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三戸ゼミ掲示板 ―大学院版―

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[ No.634 ] 2015年度春学期第六回ゼミ報告 投稿者: 2015年05月30日 (土) 01時08分
【日時】5月27日(水)13:00〜19:00
【場所】国社棟604室
【出席】
三戸先生
(博士後期2年)中村さん、王さん
(博士後期1年)阪本さん
(博士前期2年)黄さん、唐さん、沙さん、(坂倉さん)
(博士前期1年)木田
(研究生)謝さん

目次
1.先生のお話
2.発表
3.来週の予定

1.先生のお話



最近、安保法制に関して、自衛隊の出動要件の解釈などが議論されている。
そこでは、「自衛隊員の生命が危険にさらされるリスク」ばかりが問題にされているが、
そもそも戦争をするとはどういうことか、という視点が欠けている。

<1.戦争について>
(1)戦争に勝つとは
戦争に勝つとは、どういうことを意味するのだろうか。
それは、何が勝つことを意味するのか。
 
 軍隊
 個々の軍人


第二次世界大戦では、戦闘に負けたフランスや勝たなかった中国(共産党)が「戦勝国」となった。
戦争に勝ったか負けたかは、戦闘時においてではなく、戦後に決まるのであり、
軍の勝ち負けではなく、国単位で見たときに何を得、何を失ったかが決定的なのである。

軍が戦闘に負けても、戦勝国となることがある。
逆に、戦闘に勝っても得をするとは限らない。
そこに、「戦わずして勝つ」という孫子の凄さがある。

(2)「企業と社会」論と戦争

アメリカの軍産複合体など、先進国の武器を作る会社が武器を紛争地域に供給しているからこそ、
紛争が拡大・深刻化している。
社会の外に広がる自然を破壊することに対して「企業の社会的責任」が追及されている。
それならば、自国社会の外に広がる世界で紛争を起こしていることについて、なぜ「企業の社会的責任」が求められないのか?
人々の意識で政治と経済が無意識のうちに分離されており、思考停止してしまっているのではないか。
だから、グローバリゼーションという時の「グローバル」は、「グローバル・マーケット」しか意味していないのである。


<2.『心』と現代の日本における倫理の欠落」>

心とは、他者への配慮、気配りのことである。

他者の気持ちに立つことが、日本人の美徳、倫理とされてきた。
しかし、70-80年代の日本では自分の気持ちに立つことばかりが肯定されるようになった。
(たとえば、自分に素直になれ、我慢するな、あなたのわがままに答えます、等)

かつての日本では、共同体・伝統に立った価値観があり、他者への配慮・気配りが倫理・美徳とされた。
また、そこでは滅私奉公という倫理が存在した。

欧米では、個人という思想のもと、個人の意思決定に基づく責任という倫理がある。
それは、法や市場という社会システムに適合した思想だと言える。

そして、現代の日本では、共同体や伝統に基づく倫理は失われ、
一方で確たる個人という意識もなく、ただ自分(エゴ)のみが絶対化されつつある。
そこに現代の日本における倫理の危機があるのではないだろうか。

<3.企業観と企業の社会的責任>


<企業観(ガバナンス)>     <企業の社会的責任>

〜80年代
公器             公害、負の結果への対処

バブル経済

80年代〜
法人(奥村)      利潤追求批判   社会貢献(活動)
従業員共同体(伊丹)

(共同体中心の考え方、政府主導)



バブル崩壊
90年代〜
ステークホルダー論――――- CSR・・・フェアトレード(非市場)
↕                        社会的企業
株主主権論 利潤追求肯定 CSV・・・BOP(市場)

(個人中心の考え方、政府はサポート役)





80年代のバブル期において、巨額の利潤を上げた企業は、それを社会に還元するべく、社会貢献をすることが求められるようになった。
バブル崩壊以降、株価の低迷やアメリカの影響で、株主主権論が登場し、
また、それに対抗する形で、ステークホルダー論が提唱されるようになった。
会社はステークホルダーのためのものという考え方は、CSR論に展開されていった。
しかし、株主主権論が強まると、事業による社会課題解決と利潤獲得というCSVが支持されるようになった。


80年代における社会貢献論は、ガバナンス論、企業観と結びつけられていなかった。
そのため、社会貢献として具体的にどんな活動をやるのか、という以上に論が深まらなかった。
90年代におけるステークホルダー論と「CSR」論の登場で、ガバナンス論・企業観と企業の社会的責任が結び付けられて論じられるようになった。
ところが、「CSR」という言葉は、
「Corporate Social Responsibility、企業の社会的責任」つまり「企業が社会において負っている役割や責務」
という元の意味が失われ、社会貢献活動の延長の意味合いで捉えられてしまいがちであった。
そのため、「CSRなんて古い」「CSRからCSVへ」などという主張がなされるようになってしまったのである。
CSRとは、本来「企業が社会において負っている役割や責務」である。
役割や責務の内容そのものは社会の変化に応じて変わるであろうが、
社会における役割や責務が存在すること自体はなんら変わらないはずであり、「古くなる」ようなものではない。

今後、
なぜ、社会貢献論からCSR論、CSV論というように世の流れが変わってきたのか?
社会貢献論とCSR論において企業に求められる具体的な責任の内容はどう変わってきたのか?
「ステークホルダー」という言葉が、ガバナンス論とCSR論どちらで先に使われるようになったのか?
考えるべきであろう。


2.発表



・陳媛「NPO組織の社会的責任―役割責任を巡って―」

・黄徐全「企業の社会的責任(CSR)に関する研究―正木氏による所説を中心に―」

3.来週の予定



・黄さん、唐さんの発表

・今後の予定の決定



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