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生長の家・開祖の『御教え』全相復活
を目指す掲示板

「生命の實相」第14巻 <和解の倫理>

われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、
虚説に対して和解してはならないのであります。
虚説に和解したら実相をくらますことになります。
虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。
虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

<新掲示板の概要について>

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[6295] <再掲載> インターネット道場・「生長の家」信仰体験談の重要性と感激的体験談の数々 第197回
信徒連合 - 2016年12月29日 (木) 09時05分





@ 『 生長の家には体験談というものがありまして、誌友たちが御自分で、私の書いた『生命の實相』をお読みになりまして真諦を握られた結果、法爾自然(ほうにじねん)に実際生活に現われて来たところを御発表になるのでありまして、・・・『生命の實相』を読んでも必ずしも全部の人の病気が治っている訳ではありません。治らないような例外もあります。然し、それでも実際無数の多くの病人の治った体験談がある以上『生命の實相』を読んで病気が治ると云うことは、例外があって綿や埃が空中に舞い上がることが在っても『物体の落下』を原則として肯定しなければならないと同じように肯定しなければならないのです。読者のうちにはお蔭を受けて感謝の心は有(も)っているが、その体験談を発表することを何かつまらないことようにご遠慮なさる人があるかも知れませぬが、体験記録は人生という実験室に於いて真諦(しんたい)、即ち本当の真理を握ったら、世諦(せたい)がこんなに成就したと云う体験を蒐集し積上げて整理して行くことによって、こんな心を持てば斯うなると云う科学的に重大なる真理を立証する事実を寄与して下さるわけであります。酸素と水素を結合させたら水になったと云う体験記録の発表も尊いことでありますならば、人間というものに生命の實相の原理を加えたら斯う云う結果を得たと云う体験記録の発表は尚々重要なことであります。』

A 『 宗教が科学に近づく道は体験記録の蒐集であります。 心に神の無限供給をハッキリ自覚したら自然法爾に自分の行ないも整うてき、人からも好感を受けて、それが形の世界に無限供給として現われてくるということが皆さんの数々の体験によって実証せられまして、それが体系づけられましたなら、それは一つの科学だということになるのであります。科学というものは何も必ずしも目に見えるもの、物質だけの実験による体験記録でなければならぬということはないのであります。目に見えない材料、心の材料というものも、その体験をずっと重ねてゆきまして、それを一貫した法則があるということが発見されましたならば、それは精神科学の法則だということになります。この精神科学の法則というのを、生長の家では「心の法則」とこう言っているのであります。これを、宗教的用語で言いますならば「三界は唯心の所現」という釈迦の言葉や「汝の信仰なんじを癒やせり」というようなキリストの言葉となって表現されるのであります。キリストが「汝の信仰なんじを癒やせり」と言っておられるのは、キリストが縁となって病人の信仰が喚起されて、その信仰のカで病気が治ったとこう言っておられますのですが、「病気」というものは、必ずしも肉体だけの病気ではないのであります。』

★★ 信徒の信仰体験談を無視して取り上げないマサノブ君は「総裁」と言う名に値しない者であります。

******************




大聖師御講義『続々甘露の法雨』より(38)






  肉体は物質に非ずということ

あなたは、これは喩(たと)えですよ。近頃何だか元気が衰えて不健康な感じがするので医者に見て貰ったら、あなたの一方の腎臓は死んでいる。もう一方の腎臓には孔(あな)が3つほどあいている。最悪の場合には腎臓癌の疑いがあるから是非とも手術しなければならないなどと医師から宣告されたとすると、どのようになさいますか。そんな時にこそ、この聖経『続々甘露の法雨』の次の一節があなたを救うことになるのだとおもいます。

 罪を右顧左眄(うこさべん)すること勿れ。
 迷いを右顧左眄すること勿れ。
 病いを右顧左眄すること勿れ。
 汝ら百尺竿頭より一歩跳ぶべし。
 更に空中に遊歩すべし。
 空中遊歩の神人とは
 汝らの「生命」の実相なり。
 実相のほかに真の汝なし。
 肉体ありと見ゆれども
 そはただ心の波動の投影(かげ)に過ぎず、

 真の人間は「神の子・人間」なり、
 真清浄、真円満なる「神の子・人間」なり。
 汝ら驀(まっしぐ)らに「神の子・人間」を自覚せよ。
 「神の子・人間」を自覚して
 罪と迷いと死の夢を消し去るとき、
汝の恐怖滅し、
汝の病気も完全に滅し去らん。

ちょうど此れに適する実例がありまして、それは昭和43年10月6日、静岡市駿府会館で、生長の家の講習会がありました時に、浜松市上西町1038に住んでいられる鈴木猪久馬さんが、医者から「あんたの腎臓には3つほど孔があいている、最悪の場合は腎臓癌である」といわれた。その時はまだこの鈴木猪久馬さんは「病を右顧左眄」していられた訳であります。病を起した原因は何だろう。それは先祖の犯した罪の結果ではなかろうか、そのためには何代前までの祖先を調べてその名前を知り、その先祖をお祀りして聖経を誦げて、その罪をけしてあげなければ、自分の病気は治らないなどと考えて、祖先の名まえを調べるけれどもわからないので悩んでいるなどというのが、罪を右顧し、迷いを左眄することなのであります。

大体「先祖が迷っている」などと考えるのがいけないのであります。仏典には「一人出家すれば九族天に生まる」という聖句があります。あなた(又は“其の人”)自身が本当に悟りをひらけば、九族即ち、高祖・曾祖・祖父・父・自分・子・孫・曾孫・玄孫の九代にわたるすべての血族ことごとくが悟りをひらくというのですから、どの時代の誰の霊魂が迷っているかなどと左顧右眄して“罪”や“迷い”を探し廻ってはいけないのであります。

自分がそんなに迷っていてはお経をあげても、自分自身の“迷いの念波”が放送されますから、霊界に於ける祖霊たちも迷惑するばかりであります。聖経を祖霊への供養及び感謝のために読誦するためには“罪”も“迷い”も“病い”も本来ない、人間の霊は、本来神の子、本来清浄だという悟境に於いて聖経を誦げてこそ、「罪本来なし」「迷い本来無し」の悟りの念波を受けて自らも悟って救われることになるのであります。

さてそれでは、次に鈴木猪久馬さんの体験談の録音を文章に直して紹介することに致します。


  神様ありがとうございます。谷口先生ありがとうございます。皆様ありがとうございます。皆さん片手で親指と人差し指で輪を作って下さい。それに片手の握りこぶしを通そうとしても通ると思いますか。それを私は、この無理を承知の片手の穴へ、握りこぶしを、神様のお導きによりまして通させて頂きました。その体験を述べさせて頂きます。私がこの教えに触れましたのは、今年の3月中旬、俄(にわ)かに腰に激痛を覚えまして、それが並な痛さでなく、近くの浜松労災病院へ入院致しました。その間3日、4日といろいろ精密検査を繰り返しやりまして、それと同時に、39度前後の熱が朝から晩まで3日4日と続きました。1週間ほど流動食になりまして、それも流動食がぜんぜん通らなくなりました。検査の結果が分りまして、内科部長の先生が、5,6人で私の所へ参りまして、「実は鈴木さん、貴方の病気は普通の病気ではないんだ。重大な病気なんだ」「なんでしょう」と申し上げたところ、それはレントゲンの1次検査、2次検査の結果、左の腎臓が全く死んでしまっている。しかも、大きな孔が3つほど認められる。写真を見せて頂きました。やはり言われるように大きな穴があいているのです。私もびっくりしてしまってどんな原因ですかと聞いたところ、お医者さんが言われますのには最悪の場合には腎臓癌と考えられる。だから腎臓は2つ有るから1つ取ってしまうようにと言われました。

私もその時には目の前が真っ暗になりました。振返ってみますと長い奉公の末に苦心して独立した商店を持ちまして、やっと滑り出した矢先のことであり、目の前が真っ暗になりました。その様な時に私の妻は、この3月に東京の白鳩会全国大会に近くの誌友の人に勧められて出席させて頂きました。その時に求めて参りました平岡初枝先生著『しあわせを見つめて』という本を枕許に持って参りまして、「お父さんこれを枕許で読んでみて下さい」そして置いて帰ったんです。私も本どころではなかったのですが、その時は、わらをも掴むという気持で妻の帰った後、手に取って開いて見たのです。そしてひと息に全部読ませて頂きました。

そして先程の体験談の人ではございませんが、ものすごくショックを感じまして、それに80頁にありました「妻に詫びたとき」という題の所で私と同じような体験の方々のお話が書いてありました。私は元来、我(が)が強い方ですし、自分が正しいと思った時はどんどんと、闘争が広がりましても、はねのけてやってゆき、それが又間違いないのだという信念の下にやって来たつもりです。しかも、浜松は全国有数の交通事故の都市ですから、4年程前から、毎朝交通指導を始めまして、それもいちおう“自分の体で子供を守ってやるんだ。歩行者を守ってやるんだ”とその時にはそのような気持で始めたんですけれど、そしてつくづく病状が出てから考えて見ますと、それは何と思い上った気持ちだろうか。「やってやるん」ではなくて、「やらせて頂いている」んだ。こんなことが今まで何で、わからなかったのだろう、と思いました。そして1人1人考えて見ますと、もう50人余りの人とも喧嘩をしました。この人ともけんかをしましたという人が居りました。その人達にいちいち夜半(よなか)に名前を呼び上げて頭を下げました。

そしたら、お陰で、それまで、それまで1週間以上ぜんぜん眠られなかった──不安と熱の為に眠られなかったのがぐっすりと眠られるようになりました。もう朝まで夢のように眠(やす)めます。ところが朝体温計を計ったところ、体温計を持って来た看護婦が“貴方熱をごまかしたのではないですか”と言われるんです。見て見ますと6度7分しかございません。しかも2回3回と計ってみても、ぜんぜん変らないのです。私もびっくりしてしまいして、よし、夕べやっぱり読まして頂いた本は「本来病気はない」と、「絶対なし」と、書いてありましたが、やはりその通りだ。今日から生れ変ったつもりで一つ私は理屈では分りませんですから、愛行として一にも二にも愛行として色々なことをやらして頂こうと思いまして病院の中でも、薬を、一度にいろいろ頂きましたんですが、それを全部飲んだふりを致しまして全部袋に詰めまして、薬を一回も服(の)みませんでした。

そういう生活を2週間程続けました。そうすると毎日お医者さんが、首をかしげては、「こんな筈はないがなあ」と言って帰られるのですが、それが悪い方へ向って首をかしげるのではなくて良い方に向って治っているのですから首をかしげているのです。それでも病院の方では、これは腎臓は取ってしまわなければいけないと言ったので、私は「もう一度検査して下さい。それで悪かったら腎臓を切りますから。とにかく絶対腎臓ではないと思います」と言ったら、お医者さんは、「じゃあ、お前は医学博士になったんだ」と言って叱られました。それでも私は、強引に申し上げまして、とうとう4月の16日ですか、レントゲン検査をして頂きました。ところが結果が午後4時頃わかりまして、私の顔を見るや、「貴方、思ったよりこれは軽い病気だったね」とこう言われたんです。そして、そのレントゲンを見てみますと、ものすごくきれいに腎臓が写っていて両方とも正常に働いているのです。しかもその孔が、ぜんぜんわからず、ただ腎臓と膀胱との間に、大きな結石が出ていたんです。それで私は常に「病気ではない」と言っていたものですから見舞に来た人達は「石ぐらいのもんだね」と帰って行きました。その言葉通りになって出たんです。

私は、その様な石も手術せずに、絶対ないと思いまして、それからは日常とぜんぜん変りなく『甘露の法雨』、神想観それから妻も、私と同居して居ります私の弟も一緒に研鑽会や青年会全国大会に出席させて頂いて、家族ぐるみの『甘露の法雨』読誦と神想観を1ヶ月程やりました。そして病院でも石は自然には絶対出ないと言われましたが、6月19日、荒木先生の講演会がありまして、そこへ伺おうとしている矢先になって、大きな石が出た(排出した)のです。その大きな石と申しますのは、長さが1センチ4ミリ、厚さが6ミリ、幅が8ミリであって、だいたい3ミリの所にその石がとおる訳がないと言われ、摘出手術をやれと病院の方で口をすっぱくする程言われましたが、そのような結果になって出てしまいました。その後交通指導の愛行をしたり、ありがたい『甘露の法雨』を一所懸命点訳して、盲人の方に読んでもらおうと思いまして、この頃は、一所懸命点訳させて頂いておりますが、今後も一所懸命光明化運動に進まして頂きたいと思います。どうもありがとうございました。それからこの石が、その時出ました石なんです。一人でも大勢の方に見て頂こうと思って会場に持って参りました。ありがとうございました。

 こういって鈴木猪久馬氏は手術せずに自然に3ミリの尿管から排出されたという長さ1センチ4ミリ、厚さ6ミリ、幅8ミリの腎臓結石を講習生の前に示されたのでありました。


 さて、この鈴木猪久馬さんの体験談を『続々甘露の法雨』の聖句と併読して分析してみますと、「最悪の場合は腎臓癌であるから一方の腎臓を摘出するほかはない」と宣告されたときが、迷いに右顧左眄して、もうギリギリの百尺竿頭に──医師によれば此処まで行くしかしかたがないという頂上に──昇り切ったところであります。そしてこの竿頭(さおのさき)から思い切って飛び降りることが出来ない人は、百尺竿頭に坐す底(てい)の人であって、外科手術を受けることのほか仕方がなかったのであります。

ところが、鈴木猪久馬さんは、幸いに平岡初枝先生の『しあわせを見つめて』という本を読んだ。そして「病気無し」の世界を知った。医術という竿(さお)につかまらないでも、医術の竿から飛び降りても傷つかない世界があることを知って、空中から飛び降りたのです。それは「物質なし」「肉体なし」物質も肉体も具体的堅固のもののように見えるけれども、それは空の空なるものである。それは“心の影”にすぎない。即ち『般若心経』にある“色即是空・空即是色“である。色(しき)即ち物質は“有り”と見ゆれども“空”の展開に過ぎない。空そのまま物質と見え、肉体と見えているのである。その“空の世界”を自由自在に遊歩することが出来るのは、人間は“神の子“であり、霊的実在であるという真理を悟った真人であり、神人である。この自覚を得たとき、もう物質の法則は彼の肉体を縛らなくなるのである。もう彼にとって肉体は物質ではなく、「それはただ心の波動の投影(かげ)」であるからである。

 物質は物質ではなく、“心の影”であるという真理が分れば、もう、肉体そのものの病気を気にする必要はないのである。心を一転すれば、心の影なる肉体の状態は変るのである。

 だからこそ直径3ミリといわれる尿管(それは多少弾力があるので、多少は引き伸ばされるであろうが)から、長さ1センチ4ミリ、厚さ6ミリ、幅8ミリという──とても、物質としてその結石を考えたら、排出される道理がない大きな石が苦痛もなく排出したのであります。人体は物質体ではなく、生命体であり霊体であることがこれでお解りになると思います。


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