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沙都子組屯所 創作掲示板

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(137) 白花那姫神の選挙事情:第一章 投稿者:漆之日太刀

【第一章・魔王とはいい酒が飲めそうだ】


 男の熱を帯びた視線に、白花那姫神(シラカナヒメ)は身を強張らせた。

“結婚しよう”

 その台詞に、白花那姫神は困惑しか覚えない。ただ、目を白黒させることしか出来ない。その反応は、プロポーズをされた喜びを噛み締めているとか、そういうのとはほど遠い。
 彼女は人差し指を額に当てて、小さく嘆息した。
「え〜と……ですね?」
「うむ」
「何かもう、色々とどこからどう言えばいいのか分からないのですが……」
 混乱した思考回路で、まとまらない頭の中を精一杯整理しようと、白花那姫神は努める。
「結婚とかって、普通は恋人同士というか、互いに愛し合っている者同士がすると思いませんか?」
「一目見たときから、好きになったっ! 一目惚れしたっ!」
「一目惚れとかそんなレベルじゃないですっ! 今初めて会ってっ! というか私がここに来て十秒も経ってませんよっ!?」
「愛に時間なんて関係無いっ!」
「ありますよっ!? あると思いますよ私っ!? 愛するとか何とか言う前に、私全然あなたのことも知らないですよ? というか、結婚何てする気無いですからね? ここには、お仕事で来ただけなんですからっ!」
 額から滝のような汗を流しながら、白花那姫神は男に抗弁する。
 しかし、目の前の男は相変わらず目をキラキラと輝かせながら、彼女の肩を掴む手により一層の力を込めてくるだけだった。とても真面目に聞いてくれたとは思えない反応だった。
 頬を引きつらせながら、白花那姫神は男を見返す。
 歳は二十代の半ばくらい。体格はやや痩せている。顔立ちは、とりわけ崩れているわけでも整っているわけでもなく、ごくごく普通……だと彼女は思った。ついでに、男にしては長く伸びた髪が、似合っていない気がした。
「……なるほど、それが君の答えという訳か」
「ええ、そうです。残念ですけど」
 こくこくと、白花那姫神は頷いた。
「分かった。では、まず――」
「『まず』?」
 きっぱりと断ったつもりなのに、まだ諦めないのかと、白花那姫神は疑問符を浮かべた。

“アチキとSEXしようっ!”

 その言葉に、白花那姫神は一瞬、気が遠くなった。
 呆然と男の視線を見返すが、その瞳ははっきりと本気だと言っていた。
「な……なな……セッ……」
 白花那姫神の頬が赤く染まり、頭の上から湯気が立ち上る。いきなり、何て破廉恥なことを言い出すのだこの男は? 白花那姫神には、にわかには信じられなかった。
「男と女が互いのことを知り合うには、SEXが一番なのだよ? 君とアチキが互いのことを知らないというのなら、まずはSEXをして互いを知ろうとアチキは提案するっ!」
「その理屈はおかしいですっ! というか、私の体を見て下さいよっ!?」
 白花那姫神は自分の胸に手を当てた。まったく育っていない。自分でも哀しいくらいに……見事なまでに真っ平らであった。これから大きく育つに違いないのだが。
「ふふふ、『私の体を見て下さい』とは、君の生まれたままの姿を見ろと……そう、つまりはOKということだね? そういう、えっちな娘さんは……アチキは大好きだ」
「全然違いますっ! そういう意味じゃありませんっ!」
 ますます視線に熱気を帯びる男に、白花那姫神は徒労感を覚えた。頬を紅く染めたまま、咳払いをする。
「そういう意味じゃなくて……私は、その……子供ですよ? そ、そういうことは大人になってから……その……」
 白花那姫神は口ごもる。どうしても、その続きは言うことが出来なかった。恥ずかしすぎる。
 だが、男はむしろ優しげに微笑んできた。
 それを見て、白花那姫神の背中に冷たい汗が流れる。
「だが、それがいい。むしろそれがいい。ツルペタのちっぱいとか、さらっさらの癖無しロングヘアーとか、ほそっこい白い太股とか、つぶらで真ん丸のちっちゃい瞳に、桜色の小さな唇、ふっくらとしてすべすべのほっぺとか、浮き上がったあばらとか、ちんまいお臍とか、まるっこいお尻とか、そしてそして……つるっつるのスジとかっ! ぐふ……ぐふふふふ。そう、君は今こそが美しいのだ。だから――」
「……え? ええ?」
 男が一歩、足を踏み出してきた。それに合わせて、白花那姫神もまた思わず一歩後退する。それがまた一歩、そしてまた一歩と……。
 どう抵抗したらいいのかも思い浮かばないまま、後退する白花那姫神の脚に固い感触が当たった。それは、ベッドの縁だった。ここが目の前の男の部屋である以上、そんなものがあることは不思議でも何でもない。
 だがそんなことよりも……男の考えを想像し、白花那姫神の赤くなっていた頬から、一気に血の気が引く。
「は……放して下さいっ! ほ、本気ですかっ!?」
「心配しなくていい。アチキ、優しくするから」
「嫌……嫌です。私、こういうのは……あっ!?」
 白花那姫神は小さく悲鳴を上げた。男が掴んでいた肩を放し、そのまま押したのだ。
 為す術も無く、白花那姫神は背中からベッドの上へと倒れ込む。
 ぎしぎしと軋んだ音を立てるベッドの上で、ごくりと、彼女の喉が上下した。
 震える白花那姫神の上に、ゆっくりと男が覆い被さってくる。顔の隣に、手のひらが置かれ、男の顔が近付いてきた。
 これ以上、恐怖を抑えることが出来なかった。本能的に大きく息を吸って、叫ぼうと――

“お前は何をしとるんじゃあああああああああああぁぁぁぁぁぁぁっ!!”

 部屋に響き渡る爆裂音。そして激震。
 その瞬間、白花那姫神の目の前から男の姿が掻き消えた。
「………………え?」
 薄く涙を零しながら、白花那姫神はぱちくりと目を見開く。突然の出来事で、何が起きたのかまったくもってよく分からない。
 消えた男の姿の代わりに、細い脚が彼女の体の上に伸びていた。
 その脚の持ち主の姿を求めて、白花那姫神は自分の隣――ベッドの傍らに立つ人物の姿へと視線を向けた。
 若い女だった。
 スレンダーな肢体と、強い眼光。ほとんど癖の無い、肩よりも少し長く伸ばされた髪。全体的に引き締まった体付きをしている。歳はだいたい、二十代の前半から半ばくらいか。自分に襲いかかってきた男よりも、少しだけ若いように彼女には思えた。ついでに、女として可愛いとか美しいとかよりも、格好いいって思われることの方が多いんだろうなとも……ぼんやりとそんなことを考えた。
 ゆっくりと、女の脚が床へと下ろされる。
 その様子を見て、白花那姫神は我に返った。
 ついさっきまで自分を襲っていた男はどうなったのか?
 恐る恐る、白花那姫神は女が立つ方向とは反対側へと視線を向けた。
「…………あ……うぅ……」
 男は呻き声を上げながら、大の字になって壁にめり込んでいた。その姿は、ハエ叩きか何かで潰された虫や、道路で車に轢かれた蛙を少女に連想させた。
「……ええっと……」
 どう反応していいのか分からず、白花那姫神はぼんやりと、壁のオブジェと化した男の背中を眺め続けた。
 それが、白花那姫神と彼らとの出会いであった。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 白花那姫神はソファにちょこんと座っていた。
 そして、彼女の目の前で先ほど襲いかかってきた男――月見里陽呂之(やまなしひろゆき)が、ナイロン紐で後ろ手に拘束された形で、床に転がっていた。その姿は、先ほど壁に埋め込まれたダメージによってボロボロであった。
 そして、陽呂之の隣に立って、彼の妹――月見里陽華(やまなしようか)が冷たい瞳で彼を見下ろしていた。
「……いつかこんな日が来るんじゃないかって思っていたけど、まさか……とうとう、本気でこんな真似をやらかすなんてね。このゴミクズが」
「アチキ悪いことしてないっ!」
「どう見ても現行犯だったでしょうがっ! あんな小さな子に、ベッドでっ! 何をしようとしていたのよっ!」
 怒声を上げて陽華は白花那姫神を指差した。思わず彼女はびくりと震える。
「はいはい、大丈夫よ。心配しないで、もう怖がらなくてもいいわ。陽華ちゃんは日本の婦警さんの中でも、指折りの強さなんだから」
 ソファの隣に座る月見里阿佐美(やまなしあさみ)が、白花那姫神の頭を撫でてきた。子供扱いされるのは気に入らないが、ちょっとだけ落ち着く。
 白花那姫神に少しだけ目を向けた後、陽呂之はどこか不敵に、小さく笑みを浮かべた。
「決まっているだろう? SEXだ」
「そういうことを言えと言っているんじゃないっ!」
 その直後、陽呂之の顔面に陽華の足がめり込んだ。
 鼻を痛打した痛みに、悲鳴も上げることなく陽呂之が身悶えする。その容赦ない攻撃に再び白花那姫神の体が震える。
「ごふっ。……ご、誤解だぞ陽華」
「ん?」
「アチキは別に、そういう刑務所送りになるような真似をしようとしたわけではないのだ。あくまでも、Satisfactory & Enjoyable eXperienceをするつもりだったのだ」
「……適当に単語を並べてみただけにしか思えないんだけど? それってつまり何?」
「うみ、マッサージ」
「マッサージ? どんな?」
 うろんな視線を向ける陽華に、陽呂之はふふんと得意げに笑みを浮かべて見せた。それによって、更に陽華の視線が冷たく険しいものへと変わったが。
「うむ、そこな少女の服を脱がして、そのちっぱいをペロペロして、その上に乗っているピンクのサクランボをくりくりして、つるつるのスジにちゅっちゅして、それからそれから、ねっとりじっくりと体中をさわさわして、我慢出来なくなったとこでアチキのジャンボなマツタケをですね? ……ごふぅっ!?」
 今度は鳩尾を思いっきり踏み抜かれ、陽呂之は再び悶絶する。
「アホかあああああああああぁぁぁぁぁっ!! どう聞いてもアウトでしょうがっ!? だいたい、あんたのはシメジかエノキダケがいいところのくせにっ!」
 ぐりぐりと陽華が鳩尾を抉るたびに、びくんびくんと陽呂之の体が痙攣する。
「どう見てもあの子、子供よね? 小学校の高学年くらい?」
「ああっ! まさに、少女の少女として最も美しく愛らしい時期で……ぐぎゃああああぁぁぁぁっ!?」
 陽華は、今度は脇腹にヤクザキックを叩き込んだ。
 その蹴りの度に、月見里邸が僅かに揺れる。
 傍目から見れば、見ているのも恐ろしくなる光景と威力ではあるのだが、阿佐美はのほほんと息子と娘のやりとりを眺めるだけであった。日常的に繰り広げられる光景らしい。白花那姫神にとって、信じがたいことであったが。
「くっ……いつの世も、権力者とその犬は正しき者を力で弾圧するというのかっ! 真実の美を求めることを悪と決めつけるのかっ! だがしかしっ! アチキは引かぬっ! 媚びぬっ! 顧みぬっ!」
「やかましいわロリコンっ!」
 今度は、陽華は脚を大きく振りぬいた。
 それによって陽呂之は吹き飛ばされ、天井にめり込んだ。衝撃でパラパラと埃が落ちてくる。
 そして数秒後、陽呂之が天井から剥がれ落ち、床に叩き付けられた。
「ねえ陽華? あんまりやり過ぎちゃダメよ?」
 白花那姫神の隣から、のほほんとした声が聞こえてきた。見上げると、やっぱり阿佐美はそんな……落ち着いた表情を浮かべていた。
「何よ母さん? ひょっとして、この変態が心配なの?」
 陽華の問い掛けに阿佐美は顎に人差し指を当てて、しばし天井を見上げた。
「ん〜? それもちょっとあるけど、あんまり家を壊さないようにね? ほら、陽嘉琉(ひかる)の中間試験もそろそろだから」
「陽嘉琉?」
 白花那姫神は首を傾げた。
「あの子達の弟よ。凄いのよ〜? あの子達がどんなに暴れても、一日で何でも直しちゃうんだから。今は学校でいないけれど」
 自慢の息子なのだと言わんばかりに、笑顔を浮かべて阿佐美は彼女に頷いてきた。
「うぅ……長男の命より弟の中間試験を大事にするとは、アチキに対する扱いが酷くはないですか? 母上」
 その一方で、白花那姫神が陽呂之に視線を戻すと、彼は涙を流して床を濡らしていた。
「まったく、せっかくの非番だってのに。この変態は……」
 がりがりと、陽華は苛立たしげに頭を掻いた。
「それで? 兄さん? あの子をいったいどこから? いつから? どうやって拉致監禁したの? 返答次第によっては、刑務所送りにする前にここで『不慮の事故』で消えて貰うわよ? 本当なら、問答無用で刑務所に送ってもいいけど……認めたくないけれど、呪わしいことに血が繋がっているから、弁明の機会と別れの挨拶の時間くらいは与えてあげようっていうんだからね? よく考えて発言しなさいよ?」
 そう言いながらも、陽華は急速に闘気と殺気を練り、高めていく。その攻撃を受ければ、ただでは済まないどころか、塵すら残るか怪しいのではないかと、白花那姫神は戦慄を覚えた。
 だが……。
「アチキも知らない。突然、アチキの部屋に現れた」
「は?」
 冷や汗を流しながら、陽呂之は答えた。
 その返答に、一瞬だが陽華の顔から表情が消えた。そして、陽華の頭に一際大きな怒りのマークが浮かぶ。
「陽呂之? ……あまり巫山戯ちゃダメよ?」
 流石にこれは見過ごせないと思ったのか、阿佐美からも冷たい空気が漏れた。
 無言で、陽華が拳を振り上げる。
 いよいよもってただならぬ雰囲気に、白花那姫神は慌ててその場から立ち上がった。なんとか落ち着いて貰おうと……説明しようと両手を胸の前に出す。
 しかし、彼らの視線が彼女向けられることは無かった。
「いや、本当にっ!? アチキは何も知らないんだってっ! 最近は一歩も外に出てないしっ!? 仕事の締切がギリギリだって、前から言っていたよ? それで、ようやく原稿を仕上げて、メールで送って寝ようと思ったら、突然目の前にそこな少女が突然現れて……。二徹したアチキは『やっほい、いい夢だ〜☆』と思って、思わずSatisfactory & Enjoyable eXperienceを実行しようとしたわけなのだよ?」
 それを聞いて、白花那姫神は改めて陽呂之の顔を見てみる。彼の目の下にはどす黒い隈が浮かんでいた。
「あー、なるほどねー。締切かあ。そういえば、数日前にもそんなこと言っていた気はするわね」
 陽華は大きく溜息を吐いた。
「つまり、二徹していたために、現実と夢の区別がロクに付いていなかったと、そう兄さんは言いたい訳ね? あくまでも、夢だと思ったから、あんな不埒な所行に至ったんだと」
「うむ」
 こくこくと、床の上に転がりながら陽呂之は頷いた。
「そんな言い訳が通じるかあああああああああぁぁぁぁぁ〜〜っ! 死ぬがよいっ!」
「嘘じゃないのおおおおおぉぉぉ〜〜っ!?」

“ま、待って下さいっ! その人が言っていることは本当ですっ!”

 陽呂之に必殺の拳が振り下ろされる寸前、白花那姫神は叫んだ。
 それとほぼ同時に陽華の動きが止まる。一瞬遅れて、風が陽呂之の顔面を撫で、彼の冷たい汗を床にまき散らした。
「どういうこと? この変態を庇うつもりなら、そんなこと気にしなくていいわよ?」
 白花那姫神首を横に振った。
「そうじゃなくて……その、私は本当に、その人からは急に現れたように見える形で、こちらにお邪魔したんです」
「……どういうこと?」
 訳が分からないと、陽華と阿佐美が互いに顔を見合わせ、首を傾げてくる。
「ええっと……、私は、仕事でその人に用事があってこちらに来たんです」
「仕事?」
 陽華と阿佐美が白花那姫神に視線を向ける。
「そう言えば、この子が着ている服って、制服っぽいけれど……というか、スーツ? でも、この辺の小学校や中学校では見ない服ね。高校でも……無いはず」
「……ひょっとして、陽呂之が書いている小説の、新しい担当さんか何かかしら? それにしては随分と若い気がするけれど?」
 疑問符を浮かべる陽華と阿佐美に、彼女はもう一度首を横に振った。
「そうじゃないんです。あの、信じられないかも知れませんけど……私、こう見えても、神様なんですっ!」
 その瞬間、室内に静寂が舞い降りた。
 陽華は呆れたように口を開き、阿佐美も驚きを隠せないのか、頬に手を当てて目を丸くしていた。
「……あれ?」
 同時に、白花那姫神は疑問符を浮かべた。どうしてここで、神様が目の前にいるっていうのにこんな……場違い感漂う空気を彼らは作り出してくるのだろう? 確かに、自分でも「信じられないかも知れないけど」とは言ったけれど。もうちょっと、こう……驚きつつ畏れるような態度とか有ってもいいのではないだろうか?
「……っしゃあああぁぁぁっ! 幼女神キターッ☆ ずっとちっちゃいままとか、アチキ大歓喜〜っ!」
 その一方で、ついさっきと同様に陽呂之が目を輝かせていたが。しかも、それって最悪の反応ではないだろうかと白花那姫神は思った。
 ところでさっきからこの男はもぞもぞと床の上でのたくって、何をしようとしているのだろうか? いまいち、白花那姫神にはよく分からない。どうせ、この格好では逃げること何て出来ないだろうに。
「兄さん?」
「うん?」
 陽華の体が震える。ギリギリと、ゆっくり彼女の首が回り、陽呂之を見下ろした。
「あんたって奴は……あんたって奴はっ! こんな小さな子に何て事してんのよっ!? 拉致監禁した挙げ句にこんなコスプレまでさせて、洗脳? 調教? 現実逃避? あんたって奴は……どこまで……どこまでっ!」
 今度こそ、堪忍袋の緒が切れたと、陽華の脚が上がる。
「せめて……これが最後の慈悲よ。一瞬で、痛みを覚える暇も無く、あの世に送ってあげるわ」
「待って下さいいいぃぃぃぃっ! 本当なんですってば〜っ!」
 白花那姫神は慌てて、虚空から携帯電話を取り出した。
『え?』
 その瞬間、白花那姫神を除いたすべての人間から驚きの声が漏れる。だがそんなものは無視して白花那姫神は急いで携帯電話を操作した。
 電話はすぐに繋がった。
「お疲れ様です。白花那姫神ですっ! 忙しいところすみません、先輩。今すぐ助けて下さい〜っ!」
 そこまで言ったところで、電話は切れた。
 本当に通じていたんだろうか? 思えば一方的にまくし立てていたことに気付いて、白花那姫神は不安になる。

“失礼します”

 その声は、室内に突然現れた。
 濃紺のスーツを着た女だった。年の頃は、人間に換算すれば二十代半ばくらいになるだろう。細い黒縁の眼鏡とポニーテールが、彼女の流麗で知的な魅力を伝えていた。実際、白花那姫神が見る限りその通りなのだが。
 その姿に、白花那姫神は胸を撫で下ろす。
「あなた、誰? どこから? いつの間に?」
 阿佐美の問い掛けに、高美蔓姫神(タカミツルヒメ)は柔らかく微笑みを浮かべて返した。
「初めまして、そして突然のお邪魔、申し訳ありません。申し遅れましたが、私、増髪翁(ますかみのおじ)の第四秘書を勤めさせて頂いております。高美蔓姫神と申します。以後、よろしくお願い致します」
 そう言って、高美蔓姫神は胸ポケットから名刺入れと名刺を取り出し、阿佐美に渡した。お辞儀の角度はぴったり45度であった。相変わらず惚れ惚れするほどに美しい名刺交換だと白花那姫神は尊敬の眼差しを彼女に送る。
「はあ、これはどうも、ご丁寧に。お名刺頂戴致しますね」
「そして――」
 そこで、高美蔓姫神は一旦言葉を句切り、白花那姫神へと視線を向けてきた。顎を少しだけ上げる。そのジェスチャーに、彼女は慌ててソファから立ち上がった。
 何故か陽呂之が内心舌打ちしてくるのが聞こえた。本当に、どういうことなのだろう? まあ、分からない以上はどうでもいいけれど。
「自己紹介を」
「は、はいっ! 私、増髪翁の第七秘書を勤めさせて頂いております。白花那姫神といいます。よろしくお願いします」
 白花那姫神はぺこりと、そのまま頭を下げた。
「ところで、どうしたのですか白花那姫神? 何か問題が? そもそも、どうしてこんな状況になったのです?」
 高美蔓姫神はリビングを見渡して首を傾げた。確かに、どういうことなのか訳が分からないかも知れない。というか、白花那姫神もどうしてこうなったのかよく分からないくらいだ。
「うぅ……実はですね? この人達が私のことを神だって信じてくれなくて……その……部屋に行ったらいきなり陽呂之さんが私にその……は、破廉恥なことしてきたり、それで陽華さんに捕まった陽呂之さんがこんなことになって……ええと……」
 やっぱり、どう説明すればいいのか分からない。白花那姫神は口ごもる。日頃から筋道が分かるように情報を順序立てて話せと言われ、また白花那姫神もそう心がけてはいるつもりなのだが。
「ふむ……とにかく、神だって信じてもらえなかったことが問題のようですね」
「は、はい」
 白花那姫神は頷いた。
 高美蔓姫神は白花那姫神から視線を外し、周囲を見渡した。
「信じがたいのは察しますが……私もこの娘も正真正銘、神です。もっとも、近代になっての生まれなので、古事記にも日本書紀にも載っていない、全くの無名なのですが」
 高美蔓姫神は、悪戯っぽく笑みを浮かべた。
 その直後、忽然と高美蔓姫神の姿が掻き消える。白花那姫神が見ると、陽華も阿佐美も呆気にとられていた。陽呂之だけは、相変わらず床の上をのたくっていた。
「こちらです」
 再び高美蔓姫神の声が部屋に響く。今度は白花那姫神の隣に姿を現し、彼女の肩に手を置いてくる。
「と、まあこんな具合に、白花那姫神は陽呂之様の前に現れたものと思われます」
「何でまたそんなことを?」
「それはその……だって、普通に玄関から来ても、神だって信じて貰えそうにないですし、だから……」
 そんなにも何か変なことをしたのだろうかと不安に思いつつ、白花那姫神は胸の前で人差し指の先を合わせながら答えた。
「なるほど、まあそれもそうかも知れないわね。徹夜明けのエロゲ脳の目の前にいきなり現れるのは、災難だったと思うけど」
 やれやれと、陽華は小さく嘆息して肩をすくめた。
「それで、シロちゃんは陽呂之になんの用で来たのでしょうか?」
「シロちゃん!?」
 阿佐美から呼ばれた呼称に、白花那姫神は目を丸くする。
「ええと……白花……長いので、シロちゃんということで」
「私……神様なんですけど? うぅ……まあ、いいですけど」
 白花那姫神は渋い顔を浮かべた。神としての自尊心が痛く傷つけられた気がする。しかし、抗弁して阿佐美を説得出来る自信も無かったので、渋々だが認めることにした。
「一言で言えば、陽呂之様のロリコンを治しに来ました」
「……え?」
 高美蔓姫神の言葉に、陽華が思わず呆けたような声を上げた。
「神様って……本当にいたのね」
「あの? 陽華さん?」
 白花那姫神が陽華に視線を向けると、彼女は両手を胸の前で組み、目を輝かせてほろほろと涙を流していた。
「長かった……本当に長かった。あのゴミクズがいつ犯罪者になるか……、いつこの町の愛くるしい、幼い子供達があの変態の餌食になるか……不安でしょうがない人生だったけど……。これで、ようやく私も普通の女の子になれるのね」
「どの口が女の子とか言うのだね? このBBA……げぷぅっ!?」
 喜びの表情そのままに、陽華が陽呂之の脇腹に蹴りを叩き込まれた。
「あの〜? 一つよろしいでしょうか?」
「はい、何でしょうか?」
 高美蔓姫神に向かって小さく手を挙げる阿佐美に、彼女が頷く。
「うちの陽呂之がその……幼い女の子に性的嗜好を持たなくなるのは、私達としても結構なことだと思うのですが、どうしてこのようなことを?」
「それは、そうですね……簡単に説明するのは難しいですが……。信じられないかも知れませんが、陽呂之様のロリコンを放置しておけば、やがてこの日本が滅びることにもなりかねないからです」
「日本が滅びる?」
「はい」
 重々しく頷く高美蔓姫神に、阿佐美は小首を傾げた。
「どこから話せば一番いいのかは私にも分かりません。ですので、ちょっと長い話になってしまいますが、ご容赦を」
 そう言って、高美蔓姫神は自分の胸に手の平を当てた。
「まず、私達のことですが……神々とはこの国の人々が森羅万象に対して抱く概念や意識そのものであり、そういった意識の集合が個別に人格を持った存在なのです。そして、私達は森羅万象を人の意識に合わせた形へと導き、人間の世界や人々の心に影響を与えています。つまり、人の心や人の世が乱れれば、神の心や神の世もまた乱れる。そう……人と神は相互関係にあるのです。また、それ故に……互いの世界のバランスを大きく崩しかねないという理由から、神と人とが直接関わることは今ではあまり行われなくなりました。神話の時代や、昔話の時代ではまだそのようなこともあったのですが……」
「ひょっとして、あなた達がスーツ姿なのも、今の日本の……人の社会の影響なのかしら?」
「その通りです、私達のこの格好もまた、現代日本に合わせてこのような姿になっております。あくまでも、仕事着ですが」
「へぇ〜、神様って言うと教科書とかで見た、日本武尊とかの様な格好なのかと思っていたのだけど。神様の世界も時代によって変わるのねえ」
 質問に答える高美蔓姫神に、陽華は興味深げに頷いた。
「そして今、神々の世界でも大きな事件が起きようとしています」
「事件? どんな?」
 高美蔓姫神は、硬い表情を浮かべた。白花那姫神も同様の表情を浮かべる。
「政権交代です」
「政権交代って……神様のところでも、ひょっとして選挙で政治家選んでいたりするの?」
「その通りです。明治の開国の時代と共に、我々の世界でも議会制民主主義が取り入れられることとなりました」
「なるほど、タカちゃんもシロちゃんも、政治家の秘書さんだったのねえ」
 タカちゃんと呼ぶ阿佐美に、高美蔓姫神は苦笑を浮かべた。その大人で余裕たっぷりの態度に、白花那姫神は己の小ささを恥じた。
「でも、政権交代して何か変わるわけ? どうせ、政治なんて誰がやっても同じじゃない?」
 陽華の軽い口調に、高美蔓姫神は首を大きく横に振り、顔をしかめた。いや、それだけではない。その前に、睨む……というほどではないにしても、少し目を細めた。
 陽華が一瞬たじろぐ。高美蔓姫神の眼差しに気圧されたのだろう。流石は先輩だと、白花那姫神は思った。
「政治は、決して『誰がやっても同じ』ものなんかではありません。常に名君を望むのは難しいとしても、決して暗君だけは戴いてはならないのです。せめて、統治能力のある者を……統治するに足る見識、常識を持っていなければいけません。私が言っていることは、何か間違っていますか?」
「う……いや、間違っていないと思うけど……」
 ばつの悪い表情を浮かべながら、陽華は頬を掻いた。
「仮に、ロリコン推進政策を掲げる政党が政権を取ったとしても、それでも陽華様はよろしいのですか?」
「いや、それは流石に……。って、え? なにそれ?」
 陽華は硬直した。
「え〜と? それ、喩えよね?」
 恐る恐るといった口調で訊いてくる陽華に、高美蔓姫神と白花那姫神は首を振った。残念だが、現実なのだ。
「いいえ、仮定の話ではありません。今まさに、神々の世界ではロリコン推進政策を進める魔王とその手下達によって政権交代されようとしているのですっ!」
「ま……マジで!?」
 陽華の額からだらだらと汗が流れてくる。
「ねえタカちゃん? そのロリコン政党が政権を取ったら、実際はどんなことになるの?」
「そうですね。まずは人間界でロリコンが市民権を獲得します。書籍や映画、音楽その他諸々のエンターティメントでロリコンものが大ブームとなって、また同時に人々の間でロリコンに対する抵抗感が無くなり……やがては、幼い女子児童に対して今の人の世で禁止されている様々な事が合法化される可能性があります」

“やっふううぅぅっ! アチキの時代来たーっ! 魔王とはいい酒が飲めそうだ〜っ☆”

「やかましいっ! 目を輝かせて喜ぶなクズっ!」
 感激に身を震わせくる陽呂之に陽華が一喝し、大きく肩を落とした。
「なんでそんなことになるのよ? ってーか、そもそもどうしてそんなアホ政策を言っている政党が支持されているのよ? 何? 神様ってロリコンばかりなの? 魔王なら魔王らしく、世界征服だとか、混沌と暴力が支配するヒャッハーだらけの世界にしようだとか……そういうのにしておきなさいよ。……いや、本当にそんなんにされても困るけど」
 陽華はげんなりと溜息を吐いた。
 それと見て、高美蔓姫神も「心中お察しします」と小さく嘆息した。白花那姫神もそれに従う形で頷く。
「魔王の掲げるロリコン推進政策ですが、さすがにそれがダイレクトに有権者に分かるようにはなっていません。『児童友愛法案』という名の元に、子供の権利の強化をとなえています。『子供のため』『権利』『友愛』というフレーズだけを聞いて、多くの有権者が政策の中身も知らず、鵜呑みにしているという状態です。一応言っておきますが、ロリコンを推進したいから支持しているというわけじゃないですよ? ……希望的観測も混じっていますが」
「あ〜、なるほどねぇ。悪巧みほど、見かけはそれっぽい綺麗事で塗り固めるわよねえ。そりゃそうよねぇ。どこも一緒なのね。……有権者なら、ちょっとはチェックしなさいよ」
「『政治なんて誰がやっても同じ』なんて事を言った人が胸張っていう台詞じゃない気がしますけど」
 ぽつりと白花那姫神が呟くと、陽華は軽く呻いた。それに同調するかのように、うんうんと陽呂之も頷く。
「そうだぞ陽華? そもそも、お前には張るほどの胸も無……ごふぅっ!?」
「まだまだ可能性はあるわよっ! Eカップの母さんの子なんだからっ!」
 叫びながら陽華は陽呂之の脇腹に蹴りを叩き込んだ。悲鳴も上げることなく陽呂之が痙攣する。多分、悲鳴を上げる余裕も無いのだろう。
「それで、タカちゃん? 結局、どうして陽呂之のロリコンを治しに来たの? いまいち、話が見えないんだけど?」
「あ、はい。前置きが長くなってしまい。申し訳ありません。実はですね? 我々が調査したところ、魔王の政治理念、行動原理、そういったものに陽呂之様の書かれた書物が大きく影響しているようなのです。先日も魔王が陽呂之様の書かれた『ロリコンのすゝめ』『幼楽園』『幼女百景』『我が輩はロリコンである』等々を大量購入しているとの情報が入りました。おそらく、個人的使用以外に、布教活動にも使用しているものと思われます。実際……その日を境に、政財界の大物の中でも、魔王の支持者が増えたとの分析結果も出ています」
「なんで、そんなもんにホイホイ転ぶ奴が出るのよ。よりによって、こんな奴が書いたものに。あれなの? 神様って変態だらけなの? もうこの国はどこまで終わっているのよ?」
 陽華は額に手を当てて肩を落とした。
「つまり、陽呂之の書いた本によってロリコン推進政策を進める魔王とその一派が生まれ、力を伸ばしているから、その源である陽呂之の本を幼女嗜好ではないようにしてしまおう。そのためにも、陽呂之を幼女嗜好ではなくしてしまおう……と? こういうわけかしら?」
「はい、その通りです。陽呂之様の性癖をノーマルな物にしてしまえば、本を通じて陽呂之様の思想に感染してしまった神々もまた以前の通りに戻ります」
 阿佐美に対し、高美蔓姫神は頷いた。
「本来ならば、たった一人の想念がここまで……世界を動かすことは滅多にないのですが……どうやら、陽呂之様の幼女に対する想いは、並々ならぬものがあったようです。更に言えば、確かに私達神は概念そのものであり人の意識に染まりやすい性質を帯びてはいるのですが……だからといって、こうも易々と感染するなんて……いったいどれだけの意志を持って本を書いているのかと……」
「つくづくこいつは……どこまではた迷惑な……」
 陽華が溜息を漏らす。
「ふっ……ぐふっ……くっ……くっくっ……」
「ん?」
 床で痙攣しながら漏らす陽呂之の声が、苦悶のそれとは違ったものへと変わる。
「ぐっふっふっ。……つまり、何かね? あともう少し……あともう少しすれば、アチキが理想とする世界が実現するというわけかっ! よっしゃあああああぁぁぁぁっ! やる気出てきた〜っ! 書くぞ〜っ! 書いて書いて書きまくったるわ〜〜〜〜〜っ! ぐあ〜っはっはっはっはっはっ!」
 月見里邸に、汚らしい笑い声が響き渡った。
「……なんか、こいつ見ていると魔王が生まれるのも納得したわ」
「そうねえ、昔から意志の強い子だったものねえ」
「そ、そういう綺麗な話なんでしょうか?」
 どこか懐かしがるというか、自慢げに遠い目を浮かべる阿佐美に、白花那姫神は小首を傾げた。
「あのさ、シロちゃん?」
「…………何でしょうか?」
 阿佐美どころか、更に若輩である陽華にまでシロちゃんと呼ばれ、白花那姫神は微妙に頬を膨らませた。ここら辺はやっぱり、自分でも高美蔓姫神のように大人じゃないと思う。その上、陽華は特に気にしていないようだし、むしろ微笑んできたが。怒った顔も可愛いぐらいにしか思われていないのだろうか?
「いっそのこと、これを処分しちゃうってわけにはいかなかったの?」
「処分ですか? ええと、それはどういう意味なのですか?」
「うん、殺処分」
「実の兄を指差して、さらりと恐ろしいことを言うんじゃない妹よっ!?」
 陽呂之が喚くが、陽華に特に気にした様子は無かった。
「そうねえ……陽呂之が死ぬんだったら、あらかじめ生命保険を多めに掛けておかないとねえ」
「母上っ!? 母上? やっぱりアチキに対して冷たくないですかっ?」
 阿佐美は阿佐美で、頬に手を当ててのほほんとそんなことを言ってきたりする。
「いや、流石にそういうわけにも……」
 どう答えたものか分からず、白花那姫神は顔をしかめた。
「そう? 政治家って、自分に都合の悪い相手は闇に葬る生き物だって思っていたけど」
「そんなことしませんっ! どれだけ、政治家に悪い印象しか無いんですか……」
 思わず声を荒げて白花那姫神は陽華に叫ぶ。ほんの片隅にいるとはいえ、政治に関わる仕事をしている身としては、自尊心が傷つけられる。少なくとも、自分達はそんな汚い真似をするつもりは無いのだ。
 その一方で、高美蔓姫神はくすりと苦笑を浮かべた。
「そうですね。確かに、それが出来るのであれば手っ取り早いと言えば手っ取り早いですね」
「せ、先輩?」
 平然とした口調で、そう言ってくる高美蔓姫神に、白花那姫神はぎょっとする。彼女の目の前で、くいっ、と高美蔓姫神が持ち上げた眼鏡のレンズが、悪者っぽく光った気がした。
「しかし、人道的な話はともかくとしても、そういうわけにもいかないのですよ」
「どうして?」
「第一に、そういう行為は重大な選挙法違反に当たります。万一、見つかった場合にはそのリスクが大きすぎます。ましてや、世論の逆風の中……ただでさえマスコミがあることないこと書こうと我々のあら探しをしている中では、とてもではないですが出来ません。いっそのこと、魔王がロリコン推進政策を進めていることを大々的に世間に訴えれば、世論も変わるのかも知れませんが……それも今の状況では、我々が根も葉もないネガティブキャンペーンをしているとしか見られず、逆効果になる可能性が大です」
 なるほど、と陽華と阿佐美は頷いた。
 白花那姫神もそこまでは考えていなかった……というか、聞かされていなかった。なので、目を丸くしながら聞き入る。
「二つ目の理由として……これは、選挙法違反にあたる理由にも関係するのですが、我々がそういう真似をすると、先も言ったように人と神の世界に相互関係がある以上、人の世界でも暗殺が日常的に行われる可能性が出てきます。そうすると、当然人の世界でも世が荒れ、その影響で神々の世も荒れます。下手をすれば大昔の戦乱の時代へと逆戻りになる……。そういう展開は、我々としても望ましくありません。白状すれば、今ここにこうして私達が姿を見せているのも、選挙法ぎりぎりのことだったりします。陽呂之様の殺害以外にも色々と方法は考えましたが、それでもあまりこちらで目立つ動きはしたくありません」
 それを聞いて、陽呂之が小さく安堵の息を吐くのが白花那姫神から見えた。命の心配が無いことを理解したのだろう。逆に、陽華から舌打ちが聞こえてきた。
 と、ここで高美蔓姫神は軽く表情を曇らせた。
「あの……それで、少し言いにくいのですが……、そろそろ私も別の仕事に移らなくてはいけなくて……、そろそろお暇させて頂きたいと思います。まだ何かご質問がありましたら、勿論ご説明させて頂きますが」
「質問……ねえ。母さん? 何かある?」
「ん〜? これといって無いわねえ。もっと時間があれば、あるのかも知れないけれど……」
 阿佐美は頬に手を当てて虚空を見上げた。
「え〜と、では、先輩が帰った後に何かありましたら私に聞いてください。分かる限りは答えます。分からなかったら……」
 自分の出来る限り事はやろうと、白花那姫神は自己主張して見せた。助けを呼んでしまったけれど、そもそもこれは自分に任された仕事なのだ。
 しかし、若干の不安は……残る。
「ええと……そのときはすみません、先輩に聞きに行きます。いいですか?」
 白花那姫神は高美蔓姫神に向いて頭を下げた。
 そんな白花那姫神を見て、高美蔓姫神はよしよしと微笑みを浮かべて頷いた。常日頃から、この先輩は「自分の手に余る問題で悩まれるよりは、素直に聞きに来てくれた方がいい」と言ってくれている。とはいっても、すべてを丸投げする気は白花那姫神にも無いのだが。それだと、いつまで経っても成長しないし、訊く側の態度としても失礼だと思っている。
「……何か、アチキには質問の有無を聞かないあたり……こう、長兄として納得のいかないものを感じるのですが?」
「あん? 何かあるの? どうせ何も無いんでしょ? ゴミクズ」
 にべもない陽華の言葉に、陽呂之は憮然とした表情を浮かべた。
「失敬な。重大なことをまだ聞いてないぞ?」
「シロちゃんのスリーサイズとか、シロちゃんの下着の色とか、シロちゃんの一番感じるところとか?」
 とことん、抑揚のない陽華の口調。その一方で陽呂之はふんすと鼻息を粗くした。
 本当にさっきから、この男は何を考えているのかと、白花那姫神もまた疲労を覚えた。
「ふっ、ちょっとは分かっているではないか妹よ。だが、まだまだ甘い。質問は更に――ぶみぃっ?」
「ちょっと黙ってろ」
 陽華は陽呂之の顔面を踏みつけ、黙らせた。よくやってくれたと、白花那姫神は陽華に心の中で拍手を送った。
「では、すみませんが私はこれで失礼させて頂きます。白花那姫神、後はよろしくね?」
「はいっ! 頑張ります」
 白花那姫神は大きく高美蔓姫神に頷いて見せた。緊張はある。しかし気合いも入っているつもりだ。そんな白花那姫神に、高美蔓姫神は頷き返した。
 そして次の瞬間、高美蔓姫神はその場から姿を消した。
 彼女が消えた空間をしばし眺めた後、白花那姫神は軽く拳を握って気合いを入れ直した。
「ええと、それで……早速ですが、陽呂之さんのロリコンを治すためにも、まずは検査をしてみたいと思います」
 白花那姫神のその言葉に、陽華は小首を傾げた。
「あれ? 検査?」
 その一方で、陽華の反応に白花那姫神もまた疑問符を浮かべた。何も変なことを言ったつもりは無いのだが。
「あの? 何か?」
「うん。……いや……その、神様なんだから、てっきり神通力というかそういうのでちゃちゃっとこのゴミクズを真人間に矯正するのかなって思ったんだけど? 違うの?」
「え? 違いますよ?」
 白花那姫神は目をぱちくりと見開く。そう言われる可能性は全く考慮していなかった。
「う〜んと……人の心を直接書き換えるような……そういう真似って、やっぱり神々の世界に影響が大きくなるというか、急激な変化をもたらす可能性があるので、法律で禁止されていたはずです。確かに、そういう力を持つ神もいる……とは思いますけど、そういう真似が出来る神って、大昔からいるような偉い方ばかりじゃないかなあと思います。色々と、難しい資格とか事前申請とか承認とか……とにかく、そうそう使えるようなものではないです」
「あ、そうなんだ? じゃあ、検査ってどんなことするの?」
「はい、それはですね」
 白花那姫神は虚空に手をかざした。
 と、その手に音も無く、大きめのオペラグラスの様な物が現れた。ただし、よく見るオペラグラスとは異なり、持ち手が伸びているものとは反対側のレンズに、大きなボタンが取り付けられている。
「これを使います。これはですね? 大雑把にですけれど、見た相手の性格とか性質とか、そういうのが分かるんです。魂とかそういうものの構成レベルで」
 そう言って、白花那姫神は手にした道具を目の前に持ち、陽呂之に視線を向けた。そして、空いた手でボタンを押す。
 レンズに表示された様々な数値が上昇していく。
 そして、数秒が経過する。
「……あ、…………あれ?」
 白花那姫神のこめかみに、汗が浮かんだ。
「どうしたの? シロちゃん?」
 阿佐美が訊くが、白花那姫神は答えない。それだけの心の余裕が無い。
「え? えええ? 嘘? 計測域を振り切った!? こんなの、人間が出す数値じゃ……うぇっ!? が、画面が突然真っ暗に!? どうして?」
「ちょっと? 何か焦げ臭くない?」
「そう言われてみれば……」
 持っている器具から、黒煙が立ち上り始める。嫌な予感がして、白花那姫神は慌てて目の前の器具を外した。
「う〜ん、ダメですね。壊れちゃったみたいです。ボタンを押してもうんともすんとも言わなくなっちゃいました。操作間違えちゃいましたかねえ? ……私、機械って苦手なんですけど」
「流石にそれは無いんじゃない? ボタンを押すだけなんでしょ? だったら、もともと壊れていたとか」
「そ、そうですよね? でなければ、こんなの絶対有り得ないですし」
 白花那姫神は乾いた笑みを浮かべた。きっと最初から壊れていたのだろう。壊した責任は自分には無いし、ましてや給料から天引きされるとか思いたくない。
「でも、どうするのシロちゃん? それ、壊れちゃったんでしょ?」
 器具を指差す阿佐美に、白花那姫神は頷いた。
「大丈夫です。政治に関わる者として、常に第二、第三の策は考えてあります。そう、こんなこともあろうかと――」
 今度は十数枚の紙と、それを挟んだクリップボードを虚空から取り出す。
「――ロリコンチェック用の問診票です。これで陽呂之さんを検査してみようと思います」
 流石にこれなら、壊れることは有り得ない。念のため用意しておいてよかったと、白花那姫神は自分の判断を自画自賛する。
「それでは、第一問です。次のシルエットの中から、陽呂之さんが理想的と思える女性のものを選んでください。いくつでも構いません」
 白花那姫神が陽呂之に見せた紙には、様々な体型の女性のシルエットが順不同で並べられていた。
「その前に、アチキから真面目にお願いなのですが?」
「はい、何でしょう?」
「遠いのでよく見えないので、もうちょっと近付いてくれぬでせうか?」
「あ、そうですね。すみません」
 とてとてと白花那姫神は陽呂之に近付いていった。
 と、そこで陽呂之は目を鋭く細め、唸る。
「どうかしましたか?」
 数歩前に立って疑問符を浮かべる白花那姫神を見上げながら、陽呂之が重々しく頷いた。
「ふむ……純白とな?」
 それを聞いた瞬間、白花那姫神の体が硬直する。陽呂之の視線の先は、自分の太股へと向いていて……。
「…………え? それって……まさか?」
 陽呂之の言葉の意味に、白花那姫神は顔を真っ赤に紅潮させた。ひょっとして、さっきから床の上でのたくっていた目的とは……つまり、そういうことだったのか?
「ひ……陽呂之さんのえっち〜〜〜〜っ!」
 白花那姫神は叫び声と共に、虚空から巨大な木槌を取り出した。
「ぴぎゃあああああああああああああああああぁぁぁぁぁ〜っ!?」
 その次の瞬間、白花那姫神は木槌を陽呂之に叩き込む。轟音と共に、彼女は陽呂之を床に埋め込んだ。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 月見里陽呂之は、ナイロン紐で後ろ手に拘束された形で、自室のベッドの上で寝そべっていた。その姿は、二時間ほど前に床に埋め込んだダメージによって、ボロボロの上にズタズタだった。
「き……君達は鬼だ」
「神様ですよ?」
 陽呂之にはそれなりにダメージを与えたつもりだが、口がきけるなら大丈夫だろうと白花那姫神は判断し、問診を強行したのであった。
「……それにしても、つくづく……あなたという人は」
 白花那姫神は問診結果を見て嘆息した。結果は問診票を機械に通して採点して得られたものである。
「本当に、成人女性に全然、まったく、これっぽっちも興味が無いとか、それどころか……何かよく内容は分からないですけど、ロリコンを筆頭にそれ以外の変態性癖の欄に書かれている数値までことごとく高いって……どういうことなのかと。正直言って、ここまでひどいとは予想していませんでした」
「失礼な、まるでアチキが異常者みたいじゃないか?」
「きっぱりとっ! はっきりとっ! 陽呂之さんは変態で異常で社会不適合者ですっ! どういう因果であなたみたいな存在が生まれたのか、というか存在し続けていられるのか、因果律の解析を要求したいくらいですっ!」
 白花那姫神はひとしきり叫んで、大きく溜息を吐いた。こんなのが兄だったとは、陽華のこれまでの人生を思うと不憫でならなかった。与えられた仕事だという話を抜きにしても、神として陽華を救うことは義務のようにすら思えてきた。
 いや、そもそもを考えれば彼だって可哀想な人間なのだ。ロリコンなどという病を持って生まれてしまったために、真っ当な人生を歩めなくなってしまっているだけなのだ。そんな彼を救うこともまた、神の役割だろう。
「それで? アチキをどうするつもりなのかね?」
 今この部屋に陽呂之と白花那姫神以外はいない。阿佐美と陽華には居間で待機して貰っている。“仕事”が終わったら、彼女らにそのことを伝える手はずとなっている。
 それと、これからの作業のため、阿佐美と陽華に部屋から出て行って貰った……のではあるが。
 白花那姫神は俯いて、頬を染めた。
「ま……まさか、仕事とはいえ……最終手段とはいえ……本当にこんな事をすることになるなんて……」
 白花那姫神は我が身を抱いて震えた。これからやることに、おぞましさを感じないと言えば嘘になる。
「陽呂之さん?」
「うみ?」
「あのですね? 陽呂之さんはその……検査結果から判断しても、性的欲求値がもの凄く高いんです。検査結果から判断する以上、一足飛びでロリコンを治すのは難しいと判断せざるを得ません。けれど……その……せめて、まずは治せそうなところから治すしかないと思います」
 白花那姫神の説明に、陽呂之は小首を傾げた。
「どゆこと?」
「えっと……分かりやすく言うと、陽呂之さんはもの凄くえっちなんです。だから、私が何とかして陽呂之さんがえっちなのを……鎮めようと……思います」
 その説明に、陽呂之の瞳は光を取り戻した。取り戻したどころか、ビカビカと光り輝いてきた。
 そして、きりりと引き締まった表情を浮かべてきた。その瞳はどこか遠く、まるでこれからどこかの戦場に旅立つような……そんな、漢の顔であった。
「ふっ、なるほど。つまりはそういうことか」
「は、はい。あの……私なんかにその……されるのは嫌かも知れませんが」
「構わない。むしろ、愛した女と出来るのであれば是非も無しさ」
 爽やかに陽呂之が微笑みを浮かべてくる。きらりと、彼の前歯が光った。
「……それと、その……実は私、こういうのは初めてで……痛くしてしまうかも知れません。ですからその……そのときは……」
 白花那姫神は右手の拳を口元に当て、上目遣いで陽呂之を見詰めた。
「気にしなくていい。誰だって、初めてのときはそういうものだよ。というか、アチキも……ふふ、恥ずかしい話、この歳にもなって初めての体験だし」
「そ、そうですか。もっとも、体験していたらそれはそれで問題だと思うんですけど……」
 どう答えていいものか分からず、白花那姫神は曖昧に苦笑を浮かべるしかなかった。
 ゆっくりと、躊躇いがちに白花那姫神はベッドの上へ乗り、陽呂之の傍らに座った。
 ベッドの柔らかなスプリングが揺れる。
 白花那姫神は陽呂之の視線が、痛いほどに自分の体を貫くのを感じた。
「ところで、アチキのこの拘束はいつになったら解いて貰えるのでしょうか? アチキはあまりこういうのは……むしろ逆の方が好みなんですがね?」
「はあ? でも、それは……流石に危険だと思いますし」
 おずおずと、白花那姫神は陽呂之の穿くスラックスに手を伸ばした。
「それじゃあ……脱がしますね?」
「う……うむ」
 ジ……ジ……と、ジッパーが下ろされる音が、静かな部屋の中で妙に響く気がした。その音と共に、陽呂之の吐息が荒いものへと変わり、頬が赤くなっていく。
「うっ!?」
 白花那姫神は目の前の光景に、思わず呻いた。
 陽呂之の穿いているトランクスが露わになる。どこでどうやって購入したのかは知らないが、トランクスには美少女もののアニメの主人公がプリントされていた。それが、薄布一枚を隔てて、こんもりと盛り上がっていた。噂に聞く、フルテンションモードではないようだけれど。
 ともあれ、あまりにもえぐい光景に、白花那姫神は吐き気を覚える。あらかじめこの周辺にはモザイクを掛けておくべきだったと激しく後悔した。
「じゃあ……いきますね?」
「…………え?」
 その瞬間、陽呂之の体が硬直した。
 そんな彼の様子に、ぱちくりと白花那姫神は目を見開いた。
「どうかしましたか?」
「いやその……その手にあるのって何?」
 何か変だろうか? と白花那姫神は手に持つものへと視線を向ける。
「トンカチですよ? さっきも見たと思いますけど、まさか、ご存じないのですか?」
「知ってるよっ? 知っているからねっ!? そんな、残念な人を見るような目をしないでっ!? そうじゃなくて、それで何するの? 流石のアチキもトンカチプレイって聞いたこと無いんだけどっ!?」
「プレイ? 私も聞いたこと無いですよ?」
 聞いたことはないけれど、このロリコンが言うことなのできっとろくでもないことなのだろう。深く考える必要は無いと彼女は判断した。

“これはですね? これで、その……陽呂之さんのを叩き潰すんですよ?”

 そう説明してやると、陽呂之の目が大きく見開き……呻いてきた。
 だがそれは、あくまでも一瞬。じわじわと……その言葉の意味が浸透していっているかのように、彼の額から汗が噴き出してくる。
「ら、らめえええええええぇぇぇぇぇっ!? 死んじゃうっ! アチキ死んじゃううううううううぅぅぅっ!? お婿にいけない体にされちゃうううううううぅぅぅぅっ!」
 白花那姫神の体の下で、陽呂之が絶叫する。
「だ、大丈夫ですっ! 手元さえ狂わなければ、潰れるのは一個だけですからっ! 天井のシミを数えている間に終わらせますからっ! 痛いのは最初だけです……きっと」
「何の慰めにもならないいいいいいいいぃぃぃぃっ!? というか、痛くないわけない〜〜〜〜っ! 母上、母上〜っ! 陽華〜っ! 助けて〜っ!?」
「無駄ですよ。泣いても叫んでも……陽呂之さんのことを好きにしていいって言われていますから」
「びゃああああああああああぁぁぁぁっ? 待って、止めてええええええぇぇぇっ!?」
 だが、陽呂之の叫びを白花那姫神は無視する。彼女は目を瞑りながら、思いっきりトンカチを振り上げた。
 出来るだけ迅速に処置する心構え。親族の了承。何も問題は無い。後は決行のみ。

“そこまでよっ!”

 今まさにトンカチを振り下ろそうとするその寸前、その声は部屋の中に現れた。
「えっ? きゃああああああああああぁぁぁぁぁっ!?」
 声の主の姿を認める暇も無く、白花那姫神は四肢を拘束され、壁に背中から大の字に叩き付けられた。
「だ……誰?」
 衝撃に苦悶の表情を浮かべながら、白花那姫神は薄く目を開いた。
 その視線の先、部屋の真ん中に、一人の少女が立っていた。見た目の年の頃は、自分とそう大差はない。
 その姿に、白花那姫神は目を細めた。
「あなた……その角……鬼ですね?」
 突然現れた少女の額には、短い角が二本伸びていた。
 白花那姫神は自分を拘束しているものの正体に気付く。目の前の鬼の髪の毛が伸び、自分の体に巻き付いて束縛しているのだ。
「あなたがどこの誰か知らないけれど……どうせ、日本国神党の回し者よね?」
「そういうあなたこそ、友愛改革党の回し者……ですね?」
 相手も自分の出自に推測は付いているのだろうと思う。だが、白花那姫神はあくまでも正体は明かさない。
「ちょっとっ!? シロちゃんっ! 悲鳴が聞こえたけど大丈夫っ!?」
 そこに、阿佐美と陽華がドアを大きく開け、現れた。見慣れない姿の少女を認め、その場に驚きに立ちすくむ。
 白花那姫神は慌てて叫んだ。
「ダメですっ! 逃げてくださいっ!」
「させるかっ!」
『きゃあああああああああぁぁぁっ!?』
 その隙を見逃すことなく、鬼少女は阿佐美と陽華に髪を伸ばし、捕獲した。体を雁字搦めに拘束され、彼女らは身動き出来ない。
「アチキの悲鳴はガン無視なのに、シロちゃんの悲鳴には即座に駆けつけるとか……」
 そんな二人の態度に、陽呂之は涙していた。
 鬼の少女が陽呂之に振り向き、ゆっくりと近付いていく。
「可哀想な陽呂之さん。所詮は、俗人にはあなたの高尚な思想は理解出来ないみたいですね」
「何をする?」
 鬼は陽呂之の傍らに立ち、彼の頭に手を伸ばした。
「や、止めなさいっ! あっ、こらああああぁぁぁぁっ!」
 白花那姫神は叫んだ。しかしその制止を聞くことなく、鬼は陽呂之の腕から拘束を解いた。
「……陽呂之さん、今ここで詳しいことは説明出来ないけど、私はあなたの味方ですよ?」
 彼の手の拘束を解いたこと。それこそが何よりの証だと言わんばかりに、鬼は微笑んで見せた。
「ダメです。陽呂之さんっ! 鬼の言うことに耳を貸してはいけませんっ!」
「ふふふ……あんな俗物の戯言、聞かなくてもいいわよ?」
 ぎりぎりと歯がみする白花那姫神とは対照的に、目の前の鬼は余裕の笑みを浮かべ続ける。
 陽呂之が上半身をベッドから起こした。
「突然お邪魔してごめんね? だけど、私は陽呂之さんに大事なお願いが有って来たのよ。私達の理想とする世界のため、協力してくれない? 勿論、ちゃんと報酬は用意するわよ?」
「ダメダメダメダメっ! そんなの絶対にダメです〜〜〜〜っ!」
 陽呂之は自由になった手を顎の下に持ってきて、思案する。
 瞑目すること、数秒。そして、ちらりと白花那姫神に視線を向けた。
「あのさあ、シロちゃんや?」
「はい?」
「……仮にアチキがこの子の側に回ると、困る?」
「うぐっ」
 思わず白花那姫神は呻いた。我ながら分かりやすい反応というか、墓穴以外の何ものでもないと後悔するが、既に遅かった。
 その反応に、元々粘っこいものが混じっていた陽呂之の視線が、益々邪悪な感情を帯びたものへと変化する。
 にまぁ〜っ、と陽呂之は唇を歪めた。
 そんな陽呂之の態度に、白花那姫神の額からだらだらと冷や汗が流れた。
「アチキ、大変な目に遭ったんだけど?」
「う〜、そんなこと……言われても……」
 呻く白花那姫神に対し、陽呂之は嗜虐的な……悦に入った表情を浮かべてくる。
「あのさあ? 君? 仮にアチキが君達の側に回ったら、どんな報酬が貰えるわけなのかね?」
「んふふ、それはね。まずは――」
「あ〜もうっ! 分かりましたっ! さっきの事は謝りますっ! 陽呂之さんのを潰すのは無しにしますからっ! だから、それだけは絶対にダメです〜っ!」
 具体的な報酬まで提示され、しかもそれに乗られては堪らないと、慌てて白花那姫神は鬼の少女の言葉を遮り、叫んだ。
「ん〜? それだけ?」
 全然話にならないなあと言わんばかりに、陽呂之はそっぽを向いた。
 白花那姫神の頬が震える。しかし、躊躇はしていられないし、背に腹は代えられない。どんな手を尽くしても、この仕事は成功させなければならないのだ。
「わ……分かりました。……してあげます」
「ん〜? 聞こえんなあ?」
 どこかの小悪党そのままの表情で、陽呂之はふんぞり返って白花那姫神を嘲笑した。
 下半身は相変わらず魔法少女プリントのトランクス丸出しの、馬鹿馬鹿しい姿であったが。……それが返って神経を逆撫でる。
 白花那姫神は羞恥と怒りに、真っ赤に頬を染めた。

“チューしてあげますからっ! それだけは止めてくださいっ!”

「おっしゃっ!」
 陽呂之は拳を握った。
 だが、彼は即座に首を横に振ってくる。
「いや……待てよ? これはもしや、シロちゃんにとってはかなりのクリティカルヒット? そう、行けるところまで行ってしまうか? 要求と交渉次第によっては、チューどころかアチキのギガントトマホーク一号が初めて火を噴く事態にもっ!? ぐふ、ぐふふ。ぐふふふふふふふふ」
 陽呂之の邪悪な微笑み。欲望まみれの視線。白花那姫神は総毛立つのを感じた。足るを知るということを知らないのかこの男は?
「ふっふっふっ。……いやいや、今のやっぱり無し。もう一声をお願いしたいっ! でないと――」
 だが、彼の声は突然に遮られた。
「――むっ? うぅっ?」
 陽呂之の肩から背中へと、絡み付くように細い腕が回されていた。
 驚きに陽呂之の目が大きく見開かれる。
 驚いているのは陽呂之だけではない。白花那姫神も、阿佐美も、陽華も、その部屋にいる誰もが声を上げるのを忘れた。
 きっかり三十秒後、最後にもう一度、自分のことを刻みつけているかのように……唇を押し付けて、鬼は陽呂之から唇を離した。
「んふ? チューがしたいのでしたら、いくらでも私が相手するわよ?」
 そう言って、鬼は自分の口の前に手の平を当てる。流し目の奥にあるその瞳は、淫らな光を湛えていた。
 先ほどの出来事が現実か……信じられないといった表情で、陽呂之もまた自分の唇に手を当てた。
 そんな光景を見ながら、白花那姫神は絶望にくれた。やられたと思った。有無を言わさず……これ以上ないタイミングで、陽呂之を堕としたと。自分が必死の思いで出した条件が、彼女にとっては序の口だと……それどころか、これから更に……と。
 だが、白花那姫神は違和感を覚えた。陽呂之の表情が、それほど嬉しそうでは……ない? 彼の今までの行動から推測するに、これからお子様である自分にとって有害な光景が繰り広げられるものだと、覚悟していたのだが。
「アチキ……さ」
「はい、何でしょうか?」
「アチキ……生まれて初めて……だったんだよ?」
 ぽつりと、呟くように陽呂之は告白した。そんな彼の瞳から、ぽろぽろと涙が零れた。
「こんなアチキにも、夢が……あったんだ」
「はあ」
 当惑しながら、鬼が生返事を返す。
「ファーストキスは……アチキが心から好きになった女の子とってさ……」
 涙ぐみながら肩を落として俯く陽呂之の表情は、白花那姫神には見えない。すぐ傍にいる鬼にも見えないようだった。
「……意外と、陽呂之さんにも純情なところもあったんですね?」
 誰とも無しに、白花那姫神は呟く。
「そんなわけないでしょ? このゴミクズが好きになる『女の子』ってのが、どういうことなのか想像してみなさい?」
「あ……それもそうですね」
 陽華の言葉に、彼女は乾いた笑みを浮かべた。
「というか、陽呂之のファーストキスもセカンドキスも、陽呂之が三歳くらいの時に私が奪ったんだけどねえ?」
 阿佐美の言葉に、陽呂之の体がびくりと大きく震えた。何かのトラウマを呼び起こしたかのような反応だった。
「は、母上はノーカンとして……とにかく、それなのに……それなのに……」
「えっ? あ、あの? ひょっとして私じゃ何か……その、ダメだったり?」
 鬼の少女は狼狽した声を上げる。
「……でかいの」
「え?」
 疑問符を浮かべる鬼に、陽呂之は顔を上げて睨んだ。
「畜生っ! 何なんだよっ! そのでっかいおっぱいはっ! 自然の摂理をっ! 宇宙の理を大きくねじ曲げる忌むべき物体めっ! ロリ巨乳なんて、アチキ断じて許しませんっ! そんなものは、超高級松坂牛をゴキブリの餌に貶めるが如き冒涜っ! 畜生、アチキの……アチキのファーストキスが、こんなロリ巨乳に奪われるなんてえええええぇぇぇぇ〜〜〜〜っ!」
「えっ? ええええええええええええぇぇぇぇぇ〜〜〜〜〜っ?」
 まさか、こんな風に言われるとは思っていなかったのか、鬼はあんぐりと大きく口を開けた。
「ま、待って下さいっ! 大きい胸は決してそんなものではないですっ! 大は小を兼ねますっ! 大きいって素晴らしいことです。巨乳でも、ハリと艶は保つことが出来るんです。そ、それに……それに、ちっちゃい胸じゃ出来ないあ〜んなことやこ〜んなことのバリエーションだってっ!」
 どうやら胸が大きいことは、この鬼にとっては自慢の一つだったらしい。その誇りを傷つけられたことがよほどショックだったのか、彼女の瞳にはうっすら涙すら浮かんでいた。
「ううう……おっぱいお化けじゃ……おっぱいお化けなんかじゃないもんっ! 胸が小さいことなんて、全然偉く何て無いんだからっ! 貧乳なんて、ステータスでも、希少価値でもないし、胸が小さい人なんてみんな心も狭くて女らしさなんて欠片もなくて嫉妬深くて年中ヒス起こしてばっかりで――痛っ?」
 涙ぐむ鬼の顔が不意に歪む。彼女は痛みの方向に視線を向けた。正確には、痛みの場所は髪の付け根で、その先にある場所へと。
「な? なな? ……な?」
 鬼の視線の先を追うと、そこには怒りのオーラを激しく放出させている陽華の姿があった。
 ぎり……ぎり……と、彼女を拘束している髪の毛が細かく振動する。
「う……嘘……そんなっ?」
 驚きの表情を浮かべる鬼の目の前で、陽華が足を踏み出した。鬼だけじゃない、白花那姫神も驚きを隠せない。
「そんな……馬鹿な。人間が私の髪に捉えられた状態で……しかも女の人が……動けるなんて……」
 しかし、ゆっくりと……だが確かに、陽華は一歩……また一歩と足を踏み出し、鬼へと近付く。狭い部屋の中。残った間合いはせいぜい、二〜三歩程度しかない。
「そこのあんた」
「……な、何よ?」
 陽華の上げる地獄の底からのような唸り声に、鬼はごくりと喉を鳴らした。しかし、恐怖を覚えながらも鬼としての矜持なのか、陽華から視線は反らさない。
「一つ教えてあげるわ。胸の大きさは母性とも女らしさとも比例しないし、ましてや女の価値と比例するものではないわ。ええそうよ? 胸の小さい女が誰も大きい女のことを妬んでいるだとか羨ましいとか思うわけ無いし、それこそ胸の大きな人の幻想……いいえ、妄想に過ぎないの。分かる? それと、ついでに言っておくわ。私は別に自分の胸を恥ずかしいとは思っていないわ。だから変な勘違いはしないようにね?」
「くっ……うっ……びくとも……しない?」
 鬼の額から脂汗が流れ落ちる。全力を以て髪を動かそうとしているようだが、まるで動かなかった。
「そう……これは『胸が大きい=偉い』とか勘違いした女の子が、そんな間違った思想を抱いたまま成長するのを矯正するための教育……教育よ? ふふ……うふふふふふふふふふ……」
「よ、陽華さん? 何だか恐いです」
 豹変した陽華の姿に、白花那姫神は戦く。
「無駄だよシロちゃん。瞳が深紅の攻撃色に染まっている。陽華は怒りに我を忘れているんだ。……こうなってはもう、誰にも止められない」
 陽呂之が重々しく頭を振った。まだ、魔法少女プリントのトランクスを隠していないが。いい加減、手が自由になったのならちゃんとズボンを穿けと白花那姫神は思ったが。
「あああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!」
 陽華が咆吼を上げた。
 反射的に、少女はまだ残されている髪すべてを陽華へと伸ばす。
「そんなっ?」
 鬼が悲鳴を上げた。
 全力を以て繰り出したはずの一撃が、拘束しているはずの陽華の右腕によって一薙ぎされるだけで弾かれる。一瞬のその光景が、白花那姫神にはにわかには信じ難いものだった。ましてや、鬼の少女にとっては、悪夢のように思えたに違いない。
 だが鬼にとっての悪夢は終わらない。その直後、陽華が上半身を下ろし、一直線に少女へと襲いかかった。
 陽華のタックルをもろに受けた形で、鬼は陽呂之の上に倒された。
「は……は……ああああああああぁぁぁぁ〜〜っ!」
 陽華が再び咆吼を上げる。
 陽呂之の上に乗った形で、鬼はガチガチと歯を鳴らした。
 陽華が躊躇無く、容赦無く、大きく拳を振り上げる。
「い、嫌あああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ〜〜〜〜っ!」
 鬼の悲鳴。
 そして、月見里邸は本日何度目か……とにかく、大きく揺れた。
 取り敢えず……すべてが終わった光景を見て、白花那姫神は、今日はもう帰るしかないなと思った。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 陽呂之はベッドの上で唸っていた。
「お……おのれ……やはり、ロリ巨乳は忌むべき存在っ!」
 歯を食いしばりながら、彼は天井を睨み付けている。
 今から数時間前。陽華の拳が振り下ろされる直前、ロリ巨乳鬼は姿を消した。どうやら逃げたらしい。その結果、陽華の攻撃はそのまま陽呂之に叩き込まれることとなった。
 外は既に暗い。二徹したせいで、本当なら眠ってしまいたいのだが、陽呂之は痛みのせいで眠ることもままならなかった。
「はは……災難だったね。兄ちゃん」
 学校から帰ってきた陽嘉琉が、陽呂之の部屋の壁を修理している。中肉中背で、髪は短く刈っている。
 爽やかな笑みを浮かべる陽嘉琉。それは一見すると兄を慰めているようだが、騒動を聞いて楽しく思ったのか、修理の作業が楽しいのか……陽呂之はちょっとそんな気がしてならない。
 裏表の無い、素直な性格をしているとは兄としても認めているのだが。
「まあ、でもよかったんじゃない? その……潰されなくてさ」
「よくないっ! アチキ、まだ約束のチューもしてもらってないっ!」
 常人なら痛みで死んだ方がマシだと思えるような怪我だが、陽呂之は白花那姫神の唇を頂くまではくたばるものかと、固く誓っていた。
 その前に、こんな大怪我なんだから病院に連れて行って欲しいとも思ったが。
「まあでも、兄ちゃんの性癖も治ったわけじゃないし、そのうちまた来るんじゃない?」
「おうともよっ! そのときこそ、アチキはシロちゃんと……ぐふ、ぐふふふ。ぐふふふふふふふ、あ〜っはっはっはっはっはっ!」
「ああうん、頑張ってねー。俺も無駄だと思うけどー」
 苦笑する陽嘉琉の声は聞こえないふりをして、陽呂之は哄笑を上げ続けた。


 ―To Be Continued―


2012年07月21日 (土) 23時18分




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