Ⅱ.ことばの神秘 (30) |
- 日時:2016年08月15日 (月) 00時49分
名前:伝統
《大 丈 夫 経》
ある晩、村の若妻会を終えて、家へ帰ったのは、もう10時を過ぎていた。 テレビのスイッチを入れて、始まったばかりのドラマを見た。
戦後20年の母の記録6千3百何十通の応募作品中から第一位に選ばれた 「大丈夫経」という記録映画であった。
話は、ある家の主人が、夕食後にわかの病気で息を引き取るところからはじまった。 医者も間に合わない瞬間的な出来ごとであったが、主人は最後の息が切れるまで 「大丈夫、大丈夫」と言い続けるのである。
だんだん目が見えなくなり、耳も聞こえなくっても「大丈夫、大丈夫」と言いつづける。
もう声にならない最後の最後まで「大丈夫、大丈夫」と唇が動いている。 その大丈夫は、自分は死なないという大丈夫なのか、 それとも自分が死んでもあとは大丈夫という大丈夫なのか一切わからない。
そして、医者がかけつけた時には、もう脈搏は消えていたのである。
未亡人には、男女6人の子供と姑、それに召使いの老夫婦の10人が残された。 資産といっては可なり広い屋敷と家とが残されたが、 他には別に目ぼしいものはなかった。
それからの未亡人には、夫の最後の言葉の「大丈夫、大丈夫」一つをたよりの生活が 始まるのである。
最初に召使いの老夫婦が「奥様、私達二人はもう、御給料も何も要りません、 ただ今まで通りにおそばで仕えさせていただきたいのです」と申し出る。
奥さんは「あんた達は、長い間よく仕えてくれたのに何の御礼も出来なくてつらいけれど、 あとは私達は私達で何とかやって行くから、 あんたたちは、あんたたちの道を切り開いて下さい」という。
「だって私達がいないと、奥さんは御飯も炊けないじゃありませんか。 お掃除も洗濯も出来ないじゃありませんか」といえば、 「大丈夫よ、大丈夫よ。何とかなるのだから」と老夫婦の申し出をことわる。
6人兄弟の一番上が、20歳を越したらしい男の子であるが、 こうした中に、何一つ協力の色もなく、 「お母さん、なんにもない生活をどうするんです。僕は知りませんよ」などという。
それでも、母は「大丈夫よ、大丈夫よ」をくり返すのみ。 しかも、終戦後の物資不足の時である。 お金があっても、お米が手にはいらない。
彼女は親しい知りあいの知恵によって、自分の着物一枚を手ばなすことによって、 彼女から見ると、相当たくさんのお米がはいった。
おどろいた彼女は、箪笥をもう一度あけて見た。 亡くなった御主人の洋服ダンスを開いて見ると、 素晴らしい英国製の洋服がズラリと並んでいる。
彼女は、うれしくなって、「これだけあったら……」と、 子供達に「あんた達、家にはたくさんのお米があるからお腹一杯召しあがれ……」と、 いった具合。
ところが一日分のつもりで炊いたものが、一食でなくなって、 また新しい人生勉強がはじまるわけである。
そのうちに、世話する人があって、薩摩揚でも売ったらということになった。 それで取りあえず門の脇の物置を修理して、商売を始めたのである。
そのうちに顔見知りになった近所のおかみさんが、 「今日は子供の遠足だけれど、何も弁当のオカズがないので、 薩摩揚を3個どうぞかしてほしい」と言ってくる。
「ない時はお互いさま」と気持よく出してやれば「ついでにお米も」と厚かましい。 「では5合ほど」と答えると、 「でも、主人が3日分、3升ほどかりて来いというので……」と、 何のことはない商売しているとは名のみ。
月末になって勘定して見ると、生活費を引けば、仕入れの勘定が払えず、 仕入れの勘定を差し引くと生活費が出ないという有様であった。
「それではいけない、今少し売る品物をふやし、店の設備も大きくしなさい」 とすすめられた。それもそうだと思い直して、箪笥をと開けて見ると驚いた。
一物も残さず、きれいに盗られているのであった。 手を震わして主人の洋服ダンスをあけて見ると、これまたきれいさっぱり 何にもなくなっていたのである。
家族一同が、腰をぬかさんばかりにびっくりしていると、 一人が「そういえば、ゆうべ夜半に何かゴソゴソする音をきいた」と言い出した。
すると奥さんは「まあ、泥棒さんは夜も働くのね……」と感嘆の声を発し、 書物の置いてある室にかけ込み、かんたんな英語の本を取り出して 一所懸命に勉強に取りかかった。
びっくりした家族は、さては生活を支える一物もなくなったので、 気がふれたのではないか……と、うろうろするばかり。
家族のそうした心配を外に、英書と頸っ引きの毎日が始まった。 「お母さん、どうするの」と聞かれても、 相変わらずの「大丈夫よ、大丈夫よ」をくりかえしながら……。
それが、たどたどしい英語でも一所懸命勉強して、 当時大勢入国していたアメリカ人の深切なガイドになるためであると解ったとき、 家族は感激した。
まず、怠け者で、すべてに非協力だった息子が、 「お母さん、僕は何をしたらいいのでしょう」といってくれた。
「あんたは建築をやりなさい。今、日本には家を失った人がたくさんあります。 少しでもその人達の足しになるように建築をやりなさい」と言うと 「ハイ、そのようにいたします」と立ち上がってくれた。
つぎには、今迄の生活態度から一歩も出ることの出来なかった長女も 「お母さん、私は何をすればよいのでしょう」と、相談をもちかけてくれた。
「あんたは簿記をやりなさい、 私もあんたもソロバンが下手だったから商売が出来なかった」といえば、 長女も「わかりました。簿記をやります」と素直にきいてくれた。
次女は、それまでも母とともに一つ心で働いてくれたが 、自分からタイプの稽古を志願して一所懸命になり出した。
4番目、5番目は男の子で、2人は新聞配達を始めた。 こうして盗難をきっかけに家族揃って新体制にはいり、一切が立ち直ったのである。
その20年間の記録を書いて応募したのが、 2番目の娘さんで、お母さんとともにテレビにも出演して、
「私の家は、何が来ても、何がおこってもお母さんの『大丈夫よ、大丈夫よ』 に支えられてきたのです。だから私は、お母さんの大丈夫経と名づけているのです」と、
話を結ばれたのであった。
私は、この話から言葉の神秘ということをしみじみ考えさせられたのであった。 これが若しも「大丈夫」でなくて「もう駄目だ、もう駄目だ」であったら、どうでしょうか。 決して、こううまくはいかなかったと思うのである。
・・・
《コトバは創り主》
言葉は、すべてを創り出す。 意識していう言葉はもちろん、たとえ無意識に、あるいは冗談に言ったことばでも、 その悉くが実現の可能性を持っているというから素晴らしいことである。
この未亡人の「大丈夫よ、大丈夫よ」にしても、 最初からそう大した信念的なものではなかったかも知れない。
ただ最愛の夫、この世で一番たよりにしていた人が、 最後の最後まで、残してくれ言葉を自分への贈りものとして、 そう言わずにいられなかったのではないかと思う。
信念は、絶えず言っているうちに強くなる。 言葉は宇宙の創化力、一切を作る力だからである。
神が一切を造りたもうにも 「粘土を用いたまわず、木材をもちい給わず、ただ心をもって作り給う」と 『生命の實相』にも示されており、
「心はすべての創り主……この心展開して言葉となれば一切の現象展開して万物成る」と、 神様の宇宙創造、万物創造の過程についても訓えられているのである。
同じく、われわれの自己運命の創造も、言葉が創り主なのであると教えられている。
そして、すべての人間が一番可愛いのは、自分である。 では、真に自分を愛する道は何か、それは善い言葉を選ぶことである。
いやしくも悪い言葉を使わないことである。
善い言葉と言っても、馬鹿丁寧な遊ばせ言葉を使うということではない。 すべてに明るい、希望にみちた、自他を祝福する言葉を使うことが大切なのである。
そして「もう駄目だ」「自分には、そんなことは出来ない」などと 自己を限定する言葉や、「寒い風に会うと風邪を引く」とか 「たくさん食べるとお腹が痛む」などと病気を予想する言葉を使わないことである。
なぜなら、私たちが心で思うこと、言葉にあらわしたことは、 宇宙の創化力を動員して、その心の傾向、その言葉の方向へと創作を始める。 これが真理だというのであるから愉快である。
男の子ばかり6人もいるので「男の子ばっかりで大へんだろう」とか 「義務教育だけでも、6人では大へんだろう」と知人に言われると
「男ばっかり6人、たのしいよ。 一人は学者、一人は実業家、一人は飛行機のパイロットに育てようかと思ってね。 アッハッハ……」と朗らかに笑いとばしていた人があった。
それが、もう息子たちの3人は大学を卒業して、 長男は高校の英語の先生、二番目は国鉄職員、三番目はサラリーマン。
明るい朗らかなお父さんの子として、助け合い励まし合って育っているが、 たしかに幸運も、悪運も言葉が種だということがわかるのである。
・・・
《おかあさん大好き》
富山市西田地方婦人会の主催で 夜の8時頃から、 家庭の調和について話をしたことがあった。 話を終えたのがちょうど10時。
「さあ今曰はこれだけにしておきましょう」
と言葉を結ぶと、20歳過ぎと思われる娘さんが立ち上がった。
「平岡先生、質問させてください」
「では簡単に!」
「先生、私のお母さんは、まま母です。家へ来てからもう5年になりますが、 私はこのお母さんと仲よくなれないのです。 それで、どうしたら仲よくなれるか、それを教えてほしいのです」
「わーっ」
みんな笑ったが、娘さんの表情は真剣であった。 もう遅かったので 私は簡単に話した。
「お母さんと仲よくしたいのなら、私の言う通りに実行しなさい。 明日の朝眼がきめたら、寝床の上で姿勢正しく背筋をまつすぐにして坐り、 瞑目合掌するのです。
そして、お母さんのニコニコ顔を瞑目の中に描くのです。 それから『お母さん、ありがとうございます。ありがとうございます』と 5分間ぐらい続けるのです。
何もありがたいことは思い出せないかもしれない。 しかし、そんなことはどうでも良いのです。
ただ、お母さんの顔を描いて『お母さん、ありがとうどざいます』と 感謝の言葉を続けるのです。
それから次には『お母さん、大好き、大好き。お母さん、大すき大すき』と、 しがみつきたい心を起こすように唱えるのです。 10分ほど続けていると、必ずお母さんと仲よしになれるから、やりなさい。 これで終わり」
一同は、また「わーっ」 と声を挙げて笑った。
寒い11月頃だったと思うが、翌々日の晩、再び娘さんの来訪を受けた。
「先生、ありがとうございました。先生の言われた通りにしたら、 お母さんと仲よくなることができたので、今日はお礼に来ました」
というので、こっちがびっくりしたのであった。
「先生、10分間って、長いですね。先生に教えられたように 『お母さん、ありがとうございます』を始めたのですが、初めはちっともありがたくない。 面憎い気さえするのです。
でもこれではいけないと、思いなおして『ありがとうございます』をつづけました。 『大好き、大すき』も、『大きらい、大きらい』と言いたくなったのですが、 これもいけないと思って『大好き、大好き』にかえました。
それでも、終わり頃には大分おちついて『大好き、大好き』の気持になることができました。 でも10分がこんなに長いものとは知りませんでした。 お祈りが終わってから室を出ると、廊下でお母さんに会いました。
今の今まで『お母さん大好き、大好き』と言っていたので、思わずニッコリ笑いました。
すると、お母さんもニッコリと笑いました。 そしたら、何だか嬉しくなってきました。
こんなわけで、昨夜は夕食のあとかたづけをした後で、 炬燵にはいってお母さんと話しあいました。
私の家は、お父さんと3人家族なのですが、 お父さんは九州の方へ売薬に行っていられるのでいつもは母と2人きりなのです。
2人しかいないのに気が合わないのですから、お互いにつらいのです。 それで、あの晩お母さんに言いました。
『お母さん、今晩は、親だ子だという気持を捨てて、 ただ一人の女と一人の女という気持で、お互いの悩みを打ち明けましょう』 と話し出したのです。
夜半の2時まで話しあっているうちに、お母さんの悩みもわかりました。
九州にいるお父さんに、好い人が出来たというのです。 その人が妊娠中だというのです。 ところが、お母さんは家へ来て5年になるのに、子供がいない。 その新しい女性に父をとられはしないか、というのが母の悩みだったのです。
私は、お母さんの手を取って言いました。 『お母さん、安心して下さい。私は絶対、お母さんの味方です。 どんなことがあっても、お母さんを不幸にするようなことはしませんから』と、 約束したのです。 有難うございました。先生の言われたように、お母さんと仲よくなりました!」
まことに、はっきりした法則通りの話であった。
信じて行なえば、このように答えが出るのである。 お母さん大好き、大好きといっていたら、 お母さんの顔を見て自然にニッコリと笑いたくなった。
宇宙の法則が、働いたのである。 好きになるための努力というよりも、言葉のもつ神秘な働きである。
言葉の神秘、その創化力を知って、これを善用するものは幸いなるかなである。
・・・
《お姑さん大好き》
私が全国白鳩会の副会長という立場で、全国を廻っていた頃のことである。 熊本へついたのが、朝の10時ごろで、白鳩会の幹部達に迎えられて、 幹部会を開いた時のことである。
会をとじたのが午後の4時近くだったと思うが、 私のすぐ隣りにいた幹部二人のひそひそ話が、耳にとまった。
一人は中年で、もう一人はまだ20代の若い婦人であった。 その若い方が、年かさな婦人にしがみつくようにして、何か訴えていられる。
おせっかい屋の私は、思わず、言葉をはさんだ。
「どうした、どうしたんですか?」
「先生、この方には、今年70歳になられる姑さんがあるのです。手 足のあっちこっちに、神経痛もあるので、そのせいもあるのでしょうが、 ご機嫌を取るのが難しいと、いつもこの奥さんが、言っていられるのです。
今日も、お家を出してもらうとき、『2時までには帰って来ます』と言って 出てきたのに、話がはずんで楽しかったので、思わず終いまでいてしまったので、 今家へ帰ると、どんなに叱られるであろうと気が気でないと言われるのです」
年かさの婦人の説明をきいて、私は次のように言ったのである。
「奥さん、あなたは、『家のお姑さんは気難しい、気難しい』ときめていられる。 お姑さんを思い出す度に『気難しい姑で、なかなか機嫌を取りにくい』ときめていられる。 それは想いと言葉の力で、お姑さんの気難しさを造っていられることなのですよ。
まあ理屈は別として、今日は一つ体験を出して見るのです。 人間は善いにつけ悪いにつけ、思いつめている時は体験が出るものです。 ところで、これからあなたは家へ帰るのに時間はどれほどかかりますか?」
「15分です」
「15分? それは素晴らしい。ちょうどいい。 アメリカのマーフィーという学者は『信仰の魔術』という本を書いて、 治療や運命の改善に大きな効果を挙げていますが、
そのなかに、失明の宣告を受けた少年に『君はまず父親にもっと感謝すること。 次に毎日朝晩の15分間を合掌して、医者が“奇蹟だ、失明はまぬがれたぞ“と 驚きの叫びを挙げている姿を描きなさい』とすすめて、 少年が描いた通りの結果をおさめたという例を書いているのです。
15分、ともかく、15分あるのは素晴らしい。
体験が出ますよ。 本当は、あなたとお姑さんとは仲がよいのですよ。 それが神の造り給える実相の世界の親と子の姿です。
あらわれはどうあろうと、真相は仲のよい親子なのです。 お姑さんからは、あんたは可愛い息子の嫁です。
あなたにとって、お姑さんは、この世で一番頼りにしている夫を 生んで下さったんですもの、仲がよいにきまっているのです。 たとえ継父、継母の間でも、神のきめて下さった親子です。
生長の家の信仰をもっていられるあなたには、既にわかっているはずです。
そこで、これからの帰り途の15分間、おかあさんのニコニコ顔を描きながら、 感情をこめて『お姑さん、ありがとうございます。お姑さんは素晴らしい神の子さん、 やさしくて深切で思いやりのある方、おかあさん大好き、大好き』と、 抱きつきたいような思いをこめながら、お帰りなさい。真剣に感情をこめてですよ」
こう言って、おくり出したのであった。
ところが、それから20日ほどしたら、 その夫人から次のような感謝の手紙を受けとったのである。
「平岡先生、あの日は寒い寒い日でございました。 私は襟巻に、首をすくめて帰りましたが、先生からおしえられた通りに 一所懸命、唱えました。
後で考えてみると、あの15分間は.寒いと思っただけ。 道で誰かにあったか、会わなかったかも覚えがないのです。
『お姑さん大好き、大好き』と言っていたら、 今まで粗末に思っていたことが申しわけなくて、すまない済まない気持になったのです。
そして、それまで尊敬していたつもりでしたが、よくよく考えてみると、 体裁よく敬遠していたにすぎなかった。お姑さんも淋しかったに違いない。 すみません、すみませんという思いで、家の前まで来ました。
でも、家の前まで来ると、やっぱりドキンとしました。 ちょっと立ちどまって、ためらいましたが勇気を出して戸を開けると、 そこにお姑さんが立っていられたのです。
『おそくなりまして……』と恐る恐る申しますと 『ああ、良いよ、いいよ』と言ってくださるではありませんか。
思わず玄関の畳に両手をついて、もう一度 『おばあちゃん、本当に遅くなって申しわけありません』と謝ってから、 おばあちゃんの顔をみつめました。
おばあちゃんは、やわらかい眼ざしで、 『ああいいとも、よいお話をきいて来たんじゃろうもの……』と言って下さったのです。
私は嬉しくて涙が出ました。 考えてみると、わけへだてしていたのは、私の心だったのです」
言葉とは、こんなにも神秘な創化力をもっているものなのである。 親子の仲をへだてているのも、夫婦の間を粗末にしているのも、 この言葉の神秘を体得していないからなのである。
まことにも、言葉は宇宙の創り主なのである。
・・・
《ただ善のみ・ただ豊富のみ》
私が故郷の富山市で、毎週月曜日の午後七時から九時まで月曜会という集まりを していた頃のことである。
昭和25年、12月の第二月曜の晩だったと覚えている。 一通りの話が終わったところで、私が「質問はありませんか」と尋ねると、 40歳ばかりの、にこやかな顔をした奥さんが立たれた。
「平岡先生、生長の家の話をきいたら、経済問題も救われるのでしょうか」
「経済問題? 当たり前ですよ。生長の家は宇宙の真理を探求しているのです。 無限供給の源泉はどこにあるかをおしえているのです。 そして、その無限供給の源泉と手をつなぐことを教えているのですから、 経済問題の解決などわけないことですよ」
「私は、子供を5人かかえている未亡人です。 どんなに働いても働いても、子供達を養うことができません」
「奥さん、子供を養い育てるのは、神様のお仕事なのですから、安心して下さい。 私たちがこの世に生を受けたということは、神様の御計画によるのです。 したがって神様が責任者なのです。
神様が、私たち一人一人の中に働いて、 私たちを生かし、育て、守っていてくださるのです。 まず、このことがわからねばなりません。
今あなたは、5人の子供をかかえた未亡人で、 なかなか養い育てることができないと言われた。
あなた一人の女手で、その働いたものを6つに分けて生きるということになるのだから、 なかなかでしょう。
でも、神様は一人一人の中に生きる力を与えて、日光や空気を初め、 すべてのものを与えてくださっているのです。
その上、素晴らしい生きる力を与えてくださっていればこそ、 今朝食べた白いご飯が、明日の今頃ともなれば、赤い血になり、黒い毛にもなるのです。 夜眠っている間も、身体の一切の器官が絶え間なく働いているのです。
つまり、神の生命が働いているのです。 これらの恵みに対して、感謝したことがありますか。 喜びの叫びを挙げたことがありますか。
あなたの肉体、あなたの子供たちの身体を守り育てていられるのが神様です。 あなたの子供たちの衣食住に必要なすべてを与えるために、 思いを凝らしていられるのは、あなただけではないのです。
そのすべてについて、心配して下さっているのが神様です。 しかも、神さまは豊かに豊かに与えたいのです。
われわれはみんな可愛い可愛い神様の一人子なのです。 母が子を愛する如く、神の愛がわれわれに注がれているのです。 真理の探求は、まずここに気のつくことから始まるのです。
そこにめざめたら、まず『神様、ありがとうございます。ありがとうございます』 を言わずにいられなくなるはずです。わかりますか。
神の生命が私たちの中に働き、生かし育てまもっていられるのです。 しかも、豊かに豊かに与えていられるのです。
では、その豊かに豊かに与えていられるはずの供給が、どこでどう妨げられて、 現象の私達の手に入らないのか、と不思議にお思いになるでしょう。そ
うです。それを妨げているものは、私達のおもいです。言葉です。
ところで、あなたは貧乏がきらいなのでしょう? もし、そうだったら、今日以後は『私は貧乏で』という言葉は絶対に使わないこと、 口がくさっても言わないことにするのです。
『私は貧乏』と一度言えば、貧乏の棒が一周りずつ太くなるのですから、こわいですよ。 反対に、豊かなこと、素晴らしいことを口ずさむのです。
今日以後は、口の休んでいる限り、
“ただ善のみ ただ豊富のみ“
という言葉を口ずさんで下さい。
これは、谷口雅春先生がお示しくださった言葉なのです。 『この世は、神の善意にみちている世界であって、貧乏や病気や不幸は、 自分の迷い心で作らない限り、絶対にあり得ないのが真理である』と教えられているのです。
“ただ善のみ、これが実在。 ただ豊富のみ、これが実相である“
と示されているのです。
『ただ善のみ、ただ豊富のみ』この言葉を絶えず、口ずさむのです。 あなたの運命は、急激に、あるいは徐々に、必ず好転するのですから。
神の無限供給の口をとざす壁は、暗い心ですから、くれぐれも暗い言葉を使ったり、 暗い気持を起こしてはいけないのです」
第二月曜の晩の話は、これで終わった。彼女の名は八橋さんである。
・・・
《言葉は生きていた》
第三月曜日の夜も、ニコニコ顔で一人って来た八橋さんは、次のように報告されたのである。
「平岡先生、ありがとうございます。私は東岩瀬に住んでおります。 実は、あの夜の私の財布には往復のバス代30円があっただけ、 しがみつくような思いで来ただけに、帰りのバスの中で それこそ一所懸命に 『ただ善のみ、 ただ豊富のみ』を口ずさみました。
あくる朝、仕事に往く時も寸暇もなく『ただ善のみ、ただ豊富のみ』を続けました。
先夜は申し上げませんでしたが、 これまで何をしても……豆腐や油揚のようなものを売ってみても、 お菓子類を持ち歩いてみても、どうしてもお金が足りなかったのです。
それで、この頃は思い切って屋外の重労働(士方)をやっているのです。 往きも戻りも一所懸命『ただ善のみ、ただ豊富のみ』を口ずさんでいましたが、 帰りの途中に思い出したら、今日は米櫃にお米が一粒もないのです。
5人の子供はどうしているだろうと思ったら、 暗い暗い、泣き出したい気持になったのです。
しかし、『その時、先生の『暗い気持、暗い言葉が、 神の無限供給の入り口をふさぐ壁になるのですよ』というお言葉を思い出したのです。
『これはいけない』と、大急ぎで『ただ善のみ、ただ豊富のみ』と言いましたが、 思わず大声になったので、誰かに聞かれなかったかしら、恥ずかしいと、 うしろを見廻したことでした。
こんなわけで一所懸命『ただ善のみ、ただ豊富のみ』を叫びながらも、 『こんなことを言っていたとて、今夜の米のないのが、どうなることでもなかろうに……』 と、また暗い気持になるのでした。
『いっそ、5人の子供を平岡先生のお宅へ連れていって、責任をもって貰おうかしら』 などという気持にさえなるのでした。家の前まで来ると、久しぶりの弟が、 今帰ろうとしているところでした。
私の顔を見ると『姉さん、お帰り。僕さっきから待っていたが、 姉さんが帰らないので、帰りかけていたところだ』と言って、 私にとっては相当のお金を『姉さん、使って下さい』と置いていってくれたのです。
私は思わず、押しいただいて、弟の先に神さまと平岡先生にお礼を言ったことでした。
『神さま、あなたの無限供給を流れ入らせていただきまして、ありがとうございました。 平岡先生、神さまの無限供給の流れ入る鍵をおさずけ下さいまして、 ありがとうございました』と合掌したことでした。
そして、それからお米を買って来て、炊いて食べきせたり、食べたり、 神さまは私達6人を飢えさせはなさらなかったのでございます」
「よかったね。あなたがこれによって 神さまは、飢えさせはなさらないということがわかったのは素晴らしい。 信仰生活の喜びは、そこにあるのです。
『神、つねにまもり給う。神、つねに生かし給う。貧乏はない。病気はない。 ただ善のみ、ただ豊富のみ』を信じ切って、はじめて 安心立命の世界を我がものとできるのです」
「先生、まだ嬉しいことがありました。親戚のものから餅米を2斗ばかり頂きました。 その外にも嬉しいことがありましたが、ともかくも今日は、雨が降っても槍がふっても、 このことを報告させて頂こうと思って、勇んで来ました」
「もう一つの嬉しいことも、披露しなさい」
八橋さんは顔を赤らめて話し出した。
「実は、私は生活保護を受けていますが、どうにも生活が苦しいので、 いま少し増してもらいたいと何度も何度もお願いするのですが、 聞き入れてもらえなかったのです。
それでもうお願いするのをあきらめて放っておきました。 そしたら、今度はお役所の方から『少ないけれど』と、殖やしていただいたのです。 嬉しゅうございました」
「すばらしいね、神の供給源のねじをあけておかなければ与えられないのです。 ますます明るい心、よい言葉で、あなたの運命を好転させて下さい」
一座の人達もみな感激して、悦び合ったのであった。
・・・
《サンタ・クロースがきた》
八橋さんは、つぎの月曜日も、明るい顔をして来てくれたので、私は催促した。
「さあ、その後の報告をしてくださいよ」
「ハイ、私の家では、弟が置いていった3千円も焼石に水で、すぐ消えて行きました。 子供達に学用品を買ってやったり、配給品をとって来たり、 ご近所で用立ててもらってあったものをお返ししたりしていると、 3日目には無くなったのです。
それまでの私だったら、そんな時には箪笥の引出しや押入れを開けて見て、 何か売るものか質に入れるものはないだろうか、などと考えたのですが、 この頃はそうは思わなくなりました」
「ホウ、どんなふうに思うのですか」
「今度は神様は、どこからどんなふうにして廻して下さるのかしら? と、 何か明るい、期待するような気持にさえなるのですよ……ホホホ……」
「そこですよ。そんなに明るい気持はどこから出ると思いますか。 それは、あなたが『ただ善のみ、ただ豊富のみ』と、一所懸命に言っている言葉の神秘が、 もたらしたのですよ。
言葉の力とわかれば、これまでの貧乏は、心配顔や憂欝な暗い心のためだった こともわかるでしょう?」
「先生、昨日はクリスマスでした。朝、目をきますと、娘の一人が 『お母さん、今日はクリスマスだけれど、お母さんは何にも買ってくれない』と言うのです。
それで私も『本当やね。買ってあげたいものが沢山あるのだけれど、 お母さんは甲斐性がないので……』と言った途端に 『また、暗い言葉を出した。いけない、いけない。ただ善のみ、ただ豊富のみ』と、 一所懸命唱えたことでした。
ところが今日は、珍しく私の家へ葉書が一枚来たのです。 私の家に手紙や葉書の来ることはめったにないのです。 たまにくると、すぐ『どこの借金の催促だろう』と思うくらいだったのですが、 今日はそうではなかったのです。
実は、今年の夏、新聞に市内のある本屋さんの事務員募集の広告が出ていたのです。 私も応募したのですが、算盤ができないので採用にはならなかったのです。
その時に、生活事情をきいて下さったご主人が 『何かの時には、また力にならせてもらうから』と、励ましの言葉を与えてくださっていた、 その本屋の奥様からくださったものでした。
その葉書には『クリスマスになったから、子供達にお祝いの雑誌などあげたいから、 富山へ出たら寄って下さい』と書いてあったのです。 それで、こんなにたくさんのご本をいただいて来ましたの。
私は子供達に、こうしたものを買って与えたことがないので、 どんなに喜ぶことであろうと嬉しくてなりません。
その上に、金一封ののし包みまで下さったのですが、 そのとき奥様のお友達が一人来ていらっしゃいましたが、 奥様から私の事情をおききになって、その方も金一封を下さったのです。 私ばっかり本当にすみません」
30冊近い雑誌類の入った風呂敷づつみをもち上げて見せたり、 二つの金包みを洋服のポケットから取り出して、 無邪気にみんなに見せたりされたのである。
「それから先生、私は或る方に、まとまった借金があるのです。 先日、弟からもらったお金を使いはたして何もなくなった時、その方がいらしたのです。 私は穴へでも入りたい気持で近所へ飛んで行き、少しばかりのものをおかりして来て、
その方の前に並べまして『申しわけありませんが、これだけお納めいただきますように』と、 頭を畳におしつけると、その方が怒ったような顔をして、
『あんた、それは今借りて来たのでしょう。借りてきた金を私はとって行けるものか』と、 言いなさったのです。
それで、私は思わず押入れから蒲団を引き出して、 『借りてきたお金でいけなかったら、せめてこれでも』と言いましたら、 いっそう怒った顔をして、
『それは、毎晩あんたの着ている蒲団でしょう。この冬空に、 あんたの着ているものを持って行けるものですか。 よろしい。あんたに返せる力が出るまで 待ってあげるから安心していなさい』と、 却って力づつけるようにおっしゃって下さったので、私は涙が出てとまりませんでした。
でも、そんなことを言っている間にも、5人もいる子供が、部屋に入って来るやら、 出るやらしていたのです。それを見ておられたのでしょうね。 一度は出て行かれたその方が、またもどって来られました。
そして、『これを子供さんにやってくれ』と置いて行ってくださったのは、 1個10か15円もするようなお菓子が10個も入った包みでした」
「何と、世間では借りた方が利息を払うのが常識なのに、 あんたの場合は貸した方が、利息を払って行ったというわけですね。 着て寝ている蒲団でも渡そうという位の感謝の気持になった時、 そうしたことも出て来るのですね」
「それから、こんなこともありました。 私が2、3年前、ある方にお金を5千円融通したのです。 ほんの一ヵ月というので、その時手元にあったものをお貸ししたのです。 それが一ヵ月はおろか半年たっても、一年だっても返してもらえないのです。
食うや食わずの生活をしている私です。 ある時は、貸した私が、畳に手をつかんばかりにして、お願いもしましたが駄目でした。 ところが、平岡先生のお話をきいているうちに、私の心がかわったのです。
『そうだ、心は一つづきなのだ。あなたの心も私の心も、切れ目のない空気と一緒、 私の心の中に、どうでも取ってやらねばと、むさぼる気持があるからなのだ。 この気持が相手にひびいて、めったに返してやるものか、 ということになっているに違いない』と気がついたのです。
人間はみんな、 誰でも借りたものは返して楽になりたい、明るい心になりたいのに、 それを返す気持を起こさせるようにしてあげていないのは、私の貧しい心であった、 暗い心であった、と気づかせていただいたのです。
それから、こんなことも思わせてもらいました。 『そうだ、私は今まで、あの方に、お金を貸している、貸している、と思っていたけれど、 ヒョッとしたら、前世とかで、私があの方に借りていたのかも知れない』と、 こう思うようになったのです。
そして『そうだとすれば、もう返してもらう必要もないはず。 それよりは、長らく貸していただいていたことを感謝すべきだったなぁ』と、 心が軽くなってしまったのです。
そしたら、どうでしょう。 私の方から何にも言わないのに、一昨日その方が来られて、 2千円のお金を出して『すみませんでした。月の終わりまでには、 あとの3千円はかえすから』とおっしゃったのです。
この前の晩にお話しいただいた『肉体も境遇も、わが心のかげ』という真理を、 身をもって体験させていただきました。
本当に、私の心一つだったんですね。神さまからの無限供給の通路も、 隣人との通路も、私自身の心をととのえることだけで開けるのですね。
これからも『ただ善のみ、ただ豊富のみ』を一所懸命に精進させていただきます」
その年最後の月曜会は、こうした八橋さんの感動的なお話で幕を閉じたのであった。
・・・
《感 謝 の お 餅》
新年初の月曜会は、1月8日であった。 その夜は、八橋さんも正月らしく、羽織の一枚も整えて来られだが、 小学校6年生と4年生に1年生の3人の娘さんも一緒であった。
兎の毛皮の襟をつけた暖かそうな紺のオーバーを着て3人とも豊かそうに、 フックラとした感じでニコニコ顔であった。
3人の娘の上に、高校1年生の長男と中学2年生の次男がいる、と聞いた。 ご主人は、富山第三十五師団の連隊長の副官をつとめていられたそうであるが、 今度の戦争で戦死されたという。
終戦後の混乱に加えて、奥さんの実家の没落が重なって、見てくれるものもなくなり、 5人の子供をかかえて苦闘していられる姿だったのである。
道理で人品もよく、食うや食わずの中からも、息子だけでも高校へ入れたいと、 頑張っていられたわけである。そして、
「平岡先生、ありがとうございます。先生のおっしゃって下さることは、 全部実現するので 今日は3人の子供たちにも、何か一言おっしゃっていただきたいと思って、 つれて来ました」
こう言いながら八橋さんは鏡餅を一重ねと菓子箱を一箱、お礼にと出された。
「こんな心配は、要らないのですよ」
「このお餅は、息子がついて、私が丸めたものです。 家でお餅をつくなんてことは、何年振りのことか覚えがありません」
「私の言うことは何でも実現するって、どんなことですか」
「先生に『私は今、屋外の重労働をしています』と言った時、 先生は、『あなたに最も適したお仕事が必ず与えられますよ』とおっしゃって下さいましたが、 こんど○○物産会社の事務員として採用していただき、 今月の4日から勤めさせていただいております。
今晩も、昼のおつとめを終えて出かけて来たところです」
身体中で喜びを表現して、嬉しそうであった。 私は、3人の子供達には、人間は神の子であることを説き、 神さまは、つきっきりでみんなを守っていられる、と話した。
そして 毎朝毎晩、合掌して、
“神様、ありがとうございます。 御先祖様、ありがとうございます。 お父さん、お母さん、ありがとうございます。 私は神の子、よい子です、ありがとうございます”
と唱えることを教えたのである。
そして、いただいたお餅は、わが家の餅と一緒に神棚に供えた。 毎日、合掌しては八橋家の幸福を祈ったが、何日たっても食べる気にはなれないのであった。
私の娘などは「このお餅をあられのように細かく切って、 皆さんに食べていただきましょうか」などと言ったものである。
・・・
《み ん な 天 使》
5回目の月曜会には、八橋さんはこんなことを言われた。
「私の家には、まだまだお金のたりないことが始終あるのですが 『ただ善のみ、ただ豊富のみ』を唱えておりますと、 何かしら心の底に明るいもの、暖かいものを感じて『何とかして貰える』 という気持にさせて貰えるのです。
そして、そんなふうに思っていると、そのような結果になるのですね。 先生のおっしゃる〃言葉の神秘”ということが、しみじみと感じさせられるのです。
先日も、こんなことがありました。 私は、どうにもつらくなると、市役所へ生活保護費をお願いに行くのです。 でも、月の15日前には、どうしても出してもらえないのです。 『15日がすんでから来てください』と、つっけんどんに突っ放されるのです。
この1月にも、お金が足りなかったのです。
でも、まだ10日を過ぎたばかりでした。 『神様は、どうして下さるのかしら』と思っても、どうにもならないのです。 ところが、11日に会社へ行くと、市役所に用事に行ってくるようにと言われました。
用事をすました時、ふと思いつきました。
こうして私が毎月お金の補助をいただけるのも 主人の戦死という犠牲があったればこそのこと。
考えてみれば、主人こそお国のために働いたが 、私はお国に対しては何の働きもしていない。 それなのに、こうして毎月、お世話を受けていて申しわけない。 ありがたいことだと、しみじみこみ上げるような感謝の心がわいて来たのです。
それなのに、これまでは感謝どころか、『これ位のお金で食って行けるわけでなし……』と、 不足に思っていたことが、申しわけなくなって来たのです。
それで、せめて係りの女の方達に、お正月の挨拶でも申し上げようと、窓口へ行ったのです。 そして『あけまして、おめでとうございます。いつもお世話になりまして……』と挨拶をして、 その足で帰ろうとしました。
すると係りの方が、
『八橋さん、ついでに今月分を持って行きませんか?』と言われたのです。 私は『この方が私の神さま、天のお使いだった』と気がついたら、 嬉しくて有難くて、涙が出てたまらないのです。
そして、本当に環境はわが心のかげであった、今までは意地悪のように眺めていた 係りの方の姿は自分のあさましい心の姿を映していたのだと気がついて、 嬉しゅうございました」
私は思わず「素晴らしい、素晴らしい」と拍手してから言ったのであった。
「困った時に、神を想い、神を呼ぶ、それが信仰の生活ですよ。 形の世界は、結果の世界。原因は、目に見えない霊の世界にあるのです。 原因の世界に心を向けて、
『守られております。善くなる外ない世界です。ありがとうございます』と唱えるのです。
あなたの心境は、すばらしい勢いで進んでいます。 善い言葉を活用する精進を一層はげんで下さい」
八橋さんは、つづけてこんなことも言われた。
「私の家には、何にもないのですが、一つだけ、それこそ豊かにたまるものがあるのです」
「それは、一体何ですか?」
「コヤシ(糞便)なんです。子供が多いものですから、小さな肥壺が、すぐ一杯になるのです。 先日も、ヒョイと下を見ると、すっかり一杯になっていたのです。 思わず『アレー、困った、もう一杯だ。
これが春3月頃なら、お百姓さんも喜んで取って下さるかも知れないが、 この寒中ではどうしようもない』と、ちょっとぼやいたのです。 ぼやきながらヒョイと気がついて、神様におわびしました。
『神様、お許し下さい。わるい言葉をつかいました。 この世の中は、神様のおつくりになっている世界、悪いことの絶対ない世界、 私達がわるい言葉で悪い姿を呼ばない限り、困ることのあるはずのない世界、 と教えられておりますのに、悪い言葉を使いました。お許し下さい、お許し下さい』と、
お詫びいたしました。
それは朝のことでしたが、夕方近く会社から帰って来ると、どうでしょう! どなたが取って行ってくださったのか、まるで削り取ったように、 きれいになっていたのです。
私は思わず合掌を下へ向けて『ありがとうございました』と、感謝しました。 この肥しを取ってくださったお百姓さんが、今日の私の神さまであった。 天の使いであった、と気づかせてもらいました」
聞いている方が教えられる話ばかりであったが、私も言い足した。
「八橋さん、あなたの真理の悟りは素晴らしいです。 私たちは、神の愛念にとりまかれています。 すべてが、神さまからつかわされた天の使いなのです、
私は生まれて70年、まだ一度も米一粒作ったこともないのに、 毎日お米をいただいています。だから、お米を作って下さったお百姓さんが、 私の天の使いなのです。
もちろん、お魚一匹捕ったことも、衣類のために繭一個作ったこともないのに、 春夏秋冬に適当なものを纒い、貧しくとも屋根の下に住んでいるのです。
私は若い頃に母から 『どんなに貧しい生活をしていても、一日に2千人の人のお世話にはなっているのだよ』 と聞かされたものですが、
真理を知った今日では、世界中の人達のお世話になっているとわかり、 一切の人々は私の生活を幸福に豊かにするために、神さまからつかわされた天の使いだった、 ということに気がつくようになったのです。
真理がわからず、すべてを現象の面からのみ見ていたころには、 衣食住のすべては金によって動いているように思っていたものです。
しかし、考えてみろと、たとえ幾らお金があっても、 ブラジルで栽培する人や輪入業者がいなければ、一杯のコーヒーも飲めない。 一個のリンゴも、作る人がなければ食べられないのです。
一匹のお魚でも、大勢の人の手を経て食膳にのぼり、美味しくいただけるのです。
つまり、すべてのものは、大勢の人を通して具体化された 神さまの愛の外の何ものでもありません。
『天地一切のものと和解せよ。天地一切と和解せよとは、 天地一切に感謝せよとの意味である』と教えられているわけも、 これではっきり理解されるとおもいます」
・・・
《好きこそ上手》
八橋さんの精進は、いつまでもつづいた。
ある曰、私は話のくぎりがついたとき、質問の手が挙がらないので、 また八橋さんに話してもらった。
「私は毎週こちらへ来るたびに、あれも、これも、おたずねしようと思って来るのですが、 その度に平岡先生は、私の問題をふくめて話してくださるので、 いつの間にか質問することがなくなるのです。
今日も息子の学習のことについて、お尋ねしだいと思って来ましたが、 平岡先生がお孫さんの話を引いて
『何ごとでも精神を集中する態度が尊いのだ、 その中で自己を育て、自己をあらわすことだ』とおっしゃって下さったので 『ああ、そうであったか』と、わからせてもらったのです。
実は、私の長男は高校1年生ですが、 学校の主要科目である算数、英語、社会科が余り好きではないのです。 それでいて、世界中の映画俳優達の名前は殆ど記憶しているという状態なのです。 善い子供だけれど、気にかかるのは、このことなのです。
それで、今日は『どうしたら主要科目に力を入れるようになるだろうか』と、 おたずねするつもりだったのです。
ところが、先生のお話をきいているうちに、 『あの子は世界中の映画俳優に興味をもっている。 ひょっとしたら、やがて素晴らしい文芸評論家にでもなるのかも知れない…』 と思えてきて、胸のつかえが、すーっととれてきました。ありがとうございました」
ところで、後日物語であるが、八橋さんの息子さんは2人とも報道人を志した。 特に長男の方は、産経新聞社だかに入社して、文芸欄を担当して活躍していられるときいた。
あの晩のお母さんの悟りが、花開いたのかも知れないと、私も嬉しく思ったものである。
ついでに、その晩に私が孫について話したことを書くことにしよう。
「私の孫は、いま中学校2年です。 小学生時代から、机にしがみついて勉強するというタイプではなかったのです。 それでも、相当な成績をとってくるので、特に勉強しなさいと言ったこともありません。
しかし、孫は小学校時代から、汽車の時刻表を書くことが、とても好きでした。 机の前に坐っていると思うと、いつも汽車の時刻表を書いていたものです。 白い西洋紙に縦横の罫線を引いて、汽車の上り下りの時刻表を克明に書いていました。
小学校1、2年のころは、すぐ近くの富山や東富山の時刻表を書いていましたが、 3、4年ともなると、北陸線や東海道線へ伸び、5、6年生ごろになったら、 日本中の汽車時刻表を作っていました。
ちょっと考えると国鉄発行の『汽車時刻表』があるのだから、 西洋紙に罫線を引くことから始める必要はないと思うのですが、 彼にはそれが楽しくて止められないらしかった。
友達が遊びに来ても、オイそれと立たない。 待たせておいて、時刻表を書き続けていました。 その熱心さがおもしろくて、好きなようにさせておきました。
たまには、この熱意を学校の主要科目に向けてくれたら、と思ったこともありましたが、 何であろうとも、ひとつのことに注意を集中している態度そのものに敬意を表して、 だまっていました。
それが、昨年から中学へ通うようになってポッポッ答えが出てきたのです。 まず、毎日白い西洋紙に罫線を引いていたからでしょうか、 非常にしっかりとした線が書けるようになったらしく、用器画の成績が、ぐっと伸びたのです。
修練とは偉いものだと思いました。
次に、日本中の汽車時刻表を書いていたので、 日本地図に精通して、全国の交通図だけでなく、 各地の主要の都市、産業の分布から歴史的人物のことまでも一目瞭然に覚えこんで、 社会科の成績がグッとあがったというわけです。おもしろいものです。
この孫の遊びが、そのまま勉学であり、勉学の態度だったのです。 それからの私は、子供の水あそびを見ても、泥いじりを見ても、 彼はこの遊びを通じて筋肉を修練し、思考を訓練し、何ものかを学び取っているのだ、 と思うようになったのです」
子供のすることは、何でも勉強というわけである。
・・・
《当り前がありがたい》
八橋さんが、月曜日ではなく、何かの用事で富山へ出た帰りに、 立寄って話していかれたこともある。
「平岡先生、私は愚かなので 神様にお詫びしなければならないことを始終おこすのです。 先日も朝のご飯をいただきながら、3人の女の子達の顔をしげしげと見ながら 『もうちょっと、別續だったら……』と、チラッと思ったのであります。
その日は会社の用事で富山へ行くために、電車に乗りましだ。 小学校4、5年生くらいの男女7、8人の子供が乗り合わせましたが、 それが可哀そうに、聾唖学校の生徒たちだったのです。
手まね足まね、目むき鼻むきして、正視できない光景でした。 私は思わず、朝のおもい上がった気持をおもい出して、 しみじみ神さまにお詫びしたことでした。
そして、夕食の時に5人の子供を見廻して、 『うちにはあんたたち5人の子供がいるけれど、だれ一人も手足の不自由なものもいないし、 目鼻の揃わない者もいないのは、ありがたいことですね』と言ったことでした。
すると、2番目の男の子が、 『お母さん、そんなことは当たり前のことですよ』と言いましたから
『その当たり前が、ありがたいことだと、お母さんは今頃になって、 やっと気がついたんですよ。ただ、もう少し、あんた達に不自由なく 学用品などを買ってあげられたら良いのにと思うのだけれど、 お母さんの甲斐性がなくて……』と言いましたら、
下から2番目の女の子が『だって、お母さん、食べずにいるわけでもないし』 と言ってくれましたので みんなが何となしに、暖かい心でふれ合ったことでした」
八橋さんの体験は、思い出せば限りがないので、一応ここらで切り上げることにするが、 あれからもう10数年も経ち、現在は東京に住んでいられる。
前述の息子さん2人は報道人として、ますます才能を発揮していられるし、 娘さん2人も結婚して、実に幸福な生活を営んでいられるのである。
「ただ善のみ、ただ豊富のみ」の言葉一つを杖とも柱ともして、 経済苦を乗り切った八幡さんの実証談の一部である。
「言葉は神秘なるかな」である。
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《聖句・有難うございます》
全国巡演の途中に、若狭路にはいった時のことである。 ある地方講師さんが、こんな話をされた。
「私の友人に、小浜中学の校長をしている人がいます。 一人息子を、大切に大切に育てていましたが、 その子が20歳近くになって肺結核にかかり、いろいろ手を尽くしたが、 とうとう医者から『あと1ヵ月の生命であるから、あきらめてもらいたい』 と宣告されたのです。
病人は六畳の室に寝ていましたが、もう肩で息をしている。 39度何分の熱で顔は紅潮し、小鼻がピクピクと動いている有様でした。 その姿を見ていると、どう言ってあげたらよいのか、 いろいろ考えて来たことも言葉にはならないのです。
やっと私は気持をおちつけて、
『高志君、生長の家では、どんな重い病気でも、“ありがとうございます“を 一日に一万遍言ったら治るというのです。高志君、言って見る気はないか……』
と言いました。すると、高志君は、
『僕は、そんなことは信じられない』と答えたのです。 まだ20歳にもならぬ戦後の青年に、急にそんなことを納得させることは 無理なことだと思いました。
しかし、その他になす術もないので、 『高志君、言うだけいってみて、治らなくとも、元もとや。少しでも快くなり、 少しでも楽になれば儲けものだから、やるだけやって見たらどうだ』
と一所懸命にすすめました。
ともかく、やって見ようという気持にさせるのに、半日がかりでした。 何しろ仰向きに寝たきりの身体だから、48枚の天井板を算盤代りにして、
『ありがとうございます』を一回唱える毎に、 天井板を一枚ずつ眼で追いながら一通りおわると48回。 そこで 大豆一粒を箱に入れる。
こうして、高志君の『ありがとうございます』が、その日の午後からはじまったのです。 そのうちに眠ったのが何時か、ともかくもグーッと熟睡して、 目が覚めたのは翌朝8時すぎだったのです。
毎晩の不眠症に悩まされていたのですから、嬉しかったに違いない。 『8時までも寝てしまって、今日は一万遍唱えられるだろうか』 と気にするほどの気持になったというのです。
こうして、2日目の『ありがとうございます』を続けているうちに高志君は
『こんなことを言っていたとて、僕はいずれ死ぬのであろう。 いずれ死ぬときまっているものなら、せめて今までいろいろお世話になった人達を おもい出しながら、その人達への感謝のために“ありがとうございます”を唱えましょう』
と考えたのだそうです。
まず思い出したのは、やっぱりお母さんだったというのです。 『お母さん、ありがとうございます。ありがとうございます。 そうだ! お母さんは僕が赤ん坊の頃から、飲むものや着るものをはじめ 細かいところに気をくばって一番手をかけて育ててくださったのだ。
その僕が20歳にもならずに死んでしまおうとしている。 お母さんは、どんなに悲しむことであろう……』と思うと、 たまらなくなって涙が止まらない。
『お母さん、ありがとう、お母さん、ありがとう』と、泣き泣き唱えたというのです。
次には、お父さんのことを考えた。
『僕が生まれた時に、男の子と聞いたら、どんなにお父さんは喜んだことであったろう。 そして、どんなに大切にして、頼りにして僕を育ててくれたことであったろう。 それなのに、僕はこんなに早く、お父さんより先きに死んでしまうのだ。
お父さんは、どんなに悲しむことであろう。 僕が死んでからも、中学校の校長として若い人達の世話をする時、 どんなにか僕を思い出して涙することであろう。
お父さん、すみません、お父さん、ありがとうございます。お父さん、ありがとう……』と、 また泣きながらの感謝を続けたというのです。
それから、あの叔父さんも可愛がって下さった。 『ありがとうございます。ありがとうございます』
この叔母さんにも愛された。『ありがとうございます……』
あの先生にも可愛がられた。この先生にも……あの友だちにも……と、 感謝の中に思い出す人達への『ありがとうございます』で一日が終わったというのです。
そして、その日の夕方に奇蹟が起こったのです。 どんな医薬も注射も利目がなかった1ヵ月以上も続いていた39度何分の高熱が、 その晩に37度何分に下り、明けの日から平熱となり、ついに瀕死の大病が癒えたのです。
高志君は現在24歳、人一倍肥って老いた父母を喜ばせているのであります……」
「ありがとうございます」とは、一体何が有難いのであろうか。
それは実相の完全円満なことが、ありがたいのである。
私は、自分の心が平和でなくなった時、「ありがとうございます」を唱える。 百遍,2百遍も。肉体に不安を感じた時も、唱える。
家族の健康に問題が起こった時も、やっぱり「ありがとうございます」を 百遍、2百遍、3百遍と、心が平静になるまで唱えるのである。
生長の家の真理を知っている人にはもちろん、たとえ少しも知らない人にでも、 唱えるようにすすめる。
この間は、ある田舎のおばさんが、腰がいたむと訴えたので
「腰にお礼が足らぬのや。痛いと言うかわりに、腰さん、ありがとうございます。 腰さん、ありがとう……と、お礼を言いなさい」
と教えたら治ったとお礼に来たこともあった。
まことに「ありがとうございます」は聖句である。
・・・
《自 他 は 一 体》
数年前、私が全国巡講の途中に、福島県を訪ねたときであった。 当時の白鳩会福島県連合会長・古賀智子さんのお宅で、数名の幹部さん達と話し合っていると、 玄関で古賀さんに個人指導を求めている客の声が聞こえてきた。
古賀さんは「今日は来客で暇がないから、別の日に来てほしい」と言っていられだ。 客は「私は足が悪くて、やっと杖をついて来たのだから、是非お願いします」と頼んでいた。
それが、隣室の私の室にまで聞こえたのである。 それで、私は気軽に「入れてあげなさいよ」と口を出して、上がってもらったのである。
見ると、20歳前後の若い娘さんで、片足を投げ出しにして挨拶している。
「その足、曲げなさいよ」
私が思わず言うと、彼女は恨めしそうに答えた。
「曲がりません」
「足の膝は、神様が曲がるように作って下さったんですよ。 手の指、腕の肘、足の関節、みんな素晴らしく、折畳み式に、 神さまが善いようにおつくり下さっているのですよ。 それが曲がらないとなると、何か迷いがあるのですね。
迷いとは何か? ありがたいものを有難いと思えず、嬉しいことを嬉しいと思わない心ですよ」
事情を聞いてみると、両親を早く亡くして、兄夫婦のお世話になっているという。
「父母が亡くなっても、兄夫婦がいて下さって良かったね」
そんなことが良いことかと、納得のゆかない顔つきである。
「あんたを残して早く亡くなったというので父母を恨んでいるんではないの?」
その通りというように、彼女は黙ってうなずくのだった。
「可愛い幼い子供を残して、この世を去らねばならない父母の心というものが、 どんなに切ないものか、思いやったことがありますか。
その父母が霊界に生き通して、今も守っておられればこそ、 こうして道を求める心を起こさせて下さったのですよ。 さあ、お父さん、お母さんに感謝しましょう」
いろいろ説明してから、一緒に感謝の神想観を始めたのである。 彼女は片足を投げ出したままであったが、瞑目合掌した。
「お父さん、ありがとうございます。お父さん、ありがとうございます……。 お母さん、ありがとうございます。お母さん、ありがとうございます……」
彼女のために祈りながら、いつのまにやら私は自分の母を思い出していた。 私の母は、よく働く人であった。 そのために、娘を2人待ちながら、その娘を仕込むということができなかった。
「お前達のノロノロした仕事が見ていられない」と言って、 掃除も洗濯も料理も何も彼も、一人でしてしまった。 それを良いことにして、私などは、何にもしないで、本ばかり読んでいたものである。
そんな母だったから、指の太くなった手は、いつも暖かだった。 そして、時々私の手を握って 「お前の手は、いつも冷たいのう、身体を大事にしなければ……」と 言ってくれたものであった。
母のごりごりするような太い指の上に、私の細くて冷たい手を重ねていると、 何とも言えぬ母のぬくもりが、その手を通して私の全身をつつんでくれるのが 嬉しくて懐しくて、たまらなかった……こんな思い出にふけっているうちに、 私は涙さえ催してきたのであった。
「ワーッ」
突然、大声で泣きだした娘の声に、驚いて目をあけてみると、 娘は両足を曲げて正坐しているのであった。
「先生、膝が曲がりました!」
居あわせた者みな、目をみはったのである。
まことにも自他は一体。いのちは一つ。
私が悟れば、それでよかったのである。
ありがとうございます。
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