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生長の家・開祖の『御教え』全相復活
を目指す掲示板

「生命の實相」第14巻 <和解の倫理>

われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、
虚説に対して和解してはならないのであります。
虚説に和解したら実相をくらますことになります。
虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。
虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

<新掲示板の概要について>

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[6420] <再掲載> インターネット道場・「生長の家」信仰体験談の重要性と感激的体験談の数々 第207回
信徒連合 - 2017年01月08日 (日) 10時07分




谷口雅春先生の体験談に関する懇切なる説明――


@ 『 生長の家には体験談というものがありまして、誌友たちが御自分で、私の書いた『生命の實相』をお読みになりまして真諦を握られた結果、法爾自然(ほうにじねん)に実際生活に現われて来たところを御発表になるのでありまして、・・・『生命の實相』を読んでも必ずしも全部の人の病気が治っている訳ではありません。治らないような例外もあります。然し、それでも実際無数の多くの病人の治った体験談がある以上『生命の實相』を読んで病気が治ると云うことは、例外があって綿や埃が空中に舞い上がることが在っても『物体の落下』を原則として肯定しなければならないと同じように肯定しなければならないのです。読者のうちにはお蔭を受けて感謝の心は有(も)っているが、その体験談を発表することを何かつまらないことようにご遠慮なさる人があるかも知れませぬが、体験記録は人生という実験室に於いて真諦(しんたい)、即ち本当の真理を握ったら、世諦(せたい)がこんなに成就したと云う体験を蒐集し積上げて整理して行くことによって、こんな心を持てば斯うなると云う科学的に重大なる真理を立証する事実を寄与して下さるわけであります。酸素と水素を結合させたら水になったと云う体験記録の発表も尊いことでありますならば、人間というものに生命の實相の原理を加えたら斯う云う結果を得たと云う体験記録の発表は尚々重要なことであります。』

A 『 宗教が科学に近づく道は体験記録の蒐集であります。 心に神の無限供給をハッキリ自覚したら自然法爾に自分の行ないも整うてき、人からも好感を受けて、それが形の世界に無限供給として現われてくるということが皆さんの数々の体験によって実証せられまして、それが体系づけられましたなら、それは一つの科学だということになるのであります。科学というものは何も必ずしも目に見えるもの、物質だけの実験による体験記録でなければならぬということはないのであります。目に見えない材料、心の材料というものも、その体験をずっと重ねてゆきまして、それを一貫した法則があるということが発見されましたならば、それは精神科学の法則だということになります。この精神科学の法則というのを、生長の家では「心の法則」とこう言っているのであります。これを、宗教的用語で言いますならば「三界は唯心の所現」という釈迦の言葉や「汝の信仰なんじを癒やせり」というようなキリストの言葉となって表現されるのであります。キリストが「汝の信仰なんじを癒やせり」と言っておられるのは、キリストが縁となって病人の信仰が喚起されて、その信仰のカで病気が治ったとこう言っておられますのですが、「病気」というものは、必ずしも肉体だけの病気ではないのであります。』

★★ 信徒の信仰体験談を無視して取り上げないマサノブ君は「総裁」と言う名に値しない者であります。

******************



大聖師御講義『続々甘露の法雨』より(48)





 “無心”と“無我全托”の真理


  神の中に汝の「心」を投げ入れよ。
「神よ、神よ」と称(とな)えつつ
汝の全存在を神にまで委(まか)せ切るべし。

 以上、この聖経の一節の中に“神の中に汝の「心」を投げ入れよ”という句がありますが、この「神の中に自分の心を投げ入れる」ということがなかなか大切なのであります。

真宗や浄土宗などで「南無阿弥陀仏」と称名(しょうみょう)念仏する。その「南無」という語を日本語に訳するならば「帰命(きみょう)」とか「帰投」とかいう。阿弥陀仏の中に自分のいのちも心も投げ入れることである。「帰命」ということになれば阿弥陀仏に自分の命を投げ入れて、阿弥陀仏のいのちに帰入してしまって、“自分のいのち”というものがなくなり、阿弥陀仏のいのちばかりになってしまうことであります。

つまり、“自分の心”がなくなり、“自分のいのち”がなくなり、阿弥陀仏の無量寿のいのちそのまま現前するということになるのであります。そうすると阿弥陀仏のいのちそのままが病気になるなどということはないのであるから、その悟りを得た人自身の病気もなくなる訳であります。

「神よ、神よ」と一心に称(とな)え続けて、自己の全存在を神にまかせるというのは、“南無阿弥陀仏”と繰返し称え又は念じながら自我の「私」が無くなることです。「自分」という“自我の仮妄(けもう)の心”がなくなる。すなわち“無心”になるのです。“自我の仮妄の心“がなくなるとき、実相円満完全な本来の相(すがた)を覆い隠していたのは、この“自我の仮妄の心”であるから、その“覆い”が除かれてしまって、実相完全の相が開顕せられる。それが病気の場合ならば病気が治ってしまうことになるのであります。

金光教祖の「百節の御理解」という教えの箇条書きというべきもののなかに、「ままよという心にならねばお蔭は得られぬ」と仰せられているのも、同じ意味であります。「ままよ」という心は、自分の“斯うしたい”“斯うあってほしい”という仮妄(けもう)の心を棄ててしまって、「神さまの御心のままよ」という「あなたまかせ」「神さままかせ」の全托の心になるのでありまして、そこに神が顕れる。すると、神の御心の中には病気などはないので、「神があらわるれば乃(すなわ)ち善となり、義となり、慈悲となり、調和おのずから備わり……」と聖経にもある通り、病気も消えてしまうのであります。

天理教祖も同じような教えをしていられるのであります。すなわち「ハイハイと掻(か)きあがる心になれ」と教えられた。これは神界から神さまが一条の救いの綱を垂れていられて、「これに縋(すが)れ」と仰せられるのに答えて、「はい、はい」と素直に、その一条の救いの綱に掻きあがるとき、神界に引きあげられて救われるのだという解釈もありますが、これでは「掻きあがる力」は人間の“自分の力”で掻きあがるのだから、本当に「あなたあまかせ」の絶対他力の全托ではないのだという批評もあります。「ハイハイと掻きあがる心になれ」というのは、神様が「此処へ来い」と仰言ったら「はい、はい」と素直に幼子(おさなご)が母親の膝に掻きあがって、母親の愛撫にそのまま全托して何の疑いもない其の心になれということだという解釈もあります。この後者の解釈の方が、私は正しい解釈だと理会しているのであります。

幼子の心になって、親様の膝に掻きのぼれば、そのまま天国に導かれるという教えはキリスト教にもあります。イエスは「凡そ天国に入る者はこの幼子の如き者なり」と説いているのであります。

幼児にも色々ありますけれども、この場合は“我の心”のない、ただ“無心”に神にまかせ切る無我全托の精神の象徴としての寓話に“幼児”が使われているのであります。

この話は前に話したことがありましたが、戦前にわたしが山口県へ講習に往った時、一人の50歳位の婦人が、御自分の胃癌が癒やされた体験を発表なさいました。この婦人は胃の噴門癌が出来ていて、食物を嚥下(えんか)しても、その食物が胃の入口まで行くと、その癌に触れて、忽ち込み上げて来てはいて嘔(は)き出してしまうのでありましたが、『生命の實相』を読んでいるうちに、自分が何でもハイハイと素直に受け容れないで、人から何を言われても、直ぐそれに逆らって、“だって、そうじゃありません”と撥ね返して突き戻す。そういう“突き戻す心”が自分の肉体にあらわれているのだと気がついて、そのような自我の自分考えを棄てて、“あなたまかせ”にハイハイと受け容れる心になろうと心機一転したのでした。

その心機一転の心境をその婦人は、「濡れタオルを手拭懸けに投げかけるように、わたしは、わたしの心も生命も神さまに投げかけて、“神さま、あなたの御心まかせでございます”と神さまにスッカリ凭(もた)れ切ったのでございます。そうすると今まで何を食べても突き戻して嘔き出していた食物が、嘔き出さなくなり、栄養がついて来て胃癌が治ったのでございます」と説明したのでした。

この「無心」の状態を、濡れタオルの喩(たと)えをもって具体的に形容されたのが、非常に巧妙な表現であったと思ったので、私はその頃、講習会場で講話の時に、演壇の机の上にある白墨のついた指先を拭うためにの手拭き用タオルの端を自分の腕に投げ懸けて、タオルが垂直に歪まないで垂れさがるのを見せながら、「このタオルは自分で立とうと努力も何もしないで、ただ、“そのままの心”で私の腕に凭(よ)りかかっているから真直に立っているのです。法則に全托するとき、いのちは生きるのが其の儘(まま)の法則ですから、無心になって、法則に全托するとき、自然に立って倒れることがないのです。これが本当の安心立命ですよ」 と説明すると聴衆は頷(うなず)いて、いかにも解ったというような顔をしてくれるのでした。

“そのままの心”というのが所謂る“無心”であります。「『生長の家』信徒行持要目」の第2条に「そのままの心を大切にすべし」という項がありまして、次のように説明されております。

“そのままは零なり、一切なり、○なり、円満なり、無碍なり、無限供給なり、調和なり、病なきなり、一切の不幸、災厄、病難はそのままを外したるときあらわれるなり、顧みてそのままの心に復(かえ)るとき、一切の不幸は滅す。”

“そのまま”は“ありのまま”のことである。“ありのまま”というのは現象にあらわれている其の“ありのまま”のことではないのです。“現象は常にうつり変る。“あり”と見えていたものが消えて、また別の姿が“あり”と見えるようにあらわれる。だから、現象には“ありのまま”と定まった相(すがた)はない。すなわち現象は無常である。無常なるものに、その“ありのまま”の無常に全托していたのでは大波に翻弄(ほんろう)される小舟に全托して乗っているようなもので、常に不安恐怖におののいていなければならないのであります。全托すべきものは“無常なるもの”ではなく“常恒なもの”でなければならないのです。自我が“無心”になったとき、船長が居なくなった小舟のように、変化常なき現象の大波に翻弄されるのだったら、“無心”にならない方がまだ優(ま)しであります。下手な“有心(うしん)の船長(自我の喩(たたえ))でも兎も角も居てくれて出来るだけ難破しないように舵取りしてくれるならば幸である。

しかし人生の海が非常に荒れている、そして、とても人間知恵しかない船長の舵取りでは、この荒波を乗り切ることが出来ない時に“無心“になって、人間の船長なしに、誰に、何に、全托して、その御方(おかた)に船長代りになって貰い、無事に航海を続けることが出来るのか、その“御方“様を定めることが問題なのであります。

その御方は何処にいらっしゃるであろうか。霊媒にたのんで、霊媒に乗り憑(うつ)って話してくれる“神“と名乗るお方の言う通りに全托すべきであろうか。 『七つの燈台の点燈者』の神示には、「本当な神は霊媒にはかからぬ」と示されているのであります。霊媒に出て来る“神”はいずれも“神”と名乗る“霊”であって、その霊智にはいろいろの段階があり、それを審神(さにわ)し区別することが大変むつかしいのであります。だから何でも霊媒に出て来る霊の霊示に従っておりさえすれば好いなどと考えると、航海士の免状もない者を人生航海の船長代理に雇ってくるような危険なことになり兼ねないのであります。

だから、何でも彼でも自分が“無心”になっておればよいという訳にはゆかないのであります。“無心”になったとき、“自我の心”に代って自分の行動の水先案内をしてくれる者は誰かということであります。

「本当の神は霊媒には憑(かか)らぬ」のは一般原則でありますが、職業霊媒でなくとも、大抵の人は多少とも霊媒的素質があり、所謂(いわゆる)二重人格的に、感憑(かんぴょう)せる霊があらわれて来ないにしても、インスピレーション式に“霊”から放送される思想の波を感受するのである。謂(い)わば全ての人は受信アンテナを備えたラジオ・セットみたいなものである。そのラジオ・セットには感度のよいのも、鈍いのもあるけれども、兎も角、“無心”即ちその人が“虚”の心になったならば選波作用を失ったラジオ・セットにスイッチを入れたような状態になるのである。

実例をもって謂うならば、禅の修行者で、まだ未熟のときに無我無心になったようなとき全身又は両腕に霊動を起すことがある。合掌が激しく上下に揺れたり、坐している身体が左右にリズム的に振り動いたりするのである。岡田式静坐法の練習道場などでそんな霊動が起ると、元気溌剌たる霊気が全身に充満したために自然に動くのであると解して大変悦んだ人もあったが、坐禅に於いては、全身や両腕が霊動を起すのは普通「魔境」だといって排斥されるのである。坐禅はすべからく静謐(せいひつ)でなければならないのであります。

「魔境」というのは“魔”即ち“迷霊”又は邪霊に捕捉されて動かされている状態だという意味である。神想観に於ても霊動は、もし最初に起る人があっても、それが鎮静して動ぜざるに至るのを宜しとするのであります。

折角“無心”になったのに、邪霊や迷霊の霊波を無差別に受信してしまっているのでは、邪霊や迷霊のおもちゃになっている訳で万物の霊長であり、“神の子”であり、如来であるところの人間としては、まことに困ったことだというほかにはないのです。

そこで唯“無心”になるだけではなく、“無心“になるまでに、無我全托すべき相手になる神霊をあらかじめ念じて置いてから、その神霊に一心に念を集中しながら無我になることが必要なのであります。それは恰(あたか)もラジオ・セットの指針を受信しようと欲する放送局の発信周波数のところへ合わせて置いてからスイッチを入れなければならないと同じことであります。

そこで生長の家では「汝の全存在を神にまで委せ切るべし」という其の対象となる“神”を定めて置くために、その“神”の名を称(とな)えるのです。それが所謂(いわゆ)る「招神歌」であるのです。招神歌の第一首がそれである。曰く、

生きとし生けるものを生かし給える御祖神(みおやがみ)元津霊(もとつみたま)ゆ幸(さきは)え給え

この第一首は一切の生ける者に超越的に内在する普遍神に対して呼びかけ、それに対して心の波長を合わす選波作用が含まれているのであります。また次の招神歌の第四首──

天地(あめつち)の祖神(みおや)の道を伝えんと顕れましし生長の家大神守りませ

というのは、超越普遍の創造神が“人格的応現神”として具体的に顕現せられた神から、具体的に護られる──その目的をもって生長の家(いえの)大神に波長を合わす選波作用が行われて、邪霊迷霊等の波長に合わせるようになっているのであります。

兎も角、立派な真理にかなった宗教では、いずれも、単に“無心”になるだけではなく、“無心“になったときに、自分の生命が「如何なる“神”又は“霊”に波長を合わせて、その対象たる神霊と融合瞑合(めいごう)するか」を定める選波作用が行われるようになっているのです。

真言宗に於ては、真言(陀羅尼(だらに))を唱えながら、“無心”になり、または“阿字観(あじかん)”を修して無我になり、大日如来(毘盧遮那如来(びるしゃなにょらい))に心の波長を合わして瞑合するようになっており、浄土宗、浄土真宗等の念仏宗に於ては「南無阿弥陀仏」を一向専心誦えて“無心”となり阿弥陀仏の無量寿無礙光と融会(ゆうえ)一体となり今此処に極楽浄土を体験するようになっているのであり、日蓮宗に於ては「南無妙法蓮華経」という“御題目”を唱えて自我心が“無心“となり、蓮華蔵世界海に遍満する“妙法”に融合して普遍の大生命と一体になるようになっているのであります。

更に仏教ではどの宗派でも御経を読むことによって、その読経のリズム的な荘厳な声音(せいおん)の合唱によって“無心”となりつつ、経文の意味する真理と一体になって功徳を受けるようになっているのであります。

生長の家に於ては、『甘露の法雨』『天使の言葉』『続々甘露の法雨』『真理の吟唱』*等の聖経の独誦(どくしょう)、又は群誦(ぐんしょう)し、更にそれらの聖経の原典になっている『生命の實相』を朗読又は黙読して、その表現する真理と一体になることにより、一切不幸の源である迷の念を消去して功徳を得るようになっているのです。この聖経の読誦による功徳は、禅宗等で、『大般若経』を飜読することによって功徳を得ることが出来るのと同様の自覚的過程を経るものであります。

この真理の教えをわかり易く毎月の雑誌に講義されている「白鳩」誌等を熱心に読むことによっても、宇宙普遍の真理と一体となり功徳を受けることもできるのであります。その一例として昨年(昭和47年)9月10日和歌山市の文化会館で生長の家の講習会があったとき、14歳のときより全身が硬直して立つことが出来なかった和歌山県西牟婁郡白浜町井ノ山の白川朱美さんが36歳の最近になって「白鳩」誌を読み始め、掲載されている文章の力によって真理と一体となり、杖なしに歩けるようになり、脚も曲がるようになった素晴しい実例を白川朱美さんみずからが、その講演会で、真理の証明(あか)しとして発表されられたのであります。次のその体験談の録音を筆写して皆さんに紹介いたします。白川朱美さんは明るい笑顔で次のようにお話になりました。


皆様、有難うございます。(拍手)私は、21年振りにこの晴れ姿で立たせて頂きました。有難うございます。私は14歳の時
 に、「慢性多発性関節リウマチ」という不治の病いでお医者さんの診断を受けました。そして、半年間寝たっきりになって、口もあけんし、首も回らんし、ぜんぜん、もう仏さんみたいにこんなに硬直して、抜けなかったのですけれど、1年間して、だんだんだんだんと、こうして坐る稽古をしました。そして、2年目に、やっと坐っていられるようになりました。そして、8年振りで鶩(あひる)のような恰好で立てるようになりましたが、まだまだ信仰はしていませんでした。

「生長の家」のお話はずっと聞いていましたし、「白鳩」誌も沢山送って下さっていましたが、信仰なんかしてこの病気は治らない、もうお医者さんばっかし、物質ばっかし信じておったのです。北井久子様が、「白鳩」とずーっと送って下さっていましたのに、読まずにしていましたが、実は私の姉も足が不自由でずうーっと立てなかった、姉妹2人が足を引きずっておって、畳も磨りきれるほどのような地獄の状態でした。それでも、お父さんは年がいってくるし、私たちは、このままでは社会に迷惑かけるし、家にいては兄弟にも迷惑かけるし、もう、どうしてもこうしてもならないで、……藁(わら)をも摑む思いで、仏さんの横に、こんなに、「白鳩」を積んでおったのを、何気なしに読もうという気になりまして、開いてみましたら、「人間神の子、病なし……」と書いてありました。「病気も環境も闇もみんな心の影……」と書いてありました。“ああ!そうだった──”と思いまして、“ああ、なんで今まで、この本を、素晴しい本を読んでいなかったのか”と思いまして、残念で残念でなりませんでした。

それでも、今からでも遅くないと思いまして、そして思い直して、一所懸命に読まして頂きました。そしたら、こうしてはおれない!と思いまして、両松葉杖ついてご近所に“「白鳩』いかがですか?……“そうしますと、次のお宅でも一遍に信用してくれまして、「ああ貰います……」と言って下さいました。それから私は、お姉さんと私と20部一括させてもらいました。それまで杖ついておりましたが、20部一括してからは杖なしでも歩けるようになりました。有難うございます。(拍手)

そして、7月22日の那智山の大見真会に於きましては、浄心行によりまして、長年曲がらなかった足が曲がるようになりました。先生、有難うございます。もう感激で、なにを言うのか忘れてしまいましたが……そして私は、私でもこうして立ち上って、神誌を皆さんに差し上げて、こうしておれない!という一心でございますので、どうぞ皆さん、一人でも多くの神誌をお配りになって、生長の家を広めて、みんな立ち上がろうではございませんか。そして、私も命のある限り、この御教えを精進させて頂きたいと思います。有難うございます。先生、有難うございます。





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