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生長の家・開祖の『御教え』全相復活
を目指す掲示板

「生命の實相」第14巻 <和解の倫理>

われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、
虚説に対して和解してはならないのであります。
虚説に和解したら実相をくらますことになります。
虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。
虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

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[1767] インターネット道場―――体験実話特集・藤原敏之先生「全てを癒やす道」より(15)
信徒連合 - 2016年01月11日 (月) 07時49分



インターネット道場―――


体験実話特集


藤原敏之先生「全てを癒やす道」より(15)




▼喘息で入院中の女性へ


《往信》長年の喘息の発作で苦しむ、入院中の女性。


《拝復》合掌 お手紙によりますと、長い間の喘息の発作にてお苦しみの御様子、誠にお気の毒です。7月の練成会にもお越し頂いたそうですが、未だに快癒せず入院中の由、私の祈りと愛念の不足を痛感致し、深くお詫び申し上げます。

あなたは宗教による救いと医師の治療とを混同しておられるようですが、身体に現れた疾患を治すのは医師の仕事であり、医療
の目的でありますが、宗教の目的はそのような現象の悪や不完全さを取り除いたり、身体の病気を治すためのものではありません。神様を医療の代行機関や薬や注射と間違えてはなりません。信仰によって、難病や奇病が癒えるのは悪いのが何かの力を借りて、何かを足して貰って快くなるのではありません。元々、どうもなっていないから、どうもなくなるだけです。あなたのお手紙では、どうも其処の所が未だ本当におわかり(覚り)になっていないように思われます。

生長の家のみ教えは絶対でありまして医学や常識では絶対に治らないとされている業病や奇病でも簡単に消えてしまって、治っているのですが、あなたの考えておられるように悪いものが何かによって快くなるのではありません。どうもないと覚ったとき、
どうもなくなるだけであります。

練成会の時にも申した通り、目を閉じて暗い暗いと思っているのが、目を開けなさいと言われて素直に目を開いて今まで暗かったのが明るくなるのであって、本当に暗があるのであれば、どんなにしても暗を除くことは出来ないはずであります。光を見ないから暗いだけであります。夢の中での出来事がどんなに恐ろしいものや苦しいものであっても夢は元々実在ではないから目がさめれば、みんな消えて無くなるのと同じであります。

宗教による解決法はすべて今まで本当だと思っていたものが、例えば目に見えるもの(現象)が実在だと考えていたのが、根本的な間違いであって現象はすべて影であり、実在ではなかったと心の底から気付く(自覚する)ことであります。肉眼で見ることの出来ないもの、即ち本当にあるものは生命であり、理念という心であったと気付くことであります。

普通一般常識はみんな逆なのです。実在するもの(実相)は目には見えないから無いと思いこみ、影である現象は目に見えるから本当にあると思い込んでおりますが、このことを仏教でも生長の家でも無明である、これが根本的な間違いであるとお教え頂くのであります。

しかも一切の苦悩、病気も貧乏も争いも悉く無明から生れると教えられます。この根本を解決せず、結果である病気だけを治そうとしても本末転倒ですから解決のしようがないのであります。あなたほどの人であれば、この道理がわからないはずがありません。従って運命も環境もすべて心で決め、心で思っている通りに現れるのであります。

 あなたは苦しみが伴うから無い病気を有ると認めておられます。つまり迷いと妥協し、偽物を許しておられます。お化けがいると思っているのと同じであります。無い現象の方を信じ、実相(真理)を信じていないから、「よくなりたい、よくなりたい」と願いながら、何時までも治らないのであります。あなたはみ教えを知り、理解はしておられるようでありますが、未だ信じておられないようであります。宗教は学問ではありません。私達は現実に生活しているのであって考えているだけではありません。

宗教は考え方も変えますが、生活をも変えるのであります。実践(行)を伴わないのは宗教学であって信仰とはなりません。お
腹が空いたのは、どんなに食べたら膨れると判っていても考えても美味しくなければ満腹感も生れません。行を通さなければ実感とはなりません。実感を通さないから信とはならず、現実の救いともならないのであります。

 “こうらしい”と“こうだ”とでは内容的には大きな開きがあり、力の生まれる度合いに於いては問題にならない程大きな違いを生ずるのであります。先ず第一に神の子である事実を生命で把握しましょう。自分の力で出来ていることは何一つない事実を素直に確認し根こそぎ全托しましょう。後は神の生命、神の権能(ちから)だけに生かされている事実に目覚めましょう。

病状から推察してあなたは大変潔癖性で間違ったことは許せないという性格のようですね。その上に大変気が短い方のように思います。喘息になる方は大体性急な人です。これは長所であると同時に短所でもあります。この性格は信仰による以外にはちょっと治りません。それとご主人に“絶対ハイ”が足りません。心の底でご主人の命(めい)を突き返しておられる、その心が息(生命)の通る道をふさぐのであります。神の子だと自覚したと
き、他を裁く心がなくなり、そのままで感謝し拝めるようになります。責める気持ちが逆にお詫びする心になります。喘息など神様がお造りになりませんから元々無いのです。あなたの思いが一変すれば勝手に消えてしまいます。

あなたは今、尊い体験を通して喘息で悩んでいる沢山の人を助ける使命を授かっておられるのであります。喜びを以て精進して下さい。
再拝




▼心臓弁膜症の夫をもつ主婦へ


《往信》32歳の主婦。公務員の主人が心臓弁膜症で入院、心臓内膜炎を併発。医師からは手術して人工弁にするように勧められている。小康を得て退院したものの、気力もなく勤務も2日行っては1日休むという有様。2児を抱えて先行きも不安。“生長の家の御本を色々読み、神想観もしているが、充分教えを体得していないせいか不安がる主人にふりまわされて一緒になってオロオロしている始末。主人の健康が取り戻せて、明るい生活がしたい。


《往信》合掌 ご主人の御病気でお悩みのご様子、御同情申上げます。 み教えに御縁を頂かれてから未だ数ヶ月では真理を体得せられるのは御無理かと思いますが、今のあなたは宗教観が全然間違っています。神様や宗教を病院か薬の代用品位にお考えのようであります。医者や薬を神様に置き替えておられるだけであります。

神様は膏薬でも頓服でもありません。宇宙の真理であり、神秘的法則です。一般には物事が旨く行くと運が良かったといい、希望することと反対に困るような結果になると運が悪いといわれますが、その運とは何かといいますと、字の通り運ぶということであります。何が運ぶかと申しますと、法則が運ぶのであります。ちょうど蒔いたものがそのまま生える様にであります。

大根を蒔いておけば、誰が蒔いても間違いなく大根が生えます。絶対に加減も容赦もありません。歪められることのない法則があるのです。

 その運命を作り出す根本は心なのです、もっと深くいえば観念なのです。どう観るか、どう思うかで運命は定まるのであります。希望したのでもない病気や不幸な出来事が現れるのも自分の心に感じ思っていることがそのまま現れているのであります。

 物質をただの物質だと観ているのでは信仰でも宗教的思想でもありません。人間をただの人間とだけ観ているのも同様です。

信仰とは神を信ずる生活であり、神を現わし、神を生きることです。生長の家が素晴しいのは一切の人や物や事を全て神として尊び、拝んで仕える生活を識(し)るだけでなく、実践するところにあります。物質の本体を見極めて拝むことから始めるのです。肉眼で見たら物は物に見えますが、生長の家では物として現われているまま神の生命、神の理念が形に具象化して現れているのであると観ずるのです。

ご承知のように、物理学では物質は分子であると言っていたかと思うと原子だと言い出し、現在では電子であると言われているでしょう。電子顕微鏡で見たら、悉く光になるという学説でありましょう。そうすると物の正体は光であることが解るのであります。その光を一定の形に現わしているものは、一体何ものであるかといいますと、知性ある法則であり、力であると考えざるを得ません。その何者かを一般に自然とか天然とか申していますが、その不可思議なる神秘力を真理とか法則とか申しております。

宗教とはその何ものかを神とか仏とか称(よ)んでいるのであります。従って、人間も単に肉体としても存在ではなく、生命的存在であり、神秘そのものであると観て尊敬し、礼拝することを宗教といい、また信仰と申すのであります。

 生長の家で人間神の子病気無し、悪や不完全なものは一切無しと現象を否定するのは、そのような意味であります。あなたもご主人をただの夫とだけ見ておられるのでは、医者の言葉やご主人の言動に心を捉えられ、ご心配になるのは当然であります。現れている影だけ見ておられるのです。

病気もある、不幸もあるという色眼鏡をかけて眺めておられる限り、本来白いものでも色々な色が着いて見えるものです。色が着いて見えるからといって、そのものに色が着いていると見るのは間違いでしょう。色が着いて見えるのは色眼鏡のせいであると気が付かなければ、ものをそのまま見たことになりません。歪めて見ているのです。このようなものの考え方を無明というのです。

ですから病気、不幸など一切の悪いものは、悉く神のお造りになった本物ではなく、無明という色眼鏡を通して見ている、間違った姿であったと気付くことを覚り(悟り)というのです。そのとき色眼鏡が外されるから、もともとどうにもなっていない実相がそのまま現れてくるからどんな病気でもたちどころに消えてしまうのであります。これを神癒とか救いとかいうのです。

ですから別に悪いものがあるのを、神様という愛深いお力のあるお方にお願いしてお助け頂くのではなく、神様が一切のものをお造りになるとき、病気や不幸などは一切お造りになっていないから、本当は無いと解れば消えるだけのことであります。それを“あるから何とかして治さなければ”と思うのは、有りもしない夢を何とかして無くしようと焦っているようなものであります。

 ご安心なさいませ、ご主人に現れている姿は全部あなたの心の影でありますから、あなたが正しい信仰に目覚め、間違いに気付き、心の底から懺悔し改められたら、一遍に快くなられます。

 あなたはご主人が好きで結婚なさったけれども愛してはおられなかったのです。“恋愛結婚”といってもそういうのが多いのです。“好き”というのは、自分に都合のよい人と考えているのです。

愛とは相手に捧げ切ることです。相手の中に自分を没入し、自分の一切の都合を相手の都合に一致させ喜ぶことです。ご主人の生命と一つに溶け込めば、ご主人の喜びが即自分の喜びとなり、地上唯一人の妻であるあなたが喜ばれるとき、最大の勇気が生まれ、“百万人と雖(いえども)も我行かん”の気迫が生れ、病気など吹き飛んでしまうのです。

求める愛から捧げる愛に変るとき、本当の安心と喜びと希望が湧いて来ます。人間の求めているものは、詮ずるところその愛であります。ご主人のためなら死んでも悔いないという本当の奥様になりましょう。




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