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[204] 【再録】米長邦雄永世棋聖 =内心の葛藤=
JC IMPACTU (/) - 2011年10月23日 (日) 07時00分

このスレッドは、かって「と金倶楽部」に掲載させていただいた作品「米長邦雄永世棋聖 =内心の葛藤=」の再録です。

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米長邦雄永世棋聖 =内心の葛藤= (1)

第51期名人戦から入ろうかとも考えていたのだが、二上九段の著書「棋士」(2004年5月/晶文社刊)に面白い記事をみつけたので、第1回目はこれをまずご紹介したい。

私はサブタイトルに「内心の葛藤」を選んだ。「葛藤」の風景が8割くらいはみえているような気もするのだが、残り2割が判然としない。そのヒントが、この著書にはあるような気もしている。本というものは、読み返すことによって「感じ方」が変わったりもするから、実に面白い。

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私は四人の会長の下で理事をつとめた。
対照的だったのは、塚田さんと大山さんである。塚田さんはすべて「よきにはからえ」タイプで、夕方になるとそわそわしはじめる。それからの一献によくつきあったのは、おなじく辛党の私だった。
大山さんは逆にすべてを自分で担当し、かつ精力的に片づけるタイプだった。(中略)
 ちなみに、将棋連盟の定款には「名人は会長になれない」との一項がある。それなら大山さんも中原さんも会長になれないのではないかということになるが、これは「現役の名人は」という意味である。現役の名人と会長を兼ねると、その権威は大きい。つまり、そのような独裁体制ではうまくまとまらないぞといっているのである。
 将棋界には実力者の鶴の一声ですべてが決まるという風潮がある。木村義雄会長の時代には、木村名人が「ようがす」と一言いえば、それで決まりだったそうだ。しかし、時代は変わって、それでは若い人たちは納得しない。(中略)
 私の会長時代の将棋界を振り返ってみると、女流プロの進出、海外普及、そして若手のタイトル制覇の三点が特徴的だった。(中略)
 女流は育て方がむずかしい。女性は早く大人になってしまうので、十五、六歳でピークを迎え、そのあと成長がとまってしまう。そこで横道にそれていってしまう者がいる。伸びていかないのである。
 勝負の世界では、一人の天才がでれば、ほかの者たちもそのレベルまではひっぱりあげられる。女性でもひとりの天才がでれば活路が開けるかもしれないのだが、天才が一人でるには底辺の拡大が必須である。一見、女流棋界は華やかだが、実力が追いつかなければ、やがて見向きもされなくなるであろう。問題は山積しているのである。(中略)
 棋士は誰もが一国一城の主である。わがままでない棋士などいない。人の言うことを素直に聞いているようでは、この世界では勝ち抜けない。そういうものたちに、あれやこれや指図し、過度にリーダーシップを発揮することは危険ですらある。また、その柄でもない。みんなの気持ちがあまりかけはなれてしまわないことが何より大切だと考えて、十四年間、そのことだけに心を砕いてきたような気がする。
(「会長の役目」(二上達也「棋士」2004年5月/晶文社刊より引用)
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LPSAと日本将棋連盟の間には現状、埋め難い対立が存在する。私が聞いた限りでは「独自の寄付金集め」あたりから、その対立は深刻の度合いを増し、いわば、独立派に対する切り崩し工作が始まったようだし「同じパイの奪い合い」に連盟側が強い危機感を抱いたのだと推定しているが、あれほどの醜い争いになるのであれば、そもそも女流にも「生活の糧」は絶対に必要なのだから、そこは連盟側も「静観すべき」だったのではないかと思っている。

「同じパイの奪い合い」ではない。男性であれ女性であれ「将棋」というパイが広がるのだからと、何故、そう考えなかったのだろう。その点が私には不思議なのだ。

スポーツの世界でも「男子プロ」が「女子プロ」を潰しにかかるなどということはない。その逆もない。例えば、プロボウラーが男子であれ女子であれ、願っていることのひとつに「アマチュアの活性化」がある。敵対するなどということはない。

その一方で、私自身は、この対立軸をどこか醒めた目でみている部分もある。だから「web駒音」では、この件で殆ど発言しなかった。

二上九段が回想されたとおり、要は「強くなる」将棋だけに傾注し、男の世界で勝ちぬき、四段になるいわば「天才」が出現しない限り、やがては褪せると感じているからだ。

例えば、みなさん、どう思われるだろうか。この質問、少し考えていただきたい。

読者である貴方は将棋ファンである。子供の頃から将棋に親しみ、たまには道場で他流試合も行う。そういうことが苦にならない。ある程度、指せるのだが、頭打ちという感じもしている。今ひとつ、成長しているという実感がない。再入門の気持ちで、もう一度、我流の部分を改善し、しっかり1年間、将棋を学び直したい。

さて、将棋のイベントか何かで、貴方は1年間、52回の指導対局を無料で受ける権利を獲得した。師範は次の候補から自由に選択することが可能である。

A.女流棋士のタイトルホルダー
B.奨励会員三段
C.C級1組のベテラン六段棋士

私ならC→B→Aという順序になる。おそらく今の私の棋力では、とても平手で勝てる方はいないし、飛車落ちでも負け越すことは必定だろう。

しかし、それでも「かっては狼だった棋士」「狼の棋士」を選ぶ。これを偏見だと、みなさんは笑われるだろうか。
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投稿者: JC IMPACT 投稿日時: 月, 06/21/2010 - 22:08

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[205]
JC IMPACTU (/) - 2011年10月23日 (日) 07時04分

米長邦雄永世棋聖 =内心の葛藤= (2)

「棋士」(二上達也/晶文社刊2004年5月刊)より

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 昭和四十八(1973)年、私は九段に昇段した(中略)
 その頃起きたのが、会館建設問題である。東中野から移った千駄ヶ谷の将棋会館は日本風の平屋建てであった。手狭でもあるし、冷暖房の設備などもない。近代的なビルディングにしたいという考えは以前からあった。(中略)
 たまたま私がある善意の寄付の話を理事会に報告にいったとき、一部の理事が多額の助成金をまとめてきたのだから、リベートをくれと要求している場にでくわした。さすがにこれには驚いた。これからファンに寄付をお願いしなければならないのにリベートの話である。どうなっているかと不審に思っていると、情報通の芹沢博文八段が「理事会のやりかたが不明朗で、みんな心配している」と言う。棋士に諮らずに勝手に計画を進めているということだった。こういう話はすぐに伝わる。
 新会館建設自体は異論がないが、こういうやり方で大丈夫なのか。
 「ガミさん(私の愛称)が中心になって、若手の意見をまとめるべきだ」と芹沢八段はせっつく。それで、新宿で知り合いの一室を借りて、中原誠名人、米長邦雄八段、加藤一二三九段たちと相談したりした。私は会館建設が最優先で、それができるなら、少々のことには目をつぶってもよいという考えだったが、若手のなかには、会館など建たなくてよいから、理事会は総退陣すべきだという意見もあるようだった。そうこうするうちに、副会長の丸田祐三九段が単独辞任してしまった。
 私の師匠の渡辺東一名誉会長が加藤(引用者註:治郎)会長に「一時、中断できないか」と忠告した。しかし、「それは死んでもできない」という返事だった。師匠のお供をして、そのやりとりを聞いていた私も、困ったことになったな、結局、現執行部には辞任してもらうよりないかと思うようになった。
 しかし、建設を進める体制はどうするか。高柳敏夫八段が「こういう大きな問題は大山さん中心じゃなければダメだ」と助言してくれた。しかし、当の大山さんは首をタテに振らない。大変な仕事であることはわかっている。それでもひっぱりだそうと粘り強く説得しているうちに、大山さんにも理事会への不満があることがわかった。
 「誰それ君が理事じゃあね」とぽつりともらす。その理事に辞めてもらえば、ひきうけてくれるかもしれない。そうやって話をつめていると、やはり理事の総退陣しかなかった。
 テレビや雑誌に登場することの多い芹沢八段はにぎやか好きな性格にみられているが、なかなかの根回し上手であった。升田さん、大山さん、塚田正夫九段、私の四者会談を御膳立てしてくれた。四人で東中野の居酒屋で落ち合った。
 私が大山さんに「会長をお願いしたい」とたのむと、「ガミさん、やんなさいよ」と逃げる。升田さんは「大山、やれ」。二時間も押し問答を続けただろうか、それまで無言だった最年長の塚田さんがふと「ぼくはやらないとは言ってないよ」。一転、塚田会長が結論になった。
 一方、米長八段は理論派の斬り込み隊長役だった。臨時総会を開くことが決まると「総会でこれを読み上げてください」と私に原稿をわたした。このままでは理事会に協力できないという宣言だった。これは理事会側から「クーデター」と非難されたが、大事な話を独断で進めておいて、どちらがクーデターかという気持ちだった。総会の直前、加藤会長が私と二人きりで話したいと言う。私一人では説得されてしまいそうなので、途中で米長八段を電話で呼び出し、同席してもらった。
 臨時総会は昭和四十九年十月に開かれた。その結果、加藤理事会は総辞職し、塚田会長、大山、中原副会長、米長常務理事、関西から、有吉道夫、内藤國雄常務理事、という体制が固まった。私は専務理事になった。当時のA級棋士をほとんど網羅し、「オールスター内閣」と呼ばれた。
 大山さんは新会館の建設委員長に就任した。(中略)
 いまの将棋会館があるのは誰よりも大山さんのおかげである。
(二上達也「棋士」2004年5月晶文社刊/「新会館問題」より引用)
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塚田九段会長受諾の光景などは、何度読み返しても興味深い。それぞれの棋士の雰囲気が実によく描かれていると感心する。

クーデター云々のくだり、二上九段の言い分もわからないではないが、当時の執行部からみれば、米長八段の「宣言」はどうみても「クーデター」である。叛乱宣言と受け取られても仕方がない。

二上九段とて、大山十五世名人に、そんな依頼をするのは辛かっただろうと思う。芹沢八段とて、こういうセッティングはなかなかに大変だったはずだ。垣根を越えた使命感というものが、ここにはみえる。ちなみに、現在の執行部体制にA級棋士は誰一人としていない。

二上さんが理事職を引き受けた動機に「理事になるなんて馬鹿のやることだ」と常々公言していた山田道美八段に刺激されてのものであったことを、本書で述べている。二上さんは温厚な方だが、なかなかの意地っ張りでもあるのだ。

「みんなが勝負に集中するばかりで運営をする人がいなければ、連盟はなりたたないではないか」

そのとおりである。

勿論、私はクーデターなど「そそのかす」つもりは毛頭ない。また、そそのかしたところで「クーデター」などおきるものでもないからだ。棋士のような集団の組織では、尚更である。

狼の棋士にとっては、羊の棋士などさほどの関心はないのだろう。あなたはあなた、私は私、ということなのだ。

であるならば、揉めることなく「共生」の道を探ってもらいたいと、切に願っている。

ただ、米長九段に「葛藤などないか」といえば、これはまた別の話である。

投稿者: JC IMPACT 投稿日時: 火, 06/22/2010 - 19:48

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[206]
JC IMPACTU (/) - 2011年10月23日 (日) 07時08分

米長邦雄永世棋聖 =内心の葛藤= (3)

1993年5月21日午後5時20分、米長邦雄永世棋聖は7度目の挑戦で、念願の名人位を獲得する。

当時、連盟のある理事が私にこんなことを述べた。「米長名人の署名免状は、貴重になりますから、申請するなら今ですよ」と。

「免状はいい機会ですから、取得しようと思います。私は中原名人のファンですから、米長新名人の就位式前までの日付に間に合うように、さっそく手続きをしますね」

従って、私の免状は「会長:二上達也、名人:中原誠、竜王:羽生善治」となっている。しかし、とても人様にみせることのできない、技量の伴わない段位だから、困ってしまうのだが。

中原名人と林葉直子さんの件が表沙汰になる前だったが、私は「中原名人の復位は難しいのではないか」と思っていた。だから申請を急いだのである。果たして、この予感は哀しいことだが的中してしまった。

そして、米長さんが名人になった以上は、2期か3期は続けてほしいとも願っていた。米長名人の名人位獲得時の年齢は49歳11ヶ月である。こういう世代が頑張り続けることには、ひとつの意義があると思っていたからだ。

第1期竜王戦は米長邦雄VS島朗(1988年)この時に米長九段はストレート負けを喫している。島六段(当時)の「盤外戦術」ではなかっただろうが、氏は和服を着用することはなく、ブランドスーツに身を包み、ある意味、奔放に振る舞った。新人類棋士、などと呼ばれたのもこの頃だった。

米長九段の波長が「おかしくなった」ことは当時、読売にいた山田史生氏含め、複数の関係者が証言している。負けるはずなどないと思っていた米長九段は、ただ、ただ敗れてしまった。

そういうことが「ないように」と、米長名人をみていた部分が私にはあった。

米長九段は、51期名人戦「必敗」の将棋を大逆転して勝った。この直後「島研」の門を叩いたのである。この時の「島研」のメンバーは島朗、羽生善治、佐藤康光、森内俊之、米長九段は、後輩の彼らに辞を低くして、第1局の検討を依頼したのである。最後に羽生が「この手が問題では」と指摘したが、それでも結論のでることはなかったという難局であった。島九段は言うまでもなく高柳門下である。その研究会に米長九段は学び、島九段も参加を歓迎した。なかなかにできることではない。ある意味、この「謙虚な姿勢」こそが、米長九段に将棋の神様を微笑ませたのだと、私は今でも思っている。

第51期名人戦終了の翌日、師匠の佐瀬勇次名誉九段から「祝念願達成」と墨書されたFAXが届く。

「よくぞやった。これで師匠はいつ死んでも思い残すことはない。わが生涯最良の日だ。佐瀬一門の名誉これにすぐるものなし.....。米長大名人殿 佐瀬勇次」

この弟子と師匠には、単なる師弟関係にはない葛藤のようなものがあった。高校進学をめぐる対立、師匠を超えるという米長九段の強い意志、しかし、そこに現象化されたものは、やはり歪なものがある。それは、ある意味、米長九段と先崎八段の間にも、似通った面があるのかもしれない。

米長名人誕生の日(第4局の打ち上げ)「おめでとうございます」と米長のグラスに麦酒を注いだのは羽生善治八段(当時)である。羽生はこの年A級入りを果たし、翌年、大方の予想どおり、名人挑戦者となった。

佐瀬勇次名誉九段は1994年3月25日に亡くなられた。米長名人在位中である。私は、それを結果論から振り返って「よかった」などとは、口が裂けても言いたくはない。

1994年4月11日、第52期名人戦が始まった。結果は4勝2敗で羽生新名人の誕生となる。(1994年6月7日、午後9時1分)

この日の打ち上げ、羽生名人誕生を祝って、敗者米長邦雄前名人も「万歳」をしている。

その写真が、私の手元にある。

中原さんとの名人戦における「封じ手(まいった)事件」「鳥取砂丘でのヌード撮影」下半身露出は何人かの観戦記者にも行われている。そんな話は観戦記には書けはしないのだから、記者も苦笑する他はない。

私は羽生新名人誕生の際の「米長万歳」をみて、当時は実に厭な気分に陥った。「そんなわけはないではないか」「一体、いつまで自虐と道化を演じて、時に人を不快にさせるのか」「貴方が求めて止まなかった名人位とは何だったのか」と、正直に言えば、そう思った。これも、私が免状申請を急いだ理由である。

しかし、今みると「この写真」は実に様々なものを私に訴えかけてくる。米長九段は「笑って万歳をして」名人位との永遠の決別を果たしたのだろうと。

そのときだけは、米長九段は「複雑だった」のだ。

この写真だけは、色々な意味で、私を哀しくさせてくれる。そんな1枚である。

(参考文献:『米長邦雄 ともに勝つ』毎日新聞社/加古明光/1997年7月)

投稿者: JC IMPACT 投稿日時: 土, 06/26/2010 - 00:42

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[207]
JC IMPACTU (/) - 2011年10月23日 (日) 07時11分

米長邦雄永世棋聖 =内心の葛藤= (4)


米長邦雄永世棋聖にはご母堂による「教育論」としての著書がある。本人、観戦記者が棋士像に迫ったものはいくつもあるが、母親が「息子」について語る、一冊の本を出したというのは米長永世棋聖以外にはない。

米長花子さんは、四男一女に恵まれた。邦雄氏は「四男の末っ子」にあたる。「兄貴たちはバカだから東大に行った」という名言(?)があるが、芹澤九段の著書によれば「元ネタ」は自分だと記されている。米長永世棋聖の兄のひとりは「バカじゃなければ邦雄の兄などやっていられない」と笑う。おそらく、この「バカだから云々」は、芹澤九段が生みの親だろう。こういう不思議なセンスは、芹澤九段の方が長けているような、そんな気がする。

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(前略)
 邦雄は小学校を卒業するとすぐ、プロの棋士を目指すため、東京の佐瀬勇次七段の内弟子として預けられました。そして、中学の三年間を先生のお宅で過ごし、そのあとは、東京の親戚の家に世話になりました。(中略)
 いまでもそうですが、自慢じゃないがこの私、将棋のことは何ひとつわからないのです。そんな状態でしたから、アマチュア将棋の山梨県支部長だった山口さんという方から、「邦雄君を、中学の三年間、東京の佐瀬先生の内弟子としてお預けしてみないか」と言われた時には、もう本当にびっくり仰天しました。邦雄のどこを見込んだんでしょうか。昭和三十年のことです。
 内弟子期間の三年間の生活費は山口さんが面倒をみてくださり、しかも、万一、棋士になれず、高校進学もできなかった場合は、将来のために山口さんがガラス店を一軒持たせてくださるという、考えられないくらいありがたいお話でした。(後略)
「おふくろ塾天才教師」(米長花子/青春出版社/昭和62年2月刊より引用)
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場合によっては、米長邦雄永世棋聖は「硝子店の店主」となっていた可能性もあったわけだ。

中原誠十六世名人も内弟子を10年間近く経験している。内弟子経験の最後というのは、先崎学八段ぐらいだろうか。「そういう経験の有無は将棋の質が違う」という声が一時期、よく聞かれたが、羽生善治名人をみていると、この説も何とはなく危ういものがある。ただ、米長棋聖と羽生名人の時代というのは「情報入手の環境」がまるっきり異なるし、データーベースの整備も比較にならない。

最近、将棋を指していて「かたちのきおく」というものが極めて重要だと痛感させられた。特に終盤である。「このかたちは何かある」と瞬時に判断するためには、過去の記憶というものは極めて重要だ。

今から何回か、米長氏の「少年時代」をご紹介させていただく。私は、米長永世棋聖が受けたご母堂からの教育は「素晴らしい」ものだったとこの本を読んで思ったが、その一方で、どこかでご本人は「決定的に人を信じることができないように」なってしまったのではないか。とも感じた。そのことは「悲劇」だと思ってもいる。

氏の「屈折の背景」が、この本からは読み取れるのだ。

投稿者: JC IMPACT 投稿日時: 水, 06/30/2010 - 02:52


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[208]
JC IMPACTU (/) - 2011年10月23日 (日) 07時14分

米長邦雄永世棋聖 =内心の葛藤= (5)


生前の原田泰夫九段と一度、酒席をご一緒させていただいたことがあった。「三手の読み」は初心者指導の名言でもあり、「自然流」「さわやか流」「高速流」など、棋士の棋風を命名されたことでも有名だ。

私は棋士の色紙というものを何枚か持っているが、原田九段の「字」を拝見して以来、例えば、今A級で活躍されている方のそれを欲しいと思わなくなった。

この方は、はっきり「大山名人嫌い」であった。おそらく新会館建設の際のエピソードだろうが「企業で募金活動を行う際に、大山さんは中原さんに首から募金箱をぶら下げさせて回ったりする。中原さんは名人ですよ。名人に何ということをさせるのか」

「高柳一門にはクズはいませんな。クズが」

私が中原名人のファンであるということを申し上げたからでもないのだろうが、氏はこう述べた。原田泰夫九段から「クズ」などという激しい言葉が発せられたことが実に意外で、そのことだけは今も鮮明に記憶している。

米長九段は、内弟子の期間中、師匠の言に必ずしも従順ではなかったようである。「自分には自分のやり方があり、師匠と同じことをやっていたら師匠のレベル(当時七段)で止まってしまいますから」この一言で、師匠の堪忍袋の緒が切れ鉄拳が飛んだという逸話がある。

また「「私が今日あるのは佐瀬先生に一局も教わらなかったから」という米長永世棋聖の台詞もこの方らしい。

芹澤九段も中原誠十六世名人にも、実はこういう類のエピソードは聞こえてこない。例えば羽生善治名人は師匠の二上九段を「師匠は静かに徳を積んできた先生です」と述べている。

私は米長九段が佐瀬名誉九段に恩義や敬愛の念を感じていないとは全く思っていない。むしろ言葉とは裏腹な面が強いと考えている。ただ、氏は自虐的なのである。中原誠十六世名人には、そういうところがない。それは何故だろうかと考えなくもない。

ただ、こういうことは言えるかもしれない。米長九段は佐瀬名誉九段にとっては「初めての弟子」である。中原名人には既に芹澤博文という兄弟子がいた。ほぼ同時期に入門した安恵八段がいた。棋界の人格者と言われる金易二郎名誉九段も健在だった。

そういう空気の違いはやはり大きかったのだろうと思っている。米長九段は、ここでも背負うものが、あまりに大きかったのではないかという気がするし、改めて考えてみたい「幼年期」には、それは更に強いものでもあった。

投稿者: JC IMPACT 投稿日時: 木, 07/01/2010 - 20:50

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[209]
JC IMPACTU (/) - 2011年10月23日 (日) 07時19分

米長邦雄永世棋聖 =内心の葛藤= (6)


米長邦雄永世棋聖には自身の運営サイト「米長邦雄の家」というものがあり、私も時折拝見することがある。

http://www.yonenaga.net/w_maji.htm

↑は「まじめな私」という氏のコラムサイトだが、ここで米長永世棋聖は「開運!なんでも鑑定団」での盤の鑑定結果について異議を唱えている。

しかし、米長邦雄九段の文章は、これに限ったことではなく判りにくい。一読、すっきり「さわやか流」とは、なかなかにいかないのである。

九段は「関係者の紳士的な話し合いによる決着」を望んでいると表明されている。この場合の関係者とは何を指すのであろうか。最大限にそれをみれば「日本将棋連盟、放送局から依頼を受けて盤、駒、駒箱を鑑定された鵜川善郷氏、鑑定に異議を唱える熊澤良尊氏」ということになろう。

熊澤良尊氏はご自身のブログでいよいよ、本格的な反論を始められるようである。

http://blog.goo.ne.jp/ykkcc786/e/ab74d666fc38e3e7456427fd2c244a79

米長氏は「鑑定の値段と理由が正しい」ことが最も重要であると指摘されている。

鵜川氏は改めて蒔絵の専門鑑定士に再鑑定をと、テレビ局の制作責任者に要請をされ「鵜川さんの鑑定には問題がない」とのコメントを頂戴されている。

いわば鵜川氏は「念を押された」わけで、手続論としても全く問題はない。番組の制作著作は「テレ東」である以上、局としても責任を果たしたことになる。

鵜川氏は、その後、ご自身のブログから写真を削除された。
「元へ戻しても結構です」「当方達で再掲しても良いです」と米長九段は述べているが、こういう「意味深な表現」は感心できない。

鵜川氏自身は「削除理由について」「鑑定が正しいことが証明されたので(結論が出た)それを立証するための写真掲示もその役割を終えた」という観点から削除をされた。私は、これはある意味、紳士的なスタンスだと思っているし、幕引きの方法としては、スマートだとも感じている。多少、深読みをすれば、熊澤氏に対する配慮もみてとれる。

連盟との協議以前に、放送局が鑑定人と協議をして鑑定結果が正しいと結論づけたのは、放送倫理上、許されないと米長九段は述べている。そうであるならば「放送倫理上許されない行為に加担したのはテレ東なのだから、日本将棋連盟は、テレ東に抗議をしなければいけないし、それに対して、反証するデータを提出するなり、BPOに意見表明するなり、方法はある。

「テレ東は鑑定人にこのことをきつく申し入れていただきたい」というのは、本末転倒のように思われる。

米長九段が何を信じたいか、信じるのか、それは内心の問題でそれを止めることなど誰もできはしない。しかし、根拠が希薄のままに、そういうことを語ると、名誉を棄損することにもなりかねないのである。

「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という泥沼流は、あまり賢い選択にはみえないのである。

泥沼にしていいことと、してはいけないことがある。

機微をわかって欲しいのだけれど。

そういうことを米長九段のご母堂は、しっかりと教育されたのではないだろうか。私は、米長九段のお母様には、一度お会いしたかったなぁと心底思いました。実に魅力的でおおらかで、正直で、1本筋がきちんと通っていると思いますし、尊敬もしております。

投稿者: JC IMPACT 投稿日時: 土, 07/03/2010 - 13:15

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[210]
JC IMPACTU (/) - 2011年10月23日 (日) 07時26分

【併載】米長邦雄永世棋聖 =内心の葛藤=(8)

(7回目は単なる告知ですので省略しました)

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 中学三年の時、師匠と高校進学について意見が対立しましてね。師匠は高校へ行くな、その時間を将棋の勉強に回せ、と言う。しかし僕は、将棋の勉強を集中してできるのは一日四時間が限度だから、将棋に偏らず高校にも行って規則正しい生活を送った方がいいと思った。
 そこで、僕は師匠に説教をした。一日五時間六時間もぶっ通しで勉強するようなそういう勉強法だからあなたは七段止まりなんだ、と。ここで拳骨が飛んできた。あなたの考えた勉強法では、あなた止まりになってしまう。ここで拳骨がもう一発。結局、思想の違う人と一緒に住むほど、ばかばかしいことはないので、すぐ飛び出して下宿を始めました。
 師匠は、僕が将来師匠を超え、トップクラスの棋士になることがわかっている。僕も、将来自分がそうなると信じている。師匠は、すべての時間を将棋にまわして、僕を早く強くしたい。しかし、僕は中学の時、すでにどのように勉強すれば、タイトルを獲れるようになるかわかっていたんです。つまり、人の物真似をするようなのは二流にしかなれない。
(「二十歳のころ」立花隆+東京大学教養学部立花隆ゼミ/1998年10月新潮社刊より引用)
-----------------------------------

こういう武勇伝、逸話というものは、後になって「面白おかしく語られる」ことにより必ずしも「事実そのとおり」であったかどうかは、判断に苦しむところもある。しかし米長邦雄九段が「東大生」に語り、活字になり、出版化されることを承諾しているわけだから、ここに引用しているわけだか、些か「後だしジャンケン」に近いというか、不遜という感じはしなくもない。別の本には「もし私のような男を破門にしたら、この世界で恥をかくのは師匠ですよ」と米長九段が述べたというものもある。
では、中原誠十六世名人は、どうであったのか。

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 最初、先生(註:高柳俊夫名誉九段)の奥さんが、私の入門に大反対されたようだ。そのころ、やはり内弟子だった兄弟子の芹沢博文九段が四段になって独立し、先生のお宅を去ったが長年自分の子供と同じように育てた芹沢さんとの別れがたまらなくさびしかったので、この思いを二度としたくないというのがその理由だった。
 師匠は逆で芹沢さんに去られたさびしさを新弟子で、まぎらそうとされたのだろうか、
私の入門について、奥さんを説得されたのだろう。
 私はというと、学校に通いながら、一週間に一回くらい将棋を研究すればよい、といわれてあっさり行くと決めてしまった。それに野球を見せてもらえるとあって、大反対していた母をガッカリさせたようだ。しかし、いざ東京にきてみると、掃除や雑用はないが、毎日将棋と密着した生活となる。
(「名人を育てた男」佐原宏志/玉井輝雄・(株)エスティ・マネジメント刊1989年1月より引用)
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また、次のようなエピソードもある。

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 棋士としての勝利につぐ勝利-師匠の高柳には、中原の成長がはっきり見えてきた。
昭和四十二年八月、C級1組で土つかずの成績を収めていたときだった。(中略)
 「お前も一人前になった。ここを出て独立してもよい」
 中原は座卓をはさんで正座し、やはり正座している師匠の顔をみつめていた。
 「長い間、いろいろありがとうございました」
 中原はそれしか言っていない。それしか言えなかったといったほうがいい。(中略)
 二人はちょっと黙った。間もなく高柳が言った。
 「今夜はお祝いに一杯やろう。芹沢や安恵も呼んで」
(「名人を育てた男」佐原宏志/玉井輝雄・(株)エスティ・マネジメント刊1989年1月より
引用)
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私は米長九段の師匠である佐瀬勇次名誉九段の「内弟子教育」を云々言うつもりは毛頭ない。以前にも記したが、将棋連盟における最大勢力は今日では佐瀬一門である。

ただ、米長邦雄永世棋聖と中原誠十六世名人の内弟子時代を比したときに、そこには明らかな違いがある。「ゆとりとのりしろ」と言うのだろうか。中原十六世名人には、今後改めてご紹介したいが、内弟子期間に「気負いめいた」ものがない。勿論、強くなりたい、A級、名人位を目指したいとの思いは当然、あっただろう。しかし、そういう強いメッセージといったものも、様々な文献にはない。米長永世棋聖は、佐瀬一門にとっては初めての内弟子だった。中原十六世名人には、先輩に芹沢さんがいたし、ほぼ同時期に安恵さんもいた。年齢が近い人間がそこにいる、いないというのは、やはり違いというものもあるのかもしれない。

米長さんにはこの時期も「信じる者は自分ひとり」という強い意識があったのではないだろうか。

当時のことについて、中原十六世名人はこのように述べている。

「初対局も、四段になった最初の対局も米長さんでしたが、こてんぱんにやられました。ライバルという意識なんかない。当時の年齢差は四歳は、今と違って、相手ははるかな先輩ですから」

投稿者: JC IMPACT 投稿日時: 月, 07/12/2010 - 23:43

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[211]
JC IMPACTU (/) - 2011年10月23日 (日) 07時29分

【併載】米長邦雄永世棋聖 =内心の葛藤=(9)


2010年 7月13日(火)14時26分52秒UPの
「さわやか日記」で、米長邦雄日本将棋連盟会長が「なんでも鑑定団の鑑定結果「紋のつけ替え」は全くの間違いとあります」と断じている。中日新聞の電子版をみてみた。おそらく本日付け朝刊の「福井版」に掲載されたものであろう。福井新聞は、読んで字の如く「福井県の地方紙」である。

電子版のふたつの記事を読んで、考えたことがある。K氏のブログによれば「3紙の記者」に対応したとあるが、このような題材の記事を、その内の2紙が取材し、記事にした。新聞というのは、ご承知のとおり、取材しても「記事にならない」ものが実は沢山ある。いわゆる「暇ダネ」と判断すれば、取材の翌日に記事になるということもない。

では、誰がこの取材を要請したのか。その要請に応じ、記事にしたという「力関係」はどこにあるのか。いかに、米長邦雄会長や日本将棋連盟の広報といえど、東京から県紙やブロック紙に電話一本、プレスリリースを発行したにしても、この業界で「それでは取材しましょう」ということにはならない。連盟と県紙、ブロック紙の間に、そういう関係性はないからである。

仕掛けたのは福井市にある「県立博物館」の広報セクションであろう。県立ということは、これ、行政サイドである。そこに寄託されている展示品の評価を巡っての問題だから、いわば当事者という面がある。K氏が働きかけ、県立博物館と共同で動き、県立博物館として取材を依頼した。取材する側としては、個人の要請など、よほどの事件性がない限りは腰を上げない。しかし、県サイド、博物館サイドから丁寧な要請があれば、まぁ、取材には行きましょうということになる。断る理由はあまりないし、断ってあとあと「おたくはあの時にこなかったよねぇ」などと言われても、報道機関としては損である。

「貸し借り」「歩み互い」とまでは言わないが、行政と報道機関の関係性というのは、そういう面がある。このシナリオを誰が考えたかはわからないが、米長邦雄会長としては、膝を叩いて喜んだのではないか。

複数の関係者が立ち会い、ネタ元は行政ということになれば、この記事の信憑性がのちに覆っても、日本将棋連盟の「腹」は、表面的にはいたまない。「新聞で報道されたのだから、当然、信憑性があると思っていました」で、終わりである。

web版中日新聞の(おそらく福井版)には「徳川家ゆかりの貴重品と再確認 県立歴史博物館保管の将棋盤」とある。新聞の見出しも同様なのかは未確認なので、わからないが、或いは、web版には掲載されていない記事が載っているのかもしれない。

何故かというと「再確認」しなければいけない「理由」がないというのも、些か「奇異に」みえるからである。

福井新聞のweb版の見出しは「将棋盤に「葵の御紋」 江戸中期作、専門家ら確認」とある。web版の中にも「専門家が(このタイミングで)確認しなければいけなかった理由」というものは記されていない。福井新聞については、本紙を数日後、入手できるので、新聞とweb版の比較をしてみたいと思う。県版か地方版の記事だろうから、刷版によって「落とし」があるとも思えないし。

その上で「紋のつけ替え」が間違いであると断定した米長邦雄日本将棋連盟会長の根拠に近づくことができそうである。

私はこの拙文では、米長邦雄会長という呼称に終始した。しかし、この「会長」は一体、何をしたいのだろう。

投稿者: JC IMPACT 投稿日時: 水, 07/14/2010 - 19:13

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[212]
JC IMPACTU (/) - 2011年10月23日 (日) 07時33分

【併載】米長邦雄永世棋聖 =内心の葛藤=(10)


「と金倶楽部」で越中フンドシさんから、リクエストを頂戴した。詳しくは「と金倶楽部」に記述があるので、ここでは省略するが、今回は、とりあえず「今」の問題を追いかけてみたい。

投稿日:2010年 7月18日(日)14時37分10秒の「さわやか日記」をみると、米長会長は「テレビ番組についての相談をした」とのこと。おそらく「鑑定団」への対処を巡ってのものでしょう。「BPO」を通じての抗議は、ここで「得策ではない」という判断が示されたものと思われる。「BPO」がどう対応するかについては、私なりの拙い見解を前回、示したので、さほどの驚きもない。「門前払い」となる前に、そもそも「門を叩くのをやめた」ということかと思われる。これ自体は、賢明な判断といえる。

「開運!なんでも鑑定団」は娯楽番組である。はっきり言えばそこでの評価が50万円であろうと1000万円であろうと、そのことの是非について「BPO」は判断しない。

ただ、米長会長は「まじめな私」の「開運!なんでも鑑定団(5)」で、状況によっては、不利ともなる発言を残している。「こんなことをしていたら「嘘つき上手爺さん」などと言われるんでしょうね」と。

米長会長が、今更何を書いても、もう驚くことはないが、少なくともこの段階で「嘘つき上手爺さん」と書くのは、軽薄の極みというか、悪手というか、これは単なる遺恨ではすまないかもしれない。

米長邦雄会長が「嘘つき上手爺さん」という発言を残した。これは会長が「web駒音」をウオッチしているという、重大な推定が可能になるし、事実上、証拠に近い採用となるかもしれない。何故ならば「嘘つき上手爺さん」というのは「世渡り下手爺」さんを想定して書かれたものだという推定が可能となるし、その「世渡り下手爺」さんと米長会長は、過去に面識もあるわけだから、当然、世渡り下手爺さんが、リアルな社会にある役職から
過去〜現在の対立まで含めて「リアル世渡り下手爺」さんを誹謗、中傷し、その名誉感情を傷つけられたと、リアル世渡り下手爺さんが訴訟を提起したらどうなるか、である。

私が米長会長のスタッフであれば、そういう発言は即刻消去するよう進言する。

いずれにしても、web駒音で「世渡り下手爺さん」を支援するというのであれば、この「嘘つき上手爺さん」という発言が、少なくとも○日の何時頃には公開され、削除されることも想定して、○日まではwebに晒していたということを、証明できるよう記録しておくべきだろう。その時間がわかれば、単に「消しましたから」という説明では裁判所は納得しない。

「○月○日〜×月×日まで「嘘つき上手爺さん」というコメントが記されていた以上、このHPのアクセス数を提出してもらい、その結果、これだけの人間がその発言をみたということが推定される故、そこから、リアル世渡り下手爺さんと嘘つき上手爺さんの同一性を判断できる人間は(これくらい)と算出できるから、故に名誉棄損の成立構成要件となり得るという主張である。

駒音のHPには、結果論として「いい材料」になるかもしれないが、世渡り下手爺さんとリアル世渡り下手爺さんを容易に結びつけることのできる材料が転がっている。1日のアクセス総数は運営側で管理しているはずだから、こちらからも推定が可能になるだろう。

ただし、それで仮に勝てるかといえば、なかなかそうもいかないのだ。米長会長側は「そんなことを言うならば、web駒音で私に対して、削除されたものも含めて、一体どれだけの誹謗中傷が渦巻いているか」ということになるからだ。つまり「米長さんの嘘つき発言も酷いが、web駒音のこの発言群もみるとあまりに酷い」ということになると「どっちもどっちですね」で、終わりである。

私は「web駒音」をみていて、如何に公人性が米長会長が高いとはいえ受忍できる限度というものは、当然あるわけで、そもそも裁判官は、日常の感覚と社会通念で、物事を捉えるわけだから、そして、裁判官の心証というものもまた、大きく影響するのだから、何を言っても許されるなどという、甘い世界は「裁判」の中にはない。

もし、裁判になることも想定して、芹澤九段ではないが「本気で勝ちにいく」というのであれば、支援者は「当事者」に迷惑をかけるべきではないと、私は考える。そもそも本気で
運動するという気概があるのなら「公開性」などというものは、さほどの意味はもたない。将棋でも同じである。初心者相手の指導ならば、いざ知らず、一体「私は次にこう指します
よ」と、指す前に公言する者などいないはずだ。

みんなで好き勝手に隙だらけの発言を残して、挙句贔屓の引き倒しになるような、そんなものは支援でも何でもない。それこそ、ただの「遊び」である。いや、まだ悪い。

「病気だの病院に行くことを勧める」などと書いて、それを裁判官や市井の人々がみたときに、そんなものが支持されるはずはない。「お仲間の論理」など無意味である。

私は「盤側の談話室」の面々と、或いはこの点、異なるかもしれないが「運動をやりたいという者は、それは自由なのだから、好きにすればいい」と考えている。しかし、公開上でやっている参加者の関連する発言をみれば、支援をしているというのは、第三者からみれば、ちっともそうみえないというものが散見していた。私の感覚とは明らかに異なる。

米長会長は「この将棋盤がテレビで放映される予定」と記している。

気が向いたら、この予定を調べてみることにしよう。ローカルか、全国ネットか、民放か、NHKか、はたまたCATVか。


JC IMPACT 投稿日時: 水, 07/21/2010 - 20:52

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[213]
JC IMPACTU (/) - 2011年10月23日 (日) 07時36分

【併載】米長邦雄永世棋聖 =内心の葛藤=(11)


傍らの資料に目を落とすと、米長邦雄九段が第51期名人戦(1993年)で名人位を獲得。
7度目の挑戦での悲願達成である。

第35期(1976年)第37期(1979年)第38期(1980年)第45期(1987年)第47期(1989年)第49期(1991年) この6期、米長は敗れ続けた。時の名人は、47期の谷川十七世名人以外は、全て中原誠十六世名人である。

私はここで「米長は敗れ続けた」と記した。理由は簡単で、私が中原十六世名人のファンだからである。中原十六世名人は、引退の記者会見で「羽生さんとタイトル戦の場で戦ってみたかった」と述べている。その前にも「羽生さんとは、まだ本当の勝負をしていない」と語ったこともある。その「本当の勝負」を体験したのは、米長邦雄九段であり、中原十六世名人ではなかったことに、寅金氏の言葉を借りれば「むかっ腹が立つ!!」というのが、今でも偽りない私の気持ちだ。

まぁ、それはともかくとしても、七度、名人挑戦者になるというのは、実際は凄いことである。A級で9局か10局指し、場合によってはプレーオフまで勝ち抜いて「挑戦権」を獲得するというのは、ある意味、名人よりも強くないと実現できないことではないか。

このことを指して「勝ち負けよりも生きざまで勝負せよ」と米長九段が言い放ったのであれば、私は素直に頷くことができる。

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殺到した取材攻勢も終息し、米長はおよそ新名人らしからぬラフな格好で単独ホテルを出た。所用のあった私は、少し遅れて新幹線福山駅に向かった。ホームを歩いていると、遠くから「やぁやぁ、これはこれは」と米長が声をかけてきた。
 「これはこれは」もないではないか。つい先ほど別れたばかりである。しかし、これが米長流あいさつである。手にしているのは小さな紙袋だけのいつもの米長だった。
 こうした時、取材魂のおう盛な記者なら、ハコ乗りのチャンスとばかり同席するだろう。しかも、こちらは主催紙である。異とするところはない。だが、私はこの時だけは米長を一人にさせておきたかった。東京までの車中、勝利の余韻を米長だけに味あわせ、他人の介入を避けたかったからである。
 ふと、二期前の四十九期、中原に敗れて去る東武日光駅のホームを思い出した。この時は同席した。米長はつぶやいた。
「オレの勝っている新聞はないのかなぁ.....」
 今、車中の米長は「新名人」の記事であふれた新聞を手にしている。そのまま、東京駅まで顔を合せなかった。
(「米長邦雄 ともに勝つ」(加古明光/1997年7月 毎日新聞社刊)より引用)
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洒落た、いいエピソードである。
敗者ではなく勝者に対して、さりげなくこのような振舞いができるというのは、おそらくはこの二人の関係を示す上でも、なかなかに興味深い。こういう記事は「裏読み」してはいけないのではないかと、私は思う。

「中学から高校にかけて棋力がぐんと上昇し、中学卒業時には、師匠と平手で指せると思った」と米長九段は同著で述べている。本当かどうか、確かめる術はないので、これ以上は言及しないが、仮にそうであったにせよ、わざわざ口にすることではないのでは、という気はしなくもない。勿論、米長九段は師匠思いである。佐瀬勇次八段が亡くなられた時に、没後「名誉九段」の称号を獲得すべく、米長名人は尽力されたということを、私は関係者から聞いたことがある。そういうことについて、別に私はこれを悪いことだとは、あまり思わない。

米長九段という棋士について、私が抱くイメージは「自虐」である。芹澤九段もある意味、自虐的な人だった。芹澤さんが九段に昇段したときの記念扇子を私は頂戴したが、そこには「八段の上、九段の下」とあった。しかし、芹澤さんには「俺が本当に力を出したら」という気持ちは、最後まであったのかもしれないと、私は思っている。しかし「そんな機会は」谷川七段との対局ぐらいしか、後年は誰も知らない話だ。

例えば中原十六世名人が、内弟子当時、仮にそうであったとしても、米長九段と同じようなことを、例えば高柳名誉九段に対してのちに語れば、まず芹澤九段はそんなことを許さない。「中原は何を思い上がっているのか。お前は師の恩を忘れたのか」と激高必至だと思う。中原十六世名人にとって、芹澤博文という棋士の存在は絶大だったはずだ。

次回、記してみたいが、私は米長邦雄九段に「師匠」はいても「兄弟子」の存在がなかったことは、ある意味、大きな問題ではなかったのかと考えることがある。まぁ、こればかりは仕方のないことなのだけれど。

だからこそ、米長九段は、芹澤博文を意識し続けた。そう思っている。中原十六世の兄弟子であるということも、もちろん含めての話である。

投稿者: JC IMPACT 投稿日時: 土, 07/24/2010 - 02:34

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[215]
JC IMPACTU (/) - 2011年10月23日 (日) 07時40分

【併載】米長邦雄永世棋聖 =内心の葛藤=(12)


http://www.yonenaga.net/w_kaisouroku.html

「何でも鑑定団」に関する一連の会長発言が「会長回想録」に格納された。
米長会長の考えていることは、アメーバーのようでもあるから、明日変化しても全然不思議ではないのだが、普通に考えれば、この問題は「回想」の対象であり、新たなリアクションはない(手は打ち尽くした)ということであろう。しかし、盤面における
棋士の緻密な「読み」の世界など、私にはわかるはずもないが、現実の場面における対処に至っては、もはや意味不明という次元を超えている。そういう意味では「お手上げ」という気がしなくもない。「好きにやっちゃってぇ」である。

【鑑定の正しい結論】

その『正しい結論』とは何か。何をもって『正しい』という根拠を、いつ、どのような形で明らかにするのか、さっぱりわからない。『正しい』という以上、一方に『間違っている鑑定』があるということで、それは世渡り下手爺氏が示したものを指しているのだろう。それとも、米長会長の「意に沿わない鑑定」は全て「間違っている」ということになるのだろうか。

【公式記録】

新たにそのようなものを「公式記録」として策定するということだろうか。私はこれを記していて、厭な予感がしているのだが、まさか「会長回想録の(一)〜(五)」を公式記録というつもりなのだろうか。一体「公式記録」とは何だろうか。

【公平を期したいと考えております。】

「正しい記録」とは何だろうか。米長会長にとっての「正しい記録」なのだろうか。それとも双方の主張を公平に聞き、対立する疑問点について、公正な機関の検証を行い、判明しない点は点として今後に残すということなのだろうか。なるほど「公平」を期したいと会長は述べている。しかしそれは文章の通り「考えております」ということで、ひょっとしたら「考えております(だけ)」ではないのだろうか。そもそも米長会長は、世渡り下手爺氏に対して「公平」という存在では、既にないのでは、という気がする。

まだまだ続けますよ、ということなのだろうか。

問題の将棋盤は「公共機関」に寄託されている。私は、その将棋盤を夏休みにでもみにいこうと思い立ち、地元の報道機関を通じて、寄託場所に問い合わせをしてみた。その価値を判断する能力など私にはないが、天下の名盤と会長が断言されたものである。直接、拝見してみたいと考えた。
「常設展示はしていない。実物をみるには、所有者の許可が必要なので、まずは許諾を得て欲しい」との回答だった。「天下の名盤」が、博物館という公共施設に寄託されているにもかかわらず、展示されていない。許諾がないとみせることはできないという。何故なのだろう。私には理解に苦しむ。「駒」についても同様。さっぱりわからない。

私は今回の件をみて、時に「駒音」やもう一方のブログでの当事者の発言や、会長のプログを眺めて、ひとつ、考えたことがある。

Internetの普及によって、人は誰でも「情報の送り手、言葉の伝え手」となる機会を得た。「送り手」になれるのは、以前は「限られた人々」の特権でもあった。それが特権ではなくなったことも含めて、使い手はそのツールを意義や意味のある、大切な道具として育てていかなければと思っていて、それは、私の根本思想でもある。

ところが普及により「求めれば、すべての人が語り手になれる」その結果「ひとりカラオケ」のような状況が今日、噴出している。ひとりカラオケとは何か? 「マイクを握ったらもう離さない。聞き役は「ひとりもいない」という現象である。命名者は鹿島茂氏だが、なるほどと感じた。何かこう「閾値(しきいち」が急激に下がっているのだな、という印象が私にはある。

変な話だが「鑑定団」を巡るあれこれをリアルタイムに眺めながら「鑑定団で鑑定した者」と「鑑定結果に不満を有する者」との関係性というか、双方共に「フェアに呼応して相互に理解を得られる言葉も環境も」実は、殆どなかったのではないかと私は思っている。

猛暑が続くが、それを思うと、私は一瞬、寒々しい思いに駆られたのである。
双方に「感情の海に溺れた挑発とそむけたくなる言葉が浮かんだ」だけで。

投稿者: JC IMPACT 投稿日時: 土, 07/31/2010 - 12:05

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[216]
JC IMPACTU (/) - 2011年10月23日 (日) 07時44分

【併載】米長邦雄永世棋聖 =内心の葛藤=(13・了)


最近のことである。「米長邦雄の家」という氏のHPに自身が色紙を持って微笑む写真が掲載されていた。色紙に何と揮毫されていたか、既に私の記憶にはないのだけれどその色紙の左側には「元名人 米長邦雄」と記されていた。新たに書いたものにせよ、残っていた色紙に戯れに「元」を加えたものであるにせよ、こういう時に、私の心は一瞬揺れる。「日本将棋連盟会長 米長邦雄」と堂々と揮毫し、カメラの前に立って欲しいと。

米長邦雄永世棋聖が名人位に就いた、第51期名人戦第4局。立会は原田泰夫九段、特別立会人に谷川浩司九段、NHK衛星放送の解説に羽生善治竜王、米長永世棋聖の地元、甲府では、同門の高橋道雄九段が、急遽、企画された「特別解説会」に参加していた。

米長永世棋聖の「名人位獲得」が決まり、同門であることを知っている多くのファンから高橋九段は声をかけられる。「おめでとうございます」と。
私も、芹澤九段を通しての「一件」がなければ、仮にその現場にいたら、中原名人が、敗れた悔しさを胸に隠し「そう」口にしたかもしれない。

高橋九段は「ありがとうございます」と答える。しかし、その一方で氏はこういう思いも残している。「一筋の胸の痛みが一瞬よぎる」と。

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「それは昨年、私に向けられていたはずだったのに.....。そんなこだわりを捨て切れな
いでいる我が身が悲しい」
(「米長邦雄・ともに勝つ」加古明光・1997年7月 毎日新聞社刊より引用)
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この第4局目は初日午前中で「54手」も進んでいる。異例中の異例。関係者からは「まさか1日制と勘違いしているのではないか」という驚嘆の声があがったという。

しかし、米長会長が先週の週刊文春で述懐していたとおり、速いテンポは米長永世棋聖の読み筋に既にあった。氏は中原名人が「島研」メンバーの佐藤康光九段と指した将棋(中原勝ち)を再検討していた。それと全く同一の局面が今、米長永世棋聖の眼前にある。

「筋の悪い手」が好手になる変化は研究会で指摘されていた。その変化中、米長永世棋聖は「端歩」をつく一手に1時間52分もの思考を費やしている。その光景を谷川九段が以下のように捉えていたのが興味深い。

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「この長考中、米長の姿勢が崩れることはなかった。私との年齢差は十九ある。二十年後、私は二時間前後の長考が本当に出来るのかと思った」
(「米長邦雄・ともに勝つ」加古明光・1997年7月 毎日新聞社刊より引用)
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中原名人も猛攻を仕掛けてくる。

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「優勢といっても、少しばかりカネがもうかった程度のもの。これをじっと定期預金にしているようでは勝ち切ることはできない。優勢を維持するだけでなく、それを使って新たな優勢を作り出していく。それが今だ。
(「米長邦雄・ともに勝つ」加古明光・1997年7月 毎日新聞社刊より引用)
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いかにも米長九段らしい喩えである。しかし、私自身、プロ棋士に指導対局を受けるようになって、随分になるが、お稽古将棋であっても、攻めの決断というものは実に難しいのである。角落ちになると、上手のスピードは飛車落ちとは、相当異なるし、攻めを決断したら最後、溜めながらも一気呵成に突っ走らないと、勝てない。角落ちには上手必勝法みたいなものがあり、確かNHKで升田幸三九段と小池重明アマが指した「角落ち戦」八筋に飛車を振り、その頭に王様がいるといて金銀がせり上がってくるという、なかなか下手に隙をみせない戦法があり、これできちんと勝てたら「香落ち」に行きましょうということになっている。これが先生の宿題。夏休みに並べてみたいと思っている。

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「将棋界には華が必要だ。盛大だった就位式には、批判があったかもしれないが、私は、これをお祭りにしようとしていたからだ」
 こうした時、米長からひょうきんさは消える。
(「米長邦雄・ともに勝つ」加古明光・1997年7月 毎日新聞社刊より引用)
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その就位式のときの、ご母堂、米長花子さんのエピソードが私は好きだ。

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「あの人は、すばらしいおかあさんだ」
米長が五十歳名人を成し遂げ、新宿・京王プラザで就位式を行った時、当然、母親・花子も会場にいた。発起人代表格だった樋口は、母親も壇上に上がらせようとした。だが、花子はガンとして上がろうとしない。
「『あんたがどんなエライ人かもしれないが、なんで私が上がらなきゃいかんのですか』」としかられちゃった。気が強いということではないんだな。母親としての『分』をきちんと守っている人だ。とにかくエライ。しっかりしている。あの母にして、この子ありという印象だった」
(「米長邦雄・ともに勝つ」加古明光・1997年7月 毎日新聞社刊より引用)
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アサヒビールの社長・会長などを務められた樋口慶太郎氏の言葉である。

米長邦雄九段は名人在位期間は1期だった。しかし、そのことを記憶している人々は将棋ファンの中には沢山いる。二千人の就位式というのは、空前絶後と申し上げていいだろう。

政財界、文化、芸能、多様な交際範囲をもつ米長邦雄氏には「華」がある。芹澤博文九段が求めてついに叶わなかった「名人位」を貴方は獲得した。そこに至る努力と夢の実現は多くの人々、とりわけ同世代の面々に、間違いなく「夢」を与えた。

会長としての貴方に、今日、そういった方々がどういう視線を注いでいるか、私は知らない。見守る方々もいるだろう、或いは離れていった方もあるのかもしれない。

「これからは女流棋士に食わせてもらう」貴方がそう口にしたと、私は今日、棋士のひとりから聞いた。その真意は私にはわからない。棋士もわかりませんと述べていた。

しかし、いずれにしても、私は「棋士の世界」女流棋士も含めて、この世界をもう一度、大きくして欲しい。そのことを願っている。女流棋士が強くなるためには、男性棋士との対局機会も含めた更なる交流が必要だと痛感しているからだ。

例えば石橋さんと中原十六世、中井さんと米長永世棋聖の「駒落対局」を私はみたいと思っている。彼女たちと渡辺竜王や羽生名人との「駒落対局」があれば、私は必ず行くだろう。強い棋士と指す経験を彼女たちに与えて欲しい。そして「共に勝つ」という将棋界をファンの前にみせて欲しい。それは、難しいことだとは、私にはどうしても思えないのだ。 (了)

次回は、少しリフレッシュして「中原誠十六世名人-蜃気楼のむこうに-」に入ります。
お読みいただいたみなさま、ありがとうございました。

投稿者: JC IMPACT 投稿日時: 土, 07/31/2010 - 12:12

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