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[8] 様々な交錯-瀬川昌司四段誕生の背景-
JC IMPACTU (/) - 2011年05月01日 (日) 23時25分

様々な交錯-瀬川昌司四段誕生の背景-(1)

瀬川昌司四段、昭和45年生まれ。羽生善治名人と同年齢である。1996年、氏は奨励会三段リーグを退会した。この掲示板をご覧のみなさんはご承知のとおり、26歳の誕生日までに四段にならないと退会を余儀なく宣告される。

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退会が決まった。
将棋会館のある千駄ヶ谷から電車に乗ったはずだ。しかし、どう帰ったかは覚えていない。気がつくと、瀬川は呆然としたまま中野駅に立ちすくんでいた。彼は高校卒業後、横浜の親元を離れ、中野のアパートで独り暮らしをしていた。部屋に戻る気にはなれなかった。2時間以上街をさまよい、泣きじゃくった。これまでの努力がすべて無になってしまったという絶望、苦しみ、つらさを今さらのように噛みしめた。これからの人生を想像するのは無理だった。

いくら悔いても、反省しても、もうどうすることもできなかった。プロ棋士になるためには奨励会を規定の年齢までに卒業しなければならない。彼はそのルールに敗れたのだ。それ以外に棋士を目指す方法は存在しない。取り返しはつかないのだ。

後日、瀬川は11年以上在籍した奨励会時代の棋譜を捨てた。将棋雑誌も書籍もすべて処分した。そんなものを残しておいても、100%プロになることはできないからだ。将棋の駒すらみたくないと思った。
(「瀬川昌司は何故プロ棋士になれたのか」 古田靖 河出書房新社刊 2006年3月刊より引用)
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山口瞳が創刊された「新潮45」に「将棋落ちこぼれ教室」というものを連載したことがある。正確にいえば、連載は僅か3回で終了した。最終回は「引退の弁」であったから、実質的な対局は2局である。この時に山口瞳は「素人さんはいいんだよ、嫌になったら止められるという声が聞こえてきそうだ」と、その最終回に呻くように綴った。素人と玄人の違いをある意味、これほど明瞭に語ったものはない。

今、盤側の談話室というサイトで、女流棋士の好きの度合いについて、私も含めた何人かの参加者がやりとりをしている。おそらく私が「好きの度合い」などという言葉をイメージしたのはここで引用した本を再読してからだ。

奨励会を退会した女流棋士が、ここに引用したほどの、いわばあらゆる哀しみを背負ったような状態に身を置いたのだろうかと考えると、正直、私にはそういう感じがしない。別にそのことを「責めている」わけでも全くないが、何かこう違うような気がしているのも事実である。

私はこの本を読んで、将棋ファンが「外野で」何を少々叫んだところで、この組織はおそらく何も変わりはしないということを痛切に感じた。別に醒めているというわけではない。連盟という組織は、実に複雑、魑魅魍魎としている。ただし、変革ができないというわけでもない。おそらくそれをできるというならば、これは「力関係の論理」しかないということである。メディアスクラムによってしか、それは果たせない。

ここではその「魑魅魍魎、メディアスクラム」という問題について、当時の数字も示しながら考えてみたいと思っている。

(註・メディアスクラムとは今日では「集団的過熱取材」と解釈されるが、本来の意味はメディアが一致団結して取材対象に迫るというものである。集団的な過熱取材は、Media Frenzyと呼ぶべきものであり、ここでは区別してこれらの用語を用いたい)

Pass

[9] 様々な交錯-瀬川昌司四段誕生の背景-(2)
JC IMPACTU (/) - 2011年05月02日 (月) 09時18分

様々な交錯-瀬川昌司四段誕生の背景-(2)

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奨励会を退会した後、瀬川は中野のアパートを引き払って実家のある横浜へ帰った。奨励会退会から1年を経て、神奈川大学第二法学部法律学科に入学。その間、将棋とは全く関係のない日々を過ごした。ごく普通の学生生活。そのなかで、彼は初めて落ち着いた気持ちで駒を手にすることができるようになった。やっぱり自分は将棋が好きなのだ。改めて気づいた。アマチュアとして大会に参加するようになる。
全日本アマチュア名人戦で優勝したのは平成11年。その翌年からはアマ特別枠でプロ棋士とも公式戦を戦うようになる。大学を卒業し、平成13年4月からシステムエンジニアとして仕事を始めた。就職しても将棋は続けている。その成績はずば抜けたものだった。プロとの通算成績、16勝6敗。

とくにめざましかったのは、ケーブルテレビ主催の公式戦「銀河戦」での活躍だった。すべてのプロ棋士が参加する棋戦である。瀬川は、第一線のプロ棋士相手に連勝を続けた。平成12年に7連勝。平成15年は3連勝。この年も3度目の本戦出場を達成する勢いで連勝街動を突き進んでいる。こうしたプロ棋戦では、アマは予選の最初から勝ち上がっていかなければならない、瀬川は、この難関を突破して本戦にまでのぼりつめ、ベスト8に入ったこともある。もちろんアマチュア初の快挙だ。

この日(引用者註・平成17年2月15日)の会合は、そんな瀬川のプロ入りについて話し合おうというものであった。
(「瀬川昌司は何故プロ棋士になれたのか」 古田靖 河出書房新社刊 2006年3月刊より引用)
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おそらくこの場合、迎え撃つプロ側の方にプレッシャーは遥かにかかる。瀬川さんは「元奨励会員」というだけの立場、勝つに越したことはないが、負けたところで責められるというものではない。比してプロ側は、負ければ「アマに負けた、奨励会を卒業できなかった者に負けた」という棋界内部の評価に直結する。勝って当たり前の世界で負けて、いいことは何もない。

これをみても「奨励会」という機関がいかに厳しい場所であるかというものがわかる。プレッシャーというものが与える勝負への影響というものを痛感させられもする。私はプロ棋士の方々に奨励会時代の話を伺ったことが何度かあるが「奨励会というのは、勝つと思うな、思えば負けよじゃないんです。勝つと思って平然と勝てないと、存在が否定されるのです」という言葉を今でも記憶している。

瀬川氏のプロ入りの最初の呼びかけ人は遠藤正樹氏だった。アマチュアの強豪でタイトルを何度も獲得されている。竜王戦予選でもプロを相手に通産4勝(当時)というのは凄いものだ。羽生名人が「今の奨励会員は遠藤さんくらい勉強しなきゃいけませんね」と語ったという。

その遠藤さんが不満を感じていた。なぜ、瀬川君はプロになれないのだろう、と。

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アマチュアがプロと公式戦を戦うようになったのは最近のことである。発端は、昭和62年に開幕した第1期竜王戦に設けられた四人の特別枠。その後、ほかの公式戦にも広がった。とはいえプロは強かった。アマが勝つことはそれほど多くはない。ところが、これらのプロ棋戦で通算10勝を挙げるアマが出現した。瀬川である。この勝ち方はアマチュアのレベルを超えていた。

例えば、これが野球だったらどうだろう。プロを負かす実力を持っていれば、間違いなくプロチームから声がかかる。しかし、これほどの成績を残しても、瀬川はプロにはなれなかった。日本将棋連盟の規定では、34歳のアマがプロになれる道は完全に閉ざされていたからだ。

遠藤も、もちろん将棋連盟のルールは知っている。それでも納得がいかない。
「瀬川さん、また勝ってるね」
プロ棋士は、まるでそれが当たり前のことかのように笑顔で話していた。これでいいのだろうか。遠藤は違和感を持っていた。誰も追随できない勝ち方をしているのに、将棋マスコミも大きく取り上げない。これが正当な評価と呼べるのだろうか。偽らざる実感だった。勝ち続ける瀬川を見て、その思いは高まる一方だった。遠藤は、アマ強豪とプロ棋士が同席する場で「瀬川君がこれほどの成績を残しているのにプロになれる道がないのはおかしい」と口にするようになっていた。
(「瀬川昌司は何故プロ棋士になれたのか」 古田靖 河出書房新社刊 2006年3月刊より引用)
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瀬川さんのプロテスト試験実施を記者会見で発表したのは米長邦雄永世棋聖である。会長就任後の対外的な初仕事という感じだった。時の流れというものは面白い。これは大きな変革である。その最初に米長邦雄会長は立ち合った。ついている人だなぁと当時感じたものである。

しかし立役者は勿論会長だけではない。瀬川氏のプロ入りには多くの人々が汗を流しているが、特筆すべきは西條耕一氏(読売新聞文化部記者)である。読売新聞といえば、何でもかんでも「ナベツネ云々」とひと括りにされる意味で、損をしているとも私は感じるが、例えばこの新聞社には黒田清氏のような「反骨精神漲る記者」を輩出しているという面もある。今後、紹介していくが、氏は会長に追随するというようなタイプでは、おそらくない。

Pass

[16]
ビストロ (/) - 2011年05月05日 (木) 17時13分

「瀬川昌司は何故プロ棋士になれたのか」
は いい本でしたね。 この本を読んで私は瀬川ファンになりました。
(それまでは プロ入りは応援していたけど、ファンというわけではなかった)

 大泣き度 五つ星 です。

 この本では確かに 読売の西條記者が大活躍しますね


 瀬川さんのプロ入り試験の相手には賛否両論あるでしょうけど、
米長会長の「イベントプロデューサー」ぶりがよく現れています。

 最初に発表された4人が面白い。(あとの2人は 中原 米長の
 代理としか発表されなかった)

佐藤天彦・・ おそらくその時点で3段リーグで最強と会長は思っ
       たんでしょう。3段リーグを勝ち抜ける力があるか
       を試した。

神吉さん・・ これはショー。  神吉さんに負けるようでは
       プロ入りはあきらめなさい、ということ?
       
久保さん・・ A級八段代表。 
       そして一度 瀬川さんに負けている。
       久保さんにはリベンジを。
       瀬川さんには一流に勝てる力があるかを試した。

中井さん・・ いわずとしれた女流代表。
       真偽はわかりませんが、この勝負に中井さんが
       勝てば 女流の地位向上を会長が約束したという
       説もあり。
       中井さんは、女流代表としてだけではなく、
       女流の地位もかけて戦ったと思われる。
       将棋自体は中井さんが勝つべき内容でした。

 この人選はすごい。 

Pass

[18]
JC IMPACTU (/) - 2011年05月05日 (木) 23時30分

ビストロさん

この試験の人選にあたって米長会長は「全員均せば四段ぐらいという視点で選んだ」旨の発言をされていた記憶があります。

>女流の地位向上を会長が約束した

という説は「本当だろう」と私は思っています。複数の棋士から同様の話を耳にしました。ただし「中井さんが勝っていたらどうなったかというのは、それはまた別の話」と付け加えられたことの方が興味深かったですが(笑)

この試験は米長会長の「初仕事」みたいなものでした。善し悪しは別にして、瀬川さんはこの意味でも「ツキがあったのだな」としみじみ感じますね。

Pass

[22]
ビストロ (/) - 2011年05月09日 (月) 09時50分

>この試験は米長会長の「初仕事」みたいなものでした。善し悪しは別にして、瀬川さんはこの意味でも「ツキがあったのだな」としみじみ感じますね。


 これは、中原会長では 瀬川さんはプロにはなれなかった、ということでしょうか。
 確かに中原さんならスタンドプレーはしなかったでしょうし、
総会の議案にものぼらなかったかもしれないですね。

 米長さんは、こういうイベント好きみたいですし、
会長になったばかりで目立ったことをしたかったのかもしれません。

 「めぐりあわせ」「縁」でしょうか。

Pass

[27]
JC IMPACTU (/) - 2011年05月13日 (金) 22時20分

様々な交錯-瀬川昌司四段誕生の背景-(3)

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やがて瀬川に直接尋ねた。前年の11月のことである。
「プロになりたいのなら応援するよ」
二人はそれまで顔と名前を知っている程度の付き合いだった。有名なアマ強豪からの申し出に対し、瀬川ははっきりと「プロになりたい」と答えた。それまでは決して口には出さなかった実現不可能な夢。瀬川はのちに「この一言がなかったら、行動は起こさなかった」と述懐している。遠藤の思いが、瀬川の心の奥深くに沈殿していた本当の気持ちを掘り起こした。
止まっていたはずの時計の針は、この時、再び動き始めることになる。

瀬川の真意は確認した。遠藤はさっそくアマチュア将棋界の面々に声をかけた。アマトップの支援を確固たるものにしてから活動を始めたかったからだ。彼らの意見はみな、遠藤と同じだった。

その場にひとりだけ新聞記者が招かれていた。読売新聞文化部の記者で、将棋界最高棋戦「竜王戦」の担当者、西條耕一だ。
遠藤と西條は同じ昭和41年丙午生まれの同い年。彼らはライバルであり、親友という関係だった。知り合ったのは大学時代である。遠藤は東海大、西條は慶応大でそれぞれ将棋部のエースとして、遠藤は関東学生名人に、西條は東日本学生名人の座についている。(中略)
平成元年、西條は新聞社に入社。これからの将棋界を変えるのは竜王戦しかないとの思いから希望した職場だった。地方勤務などを経て、平成8年に念願の将棋担当記者となる。その後10年近く竜王戦の運営、連盟との折衝から観戦記執筆までこなしてきた。プロ、アマ双方の棋界に深い人脈を持つ記者である。
遠藤は、瀬川を支援する活動は、幅広く行う必要があると考えていた。アマ強豪と親しい若手プロ棋士だけでは心もとない。それで旧知の西條をこの集まりに誘ったのだ。
(「瀬川昌司は何故プロ棋士になれたのか」 古田靖 河出書房新社刊 2006年3月刊より引用)
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プロ棋士の著作をみると、観戦記者というのはアマ初段ぐらいの棋力があれば勤まるとある。西條記者の場合は、将棋のトップアマでもあり、自ら希望して担当記者を目指したというのだから、従来の記者とは違う「筋金入り」といってもいいのかもしれない。

西條記者は瀬川問題では実際に汗も流すし活躍もされる。反対論を抑える側に回る。メディアを用いての工作活動も行う。そういう意味では一番の功労者といっていいかもしれない。

そして、西條記者のようなバリバリのアマチュアがいたからこそこの問題は試験実施にこぎつけたという面もある。他紙の担当者は「瀬川問題」に殆ど興味を示さなかったのだから。

私は前任の山田記者には一度だけ、あるところでお会いしたことがある。「囲碁・将棋チャンネル」のレギュラー番組でみるとおり温厚そのままの方で、おそらく西條記者とは全くタイプが異なるようにお見受けした。

ビストロさんが「中原会長では難しかったか」ということを書かれていますが、正直に書けばそのとおりだと私は思いますね。中原十六世名人だと、反対派の声に耳を貸すあまり、結局問題は先送りされることが続いたのではないかな、という気がしていますし、この裁定については、米長会長、いい仕事をされたと私は思っています。

ただ、中井さんには勝って欲しかったですね。途中、必勝の局面でしたから。

Pass

[29]
ビストロ (/) - 2011年05月13日 (金) 23時43分

瀬川さんのことを考えるとどうしても 将棋のプロ制度というものがはたしてこれでいいのか? と、考えることになります。

もっと、問題を小さく見れば、「年齢制限」というものの是非。
瀬川さんはもちろん、例えば 中井さん、そして加来さん。

中井さんの絶頂期は、強かった。
瞬間最大風速で言えば、歴代女流 最強であるといえるでしょう。(私の目には今の里見さんより 強く見える)

瀬川さん、中井さんの共通は、30代から強くなる人もいる、ということでしょうか・・


ただ、もちろん 瞬間は強くとも、絶頂期の中井さんに3段リーグが抜けられるかというとそれはまた別問題。

 そもそも 中井さんが絶頂期に達するまで、奨励会にいられる気力が続くとは思えない。
 そして瀬川さんも、年齢制限がなければ もしかしたらずるずるずっと奨励会にいて結局プロになれなかったかもしれない。


 ま、そんな問題は、馬さんに言わせれば「プロなんて自分で宣言して認めればいい。 あとは強いプロは賞金を稼ぐし 弱いプロは稼げない。それでええんちゃう?」ということになるでしょうけど。。 

 う〜ん わからん。

 なんにせよ、瀬川さんのプロ入りは、一般の人にも、将棋に携わる多くの人にも夢を与えてくれました。もちろん普及にもつながっていると思います。 今、瀬川さんのプロ入りを「間違いだった」という人はあまりいないと思われます。
 

Pass

[30]
JC IMPACTU (/) - 2011年05月15日 (日) 23時17分

ビストロさん

女流棋士での「最強」というイメージ(全盛期というのも変なのですが)は、私も中井広恵さんだろうな、と感じています。

例えば「理事」職に就くと、将棋に専念できなくなると、それを固辞した棋士に山田道美九段がいらっしゃいます。そもそも群れるということを極端に嫌う棋士でした。佐藤康光九段は、今年度、棋士会会長。谷川九段は選挙後、おそらく役付の理事に就任されると思いますが、役に就くと、棋士としての「役目」はとりあえずお休み、場合によっては「あがり」みたいな感じがありますよね。

簡単にいえば将棋以外の「雑事」が増えるという面があるのでしょうが、佐藤九段、谷川九段に「あがり」というのはあまりに早いような気もしますし、現役としての力をまだまだみせて欲しいと思います。

>瞬間は強くとも、絶頂期の中井さんに3段リーグが抜けられるかというとそれはまた別問題。

名人挑戦者に「なる」ということはA級で「最も強い」ということの証明でもあるわけですが、一方、A級に在位し続ける「ちから」というものが、棋士の強さなのではないかと、最近、思うようにもなりました。大山康晴十五世名人のA級在籍というのは名人の時期も併せると44期。亡くなる前年の69歳時の順位戦成績は6勝3敗ですからね。

>瀬川さんのプロ入りは、一般の人にも、将棋に携わる多くの人にも夢を与えてくれました。

そのとおりですね。ただ、夢を人々が持ち続けるためにも、瀬川さんには昇級を果たして欲しいと願いますし、どこかでタイトル戦に「絡んで欲しい」と思います。

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