「善き人生の創造」 (39) |
- 日時:2018年03月09日 (金) 14時30分
名前:伝統
谷口雅春先生・著「善き人生の創造」は、”平賀玄米 さま”が 《谷口雅春先生に帰りましょう・第一》《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》 にて謹写していただき、その一部は閲覧するができます。
ただ、残念ながら、《谷口雅春先生に帰りましょう・第一》にあるご文章に ついては、現在、アクセス不能のため、閲覧できない状態になっております。
そこで、その部分も含めて、”平賀玄米 さま”のご功績を偲び讃えながら、 尊敬の心を込め、この掲示板に、「善き人生の創造」に残していきたいと思っております。
<関連Web:伝統板・第二「追悼~”平賀玄米 さま” 」 → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7702987 >
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はしがき
人間の関心すべき問題のうち最も大にして最も重要なる問題は、 如何に自分自身の生活と創造するかと云うことである。
あまりに多くの人たちは、自分自身の生活をぞんざいに取り扱い過ぎているのである。 朝起きるときから、夜、寝(しん)に就くまでの間、悉く行き当たりばったりに 出鱈目な生活を送っているかのように見える人が多いのである。
このように生活を粗末に取り扱い、自分で自分の生活を創造すると云う理想をもたない ところに、善き生活の創造が行なわれ得る理由はないのである。
我々は人生とは何ぞやと云うことを知らなければならないし、 人間が此の世に生を享けた目的を知らなければならない。
そして吾々は理想を高く掲げなければならないのである。 人それぞれの人生が、みずからの造り出した創作であるがゆえに、 無理想無解決なのが人生だと投げやりの生活を送る人は、 やはりそのような人生を創作するのである。
理想主義の生活もあれば、現実主義の生活もある。 そして、自分自身の人生は、その人の人生観のとおりの姿に想像されつつあるのである。
誰かが云ったように、 「他の人が選んでくれた幸福よりも、自分自身の選びとった苦難の方(ほう)が、 自分にとっては、より一層幸福である」かも知れないけれども、
しかし、そんな天邪鬼のような、ひねくれた考えを持たないで、しずかに 自分の魂の底の深き願いが何であるかを省みるとき、誰もが自分自身の 「善き人生」を創造したいと希(ねが)わずにはいられないと思われるのである。
どんな人生を創造することが、自分自身にとって真に喜びとなるのであろうか。 何故(なぜ)、いま自分自身が創造しつつある人生に、喜びが少なく、失敗が多く、 懊悩煩悶が多いのだろうか。と、みずから疑っている人もあることだろう。
また、今、有頂天になっている人生にも、そのみじめな破局が目前に迫っているのに、 気がつかずに噴火山上に舞踏をつづけているような生活を送っているような人も ないのである。
兎も角、あなたはあなたの人生の航路に於ける「あなた」号の船長である。 羅針盤なしに航行を続けるならば、いつ暗礁に乗り上げるかも知れないのである。 あなたの心が不安にみたされたとき、心騒ぐとき、恐怖に満たされたとき、 それは、あなたの魂が、内からあなたの「外的精神」に対(むか)って囁きかける瞬間である。
そんなときに、若しあなたが本書のどのページでも披いて讀んでごらんになれば、 不思議な平和が本書の文字と文字の間から立ちのぼって、 やすらぎがあなたの魂を訪れるに違いないのである。
そのことは書店でみじかい時間立読みをしても幾分かはわかる筈である。 そしてあなたの魂に平和が訪れ、やすらぎが恢復したときにこそ、あなたは、 本当の意味に於いて「あなた自身」に立ち復(かえ)ることが出来、 眞に価値ある人生の創造の第一歩を踏み出されることになるのである。
此の書は、あなたの人生を新たに創造する力を与えるであろう。 満腔の祝福を込めて、この書を、読者の善き人生創造の糧として贈る所以(ゆえん)である。
昭和二十八年十二月十日 著者 識
http://kaerou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=15378114
《第一章善き生活の創造原理》
<物質科学と精神科学>
物質科学は自然現象を研究し、その現象の原因結果の構造を詮索し、その法則を発見し、 更に進んでは、その法則に基ずいて、人間が幸福になるように、 その法則を応用しようとするものであります。
精神科学は、精神に連関する自然現象を研究し、その現象の原因結果の構造を詮索し、 その法則を応用しょうとするものであります。
然るに精神に連関する自然現象は、精神のその奥を探求する時おのづから 精神の発する根源であるところの神秘的存在―――大自然力―――の研究に 到達するのであります。
つづく。
<平成27年6月28日 謹写> ありがとうございます 合掌。
<「「自然」と云う意味>
人は「自然に天体が生じた」とか「自然に治癒する」とか申します。 併しその大自然の力とは何でしょうか。 そこに「自然」なる語の曖昧性が、暴露しております。
丸亀で講習会があったときに、神の創造の話を致しましたら、 その聴講生の中に「この世界は神が創造したのだとは思われない、自然にあるのだと思う」 と云う人がありました。
自然とは、おのずから、それみずからそのままあると云うのであって、 それを造った本源的力又は創造者などはないと見る見識であります。 既成事実は現象であります。
現象は物質と電磁波を素粒子と云う物質の極小微小体の放射として見るときには、 「自然にあるのだ」と云う見解は、漠然たる唯物論の痕跡を止めているのであります。
併し、素粒子の研究は物理科学者の重大なる関心の問題でありまして、 電子にしろ、中間子にしろ、それは現象であって、それが生ずるのは何処より来るか、 消滅したのちには何処に行くかは物質科学ではわからないのであります。
ウイルソン霧函内での実験によれば突如として或る素粒子が姿をあらわし、 突如として或る素粒子が姿を消してしまうことがあるのでありまして、 その原因者はわからない。
凡そそれらの素粒子の集合体が物質でありますから、 物質界の現象を起こすところの原因者は「神秘」と云うほかはないのです。
この「神秘なるもの」が原因だと云う意味で「自然にあるのだ」と云う場合には、 その「自然」とは「神秘者」即ち「神」を意味するのであって、 その人は漠然と「有神論」を奉じながら、それに気がつかないで、 「自然にあるのだ」と云っているに過ぎないのであります。
そこで、「自然」と云う意味は、自然現象そのものを指す場合と、 自然現象の根源者を指す場合とがあると云うことがわかります。
自然現象を「あるがまま」に研究し、甲の自然現象と乙の自然現象との連関に於いて、 その原因結果の法則を研究するのが物質科学であり、
精神科学は、物質的自然現象と精神的自然現象との相互連関の作用や法則も研究しますが、 更に遡って、それらの現象の因っておこる原因であるところの精神現象以上のもの―― 霊的実在にまで探求の鉾先を進めて行こうとするものであります。
しかしその場合には最早「科学」と云うよりも、 哲学又は心霊学の領域に立ち到るのであります。
つづく。
<平成27年6月29日 謹写> ありがとうございます 合掌。
<自然現象は「神秘者」の投影>
客観界としての「自然」は現象であり、 その「自然」を自ずから然らしむるところの力は神秘者であります。
親鸞聖人はこれを「不可思議光」と言われました。 「光」とは別のところで親鸞聖人は「佛の光は智慧の光にして」 とか「智慧の光明かぎりなく」とか言っていられるのでありまして、 「不可思議光」とは不思議の智慧であります。
「神秘者」なるものが原因者であり、そして「自然現象」は結果であります。 それ故、自然現象は「神秘者の投影だ」と云うことが出来るのであります。 現象は映画のようなものであり、神秘者は は製作者(プロデューサー)のようなものであります。
或いは現象は写真であり、その奥に本当の「実在」がどんな姿をしているかはわからないのであって、 吾々は「心」を通してその「実在」が何であるかを窺おうとするのであります。
しかし吾々は「実在」そのものを見ることは出来ない。 「心」を通過してあらわれて来る現象を見るに過ぎないのであります。
即ち「心」が作った「「認識の形式」を通して、 その形式に従って感覚的刺激を置きならべて、 時間空間的にそれを見ているに過ぎないのであります。
それは恰度(ちょうど)、レンズを通して 写された厚味のない写真のようなものでありまして、 写真には、厚味のあるものでも平面に置き列べて感じます。
そのように「霊的の深さ」をもった「実在」が、ただの物質として感じられるのでありまして、 感覚的事物は、すべてこのように、重要な「内容」を捨象し去って、感覚にて捉え得る刺激的部分 のみを三次元空間的に配列して其処に「物質」のみありと翻訳しているに過ぎないのであります。
つづく。
<平成27年6月30日 謹写> ありがとうございます 合掌。
<心を磨くことによって人格は大成する>
従ってすべての現象は、写真の如く、実在の一部の影を表現しながら、 それは実在とは余程歪められたものとなっているのであります。
その歪みは、例えば「レンズ」に当るところの「心」を磨くことによってだんだん減少し 現象界に正しき影を写して来るのでありますが、
「心」が執着の念によって「引き攣(つ)り」ますと、「心」のレンズに歪みを生じて、 現象としてあらわれる姿にも歪みを生じ、その歪みが病気、不幸、災難等を生じて 来るのであります。
そこで現象界に於ける「歪み」(病気、不幸、災難等)は自分の「心」のレンズの歪みを あらわしているのでありますから、それらの病気、不幸、災難等の経験を空しく過ごす ことなしに、その原因を「心」にありとして反省しますれば、 経験と云うものは「心」のレンズを磨くところの研磨剤となるのであります。
人生に於ける幾多の経験を通してついに自分の心を研磨して 人格を大成せしむるに到るのであります。
そしてついに大成したる人格は、自己の周囲に、 実在界に最も近い写象――調和した現象界――をあらわすことが出来るのであります。
つづく。
<平成27年7月1日 謹写> ありがとうございます 合掌。
<霊的知覚を磨け>
物質の状態を精細に観察するには、鋭敏完全なる感覚がなければならないのでありますが、 それと同じように霊的事物を観察するには、鋭敏完全なる霊的知覚がなければならない のであります。
色盲であるならば、物質的なものでさえも赤色や緑色の存在を見ることが出来ないように、 霊的知覚の遅鈍な者には、霊的事物の存在をみることは出来ないのであります。
よく磨かれたレンズのみが、光線の薄いところでも写真を撮ることが出来るように、 よく磨かれた霊的知覚のみが、霊的事物の存在を見、また更に進んでは 神及び実在界の真相を直感することが出来るのであります。
実在は、時間、空間を超越していますから、時間空間内にあらわれている事物そのものに 実在をもとめ、神をもとめても、それは不可能であります。
時間、空間内にあらわれている事物を契機として、その奥にある実在の霊妙さを自覚するのは、 丁度、網膜にある知覚点を刺激する光の波動を契機として、実在界にある「美」を把握する のと同じなのであります。
つづく。
<平成27年7月2日 謹写> ありがとうございます 合掌。
<美の本源は霊である>
「美」とは何ぞや。単純なる野蛮人は、「美」とは「美しい物体」そのものだと思っている かも知れませんが、物体そのものが美しいのではなく、物体の感覚的刺激を契機として、 実在界にある「美」の反映を見るのであります。
だから、活花の美を見ましても必ずしも一個一個の「花」そのものが美しいのではなく、 「花」と「花」との間の「空間」に美を感ずるでありましょう。人生の生活の「美」も、 一つ一つの行為よりも、一つ一つの行為をしてかくあらしめている無形の精神的なもの、 「三次元以上のもの」に美の本源があるのであります。
吾々が霊的な存在を知ることが出来るのも、物体の感覚的刺激を契機として、それを感ずる のでありまして、丁度、小説を読んで作者の心を知り、音楽を聴いて作曲家の魂にふれるのと 同じことであります。霊的な事物のみ実在でありまして、小説の筋や、楽譜などはその奥に ある霊的な事物の形にすぎないのであります。
つづく。
<平成27年7月3日 謹写> ありがとうございます 合掌。
<生活創造の根本的基礎>
過去の宗教家のうちには、神を人間的な形を備えたものだと想像していたものが多いのであります。 旧約聖書にあらわれているエホバ神が嫉妬や復讐の神であることや、阿弥陀佛その他が仏像として 形にあらわせれていることなどは其の事を表わしているのであります。
そして神と云う人間のような方のいらっしゃる処が天国であり、 阿弥陀佛と云う人間のいらっしゃる処が極楽浄土と云う場所であると考えられていたのであります。
そしてこれらの神又は佛は、強力なる独裁権をもっていて、 自分に頼み縋る人間だけをその天国又は極楽へ救いとって安楽生活をいとなましめる。
そうでないものは安楽ならザル生活の中に放置せられる――こう云う風に考えたり説いたりする 宗教が多かったのであります。このような宗教は、神を愛憎あるものと考えているので、神を尊敬 しているのだか、神を軽蔑しているのかわからないのであります。
また或る宗教では、その教祖と云うものが神(又は佛)の肉現であらせられ、その教祖に進物を 贈呈し、賽銭を献納することによって、天国又は極楽へ到達し得るものだと云うように説いて いるのであります。
これなども過去人智の蒙昧なりし時代に、一人のややすぐれたる智慧者が大衆をたぶらかし、 自己の個人的利益をはかるために作った教義であってかかるものに惑わされてはならないので あります。
眞の宗教と云うものは、『一切衆生悉く佛性あり』と説いた佛教のように、またすべての人間悉く 神の子であると説いた新しきキリスト教のように、すべての人間の本性に「神」又は「佛性」を 認めて、それを尊敬し礼拝する宗教でなければならないのであります。
自己及び他人の生活を創造するための根本的基盤は、「一切衆生悉く佛性あり」の眞理のほかに はないのであって、その他の基盤の上に立つ限り、それが如何なる生活であろうと、如何なる運動 であろうと、砂上に建つ楼閣に過ぎないのであります。
つづく。
<平成27年7月4日 謹写> ありがとうございます 合掌。
<みずから立つ生活>
吾々が本当に光明ある生活を送るためには、外の権威によって救われると云う様な、 他に依存する底の生活を送っている限りに於いては、その生活は、 「みずから立つ生活」でありませんから、
外来の権威者の恣意によって振り廻される恐れがあり、その恐れの故に常に 動揺していなければなりませんから本当に健実な生活と云う譯には参りません。
自己の救済を、外来の偶然(又は恣意)にゆだねているのでは、自己創造の生活ではありません。 自己創造の生活でなければ、自己にとって価値がないのであります。
他によって救済される生活は、他の人にピアノをひいて貰ってそれを楽しんでいる生活であって、 それでも楽しいことがあるかも知れないけれども、他人がピアノを如何に上手に弾いても、 それは自己の価値創造ではないのであります。 自分の生活にプラスの価値がつくのではないのであります。
吾々は自己の内に、自己の本性の内に、神を見出し、創造の原理を見出し、 自己が自己の生活の主人公であるところの眞理を見出さねばならないのであります。
そこに生長の家のように、又あたらしきユニティ教派のキリスト教のように、 「内在の神」を本尊とする宗教が生まれなければならない必要性があるのであります。
然らば、神とは一体何でありましょうか。
つづく。
<平成27年7月5日 謹写> ありがとうございます 合掌。
<美の本質としての神>
*『善き人生の創造』第1章善き生活の創造原理(P12~13)より
概括してギリシャでは、神の本性は「美」と認められていたのであります。 これがヘレニズム精神であります。
ローマでは、神は「正義」と認められていました。
旧約のユダヤでは、神は「正義」であると同時に、正義にそむく者えの「嫉妬」であり、 「復讐」であり、「神罰」でありました。
新約のキリストに於いて、神は初めて「愛」と認められました。
これがヘブライズム精神であります。
しかしそれらの神に対する観念は何れも偏っているのでありまして、 眞理ではありますが、全包容的ではないのであります。
神は「美」であると共に「正義」であり、「正義」であると共に「愛」であります。 「愛」であると共に「法則」でありますから、眼には眼を報い、歯には歯を報いる――― 一定の原因に対して一定の結果を与える――― 即ち復讐の神、神罰の神とも 見られることになるのであります。
しかし、その復讐は決して神罰を与えて《やれ》と云うような憎しみの感情ではなく、 法則が自働して、瓜を蒔いたら瓜が生り、茄子を蒔いたら茄子が生え、 誉めれば誉められ、陰口をきけば陰口をきかれる・・・となるのであります。
生長の家で説いている神は、これらの総ての内容を包蔵する神であり、美であり、調和であり、 正義であり、法則であり、愛である神であり、あらゆる点に円満なる神であります。
<感謝合掌 平成28年7月17日 頓首再拝>
<人は何故「円満完全」を追及するか>
神が円満完全であると云うことがどうしてわかるかと云う人がありますが、神と云うものが、 外にあるものなら、そして感覚を通して見るほかにわからないものであるならば、感覚は、 外にあるものそのものを見ないで、器官を通して見るのでありますから、その器官に写った 通りに見るしか仕方ありませんから、神そのものが、感覚器官を離れてどんな姿で存在する かと云うことはわからない筈であります。
そこで神が円満完全であると云うことは五官の感覚では立証することは出来ないのであります。
神が円満完全であると云うことは、 もっと内的な自覚によってのみ知ることが出来るのであります。
何故吾々が円満完全なものを心に描き、それに憧憬(あこが)れ、 それを追及しようとするのでありましょうか。
若し内部に「円満完全」のおぼろげなる記憶とか体験と云うものでもなければ、 円満完全を想像することも追及することもない筈であります。
例えば、煙草を喫ったことことのない人は煙草を喫(の)みたいと追及することはない。 煙草を喫ったことのある人のみ煙草を追及するのであります。
それを推し進めて行きますならば、円満完全の体験のある人のみ、 円満完全を追及するのであります。
然るに、円満完全と云うものは現象的な外界には未だ嘗て存在したことはあり得ない。 従って、円満完全の体験は内在する体験として人間の「内」にあると云う他はないのであります。
即ち人間の「内」には円満完全なるものが存在するのでありまして、それを吾々は 「神性」「仏性」または「内在のキリスト」或いは「眞の人間」と云うのでありまして、 ここに初めて遠く外界に求めた神が、近く内界に見出されることになるのであります。
即ち、旧約聖書に、「神が人間を己が肖像(かたち)に造った」というのは、肉体人間を神が 自己の肖像として造ったのではなく、この「内在の眞の人間」(神性・佛性)こそ神の肖像で あって、それが「本当の自分」であり、肉体は、その「眞の人間」の表現体として常に内部から 円満完全へ円満完全へと改造されつつあるのであります。
それが円満完全への憧憬となり、健康への追及となり、あらゆる善徳への向上となって 肉体人間の生活を内部から指導しつつあるのであります。
つづく。
<平成27年7月7日 謹写> ありがとうございます 合掌。
<心の目で内部神性をみつめよ>
だから人間は「内部神性」と「外部肉体」との両面を持つのであります。
「内部神性」(神の肖像)は「眞の人間」であり、 「外部肉体」はその表現体であり、過程であるから未完成であり、 未完成であるから、常に進歩せしめ向上せしめねばなりません。
常に進歩向上せしめるためには、常に「内部神性」の導きの声に耳を傾けねばなりません。
完全なる生活創造は、「内部神性」の導きを通してのみ得られるのであります。 われわれが、外部の不完全な姿のみを認め、それに心が捉えられている限りは、 「内部神性」の完全なる発露はあり得ないのであります。
心に描かれたる観念または想念は、それを具体化するところの運動又は動作を惹起する原動力 となるのでありますから、吾々が現象の不完全なる姿のみに注意を集中して、それに心を振向 けてその姿のみを心に描いている限りは、生活の新しき創造を希いながらも、観念の具体化せ んとする強制力によって、依然として以前と同じき不完全成る現象を創造するように自己の行動 が導かれるのであります。
之は病気を治そうとする場合にも、また不良の子供を善導せんとする場合にも同じことであり まして、その悪しき状態に心を集中いる限りに於いては、改善の見込みはないのであります。
病気のばあいには健康にのみ、児童教育の場合にはその児童の美点にのみ、 心を集中することによって肉体は健康となり、児童は善なる美質を発揮し得ると同じように、 吾々自身の生活創造に於いて、新しき善と美と健康さとを発揮しようと思うならば、 吾々は心のレンズの焦点を「最善なるもの」にのみ集注することによって それが可能となるのであります。
「最も善なるもの」とはなんであるか。 それは諸君の「内部神性」であります。
諸君が、今より一層、善美なる生活創造をなさんと欲せられるならば、 常に「内部神性」の完全さを心に描いて、「吾は神の子円満完全」の思念を行い、 内部の神性よりして、円満完全なる導きを得るようにしなければならないのであります。
第一章、今回にて完。
<平成27年7月8日 謹写> ありがとうございます 合掌。
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《第二章 生命の不思議》
<宇宙には驚くべき知性がある> 宇宙には、その背後に驚くべき知性が働いているのであります。 宇宙の知性を認めることは神を認める最初のものであります。 拙著『生命の謎』に於いて述べましたように、物質も生きており、感覚があるのであります。
或る一定の元素と元素とが互に牽引し、又他の元素とは互に排斥し合うのは、 相手が何物であるかを見分ける力を持っている証拠であります。
殊に触媒と云う何らそれ自らは化合にあずからないものが出て来ると、化合が促進される ような事実は、触媒の出場を知覚する力を元素が持っていることの証拠と言わねばなりません。
物質の化合が一定の法則の下に行われて、出鱈目でないのは、 法則は知性の表現でありますから、物質の背後に知性が働いている証拠であります。
木の葉の一片、草の葉の一片も、一定のその木又はその草特有の組織構造に栄養分が 分配されて組立てられて行く有様は、単なる物質の機械的化合以上のものがあるのでありまして、 一定の知性によって栄養分となるべき物質分子が組立てられて行く事を認めることが 出来るのであります。
このような植物は勿論のこと、ありと凡(あら)ゆる地下の生物の生理的構造は、単なる 物理現象や化合現象ではないのでありまして、いずれも智慧のある設計者が煉瓦の建造物 を積み上げて行く様に、物質分子及び細胞を積み上げて行くのでありまして、吾々が指先を 少々位い切り落としましても、微妙な指紋の形までも再現して来るのであります。
そして指先などよりも尚々微妙な働きをする処の脳髄、神経細胞、諸種の腺及び内臓の如きが、 動物の種族に応じて、種族特有の構造を持って構造されて行くのを見るとき、その形が造られて 行く背後に驚くべき智慧が働いていると云うことを認めずにはいられないのであります。
人間に一片の草を造れと云っても、どんな大学者を呼んで来ても造る事は出来ないと 云う事を考えますと、この宇宙の知性なるものは、人間の知性などの到底及ばない知性を 持っているものだと云うことが出来るのであります。
それは内臓も脳髄も何も無いところから、新に、それを極めて巧妙なる設計に造った のでありますから、吾々の内臓その他の組織に欠陥が生じた場合に、それを一定のプランに 従って再組織し再構造し得る力があるのは当然と云わなければならないのであります。
つづく。
<平成27年7月9日 謹写> ありがとうございます 合掌。
<健康と不健康とは物質の問題よりも「心的模型」の問題である>
ところで、そのような驚くべき知性が宇宙にあるとして、 その知性を人間が病気の場合に如何にして利用したならば、 その自然療能力を完全に発現させ得るかと云う問題であります。
宇宙の知性が如何に無限の力を持っているにしても、 それを吾々が利用することが出来なければ何の役にも立たないのであります。
健康なる人にしても、病人にしても、常に新陳代謝は行われております。 旧組織は消耗しつつあり、新しき成分によって新組織は造られつつあるのであります。
ただそれが異なるのは、健康なる人は、新組織を新に補充する場合に、 その分子又は細胞の並べ方が健全に並べられるのであり、 病人は、新組織を補充する場合に、依然として病的構造にその成分を置き並べるのであります。
そうすると、新陳代謝される場合の成分は、大体経口的に来るもので(著しく栄養不良の場合は 別として)同一でありますが、その成分(分子及び細胞等)を排列する場合の「心の模型」又は、 「精神的設計」と云うものが、健康な人は「健全」であり、病人は、それが病的なのであります。
そうすると、健康者と病人との相異は、分子又は細胞を置き並べる「心の模型」 又は「精神的設計」が健全、不健全の相異でありまして、
結果から見ますれば、肉体の故障として現れていますが、 肉体の再組織を指導する精神力の失敗でありますから、 それは精神的なものだと云わなければならないのであります。
ところで肉体をどうすれば再組織出来るか、どういう風に分子及び細胞を置き並べれば好いかは、 どんな大学者の脳髄も知る事が出来ないのであり、それを知るものは、唯「宇宙の知性」のみで あります。
従って病的組織を健全組織に引き戻すには、「宇宙の知性」を呼び出して来て、 それに働いて貰う他はないのであります。
即ち「病的な心的模型」をやめて、「健全な心的模型」に働いて貰うことが必要なのであります。
つづく。
<平成27年7月10日 謹写> ありがとうございます 合掌。
<医療効果は医師の人格によって変化す>
医薬分業の問題で、私は薬剤師協会の理事長と医師会の副会長との 立会演説を放送討論会の録音で聴いた事がありますが、
「同じ薬でも医師に貰うのと、ただ薬局で買って来て服むのとは実際効果が異う。 これはどういう訳ですか」という聴衆の質問に対して、医師会の副会長の回答は 「人間は単なる物質ではない、医師と患者との関係は薬効プラス人格の接触であるから そのように効果の相異を生ずるのである。
医薬が分業となり、医者は処方箋だけ出して薬は薬剤師の処へ行って貰うとなれば、 医者と患者の人格の接触がなくなるから、治病効果が薄くなる」 と云う意味だったのであります。
さすがに医術に多年の経験を持っていられる医師の代表者の意見として傾聴したのであります。
兎も角、人格的接触の問題は、精神感応の問題であり、精神の感応によって 医薬に効くと効かぬとの相異を来すことをこの医師会の副会長の言葉は 証明しているのであります。
アメリカに於いても霊的治療は実に旺(さか)んであって、 ユニティ、クリスチャン・サイエンス、リリジャス・サイエンス等々の名で行われ、 数十万部にのぼる機関雑誌又は機関新聞を発行しているユニティやクリスチャン・サイエンス は無論のこと、その他の精神治療又は哲学治療の学院でもいずれもその機関雑誌に 数万の読者を擁しているのでありまして、ニューソート関連に属している知名の士だけでも 百六十を数えるのであります。
そのプラクティショナー(practitioner治療家)の多くは神学博士の称号を持っている 最高のインテリ階級の人々なのであります。
これをもって見ましても、心の治療効果は決して、 無学者のみの信じている迷信ではないことがわかるのであります。
明治天皇の侍医頭であった入澤達吉博士も嘗て、 「医者と云うものは患者の肉体を治すだけではなく、患者の心を治さなければならない」 と云われたことがあるのであります。
宇宙の知性と人間の知性とを合一せしめるところに宇宙の知性が「無」よりして 諸々の内臓器を造り出したその力を人間が利用することが出来るのであります。
宇宙の物質は皆同一のものであり、それを支配しているところの法則も「一つ」であり、 その一つの法則から如何なるものもハミ出ることが出来ないものだと云うことを 物理学者は発見したのであります。
総ての法則は一つであり、 英国の法則と米国の法則とは異なると云うが如きものではないのであります。 法則は宇宙の知性であり、宇宙の知性は凡ゆるところに満ちているのであります。 私の法則、貴方の法則、彼の法則などと云うものはない。みんな一つなのであります。
それは丁度、空気が地上の何処にでも満ちており、 それを自分が吸う時には「自分の空気」であり、 貴方が吸う時には「貴方の空気」であり、 彼が吸う時には「彼の空気」であるようなものであります。
つづく。
<平成27年7月11日 謹写> ありがとうございます 合掌。
宇宙の知性は「一つ」であると云うことがわかりましたならば、物質は心の働きでありますから、 宇宙の心は「一つ」である事が判らなければならない筈であります。
宇宙の心は「一つ」であって、 「私の心」「あなたの心」「彼の心」などと云うものは存在しないのであります。
私のところへ現れて来ているときには「私の心」であり、 貴方の処へ現れて来ている時には「貴方の心」であり、 彼の処へ現れて来ている時には「彼の心」なのであります。
宇宙は全体が「心の海」に例える事が出来ます。 「心」と云うものを「脳髄意識」と間違えて考える人がありますから 寧ろ「生命の海」と云うか「霊の海」と云うが好いのであります。
用語と云うものはその定義を明らかに知らないと、 同じものを別の名前をつけて「俺の学説の方が偉い」 と威張り出す人が出てまいります。
この世界は心で出来ている等と云う場合の「心」とは 脳髄から出て来る「心」のことではありません。
脳髄どころか、どんな生物もいない前から、原子を造り、天体を造りだしたところの 不可思議の「叡智の海」を「心の海」というのであります。
脳髄から出る智慧などは、 例えばラジオセットにかかって来た電波の声のようなものであります。
放送の電波は地球を取巻いた電離層に到るまでの間に満ち満ちておりますが、 それがラジオセットを通して出て来ると、個々別々の複製の声を出すのであります。
放送の電波を離れては複製の声はありませんが、 複製の声は電波の声そのものでもありません。 そこにはラジオセットの癖とでも云うべき一種の歪みや雑音が入っているのであります。
脳髄から出る「心」も脳髄ラジオセットから出る声であって、 宇宙の「心」を離れて脳髄の「心」はありませんが、 「脳髄の心」及び潜在意識は「宇宙の心」そのものではありません。
宇宙の心が幾分ゆがめられ、幾分音質が変り、幾分雑音が入っているのであって、 その「歪み」や「雑音」のところが形に現われて来ると病気や不幸となって 現れてくるのであります。
更に宇宙の心以外の妄念妄想を感受して、 それを現象界にあらわす事もあるのであります。
どの波長を感受して現象界に現わすかは、こちらの選波作用によるのでありまして、 宇宙の心は決して個人に対して強制すると云うことはないのであります。
つづく。
<平成27年7月12日 謹写> ありがとうございます 合掌。
心の波長を感受することはわかるが、 何がその感受した所の心の波長を現象化するのでありましょうか。 その現象化の力は何処から来るのでありましょうか。
宇宙にはただ一つの創造力があるのであります。それは「宇宙の法則」です。 それを「宇宙の心」とも「宇宙の生命」とも「宇宙の叡智」とも「宇宙の霊」 とも云うのです。
宇宙には、此の一つの創化作用(現象化作用)があって、 心に感受した(換言すれば心に描いた)姿を現象化してくれるのであります。
現象界のありとあらゆる相(すがた)は、最始源には物質がなかったのであるから、 原始の「心」に描かれた「想念」または「観念」の姿が現象化されたのだ と云わなければならないのであります。
太陽系は太陽や地球が物質的に勝手に姿を現わしたのではないのであって、 宇宙の叡智が心に描いた「想念の模型」に従って姿を現わしたのであります。
如何なる形にも無機物自身が勝手に集合して 一定の知性的組織形態をとると云うことは出来ないのであります。
物質の力と称するものは、それに与えられた運動慣性だけであります。 即ちそれに与えられたエネルギーの量だけその方向に惰力で動くと云うことであり、 自由意志的にその方向を変化すると云う事は出来ないのであります。
従って物質のみの力で世界が造られるとするならば、現在に於ける位置と その運動慣性とを知るならば其の後に起こる一切の現象は宿命的に 定まっているに過ぎないのであります。
しかし物質が偶然に与えられた雑然たる諸力の運動慣性の偶然的集成として、 このようなこの様に秩序整然たる精密機械も及ばない植物、動物、人体等の構成が 出来上がる筈はないのであります。
その点から考えて見ても、宇宙を今ある如き秩序ある形に創造したのは、 偶然に与えられたる運動慣性の集合であるとは考えられないのです。 その「考える」と云うことすら、 物質の運動慣性の集成に過ぎないのだとはどうして言えましょう。
従って宇宙の天体をもひっくるめて、 物質と見えるものが一定の構成をなしているのは物質を その姿に排列する「知性」の働きだと云わなければならないのであります。
その宇宙に広がる 「知性」を称して、私達は「神」とも云い、「宇宙霊」とも云うのであって、 神と称することを好まない人は、別に「神」と称せずとも、 大自然の叡智と云っても差支えないのであります。
つづく。
<平成27年7月13日 謹写> ありがとうございます 合掌。
<自由意志と同時に一定の法則として働き給う神>
この宇宙の叡智は、自由意志的設計者として能動的に自己の欲するところのものを 設計し構成して行く力を持っている。
それは天体、鉱物、植物、動物等・・・自主的自覚意識によって 自分の運命を決定することの出来ないところの低位の存在は、 此の宇宙の叡智によって設計され、その設計の通りに受身に造られたまま、 此等の存在は宿命的なものを受取るのであります。
ところが、ひとたび人間が、宇宙の叡智の最高の顕現として、人格的に現れて来たときには、 その能動的、自己設計的な自由を神は人間に譲り渡し給うたのであります。
そして人間は自己の運命の自主的設計者として、ならびに、 神の意識的自覚的創造の中心者として、自然界や自己の環境を自己の想念の通りに創造し 変改する力を与えられ、神御自身(宇宙の叡智)そのものは、単に受身の態度をとって、 「法則」と云う受動的形となり、人間の意識的自覚的創造力の「想念的原型」の通りに 実に従順に随って、与えられた「想念の原型」通りに活動する事になっているのであります。
神は自発的能動的叡智としては、実に素晴らしい宇宙の構図を想念されたのでありますが、 法則としては、実に無我であり、何等恣意を用い給うことなく、 常に一定の法則的秩序以外にははみ出給うことはないのです。
何処、何時、誰、と云う要素が異なっても、二プラス二は四であると云うように、 実に忠実に一定の律を守って、事物を現象化せられるのであります。
若し、法則なるものが時々変化して、或る時には二プラス二が五になったり、 また、或る時には二プラス二が八になったりしたのでは、 吾々は法則を利用する事が出来ないのであります。
そこで神は「自由の本体」であられながら、 法則としては、一定の律以外には作用し給わないのであります。
つづく。
<平成27年7月14日 謹写> ありがとうございます 合掌。
<精神(生命の叡知的面)は物質の運動慣性を変化する>
宇宙の最始源には、宇宙遍満の霊として未発之中(中庸の語)なる陰陽未剖(いんようみぼう) の「天之御中主神」(宇宙未発之中神(あめのみなかぬし))がい給うて、 それが能動受動の二神に分化せられたのであります。
能動は、呼びかける者、受動は従う者であります。 また能動は自由意志であり、受動は法則であります。 更に又自由意志は精神的なものと現れ、法則は物質として現れたのであります。
かくして精神は物質を支配し、物質は精神によって一定の形態に造り出されます。 そして能動的なる精神は物質に運動する方向を与え、物質はその与えられた方向に、 抵抗又は反対の力の加わらない限り運動慣性(惰力)をもって永久に動いて行こうと するのであります。
即ち物質は与えられた精神的エネルギー(主導的なるもの)の業力の形象化として 続いて行くのでありますから、エネルギーの具象化とも言い得ると同時に 精神の反影又は「心の反影(かげ)」とも言い得るのであります。
本来宇宙霊は一つでありますが、その主導的部分が「精神」と現れ、 その主動エネルギーが動力であり、そのエネルギーの受動的蓄積が物質に与えられた 運動慣性でありますから、ひとたび主動エネルギーの主体たる精神が働けば 物質の運動慣性を変化する事が出来なければならぬのであります。
而して又、実際に「生命現象」と云うものは、 生命が精神的主導者として単なる物理化学的な習慣的機械運動以上に、 物質分子の離合集散を支配しつつあることによって成立っているのであります。
つづく。
<平成27年7月15日 謹写> ありがとうございます 合掌。
<よく調(ととの)へられたる現在意識は宇宙霊の自発的中心者である>
神は「宇宙の太霊」であり、精神と現れ、物質と現れることはわかりましたが、 精神と現れた方は主動者となり、その素材たるエネルギーの蓄積体たる物質を支配します。 本来「一つのもの」が現れて三位一体の関係をなしているのであります。
これは大宇宙に於いても人間に於いても同一のことであります。
宇宙にはまだ色々の形態に構成せられるための素材たる物質が、 素粒子、原子、分子、・・・等々無数に存在するのでありますが、 それと同じく人間にもまだ一定の形態をとらず、精神的模型の指導するままの形に いつでも変化しようと待ちもうけている無数の素材たる成分が存在するのであります。
現象宇宙は既成のものでなく、今も新たに創造されつつあると同じように、 人体も既に造られてしまったものではなく、今も創造(つく)られつつある途中の ものであります。
これは必ずしも子供の肉体のみではなく、大人でも、老人でも同じことであります。
だから現在肉体が不完全な状態でありましょうとも、そんな事は問題ではないのであります。 吾々が「想念の模型」を完全な相(すがた)に変化しさえすればまだ未形成の材料をもって、 新しく描かれたる「想念の模型」の通りに新しき組織を作り、新陳代謝が行われて、 完全な肉体が現れて来ることは当然なのであります。
宇宙には「唯一つの太霊」即ち神があります。それは偏在であり、到る処に満ち充ちており、 その一部分が人間の霊又は「生命(せいめい)」となって宿っているのであります。
「霊」又は「生命(せいめい)」は人間の本体であり、その働きの精神的面が潜在意識となり、 その物質的面が肉体となり、潜在意識は、その物質の離合集成を支配して脳髄をつくり、 脳髄に太霊及び潜在意識の波動が作用して、脳髄意識又は現在意識となって現れます。
太霊の波動が完全に歪みなくキャッチされれば霊智(又は叡智)となって現れますが、 潜在意識が脳髄に出て来る場合には、過去の記憶心象や色々の隠れたる葛藤や、
時として潜在意識に「死にたい希望」や「受難礼賛の願望」やが混入して不純になっている 場合には、不幸に導く為の導きとしてフト現在意識に、為(し)ては必ず危禍を招くか、 失敗するようなことを思い浮べさせたりすることがあるのであります。
このような人間の「心の機構」を分析してまいりますと、現在意識の背後には潜在意識があり、 その奥には宇宙霊の波動があると云うことが判るのであります。
現在意識は、その奥にある潜在意識と、宇宙の太霊とのスピーカーみたいなものでありまして、 吾々がよき選波作用をしますならば、宇宙の叡智そのものの意識的な表出口となるのであります。
そして浄められて良く整えられたる現在意識こそ、神御自身の意識的自覚的な表れとして、 神の宇宙完成の神業を司る中心体となるのであり、その場合わが現在意識の欲するところは 神が欲し給うのであって、必ず成就しないと云うことはないと云うことになるのであります。
それでは現在意をそのようによく調(ととの)えられ、宇宙の叡智そのものをキャッチし得る スピーカーとならしめるにはどうしたら好いだろうかと云う問題が起って来るのであります。
つづく。
<平成27年7月16日 謹写> ありがとうございます 合掌。
<個人の生理作用の中に宇宙の叡智は宿っている>.
吾々の心に現在意識と潜在意識とがあり、更にその奥に個人の潜在意識の総合意識たる 宇宙の潜在意識があり、宇宙霊の叡智が存在するのであります。
心理学者が漠然と潜在意識と称しているものの中には、 現世及び過去世に於ける記憶心象や、隠れたる願望や、感情想念などの他に、 「宇宙の叡智」もひっくるめられているのである。
宇宙の叡智の高級なるあらわれは、霊智心とか審美性とか云うような すぐれた高尚な叡智となって現れるが、その低い程度の現れとしては、 「細胞の心」や「内臓の心」や、「本能」等となってあらわれているのであります。
赤ん坊が誰に教えられないでも、母親の乳房を吸ったり、青春期になると誰に教えられないでも 性感を催して来るのは、「過去世の記憶」としての潜在意識の働きというよりも、 宇宙の叡智の「本能」としてのあらわれと云うべきであります。
現在意識が何等思考を用いないでも、心臓は一定の速度で鼓動し、その鼓動の数や体温に関係 して最も適当な呼吸回数を保って過たないと云うのは、「内臓の心」(内臓に於ける宇宙の叡智) のはたらきであります。
同様にして宇宙の叡智は、眠っている間も起きている間も少しも休むことなく消化作用や、 泌尿作用や、ありと凡ゆる微妙な生理作用を遂行しているのであります。
この霊妙な宇宙の叡智のはたらきが個人の中に宿っていると云うところに、 個人の心が宇宙の叡智に通ずる道を発見することが出来るのであります。
宇宙にはただ一つの心(又は生命)があり、甲の心、乙の心と云うように 別々にあるのではないと云う事は既に述べたところであります。
すべての個人の心は全体の心に通じ、全体の心は個人の心に通じているのであります。 吾々の現在意識が心に描きます事は潜在意識に印象せられ、潜在意識を通じて 宇宙意識の創化作用を動かして、心に描いたところのものを現象化することになるのであります。
つづく。
<平成27年7月17日 謹写> ありがとうございます 合掌。
この現象化の力と云うものは「類を以て集る」「心に描いた通りが形に現われる」と云う法則で ありまして、それは自動的に機械的に好悪の念に動かされず、二が二であり、三が三であって、 その他の事はあり得ないような法則であります。だから人間は自覚的選択の中心者として人間の 意識が選んだ通りのものを現象化してくれるのであります。
ところが人間の意識は、心の表面(現在意識)で想念していることと、潜在意識で念じている事 とが喰い違っていることがあるのであります。例えば「表面の心」で「自分は富みたい」と思い ながら、潜在意識では、「富める者は天国に入ることが出来ない」とか、「自分はとても富めない」 とか考えているが如きがそれであります。
病気の場合でも、表面の心では「病気になりたくない、治りたい」と念じながらも、潜在意識 では「病気の方が都合がよい」とか、「一週間位は楽に寝てみたい」と考えている事があるので ありまして、これが現在意識と潜在意識の不一致であります。
人間は神の自覚的創造力の意識的中心でありますので、人間の心に描く事は、神の法則面として の創造力が無条件にそれを造ってくれるのでありますが、その心に描くその事が自己分裂して、 一方は「健康でありたい願い」を持ち、他方は「病気を欲する願い」を持っているとしますならば、
そのより多く強烈なる願望の方が叶えられるのでありまして、 表面の現在識の小部分で願っている健康の願いよりも、 潜在意識の深い層で願っている病気への希望が、より強力なために、 宇宙の創化作用は病気を具象化してくれたりするのであります。
これが、神の最高の自己実現として、自己の運命の指導力を自己自身で握っている人間の特権で あり、悲劇でもあるのであります。
つづく。
<平成27年7月18日 謹写> ありがとうございます 合掌。
<人間の運命は努力と発見とによる自己創造である>
人間の運命は自己創造であり、人間は自己の運命を自分で開拓する道を発見し、 みずからの努力と発見とによって、一歩一歩よりよき運命を築き上げ、 一層高く自己の魂を向上させて行かなければならないのであります。
それは恰も将棋のゲームのようなものであります。 そこには一定の法則が厳として存在しているのであり、一駒一駒の進退は その法則に照らされて自己の運命を自主的に決定して行くのであります。
神はその子(人間)を愛したまう故に完全なる自由を与えたのであります。
神は外からは導き給わず、(外からの導きもあるが、神の導きを「迷い」の導きと 区別するのは、自分の内」なる判断による)内に宿る叡智をみずから 自分の努力と発見とによって開発して行かなければならないのであります。
人間が神の子であり、内に神の叡智が宿っていると云うのは、 神のすべての力が宿っていると云うことであって、 その一断片が宿っていると云うようなそんな不徹底なものではないのであります。
しかしこれは自覚する程度にしたがって其の力が実現して来るのであって、 それは恰度、地下埋蔵の無限量の金鉱にも比すべきものであります。
埋蔵されたる鉱量は無尽蔵でありましても、努力と発見とによってのみ、 その無尽蔵の幾分かが吾々の利用範囲内に浮かび上がって来るのであります。
諸君はこの章をお読みになったら既に自己の内部に宇宙霊の無尽蔵の生命力と叡智とが宿って いるものだと云うことを発見なさった筈なのであります。
それを知るだけでも病気や貧乏に対する恐怖心が消滅して、 確乎とした安心境に生活し得られる筈なのであります。
『般若心経』には、「顛倒夢想を遠離すれば恐怖なし」と書かれておりますが、 恐怖心と云うものは本来、「無限の生命力と、無限の叡智との宿っている偉大なる自分だ」 と云う人間實相を悟らないで顛倒の妄想を起して、病気とかヴィールスとか云う 敵対し難い外敵に襲われる弱小な自分だと信ずるところから起って来るのでありますから、
人間の實相の強力完全円満なことがわかれば自然に恐怖心が滅し、 恐怖心が滅すれば、細胞の生命力及び抗病力が増加し、 自然に健康体に復して来るのであります。
すべての人間を害する何者かが存在すると考えた想念はすべて顛倒の夢の想いであって、 この世界に真に存在するものは悉く「神」と神の自己表現であるところの「神の想念」のみ であるから、
互に抗争する何物もなく、互に相食み相害する何物もなく、 従って調和のみが実在であり、不調和は本来存在しないものであり、 病気の如きはただ吾等の想念の迷いより来る「夢」だとわかってしまうのであります。
つづく。
<平成27年7月19日 謹写> ありがとうございます 合掌。
<過去の聖者の啓示と吾々との関係>
吾々は『般若心経』を爰(ここ)に引合いに出して来たからとて、 イエス・キリストが「人間は神の子」であると云ったからとて、 モーセが『創世記』で「人間は神の像につくられたり」と書いたからとて、
それを典拠として、過去の権威者の人間探求の真理を、 ただそれを先賢の言葉だからと云って無条件に承認せよと云うのではありません。
これらの高き啓示を受けた人々が書き下ろした真理は尊いものに相違ありませんが、 それを最後最究極の真理として、吾々はそれを全面的に受入れなければならない と云うのではないのであります。
吾々が、彼等の書き遺した真理を、真理であるとして領会(りょうえ)し得るのは、 吾等の内にも「真理」が宿っているからであります。
彼等の啓示されたる「真理」と吾々に宿っている「真理」とがカチカチ触れ合って それが真理である事を領会し得るからであります。
吾々の内にも亦「真理」が宿っています。 それが正しき「理性」となり、「判断力」となり、「悟性」となってあらわれて来て、 「真理」を真理として悟ることが出来るのであります。
だから吾々が近代科学の発見したところの事実を基礎として、正しき理性により判断し得たる ところの真理は、古の尊き聖者が、直観的認識によって得たところの啓示にくらべて優るとも 劣ることなき真理であり、神示であると云うことが出来るのであります。
だから吾々は必ずしも過去の聖者がこういったから、その通りだと主張するのではありません。 吾々自身で、最近の生物学や原子物理学や天文学やその他の尊き科学上の発見を通じて、 宇宙には、「神」と称しても差支えのない偉大なる叡智が存在すると云うことを主張するので ありまして、過去の典拠はただ吾々の参考のとどめるに過ぎないのであります。
つづく。
<平成27年7月20日 謹写> ありがとうございます 合掌。
<宇宙を創造したと同じ力が人間の生命力である>
試みに、吾々の住んでいる地球は如何にして生成され、如何にして存在し、 運行しているかを考えて見れば、それは実に驚くべき広大無辺な叡智によって 創作されたものだと云う事が出来るのであります。
吾々の住んでいる地球は、その直径凡そ八千哩(マイル)だと云われています。 太陽の直径に至っては八十六万六千哩だと測定されています。
このような広大な太陽の周囲に一定の距離をもって地球はその他の八個(現在八個のうち 冥王星は準惑星とされ、除外されている。玄米注)の遊星と共に、 別々の軌道を一糸乱れることなしに旋回しているのであります。
太陽と地球との距離は九千三百哩も離れているのでありますが、 その距離と、地軸の傾斜角度と地球自転の速力とは実に微妙な設計になっており、 距離がもう少し近過ぎても遠過ぎても、地上の大部分の温度が 生物の棲息に適しなくなるのでありますが、
この広大なる設計家の叡智は、地球表面上の全地域にわたって 人間その他の生物の生活または旅行可能の温度に保ち得るように 構成しているのであります。
その微妙なる設計は私がここで千万言を費やしても明らかになし得ないのでありまして、 それは天文学者の専門的著述を読んで貰えば、諸君は益々宇宙の叡智が どんなに素晴らしいものであるかが分って頂けるでありましょう。
単にその設計が微妙であるばかりでなく、 その大いさに於いても驚くべきものがあるのであります。
吾々の望遠鏡の視力が到達し得る限りに於いては、可視的宇宙の最も遠くにある星辰は 光の速度をもってしても吾々の地球に到達するのに一億五千万年を要すると観測されている のでありまして、吾々はこの宏大な宇宙の中に吾々の太陽よりも大きい無数の太陽を 恒星として眺めているのであります。
吾々の住んでいる太陽はこれらの数多くの太陽の中でも中位以下の大いさのものに 過ぎない事を思えば、この宇宙がどんなに大きなものであり、従って これを設計した叡智がどんなに広大なるものであるかがわかるのであります。
この太陽をつくり、宇宙をつくり、地球をつくったその同じ叡智と偉大なる力が 人間を造ったのであります。
しかも此の叡智と力が人間を如何にして作ったかと云えば、或る材料に外から力を加えて つくったのではないのでありまして、内からその力が、その力を材料とし、 その力で設計してつくったのでありまして、
其の同じ力が吾々人間自身の中に自己自身の「生命力」として宿っているのでありますから、 この自己自身に宿っている力を自覚してそれを活動せしめるようにしたならば、
この大宇宙全体の大構造さえも調和ある姿にあらしめている其の力なのでありますから、 身体を調和ある健康状態に保つと云うが如きことはいと容易(たやす)きことだと 云わなければならないのであります。
この一切を大調和に秩序整然たる相(すがた)にならしめている力こそ 自己に宿る神の力なのであります。
吾々が先ず取り去らなければならない想念は、 この世界に人間に何か不調和を来たさしむる如き不完全な力や、 対立的な力が存在すると云う迷いなのであります。
つづく。
<平成27年7月21日 謹写> ありがとうございます 合掌。
<肉体は想念感情の具象化である>
人間の中に、宇宙を造ったと同じ「生命力」が宿っていると申しますと、 「肉体」と云う容器の中にそう云う「生命力」が宿っているのかと誤解する人があります けれども、そう云う「肉体」と「生命力」と云うが如くに対立的なものではないのであります。
「生命力」そのものが「肉体」として自己表現しているのであります。 ここが肝腎なところでありまして、「肉体」と「生命力」とを 対立させて考えてはならないのであります。
「肉体」は「生命力」の現れであります。 しかし「生命力」は「想念」の波動によって、自分の欲するものを現象界に具象化する のでありまして、「生命力」→→「想念」→→「肉体」として自己表現されて来るのであります。
「生命力」は本体であり、「想念」又は「感情」はその作用であり、 「肉体の状態」はその作用が現れた結果であります。
これを例証する実例は随分沢山見られるのでありまして、 「母危篤」の電報を受取りますと、生命力は「想念」の上に、母の死に瀕している姿を描きます。 すると急に顔が青褪め、心臓の鼓動が昂(たかま)って来るのであります。
更に、今まで元気であった青年が、体格検査を受けて、医師から 「君は既に第三期の肺結核に罹っている」と云われますと、忽ち顔が青褪め、 心臓の鼓動は昂(たかま)り、発熱して、「死に瀕している」状態が表われて来るのであります。
即ち、医師の宣告によって、自己に「死」の想念感情が描かれますから、 その描かれた通りの「死」の様相があらわれて来るのであります。
つづく。
<平成27年7月22日 謹写> ありがとうございます 合掌。
<最近の米国に於ける諸学説>
米国のハーヴァード大学の心理学教室は、ウイリアム・ゼームズ教授やゲーツ教授の如き、 有名なる心理学者を輩出し、心理作用が如何に肉体に影響を及ぼすかの実験的記録の発表で 有名でありますが、
最近にも同大学の心理学教授W・B・キャノン博士は、その幾多の実験により、 意識的に涵養されたる愛の感情が眼眸(がんぼう)の輝きを増し、血液循環及び消化作用を 改善し、排泄系統の生理機能を順調にならしめるものであり、
その逆に、恐怖、羨望、憎悪の感情は、上記の如き生理機能を逆転せしめて健康に 著しい悪影響を与えると云うことを発表しているのであります。
ボストンの心理学者アブラハム・マイヤースキン博士は 最近アメリカ心理病理学協会の会合の席上、
「胃潰瘍、喘息、皮膚疾患及び心臓の故障は、或る期間中にわたって 継続せる精神的悩みによって惹き起される事がしばしばある」と、発表したのであります。
そして更に「不調和なる感情は赤血球の生産を制限して、以って貧血状態を起こさしめる。 そしてまた所謂(いわゆ)る『神経性消化不良』と称されているものの大多数は、 実は感情的消化不良である」と云っているのであります。
私の『精神分析の話』の本の中には、医者が治療困難と称した無数の機能性及び器質的疾患が、 その精神状態を分析して反省せしめ、心の持ち方を一変せしめた結果、治ってしまった実例が 挙げられているのであります。
前記のマイヤースン博士も、顔面及び身体各部の腫物が、伝染性黴菌を消毒する 薬剤的処置を如何に繰返しても治らなかったのが、適当な精神指導によって 治ったと云う実例を挙げているのであります。
シカゴのレオン・J・サウル博士もまた精神状態が病気を惹起する事実を認めている のでありまして、
「或る人々に於いては悪寒戦慄を伴う病気が、実は長期にわたる、愛、いたわり、安静への 願いが満たされなかったためか、それらの愛といたわりへの要求が激烈に蹂躙された心の 傷から起っているのであり、そのような精神分析によって、今迄しばしば悩んだ悪寒戦慄を 催す病気が解消した多くの実例がある」と云っている。
そして、その悪寒の状態と云うものが、いずれの患者に於いても、 その人の強烈なる愛への要求が踏み躙られた状態と、多少とも潜在意識内にある 抑圧されたる憤激の感情の程度とに一致すると云うことを述べているのであります。
またジュリウス・ヘイマン博士は静脈竇(じょうみゃくとう)の疾患、鼻茸、結腸炎、 神経過敏その他諸種の肉体的疾患はいずれもその原因が心にあると云っているのであります。
つづく。
<平成27年7月23日 謹写> ありがとうございます 合掌。
<何故心で病気が治るか>
吾々の治癒せしめた無数の体験録の集成に於いては、 疣や痔核の脱落や、脊椎カリエスの消滅や、子宮筋腫の自然的脱除や、 子宮脱の突然的復旧や、癌腫の消滅の如きも、精神の転換によって得られている 実例が出ているのであります。
このようなことがどうして起るのであろうかと疑う人がありますが、 それは次の二つの理由によるのであります。
(一)宇宙全体は「心」で造られたのであるから到る処に「心」が充満しており、 「心」の満ちていない所はない。従って人間は、脳髄だけで感じ思うのではなく、 肉体全体が想念の塊であるから、何かを感じ思う時は、 全身で感じ想うているからであります。
(二)常識の世界では、「物質」と「心」とは別物でありますけれども、 「物質」は要するに「心」の波動が具象化したものであるから、 肉体の状態は決して「心」の状態から独立したものではないのであります。
肉体がどういう状態をしているかと云うことは「肉体」が何を想っているか と云う事に他ならないのであります。
或る意味に於いては「心」が想う事は「肉体」が想うと云う事であり、 肉体は自分自身の想う通りの形になるのであります。
だから凡ゆる想念感情の変化は肉体の状態となって現れて来るのであります。 それが調和せる想念感情ならば結構でありますけれども、不調和なる想念感情である 場合には、それが具象化して肉体的病気となって現れて来るのであります。
病気は文字そのものが明らかに示しているように、「病める気」そのものであります。
心が病気の原因となる云うように申しますのは、「心」と「肉体」とを二元的に観る ところの常識に順応した言葉を使ったに過ぎないのでありまして、実は「病気」とは 病める気――歪められた心の不調和の心そのものなのであります。
それ故病気の根本的克服は、一にかかって心の不調和を修正する事にあるのであります。
肉体を構成する物質は、ただ与えれた運動慣性によって動いているのでありますから、 生まれた時以来、健康な状態に構成さるべき肉体の成分が、その運動慣性を変化して、 不健康状態に構成されて行くためには、新に不調和なる精神が、その物質の慣性を 変化するために作用しなければならないのであります。
だから肉体細胞の不調和なる形成を変化するには、 その形成を指導するところの心を変化しなければならないのであります。
つづく。
<平成27年7月24日 謹写> ありがとうございます 合掌。
肉体細胞の形成を指導するのが「心」であると申しましたが、 もっと適切に云いますならば、肉体は心の具象化でありますから、 「心」と「細胞」とは不二一体なのであります。
健康な「肉体細胞」は健康な「心」そのものであります。 どんなに「心」が一変すれば、「細胞」の健不健が急激に変化するかと云うことは、 血球が新たに作られる速度を考えて見ても明らかなことなのであります。
専門家の云うところによれば、人間の血管の中を流れる赤血球は1秒間に 凡そ十五億万個も新造せられているのであり、また毛細管を1秒間に通過する数も ほぼ同数であると云われています。
その新造の赤血球のが新たに肉体細胞を拵えて行くのですから、 過去の肉体がどのような状態であろうとも、そんなことはどうでも好いのであります。
新しく造られた血球によって新しく造られる細胞さえも健康な状態に造れば、 人体は間もなく新細胞で出来上がった「新人」に変化してしまうのであります。
そのような激しい速力で流動しつつ新細胞を形成しつつある養分の流動を 支配しつつあるのは、吾々の想念感情でありますから、肉体全体は、 「想念感情の磁場」の中に旋回する鉄粉のようなものであります。
この磁場を旋回する「想念の磁気的流れ」を変化すれば 急速に肉体状態が変化するのは当然であります。 先ず健康になろうと思う者は、あなたの想念感情の「磁気的流れ」を変化せよと 云いたいのであります。
つづく。
<平成27年7月25日 謹写> ありがとうございます 合掌。
<明るい楽しい想念は健康を構成する>
吾々の肉体細胞が、或る想念感情の「磁気的流れ」によって実に急激に 新しい成分を造り出すと云うことは、悲しくなればその瞬間に涙が流れ、 酸っぱい物を見ればその瞬間に、唾液が沢山分泌されるのでも明らかであります。
吾々は必ずしも「唾液」とは思わなくとも唾液が分泌せられるのであり、 「涙」と思わなくとも涙が分泌せられることに注意しなければならないのであります。
美味しいもの、快きものを思い浮かべると唾液が多く分泌せられるのでありまして、 美人を見て恍惚としても涎(よだれ)が出るのであります。
これを支那では「垂涎三尺」と大袈裟に形容しましたが、 これさえも決して誇張とは言い得ないのであります。
悲しきもの、辛いものを思い浮べますと、 「涙」と思わなくなくとも「涙」が流れてくるのであります。
心で思うことが病気に現れると申しますと、 「私は決して『病気』などと思った事もないのに病気になった」と云う人があるかも 知れませんけれども、それは悲しい事や辛い事を思えば、「涙」が流れて来るように、 「病気」を心に思わなくとも、心に不快なことを想った想いが具象化して 「病気」とあられて来たのであります。
だから健康になるための根本的法則は、 不快な事、酷い事、腹の立つ事、悲しい事、その他何事でも快からざる想念感情を 連想的にでも惹起(ひきおこ)すようなものを考えないことであります。 だから病気のことを考えるのも、よくありません。
「病気を治したい、治したい」と思いながら祈ったり、思念したりするのは効果が薄いのは この理由によるのでありまして、病気は、「病気を忘れてしまった時に治る」と云われている のもそのためであります。
つづく。
<平成27年7月26日 謹写> ありがとうございます 合掌。
吾々は肉体の状態に応じて、どのように生理作用を改造して行けばよいかを知り尽くしてから、 それが「あるべき正しき状態」を心に想念して、新細胞が造構せられる過程を指導しなければ ならぬと云うことはないのであります。
「美味しい食物」を考えるだけで、胃腸の事は全然考えなくとも、よき胃液が出ます。
そのように心に描くことが具象化するのでありますから、吾々は、美しきこと、楽しきこと、 美味しきこと、愛に満たされていること、すべて円満完全な状態のみを、 「既にあるが如く」心に描くようにすればよいのであります。
そうすると、如何なる成分が如何に結合して、如何なる成分が造られ、 如何なる細胞が形成せられるか――そんな事を吾々の現在意識は知る必要はないのであります。
吾々の《内に宿り給う》「宇宙の叡智」がその過程も、方法も、成分の混合割合も、 新細胞の設計も知っていられるのであります。
吾々の内臓を動かしている「内臓の心」は実は「宇宙の叡智」が 内臓に於いて現れているのであります。
吾が心に不快な思いを抱いてその「宇宙の叡智」の磁場を撹乱しさえせねば、 「宇宙の叡智」の磁力的流れの中に一切の養分が置かれて、その指導するまにまに 健全なる新細胞を構成してくれるのであります。 つづく。
<平成27年7月27日 謹写> ありがとうございます 合掌。
<潜在意識の希望の実現が病気を作る>
この世の中に、そして自分自身の関係あるところに、何物と雖(いえど)も、 自分の想念感情と全然無関係なものは生じて来ないのであります。
すべて自分の想念感情に類するタイプのもののみが形に現われて来るのであります。
想念感情が「唾液」を思わなくとも、「梅干」を想うだけで唾液が出るのは 「梅干」と「唾液」とは潜在意識の世界で《或る連関をもって》いるからであります。
それは梅干の酸を中和せんがために潜在意識が、 アルカリ性の唾液を分泌せしめるのであります。 これは潜在意識が、梅干に対して正しき連関をもって働いたのであります。
潜在意識が「宇宙の太霊」(神の叡智)そのままをゆがめないで 神意(みこころ)通りに働いた時には、それは健康を肉体の上に創造するのであります。
けれども、若しその潜在意識が、現在意識から「憎み」その他の悪感情を印象され、 「宇宙の心」(神)そのままに働かず歪めて働いた時には、 不健康となってあらわれて来るのであります。
フレデリック・W・ベイルズ氏はその著書の中で次のような実例を挙げているのであります。
或る時、ベイルズ氏の許へ一人の激痛で苦しむ関節炎の患者が来たのであります。
病気は心で生ずるのだとベイルズ氏が話しますと、 「自分は関節炎のことなど心に思った事も無いのに関節炎になったのだから、 心で病気が起ると云う事は承服し難いことだ」と言いました。
ところが色々家庭の事情をきいて見ているうちに次のような事が分りました。
彼は同じ町の一哩(マイル)も隔たっているっているところに住んでいる 義妹(ぎまい)夫婦を憎んでいたのです。
憎んでいるににもかかわらず、彼の妻は自分の妹夫婦のところへ 毎日曜の午後には一緒に歩いて往って訪問せよと云ってききませんでした。
彼は憎んでいる義妹夫婦を訪問したくはなかったのでありますが、 彼の妻が非常に押しの強い女性であって夫にどうしてもその訪問を強制するので、 彼は毎日曜日に嫌々ながら訪問する事にしていました。
自動車は持っていないので、一哩の道を、 憎んでいる相手を訪問するのは何としても快いことでありませんでした。
そこで12年間も続いていた抑圧された内部精神の葛藤と、妻に対する憤激の感情と、 それに加うるに何とか訪問しなくて済む口実を設けたいと云う希望が潜在意識に印象され、 それが、「宇宙の太霊」の正しい健康をもたらす生理作用を歪めて、遂に 関節リュウマチスを惹起し、義妹夫婦を訪問しないで好い条件を作ったものだと わかりました。
斯くて遂に彼は歩行不能となり、毎週の訪問は避けられましたが、 現在意識では関節炎の苦痛を逃れたくて、凡ゆる種類の治療法を試み、 虫歯の抜歯をやってみたり、扁桃腺の切除を試みたりしたが、 何等効果がなかったものであります。
ベイルズ氏はこの患者の潜在意識を分析して、義妹夫婦と和解するように誘導し、 心の生活態度を調和した姿に誘導した結果、2ヶ月のうちに全治してしまったと ベイルズ氏は書いているのであります。
つづく。
<平成27年7月28日 謹写> ありがとうございます 合掌。
<現象に如何に病気不幸が現れようとも、人間の實相は円満完全金剛不壊である>
ベイルズ氏はこの現象を解釈して、宇宙の潜在意識が この患者に病気を起させたのであって、何でも、人がそれに「想念の模型」を 与えた通りのものを作るのだと云っているのであります。
「宇宙の太霊」は断じて人間が不幸になるようには病気その他のものを造らない のでありますが、個人の潜在意識の総合である宇宙の潜在意識は吾々が心に描く通り のものを現象界に創化し出すのであります。
併し現象的に、彼が関節炎のように見えている時にも、神の造り給うた「実在の彼」 (生命の實相)は関節炎ではない、常に完全円満なのであります。
それならば彼が現実体験して関節炎にかかっているのは、どう解釈するかと云いますと、 それは、「彼が義妹夫婦を訪問したくない希望の実現としての潜在意識の白日夢である」 と云うのであります。
すべての体験は意識面に於いてのみ体験せられるのでありますから、 具体的な関節炎で、それがあるにしても、依然として群衆催眠術に於いて一緒に見ている 「心の影」と同様であって、神は決して病気を造り給わないのであって、 如何に病気の如く見えている時もそれは仮相であって、彼の實相は健全なのであります。
つづく。
<平成27年7月29日 謹写> ありがとうございます 合掌。
<病気は人間が潜在意識に描いた白日夢である>
病気と云うものは神の創造でもなければ、神の処罰でもないのであります。 もし病気が神の創造であり、神の処罰でありますならば、それから逃れようと試みることは 囚人が脱獄を企てるようなものでありまして、それは由々しき神に対する反撃だと云わねば ならないのであります。
ところが病気は神の創造(「第一の創造」と「生命の實相」哲学では述べてある)ではなく 潜在意識の創作(偽創造又は「第二の創造」と「生命の實相」哲学では述べてある)で ありますから、潜在意識を改めれば好いのであります。
従ってその人が不幸や病気から如何にせば逃れ得るかと云うことは、 結局潜在意識を如何に支配し得るかと云う事にかかっているのであります。
人間は神の最高の自己実現でありますから、 自分の心で自分自身の運命を支配することが出来るのであります。 自分の心で自分自身の運命を支配する事が出来ると云うことは 決して「物質」を利用しないで、心の力、「思念の力」ばかりを利用せよ と云うのではありません。
人間の生活の向上は、野蛮人の穴居生活時代から現代の高層建築物時代に到るまで、 物質の法則を知り、それを利用することによってその発達を遂げてきたのであります。
従って、物質的衣食住をより良きものにすることが人類の幸福を増進する 重要な役割を演ずるものだとされてされて来たのであります。
空腹や寒暑を防ぐのに物質に頼りながら、病気を防ぐのだけは物質に頼らないで、 ただ「思念」の力のみに頼るべしと云うのは片手落ちの見解だと云わねばなりません。 適当な食物があればそれを食して好いように、 適当な薬剤が発見されれば、それを利用するのも結構なことであります。
唯、吾々は特効薬もないのに憐れにも慢性病に罹って、治し得ぬ薬にしがみついて 経済的恐怖と死の恐怖に悶えている人に薬剤の放棄を断乎として勧め、 脚下照顧してそこに自然治癒力が汝の内に宿っているのを見よと云うに過ぎません。
自然界の法則は人間が利用し得るように、神の愛が、自己自身を挺身せられて、 実に従順にあらゆる場合に同一条件の下では同一の結果を来すように働くと云う 「法則」の姿で提供せられたのですから、自然の法則を利用すると云うことは 神の愛を使わせて頂くと云うことであって、薬剤も適時に、適処に、適量に適する人に 使用されれば効果をあげるのでであります。
つづく。
<平成27年7月30日 謹写> ありがとうございます 合掌。
物理、化学、医学、薬学の進歩も実に此処にあるのでありますが、 このような自然界の法則の中で生きているために、人間は、自然界の物質的法則が、 同一条件の下では同一結果を来すと云う前提の下に、人間に害を及ぼす方向にも 条件さえ整えば同様の作用を及ぼす。
例えば熱は物質を焼くが故に人間をも焼くと云う風に、人間を害することになるのだと 潜在意識が信ずるようになり、潜在意識の幻術的な第二創造力によってそれが現象界に 幻化することになったのでありますが、火は物質を焼く事は出来ますけれども、 火は實相の人間を焼く事は出来ないのであります。
何故なら實相の人間は物質ではなく、金剛不壊の霊的実在であるからであります。
そして自然界の法則は、神の愛が「法則」として自分自身を最も従順な形で 人間の利用し得るように化身して出られたものでありますから、 人間がそれを厚生の道に利用し得る限りは、その法則はその通り行われますが、 人間を害する方向に用いられればその「法則」は行われなくなるのであります。
何故なら、神の愛(法則の本体)はただ人に幸福を与えるのみであって 害を与え得ないからであります。
然らば害を与えた相(すがた)が現実に現れるのは何故であるかと云うと、 前述の如く、潜在意識の自己暗示に起因する幻化作用による仮創造であり、 潜在意識は人間に共通しておりますから、一人に斯く見えることは、 万人にも共通に見えるのでありまして、如何に万人に斯く見えようとも、 それは仮幻であって、実在の人間には決して不幸も病気も起っているのではない のであります。
これを『法華経』では 「衆生、劫尽きて此の世の焼くると見るときもわが浄土は安穏にして天人常に充満す」 と説かれているのであります。
衆生、即ち「生きとし生けるもの」―――現象界の人間―――から見て、 如何にこの世界に不幸や病気が存在するように見えても、 わが浄土、この清らかな神の愛によって造られ護られている世界では 無病不苦不悩の天人のみが充満しているのだ、これが實相だと云うのであります。
つづく。
<平成27年7月31日 謹写> ありがとうございます 合掌。
<潜在意識の所現の世界の奥に超越意識の創造せる実在の世界がある>
この『法華経』の如来壽量品に書かれているところの真理は、 佛教最高の真理でありますけれども、未だ多くの人類は その真実を悟るに到らないのであります。
この真理は聖書の『黙示録』第二十一章にも次の如く書かれているのであります。
「我また新しき天と新しき地を見たり。これ前の天と地とは過ぎ去り、海も亦なきなり。 我れまた聖なる都、新しきエルサレムの、夫の為に飾りたる新婦(はなよめ)の如く 準備(そなえ)して、神の許(もと)を出で天より降りたるを見たり・・・」
この「先の天と地と海」とは 潜在意識の幻化力によって仮創造せる悩みの多き世界なのであります。
それは吾々が真理を知らず、實相円満完全なる霊的世界と霊的実在の世界とを知らず、 ただ善財意識の幻化仮創造の世界を実在と見ていた時代のことでありまして、 時来れば、潜在意識からこの迷いが消え去るのであります。 人類は漸くこの真理に目覚めはじめたばかりであります。
彼等は、今まで物質で出来た世界に活きている物質の人間のみを見ていたのであります。 そして物質的法則だけで動いていると考えていた人間に、深い深い潜在意識の層があって、 それによって動かされている人間を知りはじめたのであります。
しかし潜在意識の層の下に、 實相永遠完全な世界と、實相久遠不滅金剛不壊の円満完全な人間が、 常に壊せず、砕けず、病まず、老いず、死せざる「眞の人間」がある。
それこそ吾々の「本当の自分」だと云うことに目覚めた人は少ないのであります。
フロイド初期の精神分析では、 潜在意識の中にただ暗黒な「性」の衝動のみがあることを見て、 その奥の奥にある神性・實相・超越意識を見なかったのであります。
つづく。
<平成27年8月1日 謹写> ありがとうございます 合掌。
近代の多くの心霊治療家又は治病宗教竝に現世利益的宗教は、各々別々の角度から、 潜在意識と超越意識とに近づこうとしているのでありますけれども、 潜在意識と超越意識との境目は混沌としていて曖昧模糊であります。
しかし宇宙の潜在意識は人類共通の「迷いの意識」でありまして 仏教で云う阿頼耶識の如きもので迷いの世界を仮作するのでありますが、 超越意識は神の意識そのものでありまして、 「衆生劫尽きてこの世の焼くると見る時も吾が浄土は安穏なり」 と『法華経』にあるところの常在久遠不滅真如實相の世界を造っているのであります。
吾々真理探究者はこの常在不滅の久遠世界と久遠人間とを今や発見し始めたばかりであります。
それが完全に吾々の意識全体に発見され把握されたときにこそ、 『黙示録』にあるところの新しき天と新しき地とが実現して来る時なのであります。
この常在不滅の世界を人類の大多数がその意識全体に発見し、把握する時までは 人類の世界に恒久不滅の世界平和は実現しないのであります。
この常在不滅の久遠人間を人類意識の全体に把握し得るまでは、 人類全部が無限健康を享受する至福世界は実現しないのであります。
併し今や迷いの夢は切れはじめました。真理の太陽は昇り始めたのであります。 人類の先覚者であるところの光明思想の諸君よ、吾等は一緒に、この差し昇る真理の太陽に 讃歌を捧げようようではありませんか。
第二章はこれにて完。
<平成27年8月2日 謹写> ありがとうございます 合掌。
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