【第三章・俺もうロリコンでもいいや】
月見里陽呂之の笑い声が居間に響いていた。
「ぐふっ。くふっ……くふふふふっ」
彼の口から漏れ出てくる声は実に禍々しい。居間でくつろぐ二十代の若者というより、地下秘密基地で悪事を企む犯罪者といった方がしっくり来る。
そして、そんな笑い声が陽華にとって凄く耳障りだった。テレビの中の、愛くるしい少年少女の声が汚されるではないか。
「あ〜もうっ! 兄さん。さっきから五月蠅いから、その風邪引いた豚のような笑い方しているんだったら、部屋でやんなさいよ」
「だって……陽華 ぐふっ。こんな……の、堪えられるわけないだろう? シロちゃんが
……シロちゃんと明後日……くふふふ……」
まるで心ここにあらずといった反応の陽呂之に、陽華は深く溜息を吐いた。この兄が一体何を考えているのか? 何となく分かるが、分かりたくはない。
白花那姫神の話を思い出しながら、陽華はばりばりと頭を掻いた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
その日の夕方。
月見里家の隣町にある児童公園で、白花那姫神は陽華と共にベンチに座っていた。
陽華は食い入るように児童公園で遊ぶ子供達を見詰めている。
「兄さんとデート?」
白花那姫神は頷いた。
「そうです。先日に約束したチューを勘弁して貰う代わりに、陽呂之さんにデートを申し入れます」
「まあ、確かに兄さんとしてもその提案はホイホイ乗ってくると思うけど……それで、私に頼みってどういうこと?」
「はい、陽華さんにはこっそり私達の後について、私の護衛を頼みたいんです。もしものことがあったら……と」
「なるほどね。……まあ、それくらいなら頼まれなくてもやるつもりだったから、別にいいけど」
しかし、腑に落ちないものがあるのか、陽華は顎に手を当ててしばし黙した。
「でも、それはいいとして、どうしてデートなの? そりゃあ、あんなゴミクズにキスなんてのが嫌だっていうのは私も分かるけど」
陽華の質問に対し。白花那姫神は薄く笑みを浮かべた。
「そうですね。確かに、キスを回避したかったという狙いもあります。しかし、本当の狙いはそこではありません」
「どういうこと?」
子供達から目を放して振り向いてくる陽華に、白花那姫神は頷いた。
「これは、罠なんです。言うなれば、陽呂之さんをまっとうな性癖へと矯正するための罠」
「罠?」
自分の考えた作戦がどういうものなのか、さっぱり想像つかないといった表情を浮かべる陽華を見て、白花那姫神はささやかな優越感を覚えた。
「一つ、陽華さんに質問なんですけど。陽呂之さんはこれまでどなたか女性とデートされたことはありませんよね?」
「私の知る限り無いわね。というか、アレが相手するような女というか女の子って……それも有り得ないんだけど。そもそも誰かと付き合ったこともないはずだし」
うんうんと白花那姫神は頷く。
「つまりですね。陽呂之さんは実際に女性と付き合ったことがない……ということは、陽呂之さんが少女に対して抱いているイメージもほとんどが想像や幻想に過ぎないわけです」
「まあ……そうよね」
「私は思うんです。成人女性に対して悪いイメージばかりを抱き、そして少女に対して盲目的に美しいイメージを抱いているからこそ、陽呂之さんはロリコンとなっているのではないかと」
「まあ、ひょっとしたらその可能性もあるかも知れないけど。それで、どうするつもりなの?」
白花那姫神はにやりと唇を歪めた。
“陽呂之さんの幻想を木っ端みじんに打ち砕きます”
「打ち砕くって……どうやって?」
ふっふ〜んと胸を反らし、白花那姫神は人差し指を立てた。
「簡単な話です。私は陽呂之さんとのデートで精一杯嫌な女の子を演じます。陽呂之さんはそんな私の姿を見て、少女に対して抱いていた綺麗な幻想を無くす……幻滅するわけです」
「なるほど」
「そして、失意にくれる陽呂之さんの元に、変装した高美蔓姫神先輩が現れて、優しく慰めるわけです。傷心の陽呂之さんは、先輩に優しくされることでちょっとはときめくものがあるでしょう。傷ついたときに優しくされて、落ちない男はいないって週刊誌にも書いてありました」
「週刊誌……ねえ? まあ、いいけど。私の友達もそんな手で男捕まえたとか言うのいるし」
微妙な表情を浮かべてくる陽華。それを見て、白花那姫神は今後は週刊誌をソース元として言ってしまったのは失敗だったと反省した。
「こうして、陽呂之さんは少女への幻想を捨てて、大人の女性へのときめきを手に入れ、ロリコンからは卒業するという作戦なのです」
パーフェクトだ。これ以上ない作戦。どんなもんだと、白花那姫神は満面の笑顔を浮かべた。
しかし、陽華はぽりぽりと頬を掻く。何か引っかかるものでもあるのだろうか?
「いや、いいんだけど。それ、本気で兄さんがタカさんに惚れたらどうするの?」
「え? 別に? ポイしちゃえばいいじゃないですか?」
即答する。あの変態ロリコンに、そんな情けは無用。自分と一緒に遊園地に行ったり、高美蔓姫神に慰めて貰えるなど、それだけで変態ロリコン風情には過ぎた待遇ではないだろうか?
陽華もまたしばし、虚空を見上げる。
「……それもそうね」
どうやら、彼女も納得してくれたらしい。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
その一方で、白花那姫神と陽華の打ち合わせが終わった頃。
桜蛇鬼は事務所の片隅で、握り拳を作っていた。遠見の術を使って白花那姫神達の動きを偵察してみたのだが……。やはり、あのまま黙っている連中ではなかったようだ。
「姉ちゃん。どうする? このままじゃ……ひょっとしたらまずいことになるかも」
不安げな梅雪鬼の声を背中で聞きながら、桜蛇鬼はにやりと笑みを浮かべた。
「ふふっ。何を言っているの梅雪鬼? これは全然ピンチなんかじゃない。むしろ、チャンスよ?」
「ええっ? そうなの? 何かいい手が? 流石は姉ちゃんだ」
桜蛇鬼は頷いて、梅雪鬼へと振り返る。
「いい梅雪鬼? 考えてみなさい? 白花那姫神達の作戦。傷心の陽呂之さんを慰めるのが、あの眼鏡ビームではなく私だったとしたら?」
「姉ちゃんだったとしたら?」
「そう、陽呂之さんは『やっぱりただのロリはダメなんだ。胸に夢と希望と母性と慈愛が詰まったロリ巨乳こそが最高なんだ』って、思うはず」
桜蛇鬼はふんすと鼻息を大きく吐いて胸を反らした。
その一方で、梅雪鬼は小首を傾げてきた。
「あれ? どうかしたの梅雪鬼? 何か問題でも?」
「うん、確かに最後に姉ちゃんが高美蔓姫神さんの代わりに、陽呂之さんを慰めるっていうのは効果的だと思うんだけどさ」
「だけど?」
「その間、高美蔓姫神さんはどうするのさ? 偽情報でも流すの?」
桜蛇鬼は首を横に振った。そして、笑顔を浮かべて梅雪鬼の肩に手を置く。
どういうことかと小首を傾げてくる梅雪鬼に向かって、桜蛇鬼はサムズアップしてウィンクした。
「頑張って足止めするのよ。大丈夫、あなたは強い子よ。私、信じているから」
「えええええええええええっ!? 無理っ! そんなの絶対に無理っ! 姉ちゃんは僕が消し炭になってもいいのっ?」
「梅雪鬼。あなたの犠牲は、生涯忘れないわ」
「姉ちゃんっ!?」
桜蛇鬼は、ほろりと涙を流して見せた。姉想いの弟を持って、自分は本当に幸せ者だと思った。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
デート当日。
白花那姫神は五番目くらいにお気に入りの格好を選んで、陽呂之の元へと向かった。一番気に入った格好で行くほど気合いを入れる気はないが、かといって名ばかりとはいえデートに何のお洒落もしていないというのも、それはそれで相手に本気度を疑われることだろう。
本気度などといっても、そんなものは実を言えば欠片も存在しないし、そもそもこのデートをデートしてカウントするつもりも無いのだが、だからといって格好を馬鹿にされることがあったら、それもまた何だか癪だという……そんな女心の結果であった。
遊園地入場口前の広場。待ち合わせ場所でもあるその広場への入り口の角で、白花那姫神は目的の人物を捜した。しかし、人の出入りが激しくてなかなか見付からない。きょろきょろと白花那姫神は周囲を見渡した。
「ここよ、シロちゃん」
「きゃうっ!?」
突然背後から肩を叩かれ、白花那姫神は小さく飛び上がった。
慌てて振り向く。
「お、脅かさないでください。……ひょっとして、陽華さんですか? びっくりしたじゃないですか」
「ごめんなさい。脅かすつもりはなかったんだけどね? でも、私も驚いたのよ? シロちゃんが私に気付かないまま通り過ぎちゃったんだもの」
「だ、だってその髪型……それに、化粧や服装だって全然その……いくら、変装してくださいって頼んだからって」
「まあまあ。でも、シロちゃんにもばれないっていうことは、成功みたいね」
「その格好。どうしたんですか?」
「ちょっとね、友達からアドバイスを貰ったの」
陽華の髪は、本当なら肩よりも少し長い程度なのだが、カツラを着けてロングヘアーになっていた。しかも、いつもならどちらかというと軽めの化粧なのだが、今日はもっとこう……水商売のお姉様のようだった。服装も、普段の彼女がとても着るとは思えないような、派手目のものになっている。美人……ではあるのだけれど、下手に声をかけるとバッグで思いっきり叩かれそうな、そんな近寄りがたい雰囲気を纏っていた。
「でも、私で驚くのはまだ早いみたいよ? シロちゃん」
陽華は肩をすくめた。
「どういうことですか?」
陽華が親指で広場の角の中を示してくる。ここから中を覗いてみろということだろうか。
小首を傾げて、白花那姫神は入場口の手前を除いた。
「……あれ? 陽呂之さんはまだ来てないんですか?」
だがしかし、それは有り得ないはず。
元々、白花那姫神は集合時間からは少しだけ遅れてくる手筈になっている。そうでなければ、こうして陽華が来ていることを確認する時間を取ることが出来ない。そして、彼を尾行する陽華が、見付かる可能性を犯してまで先に出てくるはずもない。
「ううん、いるわよ。あの……入場口の右端の……」
陽華の声に従って、白花那姫神は視線を入場口の右端へと向けていく。
「えっ!? えええええええええええええぇぇぇぇぇぇっ!?」
白花那姫神は、思わず大きく目を見開いた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
それは、デートの前日のことだった。
机に座って、ディスプレイに向かいながらも、陽呂之は執筆に手が着かない状態だった。一応、締め切りにはまだ余裕がある。ちょっとくらい休んだところで何も問題はない。まあ、後でその分のしわ寄せが来ることは一応理解しているのだけれど。
自然と……どうしても顔がにやけ、笑い声を漏らすのを止められない。
「ふふ、うふふふふふふふふふ……ぐふっ!?」
陽呂之はびくりと身を震わせ、目を大きく見開いた。
今、彼の部屋の中には彼以外に誰もいないはずだった。だというのに、不意に彼は口を背後から手で塞がれた。
「んっ!? んんん〜〜〜〜〜〜〜〜っ!?」
本能的に、恐怖に駆られて陽呂之は身を捩って藻掻こうとする。しかし、胴体にも背後の何者かの手が回され、まるで身動きが取れない。それは、信じられないほどに強い力だった。
“お静かに。別に命を取ろうとかいうつもりは無いから安心して下さい”
幼い少女の声だった。
取り敢えず、本当か嘘かは分からないが、今すぐ殺されることはないと聞いて、陽呂之は藻掻くのを止めた。
ゆっくりと、陽呂之の口から手の平が剥がされる。そして、彼の背後に立つ少女の気配が、彼のすぐ左隣へと移動した。
恐る恐る、陽呂之は視線を左へと映した。
「お邪魔します。陽呂之さん」
そこには、胸の大きな鬼の少女が立っていた。
その姿を見た途端、陽呂之は安堵する。そして同時に、舌打ちした。思わず「何だ、ロリ巨乳かよ」と本音を呟く。
「えっと……その、いきなりそんな顔されても傷付くんだけど……」
ロリ巨乳の鬼が頬を掻いて泣き笑いを浮かべてくる。
「あの〜、そういえば私、ちゃんと自己紹介した事ってまだなかったわよね? 私、こういうものです」
鬼はスーツの胸ポケットから名刺入れを取り出し、名刺を陽呂之に渡してきた。陽呂之は椅子に座ったまま、それを片手で受け取る。名刺には彼女の名前の他に、友愛改革党だとか大物種子命だとか書いてあった。
結局、目の前の鬼が何者なのかはロクに知らないままなのだが……白花那姫神の態度やこの名刺から、彼女がどういう立場なのかというのは、何となく陽呂之にも理解出来た。
「んで? 君……今日はアチキに何の用なの? いきなり口を塞がれて、アチキすっごく驚いたんだけど?」
「ごめんなさい。ご家族の方に気付かれるとまずいと思ったので」
「気付くとか言われても……母上なら今はパートだし、陽華は仕事。陽嘉琉は高校に行っているんだけど?」
「あ、そうだったんだ……」
苦笑を浮かべて、桜蛇鬼は顎に手を当てて陽呂之から目を逸らした。
「でも、それはその……好都合だったかも」
「好都合?」
桜蛇鬼の呟きに、どういうことだろう? と、陽呂之は首を傾げた。
その瞬間、陽呂之の脳裏に閃く。
先日から、このロリ巨乳の鬼は自分に対してどんな行動を取ってきた?
反射的に、陽呂之は我が身を抱いた。
「止めてっ! アチキに乱暴する気なんだねっ! エロ同人みたいにっ!」
「違うからっ!」
桜蛇鬼は叫んで否定するが……陽呂之にはイマイチ信じ切れない。じっとりと、猜疑心の篭もった視線を送ってみせる。
こほんと桜蛇鬼は咳払いをした。
「そんなんじゃなくて……、私は真面目に話をしに来たんだから」
「話? ……どんな?」
「ええ、陽呂之さんは明日、白花那姫神さんと遊園地にデートに行く約束をしているのよね?」
「うむっ!」
満面の笑顔で、陽呂之は大きく頷いた。
だが、桜蛇鬼は首を横に振って沈痛な表情を浮かべた。
「残念だけど……それは、白花那姫神と陽華さんの罠なのよ」
「なん……だと?」
目の前の鬼が、何を言っているのか分からない。陽呂之の体が硬直する。
「本当よ? 私達は確かに彼女達の作戦をこの耳で聞いたの。白花那姫神はことあるごとにデートで陽呂之さんに難癖を付け、陽呂之さんの心をボロボロにしたところで、変装した高美蔓姫神さんに慰めさせ……幼女に対する幻滅と、成人女性に対するときめきを与えようと、そんな……陽呂之さんの心を弄ぶような、下劣にして非道で鬼畜な計画を企てていたわ」
「そ、そんなまさか。そんな……こと……」
陽呂之は乾いた笑い越えを漏らした。
桜蛇鬼が言っていることが本当かどうかはまだ分からない。しかし、それ故に完全に否定することも出来ない。
「信じたくない気持ちは分かるから、無理に今すぐに私を信じてくれなくてもいいわ。でも、その上で一つ私から提案があるんだけど……」
「提案?」
「ええ、絶対に陽呂之さんにとって損にはならない提案よ」
「……具体的には?」
「そうねえ。まずは、髪型から変えてみようかな〜☆」
にぃっ、と桜蛇鬼は大きく唇を歪めた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
広場への入り口の角から、白花那姫神はゆっくりと……何かを確認するように陽呂之の許へと近付いていった。いくら陽華から本人だと言われても、いまいち信じ切れない。やっぱりこれは……人違いではないだろうか?
数m前まで近付いたところで、陽呂之が笑顔を浮かべて右手を挙げてくる。
「おはよう、シロちゃん。ちょっと来るのが遅かったから、事故にでも遭ったのかとアチキ心配しちゃったよ」
「は……はい。おはよう……ございます」
人違いを半分恐れ、半分望んではいたけれど……目の前に立つ男は、月見里陽呂之その人であった。声の質からしても、代役を頼んだとかそんなわけでもなかった。
よほど腕のいい美容院にでも行ったのか、長く伸びすぎだと思っていた髪が小綺麗に整えられている。パリッとアイロンの掛かった象牙色のジャケットに、くすんだインディゴブルーのジーンズ、そしてスマートなシルエットの革靴。どれも、そう高いものではないのだろうけれど、どこか上品で清潔な印象を与える服装でまとめられていた。
「え〜と、陽呂之さん……ですよね?」
「アチキ以外の何者だと言うんだい?」
そう言って、白花那姫神の前で爽やかな笑顔を浮かべて歯を光らせるその男は……芸能界に出てくるほどのイケメンとまでは決して思わないが、断じてロリコンその他諸々を抱えた変態には見えない……そんな好青年の姿であった。
「う〜ん、それとも……そんなにも違うかな? 折角のシロちゃんとのデートだから、アチキちょっと気合いを入れてみたんだけど」
「へ、へぇ……そう、なんですか」
見取れているつもりは無いのだが、どうにも現実感が湧かない。そのため、生返事しか返せなかった。
ひょっとして……呑まれている? 白花那姫神はこんなことではダメだと気を取り直す。早く陽呂之の残念なところを見つけ出さなければならない。
しかし、探せば探すほど難癖を付けられそうな箇所を見付けることは出来なかった。ついこの前までは、ツッコミどころのオンパレードだったはずなのに。何度も、シミュレーションをしてきたはずなのに。
想定外の出来事に、白花那姫神は焦りを覚える。
「でも、シロちゃんの服も、とっても素敵だよ。桜色のブラウスが本当に可愛くて、似合っている」
「ふ……うぇっ?」
笑顔を浮かべたまま、陽呂之が白花那姫神の服装を褒めてくる。
白花那姫神は、先手を打たれたことに後悔した。当初の計画では、陽呂之の格好のダメさ加減を徹底的に扱き下ろし、その上で次は自分の格好を褒めもしない気の利かなさを罵るつもりだったというのに。
陽呂之の格好のダメ出しをしようとすることに、固執しすぎたようだ。
「ま、まあ。その……うぅ……あ、有り難うございます」
他に言える言葉も思いつかず、白花那姫神は渋々ながらに感謝の言葉を口にした。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
陽呂之は白花那姫神の隣へと移動し、気さくに……あくまでも自然に、白花那姫神の背中を軽く叩いた。
「さあ、早く中へと急ごう。今日はたっぷりと遊ぼうじゃないか、シロちゃん」
「え? でも、チケットは?」
「ふふん。実はちょっと早めに来てね? 既に一日パスを購入済みなのだよ?」
「そ、そうですか。有り難うございます」
何だか凄くこう……色々と裏切られたという表情を浮かべながら、白花那姫神は陽呂之に頭を下げてきた。
そんな白花那姫神に、陽呂之は慈しむ視線を送る。それは実に……邪心の見えない、綺麗な眼差しに見えることだろう。
だがその実、白花那姫神を連れ立って歩きながら、陽呂之は胸の内でほくそ笑んでいた。
『どうですか? 陽呂之さん。あらかじめチケットを買っておいてよかったでしょ? これで、白花那姫神さんの攻撃ポイントを回避しつつ、なおかつ気の利く男として、高ポイントを獲得出来たはずです』
陽呂之の耳の中。そこに仕込まれた超小型スピーカーから桜蛇鬼の声が響いた。
桜蛇鬼の言葉に陽呂之も同調する。さっき白花那姫神が浮かべた、裏切られた様な表情とは、つまりそういうことだったに違いない。
桜蛇鬼がサポートの申し出をしたときはどうなることかと思ったけれど、これは期待以上に……いい仕事であった。「今まで、デートもしたこと無いんでしょ?」だの「そんなんで悪巧みしている白花那姫神をエスコート出来るとでも?」だの、色々と……的確な事実過ぎて、傷付きまくることを散々言われたが、それすらも許せそうだ。
何を隠そう、陽呂之のコーディネートも桜蛇鬼の仕事であった。日頃からファッションには割と無頓着だったのだが、ちょっと認識を改めることにした。何しろ「これ……アチキなの?」と古い少女漫画よろしく鏡の中の自分と見つめ合ってしまったぐらいなのだから。
陽呂之は今日のデートが、彼の人生にとっても最良の出来事になると、そんな確信を抱いた。
『陽呂之さん、このまま私のサポートが必要なら……分かってますよね?』
陽呂之はさりげなく胸ポケットに取り付けられたボタンに手を当て、軽く指で弾いて見せた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
桜蛇鬼は土産物店の裏手で、壁を背に立っていた。あまり人目につく場所ではないが、一応ニット帽で額の角を隠し、人間に変装している。
彼女のその手には小型のモニターがあった。それは一見すると、携帯ゲーム機器にしか見えない。そのモニターの画面に陽呂之の指先が当たり、コツコツとした音と共に揺れる。
「こちら桜蛇鬼。了解しました。サポートを続行します。約束は忘れないで下さいよ?」
それを見て、桜蛇鬼は小さくガッツポーズを浮かべた。契約成立の合図だ。
「よしっ! やったわよ梅雪鬼。そっちはどう?」
『今はまだ入場口だよ。こっちも大丈夫。陽華さんは僕に気付いてないし、僕も見失ってない。そっちに行きそうだったら、ちゃんと伝えるからよろしく』
「そう。頼んだわよ。梅雪鬼」
インカムのマイクを摘みながら、桜蛇鬼は頷く。
陽呂之と白花那姫神の様子は、陽呂之のジャケットに取り付けられた、ボタンに見せかけた超小型隠しカメラとマイクから桜蛇鬼に伝えられ、それに対して桜蛇鬼が陽呂之に無線で指示を出している。
そして、彼らを尾行しているであろう陽華の様子は、桜蛇鬼と同じく人間に変装した梅雪鬼が尾行し、桜蛇鬼にその様子を伝えている。
念のため、陽呂之と梅雪鬼にもGPSを渡してあり、彼らが迷子になるのを防いでいる。
『でも姉ちゃん。本当にこれでよかったの? もっとこう……積極的にいった方が……』
「仕方ないじゃない。あんたが、あの眼鏡BBAの足止めなんて無理だって、散々ごねるから……」
『そんなこと僕に言われても……』
桜蛇鬼は軽く嘆息した。もっとも、無茶を言っているのは彼女も承知してはいるのだが。半分ほど冗談で言っていたつもりなのに、あそこまで本気で泣かれるとちょっぴり哀しい。
「まあでも……今はいいわ。今までは積極的に陽呂之さんにアタックを仕掛けていたけど、どうもそっちは効果的じゃないみたいだし。今はまず着実に好感度を上げることにするわ。積極的に行くのはその後よ。それに――」
『それに?』
「これで、陽呂之さんが約束通り次回作にロリ巨乳キャラを書いてくれれば……それだけでも私にとって大きな戦果よ。うふふ……どんなキャラが出てくるのかしら、楽しみ〜☆」
彼がロリ巨乳を書いてくれれば、それによってロリ巨乳の魅力も広く支持者達に伝わるはず。そうすれば、確実に彼女の社会的地位も上昇し、野望にまた一歩近付くことになる。
「あ、そろそろ陽呂之さん達が予定通りメリーゴーランドに着くみたい。通信を一旦切るわね」
『うん、分かった』
モニターの中がしばし暗転する。陽呂之が隠しカメラを掴んだのだった。その合図は即ち『ワレ、メリーゴーランドニ到着セリ』に間違いない。
桜蛇鬼はインカムのボタンを一旦放し、無線を陽呂之へと切り替えた。
「こちら桜蛇鬼。コンディション、オールグリーン。オペレーション『白馬の王子』。これより、状況を開始します」
桜蛇鬼の持つモニターのスピーカーから、白花那姫神が「こんなの、お子様の乗り物じゃないですか」だのと文句を言い始めているのが聞こえてきた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
遊園地に来てから数時間後。
お昼になり、レストランの中で白花那姫神は注文したメニューが来るのを待っていた。向かいには陽呂之が笑顔で座っているのだが、なかなか……あまり目を合わせることが出来ない。
それは別に、いつもと違って見える陽呂之に対して、照れくさいとかそういうものではない。
白花那姫神は陽呂之から目を逸らしつつ、窓の向こうを眺めながら小さく嘆息した。彼女の視界の中で、誰もが笑っている。レストランの中でも、はしゃいだ子供の声が響き渡っていた。
誰もが心の底から楽しそうにしているというのに……。そんな彼ら彼女らと自分の違いを意識するほど、心にはより憂鬱な澱みが湧き上がってくるのを自覚する。
昼までに回ったアトラクションは四つ。メリーゴーランド、ウォータースライダー、観覧車にお化け屋敷。
メリーゴーランドに来たときは、「あんなお子様なアトラクションなんて」「もっと、一人前のレディーとして扱えないのかと」とケチを付けたのに……「白馬に乗った王女様みたいなシロちゃんを見てみたかったんだ」だとか言われて……恥ずかしいことを言うなと思いつつ、可愛いと言われるのは悪い気がしなくて……混んでいるからということで、お子様扱いで陽呂之と一緒の馬に密着して乗ることになったりして……。
ウォータースライダーでは、服が濡れそうじゃないかと言ったら、そんなことにはならないようにと、陽呂之はジャケットを貸してくれた。実際に少しジャケットを濡らしてしまったけれど、陽呂之は何も気にしていないようだった。
観覧車という密室空間では、ひょっとしたら欲望丸出し手をワキワキさせて、げへへと下卑た笑みを浮かべて迫ってくるのかと思ったが、そんなことはなかった。それどころか、ゴンドラに先に乗り込んだ陽呂之は、どこかの貴族か何かのように、白花那姫神の手を取って中へとエスコートをしたのだった。中での会話も自然な感じで……言葉巧みに誘導されて、気が付いたら白花那姫神は好きなお菓子や、最近少し気になっている週刊誌の占いだとか、そんなことを話していて……それを陽呂之は楽しそうに聞いていた。
お化け屋敷では、所詮作り物でちゃちなものだと思っていて、「絶対に驚いて陽呂之に抱きついたりしない」とか「そんなのを期待しても無駄」だとか「下心が見え見え」だとか言ったのに……実際は相当に演出が凝っていて、悲鳴を上げてつい陽呂之にしがみついてしまった。大見得きった結果がそれだけでも恥ずかしいのに、そんな白花那姫神を陽呂之は大丈夫だからと、優しく宥めてきた。
どうにも、調子が狂う。目の前のこの男は、一体どういうつもりなのだろうか。
ちらりと、一瞬だけ白花那姫神は陽呂之に視線を向けた。やっぱり、朝からずっとそうだったように……にこやかな笑みを浮かべていた。
こんなはずではなかったのにと、白花那姫神は内心舌打ちする。
陽呂之はロリコンその他諸々を抱えたどうしようもない社会不適合者であり、常に欲望丸出しで生きているケダモノのような人間のはずだった。少なくとも、そう思っていた。
だというのに……。
朝からのこの態度は、まるでそうじゃなかった。何というか……ただの優しいお兄さんで……むしろ、どこぞの白馬の王子様で……。
相手が本当に救いようのない変態なら、自分はこうも陰鬱な気持ちにはならなかった。そう白花那姫神は思う。
いや違う。この男は変態なのだ。だから、情け容赦なくどんな扱いをしても構わないはずなのだ。だというのに……どうして、さっきからこう……胸が痛くて苦しいのだろうか。
罪悪感だとは……思いたくないのだけれど。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
白花那姫神達がいるレストランの片隅で、陽華は彼女らの様子を眺めていた。
意外なことに、あの変態がデートを無難にこなしているようだった。普段の姿からは、まるで想像が付かない。
長く一緒に暮らしてきた家族だというのに、自分は兄のことをまるで理解していなかったのだろうか? ふと、そんなことを陽華は考える。
(まさか……ね)
陽華は軽く首を振って、オレンジジュースを飲み干した。そして、席を立って店の奥……トイレへと向かった。
取り敢えず、あの様子なら少しくらいは白花那姫神達から目を放しても大丈夫だろう。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
<もっと、ライトギャグ面に変更?>
陽呂之と目を合わせないまま、白花那姫神は口を開いた。それほど長い時間黙っていたわけでもないが、沈黙に耐えられなかった。
「……陽呂之さんは、私といて何がそんなにも楽しいんですか?」
自分でも信じられないほどに、感情を押し殺した声だと白花那姫神は思った。
「理由なんて無いよ。アチキが心から愛している女の子だからね。シロちゃんと一緒にいる。それだけでアチキは楽しい」
そんな……自分の感情なんてお構いなしなことを言ってくる陽呂之に対して、白花那姫神は不快感を覚える。彼の言動はとても一方的で、独善的で押しつけがましい。愛とか恋とか、そういう感情にはそんな側面があるのは仕方のないことなのだろうとは思うのだけれど。
「一体私の何がいいって言うつもりなんですか? 結局、陽呂之さんは私のこと何て全然知らないくせに」
「それも、上手く話すこと何てアチキには出来ないよ。陳腐な台詞だし、仮にも文章でご飯を食べている人間が言うのも情けないと思うけれど……『シロちゃんだから』としかアチキには言えない。もしも、それでも理由を話して欲しいと言うのなら、アチキの一生を使い切る覚悟だよ」
「言っていて、恥ずかしくないですか?」
「勿論恥ずかしい。でも、大好きな女の子に好きだって言える嬉しさの方が、アチキにとっては大きい」
そんなことを言ってくる陽呂之の口調は、どこまでも真剣なものだった。白花那姫神は頬が熱くなるのを自覚した。聞いている方が恥ずかしい。
「どうせ、私の……か、……体が目当てのくせに」
騙されてはいけないと、白花那姫神は自分に言い聞かせる。どんなに着飾ったところで、そしてどんなに「愛している」と言ったところで、この男は変態なのだから。
「それは違うよ。シロちゃん」
「どう違うって言うんですか?」
「アチキはね? シロちゃんの身も心も……シロちゃんのすべてが欲しいんだ。決して、体だけが目当てだなんて、そんなことはない」
彼ははっきりと言い切ってきた。まるで、人に恋するということは、つまりはそういうことなんだとでも主張するかのように。
白花那姫神もドラマや映画、漫画で「君のすべてが欲しい」とかいう台詞は幾度も目にしている。けれどその意味はそこまで……生々しいものとして実感したことは無かった。でもそれは、結局は……清濁をすべて含むのなら、彼の言う意味に行き着くのかも知れない。生まれて初めて、そう白花那姫神は思った。
けれども、それを年端もいかない少女に、成人した大人が向けていい感情だとは白花那姫神には思えない。だから、白花那姫神は小さく嘆息した。
「本当に、救いようのないロリコンなんですね。陽呂之さんは」
「そうだね。理解は……やっぱり難しいよね」
陽呂之の、寂しげでどこか脆く穏やかな口調。白花那姫神は思わず陽呂之に視線を向けたことを後悔した。
陽呂之は白花那姫神の視線の先で、笑っていた。それは理解されることを望みながらも、それが決して果たされることのないものだと悟りきっているかのような……そんな顔だった。
変態ロリコンのくせにそんな顔をするなんて、卑怯だと思った。
「何で、陽呂之さんはロリコンなんですか?」
「さあ? 血筋なんじゃね?」
「血筋って……なら、どうやって陽呂之さんのお父さんとお母さんが知り合ったっていうんですか?」
「ん〜、でもアチキの父上と母上って、付き合い始めた頃は既に父上が成人していて……母上って確かまだ小学生だったって聞いたよ?」
「…………え?」
彼が何を言っているのか、一瞬理解出来ない。彼のみならず……彼の両親までもがそんなお付き合いで……しかも、結婚しただと?
「いや、これは本当なんだってば。アチキが子供の頃、父上と母上が惚気ながら言っていたんだよ?」
「は……はあ。そう……何ですか」
ふと、白花那姫神に嫌な予感が湧き上がる。
思い返してみると、阿佐美の年齢は知らないが……結構若く見えた気がする。ということは……。
「あの……まさかと思いますけど、阿佐美さんが陽呂之さんを生んだときも小学生とかいう事って……無いですよね?」
白花那姫神の額に冷たい汗が浮かんだ。
「母上がアチキを生んだとき? いや、それは流石に結婚した後だから、母上も成人してたよ? 若作りだけど、母上も普通に歳はとっているのだよ」
「で、ですよねー?」
白花那姫神は胸を撫で下ろした。思わず乾いた笑みがこぼれる。
「でも、初体験が確かしょ――」
「聞きたくないですから、言わないで下さいっ!」
とてつもなく嫌な予感がして、白花那姫神は途中で遮った。頬を赤くしながら、咳払いする。話題を変えよう。
「え〜と……陽呂之さんのお父さんと阿佐美さんって、仲がいいんですか? 歳は離れていると思うんですけど」
陽呂之は頷いた。
「うん、仲はよかったよ。今はもう、父上はいないけど」
「え? そう……なんですか? すみません。何か変なこと聞いちゃって」
そういえば、彼の家族構成についてはそこまで詳しく調べてはいなかった。ターゲットそのものの情報さえ持っておけば、それでいいと思っていたのだけれど。
「いや、別にいいよ。ただまあ、ある日突然いなくなったんだ。何があったのかアチキにもよく分からないけど。分かっているのは、その日を境にアチキはロリ巨乳が完全NGになったことくらい? ロリコンの血はそれとは無関係に覚醒してきたんだけど」
白花那姫神は小首を傾げた。
「ロリ巨乳がNGって、それ……何か関係あるんですか?」
「さあ? ただ、アチキに何か凄いトラウマが植え付けられる出来事が、そのとき起きたんだと思う。それから数日、母上も目も当てられない状況だったし……。あの頃のことは、アチキにはもうよく思い出せないけど」
ロリ巨乳はともかく、こう見えても、陽呂之も過去には色々と背負ってきたのだろうか。
父親が突然失踪するということが、家族にとって大変な出来事であったことは想像に難くない。陽呂之がさらりと流すように言っているのも……きっと、あまり触れられたくはない過去なのだろう。
「でも、あれですよね? 陽呂之さんが生まれたのって、阿佐美さんが大人になってから何ですよね? それなら、別にお父さんはロリコンというわけじゃないのでは?」
「それは違うよシロちゃん。父上は『ロリコンでもある』わけなのだよ。自分でそう言ってた」
「うぅ、……それはそうかも知れませんけど。……でも、ちゃんとその……大人になった阿佐美さんを愛せるようになったんですからその……」
一瞬、白花那姫神は口ごもる。
「陽呂之さんもその……私は、可能性はあるんだと思います」
朝からずっと、ただの優しいお兄さんしか見えなかった人なら……ロリコンであって欲しくはなかった。その程度にでも情けが生まれたことを彼女は渋々認める。
「陽呂之さんは、ロリコンを直そうとは思わないんですか?」
「うん、それ無理」
「いや、そんなすぐに無理とか――」
言い終える前に、陽呂之は……白花那姫神の言葉を遮るように首を横に振った。
「『すぐに』……なんかじゃないよ、シロちゃん。少なくともアチキにとっては『すぐに』なんかじゃない」
その口調は穏やかで、けれどもそれは色々なものを必死に押し込めた穏やかさで……。白花那姫神は押し黙る。
「確かに……仮にロリコンじゃなくなれば、それはそれでいいのかもって思ったこともあるけど。でもさ、シロちゃん?」
「はい」
「シロちゃんは、同性愛者じゃないよね?」
「当たり前じゃないですか」
「そんなシロちゃんに、性的な意味で女の子を好きになれって言われて……、シロちゃんはそんな風に変われるのかい?」
「それは……」
性的な知識や感覚にはまだ乏しいと思いつつ、白花那姫神は想像する。けれどもそれが、果てしなく難しいことだという結論しか出せなかった。
「好き嫌いだってそうじゃない? 同じ食べ物でも好きな人と嫌いな人がいるように、誰だって感覚は違っているんだよ? 忘れられがちで、当たり前だけど。だから、性癖だって違って当たり前。それだけの話なんだと、アチキは思う」
ロリコンをそんな風に考えたことは無かった。ロリコンは変態で、異常で、社会不適合者で、犯罪者予備軍な……まともに人間らしい理性の存在しない人達だと、白花那姫神は思っていた。
しかし、目の前のロリコンは……その性癖を別にすれば、理性を持った人間のように見える。いや、『ように』ではないのかも知れない。だが、それを認めたら、陽呂之に対して抱いていたイメージもまた、偏見だと認めざるを得なくなる。
胸の痛みが、より激しく疼いてくる。
変態にも理性はある。それは、考えてみればすぐにでも思いつける事実だったかも知れない。けれど、そんなことを考えないほどに思考を放棄していた。変態だからという理由だけで、人格や理性を認めなかった。
ロリコンは、出来ることなら直した方がいい。それは今でもそう思う。それが仕事だからだとか、それだけではなく。
けれども、だからといって相手の人格を全否定してもいいとは……言い切れるのか?
白花那姫神の脳裏に、朝からの陽呂之の態度を思い出す。下心云々は分からない。けれど、彼はずっと……楽しそうで、優しかった。
そんな彼は……彼にもまた、色々と思い悩んだり背負ったりした過去があって……。
午後からの計画。これ以上……何の遠慮もなく、徹底して陽呂之に罵詈雑言を浴びせることが出来るだろうか?
白花那姫神は自問する振りをする。答えはもう、既に出ていた。
彼女は深く溜息を吐いて、席から立ち上がった。
そして、その日初めて陽呂之に微笑む。
「陽呂之さん。勝手な我が儘ばかり言って、本当にごめんなさい。ですが、今日はちょっと……気分が優れないので、これで失礼します」
「え? ちょっとっ!? シロちゃんっ!」
陽呂之が手を伸ばしてくるけれど、それを振り払って白花那姫神はレストランの出口へと駆け出していった。
背後で、注文したメニューが席に届けられる声が聞こえた気がした。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
真っ直ぐに、遊園地の出入り口へと向かって駆けていく。
こうしてまた、身勝手に陽呂之を振り回している。それが嫌になる。けれど、こんな気持ちで陽呂之を罵倒し続けるよりは、マシだろう。
流石にこれでは、陽呂之も怒るだろう。
それでいいと思いつつ、ちょっぴり残念にも思えてしまう。自分でも、何をやっているんだかと思う。やっていることも思うことも、すべて支離滅裂だ。訳が分からない。
「あっ!?」
不意に目の前に人の足が現れた。
それで、今まで自分がずっと俯いて地面ばかり見て、前が見えていなかったことに気付く。
「おわっ!?」
身を捩って買わそうとしたものの、正面から人影にぶつかってしまった。慌ててぶつかった相手に向かって、顔を見ることもなくすぐに頭を下げる。
「すみません」
それだけ言って、白花那姫神はその場を立ち去ろうと再び出入り口へと体を向けた。
「おい、ちょっと待てや嬢ちゃん」
「え?」
しかし、手首が男の手に掴まれた。
どういうことなのかと顔を上げると、視線の先には趣味の悪い……ベニテングダケのようなアロハに白のスラックスを穿いた、目つきの悪い男がいた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
レストランの脇の小道。
陽華の目の前で、レストランの壁に背中を遭わせて、少年は震えていた。
つぅっ……と、陽華は梅雪鬼の顎下を優しく撫でて見せる。それに合わせて梅雪鬼が小さく悲鳴を上げた。嗜虐的な快感に、陽華は酔う。やっぱり自分がMなどということは有り得ないと、ちょっぴり安心した。
「ふふふ。見ぃ〜付けた☆」
獲物を捕らえた肉食獣そのものの表情で、陽華は舌なめずりをする。興奮を抑えきれない。ハァハァと、自然と息が荒くなるのを自覚した。
「な……何で?」
「ふふん? 何でって? あのゴミクズがまともにシロちゃんとデート出来るわけないじゃない? なら、誰かがどこかから指示を出しているに決まっているでしょ?」
綺麗な陽呂之? そんなもの、この世に存在するはずがないのだ。生まれてから長い付き合いなので、そのことをよく理解している。
「でもどうして……」
「あのゴミクズにアドバイスをするとしたら、桜蛇鬼ちゃんの方でしょ? でも、ずっとそれらしい姿は見当たらないし、それにそんな真似をするなら私がこうやって出張っていることも知っていたっていう話になるわよね?」
梅雪鬼が頷く。
「なら、私の動きもどこかで監視しないといけなくなるから、私にも誰かが尾行していて……そういうので思い当たる節は、君しかいないじゃない。その場合、桜蛇鬼ちゃんはどこかに隠れてあのゴミクズの様子を隠しカメラとかでモニターしつつ、君から私の様子を聞けばいい話だし」
にやりと、陽華は笑みを浮かべた。
「ちなみに、分かっていると思うけど、ここにはトイレに行く振りをして裏口から来たのよ。勿論、お金は払っているわ」
「くっ……うぅ」
梅雪鬼が呻く。陽華はワキワキと両手を動かし、彼に迫っていった。これで……もう、観念しただろう。
「ね……姉ちゃん。助けて〜っ!」
インカムに向かって、梅雪鬼は悲鳴を上げた。
もう少し、二人っきりでいたかったのにと、陽華はちょっぴり残念に思った。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
遊園地の出入り口からはほど遠い、遊園地の端。ドーム型をした映像アトラクション施設の裏手と、遊園地の外壁の間にある林の中へと白花那姫神は連れてこられた。
そんな場所なので、周囲に人目はない。そして、白花那姫神は十代後半から二十代前半と思われる男達三人に囲まれていた。
「おいおい、そんなに震えなくてもいいだろう? 何も殺そうだとかそんな気は俺達には無えんだしよ? そんな顔されると、俺達傷付いちゃうな〜。こう見えて、結構繊細なんだぜ?」
三人の中で一番年上に見える、派手な柄のシャツを着た男がへらへら笑う。愛想笑いとして認識することを強いている、相手を小馬鹿にした笑みだ。
そして、残り二人もどうようにへらへらと笑いながら男に同意する。
「そーそー。俺達も鬼じゃねえんだしよ? 嬢ちゃんにそれなりに誠意を持って詫びてくれっていう、それだけの話なんだぜ?」
「だよなあ? シュウちゃんのこれ、こう見えてもブランドものでよー? すっげ高いんだぜ? それをクリーニング代の半分だけでいいってんだからさー? 優しいよなあ?」
シュウとか呼ばれているのが、派手な柄のシャツを着た男の名前なのだろう。
白花那姫神は俯きながらも、ちらりと男のシャツを見る。そのシャツには、べったりとチョコレートのアイスクリームの跡が残っていた。それは、白花那姫神が男とぶつかったときに出来たものだった。
「ですから、それはその……ごめんなさい」
勇気を振り絞って、それでも蚊の鳴くような小さな声で、白花那姫神は謝罪した。
どうしてこんなときに、陽華が助けに来てくれないのかと思う。けれどもそれも、自分が勝手な行動をした所為で、陽華ともはぐれてしまったのだろうから、当たり前といえば当たり前だ。
「ああうん、嬢ちゃんは何度も謝ってくれるよねえ。お兄ちゃんも、君に謝る気持ちがあるっていうのは、よ〜く分かったよ。うん、分かっているからさ」
「ひぅっ」
肩に男の手が置かれ、彼女は小さく悲鳴を上げた。男がにこやかに、蛇のような笑顔を浮かべて下から顔をのぞき込んでくる。
「だからさぁ、その気持ちをさあ? 具体的に見せてくれないかな?」
「でっ……ですから……お金は、持ってない……です」
その返答に、男は無言だけを返す。到底、自分の主張と理解してくれたとは思えない。
沈黙が……重い。
男は立ち上がって仰々しく溜息を吐き。胸ポケットから100円ライターと煙草を取り出した。
数秒後、ヤニ臭い匂いが白花那姫神の鼻孔に届いた。
「なあ、嬢ちゃん? 嬢ちゃんの名前、何ていうの?」
「え?」
「お兄ちゃん、これでも世の中縁とか何とか、そーいうのってあると思っててさあ、袖擦り合うも多生の縁だっけ? そんなわけで、折角出会ったんだ。もうちょっとフランクにお話ししたいっつーかさ? 教えてくんねーかな?」
「ひゅーっ! 流石シュウちゃん、難しい言葉知っているぜ」
「今度、九九に挑戦する男は違うよなあ」
「おいおい、そんなに褒めるなよ。照れるじゃねえか」
そう言いながらも、まんざらでもない表情を浮かべて、男は笑う。
白花那姫神は、名前くらいなら……と一瞬思ったが、止めた。こんな人達に本名を名乗ったところで絶対に馬鹿にされる。下手すれば怒られる。
それでなくても、ここで名前を聞くのはきっと後々まで脅迫するためだ。それくらいは……いい加減、白花那姫神にも想像が付く。
ひとしきり上機嫌に笑ったところで、男の表情に剣呑なものが混じった。それなりに隠す素振りで滲ませていた悪意を、明らかに表に出してくる。
「おい、嬢ちゃん? 黙ってんじゃねーぞ? さっきからさあ、お兄ちゃん達優しくしていたよなあ? なのになんだそれ? 不誠実だとは思わないのかよ? あ? 舐めてんだろ?」
優しい? どこがだ? 思い上がりも甚だしいと、白花那姫神は胸が悪くなる。こっちの方こそ、曲がりなりにもぶつかってしまって悪いと思ったから、こんなところまで付き合ってあげただけだというのに。
こんな手合いに付き合っただけ、馬鹿だったと白花那姫神は後悔する。
「じゃあさー? 学校。学校くらいならいいだろ? 嬢ちゃん、どこに通ってんのかな?」
もういい、さっさと逃げだそう。人目に付かないのは逆に幸いだ。事務所まで転移してここから離れよう。
白花那姫神は目を閉じて精神を集中した。
まだ男達が何か言っているようだが、雑音にしか聞こえない。
“ふん……白か。色気ねぇな”
不意に聞こえてきた声に、白花那姫神は我に返り目を開けた。太股を涼しい風が撫でる。
「……嫌ぁっ!」
反射的に手を下に向けようとするが、遅かった。
シャッターの音が、耳に届く。派手柄シャツの男がスカートをめくり、取り巻きの一人が携帯でスカートの中を写真に納めていた。
「お? い〜んじゃね? 本物小学生の衝撃純白生パンツとか言っときゃ、売れんだろ。サンプルとしても食いつきいいんじゃね?」
「止めてくださいっ! それ、どうする気なんですか?」
「あ? ネット販売すんだよ。世の中こ〜いうのが大好きなロリコン変態が多いからなー。仕方ねえだろ? 金が無いっつーんだからよ、体で返せや」
「そんな……」
白花那姫神の顔が青ざめる。
流出する範囲は恐らく人間の間でだけだろうが、それでも恥ずかしいものは恥ずかしい。
「とは言っても、こんだけじゃ足りねーからな。次行くぞ、おら。スカートから手を離せや。邪魔だろがよ。あ? 何なら自分でめくってくれるっつーんならそれでもいいけどよ」
「やだ……そんなの、嫌です」
「あ〜?」
乾いた音が響いた。
白花那姫神の頬が腫れる。熱さを持った痛みに、白花那姫神の身が竦んだ。
「っせーな。知るかよンなこと」
ドスの利いた声と共に、白花那姫神は顎を掴まれた。
逃げたいけれど、このままだと確実に写真はばらまかれることになるし、そもそもこんな状態では術を使うための集中も出来そうにない。
「や……あぁ、……たす……え……」
目蓋の奥から熱いものが込み上げ、白花那姫神は嗚咽を漏らした。
「んじゃあ、パンツ下ろしてみようかー? ぴったりとしたスジをご開帳〜☆」
男の手がパンツへと伸びてくる。それを止める術が……見付からない。白花那姫神は絶望する。
“そこまでにしろ外道共があああああああああぁぁぁぁぁぁ〜〜〜〜っ!”
力強い怒声が、その場に響く。
その声に白花那姫神には聞き覚えがあった。
俯いていた顔を上げ、白花那姫神は声の主へと視線を向ける。滲んだ視界の中には、レストランに置いてきぼりにしたはずの陽呂之がいた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
遊園地の中央広場内のベンチ前で、桜蛇鬼は渋い顔を浮かべた。
その目の前には、梅雪鬼と共にベンチに座っている陽華がいた。彼女の腕は梅雪鬼の肩を抱いている。
「姉ちゃん……ごめん」
梅雪鬼はしょぼくれた弟を見て、桜蛇鬼は怒りを押し込める。囚人の目の前で怒鳴り散らすことは出来ない。
「まあ、いいわ。これは、私の作戦ミスでもあるのだし。くっ……まさか、ここまで読まれていたなんて」
梅雪鬼が見付かったのは、不可抗力だ。そこで弟を責める気はない。そんなことより、人間風情に読まれたことの方が悔しい。
嘲笑うかのように、どや顔を浮かべている陽華がウザいと想った。
「それに……まったく、今はそれどころじゃないのに……」
「それどころじゃないって?」
「白花那姫神が勝手にっ! 一方的に陽呂之さんのところから帰っちゃったのよ。陽呂之さんが慌てて追いかけたけど……」
「そうなの? で? それでどうなったの?」
「知らないわよ。そこであなた達から呼び出されて、私も慌ててそっちに向かったんだし」
「ふ〜ん? ま、いいけどね? それじゃあ、兄さんに通信を繋いで? この子からだと繋げられないって言っていたし」
「……分かったわよ」
嘆息して桜蛇鬼はインカムのイヤホンを陽呂之が持つ盗聴器の周波数に合わせた。
そして、マイクを陽呂之宛に設定しようとして――
「え? 何これ?」
血の気が引く。慌てて桜蛇鬼は閉じていたモニターを開いた。
「どうしたの? 姉ちゃん」
開いたモニターの中には、ガラの悪い男達に囲まれた白花那姫神の姿があった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
目の前で、陽呂之が自分を取り囲む男達を睨んでいた。けれど、そんな彼に対して男達はへらへらと笑い続けていた。
戦力差は1:3。数で勝っている上に、自分という人質までいる。ならその態度は当然の話だと……白花那姫神も考える。
「あー? お前、この子の兄ちゃんか?」
「違う。違うけど……その子は、アチキにとって世界の誰よりも愛しい女の子だっ!」
はっきりと、一片の澱みもなく陽呂之が叫んだ。
呆気にとられたように、男達が言葉を失う。
だが、それも所詮はほんの僅かな時間に過ぎない。
「……んだよ? マジで? ガチのロリコンかよ? うわー、信じられねえ。変態だー」
「ひー、腹痛えー。お巡りさん、こいつです〜☆」
「ヒャッハーっ! ロリコンは消毒だーっ!」
心底小馬鹿にした笑みで、男達は陽呂之を嘲笑う。その声を聞きながら、陽呂之は拳を怒りに震えさせていた。
「あ、俺いいこと考えた。シュウちゃん。こいつ使ってよ、嬢ちゃんとハメ撮りさせたらウケんじゃね?」
「あー、悪くねえな。俺達、優しいなあ。兄ちゃんよかったなー? 大好きな女の子とハメ撮りなんて、一生ものの記念だぜ〜? 安心しろよ、この子の****まで全身隈無く綺麗に撮ってやっからよー」
男達の言葉に、白花那姫神は総毛立つ。
純潔を失う? 初めてなのに……まだ大人じゃないのに……こんな場所で、好きでもない人と? しかも、よりによって陽呂之みたいなロリコン変態相手に?
陽呂之は自分と初めて会ったとき、どうした? それを考えれば彼らの提案は……むしろ「脅された」という格好の言い訳も立って……ホイホイ乗ってくる可能性が……。
ガチガチと白花那姫神は歯を鳴らした。
“ふざけるな、外道共”
静かに……しかし怒りに満ちた陽呂之の声が、その場に響いた。
「あ?」
その態度が気に入らないと、男達の表情もまた不機嫌に歪む。
「……アチキは確かに、ロリコンだ。変態だ。そして一日中えっちなことばかり考えているような男だ」
「はぁ? 自覚あんのかよテメェ? 救いようがねぇなこいつ」
罵る声を無視して、陽呂之が続ける。
「徹夜で朦朧とした状態で部屋に美少女が現れたらいい夢と勘違いしたり、ロリ巨乳に襲われたショックで寝込んでいる状態で男の娘が現れたら幻覚と勘違いしたりして……そんなこんなでヒャッホイしちゃったこともあるけれど……」
「お前……マジで病院行け」
そう言う男の口調には、軽蔑どころかある種の哀れみすら混じっていた。
だけど、陽呂之の口調も表情も真剣なもので……白花那姫神は男達に同意することは出来なかった。
彼女らの目の前で、陽呂之は大きく息を吸った。
「けれどっ! だからといってアチキは心から愛する少女の心を踏みにじってまで欲望を満たそうとする外道じゃないんだ。お前らみたいなのと一緒にするな、このクソ野郎があああああああああああぁぁぁぁっ!」
叫びながら、陽呂之が向かってくる。そのまま思いっきり振りかぶって、派手な柄のシャツの男へと拳を突き出した。
「おおっ!? っぶねーなあ。何すんだテメェ?」
だが喧嘩慣れしているのか、男はあっさりと陽呂之の腕を浮かんだ。
「陽呂之さんっ!」
白花那姫神は悲鳴を上げた。彼女の目の前で、男は躊躇無く陽呂之の腹に拳を入れた。一発どころか、二発……三発……。
「ぐっ……あぐっ」
陽呂之の顔が苦悶に歪む。
「オメー、馬鹿だろ? 勝てるとか思ったのか? 馬―鹿」
「五月蠅いっ!」
右腕を掴まれながらも、左手で陽呂之は男を殴った。こんな状況で痛めつけて、なお反撃されるとは思っていなかったのだろう。今度は男の脇腹に突き刺さった。
苦悶と共に、男の顔が怒りに染まる。
「て……めぇっ!」
「ふふん。軽いなあ、そんな腰の入っていないパンチ。アチキの妹に比べたら……全然、何て事無いっ!」
「ああ? 上等だよ。コラ。死ねよ腐れロリコンがああああああぁぁぁぁっ!」
さっきの仕返しだと言わんばかりに、男はこんどは陽呂之の腹に膝蹴りを入れた。そして、僅かに陽呂之の体がぐらついたところで、彼の手を放し左拳で顔面にフックを叩き込んだ。
一瞬……スローモーションに……白花那姫神は彼の首が明後日の方向に向くのを見てしまう。
「や……め……」
それを見て、もうダメだと思った。
しかし、たたらを踏みながらも……その優男然とした体からは信じがたいことに、陽呂之はその場で耐えた。
「ああああああああああぁぁぁっ!」
吠えながら、陽呂之は再び拳を突き出す。彼の戦う意志はまだ折れていなかった。
だが、白花那姫神の……素人目から見ても陽呂之は喧嘩慣れしているようには見えなかった。
瞬く間に、攻撃の手数が陽呂之の方が少なくなっていく。
その様はサバンナで狩りをする肉食獣と、狩られる草食獣のようで、凄惨で醜悪で救いようのない暴力の光景だった。
「陽呂之さん。陽呂之さんっ! お願いしますっ! もうっ! もう止めてえええええええぇぇぇぇ〜〜〜〜っ!」
二人の男に捕まったまま、泣き叫ぶことしかできない自分の無力を白花那姫神は呪った。こんなことなら、攻撃用の術をもっと勉強しておけばよかったと後悔する。
「……え?」
その一瞬、何が起きたのか白花那姫神には分からなかった。
自分の……すぐ目の前。自分を囲んでいる二人の男の目の前に、桜蛇鬼と梅雪鬼がいた。
「な、ん……?」
「は? おま……」
男達の混乱した声が聞こえてくる。白花那姫神でさえ、二人が空間転移してきたことに思い至るのに数秒の時間が掛かったくらいだ。人間なら当然だろう。
その直後、桜蛇鬼達の足下から地雷のような爆発音が響いた。交通事故さながらに、彼らは吹き飛ばされて背中から木に叩き付けられる。
かはっ、と口を大きく開けて呻き。彼らはそのままその場に崩れ落ちた。
“そこまでにしなさいっ!”
凛とした声がその場に響いた。
「陽華……さん?」
桜蛇鬼と梅雪鬼から目を放し、白花那姫神は陽呂之を隔てた向こう側にいる陽華に目を向けた。
「ごめんなさい、シロちゃん。私が目を放してしまったばかりにこんなことになってしまって。今、助けるわ」
「な、なんだ……お前ら?」
いつしか、一方的に陽呂之をボコっていたはずの男が……呆然とその手を止める。
「陽呂之さんっ!」
助けが来たという安堵感なのか、それとも元々もうそんな気力がなかったのか、白花那姫神達の目の前で、陽呂之が糸の切れた人形のように崩れ落ちる。
「そこの馬鹿っぽいベニテングダケ? 覚悟しなさい?」
そう言って、陽華は一歩前に踏み出した。
男は……仲間二人が一瞬のうちにやられ、そして二人を殴り飛ばした相手がすぐ隣にいるという危険な状況だということを男はようやく理解したようだった。
「う、うわああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁっ!」
混乱と悲鳴が混じった叫び声を上げて、陽華へと向かっていった。子供のくせに、化け物みたいに強い奴を相手にするよりは、ただの女の方が勝ち目があると思ったのかも知れない。
でも、それは明らかに判断ミスだと……どこか遠い意識で白花那姫神は思った。もっとも、どういう判断をしようとも、既に詰んでいたとも思うのだけれど。
隕石が落下したような破裂音が陽華の足下から響くのと同時、男は文字通りのお星様となってしまった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
白花那姫神の視線の先で、ピクピクと陽呂之の目蓋が震えた。
「ん……くっ……うぅ?」
ベッドの上で陽呂之は目を開き。彼女に視線を向けてくる。
「あれ? ……シロ……ちゃん?」
「よかった。気が付いたんですね? ここは遊園地の中にある、救護施設です」
「救護施設って?」
どういうことなのかと、しばし陽呂之は瞬きする。しかしすぐに合点がいったようだった。
「そっか……。でも、よかった。シロちゃんは、無事だったんだね?」
「はい。陽呂之さんと、陽華さんと……それから、桜蛇鬼さんと梅雪鬼君のおかげで、助かりました」
ベッドの枕元で、白花那姫神は頷いた。
「ごめんなさい、陽呂之さん。陽華さんにばれてしまいました」
隣では、桜蛇鬼と梅雪鬼がそれぞれ座っていた。頭を下げる彼女らを見て、陽呂之は乾いた笑みを浮かべた。
「あ、あ〜。そう言われてみれば。陽華と君達も助けに来たって……、つまりはそういうことだよね?」
陽呂之は大きく溜息を吐いた。
「ということは、やっぱりシロちゃんもその……?」
「はい、桜蛇鬼さん達から聞きましたよ。まったく、見事なものですね? 私は完全に騙されましたよ。おかげで、何から何まで計画がぶち壊しにされました」
ぷんすかと、白花那姫神は頬を膨らませた。やっぱり、陽呂之も……和んだように笑ってくるだけだったが。もっとも、今となっては白花那姫神も本気で怒っているつもりはないのだけれど。
「あれ? ところで陽華は?」
「陽華さんですか? 陽華さんはあのチンピラ達を警察に連れて行きました。そのまま、彼らは病院の集中治療室に直行することになったらしいです」
「あー、なるほど。それもそうだよね。素人に君達や陽華の拳をまともに耐えられるわけが無いのだ」
「というか、あんな陽華さんの攻撃に毎日耐えている陽呂之さんって、つくづくどういう体の作りしているんですか?」
うんうんと頷く陽呂之を見て、呆れ顔で白花那姫神は呟いた。それは桜蛇鬼や梅雪鬼も同様のようだった。
やはり一度、詳細に因果律の解析を行った方がいいのかも知れない
ふと、陽呂之は窓の外へと視線を向けた。外はもう、空が赤くなっていた。
「ごめんね、シロちゃん。騙すような事してしまって。その上、あんな危険な目に遭わせてしまって」
「陽呂之さん?」
「実際、アチキは自信なくてさ。けれども……それでも、好きな女の子と楽しく遊園地で遊びたかったんだ。その気持ちだけは、嘘じゃない」
静かに、陽呂之が言ってくる。それに対して、白花那姫神はしばし口をつぐんだ。
そして、苦笑混じりに嘆息する。やっぱり諦めるしかない。こんな状況で……彼に対して思ったことを抑えることは、出来そうになかった。
「いえ、もういいんですよ。陽呂之さんのことを何も知らずに、一方的に色々と企んだ私も悪いんです。それに、陽呂之さんの真面目な話が聞けて……陽呂之さんがただのケダモノじゃないって分かって、何だか嬉しかったです。あと、私の方こそ勝手なことして陽呂之さん達に迷惑かけてしまって、すみませんでした」
そう言って、白花那姫神柔らかな微笑みを浮かべた
「陽呂之さん。体は動きますか?」
「え? ああうん、もう大丈夫だよ。こんなのかすり傷だし」
そう言って、陽呂之は苦もなく上半身を起こしてきた。どうやら本当に、もう大丈夫のようだった。
それを見て、白花那姫神は安堵する。
「じゃあ、もしよかったら。今度は、何も計画とかそういうのは抜きにして、どこか回ってみませんか? もう、ここはそんなに時間も無いですけれど」
「え? いいの?」
「いいですよ。さっきも言いましたけれど、もう何もかも清々しいほどにぶち壊しになっているんです。なら、最後くらい何も考えずに楽しんだ方がいいかなって。あ、あと……これは、助けてくれたお礼も兼ねてですが」
「……ふむ」
陽呂之は顎に手を当てて、しばし考え込む。
「どこでもいいの?」
「はいっ! 陽呂之さんの行きたいところなら、私はどこでもいいですよ?」
満面の笑顔で、白花那姫神は頷いた。
確かに、桜蛇鬼からのサポートが無くなれば午前の時ほどスマートなエスコートは期待出来ないかも知れない。
けれど、純粋に一緒に遊びたいだけだというのなら……深く考えずに一緒に遊んだ方が、楽しいだろう。
ケダモノではないと知った陽呂之となら、きっとどこに行っても楽しい時間を過ごせる。そう、白花那姫神は思った。
“アチキ、シロちゃんとラブホテルに行きたいっ!!”
――思ったのだったが。
今日一日の中でも会心の、爽やかな笑顔を浮かべて陽呂之は言い切ってきた。
白花那姫神は耳を疑った。到底、このタイミングでそんな爽やかな顔で言ってくる言葉だとは思えなかった。
「え? は? ら……ラブ?」
「うん、そうだよシロちゃんっ! アチキ、シロちゃんとラブホテルに行きたいっ!」
訳が分からなかった。
陽呂之はロリコンで変態だけれども、素面の状態ではやってはいけない一線だけは自重する男ではなかったのか?
「あの〜? 陽呂之さん? 何を考えているんですか?」
「ぐふ……ぐふふ。ぐふふふふふふ」
乾いた笑みを浮かべる白花那姫神の前で、陽呂之は邪悪な笑みを零してきた。
「ぐふふ……そうか……そうだよ。これは、ようやくシロちゃんのデレ期がきたということかっ! 考えてみれば、今日は朝からそこなロリ巨乳の助けを多々借りたとはいえ、どんな女の子も一発で落とせる紳士をアチキは貫いてきた。それだけでもきっと効果は絶大だったはず。それに加えて、悪漢から襲われ貞操の危機という状況で助けに行くという超絶ボーナスポイントまで稼いだっ! これ以上のフラグは有り得ない。ちょっと強引すぎる気もしないではないけれど……大丈夫だ、問題ないっ!」
感激に身を震わせながら、そんなことをほざいてくる陽呂之を長めながら、白花那姫神は自分の目が細くなるのを自覚した。
「それでね? それでね? アチキ、シロちゃんの全身に道具を使って丹念にね? 三日三晩のSatisfactory & Enjoyable eXperienceを決行するのだよ。そして、快感に目覚めたシロちゃんはもう、虜となって半狂乱気味に涙流して言って悶え狂いながら、アヘ顔でアチキのエキセントリックフェニックスΩを求めてきてですね? それから――」
爛々と目を輝かせ、ふんすと鼻息を粗くする陽呂之の目の前で、白花那姫神は自分の心がこれ以上なく冷えていくのを自覚した。
「陽呂之さん?」
「うん、何だい? シロちゃん」
嬉々として欲望を語り続ける陽呂之を白花那姫神は遮った。放っておくといつまで語るか分かったものではない。
「それ、本気ですか?」
「勿論だよ。本気も本気さっ!」
力強く、大きく陽呂之は頷いた。
「そうですか。分かりました。……じゃあ、ちょっと電話しますね?」
にっこりと白花那姫神は微笑む。そして、虚空から携帯電話を取り出した。
“お疲れ様です。白花那姫神です。先輩ですか? 大至急ビームを一丁お願いします。特大火力で。……はい、訳は後で話します。すいません、緊急事態なので。はい、失礼します”
「ラブホ経営している先輩とかいるんだシロちゃん。部屋を予約してくれるなんて、乗り気でアチキも嬉しいよ。ビームプレイってアチキも初めて聞くけれど、それがシロちゃんの希望だって言うのなら……アチキ、シロちゃんを愛する男として頑張るよ」
何かよく分からないことを陽呂之が言っている気がする。だが、どうせロクでもないことなのだろう。白花那姫神は無視することにした。
「それじゃあ陽呂之さん。さようなら」
「え? さよなら?」
どういうことなの? と陽呂之は首を傾げてきた。
隣を見ると、既に桜蛇鬼と梅雪鬼の姿も無かった。逃げ足の早い鬼だと思った。まあいい、今日は彼女らにも助けて貰ったし見逃してあげよう。
そして、白花那姫神は部屋から姿を消し、事務所へと帰った。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
その日の夕方。晴天だったにもかかわらず、某所の遊園地で巨大な雷が落ちて救護施設が壊滅したというニュースが流れた。
不幸にしてその場に居合わせた二十代の男性が巻き込まれ、重傷を負ったものの命に別状は無いらしい。医者に言わせると、この程度で済むとは奇跡としか思えないそうだ。
また、遊園地に来ていた客の何人かから、遙か上空で人影らしきものを見たという目撃情報が得られている。
それから数日間、先日に発生した極竜会本家壊滅事件を連想させる形で、この謎の人影はネットでも大きな話題となったのだが……。それはまた、別の話である。
―To Be Continued―