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[63] 将棋界の ゴールデンラズベリー賞を創設したら?
ビストロ (/) - 2011年06月24日 (金) 20時28分

ゴールデンラズベリー賞(=ラジー賞)は有名です。
毎年アカデミー賞授賞式の前夜に「最低」の映画を選んで表彰する賞です。

これにならって、「迷局賞」を創設したら、というのが提案です。

例えば・・・
○一般の人が見られる棋譜(テレビ将棋、棋譜中継があるもの)が対象。
 順位戦全てを含むかどうかは微妙。

○例えば、ネットや将棋ペンクラブなど、一定の団体で投票により
 決定する。

○該当棋士を授賞式に招待する。(もちろん 来ないかも)

 ラジー賞が、映画の発展に一定の役割をはたしているように
いろんな意味で「期待を裏切る」対局を表彰することで 将棋界の発展に寄与するのが目的です。 皮肉やエスプリの利いた選局があっていいと思います。

 これを書いたのが、達人戦、佐藤−島 戦がきっかけではありますが、 この対局が「迷局」であるといいたいわけではありません。

 ただ、もしかして こういう賞が 発展のために 一定の役割を果すこともあるかな、と・・。

 将棋ペンクラブ先輩の JCさんの意見を聞きたく ここに投稿します。

Pass

[64]
JC IMPACTU (/) - 2011年06月28日 (火) 05時31分

ビストロさん

御返信が遅くなりました。

>ゴールデンラズベリー賞(=ラジー賞)は有名です。
>毎年アカデミー賞授賞式の前夜に「最低」の映画を
>選んで表彰する賞です。
>これにならって、「迷局賞」を創設したら、という
>のが提案です。

私もこの授賞式をWOWOWでみたことがあります。監督や主演女優さんが実際に出席されたことがありますし(ホントに怒って出ない人もいましたが)満更でもない様子で、にこやかに反論したり、逆に喜んでみたりと、実にユーモラスな面がありますね。どこかで「話題」になったことを楽しんでもいるのでしょう。

ただ、棋士の大部分の方々は「99褒められても1けなされれば、臍を曲げる者たちの集団」だと私は思っていまして、こういうユーモアーを理解できる方はおそらく稀ではないでしょうか。

「お前ら素人に将棋の何がわかる」と居直られそうです(笑)

そういう団体には「向かないだろうなぁ」という気がしています。正直なことを言えば。

「達人戦」の島VS佐藤戦、私も盤に並べてみました。これはもう私の棋力の問題ですが「ここで投げた理由」というのは、正直わかりません。ただ、わからない(=不親切)からといって、無気力とも断じられないという気がしています。島九段は「投了が遅すぎた」とコメントしていますが、要するに「それは何故?」ということが私にはわからない。例えば島九段にしても谷川十七世名人にしても「棋譜を汚したくない」という意識や美学というものは他の棋士よりも強いのだろうとは思いましたが。お二人の過去の棋譜をみて、そう感じたことがあります。

高柳門下というのは師匠も芹澤九段も、頭金タイプとは対極にありました。相手のミスを期待して指すなどということを潔しとしない面があるのでしょう。中原名人はそうではなく徹底的に粘るタイプでした。それは「相手のミスを期待云々」ではなく、最後まで頑張りぬくという姿勢でしょう。だから中原名人は記録も記憶にも残る大棋士となられた。そういうタイプの方が圧倒的に多いと思いますが、中原名人は更に「将棋の神様」に選ばれたのだと私はそう考えています。

島-佐藤戦の観戦記は湯川博士氏が観戦記を担当されます。私は週刊朝日を定期購読していませんが、掲載号は買い求めてみるつもりです。

「盤側」にビストロさんが「棋士と観戦記者の関係」について触れていましたね。「駒音」では「将棋ジャーナリズム」と論じられたこともあります。私は観戦記者というのは、棋士と、或いは棋譜と読者の「媒介」を果たしてくださる存在だと思っています。棋譜はひとつの「選びとられた結果」ですから、いわばそこに至るプロセスの一部を観戦記者は示してくださるものだと。

例えば政党や政治家の政策を政治部の記者は踏み込んで書くことがあります。社説では論説委員や主幹がそれにあたる。しかし政治家のスキャンダルや献金問題などになると、それを本当に掘り下げるのは社会部です。で、社会部と政治部というのは、衝突するわけです。社会部の記者は、取材対象者との距離を常に考えますし、餞別をもらったり、ゴルフクラブをもらったり、法外なことは、彼らはしないものです。政治家は「新聞」を使おうとしますし、政治部の記者は、そのギリギリの線を睨みながら、より深い情報をとりにいきます。記事を書くにあたって「知っていることを書かない、その量が多ければ多いほど、深みがある。書けないことをどう伝えるかを書き手は考えるから」という主張は案外正しいと私は思っています。いい悪いは別にして。

最近思いますよ。私は棋士と観戦記者の関係は「清潔な仲間意識に支えられている」と。政治家と政治部の記者のようなドロドロした関係などは勿論ありませんが、棋界の発展を強く願う仲間意識としての関係性は強い。それは決して悪いことではありません。「棋界の発展を願うのであれば、尚のこそジャーナリズム精神をもって「批判」しなければいけない」という考え方はあるでしょう。しかし「批判」というものは公の場で常に行わなければいけないものなのか、同時に知らしめなければいけないものなのかといえば、私は違うと思います。敵味方ではない「仲間」だという位置に立てば、晒す批判が正しいかどうか、ということでもあります。愛情をもった批判というものは存在しますし、それはwebであっても他のメディアであっても同じだと、そんな気がしています。

ビストロさんのお宅にも「将棋ペン倶楽部」の最新号が届いているかと思います。東公平氏が「山口瞳さん」を取り上げていて、それだけでもう私などは嬉しくなってしまうのですが、実はこの記事を読んで、私は色々なことを考えさせられました。改めてこのスレッドで、続きとして書いてみたいと思います。

Pass

[65] 書けること、書けないこと、書かないこと
JC IMPACTU (/) - 2011年06月29日 (水) 21時13分

「将棋ペン倶楽部通信37号」に東公平氏が「オモシロ人物小咄」という一文を寄稿されている。冒頭は「山口瞳ご夫妻」次頁には対局中の山口瞳氏の写真。前回にも書いたとおり、私など、それだけでもう嬉しくなってしまう。

私も前号に「山口瞳さん」のことを書かせていただいた。脱稿してから、もう半年以上になるのだけれど、当時のことを思い出しながら、今一度、振り返ってみよう。

とりあえず原稿を書かせていただくことが決まって、頭の中で何を書こうかと、ぼんやりと考える。入会前に求める機会のあった同誌をパラパラと読む。雰囲気を掴むためである。

山口さんのことを書くということは、芹澤さんのことを書くということでもある。更には、米長さんのことについても書くということになる。どこまで書いていいものか、何とはなく距離感のようなものが掴めない。

で、恵子さんにお尋ねしてみた。「どこまで書いていいものでしょうか」

すぐに御返信をいただいた。「書きたいことを自由に、何でも大丈夫ですよ」今時、というと変な話だが、これは稀有な媒体である。拍子抜けしながら、私は驚いた。

湯川博士氏が掲載前の原稿に全て目を通される。私も以前、何度か編集業務に関わったこともあって、それが如何に大変なものであるかということがわかる。上手い下手は別にしても、誰が読んでも「わかる」原稿を書くことだけを、まず意識した。「何を言っているのかわからない原稿」というのは、読まされる側にとっては苦痛だし、朱を入れるのは更に面倒なものでもある。

ただ「何を書いても自由」と言われると、それはそれで私としては色々なことを考えてしまう。

「将棋ペンクラブ」というのは山口瞳氏が創設に尽力された組織である。亡くなるまでペン倶楽部大賞の審査委員も務められた。何を書いてもいいのだけれど、黄泉の国の山口さんが顔を顰めるような内容にはしたくない。

「将棋ペン倶楽部」というのは、二上達也九段、中原誠十六世名人、米長邦雄永世棋聖、羽生善治前名人ら多くのプロ棋士が会員登録されている。棋士たちの世界が題材になる内容が殆どで、彼らは濃淡は別にしても必ず頁をめくる。「何を書いても自由」なのだけれど、そこはやはり意識はする。

別に私個人は、どう思われてもいいし、何を言われても構わないのだが、結果、「あんな雑文を掲載する将棋ペン倶楽部のの会報誌は.....」などと言われるのは心外であるし、そんな結果を生み出しかねない原稿を書くわけにはいかない。これを人によっては「自主規制」更には「自己保身」「根性なし」と言われるのかもしれないが、当人としては「自主規制」という言葉の響きとは少し違うものがある。

私はこの件については「駒音」で実証ベースに書いたことがあるし、本誌にも「駒音」には書かなかったことを記した。それ以上について、知っていることを「書かなかった」それで不満が残ったかというと全然そんなことはなかった。事前に恵子さんをはじめ、誰からの規制も一切なかったし、湯川編集長からの「修正要請」は一箇所もなかった。今、読み返して、私が手直ししたいところはいくつかあるけれど、そんなことを言いだすとキリがないことになってしまう。

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この件に関しネット上に「芹沢の言動に立腹、将棋連盟と疎遠になる」とか書かれているが、治子さんは「いえ、そんなことでは怒りません。怒ったのは、楽しみにしていた名人戦第1局が書けなかったからです」とおっしゃった。事の真相を私は書かない。

(「将棋ペン倶楽部通信37号」オモシロ人物小咄(2)東公平より引用)
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東公平氏もまた、ここに書かなかった「真相」をご存知なのだろうということが、よくわかる一文である。で、私は思うのだが、例えば「将棋ジャーナリズム」を声高に叫ぶ人々は、その真相を書かない東公平氏を罵り、批判するのだろうか。その姿勢は正しいものなのだろうか。このあたりを突き詰めて考えると、私はよくわからなくなってしまう。この意識というものは、おそらく仲間内とか、棋士と観戦記者の力関係云々ということだけで、論じられる性格のものではない。もう少し、深い話であり、書き手の矜持にも関わってくることなのだ。

山口瞳さんのファン(私もその一人である)は、この問題になると、それはそれは徹底して芹澤九段を貶す。「世間知らずだ」と罵る。私は少なからず抵抗を試みたことがあるが、こうなるともう、私の話などは聞かない。「芹澤九段逝去の一報」を受けた山口瞳さんが、何故、芹澤九段を「憎めない」と記したのか、と述べたところで、そういう点には誰も触れない。ある種、贔屓の引き倒しみたいな状況が出現してしまう。

それは変だと思い続けたことが、原稿を書いてみようという大きな理由のひとつにもなった。山口瞳さんが棋界と疎遠になったことについて、私も治子夫人から詳しい話を伺う機会があったし、その上で、私はあの一文を記した。それを治子夫人に読んで欲しいと思ったのだ。決して山口さんを貶しめることにはならないという、その自信だけはあった。

東さんはこんなことも書かれている。

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『山口瞳・血涙十番勝負』などの著作に対し、芹沢博文さんが「アマチュアが将棋で儲けちゃいけねえ」といったが、冗談にせよ「将棋連盟の宣伝部長」を自負している作家に対して、この言葉は失礼だったろう。

(「将棋ペン倶楽部通信37号」オモシロ人物小咄(2)東公平より引用)
--------------------------------------------

私はこのエピソードを本誌で初めて知った。勿論、本気ではないだろうし、私はこれを「芹澤さんらしい」と思った。まぁいつの発言かによっても、微妙に意味合いは異なるだろうが。

関東交流会の懇親会の席上で、何人かの方から拙文について声をかけていただいた。踏み込んだご質問もいただいたが、その時には、私の知っている「どこにも書かなかったこと」について話をした。書けないし、書かないこともあるが、それでも話すことはできるということはある。みなさん、将棋をこよなく愛する素晴らしい方々だった。参加してよかったと思っている。

幹事さん何人かから「また書いてください」とお世辞にしてもこう言われると「豚も煽てりゃ木に登る」ではないが、お役に立てるのであれば、と逆上せたりもする。そういうことも考えてみたい。

Pass

[67]
ビストロ (/) - 2011年06月30日 (木) 16時18分

えっと、しつこいようですが、達人戦について。
 私がこの将棋を問題にしたくなったのは、おそらく島さんの言葉なんだと思います。

********************************************
観戦記者の湯川さんから「投了には驚きました」と言われると、島は「いえいえ、むしろ指しすぎました」と応えた。
 
 中略

「▲8五歩と突かれてグッタリしました。20年以上の信用、数々の神話がありますので」(島九段)  
 
(中継コメントより一部抜粋)
************************************************

 また、その二日後 棋聖戦第二局において

*************************************************
そして 11:40頃 永世棋聖の佐藤九段が(控室に)姿を見せた。すかさず島九段が 「おとといはご教授ありがとうございました」と頭を下げる。 二日前の達人戦のことを言っているようだ。

(以上 棋聖戦の中継コメントより抜粋)
********************************************************


 プロでも人間であるので、うっかりもあるでしょうし、投げたくなる気持ちもあるでしょう。 また棋譜を汚さないという美学をお持ちの方もいらっしゃるでしょう。それは理解できます。

 しかし、島さんの言葉からは、ファンに棋譜を見せる、楽しんでもらうという気持ちが感じられないのです。

 中継を見ている、あるいは週刊朝日の読者の中には、島ファンもいるでしょうし、また、棋譜を見る人の視点も様々でしょう。
島さんが勝てばそれでいい、という人もいるでしょうし、中盤の攻防を見たい、妙手を見たい、あるいはドキドキハラハラの終盤戦を見たい、など様々でしょう。
 しかし、そのあらゆるファンの中でこの棋譜を満足と思う人がどれだけいるのでしょうか。


 一言 例えば「ひどい将棋をさしてしまいました。ファンのみなさまに申し訳なく思います」といえば感じ方はずいぶんかわると思うのですが・・・
(もしかしたら、そう言っているのかもしれませんが、中継記者からは伝えられていない)

 もしかして、長い間のプロ生活で、ファンに見てもらう、ということを時に忘れてしまう 棋士もいらっしゃるのではないでしょうか。  とすれば それを批判するのは 記者の役割かな、と思った次第です。(あとは ラジ-賞のように 皮肉をきかせるとか・・)

 ただ、今は、少しおちつきまして、考えが変わってきました。
 
 今はネットの時代。
 私は問題だと思ったので、ネットに批判を書いた。
 同じように感じる人がいれば、賛同するでしょうし、
他のネットに書いたり ツイッタ-で発信したりするでしょう。

 それで充分ではないかと思うようになりました。

 多くの人が同様に発信すれば、いずれ本人や連盟にも届くでしょうし、そうでないということは ほとんどの人はそれほど問題とは思っていない、ということです。
 
 専門誌や観戦記ばかりがメディアではない、ということですね。

Pass

[68]
JC IMPACTU (/) - 2011年07月02日 (土) 09時50分

ビストロさん

>しかし、島さんの言葉からは、ファンに棋譜を見せる、楽しん
>でもらうという気持ちが感じられないのです。
(中略)
>そのあらゆるファンの中でこの棋譜を満足と思う人がどれだけ
>いるのでしょうか。

この点は、私もよくわかります。負けを悟ったから投げたということでしょうが、投げっぷりが良すぎますし、不親切という点について、異論はありません。そういう批判はどんどんやっていいと私も思います。

>もしかして、長い間のプロ生活で、ファンに見てもらう、とい
>うことを時に忘れてしまう 棋士もいらっしゃるのではないで
>しょうか。  とすれば それを批判するのは 記者の役割
>かな、と思った次第です。

この場合、それを批判するというスタンスは当然あります。或いは「何故、投げたのか」ということを一般誌の掲載ということも考えますと、初段クラスに「わかるように伝えて欲しい」と思います。その上で「初代竜王としての意地をもう少しみせて欲しかった」みたいな、そんな感じでしょうか。

>専門誌や観戦記ばかりがメディアではない、ということです
>ね。

これもそのとおりです。何度か書きましたが、21世紀に入る直前に、私たちは「自らの意見を発信する道具」を手にすることができました。こんな素晴らしい道具ですから、大事に使いたい、丁寧に扱いたい、そんなことを考えています。

Pass

[80]
ビストロ (/) - 2011年08月05日 (金) 11時26分

週刊朝日を買ってみました。 もちろん達人戦 佐藤−島戦の観戦記を読むためです。  ※以下 ≪≫は記事からの抜粋です。

観戦記者は湯川博士氏。  見出し文の横に
≪無気力将棋は大相撲を顧みて言い過ぎではありませんか≫の文章。
 
おや、私の他にも無気力だなんて言った人がいたのかなあ。
と思って読み進む。
詳しい指し手の解説をここに転載するのは法律的にまずいので割愛するとして・・

観戦記の最後を読んでびっくりしました。

≪その夜 ネット上の掲示板に 「今日の佐藤島戦 無気力将棋に見えて仕方がない。皆さんどう思う」という文が載った。同室にいた私には肩が凝る程疲れたが棋譜中心に見る人には不満が残ったかも。 数日後友人のアマ強豪を呼んで指了図から指した。  (中略) 棋力上位が先手なら図以下数手で勝ち。逆だと長引き逆転もある。

 結論は佐藤A級 島B級2組という差を見ると投了もやむなし。ただもう数手指して、読者を納得させるサービスがあってもいいかと思った。≫

 ひえ〜。 もしかして、ネット上の掲示板って駒音のこと? 盤側にも同じ内容を書いたから盤側のこと?  
 そう思って読み返してみたら、この観戦記は、私が書いた「無気力将棋にもの申す」に対する 反論だということが理解できました。

 湯川さん、私なんぞの書き込みに反論いただいて恐縮です。

 私も「無気力」は言い過ぎとは思っています。
 ネットに書いたのは、誰かから、「いや違う この棋譜は全力で戦った結果だ。
私は満足している 」といった反論を期待していた、という面があります。

 あるいは、もしかしたらちょっとだけあるかもしれない、棋士の「全力ではない」部分に 警笛を鳴らす、という意味になればと思っていました。
 
 前後半読ませていただきました。  いい観戦記でした。

Pass

[83]
JC IMPACTU (/) - 2011年08月08日 (月) 19時54分

ビストロさん

>私が書いた「無気力将棋にもの申す」に対する 反論だという
>ことが理解できました。

「反論」というよりは「見解の相違」を湯川さんが具体的に示してくださったもの、という読み方を私はしました。私も投了後の湯川さんの「チャレンジ」を並べてみて「さもありなん」と思った次第であります。

私は湯川さんが後編で「会長候補」の話題に触れられ「人は歳を経ると若いときにはない資質が表れてくるものらしい」を一人勝手に米長会長に当てはめてみては、苦笑していました。

非公式戦とはいえ、週刊誌に棋譜が掲載されるわけですから、私も「無気力将棋」とは思いません。ただ、島九段は嫌気がさしたのだろうなぁという気はしています。

何十年も前になりますが、中原挑戦者が大山康晴名人を下して新名人になった一局、その詰み手順がいくら考えてもわからないということがありました。父親から「ということは、お前は名人になれないということだな」とニヤニヤ笑われ、悔しさに泣いたことがあります。あの時に「盤上の駒」を動かすことなく、十数時間ののち、手順に辿りついたときには、本当に嬉しかったですね。「夢中になる」とはこういうことだと実感したものでした。

Pass



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