[1161] インターネット道場―――体験実話特集・平岡初枝先生「子供を見つめて」より(15) |
- 信徒連合 - 2015年11月18日 (水) 07時02分
インターネット道場―――
体験実話特集
平岡初枝先生「子供を見つめて」より(15)
成績ばかり気にする母
<点数乞食>
あるとき、富山県の魚津市で教育講演をした後、数人の幹部と雑談をしました。このときは、東岩瀬町からこられた荻本さんという方が、次のような話をなさいました。
「ほめる教育については、私は何回もお話を聞いて、実際に応用もしてみて、ほんにほめるということは、ほめるものも気持がよいし、ほめられるものも励みを感ずるし、その場の雰囲気もよくなるし……と、よくわかっているつもりなのです。ところがいざその場になると、特に成績の問題になってくると、まるで目先がくらむというのか、つい言ってならないこともいってしまい、見せてはならない姿を見せてしまうので、本当に悲しくさえなるのです。
先日も小学校三年生の次男が、とてもわるい成績をとってきたのです。思わず『これは、どうしたの』と強い言葉が出てしまったのです。とたんに、しまった、と心の中で叫んだものです。ところが、同時に、そばにいた主人が申しました。
『母ちゃん、それでいいのかい?』 私は、まるっきり目もあてられぬ態で、ぺしゃんこになったわけです。
翌日、次男が学校から帰るなり、まだ鞄も下ろさない先から、いいました。 『母ちゃん、今日は、いいこといおうか』 『ああ、いいこと間かしてちょうだい』 私は心のなかで“さては今日は百点とってきたかなあ”と思いました。親って、どうしてこうも点数乞食なのでしょうか」
<深切ごっこ>
「けれども、子供の良い話とは、点数のことではなかったのです。
『母ちゃん、今日○○君が鉛筆わすれてきたから貸してやったよ。○○君が消しゴムを落したから拾ってやったよ。母ちゃん、いいことだろう?』 『そう、それは、いいことだよ』 あいづちを打ってやると、次男はいい気になっていうのです。
『僕、これから毎日いいことをして、母ちゃんを喜ばしてやるよ』 そこへ、五年生の長男が帰ってきました。 『ああ太郎ちゃん、おかえり。今日から学校でよいことをして、帰ると母ちゃんに報告することになったんだよ』 『ふうん、でも今日は突然だから、何もないや』 長男は頭をかいていました。
それからは、2人が学校から帰ると、競争でよいことをした報告です。もちろん、大したことではありません。鉛筆をかしてやった、本を見せてやった、ころんだから起こしてやった、泥をはらってやった、血を出したから手拭をさいてしばってやった……。と、子供同士の小さな深切ごっこを二人が競争で報告するのです。私は、まあ悪いことではないのですから、時にはうるさいと思うこともありましたが、
『ああそうかい、そうかい。いいことをしたね。それはえらい、かんしん、かんしん』 と、ほめてやっていたわけです」
「ところが、そんなことが5日6日と続くうちに、ほめられることの喜びというか、母を喜ばす喜びの体験ができたというわけか、こんどは勉強も競争のようになって、二人ともとてもよく勉強するようになったのです。
そのとき、私は『将を射んとすれば馬を射よ』という諺を思い出したのです。勉強をさせたいと思ったら、何でもほめて、先ず子供から好かれる母になることだ。そうすれば、子供は母をよろこばしたい一念から、母の求めているものをさがし出して、勉強をするようになるのだと思いました」
これは、なかなかうがった意見です。まきにその通り、じつに満点の母の悟りです。
希望と自信をもたせるのが教育
明るく励ますお母さん
<子供の成績は母親次第>
ある年、私は九州福岡県のある大きな市で教育講演をいたしました。新築された文化会館に千名近い聴衆が集まりました。その席で私は大要次のようなことを言ったのです。
子供が学校で悪い点をもらってきた。たとえば、算数が十題のうち三題しかできなかった。つまり百点法で三十点しかとれなかった。その成績を見る際の母親の言葉と表情が、その後の子供の成績の方向をきめるのです。
すなわち、子供の成績を百点にすることも、零点はおろか不良にまでするのも、そのときの母親の言葉と表情にかかっているのです。答案を手にしたお母さんが怒りの表情で「これは何だい、この馬鹿が」というようなさげすみの言葉を出したとします。
その時子供はどんな気持がすると思いますか。気の強い子は、「ナニクソ次から答案など見せてやるものか」と反抗心を起こし、気の弱い子は「自分はやっぱり駄目だ」と、心の底に深い劣等感を植えつけるわけです。こうしたことが度々繰りかえされると、反抗心を起こした子供も、劣等感にみちびかれた子供も共に親をきらいになるのです。この親と子の間の疎遠した気持が、親子の間を決定するのです。
子供はみな、いうといわざるとにかかわらず、意識するとしないにかかわらず、親から愛されたいという実に底深い願いをもっているものです。それだけに、疎遠の気持ははかり知ることのできない絶望感を与えるのです。
反対に、悪い成績を見せられたときのお母さんの心に、まあかわいそうに、向かいの子も隣の子もみないい成績だったのに、うちの子だけが三十点、つらかっただろう、悲しかっただろう≠ニ一片の愛の心が働いたとしたら、出る言葉もおのずから変わってくるわけです。
「いいよ、いいよ。この次に頑張ったら大丈夫。お前、この問題はできたじゃないの。この問題ができれば、隣の問題もよう似た問題だもの、すぐできるようになるよ」
こんなふうに、必ず激励する言葉がでるに違いないのです。そして実際にこうした言葉をきくと、子供の心に必ず「僕にもやれるかなぁ」という希望が生じ、「では、やって見よう」という自信が生まれるのです。
ある意味において、教育とは、一生涯どんな問題にであっても、どんな境遇に追い込まれても、屈することなく常に新しい希望と、たくましい自信をもって立ちあがる子供にしてやることだと、私は思うのです。その新しい希望とたくましい自信とは、どこから生まれ、どうして育つかといえば、一枚の答案を手にしたときの母親の言葉と表情にかかっているのだと思います。
明るい言葉と表情が親子の間をつなぐとき、子供は必ず親を好きになるのです。親を愛する子供は、必ず幸福な子供に育つのです。希望と自信を与えられた子供は、一所懸命頑張ります。これを繰り返すと、今は三十点しかとれなかった子供も、おいおい百点取れる子供になることは確実です。
同じ30点でも反抗心と劣等感に陥った子供は、すて鉢になり、ついには不良児、問題児の群にさえおちて行くのです。 わるい成績を見て怒号する母の心の中にあるのは、親の希望や誇りを傷つけられ、自分の思うようにならなかったことに対する不満があります。それが爆発するのであって、つまり利己心のあらわれです。
明るく励ましてやる母は、子供の立場に立ってやり、子供の気持になってやるという愛のあらわれである。一切のことはそうであるが、特に教育の成功のためには、愛の立場に立つべきである。 私はそんな話をしたわけです。
ところが、私の講演の終わった後、その市の教育課長さんが閉会の辞の中で、次のようなことをおっしゃって下さったのです。
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