四、
11月後半の週末、私達は連休を利用してスキー場としても温泉街としても有名な山形県の羅王(らおう)へとやって来た。
羅王は三郎おじいちゃんの実家がある田舎であり、私が小学校時代まで過ごした生まれ故郷でもある。東京へ引越した後も年に1度はこうして遊びに来ている。
ちなみに私達という単語は結構な大人数を指している。美空家フルメンバーに加え、美妃瑠が招待した士道君、そして勝手に付いて来たみどり、会長、ハンナ、正義の面々。
『皆様を姫乃川グループが経営する羅王温泉付き高級旅館にご招待します』
私と士道君を一つ屋根の下で寝かさない。そう野獣を警戒するような瞳でお嬢様は宿の提供を申し出た。
それで結局両親と美妃瑠は三郎おじいちゃんの家、残りはみどりの旅館に宿泊することになった。
で、現在、長旅の疲れを癒す為に私達は皆で露天温泉に入っている最中だったりする。
そして私は深く、果てしなく深く思い悩み苦しみもがいている。
今すぐ宇宙滅びろ。BL本以外。
そう強く願ってしまうぐらいに。
「あ〜ら〜亜沙。そんな風に隅で縮こまってブツブツ呟いて一体どうしたの?&貧乳哀れ」
お嬢様が無駄でしかない胸の皮下脂肪を見せびらかす様にわざと揺らしながらやって来た。悩みの根源が襲来してきた。
「今すぐ宇宙をBL本以外無に帰す方法を真剣に考えていただけよ……って、アンタ今、貧乳って、哀れって言ったでしょ!」
お湯から勢い良く立ち上がり両手を振り上げて憎いEカップに怒りをぶちまける。
「寄らないで。貧乳が伝染ると困るから」
Eは悪びれもせずに言った。嘲笑付きで。
「アンタねぇっ!」
「せっかく亜沙に圧倒的大差で勝てる分野です。有効活用するのが当然でしょ」
悪のEは小説だったら挿絵に出来そうなぐらいとても良い表情で微笑んだ。
「胸が大きいと毎日肩が凝って大変です。亜沙には永遠に理解できない悩みでしょうが」
極悪Eはそう言って首と肩を回し始めた。
ちなみにこの女は今まで肩が凝るなんて1度も口にしたことがない。なのに今日に限ってわざと言いやがったのです。……その喧嘩、買った!
「ケリを着けたいらしいわね」
「胸の大きさ婚活私闘ならいつでも受けます」
睨み合う私とみどり。いつも通りに暴力で決着をつけようと考えたその時だった。
「お風呂で。騒がないの」
長い髪をアップさせてゆったりとお湯に浸かっている会長が小さな声で私達を諭した。
会長へと目を向ける。そこには2010年代末の現在でも1%以下の人口しか所有していないという立派過ぎるお胸様が鎮座しておられた。
「争いは虚しいだけね、みどり」
「上には上がいる。そんな単純な事実でさえ人間は簡単に忘れてしまうのですね」
悲しみと無気力に支配されながらお湯に浸かり直す。みどりは体を洗いに出ていった。
「虚しいわね」
せっかくの温泉なのに溜め息が漏れ出る。と、横から強烈な視線を感じた。
「ジー」
自分の胸のサイズを宣言する様な擬態語を発しながら会長は私の胸を凝視している。
「えっと、何か?」
嫉妬さえ含んでいる様に見えるその視線。私には視線の意味が理解出来ない。
「亜沙の胸。羨ましい」
会長は大きく溜め息を漏らした。
「そのサイズなら。安くて可愛いブラが。いっぱい。エコノミー万歳」
会長は心底羨ましそうに私を見ている。
「私は敢えてこの身を標準規格に当て嵌めることでエコノミーだけでなくエコロジーの最先端を行く女でもあるんです。フッ」
「おおー。凄い」
会長が惜しみない拍手を送ってくれる。
でも、純粋な憧憬を向けられる方が今の私には辛かった。
そして拍手する度にそのGカップ様が大きく揺れるのがもっと辛かった。
宇宙、どうして終わらないのだろう?
「私には、癒しが必要なのよ〜っ」
悲しみに満ちた温泉を出て屋内の洗い場を目指す。遊羽ならきっと私の哀しみを理解してくれる。私と同じ遺伝子の妹ならきっと。
そして私が目にしたもの。それは……。
「遊羽に裏切られたぁ〜〜っ!」
私は半泣きしながら大声で喚いた。
「えええぇ〜〜っ? 私がお姉ちゃんを裏切ったって一体何のことぉおおおぉっ?」
ボディーソープで泡立たせながら身体を洗っていた妹が絶叫する。
妹は私よりも遥かに大きい立派なお胸様の持ち主に成長されていらっしゃいました。
「何で? 去年までは私と同じぐらいだったのに……」
「馬鹿ね。遊羽ちゃんは今成長期の真っ最中でしょうが」
遊羽の隣で身体を洗っているみどりが鼻を鳴らした。その言葉と瞳は言外に私の可能性はもう終わっている事を語っていた。
「だってお姉ちゃん、豊胸アイテムとか何とか私にもいっぱい試させるんだもん。それで、その、急に大きくなり始めて……」
裏切り者の妹は恥ずかしそうに俯いた。
「私には全然効かなかったのに。効果には個人差がありますってか。こん畜生〜っ!」
屋内浴場で野獣の雄叫びを上げる。
入浴客が私達しかいなくて本当に良かった。
「でも、胸が大きくなっても良いことは何もないんだよ。下着のサイズがすぐ合わなくなるから頻繁に買い換えないといけなくて手間は掛かるし経済的でもないし」
「巨乳の共通フレーズを妹に語られる屈辱!」
ガックリと首を落とす。遊羽としばらく一緒にお風呂に入っていない間にこんなにも差を付けられていたなんて。
「遊羽ちゃん、今ブラのサイズは幾つ?」
「その、65のCなんですけど……最近、今のサイズがキツくなったかなって感じがして」
「じゃあ今度わたくしと一緒に買いに行きましょう。可愛いの売ってるお店を紹介するわ」
「わぁ〜。本当ですかぁ。そういうお店、1人だと恥ずかしくて入り辛いので助かります」
持つ者同士の会話が痛い。ほんと、早く滅びないかな、宇宙。BLだけは残して。むしろBLだけの世界に再構成されないかな。
「亜沙は遊羽ちゃんのお下がりを付ければ良いわよね?&エコロジー万歳娘。プッ」
悪意全開のスマイルを浮かべるみどり。その笑みは私の忍耐の限界を突破させた。
「お姉ちゃんを密かに裏切っていた遊羽なんて大嫌いよぉ〜〜っ!」
泣きながら露天風呂に向けて再度駆け出す。
「ええぇ〜〜っ? 何で私なのぉ〜〜っ?」
驚き役の本分を立派に果たしている妹を捨て置いて私は再び屋外へと逃げ出した。
会長が入れ替わり中に入って行くのを横目に見ながら温泉へとジャンプして飛び込む。
「姉に黙ってDカップ挑戦って。遊羽の馬鹿ぁあああぁっ!」
水面を両手で思い切り叩く。
「ああっ、美妃瑠がこの場にいれば私の虚しさと悔しさを共有してくれるのにぃ……」
大きく息を吐いて水面を揺らす。
「小学生の妹と胸の大きさの悩みを共有しようなんてそれ自体がもう終わってるわよ」
「あっ。ハンナ」
サウナに入っていたハンナが私の前へとやって来た。
私の視線はすぐにとある1点をロックオンする。……コイツも敵、か。
洋モノはやっぱり違いますよね。チッ!
「あの、殺意を込めた視線で睨まないで欲しいんだけど?」
「温泉は私を尖ったナイフに変えるのよ」
友軍のいない状況で落ち着いてなどいられるものか。
「まあそんなに尖らないの。アタシはこれでも亜沙に感謝してるんだから。韓国語で言うとカムサね」
「へっ? 感謝?」
ハンナの言葉に驚く。身に覚えがない。
「この間の亜沙との婚活私闘でお腹の中に溜まっていたものを全部ぶちまけたら、スッキリしてさ。自分が何をすべきかも分かったし。だから感謝。コマプタね」
ハンナは楽しそうに笑った。入学時によく見せていたあの楽しそうな笑顔だった。
やっぱりこの子には笑顔がよく似合う。
「別に私は目の前の決闘に全力を尽くしただけよ。感謝されることでもないわよ」
素直に誉められると何かちょっと照れ臭い。
「あれからさ、両親を必死になって説得したの。今までとは段違いの気合を入れてね」
空を見つめるハンナはどこか楽しくて誇らしげに見える。
「そうしたらさ、両親が離婚するかどうか決めるのをアタシが成人するまで待ってくれることになったのよ」
ハンナの顔がパッと輝いた。
「良かったじゃない。おめでとう」
私の顔もパッと輝く。ハンナを苦しめて来た悩みが当面なくなるのは私にとっても嬉しいことだった。
「うん。後は20歳になるまでに両親の仲を今より改善させる。そして離婚する時期を更に更に先延ばしさせてやるわよ」
ハンナは得意満面の笑みをみせた。
「先延ばし、か」
「そう。離婚を決断させないという目的を果たす為には最善の策よ」
ハンナはフッと鼻から息を漏らした。
先延ばしって言うと悪いイメージが付き纏う。けれど積極活用することも出来る、と。なるほど。
ハンナと会話したおかげで少し気分が落ち着いた。それでようやく周囲に目を向ける余裕が出来た。
私の視界に綺麗な景色、竹を束ねて出来た大きな壁が見えて来た。
「あの竹の壁ってさ、やっぱり…」
「あの先は男湯ってことでしょうね」
目を凝らして竹の壁を見る。もしかすると今、あの壁の向こうに士道君が……入浴中?
「貸切状態で良かったよね」
「まだ時間も早いからな。他の泊り客達は観光にでも行っている時間だろう」
壁の向こうから会話が聞こえて来た。あの声、間違いない。
「士道君と正義が一緒に温泉に入ってるわ!」
興奮しながら驚愕の事実を叫ぶ。
「アタシ達と同じ時間に浴場に向かったんだから入っているに決まっているじゃない」
ハンナは首を捻った。この子はまだ私の言葉の意味をまるで理解していない。ナンセンスっ!
「ハンナは全然分かってない。今のシチュエーションが士道君にどれほど危険であるかを」
「ハァ? 危機って一体何を言っているの?」
ハンナの口が半開きになった。
「いいわ。無知でねんねでお子ちゃまな恋愛素人のハンナに説明してあげる」
チッチッチと指を左右に振った後で息を大きく吸い込む。そして危機感欠如の金髪娘に驚愕の事実を知らせてあげたのだった。
「私所有のBL本を基にした統計に拠ると」
「基にするデータに限りない偏りを感じるのだけど?」
「実に97.03%の確率で男同士が2人で露天温泉に入るとエッチしちゃうのよぉっ!」
「97.03%って、アンタ一体何百冊のBL本を所有している訳?」
「とにかく、男同士で露天風呂なんて淫らなことがリアルで許されて良い訳がないの。公序良俗を守る為に私は混浴を推進するわっ!」
「アンタの頭の中が一番公序良俗から外れているから安心しなさい」
アナログなハンナには私の統計学的根拠に基づいた危機感が少しも伝わらない。
ならば、私一人でも士道君を守らないと!
「私、これから男湯を覗きに、ううん、保護観察しに行って来るっ!」
竹の壁に向かって力強く湯の中を歩き出す。
「ちょっと待ちなさいよ!」
ハンナが慌てて私の手を引っ張る。
「放してっ! 私が覗かないと、士道君の純情が大ピンチなのっ!」
「言ってることが意味不明だわよっ!」
ハンナに妨害されながら男湯に向かって突き進む。だって、放って置いたら……
「やっ、止めるんだ士道っ!」
露天温泉の石畳の上に押し倒された正義は必死に抵抗しながら犯人に自制を訴えていた。
「僕はこんなに興奮しているのに何を止めるって言うの? どうして止めるの?」
正義の上に馬乗りになる士道は顔を上気させて荒い息を繰り返している。
士道は慣れた手付きで僅かに体を撫でるだけで正義の抵抗を封じていた。
「それはここが露天風呂で、公衆の場だからだ。公序良俗を乱すなど、法学を志す俺には断じて出来ん」
正義は脇を絶妙なタッチで撫でられ力が抜けてしまう。足掻いても抜け出すことが出来ない。ただ口をもって反論するしかない。
そして絶対的優位なポジションにある士道が正義の言葉に耳を貸す筈もなかった。
「今この露天風呂には誰もいない。まだ昼間だからしばらく誰も来そうにない。つまり、ここは僕と正義の2人だけの世界なんだ」
士道の指先が正義の体を繊細に、だが妖艶に撫で回していく。
「つまりここは僕達のプライベート空間も同じという訳だよ」
士道の手が胸の先端へと到達する。正義の体が大きく跳ね上がった。
「僕はね、野外って大好きなんだ。知らない誰かに見られてるかも知れないって想像するだけでドキドキが止まらないよっ!」
士道が大きく目を見開いた。
「さあ、僕の興奮を満たさせてもらうよ」
士道は正義の顔から眼鏡を奪い取る。そしてすぐさま自分の顔に掛けた。
「僕はこの眼鏡を掛けると最高の気分になれるんだ」
士道の笑い声が屋外に木霊する。
「君は僕のものなんだって思い知らせてやる」
士道が正義の首筋に噛み付く。激しく噛んだので遠目にも目立つ歯形が付いてしまった。
「あっはっは。正義が僕のものだって印をどんどんその体に刻み込んであげるよ」
士道は狂ったように激しく正義の全身にキスマークや歯形マークを付けていく。
「お、俺は……公序良俗は……法は……」
焦点の合わない瞳で呆然と呟く正義にもはや判断能力は残されていなかった。
士道による一方的な陵辱という名の宴が晴天の下に始まりを告げたのだった。
「士道君が超鬼畜過ぎて私は激幸せですっ!」
「意味不明なことを呟きながら鼻血を垂らすなぁっ!」
竹の壁をよじ登ろうとする私。それを必死に阻止せんとするハンナ。
ハンナの抵抗に遭いながら私は徐々に壁を昇っていく。徐々に楽園が近付いてくる。勝利の二文字が見えたと思ったその時だった。
「お姉ちゃん。お風呂でおだつのもいい加減にしようね? はんかくさいよ」
私の隣に白いバスタオルを巻いた遊羽様が立っておられた。笑顔を維持しているものの、負と怒りのオーラを全身に纏った姿で。方言がポロポロ出る時の遊羽様はマジ危険です。
妹を見て私の興奮は一気に醒めた。そして、人生の終わりを強く意識した。さよならするのは宇宙ではなく私の方だった。意外過ぎるオチが待っていたわね。
「お姉ちゃん、その石の上に正座してね」
「あのぉ、今11月も後半で、野外で、しかも裸で正座というのはちょっとしばれるのですが……」
「温泉から湯気出ているから大丈夫だよ。じゃあ、さっさと座って」
「……はい」
言われた通りに石の上に正座して服従の証に手と額を石の上に擦りつける。
お説教は1時間以上に及びました。最近妹様に怒られてばかりな気がします。
少し生き方を真剣に考え直したいと思います。はい。
*****
「温泉入りに来たのに散々な目に遭ったわ」
「それはお姉ちゃんの自業自得だよぉ」
畳の上に寝そべり妹に背中と脚をマッサージして貰いながら先程の出来事を総括する。
長かったお説教が終わり、私は遊羽と共に旅館の自室に戻っていた。
部屋は新品の良い匂いがする畳敷の和室で私達姉妹で一室を使っている。
「さて、これからどうしようかしら?」
マッサージを終えて体を起こす。
「夕飯にも縁日に行くにもまだ早いもんねぇ」
妹と2人で頭を捻る。
羅王は私達姉妹にとっては生まれ故郷。なので別に今更観光したい場所ではない。
そんな訳ですることがない。……というのは、とある前提を忘れていたらの話だけど。
きちんと座り直して遊羽に本題を尋ねる。
「遊羽は美妃瑠がどんな策で士道君を落とす気なのだと思う?」
美妃瑠は何か膨大な策を張り巡らせている。そう思える状況が揃っている。
一、模擬婚活私闘大会に優勝した美妃瑠は士道君を羅王へと招待した。
二、その際に美妃瑠は私にラスボス宣言をして宣戦布告して来た。
三、美妃瑠はお母さんが同窓会の席で娘の婚約発表を自慢出来るように動いている。
四、お母さんの同窓会は明日の夜開かれる。
以上の事柄から、美妃瑠が今日中に士道君と婚約を取り付けようとする可能性は高い。
けれど美妃瑠は両親と共に行動している。
士道君と別れて宿泊・行動することになっても何の文句も言わなかった。
その不気味なまでの静けさが気になって仕方ない。頭の良い子なので無策な筈はないし。
「美妃瑠がどんな作戦を練って行動しても……士道さんには関係ないと思うよ」
顔を俯かせながら遊羽が小さく呟いた。
「えっ?」
妹の言葉は小さくてよく聞き取れなかった。
「えっとね。大事なのは美妃瑠の意図を読み当てることじゃなくて、自分が何をどうしたいのか考えて実行することじゃないかなって」
遊羽はあまり自信なさそうに弱々しい笑顔を見せながら説明をし直した。
「なるほど。遊羽の意見も一理あるわね」
力強く妹の意見に頷いてみせる。
「手の内の見えない美妃瑠の腹を探るよりも、旅行中という絶好のシチュエーションを活かして私が士道君に迫るべきだわ。そうよ」
「そう、だね」
遊羽は少し複雑そうな表情で同意した。
「まあ、遊羽の立場から見れば私と美妃瑠の板挟みになって大変だろうけどね」
「そう、だね。あはははは」
遊羽は愛想笑いとも言えない下手な笑いを浮かべてみせた。
「そういう訳で私は早速士道君を散歩に誘ってみることにするわ」
方針が決定したので勢いよく立ち上がる。
即断即決即実行。これが恋愛の勝利の鍵。の、筈。
「でも、2人きりで散歩しないとまたいつものドタバタになる気がするから……」
正座姿勢で座っている遊羽を見る。
「遊羽にみどり達の足止めをお願いしようかしら…………いや、でもそれは。う〜ん」
言い掛けた所で言葉を切る。
天井を見上げてしばし逡巡。
「やっぱ良いや。私だけ遊羽に頼るのは美妃瑠に対してフェアじゃないもんね」
私にも姉として人としての矜持がある。小学生の妹に誇れる長姉でありたい。
「いいよ。お姉ちゃんと士道さんが2人きりになれるように私が他の皆を観光案内に連れて出掛けるね」
遊羽は立ち上がり私に向かってはっきりと頷いてみせた。
「いや、でも私だけ肩入れされるのは美妃瑠に悪い気がするし」
遊羽の協力の申し出に話を切り出した私の方が当惑する。
「私がお姉ちゃんを手伝いたいって思っただけだから、気にすることはないよ」
遊羽は顔をパッと花開かせて笑った。
「遊羽が手伝ってくれるならありがたいけど。でも一体何で?」
「う〜ん」
妹は窓の外を見ながらしばらくの間悩んだ。
「一番の理由は、お姉ちゃんに裏切り者って言われちゃったことかな? 汚名は少しでも返上しておかないといけないからね」
遊羽は困った表情を見せながら笑った。
「あの言葉は胸の大きさで悲しくなったからつい口に出ただけで。深い意味は別に…」
遊羽の笑顔が痛い。さっき温泉で暴走していた自分に大馬鹿って言いたい。
「とにかく私がお姉ちゃんを手伝いたい。それで良いよね?」
「う、うん。ありがとう」
こうして私は遊羽の支援の下に士道君を散歩に誘うことにした。
「亜沙さんとこうして2人で一緒に出掛けるのも久しぶりだよね」
「そうだね。いつもは誰か一緒にいるもんね」
30分後、私は士道君と共に人通りの少ない林道を歩いていた。2人きりでの散策。
士道君へのお誘いは呆気ない程に簡単に成功した。
『士道君、2人でちょっと散歩に出ない? 綺麗な景色がある高台を知ってるんだ』
『僕も少し周囲を見て回りたいと思っていた所なんだ。一緒に行こうか』
士道君は2人でという部分に多分重きを置いていない。でも、2人でこっそりと出ることに反対しなかった。
後は遊羽がみどり達を市街地へ案内する手筈になっているのでその逆を行くだけだった。
それでこうして士道君と2人きりというシチュエーションを作るのに成功した。
で、成功したのは良いのだけど……。随分久しぶりな状況に何をどうしたら良いのか分からない。普段ならみどり達に乱入されて吠える場面なので妨害なしは調子が狂うのだ。
「あのさ……」
「何?」
私に顔を向ける士道君。どうしよう?
会話する内容を何も決めてない。何も浮かんで来ない。どうしたら良いの?
「ここは、亜沙さんが生まれ育った土地なんだよね?」
「う、うん。そうだよ。私はここで生まれて小学校を卒業するまで住んでたんだ」
士道君から話を振ってくれた。
「亜沙さんはどんな子供だったの?」
「どんな子供って言われてもなあ……う〜ん」
腕を組み首を捻りながら考える。けれど、幾ら悩んでも答えは1つしか出なかった。
「普通。としか言い様がないかなあ」
そんな平凡な単語でしか自分を表現出来ない。考える程にその単語がぴったりだった。
「楽しかったり悲しかったり忙しかったり暇だったり。何となく漠然と過ごしてた。ううん、何となく過ごす自分に疑問を抱かなかった。だから、普通。なのかな?」
喋ってみる程に自分が何を言おうとしているのかよく分からなくなる。これじゃあ士道君に何も伝わる筈がない。
でも、士道君の反応は違った。
「じゃあ、僕の小学生時代も普通だったって言えるなあ」
士道君は私の言葉に同意した。
「えっ? でも……士道君って小学生の時から成績トップだったんじゃ?」
士道君の神童ぶりを示す武勇伝は中学時代に何度も聞いたことがある。その士道君が普通ってことは有り得ないんじゃ?
「亜沙さんの言う普通という言葉は生き方の問題、なんだと思う。多分そこで成績自体はあまり重要じゃないのだと思う」
士道君は私自身あまりよく理解していない普通という単語の概念を説明してくれた。
言われてみるとそうなのかもって思う。
「僕は両親や先生の言うことを聞いて勉強していたら偶々成績が1番だった。ただそれだけの子供だったんだよ」
士道君は目を閉じ軽く息を吐き出した。
「僕自身は何も考えず、何か考える必要も感じなかった。だからごく普通、だったよ」
ごく普通、と語る士道君は寂しそうだった。
私の語る普通には時間を無駄にしていたという腹立たしさはあっても哀愁の調べはない。
多分それは幼い頃に喜怒哀楽をいっぱい享受したから。振り返ってみて馬鹿だなとは思うけれど、同時に良かったとも胸を張れる。
士道君の小学生時代にはそういう体験が少なかったのかも知れない。
「じゃあさ、亜沙さんは中学時代を振り返るとどう思う?」
「中学時代、ねえ……。う〜ん」
また腕を組んで頭を捻らす。
私の中学時代……東京に引っ越して来て、士道君と出会って、GEFとして生き始めた。
「私の人生が始まった季節、かなあ?」
整理してみようとするとそんな単語しか浮かんで来ない。
「こう生きるって自分で決めた。人生の目標と手段がはっきり見え始めた。だから人生の始まり、かな?」
自分でも少し厨二臭いことを言っているなあとは思う。でもそれは紛れもない私の実感に基づいた言葉だった。
「もっとも私の選んだ生き方は、背中を全力で追い掛けること。だからあまり自律的とは言えないものなんだけどね」
自分の生き方に少し苦笑してみせる。
私は中学に入ってから今までずっと士道君の背中だけを追い掛け続けて来た。士道君に気に入られたいというただ一念の下に。
「僕も、同じだな」
「へっ?」
士道君の予想外の同意に再び驚かされた。
「僕の人生も中学時代から始まっているよ」
目を開いた士道君の瞳にはいつになく強い意思が篭っていた。
「僕が自分で生き方を決めたのも中学に入ってからだ。そしてその生き方には……」
士道君が私の正面に立って突然肩を強く掴んで来た。へっ? 何、この状況?
「亜沙さん。君がとても深く関わっている」
士道君はとても力の篭った声でそう言った。
どういうこと?
そう尋ねたかった。でも、出来なかった。
それを尋ねるには士道君の手に篭った力が余りにも強過ぎた。
そして、真剣な表情で語る士道君があまりにも格好良過ぎた。
士道君の存在に心奪われてしまっていた。
「僕は自分の生き方を褒め称えることは出来ない。でも君を、尊敬しているよ」
士道君にこんなにも情熱的に語られたのは初めてのことだった。
「あ、ありが……とう」
そう返事するのがやっとだった。
夢心地が私を包んでいく。頭がぽーっとし熱を持って何も考えられなくなっていく。
「この先に亜沙さんお気に入りの高台があるんだよね?」
「う、うん」
案内している筈が案内されながらフラフラとした足取りで士道君に付いていく。
私達はそれから間もなく高台に到着した。
「これが亜沙さんが目にして来た景色、なんだね」
士道君が柵に手を付き街とその周囲に広がる自然を見ながら体を乗り出した。
「うん。12年間ずっと見て来た風景だよ」
士道君と並んで風景を眺める。晩秋の紅葉が街を包んで燃やしているような今だけしか見られない風景がそこにあった。
小学生時代の思い出が鮮明に蘇って来る。
昔を思い出したことで少し気分が落ち着いて来た。息を吐き出して意識を覚醒させる。
「観光名所でも何でもないけれど、私はこの風景が一番好き、かな」
観光用の展望台なら他にある。そこの方が綺麗な眺めを見られるのは確か。写真を撮りたくなる景色がそこにある。
でも、私がここを一番好きなのはここに数々の思い出があるから。家族や友達と共に眺めた大切な追憶が私の胸を温かくしてくれるから。
そして今日、私はこの風景を士道君と眺めている。大好きな人と共に。
この感動、この熱い想いを士道君とも分かち合いたい。そんな衝動に強く駆られた。
「あの、ね……」
ボソボソっとした小さな声で切り出す。
「どうしたの?」
私の顔を覗き込んだのはいつも通りの士道君の優しい表情だった。
それはいつも私に活力を与えてくれる元気の源。だけど今この瞬間に限っては私の熱を冷ましてしまった。
言ってもどうせまた届かない。
そんなネガティブな想いが私を萎縮させる。
そして気落ちするに足る十分な確証を私は自分の中で得てしまっていた。
「士道君は恋愛に、興味ないんだもんね」
私の想いが届かない最大の障壁を小さく口にしてみる。
士道君は優しい。けどそれは皆に対する優しさであって、特定の個人に対する恋愛感情を伴っていない。
優しくて残酷。それが士道君の博愛。
「……あるよ」
私の呟きに対して士道君も小さな呟きで返した。
「えっ?」
私はそれを聞き間違えたと思った。だって、士道君がする筈のない答えを返したから。
でも、そんな私の内心の動揺を見透かすように士道君は返答を繰り返した。
「僕は恋愛に興味があるよ。むしろ、興味津々かな? 亜沙さんみたいな可愛い女の子に話し掛けてもらえるのは嬉しいしね」
今度の声ははっきりと聞こえた。そして士道君の答えは私の脳内を再びパニックに陥れるのに十分な破壊力を持っていた。
「あっ、そうなんだぁ。士道君も恋愛に興味あったんだぁ」
浮付いた馬鹿っぽい言葉が口から飛び出る。
「一応僕も思春期男子だからね」
士道君は自嘲するように苦笑した。
「えっと、じゃあ、今好きな人がいたりするの? あ…っ!」
空っぽの頭で口をオートで開いていたらとんでもないことを尋ねてしまった。
私の3年半の恋に終止符を売ってしまいかねない質問を。
「……いるよ」
「へっ?」
またしても聞き間違いしたと思った。でも、今度も聞き間違いじゃなかった。
「僕には好きな女の子が……いるよ」
士道君は私の瞳を見ながら語った。いつもの優しい表情とは違う少し怖い表情。でも、それだけ真剣であることが分かった。
「そ、そうだったんだ」
心臓がドクンと大きな音を立てて跳ねた。それから急に脳に響く大きな音を出しながら心地良くないリズムを奏で出した。
今更聞かなかったことには出来ない。そして好きな人が誰なのか分からない状態では悶々として気が狂ってしまいそう。
だったら前に突き進むしかない。一気に突き進むしか私にはもう道がない。
そんな心の声に後押しされて、私はその一歩踏み出した。踏み出してしまったのだ。
「士道君の好きな人って……一体、誰なの?」
踏み出してから気付いた。
私はとんでもない賭けに出たのだと。
ゼロサムゲーム。
全てを得るか全てを失うか。
そんなフレーズが私の脳内に溢れた。
そんな賭けに衝動だけで出た自分を馬鹿だと思った。でも、今更リセットは利かない。
そして士道君はこれまで以上に怖さを感じる真剣な表情で口を開いた。
「亜沙さん。僕はね……」
士道君は言葉をそこで一度区切ると私の両手を上から握って来た。
「あっ……」
士道君がこんなにも積極的な行動を取って来たのは初めてのことだった。
初めてのスキンシップに私は激しく戸惑う。でも、このタイミングで手を握られたことで私の期待は急激に高まっていく。
そして士道君は運命の審判を下した。
「僕は自分の身近にいる女の子にずっと前から恋愛感情を抱いているよ」
士道君は私の手を握り瞳を見詰め込みながらそう断言した。
「そっ、そうなんだぁ」
何とか笑顔を作ろうとして……失敗した。今自分がどんな表情をしているか分からない。
今の気持ちをどう表現すれば、どう整理すれば良いのかまるで分からない。
でもきっとこれが……幸せなんだと思う。
だって、士道君の言葉は事実上私に対する告白と変わらないのだから。
私が幸せでない筈がなかった。
「でも僕はまだ好きだと言ってもらったことがないんだ」
士道君が目を逸らしながら俯いた。
「はいっ?」
その言葉を聞いて私の夢も一気に醒めた。
私が士道君に好きと言ったことがない?
「……そう言えば、面と向かって士道君に告白したことがないような気がします」
みどりや正義への対抗の為には何度も何度も繰り返して好きって言いました。士道君の耳にもその言葉は聞こえていると思います。
でも相手は士道君です。恋愛関連では究極の鈍男です。むしろ鈍いと書いて士道と読みます。その彼にはみどり達に向けた間接的な告白じゃ全く届かないかも知れません。いえ、全く届いていないのだと思います。
そして士道君が恋愛に興味ないと思い込んでいた私は純情BL本の一シーンのような真正面からの告白はしてませんでした。笑顔のままサラっと振られるのが怖かったのです。
結論……私、美空亜沙は生きている価値のまるで見出せないない大馬鹿者です。
「この高台から飛び降りれば……少しは私の罪と馬鹿は贖われるのかな?」
柵に右足を乗せます。後は左足を乗せて気分はスーパーマンになるだけです。
「亜沙さん。そろそろ戻ろうか」
士道君が私の右腕を強く引っ張った。その腕の力強さに精神がこっちの世界に戻る。
「食事を早めにして、祭りに行くんだよね?」
私を柵から降ろした士道君は普段と同じ優しい表情を浮かべていた。
この表情を見ていると先程の一連の流れが夢の様に感じる。
でも夢でないことは士道君が握ったまま放さない私の右腕を見れば証明された。
「そうだね。そろそろ戻ろうか」
大きく深呼吸してからゆっくりと歩き出す。
隣には優しく微笑む士道君。
その士道君は身近にいる女の子にずっと前から恋をしている。
そして士道君はそれを私の手を握りながら語ってくれた。
もう、これだけで十分。
私はとってもとっても幸せです。
ちょっと寒いぐらいの11月の風が心地良く火照った頬を冷やしてくれた。
*****
ちょっと早めで少な目の夕食を終え、皆と共に秋祭りへと出掛ける。
軒を連ねる縁日の屋台を見ていると自然とテンションが上がって来る。
味だけで考えるなら旅館でお腹一杯食べた方が断然いい。だけど縁日独特の雰囲気の中で食べる焼きそばやリンゴ飴は私にとっては格別のご馳走なのだ。
「お姉ちゃ〜ん」
鳥居に下で美妃瑠と合流。美妃瑠は縁日だけは私達と行動を共にするになっていた。
「美妃瑠ちゃん。その浴衣、とても可愛いよ」
「えへへ。ありがとうなのです」
士道君に誉められてご満悦の美妃瑠。妹は蒼色の浴衣を着ていた。
「11月にその浴衣は寒いんじゃないの?」
生地は夏物に見える。防寒対策は色々しているのだろうけど見た目が凄く寒そう。
「勝負服なのです。女の人生を決める一大決戦に寒いとか言ってられないのです」
美妃瑠は匠の域に達した天真爛漫な笑みを浮かべながらウインクして返した。
「勝負服って、あのねえ」
「今夜、一気に勝負を掛けて士道お兄ちゃんと婚約を果たすのです」
美妃瑠は私にだけ聞こえる小さな声で野心を打ち明けた。
やはりそういうつもりだったのね。でも…。
「その割には今日全然士道君と行動を一緒にしてないじゃない」
美妃瑠は婚約を勝ち取る為の行動を一切取っていない。それが謎だった。
そんな私の疑問に対して美妃瑠は精巧に作られた天真爛漫な笑みを返してよこした。
「シンプル・イズ・ベスト。策士が策におぼれない為には究極の一手だけを最も有効な場面で打つ。それが勝利の鉄則なのです」
「究極の、一手?」
美妃瑠は実に自信あり気な表情で笑っている。私には究極の一手が何なのかまるで見当も付かないのだけど。
「婚約制度が何の為のものであるか考えれば自然と答えは行き着くのです」
「いや、そんな抽象的に説明されても……」
ラスボスは微笑むだけで答えてくれない。
「美妃瑠〜。こっちで綿飴売ってるよぉ。一緒に食べよう」
「は〜い。遊羽お姉ちゃ〜ん」
美妃瑠は草履をパタパタと音立たせながら遊羽の元へと走っていってしまった。
どうやらこれ以上情報を聞き出すのは無理らしい。なら、私も縁日を楽しむとしますか。
「士道く〜ん。一緒に回ろう……って、いないっ?」
先程まで私の隣にいた筈の士道君の姿がない。それどころか誰もいない。
皆、どこに消えたの?
「って、私だけ置いて皆で楽しそうに回っているぅ〜っ!」
前方20m程の所に妹ズを除く全員がリンゴ飴屋台の前に集まっていた。
士道君は左右をみどりと会長に囲まれて嬉しそうに見える。
「何よ〜。士道君は私のことが好きなんじゃないの〜?」
2人の美少女に取り囲まれている士道君を見るといつも以上に嫉妬心が身を焦がす。
士道君は私の手を握りながら、身近にいる女の子が好きだと言った筈なのに〜っ!
あれっ?
身近にいる女の子って言うと、みどりも会長も当て嵌ることになるんじゃ?
でもでも、士道君は私の手を握って真剣な表情で語ってくれた訳で……あああっ、もう何が何だか分からない〜っ!
「いいわよっ! こうなったら1人で祭りを楽しんでやるんだからっ!」
士道君と一緒に動くと頭が沸騰しそう。ラスボスと化した妹との同行もちょっと勘弁。となると独りで回るしか選択肢はなかった。
「今日の私は究極の焼きそばと出会う為にここに来たのよっ!」
リンゴ飴は既に占拠された。これから1人で食べても寂しいだけに違いない。なら、美味しい焼きそばを先に味わうしかない。
「目を閉じ、耳を塞ぐことで嗅覚を最大限まで鋭くし、最高の匂いを嗅ぎ分けるわよっ!」
五感を封じて鼻に全ての感覚を集中させる。私の舌を唸らせてくれるチープにして最高の焼きそばの匂いを探り当ててみせる。
「そこねっ!」
私の鼻はソース焼きそばの香ばしい匂いを探知した。続いて発信源を特定する。
「行くわよ〜っ!」
目を開けると同時に全力疾走でその場所を目指す。視覚と聴覚を通じて流れ込んで来る情報の渦に匂いが消されない内に。
1秒を争う時間との戦いだった。
「ソース焼きそば1皿頂戴っ!」
屋台の前で急ブレーキを掛けながら大声で注文する。
「あれっ? 美空じゃないか」
薄暗い屋台からよく知った声が返って来た。
「えっ? 佐藤君? 何でここに?」
電球に照らされたその顔をクラスメイトの佐藤君だった。
「そりゃあ勿論、愛する美空に会う為さ」
佐藤君はヘラを器用に動かしながら聞いている方が恥ずかしい言葉を平然と述べた。
そう言えば美妃瑠と士道君のやり取りで今日私が羅王にいるのは皆に知られ渡っていた。
「でも、本当に会えて超ラッキーだぜ」
佐藤君は私を見ながら楽しそうに笑った。
「ほいっ。ソース焼きそば1丁上がりだぜ」
佐藤君がビニールパックに入れた作りたての焼きそばをくれた。
「ありがとう。幾ら?」
「愛する美空の為だ。ここは俺の奢りだ」
佐藤君は歯をニッと見せながら笑った。
「別に私は焼きそば1皿で落ちる女じゃないわよ。けど、ありがたく頂いておくわ」
せっかくのご好意なので素直に受ける。
「おうっ。自信作だからすぐ食べてくれ」
割り箸を折って早速麺を口の中へ。
「あっ、美味しい」
少しソースの風味が強過ぎる。けどそれが如何にも外で食べる焼きそばって感じで良い。
この洗練された雑さ加減。これぞ正に究極の焼きそばで間違いないわ。
「バイトで急に焼きそばの担当に回されてさ。おやっさんに教わりながら今日初めて作ったんだけど気に入ってもらって良かったぜ」
……究極の焼きそば。畜生っ!
「佐藤君は何でここでバイトしているの?」
私の鼻と舌は当てにならないことが判明した悲しさを会話で紛らわせることにする。
「3人分の旅費がさすがに工面出来なくてな」
「3人分?」
「ああ。俺が羅王に行くって言ったら、陽菜と七海が連れて行け連れて行けって煩くてな。全く困った幼馴染だよ。いつまでも子供でさ」
佐藤君は大きく息を吐き出した。
「佐藤君の行き着く先が血の惨劇でないことを祈ってるわ」
その場合、私も一緒に刺されそうで怖い。
「佐藤君は自分が女の子にモテるって思わないの?」
「そんな無駄な錯覚しないっての。だって、俺、美空に全然相手にされてないんだし」
「いや、そうなんだけど。そうじゃなくてさあ……」
佐藤君の鈍さの原因に私が一枚絡んでいるかと思うと申し訳なくなる。お願いだから私を刺さないで下さい。
「それにもし仮に俺が他の女子にモテたとしても…俺は変わらず美空だけを見続けるよ」
「へぇ」
「それが格好良い男の条件だと俺は思うしな」
佐藤君は気障っぽく前髪を払った。
「陽菜と七海は本当に大変よね」
陽菜達に代わって溜め息を吐く。
「へっ? 何が?」
佐藤君はまるで分かっていないことを証明する様に大きく首を捻った。
だけど佐藤君が語った“格好良い男の条件”は私の士道君への態度に通じるものがある。
勘違いさせない、勘違いしない。それが優しさ。それが良いと私も思う。
「それで、陽菜と七海はどこにいるの?」
佐藤君の周囲に彼女達の姿はない。
「ああ。あの2人なら、マッス……何とかってイベントに参加して賞金を取って来るって出てったな」
「イベント、ねえ」
そこまで喋った時のことだった。突然大きな足音が聞こえて来て私達の前で急停止した。
「大変だぞぇっ、バイトォっ!」
その汚らしい声には聞き覚えがあった。
振り返ってみると、会長を長年苦しめて来た借金取りの姿があった。
「アンタ、士道君のお尻を狙った借金取りっ!」
指を差しながら確認する。
「おう。オメエはいやらしく淫らに淫靡に俺を誘ってたガキの友達Aじゃねえか」
「誰が友達Aよっ!」
私に散々ぶち倒された分際で随分言ってくれるじゃないの。
「で、おやっさん。一体何が大変なんですか?」
佐藤君が低い態度で尋ねている。どうやらこの借金取りが雇い主らしい。
「実は、マッスル・パラダイス・エクステンション祭りに女が出場してやがるっ!」
「マッスル・パラダイス……?」
秋の始めの切なく苦い思い出が蘇る。
「ゴッド田中が乱心してあの神聖なる祭りに女の参加者を認めやがったんだ!」
桃園町会長も一枚噛んでいるんだ。わぁ〜。イベント名からそうだとは思ったけどねぇ。
「このままじゃあ、男達の楽園がメス豚どもに踏み躙られちまう。オメェ、ちょっと参加して優勝を掻っ攫って来いっ!」
「いや、でも、俺、この店の番がありますし」
「こんな店1軒よりも男達の楽園の方が大事に決まっているだろうがっ! さっさと行って来い! 今夜俺と同じ部屋に寝かせるぞ」
「でもぉ……」
佐藤君は行くのを渋っている。
「行きなよ。でないと、陽菜達が悲しむよ」
陽菜達の想い人が男子高校生とか好きだからと往来で叫ぶ変態男色中年男の毒牙に掛かるのを見過ごすのはあまりにも忍びない。
「何だか分からないけれど、美空がそう言うんなら俺は行って来るぜっ!」
佐藤君はエプロンを外しながら全速力で駆けていった。
「面倒な関係よね、あの3人も」
恐らく今イベント会場で奮戦しているのは陽菜と七海だろう。佐藤君に経済的に楽させる為に。そんな彼女達に雇い主の刺客として送り込まれる佐藤君。対決する3人。そして佐藤君が優勝しない限りお尻が危ない、と。
「恋って難しいわね」
目を瞑って大きな息を吐く。
「で、友達Aよ。オメェがいるってことは、あの誘うガキも近くにいるんだろ? 今日こそ美味しくお持ち帰りしてやるぜぇ」
「美空千手殺ッ!」
ようやく騒音が止んだ。
「さっ、焼きそばの残り食べよ」
変態の顔を踏み付けながら食べるソース焼きそばはいつもより美味しく感じた。
焼きそばを食べ終えてから変態を縛り上げて屋台の中に見えない様に捨てておく。鉄板で焼却したいけれど周りに迷惑を掛けそうなのでそれは諦める。
「さて、皆と合流しようかな」
焼きそばも食べたしこれ以上変な意地を張っていても仕方ない。
何より士道君と一緒にいたい。
端末を取り出して連絡を取ることにする。
「お姉ちゃ〜んっ」
電話を掛けようとした矢先に妹が私の元へと走って来た。息を切らして全力疾走で。
「そんなに慌ててどうしたの?」
「美妃瑠が、美妃瑠が急にいなくなっちゃったのっ!」
遊羽は動揺しながら叫んだ。妹のその必死な表情から一大事なのはすぐに理解した。
なら、私が遊羽の姉としてすべきは一緒に動揺することじゃない。
「電話は?」
「繋がらないの」
「位置お知らせシステムは?」
「それが、美妃瑠はどうも端末を三郎おじいちゃんの家に置いて来てるみたいなの」
遊羽の話を聞いていて違和感を覚えた。
「美妃瑠は今日慣れない浴衣姿でここに来たから端末を置いて来ちゃったんだと思うの」
「あの賢い美妃瑠がそんな初歩的なミスをするかしらね?」
「へっ?」
自分の端末を取り出して電話を掛けてみる。
士道君宛に。
「やっぱり士道君にも繋がらない」
予想通り士道君の端末も電源が切られていた。これでもう確信した。
「それって、どういうことなのぉ?」
「ラスボスが遂に動き出したってことよ」
目を丸くしている妹に対して溜め息を吐いて答える。
「危ないのは美妃瑠じゃなくて士道君の方ね」
端末をしまいながら妹に告げる。
「美妃瑠の身に危険が迫っているということはないわ。けど、すぐに捜すわよ」
「うんっ」
遊羽と共に屋台が軒を連ねる通りを駆け抜けていく。
「みどり達は?」
「この周囲を手分けして探してくれている。士道さんも一緒に捜してくれてるんだよぉ」
「なら美妃瑠は捜しに来た士道君を連れ出したと見るのが妥当ね。そして連れ出す先は…」
縁日会場とは反対側、しかも士道君が付いていっても不思議でない場所と言えば……。
「本殿付近に美妃瑠も士道君もいる筈よっ!」
本殿の方角を向かって指差す。
「分かるの?」
首を縦に振る。
「美妃瑠は頭が良いから。合理性を追求すればその行動は却って読めるのよ」
遊羽と本殿に向かって駆け出し始める。
「けどね」
「けど?」
「本当に頭の良い人っていうのは、自分の考えが読まれていることを理解した上で更にその上を行く一手を準備しているものなのよ」
「上を行く一手?」
「美妃瑠は究極の一手なんて呼んでいるけれど、要するに最後の一手を持ってるわね」
読み合いの思考連鎖ゲーム自体は意外と簡単。そして将棋と同じ。最終的に問題になるのはどうやって詰むか。その一点のみ。
詰み方には大きく分ければ2つある。正面から堂々と又は力技で強引に押し切るか、思いも寄らない手段で奇襲して動揺の内に一気に制圧するか。言い換えれば正攻法か搦手か。
美妃瑠が狙っているのは後者で間違いない。
何故なら美妃瑠はまだ小学生で士道君にとっては恋愛対象ではなく保護対象でしかないから。そんな妹が士道君と婚約を取り付けようとするなら搦手で来るに違いなかった。
「美妃瑠が何を考えているのかは分からない。けれど、発動する前に潰せば怖くない」
脚を動かす速度を上げる。
搦手には弱点も多い。先読みされたり、予想外のことが起きると計画はあっさりと崩壊する。
だから私は美妃瑠が策を発動させる前にそれを叩き潰す。それだけ。
「お姉ちゃんっ。美妃瑠を見つけたよ。士道さんと一緒だよ」
長い石段を駆け上り本殿前の開けた空間に出た所で遊羽が私の袖を引っ張った。
見れば本殿横の石灯籠側の人気のない一角に2人は立っていた。
美妃瑠は私達の斜め正面に士道君は私達に背を向ける角度に立ちながら会話している。
「お姉ちゃんの読み通りだったね」
「そう、ね」
遊羽に頷いてみせる。けれど、私の内心は穏やかではなかった。
予想よりもあっさりと見つけてしまった。ということは逆に言えば美妃瑠は隠れる気がないということになる。それが意味することは何か? ……まだ続きがあるということだ。
「とりあえず皆に連絡しておくかしらね」
端末を取り出してみどり達に『本殿横 発見 要合流』とだけメールを流しておく。
「さて、2人を回収しに行くわよ」
「うん」
遊羽と並んで美妃瑠達に向かって歩き出す。
私達が立っているのは遮蔽物のない見通しの良い場所。美妃瑠も私達の存在に気付いているに違いない。
なら究極の一手とやらが既に発動されている可能性は高い。気を引き締めていかないと。
5m、10mと進み2人の会話が聞こえて来た。さて、2人は何を話しているのやら?
「あたしは士道お兄ちゃんのことが大好きなのです。愛しているのです。将来はお嫁さんになりたいのです」
美妃瑠は瞳を潤ませて恋する乙女の表情で愛を滔々と告白した。
「ははは。ありがとう。僕も美妃瑠ちゃんのことが大好きだよ」
士道君は美妃瑠の頭を撫でながら微笑んで返してみせた。
「って、直球勝負なの〜っ!?」
あの策士美妃瑠が最後の最後で直球勝負を選択っ?
「お姉ちゃんはちょっと黙って見てて」
「はい……っ」
怒っているようにも見える真剣な表情の遊羽に諭されて2人の会話に再び集中する。
「だから士道お兄ちゃんに美妃瑠と婚約して欲しいのです」
キラキラと瞳を輝かせながら語る美妃瑠。本気で正面突破を狙っているの?
でも、幾ら士道君が子供に優しいからってそれは……。
「う〜ん。僕も美妃瑠ちゃんのことが大好きだけど、婚約はちょっとなあ」
士道君は苦笑してみせた。
ほらっ、こんな正攻法が通じる筈がない。美妃瑠の計画は失敗。
簡単にそう判断した次の瞬間だった。
「でも美妃瑠と婚約してくれれば、それは士道お兄ちゃんにとっても美妃瑠にとっても最高の利害の一致になるのですよ」
美妃瑠は黒い表情で嗤った。
「えっと……それって、どういうことかな?」
士道君は首を捻った。でも、最高の利害の一致という言葉に興味をかなり惹かれているようだった。
「簡単なことです。士道お兄ちゃんの願望を一番叶えてあげられるのが美妃瑠なのです」
「僕の……願望」
「そうなのです。美妃瑠なら、士道お兄ちゃんにとっての最高の婚約者になれます。恋愛に関心が薄いお兄ちゃんにとって最高のね」
美妃瑠は重ねて笑った。天真爛漫じゃない、人の欲が覗ける大人の笑みで。
「美妃瑠と婚約すれば、お兄ちゃんは煩わしさから解放されますよ。例えば……」
美妃瑠が私と遊羽へと顔を向けた。
「そこでさっきからあたし達の会話を盗み聞いている亜沙お姉ちゃん、とかからです」
猛禽の爪の様に鋭い視線が美妃瑠から飛んで来た。やはり気付いていたのね。
「亜沙さん、遊羽ちゃん。いつの間に?」
士道君は私達を見ながら驚いていた。今気付いたらしい。妹はその為の位置取りをしていたと見て間違いない。全て計算済み、か。
「まったく、可愛い妹を迎えに来てあげたのに散々な言われようね」
美妃瑠に向かって大股で歩き出す。
「心配していたのは士道お兄ちゃんの方の癖によく言うのですよ」
美妃瑠は毅然とした態度で不敵な表情を浮かべながら私を迎え撃つ。
どうもここまでは美妃瑠の思惑通りらしい。
その上で私をわざわざ本殿横にまで誘導して来た。なら、次の展開はもう決まっていた。
そして美妃瑠は私が予想した通りの内容を口にしたのだった。
「お姉ちゃん。いえ、美空亜沙っ! 士道お兄ちゃんを賭けてあたしと婚活私闘しなさいなのですっ!」
美妃瑠が私に向かって指を突き付けた。
大胆不敵。その四文字熟語が今の美妃瑠の様を表すのに最も適切だった。
「フッ。小学生の小娘の分際で、しかも姉より優れた妹なんて存在しないってのにね。この私に決闘を挑むとは良い度胸じゃないの」
そして私も同じ四文字熟語がよく似合う態度で妹に応対する。
「その決闘、受けてやるわよ」
躊躇せずに快諾する。
妹相手に、ましてラスボスを自称する美妃瑠相手に逃げるなんてあり得ない。
それに美妃瑠は自分が士道君の最高の婚約者になれることを証明する為に私との決闘を申し出た。言い換えれば、私を踏み台にして自分の優秀性を示すつもりなのだ。
なら、私がその美妃瑠を婚活私闘で上回れば妹の計画は霧散する。
「お姉ちゃんも美妃瑠も争いを止める気は……ないんだよね?」
遊羽が俯きながら小声で質問、というか確認を求めて来た。
「偉大なる長姉を倒すことであたしの計画は成就するのです」
「止める気があるのなら妹からの決闘を受けたりなんか最初からしないわよ」
私と美妃瑠の返答に迷いはない。
「士道さんは?」
遊羽が士道君の目を覗き込んだ。
私と美妃瑠が会話を始めてから沈黙を保っていた士道君が遂に口を開いた。
「この一件が姉妹がより仲良くなる為の過程だと考えれば、良いんじゃないかと思うよ。遊羽ちゃんも含めてね」
士道君の言葉はどことなくピントが外れているものだった。
「そう、ですよね」
遊羽は目を伏せ苦しそうな表情で同意した。
「それにこうなった原因は僕にあるのだし、僕だけ逃げる訳にはいかないよ。だから僕は見届ける」
士道君は断言した。
「なら、私も見届けます。2人が決闘に至ったのは私にも原因がありますし」
2人とも悲痛な思いを忍ばせてはいる。けれど私と美妃瑠の決闘に同意してくれた。
「ちょっと亜沙っ! メール送るのならもっと詳細な情報を送りなさいっての!」
みどり達が本殿前へと上がって来た。息を切らせている所を見ると妹を必死に捜してくれていたのがよく分かる。本当にありがたい友人達だ。
そして私は皆が必死に捜した妹と士道君を巡りコカツって決着をつけることになった。チープ過ぎる脚本に涙が出そうになった。
「それで、決闘方法はどうするのですか、美空亜沙?」
GEFとして、ラスボスとして私の前に立ちはだかった美妃瑠が決闘方法を尋ねて来た。
いつもの天真爛漫とは違う。自信と勝気に満ちたふてぶてしい表情。
普段は遊羽の真似をしていて、今は私の真似をしていると考えた方が分かり易いか。
いや、2つの面のどちらも美妃瑠なのだろう。表と裏とか外面と内面とかそんな単純な二分法で人間は測れはしない。人間はもっと立体的、複雑な心を持った生物なのだから。
「お姉ちゃんの大好きな暴力で決着をつけてあげても良いのですよ」
美妃瑠が両手を前に出して拳法の構えを取る。するとツインテールの両房が意思を持った生き物の様にウネウネと動き出した。
「あたしは界郎大おじいちゃんに美空琉拳を習った伝承者なのです。奥義百羅滅精は美空羅漢撃なんかに絶対に負けないのですっ!」
「随分と大きく出たわね。お風呂に入る時にシャンプーハットが必需品な分際で」
「シャンプーハットは関係ないのですっ!」
美妃瑠が顔を真っ赤にして慌てた。
「なら言い直して、コーヒーをブラックで飲めないお子ちゃまの分際で大きく出たわね」
「私もブラックではコーヒー飲めないよぉ」
「ブラックで飲むと胃腸をやられるからね。僕も飲まないかな」
「わたくしは紅茶しか嗜みませんから」
「牛乳飲まないと胸大きくならないわよ。アンタ、気にしてんでしょ?」
「コーヒー。ブルジョワ。高くて飲めない」
「ブラックコーヒーを飲めるか否かが大人の判断基準になると思っている時点で幼稚だな」
「…………そう言えば私もブラックでは飲めませんでした。ごめんなさい。畜生〜っ!」
何か要らない集中攻撃を食らった。
「で、結局何が言いたいのですか?」
美妃瑠が呆れを含んだ視線で尋ねた。
「暴力は魅力的だけど、美妃瑠との決着にはもっと相応しい方法があるってことよ」
「もっと相応しい方法?」
美妃瑠が首を捻る。
「そう。それは……」
ちょっと恥ずかしいので大きく息を吸って勢いを付けてから述べた。
「愛の告白合戦、よ」
私の提案を聞いて静まり返る周囲。
「それはサッカー部の佐藤君とかいう一般人と対決した時の決闘方法ですか?」
美妃瑠が自信なさそうに尋ね直す。私の提案は予想外のものだったらしい。
「そう。知っているなら話は早いわ」
力強く頷いて返す。
血の惨劇か男色借金取りにより別の世界に導かれてしまったかも知れない佐藤君が私に遺してくれた大切な決闘方法。
「決闘方法は士道君への熱い想いを告白し合いより激しく士道君の心を動かした方が勝ち。それで良いわね?」
「本当にそれで良いのですか?」
妹が眉を顰めながら疑っている。
「勿論よ。私に二言はないわ」
今回はこの方法で決闘して勝たないときっと意味がない。美妃瑠の為にも士道君の為にもそして私自身の為にも。
「馬鹿な女。なのです」
美妃瑠は鼻で息を鳴らして私を見た。その視線には遠慮のない侮蔑が含まれている。
「それはあたしがお姉ちゃんを暴力で粉砕した後で士道お兄ちゃんに行おうとしていたものなのです。余計な手間が省けるのです」
「なら、異存はないわね?」
「ええ。なのです」
士道君へと向き直る。
「士道君、そういう訳で立会人をお願いね」
「分かったよ」
士道君が頷き、これで決闘方法が決まった。
*****
「それじゃあ両者とも、準備は良い?」
「勿論よ」
「軽く捻ってあげますよ、お姉ちゃん」
立会人である士道君の言葉に頷いてみせる私と美妃瑠。
「それでは美空亜沙さんと美空美妃瑠ちゃんの婚活私闘を始めます」
「「Let's have a nice engaged party!!(婚約の宴を始めましょう!)」」
私と美妃瑠の掛け声が揃う。
遂に、妹にしてラスボスでもある美妃瑠との最終決戦が始まった。
「じゃあ、あたしから先に行きますよ」
先に動いたのは美妃瑠。
「ええ。どうぞ」
私は仁王立ちしながら美妃瑠の言葉を受け入れる。妹は体の向きを私と士道君の中間へと向けて両方に聞こえる様に語り始めた。
「あたしは士道お兄ちゃんのことが大好きなのです。あたしと婚約して欲しいのです」
それは策士の名前を欲しいままにする美妃瑠とは思えない程に素直な告白。だけどここで終わらないからこの子はラスボスなのだ。
「美妃瑠と婚約してくれれば、美妃瑠にとっても士道お兄ちゃんにとっても最高の利害の一致になるのですよ」
謎を含んだ興味をそそられるフレーズがまた使われた。
「さっきも気になったのだけど、最高の利害の一致ってどういうこと?」
美妃瑠は私へと体の向きを向け直して微笑んだ。上から目線の優しい笑みで。
「お姉ちゃんはみどりお姉ちゃん達との婚活私闘を通じて沢山のことを学びましたね?」
「うん。私はみどり達との決闘を通じて自分自身のことや結婚等について沢山学んだわ」
頷きながらみどり達の顔を一人ずつ順番に眺めていく。私は彼女達との決闘を通じて自分の至らない多くの箇所に気が付くことが出来た。みどり達は私を成長させてくれた。
「お姉ちゃんが成長してくれたおかげでようやく美妃瑠が相手してあげられるのです」
「上から目線の誉め言葉をどうもありがとう」
「あたしはお姉ちゃんの妹なので似てしまうのは仕方ないのです」
美妃瑠は澄んだ瞳で笑った。
「何故私は決闘方法を暴力にしなかったのか今とても後悔しているわ」
笑顔を浮かべたまま両拳をバキバキ鳴らしてみせる。妹には姉の愛の鞭が必要だ。
「やっぱりお姉ちゃんはお馬鹿なのですね。所詮は優秀止まりの凡人なのです」
妹は天真爛漫な創造美を見せながら笑った。
決闘中でなければ両頬を思い切り引っ張ってやるのにぃ。
「とにかくお姉ちゃんが成長してくれたのは良かったのです。ですが、お姉ちゃんは結婚のことは考えても究極の目標に据えている筈の婚約についてはよく考えていないのです」
「そ、それはあれよ。婚約ってのは結婚の事前段階で2つは直結しているもので……」
言いながら説得力がないと自分でも思っていた。
私はみどり達との決闘を通じて、自分が曖昧に使っていた1%や結婚等の単語の含意と抱える問題の奥深さを体感して学んで来た。
にも関わらず、私が婚活の究極目標に据えている婚約について真剣に検討して来なかったのは美妃瑠の指摘した通りだった。
「お姉ちゃんは婚約を結婚の延長線上で考えているようですね。でもあたしに言わせれば2つは全く異なるものなのです」
「異なるもの?」
美妃瑠は首を縦に振ってみせた。
「お姉ちゃんは婚約制度が発足した過程を知っていますよね?」
「そりゃあ婚約制度発足の推移ぐらいはね」
「なら、婚約制度の本当の当事者が誰なのかも分かる筈なのです」
美妃瑠は目を細めて表情を強ばらせた。
「そもそも大人にとっては婚約制度なんて殊更には新しく必要なかったのです」
「そうね。結婚しちゃえば良いだけだものね」
同意して頷いた所で美妃瑠は更に瞳を細めて私を睨んできた。
「高校生のお姉ちゃんだって事実婚として世間や裁判所に婚姻状態を認めさせることは可能なのです。子供作っておけば完璧なのです」
「事実婚って、子供って……っ」
幾ら頭が良いとはいえ、小学生に生々しい表現を使われると私の方が恥ずかしくなる。
頬が凄く熱い。
「でも、美妃瑠にはそれも不可能なのです」
妹は寂しそうな表情で士道君を見た。
「今の美妃瑠が士道お兄ちゃんと結婚することはどうやっても認められないのです。これはお姉ちゃんとの絶対的な差です」
美妃瑠は私に羨望と嫉妬を含んだ眼差しを向けて来た。
「だけど5年前の悪夢のブライダル週間で最も騒がれたのは今のあたしと同年代の少女達の結婚でした」
美妃瑠の表情が再び険しくなる。
「そしてあの1週間の後に出来たのが婚約制度なのです。つまり……」
美妃瑠の苛立った視線が私を捉える。
「婚約制度の最も中心的な対象は美妃瑠のようにまだ幼い少年少女なのですっ! 子供こそ、婚約制度の真の主人公なのですっ!」
美妃瑠の声は怒りに満ちていた。
「あたし達子供は婚約制度の主人公。でも、あたし達の想いは少しも反映されていない。あるのは大人達の打算と主義主張の産物だけなのですっ! 大人達の勝手なのですっ!」
美妃瑠は私に本気で怒っている。妹は私を大人の代表と見倣しているようだった。
「婚約制度の発足は子供を保護する為。その口上大いに結構なのです。あたしも大人に守ってもらいたいです。でもね……」
美妃瑠の怒りが再び爆発する。
「保護って一体何なのですかっ? 子供の意見は少しも取り入れようとしないで、大人達の間で勝手に騒いでっ! 自分達だけで騒いだら分かった気になって子供の内実に踏み込もうともしないっ! ニーズを汲み取って保護する気がまるで見えないっ!」
美妃瑠の肩がプルプルと震えている。
「自分の想像以上に踏み込まずに他者を切り捨てることを美しく正当化する装置。この国の大人達が和とかほざいて自己賛美しているものの裏側なのです」
美妃瑠は悔しそうに俯き舌打ちしてみせた。
「この黄昏の社会の状況は年々厳しさを増しています。お姉ちゃんが成人を迎える時より美妃瑠が成人を迎える時はもっと厳しいです」
「そう、かも知れないわね」
世の中に明るい兆しが見えない現状では美妃瑠の言葉は否定することが出来ない。
「そんな中、幼い時は子供だからと大人に目隠しされて、成人したらもう大人だからと自己責任の名の下に放り捨てられる。そんな極端な二極化では人間は生き辛いのですよっ!」
美妃瑠が苛立ちを爆発させる。でも妹は自分自身の為だけに苛立っているのではない。
何故なら天才であるあの子自身にとっては黄昏の時代も生き抜くことは難しくはない。
だけど美妃瑠は怒っている。それは美妃瑠が、子供という自身のポジションに葛藤を抱いているから。言い換えれば子供を代表して怒っている。この子は子供を背負っている。
「だけど、あたしは負けないのです」
そして美妃瑠は子供の代弁者だけで終わるつもりも毛頭ない。それが美空美妃瑠という天才少女。私の妹。
「だからあたしは大人に白い目で見られようとGEFとして積極的に自分の幸せを追求してやるのです。大人には、負けないのです…」
美妃瑠は両手を固く握り締めた。
「子供を適用対象にした婚約なんておかしな制度を利用して、最高の幸せを掴んでやるのですよ」
美妃瑠は唇を強く噛み締めている。けれどその瞳は縋るように士道君を見ていた。
「美妃瑠ちゃん……っ」
士道君は悲しそうな瞳で妹を見ている。士道君だけじゃない。みどり達も同じような瞳で見ている。多分、私も同じ目をしている。
「やっぱり美妃瑠は凄く頭が良いね。私なんかとは段違いに」
美妃瑠の顔が上がって私を向いた。
「私、美妃瑠がそんなに深く思い悩んでいるなんて知らなかった。お姉ちゃん失格だね」
妹に向かって頭を下げる。
「そんなことは……ないのですよ」
美妃瑠は目線を私から辛そうに逸らした。
「美妃瑠がどれだけ重いものを背負ってGEFでいるのか少し分かった。美妃瑠が婚約を取り付けたいという強い想いも」
息を短く吐いて呼吸を整える。
「それで、最高の利害の一致って結局何のことなの?」
美妃瑠の想いは分かった。でも、美妃瑠は利害という表現を使った。その意味は一体?
「簡単なことなのですよ」
美妃瑠は自信満々なふてぶてしい表情に戻って私を見た。
「士道お兄ちゃんはあたしと婚約さえ結べばお姉ちゃんや他の女に追い回されることはなくなるのです。それはお兄ちゃんの切なる望みの筈なのです」
妹の言葉に士道君の肩が微かに震えた。
「恋愛に興味がないお兄ちゃんはお姉ちゃん達に言い寄られて迷惑しているのですよ」
今度は私の肩が震えた。見れば、みどり達の肩も震えている。
「でも、婚約さえ果たせば群がる女を幾らでも追い払えるのです。婚約はお兄ちゃんが静かで快適な生活を送る為の最高の護符になるのです」
美妃瑠は楽しそうに士道君に微笑んだ。
「お兄ちゃんは美妃瑠と本当に結婚するのか、あたしが18歳になる時までゆっくりと考えて決めれば良いのです。護符に守られながら」
美妃瑠が笑顔を重ねた。
「あたしは18歳になるまでにお兄ちゃんを落としてみせるのです。落とせなければ婚約を破棄してくれて構わないのです」
妹の提案は確かに大人のものだった。打算に満ちていて、尚且つ両者に損がない。
「8年間の猶予はお兄ちゃんを快適にしてくれます。そして美妃瑠を選んでくれるのなら、あたしがその先に一生の幸せをあげます」
美妃瑠の弁を聞いていて昼間の温泉での一件を急に思い出した。
「そうか。美妃瑠の奥の手というのは先延ばし作戦だったのね」
美妃瑠は子供であるという自身のポジションを逆手に取って最大限に利用したのだ。
先延ばしが対超食系男子に特化した有効な囲い込み戦法であるのは間違いない。
自分と対象をよく研究し尽くした戦術の採用はさすがラスボスと言える。
「お兄ちゃんは美妃瑠と婚約すれば最も幸せになれるのですよ」
美妃瑠は右手をスッと士道君に向けて差し出した。
「それが最高の利害の一致なのね」
「そうなのです。女の子に興味が無い士道お兄ちゃんにとって最善の選択肢なのです」
妹は自信満々に頷きながら言い切った。
確かに妹の理論に従えば士道君は美妃瑠と婚約を結べば大きな幸福を得られる。
でもこの理論は正しくない。何故なら理論の基礎となる前提が間違っているから。
美妃瑠はとても大きな勘違いを基に士道君を見ている。私も陥っていた勘違いを基に。
「美妃瑠の理論は……間違っているよ」
小さな声で妹に告げる。
「あたしの何が間違っているのですか!」
美妃瑠はムキになって反論して来た。
「士道君について錯覚している」
「お兄ちゃんの何を錯覚していると?」
「士道君はさ……女の子に興味あるんだって。恋愛にも興味あるんだって。数時間前に士道君から直接聞いたんだ」
「うっ、嘘っ? 嘘なのですっ! そんなの、大嘘なのですっ!」
美妃瑠は体を仰け反らせて驚きながら士道君を凝視する。
「お、お兄ちゃんは本当に女の子や恋愛に興味が、あるのですか?」
全員の視線が士道君に集まる。
「うん。僕は女の子にも恋愛にも興味があるよ。ずっと前からね」
士道君は首を縦に頷いてみせた。
みどり達から息を呑む音が聞こえた。
「そっ、そんなの、駄目なのです。認められないのです……っ!」
美妃瑠は全身を震わせながら首を激しく横に振っている。
「だって、お兄ちゃんが女の子と恋愛したい普通の男の子だったら……美妃瑠の計画は台無しなのです。根本から崩れてしまうのです」
美妃瑠は全身を激しく振わせたまま士道君へと哀願の瞳を向ける。
士道君は申し訳なさそうな瞳で黙って妹を見ているだけ。否定はしなかった。
「じゃあ私の告白を始めさせてもらうわね」
私は自分のターンの始まりを静かに告げた。
「だっ、駄目なのですっ!」
美妃瑠は取り乱しながら叫んだ。
「そんなの、駄目なのです。士道お兄ちゃんが普通の男の子で、お姉ちゃんが告白なんかしたら……そんなの駄目なのです〜っ!」
美妃瑠は叫び声を上げると私に向かって突っ込んで来た。
「あたしの幸せの為に……お姉ちゃん、覚悟ぉ〜っ! 美空琉拳奥義百羅滅精〜っ!」
美妃瑠が奥義を放とうとした瞬間だった。
「駄目だよ、美妃瑠」
遊羽が背中から美妃瑠を抱き締めた。
「遊羽……お姉ちゃん……」
「ちゃんと、お姉ちゃんの言葉を聞かないと……駄目だよ」
遊羽は下の妹を力強く抱き締めている。その表情はとても優しくてそして切なげだった。
「…………くっ」
美妃瑠の抵抗が止んだ。うな垂れている。でも、それ以上私に向かって来ることも大声を張り上げることもなかった。
美妃瑠の告白はここに終わりを告げた。
「ありがとう遊羽、美妃瑠」
美妃瑠を止めてくれた遊羽。その想いを汲んで止まってくれた美妃瑠に感謝を述べる。
「私さ、士道君に言われて気付いたんだ」
士道君に向き直りながら喋り始める。
「私、自分の気持ちを士道君に素直に伝えていなかったって」
それは私が気付いた大き過ぎた過ち。
「やっぱりこういう時は自分の気持ちを素直に打ち明けないと駄目だよね。それが一番大切なことの筈なのに…私、そんなことも忘れていた」
GEFとしてライバルとの競い合いや自分を磨くことに熱心になるあまり、士道君ときちんと向かい合って来なかった。
恋愛なのに私は士道君が大好きなのに一番大切なことを置き去りにして来た。
「だから私、素直に自分の気持ちを言うね」
大きく息を吸い込む。
余計な言葉や理屈は要らない。
今の私の全身全霊を込めた気持ちをただ素直にぶつけるのみ。
そして私は大きく吐き出す息と共に自分の気持ちを素直に正面から打ち明けた。
「私は、士道君のことが初めて会った時からずっと大好きです。私の想い、受け取って下さいっ!」
私の大声が神社の境内に木霊した。
静まり返る境内。
「この勝負……亜沙さんの勝ち。だよ」
そして士道君は俯きながら、だけど右手を挙げてハッキリと私の勝利を告げたのだった。
*****
「この勝負……亜沙さんの勝ち、だよ」
士道君は美妃瑠との婚活私闘で私の勝利を告げた。
それを聞いた瞬間の私は特に何も考えられないでいた。
ただ大好きな士道君に遂に愛の告白をしたという事実が頭の中を真っ白にしていた。
だから私が士道君の判定の意味を考えるようになったのはそれから1分以上経ってからだった。
そしてその意味を考え始めると今度は気になって仕方なくなった。
「あの……士道君?」
俯きながら小声で恐る恐る尋ねる。
「何?」
「今の宣言の意味、訊いても良いかな?」
決闘のルールに拠れば、士道君は私の告白に心を動かされたということになる。
それってやっぱり。やっぱりなんだよね。
期待して良いんだよね?
士道君と私は両想いだって期待して良いんだよね? 私、期待して良いんだよね?
「僕は亜沙さんのおかげでとても大事なことに気が付いた」
「それって……」
真剣な瞳の士道君が私を見つめ込んで来る。
その凛々しい表情に私の頭の中はあっという間に茹で上がっていく。
「僕も亜沙さんを見習って自分の気持ちを素直に打ち明けるよ」
「う、うん」
小さく頷きながら運命の時を待つ。
今の士道君を見ていると頭はクラクラするし心臓だって止まってしまいそう。
もう、自分が自分でいられない。だけど今の自分が少しも苦痛には思わない。
私は今幸せの只中にいる。そしてこれから幸せの道を際限なしに駆け上がっていける。
それを心の中で予感している。
「亜沙さんによく聞いて欲しいんだ」
「はっ、はい」
恥ずかしくて士道君の顔が見られない。顔は完全に燃え上がって茹だっている。
「皆にもよく聞いて欲しい」
頭の上から聞こえて来る士道君の言葉にますます全身が熱くなる。
「今まで黙っていたけれど僕にはずっと好きな子がいるんだ。今日は僕の正直な気持ちを皆に知って欲しい」
頭を沸騰させ俯きながらその時を待つ。
士道君が大きく3度深呼吸を繰り返した。
そして彼は声を張り上げながら運命の言葉を述べた。
「僕は、君のことが好きだっ!」
士道君の“好き”という言葉が頭上から聞こえた。その言葉が聞こえた次の瞬間、私は大声で全力で激しく返答していた。
「私も、貴方が大好きですっ。士道君っ!」
「遊羽ちゃんっ!」
………………へっ?
何か今、違う名前が聞こえたような??
士道君が叫んだのは美妃瑠じゃない方の妹の名前だったような?
えっ? あれっ?
「僕は遊羽ちゃんが隣に越して来て初めて見たあの日からずっと君のことが好きだった。僕の気持ちはあの日からずっと変わらない。いや、今の僕は君がもっとずっと好きだ!」
頭が空になりながらゆっくりと顔を上げる。
士道君は上の妹の手を握りながら熱心に訴えかけていた。
遊羽は戸惑った表情で無言のまま手を握られている。
視線を右に向ければ下の妹が死んだ魚よりも濁った瞳で士道君達を見ている。
どうやら、聞き間違いではなかったらしい。
そっか、士道君は遊羽のことが昔から好きだったんだぁ。知らなかったなあ。
そう言えば士道君って昔気質のスーパーエリートだもんね。女の子のタイプも昔気質の大和撫子が好きだったんだあ。私の士道君分析は間違っていなかった訳ね……。
「僕は君に誇れる人間になりたくて、僕の信じる理想の自分を目指して頑張って来た。僕の本当の人生は君に出会ってから始まった」
そう、だったんだぁ。
そう言えば私は士道君に気に入られたくて、彼の背中を必死に追い掛けているんだよね。
士道君は遊羽に気に入られたくて理想の自分を追い掛けていたと。なるほどねえ。私と士道君は似た者同士だったと。そんな構図にちっとも気付かなかったなあ……。
「僕は遊羽ちゃん以外の女の子には気のある素振りを見せないのが格好良いんだと亜沙さんを見習いながら考えていた。だからそれを今まで実践して来た」
士道君が私を尊敬しているって言ったのはこういう意味だったのかぁ。
私の佐藤君に対する態度がそのまま士道君の私やみどり達に対する態度だった訳ね。
士道君は鈍いんじゃなくて妹の為に積極的に私達をスルーしていたと。なるほど、ね…。
「でも今日、亜沙さんと美妃瑠ちゃんが決闘するに及んでこのままじゃいけないと思った。亜沙さんの言う通りに自分の素直な気持ちを君と皆に伝えなきゃって思った」
士道君の声がとても遠い。誉められているのに何故か悲しくなって来る。
「だから僕は今改めて君に告白するよ。遊羽ちゃん、僕は君が好きだ。僕と付き合って欲しい。これで3度目の正直だ」
士道君は真剣な表情で遊羽に愛を訴えた。
そっかぁ。遊羽ってばこれで3度も士道君に告白されているんだぁ。3度目ってことは、過去2回は士道君を振ったのかなあ?
ラスボスは美妃瑠だと思っていたけれど、まさか遊羽が真のラスボスだったなんてねえ。お姉ちゃんびっくりだよぉ。
衝撃の展開の連続に私の頭は完全に思考麻痺状態に陥ってしまっている。
そんな最中のことだった。
「お姉ちゃん……士道さんを賭けて私と婚活私闘で勝負してっ!」
争いごとが嫌いな遊羽に婚活私闘を挑まれたのは。
学園祭の時に美妃瑠が宣言していた内容を思い出す。
ラスボスから主人公へのジョブチェンジ。
遊羽を見ながら何故かそんなことを思い出したのだった……。
*****
肌寒い11月の夜風が身に染みる神社の境内の一角。
「お姉ちゃん……士道さんを賭けて私と婚活私闘で勝負して」
私はお姉ちゃんの真似をして人差し指を突き刺しながら決闘を申し込みました。
こんな居丈高な態度を取ったのも自分から争いごとを起こすのも生まれて初めてです。
でも、こうでもしないと自分を奮い立たせることが出来ません。
だっていつも光り輝いているお姉ちゃんは私のお手本。偉大なる先生なのです。
中途半端な覚悟で立ち向かうなんて私には出来ません。
「…うん。い〜よ〜」
お姉ちゃんは私の申し出を受け入れてくれました。真っ白に燃え尽きて背中が煤けている様にも見えますが。
でも、お姉ちゃんが私と向き合ってくれるこの貴重な機会を逃す訳にはいきません。
「私が勝ったら勇気を出すからっ! 美妃瑠、立会人をお願いね」
「…いいのですよ〜」
私よりも遥かに大人びた妹は立会人を請け負ってくれました。やっぱり真っ白に燃え尽きている様に見えますが。
「じゃあ、対戦方法は……お料理知識対決はどうかな?」
「…何でもい〜よ〜」
お姉ちゃんはまたも私の提案を受け入れてくれました。
余裕の表れなのかも知れません。でも、姉がどんなに強かろうと私はこの勝負に負ける訳には絶対にいきません。
こんなにも勝ちたいと思ったのは生まれて初めてのことです。私の為だけじゃない。お士道さんの為にも姉ちゃんの為にも負けられません。
「じゃあ、お姉ちゃんから問題出して」
「…問題……ねえ」
お姉ちゃんは昨日の夕飯で食べた秋刀魚のような瞳で私を見ました。
「…えっと、私、昨日の夕食何食べたっけ?」
姉は秋刀魚瞳のまま首を捻りました。
「それ、お料理の知識じゃないよ。お姉ちゃんが一昨日の夜食べたのは秋刀魚。リクエストしたのはお姉ちゃんだよ」
「…そうだったわね」
「…遊羽お姉ちゃん、正解なのです」
少し腑に落ちませんが、正解することが出来ました。
次は私の番です。どんな問題が良いでしょうか?
その時私はふと、お姉ちゃんの高校の文化祭での一幕を思い出しました。
「えっと、調味料のさしすせそを順番に言ってみてくれるかなぁ?」
あの文化祭の日に口を酸っぱくして何度も説明したので簡単に答えられる筈です。
お姉ちゃんがサービス問題を出してくれたので私も最初は簡単にしたいと思います。
「…調味料のさ……さっ……サッカリン」
境内が一瞬静まり返りました。
「調味料のさはサッカリンじゃなくて砂糖だよぉ。サッカリンじゃ甘過ぎるよぉ」
「…へぇ〜そうなんだ〜」
「…亜沙お姉ちゃん、不正解なのです」
やる気が感じられないお姉ちゃんと美妃瑠の声が届きました。
「…よってこの勝負、遊羽お姉ちゃんの勝ちなのです」
美妃瑠に勝ちを宣言されてしまいました。
えっと、これで良いのでしょうか?
「…わ〜。遊羽、おめでとう」
お姉ちゃんにも拍手して勝利を祝福されました。秋刀魚の瞳と、車のバンパーのような機械的な手の動かし方が気になりますが。
でもこれはきっとお姉ちゃんなりの私への励まし方なのだと思います。
勝ちを譲ってくれたのもお姉ちゃんの優しさなのだと思います。
なら私はお姉ちゃんのその心意気に答えたいと思います。
「士道さん…っ」
士道さんの元へと振り返ります。
「遊羽ちゃん…っ」
士道さんが怖いぐらい真剣な瞳で私の瞳を覗き込んでいます。
いつもは穏健で爽やかな表情をしている分、そのギャップはとても大きく感じます。
でも、私は以前2回士道さんが今と同じ表情をしているのを見たことがあります。
最初は私が中学校に入学した日、2度目は今年の夏休みの海でのことです。
いずれも士道さんは私に……。そして、今日も……。
士道さんは本当に私のことを……。
それを思うと心臓が高鳴り頬が熱を帯びて貧血時の様に思考がおぼつきません。
私は……私だってずっと士道さんのことを……。
でも私は今まで士道さんの求愛に答えて来ませんでした。
臆病だったから。
光り輝く太陽のような姉に比べて自分は視認すら出来ない新月のような存在。
お姉ちゃんに比べて私は士道さんに相応しくない。士道さんは一時的な気の迷いを起こしているだけ。目が覚めれば捨てられるだけ。
そう自分を卑下して士道さんと向き合わない自分を正当化して来ました。
そして、私が士道さんと付き合うことになればお姉ちゃんはとても悲しむ。お姉ちゃんの輝く笑顔を守れるかは私の行動次第。
そんな風に傲慢に思い上がっていました。
でも私はそんな自分を守りたいだけの卑下も姉を勝手に規定する傲慢も捨て去らなければいけない。捨て去った上で士道さんと真摯に向き合わなければいけない。
今日1日の出来事を通じて私はようやくそんな単純平凡で当たり前の結論に達することが出来ました。
中学に入学して以来、ううん、3年半前に士道さんと初めて会った時からずっと至れないでいた結論にです。
大きく息を吸い込みます。
お姉ちゃんとの決闘で勝ったら私は勇気を出すと誓いました。
婚活私闘の合意内容は絶対です。
背中を押してくれた姉と決闘の強制力をカタパルトにして私は士道さんに語り掛け始めました。
「士道さん……聞いて下さい」
「うん」
もう一度大きく息を吸い込みました。
「私は士道さんに大きな嘘を吐いていました」
「嘘?」
士道さんは首を傾げました。
私はもう一度大きく息を吸い込み胸に左手を当てます。そして吐き出す息に覚悟を込めながら私の想いを告げました。
「私は初めて士道さんに告白された時から…ううん、最初に出会った時からずっと貴方のことが好きでした。私は士道さんが大好きです」
胸を押さえる左手の力を更に込めます。心臓が、頭がおかしくなりそうです。でも、逃げ出さずに言わないとっ!
「なのに私は貴方に嘘を吐いて2回も振ってしまって……その、本当にごめんなさい」
士道さんに頭を下げます。
私はたった一度自分の気持ちを伝えるだけでこんなにもおかしくなりそう。なのに士道さんは3度も想いを告げてくれた。しかも、2度も振ってしまうという酷いことをした後なのにまだ私を好きと言ってくれた。
私は士道さんへの非道を詫びずにはいられませんでした。
「遊羽ちゃん……っ」
ゆっくりと顔を上げます。目の前に映る士道さんが何だか段々ぼやけて来ました。凄く凄くぼやけて……私は自分が泣いているのだと気付きました。
でも、それは悲しい涙じゃなくて。目の前の士道さんを見ているとそれだけでとても幸せな気持ちに包まれる涙で。
私はそんな幸せを拙い言葉で士道さんに伝えました。
「そして、私のことを今でも好きでいてくれて…本当にありがとうございます」
士道さんへともう1歩近寄ります。そして溢れる涙も拭わずに士道さんの右手を両手で握りました。
「私は…士道さんのことが好きです。大好きです。こんな私と…付き合って頂けますか?」
ようやく、ようやく言うことが出来ました。
「僕なんかでよければ喜んで」
士道さんが左手で私の手を更に上から握り返してくれました。
「亜沙ちゃん。君を一生涯幸せにするよ。約束する」
士道さんがジッと私の目を見詰め込みます。
「そっ、そういうのはまだ早いかと……」
一瞬にして顔が再び茹で上がってしまいます。
お付き合いすることになったと思ったら……いきなりプロポーズされてしまいました。
「私、地味ですけど凄く欲深い人間ですよ。そんなこと言われたら…期待しちゃいますよ」
「期待してくれると嬉しいな」
士道さんに爽やかに笑いながら肯定されてしまいました。
「そ、それじゃあ私は士道さんを一生涯幸せに出来るように誠心誠意頑張ります」
「うん。お互い頑張ろうね」
またもあっさり頷いて肯定してみせる士道さん。白い歯を見せながら笑っています。
お姉ちゃんの表現を借りれば私の運命の1%の王子様は色んな意味で凄い人なのだと改めて思いました。
「カップル成立。パチパチパチ」
茜さんが私達を見ながら拍手してくれました。ちょっと寂しそうな瞳ですが、それでもとても優しい表情で私達を祝ってくれています。
「茜さん……」
士道さんと結ばれてようやく周囲の人々にも目を向けることが出来るようになりました。
そして周囲の人々とは士道さんが好きな人ばかりです。私はそんな皆から士道さんを奪ってしまった。
今度はその事実と向き合わないといけません。でも……。
「遊羽。士道。おめでとう」
茜さんは私達を見ながら笑ってくれました。
「まあ、士道が遊羽君と付き合いたいというのであればそれも構わんだろう。そこの腑抜けた腐女が交際相手なら全力で阻止するがな」
正義さんは横を向きながら私達の仲を認めてくれました。
「えっと。それで良いの? アンタ達、古武のことが好きで婚活私闘までしてたんじゃないの?」
ハンナさんが私が思っている疑問を口にしてくれました。
「勿論良くない部分もありますよ。わたくしの恋が実らなかったのですから」
みどりさんが私達をじっと見ます。
「ですが、相手が遊羽ちゃんなら仕方ありません。士道さんが遊羽ちゃんにご執心なのは明らかでしたし」
「だな」
みどりさんの言葉に正義さんが相槌を打ちます。2人のやり取りを聞いてまた顔が熱を持ちました。
「亜沙が遊羽ちゃんは恋愛に興味がないと繰り返すものですから、そうならわたくしにもチャンスはあると考えて奮戦してきましたが…」
「単に姉の妹を見る目がなかっただけのようだな。妹より優れていない姉だったな」
2人は揃って大きく溜め息を吐きました。
「遊羽ちゃん」
みどりさんが私の目の前に来ました。
「はい」
何を言われるのか少し心配です。
「あおいとこれからも良いお友達でいて下さいね」
みどりさんは悪戯っぽく笑いました。
「勿論です。あおいちゃんとは一生仲良しのお友達です」
大声で誓います。
「ならわたくしからこれ以上言うことはありませんわ。士道様とお幸せに」
みどりさんは優雅に私に背を向けました。
「あっ、ありがとうございます」
嬉しくなって何度も頭を下げました。
「さて、残るは美空家の長女と三女だが……」
正義さんが言葉を区切ってお姉ちゃんと美妃瑠を眺めます。
「あ〜こりゃ駄目そうね。姉の方は全然反応なしだわ」
お姉ちゃんに近付いて指でツンツンしたハンナさんが結果を報告します。
姉は秋刀魚の目をしながら口を半開きにして呆然としています。私と士道さんがお付き合いすることになったのが相当ショックだったに違いありません。
「これは私がお姉ちゃん達と今までちゃんと向き合って来なかったことへの罰なんだと思います」
大きく息を吸い込みます。
「だから私、これからはちゃんとお姉ちゃん達と向き合おうと思います」
士道さんの手を強く握ります。
「時間が掛かっても、私達のことをお姉ちゃん達に認めてもらおうと思います」
いつ雪が舞い散り始めてもおかしくない晩秋の夜空の下。
「だって私は自慢のお姉ちゃんの妹だから。どんな難題にだって乗り越えてみせます」
私は息を白くしながら熱く決意を表明したのでした。