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生長の家・開祖の『御教え』全相復活
を目指す掲示板

「生命の實相」第14巻 <和解の倫理>

われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、
虚説に対して和解してはならないのであります。
虚説に和解したら実相をくらますことになります。
虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。
虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

<新掲示板の概要について>

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[565] 自称・法燈継承者マサノブ君が、実母・恵美子先生とご兄弟との“不調和”に関して、初めて見解を明らかにした。
千葉周作 - 2015年09月16日 (水) 15時50分




自称・法燈継承者マサノブ君の落第生振りが暴露された! 義兄・実弟の追放や恵美子先生の軟禁同様処置の大不調和を「大調和神示」を持ってきてオレを裁くな!その訳は、元々「真理」そのものが排他性を持っているものだから、という見解を表明したのであります。


実母・恵美子先生とご兄弟との“不調和”に関してのマサノブ君の見解は、開祖・谷口雅春先生の『無門関解釈』を読めばマチガイであります。


正しい解答は以下の如し。


@ <公案> 第九則
『大通智勝如来が十劫の間、道場に坐して、なぜ悟りを開かなかったのか?』

<解答>
『彼自らが、悟りを開かないのである。』



A <公案> 第二十則
『大力量の人、なぜお前はその力を発揮しないのであるか?』

<解答>
『力がないのではない。力を出さないからである。』



B マサノブ君が突きつけられている公案――

<公案>
『法燈継承したほどのものが、なぜ実母やご兄弟と調和(和解)出来ないのか?』

<解答>
『マサノブ君自体が、調和(和解)しようとする気持がないからである』



▼(「真理の排他性」という独自の屁理屈で防戦するのがそもそものマチガイ。完全な「神性隠蔽」・驕慢さの極であります。)


以下「子記事」で詳細説明を行います。


(43)
Pass

[568] 『純粋教理批判=マサノブ君』は次のように考えているであります。
千葉周作 - 2015年09月16日 (水) 23時49分




『純粋教理批判=マサノブ君』は次のように考えているであります。


4741 :純粋教理批判(=マサノブ):2015/09/16(水) 12:52:05 ID:DD4jWV6M
大調和できないことをもって相手を裁けるのは大調和の排他性のためである。これがわたしのいいたいこと。

4735 :純粋教理批判(=マサノブ):2015/09/16(水) 10:18:25 ID:DD4jWV6M
教団内で起きている問題は真理の排他性が原因であるとわたしは考えおります。

4736 :純粋教理批判(=マサノブ):2015/09/16(水) 10:23:49 ID:DD4jWV6M
真理は排他的だ。



要するにマサノブ君は、――

すべて『真理』というものは、排他性を持っている。言い換えれば、「真理」を信じている人達は、「真理」と言う名前で表現されているもの(真理の内容)以外を、“虚説”・“虚言”・“非真理”・“妄想”という言葉で締め出して存在を許さない人たちである。この意味で、真理の一つである『大調和の神示』も排他性を持っているのであるから、<不調和な状態>を非真理として認め裁いてはいけないのである。この「真理自体の持っている排他性」で、本流信徒はオレを裁いているが、余りにも自分中心の得手勝手なやりかたではないか。だから、実母や兄弟との不調和な事態を「大調和神示」の内容に照らしてトヤカクいわれる筋合いはない。大きなお世話だ。―――このように云いたいのであろう。



このようにして一切万事、マサノブ君は自衛の壁を築いて行くのであります。このマサノブ君の非常識屁理屈論法は信徒の支持は絶対的に受けられません。自分で墓穴を掘っているのであります。マサノブ君は、このようにしてすべての真理を抹殺し、自分にとって都合の良い真理であれば、自己主張の役に立つもの、自己弁護のために利用できるもののみを認め、自分にとって都合の悪い真理は容赦なく切り捨てていっているのであります。マサノブ君は『真理』とは何かについて、根本的に間違った把握を為しております。


以下、開祖・谷口雅春先生の御文章を引用させていただきますので、これを読めばマサノブ君の「真理」と言うものに対する間違った見解が浮き彫りにされてくるのであります。



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



『幸福生活への招待20章』第4章38~43ページ < あなたは大力量人である >



「悟れない」のではなく「悟らない」のである。

本日の講話のテキストは『生命の實相』の「常楽篇」であります。その第一章、「常楽生活への道しるべ」という所があります。ちょっと読んでみます。


人間本来常楽の實相

<< 人間は仏子であり神の子でありますから完全な自由を有するのであります。これは釈迦の自覚であり、またキリストの自覚でありました。この自覚を万人に伝えんとするのが我等の光明思想運動であります。われわれは仏子であり神の子でありますから、無限に完全な自由を有していまして、不完全不自由な相(すがた)を呈しているのは、本当に不完全不自由だからではなく、自分自身で眼を閉じて自分の完全な自由さを見ようとしないのであります。誰も自分の眼を閉じさすものはないのに自分自身が眼を閉じて、「神の子」としての無限自由の實相を観ないのであります。<見えないのではない、見ない>のであります。ここが肝腎であります。「見えない」のでしたら自己の不完全さに帰因するのでありますが、「見ない」のですから、その「見ない」ことが我々人間の不完全さに帰因するのではないのであります。>>


最近わたしは、『無門関』の解釈の本を『無門関解釈』と題して出しましたが、その中の公案に、「大通智勝如来が十劫の間、道場に坐して、なぜ悟りを開かなかったか」という公案があるのであります。「本来、仏であるのが人間であるならば、なぜ無明(まよい)が生じたのであるか」という、この重大な宗教上の問題に、それは連関しているのであります。


“十劫”というと、随分ながい間であります。簡単にいうとこの世界が生じてまた滅するその間が・・・一劫といえば一劫でありますが、その十倍の十劫の間、大通智勝如来が座禅していたのであります。“大通智勝如来”の、“大通”というのは、大なる通力、“全能”というような意味です。智勝というのは、智慧が勝れていること、全智である。キリスト教的にいえば、全智全能の神であります。法華経や『無門関』は仏教の本だから“大通智勝如来”と言っている。久遠の本仏のことであります。


その久遠の本仏は本来悟りをひらいているのが仏であるのに、何故、十劫の間も道場に座って坐禅をしていながら悟りを開かないのであるか、というのが公案であります。その公案の解答はです、「彼が悟りを開かざるなり」と、――こういうふうになっているのであります。彼が彼自らが、悟りを開かないのである、それにちがいない。


この『生命の實相』常楽篇の、いま読みましたところには、こう書いてあるのですねぇ。

<< 本当に(自分自身)不完全不自由だからではなく、自分自身で眼を閉じて自分の完全な自由さを見ようとしないのであります。誰も自分の眼を閉じさすものはないのに自分自身が眼を閉じて、(本来の)「神の子」としての無限自由の實相を観ないのであります。見えないのではない、見ないのであります。ここが肝腎であります。>> こう書いてあるのです。彼は、見ないに過ぎないのであって、見えないんじゃないんだから、不完全じゃないんです。勝手に見ないんです。



あなたは大力量人

『無門関解釈』の中に書いておきましたが、その第二十則に「大力量人」という公案があります。大なる力量即ち、力の分量が非常に大きいのです。その大なる力量を持った人間とは、言い換えると、“全智全能の人間”という意味であります。「大力量人、何ぞ脚を拾(もた)げざる」というのが公案です。自由に脚を拾げて大道を闊歩(かっぽ)するところの大力量の力が本来与えられているのに、なぜお前はその力を発揮しないのであるか、というわけなんです。


全ての人間は、「神の子」として、神の生命を宿し生まれておって、大力量を有っているのに、その大力量を発揮しない。そして病気になってみたり、或いは商売に失敗してみたり、入学試験に落ちてみたり・・・するのでありますねぇ。真(まこと)に気の毒なことである。


それは、力が無いのではないのであって、力を出さないからである。既にその有てる力に眼を閉じているからであって、見えないんじゃないんです。その眼を開けばいいんです。心の眼が眠っているんです。


だから、“サトル”っていう字は、“覚(さ)める”という字ですねぇ。悟れる人というのを覚者(かくしゃ)即ち眼が覚めている人と書く。心の眼で覚(さ)めて、自分の生命(いのち)の實相が本来無限に完全なるものであるということを本当に知りましたら、その無限に完全なるものが顕(で)て来る、というわけなんであります。


そこで、この『生命の實相』の常楽篇には「眼を閉ずれば光の真中(まんなか)にいても暗黒である」と題して、こう書いてあります。

<< 人々がおおむね苦悩の(苦しみ悩みの)深き暗黒の淵に自分を見出した時、神を呼ぶというのは「實相(かみ)」にふりかえるということであります。試みに諸君よ、昼間室内で眼を閉じてごらんなさい。諸君は自分自身を暗黒の中に見出すでしょう。しかしその暗黒が自分自身の外にあって、自分自身を引き包んでいるようにお考えになってはなりません。眼を開けばわかるように、昼間の太陽光線はあなたの周囲を取り巻いていますのに、ただ自分の眼(まなこ)を閉じることだけによって、自分全体が暗黒の中に取り囲まれているような観を呈するのです。>>


本来、闇があるのではないのである。光があるのである。やみというものは本来ナイのであって、光がそこに無い。その光を見出さないというだけのことなのであります。その光を見出せば、それでいい訳なんであります。で、光を見出せば、そうすれば、そこに明るい世界が(現で)て来るということに成るのであります。それですから、光さえ見出せば、皆さんは常楽、常に楽しい世界をそこに発見する、ということができるのであります。


但し、人間には本来、新生なる神の生命が宿っておりますから、誰でもある時期に達すると、その神聖なる自覚への願いというものが湧き出てくるのであります。聖なる求めとでもいいますかねぇ。



******************



<ここまでの感想>


@ マサノブ君は常識的に考えてもオカシナことばかりを言っていることが解ります。謙虚さ、自己反省、脚下照顧の心が全くなく、逆に、「オレを真理で批判するな。オレは総裁なのだぞ!信徒の分際でツベコベ言うな!」と傲慢・驕慢さが益々昂じてきていることが解るのであります。


A マサノブ君は、その傲慢さ、驕慢さからして、自ら眼を閉じて「光の真中(まんなか)にいても暗黒である」と思っている、完全なる神性隠蔽の状態であります。ヒドイ状態です。常識を完全に逸脱している。この様な彼の精神状態は異常すぎます。彼のこの様な異常すぎる精神状態を顕わさせているのは、彼の持つ心の波長に感応して来ている巨大な虚構の力をもった巨悪の憑依霊であると断ぜざるを得ないのであります。


B <人間には本来、新生なる神の生命が宿っておりますから、誰でもある時期に達すると、その神聖なる自覚への願いというものが湧き出てくるのであります。聖なる求めとでもいいますかねぇ。> ――― 果たしてこの“時期”はマサノブ君の今世の残された生のうちに訪れてくることを祈りますが・・・彼の今後の余生は、神性マサノブ VS 巨大憑依悪霊 の壮絶な戦いの時期に入っていくでしょう。現在のところは、憑依悪霊の優勢状態であります。ただマサノブ君自体が、開祖・谷口雅春先生の『御教え』を従順に受け入れる心の転換次第という事になると思われるのであります。


(つづく)





Pass

[578] マサノブ君、「どんな真理も排他的」と言う虚構の“白墨の線”を描いて自分を閉じ込め、ニッチモサッチも行かなくなってしまった!!
千葉周作 - 2015年09月17日 (木) 19時34分



『無門関解釈』162〜171ページ (要旨)


<< 人間はすべて大力量人であるのに何故その大力量をみずから縛って、脚にまといついている紅木綿の糸一本を切断し得ないのかという一点が説かれているのである。

わたしの書いた『生命の實相』を読んだら病気が治るといっても毀誉褒貶(きよほうへん)さまざまであり、或る人はこれに対して不思議の思いをなし、或はこれを呼んで奇蹟と称するのであるが、脚下一本の紅糸線、白墨の一線を切断し得ない方が却って不思議であり、奇蹟であると云わねばならないのである。

『生命の實相』の實相篇には「白墨の線も自分を縛る綱だと思えば動けなくなる」と題して次のような一文が掲載してある。――


 鶏を静かに抱いて少しもその翼や脚をバタバタすることが出来ないように抱きすくめ、それを床の上に横に置いて、眼のところから床の上に白墨で一直線を引いて静かに手を離しますと、その鶏はもう起き上ることが出来ないのであります。これは普通、鶏に催眠術を施す方法だと云われておりますが、鶏が動けなくなったのは決して催眠術によって鶏本来の力が奪われたのではないのであります。鶏の力は外からは誰も奪っていない。鶏自身はチャンと元の通りの力を有っている。しかし其の鶏は、自身が一旦チョットもバタつくことが出来ないように抱かれて床の上に置かれ、揚句の果てに、眼の前にありありと自分を縛りつける紐(ひも)のような白線を見た、しかも其の白線がジッと自分を縛りつけているらしく尚も依然として眼の前にある。そのために鶏は『今、自分は縛られている』と信じ、其の『縛られている』と云う迷いの考えに心が引っかかって、生まれつきの自由自在な活動が出来ないで起きる力を失ったのであります。・・・吾々人間はそんなばかなことに騙されはしないかと云うと、必ずしもそうではない。人間は複雑な智慧を持っていますから複雑に騙されるのであります。


斯う書いてある。『生命の實相』に書いてある所は、ほとんど全巻あらゆる方面から此の『無門関』第二十則の「大力量の人、なんに因(よ)ってか脚をもたげ起こさざる」と云う真理を道破してあるので、今まで「自分は大力量人ではない。脳溢血や食物や、気温の変化にやっつけられる小力量の人である」と思っていたために病床から起き上がることが出来なかった人が、無造作に起きあがることが出来るのである。実際起き上れると否とはその人が、自分自身を「大力量人」として自覚し得るか否かによるのであり、せっかく起き上っていた人も、途中で「大力量人」であるとの自覚を失墜したならば直ちに倒れてしまって起き上がることが出来なくなったような実例はたくさんあるのである。

・・・生長の家の云うところは十分解った。「人間神の子、大力量人、それが真理の骨髄であり、説(い)いたい限りの一杯なのだな。わかった、わかった!」と云って早合点してはならない。直ぐわかったと云って無門のところへ来たならば痛い棒を喫(くらわ)すぞと云うのが無門の評である「腸(はらわた)を傾け腹を倒す」と云うのは「腹の中にある説(い)いたいだけの一杯を傾け尽くす」と云うことである。併し、いくら真理の真髄を傾け尽くしても、人がその通り承当(うけい)れてくれなかったら何もならないし、承当(うけい)れたと云っても、生半可な早合点では何にもならない。何故かと云うと、「真金を識らんと欲せば火裏に見よ」で「これは金鉱だありがたい、わかった」と云って金を冶金しなかったら、金は金でも金の真価を発揮しまい。金の金たる真価を発揮するためには「火裏に見よ」であって白熱の中で百錬千磨しなければならないのである。その百錬千磨の方法の一つは次の事である。――

禅は随所に主と作(な)る生活である。随所に主となるためには、自分が大力量であると云うことを先ず自覚することが必要であるが、自分が「大力量人」であると云うことを知っただけでは随所に「脚をもたげ起す」ことが出来ない場合がある。いくら大力量でも、あまり大力量過ぎて、歩くに随って、大地が割れ、脚がひざを没するほどに地面の中へすべり込むならば、却ってそう云う大力量は無力量と同一の結果となる。大力量が大力量たる實を現すには随所に調和しなければならないのである。「大力量の人、何に因(よ)って脚をもたげ起さざる?」「彼が随所に調和せざるが故なり」とでも答えなければならないところである。

・・・・・以上は「大力量人、口を開くこと舌頭上に在らざる」に当るところの体験談である。舌頭珠を転(ころ)がすように弁舌を操るところの弁才自在と云うのが、大力量のそのままの相を悟った人であるのである。その大力量人が何故弁舌さわやかに対話することが出来なかったか。それは神に祈り、神を外部の天上にのみ於ける存在として神に栄光を帰するだけでは大力量は自分の中へ帰ってこなかったのである。自分が大力量人であると悟ると同時に周囲に引っかからない大調和の心境、全感謝の心境になったとき自ら痙攣していた舌端が自由自在に引っかからずに喋れるようになったのである。引っかかっていたのは決して物質の舌ではなく、心であったのである。金鉱は鉱石のままでは、金は金ではあるが、周囲と調和し得るものではない。それは床の間の装飾にも婦人の指輪にもならないし、元帥刀の鞘を飾るにも足らないのである。吾等の大力量人の大力量人なることは百錬千磨によって出てくるのである。大力量と百錬千磨、不離の関係にあるのである。 >>



******************



<感想>



@ マサノブ君は、『生命の實相』や『無門関解釈』を読んで<人間神の子・大力量人>というコトバを知ったのであります。併し、彼は元来が、真の真面目純粋な求道者ではなかった。彼の性向(霊体質的思考傾向)はサヨク唯物現象論という価値観であり、同類親和の法則によって悪霊に憑依されて来ていた。彼は、中学生の頃から将来は独裁者になりたいとの欲望を持っていたらしい。(ここらあたりからが異常性格である)。そして、祖父に対する食卓に零した味噌汁を吸うように言われた屈辱感、これらが総合・相乗されて、祖父を凌駕して見返したいという怨念の結果したものが「生長の家」の完全解体と『御教え』の地上からの抹殺という生涯目標となって行ったと思われるのであります。



A この個人的生涯目標が同類相引き合う霊界からの悪霊憑依を招き、誰が考えてもオカシイと思える今回の一連の非常識的マサノブ発言(『純粋教理批判』投稿)として集約されるに到ったのであります。



B マサノブ君は、自分の主張と思想が、余りにも常識からかけ離れて、支持同調する者が少なくなって来た現実的状況(教勢の急落現象)による責任追及をかわすため、自分を守るための「白墨の線」を周囲に引いたのであります。その「白墨の線」とは、―――

1、 開祖・谷口雅春先生の説かれた「生長の家」の真理は、排他的なものである。(4736 :『純粋教理批判』=マサノブ)

2、 教団内で起きている問題(実母・兄弟の追放という不調和)は、真理の排他性が原因である。自分の責任ではない。(4735 :純粋教理批判=マサノブ)

3、 実母・兄弟との不調和を「大調和の神示」という排他性真理で裁くのはマチガイである。(4741 :『純粋教理批判』=マサノブ)

4、 宗教は萬教帰一といっても結局はイデア論であり環境破壊へと結びつく。そこで彼は、御利益(個人救済)という見返りの獲得手段としての『宗教』を捨て、一切の見返りを求めぬ“純粋贈与”の『哲学』を選択したのだ、というのであります。(4678・4680・683:『純粋教理批判』=マサノブ)



C この様な内容の白墨の線を自ら引いて、その線で自分自身を縛り、無反省驕慢な独裁者となっているのです。依然として“宗教家”と称していますが、彼は“宗教家”を捨てた。彼には常識的な倫理道徳観念すらない。“哲学者”であるから宗教的心情はない。だから、焚書坑儒・兄弟追放・実母の軟禁などを平気で行い、別に悪いこと、人間としての倫理道徳に反する事だとは思ってもいない。平気なのです。無反省なのです。脚下照顧する考え等コレッポチもない。宗教家ではないのだから、一切を自分の責任とする「至上者の自覚」も無く、責任は全て外部にありとして責任逃れの肉体頭脳知を搾り上げての屁理屈哲学理論を必死で考えるのであります。



D 併し、彼・マサノブ君も地上で生きていく以上、「自然の中で物質的にも楽しんで生きたい」、「哲学するのは本当によいもの(4683 :『純粋教理批判』=マサノブ)」と云っているのでありますから、いのちあるかぎり、貴族的生活の資金は必要であり、その為に、「生長の家」看板だけは必死に離すまいと執着しているのであります。信徒を騙し続けて彼は今生を終えるのです。


 
E このように彼・マサノブ君の哲学理論は、机上の空論であり、この世での存在価値や存在意義など全然ないのであります。信徒はこの様なヘボ哲学者、世間的には全然通用しない哲学もどき屁理屈を延々と垂れ流す最低レベルの人間を浄財でもって養って行く必要性など、どこにもないことを自覚しなければなりません。どうして、マサノブ君が、誰が見ても分かるような完全に常識の線を逸脱した屁理屈哲学論もどきのものを、『初心者・ももんが・身分いやしき者・曳馬野・神の子さん』そして、その集大成として『純粋教理批判』と言うハンドル・ネームを使って発表し続けるかといえば、―――

1、 生半可な「大力量人」の自覚で舞い上がり、それを悪用し、更に類は友を呼ぶ法則通りに巨大悪霊の憑依に操られている。

2、 そして、「生長の家」の完全解体と『御教え』の抹殺という強固な人生目標達成のために、周囲との調和を図ることを拒否して来た。

3、 周囲との調和を重視しない彼の性格は、彼の「大力量人」の自覚に磨きを掛ける百錬千磨の生活修行体験を積んでこなかったからであります。物心共に恵まれた生活を送り続けてきたことも一つの理由でしょうが、それよりも、彼は真摯な求道心をもたなかったこと、独裁者志望という権力者志向が強すぎた、それに怨念感情を捨てきれず、怨念を晴らしてやるということが人生最大の目標となってしまったのではないでしょうか。



F マサノブ君は上記の内容のような白墨の線を自ら自分の周囲に引いてしまった結果として、「随所に『主』となる」明朗な自由な生活ができなくなってしまったのであります。マサノブ君が、神性隠蔽200%の心的状態から自己解放を完全に遂げるためには、やはり「大調和の神示」こそマサノブ君の自己解放にとってはなくてはならぬものであったと結論付けなければならないのであります。



G 最後に、―――マサノブ君に突きつけられた総括的公案とは、―――


<公案1>

「大力量の人(=マサノブ)、何に因(よ)って脚をもたげ起さざる?」


<解答1>

「彼(=マサノブ)が随所に調和せざるが故なり」



<公案2>

「大力量の人(=マサノブ)、何に因(よ)って随所に調和せざるが故なりや?」


<解答2>

「彼(=マサノブ)自身の稀に見る傲慢・驕慢さと彼自らの百錬千磨の懈怠にあるが故なり!」

(注:大力量と百錬千磨、不離の関係にあるのである。) 





Pass

[585] 『学』の在るところを見せ付けたい為のHN「純粋教理批判」−−−だけど、<ヘボ・三流・屁理屈屋>=マサノブを全世界へ拡げただけ
観覧席 - 2015年09月18日 (金) 11時00分

< 『純粋教理批判』=マサノブ爺さんの検証 >

@ 屁理屈屋の(自称)哲学者マサノブ爺さんは、盛んに掲示板の上では、「『純粋教理批判』はマサノブではない」と書いている。それでは、こんなにマサノブ爺さんと間違われた『純粋教理批判』はマサノブ爺さんに迷惑を掛けたのだから、普通は謝罪して「掲示板」を去るのが常識

A 『純粋教理批判』は謝罪して掲示板から引退するどころか、益々、イラツキ、頭に来たらしく、もう支離滅裂の精神分裂を呈し屁理屈を書きまくる。よっぽどのパソコン好きの大閑人らしい。

B 『純粋教理批判」=マサノブ爺さん、と間違われている当の自称総裁マサノブ爺さんも、「唐松模様」で「自分は決して『純粋君ではない!』と否定をしないし、「トキ管理人」氏にもそのように伝えていない。いよいよ、「唐松」は「枯れ松」となってしまった。『純粋教理批判』の書き込み内容は、明かに開祖・谷口雅春先生『御教え』批判にも拘わらず、掲示板投稿規則に反するとして、管理人として注意を与えるべきなのに「トキ管理人」氏はその措置をせず。

C だから、『純粋教理批判』=マサノブ爺さんである。間違いない! 繰り返すーーー
 『純粋教理批判』=マサノブ爺さんである。
 『純粋教理批判』=マサノブ爺さんである。
 『純粋教理批判』=マサノブ爺さんである。

D それよりももっと大切なことがある。『純粋教理批判』の“教理”とは、開祖・谷口雅春先生の『御教え』をさす。これを“批判”する根拠はどこにあるのか?

E それはマサノブ爺さんが、平成15年度の「生長の家教修会」で、『今まで(開祖・谷口雅春先生の『御教え』に関して)タブーであったことに、これから(法燈継承したこのマサノブが)挑戦していく』と、清超先生ご夫妻のご臨席なき会場で全本部講師・本部講師補を前にして高らかに宣言したことを、『純粋教理批判」と言うハンドルネームで実行し、猛烈に批判を開始したのである。

全信徒の皆さん! 此のことだけはシッカリ認識しておいていただきたいと思います。









Pass

[593] 八ヶ岳は青空? されど「マサノブ・ヒキコ森」の心は“荒れ模様”・・・
観覧席 - 2015年09月19日 (土) 10時54分



今日も朝から御機嫌ナナメの『純粋教理批判=マサノブ』・・・

頭と心はイライラ・ムシャクシャ・・・

ハンドルネームも ≪トンチンカンは偽信徒確定≫ に変えて
イライラ心(こころ)とムシャクシャ心(こころ)を吐き出し書きなぐる・・・

されど、異才・トンチンカン氏には、まったく歯が立たず!

振向けば、「アンタ! シッカリおしよ!」とジュンコ婆さんの怖い顔???


(参照:「トキ掲示板・部室板」
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1356688903/l50


<写真説明>ーーーこの写真の心が『純粋教義批判=マサノブ』の投稿文によく現われているのです!!!


左 : 本流のものども! どうしてくれようか? ハッタと睨みつける悪霊のスガタ???

中央 : 悪霊の一時帰郷、普通の爺さん

右 : 気味悪く、ニタリと笑う悪霊憑依???のマサノブ君

(ウラで取り仕切る女狐(?)ジュンコ婆さんーーー□□□は、□□□□を□□□!!)


 

Pass

[605] カリカリ、イライラの蛸入道のマサノブ総裁!
観覧席 - 2015年09月20日 (日) 14時30分



ここで一句、

     秋晴れや 心の中は 暴風雨!!

     忙しや 朝からパソコン かじりつき


<句評>

タブーへの挑戦を始めたが、本流からコテンパーにやっつけられ、カリカリ・イライラ 『純粋教理批判』と『曳馬野』の一人二役で書きなぐる! 大閑人の投稿数は朝から既に20個、今日はどこまで書き続けるか?





Pass

[619] 責任転嫁200%総裁のマサノブ君!
常識人 - 2015年09月22日 (火) 11時22分



依然として、『オレは悪くない、オレが乱行をしだしたのは、開祖の教え自体の「排他性」という欠陥のせいであって、オレはその犠牲者に過ぎない』とタワケタことを言い続けています。


4978 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/21(月) 11:13:37 ID:DD4jWV6M
総裁の「ご乱行」がはじまりではない。はじまりは総裁を乱行へと追い込んだ教理の排他性にあるのですよ。


今回の投稿でマサノブ君はーーー

@ マサノブ君は、兄弟の追放と実母への軟禁事件を常識を超えた“乱行”であるとハッキリ認めたのであります。

A 自分の乱行の責任は、開祖・谷口雅春先生の『御教え』の「排他性」という欠陥にある、そんな不完全な『御教え』は信じない、大嫌いである、といったのであります。


そんなに嫌な不完全な『御教え』ならば、トットと辞めて出て行けばいいのでありますが、マサノブ君は居座ってテコでも辞職を拒否しています。やはり、最大の理由は1000億円の教団資産をできるだけ多く自己資産にして行くためであると考えられます。


やはり、マサノブ君は常識人以下の人物と判断いたしました。こんな人物は八ヶ岳の奥深くへ追放するのが一番いいことであります。


<普通以下の常識しか持たない普通以下のマサノブ爺さん>

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