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生長の家・開祖の『御教え』全相復活
を目指す掲示板

「生命の實相」第14巻 <和解の倫理>

われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、
虚説に対して和解してはならないのであります。
虚説に和解したら実相をくらますことになります。
虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。
虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

<新掲示板の概要について>

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[4646] <再掲示> インターネット道場―― 「正統・生長の家」と「マサノブ教」との比較(どこがどう違うか) 第152回
信徒連合 - 2016年08月18日 (木) 08時41分




<再掲示> 


インターネット道場―― 


「正統・生長の家」と「マサノブ教」との比較(どこがどう違うか) 


第152回




マサノブ君は、「生長の家ってどんな教え?」という本を書いています。これを読んでみますと、「マサノブ教ってどんな教え?」というタイトルが正確であります。開祖・谷口雅春先生の『御教え』を換骨奪胎して、マサノブ君の個人的思想、―――サヨク唯物現象論に基づく環境問題が中心のもの、―――が「生長の家」の教えとして書かれているのであります。 最も重要な開祖・谷口雅春先生の大悟徹底(お悟り)や「生命的国家論」や真理の証し「体験談」、霊と霊界に関する事柄については全く書かれてはいないのであります。

「生長の家」の本当の『御教え』を知りたい人や真剣な求道を志す人たちにはマサノブ君の「今の教え」や「生長の家ってどんな教え?」は誤ったメッセージを送ることになっています。

また、本部公式サイトのインターネット講師による「生長の家」の普及宣伝を目的とする「インターネット・ポーサルサイト」では、マサノブ君は、全インターネット講師に『このブログは「生長の家」の真理普及のために開設しましたが、内容や発言は、すべて私本人の責任において書いています。 従って、私は「生長の家」を代表する者でもありませんし、私の発言が「生長の家」の見解ではありませんので、ご了承ください。』という一文を必ず掲載させております。誠に“奇々怪々”な文章であります。その結果として、本部公式サイトでありながら、殆んどのインターネット講師の真理普及のためのインターネット講座が、個人的な“私生活日記”の報告となってしまっています。

インターネットは全世界に公開されているものです。だから、開祖・谷口雅春先生が説かれた「生長の家」の『御教え』を正しくお伝えしなければならないのでありますが、マサノブ君はその責任を放下してしまっているのであります。

そこで、本当の霊的真理を求めておられる御縁ある未信徒の人たちに正しい「生長の家」の『御教え』を正しくお伝えする為に、開祖・谷口雅春先生の『御教え』の根幹である部分を、何回でも何回でも繰り返して掲載して行く必要があります。この様な目的を以って、この「インタイーネット道場」を最初から再び<再掲示>させて頂きます。



******************




もっと霊界の知識を持ち伝えよう。現象界の出来事は霊界でその雛形が刻々と出来上がりつつあり!




先祖供養、および個別霊の供養




特に、中絶児供養について

(『流産児よ、やすらかに』・楠本加美野偏著



戦争も人類の自己処罰である

<<唯物論の人生観は、物質は有限であるから自分が裕かになるためには他から奪わねばならない。かくて弱者は強者の犠牲にならねばならない。弱肉強食の闘争的人生観は唯物論から来るのである。唯物論を根本的に破摧(はさい)しなければ世界に平和などは来るものではない。また戦争は人類の罪悪観念から来る自己処罰の結果からも来るのである。胎児暗殺などを平気でやっていると、現在意識は平気かも知れないけれども潜在意識は、それが殺人行為であり、罪悪だということをよく知っている。そして「罪ある者は苦しみによって贖(あがな)わねばならな」という贖いの観念は全人類の潜在意識に横たわる。人工流産した者が度々それを繰り返すのも、自己をを罰するために堕胎手術を繰り返し、ついに自分の欲する頃に、子宝を得ようと思っても得られなくなる。米国の精神身体医学の泰斗(たいとう)カール・A・メニンジャー博士は、罪悪観念による自己処罰のために、幾度でも自分の肉体を毀傷(きしょう)する手術を繰り返す患者の実例を無数に、その著『おのれに背くもの』に掲げている。多くの妻は人口流産のあと、或る程度のノイローゼに罹る。子供に対する愛が満足できなかったことと、胎児を兎も角、自分の合意によって殺したという罪悪の念による自己処罰である。それらの罪悪観念が、自己処罰として、手術による「自己毀損」を行い、「臓器の自殺」として内蔵の病気を起し、精神的煩悶によるノイローゼを起すことは個人の不幸についての社会問題であるが、カール・メニンジャー博士は、その著『おのれに背くもの』の中には次のように書いて、戦争もまた人間の罪悪観念から来る自己処罰であることを「劇的に証明するものだ」と言っているのであります。――

『----------いやしくも、物を考える人にとっては「戦勝」なるものは存在せず、勝てる者も敗れし者と同様に、償いのつかぬ損失を蒙るという点について疑念の余地がない。この意味において、まさしく戦争は実質的な自己破壊である---------時として、その反対現象であるかのように見えるにしても----------。国民がこのような自殺的傾向を示すとき、世界の如何なる国の内部にもこの傾向を冷酷に指示しようとする分子が存在する。彼等の国際組織は、恐るべき奇態な癌である。この癌は、それによって破滅の淵に追いこまれる人々から大っぴらに培養されて繁殖する。第一次世界大戦当時、ドイツ人は自国ドイツ製の信管を装置された手榴弾によって殺され、英国の戦闘艦は、トルコに売られた英国製の機雷によって撃沈されたのである。ジェットランド沖海戦では、ドイツ海軍は、その艦砲を製作したと同じ会社で作られた、つまり自国製の防御装甲板に向かって砲弾を叩きつけたのである。開戦から終戦に至るまで、交戦諸国の人民は、味方によって発明、製造され、そして敵方に配給された武器によって虐殺されたのである--------現に私がこれを書いている今、世界戦争の暗影はわれわれの眼前に大きく立ちはだかり個人的、ならびに国民的自己破壊をひっくるめて、1914年−18年の大戦よりも、さらに烈しい世界的自殺と置き変えようとして、ひきつるような努力をしているのだ。かかる集団自殺が、嬉々として準備されている光景を眼のあたりに見れば、自省的な観察者は深刻な恐怖の念に襲われ、超大型の心臓の持ち主といえども、不安に戦(おのの)かざるを得ぬであろう。---------』

 こう言って、メニンジャー博士は第二次世界大戦を予言したが、それは不幸にしてその予言通り実現したのである。しかもそのときよりも一層おおいなる「世界戦争の暗影は吾々の眼前に一層大きく立ちはだかっている」のであります。誰が、アメリカで発明され、そしてソ連のスパイによってその製造方法を盗用されて造られた原爆――それから出発した水爆弾頭をつけた大陸間弾道弾がアメリカを「死の灰」と化せないと断言し得るであろう。

アメリカで発明された原水爆がアメリカを焦土と化するのは当(まさ)にこれ自己処罰にほかならないのです。
 戦争は人類の罪悪観念による自己処罰より起こる、それは巧みに唯物論の世界観にからみ合い、弱肉強食の人生観から自然に生ずる奪い合い、殺し合い――その罪悪を潜在意識が知るがゆえに、その罪悪観念から来る自己処罰――それが次第に重積拡大して大量の自己虐殺となる原水爆戦争となろうとしつつあるのであります。この際、迫り来る第三次世界大戦を避けるためには、

(1)唯物論的世界観を唯心論に変え――更にそれを一歩進めて唯神実相論の哲学にまで進展せしめ、

(2)人間は神の子の地上的顕現として、その生命を尊重すべきものである根拠を明らかにし、

(3)誰か犠牲が無ければ繁栄幸福が得られないというような闘争的弱肉強食の人生観を払拭せしめ、

(4)胎児等、苟(いや)しくも生き物を殺すような行為を恐懼(きょうく)して慎ましめ、「殺すものは殺される」の因果関係を断ち切り、

(5)人間は“罪の子”なりという、在来のあやまれる宗教観念を払拭して、罪悪観念の結果として来る自己処罰による、個人的自己毀損及び集団的自殺行為(戦争)の必要なきに至らしめるほかはないのであります。
 
 これを為すためには、どうしても生長の家式の唯神実相論による人間神の子本来無罪の宗教を広く宣布して人類全体をして自己処罰の必要なく、横の人間関係に於いて奪い合い殺し合う必要なしに縦から神と人間との関係によって、神意を行ずることによって繁栄と幸福とをかち得るものであることを自覚せしめるほかはないのであります。

 以上、谷口雅春先生は、唯物的人間観が最も極端な形であらわれた堕胎(だたい)という大量の殺人行為が、いかに大きな禍根を国家、人類の上にもたらすものであるかをお説き下さいました。このほか、谷口雅春先生は別項に於いて、その後頻々として起こる風水害による多数の死者や、年々増加する一方の交通事故死についても言及され、これらも霊的見地からするならば、六千万胎児の悲しみの姿のあらわれであり、また民族の自己処罰の姿であると警告しておられるのであります。因(ちな)みに、昨年から今年(昭和五十九年)にかけての異常な寒さ、明治以来の降雪も再び日の目を見ることのなかった優生保護法改正運動への霊界からの悲しみの顕われのように私には思えてならないのです。

いずれにしましても、幼い生命を救い、流産児の魂を救う運動は、日本民族の為にも世界の平和の為にも、個人の幸せの為にも、今ほど大切な時はないのではないかと思うのです。>>(P.210−214)




体験例・形式と愛

<<ある女性が練成をうけに来ました。彼女は巳むを得ない事情で中絶したのです。浄心行の時に、彼女は心から懺悔しました。
「子供はどんなに親の愛を求めているか知れない。それなのに、私は顔を見てあげることも、抱いてあげることも全部、自分の手で断ち切ってしまった。今、暗闇の中で私の赤ちゃんがどんな思いをして、私を求めて泣き叫んでいるかと思うと堪らなくなって、声をあげて泣きました。合掌しながら心の中では懸命に、見えない赤ちゃんに向かって、両手を広げているのでした。“早くお母さんの懐に帰っておいで、思いきり抱きしめてあげるから、早くお母さんの懐に帰っておいで”と命の叫びをあげているのです。いつか私は赤ちゃんを懐に抱いたまま合掌しているように思えました。身をもって、私に生命の尊さを教えてくれた赤ちゃん、私は心から赤ちゃんに感謝しました」

 この言葉の一言一句の中には母性愛が一杯に満たされています。わが子に対する深い愛からほとばしる懺悔の言葉で綴られています。この愛と懺悔こそ、供養するにあたって最も大切なことなのです。

愛することによって自分が救われるのです。懺悔することによって罪は消えるのです。決して形ではないのです。よくどのようにしてお祀りすればよいでしょうかという問い合わせをしてこられますが、形式ではありません。この方のような、愛と懺悔の心こそ第一なのです。

 彼女は新生の喜びに満たされ、一般練成に引き続き、伝道練成にも参加しました。最後の伝道行の日、彼女は“神様、私を本当に必要としている人に合わしめ給え、導き給え”と真剣に祈りました。

そして引き付けられるようにして、とある家に入ったのです。
 その家には、三歳の時に小児麻痺になり、そのままの状態で九年間を過ごした女の子が一人いることを知りました。彼女は言うつもりのなかった自分の妊娠中絶の体験を話してしまいました。それを聞いた母親は「実は、私も赤ちゃんを堕ろしたことがある。でも貴女のように一度も可哀相だなんて思ってみたこともなく、供養もしていない。ところが堕胎してから一週間目に、この子は小児麻痺になって、それからずっと九年間も苦しんでいる」というのでした。「何よりもまず第一に、堕ろした赤ちゃんにお経やお線香をあげて、供養してあげて下さい。どんなに子供は親の愛を求めているか、わからないのですよ。堕ろされた胎児(赤ちゃん)が、その女の子供さんを通じて、お母さんの愛を求めているのですよ。一日に一回でもいいから、その子供さんを堕ろした赤ちゃんだと思って、思いっきり抱きしめてあげて下さい」と彼女は母親に話しました。ふと、その女の子を見ると、上目づかいに一所懸命に彼女をみつめている。彼女には、迷っている霊が話を聞いていたかのように思えたといいます。時間が来たので、子供さんに『甘露の法雨』を誦げて帰りましたが、そのお母さんは駅まで見送って下さいました。

 帰りの電車の中で、彼女はしみじみと思いました。今までの自分だったら、あのような話を聞いても“まあそれはお気の毒ですね”と通り一遍の言葉しかかけられなかっただろう。同じ苦しみを経験した者でなければ、その人の本当の苦しみを知ることが出来ない。私はあのようは人を救うために、ああいう体験をしたのだ――

 自分が救われるだけでなく、更にその体験を生かして同じように悩んでいる人を救うことによって、過去の暗い思い出は消え、罪の意識は洗われ、世の為、人の為に役立ち光り輝く思い出となるわけです。彼女は、新たな使命感に燃えました。彼女は、日本全国の婦人の約半数をしめる妊娠中絶経験者に訴えている。
「もし私と同じように胎児を堕ろされた方がいましたら、私はその方に呼びかけたいのです“貴女の赤ちゃんは、今どんなに貴女の愛を求めているかわからないのです。貴女の胸に抱かれたいと、どんなに思っているかわからないのです。赤ちゃんの生命の叫びを聞いてあげて下さい。そして、心で思いきり、抱きしめてあげて欲しいのです。声をかけてあげて欲しいのです。その時こそ、貴女は赤ちゃんと一体だと感じることが出来るでしょう。共に立ち上がりましょう。再び不幸が繰り返されないように、優生保護法が一刻も早く改正されるように、貴女が勇気を出して立ち上がったとき、貴女の赤ちゃんは永遠に生き続け、霊界に於いてその使命を果たす事が出来るのです”と」

 彼女の訴えは、女性が本質的にもっている母性としての愛の叫びである。このような母性本能にうったえる愛の運動こそ優生保護法を改正する原動力であって、人工中絶の弊害を強調して恐怖心をあたえるだけでは、神の御心は実現しないのです。

 親が自分の罪に泣きくれていても中絶児は救われません、このように他の救いの為に立ち上がったとき中絶児も霊界に於いて親と共に使命を果たすことが出来るのです――
 
 以上のような講話をして流産児の供養をしたところ、錬成参加者一同が懺悔の涙を流しました。病が癒されるもの、非行少年少女が更生するもの等、顕著な体験が続出するようになったのです。

一方河口湖道場での過去数年間の体験談から問題別に体験集の小冊子をつくりました。親子、病気、恋愛、結婚、夫婦、繁栄-------十冊の小冊子をつくり頒布しましたところ「中絶児は問題児を通して訴える」の小冊子が圧倒的に売れ出しました。又伝道訪問先でも最もそれが求められていることがわかりました。それではということで、その冊子の河口湖町、吉田市の全戸頒布運動が展開されました。そうしましたら、同じような悩みをもった、地元の人々が錬成に参加するようになり、長い間願っていた地元の光明化にも大きな力となりました。

 昭和五十六年に入ると流産児供養による体験は更に大きく、続出するようになりました。この年、十一月には龍宮住吉霊宮が建立されました。祭神は伊邪那美大神で霊界を浄化するためでした。霊界の浄化には戦後堕ろされた六千万流産児を救うことが何よりも急がれます。奇蹟が続出したのは、伊邪那美大神の浄化の御力によって中絶児が救われたのであると拝察されます。

 私はその十一月に飛田給へ転勤が突如として決定、十二月一日から赴任しました。飛田給の設立動機を考えますと終戦直後、進駐軍の黒人の兵隊と情交し妊娠し、半黒の混血児を妊娠したのを恥じて自殺する婦人などが続出し、それらを救うために、飛田給の病院跡を無痛分娩産院にして母体も胎児も共に救うようにしたいと谷口雅春先生が切願されたのが直接の契機でした。

 こうした谷口先生の胎児救済の切願によって設立された道場に神の摂理によって私も導かれ毎月八日には流産児の供養をするようになり、飛田給に於いてもこの本に掲げられたように如何なる方法によっても解決しなかった青少年問題や様々な問題が、きれいに解決してしまうというような奇蹟が毎月続出し、全国的な関心と注目を集めるようになってきました。――これが、私が流産児供養と幼い生命を救う伝道活動とに挺身するに至った経緯です。>>(P.222−227)



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