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光明掲示板・伝統・第二

 

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「善き人生の創造」 (39)
日時:2018年03月09日 (金) 14時30分
名前:伝統

谷口雅春先生・著「善き人生の創造」は、”平賀玄米 さま”が
《谷口雅春先生に帰りましょう・第一》《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》
にて謹写していただき、その一部は閲覧するができます。

ただ、残念ながら、《谷口雅春先生に帰りましょう・第一》にあるご文章に
ついては、現在、アクセス不能のため、閲覧できない状態になっております。

そこで、その部分も含めて、”平賀玄米 さま”のご功績を偲び讃えながら、
尊敬の心を込め、この掲示板に、「善き人生の創造」に残していきたいと思っております。

<関連Web:伝統板・第二「追悼~”平賀玄米 さま” 」
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7702987 >

・・・

はしがき

人間の関心すべき問題のうち最も大にして最も重要なる問題は、
如何に自分自身の生活と創造するかと云うことである。

あまりに多くの人たちは、自分自身の生活をぞんざいに取り扱い過ぎているのである。
朝起きるときから、夜、寝(しん)に就くまでの間、悉く行き当たりばったりに
出鱈目な生活を送っているかのように見える人が多いのである。


このように生活を粗末に取り扱い、自分で自分の生活を創造すると云う理想をもたない
ところに、善き生活の創造が行なわれ得る理由はないのである。

我々は人生とは何ぞやと云うことを知らなければならないし、
人間が此の世に生を享けた目的を知らなければならない。

そして吾々は理想を高く掲げなければならないのである。
人それぞれの人生が、みずからの造り出した創作であるがゆえに、
無理想無解決なのが人生だと投げやりの生活を送る人は、
やはりそのような人生を創作するのである。

理想主義の生活もあれば、現実主義の生活もある。
そして、自分自身の人生は、その人の人生観のとおりの姿に想像されつつあるのである。

誰かが云ったように、
「他の人が選んでくれた幸福よりも、自分自身の選びとった苦難の方(ほう)が、
自分にとっては、より一層幸福である」かも知れないけれども、

しかし、そんな天邪鬼のような、ひねくれた考えを持たないで、しずかに
自分の魂の底の深き願いが何であるかを省みるとき、誰もが自分自身の
「善き人生」を創造したいと希(ねが)わずにはいられないと思われるのである。


どんな人生を創造することが、自分自身にとって真に喜びとなるのであろうか。
何故(なぜ)、いま自分自身が創造しつつある人生に、喜びが少なく、失敗が多く、
懊悩煩悶が多いのだろうか。と、みずから疑っている人もあることだろう。

また、今、有頂天になっている人生にも、そのみじめな破局が目前に迫っているのに、
気がつかずに噴火山上に舞踏をつづけているような生活を送っているような人も
ないのである。


兎も角、あなたはあなたの人生の航路に於ける「あなた」号の船長である。
羅針盤なしに航行を続けるならば、いつ暗礁に乗り上げるかも知れないのである。
あなたの心が不安にみたされたとき、心騒ぐとき、恐怖に満たされたとき、
それは、あなたの魂が、内からあなたの「外的精神」に対(むか)って囁きかける瞬間である。

そんなときに、若しあなたが本書のどのページでも披いて讀んでごらんになれば、
不思議な平和が本書の文字と文字の間から立ちのぼって、
やすらぎがあなたの魂を訪れるに違いないのである。

そのことは書店でみじかい時間立読みをしても幾分かはわかる筈である。
そしてあなたの魂に平和が訪れ、やすらぎが恢復したときにこそ、あなたは、
本当の意味に於いて「あなた自身」に立ち復(かえ)ることが出来、
眞に価値ある人生の創造の第一歩を踏み出されることになるのである。


此の書は、あなたの人生を新たに創造する力を与えるであろう。
満腔の祝福を込めて、この書を、読者の善き人生創造の糧として贈る所以(ゆえん)である。

   昭和二十八年十二月十日
                                    著者 識



http://kaerou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=15378114

        《第一章善き生活の創造原理》

   
    <物質科学と精神科学>

物質科学は自然現象を研究し、その現象の原因結果の構造を詮索し、その法則を発見し、
更に進んでは、その法則に基ずいて、人間が幸福になるように、
その法則を応用しようとするものであります。

精神科学は、精神に連関する自然現象を研究し、その現象の原因結果の構造を詮索し、
その法則を応用しょうとするものであります。

然るに精神に連関する自然現象は、精神のその奥を探求する時おのづから
精神の発する根源であるところの神秘的存在―――大自然力―――の研究に
到達するのであります。

つづく。

      <平成27年6月28日 謹写> ありがとうございます 合掌。



 <「「自然」と云う意味>

人は「自然に天体が生じた」とか「自然に治癒する」とか申します。
併しその大自然の力とは何でしょうか。
そこに「自然」なる語の曖昧性が、暴露しております。

丸亀で講習会があったときに、神の創造の話を致しましたら、
その聴講生の中に「この世界は神が創造したのだとは思われない、自然にあるのだと思う」
と云う人がありました。

自然とは、おのずから、それみずからそのままあると云うのであって、
それを造った本源的力又は創造者などはないと見る見識であります。
既成事実は現象であります。

現象は物質と電磁波を素粒子と云う物質の極小微小体の放射として見るときには、
「自然にあるのだ」と云う見解は、漠然たる唯物論の痕跡を止めているのであります。

併し、素粒子の研究は物理科学者の重大なる関心の問題でありまして、
電子にしろ、中間子にしろ、それは現象であって、それが生ずるのは何処より来るか、
消滅したのちには何処に行くかは物質科学ではわからないのであります。

ウイルソン霧函内での実験によれば突如として或る素粒子が姿をあらわし、
突如として或る素粒子が姿を消してしまうことがあるのでありまして、
その原因者はわからない。

凡そそれらの素粒子の集合体が物質でありますから、
物質界の現象を起こすところの原因者は「神秘」と云うほかはないのです。

この「神秘なるもの」が原因だと云う意味で「自然にあるのだ」と云う場合には、
その「自然」とは「神秘者」即ち「神」を意味するのであって、
その人は漠然と「有神論」を奉じながら、それに気がつかないで、
「自然にあるのだ」と云っているに過ぎないのであります。

そこで、「自然」と云う意味は、自然現象そのものを指す場合と、
自然現象の根源者を指す場合とがあると云うことがわかります。

自然現象を「あるがまま」に研究し、甲の自然現象と乙の自然現象との連関に於いて、
その原因結果の法則を研究するのが物質科学であり、

精神科学は、物質的自然現象と精神的自然現象との相互連関の作用や法則も研究しますが、
更に遡って、それらの現象の因っておこる原因であるところの精神現象以上のもの――
霊的実在にまで探求の鉾先を進めて行こうとするものであります。

しかしその場合には最早「科学」と云うよりも、
哲学又は心霊学の領域に立ち到るのであります。

つづく。

       <平成27年6月29日 謹写> ありがとうございます 合掌。


     <自然現象は「神秘者」の投影>

客観界としての「自然」は現象であり、
その「自然」を自ずから然らしむるところの力は神秘者であります。

親鸞聖人はこれを「不可思議光」と言われました。
「光」とは別のところで親鸞聖人は「佛の光は智慧の光にして」
とか「智慧の光明かぎりなく」とか言っていられるのでありまして、
「不可思議光」とは不思議の智慧であります。

「神秘者」なるものが原因者であり、そして「自然現象」は結果であります。
それ故、自然現象は「神秘者の投影だ」と云うことが出来るのであります。
現象は映画のようなものであり、神秘者は
は製作者(プロデューサー)のようなものであります。

或いは現象は写真であり、その奥に本当の「実在」がどんな姿をしているかはわからないのであって、
吾々は「心」を通してその「実在」が何であるかを窺おうとするのであります。

しかし吾々は「実在」そのものを見ることは出来ない。
「心」を通過してあらわれて来る現象を見るに過ぎないのであります。

即ち「心」が作った「「認識の形式」を通して、
その形式に従って感覚的刺激を置きならべて、
時間空間的にそれを見ているに過ぎないのであります。

それは恰度(ちょうど)、レンズを通して
写された厚味のない写真のようなものでありまして、
写真には、厚味のあるものでも平面に置き列べて感じます。

そのように「霊的の深さ」をもった「実在」が、ただの物質として感じられるのでありまして、
感覚的事物は、すべてこのように、重要な「内容」を捨象し去って、感覚にて捉え得る刺激的部分
のみを三次元空間的に配列して其処に「物質」のみありと翻訳しているに過ぎないのであります。

つづく。

  <平成27年6月30日 謹写> ありがとうございます 合掌。


 <心を磨くことによって人格は大成する>

従ってすべての現象は、写真の如く、実在の一部の影を表現しながら、
それは実在とは余程歪められたものとなっているのであります。

その歪みは、例えば「レンズ」に当るところの「心」を磨くことによってだんだん減少し
現象界に正しき影を写して来るのでありますが、

「心」が執着の念によって「引き攣(つ)り」ますと、「心」のレンズに歪みを生じて、
現象としてあらわれる姿にも歪みを生じ、その歪みが病気、不幸、災難等を生じて
来るのであります。

そこで現象界に於ける「歪み」(病気、不幸、災難等)は自分の「心」のレンズの歪みを
あらわしているのでありますから、それらの病気、不幸、災難等の経験を空しく過ごす
ことなしに、その原因を「心」にありとして反省しますれば、
経験と云うものは「心」のレンズを磨くところの研磨剤となるのであります。

人生に於ける幾多の経験を通してついに自分の心を研磨して
人格を大成せしむるに到るのであります。

そしてついに大成したる人格は、自己の周囲に、
実在界に最も近い写象――調和した現象界――をあらわすことが出来るのであります。

つづく。

       <平成27年7月1日 謹写> ありがとうございます 合掌。


     <霊的知覚を磨け>

物質の状態を精細に観察するには、鋭敏完全なる感覚がなければならないのでありますが、
それと同じように霊的事物を観察するには、鋭敏完全なる霊的知覚がなければならない
のであります。

色盲であるならば、物質的なものでさえも赤色や緑色の存在を見ることが出来ないように、
霊的知覚の遅鈍な者には、霊的事物の存在をみることは出来ないのであります。

よく磨かれたレンズのみが、光線の薄いところでも写真を撮ることが出来るように、
よく磨かれた霊的知覚のみが、霊的事物の存在を見、また更に進んでは
神及び実在界の真相を直感することが出来るのであります。


実在は、時間、空間を超越していますから、時間空間内にあらわれている事物そのものに
実在をもとめ、神をもとめても、それは不可能であります。

時間、空間内にあらわれている事物を契機として、その奥にある実在の霊妙さを自覚するのは、
丁度、網膜にある知覚点を刺激する光の波動を契機として、実在界にある「美」を把握する
のと同じなのであります。

つづく。

      <平成27年7月2日 謹写> ありがとうございます 合掌。


      <美の本源は霊である>

「美」とは何ぞや。単純なる野蛮人は、「美」とは「美しい物体」そのものだと思っている
かも知れませんが、物体そのものが美しいのではなく、物体の感覚的刺激を契機として、
実在界にある「美」の反映を見るのであります。

だから、活花の美を見ましても必ずしも一個一個の「花」そのものが美しいのではなく、
「花」と「花」との間の「空間」に美を感ずるでありましょう。人生の生活の「美」も、
一つ一つの行為よりも、一つ一つの行為をしてかくあらしめている無形の精神的なもの、
「三次元以上のもの」に美の本源があるのであります。

吾々が霊的な存在を知ることが出来るのも、物体の感覚的刺激を契機として、それを感ずる
のでありまして、丁度、小説を読んで作者の心を知り、音楽を聴いて作曲家の魂にふれるのと
同じことであります。霊的な事物のみ実在でありまして、小説の筋や、楽譜などはその奥に
ある霊的な事物の形にすぎないのであります。

つづく。

       <平成27年7月3日 謹写> ありがとうございます 合掌。



      <生活創造の根本的基礎>

過去の宗教家のうちには、神を人間的な形を備えたものだと想像していたものが多いのであります。
旧約聖書にあらわれているエホバ神が嫉妬や復讐の神であることや、阿弥陀佛その他が仏像として
形にあらわせれていることなどは其の事を表わしているのであります。

そして神と云う人間のような方のいらっしゃる処が天国であり、
阿弥陀佛と云う人間のいらっしゃる処が極楽浄土と云う場所であると考えられていたのであります。

そしてこれらの神又は佛は、強力なる独裁権をもっていて、
自分に頼み縋る人間だけをその天国又は極楽へ救いとって安楽生活をいとなましめる。

そうでないものは安楽ならザル生活の中に放置せられる――こう云う風に考えたり説いたりする
宗教が多かったのであります。このような宗教は、神を愛憎あるものと考えているので、神を尊敬
しているのだか、神を軽蔑しているのかわからないのであります。

また或る宗教では、その教祖と云うものが神(又は佛)の肉現であらせられ、その教祖に進物を
贈呈し、賽銭を献納することによって、天国又は極楽へ到達し得るものだと云うように説いて
いるのであります。

これなども過去人智の蒙昧なりし時代に、一人のややすぐれたる智慧者が大衆をたぶらかし、
自己の個人的利益をはかるために作った教義であってかかるものに惑わされてはならないので
あります。

眞の宗教と云うものは、『一切衆生悉く佛性あり』と説いた佛教のように、またすべての人間悉く
神の子であると説いた新しきキリスト教のように、すべての人間の本性に「神」又は「佛性」を
認めて、それを尊敬し礼拝する宗教でなければならないのであります。

自己及び他人の生活を創造するための根本的基盤は、「一切衆生悉く佛性あり」の眞理のほかに
はないのであって、その他の基盤の上に立つ限り、それが如何なる生活であろうと、如何なる運動
であろうと、砂上に建つ楼閣に過ぎないのであります。

つづく。

      <平成27年7月4日 謹写> ありがとうございます 合掌。


       <みずから立つ生活>

吾々が本当に光明ある生活を送るためには、外の権威によって救われると云う様な、
他に依存する底の生活を送っている限りに於いては、その生活は、
「みずから立つ生活」でありませんから、

外来の権威者の恣意によって振り廻される恐れがあり、その恐れの故に常に
動揺していなければなりませんから本当に健実な生活と云う譯には参りません。

自己の救済を、外来の偶然(又は恣意)にゆだねているのでは、自己創造の生活ではありません。
自己創造の生活でなければ、自己にとって価値がないのであります。

他によって救済される生活は、他の人にピアノをひいて貰ってそれを楽しんでいる生活であって、
それでも楽しいことがあるかも知れないけれども、他人がピアノを如何に上手に弾いても、
それは自己の価値創造ではないのであります。
自分の生活にプラスの価値がつくのではないのであります。

吾々は自己の内に、自己の本性の内に、神を見出し、創造の原理を見出し、
自己が自己の生活の主人公であるところの眞理を見出さねばならないのであります。

そこに生長の家のように、又あたらしきユニティ教派のキリスト教のように、
「内在の神」を本尊とする宗教が生まれなければならない必要性があるのであります。

然らば、神とは一体何でありましょうか。

つづく。

        <平成27年7月5日 謹写> ありがとうございます 合掌。


<美の本質としての神>

          *『善き人生の創造』第1章善き生活の創造原理(P12~13)より

概括してギリシャでは、神の本性は「美」と認められていたのであります。
これがヘレニズム精神であります。

ローマでは、神は「正義」と認められていました。

旧約のユダヤでは、神は「正義」であると同時に、正義にそむく者えの「嫉妬」であり、
「復讐」であり、「神罰」でありました。

新約のキリストに於いて、神は初めて「愛」と認められました。

これがヘブライズム精神であります。

しかしそれらの神に対する観念は何れも偏っているのでありまして、
眞理ではありますが、全包容的ではないのであります。

神は「美」であると共に「正義」であり、「正義」であると共に「愛」であります。
「愛」であると共に「法則」でありますから、眼には眼を報い、歯には歯を報いる―――
一定の原因に対して一定の結果を与える――― 即ち復讐の神、神罰の神とも
見られることになるのであります。

しかし、その復讐は決して神罰を与えて《やれ》と云うような憎しみの感情ではなく、
法則が自働して、瓜を蒔いたら瓜が生り、茄子を蒔いたら茄子が生え、
誉めれば誉められ、陰口をきけば陰口をきかれる・・・となるのであります。


生長の家で説いている神は、これらの総ての内容を包蔵する神であり、美であり、調和であり、
正義であり、法則であり、愛である神であり、あらゆる点に円満なる神であります。

            <感謝合掌 平成28年7月17日 頓首再拝>



     <人は何故「円満完全」を追及するか>

神が円満完全であると云うことがどうしてわかるかと云う人がありますが、神と云うものが、
外にあるものなら、そして感覚を通して見るほかにわからないものであるならば、感覚は、
外にあるものそのものを見ないで、器官を通して見るのでありますから、その器官に写った
通りに見るしか仕方ありませんから、神そのものが、感覚器官を離れてどんな姿で存在する
かと云うことはわからない筈であります。

そこで神が円満完全であると云うことは五官の感覚では立証することは出来ないのであります。

神が円満完全であると云うことは、
もっと内的な自覚によってのみ知ることが出来るのであります。

何故吾々が円満完全なものを心に描き、それに憧憬(あこが)れ、
それを追及しようとするのでありましょうか。

若し内部に「円満完全」のおぼろげなる記憶とか体験と云うものでもなければ、
円満完全を想像することも追及することもない筈であります。

例えば、煙草を喫ったことことのない人は煙草を喫(の)みたいと追及することはない。
煙草を喫ったことのある人のみ煙草を追及するのであります。

それを推し進めて行きますならば、円満完全の体験のある人のみ、
円満完全を追及するのであります。

然るに、円満完全と云うものは現象的な外界には未だ嘗て存在したことはあり得ない。
従って、円満完全の体験は内在する体験として人間の「内」にあると云う他はないのであります。

即ち人間の「内」には円満完全なるものが存在するのでありまして、それを吾々は
「神性」「仏性」または「内在のキリスト」或いは「眞の人間」と云うのでありまして、
ここに初めて遠く外界に求めた神が、近く内界に見出されることになるのであります。

即ち、旧約聖書に、「神が人間を己が肖像(かたち)に造った」というのは、肉体人間を神が
自己の肖像として造ったのではなく、この「内在の眞の人間」(神性・佛性)こそ神の肖像で
あって、それが「本当の自分」であり、肉体は、その「眞の人間」の表現体として常に内部から
円満完全へ円満完全へと改造されつつあるのであります。

それが円満完全への憧憬となり、健康への追及となり、あらゆる善徳への向上となって
肉体人間の生活を内部から指導しつつあるのであります。

つづく。

        <平成27年7月7日 謹写> ありがとうございます 合掌。


        <心の目で内部神性をみつめよ>

だから人間は「内部神性」と「外部肉体」との両面を持つのであります。

「内部神性」(神の肖像)は「眞の人間」であり、
「外部肉体」はその表現体であり、過程であるから未完成であり、
未完成であるから、常に進歩せしめ向上せしめねばなりません。

常に進歩向上せしめるためには、常に「内部神性」の導きの声に耳を傾けねばなりません。

完全なる生活創造は、「内部神性」の導きを通してのみ得られるのであります。
われわれが、外部の不完全な姿のみを認め、それに心が捉えられている限りは、
「内部神性」の完全なる発露はあり得ないのであります。

心に描かれたる観念または想念は、それを具体化するところの運動又は動作を惹起する原動力
となるのでありますから、吾々が現象の不完全なる姿のみに注意を集中して、それに心を振向
けてその姿のみを心に描いている限りは、生活の新しき創造を希いながらも、観念の具体化せ
んとする強制力によって、依然として以前と同じき不完全成る現象を創造するように自己の行動
が導かれるのであります。

之は病気を治そうとする場合にも、また不良の子供を善導せんとする場合にも同じことであり
まして、その悪しき状態に心を集中いる限りに於いては、改善の見込みはないのであります。

病気のばあいには健康にのみ、児童教育の場合にはその児童の美点にのみ、
心を集中することによって肉体は健康となり、児童は善なる美質を発揮し得ると同じように、
吾々自身の生活創造に於いて、新しき善と美と健康さとを発揮しようと思うならば、
吾々は心のレンズの焦点を「最善なるもの」にのみ集注することによって
それが可能となるのであります。

「最も善なるもの」とはなんであるか。
それは諸君の「内部神性」であります。

諸君が、今より一層、善美なる生活創造をなさんと欲せられるならば、
常に「内部神性」の完全さを心に描いて、「吾は神の子円満完全」の思念を行い、
内部の神性よりして、円満完全なる導きを得るようにしなければならないのであります。

第一章、今回にて完。

        <平成27年7月8日 謹写> ありがとうございます 合掌。

・・・・・・・・・・・・・


http://kaerou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=15388555

          《第二章 生命の不思議》

     <宇宙には驚くべき知性がある>
 
宇宙には、その背後に驚くべき知性が働いているのであります。
宇宙の知性を認めることは神を認める最初のものであります。
拙著『生命の謎』に於いて述べましたように、物質も生きており、感覚があるのであります。

或る一定の元素と元素とが互に牽引し、又他の元素とは互に排斥し合うのは、
相手が何物であるかを見分ける力を持っている証拠であります。

殊に触媒と云う何らそれ自らは化合にあずからないものが出て来ると、化合が促進される
ような事実は、触媒の出場を知覚する力を元素が持っていることの証拠と言わねばなりません。

物質の化合が一定の法則の下に行われて、出鱈目でないのは、
法則は知性の表現でありますから、物質の背後に知性が働いている証拠であります。 

木の葉の一片、草の葉の一片も、一定のその木又はその草特有の組織構造に栄養分が
分配されて組立てられて行く有様は、単なる物質の機械的化合以上のものがあるのでありまして、
一定の知性によって栄養分となるべき物質分子が組立てられて行く事を認めることが
出来るのであります。

このような植物は勿論のこと、ありと凡(あら)ゆる地下の生物の生理的構造は、単なる
物理現象や化合現象ではないのでありまして、いずれも智慧のある設計者が煉瓦の建造物
を積み上げて行く様に、物質分子及び細胞を積み上げて行くのでありまして、吾々が指先を
少々位い切り落としましても、微妙な指紋の形までも再現して来るのであります。

そして指先などよりも尚々微妙な働きをする処の脳髄、神経細胞、諸種の腺及び内臓の如きが、
動物の種族に応じて、種族特有の構造を持って構造されて行くのを見るとき、その形が造られて
行く背後に驚くべき智慧が働いていると云うことを認めずにはいられないのであります。

人間に一片の草を造れと云っても、どんな大学者を呼んで来ても造る事は出来ないと
云う事を考えますと、この宇宙の知性なるものは、人間の知性などの到底及ばない知性を
持っているものだと云うことが出来るのであります。

それは内臓も脳髄も何も無いところから、新に、それを極めて巧妙なる設計に造った
のでありますから、吾々の内臓その他の組織に欠陥が生じた場合に、それを一定のプランに
従って再組織し再構造し得る力があるのは当然と云わなければならないのであります。

つづく。

        <平成27年7月9日 謹写> ありがとうございます 合掌。



     <健康と不健康とは物質の問題よりも「心的模型」の問題である>

ところで、そのような驚くべき知性が宇宙にあるとして、
その知性を人間が病気の場合に如何にして利用したならば、
その自然療能力を完全に発現させ得るかと云う問題であります。

宇宙の知性が如何に無限の力を持っているにしても、
それを吾々が利用することが出来なければ何の役にも立たないのであります。

健康なる人にしても、病人にしても、常に新陳代謝は行われております。
旧組織は消耗しつつあり、新しき成分によって新組織は造られつつあるのであります。

ただそれが異なるのは、健康なる人は、新組織を新に補充する場合に、
その分子又は細胞の並べ方が健全に並べられるのであり、
病人は、新組織を補充する場合に、依然として病的構造にその成分を置き並べるのであります。

そうすると、新陳代謝される場合の成分は、大体経口的に来るもので(著しく栄養不良の場合は
別として)同一でありますが、その成分(分子及び細胞等)を排列する場合の「心の模型」又は、
「精神的設計」と云うものが、健康な人は「健全」であり、病人は、それが病的なのであります。

そうすると、健康者と病人との相異は、分子又は細胞を置き並べる「心の模型」
又は「精神的設計」が健全、不健全の相異でありまして、

結果から見ますれば、肉体の故障として現れていますが、
肉体の再組織を指導する精神力の失敗でありますから、
それは精神的なものだと云わなければならないのであります。

ところで肉体をどうすれば再組織出来るか、どういう風に分子及び細胞を置き並べれば好いかは、
どんな大学者の脳髄も知る事が出来ないのであり、それを知るものは、唯「宇宙の知性」のみで
あります。

従って病的組織を健全組織に引き戻すには、「宇宙の知性」を呼び出して来て、
それに働いて貰う他はないのであります。

即ち「病的な心的模型」をやめて、「健全な心的模型」に働いて貰うことが必要なのであります。

つづく。

    <平成27年7月10日 謹写> ありがとうございます 合掌。


       <医療効果は医師の人格によって変化す>

医薬分業の問題で、私は薬剤師協会の理事長と医師会の副会長との
立会演説を放送討論会の録音で聴いた事がありますが、

「同じ薬でも医師に貰うのと、ただ薬局で買って来て服むのとは実際効果が異う。
これはどういう訳ですか」という聴衆の質問に対して、医師会の副会長の回答は
「人間は単なる物質ではない、医師と患者との関係は薬効プラス人格の接触であるから
そのように効果の相異を生ずるのである。

医薬が分業となり、医者は処方箋だけ出して薬は薬剤師の処へ行って貰うとなれば、
医者と患者の人格の接触がなくなるから、治病効果が薄くなる」
と云う意味だったのであります。

さすがに医術に多年の経験を持っていられる医師の代表者の意見として傾聴したのであります。

兎も角、人格的接触の問題は、精神感応の問題であり、精神の感応によって
医薬に効くと効かぬとの相異を来すことをこの医師会の副会長の言葉は
証明しているのであります。

アメリカに於いても霊的治療は実に旺(さか)んであって、
ユニティ、クリスチャン・サイエンス、リリジャス・サイエンス等々の名で行われ、
数十万部にのぼる機関雑誌又は機関新聞を発行しているユニティやクリスチャン・サイエンス
は無論のこと、その他の精神治療又は哲学治療の学院でもいずれもその機関雑誌に
数万の読者を擁しているのでありまして、ニューソート関連に属している知名の士だけでも
百六十を数えるのであります。

そのプラクティショナー(practitioner治療家)の多くは神学博士の称号を持っている
最高のインテリ階級の人々なのであります。

これをもって見ましても、心の治療効果は決して、
無学者のみの信じている迷信ではないことがわかるのであります。

明治天皇の侍医頭であった入澤達吉博士も嘗て、
「医者と云うものは患者の肉体を治すだけではなく、患者の心を治さなければならない」
と云われたことがあるのであります。

宇宙の知性と人間の知性とを合一せしめるところに宇宙の知性が「無」よりして
諸々の内臓器を造り出したその力を人間が利用することが出来るのであります。

宇宙の物質は皆同一のものであり、それを支配しているところの法則も「一つ」であり、
その一つの法則から如何なるものもハミ出ることが出来ないものだと云うことを
物理学者は発見したのであります。

総ての法則は一つであり、
英国の法則と米国の法則とは異なると云うが如きものではないのであります。
法則は宇宙の知性であり、宇宙の知性は凡ゆるところに満ちているのであります。
私の法則、貴方の法則、彼の法則などと云うものはない。みんな一つなのであります。

それは丁度、空気が地上の何処にでも満ちており、
それを自分が吸う時には「自分の空気」であり、
貴方が吸う時には「貴方の空気」であり、
彼が吸う時には「彼の空気」であるようなものであります。

つづく。

      <平成27年7月11日 謹写> ありがとうございます 合掌。



宇宙の知性は「一つ」であると云うことがわかりましたならば、物質は心の働きでありますから、
宇宙の心は「一つ」である事が判らなければならない筈であります。

宇宙の心は「一つ」であって、
「私の心」「あなたの心」「彼の心」などと云うものは存在しないのであります。

私のところへ現れて来ているときには「私の心」であり、
貴方の処へ現れて来ている時には「貴方の心」であり、
彼の処へ現れて来ている時には「彼の心」なのであります。

宇宙は全体が「心の海」に例える事が出来ます。
「心」と云うものを「脳髄意識」と間違えて考える人がありますから
寧ろ「生命の海」と云うか「霊の海」と云うが好いのであります。

用語と云うものはその定義を明らかに知らないと、
同じものを別の名前をつけて「俺の学説の方が偉い」
と威張り出す人が出てまいります。

この世界は心で出来ている等と云う場合の「心」とは
脳髄から出て来る「心」のことではありません。

脳髄どころか、どんな生物もいない前から、原子を造り、天体を造りだしたところの
不可思議の「叡智の海」を「心の海」というのであります。

脳髄から出る智慧などは、
例えばラジオセットにかかって来た電波の声のようなものであります。

放送の電波は地球を取巻いた電離層に到るまでの間に満ち満ちておりますが、
それがラジオセットを通して出て来ると、個々別々の複製の声を出すのであります。

放送の電波を離れては複製の声はありませんが、
複製の声は電波の声そのものでもありません。
そこにはラジオセットの癖とでも云うべき一種の歪みや雑音が入っているのであります。

脳髄から出る「心」も脳髄ラジオセットから出る声であって、
宇宙の「心」を離れて脳髄の「心」はありませんが、
「脳髄の心」及び潜在意識は「宇宙の心」そのものではありません。

宇宙の心が幾分ゆがめられ、幾分音質が変り、幾分雑音が入っているのであって、
その「歪み」や「雑音」のところが形に現われて来ると病気や不幸となって
現れてくるのであります。

更に宇宙の心以外の妄念妄想を感受して、
それを現象界にあらわす事もあるのであります。

どの波長を感受して現象界に現わすかは、こちらの選波作用によるのでありまして、
宇宙の心は決して個人に対して強制すると云うことはないのであります。

つづく。

        <平成27年7月12日 謹写> ありがとうございます 合掌。


心の波長を感受することはわかるが、
何がその感受した所の心の波長を現象化するのでありましょうか。
その現象化の力は何処から来るのでありましょうか。

宇宙にはただ一つの創造力があるのであります。それは「宇宙の法則」です。
それを「宇宙の心」とも「宇宙の生命」とも「宇宙の叡智」とも「宇宙の霊」
とも云うのです。

宇宙には、此の一つの創化作用(現象化作用)があって、
心に感受した(換言すれば心に描いた)姿を現象化してくれるのであります。

現象界のありとあらゆる相(すがた)は、最始源には物質がなかったのであるから、
原始の「心」に描かれた「想念」または「観念」の姿が現象化されたのだ
と云わなければならないのであります。

太陽系は太陽や地球が物質的に勝手に姿を現わしたのではないのであって、
宇宙の叡智が心に描いた「想念の模型」に従って姿を現わしたのであります。

如何なる形にも無機物自身が勝手に集合して
一定の知性的組織形態をとると云うことは出来ないのであります。

物質の力と称するものは、それに与えられた運動慣性だけであります。
即ちそれに与えられたエネルギーの量だけその方向に惰力で動くと云うことであり、
自由意志的にその方向を変化すると云う事は出来ないのであります。

従って物質のみの力で世界が造られるとするならば、現在に於ける位置と
その運動慣性とを知るならば其の後に起こる一切の現象は宿命的に
定まっているに過ぎないのであります。

しかし物質が偶然に与えられた雑然たる諸力の運動慣性の偶然的集成として、
このようなこの様に秩序整然たる精密機械も及ばない植物、動物、人体等の構成が
出来上がる筈はないのであります。

その点から考えて見ても、宇宙を今ある如き秩序ある形に創造したのは、
偶然に与えられたる運動慣性の集合であるとは考えられないのです。
その「考える」と云うことすら、
物質の運動慣性の集成に過ぎないのだとはどうして言えましょう。

従って宇宙の天体をもひっくるめて、
物質と見えるものが一定の構成をなしているのは物質を
その姿に排列する「知性」の働きだと云わなければならないのであります。

その宇宙に広がる
「知性」を称して、私達は「神」とも云い、「宇宙霊」とも云うのであって、
神と称することを好まない人は、別に「神」と称せずとも、
大自然の叡智と云っても差支えないのであります。

つづく。

     <平成27年7月13日 謹写> ありがとうございます 合掌。



     <自由意志と同時に一定の法則として働き給う神>

この宇宙の叡智は、自由意志的設計者として能動的に自己の欲するところのものを
設計し構成して行く力を持っている。

それは天体、鉱物、植物、動物等・・・自主的自覚意識によって
自分の運命を決定することの出来ないところの低位の存在は、
此の宇宙の叡智によって設計され、その設計の通りに受身に造られたまま、
此等の存在は宿命的なものを受取るのであります。

ところが、ひとたび人間が、宇宙の叡智の最高の顕現として、人格的に現れて来たときには、
その能動的、自己設計的な自由を神は人間に譲り渡し給うたのであります。

そして人間は自己の運命の自主的設計者として、ならびに、
神の意識的自覚的創造の中心者として、自然界や自己の環境を自己の想念の通りに創造し
変改する力を与えられ、神御自身(宇宙の叡智)そのものは、単に受身の態度をとって、
「法則」と云う受動的形となり、人間の意識的自覚的創造力の「想念的原型」の通りに
実に従順に随って、与えられた「想念の原型」通りに活動する事になっているのであります。

神は自発的能動的叡智としては、実に素晴らしい宇宙の構図を想念されたのでありますが、
法則としては、実に無我であり、何等恣意を用い給うことなく、
常に一定の法則的秩序以外にははみ出給うことはないのです。

何処、何時、誰、と云う要素が異なっても、二プラス二は四であると云うように、
実に忠実に一定の律を守って、事物を現象化せられるのであります。

若し、法則なるものが時々変化して、或る時には二プラス二が五になったり、
また、或る時には二プラス二が八になったりしたのでは、
吾々は法則を利用する事が出来ないのであります。

そこで神は「自由の本体」であられながら、
法則としては、一定の律以外には作用し給わないのであります。

つづく。

      <平成27年7月14日 謹写> ありがとうございます 合掌。


      <精神(生命の叡知的面)は物質の運動慣性を変化する>

宇宙の最始源には、宇宙遍満の霊として未発之中(中庸の語)なる陰陽未剖(いんようみぼう)
の「天之御中主神」(宇宙未発之中神(あめのみなかぬし))がい給うて、
それが能動受動の二神に分化せられたのであります。

能動は、呼びかける者、受動は従う者であります。
また能動は自由意志であり、受動は法則であります。
更に又自由意志は精神的なものと現れ、法則は物質として現れたのであります。

かくして精神は物質を支配し、物質は精神によって一定の形態に造り出されます。
そして能動的なる精神は物質に運動する方向を与え、物質はその与えられた方向に、
抵抗又は反対の力の加わらない限り運動慣性(惰力)をもって永久に動いて行こうと
するのであります。

即ち物質は与えられた精神的エネルギー(主導的なるもの)の業力の形象化として
続いて行くのでありますから、エネルギーの具象化とも言い得ると同時に
精神の反影又は「心の反影(かげ)」とも言い得るのであります。

本来宇宙霊は一つでありますが、その主導的部分が「精神」と現れ、
その主動エネルギーが動力であり、そのエネルギーの受動的蓄積が物質に与えられた
運動慣性でありますから、ひとたび主動エネルギーの主体たる精神が働けば
物質の運動慣性を変化する事が出来なければならぬのであります。

而して又、実際に「生命現象」と云うものは、
生命が精神的主導者として単なる物理化学的な習慣的機械運動以上に、
物質分子の離合集散を支配しつつあることによって成立っているのであります。

つづく。

      <平成27年7月15日 謹写> ありがとうございます 合掌。


     <よく調(ととの)へられたる現在意識は宇宙霊の自発的中心者である>

神は「宇宙の太霊」であり、精神と現れ、物質と現れることはわかりましたが、
精神と現れた方は主動者となり、その素材たるエネルギーの蓄積体たる物質を支配します。
本来「一つのもの」が現れて三位一体の関係をなしているのであります。

これは大宇宙に於いても人間に於いても同一のことであります。

宇宙にはまだ色々の形態に構成せられるための素材たる物質が、
素粒子、原子、分子、・・・等々無数に存在するのでありますが、
それと同じく人間にもまだ一定の形態をとらず、精神的模型の指導するままの形に
いつでも変化しようと待ちもうけている無数の素材たる成分が存在するのであります。

現象宇宙は既成のものでなく、今も新たに創造されつつあると同じように、
人体も既に造られてしまったものではなく、今も創造(つく)られつつある途中の
ものであります。

これは必ずしも子供の肉体のみではなく、大人でも、老人でも同じことであります。

だから現在肉体が不完全な状態でありましょうとも、そんな事は問題ではないのであります。
吾々が「想念の模型」を完全な相(すがた)に変化しさえすればまだ未形成の材料をもって、
新しく描かれたる「想念の模型」の通りに新しき組織を作り、新陳代謝が行われて、
完全な肉体が現れて来ることは当然なのであります。

宇宙には「唯一つの太霊」即ち神があります。それは偏在であり、到る処に満ち充ちており、
その一部分が人間の霊又は「生命(せいめい)」となって宿っているのであります。

「霊」又は「生命(せいめい)」は人間の本体であり、その働きの精神的面が潜在意識となり、
その物質的面が肉体となり、潜在意識は、その物質の離合集成を支配して脳髄をつくり、
脳髄に太霊及び潜在意識の波動が作用して、脳髄意識又は現在意識となって現れます。

太霊の波動が完全に歪みなくキャッチされれば霊智(又は叡智)となって現れますが、
潜在意識が脳髄に出て来る場合には、過去の記憶心象や色々の隠れたる葛藤や、

時として潜在意識に「死にたい希望」や「受難礼賛の願望」やが混入して不純になっている
場合には、不幸に導く為の導きとしてフト現在意識に、為(し)ては必ず危禍を招くか、
失敗するようなことを思い浮べさせたりすることがあるのであります。

このような人間の「心の機構」を分析してまいりますと、現在意識の背後には潜在意識があり、
その奥には宇宙霊の波動があると云うことが判るのであります。

現在意識は、その奥にある潜在意識と、宇宙の太霊とのスピーカーみたいなものでありまして、
吾々がよき選波作用をしますならば、宇宙の叡智そのものの意識的な表出口となるのであります。

そして浄められて良く整えられたる現在意識こそ、神御自身の意識的自覚的な表れとして、
神の宇宙完成の神業を司る中心体となるのであり、その場合わが現在意識の欲するところは
神が欲し給うのであって、必ず成就しないと云うことはないと云うことになるのであります。

それでは現在意をそのようによく調(ととの)えられ、宇宙の叡智そのものをキャッチし得る
スピーカーとならしめるにはどうしたら好いだろうかと云う問題が起って来るのであります。

つづく。

      <平成27年7月16日 謹写> ありがとうございます 合掌。


        <個人の生理作用の中に宇宙の叡智は宿っている>.

吾々の心に現在意識と潜在意識とがあり、更にその奥に個人の潜在意識の総合意識たる
宇宙の潜在意識があり、宇宙霊の叡智が存在するのであります。

心理学者が漠然と潜在意識と称しているものの中には、
現世及び過去世に於ける記憶心象や、隠れたる願望や、感情想念などの他に、
「宇宙の叡智」もひっくるめられているのである。

宇宙の叡智の高級なるあらわれは、霊智心とか審美性とか云うような
すぐれた高尚な叡智となって現れるが、その低い程度の現れとしては、
「細胞の心」や「内臓の心」や、「本能」等となってあらわれているのであります。

赤ん坊が誰に教えられないでも、母親の乳房を吸ったり、青春期になると誰に教えられないでも
性感を催して来るのは、「過去世の記憶」としての潜在意識の働きというよりも、
宇宙の叡智の「本能」としてのあらわれと云うべきであります。

現在意識が何等思考を用いないでも、心臓は一定の速度で鼓動し、その鼓動の数や体温に関係
して最も適当な呼吸回数を保って過たないと云うのは、「内臓の心」(内臓に於ける宇宙の叡智)
のはたらきであります。

同様にして宇宙の叡智は、眠っている間も起きている間も少しも休むことなく消化作用や、
泌尿作用や、ありと凡ゆる微妙な生理作用を遂行しているのであります。

この霊妙な宇宙の叡智のはたらきが個人の中に宿っていると云うところに、
個人の心が宇宙の叡智に通ずる道を発見することが出来るのであります。


宇宙にはただ一つの心(又は生命)があり、甲の心、乙の心と云うように
別々にあるのではないと云う事は既に述べたところであります。

すべての個人の心は全体の心に通じ、全体の心は個人の心に通じているのであります。
吾々の現在意識が心に描きます事は潜在意識に印象せられ、潜在意識を通じて
宇宙意識の創化作用を動かして、心に描いたところのものを現象化することになるのであります。

つづく。

      <平成27年7月17日 謹写> ありがとうございます 合掌。


この現象化の力と云うものは「類を以て集る」「心に描いた通りが形に現われる」と云う法則で
ありまして、それは自動的に機械的に好悪の念に動かされず、二が二であり、三が三であって、
その他の事はあり得ないような法則であります。だから人間は自覚的選択の中心者として人間の
意識が選んだ通りのものを現象化してくれるのであります。

ところが人間の意識は、心の表面(現在意識)で想念していることと、潜在意識で念じている事
とが喰い違っていることがあるのであります。例えば「表面の心」で「自分は富みたい」と思い
ながら、潜在意識では、「富める者は天国に入ることが出来ない」とか、「自分はとても富めない」
とか考えているが如きがそれであります。

病気の場合でも、表面の心では「病気になりたくない、治りたい」と念じながらも、潜在意識
では「病気の方が都合がよい」とか、「一週間位は楽に寝てみたい」と考えている事があるので
ありまして、これが現在意識と潜在意識の不一致であります。

人間は神の自覚的創造力の意識的中心でありますので、人間の心に描く事は、神の法則面として
の創造力が無条件にそれを造ってくれるのでありますが、その心に描くその事が自己分裂して、
一方は「健康でありたい願い」を持ち、他方は「病気を欲する願い」を持っているとしますならば、

そのより多く強烈なる願望の方が叶えられるのでありまして、
表面の現在識の小部分で願っている健康の願いよりも、
潜在意識の深い層で願っている病気への希望が、より強力なために、
宇宙の創化作用は病気を具象化してくれたりするのであります。

これが、神の最高の自己実現として、自己の運命の指導力を自己自身で握っている人間の特権で
あり、悲劇でもあるのであります。

つづく。

      <平成27年7月18日 謹写> ありがとうございます 合掌。


        <人間の運命は努力と発見とによる自己創造である>

人間の運命は自己創造であり、人間は自己の運命を自分で開拓する道を発見し、
みずからの努力と発見とによって、一歩一歩よりよき運命を築き上げ、
一層高く自己の魂を向上させて行かなければならないのであります。

それは恰も将棋のゲームのようなものであります。
そこには一定の法則が厳として存在しているのであり、一駒一駒の進退は
その法則に照らされて自己の運命を自主的に決定して行くのであります。

神はその子(人間)を愛したまう故に完全なる自由を与えたのであります。

神は外からは導き給わず、(外からの導きもあるが、神の導きを「迷い」の導きと
区別するのは、自分の内」なる判断による)内に宿る叡智をみずから
自分の努力と発見とによって開発して行かなければならないのであります。


人間が神の子であり、内に神の叡智が宿っていると云うのは、
神のすべての力が宿っていると云うことであって、
その一断片が宿っていると云うようなそんな不徹底なものではないのであります。

しかしこれは自覚する程度にしたがって其の力が実現して来るのであって、
それは恰度、地下埋蔵の無限量の金鉱にも比すべきものであります。

埋蔵されたる鉱量は無尽蔵でありましても、努力と発見とによってのみ、
その無尽蔵の幾分かが吾々の利用範囲内に浮かび上がって来るのであります。

諸君はこの章をお読みになったら既に自己の内部に宇宙霊の無尽蔵の生命力と叡智とが宿って
いるものだと云うことを発見なさった筈なのであります。

それを知るだけでも病気や貧乏に対する恐怖心が消滅して、
確乎とした安心境に生活し得られる筈なのであります。

『般若心経』には、「顛倒夢想を遠離すれば恐怖なし」と書かれておりますが、
恐怖心と云うものは本来、「無限の生命力と、無限の叡智との宿っている偉大なる自分だ」
と云う人間實相を悟らないで顛倒の妄想を起して、病気とかヴィールスとか云う
敵対し難い外敵に襲われる弱小な自分だと信ずるところから起って来るのでありますから、

人間の實相の強力完全円満なことがわかれば自然に恐怖心が滅し、
恐怖心が滅すれば、細胞の生命力及び抗病力が増加し、
自然に健康体に復して来るのであります。

すべての人間を害する何者かが存在すると考えた想念はすべて顛倒の夢の想いであって、
この世界に真に存在するものは悉く「神」と神の自己表現であるところの「神の想念」のみ
であるから、

互に抗争する何物もなく、互に相食み相害する何物もなく、
従って調和のみが実在であり、不調和は本来存在しないものであり、
病気の如きはただ吾等の想念の迷いより来る「夢」だとわかってしまうのであります。

つづく。

      <平成27年7月19日 謹写> ありがとうございます 合掌。


         <過去の聖者の啓示と吾々との関係>

吾々は『般若心経』を爰(ここ)に引合いに出して来たからとて、
イエス・キリストが「人間は神の子」であると云ったからとて、
モーセが『創世記』で「人間は神の像につくられたり」と書いたからとて、

それを典拠として、過去の権威者の人間探求の真理を、
ただそれを先賢の言葉だからと云って無条件に承認せよと云うのではありません。

これらの高き啓示を受けた人々が書き下ろした真理は尊いものに相違ありませんが、
それを最後最究極の真理として、吾々はそれを全面的に受入れなければならない
と云うのではないのであります。

吾々が、彼等の書き遺した真理を、真理であるとして領会(りょうえ)し得るのは、
吾等の内にも「真理」が宿っているからであります。

彼等の啓示されたる「真理」と吾々に宿っている「真理」とがカチカチ触れ合って
それが真理である事を領会し得るからであります。

吾々の内にも亦「真理」が宿っています。
それが正しき「理性」となり、「判断力」となり、「悟性」となってあらわれて来て、
「真理」を真理として悟ることが出来るのであります。

だから吾々が近代科学の発見したところの事実を基礎として、正しき理性により判断し得たる
ところの真理は、古の尊き聖者が、直観的認識によって得たところの啓示にくらべて優るとも
劣ることなき真理であり、神示であると云うことが出来るのであります。

だから吾々は必ずしも過去の聖者がこういったから、その通りだと主張するのではありません。
吾々自身で、最近の生物学や原子物理学や天文学やその他の尊き科学上の発見を通じて、
宇宙には、「神」と称しても差支えのない偉大なる叡智が存在すると云うことを主張するので
ありまして、過去の典拠はただ吾々の参考のとどめるに過ぎないのであります。

つづく。

      <平成27年7月20日 謹写> ありがとうございます 合掌。


    <宇宙を創造したと同じ力が人間の生命力である>

試みに、吾々の住んでいる地球は如何にして生成され、如何にして存在し、
運行しているかを考えて見れば、それは実に驚くべき広大無辺な叡智によって
創作されたものだと云う事が出来るのであります。

吾々の住んでいる地球は、その直径凡そ八千哩(マイル)だと云われています。
太陽の直径に至っては八十六万六千哩だと測定されています。

このような広大な太陽の周囲に一定の距離をもって地球はその他の八個(現在八個のうち
冥王星は準惑星とされ、除外されている。玄米注)の遊星と共に、
別々の軌道を一糸乱れることなしに旋回しているのであります。

太陽と地球との距離は九千三百哩も離れているのでありますが、
その距離と、地軸の傾斜角度と地球自転の速力とは実に微妙な設計になっており、
距離がもう少し近過ぎても遠過ぎても、地上の大部分の温度が
生物の棲息に適しなくなるのでありますが、

この広大なる設計家の叡智は、地球表面上の全地域にわたって
人間その他の生物の生活または旅行可能の温度に保ち得るように
構成しているのであります。

その微妙なる設計は私がここで千万言を費やしても明らかになし得ないのでありまして、
それは天文学者の専門的著述を読んで貰えば、諸君は益々宇宙の叡智が
どんなに素晴らしいものであるかが分って頂けるでありましょう。

単にその設計が微妙であるばかりでなく、
その大いさに於いても驚くべきものがあるのであります。

吾々の望遠鏡の視力が到達し得る限りに於いては、可視的宇宙の最も遠くにある星辰は
光の速度をもってしても吾々の地球に到達するのに一億五千万年を要すると観測されている
のでありまして、吾々はこの宏大な宇宙の中に吾々の太陽よりも大きい無数の太陽を
恒星として眺めているのであります。

吾々の住んでいる太陽はこれらの数多くの太陽の中でも中位以下の大いさのものに
過ぎない事を思えば、この宇宙がどんなに大きなものであり、従って
これを設計した叡智がどんなに広大なるものであるかがわかるのであります。


この太陽をつくり、宇宙をつくり、地球をつくったその同じ叡智と偉大なる力が
人間を造ったのであります。

しかも此の叡智と力が人間を如何にして作ったかと云えば、或る材料に外から力を加えて
つくったのではないのでありまして、内からその力が、その力を材料とし、
その力で設計してつくったのでありまして、

其の同じ力が吾々人間自身の中に自己自身の「生命力」として宿っているのでありますから、
この自己自身に宿っている力を自覚してそれを活動せしめるようにしたならば、

この大宇宙全体の大構造さえも調和ある姿にあらしめている其の力なのでありますから、
身体を調和ある健康状態に保つと云うが如きことはいと容易(たやす)きことだと
云わなければならないのであります。

この一切を大調和に秩序整然たる相(すがた)にならしめている力こそ
自己に宿る神の力なのであります。

吾々が先ず取り去らなければならない想念は、
この世界に人間に何か不調和を来たさしむる如き不完全な力や、
対立的な力が存在すると云う迷いなのであります。

つづく。

      <平成27年7月21日 謹写> ありがとうございます 合掌。


        <肉体は想念感情の具象化である>

人間の中に、宇宙を造ったと同じ「生命力」が宿っていると申しますと、
「肉体」と云う容器の中にそう云う「生命力」が宿っているのかと誤解する人があります
けれども、そう云う「肉体」と「生命力」と云うが如くに対立的なものではないのであります。

「生命力」そのものが「肉体」として自己表現しているのであります。
ここが肝腎なところでありまして、「肉体」と「生命力」とを
対立させて考えてはならないのであります。

「肉体」は「生命力」の現れであります。
しかし「生命力」は「想念」の波動によって、自分の欲するものを現象界に具象化する
のでありまして、「生命力」→→「想念」→→「肉体」として自己表現されて来るのであります。

「生命力」は本体であり、「想念」又は「感情」はその作用であり、
「肉体の状態」はその作用が現れた結果であります。

これを例証する実例は随分沢山見られるのでありまして、
「母危篤」の電報を受取りますと、生命力は「想念」の上に、母の死に瀕している姿を描きます。
すると急に顔が青褪め、心臓の鼓動が昂(たかま)って来るのであります。

更に、今まで元気であった青年が、体格検査を受けて、医師から
「君は既に第三期の肺結核に罹っている」と云われますと、忽ち顔が青褪め、
心臓の鼓動は昂(たかま)り、発熱して、「死に瀕している」状態が表われて来るのであります。

即ち、医師の宣告によって、自己に「死」の想念感情が描かれますから、
その描かれた通りの「死」の様相があらわれて来るのであります。

つづく。

      <平成27年7月22日 謹写> ありがとうございます 合掌。


     <最近の米国に於ける諸学説>

米国のハーヴァード大学の心理学教室は、ウイリアム・ゼームズ教授やゲーツ教授の如き、
有名なる心理学者を輩出し、心理作用が如何に肉体に影響を及ぼすかの実験的記録の発表で
有名でありますが、

最近にも同大学の心理学教授W・B・キャノン博士は、その幾多の実験により、
意識的に涵養されたる愛の感情が眼眸(がんぼう)の輝きを増し、血液循環及び消化作用を
改善し、排泄系統の生理機能を順調にならしめるものであり、

その逆に、恐怖、羨望、憎悪の感情は、上記の如き生理機能を逆転せしめて健康に
著しい悪影響を与えると云うことを発表しているのであります。

ボストンの心理学者アブラハム・マイヤースキン博士は
最近アメリカ心理病理学協会の会合の席上、

「胃潰瘍、喘息、皮膚疾患及び心臓の故障は、或る期間中にわたって
継続せる精神的悩みによって惹き起される事がしばしばある」と、発表したのであります。

そして更に「不調和なる感情は赤血球の生産を制限して、以って貧血状態を起こさしめる。
そしてまた所謂(いわゆ)る『神経性消化不良』と称されているものの大多数は、
実は感情的消化不良である」と云っているのであります。

私の『精神分析の話』の本の中には、医者が治療困難と称した無数の機能性及び器質的疾患が、
その精神状態を分析して反省せしめ、心の持ち方を一変せしめた結果、治ってしまった実例が
挙げられているのであります。

前記のマイヤースン博士も、顔面及び身体各部の腫物が、伝染性黴菌を消毒する
薬剤的処置を如何に繰返しても治らなかったのが、適当な精神指導によって
治ったと云う実例を挙げているのであります。

シカゴのレオン・J・サウル博士もまた精神状態が病気を惹起する事実を認めている
のでありまして、

「或る人々に於いては悪寒戦慄を伴う病気が、実は長期にわたる、愛、いたわり、安静への
願いが満たされなかったためか、それらの愛といたわりへの要求が激烈に蹂躙された心の
傷から起っているのであり、そのような精神分析によって、今迄しばしば悩んだ悪寒戦慄を
催す病気が解消した多くの実例がある」と云っている。

そして、その悪寒の状態と云うものが、いずれの患者に於いても、
その人の強烈なる愛への要求が踏み躙られた状態と、多少とも潜在意識内にある
抑圧されたる憤激の感情の程度とに一致すると云うことを述べているのであります。

またジュリウス・ヘイマン博士は静脈竇(じょうみゃくとう)の疾患、鼻茸、結腸炎、
神経過敏その他諸種の肉体的疾患はいずれもその原因が心にあると云っているのであります。

つづく。

      <平成27年7月23日 謹写> ありがとうございます 合掌。


        <何故心で病気が治るか>

吾々の治癒せしめた無数の体験録の集成に於いては、
疣や痔核の脱落や、脊椎カリエスの消滅や、子宮筋腫の自然的脱除や、
子宮脱の突然的復旧や、癌腫の消滅の如きも、精神の転換によって得られている
実例が出ているのであります。

このようなことがどうして起るのであろうかと疑う人がありますが、
それは次の二つの理由によるのであります。

(一)宇宙全体は「心」で造られたのであるから到る処に「心」が充満しており、
    「心」の満ちていない所はない。従って人間は、脳髄だけで感じ思うのではなく、
    肉体全体が想念の塊であるから、何かを感じ思う時は、
    全身で感じ想うているからであります。

(二)常識の世界では、「物質」と「心」とは別物でありますけれども、
    「物質」は要するに「心」の波動が具象化したものであるから、
    肉体の状態は決して「心」の状態から独立したものではないのであります。

    肉体がどういう状態をしているかと云うことは「肉体」が何を想っているか
    と云う事に他ならないのであります。

    或る意味に於いては「心」が想う事は「肉体」が想うと云う事であり、
    肉体は自分自身の想う通りの形になるのであります。


だから凡ゆる想念感情の変化は肉体の状態となって現れて来るのであります。
それが調和せる想念感情ならば結構でありますけれども、不調和なる想念感情である
場合には、それが具象化して肉体的病気となって現れて来るのであります。

病気は文字そのものが明らかに示しているように、「病める気」そのものであります。

心が病気の原因となる云うように申しますのは、「心」と「肉体」とを二元的に観る
ところの常識に順応した言葉を使ったに過ぎないのでありまして、実は「病気」とは
病める気――歪められた心の不調和の心そのものなのであります。

それ故病気の根本的克服は、一にかかって心の不調和を修正する事にあるのであります。

肉体を構成する物質は、ただ与えれた運動慣性によって動いているのでありますから、
生まれた時以来、健康な状態に構成さるべき肉体の成分が、その運動慣性を変化して、
不健康状態に構成されて行くためには、新に不調和なる精神が、その物質の慣性を
変化するために作用しなければならないのであります。

だから肉体細胞の不調和なる形成を変化するには、
その形成を指導するところの心を変化しなければならないのであります。

つづく。

      <平成27年7月24日 謹写> ありがとうございます 合掌。


肉体細胞の形成を指導するのが「心」であると申しましたが、
もっと適切に云いますならば、肉体は心の具象化でありますから、
「心」と「細胞」とは不二一体なのであります。

健康な「肉体細胞」は健康な「心」そのものであります。
どんなに「心」が一変すれば、「細胞」の健不健が急激に変化するかと云うことは、
血球が新たに作られる速度を考えて見ても明らかなことなのであります。

専門家の云うところによれば、人間の血管の中を流れる赤血球は1秒間に
凡そ十五億万個も新造せられているのであり、また毛細管を1秒間に通過する数も
ほぼ同数であると云われています。

その新造の赤血球のが新たに肉体細胞を拵えて行くのですから、
過去の肉体がどのような状態であろうとも、そんなことはどうでも好いのであります。

新しく造られた血球によって新しく造られる細胞さえも健康な状態に造れば、
人体は間もなく新細胞で出来上がった「新人」に変化してしまうのであります。

そのような激しい速力で流動しつつ新細胞を形成しつつある養分の流動を
支配しつつあるのは、吾々の想念感情でありますから、肉体全体は、
「想念感情の磁場」の中に旋回する鉄粉のようなものであります。

この磁場を旋回する「想念の磁気的流れ」を変化すれば
急速に肉体状態が変化するのは当然であります。
先ず健康になろうと思う者は、あなたの想念感情の「磁気的流れ」を変化せよと
云いたいのであります。

つづく。

 <平成27年7月25日 謹写> ありがとうございます 合掌。


        <明るい楽しい想念は健康を構成する>

吾々の肉体細胞が、或る想念感情の「磁気的流れ」によって実に急激に
新しい成分を造り出すと云うことは、悲しくなればその瞬間に涙が流れ、
酸っぱい物を見ればその瞬間に、唾液が沢山分泌されるのでも明らかであります。

吾々は必ずしも「唾液」とは思わなくとも唾液が分泌せられるのであり、
「涙」と思わなくとも涙が分泌せられることに注意しなければならないのであります。

美味しいもの、快きものを思い浮かべると唾液が多く分泌せられるのでありまして、
美人を見て恍惚としても涎(よだれ)が出るのであります。

これを支那では「垂涎三尺」と大袈裟に形容しましたが、
これさえも決して誇張とは言い得ないのであります。

悲しきもの、辛いものを思い浮べますと、
「涙」と思わなくなくとも「涙」が流れてくるのであります。

心で思うことが病気に現れると申しますと、
「私は決して『病気』などと思った事もないのに病気になった」と云う人があるかも
知れませんけれども、それは悲しい事や辛い事を思えば、「涙」が流れて来るように、
「病気」を心に思わなくとも、心に不快なことを想った想いが具象化して
「病気」とあられて来たのであります。

だから健康になるための根本的法則は、
不快な事、酷い事、腹の立つ事、悲しい事、その他何事でも快からざる想念感情を
連想的にでも惹起(ひきおこ)すようなものを考えないことであります。
だから病気のことを考えるのも、よくありません。

「病気を治したい、治したい」と思いながら祈ったり、思念したりするのは効果が薄いのは
この理由によるのでありまして、病気は、「病気を忘れてしまった時に治る」と云われている
のもそのためであります。

つづく。

      <平成27年7月26日 謹写> ありがとうございます 合掌。


吾々は肉体の状態に応じて、どのように生理作用を改造して行けばよいかを知り尽くしてから、
それが「あるべき正しき状態」を心に想念して、新細胞が造構せられる過程を指導しなければ
ならぬと云うことはないのであります。

「美味しい食物」を考えるだけで、胃腸の事は全然考えなくとも、よき胃液が出ます。

そのように心に描くことが具象化するのでありますから、吾々は、美しきこと、楽しきこと、
美味しきこと、愛に満たされていること、すべて円満完全な状態のみを、
「既にあるが如く」心に描くようにすればよいのであります。

そうすると、如何なる成分が如何に結合して、如何なる成分が造られ、
如何なる細胞が形成せられるか――そんな事を吾々の現在意識は知る必要はないのであります。

吾々の《内に宿り給う》「宇宙の叡智」がその過程も、方法も、成分の混合割合も、
新細胞の設計も知っていられるのであります。

吾々の内臓を動かしている「内臓の心」は実は「宇宙の叡智」が
内臓に於いて現れているのであります。

吾が心に不快な思いを抱いてその「宇宙の叡智」の磁場を撹乱しさえせねば、
「宇宙の叡智」の磁力的流れの中に一切の養分が置かれて、その指導するまにまに
健全なる新細胞を構成してくれるのであります。
  
つづく。

        <平成27年7月27日 謹写> ありがとうございます 合掌。




       <潜在意識の希望の実現が病気を作る>

この世の中に、そして自分自身の関係あるところに、何物と雖(いえど)も、
自分の想念感情と全然無関係なものは生じて来ないのであります。

すべて自分の想念感情に類するタイプのもののみが形に現われて来るのであります。

想念感情が「唾液」を思わなくとも、「梅干」を想うだけで唾液が出るのは
「梅干」と「唾液」とは潜在意識の世界で《或る連関をもって》いるからであります。

それは梅干の酸を中和せんがために潜在意識が、
アルカリ性の唾液を分泌せしめるのであります。
これは潜在意識が、梅干に対して正しき連関をもって働いたのであります。

潜在意識が「宇宙の太霊」(神の叡智)そのままをゆがめないで
神意(みこころ)通りに働いた時には、それは健康を肉体の上に創造するのであります。

けれども、若しその潜在意識が、現在意識から「憎み」その他の悪感情を印象され、
「宇宙の心」(神)そのままに働かず歪めて働いた時には、
不健康となってあらわれて来るのであります。

フレデリック・W・ベイルズ氏はその著書の中で次のような実例を挙げているのであります。

或る時、ベイルズ氏の許へ一人の激痛で苦しむ関節炎の患者が来たのであります。

病気は心で生ずるのだとベイルズ氏が話しますと、
「自分は関節炎のことなど心に思った事も無いのに関節炎になったのだから、
心で病気が起ると云う事は承服し難いことだ」と言いました。

ところが色々家庭の事情をきいて見ているうちに次のような事が分りました。

彼は同じ町の一哩(マイル)も隔たっているっているところに住んでいる
義妹(ぎまい)夫婦を憎んでいたのです。

憎んでいるににもかかわらず、彼の妻は自分の妹夫婦のところへ
毎日曜の午後には一緒に歩いて往って訪問せよと云ってききませんでした。

彼は憎んでいる義妹夫婦を訪問したくはなかったのでありますが、
彼の妻が非常に押しの強い女性であって夫にどうしてもその訪問を強制するので、
彼は毎日曜日に嫌々ながら訪問する事にしていました。

自動車は持っていないので、一哩の道を、
憎んでいる相手を訪問するのは何としても快いことでありませんでした。

そこで12年間も続いていた抑圧された内部精神の葛藤と、妻に対する憤激の感情と、
それに加うるに何とか訪問しなくて済む口実を設けたいと云う希望が潜在意識に印象され、
それが、「宇宙の太霊」の正しい健康をもたらす生理作用を歪めて、遂に
関節リュウマチスを惹起し、義妹夫婦を訪問しないで好い条件を作ったものだと
わかりました。

斯くて遂に彼は歩行不能となり、毎週の訪問は避けられましたが、
現在意識では関節炎の苦痛を逃れたくて、凡ゆる種類の治療法を試み、
虫歯の抜歯をやってみたり、扁桃腺の切除を試みたりしたが、
何等効果がなかったものであります。

ベイルズ氏はこの患者の潜在意識を分析して、義妹夫婦と和解するように誘導し、
心の生活態度を調和した姿に誘導した結果、2ヶ月のうちに全治してしまったと
ベイルズ氏は書いているのであります。

つづく。

     <平成27年7月28日 謹写> ありがとうございます 合掌。


  <現象に如何に病気不幸が現れようとも、人間の實相は円満完全金剛不壊である>

ベイルズ氏はこの現象を解釈して、宇宙の潜在意識が
この患者に病気を起させたのであって、何でも、人がそれに「想念の模型」を
与えた通りのものを作るのだと云っているのであります。

「宇宙の太霊」は断じて人間が不幸になるようには病気その他のものを造らない
のでありますが、個人の潜在意識の総合である宇宙の潜在意識は吾々が心に描く通り
のものを現象界に創化し出すのであります。

併し現象的に、彼が関節炎のように見えている時にも、神の造り給うた「実在の彼」
(生命の實相)は関節炎ではない、常に完全円満なのであります。

それならば彼が現実体験して関節炎にかかっているのは、どう解釈するかと云いますと、
それは、「彼が義妹夫婦を訪問したくない希望の実現としての潜在意識の白日夢である」
と云うのであります。

すべての体験は意識面に於いてのみ体験せられるのでありますから、
具体的な関節炎で、それがあるにしても、依然として群衆催眠術に於いて一緒に見ている
「心の影」と同様であって、神は決して病気を造り給わないのであって、
如何に病気の如く見えている時もそれは仮相であって、彼の實相は健全なのであります。

つづく。

      <平成27年7月29日 謹写> ありがとうございます 合掌。


          <病気は人間が潜在意識に描いた白日夢である>

病気と云うものは神の創造でもなければ、神の処罰でもないのであります。
もし病気が神の創造であり、神の処罰でありますならば、それから逃れようと試みることは
囚人が脱獄を企てるようなものでありまして、それは由々しき神に対する反撃だと云わねば
ならないのであります。

ところが病気は神の創造(「第一の創造」と「生命の實相」哲学では述べてある)ではなく
潜在意識の創作(偽創造又は「第二の創造」と「生命の實相」哲学では述べてある)で
ありますから、潜在意識を改めれば好いのであります。

従ってその人が不幸や病気から如何にせば逃れ得るかと云うことは、
結局潜在意識を如何に支配し得るかと云う事にかかっているのであります。

人間は神の最高の自己実現でありますから、
自分の心で自分自身の運命を支配することが出来るのであります。
自分の心で自分自身の運命を支配する事が出来ると云うことは
決して「物質」を利用しないで、心の力、「思念の力」ばかりを利用せよ
と云うのではありません。

人間の生活の向上は、野蛮人の穴居生活時代から現代の高層建築物時代に到るまで、
物質の法則を知り、それを利用することによってその発達を遂げてきたのであります。

従って、物質的衣食住をより良きものにすることが人類の幸福を増進する
重要な役割を演ずるものだとされてされて来たのであります。

空腹や寒暑を防ぐのに物質に頼りながら、病気を防ぐのだけは物質に頼らないで、
ただ「思念」の力のみに頼るべしと云うのは片手落ちの見解だと云わねばなりません。
適当な食物があればそれを食して好いように、
適当な薬剤が発見されれば、それを利用するのも結構なことであります。

唯、吾々は特効薬もないのに憐れにも慢性病に罹って、治し得ぬ薬にしがみついて
経済的恐怖と死の恐怖に悶えている人に薬剤の放棄を断乎として勧め、
脚下照顧してそこに自然治癒力が汝の内に宿っているのを見よと云うに過ぎません。

自然界の法則は人間が利用し得るように、神の愛が、自己自身を挺身せられて、
実に従順にあらゆる場合に同一条件の下では同一の結果を来すように働くと云う
「法則」の姿で提供せられたのですから、自然の法則を利用すると云うことは
神の愛を使わせて頂くと云うことであって、薬剤も適時に、適処に、適量に適する人に
使用されれば効果をあげるのでであります。

つづく。

      <平成27年7月30日 謹写> ありがとうございます 合掌。



物理、化学、医学、薬学の進歩も実に此処にあるのでありますが、
このような自然界の法則の中で生きているために、人間は、自然界の物質的法則が、
同一条件の下では同一結果を来すと云う前提の下に、人間に害を及ぼす方向にも
条件さえ整えば同様の作用を及ぼす。

例えば熱は物質を焼くが故に人間をも焼くと云う風に、人間を害することになるのだと
潜在意識が信ずるようになり、潜在意識の幻術的な第二創造力によってそれが現象界に
幻化することになったのでありますが、火は物質を焼く事は出来ますけれども、
火は實相の人間を焼く事は出来ないのであります。

何故なら實相の人間は物質ではなく、金剛不壊の霊的実在であるからであります。

そして自然界の法則は、神の愛が「法則」として自分自身を最も従順な形で
人間の利用し得るように化身して出られたものでありますから、
人間がそれを厚生の道に利用し得る限りは、その法則はその通り行われますが、
人間を害する方向に用いられればその「法則」は行われなくなるのであります。

何故なら、神の愛(法則の本体)はただ人に幸福を与えるのみであって
害を与え得ないからであります。

然らば害を与えた相(すがた)が現実に現れるのは何故であるかと云うと、
前述の如く、潜在意識の自己暗示に起因する幻化作用による仮創造であり、
潜在意識は人間に共通しておりますから、一人に斯く見えることは、
万人にも共通に見えるのでありまして、如何に万人に斯く見えようとも、
それは仮幻であって、実在の人間には決して不幸も病気も起っているのではない
のであります。

これを『法華経』では
「衆生、劫尽きて此の世の焼くると見るときもわが浄土は安穏にして天人常に充満す」
と説かれているのであります。

衆生、即ち「生きとし生けるもの」―――現象界の人間―――から見て、
如何にこの世界に不幸や病気が存在するように見えても、
わが浄土、この清らかな神の愛によって造られ護られている世界では
無病不苦不悩の天人のみが充満しているのだ、これが實相だと云うのであります。

つづく。

      <平成27年7月31日 謹写> ありがとうございます 合掌。



    <潜在意識の所現の世界の奥に超越意識の創造せる実在の世界がある>

この『法華経』の如来壽量品に書かれているところの真理は、
佛教最高の真理でありますけれども、未だ多くの人類は
その真実を悟るに到らないのであります。

この真理は聖書の『黙示録』第二十一章にも次の如く書かれているのであります。

「我また新しき天と新しき地を見たり。これ前の天と地とは過ぎ去り、海も亦なきなり。
我れまた聖なる都、新しきエルサレムの、夫の為に飾りたる新婦(はなよめ)の如く
準備(そなえ)して、神の許(もと)を出で天より降りたるを見たり・・・」

この「先の天と地と海」とは
潜在意識の幻化力によって仮創造せる悩みの多き世界なのであります。

それは吾々が真理を知らず、實相円満完全なる霊的世界と霊的実在の世界とを知らず、
ただ善財意識の幻化仮創造の世界を実在と見ていた時代のことでありまして、
時来れば、潜在意識からこの迷いが消え去るのであります。
人類は漸くこの真理に目覚めはじめたばかりであります。

彼等は、今まで物質で出来た世界に活きている物質の人間のみを見ていたのであります。
そして物質的法則だけで動いていると考えていた人間に、深い深い潜在意識の層があって、
それによって動かされている人間を知りはじめたのであります。

しかし潜在意識の層の下に、
實相永遠完全な世界と、實相久遠不滅金剛不壊の円満完全な人間が、
常に壊せず、砕けず、病まず、老いず、死せざる「眞の人間」がある。

それこそ吾々の「本当の自分」だと云うことに目覚めた人は少ないのであります。

フロイド初期の精神分析では、
潜在意識の中にただ暗黒な「性」の衝動のみがあることを見て、
その奥の奥にある神性・實相・超越意識を見なかったのであります。

つづく。

      <平成27年8月1日 謹写> ありがとうございます 合掌。


近代の多くの心霊治療家又は治病宗教竝に現世利益的宗教は、各々別々の角度から、
潜在意識と超越意識とに近づこうとしているのでありますけれども、
潜在意識と超越意識との境目は混沌としていて曖昧模糊であります。

しかし宇宙の潜在意識は人類共通の「迷いの意識」でありまして
仏教で云う阿頼耶識の如きもので迷いの世界を仮作するのでありますが、
超越意識は神の意識そのものでありまして、
「衆生劫尽きてこの世の焼くると見る時も吾が浄土は安穏なり」
と『法華経』にあるところの常在久遠不滅真如實相の世界を造っているのであります。

吾々真理探究者はこの常在不滅の久遠世界と久遠人間とを今や発見し始めたばかりであります。

それが完全に吾々の意識全体に発見され把握されたときにこそ、
『黙示録』にあるところの新しき天と新しき地とが実現して来る時なのであります。

この常在不滅の世界を人類の大多数がその意識全体に発見し、把握する時までは
人類の世界に恒久不滅の世界平和は実現しないのであります。

この常在不滅の久遠人間を人類意識の全体に把握し得るまでは、
人類全部が無限健康を享受する至福世界は実現しないのであります。

併し今や迷いの夢は切れはじめました。真理の太陽は昇り始めたのであります。
人類の先覚者であるところの光明思想の諸君よ、吾等は一緒に、この差し昇る真理の太陽に
讃歌を捧げようようではありませんか。

第二章はこれにて完。

       <平成27年8月2日 謹写> ありがとうございます 合掌。






「善き人生の創造」(第3章~第5章) (40)
日時:2018年03月19日 (月) 02時23分
名前:伝統

http://kaerou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=15411570
   《第三章 幸福の門を開くには》

    <人間が自由になる道>

人間が生命の實相を悟ろうとして求めるのは、それによって自分の生命の円満完全さを自覚し、
あらゆる人生の束縛から解放され、あらゆる種類の制約から自由になりたい為であります。

かくの如き完全なる人間の自由はすべての事物の奥に存在する所の法則を理解することによって
のみ得られるのでありまして、その法則を理解し得た者は人生のあらゆる場面の勝利者でありま
すが、そうでない限り人間は周囲のあらゆるものに駆使せられている奴隷に過ぎないのであります。

人間の生命の實相を理解することなき普通の人達は人生の行路に於いて自分の目前に入り来る所
のすべての事物に支配されるのであって、周囲の出来事のためにいつもかき乱され、振り廻され、
人間の自由の実現などは殆ど全く見出すことが出来ないのであります。

ところがそれらの人生に於ける色々の障害物は一見、外から現れて来るかの如く思われるのであ
りますけれども、殆んど全ての人生上の問題は、人と人との関係に於ける自分自身の物の見方に
よって現れて来るにすぎないのであります。

例えば或る人が私の事をこう思っているとか、あの人がこういうことをこの人に言ったとか、
私の言いもしない事を言ったかの如く告げ口したとか、あの人が出しゃばりであるとか、
この人がけちんぼであるとか、・・・・

もう実に他愛もないつまらない出来事に自分の心が引っ掛かってそして大袈裟に
この人生は面白くないとか、地獄のような世界であるとか言いふらすに過ぎないのであります。
もとはと云えば心の問題にすぎないのであります。

自分の子供は女の癖に煙草をのむとか、酒を飲むとか、家の事をしないで遊んでばかりいるとか、
そういうつまらない問題に引っ掛かって母親がいらいらしたり、もうまるで頭から湯気をたてん
ばかりに腹を立てたり悔やんでみたり、そして母親自身が正しいと信ずることを
娘に強いようとする。

娘は娘で近代民主主義の国家に於いて個人の自由を束縛されてたまるものかと、
これ又母親に対して反撃の陣おさおさおこたりないと云うわけです。

こうしてこの家庭は永遠の闘争と永遠の地獄との中に閉じ込められているのであります。
あなたの家庭にもこのような娘さんや息子さんがおありではありませんか。

こんなことが起るのは、みんな心の法則を知らないからです。
大体心の法則を知らないで、人生を幸福に送って行こうなどとは、
電気の法則を知らないで、ラジオ・セットを組立てようと思うほど無暴なことです。

人の組立てたラジオ・セットでも、そのまま順調に行っている時には何事もありませんけれども、
一度問題がおこって、さあ自分で人生を組み立て直さないとならないとなったら
法則を知らない者はただ混乱状態に陥るばかりなのであります。

だから吾々は是非とも人生を支配している心の法則を学ばなければならないのであります。

つづく。

     <平成27年8月3日 謹写> ありがとうございます 合掌。


    <飲酒喫煙癖からの解放>

大体人間は神の子であって完全なる自由を与えられているのですから、自分の子供だといって、
それを自分の自由に強制しようとおもっても、その強制のそのことが神様の法則に背いている
のですから、そんなことで効果があるわけはないのであります。

大体子供というものは模倣性が発達しているものでありまして、
子供の習慣性は概ね親のすること又は周囲の人々がすることを模倣することによって、
智慧と体験とを深めて行くのであります。

もし両親や周囲の人々が少しも酒を飲まなかったり煙草を吸わなかったなら、
その子供は酒を飲むことも、煙草を吸う事も決して知らないでありましょうし、
従って飲酒喫煙の習慣も出来るわけがないのであります。

すべての感覚で見るものは心の面に或る「心象」を描かせます。

そして心に描いた心象はそれが必ず具象化するというのが心の法則であります。

親たちが同じことをしてそれを子供に見せて心に飲酒喫煙を描かせておいて、
それが実現したからといって、それに対してとやかく小言を云ってみた所が、
それは無駄な事なのであります。

大体飲酒喫煙は心にいらいらしさがあるためにそれを麻酔せしめる働きとして
脳神経中枢に対して或る麻酔的働きを有する所のアルコールやニコチンを欲するところの
欲望が具体化するのでありますから、

外からいろいろと小言をいって互に正面衝突して、心の焦々(いらいら)しさ
を増進させているようではそれは決して止まないのであります。

もし息子や娘の飲酒喫煙を止めさせたいと思うならば、根本的にその息子や娘を自由に解放して
そういう麻酔剤を要求しなければならないような心の焦々(いらいら)しさを除りさるように
工夫することが第一なのであります。

私はここに必ずしも息子や娘の飲酒喫煙の問題を如何にすべきかという解決法を示す積もりでは
なかったのであります。

ただ吾々の人生に於いて色々の悩みが起るのはそれは結局その人自身が
周囲の出来事にとらえられて振り廻されるからであって、そういうことを止めてしまえば、
人間は本当の幸福が得られるということが、言いたかったのであります。

すべて悩みというものは、心がそれに引っ掛かるものだけが悩むのであって、
引っ掛からない者は如何なる悩みもその人を苦しめようがないのであります。

つづく。

     <平成27年8月4日 謹写> ありがとうございます 合掌。


    <幸福を得る別の方法>

吾々は、人間が幸福を得るのに、もっと別ないい方法を知っているのであります。

自分の子を幸福にしてやろうと思いながら、自分が焦々しているようでは、
自分自身をさえ幸福になし得ないのでありますから、
自分の子を幸福になし得るなどと云う事は不可能だと知らねばなりまん。

自分以外の人を幸福にする力が出来るのは、先ず自分自身が幸福になってからのことであります。
人の心に平和を与えようと思うならば、自分の心が先ず平和になってからのことであります。

煙草をすうのも、人に場所に時にふさわしければ別に悪くはありますまい。

けれどもそれを汽車の中で吸ったり、講堂の中ですったりなどして
大衆の迷惑にならないように心掛けて両親が吸うならば、
その子供もやはり両親を見習って人に迷惑にならないように吸うことを覚えるでしょう。

或る日ユニティの信者となっている或る外人が私を訪ねて参りましたが、
ポケットから煙草を出すので、灰皿を用意しなければならないと思っていると、
私に「煙草のみますか」と言ってその煙草を差し出しますので、

「いいえのみません」と答えると、その外人は、煙草を吸わないで
自分のポケットの中へしまいこんでしまったのでありました。

この外人は明らかに煙草に嗜好のある人でしたが、人に迷惑させてまで
自分の嗜好を満足させようというような利己主義は罪悪であるということを、
幼い時から両親の生活習慣から学んでいたに違いないのであります。

要するに自分の子供のすることは親のする生活習慣の模倣であることが
多いのでありますから、その模倣を断ち切らないでいて娘だけどうのこうのと言って見ても
それは心の法則に背くことなのであります。

多くの家庭の問題は互に一端言い出したら、それを引込めたら自分の沽券に関わるとか、
親たるもののプライドを損ずるとか、親が自分の自由を束縛するとか、何だかだと、
要するに自分の心で互に絡み合いもつれ合っているのが悩みの因であります。

家庭の悩みをなくするには、家族がその一人一人を自分のものだと所有する心を捨てる事が
必要なのでありまして、こういう家庭では「愛する」ということを、「自分の所有する」と
いうことに解していて、

だから「愛するものは自分の自由にしなければならない」というので互に相手を
自分の立場から見て、自分の好きなように縛ろうとする、そこにいつまで経っても
家庭の幸福、平和というものが得られないのです。

そういう愛は一種の所有欲の変形であって、それは煩悩にすぎないのでありますから、
結局、そういう愛情は自分を苦しめ家族を苦しめる外には何の取柄もないのであります。

つづく。

     <平成27年8月5日 謹写> ありがとうございます 合掌。


        <求人の広告があっても職業がないとは?>

家庭問題から一転して、
吾々の生活上必要なる職業とか収入とかの問題に就いて考えてみましょう。

これらの問題は外部的事情と云うものが大いに関係しているように見えますけれども、
その人が適当な職業が得られないとか、充分な収入が得られないとかは、
実はやはり心の問題に関係しているのであります。

どこの町に行っても職業がないということはない、
又立派な人間が求められないと云う事もないのであります。

一方には求人の広告が新聞に行列していますのに、
自分にとっての職業は見つからないという人が随分あるのであります。

東京が焼野原になってから大いに儲けたという人もあります。
いつまでもルンペンの様にに貧しいとう人もあります。

同じ焼け跡からある人は無限の富を見出し、ある人は無限の貧しさを見出すのです。
見出すと見出さないとは、人間の心の問題にすぎないのであります。
吾々は先ず心の眼を開かねばならないのであります。

物を「物」だと見ている限りに於いては問題はいつまでも解決しないのであります。
物を見出し、物を作り出すのは「心」であるということを知らねばならないのであります。
そこに吾々は物の主人公になるか、物の奴隷になるかの岐れ目があるのであります。

つづく。

     <平成27年8月6日 謹写> ありがとうございます 合掌。

    <「人間」自身を発見せよ>

もし吾々が肉体的に健康であり、全然肉体的に楽しくさえあるならば
人生はただもう幸福に違いないであろうと、体の弱い人は思うかも知れませんが、
人生の幸福は肉体の健康ばかりでは得られるものではありません。

肉体が健康であっても家庭が面白くないために自殺する人もあるのであります。

又貧しき人は物質にさえ富んでおれば世の中に不幸はないと考えるかも知れませんが、
多くの富を有しながら、しかも肉体も健康でありながらその人の人生が不幸であり
悩み抜いた挙句に家出をする人もあるのであります。
釈迦の如きはそのような人であったといい得るでありましょう。

そうして見ると人間の幸福問題には肉体の健康以上の、そして物質の富以上の
もっと深い何物かが潜んでいると云う事が分るのであります。

「もっと深い何物か」というのは一体何でしょうか。

「それは「人間自身」であります。
人間は何であるか。何の為に生まれたのであるか。
何処より来たり何処へ行くのであるか。

その本質が分らないでは問題は解決されないのであります。

つづく。

     <平成27年8月7日 謹写> ありがとうございます 合掌。


ソクラテスは「汝自らを知れ」と申しました。
キリストは「眞理は汝を自由ならしめん」といいました。

人間とは如何なるものかの真理――即ち生命の實相の真理を知るまでは
人間は外界の支配を受けてその奴隷とならなければならないのであります。

この真理を知って、自分を尊び、又他の人々の神性を礼拝し、
完全に自分とその他の人々との神性を解放し得た時にのみ
人間の完全なる自由は得られるのであります。

真理を知るということは人間の本性の神なることを知り、
それをただ知るだけではなくそれを生活に実現することなのであります。

吾々は知った真理をすぐ実践に移さなければならないのであります。
働くことなしに如何なる大いなる仕事も実現することはあり得ないのであります。

如何に自分の前に道が開かれていましても
それを登ることなしには頂上に到達する事は出来ないのであります。

(第三章、今回にて完)

<平成27年9月2日 謹写> ありがとうございます 合掌。




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  《第四章 平和への第一ヶ条》

  <天地一切のものに和解せよ>

生長の家には先ず出発の最初に『七つの光明宣言』と云うものがありまして、
一番最初の第一ヶ条に
「吾等は宗派を超越し生命を礼拝し、生命の法則に随順して生活せんことを期す」
とあります。

人種とか宗派とかいうものに捉われず人類相互にその生命を礼拝すると云うことが
人類全体に実際行われるようになれば、人類に平和と幸福とが自ずから来るのであります。

生命と云うものは宇宙大生命即ち神から生まれて来るものでありますから、
どんな人間の生命も尊い。人間のみではなくどんな生物の生命も尊い。

例えば白鳩を例にとって見れば白鳩の生命はそのままで尊い。
白鳩は何の為に生きているかと云えばそれは何の為もないのであります。

生命それ自らがただそこに生きているのであって、
その白鳩のいのちの尊さと云うことが分ったら、
同時に人間のいのちの尊さと云うことも分るのであります。

蟻一匹のいのちの尊さと云うことも分る。
何にも役に立たぬ奴は殺してしまえと云うような、
乱暴な世界がもしも実現するのであったらそれは結局生命を無視した世界であって、
その様な世界は宗教的世界では無論ないのであります。

天皇の御目からごらんになりましたら、八百万(やおよろず)の生きとし生けるもの、
ありとし凡ゆるものを含んで、それら一切をその堵に安んぜしめることが御心だと
拝されるのでありまして、その堵に安んぜしめると云うことが、
天皇の大御心でありましたから、終戦の時にも、天皇は「朕の身はどうなってもかまわない。
戦争をやめろ、人民が可哀相だ」と云われたわけであります。

日本天皇は御自身の体や、国さえ旨く行ったならば、人民は無論のこと、
生きとし生けるなどはどうでもいいのだ、というような事は決してなかったのであります。

若しある一国が栄えても、そのために生きとし生けるものの生命が
本当に拝まれないと云う様な結果になるならば、
その国と云うものは結局一種の容れ物に過ぎない。

それは人民を容れる容れ物でいわば箱みたいなもので、箱さえ立派であるならば、
その中に住んでいるいのちは無茶苦茶になってもいいのだと云うことになる。

しかしながら国と云うものは、釈迦が悟りを開かれた時に
「有情非情同時成道山川草木国土悉皆成仏」と云われたように、
国土そのものが佛の現成である。

そしてすべての生きとし生けるものとして実現している世界である。
だから一つのいのちでもそれは軽んずることが出来ないところの、
実に尊いいのちの世界が国土なのであります。

つづく。

      <平成27年9月3日 謹写> ありがとうございます 合掌。

 <生物は何のために生きているか>

鳩は何の為に生きているかといえば、「為」ではないのであって、
それは唯其の儘に生きる鳩のいのちである。
草の花の一つ、蟻一匹、こおろぎ一匹、鈴虫一匹と雖も、
皆御仏のいのちがそこに実現しているのであります。

吾々はそれをただ礼拝しなければならないのであります。
「何の為」に生きているかと云うように、必ずしも役に立つことの為ではないのです。
又能率の挙るためでもないのです。

儲けるためでもないのです。
そういう功利的な目的は悉く第二義第三義のものであって、
いのちの第一義の本当の相と云うものを晦ましてしまうことになる。

本当のいのちの価値を拝むこと、是れが吾々の生活態度の
最初の出発目標でなければならないのであります。

宗教と云うものは宗派の分立のためにあるのではなく、
宗派とか宗団とか云うものを超越して、生きとし生けるものの生命が、
人間の本当のいのちが拝まれるような世界を成就しなければならない、
と云うところにその存在意義がるのであります。

これを国家にしてみますならば、唯単に或る国と云うような容れ物だけが立派になって、
中にいる人間のいのちを少しも拝まないような世界になるとしたならば、
それは実に恐ろしいことになるのであります。

ですから何よりもいのちをおろそかにしてはならない。
生長の家は一宗一派ではない。宗派という外形を整えるのが目的ではない。

「吾等は宗派を超越し生命を礼拝す」と云う宣言はそれであります。
何宗でも好いけれどもいのちを忘れるな。
いのちを拝め。いのちを拝めというのであります。

つづく。

      <平成27年9月4日 謹写> ありがとうございます 合掌。


       <功利を超えた本当の価値>

そこで白鳩一羽、それは何の役にも立たぬかも知れませんし、
雀一羽や二羽は何の役にも立たぬかも知れません。

むしろそれらはほしいままに飛びまわり、
田畑を荒らしたり、作物の収穫をだいなしにするかも知れません。

けれども今申し上げているのはそのような問題ではないのであって
白鳩のいのちも、雀のいのちも、そこに神のいのちがあらわれているのだ、
と云う事、そしてそのいのちの本当の姿即ち「實相」は神の生命であるから、
それを拝むようにしなければならないと云うのであります。

更に又拝むといっても拝むようにと唯努力するだけではまだ駄目であって、
いのちの本当の相を見た時、自然と拝み得るような心境に達した悟りでなければならない。

実際、雀のいのちも神のいのちである。
だからキリストは、一羽の雀も神のゆるしなくしては地に落ちない
と云うことを云われたのであります。

まことにすべてのいのちはそこにそのままただ生きているということ、
それだけで価値があるのであります。

なんの役に立つと云うように功利的観念で
吾々は凡てのいのちの価値を判断して行ってはいけないのであります。

「無役の役」と云うことばがありますが、
末広巌太郎博士は「無駄の効用」と云うことを云われましたが、
人間が唯役に立つと云う事ばかりの考えで生きているならば、実に人生は淋しい。
實用主義、功利主義、営利主義一点張りの人生になってしまって芸術と云うようなものは
無くなってしまう。

そのような役に立つとか、役に立たぬとか云うことを離れてしまい、
「いのちここに生くるなり」と云うことその事が尊いのであります。

「そこにも又いのちが生きていらっしゃいますな」
「ああよく生きていらっしゃいますな」と、そこにあるいのちを拝む。
その拝む喜び、また拝まれる喜びと云うもの、この無条件の生命礼拝が大切だ
と云うことになるのであります。

つづく。

      <平成27年9月5日 謹写> ありがとうございます 合掌。


「汝ら天地一切のものと和解せよ」と云う教えも、
「あの人は今日、こう云う役に立ったから褒めてやる」とか
役に立たなかったから褒めてやらぬとか云うのでは、
いのちを拝む道に徹底していないのであります。

一々そういう風に役に立つとか立たぬとか云うことに依って、
ものを考えるのは唯物主義であって、中にある生命の尊さを拝まないものであります。

要するに役に立つとか、立たぬとか云う「役」なるものは、
物質的功利観念から来るのであります。

例えば、誰かがお土産を持って来まして、
「是の品物は近頃水害で物資が欠乏しておりますから、もっと何か立派なものを
持って来なくちゃならないのですけれどもこう云うもので我慢して戴きたい」
と云って挨拶のしるしに贈物を持って来たとします。

開いて見ると「何じゃ、こんな詰らないものか、こんなものは家にもあった」
と云うふうに、物の実用価値だけを見て、その愛情の表現の価値を認めず、
投げ出してしまうとしたならば、それは唯その「贈物」を役に立つという
見地からのみ功利的に眺めてしまうことになっているのであります。

つづく。

      <平成27年9月6日 謹写> ありがとうございます 合掌。

そして若しそう云う功利的見地からのみ、ものの価値を判断される時代が来たら
実につまらない時代だと思うのであります。

「役に立つ」とか「役に立たぬ」とかに依って、
その人の真心まで価値づけられたり、価値づけられなかったりするとしたならば、
真心の世界というものは消えてしまって、
唯役に立てばいいと云う無味乾燥な世界が出て来るのであります。

それじゃ吾々の魂は満足することが出来ない。

昔から諺に云われていますように「貧者の一灯、長者の万灯」でありまして、
「貧者の一灯でも真心が現れておれば、長者の万灯よりもそれは尊いものである。

一羽の雀でもそこにいのちがあればそれは尊いものである。
一匹の虫でもいのちが生きている限り尊いものである。

その一匹の虫のいのち、一羽の鳥のいのち、一本の草花のいのち、
そして天地万物のいのちを皆拝んで行けなければ、
本当に天地一切のものと和解したと云うことが出来ない。

『生命の實相』の巻頭にある『七つの灯台の点燈者の神示』の一番最初に、
「汝ら天地一切のものと和解せよ」と書いてありますが、
和解するということは仲良しになると云うことであります。

簡単に云えばそうですけれども仲良しになろうと思ってもなれないのは何故かと云うと、
お互いにいのちと云うものを尊敬しないからです。

「家の姑は役に立たぬ」とか、「もう老いぼれたから姥捨山へでも捨てろ。
もう憲法で「家」を認めなくなったから、財産は平等に兄弟に分けるようになったから
長男は親を扶養する義務はない」とか、そう考えたら
「役に立たぬ老人」など、からきし尊敬の仕様がないのであります。

「もうこんな老人になったのでは、役に立たぬ。もう人に世話かけるばかりだ」とか、
「算盤」で計算してみたらどれだけあの老人の能率が挙がるか」
「あいつがおる為に女中でも一人置かんならん」と云う事になったり、
「それは生きているよりも死んでくれた方が迷惑がなくていい」と云うことになる。

いのちの本当の値打ちと云うものを晦まして、いのちを殺してしまうことになるのであります。
汝ら天地一切のものと和解せよ。和解せよとは感謝することである。

つづく。

      <平成27年9月7日 謹写> ありがとうございます 合掌。



すべてのもにに感謝せよと云っても、いのちの本当の相と云うものが神であって、
そのいのちで唯生きているだけでそれで尊いのだと云うことになりますと、
万物いきとし生けるものを拝めることになるのです。

それを先ず知らなければ自分自身をも尊ぶ事が出来ないし、
他の人々をも尊敬出来ないのであります。

その他八百万の生きとし生けるものもいのちを尊ぶことが出来ないのであります。

今日は役に立たなかったから自分は実に詰らないものだと一々功利の観念をもって
自分を判断しておっても詰らないことです。

皆さんが宗教の道場に座っておられても、功利的には何の役にも立たぬ、
功利的に役に立つ見地から云うと、此処に座っているような人は怠け者で
何等国家に貢献することはないわけですね。

今座っている最中に、もっと役に立つように立ち上がって働いたら
よさそうなものだと云うことにもなるのです。

併しながら、人間は役に立つ見地からばかり算盤(そろばん)して、
それを標準に批評すべきものでない。
そこにいのちが生きていると云うこと、それが尊いのです。

八十歳、九十歳、百歳のお爺さん、お婆さんで、それが、身動きが出来ないでも、
そこに座っていらっしゃるだけで、そこに座っていらっしゃるだけでも、
そこにいのちがいらっしゃると云うことが尊いのです。

いのちの本当のすがたを見た時に、それはどんな姿をあらわしていましても、
実に尊いものだと云うことが分るのであります。

そういういのちの尊さを見ないで、「あのお爺さん、お婆さんは厄介者だけれども
やむを得ず世話して上げよう、目上の人だから逆らうわけには行かないから」
と云うように、

その生命の尊さを見ないで深切をつくしても、
それでは「生命を礼拝し」と云う七つの宣言の第一ヶ条に叛く訳でありまして、
それでは本当に和解になっていないのであります。

つづく。

      <平成27年9月8日 謹写> ありがとうございます 合掌。


「本当に和解する」と云うのは、そういう役に立たぬけれども、
已むを得ずに逆らわずにおりましょう、というような自分の心をこらえながら
する和解じゃないのであって、その人のいのちの本当の相(すがた)を見ることが
本当の和解であります。

そうして、生きとし生けるものの生命の實相(ほんとうのすがた)を見ることが
本当の和解であります。

そうして、生きとし生けるものの生命の實相(ほんとうのすがた)を見るように
なれた時にみんな自ずから拝めるようになるのであります。

その本を、ハッキリとさせて、いのちの正味を、實相を、見極めないでいながらいて、
そして互に「人類よ拝みあえよ」と云っても、それは礼拝の本が定まっていないから
どこかに無理があるのです。

拝みたくないけれども堪えて止むを得ず拝んでいるというようなことでは、
堪えて我慢して感謝しているようなことでは、本当に和解が出来ていない。

そこで先ずいのちの本当の相(すがた)を知らなければならない
「汝ら天地一切のものと和解せよ、天地一切のものとの和解が成立する時
天地一切のものは汝の味方である。天地一切のものが汝の味方となるとき、
天地の万物何物も汝を害することが出来ぬ」

と云うその「和解」とはいのちの實相を礼拝して和解することであります。

つづく。

      <平成27年9月9日 謹写> ありがとうございます 合掌。

         <時・処・人の和を得ること>

また天地一切のものに和解するとは、みんなを礼拝することであると同時に、
処の和、時の和、人の和と云う三つの和がなければならない。
唯単に實相を拝んでおったら無茶苦茶してもいいと云うようなものじゃないのです。

時の宜しきを得ると云うこと、処の宜しきを得ると云うこと、
人の宜しきを得ると云うことです。
天地人の三相応が成就しなければならないのであります。

吾々が生活するする上にすべてのものを拝みさえしたらこ
の三相応を破ってもいいのだと考えてはなりません。

例えば御飯は神様の恵みなんだと分ったから拝んで食べたらいくら鱈腹食っても
大丈夫だと思って一人でお櫃に一杯の御飯を食べてもそれでいいかと云いますと、
そんなことはないのです。

それはいくら拝んでも、時を得なければ何にもならない。
今朝御飯を食べたのに、早速一時間も経たぬ内に昼御飯を食べて見たり、
もう三十分たたぬうちに御飯を食べて見たりする。
そんなことでは胃腸をこわしてしまいます。

だからいくら万物のいのちの實相を拝んでも時の和、人の和、処の和
と云うものを得なければならないのであります。
これをよく考えて下さい。

吾々が生きていると云うこと、
それは必ず時の和、処の和、人の和と云うものを得ているから
生きているのであります。

若しそれが得られなかったならば、
それは不健康状態、或いは不完全な状態になって来るのであります。

吾々はどんな時でも此の時、此の場、此の人でなければならない
と云うような、ピッタリ当て嵌まった、そう云う生活をしなければならない。

それは難しいと云えば難しいけれども、神の智慧を戴けばそう難しいこともないのです。
それは自然とそうなるのであります。

人間のいのちと云うものは天地万物のいのちと一つのいのちだから、
天地万物と衝突するようには出来ていない。

そのいのちの實相の本当の姿のまる出しが現象に其のまま出て来ました時に、
自然とその人は時を得、処を得、人を得ると云うようなそう云う生活が
自然と出来るようになるのであります。

その時にこそ「天地の一切のものは汝の味方である」と云う風になれるのでありまして、
何物をも自分は害さないし、何物からも吾々は害されると云うことが
なくなってしまうのであります。

つづく。

      <平成27年9月10日 謹写> ありがとうございます 合掌。


      <あるべき処にあるべき物があるのが和>

すべて害されると云う事は、時の和、人の和、或いは場所の和
と云うものがちゃんと整っていない結果であります。
それらの和と云うものが得られていない時に吾らは他から害されることになるのです。

いわば自分が「和を得ていない心」があるから、
その反映として害されるのであります。

よく、天地一切のものに和解していたら、
すべてのものに害されたり、他の物から害されることはないと云いますと、

「それじゃ貴様はすべてのものに感謝しているなら、一つ溶鉱炉の中に入れてやろう、
そこで摂氏何千度と云うような温度に焼いてみたら、それでも焼けないか、
害されることはないか」と、そう云うようなことを云う人があります。

また生長の家の教えでは「人間は物質にあらず、肉体にあらず、金剛不壊である」
と云うように云うものですから、「それなら溶鉱炉の中に入れて摂氏何千度の温度で
燃やして見ても矢張り害されないか」こう云う様に反駁する人もあります。

それは「処の和」と云うものが得られていないから害されるのです。
あるべきものがあるべきところにあるのが「和」であります。
あるべきものがあるべきところにないから、それで害されるのであります。

人間は溶鉱炉の中に入る物ではない、鉄の鉱石なら、それは溶鉱炉の中に入っても、
それは処を得ているのでありますが、生きた人間は燃えている溶鉱炉の中などへ
自然に入れなくなるのが、それが処を得ると云うことであります。

つづく。

      <平成27年9月11日 謹写> ありがとうございます 合掌。


親鸞聖人が山伏の弁圓に待伏せられて、今日は親鸞を殺してやろうと思って
附け狙っておったけれども、どうしても弁圓の待伏せている道を
お通りにならなかった。

別に逃げているのではないのですけれども、自然とそう云う所に行かなく
なっておられた。それが「処の和を得る」と云うことなのです。

人間は燃えている溶鉱炉の中になんか這入るべきものじゃないから
自然と這入れなくなるので、それで処を得ているのであります。
「這入っても焼けないか」と云うような、そんな仮定の下に心の調和した人には
決して有り得ないような出鱈目の空想的な仮定の下に回答すると云うわけには
行かないわけです。

天地一切のものが自分の味方になると云うことは、
結局吾々のいのちと天地一切のいのちと「一枚のもの」でありますから、
自分の動きに従って天地がそのまま動いて来るのです。

『甘露の法雨』の終いのところに収録してある『實相を観ずる歌』
のなかにもありますように、「吾動けば宇宙動く」と書いてある。
自分が動けば宇宙が動くのである。

それはキット動くのです。
空気だけのことを考えても自分が一寸横へ寄れば身辺の空気が横に寄ってくる。
そうするとその次の空気が波動を受けて皆多少とも動いているのであって、
すべてのものが動かないものはない。

私が声帯を振動させて物を言ったら、そしたら空気が振動して行って、
それに従って皆さんの頭の脳髄の聴覚中枢がしんどうして、
確かに聞いていらっしゃるし、そして私の話に感銘して
皆さんの人生の動き方が変って来ます。

そしてその響きが宇宙にひろがって行くのだから、
それは実に「吾動けば宇宙動く」のであります。

これはわずか空気の振動について考えて見たのですが、
更に吾々の心の波の方面を考えてみましたならば、
これは微妙に宇宙に波及してまいりまして、人々の心に影響を与え、

ある人には反撥の感を与え、ある人には共鳴の感じを与え、
その人たちが、吾々自身の方へ或いは不幸を持って来たり、
幸福をもって来たりするのであります。

これは「類を以て集る」「類でないものは反撥する」の法則に
従って生ずるのであります。

つづく。

      <平成27年9月12日 謹写> ありがとうございます 合掌。


*尚、勝手ながら明日は都合により投稿をお休みします。




谷口雅春先生に帰りましょう
http://kaerou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=15449068
尊師・谷口雅春先生著「善き人生の創造」第五章 - 平賀玄米
2015/09/14 (Mon) 10:56:54

 
ありがとうございます。今回から第五章です。合掌。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~             
        
        《第五章 大調和の生活》

   <「悪」とみゆるもの 「悪」にあらず>

凡(およ)そ悪と云い不道徳と云うものは何であるかと申しますと、
「悪」とか「不道徳」とか云う別に確乎とした存在があるのではない。

悪と云い不道徳と云うのは、自己即ち「我」が出ることによって、
自己を虚しくしていないことによって地球の影が太陽の表面を晦まして
日蝕を起こしているようなものである。

どんなに太陽が蝕されたように見えても太陽は蝕されていない。
ただそれは地球が自分を主張したため太陽の光が蝕されたように
見えている消極的姿であります。

自己を虚しくしていないと云うことが即ち「不道徳」或いは「悪」
と云うことの別名であります。

雲が消えた時月があらわれるように、
我執と云うものがなくなった時に神と云うものが現われて来る。

我執があれば神が覆われるのでありますが、
我執と云うものは要するに自己心であります。

自己心が出るから「神ごころ」が覆われる。
我執があって神心が覆われたところに、そこに果然
「悪」と云う月蝕のような姿が出て来るのであります。

尤も悪が出て来るなどと云いますと、
「悪」と云うものがあって、出て来るように思われますけれども、
「悪」はないのであって、我執と云うものに依って、全体の一部分が
全体から「分れ」たような外観をする。

「我れ」とは「割れ」即ち自己分裂であります。

神はすべてのすべてであって、
分ち難く全体が一つに繋がっている筈のものでありますのに、

我執というものは、「自己」と云う一部に固執して、
その一部だけを主張して盛り上がって来るようなものであります。

自個と他個とが全体の生命の大海から分裂して出るのであります。
丁度波見たいなものであります。
波は全体の繋がりを離れてそこだけが盛り上がっているように見える。

本当は離れていないけれども一時離れたような姿をして現れて来るのが、
是が要するに我執であり、自個心の波であります。

この自個心の波と云うものに吾々が捉われますと、そうすると
その波によって人生を渡る船が転覆してしまうことになるのであります。

全体の繋がりの海原の大いなる水面に繋がっておったならば、そうすると、
そこに於いては航行する船が難破すると云うようなことがない訳です。

全体の流れに繋がって居ないで一つの波だけの、
その上に引っ掛かってと波の動揺で難破して
ひっくり返ると云うことが起って来る譯です。

つづく。

         <平成27年9月14日 謹写> ありがとうございます 合掌。



そう云う風に我執と云うもの、或いは利己と云うものは、
全体と一つであるのが本当であるのに、全体と一つと思わないで
自分だけと云う心が、是が我執であり自己である。

我執が出て来た時に神がなくなり我執が滅した時に
神が現れて来ると云うことになるのであります。

そして「神が現るれば善となり義となり慈悲となり調和自ずから備わり」と
『甘露の法雨』には書いてありますが、

神そのもの、全体そのものは、全体の調和でありますから、
自ずからそこに調和が出て来ることは当然のことであります。

ですから、調和を出そうと云うには、
我執を去って、神を出せば、すなわち善となり慈悲となり調和おのずから備わり、
と云うような状態をこの世界に現すことが出来るのであります。

その為には自己と云うものを出来るだけ滅して、滅して、滅し尽くして
しまわなければ本当のものが出て来ないのであります。

自分と云うものを破摧し、破摧し、破摧しつくして
最後の無にまで破摧してしまった時にそこに「大いなる自分」――
「本当の自分」と云うものが出て来るのです。

一つ一つの波を悉く粉砕して、そして波をなくしてしまった時に
大いなる海原全体のうねりのみがあると云うのと同じように、
吾々も自分と云うものを本当になくしてしまった時に全体の大生命の波にのって、
自由自在の働きが出来るようになるのであります。

つづく。

         <平成27年9月15日 謹写> ありがとうございます 合掌。


そこで不道徳とか悪とか云うものは、そんなものがあるのではないのであって、
一局部に捉われていることを、それを悪と云い不道徳というのです。
要するに一部分見ていると全体が見えない。

いつか新聞に出ていました。亡くなった子供を「妙ちゃん、妙ちゃん」と
声をあげて気が狂ったように泣き叫んでいた妙ちゃんのお母さんの実例を
見ましても、この母親の苦しみが何処から来るかと云いますと
全体が見えないからであります。

妙ちゃん妙ちゃん妙ちゃんとそればかり見ている。
そうするとほかにどれだけ楽しいことがあり、
ほかにどれだけ好いことがありましてもその楽しさ宜しさがわからない。

この母親はまだ二人も子供があり、夫もありますので、
まだ一人も子供のない人から比べたら余っぽど幸福かも知れませぬけれども、
それを見ないで、心が全体を見ず唯一局部に捉われていたから苦しみ、
悩みがあらわれ、そこに悪が出て来、いろいろの不道徳な状態や不調和な状態が
自ずからあらわれて来たのであります。

人間は人物が大きくなるに従って全体を見る眼が開けて来るのであります。

人物が小さい人間程小さく井の中の蛙の如く自分だけのところを見ているのです。
そして全体が見えない、全体が見えないのは人物が小さいので、
是が又不道徳であり、悪であります。

不道徳と云う塊があるのではなく、
自分の心の視野が狭くて全体が見えないだけのことであります。
だから心の視野を広くして全体を見ればいいのです。

握る働きと同じことで握れば掌の中に暗(やみ)がある、
実際こうして握れば掌(てのひら)の中に暗(やみ)があるに違いないのです。
併し暗(やみ)は積極的に暗(やみ)と云うものがあるのではないから、
「そんならそのお前の握っている暗(やみ)を掌を開いて見せてくれ」
と云われて、暗(やみ)が本当にあるかと云って掌を開いて見た時には、
もう暗(やみ)はないのです。

そう云う風に不道徳と云うものも悪と云うものも一つの握っている状態です。
握っている状態において握った拳の小指のところの此の孔から覗いて見たら、
成る程暗い闇があるのですけれども、それは握っているときだけの状態であります。

全体を開いていない、全体を見る眼が開いたら、
そこにはどうにも悪と云うものが出て来なくなる譯です。

つづく。

         <平成27年9月16日 謹写> ありがとうございます 合掌。


        <心全相に達せざるを迷いという>

国と国との争いでも、その争いが起ると云うのは
全体を見ていないと云うことであります。

全体を見ていないから或る国が善い積りでやっているかも知れないことが、
他の国が善いと思うことと一致しない、それが争いのもとであります。

それが所謂我執であり、じぶんの我を出して、自己を出して、
そして一局部だけ握っている譯だからそれが悪であると云うことになります。

そこで吾々は広く世界全体、人類全体と云うものを見なければならないのです。

人類全体、世界全体の幸福と云うことに広く眼を開いて見たときに、
そこに全然争いと云うものや悪と云うものが消えてしまうのであります。

併しながら普通吾々は五官をもってものを見ようとしますから、
五官と云うものはどうも全体が見えないものです。

斯うして、私が書物を見ていると皆さんの顔が見えない。
皆さんの顔を見ていると書物が見えないと云うように、
五官と云うものはどうも不自由なものであって、観察が全相にわたらない。

ですから五官で形あるものを見ている限りに於いては、
ややもすると吾々は一局部に捉われて、
そして眼の前に見えるものだけに執着しようとする傾きがあるのであります。

尤も五官と云う感覚器官も生活の便宜上そう云うようなものが作られている
のであって、何もかも一遍に見えたら是れ又實際生活に困ることになるのです。

書物を読むのでも何もかも見えて、此の書物の全頁が重なり合い、
またその上に色々の景色や光景まで重なり合って見えたら
どうも書物を読むのに困るのであります。

だから五官と云うものは一局部だけ見るように拵えてあるのです。
その為の五官ですから、どうも一局部に捉われる傾きがある。

ところがすべてのものは全体の流れの中に生きているものですから、
吾々は一局部を見て又全体を見渡すところの広い雅量を以て、
たんに一局部だけに捉われず全体をみて、そしてまた一局部を見て
そして全体に繋がるところの一局部であることを知って、
適切にその一局部に処してゆかなければならないのであります。

心が全相にわたらねばならぬと云っても
一局部を無視すると云う譯には行かないのです。

飯を食う時でも他所の方ばかり見て飯を見ないで、
食っているのか食っていないのか分らないような事ではいけないのです。
ですから御飯を食べるときには、一所懸命に飯を見て、
是は神様の恵みであると観て食べなければならないのであります。

此れを天地に満つる神様の恵みの現われして観るのは
一局部に捉われていないのです。

肉体から見たら神様の恵みも何もへちまもないので、唯物質が並んでいるだけです。
しかし天地に充ちている神様の恵みに連関さして見たときに、
一局部に捉われないで全体を観ていると云うことになるのであります。

何でも全体に連関させて観る、神様に連関させて観る――一
局部に捉われず、全相を観るのが迷わない心であります。

つづく。

         <平成27年9月17日 謹写> ありがとうございます 合掌。




    <生命の全機観に立って事を為せ>

そう云うように一局部に捉われて、自己と云うものに余り引っ掛かり過ぎ、
眼の前にあるものに執へられてそれだけを見ると云う所に、
悪と云うものが出て来るのであります。
と云って、吾々は眼の前にあるものを見るなと云う譯じゃないのです。

書物でも読まなければならないし、人の顔もみなければならないけれども、
その一局部のもの、有限のものを見ながらその背後にあるところの
無限の連関を見失ってはならないのであります。

此の無限の連関を本当に見たときに、そこに吾々は本当の道を発見し
本当の善を発見することが出来るのであります。

個人にしても国家にしても矢張り同じことで、
全機を観ることを失ってしまうと、そこから神が見失われ
生命が見失われると云うことになるのであります。

「神はすべてのすべて」と実相を観ずる歌」に唄ってありますが、
全機を観るところに神が見出されるのです。

一局部観のところには神が殺されてしまうのであります。
殺すと云っても神は殺しようがないのですけれども、
自分の心の中に神が蔽われていのちが生きてこなくなるのであります。

そこで利己主義と云うものは一時好いように見えて居りますけれども、
自分の中に発現しているところの神のいのちを殺すことになるのでありますから、
神は全ての総てでありますから、利己主義は却って自己を全体から
切り離し殺してしまう事になる譯です。

自分が伸びようと思ったら全体と繋がることを忘れてはないらないのであります。
全体に繋がってこそ、樹の芽でも伸びてゆく。神の生々化育の働きに
つながることによってこそ樹は栄え、繁り、伸び行きて大いなる枝葉を
繁茂させることが出来るのであります。

枝葉が上に伸びて出ている寸法だけ、樹木は根が伸びているそうですが、
吾々の生活も矢張りそうであります。

目に見えるように伸びるのは、下にそれだけ根が張っており、
同時に天から、それだけ太陽のエネルギーを吸収するからであります。

根が深く這入っていないで伸びたら、
それは風でも吹いたらひっくり返ってしまうのであります。

また根が浅くしてあまり繁り過ぎると葉から水分が蒸発し過ぎる、
しかも下からそれだけの水分を吸い上げる根が張っていないのですから、
だんだん旱魃状態みたいになって、枯れて来るのであります。

そこで根と云うものと全体の繋がりと云うことこそ大切であります。

つづく。

         <平成27年9月18日 謹写> ありがとうございます 合掌。


         <或る農人の体験>

此の間叡山に行ったら面白い体験談を話した人がありましたが、
此の人は農業の経営とかをやっていると云うのですが、生長の家に入って
すべてのものは自他一体であって一つに繋がっていると云うことを発見した。

今までは稲でもよく出来させるのに、例えば一反歩に四石採れるところ
を七石も八石も採ろうという場合に、種を薄蒔きする、種子と種子との間隔を
沢山開けて蒔いたら互いの株が離れておって、
そして一株あたりの吸い上げる養分が互に奪い合わないで多いから、
一株の稲から、沢山の収穫があると云うのであります。

ところが此の人は或る年のこと反対の事を考えたのであります。
すべて生命は自他一体だから互に繋がらせると云うことが
生命の伸びる方法であると考えたので、

その時トマトを植えるには普通二尺くらい離して植えるのを一尺くらい離して
互に根と根を繋がらせるようにしたのであります。
尤もそう云う風にどんな作物でも唯単に間隔を縮めただけで
よく出来る譯ではない、

その時の天候や土地の状態などと調和しなければなりませんが、
其の年は雨量が少なくて二尺位離して植えた他所のトマト畑などは、
水分が足りないために乾燥して、枯れてしまったり、
胡瓜なんか殆んど枯れそうになって小さいのしか出来なかったのに、

不思議な事にその人が蜜植えしたトマトは、自他一体で互に共存共栄して、
水分不足に陥らず、永く美しいトマトの果実をみのらせたのであります。

これは側に居るものは互に搾取し合うと云う唯物論的人生観を去って、
生命は互に奪い合うのであったら出来るだけ離して居ったらいいと云う譯ですが、
生命は互に助け合うから衝突しない程度に於いて出来るだけ近くに仲良く寄せる
――ただ形だけでなしに、生命の相互扶助を信ずる――
その信念の反映としてこう云う良結果を来したのであります。

つづく。

         <平成27年9月19日 謹写> ありがとうございます 合掌。

この実例でもわかりますように、生命は共存共栄でありまして、
此れが本当にわかってくれば、人類に平和が来るのであります。

人類や民族が今まで奪い合うようにあらわれたのは、こちらが生きものは
奪い合っているものだと思っていた妄念の反映に過ぎないのであります。

生命の実相と云うものは、奪い合わないで助け合うものであります。

互にトマトでも、根と根とが重なり合い、
葉と葉と相覆うている葉は日光を吸収し、
地面の方は適当に葉の影になっているから、雨が余り降らなくても乾燥しない。

その為にトマトも他所の畑では枯れているのに栄えている、
胡瓜も他の畠では日焼けの胡瓜で数少なくなっているけれども、
そこだけは大きなものが青々としてブラ下がり他所よりも美事に出来ている。
而も数が二倍間隔が縮めてあるからそれだけ株数が多いので余計実って、
結局、他所の四倍も出来たのであります。

是は生命の全機観を失わなかったところの生活実践であります。
単に形だけを真似て他の人がやったら同じ成績が得られるかどうか
わかりませぬけれども、生命を拝む心で生命の全機と一体になったところに、
こういう結果を来すのであります。

生命の全機のなかには其の年の気象も含まれておりますから、
その年の雨量なんかに関連して適当な密植の方法なども其の人の心に
自然の智慧で浮んで来るのであります。

今までの唯物論的な人生観では、ダーウィンの適者生存、自然淘汰
と云うような問題から、側にあるものは互に助け合わないで奪い合って、
一番弱いものは犠牲になってしまうと云うように考えられておったのですが、
それが生長の家になるとそうじゃない、

みんな助け合うのだと云う人生観になるのであります。
暑いとか寒いとかの気象変化なども互に生命の生長を助けてくれるのであります。

つづく。

         <平成27年9月20日 謹写> ありがとうございます 合掌。


        <同業互に相奪わず>

トマトの密植だけではない、
助け合いの世界と云うものは、人間の商売にもあるらしいのです。

神田の古本屋街なんかでは古本屋ばかりが並んでいるのであります。
古本屋なんか一軒だけで、ほかになかったらその店ばかりに買いに来て、
大変儲かるだろうと思うかも知れないけれどもそうじゃないのです。

古本屋ばかり沢山ずっと並んでいると、
十人お客様が来て十ヶ所の古本屋に分けられたら一人しか買ってくれない
と云うことになるのですが、

古本屋も神田に行けば並んでいると云うことになりますと、
書物を買うなら神田に行けば何でもあると云うようになって、
そこに古本の欲しい人がみんな集まって来て、
どの店も皆栄えることになるのですね。

これも共存共栄でありまして、決して同じ店が余計集まっているから
損になると云うものじゃないのであります。

人口が稠密になったら吾々は却って生活難に陥って生活に困るかと云うと、
そうじゃないのであります。

私達は最近バクタモンと称する土壌菌による肥効促進剤を発見して、
これを施せば、あらゆる作物が二倍三倍の増収を得る実験に成功しましたから、
日本の人口が今後二倍三倍に増加しても避妊も堕胎の必要もなくなった
のであります。

これなども時に応じて神の智慧が発見させてくれたのであります。
都会も人口稠密になればなる程、人々は奪い合いするかと思うと
実際は人口稠密な都会に集まれば集まるほど儲かるから
都会の人口は益々殖えるばかりなのであります。

決して人間と人間とはいくら集まろうとも、
正しき人生観を持っている人ばかりであれば、
神の造りたまえる大調和の世界の實相が現象界にも現れて、
決して搾取や略奪や闘争が起こらないのであります。

だから何よりも大切なのは人間の人生観を正しくすることであります。
だから釈迦牟尼仏も悟りに到る八聖道の第一を「正見」と云って
正しき人生観をもつと云うことが必要だとせられたのであります。

第五章 完。次回から第六章です。

         <平成27年9月21日 謹写> ありがとうございます 合掌。







第6章~第10章 (43)
日時:2018年04月25日 (水) 02時23分
名前:伝統

谷口雅春先生に帰りましょう
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第六章

       ≪第六章 「迷い」は無いと云うこと≫

      <暗は実在ではない、光の非存在である>

迷いがないと云うことは、はっきりお分かりにならない方が多いと思いますが、
何故分からないかと云いますと、迷いと云うものは吾々はあると云う前提で、
それを取扱って、それがどうして
ないか、こう極めてゆくからであります。

ないものはいくら探してもある筈がないのです。

何か斯う云う理由で、あるのだと実際いうのであったら、
迷いは何かの理由であると云うとことになるのですけれども、
ないと云うものは理由を探しても理由がない。

存在の理由がないからこそ、ないと云うことになるのであります。

ですから「ある」ものだけを取扱うための人間の頭で考えて迷いが無いと云う
ことを分かろうと思うのは、丁度、自分が暗の中に居て、暗がりが実際非存在
であると云うことを分かろうとするのと同じで、
其の儘ではわかりようがないのであります。

暗(やみ)の中に居て暗はないと考えられない
そこでそれを無いと解らすためには灯を点じたら分かるのであります。

即ち暗が忽然と消えるので
「あぁ暗そのものはなかったのだ、単に光の欠乏だったのだ」
と分かるのであります。

あんな部屋の中にいっぱい充満していた暗がどこに一体行っただろう。
部屋の中に居った暗が窓から逃げて何処かにかくれていると
云うことはないのです。

そんな暗はないのであります。

そうすると暗と云うものは逃げ出しもしないのに
光を点じたら其の儘消えてゆく。
そうすると暗と云うものは実際あるのではない。
光の非存在と云う消極的状態どと云うことが分かるのであります。

それと同じく、「迷い」と云うものは存在するのではなく、
「悟り」の欠乏状態に過ぎないのであります。

悟りの眼を開いた時に、
その時に眼を瞑っている状態は消えているのであります。
眼を開いて目が見えるのは、
別段「盲目」が逃げ出して行ったわけではないのであります。

初めから「迷い」はないので、
目明きが目をふさいでおっただけのものであります。

光を灯せば暗がりはその儘消える、
その時に部屋の中じゅう実にあるかの如く見えておったその暗が、
その時、ないのだと云うことが其の儘分かる譯であります。

そこで「迷い」の暗い方から考えて推理を進めてゆく人はいつまで経っても
迷いがないと云う事が分からないのは、光を点じないでいて、
暗の中にいながら暗の非存在を考えているのと同じで
あります。

生長の家の實相哲学では暗の方から推論を進めて行かないで、
光を点じて直感的にぱっと「迷いはない」と結論を下してしまうのであります。
これを「実相覚」と云うのであります。
谷口哲学は直観哲学であります。

暗の方から光の方を研究して行ってはならない。悟りの目を開いて、
「人間は神の子だ」、ただそれだけの光を灯せばいいのであります。

そうしたら迷いはない、迷いが何故現れているのかそんな事は
問題にはならないのであります。

暗がどうして現れているかと云うと心に光を灯さないから現れているのですから、
心の世界に目を覚まして、

「人間は神の子である、神のいのちである、その儘明るいのだ」

それをその儘悟ったらいいのであります。

そしたら此の世界には何も悪いものは一つもない、
悉く神の智慧と愛と生命と供給と調和とが充満しているところの世界である
と云うことがハッキリ分かるのであります。

つづく。

       <平成27年9月23日 謹写> ありがとうございます 合掌。


       <心の眼を開いて見れば>

臨済禅師と云う臨済宗の宗祖になったえらい坊さんが悟りを開かれた時に
「大唐国中を訪ぬるに一人の迷える衆生無し」と言われたと云うことであります。

心の眼を開いて見たら誰も迷っているものがないのであります。

詰まり光を点じてみたら暗がりは一つもなかったと云うのと同じであります。

あいつは悪い奴、こいつは悪い奴と思っているのは、
こちらが心の眼を閉じて相手の光を見ないからであります。

相手に内在する仏性の光を見れば、誰一人如来でないものはない、
誰一人神性でないものはない。誰一人仏性でないものはないのであります。

みんな神様のいのちを本質としてあらわれているところの立派な人ばかり
充満しているのであって、悪い人は一人もないのであります。

それをあいつが悪いこいつが悪いと思って見るのは、こちらの心の眼が開かず、
丁度、色盲が紅や緑の色をよく見ることが出来ないで、「この世界は暗い景色だ、
明るいものは一つもない」と云っているのと同じであります。


<心の立場が異なればば現象の姿はかわる>

そもそも時間空間の世界に色々の相対的立場に於いてかくの如く現れているのは、
決してものの本質ではないのであってあらわれの姿と云うものは、
自分の立っている立場に依っていずれも異(ちが)うのであります。

富士山も凡(あらゆ)る方角から見ると皆形異うのであります。
又朝見るのと晩見るのと、まるで景色が異うのであります。

富士山に雪が真っ白に積もっている景色も、何時見ても同じ景色と云う譯ではない、
時間によって光線の変化があり、時々刻々色が変わって来るのであります。

どの色が富士山の本当の色か吾々はあらわれを見て断定することは
出来ないのであります。

此の富士山の色は紫色なんだと思っていると、その内に太陽が少し昇って来ると、
是は茜色だと思える、いや茜色ではない、金色燦然として輝いていると云う様にも
なるのであります。

相対的な姿はその時その場所でその人に見える相は
色々変わって一定の姿はありません。
そうすると相対的な姿と云うものは、
「ものそのもの」の本当の相ではありません。

「ものそのもの」の本当の相でないものは実相ではりません。
實相でないものはウソの相であります。

つづく。

       <平成27年9月24日 謹写> ありがとうございます 合掌。


      <相手を悪人と思ってはならぬ>

そこで相対的世界で見るものは誰一人本当の相を捉え得ません。
だから相対的に見て、相手を悪人だと思ってはなりません。
それには必ず、こちらの立場が混入されているのであります。

相対的立場からの眼を以て見たら、皆さんが私の顔を見ても
誰一人同じように見ている人は一人もないのです。
一人一人皆異なるようにその眼に映るのであります。

ところがにんげんの顔位は見る人の異なる毎に異なるように見えてもいい
のですけれども、何かの問題について意見が対立いたしますと、互いに
「私は是をこう考える」と主張して終に喧嘩になったりするのであります。
ですから相対的知見は争いの本になると云うのであります。

相対的知見は五官の見る処を信ずる智慧で、智慧の樹の果でありますから
エデンの楽園から追い出される事になるのであります。

だから吾々は立場を離れて、いわば、座らずに座って、空間もないところに
座って、眼球を外して「無立場」の立場に立って、そして事物の本質を
ごらんになったら始めて事物の本質が分かるのであります。

それこそが「実相」であります。

即ち禅宗で云う「暗の夜に鳴かぬ烏の声を聞く」のであります。
ところが実際社会に生活する場合には、仮に五官智で見て相対的立場から、
それを仮りにあるとして取り扱ってゆく、そのために「立場の相違」と云う
ところから見解に相違を来して、ついに争いを生ずることになる。

それは事物の実相を見ないで、架空的現象を見て追い廻しているのですから、
まるで夢遊病者のようなものであります。

つづく。

       <平成27年9月25日 謹写> ありがとうございます 合掌。

夢遊病者は夢の中で泥棒が出て来たように誤解して
「無いもの」を「ある」として追っかけていることがある。
そして何もいないのに夜通し寝巻のまま走り廻ったりしている。

「一体どうしたのか」と云って叩き起こすと初めて目をこすって
「ハー、何ですか」と気が付く。あれと同じことです。

迷っている本人は「迷い」によって見たものを「ある」ような気がして、
そして一所懸命に真面目に追っかけているのですけれども、叩き起こされ
目が覚めたら初めてその世界が消えるのです。

夢の中で泥棒が入ったと思って、そして泥棒に掴まったら殺される
と思って逃げ廻っているような心を捨てて、そして自分を害する何物もいない
と云う「実相」を掴んでしまう。

例えば「自分の戸締りは入念に神様がかけて下さっている、是で安心だ」と
実際の本物を掴んでしまうのです。

そうすると「泥棒」に対する恐怖が消えるのです。

『般若心経』には「顛倒夢想を遠離すれば恐怖なし」と書いてあります。
夢遊病者の夢を去って、本物の人間と云うものを掴んで見たならば恐怖
すべきものがないのであります。

自分のいのちの本質でいのちの本当の姿を掴んで見るのです。

そうすると成る程人間は神の子である、神のいのちであるとわかる。
それが悟られた時に「迷い」と云うものは忽然と消えるのであります。

詰まり光を灯したら部屋の中の暗が消えてしまうと同じように、
迷いは忽然と消えてしまう。

消えなければ、消えない人には幾ら説明しても
「迷い」がないと云うことがわからない。
消えた時になって始めて迷いが無いと云うことがはっきり分かるのです。

光を灯さず、暗をはびこらして置いて、
そして暗がないことをいくら説明しても分らない、
火を灯した時に初めて案が無いと云うことがわかるのであります。

先ず心に実相の光を灯すことであります。

今回にて、第六章は完。次回から第七章です。

       <平成27年9月26日 謹写> ありがとうございます 合掌。


http://kaerou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=15462218
第七章「健康のため心理学」

  ≪第七章 健康のための心理学≫

     <人間の体質と云うものは実は心質である>

皮膚に傷をしても自然に内部から肉がもち上がり新しき皮膚が構成されて行く
其の神秘がわかれば、人間の内部にあってすべての肉体の欠損を癒してくれる
神秘的力をる了解することが出来るのであります。

しかしその内部の癒す力が速やかに働く人と、
なかなか容易に働かない人があるのであります。

第二次大戦中、呉の海軍病院に入院していた人で、脚に弾丸を受けてそ
の脚を膝関節の所から切除した人がありました。
その切口からどうしても中から肉が持ち上がって来ないのであります。

軍医はその傷口が化膿して来るのを見ますと、
その部分を切り取って新しい瘡面とし、消毒して黴菌の侵入を防止し、
其処から肉芽の発生を促す方法を度々繰返しましたが、
どうしても肉があがらないで化膿してくるのであります。

この化膿現象と云うものを貴方は黴菌の外部からの侵入だとお考えになりますか。

あなたは牛肉や鶏肉や魚肉がどんなに古くなって黴菌が無数に外部から侵入して
腐敗して来ましても化膿すると云うことを御覧になったことはないでしょう。

化膿すると云う事は生命あっての現象であって、
死んでいる肉体には起らない現象でありますから、
其処に生命が働いている現象だと云わなければならないでしょう。

生命が働いているのに、甲に於いてはその生命力が治癒力となってあらわれ、
乙に於いては化膿や糜爛となってあらわれるのはどう云う譯でありましょうか。

それには何らかの原因が生命力の働く方向又は姿を変化するものだと
云わなければならないでしょう。

つづく。

         <平成27年9月27日 謹写> ありがとうございます 合掌。


     <心の変化で瘡面が急速に全治した事実>

人間のひとりひとりは生命力の働きに可成り一定の傾向性と云うようなものを
備えているものであります。
或る人はどんな栄養分をとっても下痢してしまって痩せていますし、
或る人はそれ程栄養ある食物をとらないのにぶくぶく肥えています。

傷が出来ても直ぐ治る人もあれば、
直ぐには治らないで必ず化膿するような人もあります。
これを普通人は「体質」と称するのでありますけれども、
これは体質と云うよりも「心の傾向」であります。
「心の傾向」を変化すれば体質が変化して来るのであります。

先に書きました海軍病院の隻脚切断の患者について見ましても、
この患者は自分が負傷したことについて国家を恨んでいました。
自分が戦地へ往っている間に妻は脊椎カリエスになって臥床していまして、
自分が戦地から帰って来ても病院へ見舞いにも来ることが出来なかった。

それについて妻の心境をも疑って、彼の心の中には、
じめじめした悲しみと憤りと恨みの感情とが一杯になっていたのでした。

その感情が肉体の血液循環に影響し、内分泌に変化を起し、
じめじめした漿液を瘡面から分泌せしめて、黴菌に繁殖しやすい状態を惹起し、
「憤り」は心の一種の「インフラメーション(炎症)でありますから、
それが肉体にあらわれては瘡面に炎症を惹起し、怨みの心は其処に具象化して、
呪わしい嫌らしい腐乱状態を呈せしめていたのであります。

これを単に外傷又は切断部に於いてのみ起る現象だと思ってはなりません。
それは肺臓に於ける炎症又は黴菌の寄生(肺炎、肺結核等・・・)や、
胃腸に於ける炎症又は潰瘍なども其の人の心の状態によって
黴菌の寄生し易い状態を誘起して起るのでありますから、

若し前記の人の外傷又は切断面の瘡面が心の変化によって
速やかに治癒することが出来れば、肺臓や胃腸に於ける糜爛、炎症、結節等も
心の変化によって速やかに変化するものだと云うことを知らねばなりません。

つづく。

         <平成27年9月28日 謹写> ありがとうございます 合掌。

さて前記の隻脚切断の人の夫人は一時脊椎カリエスで寝ていましたが、
たまたま知人から『生命の實相』を読むことを勧められ、
それを精読するに従って、心に変化を生じ、脊椎カリエスから立ち上がって

海軍病院へ見舞いに来て、自分が『生命の實相』を読むことによって
癒されたことを良人に告げ、良人にも『生命の實相』を読むことを勧めて、
それを一冊枕頭に置いて帰ったのであります。

するとその患者は妻が置いていった『生命の實相』を読んだのです。
そして「天地一切のものに感謝せよ」と云う教えに触れた。

環境も運命も自分の心の反映として起るものであって他の人や他の者を
恨むべき性質のものではない、天地一切のものに感謝する心境になったとき、
天地一切のものとの和解が成立することになり、

天地一切の何ものにも害されるのではない、自分の隻脚の切断も、
自分にそう云う人を斬りつけ非難するような心持があったから起ったのである。

妻が見舞いに来ないと思ってその冷淡を恨んでいたが、
それは冷淡なのではなかった、神様のお引廻しによって彼女は
『生命の實相』読ませられ、癒されて、その体験によって私を導いて、
私の心を転換して私自身がまた癒されるように神様の摂理が働いたのだ。

それなのに自分は妻が冷淡であるなどと思って恨んでいた。

あぁすまなかった。

こんな逆恨みをするような自分であるのに神様がこんなにまで
御引回しをして下さるとは何という無限大の御慈悲であるのだろう。

こう思うと、「すまない、すまない」と云う気持ちで一杯になって来る
と共に「神様ありがとうございます。妻よ、有難うございます。
病院の医師よ、看護婦よ、ありがとうございます。」と感謝する気持ちに
なったのであります。

すると今まで幾度瘡面を切除しても肉芽が発生せず、化膿していたのが、
むくむくと新しい肉が盛り上がるように発生して一週間のうちに
新しい皮膚が出来、傷口が治ってしまったのであります。

私は、傷をしても、よく治る人と、なかなか治らないで
しきりに化膿する人とがあるのは、体質だと思われているが、
実は「心の傾向」だと申しましたが、心が変化すれば、このように化膿
(黴菌が寄生)し糜爛していた瘡面も忽ち治ってしまうのであります。

これを推し及ぼしてまいりますと、
胃腸の中や肺臓の中の炎症や糜爛や黴菌の寄生も、心の持ち方の変化に
よって治ってしまうと云うことは明らかなのであります。

つづく。

         <平成27年9月29日 謹写> ありがとうございます 合掌。

       <不安、恐怖、憤怒、不快の感情の持続は慢性病を惹起す>

以上は唯の一例でありますけれども、
実例を挙げれば無数に挙げることが出来るのであります。

簡単な実例では、吾々が一寸恥ずかしいと思ったとします。
すると顔が真赤になるのであります。

これは明らかに心の働きが血行を変化し
肉体の一部に充血を起す実例であります。

また吾々が一寸恐怖心に満たされると顔が蒼褪(あおざ)める、
心臓がドキドキします。これは心の働きが人体の一部に貧血を起し、
内臓の一部に異常状態が起ったことをあらわしております。

その恐怖がただ夜半に人の足音を聞いたのを盗賊と思い間違えたような
簡単なものであり、それはただの樹の葉のそよぎであって何でもなかったのだ
とすぐ判って安心出来るようなものでありましたならば、
その心臓のドキドキも、顔面の蒼白も、容易に消えてしまうのでありますけれども、

若しその恐怖が慢性的なものであり、
「良人がお妾をこしらえているらしいが、もし本当だったらどうしよう」
と云うように、いつまでたっても晴れぬ疑いであるような場合では、

或は、誰かを憎んででおり、憤っていながら、その憤りがいつまでも消えないで、
互いに敵を有つような恐怖を荏苒と持続しているような場合には、
その感情によって起る内臓の異常運動も身体一部の充血又は貧血状態も、

そのほかまだ外面にはハッキリ見えぬけれども必ずやその感情の変化によって
伴われている内分泌液の成分及び分量に変化が起り、
身体のどこかの細胞が刺戟され興奮せしめられている

状態が長く継続しますために、
その器官、血管、細胞等の一時的異常状態に習慣性が起り、いつまでも
その細胞の一箇所への貧血状態、充血状態、細胞の異常結集状態、
組織の腫脹状態が習慣になりますと、

ついに外から検診してはっきり判るような臓器の異常状態――癌腫、潰瘍、贅肉、
脳腫、肉腫、血腫――の如きもの生じ、或る場合には外部の病菌への抵抗力が
失われて、結核、チフス、赤痢等々となって現われて来るのであります。

この道理がわかりますならば、病気を治す方法は、その逆を行くこと、
精神を平和にし、心のうちに歓びを満たし、遂げがたき意欲などに悩むことなく、

「既にわが願いは成れり」と信じて、つまらないことに悲しみ、憤り、呪いなど
しないことによって、病を内部の自然療能によって癒す道があることが
判るのであります。

つづく。

         <平成27年9月30日 謹写> ありがとうございます 合掌。

        <「すみません」と「ありがとう」の感情が病いを癒す>

憤りを無くし、怨みを無くし、更に恐怖心を無くすためには、
自分の心が貧しくなければなりません。

「幸いなるかな心の貧しき者」とか、
「幸いなるかな悲しむ者」とかイエスが教えているのは、
心の謙虚な者の事を云っているのであります。

前節に於いて、隻脚切断の手術を受けた男が
「すみません、すみません」とお詫びの心を起したとき自然療能が盛んに起り、
病気が治ったと云うことを述べましたが、

この「すみません、すみません」と云う謙虚な心になった者が
「幸いなるかな心の貧しき者」「幸いなるかな悲しむ者」なのであります。

どんなに処刑されても仕方がない自分だと云うほどに
自分の我が打ちくだかれてこそ、憤りも憎みもなくなり、
すべてを赦し、すべてに感謝出来るようになるのであります。

そしてどんなに処刑されても仕方のない自分だと謙れればこそ
俎上に平然として恐怖のない鯉の様に、恐怖がなくなってしまうのであります。

だから病気を起していた心の原因を一掃するには、
「あぁ、すまない、どんなにされても仕方のない此の自分だのに、
こうしてまだ生かされているのは有り難い」と感謝の念を
かき起こす事が必要なのであります。

これが親鸞聖人の所謂「善人なおもて救わる、況んや悪人をや」の
悪人正機の真理であり、悪いと自覚する者ほど却って救われやすい事に
なるのであります。

つづく。

         <平成27年10月1日 謹写> ありがとうございます 合掌。

<宗教でどうして病気が治るか>

    *「善き人生の創造」第七章「健康のため心理学」(P107~108)より

有史以来、多くの病人が宗教に連関して癒されて来たことは事実であります。

それは厳かな宗教
的儀礼に伴う催眠術的暗示の効果に帰することも出来る場合もありますが、
懺悔と云う方法により、心の中に鬱結していた恐怖、憤怒、憎悪等の悪感情が
洗い浄められるからであります。

また、祈りにともなう、「赦された」とか、「わが願いはきかれた」とか云う
釈放の感じによっても病気が治るのであります。

懺悔し、祈り、ゆるされたと思うその感情が宗教的儀礼の厳かさをもって
深く潜在意識に入って来るのであります。

既に罪がゆるされたと云う深い感じがしてまいりますから、
自己処罰によって病気をつくる事もなくなってしまうのであります。

こうして根本から病気を起していた感情を消滅させる
――― 爰(ここ)に自然療能が旺んに起るのであります。

どんな治癒作用も内部の作用であります。
外から黴菌の入らないように消毒して包帯しても、
内部に治癒力のない患者はなおらないのであります。

どんな滋養物を食べても、どんな薬剤を飲ませても、
自然療能が内部から去ってしまっていたら治りようがないのであります。

死骸に薬を飲ませても何の効果もないのは
自然療能が去ってしまっているからであります。

だからどんな治癒もことごとく内部の自然療能力 ―― 自然の生命力 ――
神の力だと云うことが出来るのであります。

内部の自然療能を邪魔していたのが、色々の誤れる感情、抑圧されたる願い・・・
等でありますから、それ等を洗い浄めてしまえば、
内部の自然療能によって病気は治ってしまうのであります。

つづく。

         <平成27年10月2日 謹写> ありがとうございます 合掌。

       <自己自身の本質の霊的生命力を自覚すること>

宗教で病気が治る原因のもひとつ根本なる理由は、
自分自身の「生命の本質」即ち「実相」の発見であります。

(尤も、ある種の治病宗教では其処まで到達しないで、色々の儀礼や、
教師の言葉やお札の暗示だけで治るのもありますが)本当の宗教では
自己自身の本質が霊的実在であると云うことを自覚し、
自己自身が物質ではないと云うことを覚るものですから、
心に病いを描かなくなり、病気と死の恐怖を超越するによるのであります。

心に病気を描かなければ病気は
それだけ現象界にあらわれなくなるのであります。

アメリカなどでは随分医学が発達し、病気の予防法も治療法も発達しており、
その予防注射や、治療注射の新薬の発見された病気は激減しているのに、
精神的病気の数は非常に多いのであって
(K・メニンジャー著日本教文社発行『おのれに背くもの』参照)

病気の統計について云えば、医学いよいよ発達して
病気いよいよ多くなるように見えるのは、

病気を恐怖する宣伝が行き届いているから、病気恐怖のために
精神的疾患に罹るものが多いのだとも云えるのであります。

今迄の医学はあまりにも人間を物質的存在だと考え過ぎて、
病気に罹る物的原因のみを探求し、病気を癒す物的方法のみを
研究し過ぎていたうらみがあるのであります。

だから病気の精神的原因は概ね忘れ去られていたのであって、
従って精神の方面から病気を治す者があるとそれは
詐術、欺瞞、インチキ、迷信であるなどと考えられていたのであります。

しかし最近アメリカの医学界に於いてはサイコソマチック・メディスン
(精神身体医学)と称して心の肉体に及ぼす影響について研究される
ことになり、何事も「外国でもやっているから」と云うと賛意を表する
日本の医学界に於いても、この精神身体医学が取上げられるに到ったのは、
今迄見落としていた病気に対する精神的方面の原因が取上げられるに
到ったこととしてまことに慶賀に堪えないのであります。

それは兎に角、ソクラテスも云ったように「汝自らを知る」ことこそ
すべての病気を癒し、此の世にあるかぎり肉体の健康を維持するに
必須の根本的条件なのであります。

つづく。

         <平成27年10月3日 謹写> ありがとうございます 合掌。
       <治癒の最大なる根本条件>

あなたはあなた自身を「何者」だと思っていられますか、
あなたは決して単なるぶっしつではないのであります。

単なる肉塊(たとえば牛肉)の上に白いご飯を置いたときには
何事も起こりませんが、あなたの胃袋の中へ白いご飯を置いたときには、
単なる物質では起らない、或る種の働き
――消化、吸収、同化などが起るのであります。

だからあなたは生きています。
生命があるのであります。
生命は霊的なものであります。

更に、その生命が肉体を創造して肉体を操縦する場合に生ずる
精神作用と云うものがあります。

即ち人間には肉体(物質)としての面と、生命(霊)としての面と、
精神としての面と、三つの面があるのでありまして、
その健康の維持に当たっても此の三つの面のうち、
どの面からでも治療して行くことが出来るのであります。

精神治療の面から行くのは、精神作用によって生理作用を多少とも
左右して行こうと云うのであります。
しかし精神作用と云うものは絶対無限の力をもっているものではありません。

たとえば飯を食ってから一所懸命「この飯は絶対に消化しない」と
思念いたしましても、或いは食事中にある不快な出来事で精神が
顛倒いたしましても、尚、消化作用は多少行われるのでありまして、
多少その消化作用が阻害されるに過ぎないのであります。

これは内部にある生命力(霊)が、その生命の顕現の機関としての
肉体を維持するように出来ているからであります。

更にその際消化剤を胃中に投入いたしますと、
多少とも消化効率は殖えるのであります。
これは物質面から生理作用に影響を与えたのであります。

だから人間は三つの面から病気を治す事も、
健康を増進することも出来るのであります。

しかしながら、いずれが主であり、従であるかと申しますと、
人間から生命が去ってしまったら、精神作用も物質的薬剤も
効果をあらわすことが出来ませんから、

生命力を発揮し易くすることが治病と健康への最初にして最後、
そして最大なる根本条件だと云わなければならないのであります。

多くの人は宗教で病気が治ると申しますと、
大抵、精神の働きで治るのだぐらいに考えますが、
そう云う暗示的面もあるにはありますが、

本当の宗教で病気が治るのは、
人間が霊的実在(宗教的に云えば、神仏そのもの)であることを
自覚することと、その生命力の発現を妨害していた精神状態を
取り去ることによって、生命それ自身の自在無碍なる働きを発揮する
ことになるのであります。

これが本当の宗教を知り、「生命の実相」に目覚めることの功徳でありまして、
それは精神が治すのではなく、精神が生命力の発現を妨害していた
その妨害観念群が除去されるため、生命力が完全に働くからであって、
何処までも行っても、癒す力は生命(霊)の力なのであります。

今回で第七章は完。次回から第八章「人間は何のために生まれたかです」

         <平成27年10月4日 謹写> ありがとうございます 合掌。















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