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黒光りしていた。何が? ヤツが。 真新しく輝くニス塗りのクローゼットの下から顔を覗かせる、古風に鈍く輝くそいつは、無駄に長くおぞましい触覚を忙しく振り立てながら、じっとこちらの様子を窺っているようだった。アルカイック黒光りだ。 私はヤツがとてつもなく苦手だった。 私の家は基本的に何も無いからヤツの隠れ家らしきものはそうそう作れない筈だし、台所を初めとした掃除は念入りにしていたし、水だけで月単位生きられるヤツのために除湿だってしていた。 だが、ここは私が任務の為に派遣された場所であり、私の家でもなければ、ましてや私が掃除を担当する場所でもない。 天道是か非か! ああ神様お恨み申し上げます。 普段は神様なんて信じちゃいないんだけど、こういう都合の良いときだけ神の名前を出すのが日本人だと、前に何かの小説だったかで見た記憶がある。 何の小説だったかと考え込んでいると、ヤツは、私が何もしないのをいいことに、触覚を掃除し始めたではないか! ヤツは触覚を掃除する生き物だと、その時初めて知った。もっと不潔な感じで生きていたと思ったが、触覚は大切らしい。髪は女の命、触覚は昆虫の命か。 誰がつけたのか、ゴキブリという訳が分からない、濁音が二つもつく不気味な名前を持つそいつは、ここが俺の場所だとばかりに、相変わらず私の目の前のクローゼットの下に居座っている。 しかし刹那、カサカサっ、と二歩こちらへ前進してきた! ひっ、と思わず声を上げてしまい、反射的に、ポリマーフレームを鈍色に輝かせる獣を咆哮させてしまおうと、腰のホルダーへと手を伸ばす。 しかし、ひんやりと冷たい銃身に触れて、身体に冷水が駆け巡るように冷静になり、冷徹な心を取り戻す。装填されている9mmパラベラム弾の目標は、ヤツじゃない。ヤツに使いたいが、ヤツじゃない。 幸いにも、ヤツは二歩前進したところで、何故か、再び触覚を掃除し始めた。もしかしてさっきのは嫌がらせじゃないのか、と内心思い、つくづく嫌なヤツだ、と結論づける。 緊張している私の前でアルカイック黒光りは、まだ触覚の掃除をしている。ヤツには緊張感の欠片もなさそうだった。 それに多少なりとも緊張を紛らわされてしまった自分を内心叱咤(しった)してはいたが、まだ、耳鳴りが酷い。
そこへ、恐らくは目標が扉を開ける音がした。私はグレッグ17を両手で構え、忍びの如く闇へと溶ける。震えは無かった。いつも通り、機械的に事を済ませば良いのだから。
目標、V類・限定M型、岩崎秀夫を確認。
深邃(しんすい)の境にあるかのような、静かで暗い部屋だった。
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