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光明掲示板・伝統・第二

 

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「しあわせを見つめて」(平岡初枝先生) (24)
日時:2016年08月14日 (日) 11時10分
名前:伝統

Ⅰ。愛を見つめて

《夫を見つめて》

富山県の白鳩大会(昭和41年10月9日)の席上で
桜庭静夫人は次のような体験談をされた。

「私は平岡先生の書かれた『こどもを見つめて』という本を読んで、
悟らせていただきました。それまでは(子供がいうことをきいてくれないと腹が立ったり、
瘡にさわったり、心配になったりしたものです。

それが、心の向きをかえることにしてからは、どうして勉強する気になれないのだろう、
どうして素直にきく気になれないのだろうと、考え方の方向転換をするようになりました。

いつも電車で学校へ通っていた中学2年生の長男に、
自転車を買ってくれたらそれで通うことにするという約束で、
新しいのを新調させられたのです。

ところが手入れや掃除をしなければならないので、うるさくなったのでしょう。
約束を忘れて、叱っても口説いても、自転車を放ったらかしにしているので、
肝(かん)のたつことばかりでした。

そんな時に『こどもを見つめて』を読んで、
これはもっと行き方を変えねばならぬと気がついたのです。

まず、彼を喜ばせることから始めようと心をきめ、
翌朝それまでしたことのない彼の靴を磨いて揃えておきました。
ところが、それだけのことが、どんなにかうれしかったのでしょう。

『お母さん、靴ありがとう』

と朗らかに出て行きましたが、
あくる曰からは気持よく自転車で登校するようになりました。

それ以来、すべての問題をまず相手をよろこばすことを中心に考えるようになりました。
それにつけても、次には『夫を見つめて』という本を
書いていただけたら有難いと思うのです。どうぞよろしく」

桜庭さんの話を聞いて、私はおかしくなった。
子供を見つめても、夫を見つめても、姑を見つめても、嫁を見つめても、
上役を見つめても、つまりはみんな同じことである。

相手に愛と誠意をつくし、相手の喜ぶようにもって行った時、
すべてが解決することは、同じである。

しかし、同じ愛といっても、夫に対する時と、子供に対する時とではおのずから違う。
愛にも位相の違いがあるからである。

それでは、夫をみつめてゆく愛の中心になるものは何であろうか。
それは、何といっても、夫にハイと素直に従っていく愛である。

そこで、夫をみつめて、素直な愛を実行して幸福になった人達の
体験談を思い出してみることにする。

・・・

《ハイの効果表》

森口さんの家は六畳二間の市営住宅であるが、
そこで誌友会が開かれたときのことである。

奥さんが、こんなことを言われた。

「平岡先生、私は物が無いことの素晴らしさを、
今日ほどしみじみと味わったことはありません。
実は、せめて箪笥の一本もあったら便利でもあるし、体裁もよいと思って、
主人に何度ねだったことかしれません。

でも、物を買うことのきらいな主人は、そのたびに

『わしは嫌いだ、物があると室が狭くなる。俺は狭いところは嫌いだ。
伸びのび広びるとしたところで寝起きしたいのだ』と、

てんで相手になってくれませんでした。

買うといっても、お金もないことではありますが、私には何となく物足らんおもい、
さびしい気持だったのです。ところが、今日誌友会をするについてご近所の方達にも
案内を出しましたが、さあ片付けましようといたしますと、
手間ひまかかるものとては何もないのです。

子供の勉強机一つを押入れにいれたら、あとは何にもないのです。
私は思わず両手を挙げて背伸びをして、
『お父さん、ありがとう。お父さんのいうことに間違いなかった』と感謝しました。

実は、私はみ教えにふれて12年になります。
それなのに、主人に『ハイ』がやっぱり出来ていないことを発見しました。
それで、私は去年の秋、平岡先生のお宅をたずねて、

『夫にハイとは、どんなことにでもハイですか。かりに夫が烏の頭は白いね
……と言われても、ハイと言わねばならないのですか』と、おたずねしました。

平岡先生は、

『絶対ハイとは、そんな安っぽい、誠意のないことではないのです。
息子さんの進学の問題でも、どの学校がよいかは、子供の希望もあろうし、
親の考えもあろう。

それらを皆で話しあって、色々の角一度かち研究して、
さて結論はお父さんにきめてもらう。
そして、お父さんのきめて下さったことに一路邁進する。これがハイですよ』と、

おっしゃいました。

私は『ああ、そうだったのか』と、心に落ちつくものを感じました。
そして『よし、これからはハイを実行しよう』と覚悟したのです。
それでも、やっぱり『ハイ』になり切っていない自分を発見しました。


それで、私は『ハイって、中々難しいことですね』と申しましたら、平岡先生は、

『そうですよ。ハイと文字で書けば、二字に過ぎないけれど、
これを実行にうつすとなると、なかなかむつかしい。
自分を捨てねば出来ないのです。

好きだ嫌いだという自分、善だ悪だときめつけたい自分、損じや得だという自分、
これらのすべてを捨て切って、相手の心一つに捧げ切る、
つまり無我の心になり切るのがハイですよ。
これは理屈では出来ない。愛一筋に捧げ切る喜びの中で成就するのがハイですよ』と、

おっしゃいました。

それで、私は三月頃から毎月効果表をつくりました。
即ち、カレンダーに『ハイ』のできた日には○をつけ、
出来なかった日は×をつけることにしたのです。
お陰さまで この頃では○の続く日が多くなりました。お恥ずかしいことです……」 
     
こう言って、嬉しそうにうつ向かれた森口夫人に、私は言った。

「えらい、えらい。箪笥一つ買ってもらえないのを不足に思っていられたあなたが、
今日は『物がないということは、何と素晴らしいことかと解った』と言われた。
そこですよ。あなたの心が、主人にハイになって来られた姿なんですよ。

あなたの心が変わったので、わかったのです。すべての物ごとには、
必ず明るい面と暗い面があるように、善とか悪とかいうのも、
一つの面でしかないのですよ。

物があるということは、便利とか室の体裁とかいう面からみれば、善になる。
しかし、物があれば広々も伸びのびもしないから、その面から見れば悪になる。

ですから、ものごとはすべて明るい面、よろこびの面から見て、
喜びたのしむのが悟りの境地です。

ところが、大抵の人が自分の信ずる一面だけにとらわれて、
そればかりを主張してきめつけるから、ハイが言えなくなる。
これが我が強いというのです。

我の強い人には、喜びが少ないのです。
なぜなら、一方だけが善くて、もう一方の善さを見ることが出来ないからです。
すべての中に善さを見ることのできる人は、いつでも幸福であり、
すべてを喜べる自由人である。

けれども、半分しか喜べない人は、気の毒な不自由人、と言わねばならない。
あなたのハイの修行は、家庭を明るくして、夫の出世の緒を作るだけでなく、
あなたの魂の向上と自由を獲得するための素晴らしい修行だったのです」


こんなことがあってから3ヵ月後に、また森口さんに会った。
森口さんの顔は、見違えるほどに輝いていた。

そして言われた。

「平岡先生、ありがとうございました。おかげで、スラスラと『ハイ』の出る私に
させてもらいました。それだけでなく、何か『ハイ』の神秘といったようなものを
掴ませてもらいました」

「ハイの神秘ですって?」

「先生、そうなんですよ。まず第一に、ハイが言えるようになると同時に、
長らくの私の病院通いの必要がなくなりました。それから、私が心で思うだけで、
まだ言葉にも出さないことを主人がちゃんと実行にうつしてくれるようになったのです。

平岡先生に、この前来ていただいた時、次は7月頃にもう一度来ていただきたい、
と私は心で思ったのです。でも、7月頃ともなれば暑い盛りである。
何か冷たいものを差し上げたいけれど、家には冷蔵庫がない。

主人は物を買うことがきらいだし、お金もないのだから……と、
心で思っただけで言葉には出さないでいたのです。
ところがどうでしょう。

6月の終わり頃、暑いあつい日が続きました。
そんなある日、主人が勤めから帰って来たとき、濡れたお手ふきを差し出すと、
顔から頸のあたりを拭きながら、『暑いのう、冷蔵庫でも買おうか』と言いなさる。

びっくりした私は、『まあ、だってあなた、お金があるじゃなし』と、
いつものロぐせが出たのです。そしたら、『何とかなるよ』と、
聞いたこともない言葉が主人の口から出たのです。

そして、2時間後には、もう電気屋が、冷蔵庫を持って来ました。
間もなく長男が帰って来て『やあ冷蔵庫でないか?』と目をまるくしました。

『お父さんのおかげよ。お父さんに感謝しましょう』と、合掌したことでした。
そして、翌日は思いがけい扇風機が運び込まれたのです。

この時も、私は思わず口ぐせのお金の心配をすると、
『何とかなるさ』と、主人はまた聞いたことのない言葉で受けてくださったのです。

こんなことから始まって、その後も私が心に描いたことは、
主人が行動にあらわしてくださる。
ことの大小にかかわらず、そうなるのです。

これが 『ハイの神秘』と言わないで何でしょうか。
それで、何ごとにもクヨクヨするたちだった私が、
この頃では何も心配にならなくなって、
『まあなんとかなるさ』と軽い気持でいられるようになりました。
『言葉は神なり』ですから、その通りに何とかなるのですから、有難いことです」

夫を見つめて”ハイ“に徹して、幸せになった森口さんのお話である。

・・・

《ハイの花ひらく》

須川雪子さんの体験も、ハイの神秘の実証であった。

「それは今から五、六年も前のことだったとおもいます。
平岡先生のお話を高岡でうかがいました。
話の終わりに、平岡先生はおっしゃいました。

『さあ皆さん、生長の家の話は、たくさん知っているから幸福になる
というわけにはいかないのです。何を実行しているか、いないかが勝負なのです』と。

それで、帰り道に、私は何を実行しようかと考えました。
そして『そうだ。今日きいてきた”夫へのハイ”を実行しましょう』と、
心をきめて帰りました。

ところが、その晩、主人は私に『明日から牛乳の配達をしてくれ』と言ったのです。

私は、びっくりしました。そんなことが出来るだろうかと思いましたが、
主人のいうことは何でもハイと行じましようときめて来たばかりなのです。
仕方がないので、ともかくも『やれるだけは、やりましょう』と答えました。

それからは無我になって、夫にハイを実行しました。
実は、当時の私の家の状態は、とても悲惨なものでした。

主人は人の良い優しい人ですが、勝負ごとがすきなのです。
明けても暮れてもパチンコや麻雀にうつつをぬかして、遂に勤め先も馘になり、
1升の米を買うにも事欠く状態でした。

それで、主人が牛乳配達を引き受けてきたのですが、
その日に聞いたお話が『夫婦の道は夫唱婦随、ハイを行じなさい』だったのです。
私は無我で無条件で、その道を進ませていただきました。

その結果、ともかくも米だけ買える程度の職が私に与えられました。
日通の井波支部の事務員に採用していただいたのです。
あれから数年、私のハイに報いられたものは、尊い素晴らしいものでした。

主人の勝負ごとが、すっかり止んだのです。
一度もパチンコをやめて下さいとか、麻雀をやめてほしいなどと言ったこともないのに、
いつの間にかする気がなくなったというのです。

もう何にも言うことがなくなりました。
仕事は真面目にしますし、家庭のことにも協力して下さるし、
今の私の家は金こそないけれど、物こそ豊かということはないけれど、
全くの天国でございます。浄土でございます」


パチンコや、麻雀、競馬、競輪などの勝負ごとにうつつをぬかす心は、
勝ちたい心のあらわれという。勝ちたい心は負けている心の不満、
すなわち心の底にある欲求不満の具象化したものである。

負けていればこそ、勝ちたいのである。

夫婦生活においては、妻が夫に徹底的にハイを行ずるということは、
徹底的に負けてあげる生活、主人をリーダーとする生活である。
それで、夫の勝ちたいという欲求不満が解消されるわけであるが、それだけではない。

妻が夫にハイを行じてくれることほど、夫にとって魂の喜びはないのである。

妻が自分と一つ心になってくれる以上の喜びは、ないからである。
最高の喜びであるから、酒もマージャンも要らなくなるのである。
己れを捨て切ったときに、妻のうける喜びがハイの功徳なのである。

ハイは妻の犠牲でもなければ、辛抱でもない。
神の道を成就する道行きだったのである。

夫の勝負ごとは、どうしたら止むでしょうか、夫の飲酒や、女遊びは、
どうしたら止むでしょうかと質問する世の奥さんたちに、是非かみしめてほしい話である。

・・・

《一先ずハイで大調和》

40歳近い奥さんと、こんな問答をしたこともある。

「平岡先生、私の家では、姑と夫の意見がどうしても合わないのです。
そんな時、一体私はどちらに従ったらいいのでしょうか」

「これまで、あなたはどのように処理してきましたか」

「夫の方が正しいと思った時は夫に賛成し、
お母さんのおっしゃることが間違いないと思う時には、
お母さんを立てるようにしてきました」

「それでは、うまくいきませんね。
あなたが正しいと思ったり、あなたが間違いないと考えるのは、
あなたの心の中にある標準で割り出した考えだからです。

あなたの心の中にある善悪、あなたの心の中にある好き嫌い、
あなたの心の中にある損得の考えは、あなたの我です。

あなたの心の中にある我で、 相手を審いたら、
姑さんの中にある我、夫の中に働いている我を硬直させることになるのですから、
うまくいくわけはないのです。

つまり、そうした家庭の中のイザコザは、理屈では解決のつけようがないのです」


「では先生、どうすればいいのですか」


「どっちにも、ハイということですね」


「でも、先生、夫と姑の意見が違うのですよ」


「奥さん、わかっていますよ。二人の意見が違っている。
そんな時に『両方へハイと言ったら身が立たん』と、あなたは思っていられるのでしょう。
ところが、真理はそうじゃないのです。双方たててこそ、身が立つのです」


「先生、先日もお天気のよい日曜日に、主人は山へ遊びに行くというし、
母は海が良いと言ったのです。こんな時、具体的にはどうすればいいのですか」


「なるほど、晴れた日曜日には海もよいし、山もいいですね。
かといって、身体を二つに切るわけにはいかない。
双方ヘハイと言ったら、あとの始末をどうするかと、あなたは私に聞きたいのでしよう。

それじゃ、もっと具体的に話をいたしましょう。
朝食後、お座敷へ行ったら、ご主人が『良いお天気だね、山へ行ってこようじゃないか』
とおっしゃったら、あなたは『……ハイ、嬉しいわ』とおっしゃい。

これが、ご主人へのハイの実行です。そして、一巻は終わったのです。

さて、あなたがその足で台所へ行ったとする。
こんどは、姑さんが『良いお天気ね。海へ行ったら』とおっしゃる。
その時も、あなたは『ハイ、海も良いですね』と賛成する。これで一巻の終わりです。

この一巻が終わってから『さっき、主人は山はどうか、と言っていましたけれど』と、
あたらしく話をもちかけるのです。

姑さんの心は、すでに嫁は自分の意見に賛成であることを見届けてあるので、
落ち着いているのです。心にゆとりがあるのです。
すべてのことを伸びのびと迎え入れる心の準備が出来ているのです。

それで『ああ、山もいいね。海は次のおりにしましょう』ということにもなるのです。
要するに気持の問題です。

それを下手に、『お姑さん、海は駄目よ。主人は山へ行きたいといっていられるのだから』
と言ったりすると、口では『ああ、そう』と言ったとしても、お姑さんの心の波は高い。

『嫁は何でも私の言うことをつぶすのだから』と思って、
僻みの種にもなれば、しこりにもなるのです。

何はともあれ、一先ず賛成するのです。
一先ず賛成は、相手の心をやわらげるのです。

夫の場合でも同じことで、女房は自分の意見に賛成だと思っているから、
おだやかに後の話を聞く余裕があるし、楽しいのです。
こうした雰囲気を作れるか、作れないかが問題なのです。やって見て下さい」


こんな問答をしてから2ヵ月目に、その奥さんがお礼にこられた。

「先生、ハイで一巻の終わり。これがやわらかい雰囲気作り、
そして第二巻目でこと成就……という方法を実行するように努力しましたら、
この頃は本当に夫も姑も心がとけあい、よく話し、よく笑う家庭にさせてもらいました。

それだけではありません。
2人の男の子が、上は高校、下は中学校で難しい盛りですが、
コツは同じと悟らせていただきました。

子供達のいうことにも、一先ず賛成という態度を示せる私になってから、
下手な衝突がなくなっただけでなく、いつとはなしにあまり無理も言わなくなって、
本当に楽になりました。有難うございました」

“一先ずハイ”で、姑と嫁の仲が大調和した実話である。


・・・

《いのちは一つ》

私の尊敬する先輩のK先生は、生長の家の婦人講師として、
多くの人達を真理によって指導していられる方である。そ

のために、息子さん夫婦のお家に落ちつかれるのは、
2カ月に一回か3ヵ月に一回は良い方で、半年に2、3日ということもあるらしい。

そういうわけで、初孫の誕生後1年目あまりで訪問された時、
幼い孫が脱腸で苦しんでいるのを見て、

「ああ可哀そうに! 母親が真理を知ったなら、孫の脱腸も治るはず」

と思われたので 『白鳩』誌(生長の家で編集している主婦向教養雑誌)を
お嫁さんの前に出して言われたそうである。

「これを読んでごらん。そしたら、子供の病気も治るはずだから」

そしたら、お嫁さんの返事が、どうであろう。

「おかあさん、そんなことを言わないで下さい。
そんなことを言われると、私はおかあさんを嫌いになるから……脱腸ぐらいは、
少し大きくなってから手術したら、すぐ治るんですもの」

K先生は、その時、いと軽く答えられたそうである。

「ああ、そうだったね。よし、よし」 

そして、その晩就寝前に、瞑目合掌して、しみじみとその日の出来ごとを反省された。

「私は壇の上からは『すべての人と事と物の光明面を見て、暗黒面を見るでない」
と説いている。しかし、今日私の嫁に対して取った態度や言葉は、どうであったろう。

真理を授けて親も子も幸福に、健康にと、祈る心は善意のほかの何ものでも無いけれど、
その持って行き方は、聞く相手にとっては決して嬉しいものではなかった。
相手に対する好意も感謝も認められない。その答えが率直に、はね返ってきたまでである。

さあ、今晩はこの瞑目合掌の中て 嫁と私との間の精神的交流を清めさせて貰いましょう。

『○○さん、有難うございます。ありがとうございます。
あんたは、私のたった一人の可愛い息子の妻、息子の半身として神さまからいただいた
大切な大切な娘です。

あんたがいてくれるので、精神的にも肉体的にも息子の生活に支柱が与えられ、
安心立命しているのです。その上、孫まで与えられたのです。
あんたは妻として、母としてのつとめを果たしてくれている掛け替えのない娘です。

それは、どれだけ感謝しても感謝しても、し切れないもの、
誰をもって代えることもできない、あなた一人だけのできる分野です。
有難うございます、ありがとうございます」


合掌感謝していると、涙があふれてきて、たまらなくなったというのである。
そして、思い出る顔も思い出る顔も、輝いている息子の顔と嫁の顔ばかりで
おもいでる言葉も楽しいものばかり、うれしいものばかり。

そんな時間がおよそ1時間ばかりも続いてから眠りに入って、気持のよい一夜が明けた。
翌朝K先生は晴れ晴れとして、九州方面への巡講に出られたというのである。


そして、K先生は2ヵ月ほど後に、息子さんのお家へ帰ってこられた。
すると、どうであろう。

お孫さんの脱腸が、跡形もなく消えてしまっていたというのである。

驚いたKさんが、お嫁さんに「脱腸はどうした?」と尋ねられると
「あれ、お母さんがあの晩、まじないして行って下さったのでしょう」と言われた。

そこへ息子さんも飛んで来て
「お母さんのまじないで 子供の脱腸が治ったよ。ありがとう」と
大喜びで言われたそうである。

「平岡先生、悟らせてもらいましたよ。
一つ心、これが真理ですね。神意ですね。
地上34億の生命の源は一つと示されてありますね。

夫婦が、親子が、一つ心になれば良いのである。
誰からハイと合わせて行くか。
嫁からでなければならぬ、子供からでなければならぬなどと、
そんな定まりはなかったのですね。

気のついたものから、生活に行じていけば良いことでした。ありがたいことです」

K先生は、合掌して話を結ばれたのであった。

・・・

《一切ハイで自由自在》

私を生長の家の教えに導いてくださった故寺田繁三先生は、
子供が弱いと訴える人には必ず「夫婦仲がよくいっていないだろう。
奥さんはご主人にハイとついて行きなさい」と言われた。

商売がうまく行きませんと訴える人にも、子供の学校の成績がわるいと訴える人にも、
娘の縁談が整わないと訴える人にも、いつも同じ返事をされたものである。

「夫婦仲がうまくいっていないだろう。奥さんはハイと主人について行きなさい。
朝目が覚めたら必ず、ご主人にお早うございますを実行しなさい。

それくちいのことが実行できないで、子供を丈夫にしたい、商売を繁昌させたい、
学校の成績も良くしたい、就職や縁談もうまく運びたい、などと欲張っても、
ちょっと無理だ」

こんなふうに、ハイを強調されたものである。

そして、2回目に行くと「お早うございますを本当に実行しているか」と問いつめられる。
だから、実行しないでは、先生の前に出にくくなるので、ハイを行ずるようになる。

実行していれば、それに添うだけの答えも出るわけである。
全く真理は厳粛です。

考えてみると、ハイの生活ほど、たくましい生活はないと思う。
雨よし、風よし嵐よし。すべてに順応できる生活である。
食事にしても、パンでは困る、メン類ではどうにも、という生活ではない。

夫はお酒がすきでは困る、舅は頑固では嫌だ、という生活ではない。
すべてに順応して、すべてに合わせることのできる生活が、本当のハイの生活であって、
これほど逞しい生活はないと思うのである。

NHKのテレビ。ドラマ『おはなはん』で有名になったドラマの主人公のモデルの方は、
現在83歳とか聞いているが、あのおはなはんの魅力は、
何よりも生活態度の逞しきにあると思うのである。

頑固な舅さんに逢っても、間もなく「良い嫁女だ」と好かれる嫁になる。
最愛の夫を一瞬の嵐に吹きちぎられるように失っても、すぐ決意あらたに立ち直って、
子供達のために生きぬいた素晴らしい順応力は、偉大なるハイの生活である。

これほど逞しい生活が、どこにあろう。
日々に新たに甦って、逞しく美しく生きたいものである。

それは、一切ハイの積みかさねから生まれる生活だと思うのである。


Ⅱ.ことばの神秘 (30)
日時:2016年08月15日 (月) 00時49分
名前:伝統

《大 丈 夫 経》

ある晩、村の若妻会を終えて、家へ帰ったのは、もう10時を過ぎていた。
テレビのスイッチを入れて、始まったばかりのドラマを見た。

戦後20年の母の記録6千3百何十通の応募作品中から第一位に選ばれた
「大丈夫経」という記録映画であった。


話は、ある家の主人が、夕食後にわかの病気で息を引き取るところからはじまった。
医者も間に合わない瞬間的な出来ごとであったが、主人は最後の息が切れるまで
「大丈夫、大丈夫」と言い続けるのである。

だんだん目が見えなくなり、耳も聞こえなくっても「大丈夫、大丈夫」と言いつづける。

もう声にならない最後の最後まで「大丈夫、大丈夫」と唇が動いている。
その大丈夫は、自分は死なないという大丈夫なのか、
それとも自分が死んでもあとは大丈夫という大丈夫なのか一切わからない。

そして、医者がかけつけた時には、もう脈搏は消えていたのである。

未亡人には、男女6人の子供と姑、それに召使いの老夫婦の10人が残された。
資産といっては可なり広い屋敷と家とが残されたが、
他には別に目ぼしいものはなかった。

それからの未亡人には、夫の最後の言葉の「大丈夫、大丈夫」一つをたよりの生活が
始まるのである。

最初に召使いの老夫婦が「奥様、私達二人はもう、御給料も何も要りません、
ただ今まで通りにおそばで仕えさせていただきたいのです」と申し出る。

奥さんは「あんた達は、長い間よく仕えてくれたのに何の御礼も出来なくてつらいけれど、
あとは私達は私達で何とかやって行くから、
あんたたちは、あんたたちの道を切り開いて下さい」という。

「だって私達がいないと、奥さんは御飯も炊けないじゃありませんか。
お掃除も洗濯も出来ないじゃありませんか」といえば、
「大丈夫よ、大丈夫よ。何とかなるのだから」と老夫婦の申し出をことわる。


6人兄弟の一番上が、20歳を越したらしい男の子であるが、
こうした中に、何一つ協力の色もなく、
「お母さん、なんにもない生活をどうするんです。僕は知りませんよ」などという。

それでも、母は「大丈夫よ、大丈夫よ」をくり返すのみ。
しかも、終戦後の物資不足の時である。
お金があっても、お米が手にはいらない。

彼女は親しい知りあいの知恵によって、自分の着物一枚を手ばなすことによって、
彼女から見ると、相当たくさんのお米がはいった。

おどろいた彼女は、箪笥をもう一度あけて見た。
亡くなった御主人の洋服ダンスを開いて見ると、
素晴らしい英国製の洋服がズラリと並んでいる。

彼女は、うれしくなって、「これだけあったら……」と、
子供達に「あんた達、家にはたくさんのお米があるからお腹一杯召しあがれ……」と、
いった具合。

ところが一日分のつもりで炊いたものが、一食でなくなって、
また新しい人生勉強がはじまるわけである。


そのうちに、世話する人があって、薩摩揚でも売ったらということになった。
それで取りあえず門の脇の物置を修理して、商売を始めたのである。

そのうちに顔見知りになった近所のおかみさんが、
「今日は子供の遠足だけれど、何も弁当のオカズがないので、
薩摩揚を3個どうぞかしてほしい」と言ってくる。

「ない時はお互いさま」と気持よく出してやれば「ついでにお米も」と厚かましい。
「では5合ほど」と答えると、
「でも、主人が3日分、3升ほどかりて来いというので……」と、
何のことはない商売しているとは名のみ。

月末になって勘定して見ると、生活費を引けば、仕入れの勘定が払えず、
仕入れの勘定を差し引くと生活費が出ないという有様であった。

「それではいけない、今少し売る品物をふやし、店の設備も大きくしなさい」
とすすめられた。それもそうだと思い直して、箪笥をと開けて見ると驚いた。

一物も残さず、きれいに盗られているのであった。
手を震わして主人の洋服ダンスをあけて見ると、これまたきれいさっぱり
何にもなくなっていたのである。

家族一同が、腰をぬかさんばかりにびっくりしていると、
一人が「そういえば、ゆうべ夜半に何かゴソゴソする音をきいた」と言い出した。

すると奥さんは「まあ、泥棒さんは夜も働くのね……」と感嘆の声を発し、
書物の置いてある室にかけ込み、かんたんな英語の本を取り出して
一所懸命に勉強に取りかかった。

びっくりした家族は、さては生活を支える一物もなくなったので、
気がふれたのではないか……と、うろうろするばかり。

家族のそうした心配を外に、英書と頸っ引きの毎日が始まった。
「お母さん、どうするの」と聞かれても、
相変わらずの「大丈夫よ、大丈夫よ」をくりかえしながら……。

それが、たどたどしい英語でも一所懸命勉強して、
当時大勢入国していたアメリカ人の深切なガイドになるためであると解ったとき、
家族は感激した。

まず、怠け者で、すべてに非協力だった息子が、
「お母さん、僕は何をしたらいいのでしょう」といってくれた。

「あんたは建築をやりなさい。今、日本には家を失った人がたくさんあります。
少しでもその人達の足しになるように建築をやりなさい」と言うと
「ハイ、そのようにいたします」と立ち上がってくれた。

つぎには、今迄の生活態度から一歩も出ることの出来なかった長女も
「お母さん、私は何をすればよいのでしょう」と、相談をもちかけてくれた。

「あんたは簿記をやりなさい、
私もあんたもソロバンが下手だったから商売が出来なかった」といえば、
長女も「わかりました。簿記をやります」と素直にきいてくれた。

次女は、それまでも母とともに一つ心で働いてくれたが
、自分からタイプの稽古を志願して一所懸命になり出した。

4番目、5番目は男の子で、2人は新聞配達を始めた。
こうして盗難をきっかけに家族揃って新体制にはいり、一切が立ち直ったのである。

その20年間の記録を書いて応募したのが、
2番目の娘さんで、お母さんとともにテレビにも出演して、

「私の家は、何が来ても、何がおこってもお母さんの『大丈夫よ、大丈夫よ』
に支えられてきたのです。だから私は、お母さんの大丈夫経と名づけているのです」と、

話を結ばれたのであった。

私は、この話から言葉の神秘ということをしみじみ考えさせられたのであった。
これが若しも「大丈夫」でなくて「もう駄目だ、もう駄目だ」であったら、どうでしょうか。
決して、こううまくはいかなかったと思うのである。

・・・

《コトバは創り主》

言葉は、すべてを創り出す。
意識していう言葉はもちろん、たとえ無意識に、あるいは冗談に言ったことばでも、
その悉くが実現の可能性を持っているというから素晴らしいことである。

この未亡人の「大丈夫よ、大丈夫よ」にしても、
最初からそう大した信念的なものではなかったかも知れない。

ただ最愛の夫、この世で一番たよりにしていた人が、
最後の最後まで、残してくれ言葉を自分への贈りものとして、
そう言わずにいられなかったのではないかと思う。

信念は、絶えず言っているうちに強くなる。
言葉は宇宙の創化力、一切を作る力だからである。

神が一切を造りたもうにも
「粘土を用いたまわず、木材をもちい給わず、ただ心をもって作り給う」と
『生命の實相』にも示されており、

「心はすべての創り主……この心展開して言葉となれば一切の現象展開して万物成る」と、
神様の宇宙創造、万物創造の過程についても訓えられているのである。

同じく、われわれの自己運命の創造も、言葉が創り主なのであると教えられている。

そして、すべての人間が一番可愛いのは、自分である。
では、真に自分を愛する道は何か、それは善い言葉を選ぶことである。

いやしくも悪い言葉を使わないことである。

善い言葉と言っても、馬鹿丁寧な遊ばせ言葉を使うということではない。
すべてに明るい、希望にみちた、自他を祝福する言葉を使うことが大切なのである。

そして「もう駄目だ」「自分には、そんなことは出来ない」などと
自己を限定する言葉や、「寒い風に会うと風邪を引く」とか
「たくさん食べるとお腹が痛む」などと病気を予想する言葉を使わないことである。

なぜなら、私たちが心で思うこと、言葉にあらわしたことは、
宇宙の創化力を動員して、その心の傾向、その言葉の方向へと創作を始める。
これが真理だというのであるから愉快である。

男の子ばかり6人もいるので「男の子ばっかりで大へんだろう」とか
「義務教育だけでも、6人では大へんだろう」と知人に言われると

「男ばっかり6人、たのしいよ。
一人は学者、一人は実業家、一人は飛行機のパイロットに育てようかと思ってね。
アッハッハ……」と朗らかに笑いとばしていた人があった。

それが、もう息子たちの3人は大学を卒業して、
長男は高校の英語の先生、二番目は国鉄職員、三番目はサラリーマン。

明るい朗らかなお父さんの子として、助け合い励まし合って育っているが、
たしかに幸運も、悪運も言葉が種だということがわかるのである。

・・・

《おかあさん大好き》

富山市西田地方婦人会の主催で 夜の8時頃から、
家庭の調和について話をしたことがあった。
話を終えたのがちょうど10時。

「さあ今曰はこれだけにしておきましょう」

と言葉を結ぶと、20歳過ぎと思われる娘さんが立ち上がった。

「平岡先生、質問させてください」

「では簡単に!」

「先生、私のお母さんは、まま母です。家へ来てからもう5年になりますが、
私はこのお母さんと仲よくなれないのです。
それで、どうしたら仲よくなれるか、それを教えてほしいのです」

「わーっ」

みんな笑ったが、娘さんの表情は真剣であった。
もう遅かったので 私は簡単に話した。

「お母さんと仲よくしたいのなら、私の言う通りに実行しなさい。
明日の朝眼がきめたら、寝床の上で姿勢正しく背筋をまつすぐにして坐り、
瞑目合掌するのです。

そして、お母さんのニコニコ顔を瞑目の中に描くのです。
それから『お母さん、ありがとうございます。ありがとうございます』と
5分間ぐらい続けるのです。

何もありがたいことは思い出せないかもしれない。
しかし、そんなことはどうでも良いのです。

ただ、お母さんの顔を描いて『お母さん、ありがとうどざいます』と
感謝の言葉を続けるのです。

それから次には『お母さん、大好き、大好き。お母さん、大すき大すき』と、
しがみつきたい心を起こすように唱えるのです。
10分ほど続けていると、必ずお母さんと仲よしになれるから、やりなさい。
これで終わり」

一同は、また「わーっ」 と声を挙げて笑った。

寒い11月頃だったと思うが、翌々日の晩、再び娘さんの来訪を受けた。

「先生、ありがとうございました。先生の言われた通りにしたら、
お母さんと仲よくなることができたので、今日はお礼に来ました」

というので、こっちがびっくりしたのであった。

「先生、10分間って、長いですね。先生に教えられたように
『お母さん、ありがとうございます』を始めたのですが、初めはちっともありがたくない。
面憎い気さえするのです。

でもこれではいけないと、思いなおして『ありがとうございます』をつづけました。
『大好き、大すき』も、『大きらい、大きらい』と言いたくなったのですが、
これもいけないと思って『大好き、大好き』にかえました。

それでも、終わり頃には大分おちついて『大好き、大好き』の気持になることができました。
でも10分がこんなに長いものとは知りませんでした。
お祈りが終わってから室を出ると、廊下でお母さんに会いました。

今の今まで『お母さん大好き、大好き』と言っていたので、思わずニッコリ笑いました。

すると、お母さんもニッコリと笑いました。
そしたら、何だか嬉しくなってきました。

こんなわけで、昨夜は夕食のあとかたづけをした後で、
炬燵にはいってお母さんと話しあいました。

私の家は、お父さんと3人家族なのですが、
お父さんは九州の方へ売薬に行っていられるのでいつもは母と2人きりなのです。

2人しかいないのに気が合わないのですから、お互いにつらいのです。
それで、あの晩お母さんに言いました。

『お母さん、今晩は、親だ子だという気持を捨てて、
ただ一人の女と一人の女という気持で、お互いの悩みを打ち明けましょう』
と話し出したのです。

夜半の2時まで話しあっているうちに、お母さんの悩みもわかりました。

九州にいるお父さんに、好い人が出来たというのです。
その人が妊娠中だというのです。
ところが、お母さんは家へ来て5年になるのに、子供がいない。
その新しい女性に父をとられはしないか、というのが母の悩みだったのです。

私は、お母さんの手を取って言いました。
『お母さん、安心して下さい。私は絶対、お母さんの味方です。
どんなことがあっても、お母さんを不幸にするようなことはしませんから』と、
約束したのです。
有難うございました。先生の言われたように、お母さんと仲よくなりました!」

まことに、はっきりした法則通りの話であった。

信じて行なえば、このように答えが出るのである。
お母さん大好き、大好きといっていたら、
お母さんの顔を見て自然にニッコリと笑いたくなった。

宇宙の法則が、働いたのである。
好きになるための努力というよりも、言葉のもつ神秘な働きである。

言葉の神秘、その創化力を知って、これを善用するものは幸いなるかなである。

・・・

《お姑さん大好き》

私が全国白鳩会の副会長という立場で、全国を廻っていた頃のことである。
熊本へついたのが、朝の10時ごろで、白鳩会の幹部達に迎えられて、
幹部会を開いた時のことである。

会をとじたのが午後の4時近くだったと思うが、
私のすぐ隣りにいた幹部二人のひそひそ話が、耳にとまった。

一人は中年で、もう一人はまだ20代の若い婦人であった。
その若い方が、年かさな婦人にしがみつくようにして、何か訴えていられる。

おせっかい屋の私は、思わず、言葉をはさんだ。

「どうした、どうしたんですか?」

「先生、この方には、今年70歳になられる姑さんがあるのです。手
足のあっちこっちに、神経痛もあるので、そのせいもあるのでしょうが、
ご機嫌を取るのが難しいと、いつもこの奥さんが、言っていられるのです。

今日も、お家を出してもらうとき、『2時までには帰って来ます』と言って
出てきたのに、話がはずんで楽しかったので、思わず終いまでいてしまったので、
今家へ帰ると、どんなに叱られるであろうと気が気でないと言われるのです」

年かさの婦人の説明をきいて、私は次のように言ったのである。

「奥さん、あなたは、『家のお姑さんは気難しい、気難しい』ときめていられる。
お姑さんを思い出す度に『気難しい姑で、なかなか機嫌を取りにくい』ときめていられる。
それは想いと言葉の力で、お姑さんの気難しさを造っていられることなのですよ。

まあ理屈は別として、今日は一つ体験を出して見るのです。
人間は善いにつけ悪いにつけ、思いつめている時は体験が出るものです。
ところで、これからあなたは家へ帰るのに時間はどれほどかかりますか?」

「15分です」

「15分? それは素晴らしい。ちょうどいい。
アメリカのマーフィーという学者は『信仰の魔術』という本を書いて、
治療や運命の改善に大きな効果を挙げていますが、

そのなかに、失明の宣告を受けた少年に『君はまず父親にもっと感謝すること。
次に毎日朝晩の15分間を合掌して、医者が“奇蹟だ、失明はまぬがれたぞ“と
驚きの叫びを挙げている姿を描きなさい』とすすめて、
少年が描いた通りの結果をおさめたという例を書いているのです。

15分、ともかく、15分あるのは素晴らしい。

体験が出ますよ。
本当は、あなたとお姑さんとは仲がよいのですよ。
それが神の造り給える実相の世界の親と子の姿です。

あらわれはどうあろうと、真相は仲のよい親子なのです。
お姑さんからは、あんたは可愛い息子の嫁です。

あなたにとって、お姑さんは、この世で一番頼りにしている夫を
生んで下さったんですもの、仲がよいにきまっているのです。
たとえ継父、継母の間でも、神のきめて下さった親子です。

生長の家の信仰をもっていられるあなたには、既にわかっているはずです。

そこで、これからの帰り途の15分間、おかあさんのニコニコ顔を描きながら、
感情をこめて『お姑さん、ありがとうございます。お姑さんは素晴らしい神の子さん、
やさしくて深切で思いやりのある方、おかあさん大好き、大好き』と、
抱きつきたいような思いをこめながら、お帰りなさい。真剣に感情をこめてですよ」

こう言って、おくり出したのであった。

ところが、それから20日ほどしたら、
その夫人から次のような感謝の手紙を受けとったのである。

「平岡先生、あの日は寒い寒い日でございました。
私は襟巻に、首をすくめて帰りましたが、先生からおしえられた通りに
一所懸命、唱えました。

後で考えてみると、あの15分間は.寒いと思っただけ。
道で誰かにあったか、会わなかったかも覚えがないのです。

『お姑さん大好き、大好き』と言っていたら、
今まで粗末に思っていたことが申しわけなくて、すまない済まない気持になったのです。

そして、それまで尊敬していたつもりでしたが、よくよく考えてみると、
体裁よく敬遠していたにすぎなかった。お姑さんも淋しかったに違いない。
すみません、すみませんという思いで、家の前まで来ました。

でも、家の前まで来ると、やっぱりドキンとしました。
ちょっと立ちどまって、ためらいましたが勇気を出して戸を開けると、
そこにお姑さんが立っていられたのです。

『おそくなりまして……』と恐る恐る申しますと
『ああ、良いよ、いいよ』と言ってくださるではありませんか。

思わず玄関の畳に両手をついて、もう一度
『おばあちゃん、本当に遅くなって申しわけありません』と謝ってから、
おばあちゃんの顔をみつめました。

おばあちゃんは、やわらかい眼ざしで、
『ああいいとも、よいお話をきいて来たんじゃろうもの……』と言って下さったのです。

私は嬉しくて涙が出ました。
考えてみると、わけへだてしていたのは、私の心だったのです」


言葉とは、こんなにも神秘な創化力をもっているものなのである。
親子の仲をへだてているのも、夫婦の間を粗末にしているのも、
この言葉の神秘を体得していないからなのである。

まことにも、言葉は宇宙の創り主なのである。

・・・

《ただ善のみ・ただ豊富のみ》

私が故郷の富山市で、毎週月曜日の午後七時から九時まで月曜会という集まりを
していた頃のことである。

昭和25年、12月の第二月曜の晩だったと覚えている。
一通りの話が終わったところで、私が「質問はありませんか」と尋ねると、
40歳ばかりの、にこやかな顔をした奥さんが立たれた。

「平岡先生、生長の家の話をきいたら、経済問題も救われるのでしょうか」

「経済問題? 当たり前ですよ。生長の家は宇宙の真理を探求しているのです。
無限供給の源泉はどこにあるかをおしえているのです。
そして、その無限供給の源泉と手をつなぐことを教えているのですから、
経済問題の解決などわけないことですよ」

「私は、子供を5人かかえている未亡人です。
どんなに働いても働いても、子供達を養うことができません」

「奥さん、子供を養い育てるのは、神様のお仕事なのですから、安心して下さい。
私たちがこの世に生を受けたということは、神様の御計画によるのです。
したがって神様が責任者なのです。

神様が、私たち一人一人の中に働いて、
私たちを生かし、育て、守っていてくださるのです。
まず、このことがわからねばなりません。

今あなたは、5人の子供をかかえた未亡人で、
なかなか養い育てることができないと言われた。

あなた一人の女手で、その働いたものを6つに分けて生きるということになるのだから、
なかなかでしょう。

でも、神様は一人一人の中に生きる力を与えて、日光や空気を初め、
すべてのものを与えてくださっているのです。

その上、素晴らしい生きる力を与えてくださっていればこそ、
今朝食べた白いご飯が、明日の今頃ともなれば、赤い血になり、黒い毛にもなるのです。
夜眠っている間も、身体の一切の器官が絶え間なく働いているのです。

つまり、神の生命が働いているのです。
これらの恵みに対して、感謝したことがありますか。
喜びの叫びを挙げたことがありますか。

あなたの肉体、あなたの子供たちの身体を守り育てていられるのが神様です。
あなたの子供たちの衣食住に必要なすべてを与えるために、
思いを凝らしていられるのは、あなただけではないのです。

そのすべてについて、心配して下さっているのが神様です。
しかも、神さまは豊かに豊かに与えたいのです。

われわれはみんな可愛い可愛い神様の一人子なのです。
母が子を愛する如く、神の愛がわれわれに注がれているのです。
真理の探求は、まずここに気のつくことから始まるのです。

そこにめざめたら、まず『神様、ありがとうございます。ありがとうございます』
を言わずにいられなくなるはずです。わかりますか。

神の生命が私たちの中に働き、生かし育てまもっていられるのです。
しかも、豊かに豊かに与えていられるのです。

では、その豊かに豊かに与えていられるはずの供給が、どこでどう妨げられて、
現象の私達の手に入らないのか、と不思議にお思いになるでしょう。そ

うです。それを妨げているものは、私達のおもいです。言葉です。

ところで、あなたは貧乏がきらいなのでしょう? 
もし、そうだったら、今日以後は『私は貧乏で』という言葉は絶対に使わないこと、
口がくさっても言わないことにするのです。

『私は貧乏』と一度言えば、貧乏の棒が一周りずつ太くなるのですから、こわいですよ。
反対に、豊かなこと、素晴らしいことを口ずさむのです。

今日以後は、口の休んでいる限り、

“ただ善のみ
ただ豊富のみ“

という言葉を口ずさんで下さい。

これは、谷口雅春先生がお示しくださった言葉なのです。
『この世は、神の善意にみちている世界であって、貧乏や病気や不幸は、
自分の迷い心で作らない限り、絶対にあり得ないのが真理である』と教えられているのです。

“ただ善のみ、これが実在。
ただ豊富のみ、これが実相である“

と示されているのです。

『ただ善のみ、ただ豊富のみ』この言葉を絶えず、口ずさむのです。
あなたの運命は、急激に、あるいは徐々に、必ず好転するのですから。

神の無限供給の口をとざす壁は、暗い心ですから、くれぐれも暗い言葉を使ったり、
暗い気持を起こしてはいけないのです」

第二月曜の晩の話は、これで終わった。彼女の名は八橋さんである。

・・・

《言葉は生きていた》

第三月曜日の夜も、ニコニコ顔で一人って来た八橋さんは、次のように報告されたのである。

「平岡先生、ありがとうございます。私は東岩瀬に住んでおります。
実は、あの夜の私の財布には往復のバス代30円があっただけ、
しがみつくような思いで来ただけに、帰りのバスの中で それこそ一所懸命に
『ただ善のみ、 ただ豊富のみ』を口ずさみました。

あくる朝、仕事に往く時も寸暇もなく『ただ善のみ、ただ豊富のみ』を続けました。

先夜は申し上げませんでしたが、
これまで何をしても……豆腐や油揚のようなものを売ってみても、
お菓子類を持ち歩いてみても、どうしてもお金が足りなかったのです。

それで、この頃は思い切って屋外の重労働(士方)をやっているのです。
往きも戻りも一所懸命『ただ善のみ、ただ豊富のみ』を口ずさんでいましたが、
帰りの途中に思い出したら、今日は米櫃にお米が一粒もないのです。

5人の子供はどうしているだろうと思ったら、
暗い暗い、泣き出したい気持になったのです。

しかし、『その時、先生の『暗い気持、暗い言葉が、
神の無限供給の入り口をふさぐ壁になるのですよ』というお言葉を思い出したのです。

『これはいけない』と、大急ぎで『ただ善のみ、ただ豊富のみ』と言いましたが、
思わず大声になったので、誰かに聞かれなかったかしら、恥ずかしいと、
うしろを見廻したことでした。

こんなわけで一所懸命『ただ善のみ、ただ豊富のみ』を叫びながらも、
『こんなことを言っていたとて、今夜の米のないのが、どうなることでもなかろうに……』
と、また暗い気持になるのでした。

『いっそ、5人の子供を平岡先生のお宅へ連れていって、責任をもって貰おうかしら』
などという気持にさえなるのでした。家の前まで来ると、久しぶりの弟が、
今帰ろうとしているところでした。

私の顔を見ると『姉さん、お帰り。僕さっきから待っていたが、
姉さんが帰らないので、帰りかけていたところだ』と言って、
私にとっては相当のお金を『姉さん、使って下さい』と置いていってくれたのです。

私は思わず、押しいただいて、弟の先に神さまと平岡先生にお礼を言ったことでした。

『神さま、あなたの無限供給を流れ入らせていただきまして、ありがとうございました。
平岡先生、神さまの無限供給の流れ入る鍵をおさずけ下さいまして、
ありがとうございました』と合掌したことでした。

そして、それからお米を買って来て、炊いて食べきせたり、食べたり、
神さまは私達6人を飢えさせはなさらなかったのでございます」


「よかったね。あなたがこれによって
神さまは、飢えさせはなさらないということがわかったのは素晴らしい。
信仰生活の喜びは、そこにあるのです。

『神、つねにまもり給う。神、つねに生かし給う。貧乏はない。病気はない。
ただ善のみ、ただ豊富のみ』を信じ切って、はじめて
安心立命の世界を我がものとできるのです」


「先生、まだ嬉しいことがありました。親戚のものから餅米を2斗ばかり頂きました。
その外にも嬉しいことがありましたが、ともかくも今日は、雨が降っても槍がふっても、
このことを報告させて頂こうと思って、勇んで来ました」


「もう一つの嬉しいことも、披露しなさい」

八橋さんは顔を赤らめて話し出した。

「実は、私は生活保護を受けていますが、どうにも生活が苦しいので、
いま少し増してもらいたいと何度も何度もお願いするのですが、
聞き入れてもらえなかったのです。

それでもうお願いするのをあきらめて放っておきました。
そしたら、今度はお役所の方から『少ないけれど』と、殖やしていただいたのです。
嬉しゅうございました」

「すばらしいね、神の供給源のねじをあけておかなければ与えられないのです。
ますます明るい心、よい言葉で、あなたの運命を好転させて下さい」

一座の人達もみな感激して、悦び合ったのであった。

・・・

《サンタ・クロースがきた》

八橋さんは、つぎの月曜日も、明るい顔をして来てくれたので、私は催促した。

「さあ、その後の報告をしてくださいよ」

「ハイ、私の家では、弟が置いていった3千円も焼石に水で、すぐ消えて行きました。
子供達に学用品を買ってやったり、配給品をとって来たり、
ご近所で用立ててもらってあったものをお返ししたりしていると、
3日目には無くなったのです。

それまでの私だったら、そんな時には箪笥の引出しや押入れを開けて見て、
何か売るものか質に入れるものはないだろうか、などと考えたのですが、
この頃はそうは思わなくなりました」


「ホウ、どんなふうに思うのですか」

「今度は神様は、どこからどんなふうにして廻して下さるのかしら? と、
何か明るい、期待するような気持にさえなるのですよ……ホホホ……」


「そこですよ。そんなに明るい気持はどこから出ると思いますか。
それは、あなたが『ただ善のみ、ただ豊富のみ』と、一所懸命に言っている言葉の神秘が、
もたらしたのですよ。

言葉の力とわかれば、これまでの貧乏は、心配顔や憂欝な暗い心のためだった
こともわかるでしょう?」


「先生、昨日はクリスマスでした。朝、目をきますと、娘の一人が
『お母さん、今日はクリスマスだけれど、お母さんは何にも買ってくれない』と言うのです。

それで私も『本当やね。買ってあげたいものが沢山あるのだけれど、
お母さんは甲斐性がないので……』と言った途端に
『また、暗い言葉を出した。いけない、いけない。ただ善のみ、ただ豊富のみ』と、
一所懸命唱えたことでした。

ところが今日は、珍しく私の家へ葉書が一枚来たのです。
私の家に手紙や葉書の来ることはめったにないのです。
たまにくると、すぐ『どこの借金の催促だろう』と思うくらいだったのですが、
今日はそうではなかったのです。

実は、今年の夏、新聞に市内のある本屋さんの事務員募集の広告が出ていたのです。
私も応募したのですが、算盤ができないので採用にはならなかったのです。

その時に、生活事情をきいて下さったご主人が
『何かの時には、また力にならせてもらうから』と、励ましの言葉を与えてくださっていた、
その本屋の奥様からくださったものでした。

その葉書には『クリスマスになったから、子供達にお祝いの雑誌などあげたいから、
富山へ出たら寄って下さい』と書いてあったのです。
それで、こんなにたくさんのご本をいただいて来ましたの。

私は子供達に、こうしたものを買って与えたことがないので、
どんなに喜ぶことであろうと嬉しくてなりません。

その上に、金一封ののし包みまで下さったのですが、
そのとき奥様のお友達が一人来ていらっしゃいましたが、
奥様から私の事情をおききになって、その方も金一封を下さったのです。
私ばっかり本当にすみません」

30冊近い雑誌類の入った風呂敷づつみをもち上げて見せたり、
二つの金包みを洋服のポケットから取り出して、
無邪気にみんなに見せたりされたのである。


「それから先生、私は或る方に、まとまった借金があるのです。
先日、弟からもらったお金を使いはたして何もなくなった時、その方がいらしたのです。
私は穴へでも入りたい気持で近所へ飛んで行き、少しばかりのものをおかりして来て、

その方の前に並べまして『申しわけありませんが、これだけお納めいただきますように』と、
頭を畳におしつけると、その方が怒ったような顔をして、

『あんた、それは今借りて来たのでしょう。借りてきた金を私はとって行けるものか』と、
言いなさったのです。

それで、私は思わず押入れから蒲団を引き出して、
『借りてきたお金でいけなかったら、せめてこれでも』と言いましたら、
いっそう怒った顔をして、

『それは、毎晩あんたの着ている蒲団でしょう。この冬空に、
あんたの着ているものを持って行けるものですか。
よろしい。あんたに返せる力が出るまで 待ってあげるから安心していなさい』と、
却って力づつけるようにおっしゃって下さったので、私は涙が出てとまりませんでした。

でも、そんなことを言っている間にも、5人もいる子供が、部屋に入って来るやら、
出るやらしていたのです。それを見ておられたのでしょうね。
一度は出て行かれたその方が、またもどって来られました。

そして、『これを子供さんにやってくれ』と置いて行ってくださったのは、
1個10か15円もするようなお菓子が10個も入った包みでした」


「何と、世間では借りた方が利息を払うのが常識なのに、
あんたの場合は貸した方が、利息を払って行ったというわけですね。
着て寝ている蒲団でも渡そうという位の感謝の気持になった時、
そうしたことも出て来るのですね」


「それから、こんなこともありました。
私が2、3年前、ある方にお金を5千円融通したのです。
ほんの一ヵ月というので、その時手元にあったものをお貸ししたのです。
それが一ヵ月はおろか半年たっても、一年だっても返してもらえないのです。

食うや食わずの生活をしている私です。
ある時は、貸した私が、畳に手をつかんばかりにして、お願いもしましたが駄目でした。
ところが、平岡先生のお話をきいているうちに、私の心がかわったのです。

『そうだ、心は一つづきなのだ。あなたの心も私の心も、切れ目のない空気と一緒、
私の心の中に、どうでも取ってやらねばと、むさぼる気持があるからなのだ。
この気持が相手にひびいて、めったに返してやるものか、
ということになっているに違いない』と気がついたのです。

人間はみんな、 誰でも借りたものは返して楽になりたい、明るい心になりたいのに、
それを返す気持を起こさせるようにしてあげていないのは、私の貧しい心であった、
暗い心であった、と気づかせていただいたのです。

それから、こんなことも思わせてもらいました。
『そうだ、私は今まで、あの方に、お金を貸している、貸している、と思っていたけれど、
ヒョッとしたら、前世とかで、私があの方に借りていたのかも知れない』と、
こう思うようになったのです。

そして『そうだとすれば、もう返してもらう必要もないはず。
それよりは、長らく貸していただいていたことを感謝すべきだったなぁ』と、
心が軽くなってしまったのです。

そしたら、どうでしょう。
私の方から何にも言わないのに、一昨日その方が来られて、
2千円のお金を出して『すみませんでした。月の終わりまでには、
あとの3千円はかえすから』とおっしゃったのです。

この前の晩にお話しいただいた『肉体も境遇も、わが心のかげ』という真理を、
身をもって体験させていただきました。

本当に、私の心一つだったんですね。神さまからの無限供給の通路も、
隣人との通路も、私自身の心をととのえることだけで開けるのですね。

これからも『ただ善のみ、ただ豊富のみ』を一所懸命に精進させていただきます」

その年最後の月曜会は、こうした八橋さんの感動的なお話で幕を閉じたのであった。

・・・

《感 謝 の お 餅》

新年初の月曜会は、1月8日であった。
その夜は、八橋さんも正月らしく、羽織の一枚も整えて来られだが、
小学校6年生と4年生に1年生の3人の娘さんも一緒であった。

兎の毛皮の襟をつけた暖かそうな紺のオーバーを着て3人とも豊かそうに、
フックラとした感じでニコニコ顔であった。

3人の娘の上に、高校1年生の長男と中学2年生の次男がいる、と聞いた。
ご主人は、富山第三十五師団の連隊長の副官をつとめていられたそうであるが、
今度の戦争で戦死されたという。

終戦後の混乱に加えて、奥さんの実家の没落が重なって、見てくれるものもなくなり、
5人の子供をかかえて苦闘していられる姿だったのである。

道理で人品もよく、食うや食わずの中からも、息子だけでも高校へ入れたいと、
頑張っていられたわけである。そして、

「平岡先生、ありがとうございます。先生のおっしゃって下さることは、
全部実現するので 今日は3人の子供たちにも、何か一言おっしゃっていただきたいと思って、
つれて来ました」

こう言いながら八橋さんは鏡餅を一重ねと菓子箱を一箱、お礼にと出された。

「こんな心配は、要らないのですよ」

「このお餅は、息子がついて、私が丸めたものです。
家でお餅をつくなんてことは、何年振りのことか覚えがありません」

「私の言うことは何でも実現するって、どんなことですか」

「先生に『私は今、屋外の重労働をしています』と言った時、
先生は、『あなたに最も適したお仕事が必ず与えられますよ』とおっしゃって下さいましたが、
こんど○○物産会社の事務員として採用していただき、
今月の4日から勤めさせていただいております。

今晩も、昼のおつとめを終えて出かけて来たところです」

身体中で喜びを表現して、嬉しそうであった。
私は、3人の子供達には、人間は神の子であることを説き、
神さまは、つきっきりでみんなを守っていられる、と話した。

そして 毎朝毎晩、合掌して、

“神様、ありがとうございます。
御先祖様、ありがとうございます。
お父さん、お母さん、ありがとうございます。
私は神の子、よい子です、ありがとうございます”

と唱えることを教えたのである。

そして、いただいたお餅は、わが家の餅と一緒に神棚に供えた。
毎日、合掌しては八橋家の幸福を祈ったが、何日たっても食べる気にはなれないのであった。

私の娘などは「このお餅をあられのように細かく切って、
皆さんに食べていただきましょうか」などと言ったものである。

・・・

《み ん な 天 使》

5回目の月曜会には、八橋さんはこんなことを言われた。

「私の家には、まだまだお金のたりないことが始終あるのですが
『ただ善のみ、ただ豊富のみ』を唱えておりますと、
何かしら心の底に明るいもの、暖かいものを感じて『何とかして貰える』
という気持にさせて貰えるのです。

そして、そんなふうに思っていると、そのような結果になるのですね。
先生のおっしゃる〃言葉の神秘”ということが、しみじみと感じさせられるのです。

先日も、こんなことがありました。
私は、どうにもつらくなると、市役所へ生活保護費をお願いに行くのです。
でも、月の15日前には、どうしても出してもらえないのです。
『15日がすんでから来てください』と、つっけんどんに突っ放されるのです。

この1月にも、お金が足りなかったのです。

でも、まだ10日を過ぎたばかりでした。
『神様は、どうして下さるのかしら』と思っても、どうにもならないのです。
ところが、11日に会社へ行くと、市役所に用事に行ってくるようにと言われました。

用事をすました時、ふと思いつきました。

こうして私が毎月お金の補助をいただけるのも
主人の戦死という犠牲があったればこそのこと。

考えてみれば、主人こそお国のために働いたが
、私はお国に対しては何の働きもしていない。
それなのに、こうして毎月、お世話を受けていて申しわけない。
ありがたいことだと、しみじみこみ上げるような感謝の心がわいて来たのです。

それなのに、これまでは感謝どころか、『これ位のお金で食って行けるわけでなし……』と、
不足に思っていたことが、申しわけなくなって来たのです。

それで、せめて係りの女の方達に、お正月の挨拶でも申し上げようと、窓口へ行ったのです。
そして『あけまして、おめでとうございます。いつもお世話になりまして……』と挨拶をして、
その足で帰ろうとしました。

すると係りの方が、

『八橋さん、ついでに今月分を持って行きませんか?』と言われたのです。
私は『この方が私の神さま、天のお使いだった』と気がついたら、
嬉しくて有難くて、涙が出てたまらないのです。

そして、本当に環境はわが心のかげであった、今までは意地悪のように眺めていた
係りの方の姿は自分のあさましい心の姿を映していたのだと気がついて、
嬉しゅうございました」

私は思わず「素晴らしい、素晴らしい」と拍手してから言ったのであった。

「困った時に、神を想い、神を呼ぶ、それが信仰の生活ですよ。
形の世界は、結果の世界。原因は、目に見えない霊の世界にあるのです。
原因の世界に心を向けて、

『守られております。善くなる外ない世界です。ありがとうございます』と唱えるのです。

あなたの心境は、すばらしい勢いで進んでいます。
善い言葉を活用する精進を一層はげんで下さい」


八橋さんは、つづけてこんなことも言われた。

「私の家には、何にもないのですが、一つだけ、それこそ豊かにたまるものがあるのです」

「それは、一体何ですか?」

「コヤシ(糞便)なんです。子供が多いものですから、小さな肥壺が、すぐ一杯になるのです。
先日も、ヒョイと下を見ると、すっかり一杯になっていたのです。
思わず『アレー、困った、もう一杯だ。

これが春3月頃なら、お百姓さんも喜んで取って下さるかも知れないが、
この寒中ではどうしようもない』と、ちょっとぼやいたのです。
ぼやきながらヒョイと気がついて、神様におわびしました。

『神様、お許し下さい。わるい言葉をつかいました。
この世の中は、神様のおつくりになっている世界、悪いことの絶対ない世界、
私達がわるい言葉で悪い姿を呼ばない限り、困ることのあるはずのない世界、
と教えられておりますのに、悪い言葉を使いました。お許し下さい、お許し下さい』と、

お詫びいたしました。

それは朝のことでしたが、夕方近く会社から帰って来ると、どうでしょう! 
どなたが取って行ってくださったのか、まるで削り取ったように、
きれいになっていたのです。

私は思わず合掌を下へ向けて『ありがとうございました』と、感謝しました。
この肥しを取ってくださったお百姓さんが、今日の私の神さまであった。
天の使いであった、と気づかせてもらいました」


聞いている方が教えられる話ばかりであったが、私も言い足した。

「八橋さん、あなたの真理の悟りは素晴らしいです。
私たちは、神の愛念にとりまかれています。
すべてが、神さまからつかわされた天の使いなのです、

私は生まれて70年、まだ一度も米一粒作ったこともないのに、
毎日お米をいただいています。だから、お米を作って下さったお百姓さんが、
私の天の使いなのです。

もちろん、お魚一匹捕ったことも、衣類のために繭一個作ったこともないのに、
春夏秋冬に適当なものを纒い、貧しくとも屋根の下に住んでいるのです。

私は若い頃に母から
『どんなに貧しい生活をしていても、一日に2千人の人のお世話にはなっているのだよ』
と聞かされたものですが、

真理を知った今日では、世界中の人達のお世話になっているとわかり、
一切の人々は私の生活を幸福に豊かにするために、神さまからつかわされた天の使いだった、
ということに気がつくようになったのです。

真理がわからず、すべてを現象の面からのみ見ていたころには、
衣食住のすべては金によって動いているように思っていたものです。

しかし、考えてみろと、たとえ幾らお金があっても、
ブラジルで栽培する人や輪入業者がいなければ、一杯のコーヒーも飲めない。
一個のリンゴも、作る人がなければ食べられないのです。

一匹のお魚でも、大勢の人の手を経て食膳にのぼり、美味しくいただけるのです。

つまり、すべてのものは、大勢の人を通して具体化された
神さまの愛の外の何ものでもありません。

『天地一切のものと和解せよ。天地一切と和解せよとは、
天地一切に感謝せよとの意味である』と教えられているわけも、
これではっきり理解されるとおもいます」

・・・

《好きこそ上手》

八橋さんの精進は、いつまでもつづいた。

ある曰、私は話のくぎりがついたとき、質問の手が挙がらないので、
また八橋さんに話してもらった。

「私は毎週こちらへ来るたびに、あれも、これも、おたずねしようと思って来るのですが、
その度に平岡先生は、私の問題をふくめて話してくださるので、
いつの間にか質問することがなくなるのです。

今日も息子の学習のことについて、お尋ねしだいと思って来ましたが、
平岡先生がお孫さんの話を引いて

『何ごとでも精神を集中する態度が尊いのだ、
その中で自己を育て、自己をあらわすことだ』とおっしゃって下さったので
『ああ、そうであったか』と、わからせてもらったのです。

実は、私の長男は高校1年生ですが、
学校の主要科目である算数、英語、社会科が余り好きではないのです。
それでいて、世界中の映画俳優達の名前は殆ど記憶しているという状態なのです。
善い子供だけれど、気にかかるのは、このことなのです。

それで、今日は『どうしたら主要科目に力を入れるようになるだろうか』と、
おたずねするつもりだったのです。

ところが、先生のお話をきいているうちに、
『あの子は世界中の映画俳優に興味をもっている。
ひょっとしたら、やがて素晴らしい文芸評論家にでもなるのかも知れない…』
と思えてきて、胸のつかえが、すーっととれてきました。ありがとうございました」


ところで、後日物語であるが、八橋さんの息子さんは2人とも報道人を志した。
特に長男の方は、産経新聞社だかに入社して、文芸欄を担当して活躍していられるときいた。

あの晩のお母さんの悟りが、花開いたのかも知れないと、私も嬉しく思ったものである。

ついでに、その晩に私が孫について話したことを書くことにしよう。

「私の孫は、いま中学校2年です。
小学生時代から、机にしがみついて勉強するというタイプではなかったのです。
それでも、相当な成績をとってくるので、特に勉強しなさいと言ったこともありません。

しかし、孫は小学校時代から、汽車の時刻表を書くことが、とても好きでした。
机の前に坐っていると思うと、いつも汽車の時刻表を書いていたものです。
白い西洋紙に縦横の罫線を引いて、汽車の上り下りの時刻表を克明に書いていました。

小学校1、2年のころは、すぐ近くの富山や東富山の時刻表を書いていましたが、
3、4年ともなると、北陸線や東海道線へ伸び、5、6年生ごろになったら、
日本中の汽車時刻表を作っていました。

ちょっと考えると国鉄発行の『汽車時刻表』があるのだから、
西洋紙に罫線を引くことから始める必要はないと思うのですが、
彼にはそれが楽しくて止められないらしかった。

友達が遊びに来ても、オイそれと立たない。
待たせておいて、時刻表を書き続けていました。
その熱心さがおもしろくて、好きなようにさせておきました。

たまには、この熱意を学校の主要科目に向けてくれたら、と思ったこともありましたが、
何であろうとも、ひとつのことに注意を集中している態度そのものに敬意を表して、
だまっていました。

それが、昨年から中学へ通うようになってポッポッ答えが出てきたのです。
まず、毎日白い西洋紙に罫線を引いていたからでしょうか、
非常にしっかりとした線が書けるようになったらしく、用器画の成績が、ぐっと伸びたのです。

修練とは偉いものだと思いました。

次に、日本中の汽車時刻表を書いていたので、
日本地図に精通して、全国の交通図だけでなく、
各地の主要の都市、産業の分布から歴史的人物のことまでも一目瞭然に覚えこんで、
社会科の成績がグッとあがったというわけです。おもしろいものです。

この孫の遊びが、そのまま勉学であり、勉学の態度だったのです。
それからの私は、子供の水あそびを見ても、泥いじりを見ても、
彼はこの遊びを通じて筋肉を修練し、思考を訓練し、何ものかを学び取っているのだ、
と思うようになったのです」

子供のすることは、何でも勉強というわけである。

・・・

《当り前がありがたい》

八橋さんが、月曜日ではなく、何かの用事で富山へ出た帰りに、
立寄って話していかれたこともある。

「平岡先生、私は愚かなので 神様にお詫びしなければならないことを始終おこすのです。
先日も朝のご飯をいただきながら、3人の女の子達の顔をしげしげと見ながら
『もうちょっと、別續だったら……』と、チラッと思ったのであります。

その日は会社の用事で富山へ行くために、電車に乗りましだ。
小学校4、5年生くらいの男女7、8人の子供が乗り合わせましたが、
それが可哀そうに、聾唖学校の生徒たちだったのです。

手まね足まね、目むき鼻むきして、正視できない光景でした。
私は思わず、朝のおもい上がった気持をおもい出して、
しみじみ神さまにお詫びしたことでした。

そして、夕食の時に5人の子供を見廻して、
『うちにはあんたたち5人の子供がいるけれど、だれ一人も手足の不自由なものもいないし、
目鼻の揃わない者もいないのは、ありがたいことですね』と言ったことでした。

すると、2番目の男の子が、
『お母さん、そんなことは当たり前のことですよ』と言いましたから

『その当たり前が、ありがたいことだと、お母さんは今頃になって、
やっと気がついたんですよ。ただ、もう少し、あんた達に不自由なく
学用品などを買ってあげられたら良いのにと思うのだけれど、
お母さんの甲斐性がなくて……』と言いましたら、

下から2番目の女の子が『だって、お母さん、食べずにいるわけでもないし』
と言ってくれましたので みんなが何となしに、暖かい心でふれ合ったことでした」


八橋さんの体験は、思い出せば限りがないので、一応ここらで切り上げることにするが、
あれからもう10数年も経ち、現在は東京に住んでいられる。

前述の息子さん2人は報道人として、ますます才能を発揮していられるし、
娘さん2人も結婚して、実に幸福な生活を営んでいられるのである。

「ただ善のみ、ただ豊富のみ」の言葉一つを杖とも柱ともして、
経済苦を乗り切った八幡さんの実証談の一部である。

「言葉は神秘なるかな」である。

・・・

《聖句・有難うございます》

全国巡演の途中に、若狭路にはいった時のことである。
ある地方講師さんが、こんな話をされた。

「私の友人に、小浜中学の校長をしている人がいます。
一人息子を、大切に大切に育てていましたが、
その子が20歳近くになって肺結核にかかり、いろいろ手を尽くしたが、
とうとう医者から『あと1ヵ月の生命であるから、あきらめてもらいたい』
と宣告されたのです。

病人は六畳の室に寝ていましたが、もう肩で息をしている。
39度何分の熱で顔は紅潮し、小鼻がピクピクと動いている有様でした。
その姿を見ていると、どう言ってあげたらよいのか、
いろいろ考えて来たことも言葉にはならないのです。

やっと私は気持をおちつけて、

『高志君、生長の家では、どんな重い病気でも、“ありがとうございます“を
一日に一万遍言ったら治るというのです。高志君、言って見る気はないか……』

と言いました。すると、高志君は、

『僕は、そんなことは信じられない』と答えたのです。
まだ20歳にもならぬ戦後の青年に、急にそんなことを納得させることは
無理なことだと思いました。

しかし、その他になす術もないので、
『高志君、言うだけいってみて、治らなくとも、元もとや。少しでも快くなり、
少しでも楽になれば儲けものだから、やるだけやって見たらどうだ』

と一所懸命にすすめました。

ともかく、やって見ようという気持にさせるのに、半日がかりでした。
何しろ仰向きに寝たきりの身体だから、48枚の天井板を算盤代りにして、

『ありがとうございます』を一回唱える毎に、
天井板を一枚ずつ眼で追いながら一通りおわると48回。
そこで 大豆一粒を箱に入れる。

こうして、高志君の『ありがとうございます』が、その日の午後からはじまったのです。
そのうちに眠ったのが何時か、ともかくもグーッと熟睡して、
目が覚めたのは翌朝8時すぎだったのです。

毎晩の不眠症に悩まされていたのですから、嬉しかったに違いない。
『8時までも寝てしまって、今日は一万遍唱えられるだろうか』
と気にするほどの気持になったというのです。

こうして、2日目の『ありがとうございます』を続けているうちに高志君は

『こんなことを言っていたとて、僕はいずれ死ぬのであろう。
いずれ死ぬときまっているものなら、せめて今までいろいろお世話になった人達を
おもい出しながら、その人達への感謝のために“ありがとうございます”を唱えましょう』

と考えたのだそうです。

まず思い出したのは、やっぱりお母さんだったというのです。
『お母さん、ありがとうございます。ありがとうございます。
そうだ! お母さんは僕が赤ん坊の頃から、飲むものや着るものをはじめ
細かいところに気をくばって一番手をかけて育ててくださったのだ。

その僕が20歳にもならずに死んでしまおうとしている。
お母さんは、どんなに悲しむことであろう……』と思うと、
たまらなくなって涙が止まらない。

『お母さん、ありがとう、お母さん、ありがとう』と、泣き泣き唱えたというのです。

次には、お父さんのことを考えた。

『僕が生まれた時に、男の子と聞いたら、どんなにお父さんは喜んだことであったろう。
そして、どんなに大切にして、頼りにして僕を育ててくれたことであったろう。
それなのに、僕はこんなに早く、お父さんより先きに死んでしまうのだ。

お父さんは、どんなに悲しむことであろう。
僕が死んでからも、中学校の校長として若い人達の世話をする時、
どんなにか僕を思い出して涙することであろう。

お父さん、すみません、お父さん、ありがとうございます。お父さん、ありがとう……』と、
また泣きながらの感謝を続けたというのです。

それから、あの叔父さんも可愛がって下さった。
『ありがとうございます。ありがとうございます』

この叔母さんにも愛された。『ありがとうございます……』

あの先生にも可愛がられた。この先生にも……あの友だちにも……と、
感謝の中に思い出す人達への『ありがとうございます』で一日が終わったというのです。


そして、その日の夕方に奇蹟が起こったのです。
どんな医薬も注射も利目がなかった1ヵ月以上も続いていた39度何分の高熱が、
その晩に37度何分に下り、明けの日から平熱となり、ついに瀕死の大病が癒えたのです。

高志君は現在24歳、人一倍肥って老いた父母を喜ばせているのであります……」

「ありがとうございます」とは、一体何が有難いのであろうか。

それは実相の完全円満なことが、ありがたいのである。

私は、自分の心が平和でなくなった時、「ありがとうございます」を唱える。
百遍,2百遍も。肉体に不安を感じた時も、唱える。

家族の健康に問題が起こった時も、やっぱり「ありがとうございます」を
百遍、2百遍、3百遍と、心が平静になるまで唱えるのである。

生長の家の真理を知っている人にはもちろん、たとえ少しも知らない人にでも、
唱えるようにすすめる。

この間は、ある田舎のおばさんが、腰がいたむと訴えたので

「腰にお礼が足らぬのや。痛いと言うかわりに、腰さん、ありがとうございます。
腰さん、ありがとう……と、お礼を言いなさい」

と教えたら治ったとお礼に来たこともあった。

まことに「ありがとうございます」は聖句である。

・・・

《自 他 は 一 体》

数年前、私が全国巡講の途中に、福島県を訪ねたときであった。
当時の白鳩会福島県連合会長・古賀智子さんのお宅で、数名の幹部さん達と話し合っていると、
玄関で古賀さんに個人指導を求めている客の声が聞こえてきた。

古賀さんは「今日は来客で暇がないから、別の日に来てほしい」と言っていられだ。
客は「私は足が悪くて、やっと杖をついて来たのだから、是非お願いします」と頼んでいた。

それが、隣室の私の室にまで聞こえたのである。
それで、私は気軽に「入れてあげなさいよ」と口を出して、上がってもらったのである。

見ると、20歳前後の若い娘さんで、片足を投げ出しにして挨拶している。

「その足、曲げなさいよ」

私が思わず言うと、彼女は恨めしそうに答えた。

「曲がりません」

「足の膝は、神様が曲がるように作って下さったんですよ。
手の指、腕の肘、足の関節、みんな素晴らしく、折畳み式に、
神さまが善いようにおつくり下さっているのですよ。
それが曲がらないとなると、何か迷いがあるのですね。

迷いとは何か?
ありがたいものを有難いと思えず、嬉しいことを嬉しいと思わない心ですよ」


事情を聞いてみると、両親を早く亡くして、兄夫婦のお世話になっているという。

「父母が亡くなっても、兄夫婦がいて下さって良かったね」

そんなことが良いことかと、納得のゆかない顔つきである。

「あんたを残して早く亡くなったというので父母を恨んでいるんではないの?」

その通りというように、彼女は黙ってうなずくのだった。

「可愛い幼い子供を残して、この世を去らねばならない父母の心というものが、
どんなに切ないものか、思いやったことがありますか。

その父母が霊界に生き通して、今も守っておられればこそ、
こうして道を求める心を起こさせて下さったのですよ。
さあ、お父さん、お母さんに感謝しましょう」


いろいろ説明してから、一緒に感謝の神想観を始めたのである。
彼女は片足を投げ出したままであったが、瞑目合掌した。

「お父さん、ありがとうございます。お父さん、ありがとうございます……。
お母さん、ありがとうございます。お母さん、ありがとうございます……」

彼女のために祈りながら、いつのまにやら私は自分の母を思い出していた。
私の母は、よく働く人であった。
そのために、娘を2人待ちながら、その娘を仕込むということができなかった。

「お前達のノロノロした仕事が見ていられない」と言って、
掃除も洗濯も料理も何も彼も、一人でしてしまった。
それを良いことにして、私などは、何にもしないで、本ばかり読んでいたものである。

そんな母だったから、指の太くなった手は、いつも暖かだった。
そして、時々私の手を握って
「お前の手は、いつも冷たいのう、身体を大事にしなければ……」と
言ってくれたものであった。

母のごりごりするような太い指の上に、私の細くて冷たい手を重ねていると、
何とも言えぬ母のぬくもりが、その手を通して私の全身をつつんでくれるのが
嬉しくて懐しくて、たまらなかった……こんな思い出にふけっているうちに、
私は涙さえ催してきたのであった。

「ワーッ」

突然、大声で泣きだした娘の声に、驚いて目をあけてみると、
娘は両足を曲げて正坐しているのであった。

「先生、膝が曲がりました!」

居あわせた者みな、目をみはったのである。

まことにも自他は一体。いのちは一つ。

私が悟れば、それでよかったのである。

ありがとうございます。


Ⅲ.念は通じる (31)
日時:2016年09月03日 (土) 15時31分
名前:伝統

<、--- 不思議な念の働き>


ある曰の木曜会(出席者。平岡他五名)


平岡: 今日は、念は通じるということを中心に、お互いの体験をもち寄るはずでしたね。

西野: 気がついて見ると、これまでにも、よくあったわけですが、
    ご承知のように、私の末娘は富山へ縁づいていますが、
    どうかすると何でもないことから、あの娘のことが思い出される時と、
    十日も半月も思い出さない時もあるのです。

    先日近所のお宅に報恩講があって、お供えのお餅をいただいたのです。
    その時、「正子は餅がすきだ。食べさせたいが、富山にわざわざ行くだけの暇もない」
    と、そんなことを朝から何度となく考えていましたら、
    その日の午後に娘がヒョイとやってきたのです。「

    あれまあ、どうして……」と言うと、
    「大きな松葉ガニをもらったので、お母さんに一匹食べてもらおうと思って……」
    と言うのでした。念は確かに通じるものですね。


柳川: 私は北海道の叔母のことですが、3月か4月に一回の手紙ですが、
    どうかすると、「どうしていられるだろう。書かねばならぬ、書かねばならぬ」
    と急き立てられるような思いになるのです。

    急いで手紙を出すと、入れ違いに叔母の手紙が配達されるのです。
    そんなことが時折あるのです。たしかに、念が通じるのですね。


中島: 念が通じると言えば、私の孫は生まれて1年2ヵ月ですが、
    毎晩、7時すぎには必ず寝る習慣がついているのに、
    木曜会の晩に限ってなかなか寝つかないのです。

    今夜も「おばあちゃん、おばあちゃん」と、
    私の傍にへばりついて離れようとしないのです。
    あれも念の作用でしょうね。


平岡: そうですよ。あんたが、早く寝せつけて逃げだそう、逃げだそうと、かまえている。
    それで相手の心の中に「逃がしてたまるものか、つかまえておかなくちゃ」
    という気持が何となく起こって、落ちついて眠れないのですよ。


高井: 昨日、小学校4年生の孫が学校で数学の試験があると言ったので
    「ああ今日はよい点がとれるよ」と、力強く頭を一つ撫でて出しましたが、
    
    その後私は、孫を思い出しては「今日の成績は満点、満点」と口に唱え、
    心で思いこんでいたんですよ。その通りに、孫は満点をとって来ました。


平岡: 素晴らしいですね。
    念が通じることを利用して、常に善念を放送する稽古をして下さるといいのです。

    反対に「あんな奴、ろくな点を取って来ないだろう」などと描いていると、
    そのようになる。善念も悪念も、そのままに通ずるのですから。


西野: では先生、私が正子のことを思い出して「お餅を食べさせてやりたい」と思ったら、
    正子が来たのは、私の念が正子を呼んだとも思えますが、正子が貰った松葉ガニを
    「お母さんに食べさせたい」と思ってくれた、その正子の念が、
    私を動かしたとも考えられます。その点は、どういう訳になるのでしょうか?


平岡: 面白いところに気がつきましたね。しかし生命は一つです。

    目で見てこそ、あなたと私とは別の存在のようですが、
    生命、つまり霊の世界では、あなたの空気と、私の空気とに仕切りがないように、
    自他は一体です。


一つの桶の水がゆれるように、こっちに波が起これば向う側も動き、
向う側から波が起これば、こっち側も動くことになるのです。

そして、北海道も富山もない、遠いとか近いとかいっているのは、
形の世界。現象の世界のことです。
念の世界には遠いもなければ、近いもない。同時同所なんです。

このことを時間空間を超越しているというのです。

だから、お母さんが正子さんのことを思った時は、
もう正子さんの心にも、お母さんのことが思い浮かぶのですが、
ただその念に強弱があるわけです。

今の話では、あんたは正子さんに餅を食べきせたら喜ぶだろう、とまでは思ったが、
富山へわざわざ持って行ってやろうという程の強い念ではなかった。

ところが、正子さんの、お母さんに松葉ガニをたくさせてあげたいという念は、
なかなか強いものであった。それで、子供をおんぶして、6キロ余りも離れた新屋まで
バスでやって来られたのです。

しかし、念の強弱の問題は、自と他との間に起こるだけではない。
今夜は木曜会に行こうか、それとも映画を見に行こうかという時に、
決断するのは意志の力ですが、こんな時でも強い念の支配を受けるわけです。

ですから、私たちは強い善念を送ることによって、
意識的に相手を幸福にしてあげることができるのです。

神想観によって精神を統一する練習をはげむのも、善念の集中力を強めるためなのです。

こんな話し合いをした後で私は念は通ずるという
2、3の実例を皆さんにお伝えしたのであった。

・・・

<十一年の別居生活も>

これは、永らく教職についていられたが、退職後は
富山県礪波地区の山村の婦人会長をつとめていられた沢木さんのお話である。

「私は村で生まれて、女子師範学校を出ると村の学校に勤めましたので、
全くの世間知らずの跡とり娘でした。夫を迎えましたが、妻のつとめ、母のつとめ
ということを知らず、学校をいささかの成績で出たことを鼻にかけて、
わがままで高慢で鼻持のならぬ悪妻だったと思うのです。

それで、夫には新しい女ができて、遂に家を出て別に世帯をもってしまったのです。

当時、私には4人の子供がありました。
夫の仕打に腹が立つやら、口惜しいやら、悲しいやら、
我が身の不徳など反省するひまもなく、狂いまわったものでした。

しかし、どうすることもならず、『巣の中にとり残された4人の子らを育てて……』
云々という歌など作って、別居生活をする腹を極めたのです。

結局、母子5人で暮らした11年の月日は矢のように流れて、
長男が、当時の東京帝国大学を受験することになったのです。
私は村の氏神様へ日参して、合格を祈りました。
お蔭で、無事に合格したのでございます。

私は嬉しくて嬉しくて、合格通知書を握って、氏神様の石段を二段ずつ飛び上がり、
はね上がって感謝の報告に行きました。

その帰りの道のことです。
こんなに頭の良い息子の頭の良さは、お父さんにもらったものだ、
私の頭では、とても帝大に入学なんかできない、それを今まで気づかないで済まなかった、
『お父さん、すみません。お父さんから、こんなに頭のよい息子をいただいたことを
感謝もしないでいました』と、詫びて詫びて、涙しながら帰りました。

家に着くと、まず主人の写真をさがしました。
押一入れに投げこんだきりになっていた写真を一苦労して探し出して、
本箱の上に飾りました。

その前に酒肴や赤飯を供え、入学許可書も供えて、涙ながらに報告し感謝したのでした。
それを見ていた息子が、そっと寄ってきて、いかにも気の毒そうに言いました。

『僕、お父さんに、この許可書見せてあげたいけれど……』

『ああ、いいともいいとも。あんた、それ持って小松市へ行っていらっしゃい。
帝大に入れるような優れた頭は、お父さんにいただいたもの、よく感謝していらっしゃい』

私は、気持よく出してやりました。

主人の勤務先の石川県小松市の小松製作所へ行った息子は、
人事課長さんに事情を打ちあけて、面会することができたのでした。

『課長さんが、父を呼んで下さったけど、11年ぶりの父は
初めは気がつかなかったらしいが、課長さんに“誰だとおもうかね、この許可書を見給え”
と言われて、全く恐縮し、“許してくれ、すまなかった“と、
課長さんの前で詫びてくれて“せめて、今夜一晩は泊ってほしい”と言われました。

僕は“お母さんに、そこまでの許しはいただいていないから……”と一応断ったけれど、
課長さんが“お母さんに代って僕が責任をもつから”ということになり、一晩泊って来ました。

座敷にお父さんと2人分の床を敷いて下さったので
、僕は、お父さんに僕の寝床で休んでいただくようにお願いし、
僕はお父さんの床で寝ませてもらいました』と、
息子はニコニコ顔で帰って来て、こんな報告をしました。

ところが、平岡先生、縁とは不思議なものですね。
こんな一幕があってから間もなく、主人が元の古巣へ帰ってくれるようになったのです。

幸い先方の女性には子供がなかったので、別れて下さって、
主人も自分の意志で元の鞘におさまってくれたのです。
今では年もとりましたが、善いお父さんで家に納まってくれています。

念の世界の不思議な話をきいて、主人が家を飛び出したのも、私の心のかげであり、
主人が帰ってくれたのも、私の心のかげであって、
すべては目に見えない念にふり廻きれていたのだと、よくよく解らせてもらいました」

・・・

<亡き人たちにも>

中新川郡(富山県)舟橋村の村田光子さんは、私の友人である。
教職を引いてからは、富国生命の 外交をやっていられる。

その村田さんから手紙が来た。

「近頃、腕の神経痛に悩んでいます。医者、温泉、灸、はり、あらゆる治療を
ほどこしているが、どうにも治らない。ここ2ヵ月程の間に、二貫目も目方がへりました。
この上はあなたに助けてもらいたいと思って……」というような内容の手紙であった。

「まあ、可哀そうに、一度見舞ってあげよう」と思って、数日後、
私は『生命の實相』一巻と『甘露の法雨』二冊を持って出かけたのである。
私は、宇宙の真理を説いてあげる外には、術も法もないのであるから。

田舎は、刈り入れ時の忙しい最中であった。
お天気は良いし、稲刈は真最中で、活気づいていた。
村田さんの家は、田舎の旧家らしく大きな百姓家であった。

「ごめん下さい」と呼んでも、返事がない。
「2ヵ月あまり寝ていて、外へも出ない」と書いてあったのに、返事がない。
おかしいと思いながら、なおも「ごめん下さい」を続けていると、
前の田圃で稲を刈っていた若い女性が、姉さんかぶりの手拭をとって挨拶された。

村田家のお嫁さんであった。

姑の村田さんは、ずっと寝ておられたのであるが、その日は富国生命の本社から
富山の支社で重要な会合があるので、何が何でも出席してもらわねばならないといわれて、
1時間前に、ご主人の自転車の後につけてもらって出て行かれたという話であった。

仕方がないと思って、本だけおいて帰ろうとしたが、お茶でもと誘われた。
入口に掛けて病状をきくと、左腕の神経痛で、なかなか痛むらしい。
特に明け方の3時から4時がひどい。それも、毎朝だというのであった。

そこで、私は時間をさす病気には、
霊界からの念波を受けることの多いことを話してから、聞いてみた。

「お宅では、御先祖まつりを充分にしていますか?」

お嫁さんは、うつむいて、頬をそめていられる。

「じゃ折角来たのだから、せめて御先祖さまに御挨拶をさせてもらいましょう」

若いお嫁さんは、まごまごしていられた。
仏壇の戸を開けると、何時あげたのか、仏飯はカラカラになっているし、
お花はみんな首をまげていた。

「これじゃいけない。御先祖は目に見える肉体こそないが、霊としての生命は生き通しだから、
これでは淋しいのです。道端の草でもよいから、いきの良いのを供えなさい」

庭先から取ってきた花を供えてから、私は仏壇に向かって、
そこにいられる人に向かっていうように挨拶した。

「私は平岡初枝と申します。みなさまは、一面識もない方ばかりかも知れませんが、
光子奥様とは久しく交際させてもらっております。
今曰、御縁を得て、村田家のご先祖様並びに親類縁者御一統様の御前に
尊い『甘露の法雨』という御経をあげさせていただきます。

この御経は、2千5百年前にお釈迦様がインドでお説きになった道や
2千年前にイエス・キリスト様がユダヤでお説きになった道を、
現代の人の耳に解りやすいように、谷口雅春という高徳なお方が説いて下さったものです。

どうぞ、この真理によって、本来人間は神の子、仏の子である実相をおわかりいただいて、
霊界において、本当に幸福になっていただきとうございます。

尚、この御経の中にあります神という言葉のおきらいの方は、
仏と置きかえてお聞き取り下さいますように願います。
天の使いという言葉が、耳にさからいます方は、観世音菩薩とお聞き取り下さいませ」

二度ばかり右の言葉を繰り返した後で聖経『甘露の法雨』と『天使の言葉』を読誦し、
その後20分ばかり神想観をした。

「みなさん、ようこそ熱心にお聞き下さいまして、ありがとうございました。
そして、お悟り下さいまして、ありがとうございました」

村田家のご先祖方の喜んでいられる姿を描いて感謝して帰った。

この間、たっぷり2時間はいたわけである。さ
らに、帰り際に、ご先祖の最も喜ばれることは、
家族一同仲よくすることであることを説いた。

「お姑さんが、明け方ごろに特に悪いと言われましたが、
そんな時に、あんたはお姑さんの痛むところを撫でたり、さすったりしてあげますか?」

「ええ、いつでも撫でてあげます。撫でてあげていると、
そのうちにウッラ、ウッラと眠られるのです」

「それは、仲の良い親子だ。あんたは深切だ。
でもね、そんな時に、形だけで撫でていても、心の中で『うるさい』とか
『いやだなあ』というような気持を起こすと、かえってお姑さんの痛みが
激しくなることさえあるのですよ」

いろいろ話してから、村田家の調和を念じて、帰ったのであった。


ところが、どうでしょう。その翌日、村田光子さんが、何とも言えぬ嬉しそうな
明るい顔をして私宅を訪ねて下さったのである。

前日、富国生命の会合の席上で、痛んで仕様のなかった左腕の痛みが、
突然に止まったというのである。嬉しくて、うれしくてたまらないので、
帰宅すると早速、お嫁さんに、不思議にコツンと痛みがやんだことを話したという。

「おかあさん、何時頃でしたか?」

「11時すぎでなかったかしら」

「それは、平岡先生がご先祖に『甘露の法雨』を誦げて下さった時間です」

というわけで、涙を流して喜んで下さったのであった。
まことにも、念は霊界にも通じるのである。

だからこそ、法事や報恩講の意味もあるわけである。

・・・

<守られております>

念を実相の一点に集中することが、祈りである。

富山の白鳩会の幹部・久次数枝さんが、ある会合で次のような体験談をされた。

「家では3年前、仕事の都合で自家用車を求めました。
それでなくてさえ交通事故で心の落ちつかない昨日今日です。

家の車のことを思うと、それこそ矢も楯もたまらない気持で、
朝車の出て行くのを見送りながら『事故など起こさねばよいが……』と思い、
晩方帰って来ると『やれやれ、助かった』と愁眉を開くという有様でした。

主人は『お前が運転するのじゃあるまいし、もっとのんびりしていたらどうか』と
言ってくれるのですが、それができないのです。
たえず不安の波に胸が押しつぶされる心地なのです。

ところが、その気持をそのままに、次から次と家の車が事故を起こすのです。

それで、平岡先生に『この気持を、どうしたらよいでしょう』とお尋ねしましたら、
先生は『祈りなさい』と言ってくださいました。

『瞑目合掌して、車が神さまのお守りの光の中につつまれている姿を描きながら
“守られております。ありがとうございます”と唱えながら数分間、精神統一することです。

心に描いたものが、現象にあらわれるのです。
事故事故と事故を心に描いて、オドオドしていられるから事故が多発するのです。

これからは反対に、神さまに守られている姿を描いて、心を安定させるために努力するのです』

と教えてくださいました。

それで,私は平岡先生に『お祈りは、車の前でするのですか』とお尋ねすると
『そうだ、そうだ』と言われましたので、それからは、毎朝車庫の前で祈りました。

『守られております。有難うございます』を続けているうちに、
何となく心も落ちついてきました。

そして『私は自分の家の車のことばかり祈っているけれど、考えてみると
前からくる車もあり、後からくる車もある。左右から飛び出す車もある。
それら全ての車が守られることによってのみ、家の車も安全に運行できるのだ。
そうだ、すべての車のために祈りましょう』という気持になってきたのです。

その頃から祈ることが楽しくて、どうかすると10分や20分では止められないので、
主人に『何をしとるか』と注意されることさえありました。

そして、祈ることが楽しくてたまらなくなった頃から、
事故について取り越し苦労をすることがなくなり、
同時に事故も起こらなくなったのであります。

現象は心のかげであり、人間は神の子であって、一人一人が宇宙の中心である
といわれるわけが本当に良くわかったような気がします。ありがとうございます」

・・・

<蕪 の 祈 り>

中新川の竹島健之助さんは、お百姓さんである。
ある時、竹島さんが種物屋から買ってきたカブやねぎや、いろいろの野菜の種を前に置いて、
こんな話をした。

「竹島さん、あなたは、こんなに良い種物を買って来られたが、これが立派に育つためには、
いろいろなもののお蔭をいただかねばならないのです。

第一は、大地のおかげです。次に水のおかげ、それから太陽の光と熱、
これらがなくては育ちません。また、肥料や農具などのおかげも見のがすわけにはいきません。

ですから、良い農作物を作ろうと思ったら、それらの恩恵を心に描いて
“ありがとうございます。ありがとうございます“と、心を平和にあったかくして
世話をすると、必ず良い作物がとれるのです。

竹島さん、この種物を畑に蒔く時も、肥料を与える時も、草採りなどの仕事をする時も
“ありがとうございます”という言葉を添えてやってみてくれませんか。
あなたの念が葉にも茎にも現われるのですから」

その秋、竹島さんはキメの細かい素晴らしい蕪3個を持参してくださった。

「これが、平岡先生の言葉通りにして作ったものです。
おかげで、村の品評会で一等をいただきました。
不思議なことに、私の畑と向かいの畑は地方鉄道の線路一本をへだてているだけなのに、
向かいの畑は虫がついて殆ど全滅状態になっているのに、家では、こうした立派な作物が
いただけました。心のかげという言葉がわかるようです」

・・・

<妻に詫びたとき>

私が大阪の四ッ橋道場で 寺田繁三先生について勉強していた時のことである。
見るからに頑固そうな60歳近い男の方が、奥さんにつき添われて指導を受けに来られた。
柳沢さんという名前だったように覚えている。

「私は30年間の法華の行者です。30年間、夏は両肘の上に
火のついたローソクをのせて行を積み、冬は妙見の滝に打たれて行を積んだ。
お蔭をもって、他人の病気なども一巻の読経によって治し得るまでになりましたが、
お礼一つとったことのない無欲の人間なのです。

それが今度、自分が腎臓病と糖尿病にかかったが、どうにもならないのです。
この2つの病気は、治療法が全然反対だそうで、糖尿の治療は腎臓のために悪く、
腎臓の治療をすれば糖尿病にはかえって悪いというわけで、
5人の博士と2人の名医から見はなされ、こんなにやせ細って……」こんな訴えであった。

その時、寺田先生は大きな目をカツと見開いて、大喝された。

「君、生意気を言うじゃない。君は自分は欲がないと言ったが、
生きていたいという欲をもっているではないか。その欲を捨てて来たまえ。
そしたら病気の無いこと位わかる」

さすがに30年の行者、この一喝がグッとひびいたらしい。
寺田先生は、追いうちをかけるように言われた。

「君はそうした生意気な思い上がった生活をしているならば、
奥さんに対しても、きっと気儘放題、我が儘一杯の生活をしていることであろう。
糖尿病があるのではない。腎臓病があるのではない。

その思い上がった心のすがだが現われているだけだ?
奥さんにあやまり給え。手をついて謝り給え!」

側で見ている方が、ハラハラするような場面であったが、その老人もさるもの、

「恐れ入りました」

サッと坐り直して、寺田先生の前に頭を下げた。
続いて奥さんの前にも手をつき、頭を深く垂れだ。

「すまなかった。許してくれ」

と、詫びられたのであった。

さすがに、年期の入った行者である。
それだけの20分にも足りない問答によって、
5人の博士と2人の名医に見はなされていた老人の病気は消えたのである。

「その日家へ帰って、沢庵でお茶漬をサラサラ食べた味は、何とも言えない味でした」と、
カラカラ大声で喜ばれたのであった。さすがは30年間も法華の行をつまれた人である。
この世にむだは一つもないものだと、しみじみ思わせられたことであった。

しかし、私の言いたいのは、あとの話である。

一人の念が変わると、その人の属している一切の環境の状態がかわるということである。

・・・

<鶯の天才教育>

柳沢老は、鶯の飼育に深い趣味をもっていられたのである。
単に良い鶯を飼うだけではなく、生後3日目の鶯をもち帰ってから、
よい鳴き音の鶯に仕上げる技術にかけては、玄人芸の域に達していた人らしい。

生まれて3日目の鶯をとってくるためには、まず鶯の巣を見つけて、
雛が生まれるまで見まわる準備が要る。そして、雛が生まれたら、
まだ目も見えず、耳も聞こえぬうちに持ち帰る。

それは粗悪な鳴き音を一度も耳にしないうちに持ち帰るための鶯の幼時教育で、
いわば最初からの天才教育をほどこすことなのであろう。

当時大阪の“鳥源”という鳥屋さんが飼っていた福娘という鶯が日本一の番付をもっていたが、
その福娘に鳴声を一口つけてもらう教授料が、その頃のお金で30円とか50円とか
いわれていたのである。

鶯の鳴き音といえば、ホーホーホケキョかと思っていたが、
柳沢老の話では本当のよい鳴き音は「チチー」と長く張りのある音を引いて、
あとは「ベヵッコ」と「コ」の音をはっきりと結ぶ、
つまり「チチーベカッコ」と鳴くのが本当だそうである。

最後の「コ」を打つか打たないかによって、
一羽五銭から百円までの差がつくのだそうである。(30年前の戦前の価である)

さて、柳沢老は当時、山をかけずり廻って見つけた鶯の巣から持ち帰った雛鶯を
5羽世話していられだが、いろいろと手を加えても思うように鳴かなかった。

ところが、寺田先生の指導を受けて、奥さんに手をついて謝って、病気なしをさとった
明けの朝、雛の一羽が、とうとう「チチーベカッコ」と鳴いたのである。
さあ、嬉しくてジーッとしておれない。

早速、鳥籠をかかえて船場の“鳥源”へ行き、
名鶯何号とかの折紙をつけて貰ったというのである。

健全の念、悦びの心は、鶯にまでおよぶというわけである。

・・・

<一人が変われば>

村のおかみさん達の集まりである木曜会でも、昨年似たことがあった。
その曰初めて顔を見せた島田たきという、60歳近いおばさんの話である。

「よく来ましたね」と言うと「うちに災難ごとが続きますので……」と、
憂い顔で話し出した。

「主人は昨年交通事故で足を痛めましたが、3度も手術をやり直し、
入院してもう1年も近くなりますが、今だに退院のお許しが出ないのです。
それに息子の嫁が腹が痛い、尻が痛いと医者にかかり通しですのに、
息子も2、3日前から頭が痛いといってブラブラしているのです。

村ではもう稲刈りが始まるというのに、家ではこのざまで、どうしようかと
心配でならないので来ました。私のような貧乏人は救われそうもないのですが……」

「島田さん、私は貧乏人、私は運が悪い、というような言い方をやめなさい。
神さまは万人の父であって、神さまには可愛い憎いの区別はないのです。
すべては受け取る人の心構え一つにかかっているんですよ」

私は、祖先を初め一切に感謝する道を説きはじめた。

「なる程ね、なる程ね。私の受け取り方が間違っているのですね」
感心して聞いてくれていた島田さんが、しばらくして右の手を上に掲げて、喜び出した。

「あれ、右手の痛みがとれました」
「あれ、腰の痛みもとれました」
「あれ、膝も、頭も……」

つぎつぎに狂気のように喜ぶので、周りの者は驚くばかりであった。
それだけではない。翌日、病院から電話で主人の退院が許されたという通知があった。

そして、たきさんから「病気なし」の話をきかされた若夫婦も、
もう頭も痛くない、お腹も痛くないと言って、2人で田圃へ出かけたというのである。

人間だけではない。
眼病でつぶれそうになっていた鶏の眼までが、明けの日からパッチリとあいて、
ピンピン元気になったという不思議な現象さえ出てきたのである。

こうした不思議な現象を理解することができたら、鶯の鳴音は鶯だけの問題でなく、
鶏の目は鶏だけの目ではなく、そこに働いている雰囲気、ある強力な心の影響
ということがわかるであろう。

一人の工場長や会社の社長の雰囲気が、
その工場や会社の浮沈に大きな影響があるわけでもある。

・・・

<一切感謝の眼鏡>

話は脇道へそれたが、柳沢老はその後間もなく、紀州の串本周辺で漁夫をしていた
乳兄弟を訪れたそうである。ところがそこの漁村では、海が荒れて連日獲物がなく、
村中が青息吐息という有様であっだ。

そこへ来合わせた柳沢老が、見過ごしにするわけはない。

「漁がないなんてことは、絶対にない。神は愛であり、無限の供給の源だからだ。
お前達はご先祖に供養が足りないだろう。さあ、みんな集まって『甘露の法雨』を
供養するのだ。訳がわかってもわからなくてもよい。

読んでいるうちに追々に分って来るのだ。
漁に出るときは、女房と手をとって拝み合うのだ。
ご先祖への一番善いお供物は、夫婦の拝みあい、親子の拝みあいなのだ。
そして、舟を拝み、漁具を拝むのだ!」

30年の修行を積み、生命の真理にめざめた柳沢老の気迫に押されて、
皆は拝みに拝んで出かけたという。

その日の夕方、浜は黒山の人だかりで、何ごとかと近づいた柳沢老は、
大歓声とともに胴上げされてしまった。

「やあ、福の神だ、福の神が来たぞ!」

乳兄弟たちの漁船が大きな鯨をいとめて、浜に帰ってきたところだったのである。
何年ぶりかの大漁に警官まで出て整理にあたるほどの人出だったそうである。

「神様は無限の富の源なんだ。神の子であるすべての人間を、豊かに富ませてやりたい
のが神のみ心なのだ。しかし、お前たちは、その無限の富の供給を受ける道をしらなかった。
わしは、その道を教えてやったまでだ。

祖先に感謝すること、家族の拝み合い、自分の仕事に感謝して、
一切の人々を神の子として拝むこと、それが神の無限供給を受ける道なのだ。
わしは、その道を教えただけに過ぎないのだ。
ここにいる皆さんも、その道を、実行すれば、鯨でも何でも獲れるのだ……」


柳沢老が熱弁をふるって、皆を感動させたことはいうまでもない。

その後10日とたたないうちに、乳兄弟の3家族は再び小形の鯨を捕獲して、
見たこともないほどの札びらをもてあまし、うれしい悲鳴をあげたという話である。


貧乏も果報も、己が心一つが織りなす人生の綾なのである。

時々刻々、念々に、自己を清めて、実相の完全をうつし出したいものである。

時々刻々念々に、などというと、難しくて息つく暇もないような気がするかも知れないが、
そんなに難しく考える必要はない。
ただ、中心の心一つを整えて、実相の完全に焦点を合わせればよいのである。

「人間は神の子である。神の生命に生かされ守られているのである。
神の偉大な力に守られている自分に、病気や、不幸、災難などという、
悪のありようはずは絶対ない。

この世は、神が治め経営していられる完全な世界なのである。

現象はどうあろうと、実相は完全である。
生きること、愛すること、進歩することの三大原則の展開のための道程にすぎない」と、
深く信仰すれば、それで良いのである。

赤い眼鏡をかければ一切が赤く見えるし、青い眼鏡をかければすべてが青く見えるように、
信仰の眼鏡、つまり一切感謝の眼鏡をかければ善いのである。

感謝の念のとどく限り、宇宙すべてが嬉しい喜びの波を立てるというわけである。

Ⅳ 繁栄への道 (32)
日時:2016年09月04日 (日) 07時06分
名前:伝統

<中心を立てれば家がたつ>

ある曰、まだ四十歳には大分間のある若い夫妻の来訪を受けた。
「私達は隣りの町で小さい荒物の店をもっております。
いつも品物に値札をつけるときになると、二人の間に意見の衝突が起こるのです。
家内は、私のつける値段が安すぎる、そんなことでは……と喧しくいうのです……」

ご主人が、こう言い出されると、横から奥さんは、えらい見幕でやり返されるのであった。
「主人は人が良すぎるのです。まあ、いいやないか、いいやないかと言って、
安い値札をつけるのです。でも、このごろの物価高で、買うものはみんな高いのだから困ります」

気の弱そうな主人は、私に救いを求められる。
「先生、ここのところどうしたら良いでしょうか?」

それで、私は言った。
「それは簡単じゃありませんか。一つの品物をご主人は百円と値をつける。
奥さんは百十円とつける。奥さんのつけた値で売れたら、十円よけいに儲かる。
ご主人のつけた値段で売れたものは、儲けは少ないかも知れない。
しかし、長い間には、『あそこの店は安い、少し遠いが、あの店へ行って買おう』
ということになるかも知れない。

目の前の利潤を追いすぎると、長い間には『あそこの店は高い』という評判が広まって、
店はカンコ鳥が鳴かんとも限らない。

とにかく、一つ一つの値段がその店の信用と評判とを付録にして、店の盛衰をきめていくのです。
同じ安値でも、弱気の思惑だけできめたものもあれば、
買手の身になって愛の心を添えた安値もある。

しかし、私達が説いているのは、損得の道ではないのです。
厳密にいうと、この世には損も得もないのです。
蒔いた種だけが生えるのです。

目の前の損得よりも、永遠の繁栄のために、真理の実践が大切なのです。
もっとわかり良く言えば、たとえ十円余計儲けたとしても、家族が病気になったり、
不時の災難に会ったりして、思わぬ失費を余儀なくされたりしたのでは、
ザルで水を汲むような結果になるでしょう。

あなた達は、意見が合わないばっかりに、店を空けてここまで来られだ。
バス代も使われた。ここまで持ってこなければ、愉快でない気持を整理できなかったからです。
真理の道から言うと、そんなふうに夫婦の間にまさつのある時は、
子供がよく病気するものですよ」

ここまで言った時、夫婦は顔を見合わせて苦笑していたが、
ご主人は恐縮そうに言われるのであった。

「お恥ずかしゅうございます。
今年三歳の男の子が、ちょっと風邪をこじらせてなかなか治りません。
医者にかかっているのですが、先きに申しあげたような事情なものですから、
家内のお母さんが来てくれたのを幸いに、子供を預けて来たようなわけです」

「あなた方のしてきたこれまでのことは、すべて要らない失費である上に、
精神的不愉快まで添えてつまらんことですよ」

「良くわかります、良くわかります」
ご主人は、頭をふりふり恐縮されるので、私はあらためて繁栄の道について、
つぎのように言ったのである。

「夫婦が一つ心になって、夫唱婦随、つまり奥さんは夫を愛し尊敬し、
足らざるは補って楽しい明るい生活をめざすことが繁栄への近道なんですよ。

金、金と言っても、金は集まるものではない。
金を忘れ、物質を忘れ、理屈を忘れて、夫を愛し、店を愛し、お客を愛する気持が、
楽しい家庭を作るのですよ。家庭をもたれて4年だそうですが、
新婚当時の嬉しかった思い出を、もう一度新しくすることです。

朝、目が覚めた途端に、檀那さんは、今日も妻の喜ぶようにと考え、奥さんも、
今日はどうして主人を喜ばしてあげようかと、考えられたに違いない頃の気持に
もう一度なることですよ」


ところが、奥さんの曰く、
「先生、でも経済の面は、それだけで解決できましょうか?」

「その点は、私が引き受けましょう。ともかく店の経営の方針は、ご主人を中心に、
思う存分の腕をふるわしてあげるのです。これまでのように、ご主人のすること成すことに、
妻のあなたが反対するという状態では、商売に対するご主人の意欲はそがれるばっかりで、
男一匹手も足も出なくなるのです。

そうした時に、世にいう魔がさしてきて、楽しい晩酌がやけ酒に変わったりして、
悲劇の序幕にもなるのです。

ともかく、お店の盛衰は夫婦の呼吸できまるのです。
家族の呼吸のあったお店へは人の足が何となく吸い寄せられるのです。

今から十年も前になりますが、山形さんという奥さんが大沢野町で、
いわゆる田舎の百貨店を出された。明るくて深切な方で、この奥さんが
店に坐っていられるといられないのとでは、その日の売り上げが違うと、
いつも話していられました。

別に、山形さんが往来に出て客引きをやっていられたのでも何でもないけれど、
その明るさと深切気が山形さんの雰囲気となり、店内の目に見えぬ光となって
客を吸い寄せたのです。

この目に見えぬ力というものが真にわかったならば、
夫婦が互いに信じ切れず、愛し切れず、心に不平、不満や軽蔑の念、
憤りの念をたたかわせながら、お客の姿を見た時だけ、

「いらっしゃいませ、良いお天気で」などと調子の良いことを言ったとしても、
形だけのことであって、内側から発散する雰囲気が、客を追いかえすことになる
のだということがはっきり分るでしょう。

何といっても、形よりも中味です。

現在日本で最高の納税者として名を挙げていられる松下幸之助さんも、
初めから巨万の富の上にすわった方ではない。
大正の初め頃には、夫婦で四畳半一間の住居に生活していられたということです。

でも松下さんは、ただ一念購買者の立場に立って、便利なものを安価にとの愛の一念で、
今日を築きあげられたと伝えられております。

何といっても、中心は念の問題です。
金、金と、お金の尻を追いかけているようでは、金は逃げる一方です。
金の方から追いかけられる自分にならなければならないのです。

では、金は何を追うのでしょうか。

金は、愛の心、深切な心、調和の心の後を追うのです。

あなた方に最も大切なことは、夫婦の調和です。
さっきから、あなた方二人の顔が輝いてきましたよ。
その心で帰られたら、坊ちゃんの病気はもう終わりです。
正直なものですよ。

坊ちゃんの病気が治るだけでなく、お店の商売繁昌間違いなしです。
奥さんは、ご主人を文字通り店の主人公として、やりたいようにさせてあげるのです。
ともかく、夫婦の不調和は、店のお客を追いかえすだけでなく、
家庭内に病気、不幸、災難を呼びよせるのですから、たまったものではありません。

家庭の不調和は繁栄とは絶対に相容れないものなのです。

ついでに、可愛い子供の病気は、夫婦の不調和からということについて、実例をあげましょう。
最近のことです。

2歳の坊やのいる若い御夫婦のお宅へ用があって訪ねた時のことでした。
その坊やが病気で、夜も昼も抱いていなければならないというので、
お嫁さんのお母さんに郷里の山形から来てもらっているということでした。

坊やは、ヒーヒー息苦しそうに肩で息をして、見るからに苦しそうでした。
下に寝かすと一向に眠らないので、お嫁さんのお母さんと代る代る抱いて、看病している。

医者にはズーッとかかっているが、どうしても治らない。
肺炎寸前という状態で、医者も首を傾けている状態が一ヵ月近く続いているというのでした。
それで、私は尋ねてみたのです。

『奥さん、病気はないのですよ。ただ迷いが形にあらわれたのが、病気なのですよ。
しかし、子供には迷いがないものです。では、迷いの無い子供に、
どうして病気の形があらわれるのでしょうか。

それは、親の迷いが、一番感応しやすい子供に現われるのですよ。
奥さんに、思いあたることは、ありませんか?
 あなたは何か、ご主人に逆らいやしませんでしたか? 
可哀そうに、何も知らない子供を犠牲にして……』

すると、奥さんは消えも入りたい風情で言われたのです。
『先生、私は主人にさからいました。本当です。今の今まで逆らっていました』

事情をきいてみると、自動車を買う買わないが原因でした。
ご主人は市のある会社に勤めていられます。
ところが近年は、男も女も若い人達はみな、自動車の運転免許証をとります。
それで、ご主人も免許をとりたくなったわけです。

ただし、奥さんの話によると、運転免許をとっても、
自動車を買うとだけは言わないことが条件だったというのです。

しかし、運転免許をとれば、車が欲しくなるのは、誰しも同じこと。
ご多分にもれず、ご主人も自動車がほしくなったのです。
これが、争いの種だっだのです。

『世帯をもってから、節約して、着たいものも着ないようにして、
やっと作ったお金なのに、48万円もの大金を自動車のために使うと言われては、
たまりません。それに、もしも事故でも起こしたりしたら、元も子もなくなる。

悪くすると主人の生命までも失うと思って、未だに明けても暮れても逆らっていました。
それが、子供の病気に関係があるなどとは思いもかけぬことでした。
もう主人の思うように、車を買わせてあげましょう、と腹をきめました』

涙をおさえながら懺悔されたのです。ところが、どうでしょう。
先刻まで、ヒーヒー肩で息をしていた子が、何時の間にか、おばあちゃんの膝を
すべり下りて、少し離れた処に置いてあった菓子鉢のお菓子を掴み出して、
食べようとしていたのです。

私は、思わず叫ぶように言いました。

『治った。迷いは消えた。迷いの消えたところに、病気はない』

その子の病気は、本当にそのまま消えたのです。

親の迷いが子供の病気となって現われるのです。
迷いとは何か? 

夫婦は、本来一体なのです。その一体を現わさずに、区々たる理屈にとらわれて争う、
これが迷いです。いま、あなた方2人の輝く顔を見ていると、あなた方の迷いが消えた
ことがわかります。

あなた方の迷いが消えたのだから、帰って見られたら、
必ず、坊ちゃんの病気も消えているに違いないと思うのです。

もっとも、その消える時に、ケミカライゼイション、
つまり自壊作用としての一時的な悪い状態が起こることもあります。
今までより熱が高くなるとか、下痢が激しくなるとか、いろいろのことが起こることもあります。

しかし、そうしたことは一向に案ずるに及びません。

そんな時こそ、一層心を明るくして
『神さま、ありがとうございます。ご先祖様、ありがとうございます。
夫よ、妻よ、ありがとうございます』と、心の雲を払いのけるように努めるべきです」

お2人は、何かをはっきり掴まれたらしく喜ばれたが、
最後に奥さんは、もう一つ質問があると言われた。

「何でも出しなさい。心の大掃除です」

「主人と私は食物の好みが違うのです。テレビの番組にしても、
私の見たいものと主人の見たいものとは違うのです。
こうしたことは、どうすればいいのでしょう?」

「やがて、坊ちゃんが大きくなってみなさい。坊ちゃんの好みが、また違うのですよ。
そして、坊ちゃんにお嫁さんを貰った時は、また好みが違うでしょう。
しかし、奥さん、心配は要らないのですよ。修行とか勉強とかは、その間にあるのですから。

何よりも愛です。
純粋な愛の心一つで貫ぬく時一切が丸い数珠となってはみ出ることはないのです。

『主人の好きな食物は、なるべく作ってあげましょう』と愛の心を添えたなら、
いつの間にやら2人の好みが接近してゆくのです。

テレビでも、何でも同じことです。
愛し合う心の波が、一切解決の極め手となることでしょう……」

「ハイ、わかりました」

堅い表情をしていた奥さんの眼が、柔らかく輝いていたのであった。

・・・

<要るものは有るもの>

無限供給ということを、私は何時の間にか「要るもんは、有るもん」という表現で、
皆さんに話しているのである。

ところで、富山県の白鳩会の大幹部であるMさんは、
末の娘さんを最近、良縁あって縁づけられた。
その結婚式の1ヵ月ほど前に、私は2、3の友とともに、
Mさんのお宅に招かれて行ったのであった。

そして、その席で私は例の「要るもんは、有るもん」の話をしたらしいのである。
その後、Mさんに会った時、私の顔を見るなり、いかにも嬉しそうに礼を言われた。

「平岡先生、ありがとうございます。あの時お聞きした『要るもんは、有るもん』という、
先生のお言葉を合言葉に、娘も私も結婚の準備をいたしました。

『要るもんは、有るもん』、本当に、言葉の神秘ですね。

その後は、いただき物でも、店屋で見つかる物でも、みんな欲しいと思ったもの、
この程度の品が良いと描いたものばかりが、つぎつぎに与えられたのです。
そして、最後に家が与えられたのです。
本当に、先生のお蔭です。ありがとうございます」

聞いてみると、その家が与えられたのは、こういうわけであった。
娘さんの嫁ぎ先は東京なので、アパートより外に住宅が見つからなかったという。
広い家屋敷に住んでいられるMさんとしては、
娘を六畳と三畳の狭いアパートに住まわせねばならないことが、不憫でならなかった。

せめて富山だったら、百4、50万円ほどで小さな家が建つというから、
建ててやりたいもの、と考えた末、東京で建ててやっても良いのでなかろうか……と、
突き詰めた気持になられたらしい。

その気持を友人の一人に話されと、「奥さん、順序をまちがえたらいけませんよ。
あんたは、娘さんを向こうさんへあげられたのでしょう。

それだのに、娘可愛いばっかりに横から、そんな気持を起こされたら、
それこそ向こうさまの感情を損ね、娘さんの立場を良くするどころか、
悪くすることにもなるのですよ。

私の知った方にも似たようなことから、
思いもかけぬ方向へ話が発展して苦しまれた方がありますよ」と、

くわしい話を聞かせてくださったのである。

「何事にも秩序が大切という教えをいただいていながら、私は本当にまちがっていた、
と心を改めさせていただいたのです。ところが、平岡先生。
娘の結婚式は、11月3日の文化の日ときめてあったのでございますが
1週間前の10月26日に、東京から電話があって、良い家がみつかったというのです。

それは、お婿さんが家庭教師をしていたお宅の隣りで、
警察関係にお勤めの偉い方の広いお屋敷で、転勤になったために
荷物の置場に2室だけは使うが、あとは応接室もそのままのセット付きで使ってほしい、
ということだったのです。電話もあるし、非常ベルまでついている。
こんな素晴らしいお家が、留守居という名目で与えちれたのですから、夢のようでした。

その家が見つかったのが、10月26日、
10月の28日には、もう荷物を運んで何時でも住めるようになったのでございます。

本当に、『要るもんは、有るもん』でした。心配も何も要らないように、
神さまがしていて下さってあるのに、私達は勝手に心配したり、案じたりして、
申し訳ないことであります。

この頃では、坊やと2人きりの私の生活ですが、淋しくなると、
すぐ電話をかけて娘夫婦と話し合うのを楽しみにしています。
本当に、ありがとうございます」

要るものは、有るもの……神は、すでに無くてならぬものを与えていて下さるのである。

・・・

<光のさしこむ窓>

あまりに身近におこったことなので、名前や場所は伏せるが、彼は小さな土建業を営んでいた。
そして、経済界の不況で中小企業の倒産が相ついで起こった昭和39年の秋、
1千万円の不渡手形をつかまされたのである。

彼は、なす術もない思いで展転苦悶した。
とうとう時節の波にまき込まれて、10数年築き上げてきた大切な仕事とも
別れねばならないのかと考えろと、30数人の組のものたちの将来、
家族の生活などが案じられて、頭がこわれそうになった。

「2、3日は、.本当に蒲団をかぶって、不貞寝でもしたい思いでしたが、
救いはやっぱり神様を思い出すところからですね」

はじめに、こう言ってから、彼は話し出したのである。

「ともかく、道場(生長の家の教化道場)へ行って坐ろうと思い、
未明に家を出て、道場のすがすがしい空気の中で、
30分間の神想観と『甘露の法雨』の読誦(共に生長の家の修行)を終えると、
不渡手形の悪夢が少しうすらいだ気持になり、恥も外聞も捨てて、先生の前に坐りました。

『先生、えらいことになりました。1千万円の不渡手形をつかまされましたので……』
と申し上げると、

『なに、1千万円の不渡手形? それは素晴らしい。
焦げつきの借金を払わせてもらったのか。あとは善くなる外ないじゃないか!』

とおっしゃったのです。

『先生、冗談じゃありませんよ。1千万円は、私達のような小さな仕事をしているものには、
致命的な打撃です。それに、焦げつきの借金を払ったとおっしゃるけれど、
私は別に不義理な借金はしていませんのです』

『それそれ、それが思い上がりというもの。神の子を豚の子のようにおもい違いしたり、
仏の子を餓鬼や畜生のようにののしる心は、みんな神さまから見れば焦げつきの借金なのだ。
その焦げつきの借金は、何かのついでに払わねばならない。

その点、あんたは幸せ者だ。その借金を、1千万円という金で払わせてもらえるとは、
こんな幸せなこと、こんな有難いことがあるものか。

拍子悪ければ、自分の病気や家族の災難、さては子供の不良化、
その他いろいろの形で支払わされる。さあさ、金で支払わせてもらえる。
あんたは幸せ者なんだ。ありがとうございます、と明るい心でお受けするのです』

と言われました。

しかし、私はどうしても有難いなどという気持にはなれず、

『それにしても先生、私達のような小さい仕事をしている者に、
これだけの大きな穴があきますと……』

と、まだ言い切らぬうちに、先生は再び目を輝かして、

『穴じゃ? 何を言いなさる。穴は穴でも唯の穴じゃない。光のさし込む窓じゃ。
焦げつきの借金を払って、あとに光のさしこむ窓があいたのです。
これからはもう、善いことばっかり。元気は出る。智慧は出る。力は出る。
善いことばっかりだ……』

と、力強く言われたときの先生の目は、愛そのものに輝いていました。

朝の行事を終わって外に出ると、
『焦げつきの借金を払って、光のさし込む窓があく』という言葉に
釘づけされたような気持で 先生の愛の目が追ってくるのです。

家へ帰ると、自然に家族に『おはよう』がでる。
現場へ行くと、働いている人達に何となく、『ご苦労さん。みんな元気で善いな』
とねぎらいと感謝の言葉が出る。気がついてみると、胸を張って歩いている。

道場へ出かける前の自分と後の自分とは違っているのです。

こんなふうに、心が満月のように張り切っている時に、話し合うと話がうまく行く、
と長年の体験でわかっているので、その足で取り引きしている銀行を訪ねました。

私の雰囲気の中に、焦げつきの借金を払って光のさし込む清々しさがあったものか、
1千万円借り入れの話がまとまり、ともかくも、大難関を突破させていただいた
のであります……」

・・・

<受けとり上手きき上手>

昨年の1月18日、私は富山市白鳩会の新年宴会で、この不渡手形の話をしたのであった。

「どんな問題にぶつかっても、その受けとめ方如何が、結果の方向をきめるのです。
1千万円の不渡手形に『もう駄目だ』と言えば、もう駄目になるのです。
『素晴らしい。これで焦げつきの借金が払えたのだ。これからよくなる外ない』と
受けとれば、そして、そのように言葉にあらわせば、事件はその方向をとって行く。
これが言葉の神秘です」

ところが、それから10日ほど経ったある日、
富山市音川町に住んでいられる城川夫人がやって来られた。

「平岡先生、ありがとうございます。あの新年宴会の時の、焦げつきの借金を払って、
光のさし込む窓がひらくというお話は、全く私のためにして下さったお話でありました。
あくる19日の午後、息子がしょんぼりと青い顔をして会社から帰ってきました。

そして『お母さん、お腹の具合が悪いので医者に見てもらったら〃どうも十二指腸潰瘍らしい。
ともかく今日はレントゲンをとってみるが、その結果によっては手術の必要がある”
と言われたのです』と、言いました。

その時、私は思わず手をたたいて、
『よかった、よかった。素晴らしい光のさしこむ窓をあけてもらった。
何が起こっても悪いことは一つもない。起こるべくして起こったことは、それでよい。
何が起ころうと、禍なら転じて福にすれば、それでよいのだ。

手術しなければならないのなら、手術をしてもらうのです。
お医者を拝み看護婦さんを拝み、すべての周りの人達はみんな、
あんたを健康にするために現われてくださった天の使いとして拝むのです。

それにしても、そうしたことの起こるには、何か周りと不調和なことがなかったか、
よく考えて、まず心の世界で調和することです』と言いましたら
『思いあたることがある』と申すのです。

『あんた“甘露の法雨”のお守りを持っているの』と聞くと
『おや、どこへやったろう』と探しまわっている。

そして、私が御仏前で“甘露の法雨”を誦げ始めると、息子も後で合掌しているのです。
『もう、息子の心に光がさし込んだ』と、私の心に喜びがわいて来ました。

それまでだったら、そんな時には嘲けるように、
また、『お母さんの生長の家気狂いが始まった』などと言った子が
真面目に真剣に聖経をあげているのです。

翌日、レントゲン写真の結果をきいて来た息子が、
『やっぱり手術の必要があると思うが、ともかく一週間ほど経過を見ることにしよう、
と医師は言っていられた』と申しました。

『ああ、いいよ、いいよ。素晴らしい光のさし込む窓だ。悪いことは何にもないのだから』
と、勢いをつけてやっていましたが、その一週間目が昨日なのです。

昨日は、とても元気に帰って来ました。
そして『お母さん、もう大丈夫。“手術の必要はない、太鼓判だ”と言われて来たよ』
というわけだったのです。

そして、昨晩も御先祖の霊前で“甘一露の法雨”を誦げておりました。
お蔭さまで、大きな光の窓をあけていただいたのです」

私は、すっかり嬉しくなった。

「素晴らしい、素晴らしい。私の話してあげたのは、経済問題だったのです。
しかし、あなたは息子さんの病気に、そのまま応用してくれました。

とかく聞き方の下手な人、まだ真理がしっかり身についていない人は、
これは経済の問題、これは病気の問題、これは勉強の問題、これは結婚の問題と
、それぞれ別々に考えるものですが、真理はみんな同じことです。

何が起こっても、明るい解釈をして喜ぶことだ、と教えられているのです。
徹底的に明るい解釈をして心勇めば、それにふさわしい結果を生み出すことができる。
それは、我の力ではない、宇宙の法則が働き出すからですよ」

・・・

<光の窓のひらき方>

さて、この第一話、第二話は、さらに第三話を呼び出したのである。

ある日、素晴らしくデラックスな自家用車を運転してきた若夫婦の来訪をうけたのである。
奥さんとは、誌友会の席で顔見知りであったが、その日はどうしたのか、
まるっきりしょげてしまって、顔だけでなく身体中支えようもないという状態であった。

ご主人の話は、こうであった。

「家内が、大きなコリーを可愛がっていたのです。40キロ以上もある大きな犬です。
それが、病気をしたので 先日かかりつけの医者につれて行ったのです。
ところが、その医者が不在だったので仕方なしに初めてのところへ連れて行きました。

そうすると、注射の間違いとかで、犬はキリキリ舞いをして苦しんで苦しんで
その場で死んでしまったのです。

それ以来、妻は悩んで悩んで 自分が殺したような気がするらしく、
頭もろくろく挙げ得ないのです。それで、私の家は真っ暗になった感じで、
このままだったら妻は病気にもなりかねない状態なので、
日頃尊敬している平岡先生に……と言って来たところです」

 
それで私は、愛犬の死は、焦げつきの借金を支払わせてもらった不幸中の幸いであった
ことを前の2例によって説明したのである。

そして、犬の死はどんな形であったにせよ、寿命であって、
飼い主にそれほど愛されたのであるから幸せものであったことを話してあげた。
2人の顔に喜びの笑いが浮かぶのを見て、次のように結んだのであった。

「さあ、ところで犬が死んだのは一度ですよ。この話も一度で終わらせる。
これが光の窓を開く第一の秘訣ですよ。

私がかつて大阪にいた頃、斎藤というおじいさんがありました。
終戦当時の物のない時このおじいさんは、大好物のお酒を1升、
田舎の親戚でもらって来たのです。

それを大阪の駅で赤帽にもたせたが、赤帽が過って瓶を何かに打ちあてて、
こぼしてしまったのです。

斎藤さんは、この時のことを思い出してはボヤいたものでした。
『あの時は残念だった』と、私だけでも3、4度は聞かされたように覚えています。

それで、寺田繁三先生が斎藤さんに忠告されたのです。
『斎藤さん、その残念物語はもう止めておきなさいや。
あんた、酒瓶をこわしたのは1本でしょう。流れた酒は1升でしょう。

その1升をあんたは何石何斗にして、悔んでいる。
10遍言えば、1斗ですよ。百遍言えば1石ですよ。
言葉の力で、あんたの運命を粗末にしているのですよ』と言われたのです。

あなた達も、犬の死んだのは一度なんだから、もう二度と口にしないことです。
愛する犬は、光の窓を開けた功労者として、その栄誉を称えてやるのです。

そして、注射を間違えたらしい医者も看護婦も、みんな光のさし込む窓をあけるための
援護者であった。悪い役割を通じて、あんた達を一層幸福にするための天の使いだったのだ、
と感謝するんですね」

夫妻は顔を見合わせてうなずきあい、

「ありがとうございました。これで、胸がすっきりと晴れました。
新しく元気を出して働きます」と、いそいそと帰って行かれたのであった。

それから、1週間後の月曜会の晩、その奥さんが誌友会に来られだ。
そして、嬉しい話をしてくださったのである。

「平岡先生、先日は、犬の死は焦げつきの借金を払うて、光のさし込む窓を開けたのだ、
素晴らしい、素晴らしいと祝福していただきましたが、本当に先生のお言葉通りになった
のであります。

実は、私の主人は優しくて善い人ですが、
もう一つもの足りない気持が私にはあったのでございます。
それは外でもない、信仰上のことなのです。

私はお蔭さまで生長の家の教えにふれさせていただいて、
これこそ人間最高の道であると信じていますが、
主人はどんなにすすめてもご本を読んでくれなければ、お話を聞いてもくれなかったのです。

これ一つが、主人に対する私の不平であり、不満だったのです。

ところが、あの日の帰りの車の中で、主人は平岡先生のお話にしみじみと感嘆して、
『生長の家の話って実に素晴らしいなあ。おれも本を読んでみよう』と言ってくれました。

今日は『生命の實相』全巻を注文してくるように言われてきたのです。
先生のお蔭です。ありがとうございます」


そこで、私は言いました。

「私の話もよかったのかも知れませんが、それよりもっと素晴らしいことがあったのです。
それは、あなたの言葉の中に発見したことです。あなたは、こうおっしゃいました。

『先生、私は犬に死なれてからの4、5日は、眼の前が真暗闇になりました。
食事の用意も、お掃除も、何ひとつ手につかないのです。生長の家も、神さまも、
みんな忘れてしまいました。

私は苦しくて、苦しくてたまらないので、主人にしがみつきました。
“お父さん、苦しいのです。助けてください。
お父さん、私は、お父さんの外に、どこに頼るものがありましょう”と、
主人にしがみつきました」と、おっしゃったですね。

あなたの神さまは、ご主人であることを発見し、それを実践なさったのです。
そこに、完全な夫婦の道が完成し、天国浄土が現成したのです。すばらしいね。

夫にとって、妻から受ける信頼感ほど素晴らしい幸福はないのです。
その妻のためなら生命をかけても惜しくないのです。

この世は神のつくり給える世界であって、不完全もなければ不幸もない。
みんな焦げつきの借金を払って、光のさしこむ窓を開けるための道行きだった
にすぎないのです」



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