| [255] 《谷口雅宣教団の30年史》 |
- サーチャー - 2015年08月15日 (土) 17時02分
<谷口雅春先生に帰りましょう>
《谷口雅宣教団の30年史》 - 破邪顕正
2015/08/15 (Sat) 16:08:10
戦後70年の節目にあたり、谷口雅宣総裁が教団に乗り込んできてからの30年史をまとめてみました。
これまでに発表したものに、最近の重大な情報を追記しております。
今の教団がオカシイと思い始めた信徒の方に、その淵源がどこにあるのか。
この30年の歴史を俯瞰して考察していただければと思う次第です。
<生長の家教団の変質を物語る30年史>
○昭和58年…「生政連」解散(活動停止)(総裁は、当時、生長の家理事)
○昭和59年…「日本を守る国民会議」脱退
※愛国運動からの事実上の撤退!谷口雅春先生はその前身である「日本を守る会」の結成において「生長の家の一つや二つ潰れてもかまわない」とまで仰いました。生長の家は祖国・日本のためにこそあるとの尊師のご覚悟を垣間見る思いが致します。
○昭和60年6月17日…谷口雅春先生ご昇天 「實相無相光明宮大真理説授正思惟大聖師」
○昭和60年…青年局(青年会中央部)解体
※谷口雅春先生の教えに純粋に生きようとして青年会運動を牽引していた当時の青年会長等が次から次と処分を受け、青年局が解体される。これ以降、青年会組織はみるみる弱体化していくこととなります。
○平成元年…「両軸体制」のスタート
※このときに、谷口雅宣・広報編集部長(当時)は、「神誌」という呼称を否定し「普及誌」とします。「普及誌」には、谷口雅春先生のご文章が殆ど掲載されないということになりました。ここに谷口雅春先生否定の萌芽を見ることができます。
○平成2年…『理想世界』誌上に「ネットワーク考」を連載 大東亜戦争侵略論を展開(11月、副総裁になる)
○平成3年…「宇治盂蘭盆供養大祭精霊招魂神社大祭祝詞」の書き換え
※『聖霊天降る宇治』の巻末には「祝詞集」が収められています。その217頁の「尽忠の精霊に告ぐる詞」と219頁の「精霊招魂神社大祭祝詞」とを読み比べると、両者の違いがはっきりとわかります。 そこには、谷口雅春先生と谷口雅宣総裁との「大東亜戦争観」の遠いが如実に示されています。即ち、後者には、大東亜戦争における日本の使命、役割が見事に剥落しているのです。意図的に削除されたとしか言いようの無い重要な文言を前者から抜き出すことにします。
「…今や人類進化の一周期の終りにのぞみすべての人類は その皮膚の色彩の相異にかかわることなく平等の尊厳を恢復し平等の取扱いを受け その国土は独立し万民平等の自由が確保せらるべき理想実現の時期が近づきたりしがこの理想実現のためには 何れの国の民族かが尊き犠牲となって有色人種に“神の子”の実相を自覚せしめその独立精神を喚起せしめる天使たるの役割を演ずる必要ありしなり…」
谷口雅春先生は、ここにおいて、はっきりと大東亜戦争における日本の役割を「天使たるの役割」と仰せられたのです。 ところが、谷口雅宣総裁は、この箇所が気に入らなかったのか、全部、削除しています。大東亜戦争を“侵略戦争”と位置づける谷口雅宣総裁にしてみれば、それはとても容認できることではなかったのです。こうして、祝詞は改竄されてしまいました。そして、それを知られたくないと思ったのか、その証拠を抹殺するために、谷口雅宣総裁はこの「祝詞集」が収められた『聖霊天降る宇治』を絶版に処したのです。
○平成4年…谷口雅春先生『新刊書』の発行停止、既刊書重版停止 (「内容上の理由」32点…事実上の絶版)
※平成4年7月15日、渋谷東急インでの取締役会(中島省治、鈴木卓朗、宮本三男、永井光延、辻信行、谷口雅宣、三浦晃太郎、磯部和男の8名) この「取締役会」で暗躍したのが、言うまでも無く、「谷口雅宣、三浦晃太郎、磯部和男」の3氏であります。「日本教文社」の社外取締役でしかない3氏が、裏で示し合わせて、谷口雅春先生の『新刊書』の停止へともっていったのです。そのときに言われたのがこの言葉です。 “谷口雅春先生の『聖典』はもう古い” この会議に谷口雅宣総裁がいなかったら、絶対に、この決定はありえないはずのものでありました。つまり、今から思えば、このときに、「日本教文社」は、この社外取締役3氏によって乗っ取られ、骨抜きにされ、魂までをも奪われてしまい、その社会的使命を終えたのです。
※ご存知のように、谷口雅春先生は毎月、『神誌』に数多くの原稿を書いておられました。それらを編集して、様々な『聖典』が発刊されてきたわけですが、それでも未収録のお原稿がまだまだたくさん残っております。ある人に言わせれば、それらを編集すれば優に100冊を超える新刊書が可能だといいます。 だからこそ、この決定を見る前には、理事会で毎年、谷口雅春先生の新刊書を数冊、出版していくということが決まっていたのです。 それをしも、このような強引な手法、強権発動によって新刊書を出さないという決定へともっていったのです。 それを誤魔化す意図があったのでしょう、今では、谷口雅春先生の既刊書のリニューアルという形態にして、谷口雅春先生の『聖典』を出版しているというポーズだけはとっているということなのです。
※谷口雅宣総裁が谷口雅春先生の『聖典』を絶版にすること、またはその『新刊書』を発刊停止にすることに、どれだけの執念を燃やしたかは、日本教文社の社外取締役に就いたことがすべてを物語っています。 つまり、日本教文社を押さえ込みさえすれば、あとは何とでもなると思ったというわけです。そして、念には念を入れて、生長の家理事会では、聖典の出版については、それまで審議事項として取り扱われていたのに、すべて報告事項に変えさせました。審議事項にすれば、その出版について、理事からの様々な意見や注文があると考えたからです。 しかし、報告事項にしてしまえば、いろいろと言いたくても口出しできない。株式会社である日本教文社が決定したことに、教団側から、異議を差し挟むことは筋が違うということになるからです。 敢えて、そこに狙いをつけて、谷口雅宣総裁は、日本教文社を自分の言いように操るために、社外取締役として入っていったということです。
※絶版処分の本当、本音の理由とは?
@大東亜戦争を肯定する内容の『聖典』は絶版に
その代表とも言うべき聖典が『神ひとに語り給ふ』です。この聖典は、「はしがき」に『本書は生長の家発祥以来の神示のうちの教への中心となるもののみをあつめて「教の巻」としたのであり』とあるように、生長の家の教義を知る者にとって、決して外せないものの一つであるはずです。そもそも、生長の家の教えの代名詞ともいうべき「大調和の神示」についての講義もまたここに収録されているのですから。 ところが、この聖典すらも絶版処分の憂き目にあってしまいました。本書の中に「大東亜戦争の意義」と題して次のように記されているからです。「私は別に戦争を謳歌するといふわけぢやないのですけれども、起るべくして起つてゐるものを、日本民族の侵略だと言ふのは間違なのであります。」(294頁) これが「侵略論」を採る谷口雅宣総裁には看過し得なかったということなのです。たとえ「神示」であろうとも、自分の考え、思想に合わない、不適切と判断されたものは世には出さない、それが谷口雅宣総裁の方針だということです。自分の考え、思想が「神示」に優先する。そういう考えが、今日の「ご祭神」の変更にまで及んでいると私は見ています。
A「占領憲法」を批判した『聖典』は絶版に
谷口雅宣総裁が、「占領憲法」を擁護する、所謂“護憲派”であることが明確になりましが、それは本部に乗り込んできたときからの一貫したものでした。 それゆえに、谷口雅春先生の「占領憲法」を批判する『聖典』も絶版とされました。
B「生長の家」の歴史を覗わせるものも絶版に
革命家がまず為すことは「歴史」を封印することから始まるといいますが、谷口雅宣総裁も同様のことをやりました。それが端的に表れているのが、生長の家の30年史、40年史、50年史の絶版です。 更に、谷口雅宣総裁は、『明窓浄机』まで絶版にし、あまつさえ、昭和35年以降の『明窓浄机』の出版を止めてしまいました。 これについては、当時、日本教文社社長であった中島省治代表の証言がありますから、これは間違いのない事実であります。 昭和35年と言えば、日米安保で日本が大きく揺れた時代であり、それ以降、谷口雅春先生の愛国の至情あふるるご発言がどんどん発表されていきます。 谷口雅宣総裁は、そういうものが発表されることを悉く嫌ったのだと思われます。
C自分を脅かす存在を排除するために
絶版聖典の一覧表で、異彩を放っているのが、『奇蹟を生ずる実相哲学(下)』であります。つまり、その上巻は発刊されているのに下巻だけは絶版にされている…。その理由は、下巻の「はしがき」に、谷口雅春先生が、宮澤潔先生と「朝の神想観を倶にすることにした」と書いておられるからであります。谷口雅春先生から直に指導を仰いだことのない谷口雅宣総裁にとって、これは実に都合の悪い話だったということなのです。
○平成5年…「国際平和信仰運動」を提唱
※これ以降、「日本国実相顕現運動」という言葉が事実上、消えてしまいます。その際のスローガンが“国をこえ、民族をこえて”であります。
○平成7年…「国際平和信仰運動」のシンボルマークとして “鳩葉っぱ”のマークが制定
※「聖旗」の“光輪卍十字架”のマークが「ナチス」を連想させるという名の下に、これが制定されました。
○平成11年…谷口雅宣氏総裁代行
※谷口雅春先生を心から慕う信徒を「原理主義者」としてレッテル貼りし、そういう幹部・信徒がどんどん左遷されるようになります。
○平成12年…ISO14001取得の提唱
※ここから、環境保護運動一本への傾向が強まります。
○平成13年3月7日…蔡焜燦著『台湾人と日本精神』を「日本教文社」が一方的に回収する方針を出したことにより裁判に
※谷口雅宣総裁は親日派≠フ書物が気に入らないのです。それは、平成26年、呉善花先生を生長の家栄える会の出講講師リストから突然、外したことにも顕れています。親日派≠ナあることが理由で講師として呼ばれなくなるというところに、今の教団の本質があると言えます。 ○平成13年…「参議制度」が新設
※この規約改正によって、谷口雅宣総裁が金も人事も握る権力を有することになります(教団完全支配)。 この制度がどんな経緯で誕生したのかを解説しておきます。 話は、平成12年5月2日に遡ります。 ここで、谷口雅宣総裁は自分の意向に添った理事の選出を図ります。 ところが、教化部長の多数決により、総裁の意中の人物の殆どが落選します。 これに腹を立てた谷口雅宣総裁は、自らの意向がストレートに反映する機構改編に着手します。 それが「参議制度」の導入でありました。 この「参議制度」というのは、分かりやすくその本質を指摘すると、教化部長の多数決を経ないで、自分の意のままに参議として任命できるという制度です。しかも、それを「最高首脳者会」として生長の家の意思決定機関とし、ここで教化部長の任免の決定権を持つということにしたのです。 これが通れば、谷口雅宣総裁に反対を唱える理事及び教化部長は徹底的に排除され、イエスマンのみを本部の役職者とすることが可能となります。 平成13年11月20日、志ある教化部長が立ち上がり、公然とこれに反旗を翻しました。 その結果、この案は、継続審議となります。 この結果にまた腹を立てた谷口雅宣総裁は、平成14年1月の教化部長の定期異動において、反対した教化部長の多くを左遷、及び更迭します。 この報復人事を目の当たりにした教化部長は、平成14年1月22日、雪崩を打って、賛成する側に廻ります。 これで勝負あり。 以降、この「参議制度」の導入により、谷口雅宣総裁の独裁権限が大手を振って罷り通ることとなっていくのです。 金も人事権も握られたら、谷口雅宣総裁に抵抗することはもはや不可能です。 平成13年から14年にかけてが、生長の家教団が大きく変質する、その一つの大きな転機であったということができます。
○平成15年…“森の中のオフィス”構想の発表
※このとき谷口清超先生は原宿の本部を移転することはまかりならんと言われたと言います。
○平成15年7月16日…教修会において“法燈”は既に継承されていたと発表
※本部講師(補)対象の教修会において、谷口雅宣総裁は、“法燈”は副総裁に指名された時点で既に継承されていたと発表します。これ以降、“法燈”継承者である谷口雅宣総裁に「中心帰一せよ」という動きが顕著になっていきます。 また、大東亜戦争侵略論が教団の公式見解となったのもこの教修会でありました。
○平成16年…「新教育者連盟(新教連)」を教団から切り離す
○平成18年…総本山の「鎮護国家特別誓願券」の書き換え
※「鎮護国家」を外し「世界平和」が入ります。その後、平成26年、総本山の手水舎の柱からも「鎮護国家」の文字が消され「世界平和」に替えられます。
○平成19年…環境保護運動が本格化
○平成20年…「誌友会」のテーマが「絵手紙」「ノーミート料理」等カルチャー化が顕著に
※宗教本来の「魂の救済」が脇においやられ、環境問題ばかりが強調されるようになり、「誌友会」もカルチャー化の一途を辿るようになります。
○平成20年10月28日…谷口清超総裁先生ご昇天
※諡号に「大聖師」が入り「實相無相光明宮弘誓通達大慈意大聖師」。「大聖師」は谷口雅春先生のみ、という谷口清超先生のお考えは無視されました。
※谷口清超先生のお通夜で、荒地浩靖先生、宮澤潔先生の出席が拒否される。この時、お二人を出席させようとした谷口恵美子先生に対して、谷口雅宣総裁は「アンタ」呼ばわりする。こののち、谷口恵美子先生は、子供や孫、友人の方と自由に会うことができなくなり、所謂、軟禁状態におかれます。あまつさえ、毎月、家賃等で100万円(うち40万円は家政婦)を徴収されることとなります。
○平成21年…「朝日新聞」を推奨し、民主党支持を表明
※「産経新聞」に代わって「朝日新聞」を読むよう、信徒に薦めるとともに、「自民党」を猛烈に批判し、「民主党」支持を表明して、教団の左旋廻がいよいよ明らかになりました。
○平成22年…「四無量心を行ずる神想観」ニューバージョンの発表
○平成22年…宇治別格本山の盂蘭盆大祭での「霊牌」焼却をやめ、燻炭化
※「霊牌」のいわばミイラ化です。CO2削減のためが表向きの理由でした。
○平成23年…「総本山は聖地ではない」と発言(谷口雅春先生26年祭にて)
○平成24年…『大自然讃歌』『観世音菩薩讃歌』を発行
※「聖経」を補強する必要があるということで創られます。最初は、「聖経」に取って代わるものではないと言われていましたが、今では、どんどんこの「経本」の読誦が行われています。
○平成25年5月27日…『生命の實相』等の著作権裁判の最高裁判決において、教団側の完全敗訴が確定
※『生命の實相』、「聖経」等の著作権は「公益財団法人生長の家社会事業団」にあることが法的に確定いたしました。これにより、教団は、『生命の實相』も「聖経」も失うこととなりました。
○平成25年…「ご神像」の撤去、“森の中のオフィス”へ移転
※「ご神像」は汚い毛布にくるまれクレーンでつりあげられ、作業員の土足にふみつけられました。移転に祭し、教団は何の儀式も執り行いませんでした。
○平成25年…会則の変更
※「栄える会」の会則の目的から「本会は聖典『生命の實相』の精神を信奉し、―世界的視野に立つ有為な産業人の養成を図る」の部分を削除。 「教職員会」の会則の目的から『人間神の子の実相』『日本国の実相』『天皇の実相』を顕現し真に平和な世界の建設に寄与する」の部分を削除。
○平成25年…安倍首相の靖国参拝を批判
※中国・韓国の反発を招いたとして安倍首相の靖国神社参拝を猛烈に批判しました。
○平成26年2月…東京都知事選挙で、共産党が推薦した宇都宮候補を支持
※「日の丸」「君が代」に反対の共産党推薦候補を支持すると表明した総裁は、明らかにサヨクであることがこれで明らかになりました。
○平成26年3月1日…総本山で執り行われた「立教記念式典」において「実相額」が覆い隠される
※国旗「日の丸」も「聖旗」も掲げられず、国歌「君が代」の斉唱もなし。ただ、壇上には「鳩葉っぱ」の旗のみ。その上、顕齋殿が土足履きになりました。
○平成26年4月3日…「神武天皇陵遥拝式」後の「大日本神国観」が「基本的神想観」に変更
※総本山では、4月3日、この日に、神武天皇が崩御されたことをお偲びし「神武天皇陵遥拝式」を執り行います。そして、その後は、「大日本神国観」を実修するということが長年の伝統でありました。それが谷口雅春先生のご指示だったからです。ところが平成26年から「基本的神想観」に変えられました。
○平成26年4月…谷口恵美子先生の高知への脱出
※谷口恵美子先生は「成年後見制度」を強要されて、通帳と実印とを取り上げられる。そして、谷口恵美子先生は軟禁状態のお山から高知の宮澤先生ご夫妻の元へと脱出されます。
○平成26年5月…「原宿本部会館」の解体が始まる
○平成26年9月27日…「大調和の神示祭」が中止となる
※これにさかのぼること、5月より「神示祭」が廃止となりました。この「神示祭」は谷口雅春先生のご指示により執り行われてきたもので、この廃止はまさしく谷口雅春先生のご意思を踏みにじるものであります。
○平成26年…「集団的自衛権」に反対を表明し、改めて「大東亜戦争」を否定し「占領憲法」を平和憲法として擁護する立場を鮮明に
※谷口雅春先生は「占領憲法」を一貫して批判してこられました。しかし、谷口雅宣総裁はこれを擁護するとはっきりと表明しました。谷口雅春先生の思想・信条とは全く相容れないのが谷口雅宣総裁であることが、これで明らかとなりました。
○平成26年11月21日…総本山の「ご祭神」が変更になる
※「ご祭神」が、「住吉大神」のほかに「天之御中主神」「高御産巣日神」「神産巣日神」が加えられました。これは、明らかに谷口雅春先生の「教え」に反するものであります。 昭和15年4月、「宗教結社生長の家」が生れた際、本尊について、次のように「奉齋主神」が明記されます。
>道場又は集会室に特に顕斎せる主斎神又は安置仏なし。心に幽斎する主神としては宇宙大生命(その幽の幽なる神として天之御中主神、幽なる神として天照大御神、現人神として天皇)を礼拝す。宇宙大生命は宏大無辺にしてその仁徳一切に及び一切を包容するが故に、各自は祖先伝来の宗教を信じ又は自宅にて如何なる斎神又は安置仏を奉ずるも差支えなし。宇宙大生命の道を顕揚し、日本国威を発揚し、皇威を顕揚する。道(みちびき)の神として心に幽斎する副神として生長の家大神(古事記、日本書紀に顕れたる住吉大神即ち後に塩椎神(しおつちのかみ)、仏典に顕れたる釈迦観世音菩薩及びその応化仏、基督(キリスト)教の黙示録第一章に顕れたる七つの燈台の点燈者を礼拝す。宇宙大生命は宇宙生命の根本実相にして、宗教に偏らざる哲学的表現を用ふれば「生命の実相」なり。この意味に道場又は集会室に、「生命の実相」又は単に「実相」の掛軸を掲出する事あり。<
これについての解説が、谷口雅春先生著『神の真義とその理解』(102〜103頁)に記されています。
>さて吾々生長の家の団体では、心に宇宙大生命(みおやのかみ)を祭るのであります。その宇宙大生命と云う文字の下に括弧して、「(ソノ幽之幽ナル神トシテ天之御中主神、幽ナル神トシテ天照皇大神、現人神トシテ天皇)ヲ礼拝ス」と書いてありますが、「幽」とは「幽玄」の意味であって、現象の幽(おく)の幽(おく)にましますところの大実在として、日本の称名(よびな)を以てすれば天之御中主神と申上げる大神であります。…天之御中主神は斯くの如く、幽(おく)の幽(おく)の大実在であられますが、この宇宙の大神が、依然として幽玄にましまして、吾等の思慮の及ぶところではございませんが、幽之幽なる天之御中主神よりも一段ハッキリと、『日本書記』に録されたる通りの「光華明彩六合(ひかりうるわしくりくごう)に照徹れる」神として顕現あそばされたのが天照大御神であらせられ、更にその天照大御神様が御肉体を以て現人神として現われていらせられる神様として天皇を礼拝する―これが生長の家誌友が心に主斎する神様でございまして、御宮のような眼に見える形で御祭りするのではありませんから幽斎と申すのであります。即ち吾々は天皇様を宇宙大生命の全徳の御顕現としてそのまま現人神として拝し奉るのであります。歴代の皇霊に対して尊崇を捧げるのも同じ意味であります。<
ここに「御宮のような眼に見える形で御祭りするのではありませんから幽斎と申すのであります」とありますように、「御宮」の「御祭神」にはなじまないのが、「天之御中主神」なのであります。 さて、このことの重大さを知るためには、なぜ、谷口雅春先生が総本山をご造営になさったのかを知らなければなりません。 当時、総本山のご造営に、信仰的な面から反対の声があがりました。「神示」に「吾れに神殿は不要である」とあったからであります。それに対して、谷口雅春先生はどうお答えになられたか。
>宇宙創造の大神は、神示に、「われに神殿は不要である」と仰せられているのである。絶対者にまします大神にとっては神殿は不要であるが、住吉大神と名を示して個別的にあらわれ給うた神については又別の相対的意義があるのでありまして、信仰心の集中の一点として、崇敬の心を散乱せしめないためには神殿が必要なのであります。しかし神殿に奉斉する御神体は偶像ではないのであって、護国の神剣≠もって御神体とするのであります。(『生長の家』誌 昭和53年11月号 45頁)<
このお言葉に照らして考えてみるに、谷口雅宣総裁が今回やったことは、「ソノ幽之幽ナル神トシテ」の天之御中主神を、「住吉大神と名を示して個別的にあらわれ給うた神」と同列に扱うということを意味します。 「絶対者にまします大神」を勝手に「個別的にあらわれ給うた神」にしてしまう。こういうのを神をも恐れぬ所業というのではないでしょうか。
○平成27年5月13日…新たな経本『万物調和六章経』が永代供養の「御霊代」になる
※5月13日「常任委員会」において、聖経「甘露の法雨」に取って代わって、新たな経本『万物調和六章経』が永代供養の「御霊代」になることが決定されました。
○平成27年6月17日…「祝詞」から住吉大神∞聖経読誦≠ェ外される
※運動推進部・三好雅則部長名で、教区五者宛てに、「聖使命感謝奉納祭の祝詞」を改める旨の通知が送付されました。これまでの「祝詞」はこうでした。
>掛巻くも畏き宇宙を治しめす大神、時には天照大御神と顕れまし、住吉大神と顕れましては宇宙を浄めたまひ、仏道に垂迹ましまして阿弥陀如来、観世音菩薩となって世の諸々の魂を救いたまひ、さらに基督教に垂迹したまひては、イエスキリストとも化して姿を顕したまひ、七つの灯台の点灯者にまします生長の家の大神の御前に…
それが、今回の通達で次のように改変、改悪せしめられたのです。
>掛けまくも畏き天地の創造主にまします天之御中主大神をはじめ高御産巣日神、神産巣日神、応下し給いては広大の慈門を開き給い、宇宙のすべての人及び物事を浄め給う生長の家大神の御前に…
「住吉大神」が見事に外されていいます。やはり、予想していたように、所謂造化の三神≠祭祀したそのホンネは「住吉大神」外しにあった、ということがこれでハッキリといたしました。もう一つ、重要なのが次の箇所です。これまでは、
>大神の御前に集ひに集ひて感謝と讃辞を申し上げ、聖経読誦の中に聖使命会費を捧げまつるを…
となっていたのが、今回の通達ではこうなっているのです。
>大神の御前に打ち集いて感謝と讃辞を申し上げ奉り、聖使命会費を捧げ奉る状を…
聖経読誦≠ェスッポリ、抜け落ちているのです。 谷口雅春先生を外し、鎮護国家を外し、今度は住吉大神、聖経読誦まで外してしまいました。これが今の教団の実態です。
○平成27年7月8日…「生長の家青年会」の宣言綱領が廃止、「Our Vision」へ
○平成27年7月25日…「万物調和六章経」がお守り≠ニして発売へ
[まとめ]
以上、この30年を俯瞰すれば、谷口雅宣総裁は谷口雅春先生の「生長の家」を解体するために、そして自分の色(サヨク)に染め替えるために、教団に乗り込んできたことが明らかになるだろうと思います。 この歴史を踏まえて、今後、どう行動すべきか、信徒一人ひとりに、ぜひお考えいただきたいと思う次第です。
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