[1153] インターネット道場―――体験実話特集・平岡初枝先生「子供を見つめて」より(14) |
- 信徒連合 - 2015年11月17日 (火) 10時31分
インターネット道場―――
体験実話特集
平岡初枝先生「子供を見つめて」より(14)
<お母さんを喜ばせた秀ちゃん>
秀ちゃんは、当時小学校四年生でした。善認クラブには毎週出席して、お父さんお母さんを喜ばす話をきいており、秀ちゃんのお母さんは母の会に出席して、家族を祝福することをおそわっておりました。
ある日、それは十一月も末頃だったと思います。秀ちゃんのお母さんは朝早く起きて、隣村までお使いに行ってきました。用事が終ったので、これから朝飯の仕度をしましょうと、急ぎ足で帰って来ると、台所の煙突から煙が出ている。誰が火を焚いているのかと、はいって見ると秀ちゃんです。秀ちゃんが起きたとき、お母さんがいなかった。お使いに行ったのだろう、御飯を焚いておいてあげたら喜ばれるであろうと思ったらしいのです。秀ちゃんは御飯の焚き方を知っていたか、いないかは知りません。しかし、そんなわけで火をたいていた。そこへ、お母さんが帰って来たというわけです。
そこで、お母さんは日頃教えられたことを、この時とばかり実行したのです。 「まあ秀ちゃん、御飯たいててくれたの。ありがと、ありがと。お母さん、うれしい」 と秀ちゃんを抱きしめて喜びを表現したというのです。この愛の表現が、秀ちゃんにとってどんなにうれしかったことか。お母さんを喜ばせるということは、こんなにもうれしいものだということを体験したわけです。こうした体験が、その人の人生の幸福への道標になるのです。
<親を喜ばせた悦び>
ともかくも秀ちゃんは、こうしてお母さんを喜ばす体験をしたのです。人を喜ばすことの如何にたのしいものであるか、精神的なこの喜び、人類共通の歓喜を体得したのです。
こうなると面白いものです。それからの秀ちゃんは、何をしてお母さんを喜ばそうかと考えるのです。そして、翌日は、学校の帰りに杉の落葉を一抱え拾ってきました。
「お母さん、焚きつけ拾ってきた」 と手を挙げて叫びました。秀ちゃんの家は会社の社宅で、落葉するような木は一本もなかったのです。お母さんは大喜びでした。 「ありがと、ありがと。お母さん助かる」 と秀ちゃんを心からほめました。
こうなると、子供はますますお母さんを喜ばすことを考えるのです。つぎの朝は、玄関の下足をきれいに並べた。お母さんも、すかさずほめた。さて、その日の午後、秀ちゃんはお母さんの言葉をかりていうと、足が折れるほど全速力で走ってきて、 「お母さん、よかった、よかった」 と大騒ぎだったというのです。
聞いてみると、その日学校で綴り方の時間があった。先生は「好きな題で書きなさい」といわれた。そこで秀ちゃんは、この間からほめられてうれしかったこと、抱きしめられてうれしかったことを、正直に書きつらねました。その文章が、なかなかの名文になったのです。
それで先生は、いたるところに丸をつけ、最後に「秀ちゃんは、何といい子でしょう、かんしん感心」と批評を添え、おまけに百点くださったというのです。
秀ちゃんは、50人ばかりの生徒のなかで35、6番の成績で、まだ百点をとったことがなかったのです。それが百点をとったのですから、秀ちゃんの喜びはひと通りでないというわけです。しかし、感激したのは秀ちゃんだけではありません。お母さんの方が、もっとうれしかったのです。
「まあ、よかったね、よかったね。さあ、お祖父ちゃんにも喜んでもらいましょう」 お母さんは、こう言いながら、前の年の秋になくなったお祖父さんの御位牌の前に作文を供えて、 「おじいちゃん、秀ちゃんが百点とってきました。喜んでやってください」 と合掌しました。お母さんは、泣けて泣けて涙がとまらなかったということです。 「お母さんは、ぼくが百点をとってくると、こんなに泣いて喜んでくださる!」
さあ、それからは秀ちゃんの真剣な努力がはじまりました。勉強はする。よいことはする。成績も、よくなる。秀ちゃんが初めて百点とってきたのは、小学校四年生の11月のことでしたが、四ヵ月後の五年生に進級するときには、クラスで35、6番だったのが、なんと一躍6番になっていたのです。
ですから、子供の学校の成績の問題でも、天分や素質ということもありましょうが、子供の心に喜びと感激が生まれたときには、無限の力が出てくるものだということが、よくお分かりになると思うのであります。
<子供中心の教育>
善認クラブはこのようにして、たくさんの成績優良児を生んだのです。その方法は、子供のちょっとでもよいところを見つけてやって、それをほめ、それをたたえ、それを喜んであげる、わずかにこれだけのことです。簡単なようですが、よく考えてみてください。
それは子供中心の教育です。子供中心というよりは、その子中心なのです。これまでの親の気持を中心にして行なわれてきた教育法とは全然反対であることに気づいていただきたいのです。
ところが、読んで分かったと思ったこと、聞いてなるほどと思っていたことでも、さて目の前の実地に適用しようとすると、とまどうことが多いものです。ひと口に、ほめるといっても、無暗やたらにほめれば良いわけではないのです。ほめる価値あるものを認めて、ほめるのでなければ、効果がないだけでなく、下手すると反感をまねく結果にさえなりかねないのです。
<ほめる天才の室林青年>
富山の善認クラブの指導者の一人に室林という実に頭のよいほめ上手の天才青年がありました。そもそも善認クラブは、この青年の考案になったものでありますが、ある時私が応援やら見学やらで行ったときのことでした。実に面白い場面が展開していました。その子の名は忘れましたが、小学4年生の男の子でした。なぜか非常に機嫌がわるくて、すねていました。室林青年から何をきかれても、真面目な返事をしようとしないのです。
室林「先週は、どんないいことをしたか、発表してちょうだい、○○君」
○○「なにもしない」
室林「本を読んだろう?」
○○「読まん」
室林「ほう、お使いに行ってきたろう?」
○○「行かん」
室林「赤ん坊の守りをしたろう?」
○○「しない」
室林「なるほど。しかし、今朝は顔を洗ったろうね」
○○「洗わない」
見ていた私は、その子の強情っぷりにも驚いたが、さて室林青年は、問題の解決をどうもって行くだろうと目を見張っていたのであります。室林青年は、ニコニコと笑って、言ったものです。
室林「君はえらい、勇気がある。すばらしい。たまには、どうかすると、本を読まなかったのに、読んだといったり、顔を洗わないでも、洗ったといったりする子があるのに、君は読まないものは読まないといい、洗わないものは洗わないと正直にいう。君は勇気がある、えらい」思いがけずほめられた少年は、頬をあかく染めて、うつむきました。
ところが、それから一週間して、その子は素晴らしいことをしてきました。雪のふる寒い日でしたが、お父さんが蓮掘りをやりなさった。その時、彼は水をかきだす助手の役をつとめました。とうとう一日頑張って、役目をやり通したのです。次の週には輝く善認発表をして、皆をあっと驚かしたのでした。
ほめるということも、深い知恵と愛がなければできるものではないのです。
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