| [153] 現在、「大閑人」、時間が十分にあるようですので、マサノブ君は「真理のツマミ食い」の学者分析をまたまた始めました。輪廻転生・因果応報・・・ |
- 上泉信綱 - 2015年08月04日 (火) 19時13分
またもや、マサノブ君は時間をもてあまし、「初心者」や「身分卑しきもの」の昔に返って、真理のツマミ食いの学者分析を始めました。総じて言えば、マサノブ君は『生命の實相』の全的把握が出来ていないのであります。その依って来る所は、彼は「無の関門」を超え得ずして、「實相」の全的生命的把握ができていない霊的音痴の域にとどまっているというところにあるのです。群盲象を評す、實相と現象の区別が解らず、生半可な霊的知識で實相と現象とを完全に混同して学者的分析を行なっているに過ぎないのであります。まず、「トキ掲示板」に於ける彼のHN「曳馬野」で掛かれた文章の重要部分を抜粋して次に掲げましょう。
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<「トキ掲示板」本流対策室>
695 :曳馬野(=マサノブ君):2015/08/02(日) 05:40:07 ID:kEnG6jMo
未だ生まれたことのないのが神の子人間である、という生長の家に於いて輪廻転生する当体は一体なんでしょうか?人間は高級霊になるまで輪廻転生を繰り返し、何時か高級天体に転生すると云われてはいます。でもそうすると『地上天国実現』と云うのは掛け声だけで実現不可能なお題目で信徒を釣ったということになりませんか?
698 :曳馬野(マサノブ君):2015/08/03(月) 09:50:55 ID:kEnG6jMo
この ≪法罪≫ を、「閻魔さま」はどのように ≪断罪≫ されるのでしょうか・・? これ普通の誌友会での会話としますと、会話にならないでしょう?法罪を犯す総裁の輪廻転生について語らない私は逃げを打っている?『因縁話は用のないものですよ』が私の意見ですが『現象界の人類の運命の遷(うつ)り易(かわ)りや死後の霊の進化の如きは、いづれも「差別界」のことであるから』。 これが輪廻転生とどう関係するのでしょうか?
708 :曳馬野(マサノブ君):2015/08/03(月) 15:54:28 ID:kEnG6jMo
会話をしましょうよ。
711 :曳馬野 (マサノブ君):2015/08/03(月) 18:57:10 ID:kEnG6jMo
『現象界の人類の運命の遷(うつ)り易(かわ)りや死後の霊の進化の如きは、いづれも「差別界」のことであるから』 (「生命の實相」より)・・・文の意味は分かりますよ、でもこれから輪廻転生するものが何かとはわかりません、『何が輪廻転生するのか』を述べて下さい。『輪廻転生なんて用はないです』と云ったことに対し「輪廻転生」「因果応報」の法則により罰せられます、との言い分でしたので、輪廻する当体は何ですか?とお聞きしているのでして、そのお答えを聞いたうえでその返事を致します。 「霊界」=「實相世界」なのですか?これも【今生きている事だけがある】のですから、あえて言えば『永遠の今』を生きる人には霊界とか実相世界とかの区別はないと思います。何時でも人間は一つ世界に生きているものでしょう、それを見る立ち位置により色々の見方、名の付け方をしているというだけのものと思います。
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<マサノブ(自称)総裁の誤謬と本来の『御教え』>
[ 1 ] 實相と現象との混同(ごちゃまぜ)
マサノブ君の主張は、「未だ生まれたことのないのが神の子人間である、から輪廻転生する事はあり得ない」といっております。しかし、スグ後で、「人間は高級霊になるまで輪廻転生を繰り返し」と輪廻転生を認め、高級霊になるまでは『地上天国実現』と云うのは掛け声だけで実現不可能なお題目で信徒を釣ったことになる。これは、信徒を欺瞞しているではないか?と非難しているのであります。そして又、『永遠の今』を生きる人には霊界とか実相世界とかの区別はない、そして最後は、すべての意見の相違は、見る人の観点(立ち位置)の相違によって見方が違うだけのことだ、と自説の正当化を真理のツマミ食いのコトバ、――實相の観点から見ているか、或いは現象の観点から見ているか、という真理のツマミ食いによって自説の誤謬の正当化を図っているのであります。以下、開祖・谷口雅春先生の御文章によって検証して見る事に致します。
@ 「本来生、不滅の神示」
<< ・・・真の人間は「神の子」であって物質ではなく、肉体ではない。肉体ではないから物質の世界に出入する事もない。物質の世界に出入することがないから物質の世界より見れば人間は不生である。不生であるから滅することも亦ないのである。物質界は念に従って生ずる念の映像なるが故に、従ってまた滅すれども「人間」は本来物質界に生ぜざるを以って又滅すると言う事もない。人間は本来「生」である。「滅」に対する「生」ではなく、本来「生」であるから、老なく、病なく、死なく、破壊が無いのである。老とは「生」の衰耄を言えども、人間は本来「生」であるから衰耄せず老朽しないのである。衰耄は「生」にあらず、人間に非ず。衰耄なきを「人間」と言い、老朽せざるを「人間」と言う。病なきを「人間」と言い、「死」なきを「人間」と言う。釈迦は「人間」の生老病死の四苦を見て出家したと言えども、釈迦はそのときまだ「人間」を見ていたのではない。念の影を見て「人間」と思い違いしていたに過ぎない。釈迦が此の世を見て無常と観じたのも「真の人間」の世を観たのではない。それは無明の投影の世を観て無常としたのである。真の人間は無常の中にあらず、肉体の中にあらず、人間は永遠不死、金剛身、如来身、実相身、清浄身である。人間は神の子なるが故に本来「浄」にして不浄ではない。人間を指して不生不滅不垢不浄というのは真相ではない。般若の思想は無常想から実有想に到る過渡的思想であるから、不生不滅不垢不浄を説きたれどもこれは物質に比喩しての方便説である。人間は不生不滅ではなく、本来生にして不滅がその実相である。また人間は不垢不浄ではなく真清浄真無垢がその実相である。本来生、不滅、本来清浄真無垢なる人間の実相を知ったとき汝らは歓びに満たされて手の舞ひ足の踏む所をしらないであらう。 >>
A 新たに生まれるとは、――
<< ここには人間不滅の最高の素晴らしい真理が教えられているのであります。・・・ふつうの人間では到底言うことの出来ない大宣言であります。まことに「観」の三百六十度転回を完成いたしまして、本当に實相を観た神人でないとこの様な言葉は言えないコトバであります。これは私が書いたのではない神様が書かして下さったのです。・・・「人間というものは、<死なない>ものだ!」というのを、唯単に言葉として覚えただけであったり、お釈迦様がそう言っとったからそうだろうとか、谷口がそう言ったから間違いはないだろうというだけではいけないのであります。「人間というものは老いざるものである。病まざるものである。死せざるものである。」それを根本に自覚することが大切なのであります。そこから生活が本当に出発して行くのでなければ、足が地に着いた生活だといえないのであります。・・・人間を観れば、「人間そのもの」人間の實相を見る事が必要なのです。實相を観るのです。實相です。自分の實相というものは神の「いのち」そのものであるのです。そこから人間・久遠不滅の金剛不壊の信仰というものがうまれてくることになるのであります。・・・現象の世界に住みながら現象を超え、肉体をあらわしながら肉体を超えて「霊なる自分」を自覚する。これが「新たに生まれる」と云うことであります。
色々なものが出て来て人間を騙すような現象があらわれて来ることがあるけれども、そんなのを、何故正しい神様が抑えないかと言うと、それは人間が自ら、どれが本当に正しいのであるか、正しくないのであるかという事を自己判断する力を養わなければならないのであるということであります。・・・神様は人間自身の中から「本来の正しさ」が自分の判断によって自然に出てくるように、神様は「悪い行為と見えているもの」をもゆるしておられるのであります。全く神様は本当に人間に完全な自由を与えておられるのであって強制的に「これは善だから是非させる」とはおっしゃらないのです。自らの中に神が宿っているのですから、自らの磨きによってその内在の神性が自ずから発揮されるように色々な環境や素材が出て来るのです。・・・人間を色々な環境に置いて人間自身が、自分で魂を磨き得る機会をあたえてやるためになくてはならぬ或る働きをするために仮に悪人として現れて来るひともあれば、下等の霊が出て来て宗教まがいのことをやったりする場合もある。・・・悪く見えておっても魂を磨く側から観れば悪いものは一つもないわけであります。・・・生長の家は、人類最後の最高の教えをするところであります。救うといっても色々あって、病気が治るのも救いでありますし、貧乏でよわっているのを金が儲かるようにしてあげるのも救いだし、社会の下積みになっているひとが世にでられるようにみちびいてあげるのも救いですけれども、そんなことは一時的救いであります。そんな救いは永久の救いではない。本当の救いというものは、「人間は神の子である。老朽せざるを人間という。病まざるを人間という。死せざるを人間という真清浄真無垢なるところの神の<いのちそのもの>が人間だ」ということを自覚させて永遠に朽ちざる生命の自覚を与える宗教が一番素晴らしい宗教であり、この最も高い救いを与えるのが生長の家であるのであります。>>(「神ひとに語り給う・神示講義教えの巻」146〜163頁より抜粋)
[ U ] 實相は具体的なもの、――實相の中に「個生命」が在る。
<テーマ> 自己の意識と現象生命と實相(昭和35年3月19日)
@ 實相は具体的なもの
柴山 「實相の中には“個生命”はある。あるけれども實相そのものは“個”ではない、いわゆる一つの・・・」
谷口雅春 「そんなことはない。そんなことないですよ。實相の中に“個性命”があるんだ、だからあんたの考えは前提がちがうんだ。實相といったらズンベラ棒で、目も鼻も何もなしに、空気みたいなエーテルみたいなものだというんじゃないんですよ。實相の中には“実の相(すがた)”があるから實相と言うんで“空”じゃないんだ。あんたは“空”みたいな實相を考えているが、そんなズンベラ棒な意味じゃない、現象よりももっと具体的なものがあるんです。それが實相です。その具体的なもの――實相が、縦、横、厚みの現象世界へ映って出ているので、それはちょうど、テレビ・スタジオの(実物の)テレビのスターがテレビ・セットに映って出ているように、生まれ変っているわけであって、テレビ・スターがいつもテレビ・スタジオに中におるのと同じように、いつも個性命が實相の世界におるのです。」
柴山 「個性命は結局、實相の世界にある“理念”でございますね。」
谷口 「理念といっても、そういう抽象的なものじゃない。具体的に生き生きとあるのであって、“理念ですね”なんていうような哲学的な表現をすることも、説明のためにあるけれどもだね、理念というような哲学的な漠然とした概念じゃないんですよ。生きている生命として、個々の生き生きとした“いのち”として實相の世界にちゃんと個生命がおる。テレビのスターが、テレビ・スタジオに居るように居る。それがテレビセットにいろいろ映って出て来ておるように出て来るんだよ。波長が違うと日本教育テレビに出て来たり、日本テレビ、NHKテレビに出て来たりするように、各所に転現しながら同一スタジオにおる。各所に生まれ変りながら實相は生まれ変っていないという状態――だから『維摩経』における文殊菩薩と維摩居士との問答のように“来たらずして来たる”というように、現象(ここ)へ実際は出て来ないで、しかも出て来たように現われている。」
A 個性ある生き生きとした實相
谷口 「そう、それは現象の概念をもって考えると、そんなことはあり得ないとなるから、分からないことになる。生れていながら生れていない、ということになるんですよ。」
柴山 「實相から個性命として形になった瞬間に、それは現象になるわけですか。」
谷口 「いや、實相の世界にすでに形がある。理念とは純粋の形である。縦・横・厚みの嵌(は)め枠(わく)にはいらない前の形である。テレビ・タレントが形があって既にテレビ・スタジオにおるように、實相世界に個性命がちゃんと形があるんです。」
柴山 「おのおの一つ一つすべてにわたって・・・」
谷口 「現に生き生きと個生命がおるんです。その個生命が“すでに仏である”というわけで、お釈迦さんも百千万億阿僧祇劫(あそうぎこう)前から悟りをひらいている仏であるという。その“仏”というのは概念ではないのであって、具体的な“生きた仏”として百千万億阿僧祇劫(あそうぎこう)前からおる。」
柴山 「そうしますと實相の“一即多”ということは、・・・」
谷口 「一即多は一即多で、それはたとえばテレビの波があって、そこに具体的な個々の人間がおって、それはみな個性があるけれども、しかも一つの波でつながっている。一にして同時に別々であるというようなもんだね。」
柴山 「それでは實相は各個のはっきりした原型があるんですか。」
谷口 「原型があるんだ、完全な原型が。それがいくらか捨象されて――その姿の一部分というか、立派なところがぬけて――不完全に縦横厚みの世界に現われている。ちょうど実物は立体的存在であるけれども、写真に写したら“厚み”が捨象されて、平面的存在に現われるようなものですね。現象世界は實相世界より劣ったように現われているんだ。それをだんだん上手に写すようになれば、それがいわゆる“進化”とか“無限生長”とかいうことになるわけだ。」
柴山 「私は實相とは無限の可能性のように考えていましたんです。」
谷口 「現象界からみれば無限の可能性だが、實相界からみたら“すでに”あるんだ。可能性どころじゃない。」
柴山 「形以上の形・・・?」
谷口 「形以上の形、そうです。實相は実の相(すがた)で完全な形が既にあるのです。」
柴山 「個性命が既に實相世界に於いてかたちを備えてあるのでしたか。どうも有難うございました。」
B コップの中の箸(はし)はゆがんでみえるが
高橋 「今の質問につきまして、途中で感じましたことですが、この“自分がある”という、自分の意識は現象である。したがってその現象の意識が永遠であるとすると、現象が實相と同じであるというところに、現象の意識と實相の意識が、はっきりつかめないと私は思ったんでございます。実際に私たちが死んで、生まれ変りをくり返した時に、やはり霊界においても意識はあると思うんです。その意識の区別――現象と實相の――がはっきりつかめないんじゃないか、ここが大事なところだと私は思ったのでございますが、いかがなものでしょうか。意識の中には實相の意識と現象の意識が同時にあるんじゃないか。心の中には迷いの心と實相の心があるとおっしゃられておりますけれども、その意識の中には本当の<いわゆる永遠不滅なる完全な>意識――生命と一つなる意識と同時に、迷いを起こすところの意識があるような感じがするんでございます。そこで、“現象の意識”と“實相の意識”とが非常に区別がつかみにくい、むつかしい問題じゃないかと感じましたんでございます。」
谷口雅春 「それはね、<生命が『認識の形式』を通過する際に起こしたる『歪み』なり>と聖経『甘露の法雨』にあるところの歪んでいる迷いの意識だ。歪むのは、光線があるからレンズを通る時に“ゆがむ”わけで、光線は實相から出ているわけだ。光線というのは心の意識のたとえで、實相の意識が“認識の形式”――レンズならレンズみたいなものを通過する時に、實相そのままでなしに“ゆがんだ”形で現象世界に出て来る。しかし“ゆがんだ”形は本当にあるのかというと、それは實相(ほんとうのすがた)じゃないんだから“ない”。仮相であってほんものじゃないから“ない”。あるように見えておるけれども“ない”。本当にあるのは屈折しないところの、初めからの實相の意識だけである。けれども現象としてはゆがんで“ある”ように見える。ちょうどコップに水を入れてハシを入れたら、現象としてはハシが折れたようにユガんでみえる。見えるということから、見えるのは“ある”のだといえば、折れた箸は“ある”。けれど実物を見たら箸は折れてない。それと同じで「迷っておる心」というのは本来“ない”ということになるわけですよ。
C 見る立場によってちがう
善福 「こういう時にハッキリさせなければならないと思いまして、おたずねの形で私の考えを申し上げたいと思います。“生命の實相”というのは、生命の本当のすがたと考えております。私、誌友会で「霊こそ尊し、善のみの世界」というテーマでよくお話いたします。生命といいますと魂のことであり、『甘露の法雨』では“心”ということで出て来たり、『天使の言葉』では“念”という語(ことば)で出て来ます。これは内在の神、内在の神性、内在の仏性だと思います。個生命は大生命とつながりがあって、大生命の内に個生命がある。“神の世界”のうちに“私の肉体”があり、その“肉体”のうちに私の魂がある。それはちょうど、ラジオの電波の中にラジオの“機械”があり、“機械”の中にも“電波”があるのと似たようなことだと言っています。“實相”というのは“本当の相(すがた)”。“本当の魂の相”はみな“神の子”でありますけれども、これがいろんな意識によって覆われて(包まれて)いる。たとえばよごれており、かすみがかかり、波があり、雲にかくれている。それらをみんなとりのぞいてしまえば、それこそ即身成仏、いま仏の心、神の心になる、というふうに解釈しておりますんです。いかがでございましょうか。
谷口雅春 「それは現象の方からのぞいてみたら、そういうふうに解釈できるというだけだ。」
林 「表現が悪いかもしれませんが、そうなると二元論の残渣(ざんさ)が少しあるような気がするんですね。」
谷口雅春 「現象からのぞいての説明になってるわけだからね。」
D 實相は實相の心で把握すべき
林 「もし肉体の中に霊が入っているというような二元的なものであれば、物質的な働き――言葉の波動が鼓膜(こまく)に達し、脳神経を動かすという物理的な働きが心に転化するわけはないんで、心と肉体が本来一如のものであればこそ、それが心に変化するんですね。ですから肉体の中に魂が入っているのではなく、肉体は魂の表現である。要するに實相は實相の生命をもってでないと把握できないと思うんです。脳髄知識をもってそれを解明しようと思っても、そこに何らか現象的なものがあって、理屈はいろいろと何でもつくんですが、現象の説明ではなかなか解明できない。われわれが道場に坐って、實相の心になって神想観して把握したところの生命こそ實相である、と私は思います。」
谷口雅春 「それは同じ問題の解釈でもですね、その人がどの立場に立って説明するかによって解釈の相違、表現の相違がでてくるわけなんです。それでいま林さんが言われたように、實相は實相の立場に立ってみないと本当の解釈・把握ができない。しかし現象の立場から、逆からのぞいてみることもできるんです。逆からのぞいてみたら、こころは肉体の脳髄の中に魂というものが入ってできる、その魂が生まれ変って、というように現象の面から逆にのぞいていく。それもウソじゃないんだ。そこから見たらそういうように見えるんだということが、ちょうどコップの中に水を入れて箸を入れたらハッキリ折れて見えるし、写真にとっても曲がってとれる。これはたしかに光線がゆがんでる。箸がゆがんでるかどうかはわからんけれども、光線はゆがんでいるということは事実であってですね。まあそういうように物理学的立場において説明したら、箸がゆがんでみえるという方が本当になる。コップに入っておる箸から出ている光線はハッキリとゆがんでいるんですから、箸がゆがんでるということも、その立場においては間違いではない。けれども箸そのもの――實相――の方から言うとですね、いくら外から写真に写して光線がゆがんどっても、箸そのものはゆがんでないというように、「箸そのものの立場から見る」というのが「實相の立場から見る」ことになるわけです。現象の方から、周囲から、科学的立場から説明していくのと、宗教的立場から説明していくのとは、全然別の立場になるわけなんだ。それで科学的立場から理屈でおいつめていっても、“實相はすでに完全である”ということは、實相的立場から箸そのものを抜いてみないとわからんのと同じように、立場によって説明のしかたがちがう。 心というものでも、心理学的立場でいうと現在意識と潜在意識というし、心霊学的立場からいうと、エーテル体の働き、幽体の働き、霊体の働きというぐあいに、それをみる立場によって変わって来るわけなんです。物理学的にでも、光はエーテルの波であってどれだけの振動が赤に感ずるとか、黄色に感ずるとか、というふうにも説明できるし、あるいは光は一つの“粒子”であるとも言える。あるいは哲学的にいえば、光とは粒子もなければ波もない。それは「意識の現象」だというようにも解釈できる。エーテルの波というものは色がついてない無色であるのに、「色」と感ずるのは意識の問題であって、そんな「色」という実体は“ない”んだと解釈しても間違いじゃないんです。それは自分はどの角度に立って、そのものを説明しようとしているかという立場によって、表現の仕方が変わって来るわけなんです。それを、すべて一つに表現しなかったら、矛盾があるように思うのは間違いなんです。矛盾はない。“その”立場から見たら“その”解釈が正しいのであって、そこで生長の家で説くのは、實相的立場から、根本的に説いているということになっているのですよ。」
柴山 「そうしますと、實相世界に形以上の形が厳然と、非常に“はっきり”あり、その形ある中には“自己意識”という個性命の意識があるのでございますね。」
谷口雅春 「そう、そう。實相世界には形相(かたちすがた)のある個生命が実在し、その個生命には既に個生命の意識が“ある”わけなんです。それが現象意識として出て来る場合には、その荘厳さの一部が捨象され、コップの中の箸のように歪(ゆが)んだり、不完全になって現われているのです。」
(實相研鑽・第一集174〜187頁より抜粋)
[ V ] 輪廻転生について、――
@ 輪廻転生(『別冊・真理<正死を越える道>P56−59』
<<「生まれ更り」即ち「輪廻転生」と云うことは、人間の個生命が肉体の死後も存在して、再び新しい肉体に生まれるという意味であります。輪廻転生を以って、魂または「固体精神」の進化の方法だと考えるのは東洋の宗教思想であって、何億という多数の人間同士の間に存在する現世の不平等の生活を解釈する最も合理的なそして最も理論的な説明の仕方だと云うことができるのであります。この原理は、貧富の懸隔、文化の差異、能力の相異、肉体的に不利なものと完全なものとを生ずるその根元に遡って、精神的天賦(てんぶ)、徳性、及び霊的進境の相異の説明に適用されるのであります。 この説は、次の如き概念の上に築かれているのであります。即ち一個人、一身体の生命期間では生得の可能性及び精神的可能性を充分に発揮する機会が与えられるためには不十分であるから、神聖にして公正なる神の摂理は、各人の魂に自己の現世及び前世で学んでいないことがらを他の生命から学ぶ機会を与えるために、また別の環境にその魂を生まれ更って出て来させ給うのであります。即ち政治、社会、経済、文化等の偶然的な環境条件のために個生命は、一生涯の期間中だけでは著しい進歩を遂げるために必要な経験を通過することが出来ない場合が多いのである。また幼少時代の師友関係、及びその環境条件に於ける経験は個々の魂に或る偏った習慣を与えるし、両親、牧師、教師等の無智のために、その人の魂は束縛されて、奴隷化され、自由な広い経験を得るたの機会が奪われることも多いのであります。だから人間の魂は、如何なる人でも、一生涯だけでは完全な発達の機会を与えられないから生まれ更って出ることによって、その不足せる発達を補うという説であります。 >>
A 心の法則は公正の秤(はかり)である(『別冊・真理<正死を越える道>P.39−43』)
心の法則も自然の法則も生命のすべての分野に於いて「公正の原理」又は「償いの原理」が働いている事を明瞭に証明しているのであります。・・・「心の法則」によって起こる原因に対する結果は、道徳上の問題に於いて、人間が法理論的に行う人工的審判よりも完全であります。・・・人の行動の背後には如何なる潜在意識の強制力があるか第三者からは完全に知ることが出来ないのでありますから、他人をその行為の外見によって誤りなく審判する事は出来ないが、心の法則はこれらを自動的に審判して適当な応報をあたえるのであります。もしあなたがすべての点に於いて或る悪人と全く同じ行動をするならば、あなたは法理論上からは悪人そのものであります。然し心の法則は決して行為の外見のみでは審判を下さない。心の法則はあらゆる場合に於いて完全に公正の応報を与え、自然に各人の道徳的進化を導いて行くようにするのであって、これを因果応報というのであって神が罰を与えるのではないのであります。
心の法則がその法則を破るものに苦しみを起こす働きをしないとすれば、その人は誤った道に行くこと(進化に逆行すること)が免疫性になって誤った道を進むがままに何時までも放置されることになるでありましょう。その結果は人類は宇宙の進化の法則に逆行し、人類は絶滅の危機に瀕(ひん)するでありましょう。ここに心の法則を教える者が出現して、法則を正しく用うる道を教え人類を絶滅から救う必要があるのであります。 業の流転と云うことから考えるならば法則に背いた為の業の刑罰は、法則に背くに至らしめた潜在意識内の欲望の惰力(業因)が根こそぎ引き抜かれて意識外に除かれた時に支払い済みとなるのであります。誤れる感情が起こるのは、欲望の背後から駆り立てる業の力――すなわち潜在意識内の念の惰力――であって、この悪に駆り立てる感情のエネルギーが精神科学的な認識即ち「悟り」によって中和されるか、苦痛によって帳消しされるまではその欲望は執拗に続くのであります。欲望とはその目的に駆り立てる潜在意識的な業の惰力の事であります。水が自らの重さによって水平を求むるために落下する如く、感情の駆り立ては自らを堕落せしめることによって平衡を得ようとして、そこに色々の問題を起こし苦痛を与えるのであります。「悟り」はその落下の水力を合理的に調節して、善き目的のために使う水力電気の如きものであります>>。
B 償いの法則(『別冊・真理<正死を越える道>P.70−74』)
<<「償いの法則」は全宇宙に行なわれているけれども、本能水準のものよりは人間の場合の方が、高度に顕われています。肉食獣には道徳的感覚がなく、凶猛残忍にたいする精神的報いがないように見えます。然し人間の場合には精神的道徳的法則に背く場合には、「償いの法則」が要求する代償を支払わなければならないようになっています。キリストはたとえをもって「最後の一銭までも支払わなければならない」と教えています。この刑罰は、人格神が課するのではないのであります。これは釈尊の説教である業報の法則にも一致するのであって、誤ることなく、容赦することのない法則によって償いが要求されるのであります。・・・ 高い世界の「償いの法則」は負債の支払いを要求するのであります。負債は魂の内にあるのであって、自分の魂がそれを支払わなければならないのであります。・・・それは体験によって魂がその前非を悟ると云う形式で支払わなければならないのであります。人間の法則や自然の法則の前ではそうは考えられないかも知れませんが、**(確認後掲載)者の習慣や行為の性質からして、如何なる形式によるとも負債を生じた「生まれ更り」の世代中には到底完全には負債を支払う事はできないのであるから、不足の分は未来の「生まれ更り」の生涯において支払わなければならないのであります。この不足分の「支払い」は自分勝手な宣告に従ってするのでもなければ、特殊な科料を支払うのでもない、それは自己の心と意識とが他人の権利に敏感になり、之を尊重するようになり、その結果己の欲せざる所を他に施さざる底の心境に達する如き経験によって支払われるのであります。>>
C 因果応報と魂の教育(『別冊・真理<正死を越える道>P.75−77)
<<因果応報と云っても、ある意味から云えば、魂の教育と名付けてもよいのであります。古い宗教では、此の教育中の状態を煉獄と称し、未来の如何なる時にも避けることが出来ないと説いたのであります。然しキリスト教会の独断を信ずる者は天国に住居が与えられ、信じない者は永遠の刑罰が与えられると云うような「教会キリスト教」の教えに較べるならば「生まれ更り」説は、論理と常識に合致していると云うことが出来るのであります。・・・「死」は「来世への移行」であると云うことを受け容れるためには人間の最高の直観が必要なのであります>>
D 「生まれ更り」行く場所(『別冊・真理<正死を越える道>P.77−80)
<<「生まれ更り」行く場所を独断的に決める必要はないのであります。肉体の死後、魂は地球以外の天体に生まれるかも知れないのであります。・・・地球は進化の途上無限に変化ある体験を経るための無限の機会を与えることが出来るのであります。 吾々はすぐ身の周りで、人々があらゆる種類の体験を積むのを目撃します。ある人は幼児より死に到るまで殆ど常に試練と苦難との連続であります。恐らく彼らはそれによって、霊の進化のために必要な何物かを修得しているのでありましょう。「生まれ更り」の説を信ずる人々の用語で言うならば、それは過去世の業の負債を支払っていると云うことにもなるでしょう。或る時代の「生まれ更り」に野獣の如く残酷で高圧的で不公正であった人は、自ら、高圧的に残酷な目に遭って苦しめられて見ることが「他を残酷に取扱ってはならない」と云う高き智慧に到る道であると云うことは道理に叶っているのであります。 霊の進化のための動かすべからざる法則は、面倒だと言って廃棄し去るわけには行かないのであります。仮にこれを棄てるために努力するとしても、苦しみを通して心が一転して過去の考え方を棄て、人間の魂が向上しない限り、人間や動物の感情や本能の、成育し遅れた低級な諸性質を後に遺すことになるのであります。これが一代の「生まれ更り」中に起こるにしても、或いは百代の「生まれ更り」中に起こるにしても、永遠と云う無限の高き目的に比すれば、小さい事であります。>>
E 生長のための無限の機会(『別冊・真理<正死を越える道>P.79−82)
<<次の一事だけは確かであると思われる。即ち永遠の生命と云うことが、唯(ただ)「継続する」と云うだけのことであるならば、何の善き意味もないのであります。永遠の存続が生長を意味するものでなかったならば、キリスト教の地獄と同じく恐ろしいものとなるでしょう。魂が「生まれ更り」することなく一身体あるいは一場所に幽閉されることは、最悪の悲劇であります。無限智(神)は「死」と「生」と「再生」の制度によりそれを不可能にしているのであります。・・・地球上に何人人間が居ましても、その精神的な能力は一人ひとり各々皆違うのであります。この精神的な能力は体験の所産であります。それは肉体的に遺伝するとは限らず、また肉体的遺伝でないことがしばしばであるのであります。精神的霊的素質が如何なる因子で生ずるかは、物質的な遺伝因子を研究する生物学の法則だけでは決定的に解明することは出来ないのであります。・・・そこに霊の進化の法則が見られるのであります。「変化」こそ進化にとって必要欠くべからざるものであります。人間の「生まれ更り」は魂の進化の場と条件との変化を意味します。度々生まれ更ることは、度々異なる体験を積むことを意味するのであります。>>
F 『神真理を告げ給う』(P.65−66)
<<地上で果たすべき最後の過程を卒業した霊魂は高級天体の世界に移住して、もう地球上に帰還することはない。その卒業移住と引き替えに、他の、地球よりも、もっと低い階級の天体に住んでいた未発達の多くの霊魂が、恰も中学卒業の子供が高校へ入学して来るように、地球に移住して来たのである。>>
G 運命選択の特権(『生命の實相』第9巻・霊界篇上巻P.101−102)
<<人間の生涯は摂理――「不可知の手」――によって定められている。恒星と遊星との運行の影響の下に一定の妊娠を遂げ、出産し、そして一定の時日に死するということは摂理の手できめられている。が、運命は修正を受くるのである。審判階級のスピリットが干渉するのはここである。 自己の責任を知ることができるだけに、意識の発達した霊魂は幽界へ移行するやいなや彼の生前のあらゆる行為をまともに見る。そして自己の行為を精査して生じた悲歎と悔恨の情とは、彼が次にこの世に生を受けたとき一段高き進歩を遂げるための努力を喚起するのである。しかしながら自責の意識の発達していない霊魂も、時として霊界の審判廷の前に伴(つ)れて行かれるというのは、彼はその時は何もハッキリ自覚しなくとも、漠然とある執拗な印象を受け、やがて時が来るとこの印象が彼に反省と省察との機会を与えるからである。
H 物質主義者の霊魂(『生命の實相』第9巻・霊界篇上巻P.188−190)
<<ヴェッテリニ曰く、―― 「大多数の物質主義者は、自己の過去世の生活について微かな記憶をすら留めていないので、単純に自己の唯物的意見に固執(こしゅう)するのである。彼等の心の内には自己が信ずる粗大な証明しかもたない、極めて単純な物質的世界観と相鬩(せめ)ぐところの、なんとなくそぐわないような感じが絶対に起こらないのである。彼らはこの世に生まれ出る以前に幽界に昏睡状態にいたのであって、交霊会に呼び出された前の君の父の霊魂のようにさえ達していなかったのである。彼らは生まれかわって出てきたが、自己の過去の状態について何一つ直覚的な認識をも留めないのである。それで彼らは物質的に議論を進めて行けば、最もロジカルだと思われる信仰に驀進することができるのである。低い階級の物質主義者はこの部類に属する。」 「秀でたる思想家、偉大なる知性を備える大思想家のごときでさえも、その霊魂が前者と同じく、はなはだ低い進化のものであることがしばしばある。彼らは幸いにも非常に安全な非常に制御しやすい肉体を得たのである。騎手は下手でも乗馬が非常に良いのである。名馬は最も貧しい騎手にさえ巧妙な乗り回しをみせる。」
I 実相と輪廻転生(『生命の實相』第21巻・教典篇P.179−184および『人生を支配する先祖供養P.80−84)
<<「霊は物質の性に非ず、愛は物質の性に非ず、知恵は物質の性に非ず」ということばがあります。先刻申しましたように仏教ではこの霊という言葉はつかいません。仏教では霊魂は無いとも言われる。霊魂とは言わない代わりに「有(う)」という字を使うのです。三界を分って二十五有に分類したりしている。この「有」というのがいわゆる霊魂でありまして、それは第一義実相的の存在ではない。仮現としての存在なのであります。
第一義実相では人間は迷うことはないが仮現としての人間は迷うて、仮存在として輪廻転生するのです。・・・ この霊妙不可思議な働きは物質から来るのではない、愛というような不思議な生命を生かす働き、智慧と云うような不可思議な心の働き、こんな霊妙な働きは、物質から来るものではない。だから「霊は物質の性に非ず、愛は物質の性に非ず、知恵は物質の性に非ず」なのです。生命の霊性、愛、智慧というものは、いかなる大科学者が、いかなる装置で物質を捏(こ)ねあわしても発現する者ではない。生命は霊なる愛なる智慧なる神からのみ来るのであります。この神から来た生命の霊性が現象世界に投影したのが、現象生命である。この現象生命はどういう状態で現象界に存在に入るかというと一つのバイブレーションとして存在するのであります。このバイブレーションを客観的に観察すると一つの念体である。霊魂または霊体というのはこれであります。物質は実相宇宙の投影が認識作用によってその霊妙性を捨象されて生じたバイブレーションの体(たい)でありますが、この物質の体に、現象生命の体が複合して、肉体人間として現れているのであります。だから人間は大別すると二種の体が重複しているのであります。われわれは体(からだ)が一つしかないと思っていますが、肉体と霊体とが重なり合って一つに見えているのであります。・・・太陽が七色のバイブレーションが集まって一つの無色の光線になっているのと同じように、われわれはこの肉体という物質的波動の体のほかに、霊体的波動の体というものが一緒に複合して一つに現われているのです。それがある期間たつと物質的波動の体と霊的波動の体との分離せねばならぬ時期がくるのです。そして霊的波動の体だけが霊界に生活する。これが霊魂であります。実相生命の投影が、霊魂という現象生命の波動体として現象界に現われた時には、実相の無限次元の性質が、時間空間という五官的認識機能のスクリーンによって縦横厚みだけを残して捨象されているので、縦横厚みの立体空間の世界においては、われと彼との区別がハッキリしているので、実相、自他一体の実相が蔽(おお)い隠されており、その差別智から、いろいろ実相ならざる念を起こし、その念が蓄積されて業(ごう)となるのであります。仏教でいう業とは念の蓄積であります。
一例をあげますと、人を憎い、と思います。すると彼は憎い、という憎む念の振動数が持続されたまま念に蓄積されます。これは、彼は憎いと思った瞬間、宇宙に蓄音機の吹き込み機のようなものがあって、憎いという念がそのままレコードに刻みつけられ、時のたつにつれて、憎いという念が蓄積され、それがたまって無数のレコードになる。これが業(ごう)であります。業の内容は念の蓄積でありますから、念は振動(バイブレーション)でありますから、振動は客観的に観る時は体(たい)であります。だから業とは体であるということができるのであります。まず業が霊体という念の体を創り、その業の種類に従ってさらにまた肉体という念の体を作り、その二種の念体がぴったり一つに重なった時に肉体を備えた現象人間が出来上がるので、霊体が肉体という念の体を、分離して生きているのが霊界の霊魂なのであります。それで霊魂というのも、念の波動体であります。・・・業という仮存在のレンズの厚みの変化に従って現象界への投影状態が変わる。これを生まれ更わると言う。しかし本当の実相の釈迦は生まれ変わりはしない。釈尊自身でも後にはわれは百千万億阿僧祇劫前から悟りを開いている生きとおしの如来であると『法華経』の中で説いていられます。ところが一方には自分はこうこうして生まれかわったということも確かに言っておられる。が、これは業のレンズの変化に従って仮の有が彼方に転現し、こなたに転現したのです。
これは釈迦だけの話ではない。本当はわれわれも、生まれ変わったりなどしない久遠生きとおしの釈迦と同じ存在であり、「アブラハムの生まれぬ前(さき)より吾はあるなり」と言ったキリストと同じ久遠永遠の存在なのであります。
生まれ変わるのは、仮の相(すがた)の我、業の蓄積のレンズによって諸方に転現してあらわれる我であります。だからわれわれは本体は生まれ変わらないでいながら、現象生命は生まれ更わるのであります。仏教ではこれを広略相入(こうりゃくそうにゅう)といっている。広相すなわち現象生命は諸方に転現すれども略相すなわち実相生命は本来去来なしと言うのです。生長の家ではこの略相の我を本当の我と言い広相の我、現象の我を「ニセ者の我」と言っています。「ニセ物の我」というのは本来無であるからそんなものにひっかかるな、そんなものは<ある>と思うなと説くのが生長の家でありますから、それは釈迦の諸法無我と言われた教えとぴったり一致するわけであります。生まれ更わるということはあるにはあるがそれは現象の仮の「有」が生まれ更わるのであって、それは要するに活動写真の影のようなものであるのです。活動写真を見るのに<ある>と思って<ある>という立場で見るから実際<ある>ように見えるのですが、結局それは影で無だ、無いもんだということを知ればよいのです。ただ実相の我のみある!この本当の、「実相の我」「金剛不壊の我」をわれわれが知った時、いっさいの人生の悩みは吹き消されてしまうのです。>>
[ W ] 個生命の進化と向上――
@ 霊魂進化の神示(『神ひとに語り給ふ』神示講義・教の巻(P.167−168)および『生命の實相』第9巻・霊界篇上巻P.102−103)
<<『神の子』なる人間の實相を現象世界に実現するのが人生の目的である。現象世界とは現界、幽界、霊界を通じて呼ぶ言葉である。人間の運命とは『神の子』なる人間の實相(因子=たね)が現象世界に投影する時、時間空間的に展開するのに、おのづから一定の順序を追うて展開して行くように大体定められているのを言う。・・・神の子なる實相人間も、その投影を現象界に完成するには大体一定の時間を要し、植物が日光に逢い、雨露に遇(あ)うが如く、或いは幸福に恵まれ、或いは虐運(ぎゃくうん)と戦うことによって、ついに實相人間の現象界への投影を完成するのである。併し、その投影が完成するには、その投影は『念波の集積』で成立(なりた)っているのであるし、人間は心の自由を有(も)ち、自由に實相の悟りによって念波を浄(きよ)め得もすれば、迷いによって念波を一層汚(けが)すことも出来るのであるから、現象世界に實相人間を顕現する過程(進化の過程)を心次第で縮めることも長くすることもできるのである。霊魂進化の過程を短縮するのは、念の浄化による。念の浄化には、實相を悟ることが第一であり、物質欲に捉(とら)われざることが第二である。物質欲に捉われざるためには、『物質本来無し』の真理を悟るのが第一である。『物質本来無し』の真理をさとる程度に達せざる者には、物質の快に捉われざるための修行として、自ら進んで苦を求めて喜ぶか、物質に快を求めて却って苦を得る体験を通じて、ついに物質欲に捉われざるに到るかの二途しかない。前者は自ら進んで嘗(な)める苦行であり、後者は幸福を求むれども求むれども運命的に他動的にやってくる苦難である。その他に過去の悪業の自壊する過程として自己の霊的流動体に起こる擾乱(じょうらん)現象の苦痛もある。苦難がみだりに取り去られず、多くの霊魂の霊界通信が苦行の価値を力説しているのも此の色々の理由によるのである。(昭和八年九月十五日神示)>>
A 『生命の實相』第9巻・霊界篇上巻・P.97)
<<「理解せんと試みることは進化することである。」>>
B 霊魂の進化の程度の測定標準(『生命の實相』第9巻・霊界篇上巻P.120)
<<・・・ともかくわれらの地上において霊魂の進化の程度を測定する標準はあるのであろうか?この世に出生した霊魂の高さを示す徴候というものはあるのであろうか――と自分はいった。 ヴェッテリニは答える――「直覚的認識――霊魂の認識のほかに、外より見える徴証(しるし)もたくさんある。そのうちの一、二をここに言ってみよう――<第一>、“雅量(がりょう)”である。しかしここにいうところの雅量は人間霊魂の深き認識より出発したる他に対する赦(ゆる)しである。それは聡明なる雅量であって寛大と峻厳(しゅんげん)との必要を知るところの雅量である。Bonte-severite(寛大なる峻厳)こそ向上せる霊魂の特徴として記憶すべき一つである。<第二>、卑しき者、世に出でざる者、弱きものに対する愛――社会的成功、名誉、地位等に対する無関心によってともなわるる愛である。<第三>、哲学的思索の傾向、霊界の神秘を知らんとする熱望、その神秘に貫き入ろうとする努力――これらは霊魂の進化そのものである。」>>
C 霊魂の個性の存続と価値(『生命の實相』第9巻・霊界篇上巻P.135)
<<個性的意識は、進化の過程を通じて層一層個性的となるものであるか?またスピリットは常に自己自身の存在と継続と同一自己を意識しているか?それともある教義で唱えるごとく、進化するということそのことのために、個性的意識が普遍的意識に吸収されてしまうものであるか――すなわち霊魂の進化とは緩徐なる個性の破壊的過程であるのか? 自分のこの問いに対してレイヌは鋭い注意をあつめて聴いていたが、自分の方へ振り返った――
「コルニリエさん。ヴェッテリニのおっしゃるところによりますと、個性的意識は進化の度が進むに従っていよいよますます大となるのです。霊魂が一生涯によって獲得し征服したすべては、その霊魂の個性をそれだけ明瞭にそれだけ強大にするのです。個性は彼のものです。彼のみのものです。蒼色のスピリットは灰色のスピリットよりも個性が明瞭です。白色のスピリットは蒼色のスピリットよりもなおいっそう個性的です。なおいっそう高級なスピリットは、なおいっそう自己自身であるのです。>>
D 霊魂の個性の存続と価値(『人間死んでも死なぬ』P.340−341)
<<その如く、「あなた」の肉体は幾度滅びても、<「あなた」なる理念>は、つねに設計者の中にあって永遠に死滅することないが故に、幾度でも地球またはその他の遊星の如き適当なる環境材料を見出して、そこに“現象的な人間”として姿を現し出るのである。そしてかくして出生する“現象的な人間”は<本当の人間(理念の人間)>のただの投影(かげ)に過ぎないのである。 私は「人間」そのものは、設計者の「理念」なるが故に消えることなき久遠不滅の存在なのであると言った。ここに見逃すべからざる二つのことがある。
(1)「人間」は設計者に関係していること。 (2)「人間」の本質又は“本当にある”人間は理念であるが、その理念とは類型的概念ではないと云うことである。「<人間なるもの>」と云う共通類型的な概念ではなく、ひとりひとりの人間、「あなた」なるもの、「彼」なるもの------等々悉く設計者の心の中に描かれたる個性的な理念であって、決して類型はないのである。設計者を仮に神と云う。神の心の中には決して類型的な理念は描かれはしないのである。神は無限創造である。神は無相にして無限相を内に包蔵する。類型の重複を造り出す必要は決してないのである。「人間」には類型は一人も」ないのであって、悉く個性を備えている。類型の如く見える人間が若しありとすれば、それは本来類型の人間ではなく、まだ未発達であるが故に個性ある人間の特殊性が蔽(おお)われて開顕していないに過ぎないのである。それは柿の嫩葉(わかば)と大豆の嫩葉(わかば)とが、互いに類型的に形が似ているのは、それが本来類型的な為ではなく、それが未発達であるが為にその個性が完全に発揮されていないに過ぎないのである。
「理念」には類型はなく、悉く個性的である。人間も赤ン坊は一層類型的であるが、生長するにつれて“より”一層個性的となる。猿の胎児と人間の胎児とは互いに類型的であるが生長するにつれて別個の斬然(ざんぜん)たる個性を発揮する。民族もその未発達期に於いては類型的な性格が多いが、より一層発達するに連れて、より一層個性的となるのである。>>
J 『生命の實相』第9巻・霊界篇上巻よりの抜粋
<<霊魂の進歩は自己みずからの体験によって獲得した智慧によるのである。人はただ自己が経験したことのみを“本当に知る”のである。経験しないものは「であろう」にすぎないのである。>>(P.128)
<<人の霊魂も意識の鈍(にぶ)い不発達な状態から、しだいに進化するにつれて意識の玲瓏透徹(れいろうとうてつ)した状態へと到達する。かかる状態へまで進化した霊魂は、地上の運命を支配したり修正したりする力を得るのであるが、その力は霊魂の進化と共に常に増加するのである。>>(P.164)
<<スピリットが高級の進化をとげた場合には、高く進化せるという“その”事実によってそこには完全な調和が存在する。といってもこれは個性の滅却ということではない。ある完成せねばならぬ仕事に対する意見がマチマチにならないということである。完成すべき目標は一つである。分担すべき部分がちがっているが、受け持つ仕事をいかになすかということについて諍論(そうろん)されるということはないのである。これに反して低き霊界においては、地上の人間生活に付きまとうていた異論百出的な状態が存在する。各スピリットは地上において有した性癖や意見の俤(おもかげ)をそのまま備えている。社会問題、政治問題、宗教問題等は論争の種であって、彼らにおいてはまだパッションは超克されていない。霊界通信においてスピリットの持説が区々に別れているのはこの理由によるのである
<<人間は正邪を甄別(けんべつ)しなければならない。進化を促すのは研究であり、理会せんとする努力である。もし人間に「真理」ばかりが与えられるならば「真理」に到達せんとする努力はなくなり、彼等の進化は停止するのだ。>>(P.175)
<<あらゆる生物――造られたるものは――進化しなければなりません。それ故進化の方法を見いださねばなりません。>>(P.185)
K 『別冊・真理』<生死を超える道>よりの抜粋
<<人間は一層高き世界に向かって進化の螺旋階段を登って行きつつあるのであります。イエス、マホメット、釈迦、ソクラテス等の聖者は、その生活と教えとによって、如何なる精神的生活の原理を実行すれば、各個人が、そして遂には人類が、一層高き世界に到達することができるかということの目標を示しているのだと吾々の精神科学は観るのであります。>>(P.12)
<<人間の知的発達の程度は、最下級の痴呆者から、大思想家、大科学者の創造的天才の頂点に至るまで実に千差万別であります。この事実が人間の生命は単に「種族」の生命として動物、昆虫、鳥類、魚類の場合のように、一斉に揃って進化するのではなく、「個」としての生命が、個々別々に進化することが判るのであります。人間の心、道徳、精神の発達程度に右のような大差があり、従って、条件に不公平を生ずるという事実は、人間の個性生命の不滅と云う問題に関連して深い意義があるに相違ないのであります>>(P.31)
<<人間不平等の所以――
ともかく人間の天賦は他の動物のように大勢がみな一様ではなく、個人個人がみな精神的にも、道徳的にも、更に肉体的能力にまでも、個性的に異なる発達をしていることによって、人間の霊魂が繰り返し生まれかわる間に特殊な発達をとげたのだと結論してもよいと思うのであります。このことは非情にむつかしい問題であることを私も認めます。とくにこの事には未知の部分が含まれていますので益々困難ではあります。或る点では推理によって結論に到達しなければならないのでありますが、推理に頼ると云うことは、すべての古い宗教と少数の新しい宗教とのどちらにもある致命的誤りの源であったことは明らかであります。然し先入観や偏見によって証拠を抂(ま)げようとさえしなければ、代数方程式の場合のように、人生の事実に合致する答えが得られる可能性はあるのであります。
實相哲学を主流とする神学体系は、「神はすべてであり、神は霊である。故にすべては霊であり、物質は存在せず」と云う直観的真理を基礎としているのであります。この直観を基礎とした哲学および神学は、病気の如き人間経験を否定する時は、理論的であり、科学的であります。これは絶対理想主義の哲学であって、理論的に「罪と病と死」の存在を否定する時、この三つの悪は意識の中に居り場がなくなり、従ってそれらを恐れることが無くなるからとの理由でこの説を受け入れる人にとってはなかなか好結果を得る学説であります。この純粋理想哲学を奉ずる人の信念が昂揚するとき、五官の立証するものを否定し、さらに理性が肯定するものさえも否定し客観的経験さえも否定し去るならば、自律神経を媒介として生理作用を司る潜在意識は、その「否定」によって悪(病気等)をおそれなくなっている人をその悪から解放するのであります。>>(P32−33)
<<心の因と肉体の果――
このような問題に直接に接近して行くためには、心の世界に働く因果の法則の有りのままを研究しなければならないのであります。“宇宙の知性”は人間を創造し、人間の魂に不滅の観念および不滅を実現したいと云う希望を植えつけたのである以上、これを立証する方法も必ず造ってあるに相違ないのであります。しかし如何に多数の人々がそのことを信じているにしても、疑いの存する限り、実例によって立証されていないのだと云うことになるのであります。
人間の大多数が信じ且つ願っているところの生命の「不滅」と云うことは、滅する肉体を超えて不思議な煙幕の彼方にあるのであります。この肉体の眼は、こうした煙幕を貫いて見る事が出来ないのでありますから、理に照らしてその不滅なる「結果」を来たすための「因」を求めなければならないのであります。われわれは盲目的信仰のみを頼りとすることは出来ないのであります>>(P.34−36)
L 『別冊・真理』<生死を超える道>よりの抜粋
<<過去の預言者の偉大な直観にみちびかれて真理を悟る者は幸いであります。然し私たちは単にそこで止まってしまってはならない。私たちは自分自身、己の耳を開いて大自然の声を聴き、心の眼を開いて大自然の魂が斯くも豪壮にして劇的な、適格な言葉で教えてくれる教訓を見なければならないのであります。その教訓はすべて私たち自身に関するものであって、目に見える形で書かれており、私たちによく考えよと言って挑んでいるのであります。>>(P.50−51)
人間には平等はない――
<<ところが人間は平等には生み出されていない。一人一人が、著しい特色、傾向、個性的性格等を持って生まれるのであります。**(確認後掲載)的傾向、残忍な性格、反社会的衝動等を天賦的に持っているのもあれば、又通常の人もいます。通常とは種族民族又は国民の作っている共通の標準に精神的に又道徳的に合致していると云う意味であります。更に或る者は生まれながらにして特に勝れた力と天賦とをもっています。動物や昆虫は平等に生まれると言い得るであろうが、人間は平等の素質をもって生まれるとは言えないのが事実であります。>>(P.69)
差別の原理――
<<身体の生理作用は自然の法則に随って行なわれますが、魂の発達は霊の法則に従って行なわれます。前者は肉体に関連し、後者は霊体に関連します。前者は一時的であり、後者は不滅であります。そして霊体の発達が存続して人間に差別を生ずる原理となるのであります。霊体を使用する魂は如何なる「生まれ更り」の肉体に入るにしても、その肉体に入る前に「個」として存在していたのであるからであります。人間の精神的道徳的身長が千差万別である理由は他に説明のしようがないのであります。これは人間進化の理に叶った説明だと言わなければならないのであります。>>(P.69−70)
M 人間は大海の一波一波ではない、個性生命は肉体死後も滅しない(『人生を支配する先祖供養』P.97−98)
<<人間の生命は宇宙大生命の大海に浮かぶ単なる波ではないのである。“波は消えるけれども大海は永遠の存在である”というような説明の仕方では、人間は何らの慰めも受けることはできないのである。そんな考え方は、「大自然は永遠であるけれども人間は須臾(しゅゆ)的存在で消えてしまう儚(はかな)き存在だ」というのとおなじである。吾々が進歩を願い、向上を志すのは、個生命として独自の人格的存在として刻苦精励努力精進しつつあるのである。人間があらわれては消える波のような存在であるならば、何の為に刻苦精励努力精進するのか――このような人間の“個生命的存在”を“大海の波”にたとえる考え方は唯物論の一種に過ぎないのである。人間は決して波のような無機物をもって譬(たと)えてその存在意識が解るような簡単な存在ではないのである。波に比較して考えたことが間違いであったのである。>>(P.98)
<<生命は、同一条件に対しても個性ある別々の反応を示すのである。・・・生命の反応は個性的であって機械的でないからである。こうして生ける人間の生命は個性に従って、同様の環境条件に於いても異なる反応を示し、異なる人生経験をし、その人でなければあり得ない独特の感応を起こして、その魂が個性ある独特の進歩を遂げるのである。もし人間がこの人生に於いて幾多の困難を克服し、苦痛を忍び悲しみに耐え、複雑なる人生の事件に処して独特の反応を示しつつ、独特の進歩を遂げて来た個性的な人生経験の賜物(たまもの)が、肉体の死と共に何の甲斐もなく消えてしまって、Aの霊魂もBの霊魂も、一様に大生命の一海の中に個性もなく溶け込んでしまうとしたならば、地上の人生経験は全然無意義になってしまうのである。そんなことがあるはずもないし、あって好いはずもないのである。この事については『生命の實相』の「霊界篇」に高級霊のヴェッテリニからの霊界通信に於いて、仏教学者のうちには霊魂は高級に進化するに従って個性を滅して宇宙生命に還元してしまうように説く者もあるがこれは非常な間違いであると、憤激した語調で説いて、霊魂は進化すればするほど一層個性が発揮されるのだといっていることを参考にせられたいと思う。>>(P.97−98)
『人間死んでも死なぬ』<序・闘争なき世界への翹望(ぎょうぼう)>
<<本書で私が申し上げようとすることは近代のスピリチュアリズムの研究から得られた「他界よりの消息」に根拠を置くのであります。霊界通信に真実性をみとめない方にとっては無意義のたわごとのようにも思われるかも知れませんが、いづれは何人もこの肉体を捨てて何処かへ行かねばならないのであります。或いは肉体の死と共に、「人間」そのものもなくなると信じている人もありましょうが、そう性急に速断しないで下さい。肉体死後に霊魂が存続するか、存続しないかで、この世の生活を生きる態度がかわって来なければならないのです。現世だけで、この「人間」が終るのでしたら、利己的快楽ばかりを追求しても好いかもしれませんが、現世の生活は、やがて来る未来世への準備であるとしたら、滅多な軽はずみな生活は出来ないと思います。>>(P.1−2)
<<現世にて苦しんだ人々からくる霊界通信は、苦痛の渦中にいるとき呪わしく思ったところの大苦痛も、現在享受し得ている向上の状態にくらぶれば、実にそれは小さなものに過ぎないと云う事を述べているのであります。私が『生命の實相』第九・十巻に書いている霊界通信の研究はお読み下さっていることだと思いますが、各種降霊会にあらわれて出て来た霊魂(スピリット)は、いづれも現世の苦痛が、今ある如き自己の向上をもたらしたと告白しているのであります。「実に辛(つら)苦しみでした。しかしそれは苦しむだけの値打ちはあったのです。それは私の向上でした。--------そのために得たものは、私の苦しんだ苦しみなどのとても比べものにならないものです。」と一人の偉大なる霊魂(スピリット)は通信してきているのです。
苦痛の意義を否定し、苦痛が加わることを加害と認め、苦痛が存在することを被害と認める限りに於いて「苦痛は世界のいづこにも現存の事実なるが故に」この世界は加害者と被害者との調和なき集団としか認めることは出来ないでありましょう。しかし苦痛の意義をみとめ、苦痛を機縁として一切万物の霊魂が進化し得ることを知るものはこの苦痛の世界を霊魂の向上のための鍛錬の世界として喜んで受けることができましょう。この自覚に立つことによって苦痛は私にとって自分を脅(おびや)かすものではなくなって来たのであります。激しき苦痛は肉体的には実に苦しい。しかしこれによって霊魂が進化するのだと云うことを顧みれば苦痛は私にとっては一種の勉強だと思われるようになって来ました。苦痛が来る毎に私は内なる自己に向かって「苦しめ、苦しめ、大いに苦しめ、そうして大いに進化し向上せよ」と言います。人は歯を治療するためや、健康をよくするためにでも可なりな苦痛を忍びます。それだのにわれわれは霊魂の向上のために苦しむことを呪うべき少しの理由もないと思うようになって来ました。
いやしくも此の世界が存在し得ている以上、どこかで調和しているに違いないのです。これは私が先見的に得た自覚でした。しかし苦痛は不調和のあらわれのように、今まで思われていたのでした。しかしわたしに霊界よりの通信が「苦痛は霊魂の進化のために、なくてはならぬものだ」と教えてくれたとき、この世界は苦痛があっても究極的には調和しているのだと云うことが判って来ました。もう私にとっては苦痛の境涯を閲(けみ)しつつある人も被害者でなければ、苦痛を与える人も加害者でなくなりました。それは互いの無限向上のための切磋琢磨(せっさたくま)であると信ずるようになって来ました。私はこう信ずることによって、今まで敵として見えていた者が、自分を生かす味方に変貌することを体験しました。そこには宇宙の最高理念を実現せんがために、互いに切磋琢磨しながら進み行くための相互の心境を映す「鏡」があるばかりだと解って来たのです。>>(P.7−10)
[ X ] 総括コメント
@ 開祖・谷口雅春先生御創始の「生長の家」の『御教え』を端的な言葉で表現するならば、「唯神實相論」という言葉で表現できるのであります。その内容を更に端的に言えば、「唯神實相・實相独在・唯心所現」であります。すべての思考の観点(立ち位置)は“實相”という観点から思考するのが正しいであります。唯一の実在は神と神の創造せられたる完全円満至美至妙なる世界(實相世界)のみである。神の創造せられたる實相人間は完全円満にして久遠生き通しの霊的実在人間であって、本来生・金剛不壊・完全円満・真清浄・真無垢であり無限生長を生きているのです。それで、この實相人間は、實相世界において皆それぞれ異なる個性を持ち、完全なる想念の自由を持っているのであります。完全円満でありますから、個生命としての個性と無限性を現象的な形としてスクリーンに映し出し、彫像を完成させ、色々な配役のスガタを持って現象世界という舞台で技を磨いていく(個性ある神の子の實相を100%に向けて実現して生命の歓喜を味わって行くのであります。地上舞台の一回きりの人生で完成できなかったときには何度でも霊界(四次元世界)と現界(三次元世界)の間、或いは他の天体とを往復(輪廻転生)して實相顕現に向かって無限に進んで行くわけであります。
この様なことは、開祖・谷口雅春先生の御著書を熟読すれば、特別の修行をしなくても理解できるはずなのに、マサノブ君は「未だ生まれたことのないのが神の子人間である、という生長の家に於いて輪廻転生する当体は一体なんでしょうか?人間は高級霊になるまで輪廻転生を繰り返し、何時か高級天体に転生すると云われてはいます。でもそうすると『地上天国実現』と云うのは掛け声だけで実現不可能なお題目で信徒を釣ったということになりませんか?」と言う愚かな質問をしていますが、教えの継承者としてはまったくの失格者だといわざるを得ないのであります。私たち、夫々個性ある神の子人間が肉体の衣をまとって地上へ舞い降りてきて、「地上天国実現」(日本国の實相顕現)に向かって努力と修行を続けて行く實相顕現過程そのものが各人の霊性進化に直結しているのです。今生だけの人生で不可能なれば何度でも生まれ変わって(七生報国)実現する努力をする事なども解らず、<『地上天国実現』と云うのは掛け声だけで実現不可能なお題目で信徒を釣った>とは、何たる発言でしょうか?総裁とは決して恥かしくていえないのではありませんか?
A これ等のことから考えましても、マサノブ君は講習会で「生長の家の思想は、唯神實相・唯心所現・万教帰一であります」と解説していますが、実際の彼の思想は、實相と現象の二元論であり、否むしろ唯物現象論であります。更に、此処に反日思想が加わって「サヨク唯物現象論」と云ったほうがよいでありましょう。なぜ、彼が唯神實相・實相独在が解らないのか? 教えの継承者でありながら「唯神實相観」に徹しきれないのか?といえば、彼の神性が余りにも厚く唯物現象論という迷妄によって隠蔽されているからであります。だから、「無の関門」をどうしても超えることが出来ないため、「無の関門」を超えられ一躍超入實相の絶対的直接体験された開祖・谷口雅春先生の唯神實相・實相独在がどうしても理解できず、単なる観念の遊戯とか哲学的思索の結果としか思っていないのであります。これは霊的音痴状態といえばより一層解り易いといえるでしょう。だから、「鎮護国家」の霊的意義が分からず、左翼的「世界平和」へと簡単に変更し、「聖地」という霊的意義もわからず、「聖地というな、聖地のようだと言え!」と書くのです。「御神像」を「芸術作品」と解説してしまうのです。
B彼・マサノブ君の誤謬の根因は、「無の関門」を超えて實相世界を直接体験していないことと、開祖・谷口雅春先生をすべて否定して、凌駕しようとする常人には及びもつかぬ自己顕示欲望にあるのであります。そのような彼にとっては、「輪廻転生」とか「因果応報」とか「霊界」とか「霊魂の進化」に触れることは都合が悪くなるのであります。真理に反する「言行不一致」のことの言い訳が出来にくくなって行くからです。そして、最後の自己弁護が「【今生きている事だけがある】のですから、あえて言えば『永遠の今』を生きる人には霊界とか実相世界とかの区別はないと思います。何時でも人間は一つ世界に生きているものでしょう、それを見る立ち位置により色々の見方、名の付け方をしているというだけのものと思います。」であります。
1、「今生きている事だけがある」――マサノブ君は「今生きている」と云っているが、「神の子・マサノブ」として生きていない神性隠蔽された「肉体・マサノブ」を見ながらそう言っているのであります。
2、マサノブ君は「『永遠の今』を生きる人」と胸を張っていっているようであるが、彼の言う「永遠の今」とは「現象の今」のことであります。實相世界を直覚した覚者の言われる「久遠の今」のことではないのであります。
3、マサノブ君の最後の自己弁護は「それを見る立ち位置により色々の見方、名の付け方をしているというだけ」としていますが、彼の“立ち位置”は常に物質現象世界であります。『御教え』の後継者ならば、その立ち位置は常に實相世界でなければなりません。「實相」とか「實相世界」と云う事をマサノブ君はどのようにしても悟れないし、分からないのであります。本当に、マサノブ君が實相人間、すなわち、神の子マサノブが把握できていたならば、宗教家として世に立てない数々の法罪――開祖反逆罪・信徒欺瞞在・浄財の目的外使用罪・祖国反逆罪・不正看板使用罪・教義の換骨奪胎罪・教団解体遂行罪・宗教家の限度を越えた言行不一致罪・・・などは犯さなかったといえるのであります。
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