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生長の家・開祖の『御教え』全相復活
を目指す掲示板

「生命の實相」第14巻 <和解の倫理>

われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、
虚説に対して和解してはならないのであります。
虚説に和解したら実相をくらますことになります。
虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。
虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

<新掲示板の概要について>

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[5399] <再掲示> インターネット道場―― 「正統・生長の家」と「マサノブ教」との比較(どこがどう違うか) 第194回
信徒連合 - 2016年10月17日 (月) 08時52分



<再掲示> 


インターネット道場―― 


「正統・生長の家」と「マサノブ教」との比較(どこがどう違うか) 


第194回




マサノブ君は、「生長の家ってどんな教え?」という本を書いています。これを読んでみますと、「マサノブ教ってどんな教え?」というタイトルが正確であります。開祖・谷口雅春先生の『御教え』を換骨奪胎して、マサノブ君の個人的思想、―――サヨク唯物現象論に基づく環境問題が中心のもの、―――が「生長の家」の教えとして書かれているのであります。 最も重要な開祖・谷口雅春先生の大悟徹底(お悟り)や「生命的国家論」や真理の証し「体験談」、霊と霊界に関する事柄については全く書かれてはいないのであります。

「生長の家」の本当の『御教え』を知りたい人や真剣な求道を志す人たちにはマサノブ君の「今の教え」や「生長の家ってどんな教え?」は誤ったメッセージを送ることになっています。

また、本部公式サイトのインターネット講師による「生長の家」の普及宣伝を目的とする「インターネット・ポーサルサイト」では、マサノブ君は、全インターネット講師に『このブログは「生長の家」の真理普及のために開設しましたが、内容や発言は、すべて私本人の責任において書いています。 従って、私は「生長の家」を代表する者でもありませんし、私の発言が「生長の家」の見解ではありませんので、ご了承ください。』という一文を必ず掲載させております。誠に“奇々怪々”な文章であります。その結果として、本部公式サイトでありながら、殆んどのインターネット講師の真理普及のためのインターネット講座が、個人的な“私生活日記”の報告となってしまっています。

インターネットは全世界に公開されているものです。だから、開祖・谷口雅春先生が説かれた「生長の家」の『御教え』を正しくお伝えしなければならないのでありますが、マサノブ君はその責任を放下してしまっているのであります。

そこで、本当の霊的真理を求めておられる御縁ある未信徒の人たちに正しい「生長の家」の『御教え』を正しくお伝えする為に、開祖・谷口雅春先生の『御教え』の根幹である部分を、何回でも何回でも繰り返して掲載して行く必要があります。この様な目的を以って、この「インタイーネット道場」を最初から再び<再掲示>させて頂きます。



******************




Visualization(想念造形法)に就いて


(『神癒への道』P.199−211)




宇宙大生命には限りがないのである。その知恵にも限りがないのであり、その無限のおはからいにも限りがないのであります。人間は神の心を自己のうちに宿していまして、欲する所まで自ら行き、欲する所に自ら止まるのであります。そしてそれを自ら限りがあるというのであります。

もし彼が寒い凍(こご)えるような夜に野外に於いてふるえながら佇んでおり、そして風邪をひかぬとも、それは彼が自由人格としての自己自身の権利なのであります。ある人はそこでとどまる。ある人はとどまらないで前進する。そして永遠の天国の輝く暖炉の前にすわって温まるのであります。だれもほかの人が彼を助けて、暖炉の前にすわらせてくれるのではないのであります。

自らが自らの運命を選ぶのであります。神といえども自己自ら選んで寒い世界にふるえているものを暖かい世界へつれて行くことは出来ないのであります。人生の行路は自ら選んで自らの世界へ、自らの世界を造るほか仕方がないのであります。自己の航する人生の舟が停泊する所の運命の港は、すべて自己が選択するところのものであります。

 だから人間は、自分自身の責任に於いて、自分の運命を定めるのであります。自分が自分の航海の羅針盤を握っていて、自分自身の舵(かじ)をとって、行く先をきめるのであります。するとその方向へ流してくれるのは、大海原の無限の力であります。この大海原の力の如きものが大生命であり、決して祈りによって、左右されたり、愛憎によって左右されたりするものではないのであります。

舵を向けた所へどんな舟でも流してくれるのが大海原の力であります。これが法則としての宇宙生命の働きであります。この大海原の如き普遍的な心をメタフィジカル・ムーブメントの学者達は、「宇宙の主体的意識」とよんでいます。その主体的意識は吾々に宿って、「個人に宿る主観的意識」となっているのであります。

本来同じ意識が、宿っているのでありますから、互いに連関があり個人が心に描くことは宇宙意識が自己の中に描くことであり、法則によってこれが実現するということになるのであります。

吾々は宇宙の意識と接続腺をつなげばいいのであって、それによって、大いなる力を自分自身の欲する事物を実現するがために活用することができるのであります。宇宙の力は無限でありますから、どれほど多くの人たちが其の力に目覚めてそれを利用することになろうとも、吾々に与えられるところの力は決して減るということはないのであります。

 しかし、一方、吾々は五官の世界に住んでいるのであります。そして五官の世界は、時間空間の制約によって縛られそのなかにいろいろの悩みの波がラジオの波のように輻湊(ふくそう)しているのであります。

神の完全なる智慧の波、愛の波、生命の波が宇宙到る処に充満し、すべての人の中にも充満していながら、しかも吾々は迷いの波に波長を合わせて、その不調和を実現することも出来るのであります。神は宇宙に充満していて分割することができないのですから、あるところには神が宿り、ある所には神が欠乏しているという事はあり得ないのであります。

従ってある人には神が宿り、ある人には神が宿っていないということはないのであります。すべての人間に一様に神が宿っているけれども、どんなことでも心に思い浮かべる事由を持っているが故に、吾々は病気や不幸のことをも心に思い浮かべ、病気や不幸を実現するのであります。

そこで吾々は、自分の心の中に描くところの想念の自己統制を行なわなくてはならないのです。何を心に描くかという問題であります。心に描くものが常に変化しているようなことでは、カメラぶれの写真の様に被写体がはっきり現れないで朦朧(もうろう)としてしまうのです。

そこで吾々は、心にはっきり常に目的となる一事物を描いていることが必要なのであります。まず心にはっきり描いたものが現れるのは、科学的発明でもおなじことであります。漠然(ばくぜん)朦朧(もうろう)と描いた設計は、現実の機械を構造することは出来ないのであります。はっきり描いて正確に図面化したものだけが具体的な機械になるのであります。

 まず夢を描くと言う事が必要であります。やがて来るべきものは、なお現在に於いて感覚的に現れていないものでありますから、想像力を駆使するより外仕方がないのであります。想像力によってはっきりと心に描いたものが、それがやがて具象化して出てくるのは、心に描いた形がこわれた大理石の一片から浮き出してくるのと同じであります。これをメンタル・サイエンスでは、visualizationといっております。

心に幻のようにはっきりと思い浮かべる意味であります。まず何を欲するかを決定するのであります。自分の欲するものがわからないようでは、それを具象化することはできません。一片の大理石があっても、それを「裸婦」に彫刻しようか、「天使」に彫刻しようか、心にはっきりした目的がなければ、その大理石は一定の形をとらないでありましょう。

「君はなにになりたいんだね」と尋ねられて、「さあ、何になりたいのかわかりません」などといっているのでは、凡(およ)そその人は何事をも成就することはできないのであります。もし自分が何を欲するかわからなければ、まず、それを見出さなければならない。希望をもつのである。夢を描くのである。そして、その夢を把持して前進するのであります。

 次に必要なのは、その夢をできるだけはっきりと心に描くことである。ホルムス博士はこう書いている。ある貧しき博士の知人がメンタル・サイエンスの法則を知って、外の町で極めて美しい邸宅をもっている自分自身をはっきり描く様にしていたのであります。するとそれが実現したという話を書いているのです。

「彼は目をつぶって、目の裏にはっきり新しい立派な家の玄関から階段を上っていく所の自分自身の姿をはっきり描くようにしていました。やがてドアが開かれる。そこは広い広間になっていて、立派な暖炉が一隅に据えつけてあり、そこから暖かい気持のいい光が彼を迎えるかのように輝いている。立派な服装をしたお客さまが招待されてやってくる。彼はそれを平和の象徴である白色の礼服を着て出迎える」――こういうような幻を毎日毎日はっきり心に描いて、それをみつめるようにしていたのであります。

数ヶ月の後に、彼はその通りの邸宅を持つことができました。つづいて彼はなお一層大きな邸宅を心に描くようにしましたら、終にロスアンゼルスに素晴らしい大邸宅を得て今はそこで大いに幸福に暮らしている、という話が書いてあります。

 心の力は修練によって増大するのであります。『貴下の見えざる力』の著者であるジュネーピープ・ビーレンド女史の体験には、彼女が海外に旅行するに必要なる二万ドルの旅費をば思念によって得た所の物語があります。

彼女は間断なく「神の無限の力が常に今あるよりも自分が幸福になるように動きつつあるのである」という思念を心から離さないようにしていたというのであります。彼女は常に「一そう良くなる」という思いをもって、宇宙の心と直結していたのであります。だから宇宙の心は彼女のためにそれを実現するために一切のものをうごかしていたのであります。

彼女は毎日「大宇宙の力が自分と協力して、その目的を達するために活動してくれ、すでに自分は旅行費二万ドルを持っているのである」という思念をつづけていました彼女は自分の心の中から、あらゆる不安と心配とをとりのぞいて、すべての重荷を神に委託したのであります。そしてこれを神が必ず成就し給うのであると信じました。

彼女は「法則というものは、自分自身を通じてのみ働くものであって、自分が活動しないのに天から牡丹餅(ぼたもち)のように降ってくるものではない」という事を知って、まず自分に萌(きざ)して来るなすべき所のものを着々実行していきました。かくて彼女は遂に自分の欲した所の二万ドルを獲得したのであります。

 或る年のこと、ホルムス博士がカリフォルニアのロングビーチという所で、メンタル・サイエンスの人生相談所を開いていた時のことであります。一人の婦人が人生相談にやってまいりました。

彼女は自動車業をやっているのでありましたが、収入が殆んどなく家賃が払えない始末でした。段々家賃も滞ってきて、家主はその支払いができなければ、法律上の手続きを踏むというのでありました。もし彼女のもっているところの自動車をひっくるめてすべての資産が競売にふせられたならば、彼女は路頭に迷わなければならないのでした。

ホルムス博士は彼女と共に神想観をして宇宙の叡智に接触して、事件が無事に解決するように思念したのであります。神想観を終って、二人はこう話しました。――この仕事を引き受けて、旨く経営するような人が現れてこの店の老舗(しにせ)を買ってくれれば都合がよく行くのですがね。二人のこういった言葉が実現して二十四時間以内に、しきりにその老舗を買いたいという訪問客が現れました。

その中にパサデナからきた二人の紳士がありました。その中の一人はその店の位置が大変気に入ったようでしたが、もう一人はそうではないようでした。そこで婦人は又ホルムス博士の所へ相談にきたのです。そしてこう言いました。「ただいま、二人連れの人が私の店の老舗(しにせ)を買いたいといってきているのですが、どうぞその人に思念を集中して買ってくれるような気持にならせてください。」

 この実例の中に、吾々が注意しなければならない所の重大なる問題がひそんでおるのであります。心理学的暗示の法則とメタフィジカル・ヒーリングの、宇宙の叡智を通して、大生命の自(おの)づからなる働きによって、物事が調和して実現するのとは、全然相異するのであります。

暗示の法則によるものは、精神力の強いものが、精神力の弱いものの観念を圧倒して、自分の欲する観念を相手にもたせるように強制するのであります。或いは真理を知らない者に対して、真理を知れるものが、相手が欲すると欲せざるとに関わらず、強制的に真理を注入するようなやり方であります。

嘗てアメリカで百貨店の売り子を訓練するのに、こういうやり方が用いられたことがあるそうです。それはお客さまが来ると、その顔を一心にみつめながら「貴方はこれを買う、これを必ず買う、買わずにはいられない」と云う風に強く思念するのであります。それが効果を奏したか奏しないかは別として、之はあいての人格に対する侵害なのであります。

また心理学的実験で往来を歩いている人の後ろからその人の背を一心に見つめながら、「必ずふりむく、必ずふりむく」と繰り返しつつ念ずるのであります。そうすると思念者の思念が強力であれば、必ずふりむくといわれています。又電車汽車等に乗っている向こう側の座席に掛けている誰かをこちらへふりむかせようとする場合にも、「必ずふりむく、必ず私の方へふりむく」と強く念ずると、不思議にその思念者の方をふりむくものでありますが、これらのことは、メタフィジカル・ヒーリングの範囲内のことではないのであります。

 クリスチャン・サイエンスの始祖エディ夫人は、上記のような思念暗示を用いるのを「有害なる動物磁気を行使する」といって排斥しております。これは思念者が、その念力が強力でさえあれば、その思念内容が相手を害することであってさえも、それが実現するということになるのであります。

もっとも相手が応受的な状態にあるところの深い催眠状態の場合に於いては、晴天に傘をさして歩かせたり、本人が噴飯に堪えない事さえも、その暗示の力によって行はしめることができるのであります。メタフィジカル・ヒーリングはそのような催眠術とは異なるのでありますが、それでも、自分が真理をよく知っている、その真理を相手につぎ込むのは善きことであるという考えから、そこに微妙な誘惑が現われてくるのであります。

しかし、相手に注入するところの観念が真理であろうと真理でなかろうと、本人の同意なしにそれを強制注入することは、人格の自由の侵害なのであります。ホルムス博士は「羊を盗むのも、人間の人格の独立を盗むのも等しく盗罪である」といっているのであります。
 

テリル・マン女史も又、自分の小説原稿を或る雑誌社の編集長が雑誌にのせてやろうという気持になるように祈ってくれと頼まれた場合に、「それは編集長の人格の自由への侵害である。人間の運命は自分自身の心の影であるから、編集長の心が変わるように祈る必要はないのである。君が自分自身の心を変えれば、自分自身の運命は自ずから変わるのである」と答えているのであります。

又或る夫人が、自分の富豪の叔母が自分に対して財産を譲る気持になるように祈ってくれといわれた場合にも、テリル・マン女史は、やはりそれを人格の侵害であるとして拒絶しているのであります。

人間は神から完全な自由を与えられているのですから、病気の念を持とうと思えば、病気の念を持つことができ、病気を身に現すことができるのであります。又貧乏の念をもとうと思えば貧乏の念を起こして、具体的に貧乏になることもできるのであります。本人がそれを求めている限りに於いて、こちらから強制的に「健康」や「富裕」の念を注入する事はやはり人格の侵害になるのであります。而もそれは必ずしも効果を現すには決まっていないのであります。

相手が「病気」があると信じている信念が、思念者の念力よりも強い場合には、概ね効果を現すことができないのであります。そこで「あの人に思念してもらったが無効であった」などという非難をうけるようになるのであります。病人でも貧乏人でも、非常に病気又は貧乏が実在していると、信じている信念は強いのでありますから、生半可な相対的思念力でそれを圧倒しようとしても効果を上げ得ないことが多いのであります。

 私は暗示を相対的思念力といいましたが、暗示は人と人との間に相対的に行なわれるのでありまして、それは弱い方が敗け、強い方が勝つか、或いは互いに作用せずに行き過ぎてしまうのであります。

だから、それは相対的といい得るのであります。だから吾々が絶対的な効果をあげるためには、相対的に人間に対してはならないのであります。吾々は<絶対>に呼びかける。<絶対>に対して、自己の欲するものを印象し、法則の絶対性によって、その実現を期すべきなのであります。

 さて、自動車営業の婦人の話に帰りますが、ホルムス博士は以上のような原理を説明して、「今その店の老舗(しにせ)を買いに来ている、その人を目ざして買ってくれるように思念しなければならないことはないのである。どの人と一個人を目ざして、その人に念を送ることは、其れは人格の侵害である。その人でなくとも、どの人でも自ら進んで買いたくなる人がでてきたらそれでいいのでしょう。だから神は必ず一人の買い手を送り給うのであるとこう念じてそれを信じて待っておればいいのです」と教えました。

 所がパサデナから来たこの人のお客は、ロングビーチにある他の人の経営しているガレージへ行って、その老舗を設備全部買いたいといいだしました。その経営者は条件がよいのでその店を売りたくて仕方がないのでありますが、さてそれを売ったら引っ越す先がないのであります。そこで二人の客は、「この町の、あそこのガレージを売りたいといっていたのを今みてきたんだがね、あれを君買ってあそこへ立ち退けばいいじゃないか」と言ってくれました。なる程、それは都合がよいということになり、その婦人の店も、高価に売れて家賃の滞りも支払うことができ、買い手も、売り手も、家主も全部都合がよくいったのであります。

こういうように行くのが、メタフィジカル・ヒーリングでありまして、宇宙のどこにも満ちてすべての人に連がりをもち、すべての人の要求を知っておられる神の叡智をそこに導き出してくることによってこのように万事がよく解決するのであります。ホルムス博士はこういう場合に思念する言葉として、次の如き文章をその著書に書いておられます。

「吾は宇宙の調和と秩序の源泉として、一切の所に普(あま)ねく満ちてまします所の、唯一つの智慧の中に住んでいるのである。この唯一の心の中には完全な調和のみが実現するのである。そこには如何なる種類の摩擦も存在しないのである。誰の何ものを奪わなくとも、すべてのものは満ちたりているのである。吾が願い求むるものは、他の人の願い求むるものと、完全に調和した姿に於いて成就するのである。心の世界に於いては、空間は存在しないのである。距離は唯(ただ)相対心の中にのみある、心は時間空間を超越してどこへでも自由に伝わるのである。今私は私の想念をわが問題の解決のために、神を通してあらゆる事物に、あらゆる人々に送るのである。そしてその達成に必要なる所のあらゆる出来事は、何ら他の強制なしに、調和ある秩序に於いて現われてくるのである。わが問題は吾よりも大いなる所の叡智に委ねられて尚一層完全なる智慧と、強力なる力を通して実現するのである。神は正しく人生を歩む所の人より、如何なる善きものをも奪い給うということはないのである。」





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