ああっ」
顔をそむけながら間弓は下半身にいきり立った堅物を迎い入れた衝撃に出会った。
濡れた案配を慈しむよう、幸吉はゆっくりと腰を動かし、腹部から乳房のあたりを両手でまさぐった。が、それは手持ちぶさたを嘆いているのではなく、根拠ある自信とたかをくくっていた遅漏の覚えが、まったく当ての外れた調子になってしまい、つまり余裕ある責めに努めればいいと踏んでいたはずなのに、おたがいの**をいざ合わせてみれば、とてつもない心地よさが、それは噴出する精をこらえにこらえているという実状に、先鋭的な加減で敏感になり過ぎ、今にも吹き出しそうな勢いだったからである。
おおらかな快感に身をゆだねていてもたぶん間弓は、相手の痙攣じみた感覚を見逃したりはしないだろう。現に幸吉の腰使いをしのぐ敏捷な動きはとても自然で、年少の男子を可愛がるすべが本能的に備わっているようであった。
「間弓さん」
もう声でも出さなければどうにもならない。
「はい」
うわずってはいるが、気位や母性のとけ込んだ好個な返事がはね返る。
「間弓さん」
芳烈な吐息は細流を望んでおり、股間によって支配された獣欲は底知れず、未聞の呼び声だけが幸吉の心身へこだました。かすれゆく自尊と自棄のはざまに遍照するうたかたは偸安の音色をなびかせ、さながら月の欠けを見上げるふうな淡い色沢で明晰さの消えた境界へと漂った。迂遠な道程の覚束ないままに。
それが絶頂の意を含んでいたのかどうか分からなかったけれど、おそらく下半身を急襲している事態にあらがえないのはよく理解できたので、放心状態のまま女陰に吸い取られていく沈痛な面持ちは、まるで転じることを禁じているかのように混迷をつたい、量感あふれた肉体の残骸を夢見るのだった。


[545] 題名:L博士最後の事件簿〜第五章・写真よさようなら21 名前:コレクター 投稿日:2020年12月22日 (火) 03時15分

夜明けをくぐり抜けた放恣な感覚には、こういう笑顔がふさわしく思われた。そして女優の残り香を嗅ぎ取らせようとする思惑、ある種の優越心が身をくねらすふうに揺らめいている。幸吉は間弓の右肩に手をかけ、そっと抱きしめた。
「ほかに知りたくはないのですね」
声が出せないほどの問いかけは、日曜の朝みたいな長閑けさに包まれ、朦朧とした意識の壁を探り当てることの不可能を是認していて、とにかく抵抗を退けたい、そう願う一心で背馳につまずく懼れなど塵のように風解させていた。
この酔眼に似た無遠慮な接近は、間弓の意向を丁寧に引き出さなくてはならないという、強迫観念が先鋭化される瞬間であって、初めてのくちづけがもたらした印象をより濃厚にする義務に支えられていた。もっとも義務感にさほど重みがあるわけでなく、抱き寄せた女体の恥じらいを衣服のうえから知る程度の、よそよそしさと弛緩で計られていたので、ことさら抵抗が意地悪くしめされることはなく思われた。
自分の大仰な顔写真で取り囲まれた立場からすれば、こうした繊細な意想に落ち入るしかなかったし、続けざまに情を通ずる卑猥さをなるだけ表面に出したくなかった。いや、出すも出さないも、間弓は百も承知で満蔵を閉じ込めてしまっていて、この部屋で展開されるであろう密やかな結びつきは、未練やしがらみを断ち切るために準備された引導を渡す算段なのである。これほどわかりきった情況にあってなお、あたふたした鼻息を抑えられず、とぼけた振りのままでこそ禁欲は見映えよく、虚心で清潔なまなざしが保たれるのではないか、嵐を突っ切った勢いに乗じた幸吉だったが、こうも出鼻をくじかれてしまっては恬淡を気取るよりなす術は見当たらず、価値のないうぬぼれにしがみついていた。
間弓はそんな葛藤を読んでいるのか、
「わたし、ほとんど眠ってないのよ」
と、他愛ない愚痴をこぼすよう、愁いとも甘えともつかない柔らかな言葉を口にした。
それは幸吉の情欲を半ば認め、自らの境遇を端的にかいま見せる、隠しきれない奸濫に触れ合うような声遣いだった。耳障りのよい色香の含まれた語感が意味するもの、穿ち過ぎだと言い聞かせても激しい感情を振り切れないごとく、理性の循環は遠景に臨む歯痒さと同じで、あらためて長閑な朝を体感してしまう朦朧とした加減に集約されている。
性的なことには関心がないと言ったその真意は、言葉の裏で発酵しているに違いなく、これまでの煩瑣な応酬は果たして何を目指していたのだろうか、結局はめぐりめぐったあげくに神秘的な色合いへ立ち戻り、清楚な仮面を信条とするいびつな女体に重なるのだ。抑制気味でなければいけないような心持ちは、不規則な動揺を得てしまう悪徳に諭されている。
「一緒に眠りませんか」
我ながら見え透いた台詞を吐いてしまった幸吉だったが、共寝の意図をくみ取って、ややともするとまったくありふれていながら、不思議と気づいていなかった心の領域へ近づけるのではないか、この明るい部屋に光る肉体こそ奇跡を身籠っているのであり、もう二度と奇跡は起こらない。これが最後なのだ。まるで女難を嘆じる気取り屋みたいな横顔が、正面に映る自分の写真へ語りかける。
すると反対側から間弓の頬が触れ、その体温に昂じた戸惑いをなだめるよう、部屋の端に据え置かれた寝台へと視線が這い出し、眼の奥に沈んでいる夜の闇を照らした。頬の火照りはすぐさま感じ合うことの前ぶれとなり、お互いのくちびるを吸って吸って、唾液に濡れたすべりのよさから舌先が侵入し、そのまま横になってしばらく抱擁し続けた。
「まだ眠りたくありませんわ」
心焦がすほど待ちわびていた恋人が小悪魔に転じる響きを感じとった幸吉は、
「では、寝かせませんよ」
そう言いながら夜の眠りを幾晩幾年うながしたか知れない寝台を見つめた。おつかいにでも出掛ける仕草で立ち上がる間弓のうしろ姿を、時間の流れにまかせたまま。
深窓の令嬢の雰囲気を決して損なっていない間弓には、生成り色であつらえられた木目のはっきりしない寝台がよく似合っていた。布団を整えるつもりだろうか、ようやく穏和に運べそうな情事を目前にして、不意にそんな所帯じみた動作に思い馳せたのが、気恥ずかしく、とはいっても新たな女肉の開帳に高ぶる意識が変に醒めているようにも感じ、この恬惔とした心持ちは獰猛で無謀な性欲がいさめられているとさえ考えられたけれど、もはや振り返るまでもない、ここに至る経緯を差し引けば直情におもむく肉欲の颯爽としている方が誤りで、なんとも形容しがたい神妙な翳りは、疑うべきもなく正枝の悲しみを引き連れているからであり、にもかかわらず今西家の毒気にあてられ、肉体だけをむさぼった自責の念がこびりついて、もうひからびてしまった米粒の濁りみたいに硬く心を閉ざしている。が、それすら捨て置き、何の改悛もなきまま、双六の遊びを終わらせるように上がりに向かって、間弓が仕掛けたあまりに軽易な提案を呑み込もうとしている。
「こっちへ来て」
簡明な意見に幸吉は従った。ただ、カーテンを閉める所作になだらかではない、どこか引っ掛かりのある刺々しい感じを覚え、ごく普通に陽光をさえぎることで情事のほの暗さから逃れられるとは思えず、むしろ暗闇を招き入れる粛然とした気構えに準じているのだと言い聞かせた。
寝台へ転がるようにして交わりを始める。幸吉はいつになく乱暴な手つきで相手の衣服を脱がしたくなり、一気に下半身をまくり上げたのだが、さっと白い下着を覗かせただけで、さすがに間弓は脚に力を入れ、布団のなかに身を隠してしまったので、同じように大人しく就眠儀式のまねごとに倣った。そして接吻しながら順序よく間弓を裸にし、その手並みは自分で驚くほど鮮やかだったから、ふたたび慢心してしまい布団をはねのけてしまったけれど、間弓は別段嫌がりもせずにいたので、冷ややかな目線をむき出しの肉体へ投げかけ、ゆっくり日曜の朝寝坊を愛おしむかのように着ているものを脱ぎつつ、これから賞味するのだという意欲をたぎらせた。
ところがそんな傲岸な意識は、跳ね返るくらい屹立した男根とはうらはらに、これが今まで夢想していた女体だったのかという感慨は押しのけられ、中庸の豊麗を目の当たりにしたことで成り立つ、美徳の顕現に埋もれためくるめく情動で揺り動かれたのだった。
華奢な首筋は知るところだが、比類してせばまりを洞察させる肩幅も、さきほど接したとおりのつくりだったけれど、感心したのは見た目にふくよかな張りをあたえない胸のかたちであり、その世界の平和を守るために建立された造形が醸し出す中立の意志であった。
いったい乳房にかような観念など宿っているあろうはずはなく、間弓が常日頃から殊勝な心がけをもって過ごしていたから、ここまで造形美と肉感の橋渡しをしているとも考えられず、ではどうして大は小を兼ねるなどという格言が軽薄な聞こえでしか届けられないのか、まだ感触を知ったわけでもないのに、幸吉は早くも未知数であった中庸の肉感に心酔してしまった。
いや、厳密には心酔が先んじており、中庸は弁明と呼んでいい、何故ならその根拠を説明することは困難であるまえに由紀子の太ももを脳裡へひろげさせるのは逆、まずは昨夜の正枝の裸身を思い浮かべるのが然り、だが、カチカチに凍らせたアイスキャンデーの夏の光線に抗うかの発汗に、口渇と肉欲の意味を問いただすことに似て、まぐわう用意の出来た場面には放縦な揺れがふさわしい。
背徳感を背負ったふうな小心さとは、ゆくてを見失った頼りなさと寸分変わらない。正枝に対する託言がこの場を制しているのなら、きちんと了解しておくべきで、こう伝えなければならない。
「僕は間弓さん、あなたを選んだのです。今西満蔵の娘としての」
この欺瞞に満ちた声明を打ち消したいがゆえ、幸吉は太ももにしゃぶりつき股を覗いた。歴然とした感触は当然ながら由紀子のむっちりした想い出がよみがえったものの、かつて着衣の上でも窺えた間弓の下半身のは、女性特有の柔らかさとしなやかな張りが備わっていて、舐めまわし臀部にまで手をやってみても飽きるところがなく感じられた。これは後ろめたさから来る折り合いなどではなく、あまりに均斉のとれた肢体を持った間弓を味わい尽くしている現実肯定以外の何ものでもなかった。
遅れて乳房を大胆に揉みほぐし、その指先にやや神経質な指揮棒のような機微をさずけると、小さな声が耳に伝わってきた。そうして全身がわななくまで胸元をいじり続け、案外豊満な尻を撫でてから、初心に帰った装いで、濃密な接吻を交わし、耳の穴やら鼻の穴まで舌先をまるめてぬめりをあたえ、へそのまわりを巡回したのち、尻の割れ目にそって指先とくちびるを往復させたが、局部には時節が早いと思いなし、猛々しい感情を持ってまたもや太ももに顔を突っ込み、激しく呼吸するのだった。まだ足りてない、当たり前だ、一息つくことなく幸吉はくねり出した女体にすべてを捧げようと誓い、全身全霊が性の奴隷であるべく奮闘し、間弓の反応だけが生き甲斐であるような妄念に囚われてしまったけれど、少々疲労を感じて、が、それは箸休めのような時間の取り方であり、肉感自体に倦むことはなかった。
現に挿入をためらっている意気込みが、一番うまい料理をあとにするよう抑制の利いた叫びを上げていたのだから。華奢な首が折れてしまわないかと懸念されるまで執拗な責めで突き進み、やがて痙攣的な肉の震えが伝わり、生娘であって欲しいなどという幻想が崩れたとき、幸吉は晴れやかな気分を取り戻したのか、
「これで伽藍は壊れました」
とつぶやいた。
「ええ、なんですって」
嗚咽になりそうな快感を奥床しく留め置きたかった間弓が意地らしく、幸吉は涙ぐんでしまった。
「なんでもありません。間弓さん、素敵です。あなたは素敵です」
「そんな」
高揚したさなかに響かせる生命謳歌に幸吉はさらに酔い痴れ、ほぼ全身くまなく愛撫し尽くし、その舌と眼はもっとも気高い箇所、女陰を残すのみとなった。


[544] 題名:L博士最後の事件簿〜第五章・写真よさようなら20 名前:コレクター 投稿日:2020年12月08日 (火) 03時18分

おてんばな女の子が時折みせる負けん気であふれた鼻息の先には、歩み寄りにも似たか弱い媚態があるにもかかわらず、幸吉はよく嗅ぎ取れないまま捨て置ておくしかない、こころざしの未熟さを知ったような気がした。
決定的に未熟でどうしようもないというわけではなかったが、異性の魅惑に酔ってしまう道理をよくわきまえない加減は、やはり少年の域を抜け出ておらず、野暮で不粋な厚顔と見なされても仕方なかった。
しかし、迷いを悟り呆気にとられ浮遊した想念は、借りの着地点へ足を降ろしたのか、
「並んだ自分の顔写真が見守るなんてあり得えないでしょう」
と、あざとさの仕掛ける単純なくすぐりへ微笑み返した。この質朴な反応が間弓に対する最大の接近であると思われたからだった。
「わたしだって恥ずかしいのよ。あなたのことばかり想っていたって証しになるもの」
そう言われれば返す言葉はなかったが、いっそう欺瞞と好意は不可分な状態を維持したまま、釈然とした理解は得られない。部屋へ案内されたこと自体まやかしであるなら、小悪魔の雰囲気をまとった間弓の舌端には、理解に到底およばない偽言がこびりついている。それが媚態に他ならないのだと、開きなおる図太さを持てない幸吉は、踏み降ろした足を滑らせてしまうばかりで、これまで話してきた正枝の暴露を作り事と言い切る相手に、実直な態度で臨むしかなかった。おおまかにも受け取れるこの感性は不安であり、切なさが遠のく女優の残り香と、ひょっとしたら生真面目なこころばえを曲解してしまっている、間弓との釁隙に揺れる意識はつかみとれない。
自堕落な息づかいや前向きな官能の裏側には、おそらくどちらも信じたいと願う曖昧な気持ちが寄り添っているのだろう。いずれにせよ、由紀子を失った由縁さえ不明瞭である幸吉にとって、すべては謎めく余韻のなかでにじむ淡い色彩であって欲しく、併せて足場が不穏な危機に侵されている感覚にめくらむしかなかった。
「正枝さんはあなたとの手紙を通じ、今西家の現状を把握していたと申してましたが、並行し昌昭君や父上とのやりとりを絶やさず、なんとも信じ難い糜爛した絡まりを露呈していくわけでして、その件に関する耳をふさぎたくなるようないかがわしさもですね、実にこと細やかで、思わず息をのみそうな調子でして、あれが綿密な台本だったとすれば、かなり用意周到な話術に僕は引っ掛かったことになります」
幸吉はそこから一気に、間弓の書き記した文面には自分の母親と満蔵との馴れ初めがあり、偶然の出会いどころか、自分と隠し子を婚約させることで、老いらくの魂を成就させようという迷妄に取り憑かれている詳細を知るに及んで、ひどく高揚してしまい、すっかり正枝を信じ切ってしまうと、ますます微に入った関係に魅入られるようになって、不謹慎な自己像が誘惑の館に飾られているかの倒錯を映し出し、眼球運動が繰り広げる一連の健常な働きを刺激したどころか、過剰なまでの思い入れを募らせ、やがて迷妄を阻止すべく正枝と手を組み、自分を骨抜きにしようと企てにおののきながらも、風見由紀子という女子高生の肉体に溺れていく過程を詳らかにして、あまつさせ弟の昌昭が由紀子と同じ血を引いている真相にとまどうどころか、不確かな情愛でしかなかった繋がりを成就させようとなり振り構わず躍起になった、間弓の鬼気迫る意志を高らかに讃美してから、今日も明日もなんだか不甲斐なさの心得でしか迎えられないと愚痴っては、粛々した意識に名分をあたえつつ、わき上がりそうな恍惚感をなだめになだめて、そのかけらがひとときでもきらりと光る空間を脳裡へ開かせれば、たとえ台本だろうが、委曲を尽くした計画的な由紀子への詰め寄りには敬服が感じられるなどと、邪心を遠巻きの目線へ投げ返す悪巧みでほくそ笑む子供のように、憎々しげに述べつくしたところ、いくらか野暮な気分は払いのけられ、まるで昨夜の女優魂を宿してしるかのごとく、間弓を難詰するような案配に瀧川先輩と由紀子のしがらみなども加え、華やかで危険な様相を語ったあと、間弓が昌昭を開眼させた箇所まで、なんとかその混迷をたどったのである。
が、結果、由紀子は死んでおらず、それは自分にも把握できない精神の暗部なので、黙ってうなずくのやら、うなだれるのやら致し方なく、すでにあなたたちの会話のなかでは由紀子は死んでおり、自分の夢遊病癖が招いたかも知れないなんて、冷ややかにに論じられるものだから、ただでさえ脳内が破裂寸前だった自分の正気が保てなくなったのも事実で、しまいには今西家惨殺を教唆する始末、あれほど高嶺の花であった正枝さんを侮蔑する結果になってしまったのだと、涙まじりで間弓へ訴えかけた。
「よくわかりました。なにもかも作り事ではありませんわ。すくなくとも幸吉さん、あなたのお母様と父のいきさつは本当です。あとは荒唐無稽、よくもまあ、委細まで肉付けした虚言をあなたに説き聞かせたものです。不気味な執念としかいいようありませんわ」
「では、煩雑な血縁も嘘なのですね。つまり昌昭君は風見家の生まれなんかじゃないと」
幸吉は自身に懸かる因縁だけが取ってつけたふうに正当化されている返答に、気まずい困惑を覚えながら、不運や不幸が必ずしも胸を切り裂くばかりとは言えない距離感を優先した。
「当然ですわ。それにしても嫌らしい台本ね。わたしと弟が愛し合うなんて。その為に今西家の認知を譲歩するなんて絶対あり得ません。あなたが怒らせてくれて助かったわ」
「たしかにすごい剣幕でした」
「すんだことですわ。帰京したじゃありませんか。あなたにとっても災難だったといいますか、迷惑な限りでなぐさめの言葉が見つかりそうにないです」
「かまいませんよ。災難でも迷惑でもないです。僕は貴重な体験をしたのだから。間弓さんからみれば、とことん破廉恥でしょうけど」
「よくわかりませんわ。もしそうだとして、あなただけの問題ではないでしょう。父にだって責任はあります」
「なるほど、では父上と会わせていただけますね」
間弓の顔つきがにわかに険のある翳りを帯びた。これまでが青雲の晴れやかさだったとは呼べないけれど、浅膚な装いを澄まし顔で、迷妄の上塗りで、軽んじた情欲で、見果てぬ虚威で、秘密の部屋を彩っていた様相に亀裂が生じた。それは幸吉の面の凍結を時間に知らしめた。
これでようやく事件の皮切りへ居並んだ心持ちになった。どれだけ否定されようとも、等閑に付されようとも、反対原理は情欲の可能性を本能的に謳い上げているのであって、間弓がしとやかな素振りを演じれば演ずるほどに、有馬稲子や芦川いづみを彷彿させる清廉な美貌が、その翳りにたえきれず愁いを醸し出すごとく、夢幻境地へのいざないは却って現実の煩慮をたぐり寄せる。
だが、この場に及んでも幸吉は自らの白痴ぶりに甘んじ、さまよい歩くことの面倒臭さを放任していた。
「もう振り出しはご免だ」
今度は相手に大仰な隙を見せたくなった。
仮面のひび割れをどれだけ間弓が意識したのか、つかめない。取り繕う猶予は限られているにもかかわらず、優雅な痴態を最後の手段と心得ているのだという期待だけが、幸吉の浮ついた詩情に組み入れられた。
ひび割れは仮面をつかさどっている。
「父はそうですわね。いえ、ふと思いついたのです。でも考え過ぎって笑われそうですわ」
「なんでしょう。父上がどうしたのです」
「いえ、安城家の舞踏会を思い出しましてね」
「すると父上は滝沢修ですか、そしてあなたは原節子」
「あらっ、そんなこと言ってませんわ。ただ、なんとなくそんな感じが」
「どんな感じです」
「ごめんなさい。取り消します。わたし、なにを言ってるんでしょう」
「いいじゃありませんか。僕は好きでした。あの映画。小津安二郎の作品より原節子が美しく思えましたね。ただ若かったとかではなく、ひとり目立っているのでもない、全体にとけ込んでいたように感じました。間弓さん、どうしても父上に会わせたくないのでしょう。だから、瞬きを疎んじる戸惑いで蠱惑を囲ませ、ちょっとした気品が立ちのぼる効果をさらに封じてしまい、すると僕には居たたまれない体感のみが全身をつらぬく恰好になってしまうので、嫌でも下品であって欲しいという反対の願いが差し出されるのでしょう」
「おっしゃってる意味がわかりませんわ」
「まだ起さないのですね」
「目覚めているでしょうけど、呼びかけません」
「そうですか。すると僕は婉美なだめ押しを受けるべきと考えてよろしいのですね」
「あなたの望みなら」
「見守っている。そう、見守っている。素晴らしい取り決めです」
間弓はにっこりと微笑んだ。


[543] 題名:L博士最後の事件簿〜第五章・写真よさようなら19 名前:コレクター 投稿日:2020年12月01日 (火) 01時17分

やっと乗りこなした自転車の走りに浮き立つような爽快感をともなわせ、不意の転倒に怖れをなさずペダル踏む勢いで正枝との一夜を語りはじめると、冗長なきらいに抵抗を覚えず、それこそ風の跳躍に従っている浮遊感に語尾がそよいでいくと思われた。というのも、幸吉に会う前夜から駅前旅館へ泊まっていた正枝の夢見をことこまかに話すことで、自分自身の体験に鮮明さが加わるのではないか、そんな揺曳する記憶の色彩を名残惜しんでいたからだった。
むろん潤色とか施さず、ありのまま間弓に報せることへ見返りなど求めていない意識の確認であるとともに、明け透けのやりとりが示している安直な肉感に、興醒めした気持ちを押し着せてしまう相乗効果の様相がうかがわれると、婉曲な語感の享受はただ疎ましいだけでなく、無為の時間を痴戯へ埋もれさせるであろう危惧が、意外なくらい胸のなかへ染み渡っていたのだった。
映画の撮影でさまよう女優の仮面を間弓さんにも被ってもらえるなら、美術館とも巨大工場とも宗教会館とも言い難い異様な雰囲気のなかに見受けられる、まばらな人影の向こう側に断崖を知り、同時に東京駅の雑踏を彷彿させながらも、排除された言葉のうちでしか申し伝えの出来ないもどかしを生じさせ、紛糾は光景のあらぶれを呼び起こし、閉じた空間の、夢見の圧迫に襲われるという自覚だけが耳鳴りとなって意味の断片を拾い集めては、視野的構造の純然たる攻防が日本海を見下ろす土地にまで引き延ばされるやいなや、やがて加速度的なひずみが生み出す人工太陽の下、幼なじみだったあずさちゃんの地蔵めいた童心に促され、博多行きの切符を買ったつもりが、時間の隔たりは霧散していて、この町へゆくために列車に揺られていたという、目覚めが正枝さんの心象風景であり、仮面の内側の冷ややかで飾り気のない質感だけが残されていたことを、今いちど含め考えてみれば、それは華やかさとはうらはらの薄暗い領域を守備するものであって、必ずしも打算につき動かされていたとは認められなく、むしろ表面に見て取ってしまう偏見こそが、野心や色欲を崇めており、他者が他者なる由縁を遡及させていたのではないか。
こうした思惑をひきずりながら幸吉は、間弓の内心を凝視でもするような口調で、その褪色した風合いでひろがった危殆に包摂されたまぼろしと力学の混濁を聞かせてみたのだが、別段これといった感情は見られず、夢見の語りから叫びへとうつろう実情をいわば投げかけるふうに部屋のなかへこだまさせた。
「唐突に僕の両親が取り沙汰されたのです。この旅館での密会は公然なのだと知らされたわけです」
幸吉は間弓の意向をただそうとして、それに応じるような相手でないことを思い直し、微弱な表情の動きに心配りした。
「両親と今西家とのかかわりにはそれ以上触れず、入浴をすすめられた僕は黙って言われるとおりにしたのです。その後は夕餉をともにし、すでに湯浴みをすませていた正枝さんは、自分は精神病院なんかへ送られてはいないとだけ強く言い放ち、お話しよりさきにあれをしようと色香をふりまく様子だったので、有頂天を隠しきれなかった僕は身も心も溶けてしまうくらい女体と交わりました。それがどういった具合だったかはもちろん、汗ばんだ情交の描写は必要ありませんね」
「ええ、いりませんわ。でも、その最中にひっかかりのありそうな鍵があったのでしたら教えていただきたいです」
「それが、そのう、まったくないのです。いえ、肉欲に夢中で覚えてないなんてことありません。生々しくて気恥ずかしいのは事実ですし、あまりに濃密な交わりでしたので、すぐにでも激しい姿態が思い浮かべられるほどなので確かです」
「そんなに鮮烈でしたのなら無理もないでしょうね」
「はい、ことが終わってからですからどうしましょう。濡れ場はいっさい省いてかまいませんか」
「さきほどお答えしましたわ」
幸吉は性的関心を持たないという間弓を訝しく思っていたけれど、この先いやが上にも由紀子との風変わりな親交や、疑似相かん劇の孕む猥雑な血の系図を耳にしてもらうわけだし、捜査官が現場情況のみ重視して心理を等閑にするのとは逆しまの態度に徹しているかぎり、秘密という忍び足を要する接近にはよそよそしさが似合っているのだろう。しかも至上の時を肉体へと刻み込んだ側からすると、嬌羞すら覗かせない間弓の矜持が崩し甲斐のある伽藍にさえ見えてきて、杓子定規な対座は卑猥の香が薫き込められた諧謔と受けとめてしまう。濡れ場なんて言い方をした自分がどことなくこそばゆいのは、間弓の気取りに敬意を払っているからだと胸を張った。
よこしまな想念とは優しさに連なる意地の悪さであり、間合いに割り込む朴訥な鉛のように鈍重であり、けっして鋭利な信念などではない。
「では、昌昭君が仕組んだ計略について語った正枝さんの言い分ですが、ここでひとつだけ質問させてください。壁に掛けられた僕の写真ですけど、あなたが頼むもなにも、以前より昌昭君は正枝さんに好意を抱いていたので、あの修学旅行の日取りを選んでようやく結ばれたと話していますが、そうなると間弓さん、あなたのあざとさしかこの部屋に写らないような気がしてなりません」
「早々と嘘が始まりましたね。しかし慌てませんわ。確かに正枝さんの告白を重視するのでしたら、わたしはあざとい女ですわね。そういうことでしょう。いいですか幸吉さん、もう少し詳しい内容を語ってからわたしを非難してもよろしいのじゃありません。で、昌昭は隠し子である血のつながった姉と肉体関係を持ったというのですね」
「すいません。僕が慌てていました。順を追って経緯をお聞かせしましょう」
うかつにも色情を省略した不明瞭な傲りが、相手の伽藍を強固なものにしてしまい、下手すると一貫して正枝を否定し、ゆるぎのない姿勢が打ち出される。そこで幸吉は間弓に向かって、耳にしたすべてを伝えようと真摯な気持ちになり、さらなる濡れ場に到っても肝心と思われるふしは詳しく述べるべきだと決め、教室内で雑誌の切り抜きを親しい者らに見せていたのがことの起こり、昌昭君は鋭敏な嗅覚を駆使しただけでなく、父満蔵の眼をくらませる為にも自分を今西家に近づけたと説明した。
そしてかねてより深めていた文通で今西家の長男ではないことを知り、そうなると間弓さんも正枝さんも他人になる。学生の身分を顧みず駈け落ちも厭わない覚悟だったが、父の目論見は瘋癲の域に達していて、おいそれと承知されるはずもなく、好いた晴れたので収拾出来そうな編み目ではなかった。それは血という皮膚の内側を支配する絡まりにとどまらず、殺意させ催していまう狂い水の透きとおった悪の知らせであって、ぎこちなさに準じてしまう畏怖を含蓄し、やっかいな展望へと収斂していた。
正枝が口にしていた反面また夢心地だという感覚を幸吉は踏襲してしまったのか、すでに聞き及んでいるであろう女優業にまつわる逸話や、順風満帆にはほど遠い生い立ちや、若くして銀幕の華美に疲れていた様子などを、なるだけ忠実に語ってみたけれど、正枝の夢の景色が断崖におびやかされ、あるいはその悽愴な美しい見晴らしで茫洋とした悦びを得たごとく、幸吉の口調もどこかしら酩酊に踊らされる流暢を模したところがあった。ちょうど険阻な面差しが柔和な光をさえぎって、遥か海原のさざ波へとひろがるように。
そして昌昭の生母は風見由紀子と同じであり、父満蔵の不実を盾にすることで、より正枝への情愛を募らせ、心理のかけひきは内密であればあるほどに焦燥を招く結果となった。が、身内の紛糾は遠くの火事と違い、ただちの焼け跡をしるしてしまう。その焦げ目は肉感を通じて直接あたえられるのだし、盲目的な心性は火炎のまぶしさに恐怖と反対の意想をわき起す。幸吉の胸のうちでもよどみない神経が液状の混濁にのまれていたが、いよいよ間弓からの手紙の段へさしかかると、まだ登りつめていない陽光に覚えた鳥肌は、嗜虐的な傾向を求めているかのごとく、相手の顔色を不用意に瞥見するのだった。併せて性急な思念を感じてしまい、それがなぜか妙な慈愛へなびいては、強風で煽られるブランコのような空白を乗せた情を運んでくる。あきらかに幸吉は間弓の視線を意識していた。
「ここはきっぱり否定してくれませんと、どうにも話しづらいのですが」
「ずいぶん弱腰ですのね。いいのです。わたしが正枝さんに手紙を書き送ったというわけですね。面白いから続けてくれてけっこうですわ。どんな作り事か興味ありますもの、あらっ、もう否定してしまいましたか」
「そういうつもりじゃないんです。込み入った血縁と愛憎は容赦知らずでも、あなたの情交場面に言及してしまうからです。その意味での念押しと理解してください」
「余計な気づかいはしないで。ねえ、幸吉さん、あなたは父を糾弾しに来たのでしょう。で、またもや紋切り型みたいにわたしが立ちふさがった。いいのよ、なにもかも話して、ここにあるあなたの写真が見守っているわ」
このとき、間弓は口が裂けても姉と呼ばないと意気込んだあの顔をかいま見せた。するとどうしたことか、気概を前面に押し出している間弓の風貌にある女優が重なった。それは正枝と語り合った素直な感想を呼び起こし、東京暮色の有馬稲子に類しながら、もっと快活な調子を可憐に降り注ぐ、日活の芦川いづみを彷彿させた。石原裕次郎の相手役を何度も努め、その都度、恋心を清楚に香らせた面影が幸吉の淫らさをなじっている。
だが、脳裡にわだかまった思念は伝えられず、どうして間弓と対峙しているのだろうという謎が渦まくばかりで、いっそのこと「参りました」とだけ言い残せば、今西家を後にする幻影さえおぼろにあらず、濃霧は銀幕の彼方で夢の美しさを唱えていよう。幸吉は不思議の列車に揺られこの町へと訪れた、呉乃志乙梨に対する憧憬を間弓の心の奥へ沈ませるよう感じているのが、なにより不安だった。


[542] 題名:L博士最後の事件簿〜第五章・写真よさようなら18 名前:コレクター 投稿日:2020年11月24日 (火) 04時59分

早旦のめざめが明晰な空気を送りこんでいるにもかかわらず、幸吉の眼窩は吹き抜けの悪い、陽当たりを知らない押入れのような面積に取り囲まれ、夜の残滓を頬に張りつたたままの、夢魔の指先が触れているのを感じた。それはまるで黒い粒が火照った肌に現れたかごとくの花崗岩を想わせ、闇から脱した視界の安堵をふさぐ生硬さへ帰順しているかのようだった。
他でもない、もっとも深甚な影の柔肌を味わった名残りが、酩酊にも似た勢いをもたらし、今西家へと赴いた実情を剔抉していたのであって、その跳ねっ返りがこんな見え透いた虚妄を唱えさせ、たぶらかしの本源を人肌に焼きつけている。半ば驚喜しても良い光景でありながら、けっして光沢へ磨きを掛けまいとする意識は、欲望の重みに拮抗していた。
幸吉は正枝の激高を煽ってしまった責務に脅えつつも、虚実で塗り固められた浅い時間の上を滑った肉感に忠実であろうとしていた。ちょうど激しく巻いたつもりのぜんまいが、緩やかな手つきでしか処理できなかったふうに、内心の回転は相手の動きに惑わされることなく、その使命を、反応を見届けるしかない。
「正枝さんは糾弾すると言ってましたが、どうやら行動しませんでしたね。代わりといってはなんですけど、僕が朝っぱらにですよ、ほとんど女優の匂いが消えてない下半身を今にもむき出しかねない形相で乗り込んできたのはどうしたわけでしょう。ああ、ちょっと待ってください、ええ、それはこっちが聞きたいですよね、わかってます、わかっております、ところがわかっていてのこの応対はいくらなんでも露骨じゃありませんか」
「どこがですの」
「そこがですよ」
慎重さなど逸していたけれど、思わぬ勝機をつかんだと錯覚を過大視した幸吉は、
「この部屋に張り巡らされた写真ですが、何日くらいまえから準備させたのでしょう。いや、ことさら委細など訊きたくはありません。露骨な応対だと僕が難癖をつけたことよりもですね、ふともらしてしまった間弓さん、あなたのとってつけた好意の言葉にはどんな子供だって首をひねります」
「だから、どこがですのよ。幸吉さん、おそらく一睡もしていないのでしょう。夜通し溺れ続けていたのでしょう。でも仕方ないですわ。あなたは父の形式に準じたまで、それにあこがれでしたものね。まだ興奮している、そう言いたいだけならけっこう、多いにけっこうです。で、あなたと反対の立場だったわたしのどこがおかしいのですの」
「非常に几帳面な質問ですね。そうですか、では明確にしておきたいのですが、父上は僕の存在をずっと以前から知っていて、そう、あなたがまだとことん少女で、なに偽りのない微笑みと悲しみを手放したりしなかった頃より僕を見守っていたとしたら、あなたの嘘は駄菓子屋の安物の飴玉なんか比べものにならないくらい、溶けて、はげ落ち、味覚させ瞬時になくなってしまうのです。それはそれは失意を呼んでしまうでしょうけど、あなたは味覚が伝えるか細くも長い懐かしさを軽んじているので、ただちに視覚に訴えかけることで愚昧と言ってもさしつかえない場景をこの部屋に圧搾したのです」
「白々しいとでも」
「見え見えです。字義とおり僕の顔が見え見えですよ」
しかし悲歎に暮れる間弓の表情が当たり前とは言い難かった。なぜなら直ぐさま、体勢を整えるように、そしてここがあくまで自室であり、幸吉が初めて訪れた空間である重みを知らしめたからであった。
「いいですか幸吉さん、何度も申しますけど、正枝さんがどんな由縁を話したの想像できませんし、あれこれ虚構にまみれていくこと自体、わたしは考えたくもありません。もっと簡単に言いますとね、わたしの答弁も、正枝さんの暴露も、あなたの解釈も、なにもかもすべてつかみどころなんかないのです。ええ、いいですとも、では裁断、いえ分断してみてください、さあ、それでなにかが正確無比な現実が立ち顕れてくるとでもおっしゃるの、わたしはわたし、あなたはあなた、正枝さんは正枝さん、父は父、昌昭は昌昭、由紀子さんは由紀子さん、さて、どれだけひとの名前を呼べばいいのかしら、それとも神様にします、仏様にします、父が見守っていたその連なりの導く日々の時間と空洞を探検しますか、影しか見つけられないのに、いっそ嵐でも呼んで巻き込まれたいの」
「それは山間での事故のことですか」
「さあ、どうかしら。根拠のない罪悪感に根拠を求めるのは、結局そちらの方が世間に顔向けが立つように思いますけど。わたしにはよく理解できませんが」
「なんだかんだでそこへ話頭を振るのですね」
「だってそうでしょう。あなたは由紀子さんの肉体こそ愛でたようですが、気分的には同学年の女子にすっかり同情してしまい、いいえ、同情なんてたやすいものではなかったみたいですね、自己主義が育んだ蜜月を巧妙に移し替えようと努め、由紀子さんとの決別を胸にしました。あの日、わたしを殺人者呼ばわりしたのも、身近な女子への親近感があなた自身を浄化してくれると信じたからでしょう。そしてあなたは瀕死の女子をこれぽっちも好いていないことに胸をあてて気づき、傷ついた。勝手に傷つけばいいものを移し替えれるとなまじっか信じてしまったので、すっかり空虚な気持ちにとらわれてしまい、浅い自傷はあっという間に深い傷口となり、肉感の亡霊に夜な夜な悩まされては、過剰な色欲を成仏させるため、身軽な形式を、つまり形式の形式を、終わりを知らない自動機械みたいな絵柄に、ほぼ意義などない複雑な紋様を引き寄せ、曖昧な態度と欲望の遠ざかりを夢見ながら終末思想に傾倒するしかない近視眼でもって、今西家を眺めていたのですわ」
「その眺めがこの皮肉な写真というわけですか」
「わたし皮肉とか諧謔って好みませんの」
「では、これはどうしたことです」
「幸吉さん、気をしっかりね。正枝さんはもう帰京しました。父とも話し合いがついたのです。そしてまぎれもなく父も正枝さんも落胆しています。わたしのせい、そうでしょうね。わたしさえ、姉であることを認めれば波紋のひとつくらいで済んだでしょう。かわいそう本当に」
「誰がかわいそうなんです。まさか間弓さん、あなたが一番なんて言わないでしょうね」
「一番も二番あるものですか。そんなことあるものですか。でもどうしても訊きたいのであれば、それは幸吉さんと言っておきます」
「はあっ、僕がですか。で、この応対はなぐさめだと」
「随分ひがみやすいのね。わたしは父があなたに興味をもつまえからあなたに興味があったのです」
「さっき聞きました」
「ではそれでいいじゃありませんか」
「しかし大げさ過ぎます」
「あら、照れてるの」
幸吉は正枝の細やかな告白に半信半疑のまま、不自然な情熱を汲み入れてきたが、同時にそれは間弓のしたたかさをどこかで称揚しており、なおかつ尊大な女性像へしがみつきたいという惨めさに巣くう情欲を、承認すべき営みでしかない。承認したあかつきには情欲は他我を離れ、おのれの精力となりうる。幸吉の理念は磨かれ擦られることによって艶を冴え渡らせる花崗岩の岩肌に閉じていた。
あの女子が瀕死の状態で川に浮かんだという悲劇は、たしかに幸吉の神経を狂わせたし、叶わぬ恋だと知った由紀子への鎮魂歌は平静を保とうとすればするほどに、不快ないびつさでもってのど元を締めつけ、純愛だの無垢だの、清廉だのといった美しさを汚すことのみに逃れたのだった。
たぶん最後の砦であったかも知れない身体を張った一夜ですら、虚飾と色欲とが渾然となっている有り様に反撥を覚え、一緒になって突破口を開こうなどとはまるで考えず、逆に嘘をあばき立てれば、銀幕の主旨がまっとうされるのだと、肉欲の限りを尽くすことで役者根性が美化させる、そう解してから憧憬の夜空にありったけの意識をぶちまけたのだった。正枝の帰京を残酷に彩ったのは、幸吉自身が募らした不可避の反動であり、閉塞の中心でうごめく醜い恋狂いでしかない。
「わたし、ふざけているように思われるの嫌だから、はっきり言っています。昌昭があなたに女優と一緒のところを撮って欲しいと頼まれたとき、何枚も何枚も撮り逃してはいけないと懸命になったらしいわ。それがこれらの写真よ。正枝さんの顔を飾るのは欺瞞でしょう。全部カットしたの」
正枝の言い分とは正反対だったが、こうまで穏やかな情熱を崩さず話されると、もはや自分が露呈させようと躍起になった虚偽と真実の狭間は、霧散を乞うているとしか感じなくなりそうだ。
けれども返り討ちにあった者が、悔いをこの世へ託そうとしてそれがなにであるのか、ほとんど自失することによって遺恨から解放されるよう、忽然とかすれた意識は飛び立った。自失に羽根はない。
「そんなに僕のことを想ってくださったなんて、いまさらですがなんと言えば」
間弓は特に誇らしげな眉目もつくらず、
「さあ、なんて言ってくださるのです」
と、品の良い笑みをたたえた。
「僕はもう用済みなのに、これはだめ押しだと判断してよろしいのですね」
「えっ、なんですって」
見事に歪んだ口もとは確かな腹立ちを見せつけた。隙は与えない。
「静子さんから由紀子さん、あなたと正枝さん、主役は紛れもなく間弓さんですね。昨晩どんな会話がなされたかよりも、今朝、僕がどうあなたに迫るか、その選択肢も決まっていたとしたらですよ、そうです、またもや接吻ですね。それがあなたの口封じ、今西家に僕がかかわる必要が形式がなくなった以上、あなたは余裕、つまり枕を高くして眠れるという寸法、ところが正枝さんの進退を賭けた告白は無視されるほど軽々しくはなかった。やはり気になって仕方がなく、虚言癖のいかさま女優だと全面否定できる自信はいささか危ういのです。
本当は根掘り葉掘り聞き出したいところだが、それだと応酬を余儀なくされ、痛くもない腹を探られてしまう。はい、僕もふざけるのは嫌いですから、はっきり言わせてもらいます。ただの妄言でしかないですけど」
「どうぞ、おっしゃってください」
「相変わらず淫らだと思ってもらって構いませんよ。あなたは接吻だけで治まらないのを予期しています」
「まあ、嫌らしい妄言ですのね。予期ですって。ものは言い様ですわね。それはあなたの期待でしょう」
「なるほど、そう捉えられて当然ですね。これで終わりです」
あきらかに緊迫をその居住まいへ突き立てた間弓は、
「わたしまだ高校生なのよ。あなたとどうこうあれ肉体関係を持ってみても、これからの将来の指針になるとは思えませんの。ましてや婚姻なんて、もしまた父がよからぬ形式を持ち出したら大変ですわ。なにより、わたし性的なことには関心がありません」
「そうですか。失礼しました。では僕のどこに興味があり慕ってくれたというのでしょう」
「あなたが普段あまり念頭にのぼらせないような意味合いでです」
「正枝さんは帰りましたが、近いうちに僕に会いに来てくれると別れ際に言ってましたよ」
のけぞるように緊張を走らせる相手を眼窩に静めると、幸吉は虚言を弄している現実に陶酔した。羽根がなくても空は飛べる。これが捨て台詞のつもりだった。
「いいわ。思ったより手強いのね。ではちゃんと話してもらいますよ。嘘は許しませんよ。それとこの部屋の匂いと由紀子さんのものと比べたりしないで。正枝さんのは仕方ないわね。そっくり受け入れないといけませんわ」
きつく結ばれた間弓の口角に謀反らしき邪心を感じた幸吉は、陽光のいたずらだと肩をすくめ鳥肌を立てた。


[541] 題名:L博士最後の事件簿〜第五章・写真よさようなら17 名前:コレクター 投稿日:2020年11月16日 (月) 04時36分

「どうしたのですか。こんな朝早く、わたしは体調がすぐれず休んでいたのですが、まるで見越していらっしゃったみたいですわ。ちょうど昌昭も登校したばかりだし」
「いいえ、別に時間を見計らったわけでありません。僕がさっきまで誰と一夜を過ごしていたのか、察していただければ十分かと」
「なんですって。まさか」
「取りつくろうのはやめてください。なにもかもご存知なんでしょう。正枝さんはすべてを語ってくれました。間弓さん、あなたにも一言ありますが、僕はぜひとも父上とお話がしたいのです」
間弓は動揺を隠そうとはせず、むしろ落ち着きはらっているのが、いささか非礼にあたるとでも言いた気な表情をつくり、
「薮から棒になんですの。正枝さんにどう吹き込まれたか知りませんけど、幸吉さん、あなたには以前しっかり納得いただいております。いいですか、ほとんど狂乱状態だったあなたにとって一番ふさわしい提案をしたつもりです。お忘れになったのかしら。どうやらそのようですわね」
と、内心へひろがった因循のさまたげになる紋様に焦点をあわせた。
「そうそう凄い剣幕でしたわね。わたしが由紀子さんを殺したとか、憶えていますよね。それと山間の川で事故をおこした女子生徒のこと、あなたの動顛が治まりそうもないとわたしは判断して、さあどうでしょう、錯乱のさなかに乗じたわけではありませんが、あなたにもわたしにも都合のいい解釈で結ばれたはずでした。今西家に正枝さんを迎えるなんてあり得ない、だからあなたとの婚姻など、いくら父が強引に成り立たせようとしても、いいですか、繰り返しになりますけど、正常さをなくした父のたわごとを信じたあなたも尋常ではなかったのです。淡い憧憬とか夢見るような目途の範疇で、浮き草みたいによるべなき心情と戯れているのはけっこうですが、そこへ逃避的願望や焦燥感といった不適格な意想を持ち込まれては、非常に迷惑なことくらい、あなただって理解されていたでしょうに、それにつられて父の妄執に意気を感じ加担してしまうなんて変ですわ。
あなたは昌昭の無関心さを逆手にとり、わたしどもがあらぬ由縁を秘匿していると疑ることで、より自分の胸騒ぎを増長させたばかりか、由紀子さんの気持ちまで踏みにじってしまいました。あっ、そうでしたわね、このわたしが策略を練り、あなたを骨抜きにしたそうですが、そんな証拠なんて果たしてどこにあるのでょう」
幸吉は頭を抱え込みたいほど落胆し怒りに燃え、聞き及んだ錯綜する淫奔の限りを細やかに叩きつけたい衝動に駆られたが、いかんせん正枝の語りを鵜呑みにはしておらず、別れ際に暴言を吐き、これまでの薄ら寒さと拮抗していた信頼を自壊させてしまったことが引っ掛かり、どれだけ詳細を暴露したところで、間弓は熱意もろともあっさり片づけてしまうと踏んだのだった。
緊要なのは自分の出自を今西満蔵に問いただすことに集約される。若かりし母が学校の実習生だった頃、本当に恋をはぐくみ、結果実らなかった想いが積年、満蔵の胸臆から消え去らなかったというのなら、幸吉にとっては精神的な父と呼んでさしつかえなく、隠し子であると言い張った正枝との婚姻はいみじくも美しい計らいに映るばかりか、それは正枝の虚構が生み出した愚直な綾のからまりにとどまらず、怪しさを突き抜けた実情へ向かっている。あり得ないと断言するのがこわばってしまう、この微かな不安を見守るまなざしと、口辺に触れる追求が本当の父であるかも知れない、そう小刻みに震えている。
風狂なるがゆえの我執とみなすのはたやすいけれども、愛する二人を結ばせようと願った心性を軽んじられないわけは、希望と呼ぶには似つかわしくないが、お伽噺めいた軽妙さで陽だまりへ舞う塵のような明るみに通じている。
ただ、どうしても合点がゆかないのは、幸吉が体験した名状し難い悦楽と困苦を、あらかじめ知り得ていたという気宇が拭われないのだった。由紀子との情交を耳にした満蔵はどのような感慨を持ったのだろうか。
疑心を払うと同時に宥和が遠のかないよう念じた幸吉は、
「証拠なんてありませんよ。正枝さんはあなたからの手紙を読ませてくれましたが、勘ぐれば誰の筆跡やら知れはせず、すべて創作だったと思えば、強迫観念にゆだねるまでもなく類推的に、細胞性粘菌の放つ幻惑へと招待されます。僕はその招待状を破り捨てるどころか、大事にしまっておいたのでして、何故かと言えば、間弓さんの嫌悪するところの不適格な意想が僕の性格なので、こればかりは青年になろうが老人になろうが、だぶん死ぬまで消えない薄紙で間違いなく、淫猥さならびに不道徳が匂わす媚薬に惹かれたあげくの、根拠なき罪悪感に根拠をあたえるという、二律背反に諭されながら、その不透明さを見限っていますので、これ以上混線した人間関係に分け入りたいとは思わなくなってきたのです」
「それは開き直ったという意味なのでしょうか。なら、話しは早いわ。父が見込んだだけのことはあるわね。で、出自を問いただしたいですって。精神的な出自ねえ、いやに文学的ないいまわしね」
「だとしても、僕は今西満蔵本人の口から形式の形式の真意を聞きたいのです。かりに正気でないにしろ、その大らかな妄念を耳にしたいのです。もう一方通行ではありませんから」
「わかりましたわ。でもまだ床ですので、お待ちいただくことになりますけど、幸吉さんは学校には行かないのですか」
「ずいぶんですね。そんなこと今さら訊ねるなんて。ひょっとしてかなり戸惑っているのではありませんか」
「はて、誰が戸惑うものですか。学校をさぼってまで父と話しをしたいなんてどうかと考えてみただけよ」
幸吉は一瞬に過ぎなかったが、間弓の面に牝狐を想起させる狡猾で鋭いまなざしを見届け、それがいかにも自然体であったことに安堵した。もし間弓の視線が数瞬でも泳いでいたなら、正枝が話した偽近親相姦のくだりを好奇に満ちた声で問いかけ、平穏な装いをはぎ取るつもりだった。いくら作り話とはいえ、姉弟の交わりまで言及されれば不快な面持ちになり、いや、顔色をうかがうのが先決、微動だにしない素振りを見届けてこそ、正枝の真意が漂いだすのではないかと、昨夜のすべてに一縷の光線が走っていたとすれば、自分は救われる。地獄の底から救われるのではなく、地獄の地平が開けるのだ。
しかし間弓は素早く身をかわすだろうし、なにより無為な時間を費やすだけで、それは幸吉の意思にはそぐわなかった。
あの狡猾な牝狐のまなざしこそ、自分のなかにひそむ女性なるものへの親近感ではないか。同様な眼を内面に備えることで割り切れそうもない同一性を獲得し、未知の悦楽への足掛かりとしていた。
「今日は父上とお会いするまで帰りませんから」
「ええ、承知しましたわ。時間ならたっぷりありますもの」
「僕は一応急いているのですけど。あまり悠長に構えられても」
「悠長ですと問題があるのでしょうか。それとも勢いでここへやって来たことを恥じいるのかしら、父はわたしが起しますので」
きっぱり言い張ったので幸吉は少しひるんでしまった。
「すいません。御病気だったのですね。それにあなたも」
「わたしは大したことありません。でも父は寝つきが悪く朝方になってから深く眠るので、もうしばらくお待ちください」
「ええ、わかりました。僕が焦り過ぎていました」
虚心な謝罪だったが片隅を意識するまでもなく、幸吉には駅前旅館での正枝との情交を知り尽くしている相手の眼力に圧せられ、反撥も弁解も静かな朝の空気へ沈んでいる病魔によって、しめやかに冒されてしまうような気がした。
「ねえ、わたしの部屋にいらっしゃらない。見せたいものがあるんです」
思いもよらない発言に今度は煙にまかれそうになり、どうした加減か生唾を飲んでしまった。
「一体なんでしょうか」
子供じみた返答が生唾に促される。
「見ればわかりますよ」
間弓の微笑が時間を横滑りし、幸吉は不可解な籠絡を感じる暇もないままに芒洋とした家屋の造りに眼がそよいだ。断る理由はどこにもない、客間をあとした間弓の背に引き寄せられるようにして、禁断の足どりが音も立てず夢遊病者の影に忍び込むと、その歩幅とはうらはらに覚醒の瞬きがありありした現実を描きはじめ、すっと扉を開けた間弓の手首の白い回転に眼を奪われてしまった。
予期していたものは華奢な手首のさきにある書架へ並んだ様々な書物や、旧家の面影を香らさずにはいられない住人の気配、すなわち深窓の令嬢が醸す優麗な清潔感や、見つめ合う距離に淀むであろう呼気が報せる艶然とした風姿や、損なわれることを尊ぶような相容れない言葉づかいなどを総じて、あまりある光景をひしめかせていた。
「これは・・・」
「そう、あなたです」
さっと見舞わすのが気後れしてしまうほど、幸吉の顔写真が部屋に張り巡らされている。
「修学旅行の際、昌昭に頼んで撮ってもらったものですわ」
途方に暮れたふうな困惑に、
「どういうわけですか」
としか言いようがない。
「幸吉さん、わたし、あなたを慕っていたから接吻したのですのよ。父があなたに興味をしめすより前から」
ここが自室であり、晴れやかな、しかし秘密の翳りが充満してることを間弓は、謎めきと反対の明朗な口ぶりで伝えるのだった。


[539] 題名:L博士最後の事件簿〜第五章・写真よさようなら16 名前:コレクター 投稿日:2020年11月10日 (火) 03時47分

通い慣れた他家に染みつく体臭ともいえる匂いは、常に期待を裏切らず、もっとも大げさな愉しみがそつなくひかえていたわけではなく、ありきたりの晴れやかさがありきたりのまま、居座り続けるように、さながら噛みしめたガムの稀薄な風味に対する思いやりに似たかぐわしさを内包し、かすれた味が唾液を刺激しているのか、それとも意地汚い唾液が最後の一滴まで絞りつくしているのか、いずれにせよ、指折り数えるほどしか訪れていない今西家への心構えがあるとして、すっかりのぼせ上がってしまった幸吉の頭も、不穏なまでに高鳴る胸間も、瀬踏みを忘れた半景に埋もれているのであり、その危うさが反対に奇態な来歴を意識させまいとしていた。
性急を名のる欲深さからせり上げられた隔たりが遠慮に通じ、迷妄の幕間を仕切っているなら尚のこと、隔たりは指呼の間で凍結したまま、胸懐へ沈む輪郭のみが強い筆致で浮き彫りにされる。
呼び止められたことで今西家の客間から調度の配置が失われ、模様は錯綜の求めに応じて、まったく予期していなかった間弓の接吻を受けると同時に、ほのめかすことの放棄された確執へ引きこまれたのだった。ぎこちなさをかわせないまま、柔らかなくちびるの感触に拝跪するしかなく、つまり受動的であるという冷艶さの裡へ招かれたのであった。
「博士、夜明けを愛おしんだ訪問が思い出されましたか」
永瀬砂里の顔ばせには、霊媒の気迫や悽愴な色合いなどが後退していて、幸吉のうっすらと望んだはんなりした孫娘のような質朴さがうかがわれる。
「駅前旅館から帰京してしまう女優と一悶着があってね。ああ、眼の覚めたのやら覚めないのやら、とにかく夢幻境地の幽暗を、がむしゃらに引っ掻きまわしてしまわないと気がすまなかった。自分を取り巻く情勢を打ち崩して、逃げ出したい一心だったし、名残惜しく仕方なくとも、儚さが明快に退路を夜明けに譲り渡しているのが知れたよ。だからだろう、めくるめく回廊にうんざりしていても、それまで受け身に甘んじてきた刺激の虜へ踏みとどまっていたのさ。奸計だとわかっているのに、純麗な触れ合いであって欲しく、汗まみれが至当な絵面に呼びかけては、肉体がこすれる音に陶然となって、悶えであって悶えでないような甲高い声が急に静まってしまい、でも喜悦の高みから耳をそばたてることなく、年少の思い入れが成就しているという果敢なき躍動を全身に覚え、果てることなき睦み合いの実感をしみじみ得てしまうと、鳴り止んだ吐息のさきには肉体の残滓が、光明をしめやかに符節へ返還して、あくなき欲望の袋小路に案内されたのだろう。胸元から肋骨にかけて痛点と一緒になって駆け抜けゆき劣情のきな臭さを呼び返す、あの未熟さに包まれた想念は、まるで蒼穹をたった今見上げたばかりなのに、地面に心許ない翳りを吹き流してゆく気まぐれな天日ごとく不可解に襲われてしまって、なんだかあれほど異質の肌触りに誘われ、ふくよかな淫らさに溺れていたのが、ふと肉感のちまたを通り過ぎているふうな心持ちになってね、いきり立った下半身すら月並みの自然現象に思えてしまい、ちょうど夜半の小便の折、カチカチに固まって用が足せないと、夢見を破るように睡魔と戦っていた鎮静作用が情交のさなかに発生したみたいだった。なめらかな女色をうららかに強調する乳房の張りやら、熟すことに懸命な臀部の丸み大きさ、一二条の髪の毛が脇から腹にかけてへばりつく嫌悪とほぼ同等の愛着に従い、なでまわし、吸いつき、要所要所に舌先を這わせては、腰振る律動を地の底まで渡らせることで明々とした意識へなびかせていた焦りにようやく気がついたのさ。
正枝さんはどうしてあれほどまで執拗に、瑣末なしがらみをあぶり出したりしたんだろう。当然あのときのわしは落ちついている素振りを性欲の鎮火に組みせず、むしろ反逆の意思をむき出しにしてしまったんだけど、いくら間弓さん由紀子さん、それに昌昭君を懐柔したとばかりの大言壮語を詳細まで述べたとして、今西家における立場は到底浅く、わしも含めた父満蔵との関係を暴露するに至って、あんなにあこがれ敬っていた女優を無性にやっつけたくなったんだ。
「僕は眠っていませんよね、起きてますよね。起きてあなたと向き合っていますよね」
だとしたら、わしは正枝さんの女優魂に鬼女を面を掘り当てたと言える。石井輝男監督ばりの皆殺しの場景はやはり飛躍しすぎで彼女にそぐわないどころか、あまりの心変わりに驚き怒りをあらわにして、わしに愛想をつかしてしまった。
そうだとも、それでよかったのさ。悔いがないと言えば嘘になるけど。
「ねえ、幸吉さん、わたし思い直したわ。これから一緒に今西家の方々とお話しませんか」
茶番と無謀と終わりを知らない情欲は、そんな都合のいい妥協と慈しみを背後へ控えさせ、甘い友愛の台詞をわし自身に語らせたよ。なんだかんだで争いごとを避けたい気持ちがあって、満蔵の形式の形式による華の奥殿を信じてみたかったんだろう。
「でも正枝さんはそのまま始発で帰ってしまったのですね」
「帰ったよ。怒らせたのは事実だが、よくよく考えるとなかなか壮絶な捨て身の演技だったかも知れない。わしだって完全に狂ってなんかいなかったよ、正枝さんもそうだ。最後に仲違いするのもふたりして熱い握手を交わしたようにも測られるのさ。結果的にわしを今西家に向かわせることによって、撹乱を見出したのではないか、そうじゃなければ肉体まで差し出した本意は見失われてしまう。どうして大した女優だよ、今西家との煩雑な説話だって額面とおり聞き入れてしていいものやら、結局わしも他のひとと同じく、向後の策のために利用されていたなんて邪推してしまうんだな。
「どうでしょう。そこまで正枝さんが計画していたとして、一体どれほどの酬いがあるのかしら。わたしも女性ですので身を呈してまで今西家に向かっていく姿は、並大抵の決意では出来ないと感じます。信頼と諦観がもし、正枝さんの胸のなかで不可分な状態のまま、くすぶり続けていたとしたら」
「ああ、確かにそんな意を汲んで朦朧とした念いに釣られ、夜明けの唄を背にして乗り込んだのさ。由紀子殺しを究明するとともに、正枝さんとの婚姻をただすためにね」
「あの、それってほとんど取り憑かれていたのじゃありません」
「だとしても本望だよ。ときめく胸が張り裂け、泥仕合の態まで無惨になだれ込むだなんて。上っ面だけの憧憬をなぞっていたならあり得なかったことだ。たとえ女優のはらわたに毒されたとしてもね」
「わたしなんかどうこう言える立場ではないのですが、正枝さんの芝居にあえて加わったということでしょうか」
幸吉は油分が水を弾くよう、悲愁の面持ちからさっと意欲をみなぎらせ、
「そうだろう、じゃないとぶざま過ぎるよ」
相変わらずのぼせた状態を肯定する。
「詰責の先に真実があり、激憤の向こうに解決があるはずもなく、ましてや溜飲を下げたいなどと思ってもなかったよ。現に間弓さんの呪文に縛られてしまったわけだから」
「それはあの一夜を舞台に置き換えたい恐怖に駆られていたからですね」
「正枝さんの告白が本当だとしたら、わしは今西満蔵に忠誠を誓うか、永遠に決別するか、そして姉である間弓さんの顔をもう一度だけ見たく、はじめて色香を授けてくれたあのまるで中揩フような接しぶりに我を忘れ、能うかぎりの媚態に触れたい。さて、あれは何時頃だったんだろう。どこをどう歩いたのやら、どんな意識が脳裡を駆けていたのやら、ことのあとさきに神経を使っていたのやら、どうにもこうにも記憶が定まらないんだ。なあ、あんたの言うわしの日記にはどう書いてある」
「それがほとんど暗号だったようで。伏せ字だと読み手は解釈しているようですが」
神妙に寄せた眉根がひらかれ幸吉はうなずいた。
「なるほど、そうかい」
「博士、よろしいですか。これはわたしの見解ですけど、博士は間弓さんと駆け引きしたのでは。そうなんです。今後おそらく二度とめぐり会わないだろう奇跡の夜にたぶらかされ、時間が傷ついた以上、もうこの世の果てに媚態を見出せない。由紀子さんの殺害について問いただしてみても、それは博士の関知するところでなく、実際に由紀子さんは溺死なんかしておりません。にもかかわらず、今度は同級生の女子生徒を殺してしまったと思い込んでしまいました。いえ、そう思わされたのです。正枝さんが突きつけた挑戦状はすでに今西家に渡っていたと言うべきでしょうか。正枝さんの演技はあたかも二重スパイのような剣呑さで博士を魅了したのです。謀略や暗殺がまかり通る虚構を鵜呑みにしてまどわされ、悲劇の女主人公に息吹きを吹き入れることで、自らの素姓に妖しげな魂をからみつかせたのです。
色欲の全開を旗じるしにしたうえで、繊弱な少年が保っている矜持に美徳を植えつける役目に徹して由紀子さんは、どこまでも脇役でしかなく、今西家のたもとで戯れる淫靡な傀儡でしかありませんでした。年長の女性から肉体の手ほどきをされた時点で、博士は理性を失っていました。銀幕よりあらわれし艶情のたおやかさ、またどぎつい芳香に当てられた優柔な面持ちに展望的な将来は撹乱され、峻拒にいたる道しるべはしなかやに傾いてしまったのです。
味読を放棄した外皮はもう自由意志を持ち得ません。良識的な判断力もです。あの台風で女子生徒が亡くなってはおらず、ただ、急流にのまれ生死の境をさまよったせいなのか、見違えるように健全な心持ちでこれまでの悪弊を断ち切った。博士にとっては由紀子さんも女子生徒もさながら必要悪みたいな存在で、今西満蔵の奇矯ないざないに類するためには欠かすことの出来ない影でした。そして由紀子さんは情愛をさとり、身を引いたのでしょう。間弓さんはすかさず、博士に箴言を伝えたのです。邪魔者は死んだと。
日記には前後の文脈を乱すふうに書かれていますが、あれは博士の坦懐だったのですか。邪魔者消せ、そうして偽悪的な精神を根づかせようと試みたのですね。ところが正枝さんの進退をめぐる諍いに接するに及び、今西家の骨肉に堪えられなくなってしまいました。
あの日、博士はまたもや間弓さんと押し問答をはじめてしまったのです。それが目的だったと、夜明けの風は唄っていたはずでした」


[538] 題名:L博士最後の事件簿〜第五章・写真よさようなら15 名前:コレクター 投稿日:2020年11月04日 (水) 04時01分

めぐる日々のいつしかゆきあたる暮れどきの加減にとまどい、その気配をくみ取る。
余暇へ忍び込んだ寂滅に彩られた刃こぼれが、日没の残照を告げているとしたら、このひとときは明朝に伝達されうるべき忘却の形骸を闇のなかへ焼きつけようとしている。擦過してしまう暴威だと学習しているのはではなく、天候の不順にかかわらず、暗雲の巨大な厚みも、同調を余儀なくされる地鳴りに似た風も、せわしない密懐に逢着した雨脚も、厭う意味すら放擲して本然にいたるともなく、すべからく浄夜の調べを此岸より聞き及んでいるのであって、昨日がもう今日へ連なってしまったよう、なんら異変にあらず、女子の胸臆は計り知れない。
眠りから覚めてはいない、覚めてなお眠りを追思している。それが欲望のともしびである。
が、差し出されたにぎりめしへ宿ったほの白さは、次第に彩度を退かしてゆく幽鬼のしわざかと穿ちたいほど馥郁たる滋味さえ帯びて、冴え冴えとした輪郭を薄暮に掲げており、空腹が空腹であることのもっとも不変に拘泥するので、情況のいやがうえにも肉感を切迫させた緊張がほどけてしまい、それはまるで青白い炎が熱さを感じさせないごとく、澄ました顔色を浮かばせる野心が遠ざかって、代わりに穏やかな宥和の証しが情愛へうつろったのか、よく考える余地をあたえる間もないまま、幸吉は思いがけない弁当にかぶりついた。
刹那、腹が減っては戦が出来ぬなどと、負け惜しみめいた文句を横切らせたのだったが、にぎりめし特有の平和な重量感に微笑の微笑を禁じられず、また口中を占拠する米粒の群れは、散らばることを惜しまない白兵の雄叫びになって、喉元を機嫌よく嚥下した。
無論いくら唐突な食欲だとしても、頓着なしの空腹などあり得ないのだと言わんばかりに、味わい、匂い、舌に触れたときのうれしさに立ち止り、勢いよくほおばったつもりがそうではなかった。覚束なさを知らしめる暗がりだけに依るべきものとは限らず、けっこうな大きさでにぎられていた重みをふたたび神妙に感じるとともに、おかずはないからと気恥ずかしそうな面持ちをしていた女子の言葉に押し詰められた白米の中程には、はっとするような塩加減のしそ昆布がじんわり挟まっており、その味覚に触れた矢先には、どこか大人びた風合いをしめすであろう鈍さが酸味とともに嗅ぎ取られ、たちまちしそ本来の香りが佃煮として混淆した成果に驚くのだった。
醤油に砂糖だろうか、子供ながら嗜好の一品であったことを思えば、ねばつきながらもあっさり箸へ乗っかる具合や、あとを引く甘みは白飯の含んだ水気に染み入るようで、それのみ食したら塩辛さが勝る口当たりに、ほんのひとつまみといった遠慮の作法がおのずと判ぜられたけれど、わさびや七味といった薬味的な立場に置かれているわけでなく、こうしてにぎりめしの中核を成す役割りは、鶏卵や果物を彷彿させたりもし、根拠は過分かも知れないが、十分おかずとしての使命は果たされている。ときおり、四角く大判なものも食卓へ上がったが、普段の刻みの食感とは隔たりを覚えたので、それはおそらく塩分の強さが子供向きではなかったこともひっくるめて、たとえば七味の入れ過ぎがうどんの汁をひりつかせ、ピリピリ痺れるような口もとに困惑したことや、多めのコショウがくしゃみをひき起したりするような失笑などと異なり、茶碗の中身に対照的な色合いで挑みながらも、その対比は有益な美味へと結ばれるのだから、なおのことないがしろに出来ないまま、やがて愛着に類するような頻度で口にしていたのだろう。たしかに四角いしそ昆布はしばらくお目にかかっていない。由縁は手軽でありながらも、やはり食する者の品格を良い意味で求めようとする佃煮の凝縮にあると言わせてもらう。
これらは正確には幸吉の好物であったゆえの再認識であった。そうなると少量でも白飯と渡り合えるだけの旨みが閉じ込められた律義で、奥ゆかしい黒光りに黄昏の町並みを想起させてしまうことや、逸る気持ちが家路への急ごしらえの懐かしさに導かれることなど、あながち無茶な飛躍でもあるまい。
驚きとはいつも予定調和の確認でしかないのか。だが疑問符は澄明なせせらぎの豹変に乗じて、無調の音符が紡ぎだされる徒爾を称揚し、早瀬の眺めに、近くを遠目に映じている人格へとすり替わる。すこぶるたやすくそこに偽悪者の相貌を見出してしまう。で、よく噛みしめる仕草はさながら歯の浮くような殊勝な心延えにつながって、まだ半分も食べきれていないにぎりめしのありがたさを早速わすれ、味覚の味覚に先行しているであろう内分泌の働きなど閲するに及ばず、脳内と絶対予知に震えている腸内の悦びは、さらなる異変を消化するため、確約された情交へ先急ぐ。逸る意識はこんな短絡をあぶり出し、明解な危機を回避するのだった。
それでも幸吉は自ら選びとった秘密の日没と、不順きわまりない空模様の猛々しさのうちに、そつなく演じられる殺し屋の優美な姿態をほの白く浮かばせ、定石である黒ずくめの衣装を夜に喩えた。同様の仕掛けとして女人に惑わされる良心を差し押さえる必要から、微かな笑みを絶やさなかった。この演技こそ斟酌から逃れる方便であるとともに、肉欲の後始末にふさわしい素振りであり、相手に感ぜられない表情だったとして、内心ほくそ笑むという意味合いの高慢な態度の露呈になろうが、一方で被虐じみた意識への釣り合いに加担したことを考慮するなら、演じられる影の立ち位置は台本に忠実でしかなく、せいぜい偽善者を凌げるくらい悪徳へ徹してみることも肝要だろう。軽薄の調子は不粋を背中あわせがほどよくて、また皮相の立ち振る舞いにかなっているし、脇役の本分からそれる怖れはくだんの二重に積んだ用心深さが裏づけしてくれる。
弧を描くようにして滑らかな調子ではいかないにせよ、完璧な円がつくり出せないにせよ、雅趣を通底に保たずに夕暮れは過ごせない。幸吉は申し送りでもするまなざしで、手のひらの温もりでこわばってしまいそうな残りのにぎりめしをしみじみ見遣って食した。
闇に支配される空間で視覚的因循に寄り従うことは難しかった。諦念はしかし仇とはならず、肉欲に於いてより開花するべき性質をはらんでいる。それは他でもない、女子が下世話に懇願した由紀子と瀧川をめぐる形式に引き戻されたという、引力と斥力の狭間で揺れ動いてやまなかった不如意な実感に後押しされての、大いなる幻想であった。もしかすると焦燥を引き立てつつ、苦渋の面すら憚らなかった無神経さが、すでに形式への技巧的で、そのくせ散漫な心情を補填していて、謂れの謂れを遡行する擬態に、ちょうどほこり被った装飾品の真贋を紛らすよう、適宜な時間稼ぎがおこなわれたとしたなら、形式の形式はもっと別口のやり方で意想に添うべく、呼称されうる現実の一面より、新しい幻想を引き抜いたと思われる。ただ、格段に目新しい目算が引かれたとしても、幻想の領域は波打ち際までの侵蝕でしかなかったので、いかんせん形式の形式の堅苦しさとか、融通の利かなさは古風なまま、革新的な素描に至らず、あくまで寸暇を惜しむよう蓄え続けられている血流の真紅に、想い馳せる薄い皮膚が投げ出す奮闘のみであった。
透徹して古色とした趣きにさらわれてしまうであろう、あのむき出しの裸体にすべては収斂する。逸脱をそそのかす悪魔のささやき、そして儀式という広場を埋め尽くす声なき声の、夢の工場が稼働する軋みに促され、さまよい歩いた妄念が抱く痴態の墓場、まぶたの裏を駆けてゆくのは、肉体の交わりが映し出す栄光の誕生の瞬間である。
幸吉と女子が直面している向こうで蠢いている現実こそ、今西家のかがやきに違いなく、そのかがやきは不変で、しかも魅惑の精髄を枯らすことなく、光と影が織りなす銀幕からの芳香を絶やさない。昌昭の沈着にはじまり間弓の理知にためらい、満蔵の風狂に唖然となった未知数の思い出。一層すばらしいのは女優と呼ばれた娘との婚姻であった。この世の果てまでたどるより、ほとんど悪夢に等しいその欺瞞が生々しく鮮やかで仕方なく、かつてはあまりの新鮮さにこちらが一晩で朽ちてしまいそうなほど尻込みし、まっとうな思念を取り返そうと躍起になった。
が、形式の形式が目していたものとは、矛盾の矛盾を了解して、世界の隅っこに佇むことだけにとどまらず、真夜中に太陽を仰ぎ、海底に大陸を発見し、脳内にお化け屋敷を建設し、腸内に女優を住まわせ、寝起きに映画館へ入って、主役がすぐ殺される物語りを観てから、おぼめく風景にまたぞろ不思議な感化を受け、夜景の瞬きに昼寝しては枕に抱きつき、恋する恋の擬態にうなずくこと、引きつった笑みを引っぱがしたい衝動を認めること、保守的な情緒のあり方で大いに泣くこと、些細な出来事に光線の軌跡を見出すこと、散らかり放題の居場所が彼岸でなく、その立て込んだ無造作に明徴を知ること、郷愁のありかを素朴に捉え浅薄な規矩を用いないこと、まぼろしの影にはいつも媚態があること、暗黒の星雲まで舞い上がり色情をばらまくこと、そして一切を非情な数式で計算してから自涜に耽ること。
「ねえ、なに考えてるのよ」
「君にとって都合よくもあり悪くもある恋慕だけど、僕は由紀子さんが好きなんだ」
「まあ」
「今西家では婚約がひかえているんだよ」
「誰の」
「僕と女優のさ」
「馬鹿じゃない、うわさには聞いていたけど、あんた相当いかれてるわね。で、わたしはどうしてくれるつもり」
「そうだね。なんとか瀧川先輩の呪縛を解けたらって案じたけど、君が心の底から麻薬を断ち切るみたいに宣言と覚悟を決めないかぎり、君は揺らいだままだろう」
「なにさ、えらそうに。揺らいだ状態でちょうどいいのよ。変に固定なんかしてしまうと、がんじがらめの石頭になりそうだわ」
「なるほど、たぶん君はひとにあれこれ言われても、きっと気楽な方を望むんだろうな。それでいいじゃないか」
「よくないわよ」
「ではどうすれば」
「だから言ったでしょう。私を一番好きになってくれたらって。それでまるく収まるのよ」
「だといいね」
「ちょっと、あんた、そんな適当な気持ちでわたしを抱くつもりなの」
「ああ、だってこんな夜じゃないか、しかもとっておきの秘密の場所」
「それはあんたが親身になってくれそうだったから教えたのよ。ちぇっ、内緒にしてけばよかったわ」
「いずれにせよ、君は僕をなじるための口実であの橋で佇んだ。それはどうしたものかな」
「まあね。あれは瀧川の居場所をつきとめようとしてたのよ。別にあんたに惚れ込んでいたわけじゃない」
「今はどう」
「はあっ、そんなこと答えなくたって決まってるでしょうが」
「おやおや、そんなに怒らなくたって」
「怒ってなんかないわよ。あんたがあんまり馬鹿くさいから呆れているのよ。そうですか、今西家の娘さんとね。それでもって由紀子も好きだとさ。どうしょうもない破廉恥ね。ついでにわたしも」
「ついでではないよ。実は由紀子さんも正枝さんも、所詮は叶わない相手だと分かっているんだ。かといって代打みたいに君だとは言えないし、言った方がさっぱりしているのならそれでいいんだけど」
「なに言ってるのよ。あんたはさっぱりしてもわたしはどろどろよ。とんでもない自己本意だわ」
「そうだね。謝るよ、僕が悪いんだよ」
「もう、いい」
「えっ」
「もう、いいの。あんただけじゃない、わたしもあんたを見くびっていたのよ。すこしがっかりしたけど平気だわ。そんなものよね。さっき言ったじゃない、どろどろでも気楽なのよ、きっとそうなのよ」
「にぎりめし、うまかったよ」
「ふん、話しをそらしたわね」
幸吉はよっぽど好物のしそ昆布に言及しようとしたが、女子が打ちあけたように、単に執拗な好意を増長させてしまいそうで、このまま抱き合うのか、それとも苦虫をつぶしたような思いで台風一過の朝を迎えるのか、もはや、自分の欲望の所在すらないがしろにしていた。
高尚な性欲などあり得ない。同じくらい意思の疎通のなさ悪感情で阻まれた交わりもあり得なかった。しかし、底辺に下ったとはいえ、欲望自体が消え失せたわけではなかったので、幸吉は女子の気さくな人柄に好感を持ち、淡い恋情をほとんど光の失った山あいの地へ投射した。
「わたし、ちょっと水を汲んでくるわ。めしつぶがひっかかって。そこにバケツがあるのよ」
どうしてそれを先に報せてくれないんだ、憤然となりかけたけど、ここは女子の隠れ家、自分はひかえめにしていなくては、そう考えていたら、
「意地悪したんじゃないのよ、あんたに野宿の醍醐味を味わってもらいたかったの。ごめんね」
と、陽気な声で言い訳してくれたので、気抜けしてしまった。
「いや危ないよ。僕が代わりに行ってくるよ」
これは至極まともな意見だろうか。案の定、
「なに言ってるの、もう外は真っ暗、あんたよりわたしの方が断然なれているのよ。いいからここにいて」
そう確言されると、あえて反論する理由は見つかりそうになかった。
「ほんとう気をつけて。えらい暴風になってきたよ。雨水でいいんだよ」
幸吉はおのれのひとでなしを棚上げし、にわかに善人めいたの声色を使ったことに違和感を覚えながら、形式の水汲みをまかせる所在なさに寂しくなった。


[537] 題名:L博士最後の事件簿〜第五章・写真よさようなら14 名前:コレクター 投稿日:2020年10月26日 (月) 23時12分

吹きつける加減を知らないとでもいうように、横なぐりの雨が肌を刺したけれど、ことさら不快さもなければ、慌てる心持ちにとらわれもしなかった。ちょうど勢いよく回りだした独楽に静謐を覚えるごとく、残像のさなかには奇特な念いが籠っていた。
「どう、なかなかの隠れ場所じゃない。こんなに降っているのにほとんど濡れないでしょう」
いつの間にやら急流の小川を越えてしまったことに奇異は感じられず、慎重な足つきに送られた興奮が川幅をせばめていたのだと、実際には女子の経験を踏んだ運びに頼っていただろうけども、なにかしら危険なところへ分け入ったのではなく、未知なる茂みの青さが灰色の空の下に華やいだ悠然とした色彩で誘われ、案外切り立った位置を占拠した祠のような空洞に息をのみ、草木が生み出している箱型の奥行きに感心していたのだった。
「たしかに雨風をしのいでるし、川の流れが見下ろせるね。橋の上から見たときは低そうだったけど、ここまでは増水しそうもない。まったく不思議なところだよ。視界が霞んでいる」
ひとひとり潜れそうのない繁りをかき分け、透けた空間は大きな岩場の窪みなのだろうか。わずかに緑の剥げたふうに見受けられる足許の感触からそう察せられると、薄明かりをもたらす微弱な外の様子がにわかにほど遠く思われ、このまま暮れ落ちてしまえば、これまで味わったことのない轟くような激しい風を間近にし、夜目には判じがたい雨脚を耳にするのだ。野宿など覚えのない幸吉は回転し続ける独楽の安寧に不安をよぎらせたのだったが、すぐにこの自然の牢獄みたいな閉じた守護で活かされている気がし、あらためて果敢の横溢する、しかし歯がゆいほど眼に光をたたえた女子の優しさに打たれてしまった。
「けっこう温かいのよ。わたしここで何度も夜を明かしたの。今の時期はまだ冷え込まないわ。湿気があるもの。台風は初めてだけど」
幸吉は自分でも意外なくらい女子を信頼しており、こんな日を選んでしまった悔やみなど全然なく、前に言った台風でかき乱される粗慢な高揚をかみしめていた。
「へえ、初めてなの」
心許なさを知らしめるふうに口にしたものの、内心を徘徊しているのはちょっとした冒険の気取りと、高尚さをかなぐり捨てた破滅の予感が意地らしく同居する曖昧な脈拍だった。
「星降る夜だと眺めがいいんだけど、今夜は漆黒の闇ね。わたしだってひとりだったら家へ帰ってたでしょうよ。あんたと話ししてなにか気分が変わったの」
「もう話しはおしまいだったよね」
幸吉には女子の入り組んだ心境がすっかり解きほぐれたと思われなかったけれど、この秘密の場所へ避難が偶発であるのか、その口ぶりに現れているように一夜を過ごすつもりなのか、どちらにせよ、あれほど身の上を語っていながらこのあとどうするかなんて、まるで考えていない面持ちだったので、少々腑に落ちなかったが、台風接近は天気予報のとおり間違いなさそうだし、もう小康状態にはならず荒れ模様が強まるだけで、日暮れも迫っており、ただでさえ見通しの悪くなった山道を照らす明かりすら携帯してなく、寒さに凍えることはないにしろ、こうやって一晩、あるいは天候が回復するのを待っているのか、それが女子の望みであるのなら、また淫らさを匂わせ発した情交に行き着くのであれば、たしかに話しはいらない。
一縷の期待が欲情に支えられているという現実を咎める意識はなく、そして野外で台風通過を体験する無謀にも現実感は稀薄で、幸吉はもう女子の意向に添うしかないと腹を据えた。闇があたりを充満するまえにことを済ませ、背筋を伸ばしてとことん真面目な口調で成りゆきを問うてみよう。
すると起伏の多い女子の感情はふたたび怒りをあらわにするだろうか、それとも鼻で笑いながら幾ばくかの悲哀を投げかけるのか、なにやらこうした軋みが一番現実的ではないように思えてくる。
「橋の影も消えてしまったわね。葉をつたう霧雨が眼を曇らせる。外はいよいよ暴風ね。真っ暗になるのを待つ、それともわたしを早く見たい」
軋みを立てたのは幸吉の股間の張り具合だった。
「ああ、見たいよ」
照れくさいほど甘ったるい声を出した。吐息を感じる近さが保たれた。柔らかにまぶたを閉じた女子の顔に恋する気持ちを重ねようとしたとき、
「あのね、お願い、由紀子よりわたしを好きになって。わたしのこと想いながら感じていたのでしょう。だったら好きよね。さっき、それでも好きってはっきり言ってくれたわよね。由紀子を忘れて、お願い、そうしたらわたしも瀧川を忘れられる」
「そう簡単にいくかなあ」
失言とわかっていながら、馬鹿みたいに先走りしてしまった。
「あんた次第よ。わたしをきつく抱いて」
求めの視線は結びを離れ、あらぬ方向へとさまよい出している。苦しみから束の間だけ解放された気分が口づけに応じた。そして人知れず大事にしてきた緑の部屋を幸吉に教え、軋轢から導かれる交わりの彼方に希望を託している。同じことが自分にも照り返していたので揺らぎはせず、陽光の失われた仄かさのなかに屈折は見出せない。直情であって欲しい、そういう女子の憂慮を受け取るのはたやすく儚かった。
が、夜を徹する覚悟に滑り落ちた感覚は互いが了解し合ったのであり、若さみなぎる発露以上の何ものでもない。幸吉が緑に満ち満ちた境遇を愛でるのなら、相手は一途な気持ちでからだを開いてくれる。この端的で予断を許さない工程には、裏切り者が知る箇条書きなど無用である。女子の本音が那辺にあるのか探ることも、察することにも疲れ果てていた。それより確実に通過してゆく台風の轟音へ身をまかせる放心を認め、くちびるが触れ合うのを眼を閉じながら待っていた。
それぞれの立場は似ているようで異なる背景を持ち、歩む方角も同様だとは言い切れない。昼下がりからの渇ききった精神が潤されているのか、はぐらかされているのか、もはや意識は低下し、いつもの思考停止へと逃げ込もうとしたけれど、それすら刹那の手法にあやかっているだけで、あれこれ喋り過ぎたせいだろう、本当にのどの渇きを覚え、飲み水が欲しければ、草木に降り注ぐ雨水を啜るまでのこと、別に野生児の恰好を思い浮かべるまでもなく、幼い夏休みの日々に隠れている無邪気なかがやきを呼び戻せば、疲弊した若さは当然の雲行きであって、必ずしも若さ自体が疲弊しているわけではないと、宿題をまえにしながら鉛筆を何本も無駄に削ってみたり、消しゴムで遊んでみたり、下敷きの色合いをしみじみ眺めてみたりした、あの億劫で怠慢だった居住まいがよみがえってくる。と、その記憶はより軽く楽しげな意想に着手する。興奮をあえて鎮めるような接吻は、あまりに刺々しい感触を優先させてしまったのか、ひからびたくちびるを湿らせたい欲求が、どちらともなく激しい雨水を手のひらへと受けさせていた。ほんのわずかで届く緑の壁は水滴に膨れ上がったも同然、女子だって口渇に堪えていたのだ。
真水とは違い植物臭さを含んではいたが水分補給にはなった。もっと一気にのどを潤したければ小川の際まで降りて、自然の豪快な溢れに臨めば足りる。ふたりして雨水を啜ったことで、柔弱な決意はさながら真っ赤な夕陽を浴びながら情愛を誓う映画のひとこまのようにまばゆくなり、極限を選び取ってしまったかの尊大さで世界を縮めてしまった。赤い砂漠をゆく駱駝の背のごとく。
さらに驚いたのは野性のしきたりに遊ぶ胸懐を押し広げるふうにして、
「あんたお腹すいてない」
と、なんともとぼけた顔で訊いてきたことだった。
荒れ模様の野外にあえて残った心象風景は、草木を濡らす本能へ帰順するよう、空腹であることの不安感を募らせたりしたものの、一晩くらい食事をしなくたって別段どうこうなかったし、親和と情欲が折り畳まれ、入り交じった衝動の過ぎゆきに勝る充足はないだろう。
女子が努めてとぼけているとは思えなかった。反対にこうした状況へ居残った羞恥にも似たとまどいが、放屁のように笑いを誘ったと思えて仕方ない。そして強度を増してゆく暴風の勢いに、果たしてこの緑の館が崩れてしまうのではないかという危惧を捨てきれないまま、負の感情は理性のよりどころを見失い、高ぶる意識が達するであろう不吉な、あるいは澄明な予感にすがりついている。回転する独楽の静けさを打ち破るのは、どうしようもない猛威だけだと信じてしまっている。
「にぎりめし持ってきたんだけど」
「どこにそんなものあるんだい」
幸吉はたちの悪い冗談でつられたと不機嫌になった。
「瀧川の家に行ってもほとんど留守なのは分かってたの。でも待ち続けていたのよ、わたし。そのうち腹も減ってくる。なのでいつも弁当持参で通ってたのよ。ほら、ここに、あんたに見られるのが嫌で服のなかに隠してた」
そう言うと小ぶりな風呂敷を腰から取り出し、
「にぎりめしだけ、おかずはないけど」
声を低めた申し訳なさそうな女子の面差しに幸吉は慚愧でいっぱいになった。
解いた風呂敷には経木で包まれたにぎりめしがある。
「ふたつあるから一個づつしよう」
膝のちからが抜けた幸吉はその場にへたり込んでしまって、新たな負の感情に苛まれたと思ったが、それは間違いであり、空腹がこれほど愛おしいものだと気づかされたのだった。


[536] 題名:L博士最後の事件簿〜第五章・写真よさようなら13 名前:コレクター 投稿日:2020年10月19日 (月) 23時09分

「瀧川から離れられないのは今も変わらずなようだね」
「と思うわ。どれほど別れてあげようかって、そう願っているのであれば何よりなはず、ひたすら使い古された洋服の持ち主が必ずしも薄情でないように、まとわりついた肌触りや袖の通しは風雪に堪えたのでなくて、ある季節にかかわった時間を忘れただけなの、だから、わたしがどれだけ瀧川を鬼畜だの、冷酷だのとさんざん毒づいてみても、それはかけがえのない感情を補填するだけで、まったくすれ違った影さえ追えず、ただ振り向いてもらいたい一心だけが、空まわりして余計ぶざまになっていくのよ。
瀧川だってわたしの気持ちを無視しているとは考えられなかった。でもひとことでも思いやりなんか言い出すと、なにもかもが矛盾だらけの醜悪な寄り添いを認めてしまうことになってしまうから、あの調子でよかったのだわ。無関心にも見える表情の裏には瀧川自身の暗黒が広がっているだけで、わたしはその暗黒の正体を探りたいなんて思わない、いずれ気づくときが来るのが分かるからよ、闇から浮き出すよう不意に現れる妙な色気に包まれたわたし、勝手に吹きつけられた香水の匂いで鼻白むわたし、嘘の花束がどっさり手渡された重みによろめき、いくらか豊満なからだつきで歩きだす明日の姿を、動揺さえ隠しきれない抜け落ちた光の矛先が佇むのを待ち受けることくらい覚めた熱情はないわ。こんな精神状態にありながら決別を辞さないのは抜けようとする意思の欠如だと思うでしょう。そうかもね、出来るなら母に不始末をすべてを被せてしまえば気楽だった。美少年に胸躍らせ、禁断の淵へ前のめりになって、媚薬の効果を自ら試そうと良識さえ捨てる母は断罪に価するわ。しかし、ほとんどあるがままの意匠をくみ取るごとく、瞬時にして女色の漂いを吸い込んでしまったわたしは、あの日、こんな破廉恥な場面とたじろぎ、おののきながら、肋骨の下を押さえつつ、また同じ瞬間がめぐってくればよいと強く望んだのよ。子供のわたしにとって瀧川くんとの接点はそれしかない、嫌らしく不潔に感じることだって、実は興味津々で覗き見ていたのだし、傷痕どころか内心には嫉妬めいた焔が青白く立ちのぼっていて、むしろ歯軋りのやいばの鋭さを感じていたわ。秘密という盟約の脇にひそむ情念は抑えられるものではなく、反対にどこかへ向かって解放を叫んでたのよ、小さな声で、誰にも聞こえないくらい密やかに。
そんな育ちきらない肉感を大事に抱えてきたのだから、母の所業にすべての起因を当てこするなんて清廉じゃない、見苦しい言い訳にすぎない、母の娘であることを誇りに思うべきだわ、誰にも責任は押しつけられない、当たり前よ、花の香りが嫌ならさっさと拭ってしまえばよかっただけでしょう。わたしはそうしなかった。つぼみは芳香をすでにつつみこんでいたの」
集中なのか放心なのか、よく分からない状態で少なからず首肯した幸吉は、女子が自分で自分をぶっているのだと知り、
「危うく勘違いしていまうところだった」
そう言いかけた途端、急に頭の芯に鋭角的な痛みが突き刺さり、
「ああ」と、苦しげな声を上げてしまった。
「どうしたの」
心配気な眼で見入る女子に申し訳なさそうに答えた。
「なんか変な気分がするんだ。もう大丈夫、ちょっと頭が痛くなっただけさ。それより」
「それより」
「いや、ちょっと説明しづらいんだけど、この光景ってひどく懐かしく感じる。つまり遠い昔のことのようにね」
幸吉は既視感だと言いかけて、すぐに口をつぐみ半ば歪んだ笑みを浮かべた。
「なんかひと事みたいね。でも実際そうよね。わたし、これ以上あんたに話すことないわ。ちょうどよかった。退屈そうだし、おおよそ分かっていたでしょう」
「分かってなんかいなかったよ。勘違いしていたんだ。そして、もっと恐ろしいことを」
女子は鋭敏に察したらしく、真面目な顔つきで、
「あんた、とんでもないこと隠しているんじゃないの」
と、冷厳な視線を放ってきた。
まさか、先程の頭痛の主が霊媒の、永瀬砂里の微かな声だと言えない幸吉は、まさに照れ隠しみたいにおどけるしかなく、そのまま歪んだ感情を保ち続けようとした。さらには女子に対して讃美とも共感ともつかない、なおざりの口ぶりで、瀧川にまつわる因縁を切り上げた潔さに何度もうなずいた。
それは永瀬砂里の懸命な引力にすがっている老境が瞬き、須臾の間だけ未来の方へ心身が移行した不思議と、戒めらしき案件を長く耳にしているような錯誤だった。
「博士、そろそろ戻らないといけませんわ」
霊媒の力はたまゆらの流れに委ねられ、悲劇の顛末をかいま見せるのだが、切なさだけに区分された送り火と化してしまう。幸吉に殺意はない。だが、まぎれもなく女子は翌朝この川の淵で遺体と成り果て世間を騒がせる。
「見届ける必要はないのです。過去を追体験しなくていいのです」
「どうしてかな。わしがここで女子を帰らせたら無事で、代わりに由紀子さんが死んでしまうじゃないのか」
「そんなことありません。博士は記憶を封印しているだけで、刷新されることはないのです。さあ、風雨が止んでいる間に帰らせるのです」
「では何者が命を落とすのだい」
「それは博士が知っています。不必要な解釈は仇になります」
「わしはこの眼で確かめてみたい。その為にあんたの霊力を借りたんだ」
「いえ、わたしは霊力など貸していません」
こうしたやりとりがまるで走馬灯のごとく優美にせわしなく廻ると、意識だけに限らず、はらわたも同時に現世らしき時間へ呼び戻され、消えてはうつろうあやかしの名分が散り散りの花弁のように吹雪いて、たれこめた曇天の濁りに溶ければ、すべての細胞までが微塵の儚い質量と大いなる響きを跨ぎ、予兆が予兆である以前にけたたましい謀略を企てる女神の笑みが窺われ、無論それはほとんど夢想の彼方へ疾走するほうき星の揺曳にすぎなく、この眼に映る無邪気のありようは捉えられない。
「あそこも隠れ場所よ」
女子の指差す茂みは緑の館であった。
「わたし、瀧川とあそこで交わりたかった。でも言いもしなかったわ。小馬鹿にされそうでね、それよりいつか秘密を打ち明けるひとにだけ教えたいと思うようになったの。さあ、行きましょう。お話はもう終わり」
「君は・・・」
幸吉は声を詰まらせた。
「あら、雨が降り出したわ。さあ、急いで、ちょっと先からしか降りれないの。どしゃぶりだって平気なのよ。あんた信じてないでしょう、でも嘘じゃない、本当なの、ただの草むらと思ったらびっくりするわよ」
「博士・・・」
幸吉はすでに達してしまった老境を振り放し、優等生だと認知されていた虚像も投げ出し、霊媒の声を別次元へこだまさせた。
「これからもっとしけてくるよ。川の水も増えるし、ふたりして遭難するんじゃないのか」
しがらみを断った清さが、わざとそうした不安を問わせる。
「なに言ってるのよ。わたしのとっておきなのよ、安全に決まってるでしょう」
「わかったよ」
「足もと気をつけて。濡れた岩は滑りやすいから。あわてない、あわてない、ゆっくりと」
朗らかな女子の口調にほだされ、思わず手をとり、その横顔を慈しむように見つめた。
「ほら、足もとに注意よ。いいわよ、あわてているのね。見せてあげるわ」
小首を傾げるふうにし親和を近寄せる女子に恋をしている。雨模様で留め置かれた山裾に現れ、怒気と悲嘆を容赦なく投げかけた剣呑な異性に胸が高鳴る。急変ではない、あらかじめ知り得た天候の荒れが心象風景を書き割りにして、未知なる樹々の奥へと急がせる。浅瀬であった小川の運びは白波を際立たせるほど、ささくれ、あるいは細やかな怯懦を偲ばせながら、出会いの転瞬こそ閃きであり、立ち返るべき場面だと感じた。しだの葉で被われた岩陰から勢いよく延びた幹に、背丈を奪われた女子の無心な面差しは繁茂する緑へ回帰するとでも言いた気で、その裸体すら自然の趣きに順化してしまったのか、脇腹からこみ上げてくるようないつもの色欲は、どうやら穏やかな野心となって平地へ薄く広がってゆく。こんな岩場と草むらに囲まれているのに。
つないだ手が離れ離れとなった自然の木立に不本意を感ずるのではない。逆に迷宮をさまよう当惑が先行しているからこそ、女子の指し示す緑の館は、興じることの疎放や軽はずみの恋慕に安らぎの宿をあたえ、実りの田畑とは隔絶していながらも、等しい山肌の連なりに映じている感覚を共有する。遠望をさまたげる風の語りが無言であればあるほど。
しかし、女子の吐息に棲みついたなまめく衝動は、辺りに漂う瘴気と同じくらい空恐ろしさを秘めており、これから繰り広げられるであろう情交を由々しく讃えていた。そうなると面白いもので、大小の様々なかたちをした岩を踏みしめる足先への配慮は、遊戯に没頭する慎重さで満たされ、また苔むした加減を見遣る目線との距離がなにやら浅瀬の小川へと降りてゆく気概に則して、生真面目な肉感をあらためて草木の根へ埋没させる。なるほど自分は興奮しているのだ。高ぶる欲情を鎮めてしまう由縁は、探った矢先に早瀬のごとく視界よりかき消えているので、女子が希求した乳房のふくらみから想起させる卑猥さは濾過され、増々つかみどころのない期待につまずくのだった。
雨水をも吸った岩苔の密生を避けた結果、橋を飛び降りるような危険にはほど遠い目的の館へふたりはたどりついてしまった。興奮はこれまでになく理知的で、本来あったかも知れない野外でのまぐわいに関する態度は、おそらく女子とはかなりの隔たりがあったに違いない。裸で抱き合う為に滑りやすい足もとへ相当な注意を払った事実が、喩えようもなく好ましく感じていたけど、普段の風雨とはかなり異なるただならぬ内包的な暗澹をまず念頭に配置し、晦ます緞帳の奥へきっと誰しも思い描くであろう恥じらいを並べてみた。
町の外れの向こう側から柔らかな日射しに送られ見慣れた通学路を歩む。家の近くに達するまでにどれだけ新鮮な空気を吸っただろうか。女子が哀歌のように語った金木犀の匂いにつつまれたり、そっと反照へ応える仕草がまばゆい野良猫の背に見とれたり、遠い山の音を湿らす猟銃に耳を澄ましたり、ほのかな物音でつたう雨水に似た異性の影にどれほど華やいだことだろう。近道の発見が迂回してみて感じ取る視界の開けかたと同一なんて、まるで真冬に咲き誇る桜の枝ぶりを夢見るようだ。
幸吉の不純な意想はこうして難なく、迫り来る台風の眼に早くも収まってしまった。


[535] 題名:L博士最後の事件簿〜第五章・写真よさようなら12 名前:コレクター 投稿日:2020年10月06日 (火) 02時55分

「たぶん、分かると思うよ。その火花の残像がひどく生々しいから」
あらためて幸吉が向き直ったと女子は感じたのか、
「いいわ、信じてあげる。だからお願い、あまり取り澄ました顔で見つめないで」
と、心細げに言った。
「そういうつもりではないけど、君の話しを聞きながら薄ら笑いなんか出来ないよ。間抜け面であっても、見られても別にかまわなけど、やっぱり抜けてるから仕方がないし、その方が君にとって都合いいのであれば、苦言も吐かず舌打ちもしない、そう願う君がいる」
「皮肉だけが滑っていくのね。都合よく」
「とりあえず、悪感情やら敵意をおもてに出さないつもりだよ」
「それはあんた自身への配慮でしょう」
「だろうね」
「まあ、いいわ。瀧川の約束って言葉が嘘の権化であることを知りつつ、胸をときめかせたのだし、あんたの了解だけ求めているわけじゃないから、わたしは浅瀬みたいな絶望を語るしかない」
女子は少しだけうつむき加減になったが、やがて業火に焼かれる身を慈しむように、現在形の郷愁がここへ立ち止っているのだという調子に戻り、瀧川からの仕打ちを、それは受け身であり続けた夢見を打ち消さないがゆえの係わりであって、被虐に美徳を見出した言い分を真綿へ含ませていたので、押し黙る義務に駆られたけれども、疑問符を投げかけようとする構えを捨てはしなかった。こうした撞着はそれ自体がちょうど軟体動物のうごめきであるかのごとく、地べたの影にまぎれていた。
「わたしは固まったままだったわ。母との密約に翻弄される悲劇を演じようとしていたのね、きっと。だってその方が意識の膠着から逃れられるじゃない。固まったふりかしら、でもこれが自然だわ。無理してあざとく恥じらい抵抗しても、駄々をこねても、憤慨してみても、余計みすぼらしい気分になるだけよ。さあ、どうする。つまり出方を窺ったのね、わざわざ相手が出向いて来たのだから断然そうあるべきでしょう」
「なるほど、君は賢明だ」
「けど、役者は一枚も二枚も三枚も上手だった。例えわたしがスカートを何枚めくりあげたところで、瀧川はじっとわたしを見つめたまま、素直に受け取ればそれは威圧なのだろうけど、そうじゃない、決して重圧をあたえず、妙に脱力した接近で、しかも通りすがりに香る金木犀みたいな甘い雰囲気を漂わせている。えっ、今は春でしょう、もう秋なの、ねえ、そんなに早く過ぎゆくなんておかしいわ。変よ、どうしたらいいの、ちょっと待って、いかないでよ、通り過ぎないで、置いていかないで、振り向いてよ、わたしはたちまちにして激しい動揺に襲われてしまった」
「それでも君は賢明だよ。心得ている」
「ありがとう、あら、あんたに礼なんか言ってしまったわ。そんな場合じゃないのにね。うれしいけど、わたしは心得違いしてたの。これまでのいきさつをよぎらせるまでもなく、抱擁や接吻を期待していたの。あんたがさっきしてくれたようにね。ところが瀧川はそうじゃなかった。とぼけているのか、軽くあしらっているのか、母の不在を承知してわたしに迫っておきながら、指一本触れずにその日は帰ってしまったのよ。取り残されたのはわたしの希望、それとも母の執着、足音もたてずに去っていった瀧川はとても穏やかだったわ。穏やかすぎて耳鳴りがした。鼓膜がうっすら痛かった。冷たい春風はいったい何を運んでいるのだろう」
あきらかに落胆の面持ちを甦らさせた女子だったが、ことの顛末は始まったばかりであって、安直な失意をなぞる気力こそ生命のかがやきだと、自らを説き伏せるようなもの言いで堕落の道筋を紡いだ。夜明けを告げる空の青みに突き刺さるうわごとが、短い悲鳴と酷似しているように。
この場合、馬鹿正直であるという表現は当然ながら却下され、また女の性が絡まり合う確執という見方もふさわしくなさそうなので、帰宅した母へ向かって発した伝言にどれだけ感情がこめられていたのか、本人は淡々と話したつもりであったろうけど、内容が内容だけに尋常ではない攻防を思い描くしかない。
「さぞかしもどうもなかったわ。あれだけいわくたっぷり優しく言い含められたら、逆に事件だ事件だなんて騒ぎ立てるよりか、腹を割って話すしかないわよ。瀧川のすがたかたちを、その輪郭をぼんやりしてしまった動揺に重ねて伝えたわ。母は眼をまるくしてうろたえていたけど、まんざらでもなく同意を隠しきれなかったみたいで、何度も引っ越しという箇所にこだわって、もう少し詳しく言ってなかったか、それはいついつなのか、とにかく気まずさを押し殺すふうにしながら、内心の高揚を鎮めようとしているのが見え見えだったし、とってつけたふうにわたしの身を案じるのも不快だった。
結局、なにひとつ対策も提案もないまま、まるで妖怪を出迎えた不思議へひたっているような間延びに弄ばれただけ。それで終わりよ。あんたに聞かせた以上の出来事を細やかに再現するなんてどうかしら。はなから異常なのよ、母もわたしも、だからといってすぐさま堕落と決めつけられるのは心外だわ。終着駅の名が堕落と示されているのだったら観念するけど、その途上には様々な駅名があって、それぞれ固有の、まあ別段意味のある名ではないにしろ、さっさと見送ってしまうほど急進的でもなし、二度目に瀧川が訪れたのをどう詮索したか、いまだ曖昧にしているところを思えば、わたしらはのんき者かもね」
「そうか、まわりが気を揉むより案外と波風は立たない」
幸吉は修羅場の様相に招かれていた自分を諌めるようにつぶやいた。すると、
「さて、波風はわざと立てるものじゃないし、出来れば平穏にこしたことはないけど、瀧川が近所へ住まうとなれば、そうはいかない。母とのとんでもない約束だってあるし」
慎みと開き直りに促され吐き出された言葉が耳をくすぐって、女子の心中に揺れ動く異変を感じた。
「どうなのかしら。わたしは自分をとりまく情況にさほど左右されてない気がした。もう慣れっこなんて言うと無神経かも知れないけど、母と瀧川の関係すら紙芝居の絵図みたいに思い返されて、乱れた女体へまたがった児戯にもとらえられる。同時に恋する気持ちのゆくえも見失ったようで、叶わぬ情に縛られていたから、この人気のない民家で生まれ育った感性が鋭く刺激されたのね、おそらくは。だとしたら、飄然と現れた瀧川はどこまでもつかみどころなく、母が差し出したという生娘に釣られて訪れたのではない、その反対よ、わけあって近所の空き家へ越して来るなら、わたしたち母娘は目障りな存在、過去の爛れを拭うような意思できっぱり今後の距離を取ろうしている、その考えはあながち邪推でなく、瀧川の現在を当てはめてみても納得がいくのよ」
「そして君は先を読んでいた」
「たぶんね、この界隈の空き家を選んだなんて、とてもいかがわしい匂いがする。もう遡るのさえ面倒なんだけど、母が瀧川を開眼させた後、どういう発展を遂げたか、あんただってあまりに鮮やかすぎて追いつかないでしょう。今のわたしにはきっぱり言える、だけどあのときは真相究明なんて言葉が先走るだけで、生臭いものを遠ざけるような嫌悪が優先していたわ。ほぼ見当つくわよね」
「ああ、噂だったけど誰も問い詰めたりしない風潮があった。不思議に思うだけでいかがわしい秘密を牛耳っている先輩に対する複雑な感情を認めてなかった」
「では、子細はいらないわね」
「察しというよりなにか歴然だよね。少なくとも僕にとっては明白だよ」
「ひょっとして、わたしのせい、あんたと今日ここで出会っていきなり罵倒したり、無茶を言ったりしたから。そうだよね、最初に全部ぶちまけてしまったもの、なんか恥ずかしいわ。さぞかし変な女と呆れたでしょう」
そう言いながら女子は照れ笑いをつくったのだが、幸吉には当初の印象とは別の好ましさが感じられた。
「まあね。でも君は僕の知っている君じゃなかったよ。僕の知らない君と出会えたことに感謝している。だから、ひとまず質問させてくれないか。君だって僕と由紀子のつながりに興味ありそうだけど、瀧川先輩との成りゆきが大切なんだろう」
大切だと言い切ってから幸吉は、腫れ物に触れてしまった後悔を感じたが、
「いいわよ、あんたの謎に答えてあげる」
と、軽快な反応が返ってきたので、ほっと胸を撫で下ろした。
「率直に訊くけど、瀧川先輩は別とか先とか言ってるわりに、あの同級生の相手をしてあげたのがよく飲み込めないんだ。他にもいるってことだし、あれは自暴自棄ってやつなのかい」
「なにを訊ねると思ったら、そんなことなの。気になる、そう、分かったわ。でも少々ややこしいのよね、あんたは瀧川がわたしを女にしなかったところへこだわっているようだけど、はっきりしておくわ。結局わたしは中学生になった途端に情婦と名付けられたのよ。あの空き家で瀧川がどんなことをしていたか、最初はあちこちの女を引きづりこんでいたのね、ときには複数を相手にしたとか、懇意な連中を呼び寄せて乱交が行なわれていたとか、わたしは実際に立ち合ったりしていないし、瀧川もその辺は気遣いしてくれたらしく、おまえは勘が冴えてるからってある程度の事情を打ち明けられ、まんまと籠絡されてしまった。いいえ、そうじゃない、違うわ、あの日と同じで、わたしの妄想が羽ばたいたのよ。だって不快な顔を見せなかったもの、それで瀧川は閃いたのでしょう、おまえは特別なんだ、他の女とは一緒じゃないって言い聞かされ、その証拠に自分のことを呼び捨てにしてかまわない、瀧川と呼べって諭された。おまえは俺の情婦なんだから、そして俺はおまえの情夫だと。呼称だけでもたやすいわね、本気にさせられるし、同等の立場で息をしているような感覚が育まれてしまう。
ところが単に呼び名でとどまることはなかった。元来がすべてに背を向けたようなひとだったから、わたしを抱きながら震えていても、それが弱みだなんて絶対に口が裂けても言ったりしない。やがて高校生になった頃には与太者やら愚連隊に眼をつけられてしまってね、悪巧みを強要され、抜き差しならない情勢へ自分で自分を追いやる恰好になったわ。ほんとう危うく空き家は淫売の巣窟になってしまいそうだったのよ。もっとも切れ者の瀧川は町の顔役に渡りをつけて難を切り抜けたけど、うちの母なんか完全に青ざめてしまい、早く別れるよう馬鹿みたいに唱えていたわ。そんな取り沙汰くらいあんただって知ってると思ってた。あっ、そうなの、風聞なんてひろがるところにひろがるだけね。
わたしはどうかと言えば、変に度胸がついてしまったのか、頭が麻痺してしまったようで、瀧川の情婦になりきっていたの。際どい情況をくぐったせいかしら、もうお色気遊びには飽きた様子だったし、ひとの出入りもめっきりなくなり、わたしと瀧川は二人してしんみりとした夜を送っていたわ。あの閑暇が思えば至福のひとときだった。しばらくすると今度は町の顔役が瀧川を見初めて、あれこれ誘いを掛けてきたのね。恩があるし断りきれない立場を理解していたみたい、一度だけ頼みを引き受けることで義理を返そうと考えた。いえ、わたしには教えてくれなかったわよ、それどころか、足手まといになったのか、母のもとへ戻るよう引導を渡されてしまった。むろん拒んだわよ、情婦じゃなかったの、どこまでも一緒じゃなかったのって泣きわめいたわ。子供が本気で駄々をこねるようにね。
聞き分けないってぶたれるのを覚悟していた。しかし瀧川はある程度突き放しただけで、ことさらおまえの為だの、俺なんかについて来てもなんて言わないのよね。だったら好きにするわ、このままくっついて居座ってやる。かなりふてぶてしい態度で瀧川に迫った。文句あるならぶってよ、その方がすっきりする、しまいには口汚く罵ったり、泣き言を垂れ流していたわ。それでも瀧川は手を上げたりしない、ただ静かな眼つきでいるだけなのよ。わたしは一段と軽んじられてるように思え、心底悲しくなってしまった。すがっても駄目なのね、いいわ、だったら淫売になってやる。誰かまわず男に身をまかせて瀧川を見返してやる。ええ、なんとなく、あんたが感じたように、そんなにすれっからしではないのに、意地でも悪ぶっていたかったの、それが瀧川に対する反抗というより、献身である弱さと知りながら」


[534] 題名:L博士最後の事件簿〜第五章・写真よさようなら11 名前:コレクター 投稿日:2020年09月29日 (火) 02時39分

夢見る宇宙の奥底でうごめくもの、暗黒の星雲を背後に、いや前景として悠久の未来へと開くもの、あり得ない出来事と、そうであってしかるべき幻想が交差する脳内の局所にかけられた麻酔こそ、別次元への扉をかいま見せる壮大な儀式の序説なのか。
この大仰でめまいをともなう感覚は、たちまち現れ消え去ってしまう刹那の物音みたいに、控えめで可憐な心境へと落ち着きついた。たとえば大雨の翌日、道ゆく歩調をしんみり乱すようにして側溝から溢れる流水のざわめき、それは急変を告げることなく終わった憂慮へ被さった音楽なのだが、決して路傍で立ち止り、夢想の調べに耳を貸すよう詩情は作られず、ただいつもの足どりで風のありかを感じるだけだった。
どこかしら偽君子の面影がよぎるけれども、かりにそうであったとして、日曜の昼前、ことさら殊勝な気分で机に向い勉強を始めながら、あえて遮光しようと半分だけカーテンを閉めたときの明暗にも感心せず、妙に取り澄ましたふうに空気を吸い込むのは、寝汗とちょっとした体調の加減に悪夢の采配を連ねるごとく、ぞんざいでしかない。
幸吉の眼はすでに起こってしまった光景にのまれることから逃れ、女子が力説した胸のふくらみを凝視した。瀧川に射抜かれる少女の媚態が清々しく思えたからであった。そして眼を細める仕草は、光線の向きが変じた予感に絞られてカーテンをふたたび両脇へ押しやる、健康な午後の証しだと言い聞かせた。
女子の吐息は幸吉の邪念を滑り込ませ傍らへ追いやったが、敵意は退いているよう感じられる。

「これという展開が日々を演出していたわけじゃなかったわ。気配だけ残してわたしの心を掻きむしる美少年の瀧川くんは、あこがれを抱かせるより失意を授けてくれたから、小さな抵抗も的はずれの勇気も、希望を希望に則す名分も守りきれなったし、はっきりした妬心すら維持できなかったのよ。豊満な母の身体で開眼していくだろう少年に追いつきたい願いがあっても、出発点の隔たりはどうやら埋まりそうになくて、そうね、あの強烈な場面に、母の肉塊に埋まってしまった官能をとらえること自体が不可能だったの。想像なんかしないって意地を張ってみたところで、あの日、玄関で見とがめた運動靴の抜け殻さえ、記念品の重みに似た懐かしさを感じさせ、本当に母と肉体が結ばれていたのかなって、まるで甘美な痛みを思い出すみたいに胸を刺すばかり、計り知れない不信が別方向からやってくるような気がしたものよ。
なぜって、実際の瀧川くんはわたしを置いて魂ごと飛んでしまった蝉の声、夏の終わりを惜しんでいる土の匂いよ。夕立ちが小憎らしくて、でもこざっぱりするような感情を運んで湿らせる風のいたずら、見栄を張り異常な関係を認め歪めて、快感には覚束ない自分を納得させる為に不本意な構図を描きだす未熟の存在、その存在を糜爛へ当てはめれば、醜悪な考えは突飛な昇降に違いなかったけれど、時間の経過と時節の折り合いが旅を美しく彩るように、あたら好機を逸したと嘆くだけに終始したりせず、小さな旅によって見失うであろう理性や努力にいつか出会えると考え直すの、だから方向感覚が麻痺してしまい、独りさまよう半径は短くて仕方がなかった。まるで眠れる森に沈むみずうみの月影ね、とらえようのない美しさに溺れる不可解なあがきだったわ。土曜の部屋に充満する淫らな香りだって、わたしの鼻孔が嗅ぎ取った妄想だとしたら。
いいえ、確かめようがなかった。どうしようもなかった。母と真正面にぶつかる気概は怨念に等しく、覇気と言えるものは醜い繋がりによってのみ、もたげる意義を謳っていたし、母が少女の仮面をつけ立ち働いてくれた淫行にわたしは救われたのだから、表立った文句なんて許されない。むしろ主犯の陰にまわるようにしてその恩恵を受けた心苦しさを知るべきだったのよ。なんて近場の色香なの、みじめな恋なの、わたしを鞭打つ痛覚はそれでも鋭利な刺が抜かれていた。さまよい出る幽霊に体温を感じ取れないごとく、冷ややかな恐怖もすすんで趣きを遠ざけていたの。さまよい歩く距離なんてほとんどない。だけど、身についてしまった汚れはぬぐいきれず、快感は恋の実りであることを忘れたかのように、豊穣を夢見てわたしは幽霊そのものになってしまい、ひたすら快感だけを頼りとして大人の仲間入りを企てた。ええ、育ちつつある肉体にすべてを託し、濡れそぼった箇所をみずうみに喩え、どこまでも底なしである神秘を乞い、触れて突き刺さる異形に身悶えしたわ。てのひらに隠れるか隠れない柔らかなまるみをした細長い目薬の壜がわたしの玩具だった。汚れに涙する中身の液体がなくなった空っぽの壜、密やかに優しくみずうみを滑っては水鳥みたいに湖面を破ったわ。
なんという独りごっこ、瀧川くんの笑顔もいらない、母の夜もいらない、太陽のひかりもいらない、男子の好意も欲しくない、友達の同情も無用、わたしはわたしの幽霊と戯れていればこと足りる。自給自足の美徳はあの運動靴を思い浮かべることで、記念品は無造作に脱ぎ捨てられたであろう、母と少年の下着が散らばった意味をかき集めるようにして汚れを引き受けた。肉体は見通せないけど、男女の交わりはここにあり、快感は高潮となってわたしを襲い荒れ狂ったの。
てのひらに、ポケットに収まる秘密はやがて大胆になってゆき、学校まで持ち込んだ。もうこうなると誰かに悟られるのは避けられないでしょうね。そう、よかったわ。友達でも先生でもなく母に覗かれて。これでおあいこね、もちろん叱られたりしなかったわよ、ただ眼が合わさったとき、母は悲劇の主人公みたいな表情になって、わたしを憐れんでいたのか、それとも女の業に対面した罪悪感か、とにかく今にも泣きだしそうな顔だった。その頃にはもう分かっていたのよ、瀧川くんが家に来なくなったことを。だって来週は卒業式、えっ、違うわよ、わたしの卒業式よ、別におかしくないでしょう。わたしだって成長するの、いつまでも母子の悲嘆を喋っていたくない、話しは飛んだのよ、空模様くらい見てるし、あんたの間抜けな面だってちゃんと窺ってるわ」
「なんだよ、そんな言い方しなくたっていいじゃないか。僕はただ驚いているだけなのに」
女子は幸吉の反論を面白がって、
「あら、そうなの、しっかり驚いてくれたのね」
と、不敵な笑みを投げかけた。
「当たり前だろ」
「だったらいいけど。わたしが欲しいのでしょう。でも瀧川が先だから」
「先もなにも、過ぎたことなのに、どうして」
「急がばまわれ。この場合、いささか異なるけどね。肝心なところを話しておくわ。中学で再会した瀧川はすでにわたしも母も入る隙なんかないくらい輝いていた。男子はみんな坊主頭だったけど、不思議とあいつはそうじゃなく見えてしまうから凄いわ。他校の女子もわんさかで、それはそれは、おっと、ここはいいか、あんたも知ってることだよね」
「ああ」
いかにもふて腐れた幸吉が微笑ましかったのか、
「いい、わたしの卒業式って言ったのよ。中学生では飛び過ぎなの、大事なのは卒業前にわき起こった出来事なの。家の近くで瀧川が待っていた。なんと向こうからわたしに話しかけてきたのよ。で、用件とは近々あの空き家だった親戚の家に越してくるって言うのね。よく訊けば引っ越しじゃなく、瀧川一人だけの隠れ家なのかな、別荘なのかな、そういうことらしいの。だから母にも挨拶したい、いきなりだとわたしが怪訝な顔をすると判じ、なにもかも訊ねられれば答えるつもりで待ってたっていうじゃない。青天の霹靂よ、瀧川の華やかな雰囲気、毅然とした物腰にわたしはしどろもどろ、なにも質問などありません。はい、母に伝えます。としか口に出来ない狼狽ぶりで、それでも瀧川は、にっこり檸檬のような笑顔を香らせ、よかったら一緒に行ってくれないかって、困惑しているわたしを気遣うように眉間を曇らせたりするから、はっと眼が覚めたというか、あれほどまで誓いを立てた幼稚で無垢な想念が自然現象みたいに再来し、わかりました、でも今日は留守です、母は仕事に行ってますので、と自分でも首を傾げそうなくらいの口ぶりで接しつつ、瀧川の眼を穴が開くように見つめたの。いや、見とれてしまったのかしら、とにかく真正面に向き合ったのだから本望だった。
もうなにかに取り憑かれたとしかいいようのない反応を示した。あのう、瀧川先輩、わたしのことどう思ってました。たぶん一瞬稲妻が走ったような緊迫を与えたけれど、それはわたしも同じで、落雷に打たれたみたいな衝撃と絶望でまともに立っているのが信じられかったわ。けどすぐ見越されてしまった。いいのよ、そうしてもらいたかったから。
実はその件でおかあさんと約束があり、留守を承知でここへ来たと言えば、なにか思い当たる節はないだろうかって今度は真顔で睨まれた。ええっ、全然わかりません。どういう意味なんです、わたし聞いてません。母と約束・・・聞いてません。もはや瀧川の話しさえ聞きたくない自失感でいたたまれなくなったわ。しかし、心の底では悪魔のささやきを迎い入れる体勢が備わっていたのね。そうよ、わたしは汚れたみずうみなの、待っていたのはこっちよ、母をだしにしてまで受けとめようとした恋がようやく開花したのね。まさかこんな形で再会し、秘密の秘密らしさを味わえるなんて、わたしは有頂天になった。そして瀧川の狙いが妄想に組み込まれている実感を得た。
約束っていうのはね、娘が中学になるまで我慢して下さいって言われ、関係を続けるということだったんだよ。ところが俺は他の女の子に夢中になってしまってさ、そうしたら君のおかあさんは生娘を捧げるって言い出してきかないんだ。まさかとは思ったけど、それが君のことだった。で、しばらく俺はここへ通ったんだが、もう約束なんていいから自由にしてくれって懇願した。反対に拝まれたよ、もう少しだけ少女の気分でいさせてもらえなかいかってね。続いたよ、段々と薄れていったけどね。俺は忘れていた約束を果たしに来ただけだよ。
わたしの眼はさぞかし危ういきらめきにうるんでいたでしょうね。あんたに分かる、恋の火花がこんなにも瞬くなんて」




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