【広告】Amazonから今年最後クリスマスタイムセール12月25日まで開催中

COLLECTOR BBS

ホームページへ戻る

名前
Eメール
題名
内容
URL
削除キー 項目の保存

[567] 題名:夜明けのニーナ 名前:コレクター 投稿日:2022年04月12日 (火) 01時26分

空の色はまだ鉛を溶き流したように鈍く、星々の瞬きが離ればなれの境遇を嘆いているのだと、大地の裂け目の奥底から誰かがこっそり教えてくれたあの夜更け、ニーナはとても静かな馬車の音に揺られながら、城の門を通り抜けた。
うしろを振り返りたくなる気力が消えたのは、城門の先へたたずむ女主人のともしびを忘れた暗き双眼にのみこまれ、過去がゆくえを失ったからであった。
それだけではない、麝香を想わせる芳香があたり漂うなか、歓迎の証しであろう朱に染まった唇は、奇妙なく明るみを放っていたので、微笑が宿す真意を知らされたような気がし、未来が記憶を封印したと了解した。
「春の夜とは言え、冷えたでしょう」
女主人は召使いを侍らすことなく、たったひとりでニーナの到着を待っていた。
そのたたずみが単に、物静かな優しみだけで覆われていたのなら、不穏な心持ちは決して退かず、戦禍より持ち帰ったふうな緊迫を貼りつけていたであろう。女主人の声色には不幸な少女が夢見てやまない、仄かな闇の気配と薄明が入りまじっており、些細なことに拘泥する神経を麻痺させてくれた。
些細でも大仰でも、とにかくありありとした感性がひたすら邪魔であった。夜のしじまへ想いを託したくなればなるほど、自意識のせばまりが望ましく、あらぬ便りも疎わしい、夢幻の境地が願わしかったから。
「暖炉はまだ燻っているのです。お入りなさい」
柔らかな口調は孤絶した山間の城壁へと幽かにこだました。
そして闇に溶けたマントをさっと翻せば、洞穴に敷きつめられたかの苔した濃緑色の裏地をかいま見せ、始終寡黙であった御者の一礼を背に受けて、あたかも夜想曲の調べで誘われるごとく、霞がかった石畳を軽やかに踏みしめた。
御者に抱かれたニーナはためらうことさえ許されない、禁断の園に立ち入った歓びと恐懼が交差するなか、鬱蒼と茂る草いきれの眠りを妨げないよう、それは夜気を切り分けつつ歩みだした怯懦に結ばれ、豊かな実りの夢想へとたなびき、息をひそめ様子をうかがっている獣たちの沈黙に歩調を合わす術となった。

「ここがあなたのお部屋です。長旅で疲れたみたいね。今夜はもうおやすみなさい、あとでスープを運ばせますから」
給仕も執事のすがたもニーナの青い瞳に影を落とすことはなかった。
この城に棲むものは女主人だけしかいない、確信より早く、夢見の残像が広大な敷地を徘徊し、えも言われぬ居心地をあたえるのだった。あり得ない恐怖に先んじた気分が自ずと死霊を呼び寄せてしまうよう、あるいは幻影の足もとに漂う人がたが絶えず浮遊しているように。
そうした孤絶感をかみしめることで、不遜な垣根を取り払い、ニーナは城内の時間を把握し、薄墨の、しかしどこまでもひろがる信憑を作り上げてしまったのである。
鋭利な刃物が夜を脅すのではなく、肉眼ではとらえづらい錆びの鈍色に親を覚え、いばらの道が閉ざされた。決して背後の城門に意識を投げかけたりせずに。
むろん希望と不安の入り交じる胸の動悸は、深更の底に伝わってくる古びた時計の音に共振したけれど、紛れもない時刻を読みとる以前に、花園へと群がる蟻のすがたをもたらしては、蠢動から導かれるよう暗黒にきらめく、星の数奇なる運命へと想い馳せるだった。


[566] 題名:霧の告白 名前:コレクター 投稿日:2022年04月02日 (土) 02時35分

もうどれくらいの歳月が過ぎ去っていったのやら、想いも及ばぬ時節などと、過ぎゆきの配分にとらわれてしまい、果たして目の前の君にとって私はどのような風貌が映っているやら、どうにも気が遠くなりそうだ。
で、私を訪ねるにあたってお断りしておいたとおり、何ぶんひとに喋るという機会は絶えて久しいものだから、この住まい同様、手狭な家だが朽ち果て枯れておる次第でな、応えるまえからすでに疲れを感じてしまっている。
だから要点をしぼって話そうじゃないか。
フランツ・・・ああ、それでいいとも、私はかつてその名で呼ばれ召し抱えられていた。むろん、あの城以外では別だったけれど。
あまりに長くしみついた名前だよ、執事フランツ。おおよその見当はついているんだろう、どうしたのだ、そんなに怯えなくとも大丈夫、君がぜひにというからこうして老醜をさらしているのじゃないか。
ごらんのように私は君の先祖みたいな年齢さ、あくまでうわべはね、ひょっとして心当たりがあるのかな・・・いや、べつにどうでもいい。
つまり二百年も生き長らえてくると途中から加齢は意味をなさなくなってしまう。
もう少しくつろぎたまえ、心配は無用、君をその、どうこうするつもりなぞ毛頭ない。いつか誰かに聞いてもらうべき巡り合わせだったのだから。

ベロニアならよく覚えている。とても知的で美しい顔をした娘だった。貴族の血を引いているともっぱらの噂だったよ。お嬢さまが授かる以前からあの城に、つまり養子にだな・・・その辺の事情は語るまでもなかろう。
当時の私といえば、体よく城主に取り入って職務にありついたわけで、委細は省かせてもらうが大陸を縦断し海を渡った変わり種だからこそ、見識を深め機知に富んだ配慮が養われたに違いないと、うまい具合にそうはやし立てられたものさ。
私は鋭気に満ちあふれていた。
そんな華やぎに対するまわりの呼応は、冷ややかな笑みを絶やさぬ権力の顕示であり、底にあつらえた従属を認めさせることだった。なんというお粗末なささやきだろうか。とはいえ、それはたいそうな歓待ぶりでな、まるで賓客あつかいだったよ。
執事の肩書きは名ばかりで、夜ごと開催される怪しげな催しの目配り役が私の最上の努め、城主の機嫌を見計らいながら虚実ないまぜの見聞を披露する。
あるときは気位の高い僧侶たちに、あるときは衒学におぼれる貴族連中や裕福な商人を相手に。

蜜月に影がさしたのは、夜と朝の境い目をまじまじと、つまり生き生きとした指針を肌に感じる頃合いへ至ったと思いなしたからだろうか。いや、これはたとえだよ、実際には宿痾がわざわいになってしまったのだった。
仔細を説明していると幾晩かかるやら、ともあれ城主は私の血生臭い本性を見抜き、私はあえて糊塗するすべもないまま、口許をわずかに歪め、昏い微笑を床へ投げかけた。無論、そうした仕草が悠久の調べを奏でていることを察していても、過去の栄光がきらびやかであり続けるように、今もなお厳然とした風情を保つべく、かつての大理石は磨かれ続けていて、その映発に絶大の信頼を忍ばせた日々を慈しむのが、本望であると、まるで光の輪を弄ぶごとく浮かび上らせた。
するとどうだろう、半ば放逐を覚悟していたこの身に曙光が降り注いだのだ。記憶は遠いがその情景は鮮血のしたたりに等しい。
相手は生身の人間、私の異形を知り尽くしているわけではなく、また知り得ることがどれだけ精神の犠牲になるかを瞬時に悟ったと思われる。そう、触らぬ神にたたりなしだ。
もちろん私はどう転んでみたところで神とは無縁、悪鬼の誉れこそふさわしいが、特殊な能力なぞ宿してはいない、ただ、食が細いというだけさ。皮肉に聞こえるかな。
盟約は実に簡単だった。城内の悪行を、つまり吸血を禁ずるかわりに、他の領地における行為は目をつむるという見解の一致であり、いわゆる専用の酒蔵を提供してくれたのだ。これで葡萄酒の香りとおさらばできた。
しかしだ、所詮は厄介な荷物に違いなく、可能なら速やかにこの地より消えうせて欲しいのがもろもろの本音に違いない。
ところが私は歴代の主人へ仕えてきたふうな、勤勉なる従僕の面差しを張りつけたまま、忠誠心をその目の奥にたぎらせていたから無下には扱えない。
こちらの狙いはそこにあったのだが、おっと飛躍しないでくれないか、私は妖術使いでも手品師でもない、夜露をしのぐために蝙蝠に変ずることも叶わない異形にすぎぬ。
野獣の牙さえ隠しておけばよい、城内の居心地から放浪の旅に舞い戻るのはもうご免だった。つまり人間らしく生きようと心底願っていたのだ。寿命がどれほどか計れはしないけれども、のたれ死になんかしたくはなかったのさ。
舌先で嘆願するより、私は行為で自らを証明してみせた。忠実なるしもべ、異端の横顔は持参の仮面と異なる主人の朱印が記されたもうひとつの面に被われている。
これで誰もが疑心暗鬼ながらことなきを得ると思っただろう。熱病が領内近辺に蔓延さえしなれば。
私の存在意義を薄めるため、もっともらしい症状をうたい病床に臥したと皆が触れまわってくれたお陰で、現実に猛威をふるった熱病すべてが自分に押し寄せてくるとは想像もしていなかった。
牙を抜かれた異人に、今度は一致団結の刃が向けられたのだ。残された道は蟄居するしかなかった。

このあとの顛末は君がすでに書いている。
メデューサの像を邪気払いにわざわざ取り寄せたこと、主人までが病死したこと、ベロニアを慕い続けたシシリーが夢を見たこと、そして家僕のペイルが老衰で息をひきとったこと。君にとって有益な情報は尽きたのさ。うそじゃない、もう空が明るみだしているじゃないか。


[565] 題名:ノスフェラトゥ 名前:コレクター 投稿日:2022年03月31日 (木) 07時07分

有益な情報は尽きた・・・いつか訪ねてきた青年に、関心事はさておき澄んだ瞳に、くすぶる仄暗さをもち、身震いを闇夜に捧げようとしている相手にむかってフランツはそう答えた。
さながら叙事詩のピリオドにふさわしい響きをもたせたつもりだったけれど、実際には隣家からもれてくる夜想曲のような静けさを含んだ名残惜しさがこめられていた。
蟄居の身に甘んじながらも胸の片隅では廃墟と呼ぶに似つかわしくないこの屋敷を想えば、奇妙な眼球の動きにとらわれてしまう。
しかもそのまなざしは稀な来訪者のすがたをたやすく通り抜け、霊気となって大理石の床に更なる冷ややかさをもたらし、悠久の彼方を夢みるのであった。不遇をかこつ情況が結果であるとは言い切れない、何故なら冷徹な意志が足もとへ狂わせた可能性を決して軽んじるべきでないからである。
かつての狂気こそ最良の条件であったことに異存はなかった。
落胆の色を隠しきれない青年の面持ちに向って雀躍を禁じ得なかったのがなによりの証し、それはあたかもかつて執事を努めていた頃の記憶と入り交じり、我ながら陰険な心情をくみ出したのか、わざとらしく舌打ちをしてみせる不埒な愛嬌をこぼした。
主人への忠誠は悦楽と引きかえであった。

「私の名が偽名であると同時にあの使い古された良心とやらは影をひそめ、宿痾が光彩を放ちはじめたのだ」

フランツは自らの放浪癖を逆手にとり、矛盾ともみえる安住の地を見出したのである。
それが廃屋の気配を醸し出そうとも、朽ちた日々に侵蝕されようとも、鮮烈な想い出がある限り、真紅の裏地を配した暗幕は開き窓を遮蔽する宿命に忠実であり続けた。
城主なきあとの職分が流浪の気性に歯止めをかけた現実を認めないわけではなかったし、老齢にいたった身上のなりゆきとしてみれば当然の帰結であったことに間違いはなかろう。
ただ陽光のまばゆさをさえぎる無辺の闇を好んだフランツにとって、覇気の衰退や加齢は然したる意味をもたなかった。むしろ本来の性をむきだしにする野獣のような不覊に祝福され、その歯牙は夜ごとの夢をはぐくむことを忘れはしなかった。
それゆえ番犬シシリーの愛くるしさに隠れた放埒な稟質を見逃しはせず、うわべでは気さくな素振りで接していたが、これはなにもシシリーだけにとどまらず他者すべてに対し言えることであり、孤高を恃みとする心情からしてみればごく自然の振る舞いであった。
一日遅れの手紙を開封する焦りを周到にごまかした羞恥にさらわれない為、文字と一緒に指先をまるめるように。

フランツにとって言葉は必要でないのか、そんな疑念を起こすまえに執事としての職務へ目を向けてもらいたいところだが、残念ながら委細は見通せるはずもなく、その怜悧で分をわきまえた暗躍ぶりはいうに及ばず、才気にたけた生業とだけ記しておくのが関の山、煩瑣でいら立ちを催す日々の過ぎゆきの裏に愉楽を得ていたことは否定されるべきではない。
とにかくフランツに不可欠なものは暗闇にしたたる隠れた情念に他ならなかった。
山稜よりのぼる朝陽のまばゆさが城内に仕掛けをもたらそうと躍起になったとして、ここの住人たちはさしずめ素肌にまとったマントをひるがえす所作をしてみるだけで、夜の霧を呼び寄せ、暗澹たる喜悦に近づくことが可能であったから、執事の体面はことさら揺らぎもせず、自若たるたたずまいを保てたのだった。
貴重な葡萄酒の香りと切り分けられた肉塊、永遠と引き換えに死神を駆逐した報酬はありあまる栄光であり、柱時計は緩やかに、そして性急に振り子を揺らしていた。
それでも老いはやって来る。永遠という高貴な代物にさえ腐蝕の手はのびた。
善人の一生にも悪鬼の生涯にも均一にときは流れる。いつかの訪問者はフランツを題材にした物語りを書きたかったそうだが、おのれの血涙だけで綴れるほど人生は甘くない。そう他者の血を求めなくしては。


[564] 題名:お知らせ 名前:コレクター 投稿日:2022年02月13日 (日) 20時58分

「三重県まん延防止重点阻止」が延長された為、3月6日まで休業させていただきます。

2022年 2月14日 〜 3月6日


[563] 題名:お知らせ 名前:コレクター 投稿日:2022年01月31日 (月) 00時30分


「三重県まん延防止等重点措置」による時短要請を受けまして、当店は午後8時以降、開店のため指定期間、休業させていただきます。

2022年 1月31日 〜 2月13日


[562] 題名:夜にほほよせ 名前:コレクター 投稿日:2022年01月15日 (土) 02時41分

潮風が心地よかった。
身をかすめゆく感触に午後の日差しがしみ入ったからだけではなく、右隣でギターを爪弾いく青年の柔毛が頬を撫でているのが、遠い異国から届けられた景色のように儚げで美しいからであった。
とりまいた子供らも口々に「きれい、きれい」とほめそやしている。
僕はただただ、うっとりした時間を享受していたかったのだが、あいにく微妙な緊張が手放しの陶酔を軽減させてしまい、いくら夢みたいな場面とはいえ、気安く観客に甘んじていられなかった。
それは左隣よりベースギターを手渡され、にわか仕込みの練習に焦りと同質のものを覚えていたから。
彼らは僕が十代の頃、憧れていたロックバンドだったし、絶対あり得ない状況にもかかわらず拒む理由もないわけで、それはそうだろう、こんなこと一生に一回でもある方がおかしい、きっかけを思い出す暇があればこの刹那に興じていたいのは当然といえる。
どんないわれがあるにせよ、とにかく僕はベーシストの代役を果たさなければいけない立場に置かれ、今まで手にしたことのない楽器を懸命にこなそうと努めていた。が、どだい無理なのは分かりきっており、冷めた口調でこう言い含められてた。
「ベース音は後ろから流れるようにしてあるから、手つきだけもっともらしくしてればいい」
それが出来たらなんの問題ないはずだと、こころのなかでは反発してみたけれど、いら立ちは非現実的な光景に和らげられ、神経を突き刺す痛みもやはり潮風によってどこかに運ばれてしまっている。
ギタリストの美貌を盗み見しながらの、無謀な特訓なんて極端で面白いではないか。と、まあ開き直ってみたいところだったけども、陶然とした心持ちへ傾斜するのもそれなりの意思が要求される。
この場に及んでいるからこそ、そして間違いなく奇跡と呼んでかまわないからこそ、僕は以外にあわてたりせず指先の動きは左手に委ね、右目で風のリズムが吹き流している栗色の柔毛の揺れをうかがっていた。
音楽ファンである前に僕は、この美青年が漂わせる清潔な風貌、近づくことにためらいを感じてしまうくらいの、それはつまり僕の劣等意識が拡大されているような視野をもたらすからで、卑屈な感性を露呈させながらでも、憧憬を先送りしたい欲求に裏打ちされていたのだった。
実際メンバーのなかでもリーダー格の彼は圧倒的な人気を誇っており、こうして居並ぶ出来事に当惑しながらあくまで夢見の世界に内包されている。だから、子供たちの賛美に対し青年はこう応えるのだった。
「母からよく言われた。獅子のたてがみが光り輝くようおまえは美しくなければならない」
幻聴、いや、うつろな束縛、それとも加減を知らない落ち葉の舞であったか。
彫像と錯覚してしまう陰影ある横顔に忘れかけていた生気が宿る眺めは、磁力であると同時に僕の胸を寂しくつき放し、現実の距離へと回帰させた。一夏の恋心が燃え尽きる運命であるかのように。
しかし僕はとことん青年を崇拝していたから、その言葉のうちに尊大さを嗅ぎ取ることなどなく、従容として目を細めた。
すると今度はベースの指運びに慄然とせざるを得なくなった。もちろんだ。で、あたまをかかえてしまった。
あまりの拙さも然ることながら、数時間後には身代わりとして人前に出なくてはならない、いくらギタリストのカリスマ性に隠れていようとも、バンド全体として音楽は進行するわけで、結果的には大勢の聴衆の期待を裏切るのは目に見えているではないか。
何度も念を押すけど、こんな成りゆきを望んだのは僕ではないし、また深い事情があるにせよ、もっと適切な代わりがいるはずだろう、急激に渦を巻いた推理は荒唐無稽だったが、僕はひょっとしたら彼らに対し想像もつかない貢献をしたとでもいうのか、例えばメンバーなり主催者の命の恩人だったりして、そう、危うく車にはねられそうになったのを救助したり、あるいは逆に僕がはね飛ばされてしまい、幸い怪我はなかったけど醜聞を避ける為こんな要望が叶えられようとしているのだ。
理由づけは無茶苦茶なほうが今は救われる。とにかく段々と内包されているのが不気味になってきた。
視線の世界は緊迫だけを強要しない。いや厳密には一所に収まっている静止画を否定する働きがあるから、無様に飛び散ろうが、勝手に飛躍しようが、心底拒み続けようが、不確かな収斂はのちに検証されるべきで、この切り替わりは一種の意匠だとさえ思えてしまう。

「ウミガメなんか引き上げてどうするんだい」
潮風を側に感じるはずだ。
すぐ先には船着き場あって、こじんまりした堤防の下のわずかな足場を頼りに一人の男が、けっこう大きなウミガメを素手で捕まえようとしていた。声にしたつもりだったが僕の所感でしかなく、男は悠々と海面に顔を出した獲物を引き寄せてしまった。
他に人影もなく、あんな狭い場所から一体どうやって陸地へ上げるのだろう、それともただの戯れなのか。別段どうした思惑もなかったけど、気がつくと僕はいつの間にやら心許ない足場を横這いしながら男のいた方へ歩んでいた。が、すでにその姿は視界になく浮上したウミガメも消えている。
先ほどまでの焦燥が霧散した安心を得るより早く、陽の陰りは鷹揚に所在なさみたいな気配を深め、かといって寂寞とした空間が形成されてしまうのではなくて、どこかしら不透明でありながらさほど臆することのない、あえて言うなら無人の児童公園を見回している風趣があった。
それが哀婉な詩情になびく手前で凍結しているのだから、旋回しているのは上空の鳶によるまじないかも知れない。案の定、僕は軽いめまいを起こしデコボコした足もとに危険を感じた。しかし、意識が定まると目線を落としたところに弁当箱ほどのカメが可愛らしくのろのろ動いており、一気になごんでしまった。
ウミガメの子だろうか、そっと足音をしのばせ両手で甲羅を持ち抱えてみれば、案外重みがあり無性にうれしさが込み上げてきて、そのまま細い足場から引き返そうと急いだまではよかったのだが、その先が悪かった。
海岸だからいろんな生き物がいるだろうけど、そのあとで、いくらなんでもあんな物凄い蟹を出現させなくたっていいではないか。ゆうに一畳はあろう、全体が赤茶けたまだら模様でちっとも晴れ晴れしくない青みを点綴させた異様な蟹がぬっと半身を出し、通り道をふさぐようにしてうずくまっている。
冗談じゃない、平家蟹だってあんな面相を見せはしないだろう。ちょうど歌舞伎の隈取りみたいな顔つきで睨みを効かせ、完全に僕の行く手を遮断しているのだ。これには驚きを通り越し怒りの感情が恐怖の影に寄り添いながらもたげ、二三歩下がりながら、反対方向を確認すれば更に歩幅制限をあたえている現状が困惑に直結する始末で、増々化け蟹の威力に圧倒されてしまった。
妙案とは夢想とともに眠れるものなのか。
「置いてけ堀だな、これは」
取り留めない情景がはらむ不穏から逃れて束の間、今度は逼迫状態が見事に胸をなぞった。
カメの子に未練などなく僕は直感に従い、今にも這い上がってきそうな勢いを封じる為、力まかせに手にしたカメを蟹に命中させると、まるで呪術が解けたように目の前に鉄梯子があるのが分かり、やっと苦難から脱出できたのだった。
視界が大きく解放されたのは必然と言い切るべきだろう。
バスターミナルの喧噪はただ単に僕を圧迫するだけにとどまらず、ベースギターのことが再びブーメランとなって舞い戻り、放棄されるべきデタラメに律儀であるほうが妙だという意識と葛藤し始めていた。それにしても大型バスが連なってすぐ横をすり抜けていくのはかなり騒々しく、どの車両にも乗客がひしめいておりとても乗りこめる余地はない。しかも停留所から半周し走行しているので、相当のスピードは生暖かい疾風を巻き起して一層不快な気分にさせた。
注意するでもなく行く先を掲げた運転席の上部に目をやれば、あ行、か行、さ行と見れた。これ又まやかしかと思ってみたが、向こう側の乗り場に人がいたのを幸い、
「あのう、このバスは何処へ行くのでしょうか」と、訊いたところ中年男は怪訝な表情をしながらこう言った。
「お祭りだよ、あんた知らないの。それぞれの名前で振り当てられているね、混雑を避けるためにだってさ」
脇をた行の車両が駆けていった。
「僕の名前はなんていったんだ」
ぽつりとつぶやいたつもりだったが、中年男は、
「ほら、な行が来たよ、これで5番目だな、あんた数も気になるんだろう、だったらカズオでいいじゃない」そう人ごとなのか、親身なのか区別し難い声色で教えてくれた。
「じゃあ、間に合わないですよ、か行はもう発車してしまったから」
落胆の色が濃くにじみ出ているのを自覚し情けなかったけど、そんな適当な言い分をうのみにしている佇まいはもっと影が薄く、続けざまに、は行、ま行、や行と走り去るのを見送りながら、
「いちぬけた」
腑抜けた語調でそうもらした。すると呼応でもするように「ベースの練習はどうしたんだ」誰が喋りかけたのだろう、確かにこの耳へ聞こえた。
厳かなターミナルは静寂が間延びしている。
同時に時刻の設定も用済みらしく、曇り空でもないのに太陽は地上に関心を寄せていない、ただそう映っただけかも知れない。
カメの子がとことこ僕の方に向かってきたのを認めたとき、醜悪な蟹が現われたよりも数倍の驚きがあり、その動悸を反響させているのは、紛れもない感動だった。
「どうしたんだい、こんなところまで来たりしてさ。さっきは痛かったろう、放り投げてしまって」
子ガメに僕の言葉は通じているのだろうか、どうにも確かめようがなく、手を触れるのもひかえて見守っていると、僕を意識した素振りなどまったく示さず、我が道をゆく調子でまっすぐ進んでしまったので、唖然とするしかなかったけど、どこかしら晴れやかな気分が、少しだけ後から着いて来るのだった。


[561] 題名:ぼんち 名前:コレクター 投稿日:2022年01月10日 (月) 03時27分

一席おつきあいのほどを。
なんでございますな、ちまたでは草食系など申します男子が増殖しておりますそうで、どうにもあたしらにはピンときませんがね、色恋を避けているって風潮ですから、世も末なんでしょうか、はたまた少子化を担うために人類がとち狂いはじめたのか、食糧難を乗り切る配慮でありますやら、どうでも理由づけは勝手にしやがれってわけでございまして、そもそも男女の間の隙間が、いえいえ溝でごさいますな、えらく深い溝が出来ているってことは間違いありません。食欲性欲といわれた二大欲求の片方が欠落したわけでございます。

「たこ八さんじゃねえか、どうした浮かない顔をして」
「ああ、くま吉さんかい、聞いてもらうも恥なんだけどさ、せがれの宗太なんだがね、あの件以来どうも妙になっちまって」
「お花さんのことかい」
「そうでさあ、あっしの口からいうのもなんだけど宗太は役者にしたくらいの色男、かかあに似たのでなし、むろんあっしはごらんの風貌で、もらいっ子にちげえねえだの、大工のせがれにしとくのは惜しいだの、いろいろ世間はやかましい。で、餓鬼のころから仕事を仕込んでみたものの、施主のところに娘がいたらこれまたどうにもならずでね」
「知ってるよ、娘どころかおかみさんやら女中、近所のおんなっておんなが頬を染めて、お茶をすすめるやら煎餅、饅頭をどうぞとやら、まあ一服なさいだの仕事にならねえって」
たこ八、ここで冴えない顔を上気させ発するに、
「仕事は仕事なんだけどさ、背丈も伸び、一丁前に物憂い面なんぞ浮かべやがると、たこ八さんよ、日当はちゃんと出しますからね、宗さんをちょいと貸しておくなさいよ、と来たもんだ」
「それって」
乗りだすくま吉をいさめても仕方ない、平静な口ぶりに返り説明しますと。
「おいおい、枕役者じゃあないよ。他愛もなことさ、座敷に引き入れて喜んでいるさ」
するとくま吉は怪訝な顔で、
「本当かい、物持ちのおんながほっておくもんかい」そう突っ込みます。
「さすがに昼日中からはあるめえ。こちとらも目を凝らしていらあ」
「どうなんだい、いっそのこと役者にしちまえばいいじゃないか」
「馬鹿言っちゃいけない、宗太はもう所帯を持っていてもおかしくない歳だよ。大工だって役者だって仕込みが肝心だ、生半可はいけねえ。とは言うものの、肝心の本業があの通りからっきし駄目と来た。そりゃね、あっしらの育て方が悪かったんだ、かかあだってちゃんと認めてるよ、そこで能無しだけどあの器量に惚れ込んだ娘が是非ともなんて、甘い思惑をめぐらせるとだね」
「ほう」
「世の中ってのは持ちつ持たれつなんだねえ、反物問屋の次女が宗太のうわさを聞きつけ、一目見るなりあっと言う間の惚れ込みよう」
「お花さんだね」
「あんたも適当だねえ、お花さんは茶店の奉公人、反物問屋はおさよさん、まったくひとごとだと思って」
「そう怒りなさんな、悪かったよ。最近どうももの覚えがよくないもんで」
「なに言ってやがる。でも仕方あるまい、あのふたりはすがたかたちがよく似てるからね。いやほんとに、双子みてえだよ」
したり顔で頷いたくま吉を尻目にたこ八、お天道様を仰ぐふうな様子で、
「それで向こうさまから縁談がもちこまれたって次第さ。棚からぼた餅てのはこういうことか、なんて喜んでいたわけなんだがね、宗太に話しを聞かせたところ、たこ八さんよ、なんとせがれの奴こんな台詞を吐きやがった。おとう、実はおらあ好いたひとがいるんだ。これにはあっしもかかあも仰天よ、ああしたときはおなごのほうが気丈だね、あんぐり口を開けたわが体たらくを押しのける勢いで、かかあはすかさず言ったよ。どこの誰なんだ、これ宗太、隠し事はならんよ、きちんと話してごらん」
はい、神妙な面で語り出したこの希代の色男、以前より通っておりました茶店の娘に懸想していたそうで、とはいっても宗太は案外うぶな性情でございまして、決してそれらしき態度は示さず、口にもしないというわけで、あとは当のお花が勘づいているかってことになりますが、それは後々あらわになりますから、ひとまずたこ八の家へと話しを戻しましょう。
そこで早速、両親ともども宗太と一緒に茶店へと赴いたのでございます。さほど遠い距離ではありませんでしたな。話しが持ち上がった折から反物問屋のおさよの容姿を見知っているたこ八、このときばかりは狐につままれた面持ちで、こうつぶやいたそうです。
「なんでえ、どうしてお嬢さんがここにいなさるんで」
ここは男親の威厳の見せどころ、考えあぐねるより先つかつか店内に踏み入り、
「もしや双子ではありませんか、おさよさんの」
といきなり切り出した。
これまた豆鉄砲を食らったようなお花の表情、世間話しがゆきわたっていたとしてかの反物問屋は五里ほど離れております、江戸市中はそう狭くはありません。まったく何が何やら分からぬ顔つき、泳ぐは両の目の色、更にはかかあもしゃしゃり出てきまして、これこれの問屋の娘と縁故があるのか、名はなんと言う、宗太を見知っているのか、もう矢継ぎ早の問いただしで、まわりの客も眉をひそめるものやら、立ち上がるものやら、不穏な雰囲気にあわてて駆けつけた茶店の主との話し合いに落ち着いた次第でございます。
「なるほど、そういう事情でございますか。うそいつわりなぞ申してどういたしましょう。お花は三年まえより手前どもで奉公しております。合点がいかれましたかな、まったく他人のそら似です。それよりそちらの子息とお花はどうしたわけで」
茶店の主の態度に揺るぎはないのですな。
こうなるとあわてふためいたのは張本人の宗太、顔を赤らめしどろもどろ、やむなくたこ八がせがれの岡惚れを恐縮しつつ説明いたします。呆気にとられたのは言うまでもありません。幸い野次馬から逃れるよう奥座敷にての話し合いでしたので騒ぎにまでなりませんでしたが、どこやらから漏れるものでしょう、二三日もすればもう色男と双子の縁談とえらく尾ひれがつきまして、そのうち反物問屋の耳へ入りましたのでございますな。呼びだされた宗太と両親はあたかもとが人の態でうなだれております。無理もありません、数代続く問屋側からしてみれば、入り婿とはいえ破格の縁組、娘かわいさの決意です。それがこともあろうか双子などと下世話な風評が飛び交い、茶店の女中ふぜいを慕っておったとは甚だしき侮辱、おさよに傷がついたも同様、また本人も悲嘆に暮れたのは察してあまるところでございましょう。浮いた縁結びは木っ端みじんに吹き飛び、懸想されたお花もいたたまれなくなり茶店をやめてしまいました。それでも宗太はたこ八に泣きついたそうでございます。
「なんとかお花さんと一緒になれないもんか」
あとの祭りと知りながらも反物問屋のお嬢さんはお花さんと売りふたつ、どうして算段しなかったのかと詰め寄りたい気分だったけれど、聞くだけ野暮とすべてを諦めていたところ、いやはや風聞とはまことに恐ろしものでして、色男一世一代の恋などと格好の話題になっており、世評は宗太の肩を持ちだしたのです。暇人がいるものでございます。どこのつてをたどってか、ひっそりとある屋敷で女中奉公しておりましたお花を探しだし、おまけに屋敷の当主の上役までとりこんであれこれ吹き込む始末、もはや人情噺を地でゆく勢いですな。
当主は邪心こそありませんが、今評判の宗太の想いをかなえてやれば名声もたかまりましょうぞ、などと耳打ちする輩がおりまして、早速お花にその旨を言い渡したのでございます。ところが、
「滅相もございません。わたしはあのひとの目が気色悪くてたまらないのです。命と申されるのならお暇をいただきたく」と、えらい剣幕にて自害さえしかねない様相で訴えかけます。
好いた惚れたは互いの気持ちが通いあってのみ、まわりも納得するものでしょう。無理強いまでして名を上げようとしなかった当主はまだ人間味がありましょう。ことの次第を聞き入れざるしかない宗太の道は願いを運んではくれません。
失意のうちに次第に世間の噂も幾日とやらで、悲劇をしょった宗太に新たな機運は訪れず、反対に畏敬の目に近い危ういものでも眺めるふうな扱いに甘んじるしかありません。まったくもって不可思議なのはひとのこころでございます、憔悴したとはいえ、宗太の美貌は凄みを増し神々しくさえあったというのですから。
そのうちこの哀れな色男はおなごのすがたを見るだけで胸に痛みを感じたそうで、こうなりますと余計に女人と接する機会もなく、例の日当にもありつけません。たこ八を悩ますには十分の有り様であったわけでございます。
宗太はそれから何をするでもなく、日中は寝込んだまま一歩も外に出ようとはせず、夜な夜な人気もなく、灯火も見いだせない暗がりをそぞろ歩いていたそうで、なんでも辻斬りにばっさりやられたと人々の話頭にのぼったのも束の間、精々残されているのは早く寝ないと怖いものが来るぞという子供らへの戒めくらいですが、宗太という名もいつしか消えてなくなってしまいました。
おあとがよろしいようで。


[560] 題名:花凪源十朗 名前:コレクター 投稿日:2022年01月07日 (金) 02時46分

こんな経験ありませんか。
経験と言うにはどこか大仰でしょうけど、忘れかけた頃、ある日とつぜんに降ってわいたような意識の迷走です。でもやはりそれは気がかりであったと思われます。
面倒くさいのでしょうか。
そうですね、想い出そうとしても、色々調べあげても、あるいは季節の風物より先行していたりして結構もやもやを育んでしまいますので、なんだかんだで謎めいていることには違いありませんよね。
それは映画の一場面であったり、テレビに映し出されたひとこまなのです。が、どうしてもその光景を含んだ題名は言い当てられません。ならどうすればいいのでしょう。
こころに眠れる断片としての宝石めいた価値を保ち続けますか、それとも来るべき先にと輝きをそっと被い、日々の連鎖の下敷きにしておきますか、取り急がれるのでしょうか。まるで背中を押されたときみたいに、誰と振り返ることが、そのままめくるめく幻となって落下していくごとく。


月明かりの白砂、穏やかでひとけもない、孤高の波打ち際。喧噪が過ぎた気配は幽かに名残惜しく、ただ独りの鎧武者の陰を映し出している。
たった一度だけの、したたり落ちる冷や汗は月光を受けて青ざめており、たぶんそれは私自身の心境であったと思われるので、増々胸がときめいてしまうのだったが、あんなに浮き世離れした場面に出会った試しがなかったから、こうしていつまでも単調で怠惰な日々のあたまに鉢巻き締めされているのだろう。
黒々とした甲冑には潮のしぶきが点綴しているけれど、月のひかりが意思を抱いて降り注いでいるとしか感じられなかった。結晶より無粋でありながら、水滴より尊い夜のしじまの輝き。辺りの山々の背景はずっと遠く、武者の頬当てだけが画面を支配している。
ひげ飾りはなく、大魔神を彷彿させる異形であるのだが、しかし、不思議とのっぺりとした落ち着きがうかがわれ、不敵な笑みとも悲嘆の面とも、恍惚を得ようとしている矢先とも見受けられる。そして睥睨に至ったとき、記憶は途切れてしまった。


花凪源十朗はとても困惑していた。
剛毅にして果敢な出立ち通り、武勇の誉れは高く此度の奇襲も満場一致で首肯され、主君より命を授かった。
夜陰に乗じて敵将を討ち取ろうという策謀であったのだが、予期されたよう敵将の陣は容易く見定められなかった。松明のまばゆさだけでない、どれもこれもが標的に映しだされるふうに仕組まれていた。
源十朗らは隠密行動のゆえ、十数名を二手に分け、探りを入れたのだったが、それでは特攻の焦点が望めなく、このまま抜刀せず引き返すことなど出来ない。すでに向かい側には源十朗に加担すべく捨て身の撹乱兵たちが突撃の合図を待ちわびている。
昨夜の斥候からの報せでは斯様な情況ではなく、だからこそ勝機ありと見込んだのであったけれど、こうして裏をかかれた現状に狼狽するしかない己を否定するためにも、漏洩はどこで為されのかだの、内部に諜報が紛れていたのかだの、果ては日頃より反目とまではいかないが、快く思っていない側近にまんまとはめられたのかなどという、思念が浮絵のように胸へじんだ。
しかし考えあぐねれるほどに、ときはじり貧への傾きを許さず、衝動的な無我はその掌に汗となって斬り込みを促していた。
源十朗は配下のものに低い声でこぼれ落ちるよう意を伝えた。
「もっとも燃え盛っている松明こそ本命と見た。却ってひっそりと夜気に包まれておろう姿は至当すぎようぞ。敵軍とて警護の厳重な陣なればとせせら笑っておるのじゃ」
独断とすれば妥当であったが、奇襲の道理はすでに霧散し、討ち死にを選びとるより仕方のない場面をひきつけたともいえる。
鬨をつくるまでもなく、源十朗は夏の虫のごとく赤々とした松明に吸い寄せられ、目に入るすべての動きに対し剣を浴びせかけた、いや叩きつけたのだった。
忘我の境地であった。撹乱兵の勢いも相まって敵がたの周章ぶりは突風にあおられたすすきの穂を想起させ、次々と刃のしたへ戦意喪失者を横たわらせた。
もう源十朗は悲願の首級を手にした攻防も経緯も失念していた。
正気にかえったときには血まみれの布切れを抱え、独り戦場から遠のいていたのである。そこが山間から相当隔たった地なのは、血の香りに寄り添ってくる潮の匂いを覚えたからで、どうやら一山越えたと、そして武士の面目を守りきれたのだと、安堵した。広々とした白砂を踏みしめるやわらかな感触が、寄せては返す波の音と折り重なり、ひとときの平穏を得たのだったが、たった独り身で浜辺をさまよっている影を足もとにしかと見いだした際、不吉な念が月光とともに源十朗を冷ややかに照りつけた。
「影とな」
一か八かの突撃はもはや戦略でもなかったし、知謀でもない。
敵将の御身が話頭にのぼるとき、その明晰な頭脳もさることながら、恐ろしく警戒心の強い研ぎすまされた植物的な神経も取り沙汰された。左頬に小豆大ほどのほくろを授かったことを幸いに、幾人かも知れぬ影武者を周囲はむろん、鷹狩りの折や宴の幕内などにも周到にすげ替えては用心を怠らなった。似た風貌とつけぼくろさえあれば、敵将は人前に姿を見せることなく、奥深い寝屋で好色に耽ったり、高いびきで天下泰平の夢に遊べるであろう。
源十朗は月明かりから逃れる足取りで己の身と首級の隠れ場所を物色した。甲斐あって小さな洞穴を波うち際に見出し、辺りを慎重にうかがいそっと影を忍ばせた。
とりあえず人目から消えることが出来たと胸をもう一度なでおろせるはずであったが、暗黒の洞穴は視界を奪い去り、念頭にたちこめている真意をただすのが不可能になってしまった。せめてものと、布をほどき首をなで頬に指さきが触れ、直ぐさまそれがほくろであるのを感じとったまではよかったのだが。
源十朗の長く熱い夜はここから始まった。灯火を求めずとも敵将である証左を得て、小躍りしたい気分は思いの他、蔦がからまった森に封じこめられたような不安に鎮められ、やがて疑心の暗雲にすっかり閉ざされてしまったのである。
もう体温を失っている生首のほくろに微熱すら感じないにもかかわらず、源十朗は卑猥な手つきでその証に触れ続けていた。めぐるものは生暖かい反復だけであった。
「偽物であったにしろ、すぐに剥げ落ちるはずもなかろう」
「人肉に付随していたとして、実によく出来た技巧である」
「見分けがつかないゆえの影ではないか」
「この感触は本物に相違ない」
当惑は真贋に帰結されるべきであったのだが、いつしか想いは、いかなる理由で隠遁の態を選択したのかという、現実に舞い戻っていた。
「でかしたぞ、源十朗、ほほう、さすがは花凪どの、あっぱれでござる」
「奇襲を悟らぬ敵将ではあるまい」
主君はじめ居並ぶ要職はもちろん、親族縁者の賛嘆を耳にした途端、あとは嘲笑の的であり続ける光景から逃れそうもない。
影に擁護されている内実をつかんでいながら、夜襲の案に賛同した面々の心根が小憎らしいくらいよく分かる。おめおめと偽物を小脇に携えている格好を見とがめられたなら、どれほど恥じ入らなくてはならないのか。討ち死の覚悟が成果をあげたにせよ、失態は失態、むしろいとも簡単に首級を穫れたほうが怪しい。
源十朗の胸中は死線から脱し得た喜びを糊塗せんが為、自らの名誉に拘泥してしまい、どうあっても生き延びた我が身が情けなく思われるのだった。
一刻も早くこの首を始末しなければ、、、そして敗走の汚名をぬぐうには、、、いや、己だけの力で首を打ったのではあるまい。壮絶な斬り合いが一方的な戦果として、また散る火花を消滅させ、記憶を葬り去ったのは紛れもなくあの刹那、敵将だと信じて疑わなかった功名心であり、極点にまで舞い上がった勇猛という怯えであった。
言葉にすれば見苦しい葛藤に過ぎないけれど、この心持ちにいたる夜は決して短くはなかった。ふらふらと洞穴を抜け出たのは黎明を告げられる寸前であったように思われた。
まずは血まみれの布を波にさらわせ、同様に生首も海中に放り投げようと弱々しい力をふりしぼろうと努めた。そのときである。
「貴様には出来まいて」
信じがたいことだが、両の手にはさまれた首がそう口を開いた。
腰を抜かさんばかりの場面であったけれど、源十朗は金縛りにあった様子と見え、微動だにしないからだに逆に操られるふうにして、首を砂のうえに置き、兜を脱ぎ捨て、魔術にかけられたふうなだらしない顔つきのまま、剣をゆっくり抜き、切っ先から棟に左手を滑らせて両肩に乗せ、そのまま一息に胴体より己の首を斬り落とした。
源十朗の哀れな表情が波間に消えゆくのを待っていたのか、砂上の首級は高貴な目配せを月影にしめし、虚脱したはずの胴体に生命を与えたのである。
両腕がのび、あろうことか生々しく血糊を垂れ流している斬り口へと、あたかも人形の首をすげ替えるごとくおさめてしまったのだ。
それからおもむろに兜と頬当てを被り、あきらかに人目を意識したまなざしでまわりを見据えた。夜明けにはまだまだ猶予があった。
鎧武者はそれをよく心得ており、源十朗は知り得なかったのである。


[559] 題名:つづれおり 名前:コレクター 投稿日:2022年01月05日 (水) 08時14分

かりに私が感情表現を持ち合わせていなかったとすれば、当然ながら表現以前に感情さえあやふやであると考えてしまうところだが、それは確かな解釈といえるのであろうか。表現にとって感情は常に不可欠でなければならないと仮定してみると、喜怒哀楽がわき起こる刹那の身振りを経て、脱皮をより肉体的なものとしながら、その実ますます肉体とは本質的に反対の方向に突き進んではいるように感じられる。
感情は硬直した体躯に揺さぶりをかけ、ときに激しく、ときにたおやかで緩慢な動作を選択し、躍動へと羽ばたきもしよう。又その指先は既成の道具を巧みに操り、あるいは操られているという錯誤に導かれ、扇情的な音色を奏でることも可能であり、悲愁に満ちた調べを漂わせるすべを心得ている。さらには絵筆や彫刻刀が見せるあまりに細やかな時間への配分と埋没を忘れるはずもなく、鋏が断ち切る用布から毛髪にいたる手際のよさは日常に即しており、取り繕うためというより様式にそった機能を量産しつづける一本の針のひかりが無数の幻影に守護されているのは言うまでもない。
表現はすでに感情から見放されている。そんな冷笑的な意想をあえて述べてみるのは歴史性やら熟成やら、進化といった能動的な良心をただちに影絵と化してしまった「ラスコーの壁画」に想い馳せてみれば十分だからで、つまり表現のひとり歩きに対してあながち、警戒を秘めたまなざしは必要ないということになる。
だが、ここで結論を言いきるつもりはないし、その理由を説明する意思も持ち合わせていない。誤解なきよう、私はなにもひとり歩きを賛美しているわけでも擁護しているのでもなく、ただ精神の発展がなされたのは現在過去未来というシステムに委ねられた結果だけに限定されるべきではなくて、いささか神秘的に聞こえるかも知れないが、自動書記の手法が時間を傷つけ、逆巻かせ、夢の彩色に促されて、肉体に宿った血や汗や涙やもろもろの体液が凝固され、感情の発露を見いだしにくくなっているという危惧にうごめいているからで、それは反面から得るところ混沌と共存する歓びでもある。ここで使われる自動書記とは濃密なめまいと呼ばれるのがふさわしい。



網次郎にとって女体デッサンに関わっている学生らは羨望であると同時に、幾度も首をかしげなくてはいけない連中に思えて仕方なかった。ふとした縁で知り合いになった男から、ちょうど積年の疑問を今にも懇切丁寧に解説してくれそうになった矢先、網次郎はどうしたことか、気後れでもあるまい、だが、明らかにその経験を口にした男に性急な問いかけで迫れなかった。
「最初はそうだ、どきどきしたもんです。なんせあの頃まだあっちの経験もなかった」
このひとことが不思議と気分を萎えさえるよう、また待望の場面に目をつむってしまう怯懦を呼び覚ました。あれこれ心理状態を自分ながら顧みたところ、胸に仕舞われていた想念の不純さに年甲斐もなく照れている事実に行き当たった。引き出しから消しゴムを探し出すより容易に得た心持ちに半ばうかれてしまったのも、羞恥の織りなす仕業にあることに感じ入ったがゆえであり、さらに脳裡の片隅はなぜか空高く、よく晴れた日の飛行機雲みたいに遠く、のどかな情景を張りつけているので、羨望は直通電話ではなく、時代遅れの呼び出し電話を想起させる間合いを獲得し、好都合に糊塗されてしまった。
男の声が近づくほどに、こそばいゆい感覚がえらくもったいぶった価値を蔵しているふうにも思え、のどかさに敬礼したくなったりもした。しかし、幾日かした折には焦燥につき動かされている実際を、鼓動と発汗を知るに及んで、網次郎は時間を弄んでいたに過ぎない強欲を認めないわけにはいかず、先送りした余裕らきしものは気後れでも怯懦でもなく、男から耳にした途端まぶたの裏に焼きつけるだろう、あまりに固定された充足を勝ち取ってしまうのでつまらなさを感じてしまっているのだった。
列車を一本見送っただけ、そう悔しまぎれに言い聞かせてみるのもまんざら嘘ではなくて、旅ゆきの気分が延長されたと想像してみれば少しは気が楽になる。意識的な操作ではないのだと、思いこむわずかな努力で平常心に帰れたのだ。
で、当時美大生であった男が語るに、
「あなたの予想は見事にはずれますな。いや、自分だけではありませんよ、まわりの奴らだって誰ひとり官能に征服されてはいませんでした。股間を押さえてる図など思い浮かべてるでしょうが、それは間違いです、はい」と、これから観葉植物の名前でも並べたてそうな取り澄ました口調で通された。
「結局ですね、若いせいもあったんでしょうけど、けっこう人目が邪魔するもんです。教授の目線だって冷ややかでして、無言の威圧っていうのですかね、その雰囲気が教室全体にゆきわたってるんですよ。冷え過ぎの空調みたいに。モデルの女性はやはりそれなりに奇麗なからだつきですけど、決して卑猥な感じはまといっていない、ポーズにしたって椅子に沈鬱な表情で腰かけてみたり、どこかしら技巧的なんです。あの人らだって仕事でしょうし、場慣れもあります、乙女の恥じらいがにじみ出しているモデルに出会った試しはないですね。第一、多数のまえで真っ裸になるわけですから、同じ職業でもストリップとは大違いで、あちらは情欲をあおるのが目的でしょう、そりゃ素朴なものですよ。中には不埒な念を隠してる奴もいたそうですけどね、当人は公言なんかしません成績に響くとか、評判が悪くなるとか、あの頃は不真面目は罪ですし、あくまでうわさに過ぎません」
網次郎はほぼ了解したつもりではあったが、自分がその場に臨んでない以上、反論する意欲なんかあるはずもないのだったけれど、間延びした羨望のゆくえを最後まで確認したい変な律儀さが顔をのぞかせ、と同時にその相貌へ薄皮一枚でへばりついている頼みの綱、よこしまな願望をついでに洗い落としてもらいたくなった。
「裸体におおむね興奮はしない、そういうことですか」
「そうです」
「わかりました。裸にはですね。じゃあ、顔のつくりはどうでしょう。さっき沈鬱と言われましたけど、そんな暗い顔つきばかりなんですか。まあそうだとしても、あなたの好みだったらどうします」
男はおもむろに腕組みをしながら、
「ほう、なかなか突っ込みますねえ。ではこう考えてみて下さい。普通あれのとき以外は女体を拝む機会なんてありません。街角だって店屋のなかだって電車に乗っていても、人の集う場所に裸体は登場しないものです。そうあればいいと願っているひとはいるかも知れませんよ、人前において女性はきちんと服を着て過ごしているものです。けれど顔はある意味で裸の一部ですな。まあ化粧でごまかしたり、華やいだりしてますがね。肉体が隠されているから顔かたちが美しくみえたりするのではないでしょうか。唯一の裸だからです。ヌードモデルの場合は、全身がむきだしなんですよ。顔だけに集中するっていうのは難しい、いえ、これは全体像をデッサン、つまり描ききらなくていけない作業なんです。なかには半身とかもありましたが、せっかく素っ裸でいるわけでしょう、目に映る限りをなぞるだけなんです、淡々と」
そう応えると、少々蔑みをはらんだ眉根が網次郎の思惑に挑んだふうにみえたが、すぐに口角をあげてこう話しをつなげた。
「男子ばかりじゃない、教室には女子学生も数人はいまして、そのひとりとちょっとばかし懇意になりましたんでね、ある日、尋ねてみたことがありました。女性から眺めて同性のヌードってどう映るのかって。まともな返答だったから今まで忘れてたくらいですよ。いやあ、どうしてるかな、急に懐かしくなってきた」
「恐縮です」
「いやいや、いいんです。あとでゆっくり物思いに耽りますから。で、彼女が言うには、ああしたモデルのひとって意識屋さんね、男はもちろん女のわたしにだって性的なものを薫らすどころか、彫像になりきっているみたいな冷静さを崩したりしないわ。裸である恥じらいより、どう描かれるか、どう見つめられ、絵のなかにいかに収まるのか、素描が色づけをまだ欲しないように、ほんのわずかばかり肉感に目配りされた形骸だけを見せつけているんだわ。肉体をさらしているつもりなんかじゃなく、曖昧な意識を切り売りしているのよ。だからモデルは意識屋なの、そう思うわね、といさぎよい口ぶりでした」
「そうですか」
「女性はわたしらとは別の角度からものごとを判断しているんでしょう、ヌードに限らず。こんなもんでよかったでしょうか」
「ええ、ありがとうございました。以前にお話しましたように若い頃からどうも気がかりだったんです。でも分かっていたのかも知れません。興味は学生たちの色欲が立ち上る幻影に終始していたと思います。彼らの心境はあらかじめ官能に支配されていて、理性らしきものと傍目への気配りが拮抗している。そうあってもらいたい、しかし、おそらく現実はもっと素っ気ない空気を生み出しているのでしょう。あなたの吐く息とわたしの吸う息が時間の隙間に紛れこんで決して立ち会うはずのなかった場所にたどり着きました。呼吸は感情をさまたげているのでしょうか。薄々感じていながら念押しみたいに現場の様子をうかがいたかったのは、失望を先取りしている自分に居場所を提供するためだったようです。あふれる光景はつかみ取りつらいですけど、すでに終決した画面はどうにでも切り貼りできます。やけっぱちだろうが、奇抜な発想だろうが、そうですね、下手な料理と似てますよ、限られた食材にこれでもかって味つけを施して、創作料理なんて納得している。狭い食卓とこじんまりした冷蔵庫が割と性に合っているのでしょう。手狭が居心地のよさを醸していることってあるんです。発露より閉塞、例えば金魚鉢のなかを窮屈そうに泳いでいる景色ってわたしが考えこむより、当の金魚はさほど嘆いていないかも知れません」
「随分と内向的ですね。しかしヌードデッサンはそうかも知れない。彩色が加われば変幻すると期待してますけど」
「さっきの懐かしい懇意な方ですか」
「これはまいったな、それは別問題でしょう。あなただってそうでしょうが」
「失礼しました」
網次郎はそれより先へ話題を深めることなく、とりとめのない会話に流れゆくこころ模様を眠たげに紡いでいた。


[558] 題名:金魚鉢 名前:コレクター 投稿日:2021年12月12日 (日) 09時23分

夕暮れ、気まぐれ、所在なし、ほろ酔いにまかせておいた狭い庭を見遣る目つきは空を切ったまま。
耳朶に届いた鳥の鳴き声、さながら障子紙に浅く鋭く砕け散る。
カラスの群れが山へ帰るのなら、そろそろ杯を置き、重い腰を上げてみよう。
昨日までの長雨、庭の片隅まで冷えたしずくを残したまま。

たしかに聞き覚えのある文句が残響し、記憶の裾野に軽やかにすべりゆくので、思わず苦笑い。
そうさ、金魚売りだ。テレビの時代劇からこぼれでた声色、祖母が見入っていた画面から。

いつか読んだ短編小説にこうあった。
「すぐそこだから」
なら、行ってみよう。いいや、遅疑の末、渋々ではなかったか。
「驚いたのはこっちよ、なにさ」
女の顔には須臾の間、木の葉のような薄い憎しみが抜け出し滲む。媚態はもちろん宙にふわりと舞った。

金魚鉢に向い「ほら仲間だよ」と話しかけ、黒い出目金を水底に沈めた。
縁日ごとにすくってくる金魚、これで三匹。新入りはどうした案配か、片目の異形。
これが最後まで生き延びた。
その後、何度かもっともらしく朱をなびかせる奴を持ち帰ったのだったが、寿命は短い。
愛着を覚えるに理由はいらなかった。
それなりに世話をし、えさのやり過ぎに気を配った。
しかし出目金は、子供の遊び時間をいくらか張り合わせただけの、たとえば寝入り際の息が希薄になるひとときを、泳ぎ着いただけだった。
傲慢なる意識・・・張りぼての玩具、淡麗な思い出、透ける濁色の輪郭・・・そうかも知れない。
漆黒の尾ひれが透明な水を濁す幻影なれば。

黄昏の想いは気だるさを伴いながら、その反面なにやらからだの芯とは縁のない、奇妙な感覚に包まれて、熱病が治まったときのような殊勝な心持ちが浮上しては、誰彼となしにいたわりの言葉を投げかけたくなる欲動が発令され、一瞬哀しみが風にそよぎ、せせらぎの音を聞き取ったかの清涼な体感がめぐると、不意にうしろを振り向いてみたくなり、だが、そこに幻も禍々しい影もあり得ないことを認め、舌打ちするまでもなく、軽やかな意識にそって、葉にしずくがほろりと垂れる情景が流れゆく。
彼方遠くへ。
後追いの気分は過剰な想念をいさめるよう、ちょうど優しげな年配者から小言を受け、反撥と同時にうなずいてみせる視線が地に落ちる様に重なって、ゆったりとした淀みに連なる。

金魚鉢、よみがえる色彩、暗黒をくぐり抜ける、そうトンネルを


[557] 題名:父との旅(改題」 名前:コレクター 投稿日:2021年12月12日 (日) 09時17分

列車の振動は山峡にささかかると、その曲がりくねりがもたらす催眠効果をより増幅させるのか、季節の過ぎゆきに性急な瞬きは無縁とばかり、雲間へ移ろいだ日輪を讃えるごとくトンネルの漆黒が華やぎ始める。
まぶたの裏をかすめ続けた夏の陽射しは退き、さながら魔性のひるがえす怪しきマントの姿態を想わせた。
むろん依頼人への斟酌が寄せては返す波の音を模すのか、緊迫と焦燥とが編み上げる言葉にたどり着けない独語は浜辺にひろがるような静けさを謳い揚げ、眠りへのとばりがたやすく降りてくるわけではなかった。
用意周到のつもりで重みがかさんだバックは決して脇から離れるつもりはないらしく、先走る手はずに苦笑いを投げかける段取りも健在であった。
しかし鋭意な心がけのその上っ面はやはり溶け出しているのだろう、盛夏の車両に乗り込んだ不穏な熱気はゆき届いた空調により、時間が孕む明晰な翳りへと傾き、その羽ばたきを、夜鳥のついばむ証しを消し去ることはできそうもない。
目覚めは長くもあり、とても短かったから。
ホームで見遣った家族連れの光景が浮き立たせた郷愁、独語にさえ寄りかかれない、けれども靦然な装いに彩られたなき恋人への便りがひとり宙を舞うと、そこはやはり異界だった。

さい果ての地へたどり着いた皮膚感覚が世迷い言のようにたなびいている。
視野をふさぐのは雪景色にあらず、寒風にさらされた木目がかいま見せる殊勝な柔らかさだった。浮き足だつ旅情に流されるまま、辺りを眺めればひとけもなく、上空から鉛色をたぐり寄せて張りつめている電線の結びが妙に艶やかで、醇乎とした風情さえ感じられる。
北国からの依頼にあやまりなく、この土地へめざしたのなら、煙にまかれた眠りの世界は半透明に違いない。確信への歩みはいにしえよりの規矩に支えられており、危ぶみを浄化しうる醒めた倨傲がひとり歩きしていた。
うしろに樹齢の枝ぶりに似た気配を察するまで、明暗の隠れ蓑を借り受け、異相を念写しようと務めだしやまない。

父の顔から縁遠い場所へ連れて来られた怪訝な目つきを消すことはできなかったが、苦渋まで至らない様子がそれとなく読み取れ安堵した。理由は判然としなかった。枯れ葉に薄き笑みがひそんでいるようなちいさな歓びが透けて見えたせいかも知れない。
「ここは変わった建物だな」
寒さでのどがかすれているけれど、父の声は風向きに乗っている。
「日の暮れるまえ宿へ」
そう言いかけて、あらためて依頼主の面影が描きだされそうになったが、親子ふたり旅である実情に向うと、不思議の壁は予期した通りゆるやかに崩れゆく。
吸血鬼退治は肉親であれ内密だったから、そして恥じらいで縛られていたから、いまこの時間に裏づけはいらなかった。崩れたがれきをかき分ける健気な気分にうながされ、
「ちょっと覗いてみようか」
等しくかすれた声色なのだが、果断な響きは冬空に細く突き刺さったと思われる。
父が視認するまでもなく、そこは風変わりな造りというより、深い記憶の奥底から甦ってきた蒼然たる病棟の回廊であった。手術中と筆書きされた用紙が古びた部屋のすべての入り口に平然と張りついている。
「臨時募集の方ですね」
不意に真横の扉が開き、白衣の医師らしい男からにこやかにそう尋ねられた。
否定も肯定もしない、奥まった先に位置する階段をぼんやり照らす白熱灯の、旅人と臨時雇いとをないまぜにした明朗なもの言いの、痕跡をたどれぬ悲哀が宿る夜のしじまに対する恋闕の、奇矯な明るみに打たれただけなのだろう。
すっかり忘却の彼方にしまいこんでいた列車の振動が瞬時よぎると、この空間がとてつもなく愛おしく感じられてくる。
「とりあえず手順を教えますので、いえいえ、左程むずかしくありませんよ」
勢いのない筆書きとはうらはらに招き入れられた手術室は蛍光灯が赤々とかがやき、たぶん臨時の面々による実習が恬淡とくりひろげられていた。
「ある種の美容法なのですけど、申し訳ありませんが委細はお話できないのです。ごらんのように流れ作業の要領で施術がおこなわれます」
なるほど、この一室にベッドは六床、シーツで身体を被われた若い女性が横たわる側へ臨時係らはたたずみ、顔面に指先を微妙にあてがっている様相がうかがえる。
見学の姿勢で見つめていると、手早い処置に流れベッドは次から次へと台車の本領発揮とばかりに別室に運ばれてゆく。
「ごらんのようにこの部屋では一種類の作業だけ担当してもらうわけでして」
手術から美容さらには作業へと収斂する異郷の眺めは遠く、片や近かった。
邪念のすべりこむ余地はないと思われた。父がどこに連れていかれたのか、あるいは自らの意思で他の部屋へ臨んだのか、気にもとめなかったし、流れ作業の手順とやらも見よう見まねで揮えたし、責任者であり医師と思っていた男がまわりから主任と呼ばれていることに違和感を覚えなかったし、さらに純度を高めたのはまばゆい光がまっさらなシーツを照り返しては、四季をひとまたぎしてしまった白銀の旅愁にのみこまれたからであった。
期待には奇態が能動的に働きかけている。鮮血こそ見出されはしなかったけれど、女性たちの作業を施される際、苦悶を取り込んだと見紛うばかりの面持ちにはある種の恍惚が目覚めていたに違いない。
「左側のですね、頬骨の箇所に金属片が埋めてあります。まあ以前の工程です。これくらいは説明してもいいでしょう。さて、個人差がありまして深く埋まってしまい、そうです、肉に沈んでしまうと呼称しているんですけどね。たいていはこのピンセットでつまめば軽く浮きでます。その先端にはフックをかける穴が開いており、穴が確認できたところで作業はおわりです」
主任の解説はきわめて明瞭であった。しかし、字義通り釘をさすように念を押された。
「とげ抜きみたいなあんばいと考えないでください。さきほども言いましたけど、金属の深さは一様ではないので抜きさしならないのです。あくまで慎重にお願いしますよ。あまり痛がったり悲鳴をあげたらすぐに申し出ること」
よく見渡せばその後の主任はまるで教壇に立つ面持ちで監視の目を光らせている。
難題かも知れない。とげだって神経に触れていれば相当な痛みが生ずるだろう。だがすべては杞憂であった。
なかにはどこへピンセットをあてがえばいいのか判明できないくらい健常な頬を間近にしうろたえてしまったが、以外にも当人が小声でほくそ笑みつつ人差し指でしめしてくれたり、金属片に穴が見当たらず、思わず主任を呼ぼうと焦ったところ、苦痛をかみしめているのが当然だというまなざしを送られ、震える手先に落ち着きを取り戻したら確認完了などという場面があった。
それから場面は曇りガラスの品格をかろうじて保ちつつ、忘却と悦楽の狭間をめぐり、晴れ間を夢想しながら苦渋の裏より露になった穂波の渇いた、けれどもたおやかなささやきに溺れ、逸した時節のなかへ埋没するばかりであった。ふたたび背後に立つ父の言葉を耳にするまでは。
「そろそろ帰ろう。列車に乗り遅れる」
まだまだ作業を続けたかった。抵抗する気概が失せていたのではないと思う。言葉がようやく単調な意義に導かれたような気がしたからであった。素直にうなずいた。
「まだ旅の途中だしな」
父もまた正午の太陽を見上げるようなまぶしさを忘れかけていたが、おそらく失ってはいない。
「ちょうど一時間ですね。それと歩合がありますので。今日の賃金です」
大仰な機械仕掛けで動いている主任の人柄も忘れなくなってしまった。


[556] 題名:お知らせ 名前:コレクター 投稿日:2021年09月12日 (日) 17時06分

緊急事態宣言発令にともなう「三重県緊急事態措置」の延長により期間中、休業させていただきます。

令和3年9月13日~令和3年6月30日

バー・コレクター


[555] 題名:お知らせ 名前:コレクター 投稿日:2021年08月14日 (土) 03時09分

三重県の要請に基づき、感染症拡大防止のため、当店は臨時休業させていただきます。

令和3年8月14日~令和3年9月12日

バー・コレクター


[554] 題名:ゆうれい座(加筆にて再アップ) 名前:コレクター 投稿日:2021年07月06日 (火) 06時08分

不思議な色合いのまちなかにいる。
紙芝居みたいにこじんまりとしていそうで思いのほか、にぎやかさは収まりつかない気配を仰々しく伝えてくれるから、胸の奥に温かいものが湧き出でて、辺りを一通り見回した頃にはじんわりとした感情に包み込まれてしまった。
立ち止まるのを拒まれているのだろうか、いや、斜め向こうの威勢のいい客引きは流暢な発声でもって巧みに見世物の面白さを語りだし、懸命に、つまり全身全霊で、とても情熱的に、だがどことなくあらかじめ色褪せした絵柄のような物悲しさを底辺に残しつつ、私らの気をひこうとしている。
空は水ようかんであつらえられたふうにひんやり、行き交うひとの目は反対にそわそわ落ち着きがなく、やれ綿菓子売りだの、金魚すくいだの、団子屋だの、狐やひょっとこの面売りだの、香ばしい焼きいかを並べた店だのが居並ぶなか、地べたの感触にも空の色が映りこんでいるようで、私はふわりと浮き足だってしまい、客引きの口上に聞き入っていた。

「いよいよ本日開演だよ、見なきゃ損とは言わないけど、無理してまで見物してもらうことねえや、えっ、どっしたわけだって、あたりきよ、あとの祭りだってことさ。そこの旦那も姉さんも学生さんもお嬢さんもお坊ちゃんも、うわさには追いつけやしないよ、天地が逆さになろうがこればかりは現物を目ん玉に刷り込んだもんが勝ちってもんだ。あれは信じられなかったなとか、ううっ、思い出しただけでも鳥肌がとかね、いくら人づてに聞いたところで、話す本人だって狐につままれているんだ。根掘り葉掘りと望むところだがそうは問屋が卸さねえ、へへ、あっしの言うことは大げさかい、そんなはずない、無理しなくてもよござんすって仏の教えみたいに諭してるんだよ、こちとらも商売だい、それがですぜ、皆々さまの冷静な判断を仰いでるって寸法だい、馬鹿丁寧にもほどがありゃしやせんか。そんじょそこらの出し物とは破格の違いがあるって証拠じゃござんせんか。で、その肝心かなめをこれから、つつっと喋りますよ、いいですかい、気が向いたなら木戸をくぐっておくなまし。
皆さんは満蔵一座って名くらいは知っておりやしょう、へい、蛇女やらろくろ首にミイラの類いをこれまでお披露目いたしやした、おっ、そこの坊ちゃん、うなずいてるね、影に隠れたお嬢さんも、そうでやす、怪奇一辺倒、おばけの一座でごぜえます。種も仕掛けもありませんとも、かといって妖怪変化とも申しませんよ、そんなほらを吹いてはいけない、正真正銘の奇形異形のね、哀れな宿命を背負ったものらのすがたかたちだ。ところが満蔵座長いわく、もうそうした宿命を売り歩くのは嫌気がさした、ここらでがらっと趣向を変えましょうと、が、これまでの名物はなんといっても異形の数々、憐憫はさておき中々めぼしい工夫が思いつかない。さあ、ここからが正念場だ、そう一気にすっとんだよ、端折りも端折って神髄を開陳する。いやね、あっしも最初は度肝を抜かれたってより、押し黙ってしまってね、いくらなんでもそんな無体な、罰あたりどころか夜と昼を反転さしたようなもんだ、そりゃあり得ん、どうあってもあり得ん、第一うす気味悪くていけねえ、そんな幽霊なんぞ、捕まえようなんざ。
もらしてしまった、そうなんで、あの世から見せ物を引っ張ってこようって魂胆でね、あっしが戸惑うの分かるってもんでしょうが。ところが座長の眼はぎんぎんぎらぎら、商魂たくましいってよりか、それはまるで夏休みの自由研究とやらに熱中しまくる小学生みたいな意気込みでして、まっ、どっちにしても、すでに幽冥界の主と掛け合い、契約を取り交わして来たっていうから驚き桃ノ木山椒の木だい。
さあさあ、お立ち会い、あっしの言い分はもっともと了解してもらえましたかい、隅っこのしたり顔の学生さんよ、あんただって文明社会に幽霊が出るとは、しかも真っ昼間の見せ物小屋にだよ、大人しくどろどろひゅうって具合にお出ましすると考えられようか、そうだろう、どうせ手品かまやかしかってとこが関の山、あったりまえよ、坊ちゃん嬢ちゃんだってそれくらいの道理は心得てらあ、ねえ。と、まあ、たじたじな気分はここまでにしておき、いよいよ本題だ。
なんだいなんだい、そこの旦那、ひとが喋るまえからえらい顔で興奮しちまってよう、だがね、旦那の心中は大体いいとこを突いているんだろうな。幽霊の正体はいかに、なるほど違いはありやせんよ。見てのお楽しみなんぞ、けち臭いことも言いやせんよ。もったいなんかつけるもんで。ずばり予告しておきますよ、おんなの幽霊でさあ、しかもうら若い美形ときた、ああ、旦那、慌てなさんな、押さないで押さないで、あんたが一番乗りなのは確実でさあ、あっしが太鼓判押すよ。まだ説明すんでないからようく聞いておくんなさい。でね、その幽霊、ただ舞台に居ったってるだけじゃない、脱ぐんですな、そう着物の裾をちらっと、あとは語るに及ばず、あれま、お嬢さん、ずいぶん不服そうな顔色ですな、ああ、そうか、こりゃ、あっしとしたことが舌足らずでやした。大丈夫ですぜ、そんな不謹慎な代物じゃありません、下世話な女色とは次元が異なるってもんです、なんせあの世からの巡業でございやすよ、それはそれは幽玄な美しさにうっとりされること請け合い、お子様とて、魔法の絵本をめくるようなもんで、心配ご無用、世俗を離れた境地に遊ばれなされ。
と、いったところでおしまいじゃあないんだなあ。出し物はまだあるっていう大奮発よ。これは簡単に流しといてと、続きは木戸の奥でもって縷々と語られる案配だからね、隠れ里ってご承知だろう、不意に行方が知れなくなって数年たってから戻って来ればその時分とまったく変わりがない、歳をとってないって摩訶不思議だ。ここで腰を抜かしてはいけないよ、今から二百年まえに忽然とすがたを隠されたと伝わる上臈が、なんと一座と出会ったんだな。その気品ある面影は筆舌に尽くしがたい。座長の意向を酌んで本日限りの特別出演と相成った。これだけでない、さらにやんごとなき上臈と幽霊の対面も実現されるというから、なんまいだ、アーメンそうめん冷やそうめんじゃないか。こんなことあっていいもんだろうか。ほんとはあっしだって恐れ多いんだ、それをあえて衆目の認めるところとし、文明の、いや、過ぎ去った幻影をいっときでも感取してもらえればこれに勝る癒しはないだろう・・・」

客引きの言葉が途切れるまえ、物珍しげに寄り集まった人々は、まるで三途の川を渡るような虚脱した面容で熱狂の気色もなく木戸へと吸い込まれていった。私も同様であった。ただ二の足を踏んだつもりはなかったはずなのに、まわりの顔つきに一層足を引きずられそうな心地がしたのが何故かしら幸いしたのであろう。
あと少しで暗闇に紛れるところ、いきなりうしろから肩を叩かれた。手まりが軽く弾むような、しだれ柳の束に触れたような、柔らかな手つきだった。
「ちょいと兄さん、あんなインチキに騙されてはいけないよ」
振り返れば、銀杏返しに色白の、はっと胸に染みる目もとの、退紅の着物すがたの、微笑みと目があった。
「やはりそういうものなのかね」
私の声は少しうわずっている。無理もない、幽冥界とやらに導かれる矢先だったのだ。しかし間を置くことなく面前の女性の思い詰めた一途な、それでいて憂いをまとっているかに見える表情にとらわれているのを知った。
「そうよ、決まっているでしょう。そんなことより、すぐそこなの」
憂いは気まぐれな鳥の鳴き声のようにほんのりしたときめきへと移ろいだ。手鏡をかざすごとく。
そして突風にあおられる爽快な気持ちがわき起こると、ただちにそのししおき豊かな容姿に惑わされた。熱い血と冷たい血が交互に私のからだをめぐりだしている。渇きを癒すために生唾をのむ矛盾を忘れた。手招きより壮絶で饒舌な、うるんだ瞳にぼんやりとした影を見いだしたとき、空は雲がかかって湿気を呼んでいた。


[553] 題名:お知らせ 名前:コレクター 投稿日:2021年06月01日 (火) 03時54分

三重県の要請に基づき、感染症拡大防止のため、当店は臨時休業させていただきます。

令和3年6月1日~令和3年6月20日

バー・コレクター


[552] 題名:コレクター 名前:臨時休業延長のお知らせ 投稿日:2021年05月11日 (火) 23時27分


三重県の要請に基づき、感染症拡大防止のため、当店は臨時休業させていただきます。

令和3年5月12日~令和3年5月31日

バー・コレクター


[551] 題名:お知らせ 名前:コレクター 投稿日:2021年04月26日 (月) 16時01分

臨時休業のお知らせ


三重県新型コロナウイルス「緊急警戒宣言」による時短要請を受けまして、当店は午後8時以降の開店のため、指定期間、臨時休業させていただきます。


2021年 
4月26日(月) 〜 5月11日(火)


バー・コレクター


[549] 題名:L博士最後の事件簿〜第五章・写真よさようなら25(最終話) 名前:コレクター 投稿日:2021年03月02日 (火) 00時43分

たとえば薔薇の花びら、真紅の燃え盛りをそなえ持ちながらも、激切なる情感に流れゆくことを閑却して、その色差しのみで周囲に散らばっては異変を鼓膜に届けようとせず、むしろ予定調和が抱える美的要素だけへ還元されるとき、視界は極めて単一な光景を描きだす。
尾籠なたとえだが、自らの放尿を目の当たりにしても、排便をわざわざ凝視してみても、根本的な感銘が生ずることはほぼあり得ないけれど、吐精の瞬間を見定めていたとするなら、まったく同じ体内から排泄されたものなのに、感動的な耳鳴りに聞き入っているような重圧が空気中に沈潜する。
性感をともなっているという原罪らしさには無縁だと知るとき、なお一層の動揺に浸され、決して不合理ではない困惑に囚われているのを覚える。なぜなら、それが本能的な志向によってそそのかされている事実であり、生命のほとばしりに他ならないと確信するからであって、どれだけ気まずさやうしろめたさが訪れようとも、後日には思い出の彼方で浮遊するしおりの役割りを担い、こう回顧するだろう。
「脳裡に快感はない。幽霊が持ち去ったから」
では、自分自身のいわば影絵であるはずの幽霊の根拠を揺さぶるのかといえば、そうでなく、時間軸を介して棲息する分身であることに異論は唱えられない、ここで早くも同一性は失われてしまって、堂々巡りが視覚像が反復される。
間弓の女陰へ食い入るよう見つめ舐めまわすと、視界はなかば塞がれてしまい、もっとも善き興奮は卑猥さを欠いて、あたかも埋もれ火のような潜在する魂の権化へと歩み寄り、ほとんど直感的に土嚢の精神を積み重ね、舌先から得られる触感を頼りに即席の淫らさが散らばるのをほの明るく了解するしかなった。
もっとこまめに舐めては引いて、見入ればよりよい成果があったのではないか。そんな怠慢なたわごとを言う暇があるのなら、代わりばんこの意識を児戯とあしらわずに、あるいは首振り人形の粗雑さを馬鹿にせず、どうせ腰ばかり一生懸命に使っているのを心得ているのだから、眼球に依拠することなく、機械仕掛けの意気込みで臨むべきだ。
そこで脳裡が働くわけだけれど、女陰の襞を這う舌は信号の、まるで電気信号の責務を果たしているかと問えば、いとも明白にそれは否定され、ただ点滅する信号機への類推に寄りかかり、間延びした無の時間が精神の合間を表現するだけである。暫定的に幽霊が引っ張りだされたのは、由縁の由縁を埋めるべくおのれの置き引き行為を異形に託すためだったのか、それとも失念の美徳を正当化する必要に駆られたせいか、いずれにせよ、働いた脳裡が生み出した幻影の域から出ることはない。
放尿と吐精の際どい差異は、体内と意識と領域がつちかう閉鎖を遵守し、姑息な解放に加担することなく、透徹した優美をなぞり、ゆくてのこじんまりした現実を拡大鏡にさらす試金石となった。
愛しいと叫び、恋すると謳い、とまどいの気持ちと嘆き、寂しいと訴える。
「何を考えているの」
恐ろしいくらい適宜な既視感が天下る。
「いえ、別に」
強引な幽霊なんて雅びやかでないけど、不遜な心持ちは流下を辞したりせず、差異の差異にやはり快感を当てはめてしまうのだ。
ついでに、いや、もう隠しようもない予期を持って既視感は絶対視され、反復が押しつける限りない倦怠は、ちょうど交わりにおける正常位のようにありきたりな、けれども結局落ちつくところへ落ちつく、平凡な人生を無難に支えて、その美徳はつつましさかを心得ているのかも知れない。どれほどの葛藤が渦巻こうとも、どれほどの波風が立とうとも、未来形の匂いをぷんぷんさせる思い出のしおりの以外な強靭さに気づかぬまま、
「間弓さん、あなたの身体が好きです」
なんて、とってつけたふうに言ってしまうと、
「あら、そうなの」
懈怠を香らせた微笑が静かに舞うばかり。
ものわすれ、そうであるなら認めよう。幸吉の胸に去来するのは気づかないうちに、くたびれた手ぬぐいのごとく、使い慣れた軽さになぞらえた使い捨ての意識だった。言質が倦怠を近づけないのは、律義で真摯な局面が崩れるのを厭うからとは限らず、反対に倦怠の道のりを先まわりした明敏が、さながら齢を重ねて角のとれた人柄をうかがわせるよう、落ち着きはらった物腰の鷹揚さを再認識すれば、いとも簡単に短絡的な思考がちょうど夏の風を知らせる風鈴のように伝わり、そして鮮明な筆使いが待つ色彩のごとく、ほのかな諦観は自明の刃こぼれに柔らかなきらめきを感じ取る。
つまり老醜と死に接近した実感をどう解釈するか、その深いしわの溝を数えているのだろうなどと思い忍ばせ、風化する言葉が裏の畑や、池のほとりや、並木道の連なりや、納屋の奥の奥から逃げだして来たふうな、ひなびた家屋の横へうずくまる陽だまりの光景を身近なものにする。
脳裡に居座りながら、瞬発的で揮発性の高い郷愁が尊い落下となって胸のなかへ降り注ぐけれど、こみあがってくる情感は淡く、まるで褪色した写真の風合いのように焼きつけられた日々を偲ばせるだけで、揺るぎない意想に結びつこうとせず、連続的な言葉を介することはない。なら断片的な言葉は一陣の風となりうるのか。
媚態をあらわにしなくとも間弓は、たやすく幸吉の曖昧さを受け入れ、そして籠絡していた。
うしろから突き立てられる姿態に優位性をもって悩まし気な声を上げた。聞き取るも聞き取れないもない、よがり声に促されて、濡れそぼった秘所へ摩擦をくり返すだけの覚めた意識は、あたかも性欲など持ち得ようもない乾いた花びらを連想させ、興奮のさなかであるにもかかわらず、それが庸俗の極みであるかのような境地へと誘うのも不思議なありさまだけど、もう幾度も精を出してしまったのから、こんな老獪な構えの心持ちに至るのだろうか、それとも漫然と流れる停止した曲芸の残影を彷彿させるので、転倒した心境が開けているのだろうか。いや、思考はめくられる頁のように前へ進むが、残影の裏側には何者もひそんでいない。
すでに籠絡を悟った幸吉は自身の心模様を見つめていなかった。この家に君臨する暴君の気配を背後に感じとろうとしていたからである。それは奇禍を仰望していると断定するにふさわしい高らかな翳りであった。
ほぼ的確に包まれた畏れを払拭するかの勢いで、間弓の尻を持ち上げ、生殖器をこすり合い、最後の交わりだと悲しみつつも、有りがちな感傷にこれまでの機縁をゆだねるつもりはなかった。
壁一面に張りつけられた自画像の照り返しが、苦々しい笑いを少しばかりもよおさせ、大げさな仕掛けに惑わされている実感は引き潮のごとく離れてゆく。さすがに快感も薄くなり、興奮の中心は定まらず、拡散する邪念の粒子は肉眼を通して一連の幻影の帰結だけに絞られていた。絶対的な瞬間をから騒ぎに求めていた。
間弓の嬌声が気配を消している。
「なんという無防備な用心深さ」
もはや幸吉は外界の異変さえ捉えることを断念し、屈折した光の角度を見とがめなかった。それが真正面から物音をかき消すようにして現れた気配であること、つまり背後というもっとも隙だらけの空間に信憑を置き危ぶんだこと、しかしながら幽霊はいつも眼前に透けながら浮かんでいること、恐怖の対象などは実在せず、大らかな夢想が逆に息苦しさと狭隘を育んでいること、そうした分岐点のない回路に迷いこんだ以上、部屋の扉が不意に開くのは当然であって、待ちわびた光景に他ならなかった。
今西満蔵が手にしたカメラを幸吉は驚愕の眼でとらえたけれど、自分でもこらえきれない懐かしさが過剰に渦巻いていると思いなし、無論いわくのカメラであり、発端であったから、なかば必然の回遊なのかも知れない、そしてかつての人物とは判別しがたいほど痴呆の兆しを濃くさせた風貌に、あらためて首肯するしかなかった。
「まあ、お父さま、悪ふざけはいけませんわ。また寝ぼけたのでしょう」
間弓の口調には不自然さを気取られない余裕が束ねられている。あきらかに幸吉へ向けた台詞まわしである。
が、満蔵はもっそり部屋のなかへ首をのばしカメラを構えた。
「あらあら」
交接は続いていた。幸吉は萎えを自覚しない股間を意識しつつ、視線を合わせるか、合わせないかの刹那、うっすらとよだれを垂らした今西満蔵の顔に再会したのだった。



[548] 題名:L博士最後の事件簿〜第五章・写真よさようなら24 名前:コレクター 投稿日:2021年02月02日 (火) 05時01分

果てたあとに訪れるもの、それが宙へ浮いたような困憊であることを感ずるまでもなく、幸吉はしぼんだ肛門を見つめながらも見届けてはいなかった。なにやらよそよそしい意識に流されてしまい、交接し終わった陰部の生々しく映えているのを頼りにしたのだが、虚脱は背中からおおいかぶさっていた。
衝動を抱きかかえ、放埒を心中に響かせ、無道をちまたへと散乱させた肉欲は、熱意を十分に達せた悦びで溢れていたのだろう。やはりだろうという仮定がふさわしく、それはこれから大人になってもずっと変わらないし、どれだけ分別がつこうと当たり前のように振る舞い続け、醒めた情熱の由縁など探ることなきまま、何度も何度もくり返されるのだ。
間弓は放心した様子の相手をたやすく感じとったのか、健康的な微笑をつくって、同時にその肉体も血の気を凝固させ、情欲から引き離された裸婦像のような気位を香らせた。しかしあくまでそうした場面は、幸吉の食傷と呼んでさしつかえない観点によって得られたのであって、つかみようのない時間で閉ざされ、あるいは開封された異空に向き合う玄妙な意識交換ではなく、気疎い体感が身勝手にくみ上げる淡泊な皮膚の触りであり、とるに足らない不調へ固執してしまう逃げ口上同様の憂愁であった。
何故あれほど欲した肉体がこうまで無味な様相へ転じてしまうのか。少なくとも心の底から間弓個人を愛しく想っているなら、満たされ虚脱した直後であっても、宿りはふくよかな情感をたたえていて、そのまなざしを無心で見返すだけの静かな炎のゆらめきは失われない。今宵の寝床に日常を汲み取って、平穏な眠りへいざなわれる限りは。
また、そっと抱き寄せる腕の加減にも親密な証しがおさめられる。一日たりとも離れ離れになる寂しさを募らせ、戯曲のように悲劇的な気分で胸をしめつけるのであれば。
つまるところ、肉欲であることの自明が燦然と輝いていればいるほど、獣が餌食をむさぼるごとく、傲岸な毛並みは逆立ち、視線は一方通行に徹し、この上もなく女色に尊さを覚えてしまうのだ。
むろん傲岸という態度はあとづけの謂いであり、姑息な弁明に過ぎないけれど。
幸吉はとりとめのない感傷を引き寄せるふうにして、この場を刻んでゆく時間に体よく当てはめてみようとしたのだが、どこかで不意打ちを喰らうような刺激は捨てきれず、視界から消えてゆく裸身の影を色濃く脳裡へめぐらせた。すると停戦を宣した兵器の残煙がゆっくり燻っているのを感じ、またもやむくむくと股間が隆起したので我ながら驚きを隠せなかった。
とまどうことのあざとさ。
幸吉は泣き笑いに歪んだ面持ちで間弓の言葉を待った。が、さほど期待はしておらず、不思議としらけた気分に包まれていた。ちょうど幼い時分、おもちゃをねだって買ってもらえなくてもあきらめが隣り合わせにあったように、願望はよそよそしさを学んでいた。先取りされる季節感が過渡な情調に塗られようと、その彩色は常に透けていて、ひんやりした夏模様に接した指先には実感がともなわず、かげろうは薄ら寒さだけを春に告げ、そして冬支度の殊勝な心持ちは灰色の空へと舞い上がり、突風が吹き抜け、寒気が外の景色を引き入れるけれど、こたつや石油ストーブのぬくもりは外界を遠ざけ、卑近で杓子定規な心持ちにまぶたは重なる。
不意打ちには下準備が必要である。間弓は冬の光の気配を報せるふうなかすれた声で言った。
「わたし、嘘つきだわね。あなたを好きなのかどうか、でも」
「でも」
「以外だったわ。だって幸吉さん、わたしを好いてくれているわ」
返事に窮した幸吉は黙ってうなずくより仕方ない。
「元気ね」
「えっ」
間弓の眼は懲りずに起っているものをかすめ、明るい声音に変じて笑みを放った。
一瞬の破顔は刺々しい獣欲をやわらげ、色事のやましさを洗い流し、手の届かない汚濁を感じさせ、裸同士であることの初々しさを前面にせり出したので、婬奔な構えにはどこかしら廉直の心延えが備わって、清らかな磁力で導かれるよう飽きることないまぐわいが始まり、幸吉の意中は得体の知れない情愛が満ちてくる幻想に浸された。吸ったくちびるが痛い。けれども、痛みは柔らかで思わずきつく噛んでしまいそうだったし、指先がなぞる下半身のすべては未踏の地である恐れとうらはらに、まるで贈り物のごとく優しい懇親の土で被われており、そればかりか潤いの感触を従えていたし、急いた抱擁に未熟や韜晦をお仕着せするのは誤りである。永遠の虚飾が敷かれた肌の重なりには衝動がよく似合っている。
幸吉は緩急自在に熱意をあやつれるような気がして、申し分ない量感に溺れる素振りで息づかいを激しくしたかと思えば、ゆったり波間を漂うごとく肉体のなかへと泳ぎだした。時折かきあげる黒髪に絡んだ間弓の手をにぎり、顔中に接吻し、腰を同期させようと努め、ちぐはぐで、がむしゃらで、いい加減で、そつのない交わりに埋没した。やがて意識は空白になった。ただ、ひたすら女体と戯れている幻影を夢見る。が、俯瞰図には成りきれず、横ばいのおそらく等身大が迫り来て、淫らさにまみれる悪感情はほどよく駆逐され、うっとりする征服感のまたたきにとって代わると、不如意な嫌悪は諧調を見据えた傾慕との境目をあいまいにした。空白は閉じていない。
色合いが入り交じる。間弓の詭計も、正枝の打算も、由紀子の無方も、静子の淡薄も、同学年の女子の純情も、なにもかもが溶けて溶けて下半身へ滑り落ち、股間のぬめりが至上のみなもとだと揚言する。
うすらうすら、おそるおそる、知らず知らずに描き始めた女体は隠し続けられ、そしてあばかれることを願っているような態度がにわかに騒然とした根拠のなかでうずき出し、秘匿はうぬぼれと拮抗しているかの表象を肥大させるのだが、決して情欲と憧憬を彼方へ追いやったりはしない。内燃の狭窄が外界にはみ出るのは、自然の理だと首肯しながらも肥大した妄念は底なし沼のようであり、局所的な磁場の獲得に魅入られ、呪われ、祝福されている。遠隔が最大限に機能するとき、女体への接近は本能的な予覚に後押しされて、すでに約束の地となっているのだから、うぬぼれは直截に働くことをためらっているかのごとく、魅惑を過剰につくり出し、その温度差の有り様に常識を感じ取る。
一見、転倒した思考であるが、「恋愛はただ性欲の詩的表現を受けたものである。少なくとも詩的表現を受けない性欲は恋愛と呼ぶに値しない」と、冷徹に言った芥川龍之介を恃みにするまでもなく、往々にして女体から人格をはぎ取るのは別段変わったことでなし、たかぶり抑えきれない発情のもとで肉塊は更紗を必要としないだろう。ただ、詩的表現を講じる以前に呵責の顔があたり窺うとき、一気にその間合いを埋め尽くすようにもの珍しい生物が類推されるが、それはほとんどいびつな筆先の走りと同じで、性急な怯懦と散漫な気迫が織り上げる、あの夢の余韻、うたた寝で閉じたまぶたの裏側に波打った異形の景色が、半重力的な躍動が、たゆたい流れるままにうつつを抜かしていたのだと、ぼんやりした響きに包まれながら知る偏頭痛の生命である。
見知った景色に降り注ぐ偏頗な光によって生み出される束の間の冒険、小さな悪夢、あるいは偉大な逍遥、数瞬で覚めてしまう深甚な世界、そんな体験が意識的に生み出されるのを幸吉は捨象した。捨象することで現実と対価になった。やがて希有な行為への関心となった澱は、ねじれた光の、そのまたねじれの重しが乗っかっていたたまれず、歯ぎしりの見苦しさを忍ばせては悶々とする時間に取り囲まれた放恣な日々を振り返れば、それはけたたましい叫びであるとともに、仄かなささやきに終始している功徳にも思われた。
肉欲のたぎらす激しくせわしない発汗の絵図が、地獄なのか浄土なのか判別つかなくなってしまったなどと言えば、適当な了解だけれど、自由勝手に夢想した裸像と女心は固定するばかり、静止画でもあるまいし、息づく異性は摩訶不思議を乱反射する。
幸吉は自分の肉体が行為に及べば、見事に反応が返ってくる悦びに有頂天になった。
なにより相手の心が肌を通して伝わってくるような気分になった。独りよがりの受けとめに疑念は生じたりせず、甘くしとやかな声色に造作ない虚言が引っついていても、致命的な嘘にはならないと自らの快感を物差しにするしかなく、どう踏ん張ってみても、どう思いやってみても、女体のうねりそのものは感じ取れなかった。当たり前のことを当たり前に嘆く徒為は豊潤であり、建設的な解体である。付随する邪念の散らばりとともに。


[547] 題名:L博士最後の事件簿〜第五章・写真よさようなら23 名前:コレクター 投稿日:2021年01月13日 (水) 05時57分

腰の振りが止まって股間へ逆流するような放尿感をわずかに覚え吐精した幸吉は、抜け殻とおぼめし自分の肌を通し、果てたのか、まだ打ち続く波に揺れているのか、即座には見届けられない間弓の肉体を被う皮膜に全幅の信頼を寄せ、虚脱が永劫へ連なろうとする影のちからを捕まえた。
余韻で酔い痴れているのであれば征服の兆しを、絶頂に達した震えであるのなら別れの証しを、どちらにせよ、形式の依拠することなく恬淡と胸懐に仕舞い込める、そう判じたからだった。この離脱的な想念がいかに曖昧であり、またねじれなど修復する手つきを構えていないかは、底知れぬ影の領域へ分け入った不相応な怖れの反映である実感をともなっていたので、覚束なさに寄りかかったまま、靦然として恥じるところはなかった。
そして満腹感に似た卑小な安堵を蹴散らす為、残骸をかき集めては肉欲の盛りへきびすを返す。
昨夜、女優と交わったばかりの恍惚に隠れた失意が、威勢よくおぼろげな幽霊たちへと呼びかける。精は吐き尽くされようとも虚脱や放心はこの際、一時的なため息でしかなく、現に快感を身へ閉じ込めた間弓の寡黙な姿態は、有効成分にあふれており、すぐさまその滋味を得なければ、せっかくの幽霊たちの悽愴な笑みが台なしになってしまう。霊魂のかけらを引き渡す代わりに、間弓の理性をとことん麻痺させて欲しかった。
半分しおれた男根の先は白濁が誇らしげにへばりついていたけれど、そのまま別の体位、つまり背後から、意外に丸みのある尻をわしづかみにしながら、根の根まで突立てたくなった。
醒めた興奮が伝わったのだろうか、肉体の重みは感じさせず造作なき反転をもって幸吉の意に応じ、なんとも好色めいた、が、気だるそうにも見える仕草で尻を上げると、粘液に光るうっすら割れた秘所を差し出したので、両手を添え正確な位置に定まるよう、さっそく硬直したものを埋め込もうとした。
思惑に即すこの瞬間こそ、切れ目なき連続を断ち切る青白い炎に包まれ、迷妄と欲望が溶け合って宙に舞う意識の醇化であり、また法悦の声なき声を聞く澄み渡った凍結である。恥毛は乱れを誇り、陰茎は軟体生物と出会い驚愕するのだろうが、切実な機能を有した睾丸は視界から逃れ、さながら弾薬庫の危殆を告げ忘れた愚蒙に甘んじている。
そんな一瞬の理におかまいなく、ねっとりした感触をもらい受ければ、先端の悦びはただちに脳髄まで到達し、陵辱のきわどさを未知数が未知数であるがままに暗算するのだけれど、すでにすっぽりはまり込んでしまっていたので、きわどさは緩慢な実状に戸惑い、融合の糜爛は嫌らしさから離れ陵辱の由縁を見失い、ふたたび健勝な腰づかいが行なわれ、なにがなにやらと痴呆的な答弁をのど仏にため置くのだった。
こうなれば、張りつめていながら柔らかくもある尻の弾力に応えるよう、強弱自在の念をもって挿入して奥深く突くことで、おたがいの無知を確認し合って、もしくはうかがいを放棄した努めに没頭したいがゆえ、快楽の共有には無縁でありたく願うだけと、その孤絶を確かめるようにますます盛んな動きとなる。
尻と下腹部がたたき出す豪快な音は甲高く、途切れ途切れのあえぎ声もくぐもることなく鮮明で、同調した幸吉の呼吸は荒々しく、なにかを求めているようだけれど、反対に遠ざけているようでもあり、それは予定調和に踊らされた男女の影へと浸透していく様子を、悦楽の極みからぼんやり眺めているのだと了解した。
ぼんやりしてはいたが、幸吉の胸のなかに胚胎している切ない情欲はまったく消え去ったわけでなく、冷徹な意思を削いだ最中だからこそ、言いようのないわびしさが汚れに侵されながら小さく突き刺さっていた。
しかし間弓がよがればよがるほど、もう二度とひりつくような駆け引きに焦燥を覚えることはなくなり、今西家を黙してあとにする孤影だけが残される。
色彩を欠いた適度な覚悟とやらに心弛びするのが虚しい。あれだけ堂々めぐりを厭っていたはずなのに、決意をかためた矢先から未練が生じてしまう。なにもかもが受け身でしかなく、抵抗は愉悦の言い換えでしかなかったこれまでの関わりを振り返れば、憂いと奢侈がおおらかにすり替わっていたのがよく分かり、その虚偽を痛感するために背後からの交接が激しく望まれるのだろう、などと案じていれば、ときおり勢いあまって、にゅるっと抜けてしまうのが嘘のように微笑ましくて仕方なかった。
けれども蜂蜜を塗りたくったみたいな股間の濡れ具合は感度をそこねたりせず、むしろ醒めた意識に摩擦熱が発するのか、悪あがきに等しい灯火がさっと目の前をかすめていくような気がして、ほのかな幽霊の気配を感じさせ、それが不思議とも奇怪でもなく、玄奥な趣きのゆくてへ佇んで柔らかな快感を長引かせた。
陽光に彩られた挿入は、みだらさと共にあってなお初々しく思え、押さえつけるようにしていた両手が自由に這いまわると、腹部のくびれをさすってはその肌触りにときめき、ゆっくり乳房の山へとのびていった。あおむけの状態とは異なった、まるで煮こごりのような触感に新たな親しみを発見し、おのずと幸吉の掌は滑らかになって濡れそぼった割れ目を堪能しながら、切ない愛撫が続けられた。
気のせいか、同じふうな性感を甘受している間弓に宿らなくてはいけない非情の意識がはね返り、すると小首を傾げた振りですら、形式をなしくずしにしているよう見えてしまい、こんな性急な交わりなのに、虚偽を孕んだ淫蕩なのに、どうしたわけなのだろう、ほのかな幽霊の顔に欲情している倒錯を倒錯だと感じなくなって、さらに穿てば、幽霊の透けた淡さと自分の心持ちが異空間でまみえているようで、もともと呪詛など念頭に置かなかった本心が、愛しさを間弓に投げかけているのではないか。それはなるほど無理もない感情の発露であったし、いくら大仰とはいえ、どれだけ外連味があるといえ、身を挺してまでの誘惑だけとたかをくくることはできそうもない。これこそ仕掛けのなかの仕掛け、形式の形式であって然るべきなのに、散々そういう情況へ自らのめり込んでいったのに、誘惑を裁断できず、あろうことかいたずらに投げかけた小石の波紋を乞い願っている。
これは邪念なのだ。幸吉は何度もそう唱えながら果てることを拒むかのように女陰を突いた。そして幻影でしかない発露の機微を払いのけるふうに交接の部分だけを見つめた。挟み入れた卑猥な動作を追い、毒づく気概を引き戻して因循から逃れようとした。描出されるのは獣欲の気高さと儚さである。飽くなき征服と別れを裏書きするために。
ふと木の葉からしたたる水滴を想起した。見遣るまでもなくむき出しの肛門が鎮座している。形式とは縁もゆかりもないといった風情で取り澄ましている。排便の機能さえ匂わさず。幸吉は拍子抜けするかのごとく精が吹き出すのを知った。




Number
Pass

ThinkPadを買おう!
レンタカーの回送ドライバー
【広告】Amazonから今年最後クリスマスタイムセール12月25日まで開催中
無料で掲示板を作ろう   情報の外部送信について
このページを通報する 管理人へ連絡
SYSTEM BY せっかく掲示板