[3306] <再掲載> インターネット道場・「生長の家」信仰体験談の重要性と感激的体験談の数々 第22回 |
- 信徒連合 - 2016年05月22日 (日) 08時15分
開祖・谷口雅春先生の体験談に関する懇切なる説明――
@ 『 生長の家には体験談というものがありまして、誌友たちが御自分で、私の書いた『生命の實相』をお読みになりまして真諦を握られた結果、法爾自然(ほうにじねん)に実際生活に現われて来たところを御発表になるのでありまして、・・・『生命の實相』を読んでも必ずしも全部の人の病気が治っている訳ではありません。治らないような例外もあります。然し、それでも実際無数の多くの病人の治った体験談がある以上『生命の實相』を読んで病気が治ると云うことは、例外があって綿や埃が空中に舞い上がることが在っても『物体の落下』を原則として肯定しなければならないと同じように肯定しなければならないのです。読者のうちにはお蔭を受けて感謝の心は有(も)っているが、その体験談を発表することを何かつまらないことようにご遠慮なさる人があるかも知れませぬが、体験記録は人生という実験室に於いて真諦(しんたい)、即ち本当の真理を握ったら、世諦(せたい)がこんなに成就したと云う体験を蒐集し積上げて整理して行くことによって、こんな心を持てば斯うなると云う科学的に重大なる真理を立証する事実を寄与して下さるわけであります。酸素と水素を結合させたら水になったと云う体験記録の発表も尊いことでありますならば、人間というものに生命の實相の原理を加えたら斯う云う結果を得たと云う体験記録の発表は尚々重要なことであります。』
A 『 宗教が科学に近づく道は体験記録の蒐集であります。 心に神の無限供給をハッキリ自覚したら自然法爾に自分の行ないも整うてき、人からも好感を受けて、それが形の世界に無限供給として現われてくるということが皆さんの数々の体験によって実証せられまして、それが体系づけられましたなら、それは一つの科学だということになるのであります。科学というものは何も必ずしも目に見えるもの、物質だけの実験による体験記録でなければならぬということはないのであります。目に見えない材料、心の材料というものも、その体験をずっと重ねてゆきまして、それを一貫した法則があるということが発見されましたならば、それは精神科学の法則だということになります。この精神科学の法則というのを、生長の家では「心の法則」とこう言っているのであります。これを、宗教的用語で言いますならば「三界は唯心の所現」という釈迦の言葉や「汝の信仰なんじを癒やせり」というようなキリストの言葉となって表現されるのであります。キリストが「汝の信仰なんじを癒やせり」と言っておられるのは、キリストが縁となって病人の信仰が喚起されて、その信仰のカで病気が治ったとこう言っておられますのですが、「病気」というものは、必ずしも肉体だけの病気ではないのであります。』
★★ 信徒の信仰体験談を無視して取り上げないマサノブ君は「総裁」と言う名に値しない者であります。
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<再掲載>
インターネット道場
「生長の家」信仰体験談の重要性と感激的体験談の数々
第22回
小林春恵先生
「導かれて八十余年」
<その九>
「わが信仰の旅路」より
嫁との勉強から卒業
ところが、彼女の嫁を相手に行き届くという勉強も、終わる時がやって来ます。 それは、嫁の母親とおばあさんの二人が、自分の家を出て、丹野さんの家に来ている娘の世話になりたい――つまり、丹野さんの家で生活したいと言ってきたのです。
息子が、父親――つまり、丹野さんの夫に、 「お父さん、今日、きょう子の家から電話がかかってきたんです」 と相談したのです。その相談をうけた父親は、 「女の人を二人も家に置くということになれば、そりゃあ、大問題だからねえ。こりゃあ、おばあちゃんに聞いてみなくちゃあダメだろう」 と言うたそうです。それで、結局、その話はフミさんの所へくるわけです。
嫁の実家のお母さんとおばあさんが、自分の家に居たくないと言って家出をし、娘の婚家先である丹野の家に来たいという電話があったのだが、どういう返事をしたらよいかというわけです。その相談を受けた時、彼女は、どう言ったかと言うと、
「ああそうですか、息子が死ぬまで添い遂げたいと愛している、きょう子さんのことだから、この話、喜んで引き受けさせて頂きましょう」 と言うたんです。
「お母様!」 と言って、嫁は彼女にすがりついて、 「私は今、人間の値打ちというものを本当に見せられました。私は、フキンがどうだの、お手洗いのスリッパがどうだのと、お母様のお心を傷つけるようなことを申してまいりましたが、いよいよ、私の親たちが、家出をして出てくるのを、なんの苦情もなく、そのままで引き受けて下さる。お母様、感謝いたします。 私も子供の母として、愛するということは、人を愛するということは、そのようなところまで、愛し抜いて耐えて行くことだと思います。お母様は、私に、本当に深い人間を見る心を教えて下さいました。今までの私を許して下さい。お母様の大好きな生長の家を、私も一所懸命、お手伝いさせて頂きます」 と言って、ワンワンと泣いたんです。
嫁の母親とおばあちゃんが、自分の家を出ることになった原因は、次のようなことでした。
嫁の実家は、女の子三人で、長女が婿養子をとっている。ところが、婿さんが、「この家は使いにくくてしょうがない。もっと、便利に使いやすいように、普請し直した方がいい」と言ったのです。
彼の妻――つまり、この実家の姉も、夫の言葉に同調して、建て替える方がいいと言う。ところが、お母さんは、それに対して、「どっこい待ってくれ」と言うたんです。 「この家は、私の主人が仕事の現場で倒れた時にもらった一時金で建てた家なんだから、私の息の音が枯れ終わるまでは、フスマひとつだって、それこそ柱一本だって、絶対に動かすことは許さない」と言って、母親と、姉夫婦との間に悶着が起きたのです。
そのうちに、母親が、「こんな使いにくい不自由な家だの何だのと言うのなら、あんたたち、勝手に普請したらいい。私がこの家を出て行くから」と言って、おばあさんを連れて、丹野さんの家に来ることになったわけです。
丹野さんの家に、二人がやって来ました。そうして、嫁の母親は、丹野さんに、こうこうこういうわけでと、娘夫婦との喧嘩のいきさつを話しはじめるのでした。彼女は、その嫁の母親の話をさえぎって、 「お母さま、何もおっしゃらないで下さい。私は息子を愛しております。その息子のところへ来て下さったきょう子さんですから、そのきょう子さんの喜ぶことでありましたら、 私はいかなることであっても、面倒を見させて頂きますと決心しました。どうぞ、色々のいきさつなどはおっしゃらないで下さいませ。この部屋ひとつ掃除しておきましたから、どうぞ、お二人で、安心してこの部屋に居て下さい」 と言うたんです。
ところが、きょう子さんはこのことを、姉の婿さんに話したのです。きょう子さんから話を聞いた姉婿は、すぐに母親に会い、 「きょう子さんは、他家へ嫁に行った人だ。嫁に行った所へ、二人も年寄りをまつわりつけるなんていうことは、本当ではない。あなたが死ぬまで、家の普請をしないから、家に帰ってもらいたい」 と言うたのです。
そして、親類の者が間に入り、若い者の部屋は、若い者の気の済むように普請をし、それから、年寄りの部屋はそのままにして置くということで、結局は、この話は収まったのです。
けれども、嫁はその時以来、彼女にとって、無条件で喜べる嫁さんに変わったのです。丹野さんが、いちいち嫁を裁いて、ああだ、こうだと、言っていましたら、なかなか卒業は困難だったと思うんです。
ところが、彼女は、出てきたことをみんな神様に感謝して、一所懸命、自分の心を変えようと努力した。そして、ついに、嬉しい日が、彼女のところに来たんです。
愛のひびきを生かす
昭和三十年代に、私は、福井県、石川県、富山県の北陸三県の教化部長(その頃は、教化支部長と言っていました)をしていましたが、その頃、どんな心境であったか、一つ、二つ、お話しして置きたいと思います。
昭和三十三年一月二十七日、私は個人指導を依頼されて富山県戸出(といで)駅に来ました。案内者堀田さんの奥さんが私に依頼された頃は、まだ北陸路もバスや車が自由に走っていましたが、二十数日の後に来てみると、北陸路戸出は早や積雪のため歩いて行く以外には道がありません。
堀田さんの奥さんは、「小林さん、とても三里近い往復を歩いては行けませんね!」と言われました。「大丈夫ですよ。たったひと足で歩きましょう」
たったひと足……つらい切ない人生課題に泣いている人に、谷口先生の食膳にのぼる魚の命に涙する思いの自他一体の御愛念を伝える私がこの雪道の難儀をおそれて、どこに愛のひびきが生きてくるでしょうか。この雪道こそ、私が神様の祝福の愛の波動につながる街道筋と、案内者に気をつかわせないために、私はことさら明るく、楽しく、一足一足と語りながら歩いたのでした。
三里に近い雪道を、私を迎えに来てくれた講師、受ける側にはしみじみとした喜びが現われていました。自他一体、肉体の辛さに関係なく、私の心はひろびろとしていました。
話を終わって再び戸出駅についた時は、発車前二十五分でした。この間にと、駅の共同便所を借りるつもりでゆくと、便所は物すごく汚れていました。そうだ、私の荷物は堀田さんが見ていて下さる。この間にお便所をきれいにお掃除させて頂こう。素直なごく自然な気持で、私はお掃除をさせて頂きました。
それまで、私はそんな気持になったことはありませんでした。それは、私の心がそんなときに憤りを感じていたからでした。「どこの馬鹿が、こんなことをするのだ。自分の家の便所ならこんなことをするか。少しお尻を前の方に出せばよいのに、こんなろくでなしがいるうちは、世の中は美しくならないのだ」こんな風に考えて、そんなろくでなしのあとしまつをだれがするかと思ったものです。
ところがその時、私の心は思いました。“自分の家のお便所なら、夜の夜中のくらやみでも足が角度を知っている。ところが、駅のお便所はめったに用がないし、瞬間に心がとらわれている、大切な荷物が手放せないなどの色々なことで、体位が正常にきまらないで、こんなそそうをしたのかも知れぬ。後から来る人が万一、着物の裾でもひきずったら、それこそ一大事、いまのうちにきれいにしましょう”と。自然の素直な心の動きでした。 物の考え方ひとつで、別に愛行しようとも思わず、ひとりでに出来るのです。
み教えのお蔭で、内在の一体感がひきだして頂けることが、限りなく嬉しい。
夢の中で
例えば『甘露の法雨』を枕許に置いて寝るだけで、非常に寝苦しかったのが治って安眠できたというお話は、よくあることですが、私にもこんな経験があります。
これは昭和三十四年のことですが、私は夢を見たのです。 ……ある講師が夢の中で、“秋になったら株が騰(あが)るから、ウンと株券を買っといたほうがいい”と話しておられるのです。それをきいて、私は株券が欲しゅうて、欲しゅうて…… “妹に頼んだら幾らかお金を貸してくれるかな”“弟の所へ行ったら貸してもらえるか”と一所懸命考えているんです。“株でお金を儲けたらば、うちの道場を二階建てにも出来るし、もっと拡張することだってできる”と夢みているのです。
実は私の家の隣りに貸してあった印刷工場が全焼した直後だったのです。貸してあった工場が焼けてしまって、財産を失った上に家賃も入らなくなったしと思って、お金のことばかり考えていたのでしょう。こんな夢を見てしまったのです。
そしたら、谷口雅春先生のお声が聞こえてきたのです。 「価(あたい)を払わずに受けとることは、盗ることなのだよ!」 低い力のこもったお声でした。私の魂にしみ通るようでした。 “本当にそうだ。価を払わずに受けとることは、盗ることなんだ!……
ハッと気づいて、私の夢は一遍に覚めてしまいました。
枕許に「白鳩」が
目が覚めてから、何気なしに枕許を見ると、寝る前に思いついて持って来ておいた「白鳩」誌(昭和三十四年十月号)がありました。その中には、こんなお話が書かれてかったのです。
「投機で儲けた金は、その代償として支払った勤労がないのであるから、中身のないシャボン玉のような泡沫(あぶく)銭(ぜに)である。……大阪中之島にある中央公会堂は、今建てれば数十億円の建設費を要するのであろうが、これは明治時代の株屋さん岩本栄之助氏が株式投機で儲けたときにポンと、その当時の金で百万円を大阪市に寄付して建てたものである。……岩本氏は儲けたときにそのような大きな『愛行』をしたが、間もなく投機に失敗して多額のマイナスを生じ自殺した。しかし最近大阪市会では市公会堂の寄付の功績に対してその遺族に年額五万円とかの遺族年金を支給することに議決したと云うことである。『愛』は積極的価値であり、与えた『愛』は空しくならない。労せずして儲けた金を生かす道は『愛』の心によって、愛行の道にかなうように献金することである」
“ああ、この「白鳩」誌が、私の夢(迷い)を覚ましてくれたんだ”と、言葉が生きていることを改めて識(し)らせていただいたのです。
夫の深慮、妻の浅知恵
私が山形県へ行きましてから、練成会を始めましたが、山形練成会は東北では一番最初に始まった練成会です。次に、山形練成での体験の話を一つ紹介しておきます。
十八年来の坐骨神経痛とリューマチのために、足を投げ出したままで暮らしていた鈴木テイさん(七十一歳)は、昭和四十八年の一月から三月まで入院して医師の治療もうけたのですが、はかばかしくありませんでした。
夫は早くからの生長の家人で、病む妻に二年間『甘露の法雨』を読誦させておりました。 この年の五月の山形練成会に来ることになったのも夫のすすめで、息子には内証で嫁ぎ先よりやっとのことで送られてきたのでした。
練成をうけて、鈴木さんは、「わが身の病気も家庭内の不幸不調和も、みんな自分の浅知恵からだった」と泣きながら懺悔するのでした。
夫の温和(おとな)しいのが物足りなくて、夫が“右”と言えば、“左”と答え、“西”と言われれば“東”だと頑張り、反対ばかり続けてきたというのです。息子の嫁さんも親類からもらったので思い通りになってきました。
今までは、息子が事ごとに父親に逆らって父が“右”なら“左”と言うばかりか、「父の信ずる生長の家は、風上に置くのも嫌」と言う有様なのでした。
こんな過去を練成会での浄心行(じようしんぎょう)や折り合いのときに溢れ出てきた涙で洗い流し、捨て切ることができたのでした。
そして奇蹟が起こりました! 「小林先生、見てけろ! おらの足が坐られる、坐られる!」 「こんな有難いお蔭も、うちの息子は『時期が来て治ったんだ』と今は言うかもしれねえが……おら、これからは爺ちゃん(夫)に感謝します。かんべんしてけらっしゃい!」
と、何遍も何遍も頭を下げては合掌されるのでした。まことにも“夫のいうことに間違いなし”であります。
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