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光明掲示板・伝統・第二

 

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ひかりの語録 (34)
日時:2016年12月31日 (土) 20時27分
名前:伝統

(光明掲示板・第二 より複写)

日時:2013年09月15日 (日) 13時09分
名前:平賀玄米

○一切の實在は神なる一元より発生したのである。吾々は神の中にいる。常住神を
 離れることは出来ない。だから神に近づくとは、一歩々々色々の工夫を凝らして神
にまで攀じ登ることではない。工夫と云う私の計いがなくなった時、其儘(そのまま)
で神の中におり、神に一致し、神の儘に行為し生活している自分を見出すのである。

○西行法師の歌「雲にただこよいの月をまかせてん 厭うとしても晴れぬものゆえ」
 雲に捉われていては晴れようがない。併し月の方から見れば常住明月である。
ただよえる雲の彼方のまんまるに 澄み切る月ぞわが姿なる

○家の中にいて自分が濡れていないのに、外の雨が気になるのは、心が雨に捉われている
 からである。

○吾々は常に金剛不壊實相の家の中にいる。現象(そと)の雨を気にかけせねば、その儘で
 濡れないのである。

○濡れるのは、雨の音に驚いて、『實相の家』から出て見るからである。外の為に傷つくのは
 自分が外物に捉われるからである。

○眞理への道はただ一つ-----人間は神の子だ------と云うことである。

次回に続く。p3

      <平成25年9月15日谷口雅春先生著「ひかりの語録」より謹写>

○神は『人の心』を悪に造らない。悪い心は『人の心』ではない。人とはそんな悪いもの
 ではない。汝が『悪い心』を顕していると云うことは、それは汝が其処に本当にあらわれて
 いないと云うことである。

○汝は何のために自己弁解するのか。汝がそのように弁護し、まもろうとしている自己は
 『汝の本物』ではないのだ。それは『汝』であると云って、汝を欺き周囲を欺いている
 詐欺漢である。

○何も隠すことも蔽うこともない。汝自身が悪いのではない。ニセ物が汝の名を瞞って汝と
 周囲を欺いていたのである。

○汝のニセ物の仮面を?げ。ニセ物の罪状をあらわにせよ。ニセ物を逐い出し、叩き出だせよ。
 -------これを懺悔と云う。

○罪を隠しているのは、罪を実在だと思っているからである。矢張り『本物の自分』が罪を
 犯したのだと思っているからだ。『本物の自分』をもっと尊べ。『ニセ物の自分』を罵れ。
 それを叩き出し、『無』にまで粉砕せよ。

○『ニセ物』を其の家から逐い出すには、『ニセ物』は盗賊であり詐欺漢であるから
 『本物の主人』がその家へ帰ってくれば、ひとりでに『ニセ物』は逃げて行く。

○『薬剤の法則』と云うものもニセ物の法則であるから、『實相(ほんもの)の人間』が
 自宅(体)へ帰って来れば効かなくなる。『實相の人間』が其の家に近づいていても、
 まだ 本当に帰りついていない間は『薬剤の法則』が本物顔に幅をきかす。

○神をもっと尊べ。神のみが造り主だ。神から出たものに悪があると思うな。
 神から出たものに病気などと云う不完全なものがあると思うな。

○あらゆる宗教の眞随は『神から出たものに悪があると思うな』という原則に一致する。
 併し多くの宗教はその次の結論を誤っている。彼等は誤って云う-----だから病気も
 神から 出たものであるから悪ではない。難有(ありがた)いと思って之を受けよと。

○病気が有ると云う信仰は?神的な信仰である。

○難有(ありがた)い生活は好いが、『病気は難有い、苦難は難有い、貧乏は難有い』と
 被虐待淫乱(マゾヒスムス)的な虐待せられることばかりを難有(ありがた)がる信仰
 は本当ではない。
p3 p5
      <平成25年9月16日谷口雅春先生著「ひかりの語録」より謹写>

○或る基督(キリスト)教の日曜学校を経営している人が、友人から『オルガンを買って
 進呈すべく今その発送の手続きをした』と云う通知を受取った。ところが、その信仰深き
 人は、『どうぞ私のような卑しいものに、そう云う結構な物を恵み給わないように』と熱心
 に神に祈った。この信仰深き人にとっては、乏しいことが難有(ありがた)いのであって、
 裕なことは難有い事ではなかったのである。

○虐待されることは難有いが、歓待されることは難有くないのは、病的なチンバの信仰である。
 人類多くの病気と運命上の苦難とは、この虐待を歓迎する人類の潜在意識から出ている。

○何でも平等に拝めるようにならなければニセ物である。何でも平等に實相を拝めない位なら、
 穢いものを穢いとし、綺麗なものを綺麗だとし、便所を穢いとし、一等車を綺麗だとする方
 が正直な生活である。

○愛して報償を求める愛は功利的な愛である。利益にならなければ腹が立つ愛である。

○一層高まった愛は、相手が喜んでくれるから愛する愛である。これは功利的ではないが、
相手が喜んでくれなかった場合や、相手が自分の好意に気がついてくれなかった場合など
には、淋しさを感ずる愛である。

○報償を求むる愛も、喜んで欲しい愛も、共に『我』がある。『自分がこうした』『自分があ
 あした』『然るに彼は』と云う風に、『自分』と云うものを脱け切っていない愛である。

○至上階の愛は『自分』を全然脱却いている。それは飄々乎として、捕えんと欲すれど捉える
 ことが出来ない。

○『先刻はこんな結構なことをして頂きましてどうも有難う』と云われても、『ヘェ、わたし
 が?何時そんな事をしましたかねぇ。』と空とぼけるのではないが、心から自分の愛の行為
 を忘れて了ったような愛が至上偕の愛である。

○至上偕の愛は、自分がしたのではない。神と偕(とも)なる時、おのづから出来た愛である
 から、『自分がした』と云う感じが少しも残っていないのである。

○我を忘れた愛が惟神(かんながら)の愛である。惟流れの愛である。神催しの愛である。
 神と偕なる愛である。大菩薩の愛である。
p5 p7
      <平成25年9月17日谷口雅春先生著「ひかりの語録」より謹写>


○家庭の葛藤は、執着の愛から起る。舅姑と嫁同士や夫婦親子間の紛争は、すべて『自分が
 斯うして遣ったのに』と云う『我』の愛から起るのである。

○内に宿る神にたよる者は幸福である。彼は予め恐怖しない。彼は取越し苦労をしない。
 内に宿る神とは實相の我である。

○差し迫った時が来れば吾々のうちに宿った神があらわれる。イザと云う時を恐れるな。

○必要にブッ突かれば、吾々のうちに奥深く隠れている力が呼び覚まされて起ち上がる。
 此の力は吾等の衷に宿り給う神の力である。

○何人も愈々のときが来ると全く別人のように恐れも呟きもせずに従容として死に面する
 ことが出来る。生きているうちに、愈々を誘い出す人が大事業を為すのである。

○いつも手術台上である。明日はないことを自覚せよ。

○何物かに値する程の人間は彼自身のうちに、永遠の向上を目指して
 自己を駆り立てて止まない力を自覚する。

○是非せねばならぬ仕事が多いと呟くな。忙しいと云うことを感謝せよ。
 必要は埋蔵されたる『内なる無限力』を呼び覚ます。

○世界の最大事業中の大部分は、必要の拍車のもとに完成したのである。
 是非にと駆りたてる容赦なき鞭こそ生命の興奮剤である。

○『必要』は、とても勝ち目のないような敵に対して、奇跡的に勝利を得せしむる。
 『必要』は動けない病人を癒す力である。

○人間の心の中に潜む悪魔-----それは人生を楽に寝てくらしたがる懶け者の根性である。
 安静療法患者の心には、往々此の悪魔が潜んでいる。

○懶?(らんだ)の悪魔を駆り立て、逐い出し、生命の本然を完うさせてくれるものは、
 『必要』と『多忙』とである。『必要』と『多忙』とで病気の治った人は澤山ある。

○生命の本然は働くことである。生命は働くことによって生長する。『必要』と『多忙』
 とに感謝するものは生長する。
p7 p8
    <平成25年9月18日谷口雅春先生著「ひかりの語録」より謹写>


○思想は時として天上から降って来る。或いは地下から予想もしない時に湧いて来る。
 その思想は時として霊界からの放送の感受でもあれば、自己の神性からの噴出である事もある。
 天上の思想も地湧の霊想も時間を超越している。直ぐ其の時、間に合わなくとも捨てる
 べきではない。忘れて了えば二度と想い出せないような思想に価値あるものが多いのである。
 暫く篋底(きょうてい)に埋めて置けば軈(やが)て現実の用途に花咲く思想もある。
 『想』は現実に先立ち、『想』あって現実が芽生える。
 小さな思想の手帳を常に懐中して置き、『想』起るに従ってそれを簡単に書き止めて置くのは
 良い方法である。

○『想』には詩想もあれば思想もあり、実用に関する解決の暗示もある。
 これを部分別(クラシファイ)して手帳に書きとめて置き、問題に従って、其処を開いて
 見ると非常に導かれることが多いものである。

○他を羨むな。自己の現在に満足するな。自己の奥にあるところの無限の宝を羨んで、その
 無限性を把むべく突貫するのが最も自己生長の道である。

○思想は此れを紙に書くとき一層深まる。計画もこれを書き下ろすとき
 一層微細のところに注意が行き届く。
 書いて見ると精神が統一する。書いて見ると分析と統一とが同時に行われる。

○一つのものにでも執したら、苦しみは其処から始まる。本来自由自在な自分の心を
 自分の念で縛ることになるからである。

○黄金は、指輪にしても金貨にしても帯留にしても黄金に変りはない。色々の形をして
 いるのは中間因果であり、どんな形にしても黄金の本質を失わないのは本来因果である。
 人間も神の子であることが本来因果であり、どんな形になっても、肉体が壊れても、
 神の子である本質は壊れて了うことはないのである。

○形の地獄の中にも極楽がある。『縛られても自由自在』の消息を知るものは幸いである。

○死んだと思ったら生きられるのだ。形にとらわれなくなるからだ。

p8 p10   
      <平成25年9月19日谷口雅春先生著「ひかりの語録」より謹写>


○全てが備れるが人間生命の實相である。欲ばる必要のないのが人間生命の實相である。
 欲ばっている間は『生命の實相』を悟ったものではない。

○最も善き施しは、罪を消し、病を消し、死を消し、欠乏を消し、すべてが完全に備れる
 自己の生命の實相を自覚せしめる教である。

○善とは生命の實相に仕えること、生命の實相の催しのままに生きることである。
 物質的手段に頼って見たり、時には生命の實相に頼って見たり、フラフラするような
 ことでは何の甲斐もない。人は二人の主に仕えることは出来ない。

○眞理のみ、ただ眞理のみ吾れを生かすのだ。我を生かすのはパンではない。物質ではない。

○ただ霊によって新生せるもののみが眞に生きるのだ。
 そのほかの人の生はニセ物の生である。

○霊によって新生せる者には激情はない。利己的欲望はない。憎みはない。恐怖はない。
 五官の快楽の虚妄を知るが故に、それに捉われることはない。

○奮我を放下せよ。今日から神の子となれる。

○捨てることが一つの仕事である。物と霊と価値が顛倒して来なければ本物ではない。

○自己の仮面を剥ぐとき本物の我が顕れる。

○キリストは肉体を十字架にかけた時、本当に生きたのである。肉体は無いと抹殺しない
 ものは、本当の生命を生かしていない。『十字架を負うて我れに従え。』

p10 p11

   <平成25年9月20日谷口雅春先生著「ひかりの語録」より謹写>


○物質は人間の不滅に何の影響もない。

○物質が人間を癒さないのは、罪が人間を救う力がないのと同様である。

○人間神の子の至高の権利を冒すものは何物もあり得ない。

○罪は罪自身によって罰せられる。いわば罪自身の重さによって壊けるのである。

○執すれば善も善にあらず、執せざれば悪も悪にあらず、。
 流るる水の如く、漂う雲の如く、とどまらざる処に、否その奥に本当の善がある。

○肉体は肉体である、人間ではない。

○罪は罪である、人間ではない。

○明日しようと思っている間に時は過ぎ行く。あやまる事は早くあやまるが好いし、
 和解することは早く和解するが好い。すべての支払いは、『明日に、明日に』と
 思っている間に、延ばしている期間だけ先方から悪い念波の放送を受け、自分自身の
 生長を妨げられる。

○みんな自分の念が悪いのだ。自分の心の影であったのだ。

○ひとを責めようとしていたのは間違いであった。

○他(ひと)を喜ばそうと云う考えは自分を健康にし、他から喜ばせて貰おうと云う
 考えは病気を招く。

○人は『自分の心』だと云う。しかし、自分が心を有っていると思うのは間違いである。
 自分が心を有つのではなくて、自分は即ち心である。人は何よりも先ず『心』である。
                    

○わが肉体はわが心の影。

○『類を以てあつまる』と云う諺は心の法則に当てはまる。人は出来るだけ明るい心を
 有たなくてはならない。明るい心の家庭には幸福がおのづから集まる。
p11 p12
    <平成25年9月21日谷口雅春先生著「ひかりの語録」より謹写>


○『笑う門には福来る』いうことは眞實である。すべからく一日三回は鏡に向かって
 自分の表情を出来るだけ幸福にし、自分は斯くの如く常に幸福な表情をしていると云う
 ことを、自分の心に奥深く印象せしめよ。斯くの如きこと三ヶ月にしてその人は眞に
 幸福な人となるであろう。此の方法だけでも病気がよくなる。

○ひとに対して晴れやかに笑え、晴れやかな笑は自他の栄養剤である。
 

○就職難をかこつ勿れ。十倍二十倍百倍千倍の求職者があろうと恐るる勿れ。彼と是との
 選択はきわめて微妙なところにかかっている。就職の資格は常に必ずしも仕事が飛び切り
 に出来ることだけではない。会社の仕事の如きは俊才を待たずとも出来るのだ。
 就職の秘訣は人間の全体としての味にある。

○人間の味------出会った時の第一印象------人それぞれの魅力------それは心の問題である。

○泣き言を云うことを止めよ。泣き言は泣き事を呼ぶ。

○常に泣き言を云う人の眼のふちは黒い。

○隠れたところにて人を賞め得る人となれ、その人の心境は朗らかである。

○責むべきことあれば其の人の前にて直言せよとは古への訓(おし)へである。責むべき点
 あらば賞(ほ)むべき点のみ探し出して其の人を賞めよとは『生長の家』の訓である。

○自分に深切であれ-------此れを本当に実行している人は少ない。

○如何に多くの人々が毎日自分を傷つけていることであろう。憤怒、憎悪、恐怖、
 罵詈------その他すべての悪徳は自分を傷つける。
p12 p13
    <平成25年9月22日谷口雅春先生著「ひかりの語録」より謹写>


○すべての心の動きはその人の顔に印象される。
 三年間同一の職業をつづけている人は(特異な思想生活を別に有っている人のほかは)
 一見して其の職業が何であるかがわかる。

○白粉(おしろい)で化粧しても心情の下劣は隠せない。心で化粧せよ。

○自己の内に神を観た者は恐怖を超える。

○明日の苦を思い煩うこと勿れ、一日の苦労は一日にて足れり、
 想像の苦痛は現実の苦痛よりも耐えがたい。

○多くの病者は未来の不安で病気を拡大している-------この次はどうなるかと思って。
 併し未来は来て見るとさほどではない。

○渋面をつくるな。世界も汝に対して渋面をつくる。

○周囲に対して微笑みかけよ。周囲も又汝ににこやかに微笑みかける。                    

○背水の陣を布け、窮鼠かえって猫を食む。

○わが肉体はわが心の影である。わが境遇もわが心の影である。

○希望は現実の母である。希望に燃えよ。希望の火で一切を焼きつくせ。

○その日その日が宗教生活である。自己を生かすことが宗教生活である。働くことが
 宗教生活である。愛することが宗教生活である。周囲を生かすことが宗教生活である。
p13 p14
     <平成25年9月23日谷口雅春先生著「ひかりの語録」より謹写>


○生かさない生活は宗教生活ではない。

○憎みや怒りは生命の摩擦である。摩擦は力の浪費である。感謝の心は生活に油を差す。

○天に地に感謝せよ。万物が皆有りがたい。おのづから合掌される。始終この心持でおれ。

○大根を抜く時には大根に礼を云う心になれ。
 机に向う時は机に礼を云う心になれ。(金光教祖)

○愈々(いよいよ)の時が来れば無限の力が出る。汝の内に宿る力を信ぜよ。

○苦痛を喜べ。痺(しび)れるときは苦痛はないが、痺れが治るときは苦痛である。

○柔道で締められて死(お)ちるときは寧ろ恍惚感を味わうが、蘇生(よみが)へる
 ときは苦しいことは実験者のいつわらぬ感想である。

○苦しみよりも寧(むし)ろ恍惚感を警戒せよ。そこに魂を麻痺さすニセ物の歓びがある。

○食欲に恍惚として食いすぎると胃腸をこわす。食いすぎたのちに腹痛を覚えるのは、
 治るための前提としての警鐘である。

○誰でも苦痛が来るとき、迫害が来るとき、病苦が来るとき、悪くなる程良くなると信ぜよ。
 その人は必ずよくなるものだ。
p14-15
   <平成25年9月24日 谷口雅春先生著「ひかりの語録」より謹写>


○『生長の家』は病気治療が目的ではない。病気も治ると云うに過ぎない。
 病気は心次第でいつでも消滅するのだ。

○心が善くならないでいて病気が治る者は禍だ。

○強さと正さと明るさ。吾らの理想はここにある。心にこれが成就したとき、
 外はおのづから整う。

○世界は正札で掛引も値引きもない。世界は当人の心だけのものを投げ返す。

○真理は大きい。誰もその全部を掴んだ者はいない。

○吾らの無尽蔵とは良き水脈に穿たれた井戸のように汲めども尽きぬことを
 云うのであって洪水のことではない。

○洪水は吾々を滅ぼし、不断につきない井戸水は吾らを生かす。

○贅沢は吾々を滅ぼし、程よき衣食住は吾々を生長さす。

○贅沢を羨むな。今日一日生かされてある事実に感謝せよ。

○どうでも好いことに何時までもかかわるな。生命は貴い。

○小さいことに腹を立てるな。あとから考えて見ると、それは皆どうでも好いことだ。

○小さなことを口惜(くや)むな。吾らの最も口惜むべきことは、
 そんな小さなことに心を動かすと云う自分の小ささだ。
p15-16
    <平成25年9月25日 谷口雅春先生著「ひかりの語録」より謹写>

○生命の尺度で価値を測れ、金ではかるな。

○日々の仕事に精を出せ、仕事に高下はない。如何なる態度でその仕事をするかと
 云うことに人間の高下がある。

○きょう種を蒔いたからとてきょうは生えない。芽が出るには時間が要るのだ。
 信じて待つということは仕事の秘訣だ。

○信じないで、毎日土を掘りかえして、種の芽が出ないことを心配するものは禍だ。
 その種は腐って了う。

○はじめた仕事が今日すぐ結果があらわれないとて失望するな。遅い生長ほど堅実である。

○松茸は一夜に生長する。樫の木の生長はおそい。
 そのかわり松茸の寿命は短く、樫の木の寿命はながい。

○樫の木か、松茸か自身に問え。

○境遇を飴のように引ン曲げよ。でなければ汝自身が飴のように引ン曲げられる。

○成功とは金の出来ることではない。名の出ることではない『生命』の向上進歩することだ。

○『生命』よ愈々實相の高貴にまで翔けあがれ。

○外のものにたよるな。物質に頼るな。制度にたよるな。

○みづから起て。松葉杖にたよるのは跛者(あしなえ)のことだ。
p16-17
    <平成25年9月26日谷口雅春先生著「ひかりの語録」より謹写>


○ひとを拝め、自分を拝め、みんな神の子だ。肉体のことではないぞ。

○神の子だちが互いに挨拶するように、人間よ互いに挨拶せよ。

○世にもし軽蔑すべきものがあるならばそれは唯一つ、軽蔑すると云う行為である。

○世話になるものすべてに感謝せよ。

○悪魔のうしろにさえ神の摂理を見たフランシスは幸いであった。

○神のおはからい------摂理-------にまかせよ。

○宗教生活とは神のおはからいに委せた生活である。目の前の幸不幸にとらわれない生活
 である。一見如何にも不幸と観える事件が起って来てもその見せかけの不幸のうちに、
 自分の『生命』の生長に必要な肥料が、神のおはからいで織り込まれていることを信ずる
 生活である。

○苦痛を不幸だと思うのは肉体心のあやまりである。苦痛がたましいの生長にどんなに
 必要だかと云うことを知る者は苦痛でも喜べる。

○苦痛が喜べるようになった時、その人には恐ろしいものはない。

○人間を憎むな、憎むのは自分が苦痛をこわがっているからだ。苦痛が喜べるようになった
ときその人は憎みから解放される。

○苦痛の火の中にあって、自分のたましいが白金か鉛か自問せよ。

○病気がなおったと云う理由で神を讃えるものは、今度病気になったとき神を呪わない
 とは限らない。

○いつでも神をたたえ得る者は幸いだ。

○人間が皆な神の子であることを自覚しないのは実に気の毒なことだ。
 自己が神の子であると云う自覚が一切のもとである。
p17-18
     <平成25年9月27日谷口雅春先生著「ひかりの語録」より謹写>


p18-19

○なろうと思うよりも、なれると思って明るい気持ちで努力せよ。

○意志の力よりも想像の力の方が強い。想像力は創造力だ。

○みんな希望を実現しようと思って焦るが実現出来ると思って悠々と努力する者は少ない。
 失敗者の多いのはそのためだ。

○出来ると思うものは必ず出来る。

○試験にパスしようと思って焦るな。パスは既定の事実だと思え。

○あせるな、あせるのは恐怖心があるからだ。神の子がこわがることがあるか。

○めくら蛇に怖(お)じずと云う諺がある。蛇を見ない者は蛇に勝つ。危険を見ない者は
危険に打ち勝つ。蛇の頭を踏みつぶす盲人の如く一切の恐怖心を踏つぶせ。

○めくらと云っても『迷い』に盲目(めくら)で『生命の實相』には目明きでなければならぬ。

○すべての人は皆王様のように自由である。

○ひとから同情せられようと思うな。苦しくないのに苦しいと云うな。本当に同情せられねば
 ならぬように苦しい境遇や病気をまねくもといだ。

○みづから起て。自分の弱さを語るな。自分の弱さは語るほど自分を弱める。

○仕事を休みたいと思うな。休まねばならぬ事情をまねく。

○逃げ出そうと思うな。汝は神の子ではないか。

○天気の小言を云うな。すべてについて小言を云うな。小言はすべて暗い気分を招く。
 暗い気分は病気と不景気のもとだ。


    <平成25年9月28日谷口雅春先生著「ひかりの語録」より謹写>




○家と店とを明るい気で溢れさせよ。その家族は皆達者で、店は繁昌する。

○自分を捨てるのではまだ駄目だ。自分を捨てたと思っているあいだはまだ自分を捨てていない。
 自分を本当に捨てたときは自分を忘れたときだ。自分を忘れて仕事にはげむとき、人間は最も
 迅速に進歩するのだ。

○買うと云うことは、働いている者に与える行為だ。
 施しと云うことは働かざる者に与える行為だ。いづれも愛の道である。

○買うな節約せよ、とは働いている者にさえも施すな与えるな、愛するなと云うことだ。
 ケチな節約は愛の道ではない。

○働かぬ者にさえ施すのが愛の行為であるのに、働いている者にさえ与えない(買わない)
 ことを節約の美徳だと考えている者は愚者だ。

○しかし浪費は善くない、その品物を造るために賭けられた生命の尊さを知らぬものだ。

○人は自分と同じ者を相手に見出す。凡ゆる場合に於て、人は相手そのものを見るのではない。
 自分の心を相手と云う鏡にうつして見るのである。

○化学者は机を見て、それを水分が何パーセント、炭素が何パーセント、
 水素が何パーセントと云う風に元素の一種の結合であると見る。
 植物学者はこの机は楢、この机は欅、この机は紫檀などと区別する。
 しかし『生長の家』はこの無生物と見える机にすら『愛』と『生命』とを
 見出してそれを拝むのだ。

○万象ことごとく『生命』。万象ことごとく『愛』。

○山川草木どんな存在にも神性を見よ。

○あらゆるものを拝む者は智慧ある者だ。

○下女でも下僕でも拝めば神性が出て来る。
p20-21
     <平成25年9月29日谷口雅春先生著「ひかりの語録」より謹写>


○どんな低い『生命』でも拝めば神性を発揮する。
 『稲荷の正体』とか『八幡の正体』とか中途半端なところまで解剖して、
 悪口や、軽蔑することや、排斥することを教える霊学者は憐れむべきだ。

○もっと奥深い『生命(せいめい)』まで突込んで行け。
 奥の奥、裏の裏にある生命を見よ。

○わが教は広く大いなる道である。あらゆる存在が尊べる道だ。
 生命あらゆる存在を拝む道だ。机でも大根でも拝む道だ。

○わが教は審判(さば)く道ではないのだ。礼拝の道だ。包容の道だ。

○物を生かして使え。しかし生命はもっと大事だ。
 物を大事にしようと思って 人間を不大事にする者は本末を顛倒するものだ。
 一枚の皿を破ったと云って人間をガミガミ叱るな。人間は皿より尊い。

○と云って一枚の皿をも大切にせよ、それを造った人の生命(せいめい)が宿っている。

○経済界は循環(あたえあい)の世界だ。
 人間全体がこれを自覚するとき経済界に黄金世界が来る。

○頭に浮かんだ思想感情はラジオのように宇宙に波及する。表情でかくしても、意志で
 押えても心をかすめた思いは風媒花の植物の種子のように飛んで往ってどこかで生える。

○チラと好い考えが浮かんだと云う、それは何処からか飛んで来た思想の種がその人の
 頭脳のアンテナに引っかかって生えたのである。常に好い思想ばかりを、好い思いつき
 ばかりを感受するアンテナになれ。

○吾らは種を蒔く人である。常に善き種を蒔け。深切な思いの種を蒔け。
 愛の種を蒔け。好意の種を蒔け。

○チューリップの花のように、バラの花のように、われわれの蒔いた善き思いが
 やがて花をさかすときの楽しみを思って喜べ。
 

○喜ぶ人は喜びの種子(たね)を蒔く人だ。
 呪う人は呪いの種子を播く人だ。
 悲しむ人は悲しみの種子を播く人だ。

○播けば殖える。だからどんな方便でもして喜べ。
p21-22
   <平成25年9月30日 谷口雅春先生著「ひかりの語録」より謹写>


○心の悲しい人よ、毎日鏡を見て出来るだけ朗らかに笑って自己が幸福であることを心に
 印象せよと云えば、これを物質的方法だと思っている人があるが、これは物質的方法ではない。
 自分のもっている凡(あら)ゆる方面のうちで、どこでも可いから光明的な方面だけを見よと
 云うのである。
 心の暗い人は心の暗さを見戌(まも)っていては益々心が暗くなる。
 それで心を一転して朗らかに笑った顔を見よと云うのである。これは方便である。
 はじめは不自然でも自然に幸福に笑えるようになって来る。

○心の明るい人は別に鏡を見て工夫して笑わなくても好い。心の明るさを見つめていれば好い、
 そして自己をついに光明遍照の相(すがた)に於いて見るのだ。これが極致だ。

○火傷や癩病で顔のみにくくなっている人も鏡を見て笑わなくても好い。どこでも好いから
 自分のもっているうちで最も光明的な部分を見れば好いのだ、全身の醜いものは眼をとじ、
 肉体に対する想念全体を停止し、自己の實相(肉体は仮相、生命は實相)の光明遍照せる
 さまをありありと生々と観ぜよ。

○肉体は『生命』の乗馬である。『生命』は騎手である。
 如何なる名騎手も乗馬が跛者(あしなえ)であるならば巧みに乗りこなせない。
 逆に騎手が下手でも、乗馬が温順な名馬であれば或る程度まで自由に乗りこなせる。
 この乗りこなせる程度が吾々の精神作用である。

○精神作用が可成り立派でもそれは『生命』の立派さの絶対標準にはならない。

○また別のたとえ-----『生命』は太陽の光線、肉体は三角ガラス。精神作用は『生命』が
 肉体を通過するときに生ずる虹である。

○神示とは『生命』が肉体を通過しても少しも屈折しないで『生命』の黙示そのままが
 肉体の精神作用にあらわれる状態である。
p22-24
   <平成25年10月2日谷口雅春先生著「ひかりの語録」より謹写>


○名騎手は却って駄馬をも乗りこなそうと試みる。殊更に乗りこなせない病弱な肉体を
 選んでその肉体に宿って来た『生命』がある。
 生まれつきの不具者(かたわもの)、難病者の『生命』はそれである。

○皆のものよ、不具者と難病者の『生命』を一層尊べ、彼の『生命』は名騎手であるから、
 特にかかる不便利な肉体に乗っているのである。彼を軽蔑するな。憐れむのさえ、名騎手
 たる彼の『生命』に対しては失敬である。その『生命』の悲壮美に驚嘆せよ。讃嘆せよ。

○不具者よ、不治の難病者よ。病苦に耐えよ。よき乗馬(にくたい)をもっている人を羨むな。
 他を呪うな。自己の『生命』が特に名騎手であるから病弱な乗馬(肉体)に乗っていることに
 自信をもて。弱い音を吐くな。名騎手たる自己の『生命』を恥ずかしめるな。

○一つの『生命』は地上なる肉体を選んで這入って来るとき、その受くべき苦しみを予め知り
 ながらその肉体に宿ってくる。受苦の多き生命ほど『高速』の進化をとげる。

○飛行機は高速であるから歩くより震動は激しい。高速に進化する『生命』よ。
歩く者の震動の少なさを羨むな。速力の迅(はや)きを見て喜べ。

○彼の行為がどんな動機から来たのであろうと穿鑿するな。すべての行為を善き動機から来る
ものとして言葉で賞めよ。
もし彼が悪しき動機からそれをしていたのであったなら、彼は始めはくすぐったく思うであろう。
次に彼はそれを本当に善き動機からしていたのであったならば、それがみとめられる時の幸福を想うであろう。
そしてこれから善き動機を有つことの幸福を知るであろう。彼はついに善き動機をもつに到る。
彼はついに善人となる。賞め言葉がついに彼を善人としたのである。

○陰を見るな。光明の方面を見よ。見た方面が強くあらわれる。

○酷評するな。折角よき心からした行為も、その動機が不純だとして酷評せば人間は余程の
 強き人格をもっている者でないかぎり、善き行為をなす勇気を失ってしまう。

○神でも讃えられることを喜ぶのだ。弱き人を力づけ善に導く道は讃えるにある。
p24-25
   <平成25年10月4日谷口雅春先生著「ひかりの語録」より謹写>


○外物をかえて見ても心が変らねば人間は幸福にならない。人間の幸福は心の中にある。
 幸福を思えば、幸福の心の波がおこり、幸福の心の波が起れば、世界の幸福の波長が
 集まって来て其人の周囲に具象化する。

○心が変れば外界がおのづから変る。外界は人間の心のつくったものだからだ。

○職業のない人は職業さえ得られれば自分は幸福になれると思っている。
 健康でない人は、健康でさえあれば自分も幸福になれると思っている。
 職業も健康もありながら不幸な人が世の中には沢山あることをそんな人は考えない。

○萎縮するな、あらゆる点に於いて萎縮するな。

○手を伸ばし、腹を伸ばし、胸を伸ばし、眉を伸ばせ。これが生長の道である。

○身体を伸ばせば心も伸んびりする。

○電気には変圧器と云うものがあって、その機械を通せば高い電圧も低い電圧に変る。
 人間は宇宙の無限生命の変圧器である。
 自分の顛倒妄想でさえぎらねば無限の生命がながれ込む。神想観で顛倒妄想を祓いきよめよ。

○捉われないことと不注意とは別物である。注意深くして捉われないのが上々である。

○細かい注意は愛なきものには出来ぬことだ。

○善き仕事には光線が必要である。明るい気持ちでなければ善い仕事は出来ぬ。

○下役に小言を云わなければ善き仕事が出来ぬと思っている上役があるが、小言を云われる
 不快な気持ちでは誰でも“魂”の這入った仕事は出来ぬ。
 賞められて乗り気になってするとき“魂”の這入った仕事が出来るのである。

○欠点を見つけるな。荒立てるな。静かに彼のために祈れ。
p25-26
     <平成25年10月5日谷口雅春先生著「ひかりの語録」より謹写>

○家庭の精神的葛藤で病気をつくっているものが多勢(おおぜい)ある。そんな病気は
 どんな薬も、霊術も、家庭の乱れを治さねば根本的には治すことは出来ぬ。

○事務所に窒息するような空気をつくるのも、輝くような雰囲気をつくるのも
 上役の心持次第である。

○家庭の幸福を内に持たない子供は可哀相だ。危険と堕落とが外から呑もうとして待っている。

○子を愛する親たちよ、家庭を乱すな。

○子供をあまり束縛するな、神に委ねよ。家庭よりも外の方が楽しいようになったとき、
 子供は危険の淵に立つ。

○實在すなわち光明。これを不可思議光と云い、如意自在と云う。非実在すなわち暗黒、
 これを病と云い、不幸と云い、人生苦と云う。闇はあるのではない、光明だけがあるのである。
 光明のないことを称して『闇と』云うに過ぎない。

○實在にばかり眼をやるものは常に心に光明が輝き、肉体に生命が満ちあふれる。

○非実在を非実在とせよ。これを悟るのが智慧。

○薬剤も、電気療法も、体操も-------色いろの健康法も、神の前には愚かなるものである。
p26-27
       <平成25年10月6日谷口雅春先生著「ひかりの語録」より謹写>


○恐怖は人を殺す。米国マサチューセッツ州リム市で外科手術の際、エーテル麻酔を受け
 そのてめに死んだ婦人がある。現場にいた彼女の妹は証言して患者はエーテルを吸入する
 ことを拒絶したのに、外科医がそれを強いたのだと云った。
 彼女は両手を突き出して反抗しつつ死んで了ったのだ。この事件は法廷に持出された。
 死体の検診の結果患者は少しもエーテルを吸入していないことがわかった。
 エーテルを吸うと云う恐怖が彼女を殺したのである。

○物質はそれ自身無力である。これに人を支配する力を与えるのは、人自身の力である。

○陰陽の結合を愛と云う。足らざる所に、余れる所のものを与え合わして互いに
 完全になる道が愛である、愛はイザナギ、イザナミ二神の成したまえる神事である。
 連なりて全くなるが故に互いに夫(つま)と云い妻(つま)と云う。良人と妻よ
 互いに扶(たす)け合えよ。

○男性は女性と連って粗野を和(やわら)げ魂に次第に高き調子を得る。女性は男性と
 連なって勇気と力を与えられる。両性の結合は魂の結合である。肉の結合はその影だ。
p27-28
     <平成25年10月7日谷口雅春先生著「ひかりの語録」より謹写>

○すべての善さを知るものは幸いだ。自分の生活のみがいちばん善いと思っている間は
 だめだと知れ。どれも皆夫々の姿に於て一ばん善いことを知るのが智慧である。

○善いと云うことは生命がそこに顕現していると云うことである。

○朝顔の花をいちばん美しいと思うな。薔薇の花をいちばん美しいと思うな。藤の花を
 いちばん美しいと思うな。牡丹の花をいちばん美しいと思うな。生命は皆美しいのである。
 万象ことごとく美である。

○キリスト教のみが善いと思うな。佛教のみが善いと思うな。天理教のみが善いと思うな。
 金光教のみが善いと思うな。黒住教のみが善いと思うな。
 生命の種子は、いづれも相応しい地に落ちて教えの万花を開くのである。
 生命の種子はミチ(遍満の光明)にして、人を通じてあらわれるとき生活となり、
 虹のように七色に分光してそれぞれの教えとなる。
 紫の光が紅の光を笑わば紅の光は紫の光を笑うであろう。
 紫の光が紅の光を讃えば紅の光は紫の光を讃えるであろう。

○すべてを讃えよ。讃嘆の声で雨ふらせ。

○常に生活が引き算になっては可けない。加え算にしなくてはならぬ。
 『これをしては他の迷惑になりはしないか。あの人は自分を迷惑がってはいないか』
 などと消極的に引込んで了ってはい可けない。愛しょう、喜ばそう、為になろう、
 と積極的に加え算になるようにすれば他(ひと)も生かし自分をも生かす。
 

○他(ひと)を生かせば自分も生きる。ひとの心を汲んでやるようにすれば病気も治る。

○あの人は自分を迷惑がっているな、こんな眼で相手を見ると、相手は自分を妙な表情を
 する奴だと思って本当に迷惑がるようになる。
p28-29
     <平成25年10月8日谷口雅春先生著「ひかりの語録」より謹写>


○自分を完全に生かすことは、ニセ物の自分を殺すことよりはじまる。
 本当に完全な生き方は水の方円に従うような生き方である。

○人生は『迷惑』と云う側から見れば『迷惑』のかけ合いである。
 『世話する』と云う側から見れば『世話』のし合いである。
 人に世話になることを恐れるな。その代わり他の世話をすることも惜しむな。
 助け合うと云う側から見れば助け合いばかりである。
 そこに愛の世界がある。光明の世界がある。

○ひとの世話はしても、ひとの世話になりたくないと云う心は
 まだ『我』のくだかれない心である。

○愛でひとを世話する人もあるが、誇りでひとを世話する人もある。
 前者は神の前で高くせられ後者は神の前で低くせられる。

○自分がひとの世話をしたと思うな。みな大生命がさせたのである。胃腸は自分の力で
 全身に栄養をおくるのではない。胃腸のはたらきは全身の生命の機能である。
 世話する者も世話される者もみんな一体である。

○もし胃腸が栄養を送ってほかの部分を養うだけで、自分がほかから養われることを
 拒むならば胃腸自身がほろびるだけでなく全体の生命がほろびる。

○世話したい人には素直に世話して貰って感謝し、世話されて余裕のある人は、また助けを
 呼んでいるものを世話してあげよ。これが愛の巡環であり、報恩の道である。
p28-30
       <平成25年10月9日谷口雅春先生著「ひかりの語録」より謹写>


○他を押し上げる努力は何よりも貴い愛の道である。坂道をのぼるのに苦しんでいる
 荷車は後から押してやれ。会う人ごとに一歩でもその人を押し上げよ。汝の魂もまた
 押し上げられるであろう。

○小善を軽蔑するな。小善を積むことが却って難しい。
 小善の出来るようなものでないと本当の大善は出来ない。

○神にちかづく道は一歩一歩小善を積むにある。

○快活と憂鬱とは一つの心の中に同居できない。憂鬱が来たら快活はいなくなる。快活が来たら
 憂鬱はいなくなる。だから、大笑せよ。大笑して憂鬱を吹きとばせ。

○憂鬱になって来たと思う瞬間、哄笑を爆発させよ。これが健康と若さを保つ秘法である。

○苦しくても逃げ出そうと思うな。自己が置かれている境遇が、自己のたましいの生長に最も
 好い栄養であるのである。たましいがその境遇から得られるあらゆる栄養を吸いとったとき、
 別の境遇がおのづから開けてくる。
 

○愛は永遠の生命から放射する生長の力である。この生長の力の中でのみ万物は生長する。

○光はエーテルの波動であると云う。併しエーテルの波動だけでは光にならない。
 エーテルが光になるのは、天の愛と地の愛とが結び合ったときに於いてのみである。
p30-31
       <平成25年10月10日谷口雅春先生著「ひかりの語録」より謹写>

○大地の愛を遠ざかって高く高く地の生気のとどかない距離に上昇せよ。そこは太陽に対して
 一層近い距離にあるけれども絶対暗黒である。そこはまた絶対の寒冷であって地上の温度より
 華氏五百度も低いのである。高山に昇れば昇るほど寒いのはそのためである。

○しかし天の愛を遮るな。地の生気のみでは其処には光も温熱も顕れはしないのだ。
 併し、地の愛も軽んずるな。

○天の愛と地の愛と。父の愛と母の愛と。
 天の生気と地の生気と両々そろって万物は育成するのだ。

○左(火足)はこれ天の愛、右(水極)はこれ地の愛。合掌はこれ天地の愛。合掌して天を指し、
 跪いて坐を地に順(したが)はしむ。天地の愛が合掌にありありと生きて来るのである。

○地の愛はこれ横。天の愛はこれ縦。|―(たてよこ)はこれ十字。十字はこれ火水(かみ)。
 火は縦。水は横。火水(陰陽の原理)は神にして万物を造りたまう。   

○万物は陰電子(エレクトロン)と陽電体(プロトン)とより成る。されど神は陰電子にあらず
 陽電体にあらず、陰電子を陰電子たらしめ、陽電体を陽電体たらしめるところの原理である。

○相対性原理で有名なアインシュタイン博士は光線が引力によって引き寄せられて屈(ま)がる
 ことを発見した。引力をエーテルの作用だと云っている学者もあるが、引力とは結び合う力、
 愛の力、生命から放射する力である。
p31-32
       <平成25年10月11日谷口雅春先生著「ひかりの語録」より謹写>


○地上の植物は引力(愛)の方向に随うとき最も多く生長する。姿勢の悪い植物はそれだけ
 生長が悪いのである。これはあらゆる生物についても同じである。

○あなたよ、姿勢を正しくせよ。それだけあなたは健康になる。

○損だと思うな。損だと思う心が自分を傷つける。損だと思う心が自分を損させるのである。

○損だと思わなければ腹は立たぬ。宇宙は一体だ。どこにも損得はないのである。

○言葉が万物を造ったのなら、言葉が万物を癒すに相違ないのである。言葉の力を信ぜよ。

○神を信ぜよ。生命を信ぜよ。自分のうちにやどる生命が神であることを信ぜよ。
 この信念から内に蔵(かく)されている無限力が開発される。

○吾が生活は心の生活である。

○人間が物質であるところの食物で生命を保っている限りは、生命は物質の化学的作用だと
 云う暗示観念を間断なく受けつつあるのである。だから彼はその観念の作用で結局は死の
 現象をあらわすのである。
 人間が食物で養われる必要がなくなったとき彼は生命が物質の化学的作用でないことを断然
 知る。彼はその心の自覚の結果として不死をあらわすのである。この例を吾等は仙人に見る。

○黙然黙祷は神の前には大いなる言葉である。心でねがうことは既に祈りである。
 自分のねがいを大生命にゆだねよ。大生命は無限大の力である。
p32-33
       <平成25年10月12日谷口雅春先生著「ひかりの語録」より謹写>

○『祈り』で自分の心が整うことが第一であって、自分と大生命とのつながりが出来たとき、
 人間力以上のものが人間の行為を導くのである。

○たとえば筮竹と算木とをもって神啓を受けるとき、形式は一つでも、それを扱う人々の祈りの
 深さで、顕れる啓示には、百パーセント神啓であるものと、殆ど神啓でないものとが別れる
 のである。鍼灸療法でも、指圧療法でも、平田内蔵吉氏の熱鍼快療術でも、経穴(つぼ)に
 あたってきくか経穴を外れてきかぬかは、実に微妙な分厘の差によって決するのである。

○医者の診断も霊感とか直覚とかによって正しく導かれねばならない。医者こそ最も多く
 祈らねばならない人たちである。

○生長の家では大体薬を用いない。『生命の法則』に順うとき病気にならないのが普通である
 からである。しかし若し『生命の法則』を破って病気になったときはどうするか。祈りを
 深めて行くことによってどう云う療法をとるべきかに就いて大生命からおはからいがある
 のである。

○チラと頭にひらめいた直覚、よき思付き-----こうしたものが世界をどんなに益していること
 だろう。チラと頭に浮かんだ思付きで、どんなに多くの好い療法が見附かっていることだろう。

○チラと思浮んだ発案こそ大成功、不成功を分つ要素である。この『チラと』の神啓を如何に
 して得るかが吾々の問題である。

○病児をどの医者にかからせるかも、この『チラと』の思付きで決する。病児が死ぬか生きる
 かも此の『チラと』で決する。

○甲は或る仕事を『チラと』思附きて一大富豪となる。乙は儲からない仕事ばかりを『チラと』
 思附きて一生涯貧窮で終る。人間の運命はこの『チラと』で決するのである。
p33-35
       <平成25年10月13日谷口雅春先生著「ひかりの語録」より謹写>

○生滅するものは眞の實在ではない。

○罪が眞に實在であり、眞に実体があるならば阿弥陀仏でもキリストでも祓戸四柱の神でも
 これを消滅することは出来ない。これを消滅することが出来るのは實在ではないからだ。

○罪人々々と云う勿れ。皆な神の子だ。罪人はひとりもいないのである。

○けがれたるこの身このまま罪なしと思う心はまた迷いである。このままで罪なしと思うのは
 驕慢の心である、けがれたるこの身は本当の自分ではないのだ。けがれない円満なる本性が
 自分のうちにあって、此の本性こそ本当の自分であると知るものが自己の本性を知るものである。

○このままで罪なしと自任するのは、この儘の自分を本当の自分だと思い違えているのである。
 迷いを實在と見、それに執着しているのである。

○省みて迷いと本性とを区別し、迷いの相(あらわれ)を否定し尽し、円満完全なる自性を肯定
 しつくしたとき、五官の眼で之が自分だと思っていた不完全な相(すがた)が消滅して、円満
 完全融通無礙なる自分の本性が開顕するのである。

○周囲と調和する生命は生長する。
 世界に生き残っている生物は、皆周囲と調和し得た生物のみである。

○自我を発揮しすぎるとき周囲と調和しなくなる。和光同塵は愛の道である。

○人間智の行き詰まったとき神の智慧が出る。自力の行き詰まったとき他力に目覚める。

○神の智慧を解(わか)らして頂いたとき、今迄の智慧が皆な人間の迷いであったことが解る。
p35-36
       <平成25年10月14日谷口雅春先生著「ひかりの語録」より謹写>

○自分を苦しめるものは自分の迷いのほかにはない。迷いを去れば此の世界は光明浄土。

○この身この儘救われていると云う『この身』とは迷いの肉体のことではない。
 誰にもある 本当の自分、實相身、實在身、金剛身のことだ。
 迷いの肉体は救われるも救われぬも無い。

○薬と病気とは同じ種類のものである。『類を以て集る』のが心の法則であるから
 薬が好きな人の所へは病気がおのづから集る。

○薬は病気を連想せしめる。思うものは引寄せられる。想念は引力であるからである。

○よく働いても『これだけ自分は働いている』と云う働き誇りがあってはならぬ。
 働き誇りのある人は他から嫌われる。

○修行中には我流を出してはならぬ。
 ひらいた掌(てのひら)だけが新しいものを掴むことが出来るのである。

○神は常に働き給う。いくら良く働いても、人間の働きぐらいは誇るに足りない。

○能率の点では人間は機械の前では誇るに足らぬ。

○速力では馬に及ばす、力では象に及ばず、敏捷では獅子に及ばず、
 人間の誇るべきはその働きの嵩や分量ではない。

○すべての善徳のうちで、従順が先ず挙げられる。
p36-37
      <平成25年10月15日谷口雅春先生著「ひかりの語録」より謹写>



○左の頬を打たれた場合、右の頬をも、従順に相手に差出すのは、
 神の子としての高い自覚が あって出来ることである。

○神の子としての高い自覚は負けまいとして、相手と争うような小さな強さではない。
 左の頬を打たれても右の頬をも差出し得る強さである。

○しかし右の頬をも差出すとき膨れた面(かお)して差出すようではその人はまだ弱い。
 その時その人の顔には無限の愛が輝いていなければならぬ。

○本当に強くなったら、誰に打たれても、赤ん坊に打たれた時にニッコリと赤ん坊の顔を
 見得るように、微笑んで相手に譲り得るものである。

○打たれて腹が立ったり、膨れたり、反抗したりするのは負けた感じがするからである。
 強がりは本当は弱いのである。上手狩りは本当は下手なのである。

○赤ん坊に対して腹が立たぬのは負けた感じがテンデしないからである。

○本当に強者としての自覚があれば、従順になれるのである。
 従順になる稽古は強者になる稽古である。神の子になる稽古である。
p37-38
<平成25年10月16日谷口雅春先生著「ひかりの語録」より謹写>


○昔ある所に非常な大富豪があった。その家のひとり息子に嫁が必要になった。
 その嫁の資格としては何も要らない、唯其の家の姑の気に入るように幕を家の
 前に張ることであった。

 毎日多勢(おおぜい)のお嫁さんの候補者がつめかけた。なかには随分作法や
 儀式に通じた自信のあるお嫁さんもあったが、ひとりとして其の姑の気に入る
 ように幕の張れる人がなかった。

 やがて最後に来たお嫁さんはどうしたかと云うと、
 『あの、おっかさん、此幕(このまく)は何処から張りましょう?』と訊いた。
 姑は『ここから張って下さい』と答えた。
 『どう云う風に持って張ったら好いでしょうか』と嫁は訊いた。
 『こう云う風に持って下さい』と姑は教えた。

 こうして一から十まで婦(おんな)は姑の教に従って幕を張った。
 それは従順そのものの徳であった。

 自然姑の気に入るように幕は張られていた。
 彼女は大富豪のお嫁になって大富豪の宝を継いだ。

 天国の宝を継ぐのも此の喩(たとえ)の通りである。
p38
    <平成25年10月17日谷口雅春先生著「ひかりの語録」より謹写>

○愛に一時報いがないように見えても愛の力を疑うな。
 愛した相手に叛かれても愛の力を疑うな。
 すぐ結果が出るような功利的なものよりも大きな実を愛は結ぶのだ。

○愛はすべての物に調和と平和とを齎す精神波動である。
 此の世に隠れたる愛がなかったら もっと此の世は悲惨であったに違いない。
 愛の精神波動は永遠に消えないでついに神のみ許に達するのだ。

○今まで注がれた愛でいまだ一度も無駄であったものはない。
 愛はこの世で花を開いて皆の者に喜ばれ、神の国で実を結ぶ。

○愛せよ。少しも求めずに愛せよ。これが愛の秘訣である。

○こんなに愛してやっているのに相手は斯うだと非難するな。呟くな。
 愛は、その結果がどうなるからとて愛するのであってはならない。
 愛することそのことが神の道だから愛するのだ。
 愛すること其のことが幸福だから愛するのだ。

○結果を求めた愛は必ず不幸に終る。

○愛した結果の、利益を予想する愛は低い愛だ。功利的な愛だ。
 利益にならなければ腹が立つ。

○相手が喜んでくれるから愛する愛はその次だ。
 功利的ではないが相手が喜んでくれなかったり
 相手が自分の好意に気がついて呉れなかったら腹が立つ。
p38-39
    <平成25年10月18日谷口雅春先生著「ひかりの語録」より謹写>

○愛は、人と人の接触を和げ、人生を住みよきものたらしめる。
 そこまでは誰でも知っている。
 されど、人間の愛が自然界に及ぼす影響を知っている人は少ない。

 すべての人間が互いに愛するようになり、怒りや憎みや妬みなどの不調和な精神波動が
 此の世から消滅してしまえば、自然界の現象を支えている内的な力に一大変化が起り、
 調和がおのずから自然界を支配し、聖書にあるような獅子と羊とが一緒に遊んでいる世界が
 出現するのである。

 眼に見える世界は心の世界の影でしかないからである。
 殊に万物の霊長たる人間の心は 万物を支配する。

○その時は植物は今より一層美しき花を開き、小鳥は今より一層美しき声で鳴き、
 猛獣も猫のように人間の膝に眠る。

○生長の家が憎みに反対するのは憎みが人生の不幸の根であるからである。
 宇宙を支えている 心の力を清めなければ、外界の一つの不調和を何らかの方法で
 刈りとっても、又ほかから不調和の芽が出て来る。不調和の根が残っているからである。

○心の改造に立脚せぬ社会改造運動が善いように見えて、結果が面白くないのは、
 不調和の根(心的實在)を刈りとることを忘れているからである。

 『剣をとるものは剣で滅びる。』
 憎みで立つものは憎みで滅びる。

○汝ら憎みのパン種で膨らしたパンを慎めよ。
 それは美味しく見えても食べる者の心を憎みで膨らすのである。
39-40
     <平成25年10月19日谷口雅春先生著「ひかりの語録」より謹写>


○一国を支配する者は名君である。
 併し自己の心を支配し得る者の方が一層の名君である。

○失敗しても成功しても、損をしても儲けても、
 それはただ生命が仮想の舞台で遊戯したに過ぎない

○失敗は大したことではない。損も大したことではない。
 自己の心を乱すか乱さないかの方が大切だ。

○損をしたと云う。だけども、よくよく考えれば人生はどんなに損をしようと思っても
 損の 出来ないように造られているのである。損をしたと見えるような時こそ、
 魂が何かを掴んで いる時である。

○苦しみは損ではない。貧乏も損ではない。
 良薬は口に苦し。何が来ても、その中から養分を吸いとって吾が生命は肥るのだ。

○金銭の損で心を穢すな。
 昔から真に偉大な人は、みずから好んで金銭を捨てた人の方に多いのだ。
p41-41
    <平成25年10月20日谷口雅春先生著「ひかりの語録」より謹写>




【ひかりの語録】より<智慧の言葉> ②NEW (2046)
日時:2013年10月21日 (月) 00時05分
名前:平賀玄米


・・・ブッキング
 
<はしがき>

『智慧の言葉』は人間智の言葉と云う意味ではない、私と云う思想のラジオ的受信機に
天界から放送された思想の宝玉的な結晶である。

その放送は、私があの『生い立ちの記』にあるような霊感を受けて以来
道を歩いている時にも突然私の頭へ閃くように降って来ることが繁くなった。

私は手帳を常に携帯していてそれを走り書きに書きとめる。
その時書きとめないで置くと、あとからどれだけ思い出そうとしても思い出せないことがる。

また私が会社にいた頃全然『生長の家』に関係のない機械書類の翻訳などに
熱中しているときに、突然その機械に関係のない一つの言葉が私の頭に浮んで、
それをどうしても書かずにいられないで、走り書きで書きとめて置いたのもある。

そうして書きとめられた断片的思想を集めたのが、この智慧の言葉である。
色々、一つの問題に苦心して人間心で考え出したのではなく、全然他の問題に
熱中している時にでも、全く当時没頭している実際問題と何の関係もなく眞理の言葉が

天から降るように私の頭にポッカリと湧いて来るのだから、
私はこれを天界から来る霊感的言葉だと信ぜずにはいられない。

尤もその神徠のうちには何処かで一度読んだ聖賢の聖語が潜在意識の中に潜んでいて、
エッキスとなって思い浮かんだものもあるに違いないと思う。
何しろ私自身も教えられる言葉である。

 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

○昔ある所に非常な大富豪があった。その家のひとり息子に嫁が必要になった。
 その嫁の資格としては何も要らない、唯其の家の姑の気に入るように幕を家の
 前に張ることであった。

 毎日多勢(おおぜい)のお嫁さんの候補者がつめかけた。なかには随分作法や
 儀式に通じた自信のあるお嫁さんもあったが、ひとりとして其の姑の気に入る
 ように幕の張れる人がなかった。

 やがて最後に来たお嫁さんはどうしたかと云うと、
 『あの、おっかさん、此幕(このまく)は何処から張りましょう?』と訊いた。
 姑は『ここから張って下さい』と答えた。
 『どう云う風に持って張ったら好いでしょうか』と嫁は訊いた。
 『こう云う風に持って下さい』と姑は教えた。

 こうして一から十まで婦(おんな)は姑の教に従って幕を張った。
 それは従順そのものの徳であった。自然姑の気に入るように幕は張られていた。
 彼女は大富豪のお嫁になって大富豪の宝を継いだ。

 天国の宝を継ぐのも此の喩(たとえ)の通りである。

    <平成25年10月21日谷口雅春先生著「ひかりの語録」より謹写>

○愛に一時報いがないように見えても愛の力を疑うな。
 愛した相手に叛かれても愛の力を疑うな。
 すぐ結果が出るような功利的なものよりも大きな実を愛は結ぶのだ。

○愛はすべての物に調和と平和とを齎す精神波動である。
 此の世に隠れたる愛がなかったらもっと此の世は悲惨であったに違いない。
 愛の精神波動は永遠に消えないでついに神のみ許に達するのだ。

○今まで注がれた愛でいまだ一度も無駄であったものはない。
 愛はこの世で花を開いて皆の者に喜ばれ、神の国で実を結ぶ。

○愛せよ。少しも求めずに愛せよ。これが愛の秘訣である。

○こんなに愛してやっているのに相手は斯うだと非難するな。呟くな。
 愛は、その結果がどうなるからとて愛するのであってはならない。
 愛することそのことが神の道だから愛するのだ。
 愛すること其のことが幸福だから愛するのだ。

○結果を求めた愛は必ず不幸に終る。

○愛した結果の、利益を予想する愛は低い愛だ。功利的な愛だ。
 利益にならなければ腹が立つ。

○相手が喜んでくれるから愛する愛はその次だ。
 功利的ではないが相手が喜んでくれなかったり
 相手が自分の好意に気がついて呉れなかったら腹が立つ。

    <平成25年10月21日谷口雅春先生著「ひかりの語録」より謹写>

○愛は、人と人の接触を和げ、人生を住みよきものたらしめる。
 そこまでは誰でも知っている。
 されど、人間の愛が自然界に及ぼす影響を知っている人は少ない。

 すべての人間が互いに愛するようになり、怒りや憎みや妬みなどの不調和な精神波動が
 此の世から消滅してしまえば、自然界の現象を支えている内的な力に一大変化が起り、
 調和がおのずから自然界を支配し、聖書にあるような獅子と羊とが一緒に遊んでいる世界
 が出現するのである。

 眼に見える世界は心の世界の影でしかないからである。
 殊に万物の霊長たる人間の心は万物を支配する。

○その時は植物は今より一層美しき花を開き、小鳥は今より一層美しき声で鳴き、猛獣も
 猫のように人間の膝に眠る。

○生長の家が憎みに反対するのは憎みが人生の不幸の根であるからである。
 宇宙を支えている心の力を清めなければ、外界の一つの不調和を何らかの方法で
 刈りとっても、又ほかから不調和の芽が出て来る。

 不調和の根が残っているからである。

○心の改造に立脚せぬ社会改造運動が善いように見えて、結果が面白くないのは、
 不調和の根(心的實在)を刈りとることを忘れているからである。
 『剣をとるものは剣で滅びる。』
 憎みで立つものは憎みで滅びる。

○汝ら憎みのパン種で膨らしたパンを慎めよ。
 それは美味しく見えても食べる者の心を憎みで膨らすのである。

    <平成25年10月21日谷口雅春先生著「ひかりの語録」より謹写>

○一国を支配する者は名君である。
 併し自己の心を支配し得る者の方が一層の名君である。

○失敗しても成功しても、損をしても儲けても、
 それはただ生命が仮想の舞台で遊戯したに過ぎない

○失敗は大したことではない。損も大したことではない。
 自己の心を乱すか乱さないかの方が大切だ。

○損をしたと云う。だけども、よくよく考えれば人生はどんなに損をしようと思っても損の
 出来ないように造られているのである。
 損をしたと見えるような時こそ、魂が何かを掴んでいる時である。

○苦しみは損ではない。貧乏も損ではない。良薬は口に苦し。
 何が来ても、その中から養分を吸いとって吾が生命は肥るのだ。

○金銭の損で心を穢すな。
 昔から真に偉大な人は、みずから好んで金銭を捨てた人の方に多いのだ。

    <平成25年10月21日谷口雅春先生著「ひかりの語録」より謹写>

・・・ブッキング

○他人(ひと)を我で自由にしようと思うな。
 自分で自由にしょうとして自由に出来る物は一つもない。

 併し自分で自由にしょうと力まないようになれば、
 何と不思議、すべてのことが自由にらくに運ぶのである。
 我がなくなるからである。

○心が、自分で自分の心にひっかかることが迷いである。

○肉の人間に理解されようと思ってはならぬ。
 肉は迷いであるから必ず何処かで誤解するものである。
 霊の人間を見、霊の人間に相対せよ。

 理解して貰おうと思わないでも始めからお互いに理解しているのである。

○我とは肉の人間、肉の心である。
 右するも左するも肉の心は悩みの根源である。
 我を通そうとする者は自己を苦しめ他をも苦しめる。

○肉は他を食わねば生きられぬものである。
 それは『迷い』の我であるからである。
 他を食わずに生きられるものだけが『本物の自分』である。

○肉は眞の人間ではない。神の子ではない。
p41-42
    <平成25年10月21日谷口雅春先生著「ひかりの語録」より謹写>


○五十と五十を加うれば必ず百となる。吾らは常に百を与えられている。
 これを九十と思い六十と思うものは誤算である。

○本当の自信は本当の智慧から来る。自信は無限生長の母、慢心は行き止まりである。
 似てるから注意せよ。

○世話になって恩を返すひとがある。世話になりっぱなしの人がある。

○一度世話になったら独立してからでも引続き世話になる権利があると思っている人がある。
 犬なら一度世話になったら、いつまでも世話になる因縁が結ばれたと思っていても好いが、
 人間なら恥ずべきだ。

○世話になるどころではない。世話しようと思うほどでないと、神のみこころに適はない。

○教会とは建物ではない。寺院とは堂塔ではない。
 神のことばを語るところが教会で、佛のことばを語るところが寺院である。
p42-43
<平成25年10月22日谷口雅春先生著「ひかりの語録」より謹写>

○天国は五十羽の丹頂の鶴が空に輪を描いて舞おるごときものである。
 仰ぎ見て讃嘆し、 渇仰するものもあれば、何じゃつまらないと云って
 振向きもしないものもある。

○淋しき時には我を思え。我は汝らのために祈るものである。

○役に立つものばかりを可愛がるのは利己心からだ。
 役に立たぬ者でも可愛がるのが本当の愛の心である。

○躓いたがために落ちる人もあれば、躓いたがために落ちる前に気づく人もある。

○寝床を作ったら寝なければならぬとは西洋の諺にある。
 病床を作ったら病気になるのは当然だ。
p43
     <平成25年10月23日谷口雅春先生著「ひかりの語録」より謹写>

○生命の實相を信ぜよ。實相の神を信ぜよ。
 實相の神に結びつくとき、一切の罪は自分から切離される。
 實相の世界には罪は存在しないからである。
 自分から切離された罪は自壊して消滅する。

○生命の實相------生長の家の礼拝の対象はこれである。
 生命の實相------あらわれて 阿弥陀仏となり、釈迦となり、イエスとなり、
 一切善き宗教の教となる。
 
『彼を信ずる者の、その名によりて罪の赦を得べきことを證す』と
 使徒行伝十章四三にあるが彼とは生命の實相である。
 生命の實相を信じ礼しこれに結びつく者は幸いなるかな。

○親様の近くにいる者は常に楽しい。
 汝の心がさびしいのは親様の心から遠ざかっているからである。
 赤ン坊でも親の側から引離されたら淋しがってむずかるではないか。

 吾々の親様は神であり、吾々は皆神の赤ン坊である。
 幸福の秘訣は親様の出来るだけ側にいることである。

○幼な児の親にたよるが如く神に頼り切れ。
 不安があるのは頼り切らないからだ。

 頼っている幼な児を捨てる親はあるまい。
 頼り切れないのは生命の實相を知らないからだ。

 生命の實相は汝らの父であり、母である。
 皆の者は悉く生命の實相から這い出して来た子供である。
p43-44
    <平成25年10月24日谷口雅春先生著「ひかりの語録」より謹写>

○或る所に重荷を背負って苦しみながら歩いている男があった。
 馬車屋が、その男が重荷に苦しんでいるのを見てこの馬車に乗って行けと云った。
 男は喜んでその馬車に乗った。

 『その荷物を下へ卸しなさい。値段は同じこと無代だから』と馬車屋は云った。
 『滅相な、私だけが載せてもらうだけでも有難いのですから、
 この荷物は私が舁いでいきます』とその男は答えた。

 これはアイルランドのお伽噺だ。
 實相の神は渾てであるから吾々が馬車の中で重荷を背負わなくとも
 一緒に運んで下さるのである。

○汝の悩みは神に語れ。人に語らずして神に語れ。
 人に悩みを語ればその悩みは反響して更に悩みは増加するであろう。

 神に語れば悩みは消える。
 神は實相の神であり、實相の光の射す所に悩みの暗は存在し得ないからである。
 悩みは変じて喜びとなり、訴えは変じて感謝となるであろう。

 すべてのものは既に汝らに与えられているのである。

○悩みを数えるよりも、恩恵を数えあげよ。
 汝はそんなに賜が多いのに何故呟くのだろう。

 不健康にならなければ健康を感謝しない者には不健康が来り、
 囀る鳥が飛び去らねば囀る 鳥の妙音を讃嘆し得ない者の庭からは、
 囀る鳥は飛び去るのである。

 生長の家の生活は、感謝の生活である。

○生長の家の生活はすべてが与えられた生活であるから、感謝の生活のほかはない。
p44-45
   <平成25年10月26日谷口雅春先生著「ひかりの語録」より謹写>


○不平が起るのは心が一つの物に凝り過ぎて他の恵みを見る余裕がないからである。
 悩みは心にあるのであって物にあるのではない。凝りを放下して、眼を他に一転せよ。
 どんなに吾らは多くの恵みに取巻かれていることだろう。

○病気に悩んでいる者でも、今迄健康を頂いて来たことに感謝しなかったことをお詫びし、
 更に現に健康が与えられている事を感謝し、神想観をしてその感謝に精神を統一して
 感謝の念を深めて行けば、其の病気が癒されるのである。
 
 眼の悪い人は、今迄完全な眼を与えられていながら感謝しなかったことをお詫びし、
 更に進んで現に完全な眼を与えられていることを確認して、それに対して徹底的に
 感謝の念を深めて行くときは其の眼が癒えるのである。

 徹底的感謝生活には病気はない。

○感謝は実に絶大なる力である。
 それは与えられた事物に対する受身の力だけではなく積極的な創造力である。
p45-46
<平成25年10月27日谷口雅春先生著「ひかりの語録」より謹写>

○『個』を信ずる信仰は皆ニセモノである。
 人の言葉を信ずる信仰も、憑霊の言葉を信ずる信仰も皆本物ではない。

○『個』を絶した所に『本当の神』があり、『本当の我』がある。

○本当の信仰と云うものは父を知り自分を知ることから始まらねばならぬ。
 父とは神、自分とは神の子だ。

○我と神とがぴったり出会うこと、父と子とが完全に出会うこと。これが本当の信仰である。

○信仰とは神のみ懐に抱かれることである。

○神は生命だと云う。
 しかしそれは『生きんと欲する意志』ではない。
 完全円満に現に生きている自覚体である。

 生きたい生きたいと云う『生きんと欲する意志』は迷いである。

○生きたいとは、生きたりない自覚即ち迷いから来るのである。
p46-47
   <平成25年10月28日谷口雅春先生著「ひかりの語録」より謹写>


○未だ嘗て五官は勿論霊覚によってさえも神を見たものはない。
 神は第六感以上のものである。
 神を知るのは吾が神性と神の神性とが触れ合った時のみである。

○迷いは父を知らぬ。肉は神を知らぬ。子のみが父を知るのだ。肉は父の子ではないのだ。

○霊媒に第一義の神はかからぬ。霊媒にかかるのは霊魂だけである。霊媒の宣託に迷うな。

○神は汝の善き行いの中にある。愛の中にある。善き生活の中にある。
 それは形なき形である。
 真理である。道である。

○神は人間を罰しない。ただ罪を罰するのである。罰するとは肉のうちに快楽のないこと、
 生命のない事、唯虚なることを示し、迷いの正体を暴露することである。
 罪を罰せられるとき罪は本来の虚無------非実在の正体をあらわして消滅する。
 罪が罰せられて消滅するとき、人間は浄められて本来の神性を露呈する。

○ひとの物を自分のもののように取扱うほどの心でないと神心ではない。
 どんなものにも神の生命がその背後に宿っているのであるから一枚の紙でも、
 一個の茶碗でも大切にしないものは神を愛しないものである。

 台所の茶碗が欠けているようなことでは、それを取扱う人の愛の浅さがわかるのである。

○神を愛すると云うことは万物を敬虔に愛すると云うことである。
 神の被造物を粗末にする者は神を敬するものではない。
 神みずから万物を造ってそれを『甚だ善し』と賞め給うたものを、人間よ、粗末にするな。
p47-48
    <平成25年10月29日谷口雅春先生著「ひかりの語録」より謹写>


○最近アメリカでラジオフィーヴァーマシーン(Radio fever machine)と云うのが発明された。
 電波の感応で体温を上昇せしめ、身体に熱を出して却って病気の快癒を促進せしめる装置である。
 
 熱が出たら病気が重くなったと思うのは間違いだ。自然療能が熱を出して病気を治しつつある
 のだ。自然療能は最も精巧なラジオフィーヴァーマシーンである。

○鼻水が出ても病気になったのではない。病気を出して治しつつあるのである。
 病気は入った時は多くは自覺されない。病気は入って潜伏し、出て去って治る。
 病気が出て行きつつある時に病気に罹ったとは思うな。

○常に他に与えたいと思っているものは他から愛され、常に他から与えられたいと思っている
 者は他から嫌われる。依頼心を有っている者は、側にいる人から何かを奪おうと常に思って
 いる譯であるから、側にいる人は何となしにそれを感じて嫌うのである。

○自発的になら、他に深切を喜んでする人でも、他から指図されると一寸反抗したくなる。
 そう云う人の深切は、まだ自分の『我』で深切にしているに過ぎない。
 
 他から『これを斯うして呉れ』と頼まれたとき、少しも『我』を出さずに、その儘に出来る
 ような人でなければ本当の深切ではない。

 深切とは相手を生かすことであって自分の『我』を出すことではない。
 我を殺したとき『本当の自分』が生きる。
p48-49
   <平成25年11月1日谷口雅春先生著「ひかりの語録」より謹写>

○愛は与えたとき力を増し、言葉は口に出した時に力を増し、思想 は発表した時に力を増す。
 愛を与える事を吝(おし)み、善き言葉を出す事を吝み、善き思 想を出すことを吝む者は
 遂に自己を小さくするものである。

 道で人に出遇ったときでも先ず頭を下げて挨拶したものが勝ったのである。
 勝つとは一歩先にその人の生命が生長した事である。

○恐れる代りに働く者は遂に勝ち、呟く代りに働く者は遂に勝つ。 
 生長する人には恐れる時間と呟く時間はないものである。

○『今』の時間を尊ばねば、生涯その人に尊ぶべき時間は来ないのである。

○何事も成就しない人は必ず時間を浪費した人である。

○今ある此の仕事は必ず次の一層大なる仕事の準備である。
 それ自身に無意味らしい仕事も必ず次の一層大なる仕事に対して意義があるのである。
 小さな下らぬ仕事だと思ってなまけるな。
 天は必ず大なる仕事を与え給うまでに小なる仕事を与え給うのである。

○神は光明無限である。
 明るい広きゆたかなる心のみが此の光明を透過するレンズとなる。

○事物に興味を感ずると否とは主としてその事物を透過する心のレンズによる。
 天国的な心の者のみ天国を愛することが出来るのである。
p49-50
   <平成25年11月2日谷口雅春先生著「ひかりの語録」より謹写>


○事を成すのは結果の顕れんが為ではない。生命が鍛えられ、強くなり、色々の経験を得、
 豊富になり、多くの人々の夫々の立場を理解し、すべての人に対する理解を深めて、
 本当の意味に於ける愛を成就し、本当の意味に於ける自己の生活を成就せんがためである。

 苦労したものでないと人を本当に愛することが出来ないのは、
 色々の立場に於ける夫々の人間を本当に理解できないからである。

○沙翁には戯曲を作らせよ。沙翁を封筒書きに使うのは愚か者である。
 バテレェフスキーにはピアノを弾奏せしめよ。
 バテレェフスキーを停車場の呼び売りに使うのは愚か者である。

○あらゆる言葉、あらゆる行動悉く未来に果を結ぶ種子となる。

○殻に傷付けられた『あこや貝』はその傷を玉成して完全円満光輝燦然たる眞珠をつくり上げる。
 人間は病苦や生活苦や家庭苦で傷つけられるのが却って魂を玉成する基になるのである。
 苦しみが魂の生長に必要だと云うのはそのためだ。

○睡眠や食事は肉体に必要であるが、仕事は魂に必要な糧である。

○幸運がないと云うな。一瞬々々が幸福である。
 一瞬を完全に生き切るとき汝は永遠に生きるのである。
p5
    <平成25年11月5日谷口雅春先生著「ひかりの語録」より謹写>


○一瞬をゆるがせにするものは生涯を浪費するものである。
 一滴を浪費する蜜蜂は生涯蜜を 貯えることは出来ない。
 多くの琥珀色の甘い蜂蜜がつくられたのは眼にもとまらぬ程に
 少量の花蜜を機会毎にゆるがせにしなかったからである。

○心の眼をひらけば幸運は到るところに手を伸ばして待っている。
 地球の引力を発見したニュートンにとっては林檎の落ちることが運であった。
 空間の電波を発見したフランクリンにとっては雷鳴を聞くことが運であった。
 誰でも見逃がすところに心の眼の開いた人には運がある。

○苦しみに崩折れるような弱虫になるな。
 苦しみは人間に色々のことを教えるのだ。
 汝の生命の實相(ほんとうのすがた)を見よ。
 人間の『生命』は苦しみに屁古垂れるような弱いものではない。

 バイロンが有名な詩人となったのは彼の脚が不具であって湾曲していたためである。
 バンヤンが『天路歴程』を書いたのは十二年間獄中にあって苦しみの中に、
 神を発見し神に到る道を書き綴ったのだ。

○人間の悩みのもとは皆欲から来るのである。
 欲は迷いから来るのである。

○人間は悲しめばどれだけでも悲しめるが、また歓べばどれだけでも喜べるのである。
 悲しみを呼べば悲しみが来て合奏し、歓べば歓びが来て合奏する。
p52
<平成25年11月8日谷口雅春先生著「ひかりの語録」より謹写>


○人間は金があったら貧乏でないように思っているが、
 金があって始めて富んだ気がするのはその人の魂が貧乏だからである。

 人間の生命は金やその他、如何なる外物によっ附加されなくとも
 本来富んでいると云うことを知らねばならぬ。

○『生命』は『神』より出づ。『神』は『愛』である。
 一つの『愛』の行いはヘマトパンを五百グラム飲むよりも自己の『生命』を生かすのである。

○病気は悪くなる行程ではない。浄化の行程である。
 家庭の不和も魂の浄化の行程である。

 家庭の不和を苦しむよりも、有難くそれを受けて、
 その不和を調和した相(すがた)になるように切捌いて行くところに不断の鍛えがあり、
 浄化があるのである。

○魂の扉をとじている人の側へ行くときは自分もまた魂がとじたくなる。

 愛しようと思って近づき、許しを乞おうと思って近づいて往っても
 相手がジッと魂の扉を閉じていると、それを押し切って許しを乞い、
 それを押切って愛するのには勇気を要する。

 しかしこれを押切って自分から魂の扉をひらいて相手に近付き得るものは、
 終に相手の魂の扉をひらき得るのである。

○家庭の不和をとり去るには、夫婦が、親子が、姑嫁が、
 互に相手の身になって考えてやることが必要である。

 『妻の身になれば、自身がどんなに不確な良人に見えることだろう、済まない』と
 良人は思うが好い。

 『良人の身になれば自身がどんなに行届かない妻に見えることであろう。済まない』と
 妻は思うが好い。

 そして魂の扉をこちらから開いて詫びるのだ。
 人間の尊さは詫びたからとて減るようなものではない。
 詫びると負けるように思うのは、真理を知らないからだ。

 詫びると云う事は奮我(ニセ物の自分)を否定し、
 眞我(神の子としての本当の自分)を新生さすことになる。
 かかる時彼は本当に強くなったのである。  
p51-53            
    <平成25年11月10日谷口雅春先生著「ひかりの語録」より謹写>

○芸術とは霊が形象に顕現したものである。
 霊ばかりでも芸術ではないし、形象ばかりでも芸術ではない。

○吾が国の芸術は『個』が大自然の中へ溶け込むようになっている。
 それは日本古来の建築芸術を見れば最もよく判る。
 大自然の中へ溶け込む道が『惟神の道』である。

 『我』を出さずに生命を生かす芸術的生き方である。

○愛とは全体を生かす働きである。
 恋は種族を生かす本能から芽生えたものであるから本来『全体を生かす働き』である。
 それが周囲と衝突し、全体と調和しなるなるのは、ニセモノであるからである。
 
 恋を愛(周囲と調和した全体を生かす働き)にまで生長せしめる努力に、
 恋の美しさが生まれるのである。

 ただ男女相曳き結び合うだけでは犬猫の性欲と同じである。
 犬猫にはその努力がないから美しく感じられない。

 近松の描いた人情に美があるのは、恋を愛にまで生長せしめんとの人類的努力が
 描かれているからである。----たといその努力が失敗に帰したにしても、
 その努力の発現せる所に生命が発現し美が発現する。

○一つに成ったところに『道』がある。
 患者と医師と一つになったところに医道がる。

○道は宇宙にミチているから道である。
 すべての芸術はその極致に於いて道となる。

○思い立ったが吉日(日取りの善悪に就いて)

○自分は宇宙の中心であるからどちらを向くのも吉方である。(方角の善悪に就いて)

○相性は心の中にある、我を殺しさえすれば相性は善くなる。
 二つのものが一つにつながるのが道であり、相性である。

 どんなに相性が善い夫婦でも我を立て合いしていては相性も悪くなり運命も悪くなる。
   (相性の善悪に就いて)
p53-54
     <平成25年11月11日谷口雅春先生著「ひかりの語録」より謹写>

○自分だけが助かりたいと云う心は、全体(ミチ、満チ、道)と離れた心である。
 『道』の無い所には荊棘(いばら)が生え、運命が悪くなる。

○すべて『悪』は迷いの世界の産物であるから、
 神を生かし、愛を生かし、實相智を生かす限りに於いて『悪』は起り得ない。

○家庭生活は人間の本当の鍛えの道場である。
 そこで、夫婦生活を卒業し、姑嫁生活を卒業し、親子生活を卒業し、経済の問題、性の問題を
 巧みに統制して行くところに、人間の生命に複雑な行き届いた美が顕れて来るのである。

 孤立した人間として整うた生活が出来ていても、
 集団として全体としての生き方の修業が出来ねば、人間は人生を卒業し得ぬのである。

○創造は生命の本然である。創造を続けるものは死なない。

○殆ど凡ゆる病気は新陳代謝病である。
 しかしその新陳代謝はすべて心の作用でどうにでも変化する

○『人を生かせば自分も生きる』これは一つの原理である。

 しかし人を救おうとして、みずから溺れる人もある。
 これはその人の他を生かそうとする働きは好いけれども、
 人間 は水に溺れるものだと云う生命の物質観がとれていないからである。

 實相智がないからである。
 愛があっても實相智のないものは滅びる。
p54-55
   <平成25年11月14日谷口雅春先生著「ひかりの語録」より謹写>


○本を読むには、文字に捉われてはならぬ。
 本は自分の生命を照らし出して見る鏡である。
 本を読むのは自分の生命を読むのである。

 生命を読まないで文字を読むものは鏡に対して姿を見ずに鏡内の水銀のぬり方を見るものである。

○人を殺す剣もそれを道として生き貫くときそれは死生を超脱する剣道となるのである。
 況んや労働でも商売でも会社生活でも、それを道として生き貫くとき、
 死生超脱の聖道となるのである。

○その日に蒔いて、その日に刈取ることは出来ない。
 心で蒔いた種子も同じことである。
 気を長くして待つ者は遂に全てを得るのである。

○色々言って聞かせるよりも為て見せてやるのが良い。
 考えて躊躇しているよりも断行するがよい。
 実行の伴わぬ善はガランドウである。

○俗悪なる巨富と、悟れる人の懐ろに静かに落付いて生活に流れ入る財とは格段の相違である。
 全ての物質は影であるから、必ずしも捨てねばならぬのではない。
 生命と云うものは物質が無くとも困らない代りに、あっても困らないのである。

○雑草が実を撒らすまでに刈りとるのが智慧である。

○手を拱ねている者には永遠に機会は来ない。

○困難があるので魂は向上する。軌道に摩擦があるので汽車は進行するのだ。
p55-56
    <平成25年11月17日谷口雅春先生著「ひかりの語録」より謹写>

○泰山を考うるも、蟻の造った砂山を考うるも心の自由である。
 大海原を考うるも手水鉢の水を考うるも心の自由である。
 何故汝の心を小さきことに苦しめるのだ。須らく汝ら天空快濶なれ。

○常道これ道。常道を悔いなく歩む者はこれ達者。

○辞書の一頁を知っただけでは人生を知ったと云われない。

○辞書は丸呑みに暗記したとて覚えられない。
 必要に応じて辞書を引いているうちに覚えて了うのである。
 人生で最も尊い教訓も必要にせまられて学ぶのである。

○一刻の経験、一瞬の体験、平凡でも悉く意義がある。すべて有難い。

○独りで悟っている悟りは本物ではない。
 他の救いのために動き出すと本物の悟りに入る。

○もっと魂をみがいてから他を救おうと思うのは考え違いである。
 自分を磨く金剛砂は他を救う実行にある。

○躊躇するな、今救いに起て。

○皮肉を云う者は自分を傷づけているのである。

○自分の創作るものは自分の全力を出したものでないと満足するな。
 自分自身の誤魔化しを寛容するな。
 自己を欺き始める時すべての進歩は停止する。

○生命の實相に振向くとき、一切の人間は罪と死と病いと悩みから釈き放たれる。

○生命の實相にたよるものは自由である。

○一切の道徳的自由は人間が神の子であると云う本来相から来る。

○道徳は功利のために生じたのではなく、人間が『神の子』であると云う本来相から来る。

○『おのれの如く汝の隣を愛すべし』と耶蘇は云った。
 おのれを真に愛し得た時のみ汝の隣を眞に愛し得るのである。
p56-57
     <平成25年11月22日谷口雅春先生著「ひかりの語録」より謹写>

○霊媒と云うものは玩具の電話器である。

 試みに玩具の電話器をとって一方の送話器から『モシモシ貴方はどなたですか』と
 執拗に云うならば付近の頑是ない子供が集って来て 
 『ハイハイ私は九条武子でございます』などと一方の受話器から話し出す。

 頑是ない子供とは浮浪の霊のことである。
 霊眼に見えても、それは浮浪霊のテレヴィジョン式放送であるから当にはならぬ。

○本当の信仰は怪力崇拝になってはならぬ。
 異常現象崇拝になってはならぬ。
 正しき力の崇拝、愛の力の崇拝、調和の力の崇拝にならねばならぬ。

○『霊』が心霊現象実験室に出て来たと云う者があるけれども、
 『霊』は実験室にも五官の世界にも六感の世界にさえも出て来るものではない。

 五官の世界は勿論、六感の世界にさえも姿をあらわすのは
 『霊』そのものではなく念波の形象化したものに過ぎない。

○体は念の影。肉体は勿論、幽体も霊体も-----凡そ体なるものは本来存在しないのである。
 体は実験出来るが、霊は実験にのらない。

○逆説(パラドクス)のようだが、実験し得るものは却って実在しないのであって、
 実験し得ないものが却って実在する。

○人は『霊』である。『霊』は神である。人を肉体だと思っている夢から覚めよ。

○人間は物質にいない。

○消滅する者は真の人間ではない。

○永遠不滅のものが真の人間である。
p57-58
       <平成25年11月29日谷口雅春先生著「ひかりの語録」より謹写>

○肉体が治ったとき自分は悟ったと思うと大間違いである。
 治らないでも自由自在な自分自身であることを悟らない者はやがて躓く。

○一旦治っても肉体は影であるから必ず消える時が来るのだ。
 キリストは十字架上に縛られて自由自在。釈迦は涅槃に入って自由自在。

○『死せる者に死せる者を葬らせよ』キリストの此の言葉が眞にわかる者は少ない。
 キリストは必ずしも死せる者を生かせよとは云わなかったのである。

 彼が『死せる者に死せる者を葬らせよ』と云ったのは『影は影に葬らせよ。影の死は影そのものの
 本来相である。汝の實相は現に生き通しのものではないか』と云ったのである。
 
 肉体の生死に拘らず生き通している自分を自覚する者は幸いなるかな。

○神は人間の母胎であり、人間は神の子の誕生である。

○神に就いての学説は何するものぞ。自分が神であると云う一大事に目覚める事が大切である。

○物を捨てても肉体を物質だと思っている限りは無一物の生活ではない。
 物をもっていても物質は非実在だと知っていれば、無一物で自由自在である。

○何月何日にはお訪ねしますなどと漠然とした約束をするものではない。
 そんな約束をしたら相手をその日いちにち自分の不安定の中へ引込むことになるのである。

○玄関の戸が開く毎にあの人が訪ねて来たのだろうと思う。
 会ってあげたいと待ちわびる人ほど却ってそうである。

 不安定と云うものが如何に人の心持を不安にするか。
 その人の仕事を邪魔するかを知る者はそんな惨酷な約束をするものではない。
p59-60
      <平成25年12月11日谷口雅春先生著「ひかりの語録」より謹写>


○親しい人なら、そして何時に行けるか明瞭に云えない場合なら、
 突然たずねて往った方が突然宝の珠がころげ込んだように喜ばれる。

○『いつの時間でも好いからお出でなさい』と云う約束をしてしくじることがある。
 その日一日待つ身になって苦労である。『待たるるとも待つ身になるな』の諺は真理である。

○普通の会見は相互の時間の都合をきいてその時間に正確に会うが好い。
 長上を訪問するときには特に時間を正確にきめて置いてその時間に伺うが好い。

 『いつでもお出でなさい』と長上から寛容にいわれることがあっても、
 こちらは『何時にお訪ねします』と大体の訪 問時間を告げておくのが道である。
 あまり相手を甘く見てはよろしくない。

○『多分何時に行けましょうと思いますが、神様の御都合で行けぬかも知れません』此れは信仰
 深いらしい人の言葉だが、そんなことなら、『多分何時だ』などと云って相手を不安定の中に
 引き摺り込んで置かぬが好い。

 信仰があっても智慧と愛とのない者は、相手を傷つけていて知らぬことがある。

○人には適業がある。しかし今を深く穿ち入るとき、その適業に到達し、ついにそれを発見する。

 私は本来無学、会社員生活に深く穿ち入ることによって、生長の家生活に到達し、多病に深く
 穿ち入って生長の家の健康学に到達し、長時間の激務をつぶさに味わいて、人類を経済的苦難
 より救うべき生長の家経済学に到達したのである。

 適業は、現在に深く穿ち入り深く味い深く考え、
 些細のものにもその有する意義に触れるときひとりでに得られる。

○誰の得でもない。自分を働かせよ。樹木は誰のために生びるのでもない。
 自分の生命の自然が生びることにあるから生びるのである。
 では人間の生命の自然は働くことにあるから働くのである。

○働くことによってのみ、自己のうちにある最も善き物が表現を得るのである。

○働くと云っても雇われると云う意味ではない。

○潜在のうちに蔵(かく)されたじぶんの宝が顕在に入るのは、祈ることと働くこととによる。

○一個の生命が、他の兄弟なる生命と関係に入るのも、祈りと働きとによってのみである。

○働かないとは死んでいるということである。生命は『動』であるからである。

○出来るだけ大多数の人類のために働け、しかし、最も近き一人のものに深切でない者は
 神のみ心に適わないものである。
p60-61
       <平成26年1月13日谷口雅春先生著「ひかりの語録」より謹写>

     生きた生命

名乗れ、境遇に屈従する卑怯者は誰だ。
誰がわが生命を食べ物でこねあげた塊だと思っているのだ。
生命は蝋細工ではないぞ。
石膏細工でもないんだぞ。
おれは旋風だ。
?風だ。
渦巻だ。
おれは環境を
徐々にわが望みのままに
飴のように
捻じまげる。
俺は宇宙を造った大いなる力と一つの者だ。
おれは空中電気を雷に変じ、
太陽の光を七色の虹に変じ、
真黒な土から燃えるような赤い花を咲かし、
火山を爆発さし、
あの不思議な星雲から、
太陽系を生んだところの大いなる力と一つの者だ。
環境が何だ。
運命が何だ。
おれはおれの好きな時が来れば
鰻が石垣の間から脱け出すように、
どんな苦い運命からでも脱け出すのだ。

おれは銑鉄ではない。
粘土ではない。
生命だ。
生きたエナジーだ。
境遇や運命の型に押しこめられて
黙って引込んでいるような死物ではないのだ。
圧迫すれば圧迫するほど
恐ろしい爆撃力となって
鉱山を掘削するところの
空気圧搾機の空気のように
どんな境遇でも、
運命でも、
時が来れば
猛然粉砕するを得る生命だ。
またおれは何がおれを堰きとめようとしても
結局は大いなる海洋とならずにはおかない水だ。
大いなる巌によっておれを堰きとめれば、
おれは奔流となり、
激流となり、
瀑布となって
落ちるであろう。

少しでも出口がないように
おれを堰きとめれば
おれは地の中にもぐり込む。
俺はしばらく地下に沈潜して姿を見せないが
おれは消えもなくなりもしないのだ。
やがて吹きたぎる泉となって
旅人の咽喉をうるおさずにはおかないのだ。
おれが地下にしみこむことをすら遮るならば、
おれは霧となり、
雲となって
虚空へと舞い上る。
時が来ればおれは
旋風を呼び
雷電を呼び
沛然(はいぜん)たる猛雨となり、
如何なる大堤をも決する洪水となって、
結局は大なる海洋とならずにはおかないのだ。

     <平成26年1月14日謹写>

    夢を描け

若きと老いたるとを問わず
兄弟よ、夢を描け、
蜃気楼よりも大いなる夢を。
夢はあなたの肉体を超えて虚空にひろがり、
ひろくひろく宇宙にひろがる雲となって、
あなたをより高き世界へ
あま翔けらす大いなる翼となるであろう。

此の翼こそ世にも奇(くす)しき翼である。
夢の奇しき翼に乗るとき
若きものは向上し
老いたるものは若返る。

兄弟よ、
夢の翼を休めるな、
自己を出来るだけ偉大であると想像せよ。
あまりに高く翔けのぼることを恐れるな。
躊躇するな、
尻込みするな、
自分自身を限るな。
あなたは夢の翼によって肉体の制限(さかい)を越える。
たといあなたが地球にわいた黴(かび)よりもその肉体が小さくとも、
あなたの心は夢をえがくことによって
大地をつくった偉大なる心と一つになるのだ。
兄弟よ、
悲しみに打たれるな。
打たれても起き上れ。
描いた夢が破れても
あなたはまだ夢を描く自由はあるのだ。
自分にまだ偉大な力が残っていると想像せよ。
夢を描くものにとっては
此世界は常に新天新地である。

兄弟よ倒れるな、
倒れても起き上れ、
希望を失っても試みが破れても
倒れ切るな。
夢は希望の苗床である。
大いなる夢の苗床から
希望の芽がまた萌え出でる。
希望の芽は夢につちかわれて生長する。
夢は希望の苗床である。

兄弟よ、出来るだけ明るい大きな夢を心に描け。
自分を暗い悲しいものだと想像するな。
あなたの『心』が全能の創造者(つくりぬし)だと云うことを知れ。
あなたは自分の心で自分を想像した通りのものにするのだ。
自分を暗い悲しいものだと想像したら
その通りにあなたはなるのだ。
何故なら心は全能者であるからだ。

兄弟よ、
偉大なる夢を描かないで
偉大となったものが嘗(かつ)てあるか。
此の世に偉大と名のつく一切のものは、
みんなあなたの夢の産物ではないか、
コロンブスがアメリカ大陸を発見したのも、
あなたの夢の帆かけ船で
人生の荒波を超えたからではないか。
汽車、汽船、自動車は勿論のこと、
飛行機、ラジオに至るまで、
みんなあなたの夢が形と化したのではないか。

新大陸の存在をあなたの夢が心に描く。
するとやがてアメリカが発見された。
あなたの夢が
人間が空を飛ぶことを心に描いたとき
飛行機が発明された。
あなたの心が『動く写真』を夢に描いた時
キネマが出現したのだ。
そしてあなたが『語る活動写真』を心に描いたとき
トーキーが出現したのだ。
兄弟よ、
夢の勇者となれ、
あなたの夢が万能であると云う事を自覚せよ。
万能を自覚するとき
あなた自身は本当に万能となるのである。
夢の勇者も
時としては失敗するように見えるであろう。
併し如何なる時にも挫折するな。
失敗するように見えた時
彼は一層希望の実現に近づいているのである。

見せかけの失敗は
成功のきざしである。
陰極は必ず陽転する。
コロンブスを乗せた帆かけ船の船員が、
待てども待てども新大陸が見つからないで失望して、
今や将(まさ)にコロンブスを監禁して
船を引返そうとしていた時
彼は一層新大陸の間近まで来ていたのではないか。

兄弟よ、
陰極は陽転するのだ。
何事にも此のコロンブスの話を想い出せ。
失敗に恐れるな、
失敗のたび毎に
貴方が希望の実現に近づいている事を知れ。
そして人生の荒波に沈んで了(しま)わないように
夢の救命器をしっかり結んで泳ぐのだ。

     <平成26年1月16日謹写>

     光明の国

或る日『生命』の長老が
『生命』の子供たちを集めて話し出した。

聞け、『生長の家』の子供よ、
『生命』の子供たちよ、
今日はあなたがた皆のために
『生命』が生長をとげる秘訣を話して聞かそう。

聞け『生命』の子供たちよ、
これを聞くものは幸いだ、
聞いて之を実行するものはなお幸いだ。
何故なら生命がスクスクと伸びるからだ。
(この時『生命』の長老の白い銀の様な顎鬚には太陽の光が落ちてさんさんと輝いた。)

さて
生命の子供たちよ、
自分自身を有限だと思うな。
自分の力はこれ切りでお仕舞いだと思うな。
自分の力を出し惜しみするな。
節約と云う言葉は実に生命にとってはふさわしくない。
答えよ、
生命の子供たち、
貴方達は生命か物かどちらだ。
(此の時、生命の子供たちは起き上がり一斉に手拍子とりつつ長老の周囲を歌いつつ舞う)
わたし達は生命の子だ。
太陽の子だ。
光の子だ。
雲が低く地を這うときも、
雷霆(らいてい)が真黒な地上を威嚇するときも、
なおその雲の上には
雷(いかずち)の上には
青空があろうように、
わたし達はいつも曇(くも)りを知らぬ青空の子だ。
歎きも、
悲しみも、
憂鬱(ゆううつ)も
ただひと時の
うわつらの雲のうごきだ。
たとい
雲があればとて
地に陰(かげ)が落ちようとも
雲の上には
なお光が輝いていればこそ落ちる影だ。
わたし達は物ではない。
生命の子だ、
光の子だ、
いつ迄も消えることを知らぬ太陽の子だ。
(舞い終りて生命の子供達一同座につけば、生命の長老はいと満足げに言葉をつぐ)
さて生命の子供たちよ、
生命の生長の秘訣は
生命を出し惜しみする事ではなく使う事だ。
生命を『物』だと思うな。
使って耗(へ)るのは『物』の世界のことだ。
汝ら、生命を与え切れ、
出し切れ、
ささげ切れ。
一粒の麦でさえ地に落ちてその全生命を捧げ切るとき
幾百粒の麦の実となって生長するものだと云うことを知る者は幸いだ。

生命の世界では
与えると云うことは
生長すると云うことだ。
大きく与えれば与えるほど
汝らの生長も大となるのだ。
無限に与えたものは
無限に生長する------
その人は神だ仏だ。

汝らよ、
汝らに与えられた生命力を出し惜しみするな。
どんな能力でも
力でも
もしそれを使わずに
抽斗(ひきだし)に入れて置いたならば
こんど抽斗(ひきだし)をあけて見たとき、
見ちがえるように小さくなっているのを見出すだろう。
与えれば与えるほど
使えば使うほど
ささげれば捧げるほど
生長するように出来ているのが
汝らの生命だ。
力士の隆々たる筋肉を見よ。
拳闘士の驚くべき迫力を見よ。
毎月ちがう話がいくらでも泉のように湧いてくる
かの物語り作者の不思議な頭脳の力を見よ。
使えば使うほど
必要に応じて懇々と湧出でてくるのが生命だ。
大抵の人間は
生命力はつかい過ぎたら
それだけ使いちびて、
自分の生命力が弱って了うものだと恐れているが、
生命は『物』ではないぞ。
自分の力をコレだけ切りだと
小さいことを思うな。
人間は思っただけの力だけの者だ。
恐れたら屹度生命は減るぞ。
過労でこの世に神経衰弱になる者は一人もないのだ。
神経衰弱になる者は皆恐怖心の強い者ばかりだ。
働きすぎたら可怖(こわ)いとか、
明日の試験がこわいとか
誰か自分の悪口を云ったとか、
上役が自分を首にしやしないかとか、
明日にでも革命が起きて自分の財産が零になりやしないかとか、
いらぬ思い煩いをしないで
神経衰弱になった者は手をあげろ。
誰も手を挙げる者がないのは当り前だ。
生命力の生長の秘訣は
生命力をはたらかせつつ
この働きで自分の生命はスバラシイ勢いで生長しつつあるのだと信ずることだ。

信ぜよ。
信ずる通りになるのが生命の法則だ。
自分の心を無限だと告げよ。
内なる無限から生命は滾々と湧いて来るのだ。
自分の心に自分を有限だと告げる者は、
無限の泉から有限しか汲まない者だ。
臆病に自分の減った力ばかりを秤っているものは禍だ。
減ったことを秤るな。
如何に伸びたかを尺(はか)れ。
目のつけどころを間違えるな。
若し余分に仕事が与えられたら、
有難い わが生命の生長する機会が来たと思え。
どんな仕事でも自分には重すぎると思うな。
明日の生命力を伸ばす秘訣は、
今日の生命力を使い切るにあるのだ。
(この時、生命の子供らはまた立ち上がり長老の周囲に手をつないで輪を造りて歌う。)
わたしたちは生命の子だ。
無限の力の泉の子だ。
わたし達は今それを知ったのだ。
知ったとおりになる世界!
望みどおりになる世界!
(生命の子どもたち激しく長老の周囲を舞う。愈々急速力で舞えば生命の子供たちただ光の渦巻き
のように見え、舞台一めんに光明化し、ただ声のみ聞える。)
知ったとおりになる世界!
望みどおりになる世界!

             光明の国(完)
       
        <平成26年1月22日謹写>

    或る日の生命の国

けさ------
『生命』の長老はいつもより特別ごきげんが好いのであった。
長老の周囲にあつまった『生命』の子供たちに
今日は世界でいちばん大きな工場の話をして聞かせてやるとおっしゃるのだ。
『生命』の子供たちが思うのに、
世界でいちばん大きな工場とは
何処の工場のことだろう。
独逸のクルップ会社のことだろうか。
アメリカのスチール会社のことだろうか。
それともフォード自動車会社のことだろうか。
それともまたニュージャーシーのスタンダード石油会社のことだろうかと。
『生命』の長老はニコニコ笑ってみんなの顔を見廻して
そのご機嫌の好い上品な口元の白い髭に
いかにも満足気な輝く太陽の光を反射させながら
いやいやお前たちの思っているような、
そんなちっぽけな工場ではないぞとおっしゃるのである。

だってそれよりも大きな工場が世界のどこにあるのでしょうかと
『生命』の子供の中でも
一等悧巧そうな緑色の着物を着た子供が云うのであった。

わしが皆に話してきかせるのは、
クルップ会社も
スチール会社も
フォード会社も
スタンダード会社も
世界中の大会社みんなを一手に製造したほどの大工場の話だよ。
(こいつ話が大きいぞと『生命』の子供達は緊張する)
さて長老は『生命』の子供達の緊張を見はからって、
その世界中で一番大きな工場と云うのは
人間の心のことだ、
と愈々心の神秘力を話されるのだ。
人間の心ほど不思議な工場はほかには無いぞ。
此の工場にはあらゆる種類の不思議な機械職工がそろっていて
どんな欲しいものでも
努力一つでつくることが出来るのだ。
どんな大きな会社だって、
どんな天才だって、
どんな芸術だって、
どんな発明だって、
どんな哲学だって、
みんなそれは心の工場で製造した生産品だ。
心の大きさは宇宙にひろがり
その小ささは顕微鏡で見る黴菌の中をも潜る。
分子原子は勿論のこと、
電子と云う電気エネルギーの小体の中へすら
この工場は這入ることが出来るのだ。

この大きくして小さい
無限大にして無限小の
あらゆる種類の機械と職工とを
備えた『心』と云う工場の
諸君は社長であり工場主であるのだ。
諸君はこの貴い工場を、
貴ばなくてはならないぞ。
無茶な経営をしてはならないぞ。
出鱈目に放任して置いてはならないぞ。



心の工場を管理することは
どんな工場を管理するよりもむつかしい。
むつかしいと云えば難しいが
また、やさしいと云えば易しくもあるのだ。
『心』の工場の職工たちは、
遊ぶことがきらいで、
暇があれば
どんなものでも作るのだ。
この仕事をせよと云って、
或る仕事を命じない限りは、
どこからでも
外から来るどんな印象でも
おかまいなしに持って来て
自分の製造仕事の模型にするのだ。
悪い印象でも、
悲観の印象でも、
病気の印象でも、
貧乏の印象でも、
そんなことは頓着なしだ。

だから『心』の工場で
善い品物を作りたいなら
『心』の工場の職工たちに、
この仕事に精神を集中せよと
君たち工場主の方から
製造の模型(ひながた)を出してやるべきだ。
『心』の工場の製造の模型(ひながた)と云うのは
諸君が心に思い浮べて
いつも離さないでいる観念(かんがえ)だ。
明るい観念(かんがえ)の模型(ひながた)を出せば、
『心』の工場の職工たちは
明るい運命と境遇とを作るのに一所懸命だ。
暗い観念(かんがえ)の模型(ひながた)を出せば、
『心』の工場の職工たちは
暗い運命と境遇とを作るのに一所懸命だ。

若し諸君が神経過敏に、
とんでもない失敗(しくじり)をやるかも知れないぞと
戦戦兢兢として唯これ失敗なからんことを希いつつ仕事をするならば、
どこかで必ず失策をやらかすものだ。
何故わたしはこんなに注意深く
一事も忽(ゆるが)せにせずに仕事をしているのに
いつの間にこんな失策(しくじり)をやったものだろうと
あとになってから後悔しても駄目の皮だ。
諸君が失敗(しくじり)のことを思えば、
諸君は心の工場に
この模型通りの品物を作れと
『失敗』と云う模型(ひながた)を出したのと同じことだ。
『心』の工場で出来上がった品物が
その模型通りに出来上るのは当り前だ。

諸君よ
何物も恐れるな。
何事をも懸念するな。
懸念すれば懸念する通りに物事が出て来るぞ。
ひとりの力で生きていると思うから不安になるのだ。
諸君のうちひとりでも
自分で生まれようと思って
生まれて来たものはないぞ。
生まれようと思って
生まれて来た自分でないならば
これを生かす力もまた
自分の力ではない筈だ。
何ものか不思議な力に生かされている。
その不思議な力にまかせ切れ。


諸君は如露で水を捲いているのを見たことはないか。
如露のほそい噴水口から
猛烈な力でたばしって出る水の力を、
あなたの手のひらで受けて見たことはないか。
その猛烈なほとばしる力は、
一滴一滴の水の力ではない。
一滴一滴を量って見れば、
一グラムにも足らぬ無力な水滴だのに
猛然として手のひらを圧する噴射水の力は、
本源になみなみと湛えた源があるからだ。

諸君の生きる力も、
この如露から噴射する水のたとえのとおりのものだ。
諸君の生きる力を
その熱量からはかって見れば
全力をだしたからって
たかだか二三千カロリー程のものではないか。
諸君の生きる力は、
これを熱機関として計算するときは、
一馬力のエンジンにも及ばない。

けれども諸君は幸いにして
物質で造った熱機関ではない。
また諸君は滋養物をこね合わして造った肉塊ではない。
生命だ。
霊だ。
心だ。
融通無碍にして
小さくして大きく、
目に見ゆる形は五尺数寸に過ぎざれども、
それはただ如露の噴射口から出る水がほそいのと同じことで、
なお本源にはなみなみと湛えた無限の生命の源があるのだ。
君たち、『大生命』と云う無限大の如露からふき出してくる生命の噴射水よ。
自分の力だけで噴射しようとあせるな。
自分の力だけを見る者は
自分ひとり切りの力しか出ないのだ。
これが心の法則だ。
生命の法則だ。
諸君よ、
無量寿なるものに帰命せよ。
無量寿なるものに廻向せよ。
背後にある無限生命に委せ切れ。
無限を見、
無限にゆだねる者のみが心に本当の平和を得るのだ。


諸君よ、
心に朗かな平和がなければ
恐怖するほかはない。
五尺の身体(からだ)にたよる者は
恐怖するほかはない。
生命の源に無限を見ない者は
恐怖するほかはない。
そして恐怖する者は
『心』の工場に
『恐怖』の模型(ひながた)を与えるものだ。
『心』の工場では
たちまちその模型(ひながた)通りに造りはじめる。
諸君が病気を恐怖すれば、
諸君の全身の細胞は
活力を失い
抗病力を失って
ただ無条件に
外来の病毒素に降伏し、
恐れた通りの病気になるのだ。
また諸君が貧乏を恐怖すれば、
八方ふさがりの経済界に
何一つ手出しの出来る事業がないであろう。
緊縮緊縮の掛け声に
操業短縮、業務縮小
その上何の事業も起さなければ
失業者は殖えるばかりだ。
失業者が日本に殖えると云うことは
生命を徒費する者が日本に殖えると云う事だ。
生命を徒費する者が日本に殖えると云う事は
日本の国がそれだけ貧乏になると云うことだ。
結局諸君は恐れた通りの貧乏を造り出すのだ。
『心』の工場の職工のはたらきは
畢竟かくの如きものだ。
これに反してもし諸君が
常に絶え間なく
心に健康の念を描き、
心に調和の念を高く掲げ、
自己の生命の背後に無限の生命を見るならば
『心』の工場の職工は
諸君にその模型(ひながた)どおりの
健康なる肉体と
調和せる性格と
無限に充実せる生命とを
現実につくり出す。

また諸君が
自己の成功を信ずること厚く、
常に絶え間なく『成功』の信念を心に把持し、
どんなに困難や蹉跌がやって来ようとも
これこそ本当の成功の先き触れだと『心』の工場の職工たちに
断乎として『成功』の観念のみを示すならば、
『心』の工場の職工たちは
その『成功』の模型(ひながた)に従って
『成功』に必要な一切のものを造り出す。
すなわち、
その心には
まだ実現しない前から
成功の歓びにみたされているので、
意気既に事業を呑み、
困難に対しても
心の平静を失わず、
失敗に際しても
深く悲しみに捉われず、
機にのぞみ、
時に応じ、
智謀縦横、
神策機略の尽くる所を知らず、
愈々難関に処して
精力百倍し、
陰きわまって陽転すべき
最後の五分間まで
よく耐えしのび得るが故に
結局希望した『成功』は
心にえがいて待った通りに現れる。


だが、
わが愛する『生命』の子供たちよ
『心』の工場にて完全な作品を得るには、
此の『最後の五分間』と云うことが何よりも大切である。
キリストも『最後まで忍ぶ者は救われん』と云われしように、
最後のギリギリまで、『心』の工場にあなたが提出した目的物の模型(ひながた)を撤回するな。
成功のわかれるのは
何事も最後の五分間にあるんだからな。
多くの人間のやることを見ていると
始終『心』の工場へ提出した模型(ひながた)を取りかえている。
今明るい健康な考えを抱いているかと思うと
一時間もたたないうちに
もう暗い考えをいだいている。
きょう成功の期待で喜び勇んでいるかと思うと
次の日には失敗の『恐怖』でおののいている。
こんなに、
とっかえ引っ替え模型(ひながた)を取りかえられては、
『心』の工場で出来る作品は
半製品ばかりで
完成品は一つもない。
こんな人間にかぎって
『心の力』を力説する人に対(むか)って
『俺もいろいろ善い事を空想して見たけれども結局は駄目であった』と
不足を云う輩(てあい)である。

諸君よ、『心』の工場の職工たちは、
働くだろうかと心配して見ていると
実に彼らは怠け者だ。
一定の模型(ひながた)さえやって
見ないでほって置くと
実に彼らは働き手だ。
いつのまにか気がついた時には
もう模型(ひながた)通りのものが出来上っている。

諸君は
畑に種を蒔いて
いま生えて来るかと見つめているうちに
むくむく芽が生えて来たのを見たことは滅多にあるまい。
しかし一晩見ないで置くと
いつのまにか二三分も芽を出している。
子供でも、
植物でも、
見ない間に伸びる------
これが生命の法則でもあり
『心』の工場にはたらく職工の習慣でもある。
『心』の工場の職工たちは、
一定の模型(ひながた)さえやって置けば、
働くだろうかと見詰めぬことだ。
彼らを信じて、
諸君は諸君のするだけのことさえすれば、
結果はパッと最後の一瞬にあらわれる。
例えば、
片栗粉に湯を注せば
最後の一滴の湯で透明になるけれども、
夫は最後の一滴の湯だけが働いたのではない。
それまでに注した湯の力は
見えないでも働いている。
大抵の人間のやることを見ていると、
はじめに注した湯だけで
片栗粉が透明にならないと、
もう湯の力を疑って
水を注すやら、
メリケン粉を混ぜて見るやら、
そんなことでは
いつまでも片栗粉は透明にならないのだ。
『心』の工場で事物をつくるのも同じことだ。
明るい気持ちを一たん『心』の職工の製作の模型(ひながた)に与えたならば、
いつまでも明るい気持ちを保て。
たえず喜べ。
たえず陽気を失うな。
たえず心を朗かに有て。
そして『心』の工場が有っている
無限の生産力に信頼せよ。
疑っては『心』の職工は働かないぞ。
見ていない間にずんずん仕事を運ぶのが彼らの癖だ。


『心』の工場での模型(ひながた)職は
あなたの有って入る想像力だ。
先ず想像力をして
あなたの欲するものの姿を描かしめよ。
ハッキリと強く描かしめよ。
若しあなたが健康を欲するならば、
瞑目静座して調息精神を統一し
全身を心で凝視し想像せよ-----
『われ吾が全身を見るに
霊々妙々無量光の生命にして
病なし』と観ぜよ。
この凝視を毎朝夕三十分間継続せよ。
毎朝夕これを繰返して、
あとの製作を自然にゆだねるときは、
『心』の工場の職工たちは
色いろの地金を大生命の山々から斫(き)り出し、
坩堝(るつぼ)に入れて
フイゴも吹けば、
コークスもくべて
やがて与えられた模型(ひながた)通りの
完全なる健康体をつくり上げる。
健康が改まらぬと歎く者よ、
それは今ある通りの不健康おば
吾が常態として心に描いているからである。
今ある不健康を眼界より放逐せよ。
不健康を見るな。
自己の健康を想像して
現実の如く
ありありと
自己が健康であるさまを心で見よ。
見るとおりに現われるのが
心の法則だ、
生命の法則だ。
君たちわが愛する『生命』の子供らよ。
生命の法則にしたがって、
生きよ、
栄えよ。
-----云い終わって『生命』の長老は
深き光明三昧に入り給うか
その眉間より燦然たる霊光を照射したまうのであった。

この時緑色の着物を着たひとりの『生命』の子供が
前へ進み出でて問うのであった。
『今現に不健康であります者が
如何にして自分が健康であると
心にえがくことが出来ましょうぞ』と。
すると『生命』の長老は
深き光明三昧より出でたまいて答えたまう-----
『今現に不健康であると云う者は
物を見て
「生命」を見ないものだ。
影を見て
「実相」を見ないものだ。
あらわれを見て
「本質」を見ないものだ。
「生命」は病むことが出来ないものだ。
「実相」は病むことが出来ないものだ。
「本質」は病むことが出来ないものだ。
物に捉われず、
影に捉われず、
あらわれに捉われず、
あなたが「生命」を見
「実相」を見
「本質」を見るならば、
いま病苦のまっただ中にいようとも
自己の健康を見ることが出来るのだ。
自己の「生命」が五尺数寸の身体から来るものではなく、
無限の大生命の流れに通ずる
無量壽、無量光なるものと
本質に於て等しきものであることを見ることが出来るのだ。』
語り終わって『生命』の長老は
深く光明三昧に入りたまえば、
長老の全身はただ光明化し
生命化し、
実相化し、
霊化して、
雰囲気の如く陽炎(かげろう)の如く、
真空管内のX線の如く
霊々妙々、不可思議なる
『生命』の波動的実相を
目の当たりに示現し給うのであった。

【完】

<平成26年2月3日謹写>


<はしがき>

『智慧の言葉』は人間智の言葉と云う意味ではない、私と云う思想のラジオ的受信機に天界から
放送された思想の宝玉的な結晶である。

その放送は、私があの『生い立ちの記』にあるような霊感を受けて以来道を歩いている時にも
突然私の頭へ閃くように降って来ることが繁くなった。

私は手帳を常に携帯していてそれを走り書きに書きとめる。その時書きとめないで置くと、あと
からどれだけ思い出そうとしても思い出せないことがる。

また私が会社にいた頃全然『生長の家』に関係のない機械書類の翻訳などに熱中しているときに、
突然その機械に関係のない一つの言葉が私の頭に浮んで、それをどうしても書かずにいられないで、
走り書きで書きとめて置いたのもある。

そうして書きとめられた断片的思想を集めたのが、この智慧の言葉である。色々、一つの問題に
苦心して人間心で考え出したのではなく、全然他の問題に熱中している時にでも、全く当時没頭
している実際問題と何の関係もなく眞理の言葉が天から降るように私の頭にポッカリと湧いて来るのだから、私はこれを天界から来る霊感的言葉だと信ぜずにはいられない。

尤もその神徠のうちには何処かで一度読んだ聖賢の聖語が潜在意識の中に潜んでいて、エッキス
となって思い浮かんだものもあるに違いないと思う。何しろ私自身も教えられる言葉である。

 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


○生命は坂道を登る車のようなものである。静止すれば後退し、動けば必ず上昇する。

○すべての智識を軽蔑するな。又すべての智識を盲信するな。
すべての智識は、ひとりひとりの人類の選手が昇ったところの其の高度をあらわす。

○善いと思ったことにはすぐ取りかかれ。失敗して倒れても恥かしくない。
 再び起き上った時には以前より進歩している。

○魂から動け、自己を偽るな。

○家庭で善き人たれ。家庭で尊敬されず喜ばれない者の価値は知れている。近き人を愛し得ない
 で人類を愛すると称するものは、自分は人類を愛していると空想しているに過ぎない。

○苛(いや)しくも仕事をなす------その中に自分の生命を顕せよ。

○人生は織物である、環境の横糸の中に、一糸みだれず、自分の生命を縦糸として突き貫かねば
 ならぬ。縦糸の乱れた織物は役に立たない。

○躊躇逡巡とあやまれる謙遜とは役に立たない。人生はたとえば剣戟の戦いである、
 一瞬の気合の相違で勝敗は決するのである。

○嘗(かつ)て満州に大刀会と云うのがあって、腹に一種の護符を巻きつけ『弾丸(たま)は
 当らない、当っても死なない、死んでも生き返る』と云う大信念をもって、大刀を振りかぶって
 突進して来る信仰団体の軍があった。

 それは機関銃の猛射を浴びせかけてもなかなか仆(たお)れぬ。さすがに弾丸は当るが、当って  
 も二発や三発ではなかなか死にはしない。一旦倒れても又ムクムクと起き上がって来て肉迫する
 のだそうだ。

 だから大刀会が出て来るとどうしても白兵戦を演じないと納らない。斃(たお)れた彼らを見る
 と身に何れも十数弾を受けて尚且つ前進して、ついに、斬り死にしたものであることが判った
 そうだ。

 信念の力は斯くの如く偉大なるものだ。一回や二回や三回の喀血で驚くものはこの大刀会の人
 たちの信念に愧じるが好い。恥かしいのは躓くことでも倒れることでもない、再び起き上る力を失う
 ことだ。

 井戸の水でも井戸替するときには、一時涸れがれになるが、一時涸れるのは一層よき水が豊富に
 出るためであるから恥かしくない。人間は一時挫折したように見えても再び滾滾と神の生命を
 与えられるのである。

○永遠に生きる仕事を心掛けてせよ。しかし目前の小事をゆるがせにしてはならぬ。
 目前の小事の中にも永遠が宿っている。

○愛はどんなに小さくとも、それが真実の愛ならば永遠である。愛は神の生命であり、
 愛は永遠であるからである。

○実用になると云うことは大切なことである。『実用』を軽蔑してはならない、実用の作品に
 愛が、生命が、籠っているいるならば立派な芸術品となる。

○人への捧げものとして実用品をつくれば、その実用品は同時に芸術品であるが、金を儲けよう
 と思って芸術品をつくれば、却って芸術品とならない。

○富そのものは清くも穢くもない。富はただ一層高貴なる目的のために使用するとき清くなり、
 自己の栄華と名声のためのみに使用する時汚れたるものとなる。

○宇宙の栄えのために働け。或る人の自愛が尊いのは唯その自己が宇宙国の一員たる働きをして
 いることによってである。

○宇宙全体の栄えのために関係のない自愛は死である。
p61-64
    <平成26年2月5日 謹写>

○諧謔(じょうだん)は塩のようなものである。適当の諧謔(じょうだん)は人生に味を添え、
 あまりに諧謔(じょうだん)が過ぎれば人生は味を失う。
 淡々なるうちに塩味のある鯛の塩焼きのような諧謔(じょうだん)は、真面目な人の唇から時々
 出る下品にならぬ諧謔(じょうだん)である。

○愛嬌ある表情は商店には特に必要である。愛嬌のない商店は栄えない。
 泣き顔や膨れ面をしている番頭やショップ・ガールは客を遂い出しているようなものである。

○ある人物の偉大さの尺度の一つはその包容力の大いさによって測られる。その人に逢うと何と
 なくゆったり有難い感じを受けるような人物にならなければ駄目である。

○五官の世界へ見え出してから信ずるのでは信仰ではない。
 五官の世界にあると見えるもの(病気、不幸等)でも、神の創造は完(まった)きものである
 との信念で、その病気、不幸等を非実在であると信ずるのが本当の信仰である。
 癒能(いやすちから)は斯くの如き本当の信仰に吾らが入るとき直に働きはじめるのである。

○同時にまた五官の世界にみえないものでも、神の創造は皆完きものであり、人は神の子である
 から今現に自分の完きものであること(健康、幸福等)を信ずるのが正しい信仰である。
 この正しい信仰に入るとき癒能(いやすちから)は忽ち顕れはじめる。

○あなたは神を信じているのですか、五官を信じているのですか。
 五官にあらわれる状態に随って心を浮動させ喜悲させているものは要するに、
 五官を信じているので、神を信じているのではない。

○五官を信ぜず、神の創造を信ずるのが信仰である。

○切り倒した樹木を見よ、放置すれば枯れてしまう。心が神に向いたとき、神(実在)に属しない
 一切のもの(病気もその一つ)の幹は切倒されるのである。
 切倒された樹は一時まだ生きているように見えるかも知れないが、既にその幹の断たれたものは、
 ある時間経過ののちに枯れるほかはない。

○みんな病気の人を見ていると治して貰ったら神を信じようと思っているが、アベコベである。
 神を信じたら癒るのである。神を信ずると云うことは神に対するラジオ的受信機をつくること
 である。
 受信機のない所でラジオは聞えない。色々の神を信じたが癒らなかったと云う人は、どんな神を
 信じたか自分で自分の信仰を考えて見るが好い。
 
 
 本当の神とは偶像の神ではない。また色々執念を有つ『霊』たちのことでもない。
 本当の神はただ一つ-----完き吾らの造り主にして救い主なる神である。
 
 
 本当の神に感応するにはそれに合う心の波長の受信機を作らねばならぬ。
p64-66
     <平成26年2月9日 謹写>


○気合をもってのぞまば折紙をもって太刀を斬ることも出来るのである。
 人生の成敗も気合一つにある。

○気合は人生の推進力である。気合の欠けた人間は推進力の欠けた人間である。

○『迷い』は一つの噴火山のようなものである。これを消さずに押込めば、他の方向で爆発する。
 心の根本的『迷い』を消さずに症状ばかりを治療していると常に症状は、時に彼処に、時に
 彼方に、転々としてあらわれる。医者にとってはこう云う人は好いお客様である。

○病気や不幸だけを神示だと思うな。すべては自分の心の影であるから、目の届く限りすべて
 神示とも云える。

○不平、出し惜み、怒り、妬み、総て擦れる心、和解せぬこころは病気の因である。

○實相のほかに、外的な神を認めなくなったとき、本当の魂の夜明けが来る。それまでは
 人間は色々の霊に頼り、人間に頼り、偶像に頼って失敗する。

○何よりも自己の良心を礼拝し、それに絶対服従するものは、形の神に誓いをたてるものよりも
 信心深い者である。

○生死一如ではない。生ばかりあるのだ。死はあるように見えてもないのだ。

○死すべきものは、昔から生きてもいなかったし、本来存在しなかったものである。

○悲しいか。本当のお前は悲しんでいるのではない。本当のお前は笑っているのだ。

○富を操縦し、能力を操縦し、すべての外界を支配しようと努力している癖に、多くの人たちは
 最も大切な自己自身の操縦を忘れている。
 人若し全世界を支配し得るとも自己自身を操縦し損ったら何の甲斐かあらんや。

○委されたる富は猥りに捐(す)つべきものではない。それを如何に人生に有用に処理するかが
 その人に与えられた課題である。富を何の見境もなく捐(す)つる者は自己に与えられたる課題
 を他に転嫁する卑怯者である。


○薬剤の広告や栄養剤の広告は成るべく見ないが好い。
 それを見ていると釣り込まれて薬剤や栄養剤が欲しくなる。

 それが欲しくなれば、その欲望を満たしたい潜在意識が、内部からその薬剤や栄養剤を
 必要とする病気を造り上げる。潜在意識が求めた薬剤に出会したら満足して病気を引込める。

 薬剤や栄養剤の広告は病いの作り手であるから見ないが好い。

○これ以上出来ないと云う『限度』はない。現在の報酬以上を欲するものは、この『限度』の
 考えを捨てよ。今の限度を超えることが進歩の秘訣である。

○報酬とは人間から貰うサラリーのことばかりではない。神から頂く報酬もある。その人自身の
 発達と云うことこそ、神から頂く一層大切な報酬だと知らねばならぬ。
 物質的報酬は『主』ではなく随伴物に過ぎない。

○百円の報酬を貰っている者が常に百円だけの仕事をしていたのでは昇給の見込みはない。
 百二十円の仕事を常になすとき、終に認められて百二十円に昇給される。これは人生の
 例え話である。だんだん仕事の品質を落して行くものはついに解雇されるのである。

○佳きものは認められずにいない。認められるまでに時間がかかることも亦知らねばならぬ。

○仕事を為すことを利用厚生の功利目的ばかりに解してはならない。仕事は生命の排泄物に
 過ぎない。生命はその本性を生かす為に働き、その働きの排泄物によって他を養う。
 
 それは恰も植物は生きるために酸素を排泄し、その排泄物によって動物を養うに似ている。
 本末を顛倒すれば、生産過剰時代には働かないことが美徳となる。

○仕事をすると云うことと、人間から給料を貰うと云うこととは別である。仕事はどこにも
 満ちているが、人間から給料を貰う仕事は欠乏している。神から『霊魂の発達』と云う給料を
 もらうつもりの仕事ならどこにもある。

○無限に善いのが自分の潜在能力であるから、此の辺でよかろうと小成しては、折角自己に宿る
 『無限に善いもの』があっても宝の持ち腐れになる。

○甲と乙との能力の差は、彼らの心の差だけである。百を自覚するものは百に達し、
 千を自覚するものは千に達する。

○先ず自己の無限の可能性を想望し、一歩一歩それに近づくものは大成する。
p66-69
     <平成26年2月11日 謹写>

○如何なる大事も、現象界に於いては、ほんの小事の集合である。
 天を摩する大廈高楼(たいかこうろう)も、竹の様に細い鋼鉄の骨組と、吹けば飛ぶような
 セメントの粉末とから成立っている。小事を忽諸(ゆるがせ)にしないものが大事を成就する。

○人生とは、見えざる無限に広大な建築物を築きあげて行くことである。如何なる仕事も此の
 建築物の一部となる。全体が余り広大で見えないからとて、手近にある仕事を忽がせにしては
 ならない

○真実の自己を発見する事が、如何なる他のものの発見よりも偉大な発見である。
 『真実の自己』-----それは神であり、全能者である。

○自分は画家になるのだから絵のことのほか何も知らないでも好いと云う譯のものではない。
 自分は商人になるのだから商売のほか何も知らないで好い譯のものではない。時々の流行の
 潮流に押流されて浮沈する画家や商売人ならそれでも好いかも知れない。

 併し、時の試練に耐え、凡ゆる人々の評価に耐え凡ての時代を通じて不滅のものを作り出す
 には、画家でも、商売人でも『全ての人の心』をば掴まねばならぬ。『全ての人の心』を掴む
 のは、自分が先ず『全人』になることである。自分が先ず『全人』になって『全ての人の心』を
 掴む芸術が出来、自分が先ず『全人』になって『全ての人の心』を掴む商売が出来るのである。

○一つの憎みは十人の憎みを招び、一つの愛念は百人の愛念を招ぶ。

○本来自己のうちには全てがある。ただ見出せないだけである。

○凡ゆる生長は、外からの獲得ではなく、内部に宿っているものの新しい発掘である。
 経験とは外から得るものではなく、外から触れるものに触発せられて、内部にあるものが
 出て来るのである。

○愛しない生活は生活ではない。それは『生ける屍』の生活である。

○『功利功利』と功利を追いかけて生きるものは利己主義者である。功利は『心』に伴うのだ。
 みんな求めかたが違っている。

○自分を広告して歩かなくとも、皆が求めて集って来るのでないと本物ではない。

○今日(こんにち)、汝の肉体を十字架につけよ。十字架につけるとは殺すと云うことである。
 殺すと云うことは自殺すると云うことではない。抹殺すると云うことである。
 肉体はないものだと抹殺して了うことである。

○十字架に肉体を磔けたる後、はじめて汝の霊魂が復活する。
 これを眞の新生と云い神生と云う。

○肉を実在であると思っている限り、その人はまだ肉を抹殺していない。まだ肉を十字架に
 かけていない。だから其の人は新生していない。霊によって生まれ更っていない。
 その人の人生はまだ肉生であって神生ではない。肉の実在をみとめて霊肉二元などと云って
 いる間はまだ悟っていない。
p69-71
      <平成26年2月12日 謹写>

○神は自己を讃美する声などで動かされるものではない。動かされるのは人間自身である。
 人間自身が動かされて迷いがとれて神の子たる本来相が現れるのである。

○柔らかくて堅いものもあれば、堅くて柔かいものもある。

○巧者でも悪い作品もあれば、不器用でも佳い作品もある。上手下手と、佳い悪いとは違う。

○知っていながら気がつかないことを、書かれてあるのを見てハッと気がつく。

○腹を立てれば到るところが剣樹刀山である。短気と云う心の角で自分が自分を傷つける。

○物識り、知らぬことがる。

○寝るも起きるも飯を食うも、常に實相を離れぬこと。

○物に頼れば瞞(だま)される。人に頼れば自己を眩ます。人の尻馬に乗る者は愚人である。

○三脚は倒れ難いと云って背水の陣を布かずに失敗した人がある。唯一實相に即せばひとすじ道
 で安全であるが、形の脚に頼れば三脚も尚安全ではない。

○肉体のわれを見ること勿れ。不生不滅の實相のわれを見よ。

○われ此の儘ながらにして實相の如来である。万物われと同根。天地われと同体。不生不滅以前
 の『本来生』が我である。
 

○肉体の病気が治ったと云って有難がっているのが、見苦しいぞ。心の病気が本当に
治っているかどうか。

○肉体の病気が治らぬといって苦に病んでいるのは一層見苦しいぞ。本来無い病気が
治らぬなどと云って心が引掛かっているのは悟っていない証拠だ。自分が悟らないでいて
教の悪口言うな。

○魚行けば水濁る。引っかかるから濁るのである。引っかからなければ本来清浄の水である。

○其の儘に過ぎ行くものを行かしめよ。去来するものは実相にあらず。

○外の幸福な人が一等不幸で、外の不幸な人が却って幸福である。前者は内にもっと善いものが
 あるのに気が付かないからである。

○打克ち難いものは何ものもない。

○本来病気のない者が病気を顕しているのである。千変万化。喜べ歓べ。

○あらかじめ掻いて痒きを待つ。掻けば痒くなる。予め薬剤を備えて病の来るのを待つ。
 薬を備えれば病を招く。
p71-73

     <平成26年2月15日 謹写>
○極楽に往生すると云うけれども、本来極楽にいるのである。吾が實相が極楽であるからである。
 これから往くのではない、極楽が我であり、我が極楽である。

○罪は本来『無い』から、それに心が捉えられなければ消えるのである。『念仏せよ救われる』と
 云うのも、心がその簡単なる行事にて『實相』の方を向けば罪は本来『無い』から其の儘で消え
 ており『實相』は本来あるから其儘で顕れているのである。何も難かしいことはない。消ゆべき
 ものが消え、本来あるものが顕れただけである。理屈ではない。  

○佛の本願力とは、實相の實相力である。遠いところにあるのではない。

○實相の乗船は安易であって、其の儘で多宝極楽である。

○形式破壊が自由なのではない。形式に従順に従えるのは一段大なる自由である。
 喬木は風に逆らうので却って不自由にしてみずから折れ、柳には雪折れなく、水は方円の器に
 従うので最も自由である。
 
○イエスも、洗礼ヨハネの洗礼の形式を拒まなかった。形式破壊と云うことに引っかかるのは
 形式の『有』を認めているからである。

○形式の中へ這入り込んで行って自然に形式の破れる時が来るのが本当である。

○栗の果はイガの中にあって生長し、ついにイガを破る。イガの中へ最初から這入らない栗の果
 は生長しない。

○栗のイガが幼弱な栗の防壁であるように形式はまだ完全に生長しない佛因(たね)の防壁で
 ある。
 若き人たちの結婚も、自己に宿る佛性を育てあげる為には形式的儀式を重んずる方が好いので
 ある。余りに自由な恋愛の結合が、形式のイガを排して行われるとき、善き果実を結ばないのは
 当然である。

○恋愛の相手の選択は肉体の選択であってはならない。心と心とが結び合って互いに足らざるを
 補う結合でなければならない。

○肉体のみを選択した恋愛は、それが霊的結合にならない限り永続性がない。幸福であるべき
 自由恋愛が往々破局に終るのは概ねその理由による。物質と云うものは決して永続性のない
 ものなのだ。

○本当の幸福感は霊的なものである。肉体を得た感覚的歓びは『惑わしの歓び』である。
 肉体を捧げたよろこびが本当の幸福である。

○恋愛するときは、先ずみずからに対って問え。自分は肉体を欲しいのであるか、それともまた
 肉体を捧げたいのであるかと。後者の分量の多いものほど浄まった恋愛であるし、前者の分量の
 多いものほど汚れた恋愛である。

○大抵の人は、先ず本当の恋愛によって、一人のために自分の肉体を捨てる歓びを味う。
 選ばれた人はその体験を通じて万人のために己が肉体を捨てる歓びを知るのである。

○恋愛はついに昇華して人類愛となり、更に昇華して神愛となる。

○一旦、結婚した以上はそれがどんな配偶であっても、自分に最も調和せる相手であると思え。
 そう思うことによって現在の不調和を調和に導き出すことが出来るのである。有難く『今』を
 受けることによって『今』を改造することが出来るのである。

○離婚は、互いに離れた相手が幸福に落着けるまで、互の魂を不安定にし、互に悪念波を投げかけ
 合い、その悪念波の影響で互を不幸に導いて行くのである。

○軽率に離婚するな。結婚した以上は生涯の吾が半分であると思え。

○夫婦の中に秘密主義があってはならぬ。打解け合うのが夫婦である。

○夫又は妻を幸福にし、また不幸にするのはちょっとした言葉遣いによる。単なる優しい一語が
 家庭全体を太陽のように照り輝かす事である。

○男性には男性としての領域があり、女性には女性としての領域がある。男性は外への強さに
 於いて特徴があり、女性は内の事に優しく細かく気付く点に於いて特徴がある。

 女性が外部へ進出して社会的に立働くのも、自己たちの『内の事に優しく細かく気付く愛の
 性質』を、互に繋ぎ合わして、その効果を大きくする為の働きでなくてはならぬ。

 女性が男性化して男性の特性を圧倒し、終に天地が造った『女性なるもの』の永遠美を滅却して
 了うならば、それは天地無限の損失である。

○結婚の相手を選ぶには、結婚の動機を問い、其の人に理想ありや、その理想は如何なる理想
 なりや、趣味は如何なるものなりやを互に語り合い、それらが自己と調和すると認めて後、結婚 するが好い。
p73-76

<平成26年2月24日 謹写>
○体験は一つの学校である。どんな失敗の体験でも自己を一段高め上げる学科である。

○心が落着かねば、どちらを向いても落着かぬ。

○大人なら何処へ捨てたら好いだろうかと、捨て所に迷うような剃刀の換刃を、智慧のない
 小児は拾って玩具(おもちゃ)にしている。

○智慧のない小児が剃刀の換刃を弄ぶのは危険である。

○栄える者と栄えない者とは見ていたらよく判る。栄える者は事毎に人の期待にかなうように
 するし、栄えぬ者は事毎に人を失望ばかりさせている。

○本当に自由な人は、暇があって始めて自由なのではない。暇があっても忙しくても自由なので
 なければ、生命の實相を悟ったものではない。

○忙しくて自分の時間が無いと云う人があるが、忙しいのが自分の時間ではないか。

○暇があって落着けるのでは駄目だ。忙しい中で、其の忙しさに落着いていられるようになる
 のが本当である。

○暇がない中に書かれたのが『生命の實相』であり、『久遠の實在』であり、しかも、それを
 他の人が読むと心が落着くのである。人間は暇のない中に落着けるのがこれでも判るであろう。

○却下 (あしもと)を浄めて置かないと、どんな善い仕事でも伸びにくい。土台がしっかりして
 いないと、大建築物はその上に建たないのである。

○口先で偉らそうなことを云っても夜逃げするような心では可かぬ。

○外に幸福と云うものはない。内にのみ幸福がある。外に幸福があると思っているものは
 預言者に瞞(だま)される。

○外は内の投影だと判ったら、外のことを教えて呉れる預言者に惑わされる必要がなくなる。

○金があるために手術して貰って死ぬ人がある。

○凡ての罪のうちで、神を信じないのが最大の罪である。

○迷いの人間を悟らせて悟りの人間に導くのが宗教だと思っている人があるが、迷いの人間を
 本来無と悟らせて消去して、其処におのずから實相常楽の人間を顕すのが本当の宗教である。
 迷いの人間は『本来無い人間』だから自己の實相を悟るとき消えるほかはないのだ。

○『迷いよ、汝は無い、無い本来相を顕して消えよ』これが『迷い』に与うる言葉である。
 『實相常楽の人間よ、汝のみがある』これが實在の人間に与うる言葉である。

○境地が違えば今幾ら説明しても解らない。種子を蒔いて時期を待つほかはない。やがて解る。

○眞我は迷わぬ。『迷い』と云うものも『迷うている我』と云うものも無い。

p76-78
  <平成26年2月25日 謹写>

○『迷うている我』はないと知る我は『眞我』か『仮我』か、と尋ねる人がある。本来無い
 我が無いと知って消えるのである。無いと知った時、それを知った我は何処にあるかと尋ね
 ても消えて了っているから無いのである。有ると思っている時は有るように見えるから議論
 しても歯が立たぬ。

○『眞我が迷うて迷いの影を映す』などと云う言葉は、眞我の仮面を被っている迷っている我の
 世迷い言葉である。

○或る処に神憑(かみがか)りになった人があった。その人に神の言葉があった。
 --------『五官に触れる一切の世界は無い。』この神の言葉と同時に彼から五官に触れる
 一切の世界が消えてなくなった。

 次に神の言葉があった。---------『この世界を無いと思う汝も無い』この神の言葉と
 同時に『この世界を無いと悟った彼の我』も消えさった。

 斯うして『ニセ物の我』は消えるのである。『有るとか無いとか考えたり、迷ったり
 悟ったりする』には我と云う實在がなくてはならぬと考えるのは斯うした体験の無い
 人のことである。『迷い』と云うのは、『本来無い我』が『本来無い』迷いを起すのである。

○眞我は迷わぬ。『迷っている我』は非実在である。非実在であればこそ迷うのである。
 『本来無の迷いの自我』が消えたとき、そこにあるものは常楽無病の眞我である。

○迷っている仮我が悟って眞我に進化するのではない。仮我が消えて眞我の實在がよく判るのだ。

○實在の我は『神そのもの』であるから、未だ嘗て迷いもせねば、これからも迷いはせぬ。
 また迷わぬ迷いだから覚めることもない。

○本来迷いなく、迷いの覚める必要もないのが『実在の我』である。

○實相我の肯定が背後にない現象無常世界の否定論は厭世的虚無主義になる。
 背後に常楽の實相我を肯定した上での現象無常世界の否定論は最大の楽天主義となる。
 生長の家は後者である。

○迷わねば実相が解らぬような我は『本当の我』ではない。雨が降らねば晴天の有難さが解らぬ
 ような有難さは本当の有難さではない。

○現象には実相に重なり合う現象と実相と似も似つかぬ現象がある。前者は実相の投影であり、
 後者は迷い(無い我の念)の投影である。

『無い我』が『無い』と悟って消えれば、あとには実相その儘の投影である常楽世界が現象として
 現れる。実相常楽の相をあらわした現象界が地上天国である。

○『修養は迷うているわれ』を存在すると見立てて、その迷いを消すべく努力することである。
 悟りは『迷うている我』は無いと悟って『迷うている我』が自然に消え去り『常楽の我』が
 自然に顕れる。修養は努力であるが、悟りは易行である。

○自由が不自由に作用して形があらわれる。

○光が暗に作用して映像があらわれる。實が虚に作用して現象があらわれる。

○自由ばかりでは形はない。光ばかりでは映像はない。實ばかりで虚が作用せぬときは
 感覚世界はないのである。

○執着する心は気違いの心である。
 現象に執着せずに實相を描く心で現象を描いたものが芸術である。

○悪に抗する勿れ。悪は虚の刃である。虚の刃は如何に猛然と打ちかかって来ても、
 『實』に触るれば刀刃段々に壊せん。

○恩を知らぬものは道を知らぬ者である。汝らよ、かかる者に拘るな。
p78-81

<平成26年2月26日 謹写>

○實々々。『虚』を見ること勿れ。『實』のみを見よ。『虚』アリと見れば『虚』に捉えられる。
 『虚』なしと見れば、無人の境を行くが如し。

○愚かなる者は『あり』と思う対象(もの)に捉えられて自由を失う。

○眼に見える悪を『あり』と思うから汝の苦悩は去らぬ。見えるものを『あり』と観るのは
 凡人のことである。汝ら須らく達人となれ。

○縄をふんで蛇と想い、自己の想念に恐怖して病を起すと雖も、縄は縄であって蛇ではない。
 實相を見誤って迷いを起こし病を生ずるとも、實相は依然として老病死なきは、縄は依然と
 して縄の如きものである。
 
○子供はこれから灸を据えられると思うと熱い熱いと云って泣く。大人は困難が来ると想像する
 だけで長大息する。大人の癖に子供の真似をするな。

○真理を悟ると云うことは肉体の年齢の長幼に必ずしも関係があるものではない。二十歳で悟る
 人もあるし、百歳長寿に達するも悟らない人もある。年齢で睨みをきかそうと思っても實の伴わ
 ない睨みは藪睨みである。

○昔から仇討と云うものは大抵、年功の腕達者が、年少の未熟者に討たれるのである。
 背恩者は天が味方しないからである。

○背恩とは、そのこと自体が生命の道に背いている。生命の道に背くものが生きないのは
 当然である

○『世間に種々の界あり、衆生各々己の界に依る。』この釈問経の言葉は、環境は心の影であって
 類は類を招ぶ、自業自得の法則を説いたものである。

○其処に地獄があるのではない。汝の心が地獄なのだ。また、ここに見よ、彼処に見よと云うて
 極楽があるのではない。汝の心が極楽なのだ。

○『迷い』は朝霧のようなものである。霧そのものは放置して太陽を昇らせれば消えるように
 『迷い』そのものは放置して『實相』を悟れば迷いは消えて了う。併し『この迷いはどうしたら
 消えるか』と『迷い』と云うものに心が引っかかると『迷い』を心の硝子箱の中へ入れて掴んで
 放さないことになるから、却って消えないのである。

○狭い心で信仰していて何になるか、信仰と云うものは心が開いて来なければならぬのである。
 本当の信仰とは自己の本質が如何に偉大な神の子であるかと云う事を悟って、洋々とした大海
 のような大きな世界に出ることである。

 凝り固まって小さくなって、信心信心と云っているのは本当の神を知らないからである。
 『生長の家』の信仰は何物も包容する広々とした信仰である。神は全体であるから広いのが
  当然である。広々とした心だけが、本当の神と波長が合うのである。

○心を広く明るく持て。心が狭くてふさいで来るのは、本当の神を知らないからで、
 本当の信仰家ではない。
p81-83

<平成26年2月27日 謹写>

○何でも来い、皆受ける。受けてそれを自分の生長の肥料にしてしまう。苦痛よし、不幸よし、
 あるものすべてよし、そう思ったとき、不思議にも苦痛も不幸もなくなっている。

○信仰家は『おまかせ』と云う言葉をよく使う。併しまかせると云うことにも二種類ある。
 迷いに打委(うちまか)せて益々迷いの世界へ這入って行く生活と、神の方へ振り向いて、
 神にまかせ導かれつつ次第に光明の世界へ出る生活と。
 吾等の先ず為すべきことは、神へ振り向くと云うことである。

○計らわぬと云うことは何も為さぬと云うことではない。神のおはからいが自分の心に這入って
 来て、自分ならぬ計らいが自分の生活にあらわれて来るのである。
 神のおはからいのパイプとなることである。自分を通して神が働き給うことである。

○早すぎても晩すぎても可かぬ。吾々の行為は種蒔きのようなものである。
 神に一致したとき適当の時に適当のことが行為される。

○これだけで、もう自分は誠を尽し切ったと思うな。誠は尽くることのなきものである。
 出せば出すほど無限に湧出る。

○仕事は報酬のためにするのではない。自己の生命がより偉大に生長せんがための鍛えである。

○何事をするのも皆な自分に帰って来る。他の為めだと思ってゾンザイにしていると結局自分の
 運命が悪くなる。

○眞のその人の生長は日常生活できまる。

○人は他と比較して自分の方が劣っていると思うと不幸になる。金が有る人は自分の金に比較
 してまだ得る所が少ないことを悲しがる。自分の尊さが比較を絶した尊さであることを知ら
 ない者は憐れな者だ。

○明るさに輝いた生活、魂の喜べる生活。心にも行いにも暗い影が一抹もない生活。
 あなたの生活はこれでなければならぬ。

○罪と悪と無とは『生長の家』では同意義である。

○全体の中に溶け込む生活。この生活になれば、悩みも、焦燥(あせり)も、恐怖もない。
 自分の生活が宇宙全体の動きである。

○正しき一つの神を差し措きて『手っとり早い』と思って諸霊と交通しようと、求めてはならぬ。
 斯くの如くして交通する諸霊は多くは悪魔に所属する霊である。
 
 正しき一つの神に事(つか)えんことをのみ希い、これを祈れ。斯くの如くして自然に吾らに
 遣わされて来る諸霊は、『霊』は『霊』であっても神からの御使である。

○捉われない、自由な、朗らかな青空に白雲の悠々たる如き心境こそ
 真理を悟れる人の心境である。
p83-85
       <平成26年2月28日 謹写>


○デリケートなものにはデリケートな扱い方をしなければならぬ。ピアノを金槌で叩くものは
 愚か者である。ピアノの鍵盤にはデリケートな指を必要とする。併し、釘を打込むのに拳で
 打込むものは愚か者である。人を使うにも須らく相手がピアノであるか、釘であるかを見分
 けねばならぬ。

○釘も要るし、ピアノも要る。荒っぽいものも、繊細なものも要る。色々のものが此の世界に
 造ってある。自分に気に入るものだけが良いと思うな。

○些細なことのうちに重大なことがある。また大事件でもさほど重大でないものもある。
 小事を閑却するものは大事を誤る。

○善いと思ってすることが悪いことがある。
 庭に草が生えて風情を添えたと思っていると、深切でそれを抜いてくれる人もある。
 庭に花びらが散って、趣があると喜んでいると、深切でその花びらを掃いてくれる人もある。

 愛も智慧のない愛は相手を傷つけ、実行も杓子定規の実行は相手を傷つける。千遍一律では
 物を生かさぬ。相手に従って自由自在な智慧を磨かぬと何にもならぬ。
 このような智慧はただ神に一致することによってのみ得られる。神想観を励め。

○善悪を超えたところに本当の善悪がある。規則を超えたところに本当の神の規則がある。

○生死を超えたところに本当の生がある。

○死んだら滅(な)くなるような人間ではない。

○自分だと思っていたものが自分でなく、他の事だと見えていることを為すところに却って
 本当の自分が出る。

○健康を得たい思って生長の家に来る人もあるし、財産を得たいと思って生長の家に来る人も
 あるが、本当の幸福は健康にも財産にもない。
 健康で自殺する人もあるし、金持で自殺する人もある。本当の自分が神の子であることを知る
 ことが、人間の本当の幸福である。生長の家は此の幸福を知らせるために出現したのである。

○小事をそれぞれの分担者に信じて委(まか)し得る者でないと大支配人になれぬ。
 小使いが遊んでいるのに支配人が郵便局へ行く必要はない。頭は考えれば好いし、足は歩けば
 好いのである。足に遊ばせて頭で歩いているようでは大支配人にはなれぬ。
  
○コセコセする者は心だけの値打ちだ。彼は大きく生長する資格がない。

○一木一草にも宇宙の神秘は秘められている。況んや人間の苦痛と悲哀とを無意義なものと思うな。
 それは宇宙の神秘が人の心の中に目覚めて来る曙前の暗である。暫くそれに耐えれば本当の歓び
 が東雲て来る。
p85-87
<平成26年3月2日 謹写>



○『吾れは、より高き世界を見たる人の顔に輝きを見、其の瞳に光を見る』とはカーライルの
 言葉である。
 吾々が自己の心の王国を常に支配し、斯くの如き平和と幸福とに輝く顔貌と瞳との所有者た
 らんと欲するには、此の『より高き世界』を望見し、それと結び付き、それを吾がものとし
 無限の生命と、無限の智慧と、無限の愛とをその世界より汲まねばならぬのである。

 ひとたび自己がこのより高き世界-------無限生命の泉、無限智慧の源、無限愛の大河に触れる
 ならば、忽然として此の有限に見える自己から、無限生命、無限智、無限愛が滾々と湧き出ずる
 のである。

○萎縮する時には心が不快を感ずる。それは本性に逆らうからだ。人間は伸びるのが本性だから
 その本性に逆らうとき不快を感ずるのは当然だ。
 不快な時には他を恨むな。自分の本性に自分自身が逆らっているからだと思え。

○大事を為す秘訣はどこを掴むかにある。それは大きな石を梃子で動かすのと同じ事である。
 石の動くか動かぬかは梃子の掴みどころの如何にある。

○どこを掴むか?答えて曰く。『實相を掴め!』

○眞理を掴む事は無限大の梃子を掴むことに等しい。

○眞理を掴むとは人間に『無限』が宿っていると云う大事実に目覚めることである。
 それを掴めば何んな大事でも動かすことが出来るのである。

○それぞれの人間は無尽蔵の力のタンクである。その外形は小さくとも心のパイプによって無限大
 のタンクにつながっている。その『無限大のタンク』を称して『神』と云う。

○神から無限大のパイプが続いていて、吾々の内にそのパイプの口が通じている。此のパイプの
 口を開く鍵は吾々の『自覚』であり、此のパイプの口に栓をするものは吾々の『迷い』である。

○『悟り』とは自分に反対するものが何もないと云うことを知ることである。

○『悟り』とは自分に衝突するものが何もないと云うことを知ることである。

○現に『反対』があり『衝突』があるのに、それが無い事は悟れないとは云うな。万物が
 『一つの神』に、換言すれば一つの智慧に支配されていると云うことを知れば、『反対』も
 『衝突』も、何にも本来ないことが判るのである、それだのに『反対』があり、『衝突』が
 あるように見えているのは、自己の心が迷って、そう見るからだ。

○『自分に反対だ』と思っている相手は、本当に自分を生かす為に動いてくれているのである。
 歯車の噛合いを見るが好い。自分に接触している歯車が自分の反対方向に廻るので自分は正しい
 方向に廻転できるのである。

○『反対者』のように見えても『反対者』があるので全体が生きて来るのである。

○『反対者』があることが有りがたい。何事も感謝せねばならぬ。
p87-89

       <平成26年3月3日 謹写>




【ひかりの語録】より<智慧の言葉>④NEW (6126)
日時:2014年03月04日 (火) 13時55分
名前:平賀玄米



○或る信徒は、信任していた大番頭が裏切って数万円を着服し従来の自分の商売の地盤を奪って了った時、
自分の部屋に『汝の敵を愛せよ』と墨痕淋漓(ぼくこんりんり)としたためた

 扁額を掲げ、敵があるので、自分に揮い立つ力が湧いたのだと感謝しつつ、毎日草鞋脚絆がけ
 で顧客を開拓するために旅して歩いた。そしてその半年後には、番頭の着服した額の大半に当る
 額を収益した。

○楽しいとは心が歓ぶことだ。心のほかに楽しいものはない。
 外から奪って来て楽しさが出来るものではない

○生命が伸びるのは皆な内から伸びるのだ。外から引伸ばしたら千切れるけれども
 内から伸びる力があって伸びるのは千切れる恐れはない。

○偉大になるとは『反対者』をも包容し得るようになることだ。

○右廻りの歯車は左廻りの歯車を『反対者』だと思うが、時計全体から見れば右廻りの歯車と
 左廻りの歯車と両方あるので調和しているのである。

○身体の忙しさに追いつめられるような生活は本当ではない。余裕のない生活と云うものは必ず
 何処かが間違っているのである。忙がしさの中にも余裕のあるのが本当の人間の生活である。

○噛み合った歯車と歯車とが滑らかに廻転するのは歯と歯との間に余裕があるからである。
 歯車の歯が一つも余裕のないように噛み合えば互いの歯は破壊してしまう。

○無駄が無駄でない。浪費が浪費でない。生活はそんなに切詰めなくとも、心さえ豊かなれば
 無尽蔵が内から掘り出されて来る。

○絶えず柔軟なる心を有つ者は凡ゆる機会を掴む心である。水は柔軟であるからよく方円の器に
 従い環境に従いつつ環境を支配してついに大海に出るのである。

○禿げ頭ほど毎月の散髪回数は多い。生ぶ毛のような薄い毛がモジャモジャ伸びては醜い
 からだが、それは表面の理由である。本当は有たざるものは尚奪われると云う『心の法則』
 に因るのである。

○昔から枇杷の樹のある家には病人が絶えぬと云う。また枇杷の葉は万病の薬になると云う。
 万病の薬は万病を呼ぶ。死者はお寺へ。お寺に枇杷の木。類は類を呼ぶ心の法則である。

○病人でも、枕元に薬瓶を置くな。医療機械を置くな。病人でも成るべく病んでいない様子をして
 いれば早くよくなる、併し、無理をせよと云う意味ではない。

○生み出す力は神に属する。働く力は神に属する公けな力である。それを『私』の理由で、
 生かさないで空費するのは罪悪である。
p89-91
       <平成26年3月4日 謹写>

○突き当たったら目が覚める。突き当たらすのも慈悲の道だ。

○何にも云わずに、唯ハイハイと従え。

○どうしたら良くなるだろうかなどと思い煩うな。既に良いのだと思え。

○始めは和光同塵、次第に本物が光り出す。

○汝は生きても死んでも自由自在の境涯である。

○物質世界へ出て来ても自由自在、實相世界にいては尚更自由自在の境涯である。

○淋しさは無い。淋しいのは他から求めるからだ。自分のうちに一切が備わっていることを
 認めるのが『生長の家の生活』ではないか。

○生長の家の生き方は、賞める生活である。某月の集りで私はあるひとを賞めた。
 善い所ばかりを拾ったのである。けれども私に賞められた人は私を裏切った人なのである。

○私は或る人にグングンその欠点を指摘した手紙を書いた。
 私はその人を愛しているからである。その人から今日礼状が来ている。

○裏切った人を賞め、愛している人を責める『本当の私』は自由自在である。
 若し肉体の自分に一寸淋しさが感じられるならば、此の淋しさはニセ物である。
 『本当の私』は常住淋しさはない筈である。

○読んで喜んで更正して、もうこの生活を体得したから、今後読む必要がないと云って購読を
 止める人がある。もう噛んで甘味を吸うたからは要らぬと云う人である。こんな人を魂の更正
 した人と云えるだろうか。
 人物を淋しくするのは、斯う云う利害関係に終始する人が多いからである。

○無限創造と云うことは未完成を意味していない。それは静の完成ではなく、動の完成である。
 それは停止の完成ではなく連続の完成である。

○『霊』が現実界の人々に霊的真理を伝えるのは概ね象徴(シンボル)によってである。
 吾々とは境涯を異にする霊にとっては、象徴(シンボル)によるほかに完全な語りようはない
 のである。現実界の言葉は現実界の事物を云い現すために造られたのであるから、現実界以上の
 霊的真理を云い現すには象徴によるほかはない。

○天使(てんのつかい)が翼を有った姿であらわれるのは、本当に翼があるのではない。それは
 自由と高揚の象徴である。

 神想観実修中、微妙なる天楽の声を聞き、天使の姿を見る人がある。それは神の救いの霊波の
 象徴化されたものである。
p91-92
       <平成26年3月5日 謹写>


○幸福とは神のみ心に従うて生きる事である。神の実現である。そのほかに人間の幸福はない。

○快楽は自己欺瞞に過ぎない。『物質』そのものが『生命』にとっては自己欺瞞なのである。
 『肉体』そのものが『生命』にとって自己欺瞞なのである。だから物質的快楽、肉体的快楽が
 自己欺瞞であるのは云うまでもない。

○性欲は愛ではない。性欲は肉体に属するもので、愛は霊に属するものである。

○霊界に行けば、愛はあれど性欲はない。

○宗教の宗教たる所以は自己の生命の円相を自覚せしめるところにある。

○社会は自制の道場である。この点では、魂は家庭に於けるよりも、社会に於いて鍛えられる。

○すべての善きものは調和した状態より生まれる。

○言葉の槍ほど恐ろしいものはない。昔から言葉の槍で刺し通された人の数は如何なる戦争の
 犠牲者よりも夥(おぶただ)しい。

○偽善は偽悪よりも一層よい、善に習うものは終に善になって了う。悪の真似をしている者は
 終に悪になってしまう。

○悪と云うものは存在しない。すべての悪は偽悪である。偽悪に耽るな。汝は神の子ではないか。

○人間は虎ではないから大声で怒号する必要はないのである。愛の言葉で諭せば解るのである。

○神は、ただ信じても何にもならぬ。間違った信じ方は却って禍を招く。

○外にある神ではない、わが内にあり、すべての物に滲み透って生かしている神を信ぜよ。

○わが神は愛の神、智慧の神、生命の神である。われらがその神の子であると信ずるのが本当の
 信仰である。この信仰に立つとき、我等は不動の堅信を得るのである。

○怒りの神、刑罰の神、復讐の神、賽銭で動く神、お追従を云われて御利益を与える神------そんな
 気紛れに色々変る神を信ずればその人の信念も動揺せざるを得ない。そんな人はその信念の動揺
 に従って御利益のあることも、ないこともある。

○死に際になって、金は幾らでも出すから助けてくれと云っても、神は、金は要らぬから助けよう 
 がない。心に真理をさとったら神の助けがひとりでに這入って来る。

○今日いちにち心乱さず神性の自覚に生きよ。
p93-94
       <平成26年3月6日 謹写>


○自分は自分の自在である。自分は神の子であるからである。

○自分の自在だと云っても『我の自分』の自在なのではない。神に一致したとき、はじめて
 自由自在になるのである。神に一致せぬとき自分と云うものが自分の思い通りに少しもならぬ。

○世人は欲うようにならぬが憂き世だと云うが、神に一致した人には欲うようになる嬉し嬉しの
 世だと判るのである。彼は神に一致しないことを少しも望まぬからである。

○生き生きと仕事にとり掛かれ。生き生きとすることは神に一致する一つの要件である。

○自分は愉快である。-------つねに想起して斯く思え。

○自分は健康である。-------気がつくごとに常に斯く思うようにすれば、常に健康でいられる
 のである。逆に、気がつく毎に、疲れた草臥れた、身体が苦しい、などと習慣的に思っている
 人がある。この習慣を破ってその反対を思うようにせよ。次第に人間は強壮になるのである。

○不眠症の原因は『睡眠が不足すると健康に悪い』と云う信念が心の底にあるので、睡眠の不足
 を恐怖し、『恐るるもの皆来る』の心の法則で恐怖する睡眠不足が、不眠症になって顕れて来る
 のである。

○恐怖の念をとり去るには恐怖しまいと思っても駄目である。人間の生命の本質を知ればひとり
 でに恐怖がなくなるのである。人間の生命は神から来り、眠っても眠れなくとも決して疲労したり
 衰弱しないものであると云うことがわかれば恐怖する必要がなくなるのである。

○汝の生命の有限観を打破し人間生命の無限観を樹立せよ。

○『生きる』とは『生命を出すこと』である。『生命を出すこと』よりほかに生活はない。

○生命を出すことで『生命』が減ると思うな。『生命』は生活するために出来ているのだ。
 出すことで却って延びるものが『生命』である。

○『生命』は鉛筆の芯でないから出し過ぎても折れるものではない。折れると云う恐怖で
 折れるのである。

○『生命』は蝸牛(かたつむり)の角のようなものだ。それを出したとき却って伸びているのである。

○取込むことで殖えるものは物質だけである。『生命』は与えることで殖えるのである。

○取込むことばかりを考えて精神を労するとき、『生命』はついに擦り切れてしまう。
 生命の本然に反するからだ。

○『死ね、生きる』この言葉は『生命』は与える極致で却って生きるものであることを
 現しているのである。
p94-96
        <平成26年3月7日 謹写>

○救われると救われぬとは、本人が眞理を理解するとせぬとによる。

○同じ家族でも、サトリの程度は別々であるから、ひとりひとりの運命は別々である。
 良人が悟っても妻がサトルとは云えぬ。子供の運命も別々であるが、まだ独立した人格でない
 嬰児の運命は母親のサトリがより多く関係している。

○『生長の家』を読んで真理を知るのは面倒臭い。真理は知りたくないが病気は治りたいと云う
 ような場合は一番困りものである。真理を知ることと病気が治ることとは同一事であり、病気
 であることと真理を知らぬことは同一事であるからである。

○言葉で人は満足するのである。優しい言葉が自然に湧いて来るような性格は人生の宝である。

○他に自分の欠点を指摘されたら、有難いと思え。他が怒ったら、ことの善悪にかかわらず相手
 の心をかき乱して済まなかったと思え。平明に自分の過ちを承認せよ。自分の過ちを素直に承認
 される瞬間その人の神性は高いのである。

○こちらが防御的態度になるほど相手は攻撃的になる。心の法則は国家でも個人でも
 同じことである。

○我を有限だと思うな。我が内に永遠が生きている。内と云っても、肉体の内と云うことではない。
 覚らぬものは仕方がない。覚ったら解るのだ。

○負けまいと思うな。高飛車に出て威張って見ても、中の空っぽなのが見え透くだけだ。
 人間の尊さはそんな所にはないと云うのに。

○威張れば威張るほど其の人間の小ささが目につく。小さい値打ちの者は虚仮威しに威張るのが
 却って見苦しい。

○宝を毀して平気でいるような人がこの世の上に立つ人に多い。どんなに荒々しい言葉を使っても、
 誰も自分に抗うものがないと云うことは、その人にとって一つの誘惑である。心は凡ゆる宝の中
 で至上の宝であるのに。

○ダイヤモンドを幾ら糞土で包んでも、ダイヤモンドそのものは穢れることはない。唯かくれて
 いるだけであって、穢れているのは糞土そのものだけである。人間の霊も其の如くいくら罪に
 
 まみれても穢れると云うことはなく、ただ姿を隠しているだけである。此の世に罪人は一人も
 いないと云うのは斯う云う意味である。罪は罪だけが穢れているので人は決して罪人ではない。

○罪がないと知った瞬間、罪は消えている。罪は許されるとはこの意味である。
p96-98
       <平成26年3月8日 謹写>

○本当は『まかす』と云うことは『はからい心』でまかせるのではない。實相の世界に、何も
 不調和な不完全な者はないと悟ったとき、始めて『本当にまかす』ことが出来るようになる
 のである。

○結構に坐ったり寝たりする座敷があるのに椅子がないと腰掛けがなくて不便だと云い、椅子を
 若し買って貰うと高すぎて足が宙吊りで不便だと云う。こう云う人は何をして貰っても結構と
 云う事を知らない人である。

○何をして貰っても常に有難く感じる人は常に幸福であるが、何をして貰っても常に有難く感じ
 ない人は常に幸福を知らない可哀相な人である。不平家ほど気の毒なものはない。
 人の幸福は心の中にあるのだ。

○自分の本質の善さを信ずること、これが神に一致する一つの要件である。

○自分を軽蔑するものは神を涜すものである。自分は神の子だからである。

○神はすべての物を造り給うてその創造物を善しと見給うた。神は自分自身の善さを信じ自分
 自身を祝福し給うたのである。

○悟ると云うことは、悟りが迷いを征服すると云うような対立的な出来事ではない。神の子が
 其処に生まれると云うことである。それは征服でなく、新生である、創造である。

○神は何ものをも征服しない、征服する相手がないからである。

○誰かを征服しなければ強者でないように思う者は自己の生命の實相を知らないものだ。自己の
 實相を知ったら誰を征服しないでもそのままで自己が強者であることが判るのだ。

○自己が神の子であることそのことが強者なのだ。そのほかに附加物を必要だと思う者は迷いに
 捉われたものである。

○形をおいかけるな。形は生命が通過した痕跡に過ぎない。
 自動車を走らすのにタイヤの痕を地に印そうと思って走らせる者はあるまい。
 自動車はそれ自身の目的を以て走る時、地にはひとりでにタイヤの痕が出来るのだ。

 生命も其の通りだ。生命が厳かに生きるとき、そこに厳かな形が出来る。生きることが第一で、 
 形が第二である。生命をそれ自身の相で生かしめよ。

○他を自分の型に嵌めようと思う者は躓く。他をして自分の道を歩ませようと思う者は躓く。
 各人には各様の道がある。方向も別々に進んで行く。電車道もあれば自動車道もある。
 それで好いのだ。『それで好い』と解るのが智慧である。
p98-100
       <平成26年3月10日 謹写>

○他に行き詰らない道の方向を示すことは出来るが、彼を行き詰まらない道へ引張って行くこと
 は出来ぬ。引張って行っても人間は救われる者ではない。反対の方向へ行く者は行かしめよ。
 
 そこで彼は行き詰まって、始めて此の道は行き詰まると悟って道がひらける、彼にとっては
 『行き詰まる』こと其の事が救いの始めである。

○各人別々の道を歩く。人間は顔の異なるように同じ道を歩ける者ではない。他を強制出来る
 ものでないと知った時、『人間は離れ離れなものだ、誰一人自分と同じ道を歩く者がない』と
 知って淋しい。その淋しさに徹せよ。

 その淋しさを突き貫いて行った時、忽焉(こつえん)、本当の歓びが湧いて来る。各人別様の
 道を歩いているので各人が皆一つの神に支配されて別々の使命に割当てられていると云うこと 
 が判って、皆を宥(ゆる)せて、広々として包容力のある愛が湧いて来るのである。

○『死』は無い。滅するものは本来無かったものばかりである。『生命』は本来『生命』である
 から永遠に『死』はない。死んだと見えるのは夢に過ぎない。

○何事も此の世に悪いこと起こらない。起りようがない。

○何物も穢いものはない。一切のものは見様によっては穢いが、生かして使えば糞尿の肥料の
 中からでも立派な野菜がとれる。人造肥料は糞尿よりも綺麗だと思うのは迷いである。

 自然に出来た糞尿は人工で出来た人造肥料よりも綺麗なのは当然である。その人造肥料でも
 生かして使えば穢くない。何物も穢いものは一つもない。

○不平が起るのは、他に余り求め過ぎるからだ。ひとにはひとの立場があり生活がある。その
 立場と生活を認めてやり、成る程彼がそうするのは無理もないと認めてやり、反対の立場も
 
 包容し切れるようになったとき其の人の心は始めて楽になる。心が楽になれないのは心が狭い
 からである。狭いところにいて楽な筈がないではないか。

○親は子を生かそう生かそうと考えているのに、親の霊魂や先祖の霊魂が祟る筈がない、そんな
 事は信ぜられないと云う人がある。親は子を生かそう生かそうと考えていても、親が真理を知ら
 なければ、子の為子の為と思って子を毒している親もある。

 先祖の霊魂が子孫を病気にしている場合は之に当る。先祖を供養して子孫の病気が治るのも
 之に当る。先祖の供養のうち物施と云って物をお供えするよりも法施を第一とする。
 法施とは眞理を供養することである。霊前で、『生命の實相』を読むのもその一方法である。
p100-102
       <平成26年3月13日 謹写>

○時間は無形であるが、その中から一切の善きものと価値あるものとが掘り出される。
 時間を捨てるものは一切を捨てるものである。

○時間を巧みに利用しないものは酔生夢死の徒である。酔生夢死が厭なら時間の利用法を知れ。
 時間を巧みに利用するものは終に自己の中より天才を掘り出し、人生の至宝を掘り出す。

○不意に与えられた大きな時間は却って徒費され易い。五分十分と云う零細の時間は努めて
 利用する気になれば却って収穫が多い。

 賭けで儲けた金は徒費されやすくコツコツ貯めた金が却って大なる資産をなす。同様に、
 少時の間暇に自己の才能を磨くものはついに大天才となるのである。天才と鈍才の別れ目は
 常日頃の心がけにある。

○時間を観ること、なお自己の生命を観る如くせよ。自分の生命は時間で成立っている。
 時間を殺すものは自殺するものだ。

○偉大を思えば『偉大』が実現(でてく)る。傑作を思わないものに、傑作は出来ない。猫は
 過って傑作を傷つけることが出来ても、傑作を作ることは出来ない。傑作はただ『傑作』を
 思う者のみに出来るのである。猫に『傑作』が出来ないのは『傑作』を思わないからである。
 人間よ猫になるな。

○出来ない事を数えるよりも、出来ることを数えよ。出来ることを数えて、更に百尺竿頭一歩を
 進めて、更に出来ることを殖やせ。汝の進歩は目覚しいものがあるであろう。

○自分を『神の子』であると思えない者は他をも『神の子』と思えない。『罪人よ、汝は地獄に
 堕ちる』と説教している者は、自分が地獄に堕ちる人である。

○本当に謙遜なとは、正直に、素直に、神の造ったままの自分――『神の子』なる自分を、
 疑わずに承認することである。

○悪しき習慣は生命の浪費である。良き習慣を日に日に殖やすものは『生命』を二倍に生きる。

○悪いことは大袈裟に取扱うな。黙殺出来たら黙殺せよ。良いことは少しは誇張しても好い。
 悪いことを大袈裟に扱えば、自己暗示にかかって、悪いことは増悪する。

○併し、今の悪さは正直に承認するが好い。だが、それが『本当の自分』でないことは一層強く
 承認しなければならぬ。そして『本当の自分』――神の子に帰ろうと、更に更に一層強く心に
 絶叫しなければならぬ。

○弱い枝を刈りとられることによって、その樹木は一層大きな花を開く。

○生命力を一つに集中せよ。

p102-104
       <平成26年3月19日 謹写>

○人は交わる者の性格に似て来る。子は親に似るのであるから、親は子を見て自分自身を
直すが好い。子は鏡である。親が直れば子も直る。

○人と人との相違は、その想念だけの相違である。想念が正しければ愛も湧き、勇気も湧き、実行
 もおのずから伴う。人は自分が何であるかを正しく思うことが大切である。

○今に満足するものは『無限生長』の自己内在の神を見ないものだ。まだまだ出せば出る力がある
 ことに目覚める者は幸いである。

○押しの強さは事物の成就に欠くべからざる要素である。

○強情と無智とは親子である。

○神と云う心的存在が唯の實在である。

○宇宙には唯一つの実在がある。それは『永遠の我』と云う實在である。

○金鉱から黄金が出るのはその金鉱に本来、黄金の純分を含んでいるからである。吾らの永遠の
 救いの基礎は自分の本質が『永遠の我』即ち神の子であると云う事実に成立つ。

○至美至妙完全円満な『永遠の我』のほかに『我』は無い。物質に執着して苦しんでいる『我』は
 『ニセ物の我』である。と云ってそれは『ニセ物の我』と云うものが其処にあると云う譯では
 ない。『ニセ物の我』が出ているとは、本当は『本物の我』が其処にいないと云うことである。

○自分が腹が立つと思って怒ったり争ったりするのだが、怒って見たって、争って見たって、その
 怒っている自分争っている自分は、本当は『眞の自分』でないことが判ったら、本気に怒ること
 も争うことも出来ないではないか。

○『病気の自分』も『本物の自分』ではない。それが判ったら治そう癒そうと焦るにも及ばない
 ではないか。それが判ったら病気になっても、病気に巻き込まれないないで超然としていられる
 筈ではないか。

○怒っている此の自分は『本当の我』じゃないと悟れたら、自然に怒れなくなるのと同じように、
 病気している此の自分は『本当の自分』でないと悟れたら、自然に病気が無くなるのである。

○病気を治り難くするのは、病気に巻き込まれることが第一である。医療そのものは可もなく不可
 もないが、真理を知らぬ医者が病気を取扱うと、病気を認め過ぎるために患者の周囲の人を病気
 に巻き込むから可けないのである。

○薬を与えて治すのも、医療を加えて治すのも、その秘訣は『こうしたら治る』と患者に思わせて、
 病気に巻き込まれている患者の心を、病気から解放するにある。
p104-106

         <平成26年3月20日 謹写>

【ひかりの語録】より<智慧の言葉>⑤NEW (6808)
日時:2014年03月23日 (日) 18時58分


○無理はいつかは壊(くだ)ける。壊(くだ)けたときを不幸だと思うな。
 それは無理がなくなるーーー本物に成るーーーことの始めである。

○一つの存在は影と光とから成立っている。
 一つの絵画も明るい色彩と、暗い色彩との交錯とから成立っている。
 陰影のない絵画はない。
 陰影もその絵の生命を浮かび上らせる役目をしているのである。

○生命に体なる反影(かげ)があるのも、その生命を浮び上らせる役目をするのである。
 体とは肉体だけではない幽体もあれば霊体もある。

○夫婦家族は因縁によって互いに魂を磨き合うために集っているのである。

○もっと自分を愛せよ。
 自分が善くなることが一大事であるから欠点を指摘されたら喜んで直すのが自分を愛する道だ。

○欠点を見つけられても不平に思うな。
 欠点を見つけられて不平に思う者は反省が足りないからだ。
 反省が足りたらどんなに叱られても文句の云えないニセ物の自分が出ていることが判るのだ。

○下に立つ者は、長上から叱られる。
 ともすれば自分を直そうとしないで、長上の欠点に目を付けて、
 『自分のことを棚に上げて叱っている』と思って、自分の欠点を見まいとするが、
 そんな時に自分の欠点を真正面(まとも)に見る者は偉大になる。    
 
○人間は仕事をしなければならぬけれども仕事に追い詰められてはならぬ。
 いつも岩に激する急流奔湍(きゅうりゅうほんたん)の如き急ぎようでは余裕のない生活である。
p106-107
       <平成26年3月23日 謹写>

○『たよる』とは『手依(たよる)』即ち導く者のままに手を引かれて歩むことである。
 『神にたよる』とは神の導きのままに歩むことである。神ながらに生きることである。
 我(われ)に生きるのは、神に頼っているのではない。

○奉仕とは新価値の創造である。新価値の創造のほかに奉仕はない。

○人に奉仕するなどと考えているのは生ぬるい、新価値の創造は宇宙に奉仕するのである。
 神に奉仕するのである。宇宙が我に生き、吾が宇宙と共に歩むのである。

○新価値には需要がないと云うことがない。
 大学生が需要されないのは、皆類型の教育を受けて新価値を有っていないからである。

○現在どんなに繁栄している事業でも新価値を次第に益々追加して行かなければ滅びる。

○品質を低下して(換言すれば、価値をマイナスして)値段を引下げても、その事業は繁栄しない。
 新価値の創造ではないからである。

○宣伝だけで売行きを見る商品は行き詰り、新価値の創造で需要される商品は行き詰まらない。

○静止の状態を保つものは一つもない。前進しないものは後退する。
 『生命』でも『事業』でも同じことである。

○罪の崩壊を妨げるのは罪ありと思う人自身の念力である。
 雲の崩壊を妨げるのは地球そのものの引力である。

○執着がなくなれば対境に従って千変万化自由自在である。

○水泳で沈むのは、周章(あわ)てるからである。固くなるからである。
 人生の遊泳も周章(あわ)てず固くならず浪に乗って行けば成功する。
p107-108
      <平成26年3月24日 謹写>


○心が悪いと云われるのを恥辱に感ずるように人類は病気を恥辱に思うようにならねばならぬ。
 何故なら病気は心の影であるからである。

○病気を口実にしているようなことでは病気は治らぬ。

○感覚の歓びを追うても追うても飽くことを知らないのは、感覚の歓びは本来無いからである。
 本来無い歓びをいくら積み上げて往っても結局吾々は空虚の歓びを感ずるものであるから、
 渇欲飽くことを知らずに追い求めることになるのである。

○因縁の理がわかって、まだ因縁に捉われているものは縁覚であって正覚ではない。
 正覚は因縁の理を説きながら『本来因縁なし』の實相を悟れるものである。
 縁覚は因縁の理を悟り、因縁を追うてなお因縁に墜落する。

○何にもない。この言葉を百万の語義に解せよ。

○妻もなく、子もなく、一切の所有はない。無所有。無所得。
 何一つ現象界に頼るものとてはない。

○ほかにない。底にある。底にある。底をぶち抜け。底!底!徹底とはこの事だ。

○気狂いの教えだ、死の教えだ、否々、死を超えた生の教えだ。死の底をブチ抜いた『生』だ。

○わからぬ者にはわからなくとも進むほかはない。

○良人も捨て 妻も捨て 子も捨て、天地唯一つも自分のものはない、
 神のもののみだと知ったとき、良人は従い来り、妻は従い来り、子は従い来るであろう。
 捨てるとは自分のものでないと知る事だ。

○須臾(しゅゆ)も流れて止まぬ水は腐敗することなくついに大海原となるのである。
 無限生長を信じて須臾(しゅゆ)も進んで止まぬ人はついに大成するのである。

○生長の一面は忍耐である。
 厳寒を忍耐し得た白梅は春に会って美しき花を開き、
 大暑の炎熱に忍耐し得た稲は秋に会って豊かに稔る。

○忍耐の一面は信仰である。待てないのは忍耐がないからである。
 信じて待つものはついに生長するのである。
108-110
        <平成26年3月25日 謹写>

完了



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