愛と善悪の考察
[6828]グッキー
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2017年07月06日 (木) 13時59分
もふれおさんには悪いが、愛が善悪に分かれるというのは机上の空論だと思う。 愛は均一で空気のようなもので世界のすべてを照らす。
公園にアリが居ればとっさ的に踏まないようにと気をつける。 「殺したく無い」これが愛だ。愛が有るから生命は存続して来たとも言える。愛の方向に向かうように、愛が好きと方向づけられている。これが生命原理だ。 生命が「殺したい」などと思って居たら、どうして生命がここまで存続できただろうか。
アリが見えなければ踏みつぶしてしまう。 見えないで他者を害する行為、人はこれを悪と名付ける。
愛が自分だけに向かって居たと仮定しても、それは悪でも何でもない。愛は愛だ。素粒子のように分解できないものかな?
悪とは他者を害する行為を言う。愛が自分だけに向かって居ても何も他者を害さない。 愛が自分だけに向かって居ても、それだけでは他者を害さない。山中で一人で自給自足して居れば、いくら愛が自分だけに向かおうと他者を害することは無い。
他者を害するのは、アリが見えないで踏んでしまうように、見えないから起きる。 見える=他者の身に成って感じ、考えることが出来る。
他者の身に成って感じることが出来れば、どうして痛み、悲しみを感じることが出来ようか。 他者の痛み悲しみを感じるとは、自分が痛み、悲しみを感じるということだ。 自分が痛み、悲しみを感じることをする人は居ないだろう。
そして他者が見えなく成る原因は過度の欲、過度の恐怖心に有る。 民法では強盗により取られたものの所有権は善意の第三者に対抗できるが、詐欺により取られたものの所有権は善意の第三者に対抗出来ないことに成っている。 これは詐欺により取られたのは、欲が有ったから詐欺に有ったということで、被害者責任を追及している。
まあ、生物には食物連鎖が有り、欲や恐怖心で視界が曇るのは仕方が無い。 しかし過度の欲、過度の恐怖心で他者を害しても分からないほど視界が曇るのは問題だ。
彼は真実を知りたいと言った。しかし自分を疑わなければ真実は見えて来ない。 人は常識という思い込みで出来ているからだ。 こんなことを書いても怒られるだけだろう。 ただ哀しいだけ
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