【広告】Amazonからファッション秋のお出かけタイムセールまつり20日開催

COLLECTOR BBS

ホームページへ戻る

名前
Eメール
題名
内容
URL
削除キー 項目の保存

[533] 題名:L博士最後の事件簿〜第五章・写真よさようなら10 名前:コレクター 投稿日:2020年09月21日 (月) 04時14分

「過去形であるべく始まっていたのよ。言われなくてもわかってるわ。それよりあんたはわたしの重荷とやらに関心があるみたいね。どうしてかしら、瀧川のこと、本当はねたましく感じてるからじゃないの」
瞬きと呼吸が恬淡であることを諌めた女子にたじろいだ幸吉は、反論が言葉以前の衝動へ踏みとどまってしまい、まるで蜃気楼を遠望するような感覚に沈んだ。それが決定的な既視感であり、懐疑を寄せつけない華やかな危惧であることに酔い痴れ、振りはらえない強迫観念と等しく、こんな意想しか自讃できないぼろ雑巾みたいな汚れを卑しみ、端切れの織りなす虚飾にひろがりを見出していた。その裾野には由紀子の母をも籠絡するであろう、瀧川の鮮やかな横顔が透けている。
「そうだよ。先輩の颯爽とした息づかいは異性が香らす魅惑に劣っていない。必ずしも直ぐさま下半身へ這い寄るものではなかったけど、柑橘類みたいな程よい酸味があって香しく、ほんの一歩でも前へと進みたい熱意を催させた。性欲の無目的な情動とは別の研鑽を強いる姿勢に目覚めたものさ」
「なるほど、目覚めね。大層な意見だけど、わたしの恋に似ているかも知れない、なんて言うとでも思ってるの。それより、あんたはわたしのあそこが見たいのでしょう。一緒にされたくないわ」
「一緒になんかしていないよ。ああ、見たいだけだよ。本当に見せたいと、見せてあげたいと少しでもまっとうに考えてるならね。君はあの同級生を釣ったように遅鈍な欲求でもって、憂さ晴らしを、先輩に対する愛憎をあたりかまわずまき散らかしているだけなんだ」
「なによ、遅鈍な欲求って、あいつはただのいやらしい早漏だった、女体を知らないうぶよ。あんたこそ、そんな光景を思い浮かべては懸命に塗り替え、陰気くさく耽っていたんでしょう。わたしをあがめながら」
「さあ、どうかな、陰気ではなかったよ。晴れやかな気分だった。だってもしあいつの初体験の相手が君じゃなく他の誰かであっても、きっと僕は大いに欲情していたからさ。観音様は特定の顔を持っていない」
「まあ、なんて言い草なの。だったら、どうしてわたしのこと好きだったなんて口にできるのよ。なんで、あんまりだわ、やっぱり瀧川の子分よ、あんたは」
「それでも好きって言ったらどうする」
「えっ」
「ひどい言い方だった。ごめん、あやまるよ。僕には君のやり場のない気持ちが伝わってくるんだ。あんたなんかに伝わらない、そう断言されても批難されても、駆逐艦に撃沈させられた慟哭を海底から引き上げてみろと打擲されても、真夏の狂熱のほとぼりが季節の夜にさまよって、その静けさの向こうに凛とした雅趣がかまえている限り、あたりまえのように更けゆく秋の深窓を不粋だなんて絶対に考えないし、むしろあり得ないまぼろしとしての君が、夢見るしじまのなかで透明な水質をもって調教を施され、痛ましい美徳の加減に立ち止まっているなら、君が体験した淫靡で細やかな情感を認めたくて仕方ないんだ。夢の向こう側からどうか送り返して欲しい。たとえ詭弁と蔑まれようが、すべて逆手にとって股をちらつかせる痴女じみた口上が悩ましくて望ましく、僕は君の猛禽類と匹敵する飛翔を夜空の彼方にとらえているから、その耳年増めいた境遇をなにより愛おく感じる。うまく説明できないけど、ここで何もかも明白にするような知恵もないし、この天候に支配されて、時間の流れに嫌というほど圧搾されて、意欲は自然に減退している。にもかかわらず、君の耳鳴りはとても遠い果てから聞こえてくる。そして一刻も早くその耳鳴りに近づいて行きたい想いに駆られるんだ。僕は見たいし、聞きたい、どうしようもない強欲者だから、君が好きなんだよ」
「よくわかならないけど、あんたが強欲っていうのはうなずける」
幸吉は女子の表情から愛憎を抜けでた同意の一片があたえられたと感じた。怒気を含んではいるが、嘆きの荒野を危なっかしい足どりで踏み越える意志があり、微妙な年頃なんて子供あつかいされることを拒んできた、しなやかで怜悧な面立ちがかいま見えた。
「僕が強欲なら君は自分をどう受け入れる」
「どうもこうもないわ。ほら、すっかり水かさが増してる。まるで早瀬みたい、わたし、ここが一番のお気に入りの場所なの。あら、どうしたの、呆然として。普段は川音をひっそりさせて、わたしの心臓の鼓動を聞かせてくれるのよ。そんな場所でお話してるのね」
急変をうらなうごとく、速やかに話頭を切り替えた女子のもの言いで、我に帰った幸吉の眼は、浅瀬すら泳ぎかねるよう物怖じして橋のたもとへ佇む影なき影を見つめた。が、すぐにうしろを振り向き、その小川と橋をぎこちなく位置づけ、繁々と由紀子のもとへ通った記憶を昔日のごとく甦らせた。
擦過する景色、けれども夕暮れのもの寂しさを夜更けまで響き渡らせようとする視線の傾斜、あるいは点景をうっすら願った風のささやき、忘れかけた駆け足へまとう劣情の平均化。
いつ手をかけてもおかしくない橋の柵は赤茶け、そして苔むしていた。女子が示したとおり夏草で被われた小川のせせらぎは、鬱蒼と繁る緑を追い立てるふうにして勢いを増し、白波を運んで上空へわだかまった愚鈍な視野を解放しようと努めている。流れの際に取り残された小石の褪色した風合いは、上段を占拠する野草をも枯らしているのか、すでに夏の盛りが過ぎてしまった心残りを渡らせ、一瞥にふさわしい光景が開けていた。しかし遅々として進まない秘めた想いに重なる悠長な眺めを、そこへおさめようとしている背馳が翠緑の映発を買ってでて、吹き荒れるであろう山間に繰り広げられる試練を告げているのが、明らかに早瀬となった狂おし気な勢いに拮抗しているよう感じられた。
お気に入りの場所はよりよい見映えとなっているのだろうか。幸吉はときおり流されて来る一葉の浮かびを見遣ってから、女子の肩を引き寄せた。にわかに怪訝な顔つきをあらわにしたけれど、小雨に濡れた睫毛は半ばうつむき加減のまま抵抗を示さず、胸のなかへ抱きしめられることを願っているような淡さに染まった。
「好きだと言ってかまわないか」
台風通過に先んじて性急な気持ちを女子へ投げかける。
「別にいいわよ」
と、素っ気ない声が返ってきたので、大らかな態度を保ったままくちびるを吸った。幸吉はぱっと見開いたまなこから放たれた光の量に驚いたけれど、激しい情欲にそそのかさせれてはおらず、それは女子が真顔でたどるべく指標を了解して、より強い接吻を求め返されても動じないだけの、覚めた決意に督励させれていたからであった。幸吉の胸中を敏感に察した女子は、心変わりなんて始めからあり得なかったと承知していたのか、過ぎた情景をぽつりぽつり語りだした。
「あれは海辺への遠足の日だった。まだ同じ学年、代わり映えしない毎日、心に釘を刺してからそれほど間もなかったわ。お弁当をひろげた途端に大粒の雨が落ちてきた。どしゃぶりよ。遠足はそこで中止、しっかり薄手の雨合羽を用意してきた生徒らにまじって海辺をあとにしたわ。でも大河の橋を越えた付近で雨足は消えてしまった。虚脱までしなかったけど、特に楽しくもない遠足だって中途半端は落胆を呼んだみたいで、寂しげな帰路をゆきかう人の姿はまばらに写り、子供には似つかわしくない諦観を噛みしめながら家に着いたの。不思議なものね、予感はそんな灰色の気分を静かな手でかきまわすように訪れる。わたしの高遠な計画は崩れ落ちた。玄関には男子の運動靴の抜け殻が揃えられていて、またもや耳をくすぐるあえぎ声が奥の部屋からもれている。母が呼びこんだの、それとも瀧川くんが魔性に魅入られたみたいにふらふらやって来たの、いずれにせよ、わたしの立場は崩壊しており、無性に腹立たしさを感じたけど以前同様、怖いもの見たさにそそのかされてしまい、そっとふすまを開けるしかなかった。
期待したとおりの出来事がおこなわれていたわ。母の上に被さった瀧川くんは両足の間へ埋まっており、懸命に腰を突き動かしていた。嘘のように乳房が大きく揺れていて、その振動なのかあれほどのけぞる母の顔はかつて見たことなく、焦っているのか、嫌がっているのか区別のつかないくらい歪んで、その歪みを是正したい一心から上下左右している様子だった。まだはっきり知らなかったよ、あれが快感の表情で、悶えに悶えて我慢することを放棄した女体の輝きであるのを。
おかあさん、念力送ってよ。そのままずっと覗き続けたいなら、弁明が生んだ転びを認めるべきだし、さっさと外へ出ていけっていうなら、近所のお姉さんみたいに気取った素振りでいるって、とにかくはっきり決めてよ。わたしが中学生の瀧川くんを待つと決めたように。その為にはおかあさんの力が必要で、今ここに展開している生々しさを了解するには、ごまかしもまやかしも過分なことわりなんかいらない。どうして眼を合わせてくれないの、痛いほど首を振ってるくせにわたしの視線と交わらないなんておかしいわ、悲しいわ。あのね、小学生でなくなる瀧川くんはそんなに先ではないよ。とてもじゃないけど、長い時間を堪えるなんて無理、この間、体育の授業のとき、跳び箱を飛ぶわたしを何人かの男子が指を差してにやけていたの。あとで友達に聞いたら、わたしのおっぱいがゆさゆさしていたんだって。わかるでしょう、おかあさんに似て大きいのよ、同い年の子よりかなり実っているみたい。だから、決意は早かった。その内お尻だってふっくらしてくるだろうし、ませた瀧川くんに近づけると確信したのよ。でもどうやったら自分を見知ってもらえるのか、考えが及ばなかった。なんとなくよ、なんとなく、恋する気分についてまわる男性の求めが強くあるようで、しかも実際はすごく嫌らしいことに感じられ、不潔な関係でしかないのなら、ますます臆病になるばかりだった。でも男子のにやけ顔には隠しきれない求めが埋め込まれているのね。とすれば、わたしはあそこの恥じらいを捨てて、差し出すような勢いで、おそらくそれにはすごく勇気がいるだろうけども、毛の濃さを恥じることなく平気で見たり触ったり出来る自分の身体なんだから、その感覚を意識にまで押し出してしまえばいいのじゃないかしら。
わたしの開き直りは以外にあっさり性欲を理解してしまった。それは母と瀧川くんの結びつきを嘆くのではなく、むしろ積極的な威力で持ち上げ、もやもやした気持ちを壊してしまおうとしたの。控えめでいじけた態度よりはっきりした目的が光線の乱反射みたいに散らばった。ちょうど大きな邪魔くさい石をかついで地面へ叩きつけるよう、求めに押されたわたしは母と同じ行為をそう遠くない日に実行するのだわ。これは邪念だろうか、いや、ちがうわ、愛欲という言葉に律義な含みがいらないごとく、恋する想いは恋の伝統を引き継ぎ、好きなひとに抱きしめられるのが宿命なのよ。わたしは世間的には淫蕩であろう母のおこないを咎めたりせず、その血を受けることにも抗わず、これからもくり返されるいかがわしい訪問を歓迎した。
そしてひたすら肉体の成長を願い、来たる日を胸に秘め、股間を清潔に保ち、自らの手で汚れと呼ばれているものを習慣にした。女体の構造は思考を幻想へ傾けることなく、溌剌とした意欲を探り当てたわ。
あとはじっと耳を澄ますだけだった。心構えは十分だったし、そうよ、もちろん母から瀧川くんを奪い取る心構えよ。もっとふくらんでくれないかな、このおっぱい、かならず瀧川くんはじっと見つめ、好色な眼でしかも勘づかれまいとして、軽やかな視線が送られ、とまどいの挨拶なんか口にするの。どんなことを言うのかって、想像なんかしない、ただ聞き取るだけよ。こうしたませた思考があだになったのは当然だった。少女時代へ気軽に行き来できてしまう母は、わたしの芽生えを鋭く察したのか、土曜日の午前中に瀧川くんを招いていたのね。それくらいわかるわよ、部屋の空気がまるで違っていたもの、なにより上気した母の頬が雄弁に答えていたわ。土曜だと学校をさぼりやすいのか、卒業間近の生徒にしてみれば都合よかったのか、とにかく、わたしは母と交わる姿に遭遇することはなかった。学校で見かける頻度も低くなり、それは多分わたしの方があれこれ意識してしまって、気安く顔を合わせるのをどこか怖がっていたのかも知れない。恋に恋して毎日が瀧川くんの影で被われるよりも、下半身へ響いてくるような足音が待ち遠しく、望ましかったのだわ、きっと」
ため息をつくようすっと途切れた女子の微笑みに向い、幸吉は鮮烈な既視感に襲われていた。


[532] 題名:L博士最後の事件簿〜第五章・写真よさようなら9 名前:コレクター 投稿日:2020年09月14日 (月) 03時26分

機微が面倒だと軽口をたたきながらも訴える照り返しのまぶしさに、午後の日射しはあらためて深淵をのぞくと、深淵もまたこちらをのぞいているという説に導かれてしまったのか、小蔭が囲繞する暗がりへ浸透してゆく。少女の知り得た暗黒が字義通りであれば、真昼の陰りはなお髪を隠さず、ふたたび暗渠の隔たりに立ち迷うだろう。そして隔たりこそ未分化な、まとまりなど決して覚えない粒状の発汗であり、肌がとらえた滑らかさと危うさは、毛穴のきわどい点綴をかき消して代わりに肛門が開く自然に怪異を呼び求める。
見えて見つめた熱く長い夜に浮かんだ情景は、幸吉の胸をかき乱し、不透明な気分に巣くう霧が抱く濃密なる空気を充満させ、それが依拠する触感を小指のさきまで走らせた。
非常に有効な成分を持つ働きは機械的に、そして内臓解剖学的な生々しさで裸眼にとらえられたのか、不可避の展望は開けてしまい、萎縮が優先した形式の、おそらくずっと感じ取っていたであろう、あの微動だにしない形式に培われた親和へ痙攣しているのを覚えた。まったく微笑ましくない、けれどもひきつった笑いの要請される親和、脳漿の絞られる際に驚くほど鮮明な透明度をもたらし、ただちにいたいけな範疇で遊びはじめる既視感という覚醒、躊躇や足踏みを怖れず、極めて微細な神経細胞の伝達であるという臆見に諭され、直視的眼力からはほど遠く回転する惑星の軌跡へと与するよう、存亡と明滅と永遠の彼方を飛びまわれば、遊戯的な気分を背景にして試験管の液体を揺らし、電流と電波は肉塊をかき分け、記憶の貯蔵庫を探り当てたと喜び勇んで、書き重ねられた製図の厚みから逸する。
類似品を生産することにためらいが介在しない精神に学び、個人的な体験は星空を眺めてやまない忘我と、望遠鏡の精度に瑣末な意欲を注ぐ。僅少な誤差が悠久をつかみ取ると信じ、偉大な広がりの奥底に塵となって舞い踊るまばゆい光芒へと溶けゆく。
女子の声色には波打つしぶきが上げる海面への挑発と同じに、平穏への調和がこめられている。月面ロケットの帰還に言葉を失ったごとく、幸吉は満たされない想いをそこに感じた。が、慎み深さや生命を軽視しているわけではなかった。情操は弛まず言葉を選別するだろうし、ある種の機能を活性化させて未来形の祈りは、博愛の精神を均一に、この胸いっぱいとなるまで夜空の星々のように散らばらせるのだろう。尊びが万人に流布されるに越したことはない。

「すんなりとごまかされてしまったのよね。針先より細く、糸か髪一条が通るような用心深い隙間を開いたつもりでいても、眼光が固定された時点でわたしの呼吸は乱れ、母の唸りあえぎ、悶えた声に聞き入ってしまっていたのか、立ちすくんだ緊縛には秘かに窺う気配とは反対のあからさまな姿勢で臨んでしたのでしょう、きっと。現場を食い入るように見つめたあと、家を出て時間を潰し帰宅したわたしは、母にこう言われた。
さっき部屋の様子をこっそり覗いていたみたいだけど、あの子ね、裏の川で魚をすくっていたらしいの、それでずぶ濡れになってしまって、春はもうすぐだけど雪解け水のような冷たい流れはからだに毒よ、なんでもこの先の空き家に以前、親戚が住んでいたのでそこへ向かってるというじゃない。偶然見かけたのも縁だわ、あら、おばさん、おっかない、でもおばさんは普通よ、世間の子供らに気配りしてあたりまえ、とにかく寒そうね、さあ、家で温まっていくといいわ、拒むでもなし、こわばった表情だったけど黙って私の背に隠れていた。
さあ、服を脱いでこれでよく拭いて、どうしたものかしらね、口が真っ青になってるわ、風呂を沸かすにもしばらくかかるし、そう言いながら案じていると、あの子はもじもじしたまま遠慮勝ちな眼で、裸になるのを恥ずかしかっているのか、すいません、すいません、と連呼するばかりで、土間で厳命的に脱がしたびっしょりの靴下が心細いのか、つまり見知らぬ家へ上がりこんでしまった気まずさに素足からすっかり萎縮していたのね。内股になって両足をすり合わせているのが、とてもいじらしく胸をしめつけた。
だったらこれにくるまって、押入れから毛布を出してみたけど、ふと、そうだ、この子は私が見てるのでためらっているのかも、じゃあ、おばさん、あっちにいるからと部屋を出たのよ。しばらくし綿入れを持ちこれでも着れば、そう言いかけて眼はさすらってしまった。まるで時代劇の峠に佇んだ気分よ、穏健な気遣いだと踏んでいたから、余計に険阻な足もとが感じられる。
まだそのままの恰好で罰の悪ような顔をしてるじゃない、どうしたのそれだと風邪ひいてしまうじゃないのって、つい怒鳴りつけてしまった。するとその子は、蚊の鳴くような声でやっぱり親戚の家へ行きますので、あそこなら誰かの服があるだろうし、布団も、なんて言い出したから、電気は通じてるの、もう空き家になって久しいわよ、どうしてそんなに遠慮するのよ、あそこに行くまで震えあがってしまうわよ、知らない家で裸になるのがそんなに恥ずかしいの、なら、おばさんも一緒になって脱ぐから、毛布にくるまりましょう。われながら照れくさかったけど、幼子の肌がふたたび思い起されるような感じに、とても柔らかな気持ちが寄り添っていたし、現にふっと突いて出た言葉の綿菓子みたいな軽さに苦笑していると、その子も敏感におびえただけでなく、おぼろげなままごとを懐かしがったみたいで、硬直してしまった指先が見るからに不器用な手つきで上着のボタンをいじり出したの、よくよく考えてみれば、小学生の男の子だって高学年になったら、これくらいの抑制と羞恥を会得していてもおかしくない、ちょうどいん毛が生えてくる頃で、異性への関心も今までの無邪気さだけに、押しとどめて置けないせつなさに見舞われる。
勝手にうるんだ感傷をこぼさないよう大切に扱ったつもりだったのかしら、自分自身の思い出が壊れるのを嫌う心情が鎌首を上げ、壊れるもなにも今まったく新しい思い出を生み出しているんだという昂りに押され、ちょうどあんたの年頃にまで巻き戻ってしまったみたい、一緒になって服を脱ごうという台詞が気恥ずかしく、ときめいて、むず痒く、等身大の背丈が恋しいような、でもちょっとだけふくよかな発育盛りを教えてあげたいような、自分も少年も優雅な匂いで取り囲まれてしまい、逃げ出そうと躍起になる思惑のしっぽは見え透いた嘘よなんて、本能の戯れに時間が焼き焦がされるような気がした。
こんな懐かしさが響いたのかどうかよく分からないけどね、男の子は近所のお姉さんとすれ違うとき、思わず背筋を伸ばして気取った顔をしたがるけど、少し油断して眼が泳いでしまうように、まだまだ男臭さを前面へ出す素振りなんて体格も含め出来そうもないと知っているので、お姉さんが優しく寄り添ってくれる幻想にとことん弱いはずよ。ええ、言い切れるわ。かつての記憶がそうつぶやいているのよ。だから、お姉さんに従って我慢や遠慮はしないで、これは記憶の改ざんかしら、でも仕方ない、つぶやきは少女時代の心身ではなく、まぎれもなくこのはち切れそうな女体から放出されていたみたい。案の定、近所の魅惑は寄りがたいけど望むところだったようで、その子の眼には明るい光がため込まれていた。
わずかにうなずくような素振りがうれしかったので、そうなると布団も引いて火鉢を運んで、ぎゅっと抱きしめながら頭まで水を被っていたことを確かめ、これで私も水びたし、そう口にして一気に着ているものを脱いでしまい、おばさんも寒いから早くって催促するような声で促したの。わずかばかりのはにかみを残し、でも子供らしい快活さ戻ってきた調子で私の仕草をまねたわ。そして男の子の冷えきった小さな四肢に巻きつく具合で触れていった。
一瞬こわばったけど、それはこっちも同じ、だって背丈の違いは瞭然で肉体の圧力から大人の加減を差し引けない。その子は母の温もりを感じてしまい、またもやぎこちない子供らしさを演じそうになったので、虚脱を促すために布団の上に倒れこんだのよ。もちろん女体へと折り重なり、その未知な感じに当惑してもらうのが先決だった。母の背や抱っこの重みに覚えはあっても、素っ裸の女人へ馬乗りになったことはないわね。ええ、ないわよ、きっと、あるものですか、普通そんなことしない。でもあのときはきわどい状態へなだれこんでしまったのよ。そこへあんたが帰ってきて覗いたというわけだった。おかあさん、あんたと眼が合ったと思い念力を送ったけど、感じなかったって、まあ、そうでしょうね。誰だってあんなふうな場面に遭遇したら肝を冷やすだろうし、混乱以外どんな意識で立ち向かえばいいのか。
ただ、変に意地を張っているような男の子が苛立たかったのかしら、おそらくそうだわ。これがあんたに言えるおかあさんのすべて。こっちだってどきどきしてたのよ。違うわ、そんな意味じゃない、あんたが気になって気になって。
母は半分ひきつった笑みをたたえていたけど、それが却って真実味があったというのかな、一触即発の奇禍を互いに乗り切ったような安堵が勝っていたのね、たぶん。了承なんてそういう駆け引きだし、糾弾によって引き当てられる事実はいつも正義の側に立つのでしょうが、後味の悪い正義なんかごめんだった。それで母を信じることにしたわ。あの声はわたしの耳鳴り・・・」
幸吉はこの女子に清々しい欲望を感じた。親近感に肌身を寄せるには早い、すでに脳内で犯し続けた過去を葬り去って、もう一周めぐってくるような軽やかな欲望だった。しかし、暗渠のふたが明けられたからにはこれで済むまい。済んでないから不謹慎な想いを手招いている。
「わたしだってごまかしていたわ。瀧川くんのこと、もう頭から離れなくなってしまった。母の弁明より瀧川くんの弁明を聞きたい。母がうかつにもこぼしていたけど、そうよ、あんたの年頃って。じゃあ、わたしが母に成り代わって、そうよ、熟成した肉体を約束してあげる。でも所詮はあこがれよね。わたしなんか相手にもされないでしょう。悲観と妄想と憧憬に染まったわたしの心はひとつの淀みでしかなかったけど、悪魔的な淀みが悽愴な沼を思い起させるように、あぶくは沼とともにあったのよ。ぶくぶくと呪詛のごとくどす黒い水面に浮き出す怨念、激情、失望、それから悪夢。願ったのよ、最後は願ったのよ、また母に抱かれに家へ来ればいい、そうすれば、そうすれば好機は必ず訪れるはず。待つわ、しっかり、瀧川くんが中学生になるまで、にきび面の分別顔がつくまで。わたしはその分別に誘いかけるのよ。計画は練られ、妄想を極北までつき進めたわ。で、ようやく決め台詞が誕生した。
瀧川先輩、母が待ってるそうです。真正面を向き言い放つ。母には内緒でそう伝えるの」
幸吉は増々もって女子の意気に興奮した。
「だが、そうは問屋はおろさないのだろう」
「まったくね」
「君は始まったばかりだったんだね。しかし、いずれその欲望に幻滅する。心の底からではなく、もてあまし気味で荷重な現実を、荷物の中身を知りつつ隠してしまいたいから」
見上げる雨雲の動きは装いを忘れていた。


[531] 題名:L博士最後の事件簿〜第五章・写真よさようなら8 名前:コレクター 投稿日:2020年09月01日 (火) 05時18分

ことの次第をあらためて語りだす糸口がどうにも気重で仕方なく、もとより晴れ晴れしい馴れ初めであろうはずがなかったから、女子の言ったよう台風を心待ちにしていた幼心へ自覚めいた意義など被せるには、どこかうしろめたさを感じてしまい、その理由に傾注するしがらみは、ほとんど幸吉の現在の気持ちとかけ離れていた。
この情況において直感を用いるまでもなく肉体への覚醒に促されるとは、疑いもためらいも挟まる余地のない、過分な色欲が無造作に散らばった解放であったし、蠱惑の気配を察するより早く、不穏な雲行きに甘んじて疎くなればなるほど、後刻なんらかの触れ合いが待ち受けているという期待を抱かせるのだったが、としても絶大な渇望のわだかまりまにでは増進しておらず、自涜の傍らへ居続けていた過去を大仰に語ってしまった恥じらいと相重なり、それは出会い頭に責め立てられた反動であからさまな好意を告げ、一気に場を反転しようとした懐柔策を悔やんでいるよう判じられた。不意にこみ上がってしまう激情がしっかり肉欲を含んでいる限り、ちょうど気心の知れない子供同士の喧嘩が意に反して和解を求め合うごとく、至極穏和な歩み寄りを模していた。
女子の方でもいきなり卑俗な訴えに紛れた好感を告げられた刹那、同じとまどいの感情に包まれ、座り心地の悪さを覚えただろう。現に開けっぴろげな言い分の裏を悟られようと一向に動じない態度には、犬猿の仲にも関わらず、欲得を働かせようとする無意識の願望がひそんでいるからこそ、気乗りしない係わりへ埋没しようと努めてしまうのだ。そして自分は由紀子へ、女子は瀧川先輩へのめり込んでいる実情をかりそめにはぐらかそうとし健気に踏ん張っている。気丈にあるいは非情な心持ちでこの場面から逃れることは、互いのよそよそしさを認め合う配慮になりうるけれど、隠れた逃避願望がいつまで経っても焦燥を引きずるよう、これまでのやりとりを小さな火花が爆ぜたと思いなすことで、敵愾心は宥和され、色情は中道をのろく進みだす。
雨は上がり灰色の景色が上空から見下ろされるなら、幸吉と女子の思念は雨雲の運びとなって山道に影を描いていた。その影は緩慢な歩みであったが、確実な一歩を踏み出しており、静子から由紀子へ至るつながりを語らせた。しかし幸吉は今西家が仕掛けた女優と写真をめぐる巧緻な関係には言及せず、それがあまりに複雑すぎて厄介な説明になってしまうと怖れたのは確かだったが、本当はまだ謎の渦中へ放り込まれている困惑を伝えるのに抵抗を感じていたからであり、その困惑は足許を揺るがすにいともたやすく、せっかくの中道を忘れ、いきなり卑陋な振る舞いに出ると大いに危ぶんだからであった。
これまであえて避けてきたふうな女子への思惑が当為であることを知るに至り、気まずさや煩わしさで曳航されていた難破船の傷心を見届けながら、ただちにそれが馴れ合いの胸懐へすんなり収まってしまう軽易を力説していなかったので、幸吉は多分に相手の感じ方に触れ、暗雲の流れに拒絶の壁を定め、我慢知らずの放尿が寝小便の本意であることを類推させ、肉欲へ距離を言い渡すつもりからか、自分でもしらけてしまうくらい気負った淫靡な話し振りをした。が、やがて、その気負いの本領に裏切られるとは鑑みていなかった。
「線路は脱線するために敷かれているんじゃないかって思いがあってね。まあ、実際そんなことに遭遇したら必死に脱出なり救援の叫びを上げるだろうけど、反面、瀕死の状態におけるただならない放心をかき抱くような悪夢に苛まれ、もしくは日々のひとこまが遮断されてしまった瞬間に忍び入る鋭利な感傷を過剰に描くのか、ともあれ、ざっと聞かせたように僕の色恋なんて人まかせもいいとこなんだよ」
「静子って子、なんだか可哀想だわ。由紀子が憎々しい、だってあんたはむっちりした太ももに息ができないほどきつく挟まれ昇天してしまいそうだったろうけど、結局それが静子を突き放す名目になったのだから、あんたはとことん単純な発想を選んだということだし、静子はそんな大胆な肉体提供を演じられるわけがないから、あんたの選択はもっとも明快で、文句のつけようがないけど、遺恨は悲しみの奥底に沈んだまま、あなたを遠く見つめているとしたら、どう思うのよ」
「きわめて本筋へ切り込んでくれる意見だね。さあどう思うか、同性への気配りなのか、欲情にふりまわされる哀れさを指弾しているのか、もし静子がそんな眼で僕を見つめていてくれるのが本当なら、迷わずひれ伏すに決まっている。君は大筋でしか肉欲を暴いていない気がするし、押し寄せる情熱と思い入れに拮抗する興醒めの発露も知らないで喋っているように聞こえるけど」
「あら、経験値を唱えながら似非た詩情にさまようのね、まあ仕方ないわ、ここでどれだけあんたを糾してみたところで、もっとも最初からそんなつもりはなかったけど、わたしの言い分に加担するような理性をあんたの肩越しに探ろうとしてしまうだけだし、わかったわ、少しは肉欲とは無縁の機微があるのを理解しているみたいね」
たしかにこの女子の言っている深意は否定されるものではなく、いかんせん今西家にまつわる迷妄を抜きしたうえでの返答でしかなかったので、幸吉はどうにも曖昧な空まわりを感じつつ、いや、ちょっと待てよ、ひょっとしたらある程度の真相を捉えており、さらに穿てば、今西家の内実となんらかの線で繋がっていて、またもや錯綜とした虚実を受け入れるためにわざとこうして出会った振りをしているのではないか、そう考えた方が合点しやすい、これまでの成りゆきに沿えばこうした疑いは、邪念と呼び習わすまえにあっけらかんと正当化されるのではないだろうか。あえて堂々巡りの煩悶を省いたせいで、こんな短絡的な想念が閃いてしまう。が、幸吉は例えそうだとしても、これ以上煩瑣な係わりには辟易していたので、思考を停止しようといつもの手段に転じた。思考は止まるけれど相手の巧みな接近は見落さないつもりだった。
「呼び出された気分ってどうったらかしら」
女子は内面のさざ波に反応したとでもいうのか、受け身でしかなかった情けない立場へ幸吉を引き戻そうとした。
一瞬、面食らったふうな様子をはっきり示し、それが誘い水でありそうな予感を働かせながら、しかし陥穽にはまってしまう危惧を慎重に回避させ、
「半信半疑がいつも不安と隣合わせなように、でも高鳴る胸の音は気分そのものだった」
と、さきほど揶揄された半端な詩情で位置を確認した。
「へえ、たっぷり想像したってことなの」
「そうさ」
この思わせぶりな言いようは自身の声であって、そうではない根拠へ導かれているように思えた。
「でもいきなりじゃなくてよかったわね。ぐるりと海岸線まで散歩しながら情欲を募らせるなんて素敵だわ」
「君は口が悪いな。君ならいきなりだな、その調子だと」
やや憤慨した面持ちで諌める。
「馬鹿ねえ、機微は面倒だと思ったからそう訊いたのよ。まったく、すぐ怒らないでよ」
幸吉はどうして静子にしろ間弓にしろ、自分を動揺を冷静に推し量るような境遇で息衝いているのか、微かな落胆を感じたが、それは怒りや悔しさを内包した挫折ではなく、むしろ狼狽をあらわにしてしまった焦りが知らしめるように、尺度を計りたく念頭を抑えた衝動は、どこへしまったのか忘れあわてながら物差しを懸命に探している姿を彷彿させたし、その物差しは普段から整理整頓されてない引き出しの、雑多で無用な紙くずが詰め込まれた横着に帰結されたので、増々もって小さな感情の徘徊に幻覚がともない、正確さという証言につまずくのだった。
「わたしも母に呼び出されたの」
切り替えの鮮明さに驚くまでしばらく意味に囚われていた幸吉は、無言で女子を見つめ返すしかなかった。
「あんた、どっちが先ってそれは母よ。瀧川の悪癖は知ってるでしょう」
明らかにこの女子は呪縛であるはずの肉欲を語ろうとしている。だとしたら、これでしばらく因縁との絡み合いから離れらそうである。けれど、まさかそこに今西満蔵の背中が大きく暗幕を張って出るのでは、などと強大なわななきを先取してしまい、同時にこのあいだ失くしてしまったんだと諦めていた透明な物差しの、その光へ透けてしまうプラスチックに刻まれた細い細い目盛りの頼りなさが、置き場所のあちこちから軽んじられているように見えて、竹製の代物は畳に同化しうることはあっても自ら隠れたりはしない、それなのに皆が持っているからと、まるで玩具みたいに欲しがったあの加減はまやかしなのか、それとも案ずるに及ばないのか、しかし、恐るべきはその消え入りような目盛りがいざ白紙の上に押し当てられると、魔法のごとく明瞭な線と間隔をこの眼に提示し、わななきは瞬時にして勤勉さへ硬直してしまうのだった。
由紀子の母も瀧川に惑わせれていたとすれば・・・その透明な邪推は幸吉の別な部分を硬くさせた。
「あの日は早退したのよ。そう女の子の日、いつもは我慢できたけど保健室の先生が家に帰って休みなさいって。まさか玄関を開けたらあんな声が聞こえてくるなんて想像もしてなかった。えっ、もしかしたら強盗、母の身になにか危険が迫っているの。足音を忍ばせ忍ばせ、声のする部屋へ近づいていったわ。どうやら苦しさで唸っているようでなく、でもよく寝言で聞いた発音の不明な奇怪で、おぼろで、軋んだふうな声には覚えがあるような気がした。しかし気楽な口笛が長引くみたいにその唸り声はためらいを感じておらず、いいえ逆だわ、ためらいの最中に発せられるような同調があった。ひどく嫌な気分に包まれながら、声の主が母で無いことを祈りつつ、同調の響きに紛れてくれればと、その部屋のふすまに糸の先の通るくらいの手つきが要求された。わたしの眼は光を受け入れるのに十分なだけの虹彩があり、緊張と不安で押し重なる光景に向かい合う心構えも用意された。カーテンを閉め切っても部屋の模様は色づいているわ。
最近、姉が学校で学んだという講義を友達からこと細かく教えてくれた衝撃と嫌悪の入り交じった雰囲気は放課後までたなびかせたものよ。では、ここでくりひろげられてる情景をどう解釈し、どう呼べはいいのだろう、どう言い表せばもう少し背丈が伸び、身体もふくよかになったわたし自身に説明できるのだろう、声にはできない、できるはずがない、今はできない、母に声も掛けれない、小学六年生、もうすぐ卒業の上級の男子、誰もが胸をときめかせてしまうかっこいい男子、二歳下のわたしはあこがれという言葉を学びかけていたわ。どうして瀧川くんが母と真っ裸でいるの、ねえ、どうしてなの。母を大柄と思ったのはいつまでだったかしら、思い出したくない、だって瀧川くんに乗っかられている母はとても豊満に見えて仕方なかったから」


[530] 題名:L博士最後の事件簿〜第五章・写真よさようなら7 名前:コレクター 投稿日:2020年08月25日 (火) 06時15分

「どうしたの、そんな怖い顔して」
そう幸吉に問いかけたまま、瞬時のまぼろしに戸惑うような反応があらわになったけれど、つい先程までの醜態を思い返したのか、投げかけた言葉はそよいでしまい、同様に強ばった表情が濡れた木立の緑のなかへ立ち止まった。
「べつに」
ことさら気の利いた返事で互いの距離を縮めるまでもなく、逆に不謹慎な感情は辺りを被う樹々のような見分けのつかなさで位置してくれればいい、ぎこちなくもあり、かといって罵り合うほどの敵愾心はすでに霧散してしまっていると案じていたから、無理やり笑みを浮かべる必要には駆られず、それは相手も同じなのだろう、きっとそうさ、自分が由紀子に耽溺していることを分かっていて、多分によそよそしいけど、なんらかの親しみで山裾を下る秋風のごとく、乾いた明白な心情を歩ませている。
かつては虜であったと誇張することのないまま、この女子は母もろとも瀧川先輩に翻弄されている実際から逃れようと努めるのだが、おそらくとことん逃げ切るのは不可能で、たとえ先輩を遠ざけてみたとしても、その悔恨と慚愧はすっきり身も心から離れず、もっとも疎ましいあり方で新たな代替者を見つけだすのだろう。他人の心理とはいえ、何故これほどまでに瞭然とした無益な情熱が発動されるのか、少しばかり考えただけで、いかに迷いの森が瘴気に満ち満ちており、その足もとへ絡みついてやまないのか、理解できそうものなのに、満たされぬ情念を背負い抱えてしまったからには、過去を遥かな地平のように眺めるのだが、まったくその眼は明日に向かう太陽の軌跡にそそのかされた調子で、代わりの時代を今ここへ呼びつけようと試みてしまう。
幸吉自身が肉欲を通じて由紀子に溺れ、溺れる仕草に由紀子の女人としての掛け替えのなさを発見したよう、欲望の手応えなんてすでに先んじているのであり、下手をすれば消え去っているかも知れないし、また、より巧妙な仕掛けへと分け入ってゆく偏屈な探究心で盛り土され、やがて陥る日々の見晴らしに焦がれているに過ぎないのだろうか。
ともあれ、幸吉の下半身からわき上がり、脳裡を占拠した罪の意識は、少女の面影を可憐に見守ったあと、すぐさま女色の化身へ転じたことで、一層やり切れなさを募らせたのだったが、こんな天候の日にばったり出会った巡り合わせの妙に感動してしまい、どうか雨風がこのまま静けさを演出してくれたなら、そして見通せそうで決して見通せない今西家の間取りに悩むのを忘れられたら、溌剌とした肉情を宿したこの女子とのひと時を夢幻境地の狭間より覗くことで、侘しく儚い代替行為に没入してしまう予感を得ると信じた。
狡猾な精神のひ弱さは、ちょうど雨宿りに胸をときめかせてしまう幼児ように無邪気な発露であり、刹那を好む性向に支えられていた。
「君は雨振りって好きかい」
おのれの見苦しさを知ってしまえば、距離感を計る方便にもうたじろがなくてよかった。
「べつに、だって鬱陶しいでしょう。でも台風はわくわくしたわね。子供の頃は特に」
「おおかた人はそう言うよ」
幸吉は答えながら脇腹にこそばゆさを覚えながら、
「さっきの話しだけど、できたら忘れて欲しいな、君のことを想像しながらって」
と、つい甘えた口調をもらしてしまった。
「あら、あんだけ真面目な勢いで熱心に語っておきながら、恥ずかしいから忘れろって言うわけ」
「うん」
「ふん、なによ、そういいわ、聞かなかったことにしてあげる。ただし・・・」
「ただし」
「あんた、もっと他にわたしの醜態やら痴態を知ってるんでしょう。怒らないから全部話しなさいよ」
「いや、あれがすべてなんだ。それほど君に詳しくなんかない」
「ちょっと、随分な言い方するわね。じゃあ、なんですか、適当な妄想を織りまぜて、わたしを過大評価していたとでも」
「妄想はいつも過大なゆえにたまらないんだよ。僕だけの世界で悶える君が住んでいるからさ」
「あっ、そう。では仕方ないわね。ならどうやって悶えたか、教えてちょうだいよ」
声をつまらせた幸吉に勝ち誇った面を向け、そう言い放ち、
「わたしの下着の色ですって。あんたの同級生がどんな説明を加えたか知らないけど、あんたはその時点でかなり興奮していたんだよね。もう破裂しそうなくらい、あとの経緯なんかより、めくれ上がった股の色艶までありありとその眼に映し出し、まだ見ぬ女のあそこに拡大鏡を差し当てる素振りさえ連想しづらく、さあ、どんな具合に交わったのだろう、それはそれは壮大な日々の裂け目にすっぽりはまり込んでみないと理解できないけど、あんたの手淫はどんな方法であれ、脳裡に女陰を大写しにするだけの馬力があったのでしょうよ、あいつの初体験はあんたの手柄と同等の価値をもって君臨し、わたしのよがり声なんかを耳にするのね、幻聴であるべく。そして自宅の奥まった部屋の薄暗いところにへばりついたきり、あらゆる連想を用いるけれど、わたしの火照ったからだは絶対あんたに伝わったりしない、しないどころか、あんたは女体の柔らかさと温かさを限りある幼児期の記憶から引っ張りだそうとしてしまうので、それは授乳の場面に閉ざされた性欲とは無縁の触れ合いだったと徹底して言い聞かすものだから、絶対にあんたの股間は膨れることはないし、かといって強引に母なる記憶の裡へ忍び込もうとすれば、むしろ肉感とは異なる人工的な匂いで包まれた感触へと移ってしまうはずよ。
そんな異質な妄念なんかより、無味無臭で肉感はあくまで肉感という仕来りに準じた官能へ、そうだわ、平和的に秘密裡にあてがわれた貪欲さに我慢しきれず自分をこすってこすってこすりまくり鼻息は吹き出すばかりで、どんな香りもどんな個性もどんな面影も、あんたを支配しないから、所詮は大判のポスターにどぎつく印刷された秘所の隠れ際を拡大鏡で凝視するだけなのよ。せいぜい荒い粒子が印刷を形成している事実におののきつつ、自分の目ん玉が馬鹿みたいに巨大に見開かれている羞恥を感じ、それでも不逞の意欲は独創を唱え、白濁したものが激しく吹き上げるまで何度でも夜も昼も、今日も明日も明後日もやり続けるの。
あいつはなんて話していたのよ、わたしの抱き心地。いいかしら、そんなことあとから不始末のないように喋るだけなの、あんたはそれを心得ていたようね。どこで学んだか知らないけど、すぐに自分の肉体とすげ替えていたというからなかなかだわ。そうなのよ、あいつは初めてだったから、ものの数秒で果ててしまったの。つまりわたしはあきれ声を上げたというわけ。それが素晴らしき青春劇に仕立て上げられているのね。女はそんな小面倒な作意を持たないわ。そうね、たしかに男性経験はあったわよ。あいつで三人目、瀧川は別としてね。
ちょっと立場が逆転してるじゃない、あんたがわたしの知らないことを教える番なのに、どうしてこんなかいつまんだ話しになってしまうの」
呆気にとらわれながら、幸吉はこの女子の道理に打たれていた。目ん玉も舌も封じられるのは自分だったからであり、それを承知していながら真摯な告白などに酔ってしまっていたからである。
「なるほど、よくわかったよ。もっと陶酔するべくよりきめ細やかな、でも、あくまで君に関する視線だけを話すよ」
「いいわ、しかしわたしだけっていうのは嘘ね。風見由紀子と比べてと言ってちょうだい。もちろん、まだあんたも女体経験がなかったから、こういうふうに話してくれない。あんただって不道徳な生徒なんでしょう、そう自覚してるのよね。その自覚をわたしの肉体に被せて欲しいの。記憶は風化させるものじゃないわよね。だったら、由紀子との睦み合いを詳しくお願い」
「それだと、逸脱じゃない。結局、僕の事情を知りたいってことなんだね」
「どうでもいいわ。肉欲に変わりはないはずよ」
女子の口許には予測可能な媚態が漂っており、それがいかなる不可能性へ導くかを実にしおらしく訊ねているよう思われた。幸吉は悪運を祝福した。


[529] 題名:L博士最後の事件簿〜第五章・写真よさようなら6 名前:コレクター 投稿日:2020年08月17日 (月) 04時57分

「実験は失敗だから致し方ない、どうしても公共の実験を遂げたいのかどうか、あれだけ野次が飛び交ったのだから、気力は削げてしまったよ」
「博士だってご存知なはず、集まった人々の大半は興味本位で立ち合っていたのですわ。見物人の気軽さに落胆する方が、過重な負担を買って出ているようなものです。非難も悪態も拍手と変わりない、そう受け取ればいかがでしょう」
これが適宜な伴奏だったろうかと、首を傾げたのだったが、さっと眠気の覚めるような刺激が走り、そうだ、小声みたいに掠れた笛の音や、猫足そっくりの控えめで乱れ散ることを抑えこむよう、つま弾かれる弦の響きばかりが自分を取り巻いているわけではあるまい。大太鼓から放たれる下っ腹あたりを鼓舞する調子だって、伴奏の役割りである。なにやら自分自身で喪の意匠を選んでしまったみたいで、年若い女性に対する距離感は主従のごとき古風な関わりを歌い上げ、隠したくもない卑屈が声を枯らしている。
取り澄ました表情に諭されているようで面映く、幸吉は黙って聞き流そうとしたけれど、そのやや鼻へかかったおさなげな声につられてしまい、やはり落ちるべきしずくの自然が老境を悟らせるのか、
「あんたは堂々としているね。さすがに活気あるつぼみだ」
と、おのれの衰微を口にせずにはいられなかった。
「まあ、つぼみだなんて、でしたら博士は老木になりきってしまったのかしら」
「そんなところさ」
「でもわたしのつぼみはなかなか開かないのです。このまましおれてしまいそうな気がしますの」
「それは強情なだけかも知れないよ」
「あら、ひどい、わたしってそんなに意固地に見えますか」
意外な切り返しに動揺を覚えた幸吉は、あやふやでとりとめのない声遣いへおちいった。
「見えないよ」
「おかしいわ、どうでもいいみたいですね」
「いや、そういうわけじゃない、まだ人々のざわめきに興奮しているようだし、失意だって意識的に把握しているつもりだよ。あんたに独り言を聞いてもらって、なんか、親近感が芽生たのさ」
「でしたら、もう少しきちんと見てくれません」
「それがだね、きちんとかまえると、よからぬ思惑が狼煙のようにあがってきて、視界をさえぎり混乱も招いてしまうから困ったもので、いつもそうなんだよ」
「あのう、それってもしかして劣情ですか、だとすれば老木に新芽ですね」
「はっきり言うなあ、わしをからかっているのかい」
「さあ、どうでしょう。透徹した自己分析と予断を許さない慎重なまなざしはどこへ行ってしまったのかしら、年寄りが孫娘に気を使い遠慮している素振りなんて、博士には似合いませんわ。かつてのように不謹慎な理屈を華やかに、そして情欲にまつわる由縁を美学的に展開させ、わたしの羞恥心を踏台にし官能の翼をひろげながら、幻視の跳梁と思弁の疾走へつき進んで下されば、劣情は老若男女にあますところなく配当される摂理となって、なにより博士の研究態度と合致するでしょうから、わたしのつぼみだって修養の成果を示せるような気がします」
幸吉は今日はじめて会った妙齢の霊媒が、自分に何を求めているのか、いや、反対にどんな期待がわき起こっているのか、それはたとえ惨めな状況であったとしても、他者の言質を好個なまま解釈することに長けていた、欲望的な視座へと立ち戻り、咲き乱れた狂いの果てに見据えるありきたりの風景へ埋没したのち、思考停止というあの姑息な中断へ至れば、感覚の鈍麻も解析力の劣化も、判断の迷いも、意志の所在も、降霊が不確かな現象しか取り扱えず根拠を見出せないことに倣って、他でもない、書き連ねた日記に隠蔽が施されたいたという事実を確かめるために、どうして由紀子殺しを別人へとすり替えなければならなかったのか、本当に倦厭と怠惰などが理由であったのか、しっかりと記憶の裾野を見渡さなければいけないような責務を感じ始めていた。
「なるほど、よくわかったよ。あんたのつぼみに貢献するわけでもないが、糊塗されたものは影踏みの定めに従って鬼の役目を果たさなくてはならない。しかし、遠い記憶は、いや、網膜にぴったり張りついてしまって鮮明な光景へと還元できない老眼に映る記憶は、ほとんど手元にありながら頑なにに焦点を絞ろうとせず、むしろぼやけた映像こそ守りつづけなければならないような迷妄にとらわれている。それが虚偽であろうと、呵責に結ばれようと、安寧の船底は浸水に満ちることがないという確信に柁を委ねて、荒れ狂う海原の獰猛さを讃美し、吹きすさぶ金切り声がローレライの幻惑に近づけば近づくほどに異相へ溺れるけど、決して窒息することなく、細い吐息に光明を見出し、ちょうど声なき木霊が耳鳴りに同化するよう、灰色の未来像を保証していたんだ。
あらためて語る必要もないだろう。あんたはわしの意識の原野へ分け入ることができる。だから、わしはほの暗い記憶のなかへ沈んでゆく」
幸吉の眼はすでに後ずさりしてしまった哀れな女子の背を凝視していた。それは長年、愛着してきた不適格な記憶への決別であり、蓑虫のような執着からの旅立ちであった。


ちょっと待つんだ。僕は知っている。瀧川先輩との仲だって知っている。でも、先輩はあまりに多くの異性と関わっていたので、さほど気に留めてなかった。そうじゃない、ちがう、ちがう、嘘だよ、胸騒ぎをともなった熱情でさっさと先輩に飽きられたらいいと思っていた。そして僕にも話しかけてくれたらいいと念じていた。君の方からね。なぜって、それはあくまで妄想に終始していたせいで、つまり君は僕の自涜の場面に必ず現れていたと言えばわかってもらえるだろうか。
静子さんとも由紀子さんとも縁を持つ以前より、君に欲情していた。きっかけなんて他愛もない、ある同級生が君と初体験したという顛末を聞いたからさ。先輩と同じくそいつの手柄話しにもねたみや反感など挟まる隙間のないほど、しっかり股間を充血させてくれたし、それは何色の下着を履いていたとか、どういう具合に身体が触れていったかとか、たかまりの最中には思いのほか激しい声が放たれたとか、他にも数人の男子と経験があるみたいだとか、何より僕に興奮と希望をあたえてくれたのは、たった一度きりでそれ以降、まったく終わってしまったという小気味よさであって、初体験の誇りをすがすがしく伝えてくれた同級生と君には感謝してあまりない。校内でも通学路でも同学年にもかかわらず、まともに眼を合わせたことはなかったけれど、僕はそのころ君の姿を見かけるたびに秘かな想いを巡らせていたんだ。やがて君の活発な交遊を耳にしながら、自分の未熟さを痛感するに及んで、増々一方的な欲情を増幅させ、絶対に実らない肉欲のから騒ぎに大きく首肯し、卑屈になるであろう薄汚れた精神を洗っては、君が堂々と女体を開いている情景に連れられたというわけさ。他の奴がどうなのかなんて興味なかった。僕はそういう性質に生まれ、矮小な視野でしか解放感を得られなく育ったので、君の奔放さは鋭く僕の脳髄と股間に刺激を授けてくれたんだよ。
今西家の編み目が足に絡みつくまで、誰かが素っ裸の君を抱いていて、その誰かが僕の顔に入れ替わると、いつものことながら怒濤の快感に襲われ、いつしか訪れるであろう初体験のときが濃厚な色彩の抽象画のように荒い画布へ描かれた。が、仕掛けは先んじており形式の形式に準じて歩むよう導かれてしまった。これだけ下準備が整っていれば、ようするに僕の淫蕩な妄念は熟成を待つのみであり、どう転んでも逆立ちしてみても、女色の罠へ自ら望んで掛かるべく養成されていたことになる。
もし、そうでなかっとすれば、おそらく、そうだよ、おそらく僕は君の眼につく素振りを意識して、意識して、とことん拝み倒すごとく意識して、なによ、なんか用なよ、なんてぞんざいな口ぶりでうさん臭く僕をじろりと眺めるその刹那を凍結し、肉欲が時間を止めてしまう奇跡を呼び起こすだろう。もはや、気後れや衒いには左右されない衝動は、まだ見下しているふうな視線の内奥まで突き進んで、その眼をえぐり出しその舌を引っこ抜く馬力で君の口から言葉を奪い、凍結した時間にふさわしい半ば陶酔の態度を持って、こう告げる。
ずっと好きで好きでたまりませんでした。僕は短い恋文を読み上げたような心持ちを残し笑みを君に捧げる。案の定、呆気にとられていた様子の君は、凍結の魔術が別次元で執り行なわれた事実に勘づくわけもなく、ただ、あら、そうなの。好きなの、私を、そうだったの。と棒読みみたいにくり返す。そののち、やや沈着の面差しに返りながら、私が惚れやすいとでも思っているの、そうなんでしょう、はっきり言いなさいよ、馬鹿にしないでよ、こう言いつつも一方では照れた仕草でうれしさを握りつぶすように、口許をきつく閉じたりするので、すかさず、惚れやすいかどうかは知らない、好きなものは好きだから、そうきっぱり言い切る。すると君は、波紋が過ぎ去った湖面の青みに似た冷静な面持ちで僕を見直す。
だから、瀧川先輩なんか忘れてしまえ、忘れられないのでぶってなんて言っても、僕は絶対にぶったりしない。こんな状況でしか会えなかった皮相な糸車の回転は自然の理を背景に、台風接近の不穏な、けれども雲隠れすることのどんよりした親しみへ引き合わせ、幸不幸の連鎖と紐帯を覗き知る。はっと身をこわばらせた君は、なじるだけなじることで口辺に漂わせていた恐懼と激高の入り雑じる感情から解放されたのか、それとも努めて自分自身の震えに立ち戻ったのか、わたし、あんたのこと好きでもないけど、気にはしていたの。風見由紀子と深いんだってね。瀧川との因縁めいた話しも聞いたことがあるわ。ごめんなさいね、年上はみんな不良に思えてきて、特に風見由紀子とつき合ってるとか、どう考えても嫌らしかったの。やっぱり男は嫌らしいわ。でも私のどこかも汚れてしまっているのね。あいつの初体験でそんなに興奮したなんて、なんか恥ずかしいし汚らしい。そんなことばっかり年中してるわけじゃないのに、みんな大げさだわ。そうね、今日は帰りましょう。あんたも帰るとこだったんでしょう。途中まで一緒に。
僕は聞き分けのよくなった聡明な声色に少女の淡い美しさみたいなものを感じて、さっきまでの肉欲一筋の考えが萎んでしまうのを見届けた。さながら水彩画の筆づかいでなぞられた清純な横顔のごとく、透明な涼風に景色は無垢を吹き流したのだ。
あんたも後戻りできないのね。わたしもそうかしら。だけど、少しは肩の凝りがよくなったようで、あんたがわたしのこと好きって言ってくれたお陰かな。馬鹿馬鹿しいのはみんな一緒かもね。ごめんなさい、あんたに突っかかってしまって。あっ、雨がやんでる。空模様の機嫌いいうちに帰りましょう。
荒くれてやまない気性と、あどけなさに染まり続ける微笑を同時に受け入れては、おのれの透明度をつい過信したくなり、逆上の頂点にあった女子の恥部が疎ましくなって当たり前だと、妙な言い訳を胸中に並び立てていたところ、天の邪鬼な反応の急襲におののてしまった。それは恥部という言葉の響きが精神にまつわる語感のみで形成されるのを拒むように、肉体の逆襲で再編された下半身に秘めた箇所は生々しく暗誦され、たぶん相手に聞こえてしまったと悔やまれる勢いを抑えようとすればするほど、本来この女子を好んだ由縁は他でもない、たやすい肉欲の顕現とその蓋然性にあるのことを明確に知らしめ、にわかに水彩の淡さは濡れて溶け出し、けばけばしい原色の確乎たるうめき声を上げ出した。
君があいつに身体を与えてやったのなら、僕にだってそうしてくれてもいいじゃないか。欲望はまぎれもなく生起している。
一時は額装を新鮮な空気で澄み渡らせた横顔だったが、今の幸吉にはまだ触れぬ女体を隠し通しているような媚態に見えてきた。計り知れない雨粒を含んだ曇天の下、少女の面影に浸っているのはもはや罪なのだ、言い訳無用の罪なのだ、そう吟じていた。


[528] 題名:L博士最後の事件簿〜第五章・写真よさようなら5 名前:コレクター 投稿日:2020年08月04日 (火) 04時58分

「学校で取り沙汰された水死体にまつわるそら恐ろしさは、克明であろうはずのない尾ひれに惑わされてしまい、知らず知らずのうちに凄惨な形相へと転じていたのです。釣りそこねた魚が一瞬だけ空に舞ったような錯覚を得て、水面に跳躍したと逸る心持ちが鮮明な残像であるごとく、痛恨はいつもよそよそしさを気取りながら新たな意趣へ逃げるけれど、童心にひそむ畏怖がとりとめもない照度で魔物を寄せつけ、その異形に触れ合うのであれば、この世の果てはあまりに身近すぎて、当惑を隠しきれない互いの顔色へ浮かびあがったあぶくには、怯懦を計りにかけながらあとずさりする抜かりのなさと、八百万の神を見渡すようにしてため息つく曖昧な思惑が淀んでいたので、まだ晴れ渡ることに抵抗しているような灰色の空を見上げたまま、虚ろに見開かれた眼がじろりとこちらを凝視したとか、水かさの増した流れで弄ばれていた黒髪が川藻に絡まりながら新たな生命体となり、いずれ足もとまで這い上がってくるのでは、そんな呪縛にとらわれても不思議でなかったとか、さらには川底に一晩ひたされていた素肌は透き通るほど青ざめていたが、まくれ上がったスカートが邪魔なくらいむっちりとした太ももが妙に淫らで仕方なかったとか、しかしそれらのおぞまし気な幻影はあたえられたものではなくて、自ら脳裡に描き出していたに違いなく、まるで森閑とした空間へ佇んで感受しているよう研ぎすまされた、あるいは放擲された落ち着きに意識が霞んでいく時間の配分によって、生み出されていたのでしょう。
いずれにせよ、水死体から魂が抜け出てしまっているとは考えず、肉体の死だけ認めることにより、稚拙きわまりない短絡をもって呪術的なすり替えが脳内でおこなわれたのでした。ここで由紀子が死んでくれたら息苦しい煩悶はなくなり、肉欲にまみれた情愛も消え去る。まっとうな進路へ立ち戻ることが出来るのだ。町中を引きまわすようにして最後の判断を促した理性のかけらをもどかしく受け取った僕には、結局肉情を選んでしまった引け目が横溢していたから、虚構の死ですべてが昇華してくれるとはいかずとも、都合のいい清算にはなりうるだろうし、今西家が提示し続けていた形式に即した証しにもなるけれど、そろそろ適当なところで切り上げたい、これが本音だったのです。
強度の因縁が張り巡らされた形式だとはまだ気づいておらず、今西満蔵の狂気じみた深意などまだ窺い知れなかった身にしてみれば、耽溺の果てへの忘我の戦士と化すよりか、身軽く脱出口へ逃げこむ無鉄砲さだけが頼りなのだから、いい加減な関わりでしかなかったと自己暗示をかけ、まったく茶番だが、父満蔵の狂気をまねてしまっていたとしか思えません。皮相の皮相は実にたやすい意匠であり、華やかな眼福を招くのです。ちょうど廉価な貸衣装に満足を覚える小市民の微笑みのように。
とすれば、引き裂かれた自己像の破片を浴びて狂ったわけじゃない、実子ではなかった正枝さんが女優としてのなりわいに拘泥すればするほどに、血縁が深まりつつあると妄信したあげくの亀裂に踊らされて、邪心でくすぶったその影法師に父の歪んだ熱情を見て取ったのです。肉親との交接という禁忌を破ることにおいて透けてくる現実をも演出と見なし、縦横無尽な采配こそ演技の神髄であるよう努めて錯誤し、逸脱した自由をつかみ取ろうと躍起になりました。それが虚構の女神の顕現であるなら、異母姉弟である間弓さんと由紀子さんとの交わりこそ僕に架せられた十字架であって、父満蔵の奔放な嗜みにあやかる糸口に他ならず、透ける地平は欲望の大地と言えます。
影法師は遺伝的な形態で金太郎飴の偉大さを唱えており、反自由な精神をあざ笑う様相でその薄っぺらい欲望を讃えているという矛盾を露呈させては、逆説の甘味をほのめかし、あの世の存在、幽霊であることを主張してやまないのです。科学的視野に立ちながらも二元論の観念主義の最果てに、幽霊を感じてしまうのは歯車的な装置が金太郎飴を量産するからであって、その一見無機質な営為の連なりは寂滅の風合いを匂わせ、間断なき息吹きが明確な目印に操られていることすら忘れてしまうので、蒙昧な取り違えは罪に触れる触れるどころか、豊かさの象徴に乗じているような感覚を授かってしまいます。水死体のうわさにくちびるを青くするのも、狂気の仕草に乾いた地平を求めるのも、思春期の迷妄が機織りの手間を省いて、一気に枯淡やいぶし銀の境地をかすめ取ったに過ぎません。根源的な感情である恐怖を認めるに及んで、その直截な様相など受け入れるはずがなかろう、怪談映画に見入る観客の眼はありきたりに健康だし、怨念と殺戮が不可分に入り雑じる情念の発露は、予定調和の島国に蔓延する温厚な風物詩との共生を望み、無邪気なまでの若さを平穏な余生からふんだんに引き落として憚らず、湯水のごとく潤沢な傲りと相まって加齢臭はおろか腐臭など好んで嗅ぎたいなどとつゆも考えてなく、そして恐怖は稀薄な空気でぼやかされてしまったのか、本能に突き動かされる牙はほとんど抜かれている始末、むしろ浅薄な教条に流れて包装された提供品のごとく、態のいい攻撃精神は聞き分けのよい潤滑油みたいに、その透明度を保っているのでしょう。
なにより恐怖へ隣接している官能を意識的に忘却しているように思えて仕方がありません。そこで機会仕掛けに必要不可欠な潤滑油が効を成すと、少しばかり現実感に呼び覚まされ、うたた寝の境界に居座る心地よさを振り払ってみれば、機織り工場は肥大した効率化にそそのかされて、いつしか森林を切り開いてまで金属音を響き渡らせるように組み立てられており、ひとつひとつの精密機械は微小さを控えめに輝かせているにも関わらず、その機能の堆積は巨大な、圧倒的な威圧感に満ちあふれています。幽霊で埋め尽くされた透明度が人為的な興趣のうちに数値化されてしまい、神秘の陰りは垂れ流しの排水口で息をひそめているのです。
いつの間やら移り変わった透明な液体は必要に応じて、ほとんど無意識的な役割りに甘んじているようですけど、実は反対に潤滑油の精製が欲望の意味を問うているではないでしょうか。架空のストリップ嬢は踊り疲れたりしませんし、あの世とも無縁な顔で僕の心を癒してくれますので、やはり液体人間なのでしょうか、僕の日記に雨樋や水たまりが頻繁に顔を出すのはどうやらそうした理由にあるようです。
自分の出自なんて意識する機会はあってなし、ところがなんとも婉曲な手段で機会はめぐってきました。いえ、巧妙に待機していたと言った方がよろしい。疲れを知らない女神とのかくれんぼなんて優美すぎて腰を抜かしそうですが、腰を抜かすほど女陰を突く運動の準備体操として、ストリップ嬢が朗らかに扇情するのであれば、その裸体は透徹した欲情の顕れであり、健全な生命の守護神かも知れません。
由紀子さんを姉だと薄々勘づいたのは、父満蔵の遠まわしな提言に賛同した時点で、なにより間弓さんを前座にしての口上がすべてを物語っており、初の接吻まで授けてもらっては有頂天にならないのがおかしいくらいであって、僕に禁忌を打ち破らせることで自分は女優を我がものにするのですから、そのやり口は単純明快、ただ遠まわりをしたせいで錯綜した状況に置かれたような気がしただけで、今西家は例えるもののない縮図のなかの縮図であったわけです。なにせ、僕は満蔵の血を引いているので一種古風な常識を受け継いでいるのか、同じ血の由紀子さんとも異なった感性だと認めながら、不良の定義を書き直さなくていけないと思っていた矢先、案の定、たおやかな理性を働かせた由紀子さんは禁忌に堪えられなくなり、僕にさよならを告げました。
これで駅前旅館において正枝さんから言われた内容に激して、殺人妄想に駆られたのは憧憬と愛欲の調理であったなどと、自分の手際の悪さを棚へ上げおきながら、味覚が先取されたみたいに軽口を発していたわけなので、さよならの意義はまるで映画の台詞をなぞったに等しく、もっと言えば、なにもかもがまぼろしであって、そうなると女体との交わりもまた見果てぬ夢の一幕に他ならず、正枝さんとの別れ際、胸にこみ上がってきたやるせない想いは、ごく平凡な中学生の夏休みに描かれる絵日記の表紙に閉じられ、忌まわしい過去の胚胎は暁闇に船出してしまった汽笛でかき消え、焦燥をともなう神経の乱れは発育の証明を大いに告げ現在に至れば、来たるべき時間の壁には液体人間の涙が、もう全身が涙なのだけれども、決して苦悩や煩悶とかで嘆いているのじゃなく生命の歓喜に打ち震えているのであって、その由縁は夜が夜の深さを闇でおおい隠してしまうことに罪があるはずはなく、白昼の太陽光線の鋭さにおののくことや、激しい驟雨に叩かれる感触は自然の理において至極まっとうな痛点となっているのだし、生温い人づきあいに慣れてしまった身体には酷であるとか、いたわりの精神が柔らかな人生を約束しているとか、あるいは全幅の信頼を覆すような猜疑心に傾く以前に、あらゆる事象を探ってかかる謎解きの名分に少しは意義を授けたいと願っているのです。
「博士、実験はまだ続けられるのですね」
ぽつりと永瀬砂里はささやいた。


[527] 題名:L博士最後の事件簿〜第五章・写真よさようなら4 名前:コレクター 投稿日:2020年07月14日 (火) 04時23分

耳を傾けてくれと頼んでおきながら、幸吉は昔年の風景が近視眼的に霞んでゆくのを危ぶんでいた。酔狂な研究と偏屈な生の歩みに没した遺品を告げる姪のすがたもまた、見通せない冥暗をさまよっては、異次元と迷妄の境から踏み出せない怯懦に遠のいている。
すると妙齢の霊媒も遠縁にあたるのだろうかなど、ふと、意固地な性分を包み込むような念いが、血縁の色度をはかり出しだので、幸吉は首を振るよう現実味から逃れ、未来よりの使いであることに仄かな夢を託すと、夢は天女が置き忘れた羽衣のように透き通ってしまい、永瀬砂里の息づかいを感じさせずに、さながら精巧な意思だけを宿している蒼い眼の蝋人形の形骸を知らしめ、独り言は過剰な伝わりを拒むよう戒められた。
「あの夜明け前、正枝さんは冗長な台詞まわしをもちいたあげく、僕に向かって示唆をあたえてくれました。今西家全員を殺してしまえなんて言い出したのは、正枝さん、あなたが明日には東京へ帰ると知って悲しんだだけじゃなく、糾弾なんて意気を上げながら、すんなり家族のなかに打ち解けてしまったふうな打算が許せなかったからだし、案の定、あからさまな演技に翻弄されたと悔やみ、でも僕はそれらをほぼ承知していたので、家族間のなかへ切り込んでいく意義は見当たらず、混乱と憔悴がもっとも本能的な姑息に陥ったせいだと振り返るのだけれど、入り組んだ男女の関係に終止符を打ちたいと願ったのは事実で、そして封じられた真相に気づくべきなのに、執拗なまでの追撃は演目でしかあり得ないよう魅入ってしまっていたから、どこまでも続く遠望と、実感を伴わない接触がやるせなく、短絡的な悪夢を欲してしまったみたいです。風見成美が昌昭君を今西家の子でないと叫びながら押しつけていったように、僕も実習生であった母の手で育ったのは、今西満蔵が風見成美に生ませた厄介者を引き取らせることで合意したからなのでしょう。ええ、段々と分かってきましたよ、じゃあ、由紀子さんは誰と誰の娘なのです」
虚空に向かっての問いかけに、永瀬砂里はちょうど衝立て越しの位置から応答するような隔たりを持って、また空間の遮りは時間と記憶に依拠するものであると心得ているふうであり、慎み深さは相手の面持ちとはことさら関係のない情調に操られていた。
幸吉のほうでも激しい胸懐をあらわにしようと、目線を合わせたり眉間を窺おうはせず、あくまで独白に終始する様子であった。
「風見成美が母でないなら、あとは決まっている今西満蔵が由紀子さんの父親なのだ。でなければ、僕と由紀子さんは姉弟と呼べない」
「そうですか」
砂里の声音は無用のあいづちであり、適宜な伴奏であった。
「正枝さんは僕を含め、蜘蛛の糸が艶やかに張り巡ったような尊大さで懐柔させようとしたが、女体のうねりにのまれていた僕は駆け引きに長けた色香より、漂うことを忘れた芳香に惹かれ、それは失われた欲情を煙らせていたから、すんでのところで理路整然としたもの言いに蠱惑の粘性を察し、視界を曇らせたのでした。すると最後の詰めでしくじりを演じてしまった焦慮は、正枝さんを舞台の中央へ歩み寄らせ、主役の座を誇示せずにはいられなくなったのです。
同時にその誇示には演出家の主張が居座っていた。しかし、感情があるのかないのか分からなくなっていた僕の無分別とは異なり、正枝さんはことの明示を避けなければならなかった。そうしないとこれまで地道に培ってきた女優の悲哀がそこなわれてしまう。自分が満蔵の娘でないと白状したのも、形式は終わったと告げたのも、限りなく沈着に今西家へ入り込む意志が働いていたからで、ここで感情をあらわにして、僕と由紀子さんが姉弟である事実を切り札みたいに口には出来ない。なぜなら、今西満蔵は由紀子さんよりあなたを愛していた。皮肉なことに僕はその逆だった。
そう仕向けたのはもはや鬼畜の域に属する考えでしょうね。昌昭君にしろ僕にしろ、畜生道へ突き落とす準備が整え続けらていて、まして仮定そのものが至上の法悦だと認識していたとうかがえる。あなたとの儀礼の婚姻はまぎれもなく正しい。その後の成りゆきは怖れもせず間弓さんと語り合ったことで実現したでしょう。僕が近親とは知らず情交を重ねてしまい、おののきひるむのを指をしゃぶりながら見物していたというわけですか。そして負い目でうちひしがれ、いても立ってもいられなくなった僕をなだめるふうに、あなたとの婚姻を正式に決める。由紀子さんとの過ちは水に流して。
たぶん由紀子さんも承知していたと思われるのですが、そうじゃないといくらなんでも筋書きが本当に狂気じみてしまいます。ところが僕が耽溺するのと一緒に由紀子さんもかつてない高揚に見舞われて、なにかしら抵抗をしめし始めた。父もあなたも感情には無縁でことを進めてきたのに、そうでしょう、計画はとことん非情であり、冷血で寸分の間違いも許されず、まわりには穏便で声を荒立てたりしません。
邪魔者は消せの指令はフィルムノワールだけと限らない、そこで由紀子さんの変死です。殺人をも厭わない心性を理解しろという方が無理に決まってます。どうでしょう、正枝さん」
幸吉は勝ち誇ったようなまなざしで砂里を見つめた。
「無理ですね」
「もっともだよ」
「でも生きていました」
視線は床に落ち、まるで狭隘な暗がりから這い出てしまったどぶねずみのように小走りに駆けた。
「みんな狂人だと叫んだのはその後だった。あの示唆でした。夢遊病的殺人というあり得そうもない可能性の可能性、そのとき僕はある情景をはっきり色濃く思い出してしまった。これまで地中深くもぐり込んでいた光線がはね返ってきた。急ごしらえの理性は周章狼狽するばかりでまったく機能せず、咄嗟の言い訳も順番を誤ってちぐはぐな語尾だけが、切り取ることを忘れた蜥蜴のしっぽのように慌ただしく逃げ場を探していました。一体どういう言葉を空間にこだまさせればいいのでしょう。あとあと卑俗な隠蔽行為が日記を書き換えるごとく、僕は言葉の端を光線に委ねることを放擲し、低級霊が蠢く陳腐な磁場へ勢いよく退き、ひとつの発想をおもちゃの手榴弾みたいに投げつける。時間のうしろへと、それでしっぽは切り離された」
「見失った日ですね」
「そう、あの日、僕は瀧川先輩とすれ違った。目撃者だとすれば第一に怖れなくてはならない。しかしあろうことか、先輩が殺人容疑で取り調べを受けていると知らされました。僕はもう観念していっそ自首しよう念ったけど、足も心もすくんで金縛り状態になってしまっていた。そのくせ、異様なくらい緻密な延命がわだかまり脳内を朽ちた劇場のように支配したのです。
上映される写真が決まっていないにもかかわらず、照明はきちんと落とされ、不吉な情趣と大柄な射幸心が銀幕に映し出されるのを待っている。胸をときめかせ、小さな興奮に不純な色彩がさまよい踊りだす、シャボン玉みたいな光の輪郭、浮かぶことの自在と風の便りが、意地らしいくらい向学心と馴れ合って、なにやら殊勝なことわざへ引っついてゆく。おもちゃ屋の軒先ではらはらする気分を安売りした、絵日記に書かれた稚拙な言葉、それはちょうど蚊に刺された肌を痒がり、大仰な腹立たしさで慰める子供の気まぐれが今も衰えを覚えないよう、自己本位な感覚で少しだけ未来に手を伸ばすおこないでした。
どうやら現場は誰にも見られてなく、決定的な証拠はまだ現れていない、が、無実の先輩は身の潔白を晴らすために僕の名を上げるだろう、遅かれ早かれ僕の人生は終わる。もっとも罪なき者の一命を絶ってしまったのだから、終わりも始まりなく、ただ回想のみがひたすら心身を侵蝕し、あわよくば清められることを願ったりするのです。狂人はわざと時間へ挑みかけ、打ち破れる演技にあこがれ、そして悔やみの外側で過去に呪われ、未来に漂流するのです」
「何処へ流れつくのですか」
「今ここへさ、正枝さんの言った、あなたと並んで町中を巡ったのは瀧川先輩に知らしめる為という話し、壮大な見当外れだよ。由紀子さんは別の意識で僕を引き回したのさ。ふたりは姉弟です、でもこれからとても淫らなことをします。理由は言いたくありません。理由より幸吉の動悸を聞いてください。思いとどまってくれたらいいのです。なぜなら、幸吉はわたしが姉だとわかっているような気がするからです。
正枝さんは身の上話しに策略を乗せるあまり、ちょっとした見過ごしやら、反対にいい加減な推量も積み上げ、圧倒しねじ伏せてしまう心意気だったろうけど、僕が不承不承な顔色をおもてにしても、色欲の名残りとくらいに解釈していたんだよ。お陰で僕の真意は形式では読み取れなかった。
もうこれで理解してもらえただろう。僕は瀧川先輩とすれ違っているが、むこうは別の事情で僕のことなど眼中になかった。いや、僕がわきへ身を隠し、その目線を妄想で吹き流したんだよ。目撃者を生み出すことによって緊迫の度合いを調整すれば、意識の負担はかなり軽減される」
「あのひとを降ろさなくていいはずですね」
「では、どうして由紀子さんを殺したのか、殺したのは別人だった。そうだ、別人だよ。僕はひどくなじられたのさ。瀧川先輩が関係していたある主婦の娘に。どうも先輩を追いかけてきた様子だったけど、怒りや憎しみで収まる勢いではなく、なにやら愛欲がむきだしになっていて、これは今日の天候みたいだと愕然としていると、風見さんとこへいつもいっているでしょう、そこでなにをしているのか知っているのよ、あんた瀧川の仲間なんでしょう、この不良の女たらしのろくでなし、夜這いしてあちこちに泊まり歩いてはこんなにいらつかせてさせて、あんたも同類なのよ、一緒なのよ、男なんてみんな腐った頭と不必要な下半身で生きているだけじゃない、価値なんてないわ、そんな調子でまくしたてられたんだ。
口先が激しいのも仕方なかったし、台風が迫っているのに欲情してる自分をあれこれ言える立場じゃなかったから、黙ってうなだれていたんだけど、今から瀧川先輩のところへ連れていってと迫られ、その表情に一種悽愴な閃光が走るのを見届けたとき、つい妙な思惑が無作為に吹きすさび、まったく好みだとか、そそられるとかいう具合ではなく、しかもそこに打擲されるべき影が消えているのを感ずるに及んで、今日は諦めようよ、こんな天気だからさ、僕も帰るよと、なだめるふうな口ぶりで諭したつもりが、どこへ帰るのよ、いいからあいつのとこへ連れてってよ、知らないの、ならいいわ、ひとりでいくもの、でもあんたも着いてきてよなんて言い出したので、無理だよ、さあ、今日は大人しくしてと、腕をつかんだところ、だったらいけない子はわたしなのね、そうなのね、わかったわ、さあ、ぶってよ、わたしが悪いのでしょう、瀧川の代わりにぶってよ、いつもみたいにぶってよ、そう詰め寄ってきたから、僕がそんなことしてどうなるんだい、今度先輩に伝えとくよ、っていい加減うんざりしてしまったので、もう一方の腕を背にまわして抱きしめ、駄々っ子になりたいのは同じだよ、と低い声で訴えたら、何するのよ、放してよ、やっぱり、やっぱりと言いつつ頬を近づけてきて、ねえ、やっぱりぶってと不敵な笑みを曇天の下にさらしたので、両腕を使って突き放してしまい、よろめく相手に同情の念を寄せる代わりに、鳥肌をともなった侮蔑と空模様の混濁した色合いが過敏な欲情へ溶けていくような感じがして、じっと相手の顔つきに戸惑っているうち、さっと背を向けてやや雨脚の強くなってきたことが引き金であったごとく、走り去ってしまったので、まさか、その姿が橋の下へ転がり落ちているとは夢にも思わなかったんだ」


[526] 題名:L博士最後の事件簿〜第五章・写真よさようなら3 名前:コレクター 投稿日:2020年07月06日 (月) 05時05分

第五章すなわち最終章に至るにあたって、この物語りの作者であり、いや作者などという言い方はどうにも不適切な感じがするけれども、そのいわれは冒頭で述べておいたように、着なれた洋服の襟をただすごとく、記憶の縫い目と言葉の針先で織りなされた資料(ここでの資料は文字通り)に促され、ある種の佇まいを再認識する流れを彩り覆ってきた四季の推移、時間の粒子が生み出す連鎖意識、あるいは断絶において容認されるならば、書き手である私が、関東地方在住の大江佐由花なる女性から受け取った奇妙な手紙を押し広げ、はや二年が過ぎてしまい、その間むろん筆致の緩みや散漫な気分を知りつつ、あたう限り丁寧に仕立て上げたいと願った念いが、はたして襟をただせたのかどうかは危ういけれど、L博士の姪の娘と名のる大江佐由花氏の意向に、魔術的な漂白にいくらか応じられたのではないかと推量しつつ、ここで物語りの再構築を試みたく、場面は駅前旅館の夜明けを突き抜け、「桜唇覚書」で描かれた、春雨の領分なぞ取りとめなき想いかすめし今朝の庭に渡り跳び、あの鳴り物入りで行なわれた心霊実験の直後へ、町中の人々が押し寄せた喧騒の裏方へと、案内する倨傲を許して頂きたい。


霊媒を推薦してくれたある心霊協会の青年は、別の催しから重大な席を任されていたとのことで、素性はおろか今朝はじめて会ったばかりの、孫娘に等しい若さの、注意が足りなかったゆえ大失敗の痛手に襲われた悲愴感のやり場に、L博士はいささか困惑していた。
少年時代に味わった哀惜を少しばかり甦らせたけれど、場内の罵声がまだ耳に残響している動揺にかき消されてしまったので、身を預かった少女の容態が気になっても、意識は回復したのだが、ぐったり毛布へ寝そべったまま疲弊した顔を直視出来なかったのは、降霊会の不備を嘆いている胸中の声だけでに限らず、また、闖入者に対して格別な怒りを感じていたわけでもなく、エクトプラズムが暗幕を植物的な加減で降りはじめ、座った椅子ごと宙へ浮かんだ興奮を覚ましきれていないからであった。
もし、あのままもっと上まで人体が浮遊していたなら、そう思うと老境に注がれる光輝はとてもまぶしく、しかし光輝が老いさらばえた心身を満たすと同時に、報われるに違いない若い霊媒への接近は、まるで人見知りするよう決して関心をあらわにせず、何気ない素振りで実務的なねぎらいや、消毒液を連想させる無害な透明度に安住した老人の微笑だけを残していくだろう。
L博士の失意の反対側にはそうした予定調和めいた成功を讃える意欲より、たとえ再び見向きもされない境遇へ舞い戻ろうとも、独り身の年金暮らしに甘んじて塵芥のごとく、微小な軽さにて垢臭い堆積を成す日々を送るしかなかったから、絶好の機会が見送られたことに意義を唱えるほど、生々しい希望など抱いてなかった。ただ長らく人前に立つ意義を逸していたので、それだけでも面妖な実験は初々しい興奮に包まれたのだが、霊媒の女性を詮索するよう見つめたまなざしには、汚れを拭うに似た自責の念が働いていた。
どこから来て何を語るのかすら知れない春一番の、低いうなりで首をすくめるように。
「もう大丈夫です」
幽かだけれど張りの戻るのが伝わってくる返事を受け、L博士は慚愧に苛まれたせわしい胸をなでおろした。
「どこか痛いところは」
「誰かに触れられたときは激しい痛みが走りましたけど、落ち着きました」
「なら安心したよ。興味本位でしかない輩が大勢いるというのを肝に命じておくべきだった」
L博士はようやく霊媒の面持ちに近づたようで、自分の声色に距離を感じる。
「わたしも霊媒です。覚悟はしておりました。でも意識が失われたわたしにはどうしようもありません」
関係者がおそるおそる見守るなか、会館の控え室へと赴き、窓の外にひろがる薄曇りの空を一瞥してから、ことの始終を霊媒に聞かせた。
「そうですか、混乱のうちに終わっていまったのですね。少しだけ浮いたのですか」
「あんたの紹介者に申しわけが立たない。わしはかなり気負っていたようだ。心霊実験を公開すると知って見世物小屋がかかったような騒ぎになった時点で、冷静な判断をしなければならんのに、ついつい興行主みたいな姿勢でとりかかってしまった」
すると霊媒は窓の向こうを覗きこむようにして、
「わたしだってそうですの。役者にでもなった気分ですわ。博士の催眠に導かれる前から晴れ舞台へのぼった心持ちがして、自分とまわりの境界が溶けてなくなるのか、それとも反対に一体化するのか、よくわかりませんが不思議と一人前になったように思えてくるのです」
と、すっかり体調がよくなったふうに声を出した。
「まあ一種の恍惚状態と呼べるだろうね。日常意識を放擲した時間の波間で揺らぐわけだから。ところであんたは誰かに霊媒の素質を見出されたのかな、まだ若いのに珍しくてね。あっ、こんなこと言うと失礼だが」
L博士も自然に打ち解けたような態度で訊いた。
「はい、幼少の頃より全身で感じるものに時折異変が生じて、それが大きくなったり小さくなったり、最初は形だけの存在だったのですが、次第に感触や色彩、それに言葉まで聞こえてくるようになったのです。母は素早くわたしの様子に気づき、はっきりした意見で説明してくれました。母が言うには自分も小さいときから同じだった、だから、きっとおまえもそうなんだ。遺伝なのよって」
「するとお母さんがあんたの霊能を見つけたんだね」
「見つけたと言いますか、読みとったと言ってました。自分の向こう側に誰かがいて、まるでこの世とあの世を行ったり来たりするよう曖昧に、けどぼやけた輪郭から形状がなんとなく、抜け落ちた文字から意味が類推されるふうに描かれています。それをわたしが読んでおり、その意識というか多分、文字や意識みたいに明確ではない状態を母は読んだそうです。」
「いったい何が描かれるのかな。心霊現象のひとつに自動書記というのがあって、考えてもないのに勝手に文字が並べられてしまう、しかし、あんたのはどうも別物かも知れない。誰かという、その誰かに心当たりはあるのかね」
「いいえ、ありません。が、その誰かに話しかけることは出来ます。あっ、すいません、厳密には直接は不可能でして、こちらが願い事をするような気持ちでいるとき、おのずと伝わるのではないかと思うのです」
「祈祷だとしたら敬虔な心がけだが、なんとも不思議な現象じゃな、しかし憑依ならある程度の解釈は可能だよ」
「では博士にお聞きしたいのですけど、博士は科学的な視座、もしくは心理学的な要因で解釈されようとなさる立場なのですか、たとえば心霊写真と呼ばれる一連の写り込みが果たしてあの世の仕業なのか、いえ、仕業ではなく、ふとした偶然、しかも意図しない写り込み、悪意も善意もまったく関与しておらず、単にそこが切り取られているという因果の欠落している状態にも、なにか先立った主意を見出だそうと努められるのですか。もしそうだとすれば、悪霊は跋扈しているでしょうし、天使だって自らの優美さを誇示して倦むことを知りません。が、汚れや美を感取しうる装置が機能していなかったら、恐怖は存在しません」
「ちょっと待ちたまえ、心霊写真はとにかく、文字が並べられるのだったね。そうか、うかつにあんたの霊能を探ったのが早計だった。あんたにはあんたの信憑があるし、簡潔に答えるのは難しいけど、わしは科学を信じており、心霊現象もその領域から切り開かれると考えているのだが」
「そうでしたか、わたしとは考えが異なるようです。すいません、実は母に博士のことを聞かされておりました」
「えっ、わしのことを。もしや、知っている人だろうか」
「母は旧姓山下有理と申します。この町の生まれです」
L博士は慎重な記憶の腕組みの狭間から、その名前にたどり着こうとした。
「いや、覚えがない。ものわすれに過ぎないのか。あんたはたしか」
「はい、わたしは永瀬砂里、別の時空でお会いしている可能性があります」
「なんだって、それはどういうことだね」
「わたしはもう少し先の時代で博士とすれ違っています」
「増々もってわからん、いきなり時間旅行かね、まっ、いいさ、詮索はやめにしておくよ。考え方が違うらしいからな」
「わたしのことはそれでかまいませんけど、時空の歪みに関して、博士は思い当たる節はないでしょうか」
「ほう、意外にからんでくるね。じれったいのは嫌いだから、はっきり言いたまえ」
「博士はじれったい方が好みだったのでは。わたしの従姉妹がのちに、博士の遺品を整理しようと思い立ち、あっ、失礼しました。まだご存命なのに」
「いいから続けなさい。未来の話しなんだろう、その好みっていうところからね」
「大江佐由花という従姉妹が言うには、博士の残した日記は数式や専門用語で埋め尽くされているうえに、時間軸にとらわれない奔放さで書きなぐられているので、とある人物に随意でかまわないから、体裁を整えてもらえないかと相談しました」
「あんたの従姉妹もたいがいだね。他人にわしの遺品を調べさせたのか。おっと、すまない、先をどうぞ」
「そうなんです。好みなので仕方ありませんの。従姉妹は博士の姪にあたるのです。わかっています。反論はごもっともでして、でもこれしか方法がなかったのです」
「なるほど、じれったそうだね。時空が異なってこの次元は別の空間、そこにわしの兄弟がいるわけかい。じゃないと姪なんて生まれてこないからな。で、一人っ子だったわしにいつ出来たんだね、その兄弟が、まさか隠し子とか、とってつけたようなことを持つ出すんじゃないよな」
「残念ながら、とってつけたことなのです。博士には姉がおりました。つい最近亡くなったのを霊感で突止めました」
「立派だね。たしかに多次元宇宙は数式でも物理学でも熱心に研究されてるし、新たな発見や未知なる宇宙の存在が解明されようとしておる。だから、あんたのいう時空の歪みに対する意見は尊重するよ。それに科学的な説話だから、耳も傾けるつもりだよ。じれったいのだね、なんとなくわかるよ。わしは子供のときから慎重だったような気がする。でも反面では大胆なところもあってね。そこに由縁するのかな、わしの姪がどう思ったか知らないけど、お手上げだったんだろうね、ほんとうに」
すると霊媒はさっと立ち上がって、表情に憐憫みたいな影を見せながら、
「博士、そうなんです。ほんとうなのです。従姉妹も代理の筆記者も困り果ててしまいました。肝心な、それは肝心な部分が書かれていなかったからで、つまり博士は故意に書かなかった、あるいは判読不能にしていたからです」
と、窓の外へ届くほどの声量で言い切った。
「ああ、そうだったのか、そういうことなのか、故意にね、そうだね、恋にだ、恋する恋にだ」
「えっ、」
「あんたは霊感で読みとったのかい、なら、誘導訊問なしで教えてくれるかな、わしの姉の名を」
「旧姓風見由紀子さんです」
L博士がまるでよろめくのを構えていたかのように立ち上がっていた霊媒は、
「すいません。思い出したくないのでしょう。それなのに」
老体を華奢なからだで支えながら言った。
「かまわないよ、めまいは好みだったから。今は少々こたえるけどね」
「ああ、ひょっとしてこんな感じなんだろうか、あんたのさっきの苦痛」
抱きかかえられるような姿勢を恥じているのか詫びているのか、そう訊ねてみたら、
「比べようないがないですわ。ひとそれぞれの痛みですもの」
と、L博士に引き渡した影のたもとでひっそり答えた。
「愚問だったよ。で、あんたはこれからどうするの。まさか、従姉妹に頼まれて未来から調査しに来たわけでもないだろうし」
「迎えが参ります。それまでは博士を案じております」
「あの青年だね。わしにあんたを推薦してくれた」
「はい」
「ぼんやり考えごとしていてもかまわないかな」
「どうぞ、こころゆくままに」
手をたずさえられ椅子へ腰掛けたとき、窓枠とは反対の壁に大きく張りつけられた化粧鏡のひかりに吸い込まれてしまった。
ほとんど白くなり薄くなった髪と、老いを知らしめる顔がにらみ返している。老醜のにらめっこでいったい誰が笑うのだろう、いや笑わなくてもいい、この控え室を出た裏側にある防空壕の恐怖に震えてみるのだ。
「静子さん、ろうそくを貸してくれない」
「駄目よ、真っ暗にしたらきっと嫌らしいことするから」
「そうじゃないってば、必要なんだよ、その炎が」
不意にL博士は古い古い光景を取り戻し、それは櫻田静子との接吻に繋がって羞恥と興奮を呼び覚ました。
「永瀬さん、あんたにとってこの町は二度目になるわけかな」
「過去ですが、いえ、過去だからこそわたしはここに来ているのです」
「だったら聞いたことないかい、もっと昔に犯したわしの罪を」
「聞き及んでないと言えば嘘になります。でも博士、わたしはその詳細を知りたいと思ってはいませんの。しかし結果的にわたしが博士と近づくことで、宿命は・・・」
「宿命は、変わらないよ」
「すいません」
「なにもあんたが謝ることなんてなにもないんだ。霊感もいらない、先に言っておくよ。決してあのひとを降ろして欲しいなんて。だけど、もしよかったら聞いてくれるかな、迎えを待つ間だけでいいから」
「はい」
「わしは、いいや、僕はまるで映画館の緞帳みたいな漆黒のカーテンに火をつけたんだ。その部屋のあるじは、あこがれた女優の父だった」


[525] 題名:L博士最後の事件簿〜第五章・写真よさようなら2 名前:コレクター 投稿日:2020年06月23日 (火) 00時35分

自宅の窓から眺められる稜線が起伏の曖昧な濃淡を知りつくしているように、駅舎の上空を意識せずとも、正枝の青白い顔は気怠さと鋭気で同時に華やぎ、幸吉の見遣るべき方角を仄かにしめしていた。
蛍光灯の明かりが白々しい照度に思えてきたのは、関わりに疲れた証しというより、ほおっておいても自然に溶けだすであろう氷塊を想起させるのだったが、その大きさはどれくらいなのかよくわからないまま、ただ冷たい手触りが透明な白さのなかで彷徨っているふうな、無邪気さに退屈してきたのだった。光線の広さを散漫な手つきでつかみとることが出来ないごとく、悦びと悲しみの由縁を両脇にかかえ慢心するのは難しい。たぶん慢心でなく硬直した精神の機微を不誠実に模索し続けていたのであれば、この瞬間は絶え間ない表現を、それより前の現実に照らし合わす意欲をもって讃称されていたかもしれない。晴れ晴れしい栄光が過ぎ去ってゆく薄明を身近へ感じるほどに、後ろ髪を引かれるような胸騒ぎが生じたけれど、あの激しい情欲の訪れに比べたら軽はずみな巡回でしかなく、ちょうど洗面器の水をかき混ぜて小さな玩具の船を泳がせているような童戯の域を出なかった。
戦慄をともなっためまいは夜のしじまへ置き去りにされ、代わりに疑い深い野心が健やかな目許を形づくる。かはたれどきの意識にはまどろみの淡さが揺曳しており、それはどれだけ夜更かししようとも、寝ずの番に倣っても、緊迫と情念の地平が向こう見ずな暁光を沈めている以上、尖った神経はあたかも初霜の重みをそっと感じる野草のように、冷感を幻聴の得て、視覚だけ頼りとする現実の景色からこの身を解き放つ。
旅館が旅館である意味を過分に引き受けているような感覚は、女体との怪しい結ばれによってなおさら背徳の欠片をかき集めたし、あわせてささくれ立った詩情みたいな良心を発見してしまい、妙に気恥ずかしくなったりしたが、この部屋の時計を今はじめて眼にしたと思ったのも、時刻がしめす非情なまでの快活さに動ずるのも、やがて徐々に耳へと入ってくる町並みの忘却の条理が軋むからなのか、風の音や海鳴りにも似た騒音の気配、きれぎれに鳥のさえずりへと絡む労咳らしき人声は遠くかすんで、見苦しさを覚える以前に新鮮な空気に染まった色調が音階を戯れさせると、まるで鼻歌みたいに通りを抜けていくのだった。余興もまた見苦しさに恥じ入ることのないまま、子供じみた台詞を幸吉の舌へ乗せた。
「嘘に終わりがあっては困ってしまいます。面白い嘘なら特にそうなのですが」
「言葉遊びに罪がないとでもおっしゃるの」
「罪かどうかはあなたが決めてください。そこでお別れを前に正枝さん、あなたの嘘をあっさりあばいておきましょう」
「どういう意味ですの、あっさりあばくとは」
「家へ帰れば三人が待っています。でも三人を糾弾するつもりなど毛頭ありませんよね。それどころか、由紀子さん殺しの真相をうやむやにした功績をみんなで讃えあうのです」
「そんな馬鹿なこと、いったい何を言いたいの」
「早送りして言えば、あなたは今西家の成員が油断した隙に鋭い刃物を振りまわし、皆殺しにしてしまうのです。それからこと切れているかちゃんと確認し表に出ると、一世一代の悲劇のヒロインを演じるわけですね。正当防衛なの、わたし殺されそうになったの、由紀子さんを闇に葬ったのもわたしの家族たちなの、でも誰とも血はつながっていないわ、認知の件でもめてたの、でもまさか、こんなことになるなんて」
「幸吉さん、いい加減あなたこそ狂っているんじゃない。そんな突拍子もない話し」
「いいえ、計画性のある話しだと思うのですけど」
「だから、それがおかしいわ。わたしが殺戮をくりひろげてどんな幸せが待っているのよ。そんなの人生終わりでしかない」
正枝の蒼白な面持ちが奇特なくらい歪んでいくのを見守った幸吉は、
「売れない女優の仮面を被って生きていくのでしたね。そこが変に聞こえて仕方ありませんでした。あなたともあろうひとがそんな臭い発言をするなんて。あきらかに反対の意志を持っている。用意周到なのは三者との手紙、十分な証拠品ですし、都合の悪いものはすでに処分しているでしょう。それにあなたは自分にとって不利な文面も書き送っていません。細々と微に至るまで僕に語ってくれたのも、まさに証人のなかの証人に仕立てあげる為だったのですね」
と、整数を読み上げるふうな乾いた淀みのなさで言った。
「で、一家殺害者になったわたしはどうなるのです。あなたを証人なんかにしたところで割りに合いません。なら動機を、動機を説明してくれますか」
「証人と動機が不可分だった。これが今回の事件の、あっ、ごめんなさい、まだ実行されておりません」
幸吉の冷徹なもの言いがいかにも腹立たしい様子だった。
「不可分ですか、そうなんですか、ではそれを説明して下さらない」
「売れる売れないはあなたの判断より世間の評価が大きいって考えましたよね。それが動機です。あなたは悲劇を背負ってしまえば、つまり醜聞なんかよりもっと偉大な扇情、そう殺人を、しかも道徳規範を意識するあまり極めて従順な姿勢を残しておく必要がありました。あなたの犯した虚偽はどうにも虚偽とは言い切れません。これはあくまで心情的な捉え方に過ぎませんけど、まるで家族間にはりめぐらされた蜘蛛の糸を慎重に渡るような姿勢こそ、一歩見方を違えればものの見事に、禁欲的な忖度へすり替わってしまうのではないでしょうか。とかく世間は生真面目な態度を好みますので、あなたの気配りは局所麻酔のような効果を発揮し、煉獄の炎は鎮火され、大罪は大罪と呼ばれる機運を逸するのです。あなたへの同調に大いなる期待を寄せることはさほど無謀ではなく、たとえば大蔵社長みたいな商人からすれば、意識変容の冷めきらない内に是非とも銀幕に新たな息吹きを、殺戮と引き換えにした鮮烈な色彩で映し出したいと考えはしませんでしょうか。
希代の女優の道が開ける可能性に賭けたのではありませんか。いくら親族ではないと謳っても、これは逆ですね、極めて親族に近いだけじゃない、肉体の結びつきも含めて心のつながりは相当こみ入っており、どろ沼の一言では片付けられない境地まで地ならしされてました。僕との婚姻、あれは正気だったのですよね。僕はあなたより由紀子さんを好きになってしまったから、結局失敗しましたけど」
「何度も言いますが、どこの映画会社が殺人者を女優にしてくれるのです。社会通念も道徳もなぎ倒してですか、あなたの脚本はあまりに飛躍しすぎていて誰も見向きもしないわ」
「さあ、どうでしょう、やはり大蔵貢社長だったら好むと思うのですが。エログロ路線も行き詰まっているみたいだし、ここで本物の殺人女優を映画へ登場させる。由紀子さん殺しとか筆を加えなくても、すでにあなたと間弓さんの手紙の応酬だけで危機せまるものがあります。認知をちらつかせて殺人犯へ陥れる構図も現実の力がものを言いますよ。大蔵社長のことです。裁判やら執行猶予を鑑みて大作の制作に取りかかる。そうなれば、もうあなたは日本中のいえ世界中の大女優に上り詰めることでしょう。僕さえあなたの証人であったなら」
興奮によるものだろうか、正枝の頬は紅潮し、少しだけ狡猾な笑みを投げかける。
「展開はわかったけど、ひとりで三人も殺めたりできるのかしら、反撃されて顔中傷だらけなんて悲惨すぎるわ」
「あなたはそうした段取りが得意じゃないですか。劇薬をのませてから、これは後々検死で明るみになってしまいますね。となれば、ひとりづつですよ、満蔵氏はほとんど寝たきりでしたね。ですからあとわましにして、やはり昌昭君を色仕掛けで悩殺させ、本当に死んでもらう。つづいて間弓さんを呼びつけ、弟の死体のそばまで近づかせ背後から一撃で、あと同じ部屋で言い争い刃傷沙汰まで至ったことを現場的に作りだすには満蔵氏にも誘いかける必要がありますね。それから正枝さんも手足や首筋とか自分で傷つけておくべきです。顔はそうですね、額くらいなら髪で隠せるから思いっきり。洋服もボタンを飛び散らせたり、とにかく血で汚れるだけ汚れてください。正当防衛であれ、相手は三人、うまくことが運ぶ確立は低いですが、あなたは夢の向こう側へ踊り出ようとしている。やがて大々的に上映される映画には、鮮血の家族とか、紅の女豹なんて題名がつきそうです。その為にこそ今西家にまつわる煩瑣な血縁関係が役に立ったのでしたね」
「それで、幸吉さん、筋書き通りにしなさいとわたしに命じるわけ」
「とんでもありません。殺人教唆なんてまっぴらです。嘘をあばいたのですから、殺戮はあくまで妄想としておきましょう。素直に売れない女優の仮面なんて脱ぎ捨てればいいのです」
「ずいぶんだわ。ひどすぎます。もういいわ、証拠はわたしがいなくなってから、しっかりそのとち狂った脳みそで考えてみてよ」
ひかえめであった時計が能動的な配慮で夜明けを告げていた。
幸吉は正枝の帰り支度をぼんやり見つめながら、女優としてもう二度と呉乃志乙梨の姿を見ることはないだろうと思っていた。たしかに正枝のいう通り、貴重な、散々気持ちいいことをしておきながら、この薄幸の女性をいたわるどころか、取り返しのつかない境遇へ追いやろうと、しかも探偵気取りの風采に甘んじながらの、取るに足らない優越心だけにしがみついている。自分の緩んでほどけた帯とはうらはらに、正枝の身支度をしおらしく整えていたが、その面持ちはうかがい知れなかった。
人生最後の事件、脆弱な心根は早くも時計の動きに老成を託しているのか、無様さとやりきれなさの交差点に灯る赤信号を想い起させる。危険な賭けなら自ら突っ込んでいくべきだった。
「ねえ、幸吉さん、わたし思い直したわ。これから一緒に今西家の方々とお話しませんか」
可能なだけ想像しつくした憐れみの、そんな言葉を待ち受ける所在のなさは時間のうしろへ佇んでいた。


[524] 題名:L博士最後の事件簿〜第五章・写真よさようなら1 名前:コレクター 投稿日:2020年06月09日 (火) 01時56分

「父のはぐらかしと前のめりな勘案に対して、あなたは子供だましの口ぶりを耳にしたときのような、居心地の悪さを覚えたにもかかわらず、幼さが残された無邪気さに頬をゆるめていただろうし、なにより色事と理想や儀礼の混濁した形式の始まりで胸を高まらせていたのだから、今さらなにも迂回のよるべない戯れへと舞い戻ることはないでしょう。歯ぎしりするほど悔しがったり、手に汗かいて背筋を冷や汗が流れていく緊張に苛まれた成りゆきは、あなたにとって又とない華美な体験を約束していたに違いないわ。
間弓さんは決して口外していませんけど、あきらかにわたしを利用する名目を待ち受けていたのであって、仕方なく間弓さんの意向に寄り添ったことも含め、ことさら折り紙をつけるふうに狂人などという生臭く乾いた言い方で向き直さなくても、浮き足立った相好はわたしの影にへばりついており、あなたの深度計に敬意を払うべきでなのですが、なにしろひとつ屋根の下で息をひそめるなんて、そうよ、間弓さんと昌昭さんの関係に父が気づかないはずはなく、由紀子さんを巻き込んだ色欲合戦の結末を見越していたと考えられるべきだわ。三者との手紙のやりとりを通じこぼれ落ちてくるのは、父が風見家との不調和にこだわっていて、あなたの言う狂人らしさを香らせるため、是が非でも由紀子さんを渦中に引きずり、そして燐谷の妻の子である幸吉さんと結びつける、さながら磁石の性能を確認でもするみたいにね。もっともそんな算段こそ風狂以外のなにものでもないから、わたしだって父の目論見に黄昏の景色を眺めるような案配で、そら恐ろしい経緯に夢見る心地を滲ませるしかなかったのです。
まず、昌昭さんが秘かに修学旅行先でわたしを抱いたこと、あくまで素知らぬふりをする間弓さんでしたけど、純潔同士の肉体に恋い焦がれていたのに、わたしと交わったと知りどれほど嘆き、憤懣やるかたなかったことでしょうか。でも相手は遠い都会に暮らしていて、涙を枯らすのは天の恵みであって毎日必ず顔を合わせる境遇に勝機を見出すしかない、空模様の不機嫌さが自然と笑みをもたらすように、間弓さんの失望はぐるりと敷きつめられた健気な雑草の横から開花する可憐な見映えをなぞり、したたかに底意地の広大さを脳裡へ持ち上げて、情欲の火花が咲き散る刹那を限りない優しさで凝固させたのよ。
一度だって女体を味わったのであれば、その欲望は風化なんかしない、必ずや悶々とした念いを、そう昌昭さんは誰の眼もないと気配りなく隠微に眠りのなかへ、布団の下へ汗とともにしみ込ませるだろう、だとしたら間弓さんはひと足早く、そんな切ない煩悶から解放させるために、苦渋の酸味を含んだ汗なんかとは異なる欲情のしずくをあたえるべく、禁断の色香を正当に打ち出せばいい。よりにもよって隠し子の女優なんかに入れあげてとか、自分の気持ちを踏みにじったとか、決して非難したりはせず、あくまで穏やかな態度と異性を鮮明に意識させる媚びをかいま見せたうえで、女体の開眼はここにこうしてあるのだと、密やかな耳打ちをしつつ裸体をさらけ出す。昌昭さんが心身ともに凝り固まってしまえば、姉としての責務を果たす素振りで、同時に女としての情を捧げるだけ。
わたしの認知が先々でしかない現実を、間弓さんは強烈なまなざしで見つめ、昌昭さんにその肉体を開いた結果、血のつながりのない厳然たる脈拍は波打ち、禁句であるべく相似形の由縁は無効を高らかに謳いあげ、ほとんど外出しない父の寝息を慎重にうかがっては、深夜を待って互いの肉欲をぶつけあっていたのよ。寝入りの浅い父の耳もとにそのよがり声が、しっかり届いているとはつゆ知らず。
もう出来てしまったので、包み隠すことないなんて思うのは大間違いだわ。戸籍上は姉弟であり、しかもいわくつきの、風見成実の悪名は忘れられてはおらず、間弓さんや由紀子さんの同学年の男子生徒と昼間から乳繰りあっている。父にしてみれば、過ぎ去った幻影がしきりに春春の光で包まれているように映って目映く、かといって娘であるわたしとも情を交えた昌昭さんの奔放さを容認しておくわけにはいかなかった。形式としての婚姻は今西家に巣くう淫欲を祓い清める儀礼の趣きで唱えられ、他者の幸吉さんが偶発的に選ばれたけれど、あなたの母は父の古き恋人、儀礼が内包する厳粛さのみが空疎に佇んで、その心願は乱れに乱れる業の照り返しに本然を悟り、人生の坂道を大様と振り返ろうとでもしたのでしょうか。
由紀子さんのスカートの下へ蜂を忍ばせたのも父であったら、すべての辻褄が合うのですけど」
いくらかふてぶてしい顔つきで頷こうとした幸吉は語気を改め、
「端的な前置きで感心しましたけど、正枝さん、あなたの素性をそろそろ教えていただきたいのですが」
そう問いかけると、
「そのつもりですわ。でもすでに分かっているのじゃありませんの。わたしが満蔵の娘ではないってこと。ええ、父も内心そうだと考えているみたいだけど、娘であって欲しいと願う気持ちの方が勝っていて、どういうことかしら、昌昭さんもそうだし、つまるところ血筋なんてどうでもいいのでしょうか。いいえ、そんな単純な主旨ではなくて、もっと逆説的なこじつけに似た不埒で、浅はかで、愚挙であればあるほど奮起させる桃源郷を脇に見据え、不安定で覚束ない老境に束縛されたりせず、反対に安定の義理を欠くことへの忠誠に痙攣的な意識が生じているように思えて仕方ないのです。駄目ですわ、そんなこと父に聞けません。あなたの娘ではないと明言することになってしまいます。これがわたしの逆説的な親孝行と呼んでくださればうれしいのですが」
いかにも女優然とした憂いとはにかみを交差させた。
「僕は好きですよ」
「ええっ」
「小津安二郎監督の東京暮色、有馬稲子さんがとても魅力的でした」
「そうですの」
「深夜の告白、はもっと好きです」
「ビリー・ワイルダー監督でしたわね」
「バーバラ・スタンウィックが演じた悪女にも惹かれます」
「嫌にせっつくのね。あなたを殺人犯に仕立てようと考えていたのかしら。しかし、そういう展開になりかけたのは事実、真犯人を述べるのは少しだけ待って」
「いいですとも」
「さて、それでは父がわたしに性的な関心を持っていたのか、そこを説明しておきましょう」
「分断されますね。とことん、僕は持っていたと信じたいですが、どうにもしっくりしない。あっ、すいません、どうぞ続けてください」
「いっそ、話しなんか止めにして、あれをしません。しながらでも話せるような気がして、そうしたら楽に思えて」
「全部ですか」
「一部なんてあるのかしら」
「ありますよ」
「気分を害しました。あれは止めにします。さて瀧川さんですけど、父が語るにはあれくらいの年頃で母親くらいの女と寝るなんて、不思議な思い出になる。由紀子を手篭めに出来なかった腹いせなんかではないわ。もしそうなら私は尊敬しない」
「ちょっといいですか。あなたはいつから満蔵氏とそんな会話を、この町に着いてからでしょうか」
「いいえ、もっと前からよ。わたしが父の子ではないと公言した以上、冷静な緻密さなんて必要ないわ。それくらい理解してください」
「手間は省いてと言いましたが、理解可能な範囲でお願いします」
「由紀子さんも大概だわ。自堕落な母親と暮らしていて、あっ、そこよ、どうして思い当たらなかったのだろう、ねえ、幸吉さん、わたしに血縁がまとわりつくことも生まれることもなかったように、風見成実は由紀子さんを生んでいなかった。だから、ああまで淫猥だったのよ」
「それは推測ですか」
「たぶん正解だわ、瀧川さんはそれを見抜いたのか、もしや相手から聞かされたのか、で、興醒めしたわけよ、親子を犯しているかのような高邁な色情がさっと色褪せてしまったのね。戸惑いと弱みを絡めとられた末、まんまとお人よしに成り下がってしまった成実が疎ましいだけだった。しかし暴君のごとくに振る舞う放縦さは顰蹙を買うどころか、逆に軽薄な喝采で空気感を濃くし、なんと主婦好みの体裁は瀧川先輩を美化させ、まわりはより一目置くことになったの。ただ、そこに由紀子さんが殺される理由はうかがえません」
「しかし瀧川先輩が」
「理由がないのよ。まず得意気に熟女のあつかいをまわりにもらしている。この広い世界のなかには性的な興奮から殺人へ転じてしまう事例があるのでしょうけど、少なくとも瀧川さんは自己愛が強い反面、自制もちゃんと心得ていたのではないでしょうか。絶頂の瞬間だろうと、讃美の最中だろうとまず自分を失うような性格ではないわ。
思えば間弓さんが調べてくれた風見家のふたりはひどく他人行儀だった。近所の主婦に乗り換えたところで、喘ぎ声から解放されたとせいせいしていたはず、お互いの下半身事情に冷酷なほど無関心であることを痛感した瀧川さんは、冷淡な眼こそ向けたとしても、殺意を抱かせるような発展にたずさわっていなかったはずよ。残された選択は何らかの状況で強引に迫ったのか、それに似た攻撃的な事故に見舞われたのか、いずれにせよ、由紀子さんは致命傷を受け、橋下に投げ込まれた。でもあの日は悪天候、いったいどこでもみ合ったのか」
「先輩が犯人ではないと」
「証拠がないのよ。あなたの夢遊病殺人だって捨てがたいわ」
「僕だって動機はありませんよ。妊娠したと打ち明けられて面倒になったからとでも、そんな馬鹿な」
「幸吉さんの線は薄いわね。だとすれば、昌昭さんしかいないわ。わたしの真意を知ったうえで間弓さんと共謀する。間弓さんはそれを口止めし、晴れて愛が実ったからには由紀子さんが邪魔になってくる。代役であることから踏み外れ、あなたのことを思い詰め、今西家と無縁になるのはいけど、形式としての婚礼が早められ、わたしという部外者を姉と呼ばなくてはならなくなる。間弓さんも由紀子さんを引き入れたのは父だと思っており、そしてなによりも昌昭さんとこれまた血縁でないとしたら、一番危険な女になると怖れてもおかしくないわ。すでに間弓さんの肉体にのめり込んでいた昌昭さんを焚き付け、亡きものにしてしまえば、父だって縮み上がってしまい、わたしの認知も取り消し、元名士としての器量を発揮してもらい、姉弟を越えた情愛の形式を世間にひろめさせることで、今西家の波紋は亀裂を忘れた風趣な展望となりうるわ」
「それで、正枝さん、どうするつもりなのですか」
「これから三人を糾弾し、わたしは東京へ帰ります」
「僕には今西君が人殺しをしたなんて想像も出来ないのですけど」
「三者の密談で、こうなることも協議されていたでしょうね。わたしは認知もあきらめ、あなたが狂女の王冠を授けてくれた気概に感謝し、売れない女優の仮面を被って生きていきます。ごめんなさいね、あれ、する時間がなくなってしまいましたね。もう夜明けは近いわ」
「さようならですか」
「ありがとう、さようならです」
「正枝さん、最後にひとつ。どうして僕と」
「証人になってもらいたかった。わたしのこと、信じてもらいたかったからよ」
「形式の婚約者だからじゃないのですね」
「もう形式は終わったわ。あなたの貴重な体験も終わりです」
幸吉は思い切り顔をくしゃくしゃにしてこう尋ねた。
「あなたの嘘もこれで終わりですか」
薄明の垂れ幕がまだ夜空へひろがらない静けさを知らしめるよう、野鳩が数羽、聞き分けのよい赤子に似た鳴き声を軒先へやわらかに転がしている。
虚構の虚構に別れは似合わない、払暁を顧みるとき、決まって幸吉は母の言葉を思い返す。
「年寄りの病人が寝ついて、うなっているみたいに聞こえるから鳩って薄気味悪いのよ」
夜を通り抜けた本能と、さり気ない日常のひとこまへの直感が両方の耳へこだましていた。


[523] 題名:L博士最後の事件簿〜第四章・天使のはらわた22 名前:コレクター 投稿日:2020年06月02日 (火) 02時38分

「気だるい夕陽は今日も都会のまんなかへ沈んでいるのかなどと、具体的な安息と一緒になった映発する踏み切りの電車に、人影を見送っていたつもりが、ちょうどやせ我慢している相手の気持ちを苦々しく汲み取ったときのように、まばゆい遮断で急かされて、ふっと後味を噛みしめながら立ち止っていたことなどすっかり忘れてしまい、アパートの階段を駆け上がる足どりの重さに入り雑じった安穏な期待へ即したのか、そんな日に限ってね、郵便受けには今西家の三人から同時に手紙が届けられていたりするから、ついつい裏の小さな墓地を朱に染める加減にほだされて、都会の喧騒が田舎町の景色との距離を感じさせなくなり、それはとても地味な心意気であるにもかかわらず、ふっと踵が浮き上がるような親しみを押し隠しているのか、この町のどこかへ繋がっているみたいに思えてきて、瞬く間に日本列島を縦断してしまう風景の連なりは果たして誰に補強してもらったのかしら、こんなふうにいとも簡単な距離感を胸の地平へ配置していまうなんて、気弱な白昼夢が鼻歌でも鳴らしているでしょうか、近所の顔なじみの、そうよ、絶対かみついたりなんかしないと内心へ言い聞かせるふうに、妙に自信たっぷりの信頼をふくらませたりしながら、まるで酔っぱらいの仕草のように流し目を送った野良犬とすれ違った光景をよぎらせると、剣吞な意想は軽やかに払いのけられてね、華々しい理想を差し替えるように売れない女優はさっさと家路へ着くものなの、いらない人付き合いに精を出すほど陽気な意地は持っていませんから、間違っても放蕩者の仲間入りすることはないでしょうし、下手な恋愛などもう懲り懲りなんて、返す返す有効成分を含んでいたであろう副作用に過剰な念いを託したのち、撮影終了の儀礼の花束を手渡す場面から、勢い鼻孔をつくように芳香があふれだしては、その抽出液を全身にまとわりつかせ、疲労と怠惰がこの階段を踏みしめている実感へとたどるのですわ。でも無益な思考に罪はありません。美しさや悦びは些細な生き方の緊張の刹那に、戦慄的にこみ上がってきますから。
浪費と言えば、自分の甲斐性を棚に上げ、行き止まりを知らない路地の編み目を徘徊したりせず、むしろ広大な都会の地に眠る礎石をひとつひとつ確認でもするごとく、もっとも歴史的な遺跡や文化の変遷にまつわる学術をなぞっているわけではなくて、ただそこに江戸の黎明より流れていよう用水路の面影を浅く見遣るくらいなので、やはり朽ちた鳥居の赤みやら、往年の辻を偲ばせる仄かな気配やら、名刹ではないけれど読経が秋の報せに乗って来るような門前の佇まいに迷宮を感じてしまうのです。重い足どりは江戸の昔から吹き抜いている路地へ淀む風の便りなのでしょうか。もしそうなら威勢よくあって欲しいものですが、飛脚の疾走を旧街道に感じるまえに、そこら中を走りゆく電車のけたたましさがせわしなく、反対にあくびをしてしまうほどですので、今西家は決して異郷ではありませんでしたわ。揃いに揃った手紙を束ねたとき、わたしは灼熱の受容を得ていたのでしょう。遠い野心は食器棚の奥で錆びつきを待っている缶詰に似て、おおらかな強度をまとっており、視認は反撥の鎧を意識しているのです。ちょっとやそっとでは朽ちない金属の栄光は、安物にだって付与されているわ。
どうやら手紙の内容に興奮を覚えることは稀釈され、映画以上の刺激を受けなくなっていたみたいで、返信にも創造的な言葉を探していると思えなくなっていました。わたしさえ、大人しくして波風を立てず、父の言いつけに素直な態度をしめしていればよいのでは、そして間弓さんにもあまり干渉せず、もっとも彼女の願望が成就するのかどうかは昌昭さんの受け入れにかかっているのだから、わたしへの思慕を断ち切らせたとして、間弓さんの情熱がくみ取られるとは限りません。認知を求めた結果が元凶であることに揺るぎなく、父の不始末は春画からあぶり出された功罪なんて代物ではなく、家父長の淫行そのものであり、おそろしいことに気づけばわたしもその負の恩寵をしっかり授かっていたのです。缶詰の中身は腐っていたのです。でも錆びを知らない栄光は今もわたしを呪縛しており、由紀子さんの死は永遠に暴かれないのでしょう」
正枝は深いため息をつき、肉欲の機能に陶酔的な美学を貸与した自分自身の影身に悔いているような表情で、幸吉の眼を見つめていた。
「昌昭さんがわたしの存在に気づいてから、父は画策を講じたのよ。間弓さんの疑心は当たっていると思う、接近を謀ったのはおそらく由紀子さんだったわ。もう血縁だの因果だのにはうんざり、昌昭をさんを安易に引き取ったくらいだから、その姉にも父は何かしら関与があって然り、現に間弓さんに娘かも知れないなんてもらしているのよ。どうして早く由紀子さんの素性にもっと深い関心を抱かなかったのか、そうすれば悲劇はしおらしく、それぞれの邪心をかすめゆくにとどまった」
「あなたには知り様がありませんでしたよ」
「違うの。わたしは大部屋女優の遺恨を背負ったまま、今西家を舞台にして、さっき幸吉さんに言われたじゃない、女流監督のまねごとを始めてしまったのよ。少し調べみたら風見家とのかかわりだって、由紀子さんの屈折した心情だっていくらか理解できたはずだわ。あなたが踊らされてばかりじゃないって答えたように、わたしも着せ替え人形の沈黙にたえきれなかった。性欲の所在にしたところで、年下の男の子と戯れるという決して自ら火傷なんか負わない軽薄な内炎に触れていただけなの。角度や見方によって人形らしさが損なわれてゆくだけの、行動とは切り離された観念だけに浸っていたのよ。
はっきりとした証拠はないけど、今西家の三者は密談を行なっているわ。あなたが父を訪ねても不在であったあの頃」
幸吉は大仰に腕組みしながら、
「なるほど、僕にも正枝さんにも立ち入られては困ることがあったというわけですか。しかしですよ、あなたは三者それぞれと文通しており、各自の思惑を把握しながら、それ自体の漏洩を察知していたなんて茶番だと呆れるまえに、むしろとっても手間ひまかけた絡み合いが、特殊な人間関係の渦があなたを嘲弄している事実に胸が痛みますよ。しかも嘲弄とわかっていながら、家族団らんでトランプをしているような朗らかさを無理やり刻印した面持ちは仮面でしかなく、悽愴なまなざしの由縁を遠ざけたまま、ひび割れるであろう仮面のちいさな傷に気をかけていた酔狂な意識も感じられるのです。
今西家の密談とか、確かに起こり得そうな趣きには引きつけられますが、あなたを含めた全員が狂人の部類に属していたと仮定してみればどうでしょうか。僕以外の見聞や体験はすべて誰かのつくりごとであって、いかにもこの世界との関わりが如実に判じられる側面のみを過大視して、それは本筋が何処へ通っているのか、血は誰の肉体に流れているのか、人形の本然が単なる模倣でも複写でもなく、怪し気な息吹きへの触れ合いであると心得たのなら、僕はまたもや振り出しへ舞い戻ってしまうのですが、今度ばかりは夜明けの女神に心酔していられません。あなたに狂女の影を先取りしてしまった腑抜けの感性が今ようやく見直されてきました」
「せっかくの自画自賛ですけど、幸吉さんだけが捨象されるわけにはいきませんの。あなたの眼光があった先には疑いようのない節度と、その節度にふりまわされることを願った悦楽が歴然と輝いております。ほら、わたしのあそこはまだ温もりを忘れず湿気っているし、由紀子さんの亡霊だって、すぐそこにあなたとともにずっと居るのよ」
「なんとも雅やかなお話ですね。ただ肉弾戦の記憶を敗戦の契機へこじつけるのはいかがなものでしょう。それより瀧川先輩まで引っ張りだしたあなたの妄想は、そろそろ黎明に堪えられなくなるのではありませんか。僕の見聞は一理の一理に過ぎなくて、どのような切り口からも仕立て直しの効く袖通りのよい衣服となりうるのですね。一断面に付随する瑣末な、けれども末梢神経の働きがなにかしら過分な要素としてあてがわれ、形式の形式は無数の神経回路をそつなく戦慄と快感でめぐり、あなたにとってもっとも都合のいい袋小路へと追い込まれてしまうのでしょうが、肉欲に溺れた素振りを演じた僕の汚れた気概は、劇場の手前で青空の区分と晴れやかさを覚えながら、反作用の逓減、つまり夜空の深度を計っていたのです」
「あら、それは素晴らしいわ。でもあなたを逃すわけには参りませんの、みすぼらしい合理主義の立場へ幸吉さんを置くことはできません。断面の断面、作用と反作用、意識と変容、ありきたりに殺人者としてのあなた、暴風の午後を飾った由紀子殺しの証拠を列挙して、あなたの擁護を打ち切りましょうか、それとも、わたしたちを狂人あつかいしたまま、この場を去りますか」
幸吉は眼を見開いた。
「そうだったんですか、やっぱり僕がね。では聞かせてもらいましょうか。しかし手間は省いて下さい。できれば満蔵氏の指示があなたを迂回したあたりから」


[522] 題名:L博士最後の事件簿〜第四章・天使のはらわた21 名前:コレクター 投稿日:2020年05月13日 (水) 05時25分

「夢見の悪さに震えながら、それが悪寒ではなくて、寝起きの体温低下だと感じとった昨日の朝、わたしはまだうっすらと眼の奥へ描かれている景色に思いを馳せ、無稽な悪意が散らばってはことごとく、軽妙なぬり絵へと転化している捷径に打たれてました。その空白を目覚まし時計に埋めさせてはいけない、朝もやの透察に金属的な音を渡らせてはならない、どうかとすると、健全な意識がごくごく自然に散乱した破片を早々に片づけてしまうので、ついつい悪夢を振り払って忘れに忘れ、それこそ嫌悪感に報いる方便だと判じ、おまけに輪郭だけ配置された、といっても覚束ない線画の、まるで輪ゴムのように延びてしまいそうな見た目は、無益な殺生が尊くなるほど情けなく、残忍で幼稚な願いに預かっていますし、後戻りしたくなる衝動は低下した毛穴のなかで温められたまま、発汗の理に乗じていません。なので、わたしは不適切な刄が飛び交う低落した戦渦のまっただなかに佇んでいたことを、ほんの少しばかり思い浮かべ、その意外と生々しい邪心のよりどころをふたたび風化させるのです。ええ、もう悪夢に囚われるのでなくて、悪夢になりきるのです。でも尊大な意想は持っていませんの、それは取るに足らないひとこまであり、わたしの古びた記憶にいかがわしく隠れている肉親の性交場面なのですが、当時は魑魅魍魎や妖怪変化より怖くて怖くて、けれども質の異なったどちらかといえば嫌悪のかたまりだったのでしょう、いますぐやめて欲しいって布団を被って唱えていましたから、夜更けの目覚めは熱でうかされていたのです。
情事のあと、父親はさながら子供の秘密のように用足しを縁側ですませていました。放尿の音に刷新された嫌悪を聞き取ったわたしは、その汚泥のせせらぎへふらふらと誘われて、浄化と撲滅のまなざしを放ちながら、満足と脱力で足もとを緩ませ、眠気をおぶった無防備な父親の背中をひょいと押したのでした。鮮明に夜の営みを把握していたわけではないのに、本能的な感覚が肉体の交わりを嗅ぎとってしまい、身近すぎる痴態にはお伽噺の組み入る余裕がなかったようで、拒否反応は正当な機能の証しを謳い揚げ、それは昆虫規模の交尾ではとても解釈できそうもなく、もう少し丁寧に言い表すと、夜目に映った仄かな光景は巨大昆虫より醜怪であり、裸体があらわになってない分、臓腑のこぼれ出るような生理的恐怖に見舞われ、しかも死者の臓腑から類推されうる腐臭をともなっておらず、だとすれば、玩具みたいな定規では及ばない、実直な怪異に脅えるあの緩慢な間合いは一気にひろがり、恐怖と嫌忌を含んだまま、その対象を想像する気力が削がれ、逆作用として不透明な対象から凝視されているような恥辱に身をこわばらせてしまいました。匂いなき肉欲の誉れに直面し、臆病な冒険心はひたすら地鳴りへと耳を澄ます。目線のでたらめな結玉は言うまでもなく金縛りを予言しており、こうして誰にも話せない煩悶が生み出されたのです。
あれは日曜の朝だった、遅い床から這い出すようにして隣の枕もとに見届けた丸められたちり紙、念力を働かせたみたいにはらりと中身をさらさせれば、否応なしに強度な視線が空をさし抜いて、そこに覗かせているものが使用された避妊具であることを知ったのでした。わたしはうなだれつつ、いつの間にこんな不快な知識を得たのだろう、学校の保健体育で教わったのかしらなんて嘆いては、性という言葉をかつて辞書に探った覚えもないはずなのに、どうして明瞭な加減で実態を描き出しているのか不思議で仕方ありませんでした。放尿する父親の顔がうかがえないごとく、夜中の縁側から突き落とした実感もまた不明瞭です。なぜなら、わたしは眠っているのか、起きているのか、認めようとしなかったから」
幸吉はようやく素直な笑みをつくり、
「それでは今西満蔵があなたの父だと言いきれないと」
修学旅行での背伸びを想起させ眼を輝かせた。
「取るに足らない夢を語っただけ、夜はまだ明けていないわ」
「そうですか、肝心なことを聞き逃してはいけませんね」
「ええ、そのとおりよ」
正枝の眉に威厳が走る。支流の支流へ股がった淫恣な言の葉は夜風に撫でられ、月影も朧々とした駅前旅館の寝息に被さり、魔性の胚胎を促した。眠りの瀬は浅く遅い。
「勉強机の角へあそこを擦ったのはいつだったのか、とにかく快感に目覚めたのちも現実のあれは忌諱されました」
「僕は空砲を打ち続けながら似たような、いいえ、少し違いますね。反撥し合っているけど、巧みに快感を捨てようとはしなかったし、そのうち精を吹くようになり寝室が別になると新たな妄想が訪れました」
「わたしたちに限らず、誰しもが秘める自然学習ですわ。きりがないわね」
「では女流監督の復讐劇の続きを」
「あら、皮肉のつもり、まあいいでしょう。あなたをぶざまに踊らせてしまいましたもの」
「そんな、僕はたしかにぶざまだったけど、自分から進んで踊っていたのです。あなたをぎりぎりまで見極めようとして」
「いくらか口が達者になったようね。達者ついでにあなたと由紀子さんの仲が深まった頃、わたしがやりとりした手紙の内容を述べておくわ。間弓さんとは戦々恐々でした。昌昭さんとの関係をはっきり報せておいた上での駆け引きだから、火花の爆ぜないほうがおかしいでしょう。間弓さんはそれにこらえながら応戦していたのです。先手を打ってみたけど、はなから敵愾心を持っていた間弓さんをたやすく懐柔できたことが半信半疑だったし、火に油を注ぐような言明は仇にこそなれ、円満な解決策へ向くとは考えられませんでした。しかし、釘を刺す意味で昌昭さんの思い入れを明確にしておかなければいけなった。幸吉さんに色情が入り用だったみたいにね。あとは由紀子さんを宛てがった結果を観察し、なおの耽溺をと念じていたけれど、ここで双方の意見に食い違いが表れてきたの。
間弓さんにしてみれば、とことん入れ込まれてしまっては、前菜の振る舞いも、当て馬の試しも家畜を養い続けるような無駄でしかなく、せっかくの時間稼ぎが短絡的な結果を招きかねない。なんとかして高校卒業までわたしを家に近づけたくないのがやはり本心よ、書信は仕方ないにせよ昌昭さんとの対面も非常に危ぶんでいる。かと言ってわたしの助言をないがしろにすると、あなたと昌昭さんを抱き込んで父の意向に寄ってしまう、結局計りにかけるしかなった、家名か情愛かを。わたしだって一度の関係で昌昭さんの熱愛を受け入れ、駈け落ちするまでの覚悟はなかったし、ここで間弓さんと結託していることを知られるのはまずかったので、姉がなにやら企てしていると書き送ってきても、わたしを遠ざけたい一心でしょうって、言い聞かすしかありませんでした。
父は父で平気で興信所を使うような人だったから、由紀子さんとあなたの結びつきをすでに感知しており、悠々物見しているのではないかという危惧があったけど、わたしにはわたしなりの接近が望ましいと、現に父は必要以上の問いかけや注文の投げかけをせず、銀幕の末席に甘んじている身を案じてくれてましたし、先々の婚姻にしたところで焦慮が表立っていたわけではなかったので、すべてを打ち明けはせず、これまで同様の遠慮気味の便りに終始していました。とは言え、三者三様への対応に息は抜けません。さきほども話しましたが、今西家の三者のより上位の結託に、むろん平坦ではなく、時空の歪みが心身まで及んでいる一種不可解な繋がりを、神経症的に感受してしまっていたのです。それはまるでわたし自身の不審が手招いた思考回路の虚ろを占拠するように、異質な磁場と化していました。
あらためて三者を相手にしている無謀さにおののくしかありませんでしたが、反面では撹乱や破壊や成就を一手に引き受けたふうな万能の感覚、無形式の所作に羽ばたく夜間飛行の夢が軽やかに眠りを妨げていたのです。由紀子さんの死で眠りは白々と覚めてしまったけど、心拍に委ねるような実感を越えた異形の地平が開けてきました。いえ、死以前からわたしは女優としてのうつしみを悟るべく、今西家を取り巻いた数奇に初恋にも似たときめきを感じており、たとえ実ろうがそうでなかろうが結末なんてどうでもよく、ただあなたや昌昭さんに触れ合えたのが幸せで、小憎らしい間弓さんだってかけがえない妹だと思ったりしました。この世が流転の儀を忘れ、あるひとこまだけ中心にまわっていたなら。
揺籃を止めたのは生のほとばしりでした。間弓さんの懸念どおり由紀子さんはあなたを愛して憚らず、傀儡としての肉体女優から脱皮し、不良の側面、つまり純粋な情念をたぎらせ、今西家の思惑から急速に撤退しようとしたのです。間弓さんがどれだけ叱咤しても、昌昭さんの名を連呼し憐れみに訴えても、あなたを放すことができなくなって、明け透けな嘘で自分自身の意気を消そうとしたのは、よくご存知でしょう。故人の偽りを闇に葬るのは適宜かも知れませんが、決して上書きなんかできない幸吉さんの記憶を察して、はっきり言っておきます。由紀子さんは妊娠していなかった、嘘です、大嘘です、あなたの気を引き止めたいが為のつたない嘘でした。検視の結果を父から知らされたわたしは、とんでもない罪を背負ってしまったと打ちひしがれたのです。本当に幸吉さんの子を宿していれば、多分あなたの人生は大きく狂ったでしょうけれど、うら若き命は消滅することはなかった。
間弓さんはこう書いています。わたしにも妊娠したみたいで、もう役割りは降りさせてもらう言ってきたので、そんな見え透いたこと、計画はどうなるのよ、って散々問いつめたところ、あいつには迷惑かけないって突っ張っていたけど、なにか引き際を感じているようでした。役割りは果たしたし、あとは自由恋愛を盾にするなり、恋は盲目とか、わたしのお株を奪うような戯れ言で押し切ればよかったものの、すんなり手を引いてしまって、せっかくの出会いを捨ててしまうなんて、でもわたしはお姉さんとの約束があるから、あれでよかったと思います。昌昭との未来がこれで途絶えるわけでもないから、また他の手立てを考えて下さい、と。
この時点で間弓さんは、さながら怪我の巧名でわたしの価値を下げているつもりでしょうが、そうなの、これで父の意向が生身として動きだし、いよいよわたしの出番がまわってくるけど、肝心かなめの幸吉さんの気持ちは揺れに揺れたに違いなく、おいそれと形式の婚姻に臨むとは考えられませんでした。由紀子さんの引き際が鮮やかなほど、その道程は悶着を呼ぶに決まっています。わたしに見切りをつけた間弓さんの会心は、あまりに透明で裏切りという言葉を知らずに育った品性を香らせていたものだから、思いあまって内密にしていた推察を話してしまいました。
ねえ、間弓さん、わたしの出る幕は延期されてしまったわ。骨抜きは大いにかまわないけど恋愛感情を忍ばせた由紀子さんに注意して観察を怠らないように。忘れてはいけないわ、彼女は昌昭さんの実姉であり、父満蔵のかつての情人の娘よ、由縁はそう簡単に抹消されない、それは間弓さんにもわたしにも言えることでしょう。もう一度わたしの助言を聞き入れてもらいたいの、あなたは蜂が不自然だと疑って、わたしまで由紀子さんと通じているとかこぼしていたけど、誓ってそんな事実はありません。事実と言えば、風見成実と瀧川良雄との情交、あなたがその眼で見届けたわけじゃないでしょう。なにもかもが由紀子さんの語りの語り、もっとも間弓さん、あなたの創作だとしたら話しは別ですが。風見家を調査する勇気がありますか。あってもらわないと困るのはわたしではない、間弓さんなのよ。わかるでしょう、昌昭さんは人質だと、それくらいの不信感を募らせて秘匿された真相に向かいましょう、すぐにでも。
わたしは凍りつき青ざめている令嬢の顔を思い浮かべながら、自分でも焦慮なのか、奮起なのか、好奇なのか、よく分からないまま筆を走らせたのです」


[521] 題名:L博士最後の事件簿〜第四章・天使のはらわた20 名前:コレクター 投稿日:2020年05月05日 (火) 05時34分

「で、あっさり、いえ、並々ならない好奇心に駆られて瀧川先輩は色道を極めようとしたのでしょうか」
思わぬきっかけと、閉じた行き交いの化学反応とでもしか言いようのない成りゆきに当惑した幸吉は、夜這いなんて、どう気張っても体験はおろか見聞も覚束ない、婬奔な臭いを憚りなく含んだおとぎ話に、おずおず耳を傾けている功罪のようなものを感じた。
すると、たちまち他者に対して発するときの語源の照り返しを受け、それはひとりでにどうした案配か、あさりの砂だしといった瑣末な状景を面前に引き込み、海水がわずかだけ濁ってしまうありきたりの妙味へ繋がった。なんのことはない、功罪以前に夜這いじみた行為を遂げていた自分の姿が噴飯ものだったのである。
ついつい女優としての粉黛が説き語る話術に時間の遷移を求め勝ちだった幸吉は、形式の形式で運ばれ導かれた出来事に、崩しようのない過去を見届けていたけれど、ここに至ってあらゆる他者は遠浅の砂底で棲息する貝類と同様、波の打ち返しにのまれても変転に関知しない欲望の理であり、それは自然そのものであると気づいた。おぞましいが仮に裸身から女陰だけをむしり取ったならば、色道はその方法論に行き詰まり、無味で残酷な味わいだけを享受することになるだろうし、原理的な破綻が待ち受けているので、肉欲の肉欲を際立たせてやまない奥ゆかし気な恋着が絶対視される。
今西家の確執だってほとんどそこへ起因しているではないか。しかし瀧川先輩の視線の先には陳腐な乱れしかなく、この支流の支流こそ計略とは無関係の変質であって、幸吉を呪縛から解き放つ逸話に思えてくるのだった。が、あくまで意想のよこやりが新鮮な風を送ったまでで、吹き抜けの間口を眺望したわけではなかった。
「資質じゃないかしら、興味がそそられることに熱中するだけよ。だから、わたしの解釈はあとずけの理想論でしかないですわ。ところが決定論でもあった」
「それは好都合ですね」
さり気なく同意する口先に幸吉は逸脱の方便を含ませ、説話の本流をせき止める糸口にした。
「あなたにとってもね」
精到な鳥瞰図を手中にした正枝の応答は幸吉に絶望をあたえたが、その根拠は悦びでもあった。正枝が女優らしく振る舞えば振る舞うほどに、他者を意識した発露は表立ち、動的な姿態と台詞によって差し引かれた内面は、あたかも主人の出払った居間のように閑寂な装いを演じてしまうだろう。そして大切な鍵を置き忘れた焦燥はおぼろな幽霊と化し居残っていて、ときおり鍵穴から覗く眼も鋭さを模しているだけにすぎない。幸吉はこの眼を反対に凝望するよういそしんだ。
女優のはらわたなど拝みたくもなかった。けれども虚構の虚構が決して現実を凌駕することはないにせよ、規則正しい手順を踏みしめて、ものの見事にすり替わってしまう怖れがある。影絵を操っているのが誰だかわからなくなってしまい、それは主人と訪問をためらっている客の間に生まれる齟齬を帳消しにするだけでなく、凝望が緩んだ隙へいみじくも訪れる内面の浸潤により、渇きは情念的な居住まいを強いられ、明白な留守番となる。正枝の不在を証明しようとして、不在を肯定するだけにとどまらず、観念が無意識に移行するのだ。
「僕はあなたのあそこだけもう一度見せてもらえばよい」
「えっ」
「なんでもありません」
淫猥な小言は教科書を読み上げるふうにくぐもった。
聞いてか、聞かずか、正枝は気前のいい表情をして水面の流れへと戻った。
「瀧川さんがさっそく由紀子さんの家に出かけたのか、どうかは知りません。間弓さんもそこまで探れなかった。当たり前ですし、その辺は割愛されていいでしょう。とにかく義姉妹みたいになったふたりは内情をこれまで以上にあれこれ語り合いました。
ゆるぎない恋慕を秘めに秘めた間弓さんは、昌昭さんと双生児に見られるよう雰囲気づくりから始まって形貌まで合わそうと努め、身長は無理でも顔の輪郭なら似せられると、仕草はむろん笑顔や目つきといった表情の動きをまねてみたり、日焼けした肌、歯並びの確認、睫毛の長さ、眉の濃さ、伸びた爪先、揃いの寝巻きなど、まるで写し絵のごとく見た目の同一化を念じました。元来、偏執的な性質だった姉の酔狂と呆れながら文句を言うでもなし、拒むことのなかった昌昭さんでしたが、夕立ちと雷鳴に囲繞された中学一年生の夏休みの午後、鏡台の前まで引き連れられて、忘れたかしら、ちいさなころはね、よくこうしてお化粧ごっこしたものよ、と気色ばんだ間弓さんが施したふたり揃っての絵姿にはさすがに戸惑いを隠せなかったようです。いくら扮装が愉快でも坊主頭にスカーフを被せ、厚塗りされた女装は不気味な感じがするのか、それとも姉の異様な性癖が雷雨で増幅されてしまったのかと、訝る様子がまたこの上なかったとか語って、でもね、わたし自身よく理解できてなかったのよ、きっと姉弟として過ごしているせいね、禁断の果実は食べれないけど、せめて絵姿だけでも一体化したかったのか、単に弟を意のままに、そうね、着せ替え人形みたいにして弄びたかったのか、押し込めても、はねのけて踊り出してしまう、ばね仕掛けの恋着に悶えていたようね、恥ずかしい、恥ずかしいわ、まったく、双子のお化けごっこよね、そうでしょうって、ひとしきり喋れば、由紀子はそうでもないよ、あんたは無垢なのよ、よくわからないけど、叶わないと知っているからそんな戯れに興じたんじゃない、あんたのは本物の思い出だよ、ずっと変わらず昌昭を好いているんだから、本物だよ、間違ってないわ、そう励ましてくれたのね。
でも間弓さんは由紀子を励ますどころか、傀儡として扱っているだけで、なんの手助けも優しい言葉もかけていないと、詫びるしかなかったのです。ただひとつ思い上がりかも知れないけど、昌昭の実の姉だから許してもらえる、そう感受していたそうよ。由紀子さんはそんなこと百も承知だったみたいで、だったらさ、ちょっと最近うっとおしいのよ、あいつら、どう思うって自分の境遇を話しだしたの。他でもないわ、夜這いのことです。
口にするのも文字にするのもって言っていた、間弓さんにしたら夜這いなんて俗悪きわまりない風習でしかないでしょう。それより風習であることすらさっぱり事解してないのに、一体どんな目の色をして聞き入ったのか、ちょっと気になりましたわ。あくまで個人的見解としてね。しかし間弓さんには厳格な筆致で、何事も究明が肝心、一応、昌昭さんの実母にまつわる出来事なのでしっかり報告するよう言っておきましたの。いくらなんでも由紀子さんが近親の性談義を披瀝するとは考えていなかったので、間弓さんからの聞き伝えが返ってきたときには身震いしてしまったわ。
夜這いなんて勝手な言い分、風見成実さんは娘のいない時間を瀧川さんに教えたのみで、その確実な時間とは登校したあとのまっとうな余白に尽きるわ。不良の烙印を頂いていたけど、由紀子さんはきちんと休まず通学していたから、授業を抜け出して走るのは瀧川さんだった。週に二三回の白昼の情事よ。
由紀子さんはなんとなく家の様子や母親の面差しが、普段と違っているように感じる日があったけど、口を挟みたくなかったみたいで、自分からは一切なにも尋ねたりせずなおざりのまま、成実さんも気兼ねしているのか、瀧川さんの名前を出すことはない。でも弾みで男女の仲へ深まってしまったからには、いずれ一悶着ひき起すだろうと暗雲を払いきれなかった。以前と比べてあきらかに念入りになった身支度の気配、片づけたつもりのビール瓶が床の隅っこで息をひそめていたり、風呂場へこもった湯気が逃げ後れていたり、家人のものではない毛髪が一条、いや二条三条と床や畳に落ちている。
こういった残滓は色事の情景にまとわりつくだろうが、気にさえ留めなければ大事には至らない、由紀子さんはそう構えていたのです。けどいつもならやり過ごすはずなのに、つい余計な世話を焼いてしまったと、やはり胸がささくれていたのでした。そんな煩慮は得てして隙をうかがい外の空気に触れたがるものです。生理痛を理由に珍しく早退した由紀子さんの帰途には、明確ではないけれどあえて現場へ乗り込んでいるような錯綜した念いが続いていました。踏み切りを待つ間のもやもやしたいら立ち、樹々の高さがいやに太陽を輝かせているような感覚、小川のせせらぎに止まるべき時間が流されてしまう迷夢、さらには路地の奥から漂ってくる獣が発するような匂い、とりわけ厭忌の情を抱えているわけでもないのに、杳々とした期待がやましさと入り混ざって、由紀子さんの顔つきを微妙に歪めたまま帰宅させたのです。
ああいう母娘の会話って映画でしか知らなかったわ。間弓さんが言うには、息を殺すどころか、ひしめき合っていない民家の隔たりをいいことに、情事に耽りに耽って歓喜の声を張り上げていたらしいの。玄関先まで響いてくる喘ぎに耳をふさがなかった由紀子さんだけど、あまりの放埒さに咳払いするのも馬鹿らしくなった。しばらくして瀧川さんの帰る物音がすると、ほつれた髪を汗で撫でつけ気怠い顔をした母が、あら、あんた返ってたの、と悪びれた感じもなく話しかけてくるので、今日は特別よって言い捨て、細々したことは抜きにしたけど、だらしなく下着がのぞいている母の服から眼をそらせなかった。
次の週も由紀子さんは二回早退しました。うっとおしいのよね、あいつ、わたしが帰ってきたの分かってるくせに平気なのよ。これ見よがしに遠慮など微塵もなく、まるで当てつけみたいに真っ昼間から発情してさ、なんなの、わたしを抱けない悔しさなの、まったく嫌になるわ。しかも母は母で別に邪魔じゃないけどね、気が散るってあの子がね、なんてのろけるものだから、どこへ怒りをぶつけていいのか、もう本当に嫌になる。ねえ間弓、わたしがいけなかったの、軽々しく瀧川を引き入れてしまって、と、かなり消沈している様子でした。
見え透いた早退をしなくなった由紀子さんは、夏休みが待ち遠しいと語ったそうです。のみ込めそうで今ひとつ合点がいかないその言葉に対し、寂寞のような想いで陽射しを受け止めているではと、間弓さんは書き綴っています。なるほど学校が休みになれば由紀子のまっとうな留守はなくなり、瀧川との関係は途絶えそうな予感を孕みますが、反面、図に乗って開き直りの勢いで通いつめるのではないか、もしそうであるなら、母の情交に日々さいなまれるのは身悶えでしかなく、もれる嗚咽は由紀子自身の声に重なり合う。ついには瀧川の気位が勝って、身の置きどころを失ったようでそうではない状況に陥ってしまうだろう。
由紀子が危ぶむのは代理でしかなかった成実の肉体を、自分を産み落とした肉体の持ち主を、その人格を、これまであらわに否定してこなかった積年の鬱憤が、一息に壊してしまいそうで仕方なく、それは彼岸で抱き合う宿命だった瀧川を、此岸へ招き寄せるかも知れないという想念だった。矛盾を抱え、矛盾を捨て去る気概があらくれないままに静かな破壊へと結びつく。
決して明晰な内省をもちいて由紀子さんがそう述べたわけでなかったけれど、間弓さんはおたがい煩瑣で無骨な事情を有していたので、双眸のひかりや紅潮の加減、語気の弱さと語尾の強さから、由紀子さんの胸にしまいきれない葛藤を察しました。そしてあろうことか、次の逸話によって共鳴しつつあった感傷の色彩は、その淡さを熾烈に織り上げることとなったのです。
案じていた夏休みは由紀子さんにとって幻想的な陽光で満たされていませんでした。めっきり姿を見せなくなった瀧川さんが気掛かりだったのでしょう。それとなく成実さんに訊いてみたところ、まったくあの子ったら憎たらしいわ、誰か他の主婦を紹介しろなんて言うのよ、奥さんだけだと飽きてしまうって、だと困るだろうって、もっと刺激が欲しかったらそうして下さいなんて、変にかしこまって頼まれるものだから、近所のひとに当たってみたのよ。今頃はそっちへ通っているんじゃない、刺激を倍にして必ず戻って来るって。
なんという女たらしでしょう。でもこれが瀧川さんの自在ですわ。由紀子さんの怖れは直感であり羨望でした。美貌を武器にしてひたすら野性動物みたいに駆けゆく疾風を感じとっていたのよ。
幸吉さん、あなたは聞き及んでいませんか。成実さんと共に由紀子さんの忘れ形見となった、あの黒いこうもり傘を発見した主婦を」
「では、あの叔母さんが・・・」
幸吉は隣の組の男子生徒の相貌をまじまじと思い返した。彼がその叔母から知り得た情報が死のあらましの端緒になった。成実と一緒にろうそくを買いに出たと聞く。同じように台風を懸念する面持ちの裏には、年下の情夫を共有している気心がざわめいていたのか。その前日に瀧川先輩とすれ違っている。間違いないだろう。どうしても受け入れられない死に向い、可能な限りの様々な考察をめぐらせたのが昨日のようによみがえる。自分が由紀子を無意識的に殺めたという強迫観念にとらわれ、捜査の手がすぐ近くまでのびているとおののいた。そして由紀子の面影を装った女優との再会を夢見たのだった。
「僕は眠っていませんよね、起きてますよね。起きてあなたと向き合っていますよね」
幸吉は夜の漆黒を確認していた。


[520] 題名:L博士最後の事件簿〜第四章・天使のはらわた19 名前:コレクター 投稿日:2020年04月30日 (木) 23時09分

指折り数え、数えてみることに無上の清福を走り書きしていた画帳の乱れは他愛なかったが、記憶と意趣の入りまじった字面はいつも前のめりで詮方なく、思いことごとただあるだけの愉しみに費やされていた。
いつとはなく遊び心へ忍んでいた畳のへりを踏んだらいけないという迷信を尊び、じっと見つめる隙間には昔が埋め込められているように感じられ、整然と閉じ合っている縦横の薄い隆起に爪を立ててみた、幼き日々。
一体なにを待ち望み、時間を慈しむ間もないほどに浪費していたのだろう。前景だけに期待を寄せてしまって、量感を支え、刹那の色相を際立たせていた背景には振り向きもせず、影がうしろへと位置した日輪の高さに依拠する方角ばかりを眺めていた。だが、拙い心象風景画は言葉が言葉として散らばる位相の無辺を手繰れないまま、もっともそれは放恣であってかまわないのだが、希望の感覚のおぼつかなさに対する不吉な怖れと、寡聞のいましめを配する自省がおおらかに欠けており、子供の時間らしい近視眼的な整合性にせき止められていた。
追思されるべきは後悔と物欲しさに乱れた沈滞ではなく、この瞬間を染め上げてやまない豊かな情趣であって、決して背後へとまわった発火点に安易な郷愁を得たいが為ではない。灯り続ける現在の動機を見失わないが故に、気丈で剛胆に映じた風見成実がろうそくの予備をしめやかに欲したように。
夢想をめぐらせたにもかかわらず、児戯の延長でしかないと腹のなかでは軽んじていた駅前旅館の夕べ、旅立ちの前夜を童心で過ごすつもりだったのか、だったら、とことん夢想であればよかった、身分不相応な逢い引きは風呂敷包みの盗まれた邪心でしかない。
「そのままの願いが叶うことなんてあり得ないのでしょうね。なにかしら歪な形でしか成就されません。しかし悲観はよくないです。結果を出したのは時間の流れですし、実はそうありたいと心の底で唸っていたかも知れないような気がします。奇特な成りゆきに感謝しなければ」
正枝はそんな幸吉の空々しい声音を揶揄するよう、
「偶然とか奇跡を確率論的に考えてみればわかることです。あなたと違って昌昭さんは経験があったらしく、熱心にわたしを求めてきたわ。話しのいきががりで露呈してしまったけど、どうか気を悪くなさらないでください。形式と仕掛けの応酬はすでにあらかた聞いてもらったでしょう」
と、微細な羽毛を束ねたように差し出しされた侮蔑は、悪意のない策略だと釘を刺している。
「間弓さんもあなたも」
そう言いかけた正枝を阻み、
「もういいのです。あの日、今西君はたしか僕に言いました。そうした事情ならばっちりってとこだな。君の浮かれた顔もついでに撮っておいたから学習したまえ、と。会心の笑顔でした。恨んでなんかいませんし、むしろあっぱれだと思います」
「じゃあ、よかったわ」
「そうですね。しかし、あらかたは聞かされてませんので、瀧川先輩に関することをもっと教えてください」
盗まれた記憶を幸吉は催促した。
「わかりました。でも先に櫻田静子さんの動向を話しておきましょう。ほんとう、なんて無邪気でしっかした少女だと感心してしまいましたわ。あなたにとってもさぞかし、みずみずしい想い出だったことでしょうね。経緯は初恋らしさそのままの奥手を絵に描いたみたいな係わりでしたから、幸吉さんの記憶には新しいと思いますが。
由紀子さんの意向を鏡のごとく察知した静子さんは、引き際に腐心したようでした。いくらかの興味を持っていたとはいえ、嘘の恋文から始まった淡い感情が濃密さを有するにつれ、虚構の言葉は狭霧へまぎれるどころか、目に見えるはっきりした粒状になり、それは砂浜へなぞられた恋という文字を指先が感じとってしまったみたいで、はからずもあなたへの恋情を強めた。なにも知らないあなたは魚心あれば水心の喩えに準じ、可憐な花のかぐわしさに戸惑いながらも陽射しの加減に目を細めて、ひとときのきらめきを甘受したはずよ。次第に募り出す日陰への足踏みがじれったく、異性の胸中をつかみとれない焦りに肉欲が滲んでいるのを、まぎらわそうとすればするほどに、暮色の視界を手探りしたのですわね。
裸体の下半身の触れ合いが恋情の証しだと本能の昂りを肯定するあなた、けれども、あくまで清廉な意匠に踏みとどまれるものならと、そうありたく願った少女の心緒はとても不安定で、下手をすれば横滑りに身持ちを崩してしまう危惧に苛まれ、また微かな好奇心が膨らむのを感じとっていました。わたしがかつて演じた映画の役柄がまさにそんな心情を映していたので、よくわかるのです。演技と実際を一緒にしてしまうのは変ですけど、その変な場面が現実味を帯びていたから、一段と不徳な感じが増したのでした。
静子さんは恋情こそ花開いているものの、肉欲にまで至る広闊さを認めていなかったので、由紀子さんの指図に救いを見出し、虚構のしかも短命である初恋を押し殺し、委細が双方にとって余計な報せとならないよう、意地らしいほど生真面目な台詞まわしで自分の役割りをこなして、あなたの影を退けた。許してあげてね、細やかな方便を、台本を書いたのはこのわたしよ、静子さんは穏やかに一幕を演じただけ、きっと胸を痛めたことと思います。
そして選手交代に、あらっ、すいません、随分な言い様ですわね。でもそれが台本だったし、選手は役者、由紀子さんは舞台に上がる契機が整ったと決意したでしょう。この先にわたしの語りは必要ありませんね」
陸橋の防空壕に籠った火影を幸吉は、甚大な、が、とても心地よい眠りへのいざないとして想い返していた。相反するろうそくの灯火はやがて、台風接近の兆候を過剰に反応した胸騒ぎへとゆらめく。由紀子の死をあぶり出しては、その母の悲嘆を不実に覆い隠す。どんよりたれ込めた雨雲の重圧と拮抗する灯火が、恣意でもって戦渦の心許なさを記述的になぞるのであれば、不実さの由縁は幸吉にとって最大の憂いであるとともに、風雨でかき消される余光を彷彿させ、それはまるで人里を少し離れた水辺を舞う蛍のような夢幻境地への誘いに転じる。
「さて、あなたが由紀子さんに惑溺する直前、ぐるりと海岸線をめぐり連れ立って歩いたことに、わたしは奇異の念を抑えきれませんでした。そのような台本はなかったし、間弓さんの勘案にしては露骨で、そこまでして町中へ広がる夏日の夕映えに即さなくとも、けれんみがあるけど、果たしてどういう余興なんだろうってね。
結論から述べると、あの引き回しのような行為は由紀子さんの独断でした。あまたに色情を振りまいて確乎とした結びつきを知らしめるごとく、大胆不敵な売名でもって今西家の名誉を裏から守り抜く気概とは別の、個人的な覚悟が込められていたのです。それは瀧川さんへの通達でしたの。いいえ、彼ひとりに伝えるより、ああした実演の方がよほど効果的だと断じたからなのです。ではいかなる理由で。
由紀子さんには些細なことだったでしょうけど、その堆積を計る側からしてみると抜き差しならない汚名になっていました。因縁なんてこじつけかも知れないけど、小学校低学年の時分にまでさかのぼり、その光景を焼きつけてみると、まだ容姿に自覚的ではなかった頃の瀧川さんの悪戯に起因します。もし自意識に目覚めていたら不粋な悪戯なんかしなかったでしょうね。それは特別ひどい仕打ちではなく、常日頃からありきたりに発生していたスカートめくりだったの。罪の意識はどこ吹く風の、めくりめくられ、色気なんか微塵も関与しない子供の軽薄な意地悪、ところが由紀子さんは恥じらうより怒りをあらわにして、勢いよく相手を押し倒してしまった。それだけでは終わらず、以外な反撃に驚いた表情で見上げている瀧川さんを、仕返しだと言って打擲したそうよ。馬乗りになって殴りつけたものだから騒動になってしまった。もちろん三日も経てばすっかりそんな小競り合いなんか、みんな忘れてしまうのでしょうが、瀧川さんは後々まで級友にからかわれているとすねてたのね。
それをさらに意識させたのが中学生になり、水泳部で鍛えられ強健でふくよかな肢体を得た由紀子さんの圧倒的な色香だった。幾人もの男子が鼻先であしらわれる顛末をうかがっていた瀧川さんは、自らの容貌にたっぷり含みを持たせ、いかにも紳士らしい態度でずっとわだかまりになっていたと、好意的な歩み寄りを試したわけね。しかし由紀子さんは、そんなことあったかしらと一蹴してしまった。出鼻をくじかれた瀧川さんの驚きが、小学生の時と異質だったのは言うまでもないでしょう。
以来、顔を合わせても口を聞くことはなく、そのまま同じ高校へと進みました。育ち盛りの意は的をしぼったように勇健で、他校から瀧川さん目当てに校門で待ち受ける女生徒が集まるほどになり、これまで数えられないくらい関係したと豪語するまでになっていたのね。同じく、由紀子さんの不良ぶりが鳴り渡っている。根は違うし異性なのだから格別問題にも比較することもなかったはず、なのに瀧川さんはふたたび意識してしまったのです。
多数の女子に触れ扱い慣れたという気位が、とうの昔に埋もれている劣等感を無理やり引きずりだしたとしか思えません。あるいは現在の人気ぶりからは没した汚名が懐かしく、だとしても、そそぐべきの汚名を積み上げようとする屈折した心情は理解しかねます。瀧川さんの矜持の裏側に、被虐趣味のような精神が巣くっていたとしても、真正面から求愛をしめした動機は悪ふざけでしかなく、由紀子さんが閉口したのはもっともですわ。とは言え、間弓さんに送ってもらった瀧川さんの写真を拝見する限り、天稟の面体はまさに俳優のそれであって、わたしが太鼓判を押すのもなんですが、今すぐにでも大手映画会社と契約が結べます。
たぶん彼はそれも選択肢に入っていて、にもかかわらず得体の知れない高みを目指しているふうな無軌道が感じられるのです。十代半ばを過ぎた時点で猟色に飽きてしまった男子なんて、都会でも中々お目にかかれませんわ。瀧川さんは禁欲的ではないけれど非常に自意識が強いので、汚点をもみ消したりせず、逆に汚れと同義語になりうる傷口の復権を目論んでいるように思えて仕方ないのです。唯一無二の存在である由紀子さんが目障りであると同時に、心の奥の奥では親近感を朝靄のごとく煙らせていたのではないでしょうか。
それは由紀子さんにも当てはまります。どれだけぶっきらぼうだって、美麗な容姿を誇示するだけにとどまらず、念入りな接近を講じてくる瀧川さんに気が行かないのは鈍感ですわ。優男は好みじゃないから捨て置くという素振りだけではないはず、異様な執念には心ならずとも感じ入るところがあって然りでしょう。あえて無関心の姿勢を通しているとしたら、由紀子さんだってかなり意固地です。わたしの穿ち過ぎでしょうか。それとも男女ふたりの異質に共通項を定めてみたい、おせっかいなまなざしが空騒ぎしているだけでしょうか。ともあれ間弓さんの観察によれば、因縁はこじつけで終わってしまいそうな矢先、ある背景がふたりを向き合わせることになったのでした。
瀧川さんにこう話したそうです。あんたみたいな人気者とつるむのが気乗りしないだけよ、だけどね、うちの母があんたのこと、このまえ商店街ですれ違ったでしょうが、あのときよ、さっきの子は誰、いかすじゃないって言ってたわ。惚れっぽいのね、うちの母ったら。今度つきあってやってよ。
由紀子さんは真顔でそう頼んだというし、瀧川さんも一瞬なにごとかって顔つきになったけど、これが両人の近づきのしるしだったのね。到底かみあわないのよ、だからふざけたりせず、母親だろうがその色目を臆することなく伝える。瀧川さんは相手の素っ気ない言葉を重視する。常識的にはおかしいでしょうけど、これこそふたりが煙りのごとく燻り出した友誼に違いないわ。そして瀧川さんは堂に入った返事をしたそうよ」


[519] 題名:L博士最後の事件簿〜第四章・天使のはらわた18 名前:コレクター 投稿日:2020年04月24日 (金) 18時25分

「瀧川先輩・・・」
悪夢と現実を取り違えていなかった心弛びに、朝陽はまどろみの神髄を授けようとする。
境界が芒洋であればあるほど目覚めは狭隘をすり抜けるのだ。まばゆさを感受させない垂れ幕によって遮蔽される事象は、絶え間ない裏声で虹を呼び求めているのだろうが、意識の黎明はおいそれと日常への架け橋
にはならない。忘却の忘却が常に稼働しており、皮肉にも天啓だったかも知れない閃きを封印させてしまうからである。けれども発酵が高圧的な指針で促されていないように、忘却の彼方は逆光を浴びつつ、その漬物石のごとく鈍い重しを甘受している。
もっとも賢明な目配りは歳月のなかへ埋もれるであろう、鈍重なまどろみの揺曳を見つめながら、別種の彩りで施された光景を夢見ることだ。嗅覚が密偵の役割りを担い、音調が雑話へと流れるまえに。
無造作に転がった黒いこうもり傘で隠蔽された由紀子の死、午後五時の駐在所、夏休みの終わり、回想をためらった視線、二度と戻らない日の悔恨に並ぶようにして、間弓の正枝に放った詰問と寸分違わない言葉が残された。
「由紀子さん、満蔵氏があなたの父親で、間弓さんとは腹違いの姉妹だという、何か証明はありますか。うたぐるようですいません。真実がどうであれ僕はあなたの役に立ちたい。夏の終わりがすべてを完結させるとは思えません。あした学校の帰りに今西家の方へ寄ってみるつもりです。その前にもし迷いがあるなら話してくれませんか。どうかお願いします」
「証明なんてないわ。あんたが探してくれたらいいのよ。それでいいのよ」
鮮烈な性体験は幸吉を狂わせておきながら、実直で細やかな言い訳を価値ある泡沫として浮かばせた。それゆえ、雨具を着込んだ瀧川に声をかけられた場面は、勢いを増す雨脚の向こうへ煙ったまま忘れ去ろうと勤め、代わりに台風のさなか、いてもたってもいられない衝動に身をまかせ駆け抜けた栄光だけが、虚しく腰をすえたのだった。
まだ空模様は不穏な表情を運んでおらず、風雨の険しさが招かれなかったあの日、煙草を切らしたと言う由紀子にろうそくの灯りが心細い、そう返答した母成実の面影を頼りにして路地へ開いた赤い傘が、まぶたに淡く焼きつく。この短絡的な彩度に言及しなかった理由は、瀧川の容貌に、薄茶色い瞳が発して止まないじれったくも淫猥な羨望にあった。
中学へ入学し上級生を含めた生徒たちの顔が、馴れ合いの群像へと間延びしかけた頃、すでに瀧川はその美貌で校内を闊歩していた。生理的に嫌悪を感じていながら表面だけ取り繕っている生徒からすれば、不良らしくもあって適格な先輩の相好を合わせ持つ瀧川は必ずしも近づきがたい人物ではなく、むしろ苦みばしった微笑にそそのかされている実感を確実にして、表面が表面であることの軽易な親しみさえ覚えさせた。しかし彫りの深さに陰影を生じさせない快活なもの言いだけが、相手の警戒心をほどくばかりとは限らず、なぜなら二極化されるべき資質の一面が誰にとっても好ましかったからで、他でもない、瀧川は一年生のときより全女子生徒の注目の的であり続けているのだった。
思春期へ差し掛かろうとする想念に伝説は軽やかな物腰で居座るものだが、おおよそ流言で加味されり、惰弱な背筋を伸ばしきれない嫉心がつくりだす投げかけに寄りかかっている。ところが瀧川は違った。まことしやかな噂は学生の本分をも凌駕し、散漫で点綴する歴史書に匹敵した。中学校という子供心をたなびかせた空間を支配しうる、少年から青年への甘くよそよそしい移ろいの自覚を体現できる者こそ、現在進行形の伝説となりうる。裏の裏の歴史は全校の空気を一変させた。また表にも通用する排気口を如才なく働かせていたのだった。
三年生の瀧川がまとっていた剣吞と穏和を了するうえで、次の逸話ほど鮮やかな集団劇はない。
連綿と受け継がれたであろう校風がいわゆる紋切り型を発揮すると、目立った存在は洗礼を受けるはめになるのが相場である。しかし蛮カラの常套句は無粋な一方通行に終わってしまった。というのも、瀧川の人気を快く思わなかった上級生やその手下に吊るし上げられ、殴打されたことを知った女子らは、かつてないほどの憤慨と激情をあらわにして、徒党を組んで抗議めいた、実に純朴な態度で憎むべき奴らに食って掛かったのだ。その勢いは子供の戯れにも似て天衣無縫だったので、蛮カラたちは蹴散らす意欲もそがれ瞬時にして優劣のあり方を学んでしまい、以後は瀧川を取り巻くふうな位置に収まった。なかにはあいつと仲良くしておけば、おすそ分けがあるかも知れないなど手のひらを返す上級生もいたという。だが、おのれの美貌と魅力に対して客観視できた瀧川は、あくまで湿り気ない敏活をもって上を立て、下に平たかったから、男子生徒はこぞって群がり始めたのだったが、自由奔放な振る舞いこそ更なる興趣へつながると言わんばかりに、本来であれば黙して澄ましているのが最良であるところを、あえて三枚目じみた調子で振る舞い、気まぐれのように下級生の間へ割り込んでは、女性の陰微をあれこれをおもしろおかしく語って聞かせるくらいで、なにかと人群れを避けている様子だった。その恰好がより一層の憧憬を集め、彫刻のように整った白皙の美貌を謎めかしたのは当然の帰結である。
幸吉も薫陶を受けたひとりであったけれど、虚実ないまぜの軽佻な口ぶりに乗っているまではよかったのだが、どうしても背後に不良の影を見てしまうような気がして、讃美するまでには至らず、当の瀧川先輩もそんな名声などいらない素振りであったから、もっと穿てば、彼は精神的には少年期を卒業しており、それは坊主頭からの早熟な脱皮であり、天性の美形を一段と高める野心が秘められているように思え、どこか危険な芳香をたぎらせ向後に切りこんでいく、鋭利なナイフを想起させたので、夭折の雰囲気が漂って来そうだと畏怖したのだった。あくまでもそう感じただけであり、皆がこぞって口にしたジェームス・ディーンを彷彿させる容姿に惑わされていたせいかも知れなかったが、後々には夭折につきものである過剰な自意識を、底辺で支えている強烈な色欲をもしっかり感じとっていたのだと表明したようなものだから、距離を置いてそうでいながらやはり影響は少なくなかった。情交の際、由紀子を背後から突きながら気移りさせる余裕を持ち、よぎらせたのは瀧川に対する謳歌であり、不良への曖昧な侮蔑であった。
つまるところ、幸吉は瀧川に向かって古風な様式を投げかけ、そして投げ返してもらったのである。
その瀧川とよりにもよって由紀子の死の直前にすれ違っている。これほど鮮明な記憶に日夜、苛まれることはあっても雲隠れしてしまうように失われるわけがない。咄嗟の保身がかならず罪を否定するごとく、幸吉の意識は悲劇の渦中で失神する乙女にでも扮したというのか。失われた命と等価であるもの、おぼろげな記憶の風化がそうであるとすれば、古風な様式は無意識の領野に底深く沈んでいるに違いなかった。
けれども鬼ごっこみたいな影に脅えただけで、あとは今西家の煩瑣にかまけて由紀子の喪さえ放擲し、一種の精神錯乱へと逃げ込み、あたかも近松門左衛門を擬した心中劇にまぎれ、夢遊病の殺人を戯画化することで瀧川の脅威から遠ざかったのだった。
「あなたは間弓さんに随分と詰め寄ったらしいわね。ええ、手紙ではなく電報で報せてきたくらいですから、よほど焦っていたのでしょう。あと一歩でしたのに、詰めが足りなかったようね。思い出しているのかしら、瀧川さんのこと。それとも由紀子さんとの情事、あら、ごめんなさい、いずれにせよ、あのときは今西家の紛糾が却ってあなたを回廊へと追いやったことになるわ。ついでに宇宙の旅へでも行ってくれたらいいと念じていたのよ」
「それまで正枝さんは出番待ちだったというわけですか。何度もふりだしへ戻った気分でしたけど、一応あれこれ考えに考えてはいたのです」
「無駄ではありませんでしたわ。あなたが考えてくれたお陰でこうしてすんなり再会できましたのよ」
正枝は不敵な微笑を作り、同意を求めているようだが幸吉はつられなかった。
「では間弓さんの動揺と疑念をもう少し追ってみましょう。夜這いなんて今まで一度も口にしたことも文字にしたこともないって恥ずかしがっていましたわ。大胆になったみたい、わたし。なんて言ってたくらい。でも興味があったから耳をふさがなかったと思うの。いえ、ふさげなかったのよ。間弓さんは内々、わたしと由紀子さんが前もって通じていたのではと疑っていたようでした。昌昭の実姉にあたるわけですし、父からの便りでわたしに知らされていてもおかしくありません。しかしそれではあまりにまわりくどく、一体なんの為に、挺身隊のような女体を投入する意味があるのでしょう。増々わたしの認知が面倒になるのは父も同様です。いくら形式を確立する目的で幸吉さんの惑溺具合を試すにしても、わたしの代役というのはやり過ではありませんか。案の定、由紀子さんを愛してしまったことですし、そんな不利に傾く実験なんて馬鹿げてます。けれども遠まわりが一番の近道であったなら。一番望む者の声であったなら。
間弓さんはすべてわたしの提案だと言い切っているけど。わたしは夜が明けたら東京へ帰るのよ。あなたが誰を信じるか、誰を求めるのか、わたしには決めれないわ。それともすべて父の責任にしますか。ではあなたの責任はどこにあるの、いえ、ないのね、そう思いたいのね。ねえ幸吉さん、まだ考えてもらいたいの、夜は待っているわ。
そもそも蜂が不自然だと間弓さんは言い出しました。あの場でうずくまるのも変、だって由紀子の家はまったくの反対方向、わたしに近づく手段だったのですね、と。どうしても疑心をぬぐえなかったのでしょう。仕方ないわね、間弓さんからすれば、うまく言い含められてしまったけど、昌昭さんとの縁を仲介できるのはわたし以外にいなかったから、とりあえず満蔵の娘だと留保しておいた上で計略に便乗したのね。でも疑心より愛慕を選んだ以上、わたしの出自なんて追求するだけ骨折りだと算段したはずですわ。それよりも風見家にまつわる異変に意識を大きく傾斜させた。ええ、そうだわ、瀧川さんの夜這いの秘事は間弓さんの女性としての開眼でもあったのよ。
わたしは先手を打っておいたの。あの修学旅行先ではじめて会ったとき、昌昭さんと肉体関係をもちました。付近の隠れ宿でね。間弓さんの手紙に一切その件に関する反応が書かれていないのは、かなりの衝撃に打たれた証しで、疑心暗鬼を子宮の奥で感じとっているからです」


[518] 題名:L博士最後の事件簿〜第四章・天使のはらわた17 名前:コレクター 投稿日:2020年04月20日 (月) 20時36分

「なるほど、そうやって僕はたぶらかされたわけですね。災難だ、屈辱だと文句を言いたいところですが、あなたの肉体まで味わった以上、無理に怨言を引きずり出したくありません。代役に死なれ泣く泣くからだを開いた正枝さんの心意気は誇り高く、とても美しいから」
「うれしいのでしょう。でもよかった。わたしのことを軽蔑してないのね」
おさない時分より癖みたいにしみついた感性のねじれが卑屈さを隠すよう働き、うらはらに阿諛を口にしてしまう。その失態をまた演じてしまったので、思い切り嫌らしい目つきで正枝を見定めてやろうとしたけれど、それ自体が恨みつらみの現れであるように感じ、軽やかな不随意筋のあるがままに立ち返り、片頬を引きつらせながら、妄念の妄念である由縁をのみこんだ。
「軽蔑するにも気概が必要とされます。とにかく複雑な気持ちでいっぱいです」
「当然だわ。父から間弓さんと昌昭さんの結ばれをいくら逸らそうとしても、代役の由紀子さんでは不十分だった。そして溺れに溺れ狂恋の自覚さえ抱いたあなたも、使命を努めあげてはいなかった。だから肉体を提供したのち、真相をさらけ出そうとしている。今はその途中よね。予想つかないでしょう。わたしのはらわたが」
さすがに今度は奮然と声を張り上げた。
「そうですとも!どう考えても理解しがたい。憧れの女優と会えただけじゃなく、夢のような交わりまで行なって動悸は鳴り止まず、まるで映画のひとこまだと、うれしさで舞い上がった途端、うれしさは押しつけでしかなかったと悟り、自虐にも至れない体たらくを、埃にまみれた不粋を呆然と眺めているだけです。みすぼらしい矜持に近づく歓喜は、舞台から遠ざかる観客の影でしかありません。ただただ困惑するばかりで、いっそこのまま消えてなくなりたい頭に一体なにがわかりますか!」
間髪をいれず正枝は子供をなだめるようなやわらいだ顔つきになり、
「それだけ、まだあるでしょう」
さながら悪戯ともだちの名前を聞き出すふうな蠱惑を匂わせた。
その匂いこそ無精通の頃、座布団にこすりつけた陰茎が絶頂を迎え脈打つだけの、波際を聞かせるだけの、ほの暗い罪悪感が漂わせた沈黙からの薫りであった。やがて知る精えきのべたつく余韻とは異質の。
「由紀子さんを愛してしまったのです。もうあなたとの形式の形式なんかどうでもいい、情況的に口約束した間弓さんとの盟約の方が僕には無難であって、あの大仰なロマン主義の墓場、青春の墓碑銘を持ち帰る小心さが残されていましたから」
正枝の表情が新任の女教師みたいな面映さに傾いた刹那、幸吉は母と満蔵が織りなしたという過ぎ去りし日を脳裡へ描いてしまった。醜い光景と呼ぶには土足のような非礼があり、淡い反照と見るには瞬きの由々しさが甘かった。
刹那の幻影、これまで聞いたこともなかった驚きの風化に支えられた糸車は、強迫観念として成立するだろう。現に由紀子への愛慕を開陳したことで、のぞきからくりは濁色に染まって、肉欲が汚らわしく思えてくる。
しかし若き自分の母を小学生だった間弓が夢想していたという聞き語りには浄化作用があって、数瞬における情感と光線の閃きの裡に、闇の介在を否定するような錯誤を得てしまう。
「正直ね、由紀子さんも同じだったわ。それに引き換えどうしょうもなく愚かな、わたし。色欲だけであなたを飼いならそうなんて思案したのですもの。戸惑った間弓さんは、お姉さん、もう計画は達成されたでしょう、父も最近では眉間にしわを寄せてばかりいます。そろそろ昌昭との仲を認めさせる方向へと協力願いたいのですが、と言ってきたわ。要はこれまでわたしの手筈に従って来たのだから、認知を焦らずにってことなのかしら」
「単純な内輪の落ち度ではないはずです。由紀子さんとあなたの直接対決があったのでしょう」
「ごめんなさい、話しを端折るつもりではないのよ。間弓さんは明らかにわたしを利用しておいて見離す気だった、それを念頭に置いてもらいたかったのです。えらそうには言えませんわね、わたしだって似たようなものですから。では辛いでしょうが、あなたと由紀子さんの出会いまで戻ります。そう、いかにして不良女子高生を操るかという問題へ。あと、もうひとりの、いえ、ひとりでは済まないわね、あなたもご存知の人物に登場してもらいましょう」
幸吉は無窮の眼をした正枝にまたしても女優、呉乃志乙梨の相貌を見取ってしまい、歯痒くなった。


「先日の続きです。どうも遊び半分の口先の足踏みでは踊ってくれそうにもありません。やはり本当のことを告げなければ、由紀子は首を盾に振らないと思いました。たしかに内情を広げてしまうのは危険かも知れませんし、今西家と無縁でないことを秘めているのなら厄介です。
わたしはお姉さんの伝授に沿って、まず腹違いの姉がいること、父が認知しようとしていること、ある中学生と婚約させる算段であり、形式でもかまわないと主張していること、それらを止めさせたいと考えている、こう切り出しました。
腕組みをして聞いていた由紀子は、肉弾戦を願っているのってにらむように問いかけてきたわ。うなずいたわたしは借りてきた猫みたいに縮こまっていました。すると風見成実という名に心当たりは、そして矢継ぎ早に、とぼけても駄目、あんたの弟の母親よ、昌昭のね、ああ、由紀子は全部知っていたのです。でもこれで厄介だという懸念はある意味吹き飛ばされ、あらたな疾風をまともに受ける情況に立ったわけですので、戦闘開始にふさわしい逆境をこちらも由紀子へ投げ出せたと妙に安堵しました。そうですわね、父がわたしに語って聞かせたように、由紀子だって母親から謂れを知らされていたとしてもなんら不思議ではありません。むしろ風見家や燐谷家とのしがらみなど、世間はとうの昔に忘れ去っていると、都合よく解釈していた驕慢におののきました。そうです、わたしは世情に疎すぎたのでした。それで父は形式形式と大義名分に組する意志を訴えているのか、不始末をぬぐうように黙って昌昭を籍に入れたのも、世間に対する実演だったのかと了解されました。同時に父の立場や責任をよくわからないまま、なじっていただけの自分があぶりだされたのです。
弱く未熟な等身大に近づくことへ怖れを感じていたわたしにとって、由紀子の直線的な姿勢はいさぎよく写り、ついには弟と結ばれたい願望を告白してしまい、ここで少し狡猾な意識も芽生えて、それを不良の品格とか影響とかなんて認めるつもりはありませんけど、もし幸吉の母親があのときわたしの家に嫁いでくれていたならという夢想を、風見家に向けてそよがせてみたのです。昌昭とふたりして今西家で育っていれば、由紀子とわたしは姉妹だったのよって。
これは効果的だったみたいです。世間知らずのわたしが多分はじめてめぐらせた機知というか奸計でした。ただ、うかつでした。一気に由紀子との距離がせばまったのは、果たしてこの事情だけに収斂されるのでしょうか。気づいたのは少し経ってからでしたが、由紀子の様子を観察するよう指示されていたわたしは、更なる計略と同様におくびにも出しませんでした。まず不良女子高生にいきなりつき合おうなんて迫られたら大概は気後れするでしょう。こちらからは暗示すらあたえない、由紀子がいくらなんでもとか、ちょっとわざとらしくないかなとか言い出すまでは。
あんたさ、あいつをどうして欲しいの、中学校まで押しかけるなんてみっともないから嫌、どうする気よ。しびれを切らしたふうな口調がいよいよわたしに届きました。
お姉さんの作戦は的を得てましたね。偽物の恋文を誰か真面目そうな幸吉の下級生の女子に持たせる。しかし、よく幸吉好みの文面をおさなく崩して書いたと、わたしはお姉さんの術策に感心したものです。たった一度、旅先で会っただけなのに。いくら父から詳細を教えられていたとしても。
下級生戦略の意図は由紀子だって子細を述べずとも直感で察するだろう。はい、まったく説明は無用でした。そして女生徒は由紀子に選んでもらう。いえいえ、もしわたしにと命じられたらおそらく実行したでしょうけど、お姉さんはそんなこと出来ないと見込んでいたようですから、はっきり由紀子に頼みました。鼻で笑ったあのときの、憎々しい感じに入り雑じった冷徹な目つきが忘れられませんわ。
あっ、ちょうどいいのがいるよ。なんでも親類の子だそうで聞けば、本人は乗り気だっていうから、あまりに筋書きが整いすぎているのではと危ぶんだのですが、なんのことはない、その櫻田静子って下級生、以前から幸吉を意識していたっていうから唖然としてしまいました。こんな好都合があっていいのだろうか。あまつさえ、その子はどうせならちゃんと自分で恋文を書き直したいと言い張って、名前まで添えてくれたのでしたわね。
わたしはひたすらお姉さんの女優魂がこんなところでも発揮されるのかと、たいへん胸をたかぶらせてしまって、こう安々ものごとが詭計であるにもかかわらず成就される状況に目くらましされておりました。
だってわたしの報告に対しての返信を読み返してみると、空疎な感謝と褒め言葉だけで綴られていますもの。決して信頼関係を築こうなど考えてはおらず、利害を中心にしてわたしのまわりをめぐっていたのね。由紀子は不良という看板を抜きにして、楽々ひと仕事済ましてしまったのです。わたしが当初いぶかった感想に触れもしなかったお姉さんの考えをうかがうべきでした。
それからの経過は偽物の恋文が本物へと化けてしまって、幸吉はさぞかし初恋めいた心持ちだったでしょう。指令は恋の邪魔はするな、でしたわね。なんという偽善、でも由紀子ですらいいんじゃないの見守っておこうなんて飄々としていたのですから、わたしもつられて人の恋路はなんとやら、どうでもかまわなかったのです。
由紀子さんなんて言い方しなくていいわよ、呼び捨てで。そういう親しさが時間の経過に触れることを忘れさせるようになっていました。そしてわたしの恋模様を聞きたがり、色々と質問を浴びせてくるようになった頃ふと、わたしも昌昭の幼少期など耳にしてみたくなり、あれこれ喋り合っているうちに、母親である成実の身持ちというか、大人の女の行状に興味を抱きだして、そうなんです、由紀子にしては饒舌で感傷的な口ぶりを示すものだから、ついつい際どい内容、つまるところわたしは昌昭の母に言いようのない気持ちがあるのを隠しきれず、反感とも追慕とも違う愛憎の流れる淵へ沈んでいったのでしょう。父が好色なら風見成実も同類と決めつけ、その子供らふたりは誰でもない、わたしと昌昭の定め、増々もってわたしはわたしらしさを離れ、あたかも邪悪な霊に憑依された面差しで、饒舌とは別のもっとしたたかな、欲深い谷間へと彷徨い歩くように由紀子との間合いをより狭めたのでした。
どうだったのかしら、決してわたしの悲恋めいた想いに同情してもらっただけではないと感じるけど、幸吉がやがてお姉さんの思惑通り由紀子にのめり込んでいくのなら、そして相手をするのが自分だと割り切っている身であるからこそ、これは切り離された弟への思慕のなせるわざであり、母親の淫行をとがめてるのか、まるで哀感に満ちた二重奏をかき鳴らすごとく、ある秘事を打ち明けるのでした。
瀧川良雄という同学年の生徒が由紀子の母のもとへ夜這いしていると言うのです。耳を疑るか、たわごとにしか聞こえなかったわたしですが、委細は濃密で、ことの運びは現実味に彩られ、否定の否定が根本的にどこへ依拠するのかなどの迷いごとを宙吊りに、やがて未知の淫靡な空間を空想させ、その空間は異次元ではなく、はっと目覚めるまでもない、ごくごく身近な領域でわたしを待っていて、眠ることをさまたげようとする官能に襲われ、中学生のとき同級だったあの男子生徒の容姿を生々しく立ちのぼらせたのです」


[517] 題名:おしらせ 名前:コレクター 投稿日:2020年04月18日 (土) 19時39分

新型コロナウイルス感染拡大防止に伴う臨時休業のお知らせ

休業期間:4/18(土) 〜 5/6(水)

なお今後の状況によっては、休業期間を延長することがございます。


[516] 題名:L博士最後の事件簿〜第四章・天使のはらわた16 名前:コレクター 投稿日:2020年04月13日 (月) 23時30分

一呼吸いれた正枝のまなざしは幸吉を見据えていながら、どこか他の場所へ運ばれる雲のような浮ついた晴れやかさを感じさせた。その明朗な意趣は幸吉の奥底に蠢いているのだと、説明つかないまぶたの裏を擦過する幻影に当て込んだ。いささか不安定な発見に安堵してしまう卑屈さが光の由縁であるとすれば、故意に無視することもない。色彩の投錨は常に瞬きを願っているからである。
「僕があなたへ忠誠を誓う物腰には色仕掛けしかなかったというわけですね」
「ごめんなさい、幸吉さん、決してあなどったり軽んじていたのではないの。かつてわたしが少女趣味で、大胆だけど瑣末な想いで、赤い風船をふくらませていたように、少年のあなたを支配している空想が稀薄になってしまう予感にあらがえなかったのよ。果たしてわたしが憧れの対象でいいのかしら、厳密にはあなたに問うと言うより、わたし自身が女優として流行り廃りを怖れており、その自信のなさが投影されてしまっていたので、確固としたみなぎるもの言いを、直截なお願いができませんでした。きっと昌昭さんの気持ちも一緒に受け取っていたのでしょうね。
とくに母を失ってからひとり映画の道を歩んで行こうとして挫折し、父だけが唯一のよりどころになりました。でも軋轢が生じるのは自明で、むろん時機を待つよう諭されていたけど、漏洩に屈しない昌昭さんの態度をほぼ容認し静観している父が、それは間弓さんに対しても同様でしたから、なにもかも託すのは難しかったのです。やはり穏便な形で今西家に迎えられそうもなく、それぞれと内密の、三股を掛けた内通へとひやひやしながら展開してしまって、あまつさえ由紀子さんがまるで異形の仮面のごとく立ち顕れてきたのです。今から思えば間弓さんは、最初からわたしに縮図のような来由を知らせるべく手紙を寄越したのでしょう。スカウトせざる得ない情況をわたしに提案させ、その出方を探ろうとしたのです。昌昭さんもそう、憧憬と恋慕をつらぬくのであれば、血のつながっていない間弓さんだって然り、ええ、気がつかないなんて絶対あり得ませんわ、ものごころつかない頃から一緒だった姉の深い深い胸中を。
だとしたら、三股なんて遊び人を気取ったわたしの方が、三すくみの内情を眺めていたつもりの傲りが、まさに砂上の楼閣であって、今西家のみんなから試されていたことになります。一体なにが目的で、そうなの、父も間弓さんも昌昭さんもお互いに寄り添わない姿勢を誇示しては、その実わたしの知らない合意を共有していた、あるいは各人が誰かを省いて、すべてとは限らないでしょうが、なんらかの情報交換をおこなっていた、少なくとも由紀子さんはそのなかに入り切れてなかったようだけど、亡くなってしまった今では薮のなかだわ。
「では、やはり由紀子さんは殺されたと考えているのですね」
「いきなり結論に達することは無理よ」
「どうしてです」
「ねえ、幸吉さん、あなたは済んでしまった来歴を、もう取り返しのつかない過去をわたしから聞かされているの。結論を望むより今ここで大切なことは他でもありません。あなたの想像力がいかにわたしへ肉薄するか、そしてなにを阻止し、なにをつかみ取れるか、夜が明けるまでの猶予に縛られている実際だけです」
「まだ縛られていると言うのですか。いや、違うな、縛り直したいのじゃないですか」
「考えは自由ですわ。幻影だってそう、自由に羽ばたく鳩の群れを撃ち落とすのは罪である前に虚妄ですから。でもこれだけは申し上げておきましょう。幸吉さんにはもうひと働きしてもらわなくてはなりません」
幸吉は呆気にとられた顔をした。
しかもその顔面を微かに痙攣させている動きが働きの端緒であり、それ以上の効用なんかあるわけもないなどと、説明がついたような、つかないような意想にすべり落ちて、話しを聞き終えたらもう一度しっかり正枝の裸体をむさぼってやろうと、淫らな高邁さに奮い立たった。


「お変わりありませんか。先日の件、なかなかお姉さんの申し付け通りには運べません。昌昭の姉といいましても現在ではおそらく誰も詮索せず、今西家と由紀子の関係を結びつける謂れはもう遠のいてしまっているように思われます。しかし由紀子の人柄といいますか性格は段々わかってきました。
不良なんて下げ札にどうして甘んじているのか不思議な気持ちがします。あと異性交流にまつわる臆見もそうです。悪い評判をつけたがるのはいつも他人でしかありません。そしてその大半は他人らの歪んだ目線で勝手に醸成されています。火のないところに煙は立たない、一理ありますが詭弁と魔術に歴史を感じるなら、実証が第一ですよね。
蜂に刺されてからの交流はこの間、お話したように特に深まったわけでもありませんが、でも、まちがいなく挨拶には笑顔で応えてくれますし、家に何度か遊びに来てくれました。もっともわたしが誘ってのことですけど。そうですわね、お姉さんのおっしゃるよう由紀子はあまり自分からあれこれ喋ったりせず、やはり無口な性向ですので、余計に切り出せなかったせいもあり、あやうく疎遠になりかけそうでしたのよ。はい、そこは心得ています。指示通り観察と油断でしたわね。観察は怠りませんでした。でも油断ってどうなんでしょう、結局、観察における油断の一幕ということになってしまうのですが案の定、由紀子には友達らしい者が見当たらず、もし不良の名が幅をきかせているとしたなら、さしずめ一匹狼とでも言いますか、女子なのに狼なんて変なのですけど、ああいう体格で冷たそうな顔つきだから、男子だって近寄りがたく感じていて、それが尾を引いてるみたいです。
中学の水泳部だった頃に何人かの男子生徒がからかい半分なのか、本気なのかは分かりませんけど、由紀子に迫ったことがあったようです。みんな肘鉄で終わったと聞きますので、その気性のきつさ、いえ、きついとか愛想がないとか、丸みを帯びた可愛さばかり欲しがる相手にはしてみれば面白くない女生徒なのでしょうね、きっと。また、高校生や有職少年ら年上の異性と並んで街を闊歩しているだの、果ては与太者とも関係しているとか、貫禄あり気にくわえ煙草を吹かしていたなんて噂がひろまってしまい、相当な札つきだと言われだしたのです。
そんな噂をいちいち鵜呑みにはできません。わたしも親しい友人がいませんので観察するしかなかったのですが、いっそのこと、真正面からあっけらかんと突っ込んでみたらというお姉さんの意見に、はい、なんかわたしも女優の卵になった心意気でぶつかってみました。するとどうでしょう、わたしはあの時ほど由紀子が可愛く魅力的に見えたことがありませんでした。にっこり微笑んで見返す夕陽のようなきらきらとした切なさが、寂しさを寂しさで答えているのでしょうけど、反対に名も知らない孤島の住人が醸しているような気力に励まされてしまって、そのあてどもないときめきに心打たれました。素直すぎる気持ちがわたしの陰険な質問をそっと包んでくれるように、王子さまのくちづけで真意を奪い取ってもらうように、甘い倒錯が夏の残照を呼び覚まし、夜露にぬれた夢さえすり抜けて明日の扉が叩かれているのです。恐々とした期待、明晰な気掛かり、そしてお椀を伏せたみたいな秘密の予感。
なんのことはない、わたしが油断していればいいだけ、なにを気張って構えていたのだろう。由紀子は言いました。まあ、そんなこともあったような、うるさいのよね、あいつら、ひとり歩いてたらどこか遊びにいこう、いいことしないか、なんてね、あっそう、いいことってなにかしらって聞き返してやったわ、黙ってついて来いだとさ、ついて行くふりしてさっと消えてやったのね、面白かったわよ、ですって。
たしかに怯みました。あまりにあっけらかんとしてましたから。だが、ここはお姉さんの教え、怯みながらも顔を赤らめることすら忘れて突っ込みました。あのね、由紀子さん、相当に経験ありそうに思えるのだけど、どうなのかしら。
これまた即答でそう思うのならそれでいいわよ。敗北でした。由紀子はひとの思惑にふりまわされたりしない女子でした。これではお姉さんの代理女優を頼むどころか、もうお手上げです。ところが以外でしたの、わたし余程しょげた顔つきをしてたのでしょうね、由紀子は敏感に見て取ったのか、あんた、どうしたのよ、蜂に刺された足をあんなに吸ってくれたのに。ええっ、今度は不意打ちです。あれは、あの場合はどうこうじゃなくて、ただ、なんというか、しどろもどろになりながら、油断はまさに禁物、いえ、隙だらけだったのでしょう。間弓さん、もしかしてわたしのこと好きなの、その真面目そうな眼にはまだ未知数の光がいっぱい輝いていて、はあっ、そんなつもりじゃないわ、増々もって動揺してしまい、かといってもっともらしい説明なんかできません。完全にうなだれたわたしを察したのか、そうなんです、お姉さん、ひょうたんから駒、ちがいますか、いいことわざが見つかりません。
由紀子はこう柔らかな声で尋ねてきたのでした。なにかわけありらしいわね。よかったら話してちょうだい。あんたには恩があるからわたしにできることだったら相談してよ、遠慮はいらないわ。そう詰め寄られても、おかしいですわね、わたしたちの企みの行き着いた先のほうがどれだけ不道徳で、奔放で、色情に染め上げられているか、詰め寄るはずが忖度されてしまい右往左往、でも覚悟みたいなものは炎のごとく揺らめいていました。ややあって、わたしはほとんど涙目でしたけど、由紀子を見つめ、ここではいくらなんでも、放課後に家でと。
お姉さん、昌昭がそうであったように秘密は漏洩されるものですね。内実こそ理解してないにしろ、わたしが今西満蔵の娘であることを前々から知っていたとすれば、スカウトしたつもりの由紀子は事態の重みを感じていて、だって、昌昭の実の姉ですから、あの母親の荒い気性を受け継いだ娘ですから、必ず幸吉をたぶらかせてくれます。こんなはしたないことをわたしに言わせるなんて、お姉さんはそれを見越していたのでしょう。だとしたら狡いわ。でも仕方ないです。うまくいくことをわたしは求めていますので。父の耳へ入るのも確実、どう展開するかはおおよそ見当がつきますし、混迷の糸はより絡まるでしょうけど、ほどけるのも早くなりそうな予感が胸に迫っております。
祈りは欲望へ追従しているとお考えですか。欲望に祈りが宿っているのでしょうか。
うなずく由紀子が本当に不良であってくれたなら、それだけがぐるぐると、まるで遠心機にかけられた言葉が分解されてしまうよう、切れ切れと耳の奥でまわり続けています」


[515] 題名:L博士最後の事件簿〜第四章・天使のはらわた15 名前:コレクター 投稿日:2020年04月06日 (月) 22時48分

「あなたが受けた間弓さんの印象ってどうでした。暴走列車なんて言ったけど、実際にお会いしたとき、父の手紙に綴られた姿容のまま想像を越え出たりせず、わたしの宿望にふさわしかったわ。
深窓の令嬢という古風で閑麗な言葉にふさわしい澄んだ眼と青ざめた顔色、しかしさりげなく紅潮することをためらわない体感、そう、こちらの頬が恥じいってしまう秘匿された色香、たぶん同性を意識すればするほど、一見華奢なつくりの内奥から燻る肉感はまるで罪科をとがめているように、険阻な心持ちへ促がされるのね、相反するなにかを感じさせておきながら、その羞恥をしっかり自分が受け持ってしまう。
高校生なのに辛辣だと感じるよりも、その辛辣さを打ち出さずにはいられなかった未成熟に感じ入りました。暴走する列車の乗客がわたしと父、昌昭さん、そして途中から乗り込んだ幸吉さんだけだとすれば、間弓さんの運転は無謀であるまえに抜かりのない速度を保っているわ。手紙でもちゃんと周到だって結んでいるのだから、ほぼ間違いないと判断しました。そこでわたしは言葉を選ばずに感情を選び、こう返信したのです。
どういった告白がお望みなのでしょう。わたしの白状するべきことはあなたの文面に書かれていません。いや、書きたくなかったというべきでしょうか。では行間に、さながら鉄格子の隙間からのぞき見るように、はんざい者のかかえる秘密を勝手に探ればよかったのかしら。そうじゃありませんわね、間弓さん、あなたの胸中をあなたはわたしに認めて欲しかったのではありませんか。
そう端的に感情を投げかけてみたのよ、ある確信があったから。
そもそも認知にあなたはこだわってなんかいない、こだわっているのは、夜風になびく枯れ枝の先の先に残された一葉がそうであるように、雛が寒さとは別の震えを小刻みにしめす野性の孤絶感に似た、知性とは無縁であるべき焦がれて焦がれる恋心、さとられまいとして反対に見通してもらいたい意地ではありませんか、と。
昌昭さんのことが好きなのですね。わたしなんかに絶対とられなくないのですね。いつから恋心を持ちはじめたのかはわかりませんけど、昌昭さんが実子でないことを自覚したときから、あなたの意識に大きな変化があったように思います。しかし同時に様々な支障がわき起こりました。それをここであれこれ述べても仕方ないですし、なによりあなたの直球があまりに初々しく、わたしは間弓さんのことをとても身近に感じてしまって、あなたの役に立ちたい気持ちでいっぱいです。さあ、どう演じればよろしいのでしょう。そうだわ、変化球を見てみたいと思いませんか。
ごめんなさい、考えがまとまっていないのでしょう。いいのですよ、あなたは目一杯、自身の希望と向き合い、そして戦っています。でもわたしと戦わなくもいいじゃないですか。昌昭さんも幸吉さんもまだ子供です、中学生です、あなたは高校生、わたしは違うわ。女優は脳内で演じる光景を外に外に出さなくてはならないのよ。わたしが満蔵の娘であるとか、ないとか考える暇があったら、父を怖れる時間があったら、世間の眼を気にする繊細さがあったら、どうやって昌昭さんの心をとらえればいいのかよく思案してください。
あと、宛先のおともだち、こんな大切なこと書き送るのですから、ちゃんと信用できるようわたしに説明するべきです。わかっていただけましたね、間弓さん、あなたはわたしの妹なのです、たったひとりの」

幸吉は湯気の引いたお茶を口へ運ぶ素振りに全神経すべりこませて、いかにも沈着な面持ちで構えた。
「間弓さんはそれで納得したのですね」
薄いレモン色のカーディガンを無造作に、けれどもこれ以外あり得ないほど羽織った病弱な間弓の姿を想い浮かべると、それはただちに血の気のないくちびるを強迫的に呼び寄せ、はじめての接吻を脳裡にめぐらせたのだったが、情景の区分は容赦なく、間弓の姉と向き合っている現実へ引き戻した。
「お姉さん、そう言ってくれたわ」
思わずお茶を吹き出してしまった幸吉は、もはや気取りに縛られることなく、眼をまるくし声を高めた。
「すいません、なんですって」
と、言いながら畳を濡らした水分にあたふたする。
「あらあら、貸してわたしが拭くから」
わずかな沈黙が夜を際立たせた。そして何故かしら見通しの良くなった景色を眺めているような心延えに、夢の夢の耳鳴りが超音波のごとく淀んでいるのを知り、肉欲が一瞬だけ淡く透けてしまった気がしたけれど、それは遠雷を懐かしむ耳朶の構造だと頷いてしまった。
「どうも恐れ入ります」
「いいのよ、先へ急ぎましょう。そうね、由紀子さんとの関係を、幸吉さんの聞かされていない関係をお話ししますわ。
ほとんど交友を持っていなかった間弓さんがどうして不良とか呼ばれている生徒と親しくなったのか。
わたしの言いつけを守ってちゃんと書き記してくれました。それはひょんなことからなのね、本人も思ってたみたい、でも結果は出来事を俯瞰しているとしかわたしには見えなかったわ。
中学時代から同学年だったけど、性格にも姿勢にも隔たりがあり過ぎて近づきがたいと感じるよりか、もって生まれた気質がごく自然に無関心をつくりだしていたのね。一度も喋ったことなく、高校生になっても同じクラスじゃないから関わりなんて持ちようもなかった。ある日の下校時、家の近所でうずくまっている制服姿の由紀子さんへ声を掛けるまでは。
異様な光景であるとともに、一種あるべき逸脱が、まったく夢のなかの混沌とした雑念の、しかし絵面が絵面に収まっている瞬間の固定、わたしたちの見るべきして立ち合っている日常の裏側、逃げ足を絡めとる矛盾した勇気が、間弓さんを別人にしてしまった。由紀子さんは不良である。でもよく知らない。
とっさには急病としか判断できなかったし、弱みを握られたなんて変に因縁とかつけられても困るから尻込みはしたけれど、気がついたら駆け足で歩み寄って、どうしたのと顔色をうかがったのね。すると由紀子さんは痛い、さっき蜂が飛んでて、たぶん刺されたようなの、間弓さんはまさかそんなとびっくりしつつ、小さな頃にその覚えがあったので、どこ、どこを刺されたのって親身になって話しかけたら、由紀子さんはスカートをまくり上げ、太ももの内側をあらわにしたそうよ。するとピンポン玉くらいに赤く腫れており、たしかに蜂だと直感した間弓さんは以前、流水で冷やしてもらったことを思い出し、家まで歩けるか尋ねてみたけど、もう歩けない、ここまでかなり歩いた、段々ひどくなるって本当に苦しそうだったので、いきなり赤い腫れに吸い付いたのね。由紀子さんはなにするのって表情で見返したけど、声はかすれて言葉にならず、間弓さんの処置らしき行動にじっと頼るしかなかった。どれくらいのひとときだったか、でもそれは数えることなど必要なかったから、そして辺りにひとの気配もなかったから、春の陽射しは陽気さにあふれ、そのぶん妙に森閑とした雰囲気で路上に座り込んだふたりは人目を気にかけず、手当をほどこし、ほどこされて、うん、すこし治まったよ、そう由紀子さんが薄ら微笑んだとき、間弓さんは家までとは考えず、視界に入る他家ならどこでもいいって思いなし、自分でもどこからこんな意志が沸いてくるのだろうっていぶかりつつ、さあ、つかまってそこまで歩ける、もう大丈夫よ、励ましながら、あきらかに体格の差がある重みに堪えている実感を噛みしめて、見知らぬ家の扉を勢いよく開け、不審な顔を出した主婦に事情を告げると、案じたより柔らかな現実が夢をひとまたぎし、救急箱を手にした情景の流れは嘘のようにきらめいて眩しく、不意に学校の保健室の匂いと白いカーテンが昼間なのに、どこかおぞましく感じた記憶と入り雑じり、幻覚へさらわれそうな気配に拮抗しながら、消毒してもらって包帯を巻いた足がスカートのなかに隠されたとき、ようやく、由紀子は主婦と間弓にお礼を言い、ひとりで帰れそうだからと強がるのをなだめるようにして、あなた風見さんだよね、わたしの家はこの先だからぜひ休んでいってと自分の名前を教えたら、知ってるわよ、以前校長だった今西さんところのと、明快な返答が返ってきた。
その後の詳細は幸吉さんの頭脳で描けるでしょう。ではいかにして間弓さんがわたしを姉と認め、手を取り合ったか。おそらく察しがついているようだけど、ここは細やかな箇所に耳を傾けて欲しいのよ。
間弓さんはこう書いています。逡巡を這わせているけれど新しい家族に夢を託しているのが切なく、たかが幼心と読まれようともかまわない、そうわたしに訴えております。
幸吉さんのお母さんね、つまり父の恋人だったという実習生に間弓さんはうっとりした幻影を投げかけていて、花のつぼみに包まれた悪夢と自嘲しているけど、果たしてそうでしょうか。そして続けざまにわたしへの嫌悪を述べていますが、この愛憎的な二面性にすべては集約されているよう思えるのです。若くして亡くなった母の面影が恋しい反面、父のふしだらな異性交遊を嫌い、さらには結婚の意義にも延長をかけ、欺瞞と色欲の権化を見出そうと努めている。この努め方に無理があるのは間弓さん自身よく心得ていることで、真に潔癖な純愛しか了解できないと言うなら、義弟である昌昭さんをとことん憎むはずでしょう。しかし、その逆でした。こんな言い方するとわたしも下卑た女の仲間入りみたいで、いささか不本意なのですが、お嬢さま的な心性を決して侮蔑しない間弓さんは、どこまでいってもまだまだ女子高生でしかありませんし、家族の絆だの、母性本能だの、逃避的願望だのを、ありありとした光のもとで、避けらけれない現実の影に被われた苦悩としては学んでいないのです。あくまで理性の冠を擁した位置でしか物事を把握しておりません。
知っているでしょう、あなたは昌昭さんが好きで好きで堪らないのは、ただ単に禁じられた構成をなぞっているだけよ、実はわたしのことを姉でなく若い母と認めたくない一心、隠せば隠すほどに、そうした実情が降り掛かっている悪夢的な心象に、ある意味よろこびを見出しているのだと次の手紙に書き記しました。
どうしてわたしが昌昭さんと駈け落ちみたいな真似をしなくてはいけませんの、だったらあなたが行なって然りでしょう、ごまかさないで、嫉妬する馬力があるのならわたしを姉と信じ、女優の端くれの演技を徹頭徹尾に活用しなさい。映写機に掛からずともこの現実を演出してみましょうよ。
すでに幸吉さんはその途上にあるけど、あのひとは本来のねじが緩んでいるからって、あなたを愚弄し、間弓さんの心にまぼろしの姉と母の優しさを植えつけました。それであなたはまだ欺瞞と虚構のさなかに、夜の真ん中に置かれているわけなのですが。
間弓さんはほぼ全権をわたしに委ねました。でも一抹の不安があるらしく、そんなこと言ってもわたしも昌昭も進学でこの家を出るのです、その間にお姉さんがどう振る舞うのか想像しただけでいたたまれません、なんて泣き言を書いてくるので、どうしてそんな想像しかできないのですか、わたしは可愛い妹のため熟慮しなければと日々考え抜いているのですよ、時間はかかるでしょう、それは仕方ないことです。昌昭さんも時間をかけて了解させましょう、あまり時間がないけど公算はあります。とにかくいい調子に幸吉さんを祭り上げておく、そうすれば父も油断します。実際に姑息な手段が功を成しているじゃありませんか。
ただ、わたしにも危惧がひとつあります。燐谷幸吉という中学生よ、どこまでねじを緩ませてくれるのか、優等生と聞くけど骨の随まで抜かなくてはいけないわ。代役の座を中途で降りてもらっては致命的です。もう後釜は見つかりそうもない。ねえ、間弓さん、その風見由紀子さんって生徒どうかしら。いえ、待ってだの、良心だの、情けは無用だわ。だったらあなたが骨抜き番になれるの。ええっ、すでに接吻、あっ、そう、接吻でね、で、それ以上のことは荷が重過ぎるのでしょう。どうなの、蜂に刺された由紀子さん、父と幸吉さんの共通項でもある太ももの持ち主ではなかった、なるほど水泳部で活躍していたわけね。
こうしたやりとりが間弓さんと繰り返され、遂に由紀子さんをあなたにぶつける計画が練り上がったのです。わたしは映画女優に見切りをつけ銀幕からこの世へ躍り出ようと決心しました。全霊を託し、全裸を提供する。どこまで肉欲に溺れてくれるのか。間弓さんの本心とある試みを糊塗せんがために、肉体女優をスカウトしたのでした」


[514] 題名:L博士最後の事件簿〜第四章・天使のはらわた14 名前:コレクター 投稿日:2020年03月31日 (火) 00時52分

さっと立ち上がった正枝のうしろ姿を追った幸吉の目線には、どこかないがしろにされた期待でそそのかされているのやら、はたまた手品師の所作へと見入ってしまい、謎が謎であることの当惑に立ちすくんでいるような心持ちが備わっていて、それは定まる位置を覚えようとしない夏の終わりの微風に遊ぶとんぼの軽挙を想起させた。
細かな描写が割愛される際に生じるであろう浮遊感は、劇的な様相へ落ち入ったりせずに、どこまでも漂っており、実情は夢の霞のなかへ浸っている。いつの間にか封書を手にした少しばかりきつい眼の正枝を見上げれば、幸吉は悪夢から目覚めたときみたいな安堵と、もの寂しい鼓動を感じ、さながらしきたりのように苦笑いしてみたのだが、自覚したほどの表情は作らず、畳に落ちた正枝の影に易々とかき消されてしまった。
「お読みになりますか」
「ええ」
夢遊病者の不審な仕草に首を傾げながら、自らその意識の外皮を掻きむしっているような遠隔が生じているので「いえ、読んで聞かせてくれませんか」という揺籃からの願いは口にできなかった。
「こっちの部屋で」
白々とした、けれども静謐の気配が夜の深まりを告げている澄明さは、正枝の受け取った動揺を鮮明に伝えるだろうから、幸吉は蟻が炎天下の光のなかへ這い出していくような責務に従った。


「前略失礼いたします。今西間弓と申します。わたしが憂慮している内実について、はたして正枝さんがどこまでご存知なのかわかりませんけど、少なくとも弟の昌昭があなたに相当な想いを寄せていること、それをひた隠しにするつもりなどないこと、弟の恋情と父の思惑に相違があること、これらを承知しておられると判断したうえで、是非ともあなたに真実を述べていただきく筆をとりました。
わたしが知りたいのはおそらく正枝さんが誰にも口外していない事柄ですので、冗長とわたしの気持ちばかり綴って肝要な返答をいただけないと困りますから、どうぞ短簡で権高なもの言いを許して下さいませ。
さて燐谷幸吉という中学生が我が家を訪れたことにより、あなたとの婚姻なんて絵空事みたいな事態がひき起されてしまいました。勝手に訪れたわけでなく、昌昭の計略だったから、なんとも始末に置けないのですけれど、その後の成りゆきはあなたの方がよく理解していることでしょう。実子でない以上、あなたとの血縁はありませんので、弟の純真な想いをさえぎるのは難しく、言葉にこそしませんが父も煩悶の様子を隠しきれません。
わたしも昌昭も父もそろって、まるで三すくみのごとく打ち解けられずに腹を割って話せないという情況ですので、目立った進展はありませんが、最終的には父の威厳といいますか、権限がすべてを仕切ってしまうような気がしてなりません。そうなると家族の絆なんて無惨に蒸発してしまうのです。でもそれはそれでいいのですよ、昌昭と正枝さんが一緒になろうとも。わたしはあなたを姉とは呼ばないでしょうし、今西の姓を名乗ってもらっては困りますが、絶縁のつまり他人であるならかまわないと考えているのです。
実際、弟はその覚悟をしているようで、あなたさえ認知を放棄してくれれば、女優であろうが芸術家であろうが問題はなくなるのです。しかし父の意向はまったく異なります。どうやら本気で幸吉を婿養子として迎えそうなのです。これにはわたしも戸惑って、いえ、戸惑っている場合などではなく、結局あなたを認め弟を捨て去るという最低の事態を招いてしまうから、なんとしても回避したいのです。
そこでまず、どうして他人である幸吉に執着しているのかをあなたに聞いていただかなくてはなりません。昌昭にも詳しくは話していない燐谷家と父との関わりを。
わたしが小学校へ上がった頃ですので、おぼろげな記憶に頼ってしまい当時の込み入った事情は、のちに父から教えられた事柄になりますが、どこからともなく幼児がやって来たなんて言い方をすると変でしょうけど、わたしの脳裡にある光景はまさにその通りで、しかも子供心にもなにかしら訳ありな様子が、父の苦渋が、亡き母の面影が、複雑な紋様を描きながら逆巻いており、疎ましさすら感取する間をあたえない貰い子の鳴き声は、わたしたち親子の暗黙に鳴り響いているような、ある種いましめの了解みたいな空気にひろがっていたのです。
もっともそんな陰惨な雰囲気ばかりに終始したわけではなく、父は他に悩みをかかえていて、これは内輪の恥の上塗りでいささか話しづらいのですが、反面もしかしたらわたしと父にとって違った生活となったのではないか、そんな微笑ましい光景を思い浮かべてしまう色恋の顛末でして、そうなるとわたしの弟は別人であったり、妹がいた可能性がなどと、夢想は夢想の奥底でひっそり眠っているのですけど、父から新しいお母さんなんてどうだろうとか、ほぼお姉さんみたいだけど間弓は嫌だろうねとか、再婚をほのめかしながら、わたしを子供あつかいしないことで、なんとか同意を得たいと願っている下心まるだしの口ぶりがとてもいじらしく、まだ幼いわたしにも母性愛みたいな感性の芽生えた記憶があって、多分それはあとづけの記憶操作かもわかりませんし、逃避的願望が現在ここに稼働しているようにも思えるのですが、とにかくはじめて耳へした大人の色恋にどれだけ夢心地となったのか、その尺度は同じく眠ってしまっているので、呼び覚ませるのは他者に対する嫌悪だけしかないという矛盾へ向かってしまうのです。
しかもただの嫌悪ではなく、よこしまな愁いが少しばかり華やかさをまとっているような、洋服を新調してもらったときに感じた肌を撫でては被ってゆく膨らみのような、花のつぼみに包まれた悪夢なのです。わたしは正枝さん、あなたを好ましく思っていません。わたしの嫌悪は嫉妬かも知れません。でも断定なんかできません。できないからとりあえず好戦的な姿勢を崩すわけにはいかないのです。
父はそのときある実習生と親しい間柄になっていた矢先でした。昌昭の母とはそれ以前のことで特に情を深めたりしなかったけれど、その若い実習性の女性に対しては真剣な恋情をつちかっていたのでした。短い実習期間がより恋心に火を灯したことでしょう。破顔をこらえながら、あるいは申し訳なさを押し殺しながら、それでも将来をこぼれるようわたしに語る父の顔がありました。
しかし学校まで押し掛けて子供を渡された現実に、かたくなに拒もうとしなかった父の姿に、相手の女性はかなり失望したみたいで、たぶんとても真面目な人だってのでしょう。再婚まで視野に入れてのつき合いだったのですが、交際は終わってしまいました。
責任と後悔を感じた父は・・・あまり細々ここで書くべきでもないので、かいつまんでお話しますと、ちょうどいい具合に、かねてより顔見知りだった出入りの業者が実習生を思っており、まったくおおやけではなかった、ようは父との関係など知るよしもなかったその業者から、胸のうちをそっと告げられ、なんとか縁をとりもっていただけないかと相談されたのでした。いったい男女の機微とはなんでしょう。父の責任感なんて体のいい罪悪逃れにしか思えませんし、妙な自意識を振り払えず、年相応でひとがらの良さを理由に仲を簡単に取り持つなんて、わたしにはとても理解できません。ですが、その取り持ちが功をなしてふたりは交際の末、結婚したのですから、そして生まれたのが燐谷幸吉、その姓に聞き覚えがあってしかるべきで、父がわざわざ興信所を使ったのは、念入りな確認、慎重な認識だったのです。
弟だって燐谷との古いしがらみを知っていたら、もっと別の手段を考えたでしょう。でも点と線の連なりはあまりに近すぎて無情だったのです。
なぜ父は幸吉に、いくら昔の恋人の息子とはいえ、ああまで思い入れをしているのか、正枝さん、おわかりですか。あなたと婚約させてなにが晴れるというのでしょう。わたしの疑問はある意味、単純で、しかも真正面から父を見据えて問いただせば、答えは返ってくるに違いありません。が、そんな正攻法は危険な情況を腫上がらせるだけなのです。
正枝さん、あなたにお聞きします。あなたは本当に今西満蔵の血を分けた娘なのですか。きちんと証明することは可能ですか。わたしが行き着いた考えはこうです。あなたは生みの母から言い聞かされているだけではない、いえ、聞かされております。昌昭が実子でなかったように、あなたもそうではない、誰か他の父がいるはずです。そうなんでしょう、だったら今のうちに白状して欲しいの、そうすれば弟と自由に恋愛できるじゃありませんか。父は分かっていながら形式として、記憶に甘く寄りかかるかつての恋人の息子と、自分の血を引いていないあなたを結ばせておいて、だけど、魅了してやまなかった女体から生まれでた、これまた愛でて愛でて仕方ない娘を我がものにするために、そうよ、所帯なんか持てるはずもない進学の身を理由に幸吉は遠ざけられ、その猶予が今西家において開花すると、つまり邪魔者である昌昭もわたしもいなくなったこの家で、養子縁組は燐谷家から有無を言わせない傲りを持って遂行され、あなたと父はまるで夫婦同然、老いらくの恋に溺れゆくのです。
あなたが本当の娘であったら燐谷の息子なんかと一緒にさせない、なぜなら失意と失意をくっつけたって意味はないからです。せいぜい良心的な妙味を香らせる精神の満悦くらい感じて、観念の交わりを味わうことでしょう。あくまで一時的な方便として。
が、先々の見晴らしは一時的だと困ります。ここはあえてあなたと契りを結ばせて周知にすれば、昌昭の出る幕はなくなり、世間的にも老いらくの大儀を成立させられる。大儀が世間を塗りかえるのです。
そうして幸吉の心変わりを待つか、いっそのことすべてをさらけだすか、瘋癲のなかの瘋癲は巧妙に時間を送っているのです。
告白を待っています。あくまで内密なので別紙に記した住所へ。わたしと同い年の子の家です。心配いりません、わたしだって周到です」

読み終わったまなざしへ滲んだものを見て取った正枝は、
「どう思われます。間弓さんの暴走列車みたいな意見、わたしが満蔵の娘でないと、あなたも疑いますか」
と、極めて低い声で訊いた。
「すいません。正直、脳みそがぐちゃぐちゃになっています。ちょっと待ってくれませんか」
正枝は整った姿勢をくずさず、急須を傾けた手元に面差しが沿うようなしなやかさで緑茶を注いでいる。時間が時間の間延びを数え上げようとするまで、そのしなやかさはうつろわない。
湯気はこじんまりと茶碗のふちに収まっていた。
「ぼくはあなたが誰の娘だろうとかまいません。映画館で出会った憧れの血筋がどうあれさして興味ないのです。それより、こうまで利用し尽くされていたとは、虚脱しか感じられません」
「では、わたしのことを信じてくれますか」
「そのつもりだから、ここにいるんじゃないですか」
幸吉は半ば吐き出すように答えた。
「わたしという女優を想ってくださるのね」
「はい」
「まあ、うれしいわ」
「手紙はこれでおしまいではないでしょう。返事の送り先は由紀子さんの家ですね」
「そうよ、因縁はなんと手際がいいんでしょう」
「あなたは陽気な方なんですね。ぼくにはとてもそんなこと言えません」
「どうかしら、あなたの色欲だってたいしたものだったわ」
「色欲は関係ないでしょう」
「関係ありますわ。おおかたそうではありませんか、父もあなたも」
正枝の眼はまだ口をつけていない茶碗の湯気を鎮めていた。




Number
Pass

ThinkPadを買おう!
レンタカーの回送ドライバー
【広告】Amazonからファッション秋のお出かけタイムセールまつり20日開催
無料で掲示板を作ろう   情報の外部送信について
このページを通報する 管理人へ連絡
SYSTEM BY せっかく掲示板