「世尊拈華と日本国憲法の在り方」~谷口雅春先生 (36) |
- 日時:2017年02月16日 (木) 12時46分
名前:伝統
昭和42年3月14日に東京・日本青年館で行われた 憲法問題講演会に於ける御講話の草稿より。 (「理想世界」昭和42年5月号に掲載されたものです)
「世尊拈華と日本国憲法の在り方」 谷口雅春
《一切の存在はコトバにて成る》
聖書の“ヨハネ伝”の冒頭に「太初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき。 万のものこれに由りて成り、成りたる物に一つとしてこれによらで成らざるものなし、 これに生命あり、この生命は人の光なりき。」と録されております。
すべてのものは言によって成ったというのがキリスト教の宇宙創造説であります。
「万のもの之に由りて成り」とありますが、この事物が生成することを「成る」と 日本語で申しますのも、実は、「成る」と「鳴る」とは同一語源でありまして、 凡て事物の本質は、言でありますから、鳴りひびくのであります。
このことは旧約聖書の創世記の冒頭に、
「元始に神、天地を創造りたまえり、 地は定形なく曠空(むな)しくして黒暗淵(やみわだ)の面にあり。 神の霊、水の面を覆いたりき、神、光あれと言いたまいければ光ありき・・・・・」
とあるのに照合するのであります。
神が天地を創造りたまうたのは「光あれと言い給うた」ときに 光があらわれ、次々と、神のコトバによって万物が生じたのであります。
神はコトバによって万物を造ったといいますと、 神とコトバとは別々のものであって、 神がコトバという道具によって万物を創造られたように思い違いしがちでありますけれど、
ヨハネ伝にありますように、「コトバは神と偕にあり、コトバは神なりき」でありまして、 “コトバ”と“神”とは本来不可分の一体なのであります。
日本の古代の言語では、神のことを命と申しました。 「みこと」というのは“御言”即ちコトバということであります。 「みこと」の“み”は“御”という字で美称であります。
すべての物の本質はコトバである
すべてのものは、外面から眺めますと、物質のように見えますけれども、 その本質はコトバであります。
それを日本人は古来ちゃんと、潜在意識にそれを悟っておりましたので、 この「湯呑」を指しても、「これは“湯呑”というものである」といいます。
またこの「書物」を指しても、 「これは本というもの、書物というものである」といいます。
そのほか何を指しても、「これは人間というもの」、 「これは動物というもの」__などというのであります。
「これは物質だ」といい切らないで「これは物質というものだ」と吾々がいうのは、 すべてのものは、それは物質に見えても、実は「言うもの」なのだ、 「コトバ」の具体的表現なのだ、本質はコトバなんだと知っているからなのであります。
《日本国の本質は天照大御神の神勅である》
私がこんな話をいたしますのは、実は日本国家の本質について 皆さんの御理解を得たいからなのであります。
日本国は誰が何を如何にして創造されたかという問題であります。
日本国がどのようにして出来たかと申しますと、
『日本書紀』には、天照大神の勅によりまして、
「豊葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂の国は、是れ吾が子孫(うみのこ)の 王(きみ)たるべき地なり。宜しく爾皇孫(いましすめみま)就(ゆ)いて 治(しら)せ、行矣(さきくませ)。宝祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさんこと、 まさに天壌(あめつち)とともに窮(きわま)りなかるべし。」
と録されているのであります。
天照大御神の「天」とは天球即ち宇宙でありまして、 天照大御神とは宇宙の大神であらせられます。
大神が出現せられた時の有様を『日本書紀』には 「光華明彩六合照徹(ひかりうるわしくりくごうにてりとおらせり)」と
書かれており、宇宙全体にその光明がうるわしく照り徹っている有様が 形容されているのであります。
《日本の本当の建国は何時か》 日本国の建国はいつの時代かという問題は建国記念日制定以前から色々の説があり、 建国記念日制定後にも尾を引いている問題でありますが、コトバが神であり、 神はコトバと偕にあり、一切のものはコトバによって生じたという哲学から申しますと、
日本の建国は、宇宙の大神にまします天照大御神が 「豊葦原の瑞穂の国は世々吾が子孫の王(きみ)たるべき国なり」と
コトバによって宣言された時に日本国は「神のコトバの世界」 即ち「理念の世界」に於いて成立したのであります。
《理念とは如何なるものか》
もっとも「理念」というものは、コトバ即ち「神の生命の知的表現としての振動」 即ち神の心の中に想い浮かべられた“形相”でありますから、 それは物質的形相ではありません。
従って縦横厚みの三次元的な空間的大小のひろがりをもっていません。 すなわち物質的な形や大きさを抽(ぬ)きにした超空間的な純粋な形相であります。
だから、その理念が現象面に投影して来る場合には、 大にも小にも顕われて来るのであります。
天照大御神が天孫降臨の神勅に於いて仰せられた「豊葦原の瑞穂の国」というのも 色いろの解釈がありますが、これは大には現象宇宙ぜんたいを顕しており、 国家的には日本国を表現しており、極微の世界に於いては物質原子の構成を あらわしていると見ることができます。
というのは、瑞穂の国というのはこれを哲学的に解釈しますと水火国(みずほのくに)と いうことになります。
“水”は陰の象徴であり、“火”は陽の象徴であります。水火国であります。 陰陽の組み合わせによる結合によって出現したものはすべて、 大小に拘らず水火国であります。
大は太陽系統から、小は物質原子に到るまで、すべて水火国であります。
国家も家庭もすべて陰陽結合によって成り立つ水火国であります。
《瑞穂の国の根本構図について》
その水火国が如何なる形相をもつべきか、換言すればいかなる構造であるべきかの、 根本構図として示されたのが、
「世々わが子孫の王たるべき地(くに)なり」というコトバであります。
これは、この根本構図は、一切の存在は、 「世々変らざる即ち永久不変の中心をもつべきものである」という意味であります。
これが宇宙の大神たる天照大御神の御宣言なのであります。
それは宇宙の大神の御宣言でありますから、宇宙の万物すべてのものに あらわれている存在の根本構図の原理であります。
だから吾々が知っている最も小さな存在になる”原子”も、 原子核という永久変らざる中心をもっているのであります。
原子が原子としての存在を保っているのは、 原子核という「永久変らざる中心」があるからである。
原子核を中性子で攻撃して、核を破壊してしまえば、 もうその原子は爆発して飛んでしまって存在しなくなります。
太陽系統も、太陽というその系統の「永久変らざる中心」があるのでその存在を 保っているのであって、何らかの原因で太陽が爆発して飛んでしまったり、 消えてしまったら、太陽系をめぐる天体は、中心を失って存在しなくなくなる。
無論、地球は単なる“死天体”として冷却して、 一切の生物は存在し得なくなります。
家庭も、家長たる父または良人がその家庭から姿を消すと、 従来の安泰平和な状態を失って、家族が四分五裂してしまう。
国家も日本天皇の如き万世一系の変らざる中心が無くなってしまえば四分五裂して、 ソ連や中共の革命当時のような混乱状態が起こるのは必然であります。
そしてその混乱は一時的ではなく、絶えず強者が弱者を倒して易姓革命が起こり、 王朝が変り、インドネシアのような状態や、中共の近衛兵旋風に類するものが 起こって存在の安定が失われてしまうのであります。
このようにすべての存在は、永久変らざる中心を持つことによって、 その存在を維持しているのであります。
ところが現行の憲法では、国家の中心である天皇制を象徴にして半ば破壊し、 “家”の制度を根本的に破壊した。
家長とか戸主とかいうものはなくて唯夫婦、単に陰陽がただ集まっているのが 家庭であって、中心というものはない。
恰度それは分子を滅茶苦茶に集合さしただけであるから、 親の言うことをきく必要もなければ、親孝行する義務もない。
夫に操をつくすという要請もない。 ほかに好きな男が出来たら離婚するのは自由だというようにできている。
中心のない家族雑居は、もう既に「家」ではないのであって、 それはただの下宿人の集まりである。
太陽を失った遊星のようにみんな冷えつつある。
《速やかに明治憲法復元の必要に迫られている》
そして国民は下宿人の集まりみたいに、テンデンばらばらに国民が自分の 利己主義で勝手に行動したらよい、祖先伝来の家の財産でも家族がバラバラに分解して 持って行ったらよい。家なんか存在しないのだ、というように 定められているのが現行の憲法であります。
国家としては、また天皇が「国民統合の象徴」として、「統合の中心体」として 現行憲法に存在しておりますので、日本国はこのような安泰と繁栄の状態を 続けておりますけれども、
この天皇の地位は現行憲法そのままで、国民の総意によっていつでも改憲できるように 規定してありますから、社会主義や共産主義系の政権が樹立され、 そういう革新系の代議士の議席が三分の二を超えるようになると、 その三分の二以上の発議が「国民の総意」とみとめられて、 天皇制廃止の社会主義憲法が新たに制定される惧れがあるのであります。
しかも社会党は安保条約の期限を画する昭和四十五年を期して日本に革命政権を 樹立するといっているのですから、そういうことにならないように現行の憲法が 本当の憲法ではなく、占領下に日本を弱体化する政策上押しつけられた“ 占領行政基本法”であることを明らかにして、占領終了と同時に失効せるものであり、 その失効と同時に、明治憲法がそのまま生きているということを宣言すべきなのであります。
つまり、国家にも永久かわらざる中心が万世一系の天皇の形によって持続する ことによって、一切の存在が「永久変らざる中心を持つ」という天意の実現せる 唯一の国家が日本国家であって、
若し、この日本国家に天皇がなくなれば、 すべての存在は永久変らざる中心があるという神の宇宙創造の基本形態が 国家だけに当てはまらず破壊されることになります。
今こそ吾々は神意を実現せる真理国家こそ日本国家であるいう日本国家独特の 神聖性を明らかにするために明治憲法復元に踏み切るべき時であります。
こう申しますと、私のいうことは非常にナショナリズム的に他から観られる かも知れませんが、海外の書籍などにも生長の家はナショナリズムにつながる というような紹介記事を書いたものもありますが、
世界的に組織をもち生き生きと活動しているアメリカの新しいキリスト教 リリジャス・サイエンスの理事長であるウィリアム・ホルナディ博士が 数年前見えたときに、その事について質問せられたことがあります。
その時に私はこう答えたのであります。 「イエスの教えた模範的祈りの”主の祈り”に於いて“天にまします吾らの父よ、 御名をあがめしめ給え、御国を来たらしめ給え、御心の天に成るが如く地にも 成らしめ給え”と祈るように教えられているのであるが、天には唯一つの 永久変わらざる神がいらっしゃって、すべてのものがその唯一つの神の御心に 帰一しているのでありましょう。
そうすれば、天にそのように御心の成るが如く地にも成るとすれば、 その御心が地上に成り、その御心が国家にあらわれるならば、 永久変らざる中心が国家にも成就しなければならない。
そのような永久変らざる中心である万世一系の天皇をもつ国は日本だけであって、 国家として最も神意にかなう形態を整えているのが日本国家である」
と申し上げたのであります。
すると、ホルナディ博士は大いに頷いて賛成の意を表されたのあります。
だから、古事記・日本書紀等の示すところの天皇中心国家というものは キリスト教の示す世界観又は国家理想とも完全に一致するものであります。
これをナショナリズムだ軍国主義だとキリスト教側から反対されるのは、 理屈に合わないのであります。
《釈尊の教えも唯一の中心に帰一する国家を示された》
佛教に於きましても、天皇中心国家なるものは釈尊の教え又は 釈尊の宗教的悟りの理想であったのであります。
「世尊拈華と日本国の憲法」という題で私は話すことになっているのでありますが、 「世尊拈華」というのは、あの禅宗の聖典である『無門関』という本の 公案の第六則であります。
それには斯う書かれてあります。
「世尊、昔、霊山会上に在って、花を拈じて衆に示す。是の時衆皆黙然たり。 唯迦葉尊者のみ破顔微笑す。
世尊曰く、吾れに正法眼藏、涅槃妙心、実相無相、微妙の法門あり、 不立文字、教別別伝、摩訶迦葉に付嘱す。」
この公案の出典はどこにあるか。釈尊がこのようなことをせられたという 事実物語のようなものは大蔵経の中には収録せられていないで、特殊な 「大梵天王問仏決疑経」という経に詳しくその事実が記載されているのであります。
大蔵経にそれが収録せられていないのは、伝えられている所によると、 この経は帝王経として、帝王の読むべき秘蔵の経であるから、 一般の大蔵経には収められていないのだということであります。
その「大梵天王問仏決疑経」にはこのように書かれているのである。
(*伝統註・「大梵天王問仏決疑経」 http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0281-004101 )
「爾(そ)の時、大梵天王葉即ち若干の眷族を引き来り、世尊に金波羅華を献じ 奉り、各々仏足を頂礼し、退いて一面に坐す。爾(そ)の時、世尊即ち献じ奉れる 金色の波羅華を拈じ、目を瞬き、眉を揚げて諸々の大衆に示す・・・・・」
この波羅華というのが、 “高天原”即ち実相世界の構図を象徴的に示すところの華なのであります。
“波羅“というのは梵語で、”彼岸”という意味であります。 現象世界のことを”此方の岸“即ち”此岸“と申しますが、実相世界のことを、 現象の此方の世界から見て”彼岸“と申します。
「彼岸に到る』即ち「実相の悟り」に到達することを “到彼岸”即ち“波羅蜜”と申します。
実相の悟りに至る六つの道を”六波羅蜜”と申すことは 皆さん既に御存知の通りであります。
このように”波羅”という語は ”彼岸”即ち”実相世界“をあらわしているのであります。
この実相世界のことを、キリスト教では”天”とか”天国”とか申します。
神道では高天原と言うのであります。
その実相世界の構図の通りに、現象世界が成ることを、 「みこころの天に成るが如く地にもなる」というのであります。
《蓮華の花構造は何を象徴するか》
さて、みこころの天に成れる相(すがた)は、この金色の波羅華 ―― 即ち蓮華の花のような中心にハチスといって“ス”がある世界である。
まだ、みこころが“天”(実相)だけに成っていて、“地”(現象世界)には まだ完全にその通りに成っていない現在に於いては、天界の構図を肉眼で示す訳には まいりませんが、お釈迦さんは蓮華の花を、その象徴として示されたのであります。
「宇宙の実相は、空ではないぞ、この通りに実(じつ)のある。」と示されたのです。
蓮華の花は、花が開いたときに既に中心に“実”即ち”実(じつ)“がある。 その実相から現象世界が花びらのように展開しているのがこの世界である。
その実相は金剛不壊であって不動である。 その表面にあらわれている現象だけが波のように常に変化している。
それで仏教では、この世界を“蓮華蔵世界海”と称して、 “海”に喩えたのであります。
蓮華蔵世界海という語は華厳経にある語でありますが、蓮華の如く、 中心に“ス”をもつ中心帰一の荘厳な相(すがた)を内に蔵する世界であるが、 海の表面の波の如く現象には有為転変の相があらわれているのであるというのが、 “蓮華蔵世界海”の意味であります。
《釈尊出興の最大目的は? 》
釈尊が此の世に出興せられた最大の目的は宇宙の実相、蓮華の花びらの如く、 中心に巣(統・枢)があって、万象悉くその巣より出て巣に還る ―― 即ち宇宙の実相は中心に”ス“即ちスメラミコトが在(ましま)して万象悉く それより発し それに還る ――その実相を説き明かさんがために出興せられたのが 釈尊がこの世に出興された目的であり使命であると私は思うのであります。
何故かというと、釈尊が六年苦行の後、山を降って、尼連禅河の畔の菩提樹の下で 静座瞑想してサトリを開かれて、第二十七日にはじめて、その悟った真理を、 何の方便もなくそのまま説教せられたのが華厳経であるからであります。
この華厳経の題目は、詳しく謂えば“大方広仏華厳経”でありまして、 このお経の題目を解釈すれば、“大方広仏”即ち凡ゆる方角に無限に広がっている 如来が大方広仏出あり、その普遍的如来の生命の展開が大宇宙であり、 その構図は蓮華の如く中心に“ス”があって、万物悉くその“ス”より発し 底へ還って行くというのであります。
ところが釈尊が大方広仏華厳経をお説きになって、この宇宙に内在する実在の 構図を示されたけれども、普賢菩薩ひとりだけその真意がわかっただけで、 他の聴衆にはその真意がわからなかった。
そこで釈尊はこの華厳経を竜宮へ秘めて置いて、道徳修養を主とするような 阿含経のようなお経をお説きになっていて、 その後は久しく宇宙構図の真実を顕さなかったのであります。
大方広仏華厳経が竜宮に秘められていたということには、 深い象徴的意義があるのであります。
竜宮というのは、あの浦島太郎の神話で御存知の竜宮であります。
竜宮とは浜の砂を掘って、三池炭鉱のように深く深く海の底へ沈んで往ったら、 そこが竜宮というようなお伽話ではないのであります。
竜宮とは海の底であります。 一切のものを「生み出す根底」の世界「生みの底」のことであります。 換言すれば創造の本源世界のことであります。
創造の本源世界は、時間空間以前の世界でありますから、超時間の世界です。
だから浦島太郎が竜宮海に往っていた間は年齢が寄らなかったという神話に なっているのであります。
そこには沢山の乙姫が住んでいました。
創造の本源世界に沢山の乙姫が住んでいるというのは、どういうことかといえば、 乙姫は“音秘め”であります。
”音“とはコトバでありまして、この講話の冒頭で申しましたように、 創造はコトバで行なわれるのでありまして、それは秘められたる創造の力であるから、 ”音秘め“であります。
そして、そのコトバの数は創造の数と等しく無限であります。
仏教学者の伝える処によりますと、本当の華厳経は文字に書いたお経ではなく、 宇宙の創造の本源世界に鳴りひびいている真理のコトバそのものであります。
釈尊が其の真理のコトバをお説きになりましたのが華厳経であります。
その華厳経が普賢菩薩にしかその真の意味がわからなかったというのは、 普賢というのは、宇宙普遍の叡智であります。
その叡智を出して来なければ華厳経の意味は分からないということであります。
さて、その宇宙普遍の叡智に導かれて解釈してみますと、竜宮海即ち、 「生みの底」(創造の本源世界)には無限の音姫即ち「秘められたる実相のコトバ」 が満ち満ちているのであります。
その創造の本源に秘められてある真理のコトバそのものが華厳経でありますから、 華厳経を読むには神通力によって竜宮へ降りて行かねばなりません。
そこへ降りて往って華厳経を読んで来たのが竜樹菩薩であります。
《竜樹菩薩とは如何なる人か》
竜樹菩薩という人の伝記はいろいろありますが、大体、釈迦が入滅せられてから 大凡そ二百年後に生まれて寿命七百歳を保って神通自在の人だったと 言い伝えられています。
神話中の人物で、ハッキリとはわかりません。 従ってその行動も象徴的に解釈しなければなりません。
幼きころ四歳にしてヴェダの経典を全部読破した。
その後、地上にあるあらゆる仏典を読破したけれども、 大乗の仏典が見当たらないというので神通力で竜宮へ降りて往った。
そして、そこに秘められている大乗の真理の経典“華厳経”を読破した というのであります。
つまり是は、創造の本源世界にある「実在の構図」即ち「実相世界の構成」 換言すれば「み心の天に成る世界構図」の秘密を読破したというのであります。
その華厳経のコトバの数は、その上本には十三千大千世微塵数(じゅ)あり、 中本には四十九万八千八百偈(げ)あり、地上に持ち来たって、 現今、文字の形で伝わっているのは下本だといわれております。
下本とは簡略本のことでありましてその上本即ち本当の華厳経のコトバは 十三千大千世微塵数というのは大千とは千の自乗であります。
千の自乗を十三千倍した数だけの世界を擦りつぶしてメリケン粉のように 微塵にした、その微塵の数だけのコトバの数があるというのですから、 これは大宇宙そのもののコトバの数でありまして、大宇宙の実相そのものの コトバの展開そのものが華厳経なのであります。
《華厳経にあらわれた実相の構図》
竜樹菩薩が竜宮海に降りて往って実相の構図を見て来た処によりますと、 このコトバの姿はどのように実在世界で展開していたかというと、蓮華荘厳の姿に 展開していて、その中央の蓮華の花の“ス”の中心に毘廬遮那如来 (訳して大日如来、日本的に翻訳すれば天照大御神)がましまして、
この全法界はこの如来身の顕現であると、 華厳経の浄眼品(じょうがんぽん)には書かれております。
そしてその如来身はあらゆる顕現の世界に重現せられて真理の説法をしておられる ―― この説法しておられるということは、 宇宙に満つる創造のコトバそのものであるということを意味しております。
そしてこの蓮華蔵世界海の周辺には八つの金剛囲山(いせん)に取り囲まれている 中心には“大日如来”即ち天照大御神の宝座があって、それによって 宇宙の存在が支えられているのであり、
そこから一切の真理のコトバが発生し、能く明らかに一切の世界を照らしいる ということを華厳経の廬遮那仏品には次の如く書かれているのであります。
「仏子よ、当に知るべし、此の蓮華蔵世界海の、金剛囲山は 蓮華日宝王地に依りて住せり。
彼に一切の香水海あり、一切の衆宝あまねく其の地に布き、金剛の厚地にして 破壊(はえ)すべからず、一切の衆法を出生し、又能く明らかに一切の世界を 照らせり。」
これは全く、日本書紀に、天照大御神が御出誕になった時に、 “光華明彩・六合照徹”(ひかりうるわしくりくごうに てりとおらせり)、 全宇宙に天照大御神の御徳が照り徹っている有様を形容しているのと 符節を合わしているのであります。
兎も角、釈尊は、その悟りをひらいて宇宙の真理を自覚なさった真理の発表の 第一声である華厳経に於いて、宇宙の実相は中心座に永遠変わらざるスメラミコト・ 天照大御神・大日如来がましますことをお説きになり、一切の真理のコトバは そこから出生して全宇宙を照らしていることをお説きになった。
だから、これをお説きになることが釈尊がこの世に出られた 最大の目的であり、使命であったといって好いのであります。
《世尊拈華の意義について》
こういう華厳経が釈迦成道の第一声であって、それを理解する者が普賢菩薩の ほかに誰もなかったので、久しく竜宮海 なる創造の本源世界にそのまま この真理は沈められていたのでありますが、梵天王が偶々釈尊の説教会にのぞんで、
金波羅華を釈尊に献上して「これについて衆生のために説法して下さい」と 言うものだから、金波羅華を大衆に示して
「ここに宇宙の実相がある」と、その象徴を悟れと仰せられたのであります。
再説いたしますと、釈尊は、悟りをひらかれてから、 宇宙の実相が蓮華荘厳の姿を内蔵する蓮華蔵世界海であると説いて その第一声を挙げられたにも関らず、それを理解する者がないので、
阿含経のような修養説教から説きすすんで、修養の根本となる欲望の否定を 説くために、一切現象の空を説く般若部のお経を説いて 「五蘊皆空・無限耳鼻舌身意」と一切を否定し切られた。
ところが般若部のお経によって、釈尊は一切を否定し、否定し切られた末に、 いくら否定しても否定し切れない”実相“があることを 釈尊は法華部のお経に於いてお説きになったのであります。
まず当時八十幾歳の老いぼれている現象の「肉体の自分」は「本来無い」のであって、 五百塵点劫以前よりも尚更に百千万億阿僧祇劫以前から存在する久遠実成の如来 である実相のみが独在するのであるとお説きになり、
「衆生劫尽きて、大火に焼かるると見る時も、 我が此土は安穏にして天人常に充満せり」
とお説きになって、焼け尽きる現象世界の奥に、 永遠に焼けないくだけない実相世界がある。
そして、その実相世界は、やがてくだける現象世界よりも、 一層確実な具体的な世界であるとして、その光景を描写して、
園林諸々の堂閣、種々の宝もて荘厳せり 宝樹華果多くして、衆生の遊楽する所なり
諸天、天鼓を撃ちて、常に衆(もろもろ)の伎楽を作し 曼陀羅華を雨ふらして、仏及び大衆(だいしゅ)に散ず
我が浄土は毀(やぶ)れざるに、而も衆は焼け尽きて 憂怖諸々の苦悩、是の如き悉く充満せりと見る。
《妙法蓮華経の題目の意義について》
このように釈尊は実相は“空”にあらず、そんな“有耶無耶”ハッキリしない ところの夢幻的存在でもなく、実にハッキリとした具体的な存在であると お説きになった。
この真理をお説きになったお経が妙法蓮華経と名づけられているのは、 この世界の実相は、妙法即ち妙なる法によって成り立っている世界であって、 その法は蓮華の花びらのように、中心に巣があって一切のコトバが 中心のスメラミコトに中心帰一している世界だという真理を、 文底秘沈の真理として表現しているのであります。
私たちが、「南無妙法蓮華経」ととなえて有りがたいのは、 それは単にお経のお題目だからではない。
「宇宙の実相は妙法蓮華の相(すがた)である。 その中心にスメラミコトがましますのです。それが実相です。 その実相に、私たちの命を帰一します。 その実相と、私の生命は一体でございます」
という意味の誦(とな)え言であるから、 「南無妙法蓮華経」と誦えることが有りがたいのでございます。
だから或る団体の信者のように、天皇に対して敵意をいだき、やがて天皇制を 廃するための下ごころで、現行憲法を当分の間護持するつもりで護憲側に まわっているような人々が「南無妙法蓮華経」と唱えても、”心“と誦える ”言葉゛とが一致しませんので、決して功徳はないのであります。
蓮の華をもって、”蓮華蔵世界海“即ち大宇宙の象徴とし、その蓮の華の中央に ある”巣“をもってスメラミコト即ち 大日如来・天照大御神が中心座にまします ことの象徴とみとめますのは、一切の存在はコトバによって創造られたのであり (創世記、ヨハネ伝、弘法大師の「声字即実相」)そのコトバ をスベテ統合した一番もとの本元のコトバが、「ス」であるからであります。
万籟寂として現象の音もない寂静の世界に座して耳をすますと、 かすかに現実のひびきではない“スー”の声が感じられます。
これは現象世界のサ行活用の“ス”の声ではないのでありまして、 皆さんが目覚めている時には、耳に聴こえる色々の言葉を発言なさいますが、 それら一切の言葉を内に秘めて静かに眠りに入られたとき、その一切の言葉が
一つに統べ統合せられた声が出る ――それが、“スー、スー”という寝息にあたる声 でありまして、すべての存在の根元であるコトバのすべてが統べられ 統一せられたコトバが”スー“即ち「統べらミコト」でありますから、
中心に蜂の巣のような形の”巣“があるところの蓮の華をもって 天皇が中心座にまします宇宙存在の本来のあり方を象徴するのであります。
そしてその実相世界を蓮華蔵世界と称し、釈尊の成道の第一声から、 世尊拈華の具体的象徴による蓮説法を通じて、更に 仏法の最高峰である 法華経に於いて、宇宙存在の根本のあり方、従って又日本国家の本当のあり方は、
永久変わらざる 万世一系の天皇が、宇宙存在の根本的鎮めとその中心座に あらせられねばならぬことを釈尊はお説きになったのであります。
法華宗だけでなく、浄土宗の各宗に於いても「南無阿弥陀仏と称えると、 極楽浄土の蓮華の台座の上に坐す」と言われているのは、実相の浄土は、 中心にスメラミコトのまします蓮華蔵世界であるからであります。
ところが、現行の憲法は、日本国家の主権は天皇には無く、単なる象徴であり、 主権の存する国民の総意如何によっては、いつでも天皇を廃し得るように なっているので、宇宙存在の根本的構図に背いている反真理的憲法でありますから、 どうしても、この憲法の非真理を明確にして、釈尊が蓮華経及び法華経及び、 花を拈って具体的に示された天皇中心の明治憲法に復元しなければ、将来、 日本国は非常な混乱状態に陥ることになると思うのであります。
何故なら、実相の真理に背いているものは、一時は栄えるように見えても、 幻の上に築かれた楼閣のようなものであるから崩壊するほかはないからであります。
(おわり)
(http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6882418 より転写)
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