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生長の家・開祖の『御教え』全相復活
を目指す掲示板

「生命の實相」第14巻 <和解の倫理>

われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、
虚説に対して和解してはならないのであります。
虚説に和解したら実相をくらますことになります。
虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。
虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

<新掲示板の概要について>

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[6359] <再掲示> インターネット道場―― 「正統・生長の家」と「マサノブ教」との比較(どこがどう違うか) 第256回
信徒連合 - 2017年01月03日 (火) 08時49分




<再掲示> 


インターネット道場―― 


「正統・生長の家」と「マサノブ教」との比較(どこがどう違うか)


 第256回




マサノブ君は、「生長の家ってどんな教え?」という本を書いています。これを読んでみますと、「マサノブ教ってどんな教え?」というタイトルが正確であります。開祖・谷口雅春先生の『御教え』を換骨奪胎して、マサノブ君の個人的思想、―――サヨク唯物現象論に基づく環境問題が中心のもの、―――が「生長の家」の教えとして書かれているのであります。 最も重要な開祖・谷口雅春先生の大悟徹底(お悟り)や「生命的国家論」や真理の証し「体験談」、霊と霊界に関する事柄については全く書かれてはいないのであります。

「生長の家」の本当の『御教え』を知りたい人や真剣な求道を志す人たちにはマサノブ君の「今の教え」や「生長の家ってどんな教え?」は誤ったメッセージを送ることになっています。

また、本部公式サイトのインターネット講師による「生長の家」の普及宣伝を目的とする「インターネット・ポーサルサイト」では、マサノブ君は、全インターネット講師に『このブログは「生長の家」の真理普及のために開設しましたが、内容や発言は、すべて私本人の責任において書いています。 従って、私は「生長の家」を代表する者でもありませんし、私の発言が「生長の家」の見解ではありませんので、ご了承ください。』という一文を必ず掲載させております。誠に“奇々怪々”な文章であります。その結果として、本部公式サイトでありながら、殆んどのインターネット講師の真理普及のためのインターネット講座が、個人的な“私生活日記”の報告となってしまっています。

インターネットは全世界に公開されているものです。だから、開祖・谷口雅春先生が説かれた「生長の家」の『御教え』を正しくお伝えしなければならないのでありますが、マサノブ君はその責任を放下してしまっているのであります。

そこで、本当の霊的真理を求めておられる御縁ある未信徒の人たちに正しい「生長の家」の『御教え』を正しくお伝えする為に、開祖・谷口雅春先生の『御教え』の根幹である部分を、何回でも何回でも繰り返して掲載して行く必要があります。この様な目的を以って、この「インタイーネット道場」を最初から再び<再掲示>させて頂きます。



******************




萬物は皆生きている 



『生命の謎』P.1−3 (はしがき)

十九世紀までは、宗教および哲学は、科学から独立した信条の上に成り立ちえたかも知れない。しかし二十世紀の、しかもその後半からの宗教および哲学は、科学から独立して独断的信条を説くことは出来ないのである。

科学は次第に進歩して物質の究極的姿が分子・原子ではなく、ついに「不可視の神秘のもの」であることを明らかにしたのであると同時に、「宗教する」又は「哲学する」と云うことは単に科学を離れて讃美歌に陶酔したり、机上の空論を捏(こ)ねくり廻したりすることではなくなって、現実的効果によって、その教条又は理論の正しさが実証せられなければならぬように進歩して来たのである。

斯くて科学はおのずから哲学及び宗教に近づいて来たと同時に哲学及び宗教は科学に接近して来たと云い得るのである。この意味に於いて、科学、哲学、宗教は各々手をたずさえて人生に貢献しなければならないのである。科学なき哲学、科学なき宗教、そして実証的価値なき哲学及び宗教は、それが如何に巧みに説かれているにしても空論であり、論理の遊戯である。

その意味に於いて、本書は、最近代の科学を取り入れて、生命の神秘を解明せんとしたものであると同時に、人間が此の地上に生まれて来た使命を知らしめ、今まで「生」を呪い又は其の意義を疑っていた人々に真の人生の意義と価値とを知らしめ、生き甲斐を与えんがために執筆せられたるものであって、その意味に於いて人生哲学であり、幸福哲学であるのである。

存在の本質、生命の本質は一体何であるか。それに就いて多くの宗教的天才が啓示によって解明し、哲学的天才が思索によって道を開き、科学的天才が深き観察と計算と理論づけとによって確乎とした真理に到達しつつあるのである。そのいずれもは互いに孤立する事はできない。またどんな天才も、先人の業績を無視して、一(はじめ)から築き上げることも出来ない。真理と云うものは或る時代の或る人にのみ独占さるべきものではないのである。

人類は先人の業績の上に更に自己の業績を積み重ねて進むのである。私が爰(ここ)に語るところの真理は決して私一個の創作ではないのである。年代も知ることの出来ない古き時代の印度の瑜伽(ユガ)の哲学者が説いたところや、釈迦の仏教、耶蘇の啓示や、諸々の古聖の所説に近代の心霊学及び科学を素材として、最も平易なる文字をもって哲学を語り、人生を語り、生き甲斐を語り、運命の神秘を語り、生命が何処より来り、何処に到るかを説こうとしたものである。

敢えて「百万人のための哲学」と云う小題をつけた所以(ゆえん)は、哲学と云うものは難解なる文字を使用しなければ説くことが出来ないものだと思われていた従来の型を破って、哲学の最も深奥なる問題を、全然難解な哲学用語を羅列しないで、平易に通俗語をもって百万人にわかるように説こうと企てたからである。尤も、本書がそのように平易になり得たのは、頭から文章をもって書き綴らないで、耳で聞いてもわかるように口述しながらそれを速記して貰ったからでもある。

本書に斬新なところがあるならば、それはその素材ではなく、その素材の取扱い方と解釈を通して人間が此の世に生まれ来った意義を明らかにし得るようにした点である。本書を口述するに当って、それを筆記して下さった栗原得二君の名を爰(ここ)に録(しる)して感謝の意を表する。




神が遍在すると云う意味について

(『生命の謎』P.40−41)

神は遍在であるといわれている。神が遍在であるのは時間空間というものが実際に広がっていてその中のどこにでも神がいますという意味ではなく、時間空間は吾々の認識の形式であって、時間空間というような区画さるべきものは本当は「ない」が故に、どこにでも神がましますというのである。

「絶対者」は時間空間に対立して、人間がどの家にも住んでいるという意味に於いて、人間と住居との関係にあるが様には「どこにでもある」のではないのである。時間空間の世界は単に心の造った認識の便宜として象徴であるが故にその奥には何処にも「絶対者」がましますということである。

画家の画いた絵はそれは画家の生命の象徴であるが故に、その絵の奥には画家の生命があり、それが到る処に表現されているという意味に於いて神は遍在するのである。そういう意味に於いて凡(あら)ゆるものの奥には神が生き生きと存在しているのである。

かくてすべて生命現象は絶対者即ち大生命が表現されているのである。そういう意味からすべての存在の奥には生命が宿っており、すべてのものは生きているということが出来るのである。すべてのものは、動物は無論のこと、鉱物でも、植物でも、ありとあらゆるものは「絶対者」の生命の表現として、生きているのである。

どこかに死んでいるものというものがあるならば、そこには生命なる「絶対者」がいないということである。「絶対者」がそこにいないで、而も或るものがあるということになれば「絶対者」以外にも何ものかが何処かにあるということになるのであるから、もうそれは「絶対者」でなくなるのである。

従って宇宙に唯一つの「絶対者」を認める限りに於いては、すべてのものには「生命」が宿っているのであり、それは所謂(いわゆる)生物と無生物とにかかわらず、“皆生きている”といわなければならないのである。生命の自然発生説や、突然発生説に困難が感じられたのは、無生物と生物とをハッキリ分けてしまったために無生物より生物が発生することが不合理だと云うことになったのであるが、無生物も実は生きており、その生命発現の程度が低いに過ぎないと云うことが判れば問題がなくなるのである。




物質も生きている(『生命の謎』P.42−43)

ところが、最近の物理学の進歩につれて物質の原子さえも生きているということが発見されることになったのである。物質を構成している電子は光の速度にも匹敵すべきような高速力で、原子核の周囲を回転しているのである。それは永久運動であって、永遠に止まらないで回転していて、その軌道を変化しない限りその回転エネルギーは衰えないのである。

それは他からの動力を加えることなしに自然的に運動しているのである。他から動力を加えられずして自発的にうごいており、而も永遠に自発的に動いているものは、これを生きているというほかはないのである。従って電子は生きており、原子も生きているのである。或る原子と或る原子とはある場合には親和力をもって結びつき、ある場合には斥力(せきりょく)をもって反撥する。而もそれは決して出鱈目に結合離反するのではなく、相手が何元素であるかということをよく見わけることができて結合するのである。結合を好まない所の元素同志を強制的に結合させる事はできないのである。

尤も普通の圧力では結合しない元素も、強大な圧力を加えれば結合するのは、普通には夫婦にならない男女が周囲の強大なる圧迫のため結婚するのがあるにも似ている。原子の相手が何者であるかということを知っており、好ましい相手と好ましからざる相手とを区別するのである。それはたしかに相手を甄別(けんべつ)する知性をもっているということができるのである。




物質も疲労する(『生命の謎』P.43−45)

物質は構成電子のイオンの陰陽の牽引による結びつきによる化学的反応をもっているというだけではなく、又たんに物理的機械的に反応するというだけではなく、吾々人間が疲労すると同じ様に物質の塊(又は物体)は疲労するのである。吾々人間は同じ様な刺激が度重なると、その感覚が疲労してその反応が鈍くなって来るのである。その如く物体も亦(また)同一刺激を頻繁に加えればその刺激に対する反応が著しく減衰して来るのである。

かってカルカッタ大学の教授、J・チャンダー・ボース博士は『生体及び無生物に於ける反応』という書物を書いて世に問うたのであるが、その著述には無機物と思われている物体に著しく生命現象があらわれるという幾多の実験を試みて、近代の生命の起源の学説に一大革命をあたえたのであった。

 ボース教授は外界の刺激に対して非常に鋭敏なる測定機械を発案して円筒板上にその刺激に対する反応を記録する様に工夫したのである。彼は一種の電流計を用い生きているものの筋肉に対して刺激を与えた時におこる反応と無機物に対して刺激を与えた時におこる反応とを互いに比較し研究しているのである。

この装置の機構は、ほんの僅かの電流の変化でも、メートルに記録するための針の位置が変化する様に微妙に構造されていたのである。この電流計の一端を人間の神経繊維の一端に接続しておいて、その神経に或る刺激を与える。電流計がその反応を記録する。度々、その同じ神経繊維に同じ刺激を同じ程度に与えていると段々その刺激が減衰して来るのである。

 次いでボース教授はその電流計の一端を種々の金属の棒に接続したのである。そして同様にその金属の棒に同一程度の刺激を幾回も繰り返したのである。この実験機械は、刺激に対する反応が強い程電流計の針はその振幅を大きく描く様に構造されている。

所が同一刺激を繰り返している中に、金属もその反応の力が疲労し、にぶってくることが発見されたのである。同一刺激を繰り返せば繰り返す程最初のようには電流計は動かなくなり、その感応力がなくなるのは同様であったのである。所が更に不思議なことはその金属をしばらく休ませておき、それから又前と同じ刺激を与えるとその刺激が今度は新鮮な感応をおこして電流計の針が大きく動くのである。これは動物の神経を休ませておいて新たに刺激を与えて、その反応を電流計で実験してみた時と全く同じ結果を得たのである。




物質は「殺す」ことも出来る

(『生命の謎』P.45−46)

物質は疲労するばかりでなく「殺す」こともできるのである。物質は始めから死んでいると思っている人には、「物質は殺すことができる」などということを発表すると変に思う人があるかも知れないけれども、上記の如く刺激に対し反応するところの物体の「知覚現象」はそれに激しい電気的ショックを与えたり、或る毒物(化学薬品)を与えることによって、遂に衰弱し、反応を呈しなくなり、知覚現象が消滅し、即ち「死ぬ」のである。もっともその様な物質全体としての知覚現象は殺されてしまうけれども、その物質を構成している分子原子の理化学的な固有の作用は依然として存続するのである。それは恰も人間の肉体を殺しても、肉体を構成している物質の分子原子の理化学的活動は依然として存続しながら、全体としての生機能又は知覚反応が消滅しているのと同じことであるのである。 




鉱物の生成発達と下等植物の生成発達の形式との類似

(『生命の謎』P.46−48)


次に鉱物が生きているという現象は鉱物の生成発達の経路状態が植物の成長現象に頗(すこぶ)る似ているということである。金属の植物的生成(Metalic vegetation)という現象があるのであるが、それは鉛の様な金属の溶液が電気分解の作用を受けて樹枝状に結晶する現象である。この実験は広い首の瓶(びん)に鉛のアセテートの酸溶液を満たし、その瓶にコルク栓を以って密栓する。コルクの栓より一本の銅線を吊りさげて置き、亜鉛の一片をそのワイヤーに結びつけて鉛の溶液のできるだけ中央部に垂らしておくのである。

すると銅線の周囲には直ちに苔(こけ)に似た姿で金属鉛の微粉が沈着してそれがだんだん成長するにつれて、大枝となり、小枝となり、段々それは樹枝状に展開して花咲く霧氷(むひょう)の様に美しき姿を呈するのである。これは他の金属溶液を用いてもできる場合がある。

 この様な現象は必ずしも金属に限ったことではなく窓ガラスに結晶する水蒸気の形が美しき樹の葉、枝、花等々の形に結晶することは人の知る所であるのである。硝酸ソーダが電気の陰極陽極の作用を受けると蘭の形に似た結晶体を生成するということは多くの人の知っていることである。自然界には此れと類似の現象が幾多も見出されるのである。

 あるドイツの科学者が或る金属塩の溶液について実験したところによれば、それに鍍金(めっき)のために電流を通ずれば電池の陰極の周囲に小さい松茸(まつたけ)の様な形の結晶が生成されて次第にそれが成長して行くことを発見したといわれている。その記録によると、この金属の茸(きのこ)は幹と傘とがあるのであって最初は透明な外観を呈していたのであるが、次第に色彩をおびてきて傘の中央部は真っ赤な美しい色となり、そこから漸次ぼかされて外の所は淡いローズ色になったということである。

然も興味があることは、この金属茸には幹の所に毛細管の様な通路ができていて、そこからその茸が成長するために必要な養分ともいうべきものが輸送されて茸の形が段々大きくなる様に細胞的組織が出来ていたと云うことである。即ち、外から金属の微分子が付着して成生されるのではなく、内部から栄養によって成長することが全く植物性の蕈(きのこ)類の成長と同じなのである。

この実験の興味ある所は無機物たる金属茸の成長が、植物の低い種類の成長状態と近似の様式をとると云うことであって、そこに鉱物と植物との境の不可分の点や、下等植物の栄養組織の原型が金属の結晶体の成長に見出されるということである。




物質には知覚があり、生命がある

(『生命の謎』P.48−55)


更に再び物質の分子、原子の問題にかえる。生命なき所より生命は発生しないのであるから、物質(地殻)から生命(微生物等)が発生したというならば、物質の中に、生命がアンダーカーレントとして潜在しており、それが無機物に於いては微弱にしか現れていないが、(辛うじて精密な電気測定機械にて測り得るような程度の金属の知覚現象の減衰の如き)その組織が複雑になるにつれて、既にひそんでいた所の生命が尚一層完全に現れて来たのがいわゆる生命現象だということができるのである。

ここに水の一滴をとってみる。それを細かく分割していよいよ微細に分割して水の分子とする。更にこれを分割すれば水素と酸素に分割されて、水はなくなるのである。酸素及び水素はともにガス体であって、水と異なる作用をもっているのである。それが互いに結合すれば、その作用に変化をおこすのである。

それは恰も男子と女子とが結合して夫婦となれば又別の作用を起すことと同じことなのである。なぜ男子と女子は結合するのであろうか。それは相手が異性であることを知り相手を好み相手を愛するからである。そうすれば酸素が水素と結合するのは、酸素は相手が水素であることを「知り」相手を「好み」又「愛する」からであるのである。それを吾々はたんに物理的な抽象的な言葉を以って化学的「親和力」又は「牽引力」といっているのである。

然しこれは吾々が物質を始めから「心」なきものと仮定して抽象的な名称を使ってその相引く力を形容したにすぎないのである。吾々が水素ガスと酸素ガスとを同一容器に入れて白金の触媒を与えるならばそれはたちまち結合して水に変ずるのである。触媒には変化がおこらないが触媒がない場合には結合し難いのである。

丁度それは媒酌人がなければ結婚し難い男女の様にも見得るのである。触媒となる白金には変化がおこらないからそれは白金そのものの化学的変化とはいうことが出来ないのであって、そこに水素と酸素との分子が、媒酌人たる白金が存在するということを知覚するのだということが出来るのである。

かくて色々の分子は或いは結合し、或いは分離し色々の物体を形成するのであるが、それは何(いづ)れも親和力と斥力との働きであってこれを精神的にみる時には「好き」と「嫌い」との問題であって、物質の分子にも知覚があり心があり、好き嫌いがあるのだと認めずにはいられないのである。ドイツの大科学者にして哲学者であるヘッケルは次ぎの様にいっているのである――

「自分はもっとも簡単なる物理化学現象も物質の微粒子に無意識的な感覚があって運動するものだと結論することなしに解釈することはできないのである。化学的親和力の観念は種々の元素が他の元素の性質の相異を知覚し、相手と接触する事に喜びを感ずるか不快を感ずるかするために、互いにあつまり、或いは排斥するものだということを結論せずにはいられないのである」と。

また曰く、「吾々は凡(あら)ゆる物質分子に快感と苦痛(満足又は不満足)の感情を認めることができるのである。然して電気的親和の現象は、互いに愛する分子の間には、親和力を生じ、互いに憎む分子の間には斥力を生ずるために起こると結論せずにはいられないのである」と。
 
 この電気的親和力は動物における引用の牽引力と全く類似の現象であって、それが互いに結合することによって新たなる「活動体」を生みだすことも生物が陰陽互いに結合して新たなる子孫を造ることにも似ているのである。而して又、いったん結合した分子と分子とは周囲の状況に従って互いに分離するのであるが、分離すれば元の個性を失わずして水素は水素の生活を継続し酸素は酸素の生活を継続するのも一旦結婚した夫婦が離婚すれば、再び元の個人に復(かえ)るのに似ているのである。

 この種の現象を数えあげれば無数にあるのであって、観点を変えて見れば、今迄物質は死物であると考えられていたものが、実は死物ではないということになるのである。最近の物理学では物質の原子は更に陰電子と陽電子との結合であり、その電子も陽子もともにエーテル中に起こった渦巻きであり、これは更に無にまで還元してしまうということがわかったのである。

原子は崩壊して驚くべきエネルギーを放散するが、そのエネルギーはエーテルの中にとけこんでしまうのである。エーテルの中には驚くべきエネルギーの根元があり、そこから一切の物質の根元である素粒子が生まれて来たのであり、その「無」とみえるエーテルの中にはおどろくべき想像力を其の中に蔵し、其の中にある理念を形に現わそうとする知性と意志とがあるということが分かって来たのである。

 そこで凡ゆる「物質」は生きており、「物質」の奥には「生命」があり、「生命」の奥には「知性」があり、「意志」があり、「理念」があるということがわかるのである。サリービ博士はその著書『進化、それを開く鍵』という著述の中で次の如くいっているのである。

 「生命は物質の中に潜在的に存在するのである。生命的エネルギーは過去のある特別の時代に創造せられたる特別のものではないのである。もし進化というものが本当であるならば一見生きていないと見える所の物質から次第に自然的課程を通して進化して今の状態に達したのが動物である。

然し、もし生命が物質の中に潜在するものであるならば、生命の中に心が潜在するということは尚一層明らかであるのである。進化論者は心が物質の中に潜在するということを信ぜずにはいられない様になっている。顕微鏡的存在なる物質のほんの微細なる一点にすぎない細胞が人間になるという事実をみればこの小さき細胞の中(うち)に心が存在するということを認めずにはいられないのである。

細胞の中に心の萌芽というものが存在するならば細胞を形成する化学的元素たる炭素、酸素、水素、窒素、硫黄、燐、ソーダ、カリ、石灰等の中にも心の要素が存在すると推及(すいきゅう)することが出来ないことはないのである。更に進んで吾々はこれらの元素の一々が悉く同一の単位要素すなわち電子でできているということを知るならば、同じ要素が色々の姿に精緻複雑なる構造で現れる限りは、そこに心がなければならないと結論しなければならないのである。---------

ここに吾らはスピノザによって最初に認められたる崇厳(すうげん)なる真理、心と物質とはゲーテのいわゆる神の生きる装いの緯糸(よこいと)と経糸(たていと)とであるという真理を肯定しなければならないのである。心も物質もその両者の奥に横たわるまだ知られざる不思議なる実在が互いに補足的に表現したものである」と。

相手が何ものであるかを認めないで、出鱈目(でたらめ)に牽引し或いは排斥するという様な、心の作用の認められない物理化学作用は存在しないのである。すべて或るものが或るものに結合し反撥するというのはそこに生命が存在するという証拠である。

宇宙には大知恵大生命なる陰陽不二の不可思議なる霊が存在してそれが陽となって現われ、陰となって現われ、心となって現われ、精神となって現れる。そしてそれが互いに結合しながらその条件がととのう時その奥に存在する所の大生命から一段高い階級の生命現象が現れるのである。

進化とは外からつけ加えられることではなくて、内にひそんでいる所の無限知恵が徐々に尚一層高き姿に顕現して来るということである。

宇宙には唯一つの大生命があり、大知恵があるのである。それが発現する機会であるところの組織が成就して来た程度に従って、それが尚一層高き生命現象として顕現するのである。

それに低き組織を与えたならば低い様に顕現する。高く複雑なる組織を与えたならば高く複雑に顕現するのである。同じ蒸気の力でも原始的なエンジンに働けば高き能率は発揮されないけれども完全な近代の機関車に発現させたときには高能率を発揮するのである。同じ電気装置につなげば簡単な運動しかなし得ないが、複雑精緻な組織を通して電気が働けば驚くべき複雑精妙な働きを発揮するのである。

その如く宇宙に唯一つ存在する所の大生命、大智慧なるものも、それが原子植物の簡単なるものに現れれば苔(こけ)や藻(も)の如き低き有機作用を現すにすぎないが、人間の複雑な組織に現れれば、おどろくべき霊妙なる働きを現すのである。

然らば人間の肉体組織が破壊してしまったならば今ここに現れている「自我」なるものは破壊してしまって唯個性のない電気的流れの様な宇宙の生命に復帰してしまうのであろうか。この問題については尚ひろく材料を集め深く考えてみなければならないのである。

 ただ本章の終わりに云って置きたいことは、人間の組織はたんに肉体のみではないということである。人間の人格的本質は、人間の肉体が破壊されても尚全然破壊されていないのである。人間の肉体は「自我」を包む所の外套(がいとう)の様なものにすぎないのである。外套は破壊されてもまだその下に上衣もあればワイシャツもあるのである。

吾々は目に見得る物質の世界にのみ住んでいるのではないのである。目にみえる物質の世界を考えても、尚吾々の個性は存続して幽界に、更にすすんでは霊界に生活を続けて行くのである。地上の世界は、生命が未だ最高の進化をうけた世界ではないのであって、進化の途上にあるべきところの一段階として通過しなければならない世界であるにすぎないからである。



(註・コメント)

 開祖・谷口雅春先生の上記御文章の最後の部分<地上の世界は、生命が未だ最高の進化をうけた世界ではないのであって、進化の途上にあるべきところの一段階として通過しなければならない世界であるにすぎない>は、極めて重要なことだと思うのであります。

“進化”とは“実相顕現の過程”ということであり、実相=無限でありますから、個生命としての吾々個々人の霊魂は今生は地球人生学校(道場)という舞台において悲喜こもごもの人生問題の課題に取り組み答案用紙に回答を書いて中途退学せずに完全に卒業し、霊界や他の天体に転生して無限の実相顕現課題に取り組んでいくことが霊魂進化の正道であるのであります。中途退学(ヤケッパチの自暴自棄人生や自殺等)は霊魂進化の過程に於いては絶対的禁止事項であります。

各人の種々異なる人生問題は、その人の現在の霊魂進化レベルの能力で解決できるものがサムシング・グレート(宇宙大生命=唯一絶対神)によって与えられるのであり、解決能力のレベル以上の解答不能問題は始めから出題されないのであります。そして、その与えられた今生の人生問題解決の最高のテキストが開祖・谷口雅春先生の膨大な御著書であります。

故に、全人類にとって開祖・谷口雅春先生の遺された御著書、および、原宿本部の奥に眠っているまだまだ多くの単項本化されていない御講演の録音テープ、お原稿、月刊神誌の御文章類はすべて単行本化されて神縁のある人たちが何時でも購読出来るようにされなければなりません。住吉大神の化身として地球人類の霊的救済・霊的進化のために最高級神霊界から地球世界に遣わされた開祖・谷口雅春先生の遺された文字・文章・録音類は、この様な意味に於いて全人類の最高の至宝であるとともに、形而上的最高の世界遺産でもあります。

これらの点に考え及ばずして開祖・谷口雅春先生の御著書を浅はかな左脳思考で“焚書”(絶版追放)した第三代目マサノブ君の所業たるやなんたることぞ!因果くらまさず!その応報はどのような形でマサノブ君の上に現れるでしょうか?!



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