明治天皇 (35) |
- 日時:2017年02月06日 (月) 09時38分
名前:伝統
(以前、本流宣言掲示板に投稿した記事を、再掲示)
明日、11月3日は文化の日ですが、明治節(明治天皇を、偲ぶ日)でもあります。
そこで、 文部省唱歌 明治節 (明治神宮) http://www.youtube.com/watch?v=EHrdFZZIN50&feature=related
(作詞 塩沢周安 作曲 杉江 秀)
一、亜細亜の東日出づる処 聖の君の現れまして 古き天地とざせる霧を 大御光に隈なくはらい 教あまねく道明らけく 治めたまえる御代尊
二、恵の波は八洲に余り 御稜威の風は海原越えて 神の依させる御業を弘め 民の栄行く力を展ばし 外つ国国の史にも著く 留めたまえる御名畏
三、秋の空すみ菊の香高き 今日のよき日を皆ことほぎて 定めましける御憲を崇め 諭しましける詔勅を守り 代代木の森の代代長えに 仰ぎまつらん大帝
<合掌 平成23年11月2日 頓首再拝>
(光明道中記より)
十一月三日 明治節、清明心の日
【至上の愛は神と偕なる時おのずから出来る愛だ。(『生命の實相』第十一巻)】
さしのぼる朝日のごとくさわやかにもたまほしきは心なりけり
明治天皇とこの御製を拝誦し奉る毎に朝日の如き無我の心境が思われるのである。
何故朝日はあんなにさわやかなのだろうか。それは新たに生まれたからである。 手垢がついていないからである。 心に手垢がついていないと云うことが、こんなにも清明(さわやか)な姿を顕わしめるのである。
太陽には自我はない。そのままである。従順である。 さしのぼる時がきたとき、差しのぼり、沈むときには沈んで悲しむと云うことがない。 落日を悲しいと見る者は見る人の心の投影に過ぎない。
烈々と照っても功を誇らず、常に跡をのこすことを求めず、来って驕らず、 去って悲しむと云うことがないのである。
而も一切衆生として、一物として、その恩恵を受けないものはない。
まことに広大無辺なる姿である。
吾々の”いのち”は太陽より来る。吾等太陽の如く生きんかな。 吾等は太陽の子だ。清明心の子だ。 どんな時にも光のみを見るのが日本人である。
よろこべ、勇み、楽しみ、清く前進せよ。
<合掌 平成23年11月3日 頓首再拝> ・・・
五箇条の御誓文
江戸時代幕末までは、日本という国は、小さな島国でした。
そんな小さな島国の日本が、アシアの東、そのはしのほうから立ち上がって 世界の仲間入りをした。
それが、今から145年前の明治元年をスタートとする明治時代である。
その日本の最高の指導者が明治天皇さまであった。
明治天皇さまは、幕末の混乱期に15歳(満14歳)で即位。 慶応3年1月9日(1867年2月13日)、践祚の儀を行い践祚。 元服前の践祚であったため、「皇太子」の地位を経ずに第122代の天皇のみくらい につかれた。
慶応3年12月9日(1868年1月3日)王政復古王政復古。新政府樹立宣言。
慶応4年3月14日(1868年4月6日)五箇条のご誓文発布。
慶応4年4月11日(1868年5月3日)江戸城無血開城。
明治元年9月8日(1868年10月23日)慶応から明治に改元。 明治天皇さまは、17歳(満16歳)。
明治元年10月13日(1868年11月26日)東幸で東京入り。
【五箇条のご誓文】 (明治天皇(満15歳)が公卿や諸侯などに示した明治政府の基本方針)
■広く会議を興(おこ)し、万機公論(ばんきこうろん)に決すべし
■上下(しょうか)心を一(いつ)にして、盛(さかん)に経綸(けいりん)を行ふべし
■官武(かんぶ)一途(いっと)庶民(しょみん)に至(いた)る迄(まで)、 各(おのおの)其(その)志(こころざし)を遂(と)げ、人心(じんしん)をして 倦(う)まざらしめん事を要(よう)す
■旧来(きゅうらい)の陋習(ろうしゅう)を破り、 天地(あめつち)の公道(こうどう)に基(もとづ)くべし
■知識を世界に求め、大(おおい)に皇基(こうき)を振起(しんき)すべし
我国未曾有の変革を為さんとし朕躬を以て衆に先んし天地神明に誓い 大に斯国是を定め万民保全の道に立んとす衆亦此旨趣に基き協心努力せよ
<参考Web:五箇条の御誓文> http://www.chukai.ne.jp/~masago/gokajyo.html
<参考Web:五箇条ノ御誓文/完全版> http://www.geocities.jp/kunitama2664/goseimon.html
ご誓文の大意
なにごとにも独断をさけてみんなが納得できるような結論を行ない、 みんながひとつになって理想を達成させ、上下のへだたりなくそれぞれ満足できる ようにし、篩いしきたりにとらわれず、正しい道理にもとづいてものごとを行ない、
新知識を世界から学んで日本をしっかりとしたものにして、 この国の伝統と文化をいよいよふるいおこしていこうではないか。
(後段の意) 日本は、いまだかつてない大変革の時期にぶつかっている。
このときにさいし、私(明治天皇)は、まず私自身、すべての先頭にたって 天地神明に対し、しっかりと日本国の方針をきめ、 すべての人々が幸福になれるようにしたいと誓う。
そこでみんなもこの趣旨にもとづいて力をあわせ頑張ってもらいたい。
この五箇条の御誓文に対し、参列した公卿・大名たちがこれにお応えする文 「私どもは陛下のおっしゃられたことを固く守ります。・・・・」を作り、 厳粛に、神々を拝し、陛下に拝礼、それぞれ署名しました。
明治維新において、明治天皇さまや公卿、大名たちが、大変革にさいして 天地神明に誓って、そのスタートを切ったのであります。
* *「エピソードで綴る 天皇さま」杉田幸三・著、日本教文社・刊 とWeb情報により補足。
<合掌 平成23年11月5日 頓首再拝>
・・・ 明治天皇崩御100年
今年、2012年(平成24年)7月30日は、 明治天皇が崩御されて満百年を迎えます。
明治天皇は、御年14歳(数え16歳)で第122代の天皇に即位され、 明治維新の大業を成し遂げられて、近代日本の礎を築かれました。
明治45(1912)年7月30日に59歳(数え61歳)で崩御されました。
幕末・維新を経て世界の近代国家へと大きく躍進した明治の御代は、 国家の存亡と国内の改革にともなう難問が山積する中、明治天皇の御親政のもと、 和魂洋才を旨とした国民との惜しみない努力により発展をしました。
日本人が美徳とした高潔・勤勉で道義心豊かな精神が、日本民族の活力となり、 その強い志が時代を動かしたのでした。
<参考Web:明治神宮における「明治天皇百年祭」 → http://www.meijijingu.or.jp/100th/index.html >
<関連スレッド:明治節 (5183) → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=1094 >(20)
<感謝合掌 平成24年7月5日 頓首再拝>
・・・
明治天皇が最も大切にされた「日本人の魂」
*月刊「歴史街道 8月号」より
今年は明治天皇が崩御されてから100年。 またご降誕された嘉永5年(1852)から160年の節目の年にあたります。
月刊誌「歴史街道」では、創刊以来、初めて、天皇を特集しております。
「おのが身は かへりみずして 人のため つくすぞ人の つとめなりける」
明治天皇の御製(天皇が詠まれた和歌)です。
「我が身のことは顧みず、世のため人のために尽くす。それこそが人間の大切な責務である」 というこの御製は、明治天皇が最も大切にされた「日本人の魂」であり、 また明治天皇のお姿そのものでもありました。
幕末動乱の時代にご降誕され、お若き頃より明治日本の中心となられた明治天皇は、 やがて欧化に流れ、西洋の文物ばかりが価値あるものとされる世の風潮に疑問を抱かれます。
「伝統あるわが国のかたちとは、いかなるものか。そして新しき世に、天皇はいかにあるべきなのか」 その内なる問いかけに真摯に御心を砕かれ、到達されたご境地が、 先の御製に象徴されるものでした。
「洋才も必要ではあるが、日本人には長い歴史と伝統に育まれた、世界に比類なき 『和の心』『まことの道』というものがある。 それを変えることなく、大切に守るべきではないか。
そしてそのためには日々心を磨き、国民に向けて、日本人のあるべき姿を体現できるよう、 自ら率先して努めねばなるまい」
そうしたご決意のもと、明治天皇は常に「公」を思い、「私」を無にして、 国家の規範としての憲法の制定や、国民の道徳訓としての教育勅語を発せられ、 日本と日本人を導かれたのです。
そうした明治天皇のお姿は、日本人にとって、 困難な時代に行く手を指し示してくださる光明を見る思いであったことでしょう。
<感謝合掌 平成24年7月8日 頓首再拝> ・・・
孝明天皇(父帝)から明治天皇へ
*月刊「歴史街道 8月号」(P28~32) ~<竹田恒泰(明治天皇の玄孫)記事>より抜粋要約
(1)嘉永五年(1852)9月22日(新暦で11月3日) 孝明天皇の2番目の皇子が誕生。幼名を祐宮(さちのみや)と賜った。
(2)孝明天皇は生涯で2名の皇子と4名の皇女を儲けたが、6名の内5名は短命。 祐宮(さちのみや)だけが成長した。
しかも、先代の仁孝天皇の皇子7名の内、孝明天皇を除く他の6名の近親者も 既にこの世を去り、次に皇位を継承できる孝明天皇の近親者は、 やはり、祐宮(さちのみや)一人だけだった。
このため、この一人の皇子の誕生と成長は、日本の歴史上極めて重要な意味を持つ事になる。
(3)祐宮(さちのみや)の生母は権典侍 中山慶子(権大納言中山忠能の次女)。
(4)男の兄弟が一人もいなかった祐宮(さちのみや)は、孝明天皇の期待を一身に背負いながら 歩んできた。
万延元年(1860)7月10日儲君(ちょくん)<皇太子に内定した地位>)になった。 同年9月28日、9歳(満8歳)になり立親王宣下の義により、御名を「睦仁」と賜った。 これにより、祐宮は「睦仁親王」として正式の皇族の一員に加えられたことになる。
強い皇統意識を持った孝明天皇は、万感の思いでこの日を迎えたことだろう。
(5)「豪胆」で知られる明治天皇も、幼少期は、体が弱く、病気がちであった。 『明治天皇記』の記録によると祐宮は、降誕から践祚の慶応3年(1867)までの 15年間に17回健康を崩し、その内の2回は大病で、1回は水痘(水疱瘡)だった。
(6)孝明天皇は歴代天皇の中でも神事・仏事を大切にした一人であり、 「天皇は祈る存在」であるということを強く認識していた。
命を懸けて祈りを捧げる孝明天皇の姿を近くで見ていたのが祐宮で、 後に明治天皇として宮中祭祀を最も重視していました。
(7)明治天皇は生涯において約10万首の御製を詠んだといわれる。 明治天皇の御製のなかで、祈りに関する代表的なものを二首紹介しておきたい。
【 とこしへに 国まもります 天地の 神のまつりを おろそかにすな 】
【 わがくには 神のすゑなり 神まつる 昔のてぶり わするなよゆめ 】
天皇は国民の幸せを祈る存在であるということを、 明治天皇は幼い時に父帝の後ろ姿から確実に学んでいたのではあるまいか。
(8)そして、明治天皇のこのような気概は、 確実に大正天皇、昭和天皇を経て、今上天皇に継承されている。
このようにして清らかな「大御心(おおみこころ)」が 太古の昔から連綿と継承され、現在に至ることは、 悠久の日本の歴史において誠に尊いことなのである。
<感謝合掌 平成24年7月10日 頓首再拝>
・・・
大正天皇から見た「明治天皇」
*「Web:明治天皇崩御百年を一ヵ月後にむかえるにあたり」より http://plaza.rakuten.co.jp/seimeisugita/diary/201206300000/
「至尊」~ 大正天皇皇太子時代の御歌明治29年
至尊九重内 至尊九重ノ内
夙起見朝廷 夙起朝廷ヲ見ル
日曜無休憩 日曜休憩無ク
佇立負金瓶 佇立金瓶ヲ負フ
萬機聴奏上 萬機奏上ヲ聴キ
仁慈憫生霊 仁慈生霊ヲ憫レシム
余暇賦国雅 余暇国雅ヲ賦シ
諷詠不曽停 諷詠曽テ停メズ
日晩始入御 日晩始メテ入御
聖体自安寧 聖体自ラ安寧
(皇居に住んでおられる天皇陛下は 朝早くおきて公務に就かれ 日曜日でさえお休みは無く
金屏風を背にお立ちになったまま 政府役人のたくさんの報告を聞かれ、
愛情深く国民をいつくしまれる
時間があれば和歌を詠む事を心がけ これを決してやめられた事は無い
夜も遅くにはじめて御所に戻られる
それでもお身体には何のお障りもなく 安らかにおられる)
<感謝合掌 平成24年7月12日 頓首再拝>
・・・
明治天皇崩御100年に想う
― 天意を地に映される大御心 ― 河合 一充(『みるとす』発行人)
今年は、明治天皇がお亡くなりになられて100年の年です。 明治の時代が終わって、1世紀が経ったということです。
「降る雪や明治は遠くなりにけり」(中村草田男)の句を引くまでもなく、 現代の私たちには身近に想い出すこともない過ぎ去った時代です。
しかし、現今の日本が大変な国難にある時、 先人たちの誠と精神にもう一度倣うべきであるように感じます。 その先人の第一人者こそ、明治天皇であられます。
☆ 明治天皇のご敬神
江戸時代末期から明治維新を迎えようという激動期、国の内外から押し寄せる難問題を 乗り越えて新しい日本が誕生するかどうか、先人たちはどんなに難儀したことでしょうか。
この大事な時に崩御された孝明天皇の後を継承されたのが、御年わずか16歳(満14歳) の祐宮睦仁親王(のちの明治天皇)でした。
日本の幸いは、明治天皇を戴いたことでした。
当時、19世紀の世界の先進国の多くが、アメリカを除いて君主制でした。 しかし、天皇は決してお飾りだけの君主ではありませんでした。 まず大事なことは、君主がどのような心で政治を指導したかです。
明治天皇は、天地神明に誓う形で「五箇条の御誓文」をもって国是とされ、 さらに明治3年正月に「神霊鎮祭の詔」を示されました。
そこに、若くして皇位を継がれたお覚悟を明らかにされました。 それは、連綿と受け継がれた、天を仰いで祈りつつ政治を行なうという国柄を護って、 新しい日本の国を発展させることでした。
曇りのない鏡が真に物事を映すことができるように、国家の大本がいつも清くあり、 天意を受けることができるようにと願われました。
神霊に加持されて国づくりを始めた神武天皇以来の古の道、惟神の大道を国民に示そう とされたのです。
御製に―
【 受けつぎし 国の柱の 動きなく 栄えゆく世を なほいのるかな 】
☆ 君臣水魚の交わり
明治天皇は、明治維新の功臣をお用いになられましたが、臣下との親密な交わりを結び、 それは「水魚の交わり」と譬えられました。そのお心の底には、天に向かってのまこと を基に、臣下への信頼が築かれていました。
西郷隆盛が、まだ政府を去る以前、天皇のお側に侍っていた感想を叔父に書き送っています。
「後宮へ在らせられ候儀、至ってお嫌いにて、朝より晩まで、始終御表に出御在らせられ、 和漢洋の御学問、次に侍従中にて御会読も在らせられ、御寸暇在らせられず…… 一体英邁の御質にて、至極ご壮健……御馬は天気さえよく候えば、毎日お乗りあそばされ候て
……追々政府へも出御在らせられ、諸省も臨行在らせられ候て、毎々私共にも御前へ召し 出され、同台にて食事を賜り候儀もこれあり……尊大の風習は更に散じ、君臣水魚の交わりに 立ち至り申すべき事と存じ奉り候」(椎原與三次宛書翰より抜粋)
この文の中には、若き日の明治天皇の修養努力の御姿勢がありありと描かれていますが、 老臣が抱く限りない敬愛の心情が、微笑ましく酌みとれます。
西郷隆盛を信頼され、のちに西南の役で賊臣とされた西郷を「賊臣」と呼ばれたことは 終生なかったと伝えられています。
同様に、日露戦争においても、旅順攻略に難儀した乃木希典を最後まで信頼なさったことは 有名です。また、その開戦直後、日本の艦隊が大事な戦艦を次々と演習の事故で失っても、 東郷平八郎司令長官をお咎めにならずにお任せになりました。
指導者ばかりでなく、一般庶民に至るまで明治天皇との君臣一体の感情が生まれた 幸せな時代で、君と民との信頼の確かさ、美しさは、次の御製にも見えます。
【いかならむ ことにあひても たわまぬは わがしきしまの 大和魂 】
【千萬の 民と共にも たのしむに ます楽はあらじ とぞおもふ】
☆ 祈りのひと
私は、明治天皇に関する多くの歴史研究家の著書を読んでみましたが、ほとんどは外側の 出来事に注目しても、宗教的内面には触れていません。
しかし、畏れ多いことに、明治天皇におかれては、キリスト教の神観とは違ったかも しれませんが、日本の父祖たちが敬った神霊に祈りつづけられ、人間以上の、 より大いなるものに祈る心をおもちであられました。
父君の孝明天皇も祈りの人でいらっしゃいましたので、お側において、その感化を 深く受けられたのでした。それは祈りとして捧げられた「御祭文」「御告文」などに 表れています。
日清や日露の開戦や終戦、講和に際しても、どこどこまでも和平を願いつづけられ、 神の御稜威とご加護、またその感謝を祈っておられます。
また御製は、神への天皇の御祈りであり、民のための執り成しでありました。 生涯お詠みになられた御製の9万余首には、神に祈り、感謝するものが数多くあり、 明治天皇の敬神の念の篤さがうかがえます。
【 ちはやぶる 神のこゝろを 心にて わが国民を 治めてしがな 】
【 とこしへに 民やすかれと 祈るなる わが世を守れ 伊勢の大神 】
*Web:「生命の光 2012年7月号」~「明治天皇崩御百年に想う」 (株)ミルトスの河合一充社長・特別寄稿 より → http://www.makuya.or.jp/hikari/S715/S715tbk.htm
<感謝合掌 平成24年7月13日 頓首再拝>
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「無私のまこと」という明治の精神を体現
*月刊「歴史街道 8月号」(P14~21) ~<中西輝政(京都大学名誉教授)記事>より抜粋要約
(1)日本人らしい心根を尊ぶことの大切さ
①幕末から明治での近代への開花期の真っ只中にあった日本を力強く前へ踏み出せる 歴史的な役割を明治天皇は果たされました。
②そんな明治天皇に物心両面で大きな影響を与えたのが、西郷隆盛でした。 西郷は戊辰戦争後、鹿児島に戻っていましたが、明治4年(1872)に廃藩置県 など大改革実現のために上京します。
③西郷は、明治天皇に一人前の君主、つまり「一人前の男」になっていただくべく、 宮中の大改革を行ないます。
これが、明治天皇のご生活だけでなく、その人となりにも大きな影響を与えていきます。
さらに西郷は明治4年の御親兵創設以来、演習でも常に明治天皇に付き従い、 また西国巡幸(明治5年)に随行するなど、多くの時間を共に過ごしました。
*参考スレッド「西郷隆盛」 → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=970 子記事~明治天皇の側近役~山岡鉄舟 (5070) 日時:2011年10月24日 明治天皇と山岡鉄舟 (5134)日時:2011年10月29日 明治天皇と西郷隆盛のエピソード(1)~(4)
その時に「敬天愛人」を大切にした西郷という人間の内面が ―― つまり、他人はそうあれ「天に恥じない行ないをする」という道徳倫理や、 人を深く思う心の大切さなどが ―― 明治天皇の御心に染み渡ったのです。
④こうした日本人への心の「目覚め」から、明治天皇は、それまでの行き過ぎた西洋化を 危惧し、日本人らしい心根を尊ぶことの大切さに改めて目を向けられます。
(2)西郷への思い
①明治天皇は、晩年に至るまで折にふれて西郷の思い出話をされていたといわれます。 西郷は、明治天皇にとって国家観や人間観、道徳意識を共有できる、真に心を許せる 存在だったのではないでしょうか。
②そのことは晩年、どこか西郷と精神的に共通するところのある乃木希典を深く信頼し、 学習院長に任命して皇孫・迪宮(みちのみや<後の昭和天皇>)の教育を任せられて ることからも、うかがい知れるように思われます。
(3)国家の行く末を照らして正しく導く
①明治12年(1879)「教学聖旨」作成し、政府の中枢を担っていた伊藤博文に 下付された。
「一時、西洋の優れたるところを取り、進歩の効をあげたが、その弊害で仁義忠孝を 後(あと)にし、いたずらに洋化を競うばかりでは将来が不安である。 ついには君臣父子の大義も知らない状況に立ち至るのではないか。 それはわが国の教学の本意ではない」(抜粋現代語訳)
明確に、伊藤たちの欧化主義の行き過ぎと、道徳の荒廃に警鐘を鳴らす内容です。
②「教学聖旨」作成の問題意識が、そのまま明治23年(1890)の「教育勅語」 に結実しました。
③明治天皇は、「公の政(まつりごと)」(=政治)における公平公正を重んじて おられました。
すべてのものを分け隔てなく受け容れる「大御心」を大切にされた明治天皇は、 若い頃から晩年まで、あえて側近の進言には厳格な態度で接せられ、政務において いわゆる「依怙贔屓」を一切されませんでした。
④その後、憲法制定や国会開設などの大事業、さらには日清、日露の大戦争という難局を 乗り越えることができたのも、政治家や軍人などの日本のリーダーたちを絶えず牽制し、 畏怖させると共に発奮させることに心を砕かれた天皇の大いなる存在なしには考え られません。
(4)遥かな高みまで
①日本人が古来、和歌を尊んできたのは、心の奥深い動きや自然の美しさの本質を 三十一文字の中に凝縮することによって、単に心の感動を写すのではなく、善悪・美醜 を一瞬で判断する美的感覚の鋭さを培うためとも考えられます。
歴代天皇も、祈りを捧げ、和歌を詠むことによって、日本の「精神的規範」を体現 してこられたのです。
②明治天皇がご生涯で十万首ともいわれる御製をお作りになったのは、まさに、このような 皇室の伝統を重視されているからこそなのです。
この文明観を持たない限り、日本の歴史、とりわけ明治は理解できないでしょうし、 天皇というご存在がなぜニ千年も続いてきたのかもわからないでしょう。
③明治天皇は、明治41年(1908)に次の御製を詠んでおられます。
【 ともすれば うきたちやすき 世の人の こころのちりを いかでしづめむ 】
【 おもふこと あるたびごとに つくづくと あふぐは天(あま)つ みそらなりけり 】
この年は、日露戦争の勝利(明治38年)から3年。 戦争に勝利した安堵とついに世界の大国と肩を並べたことへの驕慢と頽廃が、 日本人の心と社会に満ち始めていました。
明治天皇はこれを憂慮され、この年(明治41年)、 「戊申詔書」を発布されました。
「現今、人類は日進月歩、東西相寄り文明の複利を共有している。 私はさらに外国との友好を深め、列国と共にその恩恵に浴したい願う。 しかし、文明の恩恵を共有するためには、自国を自らの力で発展させねばならない。
日露戦争後、まだ日も浅く、政治全般をますます引き締め直さねばならない。 上下心を一つにし、忠実に業につき、勤倹を旨とし、信義や人情を重んじ、 華美を退けて質実を重んじ、荒んだ暮らしや怠惰を互いに戒め、たゆまず努力を 続けるべきである」(抜粋現代語訳)
④明治天皇はこれらの憂いを他に責任を転嫁せず、ご自身の問題として受け止め、 真摯にわが身に引き寄せて考えておられたのです。
【 目に見えぬ 神にむかひて はぢざるは 人の心の まことなりけり 】
この御製こそ、明治天皇の国家指導の原点といえるでしょう。
⑤明治天皇は、明治41年に、次のような御製も詠んでおられます。
【 われもまた さらにみがかむ 曇(くもり)なき 人の心を かがみにはして 】
明治天皇は、まさに社会を映し、時代を照らす「鏡」のようなご存在でした。 しかも、どこまでも磨き上げられた鏡でした。
明治天皇が体現された、あくまでも「公」を重んじ、「無私のまこと」を遥かな 高みまで追い求める精神こそまさに日本史上に燦然と輝く「明治の精神」の核心 だったのです。
<感謝合掌 平成24年7月15日 頓首再拝>
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大日本帝国憲法制定
*月刊「歴史街道 8月号」(P40~45) ~<勝岡寛次(明星戦後教育史研究センター)記事>より抜粋要約
(1)帝国憲法は、プロシア憲法の引き写しに非ず
①古来からある日本の国体を、西洋起源の「憲法」という法規範によって成文化 したものが、大日本帝国憲法である。
②大日本帝国憲法は、国家としての主体性を堅持しつつ、天皇ご自身も憲法制定に 中心的役割を果たされた。
③板垣退助の批判へ、明治天皇は逆鱗された。 伊藤博文の下で憲法起草作業に当たった一人、伊藤巳代治の回想より。
「その頃板垣伯が、憲法を批評して、日本の憲法は伊藤博文が独逸に行って、 独逸の憲法をまねて作ったものに過ぎないというようなことを語ったと、当時の 新聞に記載されたのであります。 これを御覧になって、天皇は非常に逆鱗遊ばされたました。
『我が憲法は、私が欽定して国民に与えた世界に比類なき憲法である。これを伊藤が 独逸に、まねて作ったとは何事なるか。畢竟これは欽定憲法の趣旨が、十分わからない から、かようなことを申すのであろう、欽定憲法の趣旨を、世人に普及し、誤解 なからしめるのが、今日の急務である』と思し召された」
(2)大日本帝国憲法の起源は、明治元年(1868)の五箇条の御誓文中の、 次の二つの条文に求められる。
①広く会議を興(おこ)し、万機公論(ばんきこうろん)に決すべし
②知識を世界に求め、大(おおい)に皇基(こうき)を振起(しんき)すべし
<参考Web:五箇条の御誓文 http://www.chukai.ne.jp/~masago/gokajyo.html >
(3)明治9年(1876)9月、明治天皇は元老院議長に対して憲法草案の起草を お命じになった。(「国憲起草を命ずる勅語」)
(その大意としては) 「憲法は伝統的な国体に基づき、広く海外の憲法を調査した上で「汝等」(国民)が 起草しなさい。しかし最終的には、天皇がそれを選び、定めよう」
(4)明治15年(1882)3月から1年半ほど、伊藤博文を憲法調査のため欧州に派遣。 伊藤は、ベルリンでは国法学者グナイストに、ついでウィーンではシュタインに就いて 学んだが、この二人から学んだことは、
「憲法とはその国の歴史・伝統に立脚して初めて成立するものだ」 ということであった。
(5)伊藤の帰国後、彼の下で大日本帝国憲法を起草した井上毅(いのうえこわし)は、 日本の古典を研究した。
①彼が起草した憲法草案の第一条は、その研究の成果を反映して、 「日本帝国ハ万世一系ノ天皇ノ治(しら)ス所ナリ」となっていた。
「しらす」:「知る」の敬語。 「知らす」「知ろしめす」という古語は、民の意思をお知りになる ことが統治することだという、天皇の統治行為を示す日本固有の言葉。
「治ス」という表現は、最終的には「統治ス」に変更し確定した。 確定した「日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」は、井上の起草した 「治(しら)ス」という理解の上に立って、我が国固有の国体を初めて憲法として 成文化したものである。
②井上はまた、次のようにも言っている。
「わが国の憲法は欧羅巴(ヨーロッパ)の憲法の写しにあらずして 即(すなわち)遠つ御祖(みおや)の不文憲法の今日に発達したるものなり」
(6)明治21年(1888)4月、憲法草案が皇室典範とともに、枢密院での 審議にかけられることになった。
①明治天皇にとって憲法制定とは、何よりもまず、 「祖宗(皇祖皇宗)に対する重責」であった。
神々からこの日本国の統治を「言寄(ことよ)さし」(ご委任)された者として、 天皇は憲法条文の一言一句たりとも忽(ゆるが)せには出来ないという重責を 感じておられたのだ。
②だからこそ天皇は、半年以上にわたった枢密院での憲法会議には、一度たりとも 欠席されたことはなかった。
③「立憲の大事は祖宗への重責」と考えておられた明治天皇の、そのご覚悟の ほどが拝察される御製を次に掲げておきたい。
<をりにふれる> 【 さだめたる 国のおきては いにしへの 聖(ひじり)のきみの 声なりけり 】
<感謝合掌 平成24年7月19日 頓首再拝>
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特報として、本日の[皇室ウイークリー](2012.7.21 07:00))から、 皇居・東御苑の三の丸尚蔵館で開催される展覧会で展示される後藤伯爵から明治天皇に献上された 「蓮華翁茶壺」に関するエピソードに関する記事の紹介です。
・・・以下[皇室ウイークリー]からの抜粋です。
皇居・東御苑の三の丸尚蔵館できょう21日から、展覧会「珍品ものがたり」が開催される。 同館では皇室ゆかりの品々を紹介する展覧会を開催することが多く、今回のインパクトがある タイトルはいささか意欲的な印象だ。
宮内庁によるとこのタイトルは、「珍しい品々」を選んだことに加え、 作品の成立や伝来にさまざまな「ものがたり」があるものに焦点を当てたという 意味合いがある。
展覧会では文字通りさまざまな珍品が楽しめるが、 今回はエピソードが特に印象的な1点を紹介したい。
徳川家康が所持していたとの説があり、 後に後藤象二郎伯爵から明治天皇に献上された「蓮華翁茶壺」だ。
同館によると、明治天皇は明治25年7月、 東京・高輪にあった当時の逓信大臣・後藤伯爵邸を訪問された。
賓客は273人で、 「観世銕之丞らによる能楽を御覧になり、フランス料理の晩餐を終えられた後、 松旭斎天一の奇術、桃川如燕の講談、西幸吉の薩摩琵琶を御覧になった」
「夜になると一万匹の蛍が池辺に放たれ、宇治川の夏の風物を思わせる光景を 天皇も楽しまれた。各余興の合間には宮内省楽師による和洋の奏楽がなされた」。
午後1時に出発した明治天皇のお帰りは、深夜0時半だったという。
学芸員によると、 当時はこのように、招待を受けて明治天皇が名家を訪問されることがあったのだという。
前置きが長くなったが、「家康の茶壺」はこのときに陶製のタヌキの置物などとともに 明治天皇に献上されたものだという。いわば「おみやげ」だが、これだけでもすごい。
展覧会「珍品ものがたり」は21日から9月2日まで。 午前9時-午後4時45分(9月は午後4時15分まで)。 毎週月・金曜日は休館。入場無料。
*Web:[皇室ウイークリー](2012.7.21 07:00) http://sankei.jp.msn.com/life/news/120721/imp12072107010001-n1.htm
<感謝合掌 平成24年7月21日 頓首再拝>
・・・ 教育勅語
*月刊「歴史街道 8月号」(P46~50) ~<渡部昇一(上智大学名誉教授)記事>より抜粋要約
(1)教育に「不易流行」の心を求めて
①明治以降、学校制度が確立され、西洋の学問が教育現場にどんどん導入されます。 さらに明治の前半期には、西洋文明に圧倒されて、日本の文化に劣等感を覚える 風潮すらありました。
これらのことが、明治天皇のご懸念を深めていきました。
②明治天皇は巡幸などで教育現場をとりわけ熱心に視察なさいましたが、そこで 英文を流暢に読めても日本語にうまく訳せなかったり、技術論は知っていても 実務には疎い生徒たちの姿を御覧になります。
このような状況に明治天皇は「今の教育はあまりに西洋風に偏り、日本古来の美風を なおざりにしているないか」との深い懸念を抱かれたのです。
③明治天皇が大切にされたのは、「不易流行」の心でした。
明治初年の五箇条の御誓文にあるように、 「旧来の陋習を破り」「智識を世界に求め」る「流行」があるべきであるが、 そこには確固とした「不易」の部分がなければならない ―― そうお考えになったように思われてなりません。
④明治天皇は、明治12年(1879)に「教学聖旨」という大方針を示し、 教育へのご懸念を示されると共に、教育において、その根幹となるべき「まことの道」を 確立することをお求めになります。
その御心は、次の御製からも伝わってきます。
【 世の中の まことの道の ひとすぢに わが国民(くにたみ)を をしへてしがな 】
・・・・・
<参考Web:教学聖旨の起草 http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317585.htm >
*教学聖旨の概要
「教学の要は仁義忠孝を明らかにして知識や才芸を究め、人の人たる道を完(まっと)う することであって、これこそわが祖先からの訓であり国典であるのに、近時は知識才芸 ばかりを尚(たつと)んで、品行を破ったり風俗を傷っけたりするなど物の本末を誤って いる者が少なくない。
そのような有様では昔からの悪い習を捨てて、広く知識を世界に求めて西洋の長所を取り、 また国勢を振興するのに益があるかもしれないが、一方では仁義忠孝の道をあとまわしに するようでは、やがては君臣父子の大義をわきまえなくなるのではないかと将来が危うく 思われる。これはわが国の教学の本意ではない。
それゆえ今後は祖宗の訓典によって仁義忠孝の道を明らかにし、 道徳の方面では孔子を範として人々はまず誠実品行を尚ぶよう心掛けなくてはならない。
そうした上で各々の才器に従って各学科を究め、道徳と才芸という本と末とを共に 備えるようにして、大中至正の教学を天下に広めるならば、わが国独自のものとして、 世界に恥じることはないであろう」
・・・・・
(2)社会の座標軸「教育勅語」
①明治天皇は、さらに明治15年(1882)、儒学の侍講であり、深い信頼を寄せていた 元田永孚(ながざね)に命じて「幼学綱要」を編纂させます。これは初学者向けに、 様々な道徳的な逸話を集めて人倫の道をやさしく説くものでした。
・・・・・
*「幼学綱要」20訓(現代語訳) → http://home.e-catv.ne.jp/sikidan8/japan-yougakukouyou.htm 孝行~親の恩に感謝する 忠節~国に忠節を尽す 和順~夫婦はむつまじく 友愛~兄弟姉妹は仲よく 信義~友人は助け合う
勉学~まじめに勉強する 立志~決心を固める 誠実~何事もまじめに 仁義~人を助ける心 礼譲~礼儀を正しく
倹素~無駄遣いをしない 忍耐~耐え忍ぶこと 貞節~節操を守ること 廉潔~正しく潔白なこと 敏智~機敏に智恵を出す
剛勇~強い勇気を持つ 公平~えこひいきをしない 度量~こせこせしない 識断~正しく判断する 勉識~職場に専念する ・・・・・
②さらに広く、わが国の「不易」を徹底させるべく起草されたのが、 「教育勅語」だったのです。
これを起草した中心人物は、 元田永孚と、伊藤博文の懐刀であった井上毅(こわし)でした。
井上毅で特筆すべきは、日本古来の人倫の道を基本と置きつつ、儒学やキリスト教 などの学派臭や宗教臭といった「臭み」を廃して、誰が読んでももっともだと思う 表現で示そうと考えたことでした。
③明治23年(1890)に、教育勅語は明治天皇が親しく発せられたお言葉として、 国務大臣副署なしに発布されました。
④教育勅語には、日本国民が「克(よ)く忠に、克く孝に、億兆心を一(いつ)にして 世々厥(そ)の美を済(な)せるは、此れ我が国体の精華」であり、 「此の道は実に、我が皇祖皇宗の遺訓にして子孫臣民の倶(とも)に遵守すべき所」と 書かれています。
ここには「不易」としての日本古来の美風を重んじる明治天皇の御心がよく表されて います。そして、この勅語の最後に記されているとおり、これは国民への命令ではなく、 「私もこれを心がける。一緒に努めよう」という、天皇から国民への呼び掛けなのです。
⑤教育勅語は。発表直後に各国語に訳されましが、どの国からも高い評価が寄せられました。 ・・・・・
参考Web:教育勅語と現代語訳 http://www.h6.dion.ne.jp/~chusan55/kobore8/4132chokugo.htm
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(3)近代日本の「心の隙間」を埋めた「教育勅語」
①帝国憲法は、日本建国以来の国柄に基づくことを重視して制定されたものでありますが、 当時の生活実感と隙間があったことは否めません。
明治においてその隙間を埋めたものこそ「教育勅語」だったのです。
②当時、多くの日本人は、憲法の条文を詳しくは知りませんでした。 しかし教育勅語は、当り前のように広まり、社会の中に息づいていったのです。
(4)現代でも必要な教育勅語
①以前、とある校長先生たちの集まりで講演をしたときに、 参加された校長先生からこんな話も聞いたことがあります。
「非行に走る子供たちでも、その親が教育勅語を学んでいた世代は、行ないを改め させることは、そう難しいことではありませんでした。ところが、親も教育勅語を 知らない世代になると、なかなか手も足も出せません」
②親が道徳的な拠り所を持たない「モンスター・ペアレント」になってしまったら、 子供も「モンスター・チルドレン」にならざるをえないのは、世の道理でしょう。
③しかし、それにしても、明治天皇がここまで心を込められた教育勅語が、占領下の 国会の議決で廃止されてしまったのは、つくづく痛恨といわざるをえません。
現代に置き換えるなら、たとえば東日本大震災の折りに、今上陛下がビデオを通して 語りかけられたお言葉を、国会の議決で廃止することなど許されるでしょうか。
それを考えれば、いまこそ国会は、せめて教育勅語廃止決議の無効宣言を出すべきと 思われてなりません。
<感謝合掌 平成24年7月22日 頓首再拝>
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大津事件で示された誠実なご対応
大津事件と言えば、今、子どものいじめで、マスコミを賑わしておりますが、 ここでの大津事件は、121年前(明治24年<1891>、「教育勅語」発布の翌年) 日本中を震撼させた大きな出来事です。
*以下、月刊「歴史街道 8月号」(P51)からの抜粋・補足の紹介です。
明治24年5月11日、来日していたロシアのニコライ皇太子(ロシア最後の皇帝、ニコライ2世) が滋賀県大津市に立ち寄った際に、警備をしていた津田三蔵巡査にサーベルで斬りつけられ、 頭部を負傷したのである。
・・・・・大津事件の概要
ニコライ皇太子は、1890年から1891年にかけて、地中海、スエズ運河、インド、 そしてアジアの各地を巡遊していました。
1891年(明治24年)4月、最後の訪問国・日本に上陸します。
日本政府は、ロシア皇太子の訪日を歓迎。 有栖川宮威仁親王を接待役に、京都などを案内。
5月11日には琵琶湖を見物しますが、その帰路、とんでもない事件が起きます。
人力車に乗ったロシア皇太子らが大津を通過しようとした時のこと、 沿道を警備していた巡査・津田三蔵がいきなりサーベルを抜刀、 皇太子を2度にわたって斬りつけたのです。
津田が斬りつけたことで、ニコライ皇太子は右側頭部に骨膜に達するほどの(9cm 近くの) 傷を負います。が、幸い、頭蓋骨にまでは達しておらず、命に別状はありませんでした。
なお、津田は、ギリシャ王国のゲオルギオス王子(ニコライ皇太子の従弟)、 人力車夫の向畑治三郎と北賀市市太郎、警備中の他の巡査などによって、 取り押さえられました。
同行していた有栖川宮威仁親王は、この事件を重大な外交上の問題と判断。 随行員に命じて、明治天皇に急いで事の顛末を知らせ、また外交問題に発展しないよう、 陛下直々にロシア皇太子を見舞われるよう要請します。
この事件が知らされるや、国民はロシアの報復を本気で恐れたといわれます。 当時、発展途上で小国であった日本が、大国であるロシア帝国の皇太子を負傷させた。
「ロシアが報復に出るのではないか」 日清戦争前の当時、日本は、大国ロシアに対抗できる様な軍事力を、まだ持っておらず、 日本が大国ロシアと戦争するなど想像もできず、皆、戦々恐々となった。
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この報が東京に伝わるや、明治天皇は事件の翌朝午前六時に早くも新橋駅をご出発され、 午後九時過ぎに京都にご到着。ニコライ皇太子をお見舞いになり、 皇太子が心を和ませるよう、親しくご歓談されたのであった。
結局、ニコライ皇太子は、神戸港に停泊していたロシア軍艦で帰国することになったが、 明治天皇は京都から神戸まで列車で同行された。 そして明治天皇は別れに際し、ニコライ皇太子を昼食にお招きになった。
だが、医師の忠告もあってロシア側はこれを辞退し、 代わりに、明治天皇をロシア軍艦での宴に招待したのである。
これが日本側で大問題になった。 万が一、ロシア軍艦が天皇を乗せたまま出航してしまったら、 それを止めるだけの日本の海軍力が神戸近海になかったからである。
群臣からは招待は辞退すべしという意見も出され、結局、天皇にご決断頂くことになった。 しかし明治天皇は「皆が心配するようなことはなかろう」と、 招待を受けてロシア軍艦に臨まれたのである。
ロシア側は大いに喜び、宴では談笑が絶えなかった。 明治天皇の誠実で迅速なるご対応が、相手の心を開かせたのであった。
結果的には、日本とロシアとの関係が決定的に悪化することはありませんでした。 心配していた巨額の賠償金の要求や、武力による報復もなし。
明治天皇は日露戦争終戦の年に次の御製を詠まれているが、 この大津事件の思い出がよぎっていたのかも知れない。
【 まこともて わがしたしなば とつくにの 人も心を へだてざらまし 】
(誠の心で親しめば、外国(とつくに)の人も心を隔てることなどないであろうに)
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*Web:有栖川宮威仁親王 http://www.ship-doctor.com/menu4/arisugawa_01.html
文久2年1月13日生まれ。明治11年有栖川宮をつぐ。 西南戦争をはじめ日清(にっしん)・日露戦争に従軍。 また明治天皇名代として外国の式典に参列。 37年海軍大将。大正2年7月5日死去。52歳。 王子の栽仁王(たねひとおう)が早世していたため、有栖川宮家は断絶した。
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<感謝合掌 平成24年7月23日 頓首再拝>
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一日一首 明治天皇御製、昭憲皇太后御歌(奇数日は御製、偶数日は御歌)
一日 【 目に見えぬ 神にむかいて はぢざるは 人の心の まことなりけり 】
(神様に恥じない心こそ誠の心です)
二日 【 人しれず 思ふこころの よしあしも 照らし分くらむ 天地(あめつち)のかみ 】
(心の中も神様は見ていらっしゃいます)
三日 【 かたしとて 思ひたゆまば なにごとも なることあらじ 人の世の中 】
(七ころび八起きの決心で励みましょう)
四日 【 人はただ すなほならなむ 呉竹の 世にたちこえむ ふしはなくとも 】
(まず第一に心は素直であることが大切です)
五日 【 萬代の 国のしづめと 大空に おふぐは富士の たかねなりけり 】
(国民の自覚を強くし責任を重んじましょう)
六日 【 むらぎもの 心にとひて はぢざらば 世の人言(ひとごと)は いかにありとも 】
(自信を強く持つことです)
七日 【 さまざまの うきふしを經(へ)て 呉竹の よにすぐれたる 人とこそなれ 】
(努力なくして成功はありません) 八日 【 日にみたび 身をかえりみし 古(いにしえ)の 人のこころに ならいてしがな 】
(常に自らを反省した昔の人に習いたいものです)
九日 【 世の中の 人におくれを とりぬべし すすまむ時に すすまざりせば 】
(責任あることは必ず成しとげましょう)
十日 【 人ごとの よきもあしきも こころして きけばわが身の ためとこそなれ 】
(人々の言葉に注意して、わが身のためと聞きましょう)
十一日【 たらちねの 親につかえて まめなるが 人のまことの 始めなりけり 】
(孝は人の行いの基本です)
十二日【 朝ごとに むかふかがみの くもりなく あらまほしきは 心なりけり 】
(心の鏡をいつも清く明らかにしましょう)
十三日【 しのびても あるべき時に ともすれば あやまつものは 心なりけり 】
(忍の一字に徹しましょう)
十四日【 あやまたむ ことをおもへば かりそめの ことにもものは つつしまれつつ 】
(油断は大敵です)
十五日【 いかならむ 時にあふとも 人はみな まことの道を ふめとをしへよ 】
(誠の心こそ人生の基です)
十六日【 みがかずば 玉の光は いでざらむ 人のこころも かくこそあるらし 】
(磨かなければ光りません)
十七日【 さしのぼる 朝日のごとく さはやかに もたまほしきは こころなりけり 】
(心はいつも清く明るく持ちましょう)
十八日【 すぎたるは 及ばざりけり かりそめの 言葉もあだに ちらさざらなむ 】
(言葉づかいに気をつけましょう)
十九日【 あらし吹く 世にも動くな 人ごころ いはほにねざす 松のごとくに 】
(不動の信念を持ちましょう)
二十日【 高山の かげをうつして ゆく水の 低きにつくを 心ともがな 】
(心は高く、身はつつましくありたいものです)
二十一日【 ならびゆく 人にはよしや おくるとも ただしきみちを ふみなたがへそ 】
(堅実な歩みが大切です)
二十二日【 いかさまに 身はくだくとも むらぎもの 心はゆたに あるべかりけり 】
(心は平静に豊かに保ちましょう)
二十三日【 疾(と)き遅き たがひはあれど つらぬかぬ ことなきものは まことなりけり 】
(誠実は成功の基です)
二十四日【 おこたりて 磨かざりせば 光ある 玉も瓦に ひとしからまし 】
(智能も熱心に磨かなくては光を発しません)
二十五日【 あさみどり 澄みわたりたる 大空の 廣(ひろ)きをおのが 心ともがな 】
(心は広く大きく持ちたいものです)
二十六日【 しげりたる うばらからたち はらいても ふむべき道は ゆくべかりけり 】
(あらゆる困難を切り開いても正しい道を進むべきです)
二十七日【 おほぞらに そびえて見ゆる かたねにも 登ればのぼる 道はありけり 】
(精神一到すれば、成し遂げられないことはりません)
二十八日【 かりそめの ことはおもはで くらすこそ 世にながらへむ 薬なるらめ 】
(取越苦労をしないで過ごしましょう)
二十九日【 器には したがいながら いはがねも とおすは水の ちからなりけり 】
(柔よく剛を制する力を秘める水の徳に学びましょう)
三十日 【 ひとすぢの そのいとぐちも たがふれば もつれもつれて とくよしぞなき 】
(糸口を見失うと解けなくなることがあるものです)
三十一日【 いかならむ ことある時も うつせみの 人の心よ ゆたかならなむ 】
(いつも落ちついて、心は広く豊かに持ちましょう)
*Web:豐葦原 より http://takato112.blog80.fc2.com/blog-entry-1218.html
<感謝合掌 平成24年7月24日 頓首再拝>
・・・ 対外戦争、そして将兵の無事を祈る明治天皇
*月刊「歴史街道 8月号」(P62~66) ~<江宮隆之(作家)記事>より抜粋要約&補足追加
(1)日清戦争
①明治27年(1894年)7月に起こった豊島沖海戦によって日清両国の緊張は頂点に達し、 7月31日、清は日本に国交断絶を通告。8月1日、日清両国は正式に宣戦布告を宣言しました。 当時、宣戦布告以前に戦闘を開始しても国際法に抵触することはなかったのです。
朝鮮政府は宣戦布告を受け、各地方官に日本軍への協力を命じています。
②明治天皇は、戦争に反対しておりましたので、宣戦布告に御心を痛められました。 「今回の戦争は朕素より不本意なり、閣臣等戦争の已むべからざるを奏するに依り、 之を許したるのみ、之を神宮及び先帝陵に奉告するは朕甚だ苦しむ」
明治天皇は日清戦争開戦を憂い、次の御製を詠まれました。
【ゆくすゑは いかになるかと 暁の ねざめねざめに 世をおもふかな】
③明治27年(1894年)日清戦争が始まると、9月8日に大本営を広島に設置。 9月15日明治天皇は広島城第五師団司令部に大本営を移し、対清作戦を指揮することと なりました。翌年4月27日戦争集結後離広まで、西練兵場の一角に宿舎をとり、 ほとんどその中を出ることは無かったといいます。
④近代化を進めていた日本と大国の清との戦いは、 なんとか日清戦争は勝利を得る事が出来ました。
勝利にいたるまでの日本側死者の8割以上が病死となっております。
・・・・・・
【陸軍軍医と脚気の治療】 日清戦争では脚気を患う者が続出しました。 それは森鴎外ら軍医がドイツの医学では認められていないとして、 脚気の治療法を導入しなかったためです。
明治26年(1883年)、ニュージーランドに向けて出航した軍艦「龍驤」は、 航海中に船員378名中169名もの脚気患者を出し、このうち23名が病死しました。 イギリスへの留学経験を持つ海軍軍医高木兼寛がこの事件を調べた結果、 下級兵ほど脚気を煩いやすく、洋食を食べる上級士官に患者が少ないことを発見。 下級兵は副食用の食費を節約し、実家へ送っていることを突き止めました。
仕送りの結果、下級兵の食事は白米中心となり、栄養不足から脚気に罹ってしまったのです。 高木は「龍驤」と同じ航路でニュージーランドに向かう軍艦「筑波」で、 食事を給食制にするよう提案します。
この実験で脚気に罹った者は15名。その全員が給食を残すなどしていました。 日本海軍は高木の説を受け入れ、それまでの白米主食の食事から米麦併用の食事に 切り替えました。麦にはビタミンB1が含まれており、脚気の予防になるのです。
こうして日本海軍から脚気は姿を消していきました。
一方、日本陸軍は高木の説を認めませんでした。 彼らはドイツ医学を最上としており、イギリスから医学を学んだ高木を馬鹿にしていたのです。 そして、脚気は栄養の偏りが原因ではなく、 病原菌による伝染病というドイツの学説を押し通しました。
森林太郎(森鴎外)は高木の説を迷信と呼び、陸軍に食事を改めようという意見が出ると、 躍起になって潰しました。こうして日清戦争では4000名もの兵士が脚気で病死しました。 これは全て軍医の責任です。
・・・・・・
⑤明治政府にとって初めての対外戦争であった日清戦争に勝利した結果、 遼東半島の権利を得ました。
それに対し、列強の干渉が始まりました。 明治28年(1895年)4月23日、イギリス、ロシア、ドイツは日本に対し、 遼東半島の放棄を勧告。
日本が遼東半島を領すれば、北京に近いことから不測の事態になりかねない。 朝鮮の独立も危ぶまれる。日本は直ちに遼東半島を放棄せよ。 この政治介入を「三国干渉」と言います。
日清戦争に2億2000万円もの国費を投じた日本に、 三国干渉を退けるだけの力はありませんでした。 5月4日、遼東半島返還が議決。
5月5日、ロシア、ドイツ、フランスの各公使に遼東半島返還が通達されました。 5月10日、明治天皇は国民に遼東半島返還の詔を出されました。 佐々木高行宮内顧問官は、明治天皇が次のような玉音を発せられたと記しています。 「盛京省半島を我が領とするは如何と考へたり。 同地の模様を聞くに、収納は至つて少く迚も行政と国防とに不足し、 本国より仕送り致さずては、何事も出来ぬ様子なり」。
遼東半島を得ても、防衛面や行政面で支障を来すことになり、 日本から莫大な額の投資を行わなければならない。戦争によって疲弊した日本に、 遼東半島の統治は困難である。
これが明治天皇の大御心でした。
⑥それに対し、ロシアは、その遼東半島を勝手に清国から勝手に租借するという挙に出た。 たび重なるロシアとの軋轢は、明治政府にとって脅威の高まりであった。
あらゆる手段をもって平和裏の交渉を求めた日本であったが、ロシアは満州、朝鮮半島 の利権までを視野に入れて日本を揺さぶってきます。
(2)日露戦争
①明治37年(1904)、そうしたロシアの脅威が極限にまで迫り、 いよいよ開戦不可避の情勢に至った。
②切迫した状況に胸を痛めておられた明治天皇は、2月4日未明、最も信頼していた 元老で枢密院議長の伊藤博文を宮中・奥の御座所に呼び寄せ、忌憚のない意見を 求められた。
伊藤は明治天皇に「もし我が国の情勢が不利になるようであるならば、陛下にも お覚悟を決めて頂かねなければなりません。その際には、どうかご決断をお願い 申し上げます」と奏上した。
明治天皇は、元来が開戦に慎重・消極論という立場にあった伊藤の「開戦」を促す 答えに驚かれながらも、事態がそこまで逼迫していることを伊藤の言葉から感じ られたのである。
③同日2月4日午後2時から、御前会議が開かれると、午後5時近くまで3時間にも及んだ。 会議で、最後に次の奏上があった。
「・・・準備は万全ではありませんが、この場に至って陛下のご決断を頂いて、 国民が力を合わせて国を護るために立ち上がらなければなりません」
この要請に対して、明治天皇はあくまでも開戦を忌避して平和解決が出来ない ものかと、意見を述べられました。
だが、明治天皇のご意志とは裏腹に、もはや両国に交渉の余地はなく、情勢は一刻の 猶予もないところまできているという認識の基に、遂に明治天皇はロシアへの 宣戦をご決断されたのであった。
④御前会議を終えられ、奥座所に戻られてから、明治天皇は皇后に向かって仰った。
「もしも万が一、この決断、つまりロシアと国交断絶と開戦が失敗に終わったならば、 私は何をもって祖宗に侘び、国民に対することが出来ようか。 それだけが気に懸かってならぬ」
その折の明治天皇のご心境は、次の御製に明確に示されていよう。
【 四方の海 みなはらからと 思ふ世に など波風の たちさわぐらむ 】
(3)兵士たちに思いをいたされて
①満州・朝鮮の支配を狙うロシアの南下政策を阻止するために、明治政府は外交によって アメリカ・イギリスの支持を取り付け、最後の御前会議の六日後の2月10日、 遂にロシアと開戦した。
②この日は、2月の最も寒い日であったが、明治天皇は御座所で使用していたストーブを 取り外すよう侍従に命じられた。そして、朝夕の最も冷え込む時を、火鉢と手あぶりで 過ごそうというご意志を示されました。
つまり明治天皇は、東京より遥かに寒い、極寒の地ともいえる場所で戦う兵士たちへの 思いを、こんな形で示そうとされたのであろう。
【 しぐれして 寒き朝かな 軍人(いくさびと) すすむ山路は 雪やふるらむ 】
という御製こそ、その時の明治天皇のご心境そのものではなかったか。
③明治天皇の、戦場で日本にために戦う兵士と常にともにありたいという御心は、 冬だけでなく真夏にも同様の態度が示されている。 宮内大臣・田中光顕の語るところによれば、
「陛下はこの暑いのに大元帥の軍服をきちんとお召しになって、政務をお執りになって おられる。陛下は厳然として足組みもなさらず、扇風機も団扇もお使いにならない」 ということであった。
この時期につくられた御製に、以下のような二首がある。
【 夏しらぬ こほり水をば 軍人 つどへるにはに わかちてしがな 】
(夏の暑い日にはせめて兵士たちに氷水の一杯も飲ませてやりたい)
【 いくさ人 いかなる野べに あかすらむ 蚊のこゑしげく なれる夜ごろを 】
(兵士たちはどのような野原ですごしているのであろうか。 夜には蚊に悩まされてはいないだろうか )
天皇自らのご決断による日露戦争であったが、戦況は必ずしも日本軍にとっては 有利ではなく、一進一退の激戦が続いていた。それを明治天皇ご自身、深く憂え、 戦場にある兵士たちの心と健康とを常に心配されていたご様子が、示されている。
④開戦からほぼ1年が経った明治38年(1905)1月19日は、宮中歌会始であった。 この年のお題は「新年の山」。
預選歌が披講された。講師が読み上げた 「山梨県平民陸軍歩兵ニ等卒 大須賀昌二妻 まつ江」という名前に、 参集した一同ばかりか、いつもは微動だにされない明治天皇までが 講師の口元をご覧になった。講師を披講を続けた。
「 つはものに 召出だされし わが背子は いづこの山に 年迎ふらむ 」
この歌に胸を打たれた一同であったが、明治天皇もご感慨深く耳を傾けておられた。 この歌へのご感慨が御心に深く残ったようで、のちの御製にも詠み込まれている。
【 あらたまの 年たつ山を みる人の こころごころを 歌にしるかな 】
歌会始の際の詠進歌の情景を、明治天皇はこのような形で表現されたのであった。
⑤歌は、詠む人のその場の心を素直に表わす。 明治天皇が、日露戦争という国家の命運を左右する戦いに臨む兵士への慰労と 思い遣りとを詠われたのは、そうした思いが通り一遍のものではなく、 誠の心から出てきたものであったことを示していないか。
それが、この年(明治38年)夏の御製、
【 暑しとも いはれざりけり 戦(たたかひ)の 場(には)にあけくれた 人おもへば 】
という御製になり、扇風機も団扇もお使いにならない明治天皇の姿勢に つながっていたのであった。
(4)日露戦争終戦までの2年間
①明治天皇は、日露開戦から終結までの2年間、ほとんど宮中からお出になることが なかった。御前会議は頻繁に開かれるし、大臣たちがひっきりなしに報告と相談に やってきた。明治天皇はご休憩もほとんどなかったのである。
②やがて、イギリス、アメリカ、フランスがそれぞれの思惑もあって、日露両国に 講和を働き掛けた。8月にはアメリカ大統領ルーズベルトの勧告によって、 アメリカでポーツマス講和会議が開かれ、9月に入ってポーツマス条約が締結された。
③明治天皇は講和を喜ばれたが、この戦争の戦病死者が十数万人に上ったことには、 大変御心を痛められ、亡くなった将兵たちの名簿のすべてや写真に目を通されている。
④明治天皇は、11月14日、 戦勝報告のために伊勢神宮に向かわれた。 15日に到着し、16日に外宮、17日に内宮に参拝され、自ら御告文を 朗々と読み上げられた。
⑤だが明治天皇にとっては、日露戦争のこの2年間が10年、20年にも感じておられた ことも確かなことであった。 この戦中を振り返られた明治天皇は、そうした思いを
【 さまざまに もの思ひこし ふたとせは あまたの年を 経しここちする 】
とお詠みになっている。
人々の目には、明治天皇のお髪に白いものが混じるようになったのがよく分った。 日露戦争が終結したこの年、明治天皇は53歳となられていた。
<感謝合掌 平成24年7月26日 頓首再拝>
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打算なき武士(乃木希典)に皇孫の教導を託す
*月刊「歴史街道 8月号」(P68~72) ~<秋月達郎(作家)記事>より抜粋要約&補足追加
(1)日露戦争前の熊本での陸軍大演習
①明治35年(1902)11月、熊本での陸軍大演習が催され、その際、 明治天皇が、田原坂を通御せられた折の御製
【 もののふの 攻めたたかひし 田原坂 松も老木と なりにけるかな 】
この御製を、お召し列車に陪乗した乃木に下賜になった。
②老い松にたとえられた乃木の心情は、さぞかし複雑であったであろう。 恐懼(きょうく)感激する一方で、悲しさもあったかもしれない。
・・・・西南の役において
田原坂の戦いで乃木少将は不運にも薩軍に御旗をとられてしまった。 このことを乃木は生涯悔やんでいたという。
天皇御自ら下賜されたる軍旗は、乃木にとっては身命を賭しても守り通さねば ならないものだった。乃木は狂わんばかりに悶えた。そして、死のうと思った。
いや、死に所を求めるが如く、白刃をふるって吶喊(とつかん)し、田原坂などで 白兵戦を展開し続けたが死ねず、恥辱に塗(まみ)れたまま生き長らえてしまった。
しかし、微々たる一佐官の乃木がこのように行動したことで、 ―― それほどまでの忠臣がいるのか。 と、明治天皇の知るところになったのだから、運命というものは何とも数奇である。
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翻って明治天皇にしてみれば、それだけ乃木と人生を共にしてきたのだという 感慨に包まれておられたのだろう。
老いてもなお忠義の臣たる乃木を、明治天皇が愛されている証のような御製といえるが、 2年後、乃木は老骨を鞭打って出征し、満州の野を夥しい血で染め尽くさねばならなく なった。
(2)日露戦争
①明治37年(1904)、旅順攻略戦で、多くの犠牲を出した。 明治天皇が「乃木を替えてはならぬ」と宣ったのが、この折である。
・・・以下は、スレッド「明治天皇のご存在なくして日露戦争の勝利なし! (4975) 」 から一部を転載。 http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=1046
日露戦争における最大の激戦は旅順攻囲戦であった。 ロシアはここに難攻不落の世界一の要塞を築いていた。 日本側はそれがわからず余りにも過少な戦力で攻めたから難戦に陥り莫大な犠牲を出した。
しかし国民はそうした事情がわからないから、旅順を攻めた第3軍司令官乃木希典を 無能として非難した。軍内においてもそれが高まり参謀総長山県有朋は、ついに 乃木交代を決意、明治天皇に伺いを立てる。
すると、「乃木をかえたら乃木は生きておらぬぞ」とただ一言いわれた。 天皇は陸軍将帥中乃木を最も高く評価していた。
その乃木がかくも苦戦する以上、他のいかなる者がやってもうまくゆくはずがない。 いや失敗する。第3軍将兵は乃木の統率のもとにあらゆる困難に屈せず士気と団結を 堅持し死力を尽している。乃木だからここまでやれる。
責任感の強い乃木は、交代したなら多くの部下を犠牲にした責任を取り必ず切腹する。 乃木の如き稀有の良将を殺してよいのかと言いたかったのである。 山県は恐懼して引下った。
乃木は明治天皇のこの上なきご信任に涙をふるい万難を排し、二人の息子を失いながら 欧米人には到底人間業とは思われなかった万に一つの奇蹟的勝利をなし遂げたのである。
明治天皇の一言がなければ旅順戦の勝利なく日露戦争の勝利はあり得なかった。 旅順戦こそ両国の運命を決する真の決勝戦だったのである。
最後の陸戦奉天会戦は旅順を陥落した乃木軍が加わり、 その一大奮戦により辛うじて勝利しえたのである。
・・・・・
②奉天大会戦を経、凱旋は明治39年(1906)1月14日、 乃木は明治天皇に拝謁を賜り、復命書を伏奏した。
淡々縷々、作戦の経過を述べたが、勇躍死地へ赴いた兵どもの功に及んだ際、 涙に曇った声はついに啜り泣きとなり、半ば跪き嗚咽しつつ、こう結んで上奏を 終えた。
―― 大罪を、陛下に謝し奉らんのみ。
③悲痛ともいうべきこの姿にご軫念(しんねん)された明治天皇は、拝辞して退き 下がらんとする乃木をお呼び止めになった。
この忠臣は、おそらく自決する気であろう。 そう思し召され、ご気色を改めてこう仰せられた。
「卿が割腹して朕に謝せんとの衷情は、朕もよく承知しておる。然れども、今は卿の 死すべき時にあらず。卿が、もしも、強いて死せんとするなら、朕が世を去りたる 後において、せよ」
この優渥(ゆうあく)な勅語に、乃木は再び涙を溢れさせ、顔色蒼然。 びっしりと汗をかき、白鬚に覆われた唇を引き結んだ。 やがてやや前屈みとなりながら御前を拝辞した。
(3)乃木希典、学習院院長就任
①明治天皇は、ご自身の若き日に西郷隆盛や山岡鉄舟などの教導を受けられたように、 やがて皇太子となるべき裕仁親王(明治天皇の皇孫、後の昭和天皇)を忠魂無私の 権化ともいえる乃木に教導させたいという大御心があった。
②次の御製からもご期待のほどが推察されるが、乃木もまたよく応えた。
【 いさをある 人を教(おしえ)の おやにして おほしたてなむ やまとなでしこ】
③―― 実践躬行
学習院の院長として、平日は寮生と共に過ごした。
④明治45年(1912)7月20日、明治天皇ご重患の発表があり、驚愕した乃木は、 以後毎日朝昼晩と参内し続け、ご容態を伺った。だけでなく、ご恢復を祈念して 酒を断ち、食を制限し、鬚も剃らずにいたため、心身は見る間に衰弱した。
だが、乃木の万感の想いを籠めた祈りはもはや通じなかった。
30日、天皇崩御。 明治は、ここに終わりを告げた。
⑤この瞬間、乃木は殉死を覚悟したに違いない。 いや、忠義を全うする時が来たと己を鞭撻したに相違ない。
明治天皇は、乃木にとって国家元首というより、仕えるべき家のたった一人の主だった。 と同時に、乃木を救ってくれた命の恩人でもあった。 乃木が生きてこられたのは取りも直さず、明治天皇のお蔭だった。
⑥しかし、直ぐには追えない。 種々のお役目があった。平行して身辺の整理を進めた。
殉死の前に、願い出て参内し、三皇子(後の昭和天皇とその弟宮)に拝謁、 中でも皇太子(後の昭和天皇)には、自ら肝要な箇所に朱点を入れた愛読書、 山鹿素行の『中朝事実』と『中興鑑言』を奉呈し、こう申し上げた。
―― 今はまだお分かりにならなくとも、将来必ずお役に立つ御本でございます故、 時折、お側の者にお読ませあって、お聴きとりなさいますよう。
明治四十五年九月十三日、明治大帝御大葬のこの日、妻静子夫人とともに自刃。
<感謝合掌 平成24年7月28日 頓首再拝>
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明治天皇崩御
*月刊「歴史街道 8月号」(P73)より
明治45年(1912)7月20日、 明治天皇のご不例(ふれい)が発表され、日本国内は憂色に包まれた。
その報せに乃木希典は驚愕し、明治天皇が可愛がられていた皇孫の迪宮(みちのみや) <後の昭和天皇>も、急ぎ葉山御用邸から戻られたが、十分なご対面は叶わなかった。
そして7月30日夜、 すでに就寝されていた迪宮(みちのみや)が突然「おじじさま」と叫ばれた。 驚いたお付の者が声をかけた直後、廊下から「皇孫様、すぐにご案内を」とお迎えが来た。
まさにその瞬間、明治天皇は崩御されていたのである。 「迪宮様に、お会いにいらしたに違いない」 居合わせた者は皆、声をつまらせたいう。
また同じ時刻、愛犬「六号(ろくごう)」が明治天皇のお部屋に向かい、 異様な泣き声をあげた。六号にも崩御がわかったのである。
・・・・ご愛犬 ~ 月刊「歴史街道 8月号」(P58)より
明治天皇は、動物では馬に次いで犬を大変可愛がられた。 ご寵愛の犬は「花号(はなごう)」と「六号」という二匹で、 お食事で牛乳を召し上がる明治天皇のお膝元にやってきて、 お裾分けを頂戴するのが常であった。
食欲がない時でも、明治天皇から下された物だけは必ず頂戴したという。
また、夜の9時になると女官にお預けになるが、その退出時間もよく知っていて、 刻限になると自ら明治天皇にご挨拶をしてスタスタと退出していったという 賢い犬であった。
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常に国と民の安寧を願い、「不易流行」と「まことの心」を大切にされた明治天皇。
最後の御製は、次のものである。
【 なすことの なくて終らば 世に長き よはひをたもつ かひやなからむ 】
無為に一生を終わるのならば、長生きする甲斐はないと。 日々たゆむことなく力を尽くすことの大切さを詠まれていた。
そこには国民と一緒になって明治天皇ご自身もお力を尽くし、 ともに良い国を目指そうという、温かな御心が込められている。
<感謝合掌 平成24年7月30日 頓首再拝>
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明治天皇のご足跡
*月刊「歴史街道 8月号」(P21)より
年号 西暦 御歳 出来事
嘉永5 1852 1 9月22日に中山忠能邸にてご降誕 嘉永6 1853 2 ペリーが浦賀に来航
万延1 1860 9 祐宮(さちのみや)、儲君となる。立親王宣下、御名睦仁を賜る。 元治1 1864 13 禁門の変
慶応2 1866 15 孝明天皇崩御 慶応3 1867 16 睦仁親王践祚。大政奉還。王政復古の大号令渙発
明治1 1868 17 明治天皇ご元服。五箇条の御誓文発布。即位の大礼。9月8日に明治改元。東京着御 明治2 1869 18 版籍奉還 明治4 1871 20 廃藩置県。宮中改革。岩倉使節団欧米派遣。
明治5 1872 21 近畿・中国・九州巡幸。 明治6 1873 22 習志野演習行幸、皇居炎上、征韓論争で西郷隆盛下野。
明治9 1876 25 奥羽巡幸。神風連・秋月・萩の乱。 明治10 1877 26 西南戦争、第1回国内勧業博覧会行幸啓。 明治11 1878 27 大久保利通暗殺される。北陸・東海巡幸。
明治12 1879 28 米国前大統領グラントと浜離宮にてご対談。明宮嘉仁親王(大正天皇)ご降誕。 明治13 1880 29 山梨・三重・京都巡幸。 明治14 1881 30 山形・秋田・北海道巡幸。明治14年の政変。国会開設の詔渙発。
明治15 1882 31 軍人勅諭下賜。憲法制度調査のため伊藤博文渡欧。
明治18 1885 34 山陽道巡幸。内閣制度制定。
明治20 1887 36 藤波言忠からシュタインの憲法学の進講をお受けになる。 明治21 1888 37 枢密院憲法会議。新皇居(明治宮殿)落成。 明治22 1889 38 大日本帝国憲法発布。 明治23 1890 39 第1回衆議院選挙施行。教育勅語渙発。帝国議会開院式臨御。
明治24 1891 40 大津事件で露国皇太子お見舞、京都行幸。
明治27 1894 43 日清戦争。広島大本営にて軍務親裁。 明治28 1895 44 日清講和条約締結。三国干渉。
明治34 1901 50 迪宮裕仁親王(昭和天皇)ご降誕。
明治37 1904 53 日露戦争。 明治38 1905 54 日露講和条約締結。 明治39 1906 55 英国国王よりガーター勲章ご受章。
明治41 1908 57 戊申詔書渙発
明治45 1912 61 7月30日崩御。皇太子嘉仁親王践祚。大正元年。 9月13日青山葬場にてご大葬。同日乃木希典殉死。
<感謝合掌 平成24年7月31日 頓首再拝>
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