「幸せは今ここに」~その2 (9) |
- 日時:2016年04月05日 (火) 20時08分
名前:伝統
”管理人 さま” ご好意、まことに有難く、心より御礼申し上げます。
上限の千件については、了解いたしました。 できるだけ、投稿件数を抑える形で、活用させていただきます。
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第4編 夫婦の愛情
《夫の不行跡は》
妻は夫の不行跡を責める前に、 どうして夫が自分以外の女性に愛情を移して行ったのかを反省してみることです。 必ず何か思い当たるものがあるはずです。
夫婦の愛情が本当に強く結び付いている間は決して、そうした間違いは起り得ないのであって、 悲劇が起るのはお互いがその生活に欣(よろこ)びを感じなくなっているからです。
いつでしたか竹田先生から伺った話の中に、余りに世帯じみた奥さんが、 お白粉気(おしろいけ)一つなしに一日中真黒になって内職に追われ通している間に、 夫の放蕩が激しくなって、ついに悲しい破局をみられた実例がありましたが、 夫を理解しようとする妻の愛情が足りないと言わなければなりません。
家庭の妻は常に夫の仕事の内容や趣味に正しい理解をもって、 夫と歩調を合わせて行かなければなりません。
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《夫の競輪に応ずる道》
先日もある奥さんが偶然に私の講演をお聞きになって大変感激せられたんだそうですが、 この奥さんは夫の競輪癖に悩んでいらっしゃったのです。
「妻は夫の趣味に正しい理解を持たなければならない」 この言葉を奥さんは素直に実行しようとせられた。
2、3日して秋篠の競輪が始りました。 夫はもう仕事が手に着かない始末です。
「お父さん、今日から競輪ですね。あなたがいらっしゃるのだったら、私も一遍連れて行って下さい」
そうして2人は競輪に行ったのです。大勢の人にもまれながら、 彼女も夫と共に2、3枚の券を買いました。 そして夫はすっかりすってしまいましたが、奥さんは数千円儲けたんだそうです。
その時奥さんは夫が競輪に凝(こ)る真理が、やっと理解できたのですね。
「お父さん、競輪て案外面白いですね。これなら私でも毎日来たいわ」 と彼女は晴れ晴れとおっしゃったのです。すると夫は
「誰でも勝った時にはそう思うんだが、負ける方が多いからね。 まあ、あんまり近付かん方が良いんだよ」
とおっしゃって、それ以来余り行きたがらなくなったと言います。
一にも二にも競輪は悪いと、競輪を目の敵にして夫を縛ろうとする心が、 反対に夫をして悪の道に追いやることになるのですね。
これは親が子に対する場合も同じです。
夫は又仕事や社交のことについて妻子に大風呂敷を広げたがるものです。 「どうだい、俺はこんなににも偉いだろう」 得々と夕餉の酒の肴にせられることがあると、善良な奥さんは嬉しそうな表情で 夫のメートルを聞いてやらねばなりません。これは男性共通の心理なのです。
どんな夫でも自分を大きく見せたい、偉く見せたい。 ことに最愛の妻に対しては、この傾向が強いわけです。
「本当にあなたって素晴らしい方ですね。私は幸せだわ」 と素直に威張らせてやるだけで愛情があれば、 夫はどうして奥さんの愛情を裏切ることがあるでしょう。
しかし、多くの女性は夫を威張らせないのです。
「なんだつまらない。あんたなんか、いくらごうたくを並べたって、 私はあなたの甲斐性の無いことを骨の髄まで知っているんですよ」
と、ツンと澄ましていられたんでは、夫の心は悲しくなって参ります。
少しでも自分を喜んでくれる女性に魅力を感ずることは、けだし不思議ではないでしょう。
夫婦調和の根本は、妻がまず自分の夫に惚れることです。 惚れるという言葉は大変 下衆(げす)い言葉の様ですが、なかなか好い言葉ですね。
自分が惚れないから他の女性が来て自分の夫に惚れるだけです。
他の女性が惚れたからといって、何も立腹することはないでしょう。 それが嫌なら、自分がもっと他の女性よりも強く惚れればいいのである。 それは自然の法則であって当り前のことなのであります。(26.4.26)
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第5編 家庭を明るくする運動
《家庭の幸福は女性から》
「家庭を明るくする運動」というのが、今年の婦人会のテーマに採り上げられています。
家庭の光明化はまず婦人からという考え方は嬉しいですね。
これは、私達が何時も申していることでありまして、男性の自覚も勿論大切なことなのですが、 何と言っても、家庭の光明化は、女性の認識を高めるという線にあると思うのです。
新しい憲法が制定せられまして、女性の地位が著しく向上してきたことは事実なのですが、 まだまだ女性自ら女性を、蔑視する思想が強いのじゃないかと思われるのです。
「あなたは女性として産れて来たことを悦んでいますか」 私は時々個人指導の時に伺うのです。
「勿論女なんてつまらんですわ。今度生まれる時は断然男に生れます」 こうおっしゃる方が案外の多いのです。
そしてそうおっしゃる方は皆不幸なんです。
不幸だから、そういう考え方にもなるのだとおっしゃるけれども、そうじゃないんですね。
元々女性としての祝福が日常の生活に欠けているのですよ。
「女性は太陽の如くなれ」と、いつかの講習会で谷口先生がお話し下さったですが、 女性の明るい微笑が、家庭を太陽の如く輝かせることは事実ですね。
明るい表情、柔和な言葉、親切な態度、こうした女性を皆様の家庭に想像する時、 一家の幸福が眼に見えるようですね。たとえ如何ような経済的な逆境にあっても、 失意の心を慰めるのは女性の信頼と明るい言葉です。
「わたしはあなたを信じています。あなたは必ず成功します。わたしはあなたによって幸福なのです」
こうした良き言葉は男性を素晴らしく勇気づけるものなのです。
妻が私を信頼していると知るだけで、多くの男性は限りなく幸福であり、 母が私を愛していると知る子供は、人生に絶対に失望をしないでしょう。
夫の極道も、子供の不良化も結局は家庭に於ける女性の愛情に欠けるところがあるということです。
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《食事の度に小言を言う親》 食事の度に小言や愚痴を並べる父母のあるということは、家庭を暗黒にする第一の原因です。
日本の家庭に於いてはまだまだこの習慣が多いようです。 こうした小言は言う方も聞く方も数倍腹が立つものです。
食事は出来る限り談笑しつつ、楽しい雰囲気の中で過すべきですね。 私の家内は時々、子供に夕飯の御馳走の希望を投票させて決めることがあります。 子供にとって最も楽しいひと時です。
こういう時には出来る限り子供に良く話させることですね。 この話の中から子供の生活、交友関係、思想等を知ることになり、 子供から背かれるという如き不幸は未然に防止せられるのです。
とにかく食事は接待する女性の雰囲気によってその味が左右せられます。
ことに限られた材料によって毎日調理せられるのですから、 食事を如何に楽しく食べさせるかは、主婦の分別によるものです。
家庭を明るくするという秘訣は案外こうしたところにあると 私は常に考え、申上げているのであります。
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《「ハイ、ニコ、ポン」》
先日彦根に参りましたら、一人の若い学校の先生が御挨拶にいらっしゃって、 大変素晴らしい大変を伺ったのです。
その先生は宗田先生といってまだ就職して一年位にしかならないのだそうですが、 児童教育ということに非常な熱意を持っていらっしゃる。 従って児童心理学なんか先輩の本を読んで色々と勉強をしていらっしゃるのです。 この勉強をするということが素晴らしいんです。
女の方なんか、例えばお料理ですが、これなんか毎日のことですからつい平凡になりがちですが、 私はよく申上げるんですが、器なんかも少々は贅沢でよい、形の変った良いものを使うことですね。
料理屋なんていうのは、何より器で美味しく食べさせるんですよ。 洗うのが面倒とか、割れたらつまらないとか、そんなことを惜しんで、 大切な旦那さまに浮気されちゃ、引き合わないでしょう。
食事を楽しく食べさせるということが、良妻の第一条件なんです。 それにはやはり勉強することですね。少しの閑をみてはご本を通し、お話を通して、 味や器について研究を重ねて行くということが、最も大切なことですね。
宗田先生は自分の教育に対して経験が無いでしょう。 経験がないからそれだけ勉強されるのです。 そして素直に先輩の書を読んで教育のあり方について真面目に考えられるのですね。
この真面目に考えることがまた素晴らしいことなのです。 そこから必ず良い智慧が出て導いてくれるのです。
初めのうち生徒は事ごとにお友達の悪口を言うのですね。 「先生、○○さんがこういう事をします。こういう悪いことをします。叱って下さい」 という具合に良いことを一つも持って来ないのです。
君達はどうして良いことを言わないのだと聞いたら、 良いことなんて一つもない、悪いことばっかりだと言うんです。
そこで先生は一晩かかって考えましテネ、 「ハイニコポン帳」というものを45冊程造ったと言います.
「ハイニコポン」というのは、生長の家の神童会でよく言うことですが、 「○○君」と名前を呼ばれたら「ハイ」と返事して、ニコッと笑って、ポンと立つことなんです。 これは大切なことなんですよ。皆様はどうです。
ご主人やお姑さんから呼ばれたら「ハイ」と返事してニコッと笑って、ポンと立ちますか。 これが出来る人ですと家庭にあってきっと皆さまから好かれますよ。 器量の問題じゃないですね。
私はよくお嫁さんの苦情を伺うのですが、うちの嫁は仕事しないとか、 顔が不味いとかは滅多におっしゃいませんね。 皆この「ハイ、ニコ、ポン」の不足ばかりです。
返事が悪い、ふくれる、お尻が重い、大抵はこの3つに含まれています。 日本の主婦は皆コノ「ハイ、ニコ、ポン」を素直に実行したら、 日本中の家庭は一遍に明るくなるでしょうね。
さて話は余談になりましたが、宗田先生は、 この「ハイ、ニコ、ポン帳」を生徒の一人一人にお渡しになって、
「あんた方はお父様お母様の御用事をするでしょう。 その時に『次郎君』と呼ばれたら『ハイ』と返事してニコッと笑ってポンと立って頂戴。 そうすると御父様もお母様も大変の悦びになるのですよ。 そしたらこの帳面にそれを書いていらっしゃい。 毎朝先生はそれを見て実行する人にご褒美をあげましょう」とおっしゃったのです。
すると翌日から皆書いて来るのです。手紙を入れに行ったとか、お掃除をしたとか、子守をしたとか。 子供は皆素直ですからね。毎日読んでいると、こんなことが書いてあると言います。
「私は今日お母様からお掃除を頼まれました。 私はさっそく『ハイ』と言ってニコッと笑ってポンと立ちました。 そしたら後でお母様が大変褒めて下さいました。 そしてなおその上、10円お小遣いを下さいました」
誰でも用事をしたらお金を頂くのが当り前だと思うでしょう。 ところがこの女の子は「お母様からほめてもらってなおその上お金まで頂いた」と悦んでいるのです。 ここが素晴らしいんですよ。
私達は何でも当り前になっちゃうんです。 働いたら月給を貰うが当り前。夫が妻を養うのが当り前。 子供が親に孝行するのが当り前。嫁が姑に従うのが当り前。 何でも当り前にして仕舞うのです。
だから何でも感謝がなくなって不足ができるのです。 この子供のように、褒めて頂いてなおその上に10円頂いたという考え方、 これが生長の家の光明思想ですよ。
用事したら10円貰うのが当り前だ、と思っていると、 5円だったらもう今度から用事をしてやらん、となるでしょう。
皆様でも健康だから働かせて頂くのは有難い。 その上まだこれだけ儲けさせて頂いたと思えば不足なんて少しもないでしょう。
みな受け取り方です。 この思想が生活を明るくする最善の道だと思うのです。
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第6編 幸福の条件
《善人は、実は小心者》
誰がみても善良で好意の持てそうな人が、案外恵まれぬ人生を歩いているのをみると、 何かしら矛盾を感ずるものです。正しいことが必ずしも幸福の条件に当てはまらないとすれば、 私達は道徳的にどのような生き方をすべきでしょうか。
生涯を真面目一筋に通して来た人とか、しゃにむに子供のために働き通した未亡人が 晩年不幸な境遇に陥るのには、何かその原因というものがなければならない。
表面に現われない心の姿というものを、今日は皆様と共に良く考えてみたいと思うのです。 時々“正直者が馬鹿をみる”といった言葉を耳にすることもあるのですが、 本当はそんな馬鹿なことがあるのでしょうか。
彼等の恵まれぬ人生に幸福への緒(糸口)を見出してあげるためにも、 正しい信仰への導きをゆるがせにすることは出来ません。
さて問題を頭書の質問に戻すことに致しましょう。 善良で好意を持てそうな人が不幸な人生を歩むということは宗教の立場から見れば、 決して正しいことではないのです。
けれども現実は得てしてこうなり易いとすれば、その原因は何でしょう。 それは、その人の小心の結果じゃないかと思うのです。
一般に善良の人は殆どが気が小さいんです。 少しのことにも気を使いましてね、常人には何でもないことにまで心を労するんです。 その人がどんなに道徳的に善であろうと、恐れるものは皆来るという法則によって 成り立っている世界ですから、恐怖心を持つ人には不幸が絶えないのです。
また善良な人は概して勇気が足りないのです。 とかく引っ込み思案になり易いという欠点があって、大きな事業を大成することが出来ないのです。 また善人は自分が正しいと信ずるが故に、他人を裁き過ぎるのです。人の悪が許せないのですね。 従って絶えず心の中に、不平や不満の感情が満たしているために、病気になる機会も多いのであります。
正直者と言っても、本当の正直な人なんてほとんどいないのですよ。 大抵の人は自分が悪をする勇気がなくて、他人がそれを平気でやると腹が立って、 「正直者が馬鹿を見た」とこういうのです。言ってみれば嫉妬心みたいなものです。
本当に心が清ければ、他人の悪なんて見えやしない。 本当に清貧に甘んじられる心境にある人なら、他人が闇をして儲けようが、 脱税をしようが、何とも感じないのが当然でしょう。
それを、あんな不正なことが釈(ゆる)せるものかと心から非難したくなるということは、 自分の中にそれと同じ汚い波長があるということではないでしょうか。
キリストは“他人の喜びを悦びとせよ”と教えましたが、 人間の心に同悲同喜の心を起さない限り、永遠に幸福の境遇に入ることは出来ないですね。
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《境遇のせいにしてはならない》 或る大変正直そうな奥様がありまして、「先生、私の娘がもう26歳にもなるのですが、 良縁に恵まれないんです。どうしたらいいんでしょう」とお尋ねになりました。
「どうして26まで縁が遅れたんですか」
「それがね、私は疎開の身でしょう。6畳と3畳の二間の家では良い縁も頂けないんです。 少しでもましな家に入りたいと、そればっかり思っているのですが、思うようにならないのです。 娘が可哀想です」と、ホロリとせられるから、私は思わず大きな声で、
「奧さん、あなたが幸福になれないのは、あなたの考えの中に一つの大きな思い違いがあるのですよ。 いったいあなたはの家の小さいということと、お嬢ちゃんの結婚と何の関係がありますかね。 あなたが勝手にこの2つを結びつけて、私の家は小さいから、娘は良縁に恵まれることが出来ない と結論付けているのですよ。この世の中は信ずる通りに現われるのですから、 あなたがそう信じている限り、あなたの娘さんは幸福になれないでしょう」と申上げたんです。
多くの人にはこういった謝った人生観に取り付かれているのです。 資本がないから事業が発展しないとか、未亡人だから世間からバカにされるとか、 姑がきついから娘が幸福になれないとか、何でもかでも不幸な物に結びつける考え方 というものが一番いけないんです。
家が小さくとも、娘さんを幸福にしようとすれば、何よりも娘さんを祝福してあげることですね。 自分の今立っている境遇や環境に感謝をして、「きっと良くなるわね」と 明るい人生観を確立することです。
結婚というものは家がするものでも、財産がするものでも、地位がするものでもないのです。 どんな深山幽谷の谷間の百合(ゆり)でも、馥郁(ふくいく)と咲く花には蝶々が訪れます。 みる影もない茅家(あばら家)に育つとも、清楚な明るい人格の香りは、 彼女の将来に大きな幸福を築かずにはおかないでしょう。
先日も吹田で、未亡人の児だから就職が出来難いと訴えられた方がありましたが、 こうした僻(ひが)みが、愛児の気持ちを暗くして、就職試験にしくじらせているのですね。
この方は次の試験に無事パスせられて悦んでいらっしゃいますが、 殆どの人が陥る陥穽(かんせい)と言いましょうか、この不幸なものへの結びつけが、 善良と好意に満たされた人をも、恵まれぬ境遇へ突き落してしまうのであると思うのです。 (33.6)
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