[8149] 元号法制化への道 |
- 不動明王 - 2019年01月04日 (金) 09時31分
代替わりへ あと四ヶ月 日本会議元号法制化運動 「成功体験」が支えた。
今年5月の新天皇即位後の新元号公表にこだわる保守系団体「日本会議」。その源流には「元号法制化運動」の成功体験がある。 革新勢力が強力だった一九七五年三月。衆院内閣委員会での角田礼次郎・内閣法制局第1部長の答弁が、保守系の「元号消滅」への危機感を一気に高めた。 「昭和という元号は慣習として用いられている。陛下に万一のことがあったら、昭和という元号がその瞬間をもって消える。空白の時代が始まることになる」旧皇室典範などが連合国軍総司令部(GHQ)占領下で廃止され、「昭和」の法的根拠は失われていた。法律の番人たる角田氏の答弁は、その根拠のあやふやさを示した。当時、法制化運動を担った村上正邦元自民党参院議員会長(86)は「元号がなくなれば、日本の中心である天皇の追号(おくり名)がなくなると思った」と振り返る。 しかし、保革対立の政治状況の中、元号への関心は「永田町にもなかった」(村上氏)という。当時の村上氏は、神社本庁、生長の家などの事務局の国会担当。永田町を巻き込むために「椛島(有三・現日本会議事務総長) 君が地方議会から動かして中央へ迫る戦略を作り、自分はそれに乗った」と明かす。 「草の根」から国会・政府を動かす。@キャラバン隊を派遣して地方組織を結成A地方議会で法制化の請願を採択B国会議員団を作り政府に働きかける--が運動の3本柱となった。実動部隊は七七年から守る会に参入した「日本青年協議会」。 生長の家の学生運動から派生し、今も日本会議に属する衛藤晟一首相補佐官(71)や 百地章日本大名誉教授(72)が若き会員として駆け回った。大分市議だった衛藤氏は地方議会での請願採択に尽力し、愛媛大助教授たった百地氏は運動の愛媛県事務局長を担った。一年足らずで、沖縄を除く四六都道府県議会や市町村議会で請願が採択され、「世論」を背に政府に迫った。 当時の新聞報道によると、七八年八月一七日に元号法制化国民会議の石田和外議長(元最高裁長官)と面会した福田赳夫首相が「地方議会でここ
まで議決が進んでいることに私自身も驚いている」と発言している。 同年十月三日の「法制化実現総決起国民大会」は、主催者発表で日本武道館に約二万人を集めた。福田首相と自民党の大平正芳幹事長が翌年の通常国会での元号法案提出で合意したのはその二週間後の十月十七日だ。翌七九年六月、大平内閣の下で元号法が成立した。 「守る会」は九七年に「日本を守る国民会議」と統合して日本会議に。ノウハウも継承した。 憲法改正を求める意見書を地方議会で採択し、国会議員懇談会が安倍晋三首相の改憲方針を後押しする。百地氏は「保守の草の根運動は元号法制化から始まった。日青協が縁の下の力持ちとなり、その実績が今日につながっている」と自負する。今年七月の議員懇談会の勉強会では、百地氏が衛藤氏を指し「若き衛藤さんが法制化運動をやったんです」と紹介。若手への記憶継承も図る。 以後略 平成三十年十月三十一日毎日新聞記事より (原文出処)
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