第11章 「實相世界の現象化」 (41) |
- 日時:2018年03月30日 (金) 13時36分
名前:伝統
第11章 「實相世界の現象化」
(1)この世を光明化するための行事~その1
故是(かれここ)に天照大御神見畏(みかしこ)みて、 天石屋戸(あまのいわやど) を閇(た)てて、刺(さ)しこもり坐(ま)しましき。
爾(すなわ)ち高天原(たかあまはら)皆(みな)暗(くら)く、 葦原中國(あしはらのなかつくに)悉(ことごと)に闇(くら)し。 此(これ)に因(よ)りて常夜(とこよ)往(ゆ)く。
是(ここ)に萬神(よろずのかみ)の聲(おとない)は、 狹蝿(さばえ)なす皆(みな)湧(わ)き、 萬(よろず)の妖(わざわい)悉(ことごと)に發(おこ)りき。
是(ここ)を以(も)て八百萬神、天安之河原(あめのやすのかわら)に、 神(かむ)集(つど)い集(つど)いて、 高御産巣日神(たかみむすぎのかみ)の子(みこ) 思金神(おもいかねのかみ)に、思(おも)わしめて、
常世(とこよ)の長鳴鳥(ながなきどり)を集(つど)えて、鳴(な)かしめて、 天安之河(あめのやすのかわ)河上(かわら)の天堅石(あめのかたしわ)を 取り、天金山(あめのかなやま)の鐵(かね)を取りて、 鍛人天津麻羅(かぬちあまつまうら)を求(ま)ぎて、
伊斯許理度賣命(いしこりどめのみこと)に科(おお)せて、鏡(かがみ)を 作(つく)らしめ、玉祖命(たまのやのみこと)に科(おお)せて、 八尺勾たまの五百津(いほつ)の御(み)みすまるの珠(たま)を作らしめて、
天兒屋命(あめのこやねのみこと)布刀玉命(ふとたまのみこと)を 召(よ)びて、天香山の眞男鹿(まおしか)の肩(かた)を内拔(うつぬき)に 拔(ぬ)きて、天香山の天之波波迦(あめのははか)を取りて、 占合(うら)えまかなわしめて、
天香山の五百津眞賢木(いほつまさかき)を、根(ね)こじにこじて、 上枝(ほつえ)に、 八尺勾たまの五百津(いほつ)の御(み)すまるの玉(たま)を取り著(つ)け、 中枝(なかつえ)に、八咫鏡(やたかがみ)を取り著け、下枝(しずえ)に、 白丹寸手(しろにぎて)青丹寸手(あおにぎて)を取り垂(し)でて、
此の種種(くさぐさ)の物(もの)は、布刀玉命(ふとたまのみこと)、 布刀御幣(ふとみてぐら)を取り持たして、天兒屋命(あめのこやねのみこと)、 布刀詔戸言(ふとのりとごと)祷(ね)ぎ白(もう)して、
天手力男神(あめのたぢからおのかみ)、 戸(みと)の掖(わき)に隱(かく)り立たして、 天宇受賣命(あめのうずめのみこと)、 天香山の天之日影(あめのひかげ)を手次(たすき)に繋(か)けて、 天之眞拆(あめのますき)を鬘(かずら)と爲(し)て、
天香山の小竹葉(おさば)を手草(たぐさ)に結(ゆ)いて、 天之石屋戸(いわやど)に汗氣伏(うけふ)せて、蹈(ふ)みとどろこし、 神懸(かみかが)り爲(し)て、胸乳(むなぢ)を掛(か)き出(い)で、 裳緒(もひも)をほとに忍(お)し垂(た)れき、 爾(かれ)高天原(たかあまはら)動(ゆす)りて、 八百萬神共(とも)に咲(わら)いき。
(天石屋戸<あまのいわやど>の段<くだり>)
須佐之男命の乱行により、時間の順序を司る天斑馬(あめのふちこま)が逆回転して、 昼が夜になってしまった。 即ち明るかるべきこの世界が暗くなってしまったのであります。
すると、高天原も暗く見えるし、葦原中國(あしはらのなかつくに)も ことごとく暗く見えるようになったのであります。
高天原は実相世界ですから永久に暗くなることはないのですが、 見る人の心の秩序が顛倒して心が暗くなれば、 どんなに光明遍照の實相世界でも暗く見えます。
それは悟りをひらいた人には、この世界は「唯心所現の世界」即ち心の想いが 展開した世界だとわかりますが、悟りのひらいていない人には、 この世界が物質の塊の暗黒世界だと見えるようなものです。
高天原は實相世界(生命の世界)であり、 夜見国(よみのくに)は暗(やみ)の国(無の国・暗は”光の無”であって 積極的存在ではない)であり、黄泉国(よもつくに)とも称(い)われて、 死の国であります。
「生命の世界」が「無の国」にはたらきかけて、 その中間にできた現象界が葦原中國であります。 葦(あし<悪>)とも蘆(よし<善>)とも称する青人草(人間)の 生(お)うる世界で、善悪混淆の現象世界が葦原中國であります。
それが心の持ち方が顛倒して”悪(あ)し”の面ばかりがあらわれるようになり、 喧々囂々として、あたかも安保反対闘争時の国会内外の乱闘さわぎにも似た状態が あらわれて、所狭きまでむらがる蠅(はい)がブンブンと湧き立つような大騒ぎで いろいろの妖(わざわい)が無数に起こって来たというのであります。
そこでこの乱闘騒ぎを如何にして取り鎮めようかというので、 天安之河原に、神々が集って神廷(しんてい)会議が催されるということになり、 高御産巣日神(たかみむすぎのかみ)の 子(みこ)・思金神(おもいかねのかみ) が、その神廷会議の議長として八百萬神を招集せられたのであります。
(『日本書紀』ではこの神は思兼神とあります。あらゆる問題をすべて”兼ね備えて” 思いをめぐらす叡智の神であります。
『古事記』に高御産巣日神は伊邪那岐命とあらわれていられることを観れば、 高御産巣日神の御子・思金神は、伊邪那岐命の御子・住吉大神と あらわれていると見られる。神の系列・順序による神秘を考うべし)
兎も角、思兼神は、住吉大神と同じ系列の神で、 暗黒世界に光明をもちきたす方法を教えたまう神であります。
暗黒世界に光明をもち来たすのには、「常世(とこよ)の長鳴鳥 (ながなきどり)を集(つど)えて、鳴(な)かしめる」ことが必要なのであります。
「常世(とこよ)」は「常夜(とこよ)」のアテ字だという説もありますが、 長鳴鳥というのは、声を長くひっぱる鶏(にわとり)の一種でありますから、 そして鶏は暁を告げるために鳴くのでありますから、 「常夜(とこよ)の長鳴鳥(ながなきどり)」では意味をなさないのであります。
だから「常世」はどこまでも「常世」であって、 「常住不変の實相世界」を指すものでなければなりません。
即ち暗黒世界に光明をもちきたすには、常住不変の實相世界の真理を 長鳴鳥のように大いなる喇叭(らつぱ)をもって宣(の)べ伝える必要がある というのであります。
その次には伊斯許理度売命(いしこりこめのみこと)に命じて 鏡を作らしめたとあります。 これは現象世界を支配する“心の法則”を鏡をもって象徴したのであります。
イシコリドメは“意識凝止め(いしこりどめ)”であります。
即ち現象世界は“意識”即ち“心”の想いが凝りかたまって一定の形に止められて見える 世界で、心の法則という鏡に照らして自己反省して、自分の心の想いをかえることが 暗黒世界に光明をもち来す道なのであります。
次に『八尺勾玉(やさかのまがたま)の五百津(いほつ)の御(み)すまるの珠(たま)』 というのは、 「弥栄(いやさかえ)の眞輝魂(まがたま)が五百津(たくさん)充ち満ちていて、 それが統(す)べ丸められた大調和の世界」が實相として存在するのだということを ハッキり悟ることが必要だという意昧であります。
この弥栄の大調和(みすまる)の世界は誰につくられたかというと、 玉祖命(たまのやのみこと)即ち、一切の魂の祖(みおや)(根元)なる“本源の神” からつくられたものであって、それが常住不変金剛不壊の實相世界だということを 悟らなければならぬという意昧であります。
次に天香山の眞男鹿(まおしか)の肩の骨を抜いて、 天波波迦(あまのははか)という桜の木を燃やしてその骨を焼いて、 骨のヒビワレの形を見て神意をウラナウということが書いてあります。
これは「俺が、俺が」と肩をいからして闊歩している傲慢な「我の心の骨」を抜いて、 素直な幼児の心になって、神意を受けて神意の通りに実行するということであります。
そうすれば“暗黒の世界”が“光明の世界”に展開するというのであります。
我(が)の心を抜いて素直に神意を実践するのは最も大切でありますが、 それを実践するに当たっては、常に「栄える」ところの明るい積極精神を 身につけて置かなければなりません。
賢木(さかき)は栄氣(さかき)であります。 これが『五百津眞賢木(いほつまさかき)を、根こじにこじて』であります。
實相世界の栄氣(さかき)即ち「栄えの雰囲気」を、 そっくりそのまま現象世界に移植して来るのであります。 それによって暗黒世界に光明が持ち来されるのです。
そして「栄氣(さかき)」の上方の枝には“御統丸(みすまる)の玉”即ち 大調和の魂をとりつけ、中程の枝には自分の心を八方から照らす鏡をとりつけ、
下の枝に白和幣(しろにぎて)、青和幣(あおにぎて)をつけるというのは、 和(にぎ)は荒(あら)に対する言葉で、人に接する場合、 和顔愛語の布でつつんで人と調和することを専らにすることであります。
『白和幣(しろにぎて)』は梶の木の繊維を材料とした布で、 『青和幣(あおにぎて)』は麻を材料とした布だということであります。
次に本尊として布刀御幣(ふとみてぐら)を 布刀玉命(ふとたまのみこと)が取り持ちて捧持するのです。 布刀(ふと)は「太」であって「大生命」を象徴する御幣(ごへい)が ”布刀御幣(ふとみてぐら)”であります。
その御幣(ごへい)を、本尊を祭祀するための象徴(しるし)として樹(た)て 太祝詞すなわち”天津祝詞(あまつのりと)”を高誦(こうしょう)して、 言葉を持って宇宙の不浄(ふじょう)を浄(きよ)めるのです。
善き言葉で祝福して、不浄を浄めることを、 言祷(ことほ)ぐ<賀(ことほ)ぐ>というのであります。
生長の家では聖経『甘露の法雨』を読誦(とくじゅ)するのに当ります。
その次には、天手力男神(あめのたぢからおのかみ)が 天之岩戸(あまのいわど)の脇に立って待ちかまえております。 天手力男神と謂うのは、機会を逃がさず勇気と力とを象徴しております。
岩戸がすこしでも開いたら、その機会をのがさずに断乎として 天照大御神をお引き出ししようと待ち構えているのです。
その次には、日本一の「お多福娘」と謂われている 天宇受賣命(あめのうずめのみこと)が裸おどりをするのでありますが、 裸おどりというのは、人為をまとわないでそのままに動くこと ―― 即ち法爾自然に、神のみこころそのままに行動するということであります。
即ち、何事をなすにも、自分の我の力でするのではない、 それは天(あめ)の御光(みひかり)のお蔭であると、御栄(みさか)えを 神に帰するのが『天之日影(あめのひかげ)を手次(たすき)に繋(か)け』 であります。
そして人間の幸福というものは天から割(さ)き與(は)えられているもの であって、人間自力のハカライではないことを頭に銘ずるのが 『天之眞拆(あめのますき)を鬘(かずら)と爲(し)て』であります。
そうして合掌して神想観をする。 その合掌の姿が「天香山の小竹葉(おさば)を互いに結び 合わした格好をする」という風に書かれているのであります。
そうして合掌して、天之石屋戸(あまのいわやど)の前に坐して神想観して、 心が空っぽのように全然雑念妄想をなくしてしまうのが 『汗氣伏(うけふ)せて』であります。
「汗氣」とあるのは、ただ音標文字として「空桶(うけ)」を表現するために、 その発音を利用したのであります。
自己がなくなり、我執妄想が去りますと、神が来臨せられることになり、 霊媒的な人に於いては霊動が起こることがあります。 我の霊動ではなく無我の霊動であり、自由ダンスが行なわれる、 これが『蹈(ふ)みとどろこし、神懸(かみかが)り爲(し)て、 胸乳(むなぢ)を掛(か)き出(い)で』であります。
そしてほと(陰部)だけには衣装の帯がその上に垂れさがっているというのが 『裳緒(もひも)をほとに忍(お)し垂(た)れき』であります。
この天宇受賣命(あめのうずめのみこと)の自由ダンスを見て、 八百萬の神々はみなともに哄然(こうぜん)と咲(わら)ったというのであります。
以上、天照大御神が天之岩屋戸(あまのいわやど)にお隠れになったために 世界が暗黒化してしまったのを、再びこの世に天照大御神を喚招(かんしょう)し 奉って、この世を光明化するための行事を行なったのでありますが、 その行事をわかりやすくするために要約しますと、大体次のようになります。
一、常世の長鳴鳥(とこよのながなきどり)を啼かす。 (常住不変の實相世界の真理を宣布する)
二、鏡を作りて中枝(なかつえ)に繋(か)ける。 (現象的あらわれを心の鏡として、自己反省して心を改める)
三、弥栄(やさか)の眞輝珠(まがたま)を作りて、それを上枝(ほつえ)に繋ける。 (實相世界はすべての魂が眞(まこと)に輝いていて美しく、 各々の魂は孤立分離していないで、一つの玉の緒によって統一された 大調和の世界であることを観ずる)
四、實相世界の眞栄木(まさかき)を根こじにこじて現象界に移植する。 (現象が如何に暗黒に見えていても其の暗黒を見ないで、 實相の根元世界の光明遍照の有様をジッと観ずる)
五、白和幣(しろにぎて)、青和幣(あおにぎて)を作って 下枝(しずえ)につける。 (人に接するに、必ず和顔愛語の布をもって柔らかく包んで接する)
六、太御幣(ふとみてぐら)を奉祀して祝詞をあげる。 (“大生命”及び祖先の生命をお祀りして聖経又は祝福の祭文を読誦する)
七、天手力男神(あめのたぢらおのかみ)をして待ちもうけさせる。 (機会をはずさず断行の決意をする)
八、天之日影(あめのひかげ)を手次(たすき)にかけ、 天之眞拆(あめのまさき)を鬘(かずら)として……云々。 (心を空しく、雑念妄想を無くして、心が裸になって、神のお導きを待つ)
九、踏みとどろかし、神懸(かんがか)りする。 (いよいよ、神霊来臨したまい、何を為すべきかを指示し給う。 その指示のまにまに、自然に行動する)
十、八百萬(やおよろず)の神共に咲(わら)いき。 (暗い表情を棄てて、既にあたかも光明が輝き出たのを悦ぶ如く、 明るい笑顔をもって行動する)
(2)天照大御神は実相界の主神
以上、十箇条が、人生の暗黒を去り、光明を再び呼び迎えるために 必要な事項であると『古事記』は示しているのであります。
そうするといよいよ天照大御神が天之岩屋戸からお出(で)ましになりまして この世が明るくなるのであります。 この事を『古事記』は次の如く書いております。
“是(ここ)に天照大御神怪(あや)しと以為(おも)おして、 天石屋戸(あまのいわやど)を細(ほそ)めに開きて、内より告(の)り たまえるは、吾が隠(こも)り坐(ま)すに因(よ)りて、 天原(あまのはら)自(おのず)から闇(くら)く、
葦原中国(あしはらのなかつくに)も皆闇(くら)けむと以為(おも)うを、 何由(など)て天宇受賣(あめのうずめ)は樂(あそ)びし、 亦八百萬神(やおよろずのかみ) 諸々(もろもろ)咲(わら)うぞ、とのりたまいき。
爾(すなわ)ち天宇受賣、汝(な)が命(ながみこと)に益(まさ)りて 貴(とうと)き神坐(い)ますが故に歓喜咲(えらぎ)樂(あそ)ぶ、 と白言(もう)しき。
如此(かく)言(もう)す間に、天児屋命(あめのこやねのみこと) 布刀玉命(ふとたまのみこと)、其の鏡を指し出でて、 天照大御神に示(み)せ奉る時に、
天照大御神、逾(いよいよ)奇(あや)しと思おして、 稍(やや)戸(と)より出でて、臨(のぞ)み坐(ま)す時に、 其の隠り立てる天手力男神(あめのたぢからおのかみ)、 其の御手を取りて引き出(いだ)しまつりき。
即ち布刀玉命(ふとたまのみこと)、尻久米繩(しりくめなわ)を 其の御後方(みしりえ)に控(ひ)き度(わた)して、 此(ここ)より内(うち)にな還(かえ)り入りましそと白言(もう)しき。
故(かれ)天照大御神出(い)で坐(ま)せる時に、 高天原(たかあまはら)も葦原中国(あしはらのなかつくに)も、 自(おのず)から照り明(あか)りき。”
(天石屋戸<あまのいわやど>の段<くだり>)
このように、まだ光が現象界にあらわれていなくとも、 「既に光がある。立派なものがある。嬉しい、楽しい」と悦んで、 神々及び祖先を祀って、明るい気持でいると、本当の光(天照大御神)が 実相世界の扉をひらいて現象化してあらわれて来られるという原理が 爰(ここ)に説かれているのであります。
これが光明思想の実践であります。
日本民族は本来、光明思想をもっていたので、どんな暗黒に面しても、 その奥にある光明を見つめて、大祓祝詞(おおはらいのりと)などの言葉によって、 「暗黒の無」を宣言し、言葉によって罪穢(けが)れを消除して、 光明世界を築いて行ったのであります。
そして、岩戸の扉がひらいて、ほんの一寸(ちょっと)、光が射して来たならば、 その機会を看過(みのが)さずに、断行の勇気を鼓して、実相界の光(天照大御神) を現象界にまで引き出し、決して退却しないぞという決意をして、 後方に尻久米繩(しりくめなわ<〆繩、しめなわ>)をひいて、 後方の退路を断ち切り、ただ前進あるのみの積極精神を発揮したものであります。
こうしたならば、最初はちょいと出(で)ていた光も、段々大きくあらわれて来て、 葦原中国(あしはらのなかつくに=現象界)全体が明り輝くようになるのであります。
この『古事記』の一節で注目すべき点は 天照大御神が天之岩屋戸(あまのいわやど)にお隠(こも)りになりましたならば、 現象界のみならず、”高天原(たかあまはら)”即ち ”実相界”も闇(くら)くなったということでありまして、
天照大御神は決して単なる現象神の護り神であらせられるだけでなく、 実相界の主神にましますことをあらわしているということであります。
(第11章 「実相世界の現象化」は、以上で完了です)
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第12章「赤き龍、稲田姫を覘う」は、以下の構成となっております。
(1)須佐之男(地球霊)の追放 (2)困難、逆境、失敗も功績への踏石 (3)「黙示録」にあらわれたる赤き龍 (4)八岐大蛇なる赤き龍、日本の稲田姫を覘う (5)八俣にひろがる”ロシアの智慧” (6)日本原水協のこと (7)空飛ぶ円盤が八岐大蛇に呑まれる
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