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生長の家・開祖の『御教え』全相復活
を目指す掲示板

「生命の實相」第14巻 <和解の倫理>

われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、
虚説に対して和解してはならないのであります。
虚説に和解したら実相をくらますことになります。
虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。
虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

<新掲示板の概要について>

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[5555] <再掲載> インターネット道場・「生長の家」信仰体験談の重要性と感激的体験談の数々 第151回
信徒連合 - 2016年10月29日 (土) 09時00分



谷口雅春先生の体験談に関する懇切なる説明――


@ 『 生長の家には体験談というものがありまして、誌友たちが御自分で、私の書いた『生命の實相』をお読みになりまして真諦を握られた結果、法爾自然(ほうにじねん)に実際生活に現われて来たところを御発表になるのでありまして、・・・『生命の實相』を読んでも必ずしも全部の人の病気が治っている訳ではありません。治らないような例外もあります。然し、それでも実際無数の多くの病人の治った体験談がある以上『生命の實相』を読んで病気が治ると云うことは、例外があって綿や埃が空中に舞い上がることが在っても『物体の落下』を原則として肯定しなければならないと同じように肯定しなければならないのです。読者のうちにはお蔭を受けて感謝の心は有(も)っているが、その体験談を発表することを何かつまらないことようにご遠慮なさる人があるかも知れませぬが、体験記録は人生という実験室に於いて真諦(しんたい)、即ち本当の真理を握ったら、世諦(せたい)がこんなに成就したと云う体験を蒐集し積上げて整理して行くことによって、こんな心を持てば斯うなると云う科学的に重大なる真理を立証する事実を寄与して下さるわけであります。酸素と水素を結合させたら水になったと云う体験記録の発表も尊いことでありますならば、人間というものに生命の實相の原理を加えたら斯う云う結果を得たと云う体験記録の発表は尚々重要なことであります。』

A 『 宗教が科学に近づく道は体験記録の蒐集であります。 心に神の無限供給をハッキリ自覚したら自然法爾に自分の行ないも整うてき、人からも好感を受けて、それが形の世界に無限供給として現われてくるということが皆さんの数々の体験によって実証せられまして、それが体系づけられましたなら、それは一つの科学だということになるのであります。科学というものは何も必ずしも目に見えるもの、物質だけの実験による体験記録でなければならぬということはないのであります。目に見えない材料、心の材料というものも、その体験をずっと重ねてゆきまして、それを一貫した法則があるということが発見されましたならば、それは精神科学の法則だということになります。この精神科学の法則というのを、生長の家では「心の法則」とこう言っているのであります。これを、宗教的用語で言いますならば「三界は唯心の所現」という釈迦の言葉や「汝の信仰なんじを癒やせり」というようなキリストの言葉となって表現されるのであります。キリストが「汝の信仰なんじを癒やせり」と言っておられるのは、キリストが縁となって病人の信仰が喚起されて、その信仰のカで病気が治ったとこう言っておられますのですが、「病気」というものは、必ずしも肉体だけの病気ではないのであります。』

★★ 信徒の信仰体験談を無視して取り上げないマサノブ君は「総裁」と言う名に値しない者であります。

******************




藤原敏之先生「あなたは必ず救われる」より(4)




 一夜にして脱腸が消えてしまった!


 私がまだ広島県の呉れにいた頃の話であります。昭和26年の7月、広島県教化部の依頼を受けて安芸郡温品村にお話に行った時のことです。

 当時は純農村地帯でありまして、夜の集まりでありましたが、集まりが遅いのです。8時になっても8時半になっても集る人がなく、私は心の中で“今日は誰も来られないのだな”と思っておりますと、9時も過ぎる頃になるとボツボツ集り始め、9時半近くなったら相当広い会場に一杯になったのには驚きました。

 会場は国西様というお宅で、御主人は広島市にある銀行の支店長をなさっているという農村には珍しい大きな立派なお宅でした。このお宅でお話の会を開かれるようになったのは、奥様が若い頃から結核に罹られ、当時は不治の病とせられ、死ぬのを待つばかりといった状態でありましたのが、知人の勧めで生長の家を知らされ、『生命の實相』を熱心にお読みになっているうちに結核が治ってしまったという体験を得てからでした。

この教えは大変素晴らしいというので、村の人達にもぜひ知らせてあげたいというので毎月講師をお招きして、講演会を開催しておられたのであります。

 農家の方々は夕方、手元が見えなくなるまで田畑に出て働き、帰って風呂に入ったり、身体を洗ってから夕食を済ませ、それから出て来られるので、どうしても9時過ぎるのだと解りましたが、とても大勢の方がお集まりになり熱心に聞いて下さる。私も11時半頃までお話をして、“もういいだろう”と思って話を止めましたが、誰も帰ろうとせず“まだ足りない”というような顔付でおられるのが判るものですから、“まだ足りないのかな”と思ってまたお話を続け、12時過ぎになるので「どうも有り難うございました」と言ったら、やっと皆様がお帰りになりました。

もう終って寝(やす)ませて貰えるのかと思っておりますと、まだ5、6名の方が残っておられて、「これから先生、個人指導をお願いします」と言われ、私も嫌いなことではありませんから気持よく引き受けました。

 その一番先に私の前にお坐りになったのだ、60過ぎと思われるような田舎にはちょっと珍しい上品なお婆ちゃんであります。

 「先生済みませんが、ちょっと先にお願いします。これから隣の町まで歩いて帰らんなりませんので1時間以上かかります。一つ宜しゅう頼みます」と言ってから、「実は私の所に10歳になる孫があるのですが、生れて間もなくからずうっと脱腸で、男の子のしるしのところがゴボッと大きく膨れ上ってどうしても治りません。これどんなもんでしょうか」と申されます。

時間も余り有りませんので簡単明瞭にお答えしなければならず、即座に「ああ、それはお父さんとお母さんが仲が悪いということですね」と言いますと、そのお婆ちゃん私の顔を見ながら、「先生折角のお言葉を返すようで誠に申訳ございませんが、家の若い者に限りまして……」と申されますので、「仲が良いというんですか」と申しますと「ハイ」と言われます。

 そこで私は「私は言っているのは形のことではありませんよ。心がどうかということですよ。片方が無理を言っても一方がこらえていれば、喧嘩にはなりませんよ。そんなのを仲が良いと思っているのは間違いですよ」と言いますと、「そんなに言われて見ますと、その子のお母ちゃんは私の娘でございまして、お父ちゃんは養子でございます。ちょっとお母ちゃんの方が権利が強いように思いますが」と申されますから、私は「それや、それや、それが原因ですよ」と言いますと、「はあ、そうでございますか。よくわかりました」と申されて帰って行かれたのであります。

 その夜は夜明けの3時まで個人指導して、やっと寝ませて頂き、また早朝に起きて帰宅致しました。

 翌月になりますと、広島の教化部からまた依頼を受けて、案内の地図通り尋ねて行ってみると、目の覚めるような立派なお屋敷で大邸宅であるのにびっくりしました。お城の様な構えなのであります。表門が見上げるような大きな立派なもので、周囲はどれ位あるかわからない程で、グルッと土塀が廻らされ、表札を見ると案内通りなので“ああ、ここだな”と思いながら入って行きますと、門から遥か奥の方に母屋があり、玄関から一人の婦人が出て来られるので近づいてみると、何と先月、温品で個人指導をしたお婆ちゃんであります。

「あれ、お宅かね」と言いますと、「はい今度は私の家にお願いしました」と申され、奥に案内せられ、さっそく風呂を頂き、汗を流してから縁側で涼んでおりますと、そのお婆ちゃんが寄って来て申されました。

 「なんと先生、不思議なこともあるもんですね。あの夜1時半頃家に帰り、娘に戸を開けてもらい、座敷に坐ると直ぐ娘に向って、『あの子の脱腸はね、お父ちゃんとお母ちゃんが仲が悪いからじゃと先生が言われたよ』とたったそれだけ言いますと、じっと私の顔を見つめていた娘が急に大きな声を出して泣きだしたのであります。これはえらいことをした、隣近所には屋敷が広いし、聞える心配はないのですが、家にはおじいちゃんもいるし、娘の婿もいるし、孫も4人いるので夜中に大声で泣かれては皆目を覚ましてしまうと思って『ごめんごめん、何か気に障ったら許しておくれ』と言ってなだめ、やっと寝させたのであります。

 私は10歳の孫を抱いて寝ますので、寝床に入って孫と休みました。その翌晩お風呂もその孫と一緒に入りますので、私が先にお湯に入って待っておりますと、孫が後から飛んで来て、脱衣場でシャツやパンツを脱ぎながら『ばあちゃん、ばあちゃん』と呼ぶので、『何や』と言いますと『脱腸がない、脱腸がない』と言うのであります。10年間もずっと出ていて医者に行っても治らないでいた脱腸が治るとは思われないので、多分脱腸帯(ゴムと金具で造ってあり、腸が出ないように押えておくバンド)がないというのであろうと思い、『どこか忘れたと違うか』と申しますと、『そんなもん忘れるか』と言いますので『それならいいが……』と言っていますと、裸になって入って来ました。ヒョッと見ると、あれだけ10年近くもの間大きく膨れ上がり、出っ張っていた脱腸が跡形もなく消えているのであります。何と不思議なこともあるものでございますね。」

 お婆ちゃんは驚いておられました。私にすれば何も不思議なことはなく、脱腸なんてあるはずがないのでありまして、御両親の不調和な心の影が脱腸という姿に現れているだけであると信じておりますから、別に不思議なことでもなく何でもなく、極めて当り前のこととして受け取れるのであります。法則を知らない人からみると、ちょっと納得がいかない出来事なのであります。

 医者がどんなに苦労して汗かいて押し込んでも、入らないで治らないものが、指一本触れないで消えてしまったのであります。治るということは現象的には納得のゆかないことであり、常識では理解出来ないのも当たり前ですから、このようにして治るのを神癒というのであります。他に表現の方法がないわけであります。





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