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滝の歌






[991] 題名:勝利宣言🟰ハ重の相対を破す🟰 名前:京都乃鬼 投稿日:2024年07月26日 (金) 12時06分

これを公開してから4年以上経過するが
波田地氏から反論がないので京都乃鬼の勝利記念としてここに残す

🟰八重相対を破す🟰

五重の相対とは、日蓮大聖人が開目抄で示された教判(教えの比較判定)を整理したもの。

簡単に言うと、数多ある思想や宗教を、日蓮大聖人が独自の判断で高低浅深を付けたもの。

特に第五番目の種脱相対で、法華経寿量品の「文上」と「文底」の比較などは、これこそ、日蓮大聖人が示された「化法」なのである。

この下種仏法で究極の法体が顕されたのである。
究極であるので、これが結論であり、それ以外は無い。

その末法の御本仏が示された化法を、凡夫がそれ以上に垂直に降ろして「相対」する事は、
あたかも創価学会の原田会長が、化法中の化法とも言うべき
日蓮大聖人の直筆ご本尊であっても、信仰の対象として良いか悪いかの認定力があると言っているのと同じく可笑しな事である。

では、波田地氏が唱えているところの八重相対の後半部、

第六番目の「宗創相対」
第七番目の「池創相対」
第八番目の「師弟の道•師弟不ニの道相対」は、どう捉えるべきなのか?

与えて言うならば、開目抄で説かれる五重の相対を、
宗教の権威化に対する精神闘争史と読むこともできる。

その意味では、八重の相対も正しい解釈を前提にした、一つの展開と位置づけることもできるだろう。

しかしこの場合、第六番目以降は、思想や宗教同様に教判するものではなく、結論として種脱相対で教判された
「寿量品の文の底に秘し沈めたり」を信じる者達(日蓮大聖人を末法の本仏と信じ、題目を唱える者達)が、それを流布するにあたって気を付けなければならない「戒め」と考えるべきである。

何故「戒め」なのかと言えば、
波田地氏が唱える第六番以降に共通する点は、結局のところ
立場が違えど、下種仏法を信じながらも、池田先生が掲げる「寛容•慈悲•対話」を主柱とする「人間主義」とは真逆の「宗教権威に基づく特権意識」が招く「反人間主義」に起因するからだ。

反人間主義は、下種仏法を信じる者が魔に侵された姿そのものであり、その顕れる形は、それぞれの立場での違いでしかない。
謂わば宗門の信徒であろうが、僧侶であろうが、創価学会員であろうが、はたまた、創価学会大幹部であろうが、知らず知らずに魔に侵される点では同列に見るべきであり、「教判相対」すべきものではないと考えるからである。

例えば、第六番目の「宗創相対」で言えば、日蓮正宗では、
僧侶が執り行わない葬式では故人は成仏しないなどとして僧侶という特権階級が上で、信者は下としている「人間軽視、差別意識」が根底にあり「反人間主義」である。

第七番目の「池創相対」では、
創価学会では、池田先生への批判を一度もして無くても、職業幹部への悪い行状の指摘や原田会長が行なった教義解釈変更などに対し、教学的観点から自分の意見をネットに流しただけで、その創価学会員を除名処分や活動禁止などの処分をする事も、特権階級意識が成せる「反寛容•反慈悲•対話拒否」であり、これらは、池田先生が常々指導されていたことに反する行為である。

「釈尊は、すべての人を平等に敬った。相手の地位や階級で、態度を変えることなどなかった。
新しく教団に入ろうとする人に対しても『おいでくだい』という最も丁重な言葉遣いで応じたのである。
創価学会も平等である。
日本の旧弊では、上の人にお世辞を使い、下の人には、いばる。創価学会の精神は、その反対である。
役職が下の人にこそ最大の礼を尽くすべきである。」
(池田大作全集スピーチ86巻
第八十九回本部幹部会
全国婦人部幹部会
1995年6月2日)引用

しかし一方では、第八番目の
「師弟の道•師弟不ニの道」で「相対」が完結しているが、
これではまるで「師弟不ニの道」の人には全く魔が入らない事になってしまうではないか?

戸田先生の指導に基づくと、いずれの立場の人にも魔が入り込む可能性があるのではないか?
そこの観点が欠落している。

例えば、ご自身が個人でどう思おうが自由だが、自称、師弟不ニの道を実践していると言う方が
「脱講を何百した」とか「五重の相対は間違いだから使わない方が良い」とか「自分は池田先生の一番弟子だ」と公言したりするのも八風に侵されていないかと心配するところである(鬼笑)

脱講を何百、何千しても、仕事をせずに活動するのだから「それでどうした?」と思ってしまう。

学校もろくに出ていない一会員が、仕事を遣り繰りしてやっとの思いでひとつする脱講や本流と、どう違うのか?
もはや、魔は容赦無いのである。

話を戻し、
「教判」は高低浅深があるので、御本仏が悟りの境地の中で独自に示された化法である五重の相対のみ。

波田地氏が唱えるところの第六番目以降の考え方は、
我々転輪王の弟子たちが、法華経の行者として闘う上で、
魔に入り込まれない様に気を付けるべき「弟子の戒め三箇条」とでも一般化し「化儀」とすれば良いので、波田地氏の考え方自体を否定するものでは無いが
「化法」である五重の相対とは別にすべきであると主張するものである。

京都乃鬼

2018年5月

[994] 題名: 名前:京都乃鬼 投稿日:2024年07月27日 (土) 13時45分

京都乃鬼新聞
2018.5.18

=弟子戒め三箇条3=
(弟子の三つの咎)


それ故、昭和54年嵐の4.24では、弟子(特に当時の執行部)は、宗教権威に負けた。

何故ならば
宗門や法主といった宗教権威でもって成仏させて貰えると思っていたからだ。
池田先生に付いて行っても成仏出来ないと思っていた。

だから簡単に裏切る。
いや、彼らは裏切った気持ちさえ、サラサラ無かったのだろう。

宗門から破門されないで済むならば、会員のために良い事をしたと思っていたのかも知れない。

「時流には逆らえません」は弟子の敗北の言葉。

当時の執行部達は、三代目の会長から四代目に変わっただけの認識。

池田先生辞任後、四代目新会長の就任式では、北条会長と新執行部幹部は、お互い満面の笑顔で握手している写真が聖教新聞に掲載されたが、それを見た当時の同志の嘆きは、本当に大きかったと聞き伝えられている。

その中で、池田先生に直接指導された事がある関西などの一部の弟子は、宗門と対峙する場面もあったが、全国的な広がりにはならなかった。

一方「平成の嵐」とも呼ばれている現在。

除名や役職剥奪、活動停止、会館出入り禁止、学会員との接触禁止など、多くの方が謂れなき理由で処分された。

これからも先、同じようになんの罪も無く創価学会から処分を受ける方もいるだろう。
そのような皆さん言いたい。


昭和54年「嵐の4.24 」
この当時、
池田先生は辞任の際、こうおしゃったのだ。

『創価学会は私を裏切った。
しかし、私は創価学会を裏切らない』と。

あなた方も私達も、師弟不二を貫くのならば、その勇気があるのならば、何があっても忍辱の鎧を着て「創価学会を恨まない」「創価学会を裏切らない」ことが大事ではないだろうか?



更に昭和54年問題に関連して述べると、今回の改正された会則、会憲について創価学会執行部はこの様に説明している。

「まず今回の改正では、前文に、世界広宜流布を実現しゆく『仏意仏勅』の正統な教団は創価学会しかないことから、未来の経典に『創価学会仏』と記されるとの第2代会長・戸田城聖先生のご指導を加えた。」とある。

しかし、この会憲、会則の前文は、大変に重大な矛盾が生じている事に執行部は気づいているのだろうか?

それは、、、、

会憲、会則で『永遠の指導者』と規定した池田先生を裏切ったのだ!

『創価学会“仏”』が!


このことは、4代、5代、6代の歴代会長が積極的に昭和54年問題を総括、反省する姿勢がなかったから出てくる大矛盾なのだと、多くの同志が見ている。

つづく

[1001] 題名: 名前:京都乃鬼 投稿日:2024年07月27日 (土) 14時00分


京都乃鬼新聞
2018.5.17

=弟子戒め三箇条=2
(弟子の三つの咎)



日蓮大聖人から
五重の相対で正しい法を教えて頂く。

その上で、
観心本尊抄
「折伏を現ずる時は賢王と成って愚王を誡責し」

化儀の折伏
(現実的実践)
賢王とは在家の事。
転輪王、池田先生

「摂受を行ずる時は僧と成って正法を弘持す」

法体の折伏
(正しい法を顕し正邪明らかにする)
僧とは日蓮大聖人の事。

これを踏まえた上で


★第一次宗門問題の時


第一の咎
【有法無師】(うほう むし)
(法あって師なし)
注)京都乃鬼新聞社編集部で命名

◆弟子には信仰する法はあるが、法を身口意の三業で実践している師が見えない、分からない咎


歴史的背景

昭和35年に32歳の若さで創価学会三代会長になるも、牧口門下生や戸田門下生の古参幹部達が多勢いた為、彼らは池田先生の事を「池田君」と呼んでいた者もいた。

また一方で、人格者である池田先生は、これら古参の幹部達を、例えば「和泉先生」などと尊称されて呼ばれたり、敬語を使用されていた。


また当時は大きな会館も無く、当然同時中継もない時代、
一部幹部しか(県幹部レベル)池田先生に直接指導を受ける事が出来なかった。

書物も少なく、経済的に購入出来る人も限られていた。

幹部から伝え聞く師匠像しか無かった時代。

池田先生の参加された会合参加者(県長レベル)は、皆メモを取りながら聞く。

それを県長が自分のメモに基づいて、俺は直接聞けた人間だ!との大いなる優越感に浸りながらゾーン長会で話し伝える。

ゾーン長は、恭しく県長が話す池田先生の指導をメモしながら聞くが、本部長会では、
ゾーン長もゾーン長で、優越感に浸りながら(直接指導を聞いた訳でも無いのだが)、県長から伝え聞いて書いたメモで本部長に話伝える、、、

以下、支部長会、大B長会、座談会と伝言ゲームの様に続く。


いくら幹部が池田先生の指導を伝え叫んでもみても、最高幹部が池田先生の事を師匠と見ていないのだから、末端会員も含めて池田先生を単なる3代目の会長としか見ていなかった。

一方、その伝言ゲームの中で、中間幹部により勝手にデフォルメされ続け、ある者は池田先生は本仏だと言うような極端に履き違えた師弟観を持つものまで現れる始末であった。


何れにせよ、戦後の創価学会が折伏大行進の時代、弟子に信仰する法はあったが、正しい師弟観が無かった咎。
(第一の咎)



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